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次ぎのは10年ほども前になると思うのですが、ある資本論のメーリングリストに書いたものです.ここに再録させてください.
経済学批判でのベイリー批判
私は、#381で資本論草稿集7ベイリー批判を・・・・・
「私は、私の著書の第一冊(経済学批判)で、私的交換に基づく労働を特徴づけているのは、労働の社会的な性格が物の「属性」として-転倒して-「表わさ」れ、また、社会的な関係が物(生産物、使用価値、商品)のあいだの関係として現象することだ、ということを述べておいた。例の呪物崇拝の使徒は、この外観を、ある現実的なものと解し、そして実際に次のように信じている。すなわち、物の交換価値は、物としてのその属性によって規定され、一般にその物の自然的属性である、と。」・・・・・・・・・・・と紹介しました。
それで、もう忘れていた、『経済学批判』を、引っ張り出してみたところ、そこに、マルクスの問題意識が、新鮮に浮かび出ていますし、リカードの、「抽象的価値」を、如何に包括したのかも述べられていました。第2の点は、ベイリー批判の進行を、読む人それぞれの問題意識のなかで総括することが肝要なので、将来の楽しみに取っておきます。えらそうなことをのべた#381の反省です。
あらためて、経済学批判でのベイリー批判
最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。一個の使用価値が交換価値としてほかの使用価値に関連するかぎりにおいてのみ、いろいろな人々の労働が、同質な、一般的なものとしてたがいに関連しあう。
だから交換価値とは人と人とのあいだの関係である、
(註5「富とは2人の人の間の関係である。」ガリアニ『貨幣について』 )
というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。一ポンドの鉄と一ポンドの金とが、物理的化学的な属性を異にしているにもかかわらず同じ量の重さを表示しているように、同じ労働時間をふくんでいる二つの商品の使用価値は、同じ交換価値を表示している。こうして交換価値は、使用価値の社会的な本来的規定として、また使用価値が物としてもっているひとつの規定としてあらわれてくる。そしてまさにその結果、使用価値は、交換過程において一定の量的関係でたがいにおきかえられ、等価物を形成することになるが・それはちょうど単純な化学元素が一定の量的関係で化合して化学当量を形成するのとおなじようなものである。
社会的生産関係が対象という形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物同志の関係、および物が人にたいしてとる関係として表示されるということ、このことをありふれた自明のことのように恩わせるものは、日常生活の習慣にほかならない。
商品のばあいにはこのような神秘化はまだきわめて単純である。
(経済学批判P31〜32岩波文庫)
マルクスは、
「交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。」・・・・・・・・を次のように立証している。
(<・・・>は、○の注釈です。段落の区別はなく、読みやす いように編集しました。)
社会的労働時間は、これらの商品のうちにいわばただ潜在的にだけ実在しているのであって、これらの商品の交換過程のなかではじめてその姿をあらわすのである。
出発点は共同労働としての個人の労働ではなくて、逆に私的な個人の特定の労働、つまり交換過程のなかではじめてその本来の性格を止揚することによって一般的社会的労働であることを証明する労働である。
だから、一般的社会的労働とは、すでにできあがっている前提ではなく、できあがってゆく結果なのである。
<どのように、一般的社会的労働に、商品の交換過程が結果していくのか?>
そこでまた新たな困難が生ずる。というのは、一方では商品は対象化された一般的労働時間として交換過程にはいってゆかなければならないのに、他方では個人の労働時間が一般的労働時間として対象化することそのものが、交換過程の産物にほかならないということである。どの商品も、その使用価値の、したがってその元来の実在の脱却〔譲渡〕によって、交換価値としてのそれにふさわしい実在をうけとるべきはずのものである。
だから商品は交換過程でその実在を二重化しなければならない。他方では、交換価値そのものとしてのその商品の第二の実在は、ほかの一商品であるよりほかにない。なぜなら交換過程で相対立するのは商品同志だけだからである。
