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  初版での一般的価値形態ーー一般的相対的価値形態の形成の理解を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月18日(日)17時42分42秒
  通報 返信・引用 編集済
    初版三段落からです。
  Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態
  <初版での3段落の提示>
・・・・・・リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、
この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価
値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。
だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
一般的 実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、
まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべて
の労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、
というかぎりにおいてのことなのである。〉
(原P27~28 江夏訳49頁)

  ここにマルクスの我々への質問、我々が疑問を持って、執拗に探求することへの要求があります。
  物象のこの段階での判断がどう展開するのか?をこそ、ここに見極めようーーと提示しています。
  ①<リンネルが一般的な等価物になるとーこの使用価値は、すべての他商品の一般的な価値形態>
  ②<この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
   一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められている・・・>
   ーーこの事柄の解決が要求されているのです。

  しかし、再版では次の解決がなされていました。そのことを理解し、再度確認します。
  ②一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特
   徴、一般に人間の労働力の支出に還元することである。
  では、この上記の解決が、初版の何処にて、どうなされているのか?探してみます。

  <初版での4・6段落の提示>
 4段落・・・・・・・・・・・・・・・・
たんなる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品としてたがいに関係
させることができ、したがって、社会的関係の中に置くことができるのである。ところが、これこそ
は商品の価値なのである。だから諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められてい
るところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値
形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であ
るならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的
な形態を、もっていることになる。〉(原P28 江夏訳50頁)
   第一の形態五段落
   ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
   という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ
   認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そ
   のなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)
   (初版原P18 江夏訳P37)
   <杉本 註 交換可能性の形態は、第一の形態で規定されていた>
 6段落・・・・・・・・・・・・・・・・
上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態
であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。
だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、
という結果になる。
逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形
態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、
20エレのリンネル=20エレのリンネルであろう。(原P29 江夏訳51~52)

  <杉本  上記の初版4段落の提示は明快であります。>
  ①等価物リンネルが価値であり、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態とな
  ることで、それは、商品の社会的形態・価値形態・交換可能性の形態を、左極にて受け取り、
  ②等価物リンネルが、自然的形態・使用価値の姿のままに、「ある商品の現物形態が同時に価
  値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがっ
  て直接的に社会的な形態を、もっいる」ーーと、今度は右極での規定の提示をした。
   次に今度は、六段落にて、次の明快な規定をうけとったのです。
  ③上記の左極・右極の対立した規定が、上記① ②の併存した・同時依存の規定の第一・二の
  規定として受け取るのか?ーーとの質問をマルクスは我々に発しているのです。一般的価値形
  態の成立は、一般的相対的価値形態の成立をもたらすが、第一・二の形態と同じようには等価
  形態の成立を成し得ないのです。一般的等価形態は、この両極の対立を、第一・二の形態での
  <同時依存>からではなく、等価物リンネルが<一般的な相対的価値形態から排除される>ー
  ーーことで受け取る、との我々へのマルクスの質問への答えが、ここにはあるのです。
  ④しかし、初版本文ではその次に、このように上記の三段落ーー六段落への説明をしています。

  <初版ーー7段落>
 諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物
形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。
そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定され
た割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。
 なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々であ
れば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。
 すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は
互いに価値量として映りあっているのである。
 ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、
こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているの
である。
だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。
つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社
会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。
逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネ
ルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直
接的にリンネルの一般的・社会的形態になるわけである。〉(原P30 江夏訳52頁)

  <杉本 上記に① ② ③との論理進行を見出すならば、ーー「こういった回り道を経ての
  み、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められている」ーーとの驚きに満
  ちた驚愕の説明を理解できる。同じ説明は、初版付録でも同じくなされている。>

   (三)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係
  単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、
この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは
現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取ら
ない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のす
べての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。
こうすることによって(「このような回り道を通って、」今村訳P333)  こののけものにされた
商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。
  (初版付録 原P779~P780 江夏訳901~902頁)

  この回り道で示されている同じことが、まずは第一の形態の七段落でも提起されていたのです。
  「この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、と
  いうかぎりにおいてのことでしかない。」(初版原P20~21 江夏訳P39~40)
  上記に示していることを、<資料2>を示しておきます。

