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久留間理論の継承者が、語ること

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月20日(日)14時23分42秒
返信・引用
  https://repository.lib.gifu-u.ac.jp/bitstream/20.500.12099/47672/1/reg_040026003.pdf

    価値形態論の課題 と論理次元一価値形態 「発展」 の否定
    神 田  敏英

   経済学研究室
(1990年10月17日受理)岐阜大学教養部研究報告第26号 ( 1990) 23
The Subject of the Theory of Value-form,
and its theoretical Dimension

   Toshihide KODA
P23
  1. 価値形態論の位置
 価値形態論は,『資本論』の叙述の中で マルクスが大いに苦心した箇所の一つであり, エングルスの助言も容れ,『経済学批判』,『資本論初版』,『同第2版』とかなり書き変え, 尚, いささか ( ? ) 難解であろうと自認している所である。その設定と展開は, 古典派経済学とマルクスを明瞭に分ち, マルクスの論理と方法とを端的に示している。 それ故,多くの論者をひきつけ検討されてきたが, その抽象的論理的性格からして論者自身の視点が問題となり,なかなか意見の一致しないあるいは意見の分れる所でもある。
 私は, 価値形態論の内容と論理次元を明確にするためには, それだけを切り離してはいけない, と考える。マルクスは, 資本制生産様式分析の出発点に価値論ではな く商品論を置き,その中軸に,「私が始めて批判的に指摘 したものである」と誇り,「経済学の理解にとって決定的な跳躍点である」と強調する「労働の二重性」を据えた。 価値形態論も商品の物神性論も当然それによって設定された。 即ち,マルクスの価値形態論は, 労働の二重性論に従って商品世界が解明されてゆく二過程以外の何物でもない。労働の二重性にもとづく展開を否定すれば, その価値形態論の内容と展開は, 現にマルクスのものとは全く別様になってしまう1)。

 もう少し詳しく見る。 『資本論』第1巻第1篇 (以下, すべて『第1巻』なので, ただ篇,章だけ記す) は,まず商品を設定 してその二面性を指摘し,次にその根源た る労働の二重性を解明す る。その次に, 第3節で, 冒頭に「交換価値」として掲げた「価値形態」をあらためて独自の課題として定立・分析し, 最後に, 当該の商品章を いわば商品生産社会の総括的分析・反省として商品の物神性論で閉じる。 次いで, 章をあらためて交換過程を論じ, そこで (一般的等価物2)」= 貨幣の必然的形成を論定して, 第3章貨幣に移る。 この展開は, 同一篇の中でも商品と貨幣を次元の異なるものとして分ち, 両者の媒介項をも一章として独立させ, 自然に見える。しかし, それは周知の一問題を含む。 即ちレ商品章の一部, しかもその終節ではない価値形態論において, 既に「貨幣形態の生成」 が定立されている事である。 そ

P24
れはまさしく交換過程に於いて形成される貨幣と同一とされているのだから, 直ちに両者の関連が問題となる。むろん, 同一事を二重に描く事は無用である。実際, 宇野弘蔵氏及び宇野学派は, このマルク スの叙述= 論理展開に納得せず, 貨幣形態の生成を事実上価値形態論だけに純化する3)。しかし, 私は, 両者の分離, 換言すれば交換過程が小なりとはいえ1章を与えられている事, の意味を追跡 し, その正当性を考えてみたい。私は, マルクスにあっては叙述の区分には明確な序列がある, と考える。それが私の視点である。

   2. 価値形態論の設定 とその課題
 (1) 価値形態論の課題
商品の価値形態は, 労働の二重性に基づいて価値の実体が解明された後も, 尚, 「どう扱ってよいか分らぬ代物」, 解明すべき「価値対象性」として提起 される。そこに価値形態論が,いわば歴史貫通的な労働の二重性 と異なる次元に属する問題である こ とが示されている。「とはいえ, 諸商品は,ただそれらが人間労働という同じ社会的単位の表現である限りでのみ価値対象性を有していること,従って商品の価値対象性は純粋に社会的であること, を思い出すならば, 価値対象性は商品と商品との社会的な関係の内にしか現れえないこともまた自から明らかである4)。」ここで, 商品の価値形態はまさに価値実体に根拠をもっていることが確認され,それに応じて分析対象が提示される。かくして, そこにその成立条件 も明示される。
即ち, 人間労働という共通性の存在, 二商品の関係形成, これが必要十分条件である。 とはいえ, マルクスが密接に結びつけている, 否, 論理展開の序列の中に位置づけている, このたった 2つの条件が, 多くの論者によってその結びつきあるいは同一性を批判 されるのではあるが。

 今一つ。マルクスはかく価値形態論の対象即ち解明すべき課題を提起した後, 直ちに,「今ここで為さねばならない事は, (中略) 貨幣形態の生成を示すこと, 即ち商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最 も単純な 目立たない姿から輝く貨幣形態に至るまで追跡することである。 これによって同時に貨幣の謎も消え去る5)」, と言う。 マルクスにあっては, さきに提起された課題の解明が, 同時にあとの結果をもたらす, と考えられているのは間違いない。 とはいえ, 少ないとは言えない第 3節の叙述は, 一見, 上の二つの課題を別々に解明しているかのようにも見える。 むろん, それは正しくないが。 尼寺義弘氏はその関係をこう説明する。

「価値形態論の論理構造は二つの側面に分けて説明することができる。一つは, 商品形態の分析によって得られた価値の概念から単純な価値形態の発生を証明することである。 もう一つは, 単純な価値形態から貨幣形態までを形態的に展開するこ とである。 二つの側面はともに価値概念の貨幣形態への展開の不可欠の側面である といえる6)。」

 尼寺氏は,「価値概念の貨幣形態への展開」として2つの側面を統一する。 論理展開の一貫性がある, ということである。私は, 反対に, この 2つの側面は論理的に一貫していないと考え, それを示すのが本論文の一目的である。
 花田功一氏はこう設定する。(価値形態論の課題は, ……価値概念から貨幣発生の必然性を論証することにある7)。」 課題は明確に一本化される。

ここでも私の考えは, まさに逆, 価値概念から貨幣発生の必然性は論証されない, いや, 貨幣不発生の必然性が論証される, とい

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う事である。

  (2) 「単純な価値形態」 の設定
 「価値対象性」は「商品と商品との社会的関係」として提起された。他方, 最初にマルクスが提起した価値形態は,「最も単純な価値関係」として「一商品のための最も単純な価値表現」即ち「単純な,個別的な, または偶然的な価値形態 (以下, 呼称の意味を論ずる場合を除き,「単純な価値形態」と記す)である。両者は, 形は同一であるが, その提起の仕方から来る論理的意義は同一ではない。 価値対象性から提起されたとすれば, それは全き価値の概念から生み出されたはずだから,「単純」かつ「個別的」ではあっても 「偶然的」であるはずはなく, ましてや未発達ではない。 他方, その呼称にふさわしいものとしては, それはまた「萌芽形態上とも呼ばれ,その後の「発展」を予定している。既に, 「単純な価値形態」の提起に於いて二層の論理が交錯しているのだ。この点をさらにマルクスに即 して見よ う。
一方, 交錯過程論に於いて。 「直接的生産物交換は, 一面では単純な価値表現の形態を持っているが, 他面ではまだそれを持っていない。 この形態は, X量の商品A = y量の商品Bであった。直接的生産物交換の形態は, X量の使用対象A = y量 の使用対象Bである8)。」「(直接的生産物交換では) 交換される物品は, それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にはかかわりのない価値形態をまだ受け取っていない9)。」

ここに, 二物の関係 とい う形態的同一性よ りその内容的差異が重視さ れているのを見る。「単純な価値形態」は,まさに所有者=交換者の欲望とのかかわりに於いて, 直接生産物交換の形態と区別されているのだ。 ここで の規定はまさ に価値概念に照応 している。

他方, 第3節中に「この (単純な) 形態が実際にはっきりと現れるのは, ただ, 労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけの事である10)。」

ここでは,「単純な価値形態」は直接的生産物交換と同一視される。明らかに, 上の2つの命題は矛盾する。後の文は,「単純な価値形態」を「一般的価値形態」に比較している所で現れるのだから, 「発展」 の論理から と らえた規定 といえよ う。 2 つの論理のいずれが「単純な価値形態」 の内容を適切に表 しているで あろ うか。

提起された「単純な価値形態」に於いては, まずその両辺の対極性が指摘され, 価値表現の仕方が説明される。その次にしかし, この価値形態= 価値表現が可能なのは,「ただ同じ単位の表現としてのみ」であることが確認 される。即ち, 価値実体に基づく価値等式がその基礎にあるのだ。 この点で, 「単純な価値形態」 は, 冒頭の価値形態提起を承けている。
即ち,「商品と商品との社会的関係」 の具現で ある。
その上で, マルク スはかの共通の実体が両辺の対極的役割に よって表現される事は, 価値表現だけに固有ではない事を,酪酸と蟻酸プロピル,重量物としての棒砂糖と鉄, の例によって示す。
差異はただ, =一方は 「両方の物体に共通な 自然属性」, 他方は 「純粋に社会的なある物」, たる点のみにある, と。これらの例は, その様式に於いて価値表現の仕方と共通である, と言われているのだから, 単なる比喩以上である。この比較はマルク スの価値形態論を端的に特徴づけている11)。

  (3) 商品所有者の欲望または主観の役割
マルクスにあっては, 共通な実体に基づく価値等式, それが「単純な価値形態」の必要かつ十分条件である。そのさい, この条件は定量規定をも併せ持っている。それに対し,宇野

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氏は真向か ら批判を浴びせる。

 「根本的な問題を提起して見たいと思う。リンネルが相対的価値形態にあって上衣が等価形態にあるという場合, リンネルは何故上衣を等価形態にとるに至ったか, それにはリンネルの所有者の欲望というものを前提しないでもよいだろうか。 そういう関係を離れて斯ういう形があ り得るだろ うか12)。」

 価値等式の形成にさいし, 商品所有者の欲望を認める事は, 価値等式に単に一条件を付加したということではすまない。 価値形態の内容も前後の論理展開も全く異なって こざるをえなくなる。まさに宇野氏は「根本的な問題」を提起 したマルク スにあっては, 商品所有者は交換過程に於いて初めて登場 して来るのであるから, 当然 こ こ価値形態論では存在せず,その欲望も語りようがない。 宇野氏にあっては, 所有者の欲望を入れる ことで, 価値形態の形成因を商品所有者の主観に帰す。即ち, 価値形態は客観的実在ではなく, 商品所有者の主観的表象である。かくして, 価値の実体規定は, 当然, 客観的実在だから, その価値形態から追放される。 あるいは, 商品論冒頭での価値実体規定を否定したから, その価値形態論が形成された, と言ってもよいであろうか。

 いずれにせよ, マルクスと宇野氏はここで決定的に分れる。商品所有者が, 頭の中で自己の商品と他の十商品を交換関係として結び付ける事は可能である。しかしそれは定量的規定をもっているはずがない。

 宇野氏 も, 所有者の欲望そのものが価値の定量的規定を与えるものではない,と言う。それ故, 商品は価値を持たずに価値形態を形成・発展させる。定量的規定はこの価値形態発展= 交換過程の進行の中で何処からともなく生まれてくるのであろう。それ故,金が現実に商品価値を尺度する, とも言われる。

    宇野氏の方法に対して, マルクスの次の文がまさにあてはまろう。
「商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって, 逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式から出てくるのではない。ところが, この逆の考え方は, 重商主義者やその近代的蒸し返し屋たるフェリエやガエルなどの妄想であるとともに,彼等 とは正反対の近代の自由貿易外交店員, バスティアやその仲間の妄想でもある・。」

マルクス説から見た,宇野理論の位置付は明白である。まさに, 宇野価値形態= 交換過程論は,商品所有者=交換当事者の表象をそのまま反映したものに他ならない。 -
 この宇野説に対し,久留間氏はこう反論した。

「簡単な価値形態において, ある特定の商品が等価形態に置かれているのなぜかとい う問題 と, 等価形態に置かれている商品の使用価値が相対的価値形態に立つ商品の価値と, はっきり区別して考えられうるし, また区別して考えられねばな らない二つの異なった問題である。この うち前の方の問題は, 相対的価値形態にある商品の所有者の欲望を考慮に入れる ことによってはじめて答えられるとともに, その欲望との関連を考慮することによって容易に答えられる。しかし後の方の問題はそうではない。 後の方の問題は, 相対的価値形態にある商品の所有者の欲望にも とづいてある特定の商品が等価形態に置かれているということが前提された上で, なお解明さるべく残るところの問題であり, そういうことを所与の事実として前提した上ではじめて独自の問題 と して設定されうる問題である14)。」

久留間氏は, 問題を二分して, 価値表現の問題を価値等式から展開した。それが, 氏独自のの「廻 り道」の論理であること, いう までもない。かくして, それは客観的実在の表現様式
となった。
しかし, 主張の前半はすっかり宇野氏の土俵に乗ったものであり, マルクスと全

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く異なること , 見たとおりであり, また多くの批判が既になされている所である15)。

   3. 価値形態の 「発展」 と 「一般的価値形態」
 (1) 「単純な価値形態」 の 「不十分さ」 と 「移行」 の論理「単純な価値形態 の位置付について 々ルクスに若干の混乱は見 られる ものの, 本筋は,
「商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出て来る」, とする ものであった。
これは,「単純な価値形態の全体」叙述の中の一文であるから, まさに「単純な価値形態」がかく定立された「商品の価値形態」に充当することを表す。即ぢ, 価値形態は申し分なく定立
され, その分析が完了している ことを意味する。

しかし, マルクスは, その直後, 突如価値形態はまた労働生産物の商品形態であ り, 商品形態の発展に合わせて価値形態も発展すべきもの, と言い出す。「単純な価値形態」は,「一連の変態を経て初め七価格形態にまで成熟する萌芽形態」であり,「その不十分さは一見して明らかだ」,とされる。突如,「発展」の見地が入って来 る よ うに見える。 奇妙な事である。

商品形態は, 既に発展した ものと して示されていたのではなかったか。当然,価値形態 もそれに照応 しているはずである。決して, 歴史的端初形態で はなからだはずである。ところが, 形態的端初性を持っているように言われるのだ 。
即ち, 「あ る一つの商品Bでの表現は, 商品Aの価値をただ商品A 自身の使用価値から区別するだけで あ り, 従ってまた, 商品Aをそれ自身とは違った何らかの一商品種類に対する価値関係の中に置く だけであって, 他のすべての商品との商品Aの質的な同等性と量的な割合とを表すも のではない16)。」

 そもそ も, 商品A の価値形態は, 自分の価値を自分の体で表現できないから, Bの体を借りたのではなかったか, そして,「商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められている」のであり, そのことはAにとって十分なはずである。即ち, (簡単な価値関係という前提のもとでは第一形態による価値表現は欠陥をもたない17)。Aにとって, Bの他にCもDもあることは,決してBによる表現の「不十分さ」ではない。 換言すれば, 他の一商品に対する価値関係の中に置く「だけ」という「不十分さ」の評価は出て来ない。 マルクスのこの「評価」は全く見当はずれである。

 他方, A の等価形態たる一商品は, その使用価値的特性の故にその地位に選ばれたのではなかったから, 別の同じく平凡な一商品がそして「他のすべての商品」がその地位に立つことは, 「おのずから」可能である。マルクスの,「単純な価値形態」から「全体的な,または展開された価値形態」(以下,「全体的価値形態」と呼ぶ) への移行の論理は, 前者の「不十分さ」と後者への「おのずから」の移行という二段構えになっているが, 前者は成立しない。即ち , それは,「単純な価値形態」の内的矛盾による移行としては成立しない。

そして,「おのずから」が示すのは, 個別から「総和」への移行である。当然,これまた矛盾で も発展でもなく, 論理次元は全く高まっていない。確認したい事は,「全体的価値形態」が「単純な価値形態」と何等次元が違うものではなく,マルクスも一方でそのようにとり扱っている, ということである。しかし,マルクスは他方で,この「全体的な価値形態」が一つの新 し い形態,「もっと完全な形態」であるかのようにも見なしている。 ここにもマルクスの混乱があらわれており, それはやはり価値形態の「発展」を考える所から来る, といえよう。そ して,

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その 「発展」 の論理から, 「全体的価値形態」 の 「欠陥」 も提起される。

   (2) 「全体的価値形態」 の 「欠陥」 と 「一般的価値形態」 の形成根拠
 リンネルは,「全体的価値形態」にあって「商品世界に対して社会的関係に立つ」。
そこでは, 「商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されている」。即ち,商品価値の本性がこの形態の中に示されているのだから,本性 と形態は完全に照応している。いや,商品価値の本性からこの「形態」が定立されたのだ。 にもかかわらず,マルク スはこの形態の 「欠陥」をこう指摘する。

 「第一に,商品の相対的価値表現は未完成である。何故なら,その表示列は完結することがないのだから。第二に, その連鎖はば らばらな雑多な価値表現の多彩なモザイクを成している。最後に,当然のこととして, 各々の商品の相対的価値がこの展開された形態で表現されると, どの商品の相対的価値形態も他のどの商品のそれとも異なった無限の価値表現列である。
 展開された相対的価値形態の欠陥は対応する等価形態に反映する。ここでは, (中略) それぞれが互いに排除しあう制限された等価形態だけが一般にある。 同様に各々の特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的有用労働も, ただ, 人間労働の特殊な, 従って尽きることなき現象形態でしかない。 人間労働は, その完全なあるいは全体的な現象形態をまさにあの特殊的現象形態の総枠の内に持ってはいる。しかし, それは統一的な現象形態を持って いない 18)。」

 第一の理由は, この価値形態に於いで も商品は個別的に価値を表現 してお り価値形態は各々完結 しているのだから, 成立し ない。「単純な価値形態」の総和からなるこの価値形態が,一個の有機的全体であるかのように見ると,この「欠陥」がある ように見えるにすぎない。
第二も全く同様である。
第三は, 事実上, 一商品のではなく諸商品の「全体的価値形態」を意味している。 ここにマルクスが, 一商品の 「全体的価値形態」 を諸商品のそれに 「おのずから」移行 させているのを見る。 たやすい事だ。 ただし, そうする と価値形態の意味も「移行」もマルクスが呈示しているものとは全く違ってしまうのだが, それは後論に回し, 当面の論点に戻ると, 一商品の価値形態= 価値表現は他商品のそれと関係ないのだから, それぞれ異な っているのは何等「欠陥」ではない。 これらの理由付を, マルクスはただ形だけから見い出したよ うに見える。

「根底的な批判」 を宗とする彼としては, 信じられないほどである。
彼はさ らに, 上の第三点を等価形態 について反省 しているが, やは りその論法は強引というほかない。 人間労働がその「完全な」現象形態を特殊的等価形態の「総枠」の内に持つとすれば, それこそ本質と現象は完全に照応しているわけである。

諸特殊的有用労働から抽象的人間労働が抽出されたのだから, それを現象させるとすればそこに還るしかない。 一商品のさらに諸商品の「全体的価値形態」を想起すれば, それらが価値概念から作出された事は容易に判る。もしそこに価値概念との不一致があれば, 現象形態の欠陥 といえようが, この場合当の価値形態は価値概念以外の要素 (例えば欲望) を一分子も含まず定立されており,両者の照応は安全である。
( それ故, 逆に, 欲望な どを含めて価値形態を定立すれば, そこに「欠陥」 ない し 「矛盾」 を見出す事は容易である。)
そこに, 人間労働の「統一的現象形態」とい う要請ないし必然性は全く出て来ない。
そこで実際上, マルクスも, この「統一的現象形態」を前提として突然さし入れ, それを有していないことで「欠陥」とする論法を用いている。 が, それは 「一般的価値形態」を前提してその生成を論ずるのと同じことである。 そ

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れを価値形態の内発的必至のように描いている所に, 私はマルクスの混乱を見る。

さらに, このようないわば「移行の動力 = 必然性に加えて,「移行」の成立のためには,その必要十分条件が定立されねばならない。 ここではむろん, それは「全体的価値形態」の「引っくり返し」と, それを行う「商品世界の共同の仕事」である。 まず,「引っくり返 し」は, 価値形態の逆関係の存在 とその相互移行を条件とする。 マルクスの価値形態は, 共通の実体に基づく価値等式から定立されたのだから, 一価値形態の逆関係は同時に存在しうる。即ち, それは価値形態提起の仕方にかかわる事で, もしそれが商品所有者の欲望ないし主観の表現とすれば, 当然逆関係は一般的には存在しえず19), 「引っくり返し」もむろんない。

しかし, マルクスでは,「20エレのリンネル= 1着の上着……という表現は, 1着の上着=20エレの リンネル……とい う逆関係を含んでいる。」しかし, 注意せよ。この成立は価値形態次元ではなく価値等式次元である ことを。「同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現れる事はできない」。 即ち,一つの価値等式は二つの逆の価値形態を含むが, その各々の価値形態は他方を含まないのだ。 二商品の価値等式は逆関係を含むが, 一商品の価値形態は逆関係を含まない。 また, 一方から他方へ「移行」することもできない。そうすれば, 当の商品の価値表現はなくなり, 価値形態のそもそもの設定に背反してしまう。

 商品の次元ではそうであっても, 分析者なら, 価値等式にさか上り, 逆関係を設定できる,と言う事はできよう。その意味でなら, 「引っくり返し」は可能である。しかし, 価値形態を引っくり返しても, 元のものと全く等価, 同次元のものが得られるだけである。 マルクスの両極は何の特殊規定も帯びていないのだから。つまり, 一価値形態の 「引っくり返 し」は,上述のような形で可能ではあっても, 価値形態の「移行」 ないし「発展」の説明手段 としては全く無用なのであ る。

 上のマルクスの規定は「単純な価値形態」におけるものである。 が, 全く同様に「全体的価値形態」にもあてはまる。

「全体的価値形態」の「欠陥」は, それが何であれ, 相対的価値形態に立つ商品, 例えば リンネル, の価値表現のそれであったはずだ。 が, ひっくり返せば,(リンネルの価値表現は発展どころか消滅してしま う20)。」一商品 リンネルの「私事」が問題なのではない, 社会的価値形態=価値表現が問題であって,リンネルが相対的価値形態か等価形態に移った事など瓊細な事だ,と言われるかもしれない。しかし, 商品世界の価値表現だとすれば, 初めにリンネルの「全体的価値形態」だけでなく, 諸商品の「全体的価値形態」があらねばならない。それを,実際はマルクスは知っていた。

「全体的価値形態」の「欠陥」の所で一担それを呈示し, また再び「引っくり返し」に際して一商品の形態に戻った事自体, 不統一である。もっとも, それを明示して, 「ひっくり返 し」によって「一般的価値形態」を得る ことは, 『資本論初版』の「形態IV」の扱いでいみじくも示されているように, 不可能ではあった21)。
そうではなく, 商品世界の唯一の価値形態として リンネルの価値表現が存在するだけだとすれば, その価値形態は, 既に特権を与えられており, 平凡な一市民リンネルのものではなく, 当初の 「全体的価値形態」定立の前提に反することになる。 マルクスは,全くこれらの点をすり抜けてしまっている。

故に結論。「全体的価値形態」の「ひっくり返 し」によって「一般的価値形態」を得る事は, 逆関係の存在にもかかわらず,不可能である。
ただし, それは「一般的価値形態」成立の不可能を何等意味しない。それを得る事はむしろ易しい事である。マルクスの「移行 =「発展」論 と対比して,簡単に表示してみよう。
      <杉本 下記は省略した面もあります。原文を点検ねがいます。>

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   マルクスの提示
   単純な     全体的        一般的       貨幣形態
   価値形態    価値形態      価値形態

            A= B       B=A       B=G
             =c       C=        C=

    不十分     欠陥有       等価不定       等価固定
   おのずから  → ひっくり返し    → 歴 史 的      →

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   神田の提示
   単純な     全体的     諸商品の    一般的    貨幣形態
   価値形態   価値形態     価値形態    価値形態

    A=B    A=B     A=B     B=A     A=G
            =C      =C     C=      B=
                   B=C     D=      C=
                   C=A    ・・=

    十分= 完全     同左     同左      等価不定
    おのずから    → 同左     等価排除    歴史的    →等価固定

 要は, 諸商品の「全体的価値形態」の提起にある。それが,「単純な価値形態」と同次元,その総和たる事,すぐ判ろう。 マルク スが, この形態を知 りながら, 論理展開の中では無視した事は, 何としても理解し難い事である。さすれば,「一般的価値形態」への「移行」 も「ひっ くり返し」という無理な手法にょらず, 存在している諸等価物の単一の商品への排除,独占化として生ずる。形態的には何の無理 もない。 ただ,その「移行」の動因が価値形態の内的論理からは起こらない, というだけである。何故なら, 諸商品の 「全体的価値形態」 はむろん全商品の価値を全て完全に表現しえており, 何等の欠陥もないのだから。そしてそれは価値概念にも全く照応する。

「人間労働は,その完全な現象形態を特殊的諸現象形態の総枠の内に持っている」のだから。従って, 価値形態論で「一般的価値形態」を成立させる事はできないし, また必要ない。実に, 価値形態論は, 貨幣形態の不必要・不成立を明示する,ともいえよう。

「移行」の動因は, 価値形態論の外で起こる。

「商品世界の共同の仕事」が, むろんそれを媒介する。 「一般的価値形態」のショ ー トした提示にもかかわらず, マルクスがそれを提示した事は, 深い方法認識であり, 価値形態論と交換過程論を結びつける。

   4. 交換過程 とその矛盾
 価値形態論 と交換過程論 との峻別は, 明確な方法的意義を持っているはずである。既に『経済学批判』において。

「今までは商品は,二重の見地のもとに, 即ち使用価値として,また交換価値として, そのつど一面的に考察された。 けれども, 商品として, それは直接に使用価値と交換価値 との統一である。 同時にそれは, 他の諸商品に関係する限 りで商品である。
諸商品の相互に対する関係はそれらの交換過程である。それは互いに独立した個人が入りこむ社会的過程であるが, 彼等は商品所有者 としてだけそこに入りこむ」22)。

『資本論』では, 商品所有者の登場によってだけ画される。
彼等は, 「ただ経済的関係の人化」であるが, ここでは「商品所有者を商品から特に区別するものは, 商品にとっては他のどの商品体もただ 自分の価値の現象形態として認められるだけだ,という事情である。 ( 中略) 商品には欠けている, 商品体の具体的なものに対する感覚を商品所有者は自分自身の 5つ以上もの感覚で補う23)」, という規定性をもっている。
『経済学批判』, 『資本論』, と もに基本的に同一である と考えるが, 前者に於いては,「使用価値 と価値 との統一」という規定にやや不明確さが残る。
つまり「統一」を考察する という反省規定は, 本来, 同一次元の最後に行うべきであり, 新しい次元の開始 としてはふさわしくないという事情が存しているのに対し, 後者ではすっきり純化されている, といえよう。

 交換過程の次元は商品所有者の登場に明確に表現されている。
一方, 商品は 「他のどの商品とも ( 中略) 心だけでなく体まで取り交そうといつでも用意している」。 両者の差異を単純に例示 し てみ よ う。

  A 商品の論理= 全面的交換可能性     A商品所有者の論理= 個人的要求
    uA ーーーーwB             AーーーーーB
          xC
          yD                   D
          zE                   K

 商品は, 価値の同質性に由来する定量的規定性をもって他の全商品と関係を結ぶ。 それをAの側からとらえれば, その「全体的価値形態」である。 商品は価値および価値形態をもって交換過程に入る。 価値実体を持たずにあ るいはそれが不明瞭な まま交換過程に入り,その中でそれを形成ないし明確化する, というような論法はマルクスに全く無縁である。 この点で,価値形態論は交換過程論に先行する。 商品所有者は, 価値規定を創造で きないのはもちろん,それを廃止も変更もできない。彼等はただその貫徹形態を規定しうる, つまりそこに自らの条件を加えうるのみである。その規定性は, 交換過程論を新たな論理次元として定立させる。

商品ぼ, 価値としては全面的交換可能性にあるが, 「価値として実現しうる前に, 自分を使用価値として実証しなければならない。」このことは, 商品所有者の主観に於いては, 自分の商品は他の全商品との交換手段になるが, 他人の商品は自己の欲望にしたがって交換手段たる事を制限する, という形で現れる。

「従ってまた諸商品は (中略) ただ生産物または使用価値 として相対するだけである。」商品は価値性格を有しているのに, こうしてその貫徹を実現できない。ここに交換過程の矛盾が生まれる。上の交換過程の矛盾は,『資本論』に於いては, 既に価値形態に於いて 「一般的等価形態」

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の存在それ 自体ではないがその概念は定立されていると見なされているため, それを持ち込んで説明さ れ, 若干の混乱を加えているが, 基本的には上のように規定されている, と考える。

そこで, 「商品の発展は, これらの矛盾を解消し はしないが, その矛盾の運動を可能にするような形態を創 り出す。」 「太初に業あ り き。」 この解決法はみご とである。

かく して「(商品所有者が) 自分等の商品を互いに価値 として関係させ, 従ってまた商品として関係させる事ができるのは, ただ, 自分等の商品を一般的等価物 と しての別のある一商品に対立的に関係させる事によってである。 このことは商品の分析が明らかにした。 しかし, ただ社会的行為だけが, ある一商品を一般的等価物にする こ とがで きる。」

そして,「一般的等価物」という「独自な社会的機能」によって,「この商品は即ち貨幣となる」。
貨幣は何よりも「一般的等価物」の形成として解かれる。 この論法は, むろん, それが既に理論的に定立されている事を前提としている。

久留間鮫造氏はこ う説明す る。
「『資本論では,交換過程にはいる前に価値形態論が展開されている。したがって,交換過程論で, この過程における商品の矛盾が追跡され, その媒介の必要が明らかにされた後に,それが何によって媒介されうるかが問題となったときに,それはすでに価値形態論で明らかにされている, といって答えることができるわけである。 24)。」

これは, マルクスの方法の説明としては当を得ている。 しかし, 私はそ こに重大な問題がひそんでいる, と考える。

 第一に, 商品を価値として関係させる事は,まさに価値形態そのものの本性であって, 「一般的等価物」をまつまでもない。 それは, 交換過程に於いても変わらない。
  諸商品はすべて全他商品との価値関係をもって交換過程に入る。

 第二に, それ故, 価値形態としては「一般的価値形態」は不必要であり,また価値形態の枠内では, その形成は不可能であった。 その定在を, 「商品の分析が明らかにした」,
「すでに価値形態論で明らかにされている」, と言 うわけにいかないのだ。

 第三に, 価値形態論と交換過程論とを峻別する『資本論』の方法からして, 後者に於いて「一般的等価物」 = 「一般的価値形態」の形成を言うのはおかしい事である。価値形態発
展の必然として「一般的価値形態」が定立され, その必要条件として「商品世界の共同の仕事」が提起されるのなら, 続いてそれを分析すればよい。

