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<「諸使用対象を商品に転化させるもの」ーとは?> 

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月17日(金)12時16分37秒
返信・引用 編集済
        <「諸使用対象を商品に転化させるもの」ーとは?>
     榎原さんの『資本論の核心』と初版での一般的価値形態  ーーへの再考 その2

     <初版の解読・今回は良好であったので、肝心な所を浮き出すように編集してみた。>

   形態Ⅲーーとは、一般的価値形態であって、
   一般的相対的価値形態ではない。            英和訳資本論
                            https://sites.google.com/site/heyizibenlun/


 初版 ①パラグラフ
 (略)
 一商品の価値をすべての他商品の広がりのなかで表わ
 すところの、相対的価値の発展した形態(形態Ⅱ)と区
 別して、われわれは、この統一的な価値表現を、一般
 的な相対的価値形態と呼ぼう。〉(47-8頁)

 初版  ②パラグラフ(普遍的等価物)
 これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、  (C1-5段)(再版6段落)
 したがって第二形態のうちに含まれているところの形  前の二つの形態[A,B]はどちらも各々の商品の価値
 態Ⅲにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっ  を違った種類の単一の商品の言葉で表現するか、また
 ての等価物という種属形態として現われている。    は多くのそのような諸商品の一連のなかで表現する。
 このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな  両方の場合において、その商品の価値のある表現を見
 類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や  いだすということは、いわば、それぞれの単一商品の
 兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそ  特別の本務である、そしてこのことをそれは他の助け
 れらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動  なしに行う。
 物界全体の個体的な化身が、存在しているかのような  これらの他のものは、前のものに関連して、諸同等物
 ものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をこと  [諸等価物]という受身的役割を演じる。
 ごとく包括しているところの、このような単一なるも  価値の一般的形態C は、諸商品世界全体の共同の行
 のは、動物や神等々のように、ある普遍的なものであ  為から結果として生じる、同時にそれでもって、それ
 る。だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形  らの諸価値を同じ同等物[等価物]において表現して
 態としてのリンネルに関係したことによって、単一の  いる、そしてただそれだけから結果として生じてい
 等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商  る。
 品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物、 一商品はそれの価値のある一般的表現を獲得すること
 一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般  ができる、同時にそれでもって、同じ同等物[等価
 的な具象物に、なるわけである。           物]のなかでそれらの価値を表現している; そして
                           どの新しい商品も先例に従わなければならない。
 だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働  それはこうしてつぎのことがはっきりする、
 が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、  価値としての諸商品の存在は純粋に社会的なものであ
 一般的な労働として、認められているわけである。   るから、この社会的存在はそれらの社会的諸関係だけ
                           の全体性によって表現されることができる、
 ③パラグラフ(普遍的労動)             そしてその結果として、それらの価値の形態は社会的
  <略>                         に承認された形態でなければならないことが。


                            C.価値の一般形態
                             The General Form of Value
                           (C1-7段)(再版八段落)

                           「相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁
                           して、単一の商品その残りから排除されて、そして
                           同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ー
                           ここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に転
                           換する。亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値
                           によって共同して装われた形態である;それはした
                           がってそれらのうちの全て、かつどれとも直接交換
                           可能となる。
 だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、 その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間
 有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な  労働の社会的な蛹態となる。
 実現形態として、一般的な労働として、認められてい  織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜
 るが、そのように認められているのは、まさに、この  麻布を生産する労働である、が、結果として、一つ
 労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコー  の社会的性格を獲得する、
 ヒー栽培や鉱山労働や他のすべての労働種類からも区  すべての他の種類の労働と同等なものという性格を
 別されているところの、リンネル織りという特殊に規  [獲得する]。
 定されている労働である、というかぎりにおいてのこ  価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほ
 となのである。                   どの等式が、順繰りに亜麻布のなかに体現された労
                           働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と
 逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわ  相等しくする、そしてそれらがこのようにして織布
 ち一般的な等価物の、相対的価値表現(形態Ⅱ)にあ  することを、差別を立てられていない人間労働の明
 っては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認めら  示の一般形態へと転換する。
 れていない。〉(江夏訳48-49頁)

 ④<価値としては諸商品は、同じ単位の表現、抽象的  このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働
 な、人間的な、労働の・表現である。         はその否定的な側面のもとにおいてばかりでなく提
 交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値  示される、そのもとに抽象がなされているどの具体
 として現われており、互いに価値として関係しあって  的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた抽象
 いる。諸商品は、このことによって、同時に、自分た  のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な
 ちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、 性質を明白に知らせるようにされている。
 労働に、関係している。これらの商品の社会的な関係
 は、もっぱら、それらが相互に、それらのこういった
 社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同  この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一
 じであり、したがって互いに置き換えが可能であるし  般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元
 互いに交換が可能である、というような表現--とし  であり、人間の労働力の消費であることへの還元で
 て認められているという点において、成り立っている。 ある。」(原P81)
 有用物として一商品が社会的な規定を受け取っている
 のは、その商品がその所持者以外の人々にとって使用
 価値であり、したがって社会的な必要をみたす、とい
 うかぎりにおいてのことである。ところが、この商品
 の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させている
 かということにはかかわりなく、このような属性によ
 って、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象
 になるだけであって、別の諸商品にたいしての商品に
 はならない。

 〈単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけがそ  「ひとり単なる使用価値を商品に転化するものだ
 れらの使用対象を、商品として互いに関係させること  けがそれらの商品をして、互いに関係させうるのであ
 ができ、したがって、社会的な関係のなかに置くこと  り、・・。しかるにこれこそ商品の価値にほかならな
 ができるのである。ところが、これこそが諸使用対象  い。」ーーと述べている。ここを引用して、榎原さん
 の価値なのである。                 は、こう述べるのです。

 だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物  「ここでマルクスが強調したいことは、単なる使用価
 として、認められているところの形態が、これらの使  値が、つまり労働生産物がどのようにして価値に転化
 用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的  していくか、という観点から価値の説明を行おうとし
 な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、  ている点です。諸使用対象の社会的関係が諸使用対象
 同一のものである。                 の価値であり諸使用対象が抽象的人間労働の凝固体と
 ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、  してお互いに関係しあっている形態が、商品の社会的
 この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という  な形態なのである。」(『資本論の核心』P90~91)
 形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もって
 いることになる。〉
 (江夏訳49-50頁)

        <「諸使用対象を商品に転化させるもの」ーとは?>
   <労働生産物を商品に転化させるもの>とは、第一の価値形態で学んだ使用価値と価値形態の姿態、①商品
   形態を単純な価値形態をとることで、② 相対的価値形態を採ることができ、そして③次に等価形態の形成
   となり、両極の形態をとれたことでした。
   だから、第一の形態での初版註20の「相対的価値表現の形態内容」とは?価値形態ですから、このパラグ
   ラフを忘れています。なによりも価値形態が成立することで、
   ①左極で交換可能性の形態を取れば、
   ②右極で直接的交換可能性の形態をとることでした。
   だから、「商品の社会的形態」とは?価値形態です。

   さてと、単純な価値形態の総体では上着は直接的に、価値形態とされ、第二の形態でもそうであるのですか
   ら、第三の形態でも同じく商品世界の住人である上着は、その世界の反省規定としてリンネルに、一般的な
   価値形態を直接的な交換可能性、として与えていた、のです。
   そこで、次の事柄に回答があったのです。
   「だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態」で、
   「ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性とい
   う形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。」(江夏訳50頁)
   だから、榎原さんの上記で述べる事柄ーー
   「諸使用対象が抽象的人間労働の凝固体としてお互いに関係しあっている形態が、商品の社会的な形態なの
   である。」ーーは転倒していて、そうではなくーーリンネルが一般的価値形態となることで、成立していた
   のです。ここに長年の宿題が回答が出来ました!!!
   この肝心の事柄を省いて、榎原さんは等価形態から論じていることで混乱させているのです。
    (「簡単な価値形態・・・この形態が・社会的な妥当性をもつ・のは他の諸商品が共同して単一の商品を
     等価形態にもつ一般的価値形態に於いてである。」『価値形態・物象化・物神性』P12)

   第三の形態で等価形態は、直接的の交換可能性の形態を、その名称のように直に受け取るのではありません。
   一般的価値形態が商品世界の共同行為によって成立し、つぎに一般的相対的価値形態が同じく商品世界の共
   同行為にて、商品世界からリンネルを排除することで、この一般的等価形態が成立するのです。
   この一般的価値形態は、直接的交換可能性の形態ではあるが、等価形態ではないのです。

    だから、第一の形態では、リンネルは「他の商品(上着)との価値関係のなかで上着を価値形態とするこ
   とで自分の価値を表現し、その上着はまさにそのことによって、リンネルと直接に交換できる使用価値また
   は等価物の形態をうけとる」ーーとして、両極の形態が述べられていたのです。
    さて、注意すべきは、「単純な価値形態の総体」にて、上着は直接的に価値形態と規定され、第二の形態
   においても、上着等とうの商品は、同じく直接的に価値形態を受け取っていたのです。
   このように、第三の形態では、リンネルは、一般的価値形態として直接的に価値形態であり、しかるに、
   直接的に交換可能性の規定にあったのです。
   さてと、ここで問題にされているのは第一の形態でも無く、そしてまた第二の形態でも無く、第三の形態な
   のです。
   初版では、商品世界が登場しないので、それは一般的価値形態を反省規定する商品群であります。

 
 

榎原さんの『資本論の核心』と初版での一般的価値形態  ーーへの再考

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月16日(木)21時18分41秒
返信・引用 編集済
   http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1070 2016年1月
  上記、本掲示板に榎原さんのこの三節の理解への批判を述べたのだが、いろいろ至らない点もあり、
  何らの議論の進展もえられなかったので、いまなら、その論理をどう進めていけるのか、再考してみた。

 《初版本文》
 〈Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態
  を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態>

  1着の上着     =20エレのリンネル
  u量のコーヒー   =20エレのリンネル
  v量の茶      =20エレのリンネル
  x量の鉄      =20エレのリンネル
  y量の小麦     =20エレのリンネル
  その他       =20エレのリンネル

 ①パラグラフ <価値表現の普遍的形式>(牧野訳)
 〈商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の
 形態である 1着の上着=20エレのリンネルに戻っ
 ている。とはいえ、この単純な等式はいまではさらに
 発展している。この等式はもともと次のことだけを含
 意している。

 すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されること
 によって、上着という使用価値あるいは上着体そのも
 のからは区別され独立している形態を得ている、とい
 うこと。いまではこの同じ形態は、上着を、すべての  この形態は
 他商品にたいしても価値として表わしており、したが
 って、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着  上着の普遍妥当的な価値形態なのである
 だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべて  コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品の普遍
 の他商品が、いまでは自分たちの価値を、リンネルと  的な価値形態であり、
 いう素材で表現している。              すべての他商品が、いまでは自分たちの価値を、
 このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物  リンネルという素材で表現している
 として、相互に自己を表示している。すべての商品は
 量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、  一般的な相対的価値形態と呼ぼう。
 u量のコーヒー、x量の鉄等々、すなわちこれらのさ
 まざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルに
 イコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等
 しい。こうして、すべての商品は、リンネルという素
 材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、交換価
 値として自分たち自身の使用価値から区別され、そし
 て同時に価値量として互いに関係しあい、質的に等置
 されて量的に比較される。この統一的な相対的価値表
 現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価
 値として現われ、したがって、これらの商品の価値は
 初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形
 態を、得ることになる。一商品の価値をすべての他商
 品の広がりのなかで表わすところの、相対的価値の発
 展した形態(形態Ⅱ)と区別して、われわれは、この統
 一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼ
 う。〉(47-8頁)

 ②パラグラフ(普遍的等価物)
 〈 形態Ⅱにおいて、すなわち、
 20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコ
 ーヒー,または=v量の茶,または=x量の鉄,等々
 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展さ
 せているのであるが、この形態Ⅱでは、リンネルは、
 一つの特殊的な等価物としての個々の商品である上着
 やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的
 なもろもろの等価形態の広がりとしての全商品をひっ
 くるめたものに関係している。リンネルにたいしては、
 どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと
 同じに、等価物そのものとしては認められていないの
 であって、特殊的な等価物として認められているにす
 ぎず、ここでは一方の特殊的な等価物が他方のそれを
 排除している。
                           再版 英語版
                           形態Ⅲーーとは、一般的価値形態であって、
                                   一般的相対的価値形態ではない。
 これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、  (C1-5段)(再版6段落)
 したがって第二形態のうちに含まれているところの形  前の二つの形態[A,B]はどちらも各々の商品の価値
 態Ⅲにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっ  を違った種類の単一の商品の言葉で表現するか、また
 ての等価物という種属形態として現われている。    は多くのそのような諸商品の一連のなかで表現する。
 このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな  両方の場合において、その商品の価値のある表現を見
 類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や  いだすということは、いわば、それぞれの単一商品の
 兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそ  特別の本務である、そしてこのことをそれは他の助け
 れらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動  なしに行う。
 物界全体の個体的な化身が、存在しているかのような  これらの他のものは、前のものに関連して、諸同等物
 ものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をこと  [諸等価物]という受身的役割を演じる。
 ごとく包括しているところの、このような単一なるも  価値の一般的形態C は、諸商品世界全体の共同の行
 のは、動物や神等々のように、ある普遍的なものであ  為から結果として生じる、同時にそれでもって、それ
 る。だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形  らの諸価値を同じ同等物[等価物]において表現して
 態としてのリンネルに関係したことによって、単一の  いる、そしてただそれだけから結果として生じてい
 等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商  る。
 品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物、 一商品はそれの価値のある一般的表現を獲得すること
 一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般  ができる、同時にそれでもって、同じ同等物[等価
 的な具象物に、なるわけである。           物]のなかでそれらの価値を表現している; そして
                           どの新しい商品も先例に従わなければならない。
 だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働  それはこうしてつぎのことがはっきりする、
 が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、  価値としての諸商品の存在は純粋に社会的なものであ
 一般的な労働として、認められているわけである。   るから、この社会的存在はそれらの社会的諸関係だけ
                           の全体性によって表現されることができる、
 ③パラグラフ(普遍的労動)             そしてその結果として、それらの価値の形態は社会的
 <商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商  に承認された形態でなければならないことが。
 品Bは単一の等価物になるのであるが、この表示のさ
 いには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかは
 どうでも良いことであった。商品Bの体躯性が商品A
 のそれとは別の種類でなければならないし、したがっ
 てまた、別の有用な労働の生産物でなければならなか
 った、というだけのことである。

 上着は、自分の価値をリンネルで表すことによって、
 実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、
 まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリン
 ネル織りに関係したのであるが、リンネル織りが別の
 もろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されて
 いるということは、全くどうでもよいことであった。
 それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなけれ
 ばならなかったし、とにかくある特定の労働種類でな
 ければならなかったのである。

                      https://sites.google.com/site/heyizibenlun/

 リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくな   英和訳資本論
 る。この使用価値が、いまでは、この使用価値の特殊   C.価値の一般形態
 な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コ    The General Form of Value
 ーヒーや鉄等々という他のすべての商品種類とは区別   (C1-7段)(再版八段落)
 されたリンネルになる--をもったままで、すべての
 他商品の一般的な価値形態になり、したがって一般的  「相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱
 な等価物になっているのである。           擁して、単一の商品その残りから排除されて、そ
                           して同等物[等価物]の役を演じるようにされた
                           商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価
                           物]に転換する。亜麻布の身体的形態は今や諸商
                           品の諸価値によって共同して装われた形態であ
                           る;それはしたがってそれらのうちの全て、かつ
                           どれとも直接交換可能となる。
 だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、 その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人
 有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な  間労働の社会的な蛹態となる。
 実現形態として、一般的な労働として、認められてい  織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、
 るが、そのように認められているのは、まさに、この  亜麻布を生産する労働である、が、結果として、
 労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコー  一つの社会的性格を獲得する、
 ヒー栽培や鉱山労働や他のすべての労働種類からも区  すべての他の種類の労働と同等なものという性格
 別されているところの、リンネル織りという特殊に規  を[獲得する]。
 定されている労働である、というかぎりにおいてのこ  価値の一般形態を構成するこれらの数え切れない
 となのである。                   ほどの等式が、順繰りに亜麻布のなかに体現され
                           た労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された
 逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわ  労働と相等しくする、そしてそれらがこのように
 ち一般的な等価物の、相対的価値表現(形態Ⅱ)にあ  して織布することを、差別を立てられていない人
 っては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認めら  間労働の明示の一般形態へと転換する。
 れていない。〉(江夏訳48-49頁)

