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平野塚穴山古墳&平野古墳群

 投稿者:ぽん  投稿日:2012年 5月18日(金)23時30分20秒
編集済
  ☆大垂水酔鳥様、平野古墳群の現況報告をありがとうございます。

ぶっちゃけ、平野古墳群については、平野塚穴山古墳(香芝市平野字塚ノ段)以外の情報(詳細データ)が少ない印象は否めません。

ちなみに、野淵龍潜『大和國古墳取調書』には(※ 数字は、アラビア数字に直します)

第668號 葛下郡志都美村大字平野字上山第1052番(番地) 一古墳墓反別4畝歩 官有地 高2間 根廻40間

第669號 葛下郡志都美村大字平野字土山第1044番(番地) 一古墳墓反別7畝7歩 官有地 (東墳)高7尺 廻25間 (西墳)高2間 廻30間

第670號 葛下郡志都美村大字平野字土山第1043番(番地) 一古墳墓反別5畝10歩 官有地 (東墳)高4間 根廻30間 (西墳)高3間半 根廻25間

の計5基の古墳が記録されています。

「668號」図には、南に向かって開口した横穴式石室を持つ方墳が描かれており、これが現在の平野塚穴山古墳を指す事は明らかです。
ちなみに『大和國古墳取調書』では「甲」区分され「字上山又ハ土屋ト呼ブ 民家ノ北邉ニ接近セリ 羨道ハ破壊セラレ玄室ノミ残存ス(中略)里人ハ武烈帝御陵ト云ヘリ(中略)此地ハ他ノ皇族ノ御墓ナラント考フ 松下見林ガ前王廟陵記ニ(中略)其地或云平野村 大和志ニ在平野村ト 大和名所図會ニ平野村トあり字塚山ト 水島永政ガ山陵志ニ平野村の山林トあり小丘二ツあり一ハ御車を収めし所といふト 日本書紀通証ニ或曰北陵在葛下郡即平野村ト 此等ノ文ハ皆此塚ヲ指シタルカ如シ 又タ北浦定政ノ打墨縄ニ平野村ニ字東塚ト呼フ 武烈陵トイフアレト帝陵ノ形ナシトアリ(中略)本塚如此傳説アルモノニ付 充今保存セラルルヲ必要ト認ム」と記載されています。

また「669號」図には、背後(北側)に山を背負った古墳2基が描かれているところ、御教示頂いた『平野古墳群関係文書』の「武烈帝陵生垣取建等ニ付請書付絵図」とほぼ同様の構図になっており、同じく「御陵之絵図」にある「字石ノ北 御陵」と記され、杵築神社北東の(昭和37年頃から土取りされて)児童公園化した地の(東から)平野3号墳(円墳)&4号墳(円墳)であると考えられます。
さらに「670號」図には、里道に接した古墳2基が描かれており、同じく「御陵之絵図」にある「字山サキ 御廟所」と記された、現存する(東から)平野1号墳(車塚古墳、一辺20m、高3.5m弱)&2号墳(径20m、高3m)なのは確実です。
ちなみに『大和國古墳取調書』では「乙」区分され「両塚ハ武烈天皇陵ノ陪塚トモ 又ハ御車ヲ埋メシ処ナリトモ傳唱ス 其六百七十號ハ一見前方後圓ノ如クナレモ 深ク之ヲ検スレバ各別ナルモノト認ム」と記されており、主な説明を上記「668號」に委ねています。

なお、平野古墳群に関しては
「マユゲル総合研究所」http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hinoki/6262/kurumaduka.html
に「香芝市二上山博物館・報告資料より抜粋・要約」した簡単な説明がなされており、5号墳については、平野塚穴山古墳として記載しています。
ちなみに、平野塚穴山古墳については、様々な名称が存在(混在)しており、小生作成メモには「塚ノ段、塚山、上山、上ノ段、石上、石ノ上、塚穴、岩山、土屋」と記してあります。

ところで、岩屋古墳については、一見、塚穴山古墳の別名とも考えられなくもないのですが、小生がン10年前に現地訪問した際、塚穴山古墳のほぼ正面(南)側に、古墳跡を思わせるような微かな高まりがあったような記憶がおぼろげながら残っており、奈良県立橿原考古学研究所編『竜田御坊山古墳 付 平野塚穴山古墳』(昭和52年刊)47ページ掲載の「平野塚穴山古墳周辺の遺跡分布図」には「消滅古墳」として点線表示され、さらに同48ページに「文化年間の「御陵之絵図」では塚穴山古墳の南30mの地点に1基の横穴式石室が描かれている。」と記載されています。
なお、明治26年に結了(成立)した『大和國古墳取調書』には、当時すでに消滅していたせいか、同石室に関する記録は見当たりませんが、前記『竜田御坊山古墳 付 平野塚穴山古墳』巻末図版には前記「御陵之絵図(平野村絵図)」が掲載されており、同石室について「岩屋」と記載されている事から、消滅古墳が「岩屋」である事が判明します。

詳しくは、上記『竜田御坊山古墳 付 平野塚穴山古墳』の報告に委ねますが、いずれにせよ平野塚穴山古墳がその精緻な構造からも敏達天皇皇孫茅淳王片岡葦田墓である蓋然性は高いと思いますし、消滅古墳(岩屋)を含めると6基で構成される平野古墳群が茅淳王一族の奥津城として相次いで構築されたと考えるのが妥当だと思います。

余談ですが、『史料 天皇陵』所収「山陵図絵」の武烈天皇の項に記載された「七ツ石ト云 大石七ツアリ(中略)今黒石ニ 二ノ赤筋相見ユ」については、前記『竜田御坊山古墳 付 平野塚穴山古墳』48ページに「この横穴式石室(岩屋)と塚穴山古墳を囲むような形で「七ツ石」と呼ばれている花崗岩の巨石が存在し、地膚面に荒割り、ハツリの加えられた痕跡が残り、この現存する七ツ石がもともとこの位置にあったとは断言できないが、なんらかの目的で置かれたと思われる。」と記されて(前記「平野塚穴山古墳周辺の遺跡分布図」にも図示されて)おり、平野塚穴山古墳(&岩屋)の特殊性を裏付けていると考えます。
.

http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

平野古墳群(香芝市)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 5月17日(木)13時27分21秒
編集済
  武烈天皇陵の北700m付近の高台に白鳳台という新興住宅地が造成されていますが、その南斜面に平野古墳群という飛鳥時代の古墳群があります。
この古墳群は江戸時代に顕宗・武烈天皇陵の伝承地?比定地?とされており、学問的には茅渟王一族の墓との研究もあります。

香芝市は江戸時代末期の陵墓治定?に関する平野古墳群の絵図などを文化財指定しており、ネットでも見られますが、画像が小さすぎるのが残念です。
市指定第27号有形文化財(古文書)平野古墳群関係文書一括
http://www.city.kashiba.lg.jp/kyouiku/files/shogai-gakushu/bunka-zai/bunka-zai-itiran/bunka-zai027.pdf

上記には「江戸時代に平野塚穴山古墳(国史跡)が顕宗天皇陵として、平野3・4号墳が武烈陵として治定されていたことがうかがえ、また、平野1・2号墳は御廟所として陵墓に準じる扱いを受けていたことがわかる」とあります。

現在、1号墳の前に「平野古墳群」の説明板がありますが、江戸時代末期の陵墓治定?に関する記述がなく残念です。文化財指定をした絵図のまさにその現地なのに‥ 私が教育委員会の担当者なら「平野古墳群」の説明板の隣に上記「平野古墳群関係文書一括」の内容をそのまま説明板にして併設するのですが‥

1・2号墳の「御廟所」という表記は気になるところです。茅渟王を想定した「陵墓参考地」的な扱いだったのでしょうか。
1号墳(平野車塚)は石室が道路に面して開口し説明板もあるのですぐに判るのですが、2号墳はよく判りませんでした。恐らく写真1↓の左側に写っている部分だと思うのですが‥‥

3・4号墳は当時、武烈天皇陵として管理されていたようですが、古墳が現存せず残念です。

ところで、文化財の絵図の文章は草書体で私にはお手上げなのですが、「史料天皇陵」に掲載された「山陵図絵」なら私にも読めます。その顕宗・武烈天皇の図絵も平野古墳群が描写されておりますが、下記のような、現状とは食い違う記述となっており、???の状態です。

第廿六代 武烈天皇
和州葛下郡平野村氏神山ノ頂ニアリ 西ノ方陵山ニテ洞口石ト相見東ノ方御車塚ニテ双方共地形高ク並アリ

「東ノ方御車塚」とあるので、一瞬これは1号墳(平野車塚)のことかと思ったのですが、1号墳は「山ノ頂」というよりは麓に位置するので、これは3号墳のことと思われます。
また、1号墳(平野車塚)の説明板の地図によると、3・4号墳は杵築神社の社叢の中に位置していたはずなのですが、こちらも図絵の「山ノ頂」との記述と相違して中腹に位置するし、そもそも神域の中の古墳がなぜ消滅したのか不審です。ということで、江戸時代には現在住宅地となっている高台の最頂部に古墳があって、それらが陵墓と治定?されていたが、治定?解除後に荒廃し、やがて近代になって麓の古墳と誤解されて現在に至ったのではないか‥‥などと考えたりもしていたのですが‥‥

例によって、あくまでも私の憶測にすぎませんが‥‥
手元に残っていた昭和51年の国土地理院地形図を確認すると、3・4号墳があった杵築神社の北東方向は細長い尾根の先端のような地形となっており、これが「氏神山」だと思います。現在の白鳳台の辺りには複数の溜池があったとことも確認できます。現地へも確認しに行きましたが、現在の杵築神社の北東方向はただの荒れた雑木林?で、比較的平坦な斜面で尾根の先端のような地形の起伏は確認できませんでした。ということで、白鳳台の造成に際して杵築神社の北東にあった尾根の先端=氏神山がまるごと、池や谷を埋めるための土砂採集のため削平されたのではないかと。
現在杵築神社の社叢のように見える雑木林は、もともと境内の裏山だった「氏神山」が削平された跡地で、その「氏神山」の尾根筋にかつて3・4号墳があったのではないかということです。

「西ノ方陵山ニテ洞口石ト相見」の部分ですが、これは4号墳が「陵山」と呼ばれ、石室が開口?していたことが示唆されますね。また「双方共地形高ク並アリ」の部分ですが、これは3・4号墳がけっこう大きな隆起であったというだけの意味なのか、あるいはセットで1基の前方後円墳として認定されたという意味あいを含むのか。

塚穴山古墳は杵築神社の西にある正楽寺のすぐ西にあり、正楽寺の境内から墳丘上の石室開口部への見学通路があります。石室開口部には「平野塚穴山古墳」の説明板があり、「江戸時代の絵図に埋葬施設が開口しているようすが描かれていて、そこでは第二三代の顕宗天皇陵とされています」との記述がありますが、絵図もまた文化財指定されている旨の記述も欲しいところです。

平野古墳群にはもう1基の消滅古墳(平野岩屋古墳)があったらしく、それと塚穴山古墳の付番が確立していないのか、あるいは誤記なのか判りませんが、両者を5号墳とする記述が散見されます。
その平野岩屋古墳の跡地と思われる地点は、民家と田畑に囲まれているので近寄れませんでしたが、遠巻きに眺めると、田畑から1段高い放置地?のような感じでした。

あと、塚口義信氏の塚穴山古墳と茅渟王についての論考がネットでも公開されていますので、興味のある方はご参照下さい。香芝市発行の「香芝遊学」↓の7・8号に収録されていたものです。
香芝遊学 http://www.city.kashiba.lg.jp/outside/kakuka/kikakuseisakuka/yugaku.htm
7号(平成10年)香芝・古代史の謎を探る4平野塚穴山古墳の謎(上)
 http://www.city.kashiba.lg.jp/outside/yugaku/07%20pdf%20F/07_rekishi.pdf
8号(平成11年)香芝・古代史の謎を探る5平野塚穴山古墳の謎(下)
 http://www.city.kashiba.lg.jp/outside/yugaku/08%20pfd%20F/08_rekishi.pdf


2012年5月撮影

写真1 1号墳と2号墳?

写真2
 上段左:1号墳(平野車塚)の前の「平野古墳群」説明板 古墳群位置図の拡大
 上段右:1号墳(平野車塚)の前の「平野古墳群」説明板
 下段左:塚穴山古墳 石室前の説明板
 下段中:塚穴山古墳 石室開口部と説明板
 下段右:塚穴山古墳 南麓から撮影
 

顕宗天皇陵飛地

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 5月12日(土)21時11分3秒
  13年ぶりに顕宗天皇陵の飛地を見て回りました。

他の飛地と同様に樹木はほとんど根元からばっさり切られており、味気ない感じになっていますが、墳丘の残存状況がよく判るという利点はありますね。しかし、ただでさえ貧弱な墳丘の温存という点では大いに難点ありと思います。
ろ号は普通の円丘のようですが、い・は号は残存墳丘はかなり直線的に角ばったいびつな立体形状となっており、人工的な整形?を感じます。風雨で崩落しないよう、墳丘の突き固め?とかが行われたのでしょうか?

ろ号は以前は民家の庭が参道のようになっていたのですが、その庭が今はコンクリート舗装のガレージ?に変わっていました。そのお蔭で墳丘が観察し易くなりましたが、民家の庭を透して陪塚を見るという貴重な風景は失われました。

は号は町工場の敷地内にありますが、たまたま土地の所有者の方にお話を聞くことができました。陪塚はもともと鉄線?が張られていたのですが、危険なので宮内庁に撤去を要請したそうです。で、撤去は認められたのですが、陪塚の周囲の管理をきちんとするのが条件とされたとのことです。
現在でも囲いの石柱が残っていますし、陪塚の外周の植栽や石の縁取はその方がメンテナンスをされているとのことです。

ところで、い号の標柱には「傍丘磐坏丘南陵陪塚 字 □中」とあります。□は「芝」のような字です。「字 □中」は恐らく小字地名だと思われますが、この標柱が建てられた当時、3つの陪塚の区別を「い・ろ・は」ではなく小字地名で行っていたのでしょうか。
なお、ろ・は号の標柱は道路に面していないので確認できません。


2012年5月撮影 ※は1999年8月撮影

左上:い号 ※
右上:い号
左下:ろ号 ※民家の庭が参道のようになっていた
右中:ろ号
右下:は号
右端:い号の標柱
 

新八代

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 5月10日(木)01時38分57秒
  いよいよ三大ツールのジロ・デ・イタリアが始まりロードバイク好きには、今年も楽しみな季節の到来です。


さて一昨日、品川の熊本藩主細川侯爵家の墓所へ参拝に行ってきました。
同所へは過去に20回ほど調査へ行っていますが、最後に行ったのは平成8年ごろでしたので、実に16年ぶりの参拝になりました。

2時ごろ墓所に入ると、婦人が二方を案内されており、婦人の帰り際、二言三言、会話を交わしましたが、多分、現当主護熙氏夫人の佳代子さんだったと思います。


細川家は、直接、皇族との姻戚関係は見られませんが、以前、書き込みした通り護熙氏の実弟(護煇)忠煇氏は、母方の実家である近衛公爵家を継承しており、夫人は三笠宮庸子内親王、嫡男の忠大氏の夫人は、久邇朝宏氏の息女桂子氏、護熙氏の従兄弟である池田隆政氏の夫人は、厚子内親王、隆政氏の祖父禎政侯爵の夫人は、久邇宮朝彦親王の王女安喜子女王になりますので、細川家は皇族とも近い家系ということになりますね。

これは1ヵ月ほど前に細川家の方にお聞きした話ですが、今までの細川家の墓所の入口は目黒川沿いの一ヶ所だけでしたが、隣接する東海寺と細川家の墓所の境界の石塀を廃棄し、今後は細川家墓所の入口を東海寺に統一して、今までの目黒川沿いの入口は細川家専用になりますとご教示いただいた通り、すでに東海寺との境界の石塀は徹去されており自由に行き来できるようになっていました。
今後、細川家の墓所は、山手通り沿いの東海寺から自由に見学、参拝ができるようになり、東海寺の裏墓地に建立されている一條公爵家、柳沢伯爵家、新田浅野家の墓所なども参拝できることになります。

何せ細川家の墓所は16年ぶりなので、写真は1000枚ほど撮影してはいるもののすべてフイルムカメラなので、600枚ほど撮り直してきました。
しかし、撮影を始めて15分後、二羽のカラスに超低空飛行の攻撃を10回ほど受けたので、その後は卒塔婆を振りまわしながらの撮影になってしまいました。
 

守良親王

 投稿者:世良 康雄メール  投稿日:2012年 5月 9日(水)21時01分20秒
  昨年年末、世良本家豊子伯母から「伊井」と聞きましたが、世良親王土地朝妻十二条郷は、番場で決起守良親王や井伊藩と関係深いようであり、よく知らねばと思います。情報提供お願い致します

http://my.ameba.jp/menu.do

 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 5月 5日(土)15時12分36秒
編集済
  ★追記★しました

高遠さくら さま、佐賀の万寿寺の神子栄尊墓のご紹介、有難うございます。

神子栄尊 http://www.e-obs.com/heo/heodata/n390.htm

神子栄尊は平康頼の子とされておりますが、安徳天皇の皇子との伝承があり、私は状況証拠から安徳天皇の皇子説を支持?する立場から熱視線?を向けている案件のひとつです。

私が収集した断片的な情報では、佐賀での伝承?は、神子栄尊の出自について、安徳天皇自身という説と皇子との説が散見され、あるいは神子・栄尊と分割して前者が天皇で後者が皇子とも受け取れる説明?をどこかで見た記憶もあり、詳細不明でよく判りません。
この点について何かご存知のことがありましたら、ご教示頂けると幸いです。

ところで、神子栄尊の伝承地は久留米にもあり、恐らくそちらが伝承の発祥源だと思われるのですが、行ける目途が全く立たず残念です。現地でじっくり郷土資料を漁りたいのですが。

で、久留米では、神子栄尊の父親についての伝承は2系統あるらしく、非常に興味深いです。
一つは、久留米の平家伝説そのもので、神子栄尊は安徳天皇の潜行先での皇子。 http://edu-project.com/tu/antoku.htm
もう一つは、平康頼が神子栄尊の父親というもので、仏教界?ではこれが通説のようですが、かなり難点があります。
というのも、伝承では、反平家の「鹿ケ谷の謀議」で鬼界ヶ島へ流された平康頼が、赦免されて京都に帰る際に豪族?長者?の藤吉種継の館に立ち寄り、娘千代との間に男児を儲けた、というものだからです。
史実では平康頼は安徳天皇の生年と同じ治承2(1178)年に赦免されており、これは建久6(1195)年の神子栄尊の誕生の17年前のことです。平康頼が久留米に土着した形跡はなく、建久5・6年頃に久留米に一時的にでも居たのかが焦点となる訳ですが、仮に居たとしても、平康頼も50歳前後となっており、土地の娘とのゆきずりで子を成すような年齢ではないような‥

一方、安徳天皇の皇子だとすれば17歳の時の子ということになり、年齢的にはOKですね。
蛇足ですが、「平家伝承地総覧」(全国平家会 2005年)の「久留米潜幸説」の項によると、「久留米市周辺には、頼朝の平家追討命令のために生まれた平家伝承が、各地に残っている」とのことです。
あくまでも私の妄想に過ぎませんが、平康頼が藤吉種継の館に立ち寄ったのは事実で、反平家の人物として記憶されていたので、安徳天皇のご落胤として生まれた神子栄尊が残党狩りのターゲットとなるのを恐れて、平康頼の子ということにしたのではないかと。


★追記★

猪が出るのですか‥‥ 地図で見る限り、そんな山奥には見えないんですけど‥‥ 厄介ですね。
万寿寺は「肥前国山田郷」の安徳天皇伝説のメッカ?の筈なので、是非ともいつかは行きたいと思っているのですが‥‥

ご参考までに、神子栄尊の安徳天皇本人説の方をひとつ書いておきます。出典は松永伍一「平家伝説」(中公新書340 昭和48年)

肥前国山田郷にて四十三歳で死亡
この山田郷の万寿寺の開山を神子和尚というが、その人物が出家した安徳天皇だとされている。二位尼をはじめ郎党数人がここに逃げ込み、天皇は二十歳になって仏門に入り、その後宋に渡って仏法を修め、帰国後この寺を建立した。承久元年七月五日、四十三歳で死んだが、だれもこの和尚が天皇であったと気づかぬような、名僧としての生涯だったという。近くに二位尼村と呼ばれるところもあったといわれている。

以下は、私の単なる感想です。
神子栄尊が宋から帰国したのは嘉禎4(1238)年、万寿寺の開山は仁治元(1240)年で間違いないようなので、承久元(1219)年に死んだはずの安徳天皇第2の人生が神子和尚であるはずがありません。
で、神子栄尊が安徳天皇の皇子だとして、では安徳天皇はどうなった?という点ですが、神子栄尊は出家後20歳で肥前国小城山松山に茅を結んだとされており、恐らくこれが安徳天皇第2の人生で、後に息子の神子栄尊の事績と混交・錯綜したのではないかと。
 

千丁

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 5月 5日(土)03時11分49秒
編集済
  早いもので今年もGWに入りましたね。

先月は、2週間ほど佐賀・長崎調査へ行ってきましたが、佐賀は福井、島根とともに存在感の薄い県と言われていますが、わたし個人は佐賀は好きな県なので、昨春の調査でも佐賀に宿をとりました。
今調査では、佐賀鍋島家、鹿嶋鍋島家、小城鍋島家、白石鍋島家、諫早諫早家、福岡黒田家、森久留島家、柳川立花家、唐津小笠原家などの他、大隈侯爵家、名和男爵家、佐野伯爵家の江戸期の墓所などを再調査し、雨の日は1日中、鉄道に乗りまくっていました。
それにしてもJR九州の車両は、白いかもめ、みどり、ゆふなど何回乗ってもいいですね。

そんな中、治定外の春日山墓所、万寿寺、石塔院まで調査に行ってきましたが、この3ヶ所に関しては、昨春の佐賀・福岡調査中に予定に入れていたのですが、行くことができず1年遅れの調査となりました。


【春日山墓地】

春日山墓地は、佐賀藩主鍋島家の明治後の神道墓所で、12年ぶりの再訪になります。
前回は、今調査より10日ほど早かったので墓域内の桜がきれいでしたが、今回は完全に散った後でした。
同所には、明治後の直正、直大、直泰の3当主の墓所が建立されていますが、なんと先代の直要、元子夫妻の墓所が建立されていました。
元子の墓所は、青山霊園ですので、分骨されたようです。

さて、先々代の鍋島直泰侯爵の夫人紀久子女王は、朝香宮鳩彦親王の第一女子になります。
墓碑は、青山霊園の直大、直映、春日山の直正、直大の土円墳墓を踏襲したもので、墳丘の直径は270cm、墳丘の高さは50cmほどで、墓前の自然石の墓標の正面には「鍋島直泰之墓 鍋島紀久子之墓」、同裏面には「昭和五十六年四月一日薨 平成元年二月十二日薨」と記されています。方位は、東南でした。


【万寿寺】

万寿寺は、春日山墓地の近くなのですが、寺が山の上にあるため30分ほど舗装道を登ることになります。
墓地は、本堂から20mほど登った上に位置し、歴代住職の墓域内に建立されています。
寺の案内板には、安徳天皇の伝承の記載は無く、墓碑の前にも案内板が無いので、直接、ご住職さまにお聞きしました。
ご住職様によると、「当寺の開山が安徳天皇の皇子だと伝えられており、一番奥にある墓碑が皇子の墓碑です」とご教示いただきました。
墓碑は、一段の台石上、塔身、笠、相輪からなる宝塔墓で、全高は154cmで方位は南でした。


【石塔院】

わたしが5年ほど前に、当掲示板で鎌倉期の宮将軍の墓所に関して質問した時に、たけちゃんさまにご教示いただいたもので、ようやく調査に行くことができました。
寺は、吉野里遺跡の隣接地で、入口の案内板には、「石塔院は、真言律宗で、創建の時期は不明であるが、建治年間の13世紀頃の創建と考えられる」と記載されています。
20mほど進んだ奥には、惟康親王、久明親王、守邦親王の3基の供養塔が並んで建立されており、墓碑は3基とも五輪塔墓で、無銘墓なのか摩滅したものであるのか不明ですが、碑銘を判読することはできませんでした。
墓碑の全高は、惟康親王墓が230cmほど、久明親王墓は220cmほど、守邦親王墓は195cmほどでした。
その後、吉野里遺跡と都紀女加王墓を再訪しましたが、相変わらず都紀女加王の拝所前がラブホであるのも気になる案件ですね。
しかし、佐賀は、いいところですよ。


大垂水酔鳥さま

いつも諸情報ありがとうございます。
残念ながら、わたし自身、詳細はよくわかりません。

寺の入口の案内板には、安徳天皇関連の伝承については何も触れられておらず、ご住職さまも安徳天皇ではなく「安徳天皇の皇子であると伝えられている」と言われていました。
地元の方に寺までの道をお聞きしたのですが、「猪が出るので注意してください」と言われた通り、寺までの道には、猪を捕えるための罠(檻)?が何ヶ所かに見られました。
 

田村麻呂の墓位置特定

 投稿者:永山  投稿日:2012年 5月 3日(木)12時28分45秒
編集済
  京都新聞によりますと坂上の田村麻呂の墓の位置が特定されたそうだ。羅城門があった九条大路を東に延長した地点にあるという。
さっそく地図で確認すると、その間に後堀川天皇陵・現法性寺(近くに仲恭天皇陵と考えられる陵墓参考地がある)があった。

http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20120502000067/1
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120502-00000010-kyt-l26
 

天津神社

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 5月 1日(火)22時07分54秒
編集済
  JR東海道線岸辺駅から線路沿いに大阪方面に進むと南吉志部?集落に入ります。
(現在の地名は岸部南3丁目なのですが、この集落のもとの地名は「南吉志部(村)」でしょうか? あるいは「吉志部南(村)」? ご存知の方、ご教示頂けると幸いです。)

この集落の称徳寺のすぐ南側に天津神社という小祠?がありますが(写真↓上段)、吹田市立博物館のホームページ↓によると、ここは忍熊王の首が埋められたとの伝承があるようです。
http://www.suita.ed.jp/hak/kan/pdf_d/tayori037.pdf
http://www.suita.ed.jp/hak/bun/rekishi/bun_r9.html

応神天皇(神功皇后)との戦いに敗れた忍熊王は、配下の将軍「五十狭茅宿禰」と瀬田川に投身し、遺体が下流の宇治川で発見されたようですが、これに派生した伝承なのか、全く別系統の伝承なのか、その関係が全く判りません。
ただ、五十狭茅宿禰は「難波吉師部之祖」とのことで、吹田市岸部の一帯がその氏族?の本拠地?と目されているようです。宇治川の遺体はニセモノで、五十狭茅宿禰が忍熊王の首を秘かに本拠地に持ち帰った、という辺りでしょうか。
敷地内に建つ灯篭には「難波吉師霊燈」と刻まれているとのことですが、現物は剥落していて「霊燈」しか判りません。灯篭の建設年代は不明ですが、その際に忍熊王の名を秘匿すべき理由でもあったのでしょうか。
言うほど気合を入れて探した訳ではありませんが、伝承を記述した文献がなかなか見つかりません。こちらも、何かご存知の方、ご教示頂けると幸いです。

全くの蛇足ですが、正史?では応神天皇(神功皇后)に対して異母兄の忍熊王・麛坂王が謀反を起こしたことになっていますが、きっとこれは勝者による歴史の改竄で、本来は長兄の麛坂皇子が王位継承者(皇太子)、2皇子の母の大中姫命が正妃(皇后)であったと愚考します。何故なら仲哀天皇の皇妃のうち大中姫命は景行天皇の男系皇孫であり、仲哀天皇と同等に近い出自です。その一方で神功皇后は開化天皇の5世孫という王(皇)族だとしてもギリギリ?の出自なので、神功「皇后」よりも大中姫「妃」の方が血筋が良いというのは不自然ですよね。応神天皇より始まる王朝を想定する学説もあるようですが、私も賛成です。


