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崎山論文の紹介 ②

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月29日(木)12時30分20秒
返信・引用 編集済
  (先程の続きです。繰り返しから再度始まります。)
 また、等置関係における量の規定性について、初版本文ではそれを含み込んだままで議論がなさ
れている。商品語についての註釈で、「価値の大きさ― そして価値の大きさは価値一般と量的に計
られた価値との両方である」と述べていたことにこのことがはっきり示されている。商品語の〈場〉
にそくして言えば当然こうならざるを得ない。しかし、人間語の世界では価値形態・価値表現それ
 P20

自体に注目することがきわめて困難で、古典派経済学の学者たちはすべからくこの形態そのものに
着目することなくただちにその量的関係に目を奪われていた。この点を考慮してマルクスは第二版
では先ずは量的規定性を捨象して考えるべきだと言う。

  一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけ
  だすためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からはまったく離れて考察しなけ
  ればならない。人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、
  ただ、二つの商品種類のそれぞれの一定量が互いに等しいとされる割合だけを見ているのであ
  る。人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてからはじめて量的に比較
  されうるようになるということを見落としているのである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、
  これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。76)

この点でも第二版の方が論理的に緻密であり(再度述べるが、このこと自体、人間語の世界に固有に
要求されることだが)、理解を容易にするものとなっていると言える。だが、ここでは敢えて初版本
文に立ち戻り、自らを商品として示したいリンネルの「ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」振る舞
いについて詳しく跡付けておこう。
一労働生産物は一体どのようにして現実的に商品になるのか、またそのためになぜ価値関係・等置
関係に入らなければならないのかを明確にするためである。

 出発は一労働生産物であるリンネルが、自らを商品として示そうとするところにある。マルクス
 はリンネルの語る商品語を聴き取り、その言わんとするところを解説して言う。

 「価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明に結晶した労働の凝固をなして
  いる。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見され
  るかぎりでは〔...〕その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これら
  の労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と
  混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な〔dinglich〕表現として把握するた
  めには、それを現実に物〔Ding〕としているところのすべてのものを無視しなけれは?ならない。
  それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対
  象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。77)

 この「思考産物」=「頭脳織物」なるものは、人間語による分析的抽象の一結果であり、その理
路の結実である。それはあくまで抽象的な観念像て?ある。

 「ところが、諸商品は諸物象〔Sachen〕である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物
  象的に〔sachlich〕そういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物象的な
 〔sachlichen〕諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。リンネルの生
  産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されて
  いる労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値はリンネルの物体において反射
  されているのではない。」78)
 P21

 リンネルは単なる「思考産物」=「頭脳織物」であることはできない。純粋に社会的な抽象性で
ある価値は、単に思惟のうちにある抽象的観念像のままであるわけにはいかない。それは対象的な
形態、物象的な姿をとって現出しなければならない。しかし、リンネル価値が当のリンネル物体に
おいて反射されるなどということはあり得ない。なぜなら価値は純粋に社会的であり、リンネル物
体はどこまでいってもリンネル物体でありつずけるしかないからである。社会性は社会関係におい
てあるのであり、だから社会関係においてしか現われない。
 かくして労働生産物リンネルは、自らが価値物、すなわち商品であること示すために、自らと異
なる何らかの商品を自分に等置することが必要であったのである。
ここでの例では上着を自分に等置していた。

  [リンネルの]価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚
  的な表現を得るのである。リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時
  に使用対象としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル ‐ 物体に
  対立するリンネル ‐価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形
  態となるのである。〔..〕/〔..〕[この価値関係においては]上着はただ価値または労働凝固体
  としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ、労働凝固体は上着として
  認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められているので
  ある。79)

 このようにリンネルは他の異種の商品(ここでは上着)を自分に等置することによってはじめて現
実的に商品になる。かの回り道について言えば、位相の異なる二つの回り道が相互に関係しつつい
わば同時に辿られるわけである。ただ、論理的に言えば、商品に表わされた抽象的人間労働が価値
の物的根拠であり、だからこそ、この抽象的人間労働に関する回り道を根拠にして価値としての回
り道があるのではあるが。ともあれこの構造を人間語によって論理的時間順序に従い叙述するのに
はそもそも無理がある。

 では次に、以上のマルクスによる商品語の聴き取り・註釈を踏まえて、価値と価値実体の概念が
まさしくこの価値形態論で確定すること、つまり商品に表わされた抽象的人間労働の社会性が〈自
然的―社会的〉関係におけるものだけではなく〈私的―社会的〉関係におけるものでもあることが
どのようにして商品たち自身の関係のうちで実現されるのかについてより詳細に見ていこう。人間
語の世界ではこういう手続きを経ないと事態を正確に把握できないから。

 (iv)〈自然的規定性の抽象化〉過程に関して
   商品 A(リンネル)が商品 B(上着)を自分に等置することによって、商品 B に表わされている労
働が商品 A に表わされている労働に等置される。商品 B を作る労働は当然ながら商品Aを作る労働
とは異なっている。しかし商品 B をつくる具体的労働がそれと質的に異なる商品 A をつくる具体的
労働と等置されることになるがゆえに、まずB を作る労働の、その具体性有用性・自然的規定性が
抽象化されて、双方の労働に共通な質である人間労働に還元される(この過程を〈自然的規定性の抽
象化〉過程と呼ぼう)。論理的に言えばこのことの上で、商品 A をつくる具体的労働もまた人間労働
に還元された商品 B をつくる労働と等しいとされる限りで抽象化され、人間労働に還元される。こう
P22

して、商品 B を作る具体的労働がこの抽象化された人間労働として意義をもち、商品 B に表わされ
た具体的有用労働はそのままで対象化された・凝固としての抽象的人間労働の実現形態になる。か
くして商品 B は、そのあるがままの姿で、すなわち現物形態のままで、かかる抽象的人間労働の対
象化された物・凝固物として意義を持つものとして存在していることになり、商品 A と直接に交換
され得るものたる商品 B はその現物形態のままで、端的に価値物であることが示されている。つま
り商品 B は価値の現象形態になる。その上で、商品 A は、商品 B と異なる現物形態にありながら、
端的に価値物として・ただそれだけの意義を持つ存在物である商品 B と等しい物であることにおい
てやはり価値物であること、つまり、その価値を形成する限りで、商品 A を作る労働も抽象化され
た人間労働であり、その凝固物として商品 A が存在することが示されている。こうして商品 A は、
使用価値(現物形態)としては商品 B と異なるものでありながら、商品 B と等しい限りで抽象的人間
労働の凝固物であり価値であること、つまり商品であることが示されている。だが実は、ここでは
〈私的労働の社会的労働への転化〉がどのようになされたかが説明されてはいない。現実にはいま
述べてきた過程のうちにそれは果たされているのであるが、人間語による解説としてはこれを一体
的に明示的に述べることは不可能である。したがってこれについては項を改めて解説する。

さて、この価値関係の中では、商品 B はそのあるがままの姿で・現物形態で、価値を表わすもの・
価値形態になっている。価値体・人間労働の物質化として現われているこの商品 B と等しいものと
して、商品 A は自分の価値を自分の使用価値と異なる商品 B の体・使用価値で表す。ここまでくれ
ば、この価値関係に量的規定を入れて捉えることも困難ではなくなる。

 以上見てきた〈自然的―社会的〉関係における社会性について考えてみよう。
人間語による分析、思惟抽象とはまったく位相の違った過程がここにある。

 思惟抽象・論理的抽象と、二商品の価値関係における現実的抽象とはいかに異なっているか。先
に見たように、マルクスはまず人間語の世界において、二商品の交換関係を表わす等式を分析しそ
れが一体何を表わしているのかを探り、両商品を抽象的人間労働にまで抽象化した。その上でマル
クスは、そのような抽象的人間労働の凝固物として両商品は価値であると指摘した。等式が表わし
ている内実を分析的に抽象化し剔抉していく過程があったわけである。現実の価値関係における抽
象化はこれとはまったく違っている。
        商品 Aが商品 Bを自分に等値するというその現実そのものが、
一挙に自然的規定性の抽象化を成し遂げ、その結実を表現する。商品 Aが商品 B を自分に等置する
というその事実そのものが、商品 B を生み出す具体的労働の具体的有用性・自然的規定性を抽象す
るのであり、その具体的労働を抽象化された人間労働の実現形態にし、かくしてこの等置関係その
ものが、商品 B に表わされた具体的有用労働そのものを抽象的人間労働の現象形態とし商品Bをそ
の凝固態とする。
        かくして商品 Bを現物形態のままでその抽象化された人間労働の凝固物として意
義をもつものとし、商品 Bをかかる抽象的人間労働の凝固物として、現物形態(使用価値形態)のま
まで価値体とする。つまり商品 Bは価値の実現形態・現象形態になる。
        要するにここでは商品 Bを
作る具体的労働、その具体的労働の凝固形態、商品 B の使用価値形態=現物形態という一連の具体
的形態が抽象的なものの実現形態になるという抽象化が起こるわけである。
        これを抽象化という概
念で語って良いものかどうか躊躇せざるを得ない。思惟抽象ならば、思惟によって抽象化されたあ
る観念が抽出されるだけなのであるが、現実的抽象の場合、抽象物が現実に抽象物として存在する
わけにはいかないので、抽象物もまた対象的な形態で、すなわち現実の存在物として自己を表現し
なくてはならない。ここでは、厳として存在しつずける現物形態、つまり現実の物質あるいは事柄
P23

そのものが、そのままの姿態が、抽象化されたものとして意義を持つのであるから(ここで注意! 現
物形態の内的属性の一つとして抽象化されたものがあるわけではない)、現実のあるがままの存在が、
抽象的なものの実現形態にならざるを得ないのである。

 以上が商品 Bの側に起こった抽象化である。これに対して商品 Aではどうなるか。
        商品 Aは商品
B と異なる物=異なる使用価値でありながら、商品 B が現物形態のままで抽象的人間労働の体化物・
凝固物であり、かくして価値である、その商品 B と等しいことによって、同じく価値であり、また
自分に対象化されている労働が抽象的人間労働であり、価値を生み出すものである限りで商品 A を
作る労働もまた単なる人間労働であることとなる。
       つまりここでは、商品 B の側の現物形態への反
射・顕現という形で抽象化が行なわれているのである。ここにもまた、抽象化という概念の適用に
躊躇させるものがあるが、しかし現実的抽象のこれまた一方のあり方なのである。
 価値関係における現実の抽象化過程、すなわち現実の価値関係における〈自然的規定性の抽象化〉
過程は、今見てきたものであるが、具体的なものが抽象的なものの実現形態になるということ、し
かもそれが実際に生起するということは、分析的思惟には非常に捉え難い。
       具体的なものを抽象化
していくのが分析的思惟の自然な理路なのだから。もちろんヘーゲルに典型的なように、具体的な
ものを抽象的なものの実現形態であると観念の中で私念することはできるが、しかしあくまで現実
の過程においてそれを理解することは大変難しい。だからマルクスは初版本文において言う。

 「われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているので
 ある。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働
 を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別すする
 いうことは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合には、他方
 の形態においては考察しないのであるし、また逆の場合には逆である。これらの抽象的な対立物
 はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。
 商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用価値また
 は商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したが
 ってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的
 な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商
 品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合って
 いる。」80)

 このようにして商品 B の側、すなわち等価形態においては、具体的なものが抽象的なものの実現
形態・現象形態になるわけであるが、論理的には、これは明らかに奇妙であり転倒している。抽象
化された人間労働なるものが、商品 B を作る具体的労働において自らを定立し、人間労働の抽象的
な凝固態なるものが商品 B に対象化された具体的有用労働において自らを定立するというわけであ
り、また価値という抽象的なものが、商品 B の現物形態=使用価値において自らを定立するという
わけであるから。マルクスは初版付録の価値形態論でこれについて次のように述べている。

 「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なもの
 の、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なもの
 P24

  が抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。た
  とえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間
  労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるという
  ことが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫
  労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。〔...〕/こ
  の転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められる
  だけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないの
  であるが、この転倒こそは価値表現を特徴ずけているのである。それは同時に価値表現の理解
  を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは
  自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイ
  ツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関
  連は不可解になるのである。」81)

 このようなまったく奇妙な論理的転倒が現実に生じているのだ。等価形態の、この不可解さはど
うして生じるのかと言えば、等価形態が形成されるからである。ではなぜ等価形態が形成されるか
と言えば、商品の価値関係があるからである。そして商品の価値関係がなぜあるのかと言えば、商
品生産社会では人間の社会的関係が商品の価値関係としてしかありえない、つまりこの社会では、
類としての人間の社会性が、商品-商品関係に現われる転倒した社会性としてしかないからである。

こうした奇妙なこと・転倒は、自然物としての労働生産物 A や B に生じていることではない。人
間の社会的関係、すなわち商品A と商品B の価値関係において生じていることである。人々の社会
的関係がこうした転倒として存在しているのである。資本制生産社会における転倒性はこのような
までに徹底的である。だが、繰り返しになるが、具体的なものを抽象化していくのが人間の分析的
思惟の自然な理路であるので、普通はこの転倒を人々は理解できない。せいぜい錯視を云々するぐ
らいである。だが、人々は現実の日々の社会的行為においてこの転倒を生きているのである。

 (v)〈私的労働の社会化〉過程に関して
 では次に〈私的―社会的〉関係における社会性(これを〈私的労働の社会化〉過程と呼ぼう)が現実
の価値関係でどのように遂行されるのかを見ておこう。

 〈商品A =商品 B〉(商品リンネル=商品上着)という価値関係においては、商品B は商品A と直接
に交換され得るものとして存在している。つまり商品 B はそのあるがままの姿で直接的交換可能性
(unmittelbare(n)Austauschbarkeit)の形態にある。
                       このように、商品 B があるがままの姿で直接的
交換可能性の形態にあるということは、商品 B がそのあるがままの姿で社会的存在であると認めら
れているということである。こうして、商品 B に対象化された私的労働は私的労働のままで社会的
労働として認められていることになる。このように、まず、等価形態にある商品 B に表わされた私
的労働がそのままで社会的労働として認められる。
                      そしてその上で、つまりここでもまた〈回り道〉
を経た上で、これと等置されている限りで、相対的価値形態にある商品 A に表わされた私的労働も
また社会的労働として認められることになる。人間語による認識と叙述はこのように線形な時間順
序にしたがう以外にはない。だが、商品語の〈場〉で起きていることはこうした人間語の世界を超
え出ている。
     まさしく価値表現そのもののうちに、〈私的労働の社会化〉過程が含みこまれているの
 P25

であり、線形な時空を超えて、いわば一挙的に私的労働の社会化が実現されるのである。ただここ、
すなわち「相対的価値の第一の、または単純な形態」における社会性は、未だ低いレヴェルの社会
性でしかない。
       しかし、ここでも等価形態にある商品に対象化された私的労働である具体的労働が、
そのままで社会的労働として認められているということは厳然として生じているのである。価値表
現を問題にしない限りこのことはわからない。人間語による分析的抽象化を遂行していく世界では
あくまで価値表現を問題にしてはいないので、この過程を捉えることはできなかったわけである。

ところで、〈自然的規定性の抽象化〉過程だけでなく、いま述べた〈私的労働の社会化〉過程をも
踏まえた〈回り道〉の議論に関連して、久留間鮫造が指摘した『資本論』初版の誤訳問題も絡めて
少し触れておく。等価形態にある商品が直接的交換可能性の形態にあるという点を掘り下げて確認
しておく必要があるからである。
              価値関係〈商品 A =商品 B〉について、「商品 A は自分に商品 Bを
等置する」と捉えるべきであるにもかかわらず、「商品 A は自分を商品 B に等置する」と宮川実、
長谷部文雄が誤訳し、宇野弘蔵もまた彼の自著でそのように書いていることを久留間は指摘し、こ
のように捉えるといわゆる回り道が理解できなくなると指摘した(註 68)を参照のこと)。

この久留間の指摘はまったく正しく価値形態の理解の核心に触れている。
                             自分を現実的に商品として示そう
とする商品 A はあくまで自分自身ではその目的を果たすことができず、したがって相対的価値形態
の位置に座し、何らかの異種の商品 B を自分に等置し、それを自分の等価物とする。かくして商品
B は相対的価値形態に対する等価形態になり、商品 A と直接に交換可能なものになる。この等置が
価値関係である以上、つまり等置が価値におけるものである以上この価値関係の内部では、商品 B
をつくる具体的労働がそれ自体で価値形成労働に、そして商品 B に表わされた具体的労働そのも
のが価値実体たる抽象的人間労働の実現形態・現象形態となり、かくして、商品 B はそのあるがま
まの姿=現物形態のままで価値物となる(つまり、価値体として意義をもつ)。こうした迂回路を経た
上で、商品 A は商品 B と等しいとされている限りにおいてそれもまた価値物、すなわち商品である
ことが示される。
        以上のことは既に述べてきたことであるが、この一連の事態は「商品 A は自分を
商品 B に等置する」と捉えることからは決して描き出すことができず、把握できず、かくして価値
関係を理解することができない。
               なぜか。商品 A であれ商品 B であれ、その他どんな商品であれ、
商品はそれ自体では決して商品としての属性すなわち価値という属性を表わすことができず、ただ
価値関係に入ることを通してのみ、価値関係に入った上でだけ、価値という属性をもったものとし
て現実的に現われ得るからである。
               いかなる商品も、自分をあらかじめ価値だとして価値関係に入
るのではない。この点の理解は等価形態にある商品から見ると容易になる。何らかの商品に等置さ
れることによって、つまり等価形態に置かれることによって、その商品は相手の商品と直接に交換
されうるものという性格をもつのであり、それゆえそれは価値とみなされているのであり、それ自
体で価値物としてあるわけである。
                等価物にされるや否や、その商品は相手との直接的交換可能性
をもつものとなり、価値であることが示されているわけである。だからこそ、自らを現実的に商品
として実現しようとする商品は、何らかの異種の商品を自分に等置し、この等置によってその異種
の商品をまず直接的・非媒介的交換可能性の形態にし、つまり価値物とし、その上でそれと等しい
限りで自分もまた価値であること、その異種の商品と交換可能であることを間接的・媒介的に示す
ということになるのであり、それ以外にないのである。これと逆に、商品Aが自分を商品 B に等置
する、ということは、既に自分が相手との直接的な交換可能性をもつものであること、価値である
ことを前提とすることであり、それを前提として商品 B を価値物にすることになってしまうのであ
P26

る。もしそれが可能なら、労働生産物は商品形態をとる必要がないということになる。直接的な生
産物同士の交換、あくまで一定の価値規定を必要とするではあろうが、商品交換ではない直接的な
労働生産物の交換が実現されることになる。これに対して商品交換では、あくまで等置される方が、
等置されるというその受動性によって、相手との直接的・非媒介的な交換可能性をもつ、というこ
との理解がポイントなのである。

 ここで、一言注意しておきたい。この直接的交換可能性に関して、相対的価値形態にある商品(こ
こでは商品A)が等価形態にある商品(ここでは商品 B)に直接的交換可能性を与える、という表現を
している論者がいるが、これは間違った言い方である。商品A が商品 B に直接的交換可能性を与え
るのではなく、等置関係ができるや否や、商品 B は直接的交換可能性をもつ、すなわち、直接的交
換可能性の形態にあるのであって、直接的な交換可能性は、決して与えたり与えられたりするもの
ではないのである。与えうるのであればあらかじめそれをもっていなければならないであろう。商
品Aは決して直接的・非媒介的な交換可能性をもってはいない。商品 B と等しいとされるかぎりで
間接的・媒介的に交換可能性をもつのである。この等置における双方の意義の相違を理解すること
はきわめて重要である。等価物が等価物である限りでもつこの直接的・非媒介的交換可能性という
特質によって、完成された価値形態、すなわち貨幣形態においては、貨幣以外のすべての商品は貨
幣との等置によってはじめて、間接的・媒介的に交換可能性をもつのであり、貨幣は貨幣であるこ
とによってつねに直接的交換可能性をもつことになるのである。ここに貨幣の秘密があり神秘性が
ある。
   だからいま述べたことは単なる表現上の差異の問題に解消できないものなのである。直接的
交換可能性について、それを与えたり、与えられたりするものと考える典型例が岩井克人である。
彼はそのことによって、彼独自の「貨幣形態Z」なる荒唐無稽のものを案出したのである 82)。
岩井は、マルクスが示した直接的・非媒介的な交換可能性の形態とそうではない形態、すなわち間
接的・媒介的な交換可能性の形態との区別をまったく無視し、前者だけで考えているのである。
「直接的」と概念規定を岩井はどのように捉えたのだろうか。岩井がどのように考えたのかは別と
して、マルクスは次のようにはっきり述べている。これは初版本文の形態Ⅲ のところにあり、先
取りになるが引いておく。

 〔一般的価値形態における一般的等価形態にある〕ある一つの商品がすべての他の商品との直接
 的な交換可能性の形態をとっており、したがってまた直接的に社会的な形態をとっているのは、
 ただ、すべての他の商品がそのような形態をとっていないからであり、またそのかぎりにおいて
 のみのことなのである。言い換えれば、商品一般が、その直接的な形態はその使用価値の形態で
 あって、その価値の形態ではないために、もともと、直接に交換されうる、すなわち社会的な、
 形態をとってはいないからなのである。83)

  かくして一般的等価物に表わされた私的諸労働が直接に社会的労働として認められることにな
り、一般的等価物でない、その他すべての商品に表わされた私的諸労働は一般的等価物との等置に
よって間接的・媒介的に社会的労働として認められることになるのである。
 商品は、生来、一般的な交換可能性の直接的な形態を排除しているのであって、したがってまた
一般的な等価形態をただ対立的にのみ発展させることができるのであるが、これと同じこと
 P27

は諸商品のなかに含まれている諸私的労働にも当てはまるのである。これらの私的労働は直接的に
は社会的ではない労働なのだから、第一に、社会的な形態は、現実の有用な諸労働の諸現物形態と
は違った、それらには無縁な、抽象的な形態であり、また第二に、すべての種類の私的労働はその
社会的な性格をただ対立的にのみ、すなわち、それらがすべて一つの除外的な種類の私的労働に、
ここではリンネル織りに、等置されることによって、得るのである。これによってこの除外的な労
働は抽象的な人間労働の直接的で一般的な現象形態となり、したがって直接的に社会的な形態にお
ける労働となるのである。したがってまた、その労働は、やはり直接的に、社会的に認められて一
般的に交換されうる生産物となって現われもするのである 84)。

 (vi)価値の実体と等価形態の謎性
以上二重の社会化の過程、すなわち、〈自然的規定性の抽象化〉過程と〈私的労働の社会化〉過程
Ur- Form を経て商品 A は現実的に商品になる、と同時に、等価形態にある商品 B は貨幣の原
- 形態になる。

 この等価形態については更に次のことを述べておかなくてはならない。
商品 B がとっている形態である等価形態においては、具体的な形態、そのあるがままの姿態が、
抽象的なものの実現形態・現象形態に、また私的なものがそのままで社会的なものを表現する。こ
のことはただ商品の価値関係の内部でだけそうなのであるが、しかし、商品 B にあっては、具体的
なもの・私的なものそのものが、そのままの姿態で抽象的なもの・社会的なものを表現するので、
商品 B がそのあるがままの姿で、そもそも初めから、価値関係に入る前から、抽象性・社会性を内
的属性として持っているかのように人々の眼に映る。このような不可解さ、等価形態に生じる謎的
性格が、貨幣の持つ神秘的性格の基礎にあるのである 85)。

 等価形態にある商品 B(上着)に生じていることは、商品 A が自らが価値であること、すなわち商
品であることを示すために、自分に商品 B を等置したことから生起したことである。商品 A が自分
の価値を表現するために商品 B を自分に等置したのである。だから、この価値関係においては商品
A が主導的に振る舞い、商品 B はあくまで受動的である。つまり、商品 A(リンネル)が自らの価値
を表現すべく、つまり自らを現実に商品として示すために主導的に振る舞っているのだ。

  上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係
   のなかにあるのは、それが関係させられるからである。86)

 この〈主導―受動〉関係は商品語をしゃべるのが相対的価値形態にあるリンネルであるという点
にも現われる。リンネルが一方的にしゃべるのだ。商品語について〈はじめに〉に引用したもの、
その註 1)の中に引用したもの、そして(iii)の冒頭に引いた「リンネルは、ひとたたきでいくつもの
蠅を打つ」というマルクスの註釈にそのことが示されている。では、「関係させられ」ただけの商
品B(上着)は、黙っているだけなのだろうか、頷くぐらいはしているのだろうか。もちろん、人間語
の世界のことをあまり当てはめても仕方がない。ただ、等価形態にある商品のこの寡黙さがクセモ
ノなのだ。価値関係の中での商品 B の被規定性は、主導的な商品 A(リンネル)の反射規定である。
にもかかわらず、それが人々の眼には逆に見える。

 「上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまった
 P28

 く逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方で
 は、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリン
 ネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの
 関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被
 規定性は、たとえば保温するという上着の属性などとまったく同じように、リンネルにたいする
 関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。87)

 社会的であることの、等価形態に生じたこの不可解さ・謎的性質は、相対的価値形態にある商品
に現われる社会性との比較から、よりはっきりする。今度は第二版から引く。

  ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの
 身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するの
 だから、この表現そのものは、それがある社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価
 形態については逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物
 が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさに
 このことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての
 上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。しかし、ある物の諸属性
 は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかでは
 ただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属
 性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見
 える。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形
 態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現われるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な
 目を驚かせるのである。88)

 社会的であるということは、何よりも第一に自然的であるということに対する概念であるのだか
ら、それは人々の社会的関係において現われるのであり、決して自然的属性、すなわち自然物の一
属性のようにあるわけではない。商品A(リンネル)の相対的価値形態は、商品 A の価値存在を、商
品 Aの体・使用価値・現物形態とは異なる商品 B(上着)と等しいというその関係において表わすの
で、そこに社会性が示されている。ところが等価形態ではこれとはまったく別のことが生じている。

