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久留間ー大谷理論の克服のために、(その2)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月25日(木)22時49分43秒
返信・引用 編集済
  http://p.booklog.jp/book/19345/read
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/afafa4245a2fb3c58419ad236f57f717
第16回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎第3パラグラフに出てくる「価値物」について若干議論
最初にピースさんから、前回の第3パラグラフに出てくる「価値物」について、意見があり、若干、その問題
について議論になりました。  ピースさんは「報告」の解釈に理解を示してくれましたが、報告を担当した亀
仙人は報告の立場は必ずしも一般的ではないこと、それは故久留間鮫造氏の最初の立場に近いが、しかし久留
間氏は、そうした「価値物」の理解に立ちながら、しかし「価値体」との区別については無意識だったが故に、
大谷禎之介氏の指摘に動揺し、自身の立場を捨て、大谷説に与するようになったことが紹介されました。
 しかし、実は、大谷氏の説明ではリンネルの価値の表現がなされていないのです。
例えば、前回紹介した大谷氏の主張をもう一度紹介してみましょう。
 〈労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、
ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつか
むことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物と
して意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価
値物であることが表現されることになる。〉(『貨幣論』98頁)
  このように大谷氏は価値表現を説明していますが、これでは価値は何一つ表現されたことにはなりませ
ん。「表現される」ということは、それが目に見えるようになるということです。
そしてそのためには、価値が何らかの形ある物として現われる必要があるのです。しかし大谷氏の説明はそう
したものとはなっていません。というのは、大谷氏は「価値物」=「価値対象性を持ったもの」と説明するか
らです。例えば、この言葉を大谷氏の説明文に出てくる「価値物」の代わりに挿入すれば、それが分かります

 〈商品は他商品を[価値対象性を持ったもの]として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は
[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を[価値対象性を
持ったもの]として自己に等置した商品そのものも[価値対象性を持ったもの]であることが表現されること
になる。〉

  このように書き換えてみると、何一つ価値が表現されてい
ないことが分かります。というのは〈[価値対象性を持ったも
の]として意義をもつ、通用する〉と言っても、それだけで
は、価値が目に見えるものとして、すなわち形ある物として現
われていることにはならないからです。形あるものと顕れてい
ないなら、それは表現されたとは言えません。マルクスは
《上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する》
と述べています。《価値の存在形態》というのは、本来は    《価値の存在形態》というのは、本来は
“まぼろし”のような対象性しかもたない価値が、形ある物とし  価値が、形ある物として存在するという
て存在するということなのです。それが《価値物》の意味です。 こと、それが《価値物》の意味
だからそうした「価値物」の理解に立たない大谷説では、価値
は表現されているとは言えないのです。(※)          《その自然形態がそのまま価値物として意義
  大谷氏は〈《その自然形態がそのまま価値物として意義を  をもつもの》これが先生の意味の「価値
もつもの》、これが先生(=故久留間鮫造--引用者)の意味  物」ですが・・
での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、
むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われ
るのです〉とも述べています。しかし、これだと「価値体」に
よって始めてリンネルの価値は表現されることになり、「価値
物」の段階ではまだ表現されていないことになってしまいます。
しかしマルクス自身は第3パラグラフでも《他方では、リンネ  《他方では、リンネルそれ自身の
ルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立し  価値存在が現れてくる。》
た表現を受け取る》と述べており、第3パラグラフの段階です  と述べており、第3パラグラフの段階です
でにリンネルの価値は表現されていると述べているのです。だ  でにリンネルの価値は表現されている
から大谷氏のような「価値物」理解では、こうしたマルクスの  ーーなんと自らの誤りーー
第3パラグラフの説明を理解不能にしてしまうのです。     をはっきりと述べている。

 しかしピースさんは、大谷氏の主張にも一定の理解を示し、
第3パラグラフに出てくる「価値物」、つまりリンネルとの価  第3パラグラフに出てくる「価値物」・
値関係におかれた上着が受け取る形態規定としての「価値物」  リンネルとの価値関係におかれた上着が受け
と、一般に使われる場合の「価値物」とがあるのではないか、  取る形態規定としての「価値物」
とも指摘されました。つまり大谷氏が主張されるような意味で  ーーとは、等価形態の形態規定ーー
の「価値物」もありうるが、しかしそれはリンネルとの価値関  というのが、久留間説であり、正しい!と
係におかれた上着に付着する「価値物」の規定とは異なるもの
であり、だから「価値物」には二様の意味があるし、あってもよ
い、との意見です。これについては亀仙人は自身の意見を保留
しました。

 確かに大谷氏が紹介している『資本論』からのいくつかの引
用文では、ピースさんの意見を肯定するような用例が見られる
ように思えます。しかしよくよく吟味してみると、やはりそう
ではなく、マルクス自身は「価値物」という言葉で、価値が形  「価値物」という言葉で、
ある物として存在すること、つまり目に見える形で顕れている  価値が形ある物として存在すること、とな
ものと捉えていることが分かるのです。            ればーー価値・価値体・価値形態ーー
しかしそれを大谷氏が紹介する引用文一つ一つについて、検証  を意味することになる・考え付かない
すると横道にそれすぎるので、割愛します(またその機会があ  だから、等価形態を意味する
ればやることにしましょう)。                裁縫労働がそのまま人間労働一般の
                              直接的な実現形態ーーを持ち出す


(※補足:この「価値物」が出てくる第3パラグラフの原文は次のようになります。
  "In diesem Verhaltnis gilt der Rock alsExistenzform von Wert, als Wertding, denn nur
als solches ist er dasselbe wie die Leinwand."

 ここに出てくる「Existenzform」という単語は日本語では「存在形態」とか「実存形態」等と訳されていま
すが、「DeiExistenz」はヘーゲル論理学では「現存在」と訳され、ヘーゲルは、この言葉について、次のよう
に説明しています。
 〈Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであっ
て、出現している有〔Hervorgegangensein〕を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄す
ることによって回復された有である。〉(『小論理学』岩波文庫下43頁)

 だから「Existenzform」は「現存在の形態」ともいうべきものです。それは本質(価値)が有として、つまり
直接的な形で出現したものだと理解すべきものなのです。そして価値が直接的なものとして出現しているから
こそ、それは表現されている--つまり目に見えるものとして表されている--といえるのです。
「価値物」というのはそういうものと理解すべきなのです。)
◎第4パラグラフの位置づけ
 さて、それでは第4節の検討に入って行きましょう。まずは、例のごとく全文を紹介することからはじめま
す(今回から、分節ごとに検討するために、分節にイ)、ロ)、ハ)…の記号を打っていくことにします)。
  《イ)われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる
凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に
還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を
与えはしない。
ロ)一商品の他の商品に対する価値関係の中では
そうではない。ここでは、その商品の価値性格が、その商品の
他の商品に対する関係によって、現れでるのである。》

  これまでは、パラグラフの引用に続いて、そのパラグラフ
に類似したそれ以外の文献を年代順に資料として紹介してきた
のですが、やや煩雑に過ぎるので、それらはすべて付録に回
し、すぐにパラグラフの検討に入ることにします。

  最初に問題になったのは、このパラグラフの位置づけでし
た。前回の報告で紹介しましたが、第3パラグラフに該当する
初版付録の小項目は「b 価値関係」でした。初版付録ではそ
れに続いて、「c 価値関係のなかに含まれている相対的価値
形態の内実」が続き、それが現行の第4パラグラフ以降にほぼ
該当します。だから第3パラグラフの段階では、まだ現行の小  A)「この関係のなかでは上着は価値の存
項目「a 相対的価値形態の内実」の本題には入っておらず、   在形態として、価値物として認められる」
本題は第4パラグラフから始まると考えることが出来きます。  B)「他面ではリンネルそれ自身の価値存
そして                           在が現れてくる」
第3パラグラフまでは、そのための前提の考察と位置づけられ
ます。つまり第3パラグラフでは、上着がリンネルとの価値関  第3パラグラフでは、・・上着が
係において、価値物として妥当することによって、リンネルの  価値物として妥当することで、リンネルの
価値存在が表現されることが示されました。          価値存在が表現される・・と示された
                              ーー全くの改作
                              A)B)の区別がないのです。
                              B)は価値存在の現出ーーですから、
                              <リンネルの価値形態>を如何に表現か?
                              このマルクスの意図をば、理解できず
つまりリンネルが
“相対的な価値の形態”--相対的に価値を表現する形式--   リンネルが“相対的な価値の形態”
にあることが示されたのです。だから次に問題になるのは、本  にあることが示された
題である、その「形式」の「内実」というわけです。      ーーこれでは未だその形態は成立しない
「相対的価値形態の内実」というのは、相対的価値形態がその  筆者の意図は 価値の概念」から
価値の実体である「抽象的な人間労働の凝固体」まで掘り下げ  その現象形態たる「価値形態」まで展開す
られてそこから説明されること、すなわち「価値の概念」から  ることーー<それがその現象形態たる  「価値形態」まで展開することだということが分かります。      相対的価値形態が持っている内容>
それが相対的価値形態が持っている内容
(Gehalt)だというのです。                 これでは、相対的価値形態の内実として
                              価値形態があり、上着が価値表現の材料と
                              なることで、相対的価値形態が形成される
                              ーー物象の判断・役立ち、
                              という物象の社会関係の成立は、視野外。
  そしてそう考えると、この第4パラグラフは、それまでの
前提の考察を踏まえた、本題の入り口であり、第5パラグラフ
以降への橋渡し、導入部分だということが分かるのです。だか
らこの第4パラグラフの内容については、やはり第5パラグラ
フ(あるいはそれ以降のパラグラフ)と関連させて理解する必
要があるわけです。

 イ)の部分は、第1節で次のように論じていたことを思い出さ
せます(下線は引用者)。

  《そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察し
よう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以
外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出
の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体
以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやた
だ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が
堆積されているということだけである。それらに共通な、この
社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値で
ある。》(全集版52頁)

  これは価値の概念を導出する部分に該当します。つまりこ
の第4パラグラフでは、価値の実体である抽象的人間労働の凝
固を確認するとともに、それではいまだ《幻のような同一の対
象性以外》の何もでもなく、「価値の形態--価値が形があっ
て目に見える状態--にはなっていないことを再確認している
わけです。  しかし同時に、われわれは第1節では次のように
も述べられていたことを思い出します(下線は引用者)。

  《もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するなら
ば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成
分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブ
ル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性
状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物
(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の
生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共
に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、し
たがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えう
せ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべ
てことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元
されている。》(全集版51-2頁)

  つまりこの第1節では、抽象的人間労働に還元するために
は、労働生産物に表れている(痕跡を残している)労働の具体的
性格、裁縫労働とか織布労働といった性格も捨象され、消え失
せなければならないことが言われています。しかし同じような
人間労働一般への還元が第5パラグラフにも出てくるのです
が、しかし同じ「還元」でも、第1節とは異なるのです。だか
らそれとの対比の意味も込めて、あらかじめ、ここでこうした
問題が再び論じられているということも出来るのです。

  次にロ)の部分について検討しましょう。ここでは第3パラ  ロ)一商品の他の商品に対する価値関係の中
グラフで見たように、価値関係のなかでリンネルの価値が表現  ではそうではない。ここでは、その商品の
されたように、一商品への他の商品の価値関係のなかでは、   価値性格が、その商品の他の商品に対する
《その商品の価値性格》が《現れでる》と述べています。    関係によって、現れでるのである。》
ここで
現れでる「価値性格」とは何かが問題になりました。ピースさん
は、「それは直接には目に見えないという性格のことではない
か」と言いましたが、それでは内容的におかしくなります。な
ぜなら、価値関係のなかで価値の「直接には目に見えないとい
う性格」が《現れでる》ということになっては意味不明だから
です。
 やはりここでは「抽象的人間労働の凝固」こそが「価値性
格」の内容だと考えるべきでしょう。つまり、一つは価値とい
うのは純粋に社会的なものだということです。商品交換を通じ
て、その生産のために支出され、生産物に表れている具体的な
諸労働が、人間労働一般に還元されることによって社会的性格
をもつということ、それが価値性格の一つの側面です。さらに
価値性格としては、価値を形成する労働の抽象的・社会的な性
格だけではなく、それが商品という物的対象に結晶したもので
ある、凝固したものである、という性格もあるわけです。そう
した価値性格の二つの側面が二商品の価値関係のなかで現れ出
てくるというのです。そして価値性格の二つの側面の現出過程
を説明するのが、だいたい第5パラグラフと第6パラグラフに
該当するわけです。だから次は第5パラグラフの検討に入るこ
とにしましょう。
◎第5パラグラフの検討
《イ)たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリンネ
ルに潜んでいる労働に等置される。
ロ)ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働で
ある。
ハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方
に共通な性格に、実際に還元する。
ニ)このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される
特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。
ホ)異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通な
ものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである(17a)。》

 まずイ)について、第2パラグラフで見たように、20エレの
リンネル=1着の上着 という等式の基礎には、 リンネル=
上着 があったように、ここでは リンネル=上着 の基礎に
は、 リンネルに潜んでいる労働=上着に潜んでいる労働 の
関係(リンネルに潜んでいる労働に対する上着に潜んでいる労
働の等置関係)がなりたつことが指摘されています。
そして第3パラグラフでは、リンネル=上着の同等性の関係と
は価値関係であることが指摘され、リンネルの価値が価値物で
ある上着によって表現されていることが示されたのでした。
ここでは類似した関係がその基礎にある労働に関して考察され
ていると言えます。
 しかし注意が必要なのは、
《上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって》
と述べられていることです。
だから第3パラグラフを前提にした考察だということです。
第3パラグラフでは、リンネルに等置された上着は価値物とし
て通用しなければならないことが指摘されたのですが、ではそ
もそも〈「価値物」として通用する〉とは、どういうことなの
かが、今度は、価値の実体に遡って問題にされ、解明されてい
るのです。

ロ)では、その考察の前提として、《たしかに、上着をつくる
裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体
的労働である》ことが確認されています。これは上着とリンネ
ルとは種類の異なる使用価値であり、よってそれらの使用価値
をつくるために支出された具体的な有用労働も種類の異なるも
のだということです。
次に
ハ)では《織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうち
の現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、
実際に還元する》と言われています。
ここで注意が必要
なのは、第4パラグラフのところでも指摘しましたが、同じ
「還元」でも、ここで述べられていることは、第1章で労働の
具体的な諸属性が捨象されたのとは異なる「還元」だというこ
とです。
というのは、上着が「価値物」として等置されているからです。  上着が「価値物」として等置されーーが
「上着が価値物として通用する」ということは、前回      「上着が価値物として通用する」とは?
(第15回)の第3パラグラフの考察でも紹介しましたが、《すな
わちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用  <人間的労働から成っている物として通用>
する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をも
あらわさない物として通用する》(「補足と改訂)ということ
です。
                              左ーー初版第五段落は左極の生成の上での
あるいは初版本文では《相対的価値表現においては、上着は確      価値形態成立での反省規定
かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、  註⑱a「・・何よりもまず人間は
まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着   自分を他の人間に写してみる。」
は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認  人間パウロは、その姿のままに人類の
められているのである。註⑱a                現象形態
           使用価値である上着がリンネル価値の   上着が、
現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な、人間的な、労働  「リンネル価値の現象形態」になるのは、
の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種  「労働膠着物は上着として認められ、上着
の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係  は、人間労働が凝結しているところの形
しているからにほかならない。上着という対象は、リンネルに  態」ーーではなく、
とっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象  上着という対象は、リンネルにとっては、
性として、したがって現物形態においての価値として、認めら  同種の人間労働の対象性として、したがっ
れている》(江夏訳37頁)とも述べられています。       て現物形態においての価値として、認めら
                              れるーー価値関係の同等性関係への転倒
                              をこそ示している。

                              上記は相対的価値形態を形成する、
                              ①上着が価値形態と
                              反省規定を受け取るーー
                              ②その上での転倒に基づく上着でのリンネ
                              ルの同等性関係による価値表現ーー
                              という特性、をこそ示している

                              再版 第五段落
 つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、裁縫  裁縫労働のままに人間労働一般に
労働の具体的な諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元  還元しているのではない
するということではなくて、裁縫労働という特定の具体的な労  「織布との等置は裁縫を事実上・・
働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態としてあるこ   人間労働・に還元・このような回り道をし
と、すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の  て、・織布もまた、それが価値を織るかぎ
形態として意義をもっていることなのです。ヘーゲルチックに  りでは、・・抽象的人間労働・・」
言い換えるならば、人間労働一般が、裁縫労働という具体的労  しかし、
働を通じて、直接的なものとして現われているということでも  物象の判断が、「上着が価値」と示される
あります。                         第七段落に至って、裁縫労働は、価値を織
                              るかぎりで抽象的人間労働と示された。
                              第五段落では、この物象の判断は示され
                              ず価値物上着でのリンネル価値の表現の
あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、裁縫労働が、  不可能性が示されたのです。
人間労働一般を代表するものとして通用しているということな
のです。リンネルにとっては、裁縫労働は、自分自身に対象化
されているのと同質の人間労働一般を代表するものとして通用
しているわけです。

 またリンネルにとっては、裁縫労働という具体的属性はそう
した役割しか意味がない、ともマルクスは述べています。

 《リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働   等価形態上着
に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働
としての・上着に、関係することができない。…上着は、リン
ネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固め
た使用対象性と区別して表わすということにしか、役立ってい
ない。…だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効
であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労
働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働
として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎ
りにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着では
なく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わ
りに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的
実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値あ
るいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、
このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体
のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象
的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係
する、ということに依拠しているものでしかない》(初版本
文、同上38頁)

 もちろん、この初版本文では、この第5パラグラフ以降で展
開されることが先走って述べられている部分もあるのですが、
重要なのは、《実際に還元する》ということが、第1章で述べ
られていた「還元」とは異なる点を理解することです。

 次は、ニ)の《このまわり道を通った上で、織布労働も、それ
が価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特
徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、
が語られるのである》の部分です。

 先のハ)で、織布労働との等置は、裁縫労働そのものを両者に
共通な、抽象的人間労働の直接的な実現形態にすることが指摘
されたのですが、そのことによって、リンネルの価値を形成す
る抽象的人間労働が、抽象的人間労働の対象様式である裁縫労
働という具体的労働によって目に見える形で表されているとい
うことです。つまり上着に表れている裁縫労働こそが本来は目
に見えない「思考産物」(初版本文)であるリンネルの価値を
形成する抽象的人間労働の具体的な実現形態であり、それに
よって、目に見える形で表されているものだというのです。

ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。リン
ネルは価値としては抽象的人間労働の凝固ですが、しかしそれ
はリンネルそのものを見るだけでは分かりません。しかしリン
ネルは、直接には出来ないことを、間接的には、すなわち「回
り道を通って」なら出来るということです。

リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないこと
を、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分
自身にたいして行なうことができる》
(初版本文前掲39頁)のです。
すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上
着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、
そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわちそ
れが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現形態で
ある裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るという
ことです。
ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なものが、抽象的人間
労働という抽象的一般的なものの特定の実現形態として意義を
もっているのです。

 またここでは《語られるのである》とも述べています。一
体、誰が語るのでしょうか? これは少し先走りますが、第10
パラグラフで、《上述のように、商品価値の分析がさきにわれ
われに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と
交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》(全集
版71頁)と書かれています。ここで《商品価値の分析がさきに
われわれに語ったいっさいのこと》というのは、われわれが第
1章で商品の価値を分析して明らかにされたことを意味します。
その商品価値の分析で明らかになったことを、リンネルが上着
との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですか
ら、やはり上記の《語られるのである》も、リンネル自身が
語っているものとして理解すべきでしょう。

 次は最後のホ)《異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸
商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通な
ものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成
労働の特有な性格を表すのである》ですが、これはこれまで述
べてきたことをより一般的に言い換えて繰り返していると言え
ます。ここでも《実際に…還元する》ということが出てきます
が、すでに述べたような意味として理解する必要があります。

 
 

久留間ー大谷理論の克服のために

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月25日(木)22時04分54秒
返信・引用 編集済
   2017年5月25日また学習も進み、新たな考えも浮かんできたので、新たなコメントをしてみました。
 http://p.booklog.jp/book/19345/read
『資本論』学習資料室第15回「『資本論』を読む会」の報告
◎「相対的価値形態の内実」
 今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の
「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の最初からはじめたのですが、結局、たった三つ
のパラグラフを進んだだけでした。
 これはお盆だから、簡単に切り上げたからではなく、それだけ議論が紛糾したからなのです。とにかくパ
ラグラフごとに紹介してゆきましょう。
 しかしパラグラフに移る前に、まず表題についてです。表題はそこでの課題を明らかにしていますから、そ
れをまず見ておきましょう。
 《 2 相対的価値形態 》
 これは《1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形
態》で、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y
量の商品B)という等式のうち、その価値を表す商品20エレの  商品20エレのリンネルは、自らの価値を
リンネルは、自らの価値を別の商品である1着の上着で相対的  別の商品に表しており、その場合は、リン
に表しており、その場合は、リンネルは「相対的価値形態」に  ネルは「相対的価値形態」にあると説明
あると説明されていました。その「相対的価値形態」が、つま
りリンネルの「価値」が「相対的」に表される「形態」が、ま  <「相対的価値形態」にあると説明
ず考察の対象にされるというわけです。            「第一の商品の価値は相対的価値として表
                              される。言いかえれば、その商品は相対的
                              価値形態にある。」(原P63)
                              このままであれば、マルクスは、この形態
                              を前提に述べていることになる。
                              しかしそうではないこれは単なる見取り図
                              内実があって、その形態があるーー明白
 《 a 相対的価値形態の内実 》
 これは「相対的価値形態」として、まずその「内実」
(Inhalt・内容)を問題にするということです。興味深いこ
とに、初版付録では、この部分はさらに次のような小見出しに
細分されていることです。
 a 同等性関係 b 価値関係
 c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実
 つまり現行版の表題は、初版付録の三つ目の表題に一致していると考えることができます。現行版は初版付
録と比べても、この項目は厳密化されて膨らんでいますから、現行版の「a相対的価値形態」の最初の数パラ
グラフは、内容的には、初版付録の「a 同等性関係」と「b 価値関係」に該当すると考えてよいでしょ
う。私の考えでは、これは第1・3パラグラフがそれに当たるのではないかと思っています。しかしそれはそ
れぞれのパラグラフを詳しく見ていくなかで考えることにしましょう
◎価値関係に価値表現が潜んでいるとは?
 それでは、次は、第1パラグラフに移ります。          <再版>
 《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係  ある一つの商品の単純な価値表現が
のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この  二つの商品の価値関係のうちに潜む
価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考
察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のこと
を行っており、価値関係のうちに、二種類の商品の一定量同士
が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされ
ているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元さ
れてはじめて、量的に比較されうるものとなるということであ
る。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、した
がって通約可能な大きさなのである(17)。》
 最初に、先にも紹介しましたが、「初版付録」と「補足と改
訂」および「フランス語版」では、この部分はどうなっている
のかをみておくことにしましょう。
 《《初版付録》
 〈 a 同等性関係  自分の価値を表現しようとするものは
リンネルなのだから、リンネルのほうかちイニシアチブは出て
いる。リンネルは、上着にたいして、すなわち、なんらかの別
な、リンネル自身とは種類の違う商品にたいして、ある関係に
はいる。この関係は等置の関係である。20エレのリンネル=1
着の上着という表現の基礎は、事実上、リンネル=上着であっ  リンネル=上着
て、これは、言葉で表わせば、ただ、商品種類上着は、自分と  商品種類上着は、自分とは違う商品種類リ
は違う商品種類リンネルと同じ性質のもの、同じ実体のもので  ンネルと同じ性質のもの、同じ実体のもの
ある、ということでしかない。人々はたいていはこのことを見
落とすのであるが、そのわけは、注意が、量的な関係によっ   上着が同じ実体の、同じ本質の
て、すなわち、一方の商品種類が他方の商品種類と等置されて  物としてのリンネルに関係させられる
いる特定の割合によって、奪われてしまうからである。人々が
忘れているのは、違う諸物の大きさは、それらが同じ単位に換  このように、初版附録のここでは、
算されたのちに、はじめて量的に比較されうる、ということで  <同等性関係>が扱われている。
ある。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、それらは同じ分母   <価値関係> ではない。
の、したがってまた通約可能な大きさなのである。だから、前
述の表現では、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係
するのであり、言い換えれば、上着が同じ実体の、同じ本質の
物としてのリンネルに関係させられるのである。だから、上着
はリンネルに質的に等置されるのである。〉
(国民文庫版133-134頁)
 《補足と改訂》
 ある一つの商品,たとえばリンネル,の相対的価値表現--
20エレのリンネル=1着の上着 すなわち20エレのリンネ
ルは1着の上着に領する--において,人は,たいてい,量的  量的な関係 一定の割合だけ
な関係だけを,すなわちある商品が他の商品と等しいとされる
一定の割合だけを,見ようとする。その場合,見落とされてい
るのは,異なった物の大きさは,それらが同じ単位に還元され  それらが同じ単位に還元され
てはじめて,量的に比較されうるものとなるということであ   てはじめて,量的に比較されうる
る。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名   ものとなるということ
の,それゆえ同じ単位で計量されうる大きさなのである。
                    [B]
 ある一つの商品の簡単な価殖表現が二つの商品の価値関係の
うちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには,この価
値関係を,さしあたりその量的関係からまったく独立に,考察
しなければならない。人は,たいてい,これと正反対のことを
行っており,価値関係のうちに,二種類の商品の一定分量どう  価値関係のうちに,二種類の商品の
しが等しいとされる一定の割合だけを見ている。その場合,見  一定の割合だけを見ている。
落とされているのは,異なった物の大きさは,それらは同じ単
位に還元されて〈Zrückfürung〉はじめて,量的に比較されう
るものとなるということである。それらは,同じ単位のもろも
ろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同し単位で計量されう
る大きさなのである。〉(『補足と改訂』前掲61-63頁)
 《フランス語版》
〈一商品の単純な価値表現がどのように二つの商品の価値関
係のうちに含まれているか、を見つけ出すためには、まず、こ
の価値関係を、その量的な側面は無視して、考察しなければな
らない。一般に行なわれているのはこれと逆のことであって、
価値関係のうちに、二種の商品の一定量が相互に等しいと表わ  価値関係のうちに、二種の商品の一定量
されている割合を、もっぱら考察するのである。相異なる物   が相互に等しいと表わされている割合を、
は、同じ単位に換算されたのちにはじめて量的に比較しうるこ  もっぱら考察する
とが、忘れられている。ただそのばあいにだけ、これらの物は
同じ分母をもち、通約可能になる。〉(前掲19-20頁)