 ④<価値としては諸商品は、同じ単位の表現、抽象的  このように諸商品の諸価値のなかに実現された労
 な、人間的な、労働の・表現である。         働はその否定的な側面のもとにおいてばかりでな
 交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値  く提示される、そのもとに抽象がなされているど
 として現われており、互いに価値として関係しあって  の具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなさ
 いる。諸商品は、このことによって、同時に、自分た  れた抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身
 ちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、 の肯定的な性質を明白に知らせるようにされてい
 労働に、関係している。これらの商品の社会的な関係  る。
 は、もっぱら、それらが相互に、それらのこういった
 社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同  この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を
 じであり、したがって互いに置き換えが可能であるし  一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への
 互いに交換が可能である、というような表現--とし  還元であり、人間の労働力の消費であることへの
 て認められているという点において、成り立っている。  還元である。」(原P81)
 有用物として一商品が社会的な規定を受け取っている
 のは、その商品がその所持者以外の人々にとって使用
 価値であり、したがって社会的な必要をみたす、とい
 うかぎりにおいてのことである。ところが、この商品
 の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させている
 かということにはかかわりなく、このような属性によ
 って、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象
 になるだけであって、別の諸商品にたいしての商品に
 はならない。

 〈単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけがそ  「ひとり単なる使用価値を商品に転化するものだ
 れらの使用対象を、商品として互いに関係させること  けがそれらの商品をして、互いに関係させうるのであ
 ができ、したがって、社会的な関係のなかに置くこと  り、・・。しかるにこれこそ商品の価値にほかならな
 ができるのである。ところが、これこそが諸使用対象  い。」ーーと述べている。ここを引用して、榎原さん
 の価値なのである。                 は、こう述べるのです。
 だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物  「ここでマルクスが強調したいことは、単なる使用価
 として、認められているところの形態が、これらの使  値が、つまり労働生産物がどのようにして価値に転化
 用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的  していくか、という観点から価値の説明を行おうとし
 な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、  ている点です。諸使用対象の社会的関係が諸使用対象
 同一のものである。                 の価値であり諸使用対象が抽象的人間労働の凝固体と
 ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、  してお互いに関係しあっている形態が、商品の社会的
 この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という  な形態なのである。」(『資本論の核心』P90~91)
 形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もって
 いることになる。〉                 <「諸使用対象を商品に転化させるもの」ーとは?>
 (江夏訳49-50頁)

        <「諸使用対象を商品に転化させるもの」ーとは?>
   <労働生産物を商品に転化させるもの>とは、第一の価値形態で学んだ使用価値と価値形態の姿態、①商品
   品形態を単純な価値形態をとることで、②相対的価値形態を採ることができ、そして③次に等価形態の形成
   となり、両極の形態をとれたことでした。
   だから、第一の形態での初版註20の「相対的価値表現の形態内容」とは?価値形態ですから、このパラグ
   ラフを忘れています。なによりも価値形態が成立することで、
   ①左極で交換可能性の形態を取れば、
   ②右極で直接的交換可能性の形態をとることでした。
   だから、「商品の社会的形態」とは?価値形態です。

   さてと、単純な価値形態の総体では上着は直接的に、価値形態とされ、第二の形態でもそうであるのですか
   ら、第三の形態でも同じく商品世界の住人である上着は、その世界の反省規定としてリンネルに、一般的な
   価値形態を直接的な交換可能性、として与えていた、のです。
   そこで、次の事柄に回答があったのです。

   「だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態」で、
   「ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性とい
   う形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。」(江夏訳50頁)
   だから、榎原さんの上記で述べる事柄ーー
   「諸使用対象が抽象的人間労働の凝固体としてお互いに関係しあっている形態が、商品の社会的な形態なの
   である。」ーーは転倒していて、そうではなくーーリンネルが一般的価値形態となることで、成立していた
   のです。ここに長年の宿題が回答が出来ました!!!
   この肝心の事柄を省いて、榎原さんは等価形態から論じていることで混乱させているのです。
    (「簡単な価値形態・・・この形態が・社会的な妥当性をもつ・のは他の諸商品が共同して単一の商品を
     等価形態にもつ一般的価値形態に於いてである。」『価値形態・物象化・物神性』P12)

   第三の形態で等価形態は、直接的の交換可能性の形態を、その名称のように直に受け取るのではありません。
   一般的価値形態が商品世界の共同行為によって成立し、つぎに一般的相対的価値形態が同じく商品世界の共
   同行為にて、商品世界からリンネルを排除することで、この一般的等価形態が成立するのです。
   この一般的価値形態は、直接的交換可能性の形態ではあるが、等価形態ではないのです。

    だから、第一の形態では、リンネルは「他の商品(上着)との価値関係のなかで上着を価値形態とするこ
   とで自分の価値を表現し、その上着はまさにそのことによって、リンネルと直接に交換できる使用価値また
   は等価物の形態をうけとる」ーーとして、両極の形態が述べられていたのです。
    さて、注意すべきは、「単純な価値形態の総体」にて、上着は直接的に価値形態と規定され、第二の形態
   においても、上着等とうの商品は、同じく直接的に価値形態を受け取っていたのです。
   このように、第三の形態では、リンネルは、一般的価値形態として直接的に価値形態であり、しかるに、
   直接的に交換可能性の規定にあったのです。
   さてと、ここで問題にされているのは第一の形態でも無く、そしてまた第二の形態でも無く、第三の形態な
   のです。
   初版では、商品世界が登場しないので、それは一般的価値形態を反省規定する商品群であります。






   ⑤パラグラフ<第 Ⅲ 形式の固定制>
 〈単純な相対的価値形態(形態 I )である
 1着の上着=20エレのリンネルが、一般的な相対的
 価値形態である 1着の上着=20エレのリンネルか
 ら区別されるのは、この等式が今では次の系列の一環
 を形成しているからにほかならない。
 1着の上着=20エレのリンネル
 u量のコーヒー=20エレのリンネル
 v量の茶=20エレのリンネル
  等々

 ⑥<つまり形態 I は、じっさいには、リンネルが一
 つの単一の等価物から一般的な等価物に発展している
 ということによってのみ、区別されている。したがっ
 て、単純な相対的価値表現にあっては、自分の価値量  形態 Iでの単純な相対的価値表現にあっては、
 を表現する商品ではなく、価値量がそれにおいて表現  価値量がそれにおいて表現されるところの商品が、等
 されるところの商品が、直接的交換可能性の形態、等  価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ている
 価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ている
 とすれば、同じことは、一般的な相対的価値表現につ
 いてもあてはまる。

 だが、単純な相対的価値形態にあっては、この区別は  単純な相対的価値形態にあってはーーー
 まだ形式的であってぼやけている。1着の上着=20  上着が自分の価値を相対的に、リンネルで、表現して
 エレのリンネル では、上着が自分の価値を相対的に、 おり、そうすることによって、リンネルが等価形態を
 すなわちリンネルで、表現しており、そうすることに  得ているーー
 よって、リンネルが等価形態を得ているとしても、こ
 の等式は、20エレのリンネル=1着の上着 という
 逆の関係を直接に含んでいるのであって、この関係で
 は、上着が等価形態を得ており、リンネルの価値が相
 対的に表現されているのである。
 相対的価値としての・および等価物としての・両商品
 の価値形態がもっところの、このように対称的であり
 相互的である表示は、もう生じていない。

 1着の上着=20エレのリンネル 一般的な相対的価
 値形態--この形態ではリンネルが一般的な等価物で
 ある--が、20エレのリンネル=1着の上着 に転
 倒されても、そのことによって、上着は、すべての他
 商品にとっては一般的等価物になるのではなくて、リ
 ンネルの特殊な等価物になるにすぎない。〉
 (江夏訳50-1頁)

  〈上着の相対的価値形態が一般的であるのは上着の   上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着の
 それが同時に、すべての他商品の相対的価値形態であ  それが同時に、すべての他商品の相対的価値形態であ
 るからにほかならない。上着にあてはまることは、コ  るからだ。
 ーヒー等々にもあてはまる。だから、諸商品の一般的  だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの
 な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な  商品そのものが、自らを一般的な等価形態から排除す
 等価形態から排除する、という結果になる。      るーー
 逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等  逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等
 価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形態から  価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形態から
 排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一  排除されるーー
 的な、相対的価値形態は、20エレのリンネル=20
 エレのリンネル であろう。だが、これは同義反覆で  <ここの認識は、文字どおり転回している。
 あって、一般的な等価形態にありしたがって絶えず交  例えば、zを商品リンネルとして、後を各商品とする
 換可能な形態にあるこういった商品の価値量を、表現    と、表現A=Z・B=Z・C=Z・・・ではなく
 するものではない。むしろ、20エレのリンネル        A=B=C=D=・・・・・Z なのだから、
 =1着の上着、または=u量のコーヒー、または    Zを抜きにして、
 =v量の茶、または=等々という発展した相対的価値    A=B=C=D=・・・・・が成立しているー
 形態が、いまでは、一般的な等価物の独自な相対的価  ー附録での提示のように、商品世界が成立ーー完成し
 値表現になるのである。〉(江夏訳51-2頁)      ている・・との説明なのです。>

 ⑦〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては上着  諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、
 やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態と  各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、
 はちがった価値形態、すなわちリンネルという形態を  すなわちリンネルという一般的形態をもっている。
                           <この⑦段落にてマルクスは、前の混乱をまとめる>
 もっている。そして、まさにこういった形態において、 この形態において、諸商品は、交換可能なものとして
 諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定  互いに関係しあっている。
 された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあ  なぜならば? なぜならば?・・・・・・・
 っている。なぜならば、1着の上着=20エレのリン  単なる、価値鏡リンネルの役立ちのおかげで、
 ネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々で  <1着の上着=u量のコーヒーとの商品世界が完成>
 あれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるから   この形態では、等価物リンネルは、単なる反照作用の
 だ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値  補助的存在になってしまっているのです。
 量として映し出すことによって、これらの商品は互い
 に価値量として映りあっているのである。
 ところが、これらの商品が使用対象としてもっている
 諸現物形態は、これらの商品同士にとってはこうい   <回り道を経てのみ価値の現象形態として認められて
 った回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、  いる>とは?
 価値の現象形態として認められているのである。だか  しかしこれは、⑥パラグラフで答えたことなのです。
 ら、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、  一般的相対的価値形態が、半ば完成しながらも、登場
 直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それ  できないのは何故か?との問いなのです。
 らは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっ
 ていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、 ⑧パラグラフ
 媒介された形態なのである。             <すべての他商品が一般的的価値形態を自分に与えな
 逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、す  くてはならず、一商品が、すべての他商品との直接的
 べての他商品が関係することによって、リンネルの現  交換可能性という形態で、存在しているのは、すべて
 物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可  の他商品がこの形態で存在していないからでしかない
 能性という形態になり、したがって、直接的にリンネ  ・・>
 ルの一般的・社会的形態になるわけである。〉     つまり、一般的な相対的価値形態で商品世界を完成し
 (江夏訳52頁)                   たことで、それを顕在化させる一手段としての見え
                           ないものを、透明なものを、実像化させるものは?
                           との我々への、マルクスの質問なのです。
 ⑧パラグラフ
 「ひとつの商品は、他のすべての商品の一般的な相対
 的価値形態、したがって、直接的でない価値形態を表  そこで、くだんの反省規定の転倒を批判した、
 現するために役立つがゆえに、またその限りでのみ、  臣民の役立ちにての王の存在ーーがお答えなのです。
 一般的な等価形態を受けとる。しかし商品たちは、そ  物象の社会関係の助けにて行うのです。
 の自然形態が使用価値形態でしかないのだから、相対
 的価値形態を自分に与えなくてはならず、全商品が価
 値として人間労働の凝結物として互いに関係しあうよ
 うに、統一された、したがって一般的な、相対的価値
 形態を自分に与えなくてはならない。」
 (今村訳P304~305)
 〈だから、一商品が、すべての他商品との直接的交換
 可能性という形態で、したがって直接的に社会的な形
 態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態
 で存在していないからでしかなく、またそのかぎりに
 おいてのことでしかない。すなわち、商品は総じて、
 それの直接的な形態がそれの使用価値という形態であ
 ってそれの価値という形態ではないために、直接的に
 交換可能な形態あるいは社会的な形態では、もともと
 存在していないからなのである。>(江夏訳52頁)

 「言い換えれば、商品は、一般に、その直接的な形態
 がその価値の形態ではなく使用価値の形態であるのだ
 から、もともと、直接的に交換可能な形態あるいは社
 会的な形態にはないからである。」(今村訳P305)

 ⑨パラグラフ
 <一般的な直接的交換可能性という形態を見ても、
 この形態が対立的な商品形態であり、非直接的交換可
 能性という形態と不可分であるのは、あたかも磁極の
 一方の陽性が他方の陰性と不可分であるようなものだ、
 といったことは、じっさいにはけっしてわからない。
 だから、すべての商品に直接的交換可能性の極印を同
 時に押すことができると想像しうるのであって、この
 ことは、すべての労働者を資本家にすることができる
 かのように想像しうるのと、同じでである。ところが、
 じっさいには、一般的な相対的価値形態と一般的な等
 価形態とは、諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、
 相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。
 (23)〉(同上53頁)


 