多くの論者がそうしているように, 価値形態論の中に商品所有者を登場させ どんどん展開させればよい。 その場合, 価値形態論 と交換過程論 との区別はくずされてしまうであろうが。しかしまた, そうあるべ きなのだ。

逆に言えば, 両者を峻別す る方法の論理的性格からすれば, 交換過程の矛盾の解決形態を 「一般的等価物」の形成として解いてはならないという事である。

『資本論』 の方法的感覚は実に鋭いが, そ の叙述に於いては尚徹底し ない部分が残されている, と私は考える。 一矛盾の解決は, 「商品所有者の自然本能」的「業 によるとはいえ,それは恣意的な ものではありえない。「共同行為」は主体を示す。解決の仕方は,矛盾の中に提示されていなければならない。

私は, 流行進化論の突然変異 ・淘汰説を採 らない。 それは, 商品の価値性格及びその現象 としての価値形態ではありえない。それは当面の矛盾ではなかったのだから。とすれば, その使用価値性格以外にない。それによる価値性格貫徹の制約を脱却するしかない。商品所有者はそんな商品を見つけるしかない。

かくして, その商品は, 他のすべての商品がその所有者にとっての交換手段であるのに対し, 一般的交換手段となる。 「こ う して, その商品は即ち貨幣とな る」。

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と同時に, 他の全商品はこの商品によ ってその価値を表すことになり, この商品は他商品を等価形態から排除する。

「一般的価値形態」が成立し, 諸商品の価値形態は, 交換過程に於いて, その本性によってではないが, 変容される。そこから貨幣形態の成立までは, 「金銀は本来貨幣ではないが, 貨幣は本来金銀である」 とい うだけの距離 しかない。
即ち, 私は, 交換過程の矛盾により「一般的等価物」 = 「一般的等価形態」が成立して貨幣となるというのではなく, 一般的交換手段として貨幣が成立して, 特殊的等価が 「一般的等価」となり, 諸商品が直接にすべての他商品 と関係を結ぶ状態が解消され 「一般的価値形態」 が成立す る,と考える。
「一般的等価物」は, 諸商品の価値を表す, さらに統一的に表すという意味で価値の尺度となると言ってもよいが, それはここでその機能を創造したのではない25)。

それはここでそれを独占したのだ。 その機能は, 貨幣ではなくもっと深く商品に由来する。

それあるが故に, 一商品は一般的交換手段と成れた。
それ故,「(貨幣の機能はー引用者) 論理的にも歴史的にも, 第一機能 (価値尺度 同左)が先行す る26)。」


   5。貨幣の生成 と本質

   (1) 価値形態論の次元 と交換過程論の次元
 今や,『資本論』の叙述は, 明確な方法をもっており,労働の二重性を軸とする整然たる展開序列をもっている, 価値形態論と交換過程論も, 各々, 一つの明確な対象と課題をもってその中に位置づけられる,と論定できると考える、価値形態論の課題は, 前節の展開を承け,価値対象性即ち価値表現の仕方の解明である。

その対象としてまさに「単純な価値形態」が提起される。それは,「最も単純な価値関係であるが故に, まず提起されたようにも叙述されるが, 実はそうではない。

それは, 価値概念即ちすべての商品が一方では抽象的人間労働の結晶として共通の実体を持っていることに基づいて, 提起されたのであり, 最も発展した関係を具現している。

それ故, 「すべての価値形態の秘密は, この単純な価値形態の内にひそんでいる。」単純な形態であるにもかかわらずこう言える, のではなく, これが, 個別であるとともに一般的な ものとして定立されているから, こう言えるのだ。

即ち,「単純な価値形態」は, 実は一商品の価値形態そのもの,つまり「価値形態そのもの」 (マルクス) である。一商品の 「全体的価値形態」及び諸商品の「全体的価値形態」が,
「単純な価値形態」から「自から」出てくるが, 後者と全く同一, 同次元であり, その総和である。 むろん, それらの関係は「発展」ではない。

この主張は, 前二者が後者 とは別の, 各々, 「一つの」価値形態である事を否定する。

マルクスのそして多くの論者の価値形態論の混乱は, この点の誤解に発していたようにも思われる。
『資本論初版』の「形態IV」は,「一般的等価形態」の存在の不可能を, 従って価値表現の(社会的に妥当な媒介された形態28)」即ち(一般的な直接的交換可能性の形態29)」の不可能を示し,ひるがえって「一般的等価形態」の必要性を示す, と言われるが, これは正しくない。諸商品の価値表現= 価値形態は, 「媒介される」必要などさらさらなく,それ自体が 「直接的交換可能性」 の具現である。

「一般的価値形態」= 貨幣形態は, 価値形態論の課題の要求する所からは生起せず, またマルクスが行ったような仕方で生起する形式的可能性もない。 即ち,価値形態論は貨幣(形態)生成の理論ではない。むしろ,それはその不必要を証明する理論である。 他方, 諸商品の価

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値形態からの「一般的価値形態」の生成は,「全体的価値形態」の「ひっくり返し」によっては不可能であるが, 可能である。 ただ, その実現契機が価値形態の中にないだけである。

それは, むろん, 交換過程に於いて貨幣の生成とともに起こる。

商品は価値従って価値形態をもって交換過程に入る。

交換過程の中で価値形態が形成されるが如き見解は, マルクスに無縁である。同一の価値形態を具有しながら, 価値形態では生じない事が交換過程では生じるのながら,交換過程論は価値形態論 とは明らかに別次元である。

貨幣の生成は, 二重にあるいは二度に分けて, 提起されるのではない。

マルクスは, 価値形態論と交換過程を峻別し,「一般的価値形態」 = 貨幣形態生成の場を,「商品世界の共同の仕事」を持ち込んで, 事実上交換過程に一本化している。

ただ し, この整然た る流れの中に,それとは異質な価値形態の「発展」を挿入したため,論理展開に混乱が生じたように思われる 。

 (2) 貨幣の生成論
 以上の私見を, 反対の主張によって反照 してみたい。

尼寺義弘氏は, 「それ (価値形態論)は貨幣の理論的な定在の必然性を証明している。 交換過程論は貨幣の現実的な定在の必然性,つまり商品に包みこまれている使用価値と価値との矛盾の交換過程における発現と, その具体的な解決としての貨幣の生成をみたものである30)」, と説 く 。

氏の主張,
「価値形態の考察においては,(中略)価値の実体規定にもとづく同等性関係が前提されている31)」, には私 も賛成であるが, マルクスの価値形態「発展」を「価値概念とその表現様式
(定在様式) との矛盾(不一致) 32)」 によって起こるものとしてそのまま肯定し, 上の主張に至る点で私見 と異なる。

氏の所説に対 してすぐ湧く疑問は, 貨幣の生成論はその現実的定在の必然論だけでよいのではないか, という事であろう・。

それに対する答えは, むろん,貨幣形態が価値概念に即する価値形態の必然的発展として定立される, という事であろう。

それに対す る私見は既に述べた。
一点だけ加えたい事は, マルクスの価値形態は, 宇野学派のそれと違い, 実在だという事である。 従って, そこから成立する「一般的価値」 = 貨幣形態も実在である。
それを「理論的定在」 と表現す るのは, 私には納得で きない事である。

米田康彦氏は,「いうまでもなく , 価値形態論 と交換過程論とは, ともに貨幣の生成について論じた も ので ある33)」, と疑問を許さぬ調子で断言する。

それは, 価値形態論を主にあるいはまず価値表現の仕方解明と見なす主張や, そこに実際上2つの課題一価値表現解明と貨幣形態生成解明- があるかのように見なす主張, を批判する ものである。

それだけに, 価値形態論と交換過程論との「共通性と独自性」とは際立たせられる。
即ち。「“諸商品の現実的関連” である “交換過程” において諸商品がとる形態規定性が, 価値形態論および交換過程論の共通の課題であり, そこでは商品に内在する矛盾の外化が主題であるが, 価値形態論ではその形態規定性そのものが解明されたのに対 し, 交換過程論では, その形態規定性の完成を媒介するものが, 交換過程の全体的矛盾からその一部である特殊な等価 と一般的等価 との対立への収斂, しぼりこみという形で明らかにされているのである34)。」

それに対する私見。
第一,『資本論』に於いて章まで異なる 2つの論説が「共通の課題」をもつという事自体, 奇妙で ある。
  その視点から, 価値形態論と交換過程論はともに「交換過程」上の事柄とされるが, それはマルクス解釈としては誤っている35)。
  マルクスにとって, 価値形態は, 交換過程の前提であり, また実にそこを貫く規定的動因であるが, 交換過程に入

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る前に形成されている関係である。換言すれば, 交換過程はその形成ではなく実現の場である。この点は, 宇野学派等のそれと決定的差異である。付言すれば, 交換過程に於いて成立する表象を価値形態論に持込む事が, 後者を混乱させてきた,と考える。

第二, 米田説の論旨は, 価値形態一貨幣生成の形態規定性解明, 交換過程論一貨幣生成の実現契機の明確化,という様に表せようが, だとすれば, 両者を分ける事自体疑問であろう。
  いずれにせよ, 密接なあるいは (及び) 連続した関係とせずばなるまい, 実際, 氏が 「不即不離の関係」と表現しているように。
  米田氏は, 「価値形態論が, 第一章第三節で論じ られているのに, なぜ交換過程論が, 第二章として独立に論じられているのか, という構成上の問題が残されている36)」, と問題を提起す
  る。 両論を「不即不離」で論じてきた米田氏にとっては, 当然の疑問であろう。それはまた, 私にとっても重大な問題であり,「構成上の問題」の中に内容上の差異を見る鍵があると考える。

  米田氏は,「交換過程全体」という表現でその中に商品の流通過程まで含め, 以って, 第 2章が第 3章 と連繋 しているが故に, 第 2章が ( 第一章, 第三章を媒介す る位置に置かれてい
  る37)」, と第 2章独立の一根拠をあげる。 しかし, 第 3章貨幣または商品流通,は貨幣生成の結果として成立したものであり,貨幣生成が二重にあるいは二分して説かれるための理由にはな
  らない。

  それに関して言えば, 第3章こそ貨幣の形態規定性の分析であり。それは貨幣生成即ちその定在が定立された後に説かれる。米田氏が「価値形態論および交換過程論の共通の課題」と言う,「諸
  商品がとる形態規定性の解明」を,価値形態そのものの解明ととれば, それは第2節における価値実体= 定在解明の後を承けて展開されていることにな るが, 氏の論旨では,それは貨幣 (形
  態) 生成の形態規定性とならざるをえず,その形態の「完成」 即ち現実的生成に先行することになる。それはまさに,形態規定から実体規定 ( ? ) を導出する宇野氏の手法であって,
  マルクスのそれと逆である。

     米田氏は, 第 3節の連関を前後逆に理解してしまったのであり, それは,貨幣生成という課題を複数の次元に設定したことに起因しよう。
  今一つ, 米田氏が価値形態論及び交換過程論 とも「商品に内在する矛盾の外化」を主題とすると論定している事に触れたい。その論定は, 両論を「交換過程」の中でとらえる視点に由来するが,正しくない。価値形態論では, 商品の矛盾は形態そのものには存在していない。

  既に述べたように, そこでは使用価値はただ価値の現象形態として認められているだけだから, 使用価値と価値とは対極に現れるが,現実に対立しているわけではない。他方, 交換過程で提起
  されるのは交換過程の矛盾であって, 商品の矛盾ではない。マルクスの「交換の歴史的と拡がりと深りは, 商品本性の内に眠っている使用価値と価値との対立を発展させる」,という表現が参
  照されえよう。この文は交換過程論にある。

「使用価値 と価値 との対立」 は,一定の条件のもとでは「眠って」おり, 一定の条件のもとで初めて顕現する。商品に内在する矛盾は, 価値形態にあるのではなく, 価値という形態にある。即ち, 人間労働が直接的に社会内関係として現れえずに価値に結晶され価値形態によって表されざるをえないこと, これである。

これを商品生産の次元で表現すれば一価値形態は商品生産の表現であって 交換過程の表現ではないー,私的労働によって社会的労働が組織されている事である38)。価値形態には, この商品に内在する矛盾がただ表されているだけであって,他の矛盾はない。 交換過程の矛盾も, むろんこの商品に内在する矛盾の必然的現象形態であるが, 両者は同一ではない。
そのことは, 交換過程の矛盾がその運動= 解決形態を得,かつ諸商品交換が順調に進行・完

36
了したとしても,諸商品に内在する矛盾は存する事からも自明であろう。 商品の物神性論がこの矛盾を提起し分析したものであること, 言うまでもない。実にそれは, 交換過程の前に成立されているのだ。

 久留間氏は価値形態論と交換過程論を峻別した。前者では, (商品はもっぱら価値の観点から考察され38)」,( 商品はまだ運動の過程にはない39)。」それ故,「価値形態論でも貨幣の形式が論じられるが,そこでの問題は貨幣形態の”如何にして″であって”何によって″ではない
40)。」
 この「如何にして」を, 久留間氏は既に述べた 2つの課題として提起するが,実際は力点は次に置かれると言ってよいだろう。

 「マルクスは,貨幣形態を遡及分析して最も簡単な価値形態に還元し,そこで価値表現の根本メカニズムを解明する41)。」その「根本メカニズム」解明が氏の「廻り道の論理」であること, いうまでもないが,その賛否は別 として, 氏の論理が,一方では価値形態の「発展」を認めつつも,その発展追求ではなく,逆に遡及ないし還元であること, 注目される。

それ故, 価値形態論の課題は2つあるではないかと問われると, 久留間氏は困惑し,「ともに欠くことのできない」ものだと言う一方,結局,「いずれが最初に解決さるべき基本的な課題かといえば, それはもちろん前者 (根本メカニズムの解明) である42)」, と答える。

こうして絞ってしまえば, 「貨幣の形成の必然を論 じることは, 価値形態論の範囲外にあり,これが交換過程論の固有のテーマをなすのである43)」,と言うのは,一貫した論理である。

 私見に引きっけて言えば, 久留間説は, 事実上貨幣形成の解明を一本化するとともに,価値形態論の課題をも一本化している(それ故にまた,多くの久留間批判) 。

ただし,久留間説には,「発展 の見地が残り, いわば二元論になっており,それ故「発展を論ずる時にはとりわけ混乱が現れるが,それはまた,「価値表現の根本メカニズムの解明」と「価値形態発展の解明」とが方法的にそぐわない事を表白しているともいえよう。

   (3) 価値形態論における 「一般的価値形態」 の定立
 価値形態論に於いて貨幣形態が生成するのではなく,交換過程に於いて貨幣= 一般的交換手段が生み出されるとともに「一般的価値形態」が与えられるとすれば, 最後に, 「一般的価値形態」= 貨幣形態が既に価値形態論に於いて提起・分析されていることの正当性と意義を考えねばな ら な い。

 一般的交換手段の成立が即「一般的等価物」の成立たる事は,貨幣の存在及び機能が特別の,規定された一商品によって担われる事であった。それ故,貨幣が商品であること,商品に還元すること,の理解は困難ではない。

そして,かく定立された「一般的価値形態」を価値形態論に持込む事もさまで困難ではない。

『資本論』の上向法は, 概念の一本調子の自己展開ではなく,表象が常に重要な役割を演じ,未証明の前提によって論を展開し後結果としてその前提を定立して当の前提設定の正しさを証明する,あるいは歴史事実によって展開して後その歴史事実を論理化して証明する,といった方法は往々見られる所である。