   しかし、この次の第三形態でのマルクスの提示は、
  「逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、
  リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、」
  ーーとは、次のようにしか人々には、理解できていない。
    しかし、「価値の現象形態として認められている」ーーのは、回り道を経てではなく、
  リンネルは等価形態として、直接的に自然的形態のままに価値形態とされていたのであるから、
  との誤った論理がどうしてもたってしまうのです。
  だから、堺の先生は、次のように、再版6段落そして、初版7段落の説明をなすのです。>

   第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/957c3d5b7dfa87f3634e1b621b846af9
  「商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、そ
  の物的存在でしかありません。だから一般に商品はその使用価値のままでは直接には交換でき
  ないのです。だから、それができるようになるためには、それが他の商品と同じものであるこ
  とを示す必要があり、それがすなわちその商品の価値なわけです。
  商品は自らの価値を目に見える形で表現して、その現物形態が価値そのものであるものに転換
  してこそ、他の諸商品と直接に交換可能なもの、直接に社会的に妥当な形態を獲得することが
  できます。そしてそうした現物形態が価値そのものを表すものこそ、すなわち等価形態であ
  り、そうした商品世界から排除された唯一の例外的存在が、すなわち一般的等価形態だという
  ことです。」

   英明な堺の先生にしての初歩的・根本的な誤りは、下記の次のところの認識にあります。
  「商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、そ
  の物的存在でしかありません。」
  しかし、ここで問題にされているのは第一の形態ではなく、第三の形態であり、商品は物象で
  あり、そして価値関係とは?ーー物的関係ではなく物象の社会関係であり、この関係を見出す
  ことができたなら、商品は単に、堺の先生の述べる「商品の価値」と規定されているだけでは
  ありません。

  a 再版では、a相対的価値形態の内実の8段落にて、価値体上着を価値魂と批判することで、
   <上着は価値であり、価値形態と規定される>ことから、次の9段落にて、「・・・価値関係
   のなかでは、上着形態は価値形態として通用する。それゆえ、・・一商品の価値が他の商品
   の使用価値で表現されるのである。」(原P66 新日本新書P88~89)ーーとあります。
   商品との規定であれば、それは<価値であるから使用価値>であり、<使用価値であるなら
   価値形態>との規定を受け取っています。<しかし、初版では、この簡明な説明にはなりま
   せんので触れるのは止めておきます。>このような初歩的な判読で、彼は誤っていたのです。
  b 更に、ここでは初版の<Ⅲ 相対的価値の、第三形態・・>において、次のように論じて
   いるのですから、その次の段階が、ここには主張されています。
   価値形態として商品はーー間接的・媒介的にこの規定を受け取ることで、さらにもうひとつ
   の転回をして、物象から「一般的価値形態」と判断されることで、諸商品は一般的相対的価
   値形態を受け取ったのです。
  c再版での<1価値形態の変化した性格>の6段落で、同じく物象ー商品世界からリンネルは
   一般的価値形態と判断されていることが、同じく、述べられていました。
   「これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。」ーー
   (原P80 新書版113)とあったのです。
  dそして、このもう一つの転回が、起こっていることの表現が、一般的等価物リンネルが、
   この一般的相対的価値形態から排除される・商品世界から排除されるーーところの回り道を
   経ることで、リンネルは一般的等価形態を受け取っているのです。
  e再度<それは、商品の社会的形態・価値形態・交換可能性の形態を、左極にて受け取り>
   との規定のもとに、<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態は、残りの部分か
   ら除外された単一の商品を変換し、それと同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物
   にする。>

   再版8段落での提示は、こうなっています。
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi
<下記英文>
①The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ーhere the linen ーinto the universal equivalent.
  商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を
  変換し、それと同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
②The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
  身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に説定された形態です。
  <「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、」 国民文庫P126>
  それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。
③The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
  物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶ー蛹の状態になります。
  <このように、上記②は、定式とされるドイツ語版ーー下記訳では、一般的等価形態としか、
  この反対にしか理解できない。>
  <「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり」原P81国民文庫P126>
  しかし、宮崎訳 では次のものです。
  https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
    <ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。
    リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。
    だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。>
  <上記の直訳の続きは次のようになっています。>
  リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織は、結果として社会的性格、他のすべての種
  類の労働との平等の性格を獲得する。
  一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての
  商品に組み込まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な
  形に変換する。
  このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益
  な性質から抽象化されるという否定的な側面だけでなく、自分自身を明示的に明らかにするため
  に行われます。
  一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般
  に人間の労働力の支出に還元することである。>