以下、おまけの蛇足の付けたし

ネットで検索していたら、五衰殿石塔↓なるものの記事があり驚きました。
http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/Saidera/gosuiden.html

記事にも紹介されていますが、熊野信仰?説話?に「五衰殿女御」という架空の人物が登場します。ただ、この石塔が「五衰殿女御」に関係するとかの伝承は、当然ながら見当たらないようです。
インドの王后との役柄設定なのに、源中将の娘という和風の出自なのが面白いですが‥ モデルとなる実在の女御とかがいたのでしょうか。
http://www.mikumano.net/setsuwa/honnji2.html

ということで、天津神社のついでに五衰殿石塔を見にゆきました。最寄りの「佐井寺」バス停へはうまい具合に岸辺駅からバスが出ています。直通は1時間に1本ですが。

石塔は佐井寺のすぐ北側にある「おかうずゐ池(お香水池)」と隣接する伊射奈岐神社との隙間にある墓地の中にあります。公開されているのかどうかは未確認です。墓地入口のトタン扉が半開きで中に入れそうな感じでしたが、下手に触れれば倒壊しそうな状態だったので、入場を断念しました。
写真(下段)は伊射奈岐神社の境内から崖下の墓地を撮影したもので、石塔もズームでなんとかキャッチできました。
(伊射奈岐神社から崖下の墓地を覗くのは、足場の状態次第では少々危険なので、決してお薦めはしません)


2012年4月撮影

上 :天津神社
左下:伊射奈岐神社から崖下の墓地を見る
右下:五衰殿石塔 伊射奈岐神社からズーム撮影
 

東海の古代史

 投稿者:北島静波メール  投稿日:2012年 4月29日(日)02時30分58秒
  久しぶりにこのサイトに来ました、岐阜久々利や愛知県岡崎の御陵の件が記載されており懐かしく見ております、私のホームページしきしまの道の中に東海の古代史として参拝紀行文を掲載しております一読してください、当時の写真も載せておりますがこちらへ写真を転写させる技術がありません、岐阜岩田の御陵や久々利の御陵、愛知県豊田の猿投神社裏山にある御陵、岡崎にある御陵、4ヵ所の写真も掲載

http://www1.m1.mediacat.ne.jp/shikishimanomiti/index.html

 

今年の式年祭

 投稿者:椿夫人  投稿日:2012年 4月28日(土)20時55分7秒
編集済
  ≫桃林寺 紫乃さま
はじめまして。
自分も皆様の投稿を読ませて戴いて、教わることばかりです。
こちらこそよろしくお願いします。

今年は式年祭の少ない年周りのようでして、『平成二十四年神宮暦(神宮司庁刊行)』
を参照しますと、

7月30日(月)が明治天皇百年式年祭と記されているだけでした。


画像は、景行天皇皇子・五十狭城入彦皇子墓(岡崎市)のものです。
岐阜県に八坂入媛皇后の父皇子の墓があり、愛知県に八坂入媛皇后出生の皇子の墓があり、
東海地方は八坂入媛に縁が深そうな感じがしますね。
 

産経新聞の記事

 投稿者:日本人  投稿日:2012年 4月28日(土)15時30分3秒
  天皇陵は「神聖な区域」という明治初年「英文高札」があったそうだ。
いつどのような経緯で設置され、のちどのような経緯で撤去されたのだろう?
ボストン美術館(?)に伝仁徳天皇陵出土の鏡があるからなのか


http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120428/wlf12042814290013-n1.htm
 

豊中市利倉の正子塚?と春日神社皇后塚

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 4月25日(水)14時41分18秒
  豊中市利倉の春日神社の拝殿の傍らに小堂?が建てられており(写真↓中上)、「皇后塚」の看板が掛けられています。(写真↓右上)
小堂の中にはふたつの丸い石が上下に重ねて置かれており(写真↓右上)、その横には「淳和天皇皇后正子内親王殿下御霊座」と書かれた名札?位牌?が置かれています(写真↓左)。ふたつの丸い石には梵字が彫られているので、これは五輪塔の水輪ではないかと思われますが、境内には他に石造物は見当たりません。
この神社と正子内親王との関係については境内の由緒碑に記されておりますが、「皇后塚」については「現在も拝殿西側に皇后様の御霊位が御鎮祭されています」とあるのみです(写真↓中下)。

ということで、最初はこの「皇后塚」は近年になって古い石造物を再利用して作られた供養塔の類だと想像していたのですが‥

ところが、豊中市ホームページ↓を見ると、「淳和天皇の妃の墓といわれる正子塚があります」とあります。
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/top/bousai/toshikeikan/hyakei/hattori/kasuga.html

不審に思って近代の地誌類をひもとくと、例によって記述に齟齬などがあっていささか閉口なのですが、合理的解釈を試みると、どうも単純な話ではなさそうな感じもしてきます。

で、私が確認した限り、近代の地誌類に「皇后塚」の記述は見当たらず、代わりに「正子塚」の記述が散見されます。

明治36年の「大阪府誌」には、「名勝舊蹟誌(一)攝津國豐能郡」の章に「正法寺 附正子塚」の項があり、下記のようにあります。

南豐島村大字利倉に在り(中略)
邑の東方に正子塚と稱するあり、梵字を刻したる自然石を立て淳和天皇の内侍の墳墓と傳ふ。

昭和6年の「大阪府史蹟名勝天然記念物 第2冊」には、「三、古墳」の章に「正子塚」の項があり、下記のようにあります。

春日神社社殿の東側にありて、梵字を刻せる石を建つ。里民傳へて淳和天皇の皇后正子内親王の御墓なりとなす。蓋し正子内親王は同社を厚く崇敏あらせられ、その崩後は御神領を寄せさせ給ひし程なれば、皇后の御遺物にても社側に埋めしものならんか。


注目すべきは、明治36年「大阪府誌」には「正子塚」の位置が「春日神社」と明示されておらず、被葬者?祭祀対象者?も「正子内親王」ではなく「内侍」とされていることです。
また、昭和6年「大阪府史蹟名勝天然記念物」では、「正子塚」の位置が拝殿の西側ではなく東側とされています。

以上のことから、私は、淳和天皇の皇妃あるいは内侍の墳墓との伝承のある古墳(正子塚)が、かっては春日神社とは別個に存在しており、正子塚あるいは春日神社が移転?合併?して現在に至った可能性があると推測します。
例えば、春日神社の東側にあった正子塚が破壊されて、墳丘上にあった石造物が春日神社の拝殿西側に移されて正子内親王の「皇后塚」となった、とか。
あるいは、正子塚は現在の春日神社の場所にあった古墳で、もとは西側にあった春日神社が移築?境内拡張?された際に破壊され、正子内親王の「皇后塚」として祭祀が継承された、とか。

なお、境内の大木には軒並み注連縄が付けられていますが、拝殿の東側に隣接する大木にだけ根元に石の縁取りがあるようです。由緒碑の背後にある大木の根元は特に綺麗に縁取りされています(写真↓右下)。これって、もしかして「社殿の東側の正子塚」の痕跡?

春日神社の遍歴が判れば良いのですが、今のところ資料が見つかりません。この件で何かご存知の方、ご教示頂けると幸いです。


2012年4月撮影

左 :小堂の中の名札?と丸い石
中上:小堂
中下:由緒碑
右上:小堂の中の丸い石と表札
右下:由緒碑の背後にある大木の根元の石の縁取り
 

徳川家墓所改葬に伴う発掘調査の新聞記事

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 4月12日(木)22時20分35秒
  連投失礼します。
4月10日付けで、歴代の正室の骨格のことが記事になっています。
こちらでも読めます↓
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120410-OYT1T00638.htm

正室では、9代家重、10代家治、12代家慶、13代家定の正室4人の頭骨を測定したとありますが、4代家綱の正室・顕子女王にはふれられていません。
保存状態が悪かったのでしょうか。

記事の内容は、詳しくない一般の方向けといったところですね。

あと、
先週の日曜の新聞の折込チラシに、寛永寺の新規墓地募集のチラシが入っていました。
都内ですが私鉄沿線なので、ちょっとビックリしました。
 

岐阜県

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 4月 7日(土)02時57分15秒
編集済
  ≫椿夫人
はじめまして。
泳宮という史跡の説明をありがとうございます。
古代のロマンスが語り継がれるのに相応しいような景色でした。
今後とも、よろしくお願いします。


≫和泉式部
岐阜県御嵩町の願興寺が一条天皇皇女行智女王と何か関係があるということで願興寺の縁起を調べてみました。
京から追われた皇女がこの地で仏徳をもって地域の安寧を図っていることを伝え聞いた一条天皇が、勅願寺院を建立、願興寺と名付けたということですが・・・・
その後の皇女の話は載っていませんね。

御嵩町には平城天皇皇孫在原行平墳もあるそうですが、和泉式部の廟所もあると町の観光案内にあります。
和泉式部は、同時代の著名な女房方と違い(よりもというべき?)恋愛に生きた方でしたが、お相手に冷泉天皇の皇子達がいます。
第四皇子敦道親王との間には岩蔵の宮(永覚)という御子も儲けています。
2人のその関係は、「召人(めしうど)」とあり、しいて言えば、使える家の主人との関係が家の中だけでなく外の者にも知られているが、その関係は公然の秘密であり、当人の前ではそのことを口に出さないことが暗黙の了解となっていて、北の方は召人の存在を黙認することが暗に求められていたということ、実質的には妻であるが、局住まいをしていて、表向きの身分はあくまでも女房であるという、ことだそうです。
王子の母である和泉式部も皇室関係者の範疇に入るのでしょうか。

それにしても、小さな町にこれだけの伝承があるとは驚きです。

(文章一部訂正)
 

(無題)

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 4月 7日(土)02時51分38秒
  皆様、お久し振りです。
嵐のような日々が去った後は、桜の開花の話題が新聞の誌面に見受けられますね。
短い期間(一重だと)ですが、毎年心躍る季節ではあります。
八重桜が主の関西地方では、長い間咲いているのでそれもまた楽しみでしょうね。


≫大垂水酔鳥様
前回のご説明から間が開いてしまい、すみません。

錦織寺の一連の記事、なるほどと読まさせていただきました。
2人説に関しても、その他不明な点についても、他の方のご教示を待ちたいと思います。
私的には
>ブログには、「伏見宮貞敬親王の第十王女、政子姫」とあるのがちょっと引っ掛かります。
これが、「実子」として降嫁されたのなら、地元の方には何故宮家の姫宮として伝わっているのかが知りたいです。
宮家の姫宮のほうがより有り難がられますよね。
ですので、私は「実子」説より「猶子」説に傾いてますが。

成人を「実子」とするかどうかですが。
子どもの生存率が低かった頃は、「実子」とするならばあまりに小さい子どもは敬遠されたのではないかな、と思います。
皇室の場合、明治天皇、大正天皇は、それぞれかぞえ9歳で儲君となり、准后(九条夙子)、皇后(一条美子)の実子となっています。
試しに「公卿類別譜」のサイトで「実子」を検索してみましたら、女子で該当するものは話題に挙がっていた政子女王の他は、深溝松平家の養女と、姉小路良子(明治権典侍)だけでした。
姉小路良子は万里小路博房為実子とありましたが、万里小路家の系図には載っていないようです。
姉小路家は、良子が誕生したのが父・公前の没した(安政3年)後で、兄・公知はその6年後の文久3年に暗殺されてしまい、万里小路博房の子・公義が養子になっています。
それで良子は一旦実子になったのでしょうか。
てるやまもみじ様の2010年2月の記事で、姉小路良子の墓碑は「從三位姊小路良子之墓」となっているそうなので、結局生家へ戻ったということなのでしょうか。


≫高遠さくら様
調査お疲れ様です。
護国寺は、先日増上寺の帰途に寄れなかったので、ご報告が有り難いです。
また、館林の長慶寺の長慶天皇の墓碑についてもレポートをありがとうございます。
早速ネットで検索したところ、写真を見つけました。
これからもよろしくお願いします。


≫たけちゃん様
はじめまして。
猶子・養子・実子・子の違いの説明をありがとうございます。
『実録・天皇記』(大宅壮一著)、実家に置いてあります。
そこに書かれていたんですね、今度確認してみます。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
 

有佐

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 4月 4日(水)01時55分2秒
  早いもので4月になり春らしく暖かくなりましたが、今日はものすごい強風でしたね。

昨日は、以前から探していた虫コミの「魔法使いサリー」を購入、とにかく鉄人や影丸など横山光輝さんの作品はいいですね。


さて、先週は、18きっぷを使い甲府、館林、千葉など各所を廻ってきましたが、館林からは、以前、レプトンさんが紹介されていた長慶寺の伝・長慶天皇墓を参拝してきました。
前々から行こう行こうと思いつつ中々行けなかったのですが、ようやく参拝することができました。
同墓に関しては、ネットで検索すれば、写真も掲載されています。

長慶寺は、東武線の世良田駅から北へ3kほどに位置しており、長慶天皇の墓碑は、寺に入り左隅に建立されています。
案内板を見ると、下記の記述が見られます。

「田中山長慶寺の由来記
長慶寺の名の由来は、南北朝第3代長慶天皇を新田一族が奉じて戦ったため長慶寺は、その伝承の御陵塚を祭る祭主なるを以って放(宝)光寺を長慶寺と改号せりと伝えられている。


墓碑は、三段の台石に塔身、笠、相輪からなる寳篋印塔墓ですが、基礎石と相輪の上部が欠失しています。
塔身の正面には、「□和二年□辰八月三日」「連修得□□」と記された碑銘を判読することができました。
全高は、94cmでした。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 4月 3日(火)10時23分56秒
  たけちゃん さま

実子の件、お手数をお掛けしました。
私の個人的な関心事で甚だ恐縮ではあるのですが‥
もし「元服・婚姻に際して成人を実子とするというのはアリだったのか? アリならば、それは日常的に行われていたのか特異なものだったのか。その詳しい実例」について具体的な記述をご存知か、あるいは後日発見されましたら、ご教示頂けると幸いです。

実子については通常「生家とは縁を切る」のような説明がされており、ご紹介の通り「生家の系図からも削除」のような記述も散見されますが、現実問題として系図には「実子」の記述があり、更には今回の政子女王のような成人後の「実子」縁組の記述もあり、非常に疑問に感じています。
縁を切ると言っても勘当・義絶ではないので、「実子」が実の親を知っていて面識もあれば、実態として「養子」と同じになりますよね。つまり、成人後の「実子」縁組が存在するとすれば、その存在価値が判らないのです。養子はお家断絶の危機の際には実家に戻って家督相続する場合があるが、実子には実家に戻ることが禁止されている、などの不文律でもあるのかな?と思ってみたり‥
結局、実子と養子を区別する習俗?の存在する意味を考えると、現代の「特別養子縁組」のように乳幼児のうちに子供を実の親から引き離すことで、子供には養子であることも実の親も教えないのを前提とする別格?の養子制度である「実子」縁組が必要であったとしか思いあたりません。例えばお家騒動の予防とか密子(隠し子)とか。

なぜ、このようなことに拘るか、という点ですが‥

地方寺院の住職の系譜などを調べると、ごく稀に天皇や宮家の「養子」と称するものがあるのです。
宮家の当主や皇族出身の住職が天皇の養子?猶子?となっているのはよく見かけます。
臣籍降下した皇族や、庶民として育った皇族が、皇室に復帰した例もあります。
しかし、皇族出身ではない地方の住職が皇族の猶子はおろか養子ってアリ???

養子・猶子・実子は古くから誤用・混同されているとの記述を、ものの本などで何度か目にしましたが、同感です。
皇族の系譜を見ても、天皇の「養子」「猶子」の記述が錯綜していて、どちらが本当か判らない状態です。実態としては「猶子」なのですが‥
また、あくまでも私の感触?なのですが、「●●養子」「●●猶子」「●●実子」と「実は■■の子」という記述の混乱というか反転?も起きているのでは‥と愚考します。

戦国時代に朝廷が武家に対して官位を乱発して財源を確保したことが知られていますが、一部の地方寺院の勅願所や祈願所?も同様に献金によって得た称号?格式?ではないかと愚考します。
しかし、この勅願所・祈願所?と、皇室の養子を称する住職がセットとなった場合は、検討の余地が生ずると愚考します。
恐らく大多数(といっても、絶対数がごく少数ですが)は、勅願所・祈願所?となった寺院の住職が暴走?して、天皇や宮家の「養子」を僭称して檀家に吹聴したか、後になって住職の系譜が捏造されたと考えます。但し、皇室の「ご落胤」を受入れた寺院に対して勅願所・祈願所?の号を与えた可能性もあり、「実は■■天皇の子」というご落胤の記述が「■■天皇養子」へと誤伝された可能性も拭い去れません。

私の妄想を含む不確かな内容なので、現時点で詳細は書けませんが、養子・猶子・実子の錯綜や誤伝と地方寺院の住職などの皇胤伝説?には密接した関連性があり、私のライフワーク(笑;;)のひとつとなっています。

 

猶子・養子・実子・子の違いについて

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2012年 4月 2日(月)22時54分15秒
  皆さん、こんばんは!
久しぶりの投稿になりますが、いつも皆さま方の投稿内容を楽しく拝見させていただいています。
先日、奈良県立図書情報館へ行き、『陵墓等関係文書目録』末永雅雄先生旧蔵資料集、奈良県立橿原考古学研究所編(2005年7月、橿原考古学協会発行)を閲覧してきました。同書には奈良県が明治13年に調査した「神功皇后陵外十二陵陪塚地之図」が記載されており、当時の本陵と陪塚との位置関係や陪塚治定に向けての考察など大変興味深い内容が書かれています。
 明治13年当時、本陵を中心とした陪塚と考えられていた数は下記のとおりです。
 ・神功皇后陵 4基 ・磐之媛陵 11基 ・斉明天皇陵 1基
 ・成務天皇陵 4基 ・宇和那辺山 2基 ・舒明天皇陵 1基
 ・聖武天皇陵 3基 ・小那辺山  7基 ・崇神天皇陵 3基
 ・垂仁天皇陵 8基 ・孝元天皇陵 3基 ・景行天皇陵 3基

大垂水酔鳥さま
 2月にご紹介された治定外の御墓で話題となった実子・猶子・養子の違いについて、記載された図書がありましたので報告させていただきます。
 『実録・天皇記』(大宅壮一著)の中で次のように書かれています。
 猶子・・“なお子の如し”という意味で親戚などの子供に対し自分の子供に準ずる形式上の待遇を与えるだけで、これに家督を譲るということはほとんどない。
 実子・・養子ではあるが、生家とすっかり縁を切り、生家の系図から全然抹殺して純然たる養子先の子供のようになること。
 養子・・実子に反して生家と縁を切らないで、実父母と養父母の両方に親子関係を持っていること。
 したがって、実子になってしまえば、生家の両親に不幸かあっても忌引をしないで、“仔細の所労”あり、とか何かといって引き籠もるだけである。
 では、本当の実子は何というかは言えば、それはただ単に子というのである。

 過去に購入した皇室関係図書を少しずつ読み直しているうちに偶然見つけました。今後とも、どうぞよろしくお願いします。
 

八坂入彦命墓

 投稿者:椿夫人  投稿日:2012年 3月31日(土)12時59分22秒
編集済
  岐阜県可児市久々利大萱にある崇神天皇皇子・八坂入彦命墓へ参拝してきました。
雪こそなかったけれど、まだまだ山間部は気温も低くて朝方は寒いですね。

さて、この地区には泳宮(くくりのみや)という市の指定史跡もあります。
『可児市史』(第1巻通史編 考古文化財・第3部文化財 )によりますと、

久々利地区には、千村氏の屋敷跡はじめ、往時をしのぶ古跡が存在し、その一画に
古代の史跡として古くから語り継がれてきた泳宮がある。
『日本書紀』の景行天皇四年春二月甲子條によると、景行天皇が美濃国に滞在した際、
八坂入彦の娘の弟媛を見初め、池を造り、鯉を放って弟媛を呼び寄せた。
弟媛は、姉の八坂入媛がふさわしいと、姉に后の座を譲ったという。
この記述にある、池を造り弟媛と出会った場所が泳宮であるとされる。
泳宮の史跡は古くから言い伝えられてきたようであるが、
国学に明るかった久々利千村氏の九代・千村仲雄が、文久二年(1819)に
『美濃国泳宮考』を著して以降、広く知られるようになった。
その後、千村氏の家臣であった櫛田道古が、
明治二年(1869)に『美濃国泳宮略記』を著している。
近代に入ると、郷土の史跡を顕彰する動きが高まった。久々利村の人々により
泳宮古蹟保存会が発足し、大正五年(1916)には『久々利案内』が刊行された。
案内には、泳宮、衣乾岩、八坂入彦命墓などの史跡が紹介されている。
現在、境内に万葉の歌碑等が建立されており、
古代のロマンスの故地として多くの人々に親しまれている。
また、弟媛、八坂入媛の父である八坂入彦の墓が大萱の御陵墓であると伝承されている。
八坂入彦命の墓は、泳宮の東、大萱に位置し、周囲を木立に囲まれた山麓にある。
墓域は、東西26.5メートル、南北29メートルあり、
周囲に幅2メートルの土堤を巡らせている。
地元では皇子塚(オシヅカ)などと呼ばれ、親しまれている。
『久々利案内』によると、明治二年に囲垣を結び、標木を建てている。
同年には櫛田道古が、明治四年(1871)には有志者が笠松県に具申し、
明治八年(1875)には御陵墓と定められた。

と、ありました。
可児郷土歴史館を見学したあとに、学芸員さんに道を尋ねたところ、
郷土歴史館から歩いていける距離なので、駐車場に車をおいて歩いていった方がいいと
アドバイスを頂いて、泳宮も見てきました。
八坂入彦命墓に関する詳しい資料はあまりないようです。
可児市図書館にも足を伸ばしたのですが、生憎休館日でした。残念。
岐阜市にあります日子坐命墓もまだ行ったことがないので、そのうちに行ってみたいです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 3月28日(水)02時09分15秒
編集済
  独 さま、覚法親王の墓の件、断言できないのが歯がゆいのですが、「まちがい」だと思います。
「じゃらん」でも、同じ表記になっていますが、ソースが同じなんでしょうね。
http://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2003.do?rootCd=&afCd=&screenId=OUW2001&spotId=30344aj2200129182&odkType=1

私も4年前に同種の記述を見つけ、この掲示板にも質問したのですが(2008年3月3日)、若干の無駄骨・無駄足の末、「まちがい」だと見做しました。道助親王墓の位置が全く別の位置に表示されています。
http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukkenDetail&SEARCH=SEARCH_MAP&ID=30344aj2200133979

「まちがい」だと見做す最大の理由は、周辺の墓塔との位置関係は正しいものの、所在地が根本的にズレているという傾向があるという点です。ただ、今回の覚法親王の場合、覚法親王・熊谷直実と多田満仲との位置関係も間違いですが。

どこに誰の墓塔があっても不思議ではないという高野山奥の院参道の特殊性から、多分間違いだろうとは思っても、どうしても気になりますよね。
 

覚法親王の墓

 投稿者:メール  投稿日:2012年 3月27日(火)22時47分12秒
  高野山の仙陵以外の陵墓について、過去の書き込み・リスト(2006.7.23等々)でよくわかりました。覚法親王(白河天皇皇子)墓が宮内庁管理のもとで、金剛峯寺裏山の尾根上に存在することを知りました。正式表示:高野山字土中院谷(谷上)勝蓮花院跡内 高野御室覚法親王ノ墓
ただ別の場所、奥の院入口付近の駐車場南方山に覚法親王の墓と観光情報に紹介されている。http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukken&ID=30344aj2200129182
だれか行った方はおられますか? 大師廟南正面の位置にあるのでちょっと気になります。
 

舎人親王の廟所

 投稿者:西坊義信メール  投稿日:2012年 3月27日(火)14時35分24秒
  南都奉行所の和州拾五郡郷士衆徒国民姓氏実録によりますと、奈良市春日山の高峯にあるとのことです。昔から奈良市春日山(御笠山)には二つの峯があり、南側の少し高い峯を高峯と呼んでいたとのことです。現在、そこには神野(こうの)神社があり、日本書紀をまとめられ皇族で唯一陵墓が治定なされておられない舎人親王の皇子が淳仁天皇になられたことから、明治天皇が崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)の追尊をなされ合祀されているとのことです。麓には古代に祭祀を行った形跡があるとのことです。  

清盛関連(続)

 投稿者:  投稿日:2012年 3月26日(月)01時03分16秒
  美福門院得子陵は地図で確認すると、高野山の南から北に延びる尾根の先に近い西側にあり、大師廟に背を向けている。女人禁制で揉め、僧が場所を決めたからか。なぜ遺令で高野山にしたかについて、保元平治の乱前に落飾、鳥羽上皇が参詣した地、都から遠く離れた地である点 以上すべて推測。呪詛事件等々の当事者であり興味は尽きない。  

清盛関連

 投稿者:  投稿日:2012年 3月25日(日)16時22分22秒
編集済
  鳥羽天皇中宮藤原得子・美福門院(近衛天皇実母)の陵墓を捜すとなんと高野山にあった。高野山というと、弘法大師の御廟前に仙陵という皇室関係の埋葬地がある。しかしなぜかそことは離れた不動院のところにある。本人の遺令で決められたという、しかし女人禁制で高野山はもめたとある。その辺の経緯について知っている人は教えてもらいたい。過去の掲示板では(高野山に)嵯峨天皇の陵墓もあったという記録があるという。  

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 3月23日(金)17時19分16秒
編集済
  ぽん さま、フォロー有難うございます。拝見して、すかさずこれを書きました。(笑;;;;)

今回は、治定もされていないし古墳ではないとのことだし、説明板や石碑などもないので、先日の投稿では配置図や写真を載せなかったのですが、ご紹介の内容を拝見して私の中のモヤモヤ感がまたまた増幅してきました。(笑;;)
それは、聖塚と舞台塚はやっぱり古墳(の痕跡)で土師ニサンザイ古墳の陪塚じゃあないのか‥という思いです。

聖塚については、私は守衛所で一言断って大学構内でも観察したのですが、大学構内よりも一段低いと言うか窪地?のような場所に立地しています。写真(上段・下段右上)では少し判りつらいのですが、塚の周りがよく見ると空堀のようにも見えるのでは‥と思いますが、現地で見るともっと明瞭で、塚よりも周囲の標高の方が高いくらいなのです。このことを不審に思い、やっぱり古墳じゃないんだ‥との思いを強くしたのも正直なところです。
しかしその一方で、近接していて消滅した「聖の塚」古墳はどうなの?という疑念は消えません。聖塚と「聖の塚」古墳がもとは一つの古墳だったのが破壊されて分割されたとの見解もあったようですが、中世以来、土砂の採掘や廃棄が繰り返されていたのであれば、塚の盛土の下から中世の遺物が出土することもアリだと思うのですが‥

なお、写真(上段)の左端が土師ニサンザイ古墳の東端部分で、周庭帯の上にある墓地も少し写っています。

驚いたのは「舞台塚(径20m、高4m)」との記述です。
現在の舞台塚は人の身長程度の隆起しかなく、一見して自然地形です(写真↓右下)。公園に古墳があるとの情報がなければ、誰も古墳とは思わないと思います。
しかし、以前は「高4m」も隆起していたとなると、これを古墳ではなくて単なる土砂捨て場としてしまって良いものか、非常に疑問です。

おまけに、東百舌鳥陵墓参考地の駒札の写真を載せました。
本来は、これの大写し?を撮りに行ったのですが、光学10倍ズームを稼働させると電池切れの表示が出て、目的が果たせませんでした。デジカメの充電池って、冬になるととことん性能が落ちますね。(怒メ)
最近では光学24倍ズームなどが出ているようですが、手ブレとか大丈夫なのでしょうか。