「一般的価値形態」は, 価値形態論に於いて,生成されるものとしてではなく生成されたものとして定立され分析される。
その結果,それが, 特殊なさらには光輝く,ただし必然的な貨幣生成によって規定された, 価値形態であり, その特殊性のもたらす外観と, にもかかわらず, それをはぎ取れば, ただの価値形態にすぎない事は,容易に分る。
この場合, 諸価値形態は発展序列の中にではなく,一般型と特殊型として並列される。
即ち, それは類型 と して設定 される。マルクスの「単純な価値形態」こそ個別であるとともに価値形態そのもの= 一般であり,

37
「一般的価値形態」及び貨幣形態こそ実は特殊である44)。
 価値形態論に於る「一般的価値形態」定立の意義は, また,それが一般的交換手段の生成とともに与えられた事の内に存している。

そのことは,貨幣の生成が商品の価値性格の実現を制約している使用価値的条件を突破するために生じたこと,換言すれば, 価値の自立化であったこと,を意味する。「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は,価値の自立化以前に商品そのものの中に貨幣性格の萌芽があることを明らかにする。

マルクスは言う。

 「困難は, 貨幣が商品であることを理解する事にではなく, 如何に, 何故に, 何によって商品が貨幣であることを理解することにある」,と。

ごの有名な文は,交換過程論の末尾にあるのだから, 「商品が貨幣である」とは, まず, 貨幣が商品からの必然的生成であることを意味していよう。しかしそれだけではなく,それは価値性格の貫徹なのだから, 価値が貨幣として自立化する以前に, 商品そのものに於いて価値性格の貫徹が表現される形態がなければならない。 即ち, 商品の価値形態こそ貨幣の萌芽, その即自なのである。

「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は, 価値の自立化 と しての貨幣と,商品そのものに内在する貨幣性格とを, いみじくも表現する。
そこにこの形態定立の根本的意義がある, と考える。 かくして,価値の自立化以前に, 商品そのものの内に根本的矛盾= 動因の存することが明らかとな り,その矛盾解明の糸口が見い出される。 商品生産社会即ち人間労働の特殊な形態規定性の定立であること, いうまでもない。


〈注〉
1) いうまでもなく,宇野氏および宇野学派の価値形態論がそれである。しかしながら,マルク スを忠実に解釈しようとする多くの論者も, 一価値形態論の中に別の次元の問題を持込んでいる。
2) 「一般的等価物」, また 「一般的価値形態」 はマルクスの定式化の呼称である。以下に論ずる よ うに価値形態の位置付が異なれば, 呼称の妥当性も問題となるが, 以下そのまま, ただし「 」 付で用いる。
3) 「……宇野の主張は, 交換過程論の存在そのも のを不要 と し, 貨幣の必然性の論証は価値形態論で全面的に与えられる, という結論をみちびくことになる。」
  (降旗節雄) 。 宇野弘蔵編 『資本論研究 I 』 筑摩書房, 1967年, 123ページ。
4) カール・マルクス 『資本論第 1巻①』 大月書店, 1975年, 64ページ。 以下, 同書のページ数で示すが, 文章は必ず し も全 く 同一ではない。
5) 同, 同, 65ページ。
6) 尼寺義弘 『価値形態論』 青木書店, 1978年, 7 ページ。
7) 花 田功一「価値形態論」, 種瀬茂編 r資本論研究』青木書店, 1986年,45ページ。
8) マルク ス, 同, 117ページ。
9) 同, 同, 118ページ。
 この点は, 後論の宇野氏の主張に対し, マル クス説の根本を 明示する。
10) 同, 同, 89ページ。
 尼寺氏は, この文にもとづいて,「価値形態論の論理的展開は商品交換の歴史的発展に照応していることは明らかであろう。」と述べる。
さきの 9)に照らすと, 尼寺氏の主張は一面的であろう。
それだけではなく , 価値実体規定にもとづく氏自身の「単純な価値形態」設定とも矛盾するのではないだろ うか。
11) それ故, 宇野学派のように価値形態論の独自性を強調すれば,「価値形態の説明としては, このような自然科学的な例証は適切ではない」 (降旗節雄,宇野弘蔵編 『資本論研究 I 』 19ページ) , とい う こ と になる 。
12) 向坂逸郎 ・宇野弘蔵編 『資本論研究』 至誠堂, 昭和33年, 157ページ。一般的価値形態」 及び貨幣形態こそ実は特殊で ある44)。価値形態論に於る 「一般的価値形態」定立の意義は, また, それが一般的交換手段の 生成とともに与えられた事の内に存している。 そのことは, 貨幣の生成が商品の価値性格の実現を制約している使用価値的条件を突破するために生じたこと, 換言すれば, 価値の自立化であったこと, を意味する。
「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は, 価値の自立化以前に商品そのものの中に貨幣性格の萌芽があることを明らかにする。
 マルクスは言う。「困難は, 貨幣が商品であることを理解する事にではなく , 如何に,何故に, 何によって商品が貨幣であることを理解することにある」, と。
  ごの有名な文は, 交換過程論の末尾にあるのだから, 「商品が貨幣である」 とは, まず, 貨幣が商品からの必然的生成である ことを意味していよう。 しかしそれだけではなく , それは価
 値性格の貫徹なのだから, 価値が貨幣として自立化する以前に, 商品そのものに於いて価値性格の貫徹が表現さ れる形態がなければな らない。
 即ち, 商品の価値形態こそ貨幣の萌芽, その即自なのである。

「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は, 価値の自立化としての貨幣と, 商品そのものに内在する貨幣性格とを, いみじくも表現する。

 そこに この形態定立の根本的意義がある, と考える。
  かくして,価値の自立化以前に, 商品そのものの内に根本的矛盾= 動因の存することが明らかとなり,その矛盾解明の糸口が見い出される。
  商品生産社会即ち人間労働の特殊な形態規定性の定立であること, いうまでもない。

P38
13) マル ク ス, 同, 82ページ。
14) 久留間鮫造 『価値形態論 と交換過程論』 岩波書店 , 昭和40年 , 51ページ。
15) 後出 ( 13ページ) の米田氏の主張他 詳しく論じたものとして, 武田信照
 『価値形態 と貨幣』 梓出版社,1987年, 307ページ以下。
16) マルクス , 同, 83ページ。
17) 大島雄一 『価格 と資本の理論』 未来社, 1965年, 121ページ。
18) マル ク ス , 同, 86ページ。
19) むろ ん, 宇野学派の所説はそれである。 しかし, 他にも広田精孝氏は, 価値形態成立を「A商品の側の一方的なイニシアティブ」によるとし,「逆関係」の成立のためには, 逆方向のイニシアティブが同時存在せねばならない, 即ち「現実にかかる交換が行われる場合 には, 20エ レの リンネル= 1枚の上衣 と い う価値表現関係 とともに, その逆の 1枚の上衣= 20エレのリンネルという価値表現関係が成立していることになる」 と言い, それは一般的には成立 しないから, 「逆関係」の一般的存在は論定で きない, と言う。 (広田精孝 「価値形態論と交換過程論」, 『資本論体系 2』有斐関, 1984年, 182? 183ページ) この広田氏の主張に, 久留間 「廻り道の論理」の一問題点が現れている 。
20) 大島雄一 , 前掲書, 143ページ。
21) 後の図を見ればすぐ分るが, 諸商品の「全体的価値形態」とこの「形態Iv」とは実は全く同一である。 むろん・, この場合, 価値形態は実体規定に基づくもので, 商品所有者の主観による ものではない。
 即ち, 「形態Iv」 は, 実は, 「一般的価値形態 (形態Ⅲ) 」の後にではなく , その前に成立 している ものである。
22) マル ク ス 『経済学批判』 大月書店, 1962年, 34ページ。
23) 同, 『資本論』 , 113ページ。
 故に , 「使用価値および使用価値にたいする欲望の関係は, いわば超歴史的関係であり, 経済学の考察外にある」( 尼寺義弘, 前掲書, 113ページ) , と言 うのは不当である。 ただ, 価値形態論に於いてだけ,使用価値は価値の担い手という抽象性に於いて考察される。
24) 久留間鮫造, 『価値形態論 と交換過程論』, 21ページ。
25) 武田信照氏は, 「価値尺度としての貨幣は統一的な価値表現のために, 諸商品がその価値を一つの共通な商品で “はかる” こ とによって生じ ‥ ‥‥‥」 と述べる。
 この主張は, 価値形態論に於いて貨幣形態が生成す る と論定しての事であるが, それを「価値尺度と しての貨幣」だけに限定し, 交換過程で生成する「流通手段としての貨幣」 と区別する。 「したがって, 貨幣の形態 も二重に説かねばな らない。」
 以上, 武田信照『価値形態 と貨幣』 291ページ。
  私は, 貨幣は価値尺度と して生成するのではない, と考える。 それは既に商品の内にあり, 価値形態 (貨幣形態ではない)に表される。価値形態において「商品は貨幣」なのだ。
26) 大島雄一 , 前掲書, 163ページ。
27) マルクス, 『資本論』, 65ページ。
28) マルクス , 『資本論第一巻初版』 国民文庫, 1976年, 69ページ。
29) 同, 同 , 70ページ。
30) 尼寺義弘, 前掲書, 155ページ。
31) 同, 同, 23? 24ペ ージ。
32) 同, 同 , 95ページ。
33) 米田康彦「価値形態論 と交換過程論における矛盾の外化」,
 『講座資本論の研究第2 巻』 青木書店, 1980年, 63ペ ージ。
34) 同, 同 , 78ページ。
35) 上の文の初めの部分, また 「価値形態論で問題とされる交換過程」 (65ページ) という表現は, 私見からすれば驚くべきものである。
36) 同, 同 , 81ページ。
37) 同, 同 , 82ペ ージ。
38価値形態論の課題 と論理次元 39
38) 久留間鮫造 「価値形態論 と交換過程論』 14ページ。
39) 同, 同, 20ペ ージ。
40) 同, 同, 20ペ ージ。
41) 同, 同, 109ページ。
42) 同, 同, 109ページ。
43) 同, 同, 108ページ。 +
44) 価値形態論を 「発展序列」として理解するべきでなく ,「類型論」として理解すべきである,と初めて明確に主張したのは, 私の師故大島雄一である。( 大島, 前掲書, 73? 157ページ) 大島説では,「交換関係」の範囲によって価値形態を区別するため,「単純な価値形態」 と 「全体的価値形態」 が区別され, また一商品が同一価値形態に於いて両極に立てないという理由から「諸商品の全体的価値形態」が否定される。
  私見はこれらの点で異なる。
 他方, 鈴木鴻一郎氏は,「価値形態発展の見地」から, 価値実体規定にもとづく 価値形態定立と価値形態発展論 とがそ ぐわない事を明確に主張した。
  (鈴木鴻一郎 『価値論論争』 青木書店, 1959年, 115? 188ページ) 私は, 氏の論拠のほとんどに同意する。
 
 

 自立支援法が復活しても変わらない差別

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月17日(木)21時07分11秒
返信・引用
   完全沈黙で抹殺計る岩手の暴走。13年前の自立支援法の廃止を盾に看板団体の暴走を隠し続け、5年程前に支援法は復活したが暴走隠しは強硬でも過去の法律が元となって法務省も厚生労働省も沈黙するだけ。
 12年も抹殺を図られています。

 自立支援法が復活しても変わらない差別
 岩手の盲ろう者友の会やろうあ協会の暴走による社会参加妨害や誰一人関わらせない、どこの団体も行かせないなどの暴走は12年におよび昨年全国大会は全国の友の会も岩手の友の会の知っている人は口封じから誰も逢わせなかった。
 調べたら知事が黒幕で全国の友の会も全国協会も口説き伏せられていた。参加を勧めた全国協会も口説かれて寝返って居た。厚生労働省も法務省も完全沈黙して知事に暴走目こぼし権があるとしか思え無かった。
 昨年秋全国の社協などに暴走目こぼし権について問い合わせついでに岩手の暴走を全国にばらした。これで完全沈黙を破って置いた。 秋から年末に掛けて繰り返しもあって200くらいになる。迷惑か、非難がくるかと思ったら一つも無く反対に丁寧に届きました手と14軒から返事が来た。
 2月になると12年目の差別の疲れから県庁福祉課の課長に親を馬鹿にしていいとして今までの圧力を廃止にして欲しいと和解を求めたが和解は暴走がばれるだけで抹殺しか考えていない。無視された。
 これでは説明抜きのかん口令が役場に来たら完全孤立してしまうとして役場に出向き立場の説明をし、理解を求めました。
 その後も全国の社協など暴走振りを話した。完全沈黙は県内だけになる。2月から現在まで繰り返しもあって150になる。人権がかかっているから必死になります。
 岩手は何故強硬に抹殺だけ考えていないのかその理由は4月になってやっと判りました。
 友の会を辞めたのは12年前。障害者の自立支援法が廃止になったのは13年前。それで暴走しようと看板団体優先で障碍者の一人くらいどうでもいいと暴走目こぼし権そのものの自立支援法廃止に目を付け完全沈黙でガードしたことになる。
 そして自立支援法が6年程前に復活したらはっきり言えば暴走でも前の法律の元で起こったのだから違法にならず厚生労働省も法務省も手が出ないことになる。完全沈黙の理屈はどっちの味方もしないことが公平だと言う意味なのか。それとも障害者一人くらいと無視しているのか。前者だと信じたい。
 法務局には知らせている。そして法務省に伝わる。返事が無いのは好きにしろと言うことになる。意見をよこしたのは暴走目こぼし権なんて無いと言うことと和解の助けは出来ないというだけ。
 つまりこちらは法律の範囲で行動している。岩手の通訳差別に一関社協は字が読めなくてと3年弁解し続けて時効だろうが情報センターの貸し出し拒否は違法でないか。たまに挨拶だけで会報も字幕ビデオもごまかして7ヶ月も貸し
 

 自立支援法が復活しても変わらない差別

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月17日(木)19時59分19秒
返信・引用
   完全沈黙で抹殺計る岩手の暴走。13年前の自立支援法の廃止を盾に看板団体の暴走を隠し続け、5年程前に支援法は復活したが暴走隠しは強硬でも過去の法律が元となって法務省も厚生労働省も沈黙するだけ。
 12年も抹殺を図られています。

 自立支援法が復活しても変わらない差別
 岩手の盲ろう者友の会やろうあ協会の暴走による社会参加妨害や誰一人関わらせない、どこの団体も行かせないなどの暴走は12年におよび昨年全国大会は全国の友の会も岩手の友の会の知っている人は口封じから誰も逢わせなかった。
 調べたら知事が黒幕で全国の友の会も全国協会も口説き伏せられていた。参加を勧めた全国協会も口説かれて寝返って居た。厚生労働省も法務省も完全沈黙して知事に暴走目こぼし権があるとしか思え無かった。
 昨年秋全国の社協などに暴走目こぼし権について問い合わせついでに岩手の暴走を全国にばらした。これで完全沈黙を破って置いた。 秋から年末に掛けて繰り返しもあって200くらいになる。迷惑か、非難がくるかと思ったら一つも無く反対に丁寧に届きました手と14軒から返事が来た。
 2月になると12年目の差別の疲れから県庁福祉課の課長に親を馬鹿にしていいとして今までの圧力を廃止にして欲しいと和解を求めたが和解は暴走がばれるだけで抹殺しか考えていない。無視された。
 これでは説明抜きのかん口令が役場に来たら完全孤立してしまうとして役場に出向き立場の説明をし、理解を求めました。
 その後も全国の社協など暴走振りを話した。完全沈黙は県内だけになる。2月から現在まで繰り返しもあって150になる。人権がかかっているから必死になります。
 岩手は何故強硬に抹殺だけ考えていないのかその理由は4月になってやっと判りました。
 友の会を辞めたのは12年前。障害者の自立支援法が廃止になったのは13年前。それで暴走しようと看板団体優先で障碍者の一人くらいどうでもいいと暴走目こぼし権そのものの自立支援法廃止に目を付け完全沈黙でガードしたことになる。
 そして自立支援法が6年程前に復活したらはっきり言えば暴走でも前の法律の元で起こったのだから違法にならず厚生労働省も法務省も手が出ないことになる。完全沈黙の理屈はどっちの味方もしないことが公平だと言う意味なのか。それとも障害者一人くらいと無視しているのか。前者だと信じたい。
 法務局には知らせている。そして法務省に伝わる。返事が無いのは好きにしろと言うことになる。意見をよこしたのは暴走目こぼし権なんて無いと言うことと和解の助けは出来ないというだけ。
 つまりこちらは法律の範囲で行動している。岩手の通訳差別に一関社協は字が読めなくてと3年弁解し続けて時効だろうが情報センターの貸し出し拒否は違法でないか。たまに挨拶だけで会報も字幕ビデオもごまかして7ヶ月も貸し出し拒否のままになった。

 

    資本論再版・第一の価値形態の、原文とは異なる日本語訳の迷妄 その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月14日(月)01時37分31秒
返信・引用 編集済
      原文訳とばかり思っていた、現行第四版資本論の価値形態の記述が、異なり、間違っていた!
    ネット社会のありがたさで、エンゲルス版・第四版の記述とは異なるーー和訳の誤訳を、私達
    は、戦後ずっと提示されてきたのです!

