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生産管理闘争の一教訓

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 6月 7日(水)15時08分40秒
返信・引用
  これは素晴らしい論文です。紹介します。


http://www.hibana.org/h324_1.html
生産管理闘争の一教訓
権力闘争として労働運動を発展させよう!

流 広志
324号(2008年8月)所収
アメリカGMのストライキ

 独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の8月海外労働情報によると、アメリカでは、世界最大の自動車メーカ-GM(ゼネラル・モータース)と関連会社での工場閉鎖、レイオフやストが相次いでいる。景気減速に襲われているアメリカでは、新車販売台数が落ち込んでおり、そのため、GMは、工場閉鎖、減産、レイオフを発表し、部品メーカーでは労働協約改定交渉の際に、87時間のストライキを決行した。要約すると以下のようである。
 4月29日、ポンティアック工場、フリント工場(ミシガン)、オシャワ工場(オンタリオ、カナダ)、ジャニスビル工場(ウィスコンシン)を対象とする生産行程削減にともなう時間給授業員3550人のレイオフを発表した。5月29日には、1万9000人の早期退職(7月1日)を発表。生産工程従業員に4万5000ドル、熟練労働者に6万2500ドルの退職年金支給が提示された。
 6月3日には、「2010年までに北米の4つの工場を閉鎖すると発表。ジャニスビルのトラック工場(ウィスコンシン、従業員数2438人)を2009年までに閉鎖、モレイニ工場(オハイオ、同2284人)を2010年までに閉鎖、オシャワ工場(オンタリオ、カナダ、同2496人)のトラック工程を2009年までに削減、トルカ工場(メキシコ、同1973人)のトラック工程を2008年中に削減という内容である。ジャニスビル工場とオシャワ工場に関しては4月末に生産工程の一部削減を発表したばかりだった」。
 「7月15日には、ホワイトカラー従業員にかかる人件費2割削減(3万2000人の人員削減)とホワイトカラー退職者向けの医療手当を削減、昨年の全国レベルの協約で設立が合意された労組運営による退職者医療基金への支払い延期などを発表した。ホワイトカラーを対象とする人員削減も含めた事業再編は2005年以来となる」。
 「7月28日の発表では、8つの工場でトラックやSUV、11万7000台分の減産計画を実施すると発表。オハイオ州とルイジアナの工場で、9月29日の1シフトを削減(合計で時間給従業員1760人に影響)、このほか、カナダ・オンタリオ州、ミシガン州などの工場で、8月から12月までに1週間単位での生産一時休止の計画を明らかにした」。
 「GMやクライスラーに自動車部品を供給するアメリカン・アクセル・アンド・マニュファクチュアリング・ホールディング社(以下、アメリカン・アクセル社)の協約改訂交渉が同社経営陣とUAWの間で行われたが、協約終了日時になっても合意に至らず、2月26日、ストライキに突入した。このストは5月26日まで87日間続いた」。
 「経営側は、時間当たり73.48ドルと高水準となっている総額人件費を、業界で競争力を維持できる20ドル~30ドルの水準に抑えたいと主張した。そのために平均で時給28ドルとなっている同社の賃金水準を、競合他社のダナ社(同社でもUAW組合員が就業している)と同水準の14ドル程度への引き下げをめざした。また、退職者向けの健康保険と現役従業員向けの確定給付型の年金を廃止することを提案した。これに対して、UAW側は反発しストに突入する結果となった」。
 「このストは5月16日に暫定合意に至り、5月22日、組合員は投票で支持した。今後4年間有効となる新契約は、アメリカンアクセルの5つの工場(デトロイト、スリーリバー(ミシガン)、バッファロー、トナワンダ、チークトワガ(ニューヨーク))で働く3650人を対象とし、次のような内容となっている。
賃金水準は平均で時給10ドルの減
従来の時給28ドルを二階層の賃金体系とし、14.5ドル(非主要工程労働者)から18.5ドル(主要工程労働者)の水準に引き下げる。
早期退職とバイアウトプログラムの実施
早期退職を実施するにあたり、退職後の健康保険や年金を一時金支払いによって企業側が買い取る方式をとり、将来の債務の発生を回避する。これをバイアウトプログラムと呼び、応募の条件としては、勤続10年以上の従業員の場合、一時金として14万ドル支給し、勤続10年未満では、一時金として8万5000ドル支給する。早期退職者に応じた従業員には、勤続年数に応じてさらに5万5000ドルを支給する。
デトロイトとトナワンダの2つの鍛造工場閉鎖
レイオフ対象となる従業員は760人
従業員支出の健康保険料の導入
確定給付型年金の凍結
一時金の支払い
協約の改訂に伴い、一時金として組合員に1人当たり5000ドルを支払う。
 以上のうち賃金水準抑制によって、時間当たり総額人件費は従来の73ドルから30~45ドルに抑制されたが、経営側の目標値だった20ドル~30ドルには及ばなかった。
 「UAW関係者は否定しているが、アメリカンアクセル社のストに呼応するように、工場レベルでの協約改訂中のGMでストが決行された」。
 「GMの工場単位での労働協約交渉が進められており、ミシガン州ランシング近郊のデルタ・タウンシップ工場とカンザス州フェアファックス工場では、交渉期限になっても成立せず、ストに突入した。フェアファックス工場は、GM社製で最も人気のある車種、シボレーマリブ、しかもフルモデルチェンジした2008年車種を生産する工場であり、デルタ・タウンシップ工場は、GM社販売台数上位を占めるサターン、GMCアカディア、ビュイックエンクレイブを生産する工場である。両工場ともGM社にとって重要な生産拠点でのストとなった」。
 「デルタ・タウンシップ工場ではGMとUAWローカル602支部との間での交渉は期限が来てもまとまらず、4月17日から5月15日まで28日間のストが決行された。主な争点は、苦情処理、就業規則、下請けに関すること、非組合員の作業内容、配置転換、見習工の処遇、熟練労働者の作業内容とされていた」。
 「UAWローカル602の支部長は、今回の協約改訂を「職の抱え込み(job ownship)」から「職の分かち合い(job sharing)」への変換と位置づけられるとしている。合意された新協約の特徴は、チームリーダーの権限の拡大にある。チームリーダーは正規賃金水準に時給で1ドル上乗せする(従来の協約では50セント)。チームリーダーには従来の職務責任に加えて、4人から6人のチームメンバーを調整する責任が与えられ、人員不足の支援にもあたる。また、組み立てラインの掲示板やデータの管理にも責任をもつようになる。5月16日に投票が実施され、2300人の組合員のうち74%が合意内容に賛成し成立した」。
 「フェアファックス工場では5月5日から5月21日まで17日間のストが決行された。争点となった課題の詳細は未詳だが、工場での経営管理、雇用保障、先任権についてなど、少なくとも9つの未解決項目があったとされている。締結された新労働協約は、時間給従業員約2500人を対象としている」。

 このように、アメリカにおいて、労働運動は活発に行われている。それに対して、すっかり労資協調にはまって当たり前の労働運動すら組織せず、資本の奴隷へと成り下がっている日本の「連合」は、それでも、闘う姿勢すらはっきりとは示していない有様であり、その結果、労働者の多数の信頼を喪失しつつある。しかし、時代情況は、当たり前の労働組合を必要としていると共に革命的労働運動、共産主義と労働運動の接近・結合を必要としており、「連合」はそれに完全に立ち遅れているのである。
戦後労働運動の出発点における生産管理闘争を教訓化する必要がある

 労働組合運動は、一つには、労働者を資本との経済闘争によってきたえ、その生存・生活の向上を目指すものである。近年の新自由主義の席巻によって、生存権すら脅かされるという労働組合創設期のような事態が生まれている。19世紀の自由主義的資本主義段階のイギリスで労働組合が生まれたのは、まさに生きるために労働者の団結が必要であったからである。そして今、21世紀においてもまだ生きるための闘いを必要とする労働者、ワーキングプアの大群が生まれているのである。労働組合運動は、二つには、プロレタリアートの究極的解放を目指す労働者の革命的闘争の団結体でもありうる。
 1990年代にソ連・東欧のスターリニズム体制崩壊を「社会主義」への勝利と誤認して、この世の春を謳歌してきた資本主義であったが、今、それは、新たな階級敵対の増大とぶつかっているのである。そして、そこから、ふたたび、マルクス・エンゲルス・レーニンなどの唯物論的共産主義やスターリニスト作家の小林多喜二の『蟹工船』ブームであるとか、様々な形での共産主義への希求が生みだされている。
 そのことは、保守派の『産経新聞』の7月31日の【正論】において、ニーチェ学者の京都大学教授・佐伯啓思氏の「「マルクスの亡霊」を眠らせるには」の「急速に左傾化する若者」と題する部分で、「若い人を中心に急速に左傾化が進んでいる。しかもそれはこの1、2年のことである。小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになり、マルクスの『資本論』の翻訳・解説をした新書が発売すぐに数万部も売れているという。若い研究者が書いたレーニン論がそれなりに評判になっている。書店にいけば久しぶりにマルクス・エンゲルス全集が並んでいる。私のまわりを見ても、マルクスに関心を持つ学生がこの1、2年でかなり増加した」と指摘されている。その原因を氏は、「近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境、さながら1930年代の大恐慌を想起させるような世界的金融不安といった世界経済の変調を目の前にしてみれば、資本主義のもつ根本的な矛盾を唱えていたマルクスへ関心が向くのも当然であろう。おまけに、アメリカ、ロシア、中国、EU(欧州連合)などによる、資本の争奪と資源をめぐる激しい国家(あるいは地域)間の競争と対立は、あたかもレーニンとヒルファーディングを混ぜ合わせたような国家資本主義と帝国主義をも想起させる」と述べている。
 氏の診断によれば、ソ連崩壊後の問題は、「無政府的な」(グローバルな)資本主義をどう制御するかにあった。そして、氏は、戦後の資本主義が、製造業の技術革新による大量生産・大量消費、すなわちフォーディズムによって政治的に安定したため、マルクスの予言ははずれたという。しかし、90年代のアメリカでの製造業の衰退と産業構造の金融・IT化は、資本と労働の著しい流動化に利潤機会を求めるものであった。
「その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい」と佐伯氏は言う。だが、氏は、資本主義の不安定化というマルクスの直感は当たっているが、彼の理論や社会主義への期待は間違っていたという。
 そして、「その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい」と氏は言う。ではどうするか。氏は言う。「問題は、今日のグローバル経済のもつ矛盾と危機的な様相を直視することである。市場経済は、それなりに安定した社会があって初めて有効に機能する。そのために、労働や雇用の確保、貨幣供給の管理、さらには、医療や食糧、土地や住宅という生活基盤の整備、資源の安定的確保が不可欠であり、それらは市場競争に委ねればよいというものではないのである。/むしろ、そこに「経済外的」な規制や政府によるコントロールが不可欠となる」。そして、「マルクスの亡霊に安らかな眠りを与えるためには、グローバル資本主義のもつ矛盾から目をそむけてはならない」というのである。つまり、「マルクスの亡霊」(これは脱構築主義で有名な哲学者ジャック・デリダの著書の題名である)を「あの世」に追い払うには、マルクス主義者の用語で言う国家独占資本主義あるいは国家資本主義あるいはケインズ主義体制を再構築すべきだというのである。亡霊のお祓いには、国家が必要だというわけである。つまり、佐伯氏の主張は、サン・シモン主義的であり、ボナパルティズム的である。
 「マルクスの亡霊」が蘇ってきているのは、明らかに、氏の指摘する「近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境」といった階級闘争の先鋭化を促す階級階層格差の拡大、敵対性を強めつつある階級階層矛盾の増大が、人々を耐え難いレベルにまで達しつつあるからである。それは、新自由主義の旗振り役で市場原理主義の促進者だった『産経新聞』が、18日の社説で、最低賃金の大幅引き上げを求める主張をするという変化にも現われている。もっとも、この社説は、それは、中長期的に消費=需要を増やし、生産性向上を促すという条件を付けている。実際には、1975年頃から1979年にかけて、消費者物価指数と労働生産性指数の伸びに対して、実質賃金指数の伸びが低く、その格差が拡大し続けた時期があり、それが、フリードマン流の新自由主義的な鈴木内閣そして中曽根内閣の「臨調・行革路線」の強行につながったということがある。生産性基準賃金は実質的にはとっくに破綻しており、『産経』は、そういう過去の基準を現在に当てはめているにすぎない。生産性基準原理の普及役は、日本生産性本部であるが、それが作られたのは、戦後復興過程での生産管理闘争、生産復興運動があった。そこで、理論的に大きな役割を果たしたのは、大河内一男東大教授であり、彼が日本生産性本部発足の中心メンバーとなったのである。この戦後革命と呼ばれる時期の労働運動の在り方は、その後の日本資本主義の復興過程や労働運動の在り方などに大きな影響を与えている。そこで、この過程から教訓を引き出しておくことにしたい。『戦後日本労働運動史 上』(佐藤浩一編 五月書房)をベースにする。編者の佐藤浩一氏は、同志社大学出身で関西ブント→ブント・統一委員会→ブント・マル戦派という経緯をたどった人である。この本が編集・出版されたのは、1970年代後半で、執筆者は、マル戦系の人たちである。
『戦後日本労働運動史』「まえがき」より

 「まえがき」は、「戦後反革命のうえに築かれた資本主義世界体制は、奈落へとつながる坂道をすべりおちつつある」と危機論を前面に立てている。それは、「71年夏のニクソン新経済政策をもって、アメリカはドル・金の兌換制を全面的に停止し、ここに戦後国際通貨体制の崩壊が確認された。帝国主義の不均衡発展にもとづく通貨戦争・通商戦争の激化がその根底にあったが、アメリカを直接追いこんだのは、ベトナム人民の革命戦争の勝利的な展開であった。しかしこの重大な意味を歴史的に総括する間もなく、世界経済はなりふりかまわぬドルインフレにみちびかれインフレ的蓄積過程に入った。そしてそれは、73年秋の第4次中東戦争を契機に、石油危機、食糧危機等モノの面からはげしい制約をうけ、ここにいわゆるスタグフレーションが世界化したわけである」という歴史認識を基礎にしている。ここには、マル戦派が依拠した宇野経済学派の流通主義的資本主義観が現われている。さらに、ここには、宇野経済学の価値形態論における等価形態にある商品が受動的役割を演じ、相対的価値形態にある商品が能動的役割を演じるという『資本論』の価値形態論におけるマルクスの主張を逆転させ、金・ドル兌換停止による国際通貨体制の崩壊を説き、その原因を帝国主義の不均等発展にもとづく通貨戦争・通商戦争という流通上の敵対的矛盾に求めている。
 私は、このような見解を、何年も前に、楊枝嗣朗氏の『貨幣・信用・中央銀行』(同文館 1988年)をもとにして批判した。楊枝氏は、同書において、「不換国家紙幣説の現実的崩壊は、1971年8月のニクソン・ショックに始まる。国際通貨たる米ドルの金交換が停止されたのである。国際流通においては貨幣の流通手段機能はみられないのであるから、兌換停止した銀行券を不換国家紙幣(=流通手段としての貨幣の機能的代替物)とみなし、その流通根拠を国家の強制通用力に求めるかぎり、不換国家紙幣となったと言われる米ドルが国際通貨として流通するはずがなくなる。米ドルの金交換停止は、国際通貨ドルの自殺であり、ドルを基軸通貨とする国際信用制度の崩壊を意味するはずであった」(同7頁)と述べている。さらに、氏は、「不換国家紙幣説は、不換体制下での貨幣流通の諸法則の支配を否定し、戦後の物価の上昇基調を減価=価格標準の切下げ・名目的物価騰貴(インフレーション)ととらえ、物価の実質的変動の一切を否定してきった。そこでは商品・貨幣の価値変化、価値と価格の乖離、あるいは価格標準の切下げによる物価変動の実質・名目の区別は、省みられることはなく、物価は名目的騰貴一色に染めあげられてきた。したがって、そこには物価が上がる論理はみられても、下がる論理はみられないのである。われわれはここに不換国家紙幣説の現実的破綻をみる」(同24頁)と批判している。
 90年代の物価下落、デフレを経験している現在、われわれは、楊枝氏の宇野経済学派批判を、リアリティをもって理解できるようになっている。ドルは相変わらず国際通貨として機能し続けているし、物価は上下に動いている。

 佐藤氏は、70年代のスタグフレーションを戦後のインフレ期と共通する危機の時代の徴候としてとらえ、アナロジーしている。本稿は、同書の宇野派的認識や危機論などはとらないで、生産管理闘争の実態と意義などについて確認する素材として扱う。
戦後労働運動の出発点

 1945年8月15日の大日本帝国の敗北後、最初に立ち上がったのは、中国人・朝鮮人などの炭坑労働者であった。かれらは暴動を起こし、それは軍・警察によって鎮圧されたが、それがきっかけとなって、10月~11月にかけて、賃上げ、生産再開、食糧増配などを求める炭鉱労働者の労働組合の結成が進んだ。その他、次々と労組を結成する動きが進んだが、それを言論で指導したのは、読売争議で自主管理まで進んだ読売新聞などの言論機関であった。生産管理闘争は、闘争戦術として始まり、やがて自主管理までいたり、企業・生産の労働者統制まで進んでいった。これについて、佐藤氏は同書で、「闘争のこのような展開は、第1に経営内に二重権力状況をつくりだし、第2に原材料の手当、製品販売、金融関係等の諸問題を社会的広がりのなかで解決することを求めていた。そしてこれに日本の支配階級と米軍の反革命的介入を計算すれば、闘争はプロレタリア権力の樹立へとむかわないかぎり勝利しえなかったといわなければならない」と評価している。そうならなかった大きな要因を、氏は、45年12月の第4回大会で「重要産業の労働者生産管理、農地解放、食糧人民管理を行動綱領としてかかげた」日本共産党の路線が、「だが肝心の一点、すなわち生産管理闘争を軸にすることのもつ革命的力学が、資本主義再建と根底から衝突するものであること、それが占領権力との対決へと必然的に発展することを共産党はあいまいにしはじめ」、労働組合の容認と経営協議会設置要求を掲げるなど、日和見主義に陥ったことに求めている。それには、野坂参三の帰国後の統一戦線戦術の採用によるブルジョア民主主義革命路線への転換ということがある。
 戦後、続々と労組が結成されていくが、それは二つのナショナルセンターを中心としたものである。一つは、戦前の労働総同盟(戦時中は産業報国会)系のオルグによって結成されていった労働総同盟である。10月5日、全日本海員組合が最初である。もう一つは、日本共産党系の産別会議である。「45年12月25日の神奈川県工場代表者会議、46年1月27日の関東の139組合、22万9000人を結集した関東労協はいわばその主要な争議手段―生産管理闘争の指導をめざすものとして結成された。そしてそれは46年8月17~21日の160万の産別会議の結成となる」(同35頁)。
 労組結成の動きと平行して、食糧人民管理闘争が高揚した。農民は農産物の強制供出反対闘争を展開し、都市民は米よこせなどの食糧を求める運動を活発化させ、46年4月7日には、幣原内閣打倒人民大会が行われ、4月22日には幣原内閣は退陣した。5月19日の食糧メーデーでは、人民と官憲とが激しく衝突した。
 これらの人民闘争、労働運動の高揚に対して、GHQと政府は徹底弾圧策を強行した。かれらは、生産管理闘争を弾圧、読売争議を鎮圧し、海員4万3000名、国鉄7万5000名の労働者の首切り攻撃に乗り出した。これに対して産別会議は、「斬首反対闘争委員会」を結成して、それぞれストライキを決行して、はねかえした。人民闘争は、吉田内閣打倒、人民政府樹立のスローガンを掲げるまでに高揚した。労働運動では、読売争議の敗北後、1炭労・電産の10月闘争に向かう。電産闘争は、生活保証給を中心とする「電産型賃金」を獲得、後の賃金闘争に大きな影響を与えた。
 吉田内閣は、傾斜生産方式という統制経済に舵を切り、労組を経済復興に協力させる方向に転じた。
 労働運動の闘いは、官公労に中心が移った。官公労は、民間をも引き込んで、「全国労組共闘委員会」(全闘)という共闘組織を生みだし、2・1ゼネストへと上り詰めていく。2・1ゼネストは、占領軍マッカーサーの中止命令と日本共産党による全闘幹部の説得により中止に追い込まれた。その後、労働者は職場離脱に走った。46年秋に経済復興会議が結成され、経営協議会の設置が産別会議を含めて、労組の合意を得ていた。
 48年3月、全逓は3月闘争を展開、47年6月の大会で採択された「理論生計費を基礎とする最低賃金と、これに自由価格を加味した地域的生活給(地域闘争)の二本建賃金要求」(同39頁)を掲げた闘争に打って出た。芦田内閣の賃金抑制と職階制導入政策に対して、全逓は、職場闘争、地域闘争で闘いを挑んだが、敗北する。
 芦田内閣は、「中小企業で続けられていた工場占拠・生産管理闘争への相次ぐ弾圧(2月31日、愛光堂印刷所、4月7日 新橋メトロ映画、4月21日、22日日本タイプ幡ヵ谷 三田)―すなわち生管の非合法化を梃子とする経営権の確立の追求としてあらわれた」(40頁)。この年、マッカーサー書簡に基づく政令201号が公布され、官公労働者のスト権が剥奪された。
生産管理闘争

