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価値関係=この前提のもとでのリンネルの価値存在の表現  その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 6日(日)11時54分40秒
  通報 返信・引用 編集済
    価値関係=この前提のもとでのリンネルの価値存在の表現が、上着を価値の存在形態
   と反省規定する--根幹事項について

   杉本 掲示板 過去投稿文をくぐって点検していたら、久留間先生の価値形態論--批判が、
  何処で頓挫したのか?   見えるところがあったので掲示しておきます。

  久留間先生への「批判」としての事実上の抽象--判断が、私自身のなかで頓挫したのが、
  6年前の私の見解であり、hirohiro さんの提示であったのです。

  やっとこさと、価値形態論での自身の理解--解釈の誤りが、見えるようになってきました。
  久留間先生の現行5段落の理解は、何ら回り道をしておらず、同じく『経済学教科書』の見
  解においても回り道などしておらず、これではここでの価値存在の表現を問うた第三段落の
  提示の基本線がなされていないのです。
  これでは、マルクスの価値形態論の復活は、成し得ないのです。
  次のA B Cとして、総括点を挙げてみました。

 A再版での化学式に例示された--酪酸に蟻酸プロピルが等置される例にて、
  「第一に蟻酸プロピル」は、化学式の共通者の存在形態であり、酪酸もその共通者の存在
  を表現しているーーとのマルクスの示したことが、何ら相手にされず捨象されてきたのが、
  スターリン経済学であったのです。
  ここでの肝要なことは、価値実体が、人間労働力の一般的支出ではなく社会的実体である
  ので抽象的人間労働である--ことを示す--5段落の提示のためには、価値関係のもと
  でのリンネルの価値存在の表現が、上着を価値の存在形態と反省規定される--前提のも
  とで成されている、ということです。

 B 初版の第4段落も英語版から提示しておきます。

  「リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値
  は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されま
  せん。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表
  現を得る)。
  リネンが価値あるもの<価値の存在形態>としてコートと関係するのであり、そこに同時
  に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボ
  ディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。⑱」
   ( http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1632 英訳 商品)

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   <hirohiro  さんの初版ーー現行訳での提示は次でありました。>
      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/410

  ⑦「リンネルが使用価値としては自己と上着とを区別しながら、価値としては自己に上着
  を等置することによって、上着は、物体としてのリンネルとは対立するリンネル価値の現
  象形態となる。つまり、上着はリンネルの自然形態とは区別された、リンネルの価値形態
  となるのである。」(S.16~17)

  現行版では「課題はすでに解決されている」と述べられている問題が、初版のこの部分で
  解かれています。リンネルは上着との交換関係においていくつも得をするのです。

  ⑧「使用価値としての上着がリンネル価値の現象形態となるのは、ただ、リンネルが抽象
  的な人間労働の直接的な物質化としての上着という素材に関係するからにほかならない。」
  (S.18)

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      <この⑧は、⑤段落であり、同じところの英訳・直訳ではこうなります。>
  ⑤「使用価値コートはリネン価値の現象形態にしかならない。
  なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係す
  るため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。

  対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブ
  ジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッ
  センスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価
  値形態になります。」
   <杉本  江夏訳ーー「上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形
              態になるわけである。」原P18 P37
        ーーと述べられているのは、               >
        「コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それに
        よって、自然的形態のままにに価値形態になります。」
        ーーということをこそ、言わんがためであり、価値の現象形態では無いです。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  ーーー彼の意図は、この4・5段落は、同じことをマルクスはのべているのですーーーと
  述べているのです。新しい初版英語版の訳出で、6年の歳月を経過することで解けました。
  ここでの⑦は、左極での価値形態であり、⑧は右極での価値形態なのです。

  上記の⑦ ⑧そこに区別がありません!と言うのがここでの彼の主張なのです。
  ーーーしかし、何という悪訳・・・対しての独語訳からの英語訳の素晴らしさ!

  初版ーー英語版ではこの量的側面に対しての質的側面の導出--対比は、明らかです。
  この区別に示されるものが何か?この質的側面とはなにか?と、論述してきたのですから
  これが物象の社会関係であるとの判断を--マルクスは註18を示した4段落にて、以上の
  ようになしています。なんと、江夏訳での翻訳では、このことが理解できない。
   「上着はリンネル価値の現象形態になり・・リンネルの価値形態になる」ーーとの訳で
  は、やはり、間違いなのであります。


    <hirohiro  さんの等価形態の謎性について>の項目への意見について
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  5.「価値体」について
  今回の投稿の最後として、初版における「価値体」用語の使用法を検討しましょう。

