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      英語版資本論の価値形態論の解読をとうして、語られること

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月17日(火)13時35分59秒
  通報 返信・引用 編集済
   杉本ーー第一の形態での転倒が、7~8段落にて語られている。
  第三の形態でも同じく転倒が語られることで、価値形態・一般的価値形態が成立するのです。
  ところが、既成の翻訳は、この転倒を翻訳せず、この転倒を批判しないことで物象の社会関係こそが、
  価値形態論にて成立することにて、物的関係へと転倒した原因をこそ提示しているーー場所を隠蔽して
  いるのです。既成の翻訳の誤りこそ、商品批判・物象の社会関係の提示をこそなそうとする我々の批判
  を封じているのです。

  https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1
   A.価値の要素的または偶発的形態
   <3節緒部>(緒1段)
    諸商品はこの世界に諸使用価値の姿で、諸品物の姿で、すなわち鉄、亜麻布、穀物、
   などの姿で生まれてくる。これが諸商品の明白で、素朴な、身体上の形態である。
   けれども、それらが諸商品であるのはそれらが二重になっている何かのもの、役に立つ
   諸物体であり、かつ、同時に、価値の供託所であるというあるものだからである。
   それらは自分自身をそれゆえに諸商品として明示する、すなわち諸商品の形態をもつの
   であるが、それはただそれらが2つの形態をもつ限りにおいてのみ、すなわち、一つの
   物理形態または自然形態をもつこと、そして一つの価値形態をもつことの2つの形態を
   もつ限りにおいてのみ、それらは商品として自身を明示するのである。
  A.価値の要素的または偶発的形態
  1.価値表現の二つの極: 相対形態と等価形態
  2. 価値の相対形態 (a.) この形態の性質と意味
  (A2a-1段)
    どのように、ある商品の価値の要素的な表現が二つの商品の価値関係の中に隠されて
   横たわっているのかを見つけ出すために、われわれはまず第一に、後者[二つの商品の
   価値関係]をその量的側面から完全に離れて考察しなければならない。
   この通常の手続きの様式は大体において反対である、そしてこの価値関係においては二
   つの異なる種類の商品のきまった諸量の間に互いに等しいと考えられる割合ということ
   だけしか見られない。
  (A2a-2段)
   20ヤードの亜麻布 = 1着の上着 なのかまたは = 20着の上着 なのか
   または = x着の上着なのか ・・・・・亜麻布 = 上着は等式の基礎である。
  (A2a-3段)
    しかし、その質の同一状態がこのように仮定された二つの商品は、同じ役割を演じるの
   ではない。表現されているのは亜麻布の価値のみである。ではどのようにしてか?亜麻
   布の上着に対する等価物としての関係によって、それと交換され得る何かとしてである。
 a)この関係の中では上着は価値の存在様式である、上着は価値の体現された物である、
   <価値物 新書訳>なぜならただそのような物としてのみ上着は亜麻布と同じなのであ
   るから。
 b)他方で、この亜麻布自身の価値は前面に現れる、独立の表現を受けとる、なぜなら亜麻
   布が同じ価値物として上着と匹敵できるということは、ただ価値であるということだけ
   であるから、すなわち上着と交換できるということだからである。
     <a)b)は杉本注入 次は、その部分の英文提示です。>
  In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
 イ)この関係では、コートは 価値の存在形態であり、価値が体現されているのは、それが
   リネンと同じであるためだけです。
  On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value,or exchangeable with the coat.
 ロ)一方、リネン自身の価値<価値存在>は、独立した表現を受け取ります。それは、価値
   があるものとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコー
   トと交換可能であるからです。>
    注意! ① 等しい価値のものとしてコートに匹敵し、② あるいはコートと交換可能であるから
    ここに、リンネルが、交換可能性の形態を受け取れるのは、との問があり、
   <リネン自身の<価値存在>は、独立した表現を受け取るーー第一の案件が示された。>

