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        英語版資本論での価値形態論 (その2)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月19日(火)16時37分19秒
返信・引用 編集済
       英語版は、マルクスの娘さんも関わって、苦闘して解読したものであり、仏語版での改善も受け入
     れているように思える。前回のものを、もう少し検討してみた。)

    英語版 「資本論」 の邦訳に当たって   訳者  宮 崎 恭 一
    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter00/index.htm
    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm

       第一章 商 品
       x量の商品A = y量の商品B または、
       x量の商品Aは、y量の商品B に値する。
       20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
       20ヤードのリネンは、1着の上着 に値する。
      1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式
      2. 相対的価値形式
         (a.) この形式の性質と意味
 (1) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、どのよう
   に隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)を量的な外観から
   は切り離して見て行かねばならない。
   この点で、誰もが、大抵は、逆に、量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商
   品間の明確な量の比率を見て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。
   違った物の大きさを、量的に較べるには、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてし
   まっている。 両者が、同じ単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。
 (2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となるかは、
   与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのということで、
   どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物で見ているというこ
   とである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのである。
 (3)これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせない。
   そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。
   それで、どの様にして?
   すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。
   この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。
   このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。
       (杉本註 「リネン自身の価値存在は」「上着と同じ価値であり」(下記)・・)
   リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。
   上着と同じ価値であり、上着と交換できると。 さて、この説明を化学式で例えてみよう。
   酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素 (C)、
   水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。
   すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定してみよう。
   するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2 であると分かる。
   次いで、酪酸が、C4H8O2 であることに言及する。
   従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろう。
   勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。

   <杉本・英直訳ーーそれと同等のものとしてそのコートを参照することによって交換できるものとして。
   この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現
         ーー新日本訳・「上着は価値の実存形態として価値物として通用」ーー
   されているのは、それがリネンと同じであるためだけです。>
   <原の英文だと、左辺でリンネルが上着を価値の存在形態であり価値として、反省規定している、こ
   とが明示されたのに、「価値物」の表示があることで、この最大の関心事が消去されているのです。
   なんと物象の社会関係をこれから提示・説明するマルクスの提案を、旧来の翻訳はこの関係を物的関係
   にした!>

But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part.
It is only the value of the linen that is expressed.
And how?
   しかし、このように質の同一性が仮定された2つの商品は、同じ部分を果たさない。表現されるのは
   リネンの価値だけです。
   では、どうやってーーそのことがなされるのですか。?

By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it.
In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
   それと同等のものとしてそのコートを参照することによって、交換できうるものとしてであります。
   この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現されているのは、それがリネンと同じで
   あるためだけです。

On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat.
To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate.
   一方、リネン自身の価値存在は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるものとしてだけで
   あり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換可能であるからです。
   化学からイラストを借りると、酪酸は蟻酸プロピルとは異なる物質です。

   <杉本ーーなるほど、酪酸に蟻酸プロピルが等置される関係にて、人間がその両者の共通者が他方での
   その存在形態である、との判断をしているならば、そのとき・等置された酪酸は、その共通者の単にそ
   の存在と、現物形態とは異なる規定を受け取ったのです。
   ある物と物とをある関係においたとき、人間は反省規定をこそ、この人間のなす思考様式の特異性をこ
   そ、マルクスは主張しています。
   この物的関係での判断の特異性が、同等性関係ではなく、価値関係にては物象自身が、判断をなしてい
   るーーの意味です。>

 (4)我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々の分析を
   して、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。
   この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。
   また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。
   一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。

 (5)上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じとした。
   確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものである。
   しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同じものであ
   り、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格でこれを見ると
   いうことである。
   なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込むだけの
   労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。
   これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。
   様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込められた
   異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしているのである。

   宮崎訳ーー<価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネン
   に等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この等式位置では、我々は、それを、価
   値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。

   <5段落の英語での提示です。>上記とはサイトが違います。
       英和訳資本論
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi

⑤ By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makes the linen.
But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.
In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish it from tailoring, and, consequently, is abstract human labour.
It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]
    <杉本提案 五段落での直訳での提案>
   ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者のものと同じに
    する。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の具体的な労働であることは
    事実です。
    しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なものに、裁縫労働
    を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
    この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り込む限り、
    それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労働である。
    それは価値創造労働の特定の性格を救済するだけのさまざまな種類の商品間の同等性の表現であり、
    これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間労働の共通の品質要約の仕
    方なのです。[18]

    再版では次の訳なのです。上記英語版と比較すると、これは全くの異文ですね!!!
    「たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着
    に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。ところで、たしか
    に、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体
    的労働である。しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの
    現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。
    このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、
    裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であ
    ること、が語られるのである。種類の異なる諸商品の等価表現だけが--種類の
    異なる諸商品に潜んでいる、種類の異なる、諸商品の諸労働を、それらに共通な
    ものに、人間労働一般に、実際に還元することによって--価値形成労働の独自
    な性格を表すのである(17a)。」
    (『資本論』1 新日本出版 P86~87原P67)

    <上着が、価値物として、リンネルに等置される>という日本語訳の悪意に満ちた歪曲の凄まじさ、
    スターリン主義の高圧的態度には何とも怒り!が込み上げてきますね。
    <価値物として>との記述を抜けば、英語版との異は次のように無くなるのです。

    「たとえば、上着が、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる
     労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。」
    上記訳の悪意を見抜けないーー以前の堺の資本論を読む会は、ここの理解から次の曲解もしたのです。

    「 つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、裁縫労働の具体的な
    諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元するということではなくて、裁縫
    労働という特定の具体的な労働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態とし
    てあること、すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の形態とし
    て意義をもっていることなのです。ヘーゲルチックに言い換えるならば、人間労
    働一般が、裁縫労働という具体的労働を通じて、直接的なものとして現われてい
    るということでもあります。あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、裁
    縫労働が、人間労働一般を代表するものとして通用しているということなのです。」
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/d160f0ddaab074d94556e551f75443dd

    <久留間理論を継承すると、こんな歪曲に満ちた理解もするのですよ!
    私は久留間批判をしたいと思いながらも、事実上の抽象に引きずられて、同じ落とし穴にいました。
    <裁縫労働が人間労働一般を代表するものとして通用ーーしたら、それは、ここでの事実上の抽象で
    はなく、仰るとおり等価形態での第二の独自性をこそ示してしまいますね。>
    しかし、この「価値物」の訳では、その直前4段落での提起である、
    <価値抽象ではなく「一商品の価値性格を示し得る」・「他の商品との価値関係」>のなかで
    ーー事実上の抽象がなされ、獲得される「価値形態」ーーとのマルクスの提起は表現されないのでは
    ないのか?ここでのマルクスの提起は、<私はここに、物象のなす反省規定を示す、>なのです。

    このマルクスの提起を繰り返し再考してみると、次のフランス語版での理解が見えてきます。
    A 裁縫労働がリンネル織労働に等置されることは具体的姿態のままには、できないのですから、
    単なる人間労働であり、人間労働力一般の支出である限りにて裁縫労働が、リンネル織に等置される
    のはこのこと自体から明らかです。<これが事実上の抽象>
    しかし、これでは超歴史的な人間労働になりますから、この次の規定が必要です。
    Bさてそこで、上着は価値としてリンネルに等置されていることをで終わり、堺の先生は、その次に
    生ずるーーならば、リンネルも価値であるーーとの事態が見えなかったのでは・・と思います。
    だから、その次に英明な英語版は、
    <それが(リンネル織労働が)価値を織り込む限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、
    その結果、抽象的な人間の労働である。>
    ーーと「回り道」の経過で獲た判断を示したのです。
    まず事実上の抽象であり、その次に、物象の判断が、この段落に示されているのです。

    このことを教えてくれた仏語版での提起です。
    「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネルに含まれてい
    る労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。だが、機織りに対する裁断の等
    式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する。
    このような回り道をして、機織りは、それが価値を織るかぎりでは衣類の裁断とは区別されないとい
    うことが、すなわち、抽象的人間労働であるということが、表現されるのである。
    したがって、この等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自の性格を表現している。」
     (『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

⑥There is, however, something else required beyond the expression of the specific character of the labour of which the value of the linen consists.
Human labour power in motion, or human labour, creates value, but is not itself value.
It becomes value only in its congealed state, when embodied in the form of some object.

In order to express the value of the linen as a congelation of human labour, that value must be expressed as having objective existence, as being a something materially different from the linen itself, and yet a something common to the linen and all other commodities.
   ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なものがあります。
    動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、それ自体価値はない。
    何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値になる。
    リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に存在するものとし
    て表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるものとして、リネンと他のすべての商品に
    共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

       宮崎訳
   <(6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なある
    ものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その労働自体
    が価値なのではない。 その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値
    となるのである。
    人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、かつ、リネ
    ンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さら
    に、その他の全商品にも共通するものである。 問題は、すでに解かれている。>
    彼はそして、次の訳の誤りも提示している。
    新日本訳では、
    「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけで
    は十分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を
    形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態にお
    いて、価値になる。リンネル価値を人間的労働の凝固体として表現するためには、
    リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと
    他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。この課題
    はすでに解決されている。」
    (p87 後ろから 5行目~p88)

    この新日本訳や、岩波・向坂訳の誤りを彼は提示している。これは正しい。
    今日の既成の訳の誤りが、リンネルに対する上着の価値関係が、両者に共通な価値を、
    「上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない」
    ーーと、反省規定をこそここにあると強調している。

    如何にも、リンネルはこの価値関係において、自らの価値存在を対する上着において両者の社会関係
    を、価値の存在形態である上着において、表現しているーーのだから、この両者の共通性が価値であ
    ると、判断のまず第一を示したのです。

    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的にランク付けさ
    れ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   このポジションでは、価値観  だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
           (「上着事態の存在形態が価値の存在形態になる。」仏語版 上P22)
Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
   そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
   私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、コートはその関
   係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、着ていない時よりも多くのこと
   を数えるようにです。

   宮崎訳ーー<価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネン
   に等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この等式位置では、我々は、それを、価
   値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。
   だが依然として、上着自体は、商品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。
   このような上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。関係がな
   ければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、リネンの価値を明らかに
   する。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは打って変わって偉そうに見せるのと同じよ
   うなものである。 >

   提案ーー①この等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、
        価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。
       ②触診できる身体的な形が価値を表す
       ③上着自体の存在形態が価値の存在形態になる

       等価形態では現物形態が価値形態となるーー第一の独自性と対比してみると価値の存在形態で
       あることで、上着はリネンの価値形態となるのですし、左辺でのこの規定を受けて、
       右辺で直接的にその姿のままに価値形態となる。
       このように三者訳を比較すると、<回り道を経て価値形態となる>ことを示しているーー
       ③の仏語訳が適訳でありますネ。

   八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
   ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
   この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
   そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値体として
   具体化された価値<価値形態> として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
  A  杉本 パソコン直訳
   たとえば、Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、その特徴、髪、およびその他
   の多くのものを変えない限り、AはBの "陛下"になることはできません。
   人々の新しい父親は、その特徴、髪、および他の多くのものを変えます。
  B  英和訳『資本論』
   Aは、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中
   の陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新
   しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り
  C 宮崎訳
   「 上着の生産においては、人間の労働力が、仕立ての形で、実際には、支出され
   なければならなかった。が、それゆえ、人間の労働がその中に蓄積された。このこと
   から、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、その事実を
   ちらっとも見せることはない。価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面で
   のみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。
   例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、
   Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。
   いや、それ以上のものが必要であろう。なにしろ、臣民の新たな父たるたびに、容貌
   も髪の毛もそれ以外の諸々も変わるのだから。」

  ① 新日本新書訳
   「・・同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できない
   ことである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下に対する態度をとることは、
   同時にAにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の
   毛、その他なお多くのものが、国王の交替のたびに代わることなしには、できないよ
   うに。」(原P86 P88~89)
  ② 向坂訳ーーー岩波文庫
   「だが上着は彼女に対して、同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなくし
   ては、価値を表すことができないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、
   Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、・・・」(P96)

   ① ②は既存の訳であり、杉本も同じくその理解をこの八段落に対してなしていた。
   しかし、この英語版とを比較してみると、そこでのAは、陛下の姿態をなしている方
   であることを、引用のA・Bの事例は示している。
   ところが既存の前提・自明とされた、ドイツ語版訳では、
    「Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる」       ーー①
    「Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり」      ーー②
   ーーとなっているのです。

   対して、英語版の訳だと
   Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、
   Aが、Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせる・事ができぬ ーーC
   Bの目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り        ーーB
   Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、
            ・・・・・AはBの "陛下"になる       ーーA

    次の珍しきフランス語版が両者の違いを解読する、次の提起をしていたのです。
   「上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に
   価値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人
   にたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であ
   ることを表しえないのである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪
   やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。

   したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。・
   ・・・・・後略・・・・・」(『フランス語版資本論』上巻P22 )(79年刊)

   この訳の英明さは<上着形態をリンネルの価値形態に変態する>と示したことです。
   私人Aは個人Bに対して、それにふさわしい Aの容貌と体躯とを帯び ることで、そのことで、
   陛下であることを表しーーていたのです。
   ーーー  変態することで、私人Aと私人Bの両者の権力関係が表示され、
        価値形態と変態することで、
        価値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことで、
        価値関係が物象の社会関係であることが明示できたのです。

   この仏訳に習うならば、英訳にて
   <Bの目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り>とのーーB英和訳『資本論』が最も良い訳であ
   ることが、理解できる。ここには、明らかに、B=価値が一着の上衣という姿をとる、ことでの価値形
   態との「変態」を受け取ることしか述べられてはいない。

   では独訳はどうなのか?
   「Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる」       ーー①
   「Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり」      ーー②
   ーー英訳では、以上の事柄は、結果事項であり、そのことが如何にしてなされるのかをこそ問うてきた
   ものであるのに、そのことが問題にされていないのです。つまり、ここで問われているーー価値形態と
   の変態=物象の社会関係の形成の如何にしてか?が不在になっているのです。

  <そこでの上記 A は、陛下の姿態をなしている方であること>との自身の見方・であり、そして、既
   存訳の見方こそが困難を、生み出していたのです。
   次に示す、等価形態の第一の独自性の事例での反省規定に対比すれば、この独訳は全くの錯誤転倒して
   いたのです。伝統訳は、全く正反対の訳であったのです。

   註21ヘーゲルの反省規定と呼ばれるこの関係の一般的な表現は、非常に興味深い例え
   を教えてくれる。例えば、ある男性は、他の男性から反省規定された関係に立ってい
   るためにのみ王様です。
   しかし、それが逆に、彼が王であるので、我らの主君であると想像します。>

   <このように、既存訳は、全くの錯誤であったのです。しかも意識的なのです。>
   価値形態・商品形態が、物象の社会関係の形成にてなされているーーとの追求が、肝心の批判点が無く
   なっているのです。

   九段落
Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。

The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.
    コットンリネンの価値は、コモディティコートの身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
    によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;
    使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。

as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

   <杉本註ーー八段落での物象の社会関係の形成に基づく上着は価値形態との判断、
   そのことに依る・物象の第二の判断との事項ーーをこそ見出さなければ、上着は価
   値だからリネンも価値との物的関係に基づく反省規定をのみ見てしまうのです。
   それが次の宗教的形態での反省規定であり、商品語での理解に結びつくのです。>

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が神の子羊と似ているように、コートとの等し
   さによって明示されます。
   宮崎訳
  (9)この様に、価値の等式において、上着はリネンの等価物であり、その価値の形の役目を果たす。
   リネンなる商品の価値は、上着という商品の形によって表現される。あるものの価値は、他のものの
   使用価値によって表現される。 使用価値としてのリネンは、明らかに、上着とは違っている。
   だが、価値としてなら上着と同じであり、この場では、上着の外観を持っている。このようして、
   リネンは自身の物理的形状とは違った価値形式を得る。この、上着との等価によって、証明される価
   値という事実は、あたかも、キリスト教徒に羊の性質が見られるのは、神の小羊(キリスト)に似る
   からのようだ。

   十段落
   We see, then, all that our analysis of the value of commodities has already told us, is told us by the linen itself, so soon as it comes into communication with another commodity, the coat.
   ⑩商品の価値に関する私たちの分析がすでに私達に語ったことは、リネン自体によって、それが別の商
   品であるコートとのコミュニケーションに入るとすぐに私たちに語られていることが分かります。

Only it betrays its thoughts in that language with which alone it is familiar, the language of commodities.
In order to tell us that its own value is created by labour in its abstract character of human labour, it says that the coat, in so far as it is worth as much as the linen, and therefore is value, consists of the same labour as the linen. In order to inform us that its sublime reality as value is not the same as its buckram body, it says that value has the appearance of a coat,
   それだけでは、それが馴染み深いその言語では、商品の言葉にその考えを裏切っています。
   コートは、人間の労働の抽象的性格で労働によって創造されたということを私たちに伝えるために、
   リネンほど価値があり、したがって価値がある限り、同じ労働 リネンとして示す。
    価値としてのその崇高な現実は、バックラムの体と同じではないことを私たちに知らせるために、
   価値はコートの外見を持っていると言いますが、

and consequently that so far as the linen is value, it and the coat are as like as two peas.
We may here remark, that the language of commodities has, besides Hebrew, many other more or less correct dialects.
   その結果、リネンは価値がある限り、それとコートは2つのエンドウのようになります。
   商品の言葉には、ヘブライ語以外にも多かれ少なかれ正しい方言があります。
The German “Wertsein,” to be worth, for instance, expresses in a less striking manner than the Romance verbs “valere,” “valer,” “valoir,” that the equating of commodity B to commodity A, is commodity A’s own mode of expressing its value. Paris vaut bien une messe. [Paris is certainly worth a mass]
   <訳 略>
   宮崎訳
  (10)そして、我々の、商品の価値の分析が語って来た全てのことが、リネン自身によって語られ、他
    の商品、上着、とのやりとりに至ることが分かった。ただ、その思いは、商品の言語で、その内なる
    関係でしか通じない言語で、その秘密を漏らす。
    己の価値が、人間の労働なる、細部をそぎ落とされた性格の労働によって作られたことを我々に語る
    ために、上着が、リネンと同じ値であり、従って価値であり、リネンと全く同じ労働から成り立って
    いると語る。
    価値の崇高な実体が、同じリネンへの糊付けではないことを我々に伝えるために、価値が上着の形を
    有し、そのことがリネンに価値があることを示し、リネンと上着がまるで双子のようなものと語る。
     ここで、我々は、注意しておいた方がいいかもしれない。商品の言語は、ヘブライ語の他にも、いろ
    いろ多くの正確さの異なる方言がある。
    ドイツ語で、値するは、"Wertsein" と書くが、
    ローマン語動詞で書く、"valere" "valer" "valoir(vaut)"と較べると、多少訴求力が弱い。
    特に、商品Bが、商品Aに等価とする時、商品Aの価値形態表現には、明確さを欠く。 フランス語
    の、パリはミサに値する(Paris vaut bien messe)、をドイツ語では適切に強く表せないのだ。

