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自由ネコさん
>唯物論者を自認する方に観念論などというのは相当失礼ではないかと思って指摘することをためらっていました。
リカード派社会主義のトマス・ホジスキンは、ヘーゲル主義者であろう筈が無く、
素朴な唯物論であると誰しも思うはずですね。ところがマルクスは異なる判断をしていたのです.
かれの、『労働擁護論』へのマルクスのコメントに面白いものがありましたので紹介します.
「第一のパンフレットは、「富とは自由にできる時間に他ならない」という言葉で終わっている.
ホジスキンの見解はこうである.流動資本は種々な社会的労働の並存(共存的労働)にほかならない。蓄積は社会的労働の生産的な諸力の積み上げに他ならないのであり、したがって労働者自身の技能と知識(科学的な力)の蓄積が主要な蓄積である.・・・・・「生産的資本と技能的労働とは一つのものである.」「資本と労働人口とは性格に同義である。」
これはすべて次のようなガリアーニのさらに進んだ表現でしかない.「真の富は・・・・・人間である。」客体的な世界の全体、「財貨の世界」はここでは、社会的に生産を行う人間の単なる契機として、その人間の単に絶えず消え去っては絶えず新たに生み出される活動の実証として沈殿する.いまこの「観念論」をリカードウの理論が「この信用の置けない靴直し」マカァロクにおいて成り果てるところの粗雑な唯物論的な呪物崇拝と比べてみよ.すなわち、この呪物崇拝では単に人間と動物の区別だけではなく、生き物と物との区別さえも消え去ってしまうのである。そしてその後で言うなら言ってみよ、プロレタリア的反対論は、ブルジョア経済学の高尚な精神主義に向かって、もっぱら獣欲だけに向けられた物質主義を説教したのだ!と。」(『資本論草稿集』7P330)
マルクスはその前にこう述べていたのです.
「土地は、「・・・・・多数または少数の個人によって、他人を排除して独占されたり取得されたりする自然力」であるから、土地の自然的な、食物の成長を促す働きまたは「労働」つまり土地の生産力は、価値をもっていることになり、・・・・」(同上P274)・・・・と述べているのと同じだと。
マカァロクの唯物論的な呪物崇拝に対してのホジスキンは、物質主義ではなく「観念論」だと評していたのです。ご覧のように、プロレタリア的反対論を代表する有名な――
「資本は、教会や国家と同様に、または、他の人々から巻き上げる人々が彼らからむしりとる手を隠すために発明したその他の一般的な用語のどれとでも同様に、一種の神秘的な言葉である。」(『労働の擁護・・・』P17草稿集)7P331)――の著者は、価値論において、観念論だとマルクスに誉められる評価をされていたのです。
この先がとても大切なことです.
「資本は、・・・・一種の神秘的な言葉」と主張する意味はこうでしかないとマルクスに批判されるのです.
「資本家は資本家としてはただ資本の人格化でしかなく、労働に対立してそれ自身の意思や人格を授けられている労働の被造物でしかない。H(ホジスキン)はこれを、その背後に搾取する諸階級の欺瞞や利害が隠されているまったく主観的な錯覚として把握している。彼は、このような考え方の根源が現実の関係そのものにあるということ、後者が前者の表現なのではなくてその逆であるということを見ていない。これと同じ意味で、イギリスの社会主義者達は言う、「私たちに必要なのは資本であって、資本家ではない」と。だが彼らが資本家を取り除くならば、彼らは労働条件から資本であるという性格を取り去るのである。」(草稿集7P370〜371)
「労働に対立して自身の意思や人格を授けられている労働の被造物」が資本であり、その人格化が資本家―――という物象化が存在するのです。それをホジスキンは、「まったく主観的な錯覚」と批判しているというのです。唯物論ではなく観念論だと、ホジスキンこそが、「自身の意思や人格を授けられている労働の被造物」を見出すことへの批判をしていたのです。
>この関係では労働生産物が事実上の抽象と判断を行い――
というのは、「自身の意思・・・を授けられている労働の被造物」のことなんですね。これは「まったく主観的な錯覚」ではなく、見えざる真実なんですから、超感性的なものですね。
経済的諸範疇の人格化について述べられているのは資本論と経済学批判では次ぎの個所でした.
「資本の人格化としてのみ資本家は尊敬すべきものである。」
「彼の行住坐臥が彼において意思と意識とを与えられた資本の機能に他ならぬ・・・・」(資本論1部22章3節)
「商品所有者達は、単純に商品の保護者として流通過程にはいりこんだ。流通過程の内部では、彼らは買い手と売り手と言う対立的形態で、一方は人格化された棒砂糖として、他方は人格化した金として存在する。さて棒砂糖が金になると、売り手は買い手になる.だからこれらの一定の性格は、決して人間の個性一般から生じるものではなく、彼らの生産物を商品という一定の形態で生産する人々の交換関係から生じるのである。」(『経済学批判』二章二流通手段国民文庫P120)
(『資本論』第一版序文)冒頭にあったのでした。
「起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。」
なんと冒頭に経済的諸範疇の人格化という批判的視点への注意書きがあったのです。
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