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杉本さんこんばんは
いそがしくて、しばらくこちらには来れませんでしたが、「『20世紀社会主義』の挫折の総括」を拝見しました。
「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」とはどういうことなのでしょう。私は「タダモノ」主義者なので、例えばその年に何台の自動車を生産するのを決めるのは誰なのか、ある土地に米を植えるべきか、キャベツを植えるべきかどうやって決めるのか、そうしたことが明らかにされないと、賛成とも反対とも判断できません。
黒寛の『社会感の探究』は、学生運動をはじめたころ最初の10ページほどを読んで、「ああ、この人は何もわかっていないから、文章がこんなに支離滅裂なんだ」読むのをやめた記憶があります。大切なことは、きれいな言葉や難しい専門用語を並べることではなく、自分の思想を的確にかつ誰にでもわかる言葉で、具体的に想像できるように語ることだというのが私のスタンスです。
高木さんの「問題は 共産主義は協同組合労働といわれるように そこに働く労働者全員が 平等な「賃金」であるとともに「経営」にかかわれるようにすることが重要」という主張も、平等かどうか誰が判断するのか、その基準はどうなのか、「経営にかかわる」といった場合、経営の決定権のどれが誰に与えられるのか、具体的に提案されない限り意味はないと言うのが私のスタンスです。
労働証書制などのもとでも「平等の賃金」などが問題にされる限り不平等は残るというのが、少なくとも70年代の新左翼の共通理解だったと思います。
「一つの協同組合が 工業だけでなく農業も担うことで 工業と農業間の格差の「解消」に心がける」という文章については、例えば一つの協同組合が一方で自動車を生産して、もう一方でキャベツを生産したからといって工業と農業間の格差が解消されるとは思えませんし、「心がける」だけなら単なるスローガンでしかないと私は思います。協同組合間の格差はどうなるのでしょう。すべての工業生産と農業生産を一つの協同組合が行うという趣旨なのでしょうか。その場合も、組合員の間の格差の問題は残るでしょう。
現在のコングロマリットの中には、工業生産だけでなくアグリビジネスも分野としているものもありますが、それで「格差解消」が進んでいるとも思えません。
何より、「平等」というのは不平等の一種、民主主義とは抑圧の一種と考えるマルクスの発想の方に私は共感を覚えます。
「マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく、「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」事によってしか生成されない」という主張には当面の目標としては反対しませんが、国家権力を誰に移そうが国家権力とは抑圧のシステム以外のなにものでもありませんから、必ず抑圧された者による抑圧する者に対する抵抗と反乱は不可避です。そしてシステムを維持しようとすれば、抑圧は「暴力の表面化」として強制と弾圧のシステムとして現れるしかありません。この点を自覚しないで、最も暴力が表面化する革命を語ることはとても怖いことです。
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