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       相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月19日(金)07時52分24秒
返信・引用 編集済
      初版の第二の形態と再版・英語版との対比をなしてみる。語ることは同じか?
     ① 初版
      Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
     20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶
    または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々
    ・・・・・
     20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化され
    ている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働
    は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定さ
    れたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。
    第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置し
    ている。
    第二の形態はこれとは違っている。
    リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネ
    ル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係し
    ている。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働
    一般の結晶として、示されているのである。(『資本論』初版 原P24~25)

      ②再版ーー英語版(宮崎訳)
   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm

     1. 拡大された相対的価値形式
    (1) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
    によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。
    故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労
    働の凝結物として示す最初の瞬間となる。
    それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。
    労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。
    人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なん
    であろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコ
    シであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。
    リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。
    もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。
    商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を
    意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。


    初版 再版の論旨を、以上から挙げてみよう。
    ①ーーa「いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働の単
        なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。」
       b「リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置さ
        れ、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。」
       c「ここではリンネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶
        として、示されている・・」
    ②ーーa「他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
       b「・・労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。」
       c「 リネンは、今、その価値形態に基づき、社会的関係の中に立っている。」
       dリネンは「単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある」

     両者の相違を検討してみる。
    ②に示される再版の事柄で、①との違いを示すのは、他のあらゆる諸商品がリネンの価値形態
    であり、リネンの価値鏡であることだが、①ではそうではないのだろうか?
    なるほど①では、他の諸商品が、商品世界の市民として規定されてはいない。
    しかし、その他の諸商品が「リンネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態とし
    てのありとあらゆる商品体に関係している」ことで、「リンネルの価値がはじめて真に価値と
    して、」示されるーーと言うのは何のことであろうか?
    このことこそ、他のあらゆる諸商品の役立ちから、第二形態ですから個別的に、リンネルが価
    値であるとの判断・反省規定を受けたのであり、それが、①ーーbであり。②ーーbの事柄で
    あるのだから、それこそ、労働生産物が商品となる商品世界が形成され、他の諸商品が展開さ
    れた価値形態をこそ形成したということではないのか?

    ーーところが、榎原さんは、すでに初版4・5・6段落でこれらの疑問が出され、それへの解
    答である7段落の次の事柄ーー商品形態の成立ーーが成されているのを見落としているのです。

    <初版七段落>
    ①「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
     使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。
     それは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。
     同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、
     すなわち、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている
     諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。」

    ②「・商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態の方は商品が生まれ
    つきもっているのである。・・・価値形態の方は商品が他の商品との関係において初めて手に
    いれるのである。・・別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。」
    (初版原P20)

    上記は、何を示しているのか?物象の判断の仕方として、第四段落で述べられた、
    「諸商品自身の物象的な諸関係のなかで、こういうものであることをしめ」(原P17)して、
    使用価値と価値ではーー使用価値が価値の現象形態になる、
             ーー使用価値と価値形態として商品形態  となるとの判断なのです。
    このように、マルクスは設問への解答を示しているのに、榎原さんは、この設問をだけ次に提
    示する「第二節人格の物象化の現実性 一価値形態の発展」にて、この⑥を提示したのです。

    ⑥「リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価
    値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。
    ーーー略ーーー
    だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産
    活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人
    間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。
    リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わ
    りに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであ
    ろう(19a)。
    つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このこ
    とは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有
    用な、労働種類--抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、
    ということに依拠しているものでしかない。」(原P19)

    彼は、上記⑥の設問をした冒頭部をのみ引用してーーこう語るのです。
    「このリンネルの裁縫労働への特定の仕方での連関に価値形態の秘密の内実があり、使用価値
    と価値とが反射しあう関係を成立させる根拠があったのだが、さらにまたこの連関こそが人格
    を物象化させる原理をなしていたのであった。」(『価値形態 物象化 物神性』P191)

    ここのマルクスの文を読んでの①まずの第一がそこへの自分の主観的な理解であり、
    ②物象の判断について語るマルクスが、価値形態論ではなく交換過程で語る「人格の物象化」
    をもここでなしたとのーー誤解の主張なのです。
    学会ーー久留間先生の理解ではその区別はないのですが。
    私は、自らの薄学ゆえの理解不能とばかり思っていたが、そうではなく、彼のこの文節への理
    解不能であったのです。

    次には、彼の無視している八段落です。

    ⑧ われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値
    形態を包括している、ということである。
    リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。
    リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、
    示すのである。
    他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商
    品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すな
    わち等価物という形態を、受け取るのである。

    両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態な
    のである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っ
    ている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられ
    ているのである。(国民文庫版53頁)

    「一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態」(上記)
    このように、初版の記述は、両極の形態が如何にして成立するのか?勿論諸物象の判断と役立
    ちにて成されたことを、ここに提示したのです。

    次は11段落です。彼は、Aの部分を引用せずBを引用して語るのです。

    ⑪段落ーA「価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、
       単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。
       リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換
       価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。」

       B「すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、
       したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこうい
       うものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであ
       り、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリ
       ンネルの反射規定なのである。」(初版 国民文庫版55-6頁)

    このBの部分をのみ引用して語ったのでは、次のことを無視します。
    この11段落には、①媒介されて価値形態となることで、相対的価値形態が形成される。
            ②直接的に価値形態となることで、等価形態が形成される。
    この① ②こそが価値形態の秘密なのです。
    以上の二つの両極の形態が、5段落の註18aと、19の文章に示されるように、上着が価値の現
    象形態であっても右極の形成につながらず、左極の相対的価値形態の形成になることでの困難
    性を克服したことをこそ示しています。その克服は、この① ②の他方のみの性格ではなく、
    対立性と両極依存性が、このA Bには示されています。

    彼はBの部分を引用してこう語る。
       「肝心なことは、等価物存在を上着の属性と見るのではなく、上着が抽象的人間労働の
       直接的実現形態とされていることに帰着させることである。」(P192)
    そして自らの正しさを立証するために、
       「マルクスは、相対的な価値の第二の、または展開された形態を分析してつぎのように
       結論ずけている。」(同上)
       ーーとして、私が冒頭に上げた第二の形態の第五段落を提示するんです。

     榎原さんは等価形態を論じているのに、その正しさの論証のために、
    展開された相対的価値形態の成立ーーを提示するのです。


 
 

   資本論初版 価値形態論の解読を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月18日(木)12時44分7秒
返信・引用 編集済
     初版の本文を引用しようとしても、無いので、
   未完成ですが、そのために少し整理してあったものを掲示します。
   おって・・・加えていきます。

   http://p.booklog.jp/book/19345/read
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/b512872ae86ecc2ec6af0da0a6ed7043
   第15回「『資本論』を読む会」の報告 2,012年 8月16日  堺市泉が丘駅

   <資本論初版>

   相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
   20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)
 ①この形態は、単純である ⑯ がゆえにいくらか分析が困難である。この形態のなかに含まれているいろいろの諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であり、したがって、抽象力をいくらか緊張させてのみ、識別されうるし、把握されうるのである。ところが次のことだけは一目瞭然である。すなわち、20エレのリンネル=1着の上着であろうと20エレのリンネル=X着の上着であろうと形態は変わらない、ということ。⑰
 註⑯それはいわば貨幣の細胞形態であり、またはヘーゲルならば言うであろうように、貨幣のアン・ジッヒ(即自態)
 註⑰ S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者はS・ベイリー。》

 ②リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。だから、それの体躯が糊で固められていることは、すなわちそれのもっている現物形態は、価値形態ではなくて、価値形態の反対物なのである。
リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているということである。
リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を、価値としての・自分に等しいものとしての・上着に、関係させることができないであろう。
リンネルが自分を質的に上着に等置するのは、リンネルが自分を上着に、同種の人間労働の対象化、すなわち自分自身の価値実体のの対象化として、関係させるからであり、
そしてまた、リンネルが自分を、x着の上着ではなく一着だけのの上着に等置するのは、リンネルが価値一般であるだけでではなく一定量の価値でもあり、
しかも、一着の上着が二〇エレのリンネルとちょうど同じだけの労働を含んでいるからでもある。リンネルは、上着にたいするこういった関係によって、ひとたたきでいくひきもの蝿を打つ。
リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。
リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価値との双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接的な存在とは区別される価値形態を与える。
リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによって、現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのである。
リンネルは、それが使用価値であるかぎりでは、ひとつの独立した物である。これに反して、リンネルの価値は他の商品たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ、現れているのであって、この関係のなかでは、上着という商品種類が、リンネルに質的に等置され、したがって一定量において同等とみなされ、リンネルの代わりになり、リンネルと交換可能なのである。
だから、価値が、使用価値とは区別される固有の形態を受け取るには、自分を交換価値として表すほかには手段がない。

 ③上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であるということである。上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をもっているのである。等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、その物的な姿において、その使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということを含んでいる。

 ④ 価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をなしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。

ところが諸商品は諸物である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物的な諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。

リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。

リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるのである(18)。
 (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。(『資本論』初版 国民文庫版46-7頁)

 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。

使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な、人間的な、労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。

上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている。リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。だが、使用価値である上着のうちに表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、裁断労働という特定の有用な労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定できるが、それ自体としては無規定である。それは、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され対象化されうるのである。というのは、特定の労働にたいしてのみ、自然素材が、すなわち労働が対象化されている外界の物質が、相対するからである。ひとりヘーゲルの「概念」だけが、外界の素材なしで自己を客観化することを達成している(19)。

  (18a)ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。

  (19)「概念は、初めは主観的でしかないが、外界の物質あるいは素材を必要とせずに、自己自身の活動に適合しながら自己を客観化することへと前進する。」へーゲル『論理学』、三六七ページ。所収、『エンチクロペディー、第一部、ベルリン、1840年。』

 ⑥ リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。だが、リンネルをして上着という使用価値に興味を抱かせるものは、上着がもっている羊毛製の快適さでもなければ、ボタンをかけた上着の恰好でもなければ、上着に使用価値の特徴を与えている他のなんらかの有用な品質でもない。上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。リンネルは、自分の価値をあぎ剤〔あぎは植物名。あぎ剤は駆虫剤、通経剤などのことを言う〕とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現しても、同じ目的を達したであろう。

だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう(19a)。

つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。
(19a)すなわち、靴墨の調整そのものが靴墨作りと俗に呼ばれているかぎりでは。

 ⑦ われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立っている。
商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している労働を、たんに人間労働力の支出として商品価値のなかに計算されているかぎりでのその同じ労働から区別することは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察するぱあいには、それを、他方の形態においては考察しないのであって、逆のばあいには逆になる。これらの抽象的な対立は、おのずから分離するものであり、したがって区別しやすい。

商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価値の・したがってそれ白身の反対物の・現象形態になる。同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、すなわち、抽象的な、入間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。

このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。

商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、府用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。この形態は、商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態である。

ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であるから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができるのである。

この商品は、自分の価値を、自分自身の体躯であるいは自分自身の使用価値で、表現することはできないが、直接的な価値存在としての・一つの別の使用価値あるいは商品体に、関係することができる。

この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もちろん関係することができる。

そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、ということだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。

単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だけを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)。
(20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえをも見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたらない。》(江夏訳37-40頁)

 ⑧ われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。

両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。
(国民文庫版53頁)





 ⑨ 量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きざの規定から生ずるのである。リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。

いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの一エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。

これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。

 ⑩ この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式 20エレのリンネル=一着の上着 または 20エレのリンネルは,一着の上着に値する は、明らかに、同じ等式 一着の上着=20エレのリンネル または 一着の上着は二〇エレのリンネルに値する を含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。(前掲53-4頁)

 ⑪ 価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。

しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。

すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。

ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などどまったく同じように、リンネルにたいする関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。

相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=1着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。21》
(国民文庫版55-6頁)

 註21 およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。》

 ⑫ 相対的価値の単純な形態、すなわち二つの商品が等価であるという表現にあっては、価値の形態表示は両方のそれぞれに関して同質である。なぜならば、リンネルは自分の価値を一商品である上着でのみ表わし、逆の場合は逆だからである。しかし、この価値表現は両方の商品にとって二重であり、それぞれの商品にとって別々である。最後に、両方の商品のおのおのは、他方の単一な等価物であるにすぎない。


 ⑬ このよううな等式、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または 20エレのリンネルは1着の上着に値する、というような等式は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しでいるだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー 20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである(22)。

 註22 各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことできるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ぺージ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕) 当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえぽ『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。(同上57頁)

 ⑭ 柑対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類にとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。
(国民文庫版57頁)

⑮ それにもかかわらず、この第二形態は、ある本質的な進展を包蔵している。すなわちこの形態のなかに含まれているのは、リンネルが、自分の価値をあるときはたまたま自分の価値を、上着でもコーヒー等々で表現し、この商品またはあの商品または第三の商品等々で表現する、ということでもある。
この一歩進んだ規定は、相対的価値表現のこの第二規定あるいは発展した形態がそれのつながりで現れるやいなや、明らかになる。その時我々は次の規定を得ることになる。



   Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
 ① 20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々

 ②  z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =y量の商品F または =等々)。

 ③ さしあたりまず明らかに第一の形態は第二の形態の基礎的要素をなしている。なぜならば、後者は20エレのリンネル=1着の上着、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々ま というような多数の簡単な相対的な価値表現から成り立っているからである。〉(60頁)

 ④ 第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 においては、これらの二つの商品がこのような特定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的な事実に見えることがありうる。これに反して、第二の形態においては、この偶然的な現象とは本質的に区別されていてこの現象を規定している背景がすぐさま明らかに見えてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ大きさのままである。二人の個別的な商品所有の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の価値の 大きさが商品の価値のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのである。〉(60頁)

 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化されている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているのである。〉(60-1頁)


 ⑥ 第二の形態は、第一の形態の諸等式だけの合計から成り立っている。しかし、これらの等式のそれぞれ、たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 は、その逆の関係 1着の上着=20エレのリンネル をも包括しているのであって、ここでは上着が自分の価値をリンネルで示しており、まさにそれゆえにリンネルを等価物として示しているのである。ところで、こういうことはリンネルの無数の相対的な価値表現のどれにもあてはまるのだから、そこでわれわれは次のような形態を得るのである。〉前掲(61頁)



 Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態
  1着の上着     =20エレのリンネル
  u量のコーヒー   =20エレのリンネル
  v量の茶        =20エレのリンネル
  x量の鉄        =20エレのリンネル
  y量の小麦      =20エレのリンネル
  その他        =20エレのリンネル 〉(46-7頁)


 ① 商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である 1着の上着=20エレのリンネル に戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさらに発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるいは上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。

いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの価値を、リンネルという素材で表現している。このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。すべての商品は量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、x量の鉄等々、すなわちこれらのさまざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルにイコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等しい。

こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関係しあい、質的に等置されて量的に比較される。この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、得ることになる。一商品の価値をすべての他商品の広がりのなかで表わすところの、相対的価値の発展した形態(形態II)と区別して、われわれは、この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼう。〉(47-8頁)



 ② 形態IIにおいて、すなわち20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、等々 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展させているのであるが、この形態IIでは、リンネルは、一つの特殊的な等価物としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいしては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれているところの形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。

だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけである。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。〉(48-9頁)


 ③ 商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであった。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうでもよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかったし、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。

リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他のすべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現(形態II)にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。〉(江夏訳48-49頁)



 ④価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現である。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、関係している。

これらの商品の社会的な関係は、もっぱら、それらが相互に、それらのこういった社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同じであり、したがって互いに置き換えが可能であるし互いに交換が可能である、というような表現--として認められているという点において、成り立っている。

有用物として一商品が社会的な規定を受け取っているのは、その商品がその所持者以外の人々にとって使用価値であり、したがって社会的な必要をみたす、というかぎりにおいてのことである。ところが、この商品の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させているかということにはかかわりなく、このような属性によって、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象になるだけであって、別の諸商品にたいしての商品にはならない。

単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品として互いに関係させることができ、したがって、社会的な関係のなかに置くことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。

だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉(江夏訳49-50頁)

 ⑤
 

     交換過程 の素直な理解をめざして その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月13日(土)00時34分25秒
返信・引用 編集済
       交換過程 英訳本から パソコン直訳で為してみた。
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan
     第一段落
    人はお互いのためだけに、そしてそのために存在します。 商品の所有者として。
     <杉本 商品の所有者として規定される諸個人と諸個人ーーとは物象の社会関係のもとでの
     人々の社会関係であるのだから、それは、人格の物象化なのです。>
    我々の調査の過程では、一般に、経済的段階に現れる登場人物は、それらの間に存在する経済
    的関係の人格化であることがわかる。
     <経済的関係の人格化である ーーとは物象の人格化であるのだから、両者を総合して、
     人々は、物象の人格化ー人格の物象化 の社会関係の下にある、とマルクスは提示したので
     す。
     ①この物象の人格化がいかにして登場しますか?との問をマルクスは私達にしている。
     まず、この問を第二・三・四・五 段落でして、その答えのはじめを第六段落にて、人間様
     がなすーー<貨幣生成の共同行動>ーーと示したのです。
     ②その後、物象の人格化によって、すでに商品世界では
     融合している一般的価値形態と貨幣商品の前提のもとで、後者の貨幣商品がいかに自律的姿
     態であるー貨幣ーという転倒を得るのか? >
     <久留間先生や諸先輩は、残念なことに、この第一段落の提起が見えないのです。>
     交換過程の第二から第五段落にて示されているーー価値の実現と使用価値の実現との対立と
     示されている交換不可能性の事柄は、次のように、第六段落にて止揚の仕方が説明されてい
     る。