 商品 Bではその現物形態そのものが価値を表現し、この限りで価値は商品 B という姿をもって現
われているので、商品 B が自然形態のままで内的属性として価値という属性をもつかのように人々
の眼には映るのである。社会的であることがあたかも自然的属性のように、自然物の内にある属性
のように現われるのだ。ある自然物の自然的属性の場合は、例えば、それの質量、体積、熱容量等
のように、それと他の自然物との関係において顕現し表現されるので(ある何かを基準・単位・もの
さしとして)、このことと同じように価値という純粋に社会的なものさえも、等価形態にある商品 B
の生まれながらにもつ自然的な性質であるかのように人々の眼に映るわけである。こうして商品と
いう社会的な物、社会関係を体現した物象(Sache)は人々の眼には社会性が自然的属性のように捉え
られて単なる物(Ding)に見える。
商品として現われてはいない単なる労働生産物はあくまで物(Ding)である。これが商品になると人
々の社会関係を含みこみ・背負った物象(Sache)になる。だが人々
P29

の眼にはこの社会関係がそれとしては捉えられず、社会性をも自然的属性のように捉えられて商品
という物象(Sache)は自然物・物(Ding)に見えるわけである。これを最初の〈物〉と区別するため
に〈もの〉と書くことにする。ついでに言うと、商品は〈商品 ‐ 貨幣 ‐ 資本〉というトリアーデを
成し、これらのものは諸物象(Sachen)である。だが、先に引用したが、商品は次のように商品語で
語るのであった。

  もし諸商品がものを言うことができるとすれば、彼らはこう言うであろう。われわれの使用価
 値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物〔Dingen〕としてのわれわれにそなわって
 いるものではない。だが、物としての〔dinglich〕われわれにそなわっているものは、われわれ
 の価値である。われわれ自身の商品物としての交わりがそのことを証明している。われわれは
 ただ交換価値として互いに関係し合うだけだ、と。89)

商品は自分の〈体〉を〈忘れてしまう〉、ということであった。この行き着く究極の在り様が、商
品化した資本、すなわち利子生み資本形態をとる資本、種々の架空資本等である。これらの形態で
は物としての使用価値はまったく存在しない。自分の〈体〉を〈忘れてしまう〉どころではなくそ
もそも自分の〈体〉が存在しない。こうしてこれらのものは究極的に抽象的な〈もの〉をさえ通り
越してしまう。まったく〈体〉を欠落させた架空のもの、ただ〈未来〉に抽象的な〈もの〉に転化
することを当て込んだ架空の運動でしかない。こうしたところにまで突き進む端緒が、単純な価値
形態においてもその等価形態にはっきりと現われ出ているわけである。

 ここで、価値実体が文字通り実体としてどのように現実的な形で現われ出てくるのかを確認して
おきたい。商品 B(上着)は、商品 A(リンネル)に等置されることによって、商品 B に表わされた
労働が商品Aに表わされた労働に等置されることとなり、この等置によって商品 B を作る労働が単
なる人間労働に還元され、商品 B に表わされた個別的な・具体的有用な労働が、そのままの形で、
自然的規定性を抽象化された・人間労働の実現形態になり、また、あくまで相互に独立して営まれ
た私的労働の凝固であるそれが、そのままの形で、直接的交換可能性という社会性を表わす労働に
なる。こうして商品B に対象化された私的で具体的労働は、現実的に価値の実体と言うしかないも
のとなる。
     商品Bの使用価値・現物形態そのものが価値物として現われ、商品 B に凝固した私的で
具体的な労働そのものが、純粋に抽象的で社会的なこの価値を量化するものとして、実体なるもの、
しかも社会的な実体なるものを表わすことになるのである。
     人々の社会関係が、日々、膨大な価値
関係においてこのことを現出させているのであり、現出させざるを得ないのである。価値関係のな
かで、商品 Bに対象化された私的で具体的な労働がはじめて、現実的に価値実体を表わすことにな
るのである。単純な価値形態においては、そのことは未だはっきりと固定してはいないが、しかし、
社会的実体としてはっきりとこの現実世界に現われ出ているのである。

 (vii)初版本文価値形態論の形態IIに関して
 単純な価値形態においては、相対的価値形態にある商品(ここの例ではリンネル)は未だただ一つ
の商品(ここの例では上着)と価値関係にあるだけであり、商品リンネルの価値はただ一つの商品上
着で表わされているだけである。それはきわめて不安定な状態にある。出発は商品リンネルが自分
の価値を表現しようとするところにあった。リンネルの価値がより客観的に、より社会的なものと
 P30

して表わされる形態として、形態II、すなわち、展開された価値形態がある。

  20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄
  または = y 量の小麦 または =等々。

 第二の形態においては、〔...〕リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、
 つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ
 大きさのままである。〔..〕交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の
 価値の大きさが商品のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのであ
 る。 /〔...〕第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ
 直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表
 現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働の
 単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリン
 ネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているの
 である。90)

 リンネルに表わされた具体的労働はいまやきわめて多種多様な具体的労働を現象形態とする抽象
的人間労働と等しいものと認められ、かくしてそれは文字通り人間労働一般として認められ、リン
ネル価値はその人間労働一般の凝固体として価値として十全に認められていることになる。しかも
リンネルは他の種々様々の労働生産物たる商品と、間接的・媒介的であるとはいえ交換可能である
という社会性をもっており、リンネルに表わされた私的労働は他の種々様々の労働との同等性=交
換可能性という社会性をもつものとなっている。社会性の水準が飛躍した。

 ところで、形態Iでは相対的価値形態にあるリンネルだけが商品語でしゃべっていた。等価形態
にある上着は沈黙していた。そのことからすれば、この第二の価値形態では、喋っているのはただ
一つの商品リンネルだけであり、他のすべての商品たちは沈黙している。唯独り饒舌な商品リンネ
ルと、ひたすら沈黙している他のすべての商品たち。これはなかなか異様な光景である。だが黙し
ていることが直接的社会性を体現し一般性を表わしていた。相異なる、厖大な数の個々の商品に体
現された直接的な社会性と一般性、それらに対する唯一つの間接的でしかない社会性、という対立
構図は少なくとも人間語の世界では矛盾と言って良いであろう。この形態の不安定性は明らかであ
る。社会性の水準が今一段高められなければならない。

(viii)初版本文価値形態論の形態Ⅲに関して
「相対的な価値の第三の、転倒された、または逆の関係にされた第二の形態」=一般的価値形態に
移ろう。次のようなものである。
ーーーーー後は略ーーーーーー




http://

 
 

崎山論文の紹介 ①

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月29日(木)12時01分59秒
返信・引用 編集済
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/635/635pdf/inoue.pdf
     商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(3)
     ―『資本論』冒頭商品論の構造と内容―     井 上   康     崎 山 政 毅

 〈IV〉商品語の〈場〉― 価値形態
 (i)商品をつくる労働の特殊歴史的規定性について
 商品語の〈場〉に入る前に、特殊歴史的規定性を受けた、商品をつくる労働について少し述べて
おきたい。商品をつくる特殊歴史的な労働は、相互に独立して営まれる私的諸労働であった。この
私的労働の特有の社会性が他でもなく諸商品の等置関係・価値関係・交換関係においてはじめて現
P13


われ出てくる。だから私的労働が社会的労働として認められる過程は価値形態論がはじめてこれを
示すのである。個々の商品をいくら分析してみてもそれに表わされた労働はあくまで私的労働で
あって決して社会的労働として認められることはない。だが、それがまさしく商品であるというこ
とはそれが他の商品と交換され得るということ、当該商品に表わされた私的労働が他の私的労働と
交換され得るということであり、この交換関係においてはじめて商品に表わされた私的労働は社会
的労働として認められることになるわけである。だからマルクスは人間語による分析世界において
定立していた。もちろん人間語による分析においては価値表現自体=価値形態自
身を問題にしたわけではない。だから分析的抽象によって導き出された抽象的人間労働はあくまで
自然的諸規定・具体的有用的諸規定を抽象した限りでの社会性をもつものであって、それはそのま
までは私的労働に対する社会的労働として認められたものとして把握されているわけではない。た
だその分析的抽象化だ二商品の等置関係から、すなわち相互に交換され得るという社会関係から導
かれたことによって、陰伏的に(implicit)その社会性が語られていることになるのである。諸商品
に表わされた私的諸労働がまさしく現実的に社会的な労働として、どのようにして認められること
になるのかということは、だからこの等置関係・交換関係そのもの・その表現それ自体に立ち戻る
ことによってのみ示されることになる。

 商品に表わされた労働は、あくまで相互に独立して営まれる私的諸労働、社会的分業の自然発生
的諸環として全面的に依存し合ってはいるものの、にもかかわらずただ交換によってはじめて実際
に社会的総労働の諸環としてそれぞれが実証されるような、相互に独立しそれゆえ直接には依存関
係にない私的諸労働である。だからこそ人々にとっては、異種の二商品の等置において、はじめか
ら異種の労働を労働一般=抽象的人間労働として等置するなどということは可能ではないのであっ
て、二商品を直ちに交換価値にするのである。だから異種の二商品の等置は労働におけるそれでは
なく、きわめて抽象的な価値における等置であるのだが、しかし価値における等置ということさえ
人々は無意識の内に行なうのであって、交換価値という具体的な量的関係に入るのである。

 価値形態論が必要になるのは、商品をつくる労働のこのような特殊歴史的な在り様による。リカー
ドゥをはじめとして古典派経済学はこの点をまったく把握してはいなかったのである。彼らは商品
を分析して労働を見出し、それによって商品の価値(実は商品の交換価値)を規定したが、その労働
の特殊な在り様については探究することがなかった。相互に独立して営まれる私的諸労働の生産物
だけが、相互に商品として関係するのであり、この私的な諸労働がどのようにして社会的労働として
認められるようになるのかを古典派経済学、そのもっとも優れた学者であるリカードゥでさえ問う
ことがなかったのである。個々の商品に表わされた労働はあくまて?私的諸労働であり、それ自体は
そうでしかなくそうであり続ける。ところが、そうした私的なものでしかない諸労働の投下物とし
ての・その凝固としてのそれらの労働生産物が商品として、すなわち価値として認められるという
ことは、それらの私的な労働が社会的な労働として認められるということ、他の様々な種類の労働
とも交換可能な社会性をもった労働として認められるということを意味している。

私的労働が社会的労働に転化することがいかにして可能であるのか、― この問いがリカードゥにあっ
てさえ問われなかったということである。

ところが一方、現実の商品世界にあっては貨幣が既に存在し、貨幣以外のすべての労働生産物が貨幣
との交換関係に入ることによって商品として相互に交換されることとなっている。
だから一見すると他でもなく貨幣によってこそ、あらゆる労働生産物は商品に転
P14

化するかのように見える。しかし貨幣もまた一つの特定の労働生産物であり商品である。かくして
なぜ貨幣があるのかを問う必要があるのである。
つまり、私的労働が一体いかにして社会的労働に転化されるのかを解き、この転化の形態の完成した
姿として貨幣(貨幣形態)を捉えるということが問われるのて?ある。任意の商品に表わされた私的労働
が一体どのようにして社会的労働に転化するのか、すなわち、どのようにして他のどんな私的労働と
も交換可能な形態を得るのか、そしてその転化の完成形態として貨幣形態を把握するということが
問われるのである。
こうして「すべての商品の貨幣存在」が十全に解かれることになり、貨幣の秘密か?明らかになる。

 私的労働の社会的労働への転化を解くためには、議論を諸商品が現実に運動する〈場〉、すなわち、
諸商品の交換関係の〈場〉において展開しなければならない。少なくとも二商品の交換関係・等置
関係が対象として措定されなければならない。

 では、リカードゥが行なったことは結局、どういうことであったのか。
リカーどゥは、商品の価値をそれに投下された労働によって規定されるものとして掴んだが、彼はそ
の商品に投下された労働を、多くの商品の集合から、もしくはそれらの中から代表として取り出した
ただ一つの商品から分析的に抽象化して析出したのであって、だからリカードゥの価値
(実際は交換価値)概念は、単なる分析的な抽象概念であり、しかも商品に投下された種々様々の具体的
な私的諸労働を労働一般へと抽象化することで得られた抽象概念である。
だからその抽象化は、マルクスの分析的抽象化とは決定的に異なっている。

マルクスの場合、代表として採られた異種の二商品の等置関係から分析的抽象化が行なわれたのであ
り、だからそこで得られた抽象的人間労働は、労働の自然的諸規定・具体的有用的諸規定が抽象化さ
れたものとして、明確に〈自然的-社会的〉関係における社会性への抽象化が遂行されたものとしてあ
った。かくしてそれは、〈私的-社会的〉関係における社会性をも陰伏的に(implicit)含み込んだもの
としてあった。
これに対してリカードゥの場合は、多くの商品もしくは単一の商品に投下された諸労働の労働一般へ
の抽象化が思惟抽象によって遂行されただけであり、だからそれによって得られた労働一般は単なる
抽象的な観念像でしかなく、〈自然的-社会的〉関係における社会性さえも明確には含み込んではい
ない抽象概念であり、ましてや〈私的-社会的〉関係における社会性からは切り離されたものであっ
た。それゆえリカードゥの場合、そこから社会的労働へと至る理路は存在しない。

マルクスの場合は、再ひ?異種の二商品の等置関係に立ち
戻り、その価値表現・表現様式を問題とすることによって、〈私的-社会的〉関係における社会性を
捉えることができたのであるが、リカードゥの場合はそこへ向かう理論的な道筋がないのである。
このことは、古典派経済学のリカードゥたちが、商品に表わされた労働を二重性において捉えること
ができなかったことと正確に照応している。

 〈私的-社会的〉関係における社会性は、そもそも分析的抽象化によっては得られるものではない。
人間語による思惟抽象によって得られるものではないのである。

だから、マルクスが行なったように、最初から異種の二商品の等置関係を代表として措定し、それを
まずは分析的に抽象化して抽象的人間労働を一旦導いた上で、改めてその等置関係に立ち戻り、その
表現形態・表現様式自体を取り上げる必要があるのである。

一旦分析的抽象化によって得られた抽象的概念を諸商品の等置関係・価値関係へと返し、諸商品の現
実の運動においてその抽象化が実現される過程に立ち戻ることによってはじめて、私的諸労働の社会
的労働への転化の過程を捉えることができるのである。

なぜなら諸商品の等置関係そのものにおいて、したがって価値形態においてこそ、私的労働の社会的
労働への転化が成し遂げられるからである。諸商品の運動自体がそれを成し遂げるのであって、だから
P15

人間語による思惟は、商品語の〈場〉に立ち向かい、その〈場〉の運動を見・聴き取ることが求め
られるのである。しかも、この私的労働の社会的労働への転化は、議論の先取りになるが、形態II
(展開された価値形態)でも形態III(一般的価値形態)でもなく、価値形態のもっとも原初的形態である
形態 I (単純な価値形態)において解明されなければならない。なぜなら、どのような労働生産物で
も商品になり得ること、どのような私的労働でも社会的労働に転化できること、すなわち、「すべて
の商品の貨幣存在」を解き明かすことが求められているからである。一般的価値形態における一般
的等価形態にある一般的等価物はもちろん、形態 II (展開された価値形態)における相対的価値形態
にある商品もすでに他のすべての商品と異なる特別な形態における商品になっているからである。
形態 I (単純な価値形態)における等価形態にある商品、つまり相対的価値形態にある商品とだけ異
なるものとして、どのような商品もその位置に座り得るその等価物こそが貨幣の原基的・原初的形
態であることが明らかにされなければならないのである。これが明らかにされることによって、価
値形態―貨幣形態の秘密を暴き出すことができる。『資本論』初版でそれはなされた。
しかしそれは単純な思惟活動の結実ではない。人間の分析的思惟、その抽象作用の単純な適用・駆使
によってそれはなしうることではないからである。

(ii)初版本文、初版付録、およひ?第二版のそれぞれの価値形態論
『資本論』の価値形態論には周知のように三つのヴァケージョンか?ある。初版本文、初版付録、そし
て第二版の各価値形態論である。これら三つの価値形態論をどのように捉え扱ったら良いであろう
か。

 基本的に初版本文テキストを主テキストとし、第二版を比較対照テキスト、更に必要に応し?て初
版付録を参照テキストとすれは?良いとわれわれは考えているか?、三つの版の比較から以下のことが
言える。

    (1)初版本文には貨幣形態が含まれてはいないが、初版付録および第二版では形態IVとして貨
        幣形態が論し?られている。しかも共に一般的等価物としての完成形態て?ある金を用いてそ
        れが論じられている。
    (2)初版本文の形態IVは形態II(展開された価値形態)における相対的価値形態の位置にあるリ
       ンネル、形態III(一般的価値形態)における一般的等価形態の位置にあるリンネルに他のい
       かなる商品も代替し得ることを示したものであるが、この初版の形態IVは初版付録および
       第二版では省略されている。
    (3)初版本文は相対的価値形態から見た価値形態論となっているが(この点は形態Iから形態Ⅲが
       すべて「相対的価値の〔..〕形態」となっているところに良く示されており、初版付録以降、
    これは 継承されていない)、初版付録はその点が少し弱まっている。更に第二版では相対的
    価値形態 と等価形態の双方を全体として見るものとなっている(ここで「見る」というのは
    マルクスの 学的思惟が「見る」のである。というのは、価値形態論ではあくまで商品語の
    〈場〉が問題であって 人間語の世界が問題ではないとはいえ、商品語を聴き取り・註釈・
    翻訳するマルクスの学的思惟が介  在しているのは当然だからである)。
   (4)初版付録は非常に細かな区分・項目が立てられ、しかもそれらにそれぞれの内容を示す見
     出し等が付せられており、マルクス自身も言うようにきわめて「学校教師的に説明する」体
 P16

   裁のものになっている。それゆえ、もっとも弁証法が強く働く価値形態論であるにもかか
   わらず形式論的理解を許容する危険性を内包している。

 以上三つの版の価値形態論の比較からわれわれは初版本文のものを主テキスト、第二版のものを
比較対照テキスト、初版付録を補足・参照テキストとする 68)。その理由は以下である。

 価値形態論の課題は何よりも労働生産物がどのようにして現実的に商品になるのか(商品形態をと
るのか)を示すことである。そしてこのことは「すべての商品の貨幣存在」を明らかにすることであ
る。ある何らかの一労働生産物が現実的に商品になるのは、それと異なる種類の労働生産物たる商
品との交換関係・価値関係・等置関係に入ることによってである。つまり、他の異種の商品を等価
物として(等価形態として)自分に等置し、自らはこの関係の中で相対的価値形態を取ることによっ
てである。

 したがって、価値形態論の果たすべき課題からすれば、あくまで相対的価値形態の方か
ら見て、先ずは論理的にあり得るすべての価値形態について、商品形態としての社会性の水準の低
いものから高いものへと見ていくことが求められるのである。だからこのことは、純論理的に言っ
た場合の最高の価値形態である一般的価値形態における一般的等価物にあらゆる商品が位置できる
ことを示すことなのである。このことが「すべての商品の貨幣存在」を解くことであることは言う
までもない。
      これらの点から言って、初版本文の価値形態論こそが、他の二つのもの― 初版付録
と第二版の価値形態論― に対する論理上の優位性を占めていることが判る。
                                   初版本文の価値形態
論はあくまで相対的価値形態から見たものとなっており、また「形態IV」として一般的価値形態に
おける一般的等価物の位置に任意の商品が位置し得ることが示されているからである。

また更に、価値形態論で貨幣形態について解いていないことも初版本文の価値形態論が論理的に他
の二つに対して優位にあることをはっきりと示している。
三つの価値形態論のいずれも第三の価値形態として一般的価値形態を取り上げているわけだが、
ここで一般的等価形態に位置する一般的等価物たる一商品が、貨幣商品としての金に転化・固定化
する事態は、決して純粋に論理的に解き得ることではなく、現実的な歴史的諸過程に拠るものだか
らである。論理的に言って、あらゆる商品が一般的等価物になり得ること、このことを示すことこ
そが「すべての商品の貨幣存在」を明らかにすることであり、貨幣の秘密を解くことであり、初版
本文はその課題を果しているのだが、他の二つのものはこのことを改めて確認しないままに貨幣形
態について述べてしまっているからである。
特定の商品である金に一般的等価物が固着する過程は、決して純論理的に解き得ることではなく、
現実的な歴史過程によるのであって、これは交換過程論の課題なのである。

初版本文は価値形態論から交換過程論への接続がきわめて論理的で無理なくなされているのに対し
て、初版付録および第二版では価値形態論て?貨幣形態についても解いてしまっており、しかも貨幣
形態を先に解いたにもかかわらず、交換過程論は初版からの書き換えをほとんど行なっておらず
(核心部分ではまったく書き換えを行なっ てはいないと言って良い)、その論理的接続に無理が生じ
ているからである 69)。

 以上から、価値形態論については初版本文を主テキストとしなけれは?ならないことか?わかる。た
だ、初版本文の価値形態論にも欠陥がないわけではない。というのは、先に見たように、初版は価
値を前提にして、あるいは仮言的に措いて論じていたのであり、このことが価値形態論においても
影響しているからである。諸商品が商品語で語る事柄を聴き取りそれを人間語に翻訳しまた註釈す
るという面で、あくまで人間語の世界におけることではあるが、論理の緻密さに欠けるところがあ
るし、また叙述の丁寧さなどの点では明らかに第二版の方が優れているところがある。こうした初
P17

版本文の価値形態論の欠陥は、いわゆる「回り道」の議論(後に詳述)にはっきりと現われている。
この点に留意しつつ初版本文を主テキストとして考察していくことになる。
次いで、第二版と初版付録の扱いに関して述べる。両者は共に、初版本文の価値形態IVを捨て、形
態IVを貨幣形態としている。最後の形態である形態IVを貨幣形態にすることによって、形態I (単純
な価値形態)から形態IV(貨幣形態)へと至る価値形態の発展という論理的筋道が敷かれたことにな
り、価値形態全体が貨幣の必然性とその創出を解くものとなった。この点では初版付録よりも第二
版の方がはるかに徹底しており、形態Iから形態IVへの発展過程が歴史的過程として描き出されて
いる。これに対して初版付録では歴史的発展過程という一貫した叙述にはなっていない。貨幣形態
自体の扱いにそれ程の重点が置かれているとは言えない。またそもそも初版付録はあくまで本文に
対する付録であり、何よりも重点は平易化にある(以上の詳細な分析は、次章〈V〉の(ii)て?行なう)。
こうして、初版本文と第二版とが対極的な位置にあり、初版付録がその中間に位置するということが
わかる。

 以上からわれわれは、第二版を初版に対する比較対照テキストとし、初版付録を参照テキストと
する。
 ではいよいよ商品語の〈場〉に入っていこう。

  (iii)価値表現において諸商品は何をどんな風に語るか
 形態Iとしての「相対的な価値の第一の、または単純な形態」、「それが単純であるがゆえに、分析
するのが困難なもの 70)」とマルクスの言う第一の形態をこそ見ていくことが重要である。

 価値表現:20エレのリンネル= 1着の上着(a量の商品 A = b 量の商品 B)が取り上げられる。この
等式は、労働生産物である 20 エレのリンネルが、自分が商品であることを示すために形成されたも
のである。だからこの等式は数学における等式とは異なっている。等式の両項を入れ換えると意味
が違ってくるからである。この点については既に〈Ⅲ〉における註 47)で述べておいたが、再度確
認のため触れると、初版 1章の「(1)商品」冒頭、それに対応する第二版第 1 章第 1 節における
等置式〈1 クォーターの小麦= a ツェントナーの鉄〉と上記の価値形態Iの等置式〈20 エレのリン
ネル= 1 着の上着〉との相違として理解される。

                       前者、すなわち冒頭商品論の出だしにおける等置
式は、単に相異なる任意の二商品が相互に交換される、ということを示したものであり、左右両辺
を入れ換えてもその意義に変化はない。その限りでこの等置式は数学における等式と同じである。あ
くまで異なる任意の二商品が等置されているだけなのである。これに対して価値形態論における形
態Iの等置式は、任意でかまわないが、何らかの商品が自らを現実的に商品として示すためのもの
であって、その目的のために自分と異なる任意の商品を自分に等置しているのである。それゆえこ
の目的を前提とする限り、左右両辺を入れ換えることはできない。左右両辺の二商品はそれぞれ異
なった役割を担っているからである。かくしてこの等置式は数学の等式と異なるわけである 71)。

この点に注意して先に進もう。20 エレのリンネルは自分に 1 着の上着を等置する。この関係にお
いて「リンネルは、ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」72)とマルクスは言う。これがまさしく商品
語の〈場〉の特有の在り様だ。商品語の〈場〉は線形時空をなしてはいないということだ。一挙に
多くのことが語られ実現される。人間語の世界ではこうはいかない。人間語の世界においては話し
言葉もまた書き言葉もあくまで線形=線状であり、線的な時間順序に従って言語空間が形成・展開
される。商品語の〈場〉はこれを超出している。
P18

 更に言えば、商品語の〈場〉においては分節化が行なわれないということである。価値関係とい
う関係そのものが、一挙に多くのことを、また人間語の世界では線形な論理的時間順序に関わると
ころを、いわば無時間的もしくは多層時間的に商品語で語るわけであって、人間語の世界のように
対象世界を線形時空の内に分節化して語るのではないということである。
 このように考えてくると、商品語そのものではなく商品語の〈場〉を対象とする以外にはないと
いうこと、商品語の〈場〉という特有の〈場〉の運動を捉える必要があるということになる。
て?は、「ひとたたきで、いくつもの蠅を打つ」というリンネルの語るところをマルクスはどのよう
に聴き取り註釈しているか。

  「リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自
   身に関係させる。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時
   に自分を使用価値としての自分自身から区別する。リンネルは自分の価値の大きさ― そして
   価値の大きさは価値一般と量的に計られた価値との両方である― を上着で表現することに
   よって、自分の価値存在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える。リンネルは、
   こうして自分を一つのそれ自身において分化したものとして示すことによって、自分をはじめ
   て現実に商品― 同時に価値でもある有用な物〔Ding〕― として示すのである。」73)

