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『資本論』の読み方
投稿者:
自由ネコ
投稿日:2009年11月 7日(土)11時23分52秒
返信・引用
この間の杉本さんとの討論にも示されるように『資本論』には様々な読み方があります。
超感性的な存在が動き回り、商品が人間に意志を押し付ける神話世界の中で、神の子羊を探し求める予言の書という読み方もあれば、資本主義経済を分析した経済学論文という読み方もあります。
2回にわたって「関係式」を使って展開した投稿は、後者の視点に立ったとき資本論の冒頭に何が書かれているかを分析したものでした。そしてその視点から読んだ時、マルクスの『資本論』の著述には多くの不適切な表現や矛盾点、いくつかの明白な誤りすら存在することにすら気づかざるをえません。
『資本論』を予言書として読み、その哲学を神学にまで高めた方々は、そうは考えないでしょう。神学においては、聖別された人間がある主張を述べたことがその主張の正しさの根拠となるからです。聖マルクスの教えに疑いを挟むなど涜神と考えるのが神学の論理です。スターリンを絶対不可謬の法王とするスターリン主義こそはマルクス神学の典型といえるでしょう。
それ対し、科学においては、人がある主張を述べたことはその人物がその主張を持っているという意味しか持ちません。誰が述べたかではなく、その主張の論理的一貫性、現実との整合性がその主張の正当性の根拠とされます。したがって、科学的方法論に立つならマルクスの主張のすべてもそうした視点から点検されなければなりません。『資本論』を批判的に読むか否か、ここにマルクス神学とマルクス経済学の分水嶺があります。
ところで、誤りにも現実世界の理解の一道程として大きな存在意義が存在するのが科学の世界です。
『資本論』の誤りや不適切な表現の具体的な諸点についてはすでに、宇野弘蔵やその後継者らの多くの研究がありますので、ここでは思いつくまま若干の一般的論点について検討してみます。
《文章技術上の限界》
ワープロ登場前の手書き文章の場合、語数の節約は避けることのできない限界です。
例えばマルクスは“有用性という属性”の意味での使用価値と“その属性を持った物としての使用価値”を表現上明確に区別せず、「使用価値」と簡単に表記しています。文章の論理展開を丹念に追えば、それがどちらか判断可能ですし、マルクスもそれを前提に著述を進めています。しかし、マルクス自身が次のようにそうした限界に足を取られてしまっている部分も少なくありません。
「交換価値は、…ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として…現れる」(岩波文庫版1969、第1分冊p.70)
ある物が交換過程に投げ入れられるのは、その物が所有者にとって有用性・使用価値という属性を持たないからです。こうした有用性・使用価値のそれぞれの人間の欲望への従属性、個別性はここでは見失われています。
ちょうどキリスト教の神父や牧師がみずからの説教の正当化のために聖書の一断片を使うように、マルクス自身の主張の解明ではなく、みずからの主張の正当化のためにマルクスの文章を引用するマルクス神学者は、こうした限界なども利用して必ずそのための文章を見つけ出すことができます。だから、こうした技術上の限界についてしっかりと認識しておく必要があるのです。
《歴史的限界》
マルクスが『資本論』で行った交換関係についての分析の画期的意義は、交換関係が対称的関係(“AならばB”が成り立てば、“BならばA”も成り立つ関係)ではなく、非対称的な関係(“AならばB”が成り立つからといって“BならばA”が成り立つとは限らないという関係)であることを解明したことでした。商品と貨幣、「売る」と「買う」などの区別こそ資本主義的生産システム解明の出発点です。このことを明白にするために、マルクスは「相対的価値」や「等価」などの用語を駆使するなど様々な工夫をしています。
非対称な関係とは、例えば次の様な関係です。
いま、目の前の文庫本に物差しを当てて縦の長さを測ったところ149mmの目盛りのところまでありました。したがって、文庫本の大きさ(縦の長さ)は149mmであるということができます。では、この物差しの長さはどれだけでしょう。長さを測ることができるのは、文庫本も物差しも同じ空間的広がりという性質を持っているからですが、実は、物差しの長さを測る方法を人類は持っていません。現在1メートルの長さというのは「1秒の299,792,458分の1の時間に光が真空中を伝わる距離」と定義されていますが、それは単に1光秒の299,792,458分の1を1メートルと言い替えたにすぎず、1メートルの長さを直接測ることができるわけではないのです。
同様に、ある商品の価値の大きさは貨幣となった「物(例えば金)」の一定の量(Xグラム)で量ることができますが、貨幣そのものの価値の大きさは量れません。だから、商品が貨幣と交換される場合、商品の価値の大きさと貨幣の価値の大きさが等しい「等価交換」と考えるのは明白な誤りなのです。
しかし、非対称的な関係について一般的に認識されはじめるのは、カタストロフィ理論やカオス理論が学界の枠を超えて話題となった20世紀後半のことでした。それ以前には「AはBである」と述べることは「BはAである」と述べることと同じと考えられていたのです。
マルクス自身がそうした時代の「常識」にとらわれた結果、例えば「物価表の値段表示を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品であらわされる」(国民文庫版1972年第1分冊p.173)と非対称的な関係を否定するともとれる文章を書いています。