     六段落
    彼らの難しさでは、商品の所有者はファウストのように考える:
     "Im Anfang戦争死ぬTat。"
     ["最初は行為だった" - ゲーテ、ファウスト。]
    したがって、彼らは思考する前に行動し、取引しました。
    本質的にそれらは商品の性質によって課せられた法律に従う。
     彼らは、それらの商品を価値として関連づけることはできません。
    それゆえ、それを他の商品と比較することを除いては、共通の同等物として商品として扱うこ
    とはできません。私たちは商品の分析から見ました。
      <共通の同等物として商品としてとはーー使用価値・価値形態ーーのことなのですから、
      ①商品世界が形成され一般的価値形態として商品リンネルが規定されるばかりでなく、
      ②この商品世界が、この世界から一般的等価形態を排除する共同行為をなすーーことで、
       一般的な相対的価値形態を形成させるのです。
      ③この二つの条件があることで、やっと、労働生産物が商品であるーーとの判断を、
       この物象世界から、得ていたのです。>
    しかし、特定の商品は、社会的共同行為がなくては普遍的な同等物になることはできません。
     <④先ほどまでは、商品世界での共同行為でしたが、こんどは、社会的共同行為ですから、
       交換過程でなされる共同行為なのです!人間様のなす社会的過程での判断ーー行為、
       として、貨幣生成の共同行為がなされているーーとマルクス先生の主張です。>
    この共同行為により、この商品の身体的形態は、社会的に認められた普遍的な同等物の形態に
    なる。普遍的な同等物であるためには、この社会的過程により、残りの諸商品によって排除さ
    れる商品の特定の機能になる。したがって、それはお金になります。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     上記には商品世界ではなく、物象化した社会での貨幣生成の共同行為が述べられたのです。
      <この商品の身体的形態は、社会的に認められた普遍的な同等物の形態ーーとは?
     明白に、商品世界から排除された、一般的等価形態であり、貨幣商品のことーーでは無く、
     あらゆる人々のなす・社会的共同行為が無意識のうちに、残りの諸商品によって排除される
     商品に、人々の構成する社会が、選択ではなく、普遍的な等価物・その機能を 一商品に押
     しつけたーーのです。選択ではなく、人間の社会的行動が無意識のうちに一商品を排除して
     いることで付いたのです。>
     「この商品の物体的形が社会的に世界等価と認められるものとなる」 (宮崎訳)
     「万人共通の同等物[等価物]であることは、この社会的過程によって、(英和訳)
        このように残りの商品から排除されたその商品の特別の機能となる」
     この二者のように、マルクスは描き出したのです。これは発見・・・不明でありました。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      第七段落(杉本・パソコン訳 原P102)
   「お金は交換の過程で必然的に形成された結晶であり、異なる労働生産物が互いに実質的に同等
    にされ、この実践によって商品に変換される。
    歴史的な進歩と交換の発展は、商品に潜在する使用価値と価値の間のコントラストを発展させ
    る。
    商業的な交換の目的のためにこのコントラストに外部表現を与える必要性は、独立した価値形
    態の確立を促し、そして、商品を商品やお金に変換させる。
      <新書版ーー商品と貨幣への商品の二重化>することが達成されるまで安心しない。
      それゆえに、労働生産物の商品への変換が成され、特別な商品をお金に変換することも同
      じようになされるのです。」
      このように、その困難の克服は、①独立した価値形態の確立が、特別な商品をお金に変換
      する②労働生産物の商品への転化<使用価値と価値形態の二重の姿態を受け取る>ーーと
      明白に、繰り返し示されています。
      この第七段落のここでの以上の提起は、すでに、六段落にて問題が解決されています。
      そして一四段落では、上記の<特別な商品をお金に変換する>こと、それが下記にある、
      <貨幣形態は1つの商品に投げられた、残りのすべての商品との間の価値関係の反射>にて
      なされたことーー左極にてリンネルがあらゆる商品・商品世界から除外されての一般的価
      値形態ーーを受け取った、ことが、こんどは商品世界ではなく、現実的にこの交換過程の
      なかにてもなされ、この「特定の価値形態」を受け取ったこと、「価値ではなく」と、そ
      のことをここに示したのです。
    九段落
    製品の直接的な交換では、各商品はその所有者と他のすべての人との間で直接的に交換手段で
    あるが、同等価値はあるが、価値がある限りである。
    したがって、この段階では、交換された物品は、自分の使用価値や交換価値の個々のニーズに
    依存しない価値形態を獲得しない。
    交換される商品の数と種類が増えるにつれて、価値形態の必要性が高まる。
    問題と解決の手段が同時に発生する。
    商品所有者は、異なる所有者に属する異なる種類の商品が交換可能でなくても、同一の特別商
    品に価値として見なされることなく、自分の商品を他の商品と同一視することは決してありま
    せん。
    ①このように最後の記事は、他の様々な商品と同等になることで狭い範囲内ではあるが、
    問題と解決の手段が同時に発生する
    この一般的な社会的等価物の性格は、それが瞬間的な社会行為と一緒に出てきます。
    順番に、そして一時的に、それはまずこれに、そして次にその商品に付く。
    しかし、交換の発展に伴い、特定の種類の商品にしっかりと独占的に定着し、金型を前提に結
    晶化するようになります。
    ②人は、しばしば、奴隷の形で、自分自身を貨幣の原始的な物質として役立つが、その目的の
    ために土地を使用したことはない。
    このような考え方は、既に十分に発展したブルジョア社会においてのみ生じうる。
    それは17世紀の最後の3分の1から始まり、一世紀後に、フランスのブルジョア革命の間に国家
    規模で実践された。

      杉本ーー再度上記の①を再確認しましょう、何とも我々は、明き盲ですね。
     ①「交換される商品の数と種類が増えるにつれて、価値形態の必要性が高まる」
     ②「問題と解決の手段が同時に発生する」
     ③「この一般的な社会的等価物の性格は、それが瞬間的な社会行為と一緒に出てきます」
     ④「順番に、そして一時的に、それはまずこれに、そして次にその商品に付く」
      それが、社会的過程にて、一般的等価物として価値鏡の役立ちをする価値形態であり、
      単に、金 ゴールド なのであります。商品世界ではなくですよ。
     このことを、何とも英語版の訳者であるご両人は、判読していました。

   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm
      <スーパーマンが、英和訳には、上記と下記にいらして、
              「一般的な社会的等価物の性格」と訳出していました!>
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
       diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan
         英和訳『資本論』
     「そのような一番最後にあげた品物は、さまざまな他の諸商品の同等物[等価物]となる
      ことによって、直ちに、狭い諸制限の範囲内にもかかわらず、
      一つの一般的な社会的等価物の性格を獲得する。
      この一般的な社会的等価物の性格はそれが生じた一時的な社会的諸行為とともに来たり
      行ったりする。
      かわるがわるそして一時的にそれ[一般的な社会的等価物の性格]自身は最初はこちら
      の商品にそして次にはあちらの商品に取り付く。
      しかし交換の発展と共にそれ[一般的な社会的等価物の性格]自身はしっかりとそして
      独占的に特定の諸商品の種類に固定する、そして貨幣ー形態を装うことで結晶化して具
      現する。」
     「その性格がぴったりとついていく商品の特定種類は最初は偶然の問題である。
      それにもかかわらずそこにはその影響が決定的であるところの二つの事情がある。
      貨幣ー形態それ自身は外から来た交換のもっとも重要な諸品物、および、これら実のところ
      原始的で自然的な諸形態のその中で自地域諸生産物が表現を見いだしている交換ー価値に取
      り付く;
      あるいはそうでなければそれ自身が有用物でそれが、家畜のような、土着の譲渡可能な富
      を成している主要な部分に取り付く。
      遊牧諸民族は貨幣-形態を発展させる最初であるが、なぜなら彼らの全財産は移動可能な諸
      物から成っており、そしてそれゆえ直接に譲渡可能だからである;
      そして彼らの生活様式は、絶えず彼らを外国の諸共同体と接触させることにより、諸生産
      物の交換を請い求めるからである。」
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     大谷論文への批判
      <大谷先生の引用された文の冒頭に、9段落に、すでに解決事項がなされたと、英訳文で
      は明示されている。ここでは、物象の関係を示す価値形態ではなく、物象の人格化を示
      す独立化した価値形態が、如何にして発生し、成長していくかが、示されている。
      ところが、この下記のドイツ訳では、英訳での「一般的等価物」が、「一般的等価形態」
      になっている。この「一般的等価形態」と「貨幣形態」の関連性を問われてしまえば、
      再版では、価値方程式の第三の形態と第四の形態での相違としての商品世界から排除され
      ている貨幣商品のなす映像としての、20エレのリンネル=2ポンドの価格形態をこそイメ
      ージしてしまう。
      このように、商品世界を扱う価値方程式と、物象の人格化を示す交換過程とが混同されて
      いるのです。

         商品および商品生産    大谷禎之介
        【補論4】交換過程と貨幣発生の必然性
        「商品交換の発展につれて,一般的等価(物)形態は排他的に特別な商品
        種類だけに固着する。言い換えれば,貨幣形態に結晶する。それがどんな
        商品種類に引き続いて付着しているかは,はじめは偶然である。
        しかし,だいたいにおいて二つの事情が事柄を決定する。
        貨幣形態は,域内生産物の交換価値の実際上の自然生的な現象形態である
        外来の最も重要な交換財貨に付着するか,または域内の譲渡可能な財産の
        主要要素をなす使用対象,たとえば家畜のようなものに付着する。
        遊牧民族は最初に貨幣形態を発展させるのであるが,それは,彼らの全財
        産が可動的な,したがって直接に譲渡可能な形態にあるからであり,また,
        彼らの生活様式が彼らをたえず他の共同体組織と接触させ,したがって彼
        らに生産物交換を促すからである。
        ……/ 商品交換がその局地的な限界を打ち破り,したがって商品種類が人
        間的労働一般の物質化に発展していくのにつれて,貨幣形態は,生まれな
        がらに一般的等価物という社会的機能に適している諸商品に,貴金属に,
        移っていく。/>

      <杉本ーー上記に示された誤訳問題は、如何にして、交換過程にて、物象が発生し、
      そのことを前提に、物象の人格化ー人格の物象化、との社会関係が形成されるのか?
      そして、そこに止どまらず自らを成長させていくのか?ーーとの批判が要求される。
      この批判的認識が大谷先生には無いーー為にの誤判断なのです。
      その例を、次に引いて、確認しておきます。>

        「このように,交換過程は,商品の使用価値としての実現の過程であると
        同時に,商品の価値の実現の過程でもなければならないが,この両方の実
        現は互いに前提しあいしかも同時に互いに排除しあうのである。このこと
        を次の第51図で説明すれば,-方では,所持者Aが自分の商品を所持者
        Bに譲渡するためには,彼は彼の商品を価値体として通用させて,所持者
        Xから彼の欲する商品を入手していなければならない。
        他方では,彼が自分の商品が価値をもつことを実証するためには,所持者
        Bに自分の商品を譲渡して,それが他人のための使用価値をもつものであ
        ることを実証していなければならない。
        これが,交換過程に現実に存在する矛盾であり,さきの商品に内在する矛
        盾が目に見えるかたちで現われてきたものである。
        ーーーーーー略ーーーーーーー
         じつは,その媒介,打開の道は,われわれがすでに見た価値形態の発展
        のなかにあった。すなわち,商品所持者たちのだれもが,自分の商品を一
        般的等価物としてのなにかある一つの他商品に連関させるならば,自分た
        ちの商品を互いに価値として,したがって商品として連関させることが
        できる。
     杉本
     <この2~5段落にて問われている矛盾の事柄は、久留間先生が最大にこだわったため、
     交換過程での矛盾となり、マルクス経済学の常道になっている。しかし、その困難性は、
     すでに、第六段落にて解決されていた。
     <商品世界ではなく、物象化した社会での貨幣生成の共同行為が述べられた>のでした。
     もう一度、交換過程での行為があったとの、マルクスの明示です。次のように。
     「この商品の物体的形が社会的に世界等価と認められるものとなる」 (宮崎訳)
     「万人共通の同等物[等価物]であることは、この社会的過程によって、(英和訳)

         具体的に言えば,こうである。どの商品所持者も,いきなり,自分が欲
        する特定の使用価値をもつ商品と交換しようとするのではなく,まず,一
        般的等価物と交換しようとする。この過程では,自分のもつ商品にたいす
        る欲求をもつ一般的等価物の所持者を見つけさえすればいい。このような
        所持者に自分の商品を譲渡し,それと引き換えに一般的等価物を受け取る
        ことによって,自分の商品が他人のための使用価値をもっていたことを実
        証することができれば,次には,一般的な直接的交換可能性をもつこの一
        般的等価物と引き換えに,自分が欲する任意の商品を受け取ることができ
        るのである。
        このように,商品世界のなかで一般的等価物が成立すると,どの商品も,
        まず,自己の使用価値を実現することによって使用価値の形態であるそれ
        の現物形態を脱ぎ捨て,すべての商品にたいして価値体として通用する一
        般的等価物になり(これを価値の実現と言う),それから,よう
        になる。こうして,交換過程の矛盾は媒介され,商品の全面的な交換が可
        能となるのである。(同上P131~134)
      http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf


        価値形態    大谷禎之助
        http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7779/1/61-2otani-2.pdf
        P232
        第3には,価値形態を発展させて,ついに貨幣形態を成立させるにいた る原動
        力はなにか,という問題である。これが狭い意味での貨幣成立の 必然性の問
        題であって,交換過程論で論じられている。その要は,一方 で,商品の内在的な
        矛盾である使用価値と価値との矛盾が,交換過程では,商品の使用価値として
        の実現と商品の価値としての実現との矛盾とし て現われ(交換過程の矛盾),
        これが,ある一つの商品を商品世界から排 除して一般的等価物にする社会的
        な共同事業を引き起こさないではいない (開展された価値形態から一般的価
        値形態への発展をもたらさないではいない)ということであり
           ーーーーーーーーーーーー
         <杉本ーー上記のように、久留間理論 の誤解の原因は示されている。>
      杉本ーー大谷先生への意見であります。
      上記は次のように示していました。この事への意見を述べてみます。
     <①「商品世界のなかで一般的等価物が成立すると,」
      ②「どの商品も,まず,自己の使用価値を実現することによって
       使用価値の形態であるそれの現物形態を脱ぎ捨て,
      ③「すべての商品にたいして価値体として通用する一般的等価物になり
       (これを価値の実現と言う)
      ④それを価値体として通用させることによって所持者の欲する任意の商品に転化する>

     これは第六段落にて、次のように示されていました。
      a貨幣商品は、商品世界から排除されることで、一般的等価物の役割をしています。
      b労働生産物が商品である<使用価値ー価値形態>との判断を、物象がなし、
      c物象化した人間様がなすことがーー<貨幣生成の共同行動>ーーと示したのです。
       この物象世界ではなく、その次の物象によって意志支配された人間の共同行為で
       あります。
       次の二瓶論文にあるように、今日の常識は、①価値形態論・物神性論
       ②交換過程論    の① ②ともに物象化との認識なのです。


           ーーーーーーーーーーーー

        下記は交換過程の矛盾でパソコン検索してみたら、素晴らしいもので、
        大谷先生の意見を超えるものではあったが、ここでの対象が、商品世界で
        はないのに、そのことでは意見が同一であった。

         日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
         交換過程 こうかんかてい
        Austauschprozessドイツ語

        商品は使用価値と価値との2要因の統一体である。このうち使用価値は他
        人にとっての使用価値であり、その商品所有者にとっては直接的な使用価
        値をもっていない。したがって商品所有者は、その商品を彼が必要とする
        使用価値をもつ商品と引き換えに譲渡しようとしている。

        このようにすべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、
        その非所有者にとっては使用価値であるがゆえに、諸商品は全面的に持ち
        手を変換しあわなければならない。

        この諸商品の全面的な持ち手変換が交換過程である。
        交換過程において商品は使用価値として実現されると同時に価値として実
        現されなければならない。
        商品所有者はだれでも、自分の欲望を満たす使用価値をもつ他の商品と引
        き換えにのみ自分の商品を譲渡しようとするのと同時に、他方で彼は、自
        分の商品を価値として実現しようとする。

        つまり、同じ価値をもつ彼の欲する他の商品のいずれとでも、彼自身の商
        品が他の商品の所有者にとって使用価値をもつと否とにかかわらず、交換
        しようとする。換言すれば、どの商品所有者も他人の商品に自分の商品の
        特殊的等価物の役割を押し付けると同時に、自分の商品を他のすべての商
        品の一般的等価物たらしめようとしている。

        だが、すべての商品所有者が同じことをしようとするのであるから、どの
        商品も一般的等価物たりえず、したがって諸商品は、それらが価値として
        等置されえず、また価値の大きさが比較されえないことになる。

        この矛盾は、ある特定の商品を社会的行為として商品世界から排除して一
        般的等価物たらしめることによって解決される。諸商品はこの商品で価値
        を表現することによって相互に価値として連関されうるのである。一般的
        等価物たることがその商品の独自の社会的機能となったとき、その商品は
        貨幣となる。このように貨幣は交換過程の必然的な産物である。貨幣が発
        生すると、商品所有者はまず自己の商品を販売して貨幣に転化し、その貨
        幣によって自分が欲する商品を購買するようになる。[二瓶 敏]
   https://kotobank.jp/word/%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E9%81%8E%E7%A8%8B-1532229

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       一〇段落
    ①商品交換がその地域的な束縛を破壊することに比例して、
    ②そして諸商品の価値がますます抽象的人間労働の体現物として認められ、
    ③同じ割合で貨幣の性格が、ある商品に付随するのであり、
     それは普遍的な同等の社会的機能を果たすために自然に適合したものである。
    ③これらの諸商品が貴金属類である。