2012年3月撮影

上段  :聖塚 南東の駐車場(大学構内)より撮影
下段右上:聖塚 大学構内より撮影
下段右下:舞台塚
下段左 :東百舌鳥陵墓参考地 駒札の制札
 

東百舌鳥陵墓参考地の治定外陪塚

 投稿者:ぽん  投稿日:2012年 3月23日(金)14時50分35秒
編集済
  ※ 追記しました。

☆皆様、大変ご無沙汰しております。お初の皆様、今後よろしくお願い申し上げます。

☆大垂水酔鳥様

御指摘の通り、東百舌鳥陵墓参考地(ニサンザイ古墳)には治定された陪塚(飛地)が無く、その為か周辺の古墳の多くが破壊(消滅)されてしまいました。
とりあえず、中井正弘『伝仁徳陵と百舌鳥古墳群』(昭和56年、摂河泉文庫)、同『仁徳陵 この巨大な謎』(平成4年、創元社)掲載データを参考にまとめてみました。

         *******
         *      *
         * * **  * 聖
         * **本地* * ◎
         * * **  *
       △ *      *  ○
         *******

            舞

      ド 文
飛  ▽  正 ●
            ツ

本地(ニサンザイ古墳)に近接する古墳としては
 聖:聖塚(径15m、高1.5m)
 ◎:聖の塚(円墳、消滅)
 ○:経塚(円墳、元前方後円墳?、高2間、周71間、消滅)
 舞:舞台塚(径20m、高4m)
 △:こうじ山(皇子山、帆立貝式墳、全長50.5m、後円径37m、前方幅18.5m、消滅)
ですが、現存しているのは、古墳でないとされた聖塚&舞台塚なのが実に皮肉です。
http://tabitoma.com/sakai/kofun/nisanzai/index.html
なお、聖塚&聖の塚については『大阪府全志』(大正11年)に「樋尻野」と記録され、前掲『伝仁徳陵と百舌鳥古墳群』に「もとは同一の古墳」と記されていながら、同著者による『仁徳陵 この巨大な謎』には記載が無い為、詳細は不明です。

消滅した内、こうじ山(皇子山)は、本地西側(前方部)の周庭帯(二重濠)に接する位置に存在(前掲『伝仁徳陵と百舌鳥古墳群』には調査中の昭和47年7月26日撮影の航空写真、同じく『仁徳陵 この巨大な謎』217ページには古墳&周濠の痕跡が判る昭和48年8月撮影の航空写真が掲載されています)し、東南東~西北西に主軸を取る本地と主軸(北北東~南南西)が直交しており、明らかに密接した関係にある事から、陪塚(飛地)指定されるべき古墳だったと思います。
http://www.isekiwalker.com/iseki/110562/

また、本地の南西方向に位置する
 ド:ドンチャン山1号(径20m、高1.5m、消滅)
 文:文山(二本松、円墳、高7分、周8間、消滅)
 正:正楽寺山(径15m、高2m)
 ●:ドンチャン山2号(径20m、高3m)
 ▽:平井塚(全長58m、後円径30.5m、前方幅45.5m、消滅)
 飛:飛鳥山(アスカ塚、前方後円墳、高3間1分、周97間6分)
については、末永雅雄「古墳の周庭帯と陪塚」記載と一致するとはいえ、距離的に陪塚とするには難しく(平井塚を中心にした)独立した小古墳群と考えるべきでしょう。
同じく、舞台塚から南に離れた
 ツ:ツクチ山(円墳、消滅)
も、陪塚とするには躊躇せざるを得ません。

☆sirmountbatten様、お初にございます。

陵墓参考地については、外池昇『事典 陵墓参考地』(平成17年、吉川弘文館)にまとまったデータが載っており、詳細はそちらに委ねますが、とりあえず同書に掲載された、昭和24年10月作成にかかる宮内庁書陵部「陵墓参考地一覧」に記された「該当御方」データを列挙します(カッコ内は遺跡名称)。

 西三川陵墓参考地(法名院塚):順徳天皇皇子彦成王
 沓塚陵墓参考地(理源大師沓塚):天智天皇七世皇孫聖宝
 大亀谷陵墓参考地(古御香宮古墳):桓武天皇
 浄菩提院塚陵墓参考地(浄菩提院塚):後鳥羽天皇皇女尊称皇后昇子内親王
 後宮塚陵墓参考地(後宮塚):未詳
 中宮塚陵墓参考地(中宮塚):未詳
 東山本町陵墓参考地(塚本古墳):仲恭天皇
 天王塚陵墓参考地(西天王塚):後三条天皇火葬塚
 御室陵墓参考地(御室古墳):光孝天皇
 円山陵墓参考地(登円山古墳):淳和天皇皇后正子内親王
 入道塚陵墓参考地(入道塚古墳):淳和天皇皇子恒貞親王
 大塚陵墓参考地(河内大塚山古墳):雄略天皇
 藤井寺陵墓参考地(津堂城山古墳):允恭天皇
 東百舌鳥陵墓参考地(ニサンザイ古墳):反正天皇
 百舌鳥陵墓参考地(百舌鳥御廟山古墳):応神天皇
 檜尾塚陵墓参考地(檜尾塚):後醍醐天皇女御尊称皇太后藤原廉子
 コウボ坂陵墓参考地(皇母阪):後醍醐天皇女御尊称皇太后藤原廉子
 畝傍陵墓参考地(五条野丸山古墳):天武天皇、持統天皇
 宇和奈辺陵墓参考地(ウワナベ古墳):仁徳天皇皇后八田皇女
 小奈辺陵墓参考地(コナベ古墳):仁徳天皇皇后磐之媛命
 郡山陵墓参考地(郡山新木山古墳):桓武天皇尚蔵阿倍古美奈
 富郷陵墓参考地(岡ノ原古墳):用明天皇皇孫山背大兄王
 磐園陵墓参考地(磐園築山古墳):顕宗天皇
 陵西陵墓参考地(ニ児山古墳):顕宗天皇皇后難波小野女王
 大塚陵墓参考地(大塚新山古墳):武烈天皇
 三吉陵墓参考地(三吉新木山古墳):敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子
 黄金塚陵墓参考地(田中黄金塚古墳):天武天皇皇子崇道尽敬皇帝舎人親王
 川上陵墓参考地(南帝王ノ森):後醍醐天皇女御尊称皇太后藤原廉子
 下坂本陵墓参考地(木ノ岡丸山古墳):天智天皇皇后倭姫王
 安曇陵墓参考地(田中王塚古墳):応神天皇皇玄孫彦主人王
 宇治山田陵墓参考地(尾部古墳):垂仁天皇皇女倭姫命
 玉津陵墓参考地(吉田王塚古墳):用明天皇皇子当麻皇子妃舎人皇女
 市陵墓参考地(丘ノ松):淳仁天皇初葬地
 雲部陵墓参考地(雲部車塚古墳):開化天皇皇孫丹波道主命
 宇倍野陵墓参考地(岡益石堂):安徳天皇
 岩坂陵墓参考地(神納山古墳):伊弉冉命
 西市陵墓参考地(王居止丸尾山古墳):安徳天皇
 大井陵墓参考地(宮ノ王古墳):後醍醐天皇皇子尊真親王
 妻鳥陵墓参考地(東宮山古墳):允恭天皇皇子木梨軽皇子
 越知陵墓参考地(鞠ノ奈路古墳):安徳天皇
 勾金陵墓参考地(外輪﨑古墳):天武天皇皇孫河内王
 佐須陵墓参考地(大内山古墳):安徳天皇
 花園陵墓参考地(晩免古墳):安徳天皇
 北川陵墓参考地(経塚古墳):瓊瓊杵尊
 鵜戸陵墓参考地(速日峰古墳):鸕鶿草葺不合尊
 男狭穂塚陵墓参考地(男狭穂塚古墳):瓊瓊杵尊
 女狭穂塚陵墓参考地(女狭穂塚古墳):木花開耶姫

http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

豊島岡

 投稿者:おじさん  投稿日:2012年 3月21日(水)21時03分55秒
   皆様はじめまして、このような掲示板がある事を最近しりました。
かなり前に豊島岡の清掃奉仕をやったことがあり中に入りました、
個別の旧宮家を掃除するのです。

本題は豊島岡の配置ですが記憶の中ですが一番奥に梨本宮家、隣が竹田宮家次が東久邇宮家だったと記憶しています東久邇宮家の墓所は他の方より総理大臣もやっていたんだよと言われ
ここが東久邇宮家と記憶しています次が忘れましたがどちらかの宮家、その隣が確か北白川宮家で
その隣は朝香宮家と覚えています、十字架が立っていましたのでとてもインパクトありました。

清掃後は宮内庁の方が敷地内の墓所を案内してくれました。直宮家墓所と他の宮家墓所と広さが
違い感じでした、 また思い出したら書き込みますのでよろしくお願いします。
 

陵墓参考地について

 投稿者:sirmountbattenメール  投稿日:2012年 3月20日(火)23時29分56秒
  サイト運営者様、はじめまして、大変貴重な資料ばかりで大変勉強になります。
あともし今後可能であればですが、陵墓参考地はどの方のものかも書いていただけたら大変助かるのですが。。。勉強不足で大変失礼なお願いですいません。 よろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 3月19日(月)21時18分39秒
編集済
  東百舌鳥陵墓参考地の治定外陪塚について

東百舌鳥陵墓参考地(土師ニサンザイ古墳)には飛地の治定がなく、陵墓地形図集成でも周辺古墳の描写がありません。
末永雅雄「古墳の周庭帯と陪塚」(書陵部紀要13・「陵墓関係論文集」(1冊目)所収)には陪塚の図示がないものの、本文に下記の僅かな記述があります。引用文中の(abc)は私が説明の都合上で付番したものです。

陪冢は周庭帯の外線の南西に円墳二基(ab)あった。後円部濠外周庭内に近世の共同墓地がある。(中略)その外に円墳らしいのが一基(c)ある。

abについては、上記の文章だけでは現存・消滅のどの古墳を指すのか判定不能です。
ただ、土師ニサンザイ古墳の南西に隣接?して、かつて複数の古墳があったらしいので、それらの可能性が濃厚ではありますね。
堺市のホームページ http://www.city.sakai.lg.jp/city/_rekibun/mozu/map/index5.html#m7 によると、土師ニサンザイ古墳の南西には3基の古墳が現存するようですが、いづれも「独立した古墳」と説明されています。距離も少し離れていますし‥
陵南中央公園 ドンチャン山2号墳・正楽寺山古墳(ともに円墳)
陵南北公園  飛鳥山古墳(前方後円墳?)

一方、前方部南側の陵南東公園にある「舞台塚」は土師ニサンザイ古墳の中心点?から見れば南西にあり、堺市のホームページでも「ニサンザイ古墳の外周にあり、陪塚と考えられる」とあります。(3月19日時点)
つまり、abのうちの一つが「舞台塚」である可能性が無きにしも非ずということですね。
この「舞台塚」は陵南東公園のど真ん中にあり一目瞭然なのですが‥‥

cは、大阪府立大学の中百舌鳥キャンバスの構内にある「聖塚」のことと思われ、堺市のホームページでも「ニサンザイ古墳の外周にあり、陪塚と考えられる」とあります。
土師ニサンザイ古墳の東側の周庭帯は墓地になっていますが、その外周道路の信号のある三叉路のすぐ横の「こんもり」が「聖塚」です。大学構内に入らなくても、道路から柵の網目越しに墳丘が観察できるのですが‥‥
http://www.museum.osakafu-u.ac.jp/html/jp/natural/detail.php?id=59

‥‥少し前の話ですが、この聖塚と舞台塚は発掘の結果、古墳ではないことが判明したので世界遺産登録の対象リストから外されたとの報道がありました。
http://blog.goo.ne.jp/ushiki111/e/998440666a5b6658c45d35cb90bcae85

さすがに世界遺産登録の方は放置する訳にもゆかず迅速対応したものの、教育委員会?のメンツ丸潰れの事態なので、市民には公表したくないとの思いからホームページの記述の訂正が行われないのでしょうか。

蛇足ですが、土師ニサンザイ古墳の周辺の現存古墳は「聖塚」を除き、みな公園となっているのですが、説明板も無いし保全というよりは放置されている感があります。世界遺産登録、本当にする気があるのでしょうか。
陵南中央公園の上記2古墳は、ホームページの航空写真では古墳が2基あるように映っているのですが、現地で確認すると、塚らしきものが一ヶ所あるものの、あと一つの古墳がどこなのか全く判りません。
陵南北公園の飛鳥山古墳に至っては、崩壊寸前?の墳丘と運動場を分離せずに放置したまま、その横に立派な区画整理事業の記念碑エリアが綺麗に整備されていて‥ 税金の使い方、間違えていますね。
 

古市(清原)胤子について

 投稿者:西坊義信メール  投稿日:2012年 3月19日(月)15時16分41秒
  古市胤子の詳細等については、私が作成した古市氏系図の冊子を図書館でお読みください。  

小川

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 3月10日(土)02時34分26秒
編集済
  今週は、18きっぷを使い岡崎と身延山まで調査に行ってきました。
17日の時刻表改正により今までお世話になってきた東京⇔静岡の373系普通が廃止になるので、最後の記念に2日とも往復乗車してきました。
ああ、これで浜松、豊橋、名古屋がますます遠くなる~~。

以前、報告をしましたが日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の奥の院には、智忠親王の供養塔が建立されています。
今回、6年ぶりに参拝してきましたが、墓碑はかなり破損が激しく笠部の5/1ほどが欠失しており、塔身部もボロボロな状態でした。
基礎石に刻まれている文字も一部が摩滅した状態ですが、判読できた碑銘は下記の通りです。

寛文二壬寅
□ □ 中務 □ □ 智忠親王天真神儀
□ □ □ □ □


先日、1年ぶりに雑司ヶ谷霊園まで沢伯爵家墓の確認に行ってきました。
沢家の墓所は、まだ現存していましたが、墓前の木柱には改葬番号?の「4」が記されており、無縁改葬対象墓であることは変わっていないようなので、遅かれ早かれ改葬されそうな嫌な予感が・・・

その後、護国寺に寄り、以前、報告したような気がしますが、新設墓を含む小松侯爵家の報告です。
小松輝久は、北白川宮能久親王の第4王子になります。


1 小松家之墓(洋型)
右)昭和四十六年十一月建之

裏)從二位勲一等平安神宮宮司 浄階小松輝久
  昭和四十五年十一年五日薨去 八十三歳

  輝久室小松薫子
  昭和五十九年二月十八日薨去 八十八歳

  從五位小松彰久
  平成二年六月二十九日帰幽 七十歳

  彰久室小松淑子
  平成十七年十月二十五日薨去 七十九歳

2 小松家(石円墳)
裏)平成二十二年四月建之

右)平成二十二年十一月二十六日薨去
  小松豐久 八十八才



 さて、数年前から各地で掃苔ブームが続いているようですが、はたして陵墓の参拝者は増加しているのでしょうか???

最近では鉄道ファンと同様に、掃苔の対象者も皇族、維新の志士、新撰組などと細分化され、調査の内容にも個人差が見られるようですが、多くは自分の好きな歴史上の人物の墓に参拝する本来の掃苔が主といえそうですね。
しかし、便乗本を見ても多くが墓碑本来の報告や検証が無く、ただ墓碑の写真の他にその人物の略歴が列記されているだけで、それって単なる人名事典じゃないの?って言いたくなってしまいます。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 3月 9日(金)20時50分51秒
編集済
  外池昇「天皇陵の誕生」(祥伝社新書268)がようやく出版されました。
新書という形態から、外池昇氏の既刊書の内容を一般向けにアレンジしたものと思っていたのですが、読んでみると項目ごとに濃い内容で驚きました。取り上げられた項目は既刊書との重複もありますが新しい話題もあり、嬉しい誤算でした。なお、章立ては下記↓に掲載されています。
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106131467

専門書ですが「幕末維新期の陵墓と社会」という本が出版されたようです。
http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/pamphlet/9784784216048.pdf
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 3月 3日(土)23時44分55秒
  今日の投稿は、約3年前に錦織寺についての投稿の予定稿として準備したまま封印していたものを、今回修正して投稿します。
封印していた理由は錦織寺の歴代門主墓地の確認ができなかったことと、ただでさえ憶測・妄想の多い私の投稿の中でも、ひときわ妄想の含有率が高いからです。
今朝までは封印を解くつもりはありませんでしたが、元来ストレス発散を兼ねて投稿を続けていた私としては、どうにも我慢できそうにありません(笑;;)。


桃林寺 紫乃 さま、政子女王の件、お手数をお掛けし恐縮です。

今回、桃林寺 紫乃 さまの「政子女王は(16)宅慈常昭の養女ではなく実子として嫁いでいますし。」の一文を拝見して、以前に疑問に思いながら封印していた二つの問題が私の中で再燃しました。
一つ目。系図など見ていて疑問に感じていた「元服・婚姻に際して成人を実子とするというのはアリか?」という件。アリならば詳しく知りたい。実は、これが先の質問の本意でして、政子女王が宅慈常昭の養女か実子かというのは二の次でした。
二つ目。養女か実子かの件ですが、文献的には決着スミで私の不戦敗です(笑;;)。政子女王についての記述は、私の把握する限りでも錦織寺宅慈の「実子」としているものが大半です。一方、明確に「養女」と記述しているものは見当たりません。
ですが、、(笑;;;;)、私はそれらの記述の信憑性に疑念を抱いており、2人の人物の記述の錯綜の可能性があると考えています。歴史バラエティ番組風に言えば「政子女王は2人いた!」。(汗;;;;)

以下はその疑念の概要です。伝承墓などの記述はありませんので、興味のない方は以下は無視して下さい。

桃林寺 紫乃 さまご紹介の「公卿類別譜~公家の歴史~」は出典が細かく明記されているので私も重宝しています。但し、出典の明記の有無が混在しており、記述内容の取り扱いに躊躇しています。政子女王の記述にも出典の明記がありません。
最初は単純に、出典の明記の有るのは異同を示す情報で、出典の明記の無いのは諸資料に共通の情報だと思っていたのですが、諸資料を照合すると、そうはなっていません。私は正直なところ、出典の明記の無い記述内容は信憑性に欠けると見るべきなのか迷っています。
人様が莫大な労力をかけてこのようなサイトを公開してくれていることには感謝多謝の極みで、それをタダで利用しているのに文句を言うのも気が引けるのですが‥

例えば、「公卿類別譜~公家の歴史~」では、政子女王のことと思われる2人分の記述があります。説明の都合上、掲載順にABとします。
A.女子(政子。錦織寺〔木辺〕宅慈実子)
B.女子(※華族家系大成无。鏞宮。母家女房〔系図纂要作家女梅操院〕。文化14(1817)年4月10日生〔系図纂要〕。天保6(1835)年11月25日為錦織寺実子〔系図纂要〕)
http://www.geocities.jp/okugesan_com/fushiminomiya.htm

今回、ご紹介の瑞泉寺のことが書かれたブログには「天保6年(1835)12月、伏見宮貞敬親王の第十王女、政子姫が、瑞泉寺二十五世広了に降嫁した」とありますが、これってBの「天保6(1835)年11月25日為錦織寺実子〔系図纂要〕」と日付がリンク?連動?しますよね。
また、下記↓でもBと同日付の内容を政子女王の事績として記述しています。
http://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
普通に考えれば、政子女王の降嫁前と降嫁後の記述が、同一人物と認知されないまま、それぞれ独立して継承されたと考えられるのですが‥

しかし、他の系図本などを見ても、政子女王をBの「鏞宮」としているものと別人にしているものとがあり、他に決定的な資料がないとうかつに判断ができません。

なお、「詰所系図」には「傭宮」の記述があります。これがBの「鏞宮」と同一人物か別人かも悩ましいところです。読みはどちらも「いさのみや」のようですが、漢字本来の読みではないみたいなので、これも混同の疑いがあると考えます。
私が2月27日の書き込みで、政子女王の宮号を「傭宮?」と表記したのも、これらの逡巡のためです。
(蛇足ですが、薫子女王の宮号を「多哉宮?」としたのは、「詰所系図」に薫子女王の記述が欠落しており「系図纂要」の記述の裏付けが取れない為です)

ところで、Bによれば、鏞宮は18歳で実子となっていますが、これってアリでしょうか?
家の継承のために成人を養子にしたり、元服・婚姻に際して養子(女)・猶子とするのは良く見かけます。また、乳幼児を親元から引き離し、他人が実の子として育てる「実子」というのも理解できます。しかし、成人を実子とする‥って???
前近代と現代の制度を比較しても無意味なのかもしれませんが、養子を実の子とする現代の「特別養子縁組」でも子供の年齢制限がありますよね。

ということで、あくまでも私の憶測100%の「政子女王は2人いた!」説の概要です。
政子女王には幼い同母妹がいて降嫁するまで面倒を見ていた。政子女王が宅慈常昭の養女として瑞泉寺に降嫁する際、妹は錦織寺に引き取られ宅慈常昭の実子となった。或いは、政子女王の叔母で宅慈常昭室の薫子女王が、姉妹を養育していたのかもしれない。
妹はその後、夭折するか、尼僧となるか、庶民と結婚するなどして、公の場に出ることはなかった。政子女王も京都の公家・寺院社会から遠く離れた越後に腰を据え、やがて政子女王と妹の所伝が錯綜して記録されていった。なお、どちらが傭宮・鏞宮かは判別できず。

詳しい人から、完膚無きまで叩きのめされそうな予感‥‥

蛇足ですが、錦織寺に政子女王の妹の墓があったら完璧!と思い、実は念のため一般墓地を探したのですが、やっぱりダメでした。ただ1基だけ、階段ピラミッドのような不思議な形状の浄土真宗方式?の立派な墓塔があり、門主の一族?よもや皇室関係!と不審に思っています。が、碑文は一般人のようでした。(2009年7月)
 

(無題)

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 3月 3日(土)02時28分55秒
  ≫大垂水酔鳥様
陵墓については初心者の域を出ないので、そんなに不備な点があるなんて、と驚いています。
仮にも、担当省庁ですよね。

政子女王が実子扱い、というのが何に出ていたか、ですが・・・
私事ですが、この調べものをしていた時、正確には阪神大震災の前年頃は大阪におりまして、府立中ノ島図書館に通っていました。
「昭和新修旧華族家系大成」(開架図書?)を見たのは覚えています。
あと、何を見たのかちょっと覚えていなくて。
養子、猶子、実子、は意味が違うので、書き間違いはしていません。
同じく、「実子」と書いてあるサイト『公卿類別譜~公家の歴史~』の基本参考リストは、公卿補任、尊卑分脈、公卿諸家系図、系図纂要とのことです。
回答になっていなくて、すみません。


ブログには、「伏見宮貞敬親王の第十王女、政子姫」とあるのがちょっと引っ掛かります。
碑銘にそう書かれているのでしょうか。
気になりますね。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 2月29日(水)23時08分24秒
  桃林寺 紫乃 さま、種々のご教示感謝です。

宮内庁の返答書の件、やる気の無さが滲み出ているようで面白いですね。
記載モレがありますし、陵墓に昇格した旧陵墓参考地が「治定解除」って何? それとも、陵墓治定のウイークポイントである陵墓参考地を、これだけ治定解除=解消したんだ!との政治的宣伝?のつもり? って感じです。

政子女王は(16)宅慈常昭の養女ではなく実子として嫁いでいるとのこと。差支えなければ情報源をご教示頂けると幸いです。
私は、政子女王と宅慈常昭との関係が判然としなかったので「養女?」と表現しましたが、実子ということであれば、叔母で宅慈常昭室の薫子女王が幼児の政子女王を引き取って、実の子として育てた?ということになるのでしょうか。
本来ならば皇室系譜に載っていない皇(王)子女の一人となるべきところを、婚姻を機に出自が明かされたのでしょうか。

本堂の裏の政子女王墓というのも気になるところです。住職の墓地の中にあるのか、政子女王の墓のみ特別待遇で本堂裏に建てられているのか。


三重県津市の専修寺は、不謹慎ながら、皇室関係では突っ込みどころ満載のお寺でして、私が今もっとも現地調査したい課題ですが、なかなか実現しそうにはありません。
 

治定変更や取り消しについて

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 2月29日(水)00時48分32秒
  ≫陵墓・陵墓参考地の治定変更や取り消しについて

衆議院予算委員会にて議員より質問があり、宮内庁からの答弁書が出ています。
同議員の公式HPには、提出した一覧を載せてあります。
話題になったようなので、もしかすると皆様は既にご存知だとは思いますが。
(不都合があれば訂正または削除します)


平成二十二年十一月十八日提出
陵墓の治定と祭祀に関する再質問主意書            提出者  吉井英勝

質問(七) 宮内庁の前身である宮内省が設置されて以降、陵墓や陵墓参考地の治定の変更や取り消しを行ったものがあるのか。あれば陵墓または陵墓参考地の名称、「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」であれば考古学上の名称、被葬者、変更もしくは取り消しの日(西暦による)、変更もしくは取り消しの理由を明らかにされたい。
 また、その際、祭祀の対象はどのように変更されたか。


返答(七)について
 陵墓関係事務を宮内省(当時)において取り扱うようになった明治十一年以降、治定替え又は治定解除を行った陵墓等の名称、考古学上の名称(古代高塚式の陵墓等に限る。)並びに治定替え又は治定解除の別及びその時期については、次のとおりである。なお、これらの陵墓等の治定替え又は治定解除の理由は、「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づくものである。
 崇峻天皇倉梯岡陵 千八百八十九年七月十六日に現在地に治定替え
 天武天皇・持統天皇桧隈大内陵 野口王墓古墳 千八百八十一年二月十五日に現在地に治定替え
 文武天皇桧隈安古岡上陵 栗原塚穴古墳 千八百八十一年二月十五日に現在地に治定替え
 後一條天皇菩提樹院陵 千八百八十九年七月二十日に現在地に治定替え
 旧仁賢天皇皇后春日大娘皇女陵 千八百七十九年二月八日に治定解除
 光仁天皇夫人新笠大枝陵 不詳 千八百八十年十二月に現在地に治定替え
 桓武天皇皇后乙牟漏高畠陵 伝高畠陵古墳 千八百七十九年十月十三日に現在地に治定替え
 天智天皇皇子妃贈皇太后橡姫吉隠陵 不詳 千八百七十九年二月八日に現在地に治定替え
 垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命宇度墓 淡輪ニサンザイ古墳 千八百八十年十二月二十八日に現在地に治定替え
 景行天皇皇子日本武尊能褒野墓 能褒野王塚古墳 千八百七十九年十月三十一日に現在地に治定替え
 後嵯峨天皇皇子顕日王墓 千九百三年八月に現在地に治定替え
 後村上天皇皇末孫河野宮墓 千九百十二年一月九日に現在地に治定替え
 旧後亀山天皇皇曾孫尊秀王墓 千九百十二年一月九日に治定解除
 旧性源院墓 千八百八十一年二月二十四日に治定解除
 景行天皇皇子日本武尊能褒野墓附属物(白鳥陵) 軽里大塚古墳 千八百八十年十二月二十八日に現在地に治定替え
 後嵯峨天皇皇子顕日王分骨塔 千九百三年八月に本墓から分骨塔に治定替え
 旧小橡陵墓伝説地 千九百十二年一月九日に治定解除
 旧伏見町陵墓伝説地 千九百十七年九月十一日に治定解除
 旧矢作陵墓参考地 千九百四十一年四月十八日に治定解除
 旧下嵯峨陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
 旧相馬陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
 旧河根陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
 旧鵺塚陵墓参考地 千九百五十五年八月十七日に治定解除
 旧秘塚陵墓参考地 千九百五十五年八月十七日に治定解除
 また、個々の陵墓等における祭祀の対象は、当該陵墓等の被葬者である。
 

(無題)

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 2月29日(水)00時43分56秒
  皆様、いつも有意義なお話をありがとうございます。


≫高遠さくら様
はじめまして。
いつも詳細なレポートをありがとうございます。
どれもがとても参考になります。
新しい調査が始まるとのことですが、お体お大事に頑張ってくださいませ。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。