もちろん「値段表示を逆に読む」というのは一つのトートロジーであり、貨幣の価値の大きさを量ることができないことを示す事実です。しかし、「大きさが…あらわされる」と表現することで、この文章はこの文脈の中でも量ることができるかのように読める不適切な表現でとなっています。そして、「非対称の関係」を理解しない多くのマルクス神学者は、この文章を切り取って貨幣の価値の大きさを量ることはできるというみずからの主張の根拠とすることで、これを明白な誤謬へと転化してしまったのです。
ただ、神学者といえども現実から遊離して存在することはできません。貨幣の価値の大きさを量ろうとすれば、商品や貨幣の価値の大きさをともに量る第三の存在が必要となります。この誤謬を「発展」させた後代の研究者の中には、第三の新たな物差しを探し求め、ついに、「価値=超感性的な実体」という新たな物差しを「発見」してしまう者すら現れたのです。
《弁証法的論理》
これは不適切な表現とか誤りということではありませんが、弁証法という論理体系を駆使するマルクスは、それぞれの著述においてその段階までの検討で可能な命題をまず提起し、その命題を検討する中でその正確さを否定し、止揚して新たな命題を打ち立てるというダイナミックな論理構造を採用しています。
例えば、現在の検討範囲からは離れますが、マルクスは、W−G−Wの検討に続いてその論理的発展形態としてG-W-Gという命題を次のように提示します。
「しかし、この形態と並んで、われわれは第二の特殊に区別される形態、すなわちG-W-Gという形態…売るために買うということを見いだす」(国民文庫版1972、第一分冊p.258)
ところがこの命題はすぐに「このG-W-Gの流通は一見無内容に見える、というのは同義反復的だからである」と否定され、「この過程の完全な形態は、それゆえG-W-G'」(同p262-4)と止揚されます。
ここは比較的わかりやすい部分ですが、こうしたダイナミックな構造は『資本論』全体で貫かれ、しかも内部で完結しているのではなくそれを超えて発展、展開していくものとして想定されています。だから、『資本論』はその意味では未完成であり、スタティックな論理で解釈すれば不適切な表現で満ちていると見えるのです。
《資本論引用の意味》
スターリン支配下のマルクス神学からマルクスの著作を解放し、科学として批判的に検討しなければならないと提起し、実践したひとりは宇野弘蔵でした。だから、スターリン主義の呪縛からの解放を求める革命的左翼が宇野弘蔵に学ぼうとしたのは当然でした。しかし、革命的左翼はマルクスの批判的検討を貫くことができず、新たな神学的権威を求める方向に走ってしまったようです。それがトロツキー主義であり、黒田寛一や吉本隆明などのイデオローグ達でした。反スターリン主義とは、いまだ一つの宗教改革にとどまっていたように感じます。
それを典型的に示すのは、前節に示したマルクスのダイナミックな論理展開を無視し、著述の断片を切り取ってみずからの主張の根拠とする神学的引用がいまだに横行している現実です。マルクスの著述の一部を切り取ることはその主張を歪曲することであり、表現された内容を誤謬に転化してしまう危険が非常に高い行為です。まして、それは引用者の主張を正当化する根拠となりえません。
「E=mc^2」が正しいのはアインシュタインが言っているからではありません。1945年7月16日にロスアラモスの砂漠で爆発した一個の爆弾などがその正しさを証明したからです。私たちは、マルクスを「唯物論」という神学から解放し、現実に根ざした唯物論として再建するとともに、その正しさをこれからの私たち自身の実践をとおして証明していかなければなりません。2回にわたる「関係式」を使った投稿は、そうした問題意識にもとづく私の一試論です。
呪物崇拝を迫られる商品関係のなかに私たちはいる
投稿者:
杉本
投稿日:2009年10月26日(月)17時45分16秒
返信・引用
自由ネコさん
>人間も「ただのモノ」です。
もちろん「物とは異なる人間」などと、人間を何か霊的な特別の存在とか、魂があるとかないとか、特別視したがる人びとがいることは知っていますが
リカード派社会主義が
「真の富は・・・・・人間である」――とのべたそのどこに
>人間を何か霊的な特別の存在
――とするという主張があるのでしょうか?彼らは即物的な唯物論です。まったくの誤解です.
商品の交換関係が使用価値の量的関係として現象するために、そこに結ばれた人々の関連が物と物との関係として、倒立した姿態として受取られるという、呪物崇拝があり、人々を呪物崇拝させる物象の社会関係がある・・・・・ことを暴露せず、人々の社会関係としたのでは、それは歴史的・一時的な社会関係ではなく、自然的な社会関係と認めてしまう――主張がリカード派なんです.
だから、スターリンの
>意識は物質の反映とする反映論
では、物が人の意志を支配することなぞ認めることが出来ず、機械的唯物論になってしまうのです.生産力主義、社会発展の法則の認識者集団による民主集中制による位階制の党活動にならざるを得ないわけです.
もっとも、レーニンは反映論をこうにも語っていたそうです.
「人間の意識は客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする.」(『哲学ノート』レーニン全集38巻P181)
『弁証法の理論』(下)P122著者 許萬元氏はそこを引用していました.そこからの孫引きです.スターリンの弁証法的唯物論は、1988年に、その様に廃棄されていたのです。この本は一読の価値ありと思います.