    十一段落
      The truth of the proposition that,
    “although gold and silver are not by Nature money,
    money is by Nature gold and silver,”
    この命題の真実は、
    "金と銀は自然のままにお金ではありませんが、お金は自然の姿のままに金と銀です。 "
    お金の機能のためのこれらの金属の物理的特性の適合性によって示される。

    しかし、この時点までに、私たちはお金の1つの機能、すなわち、
    商品の価値の現れの形をとるために、または価値の大きさが社会的に表現されて
    いる素材として使用することができます。

    価値の適切な形、抽象的な、未分化、したがって同等の人間の労働であることを、、
    その材料で、すべてのサンプルが同じ均一な品質を示すことができます。
    一方、価値の大きさの差は純粋に定量的なものであるため、
    貨幣商品は単に量的な差異の影響を受けやすいものでなければならず、
    したがって、自由意志で分割可能であり、この同等性を再現することが
    できなければならない。
    金と銀は自然によってこれらの特性を持っています。

      <14段落>
    私たちは、貨幣形態は、1つの商品に投げられた、残りのすべての商品との間の価値関係
    の反射であることを見てきました。
    その金は商品であるーーそれを分析すると、完全に発展した形から始まる人々のためだけ
    に新しい発見であるに過ぎない。交換の行為は、貨幣に変換された商品にある規定が与え
    られますが、それは価値ではなく、その特定の価値形態が与えられます。
    これらの2つの異なる事柄を混乱させることによって、金や銀の価値が虚偽(想像的)であ
    ると考える作家もいます。」

     <マルクスは次を示して自分が何を語り、この交換過程の論理進行を確認しています。>

      <15段落>
    17世紀の過去数十年間、すでにお金は商品であることが示されていましたが、この段階は分析
    の幼少期に過ぎません。
    難しさは、お金は商品であることを理解することではなく、
      ③商品がどのように、
      ④なぜ、
      ⑤そしてどういう意味で商品がお金になるか
      を発見することにあります。」

        その確認の上に、結論をこう述べたのです。
       <最終・16段落>

    ① 私たちはすでに、価値の最も基本的な表現から、
      x商品A = y商品B、
    ②他の物体の価値の大きさが表現されている物体は、自然によって与えられた社会的性質
     として、この関係とは独立して同等の形態(等価形態)を持つように見える。
    ③私たちは最終的な設立までこの偽りの姿を追って行きました。これは、普遍的な同等の形態
     が特定の商品の身体的形態で特定され金銭形態に結晶化されるとすぐに完了します。
    ④ある商品は、他の諸商品が自分たちの価値を全面的にこのある商品で表すがゆえにはじめて
     貨幣となる、とは見えないのであって、
    ⑤逆に、この商品が貨幣であるがゆえに他の諸商品が自分たちの価値を全面的にこのある商品
     で表している、というように見える。

      「他の諸商品がその価値を一商品によって全面的に表示するので、その商品ははじめて貨
      幣になるのだとは見えないで、むしろ逆にその商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品は
      その商品で一般的にそれらの価値を表示するように見える。<新日本新書P159>

      しかし、この既成訳文からでは、マルクスが何を批判しているのか?まず理解できない!

      <次の対訳をしてみる>
      起こるように見えるのは、        What appears to happen is,
      金塊はお金になるのではなく、      not that gold becomes money,
      他すべての商品の共通な表現の結果として in consequence of all other
                           commodities expressing
      それらの価値は、            their values in it,
      しかし、反対に、            but,on the contrary,
      他のすべての商品が普遍的に表現している that all other commodities
                          universally express
      彼らの金塊の価値、           their values in gold,
      なぜなら、お金ですから。        because it is money.

      <上記をまとめると>
      ここで、起こることが次のように見えますが、
      その中にその価値を表現している他のすべての商品の共通の結果として、金塊はお金にな
      るのです。
      しかし、反対に、他のすべての商品を普遍的に表現している彼らの金塊の価値、それはお
      金(貨幣形態)ですから。

      もうすこし、次のことーー上記のグーグル訳のおかげさまで、次の対比ができました。
     a 江夏訳ーある商品は、他の諸商品が自分たちの価値を・このある商品で表すがゆえにはじ
      めて貨幣となる、
     b 新日本ー他の諸商品がその価値を一商品によって全面的に表示するので、その商品ははじ
      めて貨幣になる
     c 杉本ーその金がその価値を表現している他のすべての商品の結果(一般的価値形態・商品
      世界)として、not that gold becomes money,金塊はお金になるーーはずなのに、
      そうではなく、逆に、他のすべての商品が普遍的な価値表現している・
      金 their values in gold, であるため、
      お金 because it is money.で商品の価値を表現するーーのです。
     d 英和訳ーわれわれはこの誤った考えに基づく外観をその最終的な設定にまで追い詰めた、
      このことは万人共通な等価形態[同等形態]が一特定商品の身体的形態と一体化するよう
      になるや否や完璧となる、そしてこのようにして貨幣ー形態に結晶化するや否や完璧とな
      る。
      起こっているらしいのは、金が貨幣になるということではなく、すべての他の諸商品がそ
      れらの諸価値をそれ[金]の中に表わす結果、そう[金が貨幣になるということ]ではな
      く、それに反して、すべての他の諸商品が万人共通的にそれらの価値を金の中に表すとい
      うこと、なぜならそれ[その商品である金」は貨幣であるから。
      この過程の中間段階は結局消え失せてその後に何も痕跡を残さない。」<英和訳資本論>

      杉本ーーここで、a bとc d の比較をしてみると次のことが理解できる。
          a b は等価形態の謎を解いたことで、倒立像ではなく正像があることを示したのですが、
      この正像が、一般的価値形態であり、その規定が交換過程での転倒のもたらした倒立像で
      はなく、<商品世界での正像の貨幣形態>を示しているーーことを対象化していないの
      で、現実の転倒した映像をもたらしている<物象化=物象の人格化>を示せていないので
      す。

      先のーー15段落で提示された、次のマルクスの我々への提起である、
      <難しさは、お金は商品であることを理解することではなく、
      ③商品がどのように、④なぜ、⑤そしてどういう意味で商品がお金になるか
      を発見することにあります。>
      に対しての回答を、ここにしていることをーー見出さないと何を言いたいのか分からない
      のです。
      上記と対比しての、ここでの論理構造を示すと次のようになっています。
      ③その価値を表現している他のすべての商品の結果(一般的価値形態・商品世界)が、
      ④金塊をお金にするーーはずなのに、そうではなく、
      ⑤交換過程では、このお金が、他のすべての商品の普遍的な価値表現しているため、お金
      で商品の価値を表現するーー主語の入れ代わった転倒象ーーを示しているのです。

      ⑤ーーには何が述べられたのか?
      商品世界が形成され・一般的価値形態があることで、その反省規定として形成される一般
      的等価形態に有る一商品が、この商品世界から排除されることで得たーー貨幣商品の規定
      がーーこの第四の形態である貨幣形態では、一般的価値形態とこの貨幣商品である等価形
      態とが、対極的に分離することで成立していたのです。これが交換過程の語る前提になっ
      ています。
      ところが、この貨幣商品・金は、価値形態論で規定された、一般的価値形態・そして一般
      的相対的価値形態の反省規定としてのみ、対極的に成立してきた性質を、ところが交換過
      程に入ると、この<等価形態の謎性>、商品世界とは別個に、自律的姿態・形態のままに
      もっている幻像をこそ私達に見せるのです。
      それが、in gold 金にではなく、お金 because it is money.で商品の価値を表現
      するーーのです。
      ここには、一体何が?示されているのか?
      a一般的価値形態を前提にそこから除外されたリンネルが商品世界の価値を表現す、
      b要素形態では、上着が価値形態の規定を受けてのみリンネルの相対的価値表現ができる、
      c商品が価値形態であり、使用価値である限りの姿態を持つかぎりで、第一の形態のみな
       らず、第三の形態でも商品形態をもつーー
      このa b cに示される物象の社会関係にての物象の判断が、適用されてないのです。
      もう一度交換過程ではーーこのように物象の判断が、示されたのが役目不要なのです。
      ①左極でまず示されて、次に、その反省規定として、
      ②まず上着は直接的に価値形態であることで等価形態と示されて、その次に、
      ③物象の社会関係から、交換過程では物象の人格化への転化を見出すーーことを
      マルクスは、我々に要求しているのです。
      ④だから、物象の人格化を示す交換過程にての下では、一商品貨幣は、左極の反省規定を
      受けずともこれまでの、価値形態での過程が、前提される仮象・転倒象を得ていたので
      す。

     だから、ここを、交換過程論としてのみ読んだのでは、マルクスのこの提起の半分も理解で
     きないのです。
    a価値形態論での第四の形態での転倒とーー第三の形態との対比が、まず問われるのです。
     一般的価値形態が貨幣形態に移行したのは、等価形態にあるリンネルが、自然的形態が社会
     的に癒着している貨幣商品・金に最終的に座席を譲ったーー事によるとの提示でした。
    bこの貨幣形態は直ちに、20エルレのリンネル=2オンスの金の「価格形態」を得て、
                20エルレのリンネル=2ポンド の形式に移動していたのです。
    cこの交換過程論にて検討されていることは、上記のことを見出さなければ、
     20エルレのリンネル=2ポンド と示される全くの錯誤・ちんぷんかんぷんの理解ぶりの
     錯誤への批判ができないのです。
    dこのaとcとの対比から理解できることは、商品世界と一般的等価形態の対立として示され
     る価値方程式は除外され、明白に、諸商品が主体・価値表現する主体ではなく、
     ①自立化した等価形態 ②等価物貨幣が、「あらゆる人間労働の直接的化身」として・主体
     となる転倒を発生させたーーことだ!ーーということなのです。

      <そこで、本文次の理解の仕方の正しさです。>
    「プロセスの中間ステップは結果で消滅し、後ろに痕跡は残されません。
    商品は、自らの価値が、企業の既存の商品で、自らのイニシアチブなしに、完全に表現されて
    いることを発見します。
    これらの金と銀は、地球の腸から出てくるのと同じようにすべての人間の労働の直接的な化身
    です。   したがって、お金の魔法。」

     これが、
     ①交換過程での等価形態ーーではなく、自立的な価値形態を持つ等価物の謎であり、
     ②「プロセスの中間ステップは結果で消滅」しているお金の魔法であり、
     ③物象の人格化ー人格の物象化と示す交換過程の冒頭一段落の提示への説明ーー理解です。

     このように交換過程では、「物象の人格化」によって、物象の方が主体となり、人間様のほ
     うは、その主体の命ずるままに作動する客体ーーになっているから、<お金の魔法>のまま
     に動かされる、ことを指して、人格の物象化、なのだと思います。

     <主体ーー客体>の転倒批判をこそ、このように、マルクスは交換過程論にての課題にし、
     追求・提示していたのです。やっと、発見ですね。

     なるほど、主客の転倒批判は、資本ー賃労働関係が、搾取関係ではなく、その関係の再生産
     であり拡大再生産であることは、認識し、そこをこそ私達は依拠することで、宇野経済学の
     労働力商品化論を批判し、労働者階級が、資本家階級に経済的隷属していることを、明示し
     てきた。
     その点の追求が、宇野経批判ーースターリン経済学批判として成してきたことを、その前の
     一章・二章の価値形態論ー交換過程論にてもされていたことを、無念ながら、成し得ていな
     かったのです。
     これは明らかに、歴史的伝統であり、第二インター カウッキィー主義が、その点への批判
     無きがためのものなのです。そしてロシア革命にての社会革命にても、その点への追求が、
     商品批判として、物象化批判として、なんらなし得なかったのです。

http://

 

    交換過程 その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月 5日(金)16時11分36秒
返信・引用 編集済
       交換過程  英訳本から パソコン直訳で為してみた。
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan
     交換過程(原P107~108)
     第一段落
 The persons exist for one another merely as representatives of, and, therefore. as owners of, commodities.
In the course of our investigation we shall find, in general, that the characters who appear on the economic stage are but the personifications of the economic relations that exist between them.
    人はお互いのためだけに、そしてそのために存在します。 商品の所有者として。
     <杉本 商品の所有者として規定される諸個人と諸個人ーーとは物象の社会関係のもとでの
     人々の社会関係であるのだから、それは、人格の物象化なのです。>
    我々の調査の過程では、一般に、経済的段階に現れる登場人物は、それらの間に存在する経済的
    関係の人格化であることがわかる。
     <経済的関係の人格化である ーーとは物象の人格化であるのだから、両者を総合して、
     人々は、物象の人格化ー人格の物象化 の社会関係の下にある、とマルクスは提示したのです。
     では、①この物象の社会関係がいかにして登場しますか?との問をマルクスは私達にしている
     のです。まず、この問を第二・三・四・五・六段落でして、その答えが、一般的価値形態であ
     り、貨幣形態にあると示したのです。
     ②その後、物象の人格化によって、すでに融合している一般的価値形態と貨幣商品の前提のも
     とで、後者の貨幣商品がいかに自律的姿態であるー貨幣ーという転倒を得るのか? >
     <久留間先生や諸先輩は、残念なことに、この第一段落の提起が見えないのです。>

    第二段落
 ②What chiefly distinguishes a commodity from its owner is the fact, that it looks upon every other commodity as but the form of appearance of its own value.
A born leveller and a cynic, it is always ready to exchange not only soul, but body, with any and every other commodity, be the same more repulsive than Maritornes herself.
The owner makes up for this lack in the commodity of a sense of the concrete, by his own five and more senses.
His commodity possesses for himself no immediate use-value.
Otherwise, he would not bring it to the market.
It has use-value for others;
but for himself its only direct use-value is that of being a depository of exchange-value, and, consequently, a means of exchange.[3独39]
Therefore, he makes up his mind to part with it for commodities whose value in use is of service to him.
All commodities are non-use-values for their owners, and use-values for their non-owners.
Consequently, they must all change hands.
But this change of hands is what constitutes their exchange, and the latter puts them in relation with each other as values, and realises them as values.
Hence commodities must be realised as values before they can be realised as use-values.
    ②一つの商品をその所有者から主として区別するものは次の事実、一商品は、すべての他の商品を、
    それ自身の価値の出現している形態にすぎないものとして見る、ということである。
    生まれながらの一平等主義派で皮肉屋である一商品は、魂としてばかりでなく身体も、どんな商品と
    でもそして他のどの商品とでもいつでも交換する準備が整っている、たとえそれが[ドン・キホーテ
    に出てくる鼻が低く片目の宿場女中の]マリトルネスと同じくより嫌悪の情を起こさせるとしても。
    その所有者はその商品のこの具体性の感覚の欠乏にたいして、彼の五感またはそれ以上の諸感覚によ
    って埋め合わせる。
    彼[商品所有者]の商品はなんら彼自身のための直接的使用-価値を持っていない。そうでなけれ
    ば、彼はその商品を市場に持っていかないであろう。
    それ[商品所有者の商品]はその使用ー価値を他人のために持っている;だが彼自身にとってはその
    [商品所有者である自分の]商品の直接ー使用価値は交換ー価値の一保管所であることだけであり、
    そして、それゆえ、交換の一手段である。
    したがって、彼はそれ[商品所有者である自分の商品]を、彼にとって使用価値が役に立つ諸商品を
    求めて手放す決心をする。
    全ての諸商品はそれらの所有者たちにとっては非-使用-諸価値であって、それらの非-所有者たちに
    とっては使用-諸価値である。したがって、それらは全て所有する[持ち]手を換えなければならな
    い。しかしこの持ち手の変化こそが諸商品の交換を構成するものである、そしてこの交換が諸商品を
    互いに価値としての関係におき、価値として諸商品を実現させるのである。
    かくて諸商品はそれらが使用-諸価値として実現される前に諸価値として実現されなくてはならない。

    杉本ーー
    <そしてこの交換が諸商品を互いに価値としての関係におき、価値として諸商品を実現させる>

    第三段落
  On the other hand, they must show that they are use-values before they can be realised as values. (後略)
   ③また一方では、諸商品はそれらが使用-諸価値であることをそれらが諸価値として実現できる前に示
    さなくてはならない。
    というのはそれらの諸商品の上に費やされた労働を有効に数え上げるには、ただそれが他の人たちに
    とって使える形で費やされている限りにおいてのみだからである。
    その労働が他人の人たちに役に立つかどうかは、そしてその労働の生産物が結果として他人の欲求を
    満足させる能力があるかどうかは、唯一交換行為によってのみ証明されうる。

    杉本
    <一方では、諸商品はそれらが使用-諸価値であることをそれらが諸価値として実現できる前に示>す

    第四段落
   Every owner of a commodity wishes to part with it in exchange only for those commodities whose use-value satisfies some want of his.
Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction.
(後略)
   ④どの一商品の所有者も交換にてそれを手放そうと望むのは唯一それの使用価値が彼の何らかの欲求を
    満たすような諸商品を求めるためだけである。
    このような方法で見ると、交換は彼にとって単純に一つの私的な取引である。
    他方で、彼は彼の商品の価値を実現しようと望む、彼の商品をなんらかの他の適当な等しい価値の商
    品に転換しようと望む、彼自身の商品がなんらかの使用価値を他の所有者のために持っているいない
    には関係なく。この観点から、交換は彼にとってはある一般的性格の一つの社会的取引である。
    しかし一つのしかも同じ取引のひとまとまりは同時にすべての所有者たちにとってもっぱら私的であ
    りかつもっぱら社会的で一般的であることはできない。

