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楽天本家の家元です。

 投稿者:楽天本家家元  投稿日:2019年 1月19日(土)13時12分12秒
返信・引用
  楽天本家の家元です。
http://tltpj25.bbs.fc2.com
 
 

楽天本家家元です。

 投稿者:楽天本家家元  投稿日:2019年 1月19日(土)13時02分8秒
返信・引用
  楽天本家家元です。
http://livedoor-d4e5.bbs.fc2.com

楽天社長ちえさん見てますか?
 

秘密法と共謀罪に反対する愛知の会:全日建関西生コン支部に対する弾圧に抗議する

 投稿者:杉本  投稿日:2019年 1月17日(木)12時58分41秒
返信・引用
  <次の抗議声明を転載させて頂きます。感謝しています。>

https://nohimityu.exblog.jp/

秘密法と共謀罪に反対する愛知の会:全日建関西生コン支部に対する弾圧に抗議する
投稿日:2018年12月27日
 声明:全日建関西生コン支部に対する度重なる弾圧に強く抗議します
2018年 12月 26日

 声明:全日建関西生コン支部に対する度重なる弾圧に強く抗議します

 私たち「秘密法と共謀罪に反対する愛知の会」は、2012年から、愛知において、「知る権利」を含む表現の自由を抑圧する悪法と闘い、この社会での言論の自由を守り通すための活動を続けています。安倍政権になって以降、日本国憲法が明確に謳っている市民及び労働者の自由を抑圧する攻撃が強まっています。

 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(以下「関西生コン」といいます)に対する度重なる弾圧は、権力による憲法と労働組合法を踏みにじるきわめて凶暴な弾圧です。
 今年8月以降、滋賀県警・大阪府警は、関西生コンとその関係者延べ50名余りを不当逮捕(再逮捕を含む)・勾留してきました。憲法は表現の自由を保障し、労働組合法1条2項は正当な労働組合活動の刑事免責を定めています。逮捕理由とされた生コン協同組合と労働組合との合意(品質の確実な協同組合業者の生コンの使用、建設現場での法令遵守)の履行を求める活動が正当な組合活動で合法的であることは、すでに大阪高裁も認めています。その申し入れ活動を「脅迫」「威力業務妨害」罪で逮捕・勾留することは正当な表現に対する弾圧であり、労働組合法にも反する違法な行為です。しかも現場に居なかった関西生コン幹部までも「共謀」を理由に逮捕した行為は、「共謀罪」適用のリハーサルをすら疑わせます。一旦釈放された組合員に再逮捕を繰り返すなど、関西生コン潰しを狙っているものとしか考えられません。

自衛隊イラク派兵違憲訴訟、洞爺湖サミット反対闘争、排外主義ヘイト集団への反撃、辺野古新基地建設反対闘争などで、常に現場に「関西生コン」の姿がありました。抑圧された者の立場に立ち、仲間と共に闘う労働者の誇りと意志を表す活動を一貫して行ってきました。関西生コンは、共謀罪反対を掲げてストライキを行った数少ない労働組合のひとつでもあります。
今般の関西生コンに対する度重なる弾圧は、そうした闘う組織を潰す、という権力側の強硬な意志の表れです。

このような弾圧を見過ごせば、労働組合活動だけでなく、権力の横暴に異議を申し立てる市民運動も弾圧の対象になることでしょう。ニーメラーの言葉を借りるなら「彼らが関西生コンを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は関西生コンの組合員ではなかったから」…この行き着く先が、誰も声を上げられない全体主義社会であることは、歴史の示すところです。

 私たち「秘密法と共謀罪に反対する愛知の会」は、この不当な大弾圧に断固として抗議します。そして、全国の心ある市民に、私たちと共にこの関西生コンに対する弾圧に抗議する声を上げることを呼びかけます。
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」(憲法12条前段)
 自由と権利のために、共に声を上げましょう!

2018年12月26日
秘密法と共謀罪に反対する愛知の会
共同代表 中谷雄二(弁護士)、本 秀紀(名古屋大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秘密法と共謀罪に反対する愛知の会
連絡先:〒458-0004 名古屋市緑区乗鞍2丁目601-13
ヴェルデ徳重1階
緑オリーブ法律事務所 気付
TEL:052-838-8795/FAX:052-838-8796
事務局長 弁護士 濵嶌 将周
http://nohimityu.exblog.jp no_himitsu@yahoo.co.jp
 

  原文提示の和訳  『経済学批判』

 投稿者:杉本  投稿日:2019年 1月12日(土)16時37分36秒
返信・引用 編集済
    http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_015.htm
  原文提示の和訳  『経済学批判』
<上記をやっと、パソコン翻訳した後に見つけました。正確です!

 Kritik der Politischen Ökonomie
  経済学批判
Das Kapital im allgemeinen ERSTES KAPITEL Die Ware

①<15>一見すると、ブルジョアの富は計り知れない商品の集まりとして、個々の商品はその基本的存在として現れる。しかし、すべての商品は効用価値と交換価値という二重の側面の下にあります。

②第一に、商品はイギリスの経済学者の言語学的モードにおいて、「必要なもの、有用なもの、または生活に賛成できるもの」であり、人間のニーズ、最も広い意味での食べ物である。使用価値としてのこの商品の存在とその自然の有形の存在は一致する。小麦綿、ガラス、紙などの使用とは対照的に、特定の使用価値です。使用価値は使用価値のみであり、消費の過程でのみ実現されます。同じ使用値を別々に使用することができます。しかし、その可能な用途の合計は、その存在の中にある特性を持つものとして要約されています。それは定性的だけでなく定量的にも決定されます。それらの自然な特異性によれば、異なる使用値は異なる寸法を有する。ブッシェル小麦、本紙、エルキャンバスなど

③社会的な富の形態がどうであれ、効用価値は常にこの形態にとって無関心な内容を形成する。 <16>それを作った小麦、ロシアの私有財産の所有者、フランスのプロッタ、イギリスの資本家は味がしません。社会的ニーズの対象であり、したがって社会的文脈では、効用価値は生産の社会的関係を表現しない。

③-②有用性としてのこの商品は、例えばです。ダイヤモンドだと、ダイヤモンドは彼が商品であると認識されるべきではありません。それが美的または機械的に、Loretteの懐に入れられているか、またはガラスグラインダーの手の中で使用価値として役立つのであれば、それはダイヤモンドであり、商品ではありません。
使用価値は商品にとって必要条件であるように思われるが、商品価値は実用価値のための無関心な提供であること。

③ー③経済的な形の決定へのこの無関心における有用性の価値、効用価値としての使用価値は政治経済学の範囲を超えている(2)それはそれ自身の形態を決定するところでのみその輪の中に入る。すぐに彼は特定の経済的関係を表す重要な基礎、交換価値です。

④-①交換価値は、効用価値が交換可能である量的比率として最初に現れる。そのような比率で、それらは同じ交換サイズを形成します。したがって、1冊のProperzと8オンスの嗅ぎタバコは、タバコとelegyの異なる有用性にもかかわらず、同じ交換価値であるかもしれません。
交換価値として、利用価値は、利用可能な正しい部分だけであれば、他の価値と同じくらい価値があります。

④ー②宮殿の交換価値は、一定数のブーツで表現できます。
逆に、ロンドンのブライトライターの製造業者は、増殖した缶の交換価値を宮殿で表現しています。 そのため、それらの使用価値である必要性の特定の性質に関係なく、それらの本来の存在様式には無関係で、商品は、量においては、交換では互いに同等であるとみなされ、したがって同じ統一性を表す。 その多彩な外観のままにです。

⑤使用価値はすぐに食べ物です。しかし逆に、これらの食品自体は社会的生活の産物であり、人間の生命力を費やした結果、
客観化された労働<objectified labor. >です。

ソーシャルワーカー<の材料として、すべての商品は同じ団結の結晶です。この単位の特定の文字、交換価値に表示されている作業について、これから検討して行きつつあります。
⑤The use values are immediate food. Conversely, however, these foods themselves are products of social life, the result of spent human life-force, objectified labor.

As material of social labor, all commodities are crystallizations of the same unity.
The particular character of this unit, i.
The work that is presented in the exchange value is now to be considered.
 <交換価値に表示されている作業について、・・との提示>
 <The work that is presented in the exchange value>
 <「交換価値であらわされる労働<作業・ではなく>の一定の性格>
  <国民文庫・杉本俊朗訳P26>

⑥金のオンス、鉄の1トン、小麦の4分の1および絹の20ヤードは同じ交換価値です。それらの効用値の質的な違いが消滅するような同等物として、それらは同じ作品の同じ量を表していますし--それらで一様に具体化されている作品<労働>はそれ自体が金であるかどうかに等しく無関係で、無差別、単純労働でなければなりませんし、それは鉄の錆、大気、ブドウの汁、または人間の血の中で発生するかどうか、それは酸素にあるので、鉄、小麦、絹が表示されます。

⑦ー①金のオンス、鉄の1トン、小麦の4分の1、小麦の20ヤード、小麦の20ヤード、およびそれらの効用値の質的な違いを消す同じ換算値、それらは同じ量の鉄、小麦、絹を表しますそれが酸素であるかどうか、それは酸素のためであるように外観は、それは鉄の錆、大気、ブドウの汁、または人間の血中で発生します。

⑦ー②しかし、金を掘る、鉱山から鉄を採掘する、小麦を造る、そして絹を織ることは、質的に異なる種類の仕事<労働>です。実際、効用価値の違いとして事実であるが、効用価値を生み出す活動の違いとしては進歩的に見える。
したがって、価値の交換という特定の実体に対する無関心の問題として、交換価値の労働は特定の形態の労働それ自体にとって無関心であります。

③さまざまな用途は、異なる個人の活動、すなわち個々に異なる仕事<労働>の結果の産物でもある。
しかし交換価値としてそれらは等しい、無差別の仕事<労働>を表す。労働者の個性が消えた仕事<労働>です。
したがって、交換価値の設定作業は抽象的な一般的な作業<労働>です。

④しかし、金を掘る、鉱山から鉄を採掘する、小麦を造る、そして絹を織ることは、質的に異なる種類の仕事です。 実際、効用価値の違いとして事実であるが、効用価値を生み出す活動の違いとしては進歩的に見える。

⑤使用価値の特定の実質への無関心の問題として、交換価値の労働はそれゆえ特定の形態の労働それ自体に無関心である。

⑦ー⑥さまざまな用途は、さまざまな個人の活動、つまり個人的に異なる仕事の結果でもあります。
しかし交換価値としてそれらは等しい、無差別の仕事<労働>を表す。
労働者の個性が消えた仕事<労働>です。
したがって、交換価値を設定する作業は抽象的一般的な作業<労働>です。

⑧ー①金1オンス、鉄1トン、小麦4分の1、およびシルク20キュビトが等しい場合、金1オンス、鉄1/2トン、小麦3ブッシェル、および5キュビットシルクの交換は全く異なるサイズの交換価値であり、その量的な違いがそれらが交換できる唯一の違いです。

②異なる規模の交換価値として、それらは交換価値の実体を構成するその単純で統一された、抽象的に一般的な仕事<労働>の多かれ少なかれ、少なかれ多かれ、またはより少ない量を表します。

それはこれらの量がどのように測定するのか疑問に思いますか?
それどころか、交換価値としての商品の大きさの違いは、それらの中で客観化された作品の大きさの違いにすぎないので、問題はその労働自体の量的での示された物象的存在<the work objectified in them.>が何であるのかということです。

③運動の量的存在は時間であるので、量的存在の労働は労働時間です。与えられた品質を考えると、彼ら自身の持続時間の違いが彼らが可能である唯一の違いです。労働時間として、それは時間、時間、日、週などの自然な尺度のその尺度を受け取ります

⑨商品の使用価値において客観化された労働の時間は、それらを確実に交換可能にする実体であり、したがって商品は、それらの明確な価値-価値によって測定される。
Working time objectified in the use-values of commodities is as much the substance that makes them exchangeable, and therefore commodities, as measured by their definite value-value.
⑨・①
 Working time objectified in the use-values of
   商品の使用価値においての物象化された仕事は、
 commodities is as much the substance that makes
  them exchangeable,
 時間としても対象化されていることで、それらを確実に交換可能
 にする実体であり、
 and therefore commodities, as measured by
 their definite value-value.
 したがって商品は、それらの明確な価値-価値によって測定され
 ている。
 <物象が価値として存在することで、--価値-価値--という交換可能
  になる--のです。日本の翻訳者は、なんら注意!とはしない。>
 <四版であれば、<原P66の八段落--「価値が上着形態をとる」こと
  で、交換可能性の形態を受け取る--ことでありそのことをもたらす、
  その前の「商品に提示された作品の二重性格」での10段落にての、
 <物象的な表現 objective expressions >を示す、第一・二の
  提起について、国民文庫訳者は何ら注意を払わないのです。

同一の作業時間を客観化した異なる使用価値の相関量、またはすべての使用価値が、同一の作業時間を処理する割合が客観的<contained objectively.> に同等である。
交換価値として、全ての商品は一定の労働時間の一定の尺度にすぎません。

⑩労働時間による交換価値の決定を理解するためには、以下の主な点に注意する必要があります。

-a単純な、いわば、品質のない労働への労働の削減であり、
ーb交換価値を生み出す、すなわち財を生産する仕事が社会的労働である具体的な方法であり、
ーc最後に、仕事の価値が使用価値である場合の仕事と、その仕事が交換価値の形成である場合との違いです。

⑪商品の交換価値をそれらが占める労働時間で測定するためには、さまざまな作業<作品>自体を無差別、均一、単純な労働、質的に同じであるため定量的にのみ異なる短純な作業<in short work >に減らす必要があります。

⑫要約--この削減は抽象化として表示されますが、社会的生産過程で毎日実行されている抽象化です。労働時間へとすべての商品を溶解することは、より大きな抽象化ではありませんが、同時に、空気中のすべての有機体のそれよりも現実的なことです。
This reduction appears as an abstraction, but it is an abstraction that is daily carried out in the social production process.
The dissolution of all goods in working hours is not a greater abstraction, but at the same time no less real than that of all organic bodies in the air.>
時間によってそのように測定された仕事は、実際には、異なる主題の仕事であるようには見えません、むしろ様々な働く個人は単なる仕事の器官として現れます。あるいは、交換価値で表されるように、仕事は一般的な人間労働として表現されるかもしれません。

⑫-②この一般的な人間労働の抽象化は、与えられた社会のあらゆる平均的な個人が実行できる平均的な仕事、人間の筋肉、神経、脳などのある生産的な支出に存在します。何らかの形で訓練を受けた人のですね。

③この平均的な作品の性格は、それ自体、国や文化の違いによって異なりますが、既存の社会で見られるように見えます。どのような統計からもわかるように、単純な作業は、ブルジョア社会のすべての作業の中ではるかに大きな質量です。

④Aが6時間で鉄を生産し6時間リネンを生産するか、Bが6時間鉄を生産し6時間麻布を生産するか、または12時間Aが鉄を生産し、Bが12時間生産されるかは、同じ作業時間の異なる用途に過ぎない。

⑤しかし、より活き活きとした、比重の大きい作品として、平均的なレベルを上回る複雑な作品はどうでしょうか?

⑫ー⑥この種の作業は、複合てきな単純作業であり、高出力の単純作業に分解される。 3営業日に相当する複雑な営業日ですね。この削減を規制する法律はまだここにはありません。しかし、減額が行われることは明らかです。交換価値としては、一定の割合で最も複雑な労働の積は単純な平均労働の積に等しい、つまり、これ単純労働の明確な量に相当します。

⑬作業時間による交換価値の決定は、特定の商品では、AまたはBの作業であるかどうかにかかわらず、たとえば同じ量の作業が客観的であるか、または異なる個人が同じ生産のために定性的にうまく機能することを意味します。 定量的に決定された使用値を使用してください。 言い換えれば、商品に含まれる作業時間は、その生産に必要な作業時間であると仮定される。 与えられた一般的な生産条件下で同じ製品の新しいコピーを生産するためには同じ作業時間が必要です。

⑭ー①交換価値を設定する労働の条件は、交換価値の分析からもたらされるので、社会的な労働決定または社会的労働決定であるが、社会的に不可欠ではないが、特別な意味でではある。
それは特定の種類の社会性です。

②まず第一に、無差別仕事の単純さは、すべての仕事を好きな仕事に実際に減らすことによって、異なる個人の仕事の平等、互いの仕事を相互に平等に関係付けることです。

⑭-③すべての個人の仕事は、それが交換でそれ自身を提示する限りにおいて、この社会的平等の性質を持ち、それが他のすべての個人の仕事と同等である限りにおいては交換価値でそれ自身を提示する。

⑮ー①なお、個人の労働時間は一般労働時間としての交換価値に直接現れ、その孤立労働の一般的性格は社会的性格として現れます。

②交換価値に表示される労働時間は、個人の労働時間ですが、同等の仕事を達成する限り、他の個人と区別できない個人の労働時間です。特定の商品を生産するためのものは、必要な労働時間であり、お互いに同じ製品を生産するために必要なものです。

③それは個人の労働時間、彼の労働時間ですが、それはそれ故にそれが無関心であるすべての普通の労働時間として、彼女がその個人である労働時間です。

④一般的な労働時間として、それ自体が一般的な製品に現れる、一般的に同等の、明確な量の客観的な労働時間。ただし、それはその製品の製品として直ちに現れる他のものに任意に翻訳可能use-valueの形式ここでそれはすべての他のものの積です。社会的な大きさ、それだけの一般的な大きさです。

⑤交換価値を生み出すための個人の仕事は、一般的に同等のものを生み出さなければなりません。一般労働時間としての個人の労働時間の表現なのであるから、なによりも個人の労働時間よりも一般的労働時間の表現です。

⑥あたかも様々な個人が彼らの労働時間を一緒に投げかけ、異なった用途で共同で利用可能な異なる労働時間を提示したかのようです。

⑦個人の労働時間は、実際には社会が特定の使用価値を表すために使用する労働時間です。特定のニーズを満たすために。しかし、これはその作品が社会的な性格を帯びる唯一の特定の形態です。

⑧スピナーのある作業時間は客観的です。 100ポンドのリネン糸。織物の製品である100キュビトのリネンは、同じ労働時間を表します。これらの2つの製品が同じ一般労働時間を表し、したがって同じ使用時間を含む各use-valueに対して等価である限り、それらは互いに等価です。

⑨スピナーの作業時間とウィーバーの作業時間を一般的な作業時間として、したがってそれらの製品は一般的に同等のものとして、ここではスピナー用ウィーバーとウィーバー用スピナーの作業、一方の作業となる。他の人の仕事、すなわち両方の人の仕事の社会的存在のために。

⑩その一方で、スピナーとウェーバーが同じ屋根の下に住んでいた農村 - 家父長的産業では、家族の女性の部分、男性の織り方は、家族自身の必要性によると、糸とキャンバスは紡績であった。そして、家族の範囲内でソーシャルワークを織ること。

⑪しかし、その社会的性格は、一般的な等価物としてのキャンバスの一般的な等価物としてのヤーン、またはその両方が、同じ一般労働時間の同等に有効で同等に有効な表現として意見を交換したという事実はありません。

⑫家族の文脈は、むしろその自然な分業によって、労働の産物にその独特の社会的スタンプを与えた。
⑬中世の自然の恵みと自然の糧を手に入れてください。

⑭その作品の一般性ではなく、その自然な形での個人の特定の作品が、ここに社会的なつながりを形成します。あるいは、最終的に、すべての文明化された人々の歴史の限界の上にそれを見つけるので、我々はその自然な形で共同労働を取りますか。 (4)

⑮-⑮労働の社会的性格は、個人の仕事が抽象的な形の普遍性であるという事実によって媒介されていないことは明らかである。個人の仕事が個人的な商品であることを妨げるのは生産を前提とするコミュニティであり、個人的な仕事は社会的有機体の一員の機能として直接見えるようにするのです。

⑮-⑯交換価値に表示されている作品は、孤立した個人の作品とします。
社会的には、それはその抽象的な反対の形、抽象的な普遍性の形をとる。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑯ー①最後に、それは交換価値--設定の仕事<労働>の特徴であり、それは、人々の社会的関係が、それがそうであったように、転倒しているのであり、すなわち物事の社会的関係であるということを特徴としているのです。
②1つの使用価値がもう1つを交換価値として言及している場合に限り、さまざまな人の仕事<労働>は互いに等しく、普遍的に関係しています。したがって、交換価値が人と人の間の関係であると言うのが正しいなら(5)、それは加えられなければなりません:物質的なカバーの下の隠れた関係にですね。

③物理的化学的性質は異なりますが、1ポンドの鉄と1ポンドの金が同じ重量であるのと同じように、同じ労働時間が含まれる2つの商品の使用価値、同じ交換価値も同じです。

④このように交換価値は効用価値の社会的自然的性質として、物としてそれらに来る決定論として、そしてそれらが明確な量的関係における交換過程で代用する、等価物、単純な化学物質が明確な量的比率でどう組み合わせるか、化学的等価物として現れる。フォーム(形態)なのです。

⑤生産の社会的関係が物象<an object,>の形態をとるのは当然のことであるように思わせるのは--日常生活の習慣だけであり、その結果彼らの仕事<労働>における人の関係はむしろ物事がお互いになる関係であることで、そしてそれが人にふるまっているのです。

⑥商品では、この誤解<謎>はまだ非常に単純です。
交換価値としての商品の関係は、むしろ相互の生産的活動に対する人の関係であることは、多かれ少なかれ思われます。

⑦通貨システムの幻想は、<All illusions of the monetary system>すべてより高い生産条件では、この単純さの外観は消えます。
原稿の中で貨幣が訂正され、金は生産の社会的関係を表すと考えられているのではなく、確かな性質の自然な物< a natural thing>の形をとっているという事実から生じて (1859)います。

⑯-⑧近代的な経済学者たちは、通貨システムの幻想にニヤリとしており、彼らがより高い経済カテゴリーを扱うとすぐに同じ幻想を明らかにします。資本それは世間知らずの驚きの告白の中で、すぐに社会的関係として現れたとき、彼らが抱きしめるべきものとしてふくよかだと思ったこと、そして再び彼らをからかうこととして、彼らが社会的関係として固定したことはほとんどなかったのです。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑰-①商品の交換価値は、実際には同一の一般的なものとしての個人の作品の相互関係に他ならず、特に社会的形態の労働の表象的表現に他ならないが、労働が唯一の交換価値の源であり、したがってそれが交換価値から成る限り、富なのです。
だから、天然物質そのものに交換価値が含まれていないのも同じトートロジーです(6)。労働と交換価値そのものには天然物質が含まれていないためです。 <23>

②しかし、ウィリアム・ペティが「父と地球を富の母」と呼んだ場合、またはバークレー司教が「4つの要素とその中の人間の働きは、真の富の源ではないか」と尋ねると(7) Th。Cooperは一般的に次のように説明しています:「パンの塊から関連する仕事、パン屋、製粉業者、テナントなどの仕事、そして残されたものは何ですか?

③すべてのこれらの見解において、それは交換価値の源であるので抽象的労働ではなく、物質的富の源としての具体的労働である、要するに商品の使用価値を前提とすることで、その中で消費される仕事の一定の便宜を前提とする特定の有用性が尽きるが、同時に商品の観点からは、労働をすべて有用労働として考慮する--ものなのです。

⑰-④使用価値としてのパンに関しては、テナント、製粉業者、製パン業者などの作品が食物としての性質に興味を持っているわけではありません。これらの作品の19/20が失われても、ローフは以前と同じサービスを実行します。それが空から落ちたら、それはその実用的価値の原子を失うことはないでしょう。

⑰-⑤交換価値の労働は商品の平等において普遍的な等価物としてそれ自身を実現するが、労働はその無限の多様性の効用価値における意図的な生産的活動としてそれ自身を実現する。
交換価値・設定作業の示すのは、抽象的で平等な作業であるが、使用価値の設定作業で示されたのは、具体的かつ特殊な作業であり、形式と内容を無限に異なる作業方法に分割する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

⑱-①仕事から、それが効用価値を生み出す限りにおいて、それがそれ自身を生み出す物質的富の唯一の源泉であると言うのは間違っています。

②それはこの目的またはその目的のために材料を割り当てる活動であるので、それは前提条件として物質を必要とします。さまざまな使用価値で、仕事と天然産物の間の割合は非常に異なります、しかし、使用価値は常に天然の基質を含みます。何らかの形での自然の充当のための便宜的な活動として、労働は人間の存在の自然な状態、人間と自然の間の物質の変化のすべての社会的形態から独立した状態です。

③それとは対照的に、交換価値設定作業は、特に社会的形態の労働です。仕立て作業の特別な生産的活動としての彼らの物質的な決定において、岩を生産しますが、岩の交換価値ではありません。

④後者はそれらを仕立て屋の作品としてではなく、抽象的な一般的な作品として作り出しており、これは仕立て屋が行ったことのない社会的背景に属しています。

⑤このように、古代の国内産業では、女性はスカートの交換価値を生み出すことなくスカートを生み出しました。物質的な富の源泉としての仕事は、モーゼの議会や税関職員のアダム・スミスにとってもよく知られていた(9)。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑲ここで、交換価値の労働時間への減少から生じるより正確な規定のいくつかを調べてみましょう。

⑳-①使用価値として、商品は因果関係があります。 小麦 食べ物として機能します。 機械は特定の状況で仕事を置き換えます。 それが単独で使用価値である消費目的である商品のこの効果は、そのサービス、それが使用価値として役立つサービスと呼ばれるかもしれません。

②ただし、交換価値としては、商品は常に結果の観点からのみ考慮されます。 それは彼女が演じるサービスではなく、彼女自身が彼女の制作で行ったサービス(10)です。

③したがって、機械の交換価値は、例えばである。 それはそれによって置き換えられる作業時間の量によって決定されるのではなく、それ自体の中で後処理されそしてそれ故に同じ種類の新しい機械を製造するのに必要とされる労働時間の量によって決定される。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
21ー①したがって、財の生産に必要な労働量が一定のままであるならば、それらの交換価値は不変であろう。

②しかし、生産の容易さと困難さは絶えず変化しています。作品の生産力が高まれば、同じ利用価値をより短時間で生み出すことができます。労働生産力が低下すると、同じ使用価値の生産にさらに時間がかかる。したがって、商品に含まれる労働時間のサイズ、つまりその交換価値は、労働生産力の増減に対する交互の、増減する比率です。

③製造業において所定の程度で使用される労働生産力は、同時に、農業および採掘産業における制御不可能な自然条件によって条件付けられる。同じ研究は、地球の地殻におけるこれらの金属の比較的まれでより頻繁な発生に応じて、異なる金属のより高いまたはより少ない収率をもたらすであろう。

④同じ研究は、地球の地殻におけるこれらの金属の比較的まれでより頻繁な発生に応じて、異なる金属のより高いまたはより少ない収率をもたらすであろう。

⑤同じことが、季節に賛成で、2ブッシェルの小麦で、同じことが嫌いで、おそらく1ブッシェルの小麦でのみ客観化されるかもしれません。自然条件としての希少性または豊富さは、ここでは商品の交換価値を決定するように思われる。なぜなら、それらは自然条件に結び付けられた特定の実質労働の生産力を決定するからです。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
異なる使用価値は、異なる作業量で同じ作業時間または同じ交換値を含みます。 他の使用価値、特定の労働時間を含む商品と比較して、その使用価値の量が少ないほど、その特定の交換価値は大きくなります。