これが初版本文の回り道の議論であるが、きわめて難解である。これを更に敷衍してマルクスは
次のように言う。

 「ある商品の、たとえばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、そ
   の商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければな
   らない。その商品は、自分自身にたいして直接にすることができないことを、直接に他の商品
   にたいして、したがってまた回り道をして自分自身にたいして、することができるのである。そ
   の商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現す
   ることはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体に
   関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働に
   たいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできないが、し
   かし、他の商品種類に含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単
   なる実現形態として関係することができるのである。そうするためにその商品が必要とするの
   は、ただ、他の商品を自分に等価物として等置する、ということだけである。」74)

 初版では価値が前提され、もしくは仮言的に措かれて論じられていることが、上の二つの引用に
もはっきりと現われている。価値関係・等置関係が価値におけるものである点にそくして回り道の
議論がなされており、その後で、補足的に労働に関して述べている。つまり、商品リンネルは自分
が価値であることを示すために他の商品を価値物として自分に等置し、その商品自体を自分の価値
の形態にし、これに等しいものとしてはじめて自分もまた価値であることが示されるという点に回
り道を見ている。その上で労働に関して述べるわけだが、論理的な連関・文脈が鮮明ではない。労
働生産物が価値をもち商品になるのは、抽象的人間労働がそれに対象化・表わされるかぎりのこ
 P19

とであるが、この論理関係が曖昧になっているのである。これに対して第二版では次のようにマル
クスは言っている。

 「上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネル
  に含まれている労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルをつく
  る織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の
  労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、還元するのである。こ
  のような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区
  別する特徴をもってはいないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、言われて
  いるのである。ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするの
  である。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実
  際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。
  しかし、リンネル の価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。
  流動状態にある人間 の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。
  それは、凝固状態に おいて、対象的形態において、価値になるのである。リンネル価値を人間労
  働の凝固として表現 するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っていると同時にリ
  ンネルと他の商品と に共通な「対象性」として表現しなければならない。[リンネルと交換され
  得るものとしての等 価物たる上着が「価値の存在形態として、価値物として、認められている」、
  すなわち、抽象的 人間労働の単なる凝固物として認められていることによって、そしてそれと等
  しいものとして リンネルが存在していることによって、その]課題はすでに解決されている。」75)

 このように第二版では、異種の労働生産物の等置がまず何よりも、異種の諸労働の結実の等置で
あり、これら双方の諸労働の等置であることから議論が始められている、つまり、抽象的人間労働
に関して回り道ということが語られている。先の人間語による分析的抽象において、異種の二商品
の等置から、それらの二商品に表わされた双方の諸労働が抽象的人間労働に還元され、その抽象的
人間労働の凝固体として二商品が価値であること、かくして価値において等置がなされていること
が示されていたわけだが、この議論に照応した形で商品語の〈場〉における事態を註釈しているわ
けであり、こちらの議論の方が解り易いし、論理的にも― これは言うまでもなく人間語の世界の
ことであり、商品語の〈場〉にこの “ 論理的 ” であるかどうかをそのまま当てはめることはできない
のだが― 緻密で正確である。
             ただし、相対的価値形態にあるリンネルこそが自らを商品として示
す価値関係である点が少しぼやけるように思われる。つまり、具体的有用的労働から具体性有用性
を抽象化して抽象的人間労働を析出する過程と、異種の二商品の等置が価値におけるものであるこ
とをどのように叙述するのかの困難がここにも現われ出ているわけである。商品語の〈場〉と人間
語の世界との絶対的な区別がここにも顔を出しているようである。人間語による翻訳・註釈がいか
に困難であるのかが解る。

 また、等置関係における量の規定性について、初版本文ではそれを含み込んだままで議論がなさ
れている。商品語についての註釈で、「価値の大きさ― そして価値の大きさは価値一般と量的に計
られた価値との両方である」と述べていたことにこのことがはっきり示されている。商品語の〈場〉
にそくして言えば当然こうならざるを得ない。しかし、人間語の世界では価値形態・価値表現それ
 P20

自体に注目することがきわめて困難で、古典派経済学の学者たちはすべからくこの形態そのものに
着目することなくただちにその量的関係に目を奪われていた。この点を考慮してマルクスは第二版
では先ずは量的規定性を捨象して考えるべきだと言う。


 

        「上着が等価物としてリンネルに等置される」根幹事項について

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月28日(水)13時15分17秒
返信・引用 編集済
         8・9段落を巡る同等性関係と価値関係の混同への批判

    「二つの商品の交換関係に潜んでいる-商品の単純な価値表現」であれば、それは量的関係で
    あって、二商品の交換比率であるのですから、価値存在の表現の示される内実三段落にて示さ
    れた、その「自立的表現」である価値形態はそもそも成立しないのです。
    「a 相対的価値形態の内実」冒頭に「この価値関係を、さしあたりその量的関係からまった
    く独立に、考察しなければならない。」ーーと、冒頭に述べられており、次の2段落に、その
    ことを示して、「リンネル=上着」の等式が示されている。
    議論は、「交換関係」とあれば、それを「価値関係」と替えて行わねばならないのです。

    しかし、9・10段落に示される、商品語の語りでは、価値関係が交換関係での語りに、転倒
    していますから、この転倒批判でしか語れないのです。

     下記をhirohiroさんの主張と比較するために、紹介します。

   A 大谷先生の価値体論である価値形態論の誤解を、以下探ってみました。

     「リンネルが上着を価値物として自分に等置する。これによって,上着に
     含まれている労働(裁縫)がリンネルに含まれている労働(織布)に等置
     される。この等置によって,上着に含まれている労働(裁縫)が,両方の
     労働に共通なもの,すなわち抽象的労働に還元される。この関係のなかで
     は,上着をつくる労働(裁縫)は抽象的労働の実現形態,抽象的労働が
     取っている姿としての意味しかもたないことになる。そして,これによっ
     て,リンネルに含まれている労働(織布)も,価値を形成するものであ
     るかぎりは抽象的労働にほかならない,ということが現われてくるので
     ある。 (『価値形態』大谷禎之助 P174)
    http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7779/1/61-2otani-2.pdf

    私自身も同じく、大谷先生の誤解と同じ理解であったことを、今ようやく理解出来ました。
    再版 5段落と同じの英和訳です。

          (A2a-5段)英和訳『資本論』
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
       (第3節 価値形態すなわち交換価値)
     「この上着を亜麻布の等価物<再版ーー価値物>とすることで、われわれは上着に体
     現された労働を亜麻布に体現された労働と相等しくする。
     さて、たしかに上着を作る仕立て、は亜麻布を作る織布とは違った種類の具体的労働
     である。しかし仕立てを織布と相等しくする行為は、仕立てを労働の2種類の中の実
     際に等しいものに還元する、それらの人間労働の共通な性格に還元する。
     この迂遠な[回り道の]方法のなかで、今度は、次の事実が表現される、織布もまた、
     それが価値を織る限りにおいて、それを仕立てから区別しなければならないことは何
     もない、そして、結果として、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が
     表現される。」

    ここでは、裁縫労働が人間労働に還元され、この回り道を経て、リンネル織リの織布労働も価
    値を織り出す限りにて、抽象的人間労働であることが語られるーーとありました。
    裁縫労働が、リンネル織り労働に等置されることで、抽象的人間労働である、と語られるなら
    ば、なんら「回り道」は成していないのであり、人間労働力の支出一般が、超歴史的な人間労
    働が、価値を形成するーーとの表明になるのです。
    大谷先生のは、回り道を無視した、超歴史的な人間労働が、価値の実体、との主張なのです。

    ここでは、物象の社会関係としての価値関係においての物象の判断が、「語られる」のであり
    ①この関係において、人間労働との裁縫労働の性格を規定するこの回り道をすることで、
    ②リンネル織り労働が抽象的人間労働との規定を受けることで、
    ③さらに、再度最初に戻って、価値に表示される労働は、抽象的人間労働である、
    ーーとの3行程が述べられ、物象の独自な判断が反省規定にあることを示したのです。
    このように、相対的価値表現の左極・左辺での価値関係にある商品にたいする物象の判断が
    ここに示されリンネルの価値を構成する抽象的人間労働であることが、語られているのです。
    ここが、「第二節 商品に表された労働の二重性」の継続点なのです。
    物象の判断にて、「労働の二重性」の意義の継続点が示されたのです。

     <杉本・現行版5段落は、上記冒頭のように、
    「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネルに含ま
    れている労働と同一であると確認される。」(仏語版6段落回り道項)とある。
    ーー事実上の抽象がなされ、上記の①②③の物象の判断の仕方の経過が示されていたのです。

    先生のこの<回り道>の思想は、久留間理論の根幹であり、次の崎山先生も同じ見解です。
     <このような<回り道>をすることによってはじめて,リンネルは自分自身
     もまた価値物,つまり価値をもった物である,と言うことができるのである。>

     <この関係のなかでは,上着をつくる労働(裁縫)は抽象的労働の実現形態,
     抽象的労働が取っている姿としての意味しかもたないことになる。>

    しかし、この説明ーー判断では、物象の社会関係にて、価値形態は形成されず、
    リンネルの価値表現はなされないのです。

     崎山論文の紹介②  を参照すると、この転倒が、どこからなのか理解できる。
      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1619
     (iv)〈自然的規定性の抽象化〉過程に関して
 商品 A(リンネル)が商品 B(上着)を自分に等置することによって、商品 B に表わされている
 労働が商品 A に表わされている労働に等置される。商品 B を作る労働は当然ながら商品Aを作る
 労働とは異なっている。
 しかし商品 B をつくる具体的労働がそれと質的に異なる商品 A をつくる具体的労働と等置され
 ることになるがゆえに、まずB を作る労働の、その具体性有用性・自然的規定性が抽象化されて、
 双方の労働に共通な質である人間労働に還元される
  (この過程を〈自然的規定性の抽象化〉過程と呼ぼう)。

  <次の説明こそ、彼の真骨頂であるので、次の展開へと中断します。
   杉本 先生のもっとも言わんとすることは、この前提にたって、「現実的抽象」の独自性を、
   こう語るのです。>

  以上見てきた〈自然的―社会的〉関係における社会性について考えてみよう。
 人間語による分析、思惟抽象とはまったく位相の違った過程がここにある。

  思惟抽象・論理的抽象と、二商品の価値関係における現実的抽象とはいかに異なっているか。先
 に見たように、マルクスはまず人間語の世界において、二商品の交換関係を表わす等式を分析しそ
 れが一体何を表わしているのかを探り、両商品を抽象的人間労働にまで抽象化した。その上でマル
 クスは、そのような抽象的人間労働の凝固物として両商品は価値であると指摘した。等式が表わし
 ている内実を分析的に抽象化し剔抉していく過程があったわけである。現実の価値関係における抽
 象化はこれとはまったく違っている。
        商品 Aが商品 Bを自分に等値するというその現実そのものが、
 一挙に自然的規定性の抽象化を成し遂げ、その結実を表現する。商品 Aが商品 B を自分に等置する
 というその事実そのものが、商品 B を生み出す具体的労働の具体的有用性・自然的規定性を抽象す
 るのであり、その具体的労働を抽象化された人間労働の実現形態にし、かくしてこの等置関係その
 ものが、商品 B に表わされた具体的有用労働そのものを抽象的人間労働の現象形態とし商品Bをそ
 の凝固態とする。
         かくして商品 Bを現物形態のままでその抽象化された人間労働の凝固物として意
 義をもつものとし、商品 Bをかかる抽象的人間労働の凝固物として、現物形態(使用価値形態)のま
 まで価値体とする。つまり商品 Bは価値の実現形態・現象形態になる。
         要するにここでは商品 Bを
 作る具体的労働、その具体的労働の凝固形態、商品 B の使用価値形態=現物形態という一連の具体
 的形態が抽象的なものの実現形態になるという抽象化が起こるわけである。
         これを抽象化という概
 念で語って良いものかどうか躊躇せざるを得ない。思惟抽象ならば、思惟によって抽象化されたあ
 る観念が抽出されるだけなのであるが、現実的抽象の場合、抽象物が現実に抽象物として存在する
 わけにはいかないので、抽象物もまた対象的な形態で、すなわち現実の存在物として自己を表現し
 なくてはならない。ここでは、厳として存在しつずける現物形態、つまり現実の物質あるいは事柄
 P23
 そのものが、そのままの姿態が、抽象化されたものとして意義を持つのであるから(ここで注意! 現
 物形態の内的属性の一つとして抽象化されたものがあるわけではない)、現実のあるがままの存在が、
 抽象的なものの実現形態にならざるを得ないのである。
  以上が商品 Bの側に起こった抽象化である。・・・・・・・・・・

    <崎山先生の見解は以上です。この主観性こそが、久留間理論の真骨頂なのであります。
    ここで、誤解しないようにしよう。彼は、勿論ブルジョア的労働について語るも、物象
    の判断の③にて語っていないのです。そうであれば、②について振り返らないのです。
    ①の行程で人間労働に還元されたことが、裁縫労働が抽象的人間労働の実現形態と理解
    するのですか?しかし、等価物上着・とあるのは、リンネルの価値表現でのことであり、
    ここでは、この関係での反省規定として、裁縫労働が人間労働に還元される回り道を経
    る・・事に示されるのは、超歴史的な人間労働力一般の支出をこそ批判して、単なる同
    等性では無いことをこそ論じて、次に②のリンネルの価値を織る労働が、抽象的人間労、
    働になるーーと、といたのです。とすると、価値に表示される労働が、単に人間労働力
    の支出であり、回り道を経ずとも、抽象的人間労働の実現形態であると、先生は主張す
    ることになるのですけれど、どうですか?この誤りは、明らかです。>


     <杉本・現行版6段落
    「英訳ーー・・何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値
    になる。リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観
    的に存在するものとして表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるものと
    して、リネンと他のすべての商品に共通のものです。」

    ーーこうして並べて比較すると6段落は、5段落のリンネル織り労働の説明であり、それは、
    再度<リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に存
    在するものとして表現されなければならず・・>とあり、現行7段落は示されないのです。

    上記をhirohiroさんの主張と比較してみよう。hirohiroさんは、こう述べています。

    http://hirofreak.blog.fc2.com/blog-entry-242.html
    freaky style な批判理論を目指して簡単な価値形態について  hirohiro
 ⑤第六パラグラフ
 労働次元での還元について述べた第五パラグラフを受けて、今度は対象次元の話に移行します。という
 のは、問題となっているのは、商品の価値性格がどのように現象し、価値形態が成立するのか、だから
 です。
  「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十分ではない。流
 動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。それ
 は、凝固状態において、対象的形態において、価値なる。リンネル価値を人間的労働の凝個体として表
 現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他
 商品とに共通なある『対象性』として表現されなければならない。この課題はすでに解決されてい
 る。」(訳p.87~88、原s.65~66)
  このパラグラフほど誤解されているものはないのでは、というぐらい、先行研究は読み誤っています
 が、具体例は今回は割愛します。ただ論点を二転指摘しておきましょう。
   ーーーーー略ーーーーー
  第二に、課題はどのようにして、すでに解決されているのか、という点です。この点をマルクスが第
 五パラグラフまでで解決している、というのが大方の見方のようです。それ自体決定的に誤っていると
 までは言えませんが、しかし、解決しているのは諸商品なのです。マルクスが理論的に解決したのでは
 ありません。リンネルと上着の価値関係自体が解決策なのです。この点は以下のパラグラフで解明され
 ています。マルクスによる解決を言うとすれば、前のパラグラフではなく、後述部分である、というの
 が正しいのです。

    <杉本・課題はどのようにして、すでに解決されているのか、という点、
       リンネルと上着の価値関係自体が解決策なのです。この点は以下のパラグラフ
       で解明されています、と言うhirohiroさん主張は、次のことへの無視なのでは?>

    「こうして並べて比較すると、6段落は、5段落のリンネル織り労働の説明であり、それは、
    再度<リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に存
    在するものとして表現されなければならず・・>とあり、」ーーなのだから、今までの論議
    で得てきたことの再確認をしていたのです。

    上記のように、理解していたのだが、7段落とのつながりにおいて論理を見るならば、次の
         訳でなければ問題が解決していかないのです。
     「リンネル価値を人間的労働の凝個体として表現するためには、
     リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時に
     リンネルと他商品とに共通なある『対象性』として表現されなければ
     ならない。この課題はすでに解決されている。」(現行版6段落)
    このように、
    <リンネル価値は「リンネルと他商品とに共通なある『対象性』として表現されなければ>
    ーーと示されたことが、次の<金モール>なのであります。

    次に7段落  仏語版での次の<金モール>は、各版にて同じ訳であります。
    「上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそとでよりも多くのことを意味する、
    ということを証明しているにすぎない。それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要
    人物が、・・・」ーーとの説明は、上着はリンネルとの価値関係においては、
    <その自然的形態が価値形態となる>との意味であろうか?

    しかし、次に表される仏語版では、「上衣が等価物」として置かれることで、
    「こうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」と示された。
    ここでの論議している課題が、単にリンネルの上着による価値表現であれば、そんなことは、
    何ら問題にならならない。
    直前の6段落にて「リンネルと他商品とに共通なある『対象性』ーーこそが表現される。
    それが次のーー「上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」、なのです。

    「①実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、
    上衣はもはや自分の価値性格を証明するための旅券を必要としない。こうした役割
    において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商
    品の体躯は、単なる使用価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同
    じように、価値を表現するものではない。

    ②このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそと
    でよりも多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。
    それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全
    くくだらなくなる、のと同じである。」《フランス語版》(江夏訳21-22頁)

    英語版では、②の部分の訳が次であります。
A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
    それ以上の コートは価値があると私たちに伝えます。
    これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、コートは、その関係から外れたときよ
    りも、豪華な制服で頑丈な男性が、ムフティ時よりも多くを意味することを示してい
    ます。

    以上のように、
     「上衣が等価物」として置かれることで、
      イ「リンネルと他商品とに共通なある『対象性』ーーこそが表現される、
      ロ「「上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」、と示され、
      ハ「リネンとの価値関係に置かれたとき、コートは、・・」と示されたこと
        が「金モールの衣裳をつけた多くの重要人物・・」と比喩されたのです。
      ニこの価値関係でのリンネルの価値存在の表現が、上着が価値の存在形態に
       なるーー物象の役立ち・判断が有りて成されている、ことを証明している。

        なるほど、hirohiroさんは、6段落からの論理追求において、英明に次の分析していた。
    <リンネルと上着の価値関係自体が解決策なのです。この点は以下のパラグラフ
       で解明されています>と言うhirohiroさん主張は、正しい!素晴らしいのです。
    しかしhirohiroさんは、ここでの新書版7段落の、既存訳を次のように受け入れています。
    残念ですね。
    「実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、・・」
    との前文があって、「こうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」
    ーーと示されていたのですし、この提示があって、やっと、次、8段落での、陛下に示される
    事柄が理解できてきます。既存訳を批判できなかったので、彼は次の誤解をしたのです。

 hirohiroさん
    <・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 簡単に言うと、リンネルは上着を自らに等
 置することによって、上着は「価値がそれにおいて現われる物として、または手でつかめるその自然
 形態で価値を表わす物として、通用する。」(訳p.88、原s.66)>

    リンネルは上着を自らに等置することによって、>ではなく、
    「上衣が等価物として置かれるやいなや、」ーーという事柄は、
    次の③~⑨段落に示されている事柄の流れ、全体の関連で把握・理解する必要があるのです。

    ③「・・リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが、その
     「等価物」としての、またはそれと「交換されうるもの」としての上着にたいしてもつ関連
     によってである。」
    ⑤「たとえば、上着が等価物<価値物 は誤訳〉としてリンネルに等置されることによって」
    ⑦「実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、・・」
    ⑧「そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
     在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。」
         ⑨「こうして、上着がリンネルの等価物となる価値関係のなかでは、上着形態は価値形態」
    ーーと示されているのです。

    この、③⑤⑦⑧⑨の再版での価値形態論の根幹事項が、現行版では、削除されているーー
    事に、彼は気づかないのです。存在しているのは、③ ⑨段落のみです。

    私めも、いまこの作業のなかで、やっと、「上着が等価物としてリンネルに等置される」
    ことの意義がやっと理解できたところであります。
    この意義を、何とか見出すために、大谷先生が、このことを何処で見いだせなかったのか?
    検討してみます。

   B  大谷先生の、8段落を巡る同等性関係と価値関係の混同への批判
     「・・・・・・・・・・・・・・だが,上着が価値体として通用するとい
     う状態は,どのようにして成立するのであろうか。それは,リンネルが上
     着を自分に,質的かつ量的に等置するということによって,言い換えれ
     ば,リンネルが上着にたいして,上着は自分と価値が等しいものなのだ,
     つまり等価物なのだ,と認める様態で関わること,連関することによっ
     てである。このことが意味するのは,つまるところ,リンネルは上着にた

     176
     いして,上着をそのようなものとして認めるという様態で関わるというこ
     とである。このことによってはじめて,上着は,価値体という,この連関
     のなかでのみ通用する社会的な質を,さらに厳密に言えば,経済的形態規
     定性を受け取るのである2)。このような<回り道>をすることによっては
     じめて,リンネルは,自分自身もまた価値物,つまり価値をもった物であ
     る,と言うことができるのである。肝心なところは,そもそも商品は,自
     分だけで自分の価値を表現することがけっしてできず,まずもって他商品
     の現物形態を自分の価値鏡にしなければならない,ということである。ま
     さにこの点に価値形態の秘密が,したがってまた貨幣の秘密がある。
     以上が,二つの商品の交換関係に潜んでいる-商品の単純な価値表現の
     〈メカニズム〉である。」(『価値形態』大谷禎之助 P175~176)

    先生が、以上に、何と言ってるのか?ここには次の 、① ② の違いがあります。
    ①「上着は,価値体という,この連関のなかでのみ通用する社会的な質を、さらに厳密に言
     えば,経済的形態規定性を受け取るのである2)。このような<回り道>をする・・」

    回り道は、「上着は,価値体という・・経済的形態規定性を受け取る」ことなのですか?
    次の5段落にて提示されたように<①仕立て・裁縫労働を、亜麻布を織る織布労働に等しい
    とすることで、裁縫労働をそれらの共通な性格へと還元する。②この[回り道の]方法のなか
    で、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現されるーーとあります。

    ②「上着は,価値体という・」と示されるのは、この5段落ではなく8段落にての提示です。
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
     (A2a-8段)
     「そして価値等式<再版・リンネルの価値関係>のなかで亜麻布の等価物として、
     それ[上着]はこの側面のもとでのみ存在する、従って、価値である一つの体
     として数える、従って体現された価値として数える。
       <新書訳「そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけ
       から、それゆえ体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。」
       宮崎訳  価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面でのみ、
       価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。>
     A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に Bの目
     の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のす
     べての新しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に
     装わない限り。」

   このように、<リンネル=上着>の価値等式で、等価物上着であることにおいて、この価値関係
   を示し、この左極・左辺において、次を示したのです。
     第一に、<価値である一つの体として数える>のです。
     第二に、<上着は、体現された価値として数える>
         <価値の形としてそこにある。>ーーことができるのです。
   こうして、等価物上着が価値体であるのは、この第二の役立ちを為すためであり、先生の言う回
   り道などしていないのです。
   この価値体上着との規定では、第一の役立ちしか見ていないのであり、第二の役立ちがあること
   を、先生は見ていないのです。それが先生の欠点であります。

   ③もう少し、上記の第二の役立ちをひもといてみよう。
     (次は、パソコン直訳です。)
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts
therefore as embodied value, as a body that is value.
そして、価値方程式の亜麻の同等物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値のある身
体して具体化された価値として数えます。

   この英訳は素晴らしい!書かれていることは、商品が物象となり擬人化されて、この関係から、
     ①価値等式のなかで亜麻布の等価物として、上着は存在しており、
     <等価物上着は、と示されていることが、③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落にて示されているーー
     ことが理解されないと、この物象の判断の存在は、何ら理解されないのです。>
     ②従って「体現された価値として」上着を数えると、ーーとの物象の判断を示したのです。
     そこで<価値の現象形態>になるのは、この位置であり、①の判断を経過してからです。
     ③次に「価値である一つの体として数える」・「具体化された価値として数えます」と。
     そこに、自ずと示された事柄が、次の解答である、9段落なのです。

   ④等価物上着が単に一つの価値体の役立ちだけではないこと、この第二の役立ちとは、何か?
    9段落
    「価値等式においては、その中で上着は亜麻布の等価物である、この上着は
    価値形態の役をする。
    商品 亜麻布 の価値は 商品 上着 の身体的形態によって表現される・・」
    ここでの等価物としてとは?に注意願います。
    上着はリンネルの等価物なのですから、第二のこととして述べられている、
    「価値である一つの体として数える」こと、宮崎訳の「価値の形としてそこにある」こそが、
    この「価値形態」であり、この役立ちにて、次のことを成すことが出来るのです。
    ②以上のリンネルの価値形態があることで、上着は、使用価値としてその身体的形態のまま
    に、リンネルの価値表現の材料となるのです。

   ここでの9段落の回答は、6段落でのマルクスの次の質問を考えなければ、まず出てきません。
   <α 亜麻布の価値を人間労働の凝固物として表現するために、
    β そして何か亜麻布および他のすべての諸商品と共通なものとして表現されなければ・>

    αの問が、この交換されるではなく、「価値等式」での・等価物上着とは?と物象が、人間
     語にて質問しているのです。自ずと、③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落にての等価物であり、
     この7段落での等価物上着が問題にされているし、そこでの規定の積み重ねがしめされてい
     ます。大谷先生には、その区?が無いから、理解できないのです。その答えが自ずと、
     等価物上着が価値体上着の規定を受けているーーだけではないのです。
    βの問いであるーー関係にある・等価物ーーだけでなく、亜麻布および他のすべての諸商品
     と共通なものとして表現されなければーーとは?との上記のことから示される、マルクス
     の我々へ注意であり、質問なのです。
     そこで、考えられていることが、次のことなのです。

