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  榎原さんの一般的な価値形態の理解について (その二)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月 2日(土)14時33分10秒
返信・引用 編集済
  (いろいろと再検討し、いろいろと改稿もしたので、(その二)としました。)

まずは師匠の資本論 「c一般的価値形態」の理解を見てみよう。
①「一 価値形態の変化した性格」
②「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」
への彼の理解であります。まずは紹介します。

http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220

『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)

 3.一般的な価値形態
そして次の三番目の一般的な価値形態、これに移っているのですが、
ここでの特徴は等価形態が単一の商品で現わされている。
そうするとどうなるか。ここでは61頁の下段(3行目)にその特徴が書かれています。

   <杉本ーー次は「価値形態の変化した性格」5段落 原P80)

   <「新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一
   つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、全ての商品の価
   値を、その商品とリンネルとの同等性よって表す。ーーーー」
   原P80 国民文庫岡崎訳>上記の「こうして」の前文が削除されて次に引用
   されている。>

「各商品の価値は、いまや、亜麻布と同等なものとして、その商品じしんの使用価値から区別
されているばかりでなく、およそ使用価値なるものから区別されており、また、まさにそうさ
れることによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして、表現されている。だから、
はじめてこの形態が、現実的に、諸商品を相互に価値として連関させるのであり、あるいは、
諸商品を相互に交換価値として現象させるのである。」

ですから単一の商品を等価物として全ての商品が表現されるとすると、相対的に価値形態にあ
る商品同士の同等性ということが、ひと目で明らかになるということです。

結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別の商品と等価形態をとっている
場合に、相対的価値形態にある商品同士の関連ということは、明確ではなく統一的ではないわ
けですが、

   <杉本ーー「結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別
   の商品と等価形態をとっている場合に、」ーーとは問題にされているのはど
   の形態のことなのか?
   勿論、それに相応した展開された相対的価値形態であり、第二の形態であり
   ます。
   この第二の形態ではーー
   「他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値その
   ものが、はじめて、ほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」
   (原P77)ーーことで、
   「それゆえ、今ではリンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対し
   て社会的な関係に立つのである」(同上)ーーとなっており、
   このように、他商品体はどれもリンネルの価値形態と反省規定されることで、
   商品世界を形成したことを明示したのです。
    この規定であるからこそ、リンネル商品が、展開された相対的価値形態の
   規定を、物象の判断として受け取ったーーだけではなく、その対極にて、
   「上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物と
   して、したがってまた価値体として認められている。」(同上P78)ことで、
   それらは「特殊的等価形態」となっているのです。
   このように、リンネルの対極にある上着は、第二の形態の等価形態では、第
   一の形態のように、すぐさま・使用価値の姿のままに価値形態とされ、直接
   的交換可能性を認められているのではなく、価値体として等価物の役立ちを
   する限りにおいて、この「特殊的等価形態」を受け取っています。>

   <右辺の商品が「特殊的等価形態」なのですから、この形態では商品世界と
   いう共通性がないのは明らかです。しかし、このようなことを題材とするこ
   と事態が不可能なことですし、商品世界は、展開された相対的価値形態にお
   いて形成されています。

   さて無限なように、商品世界を構成する展開された相対的価値形態を転倒し
   たに過ぎない一般的相対的価値形態と理解するのは、カウッツキー・スター
   リン経済学の伝統的理解であって、そうではなく個別的に、無限に20エレの
   リンネル=一着の上着・20エレのリンネル=10ポンドの茶を転倒させたの
   が、「価値形態の変化した性格」としての、この第一段落に説明されたのが、
   次のことです。

   「いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、と
   いうのは、ただひとつの商品で表しているからであり、そして(2)統一的
   に表している、というのは同じ商品で表しているからである。
   諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。」
   (同上 国民文庫P123 原P79)
   このように、第一に、一般的相対的価値形態ではなく、一般的価値形態がこ
   こで論じている対象であり、そのことの明示は、5段落よりも6段落にてこう
   述べられていた。

   「・・・諸商品の価値対象性は、・・・ただ諸商品の全面的な社会的関係に
   よってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に
   認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのであ
   る。」(同上P125~126 原P80~81)
   このように、まず展開された相対的価値形態の次に論じられたのが、一般的
   価値形態であって、両極の価値形態ではないのですから、後者の理解を示し
   たのは、カウッツキーの伝統的理解への批判をしなかったからなのです。

単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表現されて、従って相対的価値形態にある商
品同士の社会性がひと目で明らかになる。そういう意味でこの一般的な価値形態は商品世界の
共同事業として成立する、ということを特徴としてマルクスは述べているのです。

   ここではーー未だに、「単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表
   現されて、」その対極に一般的な価値形態の形成があるなどとは表現されて
   いないのです。これは榎原さんの読み違えです。

   ここでの問題にされているのは、第三のこの形態を形成する第一段として、
   一般的価値形態があるので、次のように回答が導かれていました。
   六段落
   「・・・・・・・・・・・・・・・・それに対して一般的価値形態は商品世
   界の共同の仕事として発生する。商品が一般的な価値表現を獲得するのは、
   全ての他の商品が同時にそれらの価値を同じ等価物で表現し、新たに登場す
   る商品種類の各々もそれらの真似をしなければならないからである。
   そのこととともに、商品の価値対象的性はこの物がもつ単なる“社会的定在
   (=現実の存在におけるこの物の社会性?訳者)”であり、<81>その全面的
   な社会的関係を通してだけ表現され得るのであるから、価値対象性の形態も
   社会的に認められるものでなければならないのだ、ということが明らかにな
   る。」
      http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
      私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品

ここで注意すべき問題は、こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう
事かというと、商品世界の共同事業として成立している。言い換えれば他の全ての商品所有者
が、単一の商品で自分の商品の価値を表現する。そういう働きかけの結果一つの商品が等価形
態に置かれる、ということです。

   <ここで、物象の社会関係の形成ーーとの思考がなくては次の事態の意味は
   何一つとして理解できないであろう。
   「それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。」
   ーーとは、この榎原さんの述べるように、
   「こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう事かと
   いうと、商品世界の共同事業として成立している。」(上記)ーーと表され
   ていることなのか?
   榎原さんのここでの一般的価値形態・成立の理解が、一般的等価形態成立の
   なかで語られているーーとの理解は正しいのであろうか?

   なるほど、第一の形態も第二の形態でも等価物上着であり、等価物茶・小麦
   などがリンネルの価値形態となっていた。しかし、この第三の形態では等価
   物リンネルは、商品世界からの排除を受けることで、左辺にある「商品世界
   の価値を表現」しているので、価値形態(一般的価値形態)を受け取るのは、
   右辺ではなく、左辺の「商品世界」の商品群であって、物象の社会関係の第
   三形態への成長転化によって、これらの一大転倒がもたらされ、<商品世界
   ・物象世界>が「一般的価値形態」として、一つの土台を形成したのです。
   このように、一般的相対的価値形態の成立の前に、商品世界の形成がなされ
   ているーーことを以上の展開にて説明されているのです。>

   <榎原さんは一般的等価形態の成立のなかで、一般的価値形態が成立と考え
   たのだが、逆に、一般的相対的価値形態の成立を前提にそのことを語る見解
   を検討してみるーーとここでの問題性がどこにあるのか?はっきりする。>

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/bce544784ff023e39fa7ea4910a2a415
第29回「『資本論』を読む会」の報告

(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるか
らこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸
商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われて
くるのである。〉

   上記をーー英明な堺の資本論を読む会にして、次のように理解している。
 (ト) こうして、諸商品の価値対象性は、これらの商品の純粋に「社会的な定在」であり、だ
からそれら諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるということ、よって諸商品
の価値形態はただ社会的に認められた形態でなければならないとういことが、この一般的相対
的価値形態においては明瞭に現われているのです。
ここで学習会では「社会的な定在」というのがわざわざ鍵括弧に入っているが、そもそも「社
会的な定在」というのは、どういうものなのかが問題になりました。価値形態の最初のところ
でも(第三節の前文)、〈商品の価値対象性は純粋に社会的なものである〉との記述が見られ
ましたが、そもそも「社会的なものである」というのはどういうことでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その意味では、一般的相対的価値形態はこうした価値の社会的性格をもっとも明瞭に現わして
いるものだと言えると思います。

   <「この一般的相対的価値形態においては明瞭に現われている」
   ーーと、自明極まりないことのように、主題が「一般的価値形態」であるの
   に、変更しているのです。何故なのか?
   この6段落に対して、続く8段落を、一般的相対的価値形態の形成であるのに、
   その逆に、一般的等価形態の形成と誤読するためなのです。
   その誤読ーー転倒ぶりは次に照らせば明らかです。
   構成された前提として、両極の形態が前提されており、次の獲得事項を無視
   したためです。
   ①第一の形態での価値形態を内実とすることで、右辺の上着は価値表現の材
   料となる相対的価値形態の形成
   ②右辺の上着が直接的に価値形態になることで、その使用価値の姿のままに
   価値表現の材料となることでの等価形態の形成
   ーーこの手本とすべき論理を無視し、視野外におくためなのです。
   ここでは明瞭に、一般的価値形態の形成が如何にして成され、そのことでど
   のように、一般的相対的価値形態の形成がなされるのか?
   ーーこの論理をこそーーここに見出さなければならないのです。>

   <注意すべきは、この「一 価値形態の変化した性格」では今だに、註24
   に示された、対立的にのみ一般的な相対的価値形態と等価形態が形成される
   ーーとのプルードン批判は提示されていないのです。

   それは次節の
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」にて論じられており、その
   課題を準備するものとしてここに、マルクスは語っているのです。商品世界
   からの一商品リンネルの排除は、まず①一般的価値形態の成立がなされてい
   る事を六段落にて示し、②一般的相対的価値形態の成立をこの八段落にて語
   り、③その結論を、次の最後の九段落にてこう提示しているのです。

   「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリーと
   して表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態が商品世界を社会的
   に表現する物であることを示す。労働の一般的に人間的な性格が、この世界
   では、特殊な社会的性格をかたちづくっていることを一般的価値形態は明ら
   かにしているのである。」(前原訳 原P81)

   したがって、以上から、このまず一般的価値形態が商品世界にて形成された
   経過をこそ、この判読しがたき八段落にて語っているのは明らかです。>

ですから62頁の上段真中あたりから後に書かれている箇所を見ましょう。

「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価商品たる亜麻布に、一
般的な等価という性格をおしつける。」

この一般的な等価物は、例えば金などの特定の商品に社会的習慣によって固定されると次の貨
幣形態になる。普通の一般的な常識としては貨幣に価値があるから他の商品の価値を貨幣で表
現するのだ、と考えがちです。 けれども、一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、
貨幣商品が作り出したわけではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けてい
るのだと言っている点です。これに注目する必要があると思うのです。

   <一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、貨幣商品が作り出したわ
   けではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けている>

   ーーここでの8段落他の全ての商品が貨幣<商品世界から排除された等価商品
   たる亜麻布>にそういう性格を押し付けることで、一般的等価形態が形成され
   たーーのではなく、リンネルに「一般的等価物という性格」を押しつけた、と
   書かれています。「一般的等価形態」の形成が、この第一節で述べられている
   のではなく、それは第二節にて次のように述べられています。

   榎原さんの論じている「一 価値形態の変化した性格」の次の、
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」での六段落にて、その事が主
   張されますが、榎原さんとは逆に、「商品世界に一般的社会的な相対的価値形
   態を与えるのであるが、それは、ただひとつの例外を除いて、商品世界に属す
   る全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりの
   ことである。」(原P82 国民文庫P128)ーー

   このように「一般的等価形態」は、その反対極の反省規定としてのみ成立する
   前の第一・第二の形態とは異なっていることの特異性、をこそがここに述べて
   います。

   話が、前の節の当該8段落だけではなく、6~9段落の流れから、そこの記述
   を検討すると、次の事柄が了解できる。
   ①6段落では「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならな
   いことが明瞭に現れてくるのである。」とあり、その論証を求めて、
   ②7段落では、この第三形態の独自性が、「リンネルに等しいものとの形態」
   で第二形態との相違が語られ、リンネルとの比較だけではなく商品群内での
   比較が語られる転身のなかで、やっと労働時間を価値尺度とすることができる
   ことが述べられ、
   ③8段落では、第一と第二の形態では、相対的価値形態のそれぞれの形態にお
   いて右辺の等価物上着等々は媒介的に、その次には商品世界で個別的に、直接
   的に価値形態を受け取るも、この第三形態では、リンネルは、商品世界の
   「共通な価値姿態」として存在することで、、商品群の一般的価値形態を反省
   規定していると述べています。
   この関係を説明するのが、「織布を人間労働一般の現象形態」にすることで、
   「このようにして、商品価値に対象化されている労働は、・・この労働はいっ
   さいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支
   出に、還元されたものである。」ーーと②を再表明したのです。

   堺の研究会が依拠した初版での当該箇所の次の①引用しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/cbfdd499d51716e18876252e79869820
《初版本文》
①二段落ーー
「 形態 Ⅱ において、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコー
ヒー,または=v量の茶,または=x量の鉄,等々 において、リンネルは自分の相対的価値
表現を発展させているのであるが、この形態 Ⅱ では、リンネルは、一つの特殊的な等価物
としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろも
ろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいし
ては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては
認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方
の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれてい
るところの形態 Ⅲ にあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属
形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種
や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそ
れらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在してい
るかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところ
の、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。だから、
リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の
等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一
般的な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけ
である。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般
的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。」

②三段落ーー
「商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、
この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであっ
た。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別
の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価
値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさ
にそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織
りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうで
もよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかった
し、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。
リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使
用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、

   すべての他商品の一般的な価値形態になり、
   したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間
労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認めら
れているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や
鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に
規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。
逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現
(形態 Ⅱ )にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。」
(江夏訳48-49頁)

   このように、研究会では上記の①が検討されるも、この初版の②三段落の記述は、取
   り上げられてはいない。
   「リンネルが一般的な等価物になると、・」ーー般的等価形態になるではなく
   「すべての他商品の一般的な価値形態になり、」ーーとの記述は無視されている。

   初版と再版の論理は、おなじであり、一般的価値形態が形成されることで、
   等価形態ではなく、一般的相対的価値形態が形成されるーーのです。

   更に初版附録にて、「第二節 等価形態の変貌した姿」について、その次の
   「第三節 相対的価値形態と等価形態の斉一な展開過程」にてこう述べている。

   「最後に、商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し、またその商
   品において全ての他の商品がそれぞれの価値を共同で表現することによって、
   統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与えるのである。
   このような回り道を通って、排除された商品は一般的等価物になる、または等
   価形態は一般的等価形態になる。」 (初版附録 P353 今村訳)

   ーーこのように、

   A「商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し」
   B 一般的価値形態が商品世界として形成されることで、
   C「統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与える」
   D「このような回り道を通って、排除された商品は・一般的等価形態になる」
   Eだから、一般的に直接的交換可能性の形態は、第一、第二とは異なって、
    榎原さんの示すように、直接的に等価形態を受け取るのではなく
    <商品世界からの等価物リンネルの排除>という「回り道」において形成さ
    れたのですから、この「第二節」での「等価形態の変貌した姿」は、残像で
    あり、その次の「第三節」にて再度、新たな規定を受けたたのです。
    リンネルの直接的交換可能性の形態は、この「第二節」で規定されているの
    ではなく、「回り道」を示したこの「第三節」にて規定されたのです。
     ここが再重要です。榎原さんの論法だと、この「第二節」の規定なのです。
   F「第四節」にて、この「第三節」を再度ーー説明して、この「回り道」を、
    第二形態と比較ーー区別して説明している。
    a「形態 Ⅱ 」において「それぞれの商品種類は」「自ら拡大された相対
    的価値形態をもつのだが」ーーそれができるのは、「他の全ての商品がそれ
    にたいして等価形態にたってくれるからであり、・・」とのべている。
    このように、第一と第二の形態ではーー両極の形態は相互依存にて成立して
    いた。
       (商品世界の成立による、その世界からの排除ーー
       という「回り道」の論理は、この上記で述べられて
       いるように、両極の相対的価値形態と等価形態の成立
       の第二形態との対比であり、その次の第三形態での
       ーー排除のなかで述べられている。
       やっと・やっと見つけたのです。
       初版での第一の形態での「回り道」<註20段落>にて
       受け取るーー「他の商品の実物形態を自分の価値形態」
       ーーとは、久留間さんの見解に代表されるように等価形
       態で受け取るのではなく、両極の形態にて受け取ってい
       たのです。
       だからこそ、初版七段落に示されている、
       「相対的価値表現の形態内容」(註20)が、
       「一般に商品の使用価値は、それがこのような仕方で、
       他の商品の価値の現象形態として役立つ限りでのみ、他
       の商品に相まみえる。」(初版 今村訳P291)
       ーーとあり、「価値の現象形態」を示すのが、等価形態
       だけではなく、その前に記述された四段落でのーー
       「リネンは価値としての上着に自分を等置し、同時に使
       用対象としての自己を上着から区別することによって、
       上着は、リネン身体に対立するリネン=価値の現象形態、
       リネンの実物形態と区別されるリネンの価値形態となる。
       <註18 まさにそれゆえにリネンの価値を上着で表現す
       るときには、リネンの上着価値といい、・・>ーー
       と示しており、そのことで次の段落にて、
       「上着は人間労働の凝結する形態として通用する。」
       (同上P288)ーーと上着は価値であり、価値形態と、
       左極での表現をしたのです。
       この「四段落」にて示されている、次の事柄ーー
       「リネンが人間労働のたんなる物的表出」であることを
       「確実に把握するためには、人間労働を現実に物にする
       一切のものを無視しなければならない。」ーー
       ーーとは、リネン価値の表現が、リカードの示すように、
       対象化された人間労働の凝固であり、労働時間にてその
       量が表現されるーー事への批判として、
       物象の社会関係が成立する、リンネルの価値形態が上着
       形態として成立する両極の価値形態を、物象の判断とし
       て成す事を示した第七段落があったのです。
       だからこそ次の八段落にて、
       「われわれの分析が明らかにしたように、商品の相対的
       価値表現は二つの異なる価値形態を含んでいる。・・
       一方の商品の相対的価値形態、他方の商品の等価形態、
       という二つの形態は交換価値の形態である。」
       同上P292ーーとまとめたのです。
       しかし、久留間さんはこの肝心のマルクスのこのいまま
       での設問に対する回答である初版八段落に対して見向き
       もしないのです。
       価値形態論での、マルクスのこのテーマへの久留間先生
       の無視をこそ、私達は注意しなければならないのです。)

    b「形態 Ⅲ 」では、この成立している「商品世界」からの排除という回
    り道=一般的相対的価値形態の成立が、第一・第二の形態とは異なって、両
    極の間での反省規定ではなく、相互依存の関係ではなく、その関係からの離
    脱するリンネルによって成されているーーなのです。

