teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


 今回の選挙に対して明日を担う労働者大衆は、如何に立ち向かうのか?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月11日(水)16時15分22秒
返信・引用 編集済
  6:05 - 2017年10月9日
ツイッター 岩上安身
この選挙に際して、まったく改憲の危機感のない方が多いために、緊急事態条項って何?という方に、麻生
副総理が言ってた「ナチスの手口」で憲法変えようとはどういうこと?という人のために、ひたすら公共性
を鑑みて、採算性に目をつぶり、緊急事態条項のコンテンツフルオープンしました!


 <杉本ーー岩上さんのこのツイートをみて、彼の記事をみていたら、
 コモンズ会員==このコモンズ掲示板の管理人として、自らの独断と偏見の下で、
 彼の言わんとすることは、次のことではないか・・・と理解できたのです。>

 そのことでは、彼の意見に全くの賛同する者であり、この選挙にて問われていることが、
 あのミサイルの第一第二が、北海道と下北半島の公海上であり、
 しかも、人工衛星軌道よりもはるかに高い、
 地上5,00キロメートルに達していた事(9月15日のは、800キロ)に示されるように、
 (通販生活10月号 そしてツイッター 10月12日https://twitter.com/OrHiromi 後日追加)
 このことではの何らの危機でもないーー朝鮮民主主義共和国のミサイル発射などの諸行為をーー
 安倍・麻生の両幹部が、勝手に、日本帝国主義への敵対行為として造作するーー
 ーーそのことで、労働者大衆を社会排外主義であり、帝国主義の勢力へと動員することで、
 自らの延命を図るーーものとして、この衆院選がつかわれていること、
 この重大事実が誰の眼にも見えてきています。その確認・協同の意志を見定めることが、
 とても大事と思いますので、岩上さんが提示してくださった大切な認識を紹介します。


野次を飛ばす、批判されると逆ギレする、回答をはぐらかす――立憲国家の長としての自覚も品位も欠いた安
倍首相の数々の振る舞いに、国民は唖然としている場合ではない
岩上「ところが、日本の国会の審議の状況といったら、それはひどいものです。先ほども触れましたが、緊
急事態条項新設への動きに対抗するのに、野党は昨年、ひどく出だしが遅れてしまった。秋の国会も開かれ
ませんでしたし(※81)。そんななか、少なくとも1月になってから、野党議員の幾人かは安倍首相を厳しく
追及しました」

  福島みずほ議員が緊急事態条項の危険性を追求

2016年1月19日参議院予算委員会、
 社民党の福島みずほ議員
ーー「(緊急事態条項は)まさに内閣限りで、法律と同じ効力を持つことができるのであればですね、これ
はナチスドイツの『国家授権法』(全権委任法)と全く一緒」
 安部総理の答弁
「いささか限度を越えた批判だ」「緊急事態条項は諸外国に多くの例がある」「そうした批判は慎んで頂き
たい」


岩上「まず、社民党の福島みずほ議員が、参議院予算委員会で、緊急事態条項の危険性を指摘しました。
  『緊急事態条項、これはまさにナチスドイツの『国家授権法』(全権委任法)と全く一緒ではないです
  か』と。

  『ナチス』と呼ばれたからでしょう、安倍総理は最近お得意の逆ギレが出まして、『緊急事態条項は諸
  外国に多くの例がある。限度を超えた批判は慎んでいただきたい!』と(※82)。

  野党議員の質問に対して、『慎め!お前ものを言うな!』なんて、行政の長たる者が口にするべき言葉
  じゃありません。有権者の代表である国会議員は厳しい質問をするのが仕事で、それに答弁するのが首
  相の義務であるはずなのに、こんなことを平気で言うとは異常です」

樋口「中立の立場にある議長とか、この場合は委員長ですか、この発言を注意しなくちゃいけませんね」

岩上「そうですよ。言っていいことと悪いことがありますよね。そもそも福島議員の批判は限度を超えた批
  判でもなんでもなく、歴史的観点からしても明らかです。自民党の緊急事態条項は、もしかすると、
  ナチス以上に悪いかもしれない」

樋口「安倍総理がもし普通の総理大臣ならば、『おっしゃるようなことに万が一にもならないように、我々
  の政権は大丈夫ですから』と答えるべきところでしょう」

岩上「おだやかにね。たとえそれが嘘であっても」

樋口「それから、『緊急事態条項は、諸外国に多くの例があり、確かに第三世界の独裁国では、もう目を覆
  うような状態で使われておりますけれども、日本では日本の国民のレベルも高いから、絶対にこれは、
  あえて絶対にと申しますが、心配はございません』と、こう説明して欲しいですね」

岩上「もはや先生がスピーチライターになって、安倍総理に教えてあげたほうがいいんじゃないでしょうか。
  今の先生の口調、昔の大平正芳さんとか、福田赳夫さんとか、そういった方々の懐かしい言葉遣いです
  よね。『ああ』とか『うう』と言いながら、でも穏やかな言葉を選んで慇懃(いんぎん)に回答してい
  た、あの古き良き時代の自民党の言葉遣い(※83)。やっぱり、なんだか今はひどいですよね」


樋口「ペーパーを出してないんじゃないですか、安倍総理に。官僚はどうしているんでしょう?」

岩上「出しているんでしょうけど、官僚も困惑しているんじゃないでしょうか。答弁を求められてないのに
  自分で立ち上がって『民主党は!』なんて叫び始めたり。委員長も唖然、野党の議員も唖然ですよ。
  国民も唖然ですけど(※84)」

樋口「唖然としてちゃいけないんですよ。戦前の帝国議会で、政府委員席から『黙れ!』と言った陸軍の軍
  人がいるんですね。有名な事件です(※85)。非立憲の最たるものだと大騒ぎになりましたけれども。
  安倍総理の発言はそのくらい・・・」

岩上「非立憲的ですね。国民は、大騒ぎしなくちゃいけない」

樋口「はい」

岩上「野党議員の方々には、はっきりそう言っていただきたいところです。それでも、福島みずほ議員は質
  問をやめず、緊急事態条項の中身に切り込もうとしましたが、安倍首相はそれに一切答えませんでし
  た。いつもこんな調子です。『内閣の意思として緊急事態条項をやる』と、これだけ喧伝しているの
  に、いざその中身に関して議論しようとすると逃げるんです」

  「緊急事態条項」の中身の議論から逃げ続ける安部総理
  ーー安部総理
  「憲法改正草案の個々の内容について、政府としてお答えするのは差し控える」
  ーー翌27日、共産・志位和夫委員長
  (緊急事態条項は)独裁政治、戦争国家に道を開き、憲法九条改定につながる危険きわまりないもの
  だ」
  ーー安部総理
  「政府としてお答えすることはさし控えさせていただきます」
  ーー回答を頑なに拒否し続ける安部総理

岩上「民主党の岡田克也代表に対してもそうです。私がインタビューした時など、当初は岡田さんは、緊急
  事態条項についてさほど危機感を持っていらっしゃらなかったんですけど、しまいには『これは大変な
  ことなんじゃないか』とおっしゃるようになりました。

  1月26日の本会議でも、『現行憲法で具体的に何が足らないのか?』と厳しく追及なさったんですが、
  具体的な話に入ったとたん、安倍総理は『憲法改正草案の個々の内容について、政府として答えること
  は差し控える』と(※86)。

  翌27日にも、今度は共産党の志位委員長が『自民党改憲案の緊急事態条項は、独裁政治・戦争国家に道
  を開き、憲法9条改定につながる危険極まりないものだ』と批判して、中身についての議論に入ろうとし
  たんですが、またまた『政府としてお答えすることは差し控えさせていただきます』なんて、回答を頑な
  に拒否し続ける(※87)。

  要するに、安倍政権としては、国民に知れ渡らなきゃいいわけでしょ、緊急事態条項の危険性が。
  あなたが売りつけてくる商品は何かと尋ねられれば約款なんかを説明しなきゃいけないのがセールスマ
  ンだとしたら、そのまさにセールスマンが、約款などの説明は一切なしに、それはお答えできません、
  ただポンと判子だけ押してください、っていうようなものだと思うんです。

  多くの人がまだ知らないでいる間に時間稼ぎをして、選挙さえやってしまえば後はこっちのものだとで
  も思っているんでしょう。これって非常に危険な状態じゃないかと思うんですが、この点はいかがで
  しょうか?」

樋口「まったくですね。自由民主党総裁として自ら憲法改正草案を公にしてるわけですし、しかも首相とし
  て憲法改正をやるんだと繰り返しているのですから、その内容をしかるべく説明するのは政府としての
  義務でしょう」

(※81)秋の国会も開かれませんでした:政府・自民党は、2015年10月15日、例年秋に召集する臨時国会の
年内の召集を見送る方針を表明した。日中韓首脳会談やアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議など、
11月下旬まで安倍晋三首相の外遊日程が立て込んでいることや、大筋合意した環太平洋戦略的経済連携協定
(TPP)の国会承認が来年となる事情を考慮してのことだという。

 これに対し、民主・維新・共産・生活・社民の野党5党は10月21日、125人の議員の連名で衆議院議長に
対し召集要求を行ったが、政府は「首相の外交日程が立て込んでいる」「かつて要求があっても臨時国会を
開かなかった事例もある」と言いつつ、召集に応じなかった。

 憲法53条に「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の4分の1以
上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」と定められているにもかかわらず、であ
る。

 2012年の総選挙直後、安倍首相があるテレビ番組で「みっともない憲法ですよ、はっきり言って」と発言
した(毎日新聞2012年12月15日『遊説録』)ことにも表れているように、安倍政権はこれまでも憲法軽視
の姿勢を露わにしてきたが、憲法に基づく野党の国会召集要求を拒んだこの一件は、改めてそれを裏付ける
こととなった(参照:産経ニュース)。

(※82)「緊急事態条項は諸外国に多くの例がある。限度を超えた批判は慎んでいただきたい!」と:2016
年1月19日、参院予算委員会において、社民党の福島みずほ議員が自民党の憲法改正草案の中に明記されてい
る「緊急事態条項」の危険性について指摘。安倍総理に答弁を求めた。

 これに対し、安倍首相は要領を得ない発言を繰り返していたが、福島議員の『緊急事態条項はナチスの全
権委任法と同じ』という指摘に激高『そのような批判は慎んでいただきたい!』と、威丈高に福島議員の質
疑を封じ込めようとした――IWJはこのときのやり取りを完全文字起こしし公開している。ぜひご覧いただき
たい。

超重要!!【国会ハイライト】
ついに国会で緊急事態条項の危険性が取り上げられる! 緊急事態条項は「ナチスドイツの国家授権法と全
く一緒だ」福島議員が追及! なんと安倍総理は中身について答弁せず逃走! 2016.1.19


福島みずほ議員(以下、福島議員)「社民党の福島みずほです。憲法改正についてお聞きします。

  総理は憲法改正の発議ができるように参議院選挙で改憲勢力の3分の2以上の獲得を目指すとおっしゃっ
  ています。自民党は既に日本国改正草案を発表しています。どれも極めて問題ですが、この中のひとつ、
  『緊急事態宣言条項』についてお聞きをします。

  まず緊急事態宣言からやるのではないかと私は思っておりますが、この新しく自民党が設けている第9章
  『緊急事態』。これはまさに効果のところが、とりわけ問題です。

  これは内閣で99条1項、『内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる』『内閣総理
  大臣は財政上必要な支出、その他の処分を行ない、地方自治体の長に対して、必要な指示をすることが
  できる』となっています。

  総理。国会は唯一の立法機関です。しかし、内閣が法律と同じ効力を持つことができる政令を出すので
  あれば、立法権を国会から奪うことになる。国会の『死』ではないでしょうか?」

安倍総理「この草案につきましては、我々野党時代、谷垣総裁の下で作られた草案でございます。えー、大
  規模な災害が発生したようなこれ緊急時の事を言っているのでございまして、平時にですね、えー、行
  政府がこれは、えー、権限を持ってやるということではないわけであります。

  えー、まあ大規模な災害が発生したような緊急時において、えー、国民の安全をまも、守るため、国家、
  そして国民自らがどのような役割を果たしていくべきかを、まあ憲法にどのように位置づけるかについて
  はですね、まあ極めて重く大切な課題と考えております。

 (咳払い)えー、そして、また他方ですね、えー、自民党の、えー、憲法改正草案の個々の内容について、
  政府としてはお答えをすることは差し控えたいと思います。まあ、いずれにせよ、まぁ憲法改正には国
  民の理解が必要不可欠であり、まあ具体的な改正の内容についても、国会や国民的議論を、と、理解
  の、理解の深まりの中で、自ずと定まってくるのではないかと、こう思っておりまして、引き続き、新し
  い時代にふさわしい、いー、憲法のあり方について、えー、国民的な議論と理解が深まるよう、努めて
  まいりたいと考えております」

 ※上記にように、草案の内容を説明することもせずに、
 「憲法改正は国民の理解が必要である」
などとまったく矛盾したことを、ひとつのセンテンスの中で並べて話している。
「国会や国民的議論の深まりにつとめていく」
とも述べている。

なのに、自らが「3分の2の議席を獲得する」「改正の発議をする」「対象とするのは、
自民党改憲草案の98条、99条の『緊急事態条項』である」などと言いながら、
その改正案の条項の中身については答えない。
これでは、国会での議論も国民的議論の深まりも期待できない。

福島議員「総理が改憲勢力の3分の2以上の獲得を目指すと、すでに言っていて、
  しかも日本国憲法改正草案が出ていますので、聞いております。

  この中の自民党の草案の中でですね、事後に国会が不承認をする、
  国会の承認を求めるとなっておりますが、国会が承認しなかった場合、
  その政令の処分によって、行われたことはどうなるんでしょうか。
  政令の効力はどうなるんでしょうか」

安倍総理「まっ、今申し上げましたようにですね、えー、私が今ここに座っているのは、内閣総理大臣とし
  て座っているわけで、えー、ございまして、えー、憲法の、おー、改正案の中身についてはですね、
  まさにこれから、あー、まあ憲法審査会においてですね、えー、ご議論をいただきたいと、えっ、この
  ように思うわけでございまして、こうした議論が深まっていく中において、この、おのずとどの項目か
  らですね、え、改正をしていこうかということが定まっていくわけで、えー、ありまして、それ以上、
  ここの条文について、私がここで述べることは差し控えさせていただきたいと思います」

福島議員「きわめて問題ですよ。なぜならば、総理は今度の参議院選挙で、憲法の改正の発議ができるよう
  に、3分の2以上の獲得を目指すと言い、既に自民党は発表しているわけで、自民党総裁として、どうい
  うふうになるのか、議論をすべきではないですか。

  参議院選挙のひとつの争点は、戦争法廃止法案、これに賛成か反対か。そして、憲法改正について、
  どう考えるか、もちろん新自由主義か、社会民主主義か、1%のための政治か、99%のための政治家
  か、ありますが、憲法改正は極めて重要なテーマです。

  先ほど申し上げましたが、これ(自民党の改憲草案には)、国会が不承認にした場合、承認が得られな
  かった場合の効力について規定がありません。これはきわめて問題です。憲法審査会でも学者はこのこ
  とを規定しています。

  で、この緊急事態宣言条項ですが、総理、5年前の東日本震災、原発・震災は、憲法に緊急事態がなかっ
  たために、問題があった、というふうにお考えですか?」

安倍総理「まあ、今、まあ、例えば、あー、この、まあ緊急事態についてですね、自民党の中で議論があっ
  たのはですね、えー、まあ、あの時も、えー、地方選挙においては、これは延期をするという措置がな
  されたのでございますが、まあ国会議員についてはですね、えー、そういう対応ができない中におい
  て、まあ、どうしていくかと、いうことも議論になったと、こういうふうに承知をしております。

  まあ、いずれにせよですね、えー、この憲法につきましては、えー、3分の2以上の、えー、賛成が衆参
  それぞれあり、そして発議ができるわけでありますが、その上において、えー、国民投票を行ないです
  ね、まさに国民が決めるわけでございます。

  その意味におきましては、まぁ国民的な議論の広がりがなければ、えー、この憲法改正は成しえない。
  まぁ自民党は、まあ立党以来ですね、えー、まぁ党是として憲法改正も取り組んでいく、ということで
  ございまして、当然、私も自民党総裁でございますから、その観点からですね、われわれが、今ご紹介
  いただいたように、自民党の憲法改正草案を、お示しをしながら、憲法改正に取り組んでいきたいと、
  こう考えておりますが、しかし、まぁこれは逐条的に投票をしていくわけでありますから、えー、
  どっからということについては、そして、どういうふうに改正するかということにつきましてはです
  ね、いわば3分の2を、の、達成、達成を形成するにおいても、国会、憲法審査会において、え、議論を
  進めていくなかにおいてですね、だんだん収斂されていくだろうと、このように考えているところでご
  ざいます」