 この章の担当である嵯峨一郎氏は、生産管理闘争を、「敗戦下の危機と生産管理闘争」とする全体的情況を説明した後、「生産管理闘争の開始」「「生産管理」と「食糧人民管理」」「生産管理と「人民裁判」」「生産管理闘争の高揚と後退」とにわけ、それぞれの特徴を示す具体例をあげながら論じていき、最後に、「革命的政治方針の欠如」としてその過程での前衛党の役割を批判している。生産管理闘争は、当時の食糧闘争において全人民闘争と結びついており、さらに人民裁判を通して権力闘争でもあった。それは、資本家のサボタージュを打ち破るための闘争戦術として始まったが、次第に、労働者自主管理、労働者統制へと高まりつつ、しかし、政府による弾圧、資本の側の反撃に加えて、総同盟と産別会議の対立の激化などによって、後退を余儀なくされる。さらに、経済復興運動への労組の取り込みがはかられ、労働運動の任務を生産復興-生産力増大に置く大河内一男氏らのイデオロギー(後に日本生産性本部結成に結実する)の影響などもあって、経営協議会での労使協議路線もまた広がってくる。その中で、経営権の確立が、経営側から強力に押し進められるようになり、生産管理闘争は困難になっていく。しかし、それは、世界的には、60年代のヨーロッパにおける自主管理闘争やイギリスのショップスチュワード運動などとして高揚する。日本では、全金ペトリなどの中小企業における倒産や偽装倒産に対する闘争戦術として70年代以降においても取り組まれてきた。
 戦後直後の時期の生産管理闘争は、資本家のサボタージュに対抗し、体制が安定しない危機的状況下という特殊な情勢を背景に行われたものであり、それは、嵯峨氏が言うように、ソヴィエト的なものを萌芽としては含んでいたし、革命党であれば、そういう方向を目指して活動すべきだったことは明らかであった。ところが、戦後いち早く産別会議結成を主導して、労働運動で多数派を握り大きな影響力を持つにいたった日本共産党は、野坂帰国後の第4回大会で、フランス共産党が人民戦線戦術に基づくドゴール政府への参加と同時に推進していた経済復興を優先するという労働運動方針と同じ方向に向かった。フランス共産党のかかる労働運動方針は、それにたいする労働組合の反発が強まって、挫折した。日本共産党は、5回大会で武力闘争による民族民主主義革命路線へと転換、コミンフォルムによる批判、所感派と国際派への分裂、両派の妥協による6全協での武力闘争の放棄、平和的手段による民族民主革命路線へとジグザグを繰り返し、混迷・混乱する中で、産別会議の解体、反共産党の民同主導の総評結成などによって、労働運動における影響力を大きく失っていく。
 次に、嵯峨氏の区分に基づいて、生産管理闘争の具体例を要約して見ていこう。
生産管理闘争の具体例

A.第一次読売争議

 生産管理闘争の出発点は、1945年10月25日から50日間の全面的業務管理を行った第一次読売争議であった。鈴木東民ら論説委員、編集局、調査局次長クラスが「民主主義研究会」をつくり、10月19日に、社長の正力松太郎に承認を求めたが、拒否。23日には社員大会が開かれ、一、読売新聞従業員組合の結成と承認、一、社内機構の決定的民主化、一、従業員の人格的尊重と待遇改善、一、自主的消費組合並びに共済組合の結成」の4項目と「我等は戦争責任を明らかにするため読売新聞社員大会の名をもって、社長、副社長以下全役員、ならびに全局長の即時総退陣を要求す」という緊急動議を採択した。翌日、正力は、要求及び緊急動議の拒否と鈴木東民ら指導者5名の解雇通告を行った。これに対して、組合側は、25日からの新聞自主制作を決定し、「大会は鈴木ら5名の最高闘争委員(のちに3名追加)を選出し、また各部ごとに闘争委員会を選ぶことを決定した。この最高闘争委員会もとに、25日には編集委員会が、また26日には工場関係の生産委員会がそれぞれつくられ、かくて「新聞の自主管理」の指導体制ができあがったわけである。同時に、25日には「読売新聞従業員組合」が正式に結成され、鈴木東民が組合長に就任した」(50頁)。
 争議は、マッカーサーによる介入、正力の戦犯追及があって、おおむね組合側の勝利に終わった。この後、生産管理闘争は、急拡大していく。
B.京成電鉄争議

 第一次読売争議の後、11月23日、京成電鉄は、御用組合の結成を指示、それに対して、自主的な労組を結成する動きが起きた。12月5日、主事補の入らない労組の結成大会が開かれ、1、賃金(本給)5倍引上げ―但し現在の諸手当は従前通りのこと、2、団体交渉権の承認、3、配給品帳簿の提出公開、の3点の要求と「戦時中に従業員のための物資を不正に横流しした張本人たちの退陣、敗戦後に配給物資の帳簿を焼却したことに関する釈明」を求めた。12月8日、会社側は要求を拒否、10日から争議に入り、「14日から、組合は戦術を転換し、「経営管理」に入った。すなわち電車を有料で平常運転し、その収入を組合長名儀で銀行に預金し管理したのである。しかも組合は、経営内容を全部おさえてしまうことにより、会社側の言い分のデタラメさをも知りつくしてしまった」(51頁)。22日、組合は、1、経営協議会を設置すべし、重役13人、労働組合代表13人より成る経営協議会を設置し一切の経営を行うべし、2、現重役は即時退陣すべし、新取締役の選任決定には労働組合を参与せしむべし、3、労働時間を短縮すべし、という要求を提出、経営協議会での会社運営の点を除いて、会社側はそれをのんで争議は終結した。
C.日本鋼管鶴見製鉄所争議

 労組結成を準備、1、組合の承認、2、団体交渉権とストライキ権の承認、3、待遇改善(現収入の三倍引上げ、他に家族手当、生活補填手当)、4、会社の一方的首切り反対、五、厚生福利施設の組合監査の5点を12月24日、組合結成大会で、採択した。翌年1月10日の会社側回答は、、組合の承認、スト権・団交権の承認に止まった。組合側は、生産管理を決行する。しかし、「ただ鶴鉄がこれらの前例と決定的に異なっていたのは、《鋼管川崎製鉄所→鶴鉄→鶴見造船所》という一貫生産体制の一環に位置していたことしかも当時鉄鋼は厳しい配給制のもとにおかれていたこと、であった」(57頁)。1月18日の会社側回答が前進をみないものであったので、組合側はすべての生産手段を掌握し、塩・缶詰・軍手などの日常品の配給品の販売、建築用薄鉄板の売却、8時間労働制、職制の排除、などの手段をとった。争議は長期化の様相を呈し、消耗戦となった。そこで、事態を打開するため、組合側は、1月16日の重役会に乗り込み、社長との大衆団交を行った。社長が、組合側要求を認めたため、1月18日に生産管理を解いた。こういうやり方を「人民裁判」と呼んだ。
 生産管理闘争と「人民裁判」の広がりに対して、「2月2日新聞紙上に、内務、厚生、商工、司法大臣による、いわゆる「4相声明」を発表した。すなわち、「近時労働争議に際しては、暴行、脅迫または所有権侵害等の事実も発生を見つつあることは、真に遺憾に堪えない。・・・かかる違法不当なる行動に対しては、政府においても、これを看過することなく断固処断せざるえをえない」」(59頁)。
D.三菱美唄炭坑争議

 炭坑は、三井、三菱、住友の三大財閥がほぼ独占していたが、北海道では、ほぼ9割がこれらの手に握られていた。炭鉱労働者の多くは、東北からの出稼ぎ者や移住者であり、戦時中は、朝鮮人・中国人が大量に投入されていた。敗戦直後の朝鮮人・中国人労働者の暴動をきっかけに、つぎつぎと炭坑に労組が結成されていった。三菱美唄では、11月4日に労組が結成された。11月13日、組合は、1、賃金の10割増、2、坑内外の労働時間を8時間とすること、3、出勤手当てを性別扶養者の有無による区別を廃し、坑内外の二区分にすること、4、物資配給の不正一層のため、会社と組合の合議機関を常設すること、という4点を会社側に要求した。11月20日、会社側は、ほぼ要求を認める回答を出す。ところが、会社側は、鰯の現物支給という形でなされてた出勤手当分を、12月分の給与から差引いた。翌46年1月7日、組合は、1、賃金を政府決定どおり支給し、請負制を廃止すること、2、基準賃金とは別に従前どおり出勤手当を支給すること、3、木村製錬課長の東京転勤には反対であること、その他、有給休暇、公休日の有給制、婦人の生理休暇、産前産後の有給休暇、健康保険料の会社負担の要求、の第二次要求を突きつけた。そして、2月8日より、生産管理に入る。2月17日、所長らとの大衆団交・「人民裁判」を行った。2月19日、会社側は、1、賃金は請負制を廃止して定額制とする、2、将来政府の基準賃金改訂があるまで出勤手当は当分存続する、3、木村課長転勤問題は保留する、4、有給休暇は坑内夫10円、坑外夫5円とする、5、公休日は月3日とする(なおその他の要求項目に関しては大部分が保留ないし会社一任となった)(62頁)という回答を行い、生産管理は解かれた。この「人民裁判」に対して会社側は、暴行・監禁などの刑事事件として告訴し、有罪判決が出された。資本・政府による労働運動・人民闘争への反撃が本格化してきたのである。
E.東洋合成新潟工場争議

 東洋合成新潟工場の労働者は、46年2月20日、労働組合を結成し、「労働組合の承認」「首切り反対」、「工場長、事務局長の排撃」などを決定して闘争に入った。「そして3月12日、会社側の「工場閉鎖」の正式発表にたいし、組合は生産管理をもって闘い工場再開をめざすことを決定、かくて翌3月13日から闘いは、196日間にもおよぶ生産管理に突入することになった」。この生産管理は、江戸川工業の争議との連帯による原料確保や農民組合からの支援もあって、賃金支払いや、労働者の採用、解雇も組合が行うなどの強力なものとなり、会社は、工場再開を決定した。
 46年1月、三菱製紙系の江戸川工業所東京工場では、「工場長および同次長を除く工職員470名(うち職員136名)をもって労働組合を結成、各部から10名につき2名の委員を選出して職場委員会を構成し、さらに職場委員会で互選されあ12名をもって中央委員会を構成した。そして2月11日。「給料の引上げ」「勤労所得税、健康保険料などの全額会社負担」「8時間労働制」「団体協約の締結」など9項目の要求を提出し、15日までに回答を求めた」。これを会社側が拒否したため、3月1日から生産管理に入る。生産管理は、日炭従組や他労組との共闘により、原料その他の融通や在庫の販売などによる資金の確保などにより、当初成功裏に進むが、会社側は、御用組合の育成にのりだし、組合の切り崩しを行い、ついに組合幹部の組合員による交代が行われ、6月3日、生産管理を打ち切り、会社側と妥協することになった。
F.高萩炭坑争議

 高萩炭鉱は、戦時中に発足した従業員2000余名の中規模の炭鉱であるが、社長独裁の色が濃く、給与内規、退職手当の規定、厚生物資の出納などが全く不明確であった。しかも会社倉庫に大量の物資が隠匿されていたことがわかり、高萩炭鉱労働組合連合会(1800名)は倉庫の検査、無能な所長の退陣を要求するとともに、4月5日における大会で「労使2対1による経営協議会の設置」などの要求を決定した。社長(p67)がこれを拒否したことから、組合側は翌6日から生産管理に突入、「最高闘争委員会」(各坑より1名)―「闘争委員会」(各坑より5~6名)―「生産管理委員会」(各職場ごとに任命)という闘争体制を確立した。また組合は倉庫と事務所を占有し、所長の出勤を拒否した」。
 「4月9日、安川長官立会いの下で高萩炭鉱社長、日炭従組代表、高萩炭鉱労組代表による話合いがもたれたが、そこで日炭従組代表が、業務管理をおこない石炭代金を直接高萩労組に支払うことを声明した。ついに4月12日、商工大臣は「生産管理の合法・非合法に関する政府の方針決定までは石炭代金支払に関する解釈は当事者に一任する」と回答、かくて炭代は高萩労組に支払われるようになったのである。/こうなれば会社側も折れざるをえなくなり、連日の労資会議をつうじて、組合側の要求をほとんど承認し6月14日に争議は解決した」(同68頁)。
 「大衆示威行動に警告を発しその翌日には内務省警保局長名で「生産管理弾圧」が全国の警察に指令され、24日には組閣を終えたばかりの吉田首相が外人記者団にたいし「生産管理の合法・非合法を検討中である」と発表したのである。
 そして6月13日、政府は「社会秩序保持に関する政府声明」を発表し、次のように強硬に生産管理を非合法とする態度をうちだした。
 「・・・政府としては、最近起った生産管理なるものは正当な争議行為と認め難い。今日までの事例によれば、国民経済全般の立場から見れば結局各種の好ましくない結果を生じ、これを放任しておくと、遂に企業組織を破壊し国民経済を混乱に陥し入れるようになるおそれがあるものといわねばならない。その上もし暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる。・・・」」
G.東洋時計上尾争議

 46年3月7日、東洋時計上尾工場に労働組合結成が結成された。賃上げ交渉や団体協約締結ののち、6月に同労組は、「全日本機器」に加盟する。10月、上尾従業員組合は、待遇改善をはかる前提として「増産運動」に取組むことを決定、10月20日の上尾従組増産臨時大会において向こう1ヵ月間の予定で「増産運動」を実施することになった。
 ところが、当時の執行部(後に従組を脱退して「再建派」を名のる―総同盟系)は、「会社」あっての労働運動だ」「賃上げよりも増産運動」という基本的考えをもっていたが、それに対して、後の「従組派」―産別系)は、「ダラ幹追放」「即時賃上げ」などを強力に主張した。そして、24日、25日の大会で「従組派」は執行部からほとんどの職長・課長を追放して、平工員中心の新執行部(15名中13名が共産党員)を選出した。上尾従組のヘゲモニーは産別系執行部に握られた。しかし東洋時計の他の工場(本社、小石川、日野、販売など)はほとんど総同盟系で占められていたことから、こんどは上尾従祖が逆に、これら諸工場で構成する「東洋時計労働組合連合会」から除名されることになった。
 上尾従組からの「再建派」108名の脱退、「連合会」からの孤立というなかで、11月2日、従組派は会社側にたいし「脱退者の即時解雇」を要求して激しい「人民裁判」闘争を行う。翌3日には脱退者による「再建同志会」が結成され、上尾工場では、総同盟対産別会議が対立した。5月。上尾駅の通称上寺で「再建派」が協議していたところを、「従組派」および支援労働者1300名が襲って工場グランドにひきずりだし「人民裁判」にかけるという、実力対決となった(上尾事件)。
 会社側はこの上寺事件を理由に、上尾従組幹部約30名の解雇を決定、これにたいし従組は直ちに11月25日から生産管理で対抗した。その間、上尾従組派660名は18日間にわたって置時計7220個を製造し、全日本機器埼玉支部、電産本部、産別本部、海員組合などに販売した。
 12月12日、「再建派」は、コン棒、鉄棒、ハンマー、バットなど武装した「連合会」傘下各工場従業員、総同盟系組合員および会社が雇った土建業者80名の約1000名をもって上尾工場の奪還に乗り出し、しばらくにらみ合った後、13日早朝から「従組派」のたてこもる工場への攻撃を開始した。そして、午前中のうちに「従組派」は工場からたたきだされた。しかし、「従組派」は、全日本機器埼玉支部所属の富士産業、ライト自動車、石原金属、沖電気、東邦自動車、日本信号などからの支援労働者約1000名をもって、再奪還の行動に出た。双方2000名が入り乱れて、大乱闘を展開した。「そしてこの時、「従組派」支援の富士産業の1労働者が頭を殴打されて死亡した。重軽傷者は双方あわせて200名、このかん警戒にあたていた警官隊200名は、ただ手をこまねいて見ている他になかった。上尾工場は、「再建派」の手にわたり、これにたいし「従組派」は寮にたてこもって態勢の維持をはかったが、しだいに勢力が衰え、復職した者は47年6月15日現在で200名たらずとなった」(70~71頁)。
H.その他

46年1月には、日立精機足立工場、関東配電(1万8000名)、関東配電群馬業管、沖電気、九州猪之鼻炭鉱、日本製靴。2月には、九州大正鉱業中鶴炭鉱、古河電気工業(2500名)、オリエンタル写真。3月には、京都第二赤十字病院、東京光学、九州宝珠山炭鉱、東宝、北海道雄別茂尻、東芝車輌。4月には、帝国石油大森合金所、常磐高萩炭鉱、東京の日本競馬挽吏、小西六写真工業、日東美唄炭鉱。5月には、東北配電、日本ビクター、西羊毛工場、等々の生産管理闘争が行われた。
生産管理闘争の教訓と今日の課題

 嵯峨氏は、『赤旗』再刊第一号(45年10月20日)に載った「闘争の新しい方針について」という論文45年12月1日の日本共産党第4回大会で決定された「行動綱領」から、野坂参三帰国後の46年2月25日の日本共産党第5回大会で、ブルジョア民主主義革命路線を明確に打ち出して、方針転換したことを、「日本共産党は、当初はまがりなりにもあった「生産管理」と「食糧人民管理」を結びつけて「人民革命」を実現するという方向から、全面的に後退して現に起きている広汎な闘争を「ブルジョア民主主義革命」の枠内にとじこめる方向へと転じたのであった。だから生産管理闘争は、争議中における「生産の増大」という面からのみ評価され、やがては「産業復興運動」へとのめりこむことになった。「経営協議会」といい「産業復興運動」といい、激動のさなかにおけるこうした方針の消極性は、事実上、無方針と、現に起きている闘争のたんなる追認しか意味しない。そしてそれは、支配階級にたいし反撃のための時間稼ぎを保障してやっているだけだったのである。/生産管理闘争を戦略的展望のなかに明確に位置づけることのできなかった共産党は、46年後半から、むしろ「ゼネスト体制」を推進するようになるが、それが階級情勢の転換を追いかける形でのたんなる「戦術的」対応にすぎなかったことは、もはやいうまでもない」(p76)として、前衛党の路線問題を指摘している。
 さらに、嵯峨氏は、鶴見製鉄所争議において、以下のような組織体制が組まれていたことを指摘し、二重権力状態が作られていたという。
          執行委員長―ブレントラスト6名
          /    \
       管理委員会  常任執行委員会
         |       |
      工場委員会   執行委員会(70名)
        |
      職場委員会