   ④9段落にて、以上6・7・8段落をまとめてーー
   「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、
   それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示してい
   る。」ーーことで、自明なように私達が、商品価値の大きさを労働時間で示す、
   事にて価値を表示・比較できる商品世界=一般的価値形態が形成されている・
   のです。>

 この場合に亜麻布は等価物ですから、等価物は簡単な価値形態の等価形態の所で見た具体的
労働が抽象的人間労働の現実化したものになる、ということはここでもなされる。これが単に
一つの商品、一つの相対的価値形態の商品からなされ、そうして一つの商品の価値を表現する
ということだけではなくて、自分以外のあらゆる商品がその商品で価値を表現する。ですから
この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認められる、ということ
になるのです。

   <杉本ーー
   「この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認め
   られる、」ーーに対して
   <「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形
   態は、>ーーと比較するならば、
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーーことが理解できなか
   った、のです。
   第一の形態でのように、等価物上着がリンネル価値の現象形態として役立つ
   ことが、価値形態上着として成立する左極の反省規定ーーとは異なって、
   商品世界から等価物リンネルが、排除されていることで①一般的価値形態が
   成立し、②一般的相対的価値形態が成立するこの「回り道」をへて、やっと、
   また浮上した商品世界からの等価物リンネルの排除がなされているのです。>

簡単な価値形態、例えば先程でしたら亜麻布と上着という関係で、
上着が抽象的人間労働の体化物とされているということを見ましたが、
今度は亜麻布だけではなくてコーヒーからもそうですし、鉄からもそうですし、
茶からもそうされる。

   <杉本ーー
   そして第一の形態とは、「簡単な価値形態」のことではなく、上着が価値形
   態を受け取り、リンネル価値の価値表現の材料として役立つ、第一の相対的
   価値形態であり、等価物上着を直接的に価値形態とす等価形態なのです。>

   <第三の形態ではーー
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商
   品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。
   亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したが
   って亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。
   ・・・・・略・・・・・
   一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労
   働一般の一般的現象形態とする。商品価値として対象的に表れる労働は、消
   極的に、すなわちあらゆる具体的な諸形態と有用な諸性質が捨象された現実
   の労働として表現されるだけではない。それ自身の積極的なNatur 本質もは
   っきりと現れてくる。商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働と
   いう共通な性格、すなわち人間の労働能力の支出に還元された現実の労働で
   ある。」(前原訳 原P81)

そうすると抽象的人間労働の化身であるということが一般化され、次に社会化される。
そういう意味でこれは一般的な価値形態だと言われているのです。

   杉本
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーー
   この反省規定、をこそ注意すべきと思えます。
   この一般的価値形態を成立させる商品世界の共同行為が、一般的な相対的価
   値形態を成立させる、ことが、通常の訳では、等価形態の成立になっていま
   す。

   <82>「一商品の単純なあるいは個別的な相対的価値形態は一つの他の商品を
  einzelne Äquivalent 個別的な等価物にする。相対的価値の展開された
   形態、全ての他の商品でのこの一商品の価値表現は、それらの商品に様々な
   種類の特殊な等価物の印を付ける。最後に、一つの特殊な種類の商品が一般
   的価値形態を獲得する。なぜなら、全ての他の商品がこの特殊な商品をそれ
   らの統一的な、一般的な価値形態にするからである。」(前原訳 原P82)

   【2】「一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
   個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の
   商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特
   殊的等価物という形態を刻印する。 最後に、ある特別な商品種類が一般的
   等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種
   類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。」
    (国民文庫 岡崎訳 P127)

けれども、こういうように第三の価値形態ですね、一般的な価値形態をそういうように読みま
すと、全ての様々な労働が人間的労働というそれらの共通な性格へ還元されている、というこ
とが分かるという意味です。
ですから様々な労働が亜麻布で価値を表現する、という形だけを見ても別に現実的諸労働への
共通な性格への還元、ということは読み取れない。むしろこれを価値の表現の形式というよう
に見て、価値の表現、要するに抽象的人間労働相互の関係です。
その関係がここにあるという商品語を読み取った上で、こういう全ての現実的諸労働が人間労
働という共通な性格へと還元されている、そういう形がここで現われている、ということが分
かる。
ですからここでも諸商品の価値が抽象的人間労働である、という事が何か明示的にパッと表現
されている、ということではあり得ない。そういう事だと思うのです。
後、この一般的価値形態から貨幣形態への移行という箇所があり、この移行の箇所でも移行の
論理という点に注目して見てみます。この一般的価値形態を取るのはどの商品でも取り得る。
ですから一般的価値形態というものは貨幣形態とは違うわけですけれども、貨幣形態の場合は
等価形態にある商品が単一の商品になり、その他の商品が等価形態になることを排除する、と
いう関係です。それは社会的な習慣によってそうなる、とマルクスは言っています。
そうするとこれは移行の論理としては、一般的価値形態に内属する論理によって貨幣形態へ移
行する、というようには言えないのではないか。つまり金が貨幣にされるということは、社会
的な習慣などの価値形態以外の様々な要素です。そこからの働きかけ、ということを見逃せな
いのではないか。そのような話をしているうちに、価値形態の発展の話に半分くらいは入って
いるわけですけれども、いよいよその問題へと移って行きたいと思うのです。



http://

 
 

ミサイルへの安倍の批判・対抗姿勢とは何なのか?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月31日(木)13時33分42秒
返信・引用
  朝鮮民主主義共和国の宇宙空間を経た
ハワイ近くまでのミサイル発射への
安倍の批判・対抗姿勢とは何なのか?

ツイッターから拾い出した核心点を洗い出してみました。

https://twitter.com/kazu1961omi
①山口一臣? @kazu1961omi  8月29日
北朝鮮は、1998年8月31日に事前通告なしでテポドン1号を発射して、
日本の上空を通過しています。思い出してください。

   tadanosalesrep @ryupa1967
   事前通告がなかったとあれほど言ってる
   のにあほなんですか?(笑)


②山口一臣? @kazu1961omi  8月29日
事前通告がなかったのはこれが2回目、日本上空を飛び越えたのは5回
目で、いずれも過去にあった事案ですね。

③山口一臣? @kazu1961omi  8月29日
1回目:1998年8月31日  事前通告なし
2回目:2009年4月5日  事前通告あり
3回目:2012年12月12日事前通告あり
4回目:2016年2月7日    事前通告あり

③山口一臣? @kazu1961omi
北朝鮮のミサイル(飛翔体)が日本の国土を飛び越えたのは今回が5回
目で、事前予告がなかったという意味では2回目で、その意味では過去
にもあった事案のひとつです。
新たになんらかの、それ以上の“脅威”が加わったのだとすれば、説明
をして欲しいものです。説明責任は政府にあります。


ーー杉本
  上記からわかるように、ミサイル発射は、今半島南部でなされて
いる米韓合同軍事演習に対する抗議としてなされており、
日帝への批判・攻撃と、いう側面は全く無かったのです。

このような客観的情勢は、全く明らかであり、安倍が抗議をし、北海
道から長野県まで、警戒警報を出したのはーーそんなことではなく、
自らの政治的危機への対抗手段=民衆支配の強化を目的にしたもので
あったのです。

被支配者での安倍支持の破産だけではなく、彼の依拠した支配層で
の、彼への支持からの離脱という側面がここに現れてきたことーー
への対抗でもあったのです。

後者を表すブローグを見つけたので紹介しておきます。


総理批判 保守派の重鎮が裏切り #BLOGOS
http://blogos.com/outline/242739/
「森友・加計問題で逆風が吹き荒れる中、それでも安倍政権の支持率
は30~40%台に踏みとどまっていた。
・・その恐れている事態が現実となりつつある。安倍政権に期待が強
かった分、裏切られたと感じた人たちは強力な反安倍に回る。
・・「単純に安倍首相の人間性に呆れ、失望しただけです」

 

  榎原さんの一般的な価値形態の理解について

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月23日(水)15時34分30秒
返信・引用 編集済
  まずは師匠の資本論 「c一般的価値形態」の理解を見てみよう。
①「一 価値形態の変化した性格」
②「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」
への彼の理解であります。まずは紹介します。


http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220

『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)


3.一般的な価値形態
そして次の三番目の一般的な価値形態、これに移っているのですが、
ここでの特徴は等価形態が単一の商品で現わされている。
そうするとどうなるか。ここでは61頁の下段(3行目)にその特徴が書かれています。

   <杉本ーー次は「価値形態の変化した性格」5段落 原P80)

   <「新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一
   つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、全ての商品の価
   値を、その商品とリンネルとの同等性よって表す。ーーーー」
   原P80 国民文庫岡崎訳>上記の「こうして」の前文が削除されて次に引用
   されている。>

「各商品の価値は、いまや、亜麻布と同等なものとして、その商品じしんの使用価値から区別
されているばかりでなく、およそ使用価値なるものから区別されており、また、まさにそうさ
れることによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして、表現されている。だから、
はじめてこの形態が、現実的に、諸商品を相互に価値として連関させるのであり、あるいは、
諸商品を相互に交換価値として現象させるのである。」

ですから単一の商品を等価物として全ての商品が表現されるとすると、相対的に価値形態にあ
る商品同士の同等性ということが、ひと目で明らかになるということです。

結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別の商品と等価形態をとっている
場合に、相対的価値形態にある商品同士の関連ということは、明確ではなく統一的ではないわ
けですが、

   <杉本ーー「結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別
   の商品と等価形態をとっている場合に、」ーーとは問題にされているのはど
   の形態のことなのか?
   勿論、それに相応した展開された相対的価値形態であり、第二の形態であり
   ます。

   この第二の形態ではーー
   「他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値その
   ものが、はじめて、ほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」
   (原P77)ーーことで、
   「それゆえ、今ではリンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対し
   て社会的な関係に立つのである」(同上)ーーとなっており、
   このように、他商品体はどれもリンネルの価値形態と反省規定されることで、
   商品世界を形成したことを明示したのです。
    この規定であるからこそ、リンネル商品が、展開された相対的価値形態の
   規定を、物象の判断として受け取ったーーだけではなく、その対極にて、
   「上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物と
   して、したがってまた価値体として認められている。」(同上P78)ことで、
   それらは「特殊的等価形態」となっているのです。
   このように、リンネルの対極にある上着は、第二の形態の等価形態では、第
   一の形態のように、すぐさま・使用価値の姿のままに価値形態とされ、直接
   的交換可能性を認められているのではなく、価値体として等価物の役立ちを
   する限りにおいて、この「特殊的等価形態」を受け取っています。>

   <右辺の商品が「特殊的等価形態」なのですから、この形態では商品世界と
   いう共通性がないのは明らかです。しかし、このようなことを題材とするこ
   と事態が不可能なことですし、商品世界は、展開された相対的価値形態にお
   いて形成されています。

   さて無限なように、商品世界を構成する展開された相対的価値形態を転倒し
   たに過ぎない一般的相対的価値形態と理解するのは、カウッツキー・スター
   リン経済学の伝統的理解であって、そうではなく個別的に、無限に20エレの
   リンネル=一着の上着・20エレのリンネル=10ポンドの茶を転倒させたの
   が、「価値形態の変化した性格」としての、この第一段落に説明されたのが、
   次のことです。

   「いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、と
   いうのは、ただひとつの商品で表しているからであり、そして(2)統一的
   に表している、というのは同じ商品で表しているからである。
   諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。」
   (同上 国民文庫P123 原P79)
   このように、第一に、一般的相対的価値形態ではなく、一般的価値形態がこ
   こで論じている対象であり、そのことの明示は、5段落よりも6段落にてこう
   述べられていた。

   「・・・諸商品の価値対象性は、・・・ただ諸商品の全面的な社会的関係に
   よってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に
   認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのであ
   る。」(同上P125~126 原P80~81)
   このように、まず展開された相対的価値形態の次に論じられたのが、一般的
   価値形態であって、両極の価値形態ではないのですから、後者の理解を示し
   たのは、カウッツキーの伝統的理解への批判をしなかったからなのです。

単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表現されて、従って相対的価値形態にある商
品同士の社会性がひと目で明らかになる。そういう意味でこの一般的な価値形態は商品世界の
共同事業として成立する、ということを特徴としてマルクスは述べているのです。

   ここではーー未だに、「単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表
   現されて、」その対極に一般的な価値形態の形成があるなどとは表現されて
   いないのです。これは榎原さんの読み違えです。

   ここでの問題にされているのは、第三のこの形態を形成する第一段として、
   一般的価値形態があるので、次のように回答が導かれていました。

   六段落
   「・・・・・・・・・・・・・・・・それに対して一般的価値形態は商品世
   界の共同の仕事として発生する。商品が一般的な価値表現を獲得するのは、
   全ての他の商品が同時にそれらの価値を同じ等価物で表現し、新たに登場す
   る商品種類の各々もそれらの真似をしなければならないからである。
   そのこととともに、商品の価値対象的性はこの物がもつ単なる“社会的定在
   (=現実の存在におけるこの物の社会性?訳者)”であり、<81>その全面的
   な社会的関係を通してだけ表現され得るのであるから、価値対象性の形態も
   社会的に認められるものでなければならないのだ、ということが明らかにな
   る。」
      http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
      私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品


ここで注意すべき問題は、こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう
事かというと、商品世界の共同事業として成立している。言い換えれば他の全ての商品所有者
が、単一の商品で自分の商品の価値を表現する。そういう働きかけの結果一つの商品が等価形
態に置かれる、ということです。

   <ここで、物象の社会関係の形成ーーとの思考がなくては次の事態の意味は
   何一つとして理解できないであろう。

   「それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。」
   ーーとは、この榎原さんの述べるように、
   「こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう事かと
   いうと、商品世界の共同事業として成立している。」(上記)ーーと表され
   ていることなのか?
   榎原さんのここでの一般的価値形態・成立の理解が、一般的等価形態成立の
   なかで語られているーーとの理解は正しいのであろうか?