福島議員「逐条的に、ですから議論をして、これはどうなのかを聞いているんです。
  総理は『今日の天気は曇りでしょうか』と聞くと、『一昨日晴だったような気がする』みたいな答弁
  じゃないですか。卑怯ですよ。

  憲法改正について、3分の2取るんだと言いながら、どうなのかって言ったら、答えない。卑怯じゃない
  ですか。ひとつひとつの、ひとつひとつ、憲法重要ですよ。

  で、これは憲法審査会において、この緊急事態宣言状況、必要だ、必要ないという、両方の学者を呼ん
  で、憲法審査会で参議院やりました。

  入れることが必要だという、西先生もですね、今の憲法がなかったからといって対応できなかったとい
  うことには直接ならない、と言っています。その通りだと思います。

  まさに内閣限りで、法律と同じ効力を持つことができるのであればですね、これはナチスドイツの
  『国家授権法』と全く一緒です。これは、許すわけにはいきません。

  で、もう一つ自民党は基本的人権についても問題であり、常に公益及び、公の秩序に国民は反してはな
  らない、としています。公益ってなんでしょうか? 公の秩序ってなんでしょうか?
  総理、お聞きします。今、宜野市長選が行われていますが、辺野古の新基地建設は公益ですか?」

安倍総理「まっ先ほどですね、ナチスの授権法のですね、えー、いささか、これは限度を超えた批判がござ
  いました。我々が出しているですね、緊急事態に関する、えー、憲法改正の、おー、これ草案につきま
  しては、諸外国のですね、多くの例があるわけでございまして、まさに、国際的に、えー、えー、多数
  の国がですね、えー、採用している憲法の、おー、えー、これ条文であろうと、こう考えているところ
  でありますから、ぜひ、そうした批判は、慎んでいただきたいと、このように思うわけでございます。

  えー、そして、もう時間がまいりましたから、簡潔に申し上げますが、えー、憲法改正の草案について、
  個々に、えー、お答えすることは差し控えたいと思います。

  えー、その上でですね、えー、誤解を与えないように申し上げますが、えー、個人が人権を主張する場
  合には、他人に迷惑をかけてはいけてはいけないという、当然の、えー、ことを、明確にしたものでご
  ざいます」

福島議員「はい、時間ですので、終わります。『国家授権法』と一緒じゃないですか。終わります」





 
 

再版の「(a)相対的価値形態の内実」に対する榎原さんの理解への批判   

 投稿者:杉本  投稿日:2017年10月10日(火)12時44分40秒
返信・引用 編集済
      『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)
    Category: バラキン雑記 :
  http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220
    第四講 簡単な価値形態
   1.価値形態の秘密と謎
    ーーーーー           ーーーーー
   「しかし、質的に等値されたこの二つの商品は、同じ役割を演ずるのではな
   い。亜麻布の価値だけが表現されるのだ。では、いかにしてか? 亜麻布が、
   それの『等価』あるいはそれと『交換されうるもの』としての上衣に連関する
   ことによってである。この関係においては、上衣は、価値の実存形態として・
   価値物として・意義をもつ、 ――― けだし上衣は、こうしたものとしての
   み、亜麻布と同じものであるから、他方では、亜麻布それ自身の価値(ヴェル
   ト)存在(ザイン)が現出する、すなわち自立的表現を受けとる、けだし亜麻布
   は、価値としてのみ、同等な価値あるもの・あるいはそれと交換されうるも
   の・としての上衣に連関しているのだから。」(『資本論』河出P47~8)

   『資本論』を読んでいて、こういう所が出てくると戸惑ってしまいます。
   何を言っているのか分からない、という直観します。何を言っているのか分か
   らない、というような所を何故やる必要があるのか、ということですが、それ
   はこの節の冒頭45頁下9で、「商品の価値対象性は、つかまえどころがない・
   ・・・(略)・・・商品体の感覚的な対象性とは正反対に、それの価値対象性
   にはみじんの自然的質料も入りこまない。」とマルクスは言っています。
   ーーー 略 ーーー
   現行版の場合、そういうような分析の仕方になっているわけです。
   初版の場合は少し違いますが現行版では、何か同じ質の、抽象的人間労働とい
   う同じ質を持ったものとしてお互いに関係し合っている。そういう関係はどの
   ような形で成立しているか、という事を明らかにする。

   それが価値形態の分析の課題になっている、というように言えると思うので
   す。

   そのような観点から、今読んだ箇所を見ていきますと、一つは亜麻布=上着と
   いう関係がある場合に、ここでは相対的価値形態にある亜麻布、亜麻布だけの
   価値が表現されている、とまず見ます。亜麻布の価値が上着で表現されてい
   る。

   それはどういうことかと言うと、亜麻布は上着と交換されてもよい、同じもの
   だから交換されてもよい、というように言っているということです。
   これを言い換えると、亜麻布は上着を自分と交換できるもの、つまり自分と同
   じものにしているわけです。

   自分と同じものだというように見做し、そうした上で自分の価値を上着で表現
   している。だから商品相互の関係という場合、相対的価値形態にある商品が自
   分の価値を表現する。
   自分の価値は自分自身では表現出来ずに、等価形態にある上着という商品の体
   を通じて表現する。その場合に相対的価値形態にある亜麻布は、上着は自分と
   交換できるものだから上着は自分と同じものである、というような形で関係を
   結んで、その関係で上着は自分の価値だ。自分の価値は上着で現わされてい
   る、と主張しているのだ。


   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   杉本
    相対的価値形態にある商品が自分の価値を表現する、それが如何に?という
   問いがたてば、自ずと回答は、次のーー等価形態にある上着という商品の体を
   通じて表現する、となるのですよ。

   A・しかし、ここでの第1段落での設問は、次のものでした。
     註17のベーリが「価値形態と価値とを混同」することへの批判。
   B・この課題を次のように解きますよとの、マルクスの私達への提示でした。

   ①「この関係においては、上衣は、価値の実存形態として・価値物として・意
    義をもつ」であり、
   ②「他方では、亜麻布それ自身の価値存在が現出する、すなわち自立的表現を
    受けとる」
   この第三段落にてこのような設問であり、回答の方向が明示しているのにかか
   わらず、彼は、この設問を無視することで、スターリン主義の伝統的見解に
   従ったのです。

   しかし、続く第五段落の本文はこうであります。
   やはり、「事実上の抽象」との独自性を示した榎原さんの論理が誤っていたの
   です。価値物上着に表示される人間労動と、リンネル織に表示される抽象的人
   間労働との相違に示されるのは、続く六・七段落にての「上着は価値」との明
   示で両者の区別が克服され<この「上着は価値」であり「価値形態」>の判断
   の登場==物象の社会関係の成立をこそ示しているのです。
   だから、この第五段落では、リンネル織と裁縫労動とは、人間労動一般の支出
   としては同じとしても、(このことが事実上の抽象になります)価値の凝固と
   しては示せないし、物象は登場できないのです。
   彼の問題意識自体が誤っていたのです。

   さて、次にこの八・九・十段落を経て、第三節の最終の11段落の註18に、こ
   の節にて語ったことのまとめをして、次のように述べている。

   C・これがこの第三節でのまとめです。

   a)「かくして価値関係に媒介されて、商品Bの自然的形態が商品Aの価値形
     態となる。
   b)あるいは、商品Bの体が商品Aん価値鏡となる。」
   c)使用価値Bは、「価値体としての人間労動の物質化としての商品B」とし
    て商品Aに連関されることで、「価値表現の材料」となる。
   d)「商品Aの価値はかように商品Bの使用価値で表現されることによって、
    相対的価値の形態をとる。」(河出P50)

   このことは次のことになっています。
   ①価値形態(価値鏡)
   ②価値体・価値表現の材料
   ③商品Aが、相対的価値形態となるーーとは書いておらず、この①と②の区別
   そして、両者の役立ちにて、価値表現が可能となり、相対的価値形態の成立ー
   ーとなっているのです。

   諸物象の役立ちにての、相対的価値形態の成立です。
   この肝心な事柄を榎原さんは、問わないのです。
   このような説明は、「価値形態と価値との混同」批判ーーとの第一段落での課
   題を解いていく読者の実践的行為無しには成し得ないことなのです。




     初版七段落での回り道の示す、相対的価値形態の内実 Ⅱ

     投稿者:杉本

    (勉強もやっと進むことで、いろいろと改稿もできたので、
    <初版七段落での回り道の示す、相対的価値形態の内実>を再編してみた。

     やはり、初版の註20の示す第七段落にての「回り道」に示されている条項は、
    ①相対的価値形態の形成へと向かうものなのか?
    ②それとも今日の常識的解釈である等価形態の形成へと向かうものなのか?
    手短に、回答してみたい。

    そこで文章の流れ、文脈があり、それを追うならば次のような教室での授業として展
    開してみた。

  イ)二段落ーー「リネンが自分の価値の大きさをーー・・・上着で表現することによって、
    リネンは自分の価値存在に、自分の直接的な現世の姿とは区別される価値形態を与え
    る。」(P286 今村訳資本論初版 筑摩書房)

  ロ)先生ーー三段落で「リネン価値の上着への表出」にて「リネンの価値形態」を受け取る
    ことで
    ①リネン価値の交換可能性であり、
    ②上着が直接的に価値であることで、「等価物の形態」にある
    ーーことが指摘されている。

  ハ)先生ーー四段落にては、註(18)に示されるように、ベーリの「リネンの上着価値」
    リネンの「穀物価値」として、上着が「価値の現象形態」であり、「価値形態」となる
    ことで、価値表現がなされるーーと左極での規定を見せている。

  ニ)先生ーー五段落にても註18aに示されるように、価値形態論での最重要な提起が次に
    示されました。
    ①20エレのリネン=1着の上着、という相対的価値表現においては、・・「労動凝結物
    は上着として通用し、上着は人間労動が凝結する形態として意義をもつ(註18a)」
    (初版298)と示されることで、左極にて、上着は「価値形態」と示されている。
    ここに最大の注意点があります。
    「上着は人間労動が凝結する形態」が示され、註18には、反省規定こそが明示されて
    いる。皆さん!なんとこの地点への注意を呼びかけた論者は今まで無いですよ。!!

    ②上記左極にて、「上着は、リンネル価値の現象形態」とされたことが、今度は右極の
    提示にてもーー「使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは」ーーと
    示されたのでは、この第五段落は、この① ②の区別なく、等価形態の第一の独自性と
    しての主張こそがあって、この①の主張も、左極ではなく右極だーーと理解されざるを
    得なくなる。このような転倒した理解の落とし穴に入ってしまうと、このハ)四段落も
    左極ではなく右極での主張となり、ロ)三段落での主張の① ②での区別もなくなって
    しまう。


    先生ーー 私の師匠は、この転倒した理解の落とし穴に入っているので批判します。
    <反省規定こそが明示されている>、物象の判断が示され、物象の社会関係がこのよう
    に形成されていくーーことを、榎原さんは、この第五段落の解読にて、次のように示し
    ている。

    A)「諸物象の関係による抽象作用は、たとえばリンネルが、自分と質の等しいものと
    しての、つまりは両者に等しいものとしての、つまりは両者に共通な抽象的人間労働の
    凝結したものとしての上着に連関することによって行われるのだから、

    B)ここでリンネルが連関しているのは、抽象的人間労働の直接的物質化としての上着
    物質であり、この意味で上着という使用価値は、価値、労働凝固体としてのみ意義をも
    っているのである。

    C)このことが、上着がリンネル価値の現象形態になっている、ということの意味であ
    るが、しかし、次には、上着をつくる労働自体は抽象的人間労働そのものではなく、有
    用労働たる裁縫労働なのであるから、通常の唯物論的思惟抽象との違いがここにでてく
    る。」(『価値形態・物象化・物神性』P62  A B Cは、杉本追加)

    <物象の判断が示され>ているこの第五段落の提示を、榎原さんは、
    ーー上着がリンネル価値の現象形態になっている、ということの意味C)ーーと的確に
    理解しながら「両者に共通な抽象的人間労働の凝結したものとしての上着に連関する」
    として、そのことをばかりに拘ることで、註18と註18aに示された反省規定・物象の判
    断を捨象しているのです。

    A)「諸物象の関係による抽象作用は、・・」ーー「つまりは両者に共通な抽象的人間
    労働の凝結したものとしての上着に連関することによって行われる」ーーとの理解に示
    されることは、初版付録の表現である次のことをしか意味しないはずなのです。

    上着がリンネルとの「関係の内部では、上着身体は、リネンと共通の価値実体、すなわ
    ち人間労動を表現(「代表」岡崎訳)する。この関係の内部では、上着はただ価値の姿
    として、したがってまたリネンの価値姿として、リネン価値の現象形態としてのみ通用
    する。」(今村訳初版P331)

    価値関係において、等価物上着が人間労動を代表するーーならば、上着は価値姿として
    価値を代表することになり、相対的価値表現にて価値形態を形成しているのに、そうで
    はなく、等価形態をこそ意味していることに、なるのですよ。
    榎原さんが何故岡崎訳を批判し得なかったのか?
    彼の誤読の因が何処にあるのか?
    考えあぐねていたが、それは次のところにあったのです。この付録を辿ってみます。

    A)「両者に共通な抽象的人間労働の凝結したものとしての上着に連関する」ーー
    この表現に示されることは、価値関係ではなく同等性関係なのです。
    彼の意図の所在は、この同等性関係から価値関係への転化にて得られる物象の社会関係
    の登場が、マルクスの示したこの初版付録での三つの条件
    (a)同等関係
    (b)価値関係
    (c)価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の質的内容
    ーーというこの階梯に照らして、何処にあるのか?ですね。それは(a)同等関係です。
    何故か?それは次の区別がないのです。

    (b)価値関係ーーでは、(a)同等関係 との違いについて、こう述べています。

    「上着とリネンが価値であるかぎりでのみ、上着はリネンと同じものである。
    このようにリネンが上着に向かって自分と同じ実体からできている物として、リネンに
    等置されることは、この関係のなかにある上着が価値として通用することなのである。
    ・・・(杉本註ーー同等関係から価値関係への転換は、「上着が価値」とみなされる・
    判断されることであり、そのことが示すことが次のことであります。)・・・・・・・
    上着もまた価値である限りにて、上着はリンネルに等置される。
    だから同等関係は価値関係であるが、この価値表現は、まずもって自分の価値を表現す
    る価値または価値存在の表現である。」(同上今村訳P330)

    このように、
    ①価値として上着が通用することで、
    ②「リネンが上着に向かって自分と同じ実体からできている物として、リネンに等置」
    ーーされることでリネンの価値存在の表現を示し、同等関係との区別をつけたのです。
    だから、初版にて示されているーー相対的価値形態の内実であるーー
    「上着は人間労動が凝結する形態として通用する」ことと、価値形態を示したのです。
     このように、リネンも上着も価値であり、抽象的人間労働の凝固物であることでは、
    同等関係から価値関係への転化であり物象の社会関係の登場の示す<価値存在の表現>
    ーーは示せないのです。
    リネンの価値存在が価値形態上着と示されるなかで、その次にやっと、
    上着は抽象的人間労働の凝固と示され、両者の社会関係が表現されたのです。
    A)(a)同等関係 (b)価値関係 の区別が何処にあるのかを示すことができず、
    B)初版付録のこの誤訳を批判できないことで、この五段落にての現象形態が両極にて、
    上記の第一第二との区別のもとに語られていることが、榎原さんには判読できなかった
    のです。

    しかし、初版はこうであったのです。
    「上着はたしかに価値または労動凝結物としてのみ通用するのだが、ほかならぬそのこ
    とによって労動凝結物は上着として通用し、上着は人間労動の凝結する形態として通用
    する。」(杉本ーー上記 ニ①)と明記されている。

    しかし、榎原さんは、この相対的価値形態の形成をなす、この左極での価値形態こそが
    論じられているのに、そのことを論じないのです。その理由は、こうであります。
    この<上着がリンネル価値の現象形態になっている>ーーのは、等価形態でのみの事象
    と理解したのです。

    生徒質問ーー先生「使用価値としての上着がリンネル価値の現象形態になるのは」ーー
    再版の等価形態の第一の独自性に示されたように、「商品の現物形態が価値形態になる
    のである。」(再版原P71 文庫P108)ーーとこれ以上明快に示しようがないほどに
    提示されていますね。
    だったら、ここでは、明らかに、この五段落①での媒介された価値表現での価値形態で
    あり、②は、直接的に、上着が価値形態と①の対極での<反省規定>を受け取ることを
    こそ、これから説明しますーーと述べているのではないですか。
    先生ーーそのとおりです。

    ③先生ーー次に、等価形態の第一の独自性として<使用価値が価値の現象形態となる>
    ことの理由が、次のように述べられています。
    「対象としての上着はリネンにとっては同質の人間労動の感覚的に手でつかめる対象性
    として、したがって実物形態をまとった価値として通用する。」(初版今村訳P288)
    皆さん、わかりますか?このように、右極にて<使用価値が価値の現象形態となる>
    理由を、なんともマルクスは、小学生に向けて講義するように、これ以上ない丁寧さで
    説明しているのです。
    生徒質問ーー先生、この「実物形態をまとった価値」とは?<直接的に価値体>のこと
    なのですか?
    先生ーー違います。