増上寺の墓域内の角に転がっていた寳塔の一部、私も気になりました。
祀るべきものを、何故ああして置いてあるのだろうか、と。
高遠さくら様でも、どなたのものであるかご不明なのですね。

四宮家からの王女の降嫁、及び木辺家の歴代の墓所についてのご説明ありがとうございます。
碑銘が読み取れないのはとても残念です。

真宗佛光寺派の渋谷家、真宗高田派(専修寺)の常盤井家に降嫁された王女方についても、新たに何かわかりましたらご教示くださいませ。


≫大垂水酔鳥様
「大峰寺前野」についての更なる考証をありがとうございます。

今昔物語集の大峰寺跡(上京区西洞院通一条上る大峰図子町)の石塔の詳細についてはこちらの記事がありました。
お堂の扉が開く時が過去にあったということですね。
判別出来ないようなのが残念です。
http://www.taishitsu.or.jp/kyoto/sozoro7.html

錦織寺についての系図、どうもありがとうございます。
私の書き留めたものによりますと、薫子女王、政子女王の宮号はそれでよろしいと思います。

瑞泉寺という名前のお寺は各地にたくさんあるようです。
真宗の越中井波の瑞泉寺と越後高田(上越市)の瑞泉寺の縁起やアレコレについてはこちらに書いてありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/shimotori_943/19846778.html
「本山(准門跡)ではない瑞泉寺」ではあるけれど、越後高田の瑞泉寺もそれなりの格式を持ったお寺だったようです。
政子女王は(16)宅慈常昭の養女ではなく実子として嫁いでいますし。
上越市の瑞泉寺の本堂の裏に政子女王の立派なお墓があるそうです。
http://www.webrush.net/ham/p_20110415215702984867

善性房が後鳥羽天皇の第3皇子「但馬宮正懐親王」であるという説は初めて聞きました。
後鳥羽天皇の皇子で「但馬宮」と呼ばれた方は、但馬に流された雅成親王です。
関連性はあるのでしょうか。

勘違いなどありましたら、ご教示くださいませ。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 2月27日(月)01時13分32秒
  高遠さくら さま

錦織寺には私も行きましたが、墓地の西北側に歴代門主墓地と思われる土塀で囲まれた一郭があるものの、墓地からの入口が見当りませんでした。北側から見ると、卵塔?無縫塔?の塔頂部らしきものが僅かに見えたので、それで良しとして退散しました。

私が確認した錦織寺の皇族出身者は、今のところ下記の通りです。(番号)は「讀史備要」(東京大学史料編纂所編)の「日本佛教各宗派本山門跡住持歴代表」による歴代順・就任順です。

     錦織寺(8)慈光    伏見宮邦高親王王子徳池宮
薫子女王 錦織寺(16)宅慈常昭室 伏見宮邦頼親王王女多哉宮?
政子女王 瑞泉寺    宅恵室 伏見宮貞敬親王王女傭宮?
種子女王 錦織寺(17)歓慈常厳室 伏見宮貞敬親王王女潤屋宮

        錦織寺      瑞泉寺
一条輝良――――宅慈常昭     宅恵
         ∥        ∥
         ∥======↓政子女王
         ∥――――――歓慈常厳   木辺
         ∥        ∥―――賢慈良昭
      +―薫子女王  +―種子女王
邦頼親王――+―貞敬親王――+―邦家親王
              +―↑政子女王

(8)慈光は10歳で夭折したようなので、門主としての実体はなかったと思われます。皇族出身による門主位の尊称・追称だったのかもしれません。次の(9)世は(7)世の子のようです。戦国時代ですが墓塔は残存しているのか気になるところです。

政子女王は(16)宅慈常昭の養女?として、新潟県上越市の瑞泉寺に降嫁しています。王女の(浄土)真宗への降嫁先として、本山(准門跡)ではない瑞泉寺というのは極めて異例ですが、当時は本山同等の大伽藍を誇っていたようです。今は幼稚園になっているようですが‥


蛇足ですが、江戸時代に准門跡となった(浄土)真宗各派に入寺・降嫁した皇族については、私も数年前から課題として取り組んでおりますが、調べるにつれて予想外な広がりがあって驚いています。当初は近畿(三重含む)で完結すると思っていたのですが、親鸞の布教の中心となった関東、そして一向宗の一大勢力を築いた北陸などに伝承地が広がっています。何せ現地にゆけないもので、調査は殆ど進展しておらず、ネットで断片的な情報を収集している程度でしかありません。

親鸞の多数の弟子のうち、東国(関東)で「二十四輩」と呼ばれる24人(寺)があるそうです。
親鸞聖人二十四輩 http://www.sol.dti.ne.jp/~shiraka/24haijiin.html

その9番目に名を連ねる「善性房(茨城県常総市の東弘寺)」の寺伝(縁起)には、善性房を後鳥羽天皇の第3皇子「但馬宮正懐親王」と伝えているようです。
上の記述の出典は、築地本願寺のサイトの「築地本願寺新報」のページの「有縁散歩」の項に連載されている、関東の本願寺関連寺院の紹介記事のひとつ↓なのですが、善性房は関東各地に足跡を残しているらしく、善性房を後鳥羽天皇皇子とする寺伝のある寺院は他にもいくつかあるようです。
なお、このサイトは月1回更新されているような感じなのですが、過去のページを参照するメニューが見当らないので、下記↓の直リンクをご参照下さい。
http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/shinpou_0808.html

この善性房の出自には、もう一つ「信濃源氏井上氏」系統の複数の所伝があるようですが、系譜関係は錯綜しており整理がつかない状況です。

前述の上越市の瑞泉寺も、この善性房の流れを汲むお寺のようです。瑞泉寺が後鳥羽天皇皇子「善性房」の皇胤なら、本山(准門跡)ではなくとも王女の降嫁先として遜色ないかな、との苦し紛れの考えて調べていたのですが、寺伝では善性房の出自を「信濃源氏井上氏」系統としているようです。
また、同じ上越市で同じく善性房の流れを汲む浄興寺では、善性房の出自を「後鳥羽天皇第2皇子の周観で、のち善性と改名」としているようです。

この「善性房」「但馬宮正懐親王」は皇室の系譜には見当りませんが、後鳥羽天皇には法親王の宣下を受けられなかった多数の僧籍の皇子・皇胤がいるので、あながち荒唐無稽とは言えないと思います。

私は関東・北陸方面に行ける見込みがないので、政子女王や「善性房」の関係寺院に墓や供養塔があるのかどうか確認に行けません。この件で何かご存知の方、ご教示頂けると幸いです。

最後になりますが、ぽん さまの「新撰陵墓志(仮)」にも、善性房のことと思われる記述があります。
[後鳥羽天皇皇子善性王]福井市松本4丁目20番13号 恵光寺(詳細不明)
 

松橋

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 2月26日(日)15時09分51秒
編集済
  東京も徐々にではありますが暖かくなり、僅かながらも春を感じる今日この頃ですが、世田谷の羽根木公園の梅も来週あたりが見頃という感じです。


しかし、3月の末日で一部は継続されますが、多くのJR周遊券が廃止になることを知り愕然としています。
元来、人気のなかったゾーンは当然としても、人気があり今まで何十回も使用してきた秋芳・萩・津和野ゾーンまでもが廃止だなんて信じられません。
廃止になった地域では、新たなトクトク切符が発売されると思いますが、JR東みたいな往復路、ゾーン内ともに特急券を別途購入するシステムとなってしまうのか???
特に、土日きっぷは、1枚で複数の人が使い回しをする不正が目立ちましたが(わたしは、していませんが)、今後は気軽に特急には乗れなくなるのかもしれません。


さて、伏見宮家などの四宮家からは、大名家や公家以外にも住職家へも多くの王女が降嫁しています。
住職家は、すべて真宗ですが、滋賀県中主町の錦織寺の真宗木辺派へも宅慈上人へ伏見宮邦頼親王第五王女の薫子女王と歓慈上人へ伏見宮貞敬親王第六王女の種子王女が降嫁しています。
木辺家(男爵)の歴代墓所は、錦織寺内の一角に全20基の墓碑が建立されていますが、江戸期の墓碑の多くは碑銘が薄く摩滅も見られることから、ほとんど判読できない状況でした。
そのため、江戸後期と幕末に死去した薫子女王と種子女王の二人の墓碑を確認することができなかったのですが、墓域内に建立されていることは確かなのですが・・・
なお、木辺男爵家の墓所は、非公開であるために一般の参拝はできません。


大垂水酔鳥さま

集積と集石の正確な意味合いはわかりませんが、わたし自身は、そのように種別をしています。
実際、わたし自身、一般に使用されている単語や形容詞とは異なる独自の表現法を使用することが多く、上記もその一例かもしれません。
そのため、わたしの文章を引用された時には、すぐわかります。
大垂水酔鳥さまやレプトンさまの書き込みを見ても、よく使われている表現法などありますので、それぞれ知らずか?故意にか?特徴があるものですね。

増上寺の徳川家霊廟は、年数日ですが一般公開されますので、今後、機会がありましたら和宮の墓碑などを見学に来山ください。

★ ★ 追記 ★ ★

木辺男爵家の墓所は、大垂水酔鳥さまのご推察の通りです。
また、墓所へは寺の中からしか入ることができません。
江戸期の墓碑は、外部から覗かれた通り卵塔形式です。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 2月24日(金)08時35分41秒
  高遠さくら さま、こちらこそ大変に失礼いたしました。

私が「墓地の改葬整理」などと表現しているのが「集石」だったのですね。ず~っと勘違いしておりました。過去の私の投稿で「集石」とあるのは、全て「集積」の意味です。(汗;;)
 

宇土

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 2月22日(水)02時40分15秒
  早いもので、もうすぐ3月ですね。

昨日、非公開墓所の調査許可をご当主様よりいただきましたが、諸事情により調査はまだまだ先になりそうですが、今からとても待ち遠しいです。
多分、調査には30時間ぐらいかかりそうなので、4日間籠ることになりそうです。


さて先日、ビックカメラへ行く途中、4ヶ月ぶりに広尾の祥雲寺に寄ってきました。
同寺は、福岡藩主黒田家など多くの大名家の菩提寺となっていますが、久留米藩主有馬家の墓域内には、治定外の二霊が埋葬されています。
しかし、残念ながら戦後、広大な墓所は改葬され二女王の墓碑は廃棄され現存してません。
現在、墓誌には全合祀者の法号、没年、続柄が列記されていますが、桂宮家仁親王王女・有馬頼徸室豐子女王と有栖川宮韶仁親王王女・有馬頼咸室韶子女王の二女王の他にも韶子女王所生の夭逝した二霊の記載も見られます。


景福院殿花岳宗冨大姉 安永三甲午 頼徸室

精蓮院殿進譽韶意大姉 大正二年六月六日 頼咸室

眞光院殿玉露幻夢孩児 嘉永六癸丑 昭子胎児

玉峯院殿庭遊如幻孩児 嘉永七甲寅 昭子胎児

※墓誌には、韶子ではなく昭子と刻まれている。

すでに旧石は廃棄されていますが、豊子女王の墓形は藩主墓と同形の三層塔、韶子女王の墓形は明治後であることから角石墓であったと思われますが、夭逝した二霊の墓形に関しては不明です。


大垂水酔鳥さま

「現地の一角に墓碑を集石」の意味合いですが、現、増上寺の徳川家の墓域は、横幅10m、奥行きが30mほどで全8基の墓碑が改葬されています。
集積とは、墓碑が隙間なく並べられていたり積み重ねられているという意味合いで、集石とは、墓域が当初よりは狭められたが、ある程度の間隔でまとめられたというわたし自身の意味合いで記しましたが、紛らわし表現で失礼いたしました。

また、墓域内には、誰の旧石であるのかは不明ですが、寳塔の塔身部だけが一基、奥に転倒しています。
寛永寺の徳川家墓所が、今後どのように保存されていくのかは定かではありませんが、四女王の墓碑とも早く再会したいものです。


桃林寺紫乃さま

はじめまして、今後も諸情報など宜しくお願いいたします。
 

掲示板の趣旨にあった発言を お願いします

 投稿者:fukuyama  投稿日:2012年 2月13日(月)21時07分14秒
  ここは「陵墓・陵印 掲示板」です
掲示板の趣旨にあった発言を引き続きお願いします 。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 2月11日(土)10時17分0秒
編集済
  高遠さくら さま

増上寺の徳川家墓所ですが、私はやっぱり行けませんでした。折角の機会を逃してしまい、とても残念です。
ところで、増上寺には「現地の一角に墓碑を集石」したものがあるのでしょうか?


桃林寺 紫乃 さま

すいません。私の前稿で「大峰寺前野」については蛇足として私の心象を踏まえ簡単に記したので、研究論文の該当の「注」の紹介について、結果として正確ではない表現になっています。

前稿では、「この「大峰寺前野」について研究論文では、注の中で一言「誤りか」とコメントされています。」と書きましたが、実際の「注」の記述内容は下記の通りです。論文の本文の該当部分も付記します。

場所は守道が葬送の地として「祇園の東,大谷と申して広き野(26)」を推奨しており,『小右記』がこれを「大谷寺北,粟田口南(27)」と記録しているから,前述の彰子と同じ鳥部野の北辺の大谷の地であったと考えられる.
(26)『栄花物語』巻第29.
(27)『小右記』万寿4年9月17日条.『日本紀略』万寿4年9月16日条に「大峰寺前野」とあるが,この大峰寺については詳細不明.所在地は『今昔物語集』に「一条,西洞院」としているが,誤りか.

栗原弘「藤原道長家族の葬送について」
http://www.nagoya-bunri.ac.jp/information/memoir/2005/2005_01.pdf

上記の研究論文の「誤りか」というコメントは、実のところ何を誤りと認識しているのか、私には正確にはよく判らないのです。

私が探した限りでは、今昔物語集に大峰寺が「一条,西洞院」とあるのは今のところ本朝部第20巻の第9話だけですが、ここには三条天皇中宮妍子の記述はなく、従って妍子の火葬地「大峰寺前野」と今昔物語集の大峰寺が同一の寺かどうかの確証がありません。もし、論文の著者がこの確認をしないまま、大峰寺が「大谷」ではない一条西洞院にあることから「大峰寺前野」の記述を誤りとしたのなら、極めて杜撰な論証です。

蛇足でしかありませんが、私の推測としては、「大峰寺」は「大谷」にあった寺院であり、今昔物語集の一条西洞院にある大峰寺とは別物だと思います。
ただ、私も気合を入れて調べた訳ではないのですが、今のところ「大谷」に想定される付近に「大峰寺」があったとの記録は確認できていません。

今昔物語集の大峰寺跡(上京区西洞院通一条上る大峰図子町)の石塔は私も興味津々なのですが、お堂の中にあって見ることができません。
それ以前に、石塔がお堂の中に移されて保管されたのか、あるいは石塔が建てられた状態のままで覆堂が建てられたものなのか、更にはもともと存在する塚に石塔が他所から持ち込まれたものなのか、などなど私としては気になるところ満点ですが、判然としません。石塔の移転説は複数バージョンあるようですが。
いちおう、現地でお堂の下部の観察も試みたのですが、柵の外からでしか見られないので、皆目判りませんでした。
 

(無題)

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 2月10日(金)02時49分37秒
編集済
  皆様、こんばんは。
最近、ざっとですが、ようやく過去ログを読み終わりました。
多岐に渡り多くのことが書かれており、大変参考になります。
ありがとうございました。

過去ログでも話題になり、ぽん様の「新撰陵墓志(仮)」にもあります、宮城県石巻市 多福院にある
「吉野先帝菩提碑」の記事及び写真を見付けました。
どなたか行かれた方はいらっしゃるのでしょうか。
この碑は、この地を治めていた南朝方の葛西清貞が、後醍醐天皇の崩御を知り建立したものだといわれているそうです。
「吉野先帝菩提碑」は「多福院板碑群」として、昭和50年6月1日石巻市の市指定の有形文化財に指定されました。
が、湊小学校の裏手にあったこの寺院は、昨年の東日本大震災により墓地など壊滅的な被害を受けてしまいました。
別のサイトでは、墓地の墓石が倒れ、自動車が乗り上げている写真がありました。
震災後の「吉野先帝菩提碑」についての書かれているものを探したのですが、見付けることが出来ませんでした。
「吉野先帝菩提碑」は本堂の裏手にあるそうですが。
http://www.pacs.co.jp/hist_walk/walk_miyagi02/isinomaki_yosino_hi/index.html


先日は外出宣言をして、ようやく芝増上寺の徳川家霊廟に行ってまいりました。
その日は風のない穏やかな一日でしたので、ゆっくり参拝することが出来ました。
遠野さくら様(はじめまして。よろしくお願いします)はご参拝10回ですか・・・・
とても羨ましく感じます。


ところで、徳川幕府第7代将軍家継と婚約した吉子内親王の御墓について調べたところ、
『幕府祚胤伝』には「十月廿日、御葬送知恩院山上」とあります。
知恩院内の三時知恩寺墓地に御墓があることは管理人様のHPの写真及び皆様の記事により確認することが出来ました。
が、『徳川幕府家譜』には、「京 泉涌寺」とのみ書かれています。
泉涌寺に吉子内親王の供養塔のようなものがあるのか、それとも、伝聞ミスで書かれてしまったものなのか。
吉子内親王が薨去されたのは、9代将軍家重の御世ですし、家継将軍薨去後40年も経っていますので、もしかすると書き間違えたのかなとも思いますが。
何かご存知でしたら、お教えくださいませ。
なお、吉子内親王は、系譜には『御台所』として記入されており、幕府から終身御料をもらっています。


>大垂水酔鳥様
ご存知だと思いますが、三条中宮妍子の「大峰寺前野」火葬地説は、『日本紀略 後篇十三 後一条院 上』に書かれています。
 今日。皇大后藤原妍子依病落餝。即崩。年三十四。
 十六日癸丑。奉葬皇大后於大峰寺前野了。依遺令。停素服舉哀。國忌山陵。
大垂水酔鳥様にご教示いただいた研究論文で「謝りか」とコメントされているのは、『日本紀略』が国史ではない為ではないでしょうか。
信憑性に欠ける・・・・とか。
西洞院通にある大峰寺趾には、役行者の塚、又はその孫日円の塚とも言われる石塔があるそうですが、一説には、中宮妍子の供養のため建てられた火葬塚とも伝えられているそうです。
こちらへは行かれましたか?


それでは、よろしくお願いいたします。

(誤字1字訂正)
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 2月 6日(月)16時07分36秒
  「天皇陵の誕生 不思議だらけの天皇陵」という新書が3月2日に出版されるようです。著者は天皇陵ではお馴染みの外池昇氏。
下記↓によると、同氏の著書「天皇陵論 聖域か文化財か」「天皇陵の近代史」と同様の内容のような感じですね。
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106131467

それにしても、天皇陵関係本、次から次へと出てきますね。静かなブームというヤツでしょうか。
しかも、決まって予定より1~2ヶ月遅れて。(今回も最初に見た時は2月出版となっていました)

最近の私は本の速報の書き込みばかりで、ストレス溜まりまくりです。
 

富合

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 2月 3日(金)20時54分53秒
編集済
  早いもので、今年も1ヵ月が経過してしまいましたね。
調査報告書の制作に4ヶ月以上もかかりましたが、先日ようやく終了して一安心の今日この頃です。

先週は、7ヶ月ぶりに北海道まで温泉旅行に行ってきましたが、天気は快晴でしたが地元の方も今年は例年になく寒い冬だと言っていた通り本当に寒かったです。


さて、たけちゃんさまの情報に関してですが、確かに九條家の墓域内に英照皇太后(九條夙子)の遺髪塔は建立されています。

英照皇太后の13重石塔は、墓域入口の右手前に建立されていますが、同墓には後の山腹に埋めてあった英照皇太后の写経巻物を埋納したのですが、ただ、かなり深く納めたためか現物を確認できなかったそうです。

また、貞明皇后の供養塔は、同所には建立されていません。
供養塔が建立されなかった理由は不明ですが、多分、薨去したのが戦後であったためと考えられ、もし、戦前であれば供養塔を建立していたと思われます。
なお、九條家の墓所は、非公開のため一般の立ち入りはできませんので、ご注意ください。


増上寺内徳川家霊廟の一般公開も今週の火曜(1月31日)で終了になりました。
わたしは、10ヶ月間の公開中、丁度10回参拝に行き、最終日の午後2時30分に入り4時の閉門まで墓碑を眺めていました。
拝観券には、通算の番号が記されていますが、最終日の番号をみると、180226でした。
わたしの後にも団体など250人ぐらい入場していますので、拝観者総数(わたしの様に複数回の方も含む)は、18万500人ということになります。
1回の拝観料金が、500円ですので単純に計算すると、実に約9000万円になります。

わたし自身、性格上か???長時間、図書館や資料館などに籠り関連情報を探す作業が苦手なため、ほとんど行くことは無く、いつも同好の方から貰ってばっかりです。
そのため実地調査が主体なのですが、これって邪馬台国論争の「魏志倭人伝」から推測する文献派と、卑弥呼の墓を発見することを第一とする実地派のようなものでしょうか。


大垂水酔鳥さま

遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

しかし、徳川家御内室墓所の調査報告書は、驚きの値段ですね。
さすがに個人で購入するのは、五輪塔さんぐらい???かも。
改葬された徳川家の墓域は、未だ当時のまま四囲に鉄板が並べられており、内部も分解された墓碑や燈籠が手つかずのままの状態で残されています。
多分、まだ今後の方針が正確に決まっていないということでしょう。
最終的には、現地の一角に墓碑を集石するものと思われますが、これって結局、増上寺の徳川家墓所と同じ扱いと言うことになるんですね。
 

東福寺の御遺髪塔について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2012年 1月28日(土)21時28分47秒
編集済
  皆さん、こんばんは!
久しぶりの投稿になりますが、いつも皆さま方の投稿内容を楽しく拝見させていただいています。
先日、妻から許しを貰い、京都府立総合資料館へ行き、昨年の10月から12月にかけて大阪府立近つ飛鳥博物館で開催された「百舌鳥・古市の陵墓古墳」展の図録を閲覧して来ました。同展は、宮内庁書陵部陵墓課の協力もあり、陵墓から出土した考古遺物を中心に展示されていたのですが、図録には各古墳群における陵墓解説もされており、陵墓の規模や治定に至る経緯も紹介されてありました。また、宮内庁書陵部陵墓課の首席研究官である徳田氏の論文「陵墓の調査とその成果」も記載されており、陵墓研究に大いに参考になりました。

話しは変わりますが閲覧後、郷土資料を調査していたところ、大変興味深い内容がありましたので、報告させていただきます。
京都市東山区の東福寺内に摂関家の九條家と一條家の墓地がありますが、『京都坊目誌』(大正4年9月発行)によると、下記の治定外供養塔があるそうです。

・英照皇太后御遺髪塔 東福寺の東字内山 九條道孝ノ墓の上方に在り。十三重の石塔西面す。四面重塀を回らす。此所は九條家の奉祀に係ると云ふ。
・昭憲皇太后御遺髪塔 東福寺常楽庵開山堂の東に在り。南面にして四面重塀を圍らす。此所は大正五年四月一條家の造立に係り併せて奉祀する所なり。

『東福寺誌』(昭和5年4月発行)巻末年表によると、英照皇太后御遺髪塔は、明治31年3月12日に、昭憲皇太后御遺髪塔は、大正5年4月2日にそれぞれ建立されたようです。

英照皇太后の御寶塔は、和歌山県高野山奥の院にありますが、そちらは『高野山千百年史』(昭和17年5月発行)によると、明治30年9月5日に落慶供養が営まれています。

英照皇太后、昭憲皇太后御二方とも御実家墓地に供養塔があるわけですが、大正天皇皇后の貞明皇后供養塔も九條家墓地内に営建されているのか気になるところです。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 1月28日(土)13時14分54秒
  高遠さくら さま、寛永寺関係の諸情報のご教示感謝です。


白石太一郎編「天皇陵古墳を考える」が当初予定より2ヶ月遅れで出版されました。
白石太一郎氏の講演記録だと思っていたのですが、実際には4人の研究者による6編の講演記録でした。
http://www.gakusei.co.jp/tennouryoukofun%20mokuji.html
もともとは3期18回に及ぶ連続公演で、そのうちの1期6回分を書籍化したようですが、後続の2・3期12回分がどんなラインナップだったのか興味津々なので調べてみたところ、個人的には後続の分の方が面白そうな感じです。こちらも、2・3巻目として本にしてくれないかなあ。
http://www.tonbonome.net/index.php?page=event_ev1003220
http://www.tonbonome.net/index.php?page=event_ev1009120


全くの蛇足で恐縮ですが‥

毎日放送で日曜の朝に放送されている「美の京都遺産」という番組があります。
http://www.mbs.jp/kyoto/
京都の伝承地は寺社の境内や隣接地にあることが多いことから、番組でもごく稀に伝承地などが取り上げられることがあり、私は録画しておいて暇な時にまとめて見ています。
先日も年末年始の数回分を見ていたら表題が「保田與重郎」という日があり、それって誰?関係ないか!と思いながらトイレに立ち、戻ってくると画面に天皇陵の拝所が出ていて唖然としました。

保田與重郎は文芸評論家で、終の棲家「身余堂」が文徳天皇陵の隣接地にあるとのことです。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080221/1203557533

番組で放映されたのは、この「身余堂」から見た天皇陵ですが、一面の緑の中に拝所だけが白く浮き出ていてとても美しいのです。文徳天皇陵の拝所は一直線の参道の奥にあるので、通常ではそのような写真は撮影できません。
私も一面の緑の中に拝所だけが白く浮き出る写真を撮影しようと思い、早速調べてみたのですが‥
写真集↓なども出版されているので、てっきり観光物件になっているものと思っていたのですが、この「身余堂」は遺族の方が住んでおられるのか、観光対象ではないないようで残念です。
http://www.sing.co.jp/info/book/yasuda01.html

なお、番組のナレーションでは何度か「文徳天皇」の名が語られ、保田與重郎が終の棲家を文徳天皇陵の隣接地にわざわざ選んだのでは?と示唆しているかのように私は感じました。果して真相は?

 

(無題)

 投稿者:レプトンメール  投稿日:2012年 1月25日(水)23時27分17秒
編集済
  こんばんは。レプトン・今崎です。
山陵の復古と精忠という書物があります。江戸期以降の山陵探索に関わった人々の活動と精化などを書いてある本で、記録や書簡なども記載されているものです。主な人物名・明治2年の諸陵寮の官吏の名簿・大正期とその100年前の山陵所在地の差などについて、書かれているものを紹介しようと、3時間近く書き込みをしておりましたが、投稿前に他のサイトを参考に見る操作をしてしまい内容がすべて消えました・・・・ショック・・・・又編集作業をするときに書き込んでいきます。


応神天皇陵の堤の部分に入って行われるお祭りのことがかつてこの掲示板でどなたかが紹介して下さっていたと思うのですが、その新聞記事がありました。
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E6EAE2E2E0E1E2E3E6E2EBE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5

「奈良県史 3 考古」に次の内容が記載されています。
第5章  近世山陵調査記録  (管笠日記 藺笠のしずく)
第6章  大和国陵廟図考  34図あります。
第8章  聖跡図志 10ページ
  なかなか分かりやすくていいです。 あれ?7章は何だったかな?


