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治定外陵墓

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 9月 7日(木)23時27分41秒
  こんにちは。
残暑も和らぎ、過ごしやすい季節になっております。

さて先日、京都の二尊院に参拝し、
2007年5月16日の照山もみじ様のご投稿を参考に、治定外陵墓を見て回りました。

その際、
> 【後水尾天皇皇女賀子内親王・二條光平正室墓】
> 深信解院内親王尊儀      (宝篋印塔)
> 元禄九丙子年八月二日

だけが、どうしても見つけることができませんでした。
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。

また、「新撰陵墓誌」の大阪府の一覧に、
> [清寧天皇殯斂地]
> 柏原市平野字坂門原 平野山観音堂上 坂戸荒陵(詳細不明)

とありますが、この「平野山観音堂」とは、
具体的にどこを指しているのか、
もし詳しい情報がありましたら、あわせて教えていただけるとありがたいです。

質問ばかりですみません。
最近は、こちらの情報を頼りに、
関西地方の治定外陵墓を訪ね歩いております。
なかなか一人で調べるのにも限界がありますので、
新撰陵墓誌の一覧やこちらの掲示板の情報は非常に重宝しております。
 

喜入

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年 7月 2日(日)02時11分21秒
  早いもので今年も半分が経過し7月になってしまいましたが、変な宗教に入っていませんか。

ただ今、ツール・ド・フランスの第1ステージを見ておりますが、いよいよ今年も猛暑の始まりという感じです。


4月は10日間山口に、5月は16日間福岡まで調査に行っておりましたが、残念ながら陵墓や伝承地も色々考えていたのですが、結局は都紀女加王墓ぐらいしか参拝することができませんでした。

最良のニュースは、毎月確認に行っていた多磨霊園の徳大寺公爵家の墓所に先週行くと、何と無縁警告書が剥がされていたので、どうやら廃棄処分は免れた感じで一安心です。
その後、石田寺の土方さんの墓所を廻りつつ70kほどのお散歩ツーリングでした。

昨年かヤフーニュースで京都梅林寺の土御門家墓の維持に関する報告がありましたが、公卿墓所の正確な記録を迅速にすすめないと、いつ廃棄されても不思議ではない墓所が多く待った無しの状況であることを改めて実感しています。
関西在住の方で、特に関心のある方にはお願いしたいところです。


実は、昨秋、30年ほど親しくさせていただいていた織田長功様が死去されました。
織田さまは、右大臣織田信長公の弟有楽斎長益公の5男、織田尚長公を藩祖とする大和柳本藩織田子爵家の17代当主になられます。
また、御母堂様は肥前蓮池藩鍋島子爵家より、御祖母様は久邇宮朝彦親王の王女であることから陛下とは、ハトコの関係になられます。
このような華麗なる家系であるにもかかわらず、とても気さくな方であっただけに残念でなりません。

最後に、以爲様のゴウボ坂陵参地の報告は、大変に参考になりました。
 

檜塚古墳 見学会

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 4月16日(日)07時21分44秒
編集済
  檜塚古墳 見学会もそうですが

百舌鳥耳原南陵飛び地 い号 経堂の様子の変化に おどろきです

1.見学会説明解説
2.い号 現在の様子
3.檜塚古墳 説明板



http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/osaka/013.htm

 

檜塚古墳

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 4月15日(土)14時49分39秒
編集済
  こんにちは。

fukuyama様ご紹介の見学に行ってきました。

先着30名、1回の見学予定でしたが、
受付開始前からすでに希望者が来られていたようで、
12時半からも見学をおこなうことになり、
それぞれ定員が60名に増えました。

私は11時の回で見学しましたが、
クボタの方の先導で工場内に入り、市の職員さんの解説がありました。

周囲はきれいに整備され、
やはり世界遺産を目指すからなのか、と思いました。

工場内にはほかに古墳がないか聞いたのですが、
過去にも現在も「ない」と断言されてしまいました。

途中にわか雨があり、雨宿りついでに工場建物内まで見学させてもらえました。

こちらの皆さんもご参加された方もいらしたかもしれませんね。

追記:以為様、ご教示ありがとうございます。早速、文献を確認しました。
 

古墳見学

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 4月15日(土)10時30分49秒
編集済
  https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1617512324955782&substory_index=0&id=1192422330798119&__tn__=%2As


クボタの感謝DAYの中で 檜塚古墳見学が 有るようです

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1617512324955782&substory_index=0&id=1192422330798119&__tn__=%2As

 

川上村史

 投稿者:以為  投稿日:2017年 3月18日(土)14時16分58秒
編集済
  ごぶさたしております。以為です。

先日大阪市立図書館で興味深い書籍に遭遇しました。

「川上村史」

現在奈良県にある川上村ではなくて、昭和29年3月まで存在した大阪府南河内郡川上村の村史です。
出版年月日が昭和29年3月なので、河内長野市に合併されるのを機にその歴史を残すため編纂されたのでしょうか?

当時の川上村には、皆様ご存知の観心寺というお寺があり、観心寺と聞けば、後村上天皇陵ですね。

更に陵墓参考地も、檜尾塚陵墓参考地、コウボ坂陵墓参考地と2か所あります。

川上村史の中に、この2つの陵墓参考地につき興味深い記事がありましたので、ご紹介致します。

<檜尾塚陵墓参考地>

昭和五年頃書類整理の際発見せられた観心寺過去帳の中に、長慶天皇の御髪塔は観心寺山内にありとあって、その有力な候補地としてここがあげられた。

寺所蔵書に長慶上皇が吉野の幽居を出られてからしばらく観心寺に滞在されたことが記されていること。

観心寺僧賢俊の手控帳に長慶上皇の御製二首あり。

不動院院主の一山目録覚帳に南朝長慶院御念仏不動明王とあり。

以上の伝説と参考文献から御髪を葬られた古墳であると確定せられ、御陵墓参考地として保存せられるようになった。

ということで、川上村史では、昨今云われている新待賢門院藤原廉子を充てておりません。

拝所奥に見える宝篋印塔についても書かれており、「高さ三尺位で底辺の一辺約一尺五寸、連辨の彫刻ある台石の上にある。

形は完全で形式は室町時代前のものである。」とあります。宝篋印塔の絵も挿入されております。

いわゆる陵墓地形図集成に描かれております彊界標一号から十二号は、昭和10年5月16日隣地主立会彊界査定並びに界標建設とあります。

<コウボ坂陵墓参考地>

コウボ坂とは、コウボ阪で、弘法阪といい、弘法大師が観心寺を再興せられた時、度々と往来せられたのでこの名があると考えられていた。(略)昔から観心寺には新待賢門院のご遺体が、火葬にせられて山内にご埋葬申しあけたという寺伝があり、寺主と寺の相談役が研究せられた結果、此処が新待賢門院の御遺骸を葬り奉ったところであることが明らかとなった。

従ってこの墓地への阪道は、元は皇母阪と呼ばれていたが、何時の間にか弘法阪と誤り伝えられた。とあります。

いわゆる陵墓地形図集成に描かれております彊界標一号から七号は、檜尾塚陵墓参考地と同じく、昭和10年5月16日隣地主立会彊界査定並びに界標建設とあります。

川上村史では、「確定せられ」とか「明らかになった」等の断定的表現を用いておりますが、まとめますと、檜尾塚陵墓参考地=長慶天皇髪塔、コウボ坂陵墓参考地=廉子皇母阪陵という見立てであったようです。(陵墓名は私の勝手な推察ですが…)

私自身多少読み込み不足のところもありますので、詳細は「川上村史」をご一読いただければと思います。


***** 柏原山陵について *****

DADA様ご指摘の柏原山陵と柏原陵についての件ですが、大正十四年七月二十日発行の山陵(上野竹次郎著)上巻130頁に改葬の件に触れた部分が少しあります。が、具体的な場所までは示されていないようです。改葬の出処は類聚国史のようですね。
 

(無題)

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 3月11日(土)18時26分56秒
編集済
  こんにちは。

先日、京都市内を訪問しました。
こちらの掲示板の過去ログをもとにして治定外墓を見て回りました。

西王寺で霊元天皇皇女憲子内親王の墓を参拝しましたが、
その際、向かいに後水尾天皇皇女常子内親王の墓、
近くに円台院(泰宮薫子女王)のあるのを確認しました。

ほかにも、以下の陵墓を参拝いたしました。
岩倉の古市胤子墓(周りの雑草などは片づけられ、手入れされておりました)
小町寺の小野皇太后供養塔
茶山の談合之森稲荷神社
華山寺の花山天皇髪塔
 (庭にあった塔だと思われます。直接拝観できませんでしたが、一般墓地から見えました)
三宝寺門跡「御墓惣塔」(以前と変化ないようですが、付近の尾根は少し整備されていたようです)

すでに皆さまご存知かと思いますが、ご報告まで。
 

大入杵命墓 おおいりきのみことのはか

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 2月26日(日)14時22分39秒
  その番組は見ていないのですが

崇神天皇皇子 大入杵命墓 おおいりきのみことのはか

と思われます
 

ちょっと気になったので質問

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月25日(土)18時10分30秒
  テレビ朝日の「人生の楽園」を見ていて最初のワンシーンに御陵らしいのが写ってました。
場所は石川県中能登
誰の御陵でしょうか?
天皇 皇后 皇子の名前は読み辛いのが多いので読み方を解れば教えてください
 

明治天皇伏見桃山陵

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 1月 3日(火)20時42分15秒
  今年 正月三ヶ日特別拝所参拝
明治天皇伏見桃山陵に参拝した時の写真です
 

中名

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年11月28日(月)00時57分36秒
編集済
  早いもので今年も1ヶ月弱となりましたが、変な宗教に入っていませんか?


10月23日から16日間、鹿児島・宮崎調査に、先週は下関・唐津・柳川まで温泉旅行に行ってきましたが、それにしても本当に九州は暖かい。

鹿児島・宮崎調査では、可愛山陵と中陵ほか、西都原古墳の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳、鵜戸神宮の鵜戸陵参地を予定していましたが、結局、西都原古墳しか行くことができませんでした。

11月4日、佐土原で大光寺の島津家墓所を調査後、西都原古墳へ行くと、男狭穂塚陵参地の制札屋形前で知らないおじさんが「明後日は中に入れるよ」と教えてくれました。

幸い、明後日の6日に高月院の島津家墓所の調査がお昼すぎに終了したので再度、西都原古墳へ行くと、おじさんの言っていた通り男狭穂塚古墳の参道が公開されていました。

当日、11月6日は西都市の古墳祭りのイベントによるようでしたが、参道を30mほど直進し、右折し20mほどまでの参道部分だけの公開でした。

ただ、参道の入口から3~4ヶ所位に市の職員がおり、参道から出て古墳まで行かないよう見張っており、更に入口には写真撮影禁止の看板がありました。

最奥には、宮内庁委託?のおじさんがガイドをしていましたが、写真禁止は宮内庁からのお達しとのことでしたので、今一つ納得のいかない参拝になりました。

男狭穂塚古墳の入口には、陵参地ではあるものの制札屋形があり男狭穂塚と女狭穂塚の記名がありますが、100mほど離れた別域には、単独で女狭穂塚の五角形の制札も立てられています。

僅か50mほどではありますが、通常、立入禁止の陵域内に入ることが(写真禁止ですが)できますので、興味のある方は来年以降の古墳祭りの当日に西都原古墳を訪れてみてはいかがでしょうか。

西都原古墳群には、両陵参地以外にも多くの古墳が林立しているので、古墳好きにはたまらない聖地とも言えるところです。
その他、宮崎神宮から西に5kほどの生目(いきめ)古墳群にも行きましたが、ここにも100m越えの前方後円墳が建造されており、一見の価値があります。



10月の初旬に多磨霊園に行ったところ何と、徳大寺公爵家の墓域入口に東京都からの無縁廃棄の警告板が立てられていました。
徳大寺公爵家の墓所は、以前から荒れ放題で、時々、参拝時に枝切りハサミで雑草の小掃除をしてはいるのですが、何せ巨木が数本あるため日当たりが悪く快晴でも墓域内は薄暗い状態で難渋していました。

勿論、子孫の方はいるのですが放棄したのでしょうか?
小池知事名の警告板には、「無縁墓と思われますので1年以内に対応しなければ廃棄処分する」と明記されています。
徳大寺実則公爵は、宮内大臣で歴史上の著名人であることから万が一、1年が経過し何の進展が見られない場合でも雑司ヶ谷霊園の澤伯爵家墓所のように無縁撤去に待ったがかかると思われますが、雑司ヶ谷の阿野子爵家墓のようにあっさりと廃棄される可能性もあるので楽観してはいられません。

島津宗家の公爵家現当主島津修久氏は、実則の曾孫になりますので、いちよ耳には入れておりますが、はたしてどうなるのでしょうか?
期限は、来年の10月ですが、とりあえずは来春まで経過を見てみるつもりで、危ないようであれば色々と働きかけなければと思っています。
あと、鯖江藩主間部家分家の間部家墓所にも無縁廃棄の警告板が立てられており、あ~頭痛が・・・・



現在、次調査報告書の制作のため調査中ですが、ここ数年、体力の衰えを実感しています。
単に調査するだけであれば問題は無いのですが、採寸のため立ったり座ったり屈んだりを繰り返すと、さすがにしんどいです。

数年前から私の調査研究を引き継いでくれる後継者を、そろそろ探さねばと考えています。
決まれば、私の全調査記録(コピー)を譲渡するつもりでいます。
いちよ、以前から親しくしている方を予定しているのですが・・・・
今後、じっくり考えたいと思っています。
 

崇仁親王墓所一般参拝

 投稿者:fukuyama  投稿日:2016年11月 6日(日)17時24分10秒
編集済
  最近は陵墓参拝の機会が少なくなった私ですが
崇仁親王墓所一般参拝に行ってまいりました。
日曜で天気も良く、多くの方が拝礼されていました。
豊島岡墓地の木々も落葉が始まり、吹く風が少し
気温を下げていましたが私は 11時ごろに拝礼を
いたしました。

また高松宮墓地の東側の樹木が一部伐採されており、目
隠しとなっていた木が無くなった為に住宅が垣間見えておりました。

写真は


明治天皇皇女 稚高依姫尊墓   明治天皇皇子 輝仁親王墓
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 8月29日(月)08時39分51秒
編集済
  10月9日、再々度★追記★しました。

9月4日、BSジャパンのミステリアス・ジャパンという番組で『天皇の皇子が開いた霊山~山形・出羽三山~』が放送されます。
http://www.bs-j.co.jp/mysteriousjapan/lineup/20160904.html

オムニバス形式ではなく、一話読み切りの番組構成なので、正味20分まるごと、出羽三山・蜂子皇子です。
HPでは羽黒山の墓のことは触れられておりませんが、20分もあって完全スルーはないものと多少の期待をしております。
でも、陵墓なので、掲示板で話題になるような濃密な内容は期待できないとも思っております。
★追記★
20秒ほど映像が出ましたが、参道の途中からだったので制札などは見られず。
ナレーションは宮内庁の御墓うんぬん‥だけ。
この書き込みを見て番組を見られた方、期待を裏切る結果となり、ご免なさい。
なぜ羽黒山に蜂子皇子の墓が‥の説明にはなったかな。

再度★追記★

10月9日は「黄泉の世界へ続く道~島根・松江市~」の放送です。
http://www.bs-j.co.jp/mysteriousjapan/lineup/20161009.html

予告編で岩坂陵墓参考地がチラリと写りました。
HPでは陵墓参考地のことは触れられておりませんが、今度も20秒ほど映像が出るのかな?

再々度★追記★

2分ほど参考地が取り上げられました。
映像は正面からの全景と拝所で、ナレーションは神話の説明と各地の伝承地の中から選ばれてここが宮内庁治定された云々のごく短いものでした。

★追記終わり★


今年に入ってから、陵墓関係本が続々と出版されていますね。
 

宗良親王墓

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2016年 8月22日(月)10時55分58秒
  おひさしぶりです。いのうえとろろです。

猛暑がつづいておりますが皆さんお元気でしょうか?
わたしはかなりばて気味です。しかも今年の中日の体たらくがさらに追い打ちをかけて…(以下自粛)


さて、今年の大河ドラマはそろそろ第一の佳境に入ってきていますが、来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台は遠江が中心でしょう。特に浜名湖の北側旧引佐町は躍起になってPRしております。で、そこには井伊家の菩提寺「龍潭寺」がありその横には井伊直憲が創建した「井伊谷宮」その裏には治定墓である「宗良親王墓」があります。

この宗良親王の亡くなった場所の説としてこの「遠州井伊谷」のほかに「信州大河原」「信州浪合」「美濃高山」「越後粟岳山麓」「河内山田」があります。


静岡県の中央部を流れる大井川の上流、南アルプス赤石岳の南側に「井川」という場所があります。行政区域としては「静岡市葵区」ですが、静岡駅から車で2時間ちょっとで豪雪地帯です。その井川地区の中心部からさらに山側へ1時間のところに中部電力が作った畑薙第一ダムがあります。その北部に「伊(居)谷沢」という場所がありそこに「宗良親王墓」があったとされる場所がありました。


親王は生涯全国を転戦していますが、晩年信州大河原から反乱者の手から逃れるため山伝いに井川まで落ち延びてきた際、疲れて「イヤア」で倒れなくなり墓を作ったという話でした。ここの地名「イヤア」も親王が井伊谷に似ているため「イイノヤ」と呼び、それがなまり「イヤア」となったとの伝説もあります。
また、この場所の周辺には「見張平」「狼火平」などの地名もあります。



昭和15年(皇紀2600年)の記念事業でここを発掘し立て札を立てたそうですが、昭和34年の台風直撃の際埋まってしまい、その後のダム建設によって跡形もなくなったそうです。


現地へ行くには上にも書いた通り静岡市中心部から山をいくつも越え車で行くか、大井川の下流島田市から川伝いに行くルートが一般的です。ダムの手前までは車で行けますがそれ以降は登山の準備をしていくのがベターです(登山届も忘れずに)。公共交通機関は夏の場合南アルプス登山者に交じってバスでいくか、しずてつバスで途中まで行き、自主運行バスに乗り換えるくらいです。おすすめしません。



最初に述べた浜松の龍潭寺を参拝した際本堂に「東山天皇」の大きな位牌、そして綏心院や中院中将から賜った遺品などが展示してありました。ただ展示してあるだけで下賜された経緯や「そもそもこの人だれやねん」的なものが一切なかったのが残念でした。(私ひとりはきゃっきゃしてましたが(苦笑))


 

柏原(山)陵

 投稿者:DADA  投稿日:2016年 7月 4日(月)20時43分58秒
  こんにちは。

最近は、「新撰陵墓志(仮)」の一覧を参考に、少しずつ訪問しております。
先日は福井県内の伝承地をいくつか回りました。

さて、標記の件ですが、
桓武天皇陵について調べていましたら、
崩御の後「柏原山陵」に埋葬されたが、すぐに「柏原陵」に改葬された、という記事を拝見しました。

改葬後の所在については諸説ありますが、
改葬前の所在について言及している資料や研究はあるのでしょうか。

あるいは改葬前の「柏原山陵」は短期間であるためわからない、
ということでしょうか。

名称の変更も、桓武天皇陵は「山丘型」だと言われていることと関連して、
気になっているところです。

もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示お願いいたします。
 

瀬々串

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年 6月 4日(土)02時14分54秒
編集済
  全国の同志の皆さま、早くも5ヶ月が経過いたしましたが、変な宗教に入っていませんか?