 さて、ここで問題になったのは冒頭の《ある一つの商品の単
純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜ん
でいるか》という部分でした。
  これを見ると、価値表現は価値関係のなかに「潜んでいる」
と読めるが、両者の関係はどういうものか、そもそも価値関係
とは何か、交換関係とはどう違うのか、そして価値表現が「潜
んでいる」ということは、そのなかに隠れているということ
か、とするなら価値関係は一見すると見えている(明らかであ
る)ことになるのか、そして価値表現はそうではなくてそこに
隠されているということか、等々と、それはそれは、大変な議
論が、例によってJJ富村さんなどから次々と出されて、紛糾
しました。順序を追って考えてゆきましょう。
 まず確認しなければならないのは、20エレのリンネル=1
着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式は、次の  20エレのリンネル=1着の上着
ような意味をもっているということです。すなわちわれわれの
住むこの社会は、われわれが生きていくのに必要もののほとん  ある一つの商品の一定量が別の他の商品の
どを商品として生産し、それを社会的に交換することによって  一定量と交換されるという現実として
維持されているということです。だから二商品の等式は、そう
した社会の物質代謝をなしている商品交換のもっとも基本的な  一定の使用価値量の交換割合
関係として、二商品が交換される関係を取り出しているという
ことです。しかもそれは現実に存在している客観的な商品交換
の関係から、それに付随するさまざまなもの、例えばそれらが
資本の生産した商品であるという属性や、商品の売買にまつわ
る信用や、商品所有者や購買者の思惑や欲望、貨幣等々、実際
に商品が交換され売買されている諸関係に付随するさまざまな
諸問題はとりあえずはすべて捨象されて、とにかく商品と商品
が社会的に交換されるという物質代謝のもっとも抽象的な関係
だということです。
だからそれは直接には、ある一つの商品の一定量が別の他の商
品の一定量と交換されるという現実としてわれわれの前には現
われているのです。これが交換関係です。
それは直接にはそれぞれの一定の使用価値量の交換割合として
われわれには見えています。
 しかし二つの使用価値が交換されるということは、それらが
同等であり、等置されるものであるからです。リンネルと上着
が等置されるから、それらは交換可能なのであって、実際に交
換されているわけです。それが初版付録にいう「同等性関係」  初版付録にいう「同等性関係」いうのは、
ということではないでしょうか。そして二商品の同等性関係と  それらの価値の関係であるということ
いうのは、それらの価値の関係であるということです。つまり  つまり、
価値として両者は等しいことを意味しているということです。  価値として両者は等しいことを意味
だから20エレのリンネル=1着の上着という等置は、リンネ
ルと上着を両者のもつ価値の側面から観た場合の等置関係なわ  だから《価値としてはリンネルと上着は同
けです。                          じ本質のものである》わけです。
これが、すなわち価値関係です。価値はもちろん目に見えない
から、価値関係も見えません。しかし交換関係は現実の客観的
な過程ですから、目に見えています。ただ等置されている関   杉本
係(同等性関係)は見えても、何が等しいのかは見えていませ  <現行版、第三パラグラフの説明の前に、
ん。そして何が等しいかと言えば、それらは価値として等しい  (イ)同等性関係(ロ)価値関係
ということです。だから《価値としてはリンネルと上着は同じ  の比較をして
本質のものである》わけです。                ー価値としてリンネルは上着に等しいー
 価値表現は、価値関係をさらに論理的に解剖するなかから見  「したがって、上着に見えるのである。」
出すことができるように思えます。価値表現は、それは「表現」 (原P66)
ですから、価値が表され、見えているわけですが、しかしその  ーーこのように、商品語での主張は、
見えているカラクリは直接には見えませんし分かりません。そ  正しい!!!と、
れを説明するのが「相対的価値形態の内実」というわけです。  久留間さんの宇野批判の転倒
                              は批判するではなく、正しい、と肯定

 以前、大阪で「『資本論』を学ぶ会」で学習したときに、そのニュースのなかで、これらの諸カテゴリーの
関係を図示した次のようなへたくそな図を紹介しましたが、参考のために再び紹介しておきます。(略)
◎ベイリーが価値形態と価値とを混同しているとは?
 次は、注17です。
 《 (17) S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげるこ
とができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的な
ブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。
「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者は
S・ベイリー。》
 ここではベイリーが「価値形態と価値とを混同している」というのは、どういうことかという質問がでまし
た。これについてはマルクス自身が『剰余価値学説史』のベイリー批判のなかで論じているものを紹介するだ
けにします。
 《われわれは、価値が価格で計られ、表現されているのを見いだす。したがって、〔べーリはこう主張する
のである〕われわれは--価値とはなにかを知らないで満足することができる、〔と〕。価値尺度の貨幣への
発展、さらにまた価格の度量標準としての貨幣の発展と、その発展のなかで価値そのものの概念を交換される
諸商品の内在的尺度として発見することとを、彼は混同しているのである。彼が正当なのは、この貨幣は不変
の価値をもっている商品であることを要しない、としている点である。だが彼は、このことから、こう推論す
る、商品そのものとは独立な、それとは区別される価値規定は、不必要である、と。
 諸商品の価値が諸商品の共通な単位として与えられるようになれば、そのときには諸商品の相対的価値の測
定とそれの表現とは一致することになる。だが、われわれは諸商品の直接的定在とは違っている一単位に到達
しないかぎり、表現に到達することはない。
 AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあっても、両方のあいだの距離について語るには、両方が
すでにともに空間のなかの点(または線) であることが想定される。それらは、点に、しかも同一線上の点
に、変えられるから、それらの距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである。二つの商品AとBと
の共通な単位は、一見したところでは、それらの交換可能性である。それらは「交換可能な」物である。「交
換可能な」物としてそれらは同じ単位名称の大きさなのである。だが、このような「交換可能な」物としての
「諸商品の」存在は、使用価値としての諸商品の存在とは違っていなければならない。それは、なんであろう
か。…(中略)…貨幣は、単に、諸商品の価値が流通過程で現われる形態にすぎない。だが、私は、どのよう
にしてx量の綿花をy量の貨幣で表わすことができるであろうか? この問題は次のような問題に帰着する。
すなわち、私は一般にどのようにして一商品を他の商品で、または諸商品を等価物として、表わすことができ
るであろうか? というのがそれである。
これに解答を与えるのは、ただ、価値の発展、つまり一商品の他の商品での表示にはかかわりのない価値の説
明だけである。》(『学説史』Ⅲ215-6頁)
(『剰余価値学説史Ⅲ』マルエン全集26ⅢP209~210)
◎園児20人=関取1人
 次は第二パラグラフです。
《 20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、=x着の上着 であろうと、
すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、このような割合はどれ
も、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということ
を、つねに含んでいる。リンネル=上着 が等式の基礎である。》
「フランス語版」もほぼ同じような内容なので、「補足と改訂」から類似する部分を紹介しておきましょう。
 《補足と改訂》[A1]
  実際,20エレのリンネル=1着の上着という表現におい
て,リンネルは上着に等しい大きさとして,上着に関係させら
れている,すなわち,上着に質的に等置されている。リンネル
=上着が等式の基礎であり,ある一つの商品の,他の違う種類
の商品との等置関係が,どのような割合で結ばれていようと
も,それはその商品の価値関係である。上着とリンネルとは、
両者が価値である限りにおいて同じ物である。使用価値あるい
は商品体としては、リンネルは上着と区別される,価値として
はリンネルは上着と同じ本質の物である。
     [A2]
  実際,表現--20エレのリンネル=1着の上着--にお
いては,リンネルと上着とは同名の大きさとして意味をもって
いる。リンネル=上着がこの等式の基礎である。20エレのリ
ンネル=1着の上着であろうと,2着の上着であろうと,x着
の上着であろうと,どの場合においても,商品リンネルは,同
じ牲質の物としての自分と等しい物としての,異なる種類の商
品・上着と関係させられているのであり,すなわち,リンネル
は上着に質的に等置されているのである。
                  [B]
  20エレのリンネル=1着の上着であろうと,=20着の
上着であろうと,=x着の上着であろうと,すなわち,一定分
量のリンネルがどれだけ多くの上着に値しようと,どれだけ少
ない上着に値しようと,このような割合はどれもリンネルと上
着とは,価値の大きさとしては同し単位の諸表現であり,同じ
性質の物であるということを,つねにふくんでいる。リンネル
=上着が等式の基礎である。したがって,異なる種類の商品の
質的等置が,価値関係の現実的内容である。今や,この内容が
現象している形態を考察することが重要である。〉(61-63頁)

 まずここでは20エレのリンネルに等置される上着の使用価
値の量がどれほどであろうと、とにかくそれが上着の一定量と
して表されるということは、リンネルと上着が量的に比較され  リンネルと上着が量的に比較されている
ているということであり、そのためには二つの商品は同じ質に  そのためには二つの商品は同じ質に還元
還元されているということです。
先の『学説史』のベーリ批判で
も《AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあって
も、両方のあいだの距離について語るには、両方がすでにとも
に空間のなかの点(または線)であることが想定される。それ
らは、点に、しかも同一線上の点に、変えられるから、それら
の距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである》と  AとBとの距離を問う、
述べていましたが、AとBとの距離を問う、ということはAと  ということは
Bが同じ空間で同一線上にある点という質的同一性が前提され  AとBが同じ空間で同一線上にある点
ているわけです。だからリンネルと上着が量的に比較される   という質的同一性が前提
(等置される)ということは、リンネルと上着が同じ質に還元
されて初めて言いうることだということです。
 JJ富村さんは、この議論の途中でやおら立ち上がって、黒
板に次のような等式を書きました。
 園児20人=1人の関取
つまりこの等式では園児も関取も、ともに重量という単位に還  この等式では園児も関取も、ともに重量
元されて比較されているのだというわけです。この場合は重量  という単位に還元されて比較されている
が共通の単位といわけです。                 この場合は重量が共通の単位
ピースさんが用意してくれたレジュメでは「二つの商品は同じ
単位の表現をしており、抽象的人間労働という同質性をもって
いることが基礎となる」と説明されていましたが、まだこの時
点では、同質性として問題になっているのは、「価値」であっ
て、その実体としての「抽象的人間労働」そのものが問題にな
っていないのではないかということになりました。
◎「価値物」とは?
 次は第三パラグラフです。
《 しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じる
のではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのよ
うにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、また
はリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係
させられることによって、である。この関係の中では、上着   この関係の中では、A)上着は、
は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜな  価値の存在形態として、価値物として、通
ら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じも  用する。
のだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現  なぜなら、ただそのようなものとしてのみ
れてくる。                         上着はリンネルと同じものだからである
すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価
値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれ  他方ではB)リンネルそれ自身の価値存在
と交換されうるものとしての上着に関係するからである。たと  が現れてくる
えば、酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし、
両者は、同じ化学的実体--炭素(C)、水素(H)、および
酸素(O)から成りたち、しかも同じ比率の組成、すなわち
C4H8O2 で成りたっている。 今酪酸に蟻酸プロピルが等   第一に、
置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピル  蟻酸プロピルC4H8O2の存在形態
は単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し、第二に、酪酸   第二に、
もまた C4H8O2 から成りたっていることがのべられるであ  酪酸もまた C4H8O2 から成りたつ
ろう。すなわち、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによっ
て、その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現さ
れるであろう。》
まず、類似した説明として「初版付録」と「補足と改訂」およ
び「フランス語版」から紹介しておきます。
 《初版付録》
〈 b 価値関係。  上着がリンネルと同じものであるのは、
ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのことである。だから
リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ
または、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置され
るという、このことは、上着がこの関係において価価として認
められている、ということを表現している。上着はリンネルに
等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにお
いてのことである。だから、同等性関係は価値関係なのである  同等性関係は価値関係
が、しかし、価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現  価値関係は、なによりもまず、
する商品の、価値または価値存在の表現なのである。使用価値  自分の価値を表現する商品の、
または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これ  価値または価値存在の表現なのである。
に反して、リンネルの価値存在は、上着という別の商品種類が
リンネルに等置されるところの、またはリンネルと本質の同じ  リンネルの価値存在は、上着という別の商
ものとして認められるところの、関係において、出現し、自分  品種類がリンネルに等置されるところの、
を表現するのである。〉(国民文庫版134-5頁)        リンネルと本質の同じ・・関係において、
                              出現し、自分を表現する
 《補足と改訂》   [A1
 さて,ある一つの商品A,例えばリンネルは,どのようにし
て、自分と等しい価値の物すなわち自分の等価物としての,何
かある他の商品B,例えば上着と関係するのだろうか。
 答えは簡単に商品価値の本性から明らかになる。ある一つの
商品は,それが単に,それの生産に支出された人間的労働力の
物的表現,物的外皮である限りにおいて,したがって,人間的
労働そのものの,抽象的人間的労働の,結晶である限りにおい
て,それは価値なのである。そのことは,石炭が暖房材料とし
ては,それによって吸収された太陽光線の物質的外皮に他なら
ない,というのと同じことである。
 したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他のあ
る商品B,例えば上着と,価値として等置されることができる
のは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物と
して通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っ
ている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的
労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りにおい
てのみである。〉(62-3頁)
 《フランス語版》
   〈 だが、等質であり同一の本質であることがこのように
確認された二つの商品は、このばあい同じ役割を演じるわけで
はない。このぼあい表現されるのは、リンネルの価値だけであ
る。それでは、どのようにして? リンネルの等価物としての、
すなわち、リンネルに代位しうるかこれと交換しうる物として
の上衣という別種の商品に、リンネルを比較することによっ   まず明らかなことだが、
て。まず明らかなことだが、上衣がこの関係に入るのは、もっ  上衣がこの関係に入るのは、
ぱら、価値の存在形態としてである。上衣は価値を表現するこ  価値の存在形態としてである
とによってはじめて、他の商品に相対する価値として現われる
ことができるからである。他方、リンネル自体が価値であるこ  他方、リンネル自体が価値であること
とは、ここで姿を現わす、すなわち別の一表現を獲得する。実  は、ここで姿を現わす、
際、もしリンネルがそれ自体価値でな.ければ、上衣の価値が  すなわち別の一表現を獲得する。
リソネルとの等式に置かれ、あるいはリンネルに等価物として
役立ちうるだろうか?
  化学から一つの類推を借用しよう。酪酸と蟻酸プロピル
は、外観も物理的、化学的性質もちがう二つの物体である。そ
れにもかかわらず、両者は同じ元素--炭素、水素、酸素--
を含んでいる。その上、両者はこれらの元素をC4H8O2とい
う同じ割合で含んでいる。さて、もし蟻酸プロピルを酪酸との
等式に置くか、あるいは酪酸の等価物とすれば、蟻酸プロピル
はこの関係では、C4H8O2の存在形態としてのみ、すなわち、
酪酸と共通である実体の存在形態としてのみ、現われるだろう。
したがって、蟻酸プロピルが酪酸の等価物としての役割を演じ
る等式は、酪酸の実体をそれの物体形態とは全くちがうあるも
のとして表現する、いくらかぎこちないやり方であろう。〉
(20-21頁)
 ここでは「価値物」というものを如何に捉えたらよいのか、 「価値物」を如何に捉えたらよいのか、
という問題を少し論じておきましょう。この解釈については
「価値体」と関連させて、さまざまに主張されていますが、
「価値体」については、今回はとりあえずはおいておきます。
 久留間鮫造著『貨幣論』(大月書店、1979.12.24)のなか   『貨幣論』での大谷禎之介氏は、
で「価値物と価値体との区別について」と題して、この問題が  『価値形態論と交換過程論』では
論じられています。そこで大谷禎之介氏は久留間鮫造氏の旧著  <価値物を価値体と同じものとしている>
『価値形態論と交換過程論』では両者が区別されずに論じら
れ、事実上、価値物を価値体と同じものとしているが、しかし
それだと価値物は等価形態に立つ商品についてのみ言いうるこ  価値物は等価形態に立つ商品についてのみ
とになる、しかしマルクス自身はそうは述べていないと、『資
本論』からいくつかの引用文を紹介し、それらの引用文から結
論されることとして次のように述べています。
〈 これらの個所からは、次のようなことが読み取れるのでは
ないでしょうか。すなわち、労働生産物が商品になると、それ
は価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。
しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性を
もったものであることは、その商品体そのものからはつかむこ  商品は他商品を価値物として自分に等置
とができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。
この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通  <ここには「回り道」において、
用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に  裁縫労働は人間労働一般
等置した商品そのものも価値物であることが表現されることに  織布労働は抽象的人間労働
なる。約言すれば、商品の価値表現とは、質的にみれば、商品  ーーに還元されるも、しかし、
が価値物であることの表現であり、等価物とはその自然形態が  「リンネル価値を人間労働の凝固として
そのまま価値物として意義をもつ商品だ、ということです。/  表現するためには、・・
いま申しました、《その自然形態がそのまま価値物として意義  リンネルと他の商品とに
をもつもの》、これが先生の意味での「価値物」ですが、マル  「共通な「対象性」として表現されねば
クスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを  ならない。」(原P65~66)
使っているのではないかと思われるのです〉(『貨幣論』97~  ーーと主張された。6~7段落の主張が
98頁)。                          提示されていない。
                              ここに、何を示すか!
                              事実上の抽象の第五段落では、価値形態
                              は成立できない、説明できない
                              「上着が価値」(第七段落)
                              とーー示す物象の判断ーーなのです。
                              大谷先生は、上着は価値であり、価値形態
                              ーーと示している論理が、全く理解不能

 これに対して、久留間氏は〈 この点については、いま君が
言われたことはまったくそのとおりです。「価値体」あるいは  <価値物・価値の存在形態>とは?
「価値物として通用する物」と言うべきであったのを「価値物」 対象的形態が獲られていないーーとのこと
と言ったのはぼくのたいへんなミスでした〉(同99頁)
と間違いを認め、大谷説に同調しています。つまり「価値物」  つまり「価値物」とは、
とは「価値対象性をもったもの」という意味だというのです。  「価値対象性をもったもの」という意味
だからまたそれはリンネルについても言いうるものと捉えられ
ているわけです。しかし果たしてそうなのでしょうか。     しかし果たしてそうなのでしょうか。
 われわれは以前、紹介したモストの『資本論入門』の次の一
文(これはマルクス自身が書き直したと思われるものです)を
もう一度紹介しておきましょう。
《 さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現される
さいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、
また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。  生産が
もっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれ
に、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあ
れこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩
と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもみの比率で交換
される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率  モストの『資本論入門』
はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮はある一  一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換
定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も
未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の  交換者のそれぞれにとって、他の交換者の
財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として  財貨が等価物として役立つ
彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財  彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡
貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として  価値物として役立つ
役立つのである。》(10頁)
              <モストの記述を編集したマルクスが、単純商品の交換においては、
              等価物塩は、価値物の規定から、進んで価値形態の規定・すなわち、
              物象の判断として示される「価値形態」の規定を受け取っていないことを、
              そのことをこそ示し、商品形態が、その場限りであることーーを示した。>
ご覧の通り、マルクスは《 生産物交換のこの最も未発展の段
階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価
物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産し
た財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を
見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つので  <つまり等価物というのは、相対的価値形態
ある》と述べています。つまり等価物というのは、相対的価値  にある商品の価値を見えるようにする鏡>
               <モストの「入門」のこの記述では、歴史上の単純商品が対象であり、
               塩は、価値物として、その折々にこの関係から規定される。
               「相対的価値形態にある商品の価値を見えるようにする鏡」
               ーーこれは全くの誤り、思い込み。
               塩は、価値物であり、価値形態を受け取っていないので、
               相対的価値形態を受け取っていないのです。
形態にある商品の価値を見えるようにする鏡であり、そのよう
なものとして価値物として役立つと述べているわけです。だか
ら「価値物」というのは、相対的価値形態にある商品の価値が  単に「価値対象性をもったもの」
「見えるようにする鏡」の役割を果たしているものという意味  では、価値が見えるものとはならない
であるわけです。単に「価値対象性をもったもの」ということ
では、価値が見えるものとはならないでしょう。        相対的価値表現ーーをしているので、
                              相対的価値形態が如何にして成立するか?
                              をマルクスは議論しているのに、
                              「価値物」上着の役立ち
                              において、等価形態が如何にして成立か?
                              この歪曲は、すさまじい!
 またすでに紹介した「補足と改訂」では、次のようにも述べ
ています。
《 したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他の
ある商品B,例えば上着と,価値として等置されることができ
るのは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物
として通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成
っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間
的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りに
おいてのみである。》
 つまりここでは「価値物」を説明して《すなわちその唯一の
素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいは
それゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物
として通用する》と述べています。つまり「価値物」としての
上着は、ただ人間労働だけから成っている(つまり具体的な裁
縫労働と生産諸手段との結合の産物ではない、その使用価値の  その使用価値の姿が人間労働として通用して
姿が人間労働として通用している)ものであり、だから《その  いる)もの
肉体が人間労働以外の何物をも表さない物》だと説明してされ
ています。だから「価値物」としての上着はまさにその肉体が
価値そのものであるような物なのです。すなわち価値の実存形
態、すなわち本質である価値が物(Ding)として現われている
ものだということができます。
 さらにこれは前回紹介したものですが、マルクスは初版本文
のなかで「等価物」を説明して、次のように述べていました。
 《 等価物という規定は、ある商品が価値一般であるというこ
とを含んでいるだけではなく、その商品が、それの物的な姿に
おいて、それの使用形態において、他の商品に価値として認め
られており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価
値として現存している、ということをも含んでいる。》
(夏目訳36頁)
 だから「等価物」である上着がリンネルの「価値物」として
認められる(通用する)ということは、やはりその上着という
物的な姿において、リンネルの価値として認められる(直接
に、リンネルの交換価値として存在している)ということでは
ないかと思います。
 では、「価値物」と「価値体」とはどう異なるのか、それと
も同じものなのか、ということについては、すぐにまた議論す
る機会があるでしょうから、今回は論じるのはやめておきま
しょう。
 だからこのパラグラフの説明としては、次のようになると思
います。
 リンネルの価値はどのように表現されるのか? リンネル
が、自分に等しいものとしての、自分と「交換されうるもの」
としての上着に、関係することによってである。この関係のな
かでは、上着は、価値の存在形態として、つまりリンネルの価
値そのものが物として現われているものとして、すなわち
「価値物」として認められる。そうしたものとしてのみ上着は
リンネルに等置されるのだからである。するとリンネルの価値
存在もそうした関係のなかで自らの表現を受け取ることになる。
つまりリンネルの価値は、上着という姿で、一つの物として目
に見える形で表されているわけである。上着は、ここではリン
ネルの価値の目に見える存在形態として、つまり価値物として
通用しているのである。


