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       相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月19日(金)07時52分24秒
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      初版の第二の形態と再版・英語版との対比をなしてみる。語ることは同じか?
     ① 初版
      Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
     20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶
    または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々
    ・・・・・
     20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化され
    ている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働
    は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定さ
    れたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。
    第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置し
    ている。
    第二の形態はこれとは違っている。
    リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネ
    ル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係し
    ている。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働
    一般の結晶として、示されているのである。(『資本論』初版 原P24~25)

      ②再版ーー英語版(宮崎訳)
   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm

     1. 拡大された相対的価値形式
    (1) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
    によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。
    故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労
    働の凝結物として示す最初の瞬間となる。
    それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。
    労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。
    人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なん
    であろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコ
    シであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。
    リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。
    もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。
    商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を
    意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。


    初版 再版の論旨を、以上から挙げてみよう。
    ①ーーa「いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働の単
        なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。」
       b「リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置さ
        れ、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。」
       c「ここではリンネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶
        として、示されている・・」
    ②ーーa「他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
       b「・・労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。」
       c「 リネンは、今、その価値形態に基づき、社会的関係の中に立っている。」
       dリネンは「単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある」

     両者の相違を検討してみる。
    ②に示される再版の事柄で、①との違いを示すのは、他のあらゆる諸商品がリネンの価値形態
    であり、リネンの価値鏡であることだが、①ではそうではないのだろうか?
    なるほど①では、他の諸商品が、商品世界の市民として規定されてはいない。
    しかし、その他の諸商品が「リンネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態とし
    てのありとあらゆる商品体に関係している」ことで、「リンネルの価値がはじめて真に価値と
    して、」示されるーーと言うのは何のことであろうか?
    このことこそ、他のあらゆる諸商品の役立ちから、第二形態ですから個別的に、リンネルが価
    値であるとの判断・反省規定を受けたのであり、それが、①ーーbであり。②ーーbの事柄で
    あるのだから、それこそ、労働生産物が商品となる商品世界が形成され、他の諸商品が展開さ
    れた価値形態をこそ形成したということではないのか?

    ーーところが、榎原さんは、すでに初版4・5・6段落でこれらの疑問が出され、それへの解
    答である7段落の次の事柄ーー商品形態の成立ーーが成されているのを見落としているのです。

    <初版七段落>
    ①「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
     使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。
     それは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。
     同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、
     すなわち、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている
     諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。」

    ②「・商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態の方は商品が生まれ
    つきもっているのである。・・・価値形態の方は商品が他の商品との関係において初めて手に
    いれるのである。・・別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。」
    (初版原P20)

    上記は、何を示しているのか?物象の判断の仕方として、第四段落で述べられた、
    「諸商品自身の物象的な諸関係のなかで、こういうものであることをしめ」(原P17)して、
    使用価値と価値ではーー使用価値が価値の現象形態になる、
             ーー使用価値と価値形態として商品形態  となるとの判断なのです。
    このように、マルクスは設問への解答を示しているのに、榎原さんは、この設問をだけ次に提
    示する「第二節人格の物象化の現実性 一価値形態の発展」にて、この⑥を提示したのです。

    ⑥「リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価
    値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。
    ーーー略ーーー
    だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産
    活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人
    間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。
    リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わ
    りに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであ
    ろう(19a)。
    つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このこ
    とは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有
    用な、労働種類--抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、
    ということに依拠しているものでしかない。」(原P19)

    彼は、上記⑥の設問をした冒頭部をのみ引用してーーこう語るのです。
    「このリンネルの裁縫労働への特定の仕方での連関に価値形態の秘密の内実があり、使用価値
    と価値とが反射しあう関係を成立させる根拠があったのだが、さらにまたこの連関こそが人格
    を物象化させる原理をなしていたのであった。」(『価値形態 物象化 物神性』P191)

    ここのマルクスの文を読んでの①まずの第一がそこへの自分の主観的な理解であり、
    ②物象の判断について語るマルクスが、価値形態論ではなく交換過程で語る「人格の物象化」
    をもここでなしたとのーー誤解の主張なのです。
    学会ーー久留間先生の理解ではその区別はないのですが。
    私は、自らの薄学ゆえの理解不能とばかり思っていたが、そうではなく、彼のこの文節への理
    解不能であったのです。

    次には、彼の無視している八段落です。

    ⑧ われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値
    形態を包括している、ということである。
    リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。
    リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、
    示すのである。
    他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商
    品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すな
    わち等価物という形態を、受け取るのである。

    両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態な
    のである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っ
    ている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられ
    ているのである。(国民文庫版53頁)

    「一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態」(上記)
    このように、初版の記述は、両極の形態が如何にして成立するのか?勿論諸物象の判断と役立
    ちにて成されたことを、ここに提示したのです。

    次は11段落です。彼は、Aの部分を引用せずBを引用して語るのです。

    ⑪段落ーA「価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、
       単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。
       リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換
       価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。」

       B「すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、
       したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこうい
       うものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであ
       り、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリ
       ンネルの反射規定なのである。」(初版 国民文庫版55-6頁)

    このBの部分をのみ引用して語ったのでは、次のことを無視します。
    この11段落には、①媒介されて価値形態となることで、相対的価値形態が形成される。
            ②直接的に価値形態となることで、等価形態が形成される。
    この① ②こそが価値形態の秘密なのです。
    以上の二つの両極の形態が、5段落の註18aと、19の文章に示されるように、上着が価値の現
    象形態であっても右極の形成につながらず、左極の相対的価値形態の形成になることでの困難
    性を克服したことをこそ示しています。その克服は、この① ②の他方のみの性格ではなく、
    対立性と両極依存性が、このA Bには示されています。

    彼はBの部分を引用してこう語る。
       「肝心なことは、等価物存在を上着の属性と見るのではなく、上着が抽象的人間労働の
       直接的実現形態とされていることに帰着させることである。」(P192)
    そして自らの正しさを立証するために、
       「マルクスは、相対的な価値の第二の、または展開された形態を分析してつぎのように
       結論ずけている。」(同上)
       ーーとして、私が冒頭に上げた第二の形態の第五段落を提示するんです。

     榎原さんは等価形態を論じているのに、その正しさの論証のために、
    展開された相対的価値形態の成立ーーを提示するのです。


 
 
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