 嵯峨氏によれば、「工場委員会は各部門の専門家である係長・役付工員で組織され、また6名のブレーントラストは、執行委員会および管理委員会から選出されたものであり、これが全体にたいする事実上の指導部と思われる」(同73~4頁)。そして、「こうしたピラミッド型の組織体制は、むろん鶴鉄のみの特徴ではなく、争議に突入した組合はすべて、一般組合員の自発性に依拠しつつ、権限を協力に集中した執行体制―いわば臨戦体制を築きあげたのである」(同74頁)として、これがプロレタリア独裁権力的性格を持っていたという点を指摘している。
 これがグラムシの工場評議会運動を下敷きにしているのは明らかであるが、この運動の高揚と敗北の歴史を振り返れば、職場・生産点における二重権力の創出は、同時に地域ソヴェト権力、そして全国的な二重権力の創出過程における前衛党の指導・戦術・組織を必要としていることは明らかである。共産主義を掲げる前衛であれば、これらを、権力闘争の一形態である蜂起にまで発展させる「計画としての戦術」を必要とする。それは、ブルジョア民主主義革命が当面する任務であったとしてもそうである。ロシアの1905年革命において、ブルジョア民主主義革命を遂行する臨時革命政府は、独裁的権力行使によって、旧勢力や旧弊・旧制度を粉砕しなければならなかった。しかし、ロシアの自由主義的ブルジョアジーは、君主制や旧勢力と妥協した。それによって、労農大衆の零落は強まり、深まり、そして1917年の二次の革命に結果することになるのである。日本の戦後革命期、占領政策に、いわゆる「ニューディール派」の民主的官僚の影響が強かったことや戦時体制の擬制的平等主義の幻想にも導かれた平等主義的大衆意識が広範に存在したことや冷戦のために占領政策が変更され、経済復興を早めようというアメリカの経済支援があったこともあって進歩党・協同党・民主党などの自由主義的ブルジョアジーが階級協調的であった。講座派的にロシアとの共通性を日本に見ていた日本共産党は、こうした現実に対応できず、右往左往して、戦後革命を社会主義革命へと発展させられなかった。その後、戦後復興をとげ、高度経済成長を経て、先進ブルジョア国家として発達した日本資本主義の革命の追求は、ブントなどの新左翼によって進められることになるのである。社共が社会主義革命を投げ捨てていることは今や誰の目にも明らかである。
 それに対して、敗戦直後の日本の多くのブルジョアジーは、生産サボタージュ、占領軍の権力を頼っての経済復興運動の組織化、生産管理闘争において示された労働者の生産のイニシアティブ・経営権の奪還、等々、国家権力と占領権力を背景にした労働運動への弾圧と総同盟などの労組を取り込んでの経済復興・生産増強運動を展開する。それに対して、日本共産党は、人民戦線戦術による経済復興会議への参加、2・1スト中止への産別会議説得などに示されたように、ブルジョアジーの復興に事実上手を貸したのである。生産管理闘争についても、フランス共産党が、人民戦線戦術にもとづいてドゴール政権に参加し、生産管理闘争を、生産復興運動の一手段として、ブルジョアジーの経済復興に協力したのと同様に、生産サボタージュに対抗する闘争手段にすぎなくされるのである。日本共産党は、4回大会路線で、生産管理闘争は、二重権力という嵯峨氏の言葉にあるように、権力闘争としてあったのに、それをあいまいにし、誤魔化したのである。
 生産管理闘争を労働組合の在り方として見てみると、職場単位、工場・職場単位の団結、従業員労組、今で言う企業別労組という形態が基礎になっていることがわかる。企業別組合という形態の原型が、戦時労働政策にあったことは、いくつかの研究に示されている。工員・職員一体の従業員・会社員という概念や終身雇用の慣行も、戦時期に政府から指導され推進され作られたものである。それが、戦後、工・職一体で職場・事業所・企業単位で労組が作られるもとになった。それが企業連たる日本型の単組→労組連という形の労組構造の元になった。それは一方では、同盟系の労使一体、労使協調の企業別組合を生みだしたが、他方では、企業・工場・職場単位の生産管理闘争を生み出す元にもなったわけである。それは、当時の総同盟や産別会議の幹部にも本来的な姿ではないと認識されていたもので、自然発生的に成立したのである。かれらは、産別労組を掲げ、目指したし、それが本来の労組の在り方と考えており、今でも、共産党系全労連や「連合」は、産別組合を目指している。欧米型の労働運動では、産別労組と別に従業員団体がある。産別労組の支部が職場・企業に置かれているが、それは複数あって、それと従業員団体は任務を異にする。上のアメリカのUAW(全米自動車労組)も産別組合であって、上記のように、従業員はストライキで要求を一定獲得すれば、さっさと会社を辞めてしまう。日本の場合、正社員層は、企業に強く結びついており、賃上げや労働条件の改善よりも、雇用を重視する。「連合」は、賃上げよりも雇用を確保しようとしているのはそういうことである。しかし、この間、この層は減少してきており、非正規雇用者が増えている。企業への帰属意識が薄いこうした労働者層の増大は、産別労組や地域労組などの形態への労働者の組織化の一般的条件が拡大していると言えよう。
 それに対して、ブルジョアジーは、もはやこれといった手をうつこともないし、できないでいる。今やブルジョアジーの間では、嘘や誤魔化しや卑劣やモラル崩壊などが蔓延し、目の前の利益ばかりを追い、それに目を奪われ夢中となって、ブルジョアジーは、支配階級としての責任感やモラルなどのヘゲモニー的要素を大きく失いつつある。たんに私益を求めるだけなら、公的支配階級としての性質を喪失する。それは、ブルジョア社会の外皮が剥ぎ取られつつあることを示している。ブルジョアジーは、社会の公的な代表たる資格を捨て去りつつある。プロレタリアートが、次の社会の代表としてかれらにとって代る根拠が増大しているのである。プロレタリアートが、生産・消費・流通を組織し、社会を再建し、新たな支配階級として、ヘゲモニーを行使する必要があるのである。その準備を急がなければならないのだ。短い経験ではあったが、戦後の生産管理闘争は、ブルジョアジーなしで生産や経営が可能であることを実際に示した。その後の企業別組合の労使協調の経験は、所有権=株主に対して、経営権が一定自立する形を創り出した。それに対して、新自由主義は、所有権=株主の復権をはかったのだが、その結末は、ハゲタカ・ファンドの跋扈やサブプライム・ローン破綻などによって、資本主義の大危機に帰着した。それに対して、佐伯氏のような国権的管理強化を主張する国民経済派が台頭してきている。
 労働運動の領域において、私有権を擁護する暴力=国家権力というテーマにぶつかりつつあるわけである。それは、言うまでもなく、この領域において、党・前衛の建設とその綱領・戦術・組織の在り方が問われていることを意味している。この間のワーキングプアや非正規労働問題をめぐる社会的政治的な暴露が、共産党の勢力復活に一定帰着し、あるいはマルクス・ブームやプロレタリア文学の『蟹工船』ブームなどを若い人々に拡げていったことにもそのことが示されている。
 生きるため、自らの尊厳のため、闘わざるを得ず、また闘おうと思想的に自主的・自然発生的に準備を始めている人々の声に応え、その欲求を実現するために、その根底にある賃金奴隷制の廃止を実現するプロレタリア革命まで導いていく共産主義党を建設していかなければならない。われわれは、その条件と針路を解明していかなければならない。
 そして、現在の共産主義運動に、権力闘争の一環として、あらゆる大衆の自然発生性のあらゆる現れを指導し、発展させることが求められているのは言うまでもない。とりわけ、労働運動領域における権力闘争、二重権力、生産管理、工場・職場委員会運動、工場評議会運動、地区ソヴェト運動、コミューン運動、などの試みを発展させなければならない。その際に、労働組合運動は、「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとせず、その組織された力を終局的解放すなわち賃金制度の最終的な廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に敗北する」(マルクス『賃金、価格、利潤』国民文庫89頁)ということを忘れてはならない。戦後生産管理闘争の敗北と日本共産党・産別会議の生産管理闘争をめぐってのぐらつきは、そのことを示している。どのような自然発生的な労働者大衆の闘いの現われであれ、賃金奴隷制の廃止という終極目標を忘れるならば、「全面的な敗北」をまぬがれない。GMのストライキのように、労働条件をめぐる条件闘争なら、その敗北も勝利も部分的なものであるが、いずれにせよ賃金奴隷状態から労働者を解放することはない。労働者は依然として資本の奴隷であって、資本=主人・資本の権力に従属していることに変わりはない。生産管理は、個別職場・企業における資本の指揮・監督・命令する権力をなくすことはできるが、その進展は、この力を支えている国家権力と衝突する。この公的暴力を廃止して、プロレタリアートの権力を創設し、このようなプロレタリア解放の障碍を取り除かないと、賃金奴隷制の廃止という終極目標に向かって前進することはできない。共産主義運動が、ブルジョア国家の廃絶とプロ独の実現を目指すのは、そのためである。生産管理闘争は、労働者がその力を持っていることを示している。労働者の生存を脅かすにいたった資本主義を一掃し、共産主義と労働運動を結びつけ、プロレタリアートの終局的解放に向けた革命的闘争を発展させる必要がある。 その仕事を推進する共産主義者の党を建設しなければならない。われわれ「火花」は、そのことを94年の党大会において採択された綱領と戦術・組織総括において示した指針と基準に従って追求してきた。もちろん、それは発展させられねばならないものであり、新たな時代・条件の下で、新たな内容を獲得すべきものである。われわれは、共産主義者や先進的活動家やプロレタリア大衆との討論や学習や協議や共同行動を行い、その中で、自らを鍛え、共産主義運動の一翼としての積極的に責任を果たし、根本的な革命運動の前進に貢献していきたい。
 賃金奴隷制の廃止!、プロレタリアートの政治的自由の発展! 共産主義と労働運動の結合! プロレタリア権力の樹立! プロレタリア国際主義の発展! 共産主義者の党建設を!・・・
 
 

第5パラグラフの検討を巡っての 杉本の意見==商品語批判の不明性

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 6月 3日(土)13時40分38秒
返信・引用 編集済
  久留間理論を、私は、むしろ堺のこの「資本論を読む会」からこそ学んできた。
今日、価値形態論の正当ーー常識的解釈となっているのは、この久留間理論だが、
マルクス経済学を、大学で学んでもいないこの私めの良き教師の役立ちをしてきたのは、
むしろ、この堺の研究会の教示であった。ここに御礼申し上げておきます。


http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/d160f0ddaab074d94556e551f75443dd
第16回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
◎第5パラグラフの検討
《イ)たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリ
  ンネルに潜んでいる労働に等置される。
ロ)ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労
 働である。
ハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という
 両方に共通な性格に、実際に還元する。
ニ)このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別さ
 れる特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。
ホ)異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共
 通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである
 (17a)。》

 まずイ)について、
第2パラグラフで見たように、20エレのリンネル=1着の上着という等式の基礎には、
リンネル=上着 があったように、ここでは リンネル=上着の基礎には、
リンネルに潜んでいる労働=上着に潜んでいる労働の関係(リンネルに潜んでいる労働に対する上着に潜ん
でいる労働の等置関係)がなりたつことが指摘されています。

そして第3パラグラフでは、 リンネル=上着 の同等性の関係とは価値関係であることが指摘され、
リンネルの価値が価値物である上着によって表現されていることが示されたのでした。
ここでは類似した関係がその基礎にある労働に関して考察されていると言えます。

 しかし注意が必要なのは、《上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって》と述べられて
いることです。だから第3パラグラフを前提にした考察だということです。

第3パラグラフでは、リンネルに等置された上着は価値物として通用しなければならないことが指摘された
のですが、ではそもそも〈「価値物」として通用する〉とは、どういうことなのかが、今度は、価値の実体
に遡って問題にされ、解明されているのです。

 ロ)では、その考察の前提として、《たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働と
は種類の異なる具体的労働である》ことが確認されています。これは上着とリンネルとは種類の異なる使用
価値であり、よってそれらの使用価値をつくるために支出された具体的な有用労働も種類の異なるものだと
いうことです。
次にハ)では
   《織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、
   人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する》
と言われています。
ここで注意が必要なのは、第4パラグラフのところでも指摘しましたが、同じ「還元」でも、ここで述べら
れていることは、第1章で労働の具体的な諸属性が捨象されたのとは異なる「還元」だということです。

というのは、上着が「価値物」として等置されているからです。
「上着が価値物として通用する」ということは、
前回(第15回)の第3パラグラフの考察でも紹介しましたが、
《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,
あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》
(「補足と改訂)ということです。

   <杉本 註 価値の存在形態・価値物上着が、その規定のままに通用しない・・
   からこそ次の規定を受け取るのに、そこへの注意がないのです。>
   <人間的労働から成っている物として通用する,>
   <その肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する>

あるいは初版本文では
 <第⑤段落を引用
  「20エレのリネン=一着の上着または「x量のリネンはy量の上着に値する」という>
《相対的価値表現においては、
上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、
まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、
上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである。(18a)
使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、
リンネルが、抽象的な、人間的な、労働の、
つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、
直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。
上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・
手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、
認められている》(江夏訳37頁)
とも述べられています。


   <杉本ーー初版での、
   「上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められている」ーーそして
   「人間労働からなっているものとして通用する」とは、次のことを指すのです。>
   <「労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結してい
    るところの形態」ーーとは?
   ①労働凝固体であるではなく、労働凝結物として認められた反省規定されたーーで
   あり、
   ②リンネルとの物象的関係である価値関係によってーー反省規定された、ものであ
   るのだから、
   ここに、再度強調・上着は価値であり、価値形態ーーという規定を受け取ったので
   す。註18aに示されている 価値鏡 の提起を最大の注意点を、返り見ていない!

   <対象としての上着はーーしたがって現物形態においての価値として認められる>
   ・・ことが、その次に書かれているマルクスの批判点、であることを見ていない。
   「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質をもつのだから、実物形態の上着
   はリネン自身の価値の現象形態になる。」(初版 今村訳P288)
   ーーと、ここにはっきりと・明瞭に、リンネルとの上着の本質関係と示されたので
   は、諸物象の社会関係では無く、その本質的関係に転倒したーー人間労働の物的関
   係が現象しているーーとの批判なのです。
   だから、
   <対象としての上着はーしたがって現物形態においての価値として、認められる>
   ーーと示したこの意味は、等価物上着は、直接的に価値として認められる、転倒ー
   ーをこそ示している、と批判したのです。
   初版での価値上着への転倒への批判を表す、この註18aによる註18でのリンネル
   の上着価値ーーという主張での批判の核心点の追求を、堺の御仁は全く見ていない
   のです。しかし、再版では、第六・七段落にてそのことが述べられた。


 つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、
裁縫労働の具体的な諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元するということではなくて、
裁縫労働という特定の具体的な労働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態としてあること、
すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の形態として意義をもっていることなのです。
ヘーゲルチックに言い換えるならば、人間労働一般が、裁縫労働という具体的労働を通じて、
直接的なものとして現われているということでもあります。
あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、
裁縫労働が、人間労働一般を代表するものとして通用しているということなのです。
リンネルにとっては、裁縫労働は、自分自身に対象化されているのと同質の人間労働一般を代表する
ものとして通用しているわけです。

   <杉本 上記のように、「裁縫労働が人間労働一般を代表する」ーー
   であれば、等価形態の第二の独自性としての具体的労働が抽象的人間労働の実現形態
   ーーをしか意味してこない。再度、その誤解を強調ーー等価形態しか対象にできず、
   相対的価値形態の成立はすでに前提されており、視野外に置くとの表明なのです。
   しかし、再版ーー冒頭五段落は 、ーー
   「上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。
   ところで、たしかに、上着を作る裁縫はリンネルをつくる織布とは種類の違った具体
   的労働である。
   しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上両方の労働のうちの現実に等しいものに、
   人間労働という両方に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に還元するの
   である。」(原P65)ーーと述べられていた。

   この再版での記述は、このように比較してみると、マルクスは初版での次の本質の現
   象形態への<転倒>に対する批判・留意をこそ、追求し述べていたーーことが理解で
   きる!

   「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質をもつのだから、実物形態の上着は
   リネン自身の価値の現象形態になる。」(初版 今村訳P288)

   このように、本質の現象形態ーーとは?本質の表現であり、本質の人間労働であり、
   本質としての価値の表現ーーという転倒した思考を示す形式であり、相対的価値形態
   の形成には、この転倒した表現様式も同時に存在していると述べて、そのことをこそ
   批判しているのです。堺の先生は、このように、再版第五段落にて、物象の関係の本
   質的関係への転倒への批判こそがあることを、見抜けないーーこれこそが、物象の判
   断を否定する物的関係の思考ーーのままなのです。
   そのことが、後の第⑨段落提示の商品語批判ーーにて、次のように、
   <価値関係が「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れる」ー商品語での語り>
   と批判されたことを、皆目理解できないのです。

 またリンネルにとっては、裁縫労働という具体的属性はそうした役割しか意味がない、ともマルクスは述
べています。
       <杉本ー初版⑥段落ーー等価形態ーーが次に引用されている>
 《リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具
体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。……上着は、リンネルにとっては、リンネ
ルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。
……だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動ある
いは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態
すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表
現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直
接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは
等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれてい
る、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係す
る、ということに依拠しているものでしかない》(初版本文、同上38頁)

 もちろん、この初版本文では、この第5パラグラフ以降で展開されることが先走って述べられている部分
もあるのですが、重要なのは、《実際に還元する》ということが、第1章で述べられていた「還元」とは異
なる点を理解することです。

   <杉本 《実際に還元する》とは?
   「上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、」ーー
   ーーハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しい
   ものに、人間労働という 両方に共通な性格に、実際に還元する。ーー
   ーーとあるのだから、上着は価値ではなく、上着は価値物としてリンネルに等置ーー
   されていたのですから、具体的労働である裁縫労働が表示される使用価値上着が、勿
   論リンネルに等置されることはできないです。
   展開された相対的価値形態では、上着はリンネルの価値鏡になることで、価値形態で
   あり、価値であることを示している。しかし、第一の相対的価値形態の形成でのーー
   価値物上着の規定のもとにリンネルに等置された上着が、この「価値鏡」の役立ちを
   なすためには、明らかにこの規定から、この次の<上着は価値>の規定であり、価値
   形態の規定を受け取る、事へとの論理の進展が必要なのです。
   だから使用価値上着・具体的労働である裁縫労働の物的表現にてもつ関係=物的関係
   ーーでなく物象的関係の明示にこそ、物象の社会関係にてこそ、その<上着は価値>
   との判断がなされることを、次に示したのです。
   「リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルと等しい物、同じ性質のものとして認
   められるのは、上着が価値であるからである。」(七段落)ーーと物象の判断です。
   しかしここは五段落ですから、未だこの両者の共通者は、表示されていないのです。


 次は、ニ)の《このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労
働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである》の
部分です。

 先のハ)で、織布労働との等置は、裁縫労働そのものを両者に共通な、抽象的人間労働の直接的な実現形
態にすることが指摘されたのですが、そのことによって、リンネルの価値を形成する抽象的人間労働が、抽
象的人間労働の対象様式である裁縫労働という具体的労働によって目に見える形で表されているということ
です。つまり上着に表れている裁縫労働こそが、本来は目に見えない「思考産物」(初版本文)であるリン
ネルの価値を形成する抽象的人間労働の具体的な実現形態であり、それによって、目に見える形で表されて
いるものだというのです。

 ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。リンネルは価値としては抽象的人間労働の凝固
ですが、しかしそれはリンネルそのものを見るだけでは分かりません。しかしリンネルは、直接には出来な
いことを、間接的には、すなわち「回り道を通って」なら出来るということです。
   <杉本ーー再版では、「回り道を通って」ーーもできないのです。>
リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって
回り道をして自分自身にたいして、行なうことができる》(初版本文前掲39頁)のです。

すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接
的な実現形態にし、そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわちそれが抽象的人間労働であ
ることを、それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るということで
す。ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なものが、抽象的人間労働という抽象的一般的なものの特定の
実現形態として意義をもっているのです。

   <杉本ーー上記の意味はなにか?
    ①上着を価値物として等置することによって、
    ②上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、
    ③そのことによって、自らの価値を形成する労働を、
     すなわちそれが抽象的人間労働であることを、
    ④それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来る
    ーーこれは、先生どうしたことか、②③④の意味は同一ですから全くの論理破綻です。

    次の示す課題として、この⑤段落がある事を忘れている。
    ここでの目的とする課題は、上着が価値物の規定から、「上着は価値」の規定ヘと物
    象の判断の成立にての価値上着との両者の概念的区別にこそ、人間様ではない物象の
    判断を示す独自性があるからです。ところが、彼は商品語を批判しない。>

 またここでは《語られるのである》とも述べています。一体、誰が語るのでしょうか? これは少し先走
りますが、第10パラグラフで、《上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのこ
とを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》(全集版71頁)
と書かれています。

   <第一節 商品の二つの要因  第二節 商品に表される労働の二重性のことを指すの
   ではない。第三節での、第一段落から、第八段落と、第九段落の途中までです。
   九段落で述べられた、価値関係が「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れる」
   ーー商品語での語りーーのことを、商品語批判をしないと、同等性関係へと転倒する、
   と述べているのです。
   堺の先生は、宇野先生・久留間先生と同じく商品語批判をしないのです。>

ここで《商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのこと》というのは、われわれが第1章で商品
の価値を分析して明らかにされたことを意味します。その商品価値の分析で明らかになったことを、リンネ
ルが上着との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですから、やはり上記の《語られるのであ
る》も、リンネル自身が語っているものとして理解すべきでしょう。

 次は最後のホ)《異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実
際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表す
のである》ですが、これはこれまで述べてきたことをより一般的に言い換えて、繰り返していると言えま
す。ここでも《実際に……還元する》ということが出てきますが、すでに述べたような意味として理解する
必要があります。

    <杉本 一平
    以上 英明な堺の諸先生の教示に習ってきたおかげで、ここまでの意見もできました。
    御礼申し上げておきます。>
 

  PKKのホームページからの紹介

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 6月 1日(木)15時59分47秒
返信・引用 編集済
    シリアを米帝の攻撃による崩壊から守れているのは、
  クルディスタン労働者党に団結する社会主義者の民衆的な草の根運動にこそ
  あるーーことがこのサイトからはよく理解できた。
   ①社会主義は文明の代替形態になることができるか?
   ②PKKは今日の社会システムです
という二つの論文を紹介したい。


http://hezenparastin.org/eng/index.php?option=com_content&view=article&id=1457:can-socialism-become-an-alternative-form-of-civilisation&catid=17:oender-apo&Itemid=258

      社会主義は文明の代替形態になることができるか?
     歴史はしばしば重大な誤りを目撃しており、それが戦う望ましい成果の正反対につながっ
     ています。それは再び起こります。人間の生命体が存在する限り、彼らは平等と自由とい
     う貴重な理想のより正確な科学的表現に到達する方法を理解し、正しい道に沿って決定的
     な進歩を確実にし、成功を達成するでしょう。

      社会主義は文明の代替形態になることができるか?