我々は、異なる広い間隔の文化的時代において、ある種の使用価値は、それらの間で、厳密に同じ数値比ではないにしても、過剰および従属の一般的関係を維持する一連の特定の交換価値を形成する。
金、銀、銅、鉄、または小麦、ライ麦、大麦、オート麦は、生産の社会的勢力の漸進的な発展が、それらの異なる商品を生産するのに必要な労働時間に均等にまたはほぼ均等に作用するということにしかならない。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
① 商品の交換価値は、それ自体の使用価値には現れません。
    しかし、一般的な社会労働時間の客観化として、
   <as an objectification of the general social working time>

商品の利用価値は他の商品の使用価値に比例しています。
ある商品の交換価値は、他の商品の使用価値に現れます。
等価とは、実際には他の商品の使用価値で表現された商品の交換価値です。

②私は言う--キャンバス1キュビットはコーヒー2ポンドの価値があるので、キャンバスの交換価値はコーヒーの使用価値にあり、この使用価値の一定量で表されます。その割合を考えると、私はコーヒーの黄麻布のあらゆる量の価値を表現することができます。商品の交換価値は明らかです。
キャンバスはそれに比例して使い果たされることはない。
③コーヒー、それらの同等の形は、一般労働時間です。その表現がキャンバスであることは、他のすべての商品の使用価値の無限に異なる量で同時に実現されます。

④したがって、これらの個々の商品の交換価値は、他のすべての商品の効用値がそれらの等価物を形成する無限数の方程式でのみ網羅的に表現されています。

⑤これらの式の合計、またはある商品が他のすべての商品と交換可能なさまざまな比率の全体においてのみ、それは一般的な同等物として網羅的に表現される。たとえば、方程式のセット1キュビットキャンバス=茶の1/2ポンド
   1 Eile Leinwand = 2 Pfund Kaffee,
   1 Elle Leinwand = 8 Pfund Brot,
   1 Elle Leinwand = 6 Ellen Kattun,
   kann dargestellt werden als
1 Elle Leinwand = 1/8 Pfund Tee + 1/2 Pfund Kaffee + 2 Pfund Brot + 11/2 Ellen Kattun.
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
①したがって、キャンバスの値がそれ自身を網羅的に表現する方程式の総和を私たちの前に持っていたならば、その交換値をシリーズの形で表す

②実際、このシリーズは無限です。なぜなら、商品の周囲は確実に完成するわけではなく、常に拡大するからです。しかし、ある商品が他のすべての商品の使用価値で交換価値を測定する場合、逆に、他のすべての商品の交換価値がそれらを測定するその1つの商品の使用価値で測定されます(11)

③交換価値が、紅茶1ポンドまたはコーヒー2ポンドまたは綿6キュビットまたはパン8ポンドなど、つまり、コーヒー、紅茶、カリコ、パンなどは、3分の1、リネンに等しい割合で互いに等しいとなり、リネンキャンバスは交換価値の共通尺度としての機能を果たします

④一般的な労働時間を客観化した各商品のある一定量の一般労働時間は、その交換価値を他のすべての商品の使用価値のある数量で順番に表し、逆に他のすべての商品の交換価値はその1つの排他的商品の使用価値で測定されます。

⑤しかし、交換価値として、すべての商品は他のすべての商品の交換価値の共通の尺度として役立つ排他的商品であり、その一方で、他のすべての商品がその交換価値を直接表す多くの商品の1つにすぎません。
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① 商品の価値は、商品の外側に他の種類の商品がほとんどまたは多数存在するという事実に影響されません。 しかし、交換価値が実現する方程式の摩擦が大きいか小さいかは、他の商品の多かれ少なかれ次第です。 一連の方程式。 コーヒーの価値は、その交換可能性の範囲、つまり交換価値として機能する限界を表しています。 一般的な社会労働時間の客観化としての商品の交換価値は、無限に異なる効用価値でのその同等性の表現に対応します。

②一連の方程式 コーヒーの価値は、その交換可能性の範囲、つまり交換価値として機能する限界を表しています。

③一般社会労働時間の客観化としての商品の交換価値は、無限に異なる効用価値での同等性の表現に対応する。
   <the objectification 客観化ではなく、物象化>
③The exchange value of a commodity as the objectification of the general social working time corresponds to the expression of its equivalence in infinitely different utility values.
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
①商品の交換価値は、それに直接含まれる作業時間の量によって変わることを見てきました。私は気づいた。
他の商品の使用価値で表される交換価値は、他のすべての商品の生産に関連する作業時間が変化する割合にも依存する必要があります。

②例えば、 小麦のブッシェルを生産するのに必要な労働時間は同じでしたが、他のすべての商品の生産に必要な労働時間は2倍になりましたが、小麦のブッシェルの交換価値は、その等価値で表すと、 ハーフ。 結果は、小麦のブッシェルを生産するのに必要な作業時間が半分減少し、他のすべての商品を製造するのに必要な作業時間が変わらないままであるのと実質的に同じであろう。

③商品の価値はそれらが同じ労働時間で作り出すことができる割合によって決定されます。 この比率がどのような変化にさらされるのかを見るために、2つの商品AとBを仮定します。まず、Bの生産に必要な作業時間は変わりません。 この場合、Bで表されるAの交換価値は、Aの製造に必要な作業時間が減少または増加するにつれて直接減少または増加する。 第二に、Aを製造するのに必要な作業時間は変わらないままである。 Bで表されるAの交換価値は、Bの製造に必要な作業時間が減少または増加するにつれて反比例して減少または増加する。

④第三に、AおよびBの製造に必要な作業時間は同じ割合で減少または増加する。 BにおけるAの同値の表現は、変更されません。 何らかの方法ですべての労働力の生産力が同じ程度低下したために、すべての商品の生産時間が同じになるように労働時間を増やした場合、すべての商品の価値は増加し<28>、交換価値の実際の価値は変化しません。 そして、同じ価値の効用価値を生み出すのにより多くの労働時間が必要だったので、社会の本当の富は減少したでしょう。

⑤第4に、AおよびBを製造するのに必要な作業時間は、両方に対して上昇または下降することができるが、程度は等しくないか、またはAのために必要な作業時間が上昇する一方でBのために必要な作業時間は低下する。 これらのすべてのケースは、商品の生産に必要な作業時間が変わらずに他の作業時間が増減するという事実に単純に減らすことができます。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 各商品の交換価値は、全体のサイズであろうとこの実用価値の分数であろうと、他のすべての商品の使用価値で表されます。 交換価値として、あらゆる商品はその中で客観化されている労働時間そのものと同じくらい割り切れる。 商品の交換価値の追加が、これらの商品を使用する商品が新しい商品に再溶解されるという実際の形態の変化に無関係であるのと同様に、商品の等価性は、その使用価値と同じ物理的な分割可能性とは無関係です。

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これまでのところ、商品は2つの観点から、使用価値と交換価値として、それぞれ一方的に考慮されてきました。 ただし、商品としては、すぐに実用価値と交換価値の単位になります。 同時に、それは他の商品との関係においてのみ商品です。 互いに対する商品の本当の関係はそれらの交換プロセスです。 独立した個人が参加するのはこの社会的プロセスですが、商品所有者としてのみ参加します。 互いの互いの存在は彼らの商品の存在であり、それゆえそれらは実際には交換プロセスの意識的なキャリアとしてのみ現れる。

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① 商品は使用価値、小麦、キャンバス、ダイヤモンド、機械などですが、商品としては使用価値ではありません。それがその所有者にとって有用な価値であったならば、彼自身の必要性を満たす即時の手段、それらは商品ではないでしょう。それどころか、彼にとっては、それは無用価値であり、単なる交換価値の重要な担い手であり、あるいは単なる交換媒体である。交換価値の積極的なキャリアとして、使用価値は交換の手段になります。彼にとって、use-valueは単なる交換価値です。 (12)

②最初に他の人のために使用価値になる必要があります。自社所有者のための使用価値ではないので、他の商品の所有者のための使用価値です。そうでなければ、彼の作品は無駄な作品だったので、彼らの結果は商品ではなかった。一方、それ以外は、それ自体が使用価値となるはずであり、外国製品の使用価値の中には、その食品が存在します。使用価値になるためには、商品はそれが満足の目的である特定の必要性に直面しなければなりません。したがって、商品の使用価値は、それらが交換の媒体である手から、それらが商品である手へと移るという点で、あらゆる面で場所を変えるという点で、使用商品としてのものである。商品をこのように一斉に空にすることによってのみ、それらに含まれる作品は有用な作品になります。

③このように商品同士の利用価値としての処理関係において、それらは新たな経済的形態決定を受けない。そうではなく、それらを商品として特徴付けた形式固有性は消えます。パン屋の手から消費者の手への移行において、パンとしての彼の存在を変えることはありません。逆に、経済関係のパン屋の運搬人の手に渡って、ある食品は感覚的に見過ごせないものであったので、それを使用価値として参照するのは消費者です。

④したがって、商品が使用価値となるために入る形態の唯一の変更は、それらが所有者にとって不使用価値であり、非所有者にとって使用価値であったという正式な存在の廃止です。使用価値としての商品の出現は、あらゆる側面からの疎外感、交換プロセスへの参入を想定していますが、交換のための存在は、交換価値としての存在です。したがって、使用価値として実現されるためには、それらは交換価値として実現されなければなりません。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
① 個々の商品がもともと使用価値の観点から独立したものとして現れた場合、それは他のすべての商品に関して最初から交換価値とみなされた。
しかし、この関係は理論的、想像上の関係にすぎません。交換プロセスでのみ有効になります。

②一方、商品にはある程度の作業時間がある限り交換価値であり、したがってそれは客観的な作業時間です。

③一方、商品にはある程度の作業時間がある限り交換価値であり、したがってそれは客観的な作業時間です。しかし、それは差し迫っているので、一般的な労働時間ではなく、特定の内容の個々の労働時間を客観化するだけです。
③On the other hand, the commodity is exchange value, as long as a certain amount of working time is worked up
in it, and therefore it is objectified working time.
    <個々の労働時間を客観<objectified>化する

④But, as it is immediate, it is only objectified individual working time of particular content, not general working time.
④しかし、それは差し迫っているので、
一般的な労働時間ではなく、
 <it is only objectified individual working time>
特定の内容の個々の労働時間を客観化するだけです。

⑤まず第一に、それはそれがある有用な用途における作業時間、すなわち使用価値を表すものである限り、
  <objectification of the general working time>
  一般的な作業時間の客観化でしかあり得ない。
⑤First of all, it can only be an objectification of the general working time, as long as it represents working time in a certain useful application, that is, in use value.

⑥これは、商品に含まれる労働時間だけが一般的、社会的であると想定されているという重要な条件でした。
⑥This was the material condition, under which only the labor-time contained in the commodities was presupposed as general, social.

⑦If the individual commodity originally appeared as an independent thing from the point of view of use-value, it was, on the other hand, regarded as an exchange-value from the outset in relation to all other commodities.
This relationship, however, was only a theoretical, imaginary one. It is only activated in the exchange process.
On the other hand, the commodity is exchange value, as long as a certain amount of working time is worked up in it, and therefore it is objectified working time.
 <it is objectified working time. ><客観的な作業時間>
But, as it is immediate, it is only objectified individual working time of particular content, not general working time.

⑧個々の商品がもともと使用価値の観点から独立したものとして現れた場合、それは他のすべての商品との関係で当初から交換価値とみなされていた。しかし、この関係は理論的、想像上の関係にすぎません。交換プロセスでのみ有効になります。一方、商品にはある程度の作業時間がある限り交換価値であり、したがってそれは客観的な作業時間です。
しかし、それは差し迫っているので、一般的な労働時間ではなく、特定の内容の個々の労働時間を客観化するだけです。

⑨したがって、それは直接価値を交換するのではなく、最初にそのようにならなければなりません。
まず第一に、それはそれがある有用な用途における作業時間、すなわち使用価値を表すものである限り、一般的な作業時間の客観化でしかあり得ない。これは、商品に含まれる労働時間のみが一般的、社会的とみなされるという重要な条件です。

そのため、その商品が交換価値として認識されることによってのみ商品として使用されることができるのであれば、その一方で使用価値としての疎外感を証明することによってのみ交換価値として実現されることができる。

商品は、使用価値のあるものに限り、使用価値として販売することができます。特別なニーズの対象一方、それは他の商品に対してしか売られていないか、あるいは他の商品の所有者の側に身を置くならば、彼は自分の商品のみを売ることもできます。それらを目的としている特定の必要性と接触させることによって。

したがって、使用価値としての商品の全能性においては、それらはその物質的な違いによって特別なものとして互いに言及され、それらの特定の品質によって特定のニーズを満たす。しかし、そのような単なる使用価値として、それらはお互いに無関心な存在であり、むしろ無関係です。

実用価値として、それらは特定の必要性に関してのみ交換することができます。

But they are exchangeable only as equivalents, and they are equivalents only as
  equal quanta of objectified working time,
   <客観的な労働時間の等しい量>
so that all respect for their natural qualities is extinguished as utility values, and therefore on the relation of commodities to particular needs.
⑬しかし、それらは同等物としてのみ交換可能であり、それらは客観的な労働時間の等しい量としてのみ同等物であるので、それらの自然の質に対する全ての尊重は効用値として消滅し、従って商品と特定のニーズとの関係において消滅する。

逆に、商品は交換価値として働き、他の商品の所有者にとっての使用価値であるかどうかにかかわらず、他のすべての商品の任意の数量を均等物として置き換えます。

他の商品の所有者に限りますが、自分にとっての使用価値である限り商品となり、自分の所有者にとっては他の商品である限り交換価値となります。同じ関係は、本質的に等しいが量的に異なるだけの商品の関係、一般的な労働時間の材料としてのそれらの方程式、そしてそれらの関係は、要するに特定のニーズに対する特定の使用価値のように質的に異なるものであるべきです。しかし、この式と不等式は相互に排他的です。

⑯Thus, not only does a faulty circle of problems arise, in that the solution of one presupposes the solution of the other, but a whole of contradictory demands, in that the fulfillment of a condition is directly bound to the fulfillment of its opposite.
⑯これは、一方の解決が他方の解決を前提としているという点で、不完全な問題の輪を生み出すだけでなく、条件の達成がその反対の達成に直接結び付くという、相反する要求の全体を意味する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
①商品の交換は、これらの矛盾の展開と解決の両方でなければなりませんが、この単純な方法では表現できません。

②商品自体が相互に使用価値と呼ばれる方法、すなわち使用過程において商品が効用価値として現れる方法を見ただけである。

③交換価値は、これまで見てきたように、私たちの抽象化の中でのみ、あるいは望むならば、実用価値としての商品が記憶の中にあり、良心の中で交換価値としてのものであった。

④しかし、交換の過程では、商品自体が実用価値としてだけでなく、互いに対する交換価値としても存在しなければならず、これは互いの関係として存在しているように見える。

⑤The difficulty with which we first paused was that the commodity, in order to present itself as an exchange value as objectified labor, must be sold as utility and be put aside to the man, while its renunciation serves as a benefit.
⑤私たちが最初に中断した難しさは、
        商品それ自体を客観--物象--化された労働
       <an exchange value as objectified labor,>
としての交換価値として提示するために、効用として売却し、その放棄が利益として役立つ一方で、人々のために脇に置いておかなければならないということでした。

⑥その価値は交換価値としての存在を前提としています。この問題は解決されました。商品はその特別な使用価値を奪い、疎外感によって社会的に有用な仕事のための重要な要件を満たしており、個人のための仕事ではありません。
⑥The value presupposes its existence as an exchange value. This difficulty is solved. Goods have deprived of their special use value and fulfill by their alienation the material requirement for socially useful work and not the work of the individual for themselves.

⑦It must therefore be an exchange value in the exchange process, a universal equivalent,
  an objectified general working time
     <客観--物象的--な一般的労働時間>
  for the other goods and thus no longer the limited effect of a certain value in use, but the immediate representation in all values ??used as equivalents.
⑦したがって、交換プロセスにおける交換価値、普遍的な同等物であり、他の商品のための客観<物象>的な一般的労働時間であり、したがって、使用中の特定の値の限定的な効果ではなくなりますが、等価物として使用されるすべての値の即時表現になります。

     --客観<物象>的な一般的的労働時間--
 『経済学批判』を過去に読んで、少しもこの本についての記憶が無い、
 その理由がここには理解できる。
 再版での--商品の交換可能性の形態は価値形態にて、であり、
 一般的な交換可能性の形態は、一般的価値形態にてであることで、
 この商品世界から放逐されたリンネルがそれを受け取ることで、
 一般的な相対的価値形態が、商品世界の共同事業として形成されてい
 るのであり、回り道を経たこの共同事業の対極に一般的な直接的交換
 可能性の形態・の同等物の形態を受けとることで、やっと両極の形態
 が形成されるのであり、この二つの形式の絶えざる未完成のために、
 その完成を目指す物象との動態があります。

 また、このまた、この国民文庫訳のお粗末さには、ビックリでした。
 一例
 <「後者はそれらを仕立て屋の作品としてではなく、
  抽象的な一般的な作品として作り出しており、
  これは仕立て屋が行ったことのない社会的背景に属
  しています。」>
 <マルクスは、「抽象的な一般的な作品として作り出しており、」
  --と提起しているのに、商品関係が、物象の社会関係が、
  自明なことのように、次の強制をしている--
  「裁縫労働が上着の交換価値を生産するのは、裁縫労働として
  ではなくて、抽象的一般的な労働としてであり、」<P37>
  --と誤訳・悪訳を提起するのです。>

⑧しかし、すべての商品は商品であり、それはその特別な使用価値の処分によって一般的労働時間の直接的な材料として現れなければならない

一方、交換過程では特別な商品だけが直面し、特に実用価値は個人の作品を体現しています。一般的労働時間自体は、商品には存在しない抽象概念です。
      <商品それ自体を客観--物象--化された労働>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーBetrachten wir die Summe von Gleichungen, worin der Tauschwert einer Ware seinen realen Ausdruck findet, z.B.:

1 Elle Leinwand = 2 Pfund Kaffee,
1 Elle Leinwand = 1/2 Pfund Tee,
1 Elle Leinwand = 8 Pfund Brot usw.,

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

http://

 

商品に提示された作品の二重性格 

 投稿者:杉本  投稿日:2019年 1月 4日(金)20時15分57秒
返信・引用 編集済
      ぐーぐるほんやく
  https://translate.google.co.jp/?hl=ja
   http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm

  資本論 再版 第一章 1・2節
  1.商品の2つの要素:使用価値と価値(Wertsubstanz、バリューサイズ)
①資本主義的生産様式が優勢である社会の富は、「莫大な財の集まり」(1)、その基本形としての個々の商品として現れる。したがって、私たちの調査は商品の分析から始まります。

②商品はまず外的対象、その性質によってある種の人間の要求を満たすものです。これらのニーズの性質は、それらが例えば胃や想像力から生じることは何も変わらない(2)。直接的に食料としてであろうとなかろうと、それがいかにして人間の必要性を満たすのかという問題でもない。楽しみの目的として、または回り道で、生産の手段として。

③鉄、紙などのあらゆる有用なものは、品質と量の観点から、二重の観点から考慮されるべきです。そのようなものはそれぞれ多くのプロパティの全体であるため、さまざまなページで役に立ちます。これらの異なる側面、そしてそれゆえに物事を行うための多様な方法を発見することは歴史的な行為です(3)。だから有用なものの量のための社会的措置の決定。商品の寸法の違いは、部分的には慣習から、測定対象の異なる性質から生じます。

④ものの有用性はそれを有用な値にします(4)。しかし、この有用性は空中に浮かんでいません。体の性質上、それがなければ存在しません。

鉄、小麦、ダイヤモンドなどの商品自体は、したがって、使用価値または良いです。この性質は、その有用性の割り当てに多大な労力がかかるのか、それともわずかな労力がかかるのかには依存しません。
使用価値を考えるとき、それらの量的な明確さ、例えば数十の時計、キャンバス、1トンの鉄などが常に前提とされています。商品の使用価値は彼ら自身の分野、商品知識の材料を提供します。 5)。

効用価値は使用または消費においてのみ実現される。効用価値は富の重要な内容を構成し、それは常にその社会的形態である。私たちが考える社会という形で、それらは同時に交換価値の重要な担い手を形成します。

⑤交換価値は最初に量的比率、ある種類の使用価値が別の種類の使用価値に交換される割合(6)、時間と場所で絶えず変化する関係として現れる。したがって、交換価値は偶然で純粋に相対的なもの、商品に内在する固有の交換価値、つまりadjecto(7)の矛盾であるように思われます。詳しく見てみましょう。

⑥特定の商品、小麦の4分の1、 x Stiefelwichseまたはy silkまたはz goldなどとの交換、簡単に他の商品との比率が最も異なる。したがって、多様体交換価値は、1つではなく小麦です。しかし、xブートワックスは、シルク、zゴールドなどと同様に、小麦の4分の1の交換価値なので、yは、交換可能または等しい交換価値によるブートワックス、yシルク、zゴールドなどでなければなりません。したがって、最初に次のようになります。

同じ商品の有効な交換価値は同じことを表します。
第二に、交換価値は表現のモードであり、それとは区別されることができる内容の「現れ」にしかなり得ない。

⑦また、2つの商品を取りましょう。小麦と鉄それらの交換比率がどうであれ、それは常に与えられた量の小麦がどんな量の鉄にも等しいとされる式で表すことができる。 4分の1小麦= 1 Ztr。鉄。

この方程式は何を言っていますか?
同じ偉大さの共通点が2つの異なること、1/4小麦、そしてZtrにも存在すること。鉄にもですね。したがって、どちらも第三者のようなものであり、それ自体は一方でも他方でもありません。したがって、2つのそれぞれは、交換価値に関する限り、この第三者に還元可能でなければなりません。

⑧簡単な幾何学的な例はこれを説明します。 すべての直線図形の面積を決定して比較するために、それらは三角形に分割されています。 三角形自体は、その見かけの図形とは非常に異なる表現に縮小されています - ベースラインとその高さの積の半分です。 同様に、商品の交換価値も普通に減らされるべきであり、それらは超過またはより少ないものを構成する。

⑨この共通の特徴は、商品の幾何学的性質、物理的性質、化学的性質、またはその他の自然の性質にはなり得ません。 それらの物理的性質は、それらがそれを使用可能にするのであれば、値を使用するために考慮されるだけです。 他方、それはまさにそれらの使用価値の抽象化であり、それは明らかに商品の交換比率を特徴付ける。 適切な割合でしか存在しない場合、その中にuse-valueは他のものと同じくらい多くなります。 あるいは、古いBarbonが言うように、
"Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert."(8)
「ある種類の商品は、その交換価値が同じであれば他の商品と同じくらいに良く、同じ交換価値のものの間に違いや区別はありません。」(8)

⑩使用価値として、商品は何よりも品質が異なる上に、交換価値が異なる数量のものにしかなり得ないため、使用価値は含まれていません。

⑪今商品の使用価値を無視するならば、それらはもう一つの財産、労働生産物のそれだけを持っています。しかし、作業成果物はすでに私たちの手で変わっています。私たちがその効用価値から抽象化するならば、私たちはそれを使用価値にする身体的な構成要素と形からも抽象化します。それはもはやテーブル、家、または糸ではなく、その他の点では有用ではありません。彼の官能的な性質はすべて消滅した。大工や建築工事、紡績業、その他の生産的な仕事の成果でもありません。作業成果物の有用な性格によって、それらに提示された作品の有用な性格は消滅するので、これらの作品の様々な具体的形態もまた消え、もはや違いはないが、すべて同じ人間の仕事、抽象的に人間の仕事に還元される。

⑫今度は作業成果物の残差を考えてみましょう。彼らには何も残されていませんが、同じ幽霊的な客観性、比類のない人間の労働の単なる水差しがあります。支出の形態に関係なく、人的労働の支出。これらのことは、彼らの生産において人間の労働力が費やされ、人間の労働が積み重なっていることを表しているにすぎません。それらの共通の物質の結晶として、それらは価値 - 商品価値です。

⑬商品自体と引き換えに、それらの交換価値はそれらの使用価値とは全く無関係に見えた。労働生産物の使用価値から本当に抽象化されているならば、それはちょうど決定されたように人はそれらの価値を得る。そのため、商品の交換または交換価値に共通するのは、その価値です。調査の進展は、必要な表現や??価値の表明として交換の価値に戻るでしょう。しかし、それは最初にこの形から独立していると考えられなければなりません。

⑭抽象的に人間の仕事はその中に客観化されているか具体化されているので、使用価値または財は一つの価値しかありません。その値の大きさを測るには?その中に含まれる「価値形成物質」の量を通して、作品。労働量自体はその時間の長さによって測定され、労働時間もまた時間、日などのような特定の期間におけるその規模を有する。

⑮商品の価値がその生産の間に費やされた労働の量によって決定されるならば、彼がそれを生産するのにより多くの時間を必要とするので、より怠惰またはぎこちない人、より彼の商品はより価値があるようです。

しかし、価値の本質を構成する仕事は同じ人間の労働、同じ人間の労働の支出です。

商品の世界の価値観で表される社会全体の労働力は、ここでは無数の個人労働者で構成されていますが、同一の人間の労働力であると見なされます。これらの個々の労働者のそれぞれは、それが社会的平均労働者の性格を有し、したがって社会的平均労働力として行動する、すなわち商品の生産において必要なまたは社会的に必要な労働時間のみが必要である限り、他と同じ人間の労働力である。

社会的に必要な労働時間とは、既存の社会的に正常な生産条件、社会的平均技能度および仕事の強度を伴うあらゆる実用的価値を表すために必要な労働時間です。

イギリスでのスチームルーム導入後与えられた量の糸を布地に変えるために、以前の半分の作業量が必要かもしれません。実際、英語のハンドウィーバーは、この変換に同じ作業時間をまだ必要としていましたが、彼の個々の作業時間の積は、今や社会の半分の作業時間を表しているだけで、以前の半分の値になりました。
   <スチームルーム導入後与えられた量の糸を布地に変えるために・・この嫌味!の表現>

⑯したがって、それはその価値の大きさを決定する使用価値の生産に社会的に必要な労働または労働時間の量のみである(9)。単一の商品は、その種類の平均的なコピーとしてここではまったく適用されます(10)。したがって、同量の労働が含まれる商品、または同じ作業時間内に生産される商品は、同じ金額サイズになります。商品の価値は、他のすべての商品の価値、および他の労働時間の生産に必要な一方の労働時間の生産に必要な労働時間です。 「価値観として、すべての財は固まった労働時間の一定の尺度にすぎません。」 (11)

⑰したがって、生産に必要な作業時間が一定であれば、商品の価値規模は一定のままです。
しかし、後者は作品の生産力が変わるたびに変わります。
労働の生産力は、とりわけ労働者の平均的な熟練度、科学の発展段階と
その技術的な適用可能性、生産プロセスの社会的組み合わせ、生産の範囲と効率によって、
多様な状況によって決定されます。プロセス、および自然条件によってです。
同じ量の仕事が生じる。同じ量の作業で、貧弱な鉱山などよりも豊富な金属の方が
多くの金属を生産します。ダイヤモンドは地殻にはめったに発生しないため、その発見には平均して多くの作業時間がかかります。その結果、彼らは小さなボリュームで多くの仕事をします。
ヤコブは金がその全価値をこれまでに払ったと疑っています。
これはダイヤモンドにも当てはまります。
Eschwegeによれば、1823年にブラジルのダイヤモンド鉱山の80年間の総収量は、
ブラジルの砂糖農園やコーヒー農園の平均1年半の製品の価格にはまだ達していませんでした。

より豊富なピットでは、同じ量の仕事がより多くのダイヤモンドに現れ、それらの価値は減少するでしょう。少しの労力で石炭をダイヤモンドに変えることに成功した場合、その価値はレンガの価値を下回る可能性があります。一般:作業の生産力が大きいほど、製品の生産に必要な作業時間が短くなり、その中で結晶化する作業質量が小さくなるほど、その値は小さくなります。

逆に、作品の生産力が小さければ小さいほど、記事を制作するのに必要な労働時間は長くなり、その価値も高くなります。このように、商品の価値の大きさは、量子のように変化し、逆もまた同じです。その中で実現される作品の生産力のように。 初版は続きます:私たちは今価値の本質を知っています。それは仕事です。私たちは彼の大きさを知っています。それは労働時間です。交換の価値を刻む彼のフォームは、分析されるために残っています。しかしその前に、すでに見いだされた条項はもう少し近く開発されなければなりません

⑱物事は価値がなくても価値を使うことができます。これは、人へのその恩恵が労働を通じて仲介されていない場合に当てはまります。だから空気、処女の土、自然の牧草地、野生の木など物事ではないにしても物事は有用であり、人間の労働の産物である可能性があります。彼の製品を通して彼自身の必要性を満たすものは誰でも、商品価値ではなく使用価値を生み出す。
商品を生産するために、彼は使用価値を生産するだけでなく、他の社会的有用性の価値のために価値を生産しなければなりません。
(そして他人のためだけではありません。中世の農民は、封建領主のための関心のある穀物、司祭のための十分な穀物を作り出しました。しかし、関心のある粒も10粒も、他の人のために作られたために商品にはなりませんでした。)
商品になるためには、交換を通じて、製品を他の人に譲渡しなければなりません。
(11a)最後に、商品でなければ価値のあるものはあり得ません。それが無用であるならば、それに含まれる仕事は無用であり、仕事として数えない、そしてそれ故に価値を構成しない。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  2. Double character of the work presented in the goods
    商品に提示された作品の二重性格

①<56>当初、商品はあいまいで、使用価値があり、交換価値があるようでした。
後になって明らかになったのは、価値に表現されている限りにおいて、使用価値は仕事とはもはや同じ特性を持たないということであります。商品に含まれている作品のこのあいまいな性質は、まず第一に私によって批判的に証明されました。 (12)この点は政治経済学の理解において、中心となるところの急上昇点であるため、ここでさらに詳しく検討する。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
②スカートと10キュビトのリネンなど、2つの商品を持って行きます。前者は後者の2倍の値を持っているので、もしリネンの10キュビットがWの場合には2Wになります
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
③スカートは特別な必要性を満たす使用価値です。それを生産するには、ある種の生産的活動が必要です。目的、操作モード、目的、手段、および結果によって決まります。その有用性がその製品の使用価値、またはその製品が使用価値であるという事実に現れる仕事、私たちは短く有用な仕事と呼びます。この観点から、それはその有用性の観点から常に考慮されます。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  <詳訳>
③The skirt is a use value that satisfies a special need. To produce it requires a certain kind of productive activity.
It is determined by its purpose, mode of operation, object, means and result.