  <つまりは、次のこういう理解をマルクスは、主張したのです。>
  <商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態では、身体のリネンは現在、すべての商品
  の価値によって共通に規定された形態を受け取ることで、一般的価値形態を形成しています。
  だから、この一般的価値形態において、価値が労働を表示するーーことができるのです。>
  学会において、この飯田論文への批判が提示できなかったのは、次のように尼寺先生にして、
  <一般的価値形態において、価値が労働を表示する>ことが、まるで理解出来ていないのです。

     <初版『資本論』「価値形態」の研究(3)  尼  寺  義  弘>高知大学リポジトリ
   7〕一般に商品の直接的な形態は使用価値の形態であり価値の形態ではない。価値の形態は他
   商品との関係においてのみ間接的にあるいは相対的にとりうるものである。したがって価値形
   態は媒介された形態である。諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互
   いに関係しあうためには統一的な,一般的な 相対的価値形態を自分に与えなければならない。
   一商品が一般的等価形態の地位にあるのはすべての他商品がそれらの価値をその商品で一般に
   表現するかぎりである。あるいはその商品すべての他商品の価値の表現材料として役立ってい
   るかぎりである。したがって一商品が一般的な直接的交換可能性の形態あるいは直接に社会的
   な形態にあるのは,すべの他商品が直接に交換されうる社会的な形態をとっていないからであ
   り、形態Ⅲの相対的価値形態と等価形態との種差をここでも述べているのである。

   しかし商品世界が第三の形態にて形成されているのは、次の彼の述べることではありません。
  ①「諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互いに関係しあうためには統
   一的な一般的な相対的価値形態」ーーでは、この一般的相対的価値形態としての成立は
   価値体としての関連を示すものですから、第一、第二の等価形態ですよ。
   この批判としては、下記のa bと示されます。

       <初版ーー7段落>
     a「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、
      自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。
      そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも
      量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。」
      ーーとの説明は、下記再版と同じ説明であります。
       <再版 1価値形態の変化した性格 の6段落>
     b物象ー商品世界からリンネルは一般的価値形態と判断されていることで上記と同じく
      「交換可能性の形態」が、次のように受け取られていること、
      「これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。」
      ーーと説明されているのです。
     cこのように、a b と示されている「一般的価値形態」が、交換可能性の形態・
      一般的相対的価値形態として形成される、ということを、彼は理解していないのです。

  ② 「すべての他商品がそれらの価値をその商品で一般に表現するかぎりである。あるいはその
   商品すべての他商品の価値の表現材料として役立っているかぎりである」ーーでは、①の価値
   体であることでの価値表現の材料としての役立ち、との理解になります。
   だから、尼寺先生が誤解しているのは、
   「諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互いに関係しあう」ーーことが
   あてはまるのは、第一・第二の形態の左極ではなく右極の等価形態においてなのです。
   そこでは等価物リンネルは、a価値体であり、自ずと、b価値表現の材料であり、
   c直接的に価値形態であります。彼は、第二の形態の右極を、イメージしてしまったのです。
     <資料3ーー提示の久留間理論は、第三形態の総括として述べられている労働生産物の
     商品への転化を、第一の形態でも同じと判断する誤り、をしている。>
   しかもここで論議対象にしているのは、第三の形態であり、まずなによりも、一般的価値形態
   の成立による、商品世界の成立、その説明・対象化なのです。
   次に、その反省規定として登場する商品世界から追い出された一般的等価形態としての形態規
   定にあるリンネル商品であり、実物形態としてのリンネル商品ですから、上記のc直接的に価
   値形態との規定にては、何らその用を果たしていないことはわかります。
   a bでの役立ちも、商品世界から排除されることで、お役御免になっているのでありