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Re:  初版での「価値の現象形態」とは何か?

 投稿者:hirohiro  投稿日:2017年 4月16日(日)04時23分51秒
返信・引用 編集済
  価値形態の秘密を、単に他の商品の使用価値がある商品の価値を表現することだ、というのは確かに皮相な理解でしょう。リンネル=上着という価値方程式において、上着という使用価値がリンネルの価値の現象形態となっている、という理解は正しいが、しかしそれがいかにしてなされているかを解明して、初めて価値形態の秘密が明らかになるのです。この意味で杉本さんが通説を批判しているのなら、賛成です。

価値形態の秘密とは、ある商品が他の商品を自分に等置することによって、他の商品を生産する労働を抽象的人間労働に還元し、それによって自分を生産する労働をも抽象的人間労働として示す、ということが第一段階です。これが二版の廻り道です。しかしこれだけでは価値形態の秘密を説いたことにはならない、まだ不十分だとマルクスは指摘します。というのは、価値とは商品という対象物の属性であって、労働とはあくまでも流動状態にある、つまり活動の形態であり、物的形態ではないからです。

この問題をマルクスは価値方程式それ自体が解決している、「課題はすでに解決されている」と説きます。先に上衣を生産する労働は抽象的人間労働へと還元されました。それゆえ上衣は抽象的人間労働の産物として価値そのものとして規定されたのです。上着という現物形態=使用価値が価値の現象形態となる、ということの意味はここにある、マルクスはこのように指摘しているのです。ここまではおそらく杉本さんも同意されると思います。

私が杉本さんに対して異論をもつのは、このように規定された上着は何か、ということです。リンネルによって価値形態そのものとして規定された上着は、現物形態そのものが価値である=価値体となっており、そのような価値体として規定されることによって、リンネル価値の現象形態となる=価値鏡になる、と私は理解します。価値体=価値鏡だと言ってもいいでしょう。

第二に、リンネルも上衣も商品として前提されている、つまり同等性関係が価値関係の前提である、と私は理解します。商品論の対象は、全面的な商品生産社会である資本制社会における、「富の基本的形態』である商品だからです。それは最初から「交換価値をめあてに生産された」生産物なのです。そして価値関係においてそれは商品としての現実的形態を獲得し、交換可能なものとなるのです。このような理解は、マルクスが物々交換と商品交換とを明確に区別していることにもとづいています。

またマルクスは『初版』でも二版でも、リンネルも上衣も価値であり、そのようなものとして関係していることを強調しているからです。しかし個々の商品は、それ自体としては商品という自らの存在を示していません。ここの商品それ自体は単なる労働生産物としての形態あるいは使用価値の形態を持つだけだからです。商品としての現実的=感性的形態を持って初めて商品として自らを示すことができる、つまり商品は自己の直接的形態とは区別される価値形態を取らなければならない、とマルクスは二版の冒頭で指摘してます。
 
 

軍産複合体と正攻法で戦うのをやめたトランプのシリア攻撃

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 4月12日(水)23時30分3秒
返信・引用 編集済
    <田中宇の国際ニュース解説>から、今回 まったく理に合わない米軍艦からのシリア攻
撃がなされたのかーー説明されている。英文のところも多数あったが、分かりにくくなるの
で、その部分は削除して紹介させて頂きます。


 2017年4月8日   田中 宇
 米トランプ大統領は、米国東部時間の4月6日午後8時40分、訪中した中国の習近平主
席との晩餐会などをやっている時、米軍に、59発の巡航ミサイルをシリア政府軍の空軍基地
に撃ち込ませた。米国が正面からシリア政府軍をミサイル攻撃したのは、11年のシリア内戦
開始以来、これか初めてだ(誤爆と称する攻撃は昨年あった)。トランプは、シリア政府軍
が4月4日にシリア北西部のイドリブ近郊で化学兵器を使って村人たちを殺したので、その残
虐な行為に対する報復をしたのだと述べた。だが、4月4日の事件は、化学兵器を使ったの
が政府軍でない可能性がかなりあり、これから国連が真相究明を進めようとしていた。トラン
プは、勝手にシリア政府軍がやったと決めつけ、濡れ衣をかけた上で、報復と称してミサイル
を撃ち込んだ。

 トランプは4月4日以来「化学兵器で子どもたちを殺したアサドが許せない。武力で転覆し
てやる」と息巻いている。だが実のところ、米軍がアサドを殺すことは不可能だ。アサドは、
ロシア軍に守られている。米軍は今回、ミサイル発射前にロシアに通告し、ロシアは防御や対
抗手段をとらずミサイル攻撃を批判しつつも看過した。だが、次に米国がシリア軍の施設をミ
サイル攻撃するなら、ロシアはもっと強い態度に出て、防御や対抗手段をとる。米軍機が勝手
にシリア領空に入ってきたら、露軍が迎撃するかもしれない。米露の戦闘は、一歩間違うと人
類破滅の核戦争になる。米軍の上層部は、ロシアを敵視するだけで、ロシアと戦争する気がな
い。シリア上空はロシア軍が抑えている。米軍は、そこに入って行かない。トランプはアサド
を倒せない。

 しかも、今回のトランプのミサイル攻撃は、シリア政府軍に少ししか損害を与えていない。
攻撃された空軍基地は、シリア軍がISを空爆するための拠点で、倉庫やいくつかの戦闘機
が破壊されたが、滑走路は無事で、翌日からISへの空爆が再開されている。米軍が発射した
59発のミサイルのうち、目標に当たったのは23発だけだ。今回のような非効率なミサイル
攻撃を繰り返すのは得策でない。トランプがシリアを攻撃するのは、今回が最初で最後かもし
れない。

 米軍はこれまで、ロシア軍と協調し、シリア東部でIS退治の空爆を続けてきた。だが今回
の濡れ衣的なミサイル攻撃で、ロシアは怒って米国との協調を解除した。米軍がシリアで活動
するのは困難になった。今回の件は、シリアの将来を決める国際体制から米国が追い出され
ロシアやイランの影響力が増し、露イランの傘下でアサドが続投する多極化的な事態に拍車を
かけそうだ。

 ロシア政府によると、4月4日のイドリブ近郊の村での化学兵器拡散は、一帯を支配するア
ルカイダ(ヌスラ戦線)の武器庫が村にあり、それをシリア軍が空爆で破壊した際、武器庫に
貯蔵されていた化学兵器用の物質が飛散して村人が犠牲になった可能性が高い。アサド政権は
最近、国際的に続投を容認されつつあり、そんな中でシリア軍が意図して化学物質を村に飛散
させたとは考えにくい。米英の外交官や議員からも、犯人はシリア政府軍でなさそうだという
声が上がっている。

 露政府によると、アルカイダは、村に貯蔵した化学兵器(塩素系?)を、イラクのモスルな
どで戦うISに売っていた。同様の化学兵器は昨秋、アルカイダが占領するアレッポでも使わ
れ、シリア政府軍に濡れ衣が着せられた。またアルカイダは2013年にも、シリア南部で化
学兵器(サリン?)を散布して住民を殺し、米マスコミなどがそれをシリア政府軍の犯行だと
喧伝していた。アルカイダに化学兵器の原料や製造技能を与えたのは、米国とトルコの諜報機
関だ。13年に濡れ衣をかけられたシリア政府はその後、国連決議を受けて化学兵器を全廃し、
その後も国際的に監視されている。廃棄を手掛けたのは米軍だ。シリア軍は化学兵器を持って
いない。

  ▼トランプは軍産に負けて傀儡になったのか?

 トランプは、米国の諜報機関やマスコミなどの軍産複合体が、アルカイダやISをこっそり
支援したり、アサドやイランなどに濡れ衣をかけて攻撃したりする体制を破壊するために、大
統領になったはずだ。大統領就任演説も、そのような方向性の「革命の檄文」だった。それな
のに今回、トランプは突如、軍産お得意の濡れ衣戦争を、自分から積極的にやり出している。
これは何を意味するか? (トランプ革命の檄文としての就任演説)

 ありそうなのは、トランプ政権の上層部で、従来のトランプの軍産敵視の戦略を立案してき
た「ナショナリスト(反覇権主義者)」と、軍産の意を受けた「国際(=米覇権)主義者」と
の権力闘争が激しくなり、ナショナリストが負けている結果、トランプが軍産の策に乗らざる
を得なくなって翻身したことだ。

 4月5日、ナショナリストのトランプ側近の筆頭であるスティーブ・バノンが、米国の世界
戦略を決める大統領府の最高意思決定機関である国家安全保障委員会(NSC)の常任メンバ
ーから外された。代わりにNSCを仕切るのは、米軍出身で軍産系とおぼしきマクマスターだ。

 トランプは、選挙戦中から大統領就任直後まで、バノンの意見を最も良く聞き、それがゆえ
にトランプはナショナリストで反覇権的な「米国第一主義」を掲げていた。だが、大統領就任
後、トランプの娘婿であるジャレッド・クシュナーが、バノンに対抗する形で、トランプ政権
の政策を立案決定する主導者として台頭してきた。クシュナーは、バノンと対照的に国際主義
者と言われている。バノンをNSCから外すようトランプに進言したのもクシュナーだと報じ
られている。今や、トランプと習近平の米中首脳会談をお膳立てしたのも、米イスラエル関係
を主導するのも、ユダヤ人のクシュナーだと報じられている。

 このような説得性がありそうな話が、事実かどうかはわからない。だが、バノンとクシュナ
ーの戦いが激しくなり、バノンが最後の抵抗を試みていた感じの3月末に、トランプ政権のシ
リア戦略が「アサドを許す」方に大きく振れた。ティラーソン国務長官やヘイリー国連大使が
相次いで「アサドを辞めさせるのは、もはや米国の目標でない」と表明した。だがその後、結
局バノンがNSCから外され、4月4日の化学兵器事件を契機にトランプがアサド敵視へと激
変し、その2日後に、トランプがシリアに巡航ミサイルを撃ち込んでいる。

 バノンは、NSCを辞めたあとも、大統領首席戦略官というトランプ側近の要職を保持して
いる。だが、それも近いうちに辞めさせられるのでないかと、米マスコミが報じている。

 これはつまり、トランプが自らの保身のため、軍産潰しの「革命」「覇権放棄(多極化)戦
略」をあきらめて、一気に正反対の軍産傀儡、覇権主義に転換したということなのか?。シリ
アの状況を見ると、そうも言い切れない。トランプは軍産お得意の、濡れ衣に基づくシリアへ
のミサイル攻撃を挙行した。だが、すでに書いたように、その攻撃は、アサドとその背後にい
る露イランを弱体化するどころか、むしろ強化している。

  ▼バノン式からオバマ式の戦いへと後退したトランプ

 トランプのもともとの戦略は「覇権放棄・多極化(隠然)推進」だ。トランプは当初、ロシ
アと仲良くして覇権を譲渡していくことを模索したが、軍産が「トランプ政権はロシアの傀儡
だ」「ロシアは米国の選挙に介入してトランプを勝たせた」といった濡れ衣スキャンダルを展
開し、トランプがロシアとの敵対を解いていくのを阻止した。対露協調の主導役だったマイケ
ル・フリン安保担当補佐官が2月中旬に微罪で辞めさせられ、軍人のマクマスターと交代した。
今回ついにバノンもNSCから追い出された。トランプは、覇権放棄戦略を正攻法で進められ
なくなった。 (フリン辞任めぐるトランプの深謀)

 だが、正攻法でないやり方なら、まだやれる。トランプは、軍産の傀儡になってみせて、
シリアを濡れ衣ミサイル攻撃したが、その結果見えてきたのは、ロシアと戦争できない以上、
シリアをますます露イランアサドに任せるしかないという現実だった。「可愛い子どもたちを
化学兵器で殺したアサドを武力で倒す」と(演技っぽく)激怒して息巻くトランプに対し、軍
人や諜報界の人々は、ロシアと戦争することになるのでダメだと言い出している。おそらく
NSCのマクマスターも、トランプに、米露戦争はできませんと進言している。トランプが軍
産傀儡っぽく戦争したがるほど、軍産の人々は戦争したがらなくなる。

 ネオコンやネオリベラルといった政治側の人々は、無責任に無茶苦茶な戦争をやりたがるが、
軍人は、失敗するとわかっている戦争をやりたがらない。だからトランプは、NSC議長や国
防長官といった地位に、マクマスターやマチスといった軍人を就かせている。戦争できない、
どうしよう、と騒いでいるうちに、4月4日の化学兵器事件の真相が国連などの調査で暴露さ
れていき、アサド政権は悪くないという話になる。ロシアと戦争したくない軍人たちが、アサ
ド政権を濡れ衣から救う可能性が、すでに指摘されている。おそらくマスゴミは従来の濡れ衣
戦争と同様、この真相をほとんど報じないだろう(マスゴミは全部つぶれた方が良いと言った
バノンは正しい)。しかし、外交官や軍人といった関係者たちは、濡れ衣を認めざるを得なく
なる。米国の信用が低下し、トランプが正攻法でやった場合と似た結果になる。

 トランプが今回、突然に軍産の傀儡として振る舞い出してミサイルを発射したとたん、それ
までトランプ敵視ばかりだった米議会が一転してトランプを称賛し始めた。反トランプなマス
ゴミの筆頭だったCNNが「トランプはようやく(一丁前の)大統領になった」と礼賛した。
難航していた最高裁判事の人事の議会承認が、一気に可決した。議会の支持を維持できれば、
経済や国内の政策も議会に通りやすくなる。結果が変わらないのであれば、バノンが提唱して
いた過激な正攻法のトランプ革命方式より、非正攻法の隠然とした傀儡演技の方が効率的とも
いえる。  (不透明な表層下で進む中東の安定化)

 こうした非正攻法は、トランプの発案でない。オバマが得意とするやり方だった。オバマは
13年夏に、今回のトランプと同種の、アルカイダが化学兵器を使ったのにそれがシリア政府
軍のせいにされる濡れ衣事件に直面している。トランプはミサイル攻撃をやったが、平和主義
を掲げるオバマはミサイル攻撃に踏み切らず、代わりにロシアをせっついてシリアに軍事進出
させるところまで持っていった。ネオコンやネオリベは、オバマの「弱腰」を非難し続けたが、
オバマは、シリアをロシアに押しつける多極化に成功した。この流れの中からイラン核協定も
出てきた。トランプは、いくつもの点でオバマを批判しており、今回のミサイル攻撃も「弱腰
のオバマが踏み切れなかったことを俺はやった」と豪語できるようにするための観がある。だ
が本質を見ると、トランプが目標とするもの(覇権放棄、多極化)は、オバマとかなり似てい
る。 (米英覇権を自滅させるシリア空爆騒動) (イランを再受容した国際社会)

(それ以前には、ビル・クリントンも、軍産からの批判を回避するため、スーダンの化学兵器
工場=実は医薬品工場=などを98年に巡航ミサイルで破壊している)

 ゴラン高原でシリアと国境を接するイスラエルは、すでに、自国の安全保障を、米国よりも
ロシアに頼る傾向が強い。ゴラン高原のシリア側には、イスラエルの仇敵であるイラン傘下の
ヒズボラなどシーア派民兵が拠点を作っている。アサドがいるかぎり、イランやヒズボラはシ
リアを闊歩する。大きな脅威を感じ始めたイスラエルは、シリアとの国境地帯に、緩衝地帯を
作り、戦争を避けたい。だがそれには、アサドの後見役であるロシアの協力が不可欠だ。
(内戦後のシリアを策定するロシア)

 この件について、米国はほとんど役に立たない。米国の不能性は今回、トランプが軍産に譲
歩してロシアと敵対してしまったことで、いっそう強くなった。軍産は本来、親イスラエルだ
が、イスラエルがロシアに近づくほど、ロシア敵視が不可欠な軍産は、イスラエルにとって迷
惑な存在になっている。最近では、軍産との結託を強めている米民主党が、以前のごますりを
やめて、イスラエル批判を強めている。イスラエルは、ロシアに頭が上がらなくなっている。
イスラエルの右派閣僚が「化学兵器を使ったのはアサドだ。100%間違いない」と豪語した
ところ、その後の電話会談で、ネタニヤフがプーチンに強く叱られた。こんなのは一昨年ぐら
いまでありえないことだった。  (イスラエルがロシアに頼る?)

 バノンがトランプ側近を辞任すると、おそらくトランプ政権内のナショナリストが総崩れに
なる。それは政治軍事だけでなく、経済の分野でも政策の大転換を引き起こしうる。以前に書
いたが、米国がTPPに復帰し、NAFTAやWTOを再評価し、経済覇権の再獲得へと動く
おそれがある。それについては、事態の推移を見ていきたい。
(金融界がトランプ政権を乗っ取り米国をTPPに戻す??)

 トランプがなぜ習近平がいるときにシリア攻撃を挙行したのかという点も書き忘れた。たぶ
ん北朝鮮との絡みだろうが、これもあらためて考察する。
 

 初版での「価値の現象形態」とは何か?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 4月10日(月)01時59分9秒
返信・引用 編集済
     初版での「価値の現象形態」とは何か?

 今まで気づかなかった資本論初版での 「価値の現象形態」 との取り扱いについて、
はたと、私は間違っていたことを理解できたので提起させて頂きます。

 この「価値の現象形態」ーーといえば、すぐ「使用価値が価値の現象形態」と、反射的
に理解し、等価形態の第一の独自性やと、思い込むのが常であったのです。再版では、そ
の理解でも全く違わなかったのですが、しかし、初版を読み重ねるにつれて、それでは相
対的価値形態と等価形態との区別ができなくなることに、はたと気づくことになったので
す。

 これで、初版『回り道』を表わした第七段落の手前の第一からこの第六段落までの解読
が進むと、小躍りしているのですが、そのためには、私のこれまでの誤解の有り様を提示
したいと、どんな誤解であったのか、調べてみたいと思ったのです。

  「その商品は、自分自身にたいして直接にすることかできないことを、直接に他
  の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分自身にたいして、すること
  ができるのである。

  その商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値に
  おいて、表現することはできな いのであるが、しかし、直接的価値定在として
  の他の使用価値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、そ
  れ自身のなかに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労
  働の単なる実現形態として関係することはできないが、しかし、他の商品種類に
  含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現
  形態として関係することかできるのである。

  そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分に等価物とし
  て等置する、ということだけである。一商品の使用価値は、一般にただ、それが
  このような仕方で他の一商品の価値の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ
  この他の商品のために存在するのである。」


 ここでは、「価値形態の秘密」として相対的価値形態の内実が、次のように示されてい
るのです。
  「一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕方で他の一商品の価値
  の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するの
  である。」
このように、<使用価値が価値の現象形態>となることで、上着はリンネルの価値形態と
なるーーとの主張があれば、どなたでも、これは等価形態の第一の独自性をこそ示してい
るとのみ早合点してしまうのです。

 しかし、その前に示されていた第四段落では次の提示であり、その註の文章は、相対的
価値形態の形成に向かう次の① ②の文章でありました。
①<(上着は)リンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネ
 ルの価値形態となるのである(18)。>
A<同時に王位がBの姿(価値形態)をとることで、Aは臣民の役立ちができるのです。
 (再版八段落)
②<(18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い>
B<上着が価値であるからである。>(再版七段落)
この対比された内容は、同じであります。
 物象の登場を示したこの段落は、相対的価値形態の形成を目的に、第一段落にて生成し
ている価値形態が、この物象の関係のなかで、さらに、続く五段落にても再定義されるこ
とを、示したものであります。

 この初版註18は、再版の註23としてそっくり引用されています。
  「1 展開された相対的価値形態」において、
  「ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は今では商品世界の無数の他の要素
  で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡となる。註23」
  (再版原P77)この註はけっして等価形態を示してはいません。

 さらに、第五段落で付されている註18aにても示されているように、
「使用価値としての上着がリンネル価値の現象形態になるのは・・・」というこの一節
は、再版でも註18として、相対的価値形態の最後に引用されています。

 久留間先生・武田先生など高名な経済学者が、相対的価値形態が形成されるための必然
事項を、価値形態上着であるのに、価値の現象形態としての上着の役立ちとして示す、初
版の転倒事項に、決して注意を呼びかけないのです。これでは内実に、等価形態が要求さ
れるのは、自明であって、久留間先生の批判的思考の不在を示したのです。




  「価値の現象形態」の初版での意味はなにか?

 マルクスは、初版において価値関係の分析に入るにあたって、価値関係の量的分析を認
識するーーこととして、「商品価値の現象形態」に注目し、次のように述べていた。

  「これまでは価値実体と価値の大きさを規定しただけだからこんどは価値形態の
  分析に取りかかろう。まずは商品価値の最初の現象形態にもどろう。
  (40エレのリンネル=二着の上着)
  リネンの価値が上着の一定量のなかに表現されていることがこれでわかる。
   (今村訳初版資本論P282)

 以上のように<商品価値の現象形態>としては、<リネン価値の上着での表現>が自明
なこととしてあったのです。
 次に第二の形態では、この価値関係の質的側面が次のように述べられていた。

  「それとは反対に、第二の形態では、偶然の現象とは本質的に区別され、偶然の
  現象を規定する背景がただちに現れでてくる。リネンの価値が、上着で、あるい
  はコーヒーで、あるいは鉄等々で表現されようと、リネンの価値はあいかわらず
  同じ大きさのままである。」(同上P297)

 このように始めは偶然の現象として「リネンの価値がーー上着で表現される」ものが、
次の形態では偶然なものではなく、そこに含まれる必然的なものがあるーーのです。
そこを表わして第二の形態で新たに発生してくるものは何か?そのことが第四段落で示さ
れるのです。

  第四段落です。
  「20エレのリネン=一着の上着という表現では、上着はリネンのなかに対象化さ
  れた労働の現象形態として認められた。だからリネンのなかに含まれる労働は
  (に)上着のなかに含まれる労働に(が)等置され、したがって同質の労働とし
  て規定された。・・・・
  第二の形態では事情が違ってくる。リネンの相対的価値表現の際限なく長く伸び
  ていくシリーズのなかで、リネンはそれ自身のなかに含まれる労働のたんなる現
  象形態として、可能なかぎりすべての商品に(を)自己を(に)関係させる。だ
  からここではじめてリネンの価値は本当に価値として、すなわち、人間労働一般
  の結晶として表現される。」(同上P298~299)

 第一の形態も第二の形態も、「リネン労働の現象形態」であります。
しかし、本質的な違いがここに見て取ることができますーーという。それはなにか?
際限なく伸びるシリーズのなかで、次のことを示す。

  「ここではじめてリネンの価値は本当に価値として、すなわち、人間労働一般の
  結晶として表現される。」(同上)

 この初版での説明に対して、再版での「1展開された相対的価値形態」での説明はどう
であったのか?