 

 米朝対立による朝鮮半島の緊張

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月13日(土)22時59分39秒
返信・引用 編集済
   米朝対立による朝鮮半島の緊張
宇宙人ぶー 氏の見事なツイート紹介
https://twitter.com/Bu_uuu/status/859941044141531137
米国務長官、北朝鮮に軟化促す「侵攻の意図なし」
  http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN04H0F_U7A500C1000000/
朝鮮戦争の休戦協定を破っているのは米韓なのだが……

   <以上の記事を紹介しようと準備していたら、
      もう一つ  次の見事なツィートの援軍を得たのでまず紹介します。>

     武士道平和党  @BushidoHeiwa
    これからも軍事力はアメリカに任せ、
   日本は9条の精神で中国、ロシアとの友好を深めて東アジアの安定化に貢献しよう。
   NOTHING IS IMPOSSIBLE (モハメド アリ)。
   北朝鮮、中国、ロシアを仮想敵国にして不安定化し、
   軍国化する「明治~日本軍~自民党」の醜い指導者には従うな。

そこで、杉本が
 上記の日 経 の① ② ③ の記事の記述を追ってみると
 5月1日には、朝鮮民主主義人民共和国と、アメリカ・トランプとの間には、
 次の合意ができていたーーことが見て取れます。

 「我々の強力な戦争抑止力によって、朝鮮半島情勢がもう一つの峠を越えた」。
  北朝鮮外務省は1日発表した談話で、
  米朝対立による朝鮮半島の緊張がピークをすぎたとの認識を示唆した。

私も内心震え上がっていたーー事を正直申し上げておきます。
日本経済新聞の見事な事後の追求の賛美して紹介します。

  日本経済新聞
 ①http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN04H0F_U7A500C1000000/
 米国務長官、北朝鮮に軟化促す「侵攻の意図なし」
2017/5/4 6:05

 【ワシントン=永沢毅】ティラーソン米国務長官は3日、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮について
「(南北朝鮮を分けている)北緯38度線の北側に行く理由を探しているわけではない」
と表明した。
北朝鮮に攻め入る意図はないと明確にすることで、
金正恩(キム・ジョンウン)政権に核放棄に向けた譲歩を重ねて促した。

 国務省内での職員向けの講演で語った。
ティラーソン氏は北朝鮮の体制転換や政権の崩壊、
朝鮮半島の再統一のいずれもめざしているわけではないと説明。
「状況が整えば、対話する準備はできている」と語った。

 ただ、北朝鮮の行動次第では「米国は追加制裁の用意がある」と明言。
圧力強化を続ける考えも改めて示し、核実験や弾道ミサイル発射をけん制した。
国連加盟国に対しては、国連安全保障理事会の制裁決議の履行が必要とも力説。
適切に対応しなければ「第三国を通じて制裁をするだろう」とも語った。
経済面での後ろ盾である中国を念頭に、北朝鮮への圧力を強めるよう念押しした。

 ②http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS03H1P_T00C17A5PE8000/
海自の護衛艦2隻、米艦防護の任務終了
2017/5/3 17:56

海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」=共同
 安全保障関連法に基づき海上自衛隊が1日から実施している「米艦防護」の任務が3日午後、終了した。
1日から海自のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」が米海軍の補給艦と太平洋側を並走。
その後、護衛艦「さざなみ」も加わり米補給艦を守った。
安保法に基づく新任務の実施は今回が初めてとなる。

 いずもは1日に房総半島沖で米海軍の貨物弾薬補給艦「リチャード・E・バード」と合流。
航行中は水上レーダーなどで周辺海域を監視する役目を担ったとみられる。
さざなみは2日午前に海自の呉基地を出港し、最後は2隻で米艦防護にあたった。

 いずもは今後、シンガポールでの国際観艦式に参加する予定。
米補給艦は北朝鮮の弾道ミサイル警戒のため、日本海に展開する米艦船への補給にあたるとみられる。
 米艦防護は昨年12月に政府が運用指針を決定し、日米が実施時期を探っていた。

 ③http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM02H3S_S7A500C1EA2000/
米朝、対立か対話か トランプ氏「環境整えば会談」
2017/5/3 0:03
北朝鮮

【ソウル=峯岸博、ワシントン=永沢毅】北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐり、
対峙する米朝が対話の機会を探り始めた。
トランプ米大統領は空母や原潜で圧力をかける一方、
1日には環境が整えば米朝首脳会談に応じる意向も示した。
北朝鮮は6回目の核実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射で
米国を威嚇する構えを崩さないが、外交戦に持ち込みたい意思も垣間見える。
対立か対話か、北朝鮮情勢は分水嶺に差しかかったようだ。

威嚇の応酬が続くトランプ氏と金正恩氏=いずれもAP
 トランプ氏の発言は1日の米ブルームバーグ通信とのインタビューで飛び出した。
「これはニュースになるだろうね」と前置きしたうえで
「環境が適切なら彼と会ってもいいだろう」と述べた。
1月の就任後に米朝首脳会談に前向きな発言をしたのは初めて。

 「我々の強力な戦争抑止力によって、朝鮮半島情勢がもう一つの峠を越えた」。
北朝鮮外務省は1日発表した談話で、
米朝対立による朝鮮半島の緊張がピークをすぎたとの認識を示唆した。
トランプ氏の発言は同談話に呼応した可能性もある。

 朝鮮半島の緊張緩和に向けて、米朝は対話に動き出すのか。北朝鮮の環境は整いつつある。

 北朝鮮で故金日成主席生誕105年や軍創建85年という重要な記念日が続いた4月が終わった。
当面は目立った国内行事はない。
一連の行事で金正恩(キム・ジョンウン)委員長の権力固めが落ち着いたとして、
外交攻勢に出てくるとみる専門家も多い。
慶南大の梁茂進教授は「米国を相手に武力挑発で威嚇を続ける態度を示しつつ、
対話の必要性も感じているとのメッセージを一緒に送った」と談話を解釈した。

 金委員長は昨年5月の労働党大会で「核保有国の地位に見合った対外関係を発展させる」
と外交重視の姿勢を表明。
4月の最高人民会議では、約20年ぶりに外交委員会を復活させ、
対米交渉などのベテランを要職に据えた。
朝鮮戦争の休戦協定に代わる平和協定締結への協議を呼びかけてきた北朝鮮に
とってトランプ氏の発言は渡りに船だ。

 さらに北朝鮮では毎年5月中旬から田植えの季節が訪れる。
「田植え戦闘」と呼ばれ、住民が農業生産量を高めるために農作業に総動員される毎年恒例の行事だ。
学生は1カ月程度休学になり農村に向かうとされ、軍の兵士も欠かせない労働力。
長引く緊張で田植えが滞れば、秋には食糧難に陥りかねない。持久戦は避けたいのが本音だ。

 焦点は米政権が北朝鮮との直接対話に応じるかどうか。
トランプ政権はオバマ前政権の実質的な融和策だった「戦略的忍耐」を転換し、
対話のための対話には応じない。
戦略目標とする朝鮮半島の非核化とICBMの阻止を対話の条件に突きつけるのは確実だ。

 米朝首脳会談に含みを持たせたトランプ氏は「環境が整えば」とも指摘。
「彼(金委員長)がミサイルを米国に撃ってくるような状況では環境は整わない」と語った。

 一方、北朝鮮は米本土に届く核ミサイルをカードに金正恩体制の保証を取り付けたい。
イラクやリビアの例をみて、核開発を米国の敵視政策に対抗する独裁体制の生き残り策と信じている。
米朝の溝は依然として深い。
スパイサー米大統領報道官は1日の記者会見で「明らかに今その条件は整っていない」とした。

 中国はトランプ氏の発言に肯定的な反応を示した。
外務省の耿爽副報道局長は2日の記者会見で
「米国と北朝鮮は直接の当事国としてなるべく早く政治決断し、行動に移すべきだ」
と述べ、早期の米朝対話を促した。
「対話や平和的な方法による解決が唯一の現実的かつ正しい選択だと考えている」とも語った。

 3月に始まった米韓合同軍事演習は4月30日に終わったが、
米空母「カール・ビンソン」や米原潜「ミシガン」が朝鮮半島近海にとどまり、
圧力をかける。北朝鮮は威嚇をやめない。米朝の間で中国はどう渡りをつけるのか。
米朝は挑発・けん制を繰り返しながら、中国を交えた水面下の駆け引きを加速させそうだ。

<紹介ーー以上であります。>
 

緊張など迫っていないのに、国民を恫喝していることが「けしからん」

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月11日(木)16時32分43秒
返信・引用 編集済
    高野 孟 氏の時選に適した良い記事紹介

目くらましのために北朝鮮危機を過剰に煽る“便乗詐欺”
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/205070/1
 高野孟     2017年5月11日

 安倍晋三首相のゴールデンウイークの過ごし方といえば、
 ①4月27~30日に何の用事で行ったのか分からないロシア・英国を訪問し、
 ②5月1日は午前中に官邸で会議があって、午後は散髪、夜は新憲法制定推進大会で挨拶し、
 ③2日は東北被災地視察。
 ④3日に山梨県の別荘に移って7日まで滞在し、
  その間にお友達とのゴルフが3回、中華料理店での会食2回、
  庭でバーベキュー1回、温泉旅館で入浴1回と、本人も
  「非常にゆっくりした。明日からまた頑張る」と言うほど、
  のんびりしたリフレッシュ休暇だった。
   (①~④は杉本挿入)
 とすると、今にも米朝間で戦争が始まって、日本にも北朝鮮のミサイルが
降ってきそうだというあの一連の騒ぎはいったい何だったのか。元外務官僚が言う。

「意図的に危機感を煽って国民を脅し、政権への求心力を高めようとする心理作戦です。
米国はもちろん、もし戦争になれば日本より遥かに大きな被害に遭うはずの韓国でも、
そんな話にはなっていない。

韓国のネットでは、北のミサイル発射のニュースを聞いただけで東京メトロが
列車を止めたことが、『日本人って臆病なんだね』と笑い話になっているほどです」

 実際、5月1日午前に官邸で開かれたのは、
 内閣危機管理監、国家安保局長、外務・防衛幹部を集めた国家安保会議で、
 当然、北朝鮮をめぐる情勢が議題となったが、
 何ら差し迫った危険はないということで、わずか15分間で散会となっている。
 だから安倍はそのあと散髪に行ったり、GWをゴルフ三昧でのんきに過ごしたりしたのだ。

 それを「けしからん。緊張感に欠けている」と怒っている人が
 与野党双方にも評論家の間にもいるが、話はさかさまで、
 本当は危機など差し迫っていないことを知っているから、
 ゴルフに興じていたのである。
 緊張があるのにのんびりしていることが「けしからん」のではなくて、
 緊張など迫っていないのに、迫っているかのようなことを言って
 国民を恫喝していることが「けしからん」のである。

 野党の中堅議員もこう指摘する。

「北朝鮮危機を過剰に煽って、それを目くらましに使うことで、

  森友学園事件を早く忘れさせよう、
  目の前の共謀罪法案を通過させよう、
  改憲への道筋もつけようという
安倍の便乗詐欺に引っかかってはなりません」と――。
 

榎原さんの商品語への理解  への批判

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月10日(水)12時01分18秒
返信・引用
  http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220
第四講 簡単な価値形態

  1.価値形態の秘密と謎
  2.商品語の論理としての事態抽象
 ここで分析したことをマルクスは、実は商品は商品語でそういうことを言っており、
商品語で語られたことを翻訳しただけだ、と別のところでそう言っています。
50頁上1段に、マルクスが商品語を翻訳した箇所があります。

「人間的労働という抽象的属性における労働が、それ自身の価値を形成するということを
語るために、亜麻布はいう、 ――― 上衣は、それが亜麻布と同等な意義をもつかぎり、つ
まり価値であるかぎり、亜麻布が成りたつのと同じ労働から成りたっている、と。亜麻布
の崇高な価値対象性はゴツゴツした亜麻布のからだとは異なるものだということを語るた
めに、亜麻布はいう、 ――― 価値は上衣のように見え、したがって亜麻布そのものは、価
値物としては上衣と同等なこと瓜(うり)ふたつである、と。」

  ここを読むと、抽象的人間労働が社会的な実体である、という意味が明らかになる
 のではないかと思うのです。「上衣は、それが亜麻布と同等な意義をもつかぎり」と
 いう箇所は、上着は、つまり価値である限り亜麻布が成り立つのと同じ労働から成り
 立っている。そのように関係の中で亜麻布は言っている。

 これはどういう事かと言うと、上着は亜麻布と同じだ、と亜麻布は言っています。
 これを亜麻布と上着をつくる労働という観点から考えますと、上着をつくった労働は
 亜麻布をつくった労働と同じものですから上着は亜麻布である、こういうように言っ
 ていることになります。上着をつくる労働が亜麻布で表現されている。上着を見れば、
 上着を作る労働は想像できますが、亜麻布を見ても、上着をつくる労働はどういうも
 のかは分からない。そういう意味で上着をつくる労働が抽象化されている。

 次に亜麻布の価値は上着だ、というように言っています。上着を価値の体化物にした
 上 で、その価値の体化物で自分の価値を表現する、こういう構造になっています。

 そして自分の価値を表現する箇所で、亜麻布の価値は上着と同じだ、亜麻布は上着
 と同じというわけですから、今度は価値としては亜麻布をつくった労働は上着で示さ
 れます。ですから上着を見ても亜麻布をつくった労働は、どういう労働かということ
 は分からない。

  そうすると抽象的人間労働というものは、この亜麻布と上着という価値形態にお
 ける価値関係の中、お互いの関係の中で、抽象化し合っている。そういう関係の中
 で、抽象的人間労働にそれぞれが還元しあっている、こういう事になっているのでは
 はないか。


 杉本の商品語批判
  ①<「亜麻布はいう ――価値は上衣のように見え、したがって亜麻布そのも
    のは、価値物としては上衣と同等なこと瓜ふたつである、と。」>
   <次に亜麻布の価値は上着だ、というように言っています。上着を価値の
    体化物にした上で、その価値の体化物で自分の価値を表現する、こうい
    う構造になっています。>

   上段では、<価値は上着に見え>と述べ、「価値物上着」と亜麻布は同等
   となっており、この「価値物上着」と、価値上着とが混同されており、次
   に、亜麻布も、この「価値物上着」と等しい・同じーーと転倒が提示され
   たのです。

   価値物上着と価値上着との先後関連は明らかでであり、この論理を転倒さ
   せれば、<上着を価値の体化物>とすることでの価値表現ーーとの
   量的関係=同等性関係に転倒するのは明らかです。

  ②<亜麻布と上着との価値関係のもたらす、価値形態の形成は、上着に表示さ
   れる裁縫労働が人間労働に還元され、リンネルに表示される織布労働が抽象
   的人間労働を示す(5段落)ーーこの回り道ーーが示されたのみでは、
   「上着が価値」(7段落)に、辿り着いていないのだから、自ずと上着は価
   値体の規定として質量的・物的規定も受け取れず、この価値形態の形成も不
   可能なのです。
    何故か?ここには価値表現のメカニズムでの思考では、人間様の思考では
   理解不能なのです。マルクスが、この回り道を提示するも問題解決の不可能
   さを私達にみせたのは、物象の関係・物象の判断によって「上着が価値物」
   から「上着が価値」ーーとの判断の移行にて、上着が価値体の物的規定では
   なく、リンネルに対する上着の価値としての二つの役立ちにて、価値形態の
   王冠をかぶる・被せらるーー物ではなく、物象の判断・社会関係の存在が提
   示されたのです。>




  現行版⑨ ⑩段落

⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価値形態とし
て通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身体で表現される、つ
まりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。

   使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、
   価値としての亜麻布は「上着に等しいもの」であって、
   したがって一着の上着のように見えるのである。
   こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
   亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同等性において現われる。
   それはあたかも神の子羊との同等性において現われる
   キリスト教徒の羊という存在である。

⑩以上みて生きたように、商品価値の分析がこれまでわれわれに告げた全てのことを、別
な商品である上着とつきあうや否や、亜麻布自身が語るのである。将に亜麻布はその思い
を彼女だけが流暢に使える言葉、商品語でそっと漏らすのである。

  労働は人間労働というその抽象的な本質において亜麻布自身の価値をなすのだ
  と言う代わりに、亜麻布は、上着はそれが彼女と同等のものとして有効である、
  すなわち(上着も)価値である限りでは、亜麻布と同じ労働からできているのだ、
  と言う。

  彼女の繊細な価値対象性はそのごわごわと固い亜麻布製の身体とは違うのだ、
  と言うために亜麻布は、価値は上着のように見え、
  したがって彼女自身が価値物としては上着と瓜二つなんだよ、と言うのである。

ついでにいうと、商品語にヘブライ語以外にも正確さの度合いがさまざまな多くの別な方
言があればよいのだが・。ドイツ語の「価値存在」は、商品Bの商品A との等置が商品A
自身の価値表現であることを、例えばロマン語の動詞valere、valer、valoirほど的確には
表わさない。Paris vaut bien une messe! パリは祝福に値する!





 

 相対的価値形態があって、その次に等価形態があるのに、そこを転倒させる理解とは?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月 9日(火)12時32分16秒
返信・引用 編集済
    次のは、ほぼ、二年前と一年前にこの掲示板に上掲したものであるが、
  基本的に正しいと思いながら、もっと問題点を明確に表したいーー
  と思い②の記事を変更してみました。

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/866
① コメント 相対的価値形態の内実をめぐって  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月 8日(日)

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1091
②榎原さんの内実論理解の特異性について
投稿者:杉本  投稿日:2016年 2月19日(金)15時57分13秒
 『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220


 第四講 簡単な価値形態
 1.価値形態の秘密と謎
 今回は次の箇所までやりましょう。
(A)簡単な・単独な・または偶然的な・価値形態
 一、価値表現の両極、ーーー相対的価値形態と等価形態
 二、相対的価値形態

ーーーーーーーー略ーーーーーーー

亜麻布=上着、ということになる。              「一商品の単純な価値表現が二つの商品の
亜麻布と上着という異なる物が、等置されている。等置されて  価値関係のうちにどのようにひそんでい
いるという事は、当然同じ質を持ったものとして等置されてい  るかを見つけだすためには・」(冒頭一節)
るわけです。そして等置されている同じ質を持ったものとは、  亜麻布=上着
「同等な人間労働」という既に使用価値と価値の分析のところ  等置されている同じ質とは?
で明らかにしたものです。                  「同等な人間労働」を表しているのが、価
                              値方程式ではない。

マルクスは同等な人間労働を持つもの同士が、等しいものとし  「上着が価値である」(7段落)ーーー
て等置されているという関係を表している価値方程式を次には  この反省規定の存在の立証を課題とする
解読していきます。つまりこういう形で交換の関係がある、と  交換の関係があるーーではなく価値関係
いう場合に交換の関係をマルクスは価値形態、価値方程式、あ  交換の関係をーー価値形態として見るーー
るいは価値等式、と様々な言葉を使って言い換えていますが、  ではなく、価値関係を相対的価値表現の
これを価値形態として見るということは、そこで亜麻布の価値  生成として見よう。(冒頭)
がどのように表現されているか、価値が表現されている形態と  相対的価値形態は前提ではないのです。
してこれを読もう、という事なのです。その解読が47~48頁   大谷先生のように等価形態も前提ではない
にありまして、重要なところなので読みます。

 「しかし質的に等値されたこの二つの商品は、同じ役割を演  内実ーー第三段落
ずるのではない。亜麻布の価値だけが表現されるのだ。では、  亜麻布の価値だけが表現ーー亜麻布が、
いかにしてか?  亜麻布が、それの『等価』あるいはそれと  それの『等価』・『交換されうるもの』
『交換されうるもの』としての上衣に連関することによってで  としての上衣に連関することで、
ある。この関係においては、上衣は、価値の実存形態として・  上衣は、価値の実存形態
価値物として・意義をもつ、 ――けだし上衣は、こうしたもの      価値物として・意義をもつ
としてのみ、亜麻布と同じものであるから、他方では、亜麻布  そこで亜麻布それ自身の価値存在が現出す
それ自身の価値(ヴェルト)存在(ザイン)が現出する、すなわち、 自立的表現とは=上着が価値の存在形態
自立的表現を受けとる、けだし亜麻布は、価値としてのみ、同  の規定「上着形態は価値形態」(九段落)
等な価値あるもの・あるいはそれと交換されうるもの・として  上着は、同等な価値あるもの=同量の価値
の上衣に連関しているのだから。」              交換されうるもの=交換可能性の形態


               <けだし亜麻布は、価値としてのみ、同等な価値あるもの・
               あるいはそれと交換されうるもの・としての上衣に連関して
               いるのだから。>

               下表示の岡崎訳とは異なり<「リンネルの価値存在の現出」>
               がここに如何にしてか?と我々に質問しているのに、
               ーー「亜麻布は価値」「価値あるもの・・上着に連関」ーー
               では、この前文の「亜麻布それ自身の価値存在が現出する」
               事を、否定しているのです。
               <リンネルの価値存在の現出>が問われているからこそーー
           「リンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係する」
               と表したのであります。

               <なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または
                自分と交換されうるものとしての上着に関係することがで
                きるからである。>(原P64 国民文庫 岡崎訳P97)


 『資本論』を読んでいて、こういう所が出てくると戸惑って  註①初版註18a項目の本文
しまいます。何を言っているのか分からない、という直観しま  「20エレのリンネル=1着の上着、あるい
す。何を言っているのか分からない、というような所を何故や  はxエレのリンネルは、y着の上着に値す
る必要があるのか、ということですが、それはこの節の冒頭   る、という相対的価値表現においては、上
45頁下9で、「商品の価値対象性は、つかまえどころがない・  着は確かに、価値あるいは労働膠着物とし
・・(略)・・・商品体の感覚的な対象性とは正反対に、それ  てのみ認められているが、まさにそのため
の価値対象性にはみじんの自然的質料も入りこまない。」とマ  に、労働膠着物は上着として認められ、上
ルクスは言っています。要するに商品を感覚的に触ってみる、  着は、そのなかに人間労働が凝結している
嗅いでみるといった五感を動かして把握してみても、その商品  ところの形態として認められているのであ
の価値がどういうように現されているか、ということは分から  る(18a)。」
ない。ないしはその商品が価値として持っている形態は、感覚
では掴めない。感覚で掴めないものを、どのように認識するか、

という場合にその関係の中で双方がお互いに同等な人間労働と  「お互いに同等な人間労働として関係」
して関係し合っている。そういう関係の仕方ですが、これを解  ーーであれば、それは同等性関係であって
明し得れば、そうするとそこに価値が現れている、価値が現象  価値関係では無い!!
している形態である、ということが確認できるのではないのか。 <同質の抽象的人間労働がお互いに関係>
現行版の場合、そういうような分析の仕方になっているわけで  するのは何故か?
す。初版の場合は少し違いますが現行版では、何か同じ質の、  ーーとの設問を、榎原さんはしたのです。
抽象的人間労働という同じ質を持ったものとしてお互いに関係  リンネルが上着を価値物・価値の存在形態
し合っている。そういう関係はどのような形で成立しているか、 と規定している第三パラグラフは、捨象さ
という事を明らかにする。それが価値形態の分析の課題になっ  れている。そこは考察外だから、対象は第
ている、というように言えると思うのです。          五パラグラフからですーーと。

                「抽象的人間労働という同じ質・・としてお互いに関係し・・関係はどの
                ような形で成立」しているのか?ーーがここでの課題だと。

そのような観点から、今読んだ箇所を見ていきますと、一つは  だが、第三パラグラフの主張無しでは、
亜麻布=上着という関係がある場合に、ここでは相対的価値形  価値形態の成立不能です。そればかりでな
態にある亜麻、亜麻布だけの価値が表現されている、とまず見  く、内実論すべてが不要対象外になってし
ます。亜麻布の価値が上着で表現されている。それはどういう  まいます。

                ーーー榎原さんは、当前だとして、等価形態上着での価値表現だという!
                「だから商品相互の関係という場合、相対的価値形態にある商品が自分の
                価値を表現する。自分の価値は自分自身では表現出来ずに、等価形態にあ
                る上着という商品の体を通じて表現する。」
                ーーーやっと、いま 今思いがけないことが眼に見えてきました。ーーー
                ーーーもっとも、大谷先生の解読は、等価形態のみなのですから、
                ーーーその社会的意識形態を批判してないのですから、右へならえです。

ことかと言うと、亜麻布は上着と交換されてもよい、同じもの  「自分と「交換されうるもの」としての
だから交換されてもよい、というように言っているということ  上着に対して持つ関係によって、である」
です。これを言い換えると、亜麻布は上着を自分と交換できる  ーーに対して、
もの、つまり自分と同じものにしているわけです。 自分と同  「つまり自分と同じものにしているわけ」
じものだというように見做し、そうした上で自分の価値を上着  では同等性関係であって、上着が価値存在
で表現している。だから商品相互の関係という場合、相対的価  ・価値物として、リンネルに関係してない

値形態にある商品が自分の価値を表現する。自分の価値は自分  なぜか?次の理解に理由がーーー「相対的
自身では表現出来ずに、等価形態にある上着という商品の体を  価値形態にある商品が自分の価値を表現」
通じて表現する。その場合に相対的価値形態にある亜麻布は、  ーーでは、リンネルの価値存在が上着では
上着は自分と交換できるものだから上着は自分と同じものであ  表現できず、(相対的価値表現が不能)対
る、というような形で関係を結んで、その関係で上着は自分の  象性を、等価物の形態上着に求めてしまわ
価値だ。自分の価値は上着で現わされている、と主張している  ざるをえず、等価形態を前提にする結果を
のだ。                           生じている。

こういうように読み取って行くと、今度は労働のレベルで、価  「上着は自分と交換できるものだから」
値は抽象的人間労働からなるという以上は、単に対象化された  で無く「交換されうるもの」上着は・交換
労働・生産物の関係だけではなくて、生産物を生産する労働の  可能性であって、交換しうる・出来るーー
関係も含めて分析しなければならないわけで、その問題を次に  との直接的交換可能性ではない。しかし、
マルクスは見ていきます。                  等価形態上着であれば、上着は、直接交換
それは48頁下段にある箇所で、いわゆる「まわり道」という言  可能な使用価値の規定を受けてしまう。
葉が出てきますが、この問題については、「価値表現のまわり  榎原さんの設問ではーー
道」というようなことで様々な論争がありました。       上着は、価値の存在形態・価値物としてリ
                              ンネルに対面していないのです。
                              だから、まわり道を経て、
                              「リンネルの価値をなしている労働の独自
                              の性格を表現」(文庫P99)ーーにて、リ
まわり道に関する様々な議論については、殆ど正解を得ていな  ンネルに表示される労働が抽象的人間労働
いのではないかと思います。マルクスはここで分析したことを  と抽象し価値実体を示せば、終わりです。
今度は整理して、以降に展開していきます。ここでの根本問題
は亜麻布との関係において、上着という自然物自体が価値とし  「上着という自然物自体が価値」とは?
て意義を持っている、持たされている、というようになってい  七段落での「上着が価値」ーーを指す。
る所です。価値が価値として現われるのではなくて、上着とい  しかし、それでは、
う使用価値の体が価値を体現するものになっている。ですから  <価値体上着による亜麻布価値の表現>で
亜麻布の価値は上着という使用価値で表現されている、という  す。価値関係の質的側面ではなく量的側面
関係になっています。こういう関係になっているという事が、  ーーこの不明の因は、両極の形態の混同。
価値形態の秘密だという内容になります。           <「価値を体現する」>明らかに、価値体

                <価値体上着でのリンネル価値の表現への批判の意味はで何あったか?>
                四版ーー「リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルに等しい物、同じ
                性質のものとして認められるのは、上着が価値であるからである。それだ
                から、上着はここでは価値がそれにおいて現れる物・価値を表わしている
                ものとして認められているのである。」(7段落)

                初版ーー「リンネルは、他の商品(を)自分(に)価値として等置するこ
                とによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。」
                こうして訳を比較してみると、<上着をーー価値として等置>が正訳であ
                るが、しかし、ここでの注意点は、四版の上着は、「価値が現れるもの・
                表しているもの」ーーとの規定で「上着が価値」とされることの理由を探
                っているのです。
                ところが、初版では、その続きとしてーー
                「リンネルは自分の価値の大きさを上着で表現・・することによって、自
                分の価値存在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える」ー
                ーなのです。

                四版と初版との比較から明らかになることは、マルクスの先ずの課題が、
                四版の第三パラグラフでの明瞭な提起のようにーー如何にして「リンネル
                それ自身の価値存在が現れてくる」のか?であると了解できるのです。

                このように、相対的価値表現の内的関連を探っていくとーー
                「上着が価値」とされるから、上着がリンネルの価値形態なのです。

                そこで、上着はリンネルの反省を受け価値であるとしても、相対的価値表
                現での規定ですから、等価形態・上着のように転倒された現象である、直
                接的に「価値形態」ではなく、また物神性をこそ示す「価値体」ではない
                のです。ここでの混同は二つの形態の区別ができなくなるし、等価形態の
                転倒が示す物神性ーー等価物上着が直接的に価値体ーーを見抜けなかった
                のです。
                <等価物上着が価値体>であるのは、第二の展開された相対的価値形態に
                て、上着は回り道を経ずとも「リンネルの価値鏡」=価値形態となること
                で、「こうして、この価値その物が、はじめて、ほんとうに、無差別な人
                間労働の凝固として現れる。」(原P77)ーーと示されている。
                上着は、この第二の形態にて、全体的な価値形態ーーを受け取ることで、
                上着は、リンネルの等価物として、リンネルの価値鏡であり、価値形態で
                あり、価値体であることを左極にて受け取ります。
                右極では、「特定の現物形態は、・・多くのものと並んで一つの特殊的等
                価形態である。同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定
                の商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、い
                までは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態また
                は現象形態として認められているのである。」(原P78)

                 しかし、この了解しやすい、第二での展開された価値形態の記述は、
                第一での簡単な価値形態の総体ですでに規定され、受け取っていたことの
                延長でしか無いのです。
                 リンネルの相対的価値表現にて、上着が直接的に価値体とされるのは、
                第二の形態の左極にて、他の商品種類とともに、上着がその自然的形態の
                ままに価値形態となることにおいてなのですが、第一の形態での簡単な価
                値形態の総体では、上着は使用価値リンネルに対し価値形態上着の規定を
                媒介抜きに、受け取るも価値体上着の規定を受け取らないのです。
                 単純な相対的価値形態の成立において、上着は価値形態となることにお
                いてのみ「価値体」上着ーーが役立つも、この「価値体」上着の規定では
                その質量的側面を指すにすぎないのです。だから「価値体」で有ることに
                おいて、上着は価値形態の反省規定は、受け取れないのです。
                だから、
                この第一の等価形態において、上着は自然的形態のままに価値形態である
                ことにおいて、その役立ちをなすが、上着は未だ直接的に価値とはされず、
                ーーそう見えるのは、自然的属性が価値とされる「等価形態の謎性」との
                転倒・商品の物神性によるのです。



                次に、第三の形態において、如何にして、価値体の規定を受け取るのか?

                商品世界の住人であるかぎりで、上着は他の商品と共に価値形態であり、
                価値体であるのは、この一般的価値形態において次に示されたのです。
                しかし、一般的等価形態においても等価物リンネルは、「価値体」の規定
                を受け取れ無いことが次のように示されています。

                「一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働
                を次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人
                間労働一般の一般的現象形態とする。」

                そして、とっても大切なことは、
                一般的等価形態で「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする。」ーー
                ことに示されているのは、次のことの反省規定を受けたものなのです。

                「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
                (単なる凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態
                が商品世界を社会に表現する物であることを示す。」

                「人間労働のゼリー(単なる凝固)として表すこの形態は」とは?
                一般的等価形態の対極の一般的相対的価値形態を形成する一般的価値形態
                との、商品世界の完成のなかで、その全体的な構成のなかで、やっとーー
                商品が価値体であるのは、抽象的人間労働の凝固、と表すことができるの
                です。


                先走りましたが、そのことは、次のA・Bの事柄の関連性の検討をしっか
                りと成すことで、得ることができます。
                <それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する>
                このAの事柄は、一般的な相対的価値形態を生成する商品世界の共同事業
                として、物象の社会関係の完成としてーーなされたものです。

                  A一般的な相対的価値形態の形成はいかにしてか
                 (一 価値形態の変化した性格)
                「前の二つの形態は一商品の価値を、唯一の他種類の商品によってであれ、
                それとは違う多数の商品の列によってであれ、表現する。いずれの場合に
                も、一つの価値形態が与えられることは、いわば諸商品個々の私事であり、
                商品は他の諸商品の助力なしに事を成し遂げる。これらの商品は互いに等
                価物という単に受動的な役割を果たす。
                それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。
                商品が一般的な価値表現を獲得するのは、全ての他の商品が同時にそれら
                の価値を同じ等価物で表現し、新たに登場する商品種類の各々もそれらの
                真似をしなければならないからである。そのこととともに、商品の価値対
                象的性はこの物がもつ単なる“社会的定在”であり、
                <81>その全面的な社会的関係を通してだけ表現され得るのであるから、
                価値対象性の形態も社会的に認められるものでなければならないのだ、と
                いうことが明らかになる。」(原P80~81)

                B一般的等価形態の形成はいかにしてか
                「一般的価値形態を構成する無数の等式は、・・・・・・・・・・・・
                そうすることで織布を人間労働一般の一般的現象形態とする。」ーー
                ーーと示されるのは、左極の反省規定として登場する一般的な等価形態で
                あります。一般的な相対的価値形態にて表示され、一般的価値形態を構成
                する無数の等式が示すものは、左極の反対極として登場するーー右極での
                亜麻布の経済的な形態であります。
                 そのことが次のように提示されています。

                「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物
                商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態は
                この世界共同の価値の像(かたち)になり、したがって亜麻布は全ての他
                の商品と直接に交換可能になる。亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の
                可視的な化身・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。織布、亜麻
                布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわち全て
                の他の労働との同等性を体現する形態に就く。
                一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
                次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間
                労働一般の一般的現象形態とする。
                商品価値として対象的に表れる労働は、消極的に、すなわちあらゆる具体
                的な諸形態と有用な諸性質が捨象された現実の労働として表現されるだけ
                ではない。
                それ自身の積極的なNatur本質もはっきりと現れてくる。
                商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格、す
                なわち人間の労働能力の支出に還元された現実の労働である。
                 一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
                (単なる凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態
                が商品世界を社会に表現する物であることを示す。
                労働の一般的に人間的な性格が、この世界では、特殊な社会的性格をかた
                ちづくっていることを一般的価値形態は明らかにしているのである。」
                 (一 価値形態の変化した姿 8段落 原P81)


                Bの説明にて、Aの事柄は抑えられています。
                ①「商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻
                  み付ける。
                  亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、
                  したがって亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」
                そして、
                ②「一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労
                  働を次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織
                  布を人間労働一般の一般的現象形態とする。」
                と示すことで、「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする」ーーのは
                と、一般的価値形態において反省規定しているから、ーーと示すことで、
                次の結論をマルクスは提示したのです。

                ③「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働の
                  ゼリー(単なる凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、
                  この形態が商品世界を社会に表現する物であることを示す。
                  労働の一般的に人間的な性格が、この世界では、特殊な社会的性格を
                  かたちづくっていることを一般的価値形態は明らかにしているのであ
                  る。」

                このように、
                「労働の一般的に人間的な性格が、この世界では、特殊な社会的性格をか
                たちづくっていることを一般的価値形態は明らかにしている」ーーと、
                示すことで、
                ーー抽象的で一般的な人間労働が、商品世界を構成する全ての商品に対象
                かされ、全体的な価値形態では形成されていなかった、そのことを成立さ
                せている、と述べているのです。

                以上のことで、
                「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物
                商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。」
                前後関係は明らかです。一般的等価形態があって、一般的相対的価値形態
                が形成されたのではないのです。
                この転倒こそ久留間理論の誤りであり、誤解なのです。

                商品世界から除外された等価物リンネルに、一般的等価物の形態を与えた
                ーーの主語は、商品世界であり、一般的な相対的価値形態なのですから、
                この一般的相対的価値形態を形成したのは、一般的価値形態なのです。


ここでよく価値形態の秘密という場合は、商品の価値が使用価  相対的価値表現では、上着は亜麻布の対象
値で現わされる、他の商品の使用価値で現わされている、とい  とされる限り(価値物・価値の存在形態)
うことだと簡単に言ってしまっただけで理解したような気にな  で、価値であるが・・
っているという事が多いのです。問題は上着という使用価値が
単に価値を現わすものとしか機能していない。ですから等価形  等価形態・上着は、使用価値でありながら
態にある上着は使用価値でありながら使用価値としての役割を  「価値の鏡」として、価値の体化物ーーで
持っておらずに価値を現わす、「価値の鏡」として、価値の体  は、直接的に価値との転倒批判が不能です。
化物としての意義しか持っていないのだ。そういう関係になる  右辺の上着は、使用価値なのです。
という所が、非常に難しい所であり、それを掴む所が簡単な価  榎原さんは、相対的価値表現を論じている
値形態の構造を把握する上で根本的なことだ、というように私  ところに、等価形態の考察を持ち込んでい
は見ています。                       るのです。

                 上着は、「価値物」・「価値の存在形態」の二つの規定の下で、亜麻布
                に関係されています。この規定は亜麻布の上着による相対的価値表現での
                規定ですから、等置されることで、直接的に受けとるのではなく、間接的
                であります。
                 榎原さんは、七段落の「価値がそれにおいて現れる物」「価値を表わし
                ているもの」が、「金モールのついた上着」による形態規定での上着の姿
                態変化を、辿っていないのです。

                そして、次の八段落ーーにて、リンネル価値の上着での相対的表現がーー
                「上着は・・価値体としてのみ認められる」「価値魂」であることでなさ
                れるのではなく、「金モールのついた上着」での姿態変化である「価値が
                上着という形態」そして、「上着形態は価値形態」(九段落)をとるーー
                両者の役立ちを果たすーーことでなのです。臣下に比喩されたリンネルの
                上着に対しての行いがあって、上着は王の姿・王の立ち居、振る舞いを行
                うーー諸物象の働きが登場し上着は価値形態の規定を受けとったのです。
                 しかし、この諸物象の働きは、価値関係において成されたのにーーーー
                「(リンネルは)価値としてはそれは「上着に等しいもの」であり、した
                がって、上着に見える」(文庫P101)
                「リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れる」(同上)
                ーーといった同等性関係への転倒した姿で登場しているのです。

                この転倒の下では、「リンネルの価値存在が」価値形態上着で示される、
                ことがなくても、あたかも、上着とのリンネルの同等性関係によって、価
                値表現されるかの転倒した物的形態を生み出してしまいます。
                物象の社会関係が、物的関係に転倒し、物と物との関係という幻影的形態
                を生じさせているのです。そこで、「呪物崇拝」の発生であります。

                リカードは、その物的関係のなかに人々の社会関係が人間労働の関係と
                して存在していることを見つけたことで光り輝いたのです。
                 従って、リンネルの価値存在が上着との関係のなかで価値形態として表
                現されるーー価値体を価値魂と批判しての、王と臣民の両者の役立ちでの
                価値形態の成立という筋道こそがとても大切・重要なのです。

 このように、第一の形態でのーー
  <価値体を価値魂と批判しての、王と臣民の両者の役立ちでの価値形態の成立という筋道>
  ーーを、しっかりと見だすならば、一般的価値形態の形成を経ての一般的等価形態での、
   「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする」ーー
  ーーとの、マルクスの困難極まりない苦難に満ちた考察を経ての記述には、頭が下がる一方であります。
 「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする」のは、左極にて、あらゆる諸商品が、価値であり、価値体
  であり、抽象的人間労働の凝固であるからであり、一般的価値形態になっているからと示したのです。

 このように、我々にマルクスが訴えていることは、
     ①商品世界を我々が形成したがその端緒は、
     ②簡単な価値形態=商品形態を形成したからであり、
     ③相対的価値形態を形成することで、等価形態との対立した両極を形成したーー出発点にある。
  ではその端緒の、相対的価値形態を形成したーーリンネル商品に対しての等価物上着が価値形態をえる
  ーー全てのこの端緒は?、この出発点は?と問うのではなく、商品世界で一般的価値形態が形成されるこ
  とで、この商品世界が止揚される条件が、この端緒に見出される・・・ということであります。





 

5・3戦争やだね長野集会への元自衛官・泥憲和さんのメッセージ

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月 3日(水)08時27分53秒
返信・引用 編集済
  憲法カエルのやだネット長野
https://twitter.com/yadanetnagano

5・3戦争やだね長野集会への元自衛官・泥憲和さんのメッセージ
2015/05/03

 みなさん、我が国の総理大臣が発する言葉が、ほとんど嘘であるという事実を、私たちは
どのように考えればよいのでしょうか。
「TPPに参加しません」といえば、それはTPPに参加するということ。
「原発汚染水はコントロール下にある」といえば、それは制御できないということ。
「消費税増税をすべて社会保障に」といえば、びた一文国民のために使わないこと。
「日本を守るための集団的自衛権」といえば、それは日本と無関係の戦争に参加すること。

 自衛隊が海外に出ても、憲法の禁じる武力行使をしないと安倍総理はいいます。
しかし何者かに攻撃されたら反撃できるといいます。
反撃するけれどそれは武力行使ではないというのです。
簡単にいえば、単なる撃ち合いと武力行使は異なるというのです。
安倍総理の発する言葉の絶望的な軽さに、戦慄せざるを得ません。

 みなさん、戦争はペテンから始まります。
 安部総理は国民に訴えています。
「北朝鮮からミサイルが飛んでくるかも知れない。
 中国が尖閣諸島を取りに来るかも知れない。
 世界はテロに脅かされている。我々に危険が迫っている」と。

 ナチスドイツのヘルマン・ゲーリングがこう語りました。
「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに
簡単なことだ。国民には我々が攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けている
と非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない」

 私たちは、もう騙されてはなりません。
五族協和・満蒙開拓の美名に踊らされた過去を、二度と繰り返してはなりません。
アジアを見下し、日本人は優秀なのだとおごり高ぶり、自己陶酔して戦争になだれ込んで
いった歴史を、しっかりと心に刻みましょう。

 韓国人や朝鮮人を差別し、あざけり、敵愾心をあおる風潮がなぜなのか、
誰がそのような運動を起こし、誰があおりたて、誰が応援しているのか、
その理由と背景は何なのか、

安倍内閣のメディア支配、メディア操作を許さず、目を見開き、耳を澄まして、
真実と嘘を見分ける力を、私たちは養いましょう。

 難しいことではないのです。
「戦争反対、憲法まもれ」の一点でよいのです。
 憲法第9条は命を守る原点であり、そうであるがゆえに人権の原点です。
命と人権を守るために、あらゆる垣根を超えて、私たちも手をつなぎましょう。
暮らしの場から、街頭から、安倍内閣許すまじの声を高らかに上げましょう。
あらゆる機会に改憲派を追い詰め、安倍内閣を退陣させましょう。
心をひとつに、力を合わせ、なんとしても戦争への道を塞ぎ、
かけがえのない日本国憲法を、日本と世界の未来のために、
しっかりと守り抜こうではありませんか。
泥憲和(元自衛官)


ツイッターからもう一点、
泥 憲和さんの主張を見つけましたので、追加しておきます。

http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/40768d2be233f251b6ff75903613f0db?fm=entry_awp

すごい説得力ー強烈な安倍首相批判=元自衛官(防空ミサイル部隊)の泥 憲和さん。
2014-07-05 | 社会批評
以下、強烈です。

 街頭(6月30日 神戸・三宮の街宣活動に飛び入りで) 元自衛官(防空ミサイル部隊所属)
     泥 憲和さん

 突然飛び入りでマイクを貸してもらいました。 集団的自衛権に反対なので、その話をし
ます。 私は元自衛官で、防空ミサイル部隊に所属していました。
日本に攻めて来る戦闘機を叩き落とすのが任務でした。

 いま、尖閣の問題とか、北朝鮮のミサイル問題とか、不安じゃないですか。
でも、そういったものには、自衛隊がしっかりと対処します。
自衛官は命をかけて国民をしっかり守ります。 そこは、安心してください。

 いま私が反対している集団的自衛権とは、そういうものではありません。
日本を守る話ではないんです。
売られた喧嘩に正当防衛で対抗するというものではないんです。
売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこうというんです。
それが集団的自衛権なんです。

 なんでそんなことに自衛隊が使われなければならないんですか。
縁もゆかりもない国に行って、恨みもない人たちを殺してこい、
安倍さんはこのように自衛官に言うわけです。
君たち自衛官も殺されて来いというのです。 冗談ではありません。
自分は戦争に行かないくせに、安倍さんになんでそんなこと言われなあかんのですか。
なんでそんな汚れ仕事を自衛隊が引き受けなければならないんですか。
自衛隊の仕事は日本を守ることですよ。
見も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事なわけないじゃないですか。

 みなさん、集団的自衛権は他人の喧嘩を買いに行くことです。
他人の喧嘩を買いに行ったら、逆恨みされますよね。 当然ですよ。
だから、アメリカと一緒に戦争した国は、かたっぱしからテロに遭ってるじゃないですか。
イギリスも、スペインも、ドイツも、フランスも、
みんなテロ事件が起きて市民が何人も殺害されてるじゃないですか。

 みなさん、軍隊はテロを防げないんです。 世界最強の米軍が、テロを防げないんです
よ。 自衛隊が海外の戦争に参加して、日本がテロに狙われたらどうしますか。
みゆき通りで爆弾テロがおきたらどうします。 自衛隊はテロから市民を守れないんです。
テロの被害を受けて、その時になって、自衛隊が戦争に行ってるからだと
逆恨みされたんではたまりませんよ。 だから私は集団的自衛権には絶対に反対なんです。

 安部総理はね、外国で戦争が起きて、避難してくる日本人を乗せたアメリカ軍の船を自衛
隊が守らなければならないのに、いまはそれができないからおかしいといいました。
みなさん、これ、まったくのデタラメですからね。
日本人を米軍が守って避難させるなんてことは、絶対にありません。
そのことは、アメリカ国防省のホームページにちゃんと書いてあります。
アメリカ市民でさえ、軍隊に余力があるときだけ救助すると書いてますよ。

 ベトナム戦争の時、米軍は自分だけさっさと逃げ出しました。
米軍も、どこの国の軍隊も、いざとなったら友軍でさえ見捨てますよ。
自分の命の方が大事、当たり前じゃないですか。
そのとき、逃げられなかった外国の軍隊がありました。 どうしたと思いますか。
軍隊が、赤十字に守られて脱出したんです。
そういうものなんですよ、戦争というのは。

 安倍さんは実際の戦争のことなんかまったくわかってません。
絵空事を唱えて、自衛官に戦争に行って来いというんです。
自衛隊はたまりませんよ、こんなの。

 みなさん、自衛隊はね、強力な武器を持ってて、それを使う訓練を毎日やっています。
一発撃ったら人がこなごなになって吹き飛んでしまう、
そういうものすごい武器を持った組織なんです。
だから、自衛隊は慎重に慎重を期して使って欲しいんです。
私は自衛隊で、「兵は凶器である」と習いました。
使い方を間違ったら、取り返しがつきません。
ろくすっぽ議論もしないで、しても嘘とごまかしで、
国会を乗り切ることはできるでしょう。
でもね、戦場は国会とは違うんです。 命のやり取りをする場所なんです。
そのことを、どうか真剣に、真剣に考えてください。

 みなさん、閣議決定で集団的自衛権を認めてもですよ、
この国の主人公は内閣と違いますよ。 国民ですよ。 みなさんですよ。
憲法をねじ曲げる権限が、たかが内閣にあるはずないじゃないですか。
安倍さんは第一回目の時、病気で辞めましたよね。
体調不良や病気という個人のアクシデントでつぶれるのが内閣ですよ。
そんなところで勝手に決めたら日本の国がガラリと変わる、そんなことできません。

 これからが正念場です。 だから一緒に考えてください。 一緒に反対してください。
選挙の時は、集団的自衛権に反対している政党に投票してください。
まだまだ勝負はこれからです。 戦後69年も続いた平和を、崩されてたまるもんですか。
しっかりと考えてくださいね。 ありがとうございました。





 

 いまや常識になった、久留間理論での、価値形態論の誤り

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 4月24日(月)09時33分32秒
返信・引用 編集済
  http://www.nau-grc.jp/0000_CENTERPAGE/books_img/keizai_4.pdf
 経済論集  第四号    2008年 3月
   ノースアジア大学 総合研究センター 経済研究所
    簡単な価値形態の一論点 ── 価値物と価値体 ──
    佐 藤   努
   第1節 簡単な価値形態                 「A 単純な、個別的な、または偶然的な
                     価値形態
                     x量の商品A=y量の商品Bまたは
                     x量の商品Aはy量の商品Bに値する。
                     一 価値表現の両極 相対的価値形態と
                     等価形態」ーーであります。

 商品がもつ他の商品との交換可能性す
なわち価値とその大きさの表現のもっと
も簡単なものは、 いうまでもなく、他
の1種類の商品による価値表現である。
たとえば、x量の商品Aのy量の商品 Bに
よる価値表現は「x量の商品A=y量の商
品B または x量の商品Aはy量の商品Bに
値する」というものである。

 この価値表現は、x量の商品Aが、y量
の商品Bを自分自身すなわちx量の商品A
自身に等置することによっておこなわれ
る。x量の商品Aが、y量の商品Bをx量の
商品A自身に等置すること によって、    「一 価値表現の両極 相対的価値形態と
「x量の商品Aはy量の商品Bに値する」    等価形態」での議論です。
という価値表現がおこなわれる。

 このとき、y量の商品Bがx量の商品Aに  「二相対的価値形態
 等置されるのは、y量の商品Bがx量の商   a相対的価値形態の内実」
品Aと同等であるからであり、y量の商品  「一定量のリンネルが多くの上着に値しようと
Bがx量の商品Aと同等であるのはx量の商  ・・このような割合は、・・」とあり、
品Aと「交換されうるもの」としてのみで  「リンネル=上着が等式の基礎」と前提
ある。                  リンネルの価値が表現される。・・リンネル
                     が、・・自分と「交換されうるもの」として
そして、y量の商品Bがx量の商品Aと交換   の上着に対してもつ関係によって・・」
可能なものであるならば、x量の商品Aも  「この関係のなかでは上着は、価値の存在形態
またy量の商品Bと交換可能なものでなけ   として価値物として認められる。」
ればならないのだから、
「x量の商品Aはy量の商品Bに値する」   「y量の商品Bに値する」では交換比率であり、
という価値表現がおこなわれるのである。  使用価値の量的関係であり、「この関係」の
                     分析に入っていない。
                     商品Bが、商品Aと「交換されうるもの」
                     であるためには、上着は、「価値の存在形態
                     として価値物」ーーとの規定が、ここである
                     のに、彼は、無視を決め込んでいる。
                     量的関係から質的関係の分析にかからない!
 x量の商品Aの価値がy量の商品Bによっ
て表現されているとき、y量の商品Bはx
量の商品Aと直接に交換可能な状態・形
態にあり、すなわち等価物の状態にあり、
等価形態にある。
                     リンネル=上着 という質的関係
また、x 量の商品Aの価値は、x量の商品  「x量の商品Aと交換可能なものとしてのy量の
Aと交換可能なものとしてのy量の商品Bに  商品B」ーーでは、相対的価値形態の分析には
よって表現されており、x量の商品Aは相   入っておらず、商品が交換可能性を受け取る
対的価値形態にある。このとき、x量の商  のは、相対的価値表現によって、価値形態を
品Aの価値は、y量の商品Bとして現れてい  受け取る、この価値関係の質的側面ーーの分
る。                   析をこそ、という意識性が無いのです。

x量の商品Aの価値は、いうまでもなく、
x量の商品A自身のなかに含まれているの
であるが、しかしいまや、y量の商品Bと
しても存在しているのである。

 貨幣の本質あるいは第一機能をあきら
かにするうえで重要な点は、x量の商品A
がx量の商品A 自身をy量の商品Bに等置
することによって、いいかえるならば、
x量の商品A自身をy量の商品 Bと交換可
能なものにすることをx量の商品A自身に
対して直接におこなうことによって、
 「x量の商品A=y量の商品B または
  x量の商品Aはy量の商品Bに値する」
という価値表現がおこなわれるのではな
くて、反対に、y量の商品Bをx量の商品
A自身に等置し、x量の商品A自身と交換   交換可能性の形態は、
可能なものにすることによって、その価   上着を価値としてリンネルに等しい
値表現が行われるということである(1)。   ーーことでなされ、価値表現できる
                     (ここでの転倒に注意!)
 x量の商品Aが、y量の商品Bをx量の商   等価形態としての価値ですから、
品A自身に等置しそれと交換可能なもの   直接的交換可能性の形態であって、初版なら
にすることによって、「x量の商品Aはy   ば「価値上着」ですが、再版では、自然的形
量の商品Bに値する」という価値表現を   態のままに価値形態であり、「上着を価値」
おこなうとき、この価値表現の 主体は   ではないのです。
いうまでもなくx量の商品Aである。しか
                     <上着が価値>としてリンネルに等置されるこ
                     とで相対的価値形態の形成に向かいます。
                     こちらが、左極での、上着だけの行いではな
                     くリンネルの行い・もーーなのです。
し、この価値表現関係ないし交換関係の
なかで、この交換関係が成立するかどう   だから「交換可能性の形態は、」右極ではな
かを決定するのは、反対に、x量の商品A   く左極での相対的価値形態の形成での形態
ではなくて(それと交換 可能な状態にあ   なのです。
る)y量の商品Bであり、この意味におい   「交換可能性の形態」と
て、この価値表現関係・交換関係のなか   「直接的交換可能性の形態」とが混同
で主体として振る舞うことができるのは   されています。
x量の商品Aではなくてy量の商品Bであ   『再版』では、「a相対的価値形態の内実」
る。                   七段落にて、「上着が価値」(原P66)と主
                     張されています。
ある商品、たとえばx量の商品Aがその
価値を表現するとき、その商品自身、こ   この価値表現関係・交換関係のなか
の場合商品A自身の一定量を等価形態に   で主体として振る舞うことができるのは
置くことはできない。x量の商品Aがx量   y量の商品Bである
の商品Aを自分自身に等置する、 すなわ  「x量の商品Aがその価値を表現するとき、」
ち、「x量の商品A=x量の商品A」とする   ーーこれは量的関係ーーです。
ことはできるのであるが、しかし、これ
は価値表現ではない。これが意味するこ
とは、x量の商品Aは特定種類の特定量の
使用価値であるということである。
したがって、この式の右辺にあるx量の商
品Aは等価形態にあるのではない。

 簡単な価値形態の考察においては、貨   <簡単な価値形態の考察においては、>
幣が存在しておらず物々交換がおこなわ   「第三節 価値形態または交換価値」の冒頭、
れていることを想定しているとするなら   「商品は・・現物形態と価値形態」(原P62)
ば、xの商品Aのy量の商品Bによる価値    をもつかぎりでのみ「商品という形態をも
表現は、x量の商品Aとy量の商品Bとが実   つ」ーーとは「四 単純な価値形態」のこと
際に交換される場合を想定しているとい    ですから、その成立がこう示された。
うこともできる。この場合、この交換関   「一 価値表現の両極
係のなかでは、x量の商品Aのy量の商品B       相対的価値形態と等価形態」
による価値表現だけではなくて、反対に   「二 相対的価値形態
y量の商品Bのx量の商品Aによる価値表現      a 相対的価値形態の内実」
もおこなわれている。しかし、この2つの     「b相対的価値形態の量的規定性」
価値表現はまったく別のも         「三 等価形態」
2                      ーーと経過が示されています。そして、
                     「四 単純な価値形態の全体」
のである。x量の商品Aとy量の商品Bとの   ーーが示されることで、冒頭での設問
交換という1つの交換のなかで、2つのま    への回答が示されています。
ったく別の価値表現が行われているので
ある。                   初版での量的規定性の説明は、
 交換はいうまでもなく相互的なもので    価値形態の秘密を解く前に展開されたが、
あるのだから、x量の商品Aがy量の商品B   『再版』では、価値形態の秘密を解いた後
と交換されるならば、y量の商品Bもまた    です。
x量の商品Aと交換される。x量の商品Aか?
y量の商品Bと交換され るということは
y量の商品Bがx量の商品Aと交換されると
いうことをいわばその中に含んでいる。
そこでこのことから、「x量の商品Aはy
量の商品Bに値する」という価値表現も
また
「y量の商品Bはx量の商品Aに値する」    「等価形態にたつ商品を自らに等置する」?
という反対の価値表現をそのなかに含ん   上着はリンネルに対して等価物の役立ちを、
でいるかにも見える。また         左極とは異なって、相対的にではなく直接的
「x量の商品Aはy量の商品Bに値する」    に行います。等価形態とは?
という価値表現のなかにおいて、相対的    次のことが有って、起こることです。
価値形態にたつx量の商品Aと等価形態に   「ある一つの商品、たとえばリンネルの相対
たつy量の商品Bを入れ替えることには何   的価値形態は、リンネルの価値存在を、・・
らの問題もないかに見える。        たとえば上着に等しいものとして表現するの
                     だから、・・」(原P71)ーーと価値形態は
                     すでに示されていますーー
 しかし、価値表現においては、相対的
価値形態にたつ商品が、等価形態にたつ   <リンネルの相対的価値形態で、その価値存
商品を自らに等置することによって価値   在が示されているから、すでに価値表現はな
表現を行うのて?あって、このとき、相対   されているのて?あって、等価形態での上着
的価値形態にたつ商品は価値表現におけ   のそこでの役立ちは何か?
る主体であるのにたいして、等価形態に   <上着は直接的に価値形態であるゆえに、
たつ商品は単なる客体にしかすぎないの   リンネルに対して直接的交換可能性を示して
だから、「x量の商品A=y量の商品B」と   いるのです。>左極と右極での上着の役立ち
いう価値表現のなかには          の違いは、まず左極での行いありきなのです
「y量の商品B=x量の商品A」という逆の   このーー
価値表現が含まれているとすることはで   相対的価値形態の形成は、このようにここに
きない。また、1つの価値表現のなかで、   は、触れざる前提事項になっているのです。
相対的価値形態にたつ商品と等価形態に   だから久留間理論は、それが自明な前提なの
たつ商品を入れ替えることはできない。   です。
この意味において、相対的価値形態と等
価形態は「対立的」な関係にある。

 x量の商品Aの価値がy量の商品Bを材料   x量の商品Aの価値がy量の商品Bを材料
として表現されているとき、この価値表   として表現されーーるならば、
現はどのように行われているのかを、さ   それは単なる量的な相対的価値表現であって
らにくわしく見てみよう。         価値関係の質的側面を示さない、のです。

                      x量の商品Aの価値は、y量の商品Bに値する
 x量の商品Aがy量の商品Bを自らに等置   なのです。量的側面です。
して価値表現をおこなうとき、y量の商品
Bがx量の商品Aに等置されるのは、y量の
商品Bがx量の商品Aに同等のものである
からである。そして、y量の商品Bがx量の   y量の商品Bがx量の商品Aに同等ーーなのは
商品Aに同等のものであるのは、使用価値   価値としてである
としてではなくて、価値としてである。

したがって、この価値表現のなかで、y量   この価値表現のなかで、
の商品Bは価値として、すなわち他の商品   y量の商品Bは価値として、
と交換可能なものとして存在している。    他の商品と交換可能なものとして存在
そして、さらにこのとき、この価値表現
関係のなかで、x量の商品Aにとって価値   <等価形態にたつ商品がもつことになる
すなわち他の商品と交換可能であるとい   この性質は、y量の商品Bとして存在>でなく
う性質はy量の商品Bとして存在している。  左極にて上着は価値であり、価値形態である
                     ことで、上着は価値表現の材料としての役立
 等価形態にたつ商品がもつことになる   つことで、リンネルの相対的価値形態を獲る
この性質は、たとえば、一定量の鉄の重   こんどは右極で、上着は価値に対し価値上着
量を、天秤と分銅 ──一定量の銅を用い   であり、自然的形態のままに価値形態を受け
て計測するときに銅がもつことになる性   とることで、等価形態になるーーのです。
質に似ている。この計測関係のなかで、
天秤を釣り合わせる一定量の鉄と一定量
の銅は同等とされるのであるが、この場
合、一定量の鉄と一定量の銅が同等であ
るのは、重量の側面においてである。一
定量の鉄と一定量の銅は、他の側面にお
いてはまったく異なるものであるのだが
重量の側面においては同等なものである。
そして、この計測関係のなかでは、その
重量が計測されるべき鉄にとって、一定
量の銅はただ重量のみを代表している。
さらに、この関係のなかでは、鉄にとっ
て重量は一定量の銅の姿をとって現れて
いる。

 これと同様に、x量の商品Aの価値のy   <x量の商品Aの価値の
量の商品Bによる表現のなかでは、x量の       y量の商品Bによる表現>であれば、
商品Aにとって、他の商品との交換可能    y量の商品Bを生産する労働が
性すなわち価値はy量の商品Bの姿をとっ   x量の商品Aを生産する労働にーー等置不能
て存在しているのである。         この量的関係では、リンネル=上着 の
                     価値関係の質的側面が設定できないのです
x量の商品Aがy量の商品Bを自らに等置    x量の商品A=y量の商品B  ではなく
してその価値を表現しているとき、y量    商品A=商品B リンネル=上着ーーとは?
の商品Bを生産する労働もまたx量の商    人間の判断ではなく、物象の判断です。
品A生産する労働に等置されている。     <上着は価値としてリンネルに等しい>
                     しかし、再版では、その前に、
商品Bを生産する労働が、商品 Aを生産   価値物上着がリンネルに等置ーーであって、
する労働に等置されるのは、商品Bを生   五段落では、裁縫労働は人間労働に還元され、
産する労働が商品Aを生産する労働と同   それならリンネル織りは抽象的人間労働だと
等であるからである。そして、商品Bを   みなされているのです。
生産する労働が商品Aを生産する労働と
同等であるのは、具体的有用労働として   物象の判断が準備されるも未成立ーーです。
ではなくて抽象的人間労働としてである。  最も肝心なことを、説明していないのです。
したがって、この価値表現関係のなかは、
商品Aを生産する労働にとって、商品Bを   商品Bを生産する労働は抽象的人間労働
生産する労働はもっぱら抽象的人間労働   として現れるーーではない。
として現れる。              「内実」五段落では
3                     裁縫労働は「人間労働・・に還元」
                     七段落にて①「上着が価値である」と示され
 そしてさらに、商品Aにとって、抽象的   そこで②抽象的人間労働の凝固とされている
人間労働は商品Bを生産する労働として現   しかし、<現れて>はいない・
れるのである。そしてまた、このことに   そして八段落、リンネルに対する上着の役立
よって、商品Bを生産する労働は、商品A   ちとして③「価値形態」の規定を受け取る。
を生産する労働との「同等性の形態をも   等価形態の第二・第三の特色
つ」のであり、したがってまた、      「裁縫が・・具体的労働が、抽象的人間労働
「私的労働でありながら、しかもなお直   の・・現象形態になる」(原P73)
接に社会的な形態にある労働」であるこ   「私的労働がその反対物の形態すなわち直接
ととなり、                に社会的な形態にある労働になる」(同上)
「それだからこそ、この労働は、他の商
品と直接に交換されうる生産物となって   直接に交換されうる生産物ーーだから
現れる」(2)のである。こうしてこの    等価形態上着であり、価値上着ーーです。
                     しかし、次への注意が必要です。
                     「初版」「等価物という規定は、一商品が
                     価値一般である言を含むだけでなく、一商品
                     がそれの物的な形態で、それの使用価値のま
                     まで、他の商品に対し価値として通用し、」
                     (三段落・今村訳P286)とあるのです。
                     しかし、この等価物上着が価値であるのは、
                     この初版の規定においてのみなのです。
                     再版では、この規定が訂正されています。
                     「・・労働生産物を商品にするのは、ただ、
                     ・・使用物の生産に支出された労働をその物
                     の価値として表すような発展段階だけである
                     。それゆえ、商品の単純な価値形態・・・」
                     (再版 原P76)ーーとあるように、等価物
                     を「価値上着」として表すならば、単純な価
                     値形態をこそ表すことになるのです。

  <こんどは右極で、上着は価値に対し  だから、左提示の論理矛盾、は明白です。
  価値上着であり、自然的形態のままに  左極の「上着は価値」に対し、右極では、
  価値形態を受けとることで、等価形態  「自然的形態のままに価値形態を受けとる」
  になるーーのです。>         ーーのです。
                     ところが、ここには一大転倒が発生します。
                     右極では直接的に価値形態ーーである故に、
                     『初版附録』の等価形態の第四の独自性に主
                     張されたように、
                     ①「それらの共通の価値属性を相互の価値関
                     係の中に置く」、
                     ②「われわれの交易の内部では・人間労働の
                     同等性は労働生産物の価値属性として現れ」
                     ーーそのことで、
                     「物が等価形態をもつことは、・・物の社会
                     的な自然属性」のように見える、のです。
                     このーー
                     「自然的形態のままに価値形態を受けとる」
                     ーー価値関係での右極・等価形態の独自性は

                     この形態規定の独自性は抹消・意識外となり
                     商品形態で使用価値と価値形態として受け取
                     る、規定へと転倒してしまうのです。
                     だから、<価値上着>としての規定は、この
                     簡単な価値形態で受け取るーー使用価値と価
                     値形態での、直接的な「価値形態」のことを
                     こそ指しているのです。


                     このような再検討の上でならばーー
価値表現関係のなかでは、商品Aにとって  「裁縫が・・具体的労働が、抽象的人間労働
商品Bはその姿のままで抽象的人間労働の   の・・現象形態になる」(原P73)
凝固物であり、その姿のままで価値を表   「私的労働がその反対物の形態すなわち直接
すものとして現れることとなる。そして、  に社会的な形態にある労働になる」(同上)
商品Aは、そのようなものとしての商品B   ーーとなるのは自明です。
によってその価値を表現するのである。   しかし、等価形態上着は、リンネルの直接的
(2)K.Marx、Das Kapital、         価値形態とはなっても、それでは、単に、
I、S.73、邦訳1(大月版)79頁。       相対的価値形態の対極姿態である等価形態の
                     姿態を示すことで、商品形態での価値形態の
                     成立の前提ーーを表現したのみなのです。
                     だから、等価形態上着、商品Bの姿は、その
                     実物形態のままで、価値を現すことで、リン
                     ネルの価値表現ができないのです。
                     価値表現できるのは、上着が相対的価値形態
                     の形成に向けて、リンネルからも価値形態の
                     冠を付与される、物象の相互の役立ちーー
                     があって・・のことにおいてなのです。
                     この物象の関係・の登場を無視!!!
                     この久留間理論の正体・を見出せなかった。



                   <この著者にとっては、未だ本文ではないのです。
                  もうすこし、そこを追求して、また書いてみます。>



 

<大阪労働学校アソシエ>での、一労働者の学び その二

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 4月23日(日)03時48分20秒
返信・引用 編集済
  <大阪労働学校アソシエ>での、一労働者の学び
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 大阪労働学校アソシエ
 学長通信(第13号)
 2017年3月16日学長通信

 3 学生レポート
 学生C
 2017年2月14日
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」の講義で学んだこと(講義ノート)、
感じたこと、考えたこと」

目次
1,学んだこと(講義ノート)
 (1)まずはマルクス経済学を批判的に読む
 (2)経済学は人々の生活や将来に影響をあたえる
 (3)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その1 ケインズの主張)
 (4)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その2 フリードマンの主張)
 (5)ショックドクトリン的手法(その1 ラテンアメリカでの実験)
 (6)ショックドクトリン的手法(その2 日本におけるショックドクトリン)
 (7)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その1 国際金本位制)
 (8)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その2 再建金本位制)
 (9)アメリカ発の世界金融危機の内実(その1 アメリカの回転ドア人脈)
 (10)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 サブプライムショックの仕組み)
 (11)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 恐慌の仕掛け人)
 (12)トランプ米大統領誕生の本質(その1 トランプ大統領誕生の歴史的背景)
 (13)トランプ米大統領誕生の本質(その2 パックスアメリカーナの終焉)
 (14)トランプ米大統領誕生の本質(その3 エスタブリッシュメント対非エスタブリッシュメント)
 (15)トランプ米大統領誕生の本質(その4 東アジアの行く末)
 (16)トランプ大米統領誕生の本質(その5 米中関係の行く末)
 (17)ユーロ危機の本質(その1 ソブリン危機に至る背景)
 (18)ユーロ危機の本質(その2 ギリシア危機の真相)
 (19)右傾化する欧州の行く末
 (20)アジア通貨危機など恐慌の真相
 (21)日本のバブル景気(その1 バブル崩壊の背景)
 (22)日本のバブル景気(その2 狙われた日本の銀行)
2,感じたこと
3,考えたこと?

2,感じたこと
(1)経済理論については、何か一つの学説や通説をもってすべての社会や経済を説明し語るなどということは叶わない。そう感じた。なぜならそれぞれの理論にはそれを提唱したそれぞれの人が生きた時代状況、立場、価値観、視点などが大きく関係しているからでる。
 例えばアダム・スミスには、アダム・スミスの生きた境遇や環境、時代、社会がある。重商主義的政策により金の蓄積することが国富であるとの風潮が色濃く残る大英帝国に生まれ、まさに産業革命がいま始まり漸進的派展を遂げていくという中で「本当の富とは何か」という視点を追求し自身の経済理論をつくりあげたのであった。
 マルクスにおいては資本主義が成長する過程、つまり西欧においても未だ資本主義が成熟していない状態の中、封建的風潮が色濃く残るプロセイン王国に生まれ、産業革命と資本主義革命の風が巻き起こる西欧に生き、多くの人々が搾取と貧困に喘ぎ、かつ自身も弾圧によってドイツ、フランス、イギリスなどを転々せざるを得ないという状況の中で、生産現場に焦点をあてて経済理論をつくり発展させたのである。
 ケインズは大英帝国が没落する中、二度の大戦を経験し、大恐慌の嵐が吹き荒れる中で自身の経済理論をつくりあげた。フリードマンにはフリードマンの、ピケティにはピケティのそれがあるのである。だからそれぞれの理論においては違いや齟齬、ズレなどがあって当たり前なのである。
 これからは、拠り所とするような自明な理論などは持たず、学ぶべき経済理論については、その理論そのものだけではなく、俯瞰的視点をもちその理論が提唱された時代や背景事情などについても理解を深めていきたい。

(2)この世の中の在り方は経済によって左右されている。そう痛感した。
 18世紀までの封建社会までは、誰が支配者で、誰が被支配者なのかはっきりしていた。しかし、18世紀の市民革命を経て成立、発展した近代民主主義の世の中では、それが見えにくくなってしまった。
 現代民主主義においては、立憲主義や議院内閣制のもと個人の権利・自由の保障がうたわれ、いかにも市民社会が成立しているような様相が整っている。しかし、その内実については、いまだ19世紀の国際金本位制における支配構造が継続しているように思える。つまりケインズのいう投資家階級、企業家階級、労働者階級による階級社会にあり、いまだに投資家階級による支配が続いているように感じる。それをいま風にいうとエスタブリッシュメントによる支配である。
 19世紀においては、国際金本位制が安定し機能する中で、イギリス、シティの投資家階級が利潤・利子・配当金など不労所得を求め、挙ってインドなど植民地やアメリカ、アルゼンチンなど発展途上への資本輸出に興じていた。その利潤を生みだし、可能とする社会体制を確たるものにしていたのが覇権や脅迫、欺瞞、偽り、つまり帝国主義や国際金本位制だったと考える。
 現在においてもその支配の構図は変わっていない。国際社会体制やエスタブリッシュメントの顔ぶれ、そして搾取のやり方、覇権のあり方、脅迫、欺瞞、偽りの仕方などが変貌しているだけである。要は、その連中は金融で儲けている。というか金融でこの世の中を食いものにしているのである。それがもとで被支配者側の人々、すなわち労働者は、連中の金儲けによって引き起こされる景気の浮揚、後退、恐慌、戦争、政変、格差、貧困などアクシデントに都度、苛まれてきたのである。
 それを例えると18世紀までは「封建権力の物語」であり、18世紀以降において「金融権力の物語」が始まり紆余曲折(一次大戦まで、戦間期、二次大戦後から70代まで、70年代以降)を経ながらも、現在もなおその物語が続いているのである。
 それを本講義で国際金本位制の仕組みや世界金融恐慌などバブル景気の背景、ショックドクトリン的手法の実態や全容などを学ぶ中で痛感させられた。

(3)これからはマルクス経済学も批判的に読んでいこうと思っている。というよりも「これは正しい」とのお墨付きがあるものに対しては特にそうしていこうと思う。
 また、いままで語られてきた「マルクス、レーニン主義」がどういうものであったか、その本質を理解する必要があると感じた。そのためにアイザック ドイッチャーの「トロツキー伝三部作」を読んでみようと思う。