    杉本<一方でーー交換は彼にとって単純に一つの私的な取引である。
      他方で、ーー交換は彼にとってはある一般的性格の一つの社会的取引>

    第五段落
Let us look at the matter a little closer. (後略)
    ⑤この問題をもう少し詳しく見てみよう。
    一商品の所有者にとって、他のどの商品も、彼自身の商品に関して、一つの特別な同等物[等価物}で
    あり、そして結果として彼自身の商品はすべての他人にのための万人共通の同等物[等価物]である。
    しかしこのことはどの所有者にも適用するので、そこには、事実上、一つの商品も万人共通の同等物
    [等価物]として行動しているものがない、そしてその諸商品の相対価値は一般形態のもとでそれらが
    価値として同等化され得る形態をまったく持っておらずそして比較された価値の大きさを持っていな
    い。これまでのところでは、したがって、それらは互いに諸商品として向き合わず、ただ諸生産物とし
    てだけまたは諸使用価値としてだけ互いに向き合っている。

    杉本<その諸商品の一般的相対価値表現のもとでは、それらが価値として同等化され得る形態を
    まったく持っておらず・・・>

    第六段落
   <略>
That we saw from the analysis of a commodity.
But a particular commodity cannot become the universal equivalent except by a social act.
Thereby the bodily form of this commodity becomes the form of the socially recognised universal equivalent.
To be the universal equivalent, becomes, by this social process, the specific function of the commodity thus excluded by the rest.
Thus it becomes ? money.
    ⑥<略のところですが引用>
     彼らの難しさでは、商品の所有者はファウストのように考える:
     "Im Anfang戦争死ぬTat。"
     ["最初は行為だった" - ゲーテ、ファウスト。]
    したがって、彼らは思考する前に行動し、取引しました。
    本質的にそれらは商品の性質によって課せられた法律に従う。

     彼らは、それらの商品を価値として関連づけることはできません。
    それゆえ、それを他の商品と比較することを除いては、共通の同等物として商品として
    扱うことはできません。私たちは商品の分析から見ました。
      <共通の同等物として商品として、とは、ーー使用価値・価値形態ーーのことなのですから、
      それは、一般的価値形態として商品世界が形成される限りにおいて、のことなのです。>

    しかし、特定の商品は、社会的共同行為がなくては普遍的な同等物になることはできません。
    この共同行為により、この商品の身体的形態は、社会的に認められた普遍的な同等物の形態になる。
     普遍的な同等物であるためには、この社会的過程により、残りの諸商品によって排除される商品
    の特定の機能になる。したがって、それはお金になります。

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     杉本ーー<この商品の身体的形態は、社会的に認められた普遍的な同等物の形態>ーーとは?
     商品世界から排除された、一般的等価形態であり、貨幣商品のことではないのです。
     あらゆる人々のなす・社会的共同行為が無意識のうちに、残りの諸商品によって排除される商品
     に、人々の構成する社会が、選択ではなく、普遍的な等価物・その機能を 一商品に押しつけた
     ーーのです。選択ではなく、人間の社会的行動が無意識のうちに一商品を排除していることで付
     いたのです。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    <④段落にて次の様にまとめられていたことが、いわゆるーー使用価値の実現と価値の実現との矛盾
     なのであります。この提起は次に示されていたことのがらのまとめであります。>

     「このような方法で見ると、交換は彼にとって単純に一つの私的な取引である。
     他方で、彼は彼の商品の価値を実現しようと望む、彼の商品をなんらかの他の適当な等しい価値の商
     品に転換しようと望む、彼自身の商品がなんらかの使用価値を他の所有者のために持っているいない
     には関係なく。この観点から、交換は彼にとってはある一般的性格の一つの社会的取引である。
     しかし一つのしかも同じ取引のひとまとまりは同時にすべての所有者たちにとってもっぱら私的であ
     りかつもっぱら社会的で一般的であることはできない。」

     この、社会的と私的ーー取引の同時的展開の不可能性が、使用価値の実現と価値の実現との矛盾、な
     のであります。
     この矛盾は、すでに商品分析=一般的価値形態と等価形態の分析にて、解決されている、ーーという
     のが、この第六段落で示されているのですから、以上の事柄は、交換過程の分析の対象ではなく前提
     事項であり、物象の社会関係を示すのであり、交換過程での物象の人格化を探求する、前提事項なの
     です。
     この物象の人格化によって、等価形態が、相対的価値形態を前提せず独立する形態へと転倒していく
     のです。
     そのことをこそ、ーーマルクスはこれから、追求して提示していくのです。
     久留間先生に示されるように、これまでの交換過程論の追求・判読には、物的関係である
     <使用価値の実現と価値の実現との矛盾>から、物象的関係を経ての本題のこの物象の人格化
     に依る、等価形態の謎性による転倒への批判が追求されていないのです。
     その課題を、この後示しましょうーーと言うのがこれからのマルクスの提示なのです。


    第七段落
  Money is a crystal formed of necessity in the course of the exchanges, whereby different products of labour are practically equated to one another and thus by practice converted into commodities.
The historical progress and extension of exchanges develops the contrast, latent in commodities, between use-value and value.
    お金は交換の過程で必然的に形成された結晶であり、異なる労働生産物が互いに実質的に同等にさ
    れ、この実践によって商品に変換される。
    歴史的な進歩と交換の発展は、商品に潜在する使用価値と価値の間のコントラストを発展させる。

The necessity for giving an external expression to this contrast for the purposes of commercial intercourse, urges on the establishment of an independent form of value, and finds no rest until it is once for all satisfied by the differentiation of commodities into commodities and money.
    商業的な交換の目的のためにこのコントラストに外部表現を与える必要性は、独立した価値形態の
    確立を促し、そして、商品を商品やお金に変換することが達成されるまで安心しない。

    The necessity for giving an external expression     外部表現を出す必要性
    to this contrast for                  これと対照的に
    the purposes of commercial intercourse,       商業的な交換の目的は、
    urges on the establishment of             の確立を促す
    an independent form of value             独立した価値形態
    and finds no rest until it is               それまでは休息していない
    once for all satisfied                 一度満足するまでは安心しない
    by the differentiation of                差別化によって
    commodities into commodities and money.       商品を商品やお金に変換する。

At the same rate, then, as the conversion of products into commodities is being accomplished, so also is the conversion of one special commodity into money. [4独注40]
    それと同じように、労働生産物の商品への変換が成され、特別な商品をお金に変換することも同じよう
    に成されるのです。
              (労働生産物の商品への転化ーー商品の貨幣への転化)
     九段落
In the direct barter of products, each commodity is directly a means of exchange to its owner, and to all other persons an equivalent, but that only in so far as it has use-value for them.
    製品の直接的な交換では、各商品はその所有者と他のすべての人との間で直接的に交換手段である
    が、同等価値はあるが、価値がある限りである。

At this stage, therefore, the articles exchanged do not acquire a value-form independent of their own use-value, or of the individual needs of the exchangers.
    したがって、この段階では、交換された物品は、自分の使用価値や交換価値の個々のニーズに依存しな
    い価値形態を獲得しない。

The necessity for a value-form grows with the increasing number and variety of the commodities exchanged.
The problem and the means of solution arise simultaneously.
    交換される商品の数と種類が増えるにつれて、価値形態の必要性が高まる。
    問題と解決の手段が同時に発生する。

Commodity-owners never equate their own commodities to those of others, and exchange them on a large scale, without different kinds of commodities belonging to different owners being exchangeable for, and equated as values to, one and the same special article.
    商品所有者は、異なる所有者に属する異なる種類の商品が交換可能でなくても、同一の特別商品に価値
    として見なされることなく、自分の商品を他の商品と同一視することは決してありません。

Such last-mentioned article, by becoming the equivalent of various other commodities, acquires at once, though within narrow limits, the character of a general social equivalent.
    このように最後の記事は、他の様々な商品と同等になることで、狭い範囲内ではあるが、一般的な
    社会的同等物の性格をすぐに獲得する。

This character comes and goes with the momentary social acts that called it into life.
    この性格は、それを人生に呼び出す瞬間的な社会行為と一緒に来て行きます。

In turns and transiently it attaches itself first to this and then to that commodity.
    順番に、そして一時的に、それはまずこれに、そして次にその商品に付く。

But with the development of exchange it fixes itself firmly and exclusively to particular sorts of commodities, and becomes crystallised by assuming the money-form.
    しかし、交換の発展に伴い、特定の種類の商品にしっかりと独占的に定着し、金型を前提に結晶化
     <貨幣形態に結晶>するようになります。

The particular kind of commodity to which it sticks is at first a matter of accident.
    それが固執する特定の種類の商品は、最初は偶然の問題である。

Nevertheless there are two circumstances whose influence is decisive.
The money-form attaches itself either to the most important articles of exchange from outside, and these in fact are primitive and natural forms in which the exchange-value of home products finds expression;
or else it attaches itself to the object of utility that forms, like cattle, the chief portion of indigenous alienable wealth.
    それにもかかわらず、その影響が決定的な2つの状況がある。
    お金の形態は、外部からの最も重要な交換品に付くものであり、実際には、家庭製品の交換価値が
    表現を見つける原始的で自然な形態です。
    そうでなければ、牛のように先住民族の譲渡可能な富の主要部分を形成する有用性の目的にそれ
    自身を結びつける。

Nomad races are the first to develop the money-form, because all their worldly goods consist of moveable objects and are therefore directly alienable;
and because their mode of life, by continually bringing them into contact with foreign communities, solicits the exchange of products.  (104)
    遊牧民族は、すべての世俗的商品が可動オブジェクトで構成されているため、直接的に譲渡すること
    ができるため、貨幣形態を開発する最初の人です。
    彼らの生活様式は、絶えず彼らを外国のコミュニティと接触させることによって、製品の交換を求め
    る。

Man has often made man himself, under the form of slaves, serve as the primitive material of money, but has never used land for that purpose.
Such an idea could only spring up in a bourgeois society already well developed.
    人は、しばしば、奴隷の形で、自分自身を貨幣の原始的な物質として役立つが、その目的のために土地
    を使用したことはない。
    このような考え方は、既に十分に発展したブルジョア社会においてのみ生じうる。

It dates from the last third of the 17th century, and the first attempt to put it in practice on a national scale was made a century afterwards, during the French bourgeois revolution.
    それは17世紀の最後の3分の1から始まり、一世紀後に、フランスのブルジョア革命の間に国家規模で
    実践された。

     第十四段落
   We have seen that the money-form is but the reflex, thrown upon one single commodity, of the value relations between all the rest.
That money is a commodity [9独45] is therefore a new discovery only for those who, when they analyse it, start from its fully developed shape.
The act of exchange gives to the commodity converted into money, not its value, but its specific value-form.
By confounding these two distinct things some writers have been led to hold that the value of gold and silver is imaginary. [10独46]
    私たちは、貨幣形態は、1つの商品に投げられた、残りのすべての商品との間の価値関係の反射である
    ことを見てきました。
    (新日本出版社ーー「貨幣形態は、他のあらゆる商品の諸関連の反射が、ひとつの商品に
     固着したものにほかならない。」)
    その金は商品であるーーそれを分析すると、完全に発展した形から始まる人々のためだけに新しい発
    見であるに過ぎない。交換の行為は、貨幣に変換された商品にある規定が与えられますが、それは価
    値ではなく、その特定の価値形態が与えられます。
    これらの2つの異なる事柄を混乱させることによって、金や銀の価値が虚偽であると考える作家もい
    ます。 [10独46]

    <杉本ーー14段落前半部の引用だが、この既存訳は、
    「1つの商品に投げられた、残りのすべての商品との間の価値関係の反射である」(直訳)
    ーーを表現せずに排除しているのです。
    この表現に示すものは、商品世界から排除された一商品の対極で、成立しているその他多勢の商品が
    構成する一般的価値形態でありますし、その一商品は、一般的等価形態の<特定>の形態規定を受け
    取るわけであります。
    誤訳することで両極で成立する価値形態を、等価形態の成立をのみ語ることで、価値形態論との関連
    を排除し、交換過程論の独自性をのみ追求することになって、混乱をもたらしているのです。>

    15段落
  It has already been remarked above that the equivalent form of a commodity does not imply the determination of the magnitude of its value.
Therefore, although we may be aware that gold is money, and consequently directly exchangeable for all other commodities, yet that fact by no means tells how much 10 lbs., for instance, of gold is worth.
    商品の同等の形態は、その価値の大きさの決定を意味するものではないことは、既に上記のように
    述べられている。
    したがって、金はお金であり、その結果、他のすべての商品と直接交換可能であるということを認識し
    ているかもしれませんが、その金額は、例えば金の価値がどれくらいの10ポンドであるかを決して意
    味しません。

Money, like every other commodity, cannot express the magnitude of its value except relatively in other commodities.
This value is determined by the labour-time required for its production, and is expressed by the quantity of any other commodity that costs the same amount of labour-time. [12独48]
    他のすべての商品と同様に、お金は、他の商品に比べて相対的な価値の大きさを表すことはできませ
    ん。この値は、生産に必要な労働時間によって決定され、同じ労働時間を要する他の商品の数量によっ
    て表されます。 [12独48]

Such quantitative determination of its relative value takes place at the source of its production by means of barter.
When it steps into circulation as money, its value is already given.
    このような相対価値の定量的な決定は、その生産の源泉において、バーターを用いて行われる。
    それが貨幣として流通するとき、その価値はすでに与えられている。

In the last decades of the 17th century it had already been shown that money is a commodity, but this step marks only the infancy of the analysis.
The difficulty lies, not in comprehending that money is a commodity, but in discovering how, why, and by what means a commodity becomes money.
    17世紀の過去数十年間、すでにお金は商品であることが示されていましたが、この段階は分析の幼少
    期に過ぎません。
    難しさは、お金は商品であることを理解することではなく、
     ③商品がどのように、
     ④なぜ、
     ⑤そしてどういう意味で商品がお金になるか
     を発見することにあります。
          (杉本 以下に何とも明快そのものに、そのことを以下・③④⑤と示しています。)
     <最終・16段落>
①We have already seen, from the most elementary expression of value,
x commodity A = y commodity B,
    ①私たちはすでに、価値の最も基本的な表現から、
    x商品A = y商品B、

②that the object in which the magnitude of the value of another object is represented, appears to have the equivalent form independently of this relation, as a social property given to it by Nature.
    ②他の物体の価値の大きさが表現されている物体は、自然によって与えられた社会的性質として、こ
     の関係とは独立して同等の形態(等価形態)を持つように見える。
③We followed up this false appearance to its final establishment, which is complete so soon as the universal equivalent form becomes identified with the bodily form of a particular commodity, and thus crystallised into the money-form.
    ③私たちは最終的な設立までこの偽りの姿を追ってきました。これは、普遍的な同等の形態が特定
    の商品の身体的形態で表現され、 貨幣形態に結晶化されると完了しています。
    <杉本ーー一般的等価形態が、貨幣商品となると、一般的価値形態が貨幣形態になる、第四の形態ーー
    が、交換過程では転倒して、等価物が貨幣商品の規定から転倒して「貨幣形態」の規定を受け取ること
    ==を指しているのです。
    物象が人格化するーーことで、この転倒した判断をなしていることをここに、
    <私たちは最終的な設立までこの偽りの姿を追ってきました>と示しているのです。
    これはなかなか思いつきませんでした。物象の人格化によるーー判断にて、
    貨幣商品から貨幣形態への転倒が為されているのです。>

④What appears to happen is, not that gold becomes money, in consequence of all other commodities expressing their values in it, but, on the contrary, that all other commodities universally express their values in gold, because it is money.
    ④What appears to happen is,      ここに観察できるのは、
    not that gold becomes money,    金はお金になるのではなく
    in consequence of all other commodities expressing
                       他のすべての商品がそれでの表現の結果として
    their values in it,           それらの価値は、あるのですからね、
    but, on the contrary,          しかし、反対に、
    that all other commodities universally express
                       他のすべての商品を普遍的に表現している
    their values in gold,         その金の価値、
    because it is money.         勿論それは貨幣ですから、

     上記のグーグル訳のおかげさまで、次の対比ができました。
    a 江夏訳ーある商品は、他の諸商品が自分たちの価値を・このある商品で表すがゆえにはじめて貨幣
     となる、
    b 新日本ー他の諸商品がその価値を一商品によって全面的に表示するので、その商品ははじめて貨幣
     になる
    C 杉本ーその金がその価値を表現している他のすべての商品の結果(一般的価値形態・商品世界)
     として、not that gold becomes money,金塊はお金になるーーはずなのに、そうではなく、
     逆に、他のすべての商品が普遍的な価値表現している・金 their values in gold, であるため、
     お金 because it is money.で商品の価値を表現するーーのです。
      しかし、反対に、but, on the contrary, 他のすべての商品の価値をを普遍的に表現しているその
     金の価値 勿論それは貨幣です (because it is money.)ーーと。
    d 英和訳ーわれわれはこの誤った考えに基づく外観をその最終的な設定にまで追い詰めた、このこと
     は万人共通な等価形態[同等形態]が一特定商品の身体的形態と一体化するようになるや否や完璧と
     なる、そしてこのようにして貨幣ー形態に結晶化するや否や完璧となる。
     起こっているらしいのは、金が貨幣になるということではなく、すべての他の諸商品がそれらの諸
     価値をそれ[金]の中に表わす結果、そう[金が貨幣になるということ]ではなく、それに反して、
     すべての他の諸商品が万人共通的にそれらの価値を金の中に表すということ、なぜならそれ[その
     商品である金」は貨幣であるから。
     この過程の中間段階は結局消え失せてその後に何も痕跡を残さない。<英和訳資本論>

      ここで、a bとc d の比較をしてみると次のことが理解できる。
         a b は等価形態の謎を解いたことで、倒立像ではなく正像があることを示したのですが、この正
     像が、一般的価値形態であり、その規定が交換過程での転倒のもたらしている倒立像ではなく正像の
     貨幣形態を示していることを対象化していないので、<物象化=物象の判断>を示していないのです

      15段落で提示された、マルクスの我々への提起である
     <難しさは、お金は商品であることを理解することではなく、
     ③商品がどのように、④なぜ、⑤そしてどういう意味で商品がお金になるか
     を発見することにあります。>
     に対しての回答を、ここにしていることをーー見出していないのです。