    <商品語での転倒は、ーー上着が価値であるから、リネンも価値であるーーとは
    表さないで、リネンに価値があるーーとのみ示すことで、自ずと他者上着も価値で
    あるーーと反省規定を消去した・暗黙の了解事項になっているのです。
    宮崎訳 ここは商品語批判をせず、転倒した姿を、正立像に戻しています。

    and consequently that so far as the linen is value,
     したがって、リネンが価値である限り、
    it and the coat are as like as two peas.
     それとコートは2つの豆(えんどう豆})のようです。
    We may here remark,
     ここでは、
    that the language of commodities has, besides Hebrew,
     商品の言語には、ヘブライ語のほかに、
    many other more or less correct dialects.
     他の多かれ少なかれ正しい方言があります。

   十一段落
By means, therefore, of the value-relation expressed in our equation, the bodily form of commodity B becomes the value form of commodity A, or the body of commodity B acts as a mirror to the value of commodity A.[19]
By putting itself in relation with commodity B, as value in propriâ personâ, as the matter of which human labour is made up, the commodity A converts the value in use, B, into the substance in which to express its, A’s, own value.
The value of A, thus expressed in the use value of B, has taken the form of relative value.
   ⑪したがって、われわれの等式のなかに表現された価値関係によって、商品 B の身体的形態は商品 A
   の価値形態となる、すなわち商品 B の体は商品 A の価値にとって鏡の役を務める。[19]
   それ[商品 A ]自身を商品 B との関係に置くことで、価値として本人自ら、それについて人間労働
   が仕上がったものとして、商品 A は使用価値を、B に転換する、その[Bの]中にそれ自身の、Aの、
   自分の価値を表すために。
    Aの価値は、従ってBの使用価値において表現されて、相対価値の形態をとっている。
   宮崎訳
  ⑪さらにくり返して云うが、価値関係を表す我々の等式 (A=B) の意味は、形を持った商品Bが、
   商品A の価値形式となる。または、商品Bなる物体が、商品Aの価値の鏡役を演じている。
   自らを、商品Bとの関係に置くことによって、自分自身(propria persona: ラテン語) の価値を、
   「人間の労働」により形づくられたものを、商品A自身の価値をも示す具体的実体Bを使って、Aの価値
   の姿を変換して見せているのだ。
   ===========================================================
    杉本提案
    第七段落
   <従来の翻訳の誤りは、七段落での価値の表現を①ーー価値がそれにおいて現れ  ーー
                         ②ーー価値が現象するところのものーー
                      対して ーー価値観      ーー直訳です。
                          ーー価値の存在形態  ーー仏語版
                          ーー価値形態     ーー杉本
    と、このように、① ②は誤訳だと思います。
    これでは左極にて価値形態が形成されず、右極でできる、価値の現象形態になるから価値形態となる
    との理解になります。ここは、 価値の存在形態  が適訳です。

    第九段落 でのマルクスの異なる提案は、何か?
    ①したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。
    ②価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。 したがって、リネンはそ
    の物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

    ①は、物象の社会関係に伴なう商品語での批判をなすことで獲られた、人間語での語りです。
    ②は、物象の商品語での語り、そのものなのです。
    これは、この商品語での語りに依る、転倒した同等性関係での提示された価値形態なのです。
    これが、宇野先生が支持した同等性関係にて表される価値形態なのです。
    久留間先生は、英明にもこれが物象の商品語での語りと見ぬくことで、第三インター・スターリン主
    義の価値形態論を凌駕する視点にはたどり着いていたのです。
    マルクスは、この転倒をこそ示し・批判しています。

    英訳を何日も掛けて点検して理解出来ました。だからこれは、意識的な誤訳ですね!>

http://

 
 

       英語版資本論での価値形態論

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月17日(日)03時16分35秒
返信・引用 編集済
        英語版 「資本論」 の邦訳に当たって   訳者  宮 崎 恭 一
    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter00/index.htm

    https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
        第一章 商 品
                x量の商品A = y量の商品B または、
        x量の商品Aは、y量の商品B に値する。

        20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
        20ヤードのリネンは、1着の上着 に値する。

      1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式
      2. 相対的価値形式
         (a.) この形式の性質と意味

     (1) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、
       どのように隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)
       を量的な外観からは切り離して見て行かねばならない。 この点で、誰もが、大抵は、逆に、
       量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商品間の明確な量の比率を見
       て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。 違った物の大きさを、量的に較べるに
       は、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてしまっている。 両者が、同じ
       単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。

     (2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となる
       かは、与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのと
       いうことで、どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物
       で見ているということである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのであ
       る。

     (3) これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせ
       ない。そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。
       それで、どの様にして?
       すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。
       この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。
       このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。
       リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。
       上着と同じ価値であり、上着と交換できると。 さて、この説明を化学式で例えてみよう。
       酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素
       (C)、水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。
       すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定して
       みよう。するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2 であると分かる。
       次いで、酪酸が、C4H8O2 であることに言及する。
       従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろ
       う。勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。

     (4) 我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々
       の分析をして、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。
       この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。
       また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。
       一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。

     (5) 上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じと
       した。確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものであ
       る。 しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同
       じものであり、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格
       でこれを見るということである。
       なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込む
       だけの労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。
       これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。
       様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込
       められた異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしてい
       るのである。

     (6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なあ
       るものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その
       労働自体が価値なのではない。 その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になっ
       た時にのみ価値となるのである。
       人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、
       かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。
       そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するも
       のである。 問題は、すでに解かれている。


   <5・6 段落の英語での提示です。>上記とはサイトが違います。
       英和訳資本論

https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


⑤ By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makes the linen.

But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.

In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish it from tailoring, and, consequently, is abstract human labour.

It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]


    <杉本提案 五段落での直訳での提案>
   ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者のものと同じに
    する。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の具体的な労働であることは
    事実です。

    しかし、それー裁縫労働ーを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
    に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
       <杉本・註ーーー上着のリンネルに対する価値関係においては、いいかえると、
       「一商品の他の商品にたいする価値関係のなかでは、」==との4段落での提起・
       前提された事柄が示されて、次の「回り道」が提起されていることを、捨象すると、
       単に、ここでの
       <人間労働力の支出としての同等性、共通性>を、のみ視野に入れてしまうのです。
       ここでは、上着はリンネルとの価値関係において、上着はリンネルの価値と示され
       ることで、それならばリンネルも価値であると、判断されていることが、第四、
       そして第三段落の化学式にての例示で、マルクスは、そこをこそ心配して、我々に
       提示しています。
       「いま酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、・・この関係のなかでは、
       第一に、蟻酸プロピルは単に、C4H8O2の実存形態・・
       第二に、酪酸もまた     C4H8O2から成り立っている・・・」ーーと。
       このことをこそ言い換えると、
       上着はリンネルの価値ー存在形態であり、第二に、リンネルは価値存在ーーです。
       このような化学式では、人間様の反省規定の有り様を示したのですが、
       ここでは、物象が社会関係を結ぶことで
       ①上着は価値であるのみならず価値形態<八段落に訂正・価値形態ありて価値>
       ②次に、その規定を上着に与えたリンネルは、しかるに価値である、
       との全く人間の思考形式と同様の物象の判断の仕方を、三段落にて示していたの
       です。>
    この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り込む限り、
    それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労働である。

    それは価値創造労働の特定の性格を救済するだけのさまざまな種類の商品間の同等性の表現であり、
    これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間労働の共通の品質要約の仕
    方なのです。[18]

⑥There is, however, something else required beyond the expression of the specific character of the labour of which the value of the linen consists.
Human labour power in motion, or human labour, creates value, but is not itself value.
It becomes value only in its congealed state, when embodied in the form of some object.

In order to express the value of the linen as a congelation of human labour, that value must be expressed as having objective existence, as being a something materially different from the linen itself, and yet a something common to the linen and all other commodities.
   ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なものがあります。
    動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、それ自体価値はない。
    何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値になる。

    リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、
    その価値は客観的に存在するものとして表現されなければならず、
    リネン自体とは大きく異なるものとして、
    リネンと他のすべての商品に共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

       宮崎訳
   <(6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、
    実は、必要なあるものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労
    働」が、価値を作るが、その労働自体が価値なのではない。 その労働が、ある
    物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値となるのである。
    人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばなら
    ないし、かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リ
    ネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するものであ
    る。 問題は、すでに解かれている。>


    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的にランク付けさ
    れ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   このポジションでは、価値観  だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
   そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
   私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、コートはその関
   係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、着ていない時よりも多くのこと
   を数えるようにです。


   宮崎訳ーー<価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるも
   のとして、リネンに等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この
   等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すそ
   の明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。だが依然として、上着自体は、商
   品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。 このような
   上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。
   関係がなければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、
   リネンの価値を明らかにする。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは
   打って変わって偉そうに見せるのと同じようなものである。 >



   彼はそして、次の訳の誤りも提示している。
   新日本では、
   「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十
   分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成する
   けれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値に
   なる。リンネル価値を人間的労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、
   リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他の商品とに共通なあ
   る「対象性」として表現されなければならない。この課題はすでに解決されている。」
   (p87 後ろから 5行目~p88)

   この新日本訳や、岩波・向坂訳の誤りを彼は提示している。これは正しい!
   今日の既成の訳の誤りが、リンネルに対する上着の価値関係が、両者に共通な価値を、
   「上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない」
   ーーと強調している。
   如何にも、リンネルはこの価値関係において、自らの価値存在を対する上着において
   両者の社会関係を、価値の存在形態である上着において、表現しているーーのだから、
   この両者の共通性が価値であると、判断のまず第一を示し、すぐその続きをこの八段
   落にて示したのです。物象が判断したのです。


   八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
   ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
   この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
   そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値体として
   具体化された価値として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
   たとえば、Bの目の威厳がAの身体的な形をとっていない限り、さらには人の新しい父親と一緒に、その
   特徴、髪型、性格を変えない限り、AはBの「陛下」になることはできません。 他にもたくさんのもの
   があります。

   九段落
Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。

The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.
    コットンリネンの価値は、コモディティコートの身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
    によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;
    使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。

as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.
    価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。
    したがって、リネンはその物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が神の子羊と似ているように、コートとの等しさ
   によって明示されます。

   十段落
   We see, then, all that our analysis of the value of commodities has already told us, is told us by the linen itself, so soon as it comes into communication with another commodity, the coat.
   ⑩商品の価値に関する私たちの分析がすでに私達に語ったことは、リネン自体によって、それが別の商
   品であるコートとのコミュニケーションに入るとすぐに私たちに語られていることが分かります。

Only it betrays its thoughts in that language with which alone it is familiar, the language of commodities.
In order to tell us that its own value is created by labour in its abstract character of human labour, it says that the coat, in so far as it is worth as much as the linen, and therefore is value, consists of the same labour as the linen. In order to inform us that its sublime reality as value is not the same as its buckram body, it says that value has the appearance of a coat,
   それだけでは、それが馴染み深いその言語では、商品の言葉にその考えを裏切っています。
   コートは、人間の労働の抽象的性格で労働によって創造されたということを私たちに伝えるために、
   リネンほど価値があり、したがって価値がある限り、同じ労働 リネンとして示す。
    価値としてのその崇高な現実は、バックラムの体と同じではないことを私たちに知らせるために、
   価値はコートの外見を持っていると言いますが、

and consequently that so far as the linen is value, it and the coat are as like as two peas.
We may here remark, that the language of commodities has, besides Hebrew, many other more or less correct dialects.
   その結果、リネンは価値がある限り、それとコートは2つのエンドウのようになります。
   商品の言葉には、ヘブライ語以外にも多かれ少なかれ正しい方言があります。

   十一段落
By means, therefore, of the value-relation expressed in our equation, the bodily form of commodity B becomes the value form of commodity A, or the body of commodity B acts as a mirror to the value of commodity A.[19]
By putting itself in relation with commodity B, as value in propriâ personâ, as the matter of which human labour is made up, the commodity A converts the value in use, B, into the substance in which to express its, A’s, own value.
The value of A, thus expressed in the use value of B, has taken the form of relative value.
    ⑪したがって、われわれの等式のなかに表現された価値関係によって、
    商品 B の身体的形態は商品 A の価値形態となる、すなわち商品 B の体は商品 A の価値にとっ
    て鏡の役を務める。[19]
    それ[商品 A ]自身を商品 B との関係に置くことで、価値として本人自ら、それについて人間労
    働が仕上がったものとして、商品 A は使用価値を、B に転換する、
    その[Bの]中にそれ自身の、Aの、自分の価値を表すために。
    Aの価値は、従ってBの使用価値において表現されて、相対価値の形態をとっている。


     -------------------------------------------------------------------------------
   杉本提案
   第七段落
   <従来の翻訳の誤りは、七段落での価値の表現を①ーー価値がそれにおいて現れ  ーー
                         ②ーー価値が現象するところのものーー
                      対して ーー価値観      ーー直訳です。
                          ーー価値形態     ーー杉本提案
   と、このように、① ②は誤訳だと思いますす。
   これでは左極にて価値形態が形成されず、右極でできる、価値の現象形態になるから価値形態となる、
   との理解になります。

   第九段落 でのマルクスの異なる提案は、何か?
   ①したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。
   ②価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。 したがって、リネンはその
   物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

   ①は、物象の社会関係に伴なう商品語での批判をなすことで獲られた、人間語での語りです。
   ②は、物象の商品語での語り、そのものなのです。
   これは、この商品語での語りに依る、転倒した同等性関係での提示された価値形態なのです。

   マルクスは、この転倒をこそ示し・批判しています。

   英訳を何日も掛けて点検して理解出来ました。だからこれは、意識的な誤訳ですね!>








 

    一般的価値形態から一般的相対的価値形態への形成

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月10日(日)17時27分49秒
返信・引用 編集済
   C.価値の一般形態
       The General Form of Value
    (C1-7段)(再版八段落)

    (英和訳『資本論』からの引用
    https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


    「相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品その残りから排除されて、そし
   て同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に
   転換する。
   亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である;
   それはしたがってそれらのうちの全て、かつどれとも直接交換可能となる。
   その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。

   (<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹の状態になります。>
    <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >

   織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働であるが、結果として、
   一つの社会的性格を獲得する、すべての他の種類の労働と同等なものという性格を[獲得する]。

   価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式が、順繰りに亜麻布のなかに体現された
   労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そしてそれらがこのようにして
   織布することを、差別を立てられていない人間労働の明示の一般形態へと転換する。

   このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働は、その否定的な側面のもとにおいてばかりでな
   く提示される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた
   抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白に知らせるようにされている。
   この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元
   であり、人間の労働力の消費であることへの還元である。」(原P81)

   <前原訳><現行版 八段落>
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価物
    の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがって
    亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」

    杉本意見 だが
   ①英<身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。それゆえそれら
   のすべてと直接的に交換可能になる>
   ②再版<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他
   のすべての商品と直接に交換されうるのである。>(国民文庫P126 長谷部訳 資本論1P62上段)
   そこで、上記の二者を比較をしてみると次に示されている伝統的な訳は正しいのであろうか?
    A「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態」
    B「亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)」
   ーーという過去の翻訳・表現に込められているのは、誤訳であります。
   何故間違いなのか?
    イ身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態
   との訳とは違うものであり、この上記の意味は、商品世界の左極において諸商品が共同行為において与
   えるー共通に仮定された形態ーーなのだから、
   「一般的価値形態を構成する無数の等式」の示すものはを、よく検討すると、
   「商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格」ーーでありますし、その結論
   が、英直訳で示すと、
   <一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人
   間の労働力の支出に還元することである。>ーーと述べられたものなのです。
   これが、仮定ではなく、やっと定まった一般的価値形態であります。

   しかし、再版に示されている次の、<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>
   ーーとの表現では、第一の形態での等価物上着が直接的に受け取る価値形態のことと同じ意味ですから
   使用価値亜麻布が等価形態になってしまいます。
   一般的等価物亜麻布は・リンネルは、商品世界から除外されているがゆえにーーという肝心なことを省
   いた理解になっているのです。
   <リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>ーーではなく
   <身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態>
   との訳であれば良かったのです。
   このことを解読させる イ の表現の素晴らしさがあります。

   では、誤訳・誤読の因は何処にあるのか?

   <資本論の記述に戻ります。前原訳です。ここは、国民文庫岡崎訳・長谷部訳も全く同一です。>
   「亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の可視的な・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。
   織布、亜麻布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわち全ての他の労働との同
   等性を体現する形態に就く。一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労働一般の一般的現象形態と
   する。」

   (これは注意!これは第一の形態での、等価形態の独自性としての、裁縫労動が抽象的人間労働の実現
   形態となるーーと同じではない。むしろ、混同した見地からの訳なのです。)

   ここには、人間労動の化身として、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹となることで、その社会的
   性格、他のすべての種類の労働との同等性を獲得するーーのだから、をこそ示している。
   <織布を人間労働一般の一般的現象形態とする>
   ーーこの訳だと、全くの誤訳・最後に示される結論ーー
   <あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働力の支出に
   還元する>ーーを否定しているのです。)
   以上の再考に基づく英訳の提示であれば、その次の九段落の理解は、全く素直に理解できる。

   以下は、以上の点検とします。
   (英直訳)
    次のありがたい・感謝に耐えないグーグルにての訳は次であります。
    https://translate.google.co.jp/?hl=ja


    C.価値の一般形態
    The General Form of Value
    (C1-7段)(再版八段落)
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.

