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価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月16日(土)14時39分27秒
返信・引用 編集済
  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はマダム・クィックリとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。

Remember, however,that the goods have only objectivity,
しかし、物品は客観性だけを持っていること、
provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
are that their value objectivity is therefore purely social,
したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
so of course,
もちろん
that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
それは商品と商品との社会関係においてのみ現れることができるということです。


In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。
Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな使用価値の自然形態とは対照的な貨幣形態です。
Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。
namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、
that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。
The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値の関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。

   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>
   <商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、
   人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、
   社会的にのみ現れるーー価値対象性ー価値の客観性の差とは>

 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。
したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

   〈スカート(上着)は、(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味するーー〉

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」(「価値の保持者」岩波 「・・の担い手」新書版)であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。
  〈キャンバス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/キャンバス?
  キャンバス(英語: canvas)とは、帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて
  描かれる 支持体に使用される。 キャンバスは主に亜麻の繊維から作られるが、…〉

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(亜麻布・リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (= the value taking on the form of a skirt ーー)
  〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることで、彼女はリンネルの価値ある人に、
  なれたのです。
 〈「スカートの形を取る価値」 = AのためのBの体型を仮定し =土地の父親と変えることで
  = 個人Bに陛下として行動するーーと、
  だから、⑦「(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味する」、のです。〉

   この書き方は、フランス語版の次を、改善しているのであります、
「上着が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表すことができるのは、同時に価値が一着の上着の形態をとるかぎりでのことなのだ。」(フランス語版P22)

「同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしに・」(新書版P88)
  「同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなしに・・」(岩波文庫P96)

   “your majesty”  =   陛下<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・」
   --と示された、リンネルの社会的判断・反省規定が、
   <上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をかぶらせられた王に、
   <Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる>ことに、すり変えられ
   ているのです。ところが、手本のフランス語版の筈が、こうつずけたの
   です。
  「・・私人Aは、個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が、直接Aの容貌
   と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのです。」
       (仏語版P22)
   「 Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であ
   ることはできない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わな
   い限り、・・・」 英語版
   ーーこのように二つの訳ともにAが、陛下なのです。
 独
So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずには、個人Bに陛下として行動することはできない。

   このようにーー〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることーー
   との正解への誤解を克服せんとする意志は、明らかです。

     ここに、物象の判断が、〈スカートの形を取る価値〉としてあることで、
     スカートをリネンの価値形態として認め、そして、価値として認めたのです。〉

     しかし、次の英訳もあるのです。

  http://cscs.res.in/dataarchive/textfiles/textfile.2009-12-31.4124091050/file
  Chapter One: Commodities
 ⑧ー2 Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value. A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.

   ⑧-2コートの生産において、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。この面ではコートは価値のある
   保管庫ですが、スレッドには付けられていますが、この事実は見えません。
   そして、価値方程式の亜麻の同等物として、それだけでこの側面の下に存在し、
   それゆえ価値ある身体として具現化された価値として数えます。
   たとえば、Bの目の威厳がAの身体的な形をとっていない限り、さらには人の新
   しい父親と一緒に、その特徴、髪型、性格を変えない限り、AはBの「陛下」に
   なることはできません。他にもたくさんのものがあります。
      〈無いものーー
       彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバスは彼の中で
       部族関連の美しい価値魂を認めています。
        the value taking on the form of a skirt
       しかし、同時にスカートの形を取る価値がなければ、
       彼女は価値あるものではありません。〉
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と使用価値、有用な仕事と抽象的人間労
    働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

    ⑭自らの価値や自己の価値を表現することはできませんが、他の価値観や商品
    体系と即座に関連して価値観を提示することができます。それは、それ自体に
    含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態とし
    て、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。そのためには、それは同等の
    ものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。
    ⑮商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品
    に対してのみ存在します。
    単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみ
    を考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法律だけが見つかる。
    商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。
    ⑯しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、その価値の単純な表
    現は価値形態の謎であり[2]、それゆえ金銭的価値があることがわかる。[3]

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

        再版の9 10 11段落
 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。
使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。
値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。

⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。作品は、人間の労働力の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。その崇高な価値客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。ちなみに、その語りの言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品とを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>

⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.

             By means of the value relation, therefore,
    したがって、価値比 により  、
    the value form of the commodity A
    商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、
    the value level of the commodity A.
    または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)
    〈価値鏡 Value mirror Wertspiegel は無い。〉

    商品Aは、価値体としての商品Bを、人間の仕事の素材として、
    自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
    商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなしている。

   (価値体としての商品Bを、自分の価値表現の素材になる使用価値Bにする。)


  (18) In a certain way, man is like the commodity. Since he is born neither with a mirror nor as Fichte's philosopher: I am I, man first reflects himself in another human being. Only through the relationship to man Paul as his equals does Peter refer to himself as a human being. With this Paul also applies his skin and hair, in his Pauline corporeality, as manifestation of the human race.
(18)ある意味では、人は商品のようなものです。 彼はミラーでもフィッテの哲学者でも生まれていないので、私は自分自身を別の人間に最初に反映させます。 ピーターは人間としての彼の同等としてポールとの関係を介してのみ、彼自身を参照する。 このポールはまた、彼のポーランドの体系では、人類の徴候として、彼の肌と髪を適用します。

 〈商品ーーとしてのみリンネルは、上着との関係を介してのみ、彼自身を参照する、のです。
  商品ーーとしてのみリンネルは、使用価値であり、コートは価値形態であります。
  商品ーーこそが主語であります。〉
  〈 商品Aは、価値体としての商品Bを、----自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
  商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなす。
  それは、リンネルの価値形態である コートがあるーーことでなしうるのです。〉
 〈直ちに交換できる価値のかたまり(価値体)として通用するものーとは、ちがいます。〉



http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf
    商品および商品生産    大谷禎之介
 つまりここでは,毛皮も塩も,自分の価値を他の商品で表現しているの
である。この交換関係に含まれている価値表現(商品が行なう自分の価値
の表現)は次のとおりである(第23図)。

 〈第23図単純な交換関係に含まれている価値表現=価値形態〉
 〈図・
 この二つの価値表現は,形態から見ればまったく同一である。どちらの
商品にとっても,相手の商品が自己の価値表現の材料として役立ってい
る。自己の価値を表現する商品は,相手の商品を,自己に価値が等しいも
のとして置いているのであって,自己の価値を表現する商品にとって,こ
の相手の商品は等価物である。等価物は,自己の価値を表現している商品
の価値を見えるようにする鏡(価値鏡)として役立っており,またこの商
品にたいして価値のかたまり(価値体)として通用するもの,つまりそれ
と直ちに交換できるものとなっている。
 このように,ある一つの商品が他の一つの商品で自己の価値を表現して
いる形態を,その商品の単純な価値形態と呼び,また,ここで等価物とし
て役立っているのはただ一つの単独の商品なので,この等価物を単独な等
価物と呼ぶ(第24図)。
    〈P77ー78〉

 
 

 説得力の無い新自立支援法の中身

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 6月10日(日)18時55分5秒
返信・引用
   説得力の無い新自立支援法の中身
 これまで掲示板に載せたことは知事でも厚生労働省でも法務省でも質問すれはいい。面子にこだわってたかが障害者の一人として12年どこからも説明は来ない。知事は看板団体の暴走を隠すために暴走し、厚生労働省と法務省は法律らしいのが無かった頃の話でも違法とも呼べず面子から犠牲はどうでもと隠すことし早く言えば障害者一人より面子を選んだ。そして法務局には適当にあしらえとされたことは事実のように今は法務局さえ完全沈黙した。
 12年も説明無しの話を誰が信じますか。金がかかるため手紙で3年前から相談していました。来たのは知事に暴走目こぼし権なんて無いと言うのと和解の協力は出来ないと言うだけ。社会参加を全国の社協は完全参加平等と言います。差別、妨害は岩手だけです。掲示板は国内だけでなく外国にも流れ翻訳されるのもあります。世界中から非難や失笑に後ろ指が行きます。
 岩手は完全沈黙で告発は無理の上抹殺しか考えていない。ならば後は責任持てず後は野となれ山となれです。「復権と小笠原夫妻の通訳資格剥奪追放なら別」とし。全国の社協等の掲示板に出しましたが県庁も福祉課も岩手の社協も受信拒否。完全沈黙では効果ない。全国にしても岩手に問い合わせすれば説明抜き相手にするなしか来ないだろう。岩手に問い合わせするくらいなら説明求めればいいでしょう。人権を破壊した状態に説明より関わらせない。12年の圧力のまま厚生労働省は障害者の味方のはず。そんなに面子が大事ですか。
 12年も社会参加もさせず口封じから友達も全部取り上げた。
 それも自立支援法が復活したら差別も妨害もなりふり構わず露骨になった。と言うことは法律らしいのが無かったことを承知で暴走隠しを強行した。それより岩手の団体の暴走を叱りつけるべきでないか。団体優先にして隠した。結局はばれなければいいとろうあ協会会長の知恵遅れまで隠した。被害者が出た事を認めるのは恥ずべき事になり法務省も厚生労働省も認めるより面子から障害者の一人くらいと隠し続けた。全国の社協も疑問に写っている筈。一般もごまかした。誰もボランティアがそんなことするはずは無いと思うから隠しやすいと見た事になる。どう理屈をこねても人権を破壊されたことは事実で変わりは無い。
 情報センターは密告専門らしくビデオ貸し出しも拒否のままここだけ受信拒否しない。更生相談所も障害者の社会参加推進センターも一関の身障協も口封じに入会お断りのまま。法改正を発表しない限り無駄。必死に抵抗しても県庁から看板団体の暴走隠しに此方の社会参加妨害や誰一人関わらせず友達全部取り上げた。
 それが自立支援法が廃止になっていた頃で友の会を辞めたため暴走隠しに初めからの抹殺号令だった。こんな馬鹿なことやるより暴走団体を叱り付けるべきだった。既に障害者の一人くらいとしか見ていない。被害者がいるとなると完全沈黙で逃げるだけで面子優先にした。自立支援法廃止の意味を知っていたからこそ完全沈黙でガードしたことは初めから暴走しようと団体を守るためとして抹殺しか考えていなかったことになる。疎の為にかん口令で固めたのが始まり。復活したら露骨になった。今は復活でも法務省も厚生労働省も面子から動かない。法が変わっても公表出来ない有様で人権は破壊されたままです。
栃木との交流も全国大会も講演会も大阪との賛助会員も全部岩手に妨害され、通訳差別は社協の派遣通訳も要約筆記の会も盲ろう者友の会もいまだに説明しない。暴走目こぼしの特権の理由は無謀備法時代の法律を引きづったせいでとなるか。法の下に何人も平等だと言うのか。団体優先にしての暴走隠しでないか。完全沈黙は和解すより抹殺しか考えていにいことを示しています。

法務局は暴走目こぼし権なんか無いと言って現実は特権として認められていた事になります。法事国家にこんな法律があるとは。
   口封じから通訳さえ貸さないのを当たり前の差別するこんな社会と手を切り別の障害者の団体にばれないように行きます。
   ご迷惑かけました。

 元岩手県盲ろう会員松岡幹夫
 〒029-0303  岩手県一関市東山町松川字町裏の上38
 電話・ファクス 0191-48-2407(但し一人暮らしで電話は無理)
 eメール november@athena.ocn.ne.jp








 これまで掲示板に載せたことは知事でも厚生労働省でも法務省でも質問すれはいい。面子にこだわってたかが障害者の一人として12年どこからも説明は来ない。知事は看板団体の暴走を隠すために暴走し、厚生労働省と法務省は法律らしいのが無かった頃の話でも違法とも呼べず面子から犠牲はどうでもと隠すことし早く言えば障害者一人より面子を選んだ。そして法務局には適当にあしらえとされたことは事実のように今は法務局さえ完全沈黙した。
 12年も説明無しの話を誰が信じますか。金がかかるため手紙で3年前から相談していました。来たのは知事に暴走目こぼし権なんて無いと言うのと和解の協力は出来ないと言うだけ。社会参加を全国の社協は完全参加平等と言います。差別、妨害は岩手だけです。掲示板は国内だけでなく外国にも流れ翻訳されるのもあります。世界中から非難や失笑に後ろ指が行きます。
 岩手は完全沈黙で告発は無理の上抹殺しか考えていない。ならば後は責任持てず後は野となれ山となれです。「復権と小笠原夫妻の通訳資格剥奪追放なら別」とし。全国の社協等の掲示板に出しましたが県庁も福祉課も岩手の社協も受信拒否。完全沈黙では効果ない。全国にしても岩手に問い合わせすれば説明抜き相手にするなしか来ないだろう。岩手に問い合わせするくらいなら説明求めればいいでしょう。人権を破壊した状態に説明より関わらせない。12年の圧力のまま厚生労働省は障害者の味方のはず。そんなに面子が大事ですか。
 12年も社会参加もさせず口封じから友達も全部取り上げた。
 それも自立支援法が復活したら差別も妨害もなりふり構わず露骨になった。と言うことは法律らしいのが無かったことを承知で暴走隠しを強行した。それより岩手の団体の暴走を叱りつけるべきでないか。団体優先にして隠した。結局はばれなければいいとろうあ協会会長の知恵遅れまで隠した。被害者が出た事を認めるのは恥ずべき事になり法務省も厚生労働省も認めるより面子から障害者の一人くらいと隠し続けた。全国の社協も疑問に写っている筈。一般もごまかした。誰もボランティアがそんなことするはずは無いと思うから隠しやすいと見た事になる。どう理屈をこねても人権を破壊されたことは事実で変わりは無い。
 情報センターは密告専門らしくビデオ貸し出しも拒否のままここだけ受信拒否しない。更生相談所も障害者の社会参加推進センターも一関の身障協も口封じに入会お断りのまま。法改正を発表しない限り無駄。必死に抵抗しても県庁から看板団体の暴走隠しに此方の社会参加妨害や誰一人関わらせず友達全部取り上げた。
 それが自立支援法が廃止になっていた頃で友の会を辞めたため暴走隠しに初めからの抹殺号令だった。こんな馬鹿なことやるより暴走団体を叱り付けるべきだった。既に障害者の一人くらいとしか見ていない。被害者がいるとなると完全沈黙で逃げるだけで面子優先にした。自立支援法廃止の意味を知っていたからこそ完全沈黙でガードしたことは初めから暴走しようと団体を守るためとして抹殺しか考えていなかったことになる。疎の為にかん口令で固めたのが始まり。復活したら露骨になった。今は復活でも法務省も厚生労働省も面子から動かない。法が変わっても公表出来ない有様で人権は破壊されたままです。
栃木との交流も全国大会も講演会も大阪との賛助会員も全部岩手に妨害され、通訳差別は社協の派遣通訳も要約筆記の会も盲ろう者友の会もいまだに説明しない。暴走目こぼしの特権の理由は無謀備法時代の法律を引きづったせいでとなるか。法の下に何人も平等だと言うのか。団体優先にしての暴走隠しでないか。完全沈黙は和解すより抹殺しか考えていにいことを示しています。

法務局は暴走目こぼし権なんか無いと言って現実は特権として認められていた事になります。法事国家にこんな法律があるとは。
   口封じから通訳さえ貸さないのを当たり前の差別するこんな社会と手を切り別の障害者の団体にばれないように行きます。
   ご迷惑かけました。




 12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんが読み書き出来ない聾唖者の言うあいつの親父は馬鹿なのだ妥協しろと言うのを馬鹿らしいとして退会したのが始まりです。
 後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと宗教と回心を押しつけて行きました。こちらも聾唖者です。
 構わず別の団体に行こうとすると妨害が入りました。
 団体の暴走を叱りつけるべきが県庁は看板団体のためかん口令を敷いた。関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせない。社会参加は全部妨害しました。それが12年続き疲れはて2月和解求めても無視。和解は暴走がばれるだけになる。抹殺しか考えていない。
   最初の別団体は県難連(難病団体連合会)
 初めは更生相談所の相談員に相談しましたが忙しいというので手紙で交渉して内定する頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さん小笠原ひとみさんの悪口妨害が入り取り消しになった。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。大本家は今年96歳で法廷には立てないと言い、山形の姉が呼ばれ親父の墓の前であんな社会と関わるなと。
 県庁に抗議すると課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 12年妨害続き。4年前人権相談して盛岡地方法務局水沢支局と相談しています。法務省は法務局に話せとしか言わない。厚生労働省にしても完全沈黙で一言も答えない。たかが障害者の一人位適当にあしらえと法務省は法務局に話したのか今は法務局も完全沈黙しています。それにこちらも疲れもう諦めるしかないかとしての最後の挨拶みたいに全国の社協などに掛け合っているのです。
 知事に暴走特権があるのかと。復興が原因か、自立支援法が廃止になったのは13年前。友の会を辞めたのは12年前。そしとて差別、妨害が激しく露骨になったのは自立し運法が復活した頃からです。暴走が罵詈手市舞うことからなりふり構わなくなったのでないか。
 かん口令は初めから抹殺しか考えていない。誰一人と付き合えない12年の圧力です。
 自立支援法が廃止とになったことを悪用したようです。復活してしまうとあわてたことになります。
 聾唖者は通訳を見習って社会生活や常識を覚えていきます。それが相手が会長のため太鼓餅しておだてまくったことになります。友達になろうとしたが本人約束を守ることも詫びることもせず知らなかったと言えば正義になると言い張っています。
 厚生労働省も法務省も知らん顔で障害者の一人くらいとしか見ていない。自立支援法の廃止で犠牲者がでたことを恥て揉み潰し隠そうとしているのでないか。12年説明はどこからも来ていません。
   社会参加妨害は地元程度は別として口封じから11年で12回の妨害です。
 盲ろうで小脳萎縮の一人暮らし。ボランティアさえも圧力から誰も来ません。

。                                                          松岡幹夫

 

商品に提示された労働の二重性 と 価値形態論

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 9日(土)22時34分57秒
返信・引用 編集済
  ⑩ー10 簡単にするために、どんなタイプの労働もただちに〈労働〉であるとみなされ、還元の努力を節約する。

⑪だから、ロックやキャンバスの値がユーティリティの価値〈使用価値〉の違いから抽象化されているように、これらの値で提示されている作品、その有用な形態の違い、仕立てと製織からもそうです。 ロックとキャンバスの使用価値は、生地と糸との意図的で生産的な活動のつながりであるのと同じように、ロックやキャンバスの価値は単に類似の作業
であるため、これらの価値に含まれる作品は、布と糸、しかし労働力の支出だけの人間労働としてのみを表す。

これらの使用価値のロックとキャンバスの教えることは、非常に異なる性質によって、仕立てと製織--とされています。 スカート値の実体とキャンバスの価値は、それらの特定の品質から抽象化され、同じ品質を有する限り、人間の仕事の質に過ぎない。

これらの値に含まれる人間労働は、布や糸の使用において生産的であるとはみなされず、人間の労働者としての労働力支出としてのみである。

⑫しかし、岩とキャンバスは単なる価値ではなく、特定の大きさの価値であり、私たちの発想によれば、スカートはリネン10キュビットの2倍の価値があります。この違いはどこにあるのですか?したがって、キャンバスにはコートの半分しか含まれていないので、後者の生産のためには、労働力支出は前者の生産の2倍の時間を費やさなければならない。

⑬したがって、商品に含まれる作品が使用価値に関して質的に妥当である場合、それは価値に関して定量的にのみ適用され、既に何らかの品質をもたずに人間の労働に還元されている。そこには、仕事の方法と内容、その周りの時間、その期間が関係します。商品の価値はそれに含まれる作品の量子のみを表すので、ある割合の商品は常に等しい価値でなければならない。

⑭生産力が残っている場合、コートの製造に必要なすべての有用な作業を言うならば、スカートの価値はそれ自身の量と共に増加する。 1つのスカートx、2つのスカートが2 x就業日を表すなど。しかし、スカートを二重に製造するのに必要な作業を半減させるとします。最初のケースでは、スカートは2つのスカートと同じくらいの価値があります。後者の場合、2つのスカートは以前と同じくらいの価値がありますが、どちらの場合もスカートは同じサービスを実行しますが、それはグッドネスが残っている。しかし、その生産に費やされた仕事の量は変わった。

⑮より大きな量の使用価値は、それ自体でより大きな財産を形成し、2つ以上のスカートを形成する。 2つのスカートでは、1人でなく2人を服装することができます。それにもかかわらず、物質的財産の増加は同時に価値の低下に対応できます。

この対照的な動きは、仕事〈人間労働〉の2通り(以上)の解釈を許す性質から生み出されます。

生産力は、もちろん、常に有用で具体的な仕事の生産力であり、実際には一定期間における適切な生産活動の効率のみを決定します。

したがって、有益な仕事は、その生産力の上昇または下降に正比例してより豊かなまたはより貧しい製品供給源になる。 一方、生産力の変化は、<61>値で示された作業に影響を及ぼさない。 もちろん、生産力は具体的な有用な作業形態に属するので、具体的な有用な形から抽象化されるとすぐに作業に影響を及ぼすことはできません。

したがって、生産力がどのように変化しても、同じ労働は常に同じ時間内に同じ大きさの価値を与えます。

しかし、同じ期間に、生産力が増すにつれて、より多くのQuantaの使用価値をもたらします。

労働生産性を向上させる生産力の同じ変化、それによって供給される効用価値の量は、生産に必要な労働時間の合計を短くするならば、この増加した総量の価値を減少させる 。 同様に、逆も同様です。


 ⑯All labor is, on the one hand, the expenditure of human labor in the physiological sense,and in this capacity of equal human or abstract human labor, it constitutes the commodity value.
すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間の労働の支出であり、同じ抽象的な人間の労働の性質の上で、それは商品価値を構成する。

  〈「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、
   この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値
   を形成するのである。」岩波文庫〉


All labor, on the other hand, is an expenditure of human labor in a particular form, and in this capacity of concrete useful labor produces usefulness. (16)
一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用な労働は有用性を生む。 (16)


http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はマダム・クィックリとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。

Remember, however,
しかし、
that the goods have only objectivity,
物品は客観性だけを持っていること、
provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
are that their value objectivity is therefore purely social,
したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
so of course,
もちろん

that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
 それは商品と商品との社会関係においてのみ現れることができるということです。

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな使用価値の自然形態とは対照的な貨幣形態です。

Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。

namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、

that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。

The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値の関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。


   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>
   <商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、
   人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、
   社会的にのみ現れるーー価値対象性ー価値の客観性の差とは>

 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。
したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

   〈スカート(上着)は、(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味するーー〉

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」(「価値の保持者」岩波 「・・の担い手」新書版)であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。
  〈キャンバス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/キャンバス?
  キャンバス(英語: canvas)とは、帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて
  描かれる 支持体に使用される。 キャンバスは主に亜麻の繊維から作られるが、…〉

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(亜麻布・リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (= the value taking on the form of a skirt ーー)
  〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることで、彼女はリンネルの価値ある人に、
  なれたのです。
 〈「スカートの形を取る価値」 = AのためのBの体型を仮定し =土地の父親と変えることで
  = 個人Bに陛下として行動するーーと、
  だから、⑦「(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味する」、のです。〉

   この書き方は、フランス語版の次を、改善しているのであります、
「上着が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表すことができるのは、同時に価値が一着の上着の形態をとるかぎりでのことなのだ。」(フランス語版P22)

「同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしに・」(新書版P88)
  「同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなしに・・」(岩波文庫P96)

   “your majesty”  =   陛下<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・」
   --と示された、リンネルの社会的判断・反省規定が、
   <上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をかぶらせられた王に、
   <Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる>ことに、すり変えられ
   ているのです。ところが、手本のフランス語版の筈が、こうつずけたの
   です。
  「・・私人Aは、個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が、直接Aの容貌
   と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのです。」
       (仏語版P22)
   「 Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であ
   ることはできない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わな
   い限り、・・・」 英語版
   ーーこのように二つの訳ともにAが、陛下なのです。
 独
So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずには、個人Bに陛下として行動することはできない。

   このようにーー〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることーー
   との正解への誤解を克服せんとする意志は、明らかです。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と価値を使用し、有用な仕事と抽象的人
    間労働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

    ⑭自らの価値や自己の価値を表現することはできませんが、他の価値観や商品
    体系と即座に関連して価値観を提示することができます。それは、それ自体に
    含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態とし
    て、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。そのためには、それは同等の
    ものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

    ⑮商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品
    に対してのみ存在します。
    単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみ
    を考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法律だけが見つかる。
    商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。

    ⑯しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、その価値の単純な表
    現は価値形態の謎であり[2]、それゆえ金銭的価値があることがわかる。[3]

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

   ⑨ Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.

   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、
   コートは価値形態として機能します。
   コットンリネンの価値は、コモディティコートの
   身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
   によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.

   使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるも
   のです。
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの
   外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が
   神の子羊と似ているように、コートとの等しさによって
   明示されます。


     再版の9 10 11段落

 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。 使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。


⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。作品は、人間の労働力の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。その崇高な価値観 - 客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。ちなみに、その語りの言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品とを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>


⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.