HNのレプトンですが、歴史関係の掲示板には違和感あるなあとも思っていたのですが・・・・フットワーク軽く活動したいという願いもあり、「軽」だけで連想したものです。昨年ヒッグス粒子が一躍注目されたのでそのジャンルで探したというのと、そのジャンルにも 興味があるので(もちろん知識は皆無です。)「軽」には軽薄な奴という自虐も含んでいますが…私もHNでないですが、コスモス・ススキ・めんどり・ギンヤンマ・流れ星等を使っていました。花は重なるので・・・関係ない話ですがかつてフロッピーデイスクのボリュームラベルには、サザンカ・ユキワリソウ・コスモス・ヒマワリなど花の名前を順に付けていっていました。

3時間分の書き込みが無に帰しましたので、荒い内容の投稿ですみません。
 

川尻

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 1月18日(水)23時08分53秒
  東京は、まったく雨が降らない日々が続いていますが、先週ようやく祐天寺まで初詣に行くことができ、柳原愛子墓の参拝をしてきました。
昨日は、増上寺の徳川将軍家墓の見学をしてきましたが、あと1回行く予定です。


さて、谷中霊園内寛永寺墓地に建立されていた徳川将軍家の御内室墓地の発掘調査報告書が、ようやく来月15日に吉川弘文館から発売されることになりました。

定価は、なんと15萬円+税、ということです。

わたし自身の調査対象は、あくまでも墓碑本体なので、あまり埋葬施設には関心はないのですが、それでも3万円以内なら購入しようと思っていたのですが、さすがに15萬円となると・・・

ただ、宮家出身の4人の御内室の詳細な情報を知ることができるので、早く見てみたいものです。


レプトンさま

今崎さまの新HNですが、わたしには、まったく未知な世界です。
わたし自身は、前述のとおり花シリーズですので、そのほか、佐原あやめ、水戸梅子などなどです。
陵墓・陵印の掲示板なので、古風で日本的なHNにしています。
 

ありがとうございます

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 1月17日(火)17時55分9秒
  >レプトン様
はじめまして。
火葬の場所などの情報をありがとうございました。

新しいHNに変えられたんですね。
ヒックス粒子やハドロンが候補に挙がったということは、それに関係した言葉なのでしょうか。

今後とも、よろしくお願いいたします。


>大垂水酔鳥様
はじめまして。
情報ありがとうございます。
陵墓については、まだ初心者の部類です。
研究論文などは大変興味を引きましたので、ゆっくりと熟考してみたいと思います。

「大谷」が「祇園(八坂神社)~鳥辺野の辺りと想定されて」いるとありましたので、角田文衛氏の『鳥辺山と鳥辺野』を紐解いてみました。
(「角田文衛著作集4 王朝文化の諸相」 法蔵館 昭和59年出版)
鳥辺山と鳥辺野の範囲や沿革についての論文です。
一条天皇皇后定子と一条天ご生母・東三条院詮子については触れてありますが、残念ながら一条天皇中宮彰子については書かれていません。
また、平安~室町時代と江戸時代では、鳥辺野の場所も違うそうです。
この本には、『村上源氏の螢域』という論文も載っています。

今後とも、よろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 1月15日(日)14時28分7秒
編集済
  桃林寺 紫乃 さま

祇園女御塚の「一条天皇中宮彰子または三条天皇中宮妍子の火葬地」説?については私も調査中ですが、今のところ詳細不明です。

ただ、この2人が「大谷」で火葬されたのは確かなようです。「大谷」というのがどの範囲なのかについて記されたものは見当たりませんが、祇園(八坂神社)~鳥辺野の辺りと想定されており、立地的な矛盾はなさそうですね。

なお、彰子・妍子を含む藤原道長一族の葬送についてはネットでも研究論文が公開されています。
http://www.nagoya-bunri.ac.jp/information/memoir/2005/2005_01.pdf

蛇足ですが、妍子の火葬地についてはもう一ヶ所「大峰寺前野」というのがあり、その伝説地?比定地?がありますが、こちらも詳細不明です。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=50
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian17.html

この「大峰寺前野」について研究論文では、注の中で一言「誤りか」とコメントされています。

何かご存知でしたら、ご教示頂けると幸いです。


レプトン さま

那冨山墓の件、旧掲示板で既に取り上げられていたのですね。失礼致しました。
私は休みが不規則で急に変更になったりもするので、月一回となるとなかなか難しそうです。
そう言えば、私は日祝日に陵墓巡りをすることは滅多にないので、日祝日に入れない陵墓があるのを数年前まで知りませんでした。
 

あけましておめでとうございます。

 投稿者:レプトンメール  投稿日:2012年 1月14日(土)11時14分9秒
編集済
   あけましておめでとうございます。今崎です。今年も宜しくお願いいたします。
管理人様、今年もお世話になります。どうかよろしくお願いいたします。又皆さま、本年も色々ご教示くださいますようお願いいたします。
 今年に入り仕事で近くを通ったこともあり、神武陵・スイゼイ陵・元明陵・元正陵を参拝してきました。お正月明けでしたが各陵で1人ずつ参拝者がおられました。元正陵は今では少なくなった木の鳥居が建てられています。今の時点で鳥居の木と石はどれくらいの割合でしょうね?木の鳥居はだんだん希少なものとなっていきますね。

 大垂水酔鳥様が書かれている聖武天皇皇太子墓ですが、私も30年くらい前から、一般拝所に行けない状態でした。ときどき行っておりますが、15年前位もいけなかったと思います。30年くらい前に開化天皇陵(奈良部事務所)で「那冨山墓の一般拝所には行けないのでしょうか」と聞いた時、「作業する時にだったらあけているので行けるよ。月に一回くらいあるよ。」と教えていただきました。私もそれ以後お願いすることもなくそのままになっていますが、一度奈良部事務所に確認されたらいいかと思います。(みささぎ掲示板の時にも同じ話を書いていました。)

 さて、皇陵謹拝記念帖(昭和2年発行・昭和5年改訂再発行)という書籍があります。皇陵巡拝の案内書兼集印帳という性格のものです。この中の長慶天皇陵の説明に次のような記載があります。
 大正十五年十月二十一日長慶天皇御在位宣布ノ詔書ヲ下サレ同帝ヲシテ人皇第九十八代南朝第三世ノ天皇ト御決定遊バサレタ御陵地ハ未ダ詳ナラズモ朝廷ニ於テハ御即位ノ地後村上天皇住吉行宮跡ヲ以テ御陵修築個所ト御内定アラセラレタト洩レ承ル

 治定は昭和19年ですが、昭和初期にはこのような情報があったことを示す資料です。京都嵯峨の慶壽院跡が陵墓になりましたが、朝廷では御内定されたと洩れ聞こえてるという表現が、ほぼそこで決定というニュアンスで感じられます。長慶天皇陵の治定や候補地・伝承地については過去何度かPOM様より詳しくご教示いただいております。(みささぎ掲示板時代を含めて)市井ではこのような風聞があったことがうかがえます。


 桃林寺 紫乃さま、私は全く知識を持ち合わせておりませんので、諸賢の回答を待ちましょう。
陵墓は宇治陵です。次のサイトの一条天皇陵の項には彰子は大谷本院で火葬され、宇治陵34号墓に埋葬されたとありますが、情報源が何なのかは書かれてありません。
   http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-kofun.html


  私もHNを用いることにしました。動植物・宇宙などでいくつか使っておりましたが、この掲示板ではレプトンで宜しくお願いいたします。昨年末に話題となったヒッグス粒子とか、ハドロンを候補にしましたがどれもイマイチセンス悪い…さくら様はいずれもセンスいいですね。

 

はじめまして

 投稿者:桃林寺 紫乃  投稿日:2012年 1月14日(土)03時28分51秒
  はじめまして。
桃林寺 紫乃(とうりんじしの)と申します。
昨年末、陵墓関係の検索中にこちらを知り、その情報量と知識の深さに大変感動いたしました。
私は中学の頃より天皇家・公家・武家の系図や女性名などに大変興味を持ち、いろいろ資料を集めてきました。
また、20年程前ですが1年半くらい大阪に住んでいましたので、京都・奈良へはよく出掛けていました。
現在は家事等で手一杯なので遠出などとても出来ませんが、皆様の投稿記事を楽しく読ませていただこうと思っております。
今後とも、よろしくお願いいたします。

ところで、大垂水酔鳥様の投稿の中に、祇園女御塚の写真がありましたが拝見してとてもビックリしました。
かなり昔に瀬戸内晴美(寂聴)氏の「祇園女御」を読んだので、大阪時代に是非行きたかったところでした。
当時も今も人通りの多い道ですが、20年前はそこに女御塚があるとは誰も知らなくて(多分)、立ち止まってお堂を見ている私を不思議に思った人もいたと思います。
私が所持している「国文学1980年10月臨時増刊 後宮のすべて」(学燈社)の写真を見ると、「祇園女御の墓」(角田文衛氏は墓と認知していた?)の周囲はとても綺麗ですが、私が見た時はかなり草が生い茂っていました。
お堂自体も大きくなかったです。
現在はお寺も出来、全てが新しくなったそうですね。
以前のものが昭和に作られたものだとしても、供養塔が移築されてしまったのはとても残念な気がします。

祇園女御塚について、こんなことがあります。
当時、山と渓谷社出版の「歩く地図」を使用していましたが、それには全く祇園女御塚のことは触れられていませんでした。
ところが、昨年長男が修学旅行用に配布された「京都班別行動」(編集発行:社団法人日本移動教室協会)には、祇園女御塚が載っているではありませんか。
引用しますとこうなります。
 祇園女御(生没年不詳)は、祇園社脇の水汲み女、または源仲宗の妻などといわれる。白河天皇の寵姫でのちに平忠盛の妻となったとされるが、実はその妹とするのが正しいという。一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)の火葬地ともいう場所にある。

一条天皇中宮藤原彰子の火葬地というのは本当なんでしょうか?
ちなみにこの冊子には、参加した編者・出典など何も書かれていません。
おわかりの方がいらっしゃれば、ご教示くださいませ。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2012年 1月11日(水)14時59分31秒
  元旦の朝ですが、BS朝日で「正倉院と東大寺~発見!天平の秘寶剣 聖武天皇の王朝を断った陰陽の剣の謎を探る」という番組が放送され、基親王墓の拝所と制札などが40秒ほど放映されました。
基親王墓は私が陵墓巡りを始めた約30年前には既に中に入れなくなっておりましたが、15年くらい前までは入れたとの情報もあり、私としては???なのですが‥‥
立派な拝所があるのに、そこまでの立入ができない陵墓が徐々に増えてきており、拝所の陵墓名の石標や制札などの写真撮影の完全制覇を目標とする私としては憂慮する事態です。
ともあれ、宮内庁が朝日放送の基親王墓への立入を許可したということですが、どのような条件を満たせば許可されるのか、ダメモトながら気になるところです。


学生社より「1月上旬刊行予定」の白石太一郎「天皇陵古墳を考える」の正式リリースがまだなく???です。延期を重ねて既に当初予定より一ヶ月半も遅れているのですが‥

11月に「皇族世表・皇族考證」という系図本が出版されていたようです。全7冊で税別¥45000! 見られた方おられますか?
吉川弘文館のサイトで内容見本(カタログ)が見られます。 http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b93941.html
その内容説明によると「歴代天皇ごとにその子孫を掲出。本篇である「世表」と、校訂・研究過程を記した「考証」から成る」とあり、その「校訂・研究過程」というのに個人的に興味津々です。例えば、各地に残る後南朝文書などの皇胤記録や、寺院記録による僧侶の皇胤伝承などはどのように取り扱われ評価されているか、などなど。
検索してみると、関西では大阪府立中央図書館で「受入予定」になっていました。早く見てみたいものです。
 

熊本

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2012年 1月 9日(月)02時02分12秒
編集済
  管理人の福山さま、皆さま、明けましておめでとうございます。

昨年末に書き込みした通り、本年度からHNを変更いたしましたので、ご報告させていただきます。
このHNは、7年前に1年間だけですが五輪塔さんのサイトで使用していたのですが、6年ぶりに復活させることにいたしました。
わたしのHNは、基本的には花シリーズなので、このHNも7年前に、吉野さくら、にしようかどうか最後まで迷っていたのですが、高遠さくら、に決めた次第です。

今崎さま、こんな感じです。



さて、わたし事ではありますが、昨年10月から書き始めた報告書の制作が忙しく、まだ初詣も行っていない状況です。

そんな中、昨年の12月30日に3ヶ月ぶりに谷中霊園まで行ったので寛永寺に寄ってきました。
同寺の境内には、一橋徳川治濟正室桂宮在子女王の墓碑だったと思われる旧石などが集石されていたのですが、3ヶ月前に行ったところ更地になっていたので確認に行ったのですが、旧石群は同所へは戻されておらず現在も更地のままでした。
こうなると、改葬された谷中霊園の徳川将軍家の墓域内に移転されたのか?
または、残念ながら廃棄された?のかの、どちらかであると言えそうです。

また、昨年は、各所へ調査に行ったわりには伝承墓へは、あまり行けなかったので、今年はできるだけ廻りたいと思っています。

本年も、皆さまからの諸情報など宜しくお願いいたします。
 

大原陵旧印について

 投稿者:北島静波メール  投稿日:2012年 1月 8日(日)11時38分46秒
  二種類の印影ですが我が家にある山陵宝典と言う朱印帳によれば下の印影が昭和15年6月9日に集印した記録があります、確かに文字の違いが解りますが皇の文字の王の下の線が直線的な後鳥羽天皇で順徳天皇は幾分山形になっています、この程度しか解りませんが理解してください、また京都の熊内氏の皇陵記に掲載されている印影も私の所持する昭和15年の印影と同じものでした、以上ですが皆さんの頑張りに敬意を表します、今年も元気よく健康にお過ごしください。

http://www1.m1.mediacat.ne.jp/shikishimanomiti/index.html

 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年12月26日(月)12時37分23秒
  今崎 さま

旧陵印の件、なるほど、よく見ると微妙に角度や長さの違う部分がありますね。
パッと見で一緒でもよく見ると微妙に違うとなると、これを見極めて収集・分類って際限のない作業になりますね。
本当に頭が下がります。でも、周囲の視線など無視して邁進して頂きたいと思います。
私も、行方不明になっている旧陵印の箱?袋?が見つかり次第、確認照合作業をしたいと思っています。

蛇足で私事で恐縮ですが、私の陵墓・伝承地めぐりにも周囲には理解者はいません。別に欲しいとも思いませんが、やはり情報提供者としては必要ですよね。

前の職場では陵墓趣味?を説明しても理解されないので、単に一般的?な歴史好きとして通していました。しかし、上司や同僚に今はやり?の歴男歴女が現れると、新撰組とか信長・秀吉・家康とか種々の歴史ドラマとかのくだらない話に巻き込まれるので、転勤を機会に歴史系の話には無関心を装い、ついでに無趣味を装っています。
幸いにも独身・単身なので、家族への気兼ねが皆無で居られるのがラッキーではあります。


学生社より白石太一郎「天皇陵古墳を考える」が11月に出版されるはずだったのですが、延期されたまま未だに正式なリリースがなく、発売日も内容も不明です。
と書いたあとで、念のために学生社のサイトを再確認したら「1月上旬刊行予定」と表示が変更されていました。(汗;;)
なお、下記サイトによると、内容は連続講座の講義録のようです。
http://www.tonbonome.net/index.php?page=public_index


私の3月30日の投稿で、菟道稚郎子宇治墓の参道入口が道路拡幅工事により破壊?され、兆域原標と参道入口の鎖が道路の真ん中に放置されている状態を報告しましたが、その続報です。

あれから約9ヶ月、もう参道入口も完成しているものと思って、昨日、例によって業務外出のついでに遠回りをして(笑;;)確認に行ったところ、工事が進捗した気配がなく、以前と全く変化が見られない状況でした。
前稿では、飛地の一部が市道の拡幅用地として供出?される可能性もお知らせしましたが、結局どうなったのか気になるところです。(現況は変化なし)

ついでに、京阪宇治駅と宇治墓の間に造成される予定の公園も「太閤堤」の復元?も、工事を行っている気配すらなく、9ヶ月前のままです。
 

引き続いて大原陵 旧陵印

 投稿者:今崎メール  投稿日:2011年12月25日(日)21時41分8秒
編集済
  北島様、お久しぶりです。北島様のHPが復活されたのですね。先程御挨拶の書き込みをいたしました。今後とも宜しくお願いいたします。

HNですが、私もそろそろ使いたいなあと思っています。かつてのみささぎ掲示板では本名でとのことでそのまま本名を使用しておりました。しかし職場で私の名前で検索をかけたものがおり、ここでの書き込みを印刷して持って来てみんなに見せたりしたので、どうしようかなと思っております。照山様の新(復活?)HNって、天香具山様?・・かとも思いましたがよく読み返せば違いますね。列車関係ですか?

さて、今日はクリスマスにも拘らず旧陵印を睨んでおりました。すると大原陵は作り替えがあったことが分かりました。神武陵・スイゼイ陵の陵印も同じと思っていたものが、そっくりのものに作り替えられた可能性が出てきました。神武陵・スイゼイ陵については、今後詳細に比較検討しないとはっきりとしたことは言えませんが、分かりましたらお知らせいたします。
印の文字の違いを比較するのに、トレースするのが一番よいでしょうか?PCで画像の透明処理を施し重ね合わせて調べられればいいのですが・・・・もしそのようなソフトや方法をご存知の方おられましたら御教示いただければ幸いです。


さて下の2枚の大原陵の旧陵印、違うのが分かるでしょうか?
上が昭和初期で、下は昭和を通して長く使われた印だと思います。(使用年代についてはまだ詳しく調べられていません)
違いはいくつかありそうですが、皇の文字の下の余白の広さの違い(つまり文字の位置が違う)は一番よくわかる違いで、これは印の摩耗や破損、朱肉の量の違いによる太さの差や文字のつぶれなどによる違いでないことは明らかです。
 

平成

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年12月25日(日)00時24分8秒
編集済
  早いもので、今年も残すところ1週間になりましたね。

奈良調査後、来年度の調査報告書の制作に追われる毎日でしたが、とりあえず一区切りがついたので、今日は1ヵ月ぶりに青山霊園まで行ってきました。

青山霊園には、五摂家の九條家のほか一條家の墓所も建立されていますが、ただ、この一條家の墓所は、雑草だらけのジャングル状態が20年ぐらい???続いていましたが、何と、雑草と巨木が伐採され、墓所がすっきりしていました。
今、写真を撮らないと、また、すぐ元のジャングル状態になりかねないので、20枚ほど撮影してきました。

1 故従一位一條實良公夫人総子墓(角石)
裏)眀治二十年三月廿九日薨

総子は、近衛忠熙の息女で、一條實良の夫人です。
實良の父である一條忠香の正室は、伏見宮邦家親王の第二王女の順子女王で、
實良の妹の美子は、明治天皇皇后の昭憲皇太后になります。


先日、参拝した太子町の叡福寺に建立されている香淳皇后の父久邇宮邦彦王の遺髪墓です。

2 碑銘無 (七層塔)
裏)久邇宮邦彦王御遺髪奉納 七重塔一基 昭和六年四月十一日恭奉建立之
左)昭和十一年二月廿一日地大震損塔身乃奉新造之且拓舊銘文刻以傳干永世焉



さて、わたし事ではありますが、来年度からHNを変更いたします。
思い起こせば、「みささぎ掲示板」以降、てるやまもみじ(照山もみじ)というHNを使い早8年が経過し、愛着があるものの、ひとまず休ませることにいたしました。

実際、ポンさまも二度、変えていますし、管理人の福山さまも漢字からアルファべット表記に、今崎さまも以前は、フルネームでしたし・・・・

新HNは、6年ほど休ませていたので、そろそろ復活させることにしました。
さて、問題です。わたしの新HNは、何でしょう???

答えは・・・「高遠さくら」でした。


今年を振り返ると、地方への調査時、震災や台風の影響により帰宅できなくなるなど大変な1年でしたが、全国各所へ調査に行き、数家ではありますが長年、葬地が不詳であった華族の墓碑を発見するなど有意義な1年でもありました。
わたし自身、いつも親しくさせていただいている同好の方々から多くの情報や資料をいただいておりますが、今年は新たな同好者が一人も増えなかったことが残念に思っています。
と、言っても積極的に増やそうとは考えてはいませんが、それでも来年は一人か二人、新たな同好者と出逢えればと思っています。

また、直接、お逢いしお禮を言うことができませんが、当掲示板での皆様からの情報は、大変、参考にさせていただいております。
来年以降も随時、陵墓及び皇族関係者の墓碑情報を報告していきたいと考えておりますので、来年もまた、宜しくお願いいたします。


今崎さま

しかし「みささぎ掲示板」の頃から8年も過ぎてしまったんですね。

さて、わたしの新HNですが、「天香久山」ではありません。
以前、天香久山さんが書き込みをされていましたので、もし、わたしが天香久山であれば、当掲示板で一人二役を演じていたことになってしまいます。
実際、当掲示板でも何回もHNを変えて別人のふりをして書き込みしているのがいますが、わたしはそのようなことはしていません。

新HNは、以前、別サイトで1年ほど使っていたものですが、今崎さまも一緒に新年から新HNでスタートしませんか?
 

お久しぶりです

 投稿者:北島静波メール  投稿日:2011年12月24日(土)16時37分15秒
  色々事情がありすべての作業を怠けておりましたが年末にようやく終の棲家へ転居いたしました、皆様の活発な行動を拝見して日本の行く末を心強く感じております、今崎さん一別以来ですがこれからも宜敷お願いします、皆様本年も残り少なくなりました健康に留意して楽しい作業をお過ごしください、佳いお年をお迎えください。

http://www1.m1.mediacat.ne.jp/shikishimanomiti/index.html

 

嵯峨南陵亀山陵 旧陵印

 投稿者:今崎  投稿日:2011年12月23日(金)12時22分24秒
編集済
  こんにちは。皆さま御無沙汰いたしております。寒くなりましたね。

大垂水酔鳥様
私の旧陵印資料についてお褒め下さりありがとうございます。周囲の者にはなかなか理解してもらえず、特に家族からは嫌みの1つ2つを聞き流しながら地味ーーーーに取り組んでおります。まあ周囲の人に理解してもらおうとは鼻から思っておりませんが…今後も宜しくお願いいたします。いつも詳しい報告楽しみにしております。

ポン様・照山もみじ様・たけちゃん様・その他皆さま方
いつも貴重な情報をありがとうございます。私の理解をはるかに超えるものばかりで唸りながら読ませていただいております。今後ともどうかよろしくご教示ください。

最近は陵墓巡りがほとんどできず、家で旧陵印を眺めて慰めております。以前より皆さま方よりいただいた貴重な情報は大変重要なものばかりで感謝いたしております。今後とも何か分かりましたら御教示くださいますようお願いいたします。

10月ごろに崇神陵の桜が松に植え替えられた旨の投稿を明治期の古写真とともに書き込みました。先月崇神陵をハイキングで通った時に、堤の北側で松が伐採された切り株がありました。年輪を数えると先の記事の傍証になるかもしれないので今度行ったときに数えてみようと思います。


さて下の2枚の陵印ですが、嵯峨南陵亀山陵の旧陵印です。何年か前にやったように間違い探しふうに皆様に御呈示いたします。上の写真は約1年前に入手したもので、下はよくある旧陵印です。当然同じものだと思って比べもしてなかったのですが・・
先入観を持っていてはだめですね。これからも地味---に比較検討をしていきます。


最後になりましたが管理人様、いつもありがとうございます。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

今日は天皇誕生日、では皆様よいクリスマスを…

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(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年12月16日(金)16時10分8秒
  今崎 さま、一連の貴重な陵印のご紹介有難うございます。いつもながら感服です。

私も宮内省製作のものかどうか判らない私陵印?とでもいうべきものを何枚か所蔵しているはずなのですが、現在行方不明となっており、ご紹介できず残念です。



てるやまもみじ さま

金塚古墳の制札?の件、ご教示感謝です。
11年前の写真を確認したところ、よくあるパターンでした。近年撤去が進んでいる白い駒札に「欽明天皇陵 陪塚金塚 □□□」というものです。文字が風化?でかなり薄くなっており□□□は判読不能ですが宮内庁で間違いないでしょう。

屋根付き制札の三禁の変形バージョンは見た記憶がありませんが、駒札なら種々の書式?がありますね。しかし、宮内庁の制札?駒札?で古墳の学術名称?が記載されているのは見た記憶がありません。これは宮内庁が陵墓の文化財性に配慮を示したということでしょうか。

ところで、欽明天皇陵と崇峻天皇陵は飛地に、いろは‥と付番?されていませんね。何か意味があるのでしょうか。


私事で恐縮ですが、今年は業務外出のついでに数か所の陵墓・伝承地を訪ねたくらいで、まともにフィールドワーク?ができず、その結果として満足に投稿もできず、ストレス溜まりまくりです。まだまだ身動きできない状況が続きそうです。
 

南熊本

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年12月13日(火)23時36分19秒
  早いもので今年も残すところ半月ほどになりましたね。

先週は「奈良・大和路遊々きっぷ」を使い奈良調査に行ってきました。
奈良は、2年ぶりになりますが、大和郡山では柳沢家墓の再調査を、明日香では、ようやく飛鳥坐神社の神職家飛鳥家の墓所のほか牽午子塚古墳、植山古墳などを廻りましたが、天武・持統天皇合葬墓は、何度、訪れてもいいですね。
しかし、飛鳥坐神社は、青山町阿保の阿保親王墓と同様に、飛鳥座神社と「坐」ではなく「座」と誤記されている地図も多いです。

また、6年ぶりに叡福寺の聖徳太子墓を参拝しましたが、三笠宮百合子妃の実家である高木家墓の再調査で採寸作業に4時間もかかってしまい、予定していた伝?推古天皇陵ほか用明天皇陵などへは、どこも行くことができませんでした。

さて、明日香で気になる制札を発見しました。
鬼の雪隠の近くにある金塚古墳には、ほぼ正方形の制札?が立てられて(貼り付けられて)いますが、そこには宮内庁の三禁ならぬ二禁が記されており、文言は下記の通りです。

「金塚古墳(平田岩屋古墳)
一 みだりに域内に立ち入らぬこと
二 ゴミを捨てぬこと
宮内庁」

しかし、「ゴミを捨てぬこと」の文言は、今まで見たことがありませんね。


いのうえとろろさま

確かに、数年前から掃苔ブームですね。
ただ、その対象は、太宰や夏目などの文学、芸術家関連か、新撰組や幕末維新関連ですので、陵墓もそのブームに便乗できるといいのですが・・・・

高丘紀季卿の情報ありがとうございます。
黒谷には、高丘家の墓碑が全9基、建立されています。

正四位子爵藤原朝臣禮季之墓 (角柱墓)

従二位子爵藤原朝臣紀季卿之墓 (角柱墓)

先々代の和季子爵の墓碑も以前、同所に建立されていたはずなのですが、東京?へ改葬されています???
多分、先代の季昭氏の墓碑も和季子爵墓と同域に建立されているはずなのですが、長年、探していますが不明です。

年間の掃苔日数が多分、日本一の五輪塔さんでも未だ不明のようですので、高丘和季、季昭氏の墓所地の情報がありましたら宜しくお願いいたします。

高丘季昭氏の夫人小夜子氏は、高木正得子爵の四女ですが、同二女は、三笠宮百合子妃になります。
また、百合子妃の母邦子は、入江為守子爵の息女ですが、弟は入江相政侍従長になります。

しかし、公卿墓と同様に、わたしが親しく交流している埼玉の方以外に、華族家や飛鳥家などの神職家墓の調査をしているという方を今まで聞いたことがありません。

今後も、諸情報がありましたら、宜しくお願いいたします。

 

(無題)

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2011年11月27日(日)22時55分9秒
  てるやまもみじさまありがとうございます。

最近は「墓マイラー」などといって有名人といわれる方のお墓参りがブームだそうですが、公家墓の調査研究という方はなかなかいないですね(そういうサイトも見当たりませんし)。夫にも「まあ、あなたはそういう人だから」といつも生温かい目で見られています(汗)

浄福寺で東坊城家などの菅原氏の墓碑を見ていると「諱」「諡」「私諡」をよく見かけました。儒学や紀伝道を家職としているからかと思ったのですが、清浄華院では山科家の墓で、盧山寺では中山家の墓で「○○夫人藤原氏」というのを見かけました。たぶん他の公家でも探せば有ると思うのですが、これも「諡」だと思うので家職だからというわけではなく、その家代々の決まりとして付けているのしょうか?そういえば水戸家の夫人方にもついていますよね。
ちなみに奥方ならば「○○夫人」ですが、男性だと○○の下の敬称は何になるのでしょうか?ごぞんですか?

