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『資本論』の読み方

 投稿者:自由ネコ  投稿日:2009年11月 7日(土)11時23分52秒
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   この間の杉本さんとの討論にも示されるように『資本論』には様々な読み方があります。
 超感性的な存在が動き回り、商品が人間に意志を押し付ける神話世界の中で、神の子羊を探し求める予言の書という読み方もあれば、資本主義経済を分析した経済学論文という読み方もあります。
 2回にわたって「関係式」を使って展開した投稿は、後者の視点に立ったとき資本論の冒頭に何が書かれているかを分析したものでした。そしてその視点から読んだ時、マルクスの『資本論』の著述には多くの不適切な表現や矛盾点、いくつかの明白な誤りすら存在することにすら気づかざるをえません。
 『資本論』を予言書として読み、その哲学を神学にまで高めた方々は、そうは考えないでしょう。神学においては、聖別された人間がある主張を述べたことがその主張の正しさの根拠となるからです。聖マルクスの教えに疑いを挟むなど涜神と考えるのが神学の論理です。スターリンを絶対不可謬の法王とするスターリン主義こそはマルクス神学の典型といえるでしょう。
 それ対し、科学においては、人がある主張を述べたことはその人物がその主張を持っているという意味しか持ちません。誰が述べたかではなく、その主張の論理的一貫性、現実との整合性がその主張の正当性の根拠とされます。したがって、科学的方法論に立つならマルクスの主張のすべてもそうした視点から点検されなければなりません。『資本論』を批判的に読むか否か、ここにマルクス神学とマルクス経済学の分水嶺があります。
 ところで、誤りにも現実世界の理解の一道程として大きな存在意義が存在するのが科学の世界です。
 『資本論』の誤りや不適切な表現の具体的な諸点についてはすでに、宇野弘蔵やその後継者らの多くの研究がありますので、ここでは思いつくまま若干の一般的論点について検討してみます。

《文章技術上の限界》
 ワープロ登場前の手書き文章の場合、語数の節約は避けることのできない限界です。
 例えばマルクスは“有用性という属性”の意味での使用価値と“その属性を持った物としての使用価値”を表現上明確に区別せず、「使用価値」と簡単に表記しています。文章の論理展開を丹念に追えば、それがどちらか判断可能ですし、マルクスもそれを前提に著述を進めています。しかし、マルクス自身が次のようにそうした限界に足を取られてしまっている部分も少なくありません。
 「交換価値は、…ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として…現れる」(岩波文庫版1969、第1分冊p.70)
 ある物が交換過程に投げ入れられるのは、その物が所有者にとって有用性・使用価値という属性を持たないからです。こうした有用性・使用価値のそれぞれの人間の欲望への従属性、個別性はここでは見失われています。
 ちょうどキリスト教の神父や牧師がみずからの説教の正当化のために聖書の一断片を使うように、マルクス自身の主張の解明ではなく、みずからの主張の正当化のためにマルクスの文章を引用するマルクス神学者は、こうした限界なども利用して必ずそのための文章を見つけ出すことができます。だから、こうした技術上の限界についてしっかりと認識しておく必要があるのです。