The work, whose usefulness manifests itself in the use value of its product or in the fact that its product is a use value, we call short useful work. From this point of view, it is always considered in terms of its utility.
③スカートは特別な必要性を満たす使用価値です。それを生産するには、ある種の生産的活動が必要です。
それは、目的、操作方法、<object, オブジェクト>、手段、および結果によって決まります。
 Operationsweise,   操作方法   Operation way
 Gegenstand,      オブジェクト、Object,
 Mittel und Resultat.  手段と結果  Means and result.
その有用性がその製品の使用価値、またはその製品が使用価値であるという事実に現れる仕事<「労働」>、
私たちは短く有用な仕事<「労働」>と呼びます。
この観点から、それはその有用性の観点から常に考慮されます。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
④ロックとキャンバスのように質的に異なる使用価値があるので、それらの存在を仲介する作品は質的に異なっています - 仕立てと織り。これらのことが定性的に異なる使用価値ではなく、したがって定性的に異なる有用な仕事の成果物ではない場合、それらは商品として自分自身に直面することは全くできませんでした。ロックはスカートに対してそれ自身を交換しません、同じ使用価値は同じ効用価値と比較しません。

  <同じ使用価値は同じ効用価値と比較しません。>
  <the same use value does not compare with the same utility value.>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑤さまざまな使用価値または商品の全体では、全体、属、種、家族、亜種、さまざまな有用な仕事の多様性、社会的分業によって、まったく同じように見えます。それは商品生産の実存的条件であるが、逆に商品生産は社会的分業の実存的条件ではない。古代インドのコミュニティでは、製品が商品にならずに仕事が社会的に共有されています。あるいは、もっと明白な例として、すべての工場で作業は体系的に分割されていますが、この分割は個々の製品を交換する作業員によって仲介されるわけではありません。
自立した、独立した私的作品の製品だけが商品として互いに対立しています。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑥このように、あらゆる商品の使用価値には、ある都合の良い生産的活動または有用な仕事があることがわかった。質的に異なる有用な仕事がそれらに含まれていない限り、使用価値は商品として考えることはできません。

その製品が一般に商品の形態をとる社会では、だから商品生産者の社会では、独立生産者の民間事業として独立して運営されているこの有用な作品の質的な違いは、マルチユニットシステム<その多岐的な体制>である社会的分業へと発展します。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑦偶然にしても、それが調整者によって着用されようと、調整者の依頼者により着用されようと、スカートにとって重要ではありません。どちらの場合も、使用価値として機能します。仕立てが社会的分業の独立した一員である特別な職業になるという事実によっても、岩とそれを生み出す作品の関係は変わりません。衣服の必要性が彼を強要したところはどこでも、人が仕立て屋になる前に、人は何千年もそのために作ってきました。

しかし、岩、キャンバス、等々の天然には存在しない物質的な富の要素は、常に特定の天然物質を特定の人間のニーズに同化させる特別な意図的に生産的な活動によって、仲介されなければなりません。実用価値としての教育者としての、有用な仕事として、仕事はそれ故にあらゆる社会形態からの人間の独立した条件、人間と自然の間の新陳代謝、すなわち人間の生活を伝えるための自然の永遠の必然性です。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑧使用価値の岩、キャンバスなど、つまり商品は、天然素材と作品の2つの要素の複合物です。岩やキャンバスなどにあるすべてのさまざまな有用な作品の合計を差し引くと、人の介在なしに自然に存在する重要な基層が常に残ります。人間は、自然そのものとして、自分の作品を制作することしかできません。物質の形を変えるだけです。 (13)

もっとこの形成の働き自体において、それは絶えず自然の力によって支えられています。だから仕事はそれが生み出す効用価値、物質的富の唯一の源ではない。 William Pettyが言うように、作品は彼の父親であり、地球は彼の母親です。
<The work is his father, as William Petty says, and the earth is his mother.>

⑨商品である限りでは、商品から商品価値まで進みましょう。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑩ー①私たちの仮定によれば、ロックはキャンバスの2倍の価値があります。しかし、これは私たちがまだ興味を持っていない量的な違いにすぎません。したがって、コートの価値がリネンの10キュビトの値の2倍である場合、リネンの20キュビットはコートと同じ値であることを覚えています。

価値の観なしとして、ロックとキャンバスは同等の本質のもの、同じような作品の客観的な表現です。しかし、仕立てと織りは質的に異なる作品です。
  <canvas are things of equal substance,
  キャンバスは同等のものです
  オブジェクト<客観的>物象的な表現
  objective expressions >

⑩ー②しかし、同じ人が交互に仕立てたり織ったりする社会的な状態があります。したがって、これら2つの異なる作業モードは、同じ個人の仕事の変更だけであり、まだ私たちの仕立て屋のような異なる個人の特別な機能ではありません。今日、そして彼が明日やっているズボンは、同じ個々の作品のバリエーションを前提としているだけです。

⑩ー③私たちの資本主義社会では、労働需要の方向性の変化に応じて、人間的労働の一定部分が洋裁の形で、または製織の形で交互に供給されることも示しています。

⑩ー④仕事の形態のこの変化は摩擦がないわけではないかもしれませんが、彼は行かなければなりません。生産的活動の確実性、したがって労働の有用な性格を無視したとしても、それは人間の労働の支出であることに変わりはありません。

⑩ー⑤質的に異なる生産的活動にもかかわらず、仕立ておよび製織は、両方とも、人間の脳、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人道的労働である。 2つの異なる形態、支出する人的資源しかありません。しかし、人間の労働力自体は、何らかの形で使われるために多かれ少なかれ発達していなければなりません。しかし、商品の価値は、優れた人間の労働力、一般的には人間労働の支出を表します。市民社会と同じように、将軍や銀行家が大きな役割を演じ、人間が非常に粗末な役割を演じます(14)。人間労働もそうです。

⑩ー⑥それは、単純な労働力の支出であり、平均して、普通の人は、特別な発達をすることなく、彼の身体的な生物にあります。単純な平均的な作品自体が、さまざまな国や文化的時代においてその性格を変えますが、それは既存の社会で与えられています。より複雑な作業は、乗数であるというよりはむしろ乗算された単純作業であると見なされるだけなので、より複雑な作業のより小さな量はより単純な作業のより大きな量に等しい。

⑩ー⑦この減少が絶えず進行することは経験によって示されています。商品は最も複雑な労働力の産物であるかもしれず、その価値はそれを単純労働力の産物と同等にし、それゆえそれ自体は明確な量の単純労働力を表すにすぎない。 (15)

⑩ー⑧異なる種類の労働がその測定単位として単純労働に還元される異なる割合となります。生産者の背後にある社会的プロセスによって固定されているため、生産者によって与えられているようです。簡単にするために、どんなタイプの労働もただちに単純な労働であると考えられ、それは削減の労力を節約するだけです。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑪ロックとキャンバスの使用価値が意図的で生産的な活動として、布や糸との結びつきであるのと同様に、ロックとキャンバスの価値は単なる類似の作業用ギャレーであるため、これらの値に含まれる作品は考慮されません。 布や糸の使用において生産的であるが、支出としてのみ人間労働であります。
実用的価値の教育的要素であるロックとキャンバスは、まったく異なる品質で仕立てられています。
スカート価値の本質とキャンバスの価値は、それらが彼らの特定の品質から抽象化され、同じ品質を持っている限りにおいて、人間の仕事の品質を示すにすぎません。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑫岩やキャンバスは単なる価値ではなく、ある程度の大きさの値です。私たちの調査によると、スカートはキャンバスの10倍の2倍の価値があります。
これは彼女の価値<her value sizes>の大きさとどこが違うのですか?それ故、キャンバスはコートの半分の仕事しか含まないので、
後者の生産のために労働力の支出は前者の生産の2倍の時間を費やさなければならない。
  <the labor-power must be spent twice as much time>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑬したがって、使用価値に関しては、商品に含まれる作業は定性的なものにすぎず、それ以上の品質なしに既に人間労働に還元された後は、その価値に関しては--ただ量的にのみ適用されます。

そこには、その仕事のどのようにそして何か、ここにそれのまわりでどれくらいであるのか、それは、彼らの時間の長さに関係します。商品の価値は、それに含まれる作品の量を表すだけなので、ある割合を示す商品は、常に等しい価値でなければなりません。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑭生産力が変わらずに、コートの生産に必要なすべての有用な仕事が変わらないと言うならば、スカートの価値はそれ自身の量と共に増加します。 1スカートxの場合、2スカートは2 x営業日を表します。しかし、スカートを2倍にするか半分にするために必要な作業があるとしましょう。最初のケースではスカートは2つのスカートの前と同じくらいの価値があり、後者のケースでは2つのスカートは以前と同じくらいの価値しかありません。善は残る。しかし、その制作に費やされる仕事の量は変わりました。
<・・ work spent in its production has changed.>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑮グロースより多くの使用価値は、それ自体、より大きな物質的な富、2つ以上のスカートを形成します。
2つのスカートを使用すると、1人分だけのスカートを使用して、2人でドレスアップできます。それにもかかわらず、素材の資産の増加する質量は、その価値の同時低下に対応することができます。
この対照的な動きは、作品のあいまいな性格<a>から生じています。

 <a--objective expressions オブジェクト<客観的>
 物象的な表現へと⑧段落のとりちがえる性格のことなのです。>
 再度<canvas are things of equal substance,
   キャンバスは同等のものです
   客観的な表現 objective expressions --だからです。>
   <こうして教えてくれたことは、「労働の二重性」の訳では、全
   くの誤りであり、物象的な表現・物象の判断の結果として、そ
   の--あいまいな性格が、生まれている----とのことです>
<61>生産力は、もちろん、常に有用で具体的な作業の生産力であり、実際には、一定期間内の適切な生産活動の効率のみを決定します。したがって、その有用な仕事は、生産力の増減に正比例して、より豊富またはより貧弱な製品供給源になります。

一方、生産力の変更はその値に示されている作業には影響しません。もちろん、生産力は具体的な有用形式の仕事に属しているので、それがその具体的な有用形式から抽象化されるとすぐにそれはもはやその作品に影響を与えることはできません。したがって、生産力が変わっても、同じ仕事で同じ期間に同じ大きさの価値が常に得られます。

しかし同じ期間に、それは生産力が増すにつれてより多くの--Quanta--取違えの使用価値を与え、それが減るにつれてより少なくします。労働による出生の、ひいてはそれによって供給される効用価値の質量を増加させる生産力の同じ変化は、それがその生産に必要な労働時間の合計を短縮する場合、この増加した総質量の価値--価値を減少させる。逆も同様です。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑯一方で、全ての労働は生理学的な意味での人間労働力の支出であり、そしてこの等しい人間の能力または抽象的な人間労働の能力において、それは商品価値を構成する。
他方、すべての労働は特別な形態での人間労働の支出であり、そしてこの具体的な有用労働の能力において有用性を生み出す。 (16)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(16)第2版に注意してください。
「すべての商品の価値を常に評価し比較することができる決定的かつ現実的な手段は、労働だけであることを証明するために」とA.スミス氏は言います。

労働者自身にも同じ価値があります:彼の通常の健康状態、強さ、そして活動状態において、そして彼が持っている平均的な技能の度合いの中で、彼はいつも彼の残りの部分、自由そして幸福の同じ部分に捧げなければなりません "("一方では、ここで(どこにでもあるわけではないが)A.スミスは、価値の決定を、その生産に費やされた実用的な量の提供と混同している。

コモディティとコモディティは労働価値で評価されるため、同量の労働が常に同じ価値を持つことを証明しようとします。他方で、彼は、それが商品の価値に現れる限りにおいて、労働は単に労働の支出と見なされるが、この支出は単に平和、自由と幸福の犠牲でもあると見なすのではなく、と見なすと疑う。人生の通常の活動。しかし、彼は現代の賃金労働者を念頭に置いています。

- メモ9がA. Smithの匿名の先駆者を引用したことをもっともっと適切に言います:

   "1人の男がこの商品の製造に1週間費やしました...
  そして交換に別の物を与えた人は誰でもそれは実際にはある人がある物のために、
  ある物のために、別の物のために、そして同時に別の物のために使った労働の交
  換を意味します。」( "一般的な金銭的利益などに関するいくつかの考え、p39)

-  {第4版:英語は仕事のこれら2つの異なる側面に対して2つの異なる単語を持つメリットがあります。効用価値を生み出す仕事そして、定性的に定義された労働は労働とは対照的に労働と呼ばれ、価値を生み出し、定量的に測定される労働は労働とは対照的に労働と呼ばれています。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 <作品のあいまいな性格>であって、労働の二重性では無い!とは?
 ーー再度・提起。「作品」であるのが、「労働」へと転化する!
 この摩訶不思議さが、「労働の二重性」の物象的な幻術であります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 <そして、次のエンゲルスの例示があるのです。>

("一般的な金銭の利益などに関するいくつかの考え、p。39。) -  {第4版:英語は仕事のこれら二つの異なる側面に対して二つの異なる言葉を持つという利点があります。効用価値を生み出し、定性的に定義された仕事は、労働とは対照的に仕事と呼ばれます。価値を生み出し、定量的に測定される仕事は、仕事とは対照的に労働と呼ばれます。英語のメモを参照してください。翻訳、p。 14.  -  F.E.}
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ここには、①商品に提示された作品、であって、②労働の二重性が何故生ずるのか?との二つの関連性が示されている。
A・スミスが、物象の社会関係が成立していることで、商品価値の形成が為されている--国民経済学としては、当然の認識--というのは、今!この英訳が出てくることで、本当に・・・理解出来ました。
我々は、資本主義社会の住人は、この転倒した<宗教的社会>に居て、逆立ちして生活しています。
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 第三節 価値形態 または交換価値

①商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品または商品形態で生まれます。
これは彼らの手作りの形です。しかし、それらは商品でしかありません。
なぜなら、それらは二重の商品であり、同時にバリューキャリアだからです。したがって、それらは、二重形式、自然形式および価値形態を有する場合、商品としてのみ出現するか、または商品形態のみを有する。

②商品の客観性< Objectivity>、どこにそれらを持っているべきかわからないという点でWittib Hurtigと異なります。

商品の官能的に粗い客観性と正反対に、天然物の原子はその価値客観性には入りません。

したがって、1つの商品を希望どおりに回転させることができます。それは価値のあるものとして理解できないままです。

しかし、同じ社会的団結、人間労働の表現である限り、商品が客観性のみを持つということを私たちが覚えているならば、それらの価値客観性は純粋に社会的であると言うのです。商品にそれをすることができます。実際、私たちはそれらの隠れた価値を追跡するために交換の価値または商品の交換を想定しました。

③したがって、1つの商品を希望どおりに回転させることができます。それは価値のあるものとして理解できないままです。
しかし、商品が客観性だけを持っていることを私達が覚えていれば、それらが同じ社会的団結の表現、人間の労働の表現である限り、それらの価値観 - 客観性は純粋に社会的であるということであるならば、それらが商品と商品の間の社会的関係にのみ現れるのは言うまでもない。
実際、私たちはそれらの隠れた価値を追跡するために交換の価値または商品の交換を想定しました。

③しかし、ここでは、ブルジョア経済では試みられなかったこと、すなわちこの貨幣形態の起源を証明することさえも追求されるべきであり、すなわち商品の価値に含まれる価値表現の発展をその最も単純なものから追うことである。まばゆいばかりの貨幣形態への最も目立たない形態からたどることです。同時に貨幣のパズルは消えます。

④最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品と単一の異なる商品との価値関係です。したがって、2つの商品の価値比率は、商品に対して最も単純な価値表現を提供します。

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https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
   
 

 再版  同等のフォーム 物神性

 投稿者:杉本  投稿日:2019年 1月 3日(木)16時48分52秒
返信・引用 編集済
    社会科学年報 論文 第 52 号   2018
 『資本論』の原始的再帰関数 アポリア
  ― アリストテレス難問のマルクス解法 ― ....内田  弘
  <上記の内田先生の論文は素晴らしきものです!紹介>

  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm
   ぐーぐるほんやく
  https://translate.google.co.jp/?hl=ja

3. Die Äquivalentform
  3. The equivalent form
  3. 同等のフォーム
①<70> Man hat gesehn: Indem eine Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware B (dem Rock) ausdrückt, drückt sie letzterer selbst eine eigentümliche Wertform auf, die des Äquivalents. Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum Vorschein, daß ihr der Rock, ohne Annahme einer von seiner Körperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die Leinwand drückt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch aus, daß der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist. Die Äquivalentform einer Ware ist folglich die Form ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.
①異なる商品B(スカート)の使用価値でその価値を表現する商品A(キャンバス)は、その部分について、その独特の形態の価値、それと同等の価値を表すことが分かった。リネンのリネンは、スカートがその体型とは異なる値の形をとることを想定せずにそれに無関心であるという事実によってそれ自身の価値を明るみに出す。このように、キャンバスはスカートが直接それと交換可能であるという事実によってそれ自身の価値を表現します。したがって、商品の同等の形式は、他の商品との直接的な互換性の形式です。

②Wenn eine Warenart, wie Röcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum Äquivalent dient, Röcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die Proportion gegeben, worin Röcke und Leinwand austauschbar sind. Sie hängt, da die Wertgröße der Leinwand gegeben ist, von der Wertgröße der Röcke ab. Ob der Rock als Äquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand als Äquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedrückt sei, seine Wertgröße bleibt nach wie vor durch die zu seiner Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabhängig von seiner Wertform bestimmt. Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des Äquivalents einnimmt, erhält ihre Wertgröße keinen Ausdruck als Wertgröße. Sie figuriert in der Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.
②したがって、スカートなどの商品の種類がキャンバスなどの他の種類の商品と同等に機能する場合、スカートにはキャンバスと即座に交換可能な形式であるという特性が与えられ、スカートとキャンバスが交換可能な比率はまったくありませんです。キャンバスの値のサイズを考えると、それはスカートの値のサイズに依存します。岩が同等でキャンバスが相対的な値であるかどうか、またはその逆であるかどうかにかかわらず、キャンバスは同等であり、岩は相対的な値であり、その値は生産に必要な労働時間によって決定されます。しかし、商品タイプRockが値式で同等のものに取って代わるとすぐに、その値サイズは値サイズとして式を受け取りません。そうではなく、価値の方程式では、それは物事の明確な量としてのみ現れます。

③Z.B。:40ヤードのキャンバスは「価値がある」 - 何にですか? 2スカートです。ここで商品ロックは同等の役割を果たすので、価値本体として反対のキャンバスの使用価値ロック、また一定量のスカートも値キャンバスの一定量を表現するのに十分である。

したがって、2つのスカートで40キュビットのキャンバスの価値を測定できますが、自分自身の値であるスカートのサイズを表現することはできません。

価値方程式における等価物は常に物事の単なる量、使用価値の形態しか持たないというこの事実の表面的な概念は、彼の前任者や後継者の多くのように、価値の表現において数量的関係のみを見るようにベイリーを導いた。
そうではなく、同等の形態の商品は、価値の定量的決定を含まない
③Z.B.: 40 Ellen Leinwand sind "wert" - was2 Röcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des Äquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegenüber als Wertkörper gilt, genügt auch ein bestimmtes Quantum Röcke, um ein bestimmtes Wertquantum Leinwand auszudrücken. Zwei Röcke können daher die Wertgröße von 40 Ellen Leinwand, aber sie können nie ihre eigne Wertgröße, die Wertgröße von Röcken, ausdrücken. Die oberflächliche Auffassung dieser Tatsache, daß das Äquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorgänger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verhältnis zu sehn. Die Äquivalentform einer Ware enthält vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.

④<71>Die erste Eigentümlichkeit, die bei Betrachtung der Äquivalentform auffällt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils, des Werts.
④同等の形態を考えたときに目立つ最初の特徴はこれです:使用価値はその反対の価値の現れとなります。

⑤商品の自然形態が価値形態になります。
  <The natural shape of the goods becomes the value form.>
しかし、注意すべきことではありますが、このquidproquo 取違えは、他の商品A(キャンバスなど)が関係する価値関係の内でのみ、その関係内でのみ商品B(岩、小麦、鉄など)に対して発生します。どの商品もそれ自身を等価物として参照せず、したがってそれ自身の天然肌をそれ自身の価値の表現にすることはできないので、他の商品を同等物として参照するか、または別の商品の天然肌をそれ自体の価値形態にしなければならない。
  <another commodity its own value form>
⑤Die Naturalform der Ware wird zur Wertform. Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich für eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt, nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen


⑥ー①Dies veranschauliche uns das Beispiel eines Maßes, welches den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten. Ein Zuckerhut, weil Körper, ist schwer und hat daher Gewicht, aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anfühlen. Wir nehmen nun verschiedne Stücke Eisen, deren Gewicht vorher bestimmt ist. Die Körperform des Eisens, für sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudrücken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverhältnis zum Eisen.
⑥ー①商品としての商品のメジャーの例を示します。使用値として。体が重いので体重があるので、シュガーローフ、あなたはその体重を見たり感じたりすることはできません。私たちは今、重量が決まっているさまざまな鉄片を取ります。鉄の体型は、単独で見れば、シュガーローフの重さよりも重さの現れではありません。それにもかかわらず、重さとしてシュガーローフを表現するために、我々はそれを鉄に対する重量比で置いた。

⑥-②この関係で、鉄は重力以外の何ものでもないと考えられています。したがって、鉄の量は砂糖の重さの尺度として役立ち、単なる重い形、重さの現れと比較して砂糖体を表します。この役割はこの比率の範囲内でのみ鉄によって果たされ、そこには砂糖や体重が求められる他の体が入ります。両方のことが難しくなかったならば、それらはこの関係に入ることができなかった、そしてそれ故に一方は他方の重大性を表現するのに役立つことができなかった。私たち二人がバランスで自分自身を量る場合、実際には、それらは重力と同じであり、したがって一定の割合で同じ重量であることがわかります。鉄の体は、重さの尺度としては、サトウキビより重いので、私たちの価値表現では、岩体はキャンバスにとっての価値にすぎません。
⑥-②In diesem Verhältnis gilt das Eisen als ein Körper, der nichts darstellt außer Schwere. Eisenquanta dienen daher zum Gewichtsmaß des Zuckers und repräsentieren dem Zuckerkörper gegenüber bloße Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere. Diese Rolle spielt das Eisen nur innerhalb dieses Verhältnisses, worin der Zucker oder irgendein anderer Körper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm tritt. Wären beide Dinge nicht schwer, so könnten sie nicht in dieses Verhältnis treten und das eine daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen. Werfen wir beide auf die Waagschale, so sehn wir in der Tat, daß sie als Schwere dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind. Wie der Eisenkörper als Gewichtsmaß dem Zuckerhut gegenüber nur Schwere, so vertritt in unsrem Wertausdruck der Rockkörper der Leinwand gegenüber nur Wert.

⑦しかしここでは、類似性は停止します。シュガーローフの重量表現では、鉄は両方の体によって共有される性質、それらの厳しさを表し、一方、キャンバス上での価値の表現では、岩は両方のものの超自然的な品質を表します。
⑦Hier hört jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des Zuckerhuts eine beiden Körpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre Schwere, während der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine übernatürliche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren Wert, etwas rein Gesellschaftliches.


⑧Indem die relative Wertform einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Körper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdrückt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, daß er ein gesellschaftliches Verhältnis verbirgt. Umgekehrt mit der Äquivalentform. Sie besteht ja gerade darin, daß ein Warenkörper, wie der <72> Rock, dies Ding wie es geht und steht, Wert ausdrückt, also von Natur Wertform besitzt. Zwar gilt dies nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin die Leinwandware auf die Rockware als Äquivalent bezogen ist.(21) Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verhältnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verhältnis nur betätigen, scheint auch der Rock seine Äquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu halten. Daher das Rätselhafte der Äquivalentform, das den bürgerlich rohen Blick des politischen Ökonomen erst schlägt, sobald diese Form ihm fertig gegenübertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber wegzuklären, indem er ihnen minder blendende Waren unterschiebt und mit stets erneutem Vergnügen den Katalog all des Warepöbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Warenäquivalents gespielt hat. Er ahnt nicht, daß schon der einfachste Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das Rätsel der Äquivalentform zu lösen gibt.