     ③その金がその価値を表現している他のすべての商品の結果(一般的価値形態・商品世界)として
     ④金塊はお金になるーーはずなのに、そうではなく、
     ⑤このお金が、他のすべての商品が普遍的な価値表現している・ため、お金で商品の価値を表現する
      ーー転倒象なのです。

     ⑤ーーには何が述べられたのか?
     in gold 金にではなく、お金 because it is money.で経済的範疇である所有者が、商品の価値を
     表現するーーのです。(経済的諸範疇の人格化を示す物象の人格化ですね。}
     それが次のことでした。
      一般的価値形態があることで商品世界が形成され、その反省規定として形成される一般的等価形態
     に有る一商品が、この商品世界から排除されることで得たーー貨幣商品の規定がーーこの第四の形態
     では、左極の一般的価値形態の次である貨幣形態と、右極の等価形態である貨幣商品とが、分離する
     ことで成立していたのです。
     これが交換過程の語る前提になっています。
     交換過程に入るとーーところが、この貨幣商品・金は、価値形態論で規定された、左極の貨幣形態の
     反省規定としてのみ、対極的に成立してきた性質を、左極とは無関係に見える等価形態の謎性によっ
     て転倒させるのです。
     「一般的等価形態が一つの特別な商品種類の現物形態に合成すれば、または貨幣形態に結晶すれば完
     成している。」(国民文庫P169)
     ーーと岡崎訳に示されるように、商品世界とは無関係に、自律的姿態・形態のままにもっているかの
     ように転倒像を見せる、交換過程でのこの貨幣形態の幻像をこそ私達にみせるのです。
     ここに、物象の社会関係から物象の人格化への転化を見出さないと、なんのこっちゃ! ですね。
     このように、ここは価値関係ではなく、転倒した、等価形態の謎性によっての価値表現なのです。

     <だから、ここを、交換過程論としてのみ読んだのでは、マルクスのこの提起の半分も理解できない
     のです。価値形態論での第四の形態での転倒とーー第三の形態との対比が、この交換過程論にて検討
     されていること、そのことを見出さなければ、全くの錯誤・ちんぷんかんぷんの理解しか生まないの
     です。お金の魔法に惑わされないように。>

      <だから、商品世界を形成する一般的価値形態が、労働生産物の商品への転化をなしているのに、
      貨幣形態ではなく、貨幣の成立するのは、等価形態の謎の方ですよ!との教えなのです。
      ここから誰でも理解できるのは、
      いきなり、貨幣をなくそうとしてもそのもとにある一般的価値形態・一般的相対的価値形態によ
                  っての等価形態の商品世界からの排除との構造ーーという無意識に作り上げたものがあるのですか
      らねーーと。お金の魔法は、そのことを見えなくしているのですよ。
      そこで、マルクスは解答を我々に示さず、第一の形態での使用価値と価値形態の商品形態をしめし、
      第二、第三の形態をおった次第なのですね。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     英和訳・検討していなかったので、朝起きて見たら、素晴らしい解説ーーを発見したのであります。
     杉本提起の訳とは違うが、素晴らしく、既存訳の混迷を提示しているので、紹介しました。

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⑤The intermediate steps of the process vanish in the result and leave no trace behind.
Commodities find their own value already completely represented, without any initiative on their part, in another commodity existing in company with them.
    ⑤プロセスの中間ステップは結果で消滅し、後ろに痕跡は残されません。
     商品は、自らの価値が、企業の既存の商品で、自らのイニシアチブなしに、完全に表現されているこ
     とを発見します。

⑥These objects, gold and silver, just as they come out of the bowels of the earth, are forthwith the direct incarnation of all human labour.
Hence the magic of money.
    ⑥これらの金と銀は、地球の腸から出てくるのと同じようにすべての人間の労働の直接的な化身です。
     したがって、お金の魔法。

⑦In the form of society now under consideration, the behaviour of men in the social process of production is purely atomic.
Hence their relations to each other in production assume a material character independent of their control and conscious individual action.
    ⑦現在検討中の社会の形では、社会的生産過程における人々の行動は純粋に原子的なものである。
     したがって、生産における互いの関係は、その制御および意識的な個々の行動とは無関係な物質的
     な特性を前提としている。

⑧These facts manifest themselves at first by products as a general rule taking the form of commodities.
We have seen how the progressive development of a society of commodity-producers stamps one privileged commodity with the character of money.
    ⑧これらの事実は、商品の形態を取る原則として商品によって最初に明らかになる。
     我々は、商品生産者社会の進歩的な発展が、一つの特権商品にお金の性質をどのように刻印してい
     るかを見てきました。

⑨Hence the riddle presented by money is but the riddle presented by commodities;
only it now strikes us in its most glaring form.
    ⑨したがって、お金によって提示される謎は、商品によって提示される謎である。
     それが今最も眩しい形で私たちを襲ってきます。


 

  一般的価値形態から交換過程での貨幣生成の過程での追求点は何か?          

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月27日(水)00時37分16秒
返信・引用 編集済
       一般的価値形態から交換過程での貨幣生成の過程を次のように掲げてみました。


     イ 第一の形態での左極の価値形態 そして、等価形態(同等な形態)=物象の判断
     ロ 第三の形態での左極の一般的価値形態 そして商品世界から除外された等価形態(同等形態)
     ハ 第四の形態としての左極での貨幣形態ーー右極での貨幣商品との分離ではなく合同
       上記に示される 物象の人格化ー人格の物象化
     ニ 交換過程での等価物商品の貨幣としての機能



https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi

     第3節 価値形態すなわち交換価値

Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
   イーー⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。
       (原66)

Since no commodity can stand in the relation of equivalent to itself, and thus turn its own bodily shape into the expression of its own value, every commodity is compelled to choose some other commodity for its equivalent, and to accept the use value, that is to say, the bodily shape of that other commodity as the form of its own value.
   イーー⑤商品はそれ自体に相当する関係に立つことができず、したがって自己の身体的形状を自己
      価値の表現に変えることができないため、すべての商品は同等の価値を持つ他の商品を選択
       し、言い換えれば、他の商品の身体的形状を、それ自体の価値の形態として表しています。
      (原P71)

     一般的な価値形態 (原P80~81)
The two earlier forms either express the value of each commodity in terms of a single commodity of a different kind, or in a series of many such commodities.
     以前の2つの形式は、それぞれの商品の価値を、異なる種類の単一の商品、または一連の多く
     の商品で表現しています。

In both cases, it is, so to say, the special business of each single commodity to find an expression for its value, and this it does without the help of the others.
     両方の場合において、それは、言い換えれば、個々の商品の特別な事業であり、価値の表現を見
     つけることであり、これは他者の助けなしに行います。

These others, with respect to the former, play the passive parts of equivalents.
     これらの他のものは、前者に関して、等価物の受動的な役割を演じます。

The general form of value, C, results from the joint action of the whole world of commodities, and from that alone.
   ロー一般的な価値形態 C は、商品世界全体の共同行動から生まれたものであります。

A commodity can acquire a general expression of its value only by all other commodities, simultaneously with it, expressing their values in the same equivalent;and every new commodity must follow suit.
     商品は、他のすべての商品だけでなく、それと同時に、その価値を一般的に表現することがで
     きます。新しい商品はすべて、それに従わなければなりません。

It thus becomes evident that since the existence of commodities as values is purely social, this social existence can be expressed by the totality of their social relations alone, and consequently that the form of their value must be a socially recognised form.
     したがって、価値としての商品の存在は純粋に社会的なものであるため、
     この社会的存在は、社会的関係の全体だけで表現することができ、
     したがって、その価値形態は社会的に認められた形態でなければなりません。


     3. 価値の一般形態から貨幣-形態への推移 (P83~84)
   The universal equivalent form is a form of value in general.
It can, therefore, be assumed by any commodity.
     普遍的な同等の形式は一般的に価値のある形式です。
     それゆえ、それはどの商品によっても仮定され得る。

On the other hand, if a commodity be found to have assumed the universal equivalent form (form C), this is only because and in so far as it has been excluded from the rest of all other commodities as their equivalent, and that by their own act.
     一方、商品が普遍的な同等の形態(C形)をとっていることが判明した場合、これは他のすべての
     商品の同等物として残りの商品から除外されている限り、 自分の行為。

And from the moment that this exclusion becomes finally restricted to one particular commodity, from that moment only, the general form of relative value of the world of commodities obtains real consistence and general social validity.
     そして、この排除が最終的にある特定の商品に限定される瞬間から、商品世界の相対価値の一般
     的な形は、現実の一貫性と一般的な社会的妥当性を得る。

The particular commodity, with whose bodily form the equivalent form is thus socially identified, now becomes the money commodity, or serves as money.
     このように、身体的に等価な形態が社会的に特定されている特定の商品は、今や貨幣商品とな
     り、または貨幣として役立つ。

It becomes the special social function of that commodity, and consequently its social monopoly, to play within the world of commodities the part of the universal equivalent.
     それは、その商品の特別な社会的機能、ひいてはその社会的独占であり、商品世界の中で共通の
     部分を果たすことになる。

Amongst the commodities which, in form B, figure as particular equivalents of the linen, and, in form C, express in common their relative values in linen, this foremost place has been attained by one in particular ? namely, gold.
If, then, in form C we replace the linen by gold, we get,

     形態Bでは、リネンの特定の等価物として、そして形態Cでは、リネンにおける相対値を共通に表
     す商品の中で、この最も重要な場所は、特に金、すなわち金によって達成されている。
     形態Cでリネンを金で置き換えれば、次の形態が得られる。

       貨幣-形態  (原P84~85)
        The Money-Form

     20 ヤードの亜麻布    =
     1 着の上着       =
     10 重量ポンドの茶    =
     40 重量ポンドのコーヒー  =
     1 クォーターの穀物    = 2 オンスの金
     2 オンスの金       =
     ? トンの鉄       =
     x 量の商品 A       =

① In passing from form A to form B, and from the latter to form C, the changes are fundamental.
     A型からB型へ、そして後者からC型へと変わることは基本的なものです。

On the other hand, there is no difference between forms Cand D, except that, in the latter, gold has assumed the equivalent form in the place of linen.
     一方後者では、金がリネンの代わりに同等の形をとっていたことを除いて形の違いはありません。

Gold is in form D, what linen was in form C ? the universal equivalent.
     金は形態Dにあり、どのようなリネンが形態Cにあったか - 普遍的な同等物。

The progress consists in this alone, that the character of direct and universal exchangeability ? in other words, that the universal equivalent form ? has now, by social custom, become finally identified with the substance, gold.
     進歩はこれだけで成り立ちます。直接的で普遍的な交換可能性の特性つまり普遍的な同等の形態
     は、今や社会的慣習によって物質である金と最終的に特定されるようになっています。

② Gold is now money with reference to all other commodities only because it was previously, with reference to them, a simple commodity.
     金は、以前は単純な商品を参照していただけであるため、他のすべての商品を参照してお金になり
     ました。

Like all other commodities, it was also capable of serving as an equivalent, either as simple equivalent in isolated exchanges, or as particular equivalent by the side of others.
     他のすべての商品と同様に、それは、孤立した取引所における単純な同等物として、または他者の
     側での等価物として、同等物としても機能することができた。

Gradually it began to serve, within varying limits, as universal equivalent.
     徐々にそれは普遍的な同等のものとして、さまざまな限界内で役立つようになりました。

So soon as it monopolises this position in the expression of value for the world of commodities, it becomes the money commodity, and then, and not till then, does form D become distinct from form C, and the general form of value become changed into the money form.
   ハーーそれが商品世界にとっての価値表現におけるこの地位を独占するとすぐに、それは貨幣商品にな
     り、それだけではなくD形がC形とは区別され、一般的価値形態が お金の形態になりました。

③ The elementary expression of the relative value of a single commodity, such as linen, in terms of the commodity, such as gold, that plays the part of money, is the price form of that commodity.
     貨幣の一部を担う金のような商品の点で、リネンなどの単一の商品の相対価値の基本的表現は、
     その商品の価格形態です。

The price form of the linen is therefore
20 yards of linen = 2 ounces of gold, or,
if 2 ounces of gold when coined are £2,
20 yards of linen = £2.
     従ってリネンの価格形態は
     20ヤードのリネン= 2オンスの金、または、
     鋳造時の金2オンスが£2であれば、
     20ヤードのリネン=£2。

④The difficulty in forming a concept of the money form, consists in clearly comprehending the universal equivalent form, and as a necessary corollary, the general form of value, form C.
     貨幣形態のコンセプトを形成することの難しさは、普遍的な同等の形態をはっきりと理解し、必要
     な結果として、一般的な価値形態、フォームCを形成することにある。

The latter is deducible from form B, the expanded form of value, the essential component element of which, we saw, is formA, 20 yards of linen = 1 coat or x commodity A = y commodity B.
The simple commodity form is therefore the germ of the money form.
     後者は、形態 B から導き出すことができ、拡張された形態の価値、
     本質的な構成要素である形態A、20ヤードのリネン= 1コートまたはx商品A = y商品B.
     したがって、簡単な商品形態はお金の形態の胚です。

https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan
      交換過程(原P107~108)

①We have already seen, from the most elementary expression of value,
x commodity A = y commodity B,
   ①私たちはすでに、価値の最も基本的な表現から、
    x商品A = y商品B、

②that the object in which the magnitude of the value of another object is represented, appears to have the equivalent form independently of this relation, as a social property given to it by Nature.
   ②他の物体の価値の大きさが表現されている物体は、自然によって与えられた社会的性質として、この
    関係とは独立して同等の形態(等価形態)を持つように見える。

③We followed up this false appearance to its final establishment, which is complete so soon as the universal equivalent form becomes identified with the bodily form of a particular commodity, and thus crystallised into the money-form.
   ③私たちは最終的な設立までこの偽りの姿を追って行きました。これは、普遍的な同等の形態が特定
    の商品の身体的形態で表現され、金銭形態に結晶化されるとすぐに完了します。

④What appears to happen is, not that gold becomes money, in consequence of all other commodities expressing their values in it, but, on the contrary, that all other commodities universally express their values in gold, because it is money.
   ④ここに観察できるのは、その金がその価値を表現している他のすべての商品の結果として
    お金 becomes money, が金 not that gold なるのではなく、逆に、
   ニーー 他のすべての商品がーー普遍的に、their values in gold, 金(一般的価値形態)であるため、
                    お金 because it is money.で商品世界の価値を表現するという
                    ことです。

⑤The intermediate steps of the process vanish in the result and leave no trace behind.
Commodities find their own value already completely represented, without any initiative on their part, in another commodity existing in company with them.
   ⑤プロセスの中間ステップは結果で消滅し、後ろに痕跡は残されません。
    商品は、自らの価値が、企業の既存の商品で、自らのイニシアチブなしに、完全に表現されているこ
    とを発見します。

⑥These objects, gold and silver, just as they come out of the bowels of the earth, are forthwith the direct incarnation of all human labour.
Hence the magic of money.
   ⑥これらの金と銀は、地球の腸から出てくるのと同じようにすべての人間の労働の直接的な化身です。
    したがって、お金の魔法。

⑦In the form of society now under consideration, the behaviour of men in the social process of production is purely atomic.
Hence their relations to each other in production assume a material character independent of their control and conscious individual action.
   ⑦現在検討中の社会の形では、社会的生産過程における人々の行動は純粋に原子的なものである。
    したがって、生産における互いの関係は、その制御および意識的な個々の行動とは無関係な物質的
    な特性を前提としている。

⑧These facts manifest themselves at first by products as a general rule taking the form of commodities.
We have seen how the progressive development of a society of commodity-producers stamps one privileged commodity with the character of money.
   ⑧これらの事実は、商品の形態を取る原則として商品によって最初に明らかになる。
    我々は、商品生産者社会の進歩的な発展が、一つの特権商品にお金の性質をどのように刻印してい
    るかを見てきました。

⑨Hence the riddle presented by money is but the riddle presented by commodities;
only it now strikes us in its most glaring form.
   ⑨したがって、お金によって提示される謎は、商品によって提示される謎である。
    それが今最も眩しい形で私たちを襲ってきます。


 

        英語版資本論での価値形態論 (その2)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月19日(火)16時37分19秒
返信・引用 編集済
       英語版は、マルクスの娘さんも関わって、苦闘して解読したものであり、仏語版での改善も受け入
     れているように思える。前回のものを、もう少し検討してみた。)

    英語版 「資本論」 の邦訳に当たって   訳者  宮 崎 恭 一
    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter00/index.htm
    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm

       第一章 商 品
       x量の商品A = y量の商品B または、
       x量の商品Aは、y量の商品B に値する。
       20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
       20ヤードのリネンは、1着の上着 に値する。
      1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式
      2. 相対的価値形式
         (a.) この形式の性質と意味
 (1) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、どのよう
   に隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)を量的な外観から
   は切り離して見て行かねばならない。
   この点で、誰もが、大抵は、逆に、量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商
   品間の明確な量の比率を見て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。
   違った物の大きさを、量的に較べるには、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてし
   まっている。 両者が、同じ単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。
 (2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となるかは、
   与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのということで、
   どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物で見ているというこ
   とである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのである。
 (3)これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせない。
   そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。
   それで、どの様にして?
   すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。
   この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。
   このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。
       (杉本註 「リネン自身の価値存在は」「上着と同じ価値であり」(下記)・・)
   リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。
   上着と同じ価値であり、上着と交換できると。 さて、この説明を化学式で例えてみよう。
   酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素 (C)、
   水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。
   すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定してみよう。
   するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2 であると分かる。
   次いで、酪酸が、C4H8O2 であることに言及する。
   従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろう。
   勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。

   <杉本・英直訳ーーそれと同等のものとしてそのコートを参照することによって交換できるものとして。
   この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現
         ーー新日本訳・「上着は価値の実存形態として価値物として通用」ーー
   されているのは、それがリネンと同じであるためだけです。>
   <原の英文だと、左辺でリンネルが上着を価値の存在形態であり価値として、反省規定している、こ
   とが明示されたのに、「価値物」の表示があることで、この最大の関心事が消去されているのです。
   なんと物象の社会関係をこれから提示・説明するマルクスの提案を、旧来の翻訳はこの関係を物的関係
   にした!>

But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part.
It is only the value of the linen that is expressed.
And how?
   しかし、このように質の同一性が仮定された2つの商品は、同じ部分を果たさない。表現されるのは
   リネンの価値だけです。
   では、どうやってーーそのことがなされるのですか。?