  「ある一つの商品たとえばリネンの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素
  で表現されている。他の商品はどれでもリンネル価値の鏡となる。註23」
   (再版原P77)
 ここでの註23が「リンネルの価値を表す場合にはリンネルの上着価値と言い・・」と提
示していたのです。なんと論敵であるかに見えた(註17でのベーリ批判)ベーリの価値形
態での特性の表明を支持し、その説明を採用していたのです。
 ここではーーリンネルが価値であるーーと主張したのではなく価値関係での反射規定と
して商品上着・・・などは「上着価値・・・」と規定されると述べているのです。価値表
現上のこの転換をこそ見出さないとーー価値関係でのリンネルの反射規定としてなされる
上着の価値鏡<価値体ではなく>としてなされる価値形態が成立しないのです。

 このように再版では回り道を経過して
①上着は価値であり、
②上着は価値体との規定のみでは価値関係の示す反省規定を示せず、王冠の例に示される
王と臣民の両者の役立ちにて成立する物象の諸関係こそが、価値形態・上着と成立させた
のです。










 

 資本論初版の回り道を曲解した久留間先生の解読について

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 3月28日(火)17時18分2秒
返信・引用 編集済
   宇野ーー久留間先生の価値形態論論争での理解の困難さは、「商品語」批判を放棄しての、
久留間先生の理解の誤りが根底にあるのですが、まずは、久留間先生の自ら依拠した初版・
価値形態論の解読の誤りを指摘してみたい。その理由です。

 ①久留間先生は、『価値形態論と交換過程論』のP62~63に、初版と再版との回り道をまず
引用ーー提示しているが、、主に必要とされ論題とされているのは初版の回り道であります。
 そして彼が、両書の対比をしたのは初版の回り道の特異性によって、
 <「相対的価値の形態の内実」が論証され実在していて始めて、価値形態上着によるリンネ
ル価値の表現がなされる>ーーよりわかりやすく提示されているなどとの理由ではなく、
 <等価形態の上着によるリンネル価値の表現ーーということがらが、なかなか理解し難いこ
とがらが、明らかになる>ーーとの理由からなのです。
 しかし、私はこれは不可能であり、何ら宇野先生の主張への批判にはなっていない、と主張
します。宇野先生の商品語に依拠した価値形態の成立ーー<相対的価値形態の成立・等価形態
の成立>ーーにたいして、商品語に依拠したこの左極でのこの成立は認めつつも、右極での成
立は認めないことの論証のために、初版の回り道の解読を提示しましょうーーというのが久留
間先生の論法なのです。
 だから、久留間先生のこの論拠にした、初版の註19aから註20までに論述されたそのことが
らが、全く久留間先生の理解とは異なり、なんら等価形態での「回り道」ではないことが明ら
かになれば、戦後来のこの長期間の価値形態論理解の理解の常識はマルクスの主張とは異なる
ことが明らかになります。

 ②今村訳 初版のわずか二ページに示されている回り道はどのようなものか?
 ここでの示された記述を追ってみよう。回り道が等価形態の判読によってもたらされている
と、久留間先生の理解した理由はなにか?記述を追ってみよう。

 (イ)マルクスの等価形態の提示
 マルクスは、はじめに「商品と商品との関係でのみ存在する価値形態」では、商品が
a)「使用価値または商品身体は・・・それは商品価値の現象形態になり・・」
b)「同じく使用価値に含まれる具体的な有用労働も自分自身と正反対のものとなり、抽象的
人間労働のたんなる実現形態になる」
ーーこのように、等価形態の二つの独自性を示しています。
 私はここを次のように理解します。
 等価形態でまず示されている上着形態は、使用価値ではなく価値形態上着の規定を受けてお
り、等価形態として等価物の役立ちをなす上着であります。ところが、そのことを現象形態の
ままに「使用価値が価値の現象形態になる」ーーと短絡した理解をしては、すでにその前提に
なっている直接的に上着はその姿のままに価値形態になっている前提事項を失念し、それを使
用価値とのみ解読する「等価形態の謎性」にまけての理解を示したのです。
 だから、右辺の特徴を表した「一商品体たとえば上着が、・・生まれながらに価値形態をと
る」(資本論原P72)ことが、等価形態の第一の独自性であり、それは何よりも価値関係に
おいて、(繰りかえします)この右辺の等価物上着の身体そのものが、直接的に価値形態をと
ることでの規定であります。

 (ロ)等価形態の独自性に示されていることはなにか?
 さてと、ここに先に示されている等価形態の独自性に示されていることはなにか?とマルク
スは設問をし、読者にもたずねているのです。我々への質問としていることの主体的な問答な
しには、この不思議なマルクスの記述は理解できないのです。次にいきます。
 先に示した、次のことはなにか?読者に尋ねているのです。

a)「使用価値または商品身体は・・・それは商品価値の現象形態になり・・」
b)「同じく使用価値に含まれる具体的な有用労働も自分自身と正反対のものとなり、抽象的
人間労働のたんなる実現形態になる」

 以上がまず明らかにされたので、その特徴を示します。
「ここでは商品の対立する諸規定が別々にになるのではなく相互に反射しあうのである」
ーーとその特徴を示し、そこで諸商品の反省規定で示されたことが、こう示されています。
「だから商品は自分をまさに商品として表現するためには・・・商品は・・・他の商品とつき
あうなかで価値の姿(価値形態)を手に入れる。」

 ここでの記述は、先に諸商品が等価形態の独自性に示されている<物象の判断の存在>を見
つけ出したことで、商品形態として次に与えられる規定に論究しています。そこで商品で示さ
れる商品の使用価値・価値の内在的規定が、商品形態ではこの反省規定を受けて、使用価値と
価値形態の二重の規定をもつ「商品形態」をとっているーーと示したのです。

 (ハ)マルクスの奇想天外な思考の有り様
 しかし、マルクスのこの想像を絶した思考の有り様を人々は受け入れることができず、なる
ほどおっしゃるとおりでありますが、そうなのですが・・・?とこのはてなマークをつけるの
みですかねーーと慨嘆してはいけないのです。そこで話が(イ)に戻るのです。
 何故上着はリンネルの価値の形態と、この関係から判断され、使用価値でありながら価値の
現象形態を示して、いるのか?であります。
 彼の叙述のありさまは、筆者が一方的に私はこう理解をし、判断・理解したことの提起では
ないのです。ここでは、物象の判断であり、その転倒を示す「商品語」での提示なのですから、
読者の主体的側面が必ず要求されるのです。宇野先生の誤読である「商品語」の支持をこそ私
達は批判しなけばならず、この核心点において久留間先生の誤りがあったのです。

 (ニ)価値形態の秘密の記述について
 だからマルクスは次のことを示すことで、「価値形態の秘密」を語ることができたのです。
 A)等価形態の独自性であり、
 B)使用価値ーー価値形態に示される商品形態
 C)両極の形態を成立させる「価値形態の秘密」ーーです。

C)の記述についてです。この等価形態にて価値形態が示すことが可能となったのは、左辺の
相対的価値形態での成立において価値形態を成立させているからこそ、この右辺で等価形態が
成立し、この両極の形態が成立するーーとその「価値形態の秘密」が示されたのです。

 「回り道」の意味がなにか???であります。
 「・・商品は直接に自分自身に向かって関係することができないことを、他の商品に向かっ
てはできるし、それに直接に関係することで、つまり回り道をして自分自身にむかってするの
である。」(初版)

 明らかに久留間先生は、この文章を等価形態の成立と読んでいます。
ほんとに、この文章の判読はとっても難しいものです。
A)等価形態の独自性ーーでの独自性についてはすでに述べられています。しかし、ここの
C)で述べたいことは、註20でその理由が明示されています。
「相対的価値表現の形態内容」とは何か?相対的価値形態の内実であれば、周知のように、左
極での価値形態の存在において相対的価値形態が成立することです。それとは異なることです
から、相対的価値表現において、<相対的価値形態と等価形態との両極の形態をとる>ことで
あります。
だからこの註20の直後の段落での提示は、久留間さんが無視したものですが、つぎのことでの
提示「一方の方の商品の相対的価値形態、他方の商品の等価形態」(同上P292)の両極の形
態をとることを必要とするのです。これがーーC)両極の形態を成立させる「価値形態の秘
密」ーーなのであります。

 しかし、この形態分析はとっても困難なものであり、等価形態の謎的性格によって、この等
価形態の成立の独自性が、価値関係の外部でも成立してしまうかの「幻影的性格」をもってい
ると注意の目を光らせることを、この11段落にて述べています。
だから、商品語での転倒による相対的価値形態ーー等価形態の規定の成立困難ーーをマルクス
は注意の目を向けることを要求しているのです。

 ③現行版での「回り道」は、その後どういうふうに展開されるのか?
現行版での六ーー七段落の記述の不思議さをまず解明して、「価値上着」として等価物になっ
ているのではなく、「上着は価値」(再版7段落 原P66)との判断を受けとることで、「価
値存在の表現」でもある「価値物」上着の規定ーーから、次の段階にある「価値体」上着の規
定を受けとるも、その<対象的姿態の規定>をまだ受け取っていない、と述べられているのが
第六ーー七段落を経ての八段落でのマルクスの提示なのです。

 しかし、その八段落にて価値体・上着の規定を受けていれば、そこですでに当然ながらその
対象的規定を上着は受け取リ、価値形態となっているーーというのが、久留間先生は自明の理
解としているのです。
 さてと、よーくこのことを考えなおしてみれば、「価値体」上着の規定でなされるリンネル
価値の表現では、未だに量的側面から質的側面とへと辿り着いていないのです。だからマルク
スは、そこを表現してーーリンネルは上着に「価値魂」を見出したに過ぎず、と示し、第7段
落提示のーー「だから上着は、ここではそれにおいて価値が現象する物として・あるいは手に
つかみうるその自然形態において価値が表示されるところのものとして意義をもつ」
(再版原P66)ーーという規定では、価値が自らの対象的姿態を明確にすることができないの
です。
 さて、ここでの困難であり、理解が進まないのは何か?という質問を我々自身のなかで追求
しなければならないのです。しかし、よくよく反省してみれば、労働生産物は始めから物的存
在のままに商品になったのではないーーとの反省が必要です。人々一定の・特定の社会関係が
あって、労働生産物の商品への転化があったのですから、ここでマルクスの追求し、問題にし
ているのは、商品をたんなる物的存在とのみ見る事への批判としての価値関係の正確な規定な
のです。

 さてとこの困難な理解・解決事項をどうマルクスは説明したのか?
それが個人Aと陛下Bの社会関係がいかにして形成されたのかーーという問題での封建的関係
での説諭であります。
 商品ではなく。観察者である人間様の主体的営みがあっての人々の社会関係の形成であるこ
とを説明してのものですし、<個人Aと陛下の姿態をとる個人Bの相互に反省規定をとること
で成立する主従の社会関係の例に示される対象的形態の成立>ーーに示されるこの例は、諸商
品の間で取り持たれている価値関係を、<相互の役割にて成立する臣民と王の関係の形成>と
同じく、商品が物ではなく、物象としての社会関係を取り結ぶことで、<冠と立派な外装を絶
えず取り替えることで王の役立ちをすることで臣民との関係を結ぶーー王として存在を示す>
ことと同じく、上着はこのことを示すことができ、リンネルとの価値関係において価値形態と
なることで、反省規定を受け取り<対象的姿態の規定>が示されることで、その規定を受け取
り、そこでやっとリンネル価値の表現ができるーーのです。
 そして、上着はそのことでやっとリンネル価値の価値表現の材料となることができ、相対的
価値形態を形成していくのです。上着が価値形態になることでーの媒介を経ての価値表現の材
料ですから、相対的価値形態の形成の過程の最終段階にてこの規定を受けとるのであり、ー始
めから、価値表現の材料としてリンネルに相対したのでは、左極での形態規定を受けての等価
形態での価値表現の材料の、やがて変更される規定を受けとることと混同されてしまいます。