      価値方程式の亜麻の等価物・同等物としての判断のもとで、
    イ 上着は<価値である一つの体として数える>と示され、
    ロ そして、その次に、物象の働きーー判断が、<具体化された価値として数えます>
     ーーとこの過程が、③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落での一過程が示されることで、
     次の④の回答になっていたのです。

    ④ 上記②のことで、全体・両者の共通者を示す諸物象の関係がなすところの、物象の第一
     の<反省規定>をこそ<価値体上着>として、受け取るーー価値の現象形態ーーなのです。
     つぎに、第二の<具体化された価値として数えます>とされることで、その事柄を、
     <この上着は価値形態の役をする>ことができと示し、
     この物象の判断ーー役立ちのもとで、価値関係の質的側面を表わすことができたのです。
     (この、第一と第二の区別がないと、同一の大谷先生の「形態規定」は批判できない。)
     以上のように、イ ロの区別があることで、価値体と価値形態との区?ができたのです。
      (大谷先生には、この削除されている等価物上着に気づかなかったことで、そこを理解で
       きなかったのです。〕
     そしてつぎに、この<上着は亜麻布の等価物である>との判断のもとで、
     その量的側面を示すところの、価値表現の材料となっていると、示しています。

     この上記イロの事柄の区?が、<簡単な価値形態について hirohiro>での彼の主張には無い
     ことでーーここに示されたことへの理解が及ばないのです。

    ⑤ 9段落 後半部です。
     「一つの使用価値として、この亜麻布はこの上着とはなにか目立って異なっている;
     価値として、それは上着と同じである、そして今や上着の外観をもっている。
     このようにしてこの亜麻布はそれの物理的形態とは異なるひとつの価値形態を獲得する。
     それが価値である事実、は上着とのその等しさによって表されている、ちょうど一人のキリ
     スト教徒の羊の性質が神の羊に似ていることのなかで示されるように。」

      <価値として、それは上着と同じである、そして今や上着の外観をもっている。
      このようにしてこの亜麻布はそれの物理的形態とは異なるひとつの価値形態を獲得する>
     ーーリンネル・亜麻布は、上着が価値である限りにて、価値の規定・反省規定を受けとる。
     この物象の反省規定が、日常世界では、商品の受け取る同等性関係としてしか、認識され
     ないことを、マルクスは批判しているのです。
      リンネルが<価値である事実、は上着とのその等しさによって表されている>
     ここには、次の10段落に示される商品語での語りの出発点、我々が誤認識してしまうこと
     がらが、明示されている。

    ⑥この価値関係が同等性関係へと解消される根拠が、価値が物的属性として現れる、この同等
     性関係への転倒が、つぎの「傍註批判」にも次のように表されている。


     「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」
   《さて、ロートベルトゥスが――私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言
   おう―すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、―交換価値は商品が複数で見いだされ、さ
   まざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから――彼はこの現象形態の背後に
   「価値」を発見したはずである。

   彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人
   間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象
   的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの
   対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要に
   するのである〕、こういうことを発見したことであろう。

   つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存
   在するもの、すなわち労働の社会的性格――労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎり
   での――を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。
   このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとす
   れば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。》
   (全集第19巻376~7頁)

    ⑦以上のーーa価値であり・b価値体・c価値形態の根幹にあるのが、
     労働の二重性であり、この二者闘争的性格との判断こそがこの商品形態を形成したのです。
     そして、この労働の二重性こそが、労働の二面的作用をもたらし、
     <価値を付加することで、価値を維持する>ことで、不変資本と可変資本とを形成するこ
     とで、貨幣の資本への転化をなしとげていたのです。

    ⑧上記④をhirohiroさんの主張と比較してみよう。hirohiroさんは、こう述べています。
   第七~十一パラグラフ
     ーーーーー略ーーーーー
 リンネルが上着を等置することにより、上着をつくる裁縫労働は抽象的人間労働に還元されました。
 そして、この関係の内部では上着は価値としての側面でのみリンネルにとって意味を持たないがゆえ
 に、上着は抽象的人間労働の対象化された物それ自体=「自然形態で価値を表わす物」=「体化され
 た価値」(同上)=「価値体」(同上)となっているのです。
     ーーーーー略ーーーーー
 このように上着が価値体とされることによって、リンネル価値の現象形態となるのです。リンネルの
 価値性格を表わすという課題は、リンネル自身が自らの関係行為により無事解決されました。めでた
 し。めでたし。

    ⑨物象の判断の経緯ーー推移が、hirohiroさん、次のように表されていました。
    ここに次の、上着はリンネルの価値関係において、次を成しているとの物象の判断です。
       a <リンネルの等価物としての上着商品>との判断をしているのであり、
       b そのことで、物象から上着はリンネルの価値体であると、示され、
       c そこで、裁縫労働は、リンネルの価値の現象形態と判断されているのであり、
       d つぎに、上着は<具体化された価値として数えます>とされ、
       e <上着は亜麻布の等価物である>から<この上着は価値形態の役をする>と示し
       f <上着は亜麻布の等価物である>から価値表現の材料となっているーーと判断さ
        れているのです。
    ここには、リンネルの等価物上着は、<抽象的人間労働の凝固物>との反省規定された、
    物象の判断が、あることで、それぞれの継続された役立ちが示されており、
    価値体と価値形態の区別が述べらたーーと思うのですが、hirohiroさん、どうでしょうか?
    <抽象的人間労働の凝固物>である価値体では、上着の抽象的人間労働の実現形態の役立ち
    ーー等価形態の役立ちに転倒した理解になるのでは、ありませんか?

    ⑩大谷先生の価値鏡の役立ちとは、何でありましたか?先生はこう表わしました。
     「このような<回り道>をすることによって」ーー次のことがなされると。
     ーー「肝心なところは,そもそも商品は,自分だけで自分の価値を表現することがけっして
    できず,まずもって他商品の現物形態を自分の価値鏡にしなければならない,ということであ
    る。」ーーと。

     しかし、先生、この 価値鏡 の役立ちでは、等価形態ですよ!
    大谷先生の「価値形態の秘密」は、上記の理解では提示出来てないのです。
     第二形態の「1展開された相対的価値形態」において、次のように提起されている。
    「他の商品体はどれもリンネルの価値鏡となる。」(新書P106 原P77)
    リンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対して社会的関係に立っている。」
     このように、上着etcが直接的に価値形態になることで、商品世界を形成するのではな
    く、リンネルの価値形態と個別的に、相対的価値形態を形成することで、成しているのです。
    第一の形態では、「こうして、上着がリンネルの等価物となる価値関係のなかでは、上着形態
    が価値形態として通用する。それゆえ、リンネルの価値が商品上着の身体で表現され・・る」
    (第9段落)とあり<上着の現物形態が価値形態となる>ではなく、<リンネルの価値形態>
    として、第二・第一の形態とも左辺・左極にて、<交換可能性の形態>を受け取るのです。
    しかし、商品語で語られたのは、この価値関係が「リンネルの価値存在が上着との同等性」
    に転倒することで、大切な「価値存在の表現ーー価値の存在形態」が、消失したものであり、
    同等性関係に転倒することで、物象の社会関係の転倒を見せているのです。


    hirohiroさんーーおかげさまで、「上着が等価物としてリンネルに等置される」ことが、
    ③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落に渡って、提起されている新しい気付きを得ることが出来ました。
    有難うございます。
    以上です。



 

      大谷先生の、8段落を巡る同等性関係と価値関係の混同への批判

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月25日(日)10時24分9秒
返信・引用 編集済
      「二つの商品の交換関係に潜んでいる-商品の単純な価値表現」であれば、それは量的関係で
    あって、二商品の交換比率であるのですから、価値存在の表現の示される内実三段落にて示さ
    れた、その「自立的表現」である価値形態はそもそも成立しないのです。
    「a 相対的価値形態の内実」冒頭に、「この価値関係を、さしあたりその量的関係からまっ
    たく独立に、考察しなければならない。」ーーと、冒頭に述べられており、次の2段落に、
    そのことを示して、「リンネル=上着」の等式が示されている。
    議論は、「交換関係」とあれば、それを「価値関係」と替えて行わねばならないのです。

    しかし、9・10段落に示される、商品語の語りでは、価値関係が交換関係での語りに、
    転倒していますから、この転倒批判でしか語れないのです。

    大谷先生の価値形態論の誤解を、以下探ってみました。


     「・・・・・・・・・・・・・・だが,上着が価値体として通用するとい
     う状態は,どのようにして成立するのであろうか。それは,リンネルが上
     着を自分に,質的かつ量的に等置するということによって,言い換えれ
     ば,リンネルが上着にたいして,上着は自分と価値が等しいものなのだ,
     つまり等価物なのだ,と認める様態で関わること,連関すること|こよっ
     てである。このことが意味するのは,つまるところ,リンネルは上着にた

     176
     いして,上着をそのようなものとして認めるという様態で関わるというこ
     とである。このことによってはじめて,上着は,価値体という,この連関
     のなかでのみ通用する社会的な質を,さらに厳密に言えば,経済的形態規
     定性を受け取るのである2)。このような<回り道>をすることによっては
     じめて,リンネルは,自分自身もまた価値物,つまり価値をもった物であ
     る,と言うことができるのである。肝心なところは,そもそも商品は,自
     分だけで自分の価値を表現することがけっしてできず,まずもって他商品
     の現物形態を自分の価値鏡にしなければならない,ということである。ま
     さにこの点に価値形態の秘密が,したがってまた貨幣の秘密がある。
     以上が,二つの商品の交換関係に潜んでいる-商品の単純な価値表現の
     〈メカニズム〉である。」(『価値形態』大谷禎之助 P175~176)
    http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7779/1/61-2otani-2.pdf

    先生が、ここに、何と言ってるのでしょうか?ここには、① ② ③の違いがあります。
   ①「上着は,価値体という,この連関のなかでのみ通用する社会的な質を、さらに厳密に言え
     ば,経済的形態規定性を受け取るのである2)。このような<回り道>をする・・」

    回り道は、「上着は,価値体という・・経済的形態規定性を受け取る」ことなのですか?
    次の5段落にて提示されたように、<①仕立て・裁縫労働を、亜麻布を織る織布労働に等しい
    とすることで、裁縫労働をそれらの共通な性格へと還元する。②この[回り道の]方法のなか
    で、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現されるーーとあります。

     (A2a-5段)英和訳『資本論』
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
       (第3節 価値形態すなわち交換価値)
     この上着を亜麻布の等価物<再版ーー価値物>とすることで、われわれは上着に体現された
     労働を亜麻布に体現された労働と相等しくする。
     さて、たしかに上着を作る仕立て、は亜麻布を作る織布とは違った種類の具体的労働であ
     る。しかし仕立てを織布と相等しくする行為は、仕立てを労働の2種類の中の実際に等しい
     ものに還元する、それらの人間労働の共通な性格に還元する。
     この迂遠な[回り道の]方法のなかで、今度は、次の事実が表現される、織布もまた、それ
     が価値を織る限りにおいて、それを仕立てから区別しなければならないことは何もない、そ
     して、結果として、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現される。

   ②「上着は,価値体という・」と示されるのは、この5段落ではなく、8段落にての提示です。
     (A2a-8段)
     「そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ
     存在する、従って、価値である一つの体として数える、従って体現された価値として数え
     る。」

     <新書版ーー「・・そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけからそ
     れゆえ、体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。」新書P88>


    このように、<リンネル=上着>の価値等式のなかで、上着はリンネルの等価物であるのだから、
    <上着は価値であリ、価値体を示している>のです。
    この価値関係のもたらす反省規定があることで、上着は、体現された価値として数えるーーことが
    できるのです。上着が価値体であるのは、リンネルの等価物だからであり、なんら回り道などして
    いないのです。

    「このような<回り道>をすることによってはじめて,リンネルは,自分自身もまた価値物、つま
    り、価値をもった物である,と言うことができるのである。」
   この誤りは歴然としています。

   ③「このような<回り道>をすることによって」ーー次のことがなされると。
     ーー「肝心なところは,そもそも商品は,自分だけで自分の価値を表現することがけっしてでき
    ず,まずもって他商品の現物形態を自分の価値鏡にしなければならない,ということである。」

   この 価値鏡 の役立ちでは、等価形態ですよ!
   大谷先生の「価値形態の秘密」を、上記の理解では提示出来てないのです。
   それは、大谷先生の示した<価値体>次への理解にあります。
   先ほど示した英和訳では、次のように、この特異性に満ちて、示されている。
    (A2a-8段)
    <そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存在
    する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。
    A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の陛下が
     A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父と一緒に、そ
    の顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。>

    (A2a-9段)
     <ゆえに、価値等式においては、その中で上着は亜麻布の等価物である、この上着は価値形態の
    役をする。
    商品 亜麻布 の価値は 商品 上着 の身体的形態によって表現される、一方の価値は他方の使用
    価値によって表現される。>

    そこで、次の8・9段落の間にて行われている、提示がなにか?マルクスの質問が何か?
    と考えを<何度も何度>も、飽きながらも繰り返し練らなければならないのです。

   ②<価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもと
    でのみ存在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体
    として数える。>ーーこの解読こそが、大谷先生の誤読を説明してくるのです。
     (次は、パソコン直訳です。)
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
そして、価値方程式の亜麻の同等物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値のある身体として具体化された価値として数えます。

   この英訳は素晴らしい!書かれていることは、商品が物象となり擬人化されて、この関係から、
    ①価値等式のなかで亜麻布の等価物として、上着は存在しており、
    ②従って「体現された価値として」上着を数えると、ーーとの物象の判断を示したのです。
    ③次に「価値である一つの体として数える」・「具体化された価値として数えます」ーーと。
     <新書版・「体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する」の誤訳が明らかです。
     物象が、「数える」のであり、「具体化された価値として数えます」との物象の判断が、消去>
   そこに、自ずと示された事柄が、次なのです。
    ①等価物としてとは?上着はリンネルの等価物なのですから、次の③の「価値形態」であり、
    ②上着は、使用価値としてその身体的形態のままに、リンネルの価値表現の材料なのです。

   そこで、次の解答が示されていたのです。
   ③「価値等式においては、その中で上着は亜麻布の等価物である、この上着は
     価値形態の役をする。
     商品 亜麻布 の価値は 商品 上着 の身体的形態によって表現される・・」

   ここでの③の回答は、6段落でのマルクスの次の質問を考えなければ、まず、出てきません。
   ①<α 亜麻布の価値を人間労働の凝固物として表現するために、
     β そして何か亜麻布および他のすべての諸商品と共通なものとして表現されなければ・>
   ② αの問が、この交換されるではなく、「価値等式」での・等価物上着とは?と物象が、人間語に
     て質問しているのです。久留間先生には、その別が無いから、理解できないのです。
     その答えが自ずと、価値体上着の規定を受けているーーだけではないのです。
     βの問いであるーー関係にある・等価物ーーだけでなく、亜麻布および他のすべての諸商品と共
     通なものとして表現されなければーーとは?とのマルクスの我々へ注意なのです。
     そこで、ーー物象がーー考えることが、次のことなのです。

     価値方程式の亜麻の同等物として、上着は<価値である一つの体として数える>、次に、
     物象の働きーー判断が、<具体化された価値として数えます>ーーと示されたのです。

     そこで、次の③の回答になってきます。
   ③ 上記②のことから、全体・両者の共通者を示す諸物象の関係がなすところの、物象の考えである
     第一の<反省規定>をこそ、上着が受け取るのです。
     だから、そこで、つぎに、<上着は亜麻布の等価物である>との理解のもとで、
     <この上着は価値形態の役をする>ことができと、物象の判断を示し、
     そのことで、この価値関係の質的側面を表わしています。
     そして第二の判断として、この価値関係の上着への反省規定としてーー上着が価値体としては、
     その量的側面を示すところの、価値表現の材料となっていると、物象の判断を述べています。

   上着が価値物であり、「リンネルは,自分自身もまた価値物」ーーとの大谷先生の提示は、
   ここでの物象の判断によって、リンネルの価値形態が形成されることへの、理解の点で、以上の誤解
   があるように思えます。

   しかし、大谷先生は、相対的価値形態がそのことで形成され、等価形態が形成されるとの、第一の
   形態を形成してゆく物象の社会関係の形成ーーを辿ることが、その記述の次の等価形態では、できて
   いたのです。そこは是非とも、先生の名誉のために、追加・紹介しておきます。

       §4等価形態
      (1)直接的な交換可能性の形態
     「・・・・・・・・・・・・・・・・・・しかし,リンネルが交換されう
     るというのは,それがもし他商品によって等価物とされるならば,そのと
     きにはそれと交換されうる,というたんなる可能性であり,商品として交
     換の場に出てきているということの別表現でしかない。リンネルが,この
     ようなたんなる可能性ではなくて,他の商品と交換しようとすればただち
     に交換できるという現実的な可能性を,あるいはそのような力をもつため
     には,つまり直接に交換されうる-すなわち商品所持者が交換しようと

     18O
     すればすぐに交換できる-ためには,リンネルは,たんに商品として交
     換の場に出ているというだけではなくて,さらに,その商品体の直接的な
     形態,つまりそれ自身の物体形態あるいは現物形態そのものが,他商品に
     たいして価値を表わし,あるいはこの他商品にたいして価値の姿として通
     用しなければならない 註1」。(『価値形態』大谷禎之助P179~180)

      1)等価形態が「直接的交換可能性の形態」であること,そしてさらに,
     相対的価値形態に立つあらゆる商品がもつたんなる「交換可能性」と等価
     形態がもつ「直接的交換可能性」との区別は,マルクスの価値形態論の理解
     にとってきわめて重要な意味をもっている。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     他方,マルクスにあってはたんなる「交換可能性」と「直接的交換可能性」
     とが厳密に区別されていることにまったく気づかないか,あるいは気づか
     ないふりをしたまま,マルクスの価値形態論についてあれこれ論じている
     のが,岩井克人氏の議論(『貨幣論』,筑摩書房,1993年)である。
                  (『価値形態』大谷禎之助P181)


   一労働者に過ぎない私ーー杉本が、こんなにも理解困難な価値形態論に取り組んでいるのは、
   ①第二次ブンドの敗北を、資本主義批判・労働者階級の資本家階級への経済的服従として、
   労働力商品化論である宇野経済学への批判をこそ成すことで獲得する。
   ②そして、資本ー賃労働関係が、資本関係を拡大再生産することへの批判が、物象の人格化を
   示す・交換過程であり、物象の社会関係を示す一般的価値形態への批判をとうして成されなけ
   れば、確かなものへと対象化できない、ことを痛感するからであります。

    党への責任であり、労働者階級への責任を、自らの一労働者としての責任として自覚する
    からであります。






 

Re:      Re初版での価値形態論

 投稿者:hirohiro  投稿日:2018年 3月23日(金)09時15分20秒
返信・引用
  > No.1614[元記事へ]

「hirohiro さんのこの提示では、左辺でのーー上着との価値関係のもたらすリンネルの価値形態を得たことでの相対的価値表現ではなく、右辺の使用価値上着が交換可能性を受け取るものである等価形態と混同しているのではないか?」

一たたきでいくつものハエを打つ、のではないですか。杉本さんが区別している相対的価値表現と等価形態の成立とは不即不離の関係ですよ。マルクスは両極の不可分離性かつ排斥性についてあれほど強調しているではないですか。

同等性関係と価値関係とをあまりにも区別しすぎです。マルクスがベイリー批判で苦労した点が理解されていませんね。リンネルも上衣も商品として関係しているのだから、価値物であることは前提されているのです。その上でいかにしてそれが感性的に現象するのか、ということをマルクスは解明しているのです。

榎原さん批判は全くの的外れです。価値体についても前後の段落を虚心坦懐に読めば、杉本さんのは誤読だと、あなた以外の人間は誰しもが認めると思います。

ということで、やはり生産的な議論になりませんでしたね。二度とこの問題についてコメントすることはないと思います。
 

     Re初版での価値形態論

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月22日(木)18時08分43秒
返信・引用 編集済
      hirohiro さん素早い返辞を有難う。
    ①左辺に交換可能性の形態を受け取り、商品形態を示すことで、
    それを説明して、
    ①リンネルの価値形態が上着として規定されることで、
    ④価値方程式の左辺に、リンネルの上着に対する交換可能性の形態ーーを受け取り、
    ーーと、hirohiro さんが紹介するように、次のことを私は述べています。


2.相対的価値形態と等価形態の両極について
杉本さんは従来の見解では、相対的価値形態と等価形態とが混同されている、と批判していますが、私には理解不能です。

杉本さんの文を引用します。

「ここが要注意!価値が上着である、だけでは、交換可能性の形態を受け取っていないのです。    等価物の役立ちができていないのです。上着は価値形態であることで、両極にて、次のように、役割をしている。
①左辺に交換可能性の形態を受け取り、商品形態を示すことで、
②その右辺に、上着の現物形態において、「他の商品との直接的な交換可能性の形態」、交換可能な使用価値であり、等価物の形態を受け取ったのです。
 再度ーー上着が価値であることだけでは、等価物になっていないのです!!何故か?
①リンネルの価値形態が上着として規定されることで、
②労働生産物は使用価値と価値の二重の規定が表現されているのであり、
③使用価値と価値形態の二重の商品形態が示されることで、
④価値方程式の左辺に、リンネルの上着に対する交換可能性の形態ーーを受け取り、
⑤その右辺に、交換可能な使用価値・等価物の形態を、上着はその自然的形態のままに直接的な交換可能な形態を受けとっているのです。
 このように、両極の形態が、両極での役割が必要なのです。こんなにも短い提示にてマルクスは、価値形態論のすべてをここに示しているのです。

上記の⑤は、④の交換可能性の形態があって、前提にされていてようやく獲ることができた。 このことは、この①~⑤の流れ・全体性においてのみ理解できることなのです。」

①はどういう意味でしょうか。左辺の商品リンネルは右辺の上衣という形で交換可能性という形態をえるのであって、左辺自身は相変わらず使用価値形態のままです。左辺には交換可能性の形態はありません。交換可能性の形態を受け取るのは、ただ右辺の上衣のみです。

また、「再版では、このように「価値体」上着の規定では、リンネルの価値形態として交換可能性の形態を受け取らずーーと示されている」と杉本さんが言われていますが、ここもよくわからない。価値体とは現物形態そのものが価値の現象形態として存在していることではないのか。つまり等価形態におかれることによって、上着がそのようなものとなっており、従って上着はリンネルの価値としての形態である、このようにマルクスは言っているのではないでしょうか。その意味では久留間さんも榎原さんも正しいのではないか、このように思います。

    (『初版』です、次を参照願います。http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
    hirohiro さんのしてくれた、ここでの次の質問が、価値形態論のなによりも出発点です。

    ①はどういう意味でしょうか。左辺の商品リンネルは右辺の上衣という形で交換可能
    性という形態をえるのであって、左辺自身は相変わらず使用価値形態のままです。
    左辺には交換可能性の形態はありません。交換可能性の形態を受け取るのは、ただ右
    辺の上衣のみです。

       <左辺自身は相変わらず使用価値形態のままです>
    その通り、マルクスも初版第2段落冒頭にそのように書いているが、左辺ではないのです。
       「リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。
       だから、・・すなわちそれのもっている現物形態は、・・価値形態の正反対物
       なのである。」ーーとあります。
    英明な江夏訳では次にこう述べられています。
       「リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に
       等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているということで
       ある。リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を価値としての
       ・自分に等しいものとしての・上着に、関係させることができないであろう。」
       (江夏訳初版P34~35)榎原さんの『価値形態・・』P51にもこの文で引用。
       そして、hirohiro さんの引用したところに、つながるのです。
    「リンネルは人間労働であるという点で種を同じくする労働の対象化されたものとし
    ての上着、リンネルの価値実体をなすものの対象化されたものとしての上着に関係す
    ることによって、質において上着と等しいとされる。」(同上)

    しかし、次は悪訳・誤訳であります。
       <①リンネルは人間労働であるという点で種を同じくする労働の対象化された
       ものとしての上着
       ②リンネルの価値実体をなすものの対象化されたものとしての上着に関係する>

    今村訳ーー
       「リネンが同質の人間労働、すなわち自分自身の価値実体の対象化であるかぎ
       りでの上着に関係することによって、リネンは上着にたいして自分を質的に同
       じものだとする。」
    江夏訳も同じ訳であり、①の記述はありません。
    だから、ここに示されているのは、単なる同等性関係ではありません。
    リンネルが、上着に対してーー反省規定ーーして成り立っていることをこそ、明示してる。
    そのことが、次の価値関係の第一・二・三の提示になってきます。

       「①リンネルは他の商品を自分に価値として等置することによって、価値とし
       ての自分自身に関係する。」ーーと。
       「②リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時
       に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。」
       「③リンネルは、自分の価値量ーーを上着で表現することによって、自分の価
       値存在に、自分の直接的な存在とは区別される価値形態を与える。」

    ここで成されている反省規定とは何か?
    「左辺の商品リンネルは右辺の上衣という形で交換可能性という形態をえるのであっ
    て、左辺自身は相変わらず使用価値形態のままです。」

    hirohiro さんのこの提示では、左辺でのーー上着との価値関係のもたらすリンネルの価値
    形態を得たことでの相対的価値表現ではなく、右辺の使用価値上着が交換可能性を受け取るも
    のである等価形態と混同しているのではないか?