     (A2a-5段)
    この上着を亜麻布の等価物<新書訳価値物>とすることで、われわれは上着に体現さ
   れた労働を亜麻布に体現された労働と相等しくする。さて、たしかに上着を作る仕立て
   は亜麻布を作る織布とは違った種類の具体的労働である。
 A)しかし仕立てを織布と相等しくする行為は、仕立てを労働の2種類の中の実際に等しい
   ものに還元する、それらの人間労働の共通な性格に還元する。
 B)この迂遠な[回り道の]方法のなかで、今度は、次の事実が表現される、織布もまた、
   それが価値を織る限りにおいて、それを仕立てから区別しなければならないことは何も
   ない、そして、結果として、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現
   される。
 C)それは違った種類の諸商品の間での、そのことのみが、価値-創造労働の特別な性格を
   目立たせる等しさの表現であって、その上でこのことをそれがおこなう、その異なった
   さまざまな種類の諸商品に体現された労働を、抽象の中で人間労働のそれらの共通な質
   に実際に還元することによってそれ[抽象的人間労働であるという事実の表現]をする。

 A)について 再版訳
   「たとえば、上着が価値物として、リンネルに等置されることによって、
   上着に潜んでいる労働が、リンネルに潜んでいる労働に等置される。」(新書訳P86)
  英訳 パソコン訳
By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
   コートをリネンと同等にすることによって、我々は上着に組み込まれた労働を後者のも
   のと同じにする。
    By making the coat         コート・上着に作り出す
   the equivalent of the linen,   リネンの等価物
   こうして、コート・上着を等価物とするーーことによって、前段の三段落に示された、
   a)とA)はどんな関連となるのか・

   a)この関係の中では上着は価値の存在様式である、
   A)しかし仕立た上着を織布のリンネルの等価物とすることで、裁縫労働をそれらの人
     間労働の共通な性格に還元する。
  ここで、 次のB)とb)の関連は何か?問いかけていることの認識が必要ですね。

Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makesthe linen.
    今や、コートを作る仕立ては、リネンを作る製織とは異なる種類の具体的な労働であ
    ることは事実です。
  But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.
   しかし、それを製織と同じにする行為は、2種類の労働において、人間の労働の共通の性
   格に本当に還元する。
 B)In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish itfrom tailoring, and, consequently, is abstract human labour.
   この回り道のやり方では、事実が表現され、価値を織り込む限り、製織されていてもそれ
   を仕立てと区別することはないため、抽象的な人間の労働である。
    <上記に対しての、次は三段落での事柄です。>
 b)一方、リネン自身の<価値存在>は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
   のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換可
   能であるからです。>
    このように、① aとA
          ② bとB
   この①②の事項を総合的、総括的に検証するならば、リンネルが、<交換可能性の形態を受け取る事
   ができたのは???>とのマルクスの我々への問いかけが、よくわかるのです。この問いかけの下、
   次の事柄がここにーー浮かびます。

  It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]
   それは価値創造労働の特定の性格を救い出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の
   表現であり、これは実際にはさまざまな種類の労働の異なる種類を、抽象的な人間労働の
   一般的な品質へと変化している。[18]

   このように、③商品に表示される労働が抽象的人間労働であるためには?との質問があり、
      まず、①価値の存在形態である上着が、人間労働であることで、この回り道を経て、
      次に、②価値存在を表現するリンネルが、そのことで抽象的人間労働であると語り、
   ーーという物象の、二重の2行程を成す、判断行程を、3~5段落にて示したのです。
   価値関係でのそれを構成する諸物象であることでの、リンネルと上着への判断なのです。
   大切な肝要部です。上記の①②の判断を成すことができるのは、そこに、価値存在の如何にしてか?
   を問うてきた物象の判断が、次のことを示しているのです。
   価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働であると、第一節・二節の事
   項を総括・判断していると、価値実体論と価値形態論との関連を見てくることで、この5段落に、ま
   とめていたのです。
    ところが、既成の久留間理論による理解は、次であります。
   等価形態において<価値物上着がリンネルに等置>されるーーでは、物象の判断は、不成立です。
   もう一度、物象の社会関係の成立ではなく、リンネルと上着との物的関係なのです。
   <物象の判断>をこそ、ここでの記述の①②を、初版にも同じくなされているので、見ておこう。

