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   資本論初版 価値形態論の解読を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月18日(木)12時44分7秒
  通報 返信・引用 編集済
     初版の本文を引用しようとしても、無いので、
   未完成ですが、そのために少し整理してあったものを掲示します。
   おって・・・加えていきます。

   http://p.booklog.jp/book/19345/read
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/b512872ae86ecc2ec6af0da0a6ed7043
   第15回「『資本論』を読む会」の報告 2,012年 8月16日  堺市泉が丘駅

   <資本論初版>

   相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
   20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)
 ①この形態は、単純である ⑯ がゆえにいくらか分析が困難である。この形態のなかに含まれているいろいろの諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であり、したがって、抽象力をいくらか緊張させてのみ、識別されうるし、把握されうるのである。ところが次のことだけは一目瞭然である。すなわち、20エレのリンネル=1着の上着であろうと20エレのリンネル=X着の上着であろうと形態は変わらない、ということ。⑰
 註⑯それはいわば貨幣の細胞形態であり、またはヘーゲルならば言うであろうように、貨幣のアン・ジッヒ(即自態)
 註⑰ S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者はS・ベイリー。》

 ②リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。だから、それの体躯が糊で固められていることは、すなわちそれのもっている現物形態は、価値形態ではなくて、価値形態の反対物なのである。
リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているということである。
リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を、価値としての・自分に等しいものとしての・上着に、関係させることができないであろう。
リンネルが自分を質的に上着に等置するのは、リンネルが自分を上着に、同種の人間労働の対象化、すなわち自分自身の価値実体のの対象化として、関係させるからであり、
そしてまた、リンネルが自分を、x着の上着ではなく一着だけのの上着に等置するのは、リンネルが価値一般であるだけでではなく一定量の価値でもあり、
しかも、一着の上着が二〇エレのリンネルとちょうど同じだけの労働を含んでいるからでもある。リンネルは、上着にたいするこういった関係によって、ひとたたきでいくひきもの蝿を打つ。
リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。
リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価値との双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接的な存在とは区別される価値形態を与える。
リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによって、現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのである。
リンネルは、それが使用価値であるかぎりでは、ひとつの独立した物である。これに反して、リンネルの価値は他の商品たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ、現れているのであって、この関係のなかでは、上着という商品種類が、リンネルに質的に等置され、したがって一定量において同等とみなされ、リンネルの代わりになり、リンネルと交換可能なのである。
だから、価値が、使用価値とは区別される固有の形態を受け取るには、自分を交換価値として表すほかには手段がない。

 ③上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であるということである。上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をもっているのである。等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、その物的な姿において、その使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということを含んでいる。

 ④ 価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をなしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。

ところが諸商品は諸物である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物的な諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。

リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。

リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるのである(18)。
 (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。(『資本論』初版 国民文庫版46-7頁)

 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。

使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な、人間的な、労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。

上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている。リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。だが、使用価値である上着のうちに表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、裁断労働という特定の有用な労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定できるが、それ自体としては無規定である。それは、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され対象化されうるのである。というのは、特定の労働にたいしてのみ、自然素材が、すなわち労働が対象化されている外界の物質が、相対するからである。ひとりヘーゲルの「概念」だけが、外界の素材なしで自己を客観化することを達成している(19)。

  (18a)ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。

  (19)「概念は、初めは主観的でしかないが、外界の物質あるいは素材を必要とせずに、自己自身の活動に適合しながら自己を客観化することへと前進する。」へーゲル『論理学』、三六七ページ。所収、『エンチクロペディー、第一部、ベルリン、1840年。』

 ⑥ リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。だが、リンネルをして上着という使用価値に興味を抱かせるものは、上着がもっている羊毛製の快適さでもなければ、ボタンをかけた上着の恰好でもなければ、上着に使用価値の特徴を与えている他のなんらかの有用な品質でもない。上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。リンネルは、自分の価値をあぎ剤〔あぎは植物名。あぎ剤は駆虫剤、通経剤などのことを言う〕とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現しても、同じ目的を達したであろう。

だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう(19a)。

つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。
(19a)すなわち、靴墨の調整そのものが靴墨作りと俗に呼ばれているかぎりでは。

 ⑦ われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立っている。
商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している労働を、たんに人間労働力の支出として商品価値のなかに計算されているかぎりでのその同じ労働から区別することは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察するぱあいには、それを、他方の形態においては考察しないのであって、逆のばあいには逆になる。これらの抽象的な対立は、おのずから分離するものであり、したがって区別しやすい。

商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価値の・したがってそれ白身の反対物の・現象形態になる。同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、すなわち、抽象的な、入間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。

このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。

商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、府用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。この形態は、商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態である。

ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であるから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができるのである。