《歴史的限界》
 マルクスが『資本論』で行った交換関係についての分析の画期的意義は、交換関係が対称的関係(“AならばB”が成り立てば、“BならばA”も成り立つ関係)ではなく、非対称的な関係(“AならばB”が成り立つからといって“BならばA”が成り立つとは限らないという関係)であることを解明したことでした。商品と貨幣、「売る」と「買う」などの区別こそ資本主義的生産システム解明の出発点です。このことを明白にするために、マルクスは「相対的価値」や「等価」などの用語を駆使するなど様々な工夫をしています。
 非対称な関係とは、例えば次の様な関係です。
 いま、目の前の文庫本に物差しを当てて縦の長さを測ったところ149mmの目盛りのところまでありました。したがって、文庫本の大きさ(縦の長さ)は149mmであるということができます。では、この物差しの長さはどれだけでしょう。長さを測ることができるのは、文庫本も物差しも同じ空間的広がりという性質を持っているからですが、実は、物差しの長さを測る方法を人類は持っていません。現在1メートルの長さというのは「1秒の299,792,458分の1の時間に光が真空中を伝わる距離」と定義されていますが、それは単に1光秒の299,792,458分の1を1メートルと言い替えたにすぎず、1メートルの長さを直接測ることができるわけではないのです。
 同様に、ある商品の価値の大きさは貨幣となった「物(例えば金)」の一定の量(Xグラム)で量ることができますが、貨幣そのものの価値の大きさは量れません。だから、商品が貨幣と交換される場合、商品の価値の大きさと貨幣の価値の大きさが等しい「等価交換」と考えるのは明白な誤りなのです。
 しかし、非対称的な関係について一般的に認識されはじめるのは、カタストロフィ理論やカオス理論が学界の枠を超えて話題となった20世紀後半のことでした。それ以前には「AはBである」と述べることは「BはAである」と述べることと同じと考えられていたのです。
 マルクス自身がそうした時代の「常識」にとらわれた結果、例えば「物価表の値段表示を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品であらわされる」(国民文庫版1972年第1分冊p.173)と非対称的な関係を否定するともとれる文章を書いています。
 もちろん「値段表示を逆に読む」というのは一つのトートロジーであり、貨幣の価値の大きさを量ることができないことを示す事実です。しかし、「大きさが…あらわされる」と表現することで、この文章はこの文脈の中でも量ることができるかのように読める不適切な表現でとなっています。そして、「非対称の関係」を理解しない多くのマルクス神学者は、この文章を切り取って貨幣の価値の大きさを量ることはできるというみずからの主張の根拠とすることで、これを明白な誤謬へと転化してしまったのです。
 ただ、神学者といえども現実から遊離して存在することはできません。貨幣の価値の大きさを量ろうとすれば、商品や貨幣の価値の大きさをともに量る第三の存在が必要となります。この誤謬を「発展」させた後代の研究者の中には、第三の新たな物差しを探し求め、ついに、「価値=超感性的な実体」という新たな物差しを「発見」してしまう者すら現れたのです。

《弁証法的論理》
 これは不適切な表現とか誤りということではありませんが、弁証法という論理体系を駆使するマルクスは、それぞれの著述においてその段階までの検討で可能な命題をまず提起し、その命題を検討する中でその正確さを否定し、止揚して新たな命題を打ち立てるというダイナミックな論理構造を採用しています。
 例えば、現在の検討範囲からは離れますが、マルクスは、W−G−Wの検討に続いてその論理的発展形態としてG-W-Gという命題を次のように提示します。
 「しかし、この形態と並んで、われわれは第二の特殊に区別される形態、すなわちG-W-Gという形態…売るために買うということを見いだす」(国民文庫版1972、第一分冊p.258)
 ところがこの命題はすぐに「このG-W-Gの流通は一見無内容に見える、というのは同義反復的だからである」と否定され、「この過程の完全な形態は、それゆえG-W-G'」(同p262-4)と止揚されます。
 ここは比較的わかりやすい部分ですが、こうしたダイナミックな構造は『資本論』全体で貫かれ、しかも内部で完結しているのではなくそれを超えて発展、展開していくものとして想定されています。だから、『資本論』はその意味では未完成であり、スタティックな論理で解釈すれば不適切な表現で満ちていると見えるのです。

《資本論引用の意味》
 スターリン支配下のマルクス神学からマルクスの著作を解放し、科学として批判的に検討しなければならないと提起し、実践したひとりは宇野弘蔵でした。だから、スターリン主義の呪縛からの解放を求める革命的左翼が宇野弘蔵に学ぼうとしたのは当然でした。しかし、革命的左翼はマルクスの批判的検討を貫くことができず、新たな神学的権威を求める方向に走ってしまったようです。それがトロツキー主義であり、黒田寛一や吉本隆明などのイデオローグ達でした。反スターリン主義とは、いまだ一つの宗教改革にとどまっていたように感じます。
 それを典型的に示すのは、前節に示したマルクスのダイナミックな論理展開を無視し、著述の断片を切り取ってみずからの主張の根拠とする神学的引用がいまだに横行している現実です。マルクスの著述の一部を切り取ることはその主張を歪曲することであり、表現された内容を誤謬に転化してしまう危険が非常に高い行為です。まして、それは引用者の主張を正当化する根拠となりえません。
 「E=mc^2」が正しいのはアインシュタインが言っているからではありません。1945年7月16日にロスアラモスの砂漠で爆発した一個の爆弾などがその正しさを証明したからです。私たちは、マルクスを「唯物論」という神学から解放し、現実に根ざした唯物論として再建するとともに、その正しさをこれからの私たち自身の実践をとおして証明していかなければなりません。2回にわたる「関係式」を使った投稿は、そうした問題意識にもとづく私の一試論です。
 
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