  上着は、リンネルとの価値関係において価値形態となることで、反省規定を受け取り
<対象的姿態の規定>を示すーー から、価値関係とは物象の社会関係ことなのです。
 だから「商品語」で語られた・同等性に転換されて語られた価値形態の成立は、正像の反転
した倒立像なのです。第五段落では未だ物象は成立せず、やっと八段落でその成立が確認でき
るのは、第七段落で「上着が価値」と判断し、第八段落にて<価値形態上着>と判断した価値
関係であるのに、「リンネルの価値存在の現出」がその媒介をヘずともーー始めから同等性関
係において現れるーー転倒した姿態を示している、との批判なのです。
そうしたら、この価値関係を第一段落から展開されたものを追ってみると、
<上着はリンネルに対して価値として等置されるのではなく、リンネルに対して上着が等置さ
れる同等性関係に転換しており、価値関係の質的側面ではなく、量的側面を示していることに
なる>ーーと示されます。
その反論が、上着がリンネルに対して価値として等置されるのではなく、リンネルはすでに価
値として存在しているーーなのであります。

しかし、よくよく反省してみれば、「リンネルの価値存在の表現」をするがゆえにまず上着は、
価値の存在形態とされ価値物とされました。そして第五段落での事実上の抽象を、上着もリン
ネルも受けましたが、未だ価値の規定を受け取っていないのです。リンネルは未だに価値の規
定を受け取っていないのです。

上着が価値とされたのは、やっと七段落です。
そして、九段落「価値としてはリンネルは『上着に等しいもの』であり・・」ということに示
されるように、やっと「価値」の規定をここに受け取ったのです。しかし、これはリンネルが
価値形態を獲得する上での価値関係が同等性関係にても受けとる転倒した姿態の示すもので、
倒立像なのです。
 ここでの提起が意識化されないのです。
 第五段落「たとえば、上着がリンネルに対して価値物として等置される」のです。
 第七段落「上着が一つの価値」
 第八段落「上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着
     の形態をとることなしにはできないことである。」
 第九段落「価値としてはリンネルは『上着に等しいもの』

ここの九段落に示されていることは、物象の社会関係の第五・七・八段落が、価値関係・その
姿態ではなく、九段落において同等性関係へと転倒した姿態を示しており、宇野先生の支持し
た転倒像であることです。

 マルクスの示しているのは、物象の社会関係の同等性関係への転倒なのですから、ここには
宇野先生と同じく、価値形態論解明の任務を放棄することになり、資本ー賃労働関係が、労働
力商品化された商品関係であり、価値法則に支配されていると説明する誤りの端緒があるので
す。






 

『価値形態論と交換過程論』の後編での  久留間先生の価値表現の廻り道についての主張ーーへの批判

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 3月23日(木)12時52分29秒
返信・引用 編集済
  ①ここで、久留間先生が「等価形態に置かれた上衣がリンネルの価値を表現しうるのは」
ーーと述べたこの誤りを、私は第一に主張します。
 しかし、久留間先生は、今日の価値形態論理解の半ば常識となっている、価値形態論の
構成図を説明する「価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態」での主張に、自らの意
見を対抗させていないのです。そこではこうまとめられていたのです。

  「亜麻布の価値はただ相対的に、別な商品でのみ表現され得る。したがって亜麻
  布の相対的な価値形態は、何か他の商品が亜麻布に対し等価物の役に在ることを
  前提するのである。他方、等価物として登場しているこの別な商品が同時に相対
  的価値形態に在ることは不可能である。そのような関係はけっしてその商品の価
  値を表現するものではない。等価物の役に在る商品は他の商品の価値表現に材料
  を提供するのである。」 (『資本論』原P63)

 しかし、この記述では、①リンネルの相対的価値表現が他商品が等価物として役立つ
ーー相対的価値形態の成立のなかでできる ②等価物である価値表現の材料ありて、等価
形態になる ーーと有無をいわさず定式化されているのです。
この主張が自明の前提事項だとして、私は思っていたのですが、この作業のなかで、久留
間さんはこの主張をしていないーーことを認識出来ました。
 久留間さんにはこの事柄が前提されなくて語られるのですから、次の初版で語られる等
価形態での「価値表現の材料」の転回した主張など全く意識されないのです。
 しかし、ここでのマルクスの主張は、一定の見取り図であり、批判対象なのです。
このマルクスの不思議な記述のスタイルは、『初版』で、この最初の、等価表現の記述で
の再検討において見ることができます。
 この初版の価値形態の第九段落でこう述べられています。

 9段落
  「ひとつの商品の価値の大きさは他の商品の使用価値のなかでのみ、相対価値と
  して自分を表現できる。それとは反対に、ひとつの商品は、他の商品の価値が表
  現される材料としてのみ、直接に交換可能な使用価値または等価物の形態をまと
  うことができる」(『初版』今村訳P293)

 ①ここでは等価物上着が、リンネル価値の相対的表現のために役立っている。
 ②等価物上着が、リンネルの価値表現の材料となることで、直接に交換可能な使用価値
の形態・等価物の形態をまとうことができる。
ーーしかし、この等価形態の説明では、「等価物の役に在る商品は他の商品の価値表現に
材料を提供する」とのみ理解され、先ほどの現行版との記述との違いはないのです。
 しかし、ここでのマルクスは、この理解の仕方で示されているのは、次の一〇段落での
提起の例にあるように、この転倒した事態を認識できない、逆転した像を正像と認識する
ことでのものだと批判しているのです。

 10段落
 そこで、9段落の説明は、
  ①20レのリンネル=一着の上着
  ②一着の上着  =20レのリンネル
として我々には自明の前提になっていることで、この九段落では、
  ①上着が等価物として機能する   リンネルの相対的価値表現は、
  反対に、
  ②リンネルが等価物として機能する 上着の相対的価値表現

という鏡像をふくんでいる、ーーことへの批判をしていないものだというのです。
 20エレのリンネル=一着の上着の相対的価値では、リネンの交換価値が、はっきりと
リンネルの他商品上着の関係として明白に、示された。
 しかし、この転倒した鏡像の下では、リンネルもまた上着と同じく使用価値としては
 <価値表現の材料>としての共通の物的役割をもっているかに見えてしまうので、そう
ではなく、価値としては上着のみ・もう一度右辺の一商品上着のみがリンネル価値の現象
形態となる独自性を示すことでの等価物として機能しているーー物象の社会関係を示した
のです。

  11段落です。
  「上着の方は、リンネルが自分自身の価値の現象形態として、したがって、リン
  ネルと直接に交換可能なものとしての上着に関係するかぎりでのみ、等価物であ
  る。この関係の中でのみ上着は等価物である」(初版P293)

 このマルクスの主張は、等価物上着が、その物的存在のままに、使用価値としての価値
表現の材料としての役立ちをしているのではなく、リンネルの直接的な価値存在としての
価値形態となることで、等価形態になっているーーと討議の進行のなかで述べたのです。
① ②の正反の映像を示すだけでは、物的関係として登場している商品関係を批判でき
ず、物象の社会関係として、片面だけではなく、両極の商品の役立ちにおいて、等価形態
が成立することを、ここに示したのです。

 大谷先生のこの等価形態の理解について
 以上の等価形態の成立についての大谷理論の解釈を、ここに検証しておこう。
久留間理論を今日に伝える大谷先生は、彼の高名な著である『社会経済学』の価値形態の
提起において、第一の形態において、交換過程と価値形態論の混同をする泥沼に入ってし
まっているーー ことへの注意喚起から彼の価値形態の理解への誤りを指摘していこう。

  「・・・しかし、このような交換が繰り返されているうちにだんだんある決まっ
  た交換比率に落ち着き、一枚の毛皮はは特定の量の塩となり、交換されるように
  なる。(図59)」(『社会経済学』P65)
  「しかし、この交換が実際に行われるためにはあらかじめ一枚の毛皮のほうは
  『自分の価値は10gの塩の価値と同じだ、だから10gの塩となら直ちに交換す
  ると言い、10の塩のほうも「自分の価値は1枚の毛皮の方と同じだ、だから1枚
  の毛皮となら直ちに交換する」と言っているはずである。(図60)(同上P65)
 このように大谷先生のここでの価値形態論解読の出発点は、初版の価値形態論の9段落
までのものであって、その次の10~11段落の説明を無視したものであったのです。
 しかし、ここでの大谷先生の提起は、交換過程で何がまずここに必要とされていたの
か?二章交換過程での次の主張を無視しています。

  「直接的な交換においては、どの商品もその所有者にとっては直接的にに交換手
  段であり、その非所有者にとっては等価物である。もっともその非所有者にとっ
  ては使用価値である限りでのことであるが。したがって、交換品はそれ自身の使
  用価値、または交換者の個人的欲求から独立した価値形態をまだ受け取っていな
  い。この形態の必然性は交換過程にはいり込む商品の数と多様性との増大ととも
  に発展する。」(『資本論』交換過程 原P103)

 このようにマルクスは、歴史的出発点の直接的交換手段としての労働生産物を対象とす
るのではなく、使用価値と価値形態の商品形態を受け取っていてこそ、この交換過程は論
ずることができると述べています。
 だから、まず吾々が獲得すべきことは、①商品がいかにして両極において価値形態を受
けとるのかであり、②次に労働生産物の商品への転化を示した「簡単な価値形態の総体」
の成立が如何にしてなのか、であります。
 さてそこで大谷先生は先程の記述に続いて、第一の相対的価値形態と等価形態とを論じ
るために、続いてこう述べています。

  「つまり、ここでは毛皮と塩のどちらもが自分の価値を他商品で表現している。
  このような仕方で商品が自分の価値を他商品で表現することを価値表現という。
  毛皮の価値表現も塩の価値表現も、たった一つの商品が自分の価値をたった一つ
  の商品で自分の価値をたった一つの他商品で表現している価値表現として、つま
  り、価値表現の最も単純な形態として、全く同じ形態をもっている(図61)。」
  (大谷 同上P65~66)

 ここでは先程のマルクスの例示と同じの提案です。
  1枚の毛皮=100gの塩
  100gの塩=1枚の毛皮

 しかし、大谷先生は、自らの久留間先生から受け継いだ先見の理解をここに次に示すの
です。

  「まず忘れてはならないのは、この価値表現は商品A(左辺にある商品x量の
  商品A)の価値表現であり、商品Aのほうが、自分の価値を表すために、自分に
  つけた表現であって、商品B(右辺の商品y量の商品B)のほうは、商品Aの価
  値表現の材料になっているのだということである。」(大谷同上P67)

 商品Bは価値表現の材料として商品Aに対して役立っているーーという今日のマルクス
経済学の基本的認識・常識になってしまっているので、この常識への批判であるという自
身の立ち位置の再確認がなければ、この先の議論は進まないのです。
  ここではまず、第一に相対的価値形態についてのものです。

  「20エレのリンネル=一着の上着の相対的価値では、リネンの交換価値が、はっ
  きりとリンネルの他商品上着の関係として明白に、示された。」(11段落)

 このようにに示されていました。だから、まず相対的価値形態の成立の如何にしてであ
るかが問われているところに、大谷先生は「価値表現の材料」としての上着の等価物の
役立ちを置いたのです。
しかし、この初版では触れていませんが、価値形態上着の役立ちがリンネルに対して果た
せる・価値鏡の役立ちを上着がリンネルに対して果たせる相対的価値表現ーー
(初版での「リネンの交換価値が、はっきりとリンネルの他商品上着の関係として明白に
示された」)ーーがあって始めて、上着は価値表現の材料の役割をなすことで相対的価値
形態が成立します。
 次に等価形態です。