「タダモノ」論・・・・についてひとこと
投稿者:
自由ネコ
投稿日:2009年10月25日(日)23時12分48秒
返信・引用
「タダモノ」論・・・・とベーリの呪物崇拝
という投稿読みました。
人間も「ただのモノ」です。
もちろん「物とは異なる人間」などと、人間を何か霊的な特別の存在とか、魂があるとかないとか、特別視したがる人びとがいることは知っていますが、そうした主張に私は興味ありません。ですから、ベーリの呪物崇拝云々に反論するつもりも、そもそも検討するつもりもありません。あしからず。
商品交換での関係式の変形
投稿者:
自由ネコ
投稿日:2009年10月25日(日)22時24分35秒
返信・引用
前回、“もの”の交換の際に使用価値や交換価値、価値の間でどのような関係が存在するか考えてきました。貨幣と商品の登場で交換関係が偶然的なものから日常的に行われるようになると、それらの関係はどのような変形を受けるか検討することが、次の課題となります。
《貨幣=交換過程にとどまった“もの”》
交換関係が日常的に行われると、様々な“もの”がその交換価値によって別の様々な“もの”の使用価値を実現する代わりに、ある特定の“もの”が日常的に交換過程の中にとどまり、その交換価値によって別の様々な“もの”の使用価値を実現する傾向が強まります。貨幣の登場です。
ではどのような“もの”が貨幣となることができるのでしょうか。
2-1)セーター(交換価値:塩むすびと交換できる/1着必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
2-2)セーター(交換価値:テントと交換できる/2着必要)→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
これはすでにみたセーターの諸交換価値を示す関係式です。この関係式ではすでにセーターを特定する直接の使用価値(使用価値:暖かく過ごせる/1着必要)は隠されてしまっています。したがって、セーターは諸交換価値を持つ別の“もの”Kと置き換え可能です。Kの交換価値の関係式は次のようになります。
6-1)K(交換価値:塩むすびと交換できる/k1個必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
6-2)K(交換価値:テントと交換できる/2倍のk1個必要)→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
Kが交換過程にとどまる限り直接の使用価値が実現することはありませんから、残るのは間接的な使用価値である交換価値のみです。したがってKの直接の使用価値を示す関係式もつぎのようになります。
6-3)K(使用価値:諸交換価値を持つ/それぞれの交換価値に対応した個数必要)
ところで6-1〜3)の3つの関係式はKがなんであっても成り立ちますから、あらゆる“もの”は、何らそれ自体が変化することなく貨幣となることができます。歴史的にみても家畜や石、金属など様々なものが貨幣として使用されました。
《商品=「唯一の交換価値」を持つ“もの”》
交換関係を逆方向から見ると次のようになります。
3-3-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X1(交換価値:塩むすびと交換できる/y1個必要)
3-3-2)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X2(交換価値:塩むすびと交換できる/y2個必要)
3-3-3)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X3(交換価値:塩むすびと交換できる/y3個必要)
のX1、X2、X3がすべてKに置き換わることによって残るのは次の関係式のみです。
6-4-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←K(交換価値:塩むすびと交換できる/k1個必要)
この関係は、K以外のすべての“もの”について成り立ちます。
6-4-2)テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)←K(交換価値:テントと交換できる/2倍のk1個必要)
そして、Kが他のあらゆる“もの”の使用価値を素材的担い手とする一般的な交換価値となるとともに、他の“もの”の交換価値を排除する傾向も生まれます。つまり、セーターがKでないとするなら、セーターの交換価値例えば(交換価値:塩むすびと交換できる/1着必要)は排除されます。しかし、すべての交換価値が排除される訳ではありません。その使用価値がKの交換価値の素材的担い手とならない唯一の“もの”が存在するからです。Kは次の様な自分自身と交換関係に入ることはありません。
K(使用価値:諸交換価値を持つ/k個必要)←×−K(交換価値:Kと交換できる/k個必要)
つまりセーターに残った唯一の交換価値の素材的担い手はKの使用価値のみであり、次ぎの関係式のみなのです。
6-5)セーター(交換価値:Kと交換できる/k0個必要)→K(使用価値:諸交換価値を持つ/それぞれの交換価値に対応した個数必要)
セーターの“商品・セーター”への転換です。商品とはただ貨幣の使用価値のみをみずからの交換価値の素材的担い手とする“もの”です。
交換の日常化によってある“もの”が貨幣となります。しかし、それ以外のあらゆるものが商品となるのは、ただそのある“もの”が貨幣となった結果なのです。
《交換の2つの類型:売る、買うへの整理》
貨幣の登場とともに、貨幣以外の“もの”と“もの”との直接の交換関係、物々交換は消えていきます。その結果、交換関係は次の2種類に整理されます。
7-0) セーター(交換価値:Kと交換できる/k0個必要)→K
7-1)X1(交換価値:Kと交換できる/k1個必要)→K
7-2)X2(交換価値:Kと交換できる/k2個必要)→K
……これが「売る」ということです。
8-1)K→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
8-2)K→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
……これが「買う」ということです。
《商品・セーターで飢えを満たす》
この結果、セーターの飢えを満たすという拡張された使用価値は、もはや単純な交換価値の実現では達成できなくなり、貨幣を中間項とする二つの交換の組み合わせによって実現されるようになります。
9-1)セーター(交換価値:Kと交換できる/1枚必要)→K(使用価値:塩むすびと交換できる交換価値を持つ/k1個必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
なお、「諸交換価値を持つ」というKの使用価値の特徴から、7-0)の関係式ではセーターの交換価値を実現する枚数は何枚でも可能でした。しかし9-1)の関係式では、飢えを満たすという使用価値を実現するために必要なセーターの枚数は最終的に塩ムスビの使用価値によって規定・制限されるのです。