 英和訳資本論  一般的価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月13日(月)16時38分52秒
返信・引用 編集済
  https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi
  次のありがたい・感謝に耐えないグーグルにての訳は次であります。
   https://translate.google.co.jp/?hl=ja
C. 価値の一般形態
     The General Form of Value
 1 着の上着
 10 重量ポンドの茶
 40 重量ポンドのコーヒー
 1 クォーターの穀物
 2 オンスの金
 ? トンの鉄
 x 商品 A, など。        = 20 ヤードの亜麻布
 (C) 1. 価値の形態の変更された性格
      The altered character of the form of value
(C1-1段)
      [*1-1]全ての諸商品はいまやそれらの価値を
      (1) 要素的形態において表現する、なぜなら単一商品においてその価値を表しているから;
      (2) 統一性をもって[表現している]、なぜなら一つのそして同じ商品においてだから。
     [*1-2] 価値のこの形態は要素的でありかつ全て同じである、したがって一般的である。
   [*1-3][要素的]形態 A と [全体的形態]B はただ一つの商品の価値をそれの使用価値すなわち素材形態
  から区別されるあるものとして表現することにだけに適合していた。
  All commodities now express their value
(1) in an elementary form, because in a single commodity;
(2) with unity, because in one and the same commodity.
This form of value is elementary and the same for all, therefore general.
The forms A and B were fit only to express the value of a commodity as something distinct from its use value or material form.
(C1-2段)(ドイツ語版第三段落)
  一番目の[価値の要素的または偶発的]形態A は、つぎのような等式を供給する:ー 1着の上着 = 20ヤード
 の亜麻布、10重量ポンドの茶 = 1/2トンの鉄。
 上着の価値は亜麻布に相等しくされている、茶の価値は鉄に相等しくされている。しかし、亜麻布に相等し
 くされることは、そしてさらに鉄に相等しくされることは、亜麻布と鉄が異なっているように異なっている
 ということである。
 この形態、それは明白である、は実際的にはただ最初のはじまりにおいて、労働の諸生産物が偶発的にそし
 て時折の諸交換によって諸商品に転換されたときにだけ発生する。
  The first form, A, furnishes such equations as the following: ? 1 coat = 20 yards of linen, 10 lbs of tea = ? a ton of iron.
The value of the coat is equated to linen, that of the tea to iron.
But to be equated to linen, and again to iron, is to be as different as are linen and iron.
This form, it is plain, occurs practically only in the first beginning, when the products of labour are converted into commodities by accidental and occasional exchanges.
(C1-3段)(ドイツ語版ーー第四段落)
  二番目の[価値の全体的]形態、Bは、一番目の[要素的]形態よりもよりも適切な仕方で 、一つの商品の価
 値をその商品のもつ使用価値から区別する、というのは上着の価値はそこでは上着の身体的形態をもった全ての
 可能な姿態のもとに対照をなして置かれている。
 他方では、全てに共通な価値のどんな一般的表現も直接排除されている;というのは、各々の商品の価値等式に
 おいて、すべての他の諸商品はいまや諸同等[等価]形態のもとで出現するだけであるから。
 価値の拡張された形態は最初に一つの労働の特定生産物として実際に生じくるやいなや、たとえば家畜のよう
 に、もはや例外的にではなく、常習的に、さまざまな他の諸商品と交換される。
 The second form, B, distinguishes, in a more adequate manner than the first, the value of a commodity from its use value, for the value of the coat is there placed in contrast under all possible shapes with the bodily form of the coat; it is equated to linen, to iron, to tea, in short, to everything else, only not to itself, the coat.
On the other hand, any general expression of value common to all is directly excluded;
for, in the equation of value of each commodity, all other commodities now appear only under the form of equivalents.
The expanded form of value comes into actual existence for the first time so soon as a particular product of labour, such as cattle, is no longer exceptionally, but habitually, exchanged for various other commodities.
(C1-4段)(ドイツ語版ーー第五段落)
  [*4-1] 三番目[C.価値の一般形態]のそして最後に展開された形態は諸商品の全世界の価値を単一商品の言葉
 を持って表す、すなわち、亜麻布は、そしてかくてわれわれにそれらの諸価値をそれらの亜麻布との同等性
 [等価性]によって提示する。
 [*4-2]ことごとくの商品の価値はいまや、亜麻布と相等しくされることで、それ自身の使用価値から区別される
 ばかりでなく、全ての他の使用価値から一般的に区別され、そしてそのまさに事実によって、それが全ての諸商
 品に共通なこととして表現されている。
 [*4-3]この形態によって、諸商品は、初めて、効果的に価値として互いの関係のなかに持ち込まれる、すなわ
 ち、交換価値として出現させられる。
  <前原訳>http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
  新たに獲得された形態は、商品世界の諸価値を、そこから排除された一つの
  同じ商品種類、例えば亜麻布で表現する。そしてあらゆる商品の諸価値をそ
  れらと亜麻布との同一性によって表現する。亜麻布と同じものである諸価値
  は、今では、それ自身の使用価値から区別されるだけでなく、すべての使用
  価値から区別され、そのことによって亜麻布とあらゆる商品とに共通するも
  のとして表現される。したがってこの形態は、初めて実際に、諸商品相互を
  諸価値として関わらせる、あるいは諸商品を互いに諸交換価値として現象さ
  せるのである。
  <初版だと冒頭一段落に、こう述べられている。>初版①パラグラフ((初版 国民文庫47-8頁)
  「商品の相対的価値表現は、ここではそれの最初の形態である1着の上着=20エレのリンネルに戻っている
  とはいえ、この単純な等式はいまではさらに発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。
  すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるいは上着体そのものか
  らは区別され独立している形態を得ている、ということ。いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品に
  たいしても価値として表わしており、したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着だけではな
  く、コーヒーや鉄や小麦要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの価値をリンネルという素材で表現して
  いる。」
  (http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1070
  このように、初版第三の形態の冒頭では
  ①<上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるいは上着体そのものからは区
  別され独立している形態を得ている、>
  ②<したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。>ーーと冒頭に示されている。

The third and lastly developed form expresses the values of the whole world of commodities in terms of a single commodity set apart for the purpose, namely, the linen, and thus represents to us their values by means of their equality with linen.
  <3番目の、そして最後に開発された形式は、商品の世界全体の価値を、目的のために設定された単一商品、
  すなわちリネンで表しており、リネンとの平等によってその価値を表しています。>

  <3番目の、そして最後に開発された形式は、商品の世界全体の価値を、商品世界から排除された単一商品、
  すなわちリネンで表しており、リネンとの平等によってその価値を表しています。他のすべての商品は現在、
  リネンの価値の鏡になります。>

The value of every commodity is now, by being equated to linen, not only differentiated from its own use value, but from all other use values generally, and is, by that very fact, expressed as that which is common to all commodities.
By this form, commodities are, for the first time, effectively brought into relation with one another as values, or made to appear as exchange values.
  <すべての商品の価値は、今やリネンと同じになることによって、それ自体の使用価値から区別されるだけでな
  く、他のすべての使用価値から区別され、すべての商品に共通する価値として表現されます。このような形で、
  商品は初めて価値として相互に効果的に関連付けられ、交換価値として現れるようになりました。>

 (C1-5段)(再版6段落)
 [*5-1] 前の二つの形態[A,B]はどちらも各々の商品の価値を違った種類の単一の商品の言葉で表現するか、
 または多くのそのような諸商品の一連のなかで表現する。
 [*5-2]両方の場合において、その商品の価値のある表現を見いだすということは、いわば、それぞれの単一商品
 の特別の本務である、そしてこのことをそれは他の助けなしに行う。これらの他のものは、前のものに関連して、
 諸同等物[諸等価物]という受身的役割を演じる。
 [*5-3]価値の一般的形態C は、諸商品世界全体の共同の行為から結果として生じる、同時にそれでもって、それ
 らの諸価値を同じ同等物[等価物]において表現している、そしてただそれだけから結果として生じている。
 一商品はそれの価値のある一般的表現を獲得することができる、同時にそれでもって、同じ同等物[等価物]のな
 かでそれらの価値を表現している; そしてどの新しい商品も先例に従わなければならない。
 [*5-4]それはこうしてつぎのことがはっきりする、
 価値としての諸商品の存在は純粋に社会的なものであるから、この社会的存在はそれらの社会的諸関係だけの全体
 性によって表現されることができる、そしてその結果として、それらの価値の形態は社会的に承認された形態でな
 ければならないことが。
  <前原訳>
   前の二つの形態は一商品の価値を、唯一の他種類の商品によってであれ、
  それとは違う多数の商品の列によってであれ、表現する。いずれの場合にも、
  一つの価値形態が与えられることは、いわば諸商品個々の私事であり、商品
  は他の諸商品の助力なしに事を成し遂げる。これらの商品は互いに等価物と
  いう単に受動的な役割を果たす。
  それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。
  商品が一般的な価値表現を獲得するのは、全ての他の商品が同時にそれらの
  価値を同じ等価物で表現し、新たに登場する商品種類の各々もそれらの真似
  をしなければならないからである。そのこととともに、商品の価値対象的性
  格(「価値形態」との規定でなくては、この“社会的定在”は存在しません?)
  はこの物がもつ単なる“社会的定在(=現実の存在におけるこの物の社会性?
  訳者)”であり、その全面的な社会的関係を通してだけ表現され得るのであ
  るから、価値対象性の形態も社会的に認められるものでなければならないの
  だ、ということが明らかになる。
The two earlier forms either express the value of each commodity in terms of a single commodity of a different kind, or in a series of many such commodities.
In both cases, it is, so to say, the special business of each single commodity to find an expression for its value, and this it does without the help of the others.
英訳 <以前の2つの形式は、それぞれの商品の価値を、異なる種類の単一の商品、または一連の多くの商品で表現
  しています。両方の場合において、それは、言い換えれば、個々の商品の特別な事業であり、価値の表現を見つ
  けることであり、これは他者の助けなしに行います。>

These others, with respect to the former, play the passive parts of equivalents.
The general form of value, C, results from the joint action of the whole world of commodities, and from that alone.
 英<これらの他のものは、前者に関して、等価物の受動的な部分を演奏します。
  一般的な価値形態Cは、商品の世界全体の共同行動から生まれたものであり、それだけである。>
  http://tabbreak.web.fc2.com/dai1syoushort.pdf
 『資本論』第 1 巻第 1 篇第 1 章完全解説―― 研究ノ-ト 「第1章商品」 の文脈――
  <第一及び第二の形態は、個々の商品の私事によって与えられた。それぞれ
  の商品は他の商品の協力なしにそれを成し遂げまた他方では受動的に等価物
  の役割を果たす。一般的等価形態は「商品世界の共同の仕事」(S.80.)によ
  って発生する。>
  (http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1073
   「一般的等価形態は「商品世界の共同の仕事」によって発生するのか?」
   この前原氏の理解の誤りについては上記の本掲示板に指摘している。)

A commodity can acquire a general expression of its value only by all other commodities, simultaneously with it, expressing their values in the same equivalent;
and every new commodity must follow suit.
英訳<商品は、他のすべての商品だけでなく、それと同時に、その価値を一般的に表現することができます。
  新しい商品はすべて、それに従わなければなりません。>
It thus becomes evident that since the existence of commodities as values is purely social, this social existence can be expressed by the totality of their social relations alone, and consequently that the form of their value must be a socially recognised form.
 英訳<したがって、価値としての商品の存在は純粋に社会的なものであることから、この社会的存在は社会的関係
 の完全性だけで表現でき、その結果価値の形態は社会的に認められる形態でなければならないことは明らかであ
 る。>
 (C1-6段)
  いまや亜麻布に相等しくされているすべての諸商品は一般的に諸価値
   (誤訳・正しくは「価値形態」であることで、商品世界が構成される
    から質的に等しい!「相対的価値形態の量的規定性」(原P67参照))
 として質的に等しいものとして現れるばかりでなく、また諸価値としてその大きさは比較することができる。
 それらの諸価値の大きさを一つのそして同じ素材、亜麻布、において表現することによって、これらの大きさはま
 た互いに比較される。
 たとえば、10重量ポンドの茶 = 20ヤードの亜麻布、そして40重量ポンドのコーヒー = 20ヤードの亜麻布。
 言葉を換えれば、そこには1重量ポンドのコーヒーには1重量ポンドの茶に比べてその1/4だけの価値実態 - 労
 働 - しか含まれていない。
  All commodities being equated to linen now appear not only as qualitatively equal as values generally, but also as values whose magnitudes are capable of comparison.
By expressing the magnitudes of their values in one and the same material, the linen, those magnitudes are also compared with each other.
 英訳<リネンと同等の商品はすべて、質的には価値形態と同じだけでなく、その大きさが比較可能な値として現れ
 ます。一つの同じ材料であるリネンの値の大きさを表現することによって、それらの大きさも互いに比較されます>

For instance, 10 lbs of tea = 20 yards of linen, and 40 lbs of coffee = 20 yards of linen.
Therefore, 10 lbs of tea = 40 lbs of coffee.
In other words, there is contained in 1 lb of coffee only one-fourth as much substance of value ? labour ? as is contained in 1 lb of tea.
 英訳<例えば10ポンドの紅茶= 20ヤードの麻、40ポンドのコーヒー= 20ヤードの麻である。
  したがって、10ポンドの紅茶= 40ポンドのコーヒー。換言すれば、1ポンドのコーヒーには、1ポンドの茶に含
  まれる価値労働の物質の1/4しか含まれていません。>

 (C1-7段)(再版八段落)
 [*7-1]相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品、その残りから排除されて、そして同
 等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に転換する。
 [*7-2]亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である;それはしたがってそれ
 らのうちの全て、かつどれとも直接交換可能となる。
 [*7-3]その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。
 [*7-4]織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働である、が、結果として、一つの
 社会的性格を獲得する、
 [*7-5]すべての他の種類の労働と同等なものという性格を[獲得する]。
 価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式、が、順繰りに亜麻布のなかに体現された労働を、
 [*7-6]あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そしてそれらがこのようにして織布すること
 を、差別を立てられていない人間労働の明示の一般形態へと転換する。
 [*7-7]このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働はその否定的な側面のもとにおいてばかりでなく提示
 される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた抽象のもとにおい
 てばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白に知らせるようにされている。
 [*7-8]この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元で
 あり、人間の労働力の消費であることへの還元である。
  <前原訳><現行版 八段落>
  <商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価物の印を刻
  み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがって亜麻布は全ての他の
  商品と直接に交換可能になる。
 杉本意見 だが①[*7-2]亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である; それ
  はしたがってそれらのうちの全て、かつどれとも直接交換可能となる。
  ②英<身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。それゆえそれらのすべて
  とすべて直接的に交換可能になる>
  ③再版<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべて
  の商品と直接に交換されうるのである。>(国民文庫P126 長谷部訳 資本論1P62上段)
  A「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態」
  B「亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)」
  ーーという過去の翻訳・表現に込められているのは、誤訳であります。
  何故か?
  イ亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態
  ロ身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態
  との訳とは違うものであり、
  この上記の意味は、商品世界の左極において諸商品が、共同行為において与えるー共同して装われた形態・共通
  に仮定された形態ーーなのだから、「一般的価値形態を構成する無数の等式」の示すものは、
  「商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格」ーーでありますし、その結論が、
  英<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労
  働力の支出に還元することである。>ーーと述べられたものなのです。これが、一般的価値形態であります。
  しかし、再版に示されている次の、<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>
  ーーとの表現では、第一の形態での等価物上着が直接的に受け取る価値形態のことと同じ意味ですから、使用価
  値が等価形態になってしまいます。
  一般的等価物亜麻布は・リンネルは、商品世界から除外されているがゆえにーーという肝心なことを省いた理解
  になっているのです。
  <リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>ーーではなく
  <亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態>との訳であれば良かったのです。
  このことを解読させる イ ロ の表現の素晴らしさがあります。
  <資本論の記述に戻ります。>
  亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の可視的な・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。
  織布、亜麻布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわち全ての他の労働との同等性を体
  現する形態に就く。一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を次々他の商品に含
  まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労働一般の一般的現象形態とする。
    (これは注意!・・これは第一の形態での、等価形態の独自性としての、裁縫労動が抽象的人間労働の実現
    形態となるーーと同じではない。
    ここには、人間労動の化身として、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹となることで、その社会的性
    格、他のすべての種類の労働との同等性を獲得するーーのだから、をこそ示している。
    <織布を人間労働一般の一般的現象形態とする>ーーこのように表すと、最後に示される結論ーー
    <あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働力の支出に還
    元する>ーーを否定する。)
  商品価値として対象的に表れる労働は、消極的にすなわちあらゆる具体的な諸形態と有用な諸性質が捨象された
  現実の労働として表現されるだけではない。それ自身の積極的なNatur本質もはっきりと現れてくる。商品価値
  として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格、すなわち人間の労働能力の支出に還元された現実
  の労働である。
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
 英<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を変換し、それと
 同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
 身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。 それゆえ、それらのすべてとす
 べて直接的に交換可能になる。>

The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.
 英<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹の状態になります。>
  <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >
 英<ここでは、リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織りは、結果として社会的性格、他のすべての種
 類の労働との平等の性格を獲得する。>

The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of
 英<一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての商品に組み込
 まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な形に変換する。>

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.
 英<このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益な性質から抽
 象化されているという否定的な側面だけでなく、>

The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
That form consequently makes it indisputably evident that in the world of commodities the character possessed by all labour of being human labour constitutes its specific social character.
 英<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働
 力の支出に還元することである。>
 英<その結果、商品の世界では、すべての労働によって人間の労働であるという性質が、その特定の社会的性格を
  構成することは明白に明らかになる。>