 ところで、「価値表現の材料」となっている上着のこの規定性は、この初版でもこの前
に提起されました。しかし、マルクスはその主張を等価形態の成立のなかで、上着が自然
的形態のままに価値表現の材料となるーーことに示されている転倒姿態として批判し、変
更したのです。再度示します。11段落の文の続きです。

  「上着のほうはリネンが自分自身の価値の現象形態として、したがってリネンと
  直接に交換可能なものとしての上着に自分を関係させるかぎりでのみ等価物であ
  る。この関係の中でのみ上着は等価物である。」(同上P293)

 このように、先に示した初版の九段落の主張は、訂正されているのです。
「価値表現の材料」として、右辺の等価物上着が、自然的形態のままに直接的に役立つが
ゆえに、等価形態を受けとるのではなく、「価値の現象形態」として、リンネルからの等
価物の形態規定を受けとるがゆえになのですから、上着の自然的形態はリンネルに対して
そのままにではこの役立ちができないーーということで、附録や再版ではさらに進展し
て、等価形態の謎性を明かすことで、等価物の形態の三点の独自性を示したのです。
 大谷先生は、しかし、彼は自身の構想する等価形態について、こう述べるのです。

  「他方、商品Aがこの商品が価値表現をもったことによって、商品Bのほうは、
  そうでなければもつことのできなかった特別な形態をもつことになる。商品Aの
  ほうが、「y量の商品Bは自分と価値が同じだ、だからy量の商品Bとだったら
  直ちに交換する」といってくれているかぎりは、商品Bは商品Aにたいしては
  (そして商品Aにたいしてのみ)「等しい価値をもつもの」(これを等価物とい
  う)として通用し、商品Aと直ちに交換できる力をもっている。このように、商
  品Bは商品Aによって、商品Aの等価物であるという形態(これを等価形態とい
  う)を与えられたのである。」(大谷P67)
 もう一度重点部を引用してみよう。
 Aこれは相対的価値表現なので、相対的価値形態です。
  「他方、商品Aがこの商品が価値表現をもったことによって、商品Bのほうは、
  そうでなければもつことのできなかった特別な形態をもつことになる。
 Bこれは直接的交換可能性の形態であり等価形態です。
  「y量の商品Bは自分と価値が同じだ、だからy量の商品Bとだったら
  直ちに交換する」といってくれているかぎりは、商品Bは商品Aにたいしては
  (そして商品Aにたいしてのみ)「等しい価値をもつもの」(これを等価物とい
  う)として通用し、商品Aと直ちに交換できる力をもっている。

 等価物上着が、直接的交換可能性の形態であるのは、商品Aの価値表現の材料としての
役立ちをしているからではなく、また量的側面での同一性からではなく、上着が直接的に
価値形態の規定を受け取り、価値の現象形態になる役立ちーーというこの独自性の形態
であることを示すからであって、量的側面にて、リンネルと上着は価値として等しいーー
からではないのです。なんと英明な大谷先生は等価形態の成立を量的側面からおしはかっ
たのです。
 また、商品Aに対して、質的関係において「等しい価値をもつもの」としての商品Bで
あれば、等価形態は形成できないのです。
上着が直接的に価値形態であることを、指してリンネルに対して上着は「等しい価値をも
つもの」ーーと評することもできます。しかし、これは物象の関係に伴う転倒であって、
物と物との関係であり、これでは等価形態が成立してゆきません。
 そして、この等価形態での等価物上着の受けとる転倒姿態である、「価値表現の材料」
の規定性は、この価値関係のもとでのみ受けとるのだが、しかし自然的形態のままに受け
とるかに見えるこの形態は、<価値体上着としてのリンネルの与える規定>という関係規
定が、上着の自然的形態のままに価値属性として受けとる転倒をともなって、価値関係の
前提での規定が外され、労働生産物の自然的属性としての価値属性となって、物と物との
関係となって、物神性をも示していくのです。

 最後に、大谷先生のこの等価形態の説明の混乱は次の彼の説明が良く示しています。
「商品Aの等価物は、商品Aにとっての価値鏡であり、価値体なのです。」(大谷P68)

 等価物上着が価値鏡の役立ちをしたのは、①相対的価値形態の成立において、価値形態
となり価値鏡となっていたからですし、そして、②等価形態の成立において、価値鏡の役
立ちを直接的に価値形態になることで、果たすことで、両極で物象の判断としての「反省
規定」を示していたからです。したがって、価値形態としてではなく価値体としての上着
の規定性にてーーできることはーー価値としては、<リンネルも上着も等しい>との表明
のみであり、この反省規定ができず何もやることができません。空論なのです。
 マルクスは、等価形態の生成が、自明の前提にされるのはこの商品関係が諸物象の関係
として生成するのに、物と物の関係に転倒させてしまう等価形態の謎性にこそあると、批
判を提起してきたのです。
 しかし、大谷先生は、何一つとしてこの等価形態の謎を批判できなかったのです。
「価値表現の材料」であるとの等価物の形態の転倒した主張への批判はとても、困難なも
のです。
 以上のように久留間先生の根本思想がどこにあるのか?大谷先生の語りを批判するなか
で、見つけ出してきました。また次の久留間先生の批判のところに戻ります。

  価値形態の理解を誤った久留間理論への批判
 久留間先生の価値表現の廻り道についての主張は、『価値形態論と交換過程論』の後
編での宇野経済学への批判です。次の所が、彼の主張、彼の依拠する考え方を表明したも
のです。私が、彼の主張の独自性を選び出し区分をし番号をつけてみました。

  ①「だが上着が等価形態に置かれるのはリンネル所有者の欲望の対象であるから
  であるが、等価形態に置かれた上着がリンネルの価値を表現表現しうるのは、リ
  ンネル所有者の欲望の対象であるからではない。
  ②上着がリンネル価値を表現しうるのは、上着がリンネルに等置されることによ
  って上着に対象化されている労働が、リンネルに対象化されている機織り労働に
  等置され、
  ③かくして裁縫労働そのものが特殊な具体的労働がそのままーー機織りとの間に
  共通な人間労働の実現形態にほかならないものと看做されることによるのである。
  ④これによってはじめて上衣は、上衣という特殊な使用価値の形態のままで人間
  労働の直接的な体化物、すなわち価値物としての定在においてはじめて上衣はリ
  ンネルの価値を表現しうるのである。」(『交換過程論と価値形態論』P71)

 この主張について、批判された宇野先生も、色々な反対論を提起しているが、しか
し、世間では久留間先生のこの主張がそのまま「価値形態論」の通説となっている。
 ③ ④での主張が彼の基本なのですから、『貨幣論』での、相対的価値形態と等価形態
の理解への根本思想で、そのことへの表明を紹介しています。

  「・・・先に言った、上着が等価形態に置かれることによって上着の使用価値は
  価値体という形態規定を新たに与えられているのだということ、そしてこの形態
  規定における上着の使用価値の形態で、リンネルはそれ自身の価値を、それの使
  用価値から区別されたものとして表現しているのだということ、ーーこのことが
  わかればよいので、右に述べたいろいろの関連のうちのどこまでが回り道の範囲
  に属するかという点に僕は重点をおいていたわけではないのです。」
   (『貨幣論』P123)

 この久留間先生の主張には、
①相対的価値形態と等価形態の両極が如何にして成立したのか
②「簡単な価値形態の総体」で示された、労働生産物が如何にして商品に転化したのか
と、まずマルクスの置いた課題設問がありません。
やっとそんなことが、この自身の追求のなかで見えてきました。
そのような課題設問を、明確にしていたわけではないので、また再度この問題意識から
久留間先生の理論の再検討に挑戦します。



 

維新松井知事に疑惑

 投稿者:リベラル  投稿日:2017年 2月26日(日)00時26分18秒
返信・引用
  怪しい事実が出るわ出るわの“安倍晋三小学校”国有地払い下げ問題。森友学園が建設中の「瑞穂の國記念小學院」へのスピード認可に疑いの目が注がれているが、実はそもそもの申請をめぐっても新たな疑惑が浮上した。大阪府が2012年に「私立小学校の設置基準」を緩和しているのだが、どうにも不自然な改正で、森友学園のためだったのではないかという疑いがあるのだ。

 大阪府では12年以前は、借り入れのある幼稚園法人の小学校設置は一切認められていなかった。幼稚園を借金経営しているような法人には、より規模の大きい小学校は任せられないという趣旨だ。しかし、12年4月、松井一郎知事の下、突然、「借り入れありの幼稚園」にも小学校参入の門戸を開く。基準の改正は議会の可決も不要。1カ月間のパブリックコメントも「意見なし」で、公開からわずか2カ月であっさり改正が施行されている。
■改正以降の5年間で申請をしたのは森友学園だけ

 大阪府は「幼稚園法人等であることをもって認めないということは合理的な理由がない」(教育庁私学課)と改正理由を説明するが、大阪産業大客員教授の八幡義雄氏(教育学)は首をかしげる。

「社会的なニーズに逆行する改正です。最近は、子どもが少ないので、小学校の統廃合が課題になっている状況。新規で小学校を立ち上げるには、よほど健全な財務状況の法人でないと手が出せません。小学校の経営破綻を避けるために、入り口で財務審査を厳しくするならわかりますが、大阪府の基準緩和は理解に苦しみます」

 実際、森友学園は改正の翌13年、問題の国有地取得要望を表明。14年10月に大阪府に「学校認可申請書」を提出し、15年1月に「認可適当」の答申を勝ち取っている。
大阪府によると、12年の改正以降の約5年間で、小学校の設置申請をしたのは森友学園ただ1校。これでは、森友学園のために基準を緩和したようにも見える。「森友学園の借り入れの有無はお答えできない」(教育庁私学課)というが、大阪府私立学校審議会の議事録(14年12月18日)には〈借入がね、今持っているもの(預貯金等)よりもオーバーしているわけですね〉という記述がある。申請時に借り入れがあったことは想像に難くない。現在も定員の大幅割れや財務状況が不安視され、4月開設にGOサインが出ていないほどだ。

 森友学園の籠池泰典理事長は、幼稚園の保護者に配布した資料で、「維新の会」の橋下徹前大阪市長や松井知事との近しさを表すとともに絶賛している。松井知事は何のための基準緩和だったのか説明する必要がある。
 

 等価形態の謎性 の 再版と初版での追求について

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 2月24日(金)22時48分17秒
返信・引用 編集済
  ①簡単な価値関係において、左辺に対しての右辺の商品が価値を代表するといえるのは、
右辺の商品がその属性としての直接的交換可能性を有していることを、批判してのみ述べ
ることができます。
 等価形態にてはその右辺の上着が価値を代表し、その上着にて価値表現する左辺のリン
ネルは、価値形態上着を形成することで価値を表現しているという、相対的価値形態の対
極的形態を持つからです。
 このことは、なるほど自明なことであります。
もうすこし、等価形態が価値を代表している、という視点を主張している人は少数ですか
ら現行版のその「第一の独自性」ではどうであったのか、ふりかえってみよう。次のよう
な一文であります。

  「等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、
  価値の、現象形態になるということである。商品の現物形態が価値形態になるの
  である。」(資本論 原P70~71)

 そしてその特徴について、次のようにまとめています。

  「等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値
  を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、
  まさにこのことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル
  商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められている
  だけである(21)。」(同上原P72)
  註21
  「(21))およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、
  この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうから
  でしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと
  思うのである。」

 しかし、この「生まれながらに価値形態をもっている」ーー<等価形態上着>ーー
を提示して、そのつぎに、
  「彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現が
  すでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。」
(同上)ーーとマルクスは述べているが、これだけでは、この事態をどう解読していくの
か???我々には全く了解不能です。何がどうなのか?理解できません!