この点は、商品・貨幣の資本への転換を考える際に重要となる視点です。セーターは1枚から売ることができますが、セーターあるいはそれと交換された貨幣が資本となるためには、労働力など資本活動に必要な“もの”の使用価値に規定された一定以上の大きさが必要という根拠は、この関係式から導きだされるからです。
《売ることは買うことという錯覚》
ところで、次のように「売る」関係式の左辺に登場するのはあらゆる商品であり、右辺は貨幣です。そして、「買う」関係式では左辺に貨幣が、右辺に全商品が登場します。
売る)全商品→K
買う)K→全商品
このような一見鏡像的関係から、「売る」ことは「買う」こと、言い替えれば交換とはAとBとが互いに交換され合う対称的関係であるという錯覚が生まれてしまいます。資本論の理解を妨げる最大の錯覚です。
A→Bという交換は同時にB→Aという交換であるという貨幣の登場とともに強化された錯覚は、A=Bという錯覚に行き着きます。ところで、AとBの使用価値が異なることは誰の目にも明らかであり、他方AとBがともに価値という要素を持つことから、交換とは等しい大きさの価値同士の交換・等価交換という誤謬が生まれてしまいます。そしてそれは、貨幣の素材となった“もの”の使用価値がもはや問題にされないという貨幣特有の性格と結びついて、貨幣を価値そのものが実体化した存在とみなす誤謬へと発展していきます。これこそが、「貨幣の物神化」とマルクスが批判した考え方の根拠です。
改めて強調しますが、すでに見てきたように、そしてマルクスが執拗に示唆しているように、交換とはAのある要素(交換価値)がBの別の要素(使用価値)と関係する非対称の関係です。A=Bではなく、AはBであるという関係なのです。この点は絶対に曖昧にしてはなりません。
《価値の大きさの規定》
では、商品と貨幣との交換関係において、価値の大きさはどのように規定されるでしょうか。
商品社会の中に新たに登場した1枚のセーターは、7-0)の関係式の中で貨幣と交換されることによってはじめて、自分自身が社会的に必要とされた使用価値を持つことを証明します。それは、セーターの生産に費やされた労働が社会的に必要とされた労働、つまり抽象的人間労働とカウントされること、価値を生み出したということの立証なのです。
ところで、すでに素材の直接の使用価値が問題とされない貨幣の場合、例えば貨幣としての金の一定量がどれだけの大きさの価値を持つか、その生産に使用された労働のどれだけが社会的に必要とされるか、計測する直接の方法はありません。つまり、貨幣の価値の大きさを直接測る手段はありません。ですから貨幣によってセーターの価値の大きさは規定されないのです。
ただ、すでに述べたように交換価値とは拡張された使用価値ですから、貨幣の交換価値の素材的担い手である8-1)の関係式の塩ムスビの価値、つまりその生産に使用された抽象的人間労働の大きさは計測可能です。そこから貨幣の価値はその交換価値の素材的担い手である塩ムスビの使用価値を担う塩むすび自身の(ここでは6個の)価値で間接的に規定されるのです。その結果、セータ−1枚の価値の大きさも、同様に塩ムスビ6個を生産するために費やされた労働時間によって規定されます。要するに、7-0)と8-1)の合成である9-1)が、セーターの価値を規定する関係式でもあるのです。
《等価交換で比較されるもの》
ところで、セーター1枚が貨幣経由で塩ムスビ6個と交換されるということは、セータ1枚の価値と塩ムスビ6個の価値が等しい、つまりその生産に費やされた労働時間が等しいということを意味するでしょうか。そんなことはありません。実際、商品は、価値ではなくそれを基準に変動する価格に従って交換されます。等価交換とは、現実の交換ではなく、交換の基準となる原則なのです。だから交換の対称的関係つまりA=Bを等価交換の根拠とすることもできません。
すでに述べたように、セーターの価値を決める関係式は次の様なものでした。
9-1)セーター→K→塩ムスビ
ところで、貨幣Kの使用価値の特徴からこの関係式の最右辺には全商品が存在します。
9-2)セーター→K→テント
9-3)セーター→K→商品X
…
その中には当然、次の関係式も含まれます。
9-0)セーター→K→セーター
ここで、両端の同じセーターが等しい大きさの価値を持つだろうことが想定されます。そしてすでに見たように「K→」の交換関係において、右辺の塩ムスビ、テント、商品X、セーターの価値の大きさは等しいことがわかっています。つまり、9-1)の左辺のセーターの価値の大きさは、9-0〜3…)の関係式の相互関係によって間接的に決定されるのです。
結論です。
第一に、等価交換で比較される価値の素材は商品と貨幣ではなく、貨幣を媒介とする二つの交換の最左辺である商品と最右辺である商品である。
第二に、等価交換の原則は、個別の交換で成立する原則ではなく、商品交換が日常化した商品社会の諸交換をとおして実現する間接的関係である。だから複数の交換関係の統計的平均として等価交換が実現する。これが等価交換の原則なのです。
ここに等価交換が、個別交換の原則ではなく交換の基準となる原則であることの理由があります。そしてその点についての曖昧な理解や誤解が、貨幣物神化のもう一つの根拠となっているのです。
長くなりましたが、ここまで『資本論』冒頭でマルクスが展開した論理を関係式という形で整理し、たどってきました。あらゆる科学は、その出発点をしっかり理解すればその先の理解は比較的容易です。「交換」の論理や使用価値、交換価値、価値の間の関係、貨幣や商品の性格を理解すれば、第2編「貨幣の資本への転化」以降は必然的な論理の発展として容易に理解できるでしょう。そこで今回はここでひとまず筆を止めることにします。
<経済学批判でのベイリー批判>
投稿者:
杉本
投稿日:2009年10月22日(木)00時06分15秒
返信・引用
次ぎのは10年ほども前になると思うのですが、ある資本論のメーリングリストに書いたものです.ここに再録させてください.
経済学批判でのベイリー批判
私は、#381で資本論草稿集7ベイリー批判を・・・・・
「私は、私の著書の第一冊(経済学批判)で、私的交換に基づく労働を特徴づけているのは、労働の社会的な性格が物の「属性」として-転倒して-「表わさ」れ、また、社会的な関係が物(生産物、使用価値、商品)のあいだの関係として現象することだ、ということを述べておいた。例の呪物崇拝の使徒は、この外観を、ある現実的なものと解し、そして実際に次のように信じている。すなわち、物の交換価値は、物としてのその属性によって規定され、一般にその物の自然的属性である、と。」・・・・・・・・・・・と紹介しました。
それで、もう忘れていた、『経済学批判』を、引っ張り出してみたところ、そこに、マルクスの問題意識が、新鮮に浮かび出ていますし、リカードの、「抽象的価値」を、如何に包括したのかも述べられていました。第2の点は、ベイリー批判の進行を、読む人それぞれの問題意識のなかで総括することが肝要なので、将来の楽しみに取っておきます。えらそうなことをのべた#381の反省です。
あらためて、経済学批判でのベイリー批判
最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。一個の使用価値が交換価値としてほかの使用価値に関連するかぎりにおいてのみ、いろいろな人々の労働が、同質な、一般的なものとしてたがいに関連しあう。
だから交換価値とは人と人とのあいだの関係である、