    したがって、価値比 により  、
    the value form of the commodity A
    商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、
    the value level of the commodity A.
    または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)
    〈価値鏡 Value mirror Wertspiegel は無い。〉

    商品Aは、価値体としての商品Bを、人間の仕事の素材として、
    自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
    商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなしている。

   (価値体としての商品Bを、自分の価値表現の素材になる使用価値Bにする。)


     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(18) In a certain way, man is like the commodity. Since he is born neither with a mirror nor as Fichte's philosopher: I am I, man first reflects himself in another human being. Only through the relationship to man Paul as his equals does Peter refer to himself as a human being. With this Paul also applies his skin and hair, in his Pauline corporeality, as manifestation of the human race.
(18)ある意味では、人は商品のようなものです。 彼はミラーでもフィッテの哲学者でも生まれていないので、私は自分自身を別の人間に最初に反映させます。 ピーターは人間としての彼の同等としてポールとの関係を介してのみ、彼自身を参照する。 このポールはまた、彼のポーランドの体系では、人類の徴候として、彼の肌と髪を適用します。


 〈商品ーーとしてのみリンネルは、上着との関係を介してのみ、彼自身を参照する、のです。
  商品ーーとしてのみリンネルは、使用価値であり、コートは価値形態であります。
  商品ーーこそが主語であります。〉



 

Karl Marxによる価値観

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 9日(土)13時30分37秒
返信・引用 編集済
  Karl Marxによる価値観

  〈 Google 翻訳 translate.google.com 〉

カール・マルクスの作品1867 1867年
   第1版ドイツ版第1版バリュー・フォーム付録

発行:最初に1867年にドイツ語で出版され、1978年に英語で出版された。
出典:Capital and Class、No.4 Spring 1978、pp.130-150。
社会主義経済学者会議のおかげで、この翻訳を可能にするための資格とクラスの雑誌の出版社が利用できます。
翻訳された:Mike RothとWal Suchting;
転写:ポールハンプトン;
CopyLeft:クリエイティブ・コモンズ、属性&ShareAlike;
マークアップ:Andy Blundenによるマルクス主義インターネットアーカイブ

翻訳者の紹介、Mike Roth、W. Suchting

首都第1巻第1版には、「価値観」(Die Wertform)という付録(Anhang)が含まれています。これは第2版で取り下げられ、そのほとんどは第1章の書き直し版に取り入れられている。[1]

この付録の起源と性質はマルクスとエンゲルスの対応で解明されている。1867年6月、エンゲルスは最初の資本金のページ証明を読んでいました。1867年6月16日、彼はマルクスに次のように書いています。

「2番目のシートは、特にあなたの炭水化物の強い印を持っていますが、今は変更できません。補遺でそれ以上のことをする必要はないと思います。結局のところ、この文学はこのような抽象的な考え方には慣れておらず、価値ある形のためには頭脳をかわすことはない」(マルクスとエンゲルスの作品集、1987年、第42巻、p.381) a]

彼は後で続きます:

「これらのより抽象的な開発では、より多くの小さなセクションと見出しを分離することによって、思考の順序を明確にしないという大きな間違いを犯しました。あなたはヘーゲルの百科事典のやり方でこの部分を扱っていたに違いありません。短い段落と、特別な見出しで記されたすべての弁証法的な変遷と、可能な限りすべての抜粋と、特別な形で印刷された単なるイラストです。物事は教科書のように見えるだろうが、非常に大きなクラスの読者にとってははるかに分かりやすくなっていただろう。学んだセクションでさえ、人々はこのような考え方に慣れておらず、あらゆる可能な方法でそれを促進しなければならない」(Marx and Engels Collected Works、1987、42巻、p.382)

6月22日、マルクスはエンゲルスに答えました。彼は、「ブルジョワジーは、私のカルバンカルをすべての人生の中で覚えている」という希望を表明することから始まり、後に続く書簡で続けます。

「私が持っている価値観の発展については、この点でも弁証的に行動するためには、すなわち、私は:1.私はできるだけ単純かつ教育的に同じことを提示する付録を書いた。2.あなたの助言に従って、開発の各ステップを別々の見出しで§§などに分けた。序文で私は '非弁証的な'読者に、ページxyをスキップして、付録を読むべきだと伝えます。ここでは単にフィリスティンだけではなく、知識を求めている青少年などです。さらに、この問題は本全体にとって決定的すぎです。(マルクスとエンゲルスの作品集、1987年、42巻、p.385)

この付録には、マルクスの価値概念の非常に明確かつ簡潔な解説が含まれています。
実際、私たちが今持っているように、第1巻の第1章では、はるかに関与した展覧会には、より良い紹介はありません。MarxはCapital(1867)の第1版の序文で次のように述べています。「始まりはすべての科学において常に困難です。したがって、第1章の理解は...最も困難になるでしょう。(マルクスとエンゲルス収集作品、1996年、第35巻、p.7)。特に英語の文学では、これらの初期の微妙さをスキップする強い傾向が依然として存在する。これとは対照的に、学生運動の後、西ドイツの若いマルクス主義者はマルクスの分析全体を真剣に受け止めようとしている。言語障壁が存在しないため、Grundrisse、生産の即時プロセスの結果、Capitalの初版の結果、Adolph Wagnerの注記などの分析に含まれる分析の基本部分の追加バージョンの調査ドイツ語を知らない読者には最近閉鎖されていましたが、この作業の重要な部分でした。これはII Rubinの作品のような二次文献を読むことと結びついた。マルクスの経済学の歴史に関するVS Vygodskiiの著書、「The Discovery of Story of Great Discovery:Karl Marx How '首都 '、ローマ・ロスドルスキーの「メキシコのメキシコの首都」の中で最も重要なものであり、現時点では英語の翻訳にしか現れていない。ドイツでのマルクス研究の最近のルネサンスの結果は、これまで以上に多くの人や人が関わっており、その多くはまだ英語では入手できない資本主義社会の分析の中心的なトピックに関する文献が急増しています。これには、下記の参考文献に記載されている価値形態の分析を強調する作業が含まれます。

1976年にマルクスのバリュー・フォーム附属書を次のように翻訳したものが1976年に出版された。出版の完了と提出の後、アルバート・ドラグシュテット編集カール・マルクスによるバリュー:研究[b]。しかし、この出版された版の検討は、それがマルクスのテキストの非常に読みやすくも適切な描写でもないことを示した。(マルクスのテキストの26行は、大部分が非常に重要であり、予告なく省略されていることを指摘すれば十分だろう[2])。だから私たちは、以下の翻訳を一般に公開することが適切であると考えました。 Karl Marxによる


Value-Form 商品の分析は、それが二倍の価値価値と価値であることを示しています。

それゆえに、あるものが商品形態を保有するためには、それは二倍の形式、すなわち使用価値の形式と価値の形式を所有しなければならない。
使用価値の形態は、商品の身体自体、鉄、リネンなどの形であり、その有形で感覚的な存在形態です。これは商品の自然な形(Naturalform)です。
これとは対照的に、商品の価値形態(Wertform)は社会的形態である。

今、商品の価値はどのように表現されていますか?
したがって、それはどのようにして自分自身の外観の形を獲得するのですか?

異なる商品の関係を通じて。このような関係に含まれる形を正確に分析するためには、最も単純で未発達の形(ゲシュタルト)から進めなければなりません。商品の最も単純な関係は、どちらの商品であろうと、他の商品との関係であることは明らかです。

したがって、2つの商品の関係は、商品の最も単純な価値観を提供する。 I.シンプルなバリューフォーム 20ヤードのリネン= 1コート または 20ヤードのリネンは1コート の価値があります。

価値のフォーム全体(aller Wertform)の秘密は、この単純な価値観の中に隠されていなければなりません。したがって、その分析は本当の困難を提供します。

§1。価値観(Wertausdruck)の2つの極:

相対価値形式とそれに相当する形式 価値の単純な表現では、リネンとコートの2種類の商品は明らかに2つの異なる役割を果たします。リネンは、コートとは異なる商品の本体にその価値を表現する商品です。一方、コモディティタイプのコートは、価値を表現する素材となる。1つの商品はアクティブで、もう1つは受動的な役割を果たします。ここで、他の商品でその価値を表現している商品のことを言います。

その価値は相対価値として表されるか、相対価値形式になります。
これとは対照的に、我々は価値の表現の素材となる他の商品、ここではコートと言っています:それは最初の商品と同等に機能するか、同等の形態です。

事柄をより深く分析することなく、当初から以下の点が明らかである。

(a)二つの形式の不可分性。
相対価値形式とそれに相当する形式は、同じ価値観の瞬間であり、互いに属し、相互調整的であり、分離不可能である。

(b)2つの形態の極性。 一方で、これらの2つの形式は、同じ値の表現の極端な、すなわち極を互いに排除または反対にしている。彼らは常に価値の表現がお互いに関係している異なる商品に分散しています。

例えば、私はリネンの価値をリネンで表現することはできません。'20ヤードのリネン= 20ヤードのリネン 'は価値のある表現ではなく、単にリネンの使用目的の明確な量を表しています。したがって、リネンの価値は、他の商品(アンドレア・ウェア)においてのみ、すなわち相対的にしか表現できない。

したがって、リネンの相対価値形式は、他の商品が同等の形でそれに対峙していることを前提としている。

一方、この他の商品、ここでは、リネンに相当するものは、同等の形態であり、相対価値形態では同時に存在することはできません。この商品はその価値を表すものではありません。それは別の商品に価値の表現のための素材のみを提供します。

確かに「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という表現には、「1コート= 20ヤードのリネン」または「1コートは20ヤードのリネンの価値があります。しかし、これを行うには、相対的にコートの価値を表現するために、式を逆にしなければなりません。そしてこれを行うと、リネンはコートの代わりに等価になります。

 したがって、同じ商品は、両方の形式で同時に同じ価値観で出現することはできません。むしろ、これらは互いに極性的に排除される。 彼らが言葉になる前に 、リネン20ヤードは2コート(リネン= 2コート20ヤード)の 価値があるが、Bは応答する:1コートは価値があるリネン22ヤード(1コート=リネン22ヤード)。 最後に、彼らは長い時間を交渉した後、彼らは同意する: Aは言う:20ヤードのリネンは1コートの価値が あり、Bは言う:1コートは20ヤードのリネンの価値がある。

ここでは、リネンとコートの両方が、相対価値形式と同等の形で同時に存在します。

しかし、2人の異なる人と2つの異なった価値観のために、ただ同時に(Leben tretenの中で)同時に起こることはない。

彼のリネンは相対的な価値の形をしていますか?なぜなら、彼のためにイニシアチブは彼の商品から進んでいるからです。

他人の商品であるコートは同等の形態である。逆にBの立場から見ると、同じ商品は同じ場合でも同じ価値観で2つの形を所有することはありません。

(c)相対価値および同等価値は、価値の形式のみである。

相対価値と同等価値はどちらも商品価値の形式に過ぎない。
現在、商品が1つの形態であるか反対の極性であるかは、専ら価値の表現におけるその位置に依存する。これは私たちがここから始めようと考えている単純な価値観の形で著しく出てきます。コンテンツに関しては、二つの式: 麻の1. 20ヤード=リネンの1コートまたは20ヤード1つのコート価値がある、 2.1コート= 20リネンのヤードまたは1コートがリネンの20ヤード価値が 全くありません異なる。

フォームに関しては、それらは異なっているだけでなく反対している。
式1において、リネンの値は相対的に表されている。それゆえ、それは相対的な価値の形であり、同時に、コートの価値は等価で表される。したがって、それは同等の形である。

今度は式1を回すと式2が得られます。商品がポジションを変え、すぐにコートが相対価値式になり、リネンが同等の形になります。彼らは同じ価値観でそれぞれの立場を変えたので、価値観を変えました(Wertform gewechselt)。

§2。相対価値形式
(a)平等の関係。

その価値を表現するのはリネンなので、イニシアチブはそれから始まります。
それはコートとの関係、すなわちそれ自身とは異なる他の商品との関係に入ります。この関係は、均等化(Gleichsetz??ung)の関係である。「20ヤードのリネン= 1コート」という表現の根拠は、実際には:リネン=コートは、単に「商品タイプのコート」が同じ性質(ist gleicher Natur)であることを意味する物質を「リネン」、それとは異なる商品の一種と呼んでいます。私たちは、ほとんどの部分を見落としています。注意は定量的な関係、すなわちあるタイプの商品が他の商品と同等である明確な比率によって吸収されるためです。我々は、異なるものの大きさは、同じユニットに還元された後にのみ定量的に比較可能であることを忘れる。同じ単位の表記が同じ分母(グライクナージェー)の大きさであり、それゆえ相応します。上の表現では、リネンはそれ自身の種類のものとしてコートに関係しているか、コートは同じ物質のものとしてリネンに関連しています(本質的には同じです)(Wesensgleiches)。したがって、一方は他方に定量的に同等である。

(b)価値関係。

コートは、両方が値である限り、リネンと同じです。したがって、リネンは、それ自体の種類の何かに関するコートと関連しているか、同じ物質のものとしてのコートはリネンと同等であり、コートがこの関係において価値として数えるという事実を表す。後者が価値である限り、それはリネンと同等である。したがって、平等の関係は価値の関係であるが、価値の関係は、とりわけその価値を表現する商品の価値としての価値観の存在である。商品の使用価値または身体(Warenkörper)として、リネンはコートと区別されます。しかし、価値としてのその存在は、他の商品型、コートがそれと同等であるか、本質的に同じであるという関係で表現される。

(c)価値関係に含まれる相対価値形式の定性的内容(Gehalt)。

コートは、その生産において消費された人間の労働力の表現であり、それで抽象的な人間の労働のゼリーである限りにおいて、価値があるのですか?抽象化は抽象化がそれに含まれる労働者の明確で有益な具体的な性格、すなわち人間の労働力から行われるため、ここでは労働力は人間の労働力の支出としてしか考慮されないからです。したがって、リネンは価値のあるものとしてコートに関連付けることはできません。また、人間の労働に唯一の物質が含まれている身体として関連させることもありません。しかし価値として、このリネンはこの同じ人間の労働のゼリーです。この関係の中で、物としてのコート(Körper)は、リネン、すなわち人間の労働と共通する価値のある物質を表しています。この関係の中で、コートは価値観の形態としてのみ、したがってリネンの値の出現の合理的な形としてのリネンの価値形態としてもカウントされます。したがって、価値関係によって、商品の価値は別の商品の使用価値、すなわちそれとは異なる別の商品の本体で表されます。

(d)価値関係に含まれる相対的価値形態の量的限定性(Bestimmtheit)。

しかし、20ヤードのリネンは価値があるだけでなく、人間の労働のゼリーですが、一定の大きさの価値、すなわち明確な量の人間の労働が客観化されています。したがって、コートとリネンとの価値関係において、商品タイプのコートは、リネンと同様に身体的価値(Wertkörper)として、すなわち人間の労働の実施形態として量的に同等であるだけでなく、この身体的形態の一定量1衣服のように、20ヤードのリネンと同じくらい正確に人間の労働の価値のある物質が隠されている限り、1コート、1コート、1ダースなどである。

(e)全体としての相対的価値形態(Das Ganze der der Wertform)。

したがって、相対価値表現を通じて、商品の価値は、まず、自分の使用価値とは異なる形態を獲得する。この商品の使用形態は、例えばリネンである。しかしそれはコートとの平等の関係において価値観を持っています。この平等の関係を通じて、他の商品の身体は、それと賢明に異なって、価値(Wertsein)としての自分の存在の鏡となり、価値としての自分の性格(Wertgestalt)となる。このようにして、自然な形態とは異なる独立した別個の価値形態が得られます。しかし、第二に、一定の大きさの値として、それは定量的に明確な関係またはそれが他の商品の身体と同等である割合によって定量的に測定される。

§3。同等の形式
(a)即時交換可能な形式。
価値として、すべてのコモディティは、均等に数えられ、お互いに置き換えられるか、または置き換えられる、同じ単位の、人間の労働の表現です。したがって、商品は、価値として現れる形態を保有している限り、他の商品との交換が可能です。商品の身体は、即時型、すなわち身体または自然の形態であれば、直ちに別の商品と交換することができ、別の商品または価値形態(Wertgestalt)に関して価値を紹介する(vorstellt)。

この特性はコートとリネンとの価値関係において所有されている。さもなければ、リネンの価値はコートであるものでは表現できません。したがって、商品は全く同等の形をしており、まさにこれを意味します。価値表現におけるその場所を通して、それ自身の自然形態は、別の商品の価値形態としてカウントされるか、または別の商品との即時交換可能性の形態を有する。したがって、他の商品の価値として現れ、価値として数え、価値として行動するためには、直ちに自然な形とは異なる形をとる必要はありません(安心できる)。

(b)定量的な明確性は、同等の形態に含まれていない。
コートの形をしたものは、すぐにリネンと交換できますか、あるいは金の形をしたものはすぐに他のすべての商品と交換できますか?この物と同等の形は、量的な明確性を全く持たない。この ような表現の中では、例えば「コート」のように常にリネンの価値を表現するための材料である商品「コート」が常に定量的に明確であり、 「12コートではない」などですが、なぜですか?'20ヤードのリネン 'は値の相対価値表現で表されているだけでなく、同時に価値の一定量として測定されます。しかし、1コートは12コートではなく、20ヤードのリネンほど多くの労働力を含み、したがって20ヤードのリネンと同等であることは、商品タイプのコートのこの特性特性とはまったく無関係であり、商品タイプリネン。

第二に、「1コート」で「20ヤードのリネン」が一定の大きさの価値で表現されている場合、逆に「1コート」の価値の大きさも「リネン20ヤード」で表され、同様に定量的に測定されますコートが同等物の役割を果たすのではなく、むしろリネン中で相対的に自分の価値を表す限りでは、表現の逆転を通じて間接的にのみである。

第三に、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という表現を次のように表現することもできます: '20ヤードのリネンと1コートは同等か、マグニチュード '。 ここでは、2つの商品のどちらか一方の値を他方の値の使用価値に表記していません。したがって、2つの商品のどちらも同等の形態では設定されない。等価とはここでは大きさが等しいものを意味し、頭の中で黙って抽象化されたものだけを意味します。

(c)等価形の特異性(Eigentümlichkeiten)
a)等価形の最初の特異性:use-valueは、値の反対の形の形になります。

商品の自然な形が価値の形になります。しかし、この商品は、他の商品A(リネンなど)が入っている商品との価値関係の中でのみ、商品B(コートまたは小麦または鉄など)に対してのみ発生します。関係。それ自体では、孤立していると見なされますが、コートは、リネンと同じように、有用なもの、つまり使用価値に過ぎません。そのため、そのコートフォームは使用価値の形式にすぎません(Form von Gebrauchswert)明確なタイプの商品の自然な形。

しかし、商品はそれ自体に相当するものではなく、それゆえ自らの自然の秘密を独自の価値観で隠すことはできないので、他の商品と同等のものとしてそれを関連付けるか、形。 これは、身体としての商品の身体から、すなわち使用価値として推測される尺度の例で説明することができる。

シュガーローフ、ケアボディー(weilKörper)は重く、重量を持っていますが、見たり感じたりすることで、砂糖菓子の重さを伝えることはできません(man kann keinen Zuckerhut seine Schwere ansehn oderanfühlen)。今度は、あらかじめ体重を決めておいた様々な鉄片を取ります。体の形の鉄は、それ自体で考えても、砂糖塊のような外観の形をしています。しかし、砂糖塊を重量や重さとして表現するためには、鉄との重量関係に入れます。

この関係では、鉄は体重として扱われます。体重は重量と重さに過ぎません。したがって、鉄の量は砂糖の重量の尺度として役立ち、砂糖の体に関して、重さの形(ブレスSchweregestalt)、重さの外観の形を表すだけである。鉄は、砂糖、または体重が検出される他の身体が入る関係でのみ、この役割を果たす。両者は重いものではなかったので、この関係に入ることができなかったため、他方の重さの表現としては機能しませんでした。スケールパンに両方を投げた場合、実際には同じ重量のものであり、したがって同じ重量の一定の比率であることがわかります。

ここでのように、鉄の体は、砂糖菓子に関しては、単純に重さを表しています。したがって、価値の表現では、麻のことを単に表すだけの価値があります。

b)同等の形態の第二の特異性:具体的な労働は、反対の抽象的な人間の労働 の出現の形になる。

コートは、価値体としてのリネンの価値の表現において、したがって、価値体としてのその身体的な、つまり分化していないヒトの労働の実施形態として、そのようなヒトの労働(シュレフチン)を意味する。

しかし、コートである有益なものが作られ、それが明確な形をとる労働は、抽象的な人間の労働ではなく、人間の労働であるが、明確で有用で具体的な労働である。仕立ての労力 単純な相対価値形式は、商品、リネンなどの価値が、他の単一の商品タイプでのみ表されることを要求しています(erheischt)。しかし、他のタイプの商品は単純な価値観のためには全く無関係です。

コモディティタイプの「コート」の代わりに、リネンの価値は、小麦、小麦、鉄などで表現されていた可能性があります。コート、小麦、鉄のいずれの場合でも、リネンはリネンに関しては価値のあるボディーなので、それで人間の労働の実施形態として。すべての場合において、コートや小麦や鉄のいずれかの明確な身体的形態は、抽象的な人間の労働ではなく、明確で具体的な有用な労働形態であり、仕立てや農業、鉱業の労働である。

それゆえに価値の表現において、必然的に必然的に現実化または出現形式の明確な形、すなわち抽象的な人間の労働としてカウントされなければならない。コートは、例えば、人間の労働力が費やされているか、または抽象的であるかのように、仕立ての労働が明確な形態としてカウントされる限り、人間の労働が実現する。

値関係とそれに含まれる値式の中で、抽象的な一般的なものは、具体的なものではなく、現実的なものです。逆に、顕著に具体的なものは、単なる形の外観または抽象的な一般的な実現の明確な形態としてカウントされます。

例えば、同等の「コート」に隠れている仕立ての労働は、リネンの価値表現の中で、人間の労働でもあるという一般的な性質を有していない。それどころか。人間の労働であることは本質(ヴェーゼン)であり、仕立ての労力は外観(Erscheinungsform)の形、またはその本質の実現の明確な形としてのみカウントされます。
この製品は、分化していない人間の労働である限り、労働生産物に代表される労働者のみが価値を創出するため、不可避である。

したがって、製品の価値を客観化した労働は、別の製品の価値。

この逆転(Verkehrung)は、顕著に具体的に見えるのは、抽象的な一般的な外観の形でしかなく、逆にコンクリートの抽象的な一般的な性質ではなく、価値の表現である。

同時に、それはそれを理解することを困難にする。
私が言うなら、ローマ法とドイツ法はどちらも法律であり、それは明らかです。
しかし、もし私が言うなら:Law(Das Recht)、この抽象化(Abstraktum)は、ローマ法とドイツ法において、これらの具体的な法律において、相互関係が神秘的になっていることを実感します。

g)同等の形態の第三の特異性:私的労働はその反対の形態になり、直ちに社会的形態 の労働になる労働の生産物は商品にならず、独立した私的労働の製品は互いに独立して運ばれたものではない。これらの私的労働の社会的相互関係は、自然に進化した社会的分業の一員であり、したがって、その製品を通して、異種の欲求を満たし、その全体として(Gesamtheit)、同様に自然界に進化した社会的欲求(NaturwüchsigesSystem der GesellschaftlichenBedürfnisse)が構成されています。

しかし、互いに独立して運営されている私的労働のこの物質的な社会的相互接続は、仲介されているだけであり、したがって、彼らの製品の交換によってのみ実現される。

したがって、民間労働の製品は、価値形態を持ち、したがって他の労働生産物との交換可能性の形をとる限り、社会的形態をとっているだけである。

それは、それ自身の身体的または自然の形態が、同時に他の商品との交換可能性の形態であるか、または別の商品のための価値形態としての計数の形態である限り、直ちに社会的形態をとる(anderer Ware)。

しかし、これまで見てきたように、これは、他の商品との価値の関係を通じて、それが同等の形であるか、他の商品と比較して同等の役割を果たす場合にのみ、労働の生産のために行われる。

等価物は、他の商品との即時の交換可能性の形をとる限り、直ちに社会的形態を有し、他の商品を価値体とみなし、したがって同等(グライチェス)である限り、この形式の即時交換可能性を有する。

したがって、そこに含まれる明確な有用労働は、直ちに社会的形態、すなわち他の商品に含まれる労働と平等の形態を持つ労働としての労働としてもカウントされます。テーラリングの労働のような明確で具体的な労働は、異なる種類の商品、例えばリネンに含まれる異なるタイプの労働と平等の形態を唯一持てる。実際には、さまざまな種類の労働者の平等または労働者の平等を構成します。

しかし、彼らは、それが人類の抽象的な人間の労働、すなわち人間の労働力の支出といった人間の労働である限り、唯一のものである。したがって、すでに示されているように、明確な具体的な労働は抽象的な人間の労働の現実化または外観の明確な形態と同等の点数に含まれているため、他の労働との平等の形を保有しているため、それにもかかわらず、労働はすぐに社会的形態の労働である。このため正確に他の商品とすぐに交換できる商品で表現されています。

§§ bとgに示されている等価形の最後の2つの特質は、非常に多くの考え方や形のような価値形を初めて分析した偉大な理論家(Forscher)現代の後継者よりも幸いなことに、私はアリストテレスを意味しています。

アリストテレスは、商品の金銭的形態が、単純な価値観の形、すなわち他の商品の商品価値の表現の、より発展した形(ゲシュタルト)に過ぎないという事実を最初に明確に定式化している。

「5ベッド= 1ハウス」(クリナイ・ペンテ・アンチ・オイアシ) は、 「5ベッド=そのような金額」とは「違いはありません」と述べています 。

この価値観が隠されている関係は、家が質的に寝床と同等であるという事実を決定し、これらの賢明に異なるものは、そのような本質的な平等がなければ、相応の大きさとして互いに関連付けることができない彼は、「交換」は、「平等がなければ実現できず、同等性は相応性なしには起こり得ない」と述べている。
(アウトisothςmhoushςsummetriaς)。

しかし、これで彼は短期間で引き上げ、価値の形態の分析をやめています。

「しかし、それは事実上不可能です。この均等化は物事の本当の性質とは異質なものに過ぎず、それゆえに「実用的な目的のための一時的な変更」に過ぎない。

[c] Aristotleは、彼のさらなる分析が難破船に苦しんでいる場所、すなわち価値観の欠如について、私たち自身に語っています。ベッドの価値を表現するために家がベッドを表現する、等しい、つまり共通の物質は何ですか?

