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事実上の抽象と判断

 投稿者:杉本  投稿日:2009年10月13日(火)03時19分11秒
  通報 返信・引用 編集済
  自由ネコさん
>しかし、使用価値や価値、具体的有用労働や抽象的人間労働などというものが現実にある訳ではありません。存在するのはただ一人ひとりが行う現実の労働であり、それが生み出す“もの”でしかありません。

>一人ひとりが行う現実の労働であり、それが生み出す“もの”

それに対して、私は次のように述べています.
>この関係では労働生産物が事実上の抽象と判断を行い、人間はそれを自らの判断として受け取り
――という事態として理解すると述べています.

次のところです.
>このような論述がなんともはがゆく、苛々し、理解しがたいのは、人間の通常の思考法とは異なるものだからです。その例として、ヘーゲルは、次のような思考法もあることを例示しています。
 「われわれが「このばらは赤い」とか、「この絵は美しい」とか言う場合、われわれは、われわれが外からはじめてばらに赤を加え、絵に美を加えるのではなく、それらはこれらの対象自身の規定であるということを言いあらわしているのである。」(『小論理学 』下岩波文庫P136)
人間様の置かれた価値関係は、自明の前提としてあり、この関係では労働生産物が事実上の抽象と判断を行い、人間はそれを自らの判断として受け取り商品交換に立ち会うわけです。(投稿日:2009年10月 5日(月)08時40分12秒)

「この関係では労働生産物が事実上の抽象と判断を行い」の例として、マルクスは――「酪酸に蟻酸プロピルが等置される」例をあげていました.


「たとえば、酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし、両者は、同じ化学的実体・・炭素(C)、水素(H)、および酸素(O)から成りたち、しかも同じ比率の組成、すなわちC4H8O2 で成りたっている。今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し、第二に、酪酸もまたC4H8O2 から成りたっていることがのべられるであろう。すなわち、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現されるであろう。」(資本論一章三節)


「その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現される」こと、つまり具体的事象から超感性的なそれらの実体が抽出されているわけです。

さてこの例を元に商品の価値関係では、
「上着形態が価値形態として通用する。したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。」――と次のように述べています.

「上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間労働力が実際に支出された。したがって、上着の中には人間労働が堆積されている。この側面からすれば、上着は「価値の担い手」である。もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目からすけて見えるわけではないが。

そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして王位に対する態度をとることは、同時にAにとって王位がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのものが国王の交替のたびに替わるということなしには、できないように。

こうして、上着がリンネルの等価となる価値関係の中では、上着形態が価値形態として通用する。したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、リンネルは、上着とは感性的に異なるものであるが、価値としては、リンネルは「上着に等しいもの」であり、したがって、上着のように見える。このようにして、リンネルは、その現物形態とは異なる価値形態を受け取る。リンネルの価値存在が上着との同一性に現れるのは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊との同一性に現れるのと同じである。

上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける。」
(同資本論)

「使用価値としては、リンネルは、上着とは感性的に異なるものであるが、価値としては、リンネルは「上着に等しいもの」であり、したがって、上着のように見える。このようにして、リンネルは、その現物形態とは異なる価値形態を受け取る。」――とはなんのことでしょうか?
[価値としては、リンネルは「上着に等しいもの」であり、したがって、上着のように見える]ーという価値鏡の作用・反省規定によって、
リンネルは、超感性的な価値形態を上着姿態として対極に、受取っているのです。
だからリンネルが具体的姿態で、自らの価値を上着で相対的に価値表現するためには、超感性的な価値形態を必要とするわけです.それでやっと現象的な交換比率が成立するわけです.交換比率を規制する価値法則とは別のことですね.つまり、価値関係を結ぶ人間様は、無意識の内に、商品語に操られているというのがマルクスの暴き出した現実なのです.

自由ネコさん――
具体的なものにこだわっていては、超感性的な「神の仔羊」を見つけることが出来ず、「キリスト教徒の羊的性質」を観察することも出来ませんよ.
まさに、労働者が賃労働者の役立ちを行うから、対極で彼らは資本家として成立するのですね.
 
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