(註5「富とは2人の人の間の関係である。」ガリアニ『貨幣について』 )
というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。一ポンドの鉄と一ポンドの金とが、物理的化学的な属性を異にしているにもかかわらず同じ量の重さを表示しているように、同じ労働時間をふくんでいる二つの商品の使用価値は、同じ交換価値を表示している。こうして交換価値は、使用価値の社会的な本来的規定として、また使用価値が物としてもっているひとつの規定としてあらわれてくる。そしてまさにその結果、使用価値は、交換過程において一定の量的関係でたがいにおきかえられ、等価物を形成することになるが・それはちょうど単純な化学元素が一定の量的関係で化合して化学当量を形成するのとおなじようなものである。
社会的生産関係が対象という形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物同志の関係、および物が人にたいしてとる関係として表示されるということ、このことをありふれた自明のことのように恩わせるものは、日常生活の習慣にほかならない。
商品のばあいにはこのような神秘化はまだきわめて単純である。
(経済学批判P31〜32岩波文庫)
マルクスは、
「交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。」・・・・・・・・を次のように立証している。
(<・・・>は、○の注釈です。段落の区別はなく、読みやす いように編集しました。)
社会的労働時間は、これらの商品のうちにいわばただ潜在的にだけ実在しているのであって、これらの商品の交換過程のなかではじめてその姿をあらわすのである。
出発点は共同労働としての個人の労働ではなくて、逆に私的な個人の特定の労働、つまり交換過程のなかではじめてその本来の性格を止揚することによって一般的社会的労働であることを証明する労働である。
だから、一般的社会的労働とは、すでにできあがっている前提ではなく、できあがってゆく結果なのである。
<どのように、一般的社会的労働に、商品の交換過程が結果していくのか?>
そこでまた新たな困難が生ずる。というのは、一方では商品は対象化された一般的労働時間として交換過程にはいってゆかなければならないのに、他方では個人の労働時間が一般的労働時間として対象化することそのものが、交換過程の産物にほかならないということである。どの商品も、その使用価値の、したがってその元来の実在の脱却〔譲渡〕によって、交換価値としてのそれにふさわしい実在をうけとるべきはずのものである。
だから商品は交換過程でその実在を二重化しなければならない。他方では、交換価値そのものとしてのその商品の第二の実在は、ほかの一商品であるよりほかにない。なぜなら交換過程で相対立するのは商品同志だけだからである。
それではどういうふうにしてある特定の商品が、直接に対象化された一般的労働時間として表示されるのか、あるいは同じことだが、ある特定の商品に対象化されている個人的労働時間が、どのようにしてそのまま一般性という性格をもつようになるのか?一商品の、つまり一般的等価物としてのそれぞれの商品の、交換価値の現実の表現は、つぎのような等式の無限の総和であらわされる。
1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー
1エレのリンネル=1/2ポンドの茶
1エレのリンネル=8ポンドのパン
1エレのリンネル=6エレのキャリコ
1エレのリンネル=等々
商品が-一定量の対象化された一般的労働時間としてただ考えられていたにすぎないあいだは、この表示は理論的であった。
一つの特定の商品の一般的等価物としての定在は、右の等式の系列を単純に顛倒することによって単なる抽象から交換過程そのものの社会的結果となる。
<ここに抽象的価値が総括されていたのです>
そこでたとえば
2ポンドのコーヒー =1エレのリンネル
1/2ポンドの茶 =1エレのリンネル
8ポンドのパン =1エレのリンネル
6エレのキャリコ =1エレのリンネル
コーヒー、茶、パン、キャリコ、簡単にいえばすべての商品が、そのもののなかにふくまれている労働時間をリンネルで表現することによって、リンネルの交換価値は、逆に、リンネルの等価物たるほかのすべての商品のうちにみずからを展開し、そしてリンネルそのものに対象化されている労働時間は、直接にほかのすべての商品のさまざまな分量でひとしく表示される一般的労働時間となる。
このばあいリンネルは、ほかのすべての商品のリンネルヘの全面的なはたらきかけ
によって、一般的等価物となるのである。
<商品世界の共同行為という、社会的過程が示された・ここには、人間様の意志行為は介入できません>
交換価値としては、どんな商品もほかのすべての商品の価値の尺度となっていた。ここではそれと逆に、すべての商品がその交換価値を特定の一商品ではかることによって、この除外された一商品が交換価値の恰好な定在、一般的等価物としてのその定在となるのである、これにたいして、それぞれの商品の交換価値が表示されていた無限の一系列、あるいは無限に多数の等式は、ただの二項からなる単一の等式に短縮される。
2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル
が、いまやコーヒーの交換価値を完全にしめす表現である、というのは、この表現では、リンネルはそのままほかのあらゆる商品の一定量にたいしても等価物としてあらわれるからである。だから交換過程の内部では、いまや諸商品は、リンネルの形態をとった交換価値としておたがいに存在しあい、あるいはおたがいにあらわれあうのである。
すべての商品が交換価値としては、対象化された一般的労働時間の異なった量としてのみたがいに関連しあうということは、いまやそれらの商品が、交換価値としてはリンネルという同じ対象の異なった量のみを表示するにすぎないということとなってあらわれる。
だから一般的労働時問もまた、それはそれとして、ひとつの特定の物として、ほかのすべての商品とならんで、しかもその外にある一商品として表示される。
<等価リンネルが、自然的形態であり、等価形態が量的規定性を持って、現れるので、リンネルに表示される一般的人間労働も、自身の生成の過程を消され、人間労働の関係の外・物と物の関係の姿で現れる。>
けれども同時に、商品が商品にたいして交換価値として表示される等式、たとえば
2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル
は、なおこれから実現されなければならない等置関係である。使用価値としての商品の譲渡は、商品がひとつの欲望の対象であることを交換過程のなかで実証するかどうかにだけかかっているのであるが、この譲渡によってはじめて、商品は、コーヒーというその定在からリンネルという定在に現実に転化し、こうして一般的等価物の形態をとり、現実にほかのすべての商品にとっての交換価値となるのである。
反対に、すべての商品が使用価値として脱却する〔譲渡される〕ことによってリンネルに転化するそのことをつうじて、リンネルはほかのすべての商品の転化した定在となる、しかもすべての商品がリンネルにこのように転化する結果としてのみ、リンネルは直接に一般的労働時間の対象化、つまり全面的脱却〔譲渡〕の産物、個人的労働の止揚の産物となるのである。
諸商品がたがいに交換価値としてあらわれあうために、その実在をこのように二重化するとすれば、一般的等価物として除外された商品も、その使用価値を二重化する。それは、特定の商品としてのその特定の使用価値のほかに、ひとつの一般的使用価値をもつにいたる。
こういうその使用価値は、それ自体、形態規定性である。
つまりそれは、交換過程でほかの商品がこの商品にたいして全面的に働きかける結果この商品が演ずる特殊の役割から生ずるものである。
<一般的等価物リンネルが、自然的形態でありながら交換価値として現れるのは、無限の連鎖としてある一般的相対的価値形態・・・・の形態規定・・・・を受けているからであり、一般的価値形態の役割を果たしているからだと。>
ある特定の欲望の対象としての各商品の使用価値は、さまざまな人の手中でさまざまな価値をもち、たとえば、それを譲渡する人の手にあっては、それを取得する人の手にあるのとは異なった価値をもっている。一般的等価物として除外された商品は、いまや交換過程そのものから生ずるひとつの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手であり、一般的交換手段であるという同じ使用価値をもっている。
こうしてこの一商品においては、商品が商品としてそのうちにもつ矛盾、特定の使用価値であるとともに一般的等価物であり、したがってだれにとってもの使用価値、一般的使用価値であるという矛盾が解決されている。したがってほかのすべての商品は、いまや、まずそれらの交換価値を、この排他的な一商品との観念的で、これから実現されるはずの等式として表示するのにたいして、
この排他的な商品にあっては、その使用価値は現実的なものであるにもかかわらず、過程そのものにおいては、現実の使用価値に転化してはじめて実現されるべき単なる形態定在としてあらわれるのである。
がんらい商品は、商品一般として、特定の使用価値に対象化された一般的労働時間として自已を表示していた。交換過程においては、すべての商品は、商品一般としての排他的な商品に一特定の使用価値における一般的労働時間の定在としての一定の商品に関連する。
だから諸商品は、特定の商品として、一般的商品としての特定の一商品に対立して関係するのである。
したがって、商品所有者たちが一般的社会的労働としてのかれらの労働に相互に関連しあうということは、かれらが交換価値としてのかれらの商品に関連するということに表示され、交換過程における交換価値としての商品同志のあいだの関連は、諸商品の交換価値の恰好な表現としての特定の一商品にたいするそれらの全面的な関連として表示され、そのことはまた逆に、
この特定の商品の、ほかのすべての商品にたいする特殊な関連としてあらわれ、そのためにまたひとつの物の、一定の、いわば自然発生的な、社会的性格としてあらわれる。
<相対的価値形態と等価形態の二つの役割を忘れると、一般的等価リンネルは、交換の歴史的自然発生的な社会の成長から生まれ、その性格を貨幣が受け継ぐように見えると。>
このように、すべての商品の交換価値の恰好な定在を表示する特定の商品、あるいは特定の排他的な一商品としての諸商品の交換価値―それが貨幣である。
それは、諸商品が交換過程そのものにおいて形成する、諸商品の交換価値の結晶である。
だから諸商品は、すべての形態規定性をぬぎすてて、直接の素材的な姿態でおたがいに関連しあうことによって、交換過程の内部でおたがいにとっての使用価値となるのであるが、・他方交換価値としておたがいにあらわれあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣の形成にまですすんでゆかなければならない。
商品としての使用価値の定在が象徴でないように、貨幣も象徴ではない。ひとつの社会的生産関係が、諸個人の外部に存在する一対象〔貨幣〕、として表示され、またかれらがその社会生活の生産過程においてとりむすぶ一定の諸関連が、ひとつの物の特殊な属性として表示されるということ、このような顛倒と、想像的ではなくて、散文的でリアルな神秘化とが、交換価値をうみだす労働のすべての社会的形態を性格づけている。貨幣のばあいには、それが、商品のばあいより、もっとはっきりと、あらわれているだけである。
(岩波文庫P48〜53)
「だから諸商品は、すべての形態規定性をぬぎすてて、直接の素材的な姿態でおたがいに関連しあうことによって、交換過程の内部でおたがいにとっての使用価値となるのであるが、・他方交換価値としておたがいにあらわれあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣の形成にまですすんでゆかなければならない。」
マルクスは、このように<形態規定>を遂行することで、ベイリーの物的関係としての商品関係を批判し、この形態規定された価値形態が、貨幣形態を生成する必然性まで、見とうしていたのですね。このように、資本論の回り道は、形態規定の論理ですし、細胞形態を分析する礎石なのです。こうして、振り返ってみると、まったく自身の曖昧さに感心します。資本論2章での貨幣の生成の前段までですね。以上です。
>「タダモノ」論・・・・とベーリの呪物崇拝
投稿者:
杉本
投稿日:2009年10月21日(水)06時22分48秒
返信・引用
自由ネコさん
>唯物論というのは結局、目の前に存在するただのモノから出発し、それに関して考えていくクソ・リアリズムの考え方だと思っています。唯物論を何か「タダモノ」論以上の高尚な哲学だなどと考えるところに歪みと腐敗が始まるというのが、私の考えです。
>「タダモノ」論
「タダモノ」論支持者とは、・・・・・反スターリン主義運動40年の自由ネコさんがおっしゃるとは思いませんでした.
「タダモノ」論とは、失礼ながら次ぎの見解を云うものと思っていました.
チガウノデスカ?
「すなわち、物質、自然、存在は、意識のそとに、それとは独立に存在する客観的実在であり、物質な感覚、表象、意識の源泉であるから、物質こそ第一次的であり、意識は物質の反映であり存在の反映であるから、第二次的であり派生的であり、思惟はその発展において高い完成度にたっした物質の所産、すなわち頭脳の所産であり、その頭脳は思惟の器官であること、だから、大きな誤りをおかすまいと欲するならば、思惟を物質から切りはなしてはならない、ということから出発する。」(『弁証法的唯物論と史的唯物論について』)
http://www.geocities.jp/mlismtxt001/kokuminbunko205/p096.html
意識は物質の反映とする反映論でもあります。
そして、「タダモノ」論とは、まさに、次ぎの見解なのですよ.
>つまり土地の生産力は、価値をもっていることになり、・・・・」(同上P274)・・・・と述べているのと同じだと。
マカァロクの唯物論的な呪物崇拝
価値は物の属性とするベーリの見解をさして、マルクスは「呪物崇拝」と批判していましたし、交換比率は、諸交換価値でしかなく相対的なもので、そこには、絶対に、物とは異なる人間の関係など含んでいない.人間の労働量など尺度とすることなぞできず、物の属性である価値があるのみだ・・・・として、リカードの労働価値論を批判していたのですね.ベーリこそタダモノ論なのです.