  ⑪「リンネルは、抽象的な人間労働の感覚的に存在する体化物としての上着に関係するのであり、
   従ってまた目の前にある価値体としての上着に関係するのだが、上着がこのように目の前にある価
   値体であるのは、ただリンネルがこのような仕方で上着に関係するが故であり、またそのかぎりで
   しかない。上着の等価物というあり方はいわばリンネルの反省規定にすぎない。」(S.22)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    杉本は、彼のこの<等価形態の謎性>への意見を出してみます。

   この⑪段落は、どのような意味合いがあったのでしょうか? ⑨段落からの論議があります。
  ⑨「ひとつの商品の価値の大きさは他の商品のの使用価値のなかでのみ、相対価値として自分を表現
   することができる。それとは反対に、ひとつの商品は、他の商品の価値が表現される材料としての
   み、直接に交換可能な使用価値または等価物の形態をまとうことができる。(今村訳)

   使用価値上着は等価物の役立ちを成すためには、価値表現の材料としての役立ちをなすーーから、
   できる、というのは何故か?と問いが立っているのです。
   その答えが、この⑪段落にあるのですから、等価形態が、幻影的形態をもたらしていることは、
   論議されないのですか?この⑪段落の冒頭を示してみます。

⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

   商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相
   対的に現れるわけではない。 リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネ
   ンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

   コートが関係している限り、それはリネンがそれ自身の価値の直接的形態<価値形態>
  (価値の現象形態ーーは誤訳)としてコートと関連している限り、それゆえにすぐに
  それ自身のもの(リネン)と交換可能なものとして。

  <Phenomenal form of value (価値の現象形態)の訳出はない>
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  再度、このように<Phenomenal form of value  価値の現象形態>の記述はないのです。
  ここでは、等価物上着が、使用価値の自然的形態のままに、価値表現の材料としての役立ちをなす
  ーーという⑨段落での提示に対して、そのように述べたのでは、ここでの、
  上着が直接的に価値形態との判断を、物象の社会関係たる価値関係から受け取っていますーーとの提
  示を、無視することになります。上着は直接的に価値形態との判断をこの関係から受け取っているが
  ゆえに、等価形態と判断されることで、この価値表現の材料の役立ちを果たせたのです。

    <再版 でも同じことを述べていたのですが、翻訳は、「価値の現象形態」の訳です。>

The first peculiarity that strikes us, in considering the form of the equivalent, is this: use value becomes the form of manifestation, the phenomenal form of its opposite, value.
   等価形態を考える上で、私たちを襲う第一の独自性は、これです
   :使用価値は表現の形式となり、その逆の驚異的な価値を示す形式になります。

   <仏語版ーー
   「等価形態の第一の特色。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。」P27>

The bodily form of the commodity becomes its value form.
   商品の身体的形態はその価値形態になります。

  <その逆の驚異的な価値を示す形式ーーでなければ、その次の価値形態へとは進まない>
   使用価値が、その対立物である価値の表示形態になるーーことで、価値形態となる、見事な仏訳
  <英語版・仏語版ーーの記述は、等価形態の第一の独自性 が、混迷なく示されたのです。>
   独版での日本語訳は、このように誤りであり、この謎性への批判は混迷している。

  <初版では、等価形態の独自性を示すことで、この現象形態のもたらす謎性を、ここに批判した>

  ところが、この①直接的に価値形態の役立ちを等価物上着がなすことが、
         ②上着は使用価値の姿のままに等価物の役立ち・直接的交換可能性を示す、のです。
   これが、この⑪段落に示されているーー「等価形態の謎性」ーーであります。

      <この価値の現象形態の転倒への批判が、榎原さんも無い、紹介>

      だから、榎原さんの提示した価値関係の外でのリンネル価値の現象形態
      が、商品の物神性によって示されるのが、等価形態の謎ではないのです。

      この価値関係の内にあっても、上着がリンネルの価値形態とは示されず、
      上着が価値体にあることで、価値の現象形態との判断を示し、使用価値
      上着がその姿態のままに交換可能性を示すのが、等価形態の謎なのです。
      上着が価値形態を示さないのに、使用価値上着が価値体であることでの
      みリンネル価値の現象形態を示す転倒した論理ーー表現であるとの、こ
      とになるのではと思います。
       http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1629

  このように、上着がこの反省規定を受けとることで、直接的に価値形態となることで、
  その前提のもとにあれば、上着はならば直接的に価値であり、価値体の反照規定を受け取っている
  ーーという言わば二重の行程があります。価値形態と価値体の反省規定があるのですが、ここでの
  区別があることで、今は、物象の社会関係による物的存在への反省規定が示されたーーと思います。

  hirohiro  さんのおかげさまで、久留間先生の言うところの <価値体としての形態規定>
  ーーとしての問題意識の出どころが・・みえるーーように思います。


 Cしかし、再版ではこの3段落にて、簡明に、物象の社会関係であリ、物象の判断がここに
  示されているのです。それはどうやってですか?
  ①註17に示される第一段落の価値関係の質的側面の提示、②続く第二段落の等式が既に示
  されているのですから、既に初版での論述は前提にされており、この準備を見つければ、
  再版・悪訳の(上着は価値の実存形態・・価値物)の提起に、騙されることはないのです。

