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かん口令に対抗

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2016年 9月 9日(金)13時10分43秒
返信・引用
    県庁から来たかん口令は暴走を隠すための沈黙号令で掲示板にはいくら書いても反論も批判も来なく妨害だけが来た。
 妨害された団体も沈黙号令されて証拠も証人も作らせない。
 沈黙号令の口封じは今年で完全になる。知事に手紙出すしかなくても副知事揉みつぶした様子。県庁まで乗り込んでも通さないだろう。副知事は権力を勝手に行使している。
  協力的だった県庁の課長も情報センターの密告から看板団体は暴走しようと守らねばならない。障害者の一人くらいほっとけと課長を口説いた様子。課長はメールに返事しなくなった。
 地元で年金受給者の会があってたった一人を除いて口封じされて遠慮から役場を通して筆記通訳を借りようとしたら気配りされて要約筆記の会に電話された。2週間以上前からの依頼で無いと駄目だと断られた。初めなのにたった3日違いで。この会も情報センターの中にあり友の会や難聴者の会と仲良くしている。疑問から問い合わせると曖昧に一回きりの返事しただけ。
 地元では妨害は届かなく代わりに通訳差別したことになる。
 栃木に要介護の身で社会参加として単身交流を求めたのに半年になっても写真一つ届かない。
 盲ろう者が手書きして住所交換申し出て来たことを感謝してファクスしたら返事が無い。福祉課に返事の許可求めたら受信拒否して来た。栃木の代表上杉さんは読み書きが出来ないのだと言うが岩手の前会長は全盲に近いが読み書きは出来る。年賀状も手書きする。栃木はもっと軽い。更に抗議すると脳の病気だと言う。
 通訳介助してくれた人に感謝の手紙出すと「悔い改めるよ」と1000字も書いて寄越した。これを日本語が判らないのだと。1000字も書いている。ザマアミロと言う意味が込められている。
 更にカメラの係りはがんで亡くなったという。全部栃木の代表の上杉さんの代返。これが事実なら1億に一つの偶然で嘘も方便でないか。遠来の客に質問も紹介も素っ気なさすぎる。これも岩手から社会参加以外一切関わるなとされていたことになる。
 こちらは危険を犯してと栃木に行ったのは「求めよさらば与えられん」と言う復権が込められている。
 知事への手紙が揉みつぶされたら後は全国大会で岩手に釈明求めるしかなく、全国協会など全国の支援団体や全国の友の会に法務局に届けたのと同じのをばら撒いた。副知事が後ろにいる団体対個人ではこれでも無理だが受け止め方が違ってくる。
 仮に失敗しても全国から後ろ指は避けられなくなる。
 岩手の知事の耳に届けば国体の年でカンカンで役員総辞任や通訳資格剥奪、追放にもなるか。栃木も嘘も方便がばれる。

 
 

A 四版のーー「価値形態の変化した姿」の意味とは何か?その2

 投稿者:杉本  投稿日:2016年 9月 9日(金)07時21分59秒
返信・引用 編集済
   次の b)《初版本文》と、 c)《補足と改訂》の比較をした上で、四版のーー
a)価値形態の変化した姿ーーの記述を検討すると、英明なマルクスをして、初版の難解至極さを、
・・・如何に噛み砕いて、記述するのかの、なみなみならぬ苦闘のありさまに、驚嘆するばかりであ
ります。
 さて、次の a)b)c)の比較から見出されることの第一は、b)初版の記述ーー
「この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、
したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、
得ることになる。」ーーは、一般的な相対的価値形態のことを意味しているのか?であります。

まずは、比較のために、紹介してみます。
c)《補足と改訂》
 ① [A]「・・たとえばリンネルだけが、すべての他の商品にとって価値表現のために役立つ、
ということから生ずる。同じ等価物におけるこの表現を通して、さまざまに異なった商品の価値は、
簡単であり、しかも共同的であり、統一的な形態--一般的相対的形態をうけとる。」
 ② [B]「一般的価値形態の要素をなしている1着の上着=2 0エレのリンネル、
1クオターの小麦=20エレのリンネル等といった個々の価値等式を考察すれば、相対的価値表現の
最初の姿、すなわち、簡単な価値形態を見いだす。

この比較からでは、どのような意図のもとで、マルクスが述べているのか分かりません。
では、四版ではどうなのか?であります。
  a)四版 価値形態の変化した姿【1】パラグラフ
 (イ)いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは・・・・・・・・
 (ロ)諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。

 私は、ここを次のように理解します。
 ①相対的価値表現において、上着・小麦・・などは、等価物リンネルを、
  価値形態リンネルと規定することで一般的価値形態が規定されたのです。
 ②そのことで、その第三段階の使用価値と交換価値の商品形態を得たのであり、
 ③第一段階と同じく、使用価値と価値形態との、諸物象の判断を示すことで、
 ④第三段階にて最終的に確立された、諸物象の社会関係の完成を、ここに明示したのです。

だから、初版での「この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼう」ーーという事態は
これから、その課題の前提になっている事柄の分析に進もう・・・ということでしかないのです。

また、 c)《補足と改訂》での、ーー
 「簡単な相対的価値形態は、すべての商品の価値等式の関連を通して新しい性格を獲得する。
  価値表現という行為はいまや、個々の商品の私的な行ないではなくなる。
  いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる。」
とーー論じられたこれらの事柄は、[B]の事柄(一般的価値形態と簡単な価値形態との共通性とは?)
が論じられた後の課題になるーーとの表明であろうと思えるのです。

    b) 四版の【6】パラグラフでの、ーー
(ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。
(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるから
こそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価
値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。

 そこで、f)の四版  (ト)「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態」とは何か?ーー
その答えが、<ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する><一般的価値形態>であるーー
のみではないーーことが、ここでの議論の脈絡から、明白に、しっかりと理解できます。
 私は、<ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する> ところの 一般的価値形態 と理解し
ていたのだが、それでは誤りですので、どの点での誤りなのか、探してみます。

 まずは、この「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。」ーー
が、それ以前の著書の何処に表現されているのか?その対比をしてみます。

 第一に 《初版本文》①パラグラフ
  商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である
  1着の上着=20エレのリンネルに戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさら
  に発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。
  すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるい
  は上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。
  いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、
  したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。

  上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの
  価値を、リンネルという素材で表現している。
  このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。
  すべての商品は量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、
  x量の鉄等々、すなわちこれらのさまざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルに
  イコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等しい。
  こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、
  交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関
  係しあい、質的に等置されて量的に比較される。

  この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現
  われ、したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現
  象形態を、得ることになる。

 第二に、初版附録では、次のように述べられていた。
  ーーーーー略ーーーーー
イ)一商品の価値形態、すなわち、リンネルにおいてのその商品の価値の表現は、いまでは、そ
  の商品を、価値として、使用対象としてのその商品自身の存在から、すなわち、その商品自
  身の現物形態から、区別するばかりでなく、同時に、その商品を、価値として、他のすべて
  の商品に、その商品と同じものであるすべての商品に、関係させている。
  だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的・社会的形態をもっている。

ロ)価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。
  価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労
  働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならな
  かった。このことがいまでは達成されている。

ハ)なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれて
  いる労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表
  現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。
  (初版付録、江夏訳900頁)<初版付録 第一節 相対的価値形態の変貌した姿>

 ①この初版附録では、<一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する>
ーーことが、この上記 イ)の部分で述べられている。
 ②次に初版 ①パラグラフ ではつぎのところです。
  「商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である
  1着の上着=20エレのリンネルに戻っている。ーーーーー略ーーーーー
  いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、
  したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。」
 ③その次に《補足と改訂》では上記に示していることではないのです。
 「簡単な相対的価値形態は、すべての商品の価値等式の関連を通して新しい性格を獲得する。
  価値表現という行為はいまや、個々の商品の私的な行ないではなくなる。
  いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる。」

 ④《補足と改訂》へのコメントをしておきます。
 「上着の普遍妥当的な価値形態」(初版)とは、一般的価値形態のことなのですが、
「いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる」ーーと示されたのでは、

<一般的な相対的価値形態>としか理解できない。

しかし、e)《補足と改訂》での、ーー
 <しかし、個々の等式はいまや、リンネルが鉄価値、コヒ一価値、金価値等、
  一言で言えば商品世界の価値を形成している労働の明確な物質化であると声をそろえて
  いっている他の無数の等式によって補足されている。>
ーーをも指すものと理解できます。
以上の事柄は、一般的価値形態のことなのだ・・と明示して、いるのが次の 2)であります。

<かつ、統一的に表わしている、なぜなら、同じ商品種類で表わしているからである。
   諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、それゆえ一般的である。>

これで何が明らかになったのか?
 ①諸商品が、リンネルを一般的価値形態として形成する共同行動を成すことで、商品世界が完成さ
  れて、諸物象の社会関係も同じく完成されて、
 ② 「しかし、個々の等式はいまや、リンネルが鉄価値、コーヒ一価値、金価値等、一言で言え
  ば商品世界の価値を形成している労働の明確な物質化であると声をそろえていっている他の
  無数の等式によって補足されている。」《補足と改訂》
ーーに示される<物象の人格化ーー人格の物象化>ーーが登場した、ということなのです。

 第二に 四版 【8】【9】パラグラフで示されていることは何か?

 まず e) 四版【6】パラグラフ
(ニ)「これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する」
ーーということにて、諸物象の社会関係=商品世界が完成された、という認識は、賛成をえることが
できる。

しかし、これまでの記述では、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは形成されていない。
次のマルクスの【7】を経て【8】パラグラフは、
<一般的な相対的価値形態>と、<一般的価値形態>との関連性が、こう示されている。

  (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、
  すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである

ーーによって示されている。
そこで、そのことの意味が、

   (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一
  般の一般的な現象形態にする。

ーーと示される、そのもうひとつ先の段落のf)【8】パラグラフ の議論に引き継がれている。

 しかし、四版でのマルクスの記述するーー提示する議論は、とっても難解なものです。
一般的な価値形態と一般的な相対的価値形態との関連性をどう理解するのか?ーーーと、考えあぐね
ていると、<初版附録> 第一節の冒頭で、その関連を、示していることに気付きました。

 ここでの、マルクスの提示は、彼の述べるように、
<展開された相対的価値形態は、「いまでは、全く変化した姿をもっている」ーーと主張されている
のではありません。

「・・諸商品が、量的に比較されている」ーーことで、相対的価値形態をもつのですから、この叙述
前段での記述は、一般的価値形態であり、それが議論の対象 なのであります。
 私は、①一般的価値形態があって、物象の社会関係にもとずく物象の人格化が成される、
    ②人格化した物象の判断・意志が示されるものとして、一般的相対的価値形態が示されるー
ーーと理解すべきと思うのです。

  e) 四版【6】パラグラフ
  (イ)前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その
  商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。
  (ロ)どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であ
  って、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげるのである。
  (ハ)他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。
  (ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。
  (ホ)一つの商品が一般的価値表現を得るのは、
  同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。
  (ヘ)そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。
  (ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、
  したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、
  明瞭に現われてくるのである。

しかし、四版のこの提示と、次の①初版 ②初版附録との提示は、外見上異なっている。
それは何故か?
  <諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり>
ーーと次の① ②とを比較して、穴のあくほど見続けていると、了解点が浮かび上がってくる。
それはどんなことか?

  ①初版
 <だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態
  が、これらの使用対象の社会的な形態である。
  つまり、商品の社会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものであ
  る。>

  ②初版附録
 <だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的・社会的形態をもっている。
 価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。

  価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労
  働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならな
  かった。このことがいまでは達成されている。

  なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれて
  いる労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表
  現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。>

 ③《補足と改訂》ーー略ーー

 <諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり>
このーー「社会的な定在」ーーが、一般的価値形態では示されているわけです。


 f)【8】パラグラフ
  (イ) 商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネ
  ルに、一般的等価物という性格を押しつける。
  (ロ) リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
  それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
  (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な
  蛹化として認められる。
  (ニ) 織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、す
  なわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。
  (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働
  一般の一般的な現象形態にする。
   (ヘ)このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形
  態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。
  (ト) この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。
  (チ)この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労
  働力の支出に、還元されたものである。

(ハ)(ホ)のここでの、マルクスの 提示の意向を、私達が、実践的に学び取る・・ことが要求されてい
るのです。
  (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な
  蛹化として認められる。

   (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働
  一般の一般的な現象形態にする。

そのことを、上記の次の点から、引き出せ!と・・マルクスが呼びかけているのです。


まず第①に、ーー
(ロ) リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
  それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
「この世界の共通な価値姿態」とは?
普く諸商品が 価値形態一般と規定されている、商品世界の完成形態であるーー第三の一般的相対的
価値形態では、一般的等価物リンネルは、「この世界の共通な価値姿態」と判断され・認められてい
る。
そこで、「それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。」ーーという
ことの理解を、訴えているのです。

第②に、この <第三の一般的相対的価値形態では、一般的等価物リンネルは、
「この世界の共通な価値姿態」と判断され・・ている>から、
(イ)の事柄ーー
  「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、
   リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。」
ーーことが成されている、と述べられている。
ここが重要です。

諸物象の社会関係が、この物象の人格化ー人格の物象化の発現として示される、
一般的相対的価値形態は、「商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という
性格を押しつける。」ーーことで成立、とのべられている。

諸物象の社会関係を、一般的価値形態で観察するのみではなく、物象化の発現としての、一般的相対
的価値形態の成立のなかで観察すると、「商品世界」ではなく、<人間世界>で、物象の成立そのも
のを阻止する機縁が、見えてくるとマルクスは述べているのです。

第③に、次の相対的価値形態で示される、リンネル織りの私的労働が
「他の全ての労働との同等性の形態」と示されたことの意味であります。
 (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すな
  わち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。

即ち、一般的価値形態で形成される!!!(チ)の事柄との対比が述べられている。
 (チ)この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労
  働力の支出に、還元されたものである。

このーー
   <いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、
   人間の労働力の支出に、還元されたもの>
ーーは、リカードのように、自然的形態・永久不滅の完成形態ではなく、物象の人格化した行為とし
てなされる、人間様の転倒した行動である、<一般的な相対的価値形態>の形成の媒介をヘたもので
あって、永遠の不変なものでは無い!・・・と述べているのです。

 マルクスは、チャーテイズムの工場占拠ー自主管理のつぶさを調査する中から、商品関係の研究
を、しているのですから、このような実践的視点の総括がなければ、なかなか理解し難いと思える。

そこで、ーー<一般的な相対的価値形態>の形成の媒介ーーを経ての、一般的価値形態の形成が成さ
れたことを示すのが、(ニ)の次の(ホ)の事柄であります。

(ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働
  一般の一般的な現象形態にする。

この「織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする」ーーの意味を、反射的に「一般的等価形態」
と理解できないことは明らかですが、しかし、どう理解すべきなのか?難しいものです。

再度引用ーー
 (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すな
  わち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。

私は、この一般的な相対的価値形態で形成されている、
  <リンネルを生産する私的労働が、・・・すなわち他のすべての労働との同等性の形態>にある
ーーとの判断があることで、
一般的価値形態での<織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする>ことが成された、と理解する。


【9】パラグラフではーー
  (イ)諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態は、
  それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。
   (ロ)こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働
  の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである。


このーー<諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態>とは、ーー
一体何を意味しているのか?

そのことが、正確には、後の第四節にて、次のように述べられたことです。
<この上なく多様な諸労働のもつ社会的性格が、人間労働としてのそれらの同等性
  のうちに成り立っていること、そしてまた、
  この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていること>
  (「第四節 商品の呪物的性格とその秘密」8段落 フランス語版)

そのことが、
  (リ)「商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、
    たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、
    それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、
    この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとる」
   (新日本出版社訳P126~127)
ーーと訳出されて、誰が、この諸物象の社会関係に基づく、物象の人格化ー人格の物象化のゆえに
生じてくるーー「商品の呪物的性格」の転倒を認識できる、というのか?

 では杉本さんよ・・初版ではどうなんですかね?と直ちに質問がきます。
このように四版では、註24の提示の前にこのことが提起されたのに、初版では、註23に示されるプ
ルードン批判のなかで展開されれば、私達にも幾分この事柄が理解しやすかったと思えます。
 初版 註23の次の段落 9・10・11で、私的労働が社会的労働をとるときの社会的形態が、
   「それぞれの労働が人間労働一般として、人間の労働力の支出として、
   互いに関係しあうことである。」   (初版今村訳P307)
ということでの紹介であります。

 資料
 b <初版付録>
  ①相対的価値形態は、いまでは、全く変化した姿をもっている。
  すべての商品は、自分たちの価値を、(1)単純に、すなわち唯一の他の商品体で、
  (2)統一的に、すなわち同じ他の商品体で、表現している。
  それらの商品の価値形態は、単純であり、また、共通的すなわち一般的である。
  すべての雑多な商品体にたいして、いまではリンネルが、それらの商品体の共通で一般的な
  価値姿態として認められている。

  一商品の価値形態、すなわち、リンネルにおいてのその商品の価値の表現は、いまでは、そ
  の商品を、価値として、使用対象としてのその商品自身の存在から、すなわち、その商品自
  身の現物形態から、区別するばかりでなく、同時に、その商品を、価値として、他のすべて
  の商品に、その商品と同じものであるすべての商品に、関係させている。

  だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的・社会的形態をもっている。
  価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。

  価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労
  働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならな
  かった。このことがいまでは達成されている。

  なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれて
  いる労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表
  現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。

  ②同時に、諸商品が、量的に比較されている。すなわち、一定の価値の大きさとして相互に
  表示されあっている。たとえば、10ポンドの茶=20エレのリンネル であるし、
  40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル である。
  したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー である。
  すなわち、1ポンドのコーヒーのなかには、1ポンドの茶に比べて、1/4の価値実体すな
  わち労働しか含まていない
 (初版付録、江夏訳900-901頁)〉
   <初版付録 第一節 相対的価値形態の変貌した姿>
 

A 四版のーー「価値形態の変化した姿」の意味とは何か?

 投稿者:杉本  投稿日:2016年 9月 1日(木)01時23分23秒
返信・引用 編集済
  hirohiro
単なる理性による説得ではなく、物象化あるいは資本への隷属を廃棄する文化的実践こそが有効な手
段であり、人々の共感をよぶものだ、RGあるいは榎原さんの最終的総括をそのように私は理解して
います。そこから協同組合運動の革命性を理解しました。

Re
だから、日共の搾取論批判 新左翼の労働力商品化論批判に示されていることは、資本制的生産様式
の中から生まれているーー新たな生産様式の形成が、生産協同組合の形成のなかで展開されれば、社
会革命の進行となるーーということでの 文化革命の提案であったのです。

しかし、これは協同の力として発揮されねば、一歩も進まないものでありますし、
この価値形態論の既存の論理への批判・学習も、特にそうであります。
そのために、老いた頭脳を少しぐらい回している次第です。


  A 四版のーー「価値形態の変化した姿」の意味とは何か?
 次の b)《初版本文》と、 c)《補足と改訂》の比較をした上で、四版のーー
a)価値形態の変化した姿ーーの記述を検討すると、英明なマルクスをして、初版の難解至極さを、
・・・如何に噛み砕いて、記述するのかの、なみなみならぬ苦闘のありさまに、驚嘆するばかりであ
ります。
 さて、次の a)b)c)の比較から見出されることの第一は、b)初版の記述ーー
「この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、
したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、
得ることになる。」ーーは、一般的な相対的価値形態のことを意味しているのか?であります。

まずは、比較のために、紹介してみます。
c)《補足と改訂》
 ① [A]「・・たとえばリンネルだけが、すべての他の商品にとって価値表現のために役立つ、
ということから生ずる。同じ等価物におけるこの表現を通して、さまざまに異なった商品の価値は、
簡単であり、しかも共同的であり、統一的な形態--一般的相対的形態をうけとる。」
 ② [B]「一般的価値形態の要素をなしている1着の上着=2 0エレのリンネル、
1クオターの小麦=20エレのリンネル等といった個々の価値等式を考察すれば、相対的価値表現の
最初の姿、すなわち、簡単な価値形態を見いだす。

この比較からでは、どのような意図のもとで、マルクスが述べているのか分かりません。
では、四版ではどうなのか?であります。
  a)四版 価値形態の変化した姿【1】パラグラフ
 (イ)いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは・・・・・・・・
 (ロ)諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。

 私は、ここを次のように理解します。
 ①相対的価値表現において、上着・小麦・・などは、等価物リンネルを、
  価値形態リンネルと規定することで一般的価値形態が規定されたのです。
 ②そのことで、その第三段階の使用価値と交換価値の商品形態を得たのであり、
 ③第一段階と同じく、使用価値と価値形態との、諸物象の判断を示すことで、
 ④第三段階にて最終的に確立された、諸物象の社会関係の完成を、ここに明示したのです。

だから、初版での「この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼう」ーーという事態は
これから、その課題の前提になっている事柄の分析に進もう・・・ということでしかないのです。

また、 c)《補足と改訂》での、ーー
 「簡単な相対的価値形態は、すべての商品の価値等式の関連を通して新しい性格を獲得する。
  価値表現という行為はいまや、個々の商品の私的な行ないではなくなる。
  いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる。」
とーー論じられたこれらの事柄は、[B]の事柄(一般的価値形態と簡単な価値形態との共通性とは?)
が論じられた後の課題になるーーとの表明であろうと思えるのです。

    b) 四版の【6】パラグラフでの、ーー
(ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。
(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるから
こそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価
値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。

 そこで、f)の四版  (ト)「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態」とは何か?ーー
その答えが、<ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する><一般的価値形態>であるーー
のみではないーーことが、ここでの議論の脈絡から、明白に、しっかりと理解できます。
 私は、<ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する> ところの 一般的価値形態 と理解し
ていたのだが、それでは誤りですので、どの点での誤りなのか、探してみます。

 まずは、この「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。」ーー
が、それ以前の著書の何処に表現されているのか?その対比をしてみます。

 第一に 《初版本文》①パラグラフ
  商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である
  1着の上着=20エレのリンネルに戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさら
  に発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。
  すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるい
  は上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。
  いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、
  したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。

  上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの
  価値を、リンネルという素材で表現している。
  このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。
  すべての商品は量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、
  x量の鉄等々、すなわちこれらのさまざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルに
  イコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等しい。
  こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、
  交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関
  係しあい、質的に等置されて量的に比較される。

  この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現
  われ、したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現
  象形態を、得ることになる。

 第二に、初版附録では、次のように述べられていた。
  ーーーーー略ーーーーー
イ)一商品の価値形態、すなわち、リンネルにおいてのその商品の価値の表現は、いまでは、そ
  の商品を、価値として、使用対象としてのその商品自身の存在から、すなわち、その商品自
  身の現物形態から、区別するばかりでなく、同時に、その商品を、価値として、他のすべて
  の商品に、その商品と同じものであるすべての商品に、関係させている。
  だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的・社会的形態をもっている。

ロ)価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。
  価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労
  働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならな
  かった。このことがいまでは達成されている。

ハ)なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれて
  いる労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表
  現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。
  (初版付録、江夏訳900頁)<初版付録 第一節 相対的価値形態の変貌した姿>

 ①この初版附録では、<一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する>
ーーことが、この上記 イ)の部分で述べられている。
 ②次に初版 ①パラグラフ ではつぎのところです。
  「商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である
  1着の上着=20エレのリンネルに戻っている。ーーーーー略ーーーーー
  いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、
  したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。」
 ③その次に《補足と改訂》では上記に示していることではないのです。
 「簡単な相対的価値形態は、すべての商品の価値等式の関連を通して新しい性格を獲得する。
  価値表現という行為はいまや、個々の商品の私的な行ないではなくなる。
  いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる。」

 ④《補足と改訂》へのコメントをしておきます。
 「上着の普遍妥当的な価値形態」(初版)とは、一般的価値形態のことなのですが、
「いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる」ーーと示されたのでは、

<一般的な相対的価値形態>としか理解できない。

しかし、e)《補足と改訂》での、ーー
 <しかし、個々の等式はいまや、リンネルが鉄価値、コヒ一価値、金価値等、
  一言で言えば商品世界の価値を形成している労働の明確な物質化であると声をそろえて
  いっている他の無数の等式によって補足されている。>
ーーをも指すものと理解できます。
以上の事柄は、一般的価値形態のことなのだ・・と明示して、いるのが次の 2)であります。

<かつ、統一的に表わしている、なぜなら、同じ商品種類で表わしているからである。
   諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、それゆえ一般的である。>

これで何が明らかになったのか?
 ①諸商品が、リンネルを一般的価値形態として形成する共同行動を成すことで、商品世界が完成さ
  れて、諸物象の社会関係も同じく完成されて、
 ② 「しかし、個々の等式はいまや、リンネルが鉄価値、コーヒ一価値、金価値等、一言で言え
  ば商品世界の価値を形成している労働の明確な物質化であると声をそろえていっている他の
  無数の等式によって補足されている。」《補足と改訂》
ーーに示される<物象の人格化ーー人格の物象化>ーーが登場した、ということなのです。

 第二に 四版 【8】【9】パラグラフで示されていることは何か?

 まず e) 四版【6】パラグラフ
(ニ)「これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する」
ーーということにて、諸物象の社会関係=商品世界が完成された、という認識は、賛成をえることが
できる。

しかし、これまでの記述では、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは形成されていない。
次のマルクスの【7】を経て【8】パラグラフは、
<一般的な相対的価値形態>と、<一般的価値形態>との関連性が、こう示されている。

  (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、
  すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである

ーーによって示されている。
そこで、そのことの意味が、

   (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一
  般の一般的な現象形態にする。

ーーと示される、そのもうひとつ先の段落のf)【8】パラグラフ の議論に引き継がれている。

 しかし、四版でのマルクスの記述するーー提示する議論は、とっても難解なものです。
一般的な価値形態と一般的な相対的価値形態との関連性をどう理解するのか?ーーーと、考えあぐね
ていると、<初版附録> 第一節の冒頭で、その関連を、示していることに気付きました。

 ここでの、マルクスの提示は、彼の述べるように、
<展開された相対的価値形態は、「いまでは、全く変化した姿をもっている」ーーと主張されている
のではありません。

「・・諸商品が、量的に比較されている」ーーことで、相対的価値形態をもつのですから、この叙述
前段での記述は、一般的価値形態であり、それが議論の対象 なのであります。
 私は、①一般的価値形態があって、物象の社会関係にもとずく物象の人格化が成される、
    ②人格化した物象の判断・意志が示されるものとして、一般的相対的価値形態が示されるー
ーーと理解すべきと思うのです。

  e) 四版【6】パラグラフ
  (イ)前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その
  商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。
  (ロ)どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であ
  って、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげるのである。
  (ハ)他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。
  (ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。
  (ホ)一つの商品が一般的価値表現を得るのは、
  同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。
  (ヘ)そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。
  (ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、
  したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、
  明瞭に現われてくるのである。

しかし、四版のこの提示と、次の①初版 ②初版附録との提示は、外見上異なっている。
それは何故か?
  <諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり>
ーーと次の① ②とを比較して、穴のあくほど見続けていると、了解点が浮かび上がってくる。
それはどんなことか?

  ①初版
 <だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態
  が、これらの使用対象の社会的な形態である。
  つまり、商品の社会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものであ
  る。>

  ②初版附録
 <だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的・社会的形態をもっている。
 価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。

  価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労
  働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならな
  かった。このことがいまでは達成されている。

  なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれて
  いる労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表
  現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。>

 ③《補足と改訂》ーー略ーー

 <諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり>
このーー「社会的な定在」ーーが、一般的価値形態では示されているわけです。


 f)【8】パラグラフ
  (イ) 商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネ
  ルに、一般的等価物という性格を押しつける。
  (ロ) リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
  それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
  (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な
  蛹化として認められる。
  (ニ) 織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、す
  なわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。
  (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働
  一般の一般的な現象形態にする。
   (ヘ)このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形
  態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。
  (ト) この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。
  (チ)この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労
  働力の支出に、還元されたものである。

(ハ)(ホ)のここでの、マルクスの 提示の意向を、私達が、実践的に学び取る・・ことが要求されてい
るのです。
  (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な
  蛹化として認められる。

   (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働
  一般の一般的な現象形態にする。

そのことを、上記の次の点から、引き出せ!と・・マルクスが呼びかけているのです。

まず第①に、ーー
(ロ) リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
  それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
「この世界の共通な価値姿態」とは?
普く諸商品が 価値形態一般と規定されている、商品世界の完成形態であるーー第三の一般的価値形
態では、一般的等価物リンネルは、「この世界の共通な価値姿態」と判断され・認められている。
そこで、「それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。」ーーという
ことの理解を、訴えているのです。

第②に、この <第三の一般的価値形態では、一般的等価物リンネルは、「この世界の共通な価値姿
態」と判断され・・ている>から、
(イ)の事柄ーー
  「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、
   リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。」
ーーことが成されている、と述べられている。
ここが重要です。
諸物象の社会関係が、この物象の人格化ー人格の物象化の発現として示される、
一般的相対的価値形態は、「商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という
性格を押しつける。」ーーことで成立、とのべられている。
諸物象の社会関係を、一般的価値形態で観察するのみではなく、物象化の発現としての、一般的相対
的価値形態の成立のなかで観察すると、物象の成立そのものを阻止する機縁が、見えてくるとマルク
スは述べているのです。

第③に、次の相対的価値形態で示される、リンネル織りの私的労働が「他の全ての労働との同等性の
形態」と示されたことの意味であります。
 (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すな
  わち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。

即ち、一般的価値形態で形成される!!!
 (チ)この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労
  働力の支出に、還元されたものである。

このーー<いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、
    人間の労働力の支出に、還元されたもの>
ーーは、リカードのように、自然的形態・永久不滅の完成形態ではなく、物象の人格化した行為とし
てなされる、人間様の転倒した行動である、<一般的な相対的価値形態>の形成の媒介をヘたもので
あって、永遠の不変なものでは無い!・・・と述べているのです。

 マルクスは、チャーテイズムの工場占拠ー自主管理のつぶさを調査する中から、商品関係の研究
を、しているのですから、このような実践的視点の総括がなければ、なかなか理解し難いと思える。

【9】パラグラフではーー
  (イ)諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態は、
  それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。
   (ロ)こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働
  の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである。


このーー<諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態>とは、ーー
一体何を意味しているのか?

そのことが、正確には、後の第四節にて、次のように述べられたことです。
<この上なく多様な諸労働のもつ社会的性格が、人間労働としてのそれらの同等性
  のうちに成り立っていること、そしてまた、
  この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていること>
  (「第四節 商品の呪物的性格とその秘密」8段落 フランス語版)

そのことが、
  (リ)「商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、
    たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、
    それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、
    この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとる」
   (新日本出版社訳P126~127)
ーーと訳出されて、誰が、この諸物象の社会関係に基づく、物象の人格化ー人格の物象化のゆえに
生じてくるーー「商品の呪物的性格」の転倒を認識できる、というのか?