     社会主義イデオロギーとそれが資本主義体制に反して作った社会主義体制は、異なる文明
     にはならなかった。その思想的アイデンティティーの結果としてであろうと、早産やその
     過ちの結果であろうと、労働者と民族の自由と平等のための憧れを、差別化された文明の
     発達に変えることはできませんでした。これに対する主張にもかかわらず、結局、それは
     国家資本主義を超えたものではなかった。

     多くのイデオロギー的傾向やこれに似た社会運動が歴史上現れてきた。宗教的根拠と部族
     制度に基づいているが、預言者アブラヒムとモーゼの出発は、部族社会主義を最初の形で
     表した。圧倒され、交換され、恐れられた社会は、特に中東の古代時代のアッシリアの覇
     権の下では、神秘的な宗教秩序として集団的な生活の形で存在を継続することしかできな
     かった。
     さらに、シュメールとエジプトの事務体制は、国家社会主義の最初の神聖な例でした。
     彼らは何らかの形でソビエト体制に似ているように見える国家経済を通じて文明への道を
     導いた。それ以前の新石器時代の社会は、母女を中心とした共同社会として構成されてい
     た。原始的な社会主義と言えるこの社会制度は国家の確立を知らず、何千年も存在してい
     た。人類を発酵させるのはこの体制だった。平等と自由という人間の夢を絶えず育んでき
     た楽園の考え方に反響を与えました。

      イエス・キリスト、そして実際に最初の3世紀のキリスト教運動は、長さと本質の両方
     で、最も輝く宗教的社会主義の例を提供しました。この期間の教育者は、その時期まで彼
     らの人格においてイデオロギーと練習を表現していました。
      イスラム教の逸脱も共同体の形態の最も重要な例の一つです。
     メンバーの間に存在していた平等と敬意は、神聖な家族の形を取っていました。純粋な形
     で宗教コミュニティ(ウンマ)は一種の封建社会主義です。キリスト教とイスラムの両方
     が国家レベルに達した後、個人と王朝の機能が増し、宗教共同体は共同社会主義から遠ざ
     かった。私有財産の重要性の高まりは、初期の社会主義的性格を堕落させ、単純に中空イ
     デオロギーの殻に変えた。この民営化への反応として大量の宗派と宗教秩序が長続きして
     その純潔と集団の生活を続けました。中世の数々の一見宗教的な動きは、実際に、悪用さ
     れた支配体制に反対する抑圧された人々の集団秩序だった。彼らの技術基盤の弱点は、こ
     れらの動きが平等と自由に基づく代替政権にならないようにしました。そのうちのいくつ
     かは何百年も存在していたが、国家レベルでは政治当局になったものもあったが、文明の
     モデルになれない彼らの科学技術基盤の弱点に関連する。さらに、彼らの本質的なイデオ
     ロギー的アイデンティティの中で、彼らは階級社会モデルに基づいていた。

     その結果、彼らは夢の中で平等と自由の願望を表明しただけであった。これに基づいて、
     彼らは神聖で人間的な愛に向かって行き、天の夢を育て、兄弟の感情を生かし、強力な道
     徳的・文学的伝統に変えました。

      資本主義の誕生時でさえ、Moresの「Utopia」とCampanellaの「国の太陽」は、理想
     的な社会主義の夢を表していました。数多くの個人や社会が資本主義を生み出した自由と
     いう名目で、宗教的独断主義と勇敢に戦った。
     彼らの闘争では、彼らは平等、自由、兄弟姉妹のために戦っていたことに疑いがありませ
     んでした。そして他の人々を彼らの個人的な情熱への奉仕者として服従させるためではあ
     りません。ブルジョワ革命の基本的なスローガンは、「自由、平等、友愛」であった。

      そして、科学社会主義の創始者であるカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルス
     は、ドイツの哲学、フランス社会主義、英語の労働者階級運動の動きから脱却し、イデオ
     ロギー的アイデンティティーを確立したことについて、この短い物語でさえ労働者と抑圧
     された人々は、新石器時代の原始共同体制から舞台に至るまで、平等と自由を取り囲み、
     苦しんだ兄弟姉妹とイデオロギーに基づいて、常に共同生活のために戦った科学社会主義
     の 彼らが受け入れられる体制を確立できなかった場合、その理由は、確信が欠けたり、闘
     争が不十分であったり、神聖な目的に達するための技術的状況が不足してい(なかっ)た
     からです。彼らの技術的な後進性のために彼らは階級社会の文明に非難されたからであっ
     た。
      共産主義宣言の指導の下での労働者階級運動はこの歴史的な連鎖における平等と自由の
     最後のつながりであった。マニフェストの著者は、彼らの前の動きのユートピア的な性格
     を知っていた。このため、彼らは科学的になるよう勤勉に努力しました。しかし、彼らの
     科学的性質はその時代に限られていた。資本主義は最も成熟した時代を過ぎていて危機に
     直面し始めました。それは巨大な自信を持っていました。歴史は資本主義から始まり、こ
     れは永遠に運命づけられたと主張した。それがどんなに科学的であっても、この社会主義
     はまだ地面にしっかりと足を踏み入れることができませんでした。

     労働者階級運動は幼い段階にあった。植民地での解放運動の兆候はなかった。それにもか
     かわらず、彼らは19世紀後半に第1と第2のインターナショナルを設立することによって、
     イデオロギー的かつ実践的にクラススタンスを勇敢に宣言することには消極的ではなかっ
     た。尊敬を必要としていたスタンスの側面は労働者の権利のための執拗な闘争と防衛でし
     た。それは彼らの立場の預言的側面でした。そのような時代の話は、戦略が適切かどうか
     について議論することはできなかった。ローマのひどい政権に対する反乱の中でイエスは
     戦略と戦術について考える立場になく、彼は神の確信以外の武器を持たなかった。しか
     し、彼は人類が無限の自由の段階に入ることを可能にすることを意味していた歩みに少し
     でも躊躇しなかった。それは歴史の重要な一歩となった。この性質の階段は常に神聖さを
     与えられました。社会主義の創始者たちの動き、そして彼らの初期の社会的基盤は、その
     ような尊さに値する。政治的成功または苦い損失は、彼らの闘争の本質と比較して二次的
     な問題でした。
      パリコミューンの失敗と第2インターナショナルの崩壊は、科学社会主義がその目的をさ
     らに抱くことを妨げず、レーニン主義段階では大きな政治力と国家権力を達成した。
     古典的定義では、世界の3分の1が、プロレタリアと抑圧国が社会主義文明の時代に移行し
     たと宣言した。それは人生のすべての領域において資本主義との競争にあると主張した。
     歴史上初めて平等の共和国と抑圧された人々の自由は、長い間自分の足元に立って力を発
     揮しました。しかし、これらの共和国は崩壊し、100年後も20世紀末まで歴史的意義を失
     った。

     ブルジョワジーの科学者たちがこの発展を社会主義の破産と宣伝したのに対してマルクス
     主義者はさまざまな形の裏切りを表現するために同じ開発を判断し、社会主義を信心深く
     信じる者はそれを神聖な夢の崩壊と見なした。もっと冷静に思考し、真に科学的なアプロ
     ーチは、大きな失望と裏切り理論の両方が主観的判断に基づく簡単な選択肢であると結論
     づけた。

     何が起こったのかは予想された。夢と希望は、彼らが期待していたことを果たしたり表現
     したりしなかったために崩壊しました。このことを幻覚させたり喜ばせたりするのとは対
     照的に、科学の方法は、真実がどこにあるのか疑問を呈し、成功への道を見つけることで
     した。
      ソビエトの実験は深く分析されておらず、さらに重要なことに崩壊のすべての結果はま
     だ明らかになっていません。まだ暗闇の中にいろいろなことがあり、新しい時代を待って
     いる。
     それにもかかわらず、すでに明らかになっている要因は、哲学と実践の失敗を示している。
     実践が社会主義か国家主義かは、自由、すなわち全体主義か、平等か国家資本主義かとい
     う疑問は、ちょうど始まりです。これらの質問は科学社会主義の信念と意識を支持した数
     百万人の労働者と数多くの英雄の闘争の本物の歴史的重要性を傷つけるものではなく、
     これらの闘争が無駄であるとは示唆していません。

     それどころか、これらの価値まで所有する唯一の正しい道筋としてこの疑問は、この練習
     の正しい分析の不可欠な重要性を指摘し、それを科学のふるいを通してろ過する。この作
     業をうまく完了しなければ、自由と平等の神聖な目的を達成するための成功は不可能です。

     歴史はしばしば重大な誤りを目撃しており、これは戦うために必要な成果の正反対をもた
     らしました。それは再び起こります。人間の生命体が存在する限り平等と自由という貴重
     な理想のより正確な科学的表現に到達する方法を理解し、正しい道に沿って決定的な進歩
     を確実にし、成功を達成する。

     アブドラ・オクランによる文章



http://hezenparastin.org/eng/index.php?option=com_content&view=article&id=1430:bese-hozat-pkk-is-a-social-system-today&catid=40:analiz-guncel&Itemid=311

     Bese Hozat:PKKは今日の社会システムです
     ベス・ホザットクルド人解放運動は、クルド人とトルコ人の若者のグループで構成され、


     1978年までプロアポ(Öcalan)と国民解放団体として知られていたクルド人とトルコ人の
     青少年のグループで構成されたクルド人解放運動はゾーグル族の家で開催された第1回大
     会に続いて党になった。 11月26日から27日にかけてDiyarbakır's Lice地区のFis村
     で結成された。PKK(Kurdistan Workers 'Party、PartiyaKarkerênKurdistan)
     は22名の代表者が出席した最初の会議以来35年間に何百万人もの人々に対処する公的運
     動となった。

             PKKはどのように定義されていますか?

     PKKは、人権と社会の搾取と残虐行為に対する強力な反乱運動でありあらゆる権利を奪わ
     れた人々に対して、公正な防衛を否定し彼らの言語が禁止され、土地が占領され、悪用さ
     れた。PKKは、プログラム、イデオロギー、哲学、闘争戦略を備えた現代の反乱運動であ
     り、人々を大いに搾取し、奴隷化するための普通のものではない。

     PKKは、戦略的かつ戦術的なリーダーシップ、数千人のゲリラの軍隊何百万人もの人々の
     組織された草の根など、地域と世界のバランスを変える力を持っています。

     これらすべての事実に沿って、党が民主主義国家のパラダイムを提示し民主主義国家体制
     を改善し民主主義体制の代替プロジェクトを建設したことにより、PKKを反乱運動として
     定義するのは不十分である5千年前の国家統治システムであり現在このプロジェクトの建
     設を率いている。

     PKKが構築した民主的で自由で平等な人生と民主的な生態系は民族を解放する唯一のシス
     テムです。クルド人は今日自らの意志に基づいてこの制度を構築するための闘争を行って
     いる。現在の状況では、PKKは運動を超えて社会生活システムになっています。

     PKKは、自由意識に取って代わった奴隷と恐怖心を払拭しクルド人のために大きな考え方
     の革命を起こしました。これはPKKが達成した最大の革命であり人々の解放はマインドの
     革命と自由意識の達成に依存しているからです。

     一方、党は社会解放の中心に女性を配置し、国家闘争の中心に女性の闘争を置いている。
     これは、人々が自由な女性なしで自由になることができないという事実のために、自由と
     いう意味で新しい文脈と深みをもたらしました。

     理論や実際にこの現実によって保証されている何千人もの女性たちが山に連れて軍隊を組
     んで、勇敢に搾取システムと戦い、戦争が人間のことであると擁護する考え方を破壊した。
     クルド人女性が山に与えている解放闘争は、トルコ軍だけに反対するものではなく男性主
     導の考え方と、それが作り出した残虐で搾取的な制度にも反対している。

     この戦争は大きな社会変化と変容をもたらし、女性に対する通常の見方を破壊し、性的な
     道徳や文化を変え、クルドの女性をあらゆる分野の主題にすることを可能にし、社会に積
     極的に参加する市民の義務と公衆の抵抗を導くために、女性は抵抗と解放の闘いの象徴と
     なり、クルド社会の社会的構造を変え、道徳的文化を変革し、社会の民主化に決定的な立
     場を示した。

     これはPKKとクルド人が自由な女性と自由な社会を作り同時に民族革命である部族の文化
     に対する民主国の感覚と文化を創造することによって達成した女性革命です。

     クルド人がPKKのリーダーシップの下で今日与えている闘いは中東地域の民主化に重要な
     役割を果たし、その地域の人々の最大の希望です。
     クルド人は、民主的な自主的かつ連合的な制度を構築して歴史上の舞台に立っている。

     PKKは、クルド運動だけでなく、解放運動としても定義されています。
     クルディスタンの4つの地域の人々にPKKが何をしたのかそれはどのような文化が創造し
     たのか?

     PKK運動は決して民族闘争を与えてこなかった。PKKを主張する者は党と国民の敵であっ
     た。PKKイデオロギーは、自由と平等の両面を担っています。PKKは、すべてがファシズ
     ム、ナショナリズム、軍国主義につながるイデオロギーであるナショナリズム宗教、性
     差別に対する民主的な社会主義運動である。

     PKKは、中東諸国の闘いのための組織として、地域の人民の自由を守り人間の価値を代表
     してきました。PKKは、中東における民主的文明の伝統を追随して現代的に代表していま
     す。これらはすべてクルド人問題だけがクルド人とは関係がないことを証明するものであ
     り、中東地域全体に関わる問題である。

      http://www.pkkonline.com/ja/
 

商品批判を我々はいかにしてなすのか

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月30日(火)19時14分47秒
返信・引用
  残念ながら、筆者とは顔見知りではない。この論文も偶然発見したものです。
しかし、かっては同じ組織として在していたことを思うと、
うんじゅうねんの価値形態論への取り組みの我が身と同じと思えるので、
自身への意見をと思って、文章をまとめてみた。



共産主義者同盟(火花)
中国-東欧の民主化運動について  1994年7月
http://www.hibana.org/p9407_01.html
I 民主化運動の民主主義的側面について
(1)ブルジョア民主主義―市民社会とブルジョア国家
(2)ブルジョア民主主義の形式性と抽象性
(3)ブルジョア民主主義と商品生産
 このような事態は先に述べたように、階級支配の完成、経済的な支配―隷属関係に基 礎をもつものとして階級関係が構造化されたことによっている。階級支配の実は市民社会 のなか、経済的な関係のなかで挙げられており、その支配の政治的な表現―政治的な支 配は、抽象化され形式化されたブルジョア民主主義理念、この抽象的普遍概念の許に遂行 されることになる。ところでこうした事態は、階級支配の実が挙げ 使用価値はその背後に具体的な歴史を背負っており、ものの有用性がまさしく 有用性として現れるためには一定の社会的な条件を前提する。その限りで使用価値は一定 の社会性を前提し、その契機として社会性を内に孕む。だが、他方、価値は純粋に社会性を、ただ社会性そのものを表現する。

「商品の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材 は入っていない。・・・諸商品はただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸 表現であるかぎりでのみ価値対象性を
持っているのだということ、したがって商品の価 値対象性は純粋に社会的であること・・・」(『資本論』vol.1.国民文庫 1 p.93)

     上記を広く引用してみた。
     第三節 価値形態または交換価値 第二段落
     「けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会
     的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会
     的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現
     れうるということも、おのずから明らかである。
     実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸
     商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなけ
     ればならない。(資本論Ⅰ国民文庫P93)

だが、どのようにしてそれを表現するのか。価値形態の展開を通してである。

a量の商品A=b量の商品B

 商品Aは自分に商品Bを等置することによって、商品Aに含まれている具体的な労働に 商品Bに含まれている具体的な労働を等置する。この双方の商品に含まれている労働の等 置によって、先ず、商品Bをつくる労働の具
体的有用的形態は捨象され、商品Aをつくる 労働とに共通な人間労働に商品Bの労働が還元される。すなわち抽
象化される。このこと を通して、商品Aをつくる労働もまた価値をうみだす労働としては商品Bをつくる労働と
同じであることが表現されている。こうして双方に含まれている労働が価値の実体として 抽象化され、同じ抽象的人間労働であることが示されている。

    <商品Aは自分に商品Bを等置することによって、
     商品Aに含まれている具体的な労働に 商品Bに含まれている具体的な労働を等置する。>
     ーーとは?
    「彼らが価値形態と価値とを混同」ーーというベーリ批判が何を意味するのか?を探求すると
    リンネルの価値形態上着と規定されることでのみ、上着は価値を表現できる、のです。
    もう一度、等価物上着が価値と示すことができるのは、相対的価値表現においてリンネルの
    価値形態上着を形成する限りにおいてなのです。
    上記からは、相対的価値形態の形成において、価値上着としてリンネルに対面しているのでは
    なく、<上着は価値>としての物象の役立ち・価値形態の形成ーーをはたすかぎりで、
    相対的価値表現をなしているーーという追求なのです。
    <商品Aは自分に商品Bを等置する>ことは、
    価値として商品Bを商品Aに等置するーー価値として上着がリンネルに等置されるーーこと
    以外には成し得ないのですし、対象的形態が形成されないのです。


  第①パラグラフです。
   「ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるか
    を見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考
    察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値関係のうち
    に、二種類の商品の一定量同士が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされ
    ているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元されてはじめて、量的に比較され
    うるものとなるということである。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、したが
    って通約可能な大きさなのである(17)。」
   「 (17) S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成
    果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているから
    であり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら
    量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」
   (『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者はS・ベイリー。》
  次は第②パラグラフ
   「20エレのリンネル=1着の上着であろうと、=20着の上着 であろうと、=x着の上着
    であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、
    このような割合はどれも、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現で
    あり、同じ性質の物であるということを、つねに含んでいる。リンネル=上着 が等式の基礎
    である。」

  次は第③パラグラフ
  「しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが
   表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリン
   ネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。
   この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。
   なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。
   他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取
   る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換され
   うるものとしての上着に関係するからである。である。(化学式は略)」

  第④パラグラフ
  「われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は
   諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。
   一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、
   その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。」
  第⑤パラグラフ
  「たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働
   がリンネルに潜んでいる労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リン
   ネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。しかし、織布労働との等置は、裁縫労
   働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元
   する。このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働
   から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのであ
   る。異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそ
   れらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表
   すのである(17a)。」
  第⑥パラグラフ
   「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の特有な性格を表現するだけでは十分ではない。
   流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。
   それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。
   リンネル価値を人間労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものと
   は物的に異なっていると同時に、リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されな
   ければならない。 課題はすでに解決されている。」

杉本解説
   A)<リンネル価値を人間労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、
   ・・・リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。>
   ーーと、上記⑥段落に示されたように、両商品の共通の「対象性」は、次の⑦段落にて、
   「上着は価値」と示されている。
   「上着は価値」と他方の商品が価値の凝固体となっていると示したのではなく、
   この両商品の共通者を代表する物としてではなく、この共通者を表現するものとして、示した。
   両商品の共通者を代表する物ーーであれば、上着は価値ではなく、上着は対象的形態である価値体
   であろう。
   上着に表現されるリンネルとの共通者=リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」こそが、
   <上着は価値>と、諸物象が理解し、判断したのです。ここ・こそが価値形態解読の出発点です。

   B)<上着は価値>と諸物象が理解し、判断したーーことは、すでに第③パラグラフで示された
   事柄の中にのみ潜在している。
   そこでのーー
   ①「この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。
   なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じもの・・」
   ②「他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる」
   ーーこの説明から①は、価値関係においてのリンネルの対象的形態である等価物上着の役立ち、
           ②は、この反省規定の結果ーー八段落 価値形態の形成
   ーーと導入部は明らかにされている。

   C)価値物上着としてリンネルに対面する価値関係において、(第五段落)ーー
   裁縫労働は人間労働に還元され、リンネル織も抽象的人間労働と示されることで、
   具体的労働が、抽象的人間労働に還元されるーーと解いたのではない。
   それでは、具体的形態の中にある本質的関連において、判断する外的関係のやり方であって、
   物象の判断ではない。価値の実体としての抽象的人間労働が普く現出するのは、第二の形態とし
   てのリンネルの価値存在が現出される 展開された相対的価値形態 においてなのです。
   そこでは、次のように示されている。

   「(イ)ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表
    現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる(23)。」
   (ロ) こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現
   われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でも
   それに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、そ
   れがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化
   されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。
   (ハ)それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいして
   だけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世
   界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価
   値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。」

   上記(イ)リンネルの価値鏡として役立つ上着‥・等々の商品ーーとして示されているのは、
   (ロ)ベーリのいうリンネルの上着価値、小麦価値、鉄価値と表される事柄であり、
   (ハ)リンネルはその価値形態によって、商品世界にたいして社会的な関係に立つ
   ーー事を示すが、その主要因は、
   (ロ)での、リンネルの上着価値・・などと示されることでの
   <この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる>
   ーーことにあり、
   そして、その成果としてリンネルの価値形態となることで商品形態を示し、これはどの商品にも同
   じく起こることだから、他の諸商品とともに商品世界を構成するのです。

   そこで、第二の相対的価値形態と第一の相対的価値形態とを比較すると、
   何がその違いになっているのか?

   a)明らかに、第一の相対的価値形態の形成では、まず上着は価値物であり、価値の存在形態であ
   るが、「上着は価値」としてリンネルとの共通者を表すこと、物象の判断を示すことで、価値物上
   着の規定はご用済みとなり、上着に価値形態の規定を王冠のように授けるリンネルの役立ちーーを
   みせることで、諸物象が判断しているとーー主張したのです。
   この特異性に満ちた論理は、人間様の判断ではなく物象の判断で成立するーーことが理解できない
   と容易にはわからない。
   b)この価値物上着が、①<価値上着であり・価値形態上着となる>、
   そして②<上着は価値表現の材料となる役立ちを成すことで、リンネルは相対的価値形態となる>
   ーーこの資本論の明快な記述に対して、では、<上着は価値体>と示すことで、
   <上着は直接的に価値表現の材料となる等価形態の規定>をもちだすことで、
   「価値表現のメカニズム」の論理を示す、久留間さんの意が何処にあるのか?
   c)しかし、この上着が価値体であることは、使用価値上着が自然的形態のままに、ーー受け取れ
   ないのです。相対的価値表現において上着が価値であり、価値形態であることが示される経過のな
   かでのみ、上着は価値体の規定を受け取るのです。


    それは、つぎの「b 相対的価値形態の量的規定性」に示されています。
   「その価値が表現されるべき商品は、どれも、与えられた量のある使用対象--15シェッフェル
   の小麦、100ポンドのコーヒーなど--である。この与えられた商品量は、一定量の人間労働を含
   んでいる。
   したがって、価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大
   きさをも表現しなければならない。したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネル
   の、価値関係においては、上着という商品種類は、単に価値体一般として、リンネルに質的に等置
   されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば20エレのリンネルに対して、一定量の価値体ま
   たは等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。」(資本論1 原P67)


   <初版附録>
   「こうして、相対的な価値表現によって、第一に、商品の価値は、その商品自身の使用価値とは違
   った形態を得る。この商品の使用形態は、たとえばリンネルである。これに反して、この商品は自
   分の価値形態を上着にたいする自分の同等性関係において、もっている。この、同等性の関係によ
   って、この商品とは感覚的に違っている別の一商品体が、この商品自身の価値存在の鏡となり、こ
   の商品自身の価値姿態となる。こうして、この商品は、その現物形態とは相違し無関係で独立な価
   値形態を得る。
   しかし、第二に、特定の大きさの価値としては、限定された価値の大きさとしては、この商品は、
   自分にたいして別の商品体が等置されているところの量的に規定された関係すなわち割合によって、
   量的に計られているのである。」(初版附録 国民文庫版136-7頁)

