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☆9・22反弾圧集会の全11動画+≪秘話:議員ネットとカンナマ≫をアップしたよ!

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月23日(日)22時15分57秒
返信・引用
  http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=10932;id=#10932

☆9・22反弾圧集会の全11動画+≪秘話:議員ネットとカンナマ≫をアップしたよ!


[NEW]  戸田  E-MAILWEB  - 18/9/23(日) 7:21 -

件名:急報!★「連帯支援!9・22反弾圧集会」の全11動画+≪秘話:議員ネットと
   カンナマ≫をアップした!(9/23早朝戸田)
本文:

「産業別労働運動と協同組合運動の両翼推進で資本主義打倒の新たな社会主義を構想する」、「革命21」http://www.com21.jp/ の革命左翼議員=門真市議の戸田から、各方面
のみなさんへ。  (拡散大歓迎。重複の節はご容赦)
=======================================

◆◆昨夜大盛況だった<労働組合つぶしの大弾圧抗議9・22緊急集会>
  http://workersvoice.net/2018/09/17/%E5%8A%B4%E5%83【URL短縮沸:C-BOARD】3

  の全動画12本を戸田HPの「新・戸田のYUチューブコーナー」に、集会での公言通
 りにアップしたので、ぜひご覧下さい。
  また、特別動画≪戸田が語る秘話!議員ネットと「カンナマ」≫も急遽作成アップし
 たので、併せて、自由に活用して下さい。
  (※個々の動画への「説明」記載までは手が回りませんでした。御理解下さい。)
   (もうすぐ「連帯ユニオン近畿地本大会」→城北朝鮮学校運動会に出かけます)
    ↓↓↓
「新・戸田のYUチューブコーナー」
  http://www.youtube.com/user/higetoda/videos?view_as=public
   ↓↓↓

★戸田が語る秘話!議員ネットと「カンナマ」:20分40
  https://www.youtube.com/watch?v=bWuQ818BFf0
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会1:開会あいさつ:2分
   https://www.youtube.com/watch?v=kNXi2XgYRDE
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会2:洋一書記長の説明:17分20
   https://www.youtube.com/watch?v=R2vFe8jOqlc
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会3:広瀬トラック支部委員長:6分
   https://www.youtube.com/watch?v=SMRRhgvY-78
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会4:永島弁護士:11分21
   https://www.youtube.com/watch?v=9DOwagHoH0o
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会5:西山役員・圧送・港合同・全労協:9分20
   https://www.youtube.com/watch?v=Vbzldmqalmg
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会7:北大阪合労(木村)・全交(山川):5分16
   https://www.youtube.com/watch?v=OA3Jh3gZGo8
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会8:★連帯ユニオン議員ネット(戸田):3分48
   https://www.youtube.com/watch?v=9bNj21HwptM
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会11:闘いの歌(川口真由美):10分
   https://www.youtube.com/watch?v=8btuiDkEnEg
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎連帯支援!9・22反弾圧集会12:カンパ報告とシュプレヒコール:8分
   https://www.youtube.com/watch?v=kpaTG0dwMNo
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 9/23(日)06:43 戸田ひさよし 拝

 
 

関生型労働運動, 反弾圧 労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 のお 知らせ

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月23日(日)15時34分58秒
返信・引用
  http://com21.jp/archives/28989
■ 日時:2018年9月22日(土)18時~
■ 場所:エル大阪5F南館ホール
 大阪市中央区北浜東3-14(地図)

■ 内 容:
 現状報告―空前の組合つぶし、いま何がおこっているのか
 実行委員会参加組合・団体からの発言、訴え!

■ 主 催:9・22集会実行委員会
 連絡先:全港湾関西地本大阪支部
 電話 06-6575-3131 FAX06-6575-3134

http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=7826;id=01#7826
■生コン支部に今朝10数人の大量逮捕弾圧!大阪府警が連帯生コン支部をガサ入れし!
[NEW]  戸田  E-MAILWEB  - 18/9/18(火) 12:26 -

■生コン支部に今朝10数人の大量逮捕弾圧!
本日9/18(火)朝、大阪府警が連帯生コン支部をガサ入れ・大量逮捕!(戸田)

 門真市議の戸田から各方面の方々へ、緊急重大な情報です。(重複ご容赦)

■本日9/18(火)朝、大阪府警が関西地区生コン支部などをガサ入れするとともに、支部で10数人もの大量逮捕を行なった、という情報が飛び込んできた!

 ネットニュースでは9/18早朝の発信で、
 「・・・捜査していることが17日、捜査関係者への取材で分かった。
  府警はすでに大阪市西区の関生支部や関係先の家宅捜索を実施。
  府警は十数人が関与したとみて、近く幹部らから事情を聴く方針。・・」
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180918-00000508-san-soci
と書いてあるが、実際には10数人もの大量逮捕を行なった!

 詳しい事は今のところ、外部からは不明。

■「9/22(土)緊急抗議集会」を目前にしたところでの大量逮捕弾圧を絶対に許さない!
労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 すでにご存知のように滋賀県警組織犯罪対策課による8月9日、8月28日に連帯ユニオン関生支部への連続的弾圧が開始されている。28日には武建一執行委員長のほか支部役員2人が逮捕され、8月9日の1名の役員を含め計4人を不当逮捕したうえ、大阪市内の関西地区生コン支部事務所など多数ヶ所を家宅捜索した。その中には無関係箇所も含まれ、家宅捜索は違法で暴力的なのものであった。さらに大阪府警などの関西の各県警も弾圧拡大に動いている。

 この弾圧は労働組合活動を恐喝未遂容疑とするものであり、さらに他の警察権力は共謀罪などの適用をほのめかしている、労働組合活動の刑事免責を除外した一昔前から比べ、法律も変わらないまま一切の組合活動を刑事罰としようとするものである。これを許すなら憲法28条も必要ないとされ、資本家に有利な社会が作られていくことは明白である。今回の特徴は組織犯罪対策課が中心となり「警察庁の指示」といっていることである。いち労働組合への弾圧としては近年ない規模であり政府主導の新たな労働組合つぶしの開始といえる。

 日本において生コン業界を切り口に本格的産業別職種別の労働運動をめざし幾多の弾圧・妨害を乗り越えてきた連帯ユニオンの関生支部の闘い。これへの全面的破壊攻撃の開始である。断じて許すことは出来ない。滋賀県警は業者に対し「関生と手を切れ」といい、組合員には「組合加入の動機はなにか」と産業別中小企業労働運動破壊を公言している

 今こそ大企業の収奪とたたかい、辺野古新基地建設を許すな、原発再稼働阻止、戦争法・共謀罪廃止、憲法改悪反対を求め、安倍政権とたたかう労働組合つぶしを許すなの声をあげよう。
 そこで、こころある人々の9・22集会への賛同(無料)・参加を強く訴えます。滋賀県警への抗議を訴えます。
 

 交換過程 1・8段落

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月22日(土)10時27分26秒
返信・引用 編集済
      <6・7段落に注意してほしい!
    そこでの記述は、交換過程の条件ではなく、その前段なのです。
    物象の社会関係が、<物象の人格化・人格の物象化>を受けとる
    ーーことがあって、その次に交換過程が展開されるのです。
    価値形態論での物象の社会関係の次が、すぐさま、交換過程では
    ないのです。>


   Der Austauschprozeß
   交換プロセス
   The exchange process
 <99>
 ①商品は市場に出ることはできず、自分自身を交換することはできません。だから私たちは彼らの飼い主、商品の所有者を見なくてはなりません。商品はものなので、人間に抵抗することはありません。彼らが喜んでいない場合、彼らは力を使用することができます、つまり、それらを取ることができます。

(37)物品としてこれらの物をお互いに関連させるためには、財産保持者はその物に住む意志のある人物として行動しなければならず、したがって、それぞれが外国の商品彼または彼女自身の財産を売却することによって、どちらか一方または両方の共通の意志によって、したがって、彼らは相互に個人所有者として認識する必要があります。

この法的関係は、その形式が法的であるか否かにかかわらず、経済的関係が反映された意志である。この法律または意志の関係の内容は、経済関係そのものによって与えられる。 (38)

ここには、商品の代表者として、したがって商品所有者として<100>しか存在しません。
開発のさらなる進路において、人の経済的性格のマスクは、彼らが反対する経済的関係の人格だけであることが分かるだろう。

① The goods can not go to the market themselves and can not exchange themselves. So we have to look after their keepers, the goods owners. The goods are things and therefore without resistance to humans. If they are not willing, they can use force, in other words, take them.

(37) In order to relate these things to one another as goods, the goods keepers must behave as persons whose will lives in those things, so that one only with the will of the other, that is, each one acquires the foreign commodity only by means of one or both common wills, by selling off his own property. They must therefore mutually recognize each other as private owners.

This legal relationship, the form of which is the contract, legal or not, is a volition in which the economic relationship is reflected. The content of this relationship of law or will is given by the economic relation itself. (38)

The persons exist here only <100> for each other as representatives of commodities and therefore as commodity owners. In the further course of development we shall find that the economic character masks of persons are only the personifications of the economic relations which they oppose.

 ②特に商品の所有者を商品と区別することは、他のすべての商品が自分の価値の現れとみなされるという事実である。生まれながらのレベラーと冷笑的な彼女は、常に他のすべての商品とともに、魂だけでなく体を変えるために、Maritorneよりも多くの不便を抱えていても、常に移動中です。商品所有者は、独自の5つ以上の感覚を通じて、商品の具体的な意味の欠如に加えます。

彼の商品は、彼のためにすぐには使用価値がありません。さもなければ、彼は彼女を市場に導かなかった。それは他人のための有用性の価値があります。彼にとって、それはすぐに交換価値のベアラーであるという有用性の価値しか持たず、したがって交換の媒体となる。 (39)

そのため、使用価値のある商品で販売したい。すべての商品は、所有者の非使用アイテム、非所有者のユーティリティ値です。だから、あなたはあらゆる面で手を変えなければなりません。しかし、この手の変化は彼らの交換を形作り、交換はそれらを価値として結びつけ、価値として実現する。
したがって、商品は、使用価値として実現される前に値として実現されなければなりません。
 ②What differentiates the owner of the goods from the commodity in particular is the fact that every other commodity is regarded as manifestation of its own value. Born Leveller and cynic, she is therefore always on the go, with every other commodity, even the same equipped with more inconvenience than Maritorne, not only the soul, but to change the body. The commodity owner adds to this lack of meaning for the concrete of the commodity through its own five and more senses. His goods have no immediate use value for him. Otherwise he did not lead her to market. It has utility value for others. For him, it immediately has only the utility value of being the bearer of exchange value and thus the medium of exchange. (39) Therefore he wants to sell it for commodities whose use value satisfies them. All goods are non-use items for their owners, utility values for their non-owners. So you have to change hands on all sides. But this change of hands forms their exchange, and their exchange links them as values ??and realizes them as values. The goods must therefore be realized as values ??before they can be realized as use values.

 ③他方では、価値として実現される前に有用な価値を証明しなければならない。
それに費やされる人間の労働は、それが別の有用な形で費やされている限りにおいてのみ重要である。 彼らが他の人に有益であるかどうかに関わらず、彼らの製品は外国のニーズを満たしますが、彼らの交換を証明することしかできません。
 ③On the other hand, they must prove to be useful values before they can be realized as values. For the human labor expended on them counts only insofar as it is spent in another useful form. Whether they are useful to others, their product therefore satisfies foreign needs, but can only prove their exchange.

 ④すべての商品所有者は、その使用価値が彼の必要性を満たす他の商品に対してのみ商品を販売したいと考えています。 交換が彼のためのものであれば、個々のプロセスだけです。 一方で、彼は自分の商品が価値あるもの、つまり同じ価値の他のすべての商品で、自分の商品が現在他の商品の所有者にとって有用な価値を持っているかどうかを認識したい。 そうであれば、交換は一般的に彼のための社会的プロセスです。 しかし、同じプロセスは同時に、個人であると同時に、すべての商品所有者にとって一般的に社会的ではありません。
 ④Every commodity owner wants to sell his commodity only against other commodity, whose use-value satisfies his need. If the exchange is for him only an individual process. On the other hand, he wants to realize his commodity as a value, that is, in every other commodity of the same value, whether his own commodity now has utility value for the owner of the other commodity or not. If so, the exchange is generally a social process for him. But the same process can not at the same time be individual and at the same time only generally social for all commodity owners.