  (C)   2. 価値の相対形態と、同等物[等価]形態の独立展開
    The Interdependent Development of the Relative Form of Value, and of the Equivalent Form
 (C2-1段)
  [*1-1]価値の相対形態の発展程度は価値の同等[等価]形態に対応する。
 しかしわれわれはつぎのことを心に留めおかねばならない、すなわち、価値の同等[等価]形態は価値の相対形態
 の発展の表現であり結果にすぎないということを。
  The degree of development of the relative form of value corresponds to that of the equivalent form.
But we must bear in mind that the development of the latter is only the expression and result of the development of the former.
(82)
 グーグル訳
 相対的価値形態の発展の程度は、同等形態のそれに対応する。
 しかし、私たちは、後者の発展は、前者の発展の表現と結果に過ぎないことに留意する必要があります。
 (C2-2段)
 [*2-1]  一つの商品の価値の第一位のすなわち孤立した相対形態は何か他の商品を一つの孤立した同等物[等価
 物]へと転換する。
 [*2-2]相対価値の拡張された形態、これは一商品の他の全ての諸商品によっての価値の表現であるが、これら他
 の諸商品にたいして種類の違った特定の諸同等物[等価物]の性格を与える。
 [*2-3]そして最後に、ある特定種類の商品は一般的に行われている同等物[等価物]の性格を獲得する、なぜな
 ら全ての他の諸商品はその[特定種類の商品]の中に統一的にそれらの価値を表現する素材とするからである。
  The primary or isolated relative form of value of one commodity converts some other commodity into an isolated equivalent.
 <1つの商品の価値の第一次または孤立した相対的な形態は、他の商品を孤立した同等物に変換する。>

The expanded form of relative value, which is the expression of the value of one commodity in terms of all other commodities, endows those other commodities with the character of particular equivalents differing in kind.
 <他のすべての商品に関して1つの商品の価値の表現である相対価値の拡大された形式は、種類が異なる特定の等
 価物の性質を有する他の商品を付与する。>

And lastly, a particular kind of commodity acquires the character of universal equivalent, because all other commodities make it the material in which they uniformly express their value.
 <最後に、特定の種類の商品は、他のすべての商品が一律にその価値を表現する素材になっているため、普遍的な
 同等の性質を獲得します。>

 (C2-3段)
 [*3-1]価値の相対形態と同等物[等価物]形態との対立は、価値形態の二つの極は、その形態と同時に発展され
 る。
  The antagonism between the relative form of value and the equivalent form, the two poles of the value form, is developed concurrently with that form itself.

 (C2-4段)
 [*4-1] 最初の形態[価値の要素的形態 A] 20ヤードの亜麻布 = 1着の上着は、すでにこの対立を、今までの
 ところはそれを解決することなしに含んでいる。われわれがこの等式を前方にあるいは後方に読むにしたがって、
 亜麻布によって演じられた役割と上着[の役割]は異なっている。
 [*4-2]ある場合には亜麻布の相対価値は上着の中に表現され、他の場合には上着の相対価値は亜麻布のなかに表
 現される。
 [*4-3]価値のこの最初の形態においては、それゆえ、この極対照をつかむことは難しい。
 リネン= 1コートの20ヤードの第1の形態は、すでにこの拮抗作用を含有しており、それをまだ固定していない。
 この方程式を前後に読むと、リネンとコートで演奏される部分が異なります。1つの場合、リネンの相対価値は
 コートで表され、他の場合にはコートの相対価値はリネンで表される。したがって、この第1の価値形態では、
 極性コントラストを把握することが困難である。
   The first form, 20 yds of linen = one coat, already contains this antagonism, without as yet fixing it.
 <リネン= 1コートの20ヤードの第1の形態はすでにこの拮抗作用を含有しておりそれをまだ固定していない>
According as we read this equation forwards or backwards, the parts played by the linen and the coat are different.
 <この方程式を前後に読むと、リネンとコートで演奏される部分が異なります。>

In the one case the relative value of the linen is expressed in the coat, in the other case the relative value of the coat is expressed in the linen.
In this first form of value, therefore, it is difficult to grasp the polar contrast.
 グーグル訳
  <ある場合には、リネンの相対価値はコートで表され、他の場合にはコートの相体価値はリネンで表される。
 したがって、この第1の価値形態では、極性コントラストを把握することが困難である。>
  (C2-5段)
 [*5-1]形態 B [全体形態]は一つの単一商品だけが一度に完全にその相対価値を展開することができることを
 示している、そしてそれ[一つの単一商品]はこの展開された形態を、ただ全ての他の諸商品がそれに関して、同
 等物[等価物]であるというだけの理由で、そしてその限りでのみ獲得する。
 ここではわれわれはこの等式を逆転させることはできない、
 われわれが等式20ヤードの亜麻布 = 1着の上着  を逆転させられるようには、それの一般的性格を変更するこ
 となしには、そしてそれ[この等式]を価値の展開された形態から価値の一般形態へと変換することなしには。
 B形は、一度に1つの商品のみが相対価値を完全に拡大することができ、これは他のすべての商品が同等である限
 り、この拡大された形を取得することを示しています。
 ここでは、リネン= 1コートの20ヤードの式を一般的な性質を変えずに展開し、拡張した値のフォームから一般的
 な値のフォームに変換することができるので、式を逆にすることはできません。
  Form B shows that only one single commodity at a time can completely expand its relative value, and that it acquires this expanded form only because, and in so far as, all other commodities are, with respect to it, equivalents.
 英 <B形は、一度に1つの商品のみが相対価値を完全に拡大することができ、これは他のすべての商品が同等であ
 る限り、この拡大された形を取得することを示しています。
Here we cannot reverse the equation, as we can the equation 20 yds of linen = 1 coat, without altering its general character, and converting it from the expanded form of value into the general form of value.
(83)
 英 <ここでは、リネン= 1コートの20ヤードの式を一般的な性質を変えずに展開し、拡張した値のフォームから
 一般的な値のフォームに変換することができるので、式を逆にすることはできません。>
  (C2-6段)
 [*6-1] 最後に、形態 C [一般形態]が諸商品の世界へ一つの一般的で社会的な価値の相対形態を与える、
 つぎの理由で、そしてその限りにおいて、
 すなわちその理由によってすべての諸商品は、一つの例外をもって、この同等物[等価物]形態から排除されると
 いう理由で。
 したがって、一つの単一商品、亜麻布、が、ことごとくの他の商品との直接交換可能性という性格を獲得するため
 にはつぎの理由で、そしてその理由の限りにおいてのみ現れる、すなわちこの[直接交換可能性という]性格が、
 全ての他の商品にとっては否定されるという理由で、現れる。[26独注24]
   Finally, the form C gives to the world of commodities a general social relative form of value, because, and in so far as, thereby all commodities, with the exception of one, are excluded from the equivalent form.
A single commodity, the linen, appears therefore to have acquired the character of direct exchangeability with every other commodity because, and in so far as, this character is denied to every other commodity.[26]
 英 <最後に、形式Cは、商品の世界に価値の一般的な社会的相対的形態を与える。
 なぜなら、それを通じ、すべての商品は、それを除いて同等の形態から除外されているからである。
 単一の商品であるリネンは、他のすべての商品との直接的な交換性の特性を獲得しているように見えます。
 なぜならこのキャラクターは他のすべての商品に拒否されているからです。>
 (C2-7段)
  一般的同等物[等価物]として見なされる商品は、他方で、相対的価値形態から排除されている。
 もし亜麻布、または何か他の商品で一般的同等物[等価物]として役立っている商品、があって、同時に、価値の
 相対形態において責任を分かつためには、それはそれ自身の同等物[等価物]として役立たなければならないであ
 ろう。
 それならばわれわれは 20ヤードの亜麻布 = 20ヤードの亜麻布 の等式をもつであろう;この同義反復は価値
 も、価値の大きさも表現しない。
 一般的同等物[等価物]の相対価値を表現するためには、われわれはむしろ形態 C[価値の一般形態]を逆転し
 なければならない。
 この同等物[等価物]は他の諸商品と共通な価値の相対形態は全くもっていない、しかしその価値は決して終わる
 頃のない一連の他の諸商品によって相対的に表現される。
 こうして、相対価値の展開形態は、すなわち形態 B[価値の全体形態]は、今やそれ自身を同等物[等価物]商品
 の相対価値の特定形態として示す。
   The commodity that figures as universal equivalent, is, on the other hand, excluded from the relative value form.
If the linen, or any other commodity serving as universal equivalent, were, at the same time, to share in the relative form of value, it would have to serve as its own equivalent.
 英訳 <一方、普遍的な同等物として表される商品は、相対価値の形態から除外される。
 リネン、または同等品として機能する他の商品が、同時に、相対的な価値形態で共有する場合、それは、それ自身
 の同等物として機能しなければならない。>

We should then have 20 yds of linen = 20 yds of linen;
this tautology expresses neither value, nor magnitude of value.
 英訳<私たちは20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンを持っていなければなりません。この同音論は、価値も価
 値の大きさも表さない。>

In order to express the relative value of the universal equivalent, we must rather reverse the form C.
This equivalent has no relative form of value in common with other commodities, but its value is relatively expressed by a never ending series of other commodities.
Thus, the expanded form of relative value, or form B, now shows itself as the specific form of relative value for the equivalent commodity.
 英訳<普遍的な等価物の相対的価値を表現するためには、フォームCを逆にする必要があります。
  この等価物は、他の商品と共通の価値の相対的な形をもたないが、その価値は他の商品の終わりのないシリーズ
 によって相対的に表される。したがって、相対価値の拡大された形すなわち形Bは、同等の商品に対する相対価値の
 具体的な形として現れている。>
   (C)   3. 価値の一般形態から貨幣-形態への推移
   Transition from the General form of value to the Money form
  (C3-1段)
 [*1-1]一般同等[等価]形態は普通の一つの価値形態である。それゆえ、それはどんな商品によっても装われ
 得る。
 [*1-2]他方で、もし一商品が一般同等[等価]形態(一般形態C)を装ったことが見いだされたとすれば、その
 ことはただその一商品がそれらの同等物[等価物]として残りの他のすべての諸商品から排除され続けてきたから
 であり、その限りにおいてのみである、そしてそれら自身のふるまいによってということである。
 [*1-3]そしてこの排除が最終的に一つの特定の商品に限られた瞬間から、その瞬間からだけ、諸商品の世界の
 一般価値形態は現実の整合性と全体に通じる社会的妥当性とを獲得する。
   The universal equivalent form is a form of value in general.
It can, therefore, be assumed by any commodity.
On the other hand, if a commodity be found to have assumed the universal equivalent form (form C), this is only because and in so far as it has been excluded from the rest of all other commodities as their equivalent, and that by their own act.
And from the moment that this exclusion becomes finally restricted to one particular commodity, from that moment only, the general form of relative value of the world of commodities obtains real consistence and general social validity.
 グーグル訳
 <普遍的な同等の形式は一般的に価値のある形式です。それゆえ、それはどの商品によっても仮定され得る。
 一方、商品が普遍的な同等の形態(C形)をとっていることが判明した場合、これは他のすべての商品の同等物と
 して残りの商品から除外されている限り、 自分の行為。
 そして、この排除が最終的にある特定の商品に限定された瞬間から、商品の世界の相対価値の一般的な形は、現実
 の一貫性と一般的な社会的妥当性を得る。>
  (C3-2段)
  [*2-1]この特定の商品、それの身体的形態と共にこの同等[等価]形態がこうして社会的に見極められて、今
 や貨幣商品となる、すなわち貨幣としての役をするる。
 [*2-2]諸商品の世界の範囲で一般等価物の役割を演じることはその商品の特別な社会的機能となる、そしてそ
 の結果としてそれ[貨幣商品]の社会的独占となる。(84)
 [*2-3]形態 B[価値の全体形態]の諸商品のなかで、亜麻布の特定の諸同等物[等価物」としての役を演じる
 もの、そして、形態 C[価値の一般形態]において亜麻布のなかにそれらの相対的諸価値を共通に表現するもの、
 この第一位の場所を一つだけが特に獲得してきたーすなわち、金が。
 もしそれなら、形態 C[価値の一般形態]においてこの亜麻布を金で置き換えるならば、われわれは次
 [D. 貨幣-形態]を得る。

  杉本提起
  形態 C[価値の一般形態]にて亜麻布を金で置き換えるならば、われわれは次の[D. 貨幣-形態]を得る。
  ーーとは、一般的価値形態が、[D. 貨幣-形態]を代わることで、
  成立していた一般的相対的価値形態が、商品世界から排除していたリンネルの姿から金の姿へと変化をしたに
  すぎないのです

  交換過程において商品は、①労働生産物の商品への転化
              ②商品の貨幣の転化      の二重の姿態を受け取る、事の繋がりにおいて
  論理を進めることがここに問われているのです。、次の課題にします。

  The particular commodity, with whose bodily form the equivalent form is thus socially identified, now becomes the money commodity, or serves as money.
It becomes the special social function of that commodity, and consequently its social monopoly, to play within the world of commodities the part of the universal equivalent.
 グーグル訳
 身体的に同等の形態が社会的に特定されている特定の商品は、今や貨幣商品となり、またはマネーとして役立
 つ。それは、その商品の特別な社会的機能、ひいてはその社会的独占であり、商品の世界の中で共通の部分を果た
 すことになる。

Amongst the commodities which, in form B, figure as particular equivalents of the linen, and, in form C, express in common their relative values in linen, this foremost place has been attained by one in particular ? namely, gold.
If, then, in form C we replace the linen by gold, we get,
 グーグル訳
 形態Bでは、リネンの特定の等価物として、そして形態Cでは、リネンにおける相対価値を共通に表す商品の中
 で、この最も重要な場所は特に1つによって達成されている。 すなわち、金である。
 フォームCでリネンを金で置き換えれば、

  D. 貨幣-形態
     The Money-Form
 20 ヤードの亜麻布        =
 1   着の上着         =
 10 重量ポンドの茶         =
 40 重量ポンドのコーヒー    =
 1   クォーターの穀物      =
 2   オンスの金        =
 ?   トンの鉄         =
 x   量の商品 A         = 2 オンスの金
 (D-1段)
  [価値の要素 ]形態 Aから[価値の全体]形態 B への推移において、そして後者の[全体]形態B から[価値
 の一般]形態 C への推移において、これらの変化は根本的である。
 他方で、 C[価値の一般形態]と D[価値の貨幣形態]との間には、後者 [価値の貨幣形態]においては、金は
 亜麻布に代わって同等物[等価物]形態を装ったことがあるということを除いてまったく違いがない。
 金は形態 D にあり、亜麻布が形態 C にあったもの ー 例の一般同等物[等価物]形態にある。
 この進歩はただ次のことだけにある、つまり直接的かつ一般的交換可能性の性格、- ほかの言葉で言えば、一般
 同等[等価]物形態 - は今や、社会的慣習によって、最終的に見極められた物質、金となる。
  In passing from form A to form B, and from the latter to form C, the changes are fundamental.
On the other hand, there is no difference between forms Cand D, except that, in the latter, gold has assumed the equivalent form in the place of linen.
Gold is in form D, what linen was in form C ? the universal equivalent.
The progress consists in this alone, that the character of direct and universal exchangeability ? in other words, that the universal equivalent form ? has now, by social custom, become finally identified with the substance, gold.
 (D-2段)
   金は今やすべての他の諸商品に関連して貨幣である、ただそれが前もって、それらすべての他の商品と関連して
 いただけの理由で貨幣である、一つの単純な商品である。
  Gold is now money with reference to all other commodities only because it was previously, with reference to them, a simple commodity.
Like all other commodities, it was also capable of serving as an equivalent, either as simple equivalent in isolated exchanges, or as particular equivalent by the side of others.
Gradually it began to serve, within varying limits, as universal equivalent.
So soon as it monopolises this position in the expression of value for the world of commodities, it becomes the money commodity, and then, and not till then, does form D become distinct from form C, and the general form of value become changed into the money form.
 (D-3段)
   一つの単一商品の相対価値の要素的表現、たとえば亜麻布の、商品の言葉で、金のような、貨幣の役割を努め
 るものは、その商品の貨幣表現である。その亜麻布の貨幣表現はしたがって
 20ヤードの亜麻布 = 2オンスの金 、すなわち、もし2オンスの金が 鋳造されたとき £2ポンド であるならば、
 20ヤードの亜麻布 =  £2ポンド である。
  The elementary expression of the relative value of a single commodity, such as linen, in terms of the commodity, such as gold, that plays the part of money, is the price form of that commodity.
The price form of the linen is therefore
20 yards of linen = 2 ounces of gold, or,
if 2 ounces of gold when coined are £2,
20 yards of linen = £2.
 (D-4段)
 [*4-1]貨幣形態のある概念を形成する難しさは、はっきりと一般同等形態[一般等価形態]を理解すること
     にある、
 [*4-2]そして一つの必然的な結果として、価値の一般形態、形態 C として[理解することにある]。
  後者[価値の一般形態]は形態 B 、価値の展開形態、本質的な構成要素であって、それについてわれわれは、
  形態 A 、
  20ヤードの亜麻布 = 1着の上着
 すなわち
        x量の商品 A  = y量の商品 B
 から演繹的に推論できる。
 この単純な商品形態はしたがって貨幣形態の幼芽である。
  The difficulty in forming a concept of the money form, consists in clearly
comprehending the universal equivalent form, and as a necessary corollary, the
general form of value, form C.
The latter is deducible from form B, the expanded form of value, the essential component element of which, we saw, is formA, 20 yards of linen = 1 coat or x commodity A = y commodity B.
The simple commodity form is therefore the germ of the money form.