   現行版ーーでは、
   「価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさをも表
   現しなければならない。」
   初版附録ーーでは、
   「この商品とは感覚的に違っている別の一商品体が、この商品自身の価値存在の鏡となり、この商
   品自身の価値姿態となる。」ーーと示されている。ここに何が示されているのか?
   価値関係の量的規定性では、価値形態上着として質的規定性があることを見出すことで、それを前
   提にして、附録に示されているように、そのなかで、上着は価値姿態として、価値表現の材料とし
   ての役立ちを引き受けるのです。

   勉強のおかげで、相対的価値表現において、上着は、価値形態であり、価値姿態と規定されるかぎ
   りで、価値表現の材料となる価値体の規定を受け取ったーーという私自身の発見です。

   もう一度再確認するために繰り返すと、価値物上着から、その次の、
   <価値であり、価値形態の規定>を受け取る相対的価値形態の形態内実での追求ーー分析を示すこ
   とで、その次の、展開された相対的価値形態の形成でのーー
   「この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」ーー
   とは異なって、
   「だから、上着のなかには人間労働が積もっている。この面から見れば上着は「価値の担い手」で
    ある。・・・そしてリンネルの価値関係のなかでは、‥・価値体としてのみ認められる。」
   (同上P100)ーーと述べることで、第二の形態で得られた「無差別な人間労働の凝固」とは異な
   っている、事を明らかにしている。

   第二の形態で得られた「無差別な人間労働の凝固」の行方をみておこう。
   この価値の実体である「無差別な人間労働の凝固」は、一般的価値形態をなす無数の等式が、
   「リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、
   こうすることによって、織布を人間労働一般の一般的現象形態にする。このように、商品価値に対
   象化されている労働は、・・・この労働は、いっさいの現実の労働が、それらに共通な人間労働と
   いう性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。」ーーと明らかにされていた。
   このように、リンネルが人間労働一般の現象形態になるーーことで商品世界が形成され、ーー
   「諸労働生産物を無差別な人間労働の凝固として表す一般的価値形態」を示すことで、(再度)
   「それが商品世界の社会的表現であることをしめしている。」(同上P106~107)
   ーーとまとめていたのです。

ここから、やっと理解できることは、
A)<リンネル価値を人間労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、
   ・・・リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。>
ーーという冒頭の質問が、一般的価値形態の形成において、最終的に回答されていたのです。
 

久留間ー大谷理論の克服のために  その2

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月27日(土)11時14分1秒
返信・引用 編集済
  (補足として次を加えておきます。)

①<資本論初版>第二段落
「リネンは他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自己自身に対して自分を関係さ
せる。価値としての自己自身に対して自分を関係させることによって、同時にリネンは自分を使用価値として
の自己自身から区別する。リネンが自分の価値の大きさーーを上着で表現することによって、リネンは自分の
価値存在に自分の直接的な現世の姿とは区別される価値形態をあたえる。
このようにリネンは自己自身の内部を二分したものとして自分を表現することによって、はじめて、自分を商
品としてーー有用であると同時に価値でもある物としてーー表現する。
リネンが使用価値であるかぎりでは、それは一つの自立した物である。
反対に、リネンの価値は、たとえば上着という別の商品との関係のなかでのみ姿を表す。
この関係のなかで、上衣という商品種類はリネンに質的に等置される、したがって一定量の下で同等とされて、
リネンにとって代わることができ、リネンと交換可能になる。
したがって価値は、交換価値として自分を表現することによってはじめて、独自の、使用価値から区別される
形態を得るのである。」(資本論初版 今村訳 筑摩書房刊P286)




②《初版付録》
〈 b 価値関係。  上着がリンネルと同じものであるのは、
ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのことである。だから
リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ
または、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置され
るという、このことは、上着がこの関係において価値として認
められている、ということを表現している。上着はリンネルに
等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにお
いてのことである。だから、同等性関係は価値関係なのである  同等性関係は価値関係
が、しかし、価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現  価値関係は、なによりもまず、
する商品の、価値または価値存在の表現なのである。使用価値  自分の価値を表現する商品の、
または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これ  価値または価値存在の表現なのである。
に反して、リンネルの価値存在は、上着という別の商品種類が
リンネルに等置されるところの、またはリンネルと本質の同じ  リンネルの価値存在は、上着という別の商
ものとして認められるところの、関係において、出現し、自分  品種類がリンネルに等置されるところの、
を表現するのである。〉(国民文庫版134-5頁)        リンネルと本質の同じ・・関係において、
                              出現し、自分を表現する



③《フランス語版》
   〈 だが、等質であり同一の本質であることがこのように
確認された二つの商品は、このばあい同じ役割を演じるわけで
はない。このぼあい表現されるのは、リンネルの価値だけであ
る。それでは、どのようにして? リンネルの等価物としての、
すなわち、リンネルに代位しうるかこれと交換しうる物として
の上衣という別種の商品に、リンネルを比較することによっ   まず明らかなことだが、
て。まず明らかなことだが、上衣がこの関係に入るのは、もっ  上衣がこの関係に入るのは、
ぱら、価値の存在形態としてである。上衣は価値を表現するこ  価値の存在形態としてである
とによってはじめて、他の商品に相対する価値として現われる
ことができるからである。他方、リンネル自体が価値であるこ  他方、リンネル自体が価値であること
とは、ここで姿を現わす、すなわち別の一表現を獲得する。   は、ここで姿を現わす、
実際、もしリンネルがそれ自体価値でなければ、上衣の価値が  すなわち別の一表現を獲得する。
リンネルとの等式に置かれ、あるいはリンネルに等価物として
役立ちうるだろうか?
  化学から一つの類推を借用しよう。酪酸と蟻酸プロピル
は、外観も物理的、化学的性質もちがう二つの物体である。そ  この化学式での例示の理解は、困難です!
れにもかかわらず、両者は同じ元素--炭素、水素、酸素--  マルクスは物的関係でなく物象的関係での
を含んでいる。その上、両者はこれらの元素をC4H8O2とい  物象の判断の例示をしている。
う同じ割合で含んでいる。さて、もし蟻酸プロピルを酪酸との  <蟻酸プロピルは、C4H8O2の存在形態
等式に置くか、あるいは酪酸の等価物とすれば、蟻酸プロピル  として、酪酸と共通である実体の存在形態
はこの関係では、C4H8O2の存在形態としてのみ、すなわち、 としてのみ、現れる>
酪酸と共通である実体の存在形態としてのみ、現われるだろう。 これは明らかに、仮託であり、両者が判断
したがって、蟻酸プロピルが酪酸の等価物としての役割を演じ  を成しえれば、・・との例示です。
る等式は、酪酸の実体をそれの物体形態とは全くちがうあるも  物象の判断・こそが問われている注意点が
のとして表現する、いくらかぎこちないやり方であろう。〉   得られなければ、物的関係のままです。
(20-21頁)                        <酪酸と共通である実体の存在形態>
                              とは?明白に価値の存在形態の意味を指し
                              やがて得られる物象の判断にての価値形態
                              をこそ指す。
                              <酪酸と共通である実体の存在形態>から
                              <共通である実体>をのみ取り上げて、
                              価値物=人間労働の凝固物=価値=価値体
                              ーーと理解すれば、これは物的関係であり、
                              混迷のみが待ちかまえている。


 <堺の研究会の方の価値物への説明>
  ここでは「価値物」というものを如何に捉えたらよいのか、 「価値物」を如何に捉えたらよいのか、
という問題を少し論じておきましょう。この解釈については
「価値体」と関連させて、さまざまに主張されていますが、
「価値体」については、今回はとりあえずはおいておきます。
 久留間鮫造著『貨幣論』(大月書店、1979.12.24)のなか   『貨幣論』での大谷禎之介氏は、
で「価値物と価値体との区別について」と題して、この問題が  『価値形態論と交換過程論』では、先生が
論じられています。そこで大谷禎之介氏は久留間鮫造氏の旧著  <価値物を価値体と同じものとしている>
『価値形態論と交換過程論』では両者が区別されずに論じら   と批判
れ、事実上、価値物を価値体と同じものとしているが、しかし
それだと価値物は等価形態に立つ商品についてのみ言いうるこ  価値物は等価形態に立つ商品についてのみ
とになる、しかしマルクス自身はそうは述べていないと、『資
本論』からいくつかの引用文を紹介し、それらの引用文から結
論されることとして次のように述べています。         <価値対象性を与えられているもの、
〈 これらの個所からは、次のようなことが読み取れるのでは  すなわち価値物>とは?
ないでしょうか。すなわち、労働生産物が商品になると、それ  「価値の存在形態として価値物として認め
は価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。  られる」ーーのことですよ!
しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性を
もったものであることは、その商品体そのものからはつかむこ  商品は他商品を価値物として自分に等置
とができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。
この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通  <ここには「回り道」において、
用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に  裁縫労働は人間労働一般
等置した商品そのものも価値物であることが表現されることに  織布労働は抽象的人間労働
なる。約言すれば、商品の価値表現とは、質的にみれば、商品  ーーに還元されるも、しかし、
が価値物であることの表現であり、等価物とはその自然形態が  「リンネル価値を人間労働の凝固として
そのまま価値物として意義をもつ商品だ、ということです。/  表現するためには、・・

いま申しました、《その自然形態がそのまま価値物として意義  リンネルと他の商品とに
をもつもの》、これが先生の意味での「価値物」ですが、マル  「共通な「対象性」として表現されねば
クスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを  ならない。」(原P65~66)
使っているのではないかと思われるのです〉(『貨幣論』97~  ーーと主張された。6~7段落の主張が
98頁)。                          提示されていない。そこへの一路が無い
                              ここに、何を示すか!
                              事実上の抽象の第五段落では、価値形態
                              は成立できない、説明できない
                              「上着が価値」(第七段落)
                              とーー示す物象の判断ーーが無いのです。
                              大谷先生は、上着は価値であり、価値形態
                              ーーと示している論理が、全く理解不能


<ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、>
ーーとの大谷先生の主張は、氏が翻訳をされた次の文章のなかに、説明されていたのです。

モストの『資本論入門』
《 さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現されるさいの形態に、立ち戻ろう。
この価値形態は生産物交換から、また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。生産がもっぱら自家需要
に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこ
れの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもみの
比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かに決められるように
なり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も未発展の段階では、
交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の
生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価
値物として役立つのである。》(10頁)

「生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれ  物と物との関係である生産物交換の初期で
にとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。   は、他者の財貨の価値を見えるようにする
すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能である  物として、価値物塩が役立つも、ーー
ばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でも  富の基本形態である商品ーーを対象とする
あるような、価値物として役立つのである。」         設定では役立たない。
                              <物象の社会関係が登場する>からです。
                              単純な価値形態=商品形態が、いかにして
                              この相対的価値形態の形成のなかで、成立
                              してくるのか?   をこそ問うのです。



久留間先生の価値形態論が、どのように受け取られているのか?その弊害を示したい。
次の紹介は、商品批判に取り組むも、残念ながら失敗している事例です。
私も、かっては全く同じ意見を持っていた事を表明します。


共産主義者同盟(火花)
中国-東欧の民主化運動について  1994年7月
http://www.hibana.org/p9407_01.html
I 民主化運動の民主主義的側面について
(1)ブルジョア民主主義―市民社会とブルジョア国家
(2)ブルジョア民主主義の形式性と抽象性
(3)ブルジョア民主主義と商品生産
 このような事態は先に述べたように、階級支配の完成、経済的な支配―隷属関係に基 礎をもつものとして
階級関係が構造化されたことによっている。階級支配の実は市民社会 のなか、経済的な関係のなかで挙げら
れており、その支配の政治的な表現―政治的な支 配は、抽象化され形式化されたブルジョア民主主義理念、
この抽象的普遍概念の許に遂行 されることになる。ところでこうした事態は、階級支配の実が挙げられると
ころの市民社 会の中、商品生産―資本主義生産のなかにおける次の事態と照応していると思われる。

 商品の分析、とりわけ価値形態の分析のところである。商品は使用価値と価値との二 重物=統一である。
使用価値としては、商品は個別性、多種多様な具体的姿態として存在 している。使用価値はその背後に具体
的な歴史を背負っており、ものの有用性がまさしく 有用性として現れるためには一定の社会的な条件を前提
する。その限りで使用価値は一定 の社会性を前提し、その契機として社会性を内に孕む。だが、他方、価値
は純粋に社会性 を、ただ社会性そのものを表現する。

「商品の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材 は入っていない。
・・・諸商品はただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸 表現であるかぎりでのみ価値対象性
を持っているのだということ、したがって商品の価 値対象性は純粋に社会的であること・・・」
(『資本論』vol.1.国民文庫 1 p.93)

だが、どのようにしてそれを表現するのか。価値形態の展開を通してである。

a量の商品A=b量の商品B

 商品Aは自分に商品Bを等置することによって、商品Aに含まれている具体的な労働に 商品Bに含まれて
いる具体的な労働を等置する。この双方の商品に含まれている労働の等 置によって、先ず、商品Bをつくる労
働の具体的有用的形態は捨象され、商品Aをつくる 労働とに共通な人間労働に商品Bの労働が還元される。
すなわち抽象化される。このこと を通して、商品Aをつくる労働もまた価値をうみだす労働としては商品B
をつくる労働と 同じであることが表現されている。こうして双方に含まれている労働が価値の実体として 抽
象化され、同じ抽象的人間労働であることが示されている。このように、商品が自らの 社会性を表現する場
合、その社会性は個別性の内で普遍・特殊を規定しているようなもの としてではなくて、抽象化され、「よ
り高い、または最高の類に昇る抽象」(ヘーゲル) でしかないところの社会性である。

 ここでは等価形態にある商品Bがそのあるがままの姿で価値あるもの・価値物として意 義をもつ。商品は
自分の社会性を自ら在るがままに表出することはできず、自分とは異な るある商品を自分に等置すること、他
の一商品を等価形態にすることによってはじめてそ れを表現できる。だから等価形態にある商品はそのまま
の姿で価値物・価値あるもの・抽 象的ではあるが、純粋に社会的なものとして現れる。等価物がこのように
社会性一般をそ れ自体として表現することから、他方の相対的価値形態にある商品はあくまで私的なもの、
“公人一私人”でみたと同様な抽象化された私的なものを表現する。

 この価値形態が一般的価値形態にまで発展し、さらに貨幣形態に固定することを通じて、 商品の持つ社会
的性格と私的性格の対立は固定され、発展する。一般的等価物・貨幣のう ちに一切の社会性が集約され、社
会的な力を集中するのにたいして、それ以外の個々の諸 商品はあくまで私的なものとして一般的等価物=貨
幣に対応する。商品生産社会―資本主 義的生産社会のうちでは、人々の人類としての類的な行為は、かかる
根本的な疎外・転倒 をとうしてしか表現されないのである。

 このように、人々の類としての個別的な行為は、あるがままに社会的なものとしては現 われることができ
ず、それらの行為の一切が商品関係のうちで抽象化され、抽象的な人間 労働一般に還元され、かくしてはじめ
て社会性を実現できる。また他方、抽象化された社 会性は、貨幣のうち集約され、一切の個別性から剥がれ
た抽象、抽象的普遍として貨幣の 力として顕現する。形式的抽象的な普遍に個別的・具体的なものが還元さ
れ、またこの 還元を通じて具体的なものもまた抽象化されるというこの商品生産のメカニズムはまさし く
日々人々が無意識に行なっている事柄なのであり、このことが、形式性と抽象性をその 特徴とするブルジョ
ア民主主義の諸理念の底にあるのである。

*      *       *
 中国や東欧の民主化運動が孕むブルジョア民主主義的な性格は、確かに商品生産―資本 主義的生産の浸
透・発展に根ざしている。だからこそ、このことを自覚的に取り上げ、そ れと意識的に闘わないかぎり、ハ
ンガリーに見られるように、社会の最も内奥からのブル ジョアジーヘの屈服が進行せざるをえないのであ
る。民主化運動が自然成長的に孕むプロ レタリア独裁強化の運動に注目し、掴み、それを育むことが共産主
義者の任務である。



(再度、意見を提起します。)

 

久留間ー大谷理論の克服のために

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月25日(木)22時04分54秒
返信・引用 編集済
   2017年5月25日また学習も進み、新たな考えも浮かんできたので、新たなコメントをしてみました。
 http://p.booklog.jp/book/19345/read
『資本論』学習資料室第15回「『資本論』を読む会」の報告
◎「相対的価値形態の内実」
 今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の
「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の最初からはじめたのですが、結局、たった三つ
のパラグラフを進んだだけでした。
 これはお盆だから、簡単に切り上げたからではなく、それだけ議論が紛糾したからなのです。とにかくパ
ラグラフごとに紹介してゆきましょう。
 しかしパラグラフに移る前に、まず表題についてです。表題はそこでの課題を明らかにしていますから、そ
れをまず見ておきましょう。
 《 2 相対的価値形態 》
 これは《1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形
態》で、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y
量の商品B)という等式のうち、その価値を表す商品20エレの  商品20エレのリンネルは、自らの価値を
リンネルは、自らの価値を別の商品である1着の上着で相対的  別の商品に表しており、その場合は、リン
に表しており、その場合は、リンネルは「相対的価値形態」に  ネルは「相対的価値形態」にあると説明
あると説明されていました。その「相対的価値形態」が、つま
りリンネルの「価値」が「相対的」に表される「形態」が、ま  <「相対的価値形態」にあると説明
ず考察の対象にされるというわけです。            「第一の商品の価値は相対的価値として表
                              される。言いかえれば、その商品は相対的
                              価値形態にある。」(原P63)
                              このままであれば、マルクスは、この形態
                              を前提に述べていることになる。
                              しかしそうではないこれは単なる見取り図
                              内実があって、その形態があるーー明白
 《 a 相対的価値形態の内実 》
 これは「相対的価値形態」として、まずその「内実」
(Inhalt・内容)を問題にするということです。興味深いこ
とに、初版付録では、この部分はさらに次のような小見出しに
細分されていることです。
 a 同等性関係 b 価値関係
 c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実
 つまり現行版の表題は、初版付録の三つ目の表題に一致していると考えることができます。現行版は初版付
録と比べても、この項目は厳密化されて膨らんでいますから、現行版の「a相対的価値形態」の最初の数パラ
グラフは、内容的には、初版付録の「a 同等性関係」と「b 価値関係」に該当すると考えてよいでしょ
う。私の考えでは、これは第1・3パラグラフがそれに当たるのではないかと思っています。しかしそれはそ
れぞれのパラグラフを詳しく見ていくなかで考えることにしましょう
◎価値関係に価値表現が潜んでいるとは?
 それでは、次は、第1パラグラフに移ります。          <再版>
 《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係  ある一つの商品の単純な価値表現が
のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この  二つの商品の価値関係のうちに潜む
価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考
察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のこと
を行っており、価値関係のうちに、二種類の商品の一定量同士
が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされ
ているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元さ
れてはじめて、量的に比較されうるものとなるということであ
る。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、した
がって通約可能な大きさなのである(17)。》
 最初に、先にも紹介しましたが、「初版付録」と「補足と改
訂」および「フランス語版」では、この部分はどうなっている
のかをみておくことにしましょう。
 《《初版付録》
 〈 a 同等性関係  自分の価値を表現しようとするものは
リンネルなのだから、リンネルのほうかちイニシアチブは出て
いる。リンネルは、上着にたいして、すなわち、なんらかの別
な、リンネル自身とは種類の違う商品にたいして、ある関係に
はいる。この関係は等置の関係である。20エレのリンネル=1
着の上着という表現の基礎は、事実上、リンネル=上着であっ  リンネル=上着
て、これは、言葉で表わせば、ただ、商品種類上着は、自分と  商品種類上着は、自分とは違う商品種類リ
は違う商品種類リンネルと同じ性質のもの、同じ実体のもので  ンネルと同じ性質のもの、同じ実体のもの
ある、ということでしかない。人々はたいていはこのことを見
落とすのであるが、そのわけは、注意が、量的な関係によっ   上着が同じ実体の、同じ本質の
て、すなわち、一方の商品種類が他方の商品種類と等置されて  物としてのリンネルに関係させられる
いる特定の割合によって、奪われてしまうからである。人々が
忘れているのは、違う諸物の大きさは、それらが同じ単位に換  このように、初版附録のここでは、
算されたのちに、はじめて量的に比較されうる、ということで  <同等性関係>が扱われている。
ある。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、それらは同じ分母   <価値関係> ではない。
の、したがってまた通約可能な大きさなのである。だから、前
述の表現では、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係
するのであり、言い換えれば、上着が同じ実体の、同じ本質の
物としてのリンネルに関係させられるのである。だから、上着
はリンネルに質的に等置されるのである。〉
(国民文庫版133-134頁)
 《補足と改訂》
 ある一つの商品,たとえばリンネル,の相対的価値表現--
20エレのリンネル=1着の上着 すなわち20エレのリンネ
ルは1着の上着に領する--において,人は,たいてい,量的  量的な関係 一定の割合だけ
な関係だけを,すなわちある商品が他の商品と等しいとされる
一定の割合だけを,見ようとする。その場合,見落とされてい
るのは,異なった物の大きさは,それらが同じ単位に還元され  それらが同じ単位に還元され
てはじめて,量的に比較されうるものとなるということであ   てはじめて,量的に比較されうる
る。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名   ものとなるということ
の,それゆえ同じ単位で計量されうる大きさなのである。
                    [B]
 ある一つの商品の簡単な価殖表現が二つの商品の価値関係の
うちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには,この価
値関係を,さしあたりその量的関係からまったく独立に,考察
しなければならない。人は,たいてい,これと正反対のことを
行っており,価値関係のうちに,二種類の商品の一定分量どう  価値関係のうちに,二種類の商品の
しが等しいとされる一定の割合だけを見ている。その場合,見  一定の割合だけを見ている。
落とされているのは,異なった物の大きさは,それらは同じ単
位に還元されて〈Zrückfürung〉はじめて,量的に比較されう
るものとなるということである。それらは,同じ単位のもろも
ろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同し単位で計量されう
る大きさなのである。〉(『補足と改訂』前掲61-63頁)
 《フランス語版》
〈一商品の単純な価値表現がどのように二つの商品の価値関
係のうちに含まれているか、を見つけ出すためには、まず、こ
の価値関係を、その量的な側面は無視して、考察しなければな
らない。一般に行なわれているのはこれと逆のことであって、
価値関係のうちに、二種の商品の一定量が相互に等しいと表わ  価値関係のうちに、二種の商品の一定量
されている割合を、もっぱら考察するのである。相異なる物   が相互に等しいと表わされている割合を、
は、同じ単位に換算されたのちにはじめて量的に比較しうるこ  もっぱら考察する
とが、忘れられている。ただそのばあいにだけ、これらの物は
同じ分母をもち、通約可能になる。〉(前掲19-20頁)