それではどういうふうにしてある特定の商品が、直接に対象化された一般的労働時間として表示されるのか、あるいは同じことだが、ある特定の商品に対象化されている個人的労働時間が、どのようにしてそのまま一般性という性格をもつようになるのか?一商品の、つまり一般的等価物としてのそれぞれの商品の、交換価値の現実の表現は、つぎのような等式の無限の総和であらわされる。
1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー
1エレのリンネル=1/2ポンドの茶
1エレのリンネル=8ポンドのパン
1エレのリンネル=6エレのキャリコ
1エレのリンネル=等々
商品が-一定量の対象化された一般的労働時間としてただ考えられていたにすぎないあいだは、この表示は理論的であった。
一つの特定の商品の一般的等価物としての定在は、右の等式の系列を単純に顛倒することによって単なる抽象から交換過程そのものの社会的結果となる。
<ここに抽象的価値が総括されていたのです>
そこでたとえば
2ポンドのコーヒー =1エレのリンネル
1/2ポンドの茶 =1エレのリンネル
8ポンドのパン =1エレのリンネル
6エレのキャリコ =1エレのリンネル
コーヒー、茶、パン、キャリコ、簡単にいえばすべての商品が、そのもののなかにふくまれている労働時間をリンネルで表現することによって、リンネルの交換価値は、逆に、リンネルの等価物たるほかのすべての商品のうちにみずからを展開し、そしてリンネルそのものに対象化されている労働時間は、直接にほかのすべての商品のさまざまな分量でひとしく表示される一般的労働時間となる。
このばあいリンネルは、ほかのすべての商品のリンネルヘの全面的なはたらきかけ
によって、一般的等価物となるのである。
<商品世界の共同行為という、社会的過程が示された・ここには、人間様の意志行為は介入できません>
交換価値としては、どんな商品もほかのすべての商品の価値の尺度となっていた。ここではそれと逆に、すべての商品がその交換価値を特定の一商品ではかることによって、この除外された一商品が交換価値の恰好な定在、一般的等価物としてのその定在となるのである、これにたいして、それぞれの商品の交換価値が表示されていた無限の一系列、あるいは無限に多数の等式は、ただの二項からなる単一の等式に短縮される。
2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル
が、いまやコーヒーの交換価値を完全にしめす表現である、というのは、この表現では、リンネルはそのままほかのあらゆる商品の一定量にたいしても等価物としてあらわれるからである。だから交換過程の内部では、いまや諸商品は、リンネルの形態をとった交換価値としておたがいに存在しあい、あるいはおたがいにあらわれあうのである。
すべての商品が交換価値としては、対象化された一般的労働時間の異なった量としてのみたがいに関連しあうということは、いまやそれらの商品が、交換価値としてはリンネルという同じ対象の異なった量のみを表示するにすぎないということとなってあらわれる。
だから一般的労働時問もまた、それはそれとして、ひとつの特定の物として、ほかのすべての商品とならんで、しかもその外にある一商品として表示される。
<等価リンネルが、自然的形態であり、等価形態が量的規定性を持って、現れるので、リンネルに表示される一般的人間労働も、自身の生成の過程を消され、人間労働の関係の外・物と物の関係の姿で現れる。>
けれども同時に、商品が商品にたいして交換価値として表示される等式、たとえば
2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル
は、なおこれから実現されなければならない等置関係である。使用価値としての商品の譲渡は、商品がひとつの欲望の対象であることを交換過程のなかで実証するかどうかにだけかかっているのであるが、この譲渡によってはじめて、商品は、コーヒーというその定在からリンネルという定在に現実に転化し、こうして一般的等価物の形態をとり、現実にほかのすべての商品にとっての交換価値となるのである。
反対に、すべての商品が使用価値として脱却する〔譲渡される〕ことによってリンネルに転化するそのことをつうじて、リンネルはほかのすべての商品の転化した定在となる、しかもすべての商品がリンネルにこのように転化する結果としてのみ、リンネルは直接に一般的労働時間の対象化、つまり全面的脱却〔譲渡〕の産物、個人的労働の止揚の産物となるのである。
諸商品がたがいに交換価値としてあらわれあうために、その実在をこのように二重化するとすれば、一般的等価物として除外された商品も、その使用価値を二重化する。それは、特定の商品としてのその特定の使用価値のほかに、ひとつの一般的使用価値をもつにいたる。
こういうその使用価値は、それ自体、形態規定性である。
つまりそれは、交換過程でほかの商品がこの商品にたいして全面的に働きかける結果この商品が演ずる特殊の役割から生ずるものである。
