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    価値形態と弁証法

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月18日(水)14時47分24秒
返信・引用 編集済
  Alternative Systems Study Bulletin

メール版 第26巻第1号 (2018年6月5日)
http://0a2b3c.sakura.ne.jp/assb26-1.pdf

(資料2)『共産主義』21 号掲載論文

29
C 物象化と階級闘争
(一) 価値形態と弁証法
E 君達は、よく、われわれの遺言を執行する、などと言っているが、今日はその手際を
見届けにきたよ。
R そうですか。実は僕らも最近は討論する相手が少ないですから、ありがたいことです。
L では早速はじめたまえ。発言は手短に、分かりやすく。
R 『資本論』初版、価値形態論をどう読むか、ということからはじめたいですね。
E おやおや、君達は僕の恥部の掘り起こしからはじめようというわけかい。仕方ないね。
価値形態の俗流的理解の流布については、僕にも責任があるわけだから。
R 物象化と物化との区別という問題は前提にして、今回は価値形態の弁証法について話
題にしたいですね。
L ほほう、君達は僕が『哲学ノート』で提起しておいた遺言を執行しようとするのかね。
E そういえば、イリイッチ(レーニン)の弁証法の理解では、僕も商品論がわかってい
ない人にはいるのだったね(注1)。
R そうですね。エンゲルスさんの場合、弁証法は主として発展法則という見地から問題
にされていますが、レーニンさんはヘーゲルの論理学に当たってみて、それではまずいと
考えたのでしたね。弁証法の核心が対立物の統一にある、というノートでの提起(注2)
は、矛盾を構造的につかもうとしたのでしょうね。
L こちらでヘーゲルと討論してみたのだが、どうもあの理解では、まだもう一つだった
と反省しているんだ。
R それを聞いて大いに力づきます。実は僕らも、対立物の統一という見地からでは価値
形態の弁証法は解けないのではないかと考えてきたのです。
M 価値形態の弁証法は、いうまでもなく、反照の弁証法さ。

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(二) 反照の弁証法
E その反照の弁証法というやつは今もよくわからないのだよ。何度かヘーゲルに聞いて
みたんだけどね。
R いま20エレのリンネルが一枚の上着に等しい、という簡単な価値形態を想定します
と、リンネルの価値が上着の使用価値で表されていること、つまり使用価値がその反対物
である価値の現象形態となっていることが知られますが、この事態が反照ということでし
ょう。
M 僕の著作からの文字どおりの引用じゃあ困るね。
R そういわれると難しいのですが、例示を試みることにしましょう。あなたが上着の使
用価値を価値鏡と見ている点がよくわからなかったのです。ついガラスの鏡を思い浮かべ
ますが、それじゃダメなんでしょう。
E 思想史からみれば、人間関係を鏡との比喩で論じるというのは、ヘーゲルの頃流行し
ていたのさ。モール(マルクス)もスミスの『道徳感情論』は読んでいたね。
R ガラスの鏡だと、自分の姿が写し出されますが、価値鏡の場合、上着物質がリンネル
価値の写像だ、ということでしょう。二○エレのリンネルだと一枚の上着があらわれ、四
0エレのリンネルだと二枚の上着があらわれる、というように。
M フムフム。
E モールが言ってたように、価値表現は超感覚的だから、写像も、自分の顔が写るとい
うようにはならないのだね。
R こう考えると、上着が自らの使用価値で、リンネルの価値を照り返している、つまり
使用価値が価値を反射している、ということがよくわかるのです。
M じゃあ価値の方は何を反照しているのかい。
R 使用価値が価値を反照するということはわかったのですが、価値が使用価値を反照す
るという方は、正直いって、もう一つはっきりしないのです。
M 君ね、僕の書いているところをもう一度読んでごらん。
R 初版二○頁でしたね。そこにはこう書いてあります。

「使用価値あるいは商品体は、ここでは一つの新しい役割を演じるのである。それは商品
価値の、つまりそれ自身の反対物の現象形態となる。同様に、使用価値に含まれている具
体的有用労働が、それ自身の反対物に、すなわち、抽象的人間的労働の単なる実現形態と
なる。商品の対立的な二規定は、ここでは、互いに分かれるのではなくて、互いに反照し
あうのである。」

  <註 杉本 この初版7段落には、註20が付されている。マルクスのここでの設問・
  回答が、この註に明らかなように、相対的価値表現の形態内容が--回り道--とし
  て与えられていることで、リンネルの価値形態、があることが提示されている。
  であれば、ここでの課題としていることが、等価形態としての形態規定ではなくて、
  たんに、--それは商品価値の<現象形態>出現形態となる--なのです。
  この誤訳ぶりは、明らかです。相対的価値形態の形成につながる・リンネルの価値
  形態が、この7段落にて提示されているのに、榎原さんは、等価形態の形成とした!
  使用価値が価値を反照したのであれば、
  リンネルの反省規定である上着は、リンネルの価値形態として反照されている。
  これが、人間様ではなく--物象の判断--を示したものです。>

あっそうか。使用価値が価値を反照しているということの裏に、価値が使用価値を反照
するということがあるわけですね。

(三) 鏡の比喩と形態規定
E 反照の弁証法がむつかしいのは、例えば個人Aと個人Bとの間の関係(注3)とか、
ヘーゲルの言う二つの自己意識の関係(注4)とかを想定するとすれば、そこで鏡の役割
を果たす側が、この関係においては新たな形態規定を受け取る、ということなんだね。
M ヘーゲルは事実上形態規定を展開していながらも、自覚的にそうはしていないから、
フレッド(エンゲルス)が反照の弁証法についてヘーゲルに聞いても不可解だと思うよ。
E そういえばヘーゲルは、実体=主体だから、自己意識論においても相互承認がどうし
ても展開できなかったわけだ。モールなら、あそこで一方の自己意識Bの担い手が個人で
ありながら、対立している個人Aの自己意識を写し出す鏡の役割をはたし、この役割にお
いては個人Bの身体そのものが類の単なる実現形態となっている、というのだろうね。
M 『精神の現象学』は、若い頃検討しただけだから、忘れてしまったよ。
R 話を『資本論』にもどしますと、上着が価値鏡となっていること、そこに反照の構造

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がある、という理解でいいんでしょうね。
L ヘーゲル論理学との関連でいえば、本質論をひっくり返すということだな。
R 『大論理学』の本質論でヘーゲルは反照(反省あるいは反射とも訳される)を詳しく
説いているのですが、あそこは難解ですね。
E ヘーゲル研究者であそこが理解できている人はいないさ。
M ヘーゲルは形態規定に純化してはいないから、形態規定で進んでいって論理が行き詰
まったとき、実体=主体ということ、つまりは内容にもどって論理を組み立てている、と
考えれば、本質論の構造は見透かせるさ。
R そうすると、本質論での反照の弁証法をひっくり返す、という場合、弁証法の運動の
契機を、ヘーゲルが逃げて内容に求めている点を批判して、あくまで形式に求める、とい
うことになるのでしょうか。
L ぼくはいま、古いノートの本質論のところを読み返してみたが、あの時点で反照の弁
証法を把握できていなかった、ということは明白だね。あの時はきっと、ヘーゲル流の非
合理的な反照論に反発を感じていたのだと思う。それはさておき、ぼくは形式に純化する
といったことで、転倒が可能になるとは考えないね。
R じゃあ、価値形態論のなかみに入っていきましょう。
(四) 価値形態の論理
R ぼくらは初版の価値形態論の意義は、簡単な価値形態の分析で、「それはそれ自身の価
値存在を、さしあたりはまず、自分に等しいものとしての他の一つの商品、上着に連関す
ることによって、示すのである」と述べている点にあると考えているのですが。
E ぼくは、あの手紙(注5)のことがあるから、とりあえずは発言をひかえるよ。
R つまり二○エレのリンネル=一枚の上着、という商品の価値形態において、この形態
それ自体の意味する内容が、同じ質のものどうしの関係ということであり、この同じ質と
は抽象的人間労働だ、ということがそこで表現されているということでしょう。
L ぼくも交換の歴史的過程の解明という問題意識で読むことが多かったから、価値形態
の論理それ自体はつめて考えなかったね。
R こういうふうに考えると、等価形態に立たされている一枚の上着という使用価値自体
が、新たな経済的形態規定を受け取っている、ということもよくわかると思うのです。
M 形態規定については宇野弘蔵君も強調していたようだが、君たちもそれに影響された
のかい。
R 彼の場合、あなたとは全然違う意味です。例えば、商品、貨幣、資本を「流通形態」
として規定することが形態規定だ、というほどのことです。そうではなくて、上着の使用
価値が、それとは別の本質の現象形態となっている、ということが、形態規定ということ
の意味でしょう。
E そういえば廣松渉君が、―そうそう、廣松君といえば、ぼくは彼には感謝しなければ
ならないんだが(注6)―彼が最近やっている役割理論の取り込みなんかも形態規定と関
係があるのかい。
R 廣松さんの場合、形態規定を純粋に取り出せなかったから、役割理論に興味を持つよ
うになったのではないでしょうか。
L 西部なんかは論外としても、六○年第一次ブントの指導者だった人たちの最近の言動
にはあきれることが多いね。
E そういう人たちだけでなく、最近の若手の社会科学研究者の書くものも無茶苦茶なの
が多いよ。
M 無知が役に立ったためしはない、ということかい。
L 階級が成熟して資本物神が完成した、という君らの一連の判断についてぼくは保留し
ているが、しかし事態はその証明としての意義を持っているかも知れないね。
R ぼくらは、いわゆるインテリゲンチャの知的生産物が、全く馬鹿馬鹿しいものになっ

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てきている、というところにも、『資本論』の核心が、大衆的に理解される時代の到来を
感じとっています。
L そういう弁証法はぼくも大好きだ。そうすると君らはモールが書いたあと、百年かか
っても誰も解読できなかった価値形態の論理を、大衆が理解する時代がきた、と見ている
わけだね。
E ぼくの失敗が救済される時代がくるというのかい。
R 話がそれたついでにいいますと、価値形態の論理自体は、例えば言語論や精神医学や
心理学の流行というかたちで外化されているとぼくは考えています。ただしインテリゲン
チャの論説は、物象化にもとづく物象による人格の意志支配との対決をあいまいにしたと
ころで、というより、その事実すら知らずに、たてられていますから、みな的はずれです。
こうした事態は、今日の労働者大衆の運動が、従来のような「戦闘性」を失ってきている
(=階級が成熟している)ことの反映でもあるでしょう。
しかし労働者大衆のなかに目覚めた人たちはいますし、彼らは物象による意志支配と対
決せざるを得ませんから、価値形態の論理が眼に見えていると思うのです。
M 本当のところを言えば、物象による意志支配の様式の暴露が、あの本の核心さ。
(五) 観念論的転倒
R 価値形態の論理に戻りましょう。上着が新たな形態規定を受け取る、というとき、そ
れは使用価値を作る労働が、価値の実体である抽象的人間労働の単なる実現形態となって
いる、ということでした。そしてこのようになることが反照の作用でしたね。
E 商品生産者たちの社会的関係を、労働の反照関係として解読しようと言うわけだね。
R そこででてくる問題が、価値形態の論理における観念論的転倒ですね。
L 諸物を考える場合、一般的なものは抽象の産物であって個物としては存在せず、諸物
の総括としてあるだけなのに、価値形態では、個物としてある、つまり使用価値としてあ
るのは、価値という一般的なものが実在するための仮の姿となっている、という逆転のこ
とだね。
E この転倒は貨幣で説明すると分かりやすい。貨幣にあっては一般的なものが金という
個物として存在しているので、モールは動物なるものが、トラやウサギと同様の個物とし
て生きているようなものだと述べていたけれど(注7)、日本でこの問題に気づいて注意
を促したのは牧野紀之君でしたね(注8)。
R この商品、貨幣の観念論的存在構造が観念論の土台をなしている、ということはわり
あい認められるようになっていますが、ぼくらは物象による意志支配を考慮にいれなけれ
ばならないと考えています。
L そうだね。商品、貨幣の観念論的な存在構造に観念論の土台を見る、というのでは単
なる反映論だ。これは自己批判だが、反映論を克服するにはやはり物象による意志支配を
研究することが必要だね。ロシア語ではディング(物)もザッヘ(物象)も同じ言葉にな
るので、ぼくもはじめの頃は、物象化を物化と受けとめていたが。
R 物象による意志支配の問題はあとでやります。価値形態の論理における観念論的転倒
は、価値表現の理解を難しくしている、ということですが、しかし他方で今日この論理が
社会的意識となって大衆化していて、それがインテリゲンチャによってロゴス中心主義批
判(ポスト構造主義)などの諸説として氾濫させられているわけです。しかし、インテリ
ゲンチャと違って、大衆の場合、論理の転倒は生活そのものに根ざしたものですから、そ
こには価値形態の論理を把握しうる現実性が内在している、とぼくらは考えています。
E そういう話を聞くと、ルカーチの階級意識を思い出してしまうが、その種の実践上の
問題は体系化する必要はない、というのがぼくの忠告だよ。
L 政治的扇動として具体化したまえ。
(六) 価値形態と物象化

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R ひきつづき価値形態の論理を見ていきます。
価値形態の秘密とは何か、という問題に移りますが、これは通常、使用価値で価値が表
現されること、というように理解され、最善の解釈でも、使用価値上着が価値の単なる実
現形態となっているということを確認することにとどまっているのですが、しかし、この
上着が価値鏡となっているということが、相互に独立した私的諸労働の反照関係にもとづ
くことを理解しなければ、本当にその秘密を暴露したということにはならないと考えます。
E 価値形態の秘密と謎との混同については武田信照君が指摘していたが(注9)、あれは
面白かったよ。あそこを出発点にすれば、宇野・久留間論争の総括も可能となるね。
M 宇野君の場合は論外として、久留間君の場合、ぼくの著作の芸術的一体性ということ
を考慮していないのは問題だよ。
L 第二章交換過程論は、ほとんど変更されてはいないので、初版本文価値形態論との関
連で研究されねばならないのに、宇野君も久留間君も現行版にもとづいて議論するという
間のぬけたことをやらかしたわけだね。
M 先日宇野君と話したが、彼はやっぱり現象学に影響されたといっていたよ。
E 分析によって価値実体をとりだすのは誤りで、現象に則して叙述するべきだ、という
かの発想だな。
R 価値形態の秘密が先に述べたことであるのに比べ、その謎というのは等価形態の謎性
と関係しているとぼくらは考え、前者を物象化の原理、後者を物神性の秘密と理解したの
ですが。
L 物象化と物化の区別という問題は、政治理論の形成にとって重要だと思うね。ぼくは
若い頃に物象化を物化と受け取り、経済過程を意識的行為とは考えなかったが、この点は
『唯物論と経験批判論』を書かねばならなかったとき、哲学上の反映論の限界を突破でき
なかったことの根拠となっていたわけだ。しかしよく考えてみると、社会関係にあっては、
無意識的行為も、実は意識に媒介されている。
E 経済過程は意識から独立しているのではなくて、意志から独立しているのだね。
M 社会関係における無意識的行為の分析は、ぼくが秘かに誇っているものさ。
E 通常、無意識についての理論はフロイトが創始者と見られているけどね。
R ぼくらは『資本論』の物象化論が、実は社会関係における無意識的行為の分析でもあ
ることに最近やっと気づいたのです。
M 貨幣生成のところだね。
(七) 貨幣生成における社会的共同行為
R 初版本文価値形態論には一般的価値形態のあと、第四形態がおかれています。これは
全ての商品所有者が、自分の商品を一般的等価物にしようと考えている場合を念頭におけ
ばよいと思うのですが、この第四形態では貨幣も成立しないし、その結果、商品も成立し
ないのです。
交換過程論では、この第四形態を受けて、商品所有者たちが当惑して考え込むところが
でてきて、そのあと「はじめに行為ありき」ということで、商品所有者たちの本能的な社
会的共同行為による貨幣の生成が説かれています。
M もっと詳しく述べてみないかい。
R 相互に独立した私的諸労働の反照関係に商品所有者たちが順応して労働生産物の商品
形態が生じているとき、この物象の社会的関係としての商品世界を分析することが価値形
態論の課題であったわけですね。
そこでは商品があたかも人格のように意志と意識を持った主体としてあらわれて、諸商
品が社会的に妥当な価値形態を作りだそうと努力するわけです。そして簡単な価値形態か
ら出発して、一般的価値形態に到達し、諸商品が相互に価値としてあらわれることが出来
る形態を見いだしたのですが、しかし、それは第四形態で否定されてしまうのですね。
つまり、物象の世界だけでは貨幣形態形成の必然性は明らかになっても、その現実性は

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解けないのですね。そこで通常は、交換過程での商品交換によってその現実性が解けると
理解されているのですが、そうではないのですね。現実性は商品交換にあるのではなくて、
商品交換に際して、物象たる商品が商品所有者の意志と意識を支配して社会的共同行為を
とらせること(物象の人格化)にあると見るべきでしょう。
M なるほど。その先はどうなるのかい。
R 貨幣は諸商品の交換過程の必然的な産物であるわけですが、貨幣が発生するのは、商
品が交換過程に直面している商品所有者の意志を支配して共同行為をとらせることによっ
てであって、交換行為そのものではないのですね。
このことがわかると、貨幣の発生は、商品所有者の社会的な共同行為を必要とする、と
いっても、この行為は無意識になされる本能的なものですから、当の商品所有者たちにと
っては、貨幣は自然に自立的にあるように見える、ということもはっきりしてきます。
L その物象による意志支配論は面白いね。ぼくは政治の領域では大衆が社会構成体の運
動に順応しているという事実をリアルに評価しておかねばならないと常々考えていて、そ
こで大衆蔑視だといった非難をあびせかけられることも多かったのだが、意志の自由が物
象による意志支配をともなっていることがわかれば、この非難が当たらないことは明白だ
ね。
E その貨幣の生成は、諸商品が相互に価値としてあらわれあうことが出来る、諸商品の
社会的に妥当な形態の成立ということでもあるから、市民社会の成立ということでもある、
ということになるね。そうなるとぼくの国家論、あれは気になっていたのだけれど、見直
すことが可能になるなあ。
R あなたの国家論の総括についてはぜひ機会を改めてお聞きしたいと思います。
先に進みますと、この無意識のうちになされた社会的共同行為によって生成された貨幣
という物象が、今度は貨幣蓄蔵の衝動をもつに到ります。貨幣は私的労働の産物でありな
がら、その私的労働が社会的労働の実現形態となっていて、社会的労働の化身です。
この社会的労働の化身を私物にすることが出来ますから、貨幣蓄蔵によって、より多く
の社会的労働を支配しようという衝動がそこに生まれ、貨幣所有者の意志を支配します。
貨幣がもつこの致富衝動が、貨幣蓄蔵ではなく、資本の生産過程によって実現されるよ
うになると、それは、資本の致富衝動へと発展します。この資本の致富衝動が資本家の意
志と意識を支配して資本が人格化している社会、これが今日の資本主義社会ということで
したね。
M あとの方は大分はしょったようだけど、大筋ではいいと思うね。
(八) 物象化と階級意識
R それで、資本における人格の物象化過程と物象の人格化過程については説明を省きま
して、結論だけを述べましょう。
賃労働者が自らの労働力を可変資本に転化させられ、自らの人格的力を資本へと物象化
させられます。他方、資本は資本家の意志と意識を支配して人格化します。
資本家による労働者に対する支配は、この物象の関係によって媒介されていますから、
その支配は、労働者の労働力が資本に物象化されていることを根拠にして、労働者の意志
を資本家が領有していることとしてあります。これが労働者の経済的服従ということなん
ですね。
M ぼくは労働力の物象化とはいっていない。
R そこは検討を要するとは思いますが、物象化のこのような捉え方からすれば、労働者
階級の階級意識の形成の問題も、自覚の論理や、政治的民主主義の拡大や、自主管理(経
済的民主主義)、といった従来の路線では行き詰まらざるを得ない、ということになると
思います。
E 第二インターナショナルの失敗にぼくは責任をとらなければならないのだが、結局、
モールが書いている、資本主義的生産が発展するにつれ、労働者の資本への経済的服従が

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強まる、ということをわれわれは本当にはわかっていなかったのだろうね。
カウッキーは資本主義が発展すれば危機が生じて社会主義が不可避となる、と考えてい
たし、ベルンシュタインは、この服従の強化過程を社会主義への道だと錯覚していたわけ
だ。もちろん、この服従の強化過程は、同時に労働組合の諸権利の拡大と労働者政党の発
達の過程でもあったから、この錯覚の方は大衆化する余地があり、げんに修正主義の方が
多数派となったわけだが。
L ぼくはコミンテルンの会合で『何をなすべきか』で提起した組織論は西欧では通用し
ない、としばしば述べたが、しかし物象化論をふまえれば、自然発生性と目的意識性につ
いての提起は、むしろ新たに強調されねばならないと思うね。
R ぼくらはいま、最大限綱領の内容で大衆的な諸運動が形成されているし、それらの運
動を発展させねばならないと考えています。
E モールが、『ゴータ綱領批判』に書いたのも、そのことに関連していたね。民主主義的
要求を中心とした最小限綱領でしか大衆運動が組織できない、という発想が伝統化したこ
とにはイリイッチにも責任があるんじゃない。
L 『二つの戦術』は民主主義革命における共産主義者の任務を説いたもので、この理論
は『四月テーゼ』で総括している。ただ後になって民主主義革命から社会主義革命へとい
う二段階路線がコミンテルンで定式化されたのはネップの影響でしょうね。戦時共産主義
の時期の急速な社会主義化の自己批判が、『四月テーゼ』の否定と『二つの戦術』の復権
として、ネップ以降にスターリンらに受け取られたのであろう。
R そういえば、五○年代には『四月テーゼ』は党内では禁書で、共産党の神話を打ち破
ったブントは、『四月テーゼ』の復権だけで急成長したようなところがありました。
E 最大限綱領で大衆運動を組織する、ということはぼくらの念願だった。パリ・コミュ
ーンはすでにそうだった。その敗北は運動主体が最小限綱領しか意識できていなかったと
ころにあったといえよう。
R 最大限綱領、つまり社会革命の要求で大衆運動が起きるなどとは信じられない、大衆
運動の路線は徹底した民主主義の要求以外にはない、と考えている活動家が、いまでも結
構多いのですが。
L そのような人々は、ぼくが徹底した民主主義の要求を、政治権力奪取後の運動の展望
の問題として述べたことを忘れているのさ。社・共、いわゆる既成左翼は最小限綱領でし
か大衆運動を提起しないが、その運動を左へ向けるために徹底した民主主義を対置しよう
というんだろうね。第四インターならともかく、ブントにもそんな発想があったのかい。
R 関西ブントの政治過程論というのがそうでした。しかしぼくらは六○年代末にその克
服を課題としてきました。いまから考えると、社会革命の要求で大衆運動を組織し、その
運動でもって国家権力を打倒し、プロレタリアートの独裁を実現する、という路線の確立
が、この課題への回答になると思います。
L 最大限綱領を要求する大衆運動は当然にも、最小限綱領を要求して闘われてきた従来
の大衆運動とは、その展開も、発展法則も異なるだろうね。
R すでに時代はオルグの時代に入っている、というのがぼくらの認識です。全世界のい
たるところから、一斉に社会革命の要求に基づく大衆運動が展開される前段階にある。
M・E・L われわれを扇動してもしようがないよ。
(九) 社会革命の展望
E せっかくだから、君たちの社会革命の運動の展望を聞こうじゃないか。最大限綱領を
要求して大衆運動を組織しようという意図はわかったが、しかしそれは具体的にはどんな
要求になるのだろうか。
R とりあえず、商品、貨幣、資本、の廃止ということがでてきます。
L そういう事柄では全然政治的扇動にはならないね。
R 階級の廃止ということの具体的内容として述べたつもりなのですが。