 ⑤もっと詳しく見ると、すべての外国の商品は他のすべての商品と同じ商品として扱われ、その商品は他のすべての商品の一般的な商品とみなされます。しかし、すべての商品所有者は同じことを行うので、商品は一般的な同等物ではないため、商品は一般的な相対的価値形態を保有しておらず、価値として自己を価値と見なしているが、したがって、彼らは商品にまったく反対するのではなく、商品や使用価値としてのみ反対します。
 ⑤If we take a closer look, every foreign commodity is regarded as every other commodity as the particular equivalent of its commodity, and its commodity as the general equivalent of all other commodities. Since, however, all commodity owners do the same, no commodity is general equivalent, and therefore the commodities do not possess a general relative form of value, in which they equate themselves as values and compare them as values. Therefore, they are not opposed to goods at all, but only as products or use values.

 ⑥彼らの恥ずかしさの中で私たちの商品所有者はファウストのように思う。
最初は行為でした。
彼らは彼らが思う前に既に行動しています。
商品性の法則は、商品所有者の自然本能にあった。
彼らは一般的なものとして他の商品に言及することだけで、商品として価値として、したがって商品としてのみ関連付けることができます。この結果、商品の分析が行われました。

しかし、社会的行動だけが、特定の商品を一般的に同等にすることができます。
したがって、他のすべての商品の社会的行動は、すべての面で価値を表現している特定の商品を排除します。

したがって、Naturalform商品は社会的に有効な同等の形態になります。
社会的プロセスを通して、普遍的な同等物は、除外された商品の具体的な社会的機能となる。
それはーー彼女がどのようになりますか?That is how she becomes - money. 貨幣です。
 ⑥In their embarrassment our commodity owners think like Faust. In the beginning was the act. They have already acted before they thought. The laws of the commodity nature were in the natural instinct of the commodity owners. They can relate their commodities only as values, and therefore only as commodities, by referring them to any other commodity as a general equivalent. This resulted in the analysis of the goods. But only social action can make a certain commodity the general equivalent. The social action of all other commodities therefore excludes a certain commodity in which they express their values on all sides. Thus, the Naturalform commodity becomes socially valid equivalent form. Throughout the social process, the universal equivalent becomes the specifically social function of the excluded commodity. That is how she becomes - money.

 ⑦マネークリスタル<貨幣結晶>は、多種多様な作業成果物が実際に互いに釣り合って実際に商品に変わる交換プロセスに必要な製品です。
  <杉本 注意!既存訳では、いずれも、「交換過程の必然的産物」との訳です。
  未だ交換過程は登場していない!商品の貨幣への転化・貨幣の商品への転化があって、
  次に、交換過程が登場してくることが、8段落から語られるのです。>
歴史的な拡大と交換の深化は、商品性格のユーティリティ価値と価値との間の休止期の対比を生じさせる。

外部から、それが最終的に商品や貨幣への商品の規定が倍増により達成されるまで、従事財の価値の独立した形態になるように運転し、交通がこの反対を表すまで、休まずにする必要があります。
したがって、労働生産物の商品への変換と同じ程度で、商品の貨幣への変換が起こる(40)
 ⑦The money crystal is a necessary product of the exchange process, in which diverse work products are actually equated with each other and therefore actually turned into commodities. The historical expansion and deepening of exchange develops the dormant contrast between utility value and value in the commodity nature. The need to externally portray this contrast for traffic drives to an independent form of commodity value and does not rest and rest until it is finally achieved by doubling the commodity into commodity and money. In the same degree, therefore, in which the transformation of labor-products into commodities, the transformation of commodities into money takes place. (40)

 ⑧一方では、製品の即時交換は、価値の単純な表現の形をしており、他方ではまだ存在していない。
その形はxコモディティA = yコモディティBであった。直接商品交換の形態は次の通りである。

xコモディティA = yコモディティB.(41)物AとBは交換前の商品ではなく、同じものである。
可能性に応じて商品が交換価値となる最初の方法は、非使用価値、その所有者の即時の必要性を超える使用価値の量としての存在である。それ自体の物は人間の外にあり、したがって消耗品です。この疎外が互いに排他的であるためには、人々は暗黙のうちに、それらの外来物の私的所有者として、したがって互いに独立した人として自分自身に反対する必要があります。しかし、このような相互の奇妙な関係は、原始的なコミュニティの構成員にとっては存在しない。

今や、家父長家族、古代インドの共同体、インカ州などの形をしている。財の交換は、外国人との接触や外国のコミュニティとのつながりの点でのみです。

しかし、物事が海外に行くとすぐに、彼らはまた、内部のコミュニティの商品に戻る。彼らの量的交換は当初は全くランダムであった。

交換バー、彼らは彼らの所有者が彼らを相互に販売する意志の行為です。一方、外国の商品の必要性は徐々に確立されつつある。交換の一定の繰り返しは、それを規則的な社会的プロセスにしている。したがって、時間の経過とともに、少なくとも一部の作業成果物は、交換のために意図的に生産されなければならない。

この瞬間から、一方では、分離は即時の必要性のための物事の有用性と交換のための有用性との間にあります。彼らの使用価値は交換価値とは異なります。他方、彼ら自身が交換する量的比率は、生産自体に依存する。習慣は値の大きさとしてそれらを修正します。


 

あいつの親父は馬鹿と言って名誉市民

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年 9月22日(土)03時32分23秒
返信・引用
    あいつの親父は馬鹿と言って名誉市民
 知事号令によって看板団体の暴走を隠すために親を馬鹿にしたまま暴走した。親父を馬鹿と言う北上の小笠原利行さんと奥州の小野寺良子さんはそれぞれ名誉市民になっていた。もっとおかしい事は法務省がこれらを容認していた。
 岩手の看板とはとんでもない話です。法務省は20回近く意見送り数日で返事すると言って3ヶ月一つも返事しない。
 法務局への手紙も20回は出している。その数だけ意見になるはずが暴走目こぼし権なんて無いと言う知事をかばうときだけ。
 暴走は容認されていることになる。
 此方は暴走隠しから誰一人と関われず団体も友達も全部取り上げ何処り団体も行かせず社会参加は12年で12回の妨害です。
 とりわけ聾唖者は友達は簡単に作れないもの。それが全部取り上げられて完全孤立が12年になります。
 そして北上と奥州の社協に親父の記録を届けても知らん顔している。しかも法務省も容認している。
 全国の社協にも親父の記録を届けて居ます。岩手県庁と法務省から関わるなとされたのですか。こちらとしては余計な関わりは迷惑だけになるため知らせたという形です。
 人の親を馬鹿と言ってそれぞれ名誉市民だとは。これほどの無責任は通訳資格剥奪追放すべきです。掲示板の中に入って妨害ばかりかお前の親父は馬鹿なのまだとあざ笑いしていた。これが岩手の看板か、恥さらしではないか。北上の社協はそれでも知らん顔している。親父の記録を読み直して馬鹿が名工と呼ばれますか。地元社協でも役場でも町の人にでも聞けばいいです。
 それに最初に親を馬鹿と言い出したのは当時次期ろうあ協会会長でゴマすりから踊らせたことになります。それも読み書きの出来ない聾唖者の猜疑心から来た。しかも親父と口利いたことも無い。更に本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもせず、知らなかったの一声で全てをチャラにした。 無責任でもこれも県の看板です。
 親の不名誉と此方の復権のために暴走を正当化する扱いはもう辞めていただきたい。
 自立支援法が廃止になった後で友の会を辞めた為知事の暴走をとがめないのはばれなければいいことにして障害者の一人りくらいと容認されていた。2年も前から法務局と関わっているのに解決する気も無く見解も来ない。擁護係りから諦めて別団体へ行けと言うだけしか来ない。知事が偉いから正しく障害者個人はどうでも良いとされている。ばれてしまえば知事だけかばう訳に行かない。既に全国に知らせてあります。
 

関生型労働運動, 反弾圧 労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 のお 知らせ

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月21日(金)19時20分7秒
返信・引用
  http://com21.jp/archives/28989
■ 日時:2018年9月22日(土)18時~
■ 場所:エル大阪5F南館ホール
 大阪市中央区北浜東3-14(地図)

■ 内 容:
 現状報告―空前の組合つぶし、いま何がおこっているのか
 実行委員会参加組合・団体からの発言、訴え!

■ 主 催:9・22集会実行委員会
 連絡先:全港湾関西地本大阪支部
 電話 06-6575-3131 FAX06-6575-3134

連帯ユニオン関生支部への大弾圧9・22抗議緊急集会への訴え

労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 すでにご存知のように滋賀県警組織犯罪対策課による8月9日、8月28日に連帯ユニオン関生支部への連続的弾圧が開始されている。28日には武建一執行委員長のほか支部役員2人が逮捕され、8月9日の1名の役員を含め計4人を不当逮捕したうえ、大阪市内の関西地区生コン支部事務所など多数ヶ所を家宅捜索した。その中には無関係箇所も含まれ、家宅捜索は違法で暴力的なのものであった。さらに大阪府警などの関西の各県警も弾圧拡大に動いている。

 この弾圧は労働組合活動を恐喝未遂容疑とするものであり、さらに他の警察権力は共謀罪などの適用をほのめかしている、労働組合活動の刑事免責を除外した一昔前から比べ、法律も変わらないまま一切の組合活動を刑事罰としようとするものである。これを許すなら憲法28条も必要ないとされ、資本家に有利な社会が作られていくことは明白である。今回の特徴は組織犯罪対策課が中心となり「警察庁の指示」といっていることである。いち労働組合への弾圧としては近年ない規模であり政府主導の新たな労働組合つぶしの開始といえる。

 日本において生コン業界を切り口に本格的産業別職種別の労働運動をめざし幾多の弾圧・妨害を乗り越えてきた連帯ユニオンの関生支部の闘い。これへの全面的破壊攻撃の開始である。断じて許すことは出来ない。滋賀県警は業者に対し「関生と手を切れ」といい、組合員には「組合加入の動機はなにか」と産業別中小企業労働運動破壊を公言している

 今こそ大企業の収奪とたたかい、辺野古新基地建設を許すな、原発再稼働阻止、戦争法・共謀罪廃止、憲法改悪反対を求め、安倍政権とたたかう労働組合つぶしを許すなの声をあげよう。
 そこで、こころある人々の9・22集会への賛同(無料)・参加を強く訴えます。滋賀県警への抗議を訴えます。
 

 法務省容認暴走独裁権

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年 9月21日(金)19時18分52秒
返信・引用
  法務省容認暴走独裁権
 今年で12年目になりいい加減にしてほしいと全国にばら撒いた。
 親を馬鹿と言うのが始まりだから馬鹿かどうか親父の記録を全国にばら撒きました。現代の名工として知事表彰も受けていてます。 機械を頼らぬ民芸品です。馬鹿でも出来るのですか。全国から岩手に対して批判、失笑、後ろ指が飛んだことでしょう。
 知事の暴走はばれなければとされたと判る。直接親を馬鹿と言いけしかけ通訳の居る北上の社協にも届けました。県内は何処もかん口令が入っていても外部への完全沈黙の囲みは破れています。
 北上の社協から場所を借りてサークルを開き名誉市民の扱いでしょう。最初に親を馬鹿と認めろと言い出したのは岩手県盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんです。そしてその奥さんは最初の別団体行きを密告から悪口妨害したひとみさんです。しかも抗議したら大本家に脅迫電話した。大本家は歳で法廷には立てなく姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言いました。更に県庁に抗議すると当時の朽木課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 もう一人は地元で大本家に向かって親を馬鹿にする話をしていた奥州市社協で手話サークルの会長をしている小野寺良子さんです。
 1年後輩で地元の松岡の親類の妹。そして松岡の大本家であり恩師に向かい此方の親の悪口を笑い話しにした。その話を何処から聞いたのかと言うと実家は口封じしてかん口令の後ろに隠れた。
 自分が友の会を辞めたのは利行さんから親を馬鹿と認めろと言われて馬鹿らしいとして辞めたのです。そのまま言えないでしょう。 相当な悪口のデマを聞いた事にります。
 小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放を。聾唖者は聞こえないことで友達は作りにくいもの。それが12年も孤立に耐えて来ました。
 小野寺良子さんは大本家に謝罪することを望みます。
 辞めた後はかん口令を広げ関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせず、社会参加は12年で12回も妨害した。 昨年の全国大会は参加したが知っている人は誰も逢わせない。調べたら全国協会も全国の友の会も全部知事があいつに関わるなと口説き伏せていた。全国協会賛助会員も辞めて完全孤立です。
 障害者の自立支援法が廃止になった次の年に辞めたため暴走隠しに悪用された。法律の無かった頃で法務省もばれなければいいと容認している。法務局での話は掲示板に実名使うなと言うだけ。
 掲示板はかん口令を逆手に取ると実名でも批判も反論も12年も一つも来ない。来るのは妨害だけ。法務局での話は記録しないのか。 口約束になって揉み潰しやすくなる。緊急時でもないのに知事に独裁権があるとは。法務局は見解も言えず擁護係りから諦めろと言われた。
 