   英<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を変換
    し、それと同等の部分を果たしますか? ここではリネンはどうですか?
    普遍的な等価物に変換するーー身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された
    形態です。 それゆえ、リンネルはそれらのすべてと直接的に交換可能になる。


    再度次の訳を取り上げておこう。<前原訳><現行版 八段落>
    「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価
    物の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがっ
    て亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」

The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.

    <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >
    英<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な 蛹ー蝶 の状態になりま
     す。リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織りは、結果として社会的性格、他のすべて
     の種類の労働との平等の性格を獲得する。>

The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of

    英<一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての
      商品に組み込まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な
      形に変換する。>
    再版 岡崎訳 国民文庫 P126
     <一般的価値形態をなしている無数の等式は、リネンに実現されている労動を、他の商品に含まれ
      ているそれぞれの労動に等置し、こうすることによって織布を人間労動一般の一般的現象形態
      する。>

    以上から、「織布を人間労動一般の一般的現象形態」ーーという全くの誤訳・文章のつながりを無視
    し、逸脱していることが分かると思います。
    織布ではなく織布労動の性格の変化をこそここで論じているのに、翻訳者の彼の頭脳にあるのは、
    <リンネルの織布労動が人間労動の一般的実現形態>という、一般的等価形態の独自性を示すものな
    のです。

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.

    英<このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益
    な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、>


The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
    英<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、
    一般に人間の労働力の支出に還元することである。>


    (C1-8段)(再版九段落
  The general value form, which represents all products of labour as mere congelations of undifferentiated human labour, shows by its very structure that it is the social resumé of the world of commodities.
That form consequently makes it indisputably evident that in the world of commodities the character possessed by all labour of being human labour constitutes its specific social character.

     一般的価値形態、これは全ての労働生産物を差別されない人間労働の単なる諸凝結物として代表す
    る、は、まさにそれの構造によって、それは諸商品の世界の社会的要約であることを示す。
    そうした一般的価値形態は諸商品の世界のなかで人間労働である全ての労働に備えられた性格が、労
    働の特別の社会的性格をつくるということを争う余地のないほど明らかにする。

    <再度 上記訳を検討してみた。>

The general value form,
    一般的な価値形態、
which represents all products of labour as mere congelations of undifferentiated human labour,
    それは労働のすべての産物を未分化の人間の労働の単なる集合体として表しており、<代表ではない>
shows by its very structure that it is the social resumé of the world
of commodities.
    そのことで、商品世界の構造をとても明快にする社会的要約であるのです。
That form consequently makes it indisputably evident that in the world of commodities the character possessed by all labour of being human labour constitutes its specific social character.
    その結果、商品の世界では、すべての労働によって人間の労働であるという性質が、
    その特定の社会的性格を構成することは明白になります。


   The Interdependent Development of the Relative Form of Value, and of the Equivalent Form
        2,相対的価値形態とそれに相当する形式の相互依存的発展

①The primary or isolated relative form of value of one commodity converts some other commodity into an isolated equivalent.
     ①1つの商品の価値の第一次または孤立した相対的な形態は、他の商品を孤立した同等物に変換する。

②The expanded form of relative value, which is the expression of the value of one commodity in terms of all other commodities, endows those other commodities with the character of particular equivalents differing in kind.
     ②他のすべての商品に関して1つの商品の価値の表現である相対価値の拡大された形式は、種類が異な
       る特定の同等物の性質を有する他の商品を付与する。

And lastly, a particular kind of commodity acquires the character of universal equivalent, because all other commodities make it the material in which they uniformly express their value.
     最後に、特定の種類の商品は、他のすべての商品が一律にその価値を表現する素材になっているため、
       普遍的な同等の性質を獲得します。


③The antagonism between the relative form of value and the equivalent form, the two poles of the value form, is developed concurrently with that form itself.
    ③相対的な価値形態と同等の形態(価値形態の2つの極)との間の拮抗は、その形態自体と同時に開発
   される。

④The first form, 20 yds of linen = one coat, already contains this antagonism, without as yet fixing it.
According as we read this equation forwards or backwards, the parts played by the linen and the coat are different.
   ④リネン= 1コートの20ヤードの第1の形態は、すでにこの拮抗作用を含有しており、それをまだ固定し
      ていない。
     この方程式を前後に読むと、リネンとコートで演奏される部分が異なります。

In the one case the relative value of the linen is expressed in the coat, in the other case the relative value of the coat is expressed in the linen.
       第一の場合、リネンの相対値はコートで表され、他の場合にはコートの相対値はリネンで表される。

In this first form of value, therefore, it is difficult to grasp the polar contrast.
      したがって、この第一の価値形態では、極性コントラストを把握することが困難である。

⑤Form B shows that only one single commodity at a time can completely expand its relative value, and that it acquires this expanded form only because, and in so far as, all other commodities are, with respect to it, equivalents.
    ⑤B型は、一度に1つの商品のみが相対価値を完全に拡大することができ、他のすべての商品が同等であ
       る限り、この拡大された形を取得することを示している。

Here we cannot reverse the equation, as we can the equation 20 yds of linen = 1 coat, without altering its general character, and converting it from the expanded form of value into the general form of value.
     ここでは、リネン= 1コートの20ヤードの式を一般的な性質を変えずに展開し、展開した値の型から
    値の一般的な型に変換することができるので、方程式を逆転することはできません。

⑥ Finally, the form C gives to the world of commodities a general social relative form of value, because, and in so far as, thereby all commodities, with the exception of one, are excluded from the equivalent form.
     ⑥最後に、形式Cは、商品の世界に価値の一般的な社会的相対的形態を与える。なぜなら、それを
    通じて、すべての商品は、それを除いて同等の形態から除外されているからである。

A single commodity, the linen, appears therefore to have acquired the character of direct exchangeability with every other commodity because, and in so far as, this character is denied to every other commodity.[26]
     従って、一つの商品であるリネンは、他の全ての商品との直接的な交換性の特性を獲得しているよう
    に見える。なぜなら、このキャラクターは他のすべての商品に拒否されているからである[26]

⑦The commodity that figures as universal equivalent, is, on the other hand, excluded from the relative value form.
     ⑦一方、普遍的な同等物として表される商品は、相対価値の形態から除外される。

If the linen, or any other commodity serving as universal equivalent, were, at the same time, to share in the relative form of value, it would have to serve as its own equivalent.
     リネン、または同等品として機能する他の商品が、同時に、相対的な価値形態で共有する場合、それ
       は、それ自身の同等物として機能しなければならない。

 We should then have 20 yds of linen = 20 yds of linen;
this tautology expresses neither value, nor magnitude of value.
In order to express the relative value of the universal equivalent, we must rather reverse the form C.
     私たちは20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンを持っていなければなりません。
     この同音論は、価値も価値の大きさも表さない。
       普遍的な等価物の相対的価値を表現するためには、フォームCを逆にする必要があります。

This equivalent has no relative form of value in common with other commodities, but its value is relatively expressed by a never ending series of other commodities.
Thus, the expanded form of relative value, or form B, now shows itself as the specific form of relative value for the equivalent commodity.
     この等価物は、他の商品と共通の価値の相対的な形をもたないが、その価値は他の商品の終わりのない
       系列によって比較的表現される。
       したがって、相対価値の拡大された形すなわち形Bは、同等の商品に対する相対価値の具体的な形とし
       て現れている。







 

        初等または偶発的価値形態      

 投稿者:杉本  投稿日:2017年12月 6日(水)00時17分1秒
返信・引用 編集済
        <商品の価値が現象する形態,あるいは商品が自己の価値を表現する形態
      を,商品の価値形態と言う。だから,われわれに最初に交換価値としてつ
             かまえたのは,商品の価値形態だったのである。>
             ------このような認識は正しいのであろうか?
      つぎのとおり、点検してみた。

      大谷先生の価値形態論への取り組みの仕方は次のとおりです。


   商品および商品生産    大谷禎之介
   http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf
     第2節価値形態と貨幣
   (1)価値の現象形態としての交換価値
       われわれは商品の交換価値を分析して価値を析出し,価値が抽象的労働
      の対象化であること,価値の大きさは社会的必要労働時間によって規定さ
      れていることを明らかにした。そのなかで,商品の価値は人間の外部にあ
      る「物」に属するものでありながら,しかもまったく社会的な属’性である
      ことも分かった。
       そうであるなら,われわれが最初に取り上げた交換価値とは,じつは,
      価値が姿を現わしてくる形態,つまり価値の現象形態にほかならない,と
      いうことになる。商品の価値が現象する形態,あるいは商品が自己の価値
      を表現する形態を,商品の価値形態と言う。だから,われわれに最初に交
      換価値としてつかまえたのは,商品の価値形態だったのである。
      76
       こうしてわれわれは,分析によって,交換価値という現象から価値とい
      うそれの本質をつかみだしたので,ふたたび,といってもこんどは価値に
      ついてすでに得られた知識を前提して,この本質が取る形態,つまり価値
      が現われてくる形態を観察しよう。
       この価値形態の問題は,経済学の諸問題のなかでも初学者にとってとく
      に分かりにくいものの-つなので,ここでは思い切って簡略化し,商品の
      最も簡単な交換から次第に交換関係が発展して貨幣が生み出されるまでの
      過程をたどりながら,そのなかに含まれている価値形態の発展をごく簡単
      に説明することにしよう')。


   対してマルクスは次の把握をしています。英語版からのグーグル直訳です。

      SECTION 3   THE FORM OF VALUE OR EXCHANGE VALUE
      第3節 価値形態すなわち交換価値

  ①諸商品は、鉄、リネン、トウモロコシ、&cなどの使用価値、商品、または商品の形で世界に来る。
 これは彼らの普通の、家庭的な、身体的な形です。
 しかし、それらは商品であり、使用対象と、そして同時に価値のある保管所との、両方の目的を果たす2つの
 ものであるからです。
 彼らはそれゆえに、身体的または自然の形態と価値形態の2つの形態を持つ限りにおいてのみ、商品として、
 あるいは商品形態をとっている。

 Commodities come into the world in the shape of use values, articles, or goods, such as iron, linen, corn, &c.
This is their plain, homely, bodily form.
They are, however, commodities, only because they are something two-fold, both objects of utility, and, at the same time, depositories of value.
They manifest themselves therefore as commodities, or have the form of commodities, only in so far as they have two forms, a physical or natural form, and a value form.

 ②商品の価値の現実は、この点でDame Quicklyとは異なり、「どこにあるか」はわかりません。
 商品の価値は、物質の粗い物質とは正反対であり、物質の原子がその組成に入ることはありません。
 私たちが望むように、それだけで、単一の商品を回して調べますが、価値の対象である限り、
 それを理解することは不可能です。
   <杉本 ここは「商品の価値は、」であるはずなのに、定訳は次の「価値物」なのです。
   「それゆえ、あるひとつの商品をどんなにいじりりまわしてみて価値物としては相変わらず
   つかまえようがないのである。」>国民文庫P93 長谷部訳 も同一の訳です。
   日本語訳は、価値を価値物と示したのですね。価値の対象が、価値物ですか??? !!!
   驚きの訳ですね。私らが、理解できないはずです。>

 The reality of the value of commodities differs in this respect from Dame Quickly, that we don’t know “where to have it.”
The value of commodities is the very opposite of the coarse materiality of their substance, not an atom of matter enters into its composition.
Turn and examine a single commodity, by itself, as we will, yet in so far as it remains an object of value, it seems impossible to grasp it.

 しかし、商品の価値が純粋に社会的現実であり、同一の社会的物質、すなわち人間の労働の表現または実施
 形態である限り、これらの現実を獲得することは、 当然のことながら、その価値は商品と商品との社会関係
 においてのみ現れることがあります。
 実際、私たちは交換価値や商品の交換関係から、その背後に隠れている価値を得るために始めました。
 私たちは今、私たちに最初に現れたこのフォームに戻る必要があります。

If, however, we bear in mind that the value of commodities has a purely social reality, and that they acquire this reality only in so far as they are expressions or embodiments of one identical social substance, viz., human labour, it follows as a matter of course, that value can only manifest itself in the social relation of commodity to commodity.
In fact we started from exchange value, or the exchange relation of commodities, in order to get at the value that lies hidden behind it.
We must now return to this form under which value first appeared to us.

  ③彼が他に何も知らなければ、商品は価値形態の共通点を持ち、さまざまな身体的な形態の使用価値とは
 著しいコントラストを呈していることを誰もが知っています。
 私は、それらが彼らの貨幣形態を意味します。

Every one knows, if he knows nothing else, that commodities have a value form common to them all, and presenting a marked contrast with the varied bodily forms of their use values.
I mean their money form.

  しかし、ここでは、ブルジョア経済学によってこの業績がまだ試されていないという課題が課せられ、この
 貨幣形態の起源をたどり、商品の価値関係に暗示される価値形態の発達を 、その最もシンプルでほとんど目
 に見えない輪郭を、見事な貨幣形態に変えます。
 これを行うことで、同時に、お金で提示された謎を解決します。

Here, however, a task is set us, the performance of which has never yet even been attempted by bourgeois economy, the task of tracing the genesis of this money form, of developing the expression of value implied in the value relation of commodities, from its simplest, almost imperceptible outline, to the dazzling money-form.
By doing this we shall, at the same time, solve the riddle presented by money.

  ④最も単純な価値ー関係は、明らかに、一つの商品が他の商品と異なる種類のものであることである。
 したがって、2つの商品の価値の間の関係は、単一の商品の価値の最も単純な表現を私たちに提供する。

The simplest value-relation is evidently that of one commodity to some one other commodity of a different kind.
Hence the relation between the values of two commodities supplies us with the simplest expression of the value of a single commodity.

      --------------------------------------------------------------


 では次の検討に挑戦しよう。何故・大谷先生は次の提起をしたのか?

    「商品の価値が現象する形態,あるいは商品が自己の価値を表現する形態を,
     商品の価値形態と言う。」(上記大谷訳)

 質問ーー大谷先生のここで提示する形態は、第一の相対的価値形態の形成につながるものなのですか?
 等価物上着はリンネルの価値の現象形態になっていることで、直接的交換可能性の規定を右極にて受け取る
 けれども、この場合上着は自然的形態のままに価値形態とされるーーのではなかったですか?
 それでは等価形態であり、左極の相対的価値形態の形成となる価値形態が未だに受け取れていないのではな
 いですか?

  以上の質問を発することで、問題の所在が、上着との間でリンネルが構成する価値関係においては、
 左極の形成は上着が価値の現象形態であるのみでは、上着は価値形態となれず、形成不可能なのです。
 従って、大谷先生の論理は、肝心の価値形態の形成は前提にされ、不問事項なのであり、右極の形成
 が如何にしてなされるのか?をのみ問うものなのです。

    だから、<商品が自己の価値を表現する形態を,商品の価値形態と言う>のでは、
    相対的価値表現の質的側面は? 量的側面は?との問に回答できないものなのです。
    大谷先生が、上着が価値となることで、リンネルとの価値関係=物象の社会関係が、
    形成されていることの理解をこそ、排除しているのです。
    上着が価値物であることでは、表面的な相対的価値表現の量的関係である、物的関係
    を克服できないーーのですから、読者のここでの何故!をこそ・この質問を期待して
    初版とは異なって、マルクスは「価値物」と書くことで、この規定を超える物象の社
    会関係の登場への理解をこそ、労働者の主体的判断の重要さ崇高さをこそ、我々に訴
    えているのです。


  以上が、価値形態論の序文であり、前提事項なのであります。
  大谷先生は、この前提を全く踏まえていないために、「価値関係」に示されることの重大性を
  捨象しているのです。









 

 相手に暴走目こぼし権があったらどう対応しますか

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2017年12月 1日(金)20時47分21秒
返信・引用
   38年前仕事で仙台から一関に移り同じ仕事で聾唖者と仲良くなりいずれ家に遊びに来る約束を交わしていました。仕事を一緒にやろうという話も出ましたがそれが挫折してもこちらは目も悪くなって異存はなく、友達として仕事の機械をただで上げた。そしてお返しは望まないと念を押しています。
 ところが何年待っても来なくて親父と喧嘩になった。騙されたのだと言うのをそんな人でないとやり返して催促しても来なく訪ねるといろんな人が忙しそうですとさえぎった。
 心変わりしたのかと半場諦めて他の人と付き合って来ました。それが11年前に奥さんが盲ろう者友の会の通訳になったと聞いてファクスしたら今までのことは嘘だと判り怒ったら次期県聾唖協会会長婦人の一声で友の会にあいつを黙らせろとされて副会長が発言禁止にされ、更に小笠原利行事務局長がお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言い出した。これには馬鹿らしいと退会しました。後から全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心を押し付けて行った。親父を馬鹿と言う出所は石川会長だった。
 県庁も全通研も読み書きの出来ない知恵遅れ聾唖者の勝手な猜疑心からだと知っていた。石川君は親を馬鹿にして全てを白紙にし、約束守る事も詫びる事もしない。県にとって石川君も利行さんも県の看板の為辞めた理由はデマを流しかん口令で口封じされていた。
 最初の別団体県難連に行こうとしたら相談員の密告で友の会事務局長の奥さんのひとみさんから悪口妨害され内定が取り消された。
 これには怒って抗議したら大本家のおばあさんに脅迫電話された。大本家は山形の姉を呼びだした。姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなという。この後岩手県庁に抗議したら課長から親父を馬鹿と認めたらと言い出した。既にかん口令は広げられ更生相談所も社会福祉協議会(県本部)も障害者の社会参加推進センターも地元一関の社会福祉協議会も更に一関の身障協は口封じから入会お認めない。相手にするなと言う輪は広がり社会参加は妨害は11年で12回になった。関わった人も団体も全て沈黙させて友達も全て取り上げた。果たして暴走目こぼし権はあったとしてどう対応しますか。 岩手は説明も11年来ていない。厚生労働省は復興が叫ばれてか完全沈黙が保てるなら目を瞑るかのように質問も寄越さない。通訳差別も始めた。果たして暴走目こぼし権はあるでしょうか。完全沈黙で証拠も作れず諦めて社会参加だけにしても盲ろう者が友の会の手も借りずにあちこち行くのも県の面子に関わると勝手な理屈から妨害する。辞めたらどこへ行こうと勝手ではないか。看板団体の暴走を隠すために強権発動して障害者の一人くらいどうでもよいと社会参加は11年で12回口封じから妨害している、


 

久留間理論の誤り

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月28日(火)10時40分20秒
返信・引用 編集済
    商品語での価値形態論の解析と、この商品語批判を意図して、価値方程式を批判してきた
  マルクスの意図=記述が、この七~十段落の記述のなかに、あると思うので、点検します。
  堺の資本論を読む会の主催者は、この点の提示がありません。
  久留間先生ーー大谷先生の大先輩も同じくそれがないのですね。

  九段落ーー
  <したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。>

  これは人間様の分析で獲たものです。しかし、次のこの表現は、商品語での表現です。

  「 価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。
  したがって、リネンはその物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。」

  この商品語へのーー 批判は、次の分析をもたらすのです。


  資本論一章三節A の二 相対的価値形態の内実aの 7 8 9 10 段落

https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


  七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.