    この、リンネル=上着 の左辺にて、リンネルは反省規定していることで、価値形態と上着が
    規定される、直接的でなく媒介的に、交換可能性の形態をこの価値関係から受け取るのです。
    対して、この交換関係ではこの反省規定がなされないので、価値関係において、右辺では、上
    着は使用価値の姿のままに交換可能性の形態=直接的交換可能性の形態、を受け取るのです。

    この第一の形態では、交換可能性の形態ーー直接的交換可能性の形態として形成されているこ
    など、意識に誰も止めないだろうから、その完成形態での第三形態も提示しておこう。

        Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係
        に置いた形態
       1着の上着     =20エレのリンネル
       u量のコーヒー   =20エレのリンネル
       v量の茶       =20エレのリンネル
       x量の鉄       =20エレのリンネル
       y量の小麦      =20エレのリンネル
       その他        =20エレのリンネル 〉(46-7頁)

       ④価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・
       表現である。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現わ
       れており、互いに価値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、
       同時に、自分たちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、
       関係している。

       これらの商品の社会的な関係は、もっぱら、それらが相互に、それらのこうい
       った社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同じであり、したがっ
       て互いに置き換えが可能であるし互いに交換が可能である、というような表現
       --として認められているという点において、成り立っている。

       有用物として一商品が社会的な規定を受け取っているのは、その商品がその所
       持者以外の人々にとって使用価値であり、したがって社会的な必要をみたす、
       というかぎりにおいてのことである。ところが、この商品の有用な属性がこの
       商品を誰の必要に関係させているかということにはかかわりなく、このような
       属性によって、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象になるだけであ
       って、別の諸商品にたいしての商品にはならない。

       単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品
       として互いに関係させることができ、したがって、社会的な関係のなかに置く
       ことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。

       だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められている
       ところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社
       会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。
       ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品
       との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、も
       っていることになる。〉(原P28 江夏訳49-50頁)

       この提示の決定的意味が、なんとしても把握しなければ、価値形態論の理解は、全くの
       空論、第一の形態での論理いじりでしかなくなる。
       第一の形態での、註18aの付された5段落冒頭の次が、最初にこの事を述べていた。
       殆どの人が、次のことは、等価形態と論じる錯誤をしている。

       「 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着
       の上着に値する、という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あ
       るいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠
       着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結していると
       ころの形態として認められているのである(18a)。」(原P18)

    ところが、榎原さんは、この水先案内には従わず、次の提示をbとして理解している。
      a「リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を価値としての・自
       分に等しいものとしての・上着に、関係させることができない・・」

      b「この等式が表現する、リンネルの価値が上着に等しい、ということが、何故、
       リンネルが自分に等しいものとしての他の一つの商品上着に連関するのか、」
       (榎原・上記)
    しかし、「自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させていると
    いうこと」の前文には、次のことがありました。
    「リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は・・」との課題・解明すべきことが、
    その答えが、上記の③なのです。
     何故、この答えである反省規定ーーを榎原さんは拒否したのか?
    次のようにリンネルと上着の関係を、価値関係ではなく同等性関係ーーと認識したからです。
      「マルクスは付録で、この関係が同等性関係であることに注意をうながし、次の
      ように述べている。」(榎原・上記)ーー
    として、付録の「(b)価値関係」を提示すべきなのに、「(a)同等性関係」を提示するこ
    とで、そこでの、<リンネルの価値存在の表現>が何ともわかりやすく説明されている、こと
    を、捨象しているのです。
    たしかに、彼が、次に、初版に戻って、再度、マルクスの条文を提示し同じく付録の価値形態
    の形成を提示しても、後からの提示では、誰も、この価値関係の独自性である、この、
    <価値存在の表現ーー価値の存在形態>が、リンネルの上着での相対的価値表現を為す、物象
    の社会関係を示す4段落の説明により、諸物象の判断によって価値形態の形成が、なされてい
    たーーことなどーー少しも理解されないのです。
     だから、榎原さんの提示は、口先では物象の社会関係を語る、久留間・大谷理論の擁護にし
    かならなかったのです。
     初版では、この第二段落・三段落への理解こそが、理論展開の盤石であります。

    <初版第二段落で提起されたことを、再版では、3・4・5・6・7・8・9 にて拡大し・
    詳細に展開し、商品語批判の準備をする展開になっている。そのことを、英語版・仏語版が
    しているので、次を紹介しておきます。私は、この作業があって、やっと価値形態論の新たな
    展開・理解に気付くことが出来ました。>

    hirohiro  さんの質問
また、「再版では、このように「価値体」上着の規定では、リンネルの価値形態として交換可能性の形態を受け取らずーーと示されている」と杉本さんが言われていますが、ここもよくわからない。価値体とは現物形態そのものが価値の現象形態として存在していることではないのか。つまり等価形態におかれることによって、上着がそのようなものとなっており、従って上着はリンネルの価値としての形態である、このようにマルクスは言っているのではないでしょうか。その意味では久留間さんも榎原さんも正しいのではないか、このように思います。

    <価値体とは現物形態そのものが価値の現象形態として存在していることではないのか。>
    ーーとの上記での再版の理解に対することについては、次のところでの、価値体が、
    「価値に満ちた姉妹魂」、現行版での「価値魂」と示されたことであり、それでは、リンネル
    の価値形態にはなれない、とあるのではないでしょうか?

    「リンネルの価値関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。」ーーとは?
    「だから、人間労働がその上着のなかに積み重ねられている。
    この観点からすれば、上着は価値の担い手である・・」と明示されており、
    価値体であることでは、対象的形態である価値形態になれないーー
    と次に示すように、書いてあります。

     <どんなに擦り切れていても、上衣の透いた糸目を通して外に現れるものではな
    いが。しかもリンネルの価値関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。
    上衣の外貌がどんなにあばた面で出会っても、リンネルは上衣のうちに、価値に満
    ちた姉妹魂を認めたのである。これがプラトニックな側面である。
    上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に価
    値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。>


      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1605
     ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違
    投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月25日(日)
  ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違が何処にあるのか?
    次のように探求してみました。

    a相対的価値形態の内実の第三段落は、英語版では次の訳になります。
    化学式を例示した第三段落にて、ドイツ語版の、ーー
    「この関係のなかでは、上着は価値の実存形態として、価値物として通用する。」
    ーーとの訳ではなく、次の訳なのです。
    <この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現されている
    のは、それがリネンと同じであるため>ーーと。
    英語版・仏語版    すばらしい!!!まずは紹介します。

But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part.
It is only the value of the linen that is expressed.
And how?
    しかし、このように質の同一性が説定された2つの商品は、同じ役割を果たさない。
    表現されるのはリネンの価値だけです。
    では、どうやってーーそのことがなされるのですか。?

By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it.
In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
    それと同等のものとしてそのコートを参照することによって、交換できうるものとして
    であります。この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値であるのは、それ
    がリネンと同じであるためだけです。

On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat.
To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate.
    一方、リネン自身の価値存在は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
    のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換
    可能であるからです。
    化学からイラストを借りると、化学式としては同じでも、酪酸は蟻酸プロピルとは異
    なる物質です。

    <杉本ーーなるほど、酪酸に蟻酸プロピルが等置される関係にて、人間がその両者の
    共通者が他方でのその存在形態である、との判断をしているならば、そのとき・等置さ
    れた酪酸は、その共通者の単にその存在と、現物形態とは異なる規定を受け取ったので
    す。
     ある物と物とをある関係においたとき、人間は反省規定をこそ、この人間のなす思考
    様式の特異性をこそ、マルクスは主張しています。この物的関係での判断の特異性が、
    同等性関係ではなく、価値関係にては物象自身が、判断をなしているの意味です。>

    <その次の 五段落での直訳での提案>
    ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者の
    ものと同じにする。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の
    具体的な労働であることは事実です。
    しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
    に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
     この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り
    込む限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労
    働である。
    それは価値創造労働の特定の性格を見出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の
    表現であり、これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間
    労働の共通の性格への要約の仕方なのです。[18]

    <杉本 この回り道 ーー同じ所を仏語版では、次の訳でなしている。>
    「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネル
    に含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。
    だが、機織りに対する裁断の等式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
    間労働という性格に還元する。このような回り道をして、機織りは、それが価値を織る
    かぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働であ
    るということが、表現されるのである。したがって、この等式は、リンネルの価値を構
    成する労働の独自の性格を表現している。」
     (『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

    ①<事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>
    という訳をここにしているのではなくて、
    ②<事実上、上着をつくる裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という
    性格に還元する> が正訳であることが理解できる。
     もう一度、繰り返します。
    <裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>とは?
    このように、上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる性格を受け取るのは、ここに、
    両者の共通者を見るのではなく、リンネルによる上着への反省規定として、次の二つの
    事がらがあるーーとしている。
     「機織りに対する裁断の等式は①事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
    間労働という性格に還元する。②このような回り道をして、機織りは、それが価値を織
    るかぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働で
    あるということが、表現される」ーーとあるのです。
    上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる労働として、リンネル織りの労働の共通者に
    還元されること、この回り道<反省規定>を経ることで、リンネル織り労働が、価値を
    織るかぎりでは、それは抽象的人間労働であると、物象の諸関係からの判断を受けてい
    るーーのです。
     現行再版のーー価値物上着がリンネルに等置されることで、裁縫労働がリンネル織り
    労働に等置される、この等置は「裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しいものに、
    還元する。この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限りにおい
    ては、・・・すなわち抽象的人間労働であることが語られるのである」ーーの記述では、
    仏語版の理解に辿り着けるものではない!!!ことが理解できる。

    ここでの記述の誤りは、価値上着がリンネルに等置されることで、上着を縫い上げる裁
    縫労働が、使用価値を作ると規定されるのではなく、価値を縫い上げる裁縫労働と規定
    されているーーこの前提条件が無い、消えていることです。そのような条件のもとで、
    リンネル織り労働が、「価値を織り出す限り」と記述されても、反省規定した対象が、
    <価値を縫い上げる労働>とは規定されていないのだから、この規定は反省規定を受け
    取らない、マルクスの提起である物象の判断がここには示されないのです。
    「価値物上着」の提起が、マルクスの真意を排除していることが、ここに理解できます。


      仏語版での正訳でもなかなかそのことは理解し難いので、そのことの説明を補充して、
    マルクスは用心深く、リンネル価値が人間労働の凝固体を獲るためにはーーどうなすこと
    でなのか?との問を、次の六段落にて提起する。

    ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なものが
    あります。動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、それ自
    体価値はない。何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値に
    なる。リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に
   存在するものとして表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるものとして、
   リネンと他のすべての商品に共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

    <リネン価値を表すには、上着との共通者として表されなければならない、のです。>

    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
    ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的に
    ランク付けされ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   この等式からでは価値だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
    (「上着事態の存在形態が価値の存在形態になる。」仏語版 上P22 )
   <この提起が最も良い意味です。>

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
     そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
     私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、
     コートはその関係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、
     着ていない時よりも多くのことを数えるようにです。

    <①リンネルに上衣が等置されるのは何故でしたか?リンネルは価値であり、同じく
     上着も価値であるからですが、そこで起こることは次のことです。>
    <②ここでの上着は、a価値としてのみの存在になることで、b触診できる身体的な形
    が価値を表すものーーに転回しているのですから、この変化を、仏語版は、上着の形態
    が、ーー価値の存在形態ーーと表すことで、三段落のーーリンネルの価値存在のーーの
    対象的形態が、ここに示されたのです。>
    <③この②で起こる変化をこそ、五段落にて、マルクスは訴えていたのです。>

    八段落

  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
    ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
    それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
    この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
    そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として具体化された価値<価値形態> として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
    A  杉本 パソコン直訳
    たとえば、Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、その特徴、髪、およびその他の
    多くのものを変えない限り、AはBの "陛下"になることはできません。
    人々の新しい父親は、その特徴、髪、および他の多くのものを変えます。
    B  英和訳『資本論』
    Aは、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の
    陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい
    父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り、

     あまりお付き合いのない、フランス語版が、次の提起をしていたのです。

    「上着の生産では、じっさいに、なにがしかの人間労働力がある特殊な形態のもと
    で支出された。だから、人間労働がその上着のなかに積み重ねられている。この観
    点からすれば、上着は価値の担い手である。もっともこの特性は、上衣がどんなに
    擦り切れていても、上衣の透いた糸目を通して外に現れるものではないが。しかも
    リンネルの価値関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。上衣の外貌
    がどんなにあばた面で出会っても、リンネルは上衣のうちに、価値に満ちた姉妹魂
    を認めたのである。これがプラトニックな側面である。
    上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に価
    値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。
    同じように、私人Aは個人にたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯
    とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのである。陛下が人民の新たな父
    となるたびごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのため
    であろう。」(仏語版 9段落P22)

    <価値を実際表すことができるのは、同時に価値が一着の上衣という姿をとるかぎりで
    のこと>ーーと再度五段落の提起から導き出されるのが、「価値形態」上着との、リン
    ネルの相対的価値表現が必然的に見出す反省規定なのです。

     このように、英語・仏語版に語られているところの、再版での回り道を巡る議論は、
    久留間先生の主張するように、第五段落に終わるものではないのです。商品語が提起さ
    れる九段落は、それまでの論議を終わらせたところーーからなされるのです。

    しかし、久留間先生の議論は、再版ではなく、初版に依拠したものなのです。
    大谷先生と議論するなかで、久留間先生が提起したのは、初版での回り道の議論なので
    す。彼の初版での議論は、本当に理解し難いものです。まずは資料として提起しておき
    ます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    <資料 略>
 

Re:  相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す その3

 投稿者:hirohiro  投稿日:2018年 3月20日(火)16時20分28秒
返信・引用
  杉本さんへのお返事です。

杉本さん。ご無沙汰しています。hirohiroです。最近も価値形態論について投稿されているようですね。各版の比較研究などもやられているようで、その情熱には大いに敬意を表したいと思います。また、私の駄文を紹介していただいてありがとうございます。自分でいうのもなんですが、あまりにも長すぎますね。杉本さんぐらいではないでしょうか、我慢して読んでいただけるのは。ありがとうございます。

最近自分の仕事や文化知普及協会関係の仕事で忙しかったりで、たまにしかここをチェックできていませんので、杉本さんの論考を全部読めてはいませんので、簡単な価値形態に触れている部分についてのみ、感想を書かせていただきます。まあ、従来の主張のくりかえしで、あまり生産的ではないかもしれませんが。

1.同等性関係と価値関係との区別について
私には杉本さんが言われる同等性関係と価値関係との区別をどうしても理解できません。もちろん、同等性関係の一つの種類として価値関係があるのですから、同等性関係一般と価値関係とはその意味では区別されてはいます。しかし、価値関係とは価値としての同等性関係であって、第二段落前半部と後半部との区別は存在しないのではないでしょうか。

周知のようにマルクスは、リカードウに対して量的関係のみをみて質的関係をみていない。だから価値形態を論じることができなかった、と批判しています。同等性関係とはまずもって質的同等性のことであり、それこそが価値なのだ、との批判です。ベイリーに対する批判も量的比率が成立する前提に質的同一性が存在しており、その点を理解していないというものでした。

マルクスが価値形態論において追求したのは、価値としての同等性関係において、どのようにして質的同等性が成立するのか、という問題だったと思います。価値実体として抽象的人間労働がどのようにして成立し、またその対象化としての価値がどのように現われてくるのか、この点の解明だったのではないでしょうか。

ただ、あえて同等性関係と価値関係との区別をつけるとすれば、それはリンネルの主体性の視点だということには同意します。よく言われていることですが、価値実体論での小麦=鉄という関係と、価値形態論でのリンネル=上着という等置式との性格の区別、ということになるかと思います。価値実体論では小麦の交換価値として鉄が規定されていますので、両項を入れ替えることgが可能だという解釈が成立しないのではと思います。しかし、ここではまだ小麦がみずからの価値を表現するという視角からではなく、両者の同等性にのみ着目して、思惟抽象によって価値実体を導出しています。その意味では相対的価値形態と等価形態との両極性の視点はありません。

それにたいしてリンネル=上着ではリンネルが自己の価値を表現する関係であることが明確にされています。それが『初版』付録のb 価値関係で述べられていることでしょう。そのような意味であれば価値関係と同等性関係との区別は理解できます。

2.相対的価値形態と等価形態の両極について
杉本さんは従来の見解では、相対的価値形態と等価形態とが混同されている、と批判していますが、私には理解不能です。

杉本さんの文を引用します。

「ここが要注意!価値が上着である、だけでは、交換可能性の形態を受け取っていないのです。    等価物の役立ちができていないのです。上着は価値形態であることで、両極にて、次のように、役割をしている。
①左辺に交換可能性の形態を受け取り、商品形態を示すことで、
②その右辺に、上着の現物形態において、「他の商品との直接的な交換可能性の形態」、交換可能な使用価値であり、等価物の形態を受け取ったのです。
 再度ーー上着が価値であることだけでは、等価物になっていないのです!!何故か?
①リンネルの価値形態が上着として規定されることで、
②労働生産物は使用価値と価値の二重の規定が表現されているのであり、
③使用価値と価値形態の二重の商品形態が示されることで、
④価値方程式の左辺に、リンネルの上着に対する交換可能性の形態ーーを受け取り、
⑤その右辺に、交換可能な使用価値・等価物の形態を、上着はその自然的形態のままに直接的な交換可能な形態を受けとっているのです。
 このように、両極の形態が、両極での役割が必要なのです。こんなにも短い提示にてマルクスは、価値形態論のすべてをここに示しているのです。

上記の⑤は、④の交換可能性の形態があって、前提にされていてようやく獲ることができた。 このことは、この①~⑤の流れ・全体性においてのみ理解できることなのです。」

①はどういう意味でしょうか。左辺の商品リンネルは右辺の上衣という形で交換可能性という形態をえるのであって、左辺自身は相変わらず使用価値形態のままです。左辺には交換可能性の形態はありません。交換可能性の形態を受け取るのは、ただ右辺の上衣のみです。

また、「再版では、このように「価値体」上着の規定では、リンネルの価値形態として交換可能性の形態を受け取らずーーと示されている」と杉本さんが言われていますが、ここもよくわからない。価値体とは現物形態そのものが価値の現象形態として存在していることではないのか。つまり等価形態におかれることによって、上着がそのようなものとなっており、従って上着はリンネルの価値としての形態である、このようにマルクスは言っているのではないでしょうか。その意味では久留間さんも榎原さんも正しいのではないか、このように思います。

「①リンネルの価値存在の表現として、リンネル価値の現象形態として価値形態と判断されることを導出するーーことに示されている交換可能性の形態であるーーことと
②等価物上着の直接的姿態のままに価値形態とされることで使用価値が価値の現象形態となり具体的有用労働が抽象的人間労働の実現形態になることで、等価形態とされるーーのとでは、すでに、示したように、両極の形態として、相互に排斥しあうのです。」

ここも理解不能です。①は等価形態にある上衣のことではないのでしょうか。①と②とは同じことを言っているのではないのですか。あるいは②の事態が成立しているからこそ、①がいえるのではないでしょうか。

上衣はリンネルによって等置されることにより、価値の現象形態として形態規定されます。つまり価値体として規定されます。価値体として規定されることによって価値鏡としての役割を果たせるのです。そしてそのような等価形態として規定されているがゆえに、直接的交換可能性の形態を与えられているのです。これらのことは事態抽象では一度に行なわれるがゆえに同時的ですが、人間がそれを了解するためには、分節化してでなければできないので、上述のような論理構制になるほかないのです。
  
 

 hirohiro さんとの議論再紹介

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月20日(火)08時51分47秒
返信・引用 編集済
   杉本・私は、ほぼ三年前に、この掲示板にて hirohiro さんと議論していた時のものです。何が問題なのか?まずは再度紹介し、問題点をあきらかにしていきたい。また後で、疑問点への指摘、解決方法などのコメントをしてゆきたい。


http://hirofreak.blog.fc2.com/blog-entry-242.html

freaky style な批判理論を目指して
簡単な価値形態について      hirohiro
2015/02/28 05:34
 以下はコモンズ掲示板に投稿したものを一つにまとめたものです。

1.はじめに

 杉本さんとツイッター上で価値体と価値形態に関する議論をしています。そこでの論点は価値体とは形態規定かどうか、価値体と等価形態あるいは等価物との関連ということが論点となっています。そこでこの論点を解明するために、簡単な価値形態に関する『資本論』初版と現行版の叙述を比較検討してみたいと思います。なお、初版からの引用は牧野訳を、現行版からの引用は新日本新書から行います。フランス語版からは上杉・江夏訳から引用します。初版からの引用に際しては適宜訳文を変更し、訳者の補足は一切省略しています。

2.価値形態論の課題とは何か

 簡単な価値形態の検討に入る前に、価値形態論の課題とは何かをまず明らかにしなければなりません。というのも、先行研究のほとんどが価値形態論を価値表現論としてのみ把握する傾向があるからです。もちろん価値表現の問題が価値形態論の主要な問題であることは間違いありません。しかし、価値表現とは何か、あるいは価値表現によってどのような事態が生じているのか、ということまで問題としなければ、価値形態論を十全に理解できないのです。価値実体論および物神性論と価値形態論との関係、価値形態論と交換過程論との関係を理解するためには、この点が決定的に重要なのです。

 まず、初版本文から見ていきましょう。初版本文では価値形態論の冒頭部分でその課題について触れてはいません。反対にその末尾で触れています。

 「決定的に重要なことは、価値形態、価値実体および価値の大きさとの間の内在的に必然的関連をみいだすことであった。すなわち、観念的に表現すれば、価値形態が価値概念から発生することを証明することだった。」(訳p.69、原s.34)

 「観念的に表現すれば」というのは、牧野氏が補足しているように、観念論的にあるいはヘーゲル的に表現すれば、という意味でしょう。唯物論的にあるいはマルクス的に表現するならば、価値概念とは価値の本質的な規定であり、その規定が価値形態を発生させざるをえない、ということです。

 では、価値の本質的な規定とは何か。価値形態論以前の段階では、それは価値実体論で明らかにされたように、諸商品の社会的実体としての抽象的人間労働の凝固物、ということになります。出発点はこの規定です。そして、価値形態論においてこの規定がさらに深く追及されることになるのです。価値形態論で最終的に価値概念が完全なものとして与えられるといえます。だからマルクスは先の引用文を価値形態論の末尾においているのでしょう。

 初版付録および現行版では、冒頭部分で価値形態論の課題について触れています。まず付録からみていきましょう。

 商品の二要因論を踏まえてマルクスは次のように述べています。

 「ある事物が商品という形態を持つためには、それは、使用価値としての形態と価値としての形態との二重の形態を持たなければならない。使用価値としての形態は、鉄とかリンネルとかいった商品体自身の形態であり、すなわち事物の手でつかめる感性的なあり方である。それは商品の自然形態である。それに対して、商品の価値形態とは、商品の社会的な形態なのである。」(訳p.93、原s.764)

 ここで言われているのは、価値形態によって初めて労働生産物は商品に転化する、あるいは商品となる、ということです。この点は現行版およびフランス語版をみればより明確になります。

 「だから、商品は、自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現われ、言い換えれば、商品という形態をとるのである。」(現行版、訳p.81、原s.62)

 フランス語版では「商品という形態をとる」という部分が、「流通のなかに入ることができない。」(訳p.17)とされています。この書き換えが適切かどうか、問題があると思われますが、今回は無視することにします。

 いずれにせよ、価値形態論とは商品形態論であることが、以上の引用文から読みとれるのです。価値形態論とは単なる価値表現論ではないということの意味は、この点にあるのです。しかし、この部分は価値形態論の課題を直接的に提示したものではないので、見落とされるのでしょうか。それとも単なる前提であり、自明の事実として等閑視されるのでしょうか。いずれにせよ、現行版におけるマルクスの次の言明が影響していると思われます。

 「しかし、いまここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることのなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも簡単なもっともめだたない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消え失せるのである。」(訳p.82、原s.62)

 初版本文とそれ以降の版との違いは、貨幣形態の取り扱いにあることは周知の事実ですが、その意味について榎原均さん以外の研究者は理解できていないようです。交換過程論との関係を考える際の決定的な論点であると思われるのですが、その点から初版本文を積極的に評価せず、貨幣形態導出に失敗した、と解釈する方ばかりなのです。

 この点は今回は取りあげませんが、以上の引用文が価値形態論の課題が価値表現論へと縮約され、貨幣発生論へと限定される原因となっていることは間違いないでしょう。

3.初版本文の検討

 初版の価値形態の分析は、商品の二重形態に関する現行版からの先の引用文と同様なことを述べることから始まっています。

 「リンネルがこの世に出てくるとき、それは使用価値または有用物という姿で出てくる。したがって、その糊のきいた物体としての姿、あるいはその自然的な形態は価値形態ではない。その正反対である。リンネルはさしあたっては、自己と同種の物としての他の商品、上着に関係することによってしか、価値であることを示せない。もしリンネルが価値でないとすれば、それは価値としての上着、自己と同じものとしての上着に関係することはできないだろう。」(訳p.33、原s.16)

 ここで重要なことは、まず第一に、リンネルがここでの主体であるということです。つまり商品は自らが主体的に価値表現を行なうということです。そしてそれは他の商品を自分に関係づけることを通して行うのです。

 第二に、リンネル=上着という関係は価値としての両者の関係である、ということです。この交換関係は価値としての同等性関係であることが言われているのです。いいかえれば、交換関係の前提としての商品あるいは価値としての労働生産物の属性があるということです。労働生産物の価値存在が前提されているのです。

 この第二点については現行版の方が明示的に述べていますので、そちらで詳しく触れますが、交換関係以前の価値存在とは可能性・抽象的な存在であって、それが関係によって現実化する、と考えるべきでしょう。関係から孤立した商品がそれ自体として価値の現実的存在ではないのです。

 さらに今度は労働次元の話を展開しています。これ以前の商品分析でもそうですが、マルクスはまず対象を分析し、そこから人間の実践構造を解明するという方法を一貫して採用しているのです。この点にこそ、マルクス的な唯物論の特質があると言えるでしょう。(この点については拙ブログを参照。なお、榎原均『資本論の核心』、情況新書――これは同氏の『価値形態・物象化・物神性』の簡易版というべきもの――、第三、四章で初版価値形態論の読解視点として詳しく展開されています。)

 「リンネルは人間労働であるという点で種を同じくする労働の対象化されたものとしての上着、リンネルの価値実体をなすものの対象化されたものとしての上着に関係することによって、質において上着と等しいとされる。」(同上)

 交換関係とは価値関係であり、その同等性関係とは価値実体として同種の労働の関係であることが言われています。そして、この関係においてリンネルが価値を表現するということがどのような意味を持っているのか、この点を4点あげています。