 法務省容認暴走独裁権

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 9月21日(金)18時18分7秒
返信・引用
   法務省容認暴走独裁権
 今年で12年目になりいい加減にしてほしいと全国にばら撒いた。
 親を馬鹿と言うのが始まりだから馬鹿かどうか親父の記録を全国にばら撒きました。現代の名工として知事表彰も受けていてます。 機械を頼らぬ民芸品です。馬鹿でも出来るのですか。全国から岩手に対して批判、失笑、後ろ指が飛んだことでしょう。
 知事の暴走はばれなければとされたと判る。直接親を馬鹿と言いけしかけ通訳の居る北上の社協にも届けました。県内は何処もかん口令が入っていても外部への完全沈黙の囲みは破れています。
 北上の社協から場所を借りてサークルを開き名誉市民の扱いでしょう。最初に親を馬鹿と認めろと言い出したのは岩手県盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんです。そしてその奥さんは最初の別団体行きを密告から悪口妨害したひとみさんです。しかも抗議したら大本家に脅迫電話した。大本家は歳で法廷には立てなく姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言いました。更に県庁に抗議すると当時の朽木課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 もう一人は地元で大本家に向かって親を馬鹿にする話をしていた奥州市社協で手話サークルの会長をしている小野寺良子さんです。
 1年後輩で地元の松岡の親類の妹。そして松岡の大本家であり恩師に向かい此方の親の悪口を笑い話しにした。その話を何処から聞いたのかと言うと実家は口封じしてかん口令の後ろに隠れた。
 自分が友の会を辞めたのは利行さんから親を馬鹿と認めろと言われて馬鹿らしいとして辞めたのです。そのまま言えないでしょう。 相当な悪口のデマを聞いた事にります。
 小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放を。聾唖者は聞こえないことで友達は作りにくいもの。それが12年も孤立に耐えて来ました。
 小野寺良子さんは大本家に謝罪することを望みます。
 辞めた後はかん口令を広げ関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせず、社会参加は12年で12回も妨害した。 昨年の全国大会は参加したが知っている人は誰も逢わせない。調べたら全国協会も全国の友の会も全部知事があいつに関わるなと口説き伏せていた。全国協会賛助会員も辞めて完全孤立です。
 障害者の自立支援法が廃止になった次の年に辞めたため暴走隠しに悪用された。法律の無かった頃で法務省もばれなければいいと容認している。法務局での話は掲示板に実名使うなと言うだけ。
 掲示板はかん口令を逆手に取ると実名でも批判も反論も12年も一つも来ない。来るのは妨害だけ。法務局での話は記録しないのか。 口約束になって揉み潰しやすくなる。緊急時でもないのに知事に独裁権があるとは。法務局は見解も言えず擁護係りから諦めろと言われた。
 

初版 商品  ③

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月16日(日)10時13分8秒
返信・引用 編集済
    https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
  商品
資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。
   ーーー中略ーーー

 ①Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。
 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。
それゆえに、その堅いリネンの体質や自然の形は、その価値の形ではなく、その正反対です。
それは、それ自体に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自体が価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに関係することはできません。
同種の人間労働の客観化、すなわちそれ自体の価値の物質としてそれ自体をそれに関連づけることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である - そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労力を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。コートとのこの関係によって、リネンは1回のストロークで異なるハエをうちます。
他のコモディティ<商品>を価値として自分自身と同等にすることによって、それ自体を価値として関連付ける。自分自身を価値として関連づけることによって、それは同時に自分自身と使用価値として区別されます。コートの価値の大きさ(そして価値の大きさは一般的な価値と定量的な価値の両方である)を表現することによって、その現実とは異なる価値形態の価値として現実を与えます。
このように自分自身の内で差別化されているものとして自らを明らかにすることによって、それは本当に商品として初めて --それは同時に価値のある有用なもの--であることを明らかにする。リネンが使用価値である限り、それは独立したものです。
その価値でのアピールは、他方では、コートがある別の商品(例えばコート)との関係においてのみ(リネン)と定性的に同等であるため、それに相当するいくつかの特定の数量において現れるそれと交換可能--だということです。したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③The expression of the value of linen in the coat impresses a new form upon the coat itself.
コートのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形を印象づけます。
After all, what is the meaning of the value-form of linen?
結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?
Evidently that the coat is exchangeable for it.
Whatever else may happen to it, in its mundane reality it possesses in its natural form (coat) now the form of immediate exchangeability with another commodity, the form of an exchangeable use-value, or Equivalent.
それは、コートが交換可能であることは明らかです。
他に何が起こっても、そのリアルな現実の下では、自然な形態(コート)で、他の商品との即時的交換可能性の形態、交換可能な使用価値の形式、または同等物であることを有します。

  <ここでの判読は、要注意です。
  結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?
  それは、コートが交換可能であることは明らかです。
  質問と回答が述べられ、回答が一つではなく二つの形式があります。
  二つであることが判読できると、第三形態の⑦段落にはこうあることが理解できます。>
  彼らはすぐに交換することができるという理由だけで即座に交換できる
  わけではありません。彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持ってい
  ません。すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介されたものである。
  <their socially valid form is a mediated onet is the other way around.
  彼らの社会的に妥当な形式は、仲介されたものです。>

The specification of the Equivalent contains not only the fact that a commodity is value at all, but the fact that it in its corporeal shape (its use-value) counts as value for another commodity and consequently is immediately at hand as exchange-value for the other commodity.
等価物の仕様には、商品が価値であるという事実だけでなく、しかし、その体質的な形(その使用価値)でそれが数えられるという事実、価値として別の商品のために、そしてすぐに手元にあり他の商品の交換価値として使用されます。

 ④As value, linen is composed exclusively of labour, and forms a transparently crystallized precipitate of labour. In reality this crystal is very murky, however. In so far as labour is detectable in it (and not every embodiment of commodity reveals the trace of labour), it is not some undifferentiated human labour, but rather: weaving, spinning, etc. which, in addition, are by no means the only components of its substance but of course are leavened with matter derived from nature. In order to retain linen as a merely corporeal expression of human labour one has to abstract from all that which makes it to be really a thing. Any objectivity of human labour which is itself abstract (i.e., without any additional quality and content) is necessarily an abstract objectivity a thing of thought. In that fashion, a web of flax turns into a chimera. But commodities are objects. They have to be what they are in an object-like way or else reveal it in their own object-like relationships. In the production of linen, a particular quantum of human labour exists in having been expended. The linen’s value is the merely objective reflection of the labour so expended, but it is not reflected in the body of the linen. It reveals itself (i.e., acquires a sensual expression) by its value-relationship to the coat. By the linen’s equating the coat to itself as value  while at the same time distinguishing itself from the coat as object of use what happens is that the coat becomes the form of appearance of linen-value as opposed to linen-body: its value-form as distinguished from its natural form.
価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然から得られた物質で発酵しています。リネンを人間の労働の単なる対象化として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。抽象的な(すなわち、いかなる追加的な品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。

しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。

リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表現を得る)。リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります(⑱)

 ⑤In the expression of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or, x linen is worth y of coat), one must admit that the coat counts only as value or coagulation of labour, but it is precisely through that fact that the coagulation of labour counts as coat, and coat as the form into which human labour flows in order to congeal.
⑤ 相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。(⑱a)

The use-value coat only becomes the form of appearance of linen-value because linen relates itself to the material of the coat as to an immediate materialization of abstract human labour, and thus to labour which is of the same kind as that which is objectified within the linen itself.
使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。

The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。

Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value. But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is rather a particular useful labour: tailoring.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になる。しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。

Simple human labour (expenditure of human labour-power) is capable of receiving each and every determination, it is true, but is undetermined just in and for itself.
単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。

It can only realize and objectify itself as soon as human labour-power is expended in a determined form, as determined and specified labour; because it is only determined and specified labour which can be confronted by some natural entity ? an external material in which labour objectifies itself.
それは、決定され特定された労働として決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の実体によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
It is only the ‘concept’ in Hegel’s sense that manages to objectify itself without external material.[1]
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥Time cannot be related to the coat as value or incarnated human labour, without being related to tailoring-labour as the immediate manifestation-form of human labour.
時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。

The aspect of the use value, coat, however, which is of interest to the linen is neither its woollen comfort, nor its buttoned-up essence nor any other useful quality which marks it out as a use-value.
しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。

The coat is of service to the linen only in order to represent the linen’s value-objectivity as distinguished from its starchy use-objectivity.
コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性<価値対象性でなく--伝統化された誤訳、違いは、リネンと上着の価値対象性が、価値客観性>を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。

It could have attained the same purpose if it had expressed its value in assa foetida or cosmetics, or shoe polish. The tailoring labour, too, has value for the linen, consequently, not insofar as it is purposeful productive labour, but only insofar as it exists as determinate labour, form of realization, manner of objectification of human labour in general.
それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。テーラリング労働も、リネンにとって価値があります。結果的には、それが意図的な生産的労働でない限り、決定的労働、実現の形態、一般的な労働の客観化の方法として存在している限りです。

If linen expressed its value in shoe polish rather than in the coat, then polish-making would count for it as the immediate form of realization of abstract human labour instead of tailoring.
リネンがコートではなく靴磨きでその価値を表明した場合、磨きはそれを仕立てるのではなく抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態とみなすでしょう。

So a use-value or commodity-body only becomes a form of appearance of value or an Equivalent by another commodity’s relating itself to the concrete, useful species of labour contained in it, as the immediate form of realization of abstract human labour.
したがって、使用価値または商品本体は、抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的で有用な種の労働に他の商品が関連することによって、価値の出現の形態または等価物にしかならない。

 ⑦ー① We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。

②It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。

③If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。

④These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。

⑤It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。

⑥The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。

⑦Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。

⑧Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.
離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

⑨The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

⑩In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.
それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

⑪It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
他の商品と一緒に流通して初めて価値のある形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。

⑫The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。

⑬Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

独語 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,muss sie eine andere natürliche Form -die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.
製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。
 <英明な江夏訳にして 「価値形態」 の誤訳です。廻り道にて上着は商品形態をうけとることで、等価物の形態の形成に向かうのではなく、相対的価値形態の形成に向かうのです。>

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によってすぐにすることができます。

⑭It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、他の価値や商品を直接価値として参照することができます。

⑮but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

⑯The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.
商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

⑰If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

⑱But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>
  英語版からの訳
<しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>

    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
    「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値表現の形式的内容を見落としていることは驚く
     ことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形
     態」が内実とされることで、価値表現がされるということです。
     既存訳は、正解なのです。>

   <杉本 これまでどうにも著者の意図がつかめないでいたのだが、上記の
    7段落、即ち、この⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫段落と、何度も繰り返し、
    両極の価値形態、相対的価値形態と等価形態の説明をば、筆者はしてい
    るのです。
    この意図をば、私達は、両極の価値形態は<常識としての前提>として、
    これまで、何とも恥ずかしいことに、見出せず、無視してきたのだから、
    大いに反省し、注目する必要があります。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.
商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).Only within this relationship is the coat an Equivalent.
コートに関しては、リネンはコート自体を価値の出現形態として、したがってそれ自体ですぐ<直接>に(リネンに)交換可能なものとして、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかである。この関係の中でのみコートの等価物です。
 <杉本 ここでは、ーー上衣が直接的に価値形態であるーーことの幻影を批判している。
 リネンが、上着を自身の価値の出現形態としているので、上着は直接的にリネンと交換
 可能になるーーつまり、上着は自身だけで直接的に価値形態となり、リネンの等価物に
 なるのではないのです。
 上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定ーーに依っているということを、
 彼は、しつこく何度も繰り返しています。>