先月は2年振りに10日間の仙台調査に行ってきましたが、今回は2家のご当主様にお逢いいたしました。
幸い天候にも恵まれ予定通りに調査が終了したため雨予備日に考えていた石巻まで行くことができました。
2年前の仙台調査では時間の関係上行けなかっただけに、実に10年振りの再訪になりました。
特に地震と津波による伝承墓の被害状況が把握できなかっただけに、再訪により現状の確認をすることができました。


【一皇子宮】

最初に再訪したのが一皇子宮ですが、伝承墓が当時と変わらず本殿の左側に隣接し現存しており安堵いたしました。
ただ、被害を受け一部、または多くが改修された可能性を否定できませんが、四囲の石柵は当時のままと思われますが、内部の盛土部分は新設されたかもしれません。
近隣では巨石落下注意の標識が見られ、改めて震災による被害の甚大さを感じることができました。


【多福院】

10年前には時間の関係で寄ることができなかったため今回、初の参拝になりました。
後醍醐天皇碑は、本堂の左側奥に建立されていますが、震災時、どの程度の被害があったのかは不明ですが、現状を見る限りでは被害に遭遇したことを感じさせる雰囲気はありませんでした。

ポンさんのサイトにある石巻市内のもう1寺へも行き墓地内を探し廻りましたが、伝承墓の確認ができませんでした。
しかし、石巻市内を廻ると震災による光と影を随所に見ることができました。
1日も早い完全な復興を願うばかりです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月14日(木)07時26分55秒
  日誌要員 さま

清浄華院の過去帳では、公家とかでは「子」「君」が混在して使用されているのですね。
私は公家の過去帳を見たことがないので、ひとつ知見が増えました。

こちらの掲示板では、寺院墓地にある治定外墓の話題がたまに出てきますが、お寺の方からコメントを頂いたり、過去帳の記述をご紹介頂いたのは恐らく初めてだと思います。
あらためて感謝、感謝です。
 

(無題)

 投稿者:日誌要員メール  投稿日:2016年 4月11日(月)12時20分13秒
編集済
  性源院さんの事に付いてばかりで恐縮ですが、

 同じ過去帳で、皇族の部分だけですと、君の字は性源院だけです。別の過去帳ですと他のお公家さんとかですと結構使っていたりしますが…法則があるのかないのか。あまり気にしていないような気もします。

 性源院さん以外は誰の実君だとか書いていないので、やはりなにか特別扱いのようです。今気付きましたが、性源院さん以外は寂年順に書かれているのに、性源院さんは元禄七年寂の凉照院さんの後に書き足されているようです。(性源院記事以降は別筆追記)
 やっぱり何かかなりの無理をして霊元天皇の子としたようですね。明治期の日記も見てみましたが、比定に関するものは見つかりませんでした。別の一枚ものの史料の中にあるのか…

 いろいろとありがとうございます。

ちなみに輔長朝臣記に出てきた長橋局は東山天皇皇子の凉照院さんの母であるようです。性源院さんと凉照院は戒名がちゃんと付いてる(他は院号のみ)のは、どちらも円照寺と関係があるからかなとも考えました。どうでしょうか。

 
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月10日(日)01時00分41秒
  煌子 さま、更なる悩ましい限り(笑;;)の文書のご紹介、有難うございます。

甘露寺輔長は伝聞で知った。って天皇の傍近くに居たから、職務上知ったんじゃないの?
当時の「伝え聞く」と現代語の「伝聞」ってニュアンスが違うのかなぁ。
それとも、異例のことなので、公家社会でウワサが広まっていた、とか。〔基熈公記〕でも「世人称喝食御所」とありますし。

新大納言局養子、仙洞猶子、仙洞養君、で、ついに「寛文上皇ノ御養子」ですか。まるで性源院の身分引上げオークションですね。

う~ん。でも、これって実態としては「猶子」ですよね。
宮家の王子女の多くが天皇の養子か猶子になっている件にしても、養子と猶子って、実態としてどう違うんでしょうね。
少なくとも、庶民レベルでは、生計あるいは生活を共にした経緯のない者を養子とは言わないと思うので、宮中とか上流階級では家族の概念が違うのかなぁ。

コイツまた養子だの猶子だの実子だの言っている。もうウンザリと言われそうなので、もう黙ります。

私も滅多に外出できない身の上なので、これからは煌子さまを見習って電子図書館で情報収集に励もうと思います。感想だけの書き込みをこのまま続けるだけではダメですしね。

 

性源院について、四度目の追記

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 4月 9日(土)22時22分15秒
編集済
  【追記しました】

強風と雨によって、桜が少し散ってしまいましたが、皆さまのところはいかがでしょうか。

性源院について、大垂水酔鳥さまを始め、皆様多くの情報をありがとうございます。

日誌要員さま、はじめまして。
過去帳での記述の文言、ありがとうございます。
「性源院」という法号は、どなたがつけられたか存じませんが、幼児の法号にしては異質なような気がしますがどうなのでしょう。

ところで、性源院についての記録などはもう無いと諦めていたのですが、昨日の大垂水酔鳥さまの投稿記事を読んだ後に再度検索をかけてみましたところ、次のような記事を見つけました。
こちらの過去ログの記事で「『霊元天皇実録』には記載が無かった」とあり、鵜呑みにして調べていなかったことが悔やまれました。
驚きの内容です。


『霊元天皇実録』 貞享四年正月三十日条

 三十日、前關白鷹司房輔ノ女[性源院]ヲ御養子ト爲シ給フ、

  〔輔長朝臣記〕
   貞享四年正月卅日、傳聞、前關白末女院御養子、[主上御養子、長橋局子分被仰出、南都圓照寺宮被遺云々、]

  〔諸寺院上申〕 圓照寺
     性源院
   貞享四年丁卯、鷹司前關白故房輔公ノ女、
   寛文上皇ノ御養子トシテ當寺御附弟ニ御定リ、時ニ御年二歳、御母儀新大納言ノ局、

※[]内は、小文字。


輔長朝臣は甘露寺輔長のことです。
ちなみに、『霊元天皇実録』には元禄3年7月の記事は1件もありません。

この年、貞享四年の霊元天皇の周囲はというと、
1月23日 皇太子(東山天皇)が元服
3月21日 皇太子に譲位、  という時期でした。
霊元天皇は譲位前で、藤谷氏は勾当内侍だった時で、勾当内侍が養母になるのって珍しいのではないでしょうか。


大垂水酔鳥さま、お母様のことも含めてこれからいろいろとあるとは思いますが、後悔のないように生きたいですね。
新たな論考を拝見出来るように願っております。

以下、ご存知でしたら申し訳ありません。
『皇親御事蹟』(諸寺院上申 明治7年11月etc.)は、東京大学史料編纂所データベースの所蔵史料目録データベースで、『比丘尼御所諡号考』は、国文学研究資料館電子図書館で閲覧出来ます。
『天皇実録』と見比べてみると、差異があります。
また、『普門山円照寺小史』末森雅雄著という本が、奈良県立図書情報館にあるそうです。(国会図書館には無し)

     ----------------------------
【2016.4.12追記】

>日誌要員さま
『天皇実録』ですと、清浄華院に葬送されておられる皇子皇女で院号+戒名が書かれている方々もいらっしゃいます。
逆に、『東山天皇実録』には、「凉照院」とのみで戒名は載っていません。

貞享4年正月30日の時点での長橋局は、藤谷為條女、のちの高松(改称・新大納言)で合っています。
同年3月13日の譲位に備えて霊元天皇は奥の再編成をし、その時より長橋は西洞院時成の女に変わりました。
凉照院や中御門天皇の生母・櫛笥賀子が長橋になるのは、元禄3年5月5日以降になります。


>大垂水酔鳥さま
本当に悩ましい文書ですよね。
その上、これが『霊元天皇実録』に所収されているという歴然とした事実。
治定解除するならば、実録のこの文章も何とかしておいてほしかったです。

子の扱いのことや、周囲の思惑などはこちらの掲示板の範囲外になりますので、弊掲示板のほうに書いてみます。
大垂水酔鳥さまが電子図書館制覇に乗り出したら、それこそ鬼に金棒じゃないですか。
恐ろしいような、頼もしいような。


掲示板のほうに、スレッドを立てましたので推論などあればどうぞお使いください。
http://6238.teacup.com/hoff_nung/bbs/t2/l50?
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月 8日(金)13時05分48秒
  新しい情報などはありませんので、お手隙の際にでも読んで頂ければ幸いです。


私事で恐縮ですが、今日これから母を病院に迎えに行きます。
母が入院中のこのひと月間、グッドタイミングで性源院の話題が持ち上がり、私も久々に碌でもない書き込みを連発しました。私の息抜きとストレス発散に皆様を巻き込んでしまい汗顔の至りです。と書きながら今日も続けておりますが‥

私は今後、老老介護の前哨戦から本戦へと移行しつつありますが、退職したことで、精神・肉体とも疲労については半減し、現時点ではかなり楽になりました。ただし、年金受給までの生活費の不安については、じりじりと真綿で首を絞められる思いです。
安倍さん、いまごろ介護退職0とか言っても遅すぎるよ‥
日本死ね!なとどという言い方に賛同しかねますが、安倍総理も「匿名だから」云々ではなく、「日本死ね!ではなく、せめて安倍死ね!と言って欲しかった」とでも言えば、支持率が上がったかもしれないのに‥

ということで、今後とも時々は顔を出すつもりでおりますので、皆さま、宜しくお願い致します。


日誌要員 さまの過去帳の記述のご紹介を拝見し、以前から判らなくてモヤモヤしていたあれこれに関して書き込みをしたい、誰かに教えて欲しい衝動を抑えることができませんでした(汗;;;)

「宮」ではなく「子」でもなく「君」ですか‥
「皇子」を「彦」と表記した例を何かで見た記憶がありますが、「宮」をわざわざ「君」に変えて表記したのであれば興味深いですね。
清浄華院の過去帳での「君」の用例は、他の公家とかには見受けられないのでしょうか?
性源院だけの用例なら、まさに特別扱いということになりますね。
「母儀」と「母君」が混在する例もどこかの過去帳の記述で見た記憶もあり、これも何か意味があるのかなあ‥

蛇足ですが、摂関家の子女には「○君」という人名が見受けられます。たぶんもとは幼名だと思いますが、実名のように通用されている例もあり、これまた何か理由があるのか、単に実名が伝わっていないだけなのか、よく判りません。
私は書き込みを拝見してとっさに、性源院の葬儀に際には「○君」という幼名も伝わっており、それが「養君」とか「實君」とかの記述に繋がった、と妄想しましたが、正直かなり苦しいですね。

ところで、「實君」が「實子」と同義だとすると、ふたつの解釈の可能性が生じます。
a.血を分けた実の子
b.血を分けてはいない実の子

「養君」「實君」が、単に「養子」に対する「實子」ということなら、aのいわゆる実の子でハイ!オシマイ!なのですが‥

これが「仙洞様御養子 實鷹司前関白殿御子也 」とかなら鷹司前関白の血を分けた実の子でハイ!オシマイ!なのですが‥

私には「鷹司前関白殿實君也」の「實」に何か違和感があるんですね‥‥ この場合、後者bの「実子」と解釈すべきなのではないかと‥
だとすると、性源院の血を分けた実の親は誰なんだということになり、話が振り出しに戻ってしまうんですね‥‥

bの「実子」について、「正確な概念」と「当時の実態(習俗)」を知りたいのですが、お偉い学者先生の方々も避けて通っているのか興味がないのか、明快な解説にお目にかかれていません。どなたかご存知ないですか?
この件は、たけちゃん さま2012年4月2日ご投稿で書籍での記述のご紹介を頂き、その翌日、私がなぜこの問題に拘るのか駄文を縷々書き連ねましたが、あれから4年、何の進展なく、悶々としております。(笑;;;)
私の現在の理解は以下の通り。現在「もらい子」「藁の上からの養子」は違法。でも当時は黙認(合法・違法の概念がない)。現在の「特別養子」は合法だが、血を分けた実の親との関係が厳格に遮断される。しかしbの「実子」の場合、血を分けた実の親との関係の遮断が厳格にされておらず、養子との区別がかなり不明確。

 

性源院に関する過去帳記事

 投稿者:日誌要員メール  投稿日:2016年 4月 7日(木)19時52分44秒
編集済
  こんにちは。清浄華院蔵の古い過去帳を眺めていましたら、性源院さんのことが出てきました。
何か参考になるかと思い、転載します。

(霊元帝)
仙洞様御養君 鷹司前関白殿實君也       藤谷家息女
性源院湛室了光 尊儀 元禄三午天 七月廿日  御母后高松局
    七歳

 過去帳はどうやら元禄七年以降十一年以前に書かれたようです。他の人は「仙洞様姫宮」とか「○○院様若宮」などと記されていますが、「宮」ではなく「君」を使っているところ、やはりちょっと違う扱いを受けていたようです。

 ちょっと気付きましたのでご報告まで。
   
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月 3日(日)21時21分39秒
編集済
  DADA さま、情報提供ありがとう御座います。

石棺?石槨?、境内に移されて保管されているとのことで安心しました。
桓武天皇陵の遺物とするには正直無理があると愚考しますが、なんとも気になるものですね。

ところで、古御香宮の方には行かれましたか?
社殿前の石槨の敷石?の方は、少なくとも8年前までは参拝者に踏まれ続けているので心配です。
わたし個人的には、少し横に移動させて注連縄で囲って踏まれないようにして保存して欲しいのですが‥
★追記★
やっぱり、まだ踏まれ続けていましたか。
考古学的な価値が認められない限り、待遇改善は難しそうですね。
私は、「中世に捏造?再建?された桓武天皇陵」説に興味津々ですが、これを学問的に証明するのは無理そうですね。
★追記おわり★

たけちゃん さま

お手数をお掛けし恐縮です。

奈良文化財研究所ですか‥。全然知りませんでした。書面で提出‥‥私のようなシモジモの者でも簡単に閲覧できるようにして欲しいと思うのは贅沢なんですかね。

20年くらい前だったか、京都府立資料館で尼門跡の文書を閲覧した時も書類に調査内容等を書かされ辟易しました。確か所属機関?だったかを書く欄があり、まさか勤務先の運送会社名を書いても意味ないだろうと思い空欄で提出したところ、身分?をあれこれと詮索されました。
そりゃ確かに、聞いたこともない運送屋の従業員に尼門跡の文書の閲覧請求されたら変に思うのも当然なのかもしれないけれど‥
 

皇族供養塔について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2016年 4月 3日(日)18時47分50秒
編集済
   大垂水酔鳥 さま
 ご投稿内容を確認後、何か良い資料がないか手元の資料を探していたところ、陵墓供養塔に関する事項が少しながら有りましたので、ご紹介させていただきます。
 現在、宮内庁が管理する陵墓のうち、髪歯爪塔及びその他にあたるものは合計68基ありますが、その内訳は髪塔21基、歯塔1基、爪塔1基、髪爪塔23基、髪歯塔4基、天皇皇族塔11基、皇族分骨塔3基、殯斂地2基、白鳥陵2基です。
陵墓管理の基本法規である大正15年10月21日に制定された「皇室陵墓令」(皇室令第12号)で陵墓と準陵墓の適用範囲が定められたことから、制定前に駆け込みで火葬塚や分骨所が決定されたことは既にご存知のことと思います。「皇室陵墓令」や「皇室陵墓令施行規則」(同日宮内省令第8号)には、陵墓参考地や髪歯爪塔その他に関する条文はありませんが、制定前に諸陵寮が管理していた陵墓や陵墓地は陵墓令の適用となりました。そのため、「皇室陵墓令」施行後に制作された「陵墓地形図」には、他の陵墓と共に髪歯爪塔等が記載されています。
「皇室陵墓令」は他の皇室令と共に昭和22年に廃止されましたが、これに代わる法規が無いことから、現在も従前の取扱いが適用されています。
 髪歯爪塔及び塚や天皇皇族塔においては、主に高野山の仙陵や門跡寺院墓地内に存在していますが、昭和44年に制定された「陵籍墓籍規程」(宮内庁訓令第6号)によれば、陵墓地形図、陵墓見取図には、陵墓及びその附属物の形状を表示しなければならないとされていることから、不明な供養塔以外は昭和49年版の「陵墓要覧」から地方別陵墓表に記載されています。
 また今後、仮に寺院敷地内等において陵墓等が判明しても、戦前と違い皇室財産として陵墓地の買上げ等により拡大が望めないことから、現在の管理地以外に陵墓が決定されることは無いと思いますし、現在の陵墓管理地内で御方の判明した供養塔があれば、陵墓数に計上され地方別陵墓表に記載されていくことと思います。

・陵墓要覧について
 陵墓要覧の昭和49年版、平成5年版は、近畿地方でも閲覧出来るところがあります。奈良市の平城宮跡西隣にある奈良文化財研究所です。公立図書館と違い歴史研究の施設であり、受付で来館目的や調査内容等を書面で提出しなくてはなりません。図書室で閲覧することになりますが、書籍は全て書庫にあるため、事前に請求番号等を調べていかなくてはなりません。しかし、近鉄の大和西大寺駅の近くにあるので、東京へ出掛けるよりは便利です。

・高野山仙陵内の供養塔について
 宮内庁書陵部発行『書陵部紀要』第63号における平成22年度陵墓関係調査報告の中で仙陵内の天皇皇族供養塔の写真測量図の作成が報告されているのですが、四十七方供養塔の調査内容が記載されています。
 四十七方供養塔(円丘、宝篋印塔)については、過去に投稿で紹介していますが、安永9年(1780年)に建立された後陽成天皇以来宮方47お方の御宝塔です。当然のことながら、後世に建立された合葬の供養塔のため「陵墓要覧」に記載されていません。

 今後とも、よろしくお願いいたします。
 

石槨

 投稿者:DADA  投稿日:2016年 4月 3日(日)15時27分28秒
編集済
  こんにちは。

先日、伏見区の仏国寺を訪ねました。
以前から石棺があるということで、事前に調べた資料をもとに傍の空地に行きました。

敷地内にはそれらしいものがなく、
木材等の置かれている隣に、枯れ木などの山があり、もしかしてこの中に・・・、と思い、
あきらめてお寺の境内を参拝しました。

すると、鐘楼の南に、写真によくあるあの石槨が、丁重に置かれていました。
きちんと保管していただいているようで、
上部にある「丸穴」も石を置いて雨水などが入らないようにしてありました。

すでに皆様ご存知のことかもしれませんが、ご報告いたします。

> レプトン 様
ご教示いただきありがとうございます。
遺跡地図、大変参考になりました。こういう資料があるのですね。
なかなか行く機会がないのですが、折を見てまた訪問したいと思います。
今日は神武天皇祭ですね。一般人は参拝できないようで、ちょっと残念です。

※追記※
> 大垂水酔鳥 様
仏国寺にあるのは「石槨」とされているようですね。失礼いたしました。
古御香宮にも参拝いたしました。
例の敷石?は、拝殿の前にあり、変わらず踏まれ続けているようです。
たしかに、あれだけのサイズの石が拝殿の前にあるのは違和感がありますし、
神社全体はこぎれいには整備されているようですが、
石の歴史的価値は意義については注目されていないのかもしれません。
 

平川

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年 4月 3日(日)02時34分5秒
  早いもので4月になり東京の桜も満開ですが、変な宗教に入っていませんか?

今回の性源院に関する皆さまの考察、わたしの知らないことばかりで大変、参考になりました。
更なる情報と考察に期待しております。


さて、先週の日曜に谷中霊園の徳川慶喜公爵家と田安徳川家の墓所を参拝してきました。
慶喜公の墓所へは時々、お参りに行ってはいるのですが、墓域内に入るのは5年ぶりぐらいになるでしょうか。
ただ、相変わらず慶喜公の墓所を見学に来た人々に話しかけては、知識をひけらかす変なおやじはいるし・・・

慶喜公嗣子慶久公爵と同室実枝子女王の墓所は、墓域の右隅に位置しているため墓域内に入らないと正面から参拝することができなかったので久々のご参拝になりました。

有栖川宮威仁親王王女・実枝子女王墓の墓標の碑銘は下記の通りです。

正面)德川實枝子之墓
裏面)昭和八年四月二十五日薨


昨日は、各所の桜めぐりツーリングをしてきましたが、何と雑司ヶ谷霊園では無縁撤去札が3年程前から出ていた公卿の阿野子爵家墓所が廃棄され更地になっていました。

こうなると、谷中霊園の墓所も危機?
澤伯爵家の墓所が未だに改葬されないでいたので、やや安心していたのですが、まさか、こんなに早く無縁処理されるなんて(涙)
昨年の10月に現存を確認しているので、その後ということになります。


続いて染井霊園の桜を見学に行き、またまた唖然。
九鬼隆一男爵家の墓所が、更に水戸徳川家の墓所も更地になっていました。

近くにいた石屋さんに聞いてみると、違う石屋さんの仕事だけど、徳川家の墓所は瑞龍山へ改葬したとのことでしたが、九鬼男爵家は知らないとのことで無縁廃棄されたみたいです。
昨年の夏には現存を確認しているので改葬、及び廃棄は、その後ということになります。

また、酒井忠積男爵家墓所の入り口にも無縁札があり、この分だとここも現存するのは、あと数年で無縁廃棄処分は免れないでしょう(涙)

4家とも正確な記録を採っているものの、こう立て続けに華族家の墓所が廃棄されるのは、いたたまれません。

特に水戸徳川家は、有栖川宮との血縁が濃い家だけに今までの様に気軽に参拝できなくなったのは残念なことです。
 

神武天皇二千六百年式年祭

 投稿者:レプトン  投稿日:2016年 3月31日(木)06時26分22秒
編集済
  こんにちは。
4月3日に神武天皇2600年式年祭が行われます。
両陛下と秋篠宮ご夫妻がいらっしゃるそうです。(翌日は高松塚古墳に行かれるそうです。)
神武天皇陵では幕やテントなど、式年祭の準備が進められていました。(幕屋テントなどの設営は)入札で決まった業者が請け負っているようです。また、奥の鳥居が新しくなっていました。

当日の式年祭は一般は見学はできないようです。終了後の12時くらいからは一般も参拝できるようです。
神武陵の前の交差点に制服姿の男性が立っておられましたが、宮内庁関係の方?皇宮警察の方?でしょうか。

ドローン禁止の看板もありました。

隣の橿原神宮でもこの前後の期間、コンサートなどいろいろな行事があるようです。


DADA様
 こんにちは。私もかつて黄金塚陵墓参考地周辺を歩き回りましたがやはりわかりませんでした。
平成10年改定の奈良県遺跡地図には該当する古墳名は載っていません。
地図には黄金塚の東の田中古墳より20m程度東に古墳?と記載されている所があります。
地図では建物があり、その建物のために破壊されているような印象を受けます。これが焼ケ跡塚古墳かもしれません。さらにその東の奈良市と天理市指境界線付近に2基古墳があります。
黄金塚より当方1.5km程度には高樋町舎人という地名があり、そこの尾根上に4基の円墳、同じく高樋町舎人の別の尾根上に横穴式石室6つを含む10数基の円墳があります。
地図の写真76の■が黄金塚、77の●が田中古墳、78の○が古墳?と記載されている所です。建物に重なっています。26の■の方墳がシズカ塚古墳です。(ページのつなぎ目で26が36に見えます。)



森下塚古墳やシズカ塚古墳は奈良県遺跡地図にも載っていますが、他の古墳は同書にはありません。奈良市史や同所の村史なども調べてみてわかればまたお知らせいたします。

神武天皇陵にも行かれたのですね。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月26日(土)12時09分52秒
編集済
  たけちゃん さま

陵墓要覧での了山・遍照2墓等の記載内容その他についてご教示感謝です。
以下は、質問ではなく単なる感想です。(汗;;)

陵墓要覧の昭和49年、平成5年版を入手?されたのは国会図書館ですよね? 何でご当地の近畿の府県立図書館などに配本してくれないんだろう?