   なるほど、第一の形態も第二の形態でも等価物上着であり、等価物茶・小麦
   などがリンネルの価値形態となっていた。しかし、この第三の形態では等価
   物リンネルは、商品世界からの排除を受けることで、左辺にある「商品世界
   の価値を表現」しているので、価値形態(一般的価値形態)を受け取るのは、
   右辺ではなく、左辺の「商品世界」の商品群であって、物象の社会関係の第
   三形態への成長転化によって、これらの一大転倒がもたらされ、<商品世界
   ・物象世界>が「一般的価値形態」として、一つの土台を形成したのです。
   このように、一般的相対的価値形態の成立の前に、商品世界の形成がなされ
   ているーーことを以上の展開にて説明されているのです。>

   <榎原さんは一般的等価形態の成立のなかで、一般的価値形態が成立と考え
   たのだが、逆に、一般的相対的価値形態の成立を前提にそのことを語る見解
   を検討してみるーーとここでの問題性がどこにあるのか?はっきりする。>



http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/bce544784ff023e39fa7ea4910a2a415
第29回「『資本論』を読む会」の報告

(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるから
こそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商
品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてく
るのである。〉

   上記をーー英明な堺の資本論を読む会にして、次のように理解している。

(ト) こうして、諸商品の価値対象性は、これらの商品の純粋に「社会的な定在」であり、だか
らそれら諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるということ、よって諸商品の
価値形態はただ社会的に認められた形態でなければならないとういことが、この一般的相対的
価値形態においては明瞭に現われているのです。
ここで学習会では「社会的な定在」というのがわざわざ鍵括弧に入っているが、そもそも
「社会的な定在」というのは、どういうものなのかが問題になりました。価値形態の最初のと
ころでも(第三節の前文)、〈商品の価値対象性は純粋に社会的なものである〉との記述が見
られましたが、そもそも「社会的なものである」というのはどういうことでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その意味では、一般的相対的価値形態はこうした価値の社会的性格をもっとも明瞭に現わして
いるものだと言えると思います。

   <「この一般的相対的価値形態においては明瞭に現われている」
   ーーと、自明極まりないことのように、主題が「一般的価値形態」であるの
   に、変更しているのです。何故なのか?
   この6段落に対して、続く8段落を、一般的相対的価値形態の形成であるのに、
   その逆に、一般的等価形態の形成と誤読するためなのです。
   その誤読ーー転倒ぶりは次に照らせば明らかです。
   構成された前提として、両極の形態が前提されており、次の獲得事項を無視
   したためです。
   ①第一の形態での価値形態を内実とすることで、右辺の上着は価値表現の材
   料となる相対的価値形態の形成
   ②右辺の上着が直接的に価値形態になることで、その使用価値の姿のままに
   価値表現の材料となることでの等価形態の形成
   ーーこの手本とすべき論理を無視し、視野外におくためなのです。
   ここでは明瞭に、一般的価値形態の形成が如何にして成され、そのことでど
   のように、一般的相対的価値形態の形成がなされるのか?
   ーーこの論理をこそーーここに見出さなければならないのです。>

   <注意すべきは、この「一 価値形態の変化した性格」では今だに、註24
   に示された、対立的にのみ一般的な相対的価値形態と等価形態が形成される
   ーーとのプルードン批判は提示されていないのです。

   それは次節の
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」にて論じられており、その
   課題を準備するものとしてここに、マルクスは語っているのです。商品世界
   からの一商品リンネルの排除は、まず①一般的価値形態の成立がなされてい
   る事を六段落にて示し、②一般的相対的価値形態の成立をこの八段落にて語
   り、③その結論を、次の最後の九段落にてこう提示しているのです。

   「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリーと
   して表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態が商品世界を社会的
   に表現する物であることを示す。労働の一般的に人間的な性格が、この世界
   では、特殊な社会的性格をかたちづくっていることを一般的価値形態は明ら
   かにしているのである。」(前原訳 原P81)

   したがって、以上から、このまず一般的価値形態が商品世界にて形成された
   経過をこそ、この判読しがたき八段落にて語っているのは明らかです。>


ですから62頁の上段真中あたりから後に書かれている箇所を見ましょう。

「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価商品たる亜麻布に、一
般的な等価という性格をおしつける。」

この一般的な等価物は、例えば金などの特定の商品に社会的習慣によって固定されると次の貨
幣形態になる。普通の一般的な常識としては貨幣に価値があるから他の商品の価値を貨幣で表
現するのだ、と考えがちです。 けれども、一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、
貨幣商品が作り出したわけではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けてい
るのだと言っている点です。これに注目する必要があると思うのです。


   <一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、貨幣商品が作り出したわ
   けではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けている>

   ーーここでの8段落他の全ての商品が貨幣<商品世界から排除された等価商品
   たる亜麻布>にそういう性格を押し付けることで、一般的等価形態が形成され
   たーーのではなく、リンネルに「一般的等価物という性格」を押しつけた、と
   書かれています。「一般的等価形態」の形成が、この第一節で述べられている
   のではなく、それは第二節にて次のように述べられています。

   榎原さんの論じている「一 価値形態の変化した性格」の次の、
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」での六段落にて、その事が主
   張されますが、榎原さんとは逆に、「商品世界に一般的社会的な相対的価値形
   態を与えるのであるが、それは、ただひとつの例外を除いて、商品世界に属す
   る全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりの
   ことである。」(原P82 国民文庫P128)ーー
   このように「一般的等価形態」は、その反対極の反省規定としてのみ成立、す
   ることの特異性、をこそがここに述べています。

   話が、前の節の当該8段落だけではなく、6~9段落の流れから、そこの記述
   を検討すると、次の事柄が了解できる。
   ①6段落では「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならな
   いことが明瞭に現れてくるのである。」とあり、その論証を求めて、
   ②7段落では、この第三形態の独自性が、「リンネルに等しいものとの形態」
   で第二形態との相違が語られ、リンネルとの比較だけではなく商品群内での
   比較が語られる転身のなかで、やっと労働時間を価値尺度とすることができる
   ことが述べられ、
   ③8段落では、第一と第二の形態では、相対的価値形態のそれぞれの形態にお
   いて右辺の等価物上着等々は媒介的に、その次には商品世界で個別的に、直接
   的に価値形態を受け取るも、この第三形態では、リンネルは、商品世界の
   「共通な価値姿態」として存在することで、、商品群の一般的価値形態を反省
   規定していると述べています。
   この関係を説明するのが、「織布を人間労働一般の現象形態」にすることで、
   「このようにして、商品価値に対象化されている労働は、・・この労働はいっ
   さいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支
   出に、還元されたものである。」ーーと②を再表明したのです。



   堺の研究会が依拠した初版での当該箇所の次の①引用しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/cbfdd499d51716e18876252e79869820
《初版本文》
①二段落ーー
「 形態 Ⅱ において、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコー
ヒー,または=v量の茶,または=x量の鉄,等々 において、リンネルは自分の相対的価値
表現を発展させているのであるが、この形態 Ⅱ では、リンネルは、一つの特殊的な等価物と
しての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろ
の等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいして
は、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認
められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特
殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれてい
るところの形態 Ⅲ にあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形
態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や
科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれら
のほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているか
のようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、
このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。だから、リン
ネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価
物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的
な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけであ
る。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な
実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。」

②三段落ーー
「商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、
この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであっ
た。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別
の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価
値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさ
にそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織
りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうで
もよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかった
し、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。

リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使
用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、

   すべての他商品の一般的な価値形態になり、
   したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間
労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認めら
れているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や
鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に
規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。

逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現
(形態 Ⅱ )にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。」
(江夏訳48-49頁)
   研究会では、上記の①が検討されるも、この初版の②三段落の記述は、取り上
   げられてはいない。
   「リンネルが一般的な等価物になると、・」ーー般的等価形態になるではなく
   「すべての他商品の一般的な価値形態になり、」
   ーーとの記述は無視されている。
   初版と再版の論理は、おなじであり、一般的価値形態が形成されることで、
   等価形態ではなく、一般的相対的価値形態が形成されるーーのです。

   更に初版附録にて、「第二節 等価形態の変貌した姿」について、その次の
   「第三節 相対的価値形態と等価形態の斉一な展開過程」にてこう述べている。
   「最後に、商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し、またその商
   品において全ての他の商品がそれぞれの価値を価値を共同で表現することによ
   って、統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与えるのである。
   このような回り道を通って、排除された商品は一般的等価物になる、または等
   価形態は一般的等価形態になる。」 (初版附録 P353 今村訳)
   ーーこのように、
   A「商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し」
   B一般的価値形態が商品世界として形成されることで、
   C「統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与える」
   D「このような回り道を通って、排除された商品は、・・・
     一般的等価形態になる」
   Eだから、一般的に直接的交換可能性の形態は、第一、第二とは異なって、
    榎原さんの示すように、直接的にではなく、
    一般的な相対的価値形態を、<商品世界からの等価物リンネルの排除>とい
    う「回り道」において形成されたのですから、この「第二節」での「等価形
    態の変貌した姿」は、残像であります。なんと、初版附録の記述は明快です。

   ④9段落にて、以上6・7・8段落をまとめてーー
   「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、
   それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示してい
   る。」ーーことで、自明なように私達が、商品価値の大きさを労働時間で示す、
   事にて価値を表示・比較できる商品世界=一般的価値形態が形成されている・
   のです。>


 この場合に亜麻布は等価物ですから、等価物は簡単な価値形態の等価形態の所で見た具体的
労働が抽象的人間労働の現実化したものになる、ということはここでもなされる。これが単に
一つの商品、一つの相対的価値形態の商品からなされ、そうして一つの商品の価値を表現する
ということだけではなくて、自分以外のあらゆる商品がその商品で価値を表現する。ですから
この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認められる、ということ
になるのです。

   <杉本ーー
   「この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認め
   られる、」ーーに対して
   <「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形
   態は、>ーーと比較するならば、
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーーことが理解できなか
   った、のです。
   第一の形態でのように、等価物上着がリンネル価値の現象形態として役立つ
   ことが、価値形態上着として成立する左極の反省規定ーーとは異なって、
   商品世界から等価物リンネルが、排除されていることで、一般的価値形態が
   成立し、一般的相対的価値形態が成立するこの「回り道」をへて、やっと、
   また浮上した商品世界からの等価物リンネルの排除がなされているのです。>




簡単な価値形態、例えば先程でしたら亜麻布と上着という関係で、
上着が抽象的人間労働の体化物とされているということを見ましたが、
今度は亜麻布だけではなくてコーヒーからもそうですし、鉄からもそうですし、
茶からもそうされる。

   <杉本ーー
   そして第一の形態とは、「簡単な価値形態」のことではなく、上着が価値形
   態を受け取り、リンネル価値の価値表現の材料として役立つ、第一の相対的
   価値形態であり、等価物上着を直接的に価値形態とす等価形態なのです。>

   <第三の形態ではーー
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商
   品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。
   亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したが
   って亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。
   ・・・・・略・・・・・
   一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労
   働一般の一般的現象形態とする。商品価値として対象的に表れる労働は、消
   極的に、すなわちあらゆる具体的な諸形態と有用な諸性質が捨象された現実
   の労働として表現されるだけではない。それ自身の積極的なNatur 本質もは
   っきりと現れてくる。商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働と
   いう共通な性格、すなわち人間の労働能力の支出に還元された現実の労働で
   ある。」(前原訳 原P81)

そうすると抽象的人間労働の化身であるということが一般化され、次に社会化される。
そういう意味でこれは一般的な価値形態だと言われているのです。

   杉本
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーー
   この反省規定、をこそ注意すべきと思えます。
   この一般的価値形態を成立させる商品世界の共同行為が、一般的な相対的価
   値形態を成立させる、ことが、通常の訳では、等価形態の成立になっていま
   す。

   <82>「一商品の単純なあるいは個別的な相対的価値形態は一つの他の商品を
  einzelne Äquivalent 個別的な等価物にする。相対的価値の展開された
   形態、全ての他の商品でのこの一商品の価値表現は、それらの商品に様々な
   種類の特殊な等価物の印を付ける。最後に、一つの特殊な種類の商品が一般
   的価値形態を獲得する。なぜなら、全ての他の商品がこの特殊な商品をそれ
   らの統一的な、一般的な価値形態にするからである。」(前原訳 原P82)

   <紹介したーー初版附録の記述は、全くこの意味ですね。
    前原さんの訳の正しさがここに証明されたのです。拍手!!!
    私もこの作業のなかで、やっと・やっと見つけたのです。>

   【2】「一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
   個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の
   商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特
   殊的等価物という形態を刻印する。 最後に、ある特別な商品種類が一般的
   等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種
   類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。」
    (国民文庫 岡崎訳 P127)



けれども、こういうように第三の価値形態ですね、一般的な価値形態をそういうように読みま
すと、全ての様々な労働が人間的労働というそれらの共通な性格へ還元されている、というこ
とが分かるという意味です。

ですから様々な労働が亜麻布で価値を表現する、という形だけを見ても別に現実的諸労働への
共通な性格への還元、ということは読み取れない。むしろこれを価値の表現の形式というよう
に見て、価値の表現、要するに抽象的人間労働相互の関係です。

その関係がここにあるという商品語を読み取った上で、こういう全ての現実的諸労働が人間労
働という共通な性格へと還元されている、そういう形がここで現われている、ということが分
かる。


ですからここでも諸商品の価値が抽象的人間労働である、という事が何か明示的にパッと表現
されている、ということではあり得ない。そういう事だと思うのです。

後、この一般的価値形態から貨幣形態への移行という箇所があり、この移行の箇所でも移行の
論理という点に注目して見てみます。この一般的価値形態を取るのはどの商品でも取り得る。

ですから一般的価値形態というものは貨幣形態とは違うわけですけれども、貨幣形態の場合は
等価形態にある商品が単一の商品になり、その他の商品が等価形態になることを排除する、と
いう関係です。それは社会的な習慣によってそうなる、とマルクスは言っています。

そうするとこれは移行の論理としては、一般的価値形態に内属する論理によって貨幣形態へ移
行する、というようには言えないのではないか。つまり金が貨幣にされるということは、社会
的な習慣などの価値形態以外の様々な要素です。そこからの働きかけ、ということを見逃せな
いのではないか。そのような話をしているうちに、価値形態の発展の話に半分くらいは入って
いるわけですけれども、いよいよその問題へと移って行きたいと思うのです。


 

 資本論再版での「廻り道」を巡っての久留間説への批判

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月21日(月)13時02分30秒
返信・引用 編集済
   この「廻り道」の現行版での提起は、初版とは異なるものであり、相対的価値形態の形
成での、リンネルの価値形態上着へと辿っていく第一の出発点であります。
 事態の進行のなかで、上着が価値として等置される第七段落の前に、第三・五段落での
解決事項が存在しており、そこでは、上着は価値の存在形態であり、価値物として規定さ
れており、そして、その反対極での価値を織り出すリンネル労働は、抽象的人間労働と規
定されています。この反対極へと回らず、自極のままであった、裁縫労働は、人間労働と
規定されています。

 このような価値形態論の③・⑤段落をまず記載しておきます。

  「③だが量的.に等置されている二つの商品が同じ役割を演じているのではな
  い。亜麻布の価値だけが表現されるのである。ではどのようにしてか?
   亜麻布が自身の「等価物」である上着に対し関係することによって、または自
  身と「交換可能な物」である上着と関係することによってである。
  この関係において上着は価値の存在形態、価値物として通用する。というのは、
  そのようなものとして上着は亜麻布と同じだからである。
  他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立した
  表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつものであ
  る上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだか
  らである。」

  「⑤例えば価値物としての上着が亜麻布に等置されることによって、上着のなか
  に隠れている労働が亜麻布のなかに隠れている労働と等置される。確かに上着を
  つくる裁縫は亜麻布を作る織布とは違う種類の具体的労働ではある。が、織布と
  の等置は裁縫を事実上両方の労働において作用している同じものに、人間労働と
  いうそれらに共通の性格に還元する。
  そしてこの回り道を通って次のことが示されるのである
  : 織布もそれが価値を織る限りではなんら裁縫と区別する特徴をもつものでは
  ない、つまり抽象的な人間労働である。
  種類の違う諸商品の等価表現こそが価値形成労働の特殊な性格を現象させるので
  ある。なぜならこの性格は種類の違う諸商品のなかに隠れている種類の違う諸労
  働を事実上それらの共通のものに、すなわち人間労働一般に還元するからである
  17a。」

   http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
   私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品
   からの引用であります。

 ここでのリンネルと上着との抽象のされ方は異なるものですが、そんなことなどどう
でも良かろうーーというのが今日の価値形態論解読の通説になっています。その代表が久
留間説であります。その事柄を紹介してみます。

  「そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の
  秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうこと
  かというと、たとえば 20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というとき、
  20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、
  そういうことが行われうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値
  物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の
  大きさをあらわすことはできないはずである。
  ーーーー略ーーーー
  上衣を作る労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的労働であって、抽象的
  な労働ではない、上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに
  等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労
  働に等置されることになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元されるこ
  とになる。

  と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
  ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
  上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
  じめて自分の価値を表現するのである。」
   (『価値形態論と交換過程論』P7~8)

    (広島「資本論」を読む会)のホームページからお借りしました。
    http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2

 まず第一の反対論を挙げてみよう。
 上着が価値物としてリンネルに等置されることと、上着が価値の定在=価値存在とさ
れることとは、異なったことです。リンネルが価値存在とされるから、上着は価値の存在
形態として規定されます。これが質的側面であり、価値の大きさを表す」というのは全く
の誤りです。量的側面でこの質的側面を前提に、一定量の価値としてリンネルが上着に等
置されることで、その量的側面である交換比率が示され、そして上着の価値体で価値表現
がなされます。

 第二に、またその質的側面では、価値物として上着がリンネルに等置されることで、価
値の存在形態である上着の性格が回り道を経ることで現出してきます。
この回り道を経過することで上着は人間労働一般として規定されて、リンネルは抽象的人
間労働と規定されています。

 第三に、ここでの久留間さんの誤りは、マルクスのこの回り道を否定していることであ
ります。これまで批判者が何故か触れない誤りです。
  「上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、
  それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置される
  ことになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元される」(久留間)
ここで、「上着がひとつの価値である」(七段落)ことが前提になっていれば、久留間さ
んの見解は正しいのですが、しかし、この五段落では上着は価値物としてリンネルに等置
されることで、裁縫労働は人間労働一般に還元されていたのです。

 第四に、よくよくと考えてみれば、久留間さんの理解するように裁縫労働が抽象的人間
労働に還元されるならば、この「回り道」で提言されたことは全くの不要な事にされてし
まいます。何故ならーーリンネルが抽象的人間労働のの凝固である価値として上着に等置
されるからです。(しかし、それでは商品関係は既定済みであり、形成されません)
 次の六・七段落で何がーー提示されていたのかであります。
 なるほど、久留間さんの述べるようにこの五段落でのリンネル織り労働が価値を織り出
すことが、右辺の裁縫労働においても価値を縫い上げる労働になっているのではないかと
誰しも考えてしまいます。その疑問の解決を目指したのが、この六・七段落であります。

 第五 そこで、次に上着が価値物ではなく価値ーーという規定にあることを明示した
⑥・⑦段落の提示であります。

  「⑥にもかかわらず、亜麻布の価値がそこから生じている労働の特殊な性格を表
  現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力または人間労働は価
  値を形成する、が、それは価値ではない。それらは凝固した状態、すなわち対象
  的な形態において価値になるのである。亜麻布を人間労働の凝固物として表現す
  るには、その人間労働が亜麻布自身と物的に異なり、そして同時にその労働が別
  の商品にも共通する一つの「対象的なもの」として表現されなければならない。」