    偶然 英語版資本論のページを駆け巡っていて、ドイツ語版資本論のサイト発見しました。
    第一形態の価値形態の点検をしてみると、やはり価値物の記載は無いのです。
    そして8段落のAが王様であり、Bが臣民であること、以上二点にて、学会であり、左翼
    全ての理解ーー和訳の誤りが、点検できました。

    正しき再版の記述に呼応して、この第一の形態への杉本の理解を、述べてみました。
    ドイツ語のほうは分かりにくいので、削除しての編集としてしてみました。

    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

    3. Die Wertform oder der Tauschwert
    3.価値形態または交換価値
<63>
    A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
      シンプル、シングルまたはランダム価値形式
 x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

 1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
     2. Die relative Wertform        2.相対価値フォーム
    a) Gehalt der relativen Wertform   a)相対価値フォームの内容

 ①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、まず量的側面とは全く無関係に商品を考える必要があります。

ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表記が同じ名前のものであり、したがって相応の量である(17)

 ②20エレのリネン= 1コート、すなわち= 20着の上着、すなわち=リネンの数量が多くても数着の上着であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートは表現が同じ統一の表現であることを意味するです。 リネン=上着は方程式の基礎です。

 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
リネンの値だけが表現されます。ではどのようにしてですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通して。

この関係では、上着は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがリネンと同じであるからです。一方、リネンの独自の価値は、独立した表現をもたらします。これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、上着に関連する価値があるためです。

   <杉本ーーこの3段落の提示は素晴らしいですね!
   上着は価値の存在形態であり、値としてその姿とは異なる「価値」
   であると規定されているのです。
   そして他方、この規定をしたリネンは、このように交換可能性を示
   すことが出来たことで、ここでは潜在していますがその性質を、独
   立した性質を表現しますーー次に述べたいことを語るのです。
   この提示されている事柄は、初版提示の価値存在の表現が如何にし
   てなせるのか?と言うことであります。>
   <ここには、「上着は価値の実存形態として価値物として通用」な
   どの余計な文言はありません。
   ここでは既に上着は価値の存在形態であり、価値と規定されてる>

 例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。
しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。
蟻酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

   <(蟻酸プロピル)はC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2
   からなるーー>とは?
   ここに、上着が--価値物--などとマルクスの筋書きとは異なる異説
   を挿入することで、価値体論へと論理のすり替えを行っているので
   あり、価値実体の論証でもあるかと人々を大混乱させているので
   す。>

 ④商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであると言うので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、それらの自然な形とは異なる価値形態を与えない。 ある商品の価値が別の商品と異なる。その価値観は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。

 ⑤加えて、例えば、 もし上着がリネンの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。今、キャンバスを作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを抽象します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

   <この版にて驚くのがこの訳出です。我々が常識と考える理論的抽
   象--事実上の抽象が否定されているかに思えるからです。しかし、
   ここは、明らかに理論的抽象であることが、次に述べられているよ
   うに、そのことが否定されて、「回り道」をしているのです。
   現行版では、この回り道がこの5段落にて成立しており、6段落にて
   の補強の必要を見なかったのに、ここでは次の6段落にての提示が
   あることで論理の整合性が叶います。しかし、ここには驚きます。>

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥ しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>

 ⑦リネンの価値観において、上着は質であるため同じ性質のものとして質的に等しいとみなされる。 したがって、彼・上着は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

   <価値の存在形態であり、価値であり、抽象的人間労働の凝固物で
   あることにおいて上着は、リネンの価値観がここに示されることで
   対象的形態である上着は、①「彼、上着は価値が出現するもの、
   ②またはその有形の自然な形で価値を表すもの 」ーーと二つの観
   点である価値存在であり、価値・その実体としての抽象的人間労働
   ーーと示されているのです。

しかし、今、上着、rockwareの本体は、単なる使用価値です。
上着は最初の最高のリネンよりも価値はない。
これは、リネンとの価値関係の範囲内だけではなく、ギャロッピングされた<金モールで飾られた>上着の中で人がどれくらい多くのことを意味するのかーーということを証明しています。

   <①「彼、上着は価値が出現するもの、
    ②またはその有形の自然な形で価値を表すもの 」
    と二つの観点である
      a-価値存在であり、
    b-価値・その実体としての抽象的人間労働>
    ーーとリンネルとの価値関係から反省規定を受けている上着は、
    皆さんどんな規定を、受けていたのですかねーーとの質問です。

      著者は、読む人々に3~7段落の論旨の確認を、求めているのです。
   3段落からの、上着は価値の存在形態であることは、人々に見えていないで
   あろう、ーーとして、再度はじめからの事項の反復を求めているのです。>
   <仏語訳
   「リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現」の事柄についての、
   仏訳での提起は、ほんとうに素晴らしい!ここで起こる転倒を次に示す。

   「しかしながら、リンネルの価値を産む労働の独自の性格が表現されるだけ
   では充分ではない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、たし
   かに価値を形成するが、価値ではない。それは、ある物体という形態におい
   てのみ価値になるのである。
   従って、リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、
   自己矛盾しているようにみえる。
   一方では、リンネルの価値を、抽象的人間労働の純粋な凝縮<凝固>として
   表さなければならない。
   商品は価値としては、これ以外の実在を持たなければならないからである。
   同時にこの凝縮<凝固>はリンネル自体とは明らかに違った(異なった)あ
   る物体という形態を帯びなければならず、この形態は、リンネルのものであ
   りながら、リンネルにとっては他の商品と共通なものなのである。」
   (仏語版 P21)

 ⑧上着の生産では、実際には仕立ての形で、人間の労働が費やされました。 人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。
この側面によれば、上着は「価値の存在形態」<旧訳 価値の担い手>であるが、これはその財産そのものが、最大の縫い目によって見えないのです。

  <またも驚きます!価値実体しか意識にないので翻訳者は「価値の担い手」>

また、上着の価値の面では、この側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体として適用されます。
彼の可愛い姿にもかかわらず、リネンは彼女の中で価値のある血統関連の美しい価値魂を認めています。しかし、同時に<上着の形を取る価値>がなければ、彼女は価値あるものではありません。

  <新日本-ー「上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにと
   って価値が上着という形態をとることなしにはできないことである。」

     この訳の間違えは、後者にあるわけではない。むしろ、その前の
    「上着がリンネルに対して価値を表すことは・・」ではなく、
    「上着がリンネルに対して価値であることは・・」なのです。
    ーーこのように、価値表現を示す、この訳が誤りなのです。
    ここでの論理の運びは、とても難しい! 要注意であります。

   A上着が<価値体>を示す、ことが、<リネンの上着による相対的価値表現>
    には辿り着かないーー「美しい価値魂を認めて」ることでは、できない、と。

   Bここでは、既に--「上着の価値の面では、」とされるーーことでは、その
    先の見解--理解にたどり着かない、とされています。

       C <上着の形を取る価値>への転換によりてー「価値形態」ーその姿が
    <彼女は価値あるもの>として、自らを、示すことができるのです。

    この規定の前提のもとで、「体化された価値であり価値体」(新日本訳)で
    あることがなされているのに、この転換のあることを、訳者・先生は見てい
    ないのです。

    以上に示された反省規定であるーー上着がリンネルの等価物であることでの、
    形態転換をこそ3~8段落で、次のように、その4段階が示されてきたのです。
     ③リンネルの価値存在の表現--価値の存在形態
     ⑤上着は価値として人間労働の凝固物
     ⑦a-価値存在であり、b-価値・その実体としての抽象的人間労働
     ⑧だから、ここでは価値体・上着であることができるのは?、との
      質問を見出さなければ、物象の社会関係は対象外になります。
     aリンネルの等価物上着が<上着の形を取る価値>と判断されることで、
      <価値形態>上着が規定され、次に、やっと
     b<彼女は価値あるもの>であり、<価値は上着>の規定を受け取る--
     cそこで、先に示された、上着が、「体化された価値であり価値体」の成立
      があることで、価値表現がなされ、そのことに依っているのです。

     ここに、相対的価値表現と、価値存在の表現との区別が見出されなければ、
     物象の判断である価値形態上着での価値表現は、理解できないのです。


   この経路に示される反省規定においては、諸物象の判断に依りて、この物象
   の社会関係である価値関係が形成されるーーことでの、価値形態の成立と云
   うことであります。
   ここに、リンネルの価値形態が、次のように<王と臣民の関係>と示された。
   原文・再版
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、・・・その土地の父親と変えるこ
   となければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。」
   <新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、リンネル自身が、この価値関係により
   反省規定することが、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・・」
   --と示されたことが、<上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をか
   ぶらせられた王に、<Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること>に、
   すり替えられたのではなかろうか?

   これが、日本での既存訳の間違いなのです。
   「この側面によれば、上着は「価値の存在形態」である」--のに、
   人間労働の凝固物としての上着は、ーーとの視点では、上のことが見えない。
   「上着は「価値の存在形態」である」のはリンネルの価値存在が表現される
   ーーことに依っている視点であることで、物象の判断が示された。

   だから、相対的価値表現しようとするリンネルが、価値関係の命ずるままに、
   自身の姿を、価値存在であるリンネルの価値形態として表現する、のです。

したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。

 ⑨上着がリネンの等価物となる価値関係では、上着形態は価値形態とみなされます。
したがって、商品リネンの価値は、商品上着の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。
使用価値として、リネンは上着とは異なる官能的なものです。価値としてはリネンは、「上着のような」もので上着に見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。
それらの価値は、この<上着のような形>で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。

   <10 11 段落は略>
グーグル英和訳ソフト
   Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja
英語・独語 何でもありです。

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf

次も是非とも参照願います。 初版での悪訳--誤訳の凄まじさ・・であります。

 初版の理解について ②
http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1633


  杉本への意見があり、しかし、公開はされたくない、という人は、次の
   dt.nifty@gmail.com    ヘどうぞお願いします。

 

    資本論再版・第一の価値形態の、原文とは異なる日本語訳の迷妄

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月12日(土)13時36分11秒
返信・引用 編集済
      原文訳とばかり思っていた、現行第四版資本論の価値形態の記述が、異なり、間違っていた!
    ネット社会のありがたさで、エンゲルス版・第四版の記述とは異なるーー和訳の誤訳を、私達
    は、戦後ずっと提示されてきたのです!
    正しき再版の記述に呼応して、この第一の形態への杉本の理解を、述べてみました。

    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

    3. Die Wertform oder der Tauschwert
    3.価値形態または交換価値
<63>
    A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
      シンプル、シングルまたはランダム価値形式
 x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

 1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
     2. Die relative Wertform        2.相対価値フォーム
     a) Gehalt der relativen Wertform    a)相対価値フォームの内容

 ①Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten.
①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、まず量的側面とは全く無関係に商品を考える必要があります。

Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten.
ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。

Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)
異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表記が同じ名前のものであり、したがって相応の量である(17)

 ②Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
 20エレのリネン= 1コート、すなわち= 20着の上着、すなわち=リネンの数量が多くても数着の上着であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートは表現が同じ統一の表現であることを意味するです。
リネン=上着は方程式の基礎です。

 ③Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares".
しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
リネンの値だけが表現されます。ではどのようにしてですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通して。

In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich.
この関係では、上着は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがリネンと同じであるからです。一方、リネンの独自の価値は、独立した表現をもたらします。これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、上着に関連する価値があるためです。

   <杉本ーーこの3段落の提示は素晴らしいですね!
   上着は価値の存在形態であり、値としてその姿とは異なる「価値」
   であると規定されているのです。
   そして他方、この規定をしたリネンは、このように交換可能性を示
   すことが出来たことで、ここでは潜在していますがその性質を、独
   立した性質を表現しますーー次に述べたいことを語るのです。
   この提示されている事柄は、初版提示の価値存在の表現が如何にし
   てなせるのか?と言うことであります。>
   <ここには、「上着は価値の実存形態として価値物として通用」な
   どの余計な文言はありません。
   ここでは既に上着は価値の存在形態であり、価値と規定されてる>

So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper.
例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。

Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung,
<65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht.
しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。

Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.
蟻酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

   <(蟻酸プロピル)はC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2
   からなるーー>とは?
   ここに、上着が--価値物--などとマルクスの筋書きとは異なる異説
   を挿入することで、価値体論へと論理のすり替えを行っているので
   あり、価値実体の論証でもあるかと人々を大混乱させているので
   す。>

 ④Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern.
商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであると言うので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、それらの自然な形とは異なる価値形態を与えない。 ある商品の価値が別の商品と異なる。

Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.
その価値観は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。

 ⑤Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit.
加えて、例えば、 もし上着がリネンの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。
今、キャンバスを作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを抽象します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

   <この版にて驚くのがこの訳出です。我々が常識と考える理論的抽
   象--事実上の抽象が否定されているかに思えるからです。しかし、
   ここは、明らかに理論的抽象であることが、次に述べられているよ
   うに、そのことが否定されて、「回り道」をしているのです。
   現行版では、この回り道がこの5段落にて成立しており、6段落にて
   の補強の必要を見なかったのに、ここでは段落にての提示があるこ
   とで、論理の整合性が叶うのです。しかし、ここには驚きます。>

Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).
実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥ Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük-
<66>  ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.
 しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>

⑦Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt.
 リネンの価値観において、上着は質であるため同じ性質のものとして質的に等しいとみなされる。 したがって、彼・上着は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

   <価値の存在形態であり、価値であり、抽象的人間労働の凝固物で
   あることにおいて上着は、リネンの価値観がここに示されることで
   対象的形態である上着は、①「彼、上着は価値が出現するもの、
   ②またはその有形の自然な形で価値を表すもの 」ーーと、二つの観
   点である価値存在であり、価値・その実体としての抽象的人間労働
   ーーと示されているのです。

Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert.
しかし、今、上着、rockwareの本体は、単なる使用価値です。

Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand.
上着は最初の最高のリネンよりも価値はない。

Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.
これは、リネンとの価値関係の範囲内だけではなく、ギャロッピングされた<金モールで飾られた>上着の中で人がどれくらい多くのことを意味するのかーーということを証明しています。