  ホ)六段落ーー先生からの質問ーーそのことを考えるために、皆さんに質問します。
    ここでの「受肉した人間労動という価値としての上着」とは?何ですか?
    生徒返辞ーー「受肉した人間労動という価値としての上着」とは、直接的に価値体のこ
    とであるが、五段落での「実物形態をまとった価値」とはーー先生明らかに違います。
    先生ーーそうです!そのことを、この段落冒頭で次のようにに述べたのですよ。

    「リネンは、人間労動が直接に現実に現れた姿(顕現形態)である裁縫労動に自己を関
    係させることなしには、受肉した人間労動という価値としての上着に自分を関係させる
    ことはできない。」ーーと。
    牧野訳にはこう示されています。
    「亜麻布は価値としての上着に、または受肉した人間労動としての上着に関係するとき
    には必ず、人間労動の直接実現される形式としての仕立て作業に関係する。」
    (『対訳・初版資本論第1章及び付録』P39)
    「人間労動の直接実現される形式としての仕立て作業に関係」することで、
    この経過をへることで、上着は価値体、としてみなされているのです。

    生徒ーー「受肉した人間労動という価値としての上着」に、リネンは直接的に関係する
    事ができないために、マルクスは、その後に示していることを論じているのですか。
    次のように、マルクスはーー
    「・・・ひとつの商品のなかに含まれている具体的で有用な労動種類にたいして、それ
    が抽象的人間労働の直接の顕現形態であるものとして、別の商品が関係することによっ
    てのみ、ひとつの使用価値または商品身体は価値の現象形態になる。」(P290~1)
    ーー示していますね。
    そのことで、先生、このようにマルクスは、等価物上着は直接的に価値体であることで
    はリンネル価値の現象形態になれず、直接的に価値形態にはなれない、と示しているの
    ですか。
    先生ーーそのとおりです。

  ヘ)七段落ーー生徒は、次のように冒頭部のマルクスの論じていることをまとめたのです。
    生徒ーーとすると先生、この次の七段落冒頭の次のところで、ーー
    この「商品と商品との関係のなかでのみ現実に存在する価値形態」のなかでは、
   ①使用価値は「商品価値の現象形態になり、」
   ②「同じく・・具体的有用労動も、・・抽象的人間労働の単なる顕現形態になる。」
    (P290)ーーがあって、上着は等価形態になると示しているのですね!
    だから先に示されているように、上着は直接的に価値であり価値体とされても価値形態
    ではないために、左極の反省規定を受け取っていないために、等価形態にはなれず、再
    版で示されたように、その等価形態の謎性をこそ示すのですね。
   ③先生ーー初版ではその次の八段落で、等価形態・相対的価値形態と表明されたのですか
    らそのとおりです。再版ではどのような説明が、等価形態のもつ謎性について説明され
    ていますか?
    生徒返辞ーー①再版ではそれが註21と示された八段落であり、相対的価値形態の内実
    として価値形態が示されたことでのーー臣下の振る舞いに示される反省規定が王を成立
    させるーー事柄がこの等価形態では転倒してしまい、この反省規定を解消しているので
    「彼が王だから自分たちは臣下」(原P72文庫111)との転倒像を見せることに、それ
    は依る、とあったのですよ。
    つまり、左極・相対的価値形態の形成にて、上着は媒介されて価値形態になることが、
        右極・等価形態では直接的に価値形態となっているーーのです。
    この物象がなす反省規定は、人間の意識の上には立ち上がらないので、等価形態では、
    「上着もまた、・・直接的交換可能性という属性と同様に生まれ乍らにもっているよう
    に見える。」(原P72文庫110)ーーことになっているのです。
   ④次にこの再版九段落ではーー左極では<上着は価値>とされたことが、右極では、
    <価値は上着>==「それ自身が価値であるとみられる物体」(文庫P111)
    との転倒を示すが、その転倒を批判するために、ーーマルクスは、
    上着はここでは「価値鏡」の役立ちをしていると示すーーことで回答しています。
    <価値は上着>との等価物の規定の有り様を批判して、ここにて上着は「価値鏡」をな
    しているーーとマルクスは示しています。
    そこで、彼は上記のイ)の反省規定を示し、ここには等価形態の第二の独自性が示され
    ているとして、「裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められる」(同上)
    ーーと述べたのです。
    このように、先生ーー厳密に再版・等価形態を検討すると、初版の補充になっているこ
    とがよくわかります。

  ト)先生ーー初版七段落の続きに戻ります。ここでのまず第一の課題は、次のことです。
    「三段落で「リネン価値の上着への表出」にて「リネンの価値形態」を受け取る」ーー
    と示されていることが、両極の形態にてそのことが受け取られることを、そのことの改
    稿をここで論じているのです。
    再版ではーーその事が、前提になって論じられている伏しもあるのですが、初版では、
    両極の形態として如何に成立するのか?はまだ論じられていないのです。
    そのことは、ここで論じられた両極での価値形態が規定されることで、次の八段落にて
    表されています。
    ここで、マルクスは、2・3・4・5・6 そして7段落で論じてきたことがなんであ
    ったのかをまとめて、考えるべきことは、「商品の対立する諸規定が別々のものになる
    のではなくて、相互に反射しあう(「反省しあっている」ーー牧野訳)」ことであると
    述べているのです。
    そこで(A)2・4段落と5段落冒頭部で得られた価値形態と、
       (B)5段落後半部と6段落で得られた価値形態との比較ーーをしたのです。
    そこでここでの課題は、「回り道」をして獲得された価値形態とは、それまでに論じら
    れてきたこととは異なっているのです。
    まず(A)でえられた価値形態はそのように、回り道の成果であり、
    後者(B)は、「価値存在としての他の使用価値または他の商品身体に直接的に関係さ
    せることはできる」(七段落)ーーことでえられた直接的な価値形態ーーなのです。
    ここでの判断の決定的ポイントは、次のようにすでに明らかです。

    リンネルの価値存在が、回り道をして価値形態上着として得られるのか?
    それとも、直接的に価値形態として得られるのか?ーーであります。

    生徒ーーこの七段落にて述べられていることは、私ども生徒がただ先生から知識を得る
    ということではなく、AーBという価値存在を表現する関係において、Bが価値形態を
    える客観的存在にすぎないのであれば、Bはただ価値体としてのみ等価物の役立ちをす
    るのですから、上着は直接的に自然的形態のままに価値形態をえたと、そこで考えられ
    ているーーのでは、リカードの理論を超えてはいないのです。

    等価物上着が自然的形態のままに価値形態をえたことが、等価形態の三つの独自性とし
    てえられたことは、上着が価値体の規定においてはーーどうにも成し得ないのです。
    上記(ヘ-③)で提起したように「この等価形態では転倒して、この反省規定を解消し
    て」しまうことへの注意と批判が、全ての解決の出発点なのですね。

    というのも右極にて、反省規定が解消されるならば、左極にても反省規定しない同等性
    関係へと価値関係が解消される理解を生んでくるのです。、

    先生ーー物象の判断による、物象の社会関係の形成でありーー価値形態の形成に依る
      相対的価値形態ーー等価形態の形成という謎大き価値方程式への回答であります。


 

  「人間労働が凝固しているところの形態」ーーの第一・第二とは異なる第三の形態の特徴とは何か? 久留間理論の転倒批判

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月30日(土)07時14分31秒
返信・引用 編集済
       ーーーはじめにーーー
    第一の形態を作り出す相対的価値表現での左極にて「労働凝固体は上着として認められ、
   上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められる」(初版)ーーこ
   とで、(第二の形態を経た第三の形態にて)商品世界から排除されている右極の対極に一般
   的価値形態が形成され、商品価値の労働時間による表示がなされている、という自明であり
   ながら、何故かこれまで価値形態論を巡る論争にて、登場してこなかった、ここで掲げてい
   るマルクスの、なんともわかりやすい課題が主張されている、ーーので提示してみた。
    第一・第二の形態の、第三の一般的価値形態成立への共通課題が、ここに提示されており
   なんとも理解困難な価値形態論の論旨がーーー見えてくるのです。辿ってみます。

    A)「人間労働が凝固しているところの形態」ーーの第一・第二とは異なる
      第三の形態の特徴とは何か?

    現行版の第二節のa第五段落にて、「上着が価値物としてリンネルに等置されることによ
   って、」と示されたことは、
   ①自ずと第三段落での化学式に示されるように、「上着は価値の存在形態として価値物とし
   て認められる」ーーということであり、
   ②「他面ではリンネル自身の価値存在が現れてくる」ーー
   ーーことの論証のための第一段として述べられている。

   「価値物」とは、久留間先生がかって誤解していたように、等価物として等価形態の役立ち
   をなしていく存在ではなく、価値としての上着がリンネルの価値形態となることで、相対的
   価値形態の形成をなしていくーーそのための、その前段での規定であり、価値物と上着が規
   定されることで、対極のリンネルが価値と規定され、その役立ちをなしうるーー労働生産物
   がその時だけ商品になる、ところの瞬時的規定なのです。

    価値物上着の規定が止揚されるのは、六~七段落にてあるように、上着が価値としてみな
   される事態の進行中にてであり、物象の社会関係の登場によって、同じことをこそ示す次に
   示された三例によってなのです。この三例として表された事柄は、同じであり、再版での説
   明が最もわかりやすい。

    再版a相対的価値形態の内実<八段落>   <初版 第四段落>
                        とはいえ商品はやはり物象である。商品であ
    実際に上着の生産では裁縫という形態で  ることは、それが物象的に存在するものでな
   人間の労働力が支出される。すなわち上着  くてはならないことということであり、ある
   に積み上げられているのは人間の労働であ  いは商品は自分自身の物象的関係のなかで自
   る。                   分が何であるかを示さなければならないとい
   この側面において上着は、たとえそれが擦  うことである。
   り切れて大きく開いた糸目のあいだからそ   <初版 第五段落>⑤ーー1
   の本質そのものが顔をのぞかせているわけ    20エレのリンネル=1着の上着 また
   でないにしても、             はxエレのリンネルはy着の上着に値すると
   「Träger von Wert 価値の担い手」で    いう相対的な価値表現のなかでは、上着はた
   ある。そして亜麻布の価値関係のなかで上  だ価値または労働凝固体としてのみ認められ
   着は将にこの側面によって、身体を与えら  ているのではあるが、しかし、それだからこ
   れた価値、価値体として通用する。上着の  そ労働凝固体は上着として認められ、上着は
   無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同  そのなかに人間労働が凝固しているところの
   じ種族がもつ美しい価値魂を上着に認める  形態として認められるのである(註18a)。
   だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着  (上記国民文庫 今村訳初版P287~288)
   という形態を取ることがなければ、上着が   <初版附録>
   亜麻布と向き合って価値を表現することは  (c)価値関係のなかに含まれる相対的価
   できない。                   値形態の質的内容
    それは個人 A にとって王が個人 B の肉   ・・・・・
   体の姿で現われるだけでなくその顔つき、  しかし、価値であるかぎりでのリネンは同じ
   髪の毛、その他容貌の多くをその都度君主  人間労働の凝結物である。だからこの関係の
   となる者のものと取り替えるのでなければ、 内部では、上着身体はリネンと共通の価値実
   個人 A は個人 B を王の一人と認めて振る   体、すなわち人間の労働を表現<「代表」>
   舞うことができないのと同じである。   (「代表」この誤訳は国民文庫岡崎訳ーー意味
    (資本論再版原P66)          が反転し等価形態になる)する。この関係の
                        内部では上着はただ価値の姿として、したが
                        ってまたリンネルの価値姿として、リネン価
                        値の現象形態としてのみ通用する。
                        このように価値関係に媒介されて、ひとつの
                        商品の価値はそれとは別のひとつの商品身体
                        で表現される。
                         (今村訳初版330~331筑摩書房)

   このように、ここでの課題ーー価値存在の表現・価値表現の如何にしてか?が、
          その解決事項ーー価値形態ーー上着
   と、このように、単純明快にマルクスの回答はしてあったのです。

   上記再版で述べられたことを探ってみると次のとおりです。
    ①上着に積み上げられているのは人間の労働
    ②「価値の担い手」
    ③亜麻布の価値関係のなかで上着はまさにこの側面によって、価値体として通用する
    ④亜麻布は同じ種族がもつ美しい価値魂を上着に認める
    ⑤亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることで、上着が亜麻布と向き合って価値を
     表現する
    ⑥それは個人 A にとって王が個人 B の肉体の姿で現われるだけでなくーーその顔つき、
     髪の毛、その他容貌の多くをそのつど君主となる者のものと取り替えなければーー個人
     A は個人 B を王の一人と認めて振る舞うことができないーーのと同じである。
     <価値形態上着の規定を受け取る物象の判断の提示>

    ここで、<個人 A は個人 B を王と認めて振る舞うことができない>と、示されたこと
   は、亜麻布と上着の価値関係が<諸物象の関係>であり、単に亜麻布に対して上着が価値体
   としての役立ちをしているのではなく、反省規定を受けて様々な姿態を見せる=価値形態と
   なることで、上着には<物象の判断>としての両者の行いが示されているーーということな
   のです。

    しかし、対して次の『初版』のここでのーー次の記述は、どうにも、容易くは理解させて
   はくれない。

     <「・・しかし、それだからこそ労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに
    人間労働が凝固しているところの形態として認められるのである(註18a)。」>
    (上記国民文庫 初版今村訳P288)

    「人間労働が凝固しているところの形態」ーーとは、ここでは価値形態の意味であるが、
   しかし、このことでマルクスが示しているのは、むしろ、そのことでの、第二・第三の形態
   との共通性での探求をこそ意図してのものなのです。再版で、まずはそのことを検討します。

    B)「人間労働が凝固しているところの形態」の第二の形態

     <一 展開された相対的価値形態>
    「一商品例えば亜麻布の価値は、今や、商品世界を構成する他の無数のElemente
   (自律的な)諸要因で表現されている。
   他の商品体のいずれもが亜麻布価値を映す鏡になる(註 23)。
   この価値そのものが実に初めて差異のない人間労働のゼリー(凝固)として表れる。
   というのは亜麻布価値をつくる労働は、それがどのような自然形態をもっていようと、また
   それが上着、小麦、あるいは鉄などに加えられていようと、明示的に他の人間の労働と同等
   だと認知されているからである。
   その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つのであるが、この関係は単に他の個々の商
   品種類との社会的関係ではなく、商品世界との社会的関係である。
   商品である亜麻布はこの世界の Bürger 市民である。
   同時に、市民の価値の諸表現――すなわち商品価値は、それが表れる使用価値の特殊な形態に
   無頓着であることを示す諸表現――が無限に続く列をなして存在する。」(原P77)

    ここでは次のように、新しい形態の特徴が示された。
    ①他の商品体のいずれもが亜麻布価値を映す鏡になる(註 23)。
    ②この価値そのものが実に初めて差異のない人間労働のゼリー(凝固)として表れる。
    ③その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つのであるが、・・・・
     (それが)商品世界との社会的関係である。

   このように、繰り返すが次のことを示した。
    ①リンネルの他の諸商品が「亜麻布価値を映す鏡になる」。
     あるいはリンネルの価値形態であることで、商品世界が形成されている。
    ②初めて価値そのものが人間労働の凝固ーーとして表れることができたのは、
     この価値形態を示すことで、商品世界が形成されたからなのです。
    ③その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つーーということですから、その意味
     は、展開された相対的価値形態をもつであり、商品世界の形成なのです。

     (註23)「だから、亜麻布の価値を諸上着で表すとき、人は亜麻布の上着価値
      のことを、また亜麻布の価値を穀物で表すときには亜麻布の穀物価値のこと
      を言っているのである。
      そのような表現の各々が物語っているのは、上着、穀物などの使用価値で現
      れているものは亜麻布の価値だ、ということである。
      「各商品の価値というものが、商品相互の関係を交換で示すから、われわれ
      は各々の商品の価値を・・・穀物価値、布価値として、というようにそれぞれ
      の商品に応じて、その商品が比較される商品をもって示すことができるのであ
      る; そしてそれゆえに、存在する商品の数だけ無数の様々な諸価値が存在す
      るのであり、さらに全ては現実的にもまた名目的にも等しいのである。」
      匿名の作品の編者である S. Baily はイングランドで世間を騒がせたのだ
      が、・・・・。」

    ここにマルクスが、この註23で示したリカード理論との対比でのベーリ理論の克服を、最
   も強調している。ここでのマルクスの主眼点は、自明にもリンネルの他の諸商品が、
   ーー「亜麻布価値を映す鏡になる」ーーであります。
   即ち、初版での提起であるーー<人間労働のゼリー(凝固)の形態>を商品が他の諸商品に対
   して、与えられていることで、商品世界が形成されているのです。

      a)価値鏡として人間労働の凝固が示されることでベーリ批判がなされ、
      b)価値実体の凝固が、このように価値形態として示されることで、
       リカードが批判されたのです。
      c)人間労働の凝固の形態ーーこそが、最大のマルクスの起点なのです。
      d)展開された相対的価値形態=その価値形態によって亜麻布は社会的関係に立つ