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L 階級の廃止、というスローガンも、一般的すぎやしないかい。
R あるスローガンが適切かどうか、という問題を判定するためには、スローガンの方だ
けでなく、運動主体の方をも考慮する必要があるでしょう。
L ウーム。ひょっとして、ぼくはまだ、最小限綱領を要求した旧来の大衆運動における
運動主体を念頭においていたのかも知れない。
E かといって、ぼくにはどうしても、エコロジーとか反原発とか、自然食のための共同
購入だとかが、プロレタリア階級による組織的闘争だとは考えられないのだよ。あれはア
ナーキストの運動さ。モールはどう思う。
M ねえフレッド、ぼくらが一八四八年にプロレタリアートの階級闘争だと述べた当時の
闘争の主要な担い手がプロレタリアートではなかったことを、良知力さんたちが明らかに
したのを知っているだろう。要は闘争の担い手の問題ではなくて、闘争の理念の問題さ。
E アナーキストに批判的なぼくとしては、君らの論議にもアナーキズムのにおいを感じ
るね。
R 社会革命の要求で大衆運動を組織するというと、昔の活動家たちはすぐ、一体政治権
力との闘争はどうなるんだ、といって反発するのですが、ぼくらは政治権力との直接的対
決しか念頭にない人たちの方が、国家の破壊と自由連合を夢みたアナーキストたちの轍を
踏んでいると思います。政治権力を打倒するための闘争に決起するには迂回が必要だ、と
いうことは、あなた方が、ヴィリッヒ・シャッパーたちを批判したときの見解じゃなかっ
たですか。
E 政治権力との闘争を自己目的化したアナーキストも居たが、他方ではコミューン作り
に向かったアナーキストも居たのさ。ぼくは今日の大衆運動は政治運動を否定している、
という意味でアナーキーではないかと見ているさ。
R アナーキストが運動に参加していたり、あるいは思想的なヘゲモニーをとっていたり
することを否定しませんが、しかしそのことと、大衆運動の性格がどうであるかというこ
ととは別問題でしょう『哲学の貧困』には「社会運動は政治運動を拒否する、などと考え
てはならない。同時に社会運動ではない政治運動などというものは、断じて存在しない」
と述べられています。今日の大衆運動は政治的性格をもっていますが、それは旧来の最小
限綱領主義の政治家の眼には政治とは見えない、ということではないでしょうか。
E じゃあ話を転ずるが、社会革命の要求を掲げて大衆運動を展開しようとする場合、ひ
と昔前の構造改革派のやったようなことになるのじゃないのかい。
R 構造改革派が目指したものは実際は民主化の実現でした。彼らにあっては民主主義と
は社会主義への途にほかなりませんでしたから、民主主義的改良が即社会革命の土台とし
て位置づけられていたのです。彼らが掲げていた諸要求は、商品、貨幣、資本、の廃止と
は全く関連していなかったのです。
L 要するに君たちの主張では、商品、貨幣、資本、の廃止といったスローガンを抽象的、
一般的なものとしてではなく、具体的な実践の指針として受けとめるような運動主体が登
場してきている、ということかい。
R そうですね。ぼくらは今日の段階では、手ごたえを感じている、としか言いようがあ
りませんが。
M それで価値形態の弁証法の謎ときが試みられているわけかい。
R ぼくらは今日の大衆運動は社会革命の要求に基づいているけれども、しかし自然発生
的にそうなっているだけだ、と考えています。それは活動家たちが商品の価値を批判でき
ずに使用価値の面からしか批判しないところにあらわれています。ところが使用価値は多
様ですから、使用価値の面からの批判では運動は必然的に分散、対立せざるをえません。
L そうすると、今日の大衆運動の自然発生性と闘うための共産主義者の意識性は、とり
あえずは価値の批判から始まる、というわけだね。
R 実際、今日の大衆運動は使用価値の面からの批判から出発しつつも、労働生産物を商
品とする事によって、それを社会に通用するようにするシステム(商品経済)や、労働力
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を資本へと物象化して、生産物を自らを支配する力として生産し、そうすることによって
生産手段の所有者たる他人(資本家)に自分の意志を領有されるシステム(資本制的生産)
はいやだ、という意識を強めてきています。
L つまりは市民社会批判ということだね。
R 階級の成熟という事態は、労働者階級が市民意識をもつ時代を到来させました。最小
限綱領は、要はより完全な市民社会を要求するものですから、労働者が市民意識をもつに
到った段階では、その種の要求をもとにした大衆運動が魅力を失っていくのは必然的でし
ょう。
E それは説得力があるね。
R ところが市民社会批判を掲げて大衆運動を提起しようという努力は、いままで政党の
側からはなされていなかったのです。にもかかわらず大衆運動の側では市民社会批判が準
備されつつあります。
L 一体どんなものかい。
R 例えば、市民社会の原理ともいうべきものは、個々人はエゴを追求する、社会全体は
エゴが相殺されて均衡する、そこでなお残る問題は国家の行政にゆだねる、といったもの
で、これは社会的生産が資本家の私事として営まれ、競争によって社会的生産におけるバ
ランスを保っているような社会にふさわしい意識形態でした。
ところがこうした市民意識にどっぷりつかったままで生活していってよいのか、という
反省が、大衆運動のエネルギーに転化してきているのです。
M それは大変なことだ。
マルクスが大声で何か言いかけたとき、目がさめた。真夏の夜の夢のなかでの対話はこ
れで終わってしまった。
注1 「ヘーゲルの論理学全体をよく研究せず理解しないではマルクスの資本論、とく
にその第一章を完全に理解することはできない。したがって、マルクス主義者のうちだれ
ひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった」。(『レーニン全集』三八巻、一五
○~一頁)
注2 前掲書、一九一頁。
注3 『資本論』河出書房新社版、五○頁。
注4 『精神の現象学』岩波書店版、一八四頁。
注5 エンゲルス一八六七年六月一六日付手紙。
注6 廣松渉『エンゲルス論』盛田書店。
注7 『資本論』初版、原典二七頁。
注8 さしあたり『初版資本論第一章』鶏鳴出版、一八七頁。
注9 武田信照『価値形態と貨幣』梓出版、一九六頁。
(一九八九年四月)
37

 
 

商品のフェティシズムの性格とその秘密 の初版 再版 の対比(そのⅡ)

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月 5日(木)15時58分31秒
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           初版                              再版

しかし、これらの方程式のそれぞれは反射的にコート、コーヒー、
紅茶などをユニバーサル等価物として生成し、結果的にコート、
コーヒー、紅茶などで価値表現を生み出します。
すべての他の商品の普遍的な相対価値形式として。商品が普遍的な
同等形態に変わるのは、他の商品に対抗する場合のみである。

しかし、すべての商品は、他のすべての商品とは反対の普遍的な同
等の形に変わります。
すべての商品が、他のすべての商品と、それに対応する自然な形で
普遍的な同等の形に対応している場合、結果として、すべての商品
は社会的に有効な価値量の表示から除外されます。
すべての商品が、他のすべての商品と、それに対応する自然な形で
普遍的な同等の形に対応している場合、結果として、すべての商品
は社会的に有効な価値形態の表示から除外されます。

普遍的な等価形態・それ自身の自然な形態を、ユニバーサル等価形
態としています。
このように、明らかに、商品の分析は、相反するベクトルにおける
価値形態と価値形態そのもののすべての本質的な決定をもたらし、
普遍的な相対価値形式、普遍的な等価形式、そして最後に終わりの
ない単純な相対価値表現 - これは、最初に、値形式の発展におけ
る移行期に最初に形成され、最終的には普遍的な等価物の具体的な
相対価値形式に突然移行するためである。

価値形態と価値形態そのものを矛盾するベクトルで表現すると、普
遍的な相対価値形式が得られ、ユニバーサル等価形態も同じく得ら
れます。

しかし、商品の分析は、これらの形式を一般的な商品形態(これは
また各商品にも適用される)として矛盾する形でもたらした。した
がって、商品Aが矛盾した形態決定の1つにある 商品B、Cなどはそ
れに反対するものを採用する。

しかし、ここで決定的に重要なことは、価値形態が価値概念から生
まれたことを証明するために、概念的に表現された価値形態の内面
的な必要なつながりを証明する<発見する>ことでした。

  <that the value form  価値の形式
  <the value-concept 価値観・価値概念
  <value-substance, and value-amount; i.e.,
  <価値 - 質であり、価値 - 量である。
  <substance,物質、amount 量

                                4.商品のフェティシズムの性格とその秘密
①商品は一目瞭然だと自明で些細なことだ。それの分析は、それが  ①一見すると、商品は自明で些細なものに見えます。彼女の分析
非常に残酷なものであり、形而上学的微妙さと神学的嫌悪に満ちて  によると、彼女は非常にトリッキーなことであり、形而上学の精
いるという洞察をもたらします。単なる使用価値として、その属性  巧さと神学的な紆余曲折がいっぱいです。使用価値に関する限
が人間の必要を満足させるという視点から考えるか、人間の労働の  り、その特性によって人間のニーズを満たすという観点か、人間
産物としてのみこれらの属性を得るのかどうか、それは卓越したも  の労働力の産物としてこれらの資質を得るかどうかにかかわら
のは何もない官能的なものです。人間が彼の活動によって、自分に  ず、神秘的なことは何もありません。人間が彼の活動を通して、
とって有益な方法で自然の物質の形を変えるという事実には、まっ  彼に有用な方法で天然物質の形態を変えるのは完全にはっきりし
とって有益な方法で自然の物質の形を変えるという事実には、まっ  ています。例えば木の形状。あなたがそれからテーブルを作ると
たくの謎はありません。たとえば、木の形は、テーブルを作ると変  きに変更されます。それにもかかわらず、テーブルは木であり、
更されます。それにもかかわらず、テーブルは木で、普通の、官能  普通の官能的なものです。しかし、商品として出現するとすぐ
的なものです。しかし、商品として脱出するとすぐに、それは感覚  に、彼は感覚的に超越的なものに変身します。彼は足で地面に立
的に超感情的なものに変身する。それは地面に足を立てるだけでな  っているだけでなく、他のすべてのコモディティに逆さまにな
く、他のすべての商品と対峙し、突然踊り始めるよりははるかに驚  立っているだけでなく、他のすべてのコモディティに逆さまにな
異的な木製の頭蓋骨から発達します。               り、自分の自由意志で踊り始める時よりもはるかに気まぐれな木
                                製の頭からクリケットを育てます。(25)

②商品の神秘的な性格は、その使用価値には生じない。それは、   ②商品の神秘的な性格は、その使用価値から湧き出るものではあ
それ自体で考慮された価値決定から少しだけ生じます。まず第一   りません。 価値判断の内容からは発生しません。
に、有用な労働や生産活動が異なっていても、それは他の生物とは  まず第一に、有用な仕事や生産活動がどのように異なっているか
区別されるような特異的な人体の機能であり、そのすべての機能や  については、それらが人間の機能であり、その内容や形態が何で
内容、本質的には人間の脳、神経、筋肉、知覚器などの支出であ   あれ、本質的に人間の脳の支出であるという生理学的な真理であ
る。                              る 、神経、筋肉、センスオルガンなどです。
第2に、価値の量の決定に基づいているもの(その支出の時間、ま   第二に価値ーー価値の決定に基づいて、その支出の期間、また
たは労働量)、その量は肉眼でも知覚可能な方法で労働の質と区別  は労働の量は、労働の質とは明らかに区別される。 すべての州
できることは明らかである。すべての条件において、異なるレベル  で、食糧の生産にかかる作業時間は、開発のさまざまな段階で男
の開発で同じレベルではないが、人間にとって懸念される必需品の  性が均等には関わらず、関心を持たなければなりません。(26)
生産にかかる労働時間であった。最後に、男性がどんなやり方でも  最後に、男性が何らかの形でお互いに働くとすぐに、彼らの仕事
互いのために働くとすぐに、彼らの労働は社会的形態を獲得する。  は社会的利益シェイプを受け取ります

③彼の島にRobinson Crusoeを連れて行きましょう。それでも、   ③それで、商品の形態を取るとすぐに、作品の謎めいた性格はど
彼は自然のように控えめですが、彼は満足するためのさまざまな   こから来ていますか?明らかに、このフォーム自体から。人間の
ニーズを持っていますし、さまざまな種類の役に立つ労働をしなけ  仕事の平等は、作業成果物の同じ値性の関数形式を受け取り、そ
ればならず、道具を作って家具を作り、ラマを飼い、魚や狩りなど  の期間によるヒトの労働力の支出の尺度は、作業成果物の価値の
をする必要があります。私たちのロビンソンは彼らからの喜びを引  大きさの形をとり、自分の仕事の中に、これらの社会的ルールの
き出し、そのような活動をレクリエーションとみなしているからで  生産者の最終的な条件作業成果物の社会的関係の形式を受け取り
す。彼の生産的な機能の多様性にもかかわらず、彼は1つの同じロ   ます。
ビンソンの様々な形の活動だけであることを知っているので、人間
の労働の異なるモードです。・・・略・・・

④ロビンソンの所在地に自由男性組織を置くと、共通の生産手段を
使って、多くの個々の労働力を意識的に一つの社会的労働力として
費やすならば、ロビンソンの労働の決定はすべて繰り返されます。
個人的な方法よりも。それにもかかわらず、本質的な違いが出てく
る。すべてのロビンソンの製品は彼の独占的な個人的生産物であ
り、それによって彼のためにすぐに使用の対象となりました。
組織全体の製品はソーシャルプロダクトです。・・・略・・・
                                ④したがって、商品形態の謎は、労働生産物そのものの社会的性
    <長谷部訳 資本論 1 の4段落>           質として、労働生産物そのものの表象的な特徴としての自分の労
  商品形態の神秘性なるものは、たんに次の点にある、ーー    働の社会的特性を人間に反映させるだけであり、したがって、労
  というのは、商品形態は、人間じしん労働の社会的性格を    働者全体に対する生産者の社会的関係それらの社会的関係として
  労働諸生産物そのものの対象的性格として・これらの物の    のオブジェクトとしています。
  社会的な自然属性として、人間の目に反映させ、したがっ
  てまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼    この取り違えを通して、作業成果物は物品、感覚的に精神的また
  らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係とし反映させ    は社会的な品物になります。
  るということ、これである。この交替によって、労働諸生
  産物は商品ーー感性的で超感性的または社会的な物となる。
  たとえば、物が視神経に与える光の印の印象は、・・・     したがって、視神経上のものの軽い印象は、視神経そのものの主
    <河出書房 世界の大思想18 P66下段>         観的な刺激としてではなく、目の外のものの客観的な形態として
                                現れる。
     <英語版> の分かりやすさを、見よう。        しかし、見ると、光は実際にあるものから、外側のものから、別
  ④この世界では、人間の脳の生産物は、人生に恵まれた     のもの、目に投げられるようになります。それは物理的なものの
  独立した存在として現れ、お互いと人間の両方に関係して    間の物理的な関係です。一方、商品形態とそれが提示された労働
  いるように見えます。だから、人々の手の製品を持つーー    生産物の価値は、その物理的性質と結果的な具体的関係とはまっ
  商品世界にあるのです。商品はそれゆえに神秘的なもので    たく無関係である。
  す。なぜなら、その中に人々の労働の社会的性格が、その    それはここでは物事の関係の想像的な形を仮定しているのは、人
  労働の産物に刻印された客観的な性格として現れるからで    間自身の明確な社会的関係だけです。
  す。                            したがって、類推を見つけるためには、宗教界の霧の多い地域に
  生産者と自らの労働の総量との関係は、自分自身の間では    逃げなければなりません。
  なく、労働生産物の間に存在する社会関係として、彼らに    ここでは、人間の頭部の製品は、自分自身と人類の間で、自分の
  提示されるからです。                    人生の恵みを受ける独立した形を持っているようです。
  これが、労働生産物が商品となり、その性質が感覚によっ    だから、商品の世界では人間の手の製品。
  ては知覚されながらも、同時に知覚できない社会的事物と    これは私がフェチシズムと呼ぶものです。フェティシズムは、商
  なる理由である。                      品として生産されるとすぐに働く製品に固執し、したがって商品
  同じように、物体からの光は、視神経の主観的興奮として    の生産とは切り離せません。
  ではなく、目の外側の何かの客観的な形態として、我々に
  よって知覚される。
    <英語版>

     フェティシズムは、<英語版>ではこう言い表されています。
    <生産者と自らの労働の総量との関係は、自分自身の間ではなく、労働生産物の間に存在する社会関係として、彼らに提
    示されるからです。これが、労働生産物が商品となり、その性質が感覚によっては知覚されながらも、同時に知覚できな
    い社会的事物となる理由である。>
    労働生産物の間に存在する社会関係ーーとは何でしょうか?
    長谷部先生は、価値関係と原文にはない記述を見せています。しかし、諸商品が商品世界に在しているのですから、ネ。
    一般的価値形態を構成する限りで、諸商品は存在し、そのためには、諸商品は、何よりも価値形態であることで、自らの
    そのーー社会的存在の形態を示し、自ら価値であリ、使用価値である商品形態を示しています。
    しかし、この理解であれば、物事は、リンネルが一般的価値形態であることで、他のすべての諸商品は価値形態であるこ
    とになり商品世界が形成されていることになるのですが、しかし、マルクスは、この主張を打ち出していず、次の英語版
    にあるように、ーーその性質が感覚によっては知覚されながらも、同時に知覚できない社会的事物となるーーこの理由を
    これから追求します、と述べているのではないか?
    何故なら、諸商品の社会関係が、価値関係であり物と物との関係になっているーーと示したのではなく、物と物との関係
    となっているこの幻影的形態の何故!を、ベーリ批判を、私達生産者に示しているのです。
    だから、長谷部訳・次の記述はないと思います。
    <商品形態は、・・・これらの物の社会的な自然属性として、人間の目に反映させ、>との訳出は、無いのです。
    <それはここでは物事の関係の想像的な形を仮定しているのは、人間自身の明確な社会的関係だけです>との、四版の原
    文記述への認識は、日本の学者先生にはーー無いのです。


⑤商品形態をとるとすぐに、それはフォームを仮定する労働生産物  ⑤先の分析がすでに示しているように、商品世界のこの
の困惑を引き起こすのだろうか?                 〈this fetish  character〉神秘的な性格は、商品を生産する
                                労働の独特の社会的性格から生じる。

⑥人々が、同等な人間労働の客観的な外皮とみなす限り、彼らが価  ⑥商品は独立した私的な仕事の産物であるため、これらは最初に
値として互いの製品を関連付けている、この客観的な外見のもとで  商品になります。
は、その様々な労働は同質な人間の労働とのみ見なされます。    これらの私的な作品の複雑さは、社会的な仕事の全体を形成しま
   <その様々な労働は同質な人間の労働とのみ>       す。
彼らは、彼らの製品を価値として互いに関連づけていることによっ  生産者は作業成果物の交換を通じて社会的接触を得るに過ぎない
て、さまざまな労働を人間の労働として互いに関係づけています。  ので、彼らの私的な仕事の特定の社会的性格はこの交換の中での
個人的な関係は、客観化された形式によって隠されている。     み現れる。(Or, in fact, )実際には、私的な作品は、人間関係
だから、価値が何であるかは額に書き込まれません。        と生産者との関係によって、社会的活動のメンバーとしてのみ
彼らの製品を商品として互いに関連付けるために、人々は様々な労  機能します。
働を抽象的な人間労働と見なすことを強いられます。        したがって、私的な作品の社会的関係は、後者にとって彼らのも
   <人々は様々な労働を抽象的な人間労働と見なす>      のであると思われます。むしろ、人間の直接的な社会関係として
                                ではなく、事実上の人間関係と物事の社会的関係とである。
彼らはそれを知らないが、物質的なものを抽象化し価値に還元する
ことによってそれを行う。これは原始的なものであり、無意識のう  ⑦彼らの交換の中でのみ、作業成果物は、彼らの感覚的に異なる
ちになす本能的な脳の動作であり、必然的に物質的生産の特定の様  功利主義的客観性から分離された、社会的に等しい価値 - 客観性
式と、この生産がそれらを構成する関係から生長する。       を受ける。

まず、彼らの関係は実用的なモードで存在します。しかし、第二   この作業成果物を有益な物と価値に分割することは、交換所が既
に、彼らの関係は彼らの関係として存在する。           に十分な程度と重要性を獲得した時点で実用的にしか機能しない
                                ため、交換のために有用なものが作られ、このように物の
それが彼らのために存在するか、または脳に反映される方法は、   〈the value character 〉価値性格は生産されても考慮されま
関係の本質から生まれます。後で、彼らは科学の助けを借りて、自  す。
分の社会的製品の謎を後ろから取り除こうとします。今や価値の大
きさに関わる限り、私たちは、互いに独立して(しかし、彼らが原  この瞬間から、プロデューサーの私的な作品は、実際には二重の
始的な分業のメンバーであるために)プライベートな労働は、あら  社会的性格を持っています。
ゆる面で常に社会的に縮小されている偶発的かつ絶え間なく変化し  一方では、特定の有用な仕事として、彼らは特定の社会的必要性
ている製品の交換関係において、その生産に社会的に必要な労働時  を満たさなければならず、したがって、労働の社会分裂の自然シ
間は、例えば、重力の法則がそうであるように、規制自然法則とし  ステムの全仕事のメンバーであることを証明しなければならな
て強制的に適用されるという事実は頭の上に落ちる。        い。
   <生産に社会的に必要な労働時間は規制的自然法則>     他方、彼らは、すべての有用な私的な仕事は、他の有用な種類の
したがって、労働時間による価値量の決定は、相対的な商品価値の  私的な仕事と交換可能であり、従ってそれに無関心であるという
見かけの動きの中に潜んでいる謎である。             条件で、彼ら自身の生産者の多様なニーズだけを満足させる。
生産者自身の社会運動は、生産者がその動きを制御するのではな   人間の労働として所有する共通の性格への縮小において、実質不
く、その制御下にあるオブジェクトの動きの形態を所有している。  平等を抽象化してのみ存在することができる。


最終的には価値形態に関わる限り、私たちは、民間労働者の社会的  私的生産者の脳は、私的な仕事のこの二重の社会的性格を、実際
関係とその結果として私的労働者の社会的決定を客観的に覆い隠す  の交易、製品の交換において - 彼らの私的な作品の社会的に有
のはちょうどこの形態に過ぎないことに気付く。          用な性格 - 現われる形でしか反映しない。これらの物質的に異
私がコートと言うなら、ブーツなどは抽象的人間労働の普遍的な物  なるもの、労働の製品の共通の価値、で仕事の異なる種類の平等
質化としてリネンに関係しています。               の他の社会的な性格にする。
物を置くような狂気は目に飛びます。
しかし、コート、ブーツなどの生産者がこれらの商品をユニバーサ  ⑧だから、人々は、類似の人間の労働の事実上のカバーに過ぎな
ル相当品としてリネンに関連付けると、彼らの私的労働の社会的関  いので、これらのことは価値観として、お互いに価値のある商品
連性は、まさにこの狂気のような形で現れます。(原P38~39)   を関連付けることはありません。 逆に、なのです。
                                彼らの多様な製品を価値の交換の対象にするには、彼らの異なる