(4)10月17日の第3講の中での「マルクス経済学の剰余価値論の元になっているのは労働価値説であり、商品の交換価値の説明にはならない」との説明については、よく理解できなかった。
 現在においても資本論についてはまともに読めておらず、もって交換価値や使用価値について理解が浅い面がる。ついては、「経済学批判」や「資本論」「賃金労働と資本」、「平和の経済的帰結」「雇用、利子および貨幣の一般理論」などの解説本、そして先生の「貿易・貨幣・権力―国際経済学批判」(既に購入済み)などを読んで自分なりに考えてみたいと思う。

3,考えたこと
(1)これからの自分の研究テーマは「貨幣」と「金融」に絞ろうと考えている。まずは一番根源である貨幣、つまりお金というものを考えていきたい。
 現在、JPモルガン新興市場部門ヴァイス・プレジデントという立場で世界金融危機などを体験したカビール・セガール氏が書いた「貨幣の『新』世界史」という本を読んでいる最中である。この本は、経済史、生物学、心理学、脳科学、人類学、宗教、芸術などあらゆる分野にわたる最近の研究を駆使して貨幣について語るものである。
 この本を読みながら、そもそも交換の道具であったお金がなぜ人々を貨幣蓄蔵の衝動に駆りたてるのか。そして、そもそもお金はどのようにして生まれ、どのように成長を遂げてきたのか。これからどう発展していくのか、などを想像している。
 それを解き明かし、理解するためのカギは、(進化の過程で行ってきた生物の交換行為なども含んだ広義な視点からみた)「交換」というものの理解と人間の表象的思考やホモエコノミクスに影響を与えてきた「側坐核」の発達過程やそのはたらきの理解などだと考える。とりあえず、貨幣や金融などに関する書籍などを読みあさろうと思う。
(2)そのうえで銀行家「ヒャルマル・シャハト」について研究していきたい。
 現在までに評論家の武田智弘氏が書いた『ヒトラーの経済政策』、『マネー戦争としての第二次世界大戦』などの書籍を読み、シャハトの「国際経済に一人勝ちはない」(ケインズも一方的な黒字貿易を「近隣窮乏政策」であるとして批判している)、「経済政策とは理念でなく、現実である」という言葉に感動をおぼえ、また、シャハトのレンテンマルク発行による事実上のデノミ政策、労働手形の発行による財政政策、特別マルクを発行し貿易量を拡大させた「ニュープラン」、物々交換による貿易圏の確立、拡大など数々の華々しい施策について感銘をうけた。
 しかし、シャハトがそれら政策を行い成功させたという事実は書かれてるものの、なぜ成功したのか、その具体的な事由や理屈などについては書かれてはいなかった。
 本来、経済というものは「經世濟民」するためのものである。シャハトの思考や数々の神がかり的な施策はそれを追求したものであり、それを理解することで、經世濟民を叶える経済はどういったものなのかがみえてくるような気がする。そのためにもシャハトについての研究をしていきたいと考える。
以 上

 

<大阪労働学校アソシエ>での、一労働者の学び

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 4月23日(日)03時16分42秒
返信・引用 編集済
    次に紹介するのは、<大阪労働学校アソシエ>に在学する生徒の主体的研究であります。
 このような学びができる労働学校は、なんて素晴らしい!この学びを支えた理論が、田淵先生の次の著書です。
  田淵太一著『貿易・貨幣・権力-国際経済学批判-』
 私は、しかし、マルクスの剰余価値論を支えたのは、商品・貨幣・資本の学説であるばかりではなく、
プルードン批判としての<利子生み資本>への批判としての、架空資本への批判であったと考えます。
資本論冒頭で語られる商品論ーー価値形態論は、たんに剰余価値論の基礎にあるものではなく、資本論三巻
の基礎にあるものと考えます。生徒さんの主張には、今問題になるこの架空資本への批判へのマルクスの説
への論究がない。
 しかし、<学生C>さんの学びは、ほんとに素晴らしい!拍手を何度してもたりない!拍手!

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 大阪労働学校アソシエ 学長通信(第13号) 2017年3月16日学長通信
 3 学生レポート  学生C  2017年2月14日
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」の講義で学んだこと(講義ノート)、
感じたこと、考えたこと」

1,学んだこと(講義ノート)
(1)まずはマルクス経済学を批判的に読む
 経済学は新古典派経済学だけにあらず、また、新古典派経済学に対置する経済学もマルクス経済学だけでない。経済学は多様であることを学んだ。
 保守派の経済学はどこが間違っているのか。縮めていえば経済学批判である。
左派の多くは、経済学ないし経済学批判についてはマルクスの専売特許であり、マルクスを学ぶことだと主張する。それは教条的教えである。まずそこを疑わなければならない。
 剰余価値論は正しい。数学的に証明できる。しかし、そのままでは活かすことができない。なぜならマルクス経済学での剰余価値論の元になっているのは労働価値説だからだ。労働価値説は交換の理論としては成り立たないる。つまり商品の交換価値の説明にはならないのである。どうしても労働で量ったときの価値と価格はずれてしまうである。平均値にもならない。よって経済学の説明にはならないのである。搾取は説明できるが、交換が説明できないのである。
 資本主義の全体系を解き明かすには搾取の仕組みだけでは足りず、交換についても説明しなければならない。現在においては色々なテクニックがあり、主流派経済学によらなくても交換の説明が可能である。だから経済学批判をたて直すことができるのであって、またそれが必要なのである。
 しかし、運動の世界のみならず学者の世界においても、それを批判的に読み直す精神が弱まってしまっている。経済学批判をするときは、マルクスから出発するということを自明の前提にしないことが肝要であり、それがこの講座の目的でもある。
 マルクスは社会心理を射程に入れていなかった。そして貨幣の理解も足らず、マルクス経済学をもとにして貨幣、金融を理解しようとしても理屈が足らないのである。なぜなら生産現場のみで考えた価値論だからである。
 マルクスが資本論を書いていた頃は、これから国際金本位制が成立しようとしていた時期であった。国際金本位制の成立は1870年代以降であり、資本論は1867年である。だから貨幣、金融から見た資本主義をとらえ損ねている面がある。マルクスの言葉で現在の経済は語れない。抽象的には語れるが、データは示せない。なぜならマルクスの時代と現代とでは状況がまったく違うからである。
 「マルクス、レーニン主義」はスターリンがつくったものである。スターリンが、自分が正当な後継者であるということを装うためにつくったようなものである。だから中身はスターリニズムである。そして批判すべきはスターリンの個人批判だけでは足りない。スターリンはマルクス主義が生みだした負の遺産であると総括しなくしてはならず、それなしにマルクス主義は受け入れてもらえないのである。ソビエトはマルクス、レーニンを錦の御旗にしてきたのであり、もって社会主義、共産主義を受け入れるということはソビエトに加担し協力するものと解釈されているからである。
 毛沢東はフルシチョフのスターリン批判(個人崇拝批判)を批判した。自分にとって都合が悪かったからである。その後、中ソ論争がおこり、国境紛争へと発展していった。毛沢東も批判され、断罪されなければならない存在である。
社会主義が、資本主義を打倒できなかったのは、スターリン主義に変質させられた結果である。社会主義、共産主義は信用されていないのである。
(2)経済学は人々の生活や将来に影響をあたえる
二つ目には、経済学は他の学問と違い社会に与える影響が大きいこと。人々の生活や将来に対し大きく影響を与えることなどであることを痛感した。
 例えば戦後から1970年代ごろにかけて、世界の多くの国々おいては(ケインズの本意を汲んだものであったかという点は別として)財政政策などをもって有効需要を増大させ完全雇用をめざすという経済政策がとられていた。この政策の要は大量生産、大量消費による好循環を生み出すことにある。そのため労働者に対する一定の配慮、つまり、労働組合の容認、最低賃金制度及び社会保障政策等の福祉政策拡充など労働者に対する一定の政策的配慮などもあわせて行われてきており、先進国の多くにおいては、福祉政策が充実し、分厚い中流層が存在するという状況となっていった。このような発展様式を「フォーディズム的発展様式」という。
 しかし、1973年にチリでピノチェト(ピノシェ)政権が樹立して以降、世界的にミルトンフリードマンなどが主唱するマネタリズムの発言力が強まり、イギリス、アメリカ、日本などの先進国の多くで新自由主義的な経済政策がとられるようになっていった。
 この新自由主義的な政策転換が世界的に広まったことによって、世界的に不安定雇用の労働者や賃金の低廉な労働者が増大し、また、世界各国間、あるいは各国国内においても所得や貧富などの格差が拡大していったのであった。
事実、日本の(生鮮食料品や原油・エネルギー等の価格変動の激しいものやディスカウト店のPOSデータ等は除外されており不正確さは否めないが)消費者物価指数、いわゆるCPIを見る限りにおいては、1970年代頃から物価が右肩下がりに下がり続けるというデフレ状態に陥っている。これは単位労働コストが下がり続けていることを意味する。つまり1970年代頃から労使の力関係が資本側の方へと傾きだし、労働者の賃金が抑制される傾向になっていることを示すものである。すなわち階級闘争において労働者側が後退局面にある、そういうことを物語っているのである。
(3)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その1 ケインズの主張)
 三つ目には、ケインズとフリードマンそれぞれが提唱した経済理論の違い学んだ。
ケインズの経済理論は、大きな政府を志向するもの、つまり雇用を重視し、政府が積極的に財政政策を発動することで有効需要を増大させて完全雇用及び物価の安定をはかるものである。また、労使間の力関係を単位労働コスト(能率賃金)という概念をもって意識し、物価変動などを説明するものでる。
 そしてケインズは、古典派経済学の雇用決定論を『一般理論』において「雇用の特殊理論」と呼び批判したのであった。
 古典派経済学は、労働市場の価格メカニズムによって常に労働需給均衡が達成されると主張する(セイの法則)。つまり、失業というものはあったとしても「自発的失業」(自ら働かないことを選択する失業)、あるいは「摩擦的失業」(転職や自己都合による一時的な失業)など労働者の自発的なものであって労働市場のメカニズムから生じたものではないとし、それを(実質賃金率をy軸、労働需要量をx軸にした場合)右肩に下がる労働需要曲線と、(実質賃金率をy軸、労働供給量をx軸とした場合)右肩に上がる労働供給曲線などの関数グラフをもって説明した。両曲線が交差した点が古典派経済学のしめすところの完全雇用である。
 それに対しケインズは、失業というものを自発的失業や摩擦的失業のほかに「非自発的失業」(現行賃金の水準で働くことを望む労働者が、就職機会がなく失業にある状態)の存在を定義した。そして、それを供給関数と需要関数の関数グラフにおいて、需要曲線の存在は認めつつ、労働供給曲線については独自の理論を展開したのであった。それは、労働者は実質賃金率に応じて労働供給量を変えたりはしない。つまり労働者は(生活がかかっているので)一定の現行賃金をもらえさえすれば真面目に働き、さらなる賃下げに対しては断固として闘うものである。よって企業においては不況時でもさらなる賃下げができず、もちろん賃上げもしないというものである。この理屈を曲線で示すと不完全雇用時の労働供給曲線は右水平に動き、完全雇用に達したところから垂直に上昇するというものである。そして需要曲線と供給曲線が交わった点から完全雇用に達した点、つまり労働供給曲線が垂直上昇する点までの間における失業が非自発的失業にあたると説明したのであった。
 なお、ケインズの発見については、一般的に有効需要の原理のもと雇用量の拡大かつ生産量引き上げ策としての公共投資の有効性を主張する部分のみが取り沙汰されることが多い。しかし、ケインズはそれだけでなく、国内物価水準の安定を維持するための方策として、通貨と信用の供給を調整する方法、いわゆる「管理通貨制度」なども提唱しており、財政政策などによって有効需要を積極的に喚起するだけでなく、管理通貨制度なども駆使し、その時々の社会情勢や経済状況の変化に応じて臨機応変かつ柔軟に対応し、経済の安定をはかることを提唱していたのであった。
(4)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その2 フリードマンの主張)
フリードマンはマネタリズムを主唱する経済学者である。マネタリズム、いわゆる「貨幣数量説」については、マネーサプライコントロールによって物価を調節することをめざすものである。また、フリードマンはリバタリアン、いわゆる自由至上主義の旗手でもあり、アダム・スミス以来の自由放任の考え方を信奉する人物でもあった。
 しかし、(お金の量を減らせばインフレの抑制になるのは事実ではあるが)貨幣数量説については、現実にそぐわない面があることは否めない。なぜなら中央銀行ができるのはマネーサプライ、マネタリーベースまでの関わりであり、核心部分のマネーストックをコントロールすることは叶わない。なぜなら、それについては銀行が貸し出しを行うか、あるいは渋るかによって決まるからである。1990年代の日本においては、日銀の量的緩和政策によってもたらされた過剰資金の多くは実体経済には向かわず、株式や不動産などへの投資(投機)にまわされ大規模なバブルを引き起こしてしまったことは記憶に新しいところである。
 このフリードマンという人物であるが、経済学者ではあるもののその活動については政治的な意図を強く感じる。なぜならフリードマン自身が、マネタリズムはレトリックであるといい、貨幣数量説ではマネーストックにコントロールが及ばないことを暗に認めているふしがあるからである。
 また、フリードマン的マネタリズムの内実は、マネーコンサプライトロールによる(投資家の心理に働きかけるという)金融市場操作であり、それによって恐慌という経済的暴力を生じさせる手段、つまりフリードマン的にいうとショックセラピー、いわゆる人々に不人気な政策を実施するための暴力的手段という政治的な側面の方が強いように感じられるからである。
(5)ショックドクトリン的手法(その1 ラテンアメリカでの実験)
 四つ目にはショックドクトリンの手法、つまりミルトンフリードマンが主唱するマネタリズムやネオリベラリズムなどが「ショック」とう暴力をもって政治経済体制を一変させる手法を具体的に学んだ。
 フリードマンたちはこの手法を「ショックセラピー」といい、これはCIAの尋問マニュアル(ショックによって人格を変え供述をとったりするための手法)を個人心理にではなく、社会心理に対し効果を生むよう発展させた手法である。その趣旨は、国民に不人気な政策をショック(大きな天災、社会変動等)を起こし(または生じたときに)、人々が茫然自失しているうちに実行してしまうというものである。
 まず、手始めとしては1970年代初頭にチリが狙われた。当時チリでは世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権が生まれた。それがアジェンデ政権である。ラテンアメリカにおける社会主義の力拡大を懸念したアメリカは危機感を募らせ、CIAを使って反アジェンデ派が多い軍部に働きかけてクーデターを起こさせたのである。それによってアジェンデ大統領は自殺に追い込まれ、凶暴な軍政のピノシェ政権が成立したのである。
 ピノシェ政権は、公営企業の民営化、社会保障の民営化、外国資本導入の促進など新自由主義的な政策を暴力的に推し進めた。チリ版構造改革を展開したのである。この民営化と外国資本の導入は一時的な活況を見せ、「チリの奇跡」と称され、長らくラテンアメリカのモデルとされてきた。その具体的手法は、軍人を囲い込み、政権を握らせ新自由主義的な経済政策を実行させて、もって米系企業に権益を独占支配させるというものである。また、債務問題につけ入り、IMFなどに介入させて経済を徹底管理するものである。この手法による新自由主義的な政策転換がラテンアメリカの国々ですすめられ、以後、ラテンアメリカ諸国においては深刻な貧困問題から抜け出せない状態に陥っていくのである。
 このチリの政変以降、シカゴ学派の若い学者たち(シカゴ・ボーイズ)の新自由主義的な政策による経済再建成功が世界的に脚光を浴び、1980年代のイギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権、日本の中曽根内閣などの先進諸国などにおける各国政府の経済政策に対し大きな影響を及ぼすこととなった。いずれの国においても「小さな政府」を掲げ公営企業の分割民営化、規制緩和などが大々的に行われていたのであった。
 それが21世紀に入り一変する。ショックドクトリンにより新自由主義政策の実験場となったラテンアメリカ諸国において、過酷な収奪に曝された民衆の怒りが爆発し、ベネズエラなどでは反米左派のチャベス政権が誕生し自国の石油利権を国有化して、その石油利権で得た資金を格差解消や貧困層支援にまわすこという政策を断行したのである。その後、ベネズエラは隣国キューバやボリビアなどと連携し反米体制を築いていった。
 しかし現在、ラテンアメリカでは逆転現象が起きている。ベネズエラなどではチャベス大統領が不自然な死をとげ、当面、強硬な左派政権ができる見込みがなくなった。また、キューバなどはアメリカと和解をし、ブラジルにおいては左翼政権が汚職で転覆しかかる状態にある。いまラテンアメリカにおいてアメリカの方向へのゆり戻し現象が起きている状態にある。反米気運が停滞する見通しとなっている。
 しかし、一時期、ラテンアメリカは反米一色に染まっていたのである。
そしてショックドクトリンの一番の例がソビエト連邦、東欧諸国である。ソビエトが崩壊し東欧諸国が挙って西側になだれ込んだときにもアメリカ人を中心とした経済学者などがショックセラピーという言葉を使い社会主義経済を一気に資本主義へと転換させるため暗躍していた。ソビエトなどでは、ソビエト崩壊に乗じてKGBをはじめとする官僚機構やマフィヤなどが国有企業や国有資産を私物化した。これにはアメリカ、イギリスの後ろ盾があったと囁かれている。特にエリツィン政権時代の急進的経済改革で最悪な状態に陥っていった。現在のプーチン政権が成立して以降、規律が回復し、新興財閥や寡頭資本家、いわゆるオリガルヒに私物化された石油利権などが次々と国有化されていっているのである。
(6)ショックドクトリン的手法(その2 日本におけるショックドクトリン)
 日本におけるショックドクトリンのはしりは中曽根内閣による国鉄分割民営化、国労つぶしであった。電通をはじめとするマスコミ各社はこぞって国鉄の累積赤字を批判し、そのうえで国鉄職員の横柄な接客態度、勤務時間中の入浴や昼寝など緩みきった職場規律、ブルートレイン検査係の添乗手当を「ヤミ手当」ボ-ナス日の早退などを「ヤミ休暇」、病欠などを「ポカ休」、合理化による雑業務の従事を「ブラ勤」などといい、マスコミを挙げて国鉄批判キャンペーンをおこなったのであった。要は過剰雇用や莫大な累積赤字などが攻撃の的、ショックドクトリンを引き起こすきっかけにされたのである。
 しかし、そもそも国鉄は過剰雇用だった。それは敗戦後の膨大な復員者(軍関係300万、民間300万)の雇用の受け皿になったためである。20万人もの復員者を雇用し、戦後の物流を一手に担い復興の柱となっていたのである。わかった上で過剰雇用にしていたのである。また、累積赤字については国鉄が所有する膨大な不動産資産の売却で返済することは可能であった。
 つまりこの国鉄批判キャンペーンは虚構のものであり、まさにショックドクトリンによって国民を誘導するための欺瞞工作であった。中曽根首相のブレーンたちは、国労の分割・民営化反対ストに対し自衛隊出動まで検討していたほどであった。仮にスト現場に自衛隊が配置されていたならば、そのショックの与える効果は計り知れないものであったと思われる。
 その真の狙いは国労解体であり労働組合弱体化であった。このショックドクトリン的手法による国鉄批判キャンペーンで、資本側はまんまと国鉄の分割民営化、最盛期57万の「最強の労組」国労を衰退させたのである。これに呼応するように財界においても日本的経営をかなぐり捨てて、正社員は幹部候補生のみ、あとは使い捨ての非正規労働者というあらたな雇用慣行を打ち立ていったのである。
 2005年11月20日、NHKのテレビ番組の中で中曽根元首相は「55年体制(自社体制)崩壊は意識的にやったのか」というNHK側の質問 に対し、「意識的にやった」「国労が総評の中心だった。いずれこれを(国労を)崩壊させなきゃいけない。民 営化で、国労が崩壊し、総評が崩壊し、そして社会党が崩壊した。一連でやったこ とで意識的にやった」との後日談を述べている。
 ちなみに国鉄批判キャンペーンの先頭に立った電通の本社ビルなどは汐留貨物駅跡地に建設されている。
また、1990年代のバブル崩壊というショック、つまりそれまで日本人が抱いていた永遠なる経済発展、地価上昇という幻想の崩壊、例えば日経平均などは36000円台を記録ところ(現在は16000円台)、それがいきなり五~六分の一に急落するというバブル崩壊というショックドクトリンで選挙区が小選挙区にかえられ、それによって社会党が消えて、(ネオリベラリズムを唱えるもうひとつの保守の党を標榜する)民主党が誕生し、労働組合組織も総評が解体され連合におきかえられた。これまで日本の労使の力関係においては、戦後長らく拮抗する状態にあったが、この出来事を境に大きく資本側に傾いていくのであった。
 その後においても小泉の「国民に痛みの伴う構造改革なくして成長なし」というキャッチフレーズを旗印におこなわれた規制緩和については、左派までが難なくそれを受け入れてしまうという事態となった。この小泉構造改革の要は規制緩和であり、規制緩和の二本柱は労働・雇用の規制撤廃と金融規制の緩和であった。
 日本においてはいまだショックドクトリンの波が打ち続ける状況にある。
日本のマスコミは年に数回、日本の借金1000兆円を越え、国民ひとりあたりに換算し直すと国民ひとりあたり800万円云々と報道する。これこそ騙しの脅しである。まず、借金が1000兆円あるという部分であるが、それはあくまでも租債務のことを指す。現在、政府の金融資産が500兆円ほどあるので正味の純債務としては500兆円程度ということになる。
 また、日本の借金の多くは政府債務であり、その債務形式についてはほとんどが国債である。さらに国債の残高については700兆円~800兆円というところであり、その多くは日銀、または、ゆうちょなどが所有している。海外向けは1割程度しかない。つまり、ゆうちょや日銀においては国民の預貯金を資金としているものであり、よって、国民は間接的な政府債務の債権者ということになる。決して債務者ではない。この政府債務を国民一人あたりの額に換算し直すという報道が全くもってと騙しであり脅しなのである。このショックドクトリンの狙いは、消費税増税など大多数の国民に不人気な政策を実施することにあることはいうまでもない。
(7)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その1 国際金本位制)
国際金本位制が19世紀に成立してから20世紀初頭の戦間期に中断されるまでのの間における経済の移り変わりなども詳しく学べた。
 いまから100年前にもグローバリゼーションのもとで現代の生活に勝るとも劣らない華々しい幸福な社会生活が営われている時代があった。あくまでも一部の者たちの身の上の出来事という前提ではあるが。「1914 年8月に終わりを迎えたその時代は、人類の経済進歩において何と驚異的な出来事だったことだろう!」、これはケインズの出世作『平和の経済的帰結』の一節であり、1870年から1914年まで続いたイギリスを頂点とする国際金本位制が確立していた時のできごとである。
 金本位制ではインフレ、つまり輸出超過による輸出インフレに対する「自動調節作用」がはたらき貨幣価値(平価)が安定すると目されていた。その仕組みは、輸出超過→金流入→貨幣発行量増→インフレ→物価高(貨幣数量説)→輸出減少という具合にはたらくものであり、要は貿易黒字になっても結果的に物価が高騰することで貿易赤字に転落する。そうなると金が国外に出て行き、国内貨幣量は減少する。それによって国内の所得は減り、かつ物価も下がる。すると為替の関係で輸入が減り輸出が増えるというものである。このはたらきが金本位制の自動調節作用とうたわれているものである。また、自動調節作用は「物価正貨流出入メカニズム」とも呼ばれている。これは学説でいうところの貨幣数量説にもつづくものであり、つまり貨幣量が少ないからデフレがおき、多ければインフレになるという理屈から成り立っているものである。いまでも経済政策に関する学説においては主流となっている。昨今の日本においては日銀・黒田総裁がデフレ克服のためと踏み切った異次元の金融緩和、量的緩和などもこの理論を拠りどころとしたものであった。
 この貨幣数量説は、すでに16世紀ごろから唱えられており、ジョンロックなども貨幣数量説の創始者の一人であった。
しかし、現実には貿易決算において金の移動はほとんどおきていなかった。なぜなら金が移動する前に中央銀行が高金利・信用制限政策、いわゆる「不況化政策」を行い単位労働コストなどを抑え、貨幣を呼び戻していたからである。このように実際には貿易黒字国に対する経済的力学、すなわち金本位制の自動調節作用は何らはたらいておらず、逆に貿易赤字国が一等国の栄誉を保つため、苦肉の策として意図的に不況化政策を行い調整していたのが実態であった。
※「信用制限政策」については、銀行を貸し渋りの方へと誘導するもの理解する。