But it conducts itself passively. It seizes no kind of initiative. It finds itself in relationship because things relate themselves to it.
しかし、それは受動的に行われます。 それは何のイニシアチブも握っていない。 物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身を見つけます。

The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。

In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.
さらに、リネンがコートに関連する具体的な特定モードおよび方法は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒っているテーラーの製品」ではない。

The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner. Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.
結局のところ、リネンは、したがって現在の価値体としての、抽象的人間労働の現実的な現行・顕現<プレゼント>としてのコートに関連しています。これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限り、これだけです。同等物<等価物>としてのその状態は、リネンの反省規定[4]だけである(いわば)。

  <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、リネンの反
   省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
   形態規定されてはいない。上着は価値の凝固物であるが、それだけでは、
   リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取れない>

But the situation seems just the reverse.
On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything. On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.
しかし状況はちょうど逆のように見える。
一方では、コートはそれ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがするかもしれない何かからかなり離れているので、コートと関連しています。

The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example).
コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)は、リネンに関連する外面においても、肉体的な方法でコートに属するように見える。

In the first or simple form of relative value (20 yards of linen one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]
最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン - 1コート)では、このフォームはまだ確立されていません。これは直ちに反対に、コートはリネンと同等であることを表しています。 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有するのは、他方がそれ自身の相対的価値形式になるためであるからである[5]。

 ⑫In the simple form of relative value or the expression of the equivalence of two commodities, the development of the form of value is correspondent for both commodities, although in each case in the opposite direction. The relative value-expression is in addition identical with reference to each of both commodities, for the linen manifests its value in only one commodity (the coat) and vice versa, but this value expression is double for both commodities, different for each of the same. Finally, each of both commodities is only an Equivalent for the single other species of commodity, and thus only a single Equivalent.
単純な相対的価値形式や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形式の発展は両方の商品に対応している。リネンは一つの商品(コート)のみでその値を明示し、逆も同様であるが、この価値表現は、両方の商品ともに2倍であるため、相対価値表現は両方の商品についての参照と同じである。同じなのです。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。

 ⑬Such an equation as ‘20 yards of linen = 1 coat’ (or twenty yards of linen are worth one coat) evidently expresses the value of the commodity in only a very limited and one-sided way. If I compare the linen, for example, with other commodities instead of coats, then I also obtain other relative value-expressions, other equations (like 20 yards of linen = u coffee; 20 yards of linen = v tea, etc.). The linen has just as many different relative value-expressions as there exist commodities different from it, and the number of its relative value-expressions constantly increases with the number of kinds of commodities which newly enter into existence.
「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対値式、他の式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。

 ⑭The first form (20 yards of linen = 1 coat) yielded two relative expressions for the value of two commodities. This second form yields the most variegated mosaic of relative expressions for the value of the same commodity. In addition, there seems to be nothing gained either for the expression of the amount of value (for the amount of value of linen  which obviously remains the same in every expression ? is just as exhaustively expressed in ‘20 yards of linen = 1 coat’ as in ‘20 yards of linen = u coffee, etc.’), the coffee and the etcetera are only single Equivalents, just as the coat was.
最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。さらに、価値の量の表現(あらゆる表現において明らかに同じままであるリネンの価値のための)の表現は、「20ヤードのリネン= 1コート」と同様に徹底的に表現されている'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーなどは、コートがそうであったように、単一の同等物である。

 ⑮Nevertheless, this second form contains within itself an essential development of form. For latent in it is, after all, not only the fact that linen happens to express its value at one time in coats, and at another in coffee, etc., but the fact that it expresses its value as much in coats as in coffee, etc.: either in this commodity or that or the third, etc. The continuing determination is revealed as soon as this second or developed form of the relative value-expression is manifested in its connection. We obtain then:
それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところリネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実この商品またはその第三者などのいずれかで、継続的な決定が明らかになります。




 

商品の労働の二重性と商品形態の二重性について

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月 8日(土)04時16分0秒
返信・引用 編集済
  a商品の労働の二重性と商品形態の二重性について、少し整理してみた。
 この前の第二節にて、労働の二重性が次のようにまとめられていた。
  <原文に当たれば分かるように、<の属性>の記述は無い。>
  原P61資本論1章2節 最終段落
「すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、人間または人間の同等な人間労働力のこの能力<の属性>において、それは商品価値を構成する。 一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用労働<の属性>は有用性を生む。」(16)
All labor is, on the one hand, the expenditure of human labor in the physiological sense, and in this capacity of equal human or abstract human labor, it constitutes the commodity value. All labor, on the other hand, is an expenditure of human labor in a particular form, and in this capacity of concrete useful labor produces usefulness. (16)
  初版
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
  32段落 原P13
It follows from the preceding not that there are two differing kinds of labour lurking in the commodity, but rather that the same labour is specified in differing and even contradictory manner in accordance with whether it is related to the use-value of the commodity as labour’s product or related to the commodity-value as its merely objective expression. Just as the commodity must be above all else an object of use in order to be a value, just so does labour have to be before all else useful labour purposeful, productive activity ? in order to count as expenditure of human labour-power and hence as simple human labour.
上述のことから、商品には2種類の異なる労働が潜んでいることにはならないが、むしろ同じ労働が、労働の製品としての商品の使用価値に関連しているのか、それとも単なる客観的な表現としての商品価値に関連しているのかに応じて、相違して矛盾する方法で規定されている。
商品は、価値であるためには、他のすべての目的に使用されなければならないのと同様に、人間の労働力の支出とみなされる--ためには、他のすべての有用な労働意欲的で生産的な活動よりも、その前に、労働がなければならない。 それゆえ単純な人間労働である。
 <b第一の形態では・・どうなのか?少し探求するために、a相対的価値形態の内実を再度まとめてみた。>

 <62> 3. Die Wertform oder der Tauschwert
    <第三節 価値形態または交換価値
英 ① Goods come to the world in the form of use-values or cargoes, as iron, canvas, wheat, etc.
This is their homemade form.
商品は使用価値や貨物の形で鉄、キャンバス、小麦などの形で世界に現れます。これは自家製の形です。
  ②However, they are only goods because they are double, commodities and at the same time value carriers.
しかしながら、彼らは二重であることで、彼らは唯一の商品ですし、商品として、同じくそのときーー価値のキャリアとなる。
  既存訳は、この①・②の対比がなく、全て次の訳です。
 <とはいえ、それは、使用対象であると同時に価値の担い手であるという二重的なもの
  であるがゆえにのみ、商品となる。 長谷部訳 資本論1 P45 下段>
 ーーしかし、この訳では、上記の①の使用価値に対しての次の②が題材とされていることが、捨てられている。
  これでは、この例示では、価値形態が形成されません。
  我々として、①②の対比が消されてしまえば、この条文は、何一つ理解できません。
  以下、わずか4段落をおってみました。
 ①<62> 商品は商品や商品の形で鉄、キャンバス、小麦などで生まれます。これは自家製のものです。
しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のキャリア<媒介物・導体ーー担い手では使用価値の役割になる>でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。
 ①Goods are born in the form of commodities or commodities, as iron, canvas, wheat, etc.
This is their homemade form.
However, they are only goods because they are double, commodities and at the same time value carriers.
They therefore appear only as goods or possess only the form of goods, provided they have double form, natural form and value form.
 ②商品の客観性はウィティッブ・ハーティグとどこが違うかという点で異なる。
商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値客観性に入っていない。
したがって、1つの商品を好きなようにこね回すことができます。価値のあるものとしては理解できません。
しかし、商品が価値対象性を示すーーことを覚えていれば、同じ社会的団結、人間労働の表現であるこの価値客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもないので、そこに両者の商品と商品の関係があることはわかる。
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品交換や交換価値を仮定しました。 今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。
 ②The objectivity of the goods differs from the Wittib Hurtig in that one does not know where to have them. In the exact opposite of the sensually coarse objectivity of commodities, no atom of natural substance enters into its value-objectivity. One may, therefore, turn and turn a single commodity as one likes, it remains incomprehensible as a value thing. If, however, we remember that goods are only objects of value, insofar as they are expressions of the same social unity, of human labor, that their value-objectivity is purely social, then it goes without saying that they appear only in the social relation of commodity to commodity can. In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value. We must now return to this manifestation of value.

  <商品の価値客観性ーーについて次の註をしておこう>
  一般的価値形態 の1価値形態の変化した性格の五段落にて、
  <商品の価値客観性>が、「価値対象性」と誤訳されています。
  独訳
Es zeigt sich also,
dass die Wert-Objektivität der Güter<商品の価値客観性>,
weil sie die bloße "soziale Existenz" dieser Dinge ist, nur durch ihre universelle soziale
Beziehung ausgedrückt werden kann und ihre Wertform daher eine gesellschaftlich gültige Form sein muss.
したがって、商品の価値客観性は、これらの物の単なる「社会的存在」であるため、彼らの普遍的な社会関係によってのみ表現することができ、したがって、その価値形態は社会的に有効な形態でなければならないことは明らかである。
  英訳
It thus becomes
apparent that the value-objectivityof goods,<商品の価値客観性>
because it is the merely "social existence" of these things, can only be expressed through their universal social relationship, and therefore that their value form must be socially valid form.
 ③たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の common value form 価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな自然な形の使用価値とは対照的です。 しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試行することもないこと、すなわち、この貨幣形態の起源を証明すること、すなわち、この価値等式に含まれる価値関係の発展に従うことが必要である。
商品は、その最も単純な最も重要でない形態から目を見張るような貨幣形態へと変化する。 同時に、the money puzzle お金のパズルは消えます。
 ③Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form. Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy, namely, to prove the genesis of this form of money, that is, to follow the development of the value-expression contained in the value-relationship of the commodity from its simplest most insignificant form to the dazzling monetary form. At the same time the money puzzle disappears.
 ④最も単純な価値関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。
したがって、2つの商品のつくる価値等式は、商品の最も単純な価値表現を提供します。
 ④The simplest value relation is evidently The simplest value relation of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.

  再考するためのーー適訳 ドイツ語版 価値形態
  A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態
  1 価値表現の両極ーー相対的価値形態と等価形態
    英訳三段落
Relative value form and equivalent form are mutually related, mutually dependent, inseparable moments, but at the same time mutually exclusive or opposite extremes, i.
相対価値形式と同等の形式は相互に関連し、相互に依存し、分離不可能な瞬間であるが、同時に相互に排他的であるか反対の極なのである。

Poles of the same value expression; they are always distributed among the different goods that the value expression relates to each other.
I can e.g.
同じ値式のポーランドン。
<同じものの柱--両極ーーを示す等式なのです。>
それらは値の式が互いに関連する異なる商品に常に配分されます。
それが、私にはできます。

do not express the value of the canvas in canvas. 20 cubits of canvas = 20 cubits of canvas is not a value expression. On the contrary, the equation says: Twenty cubits of linen are nothing but twenty cubits of canvas, a definite quantity of the commodity canvas.
しかし、キャンバスの価値をキャンバスに表現しないでください。 20キュビットのキャンバス= 20キュビットのキャンバスは、価値表現ではありません。
それどころかそれでは、方程式に次のように書かれてしまいます:20キュビットのリネンは、商品キャンバスの一定量のキャンバスの20キュビットに過ぎません。

The value of the canvas can therefore only be expressed in relative terms, i. in other goods. The relative value form of the canvas, therefore, implies that any other commodity is in the equivalent form opposite it.
したがって、キャンバスの値は、相対的な表現でしか表現できません。 他の商品でですね。したがって、キャンバスの相対的価値形式は、他の商品がそれとは反対の形態であることを意味<既存訳 前提>します。
  <リンネルの価値表現において、両極の価値形式があるーーことを説明、
  するのであり、そのとき、オートバイが、前輪ではなくウイリーをして
  後輪だけで名人が操っている、ことを指して後輪が前提だ!と称する事
  ができるでしょうか?
  そのことが、両極の価値形態をここで題材にしているときに、
   <キャンバスの値は、相対的な表現でしか表現できません。
   他の商品でですね。>
  ーーとこのことを、両極が前提なのではなく、左極での行為とのみ見る
  歪曲をするならば、それは、等価形態が前提でなければ、リンネルの相
  対的価値表現ができない!事になってしまいます。
  それでは、次段落の等価物の役割が、
  ーー彼女は彼女の価値を表現していません。
    それは他の商品の価値表現にのみ材料を供給する。ーー
  が全く見えなくなってしまいます。
  上着のここでの役立ちが、単に価値表現の材料としての役立ちなのでは
  なく、等価物としての受け身の役立ちーーなのであります。>

On the other hand, this other commodity, which figures as an equivalent, can not be in relative value form at the same time. Not she expresses her value. It supplies the material only to the value expression of other goods.
他方では、これと同等であるこの他の商品は、同時に相対価値形式にすることはできません。 彼女は彼女の価値を表現していません。 それは他の商品の価値表現にのみ材料を供給する。
   <4段落は、略>
  2 相対的価値形態
   a相対的価値形態の内実
 ①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、最初にその商品の量的側面とは無関係に考えなければならない。 ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。 異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表現が同じ名前のものであり、それゆえ相応の量である。 (17)
 ①In order to find out how the simple value of a commodity lies in the value of two commodities, one must first consider the latter quite independently of its quantitative side. In most cases, one behaves in the opposite direction and sees in the value relation only the proportion in which certain Quanta of two kinds of goods are equal to one another. It is overlooked that the magnitudes of different things first become quantitatively comparable after their reduction to the same unity. Only as expressions of the same unit are they of the same name, hence commensurable quantities. (17)

 ②キャンバスが20キュビット= 1コートか= 20スカートかどうか、つまりキャンバスの量が多くても少数であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートが同じ単位の表現であることを意味しますし 、同じ性質のものがあります。 キャンバス=ロックは方程式の基礎です。
 ②Whether 20 cubits of canvas = 1 coat or = 20 or = x skirts, that is, whether a given quantity of canvas is worth many or a few skirts, each such proportion always implies that canvas and skirts as values are expressions of the same unity, things of the same nature are. Canvas = Rock is the basis of the equation.

 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
  キャンバスの値だけが表現されます。 そしてどうやって?
 彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。
  この関係では、岩石は値として価値の存在形態とみなされます。 その理由は、それがキャンバスと同じであるからです。
 一方、キャンバスの独自の価値は、独立した表現をもたらします。
 これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩に関連する価値があるためです。
 ③But the two qualitatively equal goods do not play the same role. Only the value of the canvas is expressed. And how? Through her relationship to rock as her "equivalent" or "interchangeable" with her. In this relationship, rock is regarded as the existence of value, as value, for only as such is it the same as the canvas. On the other hand, the own value of the canvas comes to the fore or receives an independent expression, for only as a value is it related to the rock as equivalent or with it exchangeable.
 例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。 しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。 酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。 ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。
For example, butyric acid is a different body from propyl. Both, however, consist of the same chemical substances - carbon (C), hydrogen (H) and oxygen (O), in the same percentage composition, namely C4H8O2. If the butyric acid were equated with the propyl formate, the propyl formate would in this case be merely an existence of C4H8O2, and secondly it would be said that the butyric acid also consists of C4H8O2. By equating the propyl formate with the butyric acid, its chemical substance would be different from its body shape.

 ④商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであるので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、自然な形とは異なる価値形態を与えないと言います。 ある商品の価値が別の商品とは異なります。 その価値性格<価値キャラクター>は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。
 ④Let us say: as goods the goods are mere jellies of human labor, so our analysis reduces them to the abstraction of value, but gives them no value-form different from their natural forms. Different in the value of one commodity to another. Its value-character emerges here through its own relation to the other commodity.
  <第五段落は。原文のドイツ語文を提示してみました。>
⑤-① 独訳 Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit.
 ①加えて、例えば、 もし岩がキャンバスの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバスを作る織りの一つと同じーーであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。
By e.g. If rock is equated with the value of the canvas, the work in it is equated with the work in it. Now, the dressmaking that makes the skirt, one of the weaving that makes the canvas, is different concrete work.
 ②die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit.
しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを還元します。
the equation with weaving actually reduces the tailoring to what is really the same in both works, to their common character of human labor.
 ③Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることでは、仕立てという顕著な<有用労働の>特徴を持たないので、すなわち抽象的な人間労働と語られています。
On this detour it is then said that weaving, if it weaves value, has no distinguishing features of tailoring, that is, abstract human labor.
 ④Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a)
 実際に、様々な商品に関わる様々な種類の労働を共通の一般的な人間の労働に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造の労働の特定の性格を引き出す。 17a
Only the expression of equivalence of different commodities brings out the specific character of value-creating labor, by actually reducing the various kinds of work involved in the various commodities to their common, human labor in general.17a

 久留間先生は、1~5段落を引用して、こう述べるのです。
 「ここでわれわれが何よりもまず注意をしなければならないことは、20エレのリンネル=1枚の上衣、あるいは20エレのリンネルは一枚の上衣に値する、という価値方程式において、リンネルはいきなり自分を上衣に等置することによって上衣に価値物としての、すなわち抽象的人間労働の直接的な体化物としての、形態規定をあたえ、そうした上ではじめて、この価値物としての定在における上衣の自然形態、自分の価値を表現しているのだということである。
 こういう廻り道をしないでは、商品は価値形態をもつことが出来ないのである。
リンネルは、いきなり自分を上衣に等置することによって、すなわち自分は上衣に等しいのだと自称することによって、自分を価値物にすることはできない。それでは単なる独りよがりになってしまう。
 他面において、リンネルが上衣の自然形態で価値を表わしうるためには、すなわち上衣の自然形態そのものを自らの価値形態にしうるためには、あらかじめ上衣が価値物としての定在を与えられていなければならぬ。
 言葉をかえていえば、上衣の自然形態がそのまま抽象的人間労働の体化物を意味するものとされていなければならぬ。そしてそれは、リンネルが上衣を自らに等置することによって行われるのである。
リンネルは、自分は上衣に等しいのだと自称することによって、自分を価値物にすることは出来ないが、上衣は自分に等しいのだと宣言することによって上衣を価値物(・・・)にすることはできる。
 そこで、リンネルは、かようにして上衣を価値物にしたうえで、自分は価値としては上衣と同じなのだ、ということによって、上衣の形態において、自分自身の価値性格を表現するのである。
すなわち、その使用価値の形態であるところの自然形態からー(略)ー区別された価値形態をもつことになるのである。」(『価値形態論と交換過程論』P56~57)

ーー久留間先生は、この5段落を次のように誤解をしている。ーー
 ①「価値方程式において、」ならば、上着は等価物としてリネンに等置されているーーのですから、上着は価値の規定の下に既にあるのです。
 何故か?
3段落ー「岩石は値としての価値存在形態とみなされます」との規定にあるからです。そのことで、上着は価値とみなされています。
もう一度
 上着は等価物であり、価値として想定された規定の下にあるーーのですから先生の述べることは、この前提を消して、相対的価値表現の第一歩の左極での条件を、排除しています。
 上着は価値としてリネンに等置される、・・この第一歩を、先生は排除して別の条件である、交換関係を、ここに提示しているのです。交換関係であれば、この肝心のリンネルの価値存在の表現があって、上着が価値の存在形態と示され、上着が価値であることを示すーー商品の行う反省規定ーーは捨象されるのです。
 ②上着が価値として、リネンに<直接的に>等置されるならば、そのままに上着は、自身の価値存在を現出させるーーのだから>上衣は直接的にその自然的形態のままに、価値形態と規定される、のは明らかです。
 ここでの「上衣を自分に等置することによって・・・すなわち抽象的人間労働の直接な体化物としての形態規定をあたえ、・・」でも同じくであり、この規定の仕方は、上衣が等価形態となるときに規定される仕方であります。
 媒介的なのですとは?ーー上着が「廻り道」をして媒介的に価値としてリネンに等置されていますが、その意味が何か?であります。
 ③リネンの交換関係においてならば、上着は使用価値として等置される量的関係でしかありません。
 リネンの上着との価値関係においては、リネンが価値であるのは、
aその両者の同等性がーー人間労動と示され、
b上着・裁縫労動はリネンからの反省規定で、<廻り道>をして、媒介的に両者に共通な抽象的人間労働とされるーーことで、上着は価値とされていることで、この反省規定があることで、やっとリネンは価値であるのです。
 ④「上衣を自分に等置することによって上衣に価値物としての、定在における上衣の自然形態」ーーであることで、と示すことで、先生は、媒介されたリネンの価値表現と、直接的に上着が価値形態とされることとを、混同した。ここには、上記に示された、ー-上着が価値としてリネンに等置されるーー上着の等価物としての役立ちが、二つあり、媒介的なのか、直接的なのか、の区別への追求が無いのです。
 ー-上着が価値として役立つ、この媒介性ーーをまず3・5段落で、追求しています。
 ⑤上着に、「抽象的人間労働の直接な体化物としての形態規定をあたえ、」たのであれば、裁縫労動は直接的に抽象的人間労働の実現形態へと転化ーーしており、等価形態の第二の独自性、を示すことになってしまいます。ここではそのことは問題にはなっていません。
 ⑥どうしてーー久留間先生はこんな誤解をしたのか?
 「・・右の方程式の例においてリンネルはまず自分を上着に等置しているのではなくて、上着を自分に等置することによって、上着を価値物にしているのだ、ということにあるのであるがーー」(P57~58)
と誤りをば述べながら、その次のページでは、正しくこう述べるのです。
「・・「上着を価値として自らに等置し」と訳すべきであることは、一見明らかであるとおもう。」(P59)ーーと。

  もう少し、初版のこの4段落を追求しておこう。
 「・リンネルが価値としての上着を自分に等置<「リネンは価値としての上着に自分を等置--江夏・今村訳--と全く逆の訳出>しながら、他方同時に、自分を使用対象としての上着から区別することによって、上着はリンネル物体に対立するリンネル価値の現象<出現>形態となり、リンネルの自然形態とは区別されるリンネルの価値形態となるのである。」(『マルクス経済学レキシコン』No11榎原さんの本からの孫引き)
ーーこのように、続く5段落冒頭、あるいはその前の2段落と同じく、等価形態について論じているのではなく、リンネルの価値形態の形成について語ることで、相対的価値形態の形成につながる事柄を述べています。マルクスは、3段落での二つの筋道・論理があるように、ここでの、2・4段落の事柄で無視される点をこそ、繰り返しています。
  それは、次のことであります。
 2ーー「・・上着で表現することによってリネンは自分の価値存在に、自分の直接的な現世の姿とは区別された価値形態を与える。このようにリネンは自分自身の内部を二分したものとして表現する<使用価値と価値形態ーーとして・杉本註>ことによってはじめて、自分を現実に商品としてーー有用であるとともに価値でもある物としてーー表現する。・・・」
   <これと同じことが、続く4段落に、こう述べられています。>
 4ーー「リンネルが価値としての上着を自分に等置しながら、他方同時に、自分を使用対象としての上着から区別する」ーーとは2段落の言い換えなのです。
従って、ここは、2段落と同じ事柄が、人のなす理解に対しての<物象の判断>としてーー述べられているのだから、リンネル織りが「人間労動の物的表出」<第4版との共通性を示している>を表す、だけではなく、リンネルの価値形態の形成にまで、論究しています。
このように、相対的価値形態の形成の方向性において、リンネルの価値形態が物象の判断として、使用価値ではなく<商品上着>とのかかわりのなかで示されていたのです。
ここで、<上着が価値形態を受けとる>ーーのは、物象世界の転倒象なのです。
 <先生の初版での廻り道の誤解については、次を参照願います>
      https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1647?
   ⑦ー①
   ⑬製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。
  <再版に戻ります。>
 ⑦先生は、後者では、正しく述べながら、それを、論じている条件が、
<a相対的価値形態の内実>での①化学式の3段落に続く、②価値抽象の批判として「その価値性格<価値キャラクター>は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます」
との再版4段落の提起・条件を無視したことで<価値形態>とここを誤読・誤解したのではないか?
「上衣の形態において、自分自身の価値性格を表現するのである。すなわち、その使用価値の形態であるところの自然形態からーー(略)ーー区別された価値形態をもつ」ーーと。全く逆の理解をしたのです。
 すなわち、上着は価値形態であると、全く正反対の理解を示したのです。これでは、上着は自然的形態でありながら価値形態を示すーー等価形態と、先生は、誤解したのであります。
そして次に、③この5段落での、ーー
「織り方が方程式を示すと、実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを還元」ーーを、その価値形態の下での、人間労動の表示が、等価形態の下での表示だから、上衣にーー「抽象的人間労働の直接な体化物としての形態規定をあたえ、」たーーと読んだ、と思います。
 未だ規定されていない、提起されていない「価値形態」を、4段落に見たのが、人々がどうこの事柄を批判すべきなのか?どうにも理解できなかった、ことなのであります。
 ⑧価値関係にて、まずーその価値性格ーが問題にされているのに、先生は、等価形態こそが論じる対象だとして前段に置き、初版の誤訳の廻り道を例証にしています。
 彼の論拠の全ては、初版の回り道ーーの誤解に基づくものなのです。なんとも、自分の正しさの例証としたことが、誤解なのであります。
そして、7段落の廻り道の論証を、戻って、6段落にてもそうだと示し、その延長に、<等価形態を論ずる延長として>4段落を提示することで、そこで論じられているーーマルクスの肝心要の、相対的価値形態の形成の方向での、その内実であるーー物象の社会的関係ーー<註18>
が、ここに示されていることを、正しい長谷部訳をも、誤訳として、排除しているのです。
 ⑨しかし、江夏訳初版の名誉のためにも、この初版第二段落にては、正しくこう記述されています。
「リンネルは、自分の価値量・・・を上着で表現することによって、自分の価値存在に自分の直接的存在とは区別される価値形態を与える。」(『初版』 江夏訳 P35 原P16 )
 これが当然の理路ではないですか?
リンネルが価値存在を表現し、上着は価値の存在形態ーーであれば、リンネルはこの相対的価値形態の形成において、まず、自らの価値形態を、表現するのです。
上着が価値形態を受けとるのであれば、これ、等価形態での出来事なのです。
 ⑩この5段落を巡る久留間先生のこの意見は、労働者のなかに広く普及しており、彼の意見ををよく代弁するのが、次の 資本論を読む会 広島の商品の価値実体への次の理解であるので、紹介します。