そのようなことは「真実ではあり得ない」とアリストテレスは言う。
どうして?ベッドに関しては、家はベッドと家の両方が本当に平等である限り、平等なものを表します(グリーチェ・ヴォール)。そしてそれは何ですか?人間の労働。

しかし、商品価値の形で、すべての労働は平等な人間の労働として表現され、それゆえアリストテレスによる商品の価値形態から平等に計数されているという事実は、ギリシャ社会が奴隷労働に頼っていたためそれゆえに自然な基礎としての人々とその労働の不平等を持っていました。

価値の表現の秘密、すべての労働者の平等、すべての労働者が人間の労働である限り同じ労働者であるという事実は、人間の平等の概念が既に民衆の偏見の固定性を持っている場合にのみ解読することができます。しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがって商品の所有者としての人々の関係が支配的な社会関係である社会においてのみ可能である。アリストテレスの天才は、商品の価値の表現に平等の関係を発見したという事実に正確に映っています。

彼が住んでいた社会の歴史的な限界だけが、「真実で」、この平等の関係が何であるかを知ることができなくなる 。

d)同等の形態の第四の特異性:
商品形態のフェチシズムは、相対的価値観よりも同等の形態 労働の産物であるという事実は?コート、リネン、小麦、鉄などの有用なものはありますか?

値であり、価値の明確な大きさであり、一般的な商品であり、当然のことながら、私たちの実用的な相互関係(unsrem Verkehrにおける)においてのみ、それらに自然に関連する特性であり、例えば、重くまたは暖かく、しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、これらは物として互いに関係しています。彼らは価値であり、価値の大きさとして測定可能であり、価値であるという共通の性質は、それらを互いに価値観の関係に置く。例えば、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という事実は、以下の事実を表すに過ぎない: 1.これらの物の生産に必要な異なる種類の労働は、 (gleichgelten)人間の労働として; 2.生産に費やされる労働の量が明確な社会的法律に従って測定されていること。 3.テイラーとウィーバーが生産の明確な社会関係に入ること。

それは、生産者の明確な社会的関係であり、彼らは異なる種類の労働を人間の労働と同等(同性愛者)とみなしている。それは生産者の明確な社会的関係ではなく、人間の労働力の支出の期間によって労働の規模を測定する。

しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、自分たちの労働の社会的性格は、本質的にそれらに関係する社会的特性、労働生産物の客観的決定(Bestimmungen)、労働者の労働の平等社会的に必要な労働時間による労働の尺度、労働生産力の価値としての労働尺度、

最終的に労働者による生産者の社会関係は、これらの価値観や社会的関係として現れる、労働の製品。まさにこのために、労働の産物は、商品、賢明な超越的な(sinnlichübersinnliche)社会的なものとして現れる。したがって、何かからの光(Lichteindruck auf den Sehnerv)によってもたらされた視神経に対する印象は、視神経そのものの主観的刺激としてではなく、目の外のものの客観的形態として表される。

しかし、見ることの場合、物からの光は、外部の物体から、実際に別のもの、目に投げられる。それは物理的なものの間の物理的な関係です。商品形態と労働生産物の価値観とは、物理的性質やこれから生じる物事の関係とはまったく関係がない。それはここでは物事の関係の想像的な形をとっているのは、人々の明確な社会的関係(der Menschen)だけです。

したがって、これを類推するためには、宗教界の曇った地域へ飛行しなければなりません。ここでは、人間の頭の製品は、自分自身の人生と他人や人との関係に立つ独立した人物(ゲシュタルテン)として現れます。だから人間の手の製品を持つ商品の世界にあるのです。これは、商品として生産され、商品の生産と切り離せないとすぐに、労働の産物に固執するフェチシズムと呼ばれています。

今、このフェティッシュ・キャラクターは、相対的価値観よりも同等の形でより顕著に現れます。商品の相対的価値形態は、すなわち別の商品との関係によって媒介される。この価値観を通じて、商品の価値は、自分の賢明な存在とは全く別のものとして表現されます。

それと同時に、価値(Wertsein)としての存在は、物そのものとは異質な関係であり、したがって、他の物との価値観は、その背後に隠れている社会的関係の出現の形にしかならないということに固有である。

これとは逆の形。それは、商品の身体的または自然の形態が、他の商品の価値形態として、社会的形態として即座にカウントされるという事実に正確に含まれる。

したがって、私たちの実践的な相互関係の中では、同等の形を持つことは、物事の社会的自然的性質(生態??学的性質)として現れるのであり、それゆえ、それは感覚のために存在します(したがって、sinnlich da istです)。

しかし、商品Aの価値表現の中では、同等の形は本質的に商品Bに関係するので、この関係の外に本質的に後者に属しているようにも見える。したがって、例えば、他の自然の性質、その色、比重、空気中での非酸化性などを除いて、本質的に金の謎(dasRätselhafte)他のすべての商品と即座に交換できる社会的な質を提供します。

§4。値が独立して出現するとすぐに、それは交換価値
 

商品に提示された仕事の二重性

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 5日(火)04時11分47秒
返信・引用 編集済
  2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit

2Double character of the work presented in the goods
 商品に提示された仕事の二重性

 ①   ambiguous 形容詞
   2通り(以上)の解釈を許す ⑮

もともと、商品はZwieschlächtigesとして私たちに登場し、価値と交換価値を使用していました。 後に、価値あるものとして表現されている限り、仕事はもはや使用価値の生産と同じ特徴をもたないことが明らかになりました。 この商品に含まれる作品の2通りの解釈を許すこの性質は、まず私によって批判的に証明されました。 (12)ここでは、政治経済の理解を中心とした飛び跳ね点であるので、ここで詳しく検討する。

 ② 10 cubits of linen = W, the skirt = 2 W.
スカートとリネンのキュビ10キュビトのように、二つの商品を取る。 最初のものは後者の2倍の値を持つので、リネン= 10キュビットの場合、スカートは2Wです。

 ③スカートは特別な必要性を満たす使用価値です。 それを生産するには、ある種の生産的な活動が必要です。 それはその目的、動作モード、目的、手段および結果によって決定される。 その有用性がその製品の使用価値にある、またはその製品が使用価値であるという事実にある作品は、短い有益な仕事と呼ばれます。 この観点からは、常にその有用性の観点から考えられます。

 ④ロックとキャンバスのように定性的に異なる値を使用するので、その存在を媒介する作業は仕立てと製織の質的に異なります。 これらのことが質的に異なる価値を使用していないため、質的に異なる有用な仕事の製品でなければ、彼らは商品として自分自身に直面することはできません。 ロックはスカートと交換されず、同じ使用価値は同じユーティリティ値と比較されません。

 ⑤さまざまな有用性の価値や商品の総体では、属、種、家族、亜種、様々な有用な作品の多様性、すなわち社会的な分業に応じて、全体として多様性が現れています。 商品生産は、逆に、社会分業の実在的条件ではないが、商品生産の実在的条件である。 古代インドのコミュニティでは、商品は商品にならずに社会的に共有されています。 あるいは、より明白な例としては、すべての工場で作業が体系的に分かれていますが、この部門は個々の製品を交換する労働者によって媒介されるものではありません。 独立した民間の作品の商品だけが商品として互いに反対立している。

 ⑥したがって、すべての商品の使用価値には、一定の便宜的な生産的活動または有用な作業があることがわかっている。 質的に異なる有用な作業が関与していない限り、使用価値は商品としてはみなされません。 商品が一般的に商品の形を取る社会では、 商品生産者の社会では、独立した生産者の民間企業として独立して運営されている有益な作品の質的差異が、社会単位の分業体系に発展している。

⑦ちなみに、スカートには、テーラーまたはテーラーのクライアントが着用するかどうかは関係ありません。 どちらの場合も、それは使用値として機能します。 また、ロックとそれを作り出す作品との関係も、仕立てが社会的分業の独立したメンバーである特別職になるという事実によって変わっていません。 衣服の必要性が彼を強要したところでは、人はテーラーになる前に何千年も作っています。 しかし、ロック、キャンバス、自然に存在しない物質的富の要素は、特定の天然物質を特定の人間の必要性に同化させる特別な、意図的に生産的な活動によって常に媒介されなければならない。 実用価値の教育者として、有用な仕事の教師として、仕事は人間と自然の間の代謝、すなわち人間の生活を伝えるために、社会のあらゆる形態から人間の独立した状態、すなわち永遠の自然の必要条件です。

⑧ユーティリティは、ロック、キャンバスなどの商品を短期間で評価し、2つの要素の化合物、天然素材と仕事を評価します。 岩やキャンバスなどの様々な有益な作品の合計を引くと、人間の介入なしに自然に存在する物質基層が常に残っています。 人は自然の中で自分の生産だけを進めることができます。 物質の形を変えるだけです。 (13)さらに。 この形成自体の仕事では、それは常に自然の力によって支えられています。 だから、仕事はそれが生産する実用価値の唯一の源ではなく、物質的富の源でもありません。 ウィリアム・ペティ(William Petty)が言うように、その作品は彼の父親であり、地球は彼の母親である。

 ⑨We now go from the commodity, as far as commodity, over to the goods value.
 ⑨今から商品から出て、商品としては、商品価値まで

⑩ー1 私たちの前提によると、岩石はキャンバスの価値の2倍の価値があります。 しかし、これは単に我々がまだ興味を持っていない量的な違いです。 したがって、コートの価値は、キャンバス10キュビット、リネン20キュビットの2倍であり、コートと同じ価値サイズです。

⑩ー2 価値としては、岩とキャンバスは同じようなもの、同じような仕事の客観的表現です。 しかし仕立てと製織は質的に異なる作品です。

⑩ー3 しかし、同じ人間が交互に〈テーラーと織り〉とを交ぜた社会の状態があるため、これらの2つの異なる作業モードは、同じ個体の仕事の変更であり、テーラーが作るスカートのように、 今日、そして彼が明日行っているズボンは、同じ個人の仕事のバリエーションだけを前提としています。

⑩ー4 しかし仕立てと製織は質的に異なる作品です。 しかし、同じ人間が交互にテーラーと織り交ぜた社会の状態があるため、これらの2つの異なる作業モードは、同じ個体の仕事の変更であり、テーラーが作るスカートのように、 今日、そして彼が明日行っているズボンは、同じ個人の仕事のバリエーションだけを前提としています。

⑩ー5 また、私たちの資本主義社会では、労働需要の変化する方向に応じて、特定の部分の人的労働が裁縫の形で、または織りの形で交互に供給されることも示されています。

⑩ー6 この仕事の形態の変化は、摩擦がないわけではないかもしれないが、彼は行かなければならない。 我々が生産的活動の確実性、したがって労働の有用な性質を無視すれば、それは人間の労働の支出であるということが変わらない。 質的に異なる生産活動にもかかわらず、裁縫や製織は、人間の脳、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、この意味では人道的労働である。 過ごす人材は2つだけです。

⑩ー7 しかし、人間の労働力そのものは、ある形か別の形で多かれ少なかれ発展しなければならない。 しかし、商品の価値は、人間の労働力の卓越性、一般的な人間の労働の支出を表しています。 市民社会が大きな役割を果たしているように、人間が非常に恥ずかしい役割を果たすように(14)、人間の労働もそうである。

⑩ー8 平均的に、普通の人間は、特別な開発をせずに、彼の肉体に持っている単純な労働力の支出です。 単純な平均的な仕事そのものは、異なる国や文化の時代の中でその性格を変えますが、既存の社会に与えられています。 より複雑な作業は、逓倍された、または倍増された単純な作業としか考えられていないため、複雑な作業のより小さな量子は、単純な作業のより大きい量子に等しくなります。 この削減が絶え間なく進行していることは、経験によって示されています。 商品は最も複雑な仕事の産物であり、その価値は単純労働の産物と同等であり、それゆえにそれ自体が一定量の単純労働のみを表している。 (15)

⑩ー9 異なる種類の仕事がその単位として単純労働に還元される異なる比率は、生産者の背後にある社会的プロセスによって固定され、したがって伝統によってそれらに現れる。

⑩ー10 簡単にするために、どんなタイプの労働もただちに〈労働〉であるとみなされ、還元の努力を節約する。

⑪だから、ロックやキャンバスの値がユーティリティの価値〈使用価値〉の違いから抽象化されているように、これらの値で提示されている作品、その有用な形態の違い、仕立てと製織からもそうです。 ロックとキャンバスの使用価値は、生地と糸との意図的で生産的な活動のつながりであるのと同じように、ロックやキャンバスの価値は単に類似の作業
であるため、これらの価値に含まれる作品は、布と糸、しかし労働力の支出だけの人間労働としてのみを表す。

これらの使用価値のロックとキャンバスの教えることは、非常に異なる性質によって、仕立てと製織--とされています。 スカート値の実体とキャンバスの価値は、それらの特定の品質から抽象化され、同じ品質を有する限り、人間の仕事の質に過ぎない。

これらの値に含まれる人間労働は、布や糸の使用において生産的であるとはみなされず、人間の労働者としての労働力支出としてのみである。

⑫しかし、岩とキャンバスは単なる価値ではなく、特定の大きさの価値であり、私たちの発想によれば、スカートはリネン10キュビットの2倍の価値があります。この違いはどこにあるのですか?したがって、キャンバスにはコートの半分しか含まれていないので、後者の生産のためには、労働力支出は前者の生産の2倍の時間を費やさなければならない。

⑬したがって、商品に含まれる作品が使用価値に関して質的に妥当である場合、それは価値に関して定量的にのみ適用され、既に何らかの品質をもたずに人間の労働に還元されている。そこには、仕事の方法と内容、その周りの時間、その期間が関係します。商品の価値はそれに含まれる作品の量子のみを表すので、ある割合の商品は常に等しい価値でなければならない。

⑭生産力が残っている場合、コートの製造に必要なすべての有用な作業を言うならば、スカートの価値はそれ自身の量と共に増加する。 1つのスカートx、2つのスカートが2 x就業日を表すなど。しかし、スカートを二重に製造するのに必要な作業を半減させるとします。最初のケースでは、スカートは2つのスカートと同じくらいの価値があります。後者の場合、2つのスカートは以前と同じくらいの価値がありますが、どちらの場合もスカートは同じサービスを実行しますが、それはグッドネスが残っている。しかし、その生産に費やされた仕事の量は変わった。

⑮より大きな量の使用価値は、それ自体でより大きな財産を形成し、2つ以上のスカートを形成する。 2つのスカートでは、1人でなく2人を服装することができます。それにもかかわらず、物質的財産の増加は同時に価値の低下に対応できます。

この対照的な動きは、仕事〈人間労働〉の2通り(以上)の解釈を許す性質から生み出されます。

   あいまいな性格からーーではなく
   ambiguous
   形容詞
   2通り(以上)の解釈を許す

   character
   名 詞
   1C 通例単数形(人の)(他と異なる)個性, 性質, 性格,
   気質;U特徴
   the American character|アメリカ人気質

生産力は、もちろん、常に有用で具体的な仕事の生産力であり、実際には一定期間における適切な生産活動の効率のみを決定します。

したがって、有益な仕事は、その生産力の上昇または下降に正比例してより豊かなまたはより貧しい製品供給源になる。 一方、生産力の変化は、<61>値で示された作業に影響を及ぼさない。 もちろん、生産力は具体的な有用な作業形態に属するので、具体的な有用な形から抽象化されるとすぐに作業に影響を及ぼすことはできません。

したがって、生産力がどのように変化しても、同じ労働は常に同じ時間内に同じ大きさの価値を与えます。

しかし、同じ期間に、生産力が増すにつれて、より多くのQuantaの使用価値をもたらします。

労働生産性を向上させる生産力の同じ変化、それによって供給される効用価値の量は、生産に必要な労働時間の合計を短くするならば、この増加した総量の価値を減少させる 。 同様に、逆も同様です。

 ⑯すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間の労働の支出であり、人間または人間の平等な人間の労働力のこの能力において、それは商品価値を構成する。一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用な労働は有用性を生む。 (16)

http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はウィティッブ・ハーティグとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

Remember, however,
しかし、
that the goods have only objectivity,
物品は客観性だけを持っていること、
provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
are that their value objectivity is therefore purely social,
したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
so of course,
もちろん

that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
 それは商品と商品との社会関係においてのみ現れることができるということです。

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.
We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値観を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな自然な形の使用価値とは対照的です。

Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。

?namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、

that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。

The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。


   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥・・・
 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。

したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (「スカートの形を取る価値」= taking on the form of a skirt
   で、彼女リンネルは価値あるものと判断される )
  ( the same time  =  文字通り )
   “your majesty”  =   陛下

 So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずに個人Bに威厳として行動することはできない。

<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、リンネル自身が、この価値関係により
   反省規定することが、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・・」
   --と示されたことが、<上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をか
   ぶらせられた王に、<Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること>に、
   すり替えられたのではなかろうか?

 〈英語版資本論〉
A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であることはできない、
同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

⑧In the production of the coat, human labour
power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.

In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.

    ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が
    実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
   〈 but though 「正しいー間違い」では無くーー〉
   この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を
   示すが、この事実は見えません

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.

   そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけで
   この側面の下に存在し、それゆえ価値体として
   具体化された価値として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.

   Aは、たとえば、B にとっての「陛下」であることは
   できない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形
   を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべて
   の新しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほ
   かのものをその上に装わない限り

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と価値を使用し、有用な仕事と抽象的人
    間労働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     再版の9段落

 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。 使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

   ⑨ Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.

   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、
   コートは価値形態として機能します。
   コットンリネンの価値は、コモディティコートの
   身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
   によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.

   使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるも
   のです。
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの
   外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
  それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が
  神の子羊と似ているように、コートとの等しさによって
  明示されます。



 http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

<63>
A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform

x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform

Das Geheimnis aller Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.

2. Die relative Wertform
a) Gehalt der relativen Wertform

 ① Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten. Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten. Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)

 ② Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.

 ③ Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares". In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich. So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.

 ④ Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.

 ⑤ Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).

 ⑥ Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük- <66> ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.

 ⑦ Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.

 ⑧ In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft. Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper. Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

 ⑨ Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.

 ⑩ Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand. Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten. Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>

 ⑪ Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.

b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform




 

商品

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 1日(金)11時19分25秒
返信・引用 編集済
    https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
   グーグル英和訳ソフト Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja

  商品
これは、最初のドイツ語版のCapitalの第1章Albert Dragstedtによる英訳です。現代版のCapitalは、第2版以降の第1章を持っています。
出典:Albert Dragstedt、Value:Studies by Karl Marx、New Park Publications、London、1976、pp。7-40。
転写される:Steve Palmer。
資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。
   ーーー中略ーーー
32 It follows from the preceding not that there are two differing kinds of labour lurking in the commodity, but rather that the same labour is specified in differing and even contradictory manner ? in accordance with whether it is related to the use-value of the commodity as labour’s product or related to the commodity-value as its merely objective expression. Just as the commodity must be above all else an object of use in order to be a value, just so does labour have to be before all else useful labour ? purposeful, productive activity ? in order to count as expenditure of human labour-power and hence as simple human labour.

32 前項から、コモディティには2種類の異なる労働が潜んでいるが、コモディティの使用価値に関連しているかどうかに応じて、同じ労働が異なる、さらには矛盾する方法で規定されている 労働の製品として、あるいは単なる客観的な表現としての商品価値に関連している。
商品が価値あるものであるためには他のすべての目的に使用されなければならないのと同様に、人間の労働力の支出とみなすためには、他のすべての有用な労働意欲的で生産的な活動よりも前に労働がなければならない。 それゆえ単純な人間の労働である。

33 Since up to now it has only been the substance of value and the magnitude of value which have been specified, let us now direct our attention to the analysis of the form of value.

33 これまでは価値の実体と価値の大きさしか特定されていなかったので、今度は価値の形態の分析に注意を向けましょう。

34 First let us turn back to the first form of appearance of the value of the commodity.
最初に商品価値の出現の最初の形に戻りましょう。

 私たちが調査したことは、商品(リネン)の価値の相対的な大きさの変化が、それ自体の価値の大きさの変化を反映しているかどうかであり、その定量的側面のみに基づいて相対価値を調査しました。今度はその形に変わります。相対値がフォームである場合に値が現れる請求項の等価性のために、次に式2件の商品(例えば、X商品Bの商品Aのが= Y、または麻の20ヤード= 1コート)である相対的価値の単純な形態。

 ① Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。
 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。
リネンは、それ自身に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自身に価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに自身を対象化することはできません。
リネンは、同種の人間労働の対象化、すなわちそれ自身の価値の対象化されたものとして、それ自体をそれに関連付けることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。
それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である-そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労働を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。
コートとのこの関係によって、リネンはひとたたきで多くの蝿をうちます。リンネルは、他の商品を価値として自分自身に関係させることによって、自身を価値として関連付ける。自らに自身を関連付けることによって価値を示し、その区別からリンネル自身を、使用価値として自身から区べつする。
このように発生していることは、その価値の大きさを示すコートは、その付与する値(一般的には値、及び定量的測定値及び値の大きさのものもある)として現実を持つ価値として、自身の直接的存在とは異なります。
自身の中に差別化されたものとして、このように自分自身を明らかにすることで、最初に自分自身を明らかにした時間は本当に-商品として他商品を同じ時間値で示す便利なものーーとは区別される。
リネンは、使用価値である限り、それはある独立したものです。その価値は、表示されるこの関係で他の商品に質的に等置され、コートをリネンに同一視して、いくつかの特定の量に置き換え、それに相当するものとしてカウントし、それと交換可能です。
したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形態を印づけます。結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。
他に何が起こっても、そのことがらは、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を示します。
この等価物の規定では、商品があるという事実だけでなく、含まれている値であり、すべてで、それはその中にいるという事実であり、肉体的形状(その使用価値)を、別の商品の価値としてカウントし、その結果、手元にすぐにある交換価値としての用を他の商品に対して果たしています。

 ④価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然から得られた物質で発酵しています。
リネンを人間の労働の単なる対象化として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。
抽象的な(すなわち、いかなる追加的な品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。
しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。
リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表現を得る)。
リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。(⑱)

 ⑤相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。(⑱a)


使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。
対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価値形態になります。
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間労働が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。
なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な材料なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。
しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。
コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。
仕立て労働は、あまりにも、それだけあれば、それはのように存在するように、意図的生産労働であり、その結果、しない限り、リネンの値を持つ確定労働、フォーム実現の、客体の方法の一般的に人間の労働。リネンはむしろコートよりも靴墨でその価値を表現した場合、研磨作りはそれとしてカウントされる抽象的人間労働の代わりに、仕立て労働の実現形態となる。
したがって、価値形態や商品形態は、抽象的人間労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的有用労働に他の商品が関連することによって成立してくるのであり、そのことに依拠して価値の出現形態または等価物になるのです。

⑦ー① We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。

②It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。

③If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。

④These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。

⑤It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。

⑥The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。

⑦Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。

⑧Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.
離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

⑨The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

⑩In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.
それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

⑪It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
他の商品と一緒に流通して初めて価値のある形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。

⑫The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。

⑬Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,
  muss sie eine andere natürliche Form -
 die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.
   製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。

⑭It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、他の価値や商品を直接価値として参照することができます。

⑮but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

⑯The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.
商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

⑰If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

⑱But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>
  英語版からの訳
<しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>

    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
     「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値<表現ーー誤訳>形態の形式的内容を見落
     としていることは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形態」
     が内実とされることで、価値表現がされるということです。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。
他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。
商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。
相対的価値ーー麻布(リネンの20ヤード= 1コート)の、交換価値を示すリネンは明白に現れる他の商品との関係である。コートに関しては、リネンはコート自体を価値形態(価値の現象形態)として、したがってそれ自身ですぐに交換可能なもの(リネン)として、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかです。この関係の中でのみコートと等価です。
   <杉本 既存訳は全てが、ここが次の訳なのです。 >
  (「上着のほうもまた確かに、リンネルが自分自身の価値の現象形態
   としての上着に、したがって自分と直接的に交換可能なものとして
   の上着に、関係するかぎりでのみ、等価物なのである。この関係で
   のみ上着は等価物となる。」江夏訳P42原P22)
しかし、それは受動的に行われます。それは何のイニシアチブも握っていない。物事はそれ自体に関係しているので、それは関係で自分自身を見つけます。リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。さらに、リネンがコートに関連する具体的な様式および様式は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒ったテーラーの製品」ではない。
結局のところ、リネンは、現在の価値体としての、したがって抽象的人間労働の現実的顕現としてのコートに関連しています。
これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限りにおいて、これだけです。
同等物<等価物>として(コート)のその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射決定[4]であるだけです。

  <英訳では、次のように行文が示されています。>
 ⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

Only within this relationship is the coat an Equivalent. But it conducts itself passively.
  (江夏訳--既存訳はすべて同じ、けして間違っているとはいえない。
    しかし、次の対比をしてみよう。)

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value,
    コートが関係している限り、それは、リネンがそれ自身の
    価値の外見の形態<現象形態>としてコートと関連している限り、