自由ネコさんは、すくなくとも リカードの労働価値論 を認めるのではないのですか?
労働時間は価値の内在的尺度であって、だから価値の外在的尺度とする商品の価値も相対的なものであって、不変の価値尺度である必要はなく、・・・・と整理したマルクスのとき方に習えば、少なくとも、労働価値説の有効性は保たれますよね.
このリカードよりもベーリのかたを、自由ネコさんはお持ちになるのですか?
勿論、スターリン派・経済学教科書は、労働時間による価値規定を認めていますが、
使用価値の交換比率から導き出した実体からであって、社会的規定としての交換価値からではないでしょう。使用価値・労働生産物の属性としての価値であれば、呪物崇拝者としてのベーリとどこが違うのですか?
タダモノ主義者です。それが何か?
投稿者:
自由ネコ
投稿日:2009年10月20日(火)00時32分33秒
返信・引用
編集済
こんばんは
とりあえず誤解がある様なので、
私は「タダモノ」主義者という言葉で自分を卑下したつもりもありませんし、「タダモノ」主義者が悪口だとも思いません。
唯物論というのは結局、目の前に存在するただのモノから出発し、それに関して考えていくクソ・リアリズムの考え方だと思っています。唯物論を何か「タダモノ」論以上の高尚な哲学だなどと考えるところに歪みと腐敗が始まるというのが、私の考えです。もっとも、「哲学なんて無意味だ」と公言して周り中の同志からひんしゅくをかったことがありますので、あまりおおっぴらには言わないようにはしていますが……。
私の投稿を読んでいただければわかっていただけると思いますが、私は高尚な理念なんかに興味はありません。人がどうやって生活手段を作り出し、どうやってそれを分配するか、主にそこらへんの具体論です。
マルクスが最後には哲学でも倫理学でもなく、経済学にたどり着いたのは、倫理だ哲学だといっても結局それは、人間が生きるための手段をどう生産し、どう分配するかという社会システムに規制され、そこからはなれることはできないという認識があったからでしょう。私はそう思っています。
ですから、「マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)」などと言われても、それがどのような生産システムをとっているのか、分配システムをとっているのか、明確に提起されていない段階では、私にとっては検討のしようもありません。革命21の「プログラム(骨子案)」も高尚すぎて、リアリズムが感じられないと言うのが私の感想です。
ただ、関生をはじめ革命21の主要な活動家の方々は、私がある党派の機関誌を作っていた時に何度か話をさせていただいた中で尊敬できる方達であると感じていますし、その運動にも敬意を持っていますので、好意的な関心を持ってみているという状態です。人は自分ついてどのようにいっているかではなく、どのように行動しているかで判断すべき、という考えに私も従いたいと思っていますので。
最後に、杉本さんがスターリンの様なやり方をしていると批判している訳ではありません。誤解を招いたならその点は謝罪します。どちらかと言うと杉本さんは、私が大学に入ったころ、同じクラスにいた解放派の活動家を思い出させます。やはり大変な勉強家で、論争していると杉本さんのようにマルクスやレーニンやらの引用が次々と出てきました。そこで私は次のように反論しました。
「あんたはそうした引用で、私の主張が間違っていることを示そうとしているようだけれど、次の可能性もあるのではないか。
第一に、引用文が正確ではない可能性
第二に、引用文が正確であっても、一部を切り取ったことで趣旨が変わってしまった可能性
第三に、趣旨が変わっていないとしてもマルクスやレーニン自身が間違っている可能性
ところで、あんたはなぜ、マルクスやレーニンのその発言が正しいと思うのか、その根拠を示すべきだ」
彼は絶句してました。優秀な人物でしたので、その後順調に「出世」していったようですが。
しかし、マルクスやレーニンがある発言をしているからといって、それだけでなぜそれが正しいとなるのか、いまだに私には理解できません。
商品・貨幣・資本の廃止という課題
投稿者:
杉本
投稿日:2009年10月19日(月)12時39分6秒
返信・引用
編集済
自由ネコさん
>私は「タダモノ」主義者なので、
よかですか・・・・・、私はあなたがタダ物論などとは一言も評していません.そんな悪口、卑下するために、膨大な時間を使って、パソコンに向かっていません。私は貧乏ですから、上さんの白い目に耐えながら・・・・です。
>唯物論者を自認する方に観念論などというのは相当失礼
―――と評したのは貴方です。
自由ネコさんのお考えが、初期社会主義、あるいは哲学的に言えばフォイエルバッハに似ているなと考え、マルクスのその止揚の仕方はどうであったのか????を私も学び、勉強し、探るために次のように述べたのです。私は、貴方の主張に学んでいるわけです.
>唯物論ではなく観念論だと、ホジスキンこそが、「自身の意思や人格を授けられている労働の被造物」を見出すことへの批判をしていたのです。
ホジスキンの評に対して
>これは「まったく主観的な錯覚」ではなく、見えざる真実
―――と批判しています。
次のところですね.
>この関係では労働生産物が事実上の抽象と判断を行い――
というのは、「自身の意思・・・を授けられている労働の被造物」のことなんですね。これは「まったく主観的な錯覚」ではなく、見えざる真実なんですから、超感性的なものですね。
経済的諸範疇の人格化について述べられているのは資本論と経済学批判では次ぎの個所でした.
以下のとおりです。
>経済的諸範疇の人格化
――というのは、リカードそしてベーリの両者への批判なんです。このように学び取る党派が今までいましたか?自らの依拠した学説を対象化することで学んでほしい、反スターリン主義運動の総括点を提案してほしい・・・・と提案しているわけです.
自由ネコさん
>マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく、「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」事によってしか生成されない」という主張には当面の目標としては反対しませんが、国家権力を誰に移そうが国家権力とは抑圧のシステム以外のなにものでもありませんから、必ず抑圧された者による抑圧する者に対する抵抗と反乱は不可避です。
自由ネコさんは読み取っているとは思いますが、
「マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく」
―――に力点・強調点・総括点・主張があるわけです.
関生労組は、産別労組と事業協同組合の形態で、「アソシエーション」の形成に取り組んでいます。この意義が汲み取れませんか?