 さて、ここで問題になったのは冒頭の《ある一つの商品の単
純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜ん
でいるか》という部分でした。
  これを見ると、価値表現は価値関係のなかに「潜んでいる」
と読めるが、両者の関係はどういうものか、そもそも価値関係
とは何か、交換関係とはどう違うのか、そして価値表現が「潜
んでいる」ということは、そのなかに隠れているということ
か、とするなら価値関係は一見すると見えている(明らかであ
る)ことになるのか、そして価値表現はそうではなくてそこに
隠されているということか、等々と、それはそれは、大変な議
論が、例によってJJ富村さんなどから次々と出されて、紛糾
しました。順序を追って考えてゆきましょう。
 まず確認しなければならないのは、20エレのリンネル=1
着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式は、次の  20エレのリンネル=1着の上着
ような意味をもっているということです。すなわちわれわれの
住むこの社会は、われわれが生きていくのに必要もののほとん  ある一つの商品の一定量が別の他の商品の
どを商品として生産し、それを社会的に交換することによって  一定量と交換されるという現実として
維持されているということです。だから二商品の等式は、そう
した社会の物質代謝をなしている商品交換のもっとも基本的な  一定の使用価値量の交換割合
関係として、二商品が交換される関係を取り出しているという
ことです。しかもそれは現実に存在している客観的な商品交換
の関係から、それに付随するさまざまなもの、例えばそれらが
資本の生産した商品であるという属性や、商品の売買にまつわ
る信用や、商品所有者や購買者の思惑や欲望、貨幣等々、実際
に商品が交換され売買されている諸関係に付随するさまざまな
諸問題はとりあえずはすべて捨象されて、とにかく商品と商品
が社会的に交換されるという物質代謝のもっとも抽象的な関係
だということです。
だからそれは直接には、ある一つの商品の一定量が別の他の商
品の一定量と交換されるという現実としてわれわれの前には現
われているのです。これが交換関係です。
それは直接にはそれぞれの一定の使用価値量の交換割合として
われわれには見えています。
 しかし二つの使用価値が交換されるということは、それらが
同等であり、等置されるものであるからです。リンネルと上着
が等置されるから、それらは交換可能なのであって、実際に交
換されているわけです。それが初版付録にいう「同等性関係」  初版付録にいう「同等性関係」いうのは、
ということではないでしょうか。そして二商品の同等性関係と  それらの価値の関係であるということ
いうのは、それらの価値の関係であるということです。つまり  つまり、
価値として両者は等しいことを意味しているということです。  価値として両者は等しいことを意味
だから20エレのリンネル=1着の上着という等置は、リンネ
ルと上着を両者のもつ価値の側面から観た場合の等置関係なわ  だから《価値としてはリンネルと上着は同
けです。                          じ本質のものである》わけです。
これが、すなわち価値関係です。価値はもちろん目に見えない
から、価値関係も見えません。しかし交換関係は現実の客観的
な過程ですから、目に見えています。ただ等置されている関   杉本
係(同等性関係)は見えても、何が等しいのかは見えていませ  <現行版、第三パラグラフの説明の前に、
ん。そして何が等しいかと言えば、それらは価値として等しい  (イ)同等性関係(ロ)価値関係
ということです。だから《価値としてはリンネルと上着は同じ  の比較をして
本質のものである》わけです。                ー価値としてリンネルは上着に等しいー
 価値表現は、価値関係をさらに論理的に解剖するなかから見  「したがって、上着に見えるのである。」
出すことができるように思えます。価値表現は、それは「表現」 (原P66)
ですから、価値が表され、見えているわけですが、しかしその  ーーこのように、商品語での主張は、
見えているカラクリは直接には見えませんし分かりません。そ  正しい!!!と、
れを説明するのが「相対的価値形態の内実」というわけです。  久留間さんの宇野批判の転倒
                              は批判するではなく、正しい、と肯定

 以前、大阪で「『資本論』を学ぶ会」で学習したときに、そのニュースのなかで、これらの諸カテゴリーの
関係を図示した次のようなへたくそな図を紹介しましたが、参考のために再び紹介しておきます。(略)
◎ベイリーが価値形態と価値とを混同しているとは?
 次は、注17です。
 《 (17) S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげるこ
とができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的な
ブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。
「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者は
S・ベイリー。》
 ここではベイリーが「価値形態と価値とを混同している」というのは、どういうことかという質問がでまし
た。これについてはマルクス自身が『剰余価値学説史』のベイリー批判のなかで論じているものを紹介するだ
けにします。
 《われわれは、価値が価格で計られ、表現されているのを見いだす。したがって、〔べーリはこう主張する
のである〕われわれは--価値とはなにかを知らないで満足することができる、〔と〕。価値尺度の貨幣への
発展、さらにまた価格の度量標準としての貨幣の発展と、その発展のなかで価値そのものの概念を交換される
諸商品の内在的尺度として発見することとを、彼は混同しているのである。彼が正当なのは、この貨幣は不変
の価値をもっている商品であることを要しない、としている点である。だが彼は、このことから、こう推論す
る、商品そのものとは独立な、それとは区別される価値規定は、不必要である、と。
 諸商品の価値が諸商品の共通な単位として与えられるようになれば、そのときには諸商品の相対的価値の測
定とそれの表現とは一致することになる。だが、われわれは諸商品の直接的定在とは違っている一単位に到達
しないかぎり、表現に到達することはない。
 AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあっても、両方のあいだの距離について語るには、両方が
すでにともに空間のなかの点(または線) であることが想定される。それらは、点に、しかも同一線上の点
に、変えられるから、それらの距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである。二つの商品AとBと
の共通な単位は、一見したところでは、それらの交換可能性である。それらは「交換可能な」物である。「交
換可能な」物としてそれらは同じ単位名称の大きさなのである。だが、このような「交換可能な」物としての
「諸商品の」存在は、使用価値としての諸商品の存在とは違っていなければならない。それは、なんであろう
か。…(中略)…貨幣は、単に、諸商品の価値が流通過程で現われる形態にすぎない。だが、私は、どのよう
にしてx量の綿花をy量の貨幣で表わすことができるであろうか? この問題は次のような問題に帰着する。
すなわち、私は一般にどのようにして一商品を他の商品で、または諸商品を等価物として、表わすことができ
るであろうか? というのがそれである。
これに解答を与えるのは、ただ、価値の発展、つまり一商品の他の商品での表示にはかかわりのない価値の説
明だけである。》(『学説史』Ⅲ215-6頁)
(『剰余価値学説史Ⅲ』マルエン全集26ⅢP209~210)
◎園児20人=関取1人
 次は第二パラグラフです。
《 20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、=x着の上着 であろうと、
すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、このような割合はどれ
も、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということ
を、つねに含んでいる。リンネル=上着 が等式の基礎である。》
「フランス語版」もほぼ同じような内容なので、「補足と改訂」から類似する部分を紹介しておきましょう。
 《補足と改訂》[A1]
  実際,20エレのリンネル=1着の上着という表現におい
て,リンネルは上着に等しい大きさとして,上着に関係させら
れている,すなわち,上着に質的に等置されている。リンネル
=上着が等式の基礎であり,ある一つの商品の,他の違う種類
の商品との等置関係が,どのような割合で結ばれていようと
も,それはその商品の価値関係である。上着とリンネルとは、
両者が価値である限りにおいて同じ物である。使用価値あるい
は商品体としては、リンネルは上着と区別される,価値として
はリンネルは上着と同じ本質の物である。
     [A2]
  実際,表現--20エレのリンネル=1着の上着--にお
いては,リンネルと上着とは同名の大きさとして意味をもって
いる。リンネル=上着がこの等式の基礎である。20エレのリ
ンネル=1着の上着であろうと,2着の上着であろうと,x着
の上着であろうと,どの場合においても,商品リンネルは,同
じ牲質の物としての自分と等しい物としての,異なる種類の商
品・上着と関係させられているのであり,すなわち,リンネル
は上着に質的に等置されているのである。
                  [B]
  20エレのリンネル=1着の上着であろうと,=20着の
上着であろうと,=x着の上着であろうと,すなわち,一定分
量のリンネルがどれだけ多くの上着に値しようと,どれだけ少
ない上着に値しようと,このような割合はどれもリンネルと上
着とは,価値の大きさとしては同し単位の諸表現であり,同じ
性質の物であるということを,つねにふくんでいる。リンネル
=上着が等式の基礎である。したがって,異なる種類の商品の
質的等置が,価値関係の現実的内容である。今や,この内容が
現象している形態を考察することが重要である。〉(61-63頁)

 まずここでは20エレのリンネルに等置される上着の使用価
値の量がどれほどであろうと、とにかくそれが上着の一定量と
して表されるということは、リンネルと上着が量的に比較され  リンネルと上着が量的に比較されている
ているということであり、そのためには二つの商品は同じ質に  そのためには二つの商品は同じ質に還元
還元されているということです。
先の『学説史』のベーリ批判で
も《AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあって
も、両方のあいだの距離について語るには、両方がすでにとも
に空間のなかの点(または線)であることが想定される。それ
らは、点に、しかも同一線上の点に、変えられるから、それら
の距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである》と  AとBとの距離を問う、
述べていましたが、AとBとの距離を問う、ということはAと  ということは
Bが同じ空間で同一線上にある点という質的同一性が前提され  AとBが同じ空間で同一線上にある点
ているわけです。だからリンネルと上着が量的に比較される   という質的同一性が前提
(等置される)ということは、リンネルと上着が同じ質に還元
されて初めて言いうることだということです。
 JJ富村さんは、この議論の途中でやおら立ち上がって、黒
板に次のような等式を書きました。
 園児20人=1人の関取
つまりこの等式では園児も関取も、ともに重量という単位に還  この等式では園児も関取も、ともに重量
元されて比較されているのだというわけです。この場合は重量  という単位に還元されて比較されている
が共通の単位といわけです。                 この場合は重量が共通の単位
ピースさんが用意してくれたレジュメでは「二つの商品は同じ
単位の表現をしており、抽象的人間労働という同質性をもって
いることが基礎となる」と説明されていましたが、まだこの時
点では、同質性として問題になっているのは、「価値」であっ
て、その実体としての「抽象的人間労働」そのものが問題にな
っていないのではないかということになりました。
◎「価値物」とは?
 次は第三パラグラフです。
《 しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じる
のではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのよ
うにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、また
はリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係
させられることによって、である。この関係の中では、上着   この関係の中では、A)上着は、
は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜな  価値の存在形態として、価値物として、通
ら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じも  用する。
のだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現  なぜなら、ただそのようなものとしてのみ
れてくる。                         上着はリンネルと同じものだからである
すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価
値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれ  他方ではB)リンネルそれ自身の価値存在
と交換されうるものとしての上着に関係するからである。たと  が現れてくる
えば、酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし、
両者は、同じ化学的実体--炭素(C)、水素(H)、および
酸素(O)から成りたち、しかも同じ比率の組成、すなわち
C4H8O2 で成りたっている。 今酪酸に蟻酸プロピルが等   第一に、
置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピル  蟻酸プロピルC4H8O2の存在形態
は単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し、第二に、酪酸   第二に、
もまた C4H8O2 から成りたっていることがのべられるであ  酪酸もまた C4H8O2 から成りたつ
ろう。すなわち、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによっ
て、その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現さ
れるであろう。》
まず、類似した説明として「初版付録」と「補足と改訂」およ
び「フランス語版」から紹介しておきます。
 《初版付録》
〈 b 価値関係。  上着がリンネルと同じものであるのは、
ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのことである。だから
リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ
または、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置され
るという、このことは、上着がこの関係において価価として認
められている、ということを表現している。上着はリンネルに
等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにお
いてのことである。だから、同等性関係は価値関係なのである  同等性関係は価値関係
が、しかし、価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現  価値関係は、なによりもまず、
する商品の、価値または価値存在の表現なのである。使用価値  自分の価値を表現する商品の、
または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これ  価値または価値存在の表現なのである。
に反して、リンネルの価値存在は、上着という別の商品種類が
リンネルに等置されるところの、またはリンネルと本質の同じ  リンネルの価値存在は、上着という別の商
ものとして認められるところの、関係において、出現し、自分  品種類がリンネルに等置されるところの、
を表現するのである。〉(国民文庫版134-5頁)        リンネルと本質の同じ・・関係において、
                              出現し、自分を表現する
 《補足と改訂》   [A1
 さて,ある一つの商品A,例えばリンネルは,どのようにし
て、自分と等しい価値の物すなわち自分の等価物としての,何
かある他の商品B,例えば上着と関係するのだろうか。
 答えは簡単に商品価値の本性から明らかになる。ある一つの
商品は,それが単に,それの生産に支出された人間的労働力の
物的表現,物的外皮である限りにおいて,したがって,人間的
労働そのものの,抽象的人間的労働の,結晶である限りにおい
て,それは価値なのである。そのことは,石炭が暖房材料とし
ては,それによって吸収された太陽光線の物質的外皮に他なら
ない,というのと同じことである。
 したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他のあ
る商品B,例えば上着と,価値として等置されることができる
のは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物と
して通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っ
ている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的
労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りにおい
てのみである。〉(62-3頁)
 《フランス語版》
   〈 だが、等質であり同一の本質であることがこのように
確認された二つの商品は、このばあい同じ役割を演じるわけで
はない。このぼあい表現されるのは、リンネルの価値だけであ
る。それでは、どのようにして? リンネルの等価物としての、
すなわち、リンネルに代位しうるかこれと交換しうる物として
の上衣という別種の商品に、リンネルを比較することによっ   まず明らかなことだが、
て。まず明らかなことだが、上衣がこの関係に入るのは、もっ  上衣がこの関係に入るのは、
ぱら、価値の存在形態としてである。上衣は価値を表現するこ  価値の存在形態としてである
とによってはじめて、他の商品に相対する価値として現われる
ことができるからである。他方、リンネル自体が価値であるこ  他方、リンネル自体が価値であること
とは、ここで姿を現わす、すなわち別の一表現を獲得する。実  は、ここで姿を現わす、
際、もしリンネルがそれ自体価値でな.ければ、上衣の価値が  すなわち別の一表現を獲得する。
リソネルとの等式に置かれ、あるいはリンネルに等価物として
役立ちうるだろうか?
  化学から一つの類推を借用しよう。酪酸と蟻酸プロピル
は、外観も物理的、化学的性質もちがう二つの物体である。そ
れにもかかわらず、両者は同じ元素--炭素、水素、酸素--
を含んでいる。その上、両者はこれらの元素をC4H8O2とい
う同じ割合で含んでいる。さて、もし蟻酸プロピルを酪酸との
等式に置くか、あるいは酪酸の等価物とすれば、蟻酸プロピル
はこの関係では、C4H8O2の存在形態としてのみ、すなわち、
酪酸と共通である実体の存在形態としてのみ、現われるだろう。
したがって、蟻酸プロピルが酪酸の等価物としての役割を演じ
る等式は、酪酸の実体をそれの物体形態とは全くちがうあるも
のとして表現する、いくらかぎこちないやり方であろう。〉
(20-21頁)
 ここでは「価値物」というものを如何に捉えたらよいのか、 「価値物」を如何に捉えたらよいのか、
という問題を少し論じておきましょう。この解釈については
「価値体」と関連させて、さまざまに主張されていますが、
「価値体」については、今回はとりあえずはおいておきます。
 久留間鮫造著『貨幣論』(大月書店、1979.12.24)のなか   『貨幣論』での大谷禎之介氏は、
で「価値物と価値体との区別について」と題して、この問題が  『価値形態論と交換過程論』では
論じられています。そこで大谷禎之介氏は久留間鮫造氏の旧著  <価値物を価値体と同じものとしている>
『価値形態論と交換過程論』では両者が区別されずに論じら
れ、事実上、価値物を価値体と同じものとしているが、しかし
それだと価値物は等価形態に立つ商品についてのみ言いうるこ  価値物は等価形態に立つ商品についてのみ
とになる、しかしマルクス自身はそうは述べていないと、『資
本論』からいくつかの引用文を紹介し、それらの引用文から結
論されることとして次のように述べています。
〈 これらの個所からは、次のようなことが読み取れるのでは
ないでしょうか。すなわち、労働生産物が商品になると、それ
は価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。
しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性を
もったものであることは、その商品体そのものからはつかむこ  商品は他商品を価値物として自分に等置
とができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。
この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通  <ここには「回り道」において、
用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に  裁縫労働は人間労働一般
等置した商品そのものも価値物であることが表現されることに  織布労働は抽象的人間労働
なる。約言すれば、商品の価値表現とは、質的にみれば、商品  ーーに還元されるも、しかし、
が価値物であることの表現であり、等価物とはその自然形態が  「リンネル価値を人間労働の凝固として
そのまま価値物として意義をもつ商品だ、ということです。/  表現するためには、・・
いま申しました、《その自然形態がそのまま価値物として意義  リンネルと他の商品とに
をもつもの》、これが先生の意味での「価値物」ですが、マル  「共通な「対象性」として表現されねば
クスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを  ならない。」(原P65~66)
使っているのではないかと思われるのです〉(『貨幣論』97~  ーーと主張された。6~7段落の主張が
98頁)。                          提示されていない。
                              ここに、何を示すか!
                              事実上の抽象の第五段落では、価値形態
                              は成立できない、説明できない
                              「上着が価値」(第七段落)
                              とーー示す物象の判断ーーなのです。
                              大谷先生は、上着は価値であり、価値形態
                              ーーと示している論理が、全く理解不能

 これに対して、久留間氏は〈 この点については、いま君が
言われたことはまったくそのとおりです。「価値体」あるいは  <価値物・価値の存在形態>とは?
「価値物として通用する物」と言うべきであったのを「価値物」 対象的形態が獲られていないーーとのこと
と言ったのはぼくのたいへんなミスでした〉(同99頁)
と間違いを認め、大谷説に同調しています。つまり「価値物」  つまり「価値物」とは、
とは「価値対象性をもったもの」という意味だというのです。  「価値対象性をもったもの」という意味
だからまたそれはリンネルについても言いうるものと捉えられ
ているわけです。しかし果たしてそうなのでしょうか。     しかし果たしてそうなのでしょうか。
 われわれは以前、紹介したモストの『資本論入門』の次の一
文(これはマルクス自身が書き直したと思われるものです)を
もう一度紹介しておきましょう。
《 さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現される
さいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、
また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。  生産が
もっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれ
に、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあ
れこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩
と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもみの比率で交換
される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率  モストの『資本論入門』
はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮はある一  一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換
定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も
未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の  交換者のそれぞれにとって、他の交換者の
財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として  財貨が等価物として役立つ
彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財  彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡
貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として  価値物として役立つ
役立つのである。》(10頁)
              <モストの記述を編集したマルクスが、単純商品の交換においては、
              等価物塩は、価値物の規定から、進んで価値形態の規定・すなわち、
              物象の判断として示される「価値形態」の規定を受け取っていないことを、
              そのことをこそ示し、商品形態が、その場限りであることーーを示した。>
ご覧の通り、マルクスは《 生産物交換のこの最も未発展の段
階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価
物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産し
た財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を
見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つので  <つまり等価物というのは、相対的価値形態
ある》と述べています。つまり等価物というのは、相対的価値  にある商品の価値を見えるようにする鏡>
               <モストの「入門」のこの記述では、歴史上の単純商品が対象であり、
               塩は、価値物として、その折々にこの関係から規定される。
               「相対的価値形態にある商品の価値を見えるようにする鏡」
               ーーこれは全くの誤り、思い込み。
               塩は、価値物であり、価値形態を受け取っていないので、
               相対的価値形態を受け取っていないのです。
形態にある商品の価値を見えるようにする鏡であり、そのよう
なものとして価値物として役立つと述べているわけです。だか
ら「価値物」というのは、相対的価値形態にある商品の価値が  単に「価値対象性をもったもの」
「見えるようにする鏡」の役割を果たしているものという意味  では、価値が見えるものとはならない
であるわけです。単に「価値対象性をもったもの」ということ
では、価値が見えるものとはならないでしょう。        相対的価値表現ーーをしているので、
                              相対的価値形態が如何にして成立するか?
                              をマルクスは議論しているのに、
                              「価値物」上着の役立ち
                              において、等価形態が如何にして成立か?
                              この歪曲は、すさまじい!
 またすでに紹介した「補足と改訂」では、次のようにも述べ
ています。
《 したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他の
ある商品B,例えば上着と,価値として等置されることができ
るのは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物
として通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成
っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間
的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りに
おいてのみである。》
 つまりここでは「価値物」を説明して《すなわちその唯一の
素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいは
それゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物
として通用する》と述べています。つまり「価値物」としての
上着は、ただ人間労働だけから成っている(つまり具体的な裁
縫労働と生産諸手段との結合の産物ではない、その使用価値の  その使用価値の姿が人間労働として通用して
姿が人間労働として通用している)ものであり、だから《その  いる)もの
肉体が人間労働以外の何物をも表さない物》だと説明してされ
ています。だから「価値物」としての上着はまさにその肉体が
価値そのものであるような物なのです。すなわち価値の実存形
態、すなわち本質である価値が物(Ding)として現われている
ものだということができます。
 さらにこれは前回紹介したものですが、マルクスは初版本文
のなかで「等価物」を説明して、次のように述べていました。
 《 等価物という規定は、ある商品が価値一般であるというこ
とを含んでいるだけではなく、その商品が、それの物的な姿に
おいて、それの使用形態において、他の商品に価値として認め
られており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価
値として現存している、ということをも含んでいる。》
(夏目訳36頁)
 だから「等価物」である上着がリンネルの「価値物」として
認められる(通用する)ということは、やはりその上着という
物的な姿において、リンネルの価値として認められる(直接
に、リンネルの交換価値として存在している)ということでは
ないかと思います。
 では、「価値物」と「価値体」とはどう異なるのか、それと
も同じものなのか、ということについては、すぐにまた議論す
る機会があるでしょうから、今回は論じるのはやめておきま
しょう。
 だからこのパラグラフの説明としては、次のようになると思
います。
 リンネルの価値はどのように表現されるのか? リンネル
が、自分に等しいものとしての、自分と「交換されうるもの」
としての上着に、関係することによってである。この関係のな
かでは、上着は、価値の存在形態として、つまりリンネルの価
値そのものが物として現われているものとして、すなわち
「価値物」として認められる。そうしたものとしてのみ上着は
リンネルに等置されるのだからである。するとリンネルの価値
存在もそうした関係のなかで自らの表現を受け取ることになる。
つまりリンネルの価値は、上着という姿で、一つの物として目
に見える形で表されているわけである。上着は、ここではリン
ネルの価値の目に見える存在形態として、つまり価値物として
通用しているのである。