   第一の形態では、この関連が曖昧ですが、第一から第二、第三の形態へと辿ると、このベー
   リ批判の決定的意味が把握され、物象の判断での物象の社会関係=商品世界が形成される過
   程ーーを見つけることができます。

    更に、この課題を最もよくその特徴が示されたのが、C 一般的価値形態 であります。
   そこで、「一 価値形態の変化した性格」での八段落では、次のように提起された。

     C)「人間労働が凝固しているところの形態」の第三の形態
      一価値形態の変化した性格 八段落
      「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、
      亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。
     ①亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したがっ
      て亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。亜麻布の身体形態が、全
      ての人間労働の可視的な化身・社会的一般的な蛹(さなぎ)として通用する。
     ②織布、亜麻布を生産するこの私的労働が同時に一般的に社会的な形態、すなわ
      ち全ての他の労働との同等性を体現する形態に就く。
     ③一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を(が)
      次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し(され)、そうすることで織布を
      人間労働一般の一般的現象形態とする。
     ④商品価値として対象的に表れる労働は、消極的に、すなわちあらゆる具体的な
      諸形態と有用な諸性質が捨象された現実の労働として表現されるだけではない。
     ⑤それ自身の積極的なNatur 本質もはっきりと現れてくる。商品価値として対象
      的に表れる諸労働は、人間労働という共通な性格、すなわち人間の労働能力の
      支出に還元された現実の労働である。」
      <番号は杉本追加。>(再版原P61 文庫P126~127 前原訳)

    上記段落は、初版「Ⅲ 相対的価値の、逆転した、あるいは逆関係になった第二の形態」
   の第二・三・四パラグラフで語られている事柄がまとめられている。

    以下、そのことを説明してみます。

    「商品世界の一般的な相対的価値形態は、」と提示する再版の規定は、初版での分析とは
   異なるものであり、一般等価物としてリンネルが商品世界から排除されているーーとして、
   相対的価値形態の対極に等価形態が対峙することを前提にした第一の形態・第二の形態とは
   異なります。この点は自明でありながら、第三形態を論じるのに、あまり触れられていない
   のです。

    再版の①「亜麻布の身体形態が、全ての人間労働の可視的な化身・社会的一般的な蛹
   (さなぎ)として通用する」ーーとは、初版第二パラグラフの、「リネンは、・・他の全て
   の商品にとっての等価物の類形態として現れる」(今村訳P300)と同じであります。

   ②織布労働が、③「人間労働一般の一般的現象形態」となるーーとは、初版の同じく第二パ
   ラグラフでこう表されている。

      この等価物の類形態として現れているリネンは、
      「全商品に共通の価値の現象形態として、一般的な等価物、一般的価値身体、
      抽象的人間労働の一般的顕現形態となる。」
        (初版 同上)ーーと示された。

   ここでのーーリネンに示される「全商品に共通の価値の現象形態」の意味ーーを探るために
   は、この初版第一パラグラフにての次のことを探ればよいのです。

   「この統一的な相対的価値表現のなかではじめて、全商品は互いにとって価値としての姿を
   表わし、・・」(同上P299)と示されているように、ここで、述べられていることは、
   等価形態を示しているのではなく、現行版にて
   「一般的価値形態を構成する無数の等式は」と示された事柄であり、その等式の示すのは、
   「全商品は互いにとって価値としての姿」ーーなのです。
   だから、左辺のすべての商品の「価値の現象形態」と示されたのは、次のことなのです。

      初版三段落、上記の「一般的な等価物」を説明してこう述べている。
      「リネンが一般的等価物となるやいなや、事態は一変する。
      リネンをコーヒー、鉄、等々の他のいっさいの商品から区別して際だたせるの
      が、一般的等価物という特殊な規定であるが、その特殊な規定をおびたこの使
      用価値(リネン)は、今では、他のすべての商品の一般的価値形態、したがっ
      て一般的等価物となる。したがって、リネンのなかに表現された特殊な有用労
      働は、いまや人間労働の(一般的)顕現形態として、通用するようになる。」
        (同上P301)

    以上のことから私は、この事柄を次のように理解しました、
   ①ーー「リネンが一般的等価物となる」ことで、このようにリネンは一般的等価形態となる
      のではなく、「他のすべての商品の一般的価値形態」となる。
      上着・・等、個別的には価値形態であるのが、反省規定を受けてリンネルは一般的価
      値形態であるのです。
     (親として家族を表現するから子との親子関係が成立する。逆もしかりーー反省規定!
      親として家族を代表するーーでは等価形態!)

   ②ーー織布を人間労働一般の一般的現象形態とするーーとの再版の提起は、初版のここでの
      記述と同じく一般的等価形態の独自性を示すのではない。
   ③ーー「リネン織り労働は、人間労働の(一般的)顕現形態として通用する」と、同じくそ
      こでは一般的価値形態をこそがここに示されている。

    次に再版 ④ ⑤での「商品価値に対象化されている労働」、と示されている事柄は、初
   版第四段落では次のような転変があるのです。この理解はなかなか困難です。難しい!!!

    ここでのマルクスの提示は、①資本論冒頭での諸交換価値から諸商品に共通な価値を導き
   出し、その実体は、第三者であり、抽象的人間労働という分析での手法なのです。
   ここでの理論的な抽象で示される、ところのものは次のことなのです。

     ①初版第四段落の1
      「商品たちの社会的な関係とはどういうことかといえば 、今述べた商品たち
      の社会的実体を、・・・したがって相互に置き換え可能な仕方で、また相互に
      取り替えできる仕方で表現したものとして、自分たちを互いに処遇するという、
      ただこの一点に尽きる。」(今村訳P301)

    ここで示されているのは、明らかに、価値関係の量的側面なのです。
   だからここで示されるものは、価値であり、同等な大いさとしての価値量を示す、価値実体
   であります。
   そこで、次に示されているのが価値関係の質的側面であります。
   上記の量的側面にしても、その関係ができるのは、次のことに依っていると示す。

     ②同じく初版四段落の2
      「たんなる使用価値を商品に転化させるものだけが、使用対象を商品に転化さ
      せ、したがって社会的関係の中に置くことができる。これをおこなうものが、
      まさに商品の価値なのである。」(同上P302)

    ここには、価値関係との社会的関係が形成されるのは、どうしてか?
   ーーとの問いがあります。
    ここでは、上着が価値と判断されることで、左極での商品群のなかで、他の商品も同じく
   価値形態と判断される社会的関係があるーーと示されています。
   「また相互に取り替えできる仕方で表現したものとして、自分たちを互いに処遇する」ーー
   との上記は、明らかに、リンネルの他の諸商品群は、交換可能性の形態を受け取ったという
   ことであります。そこで、このことが次に表明されています。

     ③同じく初版四段落の3
      「したがって、商品たちが互いに価値として、人間労働の凝固物として待遇す
      る形態は商品の社会的形態である。だから商品の社会的形態および価値形態あ
      るいは交換可能性の形態は、まったく同じことなのである。ひとつの商品の実
      物形態が同時に価値形態であるなら、その商品は他の商品との直接的な交換可
      能性の形態を、したがって直接的に社会的な形態をもっているのである。」
     (同上P302)

    このように、「商品たちが互いに価値として、人間労働の凝固物として待遇する形態は商
   品の社会的形態である。」と示されることで、左極での商品群は、「価値形態あるいは交換
   可能性の形態」ーーを受け取ったのです。

    この関連を示すのが、第三の形態の左極では、価値であり・一般的価値形態なのです。
   上記の事柄は、再版の七・八段落にても扱われており、次のように示されている。
   a)「リンネル自身の現物形態がこの(商品)世界の共通な価値姿態」(原P81)だから、
   b)「リンネルの物体形態は一切の人間労動の化身」であり、だから、次の反省規定をする。
   c)だから「リンネルを生産する私的労動が、・・他のすべての労働との同等性の形態」だ、
   d)このように「一般的価値形態をなしている無数の等式」は「織布を人間労動一般の一般
     的な現象形態にする」ーーと示すことで、次の結論を得ている。
   e)そこで「商品の社会的形態」」「価値形態」「交換可能性の形態」は、同一だとーー示
     しているーーとのマルクスの提示なのですから、商品世界の商品群の示す、
    「商品価値に対象化されている労動は、・・・共通な人間労働という性格に、・・還元」
     ーーされたものとの積極的性格を示したのです。
   f)この提示は、商品世界のなかでの出来事だということを忘れると、
     この反省規定にて示されていることと、商品世界から排除されているなかでのリンネル
     の等価形態の規定との混同をしてしまうのです。
    (「他の商品との直接的な交換可能性の形態」の検討は最後にやります。)

    再版九段落での提起です。
      前提された次の八段落の提示を再確認すれば、ーー
      「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品、
      亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。」
      ーー自ずと、このことをこそ反省規定した商品世界内部では次の規定を受け取
      ったのです。
      「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
      (凝固)として表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態が商品世界
      を社会的に表現する物であることを示す。労働の一般的に人間的な性格が、こ
      の世界では、特殊な社会的性格をかたちづくっていることを一般的価値形態は
      明らかにしているのである。」(再版原P81)

    このように、第三の形態では<抽象的で一般的な人間労働>が、商品価値の実体になった
   と、明示しています。そして次のように、一般的価値形態が、初版・附録・再版ともに同じ
   意味にて表されたのです。

     a)「商品たちが互いに価値として、人間労働の凝固物として待遇する形態は商
       品の社会的形態である。」(初版上記)

     b)「価値形態は、諸商品が無区別の、同種の、人間労働の純粋な凝結物として、
       すなわち同じ労働実体の物(象)的な表現として互いに現れる、という形態
       でなくてはならなかった。いまやそれが達成される。」(初版附録 同上P351)

     c)「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリー
       (凝固)として表すこの形態は、(それ自身の構造によって)商品世界を社
       会的に表現する物であることを示す。」(再版上記)

    上記のマルクスの一貫した追求の所在が同一であることーーを見出す、マルクスの最大の
   主張点に気付く事ができたならば、ここにこそマルクスの追求の赤い筋道を見つけだすなら
   ば、ここに<相対的価値形態の内実>が示されており、それが、この第三の、一般的価値形
   態だけではなく、第二の展開された価値形態でもそうであり、そうして、第一の価値形態で
   も同じことを、マルクスは述べていたーーことが理解できるのです。

   以上の転回をなしてくるーーひと回りしてくることで、第一の次の主張の最大の重要性が明
   らかになってきたのです。この価値形態をーー等価形態である価値体のとる姿態としての、
   価値形態ーーと理解してきた久留間理論に基づく誤解への批判ができたならば、第一段階で
   は、等価形態ではなく、相対的価値形態の内実である価値形態の形成、として次のように論
   じられていたーーことが了解できる。

    第一段階です。
   ①初版ーー「労働凝結物は上着として通用し、上着は人間労働が凝結する形態として通
         用する」(初版今村訳P288)ーーと述べられていた。

   ②初版附録「(C)価値関係のなかに含まれる相対的価値形態の内実」で、次のように述べ
    ています。
      「・・しかし、価値であるかぎりでのリンネルは同じ人間労働の凝固物である。
      だからこの関係の内部では、上着身体は、リネンと共通の価値実体、すなわち
      人間の労働を表現する。この関係の内部では、上着はただ価値の姿として、し
      たがってまたリンネルの価値姿として、リネン価値の現象形態としてのみ通用
      する。
       このように、価値関係によって媒介されて、ひとつの商品の価値はそれとは
      別のひとつの商品の使用価値で、すなわちそれ自身とは異なる種類の別の商品
      身体で表現される。」(初版附録 今村訳P331)

   ③再版内実論ーー八段落で、次のように述べています。
      「亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ上着が亜麻布
      と向き合って価値を表現することはできない」

        上記の否定形を言い換えてみると、次の表現となる。
      <亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることで、上着が亜麻布と向き
      合って価値を表現する>

    以上から、この今までの記述を単独ではなく連ねて見てみると、どなたでも、次のことに
   はたと・・・気付く。

    再版での第一の形態でのマルクス記述は、交換のときに商品となることでの価値物の規定
   を、前提された価値関係にて、どのようにして価値形態を得ることで、価値の規定を受け取
   り、そして価値物の規定を止揚・克服することで、第二の形態を経た第三の形態にて、次に
   示す形態を得るに至ったのか?ーーをこそ主題にしていたのです。今度は岡崎訳を引用です。

      「諸労働生産物を無差別な人間労動の単なる凝固としてあらわす、一般的な価
      値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であること
      を示している。」(再版九段落 原P81 国民文庫P127)

    このように、「価値関係のなかに含まれる相対的価値形態の内実」をこそマルクスは第一
   に解明しているというーー初版の提起に気付くならば、それは価値形態の秘密の解明として、
   上着が価値形態となること(物象の判断があること)で価値表現がなされるのであって、そ
   のことにて、反省規定がなされ、上着が直接的に価値形態とされるのです。

   ところが、上着が直接的に価値体となることで価値形態を示す、久留間先生の説はーー大谷
   先生の説いたように、相対的価値形態の形成につながるものではなく、等価形態の形成にな
   るものなのです。次に示されたように・・・

      「20エルレのリンネル=一枚の上着・・・・という価値方程式において、リン
      ネルは・・・まずもって上着を自分に等置することによって上着に価値物とし
      ての、すなち抽象的人間労働の直接的な体化物としての、形態規定定をあたえ、
      そうした上ではじめて、この価値物としての定在における上着の自然形態で、
      自分の価値を表現しているのだということである。」
      (『価値形態論と交換過程論』P56)

    このように、「上着に・・・すなち抽象的人間労働の直接的な体化物としての、形態規定
   をあたえ」たーーとの理解であれば、等価形態が直接的に価値形態をとることに示されるこ
   とが転倒して、直接的に価値体として示されたもの、への理解でしか無いのです。

    このような、驚異の理解を示す久留間先生の提起したーー再版第五段落での回り道を巡る
   論争の提示は、全くの逆転・転倒したものなのです。

    むしろその提起は、初版での両極の形態の成立と混同した論理展開であり、そればかりで
   はなく、その物象の判断の存在の追求を否定するものでしか無いのです。そのことが、転倒
   した等価形態の追求へと課題を掏り替えさせていることが、やっとやっと眼に見えてくる。
   このように久留間さんの価値形態論は、物象の社会関係の成立を否定したものなのです。

     D 初版での第三形態での一般的相対的価値形態の形成は、如何にしてか?

    初版では、商品世界が、第二・第三の形態では登場していなかったことで、マルクスは、
   次の転回をしてしまったのです。そのことの再考察です。

      「・・・・・・・・・・・・ひとつの商品の実物形態が同時に価値形態である
      なら、その商品は他の商品との直接的な交換可能性の形態を、したがって直接
      的に社会的な形態をもっているのである。」(初版今村訳P302)

    このように、等価物が価値形態であるので、この交換可能性の形態に対しては直接的交換
   可能性の形態が対応することで、反省規定されているのです。

    マルクスは、この第一・第二の形態と第三の形態の相違がどこにあるのかを探求している。
   そこにはある特徴があるのです。

    第三の形態の特徴は次の段階を踏んでいます。
   ①「ひとつの商品の実物形態が同時に価値形態である」ーーすなわち、左極にて価値形態を
   示すならば、右極では<回り道>をへずとも、そのままに、直接的交換可能性の形態を受け
   取るーーのであり、等価形態を示すのです。このことから、両極にて諸商品は、互いを反省
   規定している、ということが、何度も何度もしつこくこの物象のなす反省規定を示すので
   す。

   ②しかし、この第三の形態では第一・ニでの価値形態の形成ーー相対的価値形態の形成によ
   るこの反省規定と同じくでは、右極に等価形態が形成できないのです。何故か?