http://

 

 非武装中立を現実化するために、私達自身の努力が必要

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月22日(日)09時06分47秒
返信・引用 編集済
  次のは、まっぺんさんの私達の主体的行動あってこそ、
平和も、労働者の権利も守られ、拡大していくことが
控えめに書かれた、素晴らしい主張です。
紹介させて頂きます。

http://6305.teacup.com/mappen/bbs
Re: 憲法9条  投稿者:まっぺん
投稿日:2017年 9月23日(土)14時04分17秒

初心者さんへのお返事です。

> これはどう読んでも非武装だと思うのですが、現実的でしょうか?
> 9条の理念は理解しつつ、自衛のための軍隊は必要だと考えますが、
> 皆さんの意見はどうでしょうか?

●非武装中立は「現実的」か

 初心者さんへ。投稿ありがとうございます。\(^o^)まっぺんです。
「非武装が現実的かどうか」は一般論で語ることはできません。
その時々の情勢の中で決まってくるでしょう。もしも世界の国々が平和を求め、友好
関係を拡げて行こうとすれば、武装の必要性は低くなっていくでしょう。ということ
は、逆に言えば、「武装したい」と思う人が権力を握り、周囲に「争いのタネ」を撒
いて「危機」を煽れば「武装の方が現実的」と見えてきます。

つまり、「憲法九条が現実的かどうか」は我々が「現実的にするための努力をしてゆ
くこと」が必要なのであって、「そこに動かしがたい現実がすでに存在している」の
ではありません。

●現実性を造り出すのは我々

 非武装中立を現実化するために、あなた自身が努力することが必要です。
その努力もせずに、戦争国家主義者のプロパガンダにまんまと乗せられて
「武装する方が現実的だ」思い込むのは、

結局、あなた自身が「権利」として与えられている「民主主義」を本当に有効に活用
していないという事なのではないでしょうか?

民主主義とは、自らの力で明日の世界を切りひらいてゆくために必要なものです。
何も考えずに政府のいいなりになっていては、この国を、ということはあなた自身の
生き方をよりよいものに出来ないのではないでしょうか?

●実は日米韓が挑発している

 今、「自衛武装の方が現実的」と見えるのはなぜでしょうか?
 まさに今説明したように「憲法九条を投げ捨てて日本を武装化したい」
と思う極右な人物が首相となり、
その政権の下で、日米共同で朝鮮に対して挑発を仕掛けているからに他なりません。

恐らくあなたには「北朝鮮の危険性」しか見えていないことでしょう。

 しかし、朝鮮がこのようにミサイル実験や核実験を繰り返しているのには理由があ
ります。

   その理由を朝鮮の側はちゃんと説明していますが、
   日本ではほとんど報道されていません。

その理由とは、日米、日韓の非常に大規模な共同軍事演習が朝鮮半島近海で非常に頻
繁に行われているからです。

●米空母打撃群の攻撃力

アメリカは、かつてイラク、イランと共に「悪の三大枢軸国」と非難し、はっきりと
「敵」と認識している国のすぐ目の前で大軍事演習を長期に繰り返してきたのです。

そこには米空母カールビンソン、同じく空母ロナルドレーガンのそれぞれの
「空母打撃群」が投入されました。

「空母打撃群」とは、空母1隻を中心に、そこに付属する数十機の航空団(戦闘機、
爆撃機、ヘリコプターなど)やミサイル巡洋艦、駆逐艦、護衛艦、潜水艦などの艦隊
を伴う数十隻の大部隊のことで、陸軍でいえば1個師団にあたるものです。

それが2個師団分も投入されたということは、小国に対して侵略・攻撃に充分な態勢
で朝鮮の目の前に集結したことになります。

もしもサンフランシスコ沖とか東京湾の外側で旧ソ連や中国の空母打撃群の部隊が戦
闘訓練などをやったらどうなるでしょう。それを考えてみて下さい。

●戦争になれば大きな犠牲が出る

 日本では「北朝鮮の脅威」ばかりを喧伝していますが、朝鮮の側から見れば、彼ら
こそ「日米韓の脅威」に本心では震え上がっているのです。

これら3カ国の軍事力を合わせてみて下さい。

朝鮮などひとたまりもありません。
経済力においても、数百分の1以下です。
朝鮮の経済力は日本の島根県の経済力程度と見積もられています。
もしも本当に戦争となったら、朝鮮の戦闘力は「始めの一撃」分しかなく、そのあと
の戦闘を継続できる力などありません。

それでもその「第一撃」において150~200万人の犠牲者が出るだろうとアメリ
カでは予想しています。もちろんその大部分は朝鮮国民でしょう。その他に韓国にも
大きな犠牲が出るでしょう。

●無責任な日米の戦争挑発

犠牲はほとんど朝鮮と韓国だけで、日本もアメリカも犠牲は出ない。
朝鮮半島からみれば何と無責任な戦争挑発でしょうか。

朝鮮も韓国もその事は分かっています。

だからこそ、大統領を投票で選べる民主主義を持つ韓国では戦争挑発を行なってきた
パククネ大統領を若者が中心となって100万人デモの連続によって退陣させ、平和
を求めてムンジェイン候補を当選させたのです。

一方、独裁国の朝鮮ではそのような事はできず、ミサイルや核実験によって精一杯の
戦力誇示をして見せているのです。

朝鮮にこのような無謀な軍事行動を採らせているのは、実は日米首脳なのである事実
に気づくべきでしょう。安倍に騙されてはならないと思います。
 

  山崎博昭君虐殺から50年  かけはし から転載

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月19日(木)10時13分22秒
返信・引用
      http://www.jrcl.net/frame171023c.html
   かけはし2017.年10月23日号

   ベトナム反戦運動とその時代

    寄稿
   山崎博昭君虐殺から50年(上)

   訪問団に参加して考えたこと
   歴史の中から検証する民衆連帯と交流の記憶

   一九六〇年代後半から七〇年代にかけた全共闘運動や反戦青年委員会の運動が大きな注目
  を浴びる転換点は一九六七年一〇月八日の佐藤首相の南ベトナム訪問に反対して闘われた闘
  いであった。この日、機動隊の弾圧で京大一回生の山崎博昭さんが虐殺された。ベトナム反
  戦運動の一時代を画した闘いから五〇年、ベトナム訪問団に参加した礒崎さんに寄稿してい
  ただいた。(編集部)

   あの時代を捉えかえす

   一九六七年一〇月八日に佐藤首相が南ベトナム政府を訪問し、北ベトナムへの侵略戦争へ
  の支持を世界に向け明らかにするために羽田空港から出発することが明らかにされた。
  当時の三派全学連の学生と反戦青年委員会の労働者はこれを実力で阻止するために羽田空港
  に向かった。
  一方警察機動隊は、空港周辺でのデモを禁じるとともに空港につながる橋で阻止戦を張り、
  デモ隊を弾圧した。そこで京大生山崎博昭君が虐殺された。山崎君の死は全国の青年労働
  者、学生に衝撃を与え、ベトナム反戦運動が全国化するきっかけとなった。
  私も衝撃を受けた一人だった。仙台で、わずかに残っていた仲間とともに、その知らせを聞
  き、翌日山崎君虐殺抗議集会を開いた。この時から一連のベトナム反戦運動に参加し、その
  後の社会運動に参加し続けるきっかけになったのである。

   今年一〇月八日で山崎君の死から五〇年。
  これを前にして山崎君の高校時代の友人、山崎君のお兄さん、10・8羽田闘争救援会、そし
  て元東大全共闘議長の山本義隆さんらが、山崎博昭プロジェクトを立ち上げ、虐殺された場
  所近くに、山崎君の虐殺の意味を伝えるモニュメントを建設したり、ベトナム反戦運動から
  広がった社会運動の意味を考える講演会を開くなどの活動を始めた。
  さらにベトナムホーチミン市にあるベトナム戦争証跡館で日本のベトナム反戦運動とその運
  動が全国化していくきっかけとなった山崎博昭君の死を歴史に残す展示会を開こうというプ
  ロジェクトもスタートした。

   そして今年「日本のベトナム反戦運動とその時代」特別展示会がホーチミン戦争証跡博物
  館で八月二〇日から一〇月二〇日までの二カ月間開かれることになった。
  展示会の初日に開かれたオープニングセレモニーに間に合うように八月一九日日本を出発す
  る特別ツアーが組まれ私もその一員として参加した。

   ホーチミン市でセレモニー


   八月二〇日にホーチミン市ベトナム戦争証跡博物館で行われたセレモニーには五〇人を超
  える日本側からのツアー参加者、日本ベトナム間の友好関係を築いて来た人々、ベトナム側
  から参加した人々などで会場はいっぱいだった。
   日本側から元東大全共闘議長の山本義隆さんが10・8山崎プロジェクトを代表してあいさ
  つした。

   山本さんは、まず「日本とベトナムの人々との間の友好親善のためにこの画期的な展示会
  を組織していただいたベトナム証跡博物館に感謝を述べたい」と話し

  「一九六七年一〇月八日、佐藤首相の南ベトナム政府訪問を全学連が実力で阻止しようとし
  たことに対して機動隊の弾圧が加えられ、この中で京大生の山崎博昭君が虐殺された。この
  ことが日本におけるベトナム反戦運動が全国化するきっかけになった」と述べ

  「ベトナム反戦運動は日本各地に広がり、
  アメリカ原子力空母佐世保入港阻止闘争、
  砂川アメリカ空軍基地拡張阻止闘争、
  王子野戦病院開設阻止闘争、
  米軍ジェット燃料輸送阻止闘争
  北ベトナムへ爆撃に向かう沖縄米軍基地での基地労働者の戦いなどへと拡大していった。
  これはさらに三里塚の農民の戦い、
  自衛隊の中での反軍闘争などにも広がった。
  この展示会では、写真やポスター、リーフレット、米軍基地で秘密に配布された地下新聞な
  どで日本の反戦運動の歴史を示すことを意図した」

  と一〇〇点を超える展示物について説明した。
  このセレモニーについてベトナム現地では翌日一〇紙を超える新聞が報道した。

   ベトナム独立の闘いと日本

   私は一八歳から二〇歳を超え、自分自身が走り抜けた一連の街頭実力闘争がどのように記
  録されて展示されるのかも知りたいし、ベトナム戦争がベトナムの人たちに何を残している
  のかも知りたくてこのツアーに参加を決めた。

   このツアーの中で、観て聴いて心に残ったことのいくつかを紹介しておきたい。
  それはまず、ベトナムの文化と歴史の一端に触れることができたことである。隣国韓国につ
  いてはここ一五年間、韓国語も学び、直接韓国旅行をして韓国の文化や政治に触れてきた。
  しかし、ベトナムが、フランスとアメリカという帝国主義との戦争に勝利し、一度は失った
  民族の独立をどのように取り戻したのか。その苦闘の歴史については、まったく知らないま
  まだった。これについて多くのことに気づくことができた。

   それは、ベトナム戦争終結後、二〇年以上にわたってベトナムで生活し、今は日本に戻っ
  ていた友人が、ツアーで一緒のグループになり、旅行途中でベトナム民族独立運動の歴史に
  ついて語ってくれたおかげである。

   彼はフランスの植民地となったベトナムがどのように再び民族の独立を果たすことができ
  たか。その民族独立運動にたいして、日本がどのように直接的な影響を及ぼしてきたことな
  どを話してくれた。その話の一部を紹介したい。

   フランスからの独立運動を戦うベトナムの人達にとって、当初はいち早く近代化を果た
  し、欧米列強から独立を維持した日本は自分たちが進める独立運動の手本のように見えた。

  ベトナムの各地でフランスの支配に蜂起する人々の戦いが個別に鎮圧されるのを見て,民族
  独立運動家ファン・ボイチャウは中国を経由して日本にわたり独立運動への支援をもとめよ
  うとする。

  一九〇四年日露戦争に勝利した当時の日本にはアジア各地から民族独立運動家が集まってい
  た。イギリスと戦うインドの運動家、中国を分割支配し、植民地化することを狙う日本を含
  めた帝国主義と戦う中国の運動家、これらの運動家と交流する中で、
  当初ファン・ボイチャウは、日本に直接的な軍事支援を求めるが、
  犬養毅に国家の基礎は人材の育成だと諭され、ベトナムの青年たちの日本への留学運動を組
  織する。

  東遊(ドンズー)運動と呼ばれ、一時は二〇〇人を超える青年が日本で学んでいた。
  しかし、彼らの独立の手本と思えた日本は、すでに欧米帝国主義に遅れまいとアジアへの植
  民地獲得競争への参加者となって成立していく。

  一九〇七年には日本とフランスが協定してフランスは日本の朝鮮での権益を、日本はフラン
  スのインドシナ支配をそれぞれ認めた。

  これにより、フアン・ボイチャウをはじめとするベトナムの民族独立運動家は
  日本から追放されることになった。

  その後、中国で辛亥革命がおこり、それに影響され、ベトナム国民党が作られたり、
  一九一七年のロシア革命・ソビエトの成立で社会主義思想も広まり、
  一九三〇年にはフランス共産党の創設にも参加したホーチミンがベトナム共産党を結成し、
  革命運動として民族独立運動を継続することになる。 (つづく)



 

 朝鮮民主主義人民共和国のミサイル発射ーーの意図は何処か?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月17日(火)11時08分18秒
返信・引用 編集済
    素晴らしい評論です。紹介します。次の一文がすべてを表しています。
「北朝鮮のゲ・チュンヨン駐インド大使は米韓が合同軍事演習を『一時的あるいは永続的に停止すれば我々も(核とミサイルの実験を)一時的に中断する』と述べた」


http://mediawatchdog.hatenadiary.jp/entry/2017/09/11/095828

Bark at Illusions Blog ── Media Watchdog Group
2017-09-11
  北朝鮮の核・ミサイル問題:対話による解決を求めるロシア
  に対するマスメディアのネガティブ・キャンペーン

 核実験を強行した北朝鮮に対して日本や合衆国などが石油の禁輸や、北朝鮮に関係する船舶の臨検(船舶を公海上で強制的に停止させて検査すること)を含む新たな制裁を目指す一方で、ロシアや中国は制裁よりも対話を重視ている。