 

 米朝対立による朝鮮半島の緊張

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月13日(土)22時59分39秒
返信・引用 編集済
   米朝対立による朝鮮半島の緊張
宇宙人ぶー 氏の見事なツイート紹介
https://twitter.com/Bu_uuu/status/859941044141531137
米国務長官、北朝鮮に軟化促す「侵攻の意図なし」
  http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN04H0F_U7A500C1000000/
朝鮮戦争の休戦協定を破っているのは米韓なのだが……

   <以上の記事を紹介しようと準備していたら、
      もう一つ  次の見事なツィートの援軍を得たのでまず紹介します。>

     武士道平和党  @BushidoHeiwa
    これからも軍事力はアメリカに任せ、
   日本は9条の精神で中国、ロシアとの友好を深めて東アジアの安定化に貢献しよう。
   NOTHING IS IMPOSSIBLE (モハメド アリ)。
   北朝鮮、中国、ロシアを仮想敵国にして不安定化し、
   軍国化する「明治~日本軍~自民党」の醜い指導者には従うな。

そこで、杉本が
 上記の日 経 の① ② ③ の記事の記述を追ってみると
 5月1日には、朝鮮民主主義人民共和国と、アメリカ・トランプとの間には、
 次の合意ができていたーーことが見て取れます。

 「我々の強力な戦争抑止力によって、朝鮮半島情勢がもう一つの峠を越えた」。
  北朝鮮外務省は1日発表した談話で、
  米朝対立による朝鮮半島の緊張がピークをすぎたとの認識を示唆した。

私も内心震え上がっていたーー事を正直申し上げておきます。
日本経済新聞の見事な事後の追求の賛美して紹介します。

  日本経済新聞
 ①http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN04H0F_U7A500C1000000/
 米国務長官、北朝鮮に軟化促す「侵攻の意図なし」
2017/5/4 6:05

 【ワシントン=永沢毅】ティラーソン米国務長官は3日、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮について
「(南北朝鮮を分けている)北緯38度線の北側に行く理由を探しているわけではない」
と表明した。
北朝鮮に攻め入る意図はないと明確にすることで、
金正恩(キム・ジョンウン)政権に核放棄に向けた譲歩を重ねて促した。

 国務省内での職員向けの講演で語った。
ティラーソン氏は北朝鮮の体制転換や政権の崩壊、
朝鮮半島の再統一のいずれもめざしているわけではないと説明。
「状況が整えば、対話する準備はできている」と語った。

 ただ、北朝鮮の行動次第では「米国は追加制裁の用意がある」と明言。
圧力強化を続ける考えも改めて示し、核実験や弾道ミサイル発射をけん制した。
国連加盟国に対しては、国連安全保障理事会の制裁決議の履行が必要とも力説。
適切に対応しなければ「第三国を通じて制裁をするだろう」とも語った。
経済面での後ろ盾である中国を念頭に、北朝鮮への圧力を強めるよう念押しした。

 ②http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS03H1P_T00C17A5PE8000/
海自の護衛艦2隻、米艦防護の任務終了
2017/5/3 17:56

海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」=共同
 安全保障関連法に基づき海上自衛隊が1日から実施している「米艦防護」の任務が3日午後、終了した。
1日から海自のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」が米海軍の補給艦と太平洋側を並走。
その後、護衛艦「さざなみ」も加わり米補給艦を守った。
安保法に基づく新任務の実施は今回が初めてとなる。

 いずもは1日に房総半島沖で米海軍の貨物弾薬補給艦「リチャード・E・バード」と合流。
航行中は水上レーダーなどで周辺海域を監視する役目を担ったとみられる。
さざなみは2日午前に海自の呉基地を出港し、最後は2隻で米艦防護にあたった。

 いずもは今後、シンガポールでの国際観艦式に参加する予定。
米補給艦は北朝鮮の弾道ミサイル警戒のため、日本海に展開する米艦船への補給にあたるとみられる。
 米艦防護は昨年12月に政府が運用指針を決定し、日米が実施時期を探っていた。

 ③http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM02H3S_S7A500C1EA2000/
米朝、対立か対話か トランプ氏「環境整えば会談」
2017/5/3 0:03
北朝鮮

【ソウル=峯岸博、ワシントン=永沢毅】北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐり、
対峙する米朝が対話の機会を探り始めた。
トランプ米大統領は空母や原潜で圧力をかける一方、
1日には環境が整えば米朝首脳会談に応じる意向も示した。
北朝鮮は6回目の核実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射で
米国を威嚇する構えを崩さないが、外交戦に持ち込みたい意思も垣間見える。
対立か対話か、北朝鮮情勢は分水嶺に差しかかったようだ。

威嚇の応酬が続くトランプ氏と金正恩氏=いずれもAP
 トランプ氏の発言は1日の米ブルームバーグ通信とのインタビューで飛び出した。
「これはニュースになるだろうね」と前置きしたうえで
「環境が適切なら彼と会ってもいいだろう」と述べた。
1月の就任後に米朝首脳会談に前向きな発言をしたのは初めて。

 「我々の強力な戦争抑止力によって、朝鮮半島情勢がもう一つの峠を越えた」。
北朝鮮外務省は1日発表した談話で、
米朝対立による朝鮮半島の緊張がピークをすぎたとの認識を示唆した。
トランプ氏の発言は同談話に呼応した可能性もある。

 朝鮮半島の緊張緩和に向けて、米朝は対話に動き出すのか。北朝鮮の環境は整いつつある。

 北朝鮮で故金日成主席生誕105年や軍創建85年という重要な記念日が続いた4月が終わった。
当面は目立った国内行事はない。
一連の行事で金正恩(キム・ジョンウン)委員長の権力固めが落ち着いたとして、
外交攻勢に出てくるとみる専門家も多い。
慶南大の梁茂進教授は「米国を相手に武力挑発で威嚇を続ける態度を示しつつ、
対話の必要性も感じているとのメッセージを一緒に送った」と談話を解釈した。

 金委員長は昨年5月の労働党大会で「核保有国の地位に見合った対外関係を発展させる」
と外交重視の姿勢を表明。
4月の最高人民会議では、約20年ぶりに外交委員会を復活させ、
対米交渉などのベテランを要職に据えた。
朝鮮戦争の休戦協定に代わる平和協定締結への協議を呼びかけてきた北朝鮮に
とってトランプ氏の発言は渡りに船だ。

 さらに北朝鮮では毎年5月中旬から田植えの季節が訪れる。
「田植え戦闘」と呼ばれ、住民が農業生産量を高めるために農作業に総動員される毎年恒例の行事だ。
学生は1カ月程度休学になり農村に向かうとされ、軍の兵士も欠かせない労働力。
長引く緊張で田植えが滞れば、秋には食糧難に陥りかねない。持久戦は避けたいのが本音だ。

 焦点は米政権が北朝鮮との直接対話に応じるかどうか。
トランプ政権はオバマ前政権の実質的な融和策だった「戦略的忍耐」を転換し、
対話のための対話には応じない。
戦略目標とする朝鮮半島の非核化とICBMの阻止を対話の条件に突きつけるのは確実だ。

 米朝首脳会談に含みを持たせたトランプ氏は「環境が整えば」とも指摘。
「彼(金委員長)がミサイルを米国に撃ってくるような状況では環境は整わない」と語った。

 一方、北朝鮮は米本土に届く核ミサイルをカードに金正恩体制の保証を取り付けたい。
イラクやリビアの例をみて、核開発を米国の敵視政策に対抗する独裁体制の生き残り策と信じている。
米朝の溝は依然として深い。
スパイサー米大統領報道官は1日の記者会見で「明らかに今その条件は整っていない」とした。

 中国はトランプ氏の発言に肯定的な反応を示した。
外務省の耿爽副報道局長は2日の記者会見で
「米国と北朝鮮は直接の当事国としてなるべく早く政治決断し、行動に移すべきだ」
と述べ、早期の米朝対話を促した。
「対話や平和的な方法による解決が唯一の現実的かつ正しい選択だと考えている」とも語った。

 3月に始まった米韓合同軍事演習は4月30日に終わったが、
米空母「カール・ビンソン」や米原潜「ミシガン」が朝鮮半島近海にとどまり、
圧力をかける。北朝鮮は威嚇をやめない。米朝の間で中国はどう渡りをつけるのか。
米朝は挑発・けん制を繰り返しながら、中国を交えた水面下の駆け引きを加速させそうだ。

<紹介ーー以上であります。>
 

緊張など迫っていないのに、国民を恫喝していることが「けしからん」

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月11日(木)16時32分43秒
返信・引用 編集済
    高野 孟 氏の時選に適した良い記事紹介

目くらましのために北朝鮮危機を過剰に煽る“便乗詐欺”
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/205070/1
 高野孟     2017年5月11日

 安倍晋三首相のゴールデンウイークの過ごし方といえば、
 ①4月27~30日に何の用事で行ったのか分からないロシア・英国を訪問し、
 ②5月1日は午前中に官邸で会議があって、午後は散髪、夜は新憲法制定推進大会で挨拶し、
 ③2日は東北被災地視察。
 ④3日に山梨県の別荘に移って7日まで滞在し、
  その間にお友達とのゴルフが3回、中華料理店での会食2回、
  庭でバーベキュー1回、温泉旅館で入浴1回と、本人も
  「非常にゆっくりした。明日からまた頑張る」と言うほど、
  のんびりしたリフレッシュ休暇だった。
   (①~④は杉本挿入)
 とすると、今にも米朝間で戦争が始まって、日本にも北朝鮮のミサイルが
降ってきそうだというあの一連の騒ぎはいったい何だったのか。元外務官僚が言う。

「意図的に危機感を煽って国民を脅し、政権への求心力を高めようとする心理作戦です。
米国はもちろん、もし戦争になれば日本より遥かに大きな被害に遭うはずの韓国でも、
そんな話にはなっていない。

韓国のネットでは、北のミサイル発射のニュースを聞いただけで東京メトロが
列車を止めたことが、『日本人って臆病なんだね』と笑い話になっているほどです」

 実際、5月1日午前に官邸で開かれたのは、
 内閣危機管理監、国家安保局長、外務・防衛幹部を集めた国家安保会議で、
 当然、北朝鮮をめぐる情勢が議題となったが、
 何ら差し迫った危険はないということで、わずか15分間で散会となっている。
 だから安倍はそのあと散髪に行ったり、GWをゴルフ三昧でのんきに過ごしたりしたのだ。

 それを「けしからん。緊張感に欠けている」と怒っている人が
 与野党双方にも評論家の間にもいるが、話はさかさまで、
 本当は危機など差し迫っていないことを知っているから、
 ゴルフに興じていたのである。
 緊張があるのにのんびりしていることが「けしからん」のではなくて、
 緊張など迫っていないのに、迫っているかのようなことを言って
 国民を恫喝していることが「けしからん」のである。

 野党の中堅議員もこう指摘する。

「北朝鮮危機を過剰に煽って、それを目くらましに使うことで、

  森友学園事件を早く忘れさせよう、
  目の前の共謀罪法案を通過させよう、
  改憲への道筋もつけようという
安倍の便乗詐欺に引っかかってはなりません」と――。
 

榎原さんの商品語への理解  への批判

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月10日(水)12時01分18秒
返信・引用
  http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220
第四講 簡単な価値形態

  1.価値形態の秘密と謎
  2.商品語の論理としての事態抽象
 ここで分析したことをマルクスは、実は商品は商品語でそういうことを言っており、
商品語で語られたことを翻訳しただけだ、と別のところでそう言っています。
50頁上1段に、マルクスが商品語を翻訳した箇所があります。

「人間的労働という抽象的属性における労働が、それ自身の価値を形成するということを
語るために、亜麻布はいう、 ――― 上衣は、それが亜麻布と同等な意義をもつかぎり、つ
まり価値であるかぎり、亜麻布が成りたつのと同じ労働から成りたっている、と。亜麻布
の崇高な価値対象性はゴツゴツした亜麻布のからだとは異なるものだということを語るた
めに、亜麻布はいう、 ――― 価値は上衣のように見え、したがって亜麻布そのものは、価
値物としては上衣と同等なこと瓜(うり)ふたつである、と。」

  ここを読むと、抽象的人間労働が社会的な実体である、という意味が明らかになる
 のではないかと思うのです。「上衣は、それが亜麻布と同等な意義をもつかぎり」と
 いう箇所は、上着は、つまり価値である限り亜麻布が成り立つのと同じ労働から成り
 立っている。そのように関係の中で亜麻布は言っている。

 これはどういう事かと言うと、上着は亜麻布と同じだ、と亜麻布は言っています。
 これを亜麻布と上着をつくる労働という観点から考えますと、上着をつくった労働は
 亜麻布をつくった労働と同じものですから上着は亜麻布である、こういうように言っ
 ていることになります。上着をつくる労働が亜麻布で表現されている。上着を見れば、
 上着を作る労働は想像できますが、亜麻布を見ても、上着をつくる労働はどういうも
 のかは分からない。そういう意味で上着をつくる労働が抽象化されている。

 次に亜麻布の価値は上着だ、というように言っています。上着を価値の体化物にした
 上 で、その価値の体化物で自分の価値を表現する、こういう構造になっています。

 そして自分の価値を表現する箇所で、亜麻布の価値は上着と同じだ、亜麻布は上着
 と同じというわけですから、今度は価値としては亜麻布をつくった労働は上着で示さ
 れます。ですから上着を見ても亜麻布をつくった労働は、どういう労働かということ
 は分からない。

  そうすると抽象的人間労働というものは、この亜麻布と上着という価値形態にお
 ける価値関係の中、お互いの関係の中で、抽象化し合っている。そういう関係の中
 で、抽象的人間労働にそれぞれが還元しあっている、こういう事になっているのでは
 はないか。


 杉本の商品語批判
  ①<「亜麻布はいう ――価値は上衣のように見え、したがって亜麻布そのも
    のは、価値物としては上衣と同等なこと瓜ふたつである、と。」>
   <次に亜麻布の価値は上着だ、というように言っています。上着を価値の
    体化物にした上で、その価値の体化物で自分の価値を表現する、こうい
    う構造になっています。>

   上段では、<価値は上着に見え>と述べ、「価値物上着」と亜麻布は同等
   となっており、この「価値物上着」と、価値上着とが混同されており、次
   に、亜麻布も、この「価値物上着」と等しい・同じーーと転倒が提示され
   たのです。

   価値物上着と価値上着との先後関連は明らかでであり、この論理を転倒さ
   せれば、<上着を価値の体化物>とすることでの価値表現ーーとの
   量的関係=同等性関係に転倒するのは明らかです。

  ②<亜麻布と上着との価値関係のもたらす、価値形態の形成は、上着に表示さ
   れる裁縫労働が人間労働に還元され、リンネルに表示される織布労働が抽象
   的人間労働を示す(5段落)ーーこの回り道ーーが示されたのみでは、
   「上着が価値」(7段落)に、辿り着いていないのだから、自ずと上着は価
   値体の規定として質量的・物的規定も受け取れず、この価値形態の形成も不
   可能なのです。
    何故か?ここには価値表現のメカニズムでの思考では、人間様の思考では
   理解不能なのです。マルクスが、この回り道を提示するも問題解決の不可能
   さを私達にみせたのは、物象の関係・物象の判断によって「上着が価値物」
   から「上着が価値」ーーとの判断の移行にて、上着が価値体の物的規定では
   なく、リンネルに対する上着の価値としての二つの役立ちにて、価値形態の
   王冠をかぶる・被せらるーー物ではなく、物象の判断・社会関係の存在が提
   示されたのです。>




  現行版⑨ ⑩段落

⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価値形態とし
て通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身体で表現される、つ
まりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。

   使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、
   価値としての亜麻布は「上着に等しいもの」であって、
   したがって一着の上着のように見えるのである。
   こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
   亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同等性において現われる。
   それはあたかも神の子羊との同等性において現われる
   キリスト教徒の羊という存在である。

⑩以上みて生きたように、商品価値の分析がこれまでわれわれに告げた全てのことを、別
な商品である上着とつきあうや否や、亜麻布自身が語るのである。将に亜麻布はその思い
を彼女だけが流暢に使える言葉、商品語でそっと漏らすのである。

  労働は人間労働というその抽象的な本質において亜麻布自身の価値をなすのだ
  と言う代わりに、亜麻布は、上着はそれが彼女と同等のものとして有効である、
  すなわち(上着も)価値である限りでは、亜麻布と同じ労働からできているのだ、
  と言う。

  彼女の繊細な価値対象性はそのごわごわと固い亜麻布製の身体とは違うのだ、
  と言うために亜麻布は、価値は上着のように見え、
  したがって彼女自身が価値物としては上着と瓜二つなんだよ、と言うのである。

ついでにいうと、商品語にヘブライ語以外にも正確さの度合いがさまざまな多くの別な方
言があればよいのだが・。ドイツ語の「価値存在」は、商品Bの商品A との等置が商品A
自身の価値表現であることを、例えばロマン語の動詞valere、valer、valoirほど的確には
表わさない。Paris vaut bien une messe! パリは祝福に値する!