   <①「彼、上着は価値が出現するもの、
    ②またはその有形の自然な形で価値を表すもの 」
    と二つの観点である
      a-価値存在であり、
    b-価値・その実体としての抽象的人間労働>
    ーーとリンネルとの価値関係から反省規定を受けている上着は、
    皆さんどんな規定を、受けていたのですかねーーとの質問です。

      著者は、読む人々に3~7段落の論旨の確認を、求めているのです。
   3段落からの、上着は価値の存在形態であることは、人々に見えていないで
   あろう、ーーとして、再度はじめからの事項の反復を求めているのです。>
   <仏語訳
   「リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現」の事柄についての、
   仏訳での提起は、ほんとうに素晴らしい!ここで起こる転倒を次に示す。

  「しかしながら、リンネルの価値を産む労働の独自の性格が表現されるだけ
  では充分ではない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、
  たしかに価値を形成するが、価値ではない。それは、ある物体という形態に
  おいてのみ価値になるのである。
  従って、リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、
  自己矛盾しているようにみえる。
  一方では、リンネルの価値を、抽象的人間労働の純粋な凝縮<凝固>として
  表さなければならない。
  商品は価値としては、これ以外の実在を持たなければならないからである。
  同時にこの凝縮<凝固>はリンネル自体とは明らかに違った(異なった)あ
  る物体という形態を帯びなければならず、この形態は、リンネルのものであ
  りながら、りんねるにとっては他の商品と共通なものなのである。」
  (仏語版 P21)

 ⑧In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft.
上着の生産では、実際には仕立ての形で、人間の労働が費やされました。 人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt.
この側面によれば、上着は「価値の存在形態」<旧訳 価値の担い手>であるが、これはその財産そのものが、最大の縫い目によって見えないのです。

   <またも驚きます!価値実体しか意識にないので翻訳者は「価値の担い手」>

Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper.
また、上着の価値の面では、この側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体として適用されます。

Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt.
彼の可愛い姿にもかかわらず、リネンは彼女の中で価値のある血統関連の美しい価値魂を認めています。

Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt.
しかし、同時に<上着の形を取る価値>がなければ、彼女は価値あるものではありません。


   <新日本-「リンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには」
    けして訳は、間違えているわけではない。むしろ、その前の
    「上着がリンネルに対して価値を表すことは・・」ではなく、
    「上着がリンネルに対して価値であることは・・」なのです。
    ーーこのように、この訳が誤りなのです。
    ここでは、既に--「上着の価値の面では、」とされ価値は上着であること
    が、「体化された価値であり価値体」(新日本訳)であることで規定され
    ていたのに、この転換のあることを、訳者・先生は見ていないのです。>
    <上着が、リンネルの等価物であることでの、形態転換をこそ3~8段落
    で、次のように示されてきたのです。
     ③リンネルの価値存在の表現--価値の存在形態
     ⑤上着は価値として人間労働の凝固物
     ⑦a-価値存在であり、b-価値・その実体としての抽象的人間労働
     ⑧だから、ここでは価値体・上着であることができるのは、リンネルの
      等価物上着が、<上着の形を取る価値>であることで<価値は上着>
      の規定を受け取る--そのことに依っているのです。

   この経路に示される反省規定においては、諸物象の判断に依りて、この物象
   の社会関係である価値関係が形成されるーーことでの、価値形態の成立と云
   うことであります。
   ここに、リンネルの価値形態が、次のように<王と臣民の関係>と示された。
   原文・再版
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、・・・その土地の父親と変えるこ
   となければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。」
   <新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、リンネル自身が、この価値関係により
   反省規定することが、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・・」
   --と示されたことが、<上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をか
   ぶらせられた王に、<Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること>に、
   すり替えられたのではなかろうか?
   これが、日本での既存訳の間違いなのです。
   「この側面によれば、上着は「価値の存在形態」である」--のに、
   人間労働の凝固物としての上着は、ーーとの視点では、上のことが見えない。
   「上着は「価値の存在形態」である」のはリンネルの価値存在が表現される
   ーーことに依っている視点であることで、物象の判断が示された。

   だから、相対的価値表現しようとするリンネルが、価値関係の命ずるままに、
   自身の姿を、価値存在であるリンネルの価値形態として表現する、のです。


So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。

 ⑨Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren.
 上着がリネンの等価物となる価値関係では、上着形態は価値形態とみなされます。
したがって、商品リネンの価値は、商品上着の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。

Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform.
使用価値として、リネンは上着とは異なる官能的なものです。価値としてはリネンは、「上着のような」もので上着に見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。

Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.
それらの価値は、この<上着のような形>で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。

   <10 11 段落は略>

   グーグル英和訳ソフト
   Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja
   英語・独語 何でもありです。

 

3.価値形態または交換価値

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月10日(木)14時38分42秒
返信・引用 編集済
      偶然 英語版資本論のページを駆け巡っていて、ドイツ語版資本論のサイト発見しました。
    第一形態の価値形態の点検をしてみると、やはり価値物の記載は無く、そして8段落のAが王様であり、
    Bが臣民であること、以上二点にて、学会であり、左翼全ての理解ーー和訳の誤りが、点検できました。

    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

    3. Die Wertform oder der Tauschwert
    3.価値形態または交換価値
<62>
  Waren kommen zur Welt in der Form von Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies ihre hausbackene Naturalform. Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.
 商品は価値観や商品の形で鉄、キャンバス、小麦などの形で世界に現れます。これは自家製のものです。
しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある担い手でもあるため、商品でしかありません。 したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

<63>
    A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
      シンプル、シングルまたはランダム価値形式
 x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

 1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
 2. Die relative Wertform          2.相対価値フォーム
    a) Gehalt der relativen Wertform   a)相対価値フォームの内容

 ①Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten.
①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、まず量的側面とは全く無関係に商品を考える必要があります。

Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten.
ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。

Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)
異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表記が同じ名前のものであり、したがって相応の量である(17)

 ②Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
 20エレのリネン= 1コート、すなわち= 20着の上着、すなわち=リネンの数量が多くても数着の上着であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートは表現が同じ統一の表現であることを意味するです。
リネン=上着は方程式の基礎です。

 ③Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares".
しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
リネンの値だけが表現されます。ではどのようにしてですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通して。

In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich.
この関係では、上着は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがリネンと同じであるからです。一方、リネンの独自の価値は、独立した表現をもたらします。これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、上着に関連する価値があるためです。

So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper.
例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。

Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht.
しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。

Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.
ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern.
商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであると言うので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、それらの自然な形とは異なる価値形態を与えない。 ある商品の価値が別の商品と異なる。

 Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.
 その価値観は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。

 ⑤Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit.
加えて、例えば、 もし上着がリネンの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。
今、キャンバスを作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを抽象します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間の労働を持たないと言われています。

Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).
実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥ Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük-<66>  ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.

しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。。 リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

⑦Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt.
 リネンの価値観において、上着は質であるため同じ性質のものとして質的に等しいとみなされる。 したがって、彼・上着は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert.
しかし、今、上着、rockwareの本体は、単なる使用価値です。

Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand.
上着は最初の最高のリネンよりも価値はない。

Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.
 これは、リネンとの価値関係の範囲内だけではなく、ギャロッピングされた<金モールで飾られた>上着の
中で人がどれくらい多くのことを意味するのかーーということを証明しています。

 ⑧In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft.
上着の生産では、実際には仕立ての形で、人間の労働が費やされました。 人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt.
この側面によれば、上着は「価値の存在形態」であるが、これはその財産そのものが、最大の縫い目によって見えないのです。

Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper.
また、上着の価値の面では、この側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体として適用されます。

Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt.
彼の可愛い姿にもかかわらず、リネンは彼女の中で価値のある血統関連の美しい価値魂を認めています。

Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt.
しかし、同時に<上着の形を取る価値>がなければ、彼女は価値あるものではありません。

So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。

 ⑨Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren.
上着がリネンの等価物となる価値関係では、上着形態は価値形態とみなされます。
したがって、商品リネンの価値は、商品上着の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。

Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform.
使用価値として、リネンは上着とは異なる官能的なものです。価値としてはリネンは、「上着のような」もので上着に見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。

Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.
それらの価値は、この<上着のような形>で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。


 ⑩Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand.
ご覧の通り、私たちの前で商品の価値を分析したことは、他の商品との接触が始まると直ぐにリネン自身が言う、上着です。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。仕事は、人間の労働の抽象的性質で、自分の価値であると言うために、彼女は上着が、ある限り彼はそれに等しいと考えられているようなので、同じ作業<67>から切り出された価値であることを、述べているキャンバスとしてあります。

Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten.
その崇高な価値観 - 客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は上着のように見え、したがって、リネン自身も価値として、卵のように上着に似ていると彼女は言います。
ちなみに、商品の言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。

Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>
ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品Aとを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>

 ⑪Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.
 価値比により、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態になるか、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる。(18)商品Aは、価値体としての商品Bを人間労働の素材として参照し、 それらを価値表現の材料に価値Bを使用します。 商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対的価値形態をしている。


グーグル英和訳ソフト
   Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja
英語・独語 何でもありです。
 

     再版 内実論から、初版での価値形態での主張が見えることがらーーについて

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 8日(火)23時04分27秒
返信・引用 編集済
       <価値形態と価値体の区別がない久留間先生の判断ーー理解について>

     英語版での八段落の記述から知る、久留間理論の位置について
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.

   aそして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ
     価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。

   b<また、価値方程式中のリンネルの等価物として、それは、この様相の下で単独で存在します、
    計算できる値である身体であり、具体化された価値 <体現された価値> として。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   <杉本 ここでの判断している主体は、価値関係をつくる物象であるので、仏語訳が適訳です。
   c「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。」ーーとしめさ
   れたことは、次のことであります。

     <上記a b c 3つの訳について、理解が示されることで、上着の価値形態ではなく、
     リンネルの価値形態としてーー左極で形成されます。このことが何か?を論じてみます。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   ①上着がリンネルの価値を表現するーーことが、リンネルの価値形態が上着形態と形成されること
    ーーで為されるのであり、これが相対的価値形態の内実となることでなのです。
   ②久留間先生の言うことは、上着がリンネルの価値体となることが、価値形態との形態規定ーーを
   受け取る、ということであります。
   ③リンネル=上着の方程式において、上着は価値であり、直接的に価値体の形態規定を両極の形態
   にかかわらず受け取っているーーと言う事ではないでしょうか?これが彼の、誤りなのです。
   ④リンネルの相対的価値表現では、リンネルの価値形態が形成されることでなされ、次に、
   その反対極において、上着が直接的に価値形態と判断されています。
   ⑤この反省規定でなされたことーーに対応して、両極で、「二つの価値形態」を見つけたことで、
   相対的価値形態と等価形態とが判断されます。(初版8段落 註20のふられた後の段落)
   ⑥再版では、まず相対的価値形態の形成になっていますが、それでは、初版が読み取れません。
   ⑦そして、初版の九段落から十二段落まで、この等価形態の論述がつながるのです。

   ⑧ところが、先生の記述では何故か、この7段落での価値形態の形成が如何にしてなのか?の把握
   が、この初版価値形態論の核心であるように再版の理解においてもなっているかに見えるのです。
   しかし、先生のこだわりが、この価値形態にあるかに見えるだけであります。間違い!です。
   先生のこだわりが、あるのは、他商品上着が直接的に価値体になれないので、「回り道」をして、
   <価値体としての形態規定>を受け取るーーということであります。
   先生は言うーー「これによって、(「「回り道」をして、)現に上着はリンネルに対する
          直接的交換可能性を与えられているのです。」(『貨幣論』P114)


       <初版 その7段落左極の部分を英語版から引用しておこう。>
          https://www.excite.co.jp/world/german/
          http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1632

   それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にするする必要があります。
   それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

   それは、他の商品と一緒に流通して初めて、自分自身にとって価値のある形式を得るだけです。
   しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。
   商品の唯一の客観的形態は、その使用形態、それらの自然形態である。

Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.
A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   今や商品の自然形態(例えばリネン)は、その価値形態の正反対であるため、上着の自然な形態
   を他の商品の姿のままに、商品形態<価値形態--江夏訳>に変換しなければならない。
   それはすぐに他の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によってすぐに
   することができます。

   <杉本 先生の論述は、このように詭弁なのです。主語が変化しています。リンネルの価値表現で
   あるだけではなく、リンネルの価値存在の表現<ここが主語>においては、上着はこの「回り道」
   を経過することで、<使用価値と価値形態の形態規定>を受け取ることで、商品形態が規定された
   のですし、この回り道をすることで、商品形態が受取られたのですから、規定されるのは相対的価
   値形態の形成であります。この7段落にて、商品形態を価値形態としたのは、江夏訳の誤訳である
   かと思います。
   左極での価値形態は、すでに、4段落での物象の諸関係の成立のなかで語られており、続くそのこ
   とが、5段落冒頭(註18a)にてまとめられていた。
   だから、7段落にてのこれは、右極と対比されたものであり、これは左極での行いなのです。>

   <しかし、このような「回り道」として語られたことに先生の真意はなく、使用価値上着が価値体
   としての形態規定を受け取るのは、如何にしてか?とのみここで問うているのです。>

   ⑨冒頭の英語版の8段落に、久留間先生の詭弁が暴かれています。
   「aそして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。」
    従来の訳は、この価値体と価値形態との区別をしないで訳出していたのです。

   左極①リンネルの価値表現であるならば、上着は価値体であり、
     ②リンネルの価値存在の表現であれば、価値形態は上着なのであります。
     ③そしてつぎにリンネルは、この価値形態を受け取ることで、上着が価値表現の材料となり、
     ④リンネルは、上着との関係において自身の商品形態を受け取り、
     ⑤上着のこの③の二つの媒介的な役立ちにおいて相対的価値形態を受け取ります。

   右極①使用価値上着は価値表現の材料になることで、リンネルの等価物となります。
     ②上着がリンネルの直接的な価値形態になることで等価形態となります。
     ③上着は価値としてリンネルに等しい左極での行いが、右極でも反射して、上着は直接的に
      価値体であることで、等価物の形態を示すーーのです。
     ④しかし、この①の価値表現材料、③直接的価値体であることではその役立ちを成せない。
     ⑤上着は価値の現象形態であることは、その①③に依るものであり、価値形態になれない。
     ⑥等価形態の第二・三の独自性の示すことは、具体的労働が抽象的人間労働の実現形態になる
      例に示される、物象の判断によって、この④⑤の困難の克服が成されていたのです
     ⑦このように、等価形態の第② ③の独自性は物象の判断によっているのです。

     ⑧等価形態のこの第② ③の独自性は物象の判断であるが、そのことができたのは、
      左極での価値形態の形成において、物象の判断が上着がリンネルの価値の存在形態と判断す
      ることで、価値形態と規定されたことがーー転倒して、
      上着が価値表現の材料であり、価値体である物的存在であり、同等性関係なままに、
      価値形態と判断されることで、物象の社会関係ではなく、物的関係であることを示してい
      る、事に依るのです。

   ⑩以上、再版八段落の意味を考え続けてみれば、従来の訳はこの価値形態と価値体の区別をつける
   ことが出来ないので、使用価値と価値形態の商品形態が形成される筋道への批判が出来ないーー思
   想的・実践的基板にあると見なければならないのです。

   ⑪私は、50年代の復帰以前の奄美で、裸足で生活しながら、ハブにも噛み付かれず、野山・川・海
   を走り回った幼年期の経験があります。そこでの米・砂糖きび・黒砂糖の生成は、集団耕作であり
   ますから、集落での集団での協同労働に生活の大半が支えられていたわけです。
   生活の基本線である 水・米・家屋には、集落での協同労働がありますから、そこには労働生産物
   の商品への転化はないのですが、そこを拡大するような思考であり、協同作業は、全島を覆った復
   帰闘争・島じゅうにいた親類縁者はいながらも、大島紬の販路拡大とともに、無償労働の範囲は、
   縮小こそするばかりであったのです。