あと、ふらふらネット世界を徘徊していたら、高丘家の幕末の当主紀季卿に関するサイトを見つけました。その中に黒谷にある高丘紀季、恒子夫妻の墓碑が載っておりました。もしすでにご存知でしたらすみません…(音楽がなりますので、閲覧時には注意を)

http://www.eonet.ne.jp/~tuguto/index.html

 

新水前寺

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年11月26日(土)11時35分32秒
編集済
  今年も、僅か1ヵ月と数日を残すだけになってしまいましたね。

現在、調査報告書の制作に追われていますが、今週は半年ぶりに錦秋の京都まで家族旅行に行ってきました。
今旅行は、各所のもみじ巡りをすることが目的でしたので大名家や公家墓、陵墓とは、まったく無縁の旅となってしまいました。
そのため唯一、参拝できたのが嵯峨野の有智子内親王墓だけでした。



さて、いのうえとろろさまの書き込みにあります浄福寺の外命婦墓ですが、わたしも6年ほど浄福寺さんにはご無沙汰なのですが、手元の史料よりご参考まで。


1 外命婦菅原朝臣光子之墓 (角柱)
左)慶應二年五月十八日卒 私諡日孝順

2 外命婦藤原朝臣宜子之墓 (長方形)
左)嘉永二年八月五日薨 諡日敬順

3 外命婦藤原朝臣寛子之墓 (長方形)
右)故前参議従二位行大宰大貮藤原忠成卿女享和二年壬戌十一月適・・・
  正四位下行少納言菅原朝臣尚長明年十一月二十一日病卒年十七諡恵慎


4 典侍從五位上藤原家子之墓 (長方形)
右)文久元年九月廿八日
左)寂静院殿湛譽常然光善禪尼

5 掌侍菅原朝臣總子墓 (角石)
左)天明二年九月一日
右)號無量壽院


わたしが親しく交流のある方の中で公卿墓の調査をされているのは大阪に一人いるだけで、いままで他に公卿墓の調査をされているという方を一度も聞いたことがありません。
今後も、諸情報がありましたら宜しくお願いいたします。
 

一休寺・以仁王の印

 投稿者:今崎  投稿日:2011年11月20日(日)00時32分57秒
  話題となっている一休寺の印と、以仁王の墓の印です。
一休さん(宗純王)の墓の印は見当たりません。陵印を押したものにこの「一休寺」の印が捺してあるので、陵印を捺していた、元の所有者はこの印を参拝の証としたのでしょう。前回の投稿でも触れましたが、大正から昭和・戦前にかけて皇陵巡拝を目的とした山陵巡拝会(?・名称未確認)が作成した陵印・墓印がないところは、皇陵墓のある神社・寺院の印、あるいは近くの縁のある神社・寺院の印を参拝の証として捺印している例がいくらか確認できます。

以仁王の墓の印は今回初めて確認しました。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年11月19日(土)22時14分27秒
  椿夫人 さま、慈揚塔の件、ご教示感謝です。

中国の高僧?の名から1文字づつ貰って墓塔の命名?をしたようですが、このような事例は一般的なのか特殊事例なのか興味深いです。

蛇足ですが、ご紹介の説明板は私も3年前に撮影しているのですが、記載内容については全く記憶がなく、今回手持ちの写真を再確認して唖然としている次第です。

陵墓関係の説明板や案内地図などは目を皿のようにして見ているつもりなのですが、けっこう見落としも多くて、我ながら嫌になります。この掲示板の投稿でも私は度々恥をさらしていますし‥

 

慈揚塔のいわれ

 投稿者:椿夫人  投稿日:2011年11月19日(土)19時13分59秒
編集済
  京田辺方面への所用もあって、以仁王墓と宗純王墓を参拝してきました。
少し冷え込んで、酬恩庵一休寺ではそろそろ紅葉も始まっておりました。
さて、宗純王墓の脇に酬恩庵の建てた看板がありました。それによりますと、

「一休禅師は文明十三年(1481)十一月二十一日 当寺で示寂されたが
これに先だって 文明七年ここに寿塔を建立し 平素敬慕されていた
宋の慈明・楊岐両禅師の名をとって慈揚塔と名づけられたのである」 とありました。


雨が降ってたせいか参拝者(観光客?)も今日は少なく、静かなお寺でした。



 

水前寺

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年11月16日(水)00時04分11秒
  早いもので今年も、あと1ヵ月半を残すだけですね。

さて、今月は2年ぶりに10日ほど四国調査へ行き、最終日には調査漏れが見つかったために、2ヶ月ぶりに高野山に立ち寄ってきました。
しかし、高松、坂出、多度津の駅などで流れる入線を告げる「瀬戸の花嫁」のメロディを聞くと、四国へ来たんだという実感がわきます。

四国では、筆山、万年山、新谷、今治、多度津などの再調査をしてきましたが、比較的に天候に恵まれたことから先月の熊本調査と同様に、残念ながら予定していた伝承地はおろか治定墓さえも参拝することができませんでした。

関連墓碑としては、霊芝寺に建立されている高松藩主松平頼恕墓を10年ぶりに参拝してきました。
松平頼恕の実弟は、水戸徳川家の9代藩主徳川齊昭で、齊昭の正室は有栖川宮織仁親王の王女吉子女王になります。

霊芝寺には、頼恕のほか松平頼常(水戸光圀實子)の二藩主の墓所しか建立されていませんが、法然寺とは異なり墓所は儒式であるためにミニ瑞龍山という感じで、とてもいい雰囲気です。
 

息速別命墓の印

 投稿者:今崎  投稿日:2011年11月10日(木)06時30分18秒
  9月頃話題になっていた垂仁天皇皇子息速別命の墓の印です。7月17日の私の投稿で紹介した「阿保親王之墓」の瓢箪型の印はおそらく平城天皇皇子の阿保親王の御墓の印であろうと思っていますが、息速別命墓の印の可能性が低いけれどあるかもしれません。  

正倉院展 ほか

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2011年11月 9日(水)15時54分44秒
  おひさしぶりです。

11月にはいり暖かい日が続いたと思ったら、昨日から急に寒くなってきました。職場でも風邪をひき始める人が多くなりました。みなさまいかがでしょうか?

今年も奈良・京都への秋旅行へいってまいりました。

奈良は正倉院展へ行きました。個人的には「黄熟香」が目的でしたが、実際実物を初めてみて大きさに驚きました。もっとこじんまりとした小さいものだと思っていたのですが、結構な大きさで食い入るようにみておりました。あれはどんな匂いがするのでしょうかね。想像がつきません。
あとは1Fの売店にあった「蘭奢待チョコ」。こちらも予想外の大きさで「ちっさ!」と思わず言ってしましたが、値段を見て絶句してしまいました。

京都は「第47回 京都非公開文化財特別公開」のうちの浄福寺など2件と、知恩寺の古本市へ行ってまいりました。

知恩寺の墓地は7.8年ぶりのような気がしますが、かなり変わっていましたね。入ってすぐもっと空き地があったはずなのに、完全に墓地状態で入ってすぐに見つけられるはずだった高倉寿子の墓を見つけるのにさまよってしまいました。
あとは江戸時代の墓石の表面の剥離が目立った気がします。

宝鏡寺の人形展に行き(あそこのお人形さんたちはいつも心洗われます)、報恩寺の賀陽宮墓を参拝したのですが、寺のお庭の手前に竹の棒があり、そこから進むのもためらわれまわって横からの参拝になりました。

浄福寺のほうは「霊妙心院墓」の場所はわかったのですが、大木や垣根に阻まれて墓石がほぼ見えませんでした。あと、調べて江戸時代後期の桂園派の歌人柳原安子の墓があるとわかっていたので探したのですが自然石に「桂峯院藤原安子」と彫られたのを見つけました。多分これだと思うのですが、「桂芳院遺草」のように「芳」だと思ったのですがどっちなのでしょうか?どちらも「ほう」と読むのでいいのでしょうかね?
あと「外命婦菅原朝臣…」というのも見つけました。奈良時代などには「外命婦」を見たことがありますが、江戸時代にも用いられていたのですね。さすが「儒家」だからなのでしょうか。

ともかく二日間ともお天気に恵まれ有意義な旅行でした。

 

墓塔の名前の命名

 投稿者:椿夫人  投稿日:2011年11月 6日(日)18時33分30秒
編集済
  大垂水酔鳥さま

臨済宗では、高僧や師家の墓塔に、称号のみを刻む場合もあるようです。
http://www.tokugen.com/index.html
例えばこちらの「紹介」から「歴代」のページへ入って参照しますと、
ご住持方は自身の軒号を以って墓塔名としておりますし、
卓洲胡僊禅師のように墓塔に諡号を刻む場合もあるようです。
「慈揚」というのは、一休宗純の自撰による諡号(?)のようなものでしょうか。

私もあまりよくは分かりませんが、よろしくです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年11月 6日(日)11時34分47秒
  たけちゃん さま、宗純王墓の件、ご教示感謝です。
一休禅師が自ら「慈揚」の二文字を無縫塔に書いたというのは知りませんでした。

となると、これは墓塔の名前の命名というよりは、お気に入りの言葉を墓碑に刻銘したと考える方が良いのかもしれませんね。近年の墓にも同様な流行?がみられますが。

禅宗の高僧にはお気に入りの言葉を墓碑に刻銘するという風習が古くからあるのか‥とも考えたのですが、今のところ未確認です。

 

宗純王墓について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2011年11月 5日(土)20時35分6秒
編集済
  皆さん、こんにちは!
 今日は、妻から許しを貰って雨の中、京都御所秋季一般公開に行ってきました。雨にも関わらず、多くの方が来られていて混雑していました。

大垂水酔鳥さま
 いつも陵墓に関する諸情報をありがとうございます。
 お尋ねの宗純王御墓について、過去に私の知り得た情報は、下記のとおりですのでご参考いただけたら幸いです。

 後小松天皇皇子宗純王墓は、『陵墓録』(国立公文書館内閣文庫所蔵)によると、明治9年11月(宮内庁書陵部所蔵『御陵墓府県分帳』では、明治9年2月)に治定されました。
 後年、御墓は酬恩庵から切り離されたうえ陵墓掌丁が置かれ、現在宮内庁の管理となっています。
既にご存じのとおり、御墓(無縫塔)は寿塔で文明7年、一休禅師が82歳の時に建立され、その折り禅師は「慈揚」の二文字を書いて塔に刻んだそうで、現在も御塔に残されています。また、余談ですが御墓の前庭は、室町時代中期の茶人村田珠光の作です。

 宮内庁が管理する堂塔式陵墓の墓銘は、『陵墓要覧』などで確認することができますが、御堂内にある石塔の銘文は記載がされてないため、確認することが難しいように思います。
 今回のご質問を機に調査しましたが、後宇多天皇髪塔のように無銘無文の石塔もあるようです。

 今後とも、どうぞよろしくお願いします。
 

おそらく陵印

 投稿者:今崎  投稿日:2011年11月 5日(土)05時18分27秒
  こんばんは。
1枚目は日子坐命墓の印として使用されていたようです。
2枚目日本武尊の能褒野墓の印と並べて捺してある「日本武尊」の印です。
3枚目は「猿投宮御鎮座大碓尊」と書かれています。これも大碓尊墓の印として使用されていたようです。
これら3枚は一般の陵印に比べて墓などの文字がなく名前だけが書かれています。皇族墓の集印帖に捺されていることからこれで陵印と同じ扱いで、参拝者が捺印していたと思われます。
 また同様に、皇族墓の集印帳に神社や寺院の印が捺されている例が数点確認できています。「円照皇寺之印」「因幡一宮宇倍神社」「伯耆国會見山安養寺」「羽咋神社」「二上山頂・二上神社御璽」などです。これらは陵印がなかったので、参拝の記念とその証として捺印されたものだと思われます。円照寺宮墓と大津皇子墓の印は有りましたが捺せなかったと考えるより、当時はまだ作られていなくて、その後作られたものと考える方がよさそうです。これらもまた写真で紹介します。

 山辺の道をまた歩いてきました。崇神陵の階段の手すりはもう大分前に付いていましたがいつごろ付けられましたっけ・・・?崇神陵周辺の秋の植物が多彩で面白いでした。ジュズダマもあったし・・・
 

東海学園前

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年11月 4日(金)01時34分20秒
  大垂水酔鳥さま

今地震により被害を受けた水戸徳川家の瑞龍山墓地の修復費用は、約20億円と言われています。
今回、瑞龍山墓地の特別公開が各回、定員通りであれば、約400万円の寄付金が集まったことになります。
はたして1万円もの大金を払い、どれほどの方が参拝に訪れるのかは、わたし自身も興味深いところです。

ただ、墓所の修復費用が膨大であることからも、今後も年数日の特別公開による参拝(寄付)は定期的に行われるものと考えられます。
前述の通り、今後ある程度、修復され墓地内を自由に見学できるようになれば、わたしも二人の治定外墓などの確認のために参加したく考えています。
わたしも15年前に参拝に行きある程度の記録は採ってはいますが、あまりにも墓碑数が多いことから不十分であり再調査をしたく考えていたのですが、なかなか再訪できないまま現在に至っています。


現在、鹿児島の福昌寺跡に建立されている島津家の墓所が、国指定の史跡になるため文化庁が調査中のようです。
ただ、指定される墓所が江戸期のものに限られることから久光公の墓所などは対象外で、常安の峯墓地に建立されている香淳皇后の外祖父にあたる島津忠義公爵の墓所も対象外になります。
また、同時に島津宗家以外にも一門の加治木、重富、今和泉、垂水の4家の各島津家の墓所も合わせて指定されるかもしれないとのことです???

ただ、史跡になると、色々と制限があることから大変な部分もあります。
鳥取池田家では、多磨霊園に建立されていた明治後の墓所を鳥取への改葬時、歴代藩主、婦女子の墓碑が建立されている奥谷墓地へは移転することができなかった例など不都合もあります。

そうゆう意味では、陵墓は一般の墓所に比べると、かなり優遇されていますね。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年11月 1日(火)00時28分50秒
編集済
  ★追記しました★

てるやまもみじ さま、嵯峨陵の参道入口の駒札の件、ご教示感謝です。

参道入口に屋根つき三禁制札や陵墓名のみの駒札が建てられている例はいくつかありますが、「参道」明記の駒札というのは興味深いですね。
近年、飛地などの駒札が徐々に木柱?コンクリート柱?に替えられていますが、用途がなくなった駒札の有効活用とかでしょうか。

瑞龍山墓地の拝観料10000円!!!ですか‥ 行く人いるんでしょうか。
修復費用の捻出のために特別公開というのも何だか哀しいですが、それで修復費用の何%が賄えるんでしょうねぇ。


話は変わります。

地方の古刹の開基・中興の僧侶には皇胤伝承のあるものが散見されるので、私は古刹の開山塔(お寺あるいは宗派の初代の墓)などの被葬者について調べているのですが、開山塔などに個別名称が付けられている場合があります。

例えば皇族では、京田辺市の酬恩庵にある一休禅師の墓は「慈揚塔」と言うそうですが、この詳細をご存知の方、ご教示願えませんでしょうか。
一休が生前に廟を建てて「慈揚塔」と名付けたとのことですが、これは「お堂」のことでしょうか、それともお堂の中の墓塔(無縫塔)のことでしょうか。

開山塔などの個別名称に該当するのかどうか判然としませんが、京都嵯峨の志玄王墓の墓碑銘は陵墓地形図集成によると「霊照塔」とのことです。志玄王は天龍寺2世の無極志玄ですが、今のところ志玄王の戒名等に「霊照」の2文字が含まれるのか確認できていません。

これらの「慈揚」「霊照」という言葉の意味あるいは命名の由来などなど、個人的に興味津々です。


ついでに。

私の2008年10月17日投稿で、京都の護浄院(通称:清荒神) にある「光格天皇御胞衣塚」について記しましたが、その補遺編です。

水輪に「尊勝塔」と書かれた五輪塔の傍らに「光格天皇御胞塚」と書かれた制札と石碑があるのですが、次のように疑問を呈しました。
「全くの想像ですが、光格天皇御胞塚とは石柵の中に木が生えている部分のことで、五輪塔は関係ないのではないかと思えてしまいます。 」

結果的にこの想像は正しく、尊勝塔あるいは尊勝陀羅尼塔というのがあるらしく、それがたまたま「光格天皇御胞塚」と並んでいただけのようです。


★追記★

先月、陵墓関係本がもう1冊出版されていたようです。なんと2万円!
http://www.fujishuppan.co.jp/newbooks/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E9%99%B5%E5%A2%93/
 

竜田口

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年10月29日(土)02時09分52秒
編集済
  木枯らし1号が吹き、東京もすっかり寒くなってしまいました。


今週は、伊藤博文公爵の墓前祭に参列、その後、増上寺の徳川将軍家墓所を参拝してきました。
徳川家墓所の公開は、当初、11月30日まででしたが、拝観所の記載を見ると来年の1月31日までと記されていました。
当初、拝観料金の500円は高すぎるという声が多く聞かれましたが、予想外???に見学者が多かったせいなのか?港区?観光バス会社?からの要望なのか、特別公開の期間が延長されたようです。
以前にも記しましたが、同所には治定外で一番著名な和宮の本墓が建立されていますので、是非、一度、ご参拝ください。

先日、11月初旬の6日間(午前・午後)に非公開である水戸徳川家の瑞龍山墓地が特別公開されることがニュースで報じられていました。
各公開の定員は40人で、拝観料は10000円とのことですが、これは震災により被害を受けた墓所の修復費用のための寄付金扱いになるようです。

瑞龍山墓地には、治定外の徳川齊昭正室吉子女王(有栖川宮織仁親王王女)と、徳川慶篤正室幟子女王(有栖川宮幟仁親王王女)の墓碑が建立されています。
今回、二人の治定外墓をはじめ水戸家の各藩主墓の他にも、支藩の守山、宍戸、府中の各松平家墓所の今地震による被害状況を確認したく考えていました。
しかし、実際には学芸員?の後を40人の参加者がスズメの学校のように付いて行くだけで、自由に行動できそうにないので申込をするのをやめました。
主催者側も、各所に被害が出ている墓所内を勝手に歩き廻られ事故でも起こされても嫌なので、よくよく考えれば無理な話でしたね。
自由に見学できれば、10000円を払う価値はあるのですが、残念です・・・・・


今日、約1年ぶりに練馬の広德禪寺まで参拝に行ってきました。
広德禪寺は、京都大徳寺の東京別院であることから、一歩、寺域に入ると、東京に居ながら京都紫野へ来たような錯覚になり、とてもここが東京であるということを忘れてしまうほどです。
大徳寺の塔頭総見院は、近衛家の菩提寺であることから、広德禪寺は分家の近衛子爵家の菩提寺であり墓所も建立されています。
墓域の入口には、「公爵、子爵近衛家墓所」と記された石柱が建てられていますが、この経緯に関しては、以前、海雲和尚よりご説明をいただきました。
ただ、同寺は、寺の入口に「拝観謝絶」と書かれており、檀家以外の方の立ち入りはできませんので、ご注意ください。



大垂水酔鳥さま

嵯峨陵の参道入口に建てられている駒形制札ですが、3行で「嵯峨天皇皇后嘉智子 嵯峨陵 参道」と記されており、中央の嵯峨陵の文字は大文字になっています。
大垂水酔鳥さまが2001年に撮影した写真にある入口の木柱標識は廃棄され、現在は駒札が新設されています。
嵯峨陵へは、かれこれ10回ほど参拝していますが、毎回、写真を撮っているわけではないので詳細は不明ですが、5年ほど前には、すでに現在の駒札に取り換えられていたと思います。

実際、嵯峨陵の入り口であるという標識が無いと、初めての時はわかりずらいですからね。
同様に、奈良の吉隠陵の入り口もわかりずらかったですね。
初めて行った35年ぐらい前は、まだ15000分1?の地図を参考にしていただけに、随分、迷ったことを懐かしく思いだしました。

懐良親王墓の制札屋形のように、土台の基壇?石垣檀?のない陵墓が他にもあったか定かではありませんが、わたし自身の記憶では想いつきません。
 

山の辺の道

 投稿者:今崎  投稿日:2011年10月26日(水)18時40分49秒
編集済
  こんばんは。お久しぶりです。秋になってハイキングが気持ち良い季節となりました。先々週は土日とも山の辺の道を歩いてきました。秋の山の辺の道はとても気持ち良いです。崇神陵や景行陵は緑が美しく、秋の夕日に輝いていました。
先週は元明陵・元正陵・聖武陵などを見てきました。
 ずっと以前に(おそらく「みささぎ掲示板」の時代かと思いますが・・・)投稿した内容と同じなのですが、黒塚古墳展示館の隣にある柳本公民館に飾られている写真を紹介します。(以前の投稿では写真は載せられませんでした。)明治時代の崇神天皇陵の堤の写真です。桜の木と満開の花が写っています。説明には「明治期には御陵の桜として有名で花見で賑わったが、御陵での花見は畏れ多いということで大正初期に松に植え替えられた。」とのことです。


 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年10月26日(水)15時45分29秒
編集済
  てるやまもみじ さま

懐良親王墓および檀林皇后陵の件、有難うございます。

ご指摘の件については記憶の片鱗にも全く残っていなかったので、さっそく写真を確認しました。

懐良親王墓の「制札が異常に低い」件については、1996年1月撮影のもので確認しました。
屋根つき制札は通常は石垣壇?の上に建てられていますが、壇が低いか無かったりすると、このように不恰好?で不自然に見えるのでしょうね。

檀林皇后陵の参道の入口の件ですが、10年前の写真では白塗の木柱でした(↓写真)が、これのことでしょうか。それとも、駒札など立札の類があったということでしょうか。
制札・駒札から木柱?コンクリート柱?へと差し替えるのがこの間の陵墓関係の標識のトレンドですが、木柱から制札に戻された、あるいは新たに制札が建てられたということであれば興味深いですね。

「参道」あるいは「入口」であることを明記した宮内庁の駒札の類は、たぶん他にもあるのでは‥と思いますが、私もしかと見たという記憶はありません。
参道入口には宮内庁の三禁制札・駒札のほか、木柱・コンクリート柱や石碑あるいは道標・看板的なものなど種々の標識が建てられているので、統計化したら面白いかもしれませんね。

矢沢高太郎「天皇陵の謎」(文春新書831)が予定より若干遅れて発売されました。
新聞記事をもとにしたコラム集のようなものを想像していたのですが、写真や図面がけっこう掲載されており、巻末には参考文献や索引も付けられており、なかなかどうして‥という感じです。

文芸春秋のサイト↓で、冒頭の数ページが見られます。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166608317


檀林皇后陵の参道入口 2001年1月撮影
 

武蔵塚

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年10月24日(月)02時05分21秒
  いよいよ紅葉のいい季節になりましたね。

今月は、2週間ほど熊本調査へ行き、最後の2日間は半年ぶりに萩へ寄ってきました。
偶然とはいえ熊本は今年3度目の来訪になりますが、細川家、相良家、中川家、松井家、有吉家、米田家の各墓所の再調査に加え、連日の暑さも重なり疲労の連続でした。
しかも、まだ蚊もいるし・・・・蛇も3回みたし・・・・

そんなことから予定していた伝承地へは、まったく行くことができず、唯一、参拝できたのが治定墓の懐良親王墓(4回目)の1ヶ所だけでした。

前回、参拝した時にも感じたのですが、入口に建てられている懐良親王墓の制札が、異常に低いのが気になっています。
懐良親王墓以外にも低い制札は、あったと思いますが・・・・

それと、今春、京都の鳥居本の奥にある檀林皇后嵯峨陵へ行った時に気がついたのですが、100mほどある参道の入口に「嵯峨陵参道」と記された制札の存在です。
嵯峨陵へは、かれこれ10回ほど参拝していますが、はたして参道入口を示す制札って他の陵墓にあったかどうか???