  「⑦亜麻布の価値関係のなかで上着が亜麻布と質的に同じもの、すなわち同じ性
  質を有する物として通用するのは上着が一つの価値だからである。」
六段落を経た七段落にて、「上着が一つの価値である」と示されていることは、上着が
直接的に価値であるーーのではなく、このような回り道をしての成果なのです。
この六・七段落の考察を経てみると、五段落にて左極でリンネル織りを価値を織り出す抽
象的労働としてのみ規定し、右極については人間労働一般と規定したのは、この反省規定
=物象の判断の特異性・特徴であることを私達が探りだすーー能動的主体的な営みが要求
される、マルクスが「どうしてですか?」との質問を我々にしているからなのです。
私達自身の主体的営みにおいての返辞・回答が要求されているのです。

 そこで左辺の抽象的人間労働として規定されているリンネル織労働が、凝固しているも
のとして認められるのは、個別の物的なものとしてではなく両極の価値関係を構成してい
る商品として、右辺に対する商品との共通性とは何か?との質問を発するーーことで、そ
れは価値である、との回答をしているのです。

 私達は無意識のうちにこの回答を物象の判断に従って成しているのです。
この上着は価値であるとの判断を受けてのみ、この三段落での提起が論証されたのです。

  「他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立し
  た表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつもので
  ある上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだ
  からである。」(三段落)

そして、この論議を経てのみ、五段落での右辺のの裁縫労働が人間労働一般の支出であっ
たものが、やっと今度・七段落にて抽象的人間労働の凝固物として、価値として規定され
たのです。そして、やっと、この「亜麻布自身の価値存在が現象している」場面に到着す
ることで、価値物上着の規定を脱する地点に到着したのです。
 このように全く回りくどいことをマルクスが述べているのは、物象の登場・判断の有り
様を人々がたどれるように、彼が我々に質問を発しているからなのです。
この「価値物」、交換されることで商品となる初期の規定であることは、大谷先生が明示。


 第六 さて、その次の八・九段落です。

  「⑧実際に上着の生産では裁縫という形態で人間の労働力が支出される。すなわ
  ち上着に積み上げられているのは人間の労働である。この側面において上着は、
  たとえそれが擦り切れて大きく開いた糸目のあいだからその本質そのものが顔を
  のぞかせているわけでないにしても、「価値の担い手」である。そして亜麻布の
  価値関係のなかで上着は将にこの側面によって、身体を与えられた価値、価値体
  として通用する。上着の無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同じ種族がもつ
  美しい価値魂を上着に認めるのである。だが、同時に亜麻布に対して、価値が上
  着という形態を取ることがなければ、上着が亜麻布と向き合って価値を表現する
  ことはできない。(後略)」

  「⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価
  値形態として通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身
  体で表現される、つまりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるので
  ある。
  使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、価値としての亜麻
  布は「上着と同じもの」であって、したがって一着の上着のように見えるのであ
  る。こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
  亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。それはあたか
  も神の子羊との同一性において現われるキリスト教徒の羊という存在である。」

 さてと、久留間さんは、何故かこの⑧段落に対しては理解を示さず、⑨段落に対しての
み、自らの解釈を述べている。

  「このばあいよくよく注意しなければならないことは、 20エレのリンネル・
  イコール1枚の上衣 という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自
  分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっている
  のではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態
  に─その自然形態がそのまま価値をあらわすものに─しているのだということ、
  そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自
  身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマル
  クスのいわゆる価値表現の回り道なのである。」
  (『価値形態論と交換過程論』P-8)

 ここでの次のような理解が、⑧ではなく、⑨段落に対しての理解を述べたものであるこ
とはすぐ見て取れることであります。
  「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──その自然
  形態がそのまま価値をあらわすものに──している」(久留間)

再版ではーー
「亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。」(同上)
対して向坂訳は、
「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、ちょうどキリスト者
の羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」(向坂訳P97)
ーーと述べられている。

 向坂訳に依拠すれば、この宗教的転倒批判が、<上着は価値としてリンネルに等しい>
との理解に対しても向けられているーーことが次のように理解できる。

「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、」ーーとの表現で、
マルクスは価値形態を「価値魂」批判において受け取る(⑧段落)事柄が、転倒してしま
い、肝心なことであるーー私達には亜麻布の価値存在の表現ではなく価値表現ーーとの誤
解を必然化していることがらの、注意書きをここにしているのです。

 リンネルの価値形態上着ーーとの規定があって、始めて相対的価値表現が可能であり、
そしてつぎに、(物象として)上着が価値表現の材料としての役立ちを行うことで、相対
的価値形態が成立するのですし、この前提事項である<価値形態上着>での物象の社会関
係の形成による価値関係の<上着は価値としてリンネルに等しい>という、同等性関係へ
の転倒批判をこそ、ここ⑧-⑨段落に述べているのです。

 従って、「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──・・」
(久留間)しているのではなく、「上衣を価値の形態に」ーーすることでの宗教的転倒が、
「上衣は自分に等しいのだということによって、」との現象をもたらしている、と言うの
がマルクスの意図であります。

従って、久留間さんの主張は全くの誤りであり、次のーー
「だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ、上着が亜
麻布と向き合って価値を表現することはできない。」(⑧段落)
ーー事を批判するものであったのです。

 第七 この「価値が上着という形態を取る」ーーこの表現の意味は、何か?
その次の⑨段落にて、「上着形態は価値形態とされる。」、と明快に規定されている。
ここには「価値表現」の前提が述べられている。なるほど物象の登場による転倒した形態
においては、リンネルも上着も価値である同等性関係において、
あるいは<上着は価値としてリンネルに等しい>との、前者と同じ宗教的転倒を、生み出
しています。
 価値関係と同等性関係との混同をうみだす宗教的転倒が、この常識的見解を発生させた
のです。


 第八、価値物と価値体との混同
おっと、最後の久留間さんの記述への意見を忘れるところでした。

 「と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
  ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
  上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
  じめて自分の価値を表現するのである。」(久留間)

 「抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する」
ーー大谷先生が『貨幣論』にて、価値物と価値体の混同と久留間先生の誤りを指摘し、
彼もまたその指摘は正しいとして、訂正を認めたーー事柄でした。

 しかし、この訂正事項は、久留間説の根幹に関わることであって、価値形態論で、ーー
相対的価値形態の内実として価値形態上着があって、他商品リンネルの価値が表現される
ーーことができるのに、リカード経済学のそのままに、上着が価値であり、価値体である
ので、この上着によって価値表現がなされると理解していた、ことが暴露されたのでした。

  しかし、彼の誤りの原因は、
  このリカード経済学の誤りへの批判は理解しているにかかわらず、

  「そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で
  そういうものとしての上衣の身体で、はじめて自分の価値を表現する」

ーーことに示されるように、物象の社会関係の形成が、
「上衣にそういう形態規定性を与えた」ーー転倒した形態として、次を与えたと表明し、

  「リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては
  上着にそっくりそのままである、と言うのである。」(同上原P67)

ーーとの「商品語」で、価値物と価値の混同において、代弁し語っているーーのです。
久留間さんの<価値物と価値体の混同>は、そのことをこそ指したのです。

   このように、「商品語」への批判において、価値形態論を語らないと、
   価値形態上着が相対的価値形態を形成し、その反省規定として、
   上着が直接的に価値形態となることで、等価形態を形成するマルクスの立論は、
   対象外にされ、何ら理解されないのです。


(以上は、再版での記述に忠実な理解であり、だれでも真剣に取り組むならばたどり着く
見解ーー理解であります。この自明な理解をとどめて、混乱をのみ引き起こしてきたのは、
初版の見解をこの再版に持込み、自明な理解に異を唱え、再版との混同のなかで、
マルクスの説をかたることで、勝手に混乱を引き起こしてきたーー久留間さんの宇野批判
ーーであることが理解できます。しかし、再版 一般的価値形態でのマルクスの論述を検
討してみると、肝心のプルードン批判が、両極の形態からの、①一般的相対的価値形態
②一般的等価形態 の検討であり、①の反省規定として②が語られのですから、逆に、
②の反省規定としてもまた①が語られているのです。だから、②の等価形態を語っていて、
その反省規定として存在する①の一般的価値形態であり、一般的相対的価値形態のことも
そこに語っているのです。
この特異なマルクスの論法は、初版にて更に倍増しているのですから、初版の見解に依拠
して、宇野批判に取り組んだ久留間先生の論述は、多くの同様の人々の支持を集めるも、
価値形態論で宇野説を批判することは実をみのらせなかったのです。)
 

   商品語の批判ができなかった戦後の価値形態論争

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月14日(月)09時17分2秒
返信・引用 編集済
   宇野ーー久留間論争を客観視してみよう。
 A 宇野先生は「価値論」と題した『宇野弘蔵著作集』のⅢ 「第二章 価値の形態」から
「1 商品の価値形態ーー簡単な価値形態」で、久留間さんとの議論を提示している。

  商品語を批判対象にしなかった、宇野先生と久留間先生との議論

 マルクスの初版と再版での価値形態論での大きな違いはなにかであります。
 初版では、物象の社会関係が、物と物との関係として登場することへの批判が登場するの
は、やっと等価形態の主張であり、その謎性の批判として登場することにおいてなのです。
 対して「商品語」批判として登場する物象の社会関係への批判として再版で提起されたの
は、「(a)相対的価値形態の内実」の第九段落での「キリスト教徒の羊的本性が、彼の、神
の子羊(キリスト)との同等性においての登場するのと同様である。」(資本論原P66 9段
落)と主張されたところであり、そしてその次の10段落であります。そこではこう主張され
ていました。

「労働は人間労働というその抽象的な本質において亜麻布自身の価値をなすのだと言う代わ
りに、亜麻布は、上着はそれが彼女と同一のものとして有効である、すなわち(上着も―訳
者)価値である限りでは、亜麻布と同じ労働からできているのだ、と言う。」
(資本論  原P66~67 10段落)

 しかし、この違いはなかなか認識されないので、この九段落を提示しました。

「だから上着が亜麻布の等価物を構成する価  「使用価値としての亜麻布は感覚的には上着
値関係のなかでは、上着形態が価値形態とし  と異なる物であり、価値としての亜麻布は
て通用しているのである。すなわち商品亜麻  「上着と同じもの」であって、したがって一
布の価値が商品上着の身体で表現される、つ  着の上着のように見えるのである。こうして
まりは一商品の価値が他の商品の使用価値で  亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲
表現されるのである。」(同上 9段落)    得するのである。」(同上9段落 後半部)

 ここでは、「商品語」が、前段落での、商品語での価値形態の語りの転倒ーーに依るもので
あり、物象の関係による転倒した姿態ーー形態であると示しているのです。勿論左側の示した
ものこそ、転倒したものではないのです。この対比をこそマルクスは私達に要求しているので
す。左側の文からは①「価値関係のなかでは、上着形態が価値形態として通用している」ーー
に対して、右の文からは②「価値としての亜麻布は「上着と同じもの」であって、」ーーと示
される、この対比をこそ、この主体的な対比をこそ私達が成しえれば、右側の商品語による価
値形態の成立の理解では、左極の相対的価値形態の成立は不可能なのです。

 ところが宇野先生はこの転倒した価値形態の右側の有り様を次に述べるように、批判せず、
支持するのです。宇野先生は、彼の価値論論争をなしているこの一大論文の冒頭のなかに、彼
の久留間さんとの論争の立ち位置を明確にしており、価値形態論での商品語批判は必要でない
ばかりか、自ら支持していることを次に、明言しているのです。

 「・・・リンネル所有者は、リンネルの価値をリンネルと交換したいと思う他の商品、たと
えば上衣によって表現せざるを得ないのである。その場合上着なる商品はかれにとってはすで
にリンネルと同じ質のものとなっている。
 「使用価値としてはリンネルと上着とは感覚的に異なる二つのものであるが、価値としては
『上着に等しきものでありしたがってまた上着と同様に見える』のであって、リンネルの価値
は、上着においてその表現をあたえられることによって、その使用価値と分離した表現をうる
のである。」(宇野著作集 Ⅲ P291)

 今まで気づかなかった、商品語に賛成する宇野先生の最大の誤った解釈を主張した論文であ
り、両極の価値形態を交換過程論への解消を主張した論文であります。価値形態論への自らの
最大の衣拠点は、マルクスと違ってこの商品語賛成であることを明言したあと、その次に、
「a相対的価値形態の内実」の第三段落での事実上の抽象での「回り道」への批判として展開
されていきます。

 対しての久留間先生の対抗姿勢はどうであったのか?

 しかし、久留間先生の宇野説への批判は、「第一論点について、‥・だから価値形態論で商
品所有者の欲望が演じる役割が捨象されていると考えるのは間違っている、という主張につい
て」(『価値形態論と交換過程論』P49)では、この商品語への誤った主張は取り上げられな
かったのです。久留間先生は、この宇野説の出発点とした商品語賛成説への批判・その事柄へ
の根底的重要性を、見出せなかったのです。
 その根底性とは次のことであります。
 マルクスが価値形態論の冒頭・一段落において・主張しているのは、註17に示されるベイ
リーの「価値形態と価値とを混同」する説への批判であり、リカード経済学の交換割合説への
批判という課題をこそ明示しているのです。このベイリー・リカード説への批判を説諭してき
ても、この論理の最後になって、商品語によって「・・上着は‥・価値であるかぎり、亜麻布
が成り立つのと同じ労働から成り立っている、と」(資本論 原P66~67 10段落)ーーと
囁かれるならば、この転倒した商品語によっての価値形態論が提起されれば、
  <価値関係によって反省規定されることで形成された価値形態>
で商品価値が表現されるのに、同等性関係での価値形態の成立へと、転倒・解消されるので
す。

  だから、マルクスがリカード・ベーリ批判を価値形態論を解くことで成してきた
  「価値の存在形態」「リンネルの価値存在の現出」などは、
  a)リンネルの反省規定での「価値形態」上着などで語られるが、
  b)この肝心な価値形態成立も、この商品語で語られるときには、同等性関係に転
    倒されるのだから、それら全ては不要とされ、
  c)価値関係での反省規定も、相対的価値形態の反対極での等価形態の成立も為し
    得なくなってきます。
このような批判をこそーー久留間先生は、宇野説の
 <価値としては『上着に等しきものでありしたがってまた上着と同様に見える』>ことでの
 <「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れる」>転倒を認めないーーことが、
宗教的転倒と同じことが成されている事を批判できていないーーとして批判すべきであったの
です。
 ところが久留間先生は、この宇野先生の商品語賛成説に対して、
 ①等価形態での、右極での「価値表現のメカニズム」
 ②「このメカニズムに制約された価値表現の発展の必然的過程」(久留間P52)
  での解明による批判ーーを掲げたのです。
 この先生の主張は錯誤していますので、要注意です。
①等価形態でのこの「価値表現のメカニズム」と主張されているのは、相対的価値形態でのリ
ンネルの価値形態が上着と規定され成立するなかでの価値表現ではなく、等価形態での価値表
現だというのです。
(未完です)




 

商品および商品生産  への意見

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 7月31日(月)09時51分3秒
返信・引用 編集済
  http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf
  商品および商品生産   大谷禎之介

  (2)1商品の単純な価値形態と単独な等価物
   生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり,交換はごくまれに,
  それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこれの対象に
  ついて,生じるだけである。たとえば,毛皮が塩と,しかもまず最初には
  まったく偶然的なもろもろの大ざっぱな比率で交換される。しかし,この
  ような取引がたびたび繰り返されていくうちに,交換比率はだんだんと細
  かにきめられるようになって,1枚の毛皮は,ある特定の量の塩とだけ交
  換されるようになる(第21図)。
   (図 略)

   しかしこの交換が実際に行なわれるためには,あらかじめ,1枚の毛
  皮のほうは「自分の価値は10gの塩のそれと同じだ,だから10gの塩
  となら直ちに交換する」と言い,109の塩のほうも「自分の価値は1枚
  の毛皮のそれと同じた,だから1枚の毛布となら直ちに交換する」と言っ
  ているはずである(第22図)。
   (図 略)
   つまりここでは,毛皮も塩も,自分の価値を他の商品で表現しているの
  である。この交換関係に含まれている価値表現(商品が行なう自分の価値
  の表現)は次のとおりである(第23図)。
   (図 略)

78
   この二つの価値表現は,形態から見ればまったく同一である。どちらの
  商品にとっても,相手の商品が自己の価値表現の材料として役立ってい
  る。自己の価値を表現する商品は,相手の商品を,自己に価値が等しいも
  のとして置いているのであって,自己の価値を表現する商品にとって,こ
  の相手の商品は等価物である。等価物は,自己の価値を表現している商品
  の価値を見えるようにする鏡(価値鏡)として役立っており,またこの商
  品にたいして価値のかたまり(価値体)として通用するもの,つまりそれ
  と直ちに交換できるものとなっている。
   このように,ある一つの商品が他の一つの商品で自己の価値を表現して
  いる形態を,その商品の単純な価値形態と呼び,また,ここで等価物とし
  て役立っているのはただ一つの単独の商品なので,この等価物を単独な等
  価物と呼ぶ(第24図)。


 「ある一つの商品が他の一つの商品で自己の価値を表現している形態を,その商品の単純な価値形態」
ーーこの先生の誤解が理解できるでしょうか?「a相対的価値形態の内実」の最終段落にて、次のように述
べられています。
 「商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。」
(原P87)
 このように、同等性関係ではなく価値関係に媒介されて、「商品Bの現物形態は、価値形態になる」こと
で、商品Aは価値体としての商品Bに関係することができ、「商品Aは使用価値Bを自分の価値表現の材料
にする」(同上)ーーことで、相対的価値形態を受け取るーーとの主張を、大谷先生は全く無視し、誤解を
しているのです。

 大谷先生の誤読は、商品は「単純な価値形態」を如何にして獲得したのか?として明示した資本論の、
「四 単純な価値形態の全体」(原P74~75)での、「商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの
直接的交換可能性によって表現される。」ーーに依拠していることははっきりと理解できる。

 上記の「商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現」ーーを文字どおりに受け取れば、人々は、
「商品Aとの商品Bの直接的交換可能性」とは、商品Bは等価形態にあると述べているように理解してしま
う。
 しかし、資本論の記述は、①「二相対的価値形態」・「a相対的価値形態の内実」の次に、②「三 等価
形態」があり、そして、③「四 単純な価値形態の全体」ーーとの構成と成っており、始めの両極の形態の
総体の後の、四にて「それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということ
になり」(原P76)ーーと展開されている。

 ここから読み取れるように、商品形態にあってはーーリンネル価値は、商品上着の直接的交換可能性よっ
て表現される、と理解できるし、次の展開された相対的価値形態での、商品形態を獲得したことで、

「他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめて、ほんとうに、
無差別な人間労働の凝固として現れる。」(原P77)ーーことで、

「それゆえ、今ではリンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対して社会的な関係に立つのである」
(同上)ーーと、他商品体はリンネルの価値形態であることで、商品世界を形成したことを明示したのです。

 したがって、「単純な価値形態」、あるいは「単純な商品形態」について、始めの相対的価値形態の内実
を論じているところで、そのことを述べてしまうと、このマルクスの文脈を全く無視してしまうことになる
のです。

 この文脈無視による誤読を表わしてみよう。

 「この二つの価値表現は,形態から見ればまったく同一である。どちらの商品にとっても,相手の商品が
自己の価値表現の材料として役立っている。」

 内実論では、上着が価値表現の材料として役立つーーには、使用価値の姿態のままにではなく、上着がリ
ンネルの価値形態の規定を受け取る経過のなかでのみなのです。
そのことで、上着が価値体の規定を受け、そして、上着がこの価値形態との判断をを受けたことで使用価値
上着が価値表現の材料となるーーのですから、上着が直接的に価値体とはされないこの相対的価値表現にあ
っては、直接に上着は価値体とはなれず、価値表現の材料ともなれないのです。

しかし、等価形態にあっては上着は直接的に価値形態であり、価値体であるのですから、直接的に価値表現
の材料となるのです。

 したがって、直接的に上着は価値表現の材料であるーーと示すこの大谷先生の論理は、等価形態でのもの
であり、相対的価値形態の形成での上着の価値形態としての役立ちーーである物象の社会関係の形成・物象
の判断をこそ、無視しているのです。





 

腐りきった連合

 投稿者:リベラル  投稿日:2017年 7月30日(日)00時28分7秒
返信・引用
  連合、逢見事務局長らの裏切り(首相官邸と裏交渉)で高プロ(残業代ゼロ法案)容認撤回した件で。

国民である従業員の生活を守る事が、連合の存在意義である。
連合の本分を忘れ、経団連や政府に迎合するから、労働組合や
地方組織が反発するのは当たり前だ。
そう言った状況に怒りを持ち、経団連や政府に組合闘争を含む
行動を辞さない意思を連合が失ったことが、現状を肯定している。
昨今のデフレも、連合が経団連や政府に迎合し、組合員の給与
を抑えた結果、生活は困窮し、余暇を取る暇無い。
無能な財務省が、無策な増税で庶民の生活を一掃困窮に追い込んだ。

無能な経団連の大手企業の経営者は、従業員の人件費抑制の為に
無策の海外移転を繰り返し、政府は安易な海外単純労働者を
導入しようと画策している。

バブル期以後の就職氷河期にあぶれる人が多くおり、正規社員に
成れず、不安定な派遣社員になっている。
物品扱いされる派遣社員が、家庭を持ち、子育て出来る程の
収入も無い。

今回、逢見事務局長らの裏切りに対し、連合中央執行委員会で、神津会長、逢見事務局長らの責任を問う声が上がらず、執行部の吊し上げ、解任決議も行われず、静かに委員会が終了したことが現在の腐りきった連合の姿を現している。
連合執行部は総退陣し、同盟系等労使協調派や長期専従者、組合職員出身(プロパー)を追放して組織改革をせよ。

今、連合が動かなければ、日本の労働界はお終いだよ。連合以外の全労働者も迷惑被るので。

 

『「資本論」の核心』への意見

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 7月20日(木)06時29分7秒
返信・引用
  A)師匠の胸を借りて、意見を述べてみます。
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220
『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)
杉本の意見①リンネルの相対的価値表現では、その第三節「a相対的価値形態の内実」9段落で明白なように、この価値関係のなかでは「上着形態は価値形態として認められる」、この内実があることにて、「商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現」されるのです。

このような「上着形態は価値形態」にて、相対的価値表現を成すのはーー資本論初版と同じ論理ですが、異なるのは、上着が価値の存在形態であり価値物であることを示すことで、初版とは異なる等価物上着が、リンネル価値の現象形態になれる論理をーーマルクスは示したのです。

ここにみてとれる「価値物上着」の規定性から、価値上着・価値形態上着の規定性を受け取る移行は、第五段落では示せず、七段落にて「上着が価値である」・「上着はここでは価値がそれにて現れるもの」ーーと示すことで、やっと、初版と同じく上着が価値の現象形態の規定にあることを示したのです。

その理解について榎原さんは、ーー「そういう関係の仕方ですが、これを解明し得れば、そうするとそこに価値が現れている、価値が現象している形態である、ということが確認できるのではないのか。現行版の場合、そういうような分析の仕方・・」ーーと認めています。

そこで、この<上着が価値の現象形態>である規定の他面を見るならば、上着は価値体の規定である人間労働の凝固物<上着は価値魂>だけにては、その役立ちを果たす事ができず、上着形態が価値形態の規定を受け取る・物象の判断による規定にて、リンネル価値が表現されているーーのです。

以上にあるように、内実論の論理は明快そのものです。この物象の判断が示されることで、八段落の末尾にて、この価値関係が、リカードの示す人間労働の同等性関係=「リンネルの価値存在が上着とのその同等性に現れる」一大転倒をマルクスは示すことで、その質的側面の量的側面への転倒を示したのです。

そして第二の、展開された相対的価値形態では、「他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに無差別な人間労働の凝固として現れる。」ーーと示されることで、上着等々の商品体はリンネルの価値表現において回り道を経ずとも価値形態(展開された価値形態)
と規定されています。

更に、その次の「諸労働生産物を無差別な人間労働の凝固として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。」ーーことで、プルードンの示したように、そこに非直接的交換可能性の形態をのみを見る(註?)のだが、そうではなく、一般的な相対的価値形態の成立のために、この商品世界からリンネルが、物象の判断にて排除される、ことによってそのようなことが成されているのです。

<この商品世界からリンネルが、物象の判断にて排除される、・・>ということは、そのことだけを見るならば、前提された一般的相対的価値形態にあっての行動ーーとの理解を示してしまう。しかし、それでは一般的価値形態の成立自身も「商品世界の共同の仕事としてのみ成立する」(原P80)、主体的意味が見落とされてしまう。

①諸商品自身の共同行為が一般的価値形態を成立させ、そして、②同じく商品世界からの等価物リンネルの排除が、一般的相対的価値形態を成立させるのですし、その行為の反省規定として「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態<共通な価値の一般的現象形態では?>なのであり、③それだから、リンネルは他の全ての商品と直接的に交換されうるのである」(原P81)ーーことで、一般的な等価形態を受け取るのです。

このような物象世界の主体的行動である① ② ③の反省規定があって、やっと、商品世界が成立した。
だから、物象の主体的行動ーー判断にて、はじめの相対的価値形態の成立の第一段階が、上着を価値物ではなく価値形態と判断することで成すことにあったのです。<続く>
 

生産管理闘争の一教訓

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 6月 7日(水)15時08分40秒
返信・引用
  これは素晴らしい論文です。紹介します。


http://www.hibana.org/h324_1.html
生産管理闘争の一教訓
権力闘争として労働運動を発展させよう!

流 広志
324号(2008年8月)所収
アメリカGMのストライキ

 独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の8月海外労働情報によると、アメリカでは、世界最大の自動車メーカ-GM(ゼネラル・モータース)と関連会社での工場閉鎖、レイオフやストが相次いでいる。景気減速に襲われているアメリカでは、新車販売台数が落ち込んでおり、そのため、GMは、工場閉鎖、減産、レイオフを発表し、部品メーカーでは労働協約改定交渉の際に、87時間のストライキを決行した。要約すると以下のようである。
 4月29日、ポンティアック工場、フリント工場(ミシガン)、オシャワ工場(オンタリオ、カナダ)、ジャニスビル工場(ウィスコンシン)を対象とする生産行程削減にともなう時間給授業員3550人のレイオフを発表した。5月29日には、1万9000人の早期退職(7月1日)を発表。生産工程従業員に4万5000ドル、熟練労働者に6万2500ドルの退職年金支給が提示された。
 6月3日には、「2010年までに北米の4つの工場を閉鎖すると発表。ジャニスビルのトラック工場(ウィスコンシン、従業員数2438人)を2009年までに閉鎖、モレイニ工場(オハイオ、同2284人)を2010年までに閉鎖、オシャワ工場(オンタリオ、カナダ、同2496人)のトラック工程を2009年までに削減、トルカ工場(メキシコ、同1973人)のトラック工程を2008年中に削減という内容である。ジャニスビル工場とオシャワ工場に関しては4月末に生産工程の一部削減を発表したばかりだった」。
 「7月15日には、ホワイトカラー従業員にかかる人件費2割削減(3万2000人の人員削減)とホワイトカラー退職者向けの医療手当を削減、昨年の全国レベルの協約で設立が合意された労組運営による退職者医療基金への支払い延期などを発表した。ホワイトカラーを対象とする人員削減も含めた事業再編は2005年以来となる」。
 「7月28日の発表では、8つの工場でトラックやSUV、11万7000台分の減産計画を実施すると発表。オハイオ州とルイジアナの工場で、9月29日の1シフトを削減(合計で時間給従業員1760人に影響)、このほか、カナダ・オンタリオ州、ミシガン州などの工場で、8月から12月までに1週間単位での生産一時休止の計画を明らかにした」。
 「GMやクライスラーに自動車部品を供給するアメリカン・アクセル・アンド・マニュファクチュアリング・ホールディング社(以下、アメリカン・アクセル社)の協約改訂交渉が同社経営陣とUAWの間で行われたが、協約終了日時になっても合意に至らず、2月26日、ストライキに突入した。このストは5月26日まで87日間続いた」。
 「経営側は、時間当たり73.48ドルと高水準となっている総額人件費を、業界で競争力を維持できる20ドル~30ドルの水準に抑えたいと主張した。そのために平均で時給28ドルとなっている同社の賃金水準を、競合他社のダナ社(同社でもUAW組合員が就業している)と同水準の14ドル程度への引き下げをめざした。また、退職者向けの健康保険と現役従業員向けの確定給付型の年金を廃止することを提案した。これに対して、UAW側は反発しストに突入する結果となった」。
 「このストは5月16日に暫定合意に至り、5月22日、組合員は投票で支持した。今後4年間有効となる新契約は、アメリカンアクセルの5つの工場(デトロイト、スリーリバー(ミシガン)、バッファロー、トナワンダ、チークトワガ(ニューヨーク))で働く3650人を対象とし、次のような内容となっている。
賃金水準は平均で時給10ドルの減
従来の時給28ドルを二階層の賃金体系とし、14.5ドル(非主要工程労働者)から18.5ドル(主要工程労働者)の水準に引き下げる。
早期退職とバイアウトプログラムの実施
早期退職を実施するにあたり、退職後の健康保険や年金を一時金支払いによって企業側が買い取る方式をとり、将来の債務の発生を回避する。これをバイアウトプログラムと呼び、応募の条件としては、勤続10年以上の従業員の場合、一時金として14万ドル支給し、勤続10年未満では、一時金として8万5000ドル支給する。早期退職者に応じた従業員には、勤続年数に応じてさらに5万5000ドルを支給する。
デトロイトとトナワンダの2つの鍛造工場閉鎖
レイオフ対象となる従業員は760人
従業員支出の健康保険料の導入
確定給付型年金の凍結
一時金の支払い
協約の改訂に伴い、一時金として組合員に1人当たり5000ドルを支払う。
 以上のうち賃金水準抑制によって、時間当たり総額人件費は従来の73ドルから30~45ドルに抑制されたが、経営側の目標値だった20ドル~30ドルには及ばなかった。
 「UAW関係者は否定しているが、アメリカンアクセル社のストに呼応するように、工場レベルでの協約改訂中のGMでストが決行された」。
 「GMの工場単位での労働協約交渉が進められており、ミシガン州ランシング近郊のデルタ・タウンシップ工場とカンザス州フェアファックス工場では、交渉期限になっても成立せず、ストに突入した。フェアファックス工場は、GM社製で最も人気のある車種、シボレーマリブ、しかもフルモデルチェンジした2008年車種を生産する工場であり、デルタ・タウンシップ工場は、GM社販売台数上位を占めるサターン、GMCアカディア、ビュイックエンクレイブを生産する工場である。両工場ともGM社にとって重要な生産拠点でのストとなった」。
 「デルタ・タウンシップ工場ではGMとUAWローカル602支部との間での交渉は期限が来てもまとまらず、4月17日から5月15日まで28日間のストが決行された。主な争点は、苦情処理、就業規則、下請けに関すること、非組合員の作業内容、配置転換、見習工の処遇、熟練労働者の作業内容とされていた」。
 「UAWローカル602の支部長は、今回の協約改訂を「職の抱え込み(job ownship)」から「職の分かち合い(job sharing)」への変換と位置づけられるとしている。合意された新協約の特徴は、チームリーダーの権限の拡大にある。チームリーダーは正規賃金水準に時給で1ドル上乗せする(従来の協約では50セント)。チームリーダーには従来の職務責任に加えて、4人から6人のチームメンバーを調整する責任が与えられ、人員不足の支援にもあたる。また、組み立てラインの掲示板やデータの管理にも責任をもつようになる。5月16日に投票が実施され、2300人の組合員のうち74%が合意内容に賛成し成立した」。
 「フェアファックス工場では5月5日から5月21日まで17日間のストが決行された。争点となった課題の詳細は未詳だが、工場での経営管理、雇用保障、先任権についてなど、少なくとも9つの未解決項目があったとされている。締結された新労働協約は、時間給従業員約2500人を対象としている」。

 このように、アメリカにおいて、労働運動は活発に行われている。それに対して、すっかり労資協調にはまって当たり前の労働運動すら組織せず、資本の奴隷へと成り下がっている日本の「連合」は、それでも、闘う姿勢すらはっきりとは示していない有様であり、その結果、労働者の多数の信頼を喪失しつつある。しかし、時代情況は、当たり前の労働組合を必要としていると共に革命的労働運動、共産主義と労働運動の接近・結合を必要としており、「連合」はそれに完全に立ち遅れているのである。
戦後労働運動の出発点における生産管理闘争を教訓化する必要がある