http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=15
  「読む会」だより(16年3月用) 2016年3月24日
  3)商品に表わされる労働の二重性について
   ・・・・・・・・・・・・
あるいは有用労働も人間労働力一般の発現として見ればどのように質が違っていても同じものだと言うのです(ちなみにこれが「価値規定」すなわち「価値の質的な規定」ということで、これにもとづいて「価値の量的な規定」も出てきます)。種々の有用労働は、その種々の質のままでは量的に比較されることはできません。だからそれらの労働は同質で大きさだけが異なる労働に還元されることではじめて社会の総労働の一部としての性格を受け取ることができるが、これが価値として表現される場合の労働だと言うのです。
言い換えれば、商品の価値として表現される場合の労働は、同質な人間労働力一般の発現に還元されたものとして見られた労働であり、人々の社会的な関係とその中での労働の社会的な属性を表現するものだと言うのです。(第1項で触れたように諸労働が社会的労働として存在するあり方はそれぞれの社会に固有です。資本主義社会以前には労働そのものの具体的姿において社会的労働であり得たのに対して、発展した商品生産を基礎にしている資本主義社会にあってはそうではありません。後に触れていくように、ここでは労働そのものの具体的姿でではなくて、それが同質な抽象的労働としての姿をもつことではじめて社会的な労働となりえます。そしてこのことがいわば貨幣の必然性をなしているのです。)
  <杉本--再版 c一般的価値形態  1価値形態の変化した性格 の
  9段落には次ように述べられています。
  「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現する一般的
  な価値形態」--であることで、量的な価値等式が通用し、社会的実体が
  「労働」であることが証明されていると、示されています。
  ⑨諸労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現する一般的
  な価値形態は、それが商品世界の社会的表現であるということを、それ自
  体の枠組みを使って示している。したがって、この世界の中では、一般的
  に人間労働がその具体的な社会的性格を形成していることが明らかになっ
  た。原P81
  <このように、一般的価値形態が構成されて、やっと、そのことで、
  「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現する」こと
  が出来るのです。>

  そして、次に「廻り道」の解説であります
  http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=14
  第3項 商品の「価値形態」とは何か の2回目

  <彼らは、上記ーー5段落を引用したあとに、こう解説します。>
「ここでは、価値を表現しようとする側のリンネルではなくて、それに等置される側の上着に含まれる具体的有用労働が事実上人間労働に還元され、したがって上着は特殊な使用価値としてではなくて、価値=人間労働のひとつの実現形態としてのみリンネルに取り扱われるということが、決定的に重要です。
というのも、このことによって、上着によるリンネルの価値の表現は、たしかに右辺の上着を価値として取り扱い、つまりそれがリンネルと“無条件に”交換可能だという性格(直接的交換可能性=貨幣性格)を与えます。
しかしながら左辺のリンネル自身は、その価値の上着での表現によっても自分に含まれる織布労働が人間労働に還元されるわけではないのですから、リンネルという特殊な使用価値から脱皮しているわけではありません。
したがってリンネルはその価値を上着で表現したといっても、それはただ上着を観念的に自分に等置したということであって、そのことによってリンネル自身が上着との直接的交換可能性をもつというわけでは決してないからです。
言い換えれば、ある商品が別の商品との直接的交換可能性をもつのは、すなわち貨幣としての機能をもつのは、それが特殊な使用価値であるからというわけではなくて、ただ他の商品がそれで自分の価値を表現するからにほかなりません。このことは貨幣の理解にとって極めて重要な事柄です。2016年5月22日」

 <杉本の批判--「織り方が方程式を示すと、実際にはどちらの仕事でも、人
 間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを還元しています。」ーー
 と原文に述べています。引用された訳文でも、織布との等置は、
 裁縫を「両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通
 な性格に、還元する」ーーとあります。
 --両方に等しいものに還元する--のですから、等置する側も、される側も
 両方の共通者である、人間労動に還元しています。
 そして次の廻り道が示されていました。

  ③Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることでは、仕立てという顕著な<有用労働の>特徴を持たないので、すなわち抽象的な人間労働と語られています。

 どうして、上着を縫い上げる裁縫労動だけが、人間労動に還元されるとーー
 彼らは理解--誤解をしたのか?
 それは、この人間労働に還元した後の-廻り道-を、次の理解をしたためです。
 リンネルに対して上着は、直接的交換可能性--を示す、上着は等価形態であ
 るのが、相対的価値形態の形成過程においても前提である、ーーとの理解から
 なのです。
 ーーしかし、前節の 1価値表現の両極ーー相対的価値形態と等価形態は、単
 なる見取り図であり等価形態が前提と述べているのではありません。
 この内実論の最終の⑪段落で示されているように、やっと等価形態ではなく、
 相対的価値形態を受けとる、との記述です。
 ではーー見取り図を示さないで論理展開をしている初版ではどうでしたか?
 ーーリンネルが、「廻り道」をすることで、商品形態を受けとれたのだから、
 その経過のなかで、リンネルは価値形態を受けとることで、そのことが出来た、
 と示されています。
 久留間先生の論理は、商品形態が如何にして成立したのか?それは、この廻り
 道を消去することで、相対的価値形態の成立の筋道のなかに依る--ことを不
 問にしたものであり、等価形態の成立ばかりを追求するものであり、労動生産
 物の商品への転化とは?この何故?ーーを不問にするイデオロギーであったの
 です。
 ドイツ語ペラペラの先生としては、この誤訳を知っていたのではないか?
 このこの回り道を経過したーーことでの左極でのリンネルの価値形態の成立に
 ついて、この7段落の後に、明快にマルクスは述べています。けして右極の形
 態や、両極が前提になど、なっていません。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ⑥しかし、キャンバスの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。比喩的な形で凝固した状態で値をとる。
キャンバスの価値を人間の労働のゼリーとして表現するためには、それはキャンバス自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」<「対象性」ではない>として表現されなければならない。タスク<課題>はすでに解決されています。
 ⑥However, it is not enough to express the specific character of the work, which is the value of the canvas. Human labor in the liquid state or human labor makes value, but is not worth. It becomes value in a coagulated state, in figurative form. In order to express the canvas value as a jelly of human labor, it must be expressed as an "objectivity" which is in fact different from the canvas itself and at the same time common to other commodities. The task has already been solved.
   <http://content.csbs.utah.edu/~ehrbar/cap1.pdf
 ⑦リネンの価値関係では、リネンと同質のものとして、コートはリネンと同等のものとしてカウントされます。
したがって、値であるため、価値は明示されるものとしてカウントされます。その有形の手書き形式で、価値を表しています。
しかし、商品そのもののコートは、コートそのものは純粋に使用価値です。コートは、私たちが出会った最初のリネンよりも価値を表現していません。
これは、外側のものよりも金の編組された制服の中でもっと多くの人がカウントするのと同じように、それが外側よりもリネンとの価値関係の内側にあるときにはコートが重要であることを証明しています。
 ⑦In the value relation of the linen, the coat counts as a thing qualitatively equalto the linen, as a thing of the same nature as linen, because it is a value. ist.It counts therefore as a thing in which value manifests itself, or which, in its tangible handgreiflibodily form, represents value.
Yet the coat itself, the body of the commod-ity “coat,” is purely a use-value. A coat does  not express value any more than does the first piece of linen we come across.
This proves only that the coat counts forwhen inside the value relation with the linen than outside it, just as many a human counts for more when inside a gold-braided uniform than outside it.
 ⑧コートの生産では、仕立ての形の人力が実際に費やされた。 その結果、人間労働はコートに蓄積されます。
コートは、「価値のキャリア」ですが、コートはどこにでもあります。
 ⑧In the production of the coat, hu- man labor-power, in the shape of tailoring,was in actual fact expended. Consequently, human labor is accumulated the coat.By virtue of this, the coat is a ‘carrier of ¨value’, although this property does not show through anywhere, even where the coat is at its most threadbare.
そして、リネンの価値関係では、コートはこの側面の下でしかカウントせず、従って価値の化身として具現化された価値として数えます。 そのボタンアップされた外観にもかかわらず、リネンは豪華な - 価値の魂をコートで認識しています。
しかし、コートは、リネンの価値を表すものではなく、後者の場合には同時にコートの形状をとるものでなければならない。
And in the value relation of the linen, the coat counts only under this aspect, counts therefore as embodied value, as incarnation of value. Despite its buttoned-up appearance, the linen recognizes in the coat a splendid - the soul of value.
The coat, however, cannot represent value towards the linen unless value, for the latter, at the same time assumes the shape of a coat.
例えば、個人Aは、他の個人Bにとっては「あなたの威厳」になることはできません.Bの目の中では威厳を失わずに、Aの物理的な形状を仮定し、さらに、ファンションや髪の毛やその他多くのものを変えます新しい--new ‘father of his people--「人々の父」が生まれました。
An individual, A, for instance, cannot be ‘your majesty’ to another individual, B, un- less majesty in B’s eyes assumes the physi- cal shape of A, and, moreover, changes fa-features, hair and many other things,with every new ‘father of his people’.

 ⑨-①したがって、コートがリネンを同等にする値の関係では、コートの身体形状は価値の形態としてカウントされる。
 ⑨-①Hence, in the value relation in which the coat is the linen’s equivalent, the bodily shape of the coat counts as form of value.
 <ここは価値関係との認識では、ーー転倒ーーの意味が全くわからない。
 単に値として上衣がリンネルに等しいー-との転倒した見解を、批判している。>
 <英文の比較をすることで、そのことが理解できる。価値関係との英文では、この批判が消える。>
 ー①したがって、コートがリネンを等価にする値の関係では、
  コートの身体形状は価値形態としてカウントされる
Hence, in the value relation in which the coat is the linen’s equivalent,the bodily shape of the coat counts as form of value.
  対して、
Hence, in a value relationship in which the coat equates to a linen cloth, the coat form is made into a value form in this way.
  したがって、コートが亜麻布の等価をなす価値関係においては、
  このように、コート形態は価値形態とされる。
 -②したがって、コットンリネンの価値は、コモディティコートの物理的な体内で表され、一方の値は他方の値で表される。使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。
価値として、それはコートと同じであり、したがって "コートのように見える。
The value of the commodity linen is therefore expressed in the physical body of the commodity coat, the value of one in the use-value of the other. As a use-value, the linen is something palpably different from the coat; as value, it is equal to the coat and ” therefore looks like a coat.
 -③こうして、リネンはその体の形とは異なる価値形態を得る。
Thus the linen acquires a value form different from its bod- ily form
 -④リネンの価値性格は、キリスト教徒の羊の性質が神の子羊と平等に示されているのと同じように、コートと同等であることが明らかです。
The value-character of linen is manifested in its equality with the coat, just as the sheep-nature of christians is manifested in their equality with the lamb of god.
 <この価値形態は、宗教的形態のなかで、上衣が価値形態との転倒を示すなかで、
  リネンの価値形態ーーとなっている、ことが、最大限追求されています。
  世の理解は、常識的理解は、ここを、上衣が価値形態、と理解して憚らないのです。>

 次は、岩波文庫 向坂先生の訳です。P96~97
 上記訳とは逆の判読であり、異なるのです。これでは意味が理解できません。
 ①「上着が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態
 は価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上着なる商品
 の使用価値で表現されるのである。」
 <「上着が亜麻布の等価をなす価値関係においては、」であれば、このよう
 な転倒は起こらないのです。
 ② 「価値として、それはコートと同じであり、したがって "コートのように見える。」
 ーー 商品語ーー
 「使用価値としては、亜麻布は上着とは感覚的にちがった物である。
 価値としては、それは「上衣に等しいもの」であって、したがって、上衣に
 見えるのである。
 このようにして、亜麻布は、その自然的形態とはちがった価値形態を得る。」
 <商品語がここに示されているのではないか?ここでは、価値関係ではなく、
 同等性関係に転倒しているのです。
 「亜麻布は、その自然的形態とはちがった価値形態を得る」(岩波)
 「・・同等物であるという値の関係において、衣服の身体形状が価値形態として数えられる。」
  この商品語の転倒を経過して、次が起こっているのです。
  -③こうして、リネンはその体の形とは異なる価値形態を得る。(原文)
 <しかし人々は、ほぼ全て、商品語のままに、転倒したままに、上衣が価値形態ーーと理解。
 ここの理解-判読が、とても大切です。
 岩波-向坂先生のここでのこの訳であれば、転倒していないのです。
 上衣が、価値形態を受けとるから--転倒しているのであって、
 リンネルが価値形態を受けとるのであれば、相対的価値形態の形成に向かう
 ことが出来ますが、上衣が価値形態を受け取れば、その道筋は等価形態の形
 成に向かうことと、混同してしまうのです。
 マルクスの意図は、この混同批判にこそあるのだから、それを出来無くして
 しまう既存訳は、、全て誤訳ではなかろうか?>

 その価値たることが、上衣との同一性に現れること、ちょうどキリスト者の
 羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」
 (岩波文庫P96~97)

 ⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。 彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。 作品は、人間労働の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。
 ⑩One sees that everything that the analysis of the value of the commodity predicted for us, says the canvas itself, as soon as it enters into contact with other commodities, the skirt. Only she betrays her thoughts in her own familiar language, the language of the goods. To say that work forms its own value in the abstract quality of human labor, she says that rock, insofar as it is indifferent to it, is therefore worthy of the same work as the canvas.
その崇高な価値客観性<「価値対象性」の訳ではここでの意味が不明となる>がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。 ちなみに、商品の言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。 ドイツの「価値」は、 ロマネスクの時代の言葉であるvalere、valer、valoirよりも、商品Bと商品を同一にすることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいうまでもありません。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>
To say that its sublime value-objectivityis <価値客観性>different from its rigid body, she says that value looks like a rock, and therefore, as value, it resembles rock like an egg to another. By the way, the language of languages, besides Hebrew, has many more or less correct dialects. The German "value" expresses e.g. less striking than the Romanesque time word valere, valer, valoir, that equating the commodity B with the commodity is the proper value-expression of the commodity A. Paris is a fair trade! <Paris is worth a fair!>

 ⑪したがって、価値関係により、商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)商品Aとは、 価値体としての商品Bは、人間の仕事の素材として、自分の価値表現の素材に対する使用価値Bにします。 商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対的価値形態をしている。
 ⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.
 <最終的に「価値関係により、商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になる」
 ーーとまとめられています。8・9段落の主張の違いが、この整理にあるの
 ですから、上着が価値形態と商品語で示しながらも、最後の判断として、
 リンネルの価値形態--とまとめられています。>


  3. The equivalent form 3.同等の形式
 ①It has been seen that a commodity A (the canvas) expresses its value in the use-value of a different commodity B (the skirt), the latter itself expresses a peculiar form of value, that of the equivalent. The linen of the linen brings to light its own value by the fact that the skirt, without assuming a value form different from its body form, is indifferent to it. The canvas thus expresses its own value by the fact that the skirt is directly interchangeable with it. The equivalent form of a commodity is therefore the form of its immediate interchangeability with other commodities.
 ①商品A(キャンバス)は、異なる商品B(スカート)の使用価値にその価値を表し、後者はそれ自体が価値のある形、それと同等の価値を表現することが分かっている。リネンのリネンは、スカートが、その体型とは異なる価値形態をとることなく、それに無関心であるという事実によって、それ自身の価値を明るくする。したがって、キャンバスは、スカートがそれと直接交換可能であるという事実によって、それ自身の価値を表現する。したがって、同等の形態の商品は、他の商品との即時の互換性の形態です。

 ②If a kind of commodity, such as skirts, serves as an equivalent to another type of commodity, such as canvas, skirts are therefore given the characteristic property of being in an immediately exchangeable form with canvas, then there is in no way given the proportion in which skirts and canvas are interchangeable are. It depends on the value size of the skirts, given the value size of the canvas. Whether the rock is an equivalent and the canvas a relative value or vice versa the canvas is the equivalent and the rock a relative value, its value remains as determined by the labor time necessary for its production, that is, independent of its value form. But as soon as the commodity type Rock takes the place of the equivalent in the value expression, its value size does not receive an expression as a value size. Rather, in the equation of values, it figures only as a definite quantum of a thing.
 ②スカートのような一種の商品が、キャンバスのような別の商品と同等のものとして機能する場合、スカートはキャンバスとすぐに交換可能な形であるという特徴的な特性が与えられ、スカートとキャンバスは交換可能です。それは、キャンバスの値の大きさを考慮して、スカートの値の大きさに依存します。岩石が同等でキャンバスが相対値であるか逆であるかにかかわらず、キャンバスは同等であり、岩石は相対値であり、その値はその生産に必要な労働時間、すなわちその価値フォームとは無関係に決定される。しかし、商品タイプRockが値式で同等のものを使用した時点で、その値のサイズは値のサイズとして表現されません。むしろ、値の方程式では、それは事の明確な量子としてしか見えません。

 ③For example: 40 cubits of canvas are "worth" - what? 2 skirts. Because the commodity rock here plays the role of the equivalent, the use value Rock of the canvas opposite as Wertkörper, also a certain quantity of skirts is enough to express a certain quantum of value canvas. Two skirts, therefore, can measure the value of 40 cubits of canvas, but they can never express their own value, the size of skirts. The superficial view of this fact, that the equivalent in the equation of value always has only the form of a simple quantum of a thing, a use-value, has led Bailey, like many of his predecessors and successors, to regard the value-expression only as a quantitative relation. Rather, the equivalent form of a commodity does not contain a quantitative determination of value.
 ③例えば:40キュビットのキャンバスは「価値がある」 - 何ですか? 2つのスカートのですね。
ここの商品の岩は同等の役割を果たすので、Wertkörperと反対のキャンバスの使用価値Rockもまた一定量のスカートがある価値あるキャンバスを表現するのに十分です。
したがって、2つのスカートは40キュビットのキャンバスの価値を測定できますが、スカートのサイズという独自の価値を決して表現することはできません。
この方程式の等価物は、常に物事の単なる量、すなわち使用価値という形をとっているというこの事実の見通しは、前任者や後継者の多くと同様に、定量的な関係としてのみ発現する。
むしろ、同等形態の商品は、価値の定量的な決定を含まない。

 ④The first peculiarity that stands out when considering the equivalent form is this: Use value becomes the manifestation of its opposite, value.
 ④同等形態を考えるときに際立つ最初の特異性はこれです:使用価値はその反対価値の現れになります。

<71>
 ⑤ The natural form of the commodity becomes the value form. But, notabene, this quidproquo occurs for a commodity B (rock or wheat or iron, etc.) only within the value-relationship in which any other commodity A (canvas, etc.) comes to it, only within that relation. Since no commodity refers to itself as an equivalent, and therefore can not make its own natural skin the expression of its own value, it must refer to other commodity as an equivalent, or make the natural skin of another commodity its own value form.
 ⑤商品の自然な形態が価値形態になります。
しかし、notabene<注意すべきなのは>、このquidproquo<取り違え>は、他の商品A(キャンバスなど)がその関係の中でのみ生じるのであり、だから価値関係の中でのみ、商品B(岩または小麦または鉄など)に対してのみ生じるのです。
コモディティはそれ自体を同等物と呼んでいるわけではないので、独自の自然な肌を独自の価値で表現することはできないため、他のコモディティを同等物として参照するか、別のコモディティの自然な肌を独自の価値形態にする必要があります。

 ⑥This is illustrated by the example of a measure which belongs to the bodies of goods, that is, bodies of goods. as use values. A sugar loaf, because the body is heavy and therefore has weight, but you can not see or feel any sugar loaf its weight. We now take different pieces of iron whose weight is predetermined. The body-form of iron, considered in isolation, is no more manifestation of heaviness than that of sugarloaf. Nevertheless, to express the sugarloaf as gravity, we put it in a weight ratio to the iron. In this relationship, iron is considered a body that represents nothing but gravity. Iron quanta, therefore, serve as a measure of the weight of sugar and represent the sugar body in comparison to mere heavy form, manifestation of heaviness. This role is played by iron only within this ratio, in which the sugar or any other body whose weight is to be found enters it. If both things were not difficult, they could not enter into this relationship, and therefore one could not serve to express the severity of the other. If we both weigh ourselves on the balance, we see in fact that they are the same as gravity, and therefore in a certain proportion also of the same weight. Just as the iron body, as a measure of weight, is heavier than the sugar-cane, in our expression of value the rock-body represents only value to the canvas.
 ⑥これは、商品の本体、すなわち商品の本体に属する尺度の例で示されています。
使用価値としてです。体は重くて体重があるので、砂糖塊ではありますが、砂糖は体重を感じることはありません。
私たちは現在、体重があらかじめ決められているさまざまな鉄片を取ります。
孤立していると考えられている体の形の鉄は、もはや糖衣錠のそれよりも重さの表れではありません。

それにもかかわらず、サトウキビを重さとして表現するために、我々は鉄との重量比でそれを入れます。この関係では、鉄は重さだけを表す身体とみなされます。したがって、鉄の量は、砂糖の重量の尺度として役立ち、単なる重さの形態と比較して砂糖の体を表し、重さを表す。この役割は、この比の中でのみ鉄が果たします。この比では、砂糖または体重が検出される他の身体がそれに入ります。もし両方のことが困難でなければ、彼らはこの関係に入ることができず、したがって、他者の重量を表現することはできませんでした。

もし私たちが両方ともバランスの上で体重を測ると、彼らは重さと同じであり、したがって同じ重量の特定の割合であることが実際に分かります。鉄の体は、体重の尺度として、サトウキビよりも重いのと同じように、私たちの価値の表現では、岩体はキャンバスにとって価値があるだけです。

 ⑦Here, however, the analogy stops. In the weight expression of the sugarloaf, iron represents a nature shared by both bodies, their severity, while in the expression of value on canvas, rock represents a supernatural quality of both things: their value, something purely social.
 ⑦しかし、ここでは類推が止まる。サトウキビの体重表記では、鉄は両方の身体によって共有される性質、その重量度を表し、キャンバス上の価値の表現では、両方のものの超自然的な品質を表します:その価値、純粋に社会的なものです。

 ⑧By taking the relative shape of a commodity, e.g. the canvas, its value being something quite different from its body and its characteristics, e.g. as rock-like, this expression itself implies that it hides a social relationship. Conversely, with the equivalent form. It consists precisely in the fact that a commodity, like rock, this thing expresses as it does and stands, expresses value, and thus possesses value form by nature. To be sure, this is true only within the relation of value in which the linen is related to the rockware as an equivalent. (21)
 ⑧商品の相対的形状をとることによって、例えば、キャンバスはそのボディとその特性とはまったく異なるものです。岩のように、この表現そのものは、それが社会的関係を隠していることを暗示する。逆に、同等の形式で。それは、岩のような商品は、それが現れ、立つように表現し、価値を表し、したがって本質的に価値の形態を保有するという事実に正確に含まれます。確かに、これは、リネンがロックウェアに相当する値の関係内でのみ当てはまります。 (21)

But since qualities of a thing do not spring from its relation to other things, but only operate in such a relationship, rock also appears to be its equivalent form to possess its property of immediate interchangeability, just as much by nature as its property to be heavy or warm.

