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自由ネコさん
>私は「タダモノ」主義者なので、
よかですか・・・・・、私はあなたがタダ物論などとは一言も評していません.そんな悪口、卑下するために、膨大な時間を使って、パソコンに向かっていません。私は貧乏ですから、上さんの白い目に耐えながら・・・・です。
>唯物論者を自認する方に観念論などというのは相当失礼
―――と評したのは貴方です。
自由ネコさんのお考えが、初期社会主義、あるいは哲学的に言えばフォイエルバッハに似ているなと考え、マルクスのその止揚の仕方はどうであったのか????を私も学び、勉強し、探るために次のように述べたのです。私は、貴方の主張に学んでいるわけです.
>唯物論ではなく観念論だと、ホジスキンこそが、「自身の意思や人格を授けられている労働の被造物」を見出すことへの批判をしていたのです。
ホジスキンの評に対して
>これは「まったく主観的な錯覚」ではなく、見えざる真実
―――と批判しています。
次のところですね.
>この関係では労働生産物が事実上の抽象と判断を行い――
というのは、「自身の意思・・・を授けられている労働の被造物」のことなんですね。これは「まったく主観的な錯覚」ではなく、見えざる真実なんですから、超感性的なものですね。
経済的諸範疇の人格化について述べられているのは資本論と経済学批判では次ぎの個所でした.
以下のとおりです。
>経済的諸範疇の人格化
――というのは、リカードそしてベーリの両者への批判なんです。このように学び取る党派が今までいましたか?自らの依拠した学説を対象化することで学んでほしい、反スターリン主義運動の総括点を提案してほしい・・・・と提案しているわけです.
自由ネコさん
>マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく、「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」事によってしか生成されない」という主張には当面の目標としては反対しませんが、国家権力を誰に移そうが国家権力とは抑圧のシステム以外のなにものでもありませんから、必ず抑圧された者による抑圧する者に対する抵抗と反乱は不可避です。
自由ネコさんは読み取っているとは思いますが、
「マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく」
―――に力点・強調点・総括点・主張があるわけです.
関生労組は、産別労組と事業協同組合の形態で、「アソシエーション」の形成に取り組んでいます。この意義が汲み取れませんか?
「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」
にたいして、
>国家権力を誰に移そうが国家権力とは抑圧のシステム以外のなにものでもありません
――という批判は理解できます。
「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移すことで廃止させていく」
――という表現ではどうでしょうか?
国家の死滅は、商品・貨幣・資本を廃止していく内でなされていくというのは共通確認ではないのですか?
誤解は取れましたでしょうか?
>マルクスやレーニンの膨大な著述から一部を切り取って政敵攻撃の道具とし始めたのはスターリンと、その方面の研究者から聞いたことがあります。
>政敵
貴方は「自由ネコ」さんであって、私は『革命21』に心寄せる人としか受取れませんし、私には政敵も居りません。大幹部でもなく、一介の『革命21』を形成する会員でしかありません。攻撃しているわけでもありません.
>マルクスやレーニンの膨大な著述
――申し訳ありません。資本論一章の解読が、自分の言葉で話せるようにするには、まったくの力不足ですし、むしろ、他者の解釈を手本として、それへの批判という手段による方がよいのでは・・・と今は思っています。そうでなければ、無学な労働者(私の経済学はまるっきり独学です)は、資本の人格化・物象化についてとても語ることが出来ないです。
リカード・ベイリー論争への解決点をマルクスはこう提案しています.
資本論一章の最後です.
(36) 『考察』の著者やS・ベイリーは、リカードが交換価値を単に相対的なものから絶対的なものに転化させたと言って、リカードを責めている。逆である。彼は、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。リカード学派のベイリーに対する反論が粗雑であり、適切でなかったとすれば、そのわけは、彼らがリカード自身のうちに、価値と価値形態または交換価値との内的関係について何の解明も見いださなかったからにほかならない。
「ダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。」
このように交換価値の背後に人間労働の社会関係を見出したことが古典派経済学の功績ですよね.
しかし、この社会的意識の下では、
「真の富は・・・・・人間である。」あるいは、「生産的資本と技能的労働とは一つのものである.」として、、「私たちに必要なのは資本であって、資本家ではない」という意識が生じるのです。
これでは、「アソシエーション」として、商品・貨幣・資本の廃止という課題を立てることもできないんです.
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