⑦これらの形式はブルジョア経済のカテゴリーを正確に構成する。  作品を人間の労働と見なします。彼らはそれを知らないが、彼ら
彼らは歴史的に決定されたこの社会的生産形態の生産の関係のため  はそうする。 (27)
に、社会的に妥当な、したがって客観的な考え方である。      したがって、彼は彼のものの額に書かれていません。むしろ、価
                                値はすべての作業成果物を社会的象形文字に変換します。後で、
⑧民間生産者は、プライベートプロダクトを通じて初めて社会的接  人々は、価値としての商品の決定が言語としての社会的産物であ
触に入る。彼らの労働の社会的関係は結果として労働者の社会的関  るため、自分の社会的製品の秘密を超えて、象形文字の意味を解
係として即座に現れるのではなく、客観化された人間関係または対  読しようとする。
象の社会的関係として現れているように見える。          労働生産物が、価値である限り、生産に費やされた人間の労働の
                                客観的な表現は、人間の進化の歴史の中で時代を作りますが、決
しかし、社会的事物としてのオブジェクトの最初の、そして最も普  して労働の社会的性格の客観的な類似を避けていません。
遍的な発現は、労働生産物を商品に変身させることである。     独立した民間企業の具体的な社会的性格が人間の労働としての平
                                等にあり、労働生産物の価値キャラクターは、商品の生産条件に
 ⑨したがって、商品の神秘主義は、民間生産者の私的労働の社会  おける発見の前後に現れ、科学的分解と同じくらい最終的なもの
的決定が労働生産物の社会的自然的決定と見なされるという事実か  である。
ら生じる。
                                <上記事柄を英明な英語版の記述で引用しておきます>
事実から、すなわち、人の生産の社会的関係は、物の社会的関係と  ⑧したがって、私たちが労働力の支出を価値としてお互いに関連
してお互いに、そして関係する人に現れるということから。     づけるこれらの事柄により、同質な人間的労働の物質的な容器が
民間労働者の社会的労働の全体に対する関係は、それに反して自分  見えるからではありません。
自身を客観化し、その結果、彼らのために物の形で存在する。    <Quite the contrary> まったく逆なのです。
                                交換によって、私たちが異なる製品を価値として評価するときに
普遍的生産の社会的関係が彼らのように自社製品に向かって行動す  は、まさしくその行為によって、人間の労働として、異なる種類
ることにある商品の生産者の社会への商品(故にその値)とその本  の労働が支えられているとみなします。
に、お互いに自分のプライベートな労働に関連する目的としての、  私たちはこれに気づいていませんが、それでもやっています。
フォームである同じ人間労働というのであれば、それはキリスト教  [28独注27]
であります。                          したがって、価値は、それが何であるかを記述するラベルでぶつ
特にブルジョワ的開発である、プロテスタンデイズムなどにおいて、 かることはありません。
抽象的な人の宗教に最も適切な形態をとっている。         むしろ、すべての製品を社会的象形文字に変換するのは価値で
                                す。
古代のアジア、アンティークなどの生産形態では、製品が商品に変  その後、私たちは自分たちの社会的製品の秘密を守るために、象
身し、コモディティ・プロデューサーとしての人間の存在は従属的  形文字を解読しようとします。有用性のオブジェクトを価値とし
な役割を果たすが、コミュニティが衰退の段階に入るほど大きくな  てスタンプするのは、言語と同様に、それは社会的産物であるか
る。本物の商業人は、Epicurusの神のような古代世界の隙間にのみ  らなのです。
存在するか、またはポーランド社会の孔の中のユダヤ人のように存  最近の科学的発見は、労働は、価値である限り、産出に費やされ
在する。                            た労働の物質的表現であり、実際には人類の発展の歴史の時代を
それらの古代の社会的生産生物は、ブルジョア生物よりもはるかに  示すものであるが、決して、労働の社会的性格が私たちに見える
単純で透明であるが、他の人とのつながりや自然種の臍の欠損のな  霧を、製品そのものの客観的性質であるーーとはいえないように
い未成年者、即時のマスタとスレーブの関係に基づいています。   消散させるものではありません。
                                私たちが扱っている特定の生産形態、すなわち商品の生産は、独
彼らは、人生の憲法の物質的プロセスの中で男性の対応関係が制限  立して運営されている私的労働の具体的な社会的性格は、その労
され、結果的にお互いに、また自然に、労働力の生産力が低くなる  働のあらゆる種類の平等の中にあり、それは人間の労働であるこ
という条件づけがなされている。この実際の制限は、古代の自然や  とから、 それゆえ、この事実は、製品において価値形態を前提
人気のある宗教における理想主義の様式に反映されています。現実  にしている -この事実は、上記の発見にもかかわらず、現実と同
世界の宗教的な反映は、実用的な日常生活の関係が男性にとって、  じように、生産者にも現れます。 空気の成分が、ガスの科学で
日常的に透明で合理的な関係を自然と表現するようになるとただ消  解明されても、大気そのものは変わらないままであった、ように
えてしまいます。しかし、関係は自分自身を自分のものとして表現  です。」<英語版資本論>
することしかできません。
                                ⑨まず第一に、生産者が交換をする際に実質的に懸念すべきこと
生きる社会プロセス(すなわち、生産の物質的プロセス)の形態は、 は、彼らが自社のためにどれくらいの他の製品をどれだけ手に入
それが意識的で計画された支配の下で自由に社会化された男性の製  れたのかということです。
品として立つと、その霧の神秘的なベールを打ちのめすだけである。 どのような割合で製品は交換可能ですか?
しかし、それが起こるためには、社会の物質的基盤が要求されるか、  これらの比率は、習慣によってある種の安定性を達成したと
あるいは長く痛みを伴う開発の歴史の元の産物である物質的存在条  き、製品の性質から生じるように見えるので、例えば、1トンの
件の列が要求される。                      鉄と2オンスの金は自然に1ポンド異なる物理的および化学的性
                                質にもかかわらず、金と鉄のポンドの重量が等しいと思われる。
 ⑩政治経済学は、たとえ不完全であっても、価値と価値の価値を  価値を持つという性格は、製品に一度感銘を受けたときに、その
分析するために、今は確かにあります。              行動の理由だけで固定性を獲得し、お互いに価値の量として再作
なぜ労働は価値があるのか、時間的持続性による労働の尺度自体が  用します。
価値の量で現れているのかという疑問が提起されたことはありませ  これらの量は、生産者の意志、先見性、行動とは無関係に、絶え
ん。                              間なく変化する。
彼らの額には、生産過程が人を支配するが、人々は生産過程を習得  彼らにとって、彼ら自身の社会的行動は、生産者を支配するので
していない社会形成に属していると書かれている。このような形態  はなく、生産者を支配する物の行動という形をとっている。
は、社会的生産のような自明な自然的な必需品としてのブルジョワ
的意識を意味する労働そのものなのです。             それは、その前に商品の完全に開発された生産を必要とし、その
社会生産的生物のプレブルジョワの形態は、それに応じて政治経済  蓄積された経験だけから、科学的な確信が湧き上がり、民間労働
によって扱われており、おおむねプレキリスト教の宗教が教会の父  のすべての種類が独立して運営されていること、そして、お互い
親によって扱われているのと同じです。              に、そして社会的分業の自発的に発達した枝として、社会が必要
                                とする量的比率にまで、そこに対象化された労働が、継続的に縮
                                小されつつあるーーことを示している。
                                なぜ?
                                なぜなら、製品間の偶発的かつ絶え間なく変動する交換関係の
                                すべての中で、その生産に社会的に必要な労働時間は、自然の過
                                大乗法のように強制的に主張するからです。
                                したがって、重力の法則は、家が私たちの耳に当たったときにそ
                                れ自体を主張する。[28]
                                したがって、労働時間による価値の大きさの決定は、商品の相対
                                価値の見かけの変動の下に隠された秘密である。
                                その発見は、製品の価値の大きさの決定からの単なる事故のすべ
                                ての出現を取り除いているにもかかわらず、その決定が行われる
                                様式を変えるものではない。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  <初版⑥                          <再版⑩>
 <ブーツなどは抽象的人間労働の普遍的物質化としての      <私がその岩やブーツなどを言うとき抽象的な人間の労働の一般
  リネンに関係しています。物を置くような狂気は・・・>    的な実現形態としてキャンバスを参照していて、その表現の狂気
                                は目を引く。>
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

⑩したがって、商品の神秘主義は、民間生産者の私的労働の社会的  ⑩彼らの科学的分析を含む人間の生活の様式を反映すると、まず
不変ではなく、その内容に関するものとみなされます。       第一に、真の発展に反する道を提案する。
                                ポストフェスティムを開始し、その結果、開発プロセスの完成し
決定が労働生産物の社会的自然的形態と見なされるという事実から  た結果が表示されます。
このーー事実から、すなわち、人の生産の社会的関係は、物と物の  人間がこれらの形態の歴史的特徴を説明しようとする前に、労働
社会的関係としてお互いに、そして関係する人に現れるということ  生産物を商品に刻印して商品流通にさらされている形態は、すで
から。                             に社会生活の自然な形態の堅さを持っている。

民間労働者の社会的労働の全体に対する関係は、それに反して自分  したがって商品価値の分析だけが価値の決定につながりまました。
自身を客観化し、その結果、彼らのために物の形態で存在する。   商品の共通の金銭的条件であり、価値のキャラクターの固定につ
普遍的な生産関係の社会的関係が、商品としての商品への行動    ながったのです。
(価値としての価値)として成り立っており、彼らの私的労働を互  しかし、民間労働の社会的性格、したがってそれを明らかにした
いに平等な人間の労働である客観的な形態で関係づけている--商  のではなく、民間労働者の社会的条件を不明瞭にするのは、商
品生産者の社会にとって、特にブルジョワ的展開、プロテスタンデ  品世界のこの完成した形態、つまりお金の形態です。
イズムの発現などにおいて、抽象的な人の宗教に最も適切な形態を
とっている。                          私がその岩やブーツなどを言うとき、抽象的な人間の労働の一般
古代のアジア、アンティークなどの生産形態では、製品が商品に変  的な実現形態としてキャンバスを参照していて、その表現の狂気
身し、コモディティ・プロデューサーとしての人間の存在は従属的  は目を引く。
な役割を果たすが、コミュニティが衰退の段階に入るほど大きくな
る。本物の商業人は、Epicurusの神のような古代世界の隙間にの   しかし、ロックやブーツなどの生産者が、これらの
み存在するか、またはポーランド社会の孔の中のユダヤ人のように  商品をキャンバス、つまり何も変わらない金や銀を参照すれば、
存在する。それらの古代の社会的生産生物は、ブルジョア生物より  それが、思考形式である。
もはるかに単純で透明であるが、他の人とのつながりや自然種の臍
の欠損のない未成年者、即時のマスタとスレーブの関係に基づいて  一般的な同等物として、彼らの私的な作品と社会的な仕事の関係
います。彼らは、人生の憲法の物質的プロセスの中で男性の対応関  は、この狂った形で現れる。
係が制限され、結果的にお互いに、また自然に、労働力の生産力が  彼らの形式は、社会的に妥当であり、つまり、この歴史的に決定
低くなるという条件づけがなされている。この実際の制限は、古代  された社会生産方式の生産関係、商品の生産関係に対する客観的
の自然や人気のある宗教における理想主義の様式に反映されていま  形態なのです。

す。現実世界の宗教的な反映は、実用的な日常生活の関係が人々に  ⑪商品の世界のすべての神秘主義すなわち商品生産に基づいて労
とって、日常的に透明で合理的な関係を自然と表現するようになる  働生産物を包み込んだすべての魔法や憑依は、他の生産形態に逃
とただ消えてしまいます。                    げるとすぐに消滅します。

しかし、関係は自分自身を自分のものとして表現することしかでき  ⑫・・・以下 略 ・・・
ません。人生の社会的プロセス(すなわち、生産の物質的プロセ                                  ・
ス)の形態は、意識的で計画された制御下で、自由に社会化された  ⑮
男性の製品として立つと、その霧の神秘的なベールを打ち消すだけ
である。

しかし、それが起こるためには、社会の物質的基盤が要求される
か、あるいは長く痛みを伴う開発の歴史の元の産物である物質的存
在条件の列が要求される。(原P39~40)



       ぐーぐるほんやく
       https://translate.google.co.jp/?hl=ja
       再版
       http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

       初版ーー英訳
       https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

       『資本論』第一章「商品」のディアレクティーク  丹野, 正
       http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/949/1/AA11349190_9_1.pdf










 

第4節 諸商品の物神崇拝とそれについての秘密

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月 4日(水)09時56分30秒
返信・引用 編集済
  <杉本 次のは、再版・第四版・ドイツ語版の英訳本・というのではなく、英語版それ自体としての、マルクスの娘さんも関わったであろうーー英国語での資本論であります。あのクソ難しい物神性論が、とても理解しやすく記述されているのです。
仏語版、次に英語版そして再版・私達の手にしている第四版そして、その次に、再度の、英訳ではなく独自の英語版資本論であります。>


https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di4jie-shang-pinno-wu-shen-chong-baitosono-mi-mi



第4節 諸商品の物神崇拝とそれについての秘密
①A commodity appears, at first sight, a very trivial thing, and easily understood.
Its analysis shows that it is, in reality, a very queer thing, abounding in metaphysical subtleties and theological niceties.
So far as it is a value in use, there is nothing mysterious about it, whether we consider it from the point of view that by its properties it is capable of satisfying human wants, or from the point that those properties are the product of human labour.
It is as clear as noon-day, that man, by his industry, changes the forms of the materials furnished by Nature, in such a way as to make them useful to him.
The form of wood, for instance, is altered, by making a table out of it.
Yet, for all that, the table continues to be that common, every-day thing, wood.
But, so soon as it steps forth as a commodity, it is changed into something transcendent.
It not only stands with its feet on the ground, but, in relation to all other commodities, it stands on its head, and evolves out of its wooden brain grotesque ideas, far more wonderful than “table-turning” ever was. [26a]
①商品は、一見、非常に些細なことであり、理解しやすい。
その分析は、現実には、非常に奇妙なことであり、形而上学的微妙さと神学的精神に富んでいることを示しています。
それが使用価値のある限りでは、人間の望みを満たすことができるその性質によって、またはそれらの性質が人間の産物であるという観点から、それを我々が考慮するかどうかにかかわらず、神秘的なものは何もありません、<the product of human labour. >人間労働の産物として。

彼の業種によって、自然が提供した資料の形を、彼が有用なものに変えるように、正午がくる<お昼が来る>のと同じくらいに、明確です。
例えば、木の形は、それを使ってテーブルを作ることによって変えられます。しかし、すべてのことを考えれば、テーブルは引き続き共通の、毎日のもの、木材です。

しかし、それが商品として歩むとすぐに、それは超越的なものに変わります。

それは地面に足を立てるだけでなく、他のすべての商品に関連して、頭の上に立って、木の脳のグロテスクなアイデアから進化し、これまでの「テーブル回転」よりはるかに素晴らしいものでした。 [26a]


②The mystical character of commodities does not originate, therefore, in their use value.
Just as little does it proceed from the nature of the determining factors of value.
For, in the first place, however varied the useful kinds of labour, or productive activities, may be, it is a physiological fact, that they are functions of the human organism, and that each such function, whatever may be its nature or form, is essentially the expenditure of human brain, nerves, muscles, &c.
Secondly, with regard to that which forms the ground-work for the quantitative determination of value, namely, the duration of that expenditure, or the quantity of labour, it is quite clear that there is a palpable difference between its quantity and quality.
(86)
In all states of society, the labour time that it costs to produce the means of subsistence, must necessarily be an object of interest to mankind, though not of equal interest in different stages of development.[27]
And lastly, from the moment that men in any way work for one another, their labour assumes a social form.
諸商品の神秘的な性格は、したがって、それらの使用価値から由来するのではない。

まさにそれは価値の諸要因を規定しているその性質から少し由来しているだけのとおりです。

というのは、第一には、いかに労働の有用な種類が異なっても、あるいは生産的諸行為が異なっても、それらが人間の生体の諸機能であることは一つの生理学上の事実だから、そしてそのような各々の諸機能、その性質または形態が何であるにせよ、それは本質的に人間の頭脳、諸神経系、諸筋肉、などの&cの支出です。

第二に、価値の量的決定のための土台をどちらが形成するかということについて、すなわち、その消費の持続期間、すなわち労働の量の決定について、労働の量と質にわかりきった違いがあるということは全くはっきりしているから。
(86)
社会のすべての状態において、生存諸手段を生産するために費やす労働時間は、必然的に人類にとって関心の一目的にならざるを得ない、発展の異なる諸段階においては等しい関心でないとは言え。[27独注26]
そして最後に、人間が何らかの仕方で他人のために働く瞬間から、彼らの労働は社会的形態を帯びる。

③Whence, then, arises the enigmatical character of the product of labour, so soon as it assumes the form of commodities?
Clearly from this form itself.
それでは、商品の形態をとるとすぐに、労働の生産物の不可解な性格が生じますか?このフォーム自体から明らかです。

The equality of all sorts of human labour is expressed objectively by their products all being equally values;
the measure of the expenditure of labour power by the duration of that expenditure, takes the form of the quantity of value of the products of labour;
and finally the mutual relations of the producers, within which the social character of their labour affirms itself, take the form of a social relation between the products.
あらゆる種類の人間労働の平等は、それらの製品がすべて同じ価値を持つことによって客観的に表現される。
その支出の期間による労働力の支出の尺度は、労働力の産物の価値の量の形をとる。
そして最後に、労働者の社会的性格が肯定している生産者の相互関係は、製品間の社会的関係の形を取る。

④段落ーーIn that world the productions of the human brain appear as independent beings endowed with life, and entering into relation both with one another and the human race.
So it is in the world of commodities with the products of men’s hands.
この世界では、人間の脳の生産物は、人生に恵まれた独立した存在として現れ、お互いと人間の両方に関係しているように見えます。
だから、人々の手の製品を持つーー商品世界にあるのです。
  <in the world of commodities  商品世界で>

A commodity is therefore a mysterious thing, simply because in it the social character of men’s labour appears to them as an objective character stamped upon the product of that labour;
because the relation of the producers to the sum total of their own labour is presented to them as a social relation, existing not between themselves, but between the products of their labour.
商品はそれゆえに神秘的なものです。なぜなら、その中に人々の労働の社会的性格が、その労働の産物に刻印された客観的な性格として現れるからです。
生産者と自らの労働の総量との関係は、自分自身の間ではなく、労働生産物の間に存在する社会関係として、彼らに提示されるからです。

This is the reason why the products of labour become commodities, social things whose qualities are at the same time perceptible and imperceptible by the senses.
これが、労働生産物が商品となり、その性質が感覚によっては知覚されながらも、同時に知覚できない社会的事物となる理由である。

In the same way the light from an object is perceived by us not as the subjective excitation of our optic nerve, but as the objective form of something outside the eye itself.
同じように、物体からの光は、視神経の主観的興奮としてではなく、目の外側の何かの客観的な形態として、我々によって知覚される。

But, in the act of seeing, there is at all events, an actual passage of light from one thing to another, from the external object to the eye. There is a physical relation between physical things.
しかし、見ることの行為の中には、ある事から別のものへの光の実際の通過が、外的な目的から目へ、事実上あります。物理的なものの間には物理的な関係があります。

But it is different with commodities.
しかし、それは商品では異なります。

There, the existence of the things quâ commodities, and the value relation between the products of labour which stamps them as commodities, have absolutely no connection with their physical properties and with the material relations arising therefrom.
そこには、物事の存在が商品を提供し、商品としての印をつけた労働生産物の間の価値関係は、その物理的性質およびそこから生ずる物質的関係とは全く関係していないからです。

There it is a definite social relation between men, that assumes, in their eyes, the fantastic form of a relation between things.
In order, therefore, to find an analogy, we must have recourse to the mist-enveloped regions of the religious world.
彼らの目には物事間の関係の素晴らしい形を前提とした、人間の間には明確な社会的関係があります。したがって、類推を見つけるためには、宗教界の霧に覆われた地域に頼る必要があります。

In that world the productions of the human brain appear as independent beings endowed with life, and entering into relation both with one another and the human race.
So it is in the world of commodities with the products of men’s hands.
(87)
This I call the Fetishism which attaches itself to the products of labour, so soon as they are produced as commodities, and which is therefore inseparable from the production of commodities.
その世界では、人間の脳の生産物は、人生に恵まれた独立した存在として現れ、お互いと人間の両方に関係しているように見えます。
だから、それが、人々の手の作品を持つ商品世界にあるのです。
(87)
これは私が、商品として生産されるとすぐに労働の製品に付随するフェティシズムと呼ばれ、したがって商品の生産とは切り離せないものです。


⑤This Fetishism of commodities has its origin, as the foregoing analysis has already shown, in the peculiar social character of the labour that produces them.
⑤この商品のフェティシズムは、先の分析がすでに示したように、それを生み出す労働の独特の社会的性格に由来する。

⑥ As a general rule, articles of utility become commodities, only because they are products of the labour of private individuals or groups of individuals who carry on their work independently of each other.
⑥一般的なルールとして、実用品は個人的な労働者や個人的に独立して働く個人の労働の産物であるため、商品になる。

The sum total of the labour of all these private individuals forms the aggregate labour of society.
Since the producers do not come into social contact with each other until they exchange their products, the specific social character of each producer’s labour does not show itself except in the act of exchange.
これらすべての私的個人の労働力の合計は、社会全体の労働力を形成する。
生産者は製品を交換するまで互いに社会的接触をしないので、各生産者の労働の具体的な社会的性格は交換の場合を除いては現れない。

In other words, the labour of the individual asserts itself as a part of the labour of society, only by means of the relations which the act of exchange establishes directly between the products, and indirectly, through them, between the producers.To the latter, therefore, the relations connecting the labour of one individual with that of the rest appear, not as direct social relations between individuals at work, but as what they really are, material relations between persons and social relations between things.

言い換えれば、個人の労働は、交換の行為が製品間で直接的に、間接的には生産者間で確立する関係によってのみ、社会の労働の一部として主張する。

したがって、後者には、ある個人の労働と他の人の労働を結びつける関係が、職場における個人間の直接的な社会関係としてではなく、実際のものとして、人と人との間の物質的関係と物事の間の社会的関係として現れる。

⑦  It is only by being exchanged that the products of labour acquire, as values, one uniform social status, distinct from their varied forms of existence as objects of utility.
This division of a product into a useful thing and a value becomes practically important, only when exchange has acquired such an extension that useful articles are produced for the purpose of being exchanged, and their character as values has therefore to be taken into account, beforehand, during production.
From this moment the labour of the individual producer acquires socially a two-fold character.
On the one hand, it must, as a definite useful kind of labour, satisfy a definite social want, and thus hold its place as part and parcel of the collective labour of all, as a branch of a social division of labour that has sprung up spontaneously.
On the other hand, it can satisfy the manifold wants of the individual producer himself, only in so far as the mutual exchangeability of all kinds of useful private labour is an established social fact, and therefore the private useful labour of each producer ranks on an equality with that of all others.(88)

⑦労働生産物は、実用対象としての多様な存在形態とは異なる、一様な価値としての社会的地位を獲得することで交換されることができる。

このような製品の有用物と価値への分割は、交換所での交換のために有用な物品を生産するような延長を生産中に得た場合にのみ、実質的に重要となり、その価値としての性格を予め考慮する必要となる。

この瞬間から、個々の生産者の労働は社会的に二重の性格を獲得する。
一方では、明確な有用な種類の労働として、明確な社会的欲求を満たさなければならず、その結果、すべての集団労働の一部として、その場所を、自発的に生まれた社会分業の枝として保持しなければならない。

他方では、それは個々のプロデューサー自身の多様な望みを満足させることができ、すべての種類の有用な民間労働者の相互交換可能性が確立された社会的事実である限り、したがって、各生産者の私的な有用労働は、他のすべての生産者のものと同等であるーーとランク付けしています。(88)

The equalisation of the most different kinds of labour can be the result only of an abstraction from their inequalities, or of reducing them to their common denominator, viz. expenditure of human labour power or human labour in the abstract.
The two-fold social character of the labour of the individual appears to him, when reflected in his brain, only under those forms which are impressed upon that labour in every-day practice by the exchange of products.
In this way, the character that his own labour possesses of being socially useful takes the form of the condition, that the product must be not only useful, but useful for others, and the social character that his particular labour has of being the equal of all other particular kinds of labour, takes the form that all the physically different articles that are the products of labour, have one common quality, viz., that of having value.
最も異なる種類の労働の同等化は、その不平等からの抽象化の結果のみであってもよく、あるいはそれらを共通の分母に減らすことであってもよい。それは、抽象的人間労働または人間の労働の支出である。

この個人の労働の2倍の社会的性格の表示は、彼の脳に反映されたときには、製品の交換によってーー毎日の繰り返される習慣のなかで、その労働に感銘を受けた形態の下でのみ現れる。

このように、自分の労働が社会的に有用であるという性質は、製品が有用であるだけでなく、他の人にとっても有用でなければならないという条件の形をとり、彼の特定の労働が 、労働の生産物である肉体的に異なるすべての物品がーーすべての他の特定の種類の労働と共通の品質、すなわち価値を有するものであるという形態をとっている。

⑧Hence, when we bring the products of our labour into relation with each other as values, it is not because we see in these articles the material receptacles of homogeneous human labour.
したがって、私たちが労働力の産物を価値としてお互いに関連づけると、これらの記事では均質な人為的労働の物質的な容器が見えるからではありません。

Quite the contrary:
whenever, by an exchange, we equate as values our different products, by that very act, we also equate, as human labour, the different kinds of labour expended upon them.
We are not aware of this, nevertheless we do it.[28独注27]
まったく逆。
交換によって、私たちが異なる製品を価値として評価するときは、まさしくその行為によって、人間の労働として、異なる種類の労働が支えられているとみなします。
私たちはこれに気づいていませんが、それでもやっています。[28独注27]

Value, therefore, does not stalk about with a label describing what it is.
It is value, rather, that converts every product into a social hieroglyphic.
したがって、価値は、それが何であるかを記述するラベルでぶつかることはありません。
むしろ、すべての製品を社会的象形文字に変換するのは価値です。

Later on, we try to decipher the hieroglyphic, to get behind the secret of our own social products;
for to stamp an object of utility as a value, is just as much a social product as language.
その後、私たちは自分たちの社会的製品の秘密を守るために、象形文字を解読しようとします。有用性のオブジェクトを価値としてスタンプするためには、言語と同様に、それは社会的産物である。

The recent scientific discovery, that the products of labour, so far as they are values, are but material expressions of the human labour spent in their production, marks, indeed, an epoch in the history of the development of the human race, but, by no means, dissipates the mist through which the social character of labour appears to us to be an objective character of the products themselves.
最近の科学的発見は、労働は、価値である限り、産出に費やされた労働の物質的表現であり、実際には人類の発展の歴史の時代を示すものであるが、決して、労働の社会的性格が私たちに見える霧を、製品そのものの客観的性質であるーーとはいえないように消散させるものではありません。

The fact, that in the particular form of production with which we are dealing, viz., the production of commodities, the specific social character of private labour carried on independently, consists in the equality of every kind of that labour, by virtue of its being human labour, which character, therefore, assumes in the product the form of value ? this fact appears to the producers, notwithstanding the discovery above referred to, to be just as real and final, as the fact, that, after the discovery by science of the component gases of air, the atmosphere itself remained unaltered.
私たちが扱っている特定の生産形態、すなわち商品の生産は、独立して運営されている私的労働の具体的な社会的性格は、その労働のあらゆる種類の平等の中にあり、それは人間の労働であることから、 それゆえ、この事実は、製品において価値形態を前提にしている - この事実は、上記の発見にもかかわらず、現実と同じように、生産者にも現れます。 空気の成分が、ガスの科学で解明されても、大気そのものは変わらないままであった、ようにです。

⑨What, first of all, practically concerns producers when they make an exchange, is the question, how much of some other product they get for their own?
In what proportions the products are exchangeable?
まず第一に、生産者が交換をする際に実質的に懸念すべきことは、彼らが自社のためにどれくらいの他の製品をどれだけ手に入れたのかということです。
どのような割合で製品は交換可能ですか?

When these proportions have, by custom, attained a certain stability, they appear to result from the nature of the products, so that, for instance, one ton of iron and two ounces of gold appear as naturally to be of equal value as a pound of gold and a pound of iron in spite of their different physical and chemical qualities appear to be of equal weight.
これらの比率は、習慣によってある種の安定性を達成したとき、製品の性質から生じるように見えるので、例えば、1トンの鉄と2オンスの金は自然に1ポンド異なる物理的および化学的性質にもかかわらず、金と鉄のポンドの重量が等しいと思われる。

The character of having value, when once impressed upon products, obtains fixity only by reason of their acting and re-acting upon each other as quantities of value.
価値を持つという性格は、製品に一度感銘を受けたときに、その行動の理由だけで固定性を獲得し、お互いに価値の量として再作用します。

These quantities vary continually, independently of the will, foresight and action of the producers.
To them, their own social action takes the form of the action of objects, which rule the producers instead of being ruled by them.
これらの量は、生産者の意志、先見性、行動とは無関係に、絶え間なく変化する。
彼らにとって、彼ら自身の社会的行動は、生産者を支配するのではなく、生産者を支配する物の行動という形をとっている。

It requires a fully developed production of commodities before, from accumulated experience alone, the scientific conviction springs up, that all the different kinds of private labour, which are carried on independently of each other, and yet as spontaneously developed branches of the social division of labour, are continually being reduced to the quantitative proportions in which society requires them.
それは、その前に商品の完全に開発された生産を必要とし、その蓄積された経験だけから、科学的な確信が湧き上がり、民間労働のすべての種類が独立して運営されていること、そして、お互いに、そして社会的分業の自発的に発達した枝として、社会が必要とする量的比率にまで、そこに対象化された労働が、継続的に縮小されつつあるーーことを示している。

And why?
なぜ?