 では杉本さんよ・・初版ではどうなんですかね?と直ちに質問がきます。
このように四版では、註24の提示の前にこのことが提起されたのに、初版では、註23に示されるプ
ルードン批判のなかで展開されれば、私達にも幾分この事柄が理解しやすかったと思えます。
 初版 註23の次の段落 9・10・11で、私的労働が社会的労働をとるときの社会的形態が、
   「それぞれの労働が人間労働一般として、人間の労働力の支出として、
   互いに関係しあうことである。」   (初版今村訳P307)
ということでの紹介であります。

 資料
 b <初版付録>
  ①相対的価値形態は、いまでは、全く変化した姿をもっている。
  すべての商品は、自分たちの価値を、(1)単純に、すなわち唯一の他の商品体で、
  (2)統一的に、すなわち同じ他の商品体で、表現している。
  それらの商品の価値形態は、単純であり、また、共通的すなわち一般的である。
  すべての雑多な商品体にたいして、いまではリンネルが、それらの商品体の共通で一般的な
  価値姿態として認められている。

  一商品の価値形態、すなわち、リンネルにおいてのその商品の価値の表現は、いまでは、そ
  の商品を、価値として、使用対象としてのその商品自身の存在から、すなわち、その商品自
  身の現物形態から、区別するばかりでなく、同時に、その商品を、価値として、他のすべて
  の商品に、その商品と同じものであるすべての商品に、関係させている。

  だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的・社会的形態をもっている。
  価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。

  価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労
  働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならな
  かった。このことがいまでは達成されている。

  なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれて
  いる労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表
  現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。

  ②同時に、諸商品が、量的に比較されている。すなわち、一定の価値の大きさとして相互に
  表示されあっている。たとえば、10ポンドの茶=20エレのリンネル であるし、
  40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル である。
  したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー である。
  すなわち、1ポンドのコーヒーのなかには、1ポンドの茶に比べて、1/4の価値実体すな
  わち労働しか含まていない
 (初版付録、江夏訳900-901頁)〉
   <初版付録 第一節 相対的価値形態の変貌した姿>

  a)四版 価値形態の変化した姿
  【1】パラグラフ
  (イ)いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは
  (1)単純に表わしている、というのは、ただ一つの商品で表わしているからであり、
  (2)そして統一的に表わしている、というのは、同じ商品で表わしているからである。
   (ロ)諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。
  (資本論Ⅰ国民文庫P123)
   e) 四版【6】パラグラフ
  (イ)前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その
  商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。
  (ロ)どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であ
  って、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげるのである。
  (ハ)他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。
  (ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。
  (ホ)一つの商品が一般的価値表現を得るのは、
  同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。
  (ヘ)そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。
  (ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」である
  からこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、
  したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、
  明瞭に現われてくるのである。

  g)四版【7】パラグラフ
  (イ)リンネルに等しいものという形態ではいまやすべての商品が質的に同等なもの、すな
  わち価値一般として現われるだけではなく、同時に、量的に比較されうる価値量として現
  われる。
   (ロ)すべての商品がそれぞれの価値量を同じ一つの材料、リンネルに映すので、これらの
  価値量は互いに反映しあう。
  (ハ)たとえば、10ポンドの茶=20エレのリンネル、そして、
  40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル。
  (ニ)したがって10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー というように。
  (ホ)または1ポンドのコーヒーに含まれている価値実体、労働は、1ポンドの茶に含まれて
  いるそれの4分の1でしかない、というように。

  h)四版【8】パラグラフ
  (イ)商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネル
  に、一般的等価物という性格を押しつける。
  (ロ)リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
  それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
  (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な
  蛹化として認められる。
  (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すな
  わち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。
  (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商
  品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働
  一般の一般的な現象形態にする。
   (ヘ)このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形
  態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。
  (ト)この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。
  (チ)この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労
  働力の支出に、還元されたものである。

  I)四版【9】パラグラフ
  (イ)諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態は、
  それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。
   (ロ)こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働
  の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである。

  二 相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係
  j)【2】パラグラフ
  (イ)一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。
  (ロ)相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、
  これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。
  (ハ)最後に、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべ
  ての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからであ
  る。
 

(無題)

 投稿者:hirohiro  投稿日:2016年 8月26日(金)09時35分23秒
返信・引用
  追加です。商品に対して前提となっているとは、生産の段階で社会的生産が私的生産者の私事として営まれているからです。つまり生産者の社会的関係=実践的関係が、商品関係=実践の結果たる対象物の関係に先立っているからです。

この補足はいまひらめきました。今までうまく説明できませんでしたが、杉本さんの度重なる議論のおかげで、到達できたと思います。本当にありがとうございます。だからといって、批判の矛先を鈍らせることはしませんよ(笑い)
 

(無題)

 投稿者:hirohiro  投稿日:2016年 8月26日(金)09時29分20秒
返信・引用
  <杉本註 (リ)商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、
    たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、
    それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、
    この社会的性格が労働生産物のーーー<価値形態>ーーー価値性格という形態をとる>
    <榎原さんは、この誤訳を見出せんかったのです。>

商品生産社会における労働生産物の社会的性格が、その生産物の価値としての性格として、いわば主体的性格としてあることが前提となっているのです。しかしその性格は感性的にあるいは物象的に実在しているわけではない。それがゆえに他の商品を価値鏡とすることによって、それを客体的形態としてあらわす必要があり、それこそが自らの価値としての形態であるところの等価形態商品の現物形態であるのです。決して誤訳でもなく、誤解でもないのです。

等価形態の役立ちを否定しませんが、しかしそれはあくまでも相対的価値形態にある商品が与える役割であって、等価形態にある商品の能動性を主張することはできないのです。この点を理解できなければ、どんなに学習してもマルクスの真意を理解することはできないでしょう。また、杉本さんの論理を突き詰めれば。向井さん流に貨幣があるから価値形態が成立するという結論に至り、価値実体としての抽象的人間的労働を否定せざるをえなくなるでしょう。そして資本制の根本問題である具体性を捨象した抽象的同一性の支配、量的なものの暴走を批判できなくなるでしょう。相模原の事件はその支配が頂点に達していることを示しているものです。

そもそも杉本さんの議論はどのような実践的指針を示すものなのでしょうか。その点の提示がなければ、マルクスを解釈する意味などありません。共産党や他の新左翼党派に対する政治的対立を動機に、彼らとの理論的違いを無理やり示そうとしていませんか。政治的対立が無意味とは言いませんが、理論の実践的帰結を示さなければ、それは単なる政治的精神の狭小さを示すものでしかありません。あなたたちの党派はそのようなものではなかったはずです。単なる反代々木・反スタ主義が黒田の宗派主義に陥ったこと、あるいは第二次ブントの大衆への自然発生への拝跪として批判してきたのではありませんか。

武装闘争の敗北を総括する中で、政治的扇動の手段としての遊撃戦は、大衆運動の停滞期には無効であり、全国的新聞の発行というある種啓蒙的手段も有効ではない。単なる理性による説得ではなく、物象化あるいは資本への隷属を廃棄する文化的実践こそが有効な手段であり、人々の共感をよぶものだ、RGあるいは榎原さんの最終的総括をそのように私は理解しています。そこから協同組合運動の革命性を理解しました。

そのような理解からすると杉本さんの議論の意味が全く理解できないのです。この私の疑問にお答えしていただけたら幸いです。また、総括の理解が誤解であればバシバシ批判してください。この点は当事者ではないだけに、誤解の可能性大だからです。よろしくお願いします。
 

 「第四節  商品の物神的性格とその秘密」ーーへの榎原さんの理解へのコメント

 投稿者:杉本  投稿日:2016年 8月23日(火)16時14分36秒
返信・引用 編集済
   「第四節  商品の物神的性格とその秘密」ーーへの榎原さんの理解へのコメント

   労働生産物は、使用価値と価値形態をもつかぎりで、商品形態であるのですが、
  このことは、①簡単な価値形態の総体 ②展開された価値形態 ③一般的価値形態 のいずれでも共通する事柄で
  あります。そしてこの商品形態は、このいずれでもの価値形態にあっても、物象の社会関係が形成され、物象が、
  使用価値と価値形態と判断することを基礎としてのみ、形成されるものであります。
  そして、一般的価値形態として完成された商品世界が、物象の人格化ーー人格の物象化として、貨幣形態の形成と
  して為されていく吾々の無意識での本能的共同行動によって、拡大再生産されていくのを、如何に統制し、廃止し
  てゆくのか?  そのような理論的・実践的な課題のために苦闘している次第です。




http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=221
『「資本論」の核心』補講全3回(3-3)
補講第3回 目次
第七講 商品の物神的性格とその秘密
『「資本論」の核心』 目次
第七講 商品の物神的性格とその秘密
1.物象化と物化の区別
2.物神性論の核心
 それでは、このような観点からマルクスの『資本論』の該当部分を読んでみましょう。65ページです。その下
段から69ページの上段の中央辺りまで読んでください。後のところはまた、今回ではなくて別の機会にやります
ので、とりあえずそこまで読んでもらいましょう。

 今読んでもらったところで一番ポイントになるところの指摘からいきたいのですが、六六ページの上段の一番最
後から下段に移るところです。ここにマルクスの物神性論のポイントが書かれています。

(杉本追加)三段落です。
  【3】(イ)では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこ
    から来るのか?
    (ロ)明らかに、この形態そのものからである。
    (ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続
    時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後
    に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社
    会的関係という形態を受け取るのである。



  ちょっと読んでみますと
 「それでは、労働生産物が商品形態をとるや否や生ずる労働生産物の謎的性格は、どこから生ずるか?」
ということで、以下云々と述べられています。


その後、次の段落に移りますと、「だから、商品形態の神秘性なるものは、単につぎの点にある」ということでま
た展開されています。この二つを区別して考えようということです。価値形態の秘密と謎というように分けたので
すが、これに照応してこの二つの提起がなされているのではないか。こう読むと非常に分かりやすいのではない
か、これが第一点です。
実際中身を読んでみますと、

   「労働生産物の謎的性格は、どこから生ずるか?」とマルクスが提起した場合には、こう言っています。

   「明らかに、この形態そのものからである。人間の諸労働の同等性は、労働諸生産物の同等な価値
    対象性という物象的形態を受けとり、人間的労働力の支出の、その時間的継続による度量は、
    労働諸生産物の価値の大いさという形態を受けとり」と。

要するに、これは人間の諸労働の同等性という人間の社会関係に属する性格が労働諸生産物の同等な価値対象性と
いう形で、物象としての商品に属するような物象的な形態に転化していくことです。

物象的な形態の中で、人間労働の同等性という本来人間の社会関係に属する労働の内容が実現されていく。これは
実は、この規定は商品の現象形態そのものを非常に正確に指摘している。

もちろん現象形態と言っても、人がそれをそういう形では認識できないですから、分析した結果、そういう物象的
形態があるということですが。

(杉本追加)四段落です。
【4】(イ)したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。
    (ロ)すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのもの
    の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に
    対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させ
    るということにある。
    (ハ)この“入れ替わり”によって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な
    物、または社会的な物に、なる。
    (ニ)たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れない
    で、目の外部にある物の対象的形態として現れる。
    (ホ)しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つの物に、現実に
    光が投げられる。
    (ヘ)それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。
    (ト)これに対して、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対に何のか
    かわりもない。
    (チ)ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社
    会的関係にほかならない。
    (リ)だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければなら
    ない。
    (ヌ)ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間との
    あいだでも関係を結ぶ自立した姿態のように見える。
    (ル)商品世界では人間の手の生産物がそう見える。
    (ヲ)これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや
    労働生産物に付着し、したがって、商品生産と不可分なものである。


 その次に、次の段落です。この価値形態の秘密に関連した商品の現象形態の指摘に関して、次の段落では

「商品形態の神秘性なるものは、単につぎの点にある」と言って、
「商品形態は、人間じしんの労働の社会的性格を、労働諸生産物そのものの対象的性格として・
これらの物の社会的関係な自然属性として・人間の眼に反映させ」 云々とあります。

これは等価形態のところでやった等価形態の謎性を念頭に置いて言われているのです。
こういうふうに分けて提起していて、その二つに関しておのおの
「労働生産物の謎的性格は、どこから生じるか?」ということで価値形態の秘密の内容が展開されて、

ここから生じた神秘性は一体どういうものなのかということで、等価形態の謎性に相当する内容が展開されてい
る。このように区別立てて考えることが、物神性の理解にとって決定的です。

  さらに現象形態と、それから等価形態の謎性とをどのように展開しているかということですが、六六ページの
下段の後ろのほうから六七ページに入る、そこを読んでみますと、結局、商品の現象形態が単なる物象的なそうい
う関係、人間の社会関係が単なる物と物との関係に見えてしまうということですが、

   「これに反して商品形態は、また、それが自らをそこで表示する労働諸生産物の価値関係は、労働
    諸生産物の物理的本性、および、それから生ずる物的諸関係とは、絶対に何の係わりもない。
    それは、人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の
    眼には物と物との関係という幻影的形態をとるのである。」

と言われています。
ここで「幻影的形態」という言葉が出てきます。この幻影的形態が商品の現象形態にも付着していると考えたらい
いのです。それを見ると別の形に見える。この別の形に見えたものは、しかしながらそれは商品にとっては幻であ
るということです。人間にとっては別に幻ではないのですが、商品にとっては幻になっている。ここで商品自身の
現象形態と、それが人間の眼に反映した場合の幻影的形態との区別とが出てきます。

 注意しておくべき点は、よくここを念頭に置いて、商品と商品の関係自体が人々の社会関係の物化したものだと
いう理解がなされることです。これはやはりここの読み方を間違っているのではないか。マルクスが言っているの
は、商品と商品との関係という、そういう物象相互の社会的関係、これ自体が人々そのものの一定の社会的関係
だ、と言っています。
    そしてこの関係が単なる物と物との関係という幻影的形態をとる。
なぜそうかと言えば、商品と商品の関係という物象的な関係によって労働生産物が社会的な力を持っている。

等価物、例えば上着の場合、これは他の商品を購買できるという購買力を持っています。
その購買力とは本来、人々の社会関係から生じていますが、それが上着という単なる自然物に属しているように見
える。これを幻影的形態だと言っているのです。


 そうしますと、ここで現象形態と幻影的形態というように区別して、現象形態が物と物との関係という幻影的形
態をとるとすれば、その物象化と物化とをやはり区別して考えないと、にっちもさっちもいかなくなるんじゃない
か。

物象化とは、人格が物象化して人間の社会的な力が物象に備わってしまうという事態です。
そういう事態と、その物象の現象形態が単なる物と物の関係という、幻影的形態をとって人間の眼には反映される
という二重の構造になっている。

    この二重の構造を明らかにしようとすれば、物象化と物化を区別して、
    それぞれを現象形態と幻影的形態に関連させて区別する。

それを、先ほど言った価値形態の秘密と謎の違いに関連させて考えるようにせざるを得ないのではないか。こう考
えていきますと、マルクスの物神性論、これは非常に難解でいろいろ誤解されているところが多いのですが、そこ
の理解に一本の筋を通せます。

3.社会的象形文字としての商品とその生産
 以上の点を確認した上で、引き続き重要なところを読んでいきますと、六七ページです。

   「こうした物神的性格は、以上の分析ですでに明らかにされたように、商品を生産する労働の独自
    的・社会的性格から生ずる。」と。

これは、ここ以降、今度は商品を生産する労働ですから、今までは商品と商品との関係から、そういう謎的性格が
どこから生じるかという問題と、その謎性、神秘性なるものはどういうことなのかを明らかにしたのでが、ここか
らは、それを労働という観点から見ています。
注意しておくべき点は、67ページの上段から下段へわたるところです。

   「すなわち、彼らの諸労働そのものにおける人と人との直接的に社会的な関係としてではなく、
    むしろ、人と人との物象的関係および物象と物象との社会的関係として、現象する。」

と述べられています。ここに注意を払ってほしいのです。




(杉本追加)五・六段落です。
  【5】このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労働の
    特有な社会的性格から生ずるものである。
  【6】 (イ)およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物で
    あるからにほかならない。
    (ロ)これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。
   (ハ)生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるの
    だから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのであ
    る。
    (ニ)言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者た
    ちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるの
    である。
    (ホ)それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのも
    のとして現われるのである。
    (ヘ)すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではな
    く、むしろ諸個人の物(象)的な諸関係および諸物(象)の社会的な諸関係として、現われるの
    である。

    <杉本註 私のここでの理解>
  <「諸個人の物(象)的な諸関係および諸物(象)の社会的な諸関係」とは何か?
    文脈からしてーー「商品世界の呪物的性格」ーーを批判しているのは明白です。
   「諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係」ではなく、商品呪物として、
    物と物との関係として転倒して現れるところの、 物象の社会関係であり、物象の人格化として示
    されるーー物象の人格化・人格の物象化ーーが表現されているのです。
    この物象の人格化が明示されたのが、次の四版での項目の一般的価値形態であります。
    初版 では、物象の社会関係にて、一般的価値形態が形成されるとの主張であります。
    そこで、四版では、次に、何故?物象の人格化が起こっているのかーーとして、その前提になって
    いる物象の社会関係の所在をこの【6】[7]パラグラフにて探求しているのです。>

C一般的価値形態 1価値形態の変化した姿
  6パラグラフ
        前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであ
       れ、その商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。
       どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私
       事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげるのである。
       他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。
       これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立す
       る。
       一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの
       価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。
       そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。
       こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」
       であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるの
       であり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければなら
       ないということが、明瞭に現われてくるのである。(四版国民文庫P125)




結局、商品形態自体が、何らかの人々の社会的関係が物化したものだと捉えられている普通のとらえ方からすれ
ば、人々の社会関係が、商品の関係とは別のところに何となくあるということを前提にしています。

ところが、商品の形態が人々の社会的関係の現象形態である、それは物象化されているが、

そういう形で人間の社会的関係が存在していると見た場合には、
この物象的な関係が物化されていて、これが幻影的形態になっているという理解
につながっていくのですが、その理解の正しさが、ここでやはり証明されているのではないのか。

つまりマルクスはここで
   「彼らの諸労働そのものにおける人と人との直接的に社会的な関係」
ではない、人と人との物象的な関係であり、物象と物象との社会的関係であって、これが商品の関係なのだ。

それがまた、商品を生産する労働の関係なのだと言っているのです。

ですから、結局、人々の関係の物象化であるとか物化とか言う場合に、物象的な関連を抜きに、今日の商品経済に
おいては人々の社会的な関係はないのだ。物象的な関連を抜いてしまうと、お互いに独立した私的所有者たちがい
る、私的労働生産物の所有者たちがいるということだけになってしまって、社会的な関係はそこにはないのです。



(杉本追加)七段落です。
  【7】(イ)労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象
    性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。
   (ロ)有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を
    目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおい
    て考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。
   (ハ)この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。
    (ニ)私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、
    そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなけ
    ればならない。
    (ホ)私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のど
    れとも交換され得るものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、
    それら自身の生産者たちの多様な欲求を満たす。
    (ヘ)たがいに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働
    力の支出として、抽象的人間労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成りた
    ちえない。
    (ト)私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物
    交換において現れる諸形態でのみ反映する。--
    (チ)すなわち、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならな
    いという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、種類を異にする労
    働の同等性という社会的性格を、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通なーーー
    ーー<価値形態>ーーーーー価値性格という形態で反映するのである。


 その次に注目すべき点は、67ページの下の段の真ん中辺です。

   「したがって諸物象の価値性格がすでにそれらの生産そのものにさいして問題となるとき」
と言っています。

ここは結局、労働から見て私的労働の生産物がどのように商品を生産していくか。そういう商品を生産する過程
で、どのように物神性が形成されていくかということを追究していますが、ここで言われている内容は、生産に対
して人々が何らかの、社会全体のいわゆる資源配分を意識的に統制して、その上で生産していくということではな
くて、諸物象の価値性格が生産を規制している関係になっているのだ。したがって抽象的人間労働が持っている生
産に対する関係を考えていく手がかりがここでは与えられています。


 そういうことを見ていきますと、その次のポイントは六八ページに入るところです。結局、生産物をお互いに関
係させあうことによって、その関係のなかで社会的実体である抽象的人間労働相互の関係を作っていくという形
で、人々が私的労働を社会的に通用するような形にしていきますから、物象の関係に付着している、そこに付着す
るところの価値、その価値がその商品の生産過程を支配していく、そういう逆転が起こっていくのではないかとい
うことです。

(杉本追加)八段落です。
  【8】段落<杉本がフランス語版にて提示>

    (イ)私的労働の二重の社会的性格は、実際の交易つまり生産物の交換が生産者たちに押しつけられ
    る形態でのみ、彼らの頭脳に反映される。
    生産者たちは彼らの労働生産物を価値として対峙させて関連させるが、それは、彼らがその労働
    生産物のうちに、同一の人間労働を隠している単なる外被を、看取するからではない。
   (ロ)全く逆である。
   (ハ)彼らは、自分たちの相異なる生産物を交換において同等と見なすことによって、自分たち
    の相異なる労働が同等であることを実証する。
   (ニ)彼らはそうとは知らずにそうする。(27)
    (ホ)だから、価値の額(ヒタイ)の上には、それがなんであるかは書かれていない。
    (ヘ)価値はむしろ、それぞれの労働生産物を象形文字にする。
    (ト)時が経ってやっと、人間はこの象形文字の意味を解読し、自分が関与して作ったこの社会的生
    産物の秘密を洞察しようと試みるのであって、有用物の価値への転化は、言語と全く同じに社会
    の産物なのだ。
    (チ)労働生産物は価値としてはその生産に支出された人間労働の純粋にして単純な表現である、と
    いう後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時期を画すものであるが、労働の社会的性格を物
    の性格、生産物自体の性格として出現させる幻影を、少しも一掃するものではない。
    (リ)この特殊な生産形態、つまり商品生産にとってのみ真実であるもの--すなわち、この上なく
    多様な諸労働のもつ社会的性格が、人間労働としてのそれらの同等性のうちに成り立っているこ
    と、そしてまた、
            この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態
    をとっていること--、この事実は、商品生産の機構と関係のなかにとらわれている人間にとっ
    ては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実であるかのように見えるので
    あって、このことは、空気の化学元素の発見の前後を問わず相変わらず同じである空気という気
    体形態のばあいと、全く変わりがない。〉(江夏訳49-50頁)
  http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/79340684d0376aa98def42050c948841
  第36回「『資本論』を読む会」の報告(その3)◎第8パラグラフについて


 その次に、また価値についての面白い言い方あります。六八ページの真ん中に

   「価値なるものの額には、それが何であるかということは書かれていない。
    価値はむしろ、どの労働生産物をも一つの社会的象形文字に転化する。」と。

人間の労働が抽象的人間労働であるという点で同等だ、そういう同等性において人々の労働が社会的労働になると
言うのなら、あらゆる労働は具体的な有用労働であると同時に単なる人間労働力の支出ですから、価値は抽象的人
間労働だということになります。

この見方からすれば、あらゆる労働は人間労働として共通だから社会的なのだという、説明が成り立つのですが、
価値が私的労働を社会的労働にする、そのシステムはそういうものではない。

私的労働の生産物をお互いに等置しあうことを通して、それを抽象的人間労働という社会的労働に形成するので
す。という意味で、価値は社会的労働の関係ですが、価値自体は何であるかということは価値を見ても分からな
い。生産物を一つの社会的象形文字にする、こうマルクスは言います。

例えばスイカが一個千円であるとかシャツが一枚三千円であるというように労働生産物が価格を持って現れていま
す。商品経済でなければ、こういう労働生産物のこのような形での表示ということはないのですから、これを社会
的象形文字だとマルクスは言っているのです。

この社会的象形文字がどういう意味を持っているのだろうかとその秘密を探ろうとし、スイカが一個千円であると
かシャツが一枚三千円であるとかいうのは、そこにその生産物に支出された人間的労働なのだ、それが実体になっ
ていることを発見していく。それが秘密だということがだんだん明らかになっていく。

    ところが問題は、そういうことが明らかにされても、別に人間労働の同等性
    ということを人々が意識的に作れる、人々が社会関係のなかで商品形態を借
    りずに作れるということにはならなくて、やはり商品形態を借りてしなけれ
    ばならない。

商品形態を借りてする以上は、物象化および物神性・物化はなくならない。
したがって、物象化され物化された形で社会の法則が貫徹されていくということになっていくのです。
その仕組みが、その次に書かれています。

 なぜ、そういうふうになっていくかということについては、時間もないので省略しますけれども、

    ここで重要な点は、価値とは何であるかということを理解したことです。
    人間に属する労働の社会的性格という、人間社会に属する性格が、労働生
    産物という、物象に属するものとして現れてくる。

    労働生産物の価値性格とはそういうことです。

<杉本註 (リ)商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、
    たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、
    それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、
    この社会的性格が労働生産物のーーー<価値形態>ーーー価値性格という形態をとる>
    <榎原さんは、この誤訳を見出せんかったのです。>

そういうことが分かり、価値とは何かということが分かっても、幻影的形態は消えない。
人間の労働の物象化と、生産物が商品形態をとることによって物象に転化することがあれば、
必然的にそれが幻影的形態を人間の眼に発生させる物化のメカニズムも同時にあります。
そういう意味で物象化と物化とが密接に結びついている。

4.感性で把握できない理由
 一応の説明をした後で、今度は最初のところに移ってみましょう。

一番最初の段落です。それを見ますと、商品は一見して非常に平凡なものなのですが、それが価値を持っていると
いう点になると非常に分からないものになっていく。物が商品として、例えば価格を持つというふうな形で登場す
ると、それは感覚ではつかめないものに転化していくということが書いてあります。

こういうことは結局、ここの
「感性的で超感性的な物に転化する」
という訳がありますが、
ここは「感性に超感性的な物に転化する」というふうに訳すべきだという意見もありますが、その訳を採ります
と、結局、感覚では捉まえられないものに転化していくということです。

感覚で捉えられないということはどういうことかと言えば、人間の労働が物象化すると、その物象化した現象がそ
のまま捉えられれば感性で把握できるのですが、それが物の自然的な属性として人間の眼には見えるのです。

そうすると感性で捉えられるのは、そういう物の世界ですけれども、問題は物の世界ではなくて物象の世界なので
す。物の世界は当然、物象の世界とはずれていて幻影的で、物象の世界という点から見たら幻影である。したがっ
て商品の現象自体は感性では捉えられない、こういう意味なのです。



 それから、その次を開けますと、66ページの上段です。ここには価値規定の内容があります。
これも簡単に説明しておきますと、結局、価値とは今言った変な形だ。
ところが、価値を規定するものは何かと言った場合、それは労働でそれも抽象的な労働です。
この抽象的な労働とは何かについては非常に簡単ではないか。人間の労働力の、生理学的な意味での支出です。

それから、価値の大きさを規定するのは労働時間です。したがって、普通の労働が抽象的人間労働という性格を
もっていて、その量は時間で計れるということ、それ自体は全然不思議ではない。

ところが、その価値を規定するその内容が、価値になった場合には物と物との関係、商品と商品との関係におい
て、そういう抽象的人間労働が社会的に成立していくという構造になるのです。

異種労働を等置することによって、人々の私的労働を社会的労働である抽象的人間労働に還元していくという、
こういう変な構造がある。

その構造が、その構造として、それ自身が人間に認識されるのであれば問題はないのですが、そういう物象化した
構造自体が人間の眼に幻影的形態を反映させる。

そういう意味で、商品の価値性格が感覚でつかめないものになっていく、こういうことなのです。これを考慮に入
れて、ここのところを読んでいくと非常に分かりやすい。

 今回やり残したところは、その次に初版本文の価値形態論をやり、初版本文の物神性論も当然やるのですが、初
版本文の物神性論は、後で言いますが現行版とはかなり違っている。その現行版が初版本文と違うところが今まで
のところです。その後は、ほとんど初版本文の叙述を踏襲している。そういうこともあって、やり残したところに
ついては初版本文のところで説明します。もちろん、今の段階でこの部分について当然読んでおいてほしいです。
                             (補講終了)


<杉本>
榎原さんの紹介しなかった、九・十段落も追加したおきます。
<段落 9 > 本文 (岩波文庫 p135、向坂訳)
    (イ)生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるもの、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の
    生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。
    (ロ)このような割合は、ある程度慣習的な固定牲をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性
    質から生ずるかのように見える。
    (ハ)したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理的
    化学的属性を異にするにもかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。
    (ニ)事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。
    (ホ)この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。
    (ヘ)彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制
    するのではなくして、その運動に規制される。
    (ト)相互に独立に営まれるが、社会的分業の自然発生的な構成分子として、あらゆる面において相
    互に依存している私的諸労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約される
    のは、私的諸労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的
    に必要なる労働時間が、規則的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上
    に倒れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからである(注28)が、このことを、
    経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した
    商品生産が必要とされるのである。
   (チ)労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現
    象的運動の下にかくされた秘密なのである。
   (リ)その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定という外観をのぞくが、しか
   し、少しもその事物的な形態をなくするものではない。
   注28 「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則をなんと考えるべきであろうか?
   (略)

  【10】(イ)人間の生活の諸形態についての省察、したがってまたそれらの科学的分析は、一般に、現
    実の発展とは反対の道をたどる。
    (ロ)この分析は“後から”始まり、したがって発展過程の完成した諸結果から始まる。
    (ハ)労働生産物に商品の刻印を押す、したがって商品流通に前提されている、諸形態は、人々が、
    これらの形態の歴史的性格についてではなく--これらの形態は人々にはむしろすでに不変のも
    のと考えられている--これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生
    活の自然諸形態の固定性をおびている。
    (ニ)こうして、価値の大きさの規定に導いたのは商品価格の分析にほかならなかったし、諸商品の
    価値性格の確定に導いたのは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった。
    (ホ)ところが、商品世界のまさにこの完成形態--貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的性
    格、したがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、物的におお
    い隠すのである。
   (ヘ)もし私が、上着、長靴などが抽象的人間労働の一般的化身としてのリンネルに関係すると言え
    ば、この表現がばかげていることはすぐに目につく。
    (ト)ところが、上着、長靴などの生産者たちが、これらの商品を、一般的等価としてのリンネルに
    --または金銀に、としても事態に変わりはない--関係させるならば、社会的総労働に対する
    彼らの私的諸労働の関係は彼らにとってまさにこのばかげた形態で現れるのである。




 <杉本  物神性批判としての物象化論の練達を、吾々労働者は、要求されているのです。
 もっと書き加えていきたい。>
 

 物化論と物象の社会関係

 投稿者:杉本  投稿日:2016年 8月19日(金)13時53分59秒
返信・引用 編集済
  前回に<a)物象の社会関係 b)物象の人格化ーー人格の物象化 について>と題して、榎原さんの
物象化論の紹介をしてきた。
堺の資本論を読む会の諸先生は、次に紹介するように、初版と四版での物神性論の対比を行っている。
事実上、彼らの主張は、物象化論ではなく、物化論・・なのです。
つまり、初版での 諸物象の社会関係の諸物の関係への転倒ーーの論旨が、四版では拒否されていること
ーーの主張になってしまっているのです。<勿論同じ趣旨と私は理解>たしかに、榎原さんの初版解説
での不充分性ーー不備があると思えるが、その点を克服するためにも、堺の研究会の諸先生の誤解点を探
るために、まずは、紹介してみます。
 次のーー四版でのーー
 ① (ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という  物  的形態ーー
  ーーとは何のことであろうか?それは、使用価値が価値属性をもって現れる、ことではないか?
 ②「労働生産物の社会関係」とは、その前段の、「その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労
   働生産物の価値の大きさという形態を受け取り」ーーに示された、使用価値の量的関係に示され
   る、物的関係ではないだろうか?
 そのことを、堺の研究会はーー次のように示している。これは正しい解釈であります。
   すなわち(1)は労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を、
       (2)は労働生産物の価値の大きさという形態を、
       (3)は労働生産物の社会的関係という形態を、です。
しかし、次の8段落ーー
(ホ)商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労
  働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が
  労働生産物の価値性格という形態 <「価値形態」 仏語版> をとるのだということが、
  商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして
  現れる・・・・
ーーへの注意ーーせっかく<「価値形態」 仏語版>の正しい訳を提示しながら、ここに示される物象の
社会関係の形成ーーの意義を見落としているのです。物象の二つの役立ちにて、価値形態は形成され、簡
単な価値形態も形成されていくのです。「第三節価値形態または交換価値」の核心的意義であります。四版
ではこのように、明示できますが、ではこの点が初版では、何処なのか?またーー検討して、書き加えてい
きたい。対象とするものがなくては自身の思考もなかなか進歩していかないものであります。
堺の研究会の皆様の、懇切たる提示のおかげで、私自身の内的思考もやっと半歩進めました。
とても感謝していることを、・・・・ここにお伝えしておきます。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/6e8c835462adf4c7bf983c7ecb7b8e16
第34回「『資本論』を読む会」の報告(その1)まず第3パラグラフをもう一度、全文紹介しておきます。
(イ)では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来る
  のか?
(ロ)明らかに、この形態そのものからである。
(ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という  物  的形態を受け取り、その継
  続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、
(ニ)最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の
  社会的関係という形態を受け取るのである。〉
文節ごとの平易な解説はすでに前回の報告で済ませました。今回は、この第3パラグラフに対応する初
版本文を紹介したいと思います。というのは、その文章が次のように、大変長ものになっているから。
  〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから
  生ずるのか?
 (a)【人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる  物  的 外皮として認
  められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこ
  のこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、 <物 象> 的外皮のなかでは、同種の人間労働とし
  てのみ認められる、ということが含まれている。
  彼らは、自分たちの諸生産物を価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労
  働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が <物 象>的な形態で蔽い隠さ
  れている。
  したがって、価値の額には、価値がなんであるかは書かれていない。人々は、自分たちの諸生産物を
  商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、
  等置することを強制されている。彼らはこのことを知つてはいないが、
  彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行なうのである。
  これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、
  この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの
  諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。第一に、彼らの関係は実践的に存在している。
  だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在し
  ている。
  それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、
  この関係の性質そのものから生まれてくる。
  のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。
  なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからである。】
 (b)【ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分
  業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことに
  よって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。
  すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、
  それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちる
  ときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって
  (26)。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に臆
  されている秘密なのである。】生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、 <諸物 象>
  の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によ
  って制御されているのである。
 (c)【ところで、最後に価値形態について言えば、
  この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定
  されていることを、あらわにするのではなくて、 <物 象> 的に蔽い隠している。
  私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係
  していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。
  ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係
  させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態
  で現われるのである。】
 (b)【(26)「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれはどう考えるべきか?
  それはまさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則である。」
   (フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』)】〉
  (江夏訳61-3頁、但し、【 】やその前に記した(a)(b)(c)は引用者が付けた。)
 つまりこの長い一文が第二版では上記のように極めて簡潔にまとめられていると考えられるのです。
他方、マルクスはこの初版本文の一部分(上記の引用文中【 】で囲い、(a)(b)(c)の記号を付した部
分)を第2版のなかでは、少し文章を書き換えて、(a)の部分は第8パラグラフに、(b)の部分は第9パ
ラグラフに、(c)の部分は第10パラグラフに、それぞれを、各パラグラフの文章の一部として取り入れ
ています。
それらがどのように書き換えられて、それぞれのパラグラフの文章として生かされているのか、というこ
とについては、それぞれのパラグラフを考察するときにまた必要な限りで問題にしたいと思います。
 ここでは、この初版本文について若干の検討を加えたいと思います。
 現行版の第3パラグラフでは、第2パラグラフにおいて価値規定の内容として述べられた、
(1)価値の実体としての抽象的人間労働、(2)価値の大きさとしての労働の継続時間、
(3)労働の社会的形態のそれぞれが、
   商品形態においては、どのような物的、対象的形態を受け取るのかが説明されていました。
すなわち(1)は労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を、
    (2)は労働生産物の価値の大きさという形態を、
    (3)は労働生産物の社会的関係という形態を、です。
上記の初版本文の(a)(b)(c)の各部分も、概ねこれら(1)(2)(3)に対応していると考えられる。
  つまり初版本文の(a)(b)(c)は、
  現行版の第3パラグラフの(ハ)の内容をそれぞれに解説するものと考えられるわけです。
<<(ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という  物  的形態を受け取り>>
<<<この部分は杉本の追加部分です。>>>
 あるいはまた、この(a)(b)(c)の各部分が第二版の第8~10パラグラフに、若干文章を変えてではあ
るが、その一部として利用されているということは、この第二版の第8~10パラグラフは、
  第3パラグラフで価値規定の内容である三つの契機が
  それぞれ商品形態において、どのような物的形態を受け取るかを簡潔に説明したものを、
  さらに展開して明らかにしているところでもある、という位置づけも分かってくることになります。
そうした現行版の各パラグラフ間の関係を知る上で、この初版本文は重要ではないかと思ったわけです
(なお、この初版本文の内容の解読については、それらが利用されている現行版の当該パラグラフの解読
のなかで行う予定ですので、今回は、やらないでおきます)。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/f624673e9adffce38338e41d48c3b5b1
第34回「『資本論』を読む会」の報告(その2) ◎第4パラグラフについて
(イ)したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。
(ロ)すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象
  的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産
  者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということに
  ある。
(ハ)この“入れ替わり”によって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な物、ま
  たは社会的な物に、なる。(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)・・・・略・・・・・
(チ)ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関
  係にほかならない。
(リ)だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。
(ヌ)ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだ
  でも関係を結ぶ自立した姿態のように見える。
(ル)商品世界では人間の手の生産物がそう見える。
(ヲ)これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生
  産物に付着し、したがって、商品生産と不可分なものである。・・・・略・・・・
 ところで、学習会では、第4パラグラフの後半部分((ニ)~(ヲ))は、初版付録から採られているこ
とが指摘されました。この初版付録の一文も、現行版のこれまでの展開を理解するうえで役立つと思いま
すので、紹介しておきましょう。それは〈等価形態の諸特性〉として、現行版では第一の特性から第三の
特性まで説明されていますが、初版付録では、これにさらに〈(δ)等価形態の第四の特性。商品形態の
物神崇拝は、等価形態では、相対的価値形態においてよりも顕著である〉が加わっているのです。その前
半部分からです。
 〈諸労働生産物が、すなわち、上着やリンネルや小麦や鉄等々のような諸有用物が、価値であり一定の
価値量であり一般的に商品であるということは、われわれの交易においてのみこれらの労働生産物に当然
そなわっている属性であって、たとえば、重さがあるとか保温するとか栄養になるとかいう属性のよう
に、天然にそなわっているものではない。
ところが、われわれの交易の内部では、これらの物は商品として相互に関係しあっている。
それらは価値であり、それらは価値の大きさとして計量可能であり、それらの共通な価値属性は、それら
を互いに価値関係のなかに置いている。
 ところで、たとえば 20エレのリンネル=1着の上着、
 あるいは、20エレのリンネルは1着の上着に値する、が表現しているのは、
(1)これらの物の生産のために必要ないろいろな種類の労働が、人間労働として同等であると認められて
  いるということ、
(2)これらの物の生産に支出された労働量が、
  特定の社会的な法則にのっとって測られているということ、
(3)裁断師と織り職とが、ある特定の社会的な生産関係のなかにはいっているということ、でしかない。
この関係は、生産者たちのある特定の社会的な関係であって、この社会的な関係のなかで、彼らは、自分
たちのいろいうな有用な労働種類を人間労働として等置しているのである。この関係は、同様に、そのな
かで生産者たちが自分たちの労働の大きさを人間労働力の支出の持続時間によって測っているところの、
生産者たちの特定の社会的関係でもある。ところが、われわれの交易の内部では、生産者たちにとっては、
自分たち自身の労働のこれらの社会的な性格は、
①労働生産物そのものの、社会的な自然属性すなわち対象的な規定として、現われているし、
②人間労働の同等性は、労働生産物の価値属性として、現われているし、
③社会的に必要な労働時間による労働の尺度は、労働生産物の価値の大きさとして、現われているし、
④最後に、生産者たちの労働によって結ばれている彼らの社会的な関係は、これらの物の、すなわち労働
 生産物の、価値関係あるいは社会的な関係として、現われている。
だからこそ、彼らにとっては、労働生産物が、商品として、感覚的で超感覚的な、すなわち社会的な物と
して、現われているのである。
【たとえば、ある物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主体的な刺激として表われるのでは
なく、目の外にある物の対象的な形態として現われるようなものである。ところが、物を視るときには、
外的な対象という一方の物から、目という他方の物に、光が現実に投ぜられている。それは、物理的な物
同士のあいだの物理的な関係である。
   これに反して、労働生産物の商品形態および価値関係は、
   労働生産物の物理的な性質およびこの性質から生ずる 物的な関係 とは絶対に無関係である。
   それは、人間たち自身の特定な社会的関係でしかなく、この関係はこのばあい、
   彼らにとっては、諸物の関係という幻影的な形態を帯びている。
   だから、類似のものを見いだすためには、宗教的世界という霧のかかった領域の
   なかに逃げ場を求めざるをえない。
ここでは、人間の頭の諸生産物が、それら自身の生命を授けられてそれら自身のあいだでも人間たちとの
あいだでも関係を結ぶ独立の姿態として、現われている。商品世界では、人間の手の生産物がそうなので
ある。これを私は物神崇拝と呼ぷが、この物神崇拝は、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働
生産物に付着するし、したがって、商品生産とは不可分なのである。】
(江夏訳893-4頁、ただし【 】は引用者が付けた。)
ごらんの通り、初版付録の上記の引用文のうち【 】で括った部分が、現行版に生かされているわけです。
しかも、この初版付録の内容を検討してみると、
〈20エレのリンネルは1着の上着に値する、が表現しているのは〉
として、〈(1)……、(2)……、(3)……〉と述べていることは、表現は若干異なるものの、
丁度、現行版の第二パラグラフで述べている価値規定の内容や、それが物的形態をとる
ことによって神秘的性格を帯びると述べている第三パラグラフで述べている内容に合致しています。
だから、その次に書かれている内容、すなわち〈この関係は、生産者たちのある特定の社会的な関係であ
って、この社会的な関係のなかで、彼らは、自分たちのいろいうな有用な労働種類を人間労働として等置
しているのである。この関係は、同様に、そのなかで生産者たちが自分たちの労働の大きさを人間労働力
の支出の持続時間によって測っているところの、生産者たちの特定の社会的関係でもある〉
と述べている内容は、丁度、第四パラグラフで
〈商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、
これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係
をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある〉
に対応していることが分かるのです。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/b446b5fff3b9b0e9664f6af2e4b30ea3
第35回「『資本論』を読む会」の報告最初は第5パラグラフです。
【5】〈(イ)このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労
働の特有な社会的性格から生ずるものである。
 次は第6パラグラフです。
(イ)およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるから
  にほかならない。
(ロ)これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。
(ハ)生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだか
  ら、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。
(ニ)言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちが
  おかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。
(ホ)それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものと
  して現われるのである。
(ヘ)すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、
  むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである。

 http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/318df88c974c73d6105da3f19a9d48d2
第36回「『資本論』を読む会」の報告(その1) ◎第7パラグラフ全体の構成が問題に
 今回、学習した第7パラグラフの、まず本文を紹介し、それを文節ごとに記号を付して、平易に解読し
たあと、議論を紹介したいと思います。
(イ)労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から
  分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。
(ロ)有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あ
  てに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮さ
  れるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。
(ハ)この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。
(ニ)私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうす
  ることによって総労働の自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。
(ホ)私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれと
  も交換され得るものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、それら自
  身の生産者たちの多様な欲求を満たす。
(ヘ)たがいに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の
  支出として抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元においてしか、成りたちえない。
(ト)私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換
  において現れる諸形態でのみ反映する。--
(チ)すなわち、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないとい
  う、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、種類を異にする労働の同等性
  という社会的性格を、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で
  反映するのである。
 さて最初の議論は、この第7パラグラフ全体の構成を如何に理解するかということでした。というの
は、JJ富村さんが準備してくれたレジュメでは、全体を(1)~(4)の番号を付して分けられていたか
らです。しかし、これでは全体の構成がよく分からないのではないか、という意見が出されました。そし
て最終的には、このパラグラフ全体は大きくは三つに分けられ、主に三つのことが言われている、という
ことになりました。すなわち次のように分けることが妥当だろうということです。
 (1)まず、最初の部分は、文節の記号では、(イ)、(ロ)にあたり、ここでは労働生産物が、価値対象
性を受け取るのは、交換の内部であり、しかも、その交換のどういう発展段階においてであるかが述べら
れている、ということです。
 (2)次は、文節記号では(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)の部分で、ここではそうした発展段階に照応して、
私的諸労働が二重の社会的性格を実際に受け取ることが指摘されています。
 だからこの部分は、そうした二重の社会的性格に対応して、「一面では」、「他面   では」という形
で説明されていることも確認されました。
 またレジュメでは、(ホ)の最後にある「それら自身の生産者たちの多様な欲望を満たす」というのが、
二重の社会的性格を得ることの両方にかかっているかに説明されていましたが、これもそうではなく、社
会的性格の「他面」との関連で述べられているということになりました。
 また(ヘ)の文節が別の一つの項目として(3)の番号が付されていましたが、しかし(ヘ)は社会的性格
の「他面」の説明から言いうることとして述べられていることも確認されました。
 (3)そして最後の部分は、文節記号では(ト)、(チ)の部分ですが、ここではそうした私的諸労働の社
会的性格が、私的生産者たちの頭脳にはどのように反映するかについて述べられているということになり
ました。
 そして(1)では労働生産物の交換のどのような発展段階で、労働生産物は有用物と価値物とに分裂する
かが指摘され、(2)ではそうした現実を私的諸労働の二重の社会的性格にまで分析を深めて根拠付け、
(3)では、それらが生産者の頭脳にどのように反映するかを明らかにして、(1)でわれわれが労働生産物
において確認したことが、実際には、私的諸労働の二重の社会的性格が、生産者の頭脳に反映したもので
あることが確認されるような構造になっていることも指摘されました。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/79340684d0376aa98def42050c948841
第36回「『資本論』を読む会」の報告(その3) ◎第8パラグラフについて
 第8パラグラフについても、同じようにまず本文を紹介し、文節ごとの解読をやり、その中で議論の紹
介も行っていくことにします。
{イ)したがって、人間が彼らの労働生産物を価値としてたがいに関係させるのは、これらの物が彼らとっ
  て一様な人間労働の単なる物的外皮として通用するからではない。逆である。
(ロ)彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値としてたがいに等置しあうことによって、
  彼らのさまざまに異なる労働を人間労働としてたがいに等置するのである。彼はそれを知ってはいな
  いけれども、それを行う(27)。
<〔注27。だから、ガリアーニが、価値は二人のあいだの関係である、と言うとき、(ガリアーニ『貨幣
について』)  彼は、物的外皮のもとにおおい隠された関係、とつけ加えるべきであったろう。>
(ハ)だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。
  むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。
  後になって、人間は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、
  使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである--
  の秘密の真相を知ろうとする。
(ニ)労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的表現にす
  ぎないという後代の科学的発見は、人類の発達史において一時代を画するものではあるが、労働の社
  会的性格の対象的外観を決して払いのけはしない。
(ホ)商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労
  働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が
  労働生産物の価値性格という形態 <「価値形態」 仏語版> をとるのだということが、
  商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして
  現れるのであり、ちょうど、空気がその諸元素に科学的に分解されても、空気形態は一つの物理的物
  体形態として存続するのと同じである。
《初版本文》
   〈人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められ
   ているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこ
   のこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ
   認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物を価値として互いに関
   係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているの
   である。
   人的な関係が物的な形態で蔽い隠されている。したがって、価値の額には、価値がなんである
   かは書かれていない。
   人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな
   労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知
   つてはいないが、彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このこと
   を行なうのである。
   これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、
   この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところ
   の諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。
   第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、
   第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。
   それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕
   方は、この関係の性質そのものから生まれてくる。のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら
   自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。なぜならば、物の価値としての規定は、言語と
   同じに、彼らの産物だからである。〉(江夏訳61-2頁)