 

 相対的価値形態があって、その次に等価形態があるのに、そこを転倒させる理解とは?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 5月 9日(火)12時32分16秒
返信・引用 編集済
    次のは、ほぼ、二年前と一年前にこの掲示板に上掲したものであるが、
  基本的に正しいと思いながら、もっと問題点を明確に表したいーー
  と思い②の記事を変更してみました。

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/866
① コメント 相対的価値形態の内実をめぐって  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月 8日(日)

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1091
②榎原さんの内実論理解の特異性について
投稿者:杉本  投稿日:2016年 2月19日(金)15時57分13秒
 『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220


 第四講 簡単な価値形態
 1.価値形態の秘密と謎
 今回は次の箇所までやりましょう。
(A)簡単な・単独な・または偶然的な・価値形態
 一、価値表現の両極、ーーー相対的価値形態と等価形態
 二、相対的価値形態

ーーーーーーーー略ーーーーーーー

亜麻布=上着、ということになる。              「一商品の単純な価値表現が二つの商品の
亜麻布と上着という異なる物が、等置されている。等置されて  価値関係のうちにどのようにひそんでい
いるという事は、当然同じ質を持ったものとして等置されてい  るかを見つけだすためには・」(冒頭一節)
るわけです。そして等置されている同じ質を持ったものとは、  亜麻布=上着
「同等な人間労働」という既に使用価値と価値の分析のところ  等置されている同じ質とは?
で明らかにしたものです。                  「同等な人間労働」を表しているのが、価
                              値方程式ではない。

マルクスは同等な人間労働を持つもの同士が、等しいものとし  「上着が価値である」(7段落)ーーー
て等置されているという関係を表している価値方程式を次には  この反省規定の存在の立証を課題とする
解読していきます。つまりこういう形で交換の関係がある、と  交換の関係があるーーではなく価値関係
いう場合に交換の関係をマルクスは価値形態、価値方程式、あ  交換の関係をーー価値形態として見るーー
るいは価値等式、と様々な言葉を使って言い換えていますが、  ではなく、価値関係を相対的価値表現の
これを価値形態として見るということは、そこで亜麻布の価値  生成として見よう。(冒頭)
がどのように表現されているか、価値が表現されている形態と  相対的価値形態は前提ではないのです。
してこれを読もう、という事なのです。その解読が47~48頁   大谷先生のように等価形態も前提ではない
にありまして、重要なところなので読みます。

 「しかし質的に等値されたこの二つの商品は、同じ役割を演  内実ーー第三段落
ずるのではない。亜麻布の価値だけが表現されるのだ。では、  亜麻布の価値だけが表現ーー亜麻布が、
いかにしてか?  亜麻布が、それの『等価』あるいはそれと  それの『等価』・『交換されうるもの』
『交換されうるもの』としての上衣に連関することによってで  としての上衣に連関することで、
ある。この関係においては、上衣は、価値の実存形態として・  上衣は、価値の実存形態
価値物として・意義をもつ、 ――けだし上衣は、こうしたもの      価値物として・意義をもつ
としてのみ、亜麻布と同じものであるから、他方では、亜麻布  そこで亜麻布それ自身の価値存在が現出す
それ自身の価値(ヴェルト)存在(ザイン)が現出する、すなわち、 自立的表現とは=上着が価値の存在形態
自立的表現を受けとる、けだし亜麻布は、価値としてのみ、同  の規定「上着形態は価値形態」(九段落)
等な価値あるもの・あるいはそれと交換されうるもの・として  上着は、同等な価値あるもの=同量の価値
の上衣に連関しているのだから。」              交換されうるもの=交換可能性の形態


               <けだし亜麻布は、価値としてのみ、同等な価値あるもの・
               あるいはそれと交換されうるもの・としての上衣に連関して
               いるのだから。>

               下表示の岡崎訳とは異なり<「リンネルの価値存在の現出」>
               がここに如何にしてか?と我々に質問しているのに、
               ーー「亜麻布は価値」「価値あるもの・・上着に連関」ーー
               では、この前文の「亜麻布それ自身の価値存在が現出する」
               事を、否定しているのです。
               <リンネルの価値存在の現出>が問われているからこそーー
           「リンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係する」
               と表したのであります。

               <なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または
                自分と交換されうるものとしての上着に関係することがで
                きるからである。>(原P64 国民文庫 岡崎訳P97)


 『資本論』を読んでいて、こういう所が出てくると戸惑って  註①初版註18a項目の本文
しまいます。何を言っているのか分からない、という直観しま  「20エレのリンネル=1着の上着、あるい
す。何を言っているのか分からない、というような所を何故や  はxエレのリンネルは、y着の上着に値す
る必要があるのか、ということですが、それはこの節の冒頭   る、という相対的価値表現においては、上
45頁下9で、「商品の価値対象性は、つかまえどころがない・  着は確かに、価値あるいは労働膠着物とし
・・(略)・・・商品体の感覚的な対象性とは正反対に、それ  てのみ認められているが、まさにそのため
の価値対象性にはみじんの自然的質料も入りこまない。」とマ  に、労働膠着物は上着として認められ、上
ルクスは言っています。要するに商品を感覚的に触ってみる、  着は、そのなかに人間労働が凝結している
嗅いでみるといった五感を動かして把握してみても、その商品  ところの形態として認められているのであ
の価値がどういうように現されているか、ということは分から  る(18a)。」
ない。ないしはその商品が価値として持っている形態は、感覚
では掴めない。感覚で掴めないものを、どのように認識するか、

という場合にその関係の中で双方がお互いに同等な人間労働と  「お互いに同等な人間労働として関係」
して関係し合っている。そういう関係の仕方ですが、これを解  ーーであれば、それは同等性関係であって
明し得れば、そうするとそこに価値が現れている、価値が現象  価値関係では無い!!
している形態である、ということが確認できるのではないのか。 <同質の抽象的人間労働がお互いに関係>
現行版の場合、そういうような分析の仕方になっているわけで  するのは何故か?
す。初版の場合は少し違いますが現行版では、何か同じ質の、  ーーとの設問を、榎原さんはしたのです。
抽象的人間労働という同じ質を持ったものとしてお互いに関係  リンネルが上着を価値物・価値の存在形態
し合っている。そういう関係はどのような形で成立しているか、 と規定している第三パラグラフは、捨象さ
という事を明らかにする。それが価値形態の分析の課題になっ  れている。そこは考察外だから、対象は第
ている、というように言えると思うのです。          五パラグラフからですーーと。

                「抽象的人間労働という同じ質・・としてお互いに関係し・・関係はどの
                ような形で成立」しているのか?ーーがここでの課題だと。

そのような観点から、今読んだ箇所を見ていきますと、一つは  だが、第三パラグラフの主張無しでは、
亜麻布=上着という関係がある場合に、ここでは相対的価値形  価値形態の成立不能です。そればかりでな
態にある亜麻、亜麻布だけの価値が表現されている、とまず見  く、内実論すべてが不要対象外になってし
ます。亜麻布の価値が上着で表現されている。それはどういう  まいます。

                ーーー榎原さんは、当前だとして、等価形態上着での価値表現だという!
                「だから商品相互の関係という場合、相対的価値形態にある商品が自分の
                価値を表現する。自分の価値は自分自身では表現出来ずに、等価形態にあ
                る上着という商品の体を通じて表現する。」
                ーーーやっと、いま 今思いがけないことが眼に見えてきました。ーーー
                ーーーもっとも、大谷先生の解読は、等価形態のみなのですから、
                ーーーその社会的意識形態を批判してないのですから、右へならえです。

ことかと言うと、亜麻布は上着と交換されてもよい、同じもの  「自分と「交換されうるもの」としての
だから交換されてもよい、というように言っているということ  上着に対して持つ関係によって、である」
です。これを言い換えると、亜麻布は上着を自分と交換できる  ーーに対して、
もの、つまり自分と同じものにしているわけです。 自分と同  「つまり自分と同じものにしているわけ」
じものだというように見做し、そうした上で自分の価値を上着  では同等性関係であって、上着が価値存在
で表現している。だから商品相互の関係という場合、相対的価  ・価値物として、リンネルに関係してない

値形態にある商品が自分の価値を表現する。自分の価値は自分  なぜか?次の理解に理由がーーー「相対的
自身では表現出来ずに、等価形態にある上着という商品の体を  価値形態にある商品が自分の価値を表現」
通じて表現する。その場合に相対的価値形態にある亜麻布は、  ーーでは、リンネルの価値存在が上着では
上着は自分と交換できるものだから上着は自分と同じものであ  表現できず、(相対的価値表現が不能)対
る、というような形で関係を結んで、その関係で上着は自分の  象性を、等価物の形態上着に求めてしまわ
価値だ。自分の価値は上着で現わされている、と主張している  ざるをえず、等価形態を前提にする結果を
のだ。                           生じている。

こういうように読み取って行くと、今度は労働のレベルで、価  「上着は自分と交換できるものだから」
値は抽象的人間労働からなるという以上は、単に対象化された  で無く「交換されうるもの」上着は・交換
労働・生産物の関係だけではなくて、生産物を生産する労働の  可能性であって、交換しうる・出来るーー
関係も含めて分析しなければならないわけで、その問題を次に  との直接的交換可能性ではない。しかし、
マルクスは見ていきます。                  等価形態上着であれば、上着は、直接交換
それは48頁下段にある箇所で、いわゆる「まわり道」という言  可能な使用価値の規定を受けてしまう。
葉が出てきますが、この問題については、「価値表現のまわり  榎原さんの設問ではーー
道」というようなことで様々な論争がありました。       上着は、価値の存在形態・価値物としてリ
                              ンネルに対面していないのです。
                              だから、まわり道を経て、
                              「リンネルの価値をなしている労働の独自
                              の性格を表現」(文庫P99)ーーにて、リ
まわり道に関する様々な議論については、殆ど正解を得ていな  ンネルに表示される労働が抽象的人間労働
いのではないかと思います。マルクスはここで分析したことを  と抽象し価値実体を示せば、終わりです。
今度は整理して、以降に展開していきます。ここでの根本問題
は亜麻布との関係において、上着という自然物自体が価値とし  「上着という自然物自体が価値」とは?
て意義を持っている、持たされている、というようになってい  七段落での「上着が価値」ーーを指す。
る所です。価値が価値として現われるのではなくて、上着とい  しかし、それでは、
う使用価値の体が価値を体現するものになっている。ですから  <価値体上着による亜麻布価値の表現>で
亜麻布の価値は上着という使用価値で表現されている、という  す。価値関係の質的側面ではなく量的側面
関係になっています。こういう関係になっているという事が、  ーーこの不明の因は、両極の形態の混同。
価値形態の秘密だという内容になります。           <「価値を体現する」>明らかに、価値体

                <価値体上着でのリンネル価値の表現への批判の意味はで何あったか?>
                四版ーー「リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルに等しい物、同じ
                性質のものとして認められるのは、上着が価値であるからである。それだ
                から、上着はここでは価値がそれにおいて現れる物・価値を表わしている
                ものとして認められているのである。」(7段落)

                初版ーー「リンネルは、他の商品(を)自分(に)価値として等置するこ
                とによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。」
                こうして訳を比較してみると、<上着をーー価値として等置>が正訳であ
                るが、しかし、ここでの注意点は、四版の上着は、「価値が現れるもの・
                表しているもの」ーーとの規定で「上着が価値」とされることの理由を探
                っているのです。
                ところが、初版では、その続きとしてーー
                「リンネルは自分の価値の大きさを上着で表現・・することによって、自
                分の価値存在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える」ー
                ーなのです。

                四版と初版との比較から明らかになることは、マルクスの先ずの課題が、
                四版の第三パラグラフでの明瞭な提起のようにーー如何にして「リンネル
                それ自身の価値存在が現れてくる」のか?であると了解できるのです。

                このように、相対的価値表現の内的関連を探っていくとーー
                「上着が価値」とされるから、上着がリンネルの価値形態なのです。

                そこで、上着はリンネルの反省を受け価値であるとしても、相対的価値表
                現での規定ですから、等価形態・上着のように転倒された現象である、直
                接的に「価値形態」ではなく、また物神性をこそ示す「価値体」ではない
                のです。ここでの混同は二つの形態の区別ができなくなるし、等価形態の
                転倒が示す物神性ーー等価物上着が直接的に価値体ーーを見抜けなかった
                のです。
                <等価物上着が価値体>であるのは、第二の展開された相対的価値形態に
                て、上着は回り道を経ずとも「リンネルの価値鏡」=価値形態となること
                で、「こうして、この価値その物が、はじめて、ほんとうに、無差別な人
                間労働の凝固として現れる。」(原P77)ーーと示されている。
                上着は、この第二の形態にて、全体的な価値形態ーーを受け取ることで、
                上着は、リンネルの等価物として、リンネルの価値鏡であり、価値形態で
                あり、価値体であることを左極にて受け取ります。
                右極では、「特定の現物形態は、・・多くのものと並んで一つの特殊的等
                価形態である。同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定
                の商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、い
                までは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態また
                は現象形態として認められているのである。」(原P78)

                 しかし、この了解しやすい、第二での展開された価値形態の記述は、
                第一での簡単な価値形態の総体ですでに規定され、受け取っていたことの
                延長でしか無いのです。
                 リンネルの相対的価値表現にて、上着が直接的に価値体とされるのは、
                第二の形態の左極にて、他の商品種類とともに、上着がその自然的形態の
                ままに価値形態となることにおいてなのですが、第一の形態での簡単な価
                値形態の総体では、上着は使用価値リンネルに対し価値形態上着の規定を
                媒介抜きに、受け取るも価値体上着の規定を受け取らないのです。
                 単純な相対的価値形態の成立において、上着は価値形態となることにお
                いてのみ「価値体」上着ーーが役立つも、この「価値体」上着の規定では
                その質量的側面を指すにすぎないのです。だから「価値体」で有ることに
                おいて、上着は価値形態の反省規定は、受け取れないのです。
                だから、
                この第一の等価形態において、上着は自然的形態のままに価値形態である
                ことにおいて、その役立ちをなすが、上着は未だ直接的に価値とはされず、
                ーーそう見えるのは、自然的属性が価値とされる「等価形態の謎性」との
                転倒・商品の物神性によるのです。



                次に、第三の形態において、如何にして、価値体の規定を受け取るのか?

                商品世界の住人であるかぎりで、上着は他の商品と共に価値形態であり、
                価値体であるのは、この一般的価値形態において次に示されたのです。
                しかし、一般的等価形態においても等価物リンネルは、「価値体」の規定
                を受け取れ無いことが次のように示されています。

                「一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働
                を次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人
                間労働一般の一般的現象形態とする。」

                そして、とっても大切なことは、
                一般的等価形態で「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする。」ーー
                ことに示されているのは、次のことの反省規定を受けたものなのです。

                「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
                (単なる凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態
                が商品世界を社会に表現する物であることを示す。」

                「人間労働のゼリー(単なる凝固)として表すこの形態は」とは?
                一般的等価形態の対極の一般的相対的価値形態を形成する一般的価値形態
                との、商品世界の完成のなかで、その全体的な構成のなかで、やっとーー
                商品が価値体であるのは、抽象的人間労働の凝固、と表すことができるの
                です。


                先走りましたが、そのことは、次のA・Bの事柄の関連性の検討をしっか
                りと成すことで、得ることができます。
                <それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する>
                このAの事柄は、一般的な相対的価値形態を生成する商品世界の共同事業
                として、物象の社会関係の完成としてーーなされたものです。

                  A一般的な相対的価値形態の形成はいかにしてか
                 (一 価値形態の変化した性格)
                「前の二つの形態は一商品の価値を、唯一の他種類の商品によってであれ、
                それとは違う多数の商品の列によってであれ、表現する。いずれの場合に
                も、一つの価値形態が与えられることは、いわば諸商品個々の私事であり、
                商品は他の諸商品の助力なしに事を成し遂げる。これらの商品は互いに等
                価物という単に受動的な役割を果たす。
                それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。
                商品が一般的な価値表現を獲得するのは、全ての他の商品が同時にそれら
                の価値を同じ等価物で表現し、新たに登場する商品種類の各々もそれらの
                真似をしなければならないからである。そのこととともに、商品の価値対
                象的性はこの物がもつ単なる“社会的定在”であり、
                <81>その全面的な社会的関係を通してだけ表現され得るのであるから、
                価値対象性の形態も社会的に認められるものでなければならないのだ、と
                いうことが明らかになる。」(原P80~81)

                B一般的等価形態の形成はいかにしてか
                「一般的価値形態を構成する無数の等式は、・・・・・・・・・・・・
                そうすることで織布を人間労働一般の一般的現象形態とする。」ーー
                ーーと示されるのは、左極の反省規定として登場する一般的な等価形態で
                あります。一般的な相対的価値形態にて表示され、一般的価値形態を構成
                する無数の等式が示すものは、左極の反対極として登場するーー右極での
                亜麻布の経済的な形態であります。
                 そのことが次のように提示されています。

                「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物
                商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態は
                この世界共同の価値の像(かたち)になり、したがって亜麻布は全ての他
                の商品と直接に交換可能になる。亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の
                可視的な化身・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。織布、亜麻
                布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわち全て
                の他の労働との同等性を体現する形態に就く。
                一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
                次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間
                労働一般の一般的現象形態とする。
                商品価値として対象的に表れる労働は、消極的に、すなわちあらゆる具体
                的な諸形態と有用な諸性質が捨象された現実の労働として表現されるだけ
                ではない。
                それ自身の積極的なNatur本質もはっきりと現れてくる。
                商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格、す
                なわち人間の労働能力の支出に還元された現実の労働である。
                 一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
                (単なる凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態
                が商品世界を社会に表現する物であることを示す。
                労働の一般的に人間的な性格が、この世界では、特殊な社会的性格をかた
                ちづくっていることを一般的価値形態は明らかにしているのである。」
                 (一 価値形態の変化した姿 8段落 原P81)


                Bの説明にて、Aの事柄は抑えられています。
                ①「商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻
                  み付ける。
                  亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、
                  したがって亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」
                そして、
                ②「一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労
                  働を次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織
                  布を人間労働一般の一般的現象形態とする。」
                と示すことで、「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする」ーーのは
                と、一般的価値形態において反省規定しているから、ーーと示すことで、
                次の結論をマルクスは提示したのです。

                ③「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働の
                  ゼリー(単なる凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、
                  この形態が商品世界を社会に表現する物であることを示す。
                  労働の一般的に人間的な性格が、この世界では、特殊な社会的性格を
                  かたちづくっていることを一般的価値形態は明らかにしているのであ
                  る。」

                このように、
                「労働の一般的に人間的な性格が、この世界では、特殊な社会的性格をか
                たちづくっていることを一般的価値形態は明らかにしている」ーーと、
                示すことで、
                ーー抽象的で一般的な人間労働が、商品世界を構成する全ての商品に対象
                かされ、全体的な価値形態では形成されていなかった、そのことを成立さ
                せている、と述べているのです。

                以上のことで、
                「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物
                商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。」
                前後関係は明らかです。一般的等価形態があって、一般的相対的価値形態
                が形成されたのではないのです。
                この転倒こそ久留間理論の誤りであり、誤解なのです。

                商品世界から除外された等価物リンネルに、一般的等価物の形態を与えた
                ーーの主語は、商品世界であり、一般的な相対的価値形態なのですから、
                この一般的相対的価値形態を形成したのは、一般的価値形態なのです。


ここでよく価値形態の秘密という場合は、商品の価値が使用価  相対的価値表現では、上着は亜麻布の対象
値で現わされる、他の商品の使用価値で現わされている、とい  とされる限り(価値物・価値の存在形態)
うことだと簡単に言ってしまっただけで理解したような気にな  で、価値であるが・・
っているという事が多いのです。問題は上着という使用価値が
単に価値を現わすものとしか機能していない。ですから等価形  等価形態・上着は、使用価値でありながら
態にある上着は使用価値でありながら使用価値としての役割を  「価値の鏡」として、価値の体化物ーーで
持っておらずに価値を現わす、「価値の鏡」として、価値の体  は、直接的に価値との転倒批判が不能です。
化物としての意義しか持っていないのだ。そういう関係になる  右辺の上着は、使用価値なのです。
という所が、非常に難しい所であり、それを掴む所が簡単な価  榎原さんは、相対的価値表現を論じている
値形態の構造を把握する上で根本的なことだ、というように私  ところに、等価形態の考察を持ち込んでい
は見ています。                       るのです。

                 上着は、「価値物」・「価値の存在形態」の二つの規定の下で、亜麻布
                に関係されています。この規定は亜麻布の上着による相対的価値表現での
                規定ですから、等置されることで、直接的に受けとるのではなく、間接的
                であります。
                 榎原さんは、七段落の「価値がそれにおいて現れる物」「価値を表わし
                ているもの」が、「金モールのついた上着」による形態規定での上着の姿
                態変化を、辿っていないのです。

                そして、次の八段落ーーにて、リンネル価値の上着での相対的表現がーー
                「上着は・・価値体としてのみ認められる」「価値魂」であることでなさ
                れるのではなく、「金モールのついた上着」での姿態変化である「価値が
                上着という形態」そして、「上着形態は価値形態」(九段落)をとるーー
                両者の役立ちを果たすーーことでなのです。臣下に比喩されたリンネルの
                上着に対しての行いがあって、上着は王の姿・王の立ち居、振る舞いを行
                うーー諸物象の働きが登場し上着は価値形態の規定を受けとったのです。
                 しかし、この諸物象の働きは、価値関係において成されたのにーーーー
                「(リンネルは)価値としてはそれは「上着に等しいもの」であり、した
                がって、上着に見える」(文庫P101)
                「リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れる」(同上)
                ーーといった同等性関係への転倒した姿で登場しているのです。

                この転倒の下では、「リンネルの価値存在が」価値形態上着で示される、
                ことがなくても、あたかも、上着とのリンネルの同等性関係によって、価
                値表現されるかの転倒した物的形態を生み出してしまいます。
                物象の社会関係が、物的関係に転倒し、物と物との関係という幻影的形態
                を生じさせているのです。そこで、「呪物崇拝」の発生であります。

                リカードは、その物的関係のなかに人々の社会関係が人間労働の関係と
                して存在していることを見つけたことで光り輝いたのです。
                 従って、リンネルの価値存在が上着との関係のなかで価値形態として表
                現されるーー価値体を価値魂と批判しての、王と臣民の両者の役立ちでの
                価値形態の成立という筋道こそがとても大切・重要なのです。

 このように、第一の形態でのーー
  <価値体を価値魂と批判しての、王と臣民の両者の役立ちでの価値形態の成立という筋道>
  ーーを、しっかりと見だすならば、一般的価値形態の形成を経ての一般的等価形態での、
   「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする」ーー
  ーーとの、マルクスの困難極まりない苦難に満ちた考察を経ての記述には、頭が下がる一方であります。
 「織布を人間労働一般の一般的現象形態とする」のは、左極にて、あらゆる諸商品が、価値であり、価値体
  であり、抽象的人間労働の凝固であるからであり、一般的価値形態になっているからと示したのです。

 このように、我々にマルクスが訴えていることは、
     ①商品世界を我々が形成したがその端緒は、
     ②簡単な価値形態=商品形態を形成したからであり、
     ③相対的価値形態を形成することで、等価形態との対立した両極を形成したーー出発点にある。
  ではその端緒の、相対的価値形態を形成したーーリンネル商品に対しての等価物上着が価値形態をえる
  ーー全てのこの端緒は?、この出発点は?と問うのではなく、商品世界で一般的価値形態が形成されるこ
  とで、この商品世界が止揚される条件が、この端緒に見出される・・・ということであります。





 

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