   ⑫マルクスの提起していることは、価値関係の形成が、左極でのリンネルの価値形態の形成が、
   上着をリンネルの等価物として、価値の存在形態と反省規定することで、リンネルの価値存在の表
   現がなされるーーことがあって、事実上の回り道に示されるーー人間労働の支出ーーが、リンネル
   は抽象的人間労働を示すだけでなく、他商品も価値としては抽象的人間労働の凝固物である、こと
   で、共通者の体化物として上着は価値体になりました。

    しかし、ここで大切なことは、その次のことが生起していることなのです。
   a価値存在を示すリンネルが、抽象的人間労働の凝固物と反省規定されていることで、
   b今度は、この「価値上着」が、リンネルからどう反省規定されているのか?が示されたのです。
    ここでの注意は、<上着は価値>であったものが、等価物の役立ちをなすために、6・7段落
    で、<価値は上着>と示される転倒があるのですし、そのことで等価物上着が、
   c「金モール」を着た上着へと反省規定が変わり、そのことで、等価物上着は、
   d体現された価値として・リンネルにとっての「価値が上着という形態をとること」で、やっと、
   e上着は価値体としてリンネルの価値を表すことができるーーのです。
   fここの困難は、「(上着は)それゆえ体化された価値としてのみ、価値体としてのみ通用する」
    と示される既存共通の等価物を示す日本語訳であれば、次のこととは区別ができず、マルクスの
    批判する同等性を示す物的存在としての価値体であり、価値形態なのであります。
   gここに、久留間先生の示す 価値体であり、価値形態がありました。
    これは、dの諸物象の社会関係の示す判断ではなく、それが、同等性関係への転倒のなかで示さ
    れるものですし、「上着は価値」であることで、価値形態を示すーー転倒像にあると見ました。
    これは、上記のa~fの流れにおいて検証しなければ見えてこないものであります。





 

価値関係=この前提のもとでのリンネルの価値存在の表現  その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 6日(日)11時54分40秒
返信・引用 編集済
    価値関係=この前提のもとでのリンネルの価値存在の表現が、上着を価値の存在形態
   と反省規定する--根幹事項について

   杉本 掲示板 過去投稿文をくぐって点検していたら、久留間先生の価値形態論--批判が、
  何処で頓挫したのか?   見えるところがあったので掲示しておきます。

  久留間先生への「批判」としての事実上の抽象--判断が、私自身のなかで頓挫したのが、
  6年前の私の見解であり、hirohiro さんの提示であったのです。

  やっとこさと、価値形態論での自身の理解--解釈の誤りが、見えるようになってきました。
  久留間先生の現行5段落の理解は、何ら回り道をしておらず、同じく『経済学教科書』の見
  解においても回り道などしておらず、これではここでの価値存在の表現を問うた第三段落の
  提示の基本線がなされていないのです。
  これでは、マルクスの価値形態論の復活は、成し得ないのです。
  次のA B Cとして、総括点を挙げてみました。

 A再版での化学式に例示された--酪酸に蟻酸プロピルが等置される例にて、
  「第一に蟻酸プロピル」は、化学式の共通者の存在形態であり、酪酸もその共通者の存在
  を表現しているーーとのマルクスの示したことが、何ら相手にされず捨象されてきたのが、
  スターリン経済学であったのです。
  ここでの肝要なことは、価値実体が、人間労働力の一般的支出ではなく社会的実体である
  ので抽象的人間労働である--ことを示す--5段落の提示のためには、価値関係のもと
  でのリンネルの価値存在の表現が、上着を価値の存在形態と反省規定される--前提のも
  とで成されている、ということです。

 B 初版の第4段落も英語版から提示しておきます。

  「リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値
  は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されま
  せん。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表
  現を得る)。
  リネンが価値あるもの<価値の存在形態>としてコートと関係するのであり、そこに同時
  に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボ
  ディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。⑱」
   ( http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1632 英訳 商品)

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   <hirohiro  さんの初版ーー現行訳での提示は次でありました。>
      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/410

  ⑦「リンネルが使用価値としては自己と上着とを区別しながら、価値としては自己に上着
  を等置することによって、上着は、物体としてのリンネルとは対立するリンネル価値の現
  象形態となる。つまり、上着はリンネルの自然形態とは区別された、リンネルの価値形態
  となるのである。」(S.16~17)

  現行版では「課題はすでに解決されている」と述べられている問題が、初版のこの部分で
  解かれています。リンネルは上着との交換関係においていくつも得をするのです。

  ⑧「使用価値としての上着がリンネル価値の現象形態となるのは、ただ、リンネルが抽象
  的な人間労働の直接的な物質化としての上着という素材に関係するからにほかならない。」
  (S.18)

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      <この⑧は、⑤段落であり、同じところの英訳・直訳ではこうなります。>
  ⑤「使用価値コートはリネン価値の現象形態にしかならない。
  なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係す
  るため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。

  対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブ
  ジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッ
  センスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価
  値形態になります。」
   <杉本  江夏訳ーー「上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形
              態になるわけである。」原P18 P37
        ーーと述べられているのは、               >
        「コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それに
        よって、自然的形態のままにに価値形態になります。」
        ーーということをこそ、言わんがためであり、価値の現象形態では無いです。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  ーーー彼の意図は、この4・5段落は、同じことをマルクスはのべているのですーーーと
  述べているのです。新しい初版英語版の訳出で、6年の歳月を経過することで解けました。
  ここでの⑦は、左極での価値形態であり、⑧は右極での価値形態なのです。

  上記の⑦ ⑧そこに区別がありません!と言うのがここでの彼の主張なのです。
  ーーーしかし、何という悪訳・・・対しての独語訳からの英語訳の素晴らしさ!

  初版ーー英語版ではこの量的側面に対しての質的側面の導出--対比は、明らかです。
  この区別に示されるものが何か?この質的側面とはなにか?と、論述してきたのですから
  これが物象の社会関係であるとの判断を--マルクスは註18を示した4段落にて、以上の
  ようになしています。なんと、江夏訳での翻訳では、このことが理解できない。
   「上着はリンネル価値の現象形態になり・・リンネルの価値形態になる」ーーとの訳で
  は、やはり、間違いなのであります。


    <hirohiro  さんの等価形態の謎性について>の項目への意見について
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  5.「価値体」について
  今回の投稿の最後として、初版における「価値体」用語の使用法を検討しましょう。

  ⑪「リンネルは、抽象的な人間労働の感覚的に存在する体化物としての上着に関係するのであり、
   従ってまた目の前にある価値体としての上着に関係するのだが、上着がこのように目の前にある価
   値体であるのは、ただリンネルがこのような仕方で上着に関係するが故であり、またそのかぎりで
   しかない。上着の等価物というあり方はいわばリンネルの反省規定にすぎない。」(S.22)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    杉本は、彼のこの<等価形態の謎性>への意見を出してみます。

   この⑪段落は、どのような意味合いがあったのでしょうか? ⑨段落からの論議があります。
  ⑨「ひとつの商品の価値の大きさは他の商品のの使用価値のなかでのみ、相対価値として自分を表現
   することができる。それとは反対に、ひとつの商品は、他の商品の価値が表現される材料としての
   み、直接に交換可能な使用価値または等価物の形態をまとうことができる。(今村訳)

   使用価値上着は等価物の役立ちを成すためには、価値表現の材料としての役立ちをなすーーから、
   できる、というのは何故か?と問いが立っているのです。
   その答えが、この⑪段落にあるのですから、等価形態が、幻影的形態をもたらしていることは、
   論議されないのですか?この⑪段落の冒頭を示してみます。

⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

   商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相
   対的に現れるわけではない。 リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネ
   ンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

   コートが関係している限り、それはリネンがそれ自身の価値の直接的形態<価値形態>
  (価値の現象形態ーーは誤訳)としてコートと関連している限り、それゆえにすぐに
  それ自身のもの(リネン)と交換可能なものとして。

  <Phenomenal form of value (価値の現象形態)の訳出はない>
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  再度、このように<Phenomenal form of value  価値の現象形態>の記述はないのです。
  ここでは、等価物上着が、使用価値の自然的形態のままに、価値表現の材料としての役立ちをなす
  ーーという⑨段落での提示に対して、そのように述べたのでは、ここでの、
  上着が直接的に価値形態との判断を、物象の社会関係たる価値関係から受け取っていますーーとの提
  示を、無視することになります。上着は直接的に価値形態との判断をこの関係から受け取っているが
  ゆえに、等価形態と判断されることで、この価値表現の材料の役立ちを果たせたのです。

    <再版 でも同じことを述べていたのですが、翻訳は、「価値の現象形態」の訳です。>

The first peculiarity that strikes us, in considering the form of the equivalent, is this: use value becomes the form of manifestation, the phenomenal form of its opposite, value.
   等価形態を考える上で、私たちを襲う第一の独自性は、これです
   :使用価値は表現の形式となり、その逆の驚異的な価値を示す形式になります。

   <仏語版ーー
   「等価形態の第一の特色。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。」P27>

The bodily form of the commodity becomes its value form.
   商品の身体的形態はその価値形態になります。

  <その逆の驚異的な価値を示す形式ーーでなければ、その次の価値形態へとは進まない>
   使用価値が、その対立物である価値の表示形態になるーーことで、価値形態となる、見事な仏訳
  <英語版・仏語版ーーの記述は、等価形態の第一の独自性 が、混迷なく示されたのです。>
   独版での日本語訳は、このように誤りであり、この謎性への批判は混迷している。

  <初版では、等価形態の独自性を示すことで、この現象形態のもたらす謎性を、ここに批判した>

  ところが、この①直接的に価値形態の役立ちを等価物上着がなすことが、
         ②上着は使用価値の姿のままに等価物の役立ち・直接的交換可能性を示す、のです。
   これが、この⑪段落に示されているーー「等価形態の謎性」ーーであります。

      <この価値の現象形態の転倒への批判が、榎原さんも無い、紹介>

      だから、榎原さんの提示した価値関係の外でのリンネル価値の現象形態
      が、商品の物神性によって示されるのが、等価形態の謎ではないのです。

      この価値関係の内にあっても、上着がリンネルの価値形態とは示されず、
      上着が価値体にあることで、価値の現象形態との判断を示し、使用価値
      上着がその姿態のままに交換可能性を示すのが、等価形態の謎なのです。
      上着が価値形態を示さないのに、使用価値上着が価値体であることでの
      みリンネル価値の現象形態を示す転倒した論理ーー表現であるとの、こ
      とになるのではと思います。
       http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1629

  このように、上着がこの反省規定を受けとることで、直接的に価値形態となることで、
  その前提のもとにあれば、上着はならば直接的に価値であり、価値体の反照規定を受け取っている
  ーーという言わば二重の行程があります。価値形態と価値体の反省規定があるのですが、ここでの
  区別があることで、今は、物象の社会関係による物的存在への反省規定が示されたーーと思います。

  hirohiro  さんのおかげさまで、久留間先生の言うところの <価値体としての形態規定>
  ーーとしての問題意識の出どころが・・みえるーーように思います。


 Cしかし、再版ではこの3段落にて、簡明に、物象の社会関係であリ、物象の判断がここに
  示されているのです。それはどうやってですか?
  ①註17に示される第一段落の価値関係の質的側面の提示、②続く第二段落の等式が既に示
  されているのですから、既に初版での論述は前提にされており、この準備を見つければ、
  再版・悪訳の(上着は価値の実存形態・・価値物)の提起に、騙されることはないのです。

   ところが、この①②の提示など、何ら考えず、3・5段落をのみ取り上げるものですから、
  ③再版のこの三段落の価値存在の表現--価値存在の現出を見出せず、化学式の記述を価
  値実体の表現と混同させることで、第五段落の記述とも混同させてきた混乱ぶりが、久留
  間先生の理解であったのです。

  今迄、自身の過去の理解を点検できていなかったので、他の先生方の理解と比較しながら
  そのなかでコメントしてみます。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 C榎原さんは、この久留間・スターリン経済学の抽象に対する批判をこう述べていた.

「いいかえれば、久留間にとっては、具体的労働の抽象化は、異種労働の等置による同等な人間労働への還元ということしか考えられておらず、リンネルの価値が上着で表現されること自体がリンネルを生産する労働の抽象的表現としての意義をもっていることに気付いていないので・・・・」(『価値形態・物象化・物神性』P111)

「マルクスはこの課題を、リンネルの価値が上着で表現されていること、いいかえれば、リンネル(価値――杉本追加)をつくる労働が上着に反射して上着という形態で感覚的にあらわれているのだから、そのような労働はリンネルを物しているすべてのものを度外視した抽象的なものとならざるをえない、と分析することによって、解決した。リンネル価値の質を明らかにした上にたって、マルクスは、上着そのものにリンネルによって刻印された形態についての分析を進める.そこではじめて上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっていることが指摘される。」(同上P112)

 D<杉本の理解を示す前に、今日であれば榎原さんの理解に対してどう批判するか書いてみる。>
  <杉本ーー第三段落での問題としてのリンネルの価値存在の表現が、前提されてのものではない、
  久留間説への批判という視点が、榎原さんの提示には無いのです。
  再版3段落は、混乱しており、英語版に基いて正訳に変更する。5段落での共通提示の「価値物」
  などの訳出は無いのです。

  第三段落--リンネルの価値だけが表現される。ではどのようにしてか?
       リンネルが、「その等価物」としての、または
       それと「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関連によって、である。
       この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値として、通用する。
          <価値の実存形態として価値物として通用する  再版・旧訳 誤訳>
       なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだから
       である。他方では、リンネル自身の価値存在が現れてくる。

  大谷先生に批判されるまでの久留間説は「その等価物」は、直接交換可能な使用価値(等価物)
  であり、直接的に価値であるーーことは自明なものとされたのです。しかし、この条文について
  の的確な批判はなされておらずであり、『貨幣論』での大谷先生の指摘--論議はあっても、訂
  正は成されなかった、のです。

  久留間さんの抽象はつぎでした。再度あげます。
  「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、
  上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽
  象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)
  『貨幣論』のP106でも、その相対的価値表現での『等価物』、上記3段落での『等価物』への久
  留間流理解は--訂正されていない--のです。そこも上げてみます。

  「リンネルは自分の価値を表現すること--は、他商品に価値体としての形態規定性を与えるこ
  とによってはじめてなしとげられるのだということ、これは否定すべからざる事実ではないでし
  ょうか。こういうことを問題にしているときに、上着は価値体になるのには、リンネルが上着で
  自分の価値を表現しなければならないではないか、と言ってみても、なんの役にも立たないでし
  ょう。」(『貨幣論』P106)

  ここでの、久留間先生の論述には次の区別がないのです。
        ①3段落の価値存在の表現を省略し、5段落での「回り道」について語らず、排除
        ②左極での相対的価値表現での等価物である価値形態は、交換可能性の形態
        ③上記ーーそこでの価値体としての上着は、単に量的側面であり、形態規定は無し
        ④上着がその姿のままに直接的に価値形態を受け取ることで、直接的交換可能性の
         形態を受け取るーーことで、左極の反対の右極にて等価形態を受け取る
  以上のように<他商品に価値体としての形態規定性を与えること>は以上の4件においては無い。
  「リンネルは自分の価値を表現すること--は、」自身の価値存在を、上着を価値存在の形態と
  規定することにおいて、つまり、物象の判断において為されているのです。そのことで、物象の
  社会関係のあることを、示しているのです。