Because, in the midst of all the accidental and ever fluctuating exchange relations between the products, the labour time socially necessary for their production forcibly asserts itself like an over-riding law of Nature.
なぜなら、製品間の偶発的かつ絶え間なく変動する交換関係のすべての中で、その生産に社会的に必要な労働時間は、自然の過大乗法のように強制的に主張するからです。

The law of gravity thus asserts itself when a house falls about our ears.[29]
したがって、重力の法則は、家が私たちの耳に当たったときにそれ自体を主張する。[29]

The determination of the magnitude of value by labour time is therefore a secret, hidden under the apparent fluctuations in the relative values of commodities.
したがって、労働時間による価値の大きさの決定は、商品の相対価値の見かけの変動の下に隠された秘密である。

Its discovery, while removing all appearance of mere accidentality from the determination of the magnitude of the values of products, yet in no way alters the mode in which that determination takes place.
その発見は、製品の価値の大きさの決定からの単なる事故のすべての出現を取り除いているにもかかわらず、その決定が行われる様式を変えるものではない。

⑩Man’s reflections on the forms of social life, and consequently, also, his scientific analysis of those forms, take a course directly opposite to that of their actual historical development.
⑩人間の社会生活様式への反映、ひいてはそれらの形式の科学的分析は、彼らの実際の歴史的発展とは正反対の道を歩む。

He begins, post festum, with the results of the process of development ready to hand before him.
The characters that stamp products as commodities, and whose establishment is a necessary preliminary to the circulation of commodities, have already acquired the stability of natural, self-understood forms of social life, before man seeks to decipher, not their historical character, for in his eyes they are immutable, but their meaning.
彼はフェスティバルの後に始まり、開発のプロセスの結果は彼の前に手渡す準備ができています。
商品を商品として刻印し、商品の流通に必要な準備である文字は、すでに人間が歴史的な性格ではなく解読を目指す前に、自然で自己理解型の社会生活の安定性を獲得している彼の目は不変ですが、その意味です。

Consequently it was the analysis of the prices of commodities that alone led to the determination of the magnitude of value, and it was the common expression of all commodities in money that alone led to the establishment of their characters as values.
商品価値の分析だけで価値の大きさの決定が導き出された、その結果です。それは金銭の中での表示であり、他のすべての商品の一般的な表現であり、それが、価値としての性格の確立につながった。

It is, however, just this ultimate money form of the world of commodities that actually conceals, instead of disclosing, the social character of private labour, and the social relations between the individual producers.
しかし、民間労働の社会的性格や個々の生産者間の社会関係を明らかにするのではなく、むしろ実際に隠すのは商品の世界のこの究極のお金の形態です。

When I state that coats or boots stand in a relation to linen, because it is the universal incarnation of abstract human labour, the absurdity of the statement is self-evident.
私がコートやブーツがリネンとの関係で立っていると述べると、それは抽象的な人間労働の普遍的な肉体化であるためーーこのステートメントの不合理は自明である。

Nevertheless, when the producers of coats and boots compare those articles with linen, or, what is the same thing, with gold or silver, as the universal equivalent, they express the relation between their own private labour and the collective labour of society in the same absurd form.
それにもかかわらず、コートやブーツの生産者が、これらの記事をリネンと比較すると、即ち、金や銀と同じものが普遍的な同等物であるーーと比較すると、彼ら自身の民間労働と社会的集団労働の関係が同じ不条理な形態で、そこにあるのです。

⑪The categories of bourgeois economy consist of such like forms.
They are forms of thought expressing with social validity the conditions and relations of a definite, historically determined mode of production, viz., the production of commodities.
The whole mystery of commodities, all the magic and necromancy that surrounds the products of labour as long as they take the form of commodities, vanishes therefore, so soon as we come to other forms of production.
ブルジョア経済学のカテゴリーは、そのような形態からなる。
彼らは社会的妥当性をもって、明確かつ歴史的に決定された生産方式、すなわちーー商品生産の条件とその関係を表現する思考の形態である。
なぜなら、商品の全体的な謎は、商品形態をとっている限り、労働の生産物を取り巻く魔法と、その魔法のすべてが、他の形態の生産になるとすぐに消えてしまうからです。


⑫・・・略
⑬・・・略
⑭・・・略
⑮・・・略

⑯The religious world is but the reflex of the real world.
And for a society based upon the production of commodities, in which the producers in general enter into social relations with one another by treating their products as commodities and values, whereby they reduce their individual private labour to the standard of homogeneous human labour ? for such a society, Christianity with its cultus of abstract man, more especially in its bourgeois developments, Protestantism, Deism, &c., is the most fitting form of religion.
⑯宗教の世界は、現実世界の反射です。
そして生産者が商品を商品や価値観として扱うことによってお互いに社会関係に入り、それによって彼らの個々の私的労働を均質な人間の労働の基準に減らす、商品の生産に基づく社会抽象的な人間の文化を持つキリスト教、より具体的には、ブルジョアの発展において、プロテスタント、デイズムなどは、最も適切な宗教形態である。

In the ancient Asiatic and other ancient modes of production, we find that the conversion of products into commodities, and therefore the conversion of men into producers of commodities, holds a subordinate place, which, however, increases in importance as the primitive communities approach nearer and nearer to their dissolution.
古代アジアや他の古代の生産方式では、商品の商品への変換、したがって商品の生産者への男性の変換は従属的な場所を占めるが、原始的なコミュニティが近づくにつれて重要性が増す彼らの解散に近い。

Trading nations, properly so called, exist in the ancient world only in its interstices, like the gods of Epicurus in the Intermundia, or like Jews in the pores of Polish society.
適切に呼ばれている貿易国は、インタームンディアのエピキュラスの神のように、あるいはポーランド社会の孔の中のユダヤ人のように、その隙間の中だけで古代の世界に存在する。

Those ancient social organisms of production are, as compared with bourgeois society, extremely simple and transparent.
ブルジョワ社会と比較して、古代社会の生産生物は非常に単純で透明です。

But they are founded either on the immature development of man individually, who has not yet severed the umbilical cord that unites him with his fellowmen in a primitive tribal community, or upon direct relations of subjection.
しかし、彼らは個々の未熟な発達に基づいて創始されていますが、未だに原始的な部族共同体で彼等の仲間と彼を結びつけている臍帯を切断していない人、または服従の直接の関係に基づいています。

They can arise and exist only when the development of the productive power of labour has not risen beyond a low stage, and when, therefore, the social relations within the sphere of material life, between man and man, and between man and Nature, are correspondingly narrow.
生産的な労働力の発達が低い段階を超えて上昇していないとき、そして物質生活の領域内、人間と人間の間、人間と自然との間の社会関係がそれに対応して狭い。

This narrowness is reflected in the ancient worship of Nature, and in the other elements of the popular religions.
この狭さは、古代の自然崇拝や一般的な宗教の他の要素に反映されています。

The religious reflex of the real world can, in any case, only then finally vanish, when the practical relations of every-day life offer to man none but perfectly intelligible and reasonable relations with regard to his fellowmen and to Nature.
現実世界の宗教的な反射は、いかなる場合にも、日々の生活の実用的な関係が、彼の仲間や自然に関して完全ではっきりしていて妥当な関係をなしてはならない時に、ついに消える。

⑰The life-process of society, which is based on the process of material production, does not strip off its mystical veil until it is treated as production by freely associated men, and is consciously regulated by them in accordance with a settled plan.
This, however, demands for society a certain material ground-work or set of conditions of existence which in their turn are the spontaneous product of a long and painful process of development.
⑰物質生産過程に基づく社会の生命過程は、自由に関連する男性の生産として扱われ、決済計画に従って意識的に規制されるまで、神秘的なベールを取り除かない。
しかし、これは、社会にとって一定の重要な基礎作業や存在条件のセットを要求し、それは長くて苦しい開発プロセスの自発的生産物である。

⑱ Political Economy has indeed analysed, however incompletely,[32] value and its magnitude, and has discovered what lies beneath these forms.
But it has never once asked the question why labour is represented by the value of its product and labour time by the magnitude of that value.[33]
These formulæ, which bear it stamped upon them in unmistakable letters that they belong to a state of society, in which the process of production has the mastery over man, instead of being controlled by him, such formulæ appear to the bourgeois intellect to be as much a self-evident necessity imposed by Nature as productive labour itself.
Hence forms of social production that preceded the bourgeois form, are treated by the bourgeoisie in much the same way as the Fathers of the Church treated pre-Christian religions.[34]
しかし、政治経済学は実際には価値とその大きさを不完全に分析しており、これらの形の下に何があるのかを発見した。
しかし、なぜ労働はその価値の大きさによって製品と労働時間の価値によって表されているのかという疑問を一度も聞いたことはありません。
これらの形式は、社会の状態に属していることが間違いなく手紙で刻印されています。生産のプロセスは、彼に支配されているのではなく、人間の熟練を持っています。

このような形式は、ブルジョアの知性に 自然が生産的労働そのものとして課した自明の必然性のように見えています。
したがって、ブルジョアの形態に先立つ社会的生産の形態は、教会の父親がキリスト教の前の宗教を扱ったのと同じように、ブルジョワジによって扱われる[34]。

⑲To what extent some economists are misled by the Fetishism inherent in commodities, or by the objective appearance of the social characteristics of labour, is shown, amongst other ways, by the dull and tedious quarrel over the part played by Nature in the formation of exchange value.
Since exchange value is a definite social manner of expressing the amount of labour bestowed upon an object, Nature has no more to do with it, than it has in fixing the course of exchange.
⑲一部のエコノミストは、商品に内在するフェティシズム、あるいは労働の社会的特性の客観的な出現によって、ある程度まで、エクスチェンジの形成においてネイチャーが果たしている部分についての、退屈で退屈な喧嘩が示されています。
交換価値は対象に与えられる労働の量を表現する明確な社会的な方法であるため、自然は交換の過程を修正するよりも、これ以上関係がありません。

⑳The mode of production in which the product takes the form of a commodity, or is produced directly for exchange, is the most general and most embryonic form of bourgeois production.
It therefore makes its appearance at an early date in history, though not in the same predominating and characteristic manner as now-a-days.
Hence its Fetish character is comparatively easy to be seen through.
But when we come to more concrete forms, even this appearance of simplicity vanishes.
Whence arose the illusions of the monetary system?
To it gold and silver, when serving as money, did not represent a social relation between producers, but were natural objects with strange social properties.
And modern economy, which looks down with such disdain on the monetary system, does not its superstition come out as clear as noon-day, whenever it treats of capital?
How long is it since economy discarded the physiocratic illusion, that rents grow out of the soil and not out of society?
⑳商品が商品の形を取ったり、交換のために直接生産される生産方式は、ブルジョア生産の最も一般的かつ初期の形態である。
したがって、それは歴史の早い時期に出現しますが、今の時代と同じ優位で特徴的な方法ではありません。
したがって、フェティッシュのキャラクターは比較的見やすいです。
しかし、より具体的な形になると、この単純さの外観さえも消えてしまいます。
いつから、金融システムの錯覚が起こったのですか?
それに金と銀は、お金として役立つときに、生産者の間の社会的関係を表すのではなく、奇妙な社会的性質を持つ自然の物体でした。
そして、金銭的なシステム上のそのような軽蔑を見下す現代経済学は、その迷信が、正義の日のように、それが資本を扱うときはいつも明らかにならないのですか?
それは、経済学が生理的錯覚を捨てて、家賃が社会の外ではなく土地から育ったからです。

But not to anticipate, we will content ourselves with yet another example relating to the commodity form.
Could commodities themselves speak, they would say:
Our use value may be a thing that interests men.
It is no part of us as objects.
What, however, does belong to us as objects, is our value.
Our natural intercourse as commodities proves it.
In the eyes of each other we are nothing but exchange values.
Now listen how those commodities speak through the mouth of the economist.
“Value”  (i.e., exchange value) “is a property of things, riches” (i.e., use value) “of man.
Value, in this sense, necessarily implies exchanges, riches do not.”[35独注34]
“Riches” (use value) “are the attribute of men, value is the attribute of commodities.
A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable...”
A pearl or a diamond is valuable as a pearl or a diamond.[36独注35]
しかし、予期せぬことに、我々は商品形態に関するさらに別の例を自分自身に満足させる。
商品自体は話すことができますが、彼らは言うでしょう:
私たちの使用価値は、男性に興味のあるものかもしれません。
それはオブジェクトとして私たちの一部ではありません。
しかし、オブジェクトとしての私たちのものは、私たちの価値です。
商品としての私たちの自然の性交はそれを証明します。
お互いの目の中で私たちは交換価値に過ぎません。
これらの商品がエコノミストの口を通じてどのように話すか聞いてみましょう。
「価値」(すなわち交換価値)は「物の特性であり、富」(すなわち、価値を使用する)」である。
この意味での価値は、必然的に交換を意味し、富はありません。」[35独注34]
"富"(使用価値) "は人間の属性、価値は商品の属性です。
人間やコミュニティは豊かで、真珠やダイヤモンドは貴重なものです...」
真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値があります。[36独注35]

So far no chemist has ever discovered exchange value either in a pearl or a diamond.
The economic discoverers of this chemical element, who by-the-bye lay special claim to critical acumen, find however that the use value of objects belongs to them independently of their material properties, while their value, on the other hand, forms a part of them as objects.
What confirms them in this view, is the peculiar circumstance that the use value of objects is realised without exchange, by means of a direct relation between the objects and man, while, on the other hand, their value is realised only by exchange, that is, by means of a social process.
Who fails here to call to mind our good friend, Dogberry, who informs neighbour Seacoal, that, “To be a well-favoured man is the gift of fortune;
but reading and writing comes by Nature.”[37]
今まで化学者は真珠やダイヤモンドの交換価値を発見していません。
重要な洞察力に特別な主張を置くこの化学的要素の経済的発見者は、しかし、対象物の使用価値は、その物的性質とは無関係に、その価値は、その一方で、 それらのオブジェクトのオブジェクトとして。
この見解では、オブジェクトの使用価値は、オブジェクトと人間との間の直接的な関係によって交換することなく実現されるという独特の状況である一方で、その価値は交換によってのみ実現され、 社会的な過程である。
隣人のシーコアールに知らせるドッグベリーの親友、「好都合な人になることは幸運の賜物です。
しかし、読書と執筆はネイチャーによって行われる」


       ぐーぐるほんやく
       https://translate.google.co.jp/?hl=ja
       再版
       http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

       初版ーー英訳
       https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

       『資本論』第一章「商品」のディアレクティーク  丹野, 正
       http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/949/1/AA11349190_9_1.pdf


 

価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月16日(土)14時39分27秒
返信・引用 編集済
  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はマダム・クィックリとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   Remember, however,that the goods have only objectivity,
   しかし、物品は客観性だけを持っていること、
   provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
   それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
   are that their value objectivity is therefore purely social,
   したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
   so of course,
   もちろん
   that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
   それは商品と商品との社会関係において,〈that it can only appear 〉唯一明示される
   ということです。、
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の明示〈現れーmanifestationー 明示, 表明;顕示、ー形態はないー〉に戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな使用価値の自然形態とは対照的な貨幣形態です。
Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。
namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、
that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。
The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値の関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。

   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。

  On this detour it is then said that weaving,
  if it weaves value,
  possesses the distinguishing features of tailoring,
  that is, abstractly human labor.

この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を織り成す言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>
   <商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、
   人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、
   社会的にのみ現れるーー価値対象性ー価値の客観性の差とは>

 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。
したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

   〈スカート(上着)は、(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味するーー〉

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」(「価値の保持者」岩波 「・・の担い手」新書版)であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。
  〈キャンバス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/キャンバス?
  キャンバス(英語: canvas)とは、帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて
  描かれる 支持体に使用される。 キャンバスは主に亜麻の繊維から作られるが、…〉

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(亜麻布・リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (= the value taking on the form of a skirt ーー)
  〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることで、彼女はリンネルの価値ある人に、
  なれたのです。
 〈「スカートの形を取る価値」 = AのためのBの体型を仮定し =土地の父親と変えることで
  = 個人Bに陛下として行動するーーと、
  だから、⑦「(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味する」、のです。〉

   この書き方は、フランス語版の次を、改善しているのであります、
「上着が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表すことができるのは、同時に価値が一着の上着の形態をとるかぎりでのことなのだ。」(フランス語版P22)

「同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしに・」(新書版P88)
  「同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなしに・・」(岩波文庫P96)

   “your majesty”  =   陛下<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・」
   --と示された、リンネルの社会的判断・反省規定が、
   <上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をかぶらせられた王に、
   <Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる>ことに、すり変えられ
   ているのです。ところが、手本のフランス語版の筈が、こうつずけたの
   です。
  「・・私人Aは、個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が、直接Aの容貌
   と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのです。」
       (仏語版P22)
   「 Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であ
   ることはできない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わな
   い限り、・・・」 英語版
   ーーこのように二つの訳ともにAが、陛下なのです。
 独
So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずには、個人Bに陛下として行動することはできない。

   このようにーー〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることーー
   との正解への誤解を克服せんとする意志は、明らかです。

     ここに、物象の判断が、〈スカートの形を取る価値〉としてあることで、
     スカートをリネンの価値形態として認め、そして、価値として認めたのです。〉

     しかし、次の英訳もあるのです。

  http://cscs.res.in/dataarchive/textfiles/textfile.2009-12-31.4124091050/file
  Chapter One: Commodities
 ⑧ー2 Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value. A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.

   ⑧-2コートの生産において、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。この面ではコートは価値のある
   保管庫ですが、スレッドには付けられていますが、この事実は見えません。
   そして、価値方程式の亜麻の同等物として、それだけでこの側面の下に存在し、
   それゆえ価値ある身体として具現化された価値として数えます。
   たとえば、Bの目の威厳がAの身体的な形をとっていない限り、さらには人の新
   しい父親と一緒に、その特徴、髪型、性格を変えない限り、AはBの「陛下」に
   なることはできません。他にもたくさんのものがあります。
      〈無いものーー
       彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバスは彼の中で
       部族関連の美しい価値魂を認めています。
        the value taking on the form of a skirt
       しかし、同時にスカートの形を取る価値がなければ、
       彼女は価値あるものではありません。〉
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と使用価値、有用な仕事と抽象的人間労
    働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

    ⑭自らの価値や自己の価値を表現することはできませんが、他の価値観や商品
    体系と即座に関連して価値観を提示することができます。それは、それ自体に
    含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態とし
    て、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。そのためには、それは同等の
    ものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。
    ⑮商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品
    に対してのみ存在します。
    単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみ
    を考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法律だけが見つかる。
    商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。
    ⑯しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、その価値の単純な表
    現は価値形態の謎であり[2]、それゆえ金銭的価値があることがわかる。[3]

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

        再版の9 10 11段落
 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。
使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。
値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。

⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。作品は、人間の労働力の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。その崇高な価値客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。ちなみに、その語りの言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品とを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>

⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.

             By means of the value relation, therefore,
    したがって、価値比 により  、
    the value form of the commodity A
    商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、
    the value level of the commodity A.
    または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)
    〈価値鏡 Value mirror Wertspiegel は無い。〉

    商品Aは、価値体としての商品Bを、人間の仕事の素材として、
    自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
    商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなしている。

   (価値体としての商品Bを、自分の価値表現の素材になる使用価値Bにする。)


  (18) In a certain way, man is like the commodity. Since he is born neither with a mirror nor as Fichte's philosopher: I am I, man first reflects himself in another human being. Only through the relationship to man Paul as his equals does Peter refer to himself as a human being. With this Paul also applies his skin and hair, in his Pauline corporeality, as manifestation of the human race.
(18)ある意味では、人は商品のようなものです。 彼はミラーでもフィッテの哲学者でも生まれていないので、私は自分自身を別の人間に最初に反映させます。 ピーターは人間としての彼の同等としてポールとの関係を介してのみ、彼自身を参照する。 このポールはまた、彼のポーランドの体系では、人類の徴候として、彼の肌と髪を適用します。

 〈商品ーーとしてのみリンネルは、上着との関係を介してのみ、彼自身を参照する、のです。
  商品ーーとしてのみリンネルは、使用価値であり、コートは価値形態であります。
  商品ーーこそが主語であります。〉
  〈 商品Aは、価値体としての商品Bを、----自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
  商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなす。
  それは、リンネルの価値形態である コートがあるーーことでなしうるのです。〉
 〈直ちに交換できる価値のかたまり(価値体)として通用するものーとは、ちがいます。〉



http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf
    商品および商品生産    大谷禎之介
 つまりここでは,毛皮も塩も,自分の価値を他の商品で表現しているの
である。この交換関係に含まれている価値表現(商品が行なう自分の価値
の表現)は次のとおりである(第23図)。

 〈第23図単純な交換関係に含まれている価値表現=価値形態〉
 〈図・
 この二つの価値表現は,形態から見ればまったく同一である。どちらの
商品にとっても,相手の商品が自己の価値表現の材料として役立ってい
る。自己の価値を表現する商品は,相手の商品を,自己に価値が等しいも
のとして置いているのであって,自己の価値を表現する商品にとって,こ
の相手の商品は等価物である。等価物は,自己の価値を表現している商品
の価値を見えるようにする鏡(価値鏡)として役立っており,またこの商
品にたいして価値のかたまり(価値体)として通用するもの,つまりそれ
と直ちに交換できるものとなっている。
 このように,ある一つの商品が他の一つの商品で自己の価値を表現して
いる形態を,その商品の単純な価値形態と呼び,また,ここで等価物とし
て役立っているのはただ一つの単独の商品なので,この等価物を単独な等
価物と呼ぶ(第24図)。
    〈P77ー78〉

 

 説得力の無い新自立支援法の中身

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 6月10日(日)18時55分5秒
返信・引用
   説得力の無い新自立支援法の中身
 これまで掲示板に載せたことは知事でも厚生労働省でも法務省でも質問すれはいい。面子にこだわってたかが障害者の一人として12年どこからも説明は来ない。知事は看板団体の暴走を隠すために暴走し、厚生労働省と法務省は法律らしいのが無かった頃の話でも違法とも呼べず面子から犠牲はどうでもと隠すことし早く言えば障害者一人より面子を選んだ。そして法務局には適当にあしらえとされたことは事実のように今は法務局さえ完全沈黙した。
 12年も説明無しの話を誰が信じますか。金がかかるため手紙で3年前から相談していました。来たのは知事に暴走目こぼし権なんて無いと言うのと和解の協力は出来ないと言うだけ。社会参加を全国の社協は完全参加平等と言います。差別、妨害は岩手だけです。掲示板は国内だけでなく外国にも流れ翻訳されるのもあります。世界中から非難や失笑に後ろ指が行きます。
 岩手は完全沈黙で告発は無理の上抹殺しか考えていない。ならば後は責任持てず後は野となれ山となれです。「復権と小笠原夫妻の通訳資格剥奪追放なら別」とし。全国の社協等の掲示板に出しましたが県庁も福祉課も岩手の社協も受信拒否。完全沈黙では効果ない。全国にしても岩手に問い合わせすれば説明抜き相手にするなしか来ないだろう。岩手に問い合わせするくらいなら説明求めればいいでしょう。人権を破壊した状態に説明より関わらせない。12年の圧力のまま厚生労働省は障害者の味方のはず。そんなに面子が大事ですか。
 12年も社会参加もさせず口封じから友達も全部取り上げた。
 それも自立支援法が復活したら差別も妨害もなりふり構わず露骨になった。と言うことは法律らしいのが無かったことを承知で暴走隠しを強行した。それより岩手の団体の暴走を叱りつけるべきでないか。団体優先にして隠した。結局はばれなければいいとろうあ協会会長の知恵遅れまで隠した。被害者が出た事を認めるのは恥ずべき事になり法務省も厚生労働省も認めるより面子から障害者の一人くらいと隠し続けた。全国の社協も疑問に写っている筈。一般もごまかした。誰もボランティアがそんなことするはずは無いと思うから隠しやすいと見た事になる。どう理屈をこねても人権を破壊されたことは事実で変わりは無い。
 情報センターは密告専門らしくビデオ貸し出しも拒否のままここだけ受信拒否しない。更生相談所も障害者の社会参加推進センターも一関の身障協も口封じに入会お断りのまま。法改正を発表しない限り無駄。必死に抵抗しても県庁から看板団体の暴走隠しに此方の社会参加妨害や誰一人関わらせず友達全部取り上げた。
 それが自立支援法が廃止になっていた頃で友の会を辞めたため暴走隠しに初めからの抹殺号令だった。こんな馬鹿なことやるより暴走団体を叱り付けるべきだった。既に障害者の一人くらいとしか見ていない。被害者がいるとなると完全沈黙で逃げるだけで面子優先にした。自立支援法廃止の意味を知っていたからこそ完全沈黙でガードしたことは初めから暴走しようと団体を守るためとして抹殺しか考えていなかったことになる。疎の為にかん口令で固めたのが始まり。復活したら露骨になった。今は復活でも法務省も厚生労働省も面子から動かない。法が変わっても公表出来ない有様で人権は破壊されたままです。
栃木との交流も全国大会も講演会も大阪との賛助会員も全部岩手に妨害され、通訳差別は社協の派遣通訳も要約筆記の会も盲ろう者友の会もいまだに説明しない。暴走目こぼしの特権の理由は無謀備法時代の法律を引きづったせいでとなるか。法の下に何人も平等だと言うのか。団体優先にしての暴走隠しでないか。完全沈黙は和解すより抹殺しか考えていにいことを示しています。