   何故か???本当に、何度も何度も繰り返し言いたくなる。恐るべきはブルジョアイデオロ
   ギーの支配による思考の転倒であります。この自らへの反省を為し得なければ、次の事柄、
   マルクスの主張は、一切理解できない!!!
   第五段落での一般的な相対的価値形態の形式を紹介するために、第六段落にて極めて平易な
   主張をこそマルクスは、一般的等価形態の形成について我々に教えてくれる。

    第六段落
      「上着の相対的価値形態が一般的であるといえるのは、その形態が同時に他の
      全商品の相対的価値形態である場合に限る。上衣にいえることがコーヒー等々
      ににもいえるからこそ一般的なのである。
      したがって、当然のことながら、商品たちの一般的な相対的価値形態は商品た
      ち自身を、一般的等価形態から排除する。逆に、ひとつの商品、たとえばリネ
      ンは、それが一般的等価形態をもつやいなや、一般的相対的形態から排除され
      る。」(上記P303)

    第七段落
      「一般的な相対的価値表現においては、上着、コーヒー、茶、等々の各商品は
      自分の実物形態から区別された価値形態、すなわちリネン形態をもつ、そして
      まさにこの形態でこそ、商品たちは交換可能なものとして、・・・・互いに関
      係しあうのである。」(上記P304)

    初版の転回ーー論理は甚だ難しい!この七段落では、左極の商品群は、次の特徴にある。

   ①リンネルが一般的価値形態であるので、第六段落での「他の全商品の相対的価値形態」に
   なっていることを教えている。
   ②ここでの理解の困難は、相対的価値形態の形成が、前の二つの形態では等価形態の形成を
   反省規定したのに、第三の形態になると、新たな等価形態を対極に、形成しないのです。
   ③「他の全商品の相対的価値形態である場合」にこの左極では、一般的相対的価値形態にな
   る反省規定をなしていることで、あります。
   この反省規定はすでに、この上記の① ② ③として対象性を与えられているのです。
    そこで、
   「商品たちの一般的な相対的価値形態は商品たち自身を、一般的等価形態から排除する」
   ーーとは、何のことなのか?

   それは、すでにこの反省規定での、一般的な相対的価値形態の形成がなされるめには、前の
   第一‥第二の形態とは異なって、その役割において、すでにご用済みとなっているからこそ、
   一般的等価物は一商品を除いてその埒外とされ、排除されるということではないのか?
   すなわち、一般的等価物が、一般的相対的価値形態の形成において、再版の展開によれば、
   形成されている商品世界に対しては役立つのではなく、そこから排除されることで、それを
   為し得るーーのですから、一般的等価形態の規定を得るのは、前の二つの形態とは正反対だ
   ーーというのだと私は思います。

   前の二つの形態では、両極ともに反省規定にて成立したのが、第三形態では、一般的相対的
   価値形態の形成として生ずる・商品世界から排除されることで、一般的等価形態が成立した
   のです。
   初版では、再版の五‥六段落において両極の形態を、商品世界という言わば定められた球状
   体と、そこから分離された商品種類リンネルというーー二つの分離した対象的形式として前
   提されていないために、商品群が受け取る価値形態ーー一般的価値形態がまず商品世界とな
   り形成されることが曖昧化されてしまう。

   しかし、この第七段落をよーく読むならば、以上の段落にて、そのことは明示されている。






        <上記再版の引用は前原訳>
         http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf



 

 初版七段落での回り道の示す、相対的価値形態の内実

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月25日(月)16時09分20秒
返信・引用 編集済
       やはり、初版の註20の示す第七段落にての「回り道」に示されている条項は、
    ①相対的価値形態の形成へと向かうものなのか?
    ②それとも今日の常識的解釈である等価形態の形成へと向かうものなのか?
    手短に、回答してみたい。

    そこで文章の流れ、文脈があり、それを追うならば次のような教室での授業として展
    開してみた。

  イ)二段落ーー「リネンが自分の価値の大きさをーー・・・上着で表現することによって、
    リネンは自分の価値存在に、自分の直接的な現世の姿とは区別される価値形態を与え
    る。」(P286 今村訳資本論初版 筑摩書房)

  ロ)先生ーー三段落で「リネン価値の上着への表出」にて「リネンの価値形態」を受け取る
    ことで
    ①リネン価値の交換可能性であり、
    ②上着が直接的に価値であることで、「等価物の形態」にある
    ーーことが指摘されている。

  ハ)先生ーー四段落にては、註(18)に示されるように、ベーリの「リネンの上着価値」
    リネンの「穀物価値」として、上着が「価値の現象形態」であり、「価値形態」となる
    ことで、価値表現がなされるーーと左極での規定を見せている。

  ニ)先生ーー五段落にても註18aに示されるように、価値形態論での最重要な提起が次に
    示されました。
    ①20エレのリネン=1着の上着、という相対的価値表現においては、・・「労動凝結物
    は上着として通用し、上着は人間労動が凝結する形態として意義をもつ(註18a)」
    (初版298)と示されることで、左極にて、上着は「価値形態」と示されている。
    ここに最大の注意点があります。
    「上着は人間労動が凝結する形態」が示され、註18には、反省規定こそが明示されて
    いる。皆さん!なんとこの地点への注意を呼びかけた論者は今まで無いですよ。!!

    ②上記左極にて、「上着は、リンネル価値の現象形態」とされたことが、今度は右極の
    提示にてもーー「使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは」ーーと
    示されたのでは、この第五段落は、この① ②の区別なく、等価形態の第一の独自性と
    しての主張こそがあって、この①の主張も、左極ではなく右極だーーと理解されざるを
    得なくなる。このような転倒した理解の落とし穴に入ってしまうと、このハ)四段落も
    左極ではなく右極での主張となり、ロ)三段落での主張の① ②での区別もなくなって
    しまう。


    先生ーー 私の師匠は、この転倒した理解の落とし穴に入っているので批判します。
    <反省規定こそが明示されている>、物象の判断が示され、物象の社会関係がこのよう
    に形成されていくーーことを、榎原さんは、この第五段落の解読にて、次のように示し
    ている。

    A)「諸物象の関係による抽象作用は、たとえばリンネルが、自分と質の等しいものと
    しての、つまりは両者に等しいものとしての、つまりは両者に共通な抽象的人間労働の
    凝結したものとしての上着に連関することによって行われるのだから、

    B)ここでリンネルが連関しているのは、抽象的人間労働の直接的物質化としての上着
    物質であり、この意味で上着という使用価値は、価値、労働凝固体としてのみ意義をも
    っているのである。

    C)このことが、上着がリンネル価値の現象形態になっている、ということの意味であ
    るが、しかし、次には、上着をつくる労働自体は抽象的人間労働そのものではなく、有
    用労働たる裁縫労働なのであるから、通常の唯物論的思惟抽象との違いがここにでてく
    る。」(『価値形態・物象化・物神性』P62  A B Cは、杉本追加)

    <物象の判断が示され>ているこの第五段落の提示を、榎原さんは、
    ーー上着がリンネル価値の現象形態になっている、ということの意味C)ーーと的確に
    理解しながら「両者に共通な抽象的人間労働の凝結したものとしての上着に連関する」
    として、そのことをばかりに拘ることで、註18と註18aに示された反省規定・物象の判
    断を捨象しているのです。

    A)「諸物象の関係による抽象作用は、・・」ーー「つまりは両者に共通な抽象的人間
    労働の凝結したものとしての上着に連関することによって行われる」ーーとの理解に示
    されることは、初版付録の表現である次のことをしか意味しないはずなのです。

    上着がリンネルとの「関係の内部では、上着身体は、リネンと共通の価値実体、すなわ
    ち人間労動を表現(「代表」岡崎訳)する。この関係の内部では、上着はただ価値の姿
    として、したがってまたリネンの価値姿として、リネン価値の現象形態としてのみ通用
    する。」(今村訳初版P331)

    価値関係において、等価物上着が人間労動を代表するーーならば、上着は価値姿として
    価値を代表することになり、相対的価値表現にて価値形態を形成しているのに、そうで
    はなく、等価形態をこそ意味していることに、なるのですよ。

     初版付録のこの誤訳を批判できないことで、この五段落にての現象形態が両極にて、
    上記の第一第二との区別のもとに語られていることが、榎原さんには判読できなかった
    のです。

    しかし、初版はこうであったのです。
    「上着はたしかに価値または労動凝結物としてのみ通用するのだが、ほかならぬそのこ
    とによって労動凝結物は上着として通用し、上着は人間労動の凝結する形態として通用
    する。」(杉本ーー上記 ニ①)と明記されている。

    しかし、榎原さんは、この相対的価値形態の形成をなす、この左極での価値形態こそが
    論じられているのに、そのことを論じない理由は、こうであります。
    この<上着がリンネル価値の現象形態になっている>ーーのは、等価形態でのみの事象
    と理解したのです。


    生徒質問ーー先生「使用価値としての上着がリンネル価値の現象形態になるのは」ーー
    再版の等価形態の第一の独自性に示されたように、「商品の現物形態が価値形態になる
    のである。」(再版原P71 文庫P108)ーーとこれ以上明快に示しようがないほどに
    提示されていますね。
    だったら、ここでは、明らかに、この五段落①での媒介された価値表現での価値形態で
    あり、②は、直接的に、上着が価値形態と①の対極での<反省規定>を受け取ることを
    こそ、これから説明しますーーと述べているのではないですか。
    先生ーーそのとおりです。

    ③先生ーー次に、等価形態の第一の独自性として<使用価値が価値の現象形態となる>
    ことの理由が、次のように述べられています。
    「対象としての上着はリネンにとっては同質の人間労動の感覚的に手でつかめる対象性
    として、したがって実物形態をまとった価値として通用する。」(初版今村訳P288)
    皆さん、わかりますか?このように、右極にて<使用価値が価値の現象形態となる>
    理由を、なんともマルクスは、小学生に向けて講義するように、これ以上ない丁寧さで
    説明しているのです。
    生徒質問ーー先生、この「実物形態をまとった価値」とは?<直接的に価値体>のこと
    なのですか?
    先生ーー違います。

  ホ)六段落ーー先生からの質問ーーそのことを考えるために、皆さんに質問します。
    ここでの「受肉した人間労動という価値としての上着」とは?何ですか?
    生徒返辞ーー「受肉した人間労動という価値としての上着」とは、直接的に価値体のこ
    とであるが、五段落での「実物形態をまとった価値」とはーー先生明らかに違います。
    先生ーーそうです!そのことを、この段落冒頭で次のようにに述べたのですよ。

    「リネンは、人間労動が直接に現実に現れた姿(顕現形態)である裁縫労動に自己を関
    係させることなしには、受肉した人間労動という価値としての上着に自分を関係させる
    ことはできない。」ーーと。
    牧野訳にはこう示されています。
    「亜麻布は価値としての上着に、または受肉した人間労動としての上着に関係するとき
    には必ず、人間労動の直接実現される形式としての仕立て作業に関係する。」
    (『対訳・初版資本論第1章及び付録』P39)
    「人間労動の直接実現される形式としての仕立て作業に関係」することで、
    この経過をへることで、上着は価値体、としてみなされているのです。

    生徒ーー「受肉した人間労動という価値としての上着」に、リネンは直接的に関係する
    事ができないために、マルクスは、その後に示していることを論じているのですか。
    次のように、マルクスはーー
    「・・・ひとつの商品のなかに含まれている具体的で有用な労動種類にたいして、それ
    が抽象的人間労働の直接の顕現形態であるものとして、別の商品が関係することによっ
    てのみ、ひとつの使用価値または商品身体は価値の現象形態になる。」(P290~1)
    ーー示していますね。
    そのことで、先生、このようにマルクスは、等価物上着は直接的に価値体であることで
    はリンネル価値の現象形態になれず、直接的に価値形態にはなれない、と示しているの
    ですか。
    先生ーーそのとおりです。

  ヘ)七段落ーー生徒は、次のように冒頭部のマルクスの論じていることをまとめたのです。
    生徒ーーとすると先生、この次の七段落冒頭の次のところで、ーー
    この「商品と商品との関係のなかでのみ現実に存在する価値形態」のなかでは、
   ①使用価値は「商品価値の現象形態になり、」
   ②「同じく・・具体的有用労動も、・・抽象的人間労働の単なる顕現形態になる。」
    (P290)ーーがあって、上着は等価形態になると示しているのですね!
    だから先に示されているように、上着は直接的に価値であり価値体とされても価値形態
    ではないために、左極の反省規定を受け取っていないために、等価形態にはなれず、再
    版で示されたように、その等価形態の謎性をこそ示すのですね。
   ③先生ーー初版ではその次の八段落で、等価形態・相対的価値形態と表明されたのですか
    らそのとおりです。再版ではどのような説明が、等価形態のもつ謎性について説明され
    ていますか?
    生徒返辞ーー①再版ではそれが註21と示された八段落であり、相対的価値形態の内実
    として価値形態が示されたことでのーー臣下の振る舞いに示される反省規定が王を成立
    させるーー事柄がこの等価形態では転倒してしまい、この反省規定を解消しているので
    「彼が王だから自分たちは臣下」(原P72文庫111)との転倒像を見せることに、それ
    は依る、とあったのですよ。
    つまり、左極・相対的価値形態の形成にて、上着は媒介されて価値形態になることが、
        右極・等価形態では直接的に価値形態となっているーーのです。
    この物象がなす反省規定は、人間の意識の上には立ち上がらないので、等価形態では、
    「上着もまた、・・直接的交換可能性という属性と同様に生まれ乍らにもっているよう
    に見える。」(原P72文庫110)ーーことになっているのです。
   ④次にこの再版九段落ではーー左極では<上着は価値>とされたことが、右極では、
    <価値は上着>==「それ自身が価値であるとみられる物体」(文庫P111)
    との転倒を示すが、その転倒を批判するために、ーーマルクスは、
    上着はここでは「価値鏡」の役立ちをしていると示すーーことで回答しています。
    <価値は上着>との等価物の規定の有り様を批判して、ここにて上着は「価値鏡」をな
    しているーーとマルクスは示しています。
    そこで、彼は上記のイ)の反省規定を示し、ここには等価形態の第二の独自性が示され
    ているとして、「裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められる」(同上)
    ーーと述べたのです。
    このように、先生ーー厳密に再版・等価形態を検討すると、初版の補充になっているこ
    とがよくわかります。

  ト)先生ーー初版七段落の続きに戻ります。ここでのまず第一の課題は、次のことです。
    「三段落で「リネン価値の上着への表出」にて「リネンの価値形態」を受け取る」ーー
    と示されていることが、両極の形態にてそのことが受け取られることを、そのことの改
    稿をここで論じているのです。
    再版などは、その事が前提になって論じられれている伏しもあるのですが、初版では、
    両極の形態として如何に成立するのか?はまだ論じられていないのです。
    そのことは、ここで論じられた両極での価値形態が規定されることで、次の八段落にて
    表されています。
    ここで、マルクスは、2・3・4・5・6 そして7段落で論じてきたことがなんであ
    ったのかをまとめて、考えるべきことは、「商品の対立する諸規定が別々のものになる
    のではなくて、相互に反射しあう(「反省しあっている」ーー牧野訳)」ことであると
    述べているのです。
    そこで(A)2・4段落と5段落冒頭部で得られた価値形態と、
       (B)5段落後半部と6段落で得られた価値形態との比較ーーをしたのです。
    そこでここでの課題は、「回り道」をして獲得された価値形態とは、それまでに論じら
    れてきたこととは異なっているのです。
    まず(A)でえられた価値形態はそのように、回り道の成果であり、
    後者(B)は、「価値存在としての他の使用価値または他の商品身体に直接的に関係さ
    せることはできる」(七段落)ーーことでえられた直接的な価値形態ーーなのです。
    ここでの判断の決定的ポイントは、次のようにすでに明らかです。

    リンネルの価値存在が、回り道をして価値形態上着として得られるのか?
    それとも、直接的に価値形態として得られるのか?ーーであります。

    生徒ーーこの七段落にて述べられていることは、私ども生徒がただ先生から知識を得る
    ということではなく、AーBという価値存在を表現する関係において、Bが価値形態を
    える客観的存在にすぎないのであれば、Bはただ価値体としてのみ等価物の役立ちをす
    るのですから、上着は直接的に自然的形態のままに価値形態をえたと、そこで考えられ
    ているーーのでは、リカードの理論を超えてはいないのです。

    等価物上着が自然的形態のままに価値形態をえたことが、等価形態の三つの独自性とし
    てえられたことは、上着が価値体の規定においてはーーどうにも成し得ないのです。
    上記(ヘ-③)で提起したように「この等価形態では転倒して、この反省規定を解消し
    て」しまうことへの注意と批判が、全ての解決の出発点なのですね。

    というのも右極にて、反省規定が解消されるならば、左極にても反省規定しない同等性
    関係へと価値関係が解消される理解を生んでくるのです。、

    先生ーー物象の判断による、物象の社会関係の形成でありーー価値形態の形成に依る
      相対的価値形態ーー等価形態の形成という謎大き価値方程式への回答であります。




 

朝鮮戦争に「従軍」の元東京・府中市義の安倍への抗議

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月21日(木)21時43分8秒
返信・引用 編集済
  コモンズ会員三宮克己さんの 朝鮮戦争に「従軍」記の報告の警告を紹介します。

https://mainichi.jp/articles/20170921/dde/012/040/028000c
特集 朝鮮戦争に「従軍」の元東京・府中市義の三宮克己さん
毎日新聞 2017年9月21日 東京夕刊



 どうにもキナ臭い。再び朝鮮半島が戦火に見舞われる日がくるのではないか?
そんな不安におびえていたら、あの朝鮮戦争に「従軍」した日本人がいる、と耳にした。
91歳になったいま、声を限りに訴えるのだった。
「戦争はいかん!」--。【鈴木琢磨】