By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it.
In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
   それと同等のものとしてそのコートを参照することによって、交換できうるものとしてであります。
   この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現されているのは、それがリネンと同じで
   あるためだけです。

On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat.
To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate.
   一方、リネン自身の価値存在は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるものとしてだけで
   あり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換可能であるからです。
   化学からイラストを借りると、酪酸は蟻酸プロピルとは異なる物質です。

   <杉本ーーなるほど、酪酸に蟻酸プロピルが等置される関係にて、人間がその両者の共通者が他方での
   その存在形態である、との判断をしているならば、そのとき・等置された酪酸は、その共通者の単にそ
   の存在と、現物形態とは異なる規定を受け取ったのです。
   ある物と物とをある関係においたとき、人間は反省規定をこそ、この人間のなす思考様式の特異性をこ
   そ、マルクスは主張しています。
   この物的関係での判断の特異性が、同等性関係ではなく、価値関係にては物象自身が、判断をなしてい
   るーーの意味です。>

 (4)我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々の分析を
   して、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。
   この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。
   また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。
   一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。

 (5)上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じとした。
   確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものである。
   しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同じものであ
   り、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格でこれを見ると
   いうことである。
   なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込むだけの
   労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。
   これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。
   様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込められた
   異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしているのである。

   宮崎訳ーー<価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネン
   に等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この等式位置では、我々は、それを、価
   値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。

   <5段落の英語での提示です。>上記とはサイトが違います。
       英和訳資本論
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi

⑤ By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makes the linen.
But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.
In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish it from tailoring, and, consequently, is abstract human labour.
It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]
    <杉本提案 五段落での直訳での提案>
   ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者のものと同じに
    する。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の具体的な労働であることは
    事実です。
    しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なものに、裁縫労働
    を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
    この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り込む限り、
    それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労働である。
    それは価値創造労働の特定の性格を救済するだけのさまざまな種類の商品間の同等性の表現であり、
    これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間労働の共通の品質要約の仕
    方なのです。[18]

    再版では次の訳なのです。上記英語版と比較すると、これは全くの異文ですね!!!
    「たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着
    に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。ところで、たしか
    に、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体
    的労働である。しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの
    現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。
    このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、
    裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であ
    ること、が語られるのである。種類の異なる諸商品の等価表現だけが--種類の
    異なる諸商品に潜んでいる、種類の異なる、諸商品の諸労働を、それらに共通な
    ものに、人間労働一般に、実際に還元することによって--価値形成労働の独自
    な性格を表すのである(17a)。」
    (『資本論』1 新日本出版 P86~87原P67)

    <上着が、価値物として、リンネルに等置される>という日本語訳の悪意に満ちた歪曲の凄まじさ、
    スターリン主義の高圧的態度には何とも怒り!が込み上げてきますね。
    <価値物として>との記述を抜けば、英語版との異は次のように無くなるのです。

    「たとえば、上着が、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる
     労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。」
    上記訳の悪意を見抜けないーー以前の堺の資本論を読む会は、ここの理解から次の曲解もしたのです。

    「 つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、裁縫労働の具体的な
    諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元するということではなくて、裁縫
    労働という特定の具体的な労働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態とし
    てあること、すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の形態とし
    て意義をもっていることなのです。ヘーゲルチックに言い換えるならば、人間労
    働一般が、裁縫労働という具体的労働を通じて、直接的なものとして現われてい
    るということでもあります。あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、裁
    縫労働が、人間労働一般を代表するものとして通用しているということなのです。」
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/d160f0ddaab074d94556e551f75443dd

    <久留間理論を継承すると、こんな歪曲に満ちた理解もするのですよ!
    私は久留間批判をしたいと思いながらも、事実上の抽象に引きずられて、同じ落とし穴にいました。
    <裁縫労働が人間労働一般を代表するものとして通用ーーしたら、それは、ここでの事実上の抽象で
    はなく、仰るとおり等価形態での第二の独自性をこそ示してしまいますね。>
    しかし、この「価値物」の訳では、その直前4段落での提起である、
    <価値抽象ではなく「一商品の価値性格を示し得る」・「他の商品との価値関係」>のなかで
    ーー事実上の抽象がなされ、獲得される「価値形態」ーーとのマルクスの提起は表現されないのでは
    ないのか?ここでのマルクスの提起は、<私はここに、物象のなす反省規定を示す、>なのです。

    このマルクスの提起を繰り返し再考してみると、次のフランス語版での理解が見えてきます。
    A 裁縫労働がリンネル織労働に等置されることは具体的姿態のままには、できないのですから、
    単なる人間労働であり、人間労働力一般の支出である限りにて裁縫労働が、リンネル織に等置される
    のはこのこと自体から明らかです。<これが事実上の抽象>
    しかし、これでは超歴史的な人間労働になりますから、この次の規定が必要です。
    Bさてそこで、上着は価値としてリンネルに等置されていることをで終わり、堺の先生は、その次に
    生ずるーーならば、リンネルも価値であるーーとの事態が見えなかったのでは・・と思います。
    だから、その次に英明な英語版は、
    <それが(リンネル織労働が)価値を織り込む限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、
    その結果、抽象的な人間の労働である。>
    ーーと「回り道」の経過で獲た判断を示したのです。
    まず事実上の抽象であり、その次に、物象の判断が、この段落に示されているのです。

    このことを教えてくれた仏語版での提起です。
    「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネルに含まれてい
    る労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。だが、機織りに対する裁断の等
    式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する。
    このような回り道をして、機織りは、それが価値を織るかぎりでは衣類の裁断とは区別されないとい
    うことが、すなわち、抽象的人間労働であるということが、表現されるのである。
    したがって、この等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自の性格を表現している。」
     (『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

⑥There is, however, something else required beyond the expression of the specific character of the labour of which the value of the linen consists.
Human labour power in motion, or human labour, creates value, but is not itself value.
It becomes value only in its congealed state, when embodied in the form of some object.

In order to express the value of the linen as a congelation of human labour, that value must be expressed as having objective existence, as being a something materially different from the linen itself, and yet a something common to the linen and all other commodities.
   ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なものがあります。
    動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、それ自体価値はない。
    何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値になる。
    リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に存在するものとし
    て表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるものとして、リネンと他のすべての商品に
    共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

       宮崎訳
   <(6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なある
    ものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その労働自体
    が価値なのではない。 その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値
    となるのである。
    人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、かつ、リネ
    ンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さら
    に、その他の全商品にも共通するものである。 問題は、すでに解かれている。>
    彼はそして、次の訳の誤りも提示している。
    新日本訳では、
    「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけで
    は十分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を
    形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態にお
    いて、価値になる。リンネル価値を人間的労働の凝固体として表現するためには、
    リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと
    他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。この課題
    はすでに解決されている。」
    (p87 後ろから 5行目~p88)

    この新日本訳や、岩波・向坂訳の誤りを彼は提示している。これは正しい。
    今日の既成の訳の誤りが、リンネルに対する上着の価値関係が、両者に共通な価値を、
    「上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない」
    ーーと、反省規定をこそここにあると強調している。

    如何にも、リンネルはこの価値関係において、自らの価値存在を対する上着において両者の社会関係
    を、価値の存在形態である上着において、表現しているーーのだから、この両者の共通性が価値であ
    ると、判断のまず第一を示したのです。

    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的にランク付けさ
    れ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   このポジションでは、価値観  だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
           (「上着事態の存在形態が価値の存在形態になる。」仏語版 上P22)
Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
   そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
   私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、コートはその関
   係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、着ていない時よりも多くのこと
   を数えるようにです。

   宮崎訳ーー<価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネン
   に等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この等式位置では、我々は、それを、価
   値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。
   だが依然として、上着自体は、商品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。
   このような上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。関係がな
   ければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、リネンの価値を明らかに
   する。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは打って変わって偉そうに見せるのと同じよ
   うなものである。 >

   提案ーー①この等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、
        価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。
       ②触診できる身体的な形が価値を表す
       ③上着自体の存在形態が価値の存在形態になる

       等価形態では現物形態が価値形態となるーー第一の独自性と対比してみると価値の存在形態で
       あることで、上着はリネンの価値形態となるのですし、左辺でのこの規定を受けて、
       右辺で直接的にその姿のままに価値形態となる。
       このように三者訳を比較すると、<回り道を経て価値形態となる>ことを示しているーー
       ③の仏語訳が適訳でありますネ。

   八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
   ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
   この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
   そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値体として
   具体化された価値<価値形態> として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
  A  杉本 パソコン直訳
   たとえば、Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、その特徴、髪、およびその他
   の多くのものを変えない限り、AはBの "陛下"になることはできません。
   人々の新しい父親は、その特徴、髪、および他の多くのものを変えます。
  B  英和訳『資本論』
   Aは、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中
   の陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新
   しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り
  C 宮崎訳
   「 上着の生産においては、人間の労働力が、仕立ての形で、実際には、支出され
   なければならなかった。が、それゆえ、人間の労働がその中に蓄積された。このこと
   から、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、その事実を
   ちらっとも見せることはない。価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面で
   のみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。
   例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、
   Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。
   いや、それ以上のものが必要であろう。なにしろ、臣民の新たな父たるたびに、容貌
   も髪の毛もそれ以外の諸々も変わるのだから。」

  ① 新日本新書訳
   「・・同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できない
   ことである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下に対する態度をとることは、
   同時にAにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の
   毛、その他なお多くのものが、国王の交替のたびに代わることなしには、できないよ
   うに。」(原P86 P88~89)
  ② 向坂訳ーーー岩波文庫
   「だが上着は彼女に対して、同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなくし
   ては、価値を表すことができないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、
   Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、・・・」(P96)

   ① ②は既存の訳であり、杉本も同じくその理解をこの八段落に対してなしていた。
   しかし、この英語版とを比較してみると、そこでのAは、陛下の姿態をなしている方
   であることを、引用のA・Bの事例は示している。
   ところが既存の前提・自明とされた、ドイツ語版訳では、
    「Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる」       ーー①
    「Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり」      ーー②
   ーーとなっているのです。

   対して、英語版の訳だと
   Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、
   Aが、Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせる・事ができぬ ーーC
   Bの目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り        ーーB
   Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、
            ・・・・・AはBの "陛下"になる       ーーA

    次の珍しきフランス語版が両者の違いを解読する、次の提起をしていたのです。
   「上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に
   価値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人
   にたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であ
   ることを表しえないのである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪
   やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。

   したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。・
   ・・・・・後略・・・・・」(『フランス語版資本論』上巻P22 )(79年刊)

   この訳の英明さは<上着形態をリンネルの価値形態に変態する>と示したことです。
   私人Aは個人Bに対して、それにふさわしい Aの容貌と体躯とを帯び ることで、そのことで、
   陛下であることを表しーーていたのです。
   ーーー  変態することで、私人Aと私人Bの両者の権力関係が表示され、
        価値形態と変態することで、
        価値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことで、
        価値関係が物象の社会関係であることが明示できたのです。

   この仏訳に習うならば、英訳にて
   <Bの目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り>とのーーB英和訳『資本論』が最も良い訳であ
   ることが、理解できる。ここには、明らかに、B=価値が一着の上衣という姿をとる、ことでの価値形
   態との「変態」を受け取ることしか述べられてはいない。

   では独訳はどうなのか?
   「Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる」       ーー①
   「Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり」      ーー②
   ーー英訳では、以上の事柄は、結果事項であり、そのことが如何にしてなされるのかをこそ問うてきた
   ものであるのに、そのことが問題にされていないのです。つまり、ここで問われているーー価値形態と
   の変態=物象の社会関係の形成の如何にしてか?が不在になっているのです。

  <そこでの上記 A は、陛下の姿態をなしている方であること>との自身の見方・であり、そして、既
   存訳の見方こそが困難を、生み出していたのです。
   次に示す、等価形態の第一の独自性の事例での反省規定に対比すれば、この独訳は全くの錯誤転倒して
   いたのです。伝統訳は、全く正反対の訳であったのです。

   註21ヘーゲルの反省規定と呼ばれるこの関係の一般的な表現は、非常に興味深い例え
   を教えてくれる。例えば、ある男性は、他の男性から反省規定された関係に立ってい
   るためにのみ王様です。
   しかし、それが逆に、彼が王であるので、我らの主君であると想像します。>

   <このように、既存訳は、全くの錯誤であったのです。しかも意識的なのです。>
   価値形態・商品形態が、物象の社会関係の形成にてなされているーーとの追求が、肝心の批判点が無く
   なっているのです。

   九段落
Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。

The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.
    コットンリネンの価値は、コモディティコートの身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
    によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;
    使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。

as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

   <杉本註ーー八段落での物象の社会関係の形成に基づく上着は価値形態との判断、
   そのことに依る・物象の第二の判断との事項ーーをこそ見出さなければ、上着は価
   値だからリネンも価値との物的関係に基づく反省規定をのみ見てしまうのです。
   それが次の宗教的形態での反省規定であり、商品語での理解に結びつくのです。>

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が神の子羊と似ているように、コートとの等し
   さによって明示されます。
   宮崎訳
  (9)この様に、価値の等式において、上着はリネンの等価物であり、その価値の形の役目を果たす。
   リネンなる商品の価値は、上着という商品の形によって表現される。あるものの価値は、他のものの
   使用価値によって表現される。 使用価値としてのリネンは、明らかに、上着とは違っている。
   だが、価値としてなら上着と同じであり、この場では、上着の外観を持っている。このようして、
   リネンは自身の物理的形状とは違った価値形式を得る。この、上着との等価によって、証明される価
   値という事実は、あたかも、キリスト教徒に羊の性質が見られるのは、神の小羊(キリスト)に似る
   からのようだ。

   十段落
   We see, then, all that our analysis of the value of commodities has already told us, is told us by the linen itself, so soon as it comes into communication with another commodity, the coat.
   ⑩商品の価値に関する私たちの分析がすでに私達に語ったことは、リネン自体によって、それが別の商
   品であるコートとのコミュニケーションに入るとすぐに私たちに語られていることが分かります。

Only it betrays its thoughts in that language with which alone it is familiar, the language of commodities.
In order to tell us that its own value is created by labour in its abstract character of human labour, it says that the coat, in so far as it is worth as much as the linen, and therefore is value, consists of the same labour as the linen. In order to inform us that its sublime reality as value is not the same as its buckram body, it says that value has the appearance of a coat,
   それだけでは、それが馴染み深いその言語では、商品の言葉にその考えを裏切っています。
   コートは、人間の労働の抽象的性格で労働によって創造されたということを私たちに伝えるために、
   リネンほど価値があり、したがって価値がある限り、同じ労働 リネンとして示す。
    価値としてのその崇高な現実は、バックラムの体と同じではないことを私たちに知らせるために、
   価値はコートの外見を持っていると言いますが、

and consequently that so far as the linen is value, it and the coat are as like as two peas.
We may here remark, that the language of commodities has, besides Hebrew, many other more or less correct dialects.
   その結果、リネンは価値がある限り、それとコートは2つのエンドウのようになります。
   商品の言葉には、ヘブライ語以外にも多かれ少なかれ正しい方言があります。
The German “Wertsein,” to be worth, for instance, expresses in a less striking manner than the Romance verbs “valere,” “valer,” “valoir,” that the equating of commodity B to commodity A, is commodity A’s own mode of expressing its value. Paris vaut bien une messe. [Paris is certainly worth a mass]
   <訳 略>
   宮崎訳
  (10)そして、我々の、商品の価値の分析が語って来た全てのことが、リネン自身によって語られ、他
    の商品、上着、とのやりとりに至ることが分かった。ただ、その思いは、商品の言語で、その内なる
    関係でしか通じない言語で、その秘密を漏らす。
    己の価値が、人間の労働なる、細部をそぎ落とされた性格の労働によって作られたことを我々に語る
    ために、上着が、リネンと同じ値であり、従って価値であり、リネンと全く同じ労働から成り立って
    いると語る。
    価値の崇高な実体が、同じリネンへの糊付けではないことを我々に伝えるために、価値が上着の形を
    有し、そのことがリネンに価値があることを示し、リネンと上着がまるで双子のようなものと語る。
     ここで、我々は、注意しておいた方がいいかもしれない。商品の言語は、ヘブライ語の他にも、いろ
    いろ多くの正確さの異なる方言がある。
    ドイツ語で、値するは、"Wertsein" と書くが、
    ローマン語動詞で書く、"valere" "valer" "valoir(vaut)"と較べると、多少訴求力が弱い。
    特に、商品Bが、商品Aに等価とする時、商品Aの価値形態表現には、明確さを欠く。 フランス語
    の、パリはミサに値する(Paris vaut bien messe)、をドイツ語では適切に強く表せないのだ。

