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貨幣信用を論じない設問

 投稿者:杉本  投稿日:2009年 5月 6日(水)23時07分6秒
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  佐藤さんの設問は次のようなものでした。
「3、現在の恐慌はどこから来ているか?」「摩天楼の崩壊のような今日の事態の根底には、エゴイスティックで競争主義的な資本の生産の拡張、その対極での大衆の貧窮と消費制限という資本主義システムの矛盾があるのです。」
しかし、わたし達は無意識のうちに、次のような社会的常識を抱えていると思うのです。

わたし達の抱えている社会的観念では、金融資本は銀行と産業との癒着――を、「一般的に言えば、金融は実体経済の補助的存在である。」(『金融論』関根猪一郎他著青木書店P51)あるいは、宇野経済学では「資金」と表して自明なものとしています。ここには、トラスト・カルテル・コンツエルンに示されるように株式による金融寡頭制支配は、独占であり、競争を排除した経済的仕組み・・・という私達の常識とする先入観があると思うのです。投機が、管理された独占とは矛盾しているが自明なことなのか?・・・・・ということかと思うのです。

しかし、「信用貨幣」である銀行券―預金は、手形流通を基礎とした商業信用とは異なる貨幣信用のなかで生成しているのです。資本論3部25章で、ギルバートの「取引をも容易にするものはすべて、投機をも容易にする。両者(取引と投機)は多くの場合に極めて密接に結びついているので、どこまでが取引でどこからが投機であるかを言うことは困難である」(資本論三巻25章原P420)――をマルクスは紹介しています。
そして、手形での銀行の前貸しという取引が、
「同じ1000ポンド・スターリングの貨幣は、一連の移転によって、絶対に確定できない何倍もの預金額になることが出来る。それゆえ、・・全預金の十分の九が・・・銀行業者たちの帳簿上の記帳以外には何ら実存しない・・・」(同)
と、マルクスは他の著書からの引用が示しています。帳簿上の記帳である<架空の存在>に、貨幣貸付可能資本がなるから、銀行業者と手形割引の資本家の間柄は<取引であり投機>になるのですね。商品と貨幣の交換関係という実体的な存在の関係ではないのですし、また、自明ながら、貨幣資本・生産資本・商品資本という実態的な資本循環内での関係でもなく、架空の資本を銀行は記帳することで資本家に貸し出す生産過程の外での関係なのです。
 銀行が貸し出す産業資本家への貨幣資本は、貸付資本であって、架空資本であるところの「信用資本」であるというのが、榎原さんの旧来の「金融資本」への批判であり対案であったと思うのです。
 その点を榎原さんが引用されたものが次でした。
「「貨幣資本が存在する形態が、ただ貨幣の形態だけだと仮定してもこの貨幣資本の大きな一部分は、つねに必然的に単に架空なものである。すなわち価値への権限である。……これらの請求権の蓄積は、前提によれば、現実の蓄積から、すなわち商品資本等々の価値が貨幣に転化することから生じる。とはいえ、これらの請求権そのものの蓄積は、それの源泉である現実の蓄積とも違うし、貨幣の貸出によって媒介される将来の蓄積(生産過程)とも異なるのである。」(『資本論』第三巻、原525頁)
 この榎原さんの意図を、佐藤さんは論じていないと思うのです。
 なぜ佐藤さんは、信用資本について論じなかったのでしょうか?
わたしは、資本制的生産の内的衝動としての生産力の発展―対極での労働者大衆の消費の制限という二要因による制限(商業信用)の克服を、更なる泡の拡張のために信用を拡大する、商業信用から貨幣信用へ転換するための、信用制度・銀行制度の採用を論じていない点にあると思うのです。
 マルクスは、その30章で、「大衆の貧困と消費制限」を商業信用の段階と論じていて、「ところがいまや、この商業信用に本来の貨幣信用が加わる」(同原501頁)と、信用の拡張を論じています。
今日の危機は、、商業信用ではなく、貨幣信用をもたらす信用制度・銀行制度にあると思うのです。
 
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