 方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的にランク付けされ、
 同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.

 このポジションでは、価値観  だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
           価値形態

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.

 しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.

 そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
 私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、コートはその関係から外
 れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、着ていない時よりも多くのことを数えるように
 です。


  八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.

  コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。それゆえ、人間の労働は
 それに蓄積されます。
 この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.

 そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値体として具体
 化された価値として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.

 たとえば、Bの目の威厳がAの身体的な形をとっていない限り、さらには人の新しい父親と一緒に、その特
 徴、髪型、性格を変えない限り、AはBの「陛下」になることはできません。 他にもたくさんのものがありま
 す。

  九段落
Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.

 ①したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。

The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.

 コットンリネンの価値は、コモディティコートの身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
 によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;

 使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。

as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.

 ②価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。 したがって、リネンはその物理的形
 態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.

 それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が神の子羊と似ているように、コートとの等しさによ
 って明示されます。

  十段落
   We see, then, all that our analysis of the value of commodities has already told us, is told us by the linen itself, so soon as it comes into communication with another commodity, the coat.

 商品の価値に関する私たちの分析がすでに私達に語ったことは、リネン自体によって、それが別の商品であ
 るコートとのコミュニケーションに入るとすぐに私たちに語られていることが分かります。

Only it betrays its thoughts in that language with which alone it is familiar, the language of commodities.
In order to tell us that its own value is created by labour in its abstract character of human labour, it says that the coat, in so far as it is worth as much as the linen, and therefore is value, consists of the same labour as the linen. In order to inform us that its sublime reality as value is not the same as its buckram body, it says that value has the appearance of a coat,

 それだけでは、それが馴染み深いその言語では、商品の言葉にその考えを裏切っています。
 コートは、人間の労働の抽象的性格で労働によって創造されたということを私たちに伝えるために、
 リネンほど価値があり、したがって価値がある限り、同じ労働 リネンとして示す。
  価値としてのその崇高な現実は、バックラムの体と同じではないことを私たちに知らせるために、
 価値はコートの外見を持っていると言いますが、

and consequently that so far as the linen is value, it and the coat are as like as two peas.
We may here remark, that the language of commodities has, besides Hebrew, many other more or less correct dialects.

 その結果、リネンは価値がある限り、それとコートは2つのエンドウのようになります。
 商品の言葉には、ヘブライ語以外にも多かれ少なかれ正しい方言があります。



  杉本提案
  第七段落
  <従来の翻訳の誤りは、七段落での価値の表現を①ーー価値がそれにおいて現れ  ーー
                        ②ーー価値が現象するところのものーー
                    対して ーー価値観          ーー直訳です。
                        ーー価値形態         ーー杉本提案
  と① ②は誤訳だと思いますす。
  これでは左極にて価値形態が形成されず、右極でできる、価値の現象形態になるから価値形態となる、
  との理解になります。

  第九段落
  ①したがって、コートがリネンとの価値等式では、コートは価値形態として機能します。
  ②価値として、それはコートと同じであり、今やコートの外観を有する。 したがって、リネンはその
   物理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

  ①は、物象の社会関係に伴なう商品語での批判をなすことで獲られた、人間語での語りです。
  ②は、物象の商品語での語り、そのものなのです。
   これは、この商品語での転倒した語りに依る、同等性関係での提示された価値形態なのです。

  マルクスは、この転倒をこそ示し・批判しています。

  英訳を何日も掛けて点検して理解出来ました。だからこれは、意識的な誤訳ですね!>


https://translate.google.co.jp/?hl=ja


  英明な久留間先生は、初版では物象の社会関係としての価値形態論であり、
  そして、そこに依拠しての再版では商品語での語りとしてのーー価値形態論・理解であるこ
  との認識では、スターリン経済学を凌駕している。
  しかし、この価値形態論では、物象の社会関係への批判をこそ為すのですから、
  マルクスは、物象の判断での理解を、商品語として提示・批判し、人間語での理解とと対比しています。
  これは、交換過程での物象の人格化である「人格の物化および物の人格化」(彼の第一の本P90)とは
  異なるのに、両者とを混同させているのです。この混同は、榎原さんの理解も同じくです。
  この基本的なところで、スターリン経済学への批判が、できていないのです。

  もう少し、その久留間先生の誤りの典型例を示しておこう。
  宇野説を批判して、価値形態論では次のことが語られるというのです。

    「わたくしはむしろ反対に、価値表現の関係においては、商品所有者ではなくて商品
    自身を主体として考えることが、ただに可能であるばかりではなく、方法的に正しい
    と考えるのである。それはなぜであるか。
    <20エルレのリンネル=1枚の上着>・・このリンネルの価値表現は・・それは商品
    としてのリンネルの本性からきているものだということがわかる。・・・
    だからそれは別に新たに価値の形態をえなければならぬ、そうしないと商品としての
    形態をもちえないからである。すなわち価値表現の必要はもともと商品そのものの本
    性から発するのである。」(『価値形態論と交換過程論』P89)

  しかし、続く十段落ではこの商品語批判があり、その成果にて、十一段落での
  「   したがって、われわれの等式のなかに表現された価値関係によって、商品 B の身体的形態は商品
   A の価値形態となる、すなわち商品 B の体は商品 A の価値にとって鏡の役を務める。」(英訳)
  ーーとの表明がなされているのに、後者を全く無視した理解ーーを示すのです。

  このように久留間先生の価値形態論は、物象の社会関係の転倒を示す商品語での提示はあっても、
  商品語批判が無しであります。



  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



   二章  交換過程
   直訳ですが、この第九段落には、長谷部訳のように
   商品世界から排除されることで
   「この商品の自然的形態が、社会的に妥当な等価形態となる」
   (長谷部訳 世界の大思想 資本論 1P78上段 9段落)
   ーーなどとの記述はないですね。

     最終の16段落
   「われわれはこの虚偽の仮象の確率を追求した。」
   ーーとあるように、むしろ、それは転倒した姿態なのですから
   9段落にあるように、価値形態であり、一般的価値形態であり、その次の貨幣形態
   なのです。
   何とも長谷部先生の、意識的な誤訳ですね。


    二章 交換
  次は、上記と同じ所からの引用です。訳は、そこを参考にしての機械訳です。
  https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan



 9
   In the direct barter of products, each commodity is directly a means of exchange to its owner, and to all other persons an equivalent, but that only in so far as it has use-value for them.

 製品の直接的な交換では、各商品はその所有者と他のすべての人との間で直接的に交換手段であるが、
 同等価値はあるが、その価値は使用価値がある限りである。

At this stage, therefore, the articles exchanged do not acquire a value-form independent of their own use-value, or of the individual needs of the exchangers.

 したがって、この段階では、交換された物品は、自分の使用価値や交換財貨の
 個々のニーズに依存しない価値形態を獲得しない。

The necessity for a value-form grows with the increasing number and variety of the commodities exchanged.
The problem and the means of solution arise simultaneously.

 交換される商品の数と種類が増えるにつれて、価値形態(a value-form)の必要性が高まる。
 問題と解決の手段が同時に発生する。

Commodity-owners never equate their own commodities to those of others, and exchange them on a large scale, without different kinds of commodities belonging to different owners being exchangeable for, and equated as values to, one and the same special article.

 商品所有者は、異なる所有者に属する異なる種類の商品が交換可能でなくても、同一の特別商品に値として見
 なされることなく、自分の商品を他の商品と同一視することは決してありません。


Such last-mentioned article, by becoming the equivalent of various other commodities, acquires at once, though within narrow limits, the character of a general social equivalent.
This character comes and goes with the momentary social acts that called it into life.

 このような最後の記事は、他の様々な商品と同等になることで、
 狭い範囲内ではあるが、一般的な社会的等価物の性格をすぐに獲得する。
 この性格は、それを人生に呼び出す瞬間的な社会行為と一緒に来て行きます。


In turns and transiently it attaches itself first to this and then to that commodity.

 順番に、そして一時的に、それはまずこれに、そして次にその商品に付く。

But with the development of exchange it fixes itself firmly and exclusively to particular sorts of commodities, and becomes crystallised by assuming the money-form.

 しかし、交換の発展に伴い、特定の種類の商品にしっかりと独占的に定着し、貨幣形態に結晶化するようになりま
 す。



The particular kind of commodity to which it sticks is at first a matter of accident.

 それが膠着する特定の種類の商品は、最初は偶然の問題である。


Nevertheless there are two circumstances whose influence is decisive.

 それにもかかわらず、その影響が決定的な2つの状況がある。


The money-form attaches itself either to the most important articles of exchange from outside, and these in fact are primitive and natural forms in which the exchange-value of home products finds expression;
or else it attaches itself to the object of utility that forms, like cattle, the chief portion of indigenous alienable wealth.

 貨幣形態は、外部からの最も重要な交換品に付くものであり、実際には、家庭製品の交換価値が表現を見つけ
 る原始的で自然な形態です。
 そうでなければ、牛のように先住民族の譲渡可能な富の主要部分を形成する有用性の目的にそれ自身を取り付
 ける。


Nomad races are the first to develop the money-form, because all their worldly goods consist of moveable objects and are therefore directly alienable;
and because their mode of life, by continually bringing them into contact with foreign communities, solicits the exchange of products.
(104)

 遊牧民族は、彼らのすべての財産がが可動品で構成されているため、直接的に譲渡することができるため、
 貨幣形態を開発する最初の人です。
 彼らの生活様式は、絶えず彼らを他ののコミュニティと接触させることによって、絶えず生産物の交換を求め
 るからなのです。。

  Man has often made man himself, under the form of slaves, serve as the primitive material of money, but has never used land for that purpose.

 人は、しばしば、奴隷の形で、自分自身を貨幣の原始的な物質として役立つが、その目的のために土地を使用
 したことはない。

Such an idea could only spring up in a bourgeois society already well developed.

 このような考え方は、既に十分に発展したブルジョア社会においてのみ生じうる。

It dates from the last third of the 17th century, and the first attempt to put it in practice on a national scale was made a century afterwards, during the French bourgeois revolution.

 それは17世紀の最後の3分の1から始まり、フランスのブルジョア革命の間に一世紀後に国家規模で実践され
 た。









http://

 

   私達が、価値形態論で抱えている課題は何か?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月22日(水)21時00分18秒
返信・引用 編集済
     私達が、価値形態論で抱えている課題は何か?

   久留間先生が、宇野先生との議論のなかで、戦後の価値形態論を築き上げてきたものが、
   相対的価値形態と等価形態とを混同させているーーこの克服が、問われていると明示して、
   自身と、大谷先生との議論のなかで、明らかにされたーーと
   そのことを、自身の著作として『貨幣論』のなかで提起したのでした。79年12月です。

   その提起に従って、その混同が修正、提案されたのか?といえば、それは全く無しなのです。
   60年ブンドであった、林氏の『労働価値説擁護のために』(98年7月著)の「第一部「商品」の意味す
   るもの」の「第五章・「価値形態」とはなにか」ーーにおいても、その変更は認めず、かっての久留間
   理論には、変更は認めない、として次のように表している。

    「第三形態はどうか。第二形態では、亜麻布が、他のすべての商品で自らの価値を表現していたが、
   第三形態では、今度は、他のすべての商品が亜麻布で自らの価値を表現し、亜麻布を一般的に価値形態
   (等価形態)にしている。第二形態と第三形態は、私的労動を社会的一般的労動として表わしている点
   は同じだが、第三形態ではその「統一的表現」がある点でちがっている。
   かくして第三形態で問題となるのは、ある商品が一般的等価形態として「排除」され、商品界に
   「統一的表現」を与えることである。形式的には、この排除される商品はなんでもいい。
   マルクスも先の引用にあるように、亜麻布が「排除」される条件として、ある人が亜麻布を多くの商品
   と交換し、従って他の人々も自らの商品を亜麻布と交換し、かくして亜麻布で諸商品の価値をあらわす
   ということを述べているだけである。」(『労働価値説擁護のために』P66~67)

   故・樺美智子氏の友人をよくアピールする60年安保のブンドの先輩である点にて、林氏の宇野経済学批
   判において、久留間理論に依拠して宇野経済学批判に心血を注ぐーーことには尊敬いたします。
   しかし、宇野経批判において、久留間理論に依拠したのは全くの誤りであったーーとおもいます。
   先に紹介したように、林氏は、「C 一般的価値形態」の「一 価値形態の変化した姿」を次のように
   まとめました。
   「第三形態では、今度は、他のすべての商品が亜麻布で自らの価値を表現し、
   亜麻布を一般的に価値形態(等価形態)にしている。」(上記)

   この表現に驚くのは、貨幣形態は商品世界から排除された貨幣商品によって成立するのではないーー
   あるいは「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する」(原P80)のであり、
   そして、「全体的価値形態から一般的価値形態に転化」することで、
   「形態 Ⅲ が最後に商品世界に一般的な全体的な相対的価値形態を与える」のであるが、
   「それは、ただひとつの例外をだけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除され
   ているからであり、そのかぎりである。」(原P82)
   ーーというここでのマルクスの回答に、何も注意していないのです。理解ができないのです。
   亜麻布が受け取る一般的価値形態が、等価形態になるのであれば、商品世界は、単一の商品になるので
   すから、物象世界は自己否定され、存在しない事になります。


   このように、全体的価値形態からの一般的価値形態の形成が、一般的相対的価値形態の形成をもたらす
   が、第二の形態では、展開された相対的価値形態の成立であり、第一の形態と同じく個別的な・特殊的
   な等価形態を受け取るーーことだと、マルクスは両者の形態の対比にこそこだわっている。
   第三形態で、商品世界において物象が<一般的価値形態だとリンネルを判断すば、・・・>ーーという
   問いがここにはあるのです。

   商品世界のなかで、人間ではなく物象が為す判断ーーだという最大の留意事項・注意、物象の社会関係
   の完成、に理解が及ばないと、この最後の完成された一般的価値形態の主体的判断・主体的行動によっ
   て、一般的な相対的価値形態が形成され、この形態からの排除においてのみ成立する一般的等価形態の
   形成は、何一つとして、対象外、了解不能なのです。

   だから、林先輩の欠点は、①第一の形態では物象の社会関係が如何にして、
   相対的価値表現の形態内実を価値形態との判断で、前提ではなく、相対的価値形態が形成されたのか?
   そして、②第三の形態では、一般的価値形態とのリンネルへの規定を与える物象の判断が、如何にして
   なされ、現象としてある物的関係を批判してきたのか?・・・この問題意識が無いことなのです。



     英和訳資本論
  次のありがたい・感謝に耐えないグーグルにての訳は次であります。
   https://translate.google.co.jp/?hl=ja


   B全体的な、または展開された相対的価値形態(国民文庫)
  英訳<たとえば、単一の商品であるリネンの価値は、商品の世界の無数の要素で表
    されます。他のすべての商品は現在、リネンの価値の鏡になります。

  英訳<したがって、初めて、この価値は、無差別の人間の労働の凝結として現れて
    いるのです。それをつくる労働者にとって、仕立て、耕作、鉱業、&cのいずれ
    の形態であろうと、他の種類の労働と同等にランクされる労働として明示的に
    明らかにされています。 コート、トウモロコシ、鉄、または金で表示しました

  英訳<リネンは、その価値形態によって、社会的関係にあり、もはや他の種類の商
    品とだけでなく、商品の世界全体とも関係しています。商品として、それはそ
    の世界の市民です。
    同時に、価値の式の間にない一連のことは、商品の価値に関して、それが出現
    する特定の形式または種類の使用価値の下での無関心の問題であることを示唆
    している。

https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi

   C 一般的な価値形態
    (C1-4段)(ドイツ語版ーー第五段落)
   ①三番目[C.価値の一般形態]のそして最後に展開された形態は諸商品の全世界の価値を単一商品の言
   葉を持って表す、すなわち、亜麻布は、そしてかくてわれわれにそれらの諸価値をそれらの亜麻布との
   同等性[等価性]によって提示する。
   ことごとくの商品の価値はいまや、亜麻布と相等しくされることで、それ自身の使用価値から区別され
   るばかりでなく、全ての他の使用価値から一般的に区別され、そしてそのまさに事実によって、それが
   全ての諸商品に共通なこととして表現されている。
   この形態によって、諸商品は、初めて、効果的に価値として互いの関係のなかに持ち込まれる、すなわ
   ち、交換価値として出現させられる。

    前原訳
    http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
     新たに獲得された形態は、商品世界の諸価値を、そこから排除された一つの同じ商品種類、
    例えば亜麻布で表現する。そしてあらゆる商品の諸価値をそれらと亜麻布との同一性によっ
    て表現する。
    亜麻布と同じものである諸価値は、今では、それ自身の使用価値から区別されるだけでなく、
    すべての使用価値から区別され、そのことによって亜麻布とあらゆる商品とに共通するものと
    して表現される。
    したがってこの形態は、初めて実際に、諸商品相互を諸価値として関わらせる、あるいは諸商
    品を互いに諸交換価値として現象させるのである。

    杉本註釈
  The third and lastly developed form expresses the values of the whole world of commodities in terms of a single commodity set apart for the purpose, namely, the linen, and thus represents to us their values by means of their equality with linen.
    <3番目の、そして最後に開発された形式は、商品の世界全体の価値を、目的のために設定さ
    れた単一商品、すなわちリネンで表しており、リネンとの平等によってその価値を表しています。>