この商品は、自分の価値を、自分自身の体躯であるいは自分自身の使用価値で、表現することはできないが、直接的な価値存在としての・一つの別の使用価値あるいは商品体に、関係することができる。

この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もちろん関係することができる。

そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、ということだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。

単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だけを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)。
(20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえをも見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたらない。》(江夏訳37-40頁)

 ⑧ われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。

両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。
(国民文庫版53頁)

 ⑨ 量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きざの規定から生ずるのである。リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。

いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの一エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。

これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。

 ⑩ この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式 20エレのリンネル=一着の上着 または 20エレのリンネルは,一着の上着に値する は、明らかに、同じ等式 一着の上着=20エレのリンネル または 一着の上着は二〇エレのリンネルに値する を含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。(前掲53-4頁)

 ⑪ 価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。

しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。

すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。

ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などどまったく同じように、リンネルにたいする関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。

相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=1着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。21》
(国民文庫版55-6頁)

 註21 およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。》

 ⑫ 相対的価値の単純な形態、すなわち二つの商品が等価であるという表現にあっては、価値の形態表示は両方のそれぞれに関して同質である。なぜならば、リンネルは自分の価値を一商品である上着でのみ表わし、逆の場合は逆だからである。しかし、この価値表現は両方の商品にとって二重であり、それぞれの商品にとって別々である。最後に、両方の商品のおのおのは、他方の単一な等価物であるにすぎない。

 ⑬ このような等式、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または 20エレのリンネルは1着の上着に値する、というような等式は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しでいるだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー 20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである(22)。

 註22 各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことできるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ぺージ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕) 当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえぽ『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。(同上57頁)

 ⑭ 柑対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類にとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。
(国民文庫版57頁)

⑮ それにもかかわらず、この第二形態は、ある本質的な進展を包蔵している。すなわちこの形態のなかに含まれているのは、リンネルが、自分の価値をあるときはたまたま自分の価値を、上着でもコーヒー等々で表現し、この商品またはあの商品または第三の商品等々で表現する、ということでもある。
この一歩進んだ規定は、相対的価値表現のこの第二規定あるいは発展した形態がそれのつながりで現れるやいなや、明らかになる。その時我々は次の規定を得ることになる。



   Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
 ① 20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々

 ②  z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =y量の商品F または =等々)。

 ③ さしあたりまず明らかに第一の形態は第二の形態の基礎的要素をなしている。なぜならば、後者は20エレのリンネル=1着の上着、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々ま というような多数の簡単な相対的な価値表現から成り立っているからである。〉(60頁)

 ④ 第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 においては、これらの二つの商品がこのような特定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的な事実に見えることがありうる。これに反して、第二の形態においては、この偶然的な現象とは本質的に区別されていてこの現象を規定している背景がすぐさま明らかに見えてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ大きさのままである。二人の個別的な商品所有の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の価値の 大きさが商品の価値のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのである。〉(60頁)

 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化されている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているのである。〉(60-1頁)


 ⑥ 第二の形態は、第一の形態の諸等式だけの合計から成り立っている。しかし、これらの等式のそれぞれ、たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 は、その逆の関係 1着の上着=20エレのリンネル をも包括しているのであって、ここでは上着が自分の価値をリンネルで示しており、まさにそれゆえにリンネルを等価物として示しているのである。ところで、こういうことはリンネルの無数の相対的な価値表現のどれにもあてはまるのだから、そこでわれわれは次のような形態を得るのである。〉前掲(61頁)



 Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態
  1着の上着     =20エレのリンネル
  u量のコーヒー   =20エレのリンネル
  v量の茶        =20エレのリンネル
  x量の鉄        =20エレのリンネル
  y量の小麦      =20エレのリンネル
  その他        =20エレのリンネル 〉(46-7頁)


 ① 商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である 1着の上着=20エレのリンネル に戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさらに発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるいは上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。

いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの価値を、リンネルという素材で表現している。このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。すべての商品は量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、x量の鉄等々、すなわちこれらのさまざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルにイコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等しい。

こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関係しあい、質的に等置されて量的に比較される。この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、得ることになる。一商品の価値をすべての他商品の広がりのなかで表わすところの、相対的価値の発展した形態(形態II)と区別して、われわれは、この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼう。〉
(資本論初版 原P26  江夏訳47-8頁)



 ② 形態IIにおいて、すなわち20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、等々 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展させているのであるが、この形態IIでは、リンネルは、一つの特殊的な等価物としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいしては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれているところの形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。

だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけである。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。〉(原P26~27 江夏訳48-9頁)


 ③ 商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであった。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうでもよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかったし、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。

リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他のすべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現(形態II)にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。〉(原P27~28 江夏訳48-49頁)



 ④価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現である。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、関係している。

これらの商品の社会的な関係は、もっぱら、それらが相互に、それらのこういった社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同じであり、したがって互いに置き換えが可能であるし互いに交換が可能である、というような表現--として認められているという点において、成り立っている。

有用物として一商品が社会的な規定を受け取っているのは、その商品がその所持者以外の人々にとって使用価値であり、したがって社会的な必要をみたす、というかぎりにおいてのことである。ところが、この商品の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させているかということにはかかわりなく、このような属性によって、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象になるだけであって、別の諸商品にたいしての商品にはならない。

単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品として互いに関係させることができ、したがって、社会的な関係のなかに置くことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。

だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉(原P28 江夏訳49-50頁)

 ⑤ 〈単純な相対的価値形態(形態 I )である 1着の上着=20エレのリンネルが、一般的な相対的価値形態である 1着の上着=20エレのリンネルから区別されるのは、この等式が今では次の系列の一環を形成しているからにほかならない。

 1着の上着=20エレのリンネル
 u量のコーヒー=20エレのリンネル
 v量の茶=20エレのリンネル
  等々

 ⑥つまり、形態 I は、じっさいには、リンネルが一つの単一の等価物から一般的な等価物に発展しているということによってのみ、区別されている。したがって、単純な相対的価値表現にあっては、自分の価値量を表現する商品ではなく、価値量がそれにおいて表現されるところの商品が、直接的交換可能性の形態、等価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ているとすれば、同じことは、一般的な相対的価値表現についてもあてはまる。だが、単純な相対的価値形態にあっては、この区別はまだ形式的であってぼやけている。1着の上着=20エレのリンネル では、上着が自分の価値を相対的に、すなわちリンネルで、表現しており、そうすることによって、リンネルが等価形態を得ているとしても、この等式は、20エレのリンネル=1着の上着 という逆の関係を直接に含んでいるのであって、この関係では、上着が等価形態を得ており、リンネルの価値が相対的に表現されているのである。相対的価値としての・および等価物としての・両商品の価値形態がもっところの、このように対称的であり相互的である表示は、もう生じていない。1着の上着=20エレのリンネル 一般的な相対的価値形態--この形態ではリンネルが一般的な等価物である--が、20エレのリンネル=1着の上着 に転倒されても、そのことによって、上着は、すべての他商品にとっては一般的等価物になるのではなくて、リンネルの特殊な等価物になるにすぎない。
上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、という結果になる。逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、20エレのリンネル=20エレのリンネル であろう。だが、これは同義反覆であって、この同義反復、一般的な等価形態にありしたがって絶えず交換可能な形態にあるこういった商品の価値量を、表現するものではない。むしろ、20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=等々という発展した相対的価値形態が、いまでは、一般的な等価物の独自な相対的価値表現になるのである。〉(原P29~30 江夏訳50-2頁)


⑦〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的・社会的形態になるわけである。〉(原P30 江夏訳52頁)


⑧〈ある商品が一般的な等価形態を得ているのは、その商品がすべての商品に対して、それらの一般的な、相対的な、したがって直接的ではない価値形態の表示に役立っているからでしか無く、またその限りにおいてのことでしかない。ところが諸商品は、自分たちの現物形態が自分たちの使用価値形態でしかないから、総じて相対的価値形態を受け取らねばならず、そして、これらの諸商品は、自分たち全員が、価値として、人間労働の同種の膠着物として、たがいに関係しあうためには、統一的な、したがって一般的な、相対的価値形態を受け取らなければならない。
だから、一商品が、全ての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に社会的形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかなく、またそのかぎりにおいてのことでしかない。
すなわち、商品は総じて、それの直接的な形態がそれの使用価値という形態であってそれの価値という形態でないために、直接的に交換可能な形態あるいは社会的な形態ではないために、直接的に交換可能な形態あるいは社会的形態では、もともと存在していないからである。〉
 (初版 原P30~31 江夏訳52~53)

⑨〈一般的な直接的交換可能性という形態を見ても、この形態が対立的な商品形態であり、非直接的交換可能性という形態と不可分であるのは、あたかも磁極の一方の陽性が他方の陰性と不可分であるようなものだ、といったことは、じっさいにはけっしてわからない。だから、すべての商品に直接的交換可能性の極印を同時に押すことができると想像しうるのであって、このことは、すべての労働者を資本家にすることができるかのように想像しうるのと、同じでである。ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。(23)〉(同上53頁)

〈(23)商品生産という形態のなかに人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきものの不都合から、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろん、大いに望ましいことであろう。この俗物的なユートピアを描きあげたものが、プルードンの社会主義であって、この社会主義は、私が他の箇所で示しておいたように、けっして独創性という功績をもっているわけではなく、むしろ、彼よりもはるか以前に、ブレーやグレーやその他の人人々の手で、はるかにもっとうまく叙述されていた。このことは、このような知恵が今日フランスでは「科学」という名のもとではびこっているのを、妨げてはいない。プルードン学派ほど、「科学」という言葉を乱用した学派はなかった。なぜならば、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまく間にあうようにやってくるものなんだ。」ゲーテ『ファウスト』岩波文庫版、相良守峯訳、第1部、133頁、より引用〕。〉