私が初めて陵墓要覧を見たのは高校1年の時で愛知県立図書館でした。愛知に古い版が配本されたのなら、京都・大阪・奈良にはきっと最新版が配本されていると考え、陵墓巡りの貴重な時間を削って府県立図書館を訪ねたものの昭和31年までしかなく、いたく失望したことを今でも覚えています。
その後、昭和49年版の転載と思われる「陵墓一覧」が「歴史読本」に掲載され、陵墓地形図集成が出版され、陵墓要覧への関心を失っておりました。
が、しかし、陵墓要覧の記載内容は改訂版が出る度に充実?しているようですね。
陵墓地形図集成を古墳以外を含む全陵墓で出版し、更に縮小版を出す勇気があるのなら、陵墓要覧平成23年版も販売して欲しいと思うのは私だけでしょうか。

了山・遍照2墓とも陵墓に準ずるとして治定解除されず、宮内庁の管理が継続しているとのことで、安心?とともにマスマス興味シンシンです。(笑;)
治定解除されたとかの記述を何度か目にしたものの、その典拠が見当たらず、長年に渡りイライラしておりました。(笑;;)
陵墓に準ずるが陵墓参考地とも違う存在って‥‥、これまた陵墓治定のアキレス腱になりそうですね。

文察女王の墓・塔の治定チェンジの件、初耳です。ご教示感謝です。

大名家や僧侶に複数の墓が存在するというのは珍しくないので、敢えて本墓の治定に拘るというのに私は違和感を感じています。
複数の墓のうち実際に葬儀を行ったのは一か所だけとかなら本墓として歴然としていますが、火葬後分骨し、複数の寺で葬儀・埋葬を行った場合などがあるのであれば、両方とも本墓で良いと個人的に思ったりもします。
宮内庁にとって墓とは唯一の「治定墓」であり、他の墓を「塔」として区別する何か特別な意味があるのか? そして昭和49年版から「塔」が掲載され始めた理由が何なのか興味深いです。

史料の発見とかで「塔」の由来?が判明し「分骨塔」「髪爪塔」などに昇格?するなんてことも、今後はあるんでしょうかね?
一方で、「塔」の墓としての根拠が脆弱なために治定外となっているケースもあるのかな? 遺骨・歯髪爪など身体の一部ではない遺品の埋納ではNGとか、後世に建てられた追悼墓はNGとか。
供養塔ってぶっちゃけ「墓形の記念碑」的なものが多数含まれますよね。どこで線引きしてるんだ、宮内庁!(笑;;;)

 

寺院内陵墓あれこれ

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2016年 3月26日(土)00時50分46秒
編集済
  大垂水酔鳥 さま
 いつも陵墓に関する様々な投稿内容を楽しみに見させていただいています。
 お問い合わせの内容と少し相違するかも知れませんが、過去に調査した内容をご紹介させていただきます。

・性源院墓について
 詳細は分かりませんが、過去に調査した走り書きの中に性源院に関する事項が出てきました。
 京都府立総合資料館所蔵の『府庁文書』の中の「御陵墓明細帳」だと思うのですが、元禄3年7月20日薨 葬儀は浄華院45世天譽和尚が御導師として実施され、御廟有り また、尊牌無御座とあります。資料には同じ天皇なのに霊元帝、仙洞様、法皇様と使い分けてあったのを思い出しました。

・三時知恩寺了山墓について
 明治7年(1871年)8月3日付太政官達「陵墓掌丁の設置、寺院境内ノ御陵墓取調」を受け京都府でも寺院内の実地検査が実施されました。各寺院から由緒書や口上書などの調査内容が同年10月に提出されたことは、過去の投稿内容等でご存知かと思います。
 『幕末・明治期の陵墓』外池昇著によると、明治8年(1872年)1月7日付教部省達「陵墓掌丁置否の区別」では、陵墓の中で法親王を始めとする墓の管理について別に「区別書」が達せられ内容は、法親王並びに法師の皇子御墓、落飾の皇女御墓には墓丁を置き、四親王家の親王並びに降嫁の皇女御墓、四親王家出身の門跡で天皇御猶子御墓、臣籍降下の皇子御墓には墓丁は置かないとあるようです。(上記書籍の頁193に詳細が記載されています。)
 京都府は、寺院からの取調や実地検査を踏まえ教部省に回答伺い、称光天皇皇女の御墓として明治8年11月に決定されました。
 蛇足な情報ですが、光照院宮墓地内にある文察女王塔は、明治8年11月に陵墓として一旦決定されましたが、再調査の結果、御本墓で無いとされ、明治9年(1873年)2月2日に供養塔に変更され陵墓から解除されました。奈良市内の円照寺宮墓地の本墓は、京都の御墓解除を受け明治9年2月8日付で治定されています。一旦解除された供養塔ですが、明治34年(1901年)4月9日付の諸陵寮御髪爪塔主管を受け、宮内省による管理が復帰しました。

・遍照僧正墓について
 上記の『幕末・明治期の陵墓』外池昇著によると、明治13年(1880年)11月「古墳に関する具申、五世以上諸王墳墓取調ノ件」には、五世以上の諸王で祭祀をする子孫が連綿としない場合には、賜姓・親王宣下を問わずに墓に準じて宮内省が管理を行う方針が出され、また沖縄県を除く府県に発出された明治14年(1881年)1月19日付宮内省達乙第1号「子孫ナキ諸王ノ墳墓取調方」には「古来諸王ニテ奉祀ノ子孫ノナイ方々(賜姓又ハ親王宣下ノ有無に拘ラス)墳墓ハ、自今惣テ 皇子御墓ニ準シ取扱候条・・後略」とあり、賜姓の皇子御墓も陵墓に準ずるとして、明治16年(1883年)10月26日付けで北花山にある遍照塚を桓武天皇皇孫の御墓として決定しました。(上記図書の頁209に詳細が記載されています。)

 2墓は、宮内省諸陵寮発行『陵墓一覧』(明治34年4月発行)までは、他の陵墓と一緒に記載されているので、管理は同じようにされていたのだと思います。『陵墓要覧』(大正4年12月発行)から記載方法が変わることから、その間に管理方法が変更されたのだと思います。
 最終的に結論は、了山墓・遍照墓共に陵墓に準ずるとして、陵墓の治定解除は現在までなされず、宮内庁が管理を行っています。ただし、他の陵墓と違い正辰祭などの祭祀は実施されていないようです。

・2墓等の陵墓要覧での記載内容について
 明治期に発行された宮内省諸陵寮発行『陵墓一覧』(明治30年7月発行)、『陵墓一覧』(明治34年4月発行)共に皇孫墓、皇女墓として記載されています。
 『陵墓一覧』(明治30年7月発行)は、歴代順陵墓表のみで地方別陵墓表はありません。陵墓の最後に陵墓伝説地と陵墓参考地が列記されています。『陵墓一覧』(明治34年4月発行)は府県別に記載されて、近畿地方の陵墓は甲・乙・丙・・と5分割されています。

 その後、発行されました『陵墓要覧』での地域別陵墓表の記載内容を補足追加させていただきましたので、よろしくお願いいたします。

了山墓   本文記載なし
 大正 4年 「了山墓地」但し華開院の治定墓に連記されず、「北山部」の末尾に記載
 昭和 9年 ※未掲載
 昭和31年 「了山墓」華開院の治定墓とは別枠で連記
 昭和49年 「了山墓」華開院の治定墓とは別枠で連記
 平成 5年 「了山墓」華開院の治定墓とは別枠で連記

遍照墓   本文記載なし
 大正 4年 「遍照墓地」但し「山科部」の末尾に「御陵墓傳説地」に続いて記載
 昭和 9年 ※未掲載
 昭和31年 「遍照墓」(輪王寺宮墓地・小野陵の間に記載)
 昭和49年 「遍照墓」(天智天皇陵・六条天皇陵の間に記載)
 平成 5年 「遍照墓」(天智天皇陵・小野陵の間に記載、山科部最終行)

陵墓参考地 本文記載なし
 大正 4年 「御陵墓傳説地」 各部の末尾にまとめて記載。陵墓名なし。
  昭和 9年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述
  昭和31年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述
  昭和49年 「○○陵墓参考地」他の陵墓と同列に記述
  平成 5年 「○○陵墓参考地」他の陵墓と同列に記述
 ※要覧付録に陵墓参考地一覧有り

天皇皇族供養塔  昭和31年まで歴代別・地方別とも記載なし
  昭和49年 「○○天皇塔、△△女王塔など」他の陵墓と同列に記述
  平成 5年 「○○天皇塔、△△女王塔など」他の陵墓と同列に記述
 ※要覧付録に髪歯爪塔塚・皇族分骨塔一覧表有り

  ※蛇足な情報ですが、書陵部職員の採用等により平成5年3月改定版の在庫が無くなった ことから、書陵部では、平成の市町村合併による所在地の現行化に併せ第6版として平成23年改定版が800部印刷されています。平成23年版は、国立国会図書館で閲覧可能です。

 今後とも、よろしくお願いいたします。
 

性源院宮墓

 投稿者:日誌要員メール  投稿日:2016年 3月23日(水)11時35分2秒
  ご無沙汰しております。清浄華院の日誌要員でございます。

性源院宮様が話題となっているときいて飛んで来ましたw

結構各所史料に出ているのですね。皆さまのお話しをまとめると、

鷹司房輔と家女房の娘。新大納言局(藤谷為条娘)を母として霊元天皇の養子となり、門跡寺院である円照寺文智女王の弟子となった。元禄3年7月21日5歳で薨去。

 ってな所でいいんでしょうか。当院の記録にある母が「御母高松局、藤谷家也」という記述とも一致します。皇子となっていますが、尼門跡である円照寺へ入っているところを見ると、女性だったのでしょう。
 どういう訳か京都にいて、臨終には文智女王の名代として一乗院宮が上洛した、というところも面白いですね。

 以前性源院さんについて書陵部に問い合わせましたところ、鷹司家と関係があり、同家より返答をもらった上で治定外としたようだ、というような御返事でした。明治十四年治定除外ということもご教授いただきましたので、日鑑の方も見てみたいと思います。

 しかし、つい最近、円照寺門跡に伝わる華道・山村御流の華道教室が当院を会場に行われておりまして・・・何やらご縁を感じた次第です。
 
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月22日(火)11時00分43秒
  たけちゃん  さま、諸資料の記述のご紹介有難うございます。

大塚実忠編「史料紹介 比丘尼御所歴代(四)」には「了山聖智椿性 足利義教女 葬華開院 土葬」との記述があると、私のノートに記述があり(笑;;)、華開院の移転とともに改葬を繰り返してきたということになりますね。

華開院墓地については、治定墓以外にも室町戦国時代の尼門跡の皇女・王女の墓があるはずなので、私も十数年来?詮索していますが、調べても出てきませんね。明治初期に改葬の対象外とされたのか、明治初期の時点で既に墓所不明・被葬者不明となっており治定もれされたのか‥

ところで、蒸し返しで恐縮なのですが、結局のところ、了山・遍照の2墓の扱いって、どうなんでしょうね。治定解除の年月日の記録ってありますか?

私がコピーを取った下記3種の陵墓要覧では、2墓とも歴代別では掲載されず、地方別での扱いにはブレがあります。
大正4年では、2墓は「御陵墓傳説地」とともに本文ではなく付記?のような扱い。
昭和9年では、2墓は表自体から削除※。一方の陵墓参考地は本文と同列に扱われ、付記?は消滅。
昭和31年では、2墓も陵墓参考地と同様に本文と同列の扱い。
このブレは2墓の扱いの変化を反映したものなのか、それとも陵墓要覧の編集方針?に起因するもので2墓の扱い云々とは無関係なのか‥

了山

大正4年 「了山墓地」 但し華開院の治定墓に連記されず、「北山部」の末尾に記載
昭和9年 ※未掲載
昭和31年 「了山墓」  華開院の治定墓とは別枠で連記

遍照

大正4年 「遍照墓地」 但し「山科部」の末尾に「御陵墓傳説地」に続いて記載
昭和9年 ※未掲載
昭和31年 「遍照墓」  (輪王寺宮墓地・小野陵の間に記載)

陵墓参考地

大正4年 「御陵墓傳説地」 各部の末尾にまとめて記載。陵墓名なし。
昭和9年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述
昭和31年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述

供養塔  昭和31年まで歴代別・地方別とも記載なし

※ 地方別陵墓表とは別の所に掲載されていた記憶があるのですが、何故かそこだけコピーが見当たらず(汗;;)確信が持てません。ご存知の方、ご教示頂けると幸いです。

昭和49年、平成5年の記述をご存じの方、上記に書き足して頂けると幸いです。

陵墓地形図集成では、歴代別・地方別とも未掲載で、遍照については陵墓地形図も掲載されずとても残念です。
一方、華開院墓地については掲載された昭和5年製図の陵墓地形図から興味深い表記があります。

     ○リ      イ 崇賢門院墓
             ロ 通陽門院墓
・・・  ・・・・・・  ハ 尊蓮女王墓
■イ・  ・■■ ■・  ニ 尊英女王墓
■ロ・  ・ヘト チ・  ホ 尊清女王墓
・・・  ・  ・・・  ヘ 尊梁女王墓
  ・・・・  ・    ト 尊杲女王墓
  ・■■ ■□・    チ 尊乗女王墓
  ・ハニ ホヌ・    リ 了山墓
  ・・・・・・・    ヌ 文察女王塔

墓の配置からすれば「ヌ」を「へ」とすべきところですが、これは■墓ではなく□供養塔なので仕方がないとしても、別域の○了山墓の後回しにする必要はないと思うのは私だけでしょうか?
これだと了山墓が文察女王塔よりも格上だと言っているに等しく、昭和5年時点では陵墓参考地に準じる扱いということになりますね。

穿った味方をすれば、宮内庁は2墓を陵墓参考地にしたいけれど、学会や国会から突っ込まれるので、決断できずにいるとか‥
 

寺院内の陵墓について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2016年 3月20日(日)18時23分6秒
   皆さん、こんにちは!大変ご無沙汰しています。
 最近は、陵墓を現地調査する機会は随分と減りましたが、自宅で過去に調査した陵墓資料の整理や皆さま方の当掲示板での投稿内容を楽しみながら細々と陵墓研究を続けています。
 さて先日、久しぶりに妻から時間をもらい京都府立総合資料館へ寺院関係図書を閲覧しに行って来ました。今回は、その調査内容を報告させていただきます。
・清浄華院墓地内の陵墓について
 法然上人800年大遠忌を記念して発行された「法然上人八百年大遠忌記念清浄華院―その歴史と遺宝」(平成23年2月 浄土宗大本山清浄華院発行)には、現存最古の絵図である「本山浄華院惣指図」(元禄境内図、元禄7年(1694年)製作)と「浄華院伽藍図」(幕末境内図)が掲載されています。御墓の様子を見てみると、元禄境内図は伽藍の東側に宮様方御廟所として記載されており、御墓の詳細は分かりませんが、宝永5年(1708年)に幕府から境内の東側御土居敷地を拝領する前の境内の様子が分かります。幕末境内図は、天明の大火(天明8年(1788年))後、再建された伽藍の幕末における境内の様子が記載されています。御墓については、しっかりと詳細が記載されており、宮内庁管理前の様子が分かりました。ちなみに敬法門院藤原宗子墓以下11墓の墓域は現在と同じですが、中が三分割されていて出入口がそれぞれにありました。話は変わりますが、過去に調査した「御陵墓所在書上」における清浄華院が京都府に提出した「皇子様方取調書」明治7年10月には後水尾院皇女秋光院他27御方(近衛家熙公室台岳院墓や性源院墓を含む)が記載されています。当時の清浄華院は無住で常行院住職の藤田宜順が提出したものですが、理由として「先年類焼旧記類焼失市仕不分明 過去帳或ハ残記録等ヲ以テ取調」とあります。清浄華院からの取調べを受けて教部省は、明治8年11月に台岳院墓を除く27御方の御墓を陵墓として治定しました。
明治13年に制作された御陵墓明細帳にも清浄華院 御墓27箇所として記載されています。
最近話題の性源院の御墓についてですが、詳細は分かりませんが、明治14年(1881年)2月24日に治定解除されています。
「法然上人八百年大遠忌記念清浄華院―その歴史と遺宝」によると、清浄華院には焼失したはずの皇室関係の葬送・埋葬関係の古文書がまとまって残っているそうで、しかも整理や調査がされていないようです。今後の調査によっては、新たな発見が期待出来そうです。

・華開院墓地内の陵墓について
 既に皆さま方もご存知のとおり華開院には、通陽門院藤原厳子墓、崇賢門院藤原仲子墓及び了山墓と塀に囲まれた光照院宮墓地が存在します。華開院は建立後何度も移転し、寛文8年(1668年)現在地に落ち着きました。御墓も同じく移転してきたのでしょうか。移設と言えば、般舟院陵や相国寺の伏見宮墓地を思い浮かべますが、同じように実埋不詳の御墓なのでしょうか。華開院を紹介したサイトによれば、明治期以降に光照院や三時知恩寺などの尼門跡から御墓が移設されてきたとあります。また、明治の廃仏毀釈の影響で宝鏡寺と合併した大慈院墓地から上記お二方の女院御墓が移設されてきたとあります。移設してきたのであれば、いつ移設されてきて、どうして華開院に決まったのか疑問は深まるばかりです。いろいろと書籍を閲覧しましたが、詳細は分かりませんでした。
 ちなみに、華開院の御墓は、国立公文書館所蔵の「陵墓録」や宮内庁書陵部所蔵「御陵墓府県分帳」によると女院御墓は、明治7年9月に陵墓治定されており、光照院墓墓地は明治8年11月に治定されています。
 今後とも、よろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月18日(金)12時37分32秒
編集済
  煌子さま、三度目の追記に感謝多謝です。私にとって、ちょっとかなりたいへん大いに驚愕の記録で驚きです。

私は、非皇族が皇族の養子・猶子となっている記述をたまに目にしますが、極めて懐疑的に見ています。特に天皇では。
更に一歩踏み込んで言えば、皇族が非皇族を養子にする場合、将来の家督相続の可能性を考慮して、自ら臣籍降下した上で養子縁組を執り行うなどの不文律があったのではないかと考えています。

なので、性源院が(霊元天皇ではなく)新大納言局の養子という、これまでの内容にシンパシーを感じます。(笑;) 当時の皇室は「喝食御所」たる性源院の扱いに苦慮したんだろうな‥と。

さて、ご紹介の〔基熈公記〕の記述ですが、性源院が霊元天皇の猶子だという厳然たる事実の証拠なのか、俄かには信じがたい気分です。
あるいは近衛基熈が勝手に「天皇の猶子だと認識?勘違い?していた」のか、あるいは「天皇の猶子に準する扱いということにして入寺させたという内々の事情を端折って書いた」だけなのか‥

[○中略]の部分に何か重要なことが書かれていないか、確かめる必要があるのかもしれませんね。

一方で、逆のパターン、つまり非皇族が皇族を養子などにする例がいくらでもある以上、皇族は非皇族を養子や猶子にしないと確信をもって断言できません。
あるいは、男系の異質の血が皇族に混入しない一代限り‥などの暗黙の了解で、皇族が非皇族を養子などにするのを僧侶や女性などに限って認めていたのかなあ???