    <資本論初版>第二段落
    相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
    20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)
  ①この形態は、単純であるがゆえにいくらか分析が困難である。・・・・
  ②リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。だから、それの体躯
   が糊で固められていることは、すなわちそれのもっている現物形態は、価値形態ではなく
   て、価値形態の反対物なのである。リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、
   まず、自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているとい
   うことである。・・・・   (江夏訳 初版P34~35)
    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
     ②の部分の大切な部分を、引用してみると、次のことが述べられている。
   <リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に等しいものと
   しての・他の一商品である上着に、関係させているということである。
   リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を、価値としての・自分に等しい
   ものとしての・上着に、関係させることができないであろう。
   ・・リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値として
   の自分自身に関係させる。リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることに
   よって、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
   リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価値と
   の双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接的な存
   在とは区別される価値形態を与える。>

  このように初版のまずの追求点がa価値存在の表現が如何にしてかであり、次に、
                 bリンネルの相対的価値表現・・の如何にであります。
                 cリンネルは<自分の価値存在に、・価値形態を与える>
    ーーと示され、まずの物象の判断の第一段階が示されているのです。
   このような質問・理解・判断が提示されていることでは、a b c のことでは、
   ・ここでの課題・主題が、リンネルの等価物上着による価値存在の表現であり、
   ・その事柄が反省規定されて上着はリンネルの価値の存在形態、との物象の判断の仕方が
   ・初版、ドイツ語再版、仏語版、英語版、述べられていたのです。
  しかし、価値物の悪訳のためにその共通性は排除されてきたのです。この誤訳を排除して、初版も再版
  も同じであると、理解して次の判読へと向かう。

   (A2a-7段)次の7段落には、何が提示されているのか?
   ①価値関係において等価物の位置を占めている場合、 上着は質的には同じ種類のなんらか
   のものとして亜麻布と等しい地位を占める、なぜならそれは価値であるから。
  ②この位置において、それはあるひとつのものでその中にわれわれは価値のほかにはなにも
   見ない、またはその上着の触ってみられる身体的形態は価値を表現する。
   <新書版ーーここに続いて、付加してこう述べている。
       ーー上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめ
          るその自然形態で価値を表す物として通用する。>
   <仏語版ーーこうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる>
  ③しかもなおその上着そのもの、商品の身体、上着、は、ただの使用価値にすぎない。
   一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、われわれ
   が握っている第一の亜麻布片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。
    <新書版でも同じ訳であります。>
  ④このことは、上着は亜麻布との価値関係に置かれた場合に、
  ⑤その関係の外にあるよりも意味をもつ、
  ⑥ちょうど豪華な制服でもったいぶっている一人の人間が平服を着たときよりも多くの意味
   をもつように。

    ーーまたはその上着の触ってみられる身体的形態は価値を表現する。ーー
  a <だから、上着は、ここでは価値がそれにおいて現れるものとして、または手でつかめ
    その自然形態で価値を表すものとして通用する。>との頓珍漢な訳を提示するのです。
   このように、再版翻訳者には、マルクスのここでの意図が、全く理解できてないのです。
   新書版も、この英語版での訳者も、この③では共通の訳なのですから、両者ともに、原文の意図への
   理解が、全く不明であったのです。
  bーー③一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、わ
    れわれが握っている第一の亜麻布片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。

  しかし、直訳だと、次なのです。
  A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
     ③そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。私たちが取る最初
     のリネンの部分よりも。
  <だから、ここには、次の規定の転倒が示されたのです。上着は価値であると措定されていた
  ことが、価値は上着であるとの再措定を受け取ることで、つまり、平服の軍人が、勲章で飾ら
  れたときのように、という変化であります。>
   ③そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。
    私たちが取る最初のリネンの部分よりも。
   ④This shows that when placed in value-relation to the linen,
    これは、リネンとの価値関係に置かれたときに、
   ⑤the coat signifies more than when out of that relation,
    コートは、その関係から外れたときよりも、
   ⑥just as many a man strutting aboutin a gorgeous uniform
   counts for more than when in mufti.
    豪華な制服で装われた頑丈な男性が、日頃の制服時よりも、より多くを意味することを示
    します。

    <フランス語版 では次の訳であります。>
  ①実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、上衣はも
   はや自分の価値性格を証明するための旅券を必要としない。こうした役割において、上衣自
   体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商品の体躯は、単なる使用
   価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同じように、価値を表現するもの
   ではない。
  ②このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそとでよりも
   多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。
   それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだ
   らなくなる、のと同じである。」《フランス語版》(江夏訳21-22頁)

   訳の違いに示されていることは、ほんまに異常な再版訳ですね。
  面白いですね!新書版だと、a上着はリンネル価値形態であることで、、価値を表現する二つの等価物
  の役立ちをしてるーーと理解することで、ここでのマルクスの運んでいる論理である第一の役割があっ
  て、第二に相対的価値表現がなされるーーということ、すなわち、
  <リンネルの価値形態として上着形態の役割がなされることで、リンネルの価値表現が左極で
  価値表現され、相対的価値形態が形成されていくという>ーー道筋が、全く見えてこないのですね。
   相対的価値形態の内実の価値形態があって、やっと、リンネル価値が上着で表現される、ーー簡明な
  この論理が、何ら初版・再版の両方の論理では、彼らは提示ーー理解できないのです。

   こうして、7段落ーーここには、上着は価値であることから、価値は上着であることでの、この価値
  方程式での転倒が、「上着は労働膠着物」であることが、「等価物上着」の役立ちのなかで、
  「労動膠着物は上着」へと、物象の判断と役立ちが変更されたのではないかと思えます。
  それを示すのが、初版5段落冒頭の記載なのであり、初版での第二の段階なのです。

    初版5段落
    ⑤20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
    という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
    められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのな
    かに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。

  <労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形
  態として認められている>
   ーーやっと、再版・初版での主張の合一点・合致点が理解出来ました。
  このように、初版5段落のこの提示は、通常のあまねく定式とされ理解とされる、等価形態、直接的交
  換可能性の形態を示しているのではなく、相対的価値表現での、現行版の3・5段落に続く7段落での解
  決事項をこそ、示したのです。
   では、以上の3段階の解決事項を踏まえて、最後に、リンネルの価値形態はどうやって、成立したの
  ですか? マルクスは、読者である労働者に問うているのです。

   <この「交換可能性の形態」が、「人間労働が凝結しているところの形態」と示しているの
  は、次の、初版第三形態です。>

      「だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているとこ
      ろの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態
      と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形
      態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性と
      いう形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉
      (初版 原P28 江夏訳49-50頁)

  <マルクス先生の記述・問題提示ーー解答が捕まえることが、これで出来たはずですが・・>

  (A2a-8段)次が最後の難関8段落です。
     上着の生産の中では、人間労働力は、仕立ての姿態の中では、現実に消費されてしまっ
    たに違いない。人間労働は従ってその[仕立ての]中に蓄積されている。
    この側面においては上着は価値の貯蔵所である、しかし糸が透けて見えるほどすり切れて
    しまっても、それ[上着]はこの事実を透けて見せることをしない。
    そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
    在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。
    <現行版ーー体化された価値としてのみ、 価値体としてのみ通用する。>
    A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の
    陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父
    と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。

  <杉本ー①体現された価値として数える②価値である一つの体として数えるーーとは?>何でしょう。
  ここには、7段落での<価値は上着>と示された転倒をこそが、提示されている、と物象の語りーーを
  こそ見出さなければならない。そうすれば、次のことに気付くのです。

  ①リンネルの等価物上着であることが、<価値存在の表現ーー価値の存在形態>の形成でなされてい
   ることが3・5段落にて語られ、
  ②同時にこの追求のなかで、商品が<価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、
   抽象的人間労働である>ことによる、ことが語られ、
  ③そして、この労働の対象化されたものであることを示す、この<①体現された価値>が、ここに、語
   られたのです。