   ところが、この①②の提示など、何ら考えず、3・5段落をのみ取り上げるものですから、
  ③再版のこの三段落の価値存在の表現--価値存在の現出を見出せず、化学式の記述を価
  値実体の表現と混同させることで、第五段落の記述とも混同させてきた混乱ぶりが、久留
  間先生の理解であったのです。

  今迄、自身の過去の理解を点検できていなかったので、他の先生方の理解と比較しながら
  そのなかでコメントしてみます。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 C榎原さんは、この久留間・スターリン経済学の抽象に対する批判をこう述べていた.

「いいかえれば、久留間にとっては、具体的労働の抽象化は、異種労働の等置による同等な人間労働への還元ということしか考えられておらず、リンネルの価値が上着で表現されること自体がリンネルを生産する労働の抽象的表現としての意義をもっていることに気付いていないので・・・・」(『価値形態・物象化・物神性』P111)

「マルクスはこの課題を、リンネルの価値が上着で表現されていること、いいかえれば、リンネル(価値――杉本追加)をつくる労働が上着に反射して上着という形態で感覚的にあらわれているのだから、そのような労働はリンネルを物しているすべてのものを度外視した抽象的なものとならざるをえない、と分析することによって、解決した。リンネル価値の質を明らかにした上にたって、マルクスは、上着そのものにリンネルによって刻印された形態についての分析を進める.そこではじめて上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっていることが指摘される。」(同上P112)

 D<杉本の理解を示す前に、今日であれば榎原さんの理解に対してどう批判するか書いてみる。>
  <杉本ーー第三段落での問題としてのリンネルの価値存在の表現が、前提されてのものではない、
  久留間説への批判という視点が、榎原さんの提示には無いのです。
  再版3段落は、混乱しており、英語版に基いて正訳に変更する。5段落での共通提示の「価値物」
  などの訳出は無いのです。

  第三段落--リンネルの価値だけが表現される。ではどのようにしてか?
       リンネルが、「その等価物」としての、または
       それと「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関連によって、である。
       この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値として、通用する。
          <価値の実存形態として価値物として通用する  再版・旧訳 誤訳>
       なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだから
       である。他方では、リンネル自身の価値存在が現れてくる。

  大谷先生に批判されるまでの久留間説は「その等価物」は、直接交換可能な使用価値(等価物)
  であり、直接的に価値であるーーことは自明なものとされたのです。しかし、この条文について
  の的確な批判はなされておらずであり、『貨幣論』での大谷先生の指摘--論議はあっても、訂
  正は成されなかった、のです。

  久留間さんの抽象はつぎでした。再度あげます。
  「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、
  上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽
  象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)
  『貨幣論』のP106でも、その相対的価値表現での『等価物』、上記3段落での『等価物』への久
  留間流理解は--訂正されていない--のです。そこも上げてみます。

  「リンネルは自分の価値を表現すること--は、他商品に価値体としての形態規定性を与えるこ
  とによってはじめてなしとげられるのだということ、これは否定すべからざる事実ではないでし
  ょうか。こういうことを問題にしているときに、上着は価値体になるのには、リンネルが上着で
  自分の価値を表現しなければならないではないか、と言ってみても、なんの役にも立たないでし
  ょう。」(『貨幣論』P106)

  ここでの、久留間先生の論述には次の区別がないのです。
        ①3段落の価値存在の表現を省略し、5段落での「回り道」について語らず、排除
        ②左極での相対的価値表現での等価物である価値形態は、交換可能性の形態
        ③上記ーーそこでの価値体としての上着は、単に量的側面であり、形態規定は無し
        ④上着がその姿のままに直接的に価値形態を受け取ることで、直接的交換可能性の
         形態を受け取るーーことで、左極の反対の右極にて等価形態を受け取る
  以上のように<他商品に価値体としての形態規定性を与えること>は以上の4件においては無い。
  「リンネルは自分の価値を表現すること--は、」自身の価値存在を、上着を価値存在の形態と
  規定することにおいて、つまり、物象の判断において為されているのです。そのことで、物象の
  社会関係のあることを、示しているのです。

  リンネルが相対的価値表現において、他者上着を自身の価値の存在形態と反省規定することにお
  いて自身の価値存在も表現される--のが、リンネルの価値関係と言うのが、マルクスの初版・
  再版で変わらぬ基本線ーーベースであるのに、久留間先生、何と榎原さんもそこの考慮が無いの
  ですから、物象の判断について、なんら提示していない。
  価値関係の質的側面の分析であることが、この3段落に示されることで、その実施としての、第
  5段落の<事実上の抽象>があり物象の判断が示されているその例示ーーとしての「回り道」で
  あるのに、何らここに論究できないのです。