 「この上着への関係によってリンネルは一石で何鳥もしとめるのである。①リンネルは他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自分自身に関係する。②価値としての自分に関係することによって、価値としての自分を使用価値としての自分から区別することにもなる。③それは自分の価値の大きさを上着で表わすことによって、(価値の大きさは価値一般であるとともに量的に計られた価値だから)それ自身の価値存在に、直接的な定在形態〔要するに自然形態―筆者補足〕とは区別された価値形態を与える。④そのように、それは自己内に区別を持つものとして現われることによって初めて、現実に商品――同時に価値でもある有用物――として示されるのである。使用価値としてのリンネルは自立した物である。それに対して、リンネルは他の商品(例えば上着)との関係の中でしか価値として現われないのである。」(同上)

 井上・崎山論文(「商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(1)~(4) : 『資本論』冒頭商品論の構造」、立命館文學、632、633、635、638、いずれも同誌のホームページhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/index.htmで公開済み)が示すように、商品世界あるいは商品語の場の論理と人間語あるいは人間の思惟論理との間には、決定的な違いがあります。それを「リンネルは一石で何鳥もしとめる」というように表現しているのです。榎原さんにならえば、人間の思惟は分析的思惟であり、順序を追って思惟するしかないが、商品世界における事態抽象とは総合による抽象であって、一挙的になされる、ということでしょう。

 ここでは交換関係が相対的価値形態にある商品の自己関係であること(①)が述べられ、その自己関係により現物形態と価値形態との区別がつけられ(②)、したがって現実に二重形態としての商品であることが現実的に示される(③)のです。

 ここまでは相対的価値形態にある商品の方から見た価値形態論でした。今度は等価形態とは何かを規定しています。その上でリンネル価値の表現様式の問題へと帰り、上の4点について詳細に解明していくのです。(なかなか入り組んだ叙述で理解しがたいのですが、これが弁証法的叙述ということでしょうか。)

 「等価物という規定に含まれているのは、ある商品が価値一般だということだけではない。その商品がその物そのままの姿で、その使用価値としての形態において、他の商品に対して価値として通用するということ、それゆえ直接に交換価値として他の商品に相対しているということである。」(訳p.35、原s.17)

 等価物とは単に価値対象性をもったもの、価値存在ではなく、価値の化身として直接的に存在しているということが言われています。現行版でいうところの価値体として規定されているのです。では、そのような等価物はどのように成立しているのでしょうか。前に見たところから明らかなように、それは相対的価値形態にある商品の関連付けによってです。つまりリンネルが上着を自分に等置する関係行為によって価値を表現するからなのです。この点をマルクスは次に詳細に論証していきます。

 価値とは抽象的人間労働の凝固物ではありますが、現実には「この結晶はひどく不透明である。」(同上)とマルクスは言います。というのも、現実の労働は具体的有用労働であるほかないからです。

 「リンネルを人間労働の単なる物的な表現にすぎないものと確認するためには、それを現実に物たらしめているものをすべて度外視しなければならない。人間労働であるという以上の質も内容も持たず、それ自身抽象的な人間労働の対象化されたものは、抽象的な対象になってしまうし、思考物になってしまう。」(同上)

 現行版の価値実体論でこのことは「幻のような対象性」(訳p.65、原s.52)と言われています。ここで注意すべきは具体性を度外視する=抽象化するのは人間の思惟であるとはいえ、あくまでも価値とは対象性なのですから、思惟がつくり出したものではありません。思考物とは思惟がつくり出したカテゴリーとして理解してはならないのです。牧野氏が補足しているように、思考によって把握するほかない対象性という意味なのです。価値実体論における分析的抽象は、商品の価値関係における事態抽象を前提としつつもその内実について触れずに分析が行われているのです。さらに、価値とはこのような対象性である以上何らかの対象的形態をとらざるをえないのです。

 「しかし、商品はものである。商品の何たるかは、商品の物的なあり方となっていなければならない。すなわち、それはその固有の物的な関係の中で示されなければならない。リンネルの生産には一定量の人間労働が支出されている。それの価値とはそこで支出された労働の単に対象として反射された姿にすぎない。しかし、その反射波リンネルの体ではなされない。その価値は上着との価値関係を通して開示されるのであり、感性的な表現を獲得するのである。リンネルが、使用価値としては自分と上着とを区別しながら、価値としては自分と上着とを等しいとすることによって、上着は、リンネル価値の現象する形態となり、物体としてのリンネルと対立する。つまり、リンネルは自然形態とは別に上着を自分の価値形態にして自分の自然形態とは区別するのである。」(訳p.36~p.37、原s.17~18)

 「20エレのリンネル=一着の上着‥‥という価値の相対的表現においては、なるほど上着は価値としてあるいは労働凝固物としてのみ、通用しているのである。しかし、まさにそれによって労働凝固物は上着として通用し、上着は人間労働の凝固した形態として通用するのである。」(訳p.37、原s.18)

 後者の引用文はなかなかわかりづらいのですが、次のように理解すべきでしょう。リンネルは上着を価値対象性の側面でのみ自分に関連させるのであり、その使用価値には何の関心もない。確かに上着は商品である以上使用価値の側面を持っている。しかし、上着はこの関係の内部では価値としての側面でのみ通用する。(ここでも価値存在は価値関係の前提となっていることに注意しなければならない。)それはリンネルの問題関心のなせる業です。そして、そのようなリンネルの関係行為の結果、上着は人間労働の現象形態=「抽象的な人間労働の直接的な体化物」(同上)へと転化しているのです。つまり等価物となっているのです。

 さらに労働次元でこの点を展開していきます(ここでも対象→実践・活動)。

 「使用価値としての上着がリンネルの価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的な人間労働の直接的な体化物としての上着素材に関係するからにほかならない。‥‥リンネルは、価値としては上着と同じ本質を持っているので、上着という自然物の形態がリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値としての上着に現われている労働は人間労働そのものではなく、特定の有用労働、つまり仕立て作業である。たしかに人間労働そのもの、つまり人間労働力の支出はどういう規定をも受け入れうるものではある。しかし、それはそれ自体としては無規定である。それが実現され対象化されうるのは、ただ、それが特定の形で支出され、特定の労働として支出されるときだけである。というのは、その労働の対象化の外的材料たる自然素材が相対してくれるのは、特定された労働に対してだけだからである。外的素材なしに客観化されうるのは、ただヘーゲルの『概念』だけである。」(同上)

 「幻のような対象性」を生みだすものはやはり「幻のような」活動性であるほかないのです。しかし、交換関係においてはやはりそれも現実的な活動性へとなるべきものです。商品とは現実的感性存在だから、それを産出する活動も感性的に把握しうる活動でなければならないのです。そこで等価形態にある商品を生みだす具体的有用労働が抽象的人間労働の実現形態とされるのです。抽象的人間労働そのものとしての具体的有用労働という矛盾がここに発生するのです。

 以上を総括するかたちでマルクスは次のように述べ、それが「価値形態の理解を妨げているすべての難問の出てくる原点」(訳p.39、原s.19)だといいます。

 「したがって、ある使用価値または商品体が価値の現象形態または等価物となるのは、ただ、他の一商品が、その使用価値に含まれている具体的で有用な労働を、抽象的な人間労働の直接的な実現形態と認めて関係するときだけなのである。」(同上)

 初版では、これまで見てきたように、一貫して相対的価値形態にある商品の関係行為という観点から、価値形態論を展開しています。この点については早くから榎原氏が明らかにしてきたことで、最近では井上・崎山論文が各版を詳細に検討する中で再確認しています。(ただ榎原氏の先行研究には書名を一度挙げるだけで、具体的に明示していないため、すべて自分たちの主張であるかのような感を与えている点で遺憾です。)したがって、価値形態の秘密を、単に他の商品の使用価値で価値を表現することとして確認するだけでは、まったく不十分なのです。この点についてマルクスはさらに続けて展開しています。

 まず、「すべての難問の出てくる原点」とはどのような意味なのでしょうか。マルクスによれば商品―商品の実体としての労働を、使用価値―具体的有用労働および価値―抽象的人間労働の二者に区別しそれぞれを分析することは、

 「比較的容易である。商品や労働が一方の形態で考察されているときは、他方の形態では考察されていないのであって、逆の場合もまたそうである。対立のこの抽象的一般的労働省的な二側面は自ずから分離するので、別々にとらえることは容易である。商品と商品との関係においてしか現われない価値形態については、そうはいかない。」(訳p.40~41、原s.19~20)

 価値形態においては「使用価値または商品体はここでは新しい役割を果たしている。」(訳p.41、原s.20)この役割が、等価形態としての役割であることはこれまでの議論から明らかです。マルクスはそれを再度取り上げ、それを反省規定として確認すると同時に、なぜそのような規定が必然なのかを商品形態という観点から明らかにしています。

 「使用価値または商品体はここでは新しい役割を果たしている。それは商品の価値の現象する形態となり、かくして自分自身の反対物の現象形態になるのである。まったく同様に、使用価値に含まれている具体的で有用な労働も自分自身の反対物になる。すなわち、単なる抽象的な人間労働の実現される形態にすぎないものとなる。商品の互いに対立しあっている二つの規定は、ここでは、互いに離れ離れになるのではなく、反省しあっている。」(同上)

 互いに反省しあっているとはどういう意味でしょうか。これについては訳者の牧野紀之氏が次のような的確な訳注をつけています。

 「[90]ここに『反省しあう』という言葉を使ったのは、『ヘーゲルに媚を呈した』のである。ヘーゲルは、本質の論理を『反省』として捉えたが、それは対立物が互いに相手を自己の存在にとって不可欠のものとして、または自己の半身として関係しあうことである。反省という訳語は必ずしも正確ではないが、ヘーゲルはそれを光の反射から取ったと言っている。つまり、向こうへ行くこととこちらへ返ってくることが含まれている点を見ているのである。ここでは、価値が使用価値という鏡の中に自己を映し、使用価値は価値を移す(ママ)鏡となっている。」(訳p.150)

 リンネルは自らの価値を上着という使用価値で表現することによって――価値の使用価値への反射――、上着という使用価値がリンネル価値の現象形態となる――使用価値の価値への反射――このような関係が成立しているのです。そしてマルクスは反省規定を形態規定としています。社会的関係によって初めて成立する規定が形態規定なのです。

 ではこのような反省関係がなぜ生じなければならいのでしょうか。それは商品形態の二重性が必然化する事態だとマルクスは解いています。前回の④の引用文で示したことを詳しく再論しているのです。商品は二重性をもつものだから、

 「したがって、商品は自分の何たるかを示すには、その形態を二重にしなければならない。使用価値という形態は商品が生まれつき持っている形態であり、商品の自然形態である。しかし、価値形態は他の商品とのかかわりの中で初めて獲得する形態である。しかし、この価値形態自身もまた対象的な形態を持たなければならない。商品の対象的な形態とは有用物の姿であり、それの自然形態である。そして、ある商品たとえばリンネルの自然形態はその価値形態の正反対のものだから、リンネルは他のある商品の自然形態を自らの価値形態にしなければならないのである。商品は自分自身に対して直接することはできないことを、直接的には他の商品に対してすることによって、そのような回り道をとおって自己自身に対して行うのである。商品は、自分自身の体あるいは自分自身の使用価値において、価値を表現することはできないが、他の使用価値あるいは商品体を直接的な価値存在〔価値としての存在物―筆者補足〕とするように、自ら関係することはできるのである。」(訳p.41、原s.20)

 現行版とは違って初版では対象的形態における「回り道」が説かれています。価値表現の「回り道」という場合、初版の方を指して言うのが正確であるとも言われる所以ですが、労働次元の問題も価値表現の一部であると捉えるならば、現行版もそう言って誤りであるとは直ちには言えないと思われます。

 またここで言われている「直接的な価値存在」とは価値体を意味することも明らかでしょう。ここでいわれる「直接的な」とはその現物形態のままでという意味です。つまり感性的に把握しうる形態における価値存在だということになります。商品とはそもそも使用価値と価値という対立物の直接的統一という意味での二重物であり、価値関係の前提としてはその価値存在は潜在的=抽象的なものでしかありません。まさに「思考物」でしかないのです。それが交換関係によって他の商品を等価物とすることによって、自らの価値存在に感性的=現実的な形態を与えることによって、商品へと現実的に生成するのです。

 ただしここで注意すべきは、対立物の直接的統一それ自体がまだ矛盾しているというわけではないことです。それは商品の現実的な交換関係としての交換過程論の問題なのです。ここでは二重物を現実的に区別する形態論であって、使用価値はそれ自身としては問題となってはいないのです。あくまでも価値の担い手としてのみ問題とされているにすぎないのです。いいかえれば、商品の価値としての側面から商品形態を分析しているのであって、使用価値と価値との相互前提的関係としての矛盾を問題としているわけではありません。この点については尼寺義弘氏の『価値形態論』や榎原氏の『資本論の核心』補講http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220で詳しく展開されています。
初版では対象→労働という方法が徹底されていますが、ここでも続いて労働次元の分析をおこなっています。

 「商品は、自己自身に含まれている具体的労働に対しては、単に抽象的な人間労働の実現した形態にすぎないものとして振る舞うことはできないが、種を異にする商品に含まれている具体的労働に対してはそうすることができるのである。そのためには、商品は他の商品を等価物として等置しさえすればよい。」(同上)

 「上着はたしかにこういう関係の内部でのみ、等価物なのである。しかし、それは受動的に振る舞っている。それは少しもイニシアチブを取らない。上着は、リンネルの方から関係してくるがゆえにリンネルと関係するのである。‥‥リンネルは、抽象的な人間労働の感覚的に存在する体化物としての上着に関係するのであり、したがってまた目の前にある価値体としての上着に関係するのだが、上着がこのような目の前にある価値体であるのは、ただリンネルがこのような仕方で上着に関係するが故であり、またその限りでしかない。上着の等価物というあり方はいわばリンネルの反省規定にすぎない。」(訳p.45、原s.22)

 ここで重要なことは抽象的人間労働への還元における「回り道」は、あくまでも他の商品を等価物として等置すること、つまり交換関係を形成することによって初めて可能となる、ということです。対象→労働という分析手順はこのような商品の行動原理にのっとったものだということが、ここから読みとれると思います。

 榎原氏が強調するように、初版本文ではかように商品の関係行為が価値形態生成の原理であることが明示されているのです。

4.現行版の検討

 (1)価値表現の両極
 本稿の問題意識から見て、ここの叙述において重要なものは次の部分です。

「 私は、たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。‥‥リンネルの価値は、ただ相対的に、すなわち他の商品でしか、表現されえない。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにかある他の商品がリンネルに相対して等価形態にあることを前提する。他面、等価物の役をつとめるこの他の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表現するのではない。それは、他の商品の価値表現に材料を提供するだけである。」(訳p.83、原s.63)

 ここでは他の商品においてしか価値を表現できないことが言われています。そして、相対的価値形態は等価形態を前提とする、と言われています。価値の社会的性格が暗示されているのです。さらに、相対的価値形態と等価形態との内的な関連が、前提という語で示されているのです。さらに、相対的価値形態にある商品の主導性が示されているともいえます。(もっとも初版に比べて読みとりにくいという点はあると思いますが。)

 その他逆の関連の問題がありますが、この点については今回の論点ではないので割愛します。

 (2)「相対的価値形態の内実」論について
 この部分は膨大な研究文献が存在し、何か新しい成果を提示することは不可能でありますが、自己了解の意味を含めて書いていきます。

 ①第一・第二パラグラフ
 この部分では価値関係――これは価値の側面から見た交換関係という意味でしょう――が質的同等性関係であり、関係の両項は「同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねに含んでいる。」(訳p.85、原s.64)と言われています。もちろん初版でもリンネルと上着が価値として同じだということは前提されていました。その点については前の部分で強調しておいたとおりです。ただここでは同等性関係が第三者的な視点から取り上げられていることが大きな相違であるといえるでしょう。しかし、それは論点の重大な変更とは言えないと思います。それは次の第三パラグラフを読めばはっきりするでしょう。

 ②第三パラグラフ
 この部分の前半をすべて引用します。引用部分の項目わけは筆者によるものです。

 「しかし、?質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。?では、どのようにしてか?リンネルが、その『等価物』としての、またはそれと『交換されうるもの』としての上着にたいしてもつ関連によって、である。?この関係のなかでは、上着は、価値の実存形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。?他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。すなわち、一つの自立的表現を受けとる。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価値のものとしての、またはそれと交換されうるものとしての上着と関連しているからである。」(訳p.85~86、原s.64)

 初版と同様に、?においてリンネルが上着にたいして関連することが言われています。ここでもリンネルの主体性がはっきりしていると言えます。しかし、そのあと直ちに上着独自の形態規定が導入されています。初版と違いリンネルの自己関係あるいは自己区別という視点はありません。

 ?における価値の実存形態・価値物という語をどのように理解するかをめぐっては、久留間鮫造氏の見解変更を中心として様々な議論があります。ここではそれらの先行研究には触れる余裕がないので、私自身の見解を述べるにとどめます。

 結論からいえば、それは価値対象性と同義であり、等価形態特有の価値体とは異なり、価値存在と同義です。というのは、リンネルと同じものとしての上着の性格規定だからです。リンネルも上着もどちらも商品ですから、使用価値と価値との二重物です。ここで問題となるのは、価値としての両者の関係である、と言われているのです。第一・第二段落における同等性関係が価値としての同等性関係であることが明らかにされているのです。もしここでの価値物が価値体と同義であるとすれば、リンネルも同じものとして価値体となってしまいます。そうすると、わざわざ上着と関係しなくとも直接的な交換可能性の形態にあるということになり、他の商品を自分の価値形態にする必要がありません。したがってここの価値物と価値体とを同義として読むことはできないのです。

 この文章で言われているのは、この関係において、上着は価値の側面でのみリンネルにとっては存在しているということです。上着の使用価値それ自体は問題ではないのです。上着の使用価値は単に価値の担い手であればよいのです。この点については商品語でリンネル自身が語っています。

 「労働は人間的労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいものとして通用するかぎり、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成り立っていると言う。リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっているということを言うために、リンネルは価値は上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つであると言う。」(訳p.89~90、原s.66~67)

 「ボタンをかけた上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見て取ったのである。」(訳p.88、原s.66)

 上着がリンネルと等しいということは、リンネル価値の表現関係であるかぎり、上着は価値だということを意味するのだ、とはっきり言われています。リンネルにとって上着は価値でしかないのです。それが金ボタンがついていようが、裏地にふさふさの毛がついていようが、そんなことはどうでもいいことなのです。

 また、後者の引用文で「価値魂」とあるのに注意しなければなりません。商品の価値対象性とは個々の商品をとりあげるならば、抽象的な存在でしかないことを魂という語で表現しているからです。上着にもリンネルと同じ「価値魂」を見出すがゆえにリンネルと上着と関係するのです。そして後論を先取りしていえば、その魂は上着を等価物として等置することによって現実化=肉化し、上着は価値「体」となるのです。

 初版でもリンネルの思いを表現した部分があります。こちらの方がより分かりやすいかもしれないので、引用しておきます。

 「リンネルが使用価値としての上着に魅力を感じるのは、その毛のふさふさした快適な着心地のためでもなければ、ボタンをかけた立派な恰好のためでもなく、使用価値としての上着に属するその他の有用な性質のためでもない。リンネルにとっての上着とは、糊のきいた使用対象であるリンネル自身とは別の対象の中でリンネルの価値を表現するものでしかないのである。」(訳p.39、原s.19)

 ?でも同じことが後半部分で言われています。リンネルも自分が価値であるかぎりで関係していることが示されています。リンネル=上着の関係は価値としての両者の関係であることが鮮明になっているのです。同等性関係から出発したが、それは価値としての同等性なのです。

 前半部分では価値関係によって、リンネルの価値存在が現象すると言われています。そしてそれが自立的表現だと言い換えられています。つまり、個々の商品における価値存在は抽象的・潜在的な規定性であり、他商品との価値関係において現実化するということです。自立的といういい方はこのことを意味しているのです。と同時にリンネル自身の直接的な存在形態=使用価値形態とは区別される感性的形態を獲得する、ということも含意されていると思います。

 この文章の後に、酪酸と蟻酸プロピルとの関係についての記述が続きます。そこでは「蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、酪酸の化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現される」(訳p.86、s.65)と言われています。この比喩的な例示からわかることは、同等性関係における同じ単位とは、その現物形態の実体から区別された実体であり、商品の場合にはそれが社会的実体としての抽象的人間労働である、ということです。その証拠に次の文章が続きます。

 ③第四パラグラフ
 「われわれが、価値としては諸商品は人間的労働の単なる凝個体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその自然形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品にたいする価値関係のなかではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、他の商品にたいするその商品の関連によって、現われ出るのである。」(同上)

 ここでも初版と同様に価値抽象を単なる思惟による産物あるいはカテゴリーとして把握してはなりません。確かに「われわれの分析」が「価値抽象に還元する」と言われているので、思惟による分析結果であることに間違いありません。つまり思惟抽象としての還元が問題とはなっています。しかしそれはあくまでも事態抽象による還元を前提としており、その結果を思惟が把握したものだと理解する必要があるのです。

 では、どのようにして「商品の価値性格」が現象し、価値形態が獲得されるのでしょうか。それが以下の第5パラグラフから第10パラグラフにおいて詳論されています。

 ④第五パラグラフ
 初版とは異なり、第二版では労働次元における「回り道」が論じられています。榎原氏が指摘しているように、初版が商品形態という対象的側面が中心であり、第二版は労働の社会的形態という活動側面が中心となっていることの証左であるのでしょうか。全文引用します。

 「?たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。?ところで、確かに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。?しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しいものに、人間的労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。?この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。?種類の異なる諸商品の等価表現だけが――種類の異なる諸商品に潜んでいる、種類の異なる、諸労働を、それらに共通なものに、人間労働一般に、実際に還元することによって――価値を形成する労働の独自な性格を表わすのである。」(訳p.86~87、原s.65)

 ?での価値物については、前述したように、価値存在と同義であり、価値を持ったものという意味です。初版とは異なり受動態で書かれているのでリンネルの主体性が見えにくくなっていますが、あくまでもリンネルが主体となり等置すると理解すべきです。

 ?ではこの等置行為が裁縫労働を「実際に」還元すると言われています。思惟によってではなく現実の事態において還元していることが言われているのです。そして「人間的労働という両方に共通な性格」も現実的なものだとされています。抽象的人間労働とは単に思惟産物ではなく、関係による抽象=現実的抽象によって生じる実在的なものだ、ということが示されています。そしてそれが「価値を形成する労働の独自な性格」だとされるのです。社会関係による抽象なのだから、その性格の社会的性格として把握しなければなりません。

 ?においては反省の論理が語られています。関係する相手側を抽象することによって初めて自己を抽象化できる、と言われています。リンネルは自らを抽象的人間労働の産物であると直接的に主張できないのです。

 ここにプルードン流の労働時間票券が成立しえない所以があります。『資本論』では価値論におけるプルードン批判はそれほど目立ちませんが――むしろ古典派および俗流経済学に対する批判が目立つ――、『経済学批判要綱』で明らかなように、商品論の確立はプルードン批判の確立でもあったのです。マルクスは常に実践的な理論を志向していたことを忘れてはならないのです。

 ?はまとめですが、ここでも関係行為の主体の観点よりも観察者の観点が優位に立っていて、ややわかりづらいものになっています。商品ではなく商品所有者が表現すると読む人がいる原因となってはいないでしょうか。

 ⑤第六パラグラフ
労働次元での還元について述べた第五パラグラフを受けて、今度は対象次元の話に移行します。というのは、問題となっているのは、商品の価値性格がどのように現象し、価値形態が成立するのか、だからです。

 「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値なる。リンネル価値を人間的労働の凝個体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他の商品とに共通なある『対象性』として表現されなければならない。この課題はすでに解決されている。」(訳p.87~88、原s.65~66)

 このパラグラフほど誤解されているものはないのでは、というぐらい、先行研究は読み誤っていますが、具体例は今回は割愛します。ただ論点を二転指摘しておきましょう。

 まず、流動状態にある労働力=労働とある点に注意が必要です。価値実体を対象化された労働と把握する論者がいますが、労働とはあくまでも活動としてマルクスによって把握されているのです。対象化された労働とは労働の凝固体であり、価値なのです。このようにいうと、現実の生産過程で抽象的人間労働が支出されているのか、それでは労働の社会的性格ではなく、直接的な性格であり、かつ超歴史的な自然的規定となるのでは、という批判が聞こえてきそうです。

 この点については別稿を現在準備中ですが、生産過程においても日々事態抽象による現実的還元が行なわれている、とだけ述べておきます。

 第二に、課題はどのようにして、すでに解決されているのか、という点です。この点をマルクスが第五パラグラフまでで解決している、というのが大方の見方のようです。それ自体決定的に誤っているとまでは言えませんが、しかし、解決しているのは諸商品なのです。マルクスが理論的に解決したのではありません。リンネルと上着の価値関係自体が解決策なのです。この点は以下のパラグラフで解明されています。マルクスによる解決を言うとすれば、前のパラグラフではなく、後述部分である、というのが正しいのです。

 ⑥第七~十一パラグラフ
 先の課題の解決は第七~九パラグラフでなされています。簡単に言うと、リンネルは上着を自らに等置することによって、上着は「価値がそれにおいて現われる物として、または手でつかめるその自然形態で価値を表わす物として、通用する。」(訳p.88、原s.66)

 リンネルが上着を等置することにより、上着をつくる裁縫労働は抽象的人間労働に還元されました。そして、この関係の内部では上着は価値としての側面でのみリンネルにとって意味を持たないがゆえに、上着は抽象的人間労働の対象化された物それ自体=「自然形態で価値を表わす物」=「体化された価値」(同上)=「価値体」(同上)となっているのです。

 「こうして、上着がリンネルの等価物となる価値関係のなかでは、上着形態が価値形態として通用する。それゆえ、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現され、一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。」(訳p.89、原s.66)

 このように上着が価値体とされることによって、リンネル価値の現象形態となるのです。リンネルの価値性格を表わすという課題は、リンネル自身が自らの関係行為により無事解決されました。めでたし。めでたし。