「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」
にたいして、
>国家権力を誰に移そうが国家権力とは抑圧のシステム以外のなにものでもありません
――という批判は理解できます。
「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移すことで廃止させていく」
――という表現ではどうでしょうか?
国家の死滅は、商品・貨幣・資本を廃止していく内でなされていくというのは共通確認ではないのですか?
誤解は取れましたでしょうか?
>マルクスやレーニンの膨大な著述から一部を切り取って政敵攻撃の道具とし始めたのはスターリンと、その方面の研究者から聞いたことがあります。
>政敵
貴方は「自由ネコ」さんであって、私は『革命21』に心寄せる人としか受取れませんし、私には政敵も居りません。大幹部でもなく、一介の『革命21』を形成する会員でしかありません。攻撃しているわけでもありません.
>マルクスやレーニンの膨大な著述
――申し訳ありません。資本論一章の解読が、自分の言葉で話せるようにするには、まったくの力不足ですし、むしろ、他者の解釈を手本として、それへの批判という手段による方がよいのでは・・・と今は思っています。そうでなければ、無学な労働者(私の経済学はまるっきり独学です)は、資本の人格化・物象化についてとても語ることが出来ないです。
リカード・ベイリー論争への解決点をマルクスはこう提案しています.
資本論一章の最後です.
(36) 『考察』の著者やS・ベイリーは、リカードが交換価値を単に相対的なものから絶対的なものに転化させたと言って、リカードを責めている。逆である。彼は、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。リカード学派のベイリーに対する反論が粗雑であり、適切でなかったとすれば、そのわけは、彼らがリカード自身のうちに、価値と価値形態または交換価値との内的関係について何の解明も見いださなかったからにほかならない。
「ダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。」
このように交換価値の背後に人間労働の社会関係を見出したことが古典派経済学の功績ですよね.
しかし、この社会的意識の下では、
「真の富は・・・・・人間である。」あるいは、「生産的資本と技能的労働とは一つのものである.」として、、「私たちに必要なのは資本であって、資本家ではない」という意識が生じるのです。
これでは、「アソシエーション」として、商品・貨幣・資本の廃止という課題を立てることもできないんです.
ちなみに
投稿者:
自由ネコ
投稿日:2009年10月18日(日)22時11分35秒
返信・引用
杉本さんはいろいろな引用を紹介して下さいますが、実はマルクスからの引用を含めてほとんど読んでいませんし、内容的検討はまったくといっていいほどしていません。そうした引用が示しているのは、過去にそのような文章を書いた人物がいたという以上のものではありません。その文章が仮に逐語的に引用されているとしても、引用された著者の主張を的確に示しているかどうか保証されていません。その主張の全体系の中で検討してはじめてその部分の主張の意味が確定する訳ですから、一部を取り上げて論じても意味ありません。何より、杉本さん自身の主張そのものではないことは間違いないですから、私には興味ありません。
マルクスやレーニンの膨大な著述から一部を切り取って政敵攻撃の道具とし始めたのはスターリンと、その方面の研究者から聞いたことがあります。マルクスやレーニンの無謬性を前提にしてはじめて意味のあるやり方ですが、私はそうした立場にも立っていません。
あまりに抽象的な……
投稿者:
自由ネコ
投稿日:2009年10月18日(日)21時37分0秒
返信・引用
杉本さんこんばんは
いそがしくて、しばらくこちらには来れませんでしたが、「『20世紀社会主義』の挫折の総括」を拝見しました。
「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」とはどういうことなのでしょう。私は「タダモノ」主義者なので、例えばその年に何台の自動車を生産するのを決めるのは誰なのか、ある土地に米を植えるべきか、キャベツを植えるべきかどうやって決めるのか、そうしたことが明らかにされないと、賛成とも反対とも判断できません。
黒寛の『社会感の探究』は、学生運動をはじめたころ最初の10ページほどを読んで、「ああ、この人は何もわかっていないから、文章がこんなに支離滅裂なんだ」読むのをやめた記憶があります。大切なことは、きれいな言葉や難しい専門用語を並べることではなく、自分の思想を的確にかつ誰にでもわかる言葉で、具体的に想像できるように語ることだというのが私のスタンスです。
高木さんの「問題は 共産主義は協同組合労働といわれるように そこに働く労働者全員が 平等な「賃金」であるとともに「経営」にかかわれるようにすることが重要」という主張も、平等かどうか誰が判断するのか、その基準はどうなのか、「経営にかかわる」といった場合、経営の決定権のどれが誰に与えられるのか、具体的に提案されない限り意味はないと言うのが私のスタンスです。
労働証書制などのもとでも「平等の賃金」などが問題にされる限り不平等は残るというのが、少なくとも70年代の新左翼の共通理解だったと思います。
「一つの協同組合が 工業だけでなく農業も担うことで 工業と農業間の格差の「解消」に心がける」という文章については、例えば一つの協同組合が一方で自動車を生産して、もう一方でキャベツを生産したからといって工業と農業間の格差が解消されるとは思えませんし、「心がける」だけなら単なるスローガンでしかないと私は思います。協同組合間の格差はどうなるのでしょう。すべての工業生産と農業生産を一つの協同組合が行うという趣旨なのでしょうか。その場合も、組合員の間の格差の問題は残るでしょう。
現在のコングロマリットの中には、工業生産だけでなくアグリビジネスも分野としているものもありますが、それで「格差解消」が進んでいるとも思えません。
何より、「平等」というのは不平等の一種、民主主義とは抑圧の一種と考えるマルクスの発想の方に私は共感を覚えます。
「マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく、「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」事によってしか生成されない」という主張には当面の目標としては反対しませんが、国家権力を誰に移そうが国家権力とは抑圧のシステム以外のなにものでもありませんから、必ず抑圧された者による抑圧する者に対する抵抗と反乱は不可避です。そしてシステムを維持しようとすれば、抑圧は「暴力の表面化」として強制と弾圧のシステムとして現れるしかありません。この点を自覚しないで、最も暴力が表面化する革命を語ることはとても怖いことです。
以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。
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