   そこで、この<①体現された価値>が、<価値は上着>と示された転倒によるものだから、
   ・そこを示して、<B の目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、>と語ることで
   ・<金モールの衣裳をつけた多くの重要人物>を表現できた ーーであり、
   ・<上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態>ーーと認められたのです。
   だからa<そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、
      bそれ[上着]はこの側面のもとでのみ存在する、>ーーことを最大の基礎にして、
      c上着は<①体現された価値>と認識す物象の判断が、リンネルの価値表現の中で、
      d<価値存在の表現ーー価値の存在形態>の判断形式のなかで、示されたのです。
   <以上なされたことを、次の段落にてこう示したのです。仏語版にある、次のことなのです。>
      e「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの
       価値形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現す
       る」ーーと示すことで、リンネルの価値形態上着、との質的側面での判断をなして
       いるのです。そして、次のことが示されたのです。
      f②価値である一つの体として数えるーーで、量的側面での価値表現をなしたのす。

  <英語版のこの① ②に示される物象の判断が、提示されることーーこそが最大の要であります。>
  このように8段落の理解のためには、まず第ニに、久留間理論の錯誤への批判が必要です。
  それは次のことからであります。

  今までの3・5・7段落と説いてきた解決事項が、今日の価値形態論でなんら提示されなかったのは、
  第一に、勿論大谷先生が『貨幣論』で挙げた久留間先生の、価値物上着としてリンネルに等置される上
  着が、リンネルの相対的価値表現での役割であり、リンネルの価値形態として役立つ上着によって、相
  対的価値形態の形成になるものーーであるのに、上着は直接的に価値形態であることで、上着は等価形
  態であると理解する、既成・価値形態論の全くの誤謬であるーーことに示された、この全く逆の理解を
  する錯誤した、相対的価値表現の理解にあるのです。

  その理由を探ってみましょう。価値物上着への批判は終わっているので、その次であります。

  ここで、英訳・仏語訳では、以上のように、Aは、陛下であるのに、現行版では、Bが陛下になってい
  るのです。このことをこそ、我々の常識になっている事への批判と反省がなくては、この8段落の解析
  はできていないのです。

  ① 新日本新書訳
   「上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間的労働力がじっさいに支出さ
   れた。したがって、上着のなかには人間的労働が堆積されている。この面からすれば、上着
   は「価値の担い手」である。<この側面においては上着は価値の貯蔵所であるーー英語版>
   もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見
   えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから、
     <価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
     在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。>
   それゆえ、体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。
   ボタンを掛けた(よそよそしい)上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同
   族のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表す
   ことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないこと
   である。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下に対する態度をとることは、同時にAに
   とって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多
   くのものが、国王の交替のたびに代わることなしには、できないように。」
   (原P86 P88~89)

    「A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の
   陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父と
   一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。」英訳

   「上着が自己の外面的な関係のなかに価値をじっさい表すことができるのは、同時に価値が
   一着の上着という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人Bにたいして、
   Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえない
   のである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪その他多くの物を変えるの
   は、おそらくこのためであろう。」(仏語版P22)

  ② 向坂訳ーーー岩波文庫
   「だが上着は彼女に対して、同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなくしては、
   価値を表すことができないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、Aにとって、
   陛下が同時にBの肉体の姿をとり、・・・」(P96)

  ① ②は既存の訳であり、かっては杉本も同じくその理解をこの八段落に対してなしていた。
   しかし、この英語版とを比較してみると、再版での訳者の提示は、この物象の社会関係のなかでは、
  上着は価値としてリンネルに相対しているのではなく、7段落にて提示されたように、価値は上着とし
  て転倒することで、そこに対象化されている抽象的人間労働がやっと提示されていることの、主体的判
  断が要求されていること、物象の判断の特異性に対して、異をこそ唱えることで、マルクスの判断をこ
  そ問い、自らの主体的判断を築き上げるーーことが無く、ただ客観的判断を提示したのみなのです。
  主体的判断こそが問われているのに、それを提示しない、向坂訳などは、とても残念です。
 
 
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