私の悩みは尽きない‥(笑;;;;)


以下、蛇足です。いつもの憶測・妄想の類です。(汗;;)
皇胤伝承をもつ僧侶の墓は全国にあります。これも遅々として進まない私の「ライフワーク」です。
当初は僧侶自身が皇胤を自称していたと思っていたのですがそうではなく、大半が後代の住職などによる開山・開基・中興の上人の神格化だと考えて間違いなさそうです。
室町戦国時代の天皇が、収入獲得の為に「勅願寺」認定を乱発した。そのことで寺に箔がつき一時的に繁盛?し時の住職は「中興上人」などと呼ばれた。寺が衰退し当時の事情を知る者がいなくなった頃、中興上人と皇室との関係を何やら特殊な神秘的なものと誤解した後代の住職などによって、高僧として天皇が師事したとか天皇の養子になったとか勅願寺に関する付会が行われた。その後更に尾ひれがついて、天皇のご落胤を寺に受け入れる見返りに住職就任に際して勅願寺認定を約束した、ハイ皇胤伝承一丁あがり!(笑;;)

宮内庁は、全国にある皇胤伝承をもつ僧侶の出自の真贋?をどのように判定したのか、治定されたごくごく少数の墓の治定根拠は何か、はたまた治定解除に至る経過は如何、などなどを記録した文書を公開せよ!!(笑;;;;;;)

 

性源院について、三度目の追記

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 3月18日(金)01時41分25秒
  『後水尾天皇実録』、皇子女の部分を読み終わりましたが、性源院について、別の記述を見つけましたので皆さまにお知らせいたします。

皇子眞敬親王の項、元禄3年7月20日の条に「奈良ヨリ上洛シ、參院ス、圓照寺喝食御所ノ病危急ニ依リテナリ、」とありました。

〔无上法院殿御日記〕
元禄三年七月廿日己酉、はるゝ、内府ちらとまいらるゝ、一門御上らくなり、これは御かつじき御わづらいさんざんゆへゑんせう寺殿御名代に何か御きも入、仙洞よりの御用も有べきかとのために也、院參の後こゝもとへもなる、やうとく院殿ついにかくれ給ふ、申刻程也、(略)

〔基熈公記〕
元禄三年七月廿一日庚申戌、天陰微雨、時々見日、未刻之後雨頻下、喝食御所[五歳] 昨夜事切云々、抑此喝食者爲圓照寺宮弟子、[世人称喝食御所] 前関白姫君、爲仙洞御猶子、[○中略] 一乗院宮従南都上洛、有来臨言談、

([]内は小文字です)

无上法院は後水尾天皇皇女品宮常子内親王のことであり、夫は近衛基熈公、この年、元禄三年正月に関白に就任しました。
その上、品宮は霊元天皇の同母姉であり、『御湯殿の上の日記』に名前が頻出しています。
その基熈公が、「前の関白の姫君を霊元上皇が猶子にされた」と書いているんです。
ちなみに前関白とは、近衛基熈公の前が一条冬経公、その前が鷹司房輔公になります。
いかがでしょうか。

皆様、今後ともよろしくお願いいたします。
 

奈良市・橿原市の伝承地

 投稿者:DADA  投稿日:2016年 3月17日(木)13時43分42秒
  少しずつ暖かくなってきました。

ここ数ヶ月、こちらの掲示板の過去ログをひととおり拝見いたしました。
皆様がご提供くださっている情報をもとに、少しずつ参りたいと考えています。

さて先日、奈良市および橿原市の陵墓伝承地を見てきましたので御報告です。

橿原市については、
神武天皇陵を皮切りに、イトクの森古墳(池田神社)、花園神社古墳を訪問しました。
花園神社には、小さな祠がありましたが、古墳らしき痕跡は見つけられませんでした。

また、2006年12月22日ぽん様ご投稿の情報にもとづいて、華厳寺山古墳を訪ねて見ました。
記事にあります中学校に行ったところ、その西隣に竹林の小山がありました。
(たんなる自然丘かもしれず、すでに皆様で古墳の位置は特定されているかもしれませんが・・・。)

神武天皇陵は、神武天皇祭を控えているためか、奥の木扉が真新しくなっていました。

旧洞村にあった生玉神社の痕跡も確認できました。
以前ご指摘いただいたとおり、丸山の東に位置しています。

奈良市内については、黄金塚陵墓参考地とその周辺を訪ねました。
2010年12月1日および2011年3月8日にぽん様がまとめてくださった各伝承地の記事を参考に回りました。
このうち、上記の参考地のほか、

・田中古墳
・シズカ塚古墳
・森下塚古墳
については確認することができましたが、

・焼ケ跡塚古墳
・中ゴウ谷古墳
・寶塚古墳
・鑵子塚(貴人墓)古墳
については、周辺を歩き回りましたが確認できませんでした。
それらしい場所はいくつもあるのですが、もし詳しい位置についてご存知の方いらっしゃいましたら、
ご教示願いますでしょうか。

ちなみに、黄金塚陵墓参考地の周辺は巨大な竹林が広がっていて、少し不気味でした・・・。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月 5日(土)18時48分38秒
編集済
  ★追記★しました

煌子 さま、性源院に関する史料のご紹介有難うございます。

鷹司房輔の娘で圓照寺付弟(女性)の性源院と清浄華院墓地に治定外墓がある霊元天皇皇子性源院。同一人物っぽいけど、だとしたら何で圓照寺付弟(女性)が清浄華院に葬られて男になっているんでしょうね。

更に詳しい事情はありませんが、門跡寺院に関しては私のライフワークなので、久しぶりに憶測・妄想を書き連ねます。お手隙の際にご笑覧くださいませ。

江戸時代の尼門跡の歴代を確認すると、圓照寺と同様に全て皇族という例が他にもありますが、皇女・王女と摂関家などの息女が混在する例が多いです。つまり、鷹司房輔の娘の性源院は尼門跡の継承者として申し分のない出自です。ところが‥

圓照寺門跡の場合、初代文智女王から明治初期の6世文秀女王に至るまで、全て皇女・王女によって継承されています。
途中、2度の中絶?無住?の際も、皇女である瑞光女王(慈受院)と永皎女王(大聖寺)の兼帯という形で継承されます。
更に、性源院と同様に文智女王の付弟となるも、門跡を継承する前に薨去した文察女王も文智女王の異母妹すなわち皇女です。

霊鑑寺門跡の場合でも、1・2世が皇女、3~5世が王女なのですが、3人の王女は何故か「天皇の養子」として入寺しています。宮家の王女ですらダメで、皇女による継承という強いコダワリがあり、天皇の養子という形で「皇女という体裁」を整えたと愚考します。

圓照寺門跡の場合、兼帯を含め皇女・王女が混在しますが、全て皇族という事実は、意図せず結果としてそうなったのか、或いは初代文智女王の時代から意図して皇族による継承に拘ったのか判然としませんが、私は「皇族による継承」の強い意志のようなものを感じます。
つまり、文智女王の時代、2世候補者の性源院は「鷹司房輔女子」ではダメで、「皇族という体裁」を整える必要があった。しかし、宮家の王女ですらない性源院を公に「天皇の養子」とすることはできないと考慮され、その代替として「霊元天皇と新大納言局」夫婦の養子ではなく霊元院新大納言局「個人の養子」という形で折り合いを着けた‥

う~ん、ちょっと苦しいかな‥‥
ご紹介の史料も、私は「霊元上皇が新大納言局の養子として付弟にした」「寛文上皇(の女房の)新大納言局の養子」と読みましたが、「霊元天皇・新大納言局(夫妻)の養子」と意訳できない訳でもなさそうだし‥‥


清浄華院の性源院の墓が治定から外れた理由は、いったん治定されたものの文献調査などで、圓照寺付弟(女性)の性源院と同一人物だと判断され、鷹司房輔の娘=「皇族ではない」と認定されたためだと思います。入寺し数年で早世した幼児の付弟の出自をあとあとから蒸し返す者などなく、葬られた清浄華院でも経歴が詮索されないまま江戸時代を通じて皇族としての祭祀が続けられていたものと愚考します。明治初期の陵墓探査でも清浄華院での祭祀そのままでいったん治定されたのでしょう。

治定解除かどうか判然としませんが、華開院墓地の「(三時知恩寺)了山」のケースとある意味似通っていますね。「了山」は称光天皇皇女としていったん治定されましたが、学問的な疑問を踏まえ現在は保留扱い?みたいになっているようです。

皇胤伝承をもつ僧侶の墓は全国にありますが、当時の宮内省はそれらの真贋?をどのように判定したのか、審査経過を記録した文書を是非とも公開してほしいですね。ハイハイ、震災で焼けたんでしたね!!


あと、霊元院新大納言局にはもう一人の養子である道仁法親王がいます。道仁法親王は伏見宮貞致親王の王子で、「霊元天皇と新大納言局」夫婦の養子とされて梶井門跡(三千院)に入寺します。
天皇の養子となった宮家の王子は多数いますが、養母が指定されている例は半分くらいです。養母の指定の有無が何に起因するのかは判然としません。

蛇足ですが、皇子女の生母となれなかった天皇の寵姫が皇族を養子を迎える例も他にもあります。

★追記★

煌子 さま、コメント有難うございます。

門跡寺院に関しては、実のところライフワークというよりは、判らないことがあまりにも多すぎて遅々として進まないというのが私の実態です。

男の方はまだマシなのですが、尼門跡については、室町・戦国期の歴代を確定することすら困難な寺院もありますね。私としては歴代の名簿・経歴をさっさと確定して墓所・供養塔を探す方に専念したいのですが‥
歴代については「史料紹介 比丘尼御所歴代」を底本?として使用しておりますが、全ての尼門跡が網羅されている訳ではないので残念です。

ところで、うっかりしていましたが、性源院が鷹司房輔の娘なら、文智女王の義理の孫ですよね。とすれば‥
文智女王が義理の孫を後継者に指名したが、横槍が入って「皇族という体裁」を整える必要に迫られた。
離縁した夫(鷹司教平)の孫が後継者として指名されたことを文智女王が嫌悪し拒否したので、霊元天皇が「皇族という体裁」を整えてゴリ押しした。
う~ん、妄想はどんどんエスカレートします。

光照院附弟の後西天皇皇女満宮が文智女王の附弟だったというのは私特製の「名簿・経歴データ」(汗;;)にはなく驚きました。記載モレかしらん。ご教示感謝です。
光照院から尊賀(尊慶?のち文察)女王を引っこ抜いた際のトレードにされたとか? 時系列を確認していないので、これまた憶測です。

養母の指定の有無の件ですが、尊統法親王は系譜やものの本によって霊元天皇の養子・猶子と記述が錯綜しています。ただ、猶子と記述された方には養母の記述もないようなので、「御猶子は御母儀はない」という不文律?は確かにあったのかもしれません。
あるいは、系譜を編纂した際に不文律?を事後的に遡って適用したため、養子・猶子の記述の錯綜を招いたのかもしれませんね。

三時知恩寺は本当に厄介です。
寺伝では、了山(称光天皇皇女) 松山椿性(後土御門天皇皇女)
「史料紹介 比丘尼御所歴代」では、了山聖智椿性(足利義教女) 松山聖槃(足利義尚女)と特定?
椿性という号?は誰のもの?
 

「性源院」について

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 3月 3日(木)16時42分35秒
編集済
  【2016.3.12追記】→更に追記しました

皆様、お久し振りでございます。
まだまだ寒い日もありますが、少しずつ春めいてきたように感じます。

私事ではありますが、弊サイトのほう、かたや、南北朝時代の天皇方、かたや、江戸時代に唯一残っている後水尾天皇を、と調べものに精を出しておりますが。
その最中に、2010年秋頃に陵墓陵印掲示板で話題に上がりました「性源院」についての記事を見つけましたのでお知らせいたします。

「性源院」についての過去記事については、2010年9月22日のはにわ様の「治定外墓「霊元天皇皇子性源院墓」が、京都市上京区清浄華院墓地にある」というご報告、それに対しての大垂水酔鳥さまの「鷹司房輔女子」説のご紹介、2011年6月23日の日誌要員さまのブログご紹介により、治定から外れたのはどうしてか等いくつかの謎が宿題となっていました。

今回発見しましたのは、『後水尾天皇実録』皇女文智の項にありました貞享4年の記事です。


是年、霊元上皇、前関白鷹司房輔ノ女ヲ新大納言局ノ養子トシテ附弟ト爲ラル、
 〔普門山年譜〕
  貞享四年丁卯、
  文智公主六十九歳の御時、鷹司前関白房輔公の女寛文上皇新大納言局の御養子として當寺御附弟に定り給ふ、于時二歳御喝食御所と称す、

   〔参考〕
 〔普門山年譜〕
  元禄三年庚午、
  文智公主七十二歳の秋、七月、御附弟の御喝食御所薨去、于時五歳、性源院と称す、


これによりますと、前関白鷹司房輔の女を霊元上皇女房の新大納言局の養子にして、文智女王の御附弟とさせた、ということになります。
文智女王の御附弟になったのが二歳、薨去が五歳の時と書かれていますので、性源院は貞享3年(1686)に誕生したことになります。
これにより、治定から外れた理由も想像がつくと思います。
清浄華院に葬られたのは、得度もしていない幼さからだったのでしょうか。

ところで、『兼輝公記』に「此人雖御寵愛依無子如此」と書かれた「新大納言局」が何故、性源院を養子とすることになったのでしょう。
新大納言局の祖父・藤谷為賢の姉妹(大政院)が鷹司教平の妾妻となり、多くの子を産み、性源院が大政院の孫であった縁ではないかと思われます。

新たに判明したことにより、更に詳しい事情をご存知でしたらどうぞご教示くださいませ。
皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

【追記】
大垂水酔鳥さま、お久し振りでございます。
性源院に関する論証をありがとうございます。
いつもながら興味深く読ませていただきました。

尼門跡寺院については主体が女性なので、私のほうのライフワークでもありますが、治定となった皇女・王女について漏れがあったことが今回判明しましたので、この記事は私にとっても幸いしました。

ところでこの時、鷹司房輔女(性源院)が附弟とならざるを得ない状況(皇女不足?)だったのでしょうか。
また、2世候補は他にも存在していたようですが、一旦は文智女王の附弟と定まった後西天皇皇女の満宮が光照院の附弟に治定変更となった理由も知りたいものです。

養母の指定の有無については、このような文章をみつけました。
『皇室制度史料 皇族一』第三節 皇族と養子 第一章 解説 の、〔勢多章甫筆記〕に、四親王は御猶子で、門跡は御養子、御養子は御母儀を定めて、御猶子は御母儀はない、と書かれています。
でも、常にこの通りにはなってはいませんし、その時の事情次第なのでしょうか。

霊元院新大納言局は、道仁法親王の他に尊統法親王(有栖川宮幸仁親王王子)を養子としています。

今回お話に出ました「了山尼」について、たけちゃん様が2006年5月10日の投稿でこのように書かれています。
「三時知恩寺了山については、称光天皇皇女・後花園天皇皇女等諸説があるようですが、多くの歴史関係図書を調査しても明確な答えが見つからないために、平成8年の秋頃、宮内庁書陵部陵墓課陵墓管理係へ「何故皇族で無い方の御墓の管理を行われているのか」と電話で問い合わせを行いました。係官の回答によると「明治期に、了山は門跡寺院の門主だったことから誤って治定が行われたようです。了山は室町期の天皇の皇女等諸説あるようですが、室町幕府8代将軍足利義政にゆかりのある方(例えば養女など)です。」とありました。」

どういう史料だったのだろうと思っていましたが、『十輪院内府記』(内大臣中院通秀の日記)、文明十四年九月三日の項にこう書かれているのを発見しました。
頭注:三時知恩寺了山聖智尼等の連枝義政を訪ふ
  「三日、入江殿以下御連枝皆被參長谷云々、有便宜、自訴事可被申之由、入江殿被仰、」

この書籍はグーグルブックスで見ることが出来ます。
「入江殿」に「了山聖智尼」とふってある箇所もありますが、同時期に通秀の姉・智周尼が「入江殿西庵」だったそうなので「御連枝」というのもうなずけます。

【2013.3.14追記】
大垂水酔鳥さま、素早いお返事ありがとうございます。

性源院が鷹司教平の孫であることをすっかり忘れておりました。
そして、霊元天皇の中宮も同じように鷹司教平の女でしたね。
文智女王が後年、東福門院と友好な関係を築いていたことからも、後者(拒否)の可能性は薄いと思いますけど・・・・

尼門跡寺院のあれこれについての話題は、陵墓関連の話題から逸れてしまいますので弊サイトに付属する掲示板のほうに書かせていただきます。
それにつきましては、準備期間をいただけますと幸いです。
 

五位野

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年 3月 2日(水)22時50分4秒
  早いもので3月になりましたが、変な宗教に入っていませんか?

先月は、札幌雪祭り、旭山動物園、網走などを旅行してきましたが、最高気温が氷点下で雪が散ついていても風さえ吹いていなければ対して寒さは感じません。


さて、1年ほど前に記しましたが、朝香宮と梨本宮と姻戚関係にあたり青山霊園に埋葬された最後の佐賀藩主鍋島直大侯爵と一族の墓所が本年1月下旬から3週間ほどかけて行われた改葬工事が終了いたしました。

わたしも連日の青山霊園通いでしたが、今後は直正公と同様に春日山の遺髪墓が本墓になることになります。

瓦礫の山とかした鍋島家の墓所を見ると淋しさを感じずにはいられませんが、旧領地で眠れることになりましたのでよかったのかもしれません。

徳川家御内室墓所、高松松平家墓所と次々に改葬されており都内で広大な墓域を維持することの困難さを浮き彫りにした感じですが、今後、護持の在り方を改めて検討する必要が急務と感じました。
 

霊宝舘だより

 投稿者:fukuyama  投稿日:2016年 1月31日(日)06時57分28秒
編集済
  http://www.reihokan.or.jp/magazine/pdf/no-93.pdf
霊宝舘だより 5ページに

嵯峨天皇の供養塔は、 『持明院蔵高野山絵図』 には、 五輪塔で、向かって右に 「嵯峨天王御墓所」、 同左に 「弘安二歳四月朔日」 と記してあったが 明治以降の絵図には行方不明とあります
 

高野山奥の院に存在した嵯峨天皇の墓石 (続)

 投稿者:永山  投稿日:2016年 1月30日(土)22時57分11秒
編集済
  紀伊国名所図会(1811~)巻之四 にも嵯峨天皇の墓石が載っていました。中の橋より奥の院方向で,山(転軸山)側の上のほうに画かれています。 今も存在するのでしょうか?
 

高野山奥の院に存在した嵯峨天皇の墓石

 投稿者:永山  投稿日:2016年 1月 4日(月)01時12分23秒
編集済
  江戸時代と思われる「高野山略図」(復刻版・出版年記載なし)に嵯峨天皇の墓石が載っていました。柴田勝家墓〈中橋付近)の近辺に存在したと思われる。  

坂之上

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年12月31日(木)03時20分42秒
  全国の同志の皆さま、今年も残すところ1日を切りましたが、変な宗教に入っていませんか?

今年も個人的に親しくさせていただいている皆さまより諸情報や諸資料をいただきましたが、最近も静岡のIさんから貴重な情報をいただき感謝申し上げます。
また、当掲示板でも同志の皆さまからの多くの諸情報にも感謝いたします。


私自身、今年も論考の制作で忙しく華族や公卿墓の新発見が皆無に近く残念な1年でしたが、来年は新たな墓碑の発見があればと考えています。

また、伝承墓の調査もできず、来年こそは近隣の伝承墓などを廻りたく考えています。

本年度はあまり陵墓関連の報告ができませんでしたが、当掲示板をご覧いただいている皆さま、来年も宜しくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年12月30日(水)00時33分59秒
  こんにちは。レプトンです。
最近投稿できてないのですが、陵墓参拝はちょこちょこしております。
秋には畝傍山周辺の4御陵と宣化陵・倭彦命墓などに何度か行きました。宣化陵の生垣のお茶の花と、倭彦命墓のカラスウリがきれいで印象的でした。
倭彦命の真ん中を横ぎる「陵墓の中道」はワクワクします。

さて、仁徳陵の記念硬貨が発売されます。
http://www.mint.go.jp/coin/prefecture/prefecture_page43.html

また陵印ネタも投稿したいと思います。皆様ことしも多くの知見をありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
良いお年を…
 

慈眼寺

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年12月11日(金)03時29分8秒
  全国の同志の皆さま、早いもので今年も残すところ3週間ほどになりましたが、変な宗教に入っていませんか?


いろいろ報告をと思いながらも論考の制作が忙しくままならない中、今週は京都・奈良へ、先月末には墓参も兼ね鹿児島の天降川(あもりがわ)温泉まで行ってきました。

温泉を堪能した翌日、霧島神宮、高千穂河原の古宮、関戸の滝を観光してきましたが、特に古宮は神代の陵墓を思わせるような厳粛な感じでとても感動しました。
ちなみに霧島神宮の宮司は、伊勢から慶光院宮司が務めています。


当初、今年の奈良行きは止めるつもりでいたのですが、どうしても妙心寺と黒谷に行かねばならないため1泊だけしてきました。

2日目は、実に15年振りに五条の井上内親王宇智陵と他部親王墓を参拝後、明日香へともどり欽明陵、吉備姫墓、天武・持統陵を参拝、今正月に舒明天皇の初葬地?ではとニュースになった小山田遺跡を思ったのですが、飛鳥養護施設内にあるため西側と東側から内部を覗きましたが、結局、何も見えず断念、その後、菖蒲池古墳、甘樫岡、入鹿の首塚、藤原京跡を廻り日没、毎年寄るお店で夕食を食べ帰宅した次第です。


そのような訳で舒明天皇初葬地?がまったく見れず残念な奈良行きになってしまいました。


その代わりというか以前から二條厚基公爵夫人の墓碑が二尊院に無いため探していたのですが、ようやく東京にあることがわかり先日、参拝してきたのがわたし自身の今年一番のヒットでしょうか。

今回も内容の薄い報告になってしまいました。
 

女二宮

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2015年11月29日(日)16時06分28秒
編集済
  おひさしぶりでございます。いのうえとろろでございます。

古い話で恐縮ではありますが、10年ほど前こちらで有栖川宮好仁親王女、女二宮の墓が元々港区の天徳寺にあったのが昭和初期に豊島岡墓地に移転云々という話が話題になりました。


で『日本歴史』2015年11月号の研究余禄「「初花肩衝」のゆくえ」に一時期女二宮が初花肩衝の所有者であったという話が載っていました。家康から松平忠直、光長、越後騒動ののち姪の女二宮が預かった経緯が述べてありました。



こんなところでめったにお目にかからない女二宮の名が…などと思ったのですが、ふと思っていろいろ検索の旅に出かけました。


宮内庁のHPに書陵部所蔵資料が一部閲覧できるのをみなさんご存知だと思われますが、そこで「高琳院宮墓、廣子墓及び貞子墓豊島岡墓地へ移転の件」という資料を発見しました。

それによれば2005年12月4日照山もみじ様のご推察どおり、復興局の道路拡張工事予定地に引っかかるため高松宮家で費用を負担し移転させるというもので、廣子妃・貞子妃墓も同じ理由でした。同資料には当時の天徳寺・東海寺の墓地図も載せてあります。



ネット上でこういう貴重な史料を見ることができるというのは、なかなか東京へ行けない・書陵部なんて敷居の高いところに行くことができない主婦にはいい時代になりました。




上記の研究余禄を読むと、女二宮が勝手不如意のため預かっていた越前家の家宝を売却したり、質入れをして問題になっています。後西院も姉の明子女王も亡くなった後の事ですから、宮家からのなにがしかの援助もなかったということでしょうか?宮様とはいえ大変なようです。







あと、本当に余談ですがどうも後南朝の例の熊沢家とわたしはどうも薄ーい薄ーい薄ーい親戚のようです。母方の祖母の母の実家がどうも熊沢家(ただし、天皇を名乗ったあの人とはつながっていないような…)らしのです。祖母の形見にあった手書きの家系図に載っていました。
ただし、肝心の祖母は鬼籍ですし、母はそういうことに一切興味のない人なので真相は闇の中です。今後伯父や親戚に聞き取りをしながらゆっくりと調べていこうと思っています。
また、何かわからないことがあったらみなさまご教授ください<(_ _)>
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2015年11月 8日(日)01時33分24秒
編集済
  ★追記★しました

私のせいで高遠さくら さまの書き込みが激減したとあっては、高遠さくらさまの門外不出的希少価値情報を心待ちにしておられる常連の方々に申し訳が立ちません。
とは言え、陵墓研究?の中断を余儀なくされている私には、まともな投稿はできません。
ただ、不思議なもので、調べようと思わなくても、ひょんなことから情報って入ってくるものですね。
ということで、この1年の間に入手した断片的情報を、今回賑やかしに書き込みます。


通りすがり さま2009年3月16日ご投稿の下鴨神社の英照皇太后の胞衣塚の件ですが、その後数年間、下鴨神社関連の本を目にする度にチェックしたものの、全く記述が見当たりませんでした。
しかし最近になって、戦前にその場所に「英照皇太后胞衣塚」とかの駒札が立っていたらしい、との伝聞情報を得ました。

スイマセン。以上です。


京都市がネットで公開している「京都市の所管区域条例に掲げられているが,資料に掲載していない町」という資料を偶然見つけました。それによると、「京都市区の所管区域条例の一部を改正する条例」(平成22年10月12日京都市条例第13号)により、現存しない「深草陵町」という地名が削除されたようです。この地名、仁明天皇「深草陵」を連想してしまいますが全く関係なく、伏見区深草西浦町にかつて存在した小字地名だそうです。
それにしても、この小字「陵」町、何て読むのでしょうか。みささぎ?りょう?おか?
実はこの深草地域はカタカナ地名が多いのです。「ヒランダ」を「平田」町に変更するなどして減ってはいますが、まだまだカタカナ地名が多いです。あくまで推測ですが、「陵」町はもとは「ミササギ」ではないかと‥ だとすると、意味深な地名ですね!

延喜諸陵式には、仁明天皇「深草陵」の他にも「中宮藤原氏後深草陵」、陽成天皇外祖母(藤原乙春)「深草墓」の記述が‥ やっぱり何か関係ありそうな‥
ついでに桓武天皇陵も。更には「大墓」。誰の墓かは諸説ありますが、この「大墓」は仁明天皇「深草陵」の東、「中宮藤原氏後深草陵」の南にあったとか。更には仁明天皇「深草陵」の南にあった「純子内親王冢」、但し塚(冢)ではなく「家」とも‥

恐らく当時は「深草村大字深草字ミササギ」と呼ばれていたこの地は、明治40年頃に買収?接収?され陸軍第16師団用地となり、住所は「陸軍京都練兵場官有地」となりますが、昭和24年7月に伏見区深草西浦町に変更されます。
私はもと地域住民で、足掛け25年住んでおり、陵墓伝承からみの地域史研究をそれなりに行い、その成果とやら(汗;;)をこの掲示板にもシリーズで書きなぐってきましたが、深草西浦町の陵墓伝承はついぞお目にかかってはおりません。

練兵場の造成に際して古墳を壊したとか‥を確認しようと、京都市遺跡地図を見ても、それらしき記載はなし‥

スイマセン。以上です。


煌子 さま、角田文衞氏の著作のご紹介有難うございます。

うろ覚えで恐縮ですが、かつての大雲寺の境内には、岩倉陵以外にも伝承地があったと記憶しますが、岩倉陵については特に記憶がなく、資料がどこに紛れ込んでいるのやら‥という現状です。
見つかって何か特記すべき件があれば報告するつもりです。何年先になるかわかりませんが‥

★追記★

かつての大雲寺の境内にあった岩倉陵以外の伝承地うんぬんを思い出そうとネット検索したところ、新たな情報を得ましたので簡単ですが報告します。

私の2008年1月30日投稿の前半部分で、伏見宮貞常親王王子・道應法親王の墓があった可能性を主張した「岩倉長谷の聖護院門跡廟所」ですが、一昨年に移転・整備されたらしく、その様子が掲載されたホームページを見つけました。

http://www.kyotofukoh.jp/report1105.html

残念ながら、道應法親王の名は記されておりません。
また、旧所在地がどうなったかも記されておらず、新旧ともに見に行きたいところですが、果たして何時になることやら。

 

昌子内親王岩倉陵について

 投稿者:煌子  投稿日:2015年11月 6日(金)18時18分58秒
編集済
  皆様、お久し振りでございます。
いつもご教示ありがとうございます。

過去に掲示板でお約束した角田文衞氏の著作をゆっくりとではありますが読み進めています。
その中に、陵墓に関連したものがありましたのでご紹介いたします。


角田文衞著作集 第四巻  『王朝文化の諸相』の 260頁 「大雲寺と観音院-創建と初期の歴史-」より。
(この論考は昭和43年に出版された『若紫抄』に掲載されたものの再掲です)

大雲寺は、もとは愛宕郡小野郷の石蔵(いわくら)に建立された寺院で、現在は京都市左京区岩倉上蔵(あぐら)町に所在しています。
大雲寺内にあった観音院は早くに廃絶しましたが、紫式部日記にも書かれているように、寛弘年間には非常に格式の高いお寺でした。
角田氏によると、観音院の創建は天元二年頃で、本願は昌子内親王(朱雀天皇皇女、冷泉天皇中宮)です。

「ところで、同じく岩倉上蔵町に所在する門跡寺院・実相院に伝えられている『大雲寺絵図』(註)は、天文焼失以前の写実的な伽藍配置図を江戸時代後半期に忠実に模写したものである。この絵図によると、本堂は現在の大雲寺の本堂の位置にあり、また現在の昌子内親王陵の処には、法華、普賢の二堂が描かれており、現在の実相院の敷地には成金剛院が配されている。いま大雲寺を管理している実相院の口伝によると、昌子内親王の陵は、もとは大雲寺経蔵の西手の、現在、神羅大明神社の鎮座する処にあったが、明治時代に行われた山陵整備の際、現在地に移葬されたものであるという。『小右記』長保元年十二月五日条は、内親王が観音院内に葬られたことを明記している。従って観音院の敷地と大雲寺のそれとが重なることは、まず確実と言ってよかろう。」
(註)島津草子『成尋阿闍梨母集・参天台五臺山記の研究』(東京、昭和三十四年)の巻頭図版に原色で印刷されている

以上は、上記論考より。

     -----------

その『大雲寺絵図』が公開されているHPがありました。

・「日本の塔婆3」
  http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2009to/daiunjiezu.jpg
  ↓こちらは、石座神社・岩倉陵・大雲寺と書かれた絵図
  http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2009to/daiunji02.jpg

・「かげまるくん行状集記」
  http://www.kagemarukun.fromc.jp/page004j.html
  (カラーで公開されているものもありますが、白黒のほうが文字が少し見やすいです)

     -----------

昌子内親王の最初の陵墓は、昭和43年当時新羅大明神社があった場所だったと角田氏は述べています。
では、現在の大雲寺の周辺の様子はどうなのかといいますと、「京都観光旅行のあれこれ」さまのブログによると、昭和60年頃に金銭トラブルの末、以前の大雲寺境内は更地になってしまったそうです。
現在の大雲寺の近くに北山病院があり、その辺りが、かつての大雲寺の境内だったとあり、ブログ「京都観光旅行のあれこれ」には閼伽井(別名・智弁水)や、古びたお堂、不動の滝の写真が載っています。
http://kyotohotelsearch.com/blog/2014/05/23/daiunjikyukedai/

別の「第二京都主義」さまのブログでは、違う方面の話題の中で、大雲寺について詳細に書かれています。
新羅大明神社が現在も存在しているか不明ですが、もとの大雲寺の本堂跡に建っているのが老人保険施設「紫雲苑」とのことです。
『大雲寺絵図』で新羅大明神社を探すと、本堂より左手下に塀で囲ってあるところになりますから昌子内親王の陵墓の初葬地は北山病院のかなり南西に行った辺りではないかと思います。

明治の山陵整備では、このように陵墓を移葬することが多かったのでしょうか。
浅学で申し訳ないのですが、明治の山陵整備について書かれた書籍を2冊読みましたが、天皇以外の陵墓について詳しくは載っていませんでした。
現地を御覧になった方々の目には現在の昌子内親王の陵墓はどう映られましたでしょうか。

これについてはかなり長い間校正を重ねていましたが、時期を逸しそうだったので投稿いたしました。
ですが、的外れな文面がありましたら申し訳ございません。
今後とも、よろしくお願いいたします。

《2015.11.9 追記》
大垂水酔鳥さま
お久し振りでございます。
先ず1冊読みましたが、今回は岩倉陵についてだけでしたので、他の伝承地があったと記憶されている大垂水酔鳥さまの博識には本当に感服いたします。
角田氏の著作で探すべき陵墓は岩倉陵ではなかったので、また何か発見出来るように頑張ります。
 

谷山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年11月 4日(水)02時59分33秒
編集済
  全国の同志の皆さま、早いもので今年も残すところ2ヶ月になりましたが、変な宗教に入っていませんか。

今年も何かと忙しく現在、論考の校正作業に追われておりますが、まだまだ時間がかかりそうです。


先月には3年振りに山口まで10日間、調査に行ってまいりましたが、奇跡的に全く雨が降らず萩毛利家、長府毛利家、清末毛利家、厚狭毛利家、阿川毛利家、千束小笠原家などを調査してきましたが、今回の主目的は尼子家の墓碑調査でした。

いつも山口調査では小郡に宿泊していたのですが、周遊券が廃止されたこともあり今回は下関に宿泊しましたが、下関は目の前はすぐ海だし、九州もすぐ近くだし、暖かいし実にいいところです。

安徳天皇陵はホテルからも近く4日も参拝、その他、専念寺、勾金陵墓参考地も参拝しましたが、残念ながら伝承地へはまったく行けませんでした。

そのような訳で特別、報告するような内容ではないのですが、近況報告という感じで書き込みした次第です。

どうも大垂水酔鳥さまの報告が無いと張り合いが無く当方の書き込みも劇減気味ではございますが、今後も宜しくお願いいたします。

★ ★ 大垂水酔鳥様 ★ ★

気長にご報告をお待ちしております。

落ち着いたらメール入れます。
 

神武陵印~東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年10月18日(日)16時24分49秒
編集済
   お久しぶりです。レプトンです。

 表題の掛け軸(印刷物)に神武陵印が押されています。昭和期に長く使われたものとは別の印です。(写真上)この印の意匠は5月24日に投稿した弘文天皇陵印と同じです。
 同じ軸に明治陵印も押されています。こちらは昭和の初め頃に捺印された集印軸などで押されているものが何例かあります。(写真下)
 陵印の使用時期は昭和3年には使われていたことは資料で確実ですが、この資料は陵印の使用時期が大正末期に遡れるかもしれないという考えの証拠となりそうです。
 東宮というのは後の昭和天皇のことで、御結婚は大正13年です。この印は大正13年を中心に短期間で捺印され印刷されたものと考えるのが自然と思います。(当時新聞社の企画で結婚を祝い全国の神社を参拝するというのがあったようです。その時に同様の集印軸も作られたようです。今回のものがそれと同じものかどうかは確認できていません。でも同じような性格のものであり、集印し印刷し、販売?頒布?するのに何年もたってからということは考えにくいです。)

話は変わりますが・・・
最近奈良県北部はナラ枯れの被害が大きく、森や林には赤茶色に枯れてしまったナラ・ブナ・クヌギが目立ちます。陵墓のすぐ横でもナラ枯れしている所があります。陵墓内にナラ枯れの被害を受ける種類の樹木がどの程度あるかわかりませんが心配です。緑の陵墓は清々しいです。ナラ枯れの被害が陵墓内に及びませんように・・・またもし陵墓にも被害が出るようならナラ枯れの対策(原因となる虫の防除・侵入を防ぐなど・・・生駒市は実施しています)も必要となるのでしょうか。



DADA様へ
 御陵印がきっかけで陵墓巡りを始められたんですね。私は古墳→陵墓→陵印の順序でしたが、今も陵墓巡り(ほぼ奈良県内限定ですが)をしています。これからもよろしくお願いいたします。


 

勉強させていただきます

 投稿者:DADA  投稿日:2015年10月16日(金)20時03分40秒
  お世話になります。

このところあれこれと質問してすみません。
もともとは御陵印の存在を知って、陵墓めぐりを始めたのですが、
調べると毎回こちらの掲示板にたどり着き、そのつど参照させていただきました。
皆様大変お詳しい方ばかりで、頭が下がる思いです。

目下のところ、
こちらの掲示板をさかのぼって一から拝読させていただいております。
皆様に失礼のないよう、勉強させていただきます。

今後ともよろしくお願い申し上げます。
 

坂門原南陵

 投稿者:DADA  投稿日:2015年 8月16日(日)06時16分6秒
  お世話になります。
連日暑い日が続きます。

さて、貴サイト『新撰陵墓志(仮)』に記載の
> [履中天皇皇孫女飯豊天皇]
> 藤井寺市西浦 坂門原南陵(詳細不明)
について、詳細をご教示いただきたく、投稿いたします。

『扶桑略記』にその記述があることまでは分かったのですが、
現在のどの位置にあることが想定されているのか、
当方でははっきりとわかりませんでした。

上記住所では清寧天皇陵があるのみで、ほかにそれらしい古墳が見当たりません。

このあたりの点について、現在どこまで判明しているのか、
ご存知のことがありましたら、教えていただきたく思います。
 

Re: 洞の丸山&生玉明神社

 投稿者:DADA  投稿日:2015年 7月13日(月)20時23分45秒
  ぽん様

ご返信ありがとうございます。
とある団体の見学に同伴させていただいたもので、幸運でした。

さて、『陵墓地形図集成』では、
「四一八号」の西に石柱が明記されています。

ですので、ご指摘いただいている「四二八号」北の高まりとは別と思われます。

しかしながら、丸山を御神体に「生玉明神社」が存在している、
というのは鋭いご指摘ですね。たしかにそうだと思います。
そうなると、その位置関係から場所を推測するほかないのでしょうか・・・。
 

洞の丸山&生玉明神社について

 投稿者:ぽん  投稿日:2015年 7月13日(月)01時34分52秒
編集済
  ☆DADA様、お問い合わせありがとうございます。

 洞の丸山を訪問されたんですね。
 小生は、残念ながら現地探訪を果たしていない為、詳細についてお話し出来ませんが、津久井清彰『聖蹟図志』の「畝傍山北面」図に「丸山」を背後(西側)に構える「生玉明神社」が(東向きに)描かれており、少なくとも「丸山」を祀る(御神体として拝む)為の「生玉明神社」が存在していたのは間違いありません。
参照「月の光」http://www.tukinohikari.jp/jinja-nara/ka-ikutama/05memo.html
参照「邪馬台国の会」http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku226.htm
参照「まれびと」http://www.geocities.jp/marebit/horamura.html

 その位置については、多くのサイトが写真掲載している「宮」刻字された柱6本が立つ箇所(高まり)、具体的に言えば、陵墓地形図「畝傍陵墓地」の下部(兆域西南部)にある「四二八号」標柱のすぐ北側、標高「83.8(メートル)」表示がある高まり(円丘)が「丸山」であり、そのすぐ隣(東側)の平地が「生玉明神社」跡だと言えます。

 ちなみに「丸山」をとらえた画像(写真)は、多くが前記のとおり「宮」刻字された標柱をドアップしたものばかりで「丸山」全体像をとらえたものは、あまり見かけませんが、辛うじて
「Hage Choroge」http://audrey-hotaru.blog.so-net.ne.jp/2008-03-19
「こうかくろうの小龍包」http://www7b.biglobe.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/takakuraji/takakura5.htm
掲載の写真が、それぞれ「丸山」全景をギリギリとらえてるように感じます。

 なお
「邪馬台国の会」http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm
が記載し、多くの人が引用(借用)している「丸山宮址」の位置は、前記したとおり『聖蹟図志』あるいは『陵墓地形図』の記載から考えて、誤り(錯誤)だと思われます。

 取り急ぎ、御参考まで。

http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

あの・・・

 投稿者:通りすがり  投稿日:2015年 7月13日(月)00時40分44秒
編集済
  神武陵の旧洞村所在地付近は立ち入り禁止区域だったはずですが・・・  

畝傍山東北陵

 投稿者:DADA  投稿日:2015年 7月11日(土)13時10分34秒
  お世話になります。

先日、神武天皇陵を参拝いたしました。
その折に、2015年3月20日にぽん様がご投稿された候補地を訪れました。

候補地のうち、

・洞の丸山(丸山宮址、御陵山)
・生玉神社(生玉社、生玉明神社)跡

については、
両者の区別がわからず、訪問時もわからないままでした。

神武陵の南、畝傍山の尾根に位置する上記候補地ですが、
多く紹介されているのが、
「宮」の文字の彫られた6本の石柱に囲まれた場所です。

事前にWebページや書籍を参考にしたのですが、
この場所を「丸山」とする意見、「生玉神社」とする意見が混在しており、
いったいどちらを指しているのか、わからずじまいでした。

また、『洞村の強制移転』においては、
「旧洞村跡にのこされた生国魂神社礎石」という写真があり、
上記の「宮」とは異なるものが指摘されています。
しかしこの礎石を現地では確認できませんでした。

この二つの候補地について、
どなたか詳細をご存じないでしょうか。
ご教示いただきますと幸いに存じます。
 

皆さま、どうしましょう?

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2015年 7月 9日(木)10時28分50秒
編集済
  皆さま、どうしましょう?

道寛親王墓への行き方の件ですが、いくつか懸念があって‥ 余計なお世話なのかもしれませんが‥

ご紹介されている覚勝院ルートですが、私が2008年10月に行った時には、通路の入口付近、地図に表示されている「唐院」の上のあたりでロープが渡されていて、正確な文言は忘れましたが「関係者以外立入禁止」のような掲示がありました。
その数ヶ月後?に行った時も同様でした。

2009年以降に行かれた方、どうでしたか? 工事か何かで、一時的に通行が制限されていただけなら良いのですが‥


「行き止まりの広場のような所」ですが、少しづつ拡張?延長?していると思われ、注意が必要かもしれません。

河内男 さま2006年11月23日ご投稿には、下記の説明があります。

ここは車が回転できるように少々広くなっていて、伐採した木などが積まれてありました。最奥部の立ち木に『墓参道入口につき木材を置くな』という意味の表示があり、ここから山中に入っていく山道がありました。ここを入り、すこし下ってすぐ上がる小さな窪地を越え、左方向への山道(雑草がかなり生い茂って見えにくいです)を登っていきました。≪中略≫ 歩くこと2、3分ほどで右手に突然墓地が現れました。
≪引用ここまで≫

上記によると、広場の最奥部から山中に入っていく山道に入り、すこし下って」という経路ですが、2008年10月時点では広場の真横からいきなり下り坂の獣道となっていました。2年間で広場が奥へと拡張されたのか、或いは下り坂の道が付け替えられたのか?? また、墓参道入口うんぬんの表示は見当たりませんでした。


と書くと、私が「関係者以外立入禁止」を無視して通行した、と暴露しているようなものですが、実は違います。

大垂水酔鳥の2008年10月28日投稿には、下記のようにあります。(笑;;)

「道寛法親王墓→永悟法親王墓を約10分でゆける近道があるにはあるのですが、かなりの悪路で、雨の翌日などは歩けたものではありませんし、急斜面の獣道もありお薦めできません。木の幹に赤いスプレーがかけてあったりするので、廃道ではないようですが。」

もし今後、覚勝院ルートがダメとなった場合、上記ルートを使うしかないのですが、悪路・急斜面の獣道よりも深刻?な問題があって、今まで掲示板での書き込みを控えていました。実はこのルート、園城寺長吏の歴代墓域?の傍らを通行するのですが、ここは明らかに円満院の非公開エリアなのです。

皆さま、永悟法親王墓を探し求めて右往左往した時、大津市歴史博物館の南側に円満院の表札のある怪しげなゲートがあるのを発見して、この奥だ!と早合点した経験がありませんか? 実はこのゲートは園城寺長吏の歴代墓域?に至る参道の守衛所なのです。守衛所があり、立入を願い出ても却下される以上、明らかに非公開エリアですよね。
ところで、永悟法親王墓への経路が尋常ではないことは、行かれた方はご承知の通りで、大津市歴史博物館の西側の東海自然歩道から山中に分け入るあたりは、どう見ても正規の山道ではありませんよね。
そうです。永悟法親王墓のある円満院御殿山墓地も、園城寺長吏の歴代墓域?から参道で繋がっており、守衛所の管轄下にある非公開エリアなのです。まあ、陵墓参拝者のために円満院が不正な経路での侵入を黙認しているということでしょうか。
以上は大津市歴史博物館付近で偶然会話した、地元の古老のお話を踏まえた書き込みですが、円満院の公式見解はどうだかは知りません。

ということで、冒頭に戻ります。

もし、道寛親王墓への覚勝院ルートがダメとなった場合、永悟法親王墓→道寛法親王墓の経路を、私はここで紹介すべきでしょうか?