 仁川上陸作戦で接岸する船。艦砲射撃などで建物からは煙が上がっている
まぶたに黒焦げ死体 「日本は巻き込まれる」
 国連安全保障理事会の制裁決議に反発したのだろう。
15日朝、北朝鮮はまた北海道上空を越える弾道ミサイルを発射した。
韓国も対抗し、すかさず弾道ミサイルを試射。
日本はといえば、全国瞬時警報システム(Jアラート)で避難を呼びかけた。
米軍による軍事オプションもささやかれている。
だが、67年前、半島は一触即発どころか正真正銘の戦争の真っただ中だった。
ちょうど1950年のこの日、9月15日の未明、戦況を一変させる大作戦が決行された。

 「仁川(インチョン)上陸作戦です。
米軍による占領下、日本人船乗りであるのに私はその作戦に動員されていました」。
そう語るのは元東京都府中市議の三宮克己さん。
50年6月25日、朝鮮人民軍が38度線を突破、3日後にソウルを陥落させ、
南へ進撃した。マッカーサー元帥率いる米軍中心の国連軍と韓国軍はソウルを奪還し、
形勢を挽回するため、占領された仁川への上陸を敢行。
海上からの砲撃のあと、戦車揚陸艦(LST)の船群が接岸していく。
全長100メートルの船には武装した米兵や10台ほどの戦車を積んでいた。
船長以下40人の船員はすべてが日本人。そのなかに20代の三宮さんもいたのだ。

 「もしも反撃されていたら、どれだけ死傷者が出たことか。
夜が明けて、おそるおそる上陸しました。
トーチカ(防御陣地)をのぞくと、男が真っ黒になって死んでいる。
朝鮮人民軍の将校でしょう。大柄な男でね。
火炎放射を浴びて黒焦げなのに唇だけがピンク色でした。
足もとに冊子が落ちていた。『山岳戦提要』。黒い死体に白い冊子。
ぎょっとした。おれはいったい、何をしてるのか。
人殺しの手伝いじゃないか。恐怖心と腹立たしさが交錯し、
捨て鉢な気持ちで高ぶっていましたね」

 見れば、ぎょろりとした目に涙をためている。
こんな船に乗っていたんだよ、と古ぼけたLSTの写真を見せてくれた。
その手が小刻みに震えている。

会ったのは駅前にある市民センターの多目的フロア。
すぐそばから俳句同好会の談笑が漏れ聞こえる。いかにも平和だ。
そして、記憶をたぐりながら語りは続く。

「補給のために日本に帰ると、酒をガバガバ飲むしかない。
港町・佐世保は景気がよくってね。焼け野原にバラックの飲み屋がいっぱいあった。
でも、心がすさんでいるから、酒を飲んでも疲れるばかりで。
喫茶店で当時はやっていた高英男の『雪のふるまちを』を聞いていました」

 ところで、なぜ日本人が朝鮮戦争に「従軍」していたのか?
そこにはほとんど知られていない歴史があった。

三宮さんは日本統治下にあった鎮南浦(チンナンポ)(現北朝鮮の南浦(ナンポ))
で生まれた。平壌を流れる大同江河口に広がる町だ。
中学を出て、志願して日本海軍へ。半島南部の鎮海海軍基地で終戦を迎え、
帰国後、引き揚げ者を運ぶ船の船員になる。
LSTは船舶不足の日本に米軍が貸しつけていた。
時代は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、
朝鮮戦争が勃発すると、兵士や軍需物資の輸送にLSTが船員ごと使われた。
その数2000人ともいわれている。

 「グアム島から小笠原への航行中でした。
無電が入ったんです。『朝鮮で戦争が始まった。至急、横浜ドックに入れ』。
4、5日で改装し、若い米兵200人ほどが乗り込んできた。
日本で遊びほうけていたんでしょう。
本国に帰るかのようにガラスケース入りの日本人形やギター、
ちゃぶ台まで持ち込む兵士もいた。
兵士らを半島の南東、浦項(ポハン)に送り届けました。
バーイと陽気な声をあげ、上陸していった。
彼らの部隊が壊滅したと知らされたのは、だいぶ後になってからでした」

 熾烈(しれつ)な戦いは続く。戦線は半島にローラーをかけるがごとく南へ北へ。
北朝鮮の援軍として中国人民志願軍も参戦すると、退却する米兵を収容するため、
生まれ育った鎮南浦へ向かった。

「ちょっと街を歩きました。銀行だったところは国立柔道場、銭湯だったところは
国立沐浴(もくよく)場の看板が出ていましたが、街並みは昔のまま。
船に敗残兵を乗せると、護衛の艦隊が陸上に向け一斉に砲撃をはじめた。
東洋一といわれた旧日本鉱業の巨大な煙突が破壊され、私のふるさとは焼き払われた。
アイゴー、アイゴーと泣き叫ぶ声が寒風に乗って聞こえてきました」

 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領の両親は避難民である。
北朝鮮東部の興南(フンナム)に暮らしていたが、
中国軍に包囲され、脱出を余儀なくされる。

韓国で「興南撤収」と呼ぶこの作戦にも三宮さんは派遣された。
「中国軍が山を越えてこないように一晩中、照明弾を打ち上げて山頂を照らし、
その下で銃撃が続いた。
逃げてきた米兵の服はぼろぼろ、手はあかぎれ。寒さに震えながら船内に入ると、
楽しそうにジングルベルを歌っていた。クリスマスが近かったんです」。
混乱のなか生き別れになった妹を案じる兄の思いを歌った国民的歌手、
玄仁(ヒョンイン)の「頑張れクムスンよ」は、いまも懐メロの定番である。

 一進一退を繰り返し、53年7月27日、双方に膨大な死傷者を出して
戦争は休戦となる。
南北離散家族は1000万人にのぼった。
日本に思わぬ「特需」をもたらしたものの、その陰で日本人が戦争に
「動員」されていた史実は秘密とされた。

「当時は集団的自衛権を認める憲法解釈の変更も、安保法制もないまま、
ずるずると米軍に加担していた。いまはおおっぴらに米軍を支援できる。
いや応なく日本は巻き込まれてしまう。
そもそも朝鮮戦争は撃ち方やめの状態なんです。
アメリカと北朝鮮が話し合うしかないじゃないですか。
日本もアジアの平和のため、トランプ米大統領に戦争はいかん、
と進言する気概を持たないと」

 だが、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は核・ミサイルを手放そうとしない。
対話はできますか?
するとあるエピソードを口にした。
97年秋、金日成(キムイルソン)主席の喪が明け、
金正日(キムジョンイル)氏が総書記になったころだ。

「子供らのために粉ミルクを持って訪朝しました。
夜、平壌の普通江(ポトンガン)ホテルに金正日さんから贈り物が届いた。
中国・ウイグル産のハミウリ。こんな言葉も伝えられました。

<われわれの直面している困難はわれわれの手で解決する。
しかし困難なときに助けてくれた隣人の恩は忘れない>」。

ちょっとほっとする。
「そうなんだよ。息子も父のような思いを持ってくれていればいいが……」。

護憲・反戦を信念に府中市議を7期務め、いまは妻と2人、老老介護の日々という。
「戦争がどれだけ悲惨なものか、私はそれだけを伝えたいと思っています」

ーーーーーー以上ーーーーーーー
よくぞ毎日新聞 記者は、三宮さんから取材しました。すばらしい!
三宮さん、朝鮮半島から日本へ帰国して、奄美復帰運動でも
オルグ活動もしていたとか聞いたこともあります。
ご健在にて、嬉しく、また適宜な紹介、全く素晴らしいです。



 

共に闘おう! 投稿者:尾形 憲

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月21日(木)13時22分50秒
返信・引用
  このコモンズ掲示板の前の協同未来 読者掲示板をひょんなことから点検していたら、
尾形さんの投稿文を見つけました。

病院に長く入っていて、無念にも、今年永眠してしまいました。
なんと13年前の投稿文です。大先輩の想像を絶する思いのこもった文章に、感激してし
まいます。紹介させて頂きます。



協同未来 読者掲示板
http://8727.teacup.com/2004mirai/bbs/4

共に闘おう!
投稿者:尾形 憲  投稿日:2004年 9月 5日(日)22時07分31秒
「今こそ色々な立場で憲法改悪阻止」。

まったくおっしゃる通りです。「未来」でごらんのように、私は今イラク派兵違憲訴訟を
闘っていますが、その根拠は憲法前文と第9条第13条の平和的生存権、幸福追求権で
す。

罪もないイラクの民衆の殺傷に私たちが加害者としてとして加担させられていることに良
心の呵責、心の痛みを痛感しながら、平和に暮らすことができるでしょうか。

 沖縄ではジェット機墜落 住民の抗議にもかかわらず飛行再開、それもイラクへ向け
て、事前協議など安保条約はどこへやらです。
美浜原発では事故で4人が焼死。いったいこの国では「生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については」「最大の尊重を必要とする」という第13条はどこへいったので
しょうか。

 だからこそ私たちは闘い続けねばなりません。私も東京で靖国訴訟を闘っていますが、
ご存じのように 福岡では、遺言まで書いて小泉首相の靖国参拝を違憲との判決を下した
裁判長も出ました。憲法第20条政教分離に違反するものとしてです。おかしいことはおか
しいと訴え続け 行動し続けよう。

 私は間もなく81歳、数少ない戦争の生き残りとなりました。この戦争では日本人の死者
310万人のうちの軍人軍属230万の2/3が餓死でしたが、彼らもアジアの人たちに対し
ては加害者だったことは否定できません。
 そうした反省の上にできた平和憲法、世代をこえて語りあいましょう。どうぞお声をか
けて下さい。




 

 <「北朝鮮危機」に対する唯一の真の解決策:活気に満ちた反帝国主義運動>

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月17日(日)11時44分27秒
返信・引用 編集済
     リサ・トリオ 氏の論文紹介します。


 次の論文は、ツイッターhttps://twitter.com/shizuko13407   から知りました。
 <「北朝鮮危機」に対する唯一の真の解決策:活気に満ちた反帝国主義運動>

グアム・沖縄・韓国・朝鮮民主主義人民共和国・日本・アメリカ更に中東ーー全世界の反帝国主義運動ーーが、団結を推し進める事こそが、新の問題解決であることを、教えて下さいました。リサ・トリオさんの論文は、とてもすばらしい!紹介します。

若きジャーナリスト、鳥尾理沙さんのマスターピース。北朝鮮の「脅威」で揺れるアジアを沖縄の反米基地運動から見る。サンフランシスコAPALAで採択された沖縄との連帯。「私たちが歴史を変える」

http://inthesetimes.com/article/20515/the-only-real-solution-to-the-north-korean-crisis-a-vibrant-anti-militarist


2017年9月12日
「北朝鮮危機」に対する唯一の真の解決策:活気に満ちた反帝国主義運動

沖縄の人々は米国の軍国主義に反対する動きによって、戦争に対する根本的かつ超国家的な抵抗のロードマップを提供している。
BY リサ・トリオ

 「あなたが沖縄に住んでいる時、戦争の感情から逃れることは決してできません。
ドナルド・トランプと金正日(キム・ジョンイル)の戦いが激化するなか、世界はますます北朝鮮の軍事力に固執している。ニューヨークタイムズが北朝鮮のミサイル計画を「デパング」したように、北朝鮮体制の長距離弾道ミサイル試験は小型核弾頭の報告と相まって、米国と同盟国がどのようにすべきかを議論している。北朝鮮は最近、6番目の最大の核実験を実施し、米国のジム・マッティス国防長官が「巨額の軍事的対応」に脅かされる可能性があることを警告するよう促した。しかし、「ニュース速報」のセンセーショナリズムの中ではめったに言及されていない。この地域の最も強力な軍事力の存在:米国。

 それに加えて、6800発の核弾頭-比べ60北朝鮮に、所有し、米国はその長年の戦略の一環として、アジア太平洋地域全体の軍事施設の世紀の建物の何百もの大半を費やしてきたと言われています中国と北朝鮮を「包含する」。冷戦時代、核兵器の備蓄はしばしば、韓国、沖縄、フィリピンなどの米軍基地に密かに保管されていた。国連安全保障理事会は、AS 強化し、北朝鮮、すでににつながっている制裁慢性的な食料不安普通の人々 -、米国が積極的を通じて筋肉を曲げるために続けてのために合同軍事訓練朝鮮半島に沿って、その同盟国、韓国と日本との 。これには、核兵器を運ぶことができる重い爆撃機を備えた空中訓練が含まれる。

 この地域の紛争への恐怖は、インパルスに牽引されたアメリカの大統領の下ではもっと目立ちます。その無謀な外交政策は、すでにアフガニスタンと中東で一連の恐ろしい爆破を招いています。何十年ものプロパガンダが積み重なっているので、北朝鮮はよく知られている「政権交代」の叙述で敵対者になる可能性がある。しかし、トランプの大統領のもとでも、連合国連帯は米軍覇権に立っている。

 カリフォルニア州アナハイムにあるアジア太平洋アメリカ労働協会(APALA)の8月の大会では、沖縄の代表団がネイティブ・ソングの舞台に姿を現しました。先住民の伝統的な楽器であるサンシンの楽しい演奏は、アジア系アメリカ人や太平洋諸島のコミュニティから600人以上の労働者の舞踏会場に入りました。その多くは、通路を通って沖縄人に参加する舞台上に踊りましたお祝い。その歌が終わりに近づくと、若い沖縄の活動家がマイクをつかんで、部屋の向こう側に広がっていったように、大きくて大きくなった歌を始めました:

  「抵抗し、組織し、戦いなさい!
  "私たちの人々は十分に持っている"

 7月には、辺野古のキャンプシュワブ門の外に70人の沖縄のデモ隊員たちが座っていました。小さな漁村で、米軍が島に新しい軍事基地を建設しています。  激しい太陽の下で武器を結びつけ、私たちはダンプトラックが到着するまで数ブロック離れた日本の戦闘警備隊の到着を待っていた。軍用トラックと装甲車は時々、乗用車に挟まれて私たちを追い越しました。米軍の拡大に対して祖先の土地を守るために戦ってきた沖縄人にとっては、あまりにもおなじみの奇妙な現実です。

 沖縄人がほぼ毎日門で座り込みを開始してから、カヤックや漁船でオウラ湾のオフショア作業を混乱させてきた人にとっては、それ以上の時間がかかりました。
辺野古では、道路の側にある穏やかな抵抗キャンプの列が、世界中の支持者が連帯して集まっている辺野古の風景の一部となっています。

 それに対応して、日本政府は、米国の長年の同盟国であり、全国各地の数百人の暴動警察を送り込み、最南端の島で平和的抗議を解散した。過去2年間で、警察は、孤独な閉じ込めで5ヶ月間拘留された山城裕二を含む数十人の反基地デモ隊を逮捕した。辺野古の座席では、サッカーとマスクを着用している黒人の役人たちが、沖縄の高齢者を叫びながら、顔をカメラに押し付けながら叫んだ。「このような差別を受け入れるつもりはない」と、第二次世界大戦の生存者である沖縄の岸本夏子さんが私に語った。"私たちの人々は十分に持っている。

 1879年に日本に併合された沖縄の島々は、日本の軍事基地のわずか0.6%にもかかわらず、日本の米軍基地の74%以上を占めている。島々のアメリカの不均衡は、日本の沖縄における植民地時代の遺産に起因している。米国政府はこの遺産を利用している。1952年に米軍が正式に日本から撤退した後も、沖縄が日本のルールに「復帰」するまでに20年かかった。今日の沖縄では、アメリカが決して本当に残っていないことは明らかです。

 米軍基地は沖縄本島の約18%を占めていますが、アメリカの存在は、事故の起こりやすいMV-22オスプレイの無人機でどこでも感じられます。ボーイング製ティルトローター 軍の航空機が年間で致命的なクラッシュのそのスルーで悪名高い、最新のオーストラリアの沖米海兵隊3を殺します。しかし、沖縄でのオスプレイの展開に抗議し続けているにもかかわらず、米軍は学校や地元の近所に飛び続けている。

 オスプレーは、現代的な米国の権力、すなわち全統一による支配を体現している。"幼い頃、基地のために外出することを恐れていることを覚えている"と、巨大なカデナ航空基地の近くで育った沖縄の女性、Higa Tamiがデモで私に語った。「あなたが沖縄に住んでいる時、戦争の感情から逃れることは決してできません。

 米国の支配の十年と草の根の抵抗

 沖縄は1945年の春、第二次世界大戦の日米間で最も血の強い戦いの場になった。その戦いは人口の4分の1の約15万人の沖縄人の命を奪い、多くの人が移民と難民として故郷を離れるようになった人道危機を解消した。沖縄の世代に渡って伝えられた壊滅的な戦争の集合的な記憶は、島の米軍の存在に対する闘争の中心に位置しています。「今日、シリアとイラクで起こっていることが、沖縄で起こった」と、67歳の退職した歯科医の山内勝が私に語った。「ここで米軍に反対しなければ、戦争犯罪に執着する」と述べた。