 (3)等価形態
 ①初版と現行版との等価形態の取り扱いの相違

 現行版では「相対的価値形態の内実」論に続いて、量的規定の問題が展開されていますが、本稿の論点ではないので割愛します。マルクスは続いて等価形態の分析を行っています。それを詳しく検討してみたいと思います。

 初版の簡単な価値形態の分析では等価形態を独自に分析してはいませんでした。もちろん全くなかったわけではなく、相対的価値形態の観点から分析していたもので、等価形態の独自性には触れていなかったのです。この点については榎原氏の『資本論の核心』で詳細な論証が行なわれています。

 この違いは、「相対的価値形態の内実」論――初版ではそのような項目があるわけではありませんが、概ねそれにあたる部分――の導入部分での叙述の違いに現われています。改めて両者を引用しておきます。

 初版
 「この上着への関係によってリンネルは一石で何鳥もしとめるのである。リンネルは他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自分自身に関係する。価値としての自分に関係することによって、価値としての自分を使用価値としての自分から区別することにもなる。それは自分の価値の大きさを上着で表わすことによって、(価値の大きさは価値一般であるとともに量的に計られた価値だから)それ自身の価値存在に、直接的な定在形態〔要するに自然形態―筆者補足〕とは区別された価値形態を与える。そのように、それは自己内に区別を持つものとして現われることによって初めて、現実に商品――同時に価値でもある有用物――として示されるのである。使用価値としてのリンネルは自立した物である。それに対して、リンネルは他の商品(例えば上着)との関係の中でしか価値として現われないのである。」(訳p.33、原s.16)

 現行版
 「しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが、その『等価物』としての、またはそれと『交換されうるもの』としての上着にたいしてもつ関連によって、である。この関係のなかでは、上着は、価値の実存形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。すなわち、一つの自立的表現を受けとる。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価値のものとしての、またはそれと交換されうるものとしての上着と関連しているからである。」(訳p.85~86、原s.64)

 初版ではリンネルの自己関係として価値関係が把握されています。つまり、リンネルの主体性を前面に押し出す形で叙述されています。

 それに対して現行版では、同等性関係から出発しているので、リンネルと上着を同等に分析の対象としています。もちろん、「リンネルが、‥‥上着にたいしてもつ関連」というように、リンネルが関係の主体であることは明記されていますが、「質的に等置された二つの商品」というように、第三者的な視点からの叙述から出発しているので、リンネルの主体性を見失いがちになってしまう場合もあるでしょう。(その典型例が宇野弘蔵氏ではないでしょうか。というのも彼にあっては、価値形態論に商品所有者を登場させるからです。宇野氏の価値形態論は交換過程論に他なりません。事実氏は交換過程論を必要ないといっています。)

 もっとも等価形態論の冒頭では、リンネルの主体性が全面に出ていますので、そこを読めば誤解の余地はありません。等価形態論ではリンネルの主体性が重要だからです。そして、リンネルの主体性が等価形態の秘密、謎性を解く鍵になるからです。

 榎原氏は秘密と謎を区別すべきことを強調しているが、それは語の意味を考えればよく分かることでしょう。謎を解明するためには、その隠れた根拠たる秘密を明らかにしなければならないからです。謎の根拠が隠れているから秘密であり、根拠が隠れているからこそ、ある事実は謎めいて見えるからです。(こんな簡単なことを「学知的主体」、それも日本の最高の大学といわれている(だけ?)の教授たちには理解できなかったのでしょうか。)

 「われわれは次のことを見てきた。――一商品A(リンネル)は、その価値を種類を異にする一商品Bの使用価値(上着)で表現することによって、商品Bそのものに、一つの独自な価値形態、等価物という形態を押しつける。リンネル商品は、上着が、その身体形態とは異なる価値形態をとることなしに、リンネル商品に等しいとされることにより、それ自身の価値存在を外に現わす。したがって、リンネルは、事実として、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、それ自身の価値存在を表現する。したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態なのである。」(訳p.95、原s.70)

 さらに現行版では貨幣形態を価値形態論で展開しています。これが初版と現行版との最大かつ最も目につく相違ですが、それもあって簡単な価値形態においても等価形態を詳しく展開する必要があったように思われます。

 杉本さんの議論との関連で、上の引用文で注目すべきは、「等価物という形態」という語です。等価物は形態規定であることが明示されています。等価物と等価形態とは同義であることを示しているのではないでしょうか。

 ②現行版等価形態論の検討
 マルクスは等価形態論の叙述を、等価形態の三つの独自性を検討することを中心に行なっています。ここでもそれぞれの独自性について検討してみます。

 「等価形態の考察にさいして目につく第一の独自性は、使用価値がその反物の、価値の、現象形態になるということである。
 商品の自然形態が価値形態になるのである。だが、注意せよ。この″入れ替わり″が一商品B(上着、または小麦、または鉄など)にとって生じるのは、ただ、任意の他の一商品Aが商品Bと取り結ぶ価値関係の内部だけでのことである。どんな商品も等価物としての自分自身に関連することはできず、したがってまたそれ自身の自然的外皮をそれ自身の価値の表現にすることはできないから。どんな商品も等価物としての他の商品に関連せざるをえない。あるいは、他の商品の自然的外皮をそれ自身の価値形態にせざるをえないのである。」(訳p.96~97、原s.70~71)

 価値の現象形態としての使用価値が等価物であるのです。価値形態としての自然形態です。さらにマルクスは、「等価形態とは、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの物が、価値を表現し、したがって、生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。」(訳p.98、原s.72)これは価値体の定義にほかなりません。価値体とは等価形態商品のあり方を意味しているのです。リンネルは価値として上着を自らに等置することによって、上着を価値体として規定し、そのことによって自らの価値としての形態を与えるのです。つまり上着はリンネルの価値そのものなのです。

 さらにリンネルは上着と使用価値としては異なっていることによって、自らの使用価値と価値とは異なっていることを示しています。リンネル自身の直接的姿態は使用価値であり、価値としての姿態は上着とすることによって、使用価値姿態とは区別された価値形態を獲得するのです。リンネルはこのように自己区別を行うことによって、自らが使用価値であるとともに価値でもあるという商品形態を獲得します。ここに単なる労働生産物から商品への転化がなされているのです。

 「等価物として役立つ商品の身体は、つねに、抽象的人間的労働の体化として通用し、しかもつねに、一定の有用的具体的労働生産物である。したがって、この具体的労働が抽象的人間労働の表現になるのである。たとえば、上着が抽象的人間的労働の単なる実現として通用するとすれば、実際に上着に実現された裁縫露道は抽象的人間的労働の単なる実現形態として通用する。」(訳p.99、原s.72)

 「裁縫労働の形態でも織布労働の形態でも、人間的労働力が支出される。それゆえ、どちらも人間的労働という一般的属性をもっており、またそれゆえ、特定の場合、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうる。こうしたことはすべて、なにも神秘的なことではない。ところが、商品の価値表現においては、事実がねじ曲げられている。たとえば、織布労働が、織布労働としてのその具体的形態においてでなく、人間的労働としてのその一般的属性においてリンネル価値を形成するということを表現するために、織布労働にたいして裁縫労働が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間的労働の手でつかめる具現形態として、対置されるのである。」(訳p.100、原s.72~73)

 「したがって、具体的労働がその反対物の、抽象的人間的労働の現象形態になるということが、等価形態の第二の独自性である。」(訳p.100、原s.73)

 この独自性は、抽象的人間労働をどのようなものとして理解すべきにとって、重要な意味を持っています。つまり、それが特殊歴史的なものか、それとも歴史貫通的なものかをめぐる論争に関連して、重要だということです。

 どの労働も「人間的労働という一般的属性をもって」いることは自明である、とマルクスは言っています。しかし、商品生産においてはこのことが「ねじ曲げらている」すなわち転倒していると言うのです。その転倒とはある具体的労働が抽象的人間労働の現象形態になることだと言っています。

 この転倒については初版付録で詳しく展開されています。

 「価値関係の内部およびその中に含まれている価値表現の内部では、抽象的で一般的なものが具体物、すなわち感性的で現実的なもの性質として通用するのではなく、反対に、感覚的で具体的な物が抽象的で一般的な物の単なる現象形態として、あるいはその特定の実現形態として通用するのである。」(訳p.107、原s.771)

 「この転倒こそ、すなわち、それによって感性的で個別的な物が抽象的で一般的な物の現象形態にすぎなくなるのであって、反対に、抽象的で一般的な物が感性的で個別的な物の性質として通用するのではないこの転倒こそ、価値表現の特徴である、そして、同時に、この転倒あるがゆえに価値表現を理解することは難しいのである。私が、ローマ法とドイツ法は共に法である、と言えば、それは全く自明なことである。それに対して、法そのものがローマ法やドイツ法の中に、抽象物が具体物の中に表現されている、と言うならば、その時には両者の関係は神秘的なものとなる。」(同上)

 ここでの論点は、普通一般的属性と言われるものは、個別的具体的なものの属性であり、すなわち個物を離れて存在しているものではありません。それは思惟によってしか把握できないもの=思考物です。ところが価値表現の場合には、抽象的一般的なものは単なる属性として個物に付着してはいないのです。それが自立的存在として現われています。すなわち、個物を自らの現象形態とすることによって、個物に対立する自立的形態を獲得するのです。この自立性こそ価値実体としての抽象的人間労働の特殊歴史的性格をなしています。具体的なものから自立しているという点でも、抽象的存在なのです。

 抽象的人間労働が超歴史的規定だというのは、具体的有用労働の一般的属性を意味する場合、正当だともいえるでしょう。しかし、労働の二重性として、具体的有用労働とは区別されるものとしては、それは妥当とは言えないのです。二重性という以上、両者は自立的に存在するものであり、区別されているからです。最もマルクスが言うように、同じ労働の二重性であるのですが、具体的なものの属性ではなく、それから区別されている点が重要なのです。

 第三の独自性については次のように述べられています。

 「しかし、裁縫労働というこの具体的労働が、区別のない人間的労働の単なる表現として通用することによって、それは、他の労働、すなわちリンネルに含まれている労働との同等性の形態をとるのであり、したがってまた、それは、商品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的労働であるにもかかわらず、しかも直接に社会的な形態にある労働なのである。だからこそ、その労働は、他の商品と直接に交換されうる一生産物で自分自身を表わすのである。したがって、私的労働がその反対物の形態、直接に社会的な形態にある労働になるということが、等価形態の第三の独自性である。」(訳p.100~101、原s.73)

 私的労働がその私的性格を保持したまま社会的性格を獲得することが、直接的に交換可能性をもった等価物の役割であることが、ここで述べられています。相対的価値形態にある商品は、このような媒介を経ずには社会性を獲得できないのです。ここに物象による人格支配の根本があります。生産のありようは価値法則に支配されるものとなるのです。(この点については『資本論の核心』に商品批判とは何かと言う観点から詳細に展開されています。)

 商品の社会性の内容は、他の商品との同等性であり、したがって交換可能性です。上着は直接的に=その自然形態のままで直接的に交換可能であることによって、上着をつくる労働それ自体が、他の労働との同一性として直接規定されています。

 (4)簡単な価値形態の総括
 「商品は、その価値がその自然形態とは異なる一つの独自な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表わすが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係のなかでのみ、この形態をとるのである。」(訳p.104、原s.75)

 「したがって、商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表わされ、この関係のなかでは、それの価値が表現されるべき一方の商品は、直接にはただ使用価値としてのみ意義をもち、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義をもつ。したがって、一商品の簡単な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の簡単な現象形態なのである。」(訳p.105、原s.75~76)

 交換価値が価値の現象形態であることは、価値実体論で明らかにされていました。価値形態論では、商品にとってそれがどのような意味を持っているのかを、詳細に検討したのです。その結果は、自然形態とは異なる価値形態の獲得、価値と使用価値との区別の内実の解明だったのです。上の引用文で強調されているのは、相対的価値形態にある商品の区別の問題であり、それが外化することが価値形態だということです。上着はあくまでもリンネルの価値なのです。

 ところが人間にとっては、この物象化の秘密が感性的に把握できない超感性的事態なので、上着自体がはなから価値である、つまりリンネルとの関係にかかわりなく等価物である、と認識されるのです。これが物化であり物神性です。

 杉本さんは上着が等価形態にあることを非常に強調されるのですが、それがリンネルの価値姿態であることを看過しているのではないでしょうか。反省規定であるというのは、リンネルが自己を上着に反省しているということであって、上着はリンネルにとって単なる表現のための素材でしかないのです。

 「われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現が商品価値の本性から生じるのであり、逆に、価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。」(訳p.104、原s.75)

 「労働生産物は、どのような社会においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の『対象的』属性として、すなわちその使用物の価値として、表わす歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。それゆえ、こうなる――商品の簡単な価値形態は、同時に労働生産物の簡単な商品形態であり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。」(訳p.105、原s.76)

 最初の引用文は、初版にも同じ内容があることを先に見ました。後者の引用文は、現行版独自のものです。ここで言われている発展とは、論理的発展なのか、歴史的発展なのか、大論争となっています。この点については、その後の価値形態の展開論理を検討することによって、別の機会に明らかにしたいと思います。

 ただ私の結論だけを断言するならば、それは論理的展開であるが、歴史的にもそれに照応する事例がある、ということです。あくまでも価値形態論は――現行版においても、初版と同様に――資本制社会における商品世界の構造を論理的に解明したものであり、日々再生産されるその構造の論理的展開として、価値形態論の展開があるのです。

 マルクスがエンゲルスの助言に従って、歴史的例証を挿入したのは確かですが、しかし価値形態の歴史的発展史と考えていたとは思われません。冒頭商品の性格の問題と関係して、マルクスとエンゲルスの考え方の相違が、価値形態論でも現われているのではないでしょうか
 

      補足と改討    紹介

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月17日(土)15時46分42秒
返信・引用 編集済
       補足と改討 は、次のものでありました。紹介して訂正しておきます。
        <杉本 この論文は、何年も前に、偶然発見して保管していたものです。
    すっかり、再版原稿が、ここにあったことを忘れていたのだが、紹介しておきます。>


    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/953
    http://hirofreak.blog.fc2.com/blog-entry-242.html
    『補足と改訂』訂正稿  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 3月26日(木)18時45分10秒
  前回投稿したマルクスの草稿に一部重大な遺漏がありましたので、前回の投稿を削除し、
    こちらを新たに投稿しなおします。申し訳ありませんでした。


             補足と改討    紹介
         マルクスが価値形態論の初版から第二版書き換えのために作成した文書を以下に紹介し
        ます。引用もとは前回紹介した大黒正夫さんの翻訳です。原典との対照はほとんど行って
    いません。(あまりいい翻訳とは思いませんが、時間がないので直しません。)ページ
    付けは一文ごとに行いました。また、以下はすべてマルクスの文章なので引用符はつけ
    ていません。[ ]はMEGA編集者による補足(マルクスの草稿に対して、編集者がつけ
    たページ付け、同じ内容の書き換え異文を示すアルファベットなど)、< >は訳者補
    足です。

     現行版で「相対的価値形態の内実」と題されている部分に限定して紹介しています。

                     [A]
                 §2.)相対的価値形態
              a)相対的価値形態の内容<Inhalt>
    ある一つの商品、たとえばリンネル、の相対的価値表現――20エレのリンネル=1着の
   上着 すなわち20エレのリンネルは1着の上着に値する――において、人は、たいてい、
   量的な関係だけを、すなわちある商品が他の商品と等しいとされる一定の割合だけを、見
   ようとする。その場合、見落とされているのは、異なった物の大きさは、それらが同じ単
   位に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。それらは、
   同じ単位のもろもろの表現としてのみ、同名の、それゆえ同じ単位で計量されうる大きさ
   なのである。(p.61)

                     [A1]
    実際、20エレのリンネル=1着の上着、という表現において、リンネルは上着に等しい
   大きさとして、上着に関係させられている、すなわち、上着に質的に等置されている。リ
   ンネル=上着 が等式の基礎であり、ある一つの商品の、他の違う種類の商品との等置関
   係が、どのような割合で結ばれていようとも、それはその商品の価値関係である。上着と
   リンネルとは、両者が価値である限りにおいて同じ物である。使用価値あるいは商品体と
   しては、リンネルは上着と区別される、価値としてはリンネルは上着と同じ本質の物であ
   る。(p.61)

                     [A2]
    実際、表現ーー20エレのリンネル=1着の上着ーーにおいては、リンネルと上着とは同
   名の大きさとして意味をもっている。リンネル=上着 がこの等式の基礎である。20エレ
   のリンネル=1着の上着であろうと、2着の上着であろうと、x着の上着であろうと、どの
   割合においても、商品リンネルは、同じ性質の物としての自分と等しい物としての、異な
   る種類の商品・上着と完成させられているのであり、すなわち、リンネルは上着に質的に
   等置されているのである。

                      ◇

    4)何かある商品Aと異なる種類の何かある商品Bとのこの等置は、一商品の他の商品
   との価値関係である。使用対象としての諸商品は、さまざまな種類である、その価値はそ
   れらの単位を、すなわちそれらの共通の実体を、かたちづくる。しかし、商品Aが他の商
   品Bと価値関係にはいることによって、それ自身の価値が現われるのである。もしも、そ
   れ自身価値でないならば、価値としての、すなわち自分と等しい物としての他の商品と関
   係することはできないであろう。したがって、この関連はそれ自身の価値の一表現なので
   ある。(p.62)

   5)さて、ある一つの商品A、例えばリンネルは、どのようにして、自分と等しい価値の
   物すなわち自分の等価物としての、何かある他の商品B、例えば上着と関係するのだろう
   か。
    答えは簡単に商品価値の本性から明らかになる。ある一つの商品は、それが単に、それ
   の生産の支出された人間的労働力の物的表現、物質的外皮である限りにおいて、したがっ
   て、人間的労働そのものの、抽象的人間的労働の、結晶である限りにおいて、それは価値
   なのである。そのことは、石炭が暖房材料としては、それによって吸収された太陽光線の
   物質外皮に他ならない、というのと同じことである。
    したがって、ある一つの商品A、例えばリンネル、は他のある商品B、例えば上着と、
   価値として等置されることができるのは、その他の商品、上着がこの関係のなかで単なる
   価値物として通用する、すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通
   用する、あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物もあらわさない物として通用
   する限りにおいてのみである。(p.62~63)

                    [B]
               [7]2)相対的価値形態
              a)相対的価値形態の内実
   ある一つの商品の簡単な価値表現が2つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいる
   かをみつけ出すためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立
   に、考察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値
   観のうちに、二種類の商品の一定分量どうしが等しいとされる一定の割合だけを見てい
   る。その場合、見落とされているのは、異なった物の大きさは、それらは同じ単位に還元
   <Zurückführung>されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。
   それらは同じ単位のもろもろの表現としてのみ、同名の、それゆえ同じ単位で計量されう
   る大きさなのである。
    20エレのリンネル=1着の上着であろうと、=20着の上着であろうと、=x着の上着で
   あろうと、すなわち、一定分量のリンネルがどれだけ多くの上着に値しようと、どれだけ
   少ない上着に値しようと、このような割合はどれもリンネルと上着とは、価値の大きさと
   しては同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねにふくんでい
   る。リンネル=上着 が等式の基礎である。したがって、異なる種類の商品の質的等置



   が、価値関係の現実的内容である。今や、この内容が現象している形態を考察することが
   重要である。
    商品の分析はわれわれに次のような結論をあきらかにした。すなわち、価値としては全
   ての商品は、その肉体の様々な多様性にもかかわらず、同じ単位のたんなる表現であり、
   すなわち質的に等しい、ということである。しかしながら、商品自身はあいかわらず、そ
   の価値性格のほんの少しの徴候をも自分からは示すことなく、生まれたままの自然形態に
   とどまっている。(p.63)

                    [B1]
    他方、ある一つの商品、たとえばリンネルが、他の商品、たとえば上着と価値関係に入
   るや否や。つまり、この関係はそれ自身の他の商品との関係である。(さきに分析がわれ
   われに語ったことを、いまやリンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけ
   に通じる言葉で、商品語で、その思いを表現する。もちろん、商品語もまたさまざまな放
   言をもっている。たとえば、ロマンス語の動詞valer、valoirはドイツ語のWertseinと比べ
   て、商品Aの価値が表現されている異なった種類の商品Bとの価値同等性関係が、商品A
   自身の関連であることを、より適切に表現している。)使用価値あるいは使用対象として
   はリンネルは、そのごわごわした肉体によってすでに感覚的に使用対象・上着とは区別さ
   れている。しかし、商品としてはリンネルは単に使用対象、商品体であるだけではなく、
   同時に何か全く違った物、見えない物、つまり価値である。リンネルは異なった種類の商
   品・上着と関係することによって、自分と等しい物としての上着と関連することによっ
   て、上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで、自らの価値存在を表わす
   のである。リンネルは上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。
   (p.64)

                   [B2]
    他方、ある一つの商品、たとえばリンネルが、他の商品、たとえば上着と価値関係には
   いるや否や。この関係は、その商品自身の他の商品に対する関係である。使用価値として
   は、リンネルはそのごわごわした肉体によって感覚的に使用価値上着とは区別される。し
   かし、それは商品である。それゆえ物質的に普通の使用物であるばかりではなく、より高
   度な、見ることの出来ない本質――価値、でもあるのである。リンネルはある一つの異な
   った種類の、したがって明かに自分とは違った商品上着と、自分と等しい物として関係
   することによって、上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで、リンネル
   はこの自らの価値存在を表すのである。リンネルはその無愛想な見かけにもかかわらず、
   上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。さきに、リンネル価値の分
   析がわれわれに語ったことを、リンネル商品が上着との関係を通して、いまや自ら語るの
   である。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ち明け
   る。もちろん、商品語も、ヘブライ語以外にもさまざまな、あるいはより的確なあるいは
   それほど的確でない方言を持っている。そこで、たとえば、ドイツ語のWertseinはロマン



   ス語の動詞valere、vaker、valoirと比べて、商品Bとの同等性関係を、商品Aの固有
   の価値関係として表現するにはあまり明示的ではない。
    ≪Pari sa vaut bien une messe≫(p.64~65)

                   ◇

    それゆえ、価値関係ーー他の商品との交わりーーのなかでリンネルの価値は使用対象性
   とは異なった表現を獲得する。しかし、どのようにしてか。リンネルが上着に等しいもの
   として表現されることによってである。それはちょうど、キリスト教徒の羊的性格が神の
   仔羊との同等性において現れるのと同じである。
    しかし、上着、上着商品の身体は一つのたんなる使用価値である。それゆえ、リンネル
   の価値とはそれとは反対のもの、他の何らかの種類の使用価値、それが何でありとにかく
   使用価値で、表現される。しかしながら、使用価値上着が価値を表現していないのは、リ
   ンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは、同じ上着がリ
   ンネルの自分との関係のなかではこの関係の外部におけるよりも、多くの意味をもつ、と
   いうことを示すだけである。ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではそ
   の外でよりも多くの意味をもつように。
    上着の生産においては、裁縫労働の形態のもとに、人間的労働力が実際に支出され、し
   たがって、上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ、この面からすれば、上
   着体は価値の担い手である。もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり
   切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなか
   では、上着はただこの面だけから通用する。リンネルが自分に等しい物としての表現を通
   して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ、あますところなく表現
   された、ということである。
    価値としては、リンネルはただ支出された人間的労働力だけから成り立っており、そし
   てそれゆえ、透明に結晶した労働凝固体を成している。しかし、現実にはこの結晶体は非
   常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しカテゴリーもどの
   商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間的労
   働ではなくて、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体を
   なしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と結びついているのである。それゆ
   え、リンネルをそれの生産に支出された人間的労働力の単なる物的表現として把握するた
   めには、それを現実に物としているものすべてを無視しなければならない。それ自身抽象
   的でありそれ以外の質も内容ももたない人間的労働のそのものの対象性は、必然帝に抽象
   的対象性であり、一つの思考物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。
    リンネル商品は、当然のことながら頭脳をもたないのであるから、その価値を形成して
   いる労働がどの種類のものであるかを表現するために、他の方法でそれをはじめる。自分
   い等しい物としての、価値物としての上着との関係は、上着に潜んでいる労働をリンネル
   にひそんでいる労働に等置する。ところで、確かに、上着をつくる裁縫労働はリンネルを
   つくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。しかし、織布労働との等置は、裁縫



   労働を、両方の労働のなかの現実に等しい物に、人間的労働一般という両方に共通な性格
   に、実際に還元する。この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限
   りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間的
   労働であること、が語られるのである。
    もっとも、リンネルの上着との同等性関係がリンネルに含まれている労働の抽象的人間
   的性格を表現するだけでは充分ではない。人間的労働すなわち流動状態にある人間的労働
   力は価値を形成するが、価値ではない。それは凝固した状態で、対象的形態で、価値にな
   る。
    ところで、リンネル価値の対象的形態とはなんであろうか?上着形態である。リンネル
   の価値関係のなかで上着形態は、すでに見たように、価値体として、その自然形態上着形
   態が価値形態として通用する。使用価値としてはリンネルは上着とは異なっている。価値
   としてはリンネルはそれとは反対である。しかし、上着がリンネルにたいして価値を表わ
   すことは、同時にリンネルにとって価値が上着で表されていることなしには、できないこ
   とである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下にたいする態度をとることは、同時
   にAにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その
   他なお多くのものが、国王の交替のたびにかわることなしには、できないように。
    リンネルの上着にたいする価値観において上着は普通の商品体であると同時に、幽霊体
   であり、抽象的人間労働の蛹化である。したがって、この関連の内部では、上着は、その
   ウールのもつふくよかさも、最新流行のスタイルも通用しないし、聖なる香りを嗅ぐこと
   もないし、その使用価値としての上着を飾る有用な肉体的精神的特徴も、通用しない。ま
   さしく、上着の位置にリンネルとは違う商品体であればどの商品体であっても、鉄であろ
   うと、小麦であろうと、臭い焼肉であろうと、人糞肥料等々であろうと、何の問題もなく
   とって替わることができるのである。
    それゆえ、自分の価値と等しいものとしての、等価物としての上着との関係を通してリ
   ンネルは、自分の自然形態とは切り離された価値形態を獲得する。一面ではこの関係は、
   リンネルの価値を形成している労働の抽象的人間的性格を表現するが、他方、今価値実体
   が対象的形態をもつ。上着と等しいものとして、リンネル価値は、リンネル体とは感覚的
   に全く対照的である。
    したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態、商品種
   類Aの価値鏡となる。(注18、人間について)商品Aが肉体化した価値としての、すなわ
   ち人間的労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは自分と違う商品
   の肉体を自分自身の価値表現の材料にする。そのようにして、ある一つの商品の価値があ
   る異なった種類の商品の使用価値において表現され、相対的価値の形態を受けとる。
   (p.65~67)