 さて、この「生まれながらに価値形態をもっている」ーー<等価形態上着>ーーに
対してのマルクスの解読視点のーーそこにあるものは、註21の提起のみであります。この
謎の追求が、この前に、初版はどうであったのか見ておきましょう。

②この再版での註21は、初版でも同じく註21として示されています。
ここが難解な価値形態論を解読していく斬り込み点・視点でありますので、初版の等価形
態の展開ではどうであったのか点検してみよう。初版 価値形態論の三段落です。

  「リネン価値の上着への表出は、上着自体に新しい形態を刻み込む。実際のとこ
  ろ、リネンの価値形態とは、上着がリネンと交換可能であるということである。
  売れる売れないはともかく、上着というあるがままの実物形態、交換可能な使用
  価値の形態、あるいは等価物の形態をもっている。等価物であるという規定は、
  商品が価値一般であることを含むだけでなく、商品がそれの物的な形態で、それ
  の使用価値のままで、他の商品にたいして価値として通用し、したがって、直接
  にそのままで、他の商品にとっての交換価値として登場するということを意味す
  る。」(初版 今村訳 P286~287)

 このようにあらためて、記述してみると、この提起の意義について再確認することが必
要となってくる。

  ここでの提起である第一は、「上着がリネンと交換可能である」、との主張の意味に
ついて問われています。上着がこの等式においては、リネンの価値形態上着 と示され、
第二に、この対極に、リネンの価値形態である交換可能性の対極に、
「上着という・・交換可能な使用価値の形態、あるいは等価物の形態」と示されている。
だから、ここには、相対的価値形態と等価形態とが、価値形態論の前提にされるのではな
く、こうやって形成されたのですよ・・と述べられている。
 ここ、この点は、その点を前提にする今日のマルクス経済学・久留間ー大谷理論、そし
て宇野経済学の両者・日本のマルクス経済学的常識とは異なることが主張されていたので
す。この立場に立って、論を進めていきます。

 ③しかし、等価形態では、上着は「価値の現象形態・・としての上着」になること
で、価値関係の質的側面を示しているはずなのに、そこには転倒が生じていて、そうでは
なく、リンネルは<量的側面のとしての>「目の前にある価値体としての上着に関係させ
られているのである」(初版 今村訳 P294)と、冒頭のこの等価形態の主張とは異な
ることが述べられています。この転倒の意味を探るのが、この論での第一の目的でありま
す。

 (等価形態論に入った三段落から、とばして、十一段落の論議へとまずは跳躍する
  議論になります。まず、註21の提案された初版のその十一段落へとたどり着きま
  しょう。)

 抽象的人間労働の体化物として右辺の上着は等価物となっているのですが、それはまず
は量的側面であり、質的側面としてはそれは相対的価値形態の反対極ですから、第一に価
値の現象形態と形態規定を受けとることで、<等価物の形態>とされるのであり、そのこ
とで、価値形態の規定を受けとるのです。この規定を受けているかぎりで、上着は量的側
面においても<価値体>なのです。右辺の規定、右極にいるかぎりで上着は<価値体>で
あり、そして価値形態なのです。
等価形態上着が直接的に価値の現象形態を受けとるとしても、それは、左の極で、価値形
態上着の規定を受けとることで、相対的価値形態が形成された反省規定なのです。

 しかし、これは物象の行う反省規定ですから、人々には、自然の成り行きのように、
人々の感知せざる出来事のように事態が進行しているように、見えている・現象している
のですから、等価形態の追求だけではなく、両極の形態の成立のいかに、が追求されてい
るのです。

 マルクスは両極の形態の成立とは?いう視点に立って、等価形態の成立を探求している
のです。そこで十一段落の提起になります。

  「上着の等価存在はリネンの反照規定にすぎないのである。ところが自体はまる
  で逆に見える。(自然的な孤立した存在のままにリネンに対して役立ちをなして
  いるーー杉本の付加・以下同じ)上着がリネンがなくても何ものか(価値体)で
  あるからである。(そこで、等価物上着は自然的形態のままに存在し)だから、
  上着にリネンが関係することの最終成果、つまり上着の等価形態・直接に交換可
  能な使用価値としての上着の規定性は、・・たとえば暖かさを保つ上着の属性と
  全く同じように、(商品)上着の物体的属性であるかのように見える。」
  (今村訳 同書P294)

 さてこの提起によってやっと、この初版の十一段落での註21の提起と、再版註21の提
起とが同じことがらの提示であったことが示されています。そこで初版で示されているこ
との転倒を示しているのが、再版での「等価形態の謎」であることが了解できます。

 しかし、マルクスはこの初版十一段落ではこの両極の形態が示されるのに、物象の諸関
係は、この事態ーー等価形態が直接的交換可能性の形態として相対的価値形態に対立して
いることーーを自らの諸関係のなかで隠蔽すると述べています。だから、知的分析だけで
はダメだと彼は主張しているのです。

 そこで、なんともこの論述を理解することの難しさに慨嘆してしまいます。

④どう理解を進めていくのか何度も思考を重ねていくと、二つの記述の相違をこそマルク
スは指摘していたと思えたのです。

 始めから指摘していた、価値を表現し価値体となることが両極の形態で成されるという
ことへの質問・疑問こそが回答を導き出すのです。

  はじめには、「リネンと直接交換可能なもの」が、
  「リネン自身の価値の現象形態としての上着」と規定されていた。
  しかし、後者では、
  「抽象的人間労働の感覚的に実在する顕現としての目の前にある価値身体として
  の上着に関係」と述べているのです。
  この対比・相違、この違いへの疑問こそがすべてなのです。
  後者に対象的規定をあたえるのが、物象の判断なのですから、勿論大量生産も度
  が過ぎれば、価値は僅かしか・いや・全く対象化されないこともあるのです。
  左辺での物象の価値形態としての形態規定がなされないのです。
  上着を価値形態と規定することで相対的価値形態が形成され、それを受けて直接
  的に上着は価値形態を受け取り等価物の形態が形成され、商品形態が成立するか
  らです。

 このように、
 <物象の判断にもとずくーー物象の人格化であり、人格の物象化であるという定式>
の追求をこそを成し遂げなければならないのです。
 このような質問ー疑問ー回答を重ねていると、これらの疑問に対してマルクスが初版附
録において回答しているのではないかと、思えたので紹介してみます。

 〈β 等価形態の第二の特性。具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働に
  なる。
   上着はリンネルの価値表現において価値体として認められており、したがって、
  上着の物体形態または現物形態は、価値形態として、すなわち、無差別な人間労
  働の、単なる人間労働の、具体化として、認められている。

  しかし、それによって上着という有用物がつくられてその特定の形態を得るとこ
  ろの労働は、抽象的人間労働ではなく、単なる人間労働ではなくて、一定の、有
  用な、具体的な労働種類--裁縫労働である。
  単純な相対的な価値形態が要求するのは、一商品たとえばリンネルの価値がただ
  一つの別の商品種類だけで表現されるということである。
  しかし、この別の商品種類がなんであるか、ということは単純な価値形態にとっ
  てはまったくどうでもいいのである。
  商品種類上着ではなく、リンネルの価値は、商品種類小麦ででも、あるいはまた
  商品種類小麦でではなく商品種類鉄、等々ででも、表現されうるであろう。
  しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価
  物はリンネルにたいして価値体として、したがってまた、単なる人間労働の具体
  化として、認められているであろう。

  そしてまたつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であ
  ろうと鉄であろうと、抽象的人間労働の具体化ではなくて、裁縫労働なり農民労
  働なり鉱山労働なりとにかく一定の、具体的な、有用労働種類の具体化であるこ
  とに変わりはないであろう。

  だから、等価物の商品体を生産する特定の、具体的な、有用労働は、つねに必然
  的に、単なる人間労働の、すなわち抽象的人間労働の、特定の実現形態または現
  象形態として認められなければならないのである。たとえば上着が価値体として、
  したがって単なる人間労働の具体化として、認められうるのは、ただ、裁縫労働
  が、それにおいて人間労働力が支出されるところの、すなわち、それにおいて抽
  象的人間労働が実現されるところの、特定の形態として認められているかぎりに
  おいてのみのことである。〉(初版国民文庫版141-2頁)

   右辺の上着が価値体ーー抽象的人間労働が実現されるところの価値形態として
  相対的価値形態と対比されることで、この価値体の価値形態への物象の判断の提
  示・・・がなされたのです。
  こんな実践的規定をこそ、この難解極まりない価値形態論が為していたのです。

 このようにマルクスは商品世界での物象の判断にて価値体上着などなどがリンネルの価
値形態として相対的価値形態を形成し、対極で、等価形態を形成できるかの薄氷を毎度踏
んでいる恐怖世界を描き出したのです。

 なんとも開いた口が塞がらない!!!とはこのことです。あまりに奇想天外ですが、し
かしこの物象の判断が、両極での価値形態を形成することで、相対的価値形態と等価形態
を生成し、物象の人格化ー人格の物象化についてマルクスは言及していることを私達は見
抜かないと、この論述は全くの空想であり作り話になってしまいます。





 

簡単な価値形態の理解について

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 2月24日(金)09時22分44秒
返信・引用
   <次の点をのみ転載させて頂きます。後に意見を書いてみたい>
http://www.geocities.jp/liberationsya/assb24-5.pdf
24巻第5号 からの転載



  Alternative Systems Study Bulletin

メール版 第24巻第5号(2016年12月25日)トランプ登場の背景を論ず
(『情況』3 号寄稿文)榎原 均(ルネサンス研究所関西運営委員)
フレデリック・ロルドン宛手紙



 簡単な価値形態

 ではさっそく、『初版資本論』に則して私の理解の根拠を示すことにしましょう。
 商品の価値形態とは、二つの商品の関係ですが、関係を把握する論理学はヘーゲルに
あっても未開発です。マルクスは簡単な価値形態の分析で、関係を把握する論理を展開し
ているのですが、問題は価値の現象形態が感覚ではとらえられず、超感性的なものである
というところにあります。
 価値の現象形態それ自体は人間の感覚ではとらえられません。逆にいえば人間が感覚に
よってとらえられる価値形態は、超感性的な現象形態が人間の感覚に与える幻影的形態で
あり、それ自体は現象形態の正体を覆い隠すものだということになります。

 X 量の A 商品=Y 量の B 商品 この簡単な価値形態において、X 量の A 商品の価
値が、Y 量の B 商品の価値に等しい、というように人々は理解するのですが、価値の現
象形態はそのような常識的理解の彼方にあります。なぜ異なる使用価値をもつ商品の価値
が等しいという関係がどのようにしてつくりだされているのでしょうか。
 常識的理解はこのことについて一切思考することを断念しています。
ここでの問題は、異なる使用価値が価値という等しいものを表示しているのですが、その
表示のメカニズムを解き明かすことです。

 X 量の A 商品が Y 量の B 商品と価値が等しい、という人間の把握とは異なって、
X 量の A 商品が Y 量の B 商品と等しくあるためには、B 商品の使用価値自体が A
商品の価値の表示者である、という関係をつくりださなければならないでしょう。
そうすると、この関係のなかでは、B 商品の使用価値が A 商品にとっては価値以外の何
ものでもないと見なされていることになります。