清和天皇陵の前(300m)舗装道から道なりに歩いて行くと、この嵯峨陵の前にでます。
その後、鳥居本~念野念仏寺~二尊院~嵐山まで景色もいいので、機会があれば歩いてみてください。

 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年10月11日(火)14時05分11秒
編集済
  椿夫人 さま、陵墓関係の公文書のご紹介有難うございます。

私は、特に、般舟院陵・伏見宮墓地の伏見の旧地に興味津々でして、過去に自分でも調べたり痕跡を求めて徘徊したりしましたが、いづれも手ぶらで帰る破目になりました。
今回ご紹介の資料では、明治初期の般舟院陵の治定?に際して、伏見旧地を「検査」?したが「般舟院屋敷」の地名のみ存続し「墳墓の形迹一切相残り不申」との部分に興味をそそられます。
また、「寺門記録等は焼失いたし 事歴判然ならず」にも拘わらず御由緒寺院の格式?が考慮されてか般舟院陵の治定?がされたようですが、陵内の供養塔について治定・治定外の区別のある理由については依然判明しておらず、謎の多い陵墓ですね。

ぽん さま、履中陵の陪塚・周辺古墳についてのフォローならびにご教示有難うございます。若干気になる点があるので、以下に記します。

末永雅雄「古墳の周庭帯と陪塚」で陪塚に号が誤って記載されている●の位置ですが、これは陪塚は号の北に位置します。従って、ぽん さまご指摘の「飛地ろ号(東酒呑塚)の北側に、東西に細長く伸びる高まり」が仮に古墳であったとしても、これは●とは別物ということになります。

次に、京都新聞に掲載されていた百舌鳥古墳群の配置図の小さな写真から読み取った○古墳ですが、これは一列に並ぶ4古墳の位置関係から「陪塚に号と同じ工場の敷地内」に位置すると結論付けましたが、工場の敷地内に該当の古墳が「現存」することを確認した訳ではありません。
地図を見て頂けるとわかりますが、「は号」と「に号」の間の「に号」寄り2/3くらいの部分は工場敷地です。京都新聞の写真では○の位置は「は号」と「に号」の中間点のやや「に号」寄りなので、多少のズレはあっても○の位置が工場敷地の範囲内に含まれることに変わりはないので、位置情報として断言しました。
 

履中天皇百舌鳥耳原南陵の飛地(陪塚)について

 投稿者:ぽん  投稿日:2011年10月 9日(日)23時21分26秒
編集済
  ☆大垂水酔鳥様、たけちゃん様(大変遅くなりましたが、第二子誕生をお祝い申し上げます)、詳細な御教示に感謝申し上げます。

百舌鳥ミサンザイ(石津丘、美賛佐伊、仁田山)古墳の陪塚については、現在
 い:経堂(経堂塚)古墳(飛地い号、三角形、元円墳、経20m、高3m)
 ろ:東酒呑塚古墳(飛地ろ号、長方形、元円墳、経20m、高3m)
 は:西酒呑塚古墳(飛地は号、長方形、元円墳、経25m、高3m)
 に:桧木山(檜塚、檜木)古墳(飛地に号、長方形、南北25m、東西16m、高2m、元前方後円墳?)
が指定されていますが、下図(大垂水酔鳥様の作図を一部改めました)

に            D A B
  ○     ●      c
    は ◎     *****
         ろ  *     *
          *       *    @
          *  本 地  *
          *       *
          *       * 石
          *       *   @
          *       * 狐
        旅 *********
                    黄
         い

の通り、消滅した物を含め、多くの古墳があります。

以下、中井正弘著『伝仁徳陵と百舌鳥古墳群』(昭和56年、摂河泉文庫)、中井正弘著『仁徳陵 この巨大な謎』(平成4年、創元社)等を参照に記載すると
 A:七観音(寺山)古墳(円墳、経25m、高3m)
 B:寺山南山(赤山)古墳(方墳、方38m、高4m)
 D:七観山古墳(円墳、経50m、高8m、消滅)
 旅:旅塚古墳(円墳、経35m、消滅)
 石:石塚古墳(円墳、周24間、高6尺、消滅)
 狐:狐塚(茅塚)古墳(円墳、周43間、高11尺、消滅)
 黄:黄金塚古墳(円墳、周103間、高7尺、消滅)
が確認できます。

ちなみに、小生所有のメモには上記以外に
・中酒呑塚(経11m、高2m)
・西塚(円墳)
が記載されてるところ、陵墓地形図上、飛地は号(西酒呑塚)のすぐ東側に隣接して、高2mほどの円形の高まり(上図の◎、現在消滅)があり、これが前者(中酒呑塚)である事は間違いありません。

また、後者(西塚)については、断定は出来ませんが、A(七観音)古墳から見たB(寺山南山)古墳、そして「c」古墳の近接した位置関係を考えると、このc古墳が西塚である可能性を考えています(あるいは、工場敷地内に現存する上図「○」古墳の可能性もありますが、実見出来ない現状では推測の域を出ません)。

なお、上記黄金塚の別名として『百舌鳥耳原三御陵 御陪塚並陪塚ト認ムベキ民有地略図』に「ド塚」、『大阪府全志』に「藤室」と記載されていますが、この二つについては、前記中井氏の著作に名称記載の無い、上図の@(二箇所、現在消滅)を指す名称だったかも知れません。

ところで、大垂水酔鳥様ご指摘にかかる●については、陵墓地形図上、飛地ろ号(東酒呑塚)の北側に、東西に細長く伸びる高まり(高3m、現在消滅)が図示されており、これを指すものとも考えたのですが、地形図をよく見ると本地の周濠から取水している水路に沿った位置にある事から、水路を掘った残土を盛っただけに過ぎない印象も否めません。
.

http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

国立公文書館(2)

 投稿者:椿夫人  投稿日:2011年10月 9日(日)12時54分36秒
編集済
  再び太政官の公文書よりの抜粋です。
照会し易いように、請求番号を入れておきました。今回も長いです。すみません。



『皇后陵墓爾来何陵ト称ス』 7年12月25日 教部省届

[請求番号] 本館-2A-009-00・太00487100
太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百六十四巻・教法十五・山陵一

歴代皇后御陵墓称号の儀は 仁徳天皇皇后磐足姫命平城坂上墓以下
敏達天皇皇后廣姫息長墓まで 諸陵式には墓と称せられ候ところ
続日本紀 天平宝字四年十二月戊辰
敕 太皇太后 皇太后御墓者 自今以後並称山陵云々と有之
文武天皇皇后佐保山西陵より爾後都て陵と称せられ候
前件の通 御陵墓の称号 古来異同有之候得共
向後は総て 何陵と相称可 此段為念御届申候也

十二月二十五日 教部





『高松藩ノ累年崇徳帝陵墓守衛且還遷途上警衛尽カノ功労ヲ賞ス』 元年9月25日

[請求番号] 本館-2A-009-00・太00124100
太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百二十四巻・教法・神社三

高松少将の崇徳帝御陵守護及び還遷御用途中警護等の労を賞し物を賜う

高松少将へ達
其藩 累年崇徳帝御陵守護相勤 猶又今般還遷御用向 且御途中御警衛に至迄 打続尽力致し
無滞御還遷相成 成功労力不少段 神妙の至 御満足に被思召候
依之賜此品候事

   ○復古記云 本條頼総家記二十七日とす 蓋拝受の日なり
   ○頼総家譜に云 九月二十七日累年累年崇徳天皇御陵守護相勤
      今般還遷御用向 且御途中御警衛に至迄 打続尽力 無滞御還遷相成 功労不少段
      神妙の至 御満足に被思召候旨にて 御狩衣地拝領被仰付候

今度 崇徳帝御還遷被為在段に付きては 前以より段々御用等被仰付途中
御守衛も相勤候て 無滞御還遷被為済候事 其上従来被国にて御守衛等も致申居候に付
別段の以って思召 位階にても賜候はば 宜哉と相考候間
此段申出候 尚可然御評議可給候事

九月11日    神祇官

  第一付箋 迄議事
  第二付箋 於白峯社一條は尽力候へども 春来の次第も有之於位階は如何哉
           先一條御褒詞並被下物可宜哉







『京都府下般舟院嘉楽門院御陵墓等ヘ掌丁ヲ置』 9年2月28日 教部省伺

[請求番号] 本館-2A-009-00・太00488100
太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百六十五巻・教法十六・山陵二

京都府下 般舟院にある嘉楽門院御陵墓等へ掌丁を置く


後花園院天皇皇妃 後土御門院天皇御母 嘉楽門院御墓

後土御門院天皇皇后 後柏原院天皇御母 贈皇太后源氏陵

後柏原院天皇皇妃 後奈良院天皇御母 豊楽門院御墓

後土御門天皇皇子 尊伝法親王御墓

右御陵墓 京都府上京今出川般舟院境内に有之候
元来右の御方々は 伏見般舟院に御葬送の由 古記に相見へ候ところ
文禄年間豊臣秀吉築城の際 今の地へ転寺に相成 其節御陵墓も引移に相成
従前の通守護いたし来候旨 寺門より申立候につき
先般当省官員巡回の節 伏見旧地をも検査為致候ところ 般舟院屋敷と申地名の相存し
墳墓の形迹一切相残り不申 尤も寺門記録等は焼失いたし 事歴判然ならず候へども
評寺の儀は旧来御由緒格別の訳柄にも有之 御歴代御霊牌所と称し
黒戸御所をも被為移 今以現存いたし候程の儀につき
文禄年間転地の節 御陵墓も更に御移座被為在候御事 寺門伝記の如くに可有之相考候條
一般の振合に準じ 掌丁付置取締為致可申哉 別紙取調書図相添 此段相伺候也

二月九日      教部


伺之通  二月二十八日

内務大蔵両省へ達
別紙教部省伺京都府下般舟院境内に有之候御陵墓処分の儀
朱書の通 及指令候條心得為 此旨相達候事




『中端雲斎ニ崇徳天皇神霊遷還御掛ヲ命ス』 元年8月15日 職務進退録
[請求番号] 本館-2A-009-00・太00029100

中端雲斎へ達
崇徳天皇神霊御遷還御用掛り被仰付候事




『泉涌寺後桃園帝外六ケ所御塔修繕開眼供養』
[請求番号] 本館-2A-009-00・太00132100

勧修寺内 宇野黙願 留守官宛
別紙の通泉涌寺より願出候につき 執奏の邊を以差出候 此の段宜奉願上候 以上
三年閏十月十二日

泉涌寺役者願 勧修寺宛
去る八月己来奉願上候 御廟所御塔並御損所 御修復中 御参詣節 御進拝所設置候ところ
此度右御修復皆御出来につき 是迄の通り御廟所へ御参詣被為在候様 御通達の程
奉願上候 以上
三年閏十月十二日

泉涌寺役者願 勧修寺宛
桃園帝 後桃園帝 桜町帝 後桜町帝 瑠璃光院宮 新皇嘉門院
右御方々様 御塔御傾相成 此度御組替御修理御出来につき
御先例 仁孝帝 東山帝 御塔御修復の節 御請開眼御供養被為在候
御儀於此度も奉勤修度 此段御伺奉申上候 宜御沙汰の御儀奉仰候 以上
閏十月十二日

御先例書
嘉永七年甲寅十一月 仁孝帝御台石御取替につき 御塔御組替の節
御内々為御供養 開眼御料白銀拾枚御下渡被成下候
慶応元年乙丑二月 東山帝御塔御傾につき 御組替の節 為開眼
御供養料白銀拾枚御下渡被成下候事


出納司へ通達 留守官
泉涌寺御塔御傾につき御組替に相成候後 開眼御供養料別紙願書例書等を以願出候につき
御廻し申入候
先達て 新清和院御同様の儀も有之度候也
閏十月一三日


出納司回答  留守官宛
泉涌寺御塔御傾につき御組替に相成候後は 開眼御供養料別紙願書例書等を以願出候につき
御廻し先達て新清和院御同様の儀も有之候につき 取計可申様御掛合承知落手致し
尚渡方取調の上 御答可申進候也
閏十月一三日


泉涌寺役者願 勧修寺宛
此度御塔御修復につき開眼御供養の御儀 奉伺候ところ
御先例の通被 仰出奉敬承段然るところ 光格帝御塔の儀の御損御繕に相成候
過日御伺可奉申上候ところ 不取調の段重々奉恐縮候得ども 何卒更に開眼御供養の御儀被
仰出候様 偏に奉願上候 以上
閏十月二十七日


勧修寺内 宇野黙願 留守官宛
別紙の通泉涌寺より願出候につき 執奏の邊を以差出候 此の段宜奉願上候 以上
十一月三日

泉涌寺役者上申 勧修寺宛
桃園帝 後桃園帝 桜町帝 後桜町帝 光格帝 瑠璃光院宮 新皇嘉門院
於 御塔前御作法執行仕候 女中方御参詣の節は 南廻廊にて御聴聞所 相設置候
雨天心得御位牌殿にて修行仕候 以上
十一月

宮内省へ廻済


勧修寺内 宇野黙上申 留守官宛
別紙の通泉涌寺より願出候につき 執奏の邊を以差出候 此段宜奉願上候 以上
十一月五日

泉涌寺役者伺 勧修寺宛
来る六日巳刻 七方様御塔開眼御供養奉勤修度 此段奉伺候 以上
十一月三日

可為伺之通事
 

履中陵他陪塚治定年月について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2011年10月 8日(土)00時19分4秒
  大垂水酔鳥さま
いつも陵墓や治定外墓に関する諸情報をご提供いただきありがとうごいます。
先日、堺市博物館を訪れた際、偶然にも今回ご紹介いただいた「乙第廿一部古墳墓取調略図」の写図が展示されていて、本物を見ることが出来ました。写真撮影が厳禁だったため、博物館入口受付の職員にリーフレットやパンフレットが無いか確認したところ、「無いので展示解説を筆記してもらうしかない」と言われてしまいました。「乙第廿一部古墳墓取調略図」は明治35年5月に筒井百舌鳥部陵墓守長が制作されたもので、この図の目的は百舌鳥古墳群における反正天皇陵、仁徳天皇陵、履中天皇陵と他の古墳との位置関係を示すと共に陵墓、陵墓陪塚、陵墓参考地、陵墓以外の官有地の古墳、民有地の古墳が色鮮やかに描かれ表されています。

また、お尋ねの履中陵他2陵の陪塚治定月日は下記のとおりですのでご参考いただけたら幸いです。
『陵墓誌古市部見廻区域内』(松葉好太郎著、大正14年11月発行)を始め他の古書によると
・履中陵陪塚い号~に号 堺県地租改正調査時(明治7年~8年頃)編入
・仁徳陵陪塚い号~り号 堺県地租改正調査時(明治7年~8年頃)編入
・反正陵陪塚い号鈴山  明治20年6月編入
・反正陵陪塚ろ号天王  明治20年6月編入

なお、今回ご紹介いただいた内容については、『考古学研究』(通号228 2011年春)の尾谷雅比古氏論文「百舌鳥古墳群における近代の史蹟指定」に詳細が記載されています。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。
 

国立公文書館

 投稿者:椿夫人  投稿日:2011年10月 7日(金)22時19分22秒
編集済
  太政官の公文書からの抜粋で、尹良親王に関するものです。
これによると、かなり早い時期から御治定への動きがあったようですね。長いです。すいません。


『信州伊奈郡浪合左源次外一名尹良親王御陵造立再願ニ付上申』
尾張藩・徳川義宜(当時は幼名の元千代)より添え状とともに太政官へ出された文書

乍恐以書付奉願上候
               信濃国伊那郡浪合村 名主 浪合左源次
                         組頭 平内
右の者共奉申上候
先般私ども村方に御鎮坐被遊候 南朝御陵の儀に付 御修造被遊被下置候様支度旨奉言上候ところ
早速ご採用に相い成り 追って御沙汰被成下候様御下紙以戴し 難有仕合奉存候
然るところ 方今御大政御一新の折柄 内外一時御用繁の御中 其上遠邦にては御事多に可被在と奉恐察候
就夫乍恐私ども先祖の儀は元来 右親王様御随従申上候様申伝
すでに右御陵傍に田地松林有之 是迄農業の暇には日々掃塵 不浄の儀等無之様恭敬居候事に御坐候へども
元来邊鄙草莽無情の者 誤て不浄し 御陵近傍欠込候 鋤鍬の憂ひ難計り自然と年経に随ひ
引末頎頽の姿に立至り候 半哉と誠に以心痛至極奉在候 付きては何卒往々御陵御修造もしたき段
先祖より志願申諭も有之 家事質素倹約を守り右事件不相忘御蔭にて 百姓相続仕罷在候につき
第一御国恩冥加は先祖の遺願継資し 乍恐衆力を尽くし 追って御沙汰被下置候迄の間
先仮に右御陵近傍御修復し 不敬の儀無之様したく奉存候
元来鄙賤の私ども 斯かる大儀申上候段恐縮至極に奉存候へども
前件の通り先祖より遺言も御坐候ところ 幸ひ当今百時御開業の折柄に草莽の私ども不願恐
鄙情いちずに奉懇願候 何卒格別の以御思召 右の願意御聞届被成下 私どもへ仮御修造被
仰付け被下置候はば 難有御儀に奉存候 以上


慶応四(明治元年)辰年五月
                                弁事  御役所



『伊奈県ヨリ尹良親王御廟営繕ノ儀伺出ニ付上申』

尹良親王陵墓造営 並 社頭修復の儀
在京中 兼ねて奉願上候ところ 以御附紙被 聞食置追て 何分の御沙汰可有之旨被
仰出奉拝承候然るところ 今般御用済 御暇被下置帰邑仕候に付きては
早速御造営取り掛かりたく存候間 何卒右願の通 御聞願上候 以上

戊辰八月十二日  中太夫知久左衛門五郎
                             弁官御役所


尹良親王陵墓造営 並 社頭修復の儀
別紙の通 知久左衛門五郎より再願申出候被 仰付候て可然筋と相考候
尚御評議可給候也

戊辰八月十四日    神祇官
                              弁官御中


御料当郡浪合村に後醍醐天皇御孫宮 尹良親王御廟有之尤微々たる御有様につき
右御廟御興立に相成候様致したく 相伺候心組にて 右最寄住居罷在候 下太夫近藤利三郎
右御由緒等巨細取調方申付候ところ 同人取調方 致尽力 右御場所地図並びに
浪合記 浪合故事略記 御系図略伝等相添 書面に通差出申候につき 一見致し候ところ
右にて巨細相分申候依之 右書面二通 並びに絵図とも写相添差出申候間
宜御承知御廟社 御興立被 仰出候様致したく存候
ついては同人願の通 尤の次第にも有之造営被仰出候につきては 御便利にも相成候間
東京出府の儀は 伺の上 可及沙汰候
間夫迄のところは差括可罷在旨申しつけ置候間 左に御承知宜 御沙汰可給候

一 当郡中太夫知久左衛門五郎儀は 祖先以来深く御由緒有之候につき
  右の段 承及書面差出申候 是又写相添差出申候間宜御沙汰御坐候様致したく存候

一 前條近藤利三郎より差出候古書類三部の儀も 校正相遂後便に差出可申上候間
  左に御承引可給候

一 右御興立被仰出候はば 先般楠中将豊太閤霊廟等御修繕につき被 仰出候御趣意に基き
  当国諸藩始 士庶人に至迄 有志の者は献備願出次第 御許容相成候旨 布告致し候はば
  御入費等は十分出来可致被存候
  右被 仰出候はば 早速点検相遂げ 造営方目論見取調相伺可申候間 是又御沙汰可給候

右御造営否 御沙汰早速御報被成下度 依之此段 相伺候也

己巳正月八日      伊那県
                              弁官御中



先般御問合申入置候御料 当郡浪合村尹良親王御旧跡取調方近藤利三郎は申付候ところ
右故事典籍書写差出候へども 杜撰且一見に甚不便につき 再応申付
査点相遂 今般簡易套括いたし 御系統一書編集為致 右旧地も一層念入為取調候につき
猶又絵図面に相仕立写四枚相漆差出申候間 右にて大略家名宜 御沙汰有之候様いたしたく
此段申入候也

己巳正月十八日     伊那県
                              弁官御中




当国伊那浪合村に後醍醐天皇御孫宮 尹良親王御廟有之
尤も微々たる御形状につき 右御廟御興立方追々取調申上候ところ
霊社造立の儀は難被閣候へども 尚御取調の上 追って御沙汰可有之旨 当三月 御附紙を以御達御坐候
然るところ下官事 頃日巡村の砌 右御廟拝参仕候ところ 御陵墓の上に僅一小碑有
之其邊生々立居候草等漫々 刈取候 やや相見へ奉対
神霊誠実 恐懼の至に御坐候間 追て御沙汰御坐候迄 御陵墓の儀は柵体のものなりとも
修理人跡を遠け候様致したく 此段相伺候 速々御下知希存候也

己巳七月二十三日    (伊那県知事・北大路)俊昌
                              弁官御中




尹良親王御廟営繕の儀 昨年正月中より段々申上 御沙汰の次第も有之候ところ
猶差当 柵体の者成共 修理人跡を避候様致したく 去七月中別紙の通
弁官へ差出置候 干今 御沙汰無之つきては追々時日も差移り 奉対神霊弥更に恐懼仕候條
右御 廟の儀につき追々及進達置候 別紙並絵図面とも四枚相添
猶又相伺候 早々御下知の程希存候也

庚午正月二十七日   (伊那県知事・北大路)俊昌
                             神祇官御中



尹良親王御廟営繕の儀方 今御入費多端の時に候へども
別紙の通 追々県より申立の次第も有之事につき 所詮 御尊崇の道相立御粗末不相成様
相応の御営繕 県へ申付可然儀と存候間 此段早々御評決相成候様致したく 相伺候也


庚午二月九日      神祇官


                             弁官御中


当正月中差出候 尹良親王御廟営繕の儀につき伺
今に御下知無 之差支候間 至急御下知有之度 此段申上候也

庚牛閏十月十八日   伊那県
                             神祇官御中



去る二月九日 尹良親王御廟営繕の儀相伺候ところ 今以何等の御沙汰無之
右は此節伊那県より再応伺出候につき 其節も申進候通
粗末に不相成様相応の御営繕 相成候様致度候間 早々御評決給候也

庚牛閏十月二十七日  神祇官
                              弁官御中




尹良親王御廟営繕の儀 御申越致承知候
右は御木像にても有之候や 無之候はば 御陵に相成候様御取調可有之旨、諸陵寮へ御下知可有之
依って御答申入候也

庚牛閏十月二十七日  弁官
                             神祇官御中
 

履中陵の陪塚治定について

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年10月 7日(金)15時36分26秒
編集済
  ★追記★しました

唐突に恐縮ですが、堺市の履中陵(ついでに仁徳・反正陵も)の陪塚治定の年月日をご存知の方、ご教示願えませんでしょうか。


今朝の京都新聞に、「明治期の百舌鳥古墳今に 堺に最古の配置図 消失の40基も判明」との記事が掲載されていました。

記事によると、1901年頃に「陵墓守長」によって作成された百舌鳥古墳群の配置図が堺市の旧家で発見されたとのことで、明治期の古墳群の記録で詳細な図を伴ったものは珍しいとのことです。
この配置図は1902年に宮内省に提出された図面の原図とのことです。
記事には全体図と3陵周辺部分の2写真も掲載されていますが、全体図はほとんど判読できません。3陵周辺部分の方は仁徳陵の見慣れた?陪塚の配置などが鮮明に読み取れます。

下図はイメージ図で、方位・位置・距離は正確ではありません。

 に    ●    D A B
   ○         c
     は     *****
       ろ  *     *
        *  履中陵  *
        *  後円部  *

注目すべきは履中陵の陪塚配置です。履中陵の後円部から北西に4基の小古墳が並ぶ様子が図示されており、位置関係から履中陵に近い2基は陪塚ろ・は号、1基(○)飛ばしていちばん遠い小古墳が陪塚に号に相当すると思われます。

陪塚に号は履中陵からあまりにも離れすぎており、なぜ陪塚治定されたのか不思議なのですが、今回の新聞記事を見て、この配置図の宮内省提出が契機となって遠方の古墳が陪塚治定されたのか、或いは既に治定されている陪塚を含めた古墳の配置図を作成したにすぎないのか、つまりはこの図面の宮内省提出と陪塚治定の前後関係を知りたいと思った訳です。


話は変わりますが、私の2009年1月23日の投稿で、末永雅雄「古墳の周庭帯と陪塚」(書陵部紀要13・「陵墓関係論文集」(1冊目)所収)に図示されている履中陵の治定外陪塚ABDについてコメントしましたが、以下はその補遺編です。

前投稿で「何故かCが欠番となっており不思議なのですが、陵墓地形図集成にはcの位置にも古墳かもしれない描写があり、それの書き漏らしなのか、単にDはCの誤記なのか‥ なお、cの古墳?については調べきれませんでした」と書きましたが、「新たな解釈」が浮上しました。

実は、末永雅雄「古墳の周庭帯と陪塚」には陪塚に号の位置が誤って●の位置に図示されています。陵墓地形図集成では陪塚に号だけ別枠で掲載されており、に号は工場の中にあって見られないとのことから、私はに号の正確な位置と陪塚間の位置関係を確認するのを怠っていて、長らく見落としていました。

●の位置に実際に古墳が存在したかどうかは不明で、今回の配置図にも該当する古墳は見当たりませんが、に号の位置よりは陪塚の位置としては相応しいですね。なお、陵墓地形図集成では○●とも範囲外となっています。
あくまでも推測でしかないのですが、末永雅雄氏は当初●を「C」としていたのを、何らかのミスにより「に」と清書してしまったのではないか、というのが「新たな解釈」です。

なお、現在●の位置は住宅地、〇の位置は陪塚に号と同じ工場の敷地内となっています。

★追記★

たけちゃん さま、百舌鳥3陵の陪塚指定の件、ご教示深謝です。
明治初期には陪塚治定されているということは、問題の図面は陪塚治定とは全く無関係ということですね。

京都新聞の記事は速報のようなものだと早合点していたのですが、既に研究論文が出ているのですね。またひとつ投稿の粗製乱造をしてしまいました。

★追記★終わり


蛇足です。

またまた天皇陵と銘打った本が出版されるようです。昨年から断続的に続いていますが、静かなブームなのでしょうか。

矢澤高太郎「天皇陵の謎」(文春新書)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106081334

上記によると、著者は読売新聞の古代史記者のようです。読売新聞の記事を新書に纏めたということでしょうか。
 

尹良親王墓

 投稿者:椿夫人  投稿日:2011年10月 6日(木)22時49分56秒
  ぽん様 たけちゃん様
「院の墓」についてのご教示、有難う御座いました。


さて、今回は『浪合村誌』
昭和59年3月25日発行 編集者・浪合村誌編集委員会 による尹良親王墓の記述です。

浪合合戦の古戦場といわれる字宮の原の北東部山麓に在る小丘は、
尹良親王の御首を埋め奉った所と伝えられ、こんにち親王の御墓はこの地に築かれているが、
永い間全く世上から忘れられていた。
江戸時代元禄以後学問の復興につれて、国史の闡明に促され、
天保年間、里人浪合胤久・後藤基命ら、同親王の御墓の復興に志し御碑の建設を計画したが、
果たすことが出来なかった。
越えて明治13年6月、ときの内務少輔・品川弥二郎子爵は、明治天皇御巡幸に供奉先発を仰せつけられ、
先ず飯田町へ来った。
そこでこの地の里人増田平八郎ら関係資料を携行して飯田町に品川を訪ね、親王御陵墓の公認について協力方を請うた。
しかるに品川は、今回の行幸に際しての飯田訪問は民情視察であって、
御陵墓調査に非ざることを理由にこれを受け付けなかった。
そこで増田らは急遽、維新の際京都で志士らと共に国事に奔走した同士として旧知の、
伴野の女流勤皇家・松尾多勢子にその斡旋方を依頼した。
その結果、品川子爵は心を動かされ、直ちに木曽福島の天皇行在所に到り、浪合のことを伏奏した。
これがことを奏し、天皇は直ちに侍従・西四辻公業を勅使として浪合に派遣され、
尹良親王御事績の取調べを仰出された。
その結果として、明治14年2月14日、前記の字宮の原の地に同親王御陵墓のことが御治定になった。
現在浪合神社の境内には、勅使参向の碑、及び尹良親王御旧迹碑がある。
勅使参向の碑は、明治36年9月に建設するところで、
その碑文は、当時の勅使・西四辻公業の撰並びに書である。次の如くである。

「明治十三年の夏、巡幸の御供つかうまつりけるをり、信濃福島といふところにわたらせ給ひし日、
此所より遠からぬところに浪合といふところあり、
その所に尹良親王の御墓所ありときこしめして、今よりまかりて見もし聞もし、
そのたたしき所をつはらに奏せよとありけれは、其ところにいたりて里の長共をもつとへ、
つたふること共をもききける序に

きくたにも かなしかりけり音たてて いはにくたくる なみあひのみつ

明治十三年六月二十九日 侍従 従四位 藤原朝臣公業」

碑の裏面には、富岡鐵斎の書による碑文がある。
「故侍従子爵西四辻公業卿嚮 奉叡旨巡覧浪合古戦場之日所奉弔尹良親王和歌也 鐫以傳世」
明治三十二年 正七位富岡鐵斎識

またその近くに建てられている尹良親王旧迹碑は、大正3年の建設で、高さ8尺。碑面に、
「尹良親王御旧迹」 宮内大臣従二位勲一等伯爵 渡邊千秋謹書  とある。

このようにして明治14年2月14日宮内省に於いては、
宮の原の地七百六十一坪、周囲百六間八分の地を、後醍醐天皇皇孫尹良親王御墓として御治定になり、
爾来宮内省諸陵寮の管轄下に置かれることになったのである。
そして御治定の始めそのことに尽力して功のあった増田平八郎が初代墓丁として任ぜられ、
ついで山口源八、之に代わり、
明治35年7月稲垣五助陵墓守部を申し付けられ、
昭和4年9月より、その子・稲垣九十九が之に勤仕している。

昭和6年9月、御墓周囲の木柵および鳥居の改築が行われ、
ために信南の山中浪合村の人跡稀なるところ
御陵墓に拝する菊のご紋章は厳として一層森厳の度を加えるに到った。
御墓境内の西方に三つの小塚があり、里人はこれを千人塚と呼び、
浪合戦、この親王に殉じて討ち死にした戦死者を合葬したところと伝えられ、
現在親王御墓陪塚として、御墓地に編入されている。
すなわち陪塚とみられるものが3基あり。

そして陪塚「い」号とよばれているものは東部に在り、その小塚に墓石があり、次の刻文がある。
(正面) 大圓院殿
(左側) 桃井宗綱入道
(右側) 寛政七卯暁春日
(裏面) 堯翁十二世松山建之


西方のもの、その西部に在り
封土上に世良田義秋及び念和尚の墓石がある。陪塚「ろ」号
東方のもの 念墓(これのみは自然石・高さ凡そ1尺)
西方のもの (正面)依正院殿
      (左側)世良田義秋先霊
      (右側・裏面 「い」号と同文)


陪塚「は」号 北西部にあるもの
東方のもの (正面) 大光院殿
      (左側)世良田政義先霊
      (右側・裏面 「い」号と同文)
西方のもの (正面)定綱院殿
      (左側)桃井貞綱先霊
      (右側・裏面 「い」号と同文)

青山蔵人墓 浪合神社の西方三丁ばかりの松林中に、高さ四尺の土塚があり、
      塚上に宝篋印塔一基があり、
      これは弘和の浪合戦に殉じた親王の臣・青山蔵人師重の墓と伝える。

堯翁院   曹洞宗の寺院で、もとは宿の南方町裏に在って、この地の豪族・原氏の氏寺であった。
      親王の御霊碑と親王御直筆といわれる大般若経2巻を蔵している。
      この御霊碑は、裏書きによると享保7年に当院八世・禅山冠宗和尚の再建する所である。