とりわけロシアは、制裁は軍事的緊張を高めるだけで無益で効果がないとして新たな制裁には強く反対しているが、そのロシアの動機について、マスメディアは疑いをかけている。

 例えば、報道ステーション(17/9/6)はロシアの「プーチン大統領の思惑が透けて見える場所」があると言ってウラジミール・プーチン大統領がロシアの「極東地域」に建設した「巨大カジノリゾート」を紹介し、「プーチン政権の優先課題は極東地域の経済発展です。その課題を達成するには隣接する中国、北朝鮮、日本の協力が不可欠です」と述べた後、「北朝鮮から派遣された労働者がカムチャツカ半島南部に建設したプール施設」を紹介して、「安い賃金で働く北朝鮮労働者はロシアにとって貴重な存在」、「北朝鮮を追い詰め過ぎればロシアの極東開発にも悪影響が出る可能性があるのです」などと、「ロシアと北朝鮮の結びつき」が「深まって」いることを強調している。

 テレビ朝日モスクワ支局長の長谷川由宇によれば、
「今現在、北朝鮮と最も太いパイプを築いているのはロシアなんです。
ロシアとしてはこの立場をてこに、周辺国から何らかの譲歩を引き出したり、経済的な支援を得たりして極東地域を思い通りに発展させたいという思惑があります」

ーーーー略ーーー

 NHKニュース7(17/9/6)によれば、ロシアは制裁強化を目指す日本や合衆国に協力して「安保理常任理事国として責任ある対応」を取らなければならないらしい。

 しかし、北朝鮮の石油を禁輸することは、北朝鮮の暴発を招くのではないかとの懸念がある。歴史を振り返れば、太平洋戦争も最終的には石油の禁輸が日本政府に開戦を決断させた。臨検については、「軍艦が北朝鮮船の臨検を試みた際、衝突が起きる可能性を指摘する声もある」(朝日17/9/8)。仮に北朝鮮が暴発して戦争に発展すれば、「この60~70年間で見たこともない犠牲者が出るだろう」と米軍のジョセフ・ダンフォード統合参謀本部議長は予測している(NHKニュースウォッチ9、17/6/13)。

 トランプ政権の首席戦略官を解任されたスティーブン・バノン氏は

「『(軍事作戦開始後)最初の30分間で1000万人のソウル市民が通常兵器による攻撃で犠牲にならない』と証明されない限り、軍事的手段は排除すべきとの考えを示し」、北朝鮮問題の「軍事的な解決」を否定していた(ロイター17/8/17)。

 対北朝鮮軍事演習のシナリオ策定に携わった米軍のチェタン・ペダッダ元陸軍大尉は、

北朝鮮政府は「国際社会の制裁で危機に陥り、体制の維持が困難になったと判断した場合、『韓国への奇襲攻撃』で活路を見いだそうとする」と想定して、

北朝鮮が通常兵器のみを用いた場合でも「死者は数十万人に達することが確実視される……日本や米西海岸に核弾頭搭載の弾道ミサイルを撃ち込んだ場合、被害は桁違いに増大する」との警告をアメリカ外交政策研究季刊誌・フォーリン・ポリシーに寄稿している(産経17/9/10)。

 さらに対話や交渉による外交的手段について言うと、日本政府は「今は対話の時ではない」とか「北朝鮮に対話の意思がないことが明確になった」などと言うけれど、対話を拒否してきたのは、むしろ合衆国の方だ。

 例えば、昨年4月、

「北朝鮮の李洙ヨン(リスヨン)外相は……米国が朝鮮半島周辺で行っている米韓合同軍事演習を中止すれば、北朝鮮も新たな核実験を中止する用意があると提案。オバマ氏はこれに対し、『北朝鮮が(核)実験を停止すると決断するまでは、こうした約束は真剣に受け止めない』と一蹴した」(朝日16/4/25夕刊)

 また北朝鮮は昨年7月にも、現在は休戦協定のままの朝鮮戦争を終結して合衆国と平和協定を締結することや、朝鮮半島の非核化に向けた協議の提案[i]を行っているが、合衆国政府は人権侵害を理由にキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長らを対象とした北朝鮮への経済制裁でこれに応えた。

 今年6月には、

「北朝鮮のゲ・チュンヨン駐インド大使は米韓が合同軍事演習を『一時的あるいは永続的に停止すれば我々も(核とミサイルの実験を)一時的に中断する』と述べた」(日経17/6/23)

 8月には、

グアム島周辺へミサイルを発射すると威嚇していたキム・ジョンウンが「合衆国の行動をもう少し見守る」と述べて、予定されていた米韓合同軍事演習を見越して合衆国政府を牽制する中、合衆国政府は、北朝鮮の核ミサイル開発凍結と引き換えに合衆国と韓国が大規模な合同軍事演習を停止して交渉を再開するよう求めるロシアと中国の呼びかけにもかかわらず、北朝鮮が再三中止を求めていた合同軍事演習を強行した。軍事演習はキム・ジョンウンら北朝鮮政府首脳の「斬首作戦」を含む「作戦計画5015」を土台に行われている。

 こうした経緯を見ると、合衆国政府が本当に北朝鮮の核・ミサイル開発を止めようという意思があるのか疑いたくなる。

 その一方で、北朝鮮の意図は明白だ。
これまで北朝鮮は合衆国と平和条約を締結することを一貫して求めている。
また、合衆国が韓国との合同軍事演習を中止すれば核実験やミサイル実験を中断すると述べ、さらに平和条約を締結して合衆国による核の脅威がなくなれば非核化に応じる姿勢まで示している。

 つまり、合衆国政府が北朝鮮に対する敵視政策を見直し、少なくとも朝鮮半島周辺における韓国との合同軍事演習を中止して交渉を再開すれば、北朝鮮の核・ミサイル問題の解決、さらには朝鮮半島の非核化も実現可能かもしれない。

 果たして、北朝鮮の暴発を招きかねない石油禁輸などの制裁を加えることが、「安保理常任理事国として責任ある対応」と言えるだろうか。

 確かにロシアや中国は、朝鮮半島で合衆国の影響力が高まることを望んでいない。報道ステーションや日本経済新聞などが指摘する通り、ロシアには他にも何か動機があるかもしれない。
 しかし、ロシアや中国の動機がどうであれ、朝鮮半島と東アジアの平和を考える時、「北朝鮮の核ミサイル開発凍結と引き換えに合衆国と韓国が大規模な合同軍事演習を停止して交渉を再開する」というロシアや中国の提案の方が、日本や合衆国のそれよりはるかに理にかなっているのではないだろうか。


[i] 北朝鮮政府は2016年7月6日の声明で、

「朝鮮戦争『休戦協定』を終結し『平和協定』を締結することを再度提案するとともに、『非核化協議』に前向きに応じるための次の5つの条件を提示した:

①朝鮮半島のすべての核兵器の存在を公表すること、
②韓国にあるすべての核兵器及び核基地を検証可能な形で撤去すること、
③朝鮮半島及びその近傍に核兵器を配備しないこと、
④いかなる場合もDPRK[北朝鮮]に核兵器による威嚇を行わないこと、
⑤核兵器を使用する権限のある部隊すべての韓国からの撤退を宣言すること」(『核兵器・核実験モニター』ピースデポ16/8/1)。

この声明は、決して非合理的で実現不可能な提案ではない。なぜなら「『声明』の5項目のうち、⑤を除く4項目は、1992年の『朝鮮半島非核化のための南北共同宣言』、『第4回6か国協議』[2005年]における『9.19共同声明』などですでに合意されている」(同)。


 

講演】東アジアの平和を!

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月15日(日)21時17分41秒
返信・引用 編集済
  講演】東アジアの平和を!
    機関紙コモンズ NO110 からの転載です。

http://com21.jp/archives/20695
2017/9/15

   講演】東アジアの平和を!韓国・文在寅政権の誕生を受けて

    李泳采(イ・ヨンチェ)(恵泉女子学院大学教授)

   いま韓国では何が起きているのか

 朴槿恵(パックネ)大統領はなぜ弾劾されたんだろうか。彼女の友人の崔順実(チェ・スンシル)さんの存在が明らかにしたのは、政治・経済癒着ということでした。30年前の軍事政権時代には当たり前のように横行していたことですが、民主化された今、起きていることに人々はショックを受けたわけです。しかもメディアはほとんど報道していませんでした。
 (略)

 大統領が辞めないと言ったその時、ソウルで100万人、全国で200万人以上がデモに集まりました。午後7時、参加者が一斉にキャンドルの灯を消しました。人々は、大統領府に向かって一斉に「闇は光りを消すことはできない」と叫びました。何度もウエーブを繰り返しながら「朴槿恵退陣せよ」と叫ぶ人々の声が山を背景にした大統領府に木霊(こだま)になって響き、大統領に恐怖心を与えたと思います。このデモは毎週土曜日に行われ、全部で18回、1700万人が参加しました。このデモが政治を動かしました。

   直接民主主義と間接民主主義の両輪が政治を動かす

朴槿恵(パックネ)
 なぜ弾劾されたのか。憲法裁判の論理は第一に、朴槿恵大統領は検察の特別調査に一度も応じることがなかった。つまり憲法を守ろうとする意志がない事です。
 第二に、これから未来に向けて憲法を守ろうとする意志がない者は立憲主義に基づき権力の座から降ろすべきだというのが、憲法裁判の判決です。最高権力者は憲法の上に立ってはいけない。憲法を守らない人は降ろすべきである。これが憲法裁判が示した大きな成果です。

これを全国民が共有し、韓国社会では二度と憲法の上に立つ指導者を造らないということが、今の権力者だけではなく、今後登場する権力者たちに対しても大きな警告となった。韓国社会ではかつて火炎瓶や鉄パイプで、「民主主義は暴力でやれるものだ」と思ってきました。だから議会主義を信じて来なかった。しかし今回は人々が議会主義を最後まで信じました。民主主義は、民衆が権力者を降ろす直接民主主義と議会による間接民主主義が両輪で回してゆくものだということを人々は感じるようになりました。

青年世代に支えられる文在寅体制

 こうして大統領選挙で文在寅(ムン・ジェイン)が41.1%の支持率で当選しました。その中身をみると、20代が47%で30代が56%。ほとんど20代と30代の支持が文在寅政権を作ったことになります。

 いま彼らは軍隊にいます。戦争が起こると最初に犠牲者になるのは彼ら自身です。戦争が起こったら、日本は海を隔てていますが、朝鮮半島は戦場になります。危機の時だからこそ、韓国では北朝鮮に対して戦争ではなく平和を望むということなのです。韓国の20代・30代が新しい時代を拓いた。これは大きな選択だったと思います。
  (略)
  今回の大統領選挙で当選した文在寅さんを、日本では「反日」「親北朝鮮」の2つのフレームで見てしまいますが、彼は韓国軍の中でも一番反共で強く、戦争になったら最初に投入される韓国特殊部隊の出身で、誰よりも北朝鮮を憎んでいた人でもあります。彼のお父さんは朝鮮戦争の時、中朝国境地域から釜山まで来ました。彼はそこで離散家族として生まれました。生活が根こそぎ壊れ、お父さんがお酒を飲みながら死んで行くのを見ていました。朝鮮戦争の悲惨さ、南北分断の矛盾をいちばん身体で感じている人です。

  キャンドルの灯火は30年の民主化の闘いが咲かせた花だ

  (略)
 光州の虐殺事件について、これまで「北朝鮮による内乱だ」とか、いろんな不名誉な扱いをされたわけですが、文在寅大統領は犠牲者の名誉を回復し慰めました。私も小学校3年生の時に光州に住んでいて虐殺を目の当たりにしました。韓国で就職しなかったのはそういう(光州出身者に対する)差別があったからです。韓国でこういう時代が来るとは思っていませんでした。

 私が日本に来て驚いたのは、光州については光州の人々のたたかいだけだと思っていたのですが、日本の市民のみなさんの連帯運動によって光州が世界に知られるようになったことでした。そしてその圧力によって弾圧が止まったことを何回も確認しています。今日、みなさんにお礼を言いたくてこの集会に参加しました。

 (略)
これからの30年間に向けて、韓国は第二の民主化運動の起点に立った。これからは政治民主化だけでなく財閥解体が課題となっています。サムスンを改革できるのかできないのか。できなければこの革命は失敗です。政治経済の両方を変えて新しい社会へ向かいたい。

   南北交流再開と経済共同体化をめざし東アジアの平和建設へ

 しかしもうひとつ、韓国には「分断」の矛盾があります。文在寅大統領時代にどうやって北朝鮮の核ミサイル問題を解決し、南北首脳会談によってもう一度南北和解を成し遂げるのか。これにかける時だと思います。大統領選挙キャンペーンの時の公約があります。

  「機会は平等に、過程は全て公正に、結果は正義になる社会を創る」
  「韓国を、常識や正義が認められる国にする」
  「国家は正直さを回復する」

 朴槿恵前大統領は国民に何も言わないでサードミサイルシステム(北朝鮮に対抗する米軍のシステム)配置を決めました。日韓慰安婦問題も当事者に一言も言わないで政府間合意をしてしまいました。これに関して撤回するか、白紙に戻すか-日本ではそれしか興味がないようですが-問題は民主主義社会なので、最低限国民を説得する義務があるということなんです。
(略)

 そして南北関係については、北朝鮮と韓国は何があっても経済統合し、東アジアの新しい経済領域を作りたいと考えています。これをどういう風に具体化してゆくのかをいくつか見ていきます。

 2000年6月、金大中(キム・デジュン)大統領時代、そして2007年10月、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領時代に南北会談が行われました。経済交流が行われ、開城(ケソン)工業団地が拓かれ、鉄道がつながって、私たちはこの時代、統一が進むと思いました。しかしこれは挫折させられてしまいました。

 金大中さんの太陽政策は、和解を進め、交流することが目的だったのですが、盧武鉉さんの発想は違うところがありました。
 第2回目の南北首脳会談では経済を統合する案が検討されました。盧武鉉さんは38度線近くの開城地区だけでなく、いつも紛争地域となってきた地域を経済共同体にする、そして開城公団みたいなものをいくつも作る。南北の経済をリンクさせれば、政権が変わって戦争になっても南北は交流できる。例え保守政権になっても変わらないように、首脳会談を制度化してしまおうとしていたのですが、政権が交代して挫折させられてしまっている状態にあります。

   天安艦事件と辺野古問題――韓国と沖縄はつながっている

 文在寅さんは挫折した盧武鉉さんの夢を再建して、何があってもこの夢を制度化したい。
 2010年3月26日、韓国の哨戒艇天安(チョナン)艦沈没事件が起こり、46名の若者が死にました。そのあと11月には延坪(ヨンピョン)島砲撃事件が起こり、まさに朝鮮半島は戦争寸前状態にまで陥りました。

 天安艦大事件の真相はいまだに不明なところもありますが、韓国ではこれは「北朝鮮の謀略だ」と言われます。

 この事件は実は日本と沖縄に非常に密接な関係があります。
2010年3月、日本では政権交代で民主党鳩山内閣が誕生し、「普天間基地の県外移設に向けてがんばります」と事件の2日前まで言っていました。

しかし事件が起こり、5月に

「これは北朝鮮のしわざ」ということになると、
首相は県外移設案の撤回を仲井真県知事に伝えました。

これは日本の外務省の妨害もあったかも知れませんが、朝鮮半島の有事事態が沖縄の問題を決定したわけです。

 この事件がなんでこのタイミングで起こったのか。
本当に「北朝鮮のしわざ」なのか。

私は鳩山さんとラジオ番組で討論したことがあり、この件に関して聞きました。

本当に北朝鮮の問題でやめたのか。沖縄の問題は朝鮮半島の問題とリンクされています。沖縄に海兵隊が駐留したこと、日米安全保障条約が結ばれたことも全部、朝鮮戦争が起きてからのことです。