⑧-①商品の相対的な形態をとることによって、例えばですね、キャンバスで示すと。その価値は、その本体やその特性とはまったく異なるものです。
岩に相当するものとして、この表現自体がそれが社会的関係を隠すことを意味します。
⑧ー①In addition, the relative value form of a commodity, e.g. the canvas, its value being something quite different from its body and its characteristics, e.g. as a rock equivalent, this expression itself implies that it hides a social relationship.

⑧ー②Conversely, with the equivalent form. It consists precisely in the fact that a commodity, like rock, this thing expresses as it does and stands, expresses value, and thus possesses value form by nature.
⑧ー②逆に、同等の形式です。それはまさに、岩のような商品が、この物がそうであるように表現し、価値を表現し、そしてそれ故に本質的に価値形態を所有しているという事実から成り立っています。

⑧ー③確かに、これはリネンがロックウェアと同等のものとして関係している価値関係の中でのみ真実である。(21)
⑧ー③To be sure, this is true only within the relation of value in which the linen is related to the rockware as an equivalent.
(21)

⑧ー④But since qualities of a thing do not spring from its relation to other things, but only operate in such a relationship, rock also appears to be its equivalent form to possess its property of immediate interchangeability, just as much by nature as its property to be heavy or warm.
⑧ー④ものの性質は他のものとの関係から湧き出るのではなく、そのような関係で動作するだけなので、本質的にその性質と同じくらいに、重いまたは暖かい性質であるのと同じくらいに--多くの即時の互換性のその性質を所有すること。

⑧ー⑤それゆえ、この<the equivalent form,同等物>形態が貨幣の中で彼に直面するのを終えるとすぐに、政治経済学者のブルジョア的な生の視線を打つ--同等の形態の謎です。それから彼は金と銀の神秘的な性格をそれらに彼らにそれほどまぶしい商品を提出することによって明らかにしようとしていますしす、そして、その時々に商品同等物の役割を果たしたすべての商品のカタログを放棄することになります。
⑧ー⑤Hence the enigmatic of the equivalent form, which beats the bourgeois raw gaze of the political economist as soon as this form finishes facing him in the money.

⑧ー⑥彼は、20キュビトのキャンバス= 1スカートのような最も単純な価値表現でも、同等の形式の謎を解くことができるとは疑いません。
⑧ー⑥He does not suspect that even the simplest value expression, such as 20 cubits of canvas = 1 skirt, can solve the riddle of the equivalent form.


⑨ー①その等価物としての役割を果たす商品本体は、常に抽象的人的労働の具体化であり、常にある有用で具体的な作業の産物です。
この具体的な作業は抽象的な人間の作業の表現となります。
⑨ー①The body of the commodity serving as its equivalent is always the embodiment of abstract human labor and is always the product of a certain useful, concrete work. This concrete work becomes the expression of abstract human work.

⑨-②If the skirt is for example as a mere realization, so the tailoring, which actually realizes in him, as a mere form of realization of abstract human labor.
⑨-②例えば、スカートが例えば単なる実現としての、それ故に抽象的な人間労働の実現の単なる形としての、実際に彼の中で実現する仕立て--ですね。
⑨-③In the expressive value of the canvas, the usefulness of dressmaking is not that it makes clothes, and therefore also people, but that it makes a body that one sees as worthy, that is, a jelly of work that is not at all different from the one in the Canvas value objectified work.
⑨-③キャンバスの価値表現において、洋裁の有用性はそれが洋服を作ること、そしてそれ故に人を作ることではなく、それが価値のあるものと見なされる体を作ることだから、
キャンバス価値は客観化された<Canvas value objectified・物象化>作品です。
  <the one in the Canvas value objectified work.>
  <独-- der Leinwand objektivierten Arbeit unterscheidet.>

⑨-④To make such a value-level, tailoring itself need not reflect anything but its abstract quality of being human labor.
⑨-④そのような価値レベル<和訳--価値鏡>にするためには、調整すること自体が人間の労働であるというその抽象的な品質以外の何も反映する必要はありません。

⑨Der Körper der Ware, die zum Äquivalent dient, gilt stets als Verkörperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer bestimmten nützlichen, konkreten Arbeit. Diese konkrete Arbeit wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als bloße Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tatsächlich in ihm verwirklicht, als bloße Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit. Im Wertausdruck der Leinwand besteht die Nützlichkeit der Schneiderei nicht darin, daß sie Kleider, also auch Leute, sondern daß sie einen Körper macht, dem man es ansieht, daß er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenständlichten Arbeit.
  <vergegenständlichten Arbeit.--objectified work.>
Um solch einen Wertspiegel zu machen, muß die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln außer ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.


⑩ー①In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen.
⑩ー①Menschliche製織の形のような洋裁の形態では、人間労働が費やされます。
それゆえ、両方とも人間労働の一般的な特徴を有しており、したがって、ある場合には、例えば価値生産においては、この観点からのみ考慮が必要です。
⑩ー①In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen.


⑩ー②All that is not mysterious. But in the value of the goods the thing is twisted. For example, To express that weaving is not weaving in its concrete form as weaving, but in its general quality as human labor, tailoring, the concrete work which produces the canvas equivalent, is contrasted with it as the tangible form of realization human work.

⑩ー②これはすべて不思議ではない。しかし、商品の価値の点で物事はねじれています。
例えば、織ることは織ることとしてその具体的な形で織ることではなく、人間労働としてのその一般的な品質では、仕立て、キャンバスの等価物を生み出す具体的な仕事は、実現の具体的な形としてそれとは対照的です--人間の仕事です。

   「等価物を生み出す具体的な仕事は、実現の具体的な形と
   してそれとは対照的です--人間の仕事」--この転倒が、こ
   こに語られているのです。
   <具体的な裁縫労働が、抽象的人間労働の実現形態になる
   --ことを指して第二の独自性とは述べていなのです。>

   ⑧ー②「同等の形式・・それはまさに、岩のような商品が、
   この物がそうであるように表現し、価値を表現し、そして
   それ故に本質的に価値形態を所有している・・」
   <同等の形態の謎--を次のように解くのです。>
⑩・②・①これは不思議ではない。しかし、商品の価値の点で物事はねじれています。
  <「両方とも人間労働の一般的な特徴を有しており、」・・だから>
例えば、<価値の形成の点では>織ることは織ることとしてその具体的な形で織ることではないことを表現するために、人間労働として、仕立ては、キャンバスとの同等性を生み出すことでの具体的な仕事は、具体的な形の<ヒューマンワーク--人間の仕事>の実現であることで、それと対照されます
⑩ー②All das ist nicht mysteriös. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudrücken, daß das Weben nicht in seiner <73> konkreten Form als Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das Leinwand-Äquivalent produziert, gegenübergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.

⑪Es ist also eine zweite Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt menschlicher Arbeit wird.
⑪したがって、2番目の特徴なのは、具体的な仕事が、その反対の抽象的人間労働の現れとなるのが、同等の形式なのです。
It is thus a second peculiarity of the equivalent form that concrete work becomes the manifestation of its opposite, abstract human labor.


⑫But when this concrete work, tailoring, is regarded as the mere expression of indiscriminate human labor, it possesses the form of equality with other labor, the labor inherent in canvas, and therefore, though private labor, like all other goods-producing labor, nevertheless Work in direct social form.

That is why it presents itself in a product that is directly interchangeable with other commodities.
It is therefore a third peculiarity of the equivalent form that private work becomes the form of its opposite, to work in an immediately social form.

⑫しかし、この具体的な仕立て作業が<this concrete work, tailoring,>、無差別な人間労働の単なる表現と見なされると、他の労働と同等の形態となり、つまりキャンバスに内在する労働をもち、したがって他のすべての物産労働と同様に民間労働でも、それにかかかわらず直接的な社会的形態の労働となっている。それが他の商品と直接交換可能な製品の中に存在する理由です。
したがって、個人的な仕事がすぐに社会的な形式の労働であることが、その反対の形式になることは、同等の形式の3番目の特徴です。
⑫Indem aber diese konkrete Arbeit, die Schneiderei, als bloßer Ausdruck unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher, obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also eine dritte Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.


⑬The two most recently developed peculiarities of the equivalent form become even more comprehensible when we return to the great researcher who first analyzed the value form, as did so many forms of thought, social forms, and natural forms. It is Aristotle.

⑬最近開発された2つの同等形式の特殊性は、最初に価値形態を分析した偉大な研究者に戻ると、さらに多くの形式の思考、社会的形式、および自然形式と同様に理解しやすくなります。 アリストテレスです。
⑬Die beiden zuletzt entwickelten Eigentümlichkeiten der Äquivalentform werden noch faßbarer, wenn wir zu dem großen Forscher zurückgehn, der die Wertform, wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert hat. Es ist dies Aristoteles.


⑭First, Aristotle clearly states that the money form of the commodity is only the more developed form of the simple value form, i. the expression of the value of a commodity in any other commodity, for it says:

⑭まず第一に、アリストテレスは、商品の貨幣形態は単純な価値形態のより発展した形態にすぎないと明確に述べています。 他の商品における商品の価値の表現、それは言う:
⑭Zunächst spricht Aristoteles klar aus, daß die Geldform der Ware nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er sagt:

"5 Polster = 1 Haus" <5台の寝台=1軒の家>
Kliuai pente anti oik iaz
<Griechisch: Clinai pente anti oicias>

"unterscheidet sich nicht" von: <というのは、>

"5 Polster = soundso viel Geld" <5台の寝台=これこれの額の貨幣>
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
<Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>
             <というのと「違わない」と>

⑮He further recognizes that the value-relation in which this expression of value is based in turn implies that the house is qualitatively equated with the upholstery, and that these sensually different things would not be correlated as commensurable quantities without such identity. "The exchange," he says, "can not be without equality, but <74> equality but not without commensurability" ("out isothz mh oushz summetria z"). But here he trims and gives up the further analysis of the value form. "But in truth it is impossible (th men oun alhdeia adunaton) for such diverse things to be commensurable", i. are qualitatively the same. This equation can only be something foreign to the true nature of things, that is, only a "makeshift for the practical need."

⑮彼はさらに、この価値表現が順番に基づいている--価値関係が家が室内装飾品と定性的に同等であることを意味すること、そしてこれらの感覚的に異なるものはそのような同一性なしで相応しい量として相関しないであろうことを認める。 --
「交換は、平等なしには成り立たないが平等なしには成り立ちませんが、相容れなしには成り立ちません」(「out isothz mhoushz summetria z」)。
しかし、ここで彼はトリミングし<the further analysis of the value form.>価値形態のさらなる分析を断念します。

「しかし、実際には、非常に多様なものが相応しいものになることは不可能です(thh人はalhdeia adunaton)」。定性的には同じです。この方程式は、物事の本来の性質とは無関係のもの、つまり「実用上の必要性に対する一時的なもの」にしかなり得ません。

⑮Er sieht ferner ein, daß das Wertverhältnis, worin dieser Wertausdruck steckt, seinerseits bedingt, daß das Haus dem Polster qualitativ gleichgesetzt wird und daß diese sinnlich verschiednen Dinge ohne solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Größen aufeinander beziehbar wären. "Der Austausch", sagt er," kann nicht sein ohne die Gleichheit, die <74> Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilität" ("out isothz mh oushz summetria z"). Hier aber stutzt er und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. "Es ist aber in Wahrheit unmöglich (th men oun alhdeia adunaton), daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel", d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur "Notbehelf für das praktische Bedürfnis".


⑯Aristotle thus tells us himself why his further analysis fails, namely, the lack of the concept of value. What is the same, i. the communal substance, which presents the house for the upholstery in the value expression of the upholstery?
Such a thing can not really exist, says Aristotle.
Why? The house presents the same to the upholstery, as far as it presents in both the upholstery and the house, really the same. And that is - human work.

⑯アリストテレスはそれゆえ彼のそれ以上の分析が失敗する理由、すなわち価値概念の欠如を私たち自身に告げます。
何が同じです、私は。室内装飾品の価値表現において室内装飾品のための家を提示する共同物質?そのようなことは本当に存在することはできません、アリストテレスは言います。
なぜ?それが室内装飾品と家の両方に存在する限り、家は室内装飾品に同じものを提示し、実際には同じです。それが - 人間の仕事です。
⑯Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine weitere Analyse scheitert, nämlich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus für den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann "in Wahrheit nicht existieren", sagt Aristoteles. Warum? Das Haus stellt dem Polster gegenüber ein Gleiches vor, soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt. Und das ist - menschliche Arbeit.


⑰ー①But that in the form of commodity values ??all works are expressed as equal human labor and therefore as equal, Aristotle could not extract himself from the value-form itself, because Greek society was based on slave labor, hence the inequality of men and their labor-power had a natural basis.


The secret of the expression of value, the equality and equal validity of all works, because and insofar as they are human labor in general, can only be deciphered as soon as the concept of human equality already possesses the firmness of a national prejudice.

⑰ー①Daß aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedrückt sind, konnte Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen und ihrer Arbeitskräfte zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche Gültigkeit aller Arbeiten, weil und insofern sie menschliche Arbeit überhaupt sind, kann nur entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt.
⑰ー①しかし、商品価値の形式では、< commodity values all works>その商品価値が--全ての作業は平等な人間労働として、したがって平等として表現されているのであり、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいていたために、アリストテレスは価値形態--自体からは、このことを抽出できませんでした。
持っていた--価値表現の秘密、平等そして、すべての作品の平等な妥当性は、それらが人間労働である限り一般的に、人間の平等の概念がすでに国民的偏見の堅固さを持つようになるとすぐに解読できるだけです。

⑰ー②しかしこれは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、それゆえに商品の所有者としての人々の互いの関係が支配的な社会的関係である社会においてのみ可能です。
アリストテレスの天才は、彼が商品の価値表現に平等を発見したという事実に輝いています。
彼が住んでいた社会の歴史的な障壁だけが、彼が「真実に」この平等の関係が、何からなるのかを見つけることを妨げています。
⑰ー②Das ist aber erst möglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des Arbeitsprodukts, also auch das Verhältnis der Menschen zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verhältnis ist. Das Genie des Aristoteles glänzt grade darin, daß er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverhältnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn "in Wahrheit" dies Gleichheitsverhältnis besteht.

⑰ー②But this is only possible in a society in which the commodity form is the general form of the labor product, and thus also the relation of the people to each other as commodity owners the prevailing social relation. The genius of Aristotle shines in the fact that he discovers an equality in the expression of the value of the goods. Only the historical barrier of the society in which he lived prevents him from finding out what "in truth" this relationship of equality consists of.

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 再版 物神性
 http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_2
 上記からの英訳の和訳です。
 <ドイツ語 の原文も添えてみます。新しい認識がうまれます。>
 ①・・・・・・・・・略 ・・・・・・・・・・・・・・

 ②・・・・・・・・・略 ・・・・・・・・・・・・・・

③Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst. Die Gleichheit der menschlichen Arbeiten erhält die sachliche Form der gleichen Wertgegenständlichkeit der Arbeitsprodukte, das Maß der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft durch ihre Zeitdauer erhält die Form der Wertgröße der Arbeitsprodukte, endlich die Verhältnisse der Produzenten, worin jene gesellschaftlichen Bestimmungen ihrer Arbeiten betätigt werden, erhalten die Form eines gesellschaftlichen Verhältnisses der Arbeitsprodukte.
③商品形態をとるとすぐに、作業成果物の謎の性格はどこから来るのでしょうか。
どうやらこのフォーム自体からです。人間の作品の同等性は、労働生産物の同等な価値観 - 客観性の客観的な形を保存します。
そして、その期間にわたる人間の労働の支出の尺度は、労働生産物の価値の大きさの形で与えられ、そして最後にそれらの労働の社会的決定が得られる生産者の関係は、作業成果物の社会的関係を受けとる。
  <新日本訳P123から、引用しておきます。>
  「では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる
  労働生産物の謎的性格は、どこから来るのか?明らか
  に、この形態そのものからである。人間的労働の同等  人間の作品の同等性は、
  性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態  労働生産物の同等な価値観 - 客観性
  を受け取り、その継続時間による人間的労働力の支出
  の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受
  け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的関係
  という形態を受け取るのである。」
  <人間の作品の同等性は、労働生産物の同等な価値観 - 客観性の客観的な形>が見えず、逆に前提と
  されている。不問事項にされている。人間の作品が、労働生産物の<価値観 - 客観性の客観的な形>
  ーーを訳出せねば、この<作業成果物は、何時の時代でも商品>であって、物神性を認めてしまう!

③So where does the enigmatic character of the work product come from, as soon as it takes on commodity form? Apparently out of this form itself. The equality of human works preserves the objective form of the same value-objectivity of the products of labor; the measure of the expenditure of human labor through its duration is given the form of the value-magnitude of the products of labor, and finally the relations of the producers, in which those social determinations of their labor are obtained, receive the form of a social relationship of the work products.
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④ー①Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfach darin, daß sie den Menschen die gesellschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhältnis von Gegenständen.
④ー①それゆえ商品形態の謎は、それが労働生産物そのものの表象的な性格としての人間自身の労働の社会的性格、したがって生産者の社会的関係を反映しているという事実にあります。
それら< them objects>の社会的関係としての総労働は反対している。
④ー①The mystery of the commodity form consists simply in the fact that it reflects back to humans the social characters of their own labor as representational characters of the labor products themselves, as the social nature of these things, hence the social relation of the producers to the total labor as a social relationship of them objects.

②Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge.
②この取違えを通して、作業成果物<労働生産物--でなく>は商品、官能的に精神的または社会的なものになる。
②Through this quid proquo, the work products become goods, sensually psychic or social things.

③So stellt sich der Lichteindruck eines Dings auf den Sehnerv nicht als subjektiver Reiz des Sehnervs selbst, sondern als gegenständliche Form eines Dings außerhalb des Auges dar.
③したがって、視神経上のものの光の印象は、視神経自体の主観的な刺激としてではなく、目の外のものの客観的な形としてそれ自体を提示する。
③Thus the light impression of a thing on the optic nerve does not present itself as a subjective stimulus of the optic nerve itself, but as an objective form of a thing outside of the eye.

④Aber beim Sehen wird wirklich Licht von einem Ding, dem äußeren Gegenstand, auf ein andres Ding, das Auge, geworfen.
④しかし見るとき、光はあるもの、外側のオブジェクトから別のもの、つまり目へと投げかけられます。
 <dem äußeren Gegenstand, ーーthe outer object,>
④But when seeing, light is really thrown from one thing, the outer object, to another thing, the eye.

⑤Es ist ein physisches Verhältnis zwischen physischen Dingen. Dagegen hat die Warenform und das Wertverhältnis der Arbeitsprodukte, worin sie sich darstellt, mit ihrer physischen Natur und den daraus entspringenden dinglichen Beziehungen absolut nichts zu schaffen.
⑤それは物理的なものの間の物理的な関係です。
一方、商品形態とそれらが提示される労働生産物の価値は、それらの物理的性質とその結果としての具体的な関係とは全く関係がありません。
⑤It is a physical relationship between physical things.
On the other hand, the commodity form and the value of the products of labor, in which they are presented, have absolutely nothing to do with their physical nature and the consequent tangible relations.

⑥Es ist nur das bestimmte gesellschaftliche Verhältnis der Menschen selbst, welches hier für sie die phantasmagorische Form eines Verhältnisses von Dingen annimmt.
⑥それはここで彼らにとって物事の関係の幻影的な形態を仮定するのは人間自身の明確な社会的関係だけです。
⑥It is only the definite social relationship of the human beings themselves which here assumes for them the phantasmagoric form of a relation of things.

⑦Um daher eine Analogie zu finden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eignem Leben begabte, untereinander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten.
⑦DaherToに例えを見よ、私たちは宗教的世界の霧の領域に逃げなければなりません。ここで、人間の頭の産物は、彼ら自身の間で、そして人間の間で、彼ら自身の生活に恵まれた独立した形態を持っているように見えます。
⑦DaherTo find an analogy, we have to flee to the foggy region of the religious world. Here the products of the human head seem to have independent forms endowed with their own lives, among themselves and with human beings.

④ー⑧So in der Warenwelt die Produkte der menschlichen Hand. Dies <87> nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.
④ー⑧商品世界では、人間の頭の産物は、彼ら自身の間で、そして人間の間で、彼ら自身の生活に恵まれた独立した形態を持っているように見えます。それが、商品の世界では人間の手の商品です。
これは私がフェティシズムと呼んでいるもので、商品として生産されるとすぐに働く商品に固く執着するので、商品生産と不可分の関係にあります。
④ー⑧So in the commodity world, the products of the human hand. This is what I call fetishism, which sticks to working products as soon as they are produced as commodities, and which therefore is inseparable from commodity production.
   <杉本--作業成果物 の訳であって「労働生産物」ではないのです。
    この転倒をこそ、物象が、物神性を生み出すのです。>
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⑤As the preceding analysis has already shown, this fetish character of the commodity world springs from the peculiar social character of labor, which produces commodities.
⑤前述の分析がすでに示したように、この商品世界のフェティッシュな性格は、商品を生産する特殊な社会的労働の性格から生じている。

⑥Commodities become goods in the first place because they are products of independent private work. The complex of these private works forms the total social work.
Since the producers only come into social contact through the exchange of their work products, the specific social characters of their private work appear only within this exchange.
⑥商品は自営業の商品であるため、そもそも商品となる。これらの私的作品の複合体は、総合的なソーシャルワークを形成します。
生産者は彼らの作業成果物<「労働生産物」--では誤訳>の交換を通して社会的接触をするだけであるので、彼らの私的作業の特定の社会的性格はこの交換の中にだけ現れる。

Or, in fact, private works only function as members of social work through relationships, in which exchange places the products of labor and, by means of them, the producers.
The social relations of their private works therefore appear to the latter to be what they are; not as directly social relations of persons in their works themselves, but rather as factual relations of persons and social relations of things.
あるいは、実際には、私的作品は人間関係を通して社会福祉の一員としてのみ機能します。
そこでは、交換は労働の産物を産み出し、そしてそれらを用いて生産者を産み出します。
それゆえ彼らの私的作品の社会的関係は後者にとって彼らが何であるかのように思われる。
作品<their works>における直接的な社会的関係としてではなく、むしろ実際の人物間の関係およびモノの社会的関係としてのものです。

⑦Only within their exchange do the working products receive a socially equal value-objectivity, separated from their sensually different utilitarian objectivity.
⑦それらの交換の範囲内でのみ、作業製品はそれらの官能的に異なる功利的客観性<socially equal value-objectivity,>分離された社会的に等しい価値 - 客観性<objectivity.>を受け取ります。

This splitting of the work product into useful thing and value works only practically, as soon as the exchange has already gained sufficient extent and importance, so that useful things are produced for the exchange, the value character of the things thus comes into consideration even with their production.
このように作業成果物を<有用なもの--価値>に分割することは、交換がすでに十分な範囲と重要性を獲得した直後に実用的にしか機能しないので、有用なものが交換のために生み出される。彼らの生産のなかでです。

From this moment on, the private works of the producers actually have a double social character.
この瞬間から、プロデューサーの私的な作品は実際には二重の社会的性格を持っています。

On the one hand, they must, as certain useful works, satisfy a particular social need and thus prove themselves to be members of the total work, of the natural system of the social division of labor.
On the other hand, they satisfy only the manifold needs of their own producers, provided that every useful private work is interchangeable with every other useful kind of private work, and thus is indifferent to it.
一方では、彼らは、ある種の有用な仕事として、特定の社会的ニーズを満たし、したがって社会全体の社会的分業体制の一員であることを証明しなければなりません。
他方、すべての有用な私的作品<「労働」-誤>が他のあらゆる有用な種類の私的作品<「労働」>と交換可能であり、したがってそれに無関係であるという条件で、彼らは彼ら自身の生産者の多様な必要性だけを満たす。

The equality of completely different works of art can exist only in an abstraction of their real inequality, in the reduction to the common character which they possess as the expenditure of human labor power, abstractly human labor.
完全に異なる芸術作品の平等は、彼らの本当の不平等を抽象化したもの、人間の労働力の支出として持っている共通の性格への還元であり、それは抽象的には人間労働にのみ存在することができます。
--杉本・私的作品<「労働」>の既存の誤訳では、ここでの先生の主張の転倒批判が、理解できない。--
--註27・「彼らの異なる仕事を人間の労働と捉えます」との、この批判が、全く!!!理解できない。--

The brain of private producers reflects this dual social character of their private works only in the forms which appear in practical intercourse, in the exchange of products - the socially useful character of their private works, in the form that the product of labor must be useful to others social character of the equality of the different kinds of work in the form of the common value character of these materially different things, the products of labor.
私的生産者の頭脳は、製品の交換において、実際的な交易で現れる形でのみ彼らの私的作品のこの二重の社会的性格を反映しています - 労働の製品が有用でなければならないという形での--彼らの私的作品の社会的に有用な性格であり、これらの実質的に異なるもの、労働生産物の共通の価値性格の形態<価値形態>での異なる種類の労働の同等の他の社会的性格となっている。

⑧So people do not relate their products of labor to each other as values, because these things are considered to them to be mere factual envelopes of similar human labor.
⑧ですから、人々は、自分たちの労働生産物を価値として互いに関連づけてはいません。なぜなら、これらのことは彼らにとって、同様の人間労働の単なる<事実上の封筒>であると考えられているからです。

Vice versa. In equating their diverse products as values in exchange, they equate their different works as human labor. They do not know that, but they do. (27)
その逆もあります。彼らの多様な製品を交換の価値として捉えることにおいて、彼らは彼らの異なる仕事を人間の労働と捉えます。彼らはそれを知らないが、彼らは知っている(27)。

It is therefore not written on the forehead of what it is. Rather, value transforms every work product into a social hieroglyph. Later, people seek to decipher the meaning of the hieroglyph, to go beyond the secret of their own social product, for the determination of commodities as values is their social product as good as language.
それゆえ、それが何であるかはその額に書かれていない。そうではなく、価値はあらゆる作業成果物を社会的象形文字に変換します。その後、人々は象形文字の意味を解読し、自分の社会的産物の秘密を超えて、価値としての商品の決定が言語と同じくらいに、良い彼らの社会的産物であることを目指しています。

The late scientific discovery that labor products, insofar as they are values, merely factual expressions of the labor expended in their production, makes an epoch in the history of human evolution, but in no way shuns the objective semblance of the social character of labor.
それらが価値であるという最近の科学的発見、単に実験室の実際の表現はそれらの生産に費やされて、それは人間の進化の歴史の中で画期的なことになります、しかし決して労働の社会的性格の客観的な類似を避けません。

What is valid only for this particular form of production, the production of commodities, that the specifically social character of independent private works consists in their equality as human labor and takes on the form of the value character of the labor products, appears before and after that discovery in the Conditions of commodity production are just as final as that the scientific decomposition of the air into their elements leaves the air-form as a physical form of body.
この特定の生産形態、つまり商品の生産にのみ当てはまることは、
  独立した私的作品の社会的特徴は人間労働と同等であり、
  労働生産物の価値形態をとるということである。
商品生産の条件は、空気をそれらの要素に科学的に分解することが、
物理的な形態の身体としての空気の形態を残すのと同じくらい最終的なものです。
   <これが --価値形態の秘密--であります。
  これがあって--商品形態   --が出来
        --価値表現   --ができます。>
  相対的価値形態は、価値形態があることで左極にて形成され、
  等価形態は、同等物商品が、使用価値のままに直接的に価値形態であることで、
  反対極にて、価値表現しています。第二の形態では、右極のみが価値形態を獲るが、
  しかし相互の交換可能性は有りません
  そして第三の形態では、商品世界の住人は、その世界にあるために、
  自然的形態のままに、価値形態を獲るも、直接的な交換可能性の形態ーーとしての、
  等価物の形態は、商品世界の外にあるため、ある一商品を選択しなければならない。