 労働組合運動は、一つには、労働者を資本との経済闘争によってきたえ、その生存・生活の向上を目指すものである。近年の新自由主義の席巻によって、生存権すら脅かされるという労働組合創設期のような事態が生まれている。19世紀の自由主義的資本主義段階のイギリスで労働組合が生まれたのは、まさに生きるために労働者の団結が必要であったからである。そして今、21世紀においてもまだ生きるための闘いを必要とする労働者、ワーキングプアの大群が生まれているのである。労働組合運動は、二つには、プロレタリアートの究極的解放を目指す労働者の革命的闘争の団結体でもありうる。
 1990年代にソ連・東欧のスターリニズム体制崩壊を「社会主義」への勝利と誤認して、この世の春を謳歌してきた資本主義であったが、今、それは、新たな階級敵対の増大とぶつかっているのである。そして、そこから、ふたたび、マルクス・エンゲルス・レーニンなどの唯物論的共産主義やスターリニスト作家の小林多喜二の『蟹工船』ブームであるとか、様々な形での共産主義への希求が生みだされている。
 そのことは、保守派の『産経新聞』の7月31日の【正論】において、ニーチェ学者の京都大学教授・佐伯啓思氏の「「マルクスの亡霊」を眠らせるには」の「急速に左傾化する若者」と題する部分で、「若い人を中心に急速に左傾化が進んでいる。しかもそれはこの1、2年のことである。小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになり、マルクスの『資本論』の翻訳・解説をした新書が発売すぐに数万部も売れているという。若い研究者が書いたレーニン論がそれなりに評判になっている。書店にいけば久しぶりにマルクス・エンゲルス全集が並んでいる。私のまわりを見ても、マルクスに関心を持つ学生がこの1、2年でかなり増加した」と指摘されている。その原因を氏は、「近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境、さながら1930年代の大恐慌を想起させるような世界的金融不安といった世界経済の変調を目の前にしてみれば、資本主義のもつ根本的な矛盾を唱えていたマルクスへ関心が向くのも当然であろう。おまけに、アメリカ、ロシア、中国、EU(欧州連合)などによる、資本の争奪と資源をめぐる激しい国家(あるいは地域)間の競争と対立は、あたかもレーニンとヒルファーディングを混ぜ合わせたような国家資本主義と帝国主義をも想起させる」と述べている。
 氏の診断によれば、ソ連崩壊後の問題は、「無政府的な」(グローバルな)資本主義をどう制御するかにあった。そして、氏は、戦後の資本主義が、製造業の技術革新による大量生産・大量消費、すなわちフォーディズムによって政治的に安定したため、マルクスの予言ははずれたという。しかし、90年代のアメリカでの製造業の衰退と産業構造の金融・IT化は、資本と労働の著しい流動化に利潤機会を求めるものであった。
「その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい」と佐伯氏は言う。だが、氏は、資本主義の不安定化というマルクスの直感は当たっているが、彼の理論や社会主義への期待は間違っていたという。
 そして、「その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい」と氏は言う。ではどうするか。氏は言う。「問題は、今日のグローバル経済のもつ矛盾と危機的な様相を直視することである。市場経済は、それなりに安定した社会があって初めて有効に機能する。そのために、労働や雇用の確保、貨幣供給の管理、さらには、医療や食糧、土地や住宅という生活基盤の整備、資源の安定的確保が不可欠であり、それらは市場競争に委ねればよいというものではないのである。/むしろ、そこに「経済外的」な規制や政府によるコントロールが不可欠となる」。そして、「マルクスの亡霊に安らかな眠りを与えるためには、グローバル資本主義のもつ矛盾から目をそむけてはならない」というのである。つまり、「マルクスの亡霊」(これは脱構築主義で有名な哲学者ジャック・デリダの著書の題名である)を「あの世」に追い払うには、マルクス主義者の用語で言う国家独占資本主義あるいは国家資本主義あるいはケインズ主義体制を再構築すべきだというのである。亡霊のお祓いには、国家が必要だというわけである。つまり、佐伯氏の主張は、サン・シモン主義的であり、ボナパルティズム的である。
 「マルクスの亡霊」が蘇ってきているのは、明らかに、氏の指摘する「近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境」といった階級闘争の先鋭化を促す階級階層格差の拡大、敵対性を強めつつある階級階層矛盾の増大が、人々を耐え難いレベルにまで達しつつあるからである。それは、新自由主義の旗振り役で市場原理主義の促進者だった『産経新聞』が、18日の社説で、最低賃金の大幅引き上げを求める主張をするという変化にも現われている。もっとも、この社説は、それは、中長期的に消費=需要を増やし、生産性向上を促すという条件を付けている。実際には、1975年頃から1979年にかけて、消費者物価指数と労働生産性指数の伸びに対して、実質賃金指数の伸びが低く、その格差が拡大し続けた時期があり、それが、フリードマン流の新自由主義的な鈴木内閣そして中曽根内閣の「臨調・行革路線」の強行につながったということがある。生産性基準賃金は実質的にはとっくに破綻しており、『産経』は、そういう過去の基準を現在に当てはめているにすぎない。生産性基準原理の普及役は、日本生産性本部であるが、それが作られたのは、戦後復興過程での生産管理闘争、生産復興運動があった。そこで、理論的に大きな役割を果たしたのは、大河内一男東大教授であり、彼が日本生産性本部発足の中心メンバーとなったのである。この戦後革命と呼ばれる時期の労働運動の在り方は、その後の日本資本主義の復興過程や労働運動の在り方などに大きな影響を与えている。そこで、この過程から教訓を引き出しておくことにしたい。『戦後日本労働運動史 上』(佐藤浩一編 五月書房)をベースにする。編者の佐藤浩一氏は、同志社大学出身で関西ブント→ブント・統一委員会→ブント・マル戦派という経緯をたどった人である。この本が編集・出版されたのは、1970年代後半で、執筆者は、マル戦系の人たちである。
『戦後日本労働運動史』「まえがき」より

 「まえがき」は、「戦後反革命のうえに築かれた資本主義世界体制は、奈落へとつながる坂道をすべりおちつつある」と危機論を前面に立てている。それは、「71年夏のニクソン新経済政策をもって、アメリカはドル・金の兌換制を全面的に停止し、ここに戦後国際通貨体制の崩壊が確認された。帝国主義の不均衡発展にもとづく通貨戦争・通商戦争の激化がその根底にあったが、アメリカを直接追いこんだのは、ベトナム人民の革命戦争の勝利的な展開であった。しかしこの重大な意味を歴史的に総括する間もなく、世界経済はなりふりかまわぬドルインフレにみちびかれインフレ的蓄積過程に入った。そしてそれは、73年秋の第4次中東戦争を契機に、石油危機、食糧危機等モノの面からはげしい制約をうけ、ここにいわゆるスタグフレーションが世界化したわけである」という歴史認識を基礎にしている。ここには、マル戦派が依拠した宇野経済学派の流通主義的資本主義観が現われている。さらに、ここには、宇野経済学の価値形態論における等価形態にある商品が受動的役割を演じ、相対的価値形態にある商品が能動的役割を演じるという『資本論』の価値形態論におけるマルクスの主張を逆転させ、金・ドル兌換停止による国際通貨体制の崩壊を説き、その原因を帝国主義の不均等発展にもとづく通貨戦争・通商戦争という流通上の敵対的矛盾に求めている。
 私は、このような見解を、何年も前に、楊枝嗣朗氏の『貨幣・信用・中央銀行』(同文館 1988年)をもとにして批判した。楊枝氏は、同書において、「不換国家紙幣説の現実的崩壊は、1971年8月のニクソン・ショックに始まる。国際通貨たる米ドルの金交換が停止されたのである。国際流通においては貨幣の流通手段機能はみられないのであるから、兌換停止した銀行券を不換国家紙幣(=流通手段としての貨幣の機能的代替物)とみなし、その流通根拠を国家の強制通用力に求めるかぎり、不換国家紙幣となったと言われる米ドルが国際通貨として流通するはずがなくなる。米ドルの金交換停止は、国際通貨ドルの自殺であり、ドルを基軸通貨とする国際信用制度の崩壊を意味するはずであった」(同7頁)と述べている。さらに、氏は、「不換国家紙幣説は、不換体制下での貨幣流通の諸法則の支配を否定し、戦後の物価の上昇基調を減価=価格標準の切下げ・名目的物価騰貴(インフレーション)ととらえ、物価の実質的変動の一切を否定してきった。そこでは商品・貨幣の価値変化、価値と価格の乖離、あるいは価格標準の切下げによる物価変動の実質・名目の区別は、省みられることはなく、物価は名目的騰貴一色に染めあげられてきた。したがって、そこには物価が上がる論理はみられても、下がる論理はみられないのである。われわれはここに不換国家紙幣説の現実的破綻をみる」(同24頁)と批判している。
 90年代の物価下落、デフレを経験している現在、われわれは、楊枝氏の宇野経済学派批判を、リアリティをもって理解できるようになっている。ドルは相変わらず国際通貨として機能し続けているし、物価は上下に動いている。

 佐藤氏は、70年代のスタグフレーションを戦後のインフレ期と共通する危機の時代の徴候としてとらえ、アナロジーしている。本稿は、同書の宇野派的認識や危機論などはとらないで、生産管理闘争の実態と意義などについて確認する素材として扱う。
戦後労働運動の出発点

 1945年8月15日の大日本帝国の敗北後、最初に立ち上がったのは、中国人・朝鮮人などの炭坑労働者であった。かれらは暴動を起こし、それは軍・警察によって鎮圧されたが、それがきっかけとなって、10月~11月にかけて、賃上げ、生産再開、食糧増配などを求める炭鉱労働者の労働組合の結成が進んだ。その他、次々と労組を結成する動きが進んだが、それを言論で指導したのは、読売争議で自主管理まで進んだ読売新聞などの言論機関であった。生産管理闘争は、闘争戦術として始まり、やがて自主管理までいたり、企業・生産の労働者統制まで進んでいった。これについて、佐藤氏は同書で、「闘争のこのような展開は、第1に経営内に二重権力状況をつくりだし、第2に原材料の手当、製品販売、金融関係等の諸問題を社会的広がりのなかで解決することを求めていた。そしてこれに日本の支配階級と米軍の反革命的介入を計算すれば、闘争はプロレタリア権力の樹立へとむかわないかぎり勝利しえなかったといわなければならない」と評価している。そうならなかった大きな要因を、氏は、45年12月の第4回大会で「重要産業の労働者生産管理、農地解放、食糧人民管理を行動綱領としてかかげた」日本共産党の路線が、「だが肝心の一点、すなわち生産管理闘争を軸にすることのもつ革命的力学が、資本主義再建と根底から衝突するものであること、それが占領権力との対決へと必然的に発展することを共産党はあいまいにしはじめ」、労働組合の容認と経営協議会設置要求を掲げるなど、日和見主義に陥ったことに求めている。それには、野坂参三の帰国後の統一戦線戦術の採用によるブルジョア民主主義革命路線への転換ということがある。
 戦後、続々と労組が結成されていくが、それは二つのナショナルセンターを中心としたものである。一つは、戦前の労働総同盟(戦時中は産業報国会)系のオルグによって結成されていった労働総同盟である。10月5日、全日本海員組合が最初である。もう一つは、日本共産党系の産別会議である。「45年12月25日の神奈川県工場代表者会議、46年1月27日の関東の139組合、22万9000人を結集した関東労協はいわばその主要な争議手段―生産管理闘争の指導をめざすものとして結成された。そしてそれは46年8月17~21日の160万の産別会議の結成となる」(同35頁)。
 労組結成の動きと平行して、食糧人民管理闘争が高揚した。農民は農産物の強制供出反対闘争を展開し、都市民は米よこせなどの食糧を求める運動を活発化させ、46年4月7日には、幣原内閣打倒人民大会が行われ、4月22日には幣原内閣は退陣した。5月19日の食糧メーデーでは、人民と官憲とが激しく衝突した。
 これらの人民闘争、労働運動の高揚に対して、GHQと政府は徹底弾圧策を強行した。かれらは、生産管理闘争を弾圧、読売争議を鎮圧し、海員4万3000名、国鉄7万5000名の労働者の首切り攻撃に乗り出した。これに対して産別会議は、「斬首反対闘争委員会」を結成して、それぞれストライキを決行して、はねかえした。人民闘争は、吉田内閣打倒、人民政府樹立のスローガンを掲げるまでに高揚した。労働運動では、読売争議の敗北後、1炭労・電産の10月闘争に向かう。電産闘争は、生活保証給を中心とする「電産型賃金」を獲得、後の賃金闘争に大きな影響を与えた。
 吉田内閣は、傾斜生産方式という統制経済に舵を切り、労組を経済復興に協力させる方向に転じた。
 労働運動の闘いは、官公労に中心が移った。官公労は、民間をも引き込んで、「全国労組共闘委員会」(全闘)という共闘組織を生みだし、2・1ゼネストへと上り詰めていく。2・1ゼネストは、占領軍マッカーサーの中止命令と日本共産党による全闘幹部の説得により中止に追い込まれた。その後、労働者は職場離脱に走った。46年秋に経済復興会議が結成され、経営協議会の設置が産別会議を含めて、労組の合意を得ていた。
 48年3月、全逓は3月闘争を展開、47年6月の大会で採択された「理論生計費を基礎とする最低賃金と、これに自由価格を加味した地域的生活給(地域闘争)の二本建賃金要求」(同39頁)を掲げた闘争に打って出た。芦田内閣の賃金抑制と職階制導入政策に対して、全逓は、職場闘争、地域闘争で闘いを挑んだが、敗北する。
 芦田内閣は、「中小企業で続けられていた工場占拠・生産管理闘争への相次ぐ弾圧(2月31日、愛光堂印刷所、4月7日 新橋メトロ映画、4月21日、22日日本タイプ幡ヵ谷 三田)―すなわち生管の非合法化を梃子とする経営権の確立の追求としてあらわれた」(40頁)。この年、マッカーサー書簡に基づく政令201号が公布され、官公労働者のスト権が剥奪された。
生産管理闘争

 この章の担当である嵯峨一郎氏は、生産管理闘争を、「敗戦下の危機と生産管理闘争」とする全体的情況を説明した後、「生産管理闘争の開始」「「生産管理」と「食糧人民管理」」「生産管理と「人民裁判」」「生産管理闘争の高揚と後退」とにわけ、それぞれの特徴を示す具体例をあげながら論じていき、最後に、「革命的政治方針の欠如」としてその過程での前衛党の役割を批判している。生産管理闘争は、当時の食糧闘争において全人民闘争と結びついており、さらに人民裁判を通して権力闘争でもあった。それは、資本家のサボタージュを打ち破るための闘争戦術として始まったが、次第に、労働者自主管理、労働者統制へと高まりつつ、しかし、政府による弾圧、資本の側の反撃に加えて、総同盟と産別会議の対立の激化などによって、後退を余儀なくされる。さらに、経済復興運動への労組の取り込みがはかられ、労働運動の任務を生産復興-生産力増大に置く大河内一男氏らのイデオロギー(後に日本生産性本部結成に結実する)の影響などもあって、経営協議会での労使協議路線もまた広がってくる。その中で、経営権の確立が、経営側から強力に押し進められるようになり、生産管理闘争は困難になっていく。しかし、それは、世界的には、60年代のヨーロッパにおける自主管理闘争やイギリスのショップスチュワード運動などとして高揚する。日本では、全金ペトリなどの中小企業における倒産や偽装倒産に対する闘争戦術として70年代以降においても取り組まれてきた。
 戦後直後の時期の生産管理闘争は、資本家のサボタージュに対抗し、体制が安定しない危機的状況下という特殊な情勢を背景に行われたものであり、それは、嵯峨氏が言うように、ソヴィエト的なものを萌芽としては含んでいたし、革命党であれば、そういう方向を目指して活動すべきだったことは明らかであった。ところが、戦後いち早く産別会議結成を主導して、労働運動で多数派を握り大きな影響力を持つにいたった日本共産党は、野坂帰国後の第4回大会で、フランス共産党が人民戦線戦術に基づくドゴール政府への参加と同時に推進していた経済復興を優先するという労働運動方針と同じ方向に向かった。フランス共産党のかかる労働運動方針は、それにたいする労働組合の反発が強まって、挫折した。日本共産党は、5回大会で武力闘争による民族民主主義革命路線へと転換、コミンフォルムによる批判、所感派と国際派への分裂、両派の妥協による6全協での武力闘争の放棄、平和的手段による民族民主革命路線へとジグザグを繰り返し、混迷・混乱する中で、産別会議の解体、反共産党の民同主導の総評結成などによって、労働運動における影響力を大きく失っていく。
 次に、嵯峨氏の区分に基づいて、生産管理闘争の具体例を要約して見ていこう。
生産管理闘争の具体例

A.第一次読売争議

 生産管理闘争の出発点は、1945年10月25日から50日間の全面的業務管理を行った第一次読売争議であった。鈴木東民ら論説委員、編集局、調査局次長クラスが「民主主義研究会」をつくり、10月19日に、社長の正力松太郎に承認を求めたが、拒否。23日には社員大会が開かれ、一、読売新聞従業員組合の結成と承認、一、社内機構の決定的民主化、一、従業員の人格的尊重と待遇改善、一、自主的消費組合並びに共済組合の結成」の4項目と「我等は戦争責任を明らかにするため読売新聞社員大会の名をもって、社長、副社長以下全役員、ならびに全局長の即時総退陣を要求す」という緊急動議を採択した。翌日、正力は、要求及び緊急動議の拒否と鈴木東民ら指導者5名の解雇通告を行った。これに対して、組合側は、25日からの新聞自主制作を決定し、「大会は鈴木ら5名の最高闘争委員(のちに3名追加)を選出し、また各部ごとに闘争委員会を選ぶことを決定した。この最高闘争委員会もとに、25日には編集委員会が、また26日には工場関係の生産委員会がそれぞれつくられ、かくて「新聞の自主管理」の指導体制ができあがったわけである。同時に、25日には「読売新聞従業員組合」が正式に結成され、鈴木東民が組合長に就任した」(50頁)。
 争議は、マッカーサーによる介入、正力の戦犯追及があって、おおむね組合側の勝利に終わった。この後、生産管理闘争は、急拡大していく。
B.京成電鉄争議

 第一次読売争議の後、11月23日、京成電鉄は、御用組合の結成を指示、それに対して、自主的な労組を結成する動きが起きた。12月5日、主事補の入らない労組の結成大会が開かれ、1、賃金(本給)5倍引上げ―但し現在の諸手当は従前通りのこと、2、団体交渉権の承認、3、配給品帳簿の提出公開、の3点の要求と「戦時中に従業員のための物資を不正に横流しした張本人たちの退陣、敗戦後に配給物資の帳簿を焼却したことに関する釈明」を求めた。12月8日、会社側は要求を拒否、10日から争議に入り、「14日から、組合は戦術を転換し、「経営管理」に入った。すなわち電車を有料で平常運転し、その収入を組合長名儀で銀行に預金し管理したのである。しかも組合は、経営内容を全部おさえてしまうことにより、会社側の言い分のデタラメさをも知りつくしてしまった」(51頁)。22日、組合は、1、経営協議会を設置すべし、重役13人、労働組合代表13人より成る経営協議会を設置し一切の経営を行うべし、2、現重役は即時退陣すべし、新取締役の選任決定には労働組合を参与せしむべし、3、労働時間を短縮すべし、という要求を提出、経営協議会での会社運営の点を除いて、会社側はそれをのんで争議は終結した。
C.日本鋼管鶴見製鉄所争議