覚勝院ルートがダメではないと判明した場合は、この件をこれ以上書くつもりはないし、この投稿も削除します。


以下、蛇足です

道寛親王墓への行き方ですが、明治時代?には4or5経路もありました。南から順に概説します。

A覚勝院ルート
 この経路がいつからあったのかは不明。B善法院の廃絶後かもしれない
B善法院ルート
 善法院は覚勝院の上にあった寺。現在は廃絶し、2002年時点では寺跡は藪となっており、庭園の石碑が残っていました。
 庭園の奥から山道の痕跡らしきものを登ると、道寛親王墓へと続く尾根道に出ました。
C円満院守衛所ルート 上記の非公開エリアの話です
D永悟法親王墓ルート 上記の非公開エリアの話です
E尾根道連絡ルート?
 20年くらい前に、滋賀県内の図書館で見た古書のなかに、道寛法親王墓-永悟法親王墓の尾根道ルートの存在が示唆される
 記述を見つけ、2002・8年に山中を徘徊したのですが確認できませんでした。
 但し、2008年時点でも道寛親王墓から東への尾根道はかなり良好、永悟法親王墓のある墓地の最上部から西への獣道らし
 きものもそれなり?に残っており、あとはこの両者を南北に結ぶ250m程度の区間で、地形図を見ても標高差は殆んどなく、
 このくらいの藪漕ぎならその気になれば突破可能ですね。(笑;;;)
 もし、覚勝院ルートがダメとなった場合、尾根道ルート開拓の為のオフ会でも開きますか?? 私は参加できませんが(汗;;;;;;;;;)
 

後水尾天皇皇子 道寛親王墓

 投稿者:fukuyama  投稿日:2015年 7月 8日(水)20時45分49秒
  三井寺の西の山の中にあり、探すのが困難でした。

覚勝院へ行く道を西へと進み、行き止まりの広場のような所から
降りて行く 小道を進み西へと行くと あったのですが
私も2007年以来 参拝しておらず もしかすると周りの様子が
変わっているかもしれません。

地図で 楕円でかこっている辺りが そうだったと思います

 

行き方が分かりません

 投稿者:なべさん  投稿日:2015年 7月 7日(火)20時30分27秒
  初めまして、全国の陵墓を訪問しています、主なところは終え
今は、各皇太子ですが 先週の日曜日に丹波 大津と行きましたが
道寛親王、2時間余り探すもわかりませんでした、歴史博物館の係り
の人に聞き、又、三井寺の人に聞いても解かりませんでした、
宜しければ 教えてくださいますか。
 

Re: 拙サイト『新撰陵墓志(仮)』について

 投稿者:DADA  投稿日:2015年 6月21日(日)18時31分10秒
  ぽん様

お返事ありがとうございます。
この掲示板ともども、いつも拝見しております。

皇族の陵墓をぼちぼちと回っています。
関西方面に多く伝承地があるようでしたので、
京都や奈良にも訪れたいと思っています。

もし可能でしたら、京都(市内)と奈良について、
ご存知の情報をご教示いただけますと幸いに存じます。

ちなみに先日は、向日市の物集女車塚古墳の一般公開に参加しました。
 

拙サイト『新撰陵墓志(仮)』について

 投稿者:ぽん  投稿日:2015年 6月20日(土)19時49分21秒
編集済
  ※ 一部修正しました。

皆様、いつも大変お世話になります。

さて、小生が管理する『新撰陵墓志(仮)』について、お問い合わせがありましたので、この場をお借りして公開の形で回答します。

☆DADA様、お問い合わせ(メッセージBOXへのご連絡)ありがとうございます。

 拙サイト『新撰陵墓志(仮)』は【治定】[非治定]あるいは探訪済・未探訪の如何を問わず、何らかの伝承が残る(文献等に記載された)陵墓関係箇所について、小生がコツコツと集めてきたデータを、備忘録的に仮(借り)スペースにてアップしている極々私的なサイト(陵墓関係データ集)です。

 お問い合わせ頂いた東京都と奈良県、そして京都府(市内)につきましては、小生の手元に微々たるデータは御座いますが、パソコンの不具合および小生自身の体調不良が続いている為、現在は無期限で更新中断(一時停止)しており、アップの予定は当面ありません。
 ご期待に添えず大変申し訳ありませんが、ご了承下さい。

 なお、東京都と奈良県、京都府(市内)に所在する個別箇所のお問い合わせには(この掲示板上にて)可能な範囲で随時お答えします(なお、小生より詳しい情報をお持ちの方が多数いらっしゃいます)ので、お気軽にコメント頂けると幸いです。

 今後よろしくお願い申し上げます。

http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

弘文天皇陵旧陵印

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年 5月24日(日)10時38分11秒
   こんにちは。レプトンです。奈良の陵墓は新緑に輝いています。
 弘文天皇陵の旧陵印2種類です。上の方は昭和の極初期頃に捺印されたと思われます。下の方はその後長く使われたものです。
 
 

安閑天皇陵の旧陵印2種類です。

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年 5月 6日(水)21時05分37秒
   こんにちは。お久しぶりです。皆様GWはどのようにお過ごしになられましたか?私は奈良公園に藤の花を見に行きました。その後急に歩きたくなり、夕方から桜井を目指して歩き始めました。白毫寺付近で夕日が沈み、黄昏ていく空を眺めていました。満月がのぼり、そよ風に励まされ奈良から天理まで歩いて歩いて、途中真っ暗な崇道陵を見たりしました。結局家族の病気で、すぐ帰るようにとの指令が来て最終電車で天理から帰宅することになり、夜間の山の辺の道踏破の夢は次回に持ち越しとなりましたが…
 この春から陵墓の近くを通ることが多く、平城陵・垂仁陵・安康陵など行きました。職場からも垂仁陵が見え、安康陵の前を通って帰宅しています。


 写真は安閑天皇陵の旧陵印です。1枚目が極初期のものです。文字・大きさなどは安閑皇后陵のものと同じような感じです。2枚目と3枚目は昭和時代に長く使われたものです。以前も問題提起しましたが、同じもののように見えますが、微妙に違うような気もします。GW中に今マンでの資料を時間をかけてみていると、三条陵(三条院陵でないもの)に2種類、安徳陵印に2種類あることに気づきました。

 ぽん様
お久しぶりです。舒明陵の改装前の墳墓のニュースですが、おっしゃる通り、今では墳丘ではないのでないかとの見方が強くなっているような感じです。舒明陵とのトーンがグーンと下がってきている感じです。また今後もよろしくお願いいたします。陵墓についてのお尋ねはやはりぽん様の出番だなと思っておりました。

 高遠さくら様
こんばんは。以前話題になった地下の喫茶店「黄色いニンジン」ですが、1月に行こうと思い行ってみたら、居酒屋さんになっていました。お店は何年か前に閉められて看板だけがまだあったようです。また奈良にお越しの際は、奈良を堪能してくださいね。 
 

宇宿

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年 5月 5日(火)14時09分40秒
編集済
  早いもので今年もGWに突入しましたが、変な宗教団体に入っていませんか。

3月末にようやく完了いたしましたが長編の報告書の制作で忙しく、本年初の書き込みになってしまいました。
現在、先送りしていた小論文の制作中ですが、本年も宜しくお願いいたします。


そのような訳で新情報などはありませんが、先日、谷中霊園の徳川家墓所を見に行ったところ宮家出身の4将軍の御内室墓や灯籠など何もかも無くなっていました。
寛永寺の境内に散在していた古墓同様に、今後、どのような形で戻ってくるのかは興味深いところですね。

また、レプトンさまが書き込みされた舒明天皇の初葬地滑谷岡?に関しては、あと1ヶ月早く報道されていれば、昨12月に見学できたのにと残念に思っています。


レプトンさま

すでに閉店ですか・・・・残念です。
何せ、高校の時のことですから遠い記憶の彼方のことですが、やはり淋しいです。

奈良好きでも奈良派と飛鳥派がありますが私は飛鳥派なため、このところ市内は御無沙汰でございます。
昨年、宿の奥様に、なぜ飛鳥ではなく明日香なのかという経緯をお聞きいたしましたが、色々と複雑な事情があるんですね。
 

はじめまして

 投稿者:時空天女  投稿日:2015年 4月20日(月)22時55分33秒
  GW中に尹良親王のお墓巡りをする計画中です。
貴掲示板の記事が大変参考になりました。ありがとうございました。

http://yaplog.jp/girls2014/

 

舒明天皇 押坂内陵

 投稿者:路傍人  投稿日:2015年 4月 8日(水)04時04分8秒
編集済
  お立ち寄り、有り難うございます。

第34代舒明天皇 押坂内陵、 参拝ブログ投稿記事について
コメントを頂戴し、重ねて有り難うございます。

出典を記載せず、大変失礼な記事で申し訳ありません。
一連の陵墓参拝記事は「Wikipedia」から学び、転載しております。
どうぞ、ご了承下さいますよう、お願い致します。

http://http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/44314394.html

 

畝傍山東北陵&舒明天皇滑谷岡陵

 投稿者:ぽん  投稿日:2015年 3月20日(金)02時11分57秒
編集済
  ※三たび追記しました。

二年ぶりになります。
四国に越して以降、多忙と体調不良が重なり、拙HP(パソコンの不具合から、現在も更新停止中)はおろか、掲示板の書き込みも途絶えていました。
取り急ぎ、簡単にコメントします。

☆鈴木晶 様、お初にございます。

 神武天皇畝傍山東北陵については、ご指摘頂いた通り、

・山本ミサンザイ(神武田、ジブデン、神武堂廟社之地、美賛佐伊)【治定】
・洞の丸山(丸山宮址、御陵山)
・四条塚根山(塚山、福塚)【治定・綏靖天皇陵】
・スイセン塚(水仙塚、スイセイ塚、主膳塚、綏善山、鳥田丘)
・山本八幡神社(八井神社、山本氏神、神八井耳命祭所)

が挙げられていますが、洞の丸山から東側に位置する

・生玉神社(生玉社、生玉明神社)跡

についても可能性が指摘されていますので、これを含めると6カ所になりますね。
(参照)
「神奈備にようこそ」http://kamnavi.jp/as/taketi/ikutama.htm
「月の光」http://www.tukinohikari.jp/jinja-nara/ka-yawata-yai/

 なお、洞の丸山&生玉神社(跡)については、現在、畝傍山東北陵域内(西南側)に取り込まれており、事実上、治定されたとも言えるでしょう(苦笑)

 また、これとは別に、桜井茶臼山古墳を神武陵とする学説等もありますが、ここでは割愛します。

 余談ながら、井上赳夫著『神武天皇古陵の発見!』には、スイセン塚(慈明寺町435番地)の近く(天神社裏山)にある「オコリ石」と呼ばれる古碑から「神倭伊波禮毘古墓」を発見した旨記されていますが、一連の画像解析関係による被葬者推定論共々、学術的にほぼ黙殺されています。

☆レプトン様、お久しぶりに御座います。

 舒明天皇滑谷岡陵については、これまではいずれも高市郡明日香村に所在する

・冬野字ウバソク(優婆塞)の古墳(ウハソク森、亀山天皇皇子良助親王冬野墓の地?)
・冬野字天野(テンノ、テンノウ) 出鼻の岡
・畑字ナメリ谷 フシヨガミ(伏拝)、鉄砲塚(テッポウ塚)

のいずれかの可能性が指摘されていて、池田末則著『飛鳥地名紀行』148ページに(木村源次郎翁の話として)「波多の宮(波多神社)は由緒ある氏神さんで(中略)「ナメリ谷」はこの山の裏で(中略)あの絶頂が「伏拝」「テッポウ塚」です。「テンノウ」はウバソク(良助親王墓)の下にあり、舒明さんの御陵と聞いています。」と記され、また、
(ここから三たび追記)
金本朝一著『磐余・多武峯の道』160ページに「陵跡は、冬野字天野(てんの)と呼んでいるが(中略)良助法親王冬野墓から西へ下った台地で、現在(昭和52年発行)では民有地になっている。」と記され、同じく
(追記ここまで)
金本朝一著『万葉・歴史のふるさと 飛鳥の道』65ページにも「冬野墓から少し西へ下った台地状の天野(てんの)と呼ばれる小字の地が、陵地であったといわれる。」と記されています。

(ここから追記)
さらに『明日香村史 上巻』81~82ページには「滑谷岡の陵は冬野の良助法親王の墓に近い「天野」の地が比定されている。この説は日本書紀通証以来みえるが、根拠は確かでない。」と記される一方、『明日香村史 中巻』697ページには「通證云、滑谷岡在冬野、翌年改葬于押坂陵」と記され、同じく699ページには「畑 小字(中略)ナメラ ナメラガ谷」記載があり、
(追記ここまで)
いずれも冬野墓に近い地点だった可能性を示しています(天台座主等を務め、多武峯の清浄院に入ったにも関わらず還俗した良助親王が隠棲の地に冬野の四軒茶屋を選んだのは、滑谷岡の側だった事を認識していたからだと妄想してます)。

(ここから再度追記)
 なお「出鼻の岡」については、前掲『飛鳥地名紀行』や『万葉・歴史のふるさと 飛鳥の道』そして『明日香村史』等の文献、あるいはネット上の情報にはほとんど見当たらず、もともとの出典や出所が不明であり、念のため、同名称を初出(2010年)させた(ネット上の「出鼻の岡」記載は、全てこれに倣っている)と思われる
「道端の出会い」http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/44314394.html
に問い合わせたところ「Wikipedia」との回答がありました(路傍人様、ご回答ありがとうございます)。
(追記ここまで)

 今回発見された小山田遺跡(明日香村川原410番地)の方墳跡?については、亀石の北西、菖蒲池古墳の東、野口王墓古墳の北側に位置しているとはいえ、規模の大きさだけに捉われて滑谷岡陵だと語られちゃってる(先走っちゃってる)印象も正直ありますし、これでは、巨大古墳をのべつ幕なしに治定しまくった江戸・明治期の発想と何ら変わらないような感じがしてなりません(苦笑)。
 むしろ、甘樫丘との位置関係から考えると(菖蒲池古墳とのペアで)蘇我蝦夷・入鹿父子の大陵・小陵あるいは、蘇我氏関係の奥津城と考えるのが相応しい気がしています。

 とりあえず、遺跡を保護した上で埋め戻される方針が決まったようなので、今後の研究や慎重な考定に期待したいものです。

☆可怜小汀様、お初に御座います&亀レスにて恐れ入ります。

 「マヨワ王ノ墓」については初耳です。
 当然、小生も詳細な情報を持ち得ていませんが、仁徳天皇皇子大草香皇子墓については、

・石上大塚古墳(天理市石上町平尾字大塚1088番地)

とされている(ただし、6世紀中頃から後半の築造と目されてるので、時代的には不合です)のは御存知かと思います。

 ところで、野淵龍潜編『大和國古墳墓取調書』に「第138号」として、石上大塚古墳にほど近い

・大字石上字ミヤミヶ尾1218番

の古墳(高さ1間5分、根廻21間)が記録されており、地名が目弱王(眉輪王)の転訛ではないかと考えたんですが、かなり苦しいですね。

 ちなみに、同地について『大和國古墳墓取調書』は、丙号(所伝・考古資料の拠るべきものがないため、考定する方法がないもの)に区分しており、仮に何らかの伝承等があれば、同書に記録されていたはずなので、やはり難しそうです(苦笑)。
 今後よろしくお願い申し上げます。

☆『おへんろ。~八十八歩記~』

 四国に越して体調を崩してからは、仕事以外は基本引きこもりな生活を送っていて、テレビとりわけ旅番組漬けになっています。

 その中でも、徳島新聞の連載企画(記事)をきっかけに、アニメと実写のコラボ(合成)による新感覚の旅情報番組として、四国を中心に昨年5月から(現在はBSフジやネット配信等でも)放送されている『おへんろ。~八十八歩記~』にのめり込んでいます。
http://www.ufotable.com/ohenro/
http://www.ohk.co.jp/ohenro/index2.php
http://www.bsfuji.tv/top/pub/ohenro.html

 四国霊場八十八か所の実写映像に乗せ、アニメキャラ(3人の女子高生)が道中にある様々なスポットを巡り、お寺周辺の名所やグルメ情報をコミカルな会話を交えて紹介していて、キャラの中の人(声優さん)出演のイベントは、毎回話題を呼んでいます。

 四国霊場八十八か所やその道中は、いくつか陵墓関係のスポットを有するも、番組ではなかなか紹介されずにずっとヤキモキさせられていましたが、ようやく最近の放送(第41話、2月28日放送)で

81番札所・白峯寺の崇徳天皇白峯陵
83番札所・一宮寺の一宮御陵

が紹介されました。

 特に、一宮御陵は「江戸時代に田村神社から移された、孝霊天皇、百襲姫命、五十狭芹彦命の三神の宝塔」のナレーション付きで画面一杯に映し出され、なかなか美味しかったです。
 ちなみに『おへんろ。~八十八歩記~』本放送は、この土日(28日&29日)放送で結願(最終回)となりますが、BSフジやネット配信では追っかけ放送が続きますので、よかったら。

http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

閑院宮家

 投稿者:名無し  投稿日:2015年 3月 1日(日)23時44分26秒
  初代直仁親王より一度絶家となる愛仁親王までの閑院宮家出自の方で陵墓が治定されているのは32方です
31墓とあるのはそのうち慶光天皇の陵を除いた31方分ではないでしょうか

また、「角」は、今でも「5センチ角」などと使うものではないのでしょうか
 

閑院宮

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2015年 3月 1日(日)17時38分15秒
  おひさしぶりです。いのうえとろろでございます。みなさまお元気でいらっしゃいますか?私は花粉症が絶好調(?)です。


そんな中ひさしぶりに小田原へ行き、旧田中光顕別邸「小田原文学館」で行われた展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」へ行ってまいりました。

閑院春仁氏が小田原に寄贈された閑院宮ゆかりの品が展示されています。



メインは載仁親王と春仁王ゆかりのものですが、初めに閑院宮の紹介がありその中に「閑院宮家御歴代御墓所御寫眞帖」(小田原市立図書館蔵)がありました。

物は蛇腹織のものでちょうど御朱印帳のグレードの高いもののような感じです。

展示されていたのは直仁親王御墓の分で、大正にとられたと思われる写真と御墓に刻まれている文、そして塔笠や塔身・周りの欄干の細かな大きさが手書きで記されていました。

ちなみに刻文は

正面 摩尼浄院尊儀
背面 寶暦三癸酉年夏六月初三日

です


塔身などの長さの数字の書き込みに「角」という単位?が書いてありました。(正確には角の中央の縦棒が突き抜けている)「甬」にも見えますがこれは容積の単位ですので違う気がします。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授ください。

キャプションには閑院宮家の31墓分が載っているとありました。明治に入ってからの分を含んでいるのか、家女房の分も含んでいるのか、非常に気になります。
 

神武陵候補地

 投稿者:鈴木晶  投稿日:2015年 2月13日(金)11時48分58秒
  ご存じの方がおられたらご教示願いたいのですが、神武陵候補地について、安本美典氏は六ヶ所あったとその著書「大和朝廷の起源」で記しています。神武田、丸山、塚山の有力な3カ所に本居宣長が一時主張したスイセン塚古墳を含めても4カ所ですが、残り2カ所はどこを指しているのでしょうか?畝傍山の北側で可能性がありそうなのは後は八幡神社(神八井耳命墓?)くらいで、残りの一カ所は全く見当がつきません。ご存知の方がおられましたらご教示下さいますようお願い申し上げます。  

新聞記事~舒明天皇初葬地?

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年 1月16日(金)18時05分17秒
編集済
  あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
新聞等で報道されている内容です。
 明日香村で大型方墳(明日香村最大)が発掘調査で発見。舒明天皇の初葬地 滑谷岡の可能性

奈良新聞の記事です。
http://www.nara-np.co.jp/20150116090450.html
 

南鹿児島

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年12月31日(水)03時51分46秒
  全国の同志の皆さま、今年も残すところ1日となり改めて1年の早さに驚かされますが、変な宗教団体に入信していませんか?

今年も、わたしが個人的に親しくさせていただいている同好の方より多くの諸情報、諸資料などご教示いただきまして大変、感謝しておりますが、当掲示板での同志の皆さまからの情報に関しましても毎年、参考にさせていただいており感謝申し上げます。


今年は、調査報告書の制作に追われた1年でしたので、残念ながら新華族家や公卿墓の新発見には至りませんでしたが、来年こそ新たな墓碑の発見があればいいのですが・・・

先週は、10年以上前に撮影したHi8ビデオの一部をDVDにするのに3万円、大垂水酔鳥さまと同様に「陵墓地形図集成」中古本の購入に14000円と出費が続いております。


今月の初旬には、1週間ほど奈良へ行ってまいりましたが、初日に京都、4日目には高野山まで碑銘などの確認と写真の撮り直しのため遠征してきましたが、奥の院墓地には積雪があり五輪塔の笠にも雪が積もっていました。

奈良では、吉隠陵、舒明陵、大伴皇女墓、大津皇子墓、陵西陵参地、孝安陵、琴弾原陵、天武・持統合葬陵、長屋王墓、吉備内親王墓、富郷陵参地などを廻りましたが、今回の一番の目的は都塚古墳でした。
都塚古墳は、もう30年ぐらい前に行った記憶はあるのですが、細かい記憶はまったく無い状況でした。
また、昨年、制札の無かった琴弾原陵と天武・持統陵には、無事に制札が戻っていました。

伝承地では、牽牛子塚古墳へ2年ぶりに参拝、斑鳩町では、以前レプトンさまが書かれていた吉田寺の伝・間人皇女古墳を参拝してきました。
古墳は、寺の入口左側にあり、墳丘を登ると自然石の墓標が建立されており、その右の5角形の制札には「天智天皇御妹君 間人内親王御陵」と記されていました。


さて、わたしの書き込みは今年、最後となりますが、来年も宜しくお願いいたします。


大垂水酔鳥さま

新年が新たな良き出発となりますことを祈念いたします。
 

陵墓地形図集成の縮小版<修正>

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2014年12月24日(水)11時57分40秒
編集済
  陵墓地形図集成の縮小版<修正>

毎度の私事で恐縮ですが、私は勤務先を去り無職となりました。
勤続30年の正社員としてはあまりにも僅少ながら、全くアテにしていなかった退職金も出るには出たので、今後の生活の慰みにと思い切って陵墓地形図集成の縮小版を購入しました。
http://books.rakuten.co.jp/rb/12931777/
毎日これを眺めながら心の平安を保つ生活って‥書いている本人ですら不気味に感じますね(汗;;)

以前にも書きましたが、この縮小版はB5で、原寸が基本B3なので縮尺は1/4です。予想した通り、図面の細部の細かい文字・記号などは潰れてしまって、老眼が始まってしまった私にはかなり見難いです。
懸念していた原寸がB2の図面の取り扱いですが、縮尺1/8で1枚物と縮尺1/4で2枚物という2パターンになっていました。
縮尺1/8で1枚物、恐れていた通り図面が小さすぎて!!!!
縮尺1/4で2枚物、なんと見開きでなく裏表のものがあるのです!!!!少しはページ設定考えろよ!
う~ん、こんな状態で発売した縮小版、果たして売れているのかどうか‥
原寸版?を所蔵する数少ない図書館にわざわざ出かけて閲覧申請し、1枚コピーを取るのにも一苦労‥ってのからは解放されますが、しかし、縮小版で判読できない文字・記号などの確認の為、結局図書館行きの羽目になるような気もするし‥

心の平安を保つどころか、却ってストレス溜まりそう(笑;;)

文句ばかりでなく、利点のコメントも。
武蔵野陵墓地と豊島岡が最新図面に差し替えられています。寛仁親王墓も掲載されています。宜仁親王の墓あるいは建設用地?は未表示です。



以下、9月8日投稿(削除済)の再掲です。

宮内庁ホームページに今上天皇・皇后陵についての情報が開示されています。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/goryou/index.html

御陵のイメージ図とか(↓開くのにすごく重いです)
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/goryou/pdf/image.pdf
建設予定地・規模も図示されていて興味深いです。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/goryou/pdf/musashiryo.pdf
もう少し綺麗に、整然と配置できないんでしょうかねぇ

追記
高遠さくら さま。余計な心配をおかけしてしまって恐縮しきりです。要らぬ私事など一切書き込まず、徐々に足が遠のいて自然消滅‥ってことにしておけば良かったと反省しています。

 

郡元

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年11月30日(日)02時47分31秒
  全国の同志の皆さま、今年も僅か1ヶ月になりましたが変な宗教団体に入っていませんか?