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/1bbb9f1ecaf530d3e133cc0fb63c78c4
第37回「『資本論』を読む会」の報告◎第9パラグラフを議論 本文 (岩波文庫 p135、向坂訳)
(イ)生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるもの、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産
  物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。
  このような割合は、ある程度慣習的な固定牲をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から
  生ずるかのように見える。
(ロ)したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理的化学
  的属性を異にするにもかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。
  事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。
(ハ)この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的
  運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、そ
  の運動に規制される。
(ニ)相互に独立に営まれるが、社会的分業の自然発生的な構成分子として、あらゆる面において相互に
  依存している私的諸労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、
  私的諸労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる
  労働時間が、規則的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に倒れかかるば
  あいにおける重力の法則のようなものであるからである(注28)が、このことを、経験そのものの中
  から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされ
  るのである。
(ホ)労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的
  運動の下にかくされた秘密なのである。その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な
  規定という外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/4c75079a95e531a4778264efd9e1cc36
第38回「『資本論』を読む会」の報告(その1) ◎第10パラグラフ
(イ)人間の生活の諸形態についての省察、したがってまたそれらの科学的分析は、一般に、現実の発展
  とは反対の道をたどる。この分析は“後から”始まりしたがって発展過程の完成した諸結果から始ま
  る。
( ロ)労働生産物に商品の刻印を押す、したがって商品流通に前提されている、諸形態は、人々が、これ
  らの形態の歴史的性格についてではなく--これらの形態は人々にはむしろすでに不変のものと考え
  られている--これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形
  態の固定性をおびている。
(ハ)こうして、価値の大きさの規定に導いたのは商品価格の分析にほかならなかったし、諸商品の価値性
  格の確定に導いたのは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった。
(ニ)ところが、商品世界のまさにこの完成形態--貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的性格、し
  たがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、物的におおい隠すので
  ある。
(ホ)もし私が、上着、長靴などが抽象的人間労働の一般的化身としてのリンネルに関係すると言えば、こ
  の表現がばかげていることはすぐに目につく。ところが、上着、長靴などの生産者たちが、これらの
  商品を、一般的等価としてのリンネルに--または金銀に、としても事態に変わりはない--関係さ
  せるならば、社会的総労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らにとってまさにこのばかげた形態
  で現れるのである。〉
( ニ)ところが、商品世界の完成形態と言ってもよい、この貨幣形態こそ、私的諸労働の社会的性格、し
   たがって私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、それを物的におおい隠す
   のです。
 ここで貨幣形態のことを〈商品世界のまさにこの完成形態〉と述べているのは、貨幣形態が価値形態の
発展の最後の形態であり、価値形態の発展が、商品形態の発展に照応しているというマルクスの指摘を思
い出せば、よく理解できます。
 マルクスは一般的価値形態について、
〈労働生産物を区別のない人間労働の単なる凝固体として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によっ
て、それが商品世界の社会的表現であることを示している〉と述べ、
〈こうして、一般的価値形態は、商品世界の内部では労働の一般的人間的性格が労働の特有な社会的性格
をなしているということを明らかにしている〉
述べていました。ところが一般的価値形態のさらに発展した貨幣形態では、
20エレのリンネル=2オンスの金 というように、その構造は単純な相対的価値形態に戻っています。
貨幣形態では、商品世界の社会的表現は貨幣という物的属性と分かちがたく結びついてしまっているわけ
です。だから貨幣形態は私的労働の社会的性格や私的労働者たちの社会的諸関係を、かえって物的に覆い
隠すといえるのだと思います。
 誰も自分の生産した生産物を販売して貨幣に変えることが、自分の私的労働の社会的性格を実証し、自
分自身と他の多くの生産者たちの社会的関係を作り上げているのだ、などとは思わないわけです。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/4035952d7a5421f42fb588b4f27fcbdb
第38回「『資本論』を読む会」の報告(その2) ◎第8~第10パラグラフの位置づけ
 それでは第8~第10パラグラフのどの部分が初版本文から転用したものでしょうか。
それぞれについて現行版と初版本文を並べて紹介してみましょう。
●第8パラグラフではその前半部分がほぼ初版本文からの転用になっています。
・現行版
 〈したがって、人間が彼らの労働生産物を価値としてたがいに関係させるのは、これらの物が彼らに
とって一様な人間労働の単なる <物 象> 的外皮として通用するからではない。
逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値としてたがいに等置しあうことによ
って、彼らのさまざまに異なる労働を人間労働としてたがいに等置するのである。彼はそれを知ってはい
ないけれども、それを行う(27)。
だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。
むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。後になって、人間は、
この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、使用対象の価値としての規定は、
言語と同じように、人間の社会的産物だからである--の秘密の真相を知ろうとする。〉
・初版本文
 〈人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物 <象> 的外皮として認めら
れているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのことと
は逆に、彼らのいろいろな労働が、<物 象> 的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められ
る、ということが含まれている。
彼らは、自分たちの諸生産物を価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を
人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が <物 象> 的な形態で蔽い隠されてい
る。したがって、価値の額には、価値がなんであるかは書かれていない。
人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽
象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知つてはいないが、彼ら
は、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行なうのである。
これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼
らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの諸関係とから、必然的に
はえ出てくるものである。
第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、
第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。
それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、
この関係の性質そのものから生まれてくる。
のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。
なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからである。〉
●第9パラグラフは、後半部分です。
・現行版
 〈価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。
交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸 <物象> の運動という形態をとり、彼らは、
この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。たがいに独立〔unabhaengig〕に営ま
れながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕
私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに
動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が--たとえば、だれか
の頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように--規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する
からである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商
品生産が必要である。〉
・初版本文
 〈ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の
諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、そ
れらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。
すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物
の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則の
ように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって(26)。
だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に臆されている秘
密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸 <物象> の運動という形態を
とっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているので
ある。〉
●第10パラグラフは、最後の部分が初版本文からの転用になっています。
・現行版 〈ところが、商品世界のまさにこの完成形態--貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的性
格、したがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、 <物象> 的にお
おい隠すのである。
もし私が、上着、長靴などが抽象的人間労働の一般的化身としてのリンネルに関係すると言えば、この表
現がばかげていることはすぐに目につく。ところが、上着、長靴などの生産者たちが、これらの商品を、
一般的等価としてのリンネルに--または金銀に、としても事態に変わりはない--関係させるならば、
社会的総労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らにとってまさにこのばかげた形態で現れるのであ
る。〉
・初版本文
 〈ところで、最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関
係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、 <物象>
的に蔽い隠している。
私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係して
いると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これら
の商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社
会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。〉
このように現行版と初版本文とを比べると、微妙に文章に手を入れて、マルクスは第2版に転用してい
ることが分かります。もう一度、初版本文の展開から類推できる第8~第10パラグラフの位置づけにつ
いて確認しておきましょう。
 マルクスは、第2パラグラフで商品の神秘的性格は価値規定の内容から生じるものではないことを指摘
し、価値規定の内容として三つの契機のそれぞれについてそれらには神秘性がないことを確認していま
す。そして第3パラグラフの冒頭、〈では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎
のような性格は、どこから来るのか?〉と問い、それは〈この形態そのものから〉だとして、価値規定の
内容の三つの契機が、それらが商品形態において、それぞれどのような神秘性を帯びるのかを明らかにし
ます。
 初版本文では、そうした現行版の簡潔な説明の代わりに、そうした価値規定の内容である三つの契機
が、商品形態でどのような神秘的性格を受け取るのかを、それぞれについて詳しく展開しているのが、現
行版の第8~第10パラグラフに転用されたものなのです。
 だから現行版の第8~第10パラグラフについて、おおよそいえることは、価値規定の内容の三つの契
機が、商品形態で受け取るそれぞれの神秘的性格について、さらに展開したものと言うことができるで
しょう。ただマルクスはそれらを現行版では、商品生産者たちの意識には、どのような形で捉えられるか
という観点を加えて論じているように思えます(なお初版本文が現行版では、その展開がどのように変え
られたのか、そしてそれはどんな意味かあるのか、ということについては、もっとあとで--この節の終
わりぐらいで--考えてみることにしましょう)。
◎第11パラグラフについて
(イ)この種の諸形態こそが、まさにブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしている。
(ロ)それらは、商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産諸関係についての、社会
  的に認められた、つまり客観的な思考諸形態なのである。
(ハ)したがって、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさい
  の魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げこむやいなやただちに消えうせる。
 