 労組結成を準備、1、組合の承認、2、団体交渉権とストライキ権の承認、3、待遇改善(現収入の三倍引上げ、他に家族手当、生活補填手当)、4、会社の一方的首切り反対、五、厚生福利施設の組合監査の5点を12月24日、組合結成大会で、採択した。翌年1月10日の会社側回答は、、組合の承認、スト権・団交権の承認に止まった。組合側は、生産管理を決行する。しかし、「ただ鶴鉄がこれらの前例と決定的に異なっていたのは、《鋼管川崎製鉄所→鶴鉄→鶴見造船所》という一貫生産体制の一環に位置していたことしかも当時鉄鋼は厳しい配給制のもとにおかれていたこと、であった」(57頁)。1月18日の会社側回答が前進をみないものであったので、組合側はすべての生産手段を掌握し、塩・缶詰・軍手などの日常品の配給品の販売、建築用薄鉄板の売却、8時間労働制、職制の排除、などの手段をとった。争議は長期化の様相を呈し、消耗戦となった。そこで、事態を打開するため、組合側は、1月16日の重役会に乗り込み、社長との大衆団交を行った。社長が、組合側要求を認めたため、1月18日に生産管理を解いた。こういうやり方を「人民裁判」と呼んだ。
 生産管理闘争と「人民裁判」の広がりに対して、「2月2日新聞紙上に、内務、厚生、商工、司法大臣による、いわゆる「4相声明」を発表した。すなわち、「近時労働争議に際しては、暴行、脅迫または所有権侵害等の事実も発生を見つつあることは、真に遺憾に堪えない。・・・かかる違法不当なる行動に対しては、政府においても、これを看過することなく断固処断せざるえをえない」」(59頁)。
D.三菱美唄炭坑争議

 炭坑は、三井、三菱、住友の三大財閥がほぼ独占していたが、北海道では、ほぼ9割がこれらの手に握られていた。炭鉱労働者の多くは、東北からの出稼ぎ者や移住者であり、戦時中は、朝鮮人・中国人が大量に投入されていた。敗戦直後の朝鮮人・中国人労働者の暴動をきっかけに、つぎつぎと炭坑に労組が結成されていった。三菱美唄では、11月4日に労組が結成された。11月13日、組合は、1、賃金の10割増、2、坑内外の労働時間を8時間とすること、3、出勤手当てを性別扶養者の有無による区別を廃し、坑内外の二区分にすること、4、物資配給の不正一層のため、会社と組合の合議機関を常設すること、という4点を会社側に要求した。11月20日、会社側は、ほぼ要求を認める回答を出す。ところが、会社側は、鰯の現物支給という形でなされてた出勤手当分を、12月分の給与から差引いた。翌46年1月7日、組合は、1、賃金を政府決定どおり支給し、請負制を廃止すること、2、基準賃金とは別に従前どおり出勤手当を支給すること、3、木村製錬課長の東京転勤には反対であること、その他、有給休暇、公休日の有給制、婦人の生理休暇、産前産後の有給休暇、健康保険料の会社負担の要求、の第二次要求を突きつけた。そして、2月8日より、生産管理に入る。2月17日、所長らとの大衆団交・「人民裁判」を行った。2月19日、会社側は、1、賃金は請負制を廃止して定額制とする、2、将来政府の基準賃金改訂があるまで出勤手当は当分存続する、3、木村課長転勤問題は保留する、4、有給休暇は坑内夫10円、坑外夫5円とする、5、公休日は月3日とする(なおその他の要求項目に関しては大部分が保留ないし会社一任となった)(62頁)という回答を行い、生産管理は解かれた。この「人民裁判」に対して会社側は、暴行・監禁などの刑事事件として告訴し、有罪判決が出された。資本・政府による労働運動・人民闘争への反撃が本格化してきたのである。
E.東洋合成新潟工場争議

 東洋合成新潟工場の労働者は、46年2月20日、労働組合を結成し、「労働組合の承認」「首切り反対」、「工場長、事務局長の排撃」などを決定して闘争に入った。「そして3月12日、会社側の「工場閉鎖」の正式発表にたいし、組合は生産管理をもって闘い工場再開をめざすことを決定、かくて翌3月13日から闘いは、196日間にもおよぶ生産管理に突入することになった」。この生産管理は、江戸川工業の争議との連帯による原料確保や農民組合からの支援もあって、賃金支払いや、労働者の採用、解雇も組合が行うなどの強力なものとなり、会社は、工場再開を決定した。
 46年1月、三菱製紙系の江戸川工業所東京工場では、「工場長および同次長を除く工職員470名(うち職員136名)をもって労働組合を結成、各部から10名につき2名の委員を選出して職場委員会を構成し、さらに職場委員会で互選されあ12名をもって中央委員会を構成した。そして2月11日。「給料の引上げ」「勤労所得税、健康保険料などの全額会社負担」「8時間労働制」「団体協約の締結」など9項目の要求を提出し、15日までに回答を求めた」。これを会社側が拒否したため、3月1日から生産管理に入る。生産管理は、日炭従組や他労組との共闘により、原料その他の融通や在庫の販売などによる資金の確保などにより、当初成功裏に進むが、会社側は、御用組合の育成にのりだし、組合の切り崩しを行い、ついに組合幹部の組合員による交代が行われ、6月3日、生産管理を打ち切り、会社側と妥協することになった。
F.高萩炭坑争議

 高萩炭鉱は、戦時中に発足した従業員2000余名の中規模の炭鉱であるが、社長独裁の色が濃く、給与内規、退職手当の規定、厚生物資の出納などが全く不明確であった。しかも会社倉庫に大量の物資が隠匿されていたことがわかり、高萩炭鉱労働組合連合会(1800名)は倉庫の検査、無能な所長の退陣を要求するとともに、4月5日における大会で「労使2対1による経営協議会の設置」などの要求を決定した。社長(p67)がこれを拒否したことから、組合側は翌6日から生産管理に突入、「最高闘争委員会」(各坑より1名)―「闘争委員会」(各坑より5~6名)―「生産管理委員会」(各職場ごとに任命)という闘争体制を確立した。また組合は倉庫と事務所を占有し、所長の出勤を拒否した」。
 「4月9日、安川長官立会いの下で高萩炭鉱社長、日炭従組代表、高萩炭鉱労組代表による話合いがもたれたが、そこで日炭従組代表が、業務管理をおこない石炭代金を直接高萩労組に支払うことを声明した。ついに4月12日、商工大臣は「生産管理の合法・非合法に関する政府の方針決定までは石炭代金支払に関する解釈は当事者に一任する」と回答、かくて炭代は高萩労組に支払われるようになったのである。/こうなれば会社側も折れざるをえなくなり、連日の労資会議をつうじて、組合側の要求をほとんど承認し6月14日に争議は解決した」(同68頁)。
 「大衆示威行動に警告を発しその翌日には内務省警保局長名で「生産管理弾圧」が全国の警察に指令され、24日には組閣を終えたばかりの吉田首相が外人記者団にたいし「生産管理の合法・非合法を検討中である」と発表したのである。
 そして6月13日、政府は「社会秩序保持に関する政府声明」を発表し、次のように強硬に生産管理を非合法とする態度をうちだした。
 「・・・政府としては、最近起った生産管理なるものは正当な争議行為と認め難い。今日までの事例によれば、国民経済全般の立場から見れば結局各種の好ましくない結果を生じ、これを放任しておくと、遂に企業組織を破壊し国民経済を混乱に陥し入れるようになるおそれがあるものといわねばならない。その上もし暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる。・・・」」
G.東洋時計上尾争議

 46年3月7日、東洋時計上尾工場に労働組合結成が結成された。賃上げ交渉や団体協約締結ののち、6月に同労組は、「全日本機器」に加盟する。10月、上尾従業員組合は、待遇改善をはかる前提として「増産運動」に取組むことを決定、10月20日の上尾従組増産臨時大会において向こう1ヵ月間の予定で「増産運動」を実施することになった。
 ところが、当時の執行部(後に従組を脱退して「再建派」を名のる―総同盟系)は、「会社」あっての労働運動だ」「賃上げよりも増産運動」という基本的考えをもっていたが、それに対して、後の「従組派」―産別系)は、「ダラ幹追放」「即時賃上げ」などを強力に主張した。そして、24日、25日の大会で「従組派」は執行部からほとんどの職長・課長を追放して、平工員中心の新執行部(15名中13名が共産党員)を選出した。上尾従組のヘゲモニーは産別系執行部に握られた。しかし東洋時計の他の工場(本社、小石川、日野、販売など)はほとんど総同盟系で占められていたことから、こんどは上尾従祖が逆に、これら諸工場で構成する「東洋時計労働組合連合会」から除名されることになった。
 上尾従組からの「再建派」108名の脱退、「連合会」からの孤立というなかで、11月2日、従組派は会社側にたいし「脱退者の即時解雇」を要求して激しい「人民裁判」闘争を行う。翌3日には脱退者による「再建同志会」が結成され、上尾工場では、総同盟対産別会議が対立した。5月。上尾駅の通称上寺で「再建派」が協議していたところを、「従組派」および支援労働者1300名が襲って工場グランドにひきずりだし「人民裁判」にかけるという、実力対決となった(上尾事件)。
 会社側はこの上寺事件を理由に、上尾従組幹部約30名の解雇を決定、これにたいし従組は直ちに11月25日から生産管理で対抗した。その間、上尾従組派660名は18日間にわたって置時計7220個を製造し、全日本機器埼玉支部、電産本部、産別本部、海員組合などに販売した。
 12月12日、「再建派」は、コン棒、鉄棒、ハンマー、バットなど武装した「連合会」傘下各工場従業員、総同盟系組合員および会社が雇った土建業者80名の約1000名をもって上尾工場の奪還に乗り出し、しばらくにらみ合った後、13日早朝から「従組派」のたてこもる工場への攻撃を開始した。そして、午前中のうちに「従組派」は工場からたたきだされた。しかし、「従組派」は、全日本機器埼玉支部所属の富士産業、ライト自動車、石原金属、沖電気、東邦自動車、日本信号などからの支援労働者約1000名をもって、再奪還の行動に出た。双方2000名が入り乱れて、大乱闘を展開した。「そしてこの時、「従組派」支援の富士産業の1労働者が頭を殴打されて死亡した。重軽傷者は双方あわせて200名、このかん警戒にあたていた警官隊200名は、ただ手をこまねいて見ている他になかった。上尾工場は、「再建派」の手にわたり、これにたいし「従組派」は寮にたてこもって態勢の維持をはかったが、しだいに勢力が衰え、復職した者は47年6月15日現在で200名たらずとなった」(70~71頁)。
H.その他

46年1月には、日立精機足立工場、関東配電(1万8000名)、関東配電群馬業管、沖電気、九州猪之鼻炭鉱、日本製靴。2月には、九州大正鉱業中鶴炭鉱、古河電気工業(2500名)、オリエンタル写真。3月には、京都第二赤十字病院、東京光学、九州宝珠山炭鉱、東宝、北海道雄別茂尻、東芝車輌。4月には、帝国石油大森合金所、常磐高萩炭鉱、東京の日本競馬挽吏、小西六写真工業、日東美唄炭鉱。5月には、東北配電、日本ビクター、西羊毛工場、等々の生産管理闘争が行われた。
生産管理闘争の教訓と今日の課題

 嵯峨氏は、『赤旗』再刊第一号(45年10月20日)に載った「闘争の新しい方針について」という論文45年12月1日の日本共産党第4回大会で決定された「行動綱領」から、野坂参三帰国後の46年2月25日の日本共産党第5回大会で、ブルジョア民主主義革命路線を明確に打ち出して、方針転換したことを、「日本共産党は、当初はまがりなりにもあった「生産管理」と「食糧人民管理」を結びつけて「人民革命」を実現するという方向から、全面的に後退して現に起きている広汎な闘争を「ブルジョア民主主義革命」の枠内にとじこめる方向へと転じたのであった。だから生産管理闘争は、争議中における「生産の増大」という面からのみ評価され、やがては「産業復興運動」へとのめりこむことになった。「経営協議会」といい「産業復興運動」といい、激動のさなかにおけるこうした方針の消極性は、事実上、無方針と、現に起きている闘争のたんなる追認しか意味しない。そしてそれは、支配階級にたいし反撃のための時間稼ぎを保障してやっているだけだったのである。/生産管理闘争を戦略的展望のなかに明確に位置づけることのできなかった共産党は、46年後半から、むしろ「ゼネスト体制」を推進するようになるが、それが階級情勢の転換を追いかける形でのたんなる「戦術的」対応にすぎなかったことは、もはやいうまでもない」(p76)として、前衛党の路線問題を指摘している。
 さらに、嵯峨氏は、鶴見製鉄所争議において、以下のような組織体制が組まれていたことを指摘し、二重権力状態が作られていたという。
          執行委員長―ブレントラスト6名
          /    \
       管理委員会  常任執行委員会
         |       |
      工場委員会   執行委員会(70名)
        |
      職場委員会