    <商品語での転倒は、ーー上着が価値であるから、リネンも価値であるーーとは
    表さないで、リネンに価値があるーーとのみ示すことで、自ずと他者上着も価値で
    あるーーと反省規定を消去した・暗黙の了解事項になっているのです。
    宮崎訳 ここは商品語批判をせず、転倒した姿を、正立像に戻しています。

    and consequently that so far as the linen is value,
     したがって、リネンが価値である限り、
    it and the coat are as like as two peas.
     それとコートは2つの豆(えんどう豆})のようです。
    We may here remark,
     ここでは、
    that the language of commodities has, besides Hebrew,
     商品の言語には、ヘブライ語のほかに、
    many other more or less correct dialects.
     他の多かれ少なかれ正しい方言があります。

   十一段落
By means, therefore, of the value-relation expressed in our equation, the bodily form of commodity B becomes the value form of commodity A, or the body of commodity B acts as a mirror to the value of commodity A.[19]
By putting itself in relation with commodity B, as value in propriâ personâ, as the matter of which human labour is made up, the commodity A converts the value in use, B, into the substance in which to express its, A’s, own value.
The value of A, thus expressed in the use value of B, has taken the form of relative value.
   ⑪したがって、われわれの等式のなかに表現された価値関係によって、商品 B の身体的形態は商品 A
   の価値形態となる、すなわち商品 B の体は商品 A の価値にとって鏡の役を務める。[19]
   それ[商品 A ]自身を商品 B との関係に置くことで、価値として本人自ら、それについて人間労働
   が仕上がったものとして、商品 A は使用価値を、B に転換する、その[Bの]中にそれ自身の、Aの、
   自分の価値を表すために。
    Aの価値は、従ってBの使用価値において表現されて、相対価値の形態をとっている。
   宮崎訳
  ⑪さらにくり返して云うが、価値関係を表す我々の等式 (A=B) の意味は、形を持った商品Bが、
   商品A の価値形式となる。または、商品Bなる物体が、商品Aの価値の鏡役を演じている。
   自らを、商品Bとの関係に置くことによって、自分自身(propria persona: ラテン語) の価値を、
   「人間の労働」により形づくられたものを、商品A自身の価値をも示す具体的実体Bを使って、Aの価値
   の姿を変換して見せているのだ。
   ===========================================================
    杉本提案
    第七段落
   <従来の翻訳の誤りは、七段落での価値の表現を①ーー価値がそれにおいて現れ  ーー
                         ②ーー価値が現象するところのものーー
                      対して ーー価値観      ーー直訳です。
                          ーー価値の存在形態  ーー仏語版
                          ーー価値形態     ーー杉本
    と、このように、① ②は誤訳だと思います。
    これでは左極にて価値形態が形成されず、右極でできる、価値の現象形態になるから価値形態となる
    との理解になります。ここは、 価値の存在形態  が適訳です。

    第九段落 でのマルクスの異なる提案は、何か?
    ①したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。
    ②価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。 したがって、リネンはそ
    の物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

    ①は、物象の社会関係に伴なう商品語での批判をなすことで獲られた、人間語での語りです。
    ②は、物象の商品語での語り、そのものなのです。
    これは、この商品語での語りに依る、転倒した同等性関係での提示された価値形態なのです。
    これが、宇野先生が支持した同等性関係にて表される価値形態なのです。
    久留間先生は、英明にもこれが物象の商品語での語りと見ぬくことで、第三インター・スターリン主
    義の価値形態論を凌駕する視点にはたどり着いていたのです。
    マルクスは、この転倒をこそ示し・批判しています。

    英訳を何日も掛けて点検して理解出来ました。だからこれは、意識的な誤訳ですね!>

http://

 

       英語版資本論での価値形態論

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月17日(日)03時16分35秒
返信・引用 編集済
        英語版 「資本論」 の邦訳に当たって   訳者  宮 崎 恭 一
    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter00/index.htm

    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
        第一章 商 品
                x量の商品A = y量の商品B または、
        x量の商品Aは、y量の商品B に値する。

        20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
        20ヤードのリネンは、1着の上着 に値する。

      1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式
      2. 相対的価値形式
         (a.) この形式の性質と意味

     (1) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、
       どのように隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)
       を量的な外観からは切り離して見て行かねばならない。 この点で、誰もが、大抵は、逆に、
       量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商品間の明確な量の比率を見
       て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。 違った物の大きさを、量的に較べるに
       は、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてしまっている。 両者が、同じ
       単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。

     (2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となる
       かは、与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのと
       いうことで、どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物
       で見ているということである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのであ
       る。

     (3) これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせ
       ない。そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。
       それで、どの様にして?
       すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。
       この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。
       このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。
       リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。
       上着と同じ価値であり、上着と交換できると。 さて、この説明を化学式で例えてみよう。
       酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素
       (C)、水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。
       すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定して
       みよう。するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2 であると分かる。
       次いで、酪酸が、C4H8O2 であることに言及する。
       従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろ
       う。勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。

     (4) 我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々
       の分析をして、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。
       この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。
       また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。
       一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。

     (5) 上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じと
       した。確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものであ
       る。 しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同
       じものであり、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格
       でこれを見るということである。
       なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込む
       だけの労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。
       これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。
       様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込
       められた異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしてい
       るのである。

     (6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なあ
       るものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その
       労働自体が価値なのではない。 その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になっ
       た時にのみ価値となるのである。
       人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、
       かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。
       そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するも
       のである。 問題は、すでに解かれている。


   <5・6 段落の英語での提示です。>上記とはサイトが違います。
       英和訳資本論

https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


⑤ By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makes the linen.

But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.

In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish it from tailoring, and, consequently, is abstract human labour.

It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]


    <杉本提案 五段落での直訳での提案>
   ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者のものと同じに
    する。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の具体的な労働であることは
    事実です。

    しかし、それー裁縫労働ーを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
    に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
       <杉本・註ーーー上着のリンネルに対する価値関係においては、いいかえると、
       「一商品の他の商品にたいする価値関係のなかでは、」==との4段落での提起・
       前提された事柄が示されて、次の「回り道」が提起されていることを、捨象すると、
       単に、ここでの
       <人間労働力の支出としての同等性、共通性>を、のみ視野に入れてしまうのです。
       ここでは、上着はリンネルとの価値関係において、上着はリンネルの価値と示され
       ることで、それならばリンネルも価値であると、判断されていることが、第四、
       そして第三段落の化学式にての例示で、マルクスは、そこをこそ心配して、我々に
       提示しています。
       「いま酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、・・この関係のなかでは、
       第一に、蟻酸プロピルは単に、C4H8O2の実存形態・・
       第二に、酪酸もまた     C4H8O2から成り立っている・・・」ーーと。
       このことをこそ言い換えると、
       上着はリンネルの価値ー存在形態であり、第二に、リンネルは価値存在ーーです。
       このような化学式では、人間様の反省規定の有り様を示したのですが、
       ここでは、物象が社会関係を結ぶことで
       ①上着は価値であるのみならず価値形態<八段落に訂正・価値形態ありて価値>
       ②次に、その規定を上着に与えたリンネルは、しかるに価値である、
       との全く人間の思考形式と同様の物象の判断の仕方を、三段落にて示していたの
       です。>
    この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り込む限り、
    それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労働である。

    それは価値創造労働の特定の性格を救済するだけのさまざまな種類の商品間の同等性の表現であり、
    これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間労働の共通の品質要約の仕
    方なのです。[18]

⑥There is, however, something else required beyond the expression of the specific character of the labour of which the value of the linen consists.
Human labour power in motion, or human labour, creates value, but is not itself value.
It becomes value only in its congealed state, when embodied in the form of some object.

In order to express the value of the linen as a congelation of human labour, that value must be expressed as having objective existence, as being a something materially different from the linen itself, and yet a something common to the linen and all other commodities.
   ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なものがあります。
    動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、それ自体価値はない。
    何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値になる。

    リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、
    その価値は客観的に存在するものとして表現されなければならず、
    リネン自体とは大きく異なるものとして、
    リネンと他のすべての商品に共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

       宮崎訳
   <(6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、
    実は、必要なあるものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労
    働」が、価値を作るが、その労働自体が価値なのではない。 その労働が、ある
    物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値となるのである。
    人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばなら
    ないし、かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リ
    ネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するものであ
    る。 問題は、すでに解かれている。>


    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的にランク付けさ
    れ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   このポジションでは、価値観  だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
   そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
   私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、コートはその関
   係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、着ていない時よりも多くのこと
   を数えるようにです。


   宮崎訳ーー<価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるも
   のとして、リネンに等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この
   等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すそ
   の明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。だが依然として、上着自体は、商
   品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。 このような
   上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。
   関係がなければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、
   リネンの価値を明らかにする。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは
   打って変わって偉そうに見せるのと同じようなものである。 >



   彼はそして、次の訳の誤りも提示している。
   新日本では、
   「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十
   分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成する
   けれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値に
   なる。リンネル価値を人間的労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、
   リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他の商品とに共通なあ
   る「対象性」として表現されなければならない。この課題はすでに解決されている。」
   (p87 後ろから 5行目~p88)

   この新日本訳や、岩波・向坂訳の誤りを彼は提示している。これは正しい!
   今日の既成の訳の誤りが、リンネルに対する上着の価値関係が、両者に共通な価値を、
   「上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない」
   ーーと強調している。
   如何にも、リンネルはこの価値関係において、自らの価値存在を対する上着において
   両者の社会関係を、価値の存在形態である上着において、表現しているーーのだから、
   この両者の共通性が価値であると、判断のまず第一を示し、すぐその続きをこの八段
   落にて示したのです。物象が判断したのです。


   八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
   ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
   この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
   そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値体として
   具体化された価値として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
   たとえば、Bの目の威厳がAの身体的な形をとっていない限り、さらには人の新しい父親と一緒に、その
   特徴、髪型、性格を変えない限り、AはBの「陛下」になることはできません。 他にもたくさんのもの
   があります。

   九段落
Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。

The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.
    コットンリネンの価値は、コモディティコートの身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
    によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;
    使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。

as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.
    価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。
    したがって、リネンはその物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が神の子羊と似ているように、コートとの等しさ
   によって明示されます。

   十段落
   We see, then, all that our analysis of the value of commodities has already told us, is told us by the linen itself, so soon as it comes into communication with another commodity, the coat.
   ⑩商品の価値に関する私たちの分析がすでに私達に語ったことは、リネン自体によって、それが別の商
   品であるコートとのコミュニケーションに入るとすぐに私たちに語られていることが分かります。

Only it betrays its thoughts in that language with which alone it is familiar, the language of commodities.
In order to tell us that its own value is created by labour in its abstract character of human labour, it says that the coat, in so far as it is worth as much as the linen, and therefore is value, consists of the same labour as the linen. In order to inform us that its sublime reality as value is not the same as its buckram body, it says that value has the appearance of a coat,
   それだけでは、それが馴染み深いその言語では、商品の言葉にその考えを裏切っています。
   コートは、人間の労働の抽象的性格で労働によって創造されたということを私たちに伝えるために、
   リネンほど価値があり、したがって価値がある限り、同じ労働 リネンとして示す。
    価値としてのその崇高な現実は、バックラムの体と同じではないことを私たちに知らせるために、
   価値はコートの外見を持っていると言いますが、

and consequently that so far as the linen is value, it and the coat are as like as two peas.
We may here remark, that the language of commodities has, besides Hebrew, many other more or less correct dialects.
   その結果、リネンは価値がある限り、それとコートは2つのエンドウのようになります。
   商品の言葉には、ヘブライ語以外にも多かれ少なかれ正しい方言があります。

   十一段落
By means, therefore, of the value-relation expressed in our equation, the bodily form of commodity B becomes the value form of commodity A, or the body of commodity B acts as a mirror to the value of commodity A.[19]
By putting itself in relation with commodity B, as value in propriâ personâ, as the matter of which human labour is made up, the commodity A converts the value in use, B, into the substance in which to express its, A’s, own value.
The value of A, thus expressed in the use value of B, has taken the form of relative value.
    ⑪したがって、われわれの等式のなかに表現された価値関係によって、
    商品 B の身体的形態は商品 A の価値形態となる、すなわち商品 B の体は商品 A の価値にとっ
    て鏡の役を務める。[19]
    それ[商品 A ]自身を商品 B との関係に置くことで、価値として本人自ら、それについて人間労
    働が仕上がったものとして、商品 A は使用価値を、B に転換する、
    その[Bの]中にそれ自身の、Aの、自分の価値を表すために。
    Aの価値は、従ってBの使用価値において表現されて、相対価値の形態をとっている。


     -------------------------------------------------------------------------------
   杉本提案
   第七段落
   <従来の翻訳の誤りは、七段落での価値の表現を①ーー価値がそれにおいて現れ  ーー
                         ②ーー価値が現象するところのものーー
                      対して ーー価値観      ーー直訳です。
                          ーー価値形態     ーー杉本提案
   と、このように、① ②は誤訳だと思いますす。
   これでは左極にて価値形態が形成されず、右極でできる、価値の現象形態になるから価値形態となる、
   との理解になります。

   第九段落 でのマルクスの異なる提案は、何か?
   ①したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。
   ②価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。 したがって、リネンはその
   物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

   ①は、物象の社会関係に伴なう商品語での批判をなすことで獲られた、人間語での語りです。
   ②は、物象の商品語での語り、そのものなのです。
   これは、この商品語での語りに依る、転倒した同等性関係での提示された価値形態なのです。

   マルクスは、この転倒をこそ示し・批判しています。

   英訳を何日も掛けて点検して理解出来ました。だからこれは、意識的な誤訳ですね!>








 

    一般的価値形態から一般的相対的価値形態への形成

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月10日(日)17時27分49秒
返信・引用 編集済
   C.価値の一般形態
       The General Form of Value
    (C1-7段)(再版八段落)

    (英和訳『資本論』からの引用
    https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


    「相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品その残りから排除されて、そし
   て同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に
   転換する。
   亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である;
   それはしたがってそれらのうちの全て、かつどれとも直接交換可能となる。
   その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。

   (<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹の状態になります。>
    <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >

   織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働であるが、結果として、
   一つの社会的性格を獲得する、すべての他の種類の労働と同等なものという性格を[獲得する]。

   価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式が、順繰りに亜麻布のなかに体現された
   労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そしてそれらがこのようにして
   織布することを、差別を立てられていない人間労働の明示の一般形態へと転換する。

   このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働は、その否定的な側面のもとにおいてばかりでな
   く提示される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた
   抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白に知らせるようにされている。
   この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元
   であり、人間の労働力の消費であることへの還元である。」(原P81)

   <前原訳><現行版 八段落>
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価物
    の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがって
    亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」

    杉本意見 だが
   ①英<身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。それゆえそれら
   のすべてと直接的に交換可能になる>
   ②再版<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他
   のすべての商品と直接に交換されうるのである。>(国民文庫P126 長谷部訳 資本論1P62上段)
   そこで、上記の二者を比較をしてみると次に示されている伝統的な訳は正しいのであろうか?
    A「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態」
    B「亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)」
   ーーという過去の翻訳・表現に込められているのは、誤訳であります。
   何故間違いなのか?
    イ身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態
   との訳とは違うものであり、この上記の意味は、商品世界の左極において諸商品が共同行為において与
   えるー共通に仮定された形態ーーなのだから、
   「一般的価値形態を構成する無数の等式」の示すものはを、よく検討すると、
   「商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格」ーーでありますし、その結論
   が、英直訳で示すと、
   <一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人
   間の労働力の支出に還元することである。>ーーと述べられたものなのです。
   これが、仮定ではなく、やっと定まった一般的価値形態であります。

   しかし、再版に示されている次の、<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>
   ーーとの表現では、第一の形態での等価物上着が直接的に受け取る価値形態のことと同じ意味ですから
   使用価値亜麻布が等価形態になってしまいます。
   一般的等価物亜麻布は・リンネルは、商品世界から除外されているがゆえにーーという肝心なことを省
   いた理解になっているのです。
   <リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>ーーではなく
   <身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態>
   との訳であれば良かったのです。
   このことを解読させる イ の表現の素晴らしさがあります。

   では、誤訳・誤読の因は何処にあるのか?

   <資本論の記述に戻ります。前原訳です。ここは、国民文庫岡崎訳・長谷部訳も全く同一です。>
   「亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の可視的な・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。
   織布、亜麻布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわち全ての他の労働との同
   等性を体現する形態に就く。一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労働一般の一般的現象形態と
   する。」

   (これは注意!これは第一の形態での、等価形態の独自性としての、裁縫労動が抽象的人間労働の実現
   形態となるーーと同じではない。むしろ、混同した見地からの訳なのです。)

   ここには、人間労動の化身として、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹となることで、その社会的
   性格、他のすべての種類の労働との同等性を獲得するーーのだから、をこそ示している。
   <織布を人間労働一般の一般的現象形態とする>
   ーーこの訳だと、全くの誤訳・最後に示される結論ーー
   <あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働力の支出に
   還元する>ーーを否定しているのです。)
   以上の再考に基づく英訳の提示であれば、その次の九段落の理解は、全く素直に理解できる。

   以下は、以上の点検とします。
   (英直訳)
    次のありがたい・感謝に耐えないグーグルにての訳は次であります。
    https://translate.google.co.jp/?hl=ja


    C.価値の一般形態
    The General Form of Value
    (C1-7段)(再版八段落)
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.

   英<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を変換
    し、それと同等の部分を果たしますか? ここではリネンはどうですか?
    普遍的な等価物に変換するーー身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された
    形態です。 それゆえ、リンネルはそれらのすべてと直接的に交換可能になる。


    再度次の訳を取り上げておこう。<前原訳><現行版 八段落>
    「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価
    物の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがっ
    て亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」

The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.