   <しかし、次の文章が続くのです。①②③・・⑮>
    ①and hence as something immediately exchangeable
     with itself (the linen).
    それゆえに、すぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    して
   ② it is admittedly an Equivalent insofar as linen
    is related to the coat as form
    リネンがフォームとしてのコートに関連している限り、それは明
    らかに同等である
   ③of appearance of its own value,
    それ自身の価値形態<価値の現象形態ではない!>となり
   ④ and hence as something immediately exchangeable
    with itself (the linen).
    それゆえにすぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    してあります。
   ⑤Only within this relationship is the coat an
    Equivalent.
    この関係の中でのみコートと等価です。
   ⑥ But it conducts itself passively.
     しかし、それは受動的に行われます。
     It seizes no kind of initiative.
    それは何のイニシアチブも握っていない。
   ⑦It finds itself in relationship because things
     relate themselves to it.
    物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身
    を見つけます。
   ⑧ The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
   リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自
    身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活
    動なしで存在する。
   ⑨In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.
    さらに、リネンがコートに関連する具体的な仕方および様式は、
    コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは
    控えめであるが、「プライドで狂った裁縫師」の製品ではない。
   ⑩The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner.
    結局のところリネンは、現在の価値体として抽象的人間の労働
    の現実的な顕現としてのコートに関連しています。
    これは、リネンがこの特定の方法でコートに関連している限り
    において、これだけです。
   ⑪ Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.
    同等物としてのその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射
    規定[4]であるだけです。
    <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、
    リネンの反省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
    形態規定されてはない。上着は価値の凝固物ーであるが、それだ
    けでは、リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取
    れない>
    <杉本 十一段落は以上までです。次が十二段落です>
  ⑫ー①But the situation seems just the reverse. On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything.
    しかし状況はちょうど逆のように見える。 一方では、コートは
    それ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。
    ②On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.
     一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがする
     かもしれない何かからかなり離れていることで、コートと関連し
     ています。
    ③The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example).
     コートに関連するリネンの結果物
    (同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)
     は、まったく同じ方法で、リネンに関しても体系的な方法で
     コートに属するように見えるのであり、(例えば)暖かく保つ
     ことができるという特性のように、なのです。
      <杉本 これが、初版での等価形態の謎性 なのであります。>
    ④ In the first or simple form of relative value (20 yards of linen  one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]
      最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン=1
     コート)では、このフォームはまだ確立されていません。この
     フォームは直ちに反対のものを表し、コートはリネンと等価で
     あるため、 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有している
     のは、他方がそれ自身の相対的価値形態にするためであるから
     である[5]。
 ⑬単純な形式の相対価値や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形態の発展は両方の商品に対応している。価値等式が追加され、同一の麻のみにその値を明示するために、両方の商品のそれぞれを参照して、1商品(コート)およびその逆が、この価値表現は、二重のための両方のそれぞれについて別々であり、両方の商品ともに役立ちは異なります。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。
 ⑭「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは 1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対的価値表現である、他の等式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。
リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの 異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。
  (原P24)
 ⑮最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2 つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。また、得られたものとすることがないように思われるいずれかの発現のための量のための値(値の量は明らかにすべての式において同じまま- -同じように徹底的リネンの'20ヤードで表され= 1つのコートリネンの'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーやその他は、コートがそうであったように、単一の同等物である。
 ⑯それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところ、リネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実、等:のいずれかでこの商品またはその若しくは第三の商品等でも表現されるということでもある。、この第二は、すでに明らかにされている相対的価値形態は、その接続に現れます。
そのとき、われわれは次の形態をえることになる。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:

  1 coat  = 20 yards of linen
  u coffee =   "
  v tea    =   "
  x iron   =   "
  y wheat etc.=   "

 ①The relative value-expression returns at this point to its original form: 1 coat = 20 yards of linen. Now, however, this simple equation is further developed. Originally it only contained the fact that the value of the coat obtains through its expression in another commodity a form which is different from and independent of the exchange-value coat or even the body of the coat. Now the very same form manifests the coat with respect to all other commodities whatsoever as value. Not only the coat, but also coffee, iron, wheat, in a word, all other commodities express their value in the material, linen. In this way, all manifest themselves to one another as the same materialization of human labour.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。
しかし、今、この簡単な方程式がさらに開発されています。
もともと、それは、コートの価値が他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの本体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。

今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。 コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。 このようにして、すべてが人間労働の同じ物質化として互いに出現します。

They are henceforward only quantitatively different, which is the reason why one coat, u coffee, x iron, etc. ? i.e., different quanta of these different things ? equal 20 yards of linen (equal to the same quantum of objectified human labour). It is through their common value-expression in the material, linen, therefore, that all commodities differ as exchange-values from their own use-values and relate at the same time to one another as amounts of value, equate themselves qualitatively to one another, and compare themselves quantitatively. Only in this unified relative value-expression do they all appear for the first time as values for one another, and their value consequently obtains for the first time its corresponding form of appearance as exchange-value. As opposed to the developed form of relative value (form II) which manifests the value of a commodity in the environment of all other commodities, we call this unified value-expression the universal relative form of value.
彼らはそれ以来、定量的に異なっており、これは1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

それゆえ、すべてのコモディティは、自分たちの使用価値と交換価値として異なっており、同時に価値の量としてお互いに関連し、互いを定性的に見なす 、定量的に比較する。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得る。 他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値表現を普遍的〈一般的〉な相対的価値形態と呼んでいます。

 ②In form II (20 yards of linen = 1 coat or = u coffee, or v tea or x iron, etc.), the form in which the linen develops its relative value-expression, it relates itself to each individual commodity (coat, coffee, etc.) as a specific Equivalent, and to all of them together as to the environment of its specific forms of the Equivalent. No individual species of commodity counts any longer with respect to the linen as simple Equivalent, as in the particular Equivalent, but only as specific Equivalent whereby the one Equivalent excludes the other.
②リネンが相対的価値表現を生み出す形態II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか×アイアンかなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物として、もはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。

In form III (which is the reciprocal second form, and is therefore contained in it), the linen appears on the other hand as the general form of the Equivalent for all other commodities. It is as if alongside and external to lions, tigers, rabbits, and all other actual animals, which form when grouped together the various kinds, species, subspecies, families etc. of the animal kingdom, there existed also in addition the animal, the individual incarnation of the entire animal kingdom.
フォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他のすべての商品の等価物の一般的な形態として、他方で現れる。それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化するときに形成される他のすべての実際の動物の横に並んでいるかのように、動物、動物界全体の個体化です。

Such a particular which contains within itself all really present species of the same entity is a universal (like animal, god, etc.). Just as linen consequently became an individual Equivalent by the fact that one other commodity related itself to it as form of appearance of value, that is the way linen becomes ? as the form of appearance of value common to all commodities ? the universal Equivalent universal value-body, universal materialization of abstract human labour. The specific labour materialized in it now thereby counts as universal form of realization of human labour, as universal labour.
同じエンティティの実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)です。その結果、リネンは、価値の出現(現   )形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個人になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現--形態 - ユニバーサルな同等で抽象的人間労働の普遍的な実体化です。
それによって、リネンに具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働としての人間の労働の実現の普遍的形態として数えられる。

 ③During the process in which the value of commodity A is displayed in commodity B (whereby commodity B becomes a single Equivalent), it was indifferent of what specific type commodity B happened to be. The corporeality of commodity B only had to be of a different species than that of commodity A, and therefore had also to be a product of other useful labour. By the coat’s displaying its value in linen, it related itself to linen as the realized human labour, and precisely thereby related itself to linen-weaving as the realization-form of human labour, but the specific determinacy which distinguishes linen-weaving from other kinds of labour was completely indifferent. It only had to be of another kind than tailoring and in any case had to be a specific kind of labour. It is otherwise as soon as linen becomes a universal Equivalent.
③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBが、どのような特定のタイプになったのかには無関心であった。

商品Bの身体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の産物でなければならなかった。コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間の労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の定められた労働に完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければなりませんでした。そうでないのは、リネンが普遍的な〈一般的〉等価物になるやいなやです。

This use-value ? in its special determinacy through which it is linen as opposed to all other kinds of commodities (coffee, iron, etc.) now becomes the universal form of value of all other commodities and hence a universal Equivalent. The particular useful kind of labour manifested in it therefore now counts as universal form of realization of human labour, as universal labour precisely insofar as it is labour of particular determinacy: linen weaving as opposed, not only to tailoring, but to coffee growing, mining, and all other kinds of labour. On the other hand, all other kinds of labour count (in the relative value-expression of linen ? the universal Equivalent: form II), henceforth only as particular forms of realization of human labour.
この使用価値は、他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、リネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、ユニバーサルな同等価値となります。したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的〈一般的〉な労働としての人間の労働の実現の普遍〈一般的〉的形態として数えられる:リネンは、仕立てだけでなくコーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働。他方では、他のすべての種類の労働が(人間の労働の実現の特定の形態としてのみ、リネンの相対的価値表現 - 普遍的な同等物:形態II)である。

 ④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour. In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values. They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another. As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs.
④価値として、商品は、抽象的人間の労働という、同じ単位の表現である。
交換価値の形態では、価値として互いに現れ、価値として互いに関係しています。
同時に彼らはそれによって、共通の社会的実体として人間の労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能である、これらの社会的物質の表現として相互に数えている。有用なこととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities. It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport. But this is just what value is. The form in which the commodities count to one another as values ? as coagulations of human labour ? is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.
しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。

それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための品物ではない。単なる使用目的を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

商品が価値として(すなわち、人間の労働の凝固として)数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。

⑤ The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
⑤シンプルな相対価値フォーム(フォームI)は、「1コート= 20ヤードのリネン」で、この式が現在ではメンバーを形成しているという事実によって、普遍的な相対価値フォーム「ワンコート= 20ヤードリネン」とは異なります。
シリーズ:1 coat = 20 yards of linen
    u coffee =
      v tea =
       etc =

⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent. Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression. But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent. If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen ? one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way.
⑥実際には、リネンが単価から普遍的〈一般的〉な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現されている商品であり、即時〈直ち〉の交換可能性の形態をとる商品(等価物の形態:したがって、直ちに社会形態)が、普遍的な相対価値の表現にも同じことが当てはまる。しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる正式で消極的です。コートがその価値を相対的な方法(つまり、リネン)で「一コート= 20ヤードのリネン」という表現で表し、リネンが等価の形態を取得する場合、非常に同じ式は、 20ヤードのリネン - 1つのコート であり、それは等価物の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される。

This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen. The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time. What holds true of the coat, holds true of coffee, etc. It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent. On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent. The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’. But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent ? and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
相対的価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にならない。
他の商品は、リネンと同等のものにすぎません。コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。
したがって、商品の普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。
一方、リネンのような商品は、それが普遍的〈一般的〉な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。リネンの普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。しかし、これは、この商品の価値を表現していない同義語です。これは、普遍的な形式の等価 - そして永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な均等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

 ⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form ? namely, the form: linen. And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc. All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.
⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形とは異なる価値形態、すなわち形態:リネンを有する。 そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンなどがあれば、量的に決定される関係における交換可能な交換可能物として相互に関係することが正確にこの形態である。 また、1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまります。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映されます。

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way. They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are. Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one. It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities  and consequently its universal social form in an immediate way.
     しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、
     この迂回路を越えて価値の出現の形態として相互に価値あるものに数えられ、
     その結果即座にではありません。
その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。
したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。
すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。それは別の方法です。
他のすべての商品は、価値の出現の形態としてリネンに関連しており、リネンの自然な形態は、すべての商品との即時の交換可能性の形態になり、結果としてその普遍的〈一般的〉な社会形態が直ちに生じている。

 ⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form. Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour. A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない) 現 れ において、他の全ての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な同等(一般的等価)の形態を取得するだけである。
    しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形態持っていなければならない。
    なぜなら、その自然形はその使用価値の形式だけであり、統一された(したがって普遍的な)
    相対価値形式を持たなければならないからである。

それらのすべては、人間労働の均質な凝固として、互いに価値に関連している。
従って、単一の商品は他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、 一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であるか社会的な形態であることがわかる。

 ⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists. Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではありません。マグネットの一方の極の陽性は他方の陰性からのものです 。
したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時的交換可能性の印を印象付けることができると想像する。
しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互に前提を置いて反復的に反発する極である。

 ⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
労働の即時社会的実現として、リネンは社会的労働の即時実現(普遍的な等価物として)であり、
リネンでその価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない現実化である。

 ⑪Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
⑪実際には、すべての使用価値は商品であり、民間労働者の製品であるが、分業体制の原始的な体系の特定の構成員(相互に独立しているとはいえ)だが、 労働の このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。 それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

 ⑫If they did not, then these use-values would not become commodities for one another. On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities. If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities. If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
⑫そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。
他方で、この異なる有用な品質はまだ製品を商品にしていない。農民の家族がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。商品が直ちに社会的(すなわち共通)の労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。

Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another. It already yielded itself out of the analysis of the commodity. The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence ? since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours ? whatever their content and their mode of operation ? actually are. In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours.
それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

それは、すでに商品の分析からそれ自体を産出した。
   商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。
   彼らの不平等から抽象化している--全く異なる労働の等しさは
   --人間労働力一般として相互に関係しているからです。
   人間の労働力の支出は人間の労働であるのですか?
    その内容と操作方法が何であってもです?

   それらの動作モードは実際には異なります。
それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value. However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
現在のところ、これらの民間労働は、その自然な形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらいには、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。
その自然な形態の商品は、労働や価値の単なる凝固という社会的形態を持っているのと同じくらい小さい。 しかし、他のすべての商品がーー自分自身の価値の出現形式として、この自然な形に関連しているので、商品の自然な形態(この場合リネン)は普遍的な等価形態になるという事実を通して、リネン織りは、抽象的人間労働実現の普遍的形態、または直ちに社会的形態の労働になります。

The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production, and not from conceptions which are foreign to it. Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities. Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case).
「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外国の考え方からではない。先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、普遍的な等価形は結果的に矛盾した形でしか発展できないので、商品に潜む私的労働者にも同じことが当てはまる。彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形態なり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

 ⑬The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
⑬錯覚:商品の等価形態が他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、普遍的な同等物の継続的な発展と共に強化される。
普遍的な等価形態は一商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離し、最終的にこれ(商品の形態)が実際には存在しないために、価値形態のもう一つの部分は、 単一の商品の関係の製品をより長くする。

 ⑭From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however. What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually? By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I), then in all other commodities in order in a relative way (form II), and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form III). The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development.
⑭我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。
リネンがユニバーサル相当品に変身したのはどうでしたか?
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、
    次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべて
    の商品は反射的に値を相対的に表示した(形態III)。
単純な相対価値表現は、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中で役割を変えます。

It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities. What holds for linen holds for every commodity. In its developed relative value-expression (form II) ? which only consists of its many, simple value-expressions  the linen does not yet figure as universal Equivalent. Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
それは、ある他の商品に、その価値を表示することから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。すべての商品のためにリネンが保持しているものです。

    開発された相対価値表現(フォームII)では、
    その多くの単純な価値表現だけで構成されていますが、
    リネンはまだ普遍的な等価とは見なされていません。
    むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品の本体形態は、
    それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。

だから私たちは最終的に得ます:
So we obtain finally:

 

   商品とお金

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月29日(火)21時05分32秒
返信・引用 編集済
     http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

    Der Produktionsprozeß des Kapitals 資本の生産過程
    Ware und Geld
    Die Ware
  1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert
    (Wertsubstanz, Wertgröße)
  2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
    Goods are born in the form of commodities or  commodities, as iron, canvas, wheat, etc.
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
 This is their homemade form.
これは自家製の形です。
 However, they are only goods because they are double, commodities and at the same time value carriers.
しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
 They therefore appear only as goods or possess only the form of goods, provided they have double form, natural form and value form.
 したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。
 The objectivity of the goods differs from the Wittib Hurtig in that one does not know where to have them.
 商品の客観性はウィティッブ・ハーティグとどこが違うかという点で異なる。
 In the exact opposite of the sensually coarse objectivity of commodities, no atom of natural substance enters into its value-objectivity.
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 One may, therefore, turn and turn a single commodity as one likes, it remains incomprehensible as a value thing.
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 If, however, we remember that goods are only objects of value, insofar as they are expressions of the same social unity, of human labor, that their value-objectivity is purely social, then it goes without saying that they appear only in the social relation of commodity to commodity can.
 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。
 ①we remember that goods are only objects of value
 商品は価値のある物だけ(「価値物」は x 無し)であることを覚えています
 ②insofar as they are expressions of the same social unity,
 彼らが同じ社会的団結の表現である限り、
 ③of human labor, that their value-objectivity is purely social,
 彼らの価値の客観性はまったく社会的なものであり、
 ④then it goes without saying that they appear only in the social relation of commodity to commodity can.
 それは商品が商品間の社会的関係にのみ現れることは言うまでもない。
 ⑤In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value. We must now return to this manifestation of value.
 実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換の価値を仮定しました。 今我々はこの価値の表現に戻る必要があります。

   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤ Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).

 ⑤ By e.g. If rock is equated with the value of the canvas, the work in it is equated with the work in it. Now, the dressmaking that makes the skirt, one of the weaving that makes the canvas, is different concrete work. But the equation with weaving actually reduces the tailoring to what is really the same in both works, to their common character of human labor. On this detour it is then said that weaving, if it weaves value, has no distinguishing features of tailoring, that is, abstract human labor. Only the expression of equivalence of different commodities brings out the specific character of value-creating labor, by actually reducing the various kinds of labor involved in the various commodities to their common, human labor (17a).
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥・・・
 ⑦ Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.

 ⑦In the value relation of the canvas, the rock is regarded as its qualitatively equal, as a thing of the same nature, because it is a value. He is therefore considered as a thing in which value appears or which represents value in its tangible natural form. Now, though, rock, the body of rockware, is a mere utility value. A skirt expresses no more value than the first best piece of canvas. This only proves that he means more within the value relation to the canvas than outside it, as many a person means more within a galloped skirt than outside it.
 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。

したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

 ⑧In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft.
Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper.

 ⑧In the production of the skirt, in fact, under the form of tailoring, human labor has been spent.
スカート(上着)の生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。

So human work is piled up in him.
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

According to this side, the skirt is "bearer of value", although this does not see through its property itself by its greatest threadbareness.
この側面によれば、スカート(上着)は「価値のある人」であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

And in terms of the value of the canvas, it applies only to this side, therefore as an embodied value, as a value body.
また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカート(上着)はこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。

In spite of his buttoned-up appearance, the canvas has recognized in him the tribe-related beautiful soul of value.
彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時にスカート(上着)の形を取る価値がなければ、彼女は価値あるものではありません。
 (スカート(上着)の形を取る価値で、彼女リンネルは価値あるものと判断される )


    再版の8段落までの書かれていることは、初版だと7段落までのものです。

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と価値を使用し、有用な仕事と抽象的人
    間労働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

     再版の9段落
 ⑨Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.

 ⑨In terms of value, in which rock forms the equivalent of the canvas, the rock form is considered a value form. The value of the commodity canvas is therefore expressed in the body of the commodity rock, the value of a commodity in the use value of the others. As a use value, the canvas is a sensual thing different from rock, as a value it is "rock-like" and therefore looks like a skirt. Thus it receives a value form different from its natural form. Their value, in their likeness to the Rock, appears like the sheep nature of the Christian in his equality with the Lamb of God.
 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。 使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。



 

    商品

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月25日(金)20時07分19秒
返信・引用 編集済
    https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
   グーグル英和訳ソフト Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja

  商品
これは、最初のドイツ語版のCapitalの第1章Albert Dragstedtによる英訳です。現代版のCapitalは、第2版以降の第1章を持っています。
出典:Albert Dragstedt、Value:Studies by Karl Marx、New Park Publications、London、1976、pp。7-40。
転写される:Steve Palmer。
資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。
   ーーー中略ーーー
私たちが調査したことは、商品(リネン)の価値の相対的な大きさの変化が、それ自体の価値の大きさの変化を反映しているかどうかであり、その定量的側面のみに基づいて相対価値を調査しました。今度はその形に変わります。相対値がフォームである場合に値が現れる請求項の等価性のために、次に式2件の商品(例えば、X商品Bの商品Aのが= Y、または麻の20ヤード= 1コート)である相対的価値の単純な形態。

 ① Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。
 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。
リネンは、それ自身に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自身に価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに自身を対象化することはできません。
リネンは、同種の人間労働の対象化、すなわちそれ自身の価値の対象化されたものとして、それ自体をそれに関連付けることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。
それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である-そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労働を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。
コートとのこの関係によって、リネンはひとたたきで多くの蝿をうちます。リンネルは、他の商品を価値として自分自身に関係させることによって、自身を価値として関連付ける。自らに自身を関連付けることによって価値を示し、その区別からリンネル自身を、使用価値として自身から区べつする。
このように発生していることは、その価値の大きさを示すコートは、その付与する値(一般的には値、及び定量的測定値及び値の大きさのものもある)として現実を持つ価値として、自身の直接的存在とは異なります。
自身の中に差別化されたものとして、このように自分自身を明らかにすることで、最初に自分自身を明らかにした時間は本当に-商品として他商品を同じ時間値で示す便利なものーーとは区別される。
リネンは、使用価値である限り、それはある独立したものです。その価値は、表示されるこの関係で他の商品に質的に等置され、コートをリネンに同一視して、いくつかの特定の量に置き換え、それに相当するものとしてカウントし、それと交換可能です。
したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形態を印づけます。結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。
他に何が起こっても、そのことがらは、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を示します。
この等価物の規定では、商品があるという事実だけでなく、含まれている値であり、すべてで、それはその中にいるという事実であり、肉体的形状(その使用価値)を、別の商品の価値としてカウントし、その結果、手元にすぐにある交換価値としての用を他の商品に対して果たしています。

 ④価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然から得られた物質で発酵しています。
リネンを人間の労働の単なる対象化として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。
抽象的な(すなわち、いかなる追加的な品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。
しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。
リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表現を得る)。
リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。(⑱)

 ⑤相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。(⑱a)


使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。
対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価値形態になります。
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間労働が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。
なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な材料なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。
しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。
コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。
仕立て労働は、あまりにも、それだけあれば、それはのように存在するように、意図的生産労働であり、その結果、しない限り、リネンの値を持つ確定労働、フォーム実現の、客体の方法の一般的に人間の労働。リネンはむしろコートよりも靴墨でその価値を表現した場合、研磨作りはそれとしてカウントされる抽象的人間労働の代わりに、仕立て労働の実現形態となる。
したがって、価値形態や商品形態は、抽象的人間労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的有用労働に他の商品が関連することによって成立してくるのであり、そのことに依拠して価値の出現形態または等価物になるのです。

⑦ー① We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。

②It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。

③If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。

④These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。

⑤It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。

⑥The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。

⑦Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。

⑧Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.
離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

⑨The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

⑩In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.
それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

⑪It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
他の商品と一緒に流通して初めて価値のある形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。

⑫The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。

⑬Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,
  muss sie eine andere natürliche Form -
 die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.
   製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。

⑭It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、他の価値や商品を直接価値として参照することができます。

⑮but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

⑯The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.
商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

⑰If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

⑱But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>
  英語版からの訳
<しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>

    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
     「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値<表現ーー誤訳>形態の形式的内容を見落
     としていることは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形態」
     が内実とされることで、価値表現がされるということです。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。
他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。
商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。
相対的価値ーー麻布(リネンの20ヤード= 1コート)の、交換価値を示すリネンは明白に現れる他の商品との関係である。コートに関しては、リネンはコート自体を価値形態(価値の現象形態)として、したがってそれ自身ですぐに交換可能なもの(リネン)として、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかです。この関係の中でのみコートと等価です。
   <杉本 既存訳は全てが、ここが次の訳なのです。 >
  (「上着のほうもまた確かに、リンネルが自分自身の価値の現象形態
   としての上着に、したがって自分と直接的に交換可能なものとして
   の上着に、関係するかぎりでのみ、等価物なのである。この関係で
   のみ上着は等価物となる。」江夏訳P42原P22)
しかし、それは受動的に行われます。それは何のイニシアチブも握っていない。物事はそれ自体に関係しているので、それは関係で自分自身を見つけます。リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。さらに、リネンがコートに関連する具体的な様式および様式は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒ったテーラーの製品」ではない。
結局のところ、リネンは、現在の価値体としての、したがって抽象的人間労働の現実的顕現としてのコートに関連しています。
これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限りにおいて、これだけです。
同等物<等価物>として(コート)のその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射決定[4]であるだけです。

  <英訳では、次のように行文が示されています。>
 ⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

Only within this relationship is the coat an Equivalent. But it conducts itself passively.
  (江夏訳--既存訳はすべて同じ、けして間違っているとはいえない。
    しかし、次の対比をしてみよう。)

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value,
    コートが関係している限り、それは、リネンがそれ自身の
    価値の外見の形態<現象形態>としてコートと関連している限り、

   <しかし、次の文章が続くのです。①②③・・⑮>
    ①and hence as something immediately exchangeable
     with itself (the linen).
    それゆえに、すぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    して
   ② it is admittedly an Equivalent insofar as linen
    is related to the coat as form
    リネンがフォームとしてのコートに関連している限り、それは明
    らかに同等である
   ③of appearance of its own value,
    それ自身の価値形態<価値の現象形態ではない!>となり
   ④ and hence as something immediately exchangeable
    with itself (the linen).
    それゆえにすぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    してあります。
   ⑤Only within this relationship is the coat an
    Equivalent.
    この関係の中でのみコートと等価です。
   ⑥ But it conducts itself passively.
     しかし、それは受動的に行われます。
     It seizes no kind of initiative.
    それは何のイニシアチブも握っていない。
   ⑦It finds itself in relationship because things
     relate themselves to it.
    物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身
    を見つけます。
   ⑧ The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
   リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自
    身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活
    動なしで存在する。
   ⑨In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.
    さらに、リネンがコートに関連する具体的な仕方および様式は、
    コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは
    控えめであるが、「プライドで狂った裁縫師」の製品ではない。
   ⑩The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner.
    結局のところリネンは、現在の価値体として抽象的人間の労働
    の現実的な顕現としてのコートに関連しています。
    これは、リネンがこの特定の方法でコートに関連している限り
    において、これだけです。
   ⑪ Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.
    同等物としてのその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射
    規定[4]であるだけです。
    <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、
    リネンの反省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
    形態規定されてはない。上着は価値の凝固物ーであるが、それだ
    けでは、リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取
    れない>
    <杉本 十一段落は以上までです。次が十二段落です>
  ⑫ー①But the situation seems just the reverse. On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything.
    しかし状況はちょうど逆のように見える。 一方では、コートは
    それ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。
    ②On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.
     一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがする
     かもしれない何かからかなり離れていることで、コートと関連し
     ています。
    ③The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example).
     コートに関連するリネンの結果物
    (同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)
     は、まったく同じ方法で、リネンに関しても体系的な方法で
     コートに属するように見えるのであり、(例えば)暖かく保つ
     ことができるという特性のように、なのです。
      <杉本 これが、初版での等価形態の謎性 なのであります。>
    ④ In the first or simple form of relative value (20 yards of linen  one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]
      最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン=1
     コート)では、このフォームはまだ確立されていません。この
     フォームは直ちに反対のものを表し、コートはリネンと等価で
     あるため、 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有している
     のは、他方がそれ自身の相対的価値形態にするためであるから
     である[5]。
 ⑬単純な形式の相対価値や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形態の発展は両方の商品に対応している。価値等式が追加され、同一の麻のみにその値を明示するために、両方の商品のそれぞれを参照して、1商品(コート)およびその逆が、この価値表現は、二重のための両方のそれぞれについて別々であり、両方の商品ともに役立ちは異なります。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。
 ⑭「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは 1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対的価値表現である、他の等式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。
リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの 異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。
  (原P24)
 ⑮最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2 つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。また、得られたものとすることがないように思われるいずれかの発現のための量のための値(値の量は明らかにすべての式において同じまま- -同じように徹底的リネンの'20ヤードで表され= 1つのコートリネンの'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーやその他は、コートがそうであったように、単一の同等物である。
 ⑯それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところ、リネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実、等:のいずれかでこの商品またはその若しくは第三の商品等でも表現されるということでもある。、この第二は、すでに明らかにされている相対的価値形態は、その接続に現れます。
そのとき、われわれは次の形態をえることになる。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:

  1 coat  = 20 yards of linen
  u coffee =   "
  v tea    =   "
  x iron   =   "
  y wheat etc.=   "

 ①The relative value-expression returns at this point to its original form: 1 coat = 20 yards of linen. Now, however, this simple equation is further developed. Originally it only contained the fact that the value of the coat obtains through its expression in another commodity a form which is different from and independent of the exchange-value coat or even the body of the coat. Now the very same form manifests the coat with respect to all other commodities whatsoever as value. Not only the coat, but also coffee, iron, wheat, in a word, all other commodities express their value in the material, linen. In this way, all manifest themselves to one another as the same materialization of human labour.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。
しかし、今、この簡単な方程式がさらに開発されています。
もともと、それは、コートの価値が他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの本体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。

今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。 コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。 このようにして、すべてが人間労働の同じ物質化として互いに出現します。

They are henceforward only quantitatively different, which is the reason why one coat, u coffee, x iron, etc. ? i.e., different quanta of these different things ? equal 20 yards of linen (equal to the same quantum of objectified human labour). It is through their common value-expression in the material, linen, therefore, that all commodities differ as exchange-values from their own use-values and relate at the same time to one another as amounts of value, equate themselves qualitatively to one another, and compare themselves quantitatively. Only in this unified relative value-expression do they all appear for the first time as values for one another, and their value consequently obtains for the first time its corresponding form of appearance as exchange-value. As opposed to the developed form of relative value (form II) which manifests the value of a commodity in the environment of all other commodities, we call this unified value-expression the universal relative form of value.
彼らはそれ以来、定量的に異なっており、これは1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

それゆえ、すべてのコモディティは、自分たちの使用価値と交換価値として異なっており、同時に価値の量としてお互いに関連し、互いを定性的に見なす 、定量的に比較する。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得る。 他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値表現を普遍的〈一般的〉な相対的価値形態と呼んでいます。

 ②In form II (20 yards of linen = 1 coat or = u coffee, or v tea or x iron, etc.), the form in which the linen develops its relative value-expression, it relates itself to each individual commodity (coat, coffee, etc.) as a specific Equivalent, and to all of them together as to the environment of its specific forms of the Equivalent. No individual species of commodity counts any longer with respect to the linen as simple Equivalent, as in the particular Equivalent, but only as specific Equivalent whereby the one Equivalent excludes the other.
②リネンが相対的価値表現を生み出す形態II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか×アイアンかなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物として、もはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。

In form III (which is the reciprocal second form, and is therefore contained in it), the linen appears on the other hand as the general form of the Equivalent for all other commodities. It is as if alongside and external to lions, tigers, rabbits, and all other actual animals, which form when grouped together the various kinds, species, subspecies, families etc. of the animal kingdom, there existed also in addition the animal, the individual incarnation of the entire animal kingdom.
フォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他のすべての商品の等価物の一般的な形態として、他方で現れる。それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化するときに形成される他のすべての実際の動物の横に並んでいるかのように、動物、動物界全体の個体化です。

Such a particular which contains within itself all really present species of the same entity is a universal (like animal, god, etc.). Just as linen consequently became an individual Equivalent by the fact that one other commodity related itself to it as form of appearance of value, that is the way linen becomes ? as the form of appearance of value common to all commodities ? the universal Equivalent universal value-body, universal materialization of abstract human labour. The specific labour materialized in it now thereby counts as universal form of realization of human labour, as universal labour.
同じエンティティの実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)です。その結果、リネンは、価値の出現(現   )形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個人になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現--形態 - ユニバーサルな同等で抽象的人間労働の普遍的な実体化です。
それによって、リネンに具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働としての人間の労働の実現の普遍的形態として数えられる。

 ③During the process in which the value of commodity A is displayed in commodity B (whereby commodity B becomes a single Equivalent), it was indifferent of what specific type commodity B happened to be. The corporeality of commodity B only had to be of a different species than that of commodity A, and therefore had also to be a product of other useful labour. By the coat’s displaying its value in linen, it related itself to linen as the realized human labour, and precisely thereby related itself to linen-weaving as the realization-form of human labour, but the specific determinacy which distinguishes linen-weaving from other kinds of labour was completely indifferent. It only had to be of another kind than tailoring and in any case had to be a specific kind of labour. It is otherwise as soon as linen becomes a universal Equivalent.
③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBが、どのような特定のタイプになったのかには無関心であった。

商品Bの身体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の産物でなければならなかった。コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間の労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の定められた労働に完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければなりませんでした。そうでないのは、リネンが普遍的な〈一般的〉等価物になるやいなやです。

This use-value ? in its special determinacy through which it is linen as opposed to all other kinds of commodities (coffee, iron, etc.) now becomes the universal form of value of all other commodities and hence a universal Equivalent. The particular useful kind of labour manifested in it therefore now counts as universal form of realization of human labour, as universal labour precisely insofar as it is labour of particular determinacy: linen weaving as opposed, not only to tailoring, but to coffee growing, mining, and all other kinds of labour. On the other hand, all other kinds of labour count (in the relative value-expression of linen ? the universal Equivalent: form II), henceforth only as particular forms of realization of human labour.
この使用価値は、他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、リネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、ユニバーサルな同等価値となります。したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的〈一般的〉な労働としての人間の労働の実現の普遍〈一般的〉的形態として数えられる:リネンは、仕立てだけでなくコーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働。他方では、他のすべての種類の労働が(人間の労働の実現の特定の形態としてのみ、リネンの相対的価値表現 - 普遍的な同等物:形態II)である。

 ④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour. In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values. They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another. As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs.
④価値として、商品は、抽象的人間の労働という、同じ単位の表現である。
交換価値の形態では、価値として互いに現れ、価値として互いに関係しています。
同時に彼らはそれによって、共通の社会的実体として人間の労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能である、これらの社会的物質の表現として相互に数えている。有用なこととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities. It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport. But this is just what value is. The form in which the commodities count to one another as values ? as coagulations of human labour ? is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.
しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。

それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための品物ではない。単なる使用目的を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

商品が価値として(すなわち、人間の労働の凝固として)数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。

⑤ The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
⑤シンプルな相対価値フォーム(フォームI)は、「1コート= 20ヤードのリネン」で、この式が現在ではメンバーを形成しているという事実によって、普遍的な相対価値フォーム「ワンコート= 20ヤードリネン」とは異なります。
シリーズ:1 coat = 20 yards of linen
    u coffee =
      v tea =
       etc =

⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent. Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression. But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent. If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen ? one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way.
⑥実際には、リネンが単価から普遍的〈一般的〉な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現されている商品であり、即時〈直ち〉の交換可能性の形態をとる商品(等価物の形態:したがって、直ちに社会形態)が、普遍的な相対価値の表現にも同じことが当てはまる。しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる正式で消極的です。コートがその価値を相対的な方法(つまり、リネン)で「一コート= 20ヤードのリネン」という表現で表し、リネンが等価の形態を取得する場合、非常に同じ式は、 20ヤードのリネン - 1つのコート であり、それは等価物の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される。

This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen. The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time. What holds true of the coat, holds true of coffee, etc. It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent. On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent. The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’. But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent ? and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
相対的価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にならない。
他の商品は、リネンと同等のものにすぎません。コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。
したがって、商品の普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。
一方、リネンのような商品は、それが普遍的〈一般的〉な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。リネンの普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。しかし、これは、この商品の価値を表現していない同義語です。これは、普遍的な形式の等価 - そして永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な均等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

 ⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form ? namely, the form: linen. And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc. All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.
⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形とは異なる価値形態、すなわち形態:リネンを有する。 そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンなどがあれば、量的に決定される関係における交換可能な交換可能物として相互に関係することが正確にこの形態である。 また、1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまります。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映されます。

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way. They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are. Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one. It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities  and consequently its universal social form in an immediate way.
     しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、
     この迂回路を越えて価値の出現の形態として相互に価値あるものに数えられ、
     その結果即座にではありません。
その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。
したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。
すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。それは別の方法です。
他のすべての商品は、価値の出現の形態としてリネンに関連しており、リネンの自然な形態は、すべての商品との即時の交換可能性の形態になり、結果としてその普遍的〈一般的〉な社会形態が直ちに生じている。

 ⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form. Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour. A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない) 現 れ において、他の全ての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な同等(一般的等価)の形態を取得するだけである。
    しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形態持っていなければならない。
    なぜなら、その自然形はその使用価値の形式だけであり、統一された(したがって普遍的な)
    相対価値形式を持たなければならないからである。

それらのすべては、人間労働の均質な凝固として、互いに価値に関連している。
従って、単一の商品は他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、 一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であるか社会的な形態であることがわかる。

 ⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists. Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではありません。マグネットの一方の極の陽性は他方の陰性からのものです 。
したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時的交換可能性の印を印象付けることができると想像する。
しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互に前提を置いて反復的に反発する極である。

 ⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
労働の即時社会的実現として、リネンは社会的労働の即時実現(普遍的な等価物として)であり、
リネンでその価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない現実化である。

 ⑪Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
⑪実際には、すべての使用価値は商品であり、民間労働者の製品であるが、分業体制の原始的な体系の特定の構成員(相互に独立しているとはいえ)だが、 労働の このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。 それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

 ⑫If they did not, then these use-values would not become commodities for one another. On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities. If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities. If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
⑫そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。
他方で、この異なる有用な品質はまだ製品を商品にしていない。農民の家族がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。商品が直ちに社会的(すなわち共通)の労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。

Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another. It already yielded itself out of the analysis of the commodity. The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence ? since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours ? whatever their content and their mode of operation ? actually are. In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours.
それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

それは、すでに商品の分析からそれ自体を産出した。
   商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。
   彼らの不平等から抽象化している--全く異なる労働の等しさは
   --人間労働力一般として相互に関係しているからです。
   人間の労働力の支出は人間の労働であるのですか?
    その内容と操作方法が何であってもです?

   それらの動作モードは実際には異なります。
それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value. However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
現在のところ、これらの民間労働は、その自然な形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらいには、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。
その自然な形態の商品は、労働や価値の単なる凝固という社会的形態を持っているのと同じくらい小さい。 しかし、他のすべての商品がーー自分自身の価値の出現形式として、この自然な形に関連しているので、商品の自然な形態(この場合リネン)は普遍的な等価形態になるという事実を通して、リネン織りは、抽象的人間労働実現の普遍的形態、または直ちに社会的形態の労働になります。

The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production, and not from conceptions which are foreign to it. Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities. Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case).
「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外国の考え方からではない。先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、普遍的な等価形は結果的に矛盾した形でしか発展できないので、商品に潜む私的労働者にも同じことが当てはまる。彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形態なり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

 ⑬The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
⑬商品の等価形態が他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、普遍的な同等物の継続的な発展と共に強化される。
普遍的な等価形態は一商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離し、最終的にこれ(商品の形態)が実際には存在しないために、価値形態のもう一つの部分は、 単一の商品の関係の製品をより長くする。

 ⑭From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however. What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually? By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I), then in all other commodities in order in a relative way (form II), and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form III). The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development.
⑭我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。
リネンがユニバーサル相当品に変身したのはどうでしたか?
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、
    次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべて
    の商品は反射的に値を相対的に表示した(形態III)。
単純な相対価値表現は、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中で役割を変えます。

It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities. What holds for linen holds for every commodity. In its developed relative value-expression (form II) ? which only consists of its many, simple value-expressions  the linen does not yet figure as universal Equivalent. Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
それは、ある他の商品に、その価値を表示することから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。すべての商品のためにリネンが保持しているものです。

    開発された相対価値表現(フォームII)では、
    その多くの単純な価値表現だけで構成されていますが、
    リネンはまだ普遍的な等価とは見なされていません。
    むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品の本体形態は、
    それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。

だから私たちは最終的に得ます:
So we obtain finally:


 

 価値形態 まとめ ①

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月22日(火)14時46分20秒
返信・引用 編集済
   21  http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1013
社会運動事典編集への参加の呼びかけ(案)  投稿者:杉本  投稿日:2015年 7月 2日
(境さんから次のような呼びかけがなされています。紹介させて頂きます。)
  社会運動事典編集への参加の呼びかけ(案)
  2015年3月吉日
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
通常価値形態の秘密は、一商品の価値が、他の商品の使用価値で表現されること、というように説明されている。つまり価値=使用価値だというのだ。しかし、この指摘だけでは価値形態の秘密を解いたことにはならない。なぜ価値=使用価値という表現がなされているのか、ということの解明がなされるべきなのだ。そのためには、人間の思考では、価値=使用価値というように把握できるこの表現が、実は、価値=価値という表現の現象形態であることを理解することが要なのだ。
つまり二つの商品が「語る」のは価値=価値ということだ。それが、人間には、価値=使用価値という表現と理解されている。人間の思考では価値=使用価値が、実は、価値=価値であるというような認識を導く論理は背理として退けられる。この背理が、商品の「思考」では理性的で合理的である。それはどうしてそうなのか。価値形態の秘密の解明はこの問いに答えなければならない。
パソコンそれ自体は労働生産物であり、有用性をもった使用価値である。これが商品上着との価値関係においては、価値としてしかみなされていない。上着商品にとっては、パソコンの使用価値が価値としてしか見なされない仕組み、これが価値形態の秘密なのだ。それはこの価値関係においては、使用価値パソコンが価値の化身とされているということだ。つまり商品上着はパソコンを等価物にすることで、パソコンを価値の化身とし、そうすることで自らの価値を表現するのだ。これは、パソコンという使用価値が、価値関係においては、価値の化身として形態規定されていることを意味しており、この形態規定が商品の「思考」において、なされるということだ。

 ⑳http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1000
相対的価値形態と等価形態との混同  投稿者:杉本  投稿日:2015年 6月 4日
①河上肇先生の誤読について  ②物神崇拝  二題の私の主張を紹介します。
池袋資本論を読む会の報告は、久留間理論を今だに、正しいとして継承している会の主張であります。
2011年当時の私は、資本論四版の相対的価値形態の内実の追求においてーー等価物上着が、価値形態を受けとることについて、相対的価値形態に対立する等価形態を受けとるーーと理解し、混同していたのです。

 ⑲http://8918.teacup.com/rev21/bbs/989
 河上肇先生の誤読について  投稿者:杉本  投稿日:2015年 5月13日
                         >相対的価値形態にある商品=リンネル
                          と述べたのでは、その事柄が指すものを、反省規定さ
                          れた価値形態上着を見落とすのではないだろうか?
                          そのことをマルクスは、
                          「c価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の
                          内実」で説諭したのではないか?
                          そこでは、
                          「上着が価値であるのは・・支出された人間労働力の
                          物的表現」そして、「したがって、リンネルは、人間
                          労働を唯一の素材としている一物体としての上着に関
                          係させられることなしには、・・価値としての上着に
                          関係させられることはできない。
                          ところが、価値としては、リンネルも、同じ人間労働
                          の凝固なのである。
                          だから、この関係のなかでは上着という物体が、リン
                          ネルと自分とに共通な価値実体を代表している・・
                          だから、この関係のなかでは、上着はただ価値の姿と
                          してのみ・・認められている・・」(原P767)
                          ーーと述べたのではないか?

 ⑱ http://8918.teacup.com/rev21/bbs/979
久留間さんの抽象的人間労働の体化物の主張について  投稿者:杉本  投稿日:2015年 4月26日(日)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 では、久留間さんの宇野批判は正しかったのか?
『貨幣論』での久留間さんの宇野批判は、短絡的であるので、『価値形態論と交換過程論』を題材に変更します。
同著での「価値形態論では何故商品所有者の欲望が捨象されるか」ーーを題材に批判します。

久留間さんは、資本論の「相対的価値形態の内実」の第二段落と第三段落の化学式の例示は省き、そして、第一段落
から第五段落までを紹介して、以上への自らの解釈を次のように述べる。

 (P56~)
「・・という価値方程式において、リンネルはいきなり
自分を上着に等置することによって価値形態をえている
のではなくて、まずもって上着を自分に等置することに    同等性関係との認識だから上着がリンネルに等置
よって上着に価値物としての、すなわち抽象的人間労働 「亜麻布が自身の「等価物」である上着に対し関係する」
の直接の体化物の形態規定をあたえ、そうした上ではじ 「自身と「交換可能な物」である上着と関係」
めて、この価値物としての定在における上着の自然形態 「この関係において上着は価値の存在形態、価値物として
で、自分の価値を表現しているのだということである。  通用する。」ーーのだから価値関係であるのは判然!
                           >価値物としての定在における上着・・で、自分の価値
                           を表現
                           この「価値物」は「価値体」上着と後年変更
                           >価値物・・上着ーーではリンネル価値が表現できない
                           ーーこの自明性は彼も理解している
                           だからこそ
                           >こういう廻り道をしないでは、
                           >すなわち抽象的人間労働の直接の体化物の形態規定を
                           あたえ
                           ーーと述べたのです。
                           >抽象的人間労働の直接の体化物の形態規定をあたえ
                           ーーるのは等価形態なのだから、彼は、両極を混同した
                           のです。
                           久留間さんは、どこにも「相対的価値形態の内実」を、
                           探求していない!

  ⑰ http://8918.teacup.com/rev21/bbs/956
 Re: 榎原さんの間違いについて  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 3月28日
 杉本さんへのお返事です。
 榎原さんは間違っていません。
「相対的価値形態の内実であるーー価値形態が、価値鏡としての役立ちを
はたしていたのですよね!」
 相対的価値形態の内実とは、リンネルがいかにして自分の価値を他の商品の使用価値で表現しうるか、という問題です。その解明は同時に労働次元での話でもあり、抽象的人間労働への事態抽象による還元も内実の一つです。さらに内実の核心は、上着を作る労働が抽象的人間労働の実現形態となることにより、上着が価値体として形態規定され、価値鏡になる、ということです。
 相対的価値形態にある商品の価値形態とは、等価形態としての上着である、ということがマルクスの結論だったのではないでしょうか。その意味では杉本さんの意見には賛同ですが、榎原さんが間違っているという見解には反対です。

 ⑯http://8918.teacup.com/rev21/bbs/955
 榎原さんの間違いについて  投稿者:杉本  投稿日:2015年 3月27日
返信です。
http://8918.teacup.com/rev21/bbs/923
<杉本さんの投稿への批判的コメント>
:hirohiro さんごめんなさい。すっかり見落としていました。
しかし、ここは重大な原均さんの次の間違いを、貴方は指摘すべきだと思うのです。
http://8918.teacup.com/rev21/bbs/866
「問題は上着という使用価値が単に価値を現わすものとしか
機能していない。
ですから等価形態にある上着は使用価値でありながら使用   >等価形態にある上着
価値としての役割を持っておらずに価値を現わす、「価値   ではなく、等価物上着
の鏡」として、価値の体化物としての意義しか持っていな  「交換されうるもの」上着
いのだ。」
ここには重大な間違いがありますよ。
<等価形態にある上着が、ーー「価値鏡」として、価値の体化物としての意義」>
違いますよね。相対的価値形態の内実であるーー価値形態が、価値鏡としての役立ちを
はたしていたのですよね!これはとても重大なことです。貴方はこの意見に賛同しますか?
意見を願います。

 ⑮ http://8918.teacup.com/rev21/bbs/954
 杉本さん、すいません  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 3月26日
杉本さん。私の紹介が一部脱漏していたために、他の資料によって引用されたと思いますが、それが重大な誤りを含んでいますので、指摘させていただきます。コメントにかかわる重大な誤訳だと思われます。

 「いまや、明かになったことは,リンネルはその価値上着と等しい物としての表現を通して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ,あますところなく表現された、ということである。」
 ここでの「価値上着」というのは多分誤訳というよりかミスだと思いますが、以下が正しい物です。
 「いまや、明らかになったことは、リンネルはその価値を上着と等しい物としての表現を通して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ、あますところなく表現された、ということである。」
 助詞の「を」が抜けているのです。「価値上着」ではないのです。杉本さんの論旨に影響がなければ構いませんが、ここでは価値体としての上着を扱っているわけではないのです。

 ⑭http://8918.teacup.com/rev21/bbs/952
《補足と改訂》への学習コメント   投稿者:杉本  投稿日:2015年 3月26日
   《補足と改訂》への学習コメント をしてみました。

それゆえ、自分の価値と等しいものとしての、等価物とし
ての上着との関係を通してリンネルは、自分の自然形態とは   等価物上着との関係を通してリンネルは
切り離された価値形態を獲得する。一面ではこの関係は、リ   その社会的姿態ーー価値形態を獲得する
ンネルの価値を形成している労働の抽象的人間的性格を表現
するが、他方、今価値実体が対象的形態をもつ。上着と等し   価値形態の存立によって、いまや
いものとして、リンネル価値は、リンネル体とは感覚的に全   価値実体が対象的形態をもつ
く対照的である。                      リンネル価値の対照である価値形態上着
 したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態
が商品Aの価値形態、商品種類Aの価値鏡となる。(注18、   価値関係の媒介によって、商品Bの自然
人間について)商品Aが肉体化した価値としての、すなわち   形態が
人間的労働の物質化としての商品Bに関係することによっ    商品Aの価値形態、商品種類Aの価値鏡
て、商品Aは自分と違う商品の肉体を自分自身の価値表現の   となる
材料にする。そのようにして、ある一つの商品の価値がある
異なった種類の商品の使用価値において表現され、相対的価
値の形態を受けとる。(p.65~67)V

 ⑬http://8918.teacup.com/rev21/bbs/945
価値物と価値体の区別と関連について  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 3月19日
引き続き杉本さんと価値形態論をめぐって議論していますが、お互い頑固なせいかどうか、なかなか収束点を見出すことができません。私が何度価値物と価値体とは区別されている、価値体とは等価形態商品の規定性ですよ、と言っても、杉本さんは納得されないのです。
そういうわけで今回は、MEGA第二部第六巻に所収されている「『資本論』第一巻のための補足と改訂」と題された文章を紹介します。これはマルクスが初版から第二版の改訂をどのようにして行ったかを示す資料です。経過を示す文章ですから、当然のことながらこれをもってマルクスの最終結論とはみなせません。しかし、第二版を理解するうえで絶好の資料だと思います。すべてを紹介することはできませんが、価値物・価値体概念に関する部分を中心に引用し、私のコメントを付してみたいと思います。

 ⑪http://8918.teacup.com/rev21/bbs/938
 相対的的価値形態の内実を巡ってのコメント  投稿者:杉本  投稿日:2015年 3月 9日
http://8918.teacup.com/rev21/bbs/902
簡単な価値形態の各版比較研究(3)  投稿者:hirohiro   4.現行版の検討
②第三パラグラフ
この部分の前半をすべて引用します。引用部分の項目わけは筆者によるものです。

③における価値の実存形態・価値物という語をどのように理
解するかをめぐっては、久留間鮫造氏の見解変更を中心とし   >それは価値対象性と同義
て様々な議論があります。ここではそれらの先行研究には触   ーーであれば価値物で、価値関係での等
れる余裕がないので、私自身の見解を述べるにとどめます。   価物としては、価値の存在形態