The value of every commodity is now, by being equated to linen, not only differentiated from its own use value, but from all other use values generally, and is, by that very fact, expressed as that which is common to all commodities.
By this form, commodities are, for the first time, effectively brought into relation with one another as values, or made to appear as exchange values.
    <すべての商品の価値は、今やリネンと同じになることによって、それ自体の使用価値から区別され
    るだけでなく、他のすべての使用価値から区別され、すべての商品に共通する価値として表現されます。
    このような形で、商品は初めて価値として相互に効果的に関連付けられ、交換価値として現れるよう
    になりました。>

    対して、商品語批判に気づかなかった前原氏は、次の6段落をこのように理解している。
      『資本論』第 1 巻第 1 篇第 1 章完全解説  前原 芳文
      http://tabbreak.web.fc2.com/dai1syoushort.pdf

    「それに対して破線の下線部分では、上述の「表象としての交換関係」からそれに相応する
    「概念としての価値関係」が導かれている。そしてこの価値関係が20エレの亜麻布を相対的
    価値形態とする全体的価値形態、
    すなわち20エレの亜麻布を相対的価値を表現する諸等式だけではなく、
    20エレの亜麻布を等価形態とする全体的価値形態、
    したがって、それを提供する価値関係の諸等式と同じであることが語られている。
    それらの諸商品価値を相対的に表現する諸等式においては、他の諸商品が亜麻布を一般的等
    価形態とし、そのことに反射して諸商品自身が一般的相対的価値形態になっている。
    つまり、亜麻布を除く諸商品に一般的等価形態・亜麻布、したがって一般的価値形態がもたら
    されていることは明らかである。」

    前原さんは次のように、自身ではここを次のように訳している。
    前原訳(再版六段落)  http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf

    「前の二つの形態は一商品の価値を、唯一の他種類の商品によってであれ、それとは違う多数
    の商品の列によってであれ、表現する。いずれの場合にも、一つの価値形態が与えられること
    は、いわば諸商品個々の私事であり、商品は他の諸商品の助力なしに事を成し遂げる。これら
    の商品は互いに等価物という単に受動的な役割を果たす。
    それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。
    商品が一般的な価値表現を獲得するのは、全ての他の商品が同時にそれらの価値を同じ等価物
    で表現し、新たに登場する商品種類の各々もそれらの真似をしなければならないからである。
    そのこととともに、商品の価値対象的性格はこの物がもつ単なる“社会的定在
    (=現実の存在におけるこの物の社会性?訳者)”であり、<81>その全面的な社会的関係を通し
    てだけ表現され得るのであるから、価値対象性の形態も社会的に認められるものでなければな
    らないのだ、ということが明らかになる。」

    上記のドイツ語版だと ⑤ ⑥ 段落に示されている、
    <価値対象性の形態も社会的に認められるものでなければならないのだ、>
    との上記の訳は国民文庫の
    「したがって、諸商品の価値形態は、社会的に認められた形態でなければならない」ーーであり、
    上記の英語版のーー<それらの価値の形態は社会的に承認された形態でなければならない>ーー
    と示された訳が正しい、ことを示している。

    従って、前原氏の訳、
    ーー<価値対象性の形態も社会的に認められるのでなければならければならない>ーー
    では、すでに承認されている「一般的価値形態」が、過去形ではなく現在進行形になっている。
    英語版の訳でのーー「一般的価値形態」が<諸商品世界全体の共同の行為から結果として生じる>
    ーーとは、次のことを示したのです。
    第一・第二の形態とは異なって、獲られた価値形態が、進行形ではなく、過去形としてあり、
    次の、すでに形成され前提にされた・「社会的存在」・「全体性」から規定されたものとしての、
    存在する規定として一商品を除外した<商品世界での一般的価値形態>の把握にて、理解していな
    いのです。
    それは次の商品語批判の存在について、把握していないからなのです。
    英語版ーー「価値としての諸商品の存在は純粋に社会的なものであるから、この社会的存在は、
    それらの社会的諸関係だけの全体性によって表現される」(英語版)ーーとは商品語批判をすると、
    との表明なのです。前原氏だけでなく、久留間先生を始め榎原さんもそうであり、マルクス経済学の
    先生の多くが、物象の社会関係に基づく商品語での一般的価値形態ーー理解の錯誤に陥っているので
    す。
     そのことを次に探ってみます。

    ③  C.価値の一般形態
       The General Form of Value
    (C1-7段)(再版八段落)

    「相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品その残りから排除されて、そし
   て同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に
   転換する。
   亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である;
   それはしたがってそれらのうちの全て、かつどれとも直接交換可能となる。
   その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。

   (<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹の状態になります。>
    <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >

   織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働であるが、結果として、
   一つの社会的性格を獲得する、すべての他の種類の労働と同等なものという性格を[獲得する]。

   価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式が、順繰りに亜麻布のなかに体現された
   労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そしてそれらがこのようにして
   織布することを、差別を立てられていない人間労働の明示の一般形態へと転換する。

   このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働は、その否定的な側面のもとにおいてばかりでな
   く提示される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた
   抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白に知らせるようにされている。
   この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元
   であり、人間の労働力の消費であることへの還元である。」(原P81)

   <前原訳><現行版 八段落>
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価物
    の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがって
    亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」

    杉本意見 だが
   ①英<身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。それゆえそれら
   のすべてと直接的に交換可能になる>
   ②再版<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他
   のすべての商品と直接に交換されうるのである。>(国民文庫P126 長谷部訳 資本論1P62上段)
   そこで、上記の二者を比較をしてみると次に示されている伝統的な訳は正しいのであろうか?
    A「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態」
    B「亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)」
   ーーという過去の翻訳・表現に込められているのは、誤訳であります。
   何故間違いなのか?
    イ身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態
   との訳とは違うものであり、この上記の意味は、商品世界の左極において諸商品が共同行為において与
   えるー共通に仮定された形態ーーなのだから、
   「一般的価値形態を構成する無数の等式」の示すものはを、よく検討すると、
   「商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格」ーーでありますし、その結論
   が、英直訳で示すと、
   <一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人
   間の労働力の支出に還元することである。>ーーと述べられたものなのです。
   これが、仮定ではなく、やっと定まった一般的価値形態であります。

   しかし、再版に示されている次の、<リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>
   ーーとの表現では、第一の形態での等価物上着が直接的に受け取る価値形態のことと同じ意味ですから
   使用価値亜麻布が等価形態になってしまいます。
   一般的等価物亜麻布は・リンネルは、商品世界から除外されているがゆえにーーという肝心なことを省
   いた理解になっているのです。
   <リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態>ーーではなく
   <身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態>
   との訳であれば良かったのです。
   このことを解読させる イ の表現の素晴らしさがあります。

   では、誤訳・誤読の因は何処にあるのか?

   <資本論の記述に戻ります。前原訳です。ここは、国民文庫岡崎訳・長谷部訳も全く同一です。>
   「亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の可視的な・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。
   織布、亜麻布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわち全ての他の労働との同
   等性を体現する形態に就く。一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労働一般の一般的現象形態と
   する。」

   (これは注意!これは第一の形態での、等価形態の独自性としての、裁縫労動が抽象的人間労働の実現
   形態となるーーと同じではない。むしろ、混同した見地からの役なのです。)

   ここには、人間労動の化身として、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蛹となることで、その社会的
   性格、他のすべての種類の労働との同等性を獲得するーーのだから、をこそ示している。
   <織布を人間労働一般の一般的現象形態とする>
   ーーこの訳だと、全くの誤訳・最後に示される結論ーー
   <あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働力の支出に
   還元する>ーーを否定しているのです。)
   以上の再考に基づく英訳の提示であれば、その次の九段落の理解は、全く素直に理解できる。

   以下は、以上の点検とします。
   (英直訳)
    次のありがたい・感謝に耐えないグーグルにての訳は次であります。
    https://translate.google.co.jp/?hl=ja


    C.価値の一般形態
    The General Form of Value
    (C1-7段)(再版八段落)
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.

   英<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を変換
    し、それと同等の部分を果たしますか? ここではリネンはどうですか?
    普遍的な等価物に変換するーー身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された
    形態です。 それゆえ、リンネルはそれらのすべてと直接的に交換可能になる。


    再度次の訳を取り上げておこう。<前原訳><現行版 八段落>
    「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、亜麻布に一般的等価
    物の印を刻み付ける。亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがっ
    て亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。」

The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.

    <翻訳  the social chrysalis state  社会的な揺籃期の状態 >
    英<ここでは、リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織りは、結果として社会的性格、
    他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得する。>


The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of

    英<一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての
      商品に組み込まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な
      形に変換する。>
    再版 岡崎訳 国民文庫 P126
     <一般的価値形態をなしている無数の等式は、リネンに実現されている労動を、他の商品に含まれ
      ているそれぞれの労動に等置し、こうすることによって織布を人間労動一般の一般的現象形態
      する。>

    以上から、「織布を人間労動一般の一般的現象形態」ーーという全くの誤訳・文章のつながりを無視
    し、逸脱していることが分かると思います。
    織布ではなく織布労動の性格の変化をこそここで論じているのに、翻訳者の彼の頭脳にあるのは、
    <リンネルの織布労動が人間労動の一般的実現形態>という、一般的等価形態の独自性を示すものな
    のです。

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.

    英<このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益
    な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、>


The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
    英<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、
    一般に人間の労働力の支出に還元することである。>


 

  日本が囚われ続ける「米国占領下の戦争協力体制」の正体

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月20日(月)18時04分56秒
返信・引用
    次の日刊ゲンダイからの転載です。
  https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/217780/1
  著書で日本の歪んだ現実を指摘した矢部宏治氏/(C)日刊ゲンダイ

  日本が囚われ続ける「米国占領下の戦争協力体制」の正体

   2017年11月20日 敗戦後70年以上経ってもなお、日本は米軍の治外法権下にある 「半分主権国家」だ――。歴代政権が米軍と交わした密約の数々から、国民にひた隠す「ウラの掟」を告発したベストセラー「知ってはいけない 隠された日本支配の構造」の著者でノンフィクション作家の矢部宏治氏は、この国の行く末を憂える。これからも極めて異常な対米隷属関係を続けるのか、と。

   ■トランプ来日が見せつけた屈辱的取り決め

  ――先週来日したトランプ米大統領が、矢部さんが最新刊で指摘していた「日本の歪んだ現実」をまざまざと見せつけましたね。

 トランプ氏は訪日の初日、東京都下の米軍・横田基地から「入国」し、その後も埼玉県のゴルフ場、六本木にある軍事へリポートと、米軍専用の「横田空域」内を中心に各地を飛び回りました。その間、日本の法的コントロールはいっさい受けていない。ただ、多くの識者がその様子を見て、「主権国家に対して失礼じゃないか」と激怒していましたが、そこには根本的な認識不足がある。実は軍部だけでなく、米政府関係者は日米地位協定(第5条1項)によって、ノーチェックで日本に入国できる法的権利を持っているのです。だから日本人はトランプ氏に対してではなく、そうした屈辱的取り決めを結んでいる自国の政府と、その現状に対して激怒すべきなのです。

 ――大統領選中は在日米軍撤退をほのめかしていたトランプが、来日時には日米同盟を「宝」と持ち上げました。

 就任後、現在の日米の軍事的な取り決めが、いかに並外れて自国に有利なものか、よく理解したのでしょう。米軍は事実上、日本全土を基地として使える条約上の権利(基地権)を持っています。

 一方、例えば、かつてアメリカの本当の植民地だったフィリピンは、戦後独立した際に、米軍が基地を置けるのはこの23カ所に限ると、具体名を基地協定に明記しています。また、2003年にたった1カ月で米軍に完敗したイラクでさえ、駐留米軍に対し、イラク国境を越えて他国を攻撃することを禁じるという地位協定を結んでいます。他国の軍隊に対して「国内に自由に基地を置く権利」と、「そこから自由に国境を越えて他国を攻撃する権利」の両方を与えているのは、世界で日本だけなのです。

  ――米軍にすれば、まさに「宝」の関係です。

 そうした状況について、よく「戦争に負けたから仕方がない」と言う人がいますが、それは完全な間違いです。先ほどの、イラクが敗戦後に米国と結んだ地位協定の内容を見れば、そのことがよく分かります。

 ではなぜ日本だけが、そんなおかしな状態になってしまったのか。私もそれが疑問でずっと調べてきたのですが、最近ようやく理由が分かりました。最大の原因は朝鮮戦争(1950~53年)にあったのです。52年の日本の独立を挟んだ3年間、すぐ隣の朝鮮半島で起きていたこの激しい戦争が、その後の日米の軍事的関係や、ひいては「戦後日本」の在り方に、決定的な影響を及ぼすことになったのです。
  ――最悪な時期に、独立の交渉をしていたのですね。

 旧安保条約や行政協定(現・地位協定)は、朝鮮戦争で苦境に立ったアメリカの軍部が、日本に独立後も全面的な戦争協力をさせるため、自分で条文を書いた取り決めなのです。たとえば旧安保条約の原案には、「日本軍が創設された場合、国外で戦争はできない。ただし米軍の司令官の指揮による場合はその例外とする」と書かれています。

  ――今の自衛隊の立場が、その米軍の原案通りになりつつあることに驚きます。

 旧安保条約についての日米交渉が行われたのは、憲法9条ができてから、まだ4年しか経っていない時期です。だからさすがに国民に見える形では条文化できず、当時の吉田茂首相が米軍司令官との間で、「戦争になったら自衛隊は米軍の指揮下で戦う」という「指揮権密約」を口頭で結ぶことになったのです。

  ――これほど重要な取り決めを国民に60年以上も隠してきたのですね。

 加えて問題だったのは1960年の安保改定です。「対等な日米関係を」というスローガンの下、米国との交渉にあたった岸信介首相がウラ側の「基地権密約」で、朝鮮戦争勃発時に生まれた「占領下の戦争協力体制」を法的に固定してしまった。ですから私たちが今生きているのは、安倍首相がよく口にする「戦後レジーム」ではなく、祖父である岸首相が固定した「朝鮮戦争レジーム」の中なのです。

戦後初めて対米隷属が生命の危機を生む

  ――こんなおかしな体制が、どうして60年以上も続いてきたのですか。

 日本は戦後、数多くの米軍の戦争を支援してきましたが、そのことで日本国民が生命や財産を脅かされる心配はなかった。いくら米軍の爆撃機が日本から飛び立って北朝鮮やベトナム、イラクを攻撃しても、相手国には日本を攻撃する能力がなかったからです。しかも、米軍の戦争に全面協力することで日本が手にした経済的な見返りは、非常に大きかった。

  ――今は金正恩委員長とトランプとの挑発合戦が過熱する中、北朝鮮は日本に200発の中距離弾道ミサイルを向けています。

 だから今、戦後初めて日本人は、米国への軍事的隷属体制によって、自らの生命が危険にさらされるという全く新しい現実を生きているのです。なのに安倍首相にはその自覚がなく、北朝鮮に対する強硬姿勢を崩さない。極めて危うい状況にあります。

 ――とくに自衛隊の「指揮権」の問題については、ほとんどの国民が知らないと思います。

 この問題で日本と全く同じ状況にあるのが韓国です。でも韓国の人々は皆、米軍が韓国軍の指揮権を持っていることを知っている。朝鮮戦争が開戦した翌月、李承晩大統領がマッカーサー元帥に対して、公式に指揮権を移譲したという歴史的経緯があるからです。だから大統領選の時には、この指揮権の問題が必ず争点になるのです。

  ――日本は密約でその権利を認めてきたため、国民はカヤの外です。

 最大の問題は、米軍が「戦時における指揮権」だけでなく、事実上の「開戦の決定権」も握っているということ。韓国の例を見ると、実際に戦争が始まるはるか以前の段階で、韓国軍は米軍の指揮下に入ることになっています。もちろん日本も同じ状況にある。ただ違うのは、韓国では国民がその問題をよく理解しているために、文在寅大統領も国民の危機感を背景に、「韓国の了承なしに朝鮮半島で戦争を始めることは許さない」と、米国に対して意思表明をすることができた。

 ところが安倍首相は、世界中の指導者が韓国と日本で起きる巨大な被害を懸念して、「北朝鮮問題に軍事的解決などあり得ない」と述べる中、「異次元の圧力が必要だ」などと言っている。自国が攻撃される可能性を全く考えていない、恐ろしい状態にあるのです。

   ■朝鮮戦争の終焉こそ真の独立の始まり

  ――日本がこれから、特に注意すべきことはなんでしょうか。

 北朝鮮の大陸間弾道ミサイル(ICBM)が、遠からず米本土を射程内に収めることは既定事実となっています。そうした状況の中、米軍は日韓両国に「核兵器の地上配備」を強烈に求めてくると思う。1980年代に米国がソ連の中距離核ミサイルに対抗して、欧州の同盟国に中距離核ミサイルを持たせたのと同じ。日韓を前面に立たせ、自分たちは核の撃ち合いの外側にいて危険を避けるという状況をつくろうとするはずです。しかし、北朝鮮に対する日韓の核配備は自動的に、中国との間でも核を撃ち合いかねない「恐怖の均衡」を成立させてしまう。超大国・中国との間で、永遠に続く軍事的緊張が待ち受けています。

   ――自民党防衛族の石破茂元幹事長が「非核三原則」見直しに言及しているだけに不気味です。

 それを防ぐためにも、日本はいまだに休戦中の朝鮮戦争の平和裏な終結に協力すべきです。朝鮮半島で平和条約が結ばれれば、「朝鮮戦争レジーム」に基づいた日本のおかしな対米隷属状況も、終息へ向かう可能性があるのですから。

 (聞き手=本紙・今泉恵孝)

▽やべ・こうじ 1960年、兵庫県生まれ。慶大文学部卒。㈱博報堂マーケティング部を経て、87年から書籍情報社代表。2010年の鳩山政権の崩壊を機に日本戦後史の共同研究を始める。「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」など著書多数。


  1994年の北朝鮮危機の時に国防長官だったペリー
   ツイッターから次の三点を紹介します。

   7:10 - 2017年11月18日
   https://twitter.com/yujinfuse/status/931902536163794945
  布施祐仁
 これ、日本政府としては絶対に「イエス」と言ってはいけない局面だった。米朝が戦争になれば在日米軍基地は北朝鮮のミサイル攻撃の目標となる。アメリカの戦争でも実際に被害を受けるのは韓国であり日本。当時の金泳三韓国大統領が強く反対したため戦争にはならなかった。

   https://twitter.com/yujinfuse
  布施祐仁?
 1994年の北朝鮮危機の時に国防長官だったペリー氏が衝撃の証言。当時アメリカは北朝鮮の核施設への爆撃を検討。ペリーは日本政府に在日米軍基地の作戦使用の内諾を得るために訪日。日本政府にノーと言う機会を与えるつもりだったが、日本政府の答えは「イエス」だったという。