       <3--5段落の関連の関連の示すものは、さらに追求すると次であります。>
   このように、③商品に表示される労働が抽象的人間労働であるためには?との質問があり、
      まず、①価値の存在形態である上着が、人間労働であることで、この回り道を経て、
      次に、②価値存在を表現するリンネルは、そこで抽象的人間労働の凝固物であると語り、
    ーーという物象の、二重の2行程を成す、判断行程を、3~5段落にて示したのです。
  価値関係でのそれを構成する諸物象であることでの、物象のリンネルと上着への判断なのです。
  大切な肝要部です。上記の①②の判断を成すことができるのは、そこに、価値存在の如何にしてか?
  を問うてきた3段落に示される、物象の判断があり、そのことは、次のことをも示しているのです。

  価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働であると、第一節・二節の事
  項を総括・判断していると、価値実体論と価値形態論との関連を見てくることで、この5段落に、ま
  とめていたのです。リンネルの価値存在を表現できたかぎりでの、上着価値なのです。
    <http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1627
  にて、上記を纏めたので、引用しておきました。>
   <価値存在の表現の問題と、価値の実体が抽象的人間労働であるとのーー二つの物象の判断です>

    <次が7段落 8・9段落の記述の関連です。>
  英語版の7段落<再版の訳は混迷>は、3--5段落を経過することで、今まで明示されてこな
  かった等価物上着が事態の進行のなかで、<価値は上着であり、価値の存在形態が上着において
  現出する>ーーことが、<金モールで飾られた上着であり、>8段落・「体化された価値」では
  なく<体現された価値>としてのみ通用す、即ち「価値が上着という形態」となることで、対象
  的形態とするリンネルが、王冠を受け取り・飾られる--その反省規定を、価値形態上着という
  姿態で表現しているのです。


   < 杉本 パソコン直訳  でドイツ訳の「価値体」ではなく「体現された価値」が正訳>
    八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
    ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
    それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
    この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
    そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として、体現された価値 として数えます。
    <「体化された価値としてのみ、価値体としてのみ通用する。」新書訳他も同一>

  <杉本 ここでの判断している主体は、価値関係をつくる物象であるので、仏語訳が適訳>
   「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。」ーーと

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and,  hair, and many other things besides.
    たとえば、Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、その特徴、髪、およびその他の
    多くのものを変えない限り、AはBの "陛下"になることはできません。
    人々の新しい父親は、その特徴、髪、および他の多くのものを変えます。

  ここは独版でなく、英語版の記述でなければこの物象の関係の示す転倒は、何ら見えてこない!
  反省規定であり、物象のなす判断が、価値関係にあるリンネルのなす反省規定・物象の判断が、
  この正像の反対の映像をも示す--次の転倒があるのです。

  「・価値としては、リンネルは『上着に等しいもの』であり、したがって上着のように見える」
  (9段落)転倒象を示すなかで、自身の<リンネルの価値形態>が表現されているのです。

     <このことを、久留間理論とのからみで言うと、次となります。>
     リンネルの価値表現が如何に?--と価値形態論を把握する久留間理論では、
     このーー8段落・「体化された価値」ーー提示するままに、
         9段落・「価値としては、リンネルは『上着に等しいもの』ーーに見えることで、
  ーー久留間先生の言うことは、
  「(リンネルが)上着は自分に等しいのだということによって、上着を価値の形態に・・している」
  (『貨幣論』P94)ーーとの、紛れも無い「リンネルの価値存在が、上着との同等性に・現れる」
  (原P66)宗教的転倒と同じである、物象の社会関係の示す転倒象に、賛成したことなのです。

  これが、物象の社会関係を物的関係へと、単なる商品の現象形態へと転倒させているーー事柄なので
  ありますし、殆どの人々のーー商品世界が、対象的姿態の代表とされている単純な価値形態ーーとは
  受け取らない伝統的思考に賛成している有り様ーーなのです。
  この思考法では、以上のことは自身の対象的世界ではなく、他世界での、物的世界での客観的事態な
  のです。我々には、「体化された価値」との誤訳では「価値形態」は、諸物象の社会関係を示さず、
  物的関係に転倒してしまうのですから、この<体現された価値>との物象的判断が必要なのです。

  このように、久留間先生の論理は主観性であり、自身の思い込みであり、他商品を価値体にすること
  は出来ない、と言いながら、等置されることで、価値体としての形態規定を上着は受け取ることがで
  きる--と主張するのです。

  <杉本  以上が、この時点での久留間理論への批判点・総括点であります。>


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 
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