⑩労働の直接的に社会的な具象物として、一般的な等価物であるリンネルは、直接的に社会的な労働の具象物であるが、他方、自分たちの価値をリンネルで表している他の商品体は、非直接的に社会的な労働の具象物である。

⑪すべての使用価値がじっさいに商品であるのは、それらの使用価値が互いに独立した私的諸労働の生産物であるからに他ならない。これらの私的労働は私的労働とはいいながら、分業という自然発生的な体制の・独立しているとはいえ特殊な肢体として、素材的に互いに依存しあっている、というような私的労働なのだ。これらの私的労働がこのように社会的に関係しあっているのは、まさに、それらの差異に、それらの特殊な有用性に、依存しているからである。だからこそ、これらの質的に相異なる使用価値を生産している。そうでなければ、これらの使用価値は相互同志の商品にはならないであろう。
他方、有用な品質がこのようにちがうだけでは、生産物はまだ商品にはならない。ある農民家族が自分自身の消費用に上着やリンネルや小麦を生産すれば、これらの物は、その家族には、その家族労働のそれぞれにちがった生産物として相対しているが、これらの者自身が相互に商品として相対しているわけではない。労働が直接的に社会的な労働、すなわち共同の労働であれば、諸生産物は、それらの生産者たちにとっては、共同生産物という直接的に社会的な性格を得るであろうが、相互同志での商品という性格を得ることはないであろう。
とはいえ、われわれは、ここでは、諸商品のなかに含まれていて互いん独立している私的諸労働の社会的な形態がなんであるかをさらに立ち入って探求するには及ばない。この形態はすでに、商品の分析から明らかになっている。これらの私的労働の社会的な形態は、同等な労働としてのそれらの相互関係なのである。つまり千差万別のいろいろな労働の同等性は、それらの不当性の捨象においてのみ存在しうるのであるから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、たといすべての人間労働がそれらの内容や作業様式がどうであろうとじっさいににそうであるところのものとしての、それらの相互関係なのである。

どんな社会的な労働形態にあっても、別々な個人の労働はやはり、人間労働として互いに関係しあうが、ここでは、この関係そのものが、諸労働の独自に社会的な形態として認められている。
だが、これらの私的労働はどれも、それの自然的形態では、抽象的な、人間的な、労働という、独自に社会的な形態をもたないが、このことはちょうど、商品がそれの現物形態では、単なる労働膠着物すなわち価値という社会的形態をもたない、のと同じことである。

しかし、ある商品の現物形態、ここではリンネルの現物形態が、すべての諸商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するがゆえに、一般的な等価形態になる、という事情からして、リンネル織もまた、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な実現形態に、すなわち直接的に社会的な労働に、なるわけである。「社会的であること」の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係から採ってくるべきであって、この声質に無縁な観念から採ってくるべきではない。

先に明らかにしたように、商品は、生来、一般的な交換可能性という直接的な形態を排除しており、したがって、一般的な等価形態を対立的にのみ発展させうるが、同じことは、諸商品のうちに含まれている私的労働にもあてはまる。

これらの私的労働は直接的に社会的な労働ではないから、第一に、社会的な形態は、実在する有用な諸労働の自然形態とはちがった、これらの有用な労働とは無縁な、抽象的な形態であり、第二に、すべての種類の私的労働は、それらすべてが、排他的な一種類の私的労働に、ここではリンネル労働に等置されることによって、対立的にのみ、自分たちの社会的な性格を得るのである。

このことによって、この排他的な私的労働は、抽象的な、人間的な、労働の・直接的で一般的な現象形態になり、したがって、直接的に社会的な形態における労働になる。

だから、この排他的な私的労働はまた、社会的に認められていて一般的に交換可能な生産物のうちに、直接に現れている。(P54~55 原P31~33)

⑫あたかも一商品の等価形態が、他の諸商品との諸関係での単なる反射ではなく、その商品自身の物的な性質から生じているかの仮象は、単一の等価物が一般的な等価物に進歩するにつれて、固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は、第一の等価物が一般的な等価物に進歩するに連れて、固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は、互いに関係しあう諸商品にとっては、もはや一様に発展しないからであり、一般的な等価形態はは、一商品を、すべての他商品とは全く別のあるものとして区別するからであり、最後に、その商品のこういった形態は、じっさいにもはや、何らかの単一な他の一商品との関係の産物ではないからである。
   (P56 原P33)










 
 
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