  リンネルが相対的価値表現において、他者上着を自身の価値の存在形態と反省規定することにお
  いて自身の価値存在も表現される--のが、リンネルの価値関係と言うのが、マルクスの初版・
  再版で変わらぬ基本線ーーベースであるのに、久留間先生、何と榎原さんもそこの考慮が無いの
  ですから、物象の判断について、なんら提示していない。
  価値関係の質的側面の分析であることが、この3段落に示されることで、その実施としての、第
  5段落の<事実上の抽象>があり物象の判断が示されているその例示ーーとしての「回り道」で
  あるのに、何らここに論究できないのです。

       <3--5段落の関連の関連の示すものは、さらに追求すると次であります。>
   このように、③商品に表示される労働が抽象的人間労働であるためには?との質問があり、
      まず、①価値の存在形態である上着が、人間労働であることで、この回り道を経て、
      次に、②価値存在を表現するリンネルは、そこで抽象的人間労働の凝固物であると語り、
    ーーという物象の、二重の2行程を成す、判断行程を、3~5段落にて示したのです。
  価値関係でのそれを構成する諸物象であることでの、物象のリンネルと上着への判断なのです。
  大切な肝要部です。上記の①②の判断を成すことができるのは、そこに、価値存在の如何にしてか?
  を問うてきた3段落に示される、物象の判断があり、そのことは、次のことをも示しているのです。

  価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働であると、第一節・二節の事
  項を総括・判断していると、価値実体論と価値形態論との関連を見てくることで、この5段落に、ま
  とめていたのです。リンネルの価値存在を表現できたかぎりでの、上着価値なのです。
    <http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1627
  にて、上記を纏めたので、引用しておきました。>
   <価値存在の表現の問題と、価値の実体が抽象的人間労働であるとのーー二つの物象の判断です>

    <次が7段落 8・9段落の記述の関連です。>
  英語版の7段落<再版の訳は混迷>は、3--5段落を経過することで、今まで明示されてこな
  かった等価物上着が事態の進行のなかで、<価値は上着であり、価値の存在形態が上着において
  現出する>ーーことが、<金モールで飾られた上着であり、>8段落・「体化された価値」では
  なく<体現された価値>としてのみ通用す、即ち「価値が上着という形態」となることで、対象
  的形態とするリンネルが、王冠を受け取り・飾られる--その反省規定を、価値形態上着という
  姿態で表現しているのです。


   < 杉本 パソコン直訳  でドイツ訳の「価値体」ではなく「体現された価値」が正訳>
    八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
    ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
    それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
    この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
    そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。
    <「体化された価値としてのみ、価値体としてのみ通用する。」新書訳他も同一>

  <杉本 ここでの判断している主体は、価値関係をつくる物象であるので、仏語訳が適訳>
   「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。」ーーと

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and,  hair, and many other things besides.
    たとえば、Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、その特徴、髪、およびその他の
    多くのものを変えない限り、AはBの "陛下"になることはできません。
    人々の新しい父親は、その特徴、髪、および他の多くのものを変えます。

  ここは独版でなく、英語版の記述でなければこの物象の関係の示す転倒は、何ら見えてこない!
  反省規定であり、物象のなす判断が、価値関係にあるリンネルのなす反省規定・物象の判断が、
  この正像の反対の映像をも示す--次の転倒があるのです。

  「・価値としては、リンネルは『上着に等しいもの』であり、したがって上着のように見える」
  (9段落)転倒象を示すなかで、自身の<リンネルの価値形態>が表現されているのです。

     <このことを、久留間理論とのからみで言うと、次となります。>
     リンネルの価値表現が如何に?--と価値形態論を把握する久留間理論では、
     このーー8段落・「体化された価値」ーーの誤訳が提示するままに、
         9段落・「価値としては、リンネルは『上着に等しいもの』ーーに見えることで、
  ーー久留間先生の言うことは、
  「(リンネルが)上着は自分に等しいのだということによって、上着を価値の形態に・・している」
  (『貨幣論』P94)ーーとの、紛れも無い「リンネルの価値存在が、上着との同等性に・現れる」
  (原P66)宗教的転倒と同じである、物象の社会関係の示す転倒象に、賛成したことなのです。

  これが、物象の社会関係を物的関係へと、単なる商品の現象形態へと転倒させているーー事柄なので
  ありますし、殆どの人々のーー商品世界が、対象的姿態の代表とされている単純な価値形態ーーとは
  受け取らない伝統的思考に賛成している有り様ーーなのです。
  この思考法では、以上のことは自身の対象的世界ではなく、他世界での、物的世界での客観的事態な
  のです。我々には、「体化された価値」との誤訳では「価値形態」は、諸物象の社会関係を示さず、
  物的関係に転倒してしまうのですから、この<体現された価値>との物象的判断が必要なのです。

  このように、久留間先生の論理は主観性であり、自身の思い込みであり、他商品を価値体にすること
  は出来ない、と言いながら、等置されることで、価値体としての形態規定を上着は受け取ることがで
  きる--と主張するのです。

  <杉本  以上が、この時点での久留間理論への批判点・総括点であります。>


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 

  6年前の自分の見解

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 2日(水)21時53分37秒
返信・引用 編集済
    杉本 掲示板--過去投稿文をくぐって点検していたら、久留間先生の価値形態論--批判が、
  何処で頓挫したのか?   見えるところがあったので掲示しておきます。

  久留間先生の事実上の抽象--判断が、私自身のなかで頓挫したのが、6年前の私の見解で
  あり、hirohiro さんの主張ーー提示であったのです。

  やっとこさと、価値形態論での自身の理解--解釈の誤りが、見えるようになってきました。
  久留間先生の現行5段落の理解は、何ら回り道をしておらず、同じく経済学教科書の理解に
  おいても回り道などしておらず、これではここでの価値存在の表現を問うた第三段落の提示
  の基本線がなされていないのです。
  これでは、マルクスの価値形態論の復活は、成し得ないのです。


http://8918.teacup.com/rev21/bbs/404
二つの批判  投稿者:杉本  投稿日:2012年 1月 5日(木)02時01分34秒

 A久留間さんの「価値表現のメカニズム」での抽象
             投稿者:杉本
「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)

 久留間先生は、裁縫労働を織布労働に等置することで、「両者に共通な、抽象的人間労働に還元」される・・・と理解している。
そして、ここを「価値表現のメカニズム」の課題と考えているので、相対的価値表現の形式でのみ理解してしまうのです。

 彼は、左極の価値を織り出す労働が、右極で人間労働一般の実現形態としての裁縫労働と反省規定されるのではなく、具体的な労働の等置による共通性の抽出とよんだのですから、価値物上着が等置される価値関係での分析――であることを除外したのですね。
 価値関係の下では、右極の裁縫労働が人間的労働一般の実現形態に還元されるのは、今は具体的姿態としか判別できない相手の価値を織り出す労働の反省規定なんですね。この価値鏡の役立ちで、左極の織布労働も価値を織り出す限りでは、抽象的人間労働であると、「語る」・・価値鏡があたかも人間のように教えてくれると、物象の社会関係の成立を立証しているのです。

ここの理解は、「頭脳織物」に示される理論的抽象を批判した『初版本文』の註⑱の一節を例解とした方がとても意義があると思います.

 論じていることは、久留間先生のように、二商品の等置に示される同等性関係であるばかりでなく、価値関係でもあることは、次の註⑱aでの「人間は最初はまず他の人間の中に自分を映してみる」・・の例に明らかです.
 そして価値関係のもとでは、上着は、次のように新たな形態規定を受けとるのです。

「使用価値としての上着がリネン=価値の現象形態になるのは、ただリネンが抽象的人間労働の直接的受肉としての上着素材に関係するからであり、この労働はリネン自身に対象化された労働と同質の労働であるからである.」(今村訳資本論初版P288)

 上着が(リネン)価値の現象形態となるーーことに示されるものは何でしょう?
 これは、諸商品が、使用価値と価値の二要因を持つばかりでなく、相対的価値形態と等価形態の二つの異なった役だちをしています・・・との注意の喚起なのです.つまり、自己関係ではなく文字どおり両極の、能動的と受動的の役割での関係なのです.ここに受動的な等価物上着の役立ちを、①使用価値が価値の現象形態となること、②具体的労働が抽象的人間労働の現象形態になること、③私的労働が社会的労働の実現形態になることの三点にて表すことを確認できること。だからこそ上着はそれらの役立ちにて、価値形態・つまり直接交換可能な使用価値の形態・・・いかにも交換価値の規定を、商品が価値関係を結ぶことで、判断され、与えられたのです。


 B『経済学教科書』での抽象 への批判(価値実体は、「頭脳織物」ではなく物象の社会関係で、物象が判断したもの)

 久留間さんの抽象はこうでした.
「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)

そして、本家の『経済学教科書』での抽象はどうであったのか?比較してみよう.

「商品の価値は、生産過程で労働によってつくりだされる。しかし価値は、交換過程で一商品が他の商品とひとしいものとされることを通じてでなければ、すなわち交換価値を通じてでなければあらわれない.
もっとも単純な価値形態は、一商品の価値を他の商品であらわすことである.

 たとえば、1丁の斧=20キログラムの穀物。この形態をみてみよう。
 ここでは、斧の価値が穀物であらわされている.穀物は、斧の価値を表す手段となっている.斧の価値を穀物の使用価値であらわすことができるのは、斧の生産に労働が支出されているのと同じように、穀物の生産にも労働が支出されているからに他ならない。自分の価値を他の商品であらわす商品(この例では斧)は相対的価値形態にある.その使用価値が他の商品の価値をあらわす手段となっている商品(この例では穀物)は、等価形態にある。」(『経済学教科書』1―1955年2月28日発行)

 ここでは交換過程論と価値形態論が混同されているし、商品生産には、人間的労働力が一般的に支出されているから、「交換過程で一商品が他の商品とひとしいものとされる」――つまり、<商品は価値としては等しいもの>を見出すだけにされている。

「価値は、・・・・・交換価値を通じてでなければあらわれない」
とは、――ー価値は、価値形態を取ることで交換価値としてあらわれることです。つまり、
<価値形態は使用価値と価値の内的対立が交換価値の形態をとることであらわれる>
のであって、ここでの追求の題材が、簡単な価値形態であることが埒外へ追いやられている。
 そして、「斧の生産に労働が支出されているのと同じように、穀物の生産にも労働が支出されているからに他ならない」と述べたのでは、1丁の斧=20キログラムの穀物。のなかに同等な第三者を求めた冒頭の分析と混同している.

 榎原さんは、この久留間・スターリン経済学の抽象に対する批判をこう述べていた.

「いいかえれば、久留間にとっては、具体的労働の抽象化は、異種労働の等置による同等な人間労働への還元ということしか考えられておらず、リンネルの価値が上着で表現されること自体がリンネルを生産する労働の抽象的表現としての意義をもっていることに気付いていないので・・・・」(『価値形態・物象化・物神性』P111)

「マルクスはこの課題を、リンネルの価値が上着で表現されていること、いいかえれば、リンネル(価値――杉本追加)をつくる労働が上着に反射して上着という形態で感覚的にあらわれているのだから、そのような労働はリンネルを物しているすべてのものを度外視した抽象的なものとならざるをえない、と分析することによって、解決した。リンネル価値の質を明らかにした上にたって、マルクスは、上着そのものにリンネルによって刻印された形態についての分析を進める.そこではじめて上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっていることが指摘される。」(同上P112)

 ここでは、右辺の具体的労働が抽象的人間労働の実現形態と規定されているのです.左辺の働きかけで、右辺の裁縫労働が抽象的人間労働の実現形態にされれるのですし、形態規定・すなわち反省規定されたのです.そしてこの規定体は価値鏡として反照の機能を行うのです。
 だから、価値実体は、「頭脳織物」ではなく物象の社会関係で、物象が判断したもの――ということが、このことを説明した、註18の節の意義でしたし、そして、註19aの節で、さらに労働の例が説明されたのでした。

「上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっている」――という抽象について、崎山正毅氏は、次の見事な説明を与えている。

「人間の行う抽象化は、具体的なものの属性としての抽象的なものにたどりつく.それに対して、物象の行う抽象化は、異なった働きをする.それは、人が個々人ちがう存在でありながら、感性的にはとらえられないのに各々を共約してしまう「魂」という「唯一物」の顕れであると説く宗教的な考え方と同様なものだ.つまり、抽象的で一般的なものが具体的なものそれ自体に顕現するのである。あたかも一神教の神のごとく作用する物象、それが人間の思考とは異なる抽象化をもたらしている.」(『資本』P17岩波書店 崎山正毅 )
(崎山氏は、関西生コンの組織する資本論研究会の講師もする人物です.)

   <上記では、杉本は崎山先生の主張に賛成している。>

   しかし、次では批判している。
   http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1624
   久留間理論に傾倒した、崎山先生の初版価値形態論の理解を問う
   :杉本  投稿日:2018年 4月13日

   この転換は何であろうか?  まずは、過去の見解を提示しておき、
   次に、この誤りを点検していく。次の論文も参照願いたい。

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/410
   投稿者:hirohiro  投稿日:2012年 1月29日(日)15時36分18秒
   杉本さんへの返答(1)-初版本文の検討



 

 障害者の自立支援法の復活

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月 2日(水)11時44分15秒
返信・引用
   障害者の自立支援法の復活
 こちらが抱えるトラブルとは12年も前からのことで初めから話しても混乱だけになりかねない。障害者の団体の暴走は何も無かったことにして解決したがる。そのために口封じからどこの団体も行かせず誰とも関わらせず友達は取り上げ、社会参加は地元以外全部妨害した。それが12年です。
 それが看板団体の暴走隠しのばれなければいいとする暴走だと入って来た。これに対して知事に暴走目こぼし権がありますかと全国
に問い合わせたら法律関係3者(法テラス、法務局、障害者110番弁護士)だけそんなもの無いと言う。全国の社協は沈黙。関われないとも喋れないとも言える。法務省は何を聞いても法務局に話せとだけ。厚生労働省は完全沈黙。
  障害者の団体はそのハンディからトラブルは出やすく見なかったことにするとかばれなければいいとする配慮をすることが多い。
  知事に緊急時の強権がうあったとしても東日本大震災は友の会を辞めて5年後のことになる。5年前でも強権のうちに入るのか。
 厚生労働省や法務省を見ると知事に暴走目こぼし権があるように思える。完全沈黙に囲まれては証拠が作れなく抹殺しか考えて居ないとあってはいずれ役場に説明抜きのかん口令が入ってしまう。
 それで役場に出向き立場の説明して理解を求めました。
 妨害されようと社会参加を果たすしかない。
  妨害なら完全沈黙の破れた全国にすぐ知らせ、無くても専門団体も通訳(口実付けて貸さない)も無しで果たすのだからどっちに転んでも岩手は全国からいい加減にしろと言われ非難と失笑、後ろ指を食らうことになる。近日予定しています。

  昨年秋パソコンの回線を変えたことでパスワードが出来なくなって休んで居た掲示板を見つけた。今はパスワードは小文字でも出きると判っていた。
 自分のことが特集してあった。友の会を辞めたのは12年前でその2年前に障害者の自立支援法が廃止になっていた。それが多くの障害者の怒りの声が上がりこの程採決されたと書いてあった。つまり岩手がこれまで当たり前に暴走、妨害したことがこれから違法になる。友達も取り上げどこへも行かせず誰もがそんなはずはと理解もしなく絶望感にも強いられていた。それが全国に同じ思いをした人たちが居たとは勇気付けられる思いだった。
 つまり岩手の暴走目こぼし権は無効になるということ。妨害は正当で無くただの暴走



 

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