とにかく報告書の制作で忙しく当掲示板への書き込みが何ヶ月もまったくできない状況でしたが、先週、長編の報告書が1編ようやく終了しましたので、久々に報告させていただきます。

10月に2週間、佐賀、鹿児島調査へ行ってきましたが、佐賀では佐賀鍋島家、大田鍋島家、横岳鍋島家、武雄鍋島家、白石鍋島家、倉町鍋島家を、鹿児島では重富島津家、今和泉島津家、知覧島津家、都城島津家へ、陵墓では高屋山陵を参拝してきました。
春日山鍋島侯爵家墓地へも半年ぶりに再訪したところ、何と先代直要弟の鍋島美茂家墓が新設されていて、びっくりしました。
伝承地に関しては、一ヶ所だけですがポンさんのサイトを参照し武雄温泉の淀姫神社へ行ってきました。


淀姫神社は、JR佐世保本線の武雄温泉駅から北東へ1・5㌔ほどに位置しています。
入口の案内板には、下記の説明書きがありました。

簡略に記すと、「淀姫神社の祭神は、神功皇后妹淀姫命(豊姫)で朝日村の村主であった。
神功皇后の朝鮮出兵の時、淀が後をしたって武雄へ来られ皇后の旅立たれた後、22歳で川上で亡くなり御霊を祀るためたてられたという。

入口の鳥居を抜け50mほど参道を進み小川を渡ると2個目の鳥居が立ち、30mほど正面の奥に本殿が建立されています。
案内板が無く、すぐ横でゲートボールをしているおばちゃんに聞いたけどわからないとのことでした。

墓所と思われるのは2ヶ所、小川の前の右側と本殿前部の左側です。
小川の前のは、入口にしめ縄がはられ、その後部には数個の石が乗せられた盛り土を築き、その右側に「○○○明神」と刻まれた墓碑が立てられていました。

本殿左のは、ここも正面にしめ縄がはられており、後部の基壇上の中央に円形の台石に五角形の塔身を乗せた墓碑が建立されています。
塔身の各面には「天照太神」「大巳貴命」「少彦名命」「埴安媛命」「倉稻魂命」と刻まれていますので、小川の前のがどうやら伝承墓ということになりそうです。

また、ここは10年ほど前に放映された泉ピン子さん主演の「佐賀のがばいばあちゃん」のロケ地であったという案内板も立てられています。
確か番組はみたはずですが・・・
 

西定子の墓碑

 投稿者:杉田  投稿日:2014年10月 1日(水)11時04分52秒
  2008年9月2日の記事に【明治天皇権掌侍・英照皇太后女官・西定子墓】のお墓が青山の梅窓院にあるとのことで見に行きました。残念ながら、お墓が整理されており、西定子の墓石は無くなってました。どなたか、西定子の墓碑銘をお持ちでしたら、共有頂けないでしょうか?

(引用)
24系北斗星   投稿者:照山もみじ   投稿日:2008年 9月 2日(火)00時47分2秒      通報 編集済


   早いもので、気がつけば今年も3分2が経過し、暦も九月になり蝉の鳴き声の中、トンボを目にすることがふえてきました。

月末には、北海道まで家族旅行にいってきましたが、二ヶ月ぶりとはいえ函館駅でキハ183系北斗を見ると、あらためて北海道に来たんだという実感がわいてきます。


【明治天皇権掌侍・英照皇太后女官・西定子墓】
梅窓院・東京都港区南青山

従五位西定子之墓 (角石)
(右) 明治二十九年十月十五日 清功院完譽徳寶智周大姉
(左) 富田家

 

豊島岡墓地 古写真

 投稿者:歩いて見ました東京の街メール  投稿日:2014年 9月29日(月)22時44分33秒
  「歩いて見ました東京の街」のオーナーです。
fukuyamaさまご指摘ありがとうございました。さっそく訂正しておきます。

この写真を撮った父は12年前に没しましたので経緯は不明ですが、新聞を見て何か行事があるとカメラを持って出かけていたので、この日の参詣が解禁されていたのではないでしょうか。

http://www42.tok2.com/home/omdoyok/Indonesia/AhIndonIndex.htm

 

豊島岡墓地 古写真

 投稿者:fukuyama  投稿日:2014年 9月21日(日)09時07分39秒
  豊島岡墓地 古写真が下記のサイトにあります 1989-11-05に
どのような経緯で撮影されたかは不明ですが


06-05-34-3小松宮墓陵近景とあるのは 華頂宮墓地のような気がします


http://masanori1919.web.fc2.com/06_Bunkyo/06-05/06-05.htm#12_ToshimagaokaBoryo
 

伝承墓2件(眉輪王、惟成親王)

 投稿者:可怜小汀  投稿日:2014年 7月27日(日)22時27分28秒
  初めて投稿致します。関東在住の可怜小汀と申します。10年前、学生の頃は休みさえあれば陵墓巡りに近畿圏へ出掛けていたのですが、最近は仕事柄遠出もできず、古文書や和歌集を素人ながら読み漁っている日々です。掲示板も以前から拝見しており、皆様の知識の豊富さと深さには感服致しております。

さて僭越ながら、私が気付いた伝承墓で、まだ取り上げられていないものがありましたので、簡単にご報告致します。調査の手掛かりになれば幸いです。


☆仁徳天皇皇孫眉輪王墓?
7~8年程前、奈良県天理市内のある式内社の調査のため、県立図書情報館で大正時代の公文書をいくつか閲覧していたのですが、その中に入っていた石上神宮周辺の絵地図に、神宮のすぐ北、布留川縁に朱で「マヨワ王ノ墓」の印があったのを覚えています。後日調べても該当する古墳が見当たらず、未だに気になっています。石上には父・大草香皇子の伝承墓もあるとのことなので、何か関連性があるのかも知れません。断片的な記憶と情報で恐縮です・・・


☆後村上天皇皇子惟成親王(梅隠祐常)墓?
南朝最後の東宮との説もある惟成親王の法名「梅隠祐常」を刻んだ宝篋印塔が、なぜか横浜市金沢区にあるらしいと本で知り、先月、金沢文庫を訪れたついでに立ち寄ってきました。出典は『金沢の寺社 第1集』(1981年)で、その中の「泥牛庵」(金沢区瀬戸11-15)の由緒には以下のように書いてあります。

>創建の場所は、現在能仁寺跡と呼ぶあたりであるが、享保7年(1722)六浦藩主
>米倉忠仰が陣屋を金沢に移した折、当時引越村と称した現在地に移転を命ぜ
>られたのである。(中略) 能仁寺は『新編鎌倉誌』などによると、上杉憲方
>(明月院道合)により永徳2年(1382)、建長寺第47世の方崖元圭を開山として
>建てられたものである。能仁寺の跡をとどめるものは殆んど無いが、わづかに
>宝篋印塔1基が残っており、銘に「梅隠祐常大師 應永十二乙酉逝去六月十八」
>とよむことができる。梅隠祐常は無本覚心の法燈派の流れをくむ信中自敬に
>学んだ人でおそらく能仁寺の住持として在ったのであろう。(下略)

梅隠祐常が皇親出身であることは触れていませんが、信中自敬の法嗣となった梅隠は確かに後村上天皇皇子の惟成親王のことです(『五山禅僧伝記集成』)。現在、能仁寺跡は藩主の子孫・米倉子爵家(今も近所にお住まいのようです)の墓地になっていまして、その隅に「梅隠祐常」の小さな宝篋印塔がたたずんでいます。場所は、京急線金沢八景駅の西側、歩いて程近い谷戸の崖下にあります。地図→https://maps.google.co.jp/maps?q=35.330105,139.618375

銘文は肉眼でも確認可能です。しかし、3字目が「祐」と読めるかどうかは意見が分かれそうです。また、銘文には応永12年(1405)の逝去としていますが、富岡本『新葉和歌集』奥書によって応永30年(1423)薨去とする通説とも矛盾しています。ただ、万里集九の『梅花無尽蔵』によれば、梅隠は鎌倉に下向した時期もあるとのことで、能仁寺の住持だったか否かは措くとしても、鎌倉府の庇護下にあった金沢地域と何らかの縁があっても不思議ではありません。

以下、写真です
上:米倉家墓地全景
  宝篋印塔は左端、ちなみに右端は最後の藩主・昌言の墓です
中:正面から宝篋印塔全体
  手前に転がっているのは上部にあった相輪でしょう
  銘文は向かって左側面の基礎枠内に刻まれています
下:銘文(コントラスト加工してあります)
  右「梅隠■/常大師」左「應永十二<乙酉>/逝去六月十八」
 

光仁天皇陵の旧陵印 2種

 投稿者:レプトン  投稿日:2014年 6月29日(日)23時53分37秒
   レプトンです。連続ですみません。先の投稿で書いた光仁陵の旧陵印2種類です。
 上の印が長らく使われていた旧陵印です。大きさは一辺44mm。以前書きましたがかつての田原部の陵印3つ(春日宮・光仁・崇道)は同じ大きさ・意匠・文字で作られています。
 下の印は今回気づいた新資料です。意匠は同じような感じですが大きさは一辺50mmと一回り大きいです。それとこちらのほうが文字が丁寧な感じがします。

 他にも古い時期の陵印の新資料をいくつか確認しています。またご紹介します。
 
 

花園天皇陵の旧陵印

 投稿者:レプトン  投稿日:2014年 6月29日(日)22時21分51秒
編集済
   皆様お久しぶりです。奈良のレプトンです。今年になって土日に仕事で畝傍山周辺や奈保山周辺に行くことが多くなりました。その折に周辺の御陵墓に参拝しております。
 さて最近入手した天皇陵印の掛け軸を精査したところ、新資料を見つけましたのでお知らせします。下の写真の1枚目は普通に使われていた旧陵印です。大きさは一辺61mmです。2枚目が今回別の印であると気がついた印です。文字が微妙に違います。そして大きさは一辺54mmです。 今回の掛け軸には、旧印と現行の新印が混じっています。旧印しかない神代3陵は別として、神武陵~大正陵までの92印中旧印が29、残り63印は新印です。昭和陵の印もありません。また、特に古い時期(昭和初期~昭和15年くらいのもの)のものは含まれていません。これらのことから、この軸は昭和40年代後半から昭和50年代にかけて捺印されたものと考えられます。さらに時期を絞れば昭和50年代前半と考えられます。この花園陵の印は旧印の意匠を引き継いで作られ、短期間で現行の新印に切り替わったと考えられます。
 同じ掛け軸からは他にも光仁天皇陵印も長く使われてきた旧印とは文字や意匠が同じで新印との間に短期間使われたと思われる印もありました。こちらも後日紹介します。
 このように、新印に切り替わる前に短期間に使われたと思われる印はほかには綏靖陵と淳仁陵がありましたが、さらに2つ加わりました。今まで昭和極初期のものばかりに注意を注いでおりましたが、昭和40年代~50年代、旧印から新印に切り替わる頃の印も再度詳細に調べる必要性が出てきました。

http://

 

西鹿児島(鹿児島中央)

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 6月22日(日)01時25分44秒
編集済
  全国の同志の皆さま、早いもので今年も半年が過ぎようとしていますが、変な宗教団体に入っていませんか?

現在、4月と5月に調査した記録を精査中ですが、いろいろな数字を眺めていると頭が痛くなってしまいます。
5月の仙台調査では、2ヶ所の伝承墓へ行くことができましたので報告いたします。


【西光寺】
宮城県仙台市宮城野区福室5ー11ー45
後醍醐天皇皇孫碑

当日は、かなり風が強かったのですが、孝勝寺で三沢初子などの伊達家墓所を調査後に向かいました。
墓地内を一周しましたが近代の墓碑ばかりでしたので、墓地外の別域の石碑を見て廻ったのですが、案内板も無くそれらしき石碑も見つかりませんでした。
丁度、ご住職さまが居られましたので、後醍醐天皇皇孫墓に関してお尋ねすると、快く墓碑までご案内していただきました。
墓碑は、山門のすぐ右側の3基並んだ中央にありましたが、ご住職さまが「碑銘はかなり磨滅しています」と言われた通り完全には判読することはできませんでしたが、下記は判読できた僅かな碑銘になります。
墓碑は、高さ110㎝、横幅75㎝、厚さ20㎝ほどの自然石墓で、方位は南西でした。

光明□ □
正平七丁卯年三月十□ □


【西方寺】
宮城県仙台市青葉区大倉字上下1

とにかく伊達政宗公霊廟の瑞鳳殿も青葉区ですが、とても同区とは思えないほど遠く愛子駅の20㌔ほど北西にある大倉湖の更に奥に位置しており、とにかく疲れたの一言ですが景色は最高でした。
ただ、お寺まではバスが出ていますので、バスを利用すれば問題ありません。
山門前の道の両側には土産物屋などが軒を連ねていますが、山門を抜け30mほど直進し左側の石段を登ると、「天皇塚、連理の﨔」があります。

案内板には、安徳天皇の遺品を埋め冥福を祈ったと伝えられている塚と記載されていましたが、伝承墓ではなく供養碑のようです。
また、塚と言っても盛り土や石碑が建造されたものではなく、枯れた巨木の根がご神体のようです。
方位は、北東でした。

松島の後に石巻の再訪も考えていたのですが時間もなくなり、諦めて瑞巌寺山門前で「萩の月」をお土産にかいました。
 

宜仁親王墓一般参拝

 投稿者:fukuyama  投稿日:2014年 6月21日(土)20時13分34秒
編集済
  宜仁親王墓一般参拝

本日 二年ぶり三度目の豊島岡墓地の参拝になります。
12時頃から午後1時半過ぎまで二度拝礼いたしました。
黒白幕が張り巡られているので、寛仁親王墓・憲仁親王墓
を直接拝礼はできませんでしたが、幕越しに拝礼いたしました。

今回は黒白幕の範囲が寛仁親王墓一般参拝時と微妙に異なっていた
ので、華頂宮墓地を遠くからですが拝礼する事が出来ました。

寛仁親王墓の石柵は広く作られており、華頂宮墓地の写真にまで
写りこんでいます。

サイトの山階宮墓地の写真も一部追加して更新しています。
 

アドレス変更しました

 投稿者:チューメール  投稿日:2014年 6月16日(月)12時11分41秒
編集済
  こんにちは。以前、私のホームページにあなた様の画像を引用転載させていただきまして、ありがとうございます。今回、当方のホームページアドレスとメールアドレスを変更しましたので、お届けいたします。ホームページアドレス http://chusan.info/


http://chusan.info/

 

能褒野墓

 投稿者:煌子  投稿日:2014年 6月 5日(木)16時07分46秒
  皆様、お久し振りでございます。
いつもご教示ありがとうございます。
まだ未完成でございますが、明治天皇・昭憲皇太后の女房・女官一覧を作成いたしました。
誤字・勘違い等ありましたら、ご指摘くださいませ。
よろしくお願いいたします。



Twitter情報よりこのような論文を見つけました。
雑誌名は「地方史研究」(地方史研究協議会 [編])とのことで、リンク先は国立国会図書館蔵書検索・申込システムになっています。



歴史学関係雑誌論文新着情報 ?@historyarticles  6月2日
陵墓問題 三重県亀山市能褒野古墳群見学会参加記 / 荊木 美行 http://ift.tt/1nXAmbz

歴史学関係雑誌論文新着情報 ?@historyarticles  6月2日
陵墓問題 三重県亀山市能褒野古墳群(能褒野墓)見学会(限定公開)に参加して / 厚地 淳司 http://ift.tt/1nXAoQt



亀山市のHP「亀山市史 考古編」でも、「能褒野王塚古墳」の状況などを紹介しています。
http://kameyamarekihaku.jp/sisi/KoukoHP/dai4sho.html


>高遠さくらさま
いつもありがとうございます。
はい、ゆっくりお待ちしますので、どうぞお気になさらずに。
 

鹿児島

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 6月 4日(水)03時37分58秒
  全国の同志の皆さま、早いもので今年も5ヶ月が過ぎてしまいましたが、変な宗教団体に入っていませんか?
この3ヶ月間は、固定資産税、都民税、国民健康保険の納付が無いので嬉しい時期ですね。


さて、先月は2週間の仙台調査後、月末には長崎まで温泉旅行に行ってきましたが、とにかく仙台は寒いの一言です。
仙台では、仙台伊達家、涌谷伊達家、宮床伊達家、登米伊達家、一関田村家、伊達宗敦男爵家を、大年寺山墓所は4日間(40時間)通いましたが、さすが伊達家すごずぎる。
また、長崎では時間に余裕ができたので、原城跡の天草四朗時貞墓や13年ぶりに島原松平家の本光寺にも再訪することができました。

実は、仙台調査では2週間の内、3日間は雨の予備日だったのですが、運良く天候に恵まれたため10日目で順調に伊達家墓の調査が終了しました。
伊達家は、皇族との姻戚関係は見られませんが、好天のおかげでポンさまのサイトから予備とし考えていた伝承墓、西光寺と西方寺の2ヶ所へ行くことができました。

現在、4月の佐賀調査と5月の仙台調査の膨大な調査記録の整理中で、この後、精査して行くのですが、一段落したら伝承地の報告をしたいと考えています。

煌子さまへも何点かお伝えする報告があるのですが、何分、このような状況のため気長にお待ちください。
 

明治9年の陵墓写真

 投稿者:レプトン  投稿日:2014年 5月19日(月)20時24分25秒
編集済
  奈良新聞の記事より
http://www.nara-np.co.jp/20140519090514.html

毎日新聞の記事
http://mainichi.jp/feature/news/m20140519k0000m040059000c.html

新聞にはどちらも明治9年の箸墓の写真が載っています。


GWは葛城地方の陵墓に行ってきました。時間のあるときに書き込みします。
 

竜ヶ水

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 4月16日(水)03時14分45秒
編集済
  全国の同志の皆さま、ようやく朝夕の肌寒さも無くなり暖かくなりましたが、変な宗教団体に入っていませんか?

さて先週まで2週間、佐賀調査に行って来ましたが、とにかく寒く快晴で昼間は暑くても朝夕は肌寒く、とても4月の九州とは思えない毎日でした。
夕食は、相変わらずガスト、ジョイフル、リンガーハットでしたが、今回は丸亀製麺には一度も行けませんでした。
帰宅後、2週見れなかった「奇皇后」4話の録画を見ましたが、スンニャンは今後どうなるの?