結論からいえば、それは価値対象性と同義であり、等価形態   >価値の実存形態・価値物
特有の価値体とは異なり、価値存在と同義です。というの    >等価形態での価値体とは異なり価値存在と同義
は、リンネルと同じものとしての上着の性格規定だからで    杉本ーー価値の存在形態(実存も同義)では?
す。リンネルも上着もどちらも商品ですから、使用価値と価   初版附録 b価値関係で、「価値関係は・・自分
値との二重物です。ここで問題となるのは、価値としての両   の価値を表現する商品の価値または価値存在の表
者の関係である、と言われているのです。第一・第二段落に   現なのである。」
                              (価値の存在形態ーー価値存在の表現)
                              とすれば
おける同等性関係が価値としての同等性関係であることが明   「価値としての同等性関係」ではなく価値関係。
らかにされているのです。もしここでの価値物が価値体と同   「上着が同じ実体の、同じ本質のものとしての
                               リンネルに関係」(初版附録)ーー同等性関係
義であるとすれば、リンネルも同じものとして価値体となっ
てしまいます。そうすると、わざわざ上着と関係しなくとも   >もしここでの価値物が価値体と同義であ(れば)
直接的な交換可能性の形態にあるということになり、他の商   >リンネルも同じものとして価値体
品を自分の価値形態にする必要がありません。したがってこ   >直接的な交換可能性の形態にあるということに
この価値物と価値体とを同義として読むことはできないので   杉本ーーこれは賛成
す。
この文章で言われているのは、この関係において、上着は価   同等性関係ではなく価値関係であれば、上着はリ
値の側面でのみリンネルにとっては存在しているということ   ンネル価値の存在形態であり、いかにしてリンネ
です。上着の使用価値それ自体は問題ではないのです。上着   ルの価値存在が表現されたか?をこそ問う
の使用価値は単に価値の担い手であればよいのです。この点   >価値の担い手
については商品語でリンネル自身が語っています。       交換価値の素材的担い手(原P50)
                              「価値表現の材料」(原P63・原P67)
                              「商品A、が価値体としての、人間労働の物質化
                              としての商品Bに関係することによって、商品A
                              は使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする」
                              (原P67)
                              価値表現の材料ーー単なる使用価値・交換価値の
                              素材ではないのですね。
「労働は人間的労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、
上着がリンネルに等しいものとして通用するかぎり、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成
り立っていると言う。リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっているということ
を言うために、リンネルは価値は上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つであると言
う。」(訳p.89~90、原s.66~67)
「ボタンをかけた上着の外観にもかかわらず、リンネルは、   >価値魂  >上着は価値だ
上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見て取ったのであ    では、リンネルの価値存在が表現できないのです。
る。」(訳p.88、原s.66)                 七段落ーー「金モールのついた上着」だから
上着がリンネルと等しいということは、リンネル価値の表現   価値存在を表現できるのです。
関係であるかぎり、上着は価値だということを意味するの    八段落ーー価値表現ではなく価値存在の表現
だ、とはっきり言われています。リンネルにとって上着は価   ここでのテーマは、価値関係の量的側面ではなく
値でしかないのです。それが金ボタンがついていようが、裏   質的側面だから、リンネルの相対的価値表現の基
地にふさふさの毛がついていようが、そんなことはどうでも   礎にあるものが価値実体であると主張するのでは
いいことなのです。                     なく、「Aにとっては王位がBの姿を」とること
                              ーー「価値が上着という形態をとる」ことで、
また、後者の引用文で「価値魂」とあるのに注意しなければ   「リンネルにたいして上着が価値をあらわす」
なりません。商品の価値対象性とは個々の商品をとりあげる   ことができる。
                              九段落
ならば、抽象的な存在でしかないことを魂という語で表現し   しかし、この価値存在の表現という質的側面は、
ているからです。上着にもリンネルと同じ「価値魂」を見出   価値関係に伴う転倒によって、「使用価値として
すがゆえにリンネルと上着と関係するのです。そして後論を   のリンネルは上着とは感覚的に違った物であるが、
先取りしていえば、その魂は上着を等価物として等置するこ   価値としてはそれは「上着に等しいもの」であり、
とによって現実化=肉化し、上着は価値「体」となるので    したがって上着に見えるのである」ーーことで消
す。                            されてしまい、単なる同等性関係へと解消される
                              のです。そして、この同等性関係にて、「このよ
                              うにして、リンネルは自分の現物形態とは違った
                              価値形態をうけとる」ーー転倒した事象が、発生
                              物象の社会関係にては、価値関係ではなく同等性
                              関係として人様の目に登場してくるのです。

 ⑫http://8918.teacup.com/rev21/bbs/933
  富塚説の誤りの根拠  投稿者:杉本  投稿日:2015年 3月 7日
①久留間理論の支持者である林 紘義氏の富塚批判
富塚先生の『恐慌論研究』を取り上げて、林氏の批判です。
◆富塚の「廻り道」とは何かーーで引用・紹介された富塚先生の主張が白眉です。
②「その反対に、『B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できるのだ』ということによって、かくしてB商品に自分すなわちA商
品に対する直接的な交換可能性の形態を与えることによって、価値を表現する。」
③林さんは、「この珍奇な学者は、A商品(相対的価値形態にある商品、具体的にはリンネル=亜麻布)がB商品(等価形態におかれた商品、具体的に
は上衣)に「価値物」として措定し、それによって、自らの価値を相対的に表現する」ーーと理解したのです。
④林さんのこの理解は、次に彼が述べるように相対的価値表現なのです。
「A商品が等価形態にあるB商品によって、その自然形態によって、自らの価値を表現するのは「廻り道」どころか、唯一のやり方であり、商品にとっ
て必然的であるにすぎない。」

 ⑬http://8918.teacup.com/rev21/bbs/930
久留間理論の支持者である林 紘義氏の富塚批判  投稿者:杉本  投稿日:2015年 3月 4日

林氏は、相対的価値形態の内実の分析のなかに、「直接的交換可能性」の形態をもちこむ富塚先生の明白な誤りに、異議を申したてないのです。
 http://www.mcg-j.org/japan/theory/tomi/katikeitairon.html
 富塚の価値形態論批判/林 紘義

 ⑫http://8918.teacup.com/rev21/bbs/930
 久留間理論の支持者である林 紘義氏の富塚批判  投稿者:杉本  投稿日:2015年 3月 4日

 ⑪http://8918.teacup.com/rev21/bbs/923
 杉本さんの投稿への批判的コメント  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 3月 2日
杉本さんの投稿http://8918.teacup.com/rev21/bbs/866に対する批判的コメントです。

「<交換される上着>での表現では相対的価値表現でしかなく、等価形態を内蔵した相対的価値形態ではない!」

相対的価値表現の両極が相対的価値形態と等価形態であり、両者が相互前提的関係であると同時に排斥しあう関係である、という意味ならば賛成です。

「具体的有用労働ではなく人間労働の対象化物=価値物・上着のみの規定」
「>同じ質を持ったものとしてお互いに関係 これは同等性関係でもない!」

マルクスは相対的価値表現としての交換関係を、関係の両極は価値としての同一性=同質性関係として、同等性関係と規定しています。両者が価値であるからこそ関係が成立するのです。上着を価値として等置するということは、上着を自らと同じもの=価値物として等置するということです。この等置によって上着は価値体として規定されるのです。初版本文がこのことを明確に示しています。杉本さんの次のコメントもこのような意味ならば同意です。

「亜麻布は上着を価値として自らに等置 この関係では、上着は価値の存在形態としてのみ「亜麻布に認められる だから亜麻布「それ自身の価値存在が現われてくる」(原P64)」

上着は商品であり、したがって使用価値と価値との二重性をもったものです。しかし、リンネルにとっては価値としての規定性しか関心がない。そういう意味で上着は価値物なのです。そして、その結果が価値体としての規定であり、使用価値と価値との癒着形態とでもいうべきものへと転化するのです。価値の単なる担い手から価値の現象形態へと上着は転化するのです。

 ⑨http://8918.teacup.com/rev21/bbs/910
久留間説の錯誤  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月25日

久留間さんの引用の錯誤
「使用価値の形態は、労働生産物が生まれてくるときに、その自然形態のうちにもってくる。だから、労
働生産物が商品形態をもつためには、……ただその上に価値形態をもてばいい、」
初版附録の当該部はどうか?
「(六)商品の単純な価値形態は労働生産物の単純な商品形態である。
使用価値の形態は、その現物形態における労働生産物を世のなかに出す。だから、労働生産物は、それが
商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現れるため
には、ただ価値形態を必要とするだけである。それだから、価値形態の発展は、商品形態の発展と同じな
のである。」(『初版』原P776)
その肝心の場所は、こうです。
「労働生産物は、それが商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の
統一体として現れるためには、ただ価値形態を必要とするだけ」

このように、右辺の上着が価値形態と規定されるならば、その対極では、リンネルを商品形態としての使
用価値と規定していたのです。
ここでは労働生産物の商品への転化ーーの如何にしてか?が語られていたのです。
この肝心な解明すべき課題を、久留間さんは棒に振っていたのです。

その②初版だと註23 四版だと註24でのプルードン批判の特記はなんであろうか?
初版ーー「一般的な直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって非直接的
な交換可能性の形態と不可分であることは、ちょうど一方の磁極の陽性が他方の磁極の陰性と不可分であ
るのと同じようなものだ、ということは、実際にはけっしてわからない。」(原P31)
マルクスの批判対象たるプルードンへの批判さえも忘れていたのですかね?

 ⑧http://8918.teacup.com/rev21/bbs/908
久留間理論の理解の仕方①  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月25日(水)15時58分53秒
なかなかの博学・・私は異議あり なのですが 紹介します。
http://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/
2008年 09月 24日
第115回 9月24日 第1章 商品 第3節 A
  http://8918.teacup.com/rev21/bbs/920
  簡単な価値形態の各版比較研究(4)  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 2月28日
(3)等価形態
①初版と現行版との等価形態の取り扱いの相違

現行版では「相対的価値形態の内実」論に続いて、量的規定の問題が展開されていますが、本稿の論点ではないので割愛します。マルクスは続いて等価形態の分析を行っています。それを詳しく検討してみたいと思います。

 ⑦http://8918.teacup.com/rev21/bbs/902
  簡単な価値形態の各版比較研究(3)  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 2月23日(
  4.現行版の検討

(1)価値表現の両極
本稿の問題意識から見て、ここの叙述において重要なものは次の部分です。
「私は、たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。‥‥リンネルの価値は、ただ相対的に、すなわち他の商品でしか、表現されえない。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにかある他の商品がリンネルに相対して等価形態にあることを前提する。他面、等価物の役をつとめるこの他の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表現するのではない。それは、他の商品の価値表現に材料を提供するだけである。」(訳p.83、原s.63)

 ⑥http://8918.teacup.com/rev21/bbs/899
  簡単な価値形態の各版比較研究( 2)  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 2月22日(日)
3.初版本文の検討(続き)

初版では、これまで見てきたように、一貫して相対的価値形態にある商品の関係行為という観点から、価値形態論を展開しています。この点については早くから榎原氏が明らかにしてきたことで、最近では井上・崎山論文が各版を詳細に検討する中で再確認しています。(ただ榎原氏の先行研究には書名を一度挙げるだけで、具体的に明示していないため、すべて自分たちの主張であるかのような感を与えている点で遺憾です。)したがって、価値形態の秘密を、単に他の商品の使用価値で価値を表現することとして確認するだけでは、まったく不十分なのです。この点についてマルクスはさらに続けて展開しています。

 ⑤ http://8918.teacup.com/rev21/bbs/893
簡単な価値形態の各版比較研究(1)  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 2月22日(日)

簡単な価値形態の各版比較研究(1)
  1.はじめに
 杉本さんとツイッター上で価値体と価値形態に関する議論をしています。そこでの論点は価値体とは形態規定かどうか、価値体と等価形態あるいは等価物との関連ということが論点となっています。そこでこの論点を解明するために、簡単な価値形態に関する『資本論』初版と現行版の叙述を比較検討してみたいと思います。なお、初版からの引用は牧野訳を、現行版からの引用は新日本新書から行います。フランス語版からは上杉・江夏訳から引用します。初版からの引用に際しては適宜訳文を変更し、訳者の補足は一切省略しています。

 ④http://8918.teacup.com/rev21/bbs/867
頭川 博先生の久留間理論を巡る論理  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月 9日 簡明にして要を得た議論です。紹介します。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/22651/1/keizaikenkyu03404375.pdf

 ③ コメント 相対的価値形態の内実をめぐって  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月 8日(日)18時10分23秒
師匠の胸を借りて、意見を述べてみます。

『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=220
1.価値形態の秘密と謎
・・・・・・・・・・・・・・・
マルクスは同等な人間労働を持つもの同士が、等しいもの
として等置されている、という関係を表している価値方程
式を次には解読していきます。つまりこういう形で交換の
関係がある、という場合に交換の関係をマルクスは価値形
態、価値方程式、あるいは価値等式、と様々な言葉を使っ
て言い換えていますが、これを価値形態として見るという
ことは、そこで亜麻布の価値がどのように表現されている
か、価値が表現されている形態としてこれを読もう、とい
う事なのです。その解読が47~48頁にありまして、重要
なところなので読みます。

「しかし、質的に等値されたこの二つの商品は、同じ役割
を演ずるのではない。亜麻布の価値だけが表現されるの    ①亜麻布の価値表現
だ。では、いかにしてか? 亜麻布が、それの『等価』あ   ②『交換されうるもの』上着
るいはそれと『交換されうるもの』としての上衣に連関す   二つの商品の異なる役立ち
ることによってである。この関係においては、上衣は、価   の下では上着は価値の存在形態
                             <交換される上着>での表現では
                             相対的価値表現でしかなく、
                             等価形態を内蔵した相対的価値形態
値の実存形態として・価値物として・意義をもつ、 ――    ではない!
けだし上衣は、こうしたものとしてのみ、亜麻布と同じも   亜麻布それ自身の
のであるから、他方では、亜麻布それ自身の価値(ヴェル      価値存在の現出
ト)存在(ザイン)が現出する、すなわち自立的表現を受け      とは  価値形態
とる、けだし亜麻布は、価値としてのみ、同等な価値ある
もの・あるいはそれと交換されうるもの・としての上衣に   >交換されうるもの・として
連関しているのだから。」                 役立つ上衣
                             の意味=リンネルの価値存在の現出

『資本論』を読んでいて、こういう所が出てくると戸惑っ   との<役立ち>としての上着

てしまいます。何を言っているのか分からない、という直
観します。何を言っているのか分からない、というような   価値の存在形態と価値物の区別は?
所を何故やる必要があるのか、ということですが、それは   上着が価値存在の現出であることで
この節の冒頭45頁下9で、                 亜麻布は価値だとみなされる

 ②http://8918.teacup.com/rev21/bbs/866
 『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月 6日
次を転載させて頂きます。
『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=220
office-ebara
投稿日時 2014-2-23 10:44:49 執筆者 ebara
『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)

 ①http://8918.teacup.com/rev21/bbs/857
   価値形態をめぐって  投稿者:杉本  投稿日:2015年 2月 6日
@hirofreak  1月20日
つまり、価値表現は一商品の問題でしかなかったのです。あるいは、他の商品とは関係なしに、それぞれ独自の表現を追求していたとい
うように言い換えてもいいかもしれません。それは一商品の私事だったのです。しかしながら、それでは他の商品と価値として関係し
あうことができない。

>つまり価値表現は一商品の問題
もう少し立ち止まってください。
大谷先生の『社会経済学』の価値形態論への検討を。
「商品はこのように「自分はy量の商品Bと等しい価値をもっている」という仕方で自分の価値を表現しているのである。」(『社会経済学』P67)

これは相対的価値表現であって、相対的価値形態の内実の分析ではない。
初版の註17の後ろ段落で、まずは相対的価値形態の形式を示しています。
そしてこの形式の下で次の三点を見だした。
①リンネルは他の商品を自分に価値として等置
②そのことで、自分を価値としての自分自身に関係させることができたので、自分を使用価値としての自分自身から区別
③リンネルは自分の価値の大きさを・・上着で表現することで、自分の価値存在に、自分とは区別される価値形態を与えるーと。
三点のリンネルの分化したものを示すことで、自分をーー同時に価値であり使用価値として示した。

次は大谷先生の等価形態の分析です
「商品Aのほうが「y量の商品Bは自分と価値が同じだ、だからy量の商品Bとだったら直ちに交換する」と言ってくれているかぎりは商品Bは商品Aに対しては等しい価値を持つものとして通用し、商品Aと直ちに交換できる力をもっている」(『社会経済学』P67)

対してのマルクスの等価形態の分析
相対的価値形態にてリンネルは他商品上着の現物形態を価値形態と規定した。だから、「上着がリンネルと交換可能である」ことになっています。
そこで「上着という現物形態において、・・直接交換可能な使用価値すなわち等価物の形態をもっているのである。」(初版原P17)

等価物の形態=使用価値であるのに直接的に価値なのです。あるいは自然的形態のままに価値形態なのです。同等な価値の大きさだからとして商品Bは商品Aの等価物の形態を受けとるのではないのです。それでは量的関係です。

商品が価値関係にて二つのーー相対的価値形態・等価形態ーーをとることでの等価物上着の役立ちとはなにか?
ここが肝です。
註18aの対象とした文節での、相対的価値表現での上着の価値体としての役立ちは、その次の段落にて否定されている。

「リンネルは人間労働の直接的な実現形態としての裁縫労働に関係することなしには価値または肉体化した人間労働としての上着に関係することはできない」
何故か?価値体上着の規定のもとでの労働は「たんなる労働、人間労働力の支出は無規定である」(初版原P18)との批判です

そこで選られたことは何か?等価物の再規定であったのです。
「つまり、ある使用価値または商品体が価値の現象形態または等価物となるのは、ただ、別のある商品が、前記の商品体に含まれている具体的な有用労働種類に、抽象的人間労働の直接的な実現形態としてのそれに関係するということによってのみのことである。」(原P19)

だから、等価物上着の裁縫労働は、抽象的人間労働の実現形態となることで、価値形態上着の役立ちを、リンネルに対して果たしていたのです。使用価値上着は、直接的に価値だとしても、リンネルの価値形態にはなれないのです

上着は価値体では等価物の形態になれないのです。
つまり、上着が物象としての役立ちを行うことが価値形態の成立なのです。
>価値表現は一商品の問題
如何にも・しかし。相対的価値形態は、等価形態を内蔵して成立するのだから、等価物上着がその役立ちをして登場するのです

「 使用価値であるのに直接的に価値」とは価値体の定義では?

①@hirofreak 「 使用価値であるのに直接的に価値」とは価値体の
定義ではないのでしょうか。価値体としてリネンに形態規定される
から、等価物あるいは等価形態としての形態規定が可能となるので
は?そうでないと主張されるならば、杉本さんの価値体の規定を示
していただけませんか。議論はその後。

②この文節での久留間さんは、量的関係を批判しての質的関係としてのリンネル=上着ではなく「20エルレのリンネル・イコール一枚の上着」を対象にしているのです。いいですか、ここではマルクスの相対的価値形態のみが論じられているのに、等価物の形態と混同されているのです。

 (註) 久留間さんの論文  『貨幣論』「八価値物と価値体との区別について」から
「価値表現の回り道(一)
・・・・・ではどのようにして上衣はーーその自然形態そのものがーーそのまま価値をあらわすものに、なるのかというと、それはつまり、今の例でいえば、上衣がリンネルに等しいのだとされる、そのことによって今いったような資格が、一つの経済的形態規定性が、上衣によって与えられることになる。
上衣が一つの社会的生産関係をになわされることになる。上衣をつくる労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的労働であって、抽象的な労働ではない、
上衣をつくるのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織物労働に等置されることになり、、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元されることになる。
と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち、価値物を意味するものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。
そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で、そういうものとしての上衣の体で、初めて自分の価値を表現するのである。
こう考えてはじめて価値表現の謎は解ける、とマルクスはいうのである。
この場合よくよく注意しなければならないことは、二〇エルレのリンネル・イクオール一枚の上衣、という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自分は上衣に等しいのだということによって、上衣を価値の形態にーーその自然形態がそのまま価値をあらわすものにーーしているのだということ、そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマルクスのいわゆる価値表現の回り道なのである。」(『価値形態論と交換過程論』(P7~8)
(『貨幣論』P93~94)

③久留間さんの対象とされるのは「相対的価値形態の内実」であるはずなのに「上衣をつくる裁縫労働・・両者の間に共通な抽象的人間労働に還元・・。こうした抽象的人間労働の体化物。すなわち価値体・。そういう形態規定性を与えられる・」ーと等価物の形態をも論じているのです

④勿論、慧眼な久留間さんは。同時に価値表現の回り道についても論じていて、「上着は自分に等しいのだということによって、上着を価値の形態に・・・している・・そうした上ではじめて、、リンネルの価値が上着の自然形態で、・・表示されている・・」と曖昧ながらも述べている

⑤ここには一応ーー相対的価値形態の内実は、価値形態と正しくは述べられている。
この内実について、榎原さんこうのべる。
「この関係のなかで、リンネルは上着を(両者に)共通な抽象的人間労働に還元して、上着を抽象的人間労働の単なる実現形態とする(ことで)リンネルの上着による価値表現となっている」(『価値形態・物象化・・物神性』P110)

⑥価値形態上着が内実となることと、相対的価値形態が等価形態を内蔵することがーー両者ともに混色されているのです。
「上着は自分に等しい」とは?「質的に等置された二つの商品」のことであり、
次に、そこで結ばれた価値関係での、
「リンネルが自分の「等価物」・自分と「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関係」(第三段落)
ーーでのことなのです。

⑦「この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として価値物として、認められる。」 (同上)
ここの理解で、両者ともにつまずいた。リンネルに対して上着は、価値として等しいから・・と理解した。
ところが、ベイリーも同じくであって、価値と価値存在の形態とを混同した。

⑧価値形態とは価値存在の形態ーーについての初版での説明
リンネルは、自身が価値存在であることを上着との関係において見出すのだが如何にしてか?
初版註17の後段絡での説明がそうなのです。
「リンネルは自分の価値存在に、自分の直接的定在とは異なる価値形態を与える」(初版原P16)ーと。

⑨初版での、この一つでの段落の説明が、四版では5・6・7・8・9段落において説明されたのです。
そこで最後の9段落「こうして上着がリンネルの等価物となっている価値関係のなかでは、上着形態は価値形態として認められる。」(四版原P66)ーーと結論されたのです。

⑩>上着は、価値の存在形態ーーこの大切なマルクスの価値関係の質的側面を分析する切り口を、久留間さんは、「価値物」に矮小化することで見つけることを不可能にしたのです。
しかし、同じことを論じた第三段落ーー蟻酸プロピルはただ他者と同じ化学的成分の存在形態-ーと反省規定して、分析の手本を示していたのです。

⑪四版の難しいところは、同等性関係として現れる商品の価値関係の独自性を導き出すことで、商品語の語りの倒錯を明らかにしたことの意義を認めることなのです。商品語では、リカード価値論を克服できないーーとのマルクスの要求です。
 

久留間理論の継承者が、語ること

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月20日(日)14時23分42秒
返信・引用
  https://repository.lib.gifu-u.ac.jp/bitstream/20.500.12099/47672/1/reg_040026003.pdf

    価値形態論の課題 と論理次元一価値形態 「発展」 の否定
    神 田  敏英

   経済学研究室
(1990年10月17日受理)岐阜大学教養部研究報告第26号 ( 1990) 23
The Subject of the Theory of Value-form,
and its theoretical Dimension

   Toshihide KODA
P23
  1. 価値形態論の位置
 価値形態論は,『資本論』の叙述の中で マルクスが大いに苦心した箇所の一つであり, エングルスの助言も容れ,『経済学批判』,『資本論初版』,『同第2版』とかなり書き変え, 尚, いささか ( ? ) 難解であろうと自認している所である。その設定と展開は, 古典派経済学とマルクスを明瞭に分ち, マルクスの論理と方法とを端的に示している。 それ故,多くの論者をひきつけ検討されてきたが, その抽象的論理的性格からして論者自身の視点が問題となり,なかなか意見の一致しないあるいは意見の分れる所でもある。
 私は, 価値形態論の内容と論理次元を明確にするためには, それだけを切り離してはいけない, と考える。マルクスは, 資本制生産様式分析の出発点に価値論ではな く商品論を置き,その中軸に,「私が始めて批判的に指摘 したものである」と誇り,「経済学の理解にとって決定的な跳躍点である」と強調する「労働の二重性」を据えた。 価値形態論も商品の物神性論も当然それによって設定された。 即ち,マルクスの価値形態論は, 労働の二重性論に従って商品世界が解明されてゆく二過程以外の何物でもない。労働の二重性にもとづく展開を否定すれば, その価値形態論の内容と展開は, 現にマルクスのものとは全く別様になってしまう1)。

 もう少し詳しく見る。 『資本論』第1巻第1篇 (以下, すべて『第1巻』なので, ただ篇,章だけ記す) は,まず商品を設定 してその二面性を指摘し,次にその根源た る労働の二重性を解明す る。その次に, 第3節で, 冒頭に「交換価値」として掲げた「価値形態」をあらためて独自の課題として定立・分析し, 最後に, 当該の商品章を いわば商品生産社会の総括的分析・反省として商品の物神性論で閉じる。 次いで, 章をあらためて交換過程を論じ, そこで (一般的等価物2)」= 貨幣の必然的形成を論定して, 第3章貨幣に移る。 この展開は, 同一篇の中でも商品と貨幣を次元の異なるものとして分ち, 両者の媒介項をも一章として独立させ, 自然に見える。しかし, それは周知の一問題を含む。 即ちレ商品章の一部, しかもその終節ではない価値形態論において, 既に「貨幣形態の生成」 が定立されている事である。 そ

P24
れはまさしく交換過程に於いて形成される貨幣と同一とされているのだから, 直ちに両者の関連が問題となる。むろん, 同一事を二重に描く事は無用である。実際, 宇野弘蔵氏及び宇野学派は, このマルク スの叙述= 論理展開に納得せず, 貨幣形態の生成を事実上価値形態論だけに純化する3)。しかし, 私は, 両者の分離, 換言すれば交換過程が小なりとはいえ1章を与えられている事, の意味を追跡 し, その正当性を考えてみたい。私は, マルクスにあっては叙述の区分には明確な序列がある, と考える。それが私の視点である。

   2. 価値形態論の設定 とその課題
 (1) 価値形態論の課題
商品の価値形態は, 労働の二重性に基づいて価値の実体が解明された後も, 尚, 「どう扱ってよいか分らぬ代物」, 解明すべき「価値対象性」として提起 される。そこに価値形態論が,いわば歴史貫通的な労働の二重性 と異なる次元に属する問題である こ とが示されている。「とはいえ, 諸商品は,ただそれらが人間労働という同じ社会的単位の表現である限りでのみ価値対象性を有していること,従って商品の価値対象性は純粋に社会的であること, を思い出すならば, 価値対象性は商品と商品との社会的な関係の内にしか現れえないこともまた自から明らかである4)。」ここで, 商品の価値形態はまさに価値実体に根拠をもっていることが確認され,それに応じて分析対象が提示される。かくして, そこにその成立条件 も明示される。
即ち, 人間労働という共通性の存在, 二商品の関係形成, これが必要十分条件である。 とはいえ, マルクスが密接に結びつけている, 否, 論理展開の序列の中に位置づけている, このたった 2つの条件が, 多くの論者によってその結びつきあるいは同一性を批判 されるのではあるが。

 今一つ。マルクスはかく価値形態論の対象即ち解明すべき課題を提起した後, 直ちに,「今ここで為さねばならない事は, (中略) 貨幣形態の生成を示すこと, 即ち商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最 も単純な 目立たない姿から輝く貨幣形態に至るまで追跡することである。 これによって同時に貨幣の謎も消え去る5)」, と言う。 マルクスにあっては, さきに提起された課題の解明が, 同時にあとの結果をもたらす, と考えられているのは間違いない。 とはいえ, 少ないとは言えない第 3節の叙述は, 一見, 上の二つの課題を別々に解明しているかのようにも見える。 むろん, それは正しくないが。 尼寺義弘氏はその関係をこう説明する。