⑨<89> What initially interests the product exchangers is the question of how much foreign products they receive for their own product, in which proportions the products exchange.
⑨<89>当初、商品交換者が興味を持っているのは、自分の商品に対してどれだけの外国製品を受け取っているのかということです。

Once these proportions have matured to a certain habitual firmness, they seem to spring from the nature of the work products, so that e.g. a ton of iron and 2 ounces of gold equivalent, as one pound of gold and one pound of iron are equally heavy despite their various physical and chemical properties.
これらの比率が特定の習慣的な堅さに成熟すると、それらは作業成果物の性質から湧き出るように見えます。 1トンの鉄と2オンスの金に相当します。1ポンドの金と1ポンドの鉄は、それらのさまざまな物理的および化学的特性にもかかわらず、等しく重いのです。

In fact, the value character of the work products only attaches to their value as actuators. The latter change constantly, independently of the will, foreknowledge, and action of the exchanging people.
実際、作業成果物の価値性格は、アクチュエーターとしての価値にのみ結び付いています。後者は、交換する人々の意思、予知、行動とは無関係に、絶えず変化します。

Their own social movement has for them the form of a movement of things they control, not control. It requires a fully developed production of commodities before the scientific insight grows out of experience itself that private works, which are independent of each other but as natural members of the social division of labor, are continually reduced to their socially proportional measure, because they are found in the accidental and The fluctuating conditions of exchange of their products forcibly enforce the socially necessary working time as a regulating law of nature, such as the law of gravity, when the house collapses over one's head. (28)
彼ら自身の社会運動は、彼らにとって、彼らが支配するものではなく、支配するものの動きの形をしている。科学的洞察が経験から生まれる前に完全に開発された商品の生産を必要とします。私的作品は互いに独立していますが、社会的分業の自然な一員であるため家が頭の上で倒れるとき、彼らの製品の交換の変動の条件は、社会の必要な労働時間を重力の法則のような自然の法則として強制的に強制します。 (28)

The determination of the value by working time is therefore one among the appearing Movements of relative commodities hidden secret. His discovery removes the semblance of mere accidental determination of the values of value to the working products, but by no means their objective form.
したがって、労働時間による価値の決定は、隠されている相対的な商品の動きのうちの一つです。彼の発見は、作業用製品に対する価値の値の単なる偶然の決定の類似性を取り除きますが、
それらの客観的な<their objective form.物象的>形式を決して意味するものではありません。

⑩Reflecting on the forms of human life, including their scientific analysis, in the first place proposes a path contrary to real development. It starts post festum and therefore with the finished results of the development process.
科学的分析を含む人間の生活の形態を最初に考えることは、本当の発展に反する道を提案します。それは、懐胎後、したがって開発プロセスの最終結果から始まります。

The forms, which stamp products of labor into commodities and are therefore exposed to commodity circulation, already possess the firmness of natural forms of social life, before men seek to give an account of the historical character of these forms; are considered immutable, but about their content.
労働生産物を商品に押し込み、したがって商品の流通にさらされる形態は、人々がこれらの形態の歴史的特徴を説明しようと試みる前に、すでに社会的生活の自然な形態の堅さを持っている。不変と見なされることが、その内容についてです。

So it was only the analysis of the commodity prices, which led to the determination of the value, only the common money expression of the goods, which led to the fixation of their value character.
そのため、商品価格の分析だけが価値の決定につながり、商品の一般的な貨幣表現のみがその価値性格の固定につながりました。

But it is precisely this finished form - the money form - of the world of commodities, which obscures the social character of private work and therefore the social conditions of private workers instead of revealing it.
しかし、それはまさにこの世界の商品の完成した形態 - 貨幣形態 - であり、それは私的労働の社会的性格、したがってそれを明らかにするのではなく私的労働の社会的条件をあいまいにします。

When I say that rock, boots, etc., refer to canvas as the general embodiment of abstract human labor, the craziness of that expression catches the eye. But if the producers of rock, boots, etc., refer to these commodities on canvas - or gold and silver, which does not change anything - as a general equivalent, the relationship of their private work to the overall social work seems to them exactly in this crazy form.
私がもし次のように言うとき、ブーツなどは一般的な抽象的人間労働の実現形態としてキャンバスを参照すると、ーー
その表現の狂気は目を引く。しかし、ロック、ブーツなどの生産者がキャンバス上のこれらの商品、
あるいはそれとは何ら変わらない金と銀とを参照するならば、一般的な同等物としての彼らの--
ー<個人的な仕事と社会的作業の関係は、their private work to the social work  >--
まさに、彼らに思われるこのクレイジーな形態で表されている。

⑪Such forms constitute the categories of bourgeois economy.
⑪そのような形態はブルジョア経済学の範疇を構成する。

They are socially valid, that is, objective thought-forms for the relations of
production of this historically determined social mode of production, the production of commodities.
それらは社会的に妥当であり、すなわちこの歴史的に決定された社会的生産様式の生産関係、
すなわち商品生産のための< objective thought-forms>客観的思考形式である。
            <物象的な思考形式を、我々は克服・止揚するぞ!>
All the mysticism of the world of commodities, all the magic and hauntings that enveloped labor products on the basis of commodity production, therefore vanishes immediately as soon as we flee to other forms of production.
それゆえ、商品世界のすべての神秘主義、商品の生産に基づいて労働生産物を包んでいたすべての魔法と狩猟は、他の生産形態に逃げるとすぐに消えます。

⑫・・・・・略・・・・・

⑭・・・・・略・・・・・


⑯ー略ー這種真實的自我意識反映在古老的自然和民間宗教中。只要當今日常工作的實際生活條件與彼此和自然之間提供透明和透明的關係,現實世界的宗教反映就會消失。社會生活過程的形状,我。在物質生産過程中,只有在對自由社會化的人的産品進行有效的意識控制之下,才能消除其神秘的陰霾。然而,為了這個目的,需要社會的物質基礎或一系列存在的物質條件,這些條件本身就是漫長而痛苦的發展歴史的自然産物。

   ⑯この真の自己意識は古代の自然や民俗宗教に反映されています。
   今日の日々の仕事の実際の生活条件がお互いと自然の間の透明で
   透明な関係を提供する限り、現実の世界の宗教的な反射は消えます。
   社会生活プロセスの形、私。材料生産の過程で、神秘的な霞は自由
   な社交的な人々の製品の効果的な意識管理によってのみ排除するこ
   とができます。しかしながら、この目的のためには、社会の物質的
   基盤または一連の現存する物質的条件が必要であり、それ自体が長
   くて苦痛な開発史の天然産物である。

⑰政治經濟雖然不完美(31),但現在已經分析了價値和價値・並發現了隱藏在這些形式中的東西。她甚至從來沒有問為什麼這個?容假定形式的問題,那麼為什麼是價値的工作,並通過他們的工作産品的價値量時間的工作量?(32)的形式,在那裡他的額頭上寫它們屬於在生?過程中尚未掌握的男子,該男子的生産過程中,他們的公民意識不言而?Naturnot- <96>社會秩序必然是生産性勞動本身適用。prebourgeois社會生産有機體的形式,因此由她處理比如來自教會父親的基督教前宗教。(33)

   ⑰政治経済は完全ではありませんが(31)、価値観と価値観を分析
   したところ、これらの形に隠されているものが見つかりました。
   彼女はなぜこのコンテンツが質問の形をとるのかと尋ねたことは一
   度もありませんでした。それでなぜ作品の価値と時間の長さが彼ら
   の成果物の価値を通して得られるのでしょうか。 (32)
   彼の額が彼らがまだ生産プロセスを習得していない人々に属すると
   書いている形では、生産プロセス中の男性の市民意識は自明である
   Naturnot- <96>社会秩序は必然的に生産的である労働自体が適用
   されます。前ブルジョア社会は生物の形態を作り出すので、彼女は
   教会の父からのもののようなキリスト教以前の宗教を扱います。(33)

32),這是它永遠不會成功,從貨物的貨物的分析和特殊的價値在價値形態上,這讓他僅僅是交換價値了古典政治經濟學的根本缺陷之一。在她最好的代表中,如A.史密斯和里卡多,她將價値形式視為完全無關緊要的東西,或者是商品本身的外在東西。原因並不僅僅是對價値規模的分析完全吸引了他們的注意力。

  (32)これは古典的な政治経済学における基本的な欠陥の1つであり、
   それは財からの財の分析と価値形態・上の特殊的価値に成功するこ
   とは決してなく、それは彼を単なる価値の交換にするからです。
   A.スミスやリカルドのような彼女の最も良い代表者の間で、彼女は
   --価値形態を全く無関係な何か、または製品自体の外部の何かと見
   なしています。
   その理由は、価値の規模の分析が完全に注目を集めているというこ
   とだけではありません。

他更深入。工作産品的價値形式是資本階級的生産模式,因此作為一種特殊的社會生産的,並在同一時間表超歴史 的最抽象的,也是常見的形式。

   理由はもっと深い。
   作業成果物の価値形態はブルジョア生産モデルであり
   <資産階級的生産模式>、したがって特別な種類の社会的生産とし
   てであり、同時に歴史の最も抽象的で一般的な形式を表しています。

因此,你知道這對社會生産的永恆的自然形式,所以我們忽略必要和形状的具體數値,所以商品形式,發展以貨幣的形式,包乾等。

   したがって、あなたは社会的生産の永遠の自然な形を知っているの
   で、私たちは--必要和形状的具體數値--
        <価値形態・・価値の質と量を表す>
   つまり商品形態、貨幣形態への発展などを無視します。

因此,經濟學家們就工作時間的價値衡量達成一致,因此找到了最豐富多彩,最矛盾的金錢觀念。一般等價的完成形式。這很引人注目,例如在銀行業的處理中,貨幣的共同定義已不再足瞬。

   したがって、エコノミストは労働時間の価値の測定に同意し、
   したがって最もカラフルで矛盾する貨幣の概念を見つけました。
   それが、ほぼ同等の完成形態です。たとえば、銀行業界では、
   一般的な通貨の定義だけでは不十分です。

相比之下,一個恢復的商業系統(Ganilh等),它只看到了社會形式的價値,或者更確切地説只是未經改善的外觀。為了一勞永逸地實現它,在古典政治經濟學下,我從W開始就理解所有的經濟

   対照的に、社会的形態の価値、あるいは単に改善されていない
   外観を見るだけの回復されたビジネスシステム(Ganilh et al。)。
   古典的な政治経済の下で、一度でそしてすべての人にとってそれ
   を達成するために、私は西暦の初めからすべての経済を理解しました。

小資的是,與庸俗經濟學研究的資産階級生産關係的内在聯繫,只有内明顯的關係掛出,對於合理Verständlichmachung這麼説粗暴的現象和資産階級的房屋所需要的材料已經通過科學的經濟始終重新咀嚼,在提供但除此之外,將自己局限於系統化自己最好的世界pedantisieren的資産階級的生産代理商平庸自滿的概念,並宣布為永恆的真理。

   ささいなブルジョアジーは、下品な経済学研究のブルジョア的
   生産関係との内部の関係は明白な関係の中でのみぶら下がってい
   るということですし、そして、無礼な現象とブルジョア家を言う
   ために必要な材料は常に科学経済を通して再確立されました。
   チューイングは、これに加えて、提供することに加えて、彼ら自
   身の最高の世界の歩みを体系化するブルジョア生産エージェント
   の平凡さの概念にそれ自身を限定し、そしてそれを
   <宣布為永恆的真理>永遠の真実として宣言するのです。

(32)これは古典的な政治経済学における基本的な欠陥の1つであり、それは財からの財の分析と価値形式の特別な価値に成功することは決してなく、それは彼を単に価値の交換にする。 A.スミスやリカルドのような彼女の最も良い代表者の間で、彼女は価値の形式を全く無関係な何か、または製品自体の外部の何かと見なしています。

その理由は、価値の規模の分析が完全に注目を集めているということだけではありません。彼はもっと深い。作業成果物の価値形式はブルジョア生産モデルであり、したがって特別な種類の社会的生産としてであり、同時に歴史の最も抽象的で一般的な形式を表しています。

したがって、あなたはこの永遠の自然な形の社会的生産を知っているので、私たちは特定の形の必要性と価値、つまり商品の形、開発資金、パッケージの形を無視します。学位は非常に賛成、お金の最もカラフルで矛盾する概念、すなわち一般的な同等の補完の形です。

たとえば、銀行業界では、一般的な通貨の定義だけでは不十分です。対照的に、社会的形態の価値、あるいは単に改善されていない外観を見るだけの回復されたビジネスシステム(Ganilh et al。)。 -

それにそして一度に注意を払うために、私の古典的な政治経済は明白な関係でのみ合理的なVerständlichmachungbourgeois生産関係の内側の関係がハングアウトすると信じることをW.ペティブルジョアジーの比較下品経済学から失礼な現象とブルジョア住宅のニーズは科学的経済によってもたらされてきたと言えるでしょうが、そうでなければそれは体系的に彼ら自身の最高の世界のペンダントを貪り尽くすブルジョア生産エージェントの平凡の概念に限定されます。そして永遠の真実として宣言されています。

(32),這是它永遠不會成功,從貨物的貨物的分析和特殊的價値在價値形態上,這讓他僅僅是交換價値了古典政治經濟學的根本缺陷之一。在她最好的代表中,如A.史密斯和里卡多,她將價値形式視為完全無關緊要的東西,或者是商品本身的外在東西。原因並不僅僅是對價値規模的分析完全吸引了他們的注意力。他更深入。工作産品的價価値形式是資産階級的生産模式,因此作為一種特殊的社會生産的,並在同一時間表徴歴史的最抽象的,也是常見的形式。因此,你知道這對社會生産的永恆的自然形式,所以我們忽略必要和價値 的具體形式,所以商品形式,開發資金,包乾等形式,因此它適用於經濟學家,其上的價値量由勞動程度頗為認同,最豐富多彩,最矛盾的金錢觀念,即一般等價的完成形式。這很引人注目,例如在銀行業的處理中,貨幣的共同定義已不再足? 。相比之下,一個恢復的商業系統(Ganilh等),它只看到了社會形式的價値,或者更確切地?只是未經改善的外觀。 - 要一次注意到它和所有的,我的古典政治經濟學的意思是所有經濟自W.小資的對比庸俗經濟學認為只有在明顯的關係掛出探索,對於合理的Verständlichmachung資産階級生産關係的内在聯繫可以這麼説粗暴的現象和資産階級的房屋需要已經由科學的經濟提供了物質總是重新咀嚼,否則將自己局限於系統化自己最好的世界pedantisieren的資産階級的生産代理商平庸自滿的概念,並宣布為永恆的真理。

⑱<97>經濟學家的一部分被商品世界附帶的拜物教或者社會工作條件的事實表現所欺騙,其中包括多少。無聊,心不在焉地爭論自然在交換價値形成中的作用。由於交換價値是表達與事物有關的工作的某種社會方式,因此它不能包含比匯率更多的自然物質。

<97>エコノミストの一部は、商品の世界のフェティシズムや、いくらなどの社会的労働条件の実際の成績にだまされた。交換価値の形成における自然の役割について退屈で、懐疑的に議論している。交換価値は物事に関連する仕事を表現する社会的な方法なので、交換レートより多くの天然物質を含むことはできません。





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 『初版』価値形態  Ⅱ

 投稿者:杉本  投稿日:2018年12月23日(日)12時38分7秒
返信・引用 編集済
    『初版』附録からも 価値形態の新たな素晴らしき判読を得たので、紹介します。
        ぐーぐるほんやく
  https://translate.google.co.jp/?hl=ja
  『初版』価値形態
  https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

  I. First or simple form of relative value: 20 yards of linen = 1 coat
    (x of commodity A = y of commodity B).
 ①I 相対値の最初の、または単純な形式:リネンの20ヤード= 1コート(商品Aのx =商品Bのy)。 この形式は単純であるため、分析がかなり困難です。そこに含まれているさまざまな仕様は、ベール、未開発、抽象的であり、その結果、私たちの抽象化の力をかなり強烈に適用することによってのみ区別し、焦点を合わせることができます。しかし、少なくともこれが一目で明らかになります。つまり、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、フォームは同じままです。

②-①リネンは、地上での使用価値のあるものや便利なものにします。その堅いリネンの体性または自然の形は、結果としてその価値形態ではなく、その正反対です。それはそれ自体と等しいものとして他の商品(コート)にそれ自身を関連付けることによってすぐに価値としてそれ自身の現実を明らかにする。

②ー②それ自体が価値ではなかった場合、それはそれ自身のこととして(価値として)コートに自分自身を関連付けることができませんでした。それは、同じ種の人間の労働の客観化、すなわちそれ自身の価値物質の客観化としてそれ自身をそれに関連付けることによってそれ自身をコートと質的に等しいと仮定する。それはxコートの代わりに1コートだけであると自負しています。それはそれが一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値だからです - そしてコートには正確に20ヤードのリネンがあります。

 ③コートとのこの関係によって、リネンは一筆書きで異なるハエをたたきます。他の商品をそれ自体を価値として見なすことによって、それはそれ自体を価値としてそれ自体に関連付けます。それ自身を価値としてそれ自身に関連付けることによって、それは同時にそれ自身を使用価値としてそれ自身と区別する。

 ④その価値の大きさをコートで表現することで(そして価値の大きさは、一般的な価値と定量的に測定された価値の両方である)、それはその存在とは異なる価値形態を持つ価値としてその現実を授けます。
このようにして自分自身を差別化されたものとして自分自身を明らかにすることによって、それは本当に商品として初めて自分自身を明らかにします - 同時に価値のある有用なもの。リネンが使用価値である限り、それは独立したものです。

②ー⑤その価値は、その一方で、コートがある別の商品(コートなど)との関係でのみ表示され、定性的に同等と見なされ(リネン)、その結果、それと同等の特定の数量で置き換えられます。
そしてそれと交換可能です。したがって、価値は、交換価値としての明示を通じてのみ使用価値とは異なる個別の形態を獲得するにすぎない。

 ③コートの中のリネンの価値表現はコート自体に新しい形を印象づける。 結局のところ、リネンの価値形態の意味は何ですか? コートはそれと交換可能であることは明らかです。 他にどんなことが起こっても、そのリアルな現実の中で、それは今や他の商品との即時の交換可能性の形態、交換可能な使用価値の形態、または同等物として持っています。 この同等物の仕様は、商品がまったく価値があるという事実だけでなく、それがその体型(その使用価値)のままで他の商品価値として数えられ、そしてその結果としてすぐに他の商品の交換価値として手に入るという事実を含みます。

④ー① 価値としては、リネンは労働だけで構成され、透明に結晶化された労働の沈殿物を形成します。しかし、実際にはこの結晶は非常に濁っています。労働がその中で検出可能である限り(そして商品のすべての具体例が労働の痕跡を明らかにしているわけではない)、それは未分化の人間労働ではなく、むしろ:製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然由来の物質が含まれています。

 ②人間の労働の単なる肉体的表現としてリネンを保持するためには、それを本当に物事にするものすべてから抽象化しなければなりません。

 ③それ自体抽象的である(すなわち、いかなる追加の品質および内容も含まない)人間の労働のいかなる客観性も、必然的に抽象的客観性、すなわち考えのものである。そのようにして、亜麻のウェブはキメラに変わる。<But commodities are objects.>しかし、商品は<物象>です。

 ④彼らは彼らがオブジェクト<物象>のような方法であるものでなければならないか、そうでなければ彼ら自身のオブジェクト<物象>的関係でそれを明らかにしなければなりません。リネンの製造においては、消費されたことに人間労働の特定の量が存在します。リネンの価値はそのように費やされた労働の単なる<objective reflection>客観的<物象的>な反映ですが、リネンの本体には反映されていません。
 <再版・第三節 価値形態または交換価値 には次の紹介がまずあったのです。>
  ②しかし、それが同じ社会的団結、人間労働の表現であれば、モノ<物象>が価
  値観 - 客観性のみを持ち、その価値観 - 客観性は純粋に社会的関係にあるという
  ことを思い出すならば、その<物象>の社会関係にあるということだけである-
  -ことは、言うまでもない。そのことで、 商品による商品への表示が可能です。
But if we remember that goods have only value-objectivity, provided that they are expressions of the same social unity, of human labor, that their value-objectivity is purely social, then it goes without saying that they are only in the social relation of commodity to commodity can appear.
 <このように、対象を商品として語るときには、価値対象性ではなく、
 「その価値観 - 客観性」--を取り上げねば全くの抽象性であり空論なのです。>
 < https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1481
  「価値」の「実体論」的規定の再措定」への批判
   廣松 渉 氏の『資本論の哲学』(1974 10 25初版)
  「第二章物象化論の視座と価値規定」の「第八節「価値」の「実体論」的規定の再措定」への批判
   2年前の作ですが、訂正しておきました。ドイツ語の訳も、点検する必要ありです!」
④ー⑤それはそのコートとのその価値関係によってそれ自身を明らかにする(すなわち、官能的な表現を獲得する)。リネンがコートをそれ自体を価値として見なすことによって - 同時に使用目的としてのコートから自分自身を区別することによって - コートがリネン本体とは対照的にリネンの価値形態<its value-form>になるということが起こる:<distinguished from its natural form.>その物その自然な形から区別されるような形態です。


  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ここには、正しくは--④ ⑤段落に、次のように関連が示されていました。
 ④ー④ it in their own object-like relationships. 自分の物象的関係
 ⑤ー②The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
オブジェクト コートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。」
 ⑤-③こうして、他商品ではなくーー自身で価値形態になるーーのです。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 以上のことで、上着自身が、媒介を経ずとも価値形態であり、価値の現出形態なので
す。これが<物象の判断>の奇怪さなのです!
再度ーー上着自身が、それ自体として、価値の現出形態であり、上着の--価値の現象
形態としてのリンネルへの役立ちは、ここではなくて、していないのです。
 だから、このように、訳出を、
 ④ー④を object-like relationships       物的関係と訳しているから、
                         物象的関係--を排除し、
 ⑤-②の a sensually palpable objectification  触知可能なオブジェクト化を、
    「同種の人間労働の<触知可能>感覚的な・手でつかみうる対象性として」と
     ーー歪曲した。objectification--が、物的な物に転倒している。
 このように大切な肝心の--「物象的関係」の大切な意味--を消し去ることで、
「リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、この
ように、リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。」ーーとの訳出です。
⑤-③こうして、他商品ではなくーー自身で価値形態になるーーことを判読できず、上
着自身が、媒介を経ずとも価値形態であり、価値の現出形態となる謎であり、この
<物象の判断>の奇怪さ!であるのに、捨象したのであります。

 再度ーー上着自身が、それ自体として、価値の現出形態であり、上着の「価値の現象
形態」としてのリンネルへの役立ちは、ここではなくて、していないのです。
江夏ー今村ー牧野訳は、この他商品への物的な役立ちを見たから誤訳なのです。
 その謎性追求での解答は、後で、次の解答をえたのです。

 謎性ーーとは何か? リンネルが、価値形態を受けとリ、次に、相対的価値形態を示
 さずとも、上着が、自身だけで価値形態ーーそしてその次にー同等形態を示すことが
 できる!と判断することです。
 なんとも誤訳の恐ろしきことよ!
 これだから、「等価形態が前提」と判読する・理解する人々ばかりが、発生するので
 す。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 <⑤-③での--その続きは、こう示されていました。>
⑤ー④But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is rather a particular useful labour: tailoring.・・・・略
⑤ー④しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 マルクスは、ここまでに、商品形態の謎をこそ追求しており、ここでの進行の程度・位置は、後段の、次の左極の対立事項としての右極の独自性をこそ対象化し追求しています。この初版での論述の進行状況を見るために、附録では等価形態の第一の独自性が、次のように提起されていたので観察してみよう。
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 <『初版・附録』>
①商品の自然的形態が価値形態になります。
しかし、このーthis quid pro quoー取違える商品は、他の商品A(リネンなど)が入っている商品との価値関係の中でのみ、商品B(コートまたは小麦または鉄など)に対してのみ・この関係のなかでのみ発生します。

それ自体では、孤立していると見なされますが、コートは、リネンと同じように、有用なもの、つまり使用価値に過ぎません。そのため、そのコートフォームは使用価値の形式にすぎません(Form von Gebrauchswert) 明確なタイプの商品の自然な形態です。

しかし、商品は同等物としてそれ自体に関連することはできず、それゆえ、自らの自然の秘密を独自の価値の観なし方で隠すことはできないので、他の商品と同等のものとしてそれ自身を関連付けるか、あるいは、別の商品身体の自然の隠れ場所を、それ自身の価値形態と見なしているのです。
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/appendix.htm
  (初版附録)
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  <杉本-- 「①他の商品と同等のものとしてそれ自身を関連付けるか、
  ・・②別の商品身体の自然の隠れ場所を、それ自身の価値形態と見なしている」
  ーーとはなにか?
  それは、
  ①リンネルの価値形態が形成され、
  ②上着が価値表現の材料としての役立ちを果たせることで商品形態が示され、
  ③それは、左極での相対的価値形態が形成なので、次に、
  ④上着はその対極にて価値表現の材料の姿態のままに、この反省規定されるので、
  ⑤リンネルの同等物とされることで、<直接的に価値形態>と右極にて判断され
  --この同等の形態--となっている、ことをここに示しているのです。
  それが、①他の商品と同等のものと・・とされる--ことであり、
  あるいは、②別の商品身体を、それ自身の価値形態と見なすーーことなのです。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  附録では、(三)同等(等価)形態 (二)相対的価値形態
  (一)価値表現の両極。相対的価値形態と同等形態--となっていました。
  しかしこの記述は、同等形態<等価形態>が前提になどなっていない、記述です。
  この(一)がまえにあるからとして、けして、その両極が、前提になどなってい
  ないのです。

  しかし先生は、誤解の余地ありとして、次再版で、附録の記述を訂正しています。

  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_2
1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform

「したがって、キャンバスの価値は相対的な用語でしか表現できません。他の商品にあります。したがって、キャンバスの相対的価値形式は、他のすべての商品がそれと反対の同等形式であることを意味します。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<初版附録>
(b)2つの形式の極性。(b) The polarity of the two forms.

 一方では、これら2つの形式は、同じ価値表現の極値、すなわち極を互いに除外または反対するものである。それらは常に異なる商品の間で分配され、それは価値の表現が互いに関係しています。
On the one hand, these two forms are mutually excluding or opposed extremes, i.e. poles, of the same expression of value. They are always distributed amongst different commodities, which the expression of value relates to one another.

たとえば、リネンの値をリネンで表すことはできません。
'20ヤードのリネン= 20ヤードのリネン'は価値の表現ではなく、単に使用されているオブジェクトであるリネンの数量を表すものです。
For example, I cannot express the value of linen in linen. ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’ is not an expression of value but simply expresses a definite quantity of the object of use, linen.