 

 相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す その3

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月16日(金)23時15分40秒
返信・引用 編集済
          http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1598
    2018年 1月19日に同名の論文を投稿したが、再度挑戦し、改稿してみました。

     初版での、第一の形態の論旨を見つけ出し確認する

    ①2段落でのーー同等性関係と価値関係の区別の提示ーー
      <杉本 マルクスの第二段落の前半部a b cは、初版付録での同等性関係の提示と同
      じく同等性関係です。対して次の後半部は、価値関係の説明であります。
      ここに両者の区別を見出さなければ、マルクスの意図がこの区別の対象化による物象の判
      断の特異性を理解することができないのです。>
    前半部
     a「リンネルが自分を質的に上着に等置するのは、リンネルが自分を上着に、同種の人間
      労働の対象化、すなわち自分自身の価値実体のの対象化として、関係させるからであり、
     b そしてまた、リンネルが自分を、x着の上着ではなく一着だけのの上着に等置するの
      は、リンネルが価値一般であるだけでではなく一定量の価値でもあり、
     c しかも、一着の上着が二〇エレのリンネルとちょうど同じだけの労働を含んでいるか
      らでもある。リンネルは、上着にたいするこういった関係によって、ひとたたきでいく
      ひきもの蝿を打つ。」
    後半部
     ①「リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値としての
      自分自身に関係させる。リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによっ
      て、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
     ②リンネルは自分の価値量を・・上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の
      直接的存在とは区別される価値形態を与える。
     ③リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによって
      現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのである。」

     このように、前後を比較してみれば、明々白々に、マルクスが同等性関係と価値関係との区
    別がどのようになされているのか?をこそ、我々に提示しているのに、多くの人々は、何らこ
    こを論じようとしないのです。
     ここではーーこの①は、② ③の記述の説明と理解しなければ、全く理解不能です。

      ここには、次の説明ができます。
      <a自分を他の商品に価値として等置する b自分を価値としての自分自身に関係さ
      せることで同時に自分を使用価値から区別するーー書かれた字面どうりに、
       <リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによって、>
      他者上着をリンネルの価値形態と判断することで、使用価値リンネルが、自身の自然的形
      態から分離された対象的形態を得る、ことで、価値形態・使用価値の二つの規定にて商品
      形態を得たのです。>

      前半部a b cは、同等性関係であり、後半部は価値関係であり二つの対照において、
      リンネルの価値形態が、上着形態として成立しているのです。
      <マルクスが、価値形態論冒頭の第二段落で掲げたのは、私が指摘したように、二つの関
      係についての区別であり、この価値関係にあっては、リンネルは自らの価値存在を上着で
      表現し、上着は価値の存在形態となる、二つの物象の役立ちにおいて、上着は価値形態と
      判断されるのです。このように、物象の役立ちと判断によって、使用価値と価値形態の商
      品形態が成立することが、ここに提示されているときに、久留間先生の提示は、同等性関
      係の提示でしか無い<リンネルの上着への等置ヘ批判論>を、榎原さんは提示すること
      で、この肝心の価値形態の物象による判断ーーへの理解が消えているのです。>

        初版付録には、価値関係とは?との質問を発して、こう答えている。
        「価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現する商品の、
        価値または価値存在の表現なのである」

         《初版付録》 〈 b 価値関係。
                   上着がリンネルと同じものであるのは、ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのこ
                   とである。だから、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ、ま
      たは、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置されるという、このことは、上着
      がこの関係において価値として認められている、ということを表現している。
      上着はリンネルに等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにおいてのこ
      とである。だから、同等性関係は価値関係なのであるが、しかし、価値関係は、なにより
      もまず、自分の価値を表現する商品の、価値または価値存在の表現なのである。
      使用価値または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これに反して、リンネ
      ルの価値存在は、上着という別の商品種類がリンネルに等置されるところの、またはリン
       ネルと本質の同じものとして認められるところの、関係において、出現し、自分を表現す
      るのである。〉(国民文庫版134-5頁)
      このように、初版・再版・仏語版・英語版も全て、価値物上着の規定に発するのでは
      なく、リンネルの価値存在の表現とは?との問に出発点があるのです。

    初版3段落
      「じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能
      であるということである。
      上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、
      他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をも
      っているのである。」

    ここが要注意!価値が上着である、だけでは、交換可能性の形態を受け取っていないのです。
    等価物の役立ちができていないのです。
       上着は価値形態であることで、両極にて、次のように、役割をしている。
       ①左辺に交換可能性の形態を受け取り、商品形態を示すことで、
       ②その右辺に、上着の現物形態において、
                「他の商品との直接的な交換可能性の形態」、
                交換可能な使用価値であり、等価物の形態を受け取ったのです。

    再度ーー上着が価値であることだけでは、等価物になっていないのです!!何故か?
       ①リンネルの価値形態が上着として規定されることで、
       ②労働生産物は使用価値と価値の二重の規定が表現されているのであり、
                      ③使用価値と価値形態の二重の商品形態が示されることで、
                      ④価値方程式の左辺に、リンネルの上着に対する交換可能性の形態ーーを受け取り、
                      ⑤その右辺に、交換可能な使用価値・等価物の形態を、上着はその自然的形態の
          ままに直接的な交換可能な形態を受けとっているのです。

     このように、両極の形態が、両極での役割が必要なのです。
    こんなにも短い提示にてマルクスは、価値形態論のすべてをここに示しているのです。

    上記の⑤は、④の交換可能性の形態があって、前提にされていてようやく獲ることができた。
    このことは、この①~⑤の流れ・全体性においてのみ理解できることなのです。

          <リンネル=上着の価値方程式にて価値は上着という転倒した規定を受け取るからこ
        そ、リンネルの上着での相対的価値表現である左極にて、上着はリンネルの価値形態
           となるのです。>
           <久留間説は、この上着は価値規定として提示されるのが、右極と思考>

    このように、この① ②こそが前提にされていて、初めて⑤の直接的交換可能性の形態が、
    与えられるのです。等価物上着は、①~②の流れと、⑤の規定にあるのです。>
    <等価物上着は、直接的に価値であることで次の規定を受け取るのではなく、使用価値で
    ありながらも、直接的に価値形態であることで、直接的な交換可能性の形態を示し、
    等価物の形態と規定される転倒を得ているのです。

   ②久留間先生の議論
    今度は再版での議論です。
     a<リンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体
      としての形態規定を与えることはできる>
    これが彼の言うーー回り道ーーであります。この経過にて、
     b<上着は直接的に価値体の形態規定>を受け取ったのです。
   このaは、はじめに検討してきた初版2-3段落でのリンネルの価値形態として受け取られる
    上着形態のことを論議しているのではなく、また、両極で受け取られる価値形態について論議
    しているのではありません。
    「上着に価値体としての形態規定」ーーとは、この初版を題材にするのではなく、再版での、
    記述のなかで、如何にして、次の規定を受け取るのか?と示している。
    ④右極の上着は、リンネルの価値体としてーー等価物の形態を受け取り、
    ⑤この等価物の形態であることで、上着は自然的形態のままに。リンネルの価値形態である-

   ③<ベーゴマはメンコの価値の現象形態>とは何を意味しているのか?
    しかし、久留間先生が誤解したのは、商品の価値関係において、次の『貨幣論』P112での、
    〈たとえば余分のメンコをもっている凹坊が、それをベーゴマに替えたいと思って、メンコ1
    0枚やるから誰かベーゴマ1つくれないか、と言ったとしても、それが商品の価値関係でない
    かぎり、ベーゴマはメンコの価値の現象形態になりはしない。商品の価値関係を特徴づけると
    ころのものは、「対象化された人間労働としての商品の等置の関係」である(同書66頁)〉
    ーーに示されるのは、価値関係ではなく、同等性関係だということです。

    aなぜなら、価値関係であれば、ーー次のような理解になるのです。
    メンコ10枚=ベーゴマ1であるなら、ベーゴマはメンコの価値の現象形態であるーー前に、
    <リンネルの価値存在が示され、上着はその価値の存在形態>と二つの役割が示されること
    があってその次に、ーーベーゴマはメンコの価値の現象形態であるーーことで、リンネルの
    価値形態が上着形態として示されるからです。3・5段落の事項を無視している。
    ここでは、リンネルに表示される労働が、上着に表示される労働として等置されることが、
    現行版9段落に似せられているのだが、しかし、その前の8段落にて、「リンネルの価値関
    係・・・のなかで、・・・上着が一つの価値」と示され、そして、この次の段落にて次のよ
    うに示されている。

    「・・リンネルの価値関係のなかでは、上着はこの面だけ、それゆえ、体化された価値として
    のみ、価値体としてのみ、通用する。・・・リンネルは上着のうちに同族の麗しい価値魂を見
    てとったのである。しかし、上着がリンネルにたいして価値を表すことは、同時にリンネルに
    とって、価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。」
     (原P66 9段落 新日本出版社P88)

    この上着が価値体と示される現行版9段落の提示は、当然にも、その前の3-5段落を前提に
    し、初版で論議したように、<価値は上着>であることで、リンネルの価値の存在形態である
    ことが、自明な前提になっている。
    5段落では、<上着が価値としてリンネルに等置される>(「価値物」は全くの誤読)ことでの
    意味を、ーー織布労働との等置は裁縫労働を両者に共通な人間労働に還元することで、
    この「回り道」をへることで、リンネル織り労働が抽象的人間労働であることが、語られるー
    ーとしている。
    ここには、抽象の仕方と、その事に伴う物象の判断の仕方が例示されている。
    ここに、価値魂であることでの「価値体」とされる上着の規定は、単に人間労働の凝固体とさ
    れるのではなく、5段落 での「回り道」を経る物象の判断の成果と示されることで、
    この9段落にても、同じことが為されているとのーー商品語ではない物象の語りなのです。

    この9段落にて、①「価値魂」批判がなされ、②<価値が上着という形態>を示すことで、
    リンネルの価値形態として、「上着形態が価値形態として通用する」(10段落)ーーと示され
    ている。

    この再版9段落の点検にて、上着が価値体であることは、価値魂と批判され、リンネルが価
    値形態を上着形態として、左極で受け取るために、<価値体>上着では、何らの役立ちもして
    いないことが、明快に説明されたのです。

      <リンネルは上着のうちに同族の麗しい価値魂を見た>この批判点への認識が、
      先生には無いのです。>
    再版では、このように「価値体」上着の規定では、リンネルの価値形態として交換可能性の形
    態を受け取らずーーと示されているのですから、久留間先生は、等価形態の論理へと、誤った
    道を進んだのです。

    再版での、第一の形態での回り道の問題の解決点は、以上であったのです。
    この未だに論争が決着を見ない初版での問題点の解決事項は、この再版五段落の「回り道」に
    照らせば、半分は明らかです。

   ④「上着に価値体としての形態規定を与えることはできる」ーー
     ーーとは、初版での回り道と混同した等価形態の形成の論理ではないのか?

    ここで、<宇野ーー久留間の価値論論争>とは何であったのか?検討してみよう。
    『貨幣論』にて、再び久留間先生が提起しているので、ここに提示します。

      「したがって、リンネルに上着が等置されるという等置はリンネルが行なう等置である。
      これは言い換えれば、リンネルが自分に上着を等置する、ということに他ならない。
      「自分に上着を」を逆にして「自分を上着に」としたら、どういうことになるか。リンネ
      ルが自分を上着に等置する。これは結局上着=リンネル という等式をリンネルが、つま
      り右辺の商品がつくる、ということに帰着します。これはつまり、商品は自分から勝手に
      等価物になれるということです。はたしてそういうことは可

      【P114】
      能か。言うまでもなく、まったく不可能です。つまり、商品は自分から進んで他商品の等
      価物であると称してみても、それはその他商品にとって通用しないまったくの「独りよが
      り」でしかありません。直接には使用価値である商品が他商品に対して、いきなり価値体
      として通用することはできないのです。
      だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上
      着に価値体としての形態規定を与えることはできる。そしてこの形態規定における上着の
      身体で自分の価値を表示する、あるいは、この形態規定における上着の身体を自分の価値
      の形態にすることはできる。
      「それは、直接に自分に対してすることができないことを、直接に他の商品に対して、し
                   たがってまた回り道をして自分自身に対して、することができる」(『資本論』Ⅰ、初版
                   20頁)のです。これはけっしてリンネルの「独りよがり」ではありません。これによっ
                   て、現に上着はリンネルに対する直接的交換可能性を与えられているのです。このように
                   リンネルが「自分を上着に等置する」ことと,「自分に上着を等置する」こととのあいだ
                    には、決定的な違いがあるのです。」(『貨幣論』P113~114)
       http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2 貨幣論 前篇

    久留間先生のこの、誤解に満ちた論理が何を意味しているのか?ーー論じます。
        「だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、
      上着に価値体としての形態規定を与えることはできる。」

    この提起に対しての疑問を出してみよう。
   A なるほどリンネルは自らを価値とは示せないのだから、(上着を価値ではなく)価値上着を
    自らに等置することで、その他者にて自らの価値表現をします。
    そのさい、aリンネルの価値形態が上着形態として形成されることで、
         b交換可能性の形態が形成され、リンネルの価値表現がなされます。
    このように、次の、他方からだけの ①リンネル価値の使用価値上着による価値表現
                     ②使用価値リンネルの価値上着での価値表現ーー
    ではなく、両者の構成する価値関係からの提示であることから、ここに両者の役立ちがあるこ
    とでの左極での、価値形態・交換可能性の形態ーーのこの規定の成立があったのです。
    ここでの<価値上着>の役立ちは、価値関係がもたらす、リンネルの相対的価値表現という構
    成での反省規定なのです。ここでの二つの役立ち、への最大の注意!が必要です。

    <価値上着>とのリンネルの反省規定を受け取ることでの・・上記の等価物上着の役立ちは、
    以上に示されているように、<リンネルの価値形態>との規定を受け取ることであります。
    <その際、価値上着であることで価値形態を受け取る上着は、使用価値であるはずもなく、
    価値体としての素材的内容・単に抽象的人間労働の凝固物との規定にあります。>

    それが第一です。このことは、自ずと次に示した、事項の再確認となります。
        価値方程式の左辺に交換可能性の形態を受け取り、
            その右辺に、交換可能な使用価値・等価物の形態を、上着はその自然的形態の
       ままに直接的に交換可能な形態を受けとっているのです。
    ここに説明されている事柄こそが、「回り道」ー初版での説明であります。

   B 二つの商品の役立ちにて起されたことをここに見出すならば、等価形態については、左極で
    形成されたリンネルの<価値形態である上着>に対しての反省規定として、あります。
    aそこで、右極での価値形態であり、交換可能な使用価値・等価物の形態としてあります。
    bこの右極での価値形態の形成は、価値上着の役立ちとは区別されるものであり、
    c物象からのこのaの反省規定である、「価値形態」に依っている。
    dこのように、上着の姿態が直接的に価値形態であると判断されることで、
    e単に質量的に上着は価値体としての役立ちをなしている>のであり、
    fそのことで、上着は、価値表現の材料の役立ちがなされるのです。

     ここでは<単に質量的に上着は価値体としての役立ちをなしている>
    ーーとのこの意味は、とっても分かりづらい。
    右極で受け取る左極の反省規定としてのーー自然的形態のままに価値形態とされることで、
    等価物の形態を受け取ることの結果として、上着は価値体であり、そのことでまた価値表現の
    材料となる・・とのーーマルクスの提示であるのに、しかし、久留間先生の次の理解なのです。
        <等価物ではなく、等価形態上着がリンネルに等置される>ーーと。
    こうして、やっと、等価形態の形成が、左極でのリンネルの価値形態と形成される反省規定
    として価値形態上着と示されるーー理解困難な記述への理解が示されることで、久留間さんの
    ーー上着に価値体としての形態規定を与えるーーに返答ができます!!!

   C 再版での、第一の形態での回り道の問題の解決点は、どうであったのか?
    この未だに論争が決着を見ない問題点の解決事項は、この再版五段落の「回り道」の検照にて
    次のことが明らかになります。

    <杉本提案 再版五段落での英訳本 直訳での提案>
      コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者のもの
      と同じにする。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の具体的
      な労働であることは事実です。
      しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
      に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
      この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り込む
      限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労働であ
      る。それは価値創造労働の特定の性格を救済するだけのさまざまな種類の商品間の同等性
      の表現であり、これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間
      労働の共通の品質要約の仕方なのです。[18]

    <こういった理解のできるーーことを教えてくれた仏語版でのよりスマートな提起です。>
      「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネルに
      含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。
      だが、機織りに対する裁断の等式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間
      労働という性格に還元する。
      このような回り道をして、機織りは、それが価値を織るかぎりでは衣類の裁断とは区別さ
      れないということが、すなわち、抽象的人間労働であるということが、表現されるのであ
      る。したがって、この等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自の性格を表現してい
      る。」(『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

    このように、両訳ともに、a b cの3行程があることを示しています。
       a裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元するーー回り道
       bリンネルが価値を織り込む・・機織りは、それが価値を織るーー限りで、
        リンネルの価値を構成する労働の独自の性格である抽象的人間労働を表現してる、と
        示されている。
       cだからこの等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自の性格を表現している。
    このようにab の事柄の進行を示すことで、cに示される物象の判断が構成されたのです。
    英訳本ーー仏訳本を検討すると、独訳再版での回り道に対しての、相違は無いのです。

    上記の回り道を進行して、判断してゆくことに対して、初版での回り道との違いをしっかりと
    把握する必要があります。

    初版での回り道は、交換可能性の形態が示されることで、上着がこうしてやっと直接的交換可
    能性の形態を獲得することで、果たされたのです。
    このように、久留間さんは、等価物上着が、a「回り道」をしての、b自然形態が価値形態で
    あることでの、c<使用価値上着が価値表現の材料としての役立ちをなすこと>での、
    d直接的交換可能性の形態を受け取ることを、議論しているマルクスの説をーー誤った完成形
    態から見ることで、この両極の対立を捨象しているのです。

     このa~dの経過上の姿態を、単に自身の主観的提示の<価値体である等価形態>
     ーーと彼は、誤りの認識をすることで、見えないのですが我々に表示しているのです。
     このように久留間説は、等価物ではなく、等価形態上着がリンネルに等置されるのです。

    この事柄が、戦後以来の価値論論争にて宇野理論に対抗して主流派の理論として認められたの
    であり、今日ではマルクスの価値形態論は、久留間理論が自明なものにされている。

   D 久留間先生の等置の考えは、明らかに、①上衣が価値としてリンネルに等置され、
    ②自ずと価値体としても同じく上着はリンネルに等置されるーーということではありません。

     イ<リンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体
      としての形態規定を与えることはできる>
      これが彼の言うーー回り道ーーであります。この経過にて、
     ロ<上着はーー直接的ーーに価値体の形態規定>を受け取ったのです。何故か?

    このイは、はじめに検討してきた初版2-3段落でのリンネルの価値形態として受け取られる
    上着形態のことを論議しているのではなく、また、両極で受け取られる価値形態について論議
    しているのではありません。

    「上着に価値体としての形態規定」ーーとは、等価物上着が、未だに価値形態を受け取ってい
    ないにかかわらず、あるいは左極との間、リンネルが上着との間に形成する価値関係を無視し
    「他商品たとえば上着を自分に等置する」ところの、関係において、右極の上着は、リンネル
    の価値体としてーー等価物の形態を受け取り、この等価物の形態であることで、リンネルの価
    値形態であるーーと彼の自作自演を示しているのです。

    何故、誤りなのか?
    次の示されることで、ロの事柄はすでに、次のようにあきらかです。
    ①上着は直接的に価値形態であることで、
    ②具体的労働が抽象的人間労働の単なる実現形態を示す。
    ③等価形態のこの第二であり第三の独自性は、次の事柄があって、なされているのです。
    上着が価値であることを、即ち、リンネルの価値表現において、裁縫労働がリンネル織り労働
    と同じである労働の凝固体であることを示す、<価値鏡>になることで、<価値体>となって
    いる。
    このように、リンネルの価値表現において、上着は、等価形態の役立ちをなすためには、
    左極で示された価値形態としての<価値鏡>の役立ちを、右極でも行うのです。

    このように、久留間先生の回り道は、論ずる対象を再版5段落としながら、論じていること
    は、価値体としての等価形態の形成なのです。

   E 総括の前に

    半世紀を超えて、久留間説は、次の主張のように、自明なものにされている。
    両極の対立を久留間先生が捨象したことで、初版での回り道をして等価形態を受け取ったこと
    が、消えてしまい、二つの版での回り道の相違も無くなることで、左極での行いであるはずの
    <リンネルの価値を構成する労働の独自の性格である抽象的人間労働を表現してる>との、マ
    ルクスの主張は、右極でのーー価値物上着のリンネルへの等置によりとされることで、まず、
    等価形態の形成が裁縫労働が抽象的人間労働の実現形態とされ、その反省規定により、成され
    ているーーとの全く転倒した説を生み出しているのです。
    これは、久留間理論を継承する 林   氏に代表される政治団体の主張であり、その傘下で
    あった次の堺の「『資本論』を読む会」の主張なのです。

        第16回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
         https://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/d160f0ddaab074d94556e551f75443dd
     < ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。
    リンネルは価値としては抽象的人間労働の凝固ですが、しかしそれはリンネルそのものを見る
    だけでは分かりません。しかしリンネルは、直接には出来ないことを、間接的には、すなわち
    「回り道を通って」なら出来るということです。
    リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいし
    て、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができる》(初版本文39頁)
    のです。
    すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上着をつくる裁縫労働を抽象的人
    間労働の直接的な実現形態にし、そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわち
    それが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見
    える形で表すことが出来るということです。ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なもの
    が、抽象的人間労働という抽象的一般的なものの特定の実現形態として意義をもっているので
    す。>

    <あと、初版4・5・6段落と論じてみたが、あまりに長いので、展示ができず、最後の結論
    である7段落にて以上の議論ーー回り道ーーが総括されています。>

    <上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、そのことによって、自ら
    の価値を形成する労働を、すなわちそれが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現
    形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るということです。>
    ーーこのように、久留間理論に依拠していると、この「直接的」の形容が、この7段落にて、
    外されている、ことが何ら見えないのです。私もこの作業のなかで、気付かされたくちであっ
    たのですが・・・>

   七段落
      ①「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではな
      い。使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。
      それは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。
      同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、
      すなわち、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあってい
      る諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。」

      ②「・商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態の方は商品が生
      まれつきもっているのである。この形態は商品の現物形態である。価値形態の方は商品が
      他の商品との関係において初めて手にいれるのである。」(初版原P20)

    この初版での難解さ極まれリーーとなるのが、この七段落であります。
    しかし、この難しさは次の歩みを振り返れば理解してゆけます。
    第二の段落に何を確認していたのか?点検してみると、次の事柄との関連が浮かび上がる。

    a同等性関係と価値関係との区別であり、価値上着としてリンネルに等置されるのは、上着が
     リンネルに対して直接的に等置されることを示しているのではなく、
     リンネルの相対価値表現においては、と示せば、単なる量的関係にすぎないので、その質的
     側面としての価値関係においては、価値が上着という反省規定を示しているのです。
    b②このように<価値が上着という反省規定を示している>リンネルは、・・・・自分の価値
     存在に、・・価値形態を与えるーーことで、物象の判断・諸物象の社会関係を示した。
    第三段落では、交換可能性の形態であり直接的交換可能性の形態の両極の形態が成立しており
    第四段落で、使用価値と価値形態が示され、
    第五段落で、労働膠着物は上着であり、上着は、そのなかに人間労働が凝結した形態
    第六段落で、具体的労働が抽象的人間労働の直接的実現形態になっているが、これはなにか?
    第七段落での、回答は、このような2~6段落での論議の集約であり、直接的には六段落への
          回答となっています。

    この回答が、次でありました。
    A<リンネルは、自分の価値量ーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自
      分の直接的な存在とは区別される価値形態を与える> ーーと示されていた。
    B<商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
     ーーーそれは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。>

     このA Bの二つの論旨が異なることを、次のように、見出さなければこの七段落の理解は
    不能です。

    ①リンネルの価値存在の表現として、リンネル価値の現象形態として価値形態と判断されるこ
     とを導出するーーことに示されている交換可能性の形態であるーーことと
    ②等価物上着の直接的姿態のままに価値形態とされることで使用価値が価値の現象形態となり
     具体的有用労働が抽象的人間労働の実現形態になることで、等価形態とされるーーのとで
     は、すでに、示したように、両極の形態として、相互に排斥しあうのです。

    このように、七段落での提示は、明瞭であります。
    ここで、次のことが、ここに浮かび上がっているーー事に気づかなければなりません!!!

    ここに、上記の②に示された、六段落でのーー具体的労働が抽象的人間労働の直接的実現形態
    との比較にて気付く、六段落での「直接的実現形態」の省かれた等価形態の第二の独自性の提
    示は何か?ということであります。
    上着はリンネルの価値形態として両極での規定を得ることで、等価形態の成立によって、よう
    やくその第二の独自性が、直接的に示さずとも、示すことが出来るーーという規定の変化を受
    けているわけです。
    そのことで、やっと、再版に見られる、<具体的労働が抽象的人間労働の実現形態>になるこ
    とで、上着はリンネルの対極で等価形態ーーを示すことが出来たのです。

    以上であります。初版の4~7段落の追求は、またの課題にします。
 

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