   布施 氏のツイートに対する次の意見が素晴らしい!
   転載しておきます。

   https://twitter.com/CMyaro/status/932013839213772801
  春夏秋冬?
 ペリーは1994年4月来日し、愛知和男防衛庁長官および総理に「内定」していた羽田孜副総理(新生党党首、1994年4月28日羽田牧内閣、同年6月30日村山内閣 )・外務大臣と会談して了解を得た、と 作戦計画「5027」(北朝鮮に攻め込み政権を崩壊させる軍事作戦)
14:33 - 2017年11月18日
 

 久留間理論の転倒批判 ②

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月18日(土)11時56分55秒
返信・引用
      久留間理論の転倒批判 ②
    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1564
   資本論再版での「廻り道」を巡っての久留間説への批判(その2)
   投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月15日(金)07時18分29秒

 http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1556  の改稿であります。
    この「廻り道」の現行版での提起は、初版とは異なるものであり、相対的価値形態の形成
   での、リンネルの価値形態上着へと辿っていく第一の出発点であります。
   事態の進行のなかで、上着が価値として等置される第七段落の前に、第三・五段落での解決
   事項が存在しており、そこでは、上着は価値の存在形態であり、価値物として規定されてお
   り、そして、その反対極での価値を織り出すリンネル労働は、抽象的人間労働と規定されて
   います。この反対極へと回らず、自極のままであった、裁縫労働は、人間労働と規定されて
   います。
    このような価値形態論の③・⑤段落をまず記載しておきます。

    「③だが量的.に等置されている二つの商品が同じ役割を演じているのではな
    い。亜麻布の価値だけが表現されるのである。ではどのようにしてか?
     亜麻布が自身の「等価物」である上着に対し関係することによって、または自
    身と「交換可能な物」である上着と関係することによってである。
    この関係において上着は価値の存在形態、価値物として通用する。というのは、
    そのようなものとして上着は亜麻布と同じだからである。
    他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立した
    表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつものであ
    る上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだか
    らである。」

    「⑤例えば価値物としての上着が亜麻布に等置されることによって、上着のなか
    に隠れている労働が亜麻布のなかに隠れている労働と等置される。確かに上着を
    つくる裁縫は亜麻布を作る織布とは違う種類の具体的労働ではある。が、織布と
    の等置は裁縫を事実上両方の労働において作用している同じものに、人間労働と
    いうそれらに共通の性格に還元する。
    そしてこの回り道を通って次のことが示されるのである
    : 織布もそれが価値を織る限りではなんら裁縫と区別する特徴をもつものでは
    ない、つまり抽象的な人間労働である。
    種類の違う諸商品の等価表現こそが価値形成労働の特殊な性格を現象させるので
    ある。なぜならこの性格は種類の違う諸商品のなかに隠れている種類の違う諸労
    働を事実上それらの共通のものに、すなわち人間労働一般に還元するからである
    17a。」
     http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
     私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品からの引用であります。

    ここでのリンネルと上着との抽象のされ方は異なるものですが、そんなことなどどうでも
   良かろうーーというのが今日の価値形態論解読の通説になっています。その代表が久留間説
   であります。その事柄を紹介してみます。

    「そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の
    秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうこと
    かというと、たとえば 20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というとき、
    20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、
    そういうことが行われうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値
    物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の
    大きさをあらわすことはできないはずである。
    ーーーー略ーーーー
    上衣を作る労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的労働であって、抽象的
    な労働ではない、上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに
    等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労
    働に等置されることになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元されるこ
    とになる。

    と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
    ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
    上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
    じめて自分の価値を表現するのである。」
     (『価値形態論と交換過程論』P7~8)

     (広島「資本論」を読む会)のホームページからお借りしました。
      http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2

    まず第一の反対論を挙げてみよう。
    上着が価値物としてリンネルに等置されることと、上着が価値の定在=価値存在とされる
   こととは、異なったことです。リンネルが価値存在とされるから、上着は価値の存在形態と
   して規定されます。これが質的側面であり、価値の大きさを表す」というのは全くの誤りで
   す。量的側面でこの質的側面を前提に、一定量の価値としてリンネルが上着に等置されるこ
   とでその量的側面である交換比率が示され、そして上着の価値体で価値表現がなされます。

    第二に、またその質的側面では、「価値の存在形態として、価値物として、認められ」
   (原P64)た上着がリンネルに等置されることで、価値の存在形態である上着の性格が
   回り道を経ることで現出してきます。
    この回り道を経過することで上着は人間労働一般として規定されて、リンネルは抽象的人
   間労働と規定されています。

    第三に、ここでの久留間さんの誤りは、マルクスのこの回り道を否定していることであり
   ます。これまで批判者が何故か触れない誤りです。

    「上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、
    それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置される
    ことになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元される」(久留間)

    ここで、「上着がひとつの価値である」(七段落)ことが前提になっていれば、久留間さ
   んの見解は正しいのですが、しかし、この五段落では上着は価値物としてリンネルに等置さ
   れることで、裁縫労働は人間労働一般に還元されていたのです。

    第四に、よくよくと考えてみれば、久留間さんの理解するように裁縫労働が抽象的人間
   労働に還元されるならば、この「回り道」で提言されたことは全くの不要な事にされてしま
   います。何故ならーーリンネルが抽象的人間労働のの凝固である価値として上着に等置され
   るからです。(しかし、価値物上着、それではその時々の商品関係であって、物象の諸関係
   としての基礎は形成されません)

    次の六・七段落で何がーー提示されていたのかであります。
    なるほど、久留間さんの述べるようにこの五段落でのリンネル織り労働が価値を織り出す
   ことが、右辺の裁縫労働においても価値を縫い上げる労働になっているのではないかと誰し
   も考えてしまいます。その疑問の解決を目指したのが、この六・七段落であります。

    そこで、次に、上着が価値物ではなく、価値ーーという規定にあることを明示した
   ⑥・⑦段落の提示であります。

    「⑥にもかかわらず、亜麻布の価値がそこから生じている労働の特殊な性格を表
    現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力または人間労働は価
    値を形成する、が、それは価値ではない。それらは凝固した状態、すなわち対象
    的な形態において価値になるのである。亜麻布を人間労働の凝固物として表現す
    るには、その人間労働が亜麻布自身と物的に異なり、そして同時にその労働が別
    の商品にも共通する一つの「対象的なもの」として表現されなければならない。」

    「⑦亜麻布の価値関係のなかで上着が亜麻布と質的に同じもの、すなわち同じ性
    質を有する物として通用するのは上着が一つの価値だからである。」

    六段落を経た七段落にて、「上着が一つの価値である」と示されていることは、上着が
   直接的に価値であるーーのではなく、このような回り道をしての成果なのです。

    この六・七段落の考察を経てみると、五段落にて左極でリンネル織りを価値を織り出す抽
   象的労働としてのみ規定し、右極については人間労働一般と規定したのは、この反省規定
   =物象の判断の特異性・特徴であることを私達が探りだすーー能動的主体的な営みが要求さ
   れる、マルクスが「どうしてですか?」との質問を我々にしているからなのです。
    私達自身の主体的営みにおいての返辞・回答が要求されているのです。

    そこで左辺の抽象的人間労働として規定されているリンネル織労働が、凝固しているもの
   として認められるのは、個別の物的なものとしてではなく両極の価値関係を構成している商
   品として、右辺に対する商品との共通性とは何か?との質問を発するーーことで、それは価
   値である、との回答をしているのです。

    私達は無意識のうちにこの回答を物象の判断に従って成しているのです。
   この上着は価値であるとの判断を受けてのみ、この三段落での提起が論証されたのです。

    「他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立し
    た表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつもので
    ある上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだ
    からである。」(三段落)

    そして、この論議を経てのみーー五段落での右辺の裁縫労働が人間労働一般の支出であっ
   たものが、やっと今度・七段落にて抽象的人間労働の凝固物として、価値として規定された
   のです。そして、やっと、この「亜麻布自身の価値存在が現象している」場面に到着するこ
   とで、価値物上着の規定を脱する地点に到着したのです。

   このように全く回りくどいことをマルクスが述べているのは、物象の登場・判断の推移の
   有り様を人々がたどれるように、彼が我々に質問を発しているからなのです。

    「上着がひとつの価値である」(七段落)と、リンネル価値が上着をその凝固したものと
   して判断できることで、上着はリンネルとの共通者を、その凝固したものである価値、とし
   て獲得したのです。
   ここで、提示されている「人間労働一般に、還元する」(五段落)ーーでは、物象の社会
   関係は成立していないこと、<上着が価値物>の規定がどうやって、価値の規定へと転化
   したのかをこそーーここに述べられているのです。

    第五にです。さて、その次の八・九段落です。

    「⑧実際に上着の生産では裁縫という形態で人間の労働力が支出される。すなわ
    ち上着に積み上げられているのは人間の労働である。この側面において上着は、
    たとえそれが擦り切れて大きく開いた糸目のあいだからその本質そのものが顔を
    のぞかせているわけでないにしても、「価値の担い手」である。そして亜麻布の
    価値関係のなかで上着は将にこの側面によって、身体を与えられた価値、価値体
    として通用する。上着の無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同じ種族がもつ
    美しい価値魂を上着に認めるのである。だが、同時に亜麻布に対して、価値が上
    着という形態を取ることがなければ、上着が亜麻布と向き合って価値を表現する
    ことはできない。(後略)」

    「⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価
    値形態として通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身
    体で表現される、つまりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるので
    ある。
    使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、価値としての亜麻
    布は「上着と同じもの」であって、したがって一着の上着のように見えるのであ
    る。こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
    亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。それはあたか
    も神の子羊との同一性において現われるキリスト教徒の羊という存在である。」

    さてと、久留間さんは、何故かこの⑧段落に対しては理解を示さず、⑨段落に対しての
    み、自らの解釈を述べている。

    「このばあいよくよく注意しなければならないことは、 20エレのリンネル・
    イコール1枚の上衣 という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自
    分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっている
    のではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態
    に─その自然形態がそのまま価値をあらわすものに─しているのだということ、
    そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自
    身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマル
    クスのいわゆる価値表現の回り道なのである。」
    (『価値形態論と交換過程論』P-8)

   ここでの次のような理解が、⑧ではなく、⑨段落に対しての理解を述べたものであること
   はすぐ見て取れることであります。

    「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──その自然
    形態がそのまま価値をあらわすものに──している」(久留間)

   再版ではーー
   「亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。」(同上)
   対して向坂訳は、
   「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、ちょうどキリスト者
   の羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」(向坂訳P97)
   ーーと述べられている。
    向坂訳に依拠すれば、この宗教的転倒批判が、<上着は価値としてリンネルに等しい>
   との理解に対しても向けられているーーことが次のように理解できる。

   「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、」ーーとの表現で、
   マルクスは価値形態を「価値魂」批判において受け取る(八段落)事柄が、転倒してしま
   い、肝心なことであるーー私達には亜麻布の価値存在の表現ではなく価値表現ーーとの誤
   解を必然化していることがらの、注意書きをここにしているのです。
    リンネルの価値形態上着ーーとの規定があって、始めて相対的価値表現が可能であり、
   そしてつぎに、(物象として)上着が価値表現の材料としての役立ちを行うことで、相対
   的価値形態が成立するのですし、この前提事項である<価値形態上着>での物象の社会関
   係の形成による価値関係の<上着は価値としてリンネルに等しい>という、同等性関係へ
   の転倒批判をこそ、ここ⑧-⑨段落に述べているのです。

    従って、「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──・・」
   (久留間)しているのではなく、「上衣を価値の形態に」ーーすることでの宗教的転倒が、
   「上衣は自分に等しいのだということによって、」との現象をもたらしている、と言うの
   がマルクスの意図であります。
   従って、久留間さんの主張は全くの誤りであり、次のーー
   「だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ、上着が亜
   麻布と向き合って価値を表現することはできない。」(⑧段落)
   ーー事を批判するものであったのです。

    この「価値が上着という形態を取る」ーーこの表現の意味は、その次の⑨段落にて、
   「上着形態は価値形態とされる。」、と明快に規定されている。ここには「価値表現」の
   前提が述べられている。なるほど物象の登場による転倒した形態においては、リンネルも
   上着も価値である同等性関係において、あるいは<上着は価値としてリンネルに等しい>
   との、前者と同じ宗教的転倒を、生み出しています。

    価値関係と同等性関係との混同をうみだす宗教的転倒が、この常識的見解を発生させた
   のです。

    第六です。
   おっと、最後の久留間さんの記述への意見を忘れるところでした。

    「抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する」
   ーー大谷先生が『貨幣論』にて、価値物と価値体の混同と久留間先生の誤りを指摘し、彼
   もまたその指摘は正しいとして、訂正を認めたーー事柄でした。
    しかし、この訂正事項は、久留間説の根幹に関わることであって、価値形態論で、ーー
   相対的価値形態の内実として価値形態上着があって、他商品リンネルの価値が表現される
   ーーことができるのに、リカード経済学のそのままに、上着が価値であり、価値体である
   ので、この上着によって価値表現がなされると理解していた、ことが暴露されたのでした。

    彼の誤りの原因は、このリカード経済学の誤りへの批判は理解しているにかかわらず、
    「そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で
    そういうものとしての上衣の身体で、はじめて自分の価値を表現する」(久留間)
   ーーことに示されるように、マルクスの次の提起を②の転倒像のなかで、宇野先生と同じ
   く理解している。
    マルクスは、物象の社会関係の形成が、①正像と②倒立象とを、
   「上衣にそういう形態規定性を与えた」ーー次の形態として与えたと表明している。

    「こうして、上着がリンネルの等価物となっている価値関係のなかでは、上着形
    態は価値形態として認められる。それだから商品リンネルの価値が商品上着の身
    体で表され、一商品の価値が他の商品の使用価値で表されるのである。
    使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違ったものであるが、価値として
    は「それは上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。この
    ようにしてリンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。
    リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れることは、キリスト教徒の羊的性
    質が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。」(原P66文庫101)

   ①正像としては、これは価値関係であるから、上着は価値形態として認められるから、そ
   のことで、リンネルの価値が他の商品の使用価値で表現される。
   ②倒立像としては、
   「価値としては「それは上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである」
   ーー同等性関係に転倒している。
   この同等性関係に転倒した関係について、宇野先生は支持することで、すでに解決済みの
   マルクスの問題とした五段落での、価値物上衣を縫い上げる裁縫労働とそれに反省規定さ
   れる織布労働の抽象についての自らの理解を久留間さんとは異なって語るとして、この九
   段落での抽象を語っている。

    しかし、宇野先生は、その前の八段落にて、
   「リンネルに対して、上着が価値をあらわすということは、リンネルに対して上着
   が価値という形態をとることなしにはできないことである。」
   (八段落原P66文庫101)ーーと語られたことが、再度この九段落にて語られて、この段
   落にては、価値関係について、その正立像と倒立像の対比を述べていることを無視してい
   る。
    しかし、この倒立像にしても、<価値としては、リンネルは上着に等しい >ーーに対
   して、宇野先生は、まず次の理解をしている。

   a)「・・・リンネル所有者は、リンネルの価値をリンネルと交換したいと思う他の
     商品、例えば上衣によって表現せざるをえないのである。その場合上着なる商品
     は彼にとっては、己にリンネルと同じ質のものとなっている。
     「使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違ったものであるが、価値とし
     てはそれは「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見える」(註)ので
     あってリンネルの価値は、上着においてその表現を与えられることによって、そ
     の使用価値とは分離した表現を得るのである。
     それは勿論リンネルを作る労働が、織物労働なる単なる有用労働としてではなく、
     上着を作る労働と等しいものとして
    b)少なくとも此の二種の異なった労働に共通なものとしての人間労働に還元される
     ことによるのであるが、
    c)それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間労働としてではなく、リンネルの織
     物労働を具体的な上衣の裁縫労働に等しいものにするといふ「回り道」をして行わ
     れる抽象である。」
     (『価値論』P142~144 『価値形態論と交換過程論』(P60孫引き)
     (註)は、資本論・原P66・八段落)

   杉本の意見ーー
   a)このように、マルクスはこの九段落での物象の社会関係が正立像で与える価値形態と、
   倒立像で与える価値形態との対比をしているのに、宇野先生は、その倒立象の方をこそ支
   持し、そして、ここでは価値形態がえられるのに、商品の二重性の他方であるーー価値が
   えられるーーと全くの誤解をしているのです。
   そして、得られた価値からしてと考えて、宇野先生は次の第二の誤解をしている。

   b)「・・・少なくともこの二種の異なった人間労働に共通なものとしての人間労働
     に還元されることによるのであるが・・・」(同上60~61)
     との理解を述べることで、超歴史的な人間労働に価値実体を還元ーーすることに
     連係させているのです。

   杉本の意見ーー「リンネルに対して上着が価値をあらわすことは、同時に、リンネルにと
   って価値が上着の形態をとることなしにはできないのである。」
   (資本論原P66)ーーというこの前の八段落でのマルクスの提示こそが、ここでの回答で
   あるのに、全くの誤解をして、価値実体によって、価値表現が可能であるーーという驚い
   た回答をしているのです。
   これでは、次の例文①のままでの理解であり、価値関係がここでの論じる前提であり、リ
   ンネルの価値存在は価値形態上着によって表現され、ーー
   「だから、価値形態は、ただ価値一般だけではなく、量的に規定された価値即ち価値量を
   も表現しなければならない。」(再版原P67)ーーとのマルクスの注意点を、全く無視し、
   価値関係を同等性関係に転倒させた、理解なのです。

    再度、提起すると、価値関係との物象の社会関係があることで、価値形態との物象の判
   断があり、リンネル価値の表現が可能なのです。この論理進行こそとても大切なのです。