「価値形態論の論理構造は二つの側面に分けて説明することができる。一つは, 商品形態の分析によって得られた価値の概念から単純な価値形態の発生を証明することである。 もう一つは, 単純な価値形態から貨幣形態までを形態的に展開するこ とである。 二つの側面はともに価値概念の貨幣形態への展開の不可欠の側面である といえる6)。」

 尼寺氏は,「価値概念の貨幣形態への展開」として2つの側面を統一する。 論理展開の一貫性がある, ということである。私は, 反対に, この 2つの側面は論理的に一貫していないと考え, それを示すのが本論文の一目的である。
 花田功一氏はこう設定する。(価値形態論の課題は, ……価値概念から貨幣発生の必然性を論証することにある7)。」 課題は明確に一本化される。

ここでも私の考えは, まさに逆, 価値概念から貨幣発生の必然性は論証されない, いや, 貨幣不発生の必然性が論証される, とい

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う事である。

  (2) 「単純な価値形態」 の設定
 「価値対象性」は「商品と商品との社会的関係」として提起された。他方, 最初にマルクスが提起した価値形態は,「最も単純な価値関係」として「一商品のための最も単純な価値表現」即ち「単純な,個別的な, または偶然的な価値形態 (以下, 呼称の意味を論ずる場合を除き,「単純な価値形態」と記す)である。両者は, 形は同一であるが, その提起の仕方から来る論理的意義は同一ではない。 価値対象性から提起されたとすれば, それは全き価値の概念から生み出されたはずだから,「単純」かつ「個別的」ではあっても 「偶然的」であるはずはなく, ましてや未発達ではない。 他方, その呼称にふさわしいものとしては, それはまた「萌芽形態上とも呼ばれ,その後の「発展」を予定している。既に, 「単純な価値形態」の提起に於いて二層の論理が交錯しているのだ。この点をさらにマルクスに即 して見よ う。
一方, 交錯過程論に於いて。 「直接的生産物交換は, 一面では単純な価値表現の形態を持っているが, 他面ではまだそれを持っていない。 この形態は, X量の商品A = y量の商品Bであった。直接的生産物交換の形態は, X量の使用対象A = y量 の使用対象Bである8)。」「(直接的生産物交換では) 交換される物品は, それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にはかかわりのない価値形態をまだ受け取っていない9)。」

ここに, 二物の関係 とい う形態的同一性よ りその内容的差異が重視さ れているのを見る。「単純な価値形態」は,まさに所有者=交換者の欲望とのかかわりに於いて, 直接生産物交換の形態と区別されているのだ。 ここで の規定はまさ に価値概念に照応 している。

他方, 第3節中に「この (単純な) 形態が実際にはっきりと現れるのは, ただ, 労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけの事である10)。」

ここでは,「単純な価値形態」は直接的生産物交換と同一視される。明らかに, 上の2つの命題は矛盾する。後の文は,「単純な価値形態」を「一般的価値形態」に比較している所で現れるのだから, 「発展」 の論理から と らえた規定 といえよ う。 2 つの論理のいずれが「単純な価値形態」 の内容を適切に表 しているで あろ うか。

提起された「単純な価値形態」に於いては, まずその両辺の対極性が指摘され, 価値表現の仕方が説明される。その次にしかし, この価値形態= 価値表現が可能なのは,「ただ同じ単位の表現としてのみ」であることが確認 される。即ち, 価値実体に基づく価値等式がその基礎にあるのだ。 この点で, 「単純な価値形態」 は, 冒頭の価値形態提起を承けている。
即ち,「商品と商品との社会的関係」 の具現で ある。
その上で, マルク スはかの共通の実体が両辺の対極的役割に よって表現される事は, 価値表現だけに固有ではない事を,酪酸と蟻酸プロピル,重量物としての棒砂糖と鉄, の例によって示す。
差異はただ, =一方は 「両方の物体に共通な 自然属性」, 他方は 「純粋に社会的なある物」, たる点のみにある, と。これらの例は, その様式に於いて価値表現の仕方と共通である, と言われているのだから, 単なる比喩以上である。この比較はマルク スの価値形態論を端的に特徴づけている11)。

  (3) 商品所有者の欲望または主観の役割
マルクスにあっては, 共通な実体に基づく価値等式, それが「単純な価値形態」の必要かつ十分条件である。そのさい, この条件は定量規定をも併せ持っている。それに対し,宇野

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氏は真向か ら批判を浴びせる。

 「根本的な問題を提起して見たいと思う。リンネルが相対的価値形態にあって上衣が等価形態にあるという場合, リンネルは何故上衣を等価形態にとるに至ったか, それにはリンネルの所有者の欲望というものを前提しないでもよいだろうか。 そういう関係を離れて斯ういう形があ り得るだろ うか12)。」

 価値等式の形成にさいし, 商品所有者の欲望を認める事は, 価値等式に単に一条件を付加したということではすまない。 価値形態の内容も前後の論理展開も全く異なって こざるをえなくなる。まさに宇野氏は「根本的な問題」を提起 したマルク スにあっては, 商品所有者は交換過程に於いて初めて登場 して来るのであるから, 当然 こ こ価値形態論では存在せず,その欲望も語りようがない。 宇野氏にあっては, 所有者の欲望を入れる ことで, 価値形態の形成因を商品所有者の主観に帰す。即ち, 価値形態は客観的実在ではなく, 商品所有者の主観的表象である。かくして, 価値の実体規定は, 当然, 客観的実在だから, その価値形態から追放される。 あるいは, 商品論冒頭での価値実体規定を否定したから, その価値形態論が形成された, と言ってもよいであろうか。

 いずれにせよ, マルクスと宇野氏はここで決定的に分れる。商品所有者が, 頭の中で自己の商品と他の十商品を交換関係として結び付ける事は可能である。しかしそれは定量的規定をもっているはずがない。

 宇野氏 も, 所有者の欲望そのものが価値の定量的規定を与えるものではない,と言う。それ故, 商品は価値を持たずに価値形態を形成・発展させる。定量的規定はこの価値形態発展= 交換過程の進行の中で何処からともなく生まれてくるのであろう。それ故,金が現実に商品価値を尺度する, とも言われる。

    宇野氏の方法に対して, マルクスの次の文がまさにあてはまろう。
「商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって, 逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式から出てくるのではない。ところが, この逆の考え方は, 重商主義者やその近代的蒸し返し屋たるフェリエやガエルなどの妄想であるとともに,彼等 とは正反対の近代の自由貿易外交店員, バスティアやその仲間の妄想でもある・。」

マルクス説から見た,宇野理論の位置付は明白である。まさに, 宇野価値形態= 交換過程論は,商品所有者=交換当事者の表象をそのまま反映したものに他ならない。 -
 この宇野説に対し,久留間氏はこう反論した。

「簡単な価値形態において, ある特定の商品が等価形態に置かれているのなぜかとい う問題 と, 等価形態に置かれている商品の使用価値が相対的価値形態に立つ商品の価値と, はっきり区別して考えられうるし, また区別して考えられねばな らない二つの異なった問題である。この うち前の方の問題は, 相対的価値形態にある商品の所有者の欲望を考慮に入れる ことによってはじめて答えられるとともに, その欲望との関連を考慮することによって容易に答えられる。しかし後の方の問題はそうではない。 後の方の問題は, 相対的価値形態にある商品の所有者の欲望にも とづいてある特定の商品が等価形態に置かれているということが前提された上で, なお解明さるべく残るところの問題であり, そういうことを所与の事実として前提した上ではじめて独自の問題 と して設定されうる問題である14)。」

久留間氏は, 問題を二分して, 価値表現の問題を価値等式から展開した。それが, 氏独自のの「廻 り道」の論理であること, いう までもない。かくして, それは客観的実在の表現様式
となった。
しかし, 主張の前半はすっかり宇野氏の土俵に乗ったものであり, マルクスと全

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く異なること , 見たとおりであり, また多くの批判が既になされている所である15)。

   3. 価値形態の 「発展」 と 「一般的価値形態」
 (1) 「単純な価値形態」 の 「不十分さ」 と 「移行」 の論理「単純な価値形態 の位置付について 々ルクスに若干の混乱は見 られる ものの, 本筋は,
「商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出て来る」, とする ものであった。
これは,「単純な価値形態の全体」叙述の中の一文であるから, まさに「単純な価値形態」がかく定立された「商品の価値形態」に充当することを表す。即ぢ, 価値形態は申し分なく定立
され, その分析が完了している ことを意味する。

しかし, マルクスは, その直後, 突如価値形態はまた労働生産物の商品形態であ り, 商品形態の発展に合わせて価値形態も発展すべきもの, と言い出す。「単純な価値形態」は,「一連の変態を経て初め七価格形態にまで成熟する萌芽形態」であり,「その不十分さは一見して明らかだ」,とされる。突如,「発展」の見地が入って来 る よ うに見える。 奇妙な事である。

商品形態は, 既に発展した ものと して示されていたのではなかったか。当然,価値形態 もそれに照応 しているはずである。決して, 歴史的端初形態で はなからだはずである。ところが, 形態的端初性を持っているように言われるのだ 。
即ち, 「あ る一つの商品Bでの表現は, 商品Aの価値をただ商品A 自身の使用価値から区別するだけで あ り, 従ってまた, 商品Aをそれ自身とは違った何らかの一商品種類に対する価値関係の中に置く だけであって, 他のすべての商品との商品Aの質的な同等性と量的な割合とを表すも のではない16)。」

 そもそ も, 商品A の価値形態は, 自分の価値を自分の体で表現できないから, Bの体を借りたのではなかったか, そして,「商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められている」のであり, そのことはAにとって十分なはずである。即ち, (簡単な価値関係という前提のもとでは第一形態による価値表現は欠陥をもたない17)。Aにとって, Bの他にCもDもあることは,決してBによる表現の「不十分さ」ではない。 換言すれば, 他の一商品に対する価値関係の中に置く「だけ」という「不十分さ」の評価は出て来ない。 マルクスのこの「評価」は全く見当はずれである。

 他方, A の等価形態たる一商品は, その使用価値的特性の故にその地位に選ばれたのではなかったから, 別の同じく平凡な一商品がそして「他のすべての商品」がその地位に立つことは, 「おのずから」可能である。マルクスの,「単純な価値形態」から「全体的な,または展開された価値形態」(以下,「全体的価値形態」と呼ぶ) への移行の論理は, 前者の「不十分さ」と後者への「おのずから」の移行という二段構えになっているが, 前者は成立しない。即ち , それは,「単純な価値形態」の内的矛盾による移行としては成立しない。

そして,「おのずから」が示すのは, 個別から「総和」への移行である。当然,これまた矛盾で も発展でもなく, 論理次元は全く高まっていない。確認したい事は,「全体的価値形態」が「単純な価値形態」と何等次元が違うものではなく,マルクスも一方でそのようにとり扱っている, ということである。しかし,マルクスは他方で,この「全体的な価値形態」が一つの新 し い形態,「もっと完全な形態」であるかのようにも見なしている。 ここにもマルクスの混乱があらわれており, それはやはり価値形態の「発展」を考える所から来る, といえよう。そ して,

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その 「発展」 の論理から, 「全体的価値形態」 の 「欠陥」 も提起される。

   (2) 「全体的価値形態」 の 「欠陥」 と 「一般的価値形態」 の形成根拠
 リンネルは,「全体的価値形態」にあって「商品世界に対して社会的関係に立つ」。
そこでは, 「商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されている」。即ち,商品価値の本性がこの形態の中に示されているのだから,本性 と形態は完全に照応している。いや,商品価値の本性からこの「形態」が定立されたのだ。 にもかかわらず,マルク スはこの形態の 「欠陥」をこう指摘する。

 「第一に,商品の相対的価値表現は未完成である。何故なら,その表示列は完結することがないのだから。第二に, その連鎖はば らばらな雑多な価値表現の多彩なモザイクを成している。最後に,当然のこととして, 各々の商品の相対的価値がこの展開された形態で表現されると, どの商品の相対的価値形態も他のどの商品のそれとも異なった無限の価値表現列である。
 展開された相対的価値形態の欠陥は対応する等価形態に反映する。ここでは, (中略) それぞれが互いに排除しあう制限された等価形態だけが一般にある。 同様に各々の特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的有用労働も, ただ, 人間労働の特殊な, 従って尽きることなき現象形態でしかない。 人間労働は, その完全なあるいは全体的な現象形態をまさにあの特殊的現象形態の総枠の内に持ってはいる。しかし, それは統一的な現象形態を持って いない 18)。」

 第一の理由は, この価値形態に於いで も商品は個別的に価値を表現 してお り価値形態は各々完結 しているのだから, 成立し ない。「単純な価値形態」の総和からなるこの価値形態が,一個の有機的全体であるかのように見ると,この「欠陥」がある ように見えるにすぎない。
第二も全く同様である。
第三は, 事実上, 一商品のではなく諸商品の「全体的価値形態」を意味している。 ここにマルクスが, 一商品の 「全体的価値形態」 を諸商品のそれに 「おのずから」移行 させているのを見る。 たやすい事だ。 ただし, そうする と価値形態の意味も「移行」もマルクスが呈示しているものとは全く違ってしまうのだが, それは後論に回し, 当面の論点に戻ると, 一商品の価値形態= 価値表現は他商品のそれと関係ないのだから, それぞれ異な っているのは何等「欠陥」ではない。 これらの理由付を, マルクスはただ形だけから見い出したよ うに見える。

「根底的な批判」 を宗とする彼としては, 信じられないほどである。
彼はさ らに, 上の第三点を等価形態 について反省 しているが, やは りその論法は強引というほかない。 人間労働がその「完全な」現象形態を特殊的等価形態の「総枠」の内に持つとすれば, それこそ本質と現象は完全に照応しているわけである。

諸特殊的有用労働から抽象的人間労働が抽出されたのだから, それを現象させるとすればそこに還るしかない。 一商品のさらに諸商品の「全体的価値形態」を想起すれば, それらが価値概念から作出された事は容易に判る。もしそこに価値概念との不一致があれば, 現象形態の欠陥 といえようが, この場合当の価値形態は価値概念以外の要素 (例えば欲望) を一分子も含まず定立されており,両者の照応は安全である。
( それ故, 逆に, 欲望な どを含めて価値形態を定立すれば, そこに「欠陥」 ない し 「矛盾」 を見出す事は容易である。)
そこに, 人間労働の「統一的現象形態」とい う要請ないし必然性は全く出て来ない。
そこで実際上, マルクスも, この「統一的現象形態」を前提として突然さし入れ, それを有していないことで「欠陥」とする論法を用いている。 が, それは 「一般的価値形態」を前提してその生成を論ずるのと同じことである。 そ

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れを価値形態の内発的必至のように描いている所に, 私はマルクスの混乱を見る。

さらに, このようないわば「移行の動力 = 必然性に加えて,「移行」の成立のためには,その必要十分条件が定立されねばならない。 ここではむろん, それは「全体的価値形態」の「引っくり返し」と, それを行う「商品世界の共同の仕事」である。 まず,「引っくり返 し」は, 価値形態の逆関係の存在 とその相互移行を条件とする。 マルクスの価値形態は, 共通の実体に基づく価値等式から定立されたのだから, 一価値形態の逆関係は同時に存在しうる。即ち, それは価値形態提起の仕方にかかわる事で, もしそれが商品所有者の欲望ないし主観の表現とすれば, 当然逆関係は一般的には存在しえず19), 「引っくり返し」もむろんない。

しかし, マルクスでは,「20エレのリンネル= 1着の上着……という表現は, 1着の上着=20エレの リンネル……とい う逆関係を含んでいる。」しかし, 注意せよ。この成立は価値形態次元ではなく価値等式次元である ことを。「同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現れる事はできない」。 即ち,一つの価値等式は二つの逆の価値形態を含むが, その各々の価値形態は他方を含まないのだ。 二商品の価値等式は逆関係を含むが, 一商品の価値形態は逆関係を含まない。 また, 一方から他方へ「移行」することもできない。そうすれば, 当の商品の価値表現はなくなり, 価値形態のそもそもの設定に背反してしまう。

 商品の次元ではそうであっても, 分析者なら, 価値等式にさか上り, 逆関係を設定できる,と言う事はできよう。その意味でなら, 「引っくり返し」は可能である。しかし, 価値形態を引っくり返しても, 元のものと全く等価, 同次元のものが得られるだけである。 マルクスの両極は何の特殊規定も帯びていないのだから。つまり, 一価値形態の 「引っくり返 し」は,上述のような形で可能ではあっても, 価値形態の「移行」 ないし「発展」の説明手段 としては全く無用なのであ る。

 上のマルクスの規定は「単純な価値形態」におけるものである。 が, 全く同様に「全体的価値形態」にもあてはまる。

「全体的価値形態」の「欠陥」は, それが何であれ, 相対的価値形態に立つ商品, 例えば リンネル, の価値表現のそれであったはずだ。 が, ひっくり返せば,(リンネルの価値表現は発展どころか消滅してしま う20)。」一商品 リンネルの「私事」が問題なのではない, 社会的価値形態=価値表現が問題であって,リンネルが相対的価値形態か等価形態に移った事など瓊細な事だ,と言われるかもしれない。しかし, 商品世界の価値表現だとすれば, 初めにリンネルの「全体的価値形態」だけでなく, 諸商品の「全体的価値形態」があらねばならない。それを,実際はマルクスは知っていた。

「全体的価値形態」の「欠陥」の所で一担それを呈示し, また再び「引っくり返し」に際して一商品の形態に戻った事自体, 不統一である。もっとも, それを明示して, 「ひっくり返 し」によって「一般的価値形態」を得る ことは, 『資本論初版』の「形態IV」の扱いでいみじくも示されているように, 不可能ではあった21)。
そうではなく, 商品世界の唯一の価値形態として リンネルの価値表現が存在するだけだとすれば, その価値形態は, 既に特権を与えられており, 平凡な一市民リンネルのものではなく, 当初の 「全体的価値形態」定立の前提に反することになる。 マルクスは,全くこれらの点をすり抜けてしまっている。

故に結論。「全体的価値形態」の「ひっくり返 し」によって「一般的価値形態」を得る事は, 逆関係の存在にもかかわらず,不可能である。
ただし, それは「一般的価値形態」成立の不可能を何等意味しない。それを得る事はむしろ易しい事である。マルクスの「移行 =「発展」論 と対比して,簡単に表示してみよう。
      <杉本 下記は省略した面もあります。原文を点検ねがいます。>

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   マルクスの提示
   単純な     全体的        一般的       貨幣形態
   価値形態    価値形態      価値形態

            A= B       B=A       B=G
             =c       C=        C=

    不十分     欠陥有       等価不定       等価固定
   おのずから  → ひっくり返し    → 歴 史 的      →

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   神田の提示
   単純な     全体的     諸商品の    一般的    貨幣形態
   価値形態   価値形態     価値形態    価値形態

    A=B    A=B     A=B     B=A     A=G
            =C      =C     C=      B=
                   B=C     D=      C=
                   C=A    ・・=

    十分= 完全     同左     同左      等価不定
    おのずから    → 同左     等価排除    歴史的    →等価固定

 要は, 諸商品の「全体的価値形態」の提起にある。それが,「単純な価値形態」と同次元,その総和たる事,すぐ判ろう。 マルク スが, この形態を知 りながら, 論理展開の中では無視した事は, 何としても理解し難い事である。さすれば,「一般的価値形態」への「移行」 も「ひっ くり返し」という無理な手法にょらず, 存在している諸等価物の単一の商品への排除,独占化として生ずる。形態的には何の無理 もない。 ただ,その「移行」の動因が価値形態の内的論理からは起こらない, というだけである。何故なら, 諸商品の 「全体的価値形態」 はむろん全商品の価値を全て完全に表現しえており, 何等の欠陥もないのだから。そしてそれは価値概念にも全く照応する。

「人間労働は,その完全な現象形態を特殊的諸現象形態の総枠の内に持っている」のだから。従って, 価値形態論で「一般的価値形態」を成立させる事はできないし, また必要ない。実に, 価値形態論は, 貨幣形態の不必要・不成立を明示する,ともいえよう。

「移行」の動因は, 価値形態論の外で起こる。

「商品世界の共同の仕事」が, むろんそれを媒介する。 「一般的価値形態」のショ ー トした提示にもかかわらず, マルクスがそれを提示した事は, 深い方法認識であり, 価値形態論と交換過程論を結びつける。

   4. 交換過程 とその矛盾
 価値形態論 と交換過程論 との峻別は, 明確な方法的意義を持っているはずである。既に『経済学批判』において。

「今までは商品は,二重の見地のもとに, 即ち使用価値として,また交換価値として, そのつど一面的に考察された。 けれども, 商品として, それは直接に使用価値と交換価値 との統一である。 同時にそれは, 他の諸商品に関係する限 りで商品である。
諸商品の相互に対する関係はそれらの交換過程である。それは互いに独立した個人が入りこむ社会的過程であるが, 彼等は商品所有者 としてだけそこに入りこむ」22)。

『資本論』では, 商品所有者の登場によってだけ画される。
彼等は, 「ただ経済的関係の人化」であるが, ここでは「商品所有者を商品から特に区別するものは, 商品にとっては他のどの商品体もただ 自分の価値の現象形態として認められるだけだ,という事情である。 ( 中略) 商品には欠けている, 商品体の具体的なものに対する感覚を商品所有者は自分自身の 5つ以上もの感覚で補う23)」, という規定性をもっている。
『経済学批判』, 『資本論』, と もに基本的に同一である と考えるが, 前者に於いては,「使用価値 と価値 との統一」という規定にやや不明確さが残る。
つまり「統一」を考察する という反省規定は, 本来, 同一次元の最後に行うべきであり, 新しい次元の開始 としてはふさわしくないという事情が存しているのに対し, 後者ではすっきり純化されている, といえよう。

 交換過程の次元は商品所有者の登場に明確に表現されている。
一方, 商品は 「他のどの商品とも ( 中略) 心だけでなく体まで取り交そうといつでも用意している」。 両者の差異を単純に例示 し てみ よ う。

  A 商品の論理= 全面的交換可能性     A商品所有者の論理= 個人的要求
    uA ーーーーwB             AーーーーーB
          xC
          yD                   D
          zE                   K

 商品は, 価値の同質性に由来する定量的規定性をもって他の全商品と関係を結ぶ。 それをAの側からとらえれば, その「全体的価値形態」である。 商品は価値および価値形態をもって交換過程に入る。 価値実体を持たずにあ るいはそれが不明瞭な まま交換過程に入り,その中でそれを形成ないし明確化する, というような論法はマルクスに全く無縁である。 この点で,価値形態論は交換過程論に先行する。 商品所有者は, 価値規定を創造で きないのはもちろん,それを廃止も変更もできない。彼等はただその貫徹形態を規定しうる, つまりそこに自らの条件を加えうるのみである。その規定性は, 交換過程論を新たな論理次元として定立させる。

商品ぼ, 価値としては全面的交換可能性にあるが, 「価値として実現しうる前に, 自分を使用価値として実証しなければならない。」このことは, 商品所有者の主観に於いては, 自分の商品は他の全商品との交換手段になるが, 他人の商品は自己の欲望にしたがって交換手段たる事を制限する, という形で現れる。

「従ってまた諸商品は (中略) ただ生産物または使用価値 として相対するだけである。」商品は価値性格を有しているのに, こうしてその貫徹を実現できない。ここに交換過程の矛盾が生まれる。上の交換過程の矛盾は,『資本論』に於いては, 既に価値形態に於いて 「一般的等価形態」

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の存在それ 自体ではないがその概念は定立されていると見なされているため, それを持ち込んで説明さ れ, 若干の混乱を加えているが, 基本的には上のように規定されている, と考える。

そこで, 「商品の発展は, これらの矛盾を解消し はしないが, その矛盾の運動を可能にするような形態を創 り出す。」 「太初に業あ り き。」 この解決法はみご とである。

かく して「(商品所有者が) 自分等の商品を互いに価値 として関係させ, 従ってまた商品として関係させる事ができるのは, ただ, 自分等の商品を一般的等価物 と しての別のある一商品に対立的に関係させる事によってである。 このことは商品の分析が明らかにした。 しかし, ただ社会的行為だけが, ある一商品を一般的等価物にする こ とがで きる。」

そして,「一般的等価物」という「独自な社会的機能」によって,「この商品は即ち貨幣となる」。
貨幣は何よりも「一般的等価物」の形成として解かれる。 この論法は, むろん, それが既に理論的に定立されている事を前提としている。

久留間鮫造氏はこ う説明す る。
「『資本論では,交換過程にはいる前に価値形態論が展開されている。したがって,交換過程論で, この過程における商品の矛盾が追跡され, その媒介の必要が明らかにされた後に,それが何によって媒介されうるかが問題となったときに,それはすでに価値形態論で明らかにされている, といって答えることができるわけである。 24)。」

これは, マルクスの方法の説明としては当を得ている。 しかし, 私はそ こに重大な問題がひそんでいる, と考える。

 第一に, 商品を価値として関係させる事は,まさに価値形態そのものの本性であって, 「一般的等価物」をまつまでもない。 それは, 交換過程に於いても変わらない。
  諸商品はすべて全他商品との価値関係をもって交換過程に入る。

 第二に, それ故, 価値形態としては「一般的価値形態」は不必要であり,また価値形態の枠内では, その形成は不可能であった。 その定在を, 「商品の分析が明らかにした」,
「すでに価値形態論で明らかにされている」, と言 うわけにいかないのだ。

 第三に, 価値形態論と交換過程論とを峻別する『資本論』の方法からして, 後者に於いて「一般的等価物」 = 「一般的価値形態」の形成を言うのはおかしい事である。価値形態発
展の必然として「一般的価値形態」が定立され, その必要条件として「商品世界の共同の仕事」が提起されるのなら, 続いてそれを分析すればよい。

多くの論者がそうしているように, 価値形態論の中に商品所有者を登場させ どんどん展開させればよい。 その場合, 価値形態論 と交換過程論 との区別はくずされてしまうであろうが。しかしまた, そうあるべ きなのだ。