 金本位制では国内均衡、つまり国内の労働者階級の賃金・雇用・福祉などよりも、外国との約束、つまり為替レート安定や借款の返済といった国家間の約束を重視する国際均衡優先の政策であった。そこには社会を安定させるという政治的意図は微塵もなく、あるのはエリート層の盤石な支配体制の維持、あるはエリート同士の国際的結びつき、一等国としての「栄誉」というものだけであった。
 金本位制の第一条件は、エリート支配の維持、雇用を犠牲にして金利を引き上げられる強権体制の確立である。金本位制の内実は、金本位制の維持よりもそれを実現なしうる体制の確立、維持の方に目的があるものと考える。
(8)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その2 再建金本位制)
19世紀、世界は大英帝国を中心としたピラミッド状の支配体制。軍事力によるパワーバランスで大英帝国を中心に安定していた時代である。まさに大英帝国の黄金時代であった。
 しかし、第一次世界大戦でそれが崩れた。それは大戦を戦いぬくため、イギリスをはじめとする参戦各国においては保有する金以上の紙幣を発行して戦費を確保し、その結果、莫大な借金を抱えてしまっていたからである。
 第一次世界大戦後の1923年、いわゆる戦間期に再度イギリスを中心とした金本位制が復活された時期があった。ケインズは反対したがイングランド銀行の総裁モンタギュー・ノーマンと当時イギリス蔵相であったウィンストン・チャーチルなどが強硬に推し進めたのである。この時期の金本位制を「再建金本位制」という。
 ケインズは、金本位制がうまく機能したのは表面的なものであり、脅しと欺瞞によってつくられた不安定な社会心理に支えられていたと論じ、再建金本位制を強く批判した。また、小冊子『チャーチル氏の経済的帰結』を発刊し、高金利・信用制限政策などを根本的に批判し、金本位制復活に反対していたのである。
 その後まもなく再建金本位制は崩壊。それは1937年のできごとである。再建金本位制は不安定かつ短命だった。なぜならイギリスには以前のようなパックスブリタニカと称されるほどの力がなくなっていたからである。第一世界大戦では、フランスと組んでもドイツには勝てそうになく、アメリカを引き込んでやっと勝利できたという状況であった。また、19世紀末には工業生産高でアメリカに抜かれ、さらに20世紀初頭においてはドイツにも抜かれるという始末であった。そして第一次世界大戦後においては、世界の金融センターはロンドンのシティだけが独占するものではく、フランス・パリ、アメリカ・ニューヨークの三か所となり、もはやイングランド銀行の利上げオペだけでは、イギリスに金は寄らなくなってしまっていたのであった。
 そしてイギリスをはじめとする欧州各国においては民主化がすすみ、普通選挙や婦人参政権などが認められ、労働者の団結権(労組)なども確立し、労働者の政党まで出現する事態となっていた。このような民主化の発展で、金本位制を守る政策(失業の脅しを演出すための金利引き上げ政策)が打てなくなり、政府においては利上げ政策よりも国内の雇用や福祉などの政策を重要視せざるを得なくなったのである。それは金本位制を支えていたエリート支配層が没落したということを意味する。
 国際政治学者のウォルターは、「ある社会階級の者が他の階級の者よりも多く享受し、支配的エリート層が社会の他の集団に経済的不安定性のコストを転嫁できるということ、その面における国家介入の可能性を否定するある種のコンセンサスが存在していたからである」と述べ、民主化すると金本位制は維持できないということを説いたのであった。
 然るにチャーチルなどは、金本位制を復活させるとイギリスが以前のようなパックスブリタニカに戻ると勘違いしていた。つまり、戦前はイギリスに力があったから国際金本位制が実現、維持できたのであって、完全にこの点を取り違うという致命的なミスを犯していたのである。
 それに対しケインズは、時代状況の変化や、あらゆる経済主体がもつポリティカルパワーないしバーゲニングパワーなど力関係を重視し、外国との関係よりも(為替相場などよりも)国内、つまり雇用を重んじることを主張していたのであった。
(9)アメリカ発の世界金融危機の内実(その1 アメリカの回転ドア人脈)
アメリカ発の世界金融危機の内実も学ぶことができた。
アメリカ発の世界金融危機は人為的に引き起こされた恐慌であった。ウォール街の連中は自らを救済するため「100年に一度の危機」と吹聴し騒ぎたてて皆を狼狽させ、まんまと時の政権にGDPの何割という単位の巨額資金を自らの救済のために拠出させたのでる。
 この世界金融危機を「資本主義の必然性」と理解することは早計であり、ウォール街の連中を免罪することにつながる。自分たちに都合のいいようルールを変え、バブルを生じさせそこで大儲けし、それがはじけて(危機で)窮地に立たされると、またもや自分たちの都合でルールをつくり、もって莫大な公金を使い、最終的に自分は勝ち逃げした連中、まさに恐慌を引き起こした張本人たちが「100年に一度の恐慌だ」と皆にすりこんだのである。まさにショックドクトリンであった。
 アメリカの政治と金融はごく少数の人物が動かす状況にある。
例えば、ゴールドマンサックスの共同会長であったロバート・ルービンはクリントン政権時に財務長官に「あま上がり」をし、1999年、「金融サービス近代化法」(グラム・リーチ・ブライリー法)を成立させグラス・スティーガル法を廃止に追い込んだ。金融サービス近代化法とは銀行業、証券業、保険業等の兼営を解禁するものである。そしてルービンは財務長官を務めた後、シティグループの会長となった。彼の年間報酬は約4000万ドルであったといわれている。
 このシティグループは1998年に銀行業のシティコープと保険業のトラベラーズ・グループの合併によって誕生した。その当時においては、グラス・スティーガル法が健在であって同法により銀行業と保険業の兼業については禁じられる状況にあった。グラス・スティーガル法は、1929年に始まった世界大恐慌の時にルーズベルト政権が成立させたものである。恐慌は、銀行が証券業を兼業するから生じたもの。大衆から集めた預金を株などに突っ込み、その結果バブルが生じ恐慌に至ってしまったとの反省からつくられた法律である。
 しかし、シティーグループは同法の抜け穴(2年間の猶予期間に保険部門を売却することを条件に銀行業と保険業との合併を認める)を巧みに使い合併を成し遂げたのであった。その合併の立役者がルービンであったことはいうまでもない。
 そしてオバマ政権においてはルービンの子飼いたちが重要閣僚に就任していた。それがローレンス・サマーズとティモシー・フランツ・ガイトナーである。サマーズはクリントン政権時代、財務長官であったルービンを補佐する立場であり、ルービン辞任後はそのポストを継いだ人物である。ガイトナーはクリントン政権時代、国際担当財務次官としてルービンやサマーズの以下ではたらいた人物である。オバマ政権ではガイトナーが財務長官に就任し、サマーズはNEC(国家経済会議)議長に就任していたのであった。
 このオバマ政権は世界金融危機の尻拭い、つまり危機を引き起こした連中の利益擁護のため成立させたような政権であった。
 まず最初に、米国議会において金融安定化法が可決し、不良資産救済プログラム(TARP)が創設された。これに対して米国政府はGDPの約5%にあたる7000億ドルの公的資金を用意された。このTARPは政府が直接資本注入をする。よって、破たんを回避するため連邦政府の介入の可能性のある制度でもあった。
そして危機が一息つくとウォール街は政府監視のおまけが付くTARPから、FRBによる量的緩和政策(QE)に乗り換えた。このFRBによるQE1~QE3はウォール街の金融機関から国債や紙くず同然となったMBSなどを買いとるプログラムである。
QE1は2008年から実施されMBSの買い取りが主であった。使われた資金は約2兆ドルである。QE2においては2010年11月から同年6月までの8カ月間にわたり実施された。使われた資金は1カ月あたり約750億ドル、合計6000億ドルであり、米国債などの購入にあてられた。QE3においては2012年9月から(雇用が改善されるまでという前提で)2年間実施され、MBSと国債の買い取りに充てられ、ひと月あたり850億ドル(MBS400億ドル。国債450億ドル)の資金が投入された。
 時の政権は危機を起こした当事者を何ら処罰せず、骨抜き法をとおすのみで金融規制の強化なども行わなかった。その救済についてはウォール街のみで、多くの倒産した企業、路頭へと放り出された沢山の人々を見殺しにしたのであった。今日のウォール街占拠運動など大衆の抵抗はそれに対する鬱積した怒りが爆発したものであった。
 この事例から見てわかるようにアメリカの政府人事は「回転ドア」人脈である。回転ドアというのは日本における「天下り」が、省官庁から、民間企業や独立行政法人の外郭団体への「天下り」という上か下への「一方通行」であるのに対して、アメリカにおいては政権が替わると約3000の主要ポストが総入れ替えになる。その度各分野のエキスパートたちが回転ドアのごとく、官庁(政府要職等)と民間(企業経緯者等)との間を往来するそういう人脈をさしているのである
 この仕組みこそが利権の温床となり、恐慌などを生じさせる背景をつくりだしていたのであった。
最近、とあるサイト(http://www.mag2.com/p/money/5378)に海外の富裕層向けセミナーの紹介動画がアップされていた。それはロバート・ルービン元米財務長官、ヘンリー・ポールソン元米財務長官、ティム・ガイトナー前米財務長官など3名の元アメリカ合衆国財務長官が座談会を行うもので、サイトの動画紹介記事には、「中間層が消え、富裕層だけが繁栄を享受し、貧困層がますます増加する一方の現実社会について質問されたヘンリー・ポールソン元米財務長官は、こらえきれずに破顔一笑「俺たちが格差を広げてしまったぜ」と大笑い。司会者も、他の出席者も、会場の聴衆たちもつられて大笑いした」などと書かれていた。
 世界金融危機の事実は、ルービンたち首謀者たちは回転ドア人脈を活かし、バブルを仕掛け、バブルが崩壊すると公的資金を兆単位で引き出し、それを借金の穴埋めにして勝ち逃げしていたということであった。このように世界金融危機には「資本主義の必然性」など何ら存在していないのである。
(10)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 サブプライムショックの仕組み)
現在のアメリカの金融市場においては、商業銀行の存在感が一層薄まり投資銀行一色の状況にある。それは1980年代におけるアメリカの金融市場の大きな変化に端を発するものと考える。いうなれば世界金融危機の素地がこの時点において形成されたといえる。
 1980年代、アメリカの金融市場では、企業金融につき株式、社債等の証券発行による資金調達形態が発達していった。つまり直接金融の比重が拡大する状態にあった。間接金融、つまり銀行借入などが相対的に縮小する状況にあったのである。また、1990年のバーゼル合意(BIS規制)については、日本の銀行のみならずアメリカの商業銀行にも少なからず影響を与え、BIS規制により商業銀行においては最大でも12.8%の資金枠でしか融資を行えなくなっていた。それに対し、投資銀行(最大30%だが)などでは傘下のファンドなどを使って幾らでも投資できることが可能であった。それらの状況変化が投資銀行の勢力を伸ばすきっかけをつくっていたのであった。
 そして、(この点はサブプライムローンとも関連するが)モーゲージローン(不動産抵当借入)など貸付債権等の金融資産の証券化による流動性回復、つまり商業銀行にとってのリスクヘッジや新たな資金調達の手段としてのローンの証券化が急速に進展していったのであった。つまり1980年代、アメリカの金融市場においては資金フローにおける証券体系化がすすんだのである。
 さらに1990年代ごろからの金融自由化と時の政権の経済政策などに後押しされる形で、投資銀行が株式、債券、MBS、デリバティブ等の証券金融の取引を効率的に行うことができる環境が整っていったのであった。そのような流れで今回の世界金融危機が生じていったのである。現在、金融が独り歩きし、カジノ化している現状にある。そこにはメカニズムなどは存在しない。
(11)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 恐慌の仕掛け人)
 サブプライムローンはウォール街の仕業であった。
アメリカの住宅ローンはモーゲージローンである。日本の住宅ローンは銀行の住宅ローンであり、それは集まった預金を資金源として住宅購入者に資金を貸し付ける仕組みである。これに対しモーゲージローンは、預金を資金源とするのではなく「証券化」という形の資金源をもって住宅ローンを貸し付けるというものである。
 また、アメリカの住宅ローンはノンリコースローンである。それは、住宅ローンの借り手が最悪、債務不履行に陥った場合においても担保(当学住宅)を供すれば済むものであり、仮に当該住宅の価値が融資残高に満たなかった場合においても残債につては免責されるというものである。よって日本のように住宅ローン地獄には陥ることはない。なのでアメリカの住宅ローンにおいては優良客(プライム層)が顧客対象であり、審査が厳しいというのが通説であった。
 しかし、アメリカでは日本と違って住宅(不動産)は資産として考えられており、住宅の価値は下がらないとものとするのが一般的な考え方である。また、2001年ごろからの住宅バブルを背景に信用の低い人たち、すなわちサブプライム層の信用の低さを住宅担保とあわせて高金利などでカバーするタイプのモーゲージローン、つまりハイリスク・ハイリターンなモーゲージ債が開発されたことで住宅ローン貸出競争が激化していき、さらに、それに拍車をかけるように金融工学を駆使したデリバリブ商品等の再証券化技術の発達によって、サブプライムローンが様々な金融商品に組みこまれ世界中にばらまかれることとなっていった。もってサブプライムローンの残高も激増していったのである。デリバティブ取引のピーク時においては、残高が総額800兆ドル(8京円)ほどあるといわれていた。その売りはノーベル賞級の数学者が金融工学を駆使してつくったデリバティブであるというブランド化と格付け会社の高格付けによるものであった。
ちなみにMBSとはモーゲージ債のことである。CDOとは社債など各種債券やモーゲージ権などで構成される資産を裏付けとして発行される証券のこという。つまり複数の福袋が入った福袋を最後まで封を開けないまま、取引に取引を重ねられるというものである。一種のギャンブルのようなものであった。
 CDSとは社債や国債、貸付債権などの信用リスクに対し、保険の役割を果たすデリバティブ契約のことをいい、主にAGIなど保険会社が扱う商品である。その仕組みについてはいたって簡単で、債権の貸し倒れが発生した場合、元利金の支払いを第三者に保証してもらう。その代わりに銀行は保険料を払うというというというものであった。2008年ごろまでにはCDS残高が60兆ドルを超えていたといわれている。それは全世界のGDPと同じ額に相当するものである。
 著名投資家のウォーレン・バフェットなどは、CDSについて「金融版の大量破壊兵器」と呼んだ。
最終的には、アメリカの不動産バブル崩壊をきっかけに滞納率が急増したサブプライムローン問題が顕在化しリーマンショックへと発展していったのであった。
 アメリカ発の金融危機後、政府資金で事実上破産したAGIなどを救済し、また、FRBは紙屑同然のMBSを現金で買い取ったのであった(量的緩和、QE1~3)。これらの行為は二重の詐欺にあたるといえるものである。