 このことは同時に、A 商品も価値以外の何ものでもない B 商品の使用価値と同等なも
の、つまりは価値であるということを表示することになります。
 この関係(簡単な価値形態)では、このような回り道によって、A 商品の使用価値も
B商品の使用価値も、同じ価値として現象するのです。この現象においては、使用価値が
捨象されており、異種労働の抽象的人間労働への還元がおこなわれていて、これはある種
の抽象作用です。人間の思考の論理の場合、抽象は分析的にしかなされません。それとは
異なって、二つの商品の価値関係にあっては、双方が関係することで抽象がなされます。

 これは事態抽象と呼ばれていますが、これが思考の論理による抽象作用とは異なるもの
なので、思考の論理的理解の彼方にあります。思考の論理的理解の彼方にある抽象作用に
ついてはそれとして了解する以外にありません。人間以外の外の主体である商品価値の存
在の仕方についての了解が、ここでは求められているのです。

 二つの商品の価値関係において、価値がどのように現象しているかについてこのように
読み解くことで、一つの形而上学的・神学的事態に直面します。それは、この関係におい
ては、B 商品の使用価値が価値の化身とされていることです。この事態にマルクスは形態
規定と名付けました。関係において、一方の極が、他方の極からの働きかけによって、自
然的形態とは別の社会的質を与えられること、価値関係の場合は、使用価値という商品の
自然的形態が価値という社会的なものの化身とされているのです。これがマルクスが明ら
かにした価値形態の秘密です。

 私見によれば、これが物象化の原理をなしています。
しかし、人びとの感覚には自然的形態は把握できても社会的なものは把握できません。こ
うして自然的なものが生まれながらに価値の化身という属性をもっているかのような幻影
的形態が生み出されます。これが物神性の原理です。

 

Ⅱ.ヒルファーディングの誤りについての詮索

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 2月 1日(水)17時23分57秒
返信・引用
  榎原さんの『ASSB』誌からの転載 です。疑問点があれば、後に展開してみよう

Ⅱ.ヒルファーディングの誤りについての詮索
    榎原 均
http://www.geocities.jp/liberationsya/assb24-5.pdf
24巻第5号 からの転載



 ヒルファーディングの貨幣論
 すでに書いたことでもあるので
(『ASSB』23 巻 1 号、「マルクス価値尺度論の再興」)まずは批判の視点を列記して
おこう。

 ヒルファーディングの貨幣論は、金融資本の分析のための導入として用意されていて、
『資本論』の貨幣論を信用論展開の観点から組み替えている。その際に、諸商品の共同行
為に注目しているが、それと商品所有者の共同行為とを同一視している。しかし、諸商品
は自らは動けないし、社会的象形文字として自己を表示するだけである。だから、商品所
有者たちは、自己の商品に自分の意志を宿し、単一の商品でそれぞれ自己の商品の価値を
表現することで無意識のうちでの本能的共同行為を行い、その結果、貨幣が生成される。
貨幣が生成されると、商品所有者たちの意識は、物象化による物神性に捉われて、貨幣に
価値があるから諸商品が買えると考えて、自らの共同行為は意識にのぼらない。諸商品へ
の価格付けが、貨幣生成の共同行為への参加であることは意識されない。ヒルファーディ
ングは、諸商品の共同行為と商品所有者たちの共同行為を同一視しているので、この共同
行為を意識されたものとみなしてしまい、国家による管理を展望している。その結果、価
値尺度論が欠落している。このことは、諸商品の共同行為から貨幣の必然性を説くと、貨
幣の価値尺度機能が規定できないことを示している。より詳しく検討しよう。

『金融資本論』第 1 章 貨幣の必然性、では、貨幣の必然性が、価値形態論からは説か
れてはいない。計画経済との対比で、資本主義を交換から説き起こしている。交換―>商
品―>労働時間―>価値の表示、という順序だ。ただし、次のように商品たちの共同行為
として貨幣を捉えている点は面白い。

「人間たちが共同して、彼らの仲間の一人に、彼らの名において特定の諸行為をなす資
格を、認めるように、商品たちもまた、その名においてこの商品世界における市民権――
完全市民権または不完全市民権――を受ける商品を彼らの側で認証するために、共同せね
ばならない。しかし、諸商品が共同しうる唯一の形態は、それらの交換である。なぜなら
ば、社会主義社会における社会的意識にあたるものは、資本主義社会では市場における諸
商品の社会的行為だからである。市民的世界の意識は、市価表に還元されている。ただ交
17

換の成就を通してのみ、個人は全体の法則を経験する。個人が交換に成功したときにのみ、
彼は、社会的に必要なものを生産したという証明をもつ。ただそのときにのみ、彼は新た
に生産を開始しうる。かように諸商品の共同行為によって、いっさいの他の商品の価値を
表現する資格を認められている物、――これが貨幣である。商品交換そのものの発展ととも
に、この特別な商品の資格認証も同時に発展する。」
(『金融資本論』国民文庫、上、25~6 頁)

 しかし、商品たちの共同行為と、商品所有者たちの共同行為とは異なる。諸商品の共同
行為は、貨幣を生成するには至らず、ただ商品所有者にサインを送るだけである。サイン
を受けとめた商品所有者の共同行為は無意識のうちでの本能的共同行為であり、商品に意
志支配されているのだがヒルファーディングはこのことをみていない。

 次に、価値形態論の簡単な紹介があり、以下のように貨幣生成が説かれる。
「単純な価値表現、たとえば 一枚の上着=20 メートルの亜麻布 というような表現は、
すでに一つの社会的関係を表現している。しかし、この関係は、ただ偶然的で個別的であ
ってはならない。商品生産が社会的生産の一般的形態となるに至れば、無数の交換、した
がって無数の価値等式において、社会的物質代謝が、したがってまた労働する人々の社会
的関連が、貫徹される。交換における諸商品の共同行為、これが、個人の私的な具体的な
労働時間を、価値を形成する一般的な社会的に必要な抽象的な労働時間に、転化する。諸
商品は、全面的に交換において相互に自分を計り合いながら、同時にますます頻繁に一つ
の商品において自分を計る。この一つの商品が貨幣となるためには、ただ習慣的に価値尺
度として確定されさえすればよい。」(同書、26~7 頁)

 ヒルファーディングはこのように価値形態の発展をまとめているのだが、しかし価値形
態の分析のなかに交換を持ち込んで、交換における諸商品の相互の社会的労働への転化と
価値の相互の尺度しあい、ということから貨幣の生成を説いている。つまり交換過程にお
ける商品所有者の共同行為に先立って、交換における諸商品の共同行為を説いているのだ。

 価値形態論と交換過程論が合体され、諸商品の共同行為をキーワードに貨幣の生成が恣
意的に述べられている。

「かくして、一般に社会的生産および再生産を可能にするためには、諸価値の交換が必
要である。ただかようにしてのみ、私的諸労働は社会的に承認され、検量され、諸物相互
の諸関係はそれらの生産者たちの社会的諸関係となる。したがって、交換がいかように行
われようと、貨幣によって媒介されていようと、そうである。したがって、貨幣は、価値
として、他の各商品と同じに商品である。そして、貨幣が価値をもつという必然性は、直
接に商品生産社会の性格から生ずるのである。」(同書、27 頁)

 価値形態と交換過程とを合体させることは混乱であるが、どうやらこの混乱は、交換を
諸価値の交換と見ているところから発しているようだ。商品交換で交換されるものは商品
の使用価値で価値は交換されない。商品交換では価値は手放されない。商品交換を、使用
価値の交換ではなく、価値の交換と見るならば、価値形態は価値の交換の形態ということ
になり、交換過程と合体させられてしまうだろう。また、貨幣が価値をもち、それが商品
金の価値であるという説明も誤っている。貨幣としては金は価値尺度であり、貨幣自体は
価値をもたない。

 この後もヒルファーディングは、第 2 章 流通過程における貨幣、第 3 章 支払い手
段としての貨幣。信用貨幣、第 4 章 産業資本の流通における貨幣、というように、延々
と貨幣について述べているが、重要なポイントは、彼が、マルクス主義の側からの金廃貨
論の先駆者であることで、これについては前掲『ASSB』論文を参照されたい。いちいち
コメントしているときりがないので、ここで打ち切りたい。

 次に、利子生み資本の原理的解明が欠落している点について考察しよう。
 

一般的価値形態と 一般的相対的価値形態と一般的等価形態の関連について

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 1月30日(月)18時05分42秒
返信・引用 編集済
   林氏の価値形態論の批判を掲げているのだが、遅々として進まない。
 進行してゆくためにも、今自分の課題としているものが何なのか?
 明示して行こうと思う。


 さて商品が交換可能であるのは?との質問をもつと、直ちに、使用価値リンネルや上着が価値であ
り、価値体であり、価値形態であるからだーーとの返辞が帰ってくる。
そして長年に渡って価値形態論に取り組んできたものからすれば、
①商品は、使用価値と価値形態の二重の姿態を持つ限りにて商品形態をもっているーーということで
あり、②次に、完成された商品形態を <商品ーー貨幣の二重の形態>をもつ限りにおいて得てい
るーーということを知っている。

 しかし、①労働生産物の商品への転化、その次に、②商品の貨幣への転化は如何にしてなされたの
か?との質問を発するとこれでは返答ができなくなってしまう。そして、①への回答は、恐ろしく難
しくて、学びは停止してしまう。しかし②への回答は、だんだんとした学びのなかで出来上がってく
る。それは、<C一般的価値形態>での次の一文の掲示にある。

「これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。」

それが記載されている個所を掲示してみよう。

 <資本論現行版><C一般的価値形態>
 第六段落
 「(イ)前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その商品
とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。(ロ)どちらの場合にも、自分に
一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なし
にこれをなしとげるのである。(ハ)他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な
役割を演ずる。

(ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。

(ホ)一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価
物で表現するからにほかならない。(ヘ)そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなけれ
ばならない。(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」で
あるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸
商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるの
である。」(江夏訳 新書版P113~114 原P80)

   ここから読み取れることは、
  「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立」し、
  「したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、
   明瞭に現われてくる」
   ーーという明快な回答です。

 さて、私達のなかに沸き上がってくる疑問、私達の意識しない、日々繰り返し行う作業であるーー
 「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態」にさせるーー商品世界の共同作業とはなにか?
ーーこの質問・疑問を自らのなかで、繰り返し問う作業が要求されるのです。ここが大切です。
四版の八段落に行く前に、初版の七段落の提示を再確認することで、「一般的相対的価値形態」
であり、「一般的等価形態」の一つでありながら二つの極の形態であることの意味が了解できます。

 <資本論 初版本文
 Ⅲ 相対的価値の第三、逆転したあるいは、あるいは逆関係になった第二も形態>
 <第七段落>
 「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各
  商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという
  形態をもっている。
  そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、
  しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあって
  いる。

  なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレ
  のリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。
  すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによ
  って、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。

  ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、
  これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直
  接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。
  だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能
  なものではなくなる。
  つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、
  すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。

  逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係する
  ことによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交
  換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的・社会的
  形態になるわけである。」
(江夏訳52頁)(今村訳 初版304頁)

 この初版での「回り道」は、わかったようで、分からない不思議な論証です。
諸商品は、「自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態」をもつかぎり
で、自身が、他商品との交換可能な形態をもっているーーというのは簡単に理解できることです。
この左辺に対して右辺のリンネルは、直接的に価値形態であるからだーーという最初の価値形態の分
析では何のことかわからなくなります。

 そこでその疑問へのその返辞が、こう述べられているのです。
「逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、
リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態」をえることで、
「したがって、直接的にリンネルの一般的・社会的形態になる」ーーなのです。
<私的ーー社会的>の両極の形態が成立することで、「一般的価値形態」が成立したのです。」
<私的ーー社会的>の両極の形態とは?一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態であります。