したがって、リネンの価値は他の商品(in andrer Ware)のなかでしか表現できない、すなわち相対的にだけである。リネンの相対的な価値形式は、このように他の商品が同等の形式でそれに立ち向かうことを前提としています。
The value of linen can thus only be expressed in another commodity (in andrer Ware), i.e. only relatively.The relative value-form of linen thus presupposes that that some other commodity confronts it in the equivalent form.
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<再版><国民文庫訳は、「前提」、 江夏訳フランス語版が、「・・と仮定しているわけだ。」・と。
    今村訳は、両極性を述べるのみで、右極が前提などとは訳してない。P327>
The value of the canvas can therefore only be expressed in relative terms, i. in other goods.
The relative value form of the canvas, therefore, implies that any other commodity is in the equivalent form opposite it.
したがって、キャンバスの値は相対的な用語でしか表現できません。他の商品にあります。したがって、キャンバスの相対値形式は、他のすべての商品がそれと反対の同等形式であることを意味します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_2
 <上記からの英訳>

Relative value form and equivalent form are mutually related, mutually dependent, inseparable moments, but at the same time mutually exclusive or opposite extremes, i. Poles of the same value expression; they are always distributed among the different commodities that the value expression relates to each other. I can e.g. do not express the value of the canvas in canvas.

20 cubits of canvas = 20 cubits of canvas is not a value expression. On the contrary, the equation says: Twenty cubits of linen are nothing but twenty cubits of linen, a definite quantity of the commodity canvas.

The value of the canvas can therefore only be expressed in relative terms, i. in other goods. The relative value form of the canvas, therefore, implies that any other commodity is in the equivalent form opposite it.

On the other hand, this other commodity, which figures as an equivalent, can not be in relative value form at the same time. Not she expresses her value. It supplies the material only to the value expression of other goods.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_2

Relative Wertform und Äquivalentform sind zueinander gehörige, sich wechselseitig bedingende, unzertrennliche Momente, aber zugleich einander ausschließende oder entgegengesetzte Extreme, d.h. Pole desselben Wertausdrucks; sie verteilen sich stets auf die verschiedenen Waren, die der Wertausdruck aufeinander bezieht. Ich kann z.B. den Wert der Leinwand nicht in Leinwand ausdrücken. 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand ist kein Wertausdruck. Die Gleichung sagt vielmehr umgekehrt: 20 Ellen Leinwand sind nichts andres als 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Gebrauchsgegenstandes Leinwand. Der Wert der Leinwand kann also nur relativ ausgedrückt werden, d.h. in andrer Ware. Die relative Wertform der Leinwand unterstellt daher, daß irgendeine andre Ware sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befindet. Andrerseits, diese andre Ware, die als Äquivalent figuriert, kann sich nicht gleichzeitig in relativer Wertform befinden. Nicht sie drückt ihren Wert aus. Sie liefert nur dem Wertausdruck andrer Ware das Material.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 <上記をしっかりと確認して、次に移ります。>
 そのことが、初版では、次のようにまとめられていました

⑤ー②The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
⑤ー②対象物コート<The object, coat,>物象であるコートは、
それを同じ種類の人間の労働の感覚的に明白な物象化
<objectification of human labour >として、
そしてその結果として自然の形での価値として数えます。
 <しかし自動翻訳だと、次の表現になります。>
②対象物、コートはそれを同じ種類の人間の労働の感覚的に明白な客観化として、そしてその結果として自然の形での価値として数えます。

⑤ー③Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形態のコートは、それによって、自分の価値の形態になります。

<コートは、人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化・自然な形で価値>ーー
とみなされることで、コートは、それによって、自分の価値の形態--となるのです。このように、初版での記載--論述があることで、この付録での次の論旨は明白です。

「コートは、価値体としてのリネンの価値表現、したがってその価値形態としての身体的または自然形態、すなわち未分化な人間労働の実現形態、それ自体の人間労働(シュレフチン)としてカウントされる。」<b)同等の形態の第二の特異性>

a即ち、上着・コートは、①価値表現の材料として役立つことで、②上着は使用価値のままに価値であり、価値体であることで、③自然的形態のままに価値形態--と判断されています。このように、① ② ③の転倒があることで、次に、④裁縫労働--具体的労働が抽象的人間労働の実現形態と、示されています。

<しかし、同等の形態の第二の独自性を語るところで、何故ならばと--その転倒を解
読しています。>

「人間の労働であることは本質(Wesen)であり、その仕立ての労働は外観の形(Erscheinungsform 外観・見掛け)またはその本質の実現の明確な形としてのみカウントされます。」

<マルクスは、本質の現象形態として、転倒してくることを訂正し、こう説明した。>
①商品の価値に<江夏訳 対象化>客観化 objectified された労働は、
②この商品の
④労働は異なる商品の価値を<対象化でなく>客観化し、(the labour objectified in the value)
③異なる製品とは決して区別されない

①<that the labour objectified in the value >
②<of the product is in no way distinguished from >

④<the labour objectified in the value of a different product.>
③<of the product is in no way distinguished from >

①商品の価値に客観化        labour objectified された労働は、
④労働は異なる商品の価値を客観化し、labour objectified

このように、対照してみると、単に、価値として労働が対象化されていると云うことで
はなく、物象として、労働が価値に<客観化>された価値形態となり、そのことで、上
着はその自然的形態のままに価値形態と--物象によって判断されている--と示して
います。<けして物的なものではないし、物的関係ではない。>

これで、②物象の<上着は自然的形態のままに価値形態であり、価値>であるーー
との、初版附録、初版の判断・理解の合一性が示されたのです。
①物象<コートは、人間労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化・自然な形で価値>
   <自然な形態のコートは、それによって、自分の価値の形態>--との判断です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  <この難関な五段落もう一度整理しておこう>

①In the expression of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or, x linen is worth y of coat), one must admit that the coat counts only as value or coagulation of labour, but it is precisely through that fact that the coagulation of labour counts as coat, and coat as the form into which human labour flows in order to congeal.
①相対値の表現では、20ヤードのリネン= 1コート(またはxリネンはコートのyの価値がある)は、コートが価値または労働の凝固としてのみカウントされることを認めなければならないが、それはまさにその事実による労働の凝固はコートとして、そしてコートは人間の労働力が凝固するために流れる形としてカウントされます。

②使用価値コートは、客観的なものとして、同種の労働に関連するため、抽象的人間の労働の即時実現、すなわちリネンはそれ自体がコートの素材に関連するため、リネン価値の外観の形態になるだけであり、リネン自体の中で客観化されているものと同じ種類の労働ーーであるからです。
②The use-value coat only becomes the form of appearance of linen-value because linen relates itself to the material of the coat as to an immediate materialization of abstract human labour, and thus to labour which is of the same kind as that which is objectified within the linen itself.

③The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form. Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
③物象であるコートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に明白な
客観化<objectification>として、そしてその結果として自然の形での価値としてそれを数えている。それは、価値としてコートと同じ本質のものであるので、それによって天然形態のコートはそれ自身の価値形態になる。

④使用価値、コートに代表される労働は、単なる人間の労働力ではなく、むしろ特に有用な労働、すなわち仕立てである。
④But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is rather a particular useful labour: tailoring.

⑤Simple human labour (expenditure of human labour-power) is capable of receiving each and every determination, it is true, but is undetermined just in and for itself.
⑤単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、あらゆる決定を受けることができます、それは本当ですが、それ自体のためにそしてそれ自体のためには、未決定です。

⑥人間の労働力が決まった形で、もう一度-決まった形で費やされるとすぐに、それを実現し客観化<objectify>することができる。なぜならそれはある自然の実体 - 労働がそれ自体を客観化する外部の材料 - が直面することができる< in which labour objectifies>決定されたそして指定された労働のみであるからです。
⑥It can only realize and objectify itself as soon as human labour-power is expended in a determined form, as determined and specified labour; because it is only determined and specified labour which can be confronted by some natural entity ? an external material in which labour objectifies itself.

⑦It is only the ‘concept’ in Hegel’s sense that manages to objectify itself without external material.[1]
⑦ヘーゲルの意味での「概念」だけが、外部の資料なしで、
それ自身を客観化< that manages to objectify itself >することに成功している[1]。
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    <杉本 我々の「価値形態」論での読み解く事柄は、
     次の崎山論文との対比から明らかです。>
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井上・崎山論文(「商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(1)~(4) : 『資本論』冒頭商品論の構造」、立命館文學、632、633、635、638、いずれも同誌のホームページhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/index.htm」で公開済み)

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/635/635pdf/inoue.pdf
この原P32 での記述は、価値形態での転倒として、5段落以降に、その転倒の有り様を、順々と論ずけている事柄であり、8段落にて、二つの極の形態を整理しているが、その論拠は、7段落での、左極を経ての--「回り道」を経て、受けとる「直接的交換可能性という形態」<江夏訳P52>なのです。
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③「それ以外の点では、リネンが普遍的な同等品になるとすぐになります。この使用価値 - 他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的にリネンに使用される特別な決定性 - では、今や他のすべての商品の普遍的な価値形態となり、したがって普遍的な同等物となります。それゆえ、その中で明らかにされた特定の有用な種類の労働は、今や、それが特定の決定力の労働である限り正確に普遍的な労働としての、人間労働の普遍的実現形態としてカウントされる。」

 崎山論文は、マルクスが批判している、次の関連にたいして、
その前後の関連性を否定しており、第三の形態では、ーーー以下の事柄を、捨象している。

①  a--すべての商品の普遍的な価値形態となり、
   b--したがって普遍的な同等物となり

②  a--商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態
   b--同時にその価値形態である・・即時の交換可能性、

マルクスは、この① ②の区別が何処にあるのか?を、次に論じている。

 ④単なる使用目的を商品に変えることができ、それ故に社会的な信頼に結びつくことができるのは、この種のことだけです。しかし、これこそまさに価値です。商品が互いを価値と観なしして - 人間の労働の凝固として - 数える形は、結局のところこの社会的形態である。商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、したがって全く同一のものです。

商品の自然な形態が同時にその価値形態であるならば、そのときその商品は他の商品との即時の交換可能性、そしてその結果として即時の社会的な形態を所有します。
 <再度ーーー以上の事柄を、捨象して述べているのです。>

そして、⑥段落にての見地から、その前の②段落をのみ取り上げて、つぎのように、語ることで、等価形態の独立性を主張するのです。

<「・・・商品リンネルに対象化された特殊な具体的有用労働が、人間労働の一般的な実現形態として、一般的労働、すなわち価値実体そのものになる。こうして商品リンネルでない他のすべての商品は、等価形態から排除され、それゆえに、直接的交換可能性の形態・直接に社会的形態を持たない商品、つまり商品リンネルとの交換関係に入るという媒介を通じてだけ交換可能性・社会性を得る商品となる。

そしてまた商品リンネルと異なるあらゆる商品に対象化された労働は、商品リンネルに対象化された労働との等置によってのみ、人間労働として認められるのであり、それらの商品は価値として、すなわち商品として認められるのである。純粋に社会的なものたる価値は商品リンネルとして現われ、価値の量化を実現する価値実体は商品リンネルに対象化された特殊な・私的な具体的労働として現われる。この異様な形態、形態Ⅲにおける等価形態(=一般的等価形態)に関してマルクスはきわめて印象的な特徴付けを行なった。
形態Ⅲにおいては、リンネルはすべての他の商品にとっての等価物の類形態 として現われる。」P32>

<しかし、その次の段落では転倒があるというのです。彼は、この転倒に眼を向けていない。>
ーー⑦段落ーー
  「しかし、彼らが使用目的として持っている自然の形は、この迂回路上でのみ価
  値のある外観の形態として相互にカウントされます。
  彼らはその理由のためにすぐに交換可能ではないという理由だけで彼らはすぐ
  に、そこにあります。したがって、それらは互いに直接交換可能性という形態を
  持っていません。すなわち、それらの社会的に有効な形式は仲介されたものです。
  それは逆です。
  他のすべての商品は価値の出現の形としてリネンに関連しているという事実を通
  じて、自然な形態のリネンはすべての商品との即時交換可能性の形、そしてその
  結果として即座にその普遍的な社会的形式になります。」(原30)

  <このように、原著者は、商品形態が、相対的価値形態で形成されていることで、
  この回り道を経て、自ずと同等物の形態も、両極の形態として形成され、そして、
  それは第三形態でも同じだからであり、あらゆる諸商品が価値形態となることで、
  一般的同等物とされるリネンは、使用価値と右極にて反省規定されていることで、
  第一の形態と同じく、一般的な同等物の形態--の単なる形態となっています。
  このことを見出すためには、再版の回り道に迷わされず、
  初版の回り道のシンプルな記述--の偉大さを見出すことが、とても大切です。>
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
 <資本論 初版>

  III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:
  Ⅲ  相対的価値の第三の、逆転した、あるいは逆関係になった第二の形態
  1コート   = 20ヤードのリネン
 u coffee    =  "
   v tea    =  "
  x iron    =  "
 y小麦など   =  "
 ①この時点で相対値式は元の形に戻ります。1コート= 20ヤードのリネン。しかし今、この単純な方程式はさらに発展しています。もともとそれはコートの価値が他の商品での表現を通して交換価値コートあるいはコートの本体とさえ異なるそして独立した形を得るという事実だけを含んでいた。今ではまったく同じ形が他のすべての商品に関しては価値としてコートを明示しています。コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、一言で言えば、他のすべての商品は素材、リネンでその価値を表現しています。このようにして、すべての人が互いに同じことを人間の労働の実体化として表明します。これらは今後量的に異なるだけであり、それが1コート、コーヒー、鉄など、すなわちこれらの異なるものの異なる量が20ヤードのリネンに等しい(客観的な同一の労働量に等しい)理由である。

それゆえ、素材、リネンにおける共通の価値表現を通して、すべての商品はそれら自身の使用価値と交換価値として異なり、同時に価値の量として互いに関連し、互いに質的に同等であるそして定量的に比較しえている。この統一された相対的な値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として初めて現れ、その結果、それらの値は交換価値としてその対応する外観の形で初めて得られます。他のすべての商品の環境における商品の価値を明示する、開発された形式の相対価値(フォームII)とは対照的に、この統一された価値表現を普遍的な相対的価値形態と呼びます。

 ②リネンが相対的な価値表現を展開する形式であるフォームII(リネンの20ヤード= 1コートまたは= uコーヒー、またはvティーまたはxアイアンなど)では、それはそれ自身をそれぞれ個々の商品(コート、具体的な同等物としてのコーヒーなど)、および同等物のその特定の形態の環境に関して、それらすべての人々に。個々の商品種は、特定の同等品のように単純な同等品としてリネンに関してもはやカウントされないが、一方の同等品が他方を除外する特定の同等品としてのみカウントされる。

フォームIII(これは逆の2番目のフォームであり、したがってその中に含まれています)では、リネンは他のすべての商品の等価物の一般的なフォームとして表示されます。それは動物界の様々な種類、種、亜種、家族などをまとめたときに形成されるライオン、トラ、ウサギ、そして他のすべての実際の動物と並んで、そしてそれらの外部にあるかのようです。動物界全体の個々の化身。それ自体の中に同じ実体のすべての実際に存在する種を含むそのような特定のものは普遍的です(動物、神などのように)。

他の1つの商品がそれ自体に価値の出現の形として関連しているという事実によってリネンが個々の同等物になったように、つまりリネンが - すべての商品に共通の価値の出現の形として - 普遍的な同等の普遍的な価値・抽象的な人間の労働の全身、普遍的な実体化。その中で具体化された特定の労働は、今や人間の労働の実現の普遍的形態として、普遍的労働として数えられています。

 ③商品Bの中に商品Aの値が表示される過程(つまり、商品Bが単一の等価になる)では、特定の商品Bがどのようなものであるかは無関係でした。商品Bの身体性は商品Aのそれとは異なる種のものでなければならず、したがって他の有用労働の産物でもなければならなかった。コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間労働としてリネンにそれ自体を関係づけ、そしてそれによって人間の労働の実現形態としてのリネン織りにそれ自体を関係付けたが、リネン織りを他の種類から区別する特定の決定性で労働は全く無関心だった。それは仕立てること以外の種類のものでなければならず、いずれにせよ特定の種類の労働でなければならなかった。それ以外の点では、リネンが普遍的な同等品になるとすぐになります。この使用価値 - 他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的にリネンに使用される特別な決定性 - では、今や他のすべての商品の普遍的な価値形態となり、したがって普遍的な同等物となります。それゆえ、その中で明らかにされた特定の有用な種類の労働は、今や、それが特定の決定力の労働である限り正確に普遍的な労働としての、人間労働の普遍的実現形態としてカウントされる。
そして他のすべての種類の労働。一方、他のすべての種類の労働数(リネンの相対的な価値表現 - 普遍的な同値:形II)では、これ以降は人的労働の具体的な実現形態としてのみである。

 ④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour. In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values. They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another. As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs. But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities. It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport. But this is just what value is. The form in which the commodities count to one another as values  as coagulations of human labour is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.

 ④価値として、商品は同じ統一性、抽象的な人間労働の表現です。交換価値の形でそれらは価値としてお互いに見え、価値としてお互いに関係しています。それによって彼らは同時に彼ら自身の共通の社会的実体として人間の労働を抽象化することに関係している。彼らの社会的関係はもっぱら量的に異なるが、質的に等しいそしてそれ故に交換可能で互いに交換可能である彼らの社会的実体の表現として互いに関して数えることから成り立っています。

有用なこととして、商品はその所有者以外の人々にとっての使用価値であり、したがって社会的ニーズを満たす限りにおいて社会的決定性を有する。しかし、商品の有用な特性がそれをどのようなニーズに関連させているのかは無関係です。それにもかかわらず、商品はすべての場合においてこれらの特性を介してのみ成り立つことができ、他の商品のための商品ではない。

単なる使用目的を商品に変えることができ、それ故に社会的な信頼に結びつくことができるのは、この種のことだけです。しかし、これこそまさに価値です。商品が互いを価値と観なしして - 人間の労働の凝固として - 数える形は、結局のところこの社会的形態である。商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、したがって全く同一のものです。

商品の自然な形態が同時にその価値形態であるならば、そのときその商品は他の商品との即時の交換可能性、そしてその結果として即時の社会的な形態を所有します。

 ⑤The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
⑤単純相対値形式(形式I) 'ワンコート= 20ヤードリネン'は、一般式相対値形式 'ワンコート= 20ヤードリネン'と異なる点は、この式が今度は系列のメンバーになるという事実だけです

 1 coat  = 20 yards of linen
 u coffee  =
  v tea  =
   etc  =

 ⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent. Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression. But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent.
 ⑥実際には、それはしたがってリネンが単数形から普遍的な同等物までその開発を続けているという事実においてのみ異なります。 したがって、単純な相対的価値表現では、その価値を表すのはその商品ではなく、むしろ即座の交換可能性の形をとるものである価値の量が表現されているものである(等価形式:したがって 社会的な形態)でも、同じことが普遍的で相対的価値表現にも当てはまります。 しかし、単純な相対的な価値形態では、この区別は単なる形式でエバネッセント<消え去るもの>です。

If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen ? one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way. This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen.
もし、コートが「1コート= 20ヤードのリネン」の式で相対的な方法で(つまりリネンで)その値を表わし、それによってリネンが同等の形態をとる場合、まったく同じ式はすぐに相反性を含む。

20ヤードのリネン -  1コート。これは、同等の形をとるコートであり、リネンの値は相対的な方法で表されます。
相対的価値として、そして等価としての両方の商品の価値形態のこの一定したそして相関的な発展はもはや起こらない。

普遍的な相対的値値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(ここで、リネンはユニバーサルコートと同じ)を「20ヤードのリネン= 1コート」に変換しても、コートはすべてのユーザーにとってユニバーサル同等にはなりません。他の商品は、しかしリネンの特定の同等物であるだけです。

The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time.

What holds true of the coat, holds true of coffee, etc. It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent.

On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent.
それが同時にすべての他の商品の相対的価値形式であるので、コートの相対的価値形式は、普遍的なものであるだけです。

コートにあてはまるもの、コーヒーにあてはまるものなど、したがって、普遍的な相対価値形式の商品は、これらのまさにそれらの商品自身を普遍的な同等形式から除外することになります。

一方、リネンのような商品は、普遍的同等形式を持つとすぐに普遍的な相対的価値形式から除外されます。

The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’. But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent ? and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
他の商品と統一された、リネンの普遍的な相対的価値形式は、「20ヤードのリネン= 20ヤードのリネン」になります。しかし、これはこの商品の価値を表すものではないトートロジーです。この商品の価値は普遍的な等価形式で、したがって永続的に交換可能な形式で表されています。そうではなく、現在開発されている相対値形式(20ヤードのリネン= 1コートまたはuコーヒーまたは= v茶または=など)が、普遍的な等価物の具体的な相対値表現となっています。

 ⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form ? namely, the form: linen. And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc. All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way.
 ⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対的価値表現において、その本来の形態とは異なる価値形態、すなわちリネンという形態を持っています。そして、1コート= 20ヤードのリネン、uコーヒー= 20ヤードのリネンなどであれば、それらが相互に交換可能なものとして、そして交換可能なものとして定量的に決定される関係にあるのはまさにこの形式です。また、1コート=コーヒーなどもそうです。すべての商品は、価値のあるものとして同一の商品の中に自分自身を映し出すことによって、価値のあるものとして相互に反映しています。

They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are. Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one. It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities  and consequently its universal social form in an immediate way.
しかし、彼らが使用目的として持っている自然の形は、この迂回路上でのみ価値のある外観の形態として相互にカウントされます。

彼らはその理由のためにすぐに交換可能ではないという理由だけで彼らはすぐに、そこにあります。したがって、それらは互いに直接交換可能性という形態を持っていません。すなわち、それらの社会的に有効な形式は仲介されたものです。

それは逆です。
他のすべての商品は価値の出現の形としてリネンに関連しているという事実を通じて、自然な形態のリネンはすべての商品との即時交換可能性の形、そしてその結果として即座にその普遍的な社会的形式になります。

 ⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form. Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour.

A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
 ⑧ある一商品が普遍的な等価形式を取得するのは、他のすべての商品がその普遍的な相対的(したがって即時ではない)価値形式を明示しているからである。
しかし、コモディティは一般的に相対的な価値形式を与えなければなりません。なぜなら、それらの自然な形式はそれらの使用価値の形に過ぎず、それらを統一された(したがって普遍的な)相対的価値形式で与えなければならないからです。それらのすべては、人間労働の均質な凝固として、価値として互いに関連しています。
したがって、単一の商品は、他のすべての商品との即時の交換可能性という形態でしか見られず、したがって即座に社会的な形式で見つけられます。一般的には、その直接的形態はその価値ではなく、その使用価値の形態であるという事実のおかげで、即座に交換可能または社会的な形態を、自分自身で見つけます。

 ⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists. Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
 ⑨磁石の一方の極の陽性が他方の陰性の陰性からであるのと同様に、矛盾する形態の商品であることを普遍的な即時交換性の形で実際に検出するわけではない。
その結果、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるのと同じように、すべての商品に即時の交換可能性のマークを同時に印象付けることができると想像することができます。しかし、実際には、普遍的な相対的価値形式と普遍的等価形式は、全く同じ社会的形式の商品の矛盾した相反的、逆相反的な極です。

 ⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
 ⑩この時、労働の即時の社会的実体化として、リネンは(普遍的同等物として)即時の社会的労働の実現であり、一方リネンの中でその価値を表す他の商品の総体は即時ではない社会的労働の実現である。

⑪ー①Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
⑪ー①実際には、すべての使用価値は商品にすぎません。なぜなら、それらは互いに独立した私的労働の製品だからです。ただし、分裂の原始システムの特定のメンバーとして互いの労働に実質的に依存しています。このようにして、彼らは彼らの差別化、彼らの特別な有用性を通して正確に社会的に、ともに協同しています。それこそが、それらが質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

 ②If they did not, then these use-values would not become commodities for one another.
On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities.
If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities.

If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
 ②そうでなければ、これらの使用価値は、互いの商品にはならないでしょう。
もう一つ、この異なる有用な品質はまだ製品を商品にしません。
だから、農民の家族が自家消費のためにコート、リネン、小麦を生産する場合、これらの事柄は家族の労働の異なる製品として家族に直面しますが、商品として相互に直面することはありません。
商品が即座に社会的(すなわち、普通の)労働である場合、製品はその生産者にとって共通の商品のすぐに社会的な性格を獲得するが、互いにとっての商品の性格を獲得することはない。

 ③Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another.
It already yielded itself out of the analysis of the commodity.
The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours whatever their content and their mode of operation actually are. In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours.
 ③それにもかかわらず、私達はこの場合、私的労働の社会的形態が成り立っており、それが商品に含まれており、互いに独立しているものであること--を探すことにはそれほど遠くありません。
それはすでに商品の分析からそれ自体を生み出した。
商品の社会的形態は、同等労働としての互いの関係です。それゆえ、トト・コエロー<Toto Coelo (ラテン語「天国の限りでは」、)>の同等性は、全く不平等からの相互関係からの抽象化でしか成り立たないからです。
人間労働としての人間関係 - すべての人間労働力の支出 - それがどんな内容であっても、そしてそれらの動作モード - 実際はそうです。それぞれの社会的形態の労働において、異なる諸個人の労働は人間労働としても互いに関連していますが、この場合、それ自体が社会的形態の労働と見なされます。

 ④Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value.
However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
 ④しかし今では、ある商品の自然形態が、社会的な形態の労働の単なる凝固として、つまり価値を持っているのと同じぐらい、自然な形態のこれらの私的労働のどれもが、このような社会的形態の抽象的人間労働とは規定されてはいない。
しかし、他のすべての商品はそれ自体の価値の外観形式としてこの自然形式に関連しているため、商品の自然形式(この場合はリネン)は普遍的な等価形式になります。
リネン織りは、一商品の自然形式のままに、商品の普遍的な形態として、抽象的人間労働実現の、またはすぐに社会的な形態の労働に変わっている。

 ⑤The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production, and not from conceptions which are foreign to it. Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities.
 ⑤基準となる「社会性」のは、それとは無関係の概念からではなく、それぞれの生産形態にふさわしい関係の性質から借りる必要があります。先ほど示したように、その商品は当然のこととして直接的形態を除外しています。
<universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form >
この普遍的な交換可能性と普遍的な同等形式は結果として矛盾した方法でしか発展できないので、同じことが商品に潜む私的労働にも当てはまります。

 ⑥Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case). This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
 ⑥第一の彼らは、すぐにはソーシャルワーカー<社会的労働>ではないので、そもそも社会的形態は実際の有用な労働の自然な形態とは異なり、彼らにとっては異質で抽象的なものである。
第二に、すべての種類の私的労働はその社会的性格のみを獲得します。それとは矛盾した方法で、(この場合は麻織り)すべて1つの排他的な種類の私的労働と見なされます。それによってこの後者は抽象的な人間の労働、それによって即座に社会的な形態の労働の出現の即時かつ普遍的な形態となる。それは結果的に社会的に有効で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

⑫ー⑦The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
⑫ー⑦あたかも同等形式の商品が他の商品の関係を単に反映したものではなく、それ自身の肉体的性質から生じているかのような錯覚:この幻想は矛盾するベクトルのために普遍的等価物の継続的発展によってそれ自身を強化する普遍的な等価形式は、しかし最後にこの(商品の形式)は実際には無効であるため、はもはやいかなる単一商品の関係のより長い積でもないので、他のすべての商品から完全に隔離されたものとして、この商品を分離するからです。

 ⑬From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however.
What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually?
 <リネンが普遍的な同等物にどのように変身したのでしょうか?>
           By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I),
                 then in all other commodities in order in a relative way (form Ⅱ),
and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form Ⅲ).