(12)トランプ米大統領誕生の本質(その1 トランプ大統領誕生の歴史的背景)
 トランプ大統領誕生の本質なども学べた。
昨年6月23日、イギリスがEUを離脱した。また、昨年11月8日には非エスタブリッシュメントの共和党大統領候補、トランプ氏が大統領に当選した。「エスタブリッシュメント」とはエリート層と富裕層を掛け合わせた「支配層」のことをさす。
 このトランプ氏の大統領選勝利については「トランプ現象」と称されている。それは、ポピュリズム的ナショナリズムの席巻を意味するものであり、トランプ氏が過激な発言やパフォーマンスで格差や貧困拡大に怒る大衆の心をつかみ、泡沫候補から見事、米大統選に勝利した状況、つまりアメリカの右傾化、国家主義化する世論のことをさす。このような状況はアメリカだけに限らず、イギリスではEU離脱という形で、また欧州各国において右傾政権が次々に誕生するという形で、そして世界でいち早く右翼政権=安倍内閣が成立する形で日本などにおいても同様な現象が起こっていたといえる。
 トランプ氏の大統領選勝利については大統領選をとりまく範囲だけの情勢をみるのではなく、歴史の流れを追うとトランプ氏勝利の理由が浮き彫りになってくる。
 戦後、長らくアメリカは「パックスアメリカーナ」と呼ばれる繁栄期を迎えていた。それは、東西冷戦構造の時代、すなわちソビエトをはじめとする社会主義陣営との軍備拡張競争と米ソ代理戦争の時代でもあった。アメリカは朝鮮戦争など世界のいたるところで生ずるイデオロギー対立戦争に莫大な戦費をもって加担し(あるいは仕掛け)、また、ソビエトと競うように援助外交なども展開していった。1970年代の泥沼化するベトナム戦争などにおいては7380億ドル(現在レートで約73.5兆円)もの戦費を費やしたといわれている。そのためアメリカは、1970年代までにはドルの発行額が極端に膨らみ財政赤字とインフレに悩まされることとなった。さらに貿易収支においても赤字に転落するなどアメリカ経済も行き詰まりをみせた。そして1971年、ドルと自国産業を防衛するためニクソン大統領はドルと金の交換停止を発表した。いわゆるドル危機、ニクソンショックである。これによりブレトンウッズ体制の世界秩序は崩れ、世界は変動為替制へ移行していったのであった。
 そういった状況のもとアメリカの世界支配が一旦綻びを見せる。OPEC(石油輸出国機構)諸国がカルテルを組み石油価格を1バレル5ドルから1バレル7ドルへと値上げしたのだ。いわゆるオイルショックである。これは資源ナショナリズムを振りかざした資源国の反抗ともいえる。
 このアメリカによるドルの垂れ流しとオイルショックによる石油価格高騰などで世界経済は混乱する。日本においては物価高騰という形で、また自動車産業など輸出産業の海外移転による産業空洞化という形で現れた。
 そして、この1970年代頃からフリードマンらの発言力が強まるっていく。フリードマン曰くケインズ的政策はインフレ強める。それよりマネーストックをコントロールするべきである。このように貨幣数量説による金融規制緩和を説いったのであった。
 フリードマンらシカゴ学派は、1970年代におてチリなどラテンアメリカで暴力的にマネタリズム的政策を実践し、1980年代においては先進国でもマネタリズム的政策を非暴力の形をもって推し進めていった。イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、日本の中曽根などの政権もマネタリズム的な政策を実践していった。このころからアメリカでは(世界では)中間層が消滅し、大多数の貧困層と少数の富裕層に二極化の方向へとすすんでいくのである。このような歴史的背景がイギリスのEU離脱やトランプ米大統領の誕生に結びつくのである。
 しかし、トランプ米大統領は、最終的に庶民を裏切りウォール街と手を組む可能性が強い。ただ、ペンタゴンとは距離をおくと思われる。
 そして、日韓中に対しては経済面で嫌がらせをするであろう。また、日韓に対しては軍事面においても嫌がらせをするであろう。もって米国民の溜飲を下げ、そのうえでウォール街優先、格差拡大型の政治を行うものと思われる。
(13)トランプ米大統領誕生の本質(その2 パックスアメリカーナの終焉)
今回の米大統領選ではグローバリズム支持のヒラリー、反グローバリズム支持のトランプが対峙した。ヒラリー側にまわったのが軍産複合体とウォール街、メディアなどであった。エスタブリッシュメントが反グローバリズムに対抗した形である。
 トランプ氏の当選を意外と感じた人はマスコミを妄信している。マスコミはエスタブリッシュメントの一員であり、意図的に事実を歪め、情勢を歪曲し報道していたのであった。メディアがトランプを叩けば叩くほど有権者の多くは、マスコミの世論調査に対し正直に答えなくなっていった。なぜなら「トランプ支持」と答えるとまわりから叱られたり、説教される懸念があるからである。
 トランプ氏当選ならドル安、円高、株は暴落すると皆が予想した。開票日の11月9日にはまさにそうなった。円は105円/ドルから101円/ドルに上がった。しかし、翌日以降においてはニューヨークの株式市場では株価が上がり、為替もドル高にゆり戻った。なにか大きな資金の大きな流れがあったものと推測される。
トランプ氏の勝利は、Gゼロの世界の到来を意味する。また、今後の世界は中国とアメリカで差配するという形のG2となる可能性も否定できない。いずれにしてもアメリカ主導の世界秩序の終わりであり、これで正式にパックスアメリカーナが終わったということである。
 これは、アメリカが超大国ではなく、ただの大国になることを意味する。今後においては、世界の力関係においてアメリカはロシア、中国、EU、インドなど普通の大国と並び立つ普通の大国となる。
 ロイター通信のブレーマーは、トランプ米大統領は孤立主義ではないといっている。というよりもトランプ米大統領には政策やポリシーなどはなく、あるのは不動産ビジネスで培ったビジネス感覚だけである。もって同盟国の安全保障などもビジネスとして取り扱っているのである。いままでアメリカは理念や価値観で動いてきたと述べる。それゆえ世界から信用されアメリカ中心の世界平和、いわゆるパックスアメリカーナが築かれてきたのだと主張する。
 トランプ米大統領は外交政策をビジネスにしていくであろう。アメリカは、ただの大国になり下がった。もってG0の世界が到来するのである。
 これを多極化という。アメリカの代わりに世界をリードとする国などは現れない。世界は政治的に不安定となる見込みである。
(14)トランプ米大統領誕生の本質(その3 エスタブリッシュメント対非エスタブリッシュメント)
 トランプは孤立主義といわれているがそうではない。孤立主義とはモンロー主義とも呼ばれており、昔、アメリカ大統領モンローが打ち出したヨーロッパ大陸との相互不干渉の政策をさす。当初、アメリカの勢力圏は自国のみといっていた。しかし、後に南北アメリカ大陸と言い直した。つまりアメリカはヨーロッパ大陸には干渉しないのである。アメリカは建国以来の大部分においてそういう政策をとってきたのであった。
 しかし、イギリスは、アメリカのモンロー主義に反対してきた。自国の衰退をアメリカに補完させるためである。
19世紀の大部分においては、世界の要衝はほとんどイギリスのものだった。しかし、第一次世界大戦においては英仏だけでも勝てず、アメリカに参戦してもらいやっと勝てたとう状態であった。
 第二次世界大戦でも同様であった。しかし、第二次世界大戦においてはソビエトが闘いの大部分を引き受けていたのであった。
 第二次世界大戦後、イギリスはアメリカを欧州にとどまらせるためのあらゆる手立てをとった。その柱となったのがソビエトの存在である。つまり冷戦構造を画策したのであった。第二次世界大戦後のアメリカの選択肢は複数あった。5つの常任理事国が各大陸に並び立ってバランス良く調整するやり方、つまり多極化構造である。そして二極化、つまり世界を東西に分けてアメリカとソ連が対峙するという東西対立の構造である。
 当初トルーマン米大統領はソビエトに対して「共存共栄」という多極主義的な考えをもっていた。それに対しイギリスは、「アメリカとイギリスとは特別な関係」だと称してアメリカを二極化の方向へと誘導していったのである。1946年、アメリカ、ミズーリ州・フルトンにおいてチャーチル元首相に「鉄のカーテン演説」を行わさせた。フルトンはトルーマン米大統領の地元である。チャーチル元首相は、欧州大陸にはソビエトによる鉄のカーテンがおろされており、共産主義圏と自由主義圏の分断が始まっている。そのようにソビエトの脅威論を説いたのであった。
 そして、そのイギリスの誘いに、第二次世界大戦が終わり右肩下がりとなっていた軍産複合体が飛びついたのであった。その後、民主党は中間選挙で共産主義に対し強硬論を打ち出す共和党に大敗した。かのアイゼンハワー元米大統領は退任演説のときに、この国は軍産複合体に支配されていると述べていたのであった。
 戦後の冷戦構造は、アメリカのエスタブリッシュメントがイギリスの誘導にまんまと乗せられた結果つくられたものである。
 戦前はドイツ、戦後はソ連、冷戦後はテロとの戦争。アルカイダの次はIS。アメリカ軍産複合体は常に仮想的をつくってきた。アルカイダとはデータベースのことである。元々、アルカイダはサウジアラビアに存在していた。アルカイダは、アメリカがアフガンでソ連と戦う者に対し武器を供与するためつくられた組織である。(だれに渡してよいかわからないから)。2001年の同時多発テロはテロリストの犯行とされているが、その容疑者のほとんどが生き残っており、他の者がやったなどと証言している。アメリカが警察としてテロリストと戦う現在の構図は非常に胡散臭い。
 イラク戦で懲りたイギリスは、議会においてアメリカとの特別な関係は終わりである旨決議した。現在、イギリスは中国、ロシアなどに媚をうり接近している。イギリスの後釜を狙っているのが日本の安倍政権なのである。
 今回米大統領選に落選したクリントン候補は、ウォール街と軍産複合体に深く食い込んでおり、エスタブリッシュメントの支持を受けていた。だからトランプは孤立主義だと批判されていたのである。
(15)トランプ米大統領誕生の本質(その4 東アジアの行く末)
 トランプ米大統領はTPP脱退を表明した。また、トランプはFTAなどにも反対しており、もって今後においても非公式協議を好むと思われる。
 なぜならTPPはエリート層、つまりエスタブリッシュメントたちの国際的取り決めを優先するからである。TPPはその典型であり、その秘密交渉は連邦議員ですら見ることが叶わない。また、TPPではグローバル企業に対する内国民待遇を求める。国内企業並みに扱うことを要求するのである。しかし、国内企業は国内法規に規制されるが、グローバル企業に対しては内国民待遇でありながら国内法規は適応されない。
 そして、TPPの交渉文章は妥結または決裂後、4年間公表されない。覚書などについても連邦議員レベルまで秘密とされている。他方、アメリカの上位600社の企業顧問に対しては常時アクセス可能であり、ルールブック自体がアメリカの上位600社の注文を受けてつくられたものであるといってもよい。
 トランプ米大統領は、日本に対してはこれまでのやり方、つまりルールなどを非公式協議で取り決めしてきた経緯をそのまま継承すると思われる。例えば、TPP交渉中に担当者同士で往復書簡のみをもって取り決めが結ばれ、それが日米間のルールとなったこともあった。韓国に対しても概ね日本と同じような扱いをすると推測される。
 トランプ米大統領は、アメリカの雇用を日中両国が奪っていると主張する。しかし、米中の経済摩擦は深刻化する模様を呈しているが武力衝突の可能性は低いと考えらえる。なぜなら中国は米国債を1兆1157億ドルほど(昨年10月末)保有しており、経済的、あるいは政治的に相互依存度が高いためである。
 アメリカが日本から撤退すると中国との紛争が生じる可能性がある。東アジアの覇権を追求する中国は日韓の防衛を無条件に担わないというアメリカの方針をよしとし、南シナ海などでの行動を活発化させると思われるからである。それに対し、東アジア(特に日本)におけるアメリカの軍事プレゼンスを必要と考える安倍政権はチャンスとみなし、アメリカを引き留めるため工作として意図的に中国との武力衝突を生じさせる可能性がある。
 オバマ元米大統領は、尖閣は日米安保の範囲といっていた。しかし、日米安保については日本が「施政権」を有する場所のみの適応であり、一旦占領され施政権を失ってしまうとその場所においては適応されない。よって尖閣が中国に占領された場合、日本が自力で奪い返さなければならないのである。
 安倍首相は中国との間の戦争について局地戦を想定している。しかし、そうにはならない公算の方が大きい。中国人は皆、過去、日本人に2000万人の同胞が殺されたことを知っており、未だ反日感情は強い。局地戦であったとしてもひとたび戦端が切り開かれてしまうと2000万人の同胞を殺された恨みで中国は徹底抗戦し、核兵器の使用も可能性も否定できないのである。また、中国共産党などは日本が完全にひれ伏すまで戦う方針をとり続けるであろう。
 いま安倍政権はそのような火遊びをしているのである。
安倍政権樹立とトランプ大統領の誕生によって南シナ海における武力衝突の可能性が増してきた。そういった意味で安倍首相とトランプ米大統領との組み合わせは最悪なのである。
(16)トランプ大米統領誕生の本質(その5 米中関係の行く末)
 日本、中国が不公正な貿易をして、さらにメキシコに工場を建ててアメリカの製造業や労働者を苦しめるとキャンペーンを行う。これは、時代ごとのマイナスイメージをごちゃ混ぜしているものである。日本との貿易摩擦については1980年代のできごとであり、メキシコの工場化については1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)によるものであった。
トランプ氏の大統領当選で、為替が105円/ドルから101円/ドルに高騰した。しかし現在は120円/ドル台で落ち着いている。
 今後の為替相場については、トランプ政権は早速、シンボル的な政策を実行しており、旧来の貿易摩擦のイメージをもって中国、日本たたきを行っている。よって国際的資金は円高に向かうであろう。また、トランプ大統領がドルが高すぎることで雇用を失っていると強調するとドル高の是正に向かうと思われる。つまり円高になるのである。
そして逆にFRBが利上げする可能性あるのだ。利上げをするとドルが強くなる。つまり円は安くなる。要は、為替の行く末についてはどっちの力が強いかで来まる。
 日本はドルが強くなり円安になったら製造業は大丈夫である。しかし、中国の立場からいえばどちらでも困るのである。つまり製造業が叩かれたら困るし、利上げをされたら中国のバブルを支えるドル建ての借金を投資家が中国から引き揚げる可能性があり、中国のバブル自体が終焉を迎える可能性があるからだ。
 2015年の夏、中国の株式バブルは終わった。しかし、中国政府は株を暴落させなかった。強権をもって株の売買を制限したのである。今後、投資家たちは、中国株には手を出さない状況になるであろう。なぜなら自由に売り買いできないからである。
 現在、株市場から流出したマネーが不動産市場に流入しており、今後も中国の不動産バブルは継続する見込みである。
中国のバブルは海外からのドル建ての資金で回っており、ドルの金利が上がると中国バブルはしぼんでいくのである。これは中国がいくら国内で強権を発動しても阻止できない。資金は皆、中国から逃げ出していくのである。
 トランプ米大統領の中国に対するイメージは混乱している。「為替操作国」として中国を叩こうとしているのである。現在においても中国は完全な変動レートにはしていない。人民元は中国政府のもとでちょっとづつしか動かない。それは中国経済が輸出依存型であるからであり、ある程度、元安である必要があるからである。よって中国政府は人民元を完全なる変動相場へ移行させず、準変動相場制の政府管理下にしたのであった。それでも中国経済の好調でじりじり人民元が上がっていたのである。
 ところが一昨年あたりから人民元が下がり出した。中国政府は下がりすぎれば資金が海外に逃げると焦り、人民元が下がりすぎないよう介入していたのであった。かつては人民元を安くするため元売り介入をしていた。つまりドル買い介入していたのだ。このことをトランプ米大統領は為替操作と批判しているのである。しかし現在の中国がやっていることはまったく逆のことであり、人民元安抑制のため人民元買いの介入をしている。中国が持っているドルを売る。つまり米国債を売りながら(外貨準備高を急激に減らしながら)人民元を買い支えているのである。
 トランプ米大統領は、人々がそういった中国の動きを察知しないととたかをくくり、実際とは逆のことを言っていたのであった。虚実取り交ぜていたのである。
 そしてアメリカがもう一段、金利を上げると人民元がもっと弱くなる。中国はさらに買い支えなければならなくなる。そうなると中国はさらに外貨準備高を減らしてしまいう。資金が海外に逃げることになる。今はその瀬戸際である。
しかし、アメリカは中国と本気で喧嘩は出来ない。中国が米国債を一気に売るとアメリカは財政危機に陥る可能性がある。根本的な敵対関係にはなれないのである。
(17)ユーロ危機の本質(その1 ソブリン危機に至る背景)
 ユーロ危機などヨーロッパの現在情勢を知ることができた。
2009年、ギリシアでの政権交代により(ユーロ危機につながる)ギリシア危機が始まった。ギリシアでは政権交代によっていままでの政権が行っていた悪事が明るみとなったのである。その暴露の中にはギリシアが赤字財政を粉飾していたことなども含まれていた。その暴露がギリシア危機を誘発させたのである。
ギリシアの赤字財政粉飾の発端はユーロの仕組みにあった。元々バラバラの通貨をつかっていたユーロ諸国が集まって一つの通貨をつくった。それがユーロである。条件を満たさなければ参加ができない。条件は財政赤字の状況やインフレ率などであった。財政赤字大きいと参加させてもらえない。また、加入国にあっても財政赤字が続くと罰金等の処罰が下るのである。
 そして赤字の規模についてはGDPに比べて累積赤字が60%以内、毎年の赤字が3%以内と決まっている。日本については完全にアウトの水準である。日本は100%を超えている。
ギリシアはユーロに参加するにあたり粉飾という不正行為を行っていたのだ。それは2000年ごろ、ゴールドマンサックスから指南をうけていたのである。2009年ごろ赤字財政の粉飾が明るみとなった時、当のゴールドマンサックスは先頭にたって「ギリシアは危ない」とギリシヤ国債を売り始め、空売りなどもしていた。それがもとでギリシア危機が生じたのであった。
 その後、ギリシア危機の影響を受け、南欧諸国やアイルランドなど財政基盤が弱い諸国の国債が売られ始め、国債が暴落し始めた。それらの国は独自通貨を使っていた頃インフレが酷かった国でもある。
 また、ギリシア国債はCDS投機の対象にもなっていた(最初のCDS投機の対象はGMの社債であった)。ゴールドマンサックスはギリシア危機による影響で瀕死となったAGIを国に救済させて、難なく金儲けができたのであった。
欧州債務危機とは、「欧州ソブリン危機」や「ユーロ危機」とも呼ばれ、ギリシヤ危機を発端とした債務危機がアイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリアなど南欧に飛び火し、そしてユーロ圏、欧州全域へと連鎖的に危機が拡散した一連の経済危機のことをいう。これは欧州全体の金融システムまで揺るがす事態となったのであった。
 マーケットにおいては、当時、債務問題の中心となった、ポルトガル(P)、アイルランド(I)、イタリア(I)、ギリシャ(G)、スペイン(S)を「PIIGS諸国」、つまりブタ諸国と呼んだ。
 ギリシア危機においては、格付会社によるギリシア国債の格下げにともない、ギリシア国債に対するCDS取引が活発化しプレミアムが急上昇して皆、デフォルトリスクが高まったと受け止めるようになっていった。投資家は挙ってギリシア国債を投げ売りしたのであった。そして、それを契機にCDS投機が殺到し、財政危機がさらに悪化し、それがさらに南欧諸国及びアイルランドに飛び火する結果につながったのであった。
 金融市場は心理や確立、予想が動かしているのである。つまりギャンブルであり、賭けごとである。
例えば、ケインズの「美人投票」の話が参考になる。これは、投資家の行動パターンを表す例え話しである。たくさんの写真(株)の中から最も容貌のもの(高値になるもの)を選ぶというものであり、自分(投資家)がそう思っていてもその写真(株)を選らばず、他の人たち(他の投資家)の予想を予想し、どの写真(株)にするかを検討するという話である。実際の金融市場では予想の予想の予想・・・などと4~5次元ほどの予想を重ねて売り買いされているのが一般的である。皆が同じ予想をするときは暴落するときである。株式、金融市場においては将来の予想が現在を決めているといっても過言ではない。
 一旦こういった状況に見舞われた国においては、何ら逃れる手立てはない。
結局、ギリシア危機については、EUが緊急的に創設した基金をもって鎮静化するに至った。南欧諸国やアイルランドがブタ呼ばわりされたのも何らかの意図が働いていたと思われる。
(18)ユーロ危機の本質(その2 ギリシア危機の真相)
 メディアは、ギリシア危機についてはギリシアの国民に非があり、債務不履行に陥った場合、ギリシア人が支払うべきとキャンペーンをはり、いつの間にかそんな国際的風潮が出来上がってしまっている。
 しかし、その報道については騙しと脅迫の手段に他ならない。例えばドイツ人は週40時間未満しか働かない。それに対しギリシア人は週60時間働く。労働時間から見るとドイツ人よりもギリシア人の方が勤勉だったのである。また、累積赤字にてついてもギリシアの国民がつくったものではなく、時の政権の失政によるものである。
 ギリシア危機の本質は、単位労働コストの伸びをみることで理解できる。(2010年~2011年)の単位労働コストの伸び100%とした場合、ドイツは100のまま横ばいである。これは生産性上げてきたが賃金は抑制が続いていたという状態を示す。
 そしてギリシアは1.4倍である。実はこれをつぶすために仕組まれたのがギリシア危機であった。また、アイルランド、イタリア、スペイン、ポルトガルはなどがPIIGS諸国=ブタ諸国と呼ばれ叩かれたのも同様であり、それらの国々においてのきなみ端労働コストが1.3倍の伸びを示していた。生産性伸び悩んでいた割には賃金要求が激しかったのである。ようはアイルランドや南欧諸国は労組、労働者が強く、それを叩くため、労働者の力をそぐために仕掛けられたのが一連の欧州債務危機であると推測する。
(19)右傾化する欧州の行く末
 昨年12月4日、イタリアでの改憲を問う国民投票が行われた。投票では改憲反対派が優勢であり、レンツィ首相は昨年12月5日未明、「結果を受けて責任を取る」と辞意を表明した。改憲の中身はイタリアの国内問題であったが、問題なのはレンツィ政権が崩壊することである。そうなると今後、イタリアでは五つ星運動など極右政党が政権につく可能性が出てくるのである。ヨーロッパにおいて極右政権がドミノ的に増える可能性が増えるのである。
 イタリアは大手銀行が不良債権を抱えているという危機的状況にある。政権がいかにして銀行をつぶさないよう救済するかの瀬戸際なのである。総選挙において極右政党が勝つ公算が高く、仮にそうなった場合、皆、銀行が潰れると不安がる。ただ、マーケットにおいては実際にそうなる前に(ケインズのいう)群集心理が働く可能性が大である。つまり将来に対する予想が現在価値を決めることになる。皆が将来は悪くなると予想すると危機につながる。例えば皆が「株価、ユーロが下落する可能性がある」と考える。すると皆、「ギリシア危機のようにイタリアも危機に陥る可能性がある」と考えだすのである。
 欧州における政治情勢であるが、昨年12月4日、オーストリア大統領選では極右政党の、自由党のホーファー候補が「反エスタブリッシュメント」「反難民」を訴えて選挙戦を闘ったが、僅差でリベラル系の「緑の党」ファン・デア・ベレン候補に敗退した。今後、3月にはオランダで総選挙があり、4月にはフランスで大統領選、6月にはフランスで国民議会選挙、今秋にはドイツで連邦議会選挙がある。トランプ氏の米大統領選勝利で排外的極右が伸びる可能性がある。そうなった場合、ユーロ解体論が大々的に浮上し、欧州全土の排外的活動が活発化することが予想される。
(20)アジア通貨危機など恐慌の真相
 アジア通貨危機などの真相も知ることができた。
1997年~1998年にかけて東アジア諸国(韓国、マレーシア、インドネシア等)が通貨・金融危機に陥った。日本においては山一証券が倒産した時期にあたる。
 きっかけは、タイ・バーツの暴落であった。投資家たちはタイに似ている国は危ないと連想した。そう予想した投資家らが一斉に資金を引き揚げた。自分は危なくないと思っていても、他の投資家が危ないと思うと予想の予想をして逃げ出すのである。その結果、アジア諸国から資金が流出していったのであった。
 それまでは東アジアの諸国には資金が集中し、IMFなども危機の二週間前まで「アジア諸国の経済は健全である」とのレポートを出していたほどであった。
 しかし、危機後においては皆、危機は東アジア諸国の「クローニー資本主義」が原因と批判するようになった。クローニー資本主義とは権力者の縁故や家族関係が大きな力を持つ経済体制のことである。新古典派の経済学者や国際機関から、アジア通貨危機を誘発した構造的な問題として批判されることとなった。インドネシアのスハルトやフィリピンのマルコス政権などがよく引き合いに出されている。
 このことについては投資家のソロスとマレーシアの首相マハティールが論争を繰り広げたのであった。
アジア諸国は国際的な資金と比べ経済規模が小さく、一度目をつけられると防ぎようがない。投資しているエリート層は国境を超え、介入してくる。資本側の国債連帯は頑強である。これは国際的な階級闘争ともいえる事態でもある。
(21)日本のバブル景気(その1 バブル崩壊の背景)
 日本において生じたバブル景気の仕組みなども学べた。
バブルは何れも過剰金融で起きている。その時々のバブル経済においては、その時々に新たにできた技術が使われる。皆が、今度こそ暴落しないと錯覚してしまう。
 ハーバード大学教授のケネス・ロゴフ氏が金融バブルの歴史本を書いた。題目は「今回は違うぞ」である。17世紀にオランダで起きたチューリップバブルのことから書かれている。
 日本においては1990年代、バブル景気、平成景気と呼ばれるバブル経済が発生した。それは、「プラザ合意」に端を発している。1980年代前半は250円/ドル台だった。その当時、レーガン米大統領が強いアメリカつくると、軍拡(強い米軍)と高金利政策(強いドル)を実施していた。また、日本は1980年代が製造業のピークを迎えており、逆にアメリカは貿易赤字の一途を辿るという状況であった。
 1985年9月、アメリカ・ニューヨークのプラザホテルで先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議が行われ、アメリカの要請で過ぎたドル高を是正するため参加各国が提携してドル安協調介入することが合意された。いわゆるプラザ合意である。日本を含む参加各国は皆協調してドル売り介入に転じ、2年の内に120円/ドル台へと下がり、円の価格が二倍となった。
 それに対し、日本の製造業は売値を二倍にすることなく耐えしのび、例えば売値が5000ドルのものだったら6000ドル程度に抑えつつ、円高対策として大急ぎで生産工場をアメリカに建設をした。その結果、日本の製造業の空洞化を招いたのであった。さらに日銀はプラザ合意に金融緩和が含まれていたことや日本経済の成長が鈍化していたことなどを鑑み、金利の引き下げを行った。以降、約20年間にわたり日本においてはアメリカより低い金利が続いたのである。
 この副作用がまさに平成バブルなのでああった。
東京の賃料や地価は軒並み高値を呈しており、多数の者が転売を狙いの土地ころがしなどを行っていた。それは不況対策などで金利を引き下げたことによる過剰金融が原因していた。1989年、三重野氏が日本銀行総裁に就任する。当時はバブルのピークであった。同年12月、日経平均株価は3万8915円という史上最高の高値をつけていた。大都市圏では不動産価格や家賃が急騰し、1億円を超える住宅などの販売も続出した。そして資産を持つ者と持たざる者の格差が拡大し、持たざる者からの悲鳴、怨嗟の声が上がっていた。
 三重野氏は就任直後から急激な金融引き締めに踏み切る。同年12月に公定歩合(当時の政策金利)を3.75%から4.25%に引き上げた。その後、1990年3月に5.25%、同年8月には6%に引き上げた。三重野総裁はバブル退治に邁進する「平成の鬼平」ともてはやされた。
 大幅利上げで株価も地価も下降に転じる。日経平均株価は1990年に入ると急落し、同年10月には一時2万円を割り込んだ。地価などの騰勢も鈍化し、1991年をピークに長期の下落基調に転じた。いわゆるバブルの崩壊であった。
その後、バブル崩壊の副作用が日本経済を襲う。不動産担保の融資は担保割れし、銀行の不良債権が急増した。日銀は同年7月、さらなる利下げに転じたが、土地や株などの資産価格の下落は止まらなくなっていた。それを境に日本経済は低迷期に入っていったのである。
 平成景気の崩壊後、日本では確かに住宅は再び庶民の手が届く存在になった。しかし、急激な金融引き締めは日本経済長期低迷の要因の一つともなっていった。三重野氏のバブル退治の功と罪である。
(22)日本のバブル景気(その2 狙われた日本の銀行)
 1990年、商業銀行に対する世界的な規制、BIS規制がつくられた。
それは、国際業務を行う銀行の自己資本比率に関する国際統一基準であり、「バーゼル合意」ともいう。BIS規制では、G10諸国を対象に自己資本比率の算出方法や、(自己資本比率8%以上の)最低基準などが定められた。BISとは国際決済銀行のことである。スイスに所在する。そのはたらきについては各国間における中央銀行相互の決済をするものであり、銀行の監督などをしている組織である。
 このBIS規制の真の意図は、日本の銀行に向けられたものである。1980年代、日本の景気はバブル景気にあり、日本の大手銀行は挙って預金獲得競争をしていた。1980年代ごろまで日本の銀行の評価基準は預金量であった。バブル景気の最中、日本の銀行は膨大な預金をもって外国資産などを買いあさっていた。それに目を余した欧米が日本の銀行叩きとして行ったのがBIS規制である。
 欧米ではいつでも引き出せる預金は不安定資金と考えられている。自己資本率とは、銀行が持っているお金は大きく分けて「自己資本」と「他から借りているお金」の2つに分類できる。自己資本とは、銀行が自分で株を発行して調達したお金(資本金)、これまでの利益の蓄積、株などを買ってそれが値上がりして得た利益、所有している土地や建物など他人に返さなくてもいい自分のお金のことである。「他から借りているお金」 とは、銀行が国民から「預金」という形で集めたお金や、日本銀行から借りたお金をさす。他から借りているお金(企業などに貸し出しているお金なども含む)と保有している株などの資産、自己資本などを合わせたものを「総資産」という。つまり自己資本÷総資産×100=総資産に占める自己資産の割合を自己資本率というのである。
 例えばある銀行の自己資本が8億円で、貸し出している金額・保有株の総額が合計で92億円だとすれば、この銀行の総資産は100億円で自己資本率は8%となる。
 それが、BIS規制があるため、自己資本が少ない銀行はあまり貸し出しすることができない。それでも企業などに貸しているお金が戻ってくれば、銀行は別の企業などにお金を貸すことができる。しかし、バブル景気崩壊後においては、融資を受けた企業は銀行に借金を返すことができない。ということで銀行は貸し出す資金を枯渇させていったのであった。
 銀行がお金の貸し出す量を増やすということは、その分のお金を 「預金」 、あるいは 「日本銀行から」 という形で借りなくてはならない。しかし、銀行が他からお金を借りるということは、総資産(他から借りているお金+自己資本)が増えることになり、自己資本は変わらないので、自己資本率を減らすことになる。
 さらに、銀行は不良債権を処理して、戻ってこなくなったお金は自己資本で穴埋めしなくてはいけない。なぜなら自己資本が減ったとしても預金者に対してはきちんと預金の引き出しには応じなければならないからだ。
 その結果、自己資本比率はさらに下がる。不良債権の処理は、銀行の自己資本率を減らすのだ。
自己資本率を増やす方法は2つ。①株価などが上がらない限り、銀行の自己資本は増えない。不景気の世の中、株価が上がるのは期待できない。そこで、日本政府が銀行に資本注入する。②分母の総資産を減らすということは、他から借りているお金、つまり銀行が貸し出しているお金を減らすということだ。だから、銀行が貸し出す量を減少させる。それは貸し渋りを意味する。そして預金などを集めて余ったお金を日銀に返済する資金にまわせばよいのである。
その結果、日本経済は平成不況と呼ばれる長い不景気の時代に入っていくこととなった。そして日本経済は新自由主義の方向へと大きく舵を切っていくことになるのである。
2,感じたこと
(1)経済理論については、何か一つの学説や通説をもってすべての社会や経済を説明し語るなどということは叶わない。そう感じた。なぜならそれぞれの理論にはそれを提唱したそれぞれの人が生きた時代状況、立場、価値観、視点などが大きく関係しているからでる。
 例えばアダム・スミスには、アダム・スミスの生きた境遇や環境、時代、社会がある。重商主義的政策により金の蓄積することが国富であるとの風潮が色濃く残る大英帝国に生まれ、まさに産業革命がいま始まり漸進的派展を遂げていくという中で「本当の富とは何か」という視点を追求し自身の経済理論をつくりあげたのであった。
 マルクスにおいては資本主義が成長する過程、つまり西欧においても未だ資本主義が成熟していない状態の中、封建的風潮が色濃く残るプロセイン王国に生まれ、産業革命と資本主義革命の風が巻き起こる西欧に生き、多くの人々が搾取と貧困に喘ぎ、かつ自身も弾圧によってドイツ、フランス、イギリスなどを転々せざるを得ないという状況の中で、生産現場に焦点をあてて経済理論をつくり発展させたのである。
 ケインズは大英帝国が没落する中、二度の大戦を経験し、大恐慌の嵐が吹き荒れる中で自身の経済理論をつくりあげた。フリードマンにはフリードマンの、ピケティにはピケティのそれがあるのである。だからそれぞれの理論においては違いや齟齬、ズレなどがあって当たり前なのである。
 これからは、拠り所とするような自明な理論などは持たず、学ぶべき経済理論については、その理論そのものだけではなく、俯瞰的視点をもちその理論が提唱された時代や背景事情などについても理解を深めていきたい。



<2,感じたこと>は、その二とします。>
 

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