<一般的等価物リンネルが、自然的形態でありながら交換価値として現れるのは、無限の連鎖としてある一般的相対的価値形態・・・・の形態規定・・・・を受けているからであり、一般的価値形態の役割を果たしているからだと。>
ある特定の欲望の対象としての各商品の使用価値は、さまざまな人の手中でさまざまな価値をもち、たとえば、それを譲渡する人の手にあっては、それを取得する人の手にあるのとは異なった価値をもっている。一般的等価物として除外された商品は、いまや交換過程そのものから生ずるひとつの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手であり、一般的交換手段であるという同じ使用価値をもっている。
こうしてこの一商品においては、商品が商品としてそのうちにもつ矛盾、特定の使用価値であるとともに一般的等価物であり、したがってだれにとってもの使用価値、一般的使用価値であるという矛盾が解決されている。したがってほかのすべての商品は、いまや、まずそれらの交換価値を、この排他的な一商品との観念的で、これから実現されるはずの等式として表示するのにたいして、
この排他的な商品にあっては、その使用価値は現実的なものであるにもかかわらず、過程そのものにおいては、現実の使用価値に転化してはじめて実現されるべき単なる形態定在としてあらわれるのである。
がんらい商品は、商品一般として、特定の使用価値に対象化された一般的労働時間として自已を表示していた。交換過程においては、すべての商品は、商品一般としての排他的な商品に一特定の使用価値における一般的労働時間の定在としての一定の商品に関連する。
だから諸商品は、特定の商品として、一般的商品としての特定の一商品に対立して関係するのである。
したがって、商品所有者たちが一般的社会的労働としてのかれらの労働に相互に関連しあうということは、かれらが交換価値としてのかれらの商品に関連するということに表示され、交換過程における交換価値としての商品同志のあいだの関連は、諸商品の交換価値の恰好な表現としての特定の一商品にたいするそれらの全面的な関連として表示され、そのことはまた逆に、
この特定の商品の、ほかのすべての商品にたいする特殊な関連としてあらわれ、そのためにまたひとつの物の、一定の、いわば自然発生的な、社会的性格としてあらわれる。
<相対的価値形態と等価形態の二つの役割を忘れると、一般的等価リンネルは、交換の歴史的自然発生的な社会の成長から生まれ、その性格を貨幣が受け継ぐように見えると。>
このように、すべての商品の交換価値の恰好な定在を表示する特定の商品、あるいは特定の排他的な一商品としての諸商品の交換価値―それが貨幣である。
それは、諸商品が交換過程そのものにおいて形成する、諸商品の交換価値の結晶である。
だから諸商品は、すべての形態規定性をぬぎすてて、直接の素材的な姿態でおたがいに関連しあうことによって、交換過程の内部でおたがいにとっての使用価値となるのであるが、・他方交換価値としておたがいにあらわれあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣の形成にまですすんでゆかなければならない。
商品としての使用価値の定在が象徴でないように、貨幣も象徴ではない。ひとつの社会的生産関係が、諸個人の外部に存在する一対象〔貨幣〕、として表示され、またかれらがその社会生活の生産過程においてとりむすぶ一定の諸関連が、ひとつの物の特殊な属性として表示されるということ、このような顛倒と、想像的ではなくて、散文的でリアルな神秘化とが、交換価値をうみだす労働のすべての社会的形態を性格づけている。貨幣のばあいには、それが、商品のばあいより、もっとはっきりと、あらわれているだけである。
(岩波文庫P48〜53)
「だから諸商品は、すべての形態規定性をぬぎすてて、直接の素材的な姿態でおたがいに関連しあうことによって、交換過程の内部でおたがいにとっての使用価値となるのであるが、・他方交換価値としておたがいにあらわれあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣の形成にまですすんでゆかなければならない。」
マルクスは、このように<形態規定>を遂行することで、ベイリーの物的関係としての商品関係を批判し、この形態規定された価値形態が、貨幣形態を生成する必然性まで、見とうしていたのですね。このように、資本論の回り道は、形態規定の論理ですし、細胞形態を分析する礎石なのです。こうして、振り返ってみると、まったく自身の曖昧さに感心します。資本論2章での貨幣の生成の前段までですね。以上です。
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