 冷戦の始まりで、米国は沖縄をこの地域の戦争の拠点にしました。米国の戦後軍事占領中、米国の兵士はブルドーザーとバヨネットを使って地元の村落の農場を押収した。米国は約25万人の沖縄人を移しました。その多くは島の中の軍事基地の道を作るために米軍が運営する収容所に詰め込まれました。ベトナム戦争中、B-52爆撃機は、沖縄から東南アジアに向かった。1960年代には島全体で80以上の軍事施設があり、沖縄の人々に知られていない数百の核弾頭があった。1971年に日米間の二国間協定のもとで核兵器が島から撤去されたが、米国に「緊急時には」核兵器を再導入する権利を確保するという秘密協定が調印された。

 島には何十年もの米軍の存在の痕跡が残っています。ヒ素、枯渇したウラン、そして悪名高い枯葉剤が島全体で発見されています。ジャーナリストのジョン・ミッチェル氏によると、米軍施設からの化学物質の漏れも島の水供給を汚染しているという。沖縄では、ヘノコの新しい基地建設が、大浦湾のサンゴ礁や海草生態系の破壊をさらに深刻化させると懸念している。「辺野古の海は私たちの先祖たちが海底から噴出する無限の魚が流れていると言われていたため、7月の席で会った63歳の沖縄の男、私に言った。"私たちのために、この島は人生です。"

 しかし、沖縄の人々による何十年もの反対にもかかわらず、日本政府は島に米軍基地の建設を支援するために何十億ドルもの資金を投入している。日本の軍国主義的な栄光の日々を復活させようとしている遠くの保守派の安倍晋三首相にとって、忠実なパートナーとしての地位は幸せな媒体である:アメリカの騎士をプレイすることは、帝国のシェアを取り戻すことである。安倍政権は、米国戦争の後押しに加えて、日本を平和主義憲法の改正に向けて押し進め、戦場で日本を「平等なパートナー」として再構築しようとしている。北朝鮮の危機は完璧な言い訳かもしれない。

 そして、北朝鮮と米国の緊張が高まっていることから、沖縄は戦争の中でもう一度自分自身を見つけ出すことができるという恐怖が強まっている。
「歴史を見ると、軍事基地は戦争の最初の標的になっていることが分かっている」と沖縄の建築家、牧志義一は1室のオフィスで教えてくれた。
「アジアで紛争が起これば、沖縄はアメリカの最初の防衛線になるだろう」

 しかし、沖縄の人々は、毎ターンに戦ってきました。1956年の6月、沖縄人は、「島全体の闘争」として知られるように、アメリカの占領者に対して調整されたキャンペーンを実施した.10年後、多くの沖縄人は、すべての米軍の閉鎖を求める大々的な抗議を通じてベトナム戦争に激しく反対した島の基地。「私たちの人々は豊かな歴史を持ち、抵抗の伝統を持っています」と山内は私に語った。
 「私たちは抵抗するだけでなく、実際に勝っている」

 ヘノコの進行中のデモでは、米軍基地の建設にかなりの遅れが生じています。ヘノコの北東30マイルの村であるタカエでは、反基地の抗議デモは、地元の人たちによってOspreypadsを導入された6つの新しい米軍ヘリコプターの完成を阻止し続けている。さらに沖縄の知事は、7月に先住民族の土地の返還を求めて日本政府に対して訴訟を提起した。そして8月には、沖縄の反基地活動家がカリフォルニアへ行き、そこで抵抗感は連帯を知っていた。

 "拠点のない世界"

「アラブ首長国連邦労働委員会のジョゼ・カマチョ事務総長は、8月のAPALA大会のコンベンションホール外で私に語った。「グアハーンは常に爆撃、職業、荒廃の標的だった。グアムの両親であるカマチョ氏は、「私の島が消耗しているため、特にこのトランプのために、私たちの島が消耗していると怒っている。

 グアハン島の領土には、米国と日本の二重植民地化の歴史があります。米軍はスペインとアメリカの戦争以来、戦闘機や原子力潜水艦の沢山を収容するためにこの島を使用しており、そこに空軍と海軍基地をアップグレードするために数十億ドルの計画を進めている。「チャモロ国民の多くにとって、彼らが経済の持続可能な部分であったため、軍隊について話すのは難しい」と、アメリカの労働者と一緒に沖縄の代表団が出席したネイティブハワイと太平洋諸島のコーカスを率いるカマチョは言う。チャモロ遺産。「これが米国の行動だ」

 APALA大会では、トランプの人種差別的、反移民的な政策に抵抗するという目標のもと、主催者が団結しました。しかし、多くの人にとって、彼らの話は、米国の戦争と帝国主義の諸政策と密接に関連していました。「ベトナム戦争から脱出して帰国し、家族が米軍によって殺害されたアメリカに来た人々はここにいる」とAFA-CWAの組合代表者を務めたハワイの第4世代沖縄人Darren Shiromaは語った。
  「戦争に苦しんでいる国々を逃れた人々は、自分の身元、家族の土地、
   民族の暴力を理解している」

 沖縄、韓国、フィリピン、ハワイ、グアハンの人々は、帝国の外圏に権力を築いており、米国ではこの運動が地域内の団結を見いだしています。

 ハワイで日本人と沖縄の両親と一緒に育ったシーロマは、「先祖の苦しみを修復するために、関係を築き、何かをする必要があります。米軍の沖縄占領に対する彼の反対は、アメリカの織物に織り込まれた彼の家族歴に由来している。「アメリカ人として、私は自国の土地占領に反対している」

「故郷」においては、海外の同じ占領軍が、アメリカの内部植民地を圧倒する、ますます軍事的で人種差別的な警察力の形を取るように見える。米国政府は、教育に資金を投入し、ブラック、ブラウン、移民、先住民族の水源を汚染しながら、次の8カ国を合わせて防衛にもっと費やしている。一方、新自由主義資本主義の勢力は、アメリカの軍事ベンチャーを海外に押し上げている。

 サンフランシスコ州立大学のアジア系米国人教授であり、沖縄の代表団の通訳として働いていた第3世代の沖縄の教授であるWesley Ueuntenは、「アメリカに住んでいると、会議。「その経験が基本的なレベルで教えてくれたことは、私自身の人間性を失うことではなく、他人を否定することではない」

 北朝鮮の危機に対する外交的解決は不可欠であるが、一時的な解決であることを忘れることはできない。恒久的な「政権交代」は、帝国の論理の一部です。脱植民地化は地域の持続的な平和のための前提条件であり、活発な多国籍運動はアジア太平洋を明るい未来へと押し上げる可能性がある。

 APALA大会で沖縄の米軍の拡張を終結させる決議が成立したとき、沖縄の代表団は空中に拳を立て、群衆が拍手を沸かした。

混乱に直面して、劇的な反帝国主義運動のロードマップを提供するのは、連帯の瞬間です。沖縄の活動家で高校の先生である宮城ちえは、会場外で私に語った。

「私は一緒に世界、拠点のない世界を想像したい。「ここで、私たちは歴史を変えようとしている気がします。

リサ・トリオ
Lisa Torioは東京に本拠を置く作家です。
 

   資本論再版での「廻り道」を巡っての久留間説への批判(その2)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月15日(金)07時18分29秒
返信・引用 編集済
  http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1556  の改稿であります。
 この「廻り道」の現行版での提起は、初版とは異なるものであり、相対的価値形態の形
成での、リンネルの価値形態上着へと辿っていく第一の出発点であります。
 事態の進行のなかで、上着が価値として等置される第七段落の前に、第三・五段落での
解決事項が存在しており、そこでは、上着は価値の存在形態であり、価値物として規定さ
れており、そして、その反対極での価値を織り出すリンネル労働は、抽象的人間労働と規
定されています。この反対極へと回らず、自極のままであった、裁縫労働は、人間労働と
規定されています。

 このような価値形態論の③・⑤段落をまず記載しておきます。

  「③だが量的.に等置されている二つの商品が同じ役割を演じているのではな
  い。亜麻布の価値だけが表現されるのである。ではどのようにしてか?
   亜麻布が自身の「等価物」である上着に対し関係することによって、または自
  身と「交換可能な物」である上着と関係することによってである。
  この関係において上着は価値の存在形態、価値物として通用する。というのは、
  そのようなものとして上着は亜麻布と同じだからである。
  他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立した
  表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつものであ
  る上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだか
  らである。」

  「⑤例えば価値物としての上着が亜麻布に等置されることによって、上着のなか
  に隠れている労働が亜麻布のなかに隠れている労働と等置される。確かに上着を
  つくる裁縫は亜麻布を作る織布とは違う種類の具体的労働ではある。が、織布と
  の等置は裁縫を事実上両方の労働において作用している同じものに、人間労働と
  いうそれらに共通の性格に還元する。
  そしてこの回り道を通って次のことが示されるのである
  : 織布もそれが価値を織る限りではなんら裁縫と区別する特徴をもつものでは
  ない、つまり抽象的な人間労働である。
  種類の違う諸商品の等価表現こそが価値形成労働の特殊な性格を現象させるので
  ある。なぜならこの性格は種類の違う諸商品のなかに隠れている種類の違う諸労
  働を事実上それらの共通のものに、すなわち人間労働一般に還元するからである
  17a。」
  http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
   私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品からの引用であります。

 ここでのリンネルと上着との抽象のされ方は異なるものですが、そんなことなどどう
でも良かろうーーというのが今日の価値形態論解読の通説になっています。その代表が久
留間説であります。その事柄を紹介してみます。

  「そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の
  秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうこと
  かというと、たとえば 20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というとき、
  20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、
  そういうことが行われうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値
  物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の
  大きさをあらわすことはできないはずである。
  ーーーー略ーーーー
  上衣を作る労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的労働であって、抽象的
  な労働ではない、上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに
  等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労
  働に等置されることになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元されるこ
  とになる。

  と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
  ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
  上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
  じめて自分の価値を表現するのである。」
   (『価値形態論と交換過程論』P7~8)

    (広島「資本論」を読む会)のホームページからお借りしました。
    http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2

 まず第一の反対論を挙げてみよう。
 上着が価値物としてリンネルに等置されることと、上着が価値の定在=価値存在とさ
れることとは、異なったことです。リンネルが価値存在とされるから、上着は価値の存在
形態として規定されます。これが質的側面であり、価値の大きさを表す」というのは全く
の誤りです。量的側面でこの質的側面を前提に、一定量の価値としてリンネルが上着に等
置されることで、その量的側面である交換比率が示され、そして上着の価値体で価値表現
がなされます。

 第二に、またその質的側面では、「価値の存在形態として、価値物として、認められ」
(原P64)た上着がリンネルに等置されることで、価値の存在形態である上着の性格が
回り道を経ることで現出してきます。
この回り道を経過することで上着は人間労働一般として規定されて、リンネルは抽象的人
間労働と規定されています。

 第三に、ここでの久留間さんの誤りは、マルクスのこの回り道を否定していることであ
ります。これまで批判者が何故か触れない誤りです。
  「上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、
  それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置される
  ことになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元される」(久留間)
ここで、「上着がひとつの価値である」(七段落)ことが前提になっていれば、久留間さ
んの見解は正しいのですが、しかし、この五段落では上着は価値物としてリンネルに等置
されることで、裁縫労働は人間労働一般に還元されていたのです。

 第四に、よくよくと考えてみれば、久留間さんの理解するように裁縫労働が抽象的人間
労働に還元されるならば、この「回り道」で提言されたことは全くの不要な事にされてし
まいます。何故ならーーリンネルが抽象的人間労働のの凝固である価値として上着に等置
されるからです。(しかし、価値物上着、それではその時々の商品関係であって、物象の
諸関係としての基礎は形成されません)

 次の六・七段落で何がーー提示されていたのかであります。
 なるほど、久留間さんの述べるようにこの五段落でのリンネル織り労働が価値を織り出
すことが、右辺の裁縫労働においても価値を縫い上げる労働になっているのではないかと
誰しも考えてしまいます。その疑問の解決を目指したのが、この六・七段落であります。

 そこで、次に、上着が価値物ではなく、価値ーーという規定にあることを明示した
⑥・⑦段落の提示であります。

  「⑥にもかかわらず、亜麻布の価値がそこから生じている労働の特殊な性格を表
  現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力または人間労働は価
  値を形成する、が、それは価値ではない。それらは凝固した状態、すなわち対象
  的な形態において価値になるのである。亜麻布を人間労働の凝固物として表現す
  るには、その人間労働が亜麻布自身と物的に異なり、そして同時にその労働が別
  の商品にも共通する一つの「対象的なもの」として表現されなければならない。」

  「⑦亜麻布の価値関係のなかで上着が亜麻布と質的に同じもの、すなわち同じ性
  質を有する物として通用するのは上着が一つの価値だからである。」

 六段落を経た七段落にて、「上着が一つの価値である」と示されていることは、上着が
直接的に価値であるーーのではなく、このような回り道をしての成果なのです。

この六・七段落の考察を経てみると、五段落にて左極でリンネル織りを価値を織り出す抽
象的労働としてのみ規定し、右極については人間労働一般と規定したのは、この反省規定
=物象の判断の特異性・特徴であることを私達が探りだすーー能動的主体的な営みが要求
される、マルクスが「どうしてですか?」との質問を我々にしているからなのです。
私達自身の主体的営みにおいての返辞・回答が要求されているのです。

 そこで左辺の抽象的人間労働として規定されているリンネル織労働が、凝固しているも
のとして認められるのは、個別の物的なものとしてではなく両極の価値関係を構成してい
る商品として、右辺に対する商品との共通性とは何か?との質問を発するーーことで、そ
れは価値である、との回答をしているのです。

 私達は無意識のうちにこの回答を物象の判断に従って成しているのです。
この上着は価値であるとの判断を受けてのみ、この三段落での提起が論証されたのです。

  「他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立し
  た表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつもので
  ある上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだ
  からである。」(三段落)

そして、この論議を経てのみーー五段落での右辺の裁縫労働が人間労働一般の支出であっ
たものが、やっと今度・七段落にて抽象的人間労働の凝固物として、価値として規定され
たのです。そして、やっと、この「亜麻布自身の価値存在が現象している」場面に到着す
ることで、価値物上着の規定を脱する地点に到着したのです。

 このように全く回りくどいことをマルクスが述べているのは、物象の登場・判断の推移
の有り様を人々がたどれるように、彼が我々に質問を発しているからなのです。

「上着がひとつの価値である」(七段落)と、リンネル価値が上着をその凝固したものと
して判断できることで、上着はリンネルとの共通者を、その凝固したものである価値、と
して獲得したのです。
ここで、提示されている「人間労働一般に、還元する」(五段落)ーーでは、物象の社会
関係は成立していないこと、<上着が価値物>の規定がどうやって、価値の規定へと転化
したのかをこそーーここに述べられているのです。

 第五にです。
 さて、その次の八・九段落です。

  「⑧実際に上着の生産では裁縫という形態で人間の労働力が支出される。すなわ
  ち上着に積み上げられているのは人間の労働である。この側面において上着は、
  たとえそれが擦り切れて大きく開いた糸目のあいだからその本質そのものが顔を
  のぞかせているわけでないにしても、「価値の担い手」である。そして亜麻布の
  価値関係のなかで上着は将にこの側面によって、身体を与えられた価値、価値体
  として通用する。上着の無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同じ種族がもつ
  美しい価値魂を上着に認めるのである。だが、同時に亜麻布に対して、価値が上
  着という形態を取ることがなければ、上着が亜麻布と向き合って価値を表現する
  ことはできない。(後略)」

  「⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価
  値形態として通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身
  体で表現される、つまりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるので
  ある。
  使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、価値としての亜麻
  布は「上着と同じもの」であって、したがって一着の上着のように見えるのであ
  る。こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
  亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。それはあたか
  も神の子羊との同一性において現われるキリスト教徒の羊という存在である。」

 さてと、久留間さんは、何故かこの⑧段落に対しては理解を示さず、⑨段落に対しての
み、自らの解釈を述べている。

  「このばあいよくよく注意しなければならないことは、 20エレのリンネル・
  イコール1枚の上衣 という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自
  分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっている
  のではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態
  に─その自然形態がそのまま価値をあらわすものに─しているのだということ、
  そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自
  身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマル
  クスのいわゆる価値表現の回り道なのである。」
  (『価値形態論と交換過程論』P-8)

 ここでの次のような理解が、⑧ではなく、⑨段落に対しての理解を述べたものであるこ
とはすぐ見て取れることであります。

  「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──その自然
  形態がそのまま価値をあらわすものに──している」(久留間)

再版ではーー
「亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。」(同上)
対して向坂訳は、
「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、ちょうどキリスト者
の羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」(向坂訳P97)
ーーと述べられている。