a)物象の社会関係 b)物象の人格化ーー人格の物象化 について

 投稿者:杉本  投稿日:2016年 8月17日(水)10時05分7秒
返信・引用 編集済
  <私は、榎原さんの提起する価値形態論について学んできたが、
 色々疑問点も有り、独学の困難のなかで、積読してきた。
 私の独自の意見を提起するまでには至っていない。
 どんな学習であったのか?自己点検のためと思い、提示してみた。>
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=214
2012年中日社会主義フォーラム報告
 ソ連崩壊の原理的根拠の解明と『資本論』初版本文価値形態論の意義
第1章 商品からの貨幣生成の原理
第2章 人格を物象化させるシステムとしての商品
1.物象化(Versachlichung)と物化(Verdinglichung)
2.初版本文価値形態論の解読
1) 価値形態は単なる等式ではなく、社会的象形文字
2) 思考における抽象と、価値関係における抽象との違い
3) 価値形態の秘密と謎
4) 物象の人格化のメカニズム
価値形態論の解明の視角が初版本文と現行版とでは相違があり、初版本文では商品の社会的形態がいかに
して成立するかという視角であったが、現行版では労働の社会的形態という視角になっている。この視角
の相違に加えて、初版本文の価値形態論では、貨幣形態は説かれてはいないのに、現行版では物神性論の
前にすでに貨幣形態を説いてしまっていること、ここから物神性論においても初版本文と現行版との相違
が出てくることは予想できる。しかし、この検討はあまりにも細かい論点になるので今回は取り上げな
い。とりあえずは初版の物神性論の解読から始めて行きこう。訳文は江夏訳を採用するが、物象と物の訳
しわけをしてはいないので、原文に当たって修正してある。
   「それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格は
   どこから生ずるのか?
   人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物象が同種の人間労働の単なる物象的外皮として認
   められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、
   同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物象的外皮のなかでは、同種の人間
   労働としてのみ認められる、ということが含まれている。
   彼らは、自分たちの諸生産物を価値として互いに関係させることによって、自分たちのい
   ろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。
   人的な関係が物象的な形態で覆い隠されている。
   したがって、価値の額には、価値が何であるかは書かれていない。
   人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろい
   ろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこの
   ことを知ってはいないが、彼らは、物質的なものを抽象物である価値に還元することによ
   って、このことを行うのである。
   これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、
   この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らがおかれていると
   ころの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。」
   (江夏美千穂訳『初版資本論』幻燈社、61~2頁、原典、38頁)
価値形態論では商品が主役で、商品が物象として存在している様式の解明がなされていた。価値形態論の
一番難解な箇所を解読し終えたいま、この物神性論の叙述は、意外とすらすらと理解可能ではないだろう
か。物神性論では、商品という物象と商品所有者という人格との関係をテーマとしていることが判明し、
物象の人格化と人格の物象化の仕組みと、その仕組みが人格の意識に生みだす意識内容とが問題にされて
いるのだ。
 物象の人格化と人格の物象化は、二つの区別された過程ではなくて、人々が諸生産物を商品として扱う
という、一つの行為から生まれる。生産物を商品とするということは一つの行為であり、人々の意識的活
動に他ならないのであるが、しかしその意識は、自らの行為が物質的なものを抽象的なものである価値に
還元しているというこの行為のもつ意味については理解がないのだ。つまり物質的なものを抽象的なもの
に還元するという事態は、商品の価値形態で商品自体の社会的行為でなされていて、商品に物象化された
所有者たちの意識の外にあり、所有者たちは商品という意識を持たない存在に物象化されているのであ
る。だから、所有者たちにとっては、生産物を商品にするという行為は、無意識のうちでの本能的行為と
なる。
<杉本註・・①「生産物を商品とするということは一つの行為」
      ②「しかしその意識は、自らの行為が物質的なものを
       抽象的なものである価値に還元しているというこの行為のもつ意味
       については理解がない」
      ③「だから、所有者たちにとっては、生産物を商品にするという行為は、
       無意識のうちでの本能的行為となる。」
   このような問題意識に基づいて、榎原さんは、『初版』の物神性論への解読に
  取り組んだのだが、
  そのことで、a)物象の社会関係 b)物象の人格化ーー人格の物象化 につい
  て描き出せたのだろうか?
  そのことを検証するために、まず、初版と四版との記述の対比をしてみた。>
『初版資本論』                 (四版三段落)
①それでは、労働生産物が商品という形態をと  (イ)では、労働生産物が商品形態をとるやい
るやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこ  なや生じる労働生産物の謎のような性格は、ど
から生ずるのか?               こから来るのか?
②人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物象が  (イ)明らかに、この形態そのものからである。
同種の人間労働の単なる物象的外皮として認め  (ロ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な
られているかぎりにおいて、価値として互いに  価値対象性という物的形態を受け取り、その継
関係させるならば、このことのうちには、同時  続時間による人間労働力の支出の測定は、労働
にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、 生産物の価値の大きさという形態を受け取り、
物象的外皮のなかでは、同種の人間労働として  (ハ)最後に、生産者たちの労働のあの社会的
のみ認められる、ということが含まれている。  諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労
彼らは、自分たちの諸生産物を価値として互い  働生産物の社会的関係という形態を受け取るの
に関係させることによって、自分たちのいろい  である。
ろな労働を人間労働として互いに関係させてい
るのである。人的な関係が物象的な形態で覆い
隠されている。                 (四版四段落)
したがって、価値の額には、価値が何であるか  (イ)したがって、商品形態の神秘性は、単に次
は書かれていない。人々は、自分たちの諸生産  のことにある。すなわち、商品形態は、人間に
物を商品として互いに関係させるためには、自   対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生
分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的  物の社会的自然属性として反映させ、したがっ
な、労働に、等置することを強制されている。  てまた、総労働に対する生産者たちの社会的関
彼らはこのことを知ってはいないが、彼らは、  係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的
物質的なものを抽象物である価値に還元するこ  関係として反映させるということにある。
とによって、このことを行うのである。     (ハ)この“入れ替わり”によって、労働生産物は
これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、した  商品に、すなわち感性的でありながら超感性的
がって無意識的で本能的な作用であって、この  な物、または社会的な物に、なる。
作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、こ  (ニ)たとえば、物が視神経に与える光の印象は
の生産によって彼らがおかれているところの諸  視神経そのものの主観的刺激としては現れない
関係とから、必然的にはえ出てくるものであ   で、目の外部にある物の対象的形態として現れ
る。」                    る。しかし、視覚の場合には、外的対象である
(江夏美千穂訳『初版資本論』幻燈社、     一つの物から、目というもう一つの物に、現実
61~2頁、原典、38頁)以上まで榎原さん引用  に光が投げられる。それは、物理的な物と物と
                       のあいだの一つの物理的な関係である。
                       (ホ)これに反して、商品形態やこの形態が現れ
(榎原さんが、引用しなかった続きの部分)   るところの労働諸生産物の価値関係は、労働生
①第一に、彼らの関係は実践的に存在している。 産物の物理的性質やそこから生じる物的諸関係
だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえ  とは絶対に何の関係もないのである。
に、彼らの関係は、彼らにとっての関係として   (この事項のみ、国民文庫訳P135)
存在している。それが彼らにとって存在してい  (ヘ)ここで人間にとって物と物との関係という
る仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに  幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の
反射している仕方は、この関係の性質そのもの  社会的関係にほかならない。
から生まれてくる。のちになって彼らは、科学  (ト)だから、類例を見いだすためには、われわ
に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見  れは宗教的世界の夢幻鏡に逃げ込まなければな
抜こうとする。なぜならば、物の価値としての  らない。ここでは、人間の頭脳の産物が、それ
規定は、言語と同じに、彼らの産物だからであ  自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人
る。〉(江夏訳62頁)              間とのあいだでも関係を結ぶ自立した姿態のよ
                       うに見える。
②ところで、さらに、価値量にかんして言えば、 (チ)商品世界では人間の手の生産物がそう見え
互いに独立して営まれていても、自然発生的な  る。これを、私は物神崇拝と名づけるが、それ
分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依  は、労働生産物が商品として生産されるやいな
存しあっているところの、私的諸労働は、次の  や労働生産物に付着し、したがって、商品生産
ことによって、それらの社会的に釣り合いのと  と不可分なものである。
れた大きさに、絶えず還元されている。すなわ  六段落
ち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして  (イ)およそ使用対象が商品になるのは、それら
絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生  が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物で
産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、 あるからにほかならない。
たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの  (ロ)これらの私的諸労働の複合体は社会的総労
重力の法則のように、規制的な自然法則として  働をなしている。
暴力的に自己を貫徹する、ということによって  (ハ)生産者たちは自分たちの労働生産物の交換
(26)。                    をつうじてはじめて社会的に接触するようにな
 だから、労働時間による価値量の規定は、相  るのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的
対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に隠  性格もまたこの交換においてはじめて現われる
されている秘密なのである。生産者たち自身の  のである。
社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動  (ニ)言いかえれば、私的諸労働は、交換によっ
という形態をとっているのであって、彼らは、  て労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産
この運動を制御するのではなく、この運動によ  者たちがおかれるところの諸関係によって、は
って制御されているのである。         じめて実際に社会的総労働の諸環として実証さ
                       れるのである。
                       (ホ)それだから、生産者たちにとっては、彼ら
                       の私的諸労働の社会的関係は、そのあるがまま
                       のものとして現われるのである。すなわち、諸
                       個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直
                       接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸
                       個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関
                       係として、現われるのである。
                       七段落
                       (イ)労働生産物は、それらの交換の内部で、は
                       じめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対
                       象性から分離された、社会的に同等な、価値対
                       象性を受け取る。
                       (ロ)有用物と価値物とへの労働生産物のこの分
                       裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交
                       換を目あてに生産されるまでに、したがって、
                       諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのもの
                       において考慮されるまでに、交換が十分な広が
                       りと重要性とを獲得した時である。
                       (ハ)この瞬間から、生産者たちの私的諸労働
                       は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。
                       (ニ)私的諸労働は、一面では、一定の有用労働
                       として一定の社会的欲求を満たさなければなら
                       ず、そうすることによって、総労働の、自然発
                       生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証さ
                       れなければならない。
                       (ホ)私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私
                       的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働
                       のどれとも交換され得るものであり、したがっ
                       て、これらと等しいものとして通用する限りで
                       のみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求を
                       満たす。
                       (ヘ)たがいに“まったく”異なる諸労働の同等性
                       は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間
                       労働力の支出として、抽象的人間労働として、
                       もっている共通な性格への還元においてしか、
                       成りたちえない。
                       (ト)私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労
                       働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生
                       産物交換において現れる諸形態でのみ反映する。
                       (チ)--すなわち、彼らの私的諸労働の社会的
                       に有用な性格を、労働生産物が有用でなければ
                       ならないという、しかも他人にとって有用でな
                       ければならないという形態で反映し、種類を異
                       にする労働の同等性という社会的性格を、労働
                       生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共
                       通な価値性格という形態で反映するのである。
                       八段落
                       (イ)したがって、人間が彼らの労働生産物を価
                       値としてたがいに関係させるのは、これらの物
                       が彼らにとって一様な人間労働の単なる物的外
                       皮として通用するからではない。
                       (ロ)逆である。彼らは、彼らの種類を異にする
                       生産物を交換において価値としてたがいに等置
                       しあうことによって、彼らのさまざまに異なる
                       労働を人間労働としてたがいに等置するのであ
                       る。
                       (ハ)彼はそれを知ってはいないけれども、それ
                       を行う(27)。
                       (ニ)だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何で
                       あるかが書かれているわけではない。むしろ、
                       価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形
                       文字に転化するのである。
                       (ホ)後になって、人間は、この象形文字の意味
                       を解読して彼ら自身の社会的産物--というの
                       は、使用対象の価値としての規定は、言語と同
                       じように、人間の社会的産物だからである--
                       の秘密の真相を知ろうとする。
                       (ヘ)労働生産物は、それが価値である限りで
                       は、その生産に支出された人間労働の単なる物
                       的表現にすぎないという後代の科学的発見は、
                       人類の発達史において一時代を画するものでは
                       あるが、労働の社会的性格の対象的外観を決し
                       て払いのけはしない。
                       (ト)商品生産というこの特殊な生産形態だけに
                       当てはまること、すなわち、たがいに独立した
                       私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労
「労働生産物の価値性格という形態」      働の人間労働としての同等性にあり、かつ、こ
正しくは 「価値形態」(フランス語版)    の社会的性格が労働生産物の価値性格という形
(内実論五段落の反省規定~八・九段落での   態をとるのだということが、商品生産の諸関係
同じく王と臣民での反省規定での価値形態)   にとらわれている人々にとっては、あの発見の
                       前にも後にも、究極的なものとして現れるので
                       あり、ちょうど、空気がその諸元素に科学的に
                       分解されても、空気形態は一つの物理的物体形
                       態として存続するのと同じである。
                       注28 「周期的な革命によってのみ貫徹されう
                       る法則をなんと考えるべきであろうか? それ
                       はまさしく一つの自然法則であって、関与者た
                       ちの無意識にもとづいているものなので
                       ある。」(フリードリヒ・エンゲルス
                       『国民経済学批判大綱』、
                       新潮社版『選集』第1巻、161ページ〕)。
                       九段落  本文 (岩波文庫 p135、向坂訳)
                       (イ)生産物交換者がまず初めに実際上関心をよ
                       せるもの、自分の生産物にたいしてどれだけ他
                       人の生産物を得るか、したがって、生産物はい
                       かなる割合で交換されるかという問題である。
                       このような割合は、ある程度慣習的な固定牲を
                       もつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性
                       質から生ずるかのように見える。
                       (ロ)したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの
                       金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物
                       理的化学的属性を異にするにもかかわらず同じ
                       重さであるように、同じ価値であることになる
                       (ハ)事実、労働生産物の価値性格は、価値の大
                       いさとしてのその働きによってはじめて固定す
                       る。この価値の大いさは、つねに交換者の意志
                       予見、行為から独立して変化する。
                       (ニ)彼ら自身の社会的運動は、彼らにとって
                       は、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動
                       を規制するのではなくして、その運動に規制さ
                       れる。相互に独立に営まれるが、社会的分業の
                       自然発生的な構成分子として、あらゆる面にお
                       いて相互に依存している私的諸労働が、継続的
                       にその社会的に一定の割合をなしている量に整
                       約されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的
                       で、つねに動揺せる交換諸関係において、その
                       生産に社会的に必要なる労働時間が、規則的な
                       自然法則として強力的に貫かれること、あたか
                       も家が人の頭上に倒れかかるばあいにおける重
                       力の法則のようなものであるからである
                       (注28)が、このことを、経験そのものの中から
                       科学的洞察が成長してきて看破するに至るには
                       その前に完全に発達した商品生産が必要とされ
                       るのである。
                        (ト)労働時間によって価値の大いさが規定さ
                       れるということは、したがって、相対的商品価
                       値の現象的運動の下にかくされた秘密なのであ
                       る。 その発見は、労働生産物の価値の大いさ
                       が、単なる偶然的な規定という外観をのぞく
                       が、しかし、少しもその事物的な形態をなくす
                       るものではない。
                       注28 「周期的な革命によってのみ貫徹されう
                       る法則をなんと考えるべきであろうか? それ
                       はまさしく一つの自然法則であって、関与者た
                       ちの無意識にもとづいているものなので
                       ある。」(フリードリヒ・エンゲルス
                       『国民経済学批判大綱』、
                       新潮社版『選集』第1巻、161ページ〕)。
                       現行版(10段落)
                       (イ)人間の生活の諸形態についての省察、した
                       がってまたそれらの科学的分析は、一般に、現
                       実の発展とは反対の道をたどる。この分析
                       は“後から”始まり、したがって発展過程の完成
                       した諸結果から始まる。
                       (ロ)労働生産物に商品の刻印を押す、したがっ
                       て商品流通に前提されている、諸形態は、人々
                       が、これらの形態の歴史的性格についてではな
                       く--これらの形態は人々にはむしろすでに不
                       変のものと考えられている--これらの形態の
                       内実について解明しようとする以前に、すでに
                       社会的生活の自然諸形態の固定性をおびて
                       いる。
                       (ハ)こうして、価値の大きさの規定に導いたの
                       は商品価格の分析にほかならなかったし、諸商
                       品の価値性格の確定に導いたのは諸商品の共通
                       な貨幣表現にほかならなかった。
                       (ニ)ところが、商品世界のまさにこの完成形態
                       --貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的
                       性格、したがってまた私的労働者たちの社会的
                       諸関係を、あらわに示さず、かえって、物的に
                       おおい隠すのである。
 ところで最後に価値形態について言えば、こ  (ホ)もし私が、上着・長靴などが抽象的人間労
の形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的  働の一般的化身としてのリンネルに関係すると
な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に  言えば、この表現がばかげていることはすぐに
規定されていることを、あらわにするのではな  目につく。ところが、上着、長靴などの生産者
くて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長  たちが、これらの商品を、一般的等価としての
靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般  リンネルに--または金銀に、としても事態に
的な具象物としてのリンネルに、関係している  変わりはない--関係させるならば、社会的総
と言えば、この表現の奇矯なことは明白である。 労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らに
ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、こ  とってまさにこのばかげた形態で現れるのであ
れらの商品を一般的な等価物としてのリンネル  る。
に関係させると、彼らにとっては、自分たちの
私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのよう
な奇矯な形態で現われるのである。
(26)「周期的な革命によってのみ自己を貫徹
しうる法則を、われわれはどう考えるべきか?
それはまさに、関与者たちの無意識にもとづい
ている自然法則である。」
(フリードリヒ・エンゲルス
『国民経済学批判大綱』、103ページ。)
(江夏訳61-3頁)
未引用 四段落
 このような諸形態こそは、まさにブルジョア
経済学の諸範疇をなしているのである。それら
の形態こそは、この歴史的に規定されている社
会的生産様式の諸生産関係についての社会的に
認められている、つまり、客観的な、諸思想形
態なのである。(原典、39頁)
(榎原さんの文の続き)
 価値形態論では商品が主役で、商品が物象として存在している様式の解明がなされていた。
価値形態論の一番難解な箇所を解読し終えたいま、この物神性論の叙述は、意外とすらすらと理解可能で
はないだろうか。物神性論では、商品という物象と商品所有者という人格との関係をテーマとしているこ
とが判明し、物象の人格化と人格の物象化の仕組みと、その仕組みが人格の意識に生みだす意識内容とが
問題にされているのだ。
 物象の人格化と人格の物象化は、二つの区別された過程ではなくて、人々が諸生産物を商品として扱う
という、一つの行為から生まれる。生産物を商品とするということは一つの行為であり、人々の意識的活
動に他ならないのであるが、しかしその意識は、自らの行為が物質的なものを抽象的なものである価値に
還元しているというこの行為のもつ意味については理解がないのだ。つまり物質的なものを抽象的なもの
に還元するという事態は、商品の価値形態で商品自体の社会的行為でなされていて、商品に物象化された
所有者たちの意識の外にあり、所有者たちは商品という意識を持たない存在に物象化されているのであ
る。だから、所有者たちにとっては、生産物を商品にするという行為は、無意識のうちでの本能的行為と
なる。
  (榎原さんが、引用しなかった部分)
  ①第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえ
   に、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。それが彼らにとって存在してい
   る仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、この関係の性質そのもの
   から生まれてくる。のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見
   抜こうとする。なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからであ
   る。〉(江夏訳62頁)
  ②ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な
   分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次の
   ことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわ
   ち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生
   産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるとき
   の重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによっ
   て(26)。
    だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に隠
   されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動
   という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によ
   って制御されているのである。
  ③ところで最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的
   な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではな
   くて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般
   的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。
   ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネル
   に関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのよう
   な奇矯な形態で現われるのである。
   (26)「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれはどう考えるべきか?
   それはまさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則である。」
   (フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、103ページ。所収、
   『独仏年誌、アルノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、一八四九年』
   (江夏訳61-3頁)
(榎原さんの文の続き)
   「生産者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物象の運動という形態をとっている
   のであった、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているの
   である。ところで最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たち
   の社会的な諸関係を、したがって私的諸労動が社会的に規定されていることを、あらわにす
   るのではなくて、物象的に覆い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的
   な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇異
   なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な
   等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的
   な関係が、まさにこのような奇異な形態で現れるのである。」
   (同書、62~3頁、原典、39頁)
      物象の人格化と人格の物象化という事態が生みだされる仕組みとは、
      私的労働生産物を社会的なものにしていくときに、生産物を商品と
      するという無意識のうちでの本能的行為によって、
      物象相互の社会的関係に人格の意思を委ねることで、
      私的労働を社会的なものへと転化する仕組みである。
      つまり、リンネルという具体的労働の産物を単なる抽象的労働の実現形態
      とすることで個々の具体的労働の産物を社会に通用できるものにする、
      という物象のメカニズムを作動させることなのだ。
      だからこの事態は生産者たち自身の社会的運動が、諸物象の運動という形態
      を取り、したがって彼らはこの運動を制御はできず、逆に物象の運動によって
      制御されることを意味するのだ。

   「私的生産者たちは、自分たちの私的生産物である諸物象に媒介されて、初めて社会的な接
   触にはいる。
   だから、彼らの労働の社会的な諸関係は、彼らの労働における人々の直接的に社会的な諸関
   係として、存在し現れているのではなくて、人々の物象的な諸関係または諸物象の社会的な
   関係として、存在し現れている。
   ところで、物象を社会的な物として、最初にかつ最も一般的に表わすことは、労働生産物が
   商品に転化することなのである。
   つまり、商品の神秘性は次のことから生じている。
   すなわち、
   ①私的生産者たちにとっては、自分たちの私的労働の社会的な諸規定が、
   労働生産物の社会的な自然規定性として現れているということ、
   ②人々の社会的な生産諸関係が、諸物象の対相互的および対人的な社会的諸関係として現れ
   ているということ。
   社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがっ
   て、彼らにとっては諸対象という形態で存在している。
   商品生産者たちの一般的な社会的生産関係は、自分たちの生産物を商品として、したがって
   価値として取り扱い、この物象的な形態において、自分たちの私的所労働を同等な人間労働
   として互いに関係させる、という点にあるのであるが、このような商品生産者たちの社会に
   とっては、抽象的な人間にたいする礼拝を伴うキリスト教が、ことにそれのブルジョア的な
   発展であるプロテスタントや理神論等々におけるキリスト教が、もっともふさわしい宗教形
   態である。」(同書、63~4頁、原典、39~40頁)
      マルクスはここで、物象を社会的なものとして、最初にかつ最も一般的に表わ
      すことは、労働生産物が商品に転化することであると述べている。
      つまり私たちが、商品の価値形態を商品という物象の生成と捉え、
      物象の人格化の仕組みを物神性論に読み取るという試みは正鵠を得ているのだ。
      そしてこれらの観点は現行版による限りは明らかになりにくいのであり、初版
      本文価値形態論にまでさかのぼる必要があったのだ。
      そして商品は物象でありながらもそれ自体は意思をもたないモノであるから、
      商品所有者の意識との関連で、物象の人格化のメカニズムを説く必要があり、
      商品所有者の無意識のうちでの本能的行為として生産物を商品とする行為があ
      る、ということが解明されたのである。
 初版本文では、価値形態論で貨幣は説いておらず、交換過程論のところで、商品の本性に意志を宿すこ
とで実現する、無意識のうちでの本能的共同行為が貨幣生成のメカニズムであること、私たちはこの確認
から今回の報告を説き起こした。そして、交換過程の前に、すでに生産物を商品にするという行為もまた
無意識的な本能的行為であることを確認したのだ。このような理解のうえで、商品の神秘性、謎的性格、
あるいは物神性、などといわれている問題、つまり物象の成立を解き明かす価値形態の秘密ではなくて、
物化に関連する謎の方の解明に移ろう。