だから、次のことが大事です。
このとうりに、一般的な相対的価値形態と等価形態の両極の形態の全体においてのみ、商品はその社
会的な形態である「一般的な価値形態」を得ることができるのです。
そこで、初版から数段成長した現行の四版の記述に対前するのです。



<資本論現行版><C一般的価値形態>
【8】パラグラフ
 「(イ)商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物
  商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。
  (ロ)リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それ
  だから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。
  (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一
  般的な社会的な蛹化として認められる。
  (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会
  的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。

  (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている
  労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうする
  ことによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。
  (ヘ)このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のす
  べての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表
  わされているだけではない。
  この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。
  この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性
  格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。」
(江夏訳 新書版P 原P81)
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/3089c84b59ae181d571acdf7e6ac0095


まず第一の理解です。
「(イ)商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに一
般的等価物という性格を押しつける。(ロ)リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態な
のであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。」

 (ロ)「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態」とは?何か。
「商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける」ーー
に示されているように、一般的相対的価値形態から除外されたリンネルが、
一般的等価形態(リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうる)を受けとるための条件が述べ
れれているのです。「この世界の共通な価値姿態」とは、①単純な価値形態での等価形態が直接的に
(自然的形態のままに)価値形態であったので、この第三段階への進行では、②直接的にではなく、
「商品世界」での共通者を明示するもの・・としての「価値姿」をリンネルが受け取っているので
す。

(ハ)(ニ)で提示されていることは、前者と同じです。
商品世界から除外されたために、「価値姿態」という形態規定をリンネルは受け取り、
そのことでリンネルの形態が①「いっさいの人間労働の目に見える化身」になり、
②「リンネルを生産する私的労働が、同時に、・・すなわち他のすべての労働との同等性の形態」
になったのです。

そして第二への理解です。(ホ)(ヘ)はどう述べているのか?
ここではあれこれと考えが巡らせられますが、一般的等価形態での形態規定と、一般的価値形態での
形態規定が同じなのか?との問いへの回答なのです。
(ホ)リンネルを一般的等価形態での分析と同じく、「織布を人間労働一般の一般的な現象形態」・
(へ)だから、等価形態での分析と同じく、それは一般的相対的価値形態の反省規定として、存在す
るのだから、(ホ)の事項は、一般的相対的価値形態での分析と同じーーと述べられているのです。


 さて、次は〈二 相対的価値形態と等価形態の発展関係〉への理解です。
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/cf85a91e1753675233a50fca5ba49c43
〈二 相対的価値形態と等価形態の発展関係〉
 【1】〈(イ)相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。(ロ)しかし、こ
れは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしか
ないのである。〉

【2】〈(イ)一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。
(ロ)相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、これらの
商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。(ハ)最後に、ある特別な商品種
類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たち
の統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。〉

  <杉本駐 「統一的な一般的な価値形態の材料」
       ではなく、統一的な一般的相対的価値形態の材料であろう。>


http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/957c3d5b7dfa87f3634e1b621b846af9
【3】〈(イ)しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形
態と等価形態との対立もまた発展する。〉

【4】〈(イ)すでに第一の形態――20エレのリンネル=1着の上着――もこの対立を含んではいる
が、それを固定させてはいない。(ロ)同じ等式が前のはらから読まれるかあとのほうから読まれるか
にしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、あるときは相
対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。(ハ)両極の対立をしっかりとつかんでおくには、
ここではまだ骨が折れるのである。〉


【5】〈(イ)形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開し
うるだけである。(ロ)言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるか
らこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。
(ハ)ここではもはや価値等式――たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンド
の茶 または=1クォーターの小麦、等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格
を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。〉


【6】〈(イ)このあとのほうの形態、すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的
価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一
般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。(ロ)したがって、
一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあ
るのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのであ
る(24)。〉

【7】〈(イ)反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一
般的な相対的価値形態からは排除されている。(ロ)もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態に
あるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身の
ために等価物として役だたなければならないであろう。(ハ)その場合には、20エレのリンネル=
20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。
(ニ)一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのであ
る。(ホ)一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、
他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。(ヘ)こうして、いまでは、展開され
た相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉


資本論初版の 一般的相対的価値形態と等価形態 もまとめて紹介しておきます。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/c58f7075ff7f6ff80a8c4141712f5524
第28回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

 Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態

  1着の上着     =20エレのリンネル
  u量のコーヒー   =20エレのリンネル
  v量の茶      =20エレのリンネル
  x量の鉄      =20エレのリンネル
  y量の小麦     =20エレのリンネル
  その他       =20エレのリンネル
(《初版本文》46-7頁)(筑摩書房 今村訳P298〉

 商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である 1着の上着=20エレのリンネル
に戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさらに発展している。この等式はもともと次の
ことだけを含意している。すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着とい
う使用価値あるいは上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。

いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、したがっ
て、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにす
べての他商品が、いまでは自分たちの価値を、リンネルという素材で表現している。このように、す
べての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。すべての商品は量的に差
異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、x量の鉄等々、すなわちこれらのさま
ざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルにイコールであり、対象化された人間労働の同じ量
に等しい。こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠し
て、交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関係し
あい、質的に等置されて量的に比較される。

この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、し
たがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、得るこ
とになる。一商品の価値をすべての他商品の広がりのなかで表わすところの、相対的価値の発展した
形態(形態 Ⅱ )と区別して、われわれは、この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼
ぼう。〉(47-8頁)(筑摩書房 今村訳P298~299〉

二段落
  形態 Ⅱ において、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコーヒー,
または=v量の茶,または=x量の鉄,等々 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展さ
せているのであるが、この形態 Ⅱ では、リンネルは、一つの特殊的な等価物としての個々の商品
である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろの等価形態の広がりとし
ての全商品をひっくるめたものに関係している。

リンネルにたいしては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのも
のとしては認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは
一方の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれているとこ
ろの形態 Ⅲ にあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現
われている。
このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオン
や虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というもの
が、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。

自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、
動物や神等々のように、ある普遍的なものである。
だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一
の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的
な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけである。
だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態と
して、一般的な労働として、認められているわけである。
  (筑摩書房 今村訳P299~300〉

三段落
 商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、この表
示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであった。商品Bの体
躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別の有用な労働の生産物
でなければならなかった、というだけのことである。

上着は、自分の価値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係し
たし、まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネ
ル織りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうでも
よいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかったし、とにか
くある特定の労働種類でなければならなかったのである。

リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使用価値
の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他のすべての商品
種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価値形態にな
り、したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているの
は、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のす
べての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働であ
る、というかぎりにおいてのことなのである。

逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現
(形態 Ⅱ )にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。〉
(江夏訳48-49頁)(筑摩書房 今村訳P300~301〉

四段落
 〈価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現である。
交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価値として関係し
あっている。

諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的
な、労働に、関係している。これらの商品の社会的な関係は、もっぱら、それらが相互に、それらの
こういった社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同じであり、したがって互いに置き換
えが可能であるし互いに交換が可能である、というような表現--として認められているという点に
おいて、成り立っている。

有用物として一商品が社会的な規定を受け取っているのは、その商品がその所持者以外の人々にとっ
て使用価値であり、したがって社会的な必要をみたす、というかぎりにおいてのことである。

ところが、この商品の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させているかということにはかかわり
なく、このような属性によって、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象になるだけであっ
て、別の諸商品にたいしての商品にはならない。

単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品として互いに関係させ
ることができ、したがって、社会的な関係のなかに置くことができるのである。ところが、これこそ
が諸使用対象の価値なのである。だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認め
られているところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態
と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。

ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性
という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉(江夏訳49-50頁)
(筑摩書房 今村訳P301~302〉

五段落
 〈単純な相対的価値形態(形態 I )である 1着の上着=20エレのリンネルが、一般的な相対的価
値形態である 1着の上着=20エレのリンネルから区別されるのは、この等式が今では次の系列の
一環を形成しているからにほかならない。
 1着の上着=20エレのリンネル
 u量のコーヒー=20エレのリンネル
 v量の茶=20エレのリンネル
  等々

六段落
 つまり、形態 I は、じっさいには、リンネルが一つの単一の等価物から一般的な等価物に発展して
いるということによってのみ、区別されている。したがって、単純な相対的価値表現にあっては、
自分の価値量を表現する商品ではなく、価値量がそれにおいて表現されるところの商品が、直接的交
換可能性の形態、等価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ているとすれば、同じことは、一
般的な相対的価値表現についてもあてはまる。

だが、単純な相対的価値形態にあっては、この区別はまだ形式的であってぼやけている。
1着の上着=20エレのリンネル では、上着が自分の価値を相対的に、すなわちリンネルで、表現
しており、そうすることによって、リンネルが等価形態を得ているとしても、この等式は、20エレ
のリンネル=1着の上着 という逆の関係を直接に含んでいるのであって、この関係では、上着が等
価形態を得ており、リンネルの価値が相対的に表現されているのである。

相対的価値としての・および等価物としての・両商品の価値形態がもっところの、このように対称的
であり相互的である表示は、もう生じていない。1着の上着=20エレのリンネル 一般的な相対的
価値形態--この形態ではリンネルが一般的な等価物である--が、20エレのリンネル=1着の上
着 に転倒されても、そのことによって、上着は、すべての他商品にとっては一般的等価物になるの
ではなくて、リンネルの特殊な等価物になるにすぎない。〉
(江夏訳50-1頁)(筑摩書房 今村訳P302~304〉
上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態
であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。だから、諸商
品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、という結果
になる。

逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形
態から排除される。

リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、20エレのリンネル=20エレの
リンネルであろう。だが、これは同義反覆であって、この同義反、一般的な等価形態にありしたがっ
て絶えず交換可能な形態にあるこういった商品の価値量を、表現するものではない。むしろ、20エ
レのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=等々という発展
した相対的価値形態が、いまでは、一般的な等価物の独自な相対的価値表現になるのである。〉
(江夏訳51-2頁)(筑摩書房 今村訳P302~304〉

七段落
 「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現
物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういっ
た形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なもの
として、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー
=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商
品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量
として映りあっているのである。 (資本論 初版江夏訳52頁)〈同書今村訳P104〉

 A)ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士
  にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態
  として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、
  直接的に交換可能なものではなくなる。
  つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、
  それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象
  形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態
  が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接
  的にリンネルの一般的・社会的形態になるわけである。」
   〈同書今村訳P104〉<このAの部分『資本論の核心』P94引用〉

八段落
 「だから、一商品が、すべての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に社
会的な形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかなく、ま
たそのかぎりにおいてのことでしかない。すなわち、商品は総じて、それの直接的な形態がそれの使
用価値という形態であってそれの価値という形態ではないために、直接的に交換可能な形態あるいは
社会的な形態では、もともと存在していないからなのである。

九段落
 一般的な直接的交換可能性という形態を見ても、この形態が対立的な商品形態であり、非直接的交
換可能性という形態と不可分であるのは、あたかも磁極の一方の陽性が他方の陰性と不可分であるよ
うなものだ、といったことは、じっさいにはけっしてわからない。だから、すべての商品に直接的交
換可能性の極印を同時に押すことができると想像しうるのであって、このことは、すべての労働者を
資本家にすることができるかのように想像しうるのと、同じでである。ところが、じっさいには、一
般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、相互に前提
しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。(23)」(同上53頁)〈同書P104~105〉


 さてと、戦後の価値形態の論争の総括が迫られているのだが、
 宇野派 対 久留間ーー大谷派との議論は、少しも歩み寄られることもなく、
 長大な年月が重ねられていくばかりです。

 少しずつ、議論を再検討してみたい。

 

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