The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development.

It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities. What holds for linen holds for every commodity. In its developed relative value-expression (form Ⅱ)  which only consists of its many, simple value-expressions the linen does not yet figure as universal Equivalent. Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
⑬私たちの現在の立場からすると、
普遍的同等物<the universal Equivalent>はまだいかなる意味においても骨化していません。
リネンが普遍的な同等物にどのように変身したのでしょうか?
(形式I)それが最初に一つの単一の商品で、
(形式II)次に他のすべての商品で順番にその値を表示し、
(フォームIII)それによって他のすべての商品がその値を相対的な方法で反射的に表示したという事実によって、
単純な相対的価値表現は、そこから普遍的な等価形式のリネンが開発された種であった。

それはこの開発において、その役割を変えます。
それは他の1つの商品の価値の量を表示することから始まり、他のすべての商品の価値表現のための材料として役立つことで終わります。
リネンに当てはまるものはすべての商品に当てはまります。

その開発された相対的価値表現(フォームII) - それはその多くの、単純な価値表現のみからなる - において、リネンはまだ普遍的な同等物として理解されていない。それどころか、この場合の他のすべての商品形態は、それと同等のものであり、それによって即座にそれと交換可能であり、したがってそれによって場所を変えることができる。

 ⑭だから我々はついに得る:
So we obtain finally:

Form IV:

http://

 

 初版附録 価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年12月21日(金)14時42分2秒
返信・引用 編集済
  https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/appendix.htm

  初版附録
 §2. The relative value-form
 第二節 相対的価値形態
(a) Relation of equality.
(a)同等性関係。
Since it is the linen which is to express its value, the initiative proceeds from it. It enters into a relation with the coat, i.e. with some other commodity different from itself.
その価値を表現するのはリネンなので、イニシアティブはそれから始まります。それはコートとの関係、すなわちそれ自体とは異なる他の商品との関係に入る。

This relation is a relation of equalisation (Gleichsetzung).
この関係は、同等性(Gleichsetzung)関係である。

The basis of the expression ‘20 yards of linen = 1 coat’ is in fact: linen = coat, which expressed in words simply means: ‘the commodity-type “coat” is of the same nature (ist gleicher Natur), the same substance as the “linen,” a type of commodity different from it’.
「20ヤードのリネン= 1コート」という表現の根拠は、実際には:リネン=コートは、単に「商品タイプのコート」が同じ性質(ist gleicher Natur)であることを意味する物質を「リネン」、それとは異なる商品の一種と呼んでいます。

We overlook that for the most part, because attention is absorbed by the quantitative relation, i.e. by the definite proportion, in which the one type of commodity is equated to the other.
我々は、大部分を見落としている。注目は定量的な関係、すなわちあるタイプの商品が他の商品と同等である明確な割合によって、そのことが吸収されるからである。

We forget that the magnitudes of different things are only quantitatively comparable after their reduction to the same unit.
我々は、異なるものの大きさは、同じ単位に還元された後にのみ定量的に比較可能であることを忘れている。

Only as expressions of the same unit are magnitudes with the same denominator (gleichnamige) and hence commensurable. In the above expression the linen thus relates to the coat as something of its own kind, or the coat is related to the linen as a thing of the same substance, as the same in essence (Wesensgleiches). The one is therefore quantitatively equated to the other.
同じ単位の表記が、同じ分母(グライクナージェー)の大きさであり、それゆえにこそ相応します。上の表現では、リネンはそれ自身の同種類のものとしてコートに関係しているか、コートは同じ物質のものとしてリネンに関連しています(本質的には同じです)(Wesensgleiches)。したがって、一方は他方に定量的にのみ同等である。

(b) Value-relation.(b)価値関係。
The coat is only the same as the linen to the extent that both are values. Thus that the linen is related to the coat as to something of its own kind or that the coat as a thing of the same substance is equated to linen, expresses the fact that the coat counts in this relation as value. It is equated to the linen insofar as the latter is value as well.
コートは、両方が価値である限り、リネンと同じです。 したがって、リネンは、それ自体の種類の何かに関するコートに関連しているか、同じ物質のものとしてのコートがリネンと同等であるということは、コートがこの関係において価値として数えるという事実を表す。 後者が価値である限り、それはリネンと同等である。

The relation of equality is thus a value-relation, but the value-relation is above all the expression of the value or the existence as value of the commodity which expresses its value. As use-value, or body of the commodity (Warenkörper), the linen is distinguished from the coat. But its existence as value comes to light, is expressed in a relation, in which another commodity-type, the coat, is equated to it or counts as the same in essence.
したがって、同等の関係は価値関係であるが、価値関係は、とりわけその価値を表現する商品の価値としての価値存在である。商品の使用価値または身体(Warenkörper)として、リネンはコートと区別されます。しかし、価値存在は、他の商品型、コートがそれと同等であるか、本質的に同じであるという関係で表現される。

(c) Qualitative content (Gehalt) of the relative value-form, contained in the value-relation.
(Gehalt)。
(c)価値関係に含まれる相対価値形態の定性的内容
The coat is value only to the extent that it is the expression, in the form of a thing, of the human labour-power expended in its production and thus insofar as it is a jelly of abstract human labour  abstract labour, because abstraction is made from the definite useful concrete character of the labour contained in it, human labour, because the labour counts here only as expenditure of human labour-power as such.
Within this relation the coat thus counts only as shape of value (Gestalt von Wert 価値の形 ), hence also as the form of the value (Wertgestalt 値の形状) of the linen, as the sensible form of appearance of the value of the linen.

コートは価値あるものであり、人間労働力が生産で消費されたものの形で表現され、抽象的人間労働としての抽象である限り抽象的な労働である。 その中に含まれている労働の明確で有益な具体的な性格、すなわち人間の労働力から作られたものである。なぜなら、ここでの労働は人間の労働力の支出としてだけであるからである。

この関係の中で、コートは価値と観なされ(ゲシュタルト・フォン・ワート)、その形状としてしか見えないので、リネン価値の出現の合理的な形としてのリネンの価値形態(ウェットゲシュタルト)としてもカウントされます。
  <今村訳--このように、リネンはその唯一の素材が人間労働からなる一個の身体」(物体)
  としての上着に関係させられないと、リネンは価値物としての上着に関わることができず、価
  値としての上着に関係させられることもできない。しかし価値であるかぎりでのリネンは同じ
  人間労働の凝結物である。だからこの関係の内部では、上着身体は、リネンと共通の価値実体、
  すなわち人間の労働を表現する。この関係の内部では、上着はただ価値の姿として、したがっ
  て、またリネンの価値姿として、リネン価値の現象形態としてのみ通用する。>
  ーー『初版・附録』P331 筑摩書房 2005年刊 2800円ーー
  <マルクスの記述していない「価値物」「価値の現象形態」「価値実体」を付加している。
  この悪訳!!!!これでは、価値形態論が全く理解し難い!のはあたりまえです。>

Thus by means of the value-relation the value of the commodity is expressed in the use-value of another commodity, i.e. in the body of another commodity different from itself.
従って、価値関係によって、商品の価値は、別の商品の使用価値、すなわち、それ自体とは異なる別の商品の本体で表される。

(d)価値関係に含まれる相対的価値形態の量的限定性(Bestimmtheit)。
(d) Quantitative definiteness (Bestimmtheit) of the relative value-form contained in the value-relation.
しかし、20ヤードのリネンはその価値だけでなく、人間の労働のゼリーですが、一定の大きさの価値、すなわち明確な量の人間の労働が客観化されています。したがって、コートとリネンとの価値関係において、商品タイプのコートは、リネンと同様に身体的価値(Wertkörper)として、すなわち人間の労働の実施形態として量的に同等であるだけでなく、この身体的形態の一定量1衣服のように、20ヤードのリネンと同じくらい正確に人間の労働の価値のある物質が隠されている限り、1コート、1コート、1ダースなどである。

(e) The relative value-form as a whole (Das Ganze der relativen Wertform).
(e)全体としての相対的価値形態(Das Ganze der der Wertform)。

したがって、相対価値表現を通じて、商品の価値は、まず、自分の使用価値とは異なる形態を獲得する。この商品の使用形態は、例えば以下の通りである。リネン。しかしそれはコートとの平等の関係において価値観を持っています。この平等の関係を通じて、他の商品の体は、それとは明らかに異なるが、価値(Wertgestalt)としての自分の性格の価値(Wertsein)としての自分の存在の鏡となる。このようにして、自然な形態とは異なる独立した別個の価値形態が得られます。しかし、第二に、一定の大きさの値として、それは定量的に明確な関係またはそれが他の商品のボディと同等である割合によって定量的に測定される。
Thus through the relative value-expression the value of the commodity acquires, first, a form different from its own use-value. The use-form of this commodity is, e.g. linen. But it possesses its value-form in its relation of equality with the coat. Through this relation of equality the body of another commodity, sensibly different from it, becomes the mirror of its own existence as value (Wertsein), of its own character as value (Wertgestalt). In this way it gains an independent and separate value-form, different from its natural form. But second, as a value of definite magnitude, it is quantitatively measured by the quantitatively definite relation or the proportion in which it is equated to the body of the other commodity.

§3. The equivalent form
§3。同等の形式

(a)即時交換可能な形態。
①(a) The form of immediate exchangeability.
As values all commodities are expressions of the same unit, of human labour, which count equally and are replaceable or substitutable for one another. Hence a commodity is only exchangeable with another commodity insofar as it possesses a form in which it appears as value.
①価値として、すべてのコモディティは、同等に数えられ、お互いに置き換え可能または代替可能である、同じ単位の表現である人間労働です。したがって、商品は、価値として現れる形態を保有している限り、他の商品との交換が可能です。

商品の身体は、即時型、すなわち身体または自然の形態であれば、直ちに他の商品と交換することができ、別の商品または価値形態(Wertgestalt)に関して価値を表す(vorstellt)。
この特性はコートとリネンとの価値関係において所有されている。さもなければ、リネンの価値はコートであるものでは表現できません。したがって、商品は全く同等の形態をしており、まさにこれを意味します。
A body of the commodity is immediately exchangeable with another commodity insofar as its immediate form i.e. its own bodily or natural form, represents (vorstellt) value with regard to another commodity or counts as value-form (Wertgestalt). This property is possessed by the coat in the value-relation of the linen to the coat. The value of the linen would otherwise not be expressible in the thing which is the coat. Therefore that a commodity has equivalent form at all, means just this.


価値表現におけるその場所を通して、それ自身の自然形態は、別の商品の価値形態としてカウントされるか、または別の商品との即時交換可能性の形態を有する。したがって、他の商品の価値として現れ、価値として数え、価値として行動するためには、直ちに自然な形態とは異なる形をとる必要はありません(安心してください)。
Through its place in the value-expression its own natural form counts as the value-form for another commodity or it possesses the form of immediate exchangeability with another commodity. Therefore it does not need to take on (annehmen) a form different from its immediate natural form in order to appear as value for another commodity, to count as value and to act on it as value (auf sie als Wert zu wirken).

(b) Quantitative definiteness is not contained in the equivalent form.
(b)定量的な明確性は、同等の形態に含まれていない。

①That a thing which has the form of a coat is immediately exchangeable with linen, or a thing which has the form of gold is immediately exchangeable with all other commodities ? this equivalent form of a thing contains absolutely no quantitative definiteness. The opposed erroneous view springs from the following causes:
①コートの形をしたものがすぐにリネンと交換できるか、あるいは金の形をした物は直ちに他のすべての商品と交換できます - これと同等の形態のもの<等価形態ー既存訳>は、絶対に定量性がありません。反対の誤った見方は、以下の原因によるものです。

②まず、リネンの価値表現の素材となる商品「コート」は、「1コート」や「2コートではない」などのように、定量的にも定まっているのか?

'20ヤードのリネン 'は値の相対価値表現で表されているだけでなく、同時に価値の一定量として測定されます。

しかし、1コートは2コートではなく、20ヤードのリネンほど多くの労働を含み、したがって20ヤードのリネンと同等であることは、商品タイプのコートのこの特性の商品タイプである--直ちに交換可能であることは、リネンとはまったく無関係である。
②First, the commodity ‘coat’, for example, which serves as material for the expression of value of linen is, within such an expression, also always quantitatively definite, like ‘1 coat’ and ‘not 12 coats’, etc. But why?
Because the ‘20 yards of linen’ are expressed in their relative value expression of value not only as value as such, but at the same time are measured as a definite quantity of value. But that 1 coat and not 12 coats contains as much labour as 20 yards of linen and hence is equated with 20 yards of linen has absolutely nothing to do with this characteristic property of the commodity-type coat of being immediately exchangeable with the commodity-type linen.

③Second, if ‘20 yards of linen’ as value of a definite magnitude are expressed in ‘1 coat’, then conversely the magnitude of value of ‘1 coat’ is also expressed in ‘20 yards of linen’, and thus similarly quantitatively measured, but only indirectly, through reversal of the expression, not insofar as the coat plays the role of the equivalent but rather insofar as it represents its own value relatively in the linen.
③第二に、「1コート」で「20ヤードのリネン」が一定の大きさの価値で表現されている場合、「1コート」の価値の大きさも「リネン20ヤード」で表され、同様に定量的に測定されますが、コートが同等物<等価物>というこの役割を果たすのではなく、むしろリネンの中で相対的に自分の価値を表す限りでは、表現の逆転を通じて間接的にのみである。

④第三に、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という式を次のように表現することもできます。

'20ヤードのリネンと1コートは同等であるか、または両方が等しい大きさの値である '。

ここでは、2つの商品のどちらか一方の値を他方の値の使用価値に表記していません。したがって、2つの商品のどちらも同等の形態<等価物>では設定されない。等価とはここでは大きさが等しいものを意味し、頭の中で黙って抽象化されたものだけを意味します。
④Third, we can also express the formula ‘20 yards of linen = 1 coat’ or ‘20 yards of linen are worth 1 coat’ in the following way:‘20 yards of linen and 1 coat are equivalents, or both are values of equal magnitude’.
Here we do not express the value of either of the two commodities in the use-value of the other. Neither of the two commodities is hence set up in equivalent-form. Equivalent means here only something equal in magnitude, both things having been silently reduced in our heads to the abstraction value.

 (c) The peculiarities (Eigentümlichkeiten) of the equivalent form
(c)同等の形態の特色(Eigentümlichkeiten)

 a) First peculiarity of the equivalent form: use-value becomes the form of appearance of its opposite, of value.
 a)同等の形態の第一の特異性:use-valueは、その反対の価値の出現形態になります。
  <反対の価値の現象形態・・既存訳は誤り・第一の独自性は、商品の物的存在が価値形態となる>
①The natural form of the commodity becomes the value-form. But, nota bene, this quid pro quo occurs for a commodity B (coat or wheat or iron, etc.) only within the value-relation to it, into which any other commodity A (linen, etc) enters, and only within this relation.
①商品の自然形態が価値形態になります。
しかし、このーthis quid pro quoー取違える商品は、他の商品A(リネンなど)が入っている商品との価値関係の中でのみ、商品B(コートまたは小麦または鉄など)に対してのみ・この関係のなかでのみ発生します。

それ自体では、孤立していると見なされますが、コートは、リネンと同じように、有用なもの、つまり使用価値に過ぎません。そのため、そのコートフォームは使用価値の形式にすぎません(Form von Gebrauchswert) 明確なタイプの商品の自然な形態です。
In itself, considered in isolation, the coat, e.g., is only a useful thing, a use-value, just like the linen, and hence its coat-form is only the form of use-value (ist nur Form von Gebrauchswert) or natural form of a definite type of commodity.

しかし、商品は同等物としてそれ自体に関連することはできず、
<どの商品も自分を等価形態としての自己自身に関係させることはできない・・既存訳、同等物の訳を>
それゆえ、自らの自然の秘密を独自の価値の観なし方で隠すことはできないので、他の商品と同等のものとしてそれ自身を関連付けるか、
<それは自分を等価物としての他の商品に関係させる、・・反省規定する・関連付けることで・・>
あるいは、別の商品の身体の自然の隠れ場所を、それ自身の価値形態と見なしているのです。
But since no commodity can relate to itself as equivalent and therefore also cannot make its own natural hide an expression of its own value, it must relate itself to another commodity as equivalent or make the natural hide of the body of another commodity its own value-form.

②This may be illustrated by the example of a measure, which is predicable of the bodies of commodities as bodies (den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt) i.e. as use-values. A sugar-loaf, qua body (weil Körper), is heavy and hence has weight, but one cannot tell the weight of a sugar-loaf by looking or feeling (man kann keinen Zuckerhut seine Schwere ansehn oder anfühlen). Now we take different pieces of iron whose weight has been previously determined.
②これは、商品本体としての商品の本体に属する、すなわち使用価値として推測される尺度の例で説明することができる。
シュガーローフ、ケアボディー(weilKörper)は重く、重量を持っていますが、見たり感じたりすることで、砂糖菓子の重さを伝えることはできません。今度は、あらかじめ重量を決めておいた様々な鉄片を取ります。

②-②The bodily form of the iron considered in itself is just as little the form of appearance of weight as that of the sugar-loaf. However in order to express the sugar-loaf as heaviness or weight, we put it into a weight-relation with iron. In this relation the iron counts as a body, which represents nothing but heaviness or weight. Hence quantities of iron serve as the measure of the weight of sugar and represent, with regard to the body of sugar, merely the form of heaviness (blosse Schweregestalt), form of appearance of heaviness. Iron plays this role only within the relation in which the sugar, or some other body whose weight is to be found, enters. Were both things not heavy they could not enter into this relation and hence the one could not serve as the expression of the weight of the other.
鉄の体形は、それ自体で考えても、砂糖塊のような外観の形をしています。しかし、砂糖塊を重量や重さとして表現するためには、鉄との重量関係に入れます。この関係では、鉄体は重さとして扱われます。体重は重量と重さに過ぎません。

したがって、鉄の量は砂糖の重量の尺度として役立ち、砂糖の体に関して、重さの形(ブレスSchweregestalt)、重さの外観の形を表すだけである。鉄は、砂糖、または体重が検出される他の身体が入る関係でのみ、この役割を果たす。両者は重いものではなかったので、この関係に入ることができなかったため、他方の重さの表記として機能することができませんでした。

If we throw both on the scale pan, we see in fact that they are, as weight, the same and hence in a definite proportion also of the same weight.
だから、スケールパン<天秤はかり>に両方を置いた場合、実際に同じ重量のものであり、したがって同じ重量の一定の比率であることがわかります。

Just as here the body of the iron represents, with regard to the sugar-loaf, simply heaviness, so in our expression of value the body of the coat represents, with regard to the linen, simply value.
ここでのように、鉄のボディは、砂糖菓子に関しては、単純に重さを表しています。したがって、価値表現では、麻のことを、単に値として表現します。
<同 今村訳--ここで鉄の体が砂糖にとってたんなる重さを代表するのと同じく、われわれの価値表現においては上着自体がリネンにとってたんなる価値を代表する。
この誤訳・・秤の上で初めて表現--とは何か?秤上の関係ですから、重さとは・価値形態の表現!>

b) ①Second peculiarity of the equivalent form: concrete labour becomes the form of appearance of its opposite, abstract human labour
b)同等の形態の第二の特異性:具体的な労働は、反対の抽象的な人間労働の出現形態となる

②The coat counts in the expression of the value of the linen as the value-body, hence its bodily or natural form as value-form, i.e. therefore as embodiment of undifferentiated human labour, human labour as such (schlechthin). But the labour by which the useful thing which is the coat is made and by which it acquires a definite form, is not abstract human labour, human labour as such, but a definite useful, concrete type of labour the labour of tailoring.
②コートは、価値体としてのリネンの価値表現、したがってその価値形態としての身体的または自然形態、すなわち未分化な人間労働の実現形態、それ自体の人間労働(シュレフチン)としてカウントされる。
しかし、コートである有益なものが作られ、それが明確な形態をとる労働は、抽象的な人間の労働、人間労働ではなく、明確で有用で具体的な労働形態 - 仕立ての労働である。
 <コート・上着は、すでに左極で価値体であるから、同等物として価値形態として等置されている>
 <同等物・上着は、右極に既にあることで、物象の判断を受け価値形態とされている。>

②ー②The simple relative value-form requires (erheischt) that the value of a commodity, linen, for example, is expressed only in one single other type of commodity. Which the other type of commodity is, is however, for the simple value-form, completely irrelevant. Instead of the commodity-type ‘coat’ the value of the linen could have been expressed in wheat, or instead of wheat, in iron, etc.
②ー②単純な相対価値形式は、商品、リネンなどの価値が、他の単一の商品タイプでのみ表現されることを要求しています(erheischt)。 しかし、他のタイプの商品は価値形態のためには全く無関係です。 コモディティタイプの「コート」の代わりに、リネンの価値は小麦や小麦の代わりに、鉄などで表現されている可能性があります

②-③しかしコート、小麦または鉄のいずれの場合でも、すべての場合において、リネンに相当するものは、リネンに関して価値の本体とみなされ、したがって、それ自体の人間労働の実現形態とみなされる。
すべての場合において、コートまたは小麦または鉄のいずれであろうと、同等の明確な身体的形態は、抽象的な人間労働ではなく、明確で具体的な有用なタイプの労働であり、調整や農業または鉱業の労働である。
②-③But whether in coat, wheat or iron, in every case the equivalent of linen counts as the body of value with regard to the linen, hence as embodiment of human labour as such. And in every case the definite bodily form of the equivalent, whether coat or wheat or iron, remains embodiment not of abstract human labour, but of a definite concrete useful type of labour, be it the labour of tailoring or of farming or of mining.

②ー④The definite concrete useful labour, which produces the body of the commodity which is the equivalent must therefore, in the expression of value, always necessarily count as a definite form of realisation or form of appearance, i.e. of abstract human labour. The coat, for example, can only count as the body of value, hence as embodiment of human labour as such, in so far as the labour of tailoring counts as a definite form, in which human labour-power is expended or in which abstract human labour is realised.
②ー④それゆえに価値表現において、必ずや必然的な商品の本体を作り出す明確で具体的な有用労働は、必然的に、抽象的な実現の形態、すなわち抽象的な人間労働の形として必ずや必要である。 コートは、例えば、人間労働力が支出されているか、または、仕立ての労働が明確な形態として、カウントされる限り、抽象的人間労働が実現されている。

③Within the value-relation and the value expression included in it, the abstractly general counts not as a property of the concrete, sensibly real; but on the contrary the sensibly-concrete counts as the mere form of appearance or definite form of realisation of the abstractly general. The labour of tailoring, which, for example, hides in the equivalent ‘coat’, does not possess, within the value-expression of the linen, the general property of also being human labour. On the contrary. Being human labour counts as its essence (Wesen), being the labour of tailoring counts only as the form of appearance (Erscheinungsform) or definite form of realisation of this its essence. This quid pro quo is unavoidable because the labour represented in the product of labour only goes to create value insofar as it is undifferentiated human labour, so that the labour objectified in the value of the product is in no way distinguished from the labour objectified in the value of a different product.
③価値関係とそれに含まれる価値等式の中での抽象的な一般的なものは、具体的なものではなく、それが現実的なものです。
逆に、顕著に具体的なものは、外観の単なる形態または抽象的に一般的なものの実現の明確な形態としてカウントされる。

例えば、同等の「コート」<外装>に隠れている仕立ての労働は、リネンの価値表現の中で、人間の労働でもあるという一般的な性質を有していない。それどころか。人間労働であることは本質(Wesen)であり、その仕立ての労働は外観の形(Erscheinungsform 外観・見掛け)またはその本質の実現の明確な形としてのみカウントされます。

この製品は、分化していない人間労働である限り、労働生産物に代表される労働だけが価値を創出するため、避けられないものであり、

①<that the labour objectified in the value >
この製品の価値に客観化された労働は、--that the labour objectified--物象としての労働は--

②<of the product is in no way distinguished from >
この製品の

④<the labour objectified in the value of a different product.>
こうして、労働は異なる製品の価値を客観化、している。
<the labour objectified--物象としての労働は>

③<of the product is in no way distinguished from >
異なる製品の価値に客観化された労働とは決して区別されない

④-①この、次の逆転(Verkehrung)は、
顕著に具体的なものはフォームとしてだけカウントする
<the sensibly-concrete counts only as the form >

抽象的な一般的な外観の形でしかなく、それどころか
<of appearance of the abstractly general and not, on the contrary, >

これは、抽象的な一般的なコンクリート<具体化>のプロパティ<特性>として、valueの表現を特徴づける。
<the abstractly general as property of the concrete,characterises the expression of value.>

④-②同時に、それはそれを理解することを、難しく困難にする。

④-③私が言うなら、ローマ法とドイツ法はどちらも法律であり、それは明らかです。しかし、もし私が言うなら:Law(Das Recht)、この抽象化(Abstraktum)は、ローマ法とドイツ法において、これらの具体的な法律において、相互関係が神秘的になっていることを実感します。

④-①This inversion (Verkehrung) by which the sensibly-concrete counts only as the form of appearance of the abstractly general and not, on the contrary, the abstractly general as property of the concrete, characterises the expression of value.

④-②At the same time, it makes understanding it difficult.

④-③If I say: Roman Law and German Law are both laws, that is obvious. But if I say: Law (Das Recht), this abstraction (Abstraktum) realises itself in Roman Law and in German Law, in these concrete laws, the interconnection becoming mystical.

 g) Third peculiarity of the equivalent form: private labour becomes the form of its opposite, labour in immediately social form
 g)同等の形態の第3の特異性:private labour 私的労働は、その反対の形態、直ちに社会的形態の労働になる

①Products of labour would not become commodities, were they not products of separate private labours carried on independently of one another. The social interconnection of these private labours exists materially, insofar as they are members of a naturally evolved social division of labour and hence, through their products, satisfy wants of different kinds, in the totality (Gesamtheit) of which the similarly naturally evolved system of social wants (naturwüchsiges System der gesellschaftlichen Bedürfnisse) consists. This material social interconnection of private labours carried on independently of one another is however only mediated and hence is realised only through the exchange of their products. The product of private labour hence only has social form insofar as it has value-form and hence the form of exchangeability with other products of labour. It has immediately social form insofar as its own bodily or natural form is at the same time the form of its exchangeability with other commodities or counts as value-form for another commodity (anderer Ware). However, as we have seen, this only takes place for a product of labour when, through the value relation of other commodities to it, it is in equivalent-form or, with respect to other commodities, plays the role of equivalent.