 向坂訳に依拠すれば、この宗教的転倒批判が、<上着は価値としてリンネルに等しい>
との理解に対しても向けられているーーことが次のように理解できる。

「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、」ーーとの表現で、
マルクスは価値形態を「価値魂」批判において受け取る(八段落)事柄が、転倒してしま
い、肝心なことであるーー私達には亜麻布の価値存在の表現ではなく価値表現ーーとの誤
解を必然化していることがらの、注意書きをここにしているのです。

 リンネルの価値形態上着ーーとの規定があって、始めて相対的価値表現が可能であり、
そしてつぎに、(物象として)上着が価値表現の材料としての役立ちを行うことで、相対
的価値形態が成立するのですし、この前提事項である<価値形態上着>での物象の社会関
係の形成による価値関係の<上着は価値としてリンネルに等しい>という、同等性関係へ
の転倒批判をこそ、ここ⑧-⑨段落に述べているのです。

 従って、「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──・・」
(久留間)しているのではなく、「上衣を価値の形態に」ーーすることでの宗教的転倒が、
「上衣は自分に等しいのだということによって、」との現象をもたらしている、と言うの
がマルクスの意図であります。

従って、久留間さんの主張は全くの誤りであり、次のーー
「だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ、上着が亜
麻布と向き合って価値を表現することはできない。」(⑧段落)
ーー事を批判するものであったのです。

 この「価値が上着という形態を取る」ーーこの表現の意味は、その次の⑨段落にて、
「上着形態は価値形態とされる。」、と明快に規定されている。ここには「価値表現」の
前提が述べられている。なるほど物象の登場による転倒した形態においては、リンネルも
上着も価値である同等性関係において、あるいは<上着は価値としてリンネルに等しい>
との、前者と同じ宗教的転倒を、生み出しています。

 価値関係と同等性関係との混同をうみだす宗教的転倒が、この常識的見解を発生させた
のです。

 第六です。
 おっと、最後の久留間さんの記述への意見を忘れるところでした。

 「抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する」
ーー大谷先生が『貨幣論』にて、価値物と価値体の混同と久留間先生の誤りを指摘し、彼
もまたその指摘は正しいとして、訂正を認めたーー事柄でした。

 しかし、この訂正事項は、久留間説の根幹に関わることであって、価値形態論で、ーー
相対的価値形態の内実として価値形態上着があって、他商品リンネルの価値が表現される
ーーことができるのに、リカード経済学のそのままに、上着が価値であり、価値体である
ので、この上着によって価値表現がなされると理解していた、ことが暴露されたのでした。

 彼の誤りの原因は、このリカード経済学の誤りへの批判は理解しているにかかわらず、

  「そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で
  そういうものとしての上衣の身体で、はじめて自分の価値を表現する」(久留間)

ーーことに示されるように、マルクスの次の提起を②の転倒像のなかで、宇野先生と同じ
く理解している。

マルクスは、物象の社会関係の形成が、①正像と②倒立象とを、
「上衣にそういう形態規定性を与えた」ーー次の形態として与えたと表明している。

  「こうして、上着がリンネルの等価物となっている価値関係のなかでは、上着形
  態は価値形態として認められる。それだから商品リンネルの価値が商品上着の身
  体で表され、一商品の価値が他の商品の使用価値で表されるのである。

  使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違ったものであるが、価値として
  は「それは上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。この
  ようにしてリンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。
  リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れることは、キリスト教徒の羊的性
  質が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。」(原P66文庫101)

①正像としては、これは価値関係であるから、上着は価値形態として認められるから、そ
のことで、リンネルの価値が他の商品の使用価値で表現される。
②倒立像としては、
「価値としては「それは上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである」
ーー同等性関係に転倒している。
この同等性関係に転倒した関係について、宇野先生は支持することで、すでに解決済みの
マルクスの問題とした五段落での、価値物上衣を縫い上げる裁縫労働とそれに反省規定さ
れる織布労働の抽象についての自らの理解を久留間さんとは異なって語るとして、この九
段落での抽象を語っている。

 しかし、宇野先生は、その前の八段落にて、
 「リンネルに対して、上着が価値をあらわすということは、リンネルに対して上着
が価値という形態をとることなしにはできないことである。」
(八段落原P66文庫101)ーーと語られたことが、再度この九段落にて語られて、この段
落にては、価値関係について、その正立像と倒立像の対比を述べていることを無視してい
る。
 しかし、この倒立像にしても、<価値としては、リンネルは上着に等しい >ーーに対
して、宇野先生は、まず次の理解をしている。

a)「・・・リンネル所有者は、リンネルの価値をリンネルと交換したいと思う他の
  商品、例えば上衣によって表現せざるをえないのである。その場合上着なる商品
  は彼にとっては、己にリンネルと同じ質のものとなっている。
  「使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違ったものであるが、価値とし
  てはそれは「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見える」(註)ので
  あってリンネルの価値は、上着においてその表現を与えられることによって、そ
  の使用価値とは分離した表現を得るのである。

  それは勿論リンネルを作る労働が、織物労働なる単なる有用労働としてではなく、
  上着を作る労働と等しいものとして

b)少なくとも此の二種の異なった労働に共通なものとしての人間労働に還元される
  ことによるのであるが、

c)それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間労働としてではなく、リンネルの織
  物労働を具体的な上衣の裁縫労働に等しいものにするといふ「回り道」をして行
  われる抽象である。」
  (『価値論』P142~144 『価値形態論と交換過程論』(P60孫引き)
  (註)は、資本論・原P66・八段落)

杉本の意見ーー
a)このように、マルクスはこの九段落での物象の社会関係が正立像で与える価値形態と、
倒立像で与える価値形態との対比をしているのに、宇野先生は、その倒立象の方をこそ支
持し、そして、ここでは価値形態がえられるのに、商品の二重性の他方であるーー価値が
えられるーーと全くの誤解をしているのです。

そして、得られた価値からしてと考えて、宇野先生は次の第二の誤解をしている。

b)「・・・少なくともこの二種の異なった人間労働に共通なものとしての人間労働
  に還元されることによるのであるが・・・」(同上60~61)
  との理解を述べることで、超歴史的な人間労働に価値実体を還元ーーすることに
  連係させているのです。

杉本の意見ーー「リンネルに対して上着が価値をあらわすことは、同時に、リンネルにと
って価値が上着の形態をとることなしにはできないのである。」
(資本論原P66)ーーというこの前の八段落でのマルクスの提示こそが、ここでの回答で
あるのに、全くの誤解をして、価値実体によって、価値表現が可能であるーーという驚い
た回答をしているのです。
これでは、次の例文①のままでの理解であり、価値関係がここでの論じる前提であり、リ
ンネルの価値存在は価値形態上着によって表現され、ーー
「だから、価値形態は、ただ価値一般だけではなく、量的に規定された価値即ち価値量を
も表現しなければならない。」(再版原P67)ーーとのマルクスの注意点を、全く無視し、
価値関係を同等性関係に転倒させた、理解なのです。

 再度、提起すると、価値関係との物象の社会関係があることで、価値形態との物象の判
断があり、リンネル価値の表現が可能なのです。この論理進行こそとても大切なのです。

このように、宇野先生は、明らかに価値関係を同等性関係に転倒させることで、今題材に
て示されている次の商品語の支持者となっているのです。

 ①「労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成すると
  いうことを言うために、リンネルは、上着がリンネルと等しいとされるかぎり、
  つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働から成っている、という
  のである。」

 ②「リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては
  上着にそっくりそのままである、と言うのである。」
  (同上原P67)

このように、「a相対的価値形態の内実」の冒頭第一段落にて語られた「価値形態と価値
の混同」との註17での批判は、この九段落での商品語批判に結びついていたのですし、そ
の批判について何ら回答を示さなかった宇野先生は、リカード経済学の価値実体論そのま
まであったのです。

 もう一度、価値形態である限りにて、上着は価値であり、そのことで価値表現が可能で
あるのに、「価値としてはそれは『上着に等しいもの』であ」ーーることに転倒すること
でも価値形態がえられる物象世界の姿の転倒像である後者を、宇野先生は支持したのです。

以上の宇野先生の「商品語」支持を、久留間先生は次のように提案することで賛成をした。

<価値としてはそれは「上着に等しいもの」>ーーとの転倒による価値形態の形成を、こ
の内実面を省いて、価値表現としては支持する宇野先生の論理を、使用価値上着のリンネ
ルへの等置であれば間違いであるが、
「・・・(リンネルにとっては、上着は価値物としてのみ存在する)しかしそういうふう
にいいかえさえすれば、、まことにその通りであると思う。」(『価値形態論と交換過程
論』P61)ーーというように。

c)「それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間労働としてではなく、リンネルの
  織物労働を具体的な上衣の裁縫労働に等しいものにするといふ「回り道」をして
  行われる抽象である。」(宇野 『価値論』 )

 しかし、久留間先生は、宇野先生がここに問題にしている原文の九段落での論理にだけ
従うのではなく、巧妙に、再版第五段落での議論をも付け加えて、問題をすり替えてるこ
とで、上記)cの宇野先生の説の批判をなしているのです。

それは何故か?宇野先生が使った、「・・・それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間
労働としてではなく、リンネルの織物労働を具体的な上着の裁縫労働に等しいものにする
といふ「回り道」をして行われる抽象である。」ーーとの、「回り道」を、久留間先生は、
再版第五段落での『回り道』であり、初版での「回り道」であると、誤解ーーしたためで
す。

しかし、宇野先生の使ったーーここでの「回り道」は、第五段落を意味したのではなく、
また、第九段落への意見としての回り道、なのです。だから、むしろ初版での回り道をこ
そ意味しています。

  何故か?そもそも宇野先生が議論している対象は、
  「リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れることは、キリスト教徒の羊
  的性質が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。」
  という転倒した虚像の形態にあるのです。

久留間先生は、<価値物と価値体の混同>において、
宇野先生の誤った「価値形態と価値の混同」の語りをしているーーのです。

 大谷先生によっての、『貨幣論』にて示された久留間さんの<価値物と価値体の混同>
批判は、そのことをこそ指したのです。

 このように、「商品語」への批判において、価値形態論を語らないと、価値形態上着の
役立ちにて、リンネルの相対的価値形態を形成し、その反省規定として、上着が直接的に
価値形態となることで、等価形態を形成するマルクスの立論は、対象外にされ、何ら理解
されないのです。

 上記のことに、やっとやっと(40年もかかって)気づくことで、今まで見逃していたの
だが、商品語批判ができない宇野先生と同じく久留間先生の立論ーー見解は、次のところ
にあったのです。

  <上着に・・・抽象的人間労働の直接的な体化物としての形態規定をあたえ>
とは、転倒した・正像ではない、等価形態の形態規定を受け取るということであり、上着
は直接的に価値体であるかに見えるーー等価形態の謎性ーーにだまされた事をこそしか意
味しないのです。
このことを見抜くためには等価形態のーー「生まれながらに価値形態をもっている」
(註21)独自性ーーが示されて、その対比をなすことにて、
 「上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性と同様に、
  生まれながらにもっているように見える。」(原P72)ーー転倒へのが理解できます。
直接的に価値形態であることは、直接的な交換可能性を示しますが、それは、相対的価値
形態において上着がリンネルの価値形態であることでの、註21に示された反省規定を受け
取る・物象の社会関係でのことなのです。

 このように、「上着は直接的に価値体」であっては、直接的に価値形態とはなれず、そ
して、等価形態の謎性に示される、価値形態ではなくーー使用価値上着が「直接的な交換
可能性」ーーを示す転倒した事柄であり、物象の社会関係の引き起こす、物的関係なので
す。使用価値上着が直接的に交換可能性を示すことができるのは、上着が直接的に価値形
態を受け取ることによっているのであり、「上着は直接的に価値体」であっては、そのこ
とが成し得ないのです。

久留間先生の転倒した見解は、次のところに書かれていましたので、比較のために紹介し
ます。
                      20エルレのリンネル=一枚の上着・・
                      ・・・という価値方程式において、リ
                      ンネルは・・・
                      まずもって上着を自分に等置すること
   と同時に上衣は、こうした抽象的人間  によって上着に価値物としての、すな
   労働の体化物、すなわち価値物を意味  ち抽象的人間労働の直接的な体化物と
   するものになる。そういう形態規定性  しての、形態規定定をあたえ、そうし
   を与えられることになる。       た上ではじめて、この価値物としての
   (上記)               定在における上着の自然形態で、自分
                      の価値を表現しているのだということ
                      である。
                      (同上P56)

 このように、久留間先生は、<価値物上着がリンネルに等置される>ことで語られてく
るーー商品語での語りの転倒性をこそーーマルクスが批判し述べることで、物象の諸関係
である価値関係にて次のことが述べられていたことに気づかないのでした。

①右辺の上着は、直接的に価値形態を受け取るーー判断されると述べていることを久留間
先生は、上着は価値物ではなく抽象的人間労働の直接的体化物と判断されている==形態
規定を受けているーーと判断・理解したのでありますから、相対的価値形態の形成へと、
この価値関係は向かわず、等価形態の転倒した形態の形成へと向かったのであります。

②価値形態上着は価値体と認められることで、上着は価値表現の材料としての役立ちがで
きることが、①の対象となっているのは等価形態なのですから、直接的に上着は価値体と
の判断を受けて、その姿のままに価値表現の材料となる転倒象なのです。彼にとって、等
価形態の三点の独自性は持ちだす必要がないのです。

③このような転倒した理解にあれば、リンネルに対しては上着が価値形態と判断されるこ
とで、相対的価値形態の規定ーー判断を物象がなしている、事を理解する必要が無いし、
またーーできなかったのです。

(以上は、再版での記述に忠実な理解であり、だれでも真剣に取り組むならばたどり着く
見解ーー理解であります。この自明な理解をとどめて、混乱をのみ引き起こしてきたのは、
初版の見解をこの再版に持込み、自明な理解に異を唱え、再版との混同のなかで、
マルクスの説をかたることで、勝手に混乱を引き起こしてきたーー久留間さんの宇野批判
ーーであることが理解できます。しかし、再版 一般的価値形態でのマルクスの論述を検
討してみると、肝心のプルードン批判が、両極の形態からの、①一般的相対的価値形態
②一般的等価形態 の検討であり、①の反省規定として②が語られのですから、逆に、
②の反省規定としてもまた①が語られているのです。だから、②の等価形態を語っていて、
その反省規定として存在する①の一般的価値形態であり、一般的相対的価値形態のことも
そこに語っているのです。
この特異なマルクスの論法は、初版にて更に倍増しているのですから、初版の見解に依拠
して、宇野批判に取り組んだ久留間先生の論述は、多くの同様の人々の支持を集めるも、
価値形態論で宇野説を批判することは実をみのらせなかったのです。)

 

(無題)

 投稿者:hirohiro  投稿日:2017年 9月15日(金)06時19分51秒
返信・引用
  コモンズのホームページがリニューアルされていた。ほぼ一年ぶりぐらいの閲覧だったが、FBで知らせを見た。

驚いたのは、掲示板がそこから消えていたこと。掲示板の管理人とホームページの管理人が異なるからだろうか。それとも党派的な対抗心からだろうか。まあ、別々に見ればいいだけだからな。

sさんとsさんの争い?いやいや、二人ともお忙しいからそんなことではないと思うが。
 

前原 芳文様への返辞

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月14日(木)01時00分53秒
返信・引用
  > No.1561[元記事へ]

前原芳文さんへのお返事です。

前原様、ご丁寧な挨拶ありがとう。

>昨年末あたりから、体調不良(低血圧)のため、価値形態論を読む頭の体力がありません。
>回復には数ヶ月か、一年くらいかかるのではないかと思います。申し訳ありません。
>・・・・・・
>2017年9月10日   前原芳文

私は一介の活動家にすぎず、ただ自分の意見を述べたに過ぎないのですから、
回答を願ったものではありません。どう返辞をしたものかと、考え込んでいました。
しかし、前原様の経済学とは違って、私のものは全くの無手勝流であります。
そんな人へなんとか返辞のひとつもしたいーーという厚情に、感激しています。

また、体調も回復しましたら、ご自分のホームページにて、
以下の訳の違いについて、の意見を教えて戴ければとっても嬉しいです。

  <82>「一商品の単純なあるいは個別的な相対的価値形態は一つの他の商品を
  einzelne Äquivalent 個別的な等価物にする。相対的価値の展開された
   形態、全ての他の商品でのこの一商品の価値表現は、それらの商品に様々な
   種類の特殊な等価物の印を付ける。最後に、一つの特殊な種類の商品が一般
   的価値形態を獲得する。なぜなら、全ての他の商品がこの特殊な商品をそれ
   らの統一的な、一般的な価値形態にするからである。」(前原訳 原P82)

   【2】「一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
   個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の
   商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特
   殊的等価物という形態を刻印する。 最後に、ある特別な商品種類が一般的
   等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種
   類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。」
    (国民文庫 岡崎訳 P127)

私などへの返辞など急ぐ必要もないので、十分な治療を受けて戴ければ嬉しく思います。
また、このわけのわからん意見などうるさいですから、削除しておきます。



 

レンタル掲示板
/146