逆に言えば, 両者を峻別す る方法の論理的性格からすれば, 交換過程の矛盾の解決形態を 「一般的等価物」の形成として解いてはならないという事である。

『資本論』 の方法的感覚は実に鋭いが, そ の叙述に於いては尚徹底し ない部分が残されている, と私は考える。 一矛盾の解決は, 「商品所有者の自然本能」的「業 によるとはいえ,それは恣意的な ものではありえない。「共同行為」は主体を示す。解決の仕方は,矛盾の中に提示されていなければならない。

私は, 流行進化論の突然変異 ・淘汰説を採 らない。 それは, 商品の価値性格及びその現象 としての価値形態ではありえない。それは当面の矛盾ではなかったのだから。とすれば, その使用価値性格以外にない。それによる価値性格貫徹の制約を脱却するしかない。商品所有者はそんな商品を見つけるしかない。

かくして, その商品は, 他のすべての商品がその所有者にとっての交換手段であるのに対し, 一般的交換手段となる。 「こ う して, その商品は即ち貨幣とな る」。

33
と同時に, 他の全商品はこの商品によ ってその価値を表すことになり, この商品は他商品を等価形態から排除する。

「一般的価値形態」が成立し, 諸商品の価値形態は, 交換過程に於いて, その本性によってではないが, 変容される。そこから貨幣形態の成立までは, 「金銀は本来貨幣ではないが, 貨幣は本来金銀である」 とい うだけの距離 しかない。
即ち, 私は, 交換過程の矛盾により「一般的等価物」 = 「一般的等価形態」が成立して貨幣となるというのではなく, 一般的交換手段として貨幣が成立して, 特殊的等価が 「一般的等価」となり, 諸商品が直接にすべての他商品 と関係を結ぶ状態が解消され 「一般的価値形態」 が成立す る,と考える。
「一般的等価物」は, 諸商品の価値を表す, さらに統一的に表すという意味で価値の尺度となると言ってもよいが, それはここでその機能を創造したのではない25)。

それはここでそれを独占したのだ。 その機能は, 貨幣ではなくもっと深く商品に由来する。

それあるが故に, 一商品は一般的交換手段と成れた。
それ故,「(貨幣の機能はー引用者) 論理的にも歴史的にも, 第一機能 (価値尺度 同左)が先行す る26)。」


   5。貨幣の生成 と本質

   (1) 価値形態論の次元 と交換過程論の次元
 今や,『資本論』の叙述は, 明確な方法をもっており,労働の二重性を軸とする整然たる展開序列をもっている, 価値形態論と交換過程論も, 各々, 一つの明確な対象と課題をもってその中に位置づけられる,と論定できると考える、価値形態論の課題は, 前節の展開を承け,価値対象性即ち価値表現の仕方の解明である。

その対象としてまさに「単純な価値形態」が提起される。それは,「最も単純な価値関係であるが故に, まず提起されたようにも叙述されるが, 実はそうではない。

それは, 価値概念即ちすべての商品が一方では抽象的人間労働の結晶として共通の実体を持っていることに基づいて, 提起されたのであり, 最も発展した関係を具現している。

それ故, 「すべての価値形態の秘密は, この単純な価値形態の内にひそんでいる。」単純な形態であるにもかかわらずこう言える, のではなく, これが, 個別であるとともに一般的な ものとして定立されているから, こう言えるのだ。

即ち,「単純な価値形態」は, 実は一商品の価値形態そのもの,つまり「価値形態そのもの」 (マルクス) である。一商品の 「全体的価値形態」及び諸商品の「全体的価値形態」が,
「単純な価値形態」から「自から」出てくるが, 後者と全く同一, 同次元であり, その総和である。 むろん, それらの関係は「発展」ではない。

この主張は, 前二者が後者 とは別の, 各々, 「一つの」価値形態である事を否定する。

マルクスのそして多くの論者の価値形態論の混乱は, この点の誤解に発していたようにも思われる。
『資本論初版』の「形態IV」は,「一般的等価形態」の存在の不可能を, 従って価値表現の(社会的に妥当な媒介された形態28)」即ち(一般的な直接的交換可能性の形態29)」の不可能を示し,ひるがえって「一般的等価形態」の必要性を示す, と言われるが, これは正しくない。諸商品の価値表現= 価値形態は, 「媒介される」必要などさらさらなく,それ自体が 「直接的交換可能性」 の具現である。

「一般的価値形態」= 貨幣形態は, 価値形態論の課題の要求する所からは生起せず, またマルクスが行ったような仕方で生起する形式的可能性もない。 即ち,価値形態論は貨幣(形態)生成の理論ではない。むしろ,それはその不必要を証明する理論である。 他方, 諸商品の価

34
値形態からの「一般的価値形態」の生成は,「全体的価値形態」の「ひっくり返し」によっては不可能であるが, 可能である。 ただ, その実現契機が価値形態の中にないだけである。

それは, むろん, 交換過程に於いて貨幣の生成とともに起こる。

商品は価値従って価値形態をもって交換過程に入る。

交換過程の中で価値形態が形成されるが如き見解は, マルクスに無縁である。同一の価値形態を具有しながら, 価値形態では生じない事が交換過程では生じるのながら,交換過程論は価値形態論 とは明らかに別次元である。

貨幣の生成は, 二重にあるいは二度に分けて, 提起されるのではない。

マルクスは, 価値形態論と交換過程を峻別し,「一般的価値形態」 = 貨幣形態生成の場を,「商品世界の共同の仕事」を持ち込んで, 事実上交換過程に一本化している。

ただ し, この整然た る流れの中に,それとは異質な価値形態の「発展」を挿入したため,論理展開に混乱が生じたように思われる 。

 (2) 貨幣の生成論
 以上の私見を, 反対の主張によって反照 してみたい。

尼寺義弘氏は, 「それ (価値形態論)は貨幣の理論的な定在の必然性を証明している。 交換過程論は貨幣の現実的な定在の必然性,つまり商品に包みこまれている使用価値と価値との矛盾の交換過程における発現と, その具体的な解決としての貨幣の生成をみたものである30)」, と説 く 。

氏の主張,
「価値形態の考察においては,(中略)価値の実体規定にもとづく同等性関係が前提されている31)」, には私 も賛成であるが, マルクスの価値形態「発展」を「価値概念とその表現様式
(定在様式) との矛盾(不一致) 32)」 によって起こるものとしてそのまま肯定し, 上の主張に至る点で私見 と異なる。

氏の所説に対 してすぐ湧く疑問は, 貨幣の生成論はその現実的定在の必然論だけでよいのではないか, という事であろう・。

それに対する答えは, むろん,貨幣形態が価値概念に即する価値形態の必然的発展として定立される, という事であろう。

それに対す る私見は既に述べた。
一点だけ加えたい事は, マルクスの価値形態は, 宇野学派のそれと違い, 実在だという事である。 従って, そこから成立する「一般的価値」 = 貨幣形態も実在である。
それを「理論的定在」 と表現す るのは, 私には納得で きない事である。

米田康彦氏は,「いうまでもなく , 価値形態論 と交換過程論とは, ともに貨幣の生成について論じた も ので ある33)」, と疑問を許さぬ調子で断言する。

それは, 価値形態論を主にあるいはまず価値表現の仕方解明と見なす主張や, そこに実際上2つの課題一価値表現解明と貨幣形態生成解明- があるかのように見なす主張, を批判する ものである。

それだけに, 価値形態論と交換過程論との「共通性と独自性」とは際立たせられる。
即ち。「“諸商品の現実的関連” である “交換過程” において諸商品がとる形態規定性が, 価値形態論および交換過程論の共通の課題であり, そこでは商品に内在する矛盾の外化が主題であるが, 価値形態論ではその形態規定性そのものが解明されたのに対 し, 交換過程論では, その形態規定性の完成を媒介するものが, 交換過程の全体的矛盾からその一部である特殊な等価 と一般的等価 との対立への収斂, しぼりこみという形で明らかにされているのである34)。」

それに対する私見。
第一,『資本論』に於いて章まで異なる 2つの論説が「共通の課題」をもつという事自体, 奇妙で ある。
  その視点から, 価値形態論と交換過程論はともに「交換過程」上の事柄とされるが, それはマルクス解釈としては誤っている35)。
  マルクスにとって, 価値形態は, 交換過程の前提であり, また実にそこを貫く規定的動因であるが, 交換過程に入

35
る前に形成されている関係である。換言すれば, 交換過程はその形成ではなく実現の場である。この点は, 宇野学派等のそれと決定的差異である。付言すれば, 交換過程に於いて成立する表象を価値形態論に持込む事が, 後者を混乱させてきた,と考える。

第二, 米田説の論旨は, 価値形態一貨幣生成の形態規定性解明, 交換過程論一貨幣生成の実現契機の明確化,という様に表せようが, だとすれば, 両者を分ける事自体疑問であろう。
  いずれにせよ, 密接なあるいは (及び) 連続した関係とせずばなるまい, 実際, 氏が 「不即不離の関係」と表現しているように。
  米田氏は, 「価値形態論が, 第一章第三節で論じ られているのに, なぜ交換過程論が, 第二章として独立に論じられているのか, という構成上の問題が残されている36)」, と問題を提起す
  る。 両論を「不即不離」で論じてきた米田氏にとっては, 当然の疑問であろう。それはまた, 私にとっても重大な問題であり,「構成上の問題」の中に内容上の差異を見る鍵があると考える。

  米田氏は,「交換過程全体」という表現でその中に商品の流通過程まで含め, 以って, 第 2章が第 3章 と連繋 しているが故に, 第 2章が ( 第一章, 第三章を媒介す る位置に置かれてい
  る37)」, と第 2章独立の一根拠をあげる。 しかし, 第 3章貨幣または商品流通,は貨幣生成の結果として成立したものであり,貨幣生成が二重にあるいは二分して説かれるための理由にはな
  らない。

  それに関して言えば, 第3章こそ貨幣の形態規定性の分析であり。それは貨幣生成即ちその定在が定立された後に説かれる。米田氏が「価値形態論および交換過程論の共通の課題」と言う,「諸
  商品がとる形態規定性の解明」を,価値形態そのものの解明ととれば, それは第2節における価値実体= 定在解明の後を承けて展開されていることにな るが, 氏の論旨では,それは貨幣 (形
  態) 生成の形態規定性とならざるをえず,その形態の「完成」 即ち現実的生成に先行することになる。それはまさに,形態規定から実体規定 ( ? ) を導出する宇野氏の手法であって,
  マルクスのそれと逆である。

     米田氏は, 第 3節の連関を前後逆に理解してしまったのであり, それは,貨幣生成という課題を複数の次元に設定したことに起因しよう。
  今一つ, 米田氏が価値形態論及び交換過程論 とも「商品に内在する矛盾の外化」を主題とすると論定している事に触れたい。その論定は, 両論を「交換過程」の中でとらえる視点に由来するが,正しくない。価値形態論では, 商品の矛盾は形態そのものには存在していない。

  既に述べたように, そこでは使用価値はただ価値の現象形態として認められているだけだから, 使用価値と価値とは対極に現れるが,現実に対立しているわけではない。他方, 交換過程で提起
  されるのは交換過程の矛盾であって, 商品の矛盾ではない。マルクスの「交換の歴史的と拡がりと深りは, 商品本性の内に眠っている使用価値と価値との対立を発展させる」,という表現が参
  照されえよう。この文は交換過程論にある。

「使用価値 と価値 との対立」 は,一定の条件のもとでは「眠って」おり, 一定の条件のもとで初めて顕現する。商品に内在する矛盾は, 価値形態にあるのではなく, 価値という形態にある。即ち, 人間労働が直接的に社会内関係として現れえずに価値に結晶され価値形態によって表されざるをえないこと, これである。

これを商品生産の次元で表現すれば一価値形態は商品生産の表現であって 交換過程の表現ではないー,私的労働によって社会的労働が組織されている事である38)。価値形態には, この商品に内在する矛盾がただ表されているだけであって,他の矛盾はない。 交換過程の矛盾も, むろんこの商品に内在する矛盾の必然的現象形態であるが, 両者は同一ではない。
そのことは, 交換過程の矛盾がその運動= 解決形態を得,かつ諸商品交換が順調に進行・完

36
了したとしても,諸商品に内在する矛盾は存する事からも自明であろう。 商品の物神性論がこの矛盾を提起し分析したものであること, 言うまでもない。実にそれは, 交換過程の前に成立されているのだ。

 久留間氏は価値形態論と交換過程論を峻別した。前者では, (商品はもっぱら価値の観点から考察され38)」,( 商品はまだ運動の過程にはない39)。」それ故,「価値形態論でも貨幣の形式が論じられるが,そこでの問題は貨幣形態の”如何にして″であって”何によって″ではない
40)。」
 この「如何にして」を, 久留間氏は既に述べた 2つの課題として提起するが,実際は力点は次に置かれると言ってよいだろう。

 「マルクスは,貨幣形態を遡及分析して最も簡単な価値形態に還元し,そこで価値表現の根本メカニズムを解明する41)。」その「根本メカニズム」解明が氏の「廻り道の論理」であること, いうまでもないが,その賛否は別 として, 氏の論理が,一方では価値形態の「発展」を認めつつも,その発展追求ではなく,逆に遡及ないし還元であること, 注目される。

それ故, 価値形態論の課題は2つあるではないかと問われると, 久留間氏は困惑し,「ともに欠くことのできない」ものだと言う一方,結局,「いずれが最初に解決さるべき基本的な課題かといえば, それはもちろん前者 (根本メカニズムの解明) である42)」, と答える。

こうして絞ってしまえば, 「貨幣の形成の必然を論 じることは, 価値形態論の範囲外にあり,これが交換過程論の固有のテーマをなすのである43)」,と言うのは,一貫した論理である。

 私見に引きっけて言えば, 久留間説は, 事実上貨幣形成の解明を一本化するとともに,価値形態論の課題をも一本化している(それ故にまた,多くの久留間批判) 。

ただし,久留間説には,「発展 の見地が残り, いわば二元論になっており,それ故「発展を論ずる時にはとりわけ混乱が現れるが,それはまた,「価値表現の根本メカニズムの解明」と「価値形態発展の解明」とが方法的にそぐわない事を表白しているともいえよう。

   (3) 価値形態論における 「一般的価値形態」 の定立
 価値形態論に於いて貨幣形態が生成するのではなく,交換過程に於いて貨幣= 一般的交換手段が生み出されるとともに「一般的価値形態」が与えられるとすれば, 最後に, 「一般的価値形態」= 貨幣形態が既に価値形態論に於いて提起・分析されていることの正当性と意義を考えねばな ら な い。

 一般的交換手段の成立が即「一般的等価物」の成立たる事は,貨幣の存在及び機能が特別の,規定された一商品によって担われる事であった。それ故,貨幣が商品であること,商品に還元すること,の理解は困難ではない。

そして,かく定立された「一般的価値形態」を価値形態論に持込む事もさまで困難ではない。

『資本論』の上向法は, 概念の一本調子の自己展開ではなく,表象が常に重要な役割を演じ,未証明の前提によって論を展開し後結果としてその前提を定立して当の前提設定の正しさを証明する,あるいは歴史事実によって展開して後その歴史事実を論理化して証明する,といった方法は往々見られる所である。

「一般的価値形態」は, 価値形態論に於いて,生成されるものとしてではなく生成されたものとして定立され分析される。
その結果,それが, 特殊なさらには光輝く,ただし必然的な貨幣生成によって規定された, 価値形態であり, その特殊性のもたらす外観と, にもかかわらず, それをはぎ取れば, ただの価値形態にすぎない事は,容易に分る。
この場合, 諸価値形態は発展序列の中にではなく,一般型と特殊型として並列される。
即ち, それは類型 と して設定 される。マルクスの「単純な価値形態」こそ個別であるとともに価値形態そのもの= 一般であり,

37
「一般的価値形態」及び貨幣形態こそ実は特殊である44)。
 価値形態論に於る「一般的価値形態」定立の意義は, また,それが一般的交換手段の生成とともに与えられた事の内に存している。

そのことは,貨幣の生成が商品の価値性格の実現を制約している使用価値的条件を突破するために生じたこと,換言すれば, 価値の自立化であったこと,を意味する。「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は,価値の自立化以前に商品そのものの中に貨幣性格の萌芽があることを明らかにする。

マルクスは言う。

 「困難は, 貨幣が商品であることを理解する事にではなく, 如何に, 何故に, 何によって商品が貨幣であることを理解することにある」,と。

ごの有名な文は,交換過程論の末尾にあるのだから, 「商品が貨幣である」とは, まず, 貨幣が商品からの必然的生成であることを意味していよう。しかしそれだけではなく,それは価値性格の貫徹なのだから, 価値が貨幣として自立化する以前に, 商品そのものに於いて価値性格の貫徹が表現される形態がなければならない。 即ち, 商品の価値形態こそ貨幣の萌芽, その即自なのである。

「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は, 価値の自立化 と しての貨幣と,商品そのものに内在する貨幣性格とを, いみじくも表現する。
そこにこの形態定立の根本的意義がある, と考える。 かくして,価値の自立化以前に, 商品そのものの内に根本的矛盾= 動因の存することが明らかとな り,その矛盾解明の糸口が見い出される。 商品生産社会即ち人間労働の特殊な形態規定性の定立であること, いうまでもない。


〈注〉
1) いうまでもなく,宇野氏および宇野学派の価値形態論がそれである。しかしながら,マルク スを忠実に解釈しようとする多くの論者も, 一価値形態論の中に別の次元の問題を持込んでいる。
2) 「一般的等価物」, また 「一般的価値形態」 はマルクスの定式化の呼称である。以下に論ずる よ うに価値形態の位置付が異なれば, 呼称の妥当性も問題となるが, 以下そのまま, ただし「 」 付で用いる。
3) 「……宇野の主張は, 交換過程論の存在そのも のを不要 と し, 貨幣の必然性の論証は価値形態論で全面的に与えられる, という結論をみちびくことになる。」
  (降旗節雄) 。 宇野弘蔵編 『資本論研究 I 』 筑摩書房, 1967年, 123ページ。
4) カール・マルクス 『資本論第 1巻①』 大月書店, 1975年, 64ページ。 以下, 同書のページ数で示すが, 文章は必ず し も全 く 同一ではない。
5) 同, 同, 65ページ。
6) 尼寺義弘 『価値形態論』 青木書店, 1978年, 7 ページ。
7) 花 田功一「価値形態論」, 種瀬茂編 r資本論研究』青木書店, 1986年,45ページ。
8) マルク ス, 同, 117ページ。
9) 同, 同, 118ページ。
 この点は, 後論の宇野氏の主張に対し, マル クス説の根本を 明示する。
10) 同, 同, 89ページ。
 尼寺氏は, この文にもとづいて,「価値形態論の論理的展開は商品交換の歴史的発展に照応していることは明らかであろう。」と述べる。
さきの 9)に照らすと, 尼寺氏の主張は一面的であろう。
それだけではなく , 価値実体規定にもとづく氏自身の「単純な価値形態」設定とも矛盾するのではないだろ うか。
11) それ故, 宇野学派のように価値形態論の独自性を強調すれば,「価値形態の説明としては, このような自然科学的な例証は適切ではない」 (降旗節雄,宇野弘蔵編 『資本論研究 I 』 19ページ) , とい う こ と になる 。
12) 向坂逸郎 ・宇野弘蔵編 『資本論研究』 至誠堂, 昭和33年, 157ページ。一般的価値形態」 及び貨幣形態こそ実は特殊で ある44)。価値形態論に於る 「一般的価値形態」定立の意義は, また, それが一般的交換手段の 生成とともに与えられた事の内に存している。 そのことは, 貨幣の生成が商品の価値性格の実現を制約している使用価値的条件を突破するために生じたこと, 換言すれば, 価値の自立化であったこと, を意味する。
「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は, 価値の自立化以前に商品そのものの中に貨幣性格の萌芽があることを明らかにする。
 マルクスは言う。「困難は, 貨幣が商品であることを理解する事にではなく , 如何に,何故に, 何によって商品が貨幣であることを理解することにある」, と。
  ごの有名な文は, 交換過程論の末尾にあるのだから, 「商品が貨幣である」 とは, まず, 貨幣が商品からの必然的生成である ことを意味していよう。 しかしそれだけではなく , それは価
 値性格の貫徹なのだから, 価値が貨幣として自立化する以前に, 商品そのものに於いて価値性格の貫徹が表現さ れる形態がなければな らない。
 即ち, 商品の価値形態こそ貨幣の萌芽, その即自なのである。

「一般的価値形態」の価値形態そのものへの還元は, 価値の自立化としての貨幣と, 商品そのものに内在する貨幣性格とを, いみじくも表現する。

 そこに この形態定立の根本的意義がある, と考える。
  かくして,価値の自立化以前に, 商品そのものの内に根本的矛盾= 動因の存することが明らかとなり,その矛盾解明の糸口が見い出される。
  商品生産社会即ち人間労働の特殊な形態規定性の定立であること, いうまでもない。

P38
13) マル ク ス, 同, 82ページ。
14) 久留間鮫造 『価値形態論 と交換過程論』 岩波書店 , 昭和40年 , 51ページ。
15) 後出 ( 13ページ) の米田氏の主張他 詳しく論じたものとして, 武田信照
 『価値形態 と貨幣』 梓出版社,1987年, 307ページ以下。
16) マルクス , 同, 83ページ。
17) 大島雄一 『価格 と資本の理論』 未来社, 1965年, 121ページ。
18) マル ク ス , 同, 86ページ。
19) むろ ん, 宇野学派の所説はそれである。 しかし, 他にも広田精孝氏は, 価値形態成立を「A商品の側の一方的なイニシアティブ」によるとし,「逆関係」の成立のためには, 逆方向のイニシアティブが同時存在せねばならない, 即ち「現実にかかる交換が行われる場合 には, 20エ レの リンネル= 1枚の上衣 と い う価値表現関係 とともに, その逆の 1枚の上衣= 20エレのリンネルという価値表現関係が成立していることになる」 と言い, それは一般的には成立 しないから, 「逆関係」の一般的存在は論定で きない, と言う。 (広田精孝 「価値形態論と交換過程論」, 『資本論体系 2』有斐関, 1984年, 182? 183ページ) この広田氏の主張に, 久留間 「廻り道の論理」の一問題点が現れている 。
20) 大島雄一 , 前掲書, 143ページ。
21) 後の図を見ればすぐ分るが, 諸商品の「全体的価値形態」とこの「形態Iv」とは実は全く同一である。 むろん・, この場合, 価値形態は実体規定に基づくもので, 商品所有者の主観による ものではない。
 即ち, 「形態Iv」 は, 実は, 「一般的価値形態 (形態Ⅲ) 」の後にではなく , その前に成立 している ものである。
22) マル ク ス 『経済学批判』 大月書店, 1962年, 34ページ。
23) 同, 『資本論』 , 113ページ。
 故に , 「使用価値および使用価値にたいする欲望の関係は, いわば超歴史的関係であり, 経済学の考察外にある」( 尼寺義弘, 前掲書, 113ページ) , と言 うのは不当である。 ただ, 価値形態論に於いてだけ,使用価値は価値の担い手という抽象性に於いて考察される。
24) 久留間鮫造, 『価値形態論 と交換過程論』, 21ページ。
25) 武田信照氏は, 「価値尺度としての貨幣は統一的な価値表現のために, 諸商品がその価値を一つの共通な商品で “はかる” こ とによって生じ ‥ ‥‥‥」 と述べる。
 この主張は, 価値形態論に於いて貨幣形態が生成す る と論定しての事であるが, それを「価値尺度と しての貨幣」だけに限定し, 交換過程で生成する「流通手段としての貨幣」 と区別する。 「したがって, 貨幣の形態 も二重に説かねばな らない。」
 以上, 武田信照『価値形態 と貨幣』 291ページ。
  私は, 貨幣は価値尺度と して生成するのではない, と考える。 それは既に商品の内にあり, 価値形態 (貨幣形態ではない)に表される。価値形態において「商品は貨幣」なのだ。
26) 大島雄一 , 前掲書, 163ページ。
27) マルクス, 『資本論』, 65ページ。
28) マルクス , 『資本論第一巻初版』 国民文庫, 1976年, 69ページ。
29) 同, 同 , 70ページ。
30) 尼寺義弘, 前掲書, 155ページ。
31) 同, 同, 23? 24ペ ージ。
32) 同, 同 , 95ページ。
33) 米田康彦「価値形態論 と交換過程論における矛盾の外化」,
 『講座資本論の研究第2 巻』 青木書店, 1980年, 63ペ ージ。
34) 同, 同 , 78ページ。
35) 上の文の初めの部分, また 「価値形態論で問題とされる交換過程」 (65ページ) という表現は, 私見からすれば驚くべきものである。
36) 同, 同 , 81ページ。
37) 同, 同 , 82ペ ージ。
38価値形態論の課題 と論理次元 39
38) 久留間鮫造 「価値形態論 と交換過程論』 14ページ。
39) 同, 同, 20ペ ージ。
40) 同, 同, 20ペ ージ。
41) 同, 同, 109ページ。
42) 同, 同, 109ページ。
43) 同, 同, 108ページ。 +
44) 価値形態論を 「発展序列」として理解するべきでなく ,「類型論」として理解すべきである,と初めて明確に主張したのは, 私の師故大島雄一である。( 大島, 前掲書, 73? 157ページ) 大島説では,「交換関係」の範囲によって価値形態を区別するため,「単純な価値形態」 と 「全体的価値形態」 が区別され, また一商品が同一価値形態に於いて両極に立てないという理由から「諸商品の全体的価値形態」が否定される。
  私見はこれらの点で異なる。
 他方, 鈴木鴻一郎氏は,「価値形態発展の見地」から, 価値実体規定にもとづく 価値形態定立と価値形態発展論 とがそ ぐわない事を明確に主張した。
  (鈴木鴻一郎 『価値論論争』 青木書店, 1959年, 115? 188ページ) 私は, 氏の論拠のほとんどに同意する。
 

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