法務局は暴走目こぼし権なんか無いと言って現実は特権として認められていた事になります。法事国家にこんな法律があるとは。
   口封じから通訳さえ貸さないのを当たり前の差別するこんな社会と手を切り別の障害者の団体にばれないように行きます。
   ご迷惑かけました。

 元岩手県盲ろう会員松岡幹夫
 〒029-0303  岩手県一関市東山町松川字町裏の上38
 電話・ファクス 0191-48-2407(但し一人暮らしで電話は無理)
 eメール november@athena.ocn.ne.jp








 これまで掲示板に載せたことは知事でも厚生労働省でも法務省でも質問すれはいい。面子にこだわってたかが障害者の一人として12年どこからも説明は来ない。知事は看板団体の暴走を隠すために暴走し、厚生労働省と法務省は法律らしいのが無かった頃の話でも違法とも呼べず面子から犠牲はどうでもと隠すことし早く言えば障害者一人より面子を選んだ。そして法務局には適当にあしらえとされたことは事実のように今は法務局さえ完全沈黙した。
 12年も説明無しの話を誰が信じますか。金がかかるため手紙で3年前から相談していました。来たのは知事に暴走目こぼし権なんて無いと言うのと和解の協力は出来ないと言うだけ。社会参加を全国の社協は完全参加平等と言います。差別、妨害は岩手だけです。掲示板は国内だけでなく外国にも流れ翻訳されるのもあります。世界中から非難や失笑に後ろ指が行きます。
 岩手は完全沈黙で告発は無理の上抹殺しか考えていない。ならば後は責任持てず後は野となれ山となれです。「復権と小笠原夫妻の通訳資格剥奪追放なら別」とし。全国の社協等の掲示板に出しましたが県庁も福祉課も岩手の社協も受信拒否。完全沈黙では効果ない。全国にしても岩手に問い合わせすれば説明抜き相手にするなしか来ないだろう。岩手に問い合わせするくらいなら説明求めればいいでしょう。人権を破壊した状態に説明より関わらせない。12年の圧力のまま厚生労働省は障害者の味方のはず。そんなに面子が大事ですか。
 12年も社会参加もさせず口封じから友達も全部取り上げた。
 それも自立支援法が復活したら差別も妨害もなりふり構わず露骨になった。と言うことは法律らしいのが無かったことを承知で暴走隠しを強行した。それより岩手の団体の暴走を叱りつけるべきでないか。団体優先にして隠した。結局はばれなければいいとろうあ協会会長の知恵遅れまで隠した。被害者が出た事を認めるのは恥ずべき事になり法務省も厚生労働省も認めるより面子から障害者の一人くらいと隠し続けた。全国の社協も疑問に写っている筈。一般もごまかした。誰もボランティアがそんなことするはずは無いと思うから隠しやすいと見た事になる。どう理屈をこねても人権を破壊されたことは事実で変わりは無い。
 情報センターは密告専門らしくビデオ貸し出しも拒否のままここだけ受信拒否しない。更生相談所も障害者の社会参加推進センターも一関の身障協も口封じに入会お断りのまま。法改正を発表しない限り無駄。必死に抵抗しても県庁から看板団体の暴走隠しに此方の社会参加妨害や誰一人関わらせず友達全部取り上げた。
 それが自立支援法が廃止になっていた頃で友の会を辞めたため暴走隠しに初めからの抹殺号令だった。こんな馬鹿なことやるより暴走団体を叱り付けるべきだった。既に障害者の一人くらいとしか見ていない。被害者がいるとなると完全沈黙で逃げるだけで面子優先にした。自立支援法廃止の意味を知っていたからこそ完全沈黙でガードしたことは初めから暴走しようと団体を守るためとして抹殺しか考えていなかったことになる。疎の為にかん口令で固めたのが始まり。復活したら露骨になった。今は復活でも法務省も厚生労働省も面子から動かない。法が変わっても公表出来ない有様で人権は破壊されたままです。
栃木との交流も全国大会も講演会も大阪との賛助会員も全部岩手に妨害され、通訳差別は社協の派遣通訳も要約筆記の会も盲ろう者友の会もいまだに説明しない。暴走目こぼしの特権の理由は無謀備法時代の法律を引きづったせいでとなるか。法の下に何人も平等だと言うのか。団体優先にしての暴走隠しでないか。完全沈黙は和解すより抹殺しか考えていにいことを示しています。

法務局は暴走目こぼし権なんか無いと言って現実は特権として認められていた事になります。法事国家にこんな法律があるとは。
   口封じから通訳さえ貸さないのを当たり前の差別するこんな社会と手を切り別の障害者の団体にばれないように行きます。
   ご迷惑かけました。




 12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんが読み書き出来ない聾唖者の言うあいつの親父は馬鹿なのだ妥協しろと言うのを馬鹿らしいとして退会したのが始まりです。
 後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと宗教と回心を押しつけて行きました。こちらも聾唖者です。
 構わず別の団体に行こうとすると妨害が入りました。
 団体の暴走を叱りつけるべきが県庁は看板団体のためかん口令を敷いた。関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせない。社会参加は全部妨害しました。それが12年続き疲れはて2月和解求めても無視。和解は暴走がばれるだけになる。抹殺しか考えていない。
   最初の別団体は県難連(難病団体連合会)
 初めは更生相談所の相談員に相談しましたが忙しいというので手紙で交渉して内定する頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さん小笠原ひとみさんの悪口妨害が入り取り消しになった。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。大本家は今年96歳で法廷には立てないと言い、山形の姉が呼ばれ親父の墓の前であんな社会と関わるなと。
 県庁に抗議すると課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 12年妨害続き。4年前人権相談して盛岡地方法務局水沢支局と相談しています。法務省は法務局に話せとしか言わない。厚生労働省にしても完全沈黙で一言も答えない。たかが障害者の一人位適当にあしらえと法務省は法務局に話したのか今は法務局も完全沈黙しています。それにこちらも疲れもう諦めるしかないかとしての最後の挨拶みたいに全国の社協などに掛け合っているのです。
 知事に暴走特権があるのかと。復興が原因か、自立支援法が廃止になったのは13年前。友の会を辞めたのは12年前。そしとて差別、妨害が激しく露骨になったのは自立し運法が復活した頃からです。暴走が罵詈手市舞うことからなりふり構わなくなったのでないか。
 かん口令は初めから抹殺しか考えていない。誰一人と付き合えない12年の圧力です。
 自立支援法が廃止とになったことを悪用したようです。復活してしまうとあわてたことになります。
 聾唖者は通訳を見習って社会生活や常識を覚えていきます。それが相手が会長のため太鼓餅しておだてまくったことになります。友達になろうとしたが本人約束を守ることも詫びることもせず知らなかったと言えば正義になると言い張っています。
 厚生労働省も法務省も知らん顔で障害者の一人くらいとしか見ていない。自立支援法の廃止で犠牲者がでたことを恥て揉み潰し隠そうとしているのでないか。12年説明はどこからも来ていません。
   社会参加妨害は地元程度は別として口封じから11年で12回の妨害です。
 盲ろうで小脳萎縮の一人暮らし。ボランティアさえも圧力から誰も来ません。

。                                                          松岡幹夫

 

商品に提示された労働の二重性 と 価値形態論

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 9日(土)22時34分57秒
返信・引用 編集済
  ⑩ー10 簡単にするために、どんなタイプの労働もただちに〈労働〉であるとみなされ、還元の努力を節約する。

⑪だから、ロックやキャンバスの値がユーティリティの価値〈使用価値〉の違いから抽象化されているように、これらの値で提示されている作品、その有用な形態の違い、仕立てと製織からもそうです。 ロックとキャンバスの使用価値は、生地と糸との意図的で生産的な活動のつながりであるのと同じように、ロックやキャンバスの価値は単に類似の作業
であるため、これらの価値に含まれる作品は、布と糸、しかし労働力の支出だけの人間労働としてのみを表す。

これらの使用価値のロックとキャンバスの教えることは、非常に異なる性質によって、仕立てと製織--とされています。 スカート値の実体とキャンバスの価値は、それらの特定の品質から抽象化され、同じ品質を有する限り、人間の仕事の質に過ぎない。

これらの値に含まれる人間労働は、布や糸の使用において生産的であるとはみなされず、人間の労働者としての労働力支出としてのみである。

⑫しかし、岩とキャンバスは単なる価値ではなく、特定の大きさの価値であり、私たちの発想によれば、スカートはリネン10キュビットの2倍の価値があります。この違いはどこにあるのですか?したがって、キャンバスにはコートの半分しか含まれていないので、後者の生産のためには、労働力支出は前者の生産の2倍の時間を費やさなければならない。

⑬したがって、商品に含まれる作品が使用価値に関して質的に妥当である場合、それは価値に関して定量的にのみ適用され、既に何らかの品質をもたずに人間の労働に還元されている。そこには、仕事の方法と内容、その周りの時間、その期間が関係します。商品の価値はそれに含まれる作品の量子のみを表すので、ある割合の商品は常に等しい価値でなければならない。

⑭生産力が残っている場合、コートの製造に必要なすべての有用な作業を言うならば、スカートの価値はそれ自身の量と共に増加する。 1つのスカートx、2つのスカートが2 x就業日を表すなど。しかし、スカートを二重に製造するのに必要な作業を半減させるとします。最初のケースでは、スカートは2つのスカートと同じくらいの価値があります。後者の場合、2つのスカートは以前と同じくらいの価値がありますが、どちらの場合もスカートは同じサービスを実行しますが、それはグッドネスが残っている。しかし、その生産に費やされた仕事の量は変わった。

⑮より大きな量の使用価値は、それ自体でより大きな財産を形成し、2つ以上のスカートを形成する。 2つのスカートでは、1人でなく2人を服装することができます。それにもかかわらず、物質的財産の増加は同時に価値の低下に対応できます。

この対照的な動きは、仕事〈人間労働〉の2通り(以上)の解釈を許す性質から生み出されます。

生産力は、もちろん、常に有用で具体的な仕事の生産力であり、実際には一定期間における適切な生産活動の効率のみを決定します。

したがって、有益な仕事は、その生産力の上昇または下降に正比例してより豊かなまたはより貧しい製品供給源になる。 一方、生産力の変化は、<61>値で示された作業に影響を及ぼさない。 もちろん、生産力は具体的な有用な作業形態に属するので、具体的な有用な形から抽象化されるとすぐに作業に影響を及ぼすことはできません。

したがって、生産力がどのように変化しても、同じ労働は常に同じ時間内に同じ大きさの価値を与えます。

しかし、同じ期間に、生産力が増すにつれて、より多くのQuantaの使用価値をもたらします。

労働生産性を向上させる生産力の同じ変化、それによって供給される効用価値の量は、生産に必要な労働時間の合計を短くするならば、この増加した総量の価値を減少させる 。 同様に、逆も同様です。


 ⑯All labor is, on the one hand, the expenditure of human labor in the physiological sense,and in this capacity of equal human or abstract human labor, it constitutes the commodity value.
すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間の労働の支出であり、同じ抽象的な人間の労働の性質の上で、それは商品価値を構成する。

  〈「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、
   この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値
   を形成するのである。」岩波文庫〉


All labor, on the other hand, is an expenditure of human labor in a particular form, and in this capacity of concrete useful labor produces usefulness. (16)
一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用な労働は有用性を生む。 (16)


http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はマダム・クィックリとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。

Remember, however,
しかし、
that the goods have only objectivity,
物品は客観性だけを持っていること、
provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
are that their value objectivity is therefore purely social,
したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
so of course,
もちろん

that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
 それは商品と商品との社会関係においてのみ現れることができるということです。

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな使用価値の自然形態とは対照的な貨幣形態です。

Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。

namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、

that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。

The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値の関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。


   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>
   <商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、
   人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、
   社会的にのみ現れるーー価値対象性ー価値の客観性の差とは>

 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。
したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

   〈スカート(上着)は、(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味するーー〉

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」(「価値の保持者」岩波 「・・の担い手」新書版)であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。
  〈キャンバス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/キャンバス?
  キャンバス(英語: canvas)とは、帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて
  描かれる 支持体に使用される。 キャンバスは主に亜麻の繊維から作られるが、…〉

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(亜麻布・リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (= the value taking on the form of a skirt ーー)
  〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることで、彼女はリンネルの価値ある人に、
  なれたのです。
 〈「スカートの形を取る価値」 = AのためのBの体型を仮定し =土地の父親と変えることで
  = 個人Bに陛下として行動するーーと、
  だから、⑦「(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味する」、のです。〉

   この書き方は、フランス語版の次を、改善しているのであります、
「上着が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表すことができるのは、同時に価値が一着の上着の形態をとるかぎりでのことなのだ。」(フランス語版P22)

「同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしに・」(新書版P88)
  「同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなしに・・」(岩波文庫P96)

   “your majesty”  =   陛下<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・」
   --と示された、リンネルの社会的判断・反省規定が、
   <上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をかぶらせられた王に、
   <Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる>ことに、すり変えられ
   ているのです。ところが、手本のフランス語版の筈が、こうつずけたの
   です。
  「・・私人Aは、個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が、直接Aの容貌
   と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのです。」
       (仏語版P22)
   「 Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であ
   ることはできない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わな
   い限り、・・・」 英語版
   ーーこのように二つの訳ともにAが、陛下なのです。
 独
So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずには、個人Bに陛下として行動することはできない。

   このようにーー〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることーー
   との正解への誤解を克服せんとする意志は、明らかです。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と価値を使用し、有用な仕事と抽象的人
    間労働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

    ⑭自らの価値や自己の価値を表現することはできませんが、他の価値観や商品
    体系と即座に関連して価値観を提示することができます。それは、それ自体に
    含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態とし
    て、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。そのためには、それは同等の
    ものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

    ⑮商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品
    に対してのみ存在します。
    単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみ
    を考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法律だけが見つかる。
    商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。

    ⑯しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、その価値の単純な表
    現は価値形態の謎であり[2]、それゆえ金銭的価値があることがわかる。[3]

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

   ⑨ Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.

   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、
   コートは価値形態として機能します。
   コットンリネンの価値は、コモディティコートの
   身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
   によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.

   使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるも
   のです。
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの
   外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が
   神の子羊と似ているように、コートとの等しさによって
   明示されます。


     再版の9 10 11段落

 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。 使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。


⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。作品は、人間の労働力の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。その崇高な価値観 - 客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。ちなみに、その語りの言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品とを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>


⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.

    したがって、価値比 により  、
    the value form of the commodity A
    商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、
    the value level of the commodity A.
    または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)
    〈価値鏡 Value mirror Wertspiegel は無い。〉

    商品Aは、価値体としての商品Bを、人間の仕事の素材として、
    自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
    商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなしている。

   (価値体としての商品Bを、自分の価値表現の素材になる使用価値Bにする。)


     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(18) In a certain way, man is like the commodity. Since he is born neither with a mirror nor as Fichte's philosopher: I am I, man first reflects himself in another human being. Only through the relationship to man Paul as his equals does Peter refer to himself as a human being. With this Paul also applies his skin and hair, in his Pauline corporeality, as manifestation of the human race.
(18)ある意味では、人は商品のようなものです。 彼はミラーでもフィッテの哲学者でも生まれていないので、私は自分自身を別の人間に最初に反映させます。 ピーターは人間としての彼の同等としてポールとの関係を介してのみ、彼自身を参照する。 このポールはまた、彼のポーランドの体系では、人類の徴候として、彼の肌と髪を適用します。


 〈商品ーーとしてのみリンネルは、上着との関係を介してのみ、彼自身を参照する、のです。
  商品ーーとしてのみリンネルは、使用価値であり、コートは価値形態であります。
  商品ーーこそが主語であります。〉



 

Karl Marxによる価値観

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 9日(土)13時30分37秒
返信・引用 編集済
  Karl Marxによる価値観

  〈 Google 翻訳 translate.google.com 〉

カール・マルクスの作品1867 1867年
   第1版ドイツ版第1版バリュー・フォーム付録

発行:最初に1867年にドイツ語で出版され、1978年に英語で出版された。
出典:Capital and Class、No.4 Spring 1978、pp.130-150。
社会主義経済学者会議のおかげで、この翻訳を可能にするための資格とクラスの雑誌の出版社が利用できます。
翻訳された:Mike RothとWal Suchting;
転写:ポールハンプトン;
CopyLeft:クリエイティブ・コモンズ、属性&ShareAlike;
マークアップ:Andy Blundenによるマルクス主義インターネットアーカイブ

翻訳者の紹介、Mike Roth、W. Suchting

首都第1巻第1版には、「価値観」(Die Wertform)という付録(Anhang)が含まれています。これは第2版で取り下げられ、そのほとんどは第1章の書き直し版に取り入れられている。[1]

この付録の起源と性質はマルクスとエンゲルスの対応で解明されている。1867年6月、エンゲルスは最初の資本金のページ証明を読んでいました。1867年6月16日、彼はマルクスに次のように書いています。

「2番目のシートは、特にあなたの炭水化物の強い印を持っていますが、今は変更できません。補遺でそれ以上のことをする必要はないと思います。結局のところ、この文学はこのような抽象的な考え方には慣れておらず、価値ある形のためには頭脳をかわすことはない」(マルクスとエンゲルスの作品集、1987年、第42巻、p.381) a]

彼は後で続きます:

「これらのより抽象的な開発では、より多くの小さなセクションと見出しを分離することによって、思考の順序を明確にしないという大きな間違いを犯しました。あなたはヘーゲルの百科事典のやり方でこの部分を扱っていたに違いありません。短い段落と、特別な見出しで記されたすべての弁証法的な変遷と、可能な限りすべての抜粋と、特別な形で印刷された単なるイラストです。物事は教科書のように見えるだろうが、非常に大きなクラスの読者にとってははるかに分かりやすくなっていただろう。学んだセクションでさえ、人々はこのような考え方に慣れておらず、あらゆる可能な方法でそれを促進しなければならない」(Marx and Engels Collected Works、1987、42巻、p.382)

6月22日、マルクスはエンゲルスに答えました。彼は、「ブルジョワジーは、私のカルバンカルをすべての人生の中で覚えている」という希望を表明することから始まり、後に続く書簡で続けます。

「私が持っている価値観の発展については、この点でも弁証的に行動するためには、すなわち、私は:1.私はできるだけ単純かつ教育的に同じことを提示する付録を書いた。2.あなたの助言に従って、開発の各ステップを別々の見出しで§§などに分けた。序文で私は '非弁証的な'読者に、ページxyをスキップして、付録を読むべきだと伝えます。ここでは単にフィリスティンだけではなく、知識を求めている青少年などです。さらに、この問題は本全体にとって決定的すぎです。(マルクスとエンゲルスの作品集、1987年、42巻、p.385)

この付録には、マルクスの価値概念の非常に明確かつ簡潔な解説が含まれています。
実際、私たちが今持っているように、第1巻の第1章では、はるかに関与した展覧会には、より良い紹介はありません。MarxはCapital(1867)の第1版の序文で次のように述べています。「始まりはすべての科学において常に困難です。したがって、第1章の理解は...最も困難になるでしょう。(マルクスとエンゲルス収集作品、1996年、第35巻、p.7)。特に英語の文学では、これらの初期の微妙さをスキップする強い傾向が依然として存在する。これとは対照的に、学生運動の後、西ドイツの若いマルクス主義者はマルクスの分析全体を真剣に受け止めようとしている。言語障壁が存在しないため、Grundrisse、生産の即時プロセスの結果、Capitalの初版の結果、Adolph Wagnerの注記などの分析に含まれる分析の基本部分の追加バージョンの調査ドイツ語を知らない読者には最近閉鎖されていましたが、この作業の重要な部分でした。これはII Rubinの作品のような二次文献を読むことと結びついた。マルクスの経済学の歴史に関するVS Vygodskiiの著書、「The Discovery of Story of Great Discovery:Karl Marx How '首都 '、ローマ・ロスドルスキーの「メキシコのメキシコの首都」の中で最も重要なものであり、現時点では英語の翻訳にしか現れていない。ドイツでのマルクス研究の最近のルネサンスの結果は、これまで以上に多くの人や人が関わっており、その多くはまだ英語では入手できない資本主義社会の分析の中心的なトピックに関する文献が急増しています。これには、下記の参考文献に記載されている価値形態の分析を強調する作業が含まれます。

1976年にマルクスのバリュー・フォーム附属書を次のように翻訳したものが1976年に出版された。出版の完了と提出の後、アルバート・ドラグシュテット編集カール・マルクスによるバリュー:研究[b]。しかし、この出版された版の検討は、それがマルクスのテキストの非常に読みやすくも適切な描写でもないことを示した。(マルクスのテキストの26行は、大部分が非常に重要であり、予告なく省略されていることを指摘すれば十分だろう[2])。だから私たちは、以下の翻訳を一般に公開することが適切であると考えました。 Karl Marxによる


Value-Form 商品の分析は、それが二倍の価値価値と価値であることを示しています。

それゆえに、あるものが商品形態を保有するためには、それは二倍の形式、すなわち使用価値の形式と価値の形式を所有しなければならない。
使用価値の形態は、商品の身体自体、鉄、リネンなどの形であり、その有形で感覚的な存在形態です。これは商品の自然な形(Naturalform)です。
これとは対照的に、商品の価値形態(Wertform)は社会的形態である。

今、商品の価値はどのように表現されていますか?
したがって、それはどのようにして自分自身の外観の形を獲得するのですか?

異なる商品の関係を通じて。このような関係に含まれる形を正確に分析するためには、最も単純で未発達の形(ゲシュタルト)から進めなければなりません。商品の最も単純な関係は、どちらの商品であろうと、他の商品との関係であることは明らかです。

したがって、2つの商品の関係は、商品の最も単純な価値観を提供する。 I.シンプルなバリューフォーム 20ヤードのリネン= 1コート または 20ヤードのリネンは1コート の価値があります。

価値のフォーム全体(aller Wertform)の秘密は、この単純な価値観の中に隠されていなければなりません。したがって、その分析は本当の困難を提供します。

§1。価値観(Wertausdruck)の2つの極:

相対価値形式とそれに相当する形式 価値の単純な表現では、リネンとコートの2種類の商品は明らかに2つの異なる役割を果たします。リネンは、コートとは異なる商品の本体にその価値を表現する商品です。一方、コモディティタイプのコートは、価値を表現する素材となる。1つの商品はアクティブで、もう1つは受動的な役割を果たします。ここで、他の商品でその価値を表現している商品のことを言います。

その価値は相対価値として表されるか、相対価値形式になります。
これとは対照的に、我々は価値の表現の素材となる他の商品、ここではコートと言っています:それは最初の商品と同等に機能するか、同等の形態です。

事柄をより深く分析することなく、当初から以下の点が明らかである。

(a)二つの形式の不可分性。
相対価値形式とそれに相当する形式は、同じ価値観の瞬間であり、互いに属し、相互調整的であり、分離不可能である。

(b)2つの形態の極性。 一方で、これらの2つの形式は、同じ値の表現の極端な、すなわち極を互いに排除または反対にしている。彼らは常に価値の表現がお互いに関係している異なる商品に分散しています。

例えば、私はリネンの価値をリネンで表現することはできません。'20ヤードのリネン= 20ヤードのリネン 'は価値のある表現ではなく、単にリネンの使用目的の明確な量を表しています。したがって、リネンの価値は、他の商品(アンドレア・ウェア)においてのみ、すなわち相対的にしか表現できない。

したがって、リネンの相対価値形式は、他の商品が同等の形でそれに対峙していることを前提としている。

一方、この他の商品、ここでは、リネンに相当するものは、同等の形態であり、相対価値形態では同時に存在することはできません。この商品はその価値を表すものではありません。それは別の商品に価値の表現のための素材のみを提供します。

確かに「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という表現には、「1コート= 20ヤードのリネン」または「1コートは20ヤードのリネンの価値があります。しかし、これを行うには、相対的にコートの価値を表現するために、式を逆にしなければなりません。そしてこれを行うと、リネンはコートの代わりに等価になります。

 したがって、同じ商品は、両方の形式で同時に同じ価値観で出現することはできません。むしろ、これらは互いに極性的に排除される。 彼らが言葉になる前に 、リネン20ヤードは2コート(リネン= 2コート20ヤード)の 価値があるが、Bは応答する:1コートは価値があるリネン22ヤード(1コート=リネン22ヤード)。 最後に、彼らは長い時間を交渉した後、彼らは同意する: Aは言う:20ヤードのリネンは1コートの価値が あり、Bは言う:1コートは20ヤードのリネンの価値がある。

ここでは、リネンとコートの両方が、相対価値形式と同等の形で同時に存在します。

しかし、2人の異なる人と2つの異なった価値観のために、ただ同時に(Leben tretenの中で)同時に起こることはない。

彼のリネンは相対的な価値の形をしていますか?なぜなら、彼のためにイニシアチブは彼の商品から進んでいるからです。

他人の商品であるコートは同等の形態である。逆にBの立場から見ると、同じ商品は同じ場合でも同じ価値観で2つの形を所有することはありません。

(c)相対価値および同等価値は、価値の形式のみである。

相対価値と同等価値はどちらも商品価値の形式に過ぎない。
現在、商品が1つの形態であるか反対の極性であるかは、専ら価値の表現におけるその位置に依存する。これは私たちがここから始めようと考えている単純な価値観の形で著しく出てきます。コンテンツに関しては、二つの式: 麻の1. 20ヤード=リネンの1コートまたは20ヤード1つのコート価値がある、 2.1コート= 20リネンのヤードまたは1コートがリネンの20ヤード価値が 全くありません異なる。