結局鳩山政権も、そのあとの菅政権も「北朝鮮制裁論」に加担しました。

翌月(2010年6月)の韓国の選挙でもし与党が圧勝していたら、北朝鮮への先制攻撃になっていましたが、国民がそれを防ぎ、与党を惨敗させたので、戦争シナリオは止められました。

 このように朝鮮半島と沖縄問題はリンクされているということを私たちは忘れてはいけないし、お互いの交流を回復させるべきです。

そうでないと、戦争が起きたら双方が何もできないまま戦争に進んで行かざるを得ない。そんなことがいつでも起こりうることを私たちは警戒しなければなりません。


  日本の植民地支配がもたらした沖縄と済州島の運命

    済州島4・3虐殺事件 虐殺された済州島の人々

 なぜ沖縄と朝鮮半島がリンクされているのか。これはアメリカの戦後体制の影響によるものです。1945年8月、日本の植民地支配が終わったあと、アメリカとソ連が朝鮮半島に入りました。日本は政権が認められ間接統治になりましたが、アメリカの直接統治になったのは2カ所だけ、朝鮮半島と沖縄です。

 沖縄と朝鮮半島はアメリカの東アジア戦略にこの時期から組み込まれ、これが完成したのは朝鮮戦争が勃発し、米韓相互防衛条約、日米安全保障条約が同時に成立した時です。その結果、日本は戦後賠償もなく経済協力によって復興を遂げました。このあと、非武装地帯、朝鮮半島、沖縄に海兵隊を駐留させることで、沖縄は東アジアの「キーストーン」に変わっていくことになります。

 ベトナム戦争時には、韓国は戦場に行く国、日本は後方基地となる国。まさに日本と朝鮮半島はセットであり、アメリカから見れば東南アジア、東アジア含めてひとつの地図として見るだけなのです。私たちは沖縄の問題、日本の問題、韓国の問題を区別してみますが、米軍は同時に戦わないといけないと考えています。鳩山政権が倒れる前に、盧武鉉政権が潰れました。もしも鳩山政権と盧武鉉政権が同時期に登場していたら、東アジア情勢は変わっていたと思います。

 今、韓国は文在寅大統領を中心にしてもう一度、新しい時代をつくろうとしています。ここで日本で安倍政権が持続してゆくと、私たちは二度と無いチャンスを逃すことになります。

日本で安倍政権を交代させ、文在寅政権と日本の新政権がいっしょに、市民の圧力を背景にして米軍を追い出すことが、最後に東アジアの戦争を防ぐチャンスではないでしょうか。

 沖縄問題と朝鮮半島の問題をもっと遡ると、日本の植民地時代末期、沖縄は本土上陸を防ぐための戦場になりました。

日本ではあまり知られていませんが、日本軍が海外で本土作戦に備えて基地化したのは済州島(チェジュド)です。韓国駐留の全日本軍が済州島に集結し、済州島と沖縄をもって本土を防衛するため、多くの人々が動員されました。

  犠牲の死を問う

 済州島はなんとか上陸戦にはならなかったんですが、そのあとに米軍が入ってきます。米軍を見た済州島の住民は「これは帝国主義の延長だ」と思って抵抗したために4・3虐殺事件にいたりました。
(杉本追加ーー1948・4・3~1949年5月
  https://ja.wikipedia.org/wiki/済州島四・三事件 )
台湾でも1947年に2・28虐殺事件が起こりますが、共通点は日本の植民地政策が影響したということです。
(杉本追加  https://ja.m.wikipedia.org/wiki/二・二八事件 )
 植民地時代から日本と沖縄、済州島はそういう形でリンクされ、戦後も2つの地域が軍事化されていく状況が続いています。

私たちは辺境の地済州島と沖縄に基地を置き、海岸地域にエネルギー施設を置いて、東京とソウルの利益を守るために犠牲の構図を作ってきました。

私はその辺の事情を『犠牲の死を問う』(梨の木舎 (2013/08)という本にしました。

   歴代大統領の腐敗の連鎖の後に登場した新しい「革命の世代」

 韓国キャンドル革命 韓国では、87年6月の民主化運動を「未完の革命」と位置付け、いま、民主化のための新しい革命の課題を打ち出しています。これらの闘いの下敷きとなっているのは労働運動・平和運動です。

 2008年、アメリカとの牛肉輸入問題で100万人キャンドルデモが起きたことがあります。この時には最初は市民たちが旗を立てていました。しかしこの市民たちの運動では「ぬるい」と思って労働団体、運動団体が運動の前面に立ってスローガンを訴えたところが、政府権力によって暴力的に潰されてしまい、「韓国民主主義は死んだ」と言われるような事態となりました。

 今回あらためて「パンドラの箱」が開かれ、キャンドルデモが起きました。労働運動・平和運動は前面に立って闘いたい気持はいっぱいありましたが2度と失敗したくない。そこで民主労組などの労働団体は百万人デモ成功のため背後に退き、ひとりも前面には出ませんでした。そこには、このチャンスを生かしたいという民衆側の、涙無しには語れない傷みがありました。

 文在寅政権は「保守政権」といっても過言では無いほどの保守性があります。

だから逆に、私たちは当選させた。運動側のイニシアティブをどこまでとるのか。

これまではカリスマ性の無い人は大統領になれない時代でした。
文在寅さんはカリスマ性がありません。韓国では「英雄の時代」は終わったわけです

しかし実は新しい「英雄」が登場しています。それは若い世代が「革命の世代」として育っていることです。彼らが運動を担っています。

   共同経済開発計画によって切り拓く新しい時代

 ドナルド・トランプ 韓国へのサードミサイル配備を巡って中国が反発しています。これについて解決の道はあるのでしょうか。北朝鮮のミサイルは文在寅さんが当選してからでも5回発射されています。これを誰が解決できるのか。解決方法はほとんどないのが現実です。

 それではトランプ政権は本当に北朝鮮を攻撃できるのか。常識的には出来ません。

アメリカは戦後50年間、戦争シミュレーションをしてきましたが、何度やっても1時間の戦闘で200万人が死ぬという結果が出ています。今トランプのまわりには北朝鮮関係の専門家たちは誰もいません。だから逆に北朝鮮問題に興味はありません。何もしてないからカールビンソン空母部隊を送るだけです。

 中国はどうでしょうか。中国は北朝鮮を経済制裁で崩壊させると思いますか。中国はいま北朝鮮が核実験をしてくれることで、中国の問題が国際問題になっていません。北朝鮮の問題が中国を守っている状態です。だから北朝鮮を擁護しているわけです。

 経済制裁によって北朝鮮は内部崩壊するでしょうか。1990年にソ連・中国社会主義が崩壊し、94年に金日成が亡くなり、95年以後の3年間に飢饉で300万人が餓死した時、北朝鮮経済は全てが危機でした。しかしこれを乗り越えて金正日さんが登場しました。2011年、アメリカは金正日の死亡によって北朝鮮が倒れることを期待したら、金正恩が登場し、なんと6年目です。

 北朝鮮の方が世代交代は早いのです。こういう北朝鮮に対して誰が何をできるのか。核ミサイルで戦争になれば、被害者になるのはアメリカや中国ではなく韓国と日本です。私たちは運命共同体です。しかし、日韓が対立していたら、こういう場合にコントロールできません。

 韓国で考えられているひとつは「ロシアカード」です。プーチンに圧力をかけて、ロシアの天然ガスパイプを、北朝鮮を経由して韓国まで通すという国家政策を文在寅さんは考えています。このような「交換条件」を付けないと北朝鮮はミサイルを放棄しません。天然ガスパイプが通り、鉄道がつながると、韓国の若者に雇用が生まれ、これがヨーロッパまでつながる大きな展開となっていきます。

 文在寅さんはこの計画案によってトランプを説得できると思っています。彼はビジネスマンだから、「敵対政策ではお金にならないからパイプラインに投資したらどうか」という話にもしかしたら乗ってくるかもしれない。これまで中国・アメリカが「運転席」(外交の当事者の位置)にいたのを、「私たちが運転席に座るから」という方針です。
 文在寅さんは「韓国は当事者だ」と言っているのですが、それには私は違和感があります。「日本と韓国が当事者だ」と言っていただきたい。

   戦争があってもゆるがない南北和解システムをめざそう

 ロシアを媒介にしてドラスティックに状況が変わり、米韓会談、米朝会談、南北首脳会談が行われた時、日本だけがバスに乗り遅れるということは無いだろうか。危機感を高めることはいいのですが、情勢が変わった時に日本が東アジアでイニシアティブをとれるような、もうひとつの戦略を準備しておかないといけない。

 新たな南北共同体による経済発展、これを文在寅さんはなんとか自分の任期のあいだにやりたい。韓国はサードミサイル配備によって中国から経済制裁を受けて痛い目に遭いました。だからいま、朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長を東南アジアに送りました。ソウルと東南アジアの全ての国々が連係しています。東南アジアをつなげて新しい経済圏、南北経済共同体を作り、戦争があってもゆるがないような南北和解システムを作らないと、戦争にならざるを得ない。

 文在寅さんのこの構想に日本としてはどう対応してゆくべきなのか。「反日」「親北朝鮮」というフレームだけで危機を煽って韓国文在寅政権を潰してゆくべきなのか、このフレームから抜け出して、私たちがもうひとつの対話路線を作るべきなのか。

 北朝鮮の核ミサイルのためではなく、東アジアの未来のために互いに東アジアの一員として位置づけ合う。メディア、政策の問題もありますが、実は北朝鮮問題は私たちのこころの中にある「植民地」認識、また私たちの「優越感」、北朝鮮を斜めに見る「偏見」に問題があるのではないでしょうか。

 東アジアの民衆の団結した闘いの中に沖縄があり辺野古がある

 韓国の民衆が国に期待せずに起ち上がった時期がありました。日清戦争で日本と清が朝鮮半島に介入した当時、朝鮮の大韓帝国は無能力でした。そこで民衆が起ち上がった。「東学の乱」は日本帝国主義によって虐殺され、つぶされました。1919年、植民地時代に3・1万歳デモが起きました。それは平和的な非暴力運動デモでしたが見事につぶされました。

 独立運動開始から100年が経とうとする2017年、今回キャンドルデモで1700万人が非暴力を訴えました。韓国社会で初めて非暴力で平和を訴えるという認識が生まれている。韓国は日本から観るような無秩序の「カオス」の国ではありません。非暴力のもとで民主主義を守っていこうとしているのです。

 このような動きは他の国々でも起こっています。韓国は政権を変えて時代を変えた。台湾でも独立民主化運動が起きています。若い人々が起ち上がり民主主義を要求しています。こういう時代に私たちは戦争責任の問題だけではなく、東アジアの市民たちと連帯して、アジアの声を日本の市民に訴える必要があると思います。

 今年はロシア革命100年の年でもあります。いま東アジアは揺れています。戦争の道か、平和の道か。この真ん中でいつも東アジアの道を決めたのは日本でした。戦争は日本から始まっています。日本が戦争を止めないと東アジアは戦争に巻き込まれます。私は光州のことを申し上げましたが、光州は30年間、全ての抑圧の中でも闘い続けてきました。「光州」は光州だけではありませんでした。台湾の2・28事件(1947年)も、インドネシアの9・30(1965年)も「光州」でした。

 辺野古に行った時、辺野古も「光州」だと思いました。光州のように闘い続けることは日本を変えることだと思います。沖縄は「光州」だと思います。沖縄があきらめたら日本に希望はありません。沖縄があきらめたら日本は戦争に向かいます。沖縄があきらめると東アジアは戦争になります。私たちが最後のこのチャンスを逃して文在寅大統領を失敗させてしまったら韓国は孤立します。「一国革命」は失敗します。東アジアの民衆が団結して闘うことが大切です。この闘いの中に沖縄があり辺野古があります。
 どうもありがとうございました。
(第八期沖縄意見広告運動 関東報告集会にて)
<杉本が、機関紙の論文から、なんとか少ない量にて読めるように削除してみました。>

 

「朝米戦争の可能性はほとんどない」

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月14日(土)14時01分6秒
返信・引用
  ツイッターーから次の情報をえたので転載します。

https://twitter.com/higashiajianews
東アジア情勢ニュース【朝鮮半島・日本等】


https://twitter.com/higashiajianewshttp://japan.hani.co.kr/arti/international/28693.html

ブルッキングス研究所の新任韓国碩座、「朝米戦争の可能性はほとんどない」

中国・ロシア・ワシントンの関係者たちは戦争を要求しない
金正恩は理性的であり、自殺行動はしない
ソウルは国際都市…米国軍事オプションの使用は不可能

ブルッキングス研究所のパク・ジョンヒョン韓国碩座//ハンギョレ新聞社
 米国の4大シンクタンクの一つであるブルッキングス研究所に先月初めに赴任したパク・ジョンヒョン韓国碩座は、朝鮮半島の緊張が高まっているが戦争勃発の可能性はほとんどないと明らかにした。
 パク碩座は12日(現地時間)、ワシントンのブルッキングス研究所で韓国メディアの特派員らとの懇談会を通じて「誰もが戦争を望んでいない」とし、「全てのことに1%の可能性はあるが、数カ月以内、さらには1年以内にも戦争の可能性はほとんどない」と話した。パク碩座は米国家情報局(DNI)東アジア担当副情報官、中央情報局(CIA)東アジア太平洋ミッションセンター局長などを歴任した。

 パク碩座は「中国とロシアは『不安定を容認しない』ことを明確にしており、米政府関係者らも北朝鮮問題に対する平和的解決策を希望していると言う」とし、「シンクタンク関係者や元官僚など、ワシントンの合理的な人の中に戦争を要求する人は誰もいない」と説明した。

 彼女は北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長に対しても「理性的で、自殺行動はしないだろう。彼の優先目標は政権の生存」だとして、北朝鮮の先制攻撃の可能性を一蹴した。

 米国の軍事的オプションの使用と関連しても「韓国には20万人の米国人が常駐しており、欧州人や中国人も多い国際的な国」とし、「彼らの犠牲を甘受して奇襲的な攻撃をするということは不可能だ」と指摘した。

パク碩座はまた、「2015年の木箱地雷事件以降、ハッキング事件を除けば金正恩が韓国に向けて(攻撃)したことは一度もない」とし、数年内に南北間で軍事的衝突が発生する可能性も低いと見た。

 パク碩座はドナルド・トランプ大統領の来月初めのアジア歴訪日程と関連して、「もし日本に2日間滞在するなら、韓国で1日だけ滞在するのはよくない。韓国と日本を同等にしなければならない」と明らかにした。

 一方、ドナルド・マンズーロ韓米経済研究所(KEI)所長とトロイ・スタンガロン研究員はこの日、議会専門メディア「ザ・ヒル」への寄稿文を通じて、国連安全保障理事会の全面的な支援を得て90日間の「休止期」を北朝鮮に提案する方案を米国行政府に提示した。

ワシントン/文・写真 イ・ヨンイン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-10-13 21:35
http://www.hani.co.kr/arti/international/america/814424.html 訳M.C(1182字)
 

朝鮮半島をめぐる核心は何か

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月14日(土)09時48分2秒
返信・引用
    明日の世界を担うプロレタリアートとして、今日の危機を作り出し、
  醸成している安倍に代表される人々・勢力の狙いはどこにあるのか・・・
  考えぬくことが私達には要求されている。
  米軍ヘリコプターを、沖縄の農地に墜落させて破壊しておいて、
  所有者・県知事に何ひとつのわびもしないーー米軍の尊大さに、
  怒りまくっていたときに、そんなときに素晴らしい 『かけはし』
  の記事を見つけたので、転載させていただく。


  第四インター機関紙
  かけはし2017.年9月25日号
http://www.jrcl.net/frame170925b.html
  朝鮮半島をめぐる核心は何か