御所平   浪合宿の東方凡そ八町の所に在り、此所は親王の御座ありし跡と伝えられ、
      一箇の石祠があり親王を祀る。里人は御所様、或は若宮様と申している。
 

光の国

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年10月 2日(日)23時31分55秒
編集済
  大垂水酔鳥さま

再度、お尋ねの毛利齊房・幸子女王の合祀墓の位置ですが、ご推察の通り■になります。

ご参考までに奥の院の萩藩主毛利家墓所の配置は、下記の通りです。

   5〇 4■  3■ 2■ 1■
6■

7■                入

8■                口

9〇 10〇 11■ 12■ 13■ 14■

■は、大五輪塔  〇は、小五輪塔です。

毛利齊房・幸子女王の墓碑は、11になります。
6は、吉元長男宗元(毛利元朝)、7は吉広、14は、重就です。
確かに、墓域は立入禁止でしたね。

※ 萩藩世子宗元は、長府藩主毛利元朝と同一人物でした。
  碑銘には、宗元と記されていましたので確認せず失礼いたしました。


同所に建立されていない初代、二代、三代の三藩主の墓碑ですが、わたし自身は残念ながら未確認です。
奥の院で、墓前に標識が建てられている毛利家の墓所は、同所と500mほど奥の右側の二ヶ所だけです。
奥の毛利家の墓所には、大垂水酔鳥さまが記されている通り大きな五輪塔墓が3基並んでおり、その左後方には、20基ほどの小墓碑が並んで建立されています。
(ただ、小墓碑と言っても全高が3mほどありますが・・・)
わたしも当初、3基の大五輪塔が前墓地に建立されていない三藩主の墓碑かもと思っていたのですが、残念ながら萩藩主ではなく支藩の長府毛利家の墓碑でした。

わたし自身、過去に2度、高野山に2週間ほど滞在し、一の橋から奥の院へ向かい柳川藩立花家から順番にすべての(墓碑銘、配置図、写真、ビデオ)を記録して行き中の橋近くまでは何とか終了したのですが、その後は、なかなか長期間滞在しての調査ができなかったこともあり、以降は数日間の滞在で必要な墓所だけを調査するだけになっていました。
ただ、中の橋より先の墓所に関しては、未調査であることから正確な記録をしていない家が多くあるものの、大きな墓碑の碑銘の確認だけはしていますが、残念ながら今まで萩毛利家の三藩主墓の確認はできていません。

また、同支藩の徳山毛利家と清末毛利家の墓所も未確認です。
ただ、岩国吉川家、家老の国司家、益田家、宍戸家は確認していますが、福原家は未確認です。
少なくてもあと二ヶ月近く高野山に滞在しないと、奥の院内の全大名家墓の全容を把握できないと思います。
まあ、気長に調査しようと考えていますが・・・
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年10月 2日(日)14時34分3秒
編集済
  ★追記★しました

てるやまもみじ さま、重ね重ねしつこくて恐縮ですが、もう少しお付き合いを願えませんでしょうか。

私が確認したのも久留米藩有馬家と秋田藩佐竹家の後方にある毛利家の墓所で、記録では下記のようになっています。□△■は大きな墓塔で〇●は小墓塔です。

    〇
 輝元  □ △ □  元朝

    ●     〇
     ■   □  吉元

 斉元  □   □  宗広

 斉熙  □   □  重広

重就?  △   □  治親
       階
       段

被葬者が確認できたのは□で、△〇は碑文の院号が斉房・幸子女王と異なるので除外し、碑文が判読できなかった■●のうち大きな墓塔となると■しか残らないのですが、これが齊房と幸子女王の合祀墓ということで間違いないでしょうか。
墓塔の碑文の写真をPC上で拡大して必死に判読を試みたところ、「(齊)房公室」と読めそうな部分がありましたが、これは先入観100%で見ているからでしょうね(笑)。

当方、高野山に行けるメドは全く立っていないので、何かついでの時にでもご確認頂いてご教示頂けると幸いです。

先日の投稿の後で検索してみたら、この墓所は倒壊の危険があり立入禁止となったようですね。再度碑文の撮影をしに行きたかったのですが、残念です。
それと、3基の大きな墓塔が建つ毛利宗家の墓所が別にあるようですね。


★追記★


てるやまもみじ さま、最後までお付き合い頂き恐縮です。これで、枕を高くして眠れます(笑)。

私の公家・武家・社家・寺院の墓の調査?は、それ自体が目的ではなく、あくまでも皇族と皇室関係者の墓を探す為に、墓碑の被葬者又は院号などを確定して対象の墓を絞り込んでゆく‥のような意味合いで行っています。
今回もまさに、確定できていなかった2基のうちのひとつが目的の幸子女王の墓塔だった訳で、感無量です。

長府藩主の元朝の墓が、なぜ毛利宗家の墓地にあるのか不審だったのですが、藩主の座を退いて宗家の嗣子(宗元)となっていたのですね。


幸子女王の墓塔(合祀墓)が特定できたので、この投稿のついでに写真を載せようとも思ったのですが、撮影時刻の問題か、大きな墓塔の林立という立地の問題か、光と影のコントラストがとっても芸術的?な代物となっており、お見せできません(笑)。撮影は、高野山に行く度に、時間を変えて何度も立ち寄るしかないですね‥

全くの蛇足です。
見慣れない駅名で不審に思ったら5年も前に新駅が出来ていたのですね。「光の森」ですね。
 

三里木

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年10月 2日(日)00時16分3秒
  朝夕、めっきり涼しくなり、すっかり秋モードに入りましたね。

さて、今日は震災で二ヶ月延期された二子玉川の花火大会を見学してきました。
これで、夏も終わりということでしょうか。


大垂水酔鳥さま

毛利齊房室幸子女王の墓碑ですが、19~20丁付近の毛利家の墓所は、たぶん支藩の長府毛利家?の墓所だったと思います。
萩藩主毛利家の墓所は、一の橋から200mほど進んだ左側に建立されていますが、参道からは20mほど奥に位置しており、久留米藩有馬家と秋田藩佐竹家の墓域の後方になります。
ただ、墓碑は幸子女王の個人墓ではなく齊房との合祀墓になります。
墓形は、五輪塔墓で、全高は、5mほどの見上げるほどの巨大な墓碑です。


余談ではありますが、わたしが京都へ行くと、よく遊びに行くお寺のご住職からお聞きした話ですが、現在、京都市は財政が破綻寸前で、第二の夕張市状態になりかけているとのことでした。
元凶は、地下鉄に膨大な建設費を要したためとのことでしたが、もし、京都市が破綻したら市内の陵墓は、どうなるのでしょうか。
 

原水

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年 9月30日(金)00時51分34秒
編集済
  早いもので今年も4分3が経過しようとしていますね。

昨日は、品川海晏寺の越前福井松平侯爵家の墓所を参拝してきました。
松平家の墓所は、都内でも10指に入る広大の墓域を有しており、わたしも時々墓域外から覗いてはいたのですが、墓域内に入ったのは実に15年ぶりぐらいになります。
墓域内には、徳川家康の二男である秀康公ほかの納骨堂や幕末四賢公の一人である慶永(春嶽)公の墓所が建立されています。

★ ★なお、松平家周辺の墓域は、檀家以外は立入禁止区域になりますので、一般の参拝はできませんのでご注意ください。★ ★



大垂水酔鳥さま

近衛家の墓所は、奥の院の最奥に建立されており、仙陵の斜向かいに位置しています。
つまり、仙陵へは参道を左折しますが、右折したすぐ先にあり英照皇太后の供養塔の少し奥です。

墓域内には、全7基の墓碑が建立されており、その中の2基は碑銘不読、1基が部分的に碑銘不読でした。
判読できた4基は、19代尚嗣、23代内前、25代基前、28代文麿です。

奥の院で仙陵以外には、以前に同掲示板で報告いたしましたが、伏見宮家、閑院宮家、有栖川宮家の墓所がありますが、三ヶ所以外で皇女の墓碑は、今まで見た記憶がありません。
多分、皇女の墓碑は、すべて仙陵内にあり、仙陵以外には建立されていないと思います。
ただ、皇女ではなく四宮家から降嫁した王女の供養塔であれば、毛利斉房室幸子女王などの墓碑が建立されています。

また、近衛信尋の墓碑は、近衛家の墓域内の2基の不読墓のどちらかが信尋の墓碑である可能性は十分に考えられます。

また、都城島津家墓の情報もありがとうございます。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年 9月27日(火)11時37分49秒
編集済
  ★追記しました★

てるやまもみじ さま、高野山の件、ご教示感謝です。
公家の墓地を探すという目的は無意味?となってしまいましたが、折角始めたことなので、細々とでも続けようと思っています。はてさて、死ぬまでに終わることやら‥(笑)

ところで、毎度の如くの質問で恐縮ですが、近衛家の墓域は何丁のあたりにあるのでしょうか?
もし奥の院参道入口~24丁付近の範囲内の場合は、具体的にどのあたりなのか、付近の大名家の名前などでも結構ですので、差支えなければご教示頂けると幸いです。
それと、近衛信尋(後陽成天皇皇子)や降嫁した皇女の墓碑は無いか確認できない、という理解で良いでしょうか。


島津家といえば、支流の北郷氏(都城島津家)ですが、墓所の調査記録が最近出版されていますね。


★追記★

てるやまもみじ さま、高野山の件、重ねてのご教示に感謝多謝です。

ところで、しつこくて恐縮ですが、毛利斉房室幸子女王の墓塔はどこにあるのでしょうか。
19~20丁付近の毛利家なら私もチェックしたのですが、当主のうち斉房ほか数名の墓塔もなく、夫人の墓塔も見当たらないので、他の場所に毛利家墓所その2があるのかな‥と漠然と考えていたのですが。
もっとも、碑文が判読できなかった大小2基の墓塔があるので、それなのかな‥と、念のためにお聞きする次第です。

 

肥後大津

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年 9月25日(日)02時53分16秒
  東京は、猛暑も終わりすっかり涼しくなり、いい気候になりましたね。

さて、高野山から帰京後、二日休んで日曜日(18日)から1年ぶりに法事のため鹿児島まで行ってきました。
法要では、二家の公爵家のほか男爵家のご当主様も参列されましたが、会食では学芸員の先生と隣席したため、いろいろなお話を聞かせていただきました。

鹿児島では3泊してきましたが、台風の影響で2日目と3日目は大雨、最後の日にようやく台風が通過したので加治木島津家の能仁寺墓地を調査した後、鹿児島空港へ行くと、いきなり関東が台風の影響により羽田行きの欠航のアナウンスが・・・・・ガーン。

ご記憶の方がいるかもしれませんが、3月の京都でも帰京日に震災が起こったために新幹線が止まり帰れなくなったので、今年、2度目の天災被害の影響を受けることになりました。
まさか、2度あることは3度ある???

JALのカウンターに並んでいると、何と翌日の羽田行きは満席のアナウンスが流れ、結局、更に2泊することになりましたが、台風が過ぎた2日間は快晴でしたので、宮之城島津家と加治木島津家の長年寺墓地を調査し、金曜(23日)の夜にようやく帰京できた次第です。



たけちゃんさま

ご無沙汰しております。
今回は、山階宮家と有栖川宮家の情報ありがとうございます。

高野山不動院の晃親王の墓碑には、碑銘の数ヵ所に摩滅があり完全には判読できませんでしたが、今回のご教示に感謝いたします。

次に、奥の院の有栖川宮家の墓碑銘ですが、以前より墓域外よりビデオの望遠で確認を試みていたのですが、碑銘が薄く完全には判読することができませんでした。
わたしも投稿時に福山さまの報告を見ておりますが、特に織子女王の碑銘に関しビデオでは無銘に見えましたので、以前から実際に確認したく思っておりました。

有栖川宮家の墓所には施錠されていませんが、墓所の前には燈籠所があるために控えていましたが、今回、夕方の6時ごろに行くと、すでに燈籠所が閉まっていたので、今回、初めて有栖川宮家の墓域内に入り4基の墓碑銘を目近で確認することができました。

向かって右の2基には、正面に法號が記されているだけで没年などの碑銘は無く、向かって左から2番目の墓碑は、たけちゃんさまの報告の通りでした。
ただ、左隅の墓碑には、何回も目を細めて見渡しましたが、地輪の4面には何も記載されていない無銘墓でした。

資料が発行された昭和12年当時には、資料の通り織子女王の法號が記されていたが、その後、改修された?または、碑銘が風化?摩滅?して、消えてしまったとも考えられそうです。

今後、また何か関連情報が見つかりましたら、ご教示いただければ幸いです。



大垂水酔鳥さま

奥の院に建立されている公卿墓ですが、わたしも長年、調査をしておりますが近衛家以外は未確認です。
多分、近衛家以外には、奥の院に公卿の墓碑は建立されていないと思います。

前文の通り高野山での建碑は、幕府が外様大名家の財力を削減させることが大きな目的でしたが、公卿は禁中並公家諸法度により締め付けられていたので、建碑の必要がなかったことになりますね。
実際、近衛家では、純粋に弘法大師を崇拝していたためとも考えられますが、墓碑はとても小さいです。

それと、確かに立札の誤記は、大過ぎますね。
チンプンカンプンな記載もありますし・・・
 

(無題)

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2011年 9月19日(月)18時27分59秒
編集済
  皆さん、こんにちは!
今日は、妻子が妻の実家に行っているため、家で過去に調査した陵墓研究の資料を整理しています。いろいろな公立図書館で所蔵図書を複写したコピー用紙の枚数が多く、なかなか整理が出来ません。そのような中で最近、皆さま方が投稿された内容が関するものがありましたので、ご参考いただけるとありがたいです。

ぽん様、椿夫人様
いつも陵墓に関する情報の提供ありがとうございます。
金剛寺の光厳天皇分骨所は、既にご存じのとおり金剛寺所蔵文書「竪横抄第五琉二本奥書」に記載の文書を受けて、宮内省により大正15年11月に治定されましたが、下記の図書に治定前の御塔の様子が記載されています。
『天野山金剛寺小史』(金剛寺、昭和16年5月発行)によると、治定前から「院の墓」と伝わる五輪塔が開山塔後方に所在していることが記載されていますが、現在の治定御塔がそうなのか判断出来ません。
 また、『大阪府下之陵墓』(川口知雄著、大正15年6月発行)にも治定前に著者が御塔を現地調査した内容が記載されていますが、「院の墓」に関する記載はありません。
 結局、手元の資料を調査しましたが詳細は判明せず、宮内庁に聞く以外手立てはないようです。

てるやまもみじ様
いつも治定外墓や陵墓に関する情報の提供ありがとうございます。
下記の図書に、今回調査された高野山内の治定外墓に関する内容が記載されていますので、参考いただけたら幸いです。
『山階宮三代』(山階會、昭和57年2月発行)の菊麿王の部に明治31年5月に父宮の歯髪塔を勧修寺及び高野山不動院に営建された内容と塔銘が記載されています。

勧修寺歯髪塔銘は、
(正面)嶺松院晃親王齒髪塔
(裏面)明治三十一年二月十七日薨、享年八十三、葬於泉山雲龍院之西南、遺命分瘞歯髪於泉山新善光寺(高野不動院)及此地、嶺松院者 親王嘗所自撰謚號也
 明治三十一年五月 男菊麿王謹識
高野山不動院歯髪塔銘は、()の五文字が山科勧修寺に変わるだけのようです。
なお、銘文の筆者は、宮内省文事秘書官股野琢氏だそうです。

また、『和歌山縣史蹟名勝天然記念物調査会報告』(和歌山県、昭和12年5月発行)の第16輯に勝田良太郎氏が有栖川宮御寶塔について報告されており、塔銘や営建等の詳細が記載されています。塔銘については、管理人のfukuyama様も当掲示板に2007年4月29日投稿されています。

・職仁親王御寶塔
(正面)大明圓心院宮尊儀
・織仁親王御寶塔
(正面)文聚院二品龍淵親王
・韶仁親王御寶塔
(正面)有栖川宮寶塔
(裏面)寳塔壱基奉為
    大功德院宮七周御忌御菩提所建之也
    嘉永四年六月 御宿坊興山寺
・織子女王御寶塔
(正面)[]翔院宮尊儀
    []は左側は皇の下の一が無く、右側は羽です。

 昭和9年に御寶塔、玉垣及び参道が改修され現在に至っているようです。また、『有栖川宮総記』(高松宮家、昭和15年)においても、営建の詳細が記載されています。御寶塔は明治4年頃より無量光院が供養や清掃等の奉仕し管理されているようですね。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2011年 9月18日(日)09時35分4秒
  たけちゃん さま、陵墓古写真集2は世界遺産登録申請からみのものだったのですね。
古市古墳群としては藤井寺市が右代表として実務を担っているようですが、羽曳野市<藤井寺市<堺市の力関係を反映しているようで、何だか面白いです。
なお、人口・面積では藤井寺市よりも羽曳野市の方が大きいのですが、財政力では逆転しているようです。


ぽん さま、息速別命墓・七つ塚についてのフォロー有難う御座います。

ところで、ご紹介の「あおやま風土記」には、七つ塚の主墳?の被葬者が息速別命の四世の孫須禰津斗王との記述がありますが、他の古墳の被葬者についてご存知でしたらご教示願えませんでしょうか。
20年くらい前だと思いますが、被葬者が3~4人くらい記述されたものをどこかの図書館で見た記憶があるのですが、当時は地方に土着した皇胤について興味・関心がなく、コピーを取らなかったのが悔やまれます。
8年前に伊賀上野と名張の図書館で探したのですが見つけられませんでした。

伊登内親王の伝承地を含め、私は数年前から三重県の伊賀地方と紀勢線沿線の伝承地と治定外墓の探訪を計画しているのですが、都合がつかず実現していません。


てるやまもみじ さま、

奥の院参道の大名家墓地の件ですが、参勤交代と同じく幕府が外様大名の財力を削減させることが目的だったとのこと。目から鱗の思いです。
奥の院には皇族の仙陵や既に紹介されている宮家の墓地があるので、公家の墓地もあると思って私は8年前から調査らしき行動(笑;;)を行っているのですが、現在24丁付近まで遂行したものの確認できませんでした。
まだ半分以上残っているし、大名家墓地に建てられた立札には誤りもあり、立札のない古墓塔群もあることから、私の能力不足で公家墓地と認識できないだけだと思っておりましたが、奥の院参道には公家の墓地はほとんど?無いのでしょうか。

 

瀬田

 投稿者:てるやまもみじ  投稿日:2011年 9月17日(土)02時28分16秒
編集済
  またまた紀伊半島の台風被害が心配されますが、今週4日間ですが1年半ぶりに高野山まで調査に行ってきました。
前回の台風中、南海電鉄のHPを見たら通常運転と記載されていたので安心していたのですが、何と難波駅で紀ノ川の鉄橋が被害を受け特急こうやは、橋本止まりだと知らされました。
車内で瀬戸朝香似の車掌さんに詳細を聞くと、橋本から紀伊清水まで代行バスで行き、そこからは普通で極楽橋までという事でしたので、当初の予定より1時間ほど遅れての高野山到着でした。
実際、高野山では、先の台風でかなり風雨が強かったようですが、幸いにも交通機関には大きな被害がでなかったようです。


【不動院・晃親王墓】

同墓所は、以前、管理人の福山さまが参拝されていますが、以前より2ヶ所の治定墓と新善光寺の全3ヶ所の墓形の類似点などを知りたく思っていました。
墓形は、笠塔婆墓で、碑銘は下記の通りです。

1 嶺松院晃親王齒髪塔

裏)明治三十一年二月十七日薨享年八□□葬於泉山雲龍院之西南遺命分瘞□□泉山新善光寺山科觀修寺及此地□□者親王□所自撰謚號也
  明治三十一年五月 男菊麿□謹□

※ □は、磨滅などにより判読できなかった部分です。
  碑銘の全文の詳細は、↑たけちゃんさまの書き込みを、ご参照ください。

ご住職さまにお話を伺ったところ、山階芳麿氏の死後、まったく墓参が無いとのことでした。


また、高野山でもう1ヶ所、以前から気になっていたのが有栖川宮家の墓所でした。
外からビデオで碑銘を判読しようと、何度か試みてみたのですが、文字が薄く難渋していました。
ただ、墓域の四囲は木柵で囲まれていますが、施錠はされていませんので、夕方に碑銘の確認をしてきました。

1 2 3 4
■  ■  ■  ■


1 (碑銘無) (五輪塔)

2 有栖川宮寶塔 (五輪塔)
裏)寳塔壱基奉為
  大功德院宮七周御忌御菩提所被造立也
  嘉永四年六月

3 大明圓心院宮尊儀 (五輪塔)
 (没年記無)

4 文聚院二品龍淵親王 (五輪塔)
 (没年記無)


2日目は毛利家を、3日目は伊達家を各8時間ほど調査し予定通り記録がとれたので、4日目は奥の院で何ヶ所か確認したい墓所を廻っていたところ、何と一番石塔の崇源院(江)の墓所前で椅子を並べていました。
聞いてみると、今日(9月15日)は江の命日なので法要をするというので、わたしも参列し焼香をしてきました。

また、以前に報告?したのか失念しましたが、江の墓域内に治定外墓が1基建立されています。
12代将軍徳川家慶の正室喬子女王(浄觀院殿)の供養塔です。
わたし自身、この喬子女王の墓碑の初葬地は別域で、明治以降、同所へ改葬されたものと考えていました。
法要の終了後、蓮華院のご住職さまを新聞社の記者が囲み取材をされていたので、この件に関して質問したところ、喬子女王の墓碑は、当初から崇源院の墓域内に建立されており、その記録も同院に残っているとのことでした。

それにしても、崇源院の法要が行われるということは、まったく知らず、また、法要が初日や2日目、3日目だったら毛利家と伊達家の調査で1日かかったので気がつかなかっただけに、今回、崇源院の法要参列は幸運が重なった結果といえそうです。


奥の院には、多くの大名家の墓碑が林立していますが、これは参勤交代と同じく幕府が外様大名の財力を削減させることが目的だったといえます。

実際、奥の院には、外様に比べて親藩や譜代で墓碑を建立していない家も多く、建立していても初代の墓碑は巨大でも二代以降は小規模になっている家が多くみられるからです。

また、各家の菩提寺の宗旨を見ても多くが臨済宗、曹洞宗、浄土宗であり、菩提寺が真言宗であった家は希であることからでもわかりますね。

それにしても、まだまだ不明なことが多すぎる。



ぽんさま

息速別命墓に関する情報ありがとうございます。
いつものことですが、出典付きの詳細な報告を、なお且つわかり易く解説くださる陵墓掲示板の池上彰氏とも言える内容に感謝しています。  
 

垂仁天皇皇子息速別命墓と七つ塚

 投稿者:ぽん  投稿日:2011年 9月16日(金)20時38分10秒
編集済
  ※ リンク等を追加しました。

☆大垂水酔鳥様、てるやまもみじ様、毎回の詳細なレポートに感謝申し上げます。

息速別命墓(三重県伊賀市(青山町)阿保字西法華寺)については、親王墓(親王塚、西之森、石室)と呼ばれ、新一哉方の所有地で(先代より)丘上に一小祠を設けて私祭していた塚が、明治8年7月の教部省の検分を経て、明治9年2月4日付け三重県に対する教部省達により治定されています
「陵墓に治定されている古墳の祭祀に関する質問に対する答弁書」http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b175038.htm
が、その名称から阿保親王説もあり「Googleマップ」はじめネット上では両者を混同(錯綜)して記載するサイトも数多く、挙句には「親王」の存在しない(律令制以前の)古代の皇子なのに「息速別命の通称が阿保親王」だの「阿保親王といわれた息速別命」等と記す(一種、杜撰な)サイトをいくつも見かけます。
「あおやま風土記」http://aoyamahudoki.lucky138.net/index.php?%E9%98%BF%E4%BF%9D%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%81%AF%E9%80%9F%E5%88%A5%E5%90%8D%E3%81%AE%E5%A2%93

言うまでも無く、息速別命(伊許婆夜和気命)は伊賀地方を治めるべく、伊賀国阿保(あお)村を封邑として宮室(後述する大村神社の地と思料されます)を築き、その後、子孫(息速別命四世の孫・須珍都斗王)が允恭天皇の時代に阿保姓(阿保君、後に阿保朝臣)を与えられたものに過ぎません(『新撰姓氏録』に「阿保朝臣、垂仁天皇々子、息速別命之後也。息速別命幼弱之時、天皇為皇子築宮室於伊賀国阿保村次為封邑」とあります)。
「陵墓探訪記」http://ryobo.fromnara.com/kinki/054.html
「曉雨堂の日々雑感」http://gyoudou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-378c.html
「私設万葉文庫」http://www.geocities.jp/huzisan/tirisiryou.htm
「のりちゃんず」http://www.norichan.jp/jinja/kenkou2/omura.htm
「雲の筏」http://kumoi1.web.fc2.com/CCP124.html

そのせいか、一連の混同(錯綜)を避けるべく、最近では小字名に従って「西法花寺(西法華寺)古墳」と記載した文献(八賀晋編『東海の古代②伊勢・伊賀の古墳と古代社会』149ページ)やHPも出てきています。
「伊賀市役所」http://www.city.iga.lg.jp/kbn/07343/07343.html

ところで、陪塚とされる「七つ塚」古墳群(息速別命墓の向かい側から石段を登った阿保頓宮阯(阿保城跡、字城山)から小道を南へ約150mほど行った檜林の中)については、昭和2年発行の柴田長太郎(神戸参陵会)編『陵墓一覧』5ページに「陪塚七(俗ニ七塚)」と記載されていますが、実際には陪塚として指定される事なく、昭和58年の時点で真言宗豊山派の道正教会の奥の院として、二百余体の竜神を祭る所になっています。
「ちえぞー!城行こまい」http://www.geocities.jp/ikomaimie/iga/aho.html
「ぶんの備忘録」http://www.geocities.jp/buntoyou/f2/m-f0989abo.html
「あおやま風土記」http://aoyamahudoki.lucky138.net/index.php?%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%A3%E7%AD%96%E3%81%AE%E5%B0%8F%E9%81%93%E3%80%80%E9%98%BF%E4%BF%9D%E9%A0%93%E5%AE%AE%E8%B7%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%83%E3%81%A4%E5%A1%9A%E3%81%B8
「おてらいふ」http://www.otelife.com/showTemple/summary/pk/35391

ちなみに、大村神社(伊賀市阿保1555番地)西参道入口から社殿周辺にかけて宮山古墳群があり、これも神社(息速別命)に関係したものと思われます。
「延喜式神社の調査」http://www.geocities.jp/engishiki01/iga/bun/ig070304-01.html

なお、大垂水酔鳥様がお書きの通り、阿保親王妃伊都内親王の墓が伊賀市(旧上野市)内に2箇所
・伊賀市岩倉223番地 円福寺内 伊登内親王供養墓(五輪塔)
・伊賀市岩倉 伊登塚(ミササギ)古墳(円墳+石碑)
伝えられています
「秦恒平のホームページ」http://umi-no-hon.officeblue.jp/saku055.htm
「伊賀びとのおもい」http://www.pref.mie.lg.jp/gkenmin/hp/igabito/vision/reports/reports07-2.html
「いわネット」http://www.iwashinbun.co.jp/data/iwanp/ezogo/index.html#34
し、西法華寺古墳(息速別命墓)の築造が息速別命の時代より後(5世紀後半代を中心とする時期あるいは6世紀初期前後)の可能性が指摘されている点、また、同地(墓)が雄略紀に登場する「伊賀青墓」だったと考えられている(ただし、御墓山古墳の説もある)点から、阿保氏(阿保朝臣)と阿保親王の関わりの有無を含め、より詳しい研究が必要かと思われます。
「名張人外境」http://www.e-net.or.jp/user/stako/NI/N06-02ta.html
「クロノ・ダイヴァー」http://yumiki.cocolog-nifty.com/chrono/2010/12/post-511b.html
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http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo.html

 

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