フォームに関しては、それらは異なっているだけでなく反対している。
式1において、リネンの値は相対的に表されている。それゆえ、それは相対的な価値の形であり、同時に、コートの価値は等価で表される。したがって、それは同等の形である。

今度は式1を回すと式2が得られます。商品がポジションを変え、すぐにコートが相対価値式になり、リネンが同等の形になります。彼らは同じ価値観でそれぞれの立場を変えたので、価値観を変えました(Wertform gewechselt)。

§2。相対価値形式
(a)平等の関係。

その価値を表現するのはリネンなので、イニシアチブはそれから始まります。
それはコートとの関係、すなわちそれ自身とは異なる他の商品との関係に入ります。この関係は、均等化(Gleichsetz??ung)の関係である。「20ヤードのリネン= 1コート」という表現の根拠は、実際には:リネン=コートは、単に「商品タイプのコート」が同じ性質(ist gleicher Natur)であることを意味する物質を「リネン」、それとは異なる商品の一種と呼んでいます。私たちは、ほとんどの部分を見落としています。注意は定量的な関係、すなわちあるタイプの商品が他の商品と同等である明確な比率によって吸収されるためです。我々は、異なるものの大きさは、同じユニットに還元された後にのみ定量的に比較可能であることを忘れる。同じ単位の表記が同じ分母(グライクナージェー)の大きさであり、それゆえ相応します。上の表現では、リネンはそれ自身の種類のものとしてコートに関係しているか、コートは同じ物質のものとしてリネンに関連しています(本質的には同じです)(Wesensgleiches)。したがって、一方は他方に定量的に同等である。

(b)価値関係。

コートは、両方が値である限り、リネンと同じです。したがって、リネンは、それ自体の種類の何かに関するコートと関連しているか、同じ物質のものとしてのコートはリネンと同等であり、コートがこの関係において価値として数えるという事実を表す。後者が価値である限り、それはリネンと同等である。したがって、平等の関係は価値の関係であるが、価値の関係は、とりわけその価値を表現する商品の価値としての価値観の存在である。商品の使用価値または身体(Warenkörper)として、リネンはコートと区別されます。しかし、価値としてのその存在は、他の商品型、コートがそれと同等であるか、本質的に同じであるという関係で表現される。

(c)価値関係に含まれる相対価値形式の定性的内容(Gehalt)。

コートは、その生産において消費された人間の労働力の表現であり、それで抽象的な人間の労働のゼリーである限りにおいて、価値があるのですか?抽象化は抽象化がそれに含まれる労働者の明確で有益な具体的な性格、すなわち人間の労働力から行われるため、ここでは労働力は人間の労働力の支出としてしか考慮されないからです。したがって、リネンは価値のあるものとしてコートに関連付けることはできません。また、人間の労働に唯一の物質が含まれている身体として関連させることもありません。しかし価値として、このリネンはこの同じ人間の労働のゼリーです。この関係の中で、物としてのコート(Körper)は、リネン、すなわち人間の労働と共通する価値のある物質を表しています。この関係の中で、コートは価値観の形態としてのみ、したがってリネンの値の出現の合理的な形としてのリネンの価値形態としてもカウントされます。したがって、価値関係によって、商品の価値は別の商品の使用価値、すなわちそれとは異なる別の商品の本体で表されます。

(d)価値関係に含まれる相対的価値形態の量的限定性(Bestimmtheit)。

しかし、20ヤードのリネンは価値があるだけでなく、人間の労働のゼリーですが、一定の大きさの価値、すなわち明確な量の人間の労働が客観化されています。したがって、コートとリネンとの価値関係において、商品タイプのコートは、リネンと同様に身体的価値(Wertkörper)として、すなわち人間の労働の実施形態として量的に同等であるだけでなく、この身体的形態の一定量1衣服のように、20ヤードのリネンと同じくらい正確に人間の労働の価値のある物質が隠されている限り、1コート、1コート、1ダースなどである。

(e)全体としての相対的価値形態(Das Ganze der der Wertform)。

したがって、相対価値表現を通じて、商品の価値は、まず、自分の使用価値とは異なる形態を獲得する。この商品の使用形態は、例えばリネンである。しかしそれはコートとの平等の関係において価値観を持っています。この平等の関係を通じて、他の商品の身体は、それと賢明に異なって、価値(Wertsein)としての自分の存在の鏡となり、価値としての自分の性格(Wertgestalt)となる。このようにして、自然な形態とは異なる独立した別個の価値形態が得られます。しかし、第二に、一定の大きさの値として、それは定量的に明確な関係またはそれが他の商品の身体と同等である割合によって定量的に測定される。

§3。同等の形式
(a)即時交換可能な形式。
価値として、すべてのコモディティは、均等に数えられ、お互いに置き換えられるか、または置き換えられる、同じ単位の、人間の労働の表現です。したがって、商品は、価値として現れる形態を保有している限り、他の商品との交換が可能です。商品の身体は、即時型、すなわち身体または自然の形態であれば、直ちに別の商品と交換することができ、別の商品または価値形態(Wertgestalt)に関して価値を紹介する(vorstellt)。

この特性はコートとリネンとの価値関係において所有されている。さもなければ、リネンの価値はコートであるものでは表現できません。したがって、商品は全く同等の形をしており、まさにこれを意味します。価値表現におけるその場所を通して、それ自身の自然形態は、別の商品の価値形態としてカウントされるか、または別の商品との即時交換可能性の形態を有する。したがって、他の商品の価値として現れ、価値として数え、価値として行動するためには、直ちに自然な形とは異なる形をとる必要はありません(安心できる)。

(b)定量的な明確性は、同等の形態に含まれていない。
コートの形をしたものは、すぐにリネンと交換できますか、あるいは金の形をしたものはすぐに他のすべての商品と交換できますか?この物と同等の形は、量的な明確性を全く持たない。この ような表現の中では、例えば「コート」のように常にリネンの価値を表現するための材料である商品「コート」が常に定量的に明確であり、 「12コートではない」などですが、なぜですか?'20ヤードのリネン 'は値の相対価値表現で表されているだけでなく、同時に価値の一定量として測定されます。しかし、1コートは12コートではなく、20ヤードのリネンほど多くの労働力を含み、したがって20ヤードのリネンと同等であることは、商品タイプのコートのこの特性特性とはまったく無関係であり、商品タイプリネン。

第二に、「1コート」で「20ヤードのリネン」が一定の大きさの価値で表現されている場合、逆に「1コート」の価値の大きさも「リネン20ヤード」で表され、同様に定量的に測定されますコートが同等物の役割を果たすのではなく、むしろリネン中で相対的に自分の価値を表す限りでは、表現の逆転を通じて間接的にのみである。

第三に、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という表現を次のように表現することもできます: '20ヤードのリネンと1コートは同等か、マグニチュード '。 ここでは、2つの商品のどちらか一方の値を他方の値の使用価値に表記していません。したがって、2つの商品のどちらも同等の形態では設定されない。等価とはここでは大きさが等しいものを意味し、頭の中で黙って抽象化されたものだけを意味します。

(c)等価形の特異性(Eigentümlichkeiten)
a)等価形の最初の特異性:use-valueは、値の反対の形の形になります。

商品の自然な形が価値の形になります。しかし、この商品は、他の商品A(リネンなど)が入っている商品との価値関係の中でのみ、商品B(コートまたは小麦または鉄など)に対してのみ発生します。関係。それ自体では、孤立していると見なされますが、コートは、リネンと同じように、有用なもの、つまり使用価値に過ぎません。そのため、そのコートフォームは使用価値の形式にすぎません(Form von Gebrauchswert)明確なタイプの商品の自然な形。

しかし、商品はそれ自体に相当するものではなく、それゆえ自らの自然の秘密を独自の価値観で隠すことはできないので、他の商品と同等のものとしてそれを関連付けるか、形。 これは、身体としての商品の身体から、すなわち使用価値として推測される尺度の例で説明することができる。

シュガーローフ、ケアボディー(weilKörper)は重く、重量を持っていますが、見たり感じたりすることで、砂糖菓子の重さを伝えることはできません(man kann keinen Zuckerhut seine Schwere ansehn oderanfühlen)。今度は、あらかじめ体重を決めておいた様々な鉄片を取ります。体の形の鉄は、それ自体で考えても、砂糖塊のような外観の形をしています。しかし、砂糖塊を重量や重さとして表現するためには、鉄との重量関係に入れます。

この関係では、鉄は体重として扱われます。体重は重量と重さに過ぎません。したがって、鉄の量は砂糖の重量の尺度として役立ち、砂糖の体に関して、重さの形(ブレスSchweregestalt)、重さの外観の形を表すだけである。鉄は、砂糖、または体重が検出される他の身体が入る関係でのみ、この役割を果たす。両者は重いものではなかったので、この関係に入ることができなかったため、他方の重さの表現としては機能しませんでした。スケールパンに両方を投げた場合、実際には同じ重量のものであり、したがって同じ重量の一定の比率であることがわかります。

ここでのように、鉄の体は、砂糖菓子に関しては、単純に重さを表しています。したがって、価値の表現では、麻のことを単に表すだけの価値があります。

b)同等の形態の第二の特異性:具体的な労働は、反対の抽象的な人間の労働 の出現の形になる。

コートは、価値体としてのリネンの価値の表現において、したがって、価値体としてのその身体的な、つまり分化していないヒトの労働の実施形態として、そのようなヒトの労働(シュレフチン)を意味する。

しかし、コートである有益なものが作られ、それが明確な形をとる労働は、抽象的な人間の労働ではなく、人間の労働であるが、明確で有用で具体的な労働である。仕立ての労力 単純な相対価値形式は、商品、リネンなどの価値が、他の単一の商品タイプでのみ表されることを要求しています(erheischt)。しかし、他のタイプの商品は単純な価値観のためには全く無関係です。

コモディティタイプの「コート」の代わりに、リネンの価値は、小麦、小麦、鉄などで表現されていた可能性があります。コート、小麦、鉄のいずれの場合でも、リネンはリネンに関しては価値のあるボディーなので、それで人間の労働の実施形態として。すべての場合において、コートや小麦や鉄のいずれかの明確な身体的形態は、抽象的な人間の労働ではなく、明確で具体的な有用な労働形態であり、仕立てや農業、鉱業の労働である。

それゆえに価値の表現において、必然的に必然的に現実化または出現形式の明確な形、すなわち抽象的な人間の労働としてカウントされなければならない。コートは、例えば、人間の労働力が費やされているか、または抽象的であるかのように、仕立ての労働が明確な形態としてカウントされる限り、人間の労働が実現する。

値関係とそれに含まれる値式の中で、抽象的な一般的なものは、具体的なものではなく、現実的なものです。逆に、顕著に具体的なものは、単なる形の外観または抽象的な一般的な実現の明確な形態としてカウントされます。

例えば、同等の「コート」に隠れている仕立ての労働は、リネンの価値表現の中で、人間の労働でもあるという一般的な性質を有していない。それどころか。人間の労働であることは本質(ヴェーゼン)であり、仕立ての労力は外観(Erscheinungsform)の形、またはその本質の実現の明確な形としてのみカウントされます。
この製品は、分化していない人間の労働である限り、労働生産物に代表される労働者のみが価値を創出するため、不可避である。

したがって、製品の価値を客観化した労働は、別の製品の価値。

この逆転(Verkehrung)は、顕著に具体的に見えるのは、抽象的な一般的な外観の形でしかなく、逆にコンクリートの抽象的な一般的な性質ではなく、価値の表現である。

同時に、それはそれを理解することを困難にする。
私が言うなら、ローマ法とドイツ法はどちらも法律であり、それは明らかです。
しかし、もし私が言うなら:Law(Das Recht)、この抽象化(Abstraktum)は、ローマ法とドイツ法において、これらの具体的な法律において、相互関係が神秘的になっていることを実感します。

g)同等の形態の第三の特異性:私的労働はその反対の形態になり、直ちに社会的形態 の労働になる労働の生産物は商品にならず、独立した私的労働の製品は互いに独立して運ばれたものではない。これらの私的労働の社会的相互関係は、自然に進化した社会的分業の一員であり、したがって、その製品を通して、異種の欲求を満たし、その全体として(Gesamtheit)、同様に自然界に進化した社会的欲求(NaturwüchsigesSystem der GesellschaftlichenBedürfnisse)が構成されています。

しかし、互いに独立して運営されている私的労働のこの物質的な社会的相互接続は、仲介されているだけであり、したがって、彼らの製品の交換によってのみ実現される。

したがって、民間労働の製品は、価値形態を持ち、したがって他の労働生産物との交換可能性の形をとる限り、社会的形態をとっているだけである。

それは、それ自身の身体的または自然の形態が、同時に他の商品との交換可能性の形態であるか、または別の商品のための価値形態としての計数の形態である限り、直ちに社会的形態をとる(anderer Ware)。

しかし、これまで見てきたように、これは、他の商品との価値の関係を通じて、それが同等の形であるか、他の商品と比較して同等の役割を果たす場合にのみ、労働の生産のために行われる。

等価物は、他の商品との即時の交換可能性の形をとる限り、直ちに社会的形態を有し、他の商品を価値体とみなし、したがって同等(グライチェス)である限り、この形式の即時交換可能性を有する。

したがって、そこに含まれる明確な有用労働は、直ちに社会的形態、すなわち他の商品に含まれる労働と平等の形態を持つ労働としての労働としてもカウントされます。テーラリングの労働のような明確で具体的な労働は、異なる種類の商品、例えばリネンに含まれる異なるタイプの労働と平等の形態を唯一持てる。実際には、さまざまな種類の労働者の平等または労働者の平等を構成します。

しかし、彼らは、それが人類の抽象的な人間の労働、すなわち人間の労働力の支出といった人間の労働である限り、唯一のものである。したがって、すでに示されているように、明確な具体的な労働は抽象的な人間の労働の現実化または外観の明確な形態と同等の点数に含まれているため、他の労働との平等の形を保有しているため、それにもかかわらず、労働はすぐに社会的形態の労働である。このため正確に他の商品とすぐに交換できる商品で表現されています。

§§ bとgに示されている等価形の最後の2つの特質は、非常に多くの考え方や形のような価値形を初めて分析した偉大な理論家(Forscher)現代の後継者よりも幸いなことに、私はアリストテレスを意味しています。

アリストテレスは、商品の金銭的形態が、単純な価値観の形、すなわち他の商品の商品価値の表現の、より発展した形(ゲシュタルト)に過ぎないという事実を最初に明確に定式化している。

「5ベッド= 1ハウス」(クリナイ・ペンテ・アンチ・オイアシ) は、 「5ベッド=そのような金額」とは「違いはありません」と述べています 。

この価値観が隠されている関係は、家が質的に寝床と同等であるという事実を決定し、これらの賢明に異なるものは、そのような本質的な平等がなければ、相応の大きさとして互いに関連付けることができない彼は、「交換」は、「平等がなければ実現できず、同等性は相応性なしには起こり得ない」と述べている。
(アウトisothςmhoushςsummetriaς)。

しかし、これで彼は短期間で引き上げ、価値の形態の分析をやめています。

「しかし、それは事実上不可能です。この均等化は物事の本当の性質とは異質なものに過ぎず、それゆえに「実用的な目的のための一時的な変更」に過ぎない。

[c] Aristotleは、彼のさらなる分析が難破船に苦しんでいる場所、すなわち価値観の欠如について、私たち自身に語っています。ベッドの価値を表現するために家がベッドを表現する、等しい、つまり共通の物質は何ですか?

そのようなことは「真実ではあり得ない」とアリストテレスは言う。
どうして?ベッドに関しては、家はベッドと家の両方が本当に平等である限り、平等なものを表します(グリーチェ・ヴォール)。そしてそれは何ですか?人間の労働。

しかし、商品価値の形で、すべての労働は平等な人間の労働として表現され、それゆえアリストテレスによる商品の価値形態から平等に計数されているという事実は、ギリシャ社会が奴隷労働に頼っていたためそれゆえに自然な基礎としての人々とその労働の不平等を持っていました。

価値の表現の秘密、すべての労働者の平等、すべての労働者が人間の労働である限り同じ労働者であるという事実は、人間の平等の概念が既に民衆の偏見の固定性を持っている場合にのみ解読することができます。しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがって商品の所有者としての人々の関係が支配的な社会関係である社会においてのみ可能である。アリストテレスの天才は、商品の価値の表現に平等の関係を発見したという事実に正確に映っています。

彼が住んでいた社会の歴史的な限界だけが、「真実で」、この平等の関係が何であるかを知ることができなくなる 。

d)同等の形態の第四の特異性:
商品形態のフェチシズムは、相対的価値観よりも同等の形態 労働の産物であるという事実は?コート、リネン、小麦、鉄などの有用なものはありますか?

値であり、価値の明確な大きさであり、一般的な商品であり、当然のことながら、私たちの実用的な相互関係(unsrem Verkehrにおける)においてのみ、それらに自然に関連する特性であり、例えば、重くまたは暖かく、しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、これらは物として互いに関係しています。彼らは価値であり、価値の大きさとして測定可能であり、価値であるという共通の性質は、それらを互いに価値観の関係に置く。例えば、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という事実は、以下の事実を表すに過ぎない: 1.これらの物の生産に必要な異なる種類の労働は、 (gleichgelten)人間の労働として; 2.生産に費やされる労働の量が明確な社会的法律に従って測定されていること。 3.テイラーとウィーバーが生産の明確な社会関係に入ること。

それは、生産者の明確な社会的関係であり、彼らは異なる種類の労働を人間の労働と同等(同性愛者)とみなしている。それは生産者の明確な社会的関係ではなく、人間の労働力の支出の期間によって労働の規模を測定する。

しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、自分たちの労働の社会的性格は、本質的にそれらに関係する社会的特性、労働生産物の客観的決定(Bestimmungen)、労働者の労働の平等社会的に必要な労働時間による労働の尺度、労働生産力の価値としての労働尺度、

最終的に労働者による生産者の社会関係は、これらの価値観や社会的関係として現れる、労働の製品。まさにこのために、労働の産物は、商品、賢明な超越的な(sinnlichübersinnliche)社会的なものとして現れる。したがって、何かからの光(Lichteindruck auf den Sehnerv)によってもたらされた視神経に対する印象は、視神経そのものの主観的刺激としてではなく、目の外のものの客観的形態として表される。

しかし、見ることの場合、物からの光は、外部の物体から、実際に別のもの、目に投げられる。それは物理的なものの間の物理的な関係です。商品形態と労働生産物の価値観とは、物理的性質やこれから生じる物事の関係とはまったく関係がない。それはここでは物事の関係の想像的な形をとっているのは、人々の明確な社会的関係(der Menschen)だけです。

したがって、これを類推するためには、宗教界の曇った地域へ飛行しなければなりません。ここでは、人間の頭の製品は、自分自身の人生と他人や人との関係に立つ独立した人物(ゲシュタルテン)として現れます。だから人間の手の製品を持つ商品の世界にあるのです。これは、商品として生産され、商品の生産と切り離せないとすぐに、労働の産物に固執するフェチシズムと呼ばれています。

今、このフェティッシュ・キャラクターは、相対的価値観よりも同等の形でより顕著に現れます。商品の相対的価値形態は、すなわち別の商品との関係によって媒介される。この価値観を通じて、商品の価値は、自分の賢明な存在とは全く別のものとして表現されます。

それと同時に、価値(Wertsein)としての存在は、物そのものとは異質な関係であり、したがって、他の物との価値観は、その背後に隠れている社会的関係の出現の形にしかならないということに固有である。

これとは逆の形。それは、商品の身体的または自然の形態が、他の商品の価値形態として、社会的形態として即座にカウントされるという事実に正確に含まれる。

したがって、私たちの実践的な相互関係の中では、同等の形を持つことは、物事の社会的自然的性質(生態??学的性質)として現れるのであり、それゆえ、それは感覚のために存在します(したがって、sinnlich da istです)。

しかし、商品Aの価値表現の中では、同等の形は本質的に商品Bに関係するので、この関係の外に本質的に後者に属しているようにも見える。したがって、例えば、他の自然の性質、その色、比重、空気中での非酸化性などを除いて、本質的に金の謎(dasRätselhafte)他のすべての商品と即座に交換できる社会的な質を提供します。

§4。値が独立して出現するとすぐに、それは交換価値
 

商品に提示された仕事の二重性

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 5日(火)04時11分47秒
返信・引用 編集済
  2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit

2Double character of the work presented in the goods
 商品に提示された仕事の二重性

 ①   ambiguous 形容詞
   2通り(以上)の解釈を許す ⑮

もともと、商品はZwieschlächtigesとして私たちに登場し、価値と交換価値を使用していました。 後に、価値あるものとして表現されている限り、仕事はもはや使用価値の生産と同じ特徴をもたないことが明らかになりました。 この商品に含まれる作品の2通りの解釈を許すこの性質は、まず私によって批判的に証明されました。 (12)ここでは、政治経済の理解を中心とした飛び跳ね点であるので、ここで詳しく検討する。

 ② 10 cubits of linen = W, the skirt = 2 W.
スカートとリネンのキュビ10キュビトのように、二つの商品を取る。 最初のものは後者の2倍の値を持つので、リネン= 10キュビットの場合、スカートは2Wです。

 ③スカートは特別な必要性を満たす使用価値です。 それを生産するには、ある種の生産的な活動が必要です。 それはその目的、動作モード、目的、手段および結果によって決定される。 その有用性がその製品の使用価値にある、またはその製品が使用価値であるという事実にある作品は、短い有益な仕事と呼ばれます。 この観点からは、常にその有用性の観点から考えられます。

 ④ロックとキャンバスのように定性的に異なる値を使用するので、その存在を媒介する作業は仕立てと製織の質的に異なります。 これらのことが質的に異なる価値を使用していないため、質的に異なる有用な仕事の製品でなければ、彼らは商品として自分自身に直面することはできません。 ロックはスカートと交換されず、同じ使用価値は同じユーティリティ値と比較されません。

 ⑤さまざまな有用性の価値や商品の総体では、属、種、家族、亜種、様々な有用な作品の多様性、すなわち社会的な分業に応じて、全体として多様性が現れています。 商品生産は、逆に、社会分業の実在的条件ではないが、商品生産の実在的条件である。 古代インドのコミュニティでは、商品は商品にならずに社会的に共有されています。 あるいは、より明白な例としては、すべての工場で作業が体系的に分かれていますが、この部門は個々の製品を交換する労働者によって媒介されるものではありません。 独立した民間の作品の商品だけが商品として互いに反対立している。

 ⑥したがって、すべての商品の使用価値には、一定の便宜的な生産的活動または有用な作業があることがわかっている。 質的に異なる有用な作業が関与していない限り、使用価値は商品としてはみなされません。 商品が一般的に商品の形を取る社会では、 商品生産者の社会では、独立した生産者の民間企業として独立して運営されている有益な作品の質的差異が、社会単位の分業体系に発展している。

⑦ちなみに、スカートには、テーラーまたはテーラーのクライアントが着用するかどうかは関係ありません。 どちらの場合も、それは使用値として機能します。 また、ロックとそれを作り出す作品との関係も、仕立てが社会的分業の独立したメンバーである特別職になるという事実によって変わっていません。 衣服の必要性が彼を強要したところでは、人はテーラーになる前に何千年も作っています。 しかし、ロック、キャンバス、自然に存在しない物質的富の要素は、特定の天然物質を特定の人間の必要性に同化させる特別な、意図的に生産的な活動によって常に媒介されなければならない。 実用価値の教育者として、有用な仕事の教師として、仕事は人間と自然の間の代謝、すなわち人間の生活を伝えるために、社会のあらゆる形態から人間の独立した状態、すなわち永遠の自然の必要条件です。

⑧ユーティリティは、ロック、キャンバスなどの商品を短期間で評価し、2つの要素の化合物、天然素材と仕事を評価します。 岩やキャンバスなどの様々な有益な作品の合計を引くと、人間の介入なしに自然に存在する物質基層が常に残っています。 人は自然の中で自分の生産だけを進めることができます。 物質の形を変えるだけです。 (13)さらに。 この形成自体の仕事では、それは常に自然の力によって支えられています。 だから、仕事はそれが生産する実用価値の唯一の源ではなく、物質的富の源でもありません。 ウィリアム・ペティ(William Petty)が言うように、その作品は彼の父親であり、地球は彼の母親である。

 ⑨We now go from the commodity, as far as commodity, over to the goods value.
 ⑨今から商品から出て、商品としては、商品価値まで

⑩ー1 私たちの前提によると、岩石はキャンバスの価値の2倍の価値があります。 しかし、これは単に我々がまだ興味を持っていない量的な違いです。 したがって、コートの価値は、キャンバス10キュビット、リネン20キュビットの2倍であり、コートと同じ価値サイズです。

⑩ー2 価値としては、岩とキャンバスは同じようなもの、同じような仕事の客観的表現です。 しかし仕立てと製織は質的に異なる作品です。

⑩ー3 しかし、同じ人間が交互に〈テーラーと織り〉とを交ぜた社会の状態があるため、これらの2つの異なる作業モードは、同じ個体の仕事の変更であり、テーラーが作るスカートのように、 今日、そして彼が明日行っているズボンは、同じ個人の仕事のバリエーションだけを前提としています。

⑩ー4 しかし仕立てと製織は質的に異なる作品です。 しかし、同じ人間が交互にテーラーと織り交ぜた社会の状態があるため、これらの2つの異なる作業モードは、同じ個体の仕事の変更であり、テーラーが作るスカートのように、 今日、そして彼が明日行っているズボンは、同じ個人の仕事のバリエーションだけを前提としています。

⑩ー5 また、私たちの資本主義社会では、労働需要の変化する方向に応じて、特定の部分の人的労働が裁縫の形で、または織りの形で交互に供給されることも示されています。

⑩ー6 この仕事の形態の変化は、摩擦がないわけではないかもしれないが、彼は行かなければならない。 我々が生産的活動の確実性、したがって労働の有用な性質を無視すれば、それは人間の労働の支出であるということが変わらない。 質的に異なる生産活動にもかかわらず、裁縫や製織は、人間の脳、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、この意味では人道的労働である。 過ごす人材は2つだけです。

⑩ー7 しかし、人間の労働力そのものは、ある形か別の形で多かれ少なかれ発展しなければならない。 しかし、商品の価値は、人間の労働力の卓越性、一般的な人間の労働の支出を表しています。 市民社会が大きな役割を果たしているように、人間が非常に恥ずかしい役割を果たすように(14)、人間の労働もそうである。

⑩ー8 平均的に、普通の人間は、特別な開発をせずに、彼の肉体に持っている単純な労働力の支出です。 単純な平均的な仕事そのものは、異なる国や文化の時代の中でその性格を変えますが、既存の社会に与えられています。 より複雑な作業は、逓倍された、または倍増された単純な作業としか考えられていないため、複雑な作業のより小さな量子は、単純な作業のより大きい量子に等しくなります。 この削減が絶え間なく進行していることは、経験によって示されています。 商品は最も複雑な仕事の産物であり、その価値は単純労働の産物と同等であり、それゆえにそれ自体が一定量の単純労働のみを表している。 (15)

⑩ー9 異なる種類の仕事がその単位として単純労働に還元される異なる比率は、生産者の背後にある社会的プロセスによって固定され、したがって伝統によってそれらに現れる。

⑩ー10 簡単にするために、どんなタイプの労働もただちに〈労働〉であるとみなされ、還元の努力を節約する。

⑪だから、ロックやキャンバスの値がユーティリティの価値〈使用価値〉の違いから抽象化されているように、これらの値で提示されている作品、その有用な形態の違い、仕立てと製織からもそうです。 ロックとキャンバスの使用価値は、生地と糸との意図的で生産的な活動のつながりであるのと同じように、ロックやキャンバスの価値は単に類似の作業
であるため、これらの価値に含まれる作品は、布と糸、しかし労働力の支出だけの人間労働としてのみを表す。

これらの使用価値のロックとキャンバスの教えることは、非常に異なる性質によって、仕立てと製織--とされています。 スカート値の実体とキャンバスの価値は、それらの特定の品質から抽象化され、同じ品質を有する限り、人間の仕事の質に過ぎない。

これらの値に含まれる人間労働は、布や糸の使用において生産的であるとはみなされず、人間の労働者としての労働力支出としてのみである。

⑫しかし、岩とキャンバスは単なる価値ではなく、特定の大きさの価値であり、私たちの発想によれば、スカートはリネン10キュビットの2倍の価値があります。この違いはどこにあるのですか?したがって、キャンバスにはコートの半分しか含まれていないので、後者の生産のためには、労働力支出は前者の生産の2倍の時間を費やさなければならない。

⑬したがって、商品に含まれる作品が使用価値に関して質的に妥当である場合、それは価値に関して定量的にのみ適用され、既に何らかの品質をもたずに人間の労働に還元されている。そこには、仕事の方法と内容、その周りの時間、その期間が関係します。商品の価値はそれに含まれる作品の量子のみを表すので、ある割合の商品は常に等しい価値でなければならない。

⑭生産力が残っている場合、コートの製造に必要なすべての有用な作業を言うならば、スカートの価値はそれ自身の量と共に増加する。 1つのスカートx、2つのスカートが2 x就業日を表すなど。しかし、スカートを二重に製造するのに必要な作業を半減させるとします。最初のケースでは、スカートは2つのスカートと同じくらいの価値があります。後者の場合、2つのスカートは以前と同じくらいの価値がありますが、どちらの場合もスカートは同じサービスを実行しますが、それはグッドネスが残っている。しかし、その生産に費やされた仕事の量は変わった。

⑮より大きな量の使用価値は、それ自体でより大きな財産を形成し、2つ以上のスカートを形成する。 2つのスカートでは、1人でなく2人を服装することができます。それにもかかわらず、物質的財産の増加は同時に価値の低下に対応できます。

この対照的な動きは、仕事〈人間労働〉の2通り(以上)の解釈を許す性質から生み出されます。

   あいまいな性格からーーではなく
   ambiguous
   形容詞
   2通り(以上)の解釈を許す

   character
   名 詞
   1C 通例単数形(人の)(他と異なる)個性, 性質, 性格,
   気質;U特徴
   the American character|アメリカ人気質

生産力は、もちろん、常に有用で具体的な仕事の生産力であり、実際には一定期間における適切な生産活動の効率のみを決定します。

したがって、有益な仕事は、その生産力の上昇または下降に正比例してより豊かなまたはより貧しい製品供給源になる。 一方、生産力の変化は、<61>値で示された作業に影響を及ぼさない。 もちろん、生産力は具体的な有用な作業形態に属するので、具体的な有用な形から抽象化されるとすぐに作業に影響を及ぼすことはできません。

したがって、生産力がどのように変化しても、同じ労働は常に同じ時間内に同じ大きさの価値を与えます。

しかし、同じ期間に、生産力が増すにつれて、より多くのQuantaの使用価値をもたらします。

労働生産性を向上させる生産力の同じ変化、それによって供給される効用価値の量は、生産に必要な労働時間の合計を短くするならば、この増加した総量の価値を減少させる 。 同様に、逆も同様です。

 ⑯すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間の労働の支出であり、人間または人間の平等な人間の労働力のこの能力において、それは商品価値を構成する。一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用な労働は有用性を生む。 (16)

http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はウィティッブ・ハーティグとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

Remember, however,
しかし、
that the goods have only objectivity,
物品は客観性だけを持っていること、
provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
are that their value objectivity is therefore purely social,
したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
so of course,
もちろん

that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
 それは商品と商品との社会関係においてのみ現れることができるということです。

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.
We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値観を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな自然な形の使用価値とは対照的です。

Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。

?namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、

that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。

The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。


   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥・・・
 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。

したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (「スカートの形を取る価値」= taking on the form of a skirt
   で、彼女リンネルは価値あるものと判断される )
  ( the same time  =  文字通り )
   “your majesty”  =   陛下

 So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずに個人Bに威厳として行動することはできない。

<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、リンネル自身が、この価値関係により
   反省規定することが、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・・」
   --と示されたことが、<上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をか
   ぶらせられた王に、<Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること>に、
   すり替えられたのではなかろうか?

 〈英語版資本論〉
A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.
Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であることはできない、
同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

⑧In the production of the coat, human labour
power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.

In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.

    ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が
    実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
   〈 but though 「正しいー間違い」では無くーー〉
   この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を
   示すが、この事実は見えません

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.

   そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけで
   この側面の下に存在し、それゆえ価値体として
   具体化された価値として数えます。

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.

   Aは、たとえば、B にとっての「陛下」であることは
   できない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形
   を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべて
   の新しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほ
   かのものをその上に装わない限り

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と価値を使用し、有用な仕事と抽象的人
    間労働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     再版の9段落

 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。 使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

   ⑨ Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.

   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、
   コートは価値形態として機能します。
   コットンリネンの価値は、コモディティコートの
   身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
   によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.

   使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるも
   のです。
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの
   外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
  それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が
  神の子羊と似ているように、コートとの等しさによって
  明示されます。



 http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

<63>
A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform

x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform

Das Geheimnis aller Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.

2. Die relative Wertform
a) Gehalt der relativen Wertform

 ① Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten. Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten. Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)

 ② Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.

 ③ Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares". In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich. So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.

 ④ Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.

 ⑤ Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).

 ⑥ Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük- <66> ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.

 ⑦ Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.

 ⑧ In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft. Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper. Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

 ⑨ Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.

 ⑩ Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand. Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten. Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>

 ⑪ Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.

b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform




 

商品

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 1日(金)11時19分25秒
返信・引用 編集済
    https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
   グーグル英和訳ソフト Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja

  商品
これは、最初のドイツ語版のCapitalの第1章Albert Dragstedtによる英訳です。現代版のCapitalは、第2版以降の第1章を持っています。
出典:Albert Dragstedt、Value:Studies by Karl Marx、New Park Publications、London、1976、pp。7-40。
転写される:Steve Palmer。
資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。
   ーーー中略ーーー
32 It follows from the preceding not that there are two differing kinds of labour lurking in the commodity, but rather that the same labour is specified in differing and even contradictory manner ? in accordance with whether it is related to the use-value of the commodity as labour’s product or related to the commodity-value as its merely objective expression. Just as the commodity must be above all else an object of use in order to be a value, just so does labour have to be before all else useful labour ? purposeful, productive activity ? in order to count as expenditure of human labour-power and hence as simple human labour.

32 前項から、コモディティには2種類の異なる労働が潜んでいるが、コモディティの使用価値に関連しているかどうかに応じて、同じ労働が異なる、さらには矛盾する方法で規定されている 労働の製品として、あるいは単なる客観的な表現としての商品価値に関連している。
商品が価値あるものであるためには他のすべての目的に使用されなければならないのと同様に、人間の労働力の支出とみなすためには、他のすべての有用な労働意欲的で生産的な活動よりも前に労働がなければならない。 それゆえ単純な人間の労働である。

33 Since up to now it has only been the substance of value and the magnitude of value which have been specified, let us now direct our attention to the analysis of the form of value.

33 これまでは価値の実体と価値の大きさしか特定されていなかったので、今度は価値の形態の分析に注意を向けましょう。

34 First let us turn back to the first form of appearance of the value of the commodity.
最初に商品価値の出現の最初の形に戻りましょう。

 私たちが調査したことは、商品(リネン)の価値の相対的な大きさの変化が、それ自体の価値の大きさの変化を反映しているかどうかであり、その定量的側面のみに基づいて相対価値を調査しました。今度はその形に変わります。相対値がフォームである場合に値が現れる請求項の等価性のために、次に式2件の商品(例えば、X商品Bの商品Aのが= Y、または麻の20ヤード= 1コート)である相対的価値の単純な形態。

 ① Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。
 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。
リネンは、それ自身に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自身に価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに自身を対象化することはできません。
リネンは、同種の人間労働の対象化、すなわちそれ自身の価値の対象化されたものとして、それ自体をそれに関連付けることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。
それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である-そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労働を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。
コートとのこの関係によって、リネンはひとたたきで多くの蝿をうちます。リンネルは、他の商品を価値として自分自身に関係させることによって、自身を価値として関連付ける。自らに自身を関連付けることによって価値を示し、その区別からリンネル自身を、使用価値として自身から区べつする。
このように発生していることは、その価値の大きさを示すコートは、その付与する値(一般的には値、及び定量的測定値及び値の大きさのものもある)として現実を持つ価値として、自身の直接的存在とは異なります。
自身の中に差別化されたものとして、このように自分自身を明らかにすることで、最初に自分自身を明らかにした時間は本当に-商品として他商品を同じ時間値で示す便利なものーーとは区別される。
リネンは、使用価値である限り、それはある独立したものです。その価値は、表示されるこの関係で他の商品に質的に等置され、コートをリネンに同一視して、いくつかの特定の量に置き換え、それに相当するものとしてカウントし、それと交換可能です。
したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形態を印づけます。結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。
他に何が起こっても、そのことがらは、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を示します。
この等価物の規定では、商品があるという事実だけでなく、含まれている値であり、すべてで、それはその中にいるという事実であり、肉体的形状(その使用価値)を、別の商品の価値としてカウントし、その結果、手元にすぐにある交換価値としての用を他の商品に対して果たしています。

 ④価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然から得られた物質で発酵しています。
リネンを人間の労働の単なる対象化として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。
抽象的な(すなわち、いかなる追加的な品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。
しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。
リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表現を得る)。
リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。(⑱)

 ⑤相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。(⑱a)


使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。
対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価値形態になります。
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間労働が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。
なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な材料なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。
しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。
コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。
仕立て労働は、あまりにも、それだけあれば、それはのように存在するように、意図的生産労働であり、その結果、しない限り、リネンの値を持つ確定労働、フォーム実現の、客体の方法の一般的に人間の労働。リネンはむしろコートよりも靴墨でその価値を表現した場合、研磨作りはそれとしてカウントされる抽象的人間労働の代わりに、仕立て労働の実現形態となる。
したがって、価値形態や商品形態は、抽象的人間労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的有用労働に他の商品が関連することによって成立してくるのであり、そのことに依拠して価値の出現形態または等価物になるのです。

⑦ー① We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。

②It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。

③If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。

④These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。

⑤It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。

⑥The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。

⑦Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。

⑧Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.
離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

⑨The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

⑩In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.
それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

⑪It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
他の商品と一緒に流通して初めて価値のある形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。

⑫The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。

⑬Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,
  muss sie eine andere natürliche Form -
 die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.
   製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。

⑭It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、他の価値や商品を直接価値として参照することができます。

⑮but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

⑯The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.
商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

⑰If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

⑱But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>
  英語版からの訳
<しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>

    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
     「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値<表現ーー誤訳>形態の形式的内容を見落
     としていることは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形態」
     が内実とされることで、価値表現がされるということです。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。
他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。
商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。
相対的価値ーー麻布(リネンの20ヤード= 1コート)の、交換価値を示すリネンは明白に現れる他の商品との関係である。コートに関しては、リネンはコート自体を価値形態(価値の現象形態)として、したがってそれ自身ですぐに交換可能なもの(リネン)として、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかです。この関係の中でのみコートと等価です。
   <杉本 既存訳は全てが、ここが次の訳なのです。 >
  (「上着のほうもまた確かに、リンネルが自分自身の価値の現象形態
   としての上着に、したがって自分と直接的に交換可能なものとして
   の上着に、関係するかぎりでのみ、等価物なのである。この関係で
   のみ上着は等価物となる。」江夏訳P42原P22)
しかし、それは受動的に行われます。それは何のイニシアチブも握っていない。物事はそれ自体に関係しているので、それは関係で自分自身を見つけます。リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。さらに、リネンがコートに関連する具体的な様式および様式は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒ったテーラーの製品」ではない。
結局のところ、リネンは、現在の価値体としての、したがって抽象的人間労働の現実的顕現としてのコートに関連しています。
これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限りにおいて、これだけです。
同等物<等価物>として(コート)のその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射決定[4]であるだけです。

  <英訳では、次のように行文が示されています。>
 ⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

Only within this relationship is the coat an Equivalent. But it conducts itself passively.
  (江夏訳--既存訳はすべて同じ、けして間違っているとはいえない。
    しかし、次の対比をしてみよう。)

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value,
    コートが関係している限り、それは、リネンがそれ自身の
    価値の外見の形態<現象形態>としてコートと関連している限り、

   <しかし、次の文章が続くのです。①②③・・⑮>
    ①and hence as something immediately exchangeable
     with itself (the linen).
    それゆえに、すぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    して
   ② it is admittedly an Equivalent insofar as linen
    is related to the coat as form
    リネンがフォームとしてのコートに関連している限り、それは明
    らかに同等である
   ③of appearance of its own value,
    それ自身の価値形態<価値の現象形態ではない!>となり
   ④ and hence as something immediately exchangeable
    with itself (the linen).
    それゆえにすぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    してあります。
   ⑤Only within this relationship is the coat an
    Equivalent.
    この関係の中でのみコートと等価です。
   ⑥ But it conducts itself passively.
     しかし、それは受動的に行われます。
     It seizes no kind of initiative.
    それは何のイニシアチブも握っていない。
   ⑦It finds itself in relationship because things
     relate themselves to it.
    物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身
    を見つけます。
   ⑧ The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
   リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自
    身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活
    動なしで存在する。
   ⑨In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.
    さらに、リネンがコートに関連する具体的な仕方および様式は、
    コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは
    控えめであるが、「プライドで狂った裁縫師」の製品ではない。
   ⑩The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner.
    結局のところリネンは、現在の価値体として抽象的人間の労働
    の現実的な顕現としてのコートに関連しています。
    これは、リネンがこの特定の方法でコートに関連している限り
    において、これだけです。
   ⑪ Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.
    同等物としてのその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射
    規定[4]であるだけです。
    <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、
    リネンの反省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
    形態規定されてはない。上着は価値の凝固物ーであるが、それだ
    けでは、リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取
    れない>
    <杉本 十一段落は以上までです。次が十二段落です>
  ⑫ー①But the situation seems just the reverse. On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything.
    しかし状況はちょうど逆のように見える。 一方では、コートは
    それ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。
    ②On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.
     一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがする
     かもしれない何かからかなり離れていることで、コートと関連し
     ています。
    ③The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example).
     コートに関連するリネンの結果物
    (同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)
     は、まったく同じ方法で、リネンに関しても体系的な方法で
     コートに属するように見えるのであり、(例えば)暖かく保つ
     ことができるという特性のように、なのです。
      <杉本 これが、初版での等価形態の謎性 なのであります。>
    ④ In the first or simple form of relative value (20 yards of linen  one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]
      最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン=1
     コート)では、このフォームはまだ確立されていません。この
     フォームは直ちに反対のものを表し、コートはリネンと等価で
     あるため、 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有している
     のは、他方がそれ自身の相対的価値形態にするためであるから
     である[5]。
 ⑬単純な形式の相対価値や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形態の発展は両方の商品に対応している。価値等式が追加され、同一の麻のみにその値を明示するために、両方の商品のそれぞれを参照して、1商品(コート)およびその逆が、この価値表現は、二重のための両方のそれぞれについて別々であり、両方の商品ともに役立ちは異なります。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。
 ⑭「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは 1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対的価値表現である、他の等式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。
リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの 異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。
  (原P24)
 ⑮最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2 つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。また、得られたものとすることがないように思われるいずれかの発現のための量のための値(値の量は明らかにすべての式において同じまま- -同じように徹底的リネンの'20ヤードで表され= 1つのコートリネンの'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーやその他は、コートがそうであったように、単一の同等物である。
 ⑯それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところ、リネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実、等:のいずれかでこの商品またはその若しくは第三の商品等でも表現されるということでもある。、この第二は、すでに明らかにされている相対的価値形態は、その接続に現れます。
そのとき、われわれは次の形態をえることになる。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:

  1 coat  = 20 yards of linen
  u coffee =   "
  v tea    =   "
  x iron   =   "
  y wheat etc.=   "

 ①The relative value-expression returns at this point to its original form: 1 coat = 20 yards of linen. Now, however, this simple equation is further developed. Originally it only contained the fact that the value of the coat obtains through its expression in another commodity a form which is different from and independent of the exchange-value coat or even the body of the coat. Now the very same form manifests the coat with respect to all other commodities whatsoever as value. Not only the coat, but also coffee, iron, wheat, in a word, all other commodities express their value in the material, linen. In this way, all manifest themselves to one another as the same materialization of human labour.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。
しかし、今、この簡単な方程式がさらに開発されています。
もともと、それは、コートの価値が他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの本体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。

今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。 コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。 このようにして、すべてが人間労働の同じ物質化として互いに出現します。

They are henceforward only quantitatively different, which is the reason why one coat, u coffee, x iron, etc. ? i.e., different quanta of these different things ? equal 20 yards of linen (equal to the same quantum of objectified human labour). It is through their common value-expression in the material, linen, therefore, that all commodities differ as exchange-values from their own use-values and relate at the same time to one another as amounts of value, equate themselves qualitatively to one another, and compare themselves quantitatively. Only in this unified relative value-expression do they all appear for the first time as values for one another, and their value consequently obtains for the first time its corresponding form of appearance as exchange-value. As opposed to the developed form of relative value (form II) which manifests the value of a commodity in the environment of all other commodities, we call this unified value-expression the universal relative form of value.
彼らはそれ以来、定量的に異なっており、これは1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

それゆえ、すべてのコモディティは、自分たちの使用価値と交換価値として異なっており、同時に価値の量としてお互いに関連し、互いを定性的に見なす 、定量的に比較する。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得る。 他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値表現を普遍的〈一般的〉な相対的価値形態と呼んでいます。

 ②In form II (20 yards of linen = 1 coat or = u coffee, or v tea or x iron, etc.), the form in which the linen develops its relative value-expression, it relates itself to each individual commodity (coat, coffee, etc.) as a specific Equivalent, and to all of them together as to the environment of its specific forms of the Equivalent. No individual species of commodity counts any longer with respect to the linen as simple Equivalent, as in the particular Equivalent, but only as specific Equivalent whereby the one Equivalent excludes the other.
②リネンが相対的価値表現を生み出す形態II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか×アイアンかなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物として、もはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。

In form III (which is the reciprocal second form, and is therefore contained in it), the linen appears on the other hand as the general form of the Equivalent for all other commodities. It is as if alongside and external to lions, tigers, rabbits, and all other actual animals, which form when grouped together the various kinds, species, subspecies, families etc. of the animal kingdom, there existed also in addition the animal, the individual incarnation of the entire animal kingdom.
フォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他のすべての商品の等価物の一般的な形態として、他方で現れる。それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化するときに形成される他のすべての実際の動物の横に並んでいるかのように、動物、動物界全体の個体化です。

Such a particular which contains within itself all really present species of the same entity is a universal (like animal, god, etc.). Just as linen consequently became an individual Equivalent by the fact that one other commodity related itself to it as form of appearance of value, that is the way linen becomes ? as the form of appearance of value common to all commodities ? the universal Equivalent universal value-body, universal materialization of abstract human labour. The specific labour materialized in it now thereby counts as universal form of realization of human labour, as universal labour.
同じエンティティの実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)です。その結果、リネンは、価値の出現(現   )形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個人になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現--形態 - ユニバーサルな同等で抽象的人間労働の普遍的な実体化です。
それによって、リネンに具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働としての人間の労働の実現の普遍的形態として数えられる。

 ③During the process in which the value of commodity A is displayed in commodity B (whereby commodity B becomes a single Equivalent), it was indifferent of what specific type commodity B happened to be. The corporeality of commodity B only had to be of a different species than that of commodity A, and therefore had also to be a product of other useful labour. By the coat’s displaying its value in linen, it related itself to linen as the realized human labour, and precisely thereby related itself to linen-weaving as the realization-form of human labour, but the specific determinacy which distinguishes linen-weaving from other kinds of labour was completely indifferent. It only had to be of another kind than tailoring and in any case had to be a specific kind of labour. It is otherwise as soon as linen becomes a universal Equivalent.
③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBが、どのような特定のタイプになったのかには無関心であった。

商品Bの身体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の産物でなければならなかった。コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間の労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の定められた労働に完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければなりませんでした。そうでないのは、リネンが普遍的な〈一般的〉等価物になるやいなやです。

This use-value ? in its special determinacy through which it is linen as opposed to all other kinds of commodities (coffee, iron, etc.) now becomes the universal form of value of all other commodities and hence a universal Equivalent. The particular useful kind of labour manifested in it therefore now counts as universal form of realization of human labour, as universal labour precisely insofar as it is labour of particular determinacy: linen weaving as opposed, not only to tailoring, but to coffee growing, mining, and all other kinds of labour. On the other hand, all other kinds of labour count (in the relative value-expression of linen ? the universal Equivalent: form II), henceforth only as particular forms of realization of human labour.
この使用価値は、他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、リネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、ユニバーサルな同等価値となります。したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的〈一般的〉な労働としての人間の労働の実現の普遍〈一般的〉的形態として数えられる:リネンは、仕立てだけでなくコーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働。他方では、他のすべての種類の労働が(人間の労働の実現の特定の形態としてのみ、リネンの相対的価値表現 - 普遍的な同等物:形態II)である。

 ④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour. In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values. They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another. As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs.
④価値として、商品は、抽象的人間の労働という、同じ単位の表現である。
交換価値の形態では、価値として互いに現れ、価値として互いに関係しています。
同時に彼らはそれによって、共通の社会的実体として人間の労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能である、これらの社会的物質の表現として相互に数えている。有用なこととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities. It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport. But this is just what value is. The form in which the commodities count to one another as values ? as coagulations of human labour ? is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.
しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。

それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための品物ではない。単なる使用目的を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

商品が価値として(すなわち、人間の労働の凝固として)数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。

⑤ The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
⑤シンプルな相対価値フォーム(フォームI)は、「1コート= 20ヤードのリネン」で、この式が現在ではメンバーを形成しているという事実によって、普遍的な相対価値フォーム「ワンコート= 20ヤードリネン」とは異なります。
シリーズ:1 coat = 20 yards of linen
    u coffee =
      v tea =
       etc =

⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent. Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression. But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent. If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen ? one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way.
⑥実際には、リネンが単価から普遍的〈一般的〉な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現されている商品であり、即時〈直ち〉の交換可能性の形態をとる商品(等価物の形態:したがって、直ちに社会形態)が、普遍的な相対価値の表現にも同じことが当てはまる。しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる正式で消極的です。コートがその価値を相対的な方法(つまり、リネン)で「一コート= 20ヤードのリネン」という表現で表し、リネンが等価の形態を取得する場合、非常に同じ式は、 20ヤードのリネン - 1つのコート であり、それは等価物の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される。

This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen. The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time. What holds true of the coat, holds true of coffee, etc. It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent. On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent. The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’. But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent ? and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
相対的価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にならない。
他の商品は、リネンと同等のものにすぎません。コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。
したがって、商品の普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。
一方、リネンのような商品は、それが普遍的〈一般的〉な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。リネンの普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。しかし、これは、この商品の価値を表現していない同義語です。これは、普遍的な形式の等価 - そして永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な均等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

 ⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form ? namely, the form: linen. And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc. All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.
⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形とは異なる価値形態、すなわち形態:リネンを有する。 そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンなどがあれば、量的に決定される関係における交換可能な交換可能物として相互に関係することが正確にこの形態である。 また、1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまります。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映されます。

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way. They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are. Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one. It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities  and consequently its universal social form in an immediate way.
     しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、
     この迂回路を越えて価値の出現の形態として相互に価値あるものに数えられ、
     その結果即座にではありません。
その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。
したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。
すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。それは別の方法です。
他のすべての商品は、価値の出現の形態としてリネンに関連しており、リネンの自然な形態は、すべての商品との即時の交換可能性の形態になり、結果としてその普遍的〈一般的〉な社会形態が直ちに生じている。

 ⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form. Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour. A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない) 現 れ において、他の全ての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な同等(一般的等価)の形態を取得するだけである。
    しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形態持っていなければならない。
    なぜなら、その自然形はその使用価値の形式だけであり、統一された(したがって普遍的な)
    相対価値形式を持たなければならないからである。

それらのすべては、人間労働の均質な凝固として、互いに価値に関連している。
従って、単一の商品は他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、 一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であるか社会的な形態であることがわかる。

 ⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists. Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではありません。マグネットの一方の極の陽性は他方の陰性からのものです 。
したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時的交換可能性の印を印象付けることができると想像する。
しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互に前提を置いて反復的に反発する極である。

 ⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
労働の即時社会的実現として、リネンは社会的労働の即時実現(普遍的な等価物として)であり、
リネンでその価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない現実化である。

 ⑪Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
⑪実際には、すべての使用価値は商品であり、民間労働者の製品であるが、分業体制の原始的な体系の特定の構成員(相互に独立しているとはいえ)だが、 労働の このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。 それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

 ⑫If they did not, then these use-values would not become commodities for one another. On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities. If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities. If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
⑫そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。
他方で、この異なる有用な品質はまだ製品を商品にしていない。農民の家族がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。商品が直ちに社会的(すなわち共通)の労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。

Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another. It already yielded itself out of the analysis of the commodity. The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence ? since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours ? whatever their content and their mode of operation ? actually are. In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours.
それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

それは、すでに商品の分析からそれ自体を産出した。
   商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。
   彼らの不平等から抽象化している--全く異なる労働の等しさは
   --人間労働力一般として相互に関係しているからです。
   人間の労働力の支出は人間の労働であるのですか?
    その内容と操作方法が何であってもです?