Hence the enigmatic of the equivalent form, which beats the bourgeois raw gaze of the political economist as soon as this form finishes facing him in the money.

Then he seeks to clarify the mystical character of gold and silver, by submitting to them less dazzling merchandise, and with ever renewed enjoyment to abandon the catalog of all the commodities which at that time played the role of the commodity equivalent. He does not suspect that even the simplest value expression, such as 20 cubits of canvas = 1 skirt, will solve the riddle of the equivalent form.
しかし、物の性質は他のものとの関係から湧き出るものではなく、そのような関係でのみ作用するので、岩もまた、ーー財産は重くて暖かいーーその性質と同じように、即座の交換性の性質を有する同等の形態であるように見えます。

それゆえに、この形態がお金の中で彼に直面するとすぐに、政治経済学者のブルジョア生の凝視を打ち負かす同等形態の謎です。

そして、金と銀の神秘的な性格を明らかにするために、あまり目立たない商品を提出し、その時に商品の役割を果たすすべての商品のカタログを放棄することを永遠に楽しみました。
彼は、20キュビットのキャンバス= 1スカートのような最も簡単な価値表現でさえ、同等形態の謎を解決するとは考えていない。

 ⑨The body of the commodity serving as its equivalent is always the embodiment of abstract human labor and is always the product of a certain useful, concrete work. This concrete work becomes the expression of abstract human work. If the skirt is for example as a mere realization, so the tailoring, which actually realizes in him, as a mere form of realization of abstract human labor. In the expressive value of the canvas, the usefulness of dressmaking is not that it makes clothes, and therefore also people, but that it makes a body that is seen to be of value, that is, a jelly of work that is not at all different from that in the Canvas value objectified work. To make such a value-level, tailoring itself need not reflect anything but its abstract quality of being human labor.
 ⑨その同等物として機能する商品の本体は、常に抽象的な人間の労働の実施形態であり、常に特定の有用で具体的な仕事の産物である。この具体的な作品は、抽象的な人間の仕事の表現になります。スカートが、例えば単なる実現である場合には、実際に彼の中で実現する仕立ては、抽象的人間労働実現の単なる形態である。

キャンバスの表現上の価値において、服飾の有用性は、衣服を作ることであり、それゆえに人々も作るが、それは価値のあるものと見られる身体を作ることであり、全くない仕事のゼリーCanvasの価値をオブジェクト化した作品とは異なります。そのような価値水準を作るために、それ自体を調整することは、人間の労働であるという抽象的な品質を反映する必要はありません。

 ⑩In the form of tailoring, as in the form of weaving, manpower is spent. Both therefore have the general characteristic of human labor and may therefore, in certain cases, e.g. in value production, only from this point of view come into consideration. All that is not mysterious. But in the value of the goods the thing is twisted. For example, To express that weaving is not weaving in its concrete form as weaving, but in its general quality as human labor, tailoring, the concrete work which produces the canvas equivalent, is contrasted with it as the tangible form of realization human work.
 ⑩仕立ての形では、織りのように、人力が費やされます。したがって、両方とも、人間の労働の一般的特徴を有し、したがって、場合によっては、例えば、価値の生産においては、この観点からのみ考慮される。すべてそれは神秘的ではありません。

しかし、商品の価値の中では物事はねじれている。例えば、織り方が織り方として具体的な形で製織されていないことを表現するために、人間の労働としての一般的な品質においては、キャンバス相当物を生産する具体的な作業は、現実化の人間の仕事の具体的な形とは対照的である。

 ⑪It is therefore a second peculiarity of the equivalent form that concrete work becomes the manifestation of its opposite, abstract human labor.
したがって、具体的な労働は、その反対の抽象的人間労働の実現形態になるというーー同等の形態の第二の特異性です。

 ⑫But this concrete work, tailoring, as the mere expression of indiscriminate human labor, possesses the form of equality with other labor, the labor inherent in canvas, and therefore, although private labor, like all other goods-producing labor, yet Work in direct social form. That is why it presents itself in a product that is directly interchangeable with other commodities. It is therefore a third peculiarity of the equivalent form that private work becomes the form of its opposite, to work in an immediately social form.
 ⑫しかし、この無差別な人間の労働の表現としての具体的な仕事は、他の労働との平等の形態、キャンバスに内在する労働、したがって他のすべての物産労働と同様に私的労働でもあるが、社会的形態なのです。それが他の商品と直接交換可能な商品の中に現れる理由です。

それゆえに、私的労働がその反対の形になり、すぐに社会的な形で働くという同等の形の第三の特異性です。

 ⑬The two most recently developed peculiarities of the equivalent form become even more comprehensible when we go back to the great researcher who first analyzed the value form, as did so many forms of thought, forms of society, and forms of nature. It is Aristotle.
 ⑬私たちが最初に価値形態を分析した偉大な研究者に戻ったとき、それほど多くの形の思考、社会の形態、自然の形態がそうであったように、同等の形態の最近開発された2つの特異性は、さらに理解しやすくなります。 それはアリストテレスです。

 ⑭First of all, Aristotle clearly states that the money form of the commodity is only the more developed form of the simple value form, ie. The expression of the value of a commodity in any other commodity, for it says:
 ⑭まず第一に、アリストテレスは、商品の貨幣形態は単純な価値形態のより発展した形に過ぎないことを明確に述べている。 それは他の商品の商品価値の表記です:

"5 Polster = 1 Haus"
Kliuai pente anti oik iaz
<Griechisch: Clinai pente anti oicias>
"unterscheidet sich nicht" von:
"5 Polster = soundso viel Geld"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
<Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>

 ⑮He further recognizes that the value-relation in which this expression of value is based in turn implies that the house is qualitatively equated with the upholstery, and that these sensually different things would not be correlated as commensurable quantities without such essential identity.

"The exchange," he says, "can not be without equality, but equality but not without commensurability" ("out isothz mh oushz summetria z"). But here he trims and gives up the further analysis of the value form.

"But in truth it is impossible (the men oun alhdeia adunaton) for so diverse things to be commensurable", i. are qualitatively the same. This equation can only be something foreign to the true nature of things, that is, only a "makeshift for the practical need."
 ⑮さらに、この価値関係は、家が室内装飾品と質的に同じであることを意味し、これらの感覚的に異なるものは、そのような本質的なアイデンティティーなしには、相応の量として相関付けられないことを意味する。
"交換は平等なしではできないが、平等性はない。"。
ここで彼は調整し、価値フォームのさらなる分析をあきらめます。
"しかし、実際には、相変わらず多様なものが相応していることは不可能です"。質的に同じです。
この方程式は、事実の本質にとって異質なもの、すなわち「実用的な必要性のための一時的なもの」に過ぎない。

 ⑯Aristotle thus tells us himself why his further analysis fails, namely the lack of the concept of value. What is the same, i. the communal substance, which presents the house for the upholstery in the value expression of the upholstery? Such a thing can not really exist, says Aristotle. Why? The house presents the same to the upholstery, as far as it presents in both the upholstery and the house, really the same. And that is - human work.
 ⑯アリストテレスは、なぜ彼のさらなる分析が失敗するのか、すなわち価値概念の欠如を自分自身で伝えています。同じものは何ですか?
室内装飾品の価値表現において室内装飾品のための家を提示する共同体物質ですと?そのようなものごとは実際には存在しないとアリストテレスは言う。
どうしてか?家は室内装飾品と家の両方に現れる限り、室内装飾品に同じものを提示します。
And that is - human work.
それは人間労働です。

 ⑰But that in the form of commodity values ??all labor is expressed as equal human labor and therefore as equal, Aristotle could not extract himself from the value-form itself, because Greek society was based on slave labor, hence the inequality of men and their labor-power had a natural basis. The secret of the expression of value, the equality and equal validity of all labor, because and insofar as they are human labor in general, can only be deciphered as soon as the concept of human equality already possesses the firmness of a national prejudice. But this is only possible in a society in which the commodity form is the general form of the labor product, and thus also the relation of the people to each other as commodity owners the prevailing social relation. The genius of Aristotle shines in the fact that he discovers an equality in the expression of the value of the goods. Only the historical barrier of the society in which he lived prevents him from finding out what "in truth" this relationship of equality consists of.
 ⑰しかし、商品の価値では、すべての労働は平等な人間の労働として表現され、それゆえにアリストテレスは価値形態そのものから、そのことを見出せませんでした。
なぜなら、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいていたからです。彼らの労働は自然な基盤を持っていました。
価値表現の秘密、すべての労働の平等と同等の妥当性は、一般に人間労働であるため、人間の平等の概念がすでに民衆の偏見を抱いている場合にのみ、解読することができます。
しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態である社会においてのみ可能であり、したがって、商品所有者としての人々の関係も支配的な社会関係であるばあいです。
アリストテレスの天才は、商品の価値表現において平等を発見するという事実に輝いています。彼が住んでいた社会の歴史的障壁だけが、この「平等」の関係が「真実」であることを知ることを妨げている。

  4. Das Ganze der einfache Wertform

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 知事に特権として暴走容認の数々

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 9月 8日(土)00時25分43秒
返信・引用
   知事に特権として暴走容認の数々
 法務局は知事に暴走目こぼし権なんかないと言ってそれ以外は一言も答えなくどうしても暴走容認になる。友の会を辞めた時は自立支援法が廃止になって間もないときに辞めた為それを悪用されたことになる。そして親を馬鹿にしたまま関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体ね行かせない。社会参加は12年で12回の妨害です。
 法務省は10回も意見言って数日で返事どころか2ヶ月も一つも来ない。法務局にしても逢って話すことにこだわっているのは口約束で揉み潰したいからですか。まさしくばれなければいいとする形です。
 司法がメール妨害したのも知事をかばう形です。
 掲示板に実名で書くなと言ってもかん口令を逆手にとって書きたい放題にし、批判も反論も12年一つも来ていない。来たのは妨害だけ。止めたい理由の本音は一部が外国に流れているから世界に非難されるのを防ぎたいからになる。
 手紙で話した分だけ意見があるのに知事をかばう暴走目こぼし権なんか無いと言う以外一つも来ていない。口約束として揉み潰しやすいからでしょう。
 それとも親を馬鹿と認めないからと言う理屈で逮捕するのですか。
 看板団体の暴走隠しだけなら判るとしても差別、妨害のやりたい放題です。 しかも通訳差別も3年前から続けている。情報センターさえ貸出し拒否が10ヶ月続いています。盲ろう者だと言うのに3年前通訳介助チケットを再開しても一枚も使わせな(通訳を貸さない)。今年はまだ発行しない。
 強権と言うより暴拳。人権を守る立場で破壊を容認している。
 擁護係りは法務省から県庁相手の見解を聞いているらしく町で悪口の噂を流している人の悪口を止め、ついでに法務省の見解も話したこと。此方には諦めろと言うだけで他は見解も何も聞いていない。
ってもやり過ぎです。法務省はたかが障害者の一人くらいとしか見ていない。
 それより県の看板を守ろうとする知事はともかく小笠原さんのやることはボランティアのやることでない。ろうあ協会会長石川君は障害者で知恵遅れから来たこと。簡単に許されて余計無責任になんる。
 親を馬鹿と言う片割れ小笠原夫妻のいる北上の社協に宛て知事命令で無視なら再び全国に名誉市民だと知らせます。金はかかっても法務省のネズミ捕りに
は引っかからない。
 そしてクラスメートが産業課の課長だったことから親父の記録をコピーして貰いこれも送ります。7年ほど前は県庁にも届けたが突っ返して来た。今度はどうか。それから下の文は上に追加して水沢のサークル会長のいる奥州市社協に送ったものです。馬鹿でも真似出来ますか。
 最低でも小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放を。小野寺良子さんは大本家に謝罪に来ればいいとします。
 それに聾唖者の社会の常識論とは一人で考えたと思えない。オーバーに喋り嘘も方便式にけしかけたとすれば小笠原さんの仕業でないか。それも聾唖者の社会は上辺しか知らない人が常識論をぶち上げていた。嘘も方便の社会です。 聾唖者の大半は通訳を見習って常識を覚えていく。


 

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