 嵯峨氏によれば、「工場委員会は各部門の専門家である係長・役付工員で組織され、また6名のブレーントラストは、執行委員会および管理委員会から選出されたものであり、これが全体にたいする事実上の指導部と思われる」(同73~4頁)。そして、「こうしたピラミッド型の組織体制は、むろん鶴鉄のみの特徴ではなく、争議に突入した組合はすべて、一般組合員の自発性に依拠しつつ、権限を協力に集中した執行体制―いわば臨戦体制を築きあげたのである」(同74頁)として、これがプロレタリア独裁権力的性格を持っていたという点を指摘している。
 これがグラムシの工場評議会運動を下敷きにしているのは明らかであるが、この運動の高揚と敗北の歴史を振り返れば、職場・生産点における二重権力の創出は、同時に地域ソヴェト権力、そして全国的な二重権力の創出過程における前衛党の指導・戦術・組織を必要としていることは明らかである。共産主義を掲げる前衛であれば、これらを、権力闘争の一形態である蜂起にまで発展させる「計画としての戦術」を必要とする。それは、ブルジョア民主主義革命が当面する任務であったとしてもそうである。ロシアの1905年革命において、ブルジョア民主主義革命を遂行する臨時革命政府は、独裁的権力行使によって、旧勢力や旧弊・旧制度を粉砕しなければならなかった。しかし、ロシアの自由主義的ブルジョアジーは、君主制や旧勢力と妥協した。それによって、労農大衆の零落は強まり、深まり、そして1917年の二次の革命に結果することになるのである。日本の戦後革命期、占領政策に、いわゆる「ニューディール派」の民主的官僚の影響が強かったことや戦時体制の擬制的平等主義の幻想にも導かれた平等主義的大衆意識が広範に存在したことや冷戦のために占領政策が変更され、経済復興を早めようというアメリカの経済支援があったこともあって進歩党・協同党・民主党などの自由主義的ブルジョアジーが階級協調的であった。講座派的にロシアとの共通性を日本に見ていた日本共産党は、こうした現実に対応できず、右往左往して、戦後革命を社会主義革命へと発展させられなかった。その後、戦後復興をとげ、高度経済成長を経て、先進ブルジョア国家として発達した日本資本主義の革命の追求は、ブントなどの新左翼によって進められることになるのである。社共が社会主義革命を投げ捨てていることは今や誰の目にも明らかである。
 それに対して、敗戦直後の日本の多くのブルジョアジーは、生産サボタージュ、占領軍の権力を頼っての経済復興運動の組織化、生産管理闘争において示された労働者の生産のイニシアティブ・経営権の奪還、等々、国家権力と占領権力を背景にした労働運動への弾圧と総同盟などの労組を取り込んでの経済復興・生産増強運動を展開する。それに対して、日本共産党は、人民戦線戦術による経済復興会議への参加、2・1スト中止への産別会議説得などに示されたように、ブルジョアジーの復興に事実上手を貸したのである。生産管理闘争についても、フランス共産党が、人民戦線戦術にもとづいてドゴール政権に参加し、生産管理闘争を、生産復興運動の一手段として、ブルジョアジーの経済復興に協力したのと同様に、生産サボタージュに対抗する闘争手段にすぎなくされるのである。日本共産党は、4回大会路線で、生産管理闘争は、二重権力という嵯峨氏の言葉にあるように、権力闘争としてあったのに、それをあいまいにし、誤魔化したのである。
 生産管理闘争を労働組合の在り方として見てみると、職場単位、工場・職場単位の団結、従業員労組、今で言う企業別労組という形態が基礎になっていることがわかる。企業別組合という形態の原型が、戦時労働政策にあったことは、いくつかの研究に示されている。工員・職員一体の従業員・会社員という概念や終身雇用の慣行も、戦時期に政府から指導され推進され作られたものである。それが、戦後、工・職一体で職場・事業所・企業単位で労組が作られるもとになった。それが企業連たる日本型の単組→労組連という形の労組構造の元になった。それは一方では、同盟系の労使一体、労使協調の企業別組合を生みだしたが、他方では、企業・工場・職場単位の生産管理闘争を生み出す元にもなったわけである。それは、当時の総同盟や産別会議の幹部にも本来的な姿ではないと認識されていたもので、自然発生的に成立したのである。かれらは、産別労組を掲げ、目指したし、それが本来の労組の在り方と考えており、今でも、共産党系全労連や「連合」は、産別組合を目指している。欧米型の労働運動では、産別労組と別に従業員団体がある。産別労組の支部が職場・企業に置かれているが、それは複数あって、それと従業員団体は任務を異にする。上のアメリカのUAW(全米自動車労組)も産別組合であって、上記のように、従業員はストライキで要求を一定獲得すれば、さっさと会社を辞めてしまう。日本の場合、正社員層は、企業に強く結びついており、賃上げや労働条件の改善よりも、雇用を重視する。「連合」は、賃上げよりも雇用を確保しようとしているのはそういうことである。しかし、この間、この層は減少してきており、非正規雇用者が増えている。企業への帰属意識が薄いこうした労働者層の増大は、産別労組や地域労組などの形態への労働者の組織化の一般的条件が拡大していると言えよう。
 それに対して、ブルジョアジーは、もはやこれといった手をうつこともないし、できないでいる。今やブルジョアジーの間では、嘘や誤魔化しや卑劣やモラル崩壊などが蔓延し、目の前の利益ばかりを追い、それに目を奪われ夢中となって、ブルジョアジーは、支配階級としての責任感やモラルなどのヘゲモニー的要素を大きく失いつつある。たんに私益を求めるだけなら、公的支配階級としての性質を喪失する。それは、ブルジョア社会の外皮が剥ぎ取られつつあることを示している。ブルジョアジーは、社会の公的な代表たる資格を捨て去りつつある。プロレタリアートが、次の社会の代表としてかれらにとって代る根拠が増大しているのである。プロレタリアートが、生産・消費・流通を組織し、社会を再建し、新たな支配階級として、ヘゲモニーを行使する必要があるのである。その準備を急がなければならないのだ。短い経験ではあったが、戦後の生産管理闘争は、ブルジョアジーなしで生産や経営が可能であることを実際に示した。その後の企業別組合の労使協調の経験は、所有権=株主に対して、経営権が一定自立する形を創り出した。それに対して、新自由主義は、所有権=株主の復権をはかったのだが、その結末は、ハゲタカ・ファンドの跋扈やサブプライム・ローン破綻などによって、資本主義の大危機に帰着した。それに対して、佐伯氏のような国権的管理強化を主張する国民経済派が台頭してきている。
 労働運動の領域において、私有権を擁護する暴力=国家権力というテーマにぶつかりつつあるわけである。それは、言うまでもなく、この領域において、党・前衛の建設とその綱領・戦術・組織の在り方が問われていることを意味している。この間のワーキングプアや非正規労働問題をめぐる社会的政治的な暴露が、共産党の勢力復活に一定帰着し、あるいはマルクス・ブームやプロレタリア文学の『蟹工船』ブームなどを若い人々に拡げていったことにもそのことが示されている。
 生きるため、自らの尊厳のため、闘わざるを得ず、また闘おうと思想的に自主的・自然発生的に準備を始めている人々の声に応え、その欲求を実現するために、その根底にある賃金奴隷制の廃止を実現するプロレタリア革命まで導いていく共産主義党を建設していかなければならない。われわれは、その条件と針路を解明していかなければならない。
 そして、現在の共産主義運動に、権力闘争の一環として、あらゆる大衆の自然発生性のあらゆる現れを指導し、発展させることが求められているのは言うまでもない。とりわけ、労働運動領域における権力闘争、二重権力、生産管理、工場・職場委員会運動、工場評議会運動、地区ソヴェト運動、コミューン運動、などの試みを発展させなければならない。その際に、労働組合運動は、「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとせず、その組織された力を終局的解放すなわち賃金制度の最終的な廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に敗北する」(マルクス『賃金、価格、利潤』国民文庫89頁)ということを忘れてはならない。戦後生産管理闘争の敗北と日本共産党・産別会議の生産管理闘争をめぐってのぐらつきは、そのことを示している。どのような自然発生的な労働者大衆の闘いの現われであれ、賃金奴隷制の廃止という終極目標を忘れるならば、「全面的な敗北」をまぬがれない。GMのストライキのように、労働条件をめぐる条件闘争なら、その敗北も勝利も部分的なものであるが、いずれにせよ賃金奴隷状態から労働者を解放することはない。労働者は依然として資本の奴隷であって、資本=主人・資本の権力に従属していることに変わりはない。生産管理は、個別職場・企業における資本の指揮・監督・命令する権力をなくすことはできるが、その進展は、この力を支えている国家権力と衝突する。この公的暴力を廃止して、プロレタリアートの権力を創設し、このようなプロレタリア解放の障碍を取り除かないと、賃金奴隷制の廃止という終極目標に向かって前進することはできない。共産主義運動が、ブルジョア国家の廃絶とプロ独の実現を目指すのは、そのためである。生産管理闘争は、労働者がその力を持っていることを示している。労働者の生存を脅かすにいたった資本主義を一掃し、共産主義と労働運動を結びつけ、プロレタリアートの終局的解放に向けた革命的闘争を発展させる必要がある。 その仕事を推進する共産主義者の党を建設しなければならない。われわれ「火花」は、そのことを94年の党大会において採択された綱領と戦術・組織総括において示した指針と基準に従って追求してきた。もちろん、それは発展させられねばならないものであり、新たな時代・条件の下で、新たな内容を獲得すべきものである。われわれは、共産主義者や先進的活動家やプロレタリア大衆との討論や学習や協議や共同行動を行い、その中で、自らを鍛え、共産主義運動の一翼としての積極的に責任を果たし、根本的な革命運動の前進に貢献していきたい。
 賃金奴隷制の廃止!、プロレタリアートの政治的自由の発展! 共産主義と労働運動の結合! プロレタリア権力の樹立! プロレタリア国際主義の発展! 共産主義者の党建設を!・・・
 

第5パラグラフの検討を巡っての 杉本の意見==商品語批判の不明性

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 6月 3日(土)13時40分38秒
返信・引用 編集済
  久留間理論を、私は、むしろ堺のこの「資本論を読む会」からこそ学んできた。
今日、価値形態論の正当ーー常識的解釈となっているのは、この久留間理論だが、
マルクス経済学を、大学で学んでもいないこの私めの良き教師の役立ちをしてきたのは、
むしろ、この堺の研究会の教示であった。ここに御礼申し上げておきます。


http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/d160f0ddaab074d94556e551f75443dd
第16回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
◎第5パラグラフの検討
《イ)たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリ
  ンネルに潜んでいる労働に等置される。
ロ)ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労
 働である。
ハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という
 両方に共通な性格に、実際に還元する。
ニ)このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別さ
 れる特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。
ホ)異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共
 通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである
 (17a)。》

 まずイ)について、
第2パラグラフで見たように、20エレのリンネル=1着の上着という等式の基礎には、
リンネル=上着 があったように、ここでは リンネル=上着の基礎には、
リンネルに潜んでいる労働=上着に潜んでいる労働の関係(リンネルに潜んでいる労働に対する上着に潜ん
でいる労働の等置関係)がなりたつことが指摘されています。

そして第3パラグラフでは、 リンネル=上着 の同等性の関係とは価値関係であることが指摘され、
リンネルの価値が価値物である上着によって表現されていることが示されたのでした。
ここでは類似した関係がその基礎にある労働に関して考察されていると言えます。

 しかし注意が必要なのは、《上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって》と述べられて
いることです。だから第3パラグラフを前提にした考察だということです。

第3パラグラフでは、リンネルに等置された上着は価値物として通用しなければならないことが指摘された
のですが、ではそもそも〈「価値物」として通用する〉とは、どういうことなのかが、今度は、価値の実体
に遡って問題にされ、解明されているのです。

 ロ)では、その考察の前提として、《たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働と
は種類の異なる具体的労働である》ことが確認されています。これは上着とリンネルとは種類の異なる使用
価値であり、よってそれらの使用価値をつくるために支出された具体的な有用労働も種類の異なるものだと
いうことです。
次にハ)では
   《織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、
   人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する》
と言われています。
ここで注意が必要なのは、第4パラグラフのところでも指摘しましたが、同じ「還元」でも、ここで述べら
れていることは、第1章で労働の具体的な諸属性が捨象されたのとは異なる「還元」だということです。

というのは、上着が「価値物」として等置されているからです。
「上着が価値物として通用する」ということは、
前回(第15回)の第3パラグラフの考察でも紹介しましたが、
《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,
あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》
(「補足と改訂)ということです。

   <杉本 註 価値の存在形態・価値物上着が、その規定のままに通用しない・・
   からこそ次の規定を受け取るのに、そこへの注意がないのです。>
   <人間的労働から成っている物として通用する,>
   <その肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する>

あるいは初版本文では
 <第⑤段落を引用
  「20エレのリネン=一着の上着または「x量のリネンはy量の上着に値する」という>
《相対的価値表現においては、
上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、
まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、
上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである。(18a)
使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、
リンネルが、抽象的な、人間的な、労働の、
つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、
直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。
上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・
手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、
認められている》(江夏訳37頁)
とも述べられています。


   <杉本ーー初版での、
   「上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められている」ーーそして
   「人間労働からなっているものとして通用する」とは、次のことを指すのです。>
   <「労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結してい
    るところの形態」ーーとは?
   ①労働凝固体であるではなく、労働凝結物として認められた反省規定されたーーで
   あり、
   ②リンネルとの物象的関係である価値関係によってーー反省規定された、ものであ
   るのだから、
   ここに、再度強調・上着は価値であり、価値形態ーーという規定を受け取ったので
   す。註18aに示されている 価値鏡 の提起を最大の注意点を、返り見ていない!

   <対象としての上着はーーしたがって現物形態においての価値として認められる>
   ・・ことが、その次に書かれているマルクスの批判点、であることを見ていない。
   「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質をもつのだから、実物形態の上着
   はリネン自身の価値の現象形態になる。」(初版 今村訳P288)
   ーーと、ここにはっきりと・明瞭に、リンネルとの上着の本質関係と示されたので
   は、諸物象の社会関係では無く、その本質的関係に転倒したーー人間労働の物的関
   係が現象しているーーとの批判なのです。
   だから、
   <対象としての上着はーしたがって現物形態においての価値として、認められる>
   ーーと示したこの意味は、等価物上着は、直接的に価値として認められる、転倒ー
   ーをこそ示している、と批判したのです。
   初版での価値上着への転倒への批判を表す、この註18aによる註18でのリンネル
   の上着価値ーーという主張での批判の核心点の追求を、堺の御仁は全く見ていない
   のです。しかし、再版では、第六・七段落にてそのことが述べられた。


 つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、
裁縫労働の具体的な諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元するということではなくて、
裁縫労働という特定の具体的な労働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態としてあること、
すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の形態として意義をもっていることなのです。
ヘーゲルチックに言い換えるならば、人間労働一般が、裁縫労働という具体的労働を通じて、
直接的なものとして現われているということでもあります。
あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、
裁縫労働が、人間労働一般を代表するものとして通用しているということなのです。
リンネルにとっては、裁縫労働は、自分自身に対象化されているのと同質の人間労働一般を代表する
ものとして通用しているわけです。

   <杉本 上記のように、「裁縫労働が人間労働一般を代表する」ーー
   であれば、等価形態の第二の独自性としての具体的労働が抽象的人間労働の実現形態
   ーーをしか意味してこない。再度、その誤解を強調ーー等価形態しか対象にできず、
   相対的価値形態の成立はすでに前提されており、視野外に置くとの表明なのです。
   しかし、再版ーー冒頭五段落は 、ーー
   「上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。
   ところで、たしかに、上着を作る裁縫はリンネルをつくる織布とは種類の違った具体
   的労働である。
   しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上両方の労働のうちの現実に等しいものに、
   人間労働という両方に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に還元するの
   である。」(原P65)ーーと述べられていた。

   この再版での記述は、このように比較してみると、マルクスは初版での次の本質の現
   象形態への<転倒>に対する批判・留意をこそ、追求し述べていたーーことが理解で
   きる!

   「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質をもつのだから、実物形態の上着は
   リネン自身の価値の現象形態になる。」(初版 今村訳P288)

   このように、本質の現象形態ーーとは?本質の表現であり、本質の人間労働であり、
   本質としての価値の表現ーーという転倒した思考を示す形式であり、相対的価値形態
   の形成には、この転倒した表現様式も同時に存在していると述べて、そのことをこそ
   批判しているのです。堺の先生は、このように、再版第五段落にて、物象の関係の本
   質的関係への転倒への批判こそがあることを、見抜けないーーこれこそが、物象の判
   断を否定する物的関係の思考ーーのままなのです。
   そのことが、後の第⑨段落提示の商品語批判ーーにて、次のように、
   <価値関係が「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れる」ー商品語での語り>
   と批判されたことを、皆目理解できないのです。

 またリンネルにとっては、裁縫労働という具体的属性はそうした役割しか意味がない、ともマルクスは述
べています。
       <杉本ー初版⑥段落ーー等価形態ーーが次に引用されている>
 《リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具
体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。……上着は、リンネルにとっては、リンネ
ルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。
……だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動ある
いは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態
すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表
現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直
接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは
等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれてい
る、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係す
る、ということに依拠しているものでしかない》(初版本文、同上38頁)

 もちろん、この初版本文では、この第5パラグラフ以降で展開されることが先走って述べられている部分
もあるのですが、重要なのは、《実際に還元する》ということが、第1章で述べられていた「還元」とは異
なる点を理解することです。

   <杉本 《実際に還元する》とは?
   「上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、」ーー
   ーーハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しい
   ものに、人間労働という 両方に共通な性格に、実際に還元する。ーー
   ーーとあるのだから、上着は価値ではなく、上着は価値物としてリンネルに等置ーー
   されていたのですから、具体的労働である裁縫労働が表示される使用価値上着が、勿
   論リンネルに等置されることはできないです。
   展開された相対的価値形態では、上着はリンネルの価値鏡になることで、価値形態で
   あり、価値であることを示している。しかし、第一の相対的価値形態の形成でのーー
   価値物上着の規定のもとにリンネルに等置された上着が、この「価値鏡」の役立ちを
   なすためには、明らかにこの規定から、この次の<上着は価値>の規定であり、価値
   形態の規定を受け取る、事へとの論理の進展が必要なのです。
   だから使用価値上着・具体的労働である裁縫労働の物的表現にてもつ関係=物的関係
   ーーでなく物象的関係の明示にこそ、物象の社会関係にてこそ、その<上着は価値>
   との判断がなされることを、次に示したのです。
   「リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルと等しい物、同じ性質のものとして認
   められるのは、上着が価値であるからである。」(七段落)ーーと物象の判断です。
   しかしここは五段落ですから、未だこの両者の共通者は、表示されていないのです。


 次は、ニ)の《このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労
働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである》の
部分です。

 先のハ)で、織布労働との等置は、裁縫労働そのものを両者に共通な、抽象的人間労働の直接的な実現形
態にすることが指摘されたのですが、そのことによって、リンネルの価値を形成する抽象的人間労働が、抽
象的人間労働の対象様式である裁縫労働という具体的労働によって目に見える形で表されているということ
です。つまり上着に表れている裁縫労働こそが、本来は目に見えない「思考産物」(初版本文)であるリン
ネルの価値を形成する抽象的人間労働の具体的な実現形態であり、それによって、目に見える形で表されて
いるものだというのです。

 ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。リンネルは価値としては抽象的人間労働の凝固
ですが、しかしそれはリンネルそのものを見るだけでは分かりません。しかしリンネルは、直接には出来な
いことを、間接的には、すなわち「回り道を通って」なら出来るということです。
   <杉本ーー再版では、「回り道を通って」ーーもできないのです。>
リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって
回り道をして自分自身にたいして、行なうことができる》(初版本文前掲39頁)のです。

すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接
的な実現形態にし、そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわちそれが抽象的人間労働であ
ることを、それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るということで
す。ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なものが、抽象的人間労働という抽象的一般的なものの特定の
実現形態として意義をもっているのです。

   <杉本ーー上記の意味はなにか?
    ①上着を価値物として等置することによって、
    ②上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、
    ③そのことによって、自らの価値を形成する労働を、
     すなわちそれが抽象的人間労働であることを、
    ④それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来る
    ーーこれは、先生どうしたことか、②③④の意味は同一ですから全くの論理破綻です。

    次の示す課題として、この⑤段落がある事を忘れている。
    ここでの目的とする課題は、上着が価値物の規定から、「上着は価値」の規定ヘと物
    象の判断の成立にての価値上着との両者の概念的区別にこそ、人間様ではない物象の
    判断を示す独自性があるからです。ところが、彼は商品語を批判しない。>

 またここでは《語られるのである》とも述べています。一体、誰が語るのでしょうか? これは少し先走
りますが、第10パラグラフで、《上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのこ
とを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》(全集版71頁)
と書かれています。

   <第一節 商品の二つの要因  第二節 商品に表される労働の二重性のことを指すの
   ではない。第三節での、第一段落から、第八段落と、第九段落の途中までです。
   九段落で述べられた、価値関係が「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れる」
   ーー商品語での語りーーのことを、商品語批判をしないと、同等性関係へと転倒する、
   と述べているのです。
   堺の先生は、宇野先生・久留間先生と同じく商品語批判をしないのです。>

ここで《商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのこと》というのは、われわれが第1章で商品
の価値を分析して明らかにされたことを意味します。その商品価値の分析で明らかになったことを、リンネ
ルが上着との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですから、やはり上記の《語られるのであ
る》も、リンネル自身が語っているものとして理解すべきでしょう。

 次は最後のホ)《異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実
際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表す
のである》ですが、これはこれまで述べてきたことをより一般的に言い換えて、繰り返していると言えま
す。ここでも《実際に……還元する》ということが出てきますが、すでに述べたような意味として理解する
必要があります。

    <杉本 一平
    以上 英明な堺の諸先生の教示に習ってきたおかげで、ここまでの意見もできました。
    御礼申し上げておきます。>
 

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