今調査では、佐賀鍋島家、鹿嶋鍋島家、大田鍋島家、倉町鍋島家、村田鍋島家、川久保神代家などを廻りましたが、織田信長の弟有楽斎長益の後裔で鹿嶋藩鍋島家の藩医となった織田家の墓所を参拝できたことが一番のヒットでしょうか。

残念ながら今調査で陵墓関連では、春日山の紀久子女王の墓所を廻っただけですので詳細な報告はありませんが、関連情報を記しておきます。

鍋島直泰夫人紀久子女王の父は、朝香宮鳩彦親王ですが、母は明治天皇の皇女允子内親王ですので、現当主の鍋島直晶氏は、竹田恒泰氏と同様に明治天皇の玄孫になるわけですね。
また、鍋島直大侯爵の息女伊都子は、鳩彦親王と同じく久邇宮朝彦親王の王子である梨本宮守正王妃ですので、鍋島家は皇族と血縁的にも濃い家系ということになるんですね。
伊都子妃の父鍋島直大の本墓は青山霊園に、遺髪墓は佐賀の春日山に、母の榮子は青山霊園に本葬されています。

1 從一位勲一等侯爵鍋島直大卿之墓
裏)大正十年六月十八日薨

2 侯爵鍋島直大夫人勲三等榮子之墓
裏)昭和十六年一月四日歿

直大の青山と春日山の墓標に刻まれた碑銘は、同一です。

さて、今年の初めに都内の霊園で広大な墓域を有する華族家の墓所が次々と改葬されていることを憂える書き込みをしましたが、ついに青山霊園に建立されている直大夫妻など鍋島侯爵家の墓所も来年度に佐賀の春日山へ改葬されることに決まりました。
青山霊園に建立されている鍋島家の墓域は、黒田侯爵家とともに広大な墓域を有していただけに残念でなりません。
正確な記録は残していますが、再度、確認調査をしなければなりませんね。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2014年 4月 3日(木)21時16分21秒
編集済
  ★追記★しました

煌子 さま、諸情報有難うございます。

特に、対馬の「内山村字信二子塚」ってのには興味津々です。検索してもヒットしませんが‥
地図を見ると、厳原から久根田舎(陵墓参考地)に行くバス路線の沿道に「内山」という所があるようですね。対馬の内陸部なので、安徳天皇が隠れ住むのには久根田舎よりも適地のような‥

★追記★

再度のご教示感謝です。
またいつものパターンで、知らない、見つからない、などと投稿した後に蔵書の中に記述を見つけて唖然としてしておりました。
蔵書の中に重要な記述がありながら気が付かなかったり見過ごしたり失念したりが、最近やたらと多くて‥ 認知症の予兆かしらん‥
厳原町内山が対馬宗家初代重尚の墓の所在地で、その宗重尚には安徳伝説がある‥
少なくともこれは知っていた筈なのに、その内山が地図で検索した時にも平家伝説地だと思い出せなかったんです。うぅぅ‥

ご紹介の『明治天皇紀』と同趣旨の記述が、蔵書の中にもありました。
全国平家会編「平家伝承地総覧」によると、久根田舎(陵墓参考地)と内山の二カ所の伝承地は、明治10年に確証なしとして御陵としては却下されたものの保存せよとの通達があり、これを不服として明治14年に再度建白書が提出され、明治16年に久根田舎については陵墓の見込地として宮内省の買上の対象となったとのことです。
 

安徳天皇陵

 投稿者:煌子  投稿日:2014年 4月 1日(火)00時40分47秒
編集済
  ---4月6日追記しました---

皆様、お久し振りでございます。
いつもご教示ありがとうございます。

こちらは、春の嵐のような日の後は風は強いけれど急に暑いくらいの暖かさで、一気に桜も満開のようになりました。
最近は散るのも早くて、もっとゆっくり桜を楽しみたいものです。

>高遠さくらさま
いつも貴重なご報告をありがとうございます。
今後とも、よろしくお願いいたします。

>大垂水酔鳥さま
現在明治天皇の女房について調べていますが、2010年1月4日に掲示板で話題になりました山井榮子は明治5年4月24日に罷免されています。
『明治天皇紀』に載っていますが、きろくどころ掲示板に抜粋してありますのでご覧になってください。
今後とも、よろしくお願いします。

>安徳天皇陵
『明治天皇紀』に、女官についての記載の次に安徳天皇陵の調査について書かれていました。
明治二年十月十三日条です。


十三日 安徳天皇陵の事蹟に關し、其の調査を嚴原藩知事宗重正に命ず、安徳天皇、平氏に奉ぜられて西國に幸し、壽永四年三月長門國壇ノ浦に崩御あらせられしが、世に天皇の陵と傳ふるもの頗る多し、對馬國に於ける古墳墓亦其の一なり、客歳中、山陵方之れを重正に質す所あり、是の年七月重正の答申する所に據れば、天皇壇ノ浦を逃れて遂に對馬國に崩じたまひ、其の山陵と稱するもの、一は同國久根村大内〔阝采〕カウヤの地と、一は内山村字信二子塚とに在るが如し、年紀悠遠にして徴證とすべきものなしと雖も、重事なるに因り、尚檢覈を要すと爲し、更に此の命ありたるなり、


〔4月6日追記〕
大垂水酔鳥さま
『明治天皇紀』に載っているので伝承などあったのかもと思い「信二子塚」で検索してみたところ、近代デジタルライブラリー所蔵の『安徳天皇潜幸遺蹟』がヒットしました。
高山昇 編、皇典講究所、明治31年10月刊。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780607/49

検索結果に出ている説明
「神鏡/63p. ・, 厳原天神社及神鏡/65p. ・, 崩御年月日/69p. ・, 御陵/69p. ・, 納言塚/71p. ・, 馬塚犬塚/73p. ・, 信二子塚/76p. ・ ... 信二子塚 / 76p (0049.jp2). 結論 / 78p (0050.jp2). 追考 / (0052.jp2). 原田種直の書翰 / 84p (0053.jp2). 種直無二の平家方なりし ...」

既にご存知でしたら、申し訳ありません。
検証にお役に立てるとよろしいのですが。
 

重富

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 3月31日(月)02時43分56秒
編集済
  全国の同志の皆さま、東京もようやく暖かくなり桜も見ごろになりましたが、変な宗教団体に入っていませんか?

さて、先週は子爵家と男爵家のご当主様とともに伊藤博文公爵の墓参に行ってきました。
昨秋の墓前祭が台風のため中止になったため以前から行こうと考えていたのですが、ようやく1年半ぶりに参拝することができました。
これからは気候もよくなりますので、お墓廻りにはいい季節ですね。


【東伏見宮依仁親王妃八重子墓】

依仁親王が東伏見宮家を創立したのは明治36年ですが、八重子妃は同29年に離婚しているので、正確には小松宮彰仁親王の養子時代の妃になります。
八重子は、土佐高知藩主山内豊信(容堂)の三女になりますので、以前、報告した北白川宮能久親王妃光子は姉(豊信長女)にあたりますが、ともに離縁したことになるんですね。

八重子は、離縁後、旧館林藩主の秋元興朝に再嫁し谷中霊園の秋元子爵家の墓所に埋葬されています。
建立当初は、個人墓、または夫婦合祀墓であったと思われますが、現在は改葬され合祀墓になっています。

1 秋元氏之墓

裏)室八重子 大正八年十月九日卒


【東伏見宮依仁親王妃周子父・岩倉具定墓】

周子は、岩倉具視の長男具定公爵の長女になり、先に紹介した八重子との離縁後に依仁親王妃になっています。
岩倉具定と同室久子の墓碑は、海晏寺に建立されていますが、墓所は非公開のため一般の立ち入りはできませんので、ご注意ください。
久子の父沢爲量の墓所は、当掲示板でも再三、記しました通りに雑司ヶ谷霊園に建立されていますが、3年前に無縁廃棄が決定しています。
ここ1年ほど確認してはいませんが、はたして現存しているのかどうか?
★4月1日に現存を確認しています★

2 宮内大臣從一位勳一等公爵岩倉公墓

裏)公諱具定掌典長正二位岩倉具綱卿之子實贈太政大臣具視公之長子也初贈太政大臣養正二位富小路政直卿第二子爲嗣是爲具綱卿配以其女於公爲姊贈太政大臣薨具綱卿承後既而讓家於公公以明治四十三年四月一日薨距生嘉永三年九月二十七日享年六十一

3 勲四等岩倉久子墓
裏)昭和十八年八月卅日逝去
 

姶良

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 3月10日(月)02時47分19秒
編集済
  全国の同志の皆さま、3月になってもあまり暖かくなりませんが、早く春にならないかと思う今日この頃です。
梅は、まだ見ごろですが、変な宗教に入っていませんか。

現在、4月と5月の長期調査のための諸資料を収集中ですが、これらの資料を編集して下準備のための資料を作成するのが、また一苦労です。
今年は、大藩二家の報告書を制作するので大変な一年になりそうです。


【北白川宮能久親王妃富子生母富島秀子墓】

能久親王の先妃は、以前、紹介した山内豊信(容堂)の息女光子ですが、継妃は伊豫宇和島藩主伊達宗徳の二女富子になります。
富子妃の生母は、宗徳の側室である富島秀子ですが、伊達宗陳侯爵の生母でもあります。
秀子は、天保14年に富島元賢の女として京都に誕生、大正2年に死去し伊達家の菩提寺である宇和島の大隆寺に埋葬されています。

1 馨徳院殿蘭台恵秀大姉 (位牌形)
右)大正二年八月二十四日卒 行年七十一
左)伊達秀子


【久邇宮邦彦王第二王女・三條西公正室信子女王墓】

信子女王は、谷中霊園の三條西家の墓地に埋葬されましたが、昭和31年に改葬合祀されたために残念ながら信子妃の墓碑は現存していません。
当初の三條西家の墓域は、現墓所の一列すべてであったようです。

2 三條西家
裏)昭和三十一年一月 十八代三條西公正建之

誌)勲二等第十八代夫人久邇宮邦彦王次女信子
  昭和二十年十一月八日薨
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2014年 2月20日(木)11時25分33秒
編集済
  くだらない内容ですが★追記★しました

今回もまた、内容のない書き込みで済みません。

昭和9年版の陵墓要覧ですか‥著作権の関係では昭和31年版でもOKのはずだけど‥
陵墓要覧って、Googleが電子化するような閲覧の需要ってあるんですかね??

ともあれ、皇国史観全盛期の皇室関係本って焚書されたのか、図書館でも廃棄が進んでいるのか、現在なかなか目にすることができないので、閲覧の需要がないと思われる古書でもネットで見られるようになれば、それはそれで大賛成ですね。皇学叢書とか、全部揃えて貰えないかなあ‥

最近、天皇陵関係本の新刊がないな、と思っていたら、年末に1冊出ていました。

天皇と葬儀 日本人の死生観(新潮選書)
http://books.rakuten.co.jp/rb/12520524/

ぶ厚い割には、個々の天皇陵についての記述はそんなにありません。念の為。

★追記★

楽天の電子書籍で明治期の陵墓の写真集が販売されていました。500円ですが、購入する価値があるものかどうか、気になるところです。

下記は神武天皇陵ですが、
http://books.rakuten.co.jp/rk/edc318e47c9d4096bf444520fe389d3a/
他に高屋山陵、吾平山陵、大院君陵(朝鮮)もあるようです。
今後、ラインナップが増えてゆくのかなぁ
 

Google eブックス

 投稿者:fukuyama  投稿日:2014年 2月14日(金)22時52分13秒
編集済
  Google eブックスで

昭和9年版の陵墓要覧ここをクリック

すれば見れるんですね


 

帖佐

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 2月10日(月)02時04分51秒
編集済
  全国の同志の皆さま、それにしても久々の大雪には嬉しいやら邪魔くさいやらでしたが驚いてしまいました。
わたしは殿に投票しましたが、変な宗教に入っていませんか。

さて、前回の続報として萬里小路睦子の墓碑銘に関して記しておきます。

1 萬里小路睦子墓

右)萬里小路氏諱睦子稱秋姓藤原從一位大納言建房卿之第六女天保五年六月十五日生干京都嘉永之初来江戸侍高祖考贈正一位源烈公息春光厚生四男一女男日余四麻呂諱昭訓贈從三位余七麻呂諱挙直爲土屋寅直嗣日余八麻呂諱昭武爲祖考嗣日二二麻呂諱頼之爲松平頼升嗣一女諱貞子稱繁姫爲有栖川宮熾仁親王妃氏姓貞順敏捷儀容端麗善歌詩好音楽烈公

裏 以下略

染井霊園の水戸徳川家の墓所は、かなり広大な墓域を有していましたが、残念ながら15年ほど前に改葬され集石されています。
 

(無題)

 投稿者:煌子  投稿日:2014年 1月29日(水)23時24分38秒
編集済
  1/31追記しました
------------------------
高遠さくらさま
いつもご教示ありがとうございます。

万里小路幸子は典侍となる前は英照皇太后の小上臈であったので、生母のことを幣サイトに追記させてもらってもよろしいでしょうか。
明治天皇の女官も近々upします・・・・。

また、遅ればせながらですが。
伊賀の墓碑の形状?についてのご説明をありがとうございます。
記されたものが残っていなかったら、忘れられた王女になっていたわけですね。
結婚した頃には江戸にいるということは、幕府?の庇護なくしてはいられないし、婚姻についても幕府の許可が必要であったことを考えると、いろいろと考えさせられます。

今後ともよろしくお願いします。

-------------------------
~追記~

◇高遠さくらさま

お返事ありがとうございます。
情報の転載をお許しくださり、ありがとうございます。
こちらこそ、いつも皆さま方に助けられており感謝、感謝の気持ちでいっぱいです。
幣サイトについてはまだ最終的な校正も終わっていないこともあり、過大評価されすぎだと思います。
精一杯頑張って、本当にお役に立てるサイトにしていけたらと思っていますので、何卒よろしくお願いいたします。


◇大垂水酔鳥さま

いつもありがとうございます。
公家奉公や武家奉公について、簡単なことしかわかりませんが。
『幕末の宮廷』に、摂家・親王家の女房がどういう家から出るか書かれています。
(付・維新前の宮廷生活、九、女官 の最後の部分)
ご参考になれば幸いです。

また、新たな発見をお待ちしています。
今後ともよろしくお願いいたします
 

をを!!!ここにも安藤家!!

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2014年 1月28日(火)10時48分28秒
編集済
  ★追記★しました

今回もまた、中身のない書き込みだけで済みません。
有栖川宮・水戸藩・安藤姓の家女房という組み合わせを目にしてコーフンしてしまいました。(笑)

高遠さくら さま、安藤寿美の件、ご紹介感謝多謝です。私は全く知りませんでした。

安藤寿美は水戸徳川斉昭の側室万里小路睦子  の生母 斉昭・睦子の娘貞子は有栖川宮熾仁親王妃となる
安藤清子は水戸徳川斉昭の正室有栖川宮吉子女王の生母

この2人の安藤姓の家女房、どう見ても関係アリですよね‥

伏見宮邦茂王の後胤「安藤家」は水戸藩と学問の世界で関係があり、安藤清子とは家系的に関連があるはずだと私は考えているのですが、皆目わからないというのは何度かこの掲示板に書いている通りです。

今回の安藤寿美の件で、その確信が更に深まりました。


★追記★

更なるご教示感謝です。

公家の万里小路家の家女房が播磨国三日月藩士の娘ですか‥私にはかなり不思議な組み合わのように思われるのですが、或いは近畿一円の小藩の一般藩士クラスでは娘を花嫁修業・行儀見習で公家奉公させるというのが結構行われていたんでしょうかね。
取り敢えず、三日月藩士と邦茂王の後胤、ふたつの「安藤家」の関係をさぐってみましょうか。うーん‥これまた難航しそう‥
 

錦江

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2014年 1月28日(火)03時29分16秒
編集済
  全国の同志の皆さま、早いもので1月もあと僅かになりましたね。
暖かいような寒いような陽気ですが、変な宗教に入っていませんか?

ようやく報告書が完了しましたが、また新たな報告書をまとめ始めるので終わりがありません。
「大王の夢」が来週で終了しますが、先週から「奇皇后」が始まったので半年、楽しめそうです。


【有栖川宮熾仁親王妃貞子外祖母安藤寿美墓】

貞子の父は、水戸藩9代藩主の徳川斉昭ですが、生母は側室の万里小路睦子になります。
睦子の父は、万里小路建房ですが、生母は側室の安藤寿美になります。
この寿美は明治11年に死去し谷中霊園に埋葬されましたが、残念ながら5年ほど前に改葬されたために墓碑は現存していません。

記録していた墓碑銘を簡略に記すと、寿美は寛政10年7月25日生、万里小路建房妾称豊浦、生二女幸子、寿美、明治11年3月17日病卒寿81葬谷中天王寺側、蓮光院明譽清心貞操大姉
姉の幸子は典侍の万里小路幸子です。

関係者の墓所は、万里小路建房、同幸子は京都の清浄華院、徳川斉昭は茨城県常陸太田市の瑞龍山墓地、同側室の睦子は染井霊園になります。
寿美の改葬先は不明ですが、清浄華院か妙定院と考えられますが確認はしていません。

昨冬、高松松平家の改葬工事の確認のため谷中霊園に行った折、渋沢栄一男爵家の納骨堂が壊されていたので心配していたのですが、墓地の3分2を返納するようです。
伊達男爵家、高松松平家、楠本男爵家、渋沢男爵家と谷中霊園の広大な墓域を有する家が次々と改葬されています。
皇族墓地は心配ありませんが、皇族以外の華族家の墓所は、いつ改葬されるかわからない状況でもあります。
華族の墓碑調査に関しては、わたしが親しくしている埼玉の方以外、今まで聞いたことがありません。

大垂水酔鳥さま、いつも諸情報ありがとうございます。

さて、お尋ねの安藤寿美に関してですが、墓碑銘の中に続柄などが記載されておりますので以下、ご参考になれば幸いです。

「兵庫県下播磨国三日月邑考本県士族諱某与三郎・・・・・」
父は安藤与三郎で三日月藩士族ということですので、森家藩士の家系ようです。
森家は、あの森蘭丸の弟忠政の後裔になります。
亀岡は、丹波国、現京都府、山陰本線、一方、三日月は、播磨国、現兵庫県、姫新線になりますので、亀岡と三日月間は離れていると言えば離れているし近いと言えば近いので、微妙な距離ですが同族の可能性は高いように思います。

碑銘には、寿美がどのような経緯で万里小路建房の側室になったのかが記載されてはいませんが、「文化14年5月入京師為萬里小路建房公之妾」とあり、仲介者が誰なのかなどの詳細は不明です。
勘違いで園部と記しましたが、亀岡に訂正いたしました。


煌子さま

いつも諸情報ありがとうございます。

さて、お申し越しの安藤寿美に関してですが、煌子さまのサイトは大変、充実したものであり当方の情報がお役に立てれば幸いです。

伊賀ですが、幕府が島津継豊に強引に押し付けた竹姫のようだったのかはわかりませんが、鍋島直能もどのような心境で伊賀を迎えたのかが気になるところですね。

今後も宜しくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:名無しの権兵衛  投稿日:2014年 1月12日(日)00時31分12秒
  大垂水酔鳥さま

>遊女とか二條殿侍女とかの記載がありますが、伊賀の母親の身分は明かされていませんね。
>最高権威の僧侶のはずの宮門跡による密通・乱行。この醜聞を記録に残す位なら、今さら隠し事をしても仕方がないと思うのですが‥‥

隠し事をしているのではなく、史料的制約から明らかにすることができないものと思います
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2014年 1月10日(金)01時47分35秒
編集済
  煌子 さま、今年も宜しくお願い致します。

天皇皇族実録、ネットで見られるようになっていたのですね。全然知りませんでした。ご教示感謝多謝です。

で、早速確認すると、新たな疑問が湧いてきて‥‥

良純親王は帰京が許されて泉涌寺に入った後に還俗とのことなので、配流地や泉涌寺では僧侶の身分のままだったということになりますね。
還俗して北野で?薨去したものの、泉涌寺への埋葬が許されたのって、かなり違和感。
百年後に身分が回復されたものの、泉涌寺の墓は知恩院宮墓地に改葬されることはなかった‥

遊女とか二條殿侍女とかの記載がありますが、伊賀の母親の身分は明かされていませんね。
最高権威の僧侶のはずの宮門跡による密通・乱行。この醜聞を記録に残す位なら、今さら隠し事をしても仕方がないと思うのですが‥‥
 

(無題)

 投稿者:煌子  投稿日:2014年 1月10日(金)00時19分40秒
編集済
  追記しました
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あけましておめでとうございます。
皆さま、本年もよろしくお願いいたします。


>fukuyamaさま
本年もよろしくお願いいたします。
後桜町天皇式年祭の動画のご紹介、ありがとうございます。
ちょうど、『後桜町天皇実録』を読んでいるところなので、感慨深いものがあります。


>高遠さくらさま
本年もよろしくお願いいたします。

良純法親王の王女伊賀の墓碑について、ありがとうございます。
ご覧になって、やはりどこか他の正室方と違いはありましたでしょうか。


>大垂水酔鳥さま
本年もよろしくお願いいたします。

最近は、各所で電子化が進み、実録も後陽成天皇から後の天皇については家にいながらにして見ることが出来るようになっています。
私も最近見れることを知りましたが。
ちょっと見にくいですが、それでもちょっと確認したい時などは助かります。

ご存じかとは思いますが、念のため検索の方法をご説明しておきます。
東京大学史料編纂所のHPより、
データベース検索>データベース検索(再度選択です)>「できごとを主題に」の、近年編年データベース>(次の画面で上部の)項目検索をクリックし、
更に次の画面の「史料区分」のcheckマークのところをクリックして、史料名の中から『後陽成天皇実録』を選んでください。
一覧が出ますので、見たいところの「画」を選択します。
皇孫女伊賀と、良純親王王妃某と、別々の頁です。
画面が見れない時は、topにある「よくあるご質問」の「ビューワについて」をご覧になってください。

また、高遠さくらさまよりご紹介のあった史料の他にも、書かれたものはあるようです。
長くなりますので、これについては後日、拙サイトにでも。

同様に、大垂水酔鳥さまの投稿記事を楽しみにお待ちしています。]

-------追記------------------
大垂水酔鳥さま
データベースの件、お役に立てて幸いです。
他にもいろいろ見れるようですし、宮内庁の書陵部も所蔵資料の画像公開(まだ一部ですが)が始まりました。
図書館に行きたいけれど行けないというジレンマから少しは解放されるとよろしいのですが。
 

(無題)

 投稿者:名無しの権兵衛  投稿日:2014年 1月 8日(水)22時56分59秒
  大垂水酔鳥さま

良純親王や伊賀のことについては、
ゆまに書房の『天皇皇族実録』に立項されていたと思いますので
それをご覧になればよろしいかと思います
 

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