  朝鮮民族の民族自主権の回復、および朝鮮
  半島における統一国家の樹立のための課題
   木下 正
  はじめに
 朴槿恵元大統領の罷免後の大統領選挙で発足した大韓民国(以下、韓国)の文在寅
政権は、八月一七日に発足から一〇〇日を迎えた。これまで文在寅政権は、財閥企業
と政治の癒着の断絶、国内経済の底上げ等の革新的な取り組みを主張してきた。

 そのなかでも注目されるのが、朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)との融和
を重視する政策である。しかし共和国は文在寅政権の政策を評価せず(注1)、対話
の呼びかけにもかかわらず、核開発やミサイル開発を止めていない。

 金大中政権の太陽政策の継承を表明した盧武鉉政権の発足前後にも、共和国はNP
Tを脱退し、地下核実験や長距離弾道ミサイルの発射実験を強行し続けた。分断国家
成立の根本的な歴史的認識の共有なしに、対話は意味を持たない。
 二〇一七年八月末の共和国による大陸間弾道ミサイル)の発射実験、また九月はじめ
の六回目の核実験により緊張が高まりつつある東アジア情勢の中で、本稿では文在寅
政権の対共和国政策に焦点をあて情勢分析を行うとともに、米国の対共和国政策、米
韓関係の問題点等にも触れながら今後のわれわれの課題について述べていく。
労働者国家の核武装の可否及び共和国の内政に関する問題については、別の稿で述べ
る。

  文在寅政権はこれまでの対共和国の政策
 文在寅政権のこれまでの対共和国の政策は、制裁と対話を並行して平和的方法によ
る朝鮮半島の非核化をめざし、朝鮮半島に恒久的平和を実現するというものだった。
共和国の核の凍結と同時に体制保障をはかり、朝鮮半島における非核化、朝鮮戦争の
終戦協定、共和国と米国の関係正常化が実現するというのが趣旨である。

 しかしこの文在寅政権の政策は、主体思想に基づく自主路線を歩んできた共和国に
とって何もメリットがなく、李明博政権から朴槿恵政権までの八年間断絶してきた南
北関係を再開する理由にもならない。これまで共和国は、国の体制の保証のために自
らの生存能力を向上させてきた。朝鮮戦争の休戦状態の下で共和国と中国との軍事同
盟は継続しているものの、旧ソ連との軍事的な関係は事実上消滅している。

 共和国にとって、生存能力とは核開発であった。体制を保証するために核技術を向
上させ、核保有国の地位を得ようとしてきた。そのために六回の核実験を強行的に行
い、核兵器の運搬手段の確保のためにミサイル実験を重ねてきた。共和国は一九九三
年からこれまで六〇回以上のミサイル発射を行ってきたが、昨年二〇一六年のミサイ
ル発射回数は過去最高の二四回であった。

 共和国の核・ミサイル開発に対して国際社会が制裁を加えても、共和国はこれとは
無関係にさらに水準の高い核・ミサイル開発を行い、国際社会はまたこれに対する制
裁を繰り返すという悪循環が繰り返されている。
オバマ政権の「戦略的忍耐」は、八年間の南北関係断絶と連動して共和国の生存能力
を向上させてきた。結局今年になって共和国はICBM(大陸間弾道ミサイル)の発
射実験に成功し(注2)、東アジア地域における情勢が新たな局面を迎えている。
 共和国の今年七月のICBM発射実験の成功によって、米国は本格的に共和国問題
に関わらざるを得なくなった。共和国への制裁と圧迫による問題の解決が困難な状況
のなか、手詰まりの状態である。情勢が共和国に有利な状況において、共和国にとっ
ては南北関係を再開する必要もない。

 しかしこの期に及んでなお文在寅大統領は、就任一〇〇日に際しての記者会見で、
共和国に対する「強力な制裁措置」に言及した。現状では南北対話は実現不可能であ
る。制裁と圧迫では共和国を止めることはできない。
 朝鮮半島における分断国家成立の歴史を見れば、米国の国益を背景にした「米朝対
話」も事態の改善につながらない。米国をはじめとする大国の核兵器、弾道ミサイル
が温存されている現状において、「核実験を実施しない、これ以上のICBM実験を
行わない」ことを共和国が受け入れるとは考えられない。対話さえ成立すれば問題が
解決するという期待は、希望的な思考に過ぎない。正確な情勢分析がわれわれに求め
られている。

  米国の対共和国政策
 これまでの韓国および米国の対共和国政策は、事実上米国の主導によって進められ
てきた。オバマ政権の「戦略的忍耐」の時代までは、米国は当面の危機を感じなかっ
た。しかし今年二〇一七年七月以降、状況は大きく変わった。オバマ政権の対共和国
政策を「失敗した外交」と規定したトランプ政権は、中国による共和国に対する圧
迫、対話を併行する戦略を行っている。しかしトランプ政権発足から現在まで、米国
の共和国の核能力に対するはっきりした立場が示されていない。

 一方で共和国の核は小型化しており、小型化した核の運搬手段も準備された。
共和国が核保有国の一定のレベルを超えるということは、トランプ大統領が設定した
「レッドライン」を越えることを意味する(文在寅大統領は、就任一〇〇日に際して
の記者会見で、越えてはならない一線の「レッドライン」に関する質問に対して
「共和国がICBMを完成し、核弾頭を搭載して兵器化すること」と回答している。
その意味では、共和国はすでに「レッドライン」を越えている可能性がある)。

 中国とロシアが提示した共和国の核凍結と米韓合同軍事演習「乙支フリーダムガー
デン」の中断を受け入れなかったトランプ大統領にとって、共和国の非核化は事実上
不可能となっている。トランプ政権は現在、共和国に対する圧迫と対話の併行と同時
に、中国に対する経済的圧迫の強化を模索している(注3)。

  米韓関係の問題点
 文在寅政権はこれまで、朝鮮半島情勢の危機に対する抜本的な対策を打ち出すこと
ができていない。理由の一つに、従来からの不適切な米韓関係が挙げられる。
一九五三年七月二七日に共和国と米国は朝鮮戦争の停戦協定を締結した。しかし米国
は、停戦協定調印から一カ月もたっていない八月八日、米韓相互防衛条約に仮調印し
た。
 朝鮮停戦協定第第四条六〇項には、「停戦協定調印の三カ月以内に政治会談を開催
し、すべての外国軍隊の撤退、平和的解決のための協議」が規定されているが、米韓
相互防衛条約は「米韓両国の一国が侵略された場合には共同で対応し、米軍の南朝鮮
駐留を認める」という内容であった。この時点で米国は、朝鮮停戦協定第第四条六〇
項に違反していた。そして朝鮮半島に核を持ち込み、強大な軍事力で共和国を圧迫し
続けてきた。

 従来の米韓関係は韓国にとって一方的で不平等な関係でしかなかった。
今年七月一日の米韓首脳会談後に文在寅政権は「朝鮮半島問題に対する韓国の主導
権」に言及し、今年の光復節(独立記念日)の祝辞では「問題の主導的な解決」につ
いて述べたが、現実は米国の戦時作戦統制権によって韓国の主導権を行使できない状
況である。
 一方的で不平等な米韓関係が放置されたなかで、「防衛訓練」(共和国は韓米合同
軍事演習を自国に対する攻撃訓練ととらえている)を口実に定例化している米韓合同
軍事演習の停止、今年六基に増設された高高度防衛ミサイル(THAAD)の撤廃が
されておらず、米軍基地汚染問題の解決、不公平な米韓行政協定(SOFA)の改
定、戦時作戦権返還問題の解決がされていない。

  国際機構の問題点
 国連駐在朝鮮常任代表は昨年一二月、共和国のミサイル発射実験に対する国連安全
保障理事会の決議に対して「国連憲章とどの国際法典にも核実験と弾道ロケットの発
射が国際平和と安全に脅威になると規制したものはない」と述べ、新たな制裁決議の
法的根拠を問うている(注4)。朝鮮半島情勢をより複雑化させているもう一つの要
因として、国連安全保障理事会の二重基準が挙げられる。
 米国をはじめとする大国はこれまで、数千回に及ぶ核実験と弾道ミサイルの発射実
験を行ってきた。また大国の利害と一致する特定の国の核開発を事実上不問に付して
きた。このような不公正な国際連合の構造が、共和国の態度をさらに硬直させ、体制
保障のための核開発を加速させてきた。国連安全保障理事会は共和国の核開発を論じ
るまえに、まず米国をはじめとする核兵器保有国における核兵器廃絶の態度を明確に
し、国際機構としての公正さを取り戻す努力をすべきである。

  民族自決の視点の欠如
 朝鮮民族が日本帝国主義の植民地支配を打倒してから七〇年以上経った今日も、
朝鮮民族の民族自決権は回復されていない。日本帝国主義による植民地支配を打倒し
た後に形成された国家は分断国家であった。

 植民地支配打倒後に朝鮮半島に分断国家が成立した根本的な要因は、
「日本軍の武装解除」なる口実のもとに外勢(アメリカ帝国主義とソ連覇権主義)が
行った朝鮮民族の民族自決権の侵害であった。また民族内の政治的、階級的対立、米
ソ両国の対立によって統一国家の樹立が不可能になった。

 民族自決権の回復が困難ななかでもこれまで、朝鮮民族は紆余曲折を経ながら一九
七二年の南北共同宣言を結び、その後は局地的な軍事衝突があったにせよ、善後策に
よって時代の克服をはかってきた。南北の対話、交渉、交流、および協力の拡大によ
り、二〇〇〇年には南北の最高首脳による国家承認の進展とともに、協調へと発展さ
せ、統一を展望しながら今日に至っている。ところが民族自決権が失われた現状にお
いて、朝鮮民族の独立問題が国際化した場合、さらなる民族の内的分断や混乱を招く
危険をはらんでいる。
 共和国の公式文書、最高指導者の著作等において以前より、外勢による国家の分断
解消は繰り返し否定されている。不適切な米韓関係が放置された状態において、歴史
的発展の意味を持つ南北対話の実現や統一国家の樹立の前提となる民族自決権の回復
は困難である。

  われわれの課題
 これまで韓国の対共和国政策を中心に大まかに俯瞰し、そのうえでのいくつかの今
後解決するべき問題点を述べてきた。
 今年二〇一七年はロシア革命一〇〇周年にあたる年である。
一〇〇年前の一九一七年、十月革命のさなかにレーニンの率いるソビエト政権は、ロ
シア最初の対外政策として無賠償、無併合、民族自決に基づく即時講和を第一次世界
大戦の全交戦国に提案した。

    東アジアでの核戦争の現実的危機が迫るなか、
    われわれがなすべきことは何であろうか。
 朝鮮半島における緊張緩和は、「国防産業」の意にそった米国をはじめとする外勢
に依存するものではない。朝鮮民族の分断を招いた大国の国益を背景にした「対話」
なるものがいかに朝鮮民族の民族自決権の回復に有害であるかを再度認識すべきであ
る。
 共和国は米国の国益追求を目的とした「対話」を望んでいない。
朝鮮半島における緊張緩和を担うのは、日本帝国主義、アメリカ帝国主義、ソ連覇権
主義によって民族自決権を踏みにじられてきた政治的主体としての労働者民衆であ
る。

 そのためにはまず、一方的かつ不平等な米韓関係は是正するべきである。
それと同時に共和国に体制保障のための核開発を加速させる一つの要因となっている
公正性を欠く国際機構の是正も必要である。

これらは東アジアの平和の直接的脅威に直面している東アジアの労働者民衆の課題で
ある。日本の労働者民衆は、朝鮮民族の民族自主権の回復を阻害する日本の反動勢力
によるアメリカ帝国主義の「東アジア戦略」への軍事的関与を許してはならない。

同時に共和国と韓国の労働者民衆と連帯して、東アジアにおける米軍基地撤廃の運動
に力を結集していかなければならない。

朝鮮半島における統一国家の樹立の第一歩は、朝鮮民族の民族自主権の完全な回復で
ある。民族自主権の完全な回復を第一段階とし、次のステップとして帝国主義、覇権
主義を背景としない、労働者の国際連帯を背景とした統一国家の樹立に進んでいくべ
きである。

(注1)労働新聞八月一八日付論評
(注2)朝鮮中央テレビは七月四日一五時(日本時間七月四日一五時三〇分)
   「特別重大報道」
(注3)今年八月一日、トランプ大統領は中国の習近平主席との対話、
   スーパー三〇一条に言及した。
(注4)朝鮮中央通信
 二〇一六 年一二月六日国連駐在朝鮮常任代表が国連事務総長あてに送付した書簡


 機関紙コモンズ一面での主張
   http://com21.jp/archives/21666
 まさに「国難」というなら、安倍政権の存続自体が「国難」と言わねばならない。
こうした意味で、総選挙は、北朝鮮への軍事攻撃―戦争推進、9条改憲へ、安倍の政
治的狂気と政権延命の狙い、改憲諸勢力の衆院制覇を許すのか、これを阻止しその野
望を打ち砕くのか。東アジアの平和と日本の進路をめぐる分岐点となる歴史的選挙と
なっている。

 

障害者への法的配慮の解釈とは

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2017年10月14日(土)00時05分32秒
返信・引用
     岩手県一関市東山町の聾唖者で普通校卒。それが親譲りの障害で目も足も悪くなり小脳萎縮で一人暮らしです。
 障害者の団体は完全沈黙が保てるなら目こぼしになる特権を持っています。それは厚生労働省も認めています。
 けれどそのためには障害者個人の人権は無視してもいいのですか。辞めた理由への口封じから社会参加妨害は11年で12回目です。 岩手の盲ろう者友の会は和解は暴走がばれるからと抹殺しか考えていない。完全沈黙では証拠は作れなく法務省も動けないばかりか知っている様子。更生相談所、社会福祉協議会(県本部)、障害者の社会参加推進センター、地元東山を除く(原因が親を馬鹿と認めろと言う事で、親父は地元の民芸品で現代の名工に選ばれて知事表彰を受けているからかん口令は地元まで来るはずがない)各地の社会福祉協議会もかん口令が入っています。地元一関の身障協も入っていて入会は認めない。一関社協は通訳差別も強行した。更に要約筆記の会も通訳依頼は無視し続け、盲ろう友の会は受信拒否が何年も続いています。これは全国大会参加を控え差別、完全沈黙を徹底された。看板団体の暴走隠しにこちらの人権は無視したことになります。暗黙の了解とするこんな法律に全国にもあるとしてどう対応しているのか全国の社会福祉協議会に問いかけました。
 法律の解釈違いでないか。辞めたらどこへ行こうと何をしようと関係ないはず、それが完全沈黙でばれなけれはいい感覚で暴走隠しに暴走している。
 行き着くところ障害者の団体はそのハンディから法律に触れる機会が多い。法律は健全な人に合わせて作られている。法を曲げなければ通らなくなる時が来る。だから初めは聾唖者の言い訳は当てに仕切れずそれが次期会長だからとゴマすりから親を馬鹿と認めろと言う友の会事務局長小笠原利行さんだけ責めて来た。退会したらどこの社会、団体に行こうと関係ないはずが暴走目こぼし権(説明不能であるのかどうか)を盾に暴走を繰り返し容認されて来た。通訳差別や完全沈黙で友達まで全部取り上げた。
 こちらがやったのは掲示板に書いた事だけ。それは批判も反論も自由だと言うのに妨害しか来ない。しかも完全沈黙では証拠は作れない。岩手の看板団体だからと言う暴走目こぼし権(障害者向けの配慮であって健常の通訳向けとは言えない)でなくただの暴走になる。石川会長も利行さんも岩手の看板の面目だからと暴走を目こぼしにしてかん口令を敷いた事になる。説明抜きで知事から強権発動されたことになります。11年に社会参加は12回妨害されています。辞めたら何も関係ないはずではないか。共に歩むとしての同権だとは虫がいい。ばれなけれはいい感覚の暴走を暴走で隠した。

 

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