   このように、宇野先生は、明らかに価値関係を同等性関係に転倒させることで、今題材に
   て示されている次の商品語の支持者となっているのです。

    ①「労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成すると
    いうことを言うために、リンネルは、上着がリンネルと等しいとされるかぎり、
    つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働から成っている、という
    のである。」
    ②「リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては
    上着にそっくりそのままである、と言うのである。」(同上原P67)

   このように、「a相対的価値形態の内実」の冒頭第一段落にて語られた「価値形態と価値
   の混同」との註17での批判は、この九段落での商品語批判に結びついていたのですし、そ
   の批判について何ら回答を示さなかった宇野先生は、リカード経済学の価値実体論そのま
   まであったのです。
    もう一度、価値形態である限りにて、上着は価値であり、そのことで価値表現が可能で
   あるのに、「価値としてはそれは『上着に等しいもの』であ」ーーることに転倒すること
   でも価値形態がえられる物象世界の姿の転倒像である後者を、宇野先生は支持したのです。

   以上の宇野先生の「商品語」支持を、久留間先生は次のように提案することで賛成をした。

   <価値としてはそれは「上着に等しいもの」>ーーとの転倒による価値形態の形成を、こ
   の内実面を省いて、価値表現としては支持する宇野先生の論理を、使用価値上着のリンネ
   ルへの等置であれば間違いであるが、
   「・・・(リンネルにとっては、上着は価値物としてのみ存在する)しかしそういうふう
   にいいかえさえすれば、、まことにその通りであると思う。」(『価値形態論と交換過程
   論』P61)ーーというように。

   c)「それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間労働としてではなく、リンネルの
    織物労働を具体的な上衣の裁縫労働に等しいものにするといふ「回り道」をして
    行われる抽象である。」(宇野 『価値論』 )

    しかし、久留間先生は、宇野先生がここに問題にしている原文の九段落での論理にだけ
   従うのではなく、巧妙に、再版第五段落での議論をも付け加えて、問題をすり替えてるこ
   とで、上記)cの宇野先生の説の批判をなしているのです。
   それは何故か?宇野先生が使った、「・・・それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間
   労働としてではなく、リンネルの織物労働を具体的な上着の裁縫労働に等しいものにする
   といふ「回り道」をして行われる抽象である。」ーーとの、「回り道」を、久留間先生は、
   再版第五段落での『回り道』であり、初版での「回り道」であると、誤解ーーしたためで
   す。
    しかし、宇野先生の使ったーーここでの「回り道」は、第五段落を意味したのではなく、
   また、第九段落への意見としての回り道、なのです。だから、むしろ初版での回り道をこ
   そ意味しています。

    何故か?そもそも宇野先生が議論している対象は、
   「リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れることは、キリスト教徒の羊
    的性質が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。」
    という転倒した虚像の形態にあるのです。

   久留間先生は、<価値物と価値体の混同>において、
   宇野先生の誤った「価値形態と価値の混同」の語りをしているーーのです。
    大谷先生によっての、『貨幣論』にて示された久留間さんの<価値物と価値体の混同>
   批判は、そのことをこそ指したのです。
    このように、「商品語」への批判において、価値形態論を語らないと、価値形態上着の
   役立ちにて、リンネルの相対的価値形態を形成し、その反省規定として、上着が直接的に
   価値形態となることで、等価形態を形成するマルクスの立論は、対象外にされ、何ら理解
   されないのです。

    上記のことに、やっとやっと(40年もかかって)気づくことで、今まで見逃していたの
   だが、商品語批判ができない宇野先生と同じく久留間先生の立論ーー見解は、次のところ
   にあったのです。

    <上着に・・・抽象的人間労働の直接的な体化物としての形態規定をあたえ>
   とは、転倒した・正像ではない、等価形態の形態規定を受け取るということであり、上着
   は直接的に価値体であるかに見えるーー等価形態の謎性ーーにだまされた事をこそしか意
   味しないのです。
   このことを見抜くためには等価形態のーー「生まれながらに価値形態をもっている」
   (註21)独自性ーーが示されて、その対比をなすことにて、
   「上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性と同様に、
   生まれながらにもっているように見える。」(原P72)ーー転倒へのが理解できます。
   直接的に価値形態であることは、直接的な交換可能性を示しますが、それは、相対的価値
   形態において上着がリンネルの価値形態であることでの、註21に示された反省規定を受け
   取る・物象の社会関係でのことなのです。

    このように、「上着は直接的に価値体」であっては、直接的に価値形態とはなれず、そ
   して、等価形態の謎性に示される、価値形態ではなくーー使用価値上着が「直接的な交換
   可能性」ーーを示す転倒した事柄であり、物象の社会関係の引き起こす、物的関係なので
   す。使用価値上着が直接的に交換可能性を示すことができるのは、上着が直接的に価値形
   態を受け取ることによっているのであり、「上着は直接的に価値体」であっては、そのこ
   とが成し得ないのです。

   久留間先生の転倒した見解は、次のところに書かれていましたので、比較のために紹介し
   ます。
                      20エルレのリンネル=一枚の上着・・
                      ・・・という価値方程式において、リ
                      ンネルは・・・
                      まずもって上着を自分に等置すること
   と同時に上衣は、こうした抽象的人間  によって上着に価値物としての、すな
   労働の体化物、すなわち価値物を意味  ち抽象的人間労働の直接的な体化物と
   するものになる。そういう形態規定性  しての、形態規定定をあたえ、そうし
   を与えられることになる。       た上ではじめて、この価値物としての
   (上記)               定在における上着の自然形態で、自分
                      の価値を表現しているのだということ
                      である。
                      (同上P56)

    このように、久留間先生は、<価値物上着がリンネルに等置される>ことで語られてく
   るーー商品語での語りの転倒性をこそーーマルクスが批判し述べることで、物象の諸関係
   である価値関係にて次のことが述べられていたことに気づかないのでした。

   ①右辺の上着は、直接的に価値形態を受け取るーー判断されると述べていることを久留間
   先生は、上着は価値物ではなく抽象的人間労働の直接的体化物と判断されている==形態
   規定を受けているーーと判断・理解したのでありますから、相対的価値形態の形成へと、
   この価値関係は向かわず、等価形態の転倒した形態の形成へと向かったのであります。

   ②価値形態上着は価値体と認められることで、上着は価値表現の材料としての役立ちがで
   きることが、①の対象となっているのは等価形態なのですから、直接的に上着は価値体と
   の判断を受けて、その姿のままに価値表現の材料となる転倒象なのです。彼にとって、等
   価形態の三点の独自性は持ちだす必要がないのです。

   ③このような転倒した理解にあれば、リンネルに対しては上着が価値形態と判断されるこ
   とで、相対的価値形態の規定ーー判断を物象がなしている、事を理解する必要が無いし、
   またーーできなかったのです。

    (以上は、再版での記述に忠実な理解であり、だれでも真剣に取り組むならばたどり着く
   見解ーー理解であります。この自明な理解をとどめて、混乱をのみ引き起こしてきたのは、
   初版の見解をこの再版に持込み、自明な理解に異を唱え、再版との混同のなかで、
   マルクスの説をかたることで、勝手に混乱を引き起こしてきたーー久留間さんの宇野批判
   ーーであることが理解できます。しかし、再版 一般的価値形態でのマルクスの論述を検
   討してみると、肝心のプルードン批判が、両極の形態からの、①一般的相対的価値形態
   ②一般的等価形態 の検討であり、①の反省規定として②が語られのですから、逆に、
   ②の反省規定としてもまた①が語られているのです。だから、②の等価形態を語っていて、
   その反省規定として存在する①の一般的価値形態であり、一般的相対的価値形態のことも
   そこに語っているのです。
   この特異なマルクスの論法は、初版にて更に倍増しているのですから、初版の見解に依拠
   して、宇野批判に取り組んだ久留間先生の論述は、多くの同様の人々の支持を集めるも、
   価値形態論で宇野説を批判することは実をみのらせなかったのです。)





 

久留間理論の転倒批判 ①

 投稿者:杉本  投稿日:2017年11月18日(土)11時52分20秒
返信・引用 編集済
     再掲
      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1569
   「人間労働が凝固しているところの形態」の第一・第二とは異なる第三の形態
   の特徴とは何か?
   久留間理論の転倒批判
   投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月30日(土)
     ーーーはじめにーーー
    第一の形態を作り出す相対的価値表現での左極にて「労働凝固体は上着として認められ、
   上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められる」(初版)ーーこ
   とで、(第二の形態を経た第三の形態にて)商品世界から排除されている右極の対極に一般
   的価値形態が形成され、商品価値の労働時間による表示がなされている、という自明であり
   ながら、何故かこれまで価値形態論を巡る論争にて、登場してこなかった、ここで掲げてい
   るマルクスの、なんともわかりやすい課題が主張されている、ーーので提示してみた。
    第一・第二の形態の、第三の一般的価値形態成立への共通課題が、ここに提示されており
   なんとも理解困難な価値形態論の論旨がーーー見えてくるのです。辿ってみます。

    A)「人間労働が凝固しているところの形態」ーーの第一・第二とは異なる
      第三の形態の特徴とは何か?
    現行版の第二節のa第五段落にて、「上着が価値物としてリンネルに等置されることによ
   って、」と示されたことは、
   ①自ずと第三段落での化学式に示されるように、「上着は価値の存在形態として価値物とし
   て認められる」ーーということであり、
   ②「他面ではリンネル自身の価値存在が現れてくる」ーー
   ーーことの論証のための第一段として述べられている。

   「価値物」とは、久留間先生がかって誤解していたように、等価物として等価形態の役立ち
   をなしていく存在ではなく、価値としての上着がリンネルの価値形態となることで、相対的
   価値形態の形成をなしていくーーそのための、その前段での規定であり、価値物と上着が規
   定されることで、対極のリンネルが価値と規定され、その役立ちをなしうるーー労働生産物
   がその時だけ商品になる、ところの瞬時的規定なのです。
    価値物上着の規定が止揚されるのは、六~七段落にてあるように、上着が価値としてみな
   される事態の進行中にてであり、物象の社会関係の登場によって、同じことをこそ示す次に
   示された三例によってなのです。この三例として表された事柄は、同じであり、再版での説
   明が最もわかりやすい。

    再版a相対的価値形態の内実<八段落>   <初版 第四段落>
                        とはいえ商品はやはり物象である。商品であ
    実際に上着の生産では裁縫という形態で  ることは、それが物象的に存在するものでな
   人間の労働力が支出される。すなわち上着  くてはならないことということであり、ある
   に積み上げられているのは人間の労働であ  いは商品は自分自身の物象的関係のなかで自
   る。                   分が何であるかを示さなければならないとい
   この側面において上着は、たとえそれが擦  うことである。
   り切れて大きく開いた糸目のあいだからそ   <初版 第五段落>⑤ーー1
   の本質そのものが顔をのぞかせているわけ    20エレのリンネル=1着の上着 また
   でないにしても、             はxエレのリンネルはy着の上着に値すると
   「Träger von Wert 価値の担い手」で        いう相対的な価値表現のなかでは、上着はた
   ある。そして亜麻布の価値関係のなかで上  だ価値または労働凝固体としてのみ認められ
   着は将にこの側面によって、身体を与えら  ているのではあるが、しかし、それだからこ
   れた価値、価値体として通用する。上着の  そ労働凝固体は上着として認められ、上着は
   無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同  そのなかに人間労働が凝固しているところの
   じ種族がもつ美しい価値魂を上着に認める  形態として認められるのである(註18a)。
   だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着  (上記国民文庫 今村訳初版P287~288)
   という形態を取ることがなければ、上着が   <初版附録>
   亜麻布と向き合って価値を表現することは  (c)価値関係のなかに含まれる相対的価
   できない。                   値形態の質的内容
    それは個人 A にとって王が個人 B の肉   ・・・・・
   体の姿で現われるだけでなくその顔つき、  しかし、価値であるかぎりでのリネンは同じ
   髪の毛、その他容貌の多くをその都度君主  人間労働の凝結物である。だからこの関係の
   となる者のものと取り替えるのでなければ、 内部では、上着身体はリネンと共通の価値実
   個人 A は個人 B を王の一人と認めて振る   体すなわち人間の労働を表現<「代表」>
   舞うことができないのと同じである。    (「代表」この誤訳は国民文庫岡崎訳ーー意味
    (資本論再版原P66)          が反転し等価形態になる)する。この関係の
                        内部では上着はただ価値の姿として、したが
                        ってまたリンネルの価値姿として、リネン価
                        値の現象形態としてのみ通用する。
                        このように価値関係に媒介されて、ひとつの
                        商品の価値はそれとは別のひとつの商品身体
                        で表現される。
                         (今村訳初版330~331筑摩書房)

   このように、ここでの課題ーー価値存在の表現・価値表現の如何にしてか?が、
   その解決事項ーー価値形態ーー上着と、このように、単純明快にマルクスの回答は
   してあったのです。
   上記再版で述べられたことを探ってみると次のとおりです。
    ①上着に積み上げられているのは人間の労働
    ②「価値の担い手」
    ③亜麻布の価値関係のなかで上着はまさにこの側面によって、価値体として通用する
    ④亜麻布は同じ種族がもつ美しい価値魂を上着に認める
    ⑤亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることで、上着が亜麻布と向き合って価値
     を表現する
    ⑥それは個人 A にとって王が個人 B の肉体の姿で現われるだけでなくーーその顔つき
     髪の毛、その他容貌の多くをそのつど君主となる者のものと取り替えなければーー個人
     A は個人 B を王の一人と認めて振る舞うことができないーーのと同じである。
     <価値形態上着の規定を受け取る物象の判断の提示>

    ここで、<個人 A は個人 B を王と認めて振る舞うことができない>と、示されたこと
   は、亜麻布と上着の価値関係が<諸物象の関係>であり、単に亜麻布に対して上着が価値体
   としての役立ちをしているのではなく、反省規定を受けて様々な姿態を見せる=価値形態と
   なることで、上着には<物象の判断>としての両者の行いが示されているーーということな
   のです。
    しかし、対して次の『初版』のここでのーー次の記述は、どうにも、容易くは理解させて
   はくれない。

     <「・・しかし、それだからこそ労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに
    人間労働が凝固しているところの形態として認められるのである(註18a)。」>
    (上記国民文庫 初版今村訳P288)

    「人間労働が凝固しているところの形態」ーーとは、ここでは価値形態の意味であるが、
   しかし、このことでマルクスが示しているのは、むしろ、そのことでの、第二・第三の形態
   との共通性での探求をこそ意図してのものです。再版で、まずはそのことを検討します。

    B)「人間労働が凝固しているところの形態」の第二の形態
     <一 展開された相対的価値形態>
    「一商品例えば亜麻布の価値は、今や、商品世界を構成する他の無数のElemente
   (自律的な)諸要因で表現されている。
   他の商品体のいずれもが亜麻布価値を映す鏡になる(註 23)。
   この価値そのものが実に初めて差異のない人間労働のゼリー(凝固)として表れる。
   というのは亜麻布価値をつくる労働は、それがどのような自然形態をもっていようと、また
   それが上着、小麦、あるいは鉄などに加えられていようと、明示的に他の人間の労働と同等
   だと認知されているからである。
   その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つのであるが、この関係は単に他の個々の商
   品種類との社会的関係ではなく、商品世界との社会的関係である。
   商品である亜麻布はこの世界の Bürger 市民である。
   同時に、市民の価値の諸表現――すなわち商品価値は、それが表れる使用価値の特殊な形態に
   無頓着であることを示す諸表現――が無限に続く列をなして存在する。」(原P77)

    ここでは次のように、新しい形態の特徴が示された。
    ①他の商品体のいずれもが亜麻布価値を映す鏡になる(註 23)。
    ②この価値そのものが実に初めて差異のない人間労働のゼリー(凝固)として表れる。
    ③その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つのであるが、・・・・
     (それが)商品世界との社会的関係である。

   このように、繰り返すが次のことを示した。
    ①リンネルの他の諸商品が「亜麻布価値を映す鏡になる」。
     あるいはリンネルの価値形態であることで、商品世界が形成されている。
    ②初めて価値そのものが人間労働の凝固ーーとして表れることができたのは、
     この価値形態を示すことで、商品世界が形成されたからなのです。
    ③その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つーーということですから、その意味
     は、展開された相対的価値形態をもつであり、商品世界の形成なのです。

     (註23)「だから、亜麻布の価値を諸上着で表すとき、人は亜麻布の上着価値
      のことを、また亜麻布の価値を穀物で表すときには亜麻布の穀物価値のこと
      を言っているのである。
      そのような表現の各々が物語っているのは、上着、穀物などの使用価値で現
      れているものは亜麻布の価値だ、ということである。
      「各商品の価値というものが、商品相互の関係を交換で示すから、われわれ
      は各々の商品の価値を・・・穀物価値、布価値として、というようにそれぞれ
      の商品に応じて、その商品が比較される商品をもって示すことができるのであ
      る; そしてそれゆえに、存在する商品の数だけ無数の様々な諸価値が存在す
      るのであり、さらに全ては現実的にもまた名目的にも等しいのである。」
      匿名の作品の編者である S. Baily はイングランドで世間を騒がせたのだ
      が、・・・・。」

    ここにマルクスが、この註23で示したリカード理論との対比でのベーリ理論の克服を、最
   も強調している。ここでのマルクスの主眼点は、自明にもリンネルの他の諸商品が、
   ーー「亜麻布価値を映す鏡になる」ーーであります。
   即ち、初版での提起であるーー<人間労働のゼリー(凝固)の形態>を商品が他の諸商品に対
   して、与えられていることで、商品世界が形成されているのです。

      a)価値鏡として人間労働の凝固が示されることでベーリ批判がなされ、
      b)価値実体の凝固が、このように価値形態として示されることで、
       リカードが批判されたのです。
      c)人間労働の凝固の形態ーーこそが、最大のマルクスの起点なのです。
      d)展開された相対的価値形態=その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つ

   第一の形態では、この関連が曖昧ですが、第一から第二、第三の形態へと辿ると、このベー
   リ批判の決定的意味が把握され、物象の判断での物象の社会関係=商品世界が形成される過
   程ーーを見つけることができます。
    更に、この課題を最もよくその特徴が示されたのが、C 一般的価値形態 であります。
   そこで、「一 価値形態の変化した性格」での八段落では、次のように提起された。