5) 物象化(秘密)と物化(謎・神秘性)
 初版の物神性論では、商品の神秘性についてはそれがどこから生じるかについて述べられてはいるが、
現行版のほうが分かりやすくまとめている。現行版によって商品の神秘性について見ておく。
 「それでは、労働生産物が商品形態をとるや否や生ずる労働生産物の謎的性格は、どこから生ずるか?
あきらかに、この形態そのものからである。人間の諸労働の同等性は、労働諸生産物の同等な価値対象性
という物象的形態を受けとり、人間的労働力の支出の、その時間的継続による度量は、労働諸生産物の価
値の大いさという形態を受けとり、最後に、生産者たちの諸労働のかの社会的諸規定がそこで実証される
彼らの諸関係は、労働諸生産物の社会的関係という形態を受けとる。
だから、商品形態の神秘性なるものは、単につぎの点にある、――というのは、商品形態は、人間じしん
の労働の社会的性格を、労働諸生産物そのものの対象的性格として・これらの物の社会的な自然属性とし
て・人間の眼に反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に
実存する諸対象の社会的な一関係として人間の眼に反映させるということ、これである。
この交替によって、労働諸生産物は商品――感性的で超感性的または社会的な物――となる。
たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れないで、眼の外部
にある物の対象的形態として現れる。だが、視覚のばあいには、外的対象たる一つの物から眼という他の
物に、現実に光が投ぜられる。それは、物理的な物と物とのあいだの物理的な一関係である。
これに反して商品形態は、また、それが自らをそこで表示する労働諸生産物の価値関係は、労働諸生産物
の物理的本性、および、それから生ずる物的諸関係とは、絶対になんの係りもない。それは、人々そのも
のの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係という
幻影的形態をとるのである。」(長谷部訳『資本論』Ⅰ、66~7頁、原典、77~8頁)

 現行版では、簡単な価値形態の分析で、等価形態を取り上げたところですでに、
「上衣もまた、それの等価形態を、直接的な交換可能性というそれの属性を、重さがあるとか保温すると
かいうそれの属性と同じように、生まれながらにもつかに見える。ここから等価形態の謎性が生ずる」
(長谷部訳、54頁)と述べられていた。
つまり、価値関係の内部でのみ、上着に直接交換可能性という等価物としての社会的属性が与えられるの
に、そのようには見えず、直接交換可能性という社会的力が、上着そのものの自然属性に見える、という
ことだった。商品の謎的性格とはこの等価形態の謎性から発生している。
人々が無意識のうちでの本能的行為として自らの生産物を商品として市場に出すときに、これが、自然物
である労働生産物を、商品という物象に転化させ、そうすることで自らの私的所有物を社会に通用させて
交換できる仕組みを作ることに加担しているのであり、これはまさしく人々そのものの一定の社会関係
(物象を媒介とした生産関係)なのであるが、それが、当事者たちにとっては、物と物との関係として認
識されているのだ。この事態が物化であり、商品の神秘性や、謎的性格や、物神性といった事柄は、みな
同じことを指しているのであるが、物象の人格化が人々にもたらす意識において、物象が単なる物として
認識される事態を指し、したがってマルクスは物化という用語でこの事態を示しているのである。

 以上の解読を踏まえて、マルクスの物象化論と物化論について簡単にまとめておこう。
初版本文価値形態論は商品が物象として成立している仕組みの解明だった。
そして初版物神性論は、この物象として成立している商品を現実に商品として扱う所有者の意識を解明
し、それが、商品を物象として扱うというこの行為についての意味を理解した意識ではなくて、この行為
の意味は意識されてはいず、社会的力をもった商品の物象としての力が、物それ自体の属性と意識され
て、単なる物を扱っているように考えられているということの暴露だった。
無意識のうちでの本能的行為とは、人という生物種に属する本能から生じる行為という意味ではなくて、
物を商品とする行為において、物それ自体の属性に順応しているという意識が生じているという事態のこ
とだ。そしてこの物象化の問題は、第1章で解読した交換過程論での、商品の本性に意志を宿すことで貨
幣を生成するという問題提起に繋がって行く。
 このように読むことで、マルクスは、商品からの貨幣の生成が、単に歴史的な一回行為としてではな
く、毎日商品市場に商品が投入される都度貨幣が生成される行為が繰り返され、貨幣はそういうものとし
て日比刻々再生産されているものであり、だからこれの廃絶も可能である、というメッセージを発してい
ることが分かる。
 そして物象化を単に物化としてしか把握せず、これを人間の認識の問題に還元してしまうような
『資本論』の理解が、商品の価値形態の解明へと進めないのも当然のことだ。商品の価値形態を物象の生
成のメカニズムと捉えることで、物を物象として生成させることに日々加担している私たちが、どのよう
にして脱物象化を成し遂げていけるのかという課題も見えてくるのである。

<以上が紹介であります。初版と四版の物神性論の対比した解説が必要ですが、
そんなことを、準備しなければいけないなー・・と苦悩していたら、堺の資本論を読む会の方々が、既に
、やっていたので、次回に、それを紹介して、この問題点をどう克服してゆくのか?考えていきたい。
勿論ーー物象の社会関係が、物的関係ーーとして現象している、次の事態への批判であります。
    初版                      四版
 ところで最後に価値形態について言えば、こ  (ホ)もし私が、上着・長靴などが抽象的人間労
の形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的  働の一般的化身としてのリンネルに関係すると
な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に  言えば、この表現がばかげていることはすぐに
規定されていることを、あらわにするのではな  目につく。ところが、上着、長靴などの生産者
くて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長  たちが、これらの商品を、一般的等価としての
靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般  リンネルに--または金銀に、としても事態に
的な具象物としてのリンネルに、関係している  変わりはない--関係させるならば、社会的総
と言えば、この表現の奇矯なことは明白である。 労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らに
ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、こ  とってまさにこのばかげた形態で現れるのであ
れらの商品を一般的な等価物としてのリンネル  る。
に関係させると、彼らにとっては、自分たちの
私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのよう
な奇矯な形態で現われるのである。       
 

久留間さんの『貨幣論』での廻り道への理解を批判する

 投稿者:杉本  投稿日:2016年 8月11日(木)09時19分12秒
返信・引用 編集済
    上着が等価物の役割を果たしているのはどのようにしてなのでしょう
   それはリンネルによって価値関係に引き入れられ、抽象的人間的労働の体化物
   として形態規定されるからではないですか。
    (投稿者:hirohiro  投稿日:2016年 8月 9日)

次への疑問をこそーー彼は上げていました。

hirohiro  さんお返事をありがとう。
>反省する主体は一方の商品、相対的価値形態にある商品のみなのです。

私は、こうのべていたーー十段落の説明としてーー
上着の等価形態としての規定の独自性が、
①自然的属性として受け取ること。
②リンネルからの一方的な規定であるーー上着の、価値表現の材料としての
ーー受け身の規定ーーとして現れていることをこそ批判しているのです。

hirohiro  さんはしかし、引用されているーー
「つまり、リンネルの相対的な価値表現においては、上着が等価物の役割を演じている」(初版本文)
ーーを見ること無く、
>反省する主体は一方の商品、相対的価値形態にある商品のみなのです。
ーーと述べているのです。

「上着が等価物の役割を演じている」ーーことで、相対的価値表現できること、とは?
等価物・上着が価値形態となることで、リンネル価値の表現ができることなのですよ。
ここには二つの役立ちが有りませんか?初版には直接的にこのことが述べられていませんが、四版の九
段落には、述べられていたことです。



以上までが、既に成された議論でした。では、その次です。
 久留間さんの廻り道 への理解は、四版の廻り道を<初版の廻り道>へとすり替えたものなのです。
そこを見出せなければ議論は噛み合いませんね。

 そうでしたね・・・久留間さんの『貨幣論』での、前著『価値形態論と交換過程論』での「廻り道」
への疑問点への回答事項を再見してみると、
私の示した「廻り道」への解釈が、これまで、どうであったのか???ーーの検討が無かったですね。
久留間さんの廻り道への理解を批判してみます。

まずは紹介。

資本論 五段落
    「たとえば上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている
   労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁
   縫労働は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等
   置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しい物に、人間的労働という両方に共
   通な性格に還元するのである。
   このような回り道をして、それから、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁
   縫から区別する特徴をもっていないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、
   言われているのである。ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格をあ
   らわにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異
   種の諸労働を、じっさいに、それらに共通なものに、人間的労働一般に、還元するのだから
   である。(『貨幣論』P100~101からの孫引き 資本論 国民文庫P98~99)
大谷
   ・・・この「それからは」前文の「織布労働との等置は、裁縫を、事実上両方の労働のうち
   の現実に等しい物に、人間労働という両方に共通な性格に、還元するのである」、を受けて
   「それから」と読むべきであるように思われる。ですから、訳としては、武田氏のように、
   「そのさい、こうした回り道をして」とするのが自然のように感じるのです。

久留間
   ーーーー略ーーーーぼくが dann を「それから」と読み、そのうえにさらに
   「この『それから』と書き加えたのは、等価形態に置かれた商品上着は、たんなる使用価値
   たとえば保温に役立つものとしてではなく、それが等価形態に置かれることによって新たな
   価値体という形態規定を与えられ、この形態規定においてはじめて相対的価値形態にある商
   品リンネルの価値の形態になっているのだ、ということを強調したかったからです。
   このことが理解されないと、たとえば商品リンネルに等置された上着がリンネルに対して直
   接的交換可能性をもつのは、リンネルの所有者が上着をほしいと思い、上着との交換を望ん
   でいるからだという、俗学的な見解に陥ることになる。ーー略ーーーーーーーーーーーーー
    しかしそれはともあれ、先に言った、上着が等価形態に置かれることによって、上着の使
   用価値は価値体という形態規定を新たに与えられているのだということ、そしてこの形態規
   定における上着の使用価値の形態で、リンネルはそれ自身の価値を、それの使用価値から区
   別されたものとして表現しているものだということ、ーーこのことがわかればよいので、
   右に述べたいろいろの関連の内のどこまでが回り道の範囲に属するかという点にぼくは重点
   をおいていたわけではないのです。」(『貨幣論』P121~123)

<そして、「・・その『回り道』の要の点がどこにあると考えていたかーーを知るために次の箇所が参
考になるでしょう。」として、『初版』7段落を紹介するのです。>


しかし、これでは相対的価値形態の内実が等価形態にある価値体上着であるーーとしか理解できない。

<等価形態である価値体上着>でのリンネル価値の表現が、相対的価値形態であるーーとの論理上破綻
した主張になってしまう。>

いやはや!!!なんともこれは、驚きいったことだが、<相対的価値形態ーー等価形態>という両極の
あい対立する形態であるとの、マルクスの主張とは、全く違ってしまう。
これではーー価値形態論の理解は少しも進まずーー混乱を重ねるだけなのです。
少しもーー今までこんな驚異的破綻ーー出鱈目なことが『貨幣論』(1979年刊行)で主張されていたこ
とが、30年以上も私には、わからなかった!!!

では、ーー久留間さんの言う、
「たとえば商品リンネルに等置された上着がリンネルに対して直接的交換可能性をもつのは、・・・」
(上記) とは どんな意味か?
それは、ーー上着が等価物として「直接的交換可能性」の形態を受けとることではなく、ーー
簡単な価値形態の総体にて、「商品Aの価値は、質的には商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によっ
て表現される」(国民文庫 資本論P115)ーーのことなのですよ。
しかし、これは、明快に述べれば、私たちの眼の前の現象であって、金1オンスでのリンネル価値の表
現に他ならない。これは貨幣形態であります。

 しかし、ここでは、簡単な価値形態のもたらすわれわれの眼前での形態であって、
使用価値と価値形態ーーの形態をもつことでの商品形態==労働生産物の商品形態が、どうやって、
如何にして、形成されたのか?ーーとの疑問・質問・人々へのマルクスの問いかけなのであります。

いいですか、ここでの久留間さんの展開はーーどんなものと示したのですか?
それは、「相対的価値形態の内実」を探るときに、
①裁縫労働が人間労働に還元される、第五段落の展開を探求して、そのつぎに、
②その反省規定としての、回り道を経て受けとる
ーー価値を織る限りではリンネル織りが抽象的人間労働としての規定を受けとる、ーー
と示した第五段落のマルクスの記述を、 ①の等価物上着に表示されるーー人間労働としての裁縫労働
への規定は認めながらも、(大谷先生の主張・質問)②の部分を、語るときに、その①と②の区別は無
視して、ーー久留間先生は、こう語っている。

   「それが等価形態に置かれることによって新たな価値体という形態規定を与えられ、
   この形態規定においてはじめて相対的価値形態にある商品リンネルの価値の形態に
   なっているのだ、ということ」

 hirohiro
上着が等価物の役割を果たしているのはどのようにしてなのでしょうか。
   それはリンネルによって価値関係に引き入れられ、抽象的人間的労働の体化物
   として形態規定されるからではないですか。


あのーーーと質問したくなりますね。
  ①先生、相対的価値形態は価値形態が内蔵されることで成立するのですが、そのためには、等
  価形態にある上着が、価値体の規定を受け取っていなければならないーーと主張されるのです
  か?????
  ②それに先生、<上着の直接的交換可能性によってリンネル価値が表現される簡単な価値形態
  の総体>では、上着は勿論商品の価値でありとされるのは、
  イ)商品形態を持つのは、次の規定を受けーー
  「商品は使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。」、それにより、
  ロ)上着が価値体であり、直接に価値形態でありますが、直接的に等価形態ではないのです!
  ③そして、上着が等価形態とされるのは、ここでは次のように示されている。

   「一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。
   こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現のなかでは、ただこの一つのの商品種類
   リンネルに対して等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。」
    (四版 文庫P117~118)

ここには <一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。>
ーーと書かれています。左極が成立するから、それに対応して右極も成立するのです。

では、久留間さんが議論しているーー事実上の抽象の場面=回り道の場面では、
すでに<単純な相対的価値形態>が成立していたのですか?
どうでしょうか?hirohiro さんにも質問です。

  勿論、これまでの論者・榎原さんを含めてすべてが、
  そんなことは、自明の論ぜざるべき前提と答えるのです。

 <久留間さんが、単純な相対的価値形態>の成立が、如何にしてか?を探っている論述を、ーー
そうでは無い、それとは反対に自明の前提にしているのだから、
ーー武田先生が、裁縫労働が人間労働に還元され、その回り道を経て、リンネル織りも人間労働とされ
るとの主張ーーの意味を、大谷先生が久留間さんに聞いたのです。
(『価値形態と貨幣』「織布の人間労働としての性格が人間労働としての裁縫に等しいという形で・」
P186)

  そうりゃネ・・・貴方!!! 既に、前提に、相対的価値形態が成立しているのですからネー、
  事実上、ここで問題にされ議論されうるものは、<等価形態>にしかならないーーのは理の当
  然ですよーーーーーとの久留間先生のお答えであったのです。

以上であります。全ては、四版の第五段落の回り道をめぐる議論であります。
初版の回り道と四版の回り道とを混同して、久留間さんは主張するから、議論の焦点・解決点が全く不
明になり、混乱を重ねるだけなのです。










 

(無題)

 投稿者:hirohiro  投稿日:2016年 8月11日(木)04時32分29秒
返信・引用
  「ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。」

マルクスはここではっきりと上着は受動的だと言っています。

裁縫労働が人間労働に還元されるのはどのようにしてですか。それはリンネルが上着を自らに等置するからではありませんか。この等置によって初めて上着は等価形態を受けとり、価値鏡の役割を果たせるのではないですか。

 

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