    <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >
    英<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な 蛹ー蝶 の状態になりま
     す。リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織りは、結果として社会的性格、他のすべて
     の種類の労働との平等の性格を獲得する。>

The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of

    英<一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての
      商品に組み込まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な
      形に変換する。>
    再版 岡崎訳 国民文庫 P126
     <一般的価値形態をなしている無数の等式は、リネンに実現されている労動を、他の商品に含まれ
      ているそれぞれの労動に等置し、こうすることによって織布を人間労動一般の一般的現象形態
      する。>

    以上から、「織布を人間労動一般の一般的現象形態」ーーという全くの誤訳・文章のつながりを無視
    し、逸脱していることが分かると思います。
    織布ではなく織布労動の性格の変化をこそここで論じているのに、翻訳者の彼の頭脳にあるのは、
    <リンネルの織布労動が人間労動の一般的実現形態>という、一般的等価形態の独自性を示すものな
    のです。

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.

    英<このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益
    な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、>


The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
    英<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、
    一般に人間の労働力の支出に還元することである。>


    (C1-8段)(再版九段落
  The general value form, which represents all products of labour as mere congelations of undifferentiated human labour, shows by its very structure that it is the social resumé of the world of commodities.
That form consequently makes it indisputably evident that in the world of commodities the character possessed by all labour of being human labour constitutes its specific social character.

     一般的価値形態、これは全ての労働生産物を差別されない人間労働の単なる諸凝結物として代表す
    る、は、まさにそれの構造によって、それは諸商品の世界の社会的要約であることを示す。
    そうした一般的価値形態は諸商品の世界のなかで人間労働である全ての労働に備えられた性格が、労
    働の特別の社会的性格をつくるということを争う余地のないほど明らかにする。

    <再度 上記訳を検討してみた。>

The general value form,
    一般的な価値形態、
which represents all products of labour as mere congelations of undifferentiated human labour,
    それは労働のすべての産物を未分化の人間の労働の単なる集合体として表しており、<代表ではない>
shows by its very structure that it is the social resumé of the world
of commodities.
    そのことで、商品世界の構造をとても明快にする社会的要約であるのです。
That form consequently makes it indisputably evident that in the world of commodities the character possessed by all labour of being human labour constitutes its specific social character.
    その結果、商品の世界では、すべての労働によって人間の労働であるという性質が、
    その特定の社会的性格を構成することは明白になります。


   The Interdependent Development of the Relative Form of Value, and of the Equivalent Form
        2,相対的価値形態とそれに相当する形式の相互依存的発展

①The primary or isolated relative form of value of one commodity converts some other commodity into an isolated equivalent.
     ①1つの商品の価値の第一次または孤立した相対的な形態は、他の商品を孤立した同等物に変換する。

②The expanded form of relative value, which is the expression of the value of one commodity in terms of all other commodities, endows those other commodities with the character of particular equivalents differing in kind.
     ②他のすべての商品に関して1つの商品の価値の表現である相対価値の拡大された形式は、種類が異な
       る特定の同等物の性質を有する他の商品を付与する。

And lastly, a particular kind of commodity acquires the character of universal equivalent, because all other commodities make it the material in which they uniformly express their value.
     最後に、特定の種類の商品は、他のすべての商品が一律にその価値を表現する素材になっているため、
       普遍的な同等の性質を獲得します。


③The antagonism between the relative form of value and the equivalent form, the two poles of the value form, is developed concurrently with that form itself.
    ③相対的な価値形態と同等の形態(価値形態の2つの極)との間の拮抗は、その形態自体と同時に開発
   される。

④The first form, 20 yds of linen = one coat, already contains this antagonism, without as yet fixing it.
According as we read this equation forwards or backwards, the parts played by the linen and the coat are different.
   ④リネン= 1コートの20ヤードの第1の形態は、すでにこの拮抗作用を含有しており、それをまだ固定し
      ていない。
     この方程式を前後に読むと、リネンとコートで演奏される部分が異なります。

In the one case the relative value of the linen is expressed in the coat, in the other case the relative value of the coat is expressed in the linen.
       第一の場合、リネンの相対値はコートで表され、他の場合にはコートの相対値はリネンで表される。

In this first form of value, therefore, it is difficult to grasp the polar contrast.
      したがって、この第一の価値形態では、極性コントラストを把握することが困難である。

⑤Form B shows that only one single commodity at a time can completely expand its relative value, and that it acquires this expanded form only because, and in so far as, all other commodities are, with respect to it, equivalents.
    ⑤B型は、一度に1つの商品のみが相対価値を完全に拡大することができ、他のすべての商品が同等であ
       る限り、この拡大された形を取得することを示している。

Here we cannot reverse the equation, as we can the equation 20 yds of linen = 1 coat, without altering its general character, and converting it from the expanded form of value into the general form of value.
     ここでは、リネン= 1コートの20ヤードの式を一般的な性質を変えずに展開し、展開した値の型から
    値の一般的な型に変換することができるので、方程式を逆転することはできません。

⑥ Finally, the form C gives to the world of commodities a general social relative form of value, because, and in so far as, thereby all commodities, with the exception of one, are excluded from the equivalent form.
     ⑥最後に、形式Cは、商品の世界に価値の一般的な社会的相対的形態を与える。なぜなら、それを
    通じて、すべての商品は、それを除いて同等の形態から除外されているからである。

A single commodity, the linen, appears therefore to have acquired the character of direct exchangeability with every other commodity because, and in so far as, this character is denied to every other commodity.[26]
     従って、一つの商品であるリネンは、他の全ての商品との直接的な交換性の特性を獲得しているよう
    に見える。なぜなら、このキャラクターは他のすべての商品に拒否されているからである[26]

⑦The commodity that figures as universal equivalent, is, on the other hand, excluded from the relative value form.
     ⑦一方、普遍的な同等物として表される商品は、相対価値の形態から除外される。

If the linen, or any other commodity serving as universal equivalent, were, at the same time, to share in the relative form of value, it would have to serve as its own equivalent.
     リネン、または同等品として機能する他の商品が、同時に、相対的な価値形態で共有する場合、それ
       は、それ自身の同等物として機能しなければならない。

 We should then have 20 yds of linen = 20 yds of linen;
this tautology expresses neither value, nor magnitude of value.
In order to express the relative value of the universal equivalent, we must rather reverse the form C.
     私たちは20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンを持っていなければなりません。
     この同音論は、価値も価値の大きさも表さない。
       普遍的な等価物の相対的価値を表現するためには、フォームCを逆にする必要があります。

This equivalent has no relative form of value in common with other commodities, but its value is relatively expressed by a never ending series of other commodities.
Thus, the expanded form of relative value, or form B, now shows itself as the specific form of relative value for the equivalent commodity.
     この等価物は、他の商品と共通の価値の相対的な形をもたないが、その価値は他の商品の終わりのない
       系列によって比較的表現される。
       したがって、相対価値の拡大された形すなわち形Bは、同等の商品に対する相対価値の具体的な形とし
       て現れている。







 

        初等または偶発的価値形態      

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月 6日(水)00時17分1秒
返信・引用 編集済
        <商品の価値が現象する形態,あるいは商品が自己の価値を表現する形態
      を,商品の価値形態と言う。だから,われわれに最初に交換価値としてつ
             かまえたのは,商品の価値形態だったのである。>
             ------このような認識は正しいのであろうか?
      つぎのとおり、点検してみた。

      大谷先生の価値形態論への取り組みの仕方は次のとおりです。


   商品および商品生産    大谷禎之介
   http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf
     第2節価値形態と貨幣
   (1)価値の現象形態としての交換価値
       われわれは商品の交換価値を分析して価値を析出し,価値が抽象的労働
      の対象化であること,価値の大きさは社会的必要労働時間によって規定さ
      れていることを明らかにした。そのなかで,商品の価値は人間の外部にあ
      る「物」に属するものでありながら,しかもまったく社会的な属’性である
      ことも分かった。
       そうであるなら,われわれが最初に取り上げた交換価値とは,じつは,
      価値が姿を現わしてくる形態,つまり価値の現象形態にほかならない,と
      いうことになる。商品の価値が現象する形態,あるいは商品が自己の価値
      を表現する形態を,商品の価値形態と言う。だから,われわれに最初に交
      換価値としてつかまえたのは,商品の価値形態だったのである。
      76
       こうしてわれわれは,分析によって,交換価値という現象から価値とい
      うそれの本質をつかみだしたので,ふたたび,といってもこんどは価値に
      ついてすでに得られた知識を前提して,この本質が取る形態,つまり価値
      が現われてくる形態を観察しよう。
       この価値形態の問題は,経済学の諸問題のなかでも初学者にとってとく
      に分かりにくいものの-つなので,ここでは思い切って簡略化し,商品の
      最も簡単な交換から次第に交換関係が発展して貨幣が生み出されるまでの
      過程をたどりながら,そのなかに含まれている価値形態の発展をごく簡単
      に説明することにしよう')。


   対してマルクスは次の把握をしています。英語版からのグーグル直訳です。

      SECTION 3   THE FORM OF VALUE OR EXCHANGE VALUE
      第3節 価値形態すなわち交換価値

  ①諸商品は、鉄、リネン、トウモロコシ、&cなどの使用価値、商品、または商品の形で世界に来る。
 これは彼らの普通の、家庭的な、身体的な形です。
 しかし、それらは商品であり、使用対象と、そして同時に価値のある保管所との、両方の目的を果たす2つの
 ものであるからです。
 彼らはそれゆえに、身体的または自然の形態と価値形態の2つの形態を持つ限りにおいてのみ、商品として、
 あるいは商品形態をとっている。

 Commodities come into the world in the shape of use values, articles, or goods, such as iron, linen, corn, &c.
This is their plain, homely, bodily form.
They are, however, commodities, only because they are something two-fold, both objects of utility, and, at the same time, depositories of value.
They manifest themselves therefore as commodities, or have the form of commodities, only in so far as they have two forms, a physical or natural form, and a value form.

 ②商品の価値の現実は、この点でDame Quicklyとは異なり、「どこにあるか」はわかりません。
 商品の価値は、物質の粗い物質とは正反対であり、物質の原子がその組成に入ることはありません。
 私たちが望むように、それだけで、単一の商品を回して調べますが、価値の対象である限り、
 それを理解することは不可能です。
   <杉本 ここは「商品の価値は、」であるはずなのに、定訳は次の「価値物」なのです。
   「それゆえ、あるひとつの商品をどんなにいじりりまわしてみて価値物としては相変わらず
   つかまえようがないのである。」>国民文庫P93 長谷部訳 も同一の訳です。
   日本語訳は、価値を価値物と示したのですね。価値の対象が、価値物ですか??? !!!
   驚きの訳ですね。私らが、理解できないはずです。>

 The reality of the value of commodities differs in this respect from Dame Quickly, that we don’t know “where to have it.”
The value of commodities is the very opposite of the coarse materiality of their substance, not an atom of matter enters into its composition.
Turn and examine a single commodity, by itself, as we will, yet in so far as it remains an object of value, it seems impossible to grasp it.

 しかし、商品の価値が純粋に社会的現実であり、同一の社会的物質、すなわち人間の労働の表現または実施
 形態である限り、これらの現実を獲得することは、 当然のことながら、その価値は商品と商品との社会関係
 においてのみ現れることがあります。
 実際、私たちは交換価値や商品の交換関係から、その背後に隠れている価値を得るために始めました。
 私たちは今、私たちに最初に現れたこのフォームに戻る必要があります。

If, however, we bear in mind that the value of commodities has a purely social reality, and that they acquire this reality only in so far as they are expressions or embodiments of one identical social substance, viz., human labour, it follows as a matter of course, that value can only manifest itself in the social relation of commodity to commodity.
In fact we started from exchange value, or the exchange relation of commodities, in order to get at the value that lies hidden behind it.
We must now return to this form under which value first appeared to us.

  ③彼が他に何も知らなければ、商品は価値形態の共通点を持ち、さまざまな身体的な形態の使用価値とは
 著しいコントラストを呈していることを誰もが知っています。
 私は、それらが彼らの貨幣形態を意味します。

Every one knows, if he knows nothing else, that commodities have a value form common to them all, and presenting a marked contrast with the varied bodily forms of their use values.
I mean their money form.

  しかし、ここでは、ブルジョア経済学によってこの業績がまだ試されていないという課題が課せられ、この
 貨幣形態の起源をたどり、商品の価値関係に暗示される価値形態の発達を 、その最もシンプルでほとんど目
 に見えない輪郭を、見事な貨幣形態に変えます。
 これを行うことで、同時に、お金で提示された謎を解決します。

Here, however, a task is set us, the performance of which has never yet even been attempted by bourgeois economy, the task of tracing the genesis of this money form, of developing the expression of value implied in the value relation of commodities, from its simplest, almost imperceptible outline, to the dazzling money-form.
By doing this we shall, at the same time, solve the riddle presented by money.

  ④最も単純な価値ー関係は、明らかに、一つの商品が他の商品と異なる種類のものであることである。
 したがって、2つの商品の価値の間の関係は、単一の商品の価値の最も単純な表現を私たちに提供する。

The simplest value-relation is evidently that of one commodity to some one other commodity of a different kind.
Hence the relation between the values of two commodities supplies us with the simplest expression of the value of a single commodity.

      --------------------------------------------------------------


 では次の検討に挑戦しよう。何故・大谷先生は次の提起をしたのか?

    「商品の価値が現象する形態,あるいは商品が自己の価値を表現する形態を,
     商品の価値形態と言う。」(上記大谷訳)

 質問ーー大谷先生のここで提示する形態は、第一の相対的価値形態の形成につながるものなのですか?
 等価物上着はリンネルの価値の現象形態になっていることで、直接的交換可能性の規定を右極にて受け取る
 けれども、この場合上着は自然的形態のままに価値形態とされるーーのではなかったですか?
 それでは等価形態であり、左極の相対的価値形態の形成となる価値形態が未だに受け取れていないのではな
 いですか?

  以上の質問を発することで、問題の所在が、上着との間でリンネルが構成する価値関係においては、
 左極の形成は上着が価値の現象形態であるのみでは、上着は価値形態となれず、形成不可能なのです。
 従って、大谷先生の論理は、肝心の価値形態の形成は前提にされ、不問事項なのであり、右極の形成
 が如何にしてなされるのか?をのみ問うものなのです。

    だから、<商品が自己の価値を表現する形態を,商品の価値形態と言う>のでは、
    相対的価値表現の質的側面は? 量的側面は?との問に回答できないものなのです。
    大谷先生が、上着が価値となることで、リンネルとの価値関係=物象の社会関係が、
    形成されていることの理解をこそ、排除しているのです。
    上着が価値物であることでは、表面的な相対的価値表現の量的関係である、物的関係
    を克服できないーーのですから、読者のここでの何故!をこそ・この質問を期待して
    初版とは異なって、マルクスは「価値物」と書くことで、この規定を超える物象の社
    会関係の登場への理解をこそ、労働者の主体的判断の重要さ崇高さをこそ、我々に訴
    えているのです。


  以上が、価値形態論の序文であり、前提事項なのであります。
  大谷先生は、この前提を全く踏まえていないために、「価値関係」に示されることの重大性を
  捨象しているのです。









 

 相手に暴走目こぼし権があったらどう対応しますか

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2017年12月 1日(金)20時47分21秒
返信・引用
   38年前仕事で仙台から一関に移り同じ仕事で聾唖者と仲良くなりいずれ家に遊びに来る約束を交わしていました。仕事を一緒にやろうという話も出ましたがそれが挫折してもこちらは目も悪くなって異存はなく、友達として仕事の機械をただで上げた。そしてお返しは望まないと念を押しています。
 ところが何年待っても来なくて親父と喧嘩になった。騙されたのだと言うのをそんな人でないとやり返して催促しても来なく訪ねるといろんな人が忙しそうですとさえぎった。
 心変わりしたのかと半場諦めて他の人と付き合って来ました。それが11年前に奥さんが盲ろう者友の会の通訳になったと聞いてファクスしたら今までのことは嘘だと判り怒ったら次期県聾唖協会会長婦人の一声で友の会にあいつを黙らせろとされて副会長が発言禁止にされ、更に小笠原利行事務局長がお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言い出した。これには馬鹿らしいと退会しました。後から全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心を押し付けて行った。親父を馬鹿と言う出所は石川会長だった。
 県庁も全通研も読み書きの出来ない知恵遅れ聾唖者の勝手な猜疑心からだと知っていた。石川君は親を馬鹿にして全てを白紙にし、約束守る事も詫びる事もしない。県にとって石川君も利行さんも県の看板の為辞めた理由はデマを流しかん口令で口封じされていた。
 最初の別団体県難連に行こうとしたら相談員の密告で友の会事務局長の奥さんのひとみさんから悪口妨害され内定が取り消された。
 これには怒って抗議したら大本家のおばあさんに脅迫電話された。大本家は山形の姉を呼びだした。姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなという。この後岩手県庁に抗議したら課長から親父を馬鹿と認めたらと言い出した。既にかん口令は広げられ更生相談所も社会福祉協議会(県本部)も障害者の社会参加推進センターも地元一関の社会福祉協議会も更に一関の身障協は口封じから入会お認めない。相手にするなと言う輪は広がり社会参加は妨害は11年で12回になった。関わった人も団体も全て沈黙させて友達も全て取り上げた。果たして暴走目こぼし権はあったとしてどう対応しますか。 岩手は説明も11年来ていない。厚生労働省は復興が叫ばれてか完全沈黙が保てるなら目を瞑るかのように質問も寄越さない。通訳差別も始めた。果たして暴走目こぼし権はあるでしょうか。完全沈黙で証拠も作れず諦めて社会参加だけにしても盲ろう者が友の会の手も借りずにあちこち行くのも県の面子に関わると勝手な理屈から妨害する。辞めたらどこへ行こうと勝手ではないか。看板団体の暴走を隠すために強権発動して障害者の一人くらいどうでもよいと社会参加は11年で12回口封じから妨害している、


 

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