     C)「人間労働が凝固しているところの形態」の第三の形態
      一価値形態の変化した性格 八段落
      「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、
      亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。
     ①亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがっ
      て亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。亜麻布の身体形態が、全
      ての人間労働の可視的な化身・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。
     ②織布、亜麻布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわ
      ち全ての他の労働との同等性を体現する形態に就く。
     ③一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を(が)
      次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し(され)、そうすることで織布を
      人間労働一般の一般的現象形態とする。
     ④商品価値として対象的に表れる労働は、消極的に、すなわちあらゆる具体的な
      諸形態と有用な諸性質が捨象された現実の労働として表現されるだけではない。
     ⑤それ自身の積極的なNatur 本質もはっきりと現れてくる。商品価値として対象
      的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格、すなわち人間の労働能力の
      支出に還元された現実の労働である。」
      <番号は杉本追加。>(再版原P61 文庫P126~127 前原訳)

    上記段落は、初版「Ⅲ 相対的価値の、逆転した、あるいは逆関係になった第二の形態」
   の第二・三・四パラグラフで語られている事柄がまとめられている。

    以下、そのことを説明してみます。
    「商品世界の一般的な相対的価値形態は、」と提示する再版の規定は、初版での分析とは
   異なるものであり、一般等価物としてリンネルが商品世界から排除されているーーとして、
   相対的価値形態の対極に等価形態が対峙することを前提にした第一の形態・第二の形態とは
   異なります。この点は自明でありながら、第三形態を論じるのに、あまり触れられていない
   のです。

    再版の①「亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の可視的な化身・社会的一般的な蛹
   (さなぎ)として通用する」ーーとは、初版第二パラグラフの、「リネンは、・・他の全て
   の商品にとっての等価物の類形態として現れる」(今村訳P300)と同じであります。
   ②織布労働が、③「人間労働一般の一般的現象形態」となるーーとは、初版の同じく第二パ
   ラグラフでこう表されている。

      この等価物の類形態として現れているリネンは、
      「全商品に共通の価値の現象形態として、一般的な等価物、一般的価値身体、
      抽象的人間労働の一般的顕現形態となる。」
        (初版 同上)ーーと示された。

   ここでのーーリネンに示される「全商品に共通の価値の現象形態」の意味ーーを探るために
   は、この初版第一パラグラフにての次のことを探ればよいのです。

   「この統一的な相対的価値表現のなかではじめて、全商品は互いにとって価値としての姿を
   表わし、・・」(同上P299)と示されているように、ここで、述べられていることは、
   等価形態を示しているのではなく、現行版にて
   「一般的価値形態を構成する無数の等式は」と示された事柄であり、その等式の示すのは、
   「全商品は互いにとって価値としての姿」ーーなのです。
   だから、左辺のすべての商品の「価値の現象形態」と示されたのは、次のことなのです。

      初版三段落、上記の「一般的な等価物」を説明してこう述べている。
      「リネンが一般的等価物となるやいなや、事態は一変する。
      リネンをコーヒー、鉄、等々の他のいっさいの商品から区別して際だたせるの
      が、一般的等価物という特殊な規定であるが、その特殊な規定をおびたこの使
      用価値(リネン)は、今では、他のすべての商品の一般的価値形態、したがっ
      て一般的等価物となる。したがって、リネンのなかに表現された特殊な有用労
      働は、いまや人間労働の(一般的)顕現形態として、通用するようになる。」
        (同上P301)

    以上のことから私は、この事柄を次のように理解しました、
   ①ーー「リネンが一般的等価物となる」ことで、このようにリネンは一般的等価形態となる
      のではなく、「他のすべての商品の一般的価値形態」となる。
      上着・・等、個別的には価値形態であるのが、反省規定を受けてリンネルは一般的価
      値形態であるのです。
     (親として家族を表現するから子との親子関係が成立する。逆もしかりーー反省規定!
      親として家族を代表するーーでは等価形態!)
   ②ーー織布を人間労働一般の一般的現象形態とするーーとの再版の提起は、初版のここでの
      記述と同じく一般的等価形態の独自性を示すのではない。
   ③ーー「リネン織り労働は、人間労働の(一般的)顕現形態として通用する」と、同じくそ
      こでは一般的価値形態をこそがここに示されている。

    次に再版 ④ ⑤での「商品価値に対象化されている労働」、と示されている事柄は、初
   版第四段落では次のような転変があるのです。この理解はなかなか困難です。難しい!!!
    ここでのマルクスの提示は、①資本論冒頭での諸交換価値から諸商品に共通な価値を導き
   出し、その実体は、第三者であり、抽象的人間労働という分析での手法なのです。
   ここでの理論的な抽象で示される、ところのものは次のことなのです。

     ①初版第四段落の1
      「商品たちの社会的な関係とはどういうことかといえば 、今述べた商品たち
      の社会的実体を、・・・したがって相互に置き換え可能な仕方で、また相互に
      取り替えできる仕方で表現したものとして、自分たちを互いに処遇するという、
      ただこの一点に尽きる。」(今村訳P301)

    ここで示されているのは、明らかに、価値関係の量的側面なのです。
   だからここで示されるものは、価値であり、同等な大いさとしての価値量を示す、価値実体
   であります。
   そこで、次に示されているのが価値関係の質的側面であります。
   上記の量的側面にしても、その関係ができるのは、次のことに依っていると示す。

     ②同じく初版四段落の2
      「たんなる使用価値を商品に転化させるものだけが、使用対象を商品に転化さ
      せ、したがって社会的関係の中に置くことができる。これをおこなうものが、
      まさに商品の価値なのである。」(同上P302)

    ここには、価値関係との社会的関係が形成されるのは、どうしてか?
   ーーとの問いがあります。
    ここでは、上着が価値と判断されることで、左極での商品群のなかで、他の商品も同じく
   価値形態と判断される社会的関係があるーーと示されています。
   「また相互に取り替えできる仕方で表現したものとして、自分たちを互いに処遇する」ーー
   との上記は、明らかに、リンネルの他の諸商品群は、交換可能性の形態を受け取ったという
   ことであります。そこで、このことが次に表明されています。

     ③同じく初版四段落の3
      「したがって、商品たちが互いに価値として、人間労働の凝固物として待遇す
      る形態は商品の社会的形態である。だから商品の社会的形態および価値形態あ
      るいは交換可能性の形態は、まったく同じことなのである。ひとつの商品の実
      物形態が同時に価値形態であるなら、その商品は他の商品との直接的な交換可
      能性の形態を、したがって直接的に社会的な形態をもっているのである。」
     (同上P302)

    このように、「商品たちが互いに価値として、人間労働の凝固物として待遇する形態は商
   品の社会的形態である。」と示されることで、左極での商品群は、「価値形態あるいは交換
   可能性の形態」ーーを受け取ったのです。
    この関連を示すのが、第三の形態の左極では、価値であり・一般的価値形態なのです。
   上記の事柄は、再版の七・八段落にても扱われており、次のように示されている。
   a)「リンネル自身の現物形態がこの(商品)世界の共通な価値姿態」(原P81)だから、
   b)「リンネルの物体形態は一切の人間労動の化身」であり、だから次の反省規定をする。
   c)だから「リンネルを生産する私的労動が、・・他のすべての労働との同等性の形態」だ
   d)このように「一般的価値形態をなしている無数の等式」は「織布を人間労動一般の一般
     的な現象形態にする」ーーと示すことで、次の結論を得ている。
   e)そこで「商品の社会的形態」」「価値形態」「交換可能性の形態」は、同一だとーー示
     しているーーとのマルクスの提示なのですから、商品世界の商品群の示す、
    「商品価値に対象化されている労動は、・・・共通な人間労働という性格に、・・還元」
     ーーされたものとの積極的性格を示したのです。
   f)この提示は、商品世界のなかでの出来事だということを忘れると、
     この反省規定にて示されていることと、商品世界から排除されているなかでのリンネル
     の等価形態の規定との混同をしてしまうのです。
    (「他の商品との直接的な交換可能性の形態」の検討は最後にやります。)

    再版九段落での提起です。
      前提された次の八段落の提示を再確認すれば、ーー
      「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、
      亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。」
      ーー自ずと、このことをこそ反省規定した商品世界内部では次の規定を受け取
      ったのです。
      「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
      (凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態が商品世界
      を社会的に表現する物であることを示す。労働の一般的に人間的な性格が、こ
      の世界では、特殊な社会的性格をかたちづくっていることを一般的価値形態は
      明らかにしているのである。」(再版原P81)

    このように、第三の形態では<抽象的で一般的な人間労働>が、商品価値の実体になった
   と、明示しています。そして次のように、一般的価値形態が、初版・附録・再版ともに同じ
   意味にて表されたのです。

     a)「商品たちが互いに価値として、人間労働の凝固物として待遇する形態は商
       品の社会的形態である。」(初版上記)
     b)「価値形態は、諸商品が無区別の、同種の、人間労働の純粋な凝結物として、
       すなわち同じ労働実体の物(象)的な表現として互いに現れる、という形態
       でなくてはならなかった。いまやそれが達成される。」(初版附録 同上P351)
     c)「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
       (凝固)として表すこの形態は、(それ自身の構造によって)商品世界を社
       会的に表現する物であることを示す。」(再版上記)

    上記のマルクスの一貫した追求の所在が同一であることーーを見出す、マルクスの最大の
   主張点に気付く事ができたならば、ここにこそマルクスの追求の赤い筋道を見つけだすなら
   ば、ここに<相対的価値形態の内実>が示されており、それが、この第三の、一般的価値形
   態だけではなく、第二の展開された価値形態でもそうであり、そうして、第一の価値形態で
   も同じことを、マルクスは述べていたーーことが理解できるのです。
   以上の転回をなしてくるーーひと回りしてくることで、第一の次の主張の最大の重要性が明
   らかになってきたのです。この価値形態をーー等価形態である価値体のとる姿態としての、
   価値形態ーーと理解してきた久留間理論に基づく誤解への批判ができたならば、第一段階で
   は、等価形態ではなく、相対的価値形態の内実である価値形態の形成、として次のように論
   じられていたーーことが了解できる。

    第一段階です。
   ①初版ーー「労働凝結物は上着として通用し、上着は人間労働が凝結する形態として通
         用する」(初版今村訳P288)ーーと述べられていた。
   ②初版附録「(C)価値関係のなかに含まれる相対的価値形態の内実」で、次のように述べ
    ています。
      「・・しかし、価値であるかぎりでのリンネルは同じ人間労働の凝固物である。
      だからこの関係の内部では、上着身体は、リネンと共通の価値実体、すなわち
      人間の労働を表現する。この関係の内部では、上着はただ価値の姿として、し
      たがってまたリンネルの価値姿として、リネン価値の現象形態としてのみ通用
      する。
       このように、価値関係によって媒介されて、ひとつの商品の価値はそれとは
      別のひとつの商品の使用価値で、すなわちそれ自身とは異なる種類の別の商品
      身体で表現される。」(初版附録 今村訳P331)
   ③再版内実論ーー八段落で、次のように述べています。
      「亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ上着が亜麻布
      と向き合って価値を表現することはできない」

        上記の否定形を言い換えてみると、次の表現となる。
      <亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることで、上着が亜麻布と向き
      合って価値を表現する>

    以上から、この今までの記述を単独ではなく連ねて見てみると、どなたでも、次のことに
   はたと・・・気付く。

    再版での第一の形態でのマルクス記述は、交換のときに商品となることでの価値物の規定
   を、前提された価値関係にて、どのようにして価値形態を得ることで、価値の規定を受け取
   り、そして価値物の規定を止揚・克服することで、第二の形態を経た第三の形態にて、次に
   示す形態を得るに至ったのか?ーをこそ主題にしていたのです。今度は岡崎訳を引用です。

      「諸労働生産物を無差別な人間労動の単なる凝固としてあらわす、一般的な価
      値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であること
      を示している。」(再版九段落 原P81 国民文庫P127)

    このように、「価値関係のなかに含まれる相対的価値形態の内実」をこそマルクスは第一
   に解明しているというーー初版の提起に気付くならば、それは価値形態の秘密の解明として
   上着が価値形態となること(物象の判断があること)で価値表現がなされるのであって、そ
   のことにて、反省規定がなされ、上着が直接的に価値形態とされるのです。
   ところが、上着が直接的に価値体となることで価値形態を示す、久留間先生の説はーー大谷
   先生の説いたように、相対的価値形態の形成につながるものではなく、等価形態の形成にな
   るものなのです。次に示されたように・・・

      「20エルレのリンネル=一枚の上着・・・・という価値方程式において、リン
      ネルは・・・まずもって上着を自分に等置することによって上着に価値物とし
      ての、すなち抽象的人間労働の直接的な体化物としての、形態規定定をあたえ、
      そうした上ではじめて、この価値物としての定在における上着の自然形態で、
      自分の価値を表現しているのだということである。」
      (『価値形態論と交換過程論』P56)

    このように、「上着に・・・すなち抽象的人間労働の直接的な体化物としての、形態規定
   をあたえ」たーーとの理解であれば、等価形態が直接的に価値形態をとることに示されるこ
   とが転倒して、直接的に価値体として示されたもの、への理解でしか無いのです。
    このような、驚異の理解を示す久留間先生の提起したーー再版第五段落での回り道を巡る
   論争の提示は、全くの逆転・転倒したものなのです。
    むしろその提起は、初版での両極の形態の成立と混同した論理展開であり、そればかりで
   はなく、その物象の判断の存在の追求を否定するものでしか無いのです。そのことが、転倒
   した等価形態の追求へと課題を掏り替えさせていることが、やっとやっと眼に見えてくる。
   このように久留間さんの価値形態論は、物象の社会関係の成立を否定したものなのです。

     D 初版での第三形態での一般的相対的価値形態の形成は、如何にしてか?
    初版では、商品世界が、第二・第三の形態では登場していなかったことで、マルクスは、
   次の転回をしてしまったのです。そのことの再考察です。

      「・・・・・・・・・・・・ひとつの商品の実物形態が同時に価値形態である
      なら、その商品は他の商品との直接的な交換可能性の形態を、したがって直接
      的に社会的な形態をもっているのである。」(初版今村訳P302)

    このように、等価物が価値形態であるので、この交換可能性の形態に対しては直接的交換
   可能性の形態が対応することで、反省規定されているのです。
   マルクスは、この第一・第二の形態と第三の形態の相違がどこにあるのかを探求している。
   そこにはある特徴があるのです。
    第三の形態の特徴は次の段階を踏んでいます。
   ①「ひとつの商品の実物形態が同時に価値形態である」ーーすなわち、左極にて価値形態を
   示すならば、右極では<回り道>をへずとも、そのままに、直接的交換可能性の形態を受け
   取るーーのであり、等価形態を示すのです。このことから、両極にて諸商品は、互いを反省
   規定している、ということが、何度も何度もしつこくこの物象のなす反省規定を示すので
   す。

   ②しかし、この第三の形態では第一・ニでの価値形態の形成ーー相対的価値形態の形成によ
   るこの反省規定と同じくでは、右極に等価形態が形成できないのです。何故か?
   何故か???本当に、何度も何度も繰り返し言いたくなる。恐るべきはブルジョアイデオロ
   ギーの支配による思考の転倒であります。この自らへの反省を為し得なければ、次の事柄、
   マルクスの主張は、一切理解できない!!!
   第五段落での一般的な相対的価値形態の形式を紹介するために、第六段落にて極めて平易な
   主張をこそマルクスは、一般的等価形態の形成について我々に教えてくれる。

    第六段落
      「上着の相対的価値形態が一般的であるといえるのは、その形態が同時に他の
      全商品の相対的価値形態である場合に限る。上衣にいえることがコーヒー等々
      ににもいえるからこそ一般的なのである。
      したがって、当然のことながら、商品たちの一般的な相対的価値形態は商品た
      ち自身を、一般的等価形態から排除する。逆に、ひとつの商品、たとえばリネ
      ンは、それが一般的等価形態をもつやいなや、一般的相対的形態から排除され
      る。」(上記P303)
    第七段落
      「一般的な相対的価値表現においては、上着、コーヒー、茶、等々の各商品は
      自分の実物形態から区別された価値形態、すなわちリネン形態をもつ、そして
      まさにこの形態でこそ、商品たちは交換可能なものとして、・・・・互いに関
      係しあうのである。」(上記P304)

    初版の転回ーー論理は甚だ難しい!この七段落では、左極の商品群は、次の特徴にある。
   ①リンネルが一般的価値形態であるので、第六段落での「他の全商品の相対的価値形態」に
   なっていることを教えている。
   ②ここでの理解の困難は、相対的価値形態の形成が、前の二つの形態では等価形態の形成を
   反省規定したのに、第三の形態になると、新たな等価形態を対極に、形成しないのです。
   ③「他の全商品の相対的価値形態である場合」にこの左極では、一般的相対的価値形態にな
   る反省規定をなしていることで、あります。
   この反省規定はすでに、この上記の① ② ③として対象性を与えられているのです。
    そこで、
   「商品たちの一般的な相対的価値形態は商品たち自身を、一般的等価形態から排除する」
   ーーとは、何のことなのか?

   それは、すでにこの反省規定での、一般的な相対的価値形態の形成がなされるめには、前の
   第一‥第二の形態とは異なって、その役割において、すでにご用済みとなっているからこそ
   一般的等価物は一商品を除いてその埒外とされ、排除されるということではないのか?
   すなわち、一般的等価物が、一般的相対的価値形態の形成において、再版の展開によれば、
   形成されている商品世界に対しては役立つのではなく、そこから排除されることで、それを
   為し得るーーのですから、一般的等価形態の規定を得るのは、前の二つの形態とは正反対だ
   ーーというのだと私は思います。

   前の二つの形態では、両極ともに反省規定にて成立したのが、第三形態では、一般的相対的
   価値形態の形成として生ずる・商品世界から排除されることで、一般的等価形態が成立した
   のです。
   初版では、再版の五‥六段落において両極の形態を、商品世界という言わば定められた球状
   体と、そこから分離された商品種類リンネルというーー二つの分離した対象的形式として前
   提されていないために、商品群が受け取る価値形態ーー一般的価値形態がまず商品世界とな
   り形成されることが曖昧化されてしまう。

   しかし、この第七段落をよーく読むならば、以上の段落にて、そのことは明示されている。
        <上記再版の引用は前原訳>
         http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf


 

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