   それらの動作モードは実際には異なります。
それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value. However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
現在のところ、これらの民間労働は、その自然な形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらいには、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。
その自然な形態の商品は、労働や価値の単なる凝固という社会的形態を持っているのと同じくらい小さい。 しかし、他のすべての商品がーー自分自身の価値の出現形式として、この自然な形に関連しているので、商品の自然な形態(この場合リネン)は普遍的な等価形態になるという事実を通して、リネン織りは、抽象的人間労働実現の普遍的形態、または直ちに社会的形態の労働になります。

The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production, and not from conceptions which are foreign to it. Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities. Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case).
「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外国の考え方からではない。先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、普遍的な等価形は結果的に矛盾した形でしか発展できないので、商品に潜む私的労働者にも同じことが当てはまる。彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形態なり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

 ⑬The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
⑬錯覚:商品の等価形態が他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、普遍的な同等物の継続的な発展と共に強化される。
普遍的な等価形態は一商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離し、最終的にこれ(商品の形態)が実際には存在しないために、価値形態のもう一つの部分は、 単一の商品の関係の製品をより長くする。

 ⑭From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however. What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually? By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I), then in all other commodities in order in a relative way (form II), and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form III). The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development.
⑭我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。
リネンがユニバーサル相当品に変身したのはどうでしたか?
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、
    次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべて
    の商品は反射的に値を相対的に表示した(形態III)。
単純な相対価値表現は、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中で役割を変えます。

It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities. What holds for linen holds for every commodity. In its developed relative value-expression (form II) ? which only consists of its many, simple value-expressions  the linen does not yet figure as universal Equivalent. Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
それは、ある他の商品に、その価値を表示することから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。すべての商品のためにリネンが保持しているものです。

    開発された相対価値表現(フォームII)では、
    その多くの単純な価値表現だけで構成されていますが、
    リネンはまだ普遍的な等価とは見なされていません。
    むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品の本体形態は、
    それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。

だから私たちは最終的に得ます:
So we obtain finally:

 

    商品

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月25日(金)20時07分19秒
返信・引用 編集済
    https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
   グーグル英和訳ソフト Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja

  商品
これは、最初のドイツ語版のCapitalの第1章Albert Dragstedtによる英訳です。現代版のCapitalは、第2版以降の第1章を持っています。
出典:Albert Dragstedt、Value:Studies by Karl Marx、New Park Publications、London、1976、pp。7-40。
転写される:Steve Palmer。
資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。
   ーーー中略ーーー
私たちが調査したことは、商品(リネン)の価値の相対的な大きさの変化が、それ自体の価値の大きさの変化を反映しているかどうかであり、その定量的側面のみに基づいて相対価値を調査しました。今度はその形に変わります。相対値がフォームである場合に値が現れる請求項の等価性のために、次に式2件の商品(例えば、X商品Bの商品Aのが= Y、または麻の20ヤード= 1コート)である相対的価値の単純な形態。

 ① Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。
 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。
リネンは、それ自身に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自身に価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに自身を対象化することはできません。
リネンは、同種の人間労働の対象化、すなわちそれ自身の価値の対象化されたものとして、それ自体をそれに関連付けることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。
それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である-そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労働を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。
コートとのこの関係によって、リネンはひとたたきで多くの蝿をうちます。リンネルは、他の商品を価値として自分自身に関係させることによって、自身を価値として関連付ける。自らに自身を関連付けることによって価値を示し、その区別からリンネル自身を、使用価値として自身から区べつする。
このように発生していることは、その価値の大きさを示すコートは、その付与する値(一般的には値、及び定量的測定値及び値の大きさのものもある)として現実を持つ価値として、自身の直接的存在とは異なります。
自身の中に差別化されたものとして、このように自分自身を明らかにすることで、最初に自分自身を明らかにした時間は本当に-商品として他商品を同じ時間値で示す便利なものーーとは区別される。
リネンは、使用価値である限り、それはある独立したものです。その価値は、表示されるこの関係で他の商品に質的に等置され、コートをリネンに同一視して、いくつかの特定の量に置き換え、それに相当するものとしてカウントし、それと交換可能です。
したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形態を印づけます。結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。
他に何が起こっても、そのことがらは、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を示します。
この等価物の規定では、商品があるという事実だけでなく、含まれている値であり、すべてで、それはその中にいるという事実であり、肉体的形状(その使用価値)を、別の商品の価値としてカウントし、その結果、手元にすぐにある交換価値としての用を他の商品に対して果たしています。

 ④価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然から得られた物質で発酵しています。
リネンを人間の労働の単なる対象化として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。
抽象的な(すなわち、いかなる追加的な品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。
しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。
リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表現を得る)。
リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。(⑱)

 ⑤相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。(⑱a)


使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。
対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価値形態になります。
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間労働が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。
なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な材料なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。
しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。
コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。
仕立て労働は、あまりにも、それだけあれば、それはのように存在するように、意図的生産労働であり、その結果、しない限り、リネンの値を持つ確定労働、フォーム実現の、客体の方法の一般的に人間の労働。リネンはむしろコートよりも靴墨でその価値を表現した場合、研磨作りはそれとしてカウントされる抽象的人間労働の代わりに、仕立て労働の実現形態となる。
したがって、価値形態や商品形態は、抽象的人間労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的有用労働に他の商品が関連することによって成立してくるのであり、そのことに依拠して価値の出現形態または等価物になるのです。

⑦ー① We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。

②It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。

③If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。

④These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。

⑤It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。

⑥The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。

⑦Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。

⑧Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.
離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

⑨The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

⑩In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.
それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

⑪It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
他の商品と一緒に流通して初めて価値のある形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。

⑫The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。

⑬Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,
  muss sie eine andere natürliche Form -
 die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.
   製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。

⑭It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、他の価値や商品を直接価値として参照することができます。

⑮but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

⑯The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.
商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

⑰If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

⑱But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>
  英語版からの訳
<しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>

    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
     「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値<表現ーー誤訳>形態の形式的内容を見落
     としていることは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形態」
     が内実とされることで、価値表現がされるということです。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。
他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。
商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。
相対的価値ーー麻布(リネンの20ヤード= 1コート)の、交換価値を示すリネンは明白に現れる他の商品との関係である。コートに関しては、リネンはコート自体を価値形態(価値の現象形態)として、したがってそれ自身ですぐに交換可能なもの(リネン)として、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかです。この関係の中でのみコートと等価です。
   <杉本 既存訳は全てが、ここが次の訳なのです。 >
  (「上着のほうもまた確かに、リンネルが自分自身の価値の現象形態
   としての上着に、したがって自分と直接的に交換可能なものとして
   の上着に、関係するかぎりでのみ、等価物なのである。この関係で
   のみ上着は等価物となる。」江夏訳P42原P22)
しかし、それは受動的に行われます。それは何のイニシアチブも握っていない。物事はそれ自体に関係しているので、それは関係で自分自身を見つけます。リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。さらに、リネンがコートに関連する具体的な様式および様式は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒ったテーラーの製品」ではない。
結局のところ、リネンは、現在の価値体としての、したがって抽象的人間労働の現実的顕現としてのコートに関連しています。
これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限りにおいて、これだけです。
同等物<等価物>として(コート)のその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射決定[4]であるだけです。

  <英訳では、次のように行文が示されています。>
 ⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

Only within this relationship is the coat an Equivalent. But it conducts itself passively.
  (江夏訳--既存訳はすべて同じ、けして間違っているとはいえない。
    しかし、次の対比をしてみよう。)

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value,
    コートが関係している限り、それは、リネンがそれ自身の
    価値の外見の形態<現象形態>としてコートと関連している限り、

   <しかし、次の文章が続くのです。①②③・・⑮>
    ①and hence as something immediately exchangeable
     with itself (the linen).
    それゆえに、すぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    して
   ② it is admittedly an Equivalent insofar as linen
    is related to the coat as form
    リネンがフォームとしてのコートに関連している限り、それは明
    らかに同等である
   ③of appearance of its own value,
    それ自身の価値形態<価値の現象形態ではない!>となり
   ④ and hence as something immediately exchangeable
    with itself (the linen).
    それゆえにすぐにそれ自身のもの(リネン)と交換可能なものと
    してあります。
   ⑤Only within this relationship is the coat an
    Equivalent.
    この関係の中でのみコートと等価です。
   ⑥ But it conducts itself passively.
     しかし、それは受動的に行われます。
     It seizes no kind of initiative.
    それは何のイニシアチブも握っていない。
   ⑦It finds itself in relationship because things
     relate themselves to it.
    物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身
    を見つけます。
   ⑧ The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
   リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自
    身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活
    動なしで存在する。
   ⑨In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.
    さらに、リネンがコートに関連する具体的な仕方および様式は、
    コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは
    控えめであるが、「プライドで狂った裁縫師」の製品ではない。
   ⑩The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner.
    結局のところリネンは、現在の価値体として抽象的人間の労働
    の現実的な顕現としてのコートに関連しています。
    これは、リネンがこの特定の方法でコートに関連している限り
    において、これだけです。
   ⑪ Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.
    同等物としてのその地位は、(言いたいことですが)麻布の反射
    規定[4]であるだけです。
    <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、
    リネンの反省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
    形態規定されてはない。上着は価値の凝固物ーであるが、それだ
    けでは、リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取
    れない>
    <杉本 十一段落は以上までです。次が十二段落です>
  ⑫ー①But the situation seems just the reverse. On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything.
    しかし状況はちょうど逆のように見える。 一方では、コートは
    それ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。
    ②On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.
     一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがする
     かもしれない何かからかなり離れていることで、コートと関連し
     ています。
    ③The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example).
     コートに関連するリネンの結果物
    (同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)
     は、まったく同じ方法で、リネンに関しても体系的な方法で
     コートに属するように見えるのであり、(例えば)暖かく保つ
     ことができるという特性のように、なのです。
      <杉本 これが、初版での等価形態の謎性 なのであります。>
    ④ In the first or simple form of relative value (20 yards of linen  one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]
      最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン=1
     コート)では、このフォームはまだ確立されていません。この
     フォームは直ちに反対のものを表し、コートはリネンと等価で
     あるため、 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有している
     のは、他方がそれ自身の相対的価値形態にするためであるから
     である[5]。
 ⑬単純な形式の相対価値や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形態の発展は両方の商品に対応している。価値等式が追加され、同一の麻のみにその値を明示するために、両方の商品のそれぞれを参照して、1商品(コート)およびその逆が、この価値表現は、二重のための両方のそれぞれについて別々であり、両方の商品ともに役立ちは異なります。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。
 ⑭「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは 1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対的価値表現である、他の等式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。
リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの 異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。
  (原P24)
 ⑮最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2 つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。また、得られたものとすることがないように思われるいずれかの発現のための量のための値(値の量は明らかにすべての式において同じまま- -同じように徹底的リネンの'20ヤードで表され= 1つのコートリネンの'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーやその他は、コートがそうであったように、単一の同等物である。
 ⑯それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところ、リネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実、等:のいずれかでこの商品またはその若しくは第三の商品等でも表現されるということでもある。、この第二は、すでに明らかにされている相対的価値形態は、その接続に現れます。
そのとき、われわれは次の形態をえることになる。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:

  1 coat  = 20 yards of linen
  u coffee =   "
  v tea    =   "
  x iron   =   "
  y wheat etc.=   "

 ①The relative value-expression returns at this point to its original form: 1 coat = 20 yards of linen. Now, however, this simple equation is further developed. Originally it only contained the fact that the value of the coat obtains through its expression in another commodity a form which is different from and independent of the exchange-value coat or even the body of the coat. Now the very same form manifests the coat with respect to all other commodities whatsoever as value. Not only the coat, but also coffee, iron, wheat, in a word, all other commodities express their value in the material, linen. In this way, all manifest themselves to one another as the same materialization of human labour.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。
しかし、今、この簡単な方程式がさらに開発されています。
もともと、それは、コートの価値が他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの本体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。

今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。 コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。 このようにして、すべてが人間労働の同じ物質化として互いに出現します。

They are henceforward only quantitatively different, which is the reason why one coat, u coffee, x iron, etc. ? i.e., different quanta of these different things ? equal 20 yards of linen (equal to the same quantum of objectified human labour). It is through their common value-expression in the material, linen, therefore, that all commodities differ as exchange-values from their own use-values and relate at the same time to one another as amounts of value, equate themselves qualitatively to one another, and compare themselves quantitatively. Only in this unified relative value-expression do they all appear for the first time as values for one another, and their value consequently obtains for the first time its corresponding form of appearance as exchange-value. As opposed to the developed form of relative value (form II) which manifests the value of a commodity in the environment of all other commodities, we call this unified value-expression the universal relative form of value.
彼らはそれ以来、定量的に異なっており、これは1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

それゆえ、すべてのコモディティは、自分たちの使用価値と交換価値として異なっており、同時に価値の量としてお互いに関連し、互いを定性的に見なす 、定量的に比較する。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得る。 他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値表現を普遍的〈一般的〉な相対的価値形態と呼んでいます。

 ②In form II (20 yards of linen = 1 coat or = u coffee, or v tea or x iron, etc.), the form in which the linen develops its relative value-expression, it relates itself to each individual commodity (coat, coffee, etc.) as a specific Equivalent, and to all of them together as to the environment of its specific forms of the Equivalent. No individual species of commodity counts any longer with respect to the linen as simple Equivalent, as in the particular Equivalent, but only as specific Equivalent whereby the one Equivalent excludes the other.
②リネンが相対的価値表現を生み出す形態II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか×アイアンかなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物として、もはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。

In form III (which is the reciprocal second form, and is therefore contained in it), the linen appears on the other hand as the general form of the Equivalent for all other commodities. It is as if alongside and external to lions, tigers, rabbits, and all other actual animals, which form when grouped together the various kinds, species, subspecies, families etc. of the animal kingdom, there existed also in addition the animal, the individual incarnation of the entire animal kingdom.
フォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他のすべての商品の等価物の一般的な形態として、他方で現れる。それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化するときに形成される他のすべての実際の動物の横に並んでいるかのように、動物、動物界全体の個体化です。

Such a particular which contains within itself all really present species of the same entity is a universal (like animal, god, etc.). Just as linen consequently became an individual Equivalent by the fact that one other commodity related itself to it as form of appearance of value, that is the way linen becomes ? as the form of appearance of value common to all commodities ? the universal Equivalent universal value-body, universal materialization of abstract human labour. The specific labour materialized in it now thereby counts as universal form of realization of human labour, as universal labour.
同じエンティティの実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)です。その結果、リネンは、価値の出現(現   )形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個人になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現--形態 - ユニバーサルな同等で抽象的人間労働の普遍的な実体化です。
それによって、リネンに具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働としての人間の労働の実現の普遍的形態として数えられる。

 ③During the process in which the value of commodity A is displayed in commodity B (whereby commodity B becomes a single Equivalent), it was indifferent of what specific type commodity B happened to be. The corporeality of commodity B only had to be of a different species than that of commodity A, and therefore had also to be a product of other useful labour. By the coat’s displaying its value in linen, it related itself to linen as the realized human labour, and precisely thereby related itself to linen-weaving as the realization-form of human labour, but the specific determinacy which distinguishes linen-weaving from other kinds of labour was completely indifferent. It only had to be of another kind than tailoring and in any case had to be a specific kind of labour. It is otherwise as soon as linen becomes a universal Equivalent.
③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBが、どのような特定のタイプになったのかには無関心であった。

商品Bの身体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の産物でなければならなかった。コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間の労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の定められた労働に完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければなりませんでした。そうでないのは、リネンが普遍的な〈一般的〉等価物になるやいなやです。

This use-value ? in its special determinacy through which it is linen as opposed to all other kinds of commodities (coffee, iron, etc.) now becomes the universal form of value of all other commodities and hence a universal Equivalent. The particular useful kind of labour manifested in it therefore now counts as universal form of realization of human labour, as universal labour precisely insofar as it is labour of particular determinacy: linen weaving as opposed, not only to tailoring, but to coffee growing, mining, and all other kinds of labour. On the other hand, all other kinds of labour count (in the relative value-expression of linen ? the universal Equivalent: form II), henceforth only as particular forms of realization of human labour.
この使用価値は、他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、リネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、ユニバーサルな同等価値となります。したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的〈一般的〉な労働としての人間の労働の実現の普遍〈一般的〉的形態として数えられる:リネンは、仕立てだけでなくコーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働。他方では、他のすべての種類の労働が(人間の労働の実現の特定の形態としてのみ、リネンの相対的価値表現 - 普遍的な同等物:形態II)である。

 ④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour. In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values. They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another. As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs.
④価値として、商品は、抽象的人間の労働という、同じ単位の表現である。
交換価値の形態では、価値として互いに現れ、価値として互いに関係しています。
同時に彼らはそれによって、共通の社会的実体として人間の労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能である、これらの社会的物質の表現として相互に数えている。有用なこととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities. It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport. But this is just what value is. The form in which the commodities count to one another as values ? as coagulations of human labour ? is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.
しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。

それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための品物ではない。単なる使用目的を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

商品が価値として(すなわち、人間の労働の凝固として)数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。

⑤ The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
⑤シンプルな相対価値フォーム(フォームI)は、「1コート= 20ヤードのリネン」で、この式が現在ではメンバーを形成しているという事実によって、普遍的な相対価値フォーム「ワンコート= 20ヤードリネン」とは異なります。
シリーズ:1 coat = 20 yards of linen
    u coffee =
      v tea =
       etc =

⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent. Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression. But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent. If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen ? one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way.
⑥実際には、リネンが単価から普遍的〈一般的〉な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現されている商品であり、即時〈直ち〉の交換可能性の形態をとる商品(等価物の形態:したがって、直ちに社会形態)が、普遍的な相対価値の表現にも同じことが当てはまる。しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる正式で消極的です。コートがその価値を相対的な方法(つまり、リネン)で「一コート= 20ヤードのリネン」という表現で表し、リネンが等価の形態を取得する場合、非常に同じ式は、 20ヤードのリネン - 1つのコート であり、それは等価物の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される。

This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen. The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time. What holds true of the coat, holds true of coffee, etc. It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent. On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent. The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’. But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent ? and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
相対的価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にならない。
他の商品は、リネンと同等のものにすぎません。コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。
したがって、商品の普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。
一方、リネンのような商品は、それが普遍的〈一般的〉な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。リネンの普遍的〈一般的〉な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。しかし、これは、この商品の価値を表現していない同義語です。これは、普遍的な形式の等価 - そして永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な均等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

 ⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form ? namely, the form: linen. And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc. All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.
⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形とは異なる価値形態、すなわち形態:リネンを有する。 そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンなどがあれば、量的に決定される関係における交換可能な交換可能物として相互に関係することが正確にこの形態である。 また、1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまります。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映されます。

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way. They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are. Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one. It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities  and consequently its universal social form in an immediate way.
     しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、
     この迂回路を越えて価値の出現の形態として相互に価値あるものに数えられ、
     その結果即座にではありません。
その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。
したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。
すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。それは別の方法です。
他のすべての商品は、価値の出現の形態としてリネンに関連しており、リネンの自然な形態は、すべての商品との即時の交換可能性の形態になり、結果としてその普遍的〈一般的〉な社会形態が直ちに生じている。

 ⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form. Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour. A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない) 現 れ において、他の全ての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な同等(一般的等価)の形態を取得するだけである。
    しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形態持っていなければならない。
    なぜなら、その自然形はその使用価値の形式だけであり、統一された(したがって普遍的な)
    相対価値形式を持たなければならないからである。

それらのすべては、人間労働の均質な凝固として、互いに価値に関連している。
従って、単一の商品は他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、 一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であるか社会的な形態であることがわかる。

 ⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists. Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではありません。マグネットの一方の極の陽性は他方の陰性からのものです 。
したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時的交換可能性の印を印象付けることができると想像する。
しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互に前提を置いて反復的に反発する極である。

 ⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
労働の即時社会的実現として、リネンは社会的労働の即時実現(普遍的な等価物として)であり、
リネンでその価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない現実化である。

 ⑪Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
⑪実際には、すべての使用価値は商品であり、民間労働者の製品であるが、分業体制の原始的な体系の特定の構成員(相互に独立しているとはいえ)だが、 労働の このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。 それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

 ⑫If they did not, then these use-values would not become commodities for one another. On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities. If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities. If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
⑫そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。
他方で、この異なる有用な品質はまだ製品を商品にしていない。農民の家族がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。商品が直ちに社会的(すなわち共通)の労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。

Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another. It already yielded itself out of the analysis of the commodity. The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence ? since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours ? whatever their content and their mode of operation ? actually are. In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours.
それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

それは、すでに商品の分析からそれ自体を産出した。
   商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。
   彼らの不平等から抽象化している--全く異なる労働の等しさは
   --人間労働力一般として相互に関係しているからです。
   人間の労働力の支出は人間の労働であるのですか?
    その内容と操作方法が何であってもです?

   それらの動作モードは実際には異なります。
それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value. However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
現在のところ、これらの民間労働は、その自然な形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらいには、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。
その自然な形態の商品は、労働や価値の単なる凝固という社会的形態を持っているのと同じくらい小さい。 しかし、他のすべての商品がーー自分自身の価値の出現形式として、この自然な形に関連しているので、商品の自然な形態(この場合リネン)は普遍的な等価形態になるという事実を通して、リネン織りは、抽象的人間労働実現の普遍的形態、または直ちに社会的形態の労働になります。

The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production, and not from conceptions which are foreign to it. Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities. Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case).
「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外国の考え方からではない。先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、普遍的な等価形は結果的に矛盾した形でしか発展できないので、商品に潜む私的労働者にも同じことが当てはまる。彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形態なり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

 ⑬The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
⑬商品の等価形態が他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、普遍的な同等物の継続的な発展と共に強化される。
普遍的な等価形態は一商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離し、最終的にこれ(商品の形態)が実際には存在しないために、価値形態のもう一つの部分は、 単一の商品の関係の製品をより長くする。

 ⑭From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however. What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually? By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I), then in all other commodities in order in a relative way (form II), and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form III). The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development.
⑭我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。
リネンがユニバーサル相当品に変身したのはどうでしたか?
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、
    次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべて
    の商品は反射的に値を相対的に表示した(形態III)。
単純な相対価値表現は、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中で役割を変えます。

It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities. What holds for linen holds for every commodity. In its developed relative value-expression (form II) ? which only consists of its many, simple value-expressions  the linen does not yet figure as universal Equivalent. Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
それは、ある他の商品に、その価値を表示することから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。すべての商品のためにリネンが保持しているものです。

    開発された相対価値表現(フォームII)では、
    その多くの単純な価値表現だけで構成されていますが、
    リネンはまだ普遍的な等価とは見なされていません。
    むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品の本体形態は、
    それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。

だから私たちは最終的に得ます:
So we obtain finally:


 

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