①労働の製品は商品にならないだろう、彼らは別々の私的労働の製品が互いに独立して運ばれたのではない。これらの私的労働の社会的相互関係は、自然に進化した社会的分業の一員であり、したがって、その製品を通して、異種の欲求を満たし、その全体として(Gesamtheit)、同様に自然界に進化した社会的欲求(NaturwüchsigesSystem der GesellschaftlichenBedürfnisse)が構成されています。

しかし、互いに独立して運営されている私的労働のこの物質的な社会的相互接続は、仲介されているだけであり、したがって、彼らの製品の交換によってのみ実現される。
したがって、私的労働の製品は、価値形態を持ち、したがって他の労働生産物との交換可能性の形をとる限り、社会的形態をとっているだけである。
 <先生は、我々労働者に教えてくれている。!同等な人間労働が表示される限り、
  両極で、価値形態を、裏と表で価値形態をとっている--と!>

それは、それ自身の身体的または自然の形態が、同時に他の商品との交換可能性の形態であるか、または別の商品のための価値形態としての計数の形態である限り、直ちに社会的形態をとる(anderer Ware)。しかし、これまで見てきたように、これは、他の商品との価値関係を通じて、それが同等の形態であるか、他の商品と比較して同等の役割を果たすときに労働の生産のために行われます。

②The equivalent has immediately social form insofar as it has the form of immediate exchangeability with another commodity, and it has this form of immediate exchangeability insofar as it counts for another commodity as the body of value, hence as equal (als Gleiches). Therefore the definite useful labour contained in it also counts as labour in immediately social form, i.e. as labour which possesses the form of equality with the labour contained in another commodity.
②同等物は他の商品との即時の交換可能性の形をとる限り、直ちに社会的形態をとっており、他の商品を価値体とみなして同等(グライチェス)である限り、この形式の即時交換可能性を有する。したがって、それに含まれる明確な有益な労働は、直ちに社会的な形態、すなわち別の商品に含まれる労働と同等の形態を持つ労働としての労働としてもカウントされます。

A definite, concrete labour like the labour of tailoring can only possess the form of equality with the labour of a different type contained in a commodity of a different kind, for example the linen, insofar as its definite form counts as the expression of something which really constitutes the equality of labours of different sorts or what is equal in those labours. But they are only equal insofar as they are human labour as such, abstract human labour, i.e. expenditure of human labour-power.
テーラリングの労働のような明確で具体的な労働は、異なる種類の商品、例えばリネンに含まれる異なるタイプの労働と平等の形態を唯一持てる。実際には、さまざまな種類の労働の平等--または労働の同等を構成します。しかし、それは、人類の抽象的な人間労働、すなわち人間の労働力の支出という人間の労働である限り、唯一のものである。

Thus, as has already been shown, because the definite concrete labour contained in the equivalent counts as the definite form of realisation or form of appearance of abstract human labour, it possesses the form of equality with other labour, and hence, although it is private labour, like all other labour which produces commodities, it is nevertheless labour in immediately social form. Precisely because of this it is represented in a product that is immediately exchangeable with the other commodities.
したがって、すでに示されているように、明確な具体的労働は抽象的な人間の労働の現実化または外観の明確な形態と同等の点数に含まれるため、他の労働との同等の形を保有しているため、それにもかかわらず、労働はすぐに社会的形態の労働である。このため正確に他の商品と直接的に交換できる商品で表現されています。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
③The last two peculiarities of the equivalent-form set out in §§ b and g become still more comprehensible when we recur to the great theorist (Forscher) who for the first time analysed the value-form, like so many forms of thought, forms of society and forms of nature, and for the most part more happily than his modern successors, I mean Aristotle.
③§§bとgに示されている等価形の最後の2つの特異性は、非常に多くの考え方や形のような価値形態を初めて分析した偉大な理論家(Forscher) 近代的な後継者よりも幸いなことに、私にはアリストテレスを意味します。

③ー②Aristotle clearly formulates first of all the fact that the money-form of the commodity is only the further developed shape (Gestalt) of the simple value-form, i.e. of the expression of value of a commodity in any other commodity, for he says:
③ー②Aristotleは、商品の貨幣形態が単純な価値形態、すなわち他の商品での商品価値の表現の形態だけであるという事実を明確に定式化していて、彼は 言う:

‘5 beds = 1 house’ (clinai pente anti oiciaς)
‘does not differ’ from
‘5 beds = such and such an amount of money’ (clinai pente anti ... oson ai pente clinai)

③ー③He sees further that the value-relation, in which this expression of value hides, determines, for its part, the fact that the house is qualitatively equated with the bed and that these sensibly different things would not be able to be related to one another as commensurable magnitudes without such essential equality ‘Exchange’, he says, ‘cannot take place without equality, and equality cannot occur without commensurability.’ (out isothς mh oushς summetriaς).
③ー③さらに、価値表現が潜む価値関係が、家が定性的にベッドと同等じであり、これらの賢明に異なるものは、 そのような本質的に同等性をもたずに、相応の大きさとして相互に交換することは、平等でなくてはならず、この同等性は相応性なしでは起こり得ない、と彼は述べている(outisothςmhoushςsummetria)。

④But at this he pulls up short and ceases the further analysis of the value-form, ‘But it is in truth impossible (th men oun alhqeia adunaton) that things of such different sorts should be commensurable’, i.e. qualitatively equal. This equalisation can only be something which is alien to the true nature of things, and therefore only a ‘makeshift for practical purposes’. [c]
④しかし、これで彼は短くなり、価値形態のさらなる分析を中止します。「しかし、このような異なる種類のものは定性的に同等でなければならないということは事実上不可能です(つまり男性はアルケア・アドナートンです。この均等化は物事の本当の性質とは異質なものに過ぎず、それゆえに「実用的な目的のための一時的な変更」に過ぎない。 [c]

⑤したがってアリストテレスは、彼のさらなる分析が難破船に苦しんでいるところ、つまり価値概念の欠如について、私たちに自分自身を教えている。家がベッドの価値を表現する際にベッドを表現する、等しいもの、つまり共通の物質は何ですか?そのようなことは「真実ではない」とアリストテレスは言う。どうして?ベッドに関しては、家はベッドと家の両方が本当に平等である限り、平等なものを表します(グリーチェ・ヴォール)。それが人間労働です。
⑤Aristotle thus tells us himself just where his further analysis suffers shipwreck, namely, on the lack of the concept of value. What is that which is equal, i.e. the common substance, which the house represents for the bed in the expression of the value of the bed? Such a thing ‘cannot in truth exist’, says Aristotle. Why? With respect to the bed the house represents something which is equal (stellt ein Gleiches vor) insofar as it represents what in both, the bed and the house, is really equal. And that is human labour.

⑥But the fact that in the form of commodity-values all labours are expressed as equal human labour and hence as counting equally (als gleichgeseltend) could not be read out of the value-form of commodities by Aristotle, because Greek society rested on slave labour and hence had the inequality of people and their labours as a natural basis.
⑥ー①しかし、商品価値の形で、すべての労働は平等な人間の労働として表現され、それゆえアリストテレスによる商品の価値形態から平等に計数されているという事実は、ギリシャ社会が奴隷労働に頼っていたためそれゆえに自然な基礎としての人々とその労働の不平等を持っていました。

⑥ー②The secret of the expression of value, the equality of all labours and the fact that all labours count equally because and insofar as they are human labour as such can only be deciphered when the concept of human equality already possesses the fixity of a popular prejudice.
②価値表現の秘密、すべての労働の同等であると、すべての労働が人間の労働である限り同等労働であるという事実は、人間の平等という概念が既に民衆の偏見の固定性を持っている場合にのみ解読することができます。

⑥ー③But that is only possible in a society in which the commodity-form is the general form of the product of labour and thus also the relation of people to one another as possessors of commodities is the ruling social relation.
しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがって商品の所有者としての人々の関係が支配的な社会関係である社会においてのみ可能である。

⑥ー④The genius of Aristotle shines precisely in the fact that he discovers in the expression of value of commodities a relation of equality. Only the historical limit of the society in which he lived prevents him from finding out what, ‘in truth’, this relation of equality consists in.
⑥ー④アリストテレスの天才は、商品の価値の表現に同等の関係を発見したという事実に正確に映っています。 彼が住んでいた社会の歴史的な限界だけが、彼が「真実で」この同等の関係が何であるかを知ることを妨げている。
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d) Fourth peculiarity of the equivalent form: the fetishism of the commodity-form is more striking in the equivalent form than in the relative value-form
d)同等形態の第4の特異性:商品形態のフェチシズムは、相対価値形態よりも同等の形で顕著である。

The fact that the products of labour  such useful things as coat, linen, wheat, iron, etc.  are values, definite magnitudes of value and in general commodities, are properties which naturally pertain to them only in our practical interrelations (in unsrem Verkehr) and not by nature like, for example, the property of being heavy or being warming or nourishing. But within our practical interrelations, these things relate to one another as commodities. They are values, they are measurable as magnitudes of value, and their common property of being values puts them into a value-relation to one another. Now the fact that, for example, ‘20 yards of linen = 1 coat’ or ‘20 yards of linen are worth 1 coat’ only expresses the fact that:
コート、リネン、小麦、鉄などの有益なものである労働の製品が価値であり、価値の絶対的な大きさであり、一般的な商品であるという事実は、当然のことながら、 Verkehr)のようなものであり、例えば、重く、暖かく、栄養を与えるという性質のようなものではない。しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、これらは物として互いに関係しています。それらは価値であり、価値の大きさとして測定可能であり、価値であるという共通の特性は、それらを互いに価値の関係に置く。たとえば、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という事実は、

1. the different types of labour necessary for the production of these things count equally (gleichgelten) as human labour;
2. the fact that the quantity of labour expended in their production is measured according to definite social laws;
3. that tailors and weavers enter into a definite social relation of production.

1.これらのものの生産に必要な異なるタイプの労働は、人間の労働と同様に(グライヒゲルテン)数えます。
2.生産に費やされる労働の量が明確な社会的法律に従って測定されていること。
3.テイラーとウィーバーが生産の明確な社会関係に入ること。

It is a definite social relation of the producers in which they equate (gleichsetzen) their different types of labour as human labour. It is not less a definite social relation of producers, in which they measure the magnitude of their labours by the duration of expenditure of human labour-power.
それは、生産者の明確な社会的関係であり、彼らは異なる種類の労働を人間の労働と同等とみなしている。それは生産者の明確な社会的関係ではなく、人間の労働力の支出の期間によって労働の規模を測定する。

But within our practical interrelations these social characters of their own labours appear to them as social properties pertaining to them by nature, as objective determinations (gegenständliche Bestimmungen) of the products of labour themselves, the equality of human labours as a value-property of the products of labour, the measure of the labour by the socially necessary labour-time as the magnitude of value of the products of labour, and finally the social relations of the producers through their labours appear as a value-relation or social relation of these things, the products of labour. Precisely because of this the products of labour appear to them as commodities, sensible-supersensible (sinnlich übersinnliche) or social things.
しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、自分たちの労働の社会的性格は、
本質的にそれらに関係する社会的特性、労働生産物の客観的決定(Bestimmungen)、
 < as objective determinations (gegenständliche Bestimmungen) 物象的規定>
労働者の労働の平等社会的に必要な労働時間による労働の尺度、労働生産力の価値としての労働尺度、最終的に労働者による生産者の社会関係は、これらの価値観や社会的関係として現れる、労働の製品。正確にこれにより、労働生産物は、商品、賢明な - 超越的な(sinnlichübersinnliche)または社会的なものとして現れる。

Thus the impression on the optic nerve brought about by the light (Lichteindruck auf den Sehnerv) from something is represented, not as a subjective stimulation of the optic nerve itself, but as the objective form of a thing outside the eye. But in the case of seeing, light from a thing, from the external object, is in fact thrown upon another thing, the eye. It is a physical relation between physical things. As opposed to that the commodity-form and the value-relation of products of labour have absolutely nothing to do with their physical nature and the relations between things which springs from this.
したがって、何かからの光(Lichteindruck auf den Sehnerv)によってもたらされた視神経に対する印象は、視神経そのものの主観的刺激としてではなく、目の外のものの客観的形態として表される。しかし、見ることの場合、物からの光は、外部の物体から、実際に別のもの、目に投げられる。それは物理的なものの間の物理的な関係です。商品形態と労働生産物の価値関係とは、物理的性質やこれから生じる物事の関係とはまったく関係がない。

It is only the definite social relation of people (der Menschen) itself which here takes on for them the phantasmagoric form of a relation of things. Hence in order to find an analogy for this we must take flight into the cloudy region of the religious world. Here the products of the human head appear as independent figures (Gestalten) endowed with a life of their own and standing in a relation to one another and to people.
それがここでは、人々の明確な社会的関係(der Menschen)が、物事の関係の幻影的<想像的>な形態をとっているのです。したがって、これを類推するためには、宗教界の曇った地域へ飛行しなければなりません。ここでは、人間の頭の製品は、自分自身の人生と他人や人との関係に立っている独立した人物(Gestalten)として登場しています。

So it is in the world of commodities with the products of the human hand. This I call the fetishism which clings to the products of labour as soon as they are produced as commodities and which is therefore inseparable from commodity-production.
だから人間の手の製品を持つ商品の世界にあるのです。これは、商品として生産され、商品の生産と切り離せないとすぐに、労働の産物に固執するフェチシズムと呼ばれています。


Now this fetish-character emerges more strikingly in the equivalent-form than in the relative value-form.
The relative value-form of a commodity is mediated, namely by its relation to another commodity.

Through this value-form the value of the commodity is expressed as something completely distinct from its own sensible existence. At the same time it is inherent in this that existence as value (Wertsein) is a relation which is alien to the thing itself and hence that its value-relation to another thing can only be the form of appearance of a social relation hidden behind it. Conversely with the equivalent-form.
今、このフェティッシュ・キャラクターは、相対的価値形態よりも同等の形態でより顕著に現れます。
商品の相対的価値形態の形成は、すなわち別の商品との関係によって媒介されている。

この価値形態を通じて、このように、商品の価値はそれ自身の賢明な存在とは全く異なるものとして表現されます。
それと同時に、価値(Wertsein)存在は、物そのものとは異質な関係であり、したがって、他の物との価値関係は、その背後に隠れている社会的関係の出現の形にしかならないということに本質的なことである。
<Conversely with the equivalent-form.>
しかし、同等<等価>形態では、これとは逆となっている。

It consists precisely in the fact that the bodily or natural form of a commodity counts immediately as the social form, as the value-form for another commodity. Therefore, within our practical interrelations, to possess the equivalent-form appears as the social natural property (gesellschaftliche Natureigenschaft) of a thing, as a property pertaining to it by nature, so that hence it appears to be immediately exchangeable with other things just as it exists for the senses (so wie es sinnlich da ist).
それは、商品の身体的または自然の形態が、他の商品の価値形態として、社会的形態として直ちに数えられるという事実に正確に含まれる。したがって、私たちの実践的な相互関係の中では、同等の形態を持つことは、物事の社会的自然的性質(生態学的性質)として現れるのであり、それゆえ、それは感覚のために存在する(したがって、sinnlich da ist)。

But because within the value-expression of commodity A the equivalent-form pertains by nature to the commodity B it seems also to belong to the latter by nature outside of this relation.
しかし、商品Aの価値表現の中では、同等の形態は本質的に商品Bに関係するので、この関係の外でも自然に後者に属しているようにも見える。

Hence, for example, the riddle (das Rätselhafte) of gold, that seems to possess, by nature, apart from its other natural properties, its colour, its specific weight, its non-oxydisability in air, etc., also the equivalent-form, or the social quality of being immediately exchangeable with all other commodities.
したがって、例えば、他の自然の性質、その色、比重、空気中での非酸化性などを除いて、本質的に貨幣の謎(dasRätselhafte)として、他のすべての商品と即座に交換できる社会的な質を備えています。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
§ 4. As soon as value appears independently it has the form of exchange-value

 

 『初版』価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年12月16日(日)13時04分50秒
返信・引用 編集済
   次から、『初版』価値形態の新たな素晴らしき判読を得たので、紹介します。
https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1694
        ぐーぐるほんやく
  https://translate.google.co.jp/?hl=ja
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
 (Marxists Internet Archive(略称のMIAやそのウェブサイトのドメイン名
  Marxists.org としても知られる)とは、マルクス主義者や社会主義者、
  アナキストその他などの著作を インターネット上に集積した多言語的公文書
 (アーカイブ)サイトである。
  上記国際的ネットワークのお陰さまで、学習が進んでいます。感謝します。

  『初版』価値形態
  I. First or simple form of relative value: 20 yards of linen = 1 coat
    (x of commodity A = y of commodity B).

 ①最初または単純な相対価値:20ヤードのリネン= 1コート(商品Aのx =商品Bのy)。このフォームは
単純なので、分析するのがむしろ困難です。それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な
未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。
しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであって
も、その形態は同じであるという一見で明らかになる。

 ②リネンは、その価値観や有用なものの形で、その世俗的な姿を現します。
それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形ではなく、その正反対です。
それは、それ自体に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分
自身の現実を明らかにする。それ自体が価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コート
することはできません。

同種の人間の労働の客観化、すなわちそれ自体の価値の物質としてそれ自体をそれに関連づけることによ
って、それはコートと質的に同等であると自認する。それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさ
の価値である - そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労力を正確に含んでいるため、xコートの代わ
りに1コートと同等であると見なされます。

コートとのこの関係によって、リネンは1回のストロークで異なるハエを揺るがします。

他のコモディティを価値として自分自身と同等にすることによって、それ自体を価値として関連付ける。
自分自身を価値として関連づけることによって、それは同時に自分自身と使用価値として区別されます。

コートの価値の大きさ(そして価値の大きさは一般的な価値と定量的な価値の両方である)を表現するこ
とによって、その現実とは異なる価値形態の価値として現実を与えます。

このように自分自身の内で差別化されているものとしてそれを明らかにすることによって、それは本当に
商品として初めて - それは同時に価値のある有用なものであることを明らかにする。

リネンが使用価値である限り、それは独立したものです。その価値は、他方では、コートがある別の商品
(例えばコート)との関係においてのみ(リネン)と定性的に同等であるため、それに相当するいくつか
の特定の数量において現れるそれと交換可能です。したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通
じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形を印象づける。
結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。

他に何が起こっても、その現実の現実では、自然な形態(コート)で、他の商品との即時交換可能性、交
換可能な使用価値の形式、または等価物を保有します。等価物の仕様には、商品が価値であるという事実
だけでなく、その体質的な形(その使用価値)が別の商品の価値として数えられ、結果として直ちに交換
価値として他の商品に対している--ことを示している。

 ④リネンは、労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。実際には、この結晶
は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかに
するわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の
唯一の成分ですが、もちろん自然由来の物質で発酵しています。リネンを人間の労働の単なる肉体的表現
として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。

抽象的な(すなわち、いかなる追加の品質や内容もなく)人間の労働力の客観性は、必然的に抽象的な客
観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。

しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的関
係でそれを明らかにする必要があります。
But commodities are objects.
They have to be what they are in an object-like way or else reveal it in their own object-like relationships.

リネンの生産では、人間の労働の特定の量が消費されている。リネンの価値は、そのように費やされた労
働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそ
れ自体を明らかにする(すなわち官能的な表現を得る)。リネンが価値あるものとしてコートを同等にす
ることによって、同時に使用目的としてコートと区別されますが、何が起こるかは、コートがリネンボデ
ィとは対照的にリネン価値の出現形態になります。 - その自然な形とは区別される。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

⑤ー①相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、
コートは支出された労働の価値または凝固としてしかカウントされないと認めなければならず、その事実
を通して、その凝固のためには人間労働が流れ込む形態として、認められることが正確にあります。
⑤-②使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労
働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、リネン自体の中にあるオブジェクト化されたも
のと同じ種類の労働に関係している。だから、オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚
的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。
⑤-③ オブジェクト(物象コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト
(物象)化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然的形態のコートは、それによって、自分の価値形態にな
ります。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 再度
①In the expression of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or, x linen is worth y of coat),
one must admit that the coat counts only as value or coagulation of labour, but it is precisely
through that fact that the coagulation of labour counts as coat, and coat as the form into
which human labour flows in order to congeal.
相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、
コートは支出された労働の価値または凝固としてしかカウントされないと認めなければならず、その事実
を通して、その凝固のためには人間労働が流れ込む形態として、認められることが正確にあります。

②The use-value coat only becomes the form of appearance of linen-value because linen relates
itself to the material of the coat as to an immediate materialization of abstract human labour,
and thus to labour which is of the same kind as that which is objectified within the linen itself.
The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the
same kind, and consequently as value in natural form.
使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即
時に実現するためにコートの材料に関係するため、リネン自体の中にあるオブジェクト化されたものと同
じ種類の労働に関係している。だから、オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触
知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。

③Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形態のコートは、それによって、自分の価値の形態に
なります。

 <何度もなんども・・繰り返す!正しくは、こう書かれていたのです。>
 <オブジェクト(物象コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジ
  ェクト(物象)化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。
  コートと同じエッセンスの価値があるので、自然的形態のコートは、それによって、
  自分の価値形態になります。>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  やっと、国民文庫 悪訳には、次の提示であり、久留間訳も同じなのです!
  《20エレのリンネル=1着の上着、または、xエレのリンネルはy着の上着に値する、
  という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ
  認められているのではあるが、しかし、それだからこそ、労働凝固体は上着として認
  められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められてい
  るのである(18。a)

  使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労
  働の、つまリリンネル自身のうちに.対象化されている労働と同種の労働の、直接的
  物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象性は、
  リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、した
  がってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値
  としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリ
  ンネル自身の価値の現象形態になるのである。

  しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、
  一定の、有用な労働、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どの
  ようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、た
  だ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として
  実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたい
  してのみ、自然素材は、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相
  対するのだからである。》(国民文庫版48頁)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ここには、正しくは--次のように示されていました。
 ④ it in their own object-like relationships.
  自分の物象的関係
 ⑤ー②The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour
  of the same kind, and consequently as value in natural form.
  オブジェクト コートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、
  それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。」
 ⑤-③こうして、他商品ではなくーー自身で価値形態になるーーから謎なのです。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 以上のことで、上着自身が、媒介を経ずとも価値形態であり、価値の現出形態なのです。
 これが<物象の判断>の奇怪さなのです!
 再度ーー上着自身が、それ自体として、価値の現出形態であり、
 上着の--価値の現象形態としてのリンネルへの役立ちは、ここではなくて、していないのです。

 だから、このように、
 ④段落を object-like relationships      物的関係 と訳しているから、
 ⑤-②の a sensually palpable objectification 触知可能なオブジェクト化を、
 「同種の人間労働の<触知可能>感覚的な・手でつかみうる対象性として」--と歪曲した。
  このように大切な肝心の--「物象的関係」の大切な意味--を消し去るることで、
 「リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、このように、
 リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。」ーーとの訳出なのです。
 ⑤-③こうして、他商品ではなくーー自身で価値形態になるーーことを判読できず、
 上着自身が、媒介を経ずとも価値形態であり、価値の現出形態となる謎であり、
 この<物象の判断>の奇怪!さなのであります。
 再度ーー上着自身が、それ自体として、価値の現出形態であり、上着の「価値の現象形態」とし
 てのリンネルへの役立ちは、ここではなくて、していないのです。

 <江夏ー今村ー牧野訳は、この他商品への物的な役立ちを見たからーー誤訳なのです。>
 その謎性追求での解答は、後で、次の解答をえたのです。

 謎性ーーとは何か? リンネルが、価値形態を受けとリ、次に、
 相対的価値形態を示さずとも、上着が、自身だけで価値形態ーー
 ー等価形態を示すことができる!と判断することです。なんとも誤訳の恐ろしきことよ!
 これだから、「等価形態が前提」と判読する・理解する人々ばかりが発生するのです。

 <⑪段落ーーでの解答が次にありました。
 「上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定」ーーに依っている
 ということを、彼は、しつこく追求しています。
 このリネンの反省規定は、次のように、5段落では示されず、⑪段落にて示さ
 れたのです。
 「コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値
 としてのその規定性)は、リネンに関連する外面においても、肉体的な方法で
 コートに属するように見える。」
  そこで、やっと⑪段落にてーー等価形態との規定を受け取ったのです。>
 <誤記・誤訳!これだから、初版が理解し難い!のは当然です。>
 <その続きは、こう示されていました。>
⑤ー④But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is
rather a particular useful labour: tailoring.・・・・略
⑤ー④しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働
である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができ
ますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働と
して決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。なぜなら、
それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することがで
きる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 マルクスは、ここに、商品形態の謎をこそ追求しています。




 

12・15東京緊急集会へ

 投稿者:杉本  投稿日:2018年12月15日(土)01時39分44秒
返信・引用
  関生型労働運動, 反弾圧 12・8大阪集会に600名が結集して抗議の渦 - 12・15東京緊急集会へ!
12・8大阪集会に600名が結集して抗議の渦 - 12・15東京緊急集会へ!

労働組合潰しの大弾圧を許さない12・8大阪集会に600名が結集

これは「共謀罪」適用の始まりだ!
立場の違いを超えた広範な反撃で労働組合潰しの弾圧跳ね返そう

 いま、連帯ユニオン関西生コン支部に対して空前の権力弾圧がしかけられています。
 8月から毎月のように不当逮捕がくりかえされ、逮捕者の数は5つの事件でのべ40人にものぼり、連帯ユニオン関西生コン支部(関生支部)執行委員長の武建一さんや筆頭副委員長の勾留期間はすでに3 か月以上に及んでいます。11月21日には武洋一書記長他組合幹部も逮捕されました。

 事件とされているのは、業者団体に運賃引き上げなどを要求した昨年12月のストライキや建設現場の法令違反改善を申し入れた活動など、いずれも正当な組合活動に対して、「威力業務妨害」「強要未遂」「恐喝未遂」としたものです。これら一連の労働組合弾圧は始まりであって、「共謀罪適用のリハーサル」という側面があり、沖縄新基地建設土砂投入の強行、来年の大阪G20-天皇代替わりを前に、共謀罪を社会運動団体全体に拡大する安倍政権による、重大な踏み切りではないかと考えます。

 現在、地元の関西を中心に「これはすべての労働組合・市民運動にかけられた弾圧だ!」と、抗議と反撃の闘いが取り組まれています。
 こうした重大事態をうけて、東京でも、いまおきている組合弾圧の実態と問題点をあきらかにし、この弾圧がすべての労働者・市民運動に襲いかかる攻撃の始まりと受け止め、抗議と反撃の闘いを起こすべく、関西より弾圧下にある関生支部の上京に合わせ緊急集会を開きます。
 立場の違いをこえた総がかりでの団結と連帯をつくりましょう!

■ 日程 2018年12月15日(土)午後6時30分開会
12.15労働組合つぶしの大弾圧を許さない!東京緊急集会
■ 会場 日本教育会館(中会議室)
 東京都千代田区一ツ橋2-6-2
 地図:http://www.jec.or.jp/koutuu/
 ※参加費500円

■ プログラム
1.弾圧の報告
 関生支部より報告
 関西実行委員会代表の報告
2.大弾圧をどう考えるか 弁護士よりの発言
 大口昭彦弁護士(関生支部宝島裁判担当)ほか
3.発言・連帯挨拶
 伊波洋一参議院議員 ほか

■ 緊急集会呼びかけ人
 一ノ瀬敬一郎(弁護士)
 伊波洋一(参議院議員)
 上原公子(元国立市長)
 大口昭彦(弁護士)
 大野和興(日刊べリタ編集長)
 菅孝行(評論家)
 辛淑玉(のりこえネット共同代表)
 野平晋作(ピースボート共同代表)
 花輪伸一(沖縄意見広告運動全国世話人)

■ 主催:12・15労働組合つぶしの大弾圧を許さない!東京緊急集会実行委員会
(仮事務局)協同センター・東京内 〒164-0001 東京都中野区中野2-23-1-301
 電話:03-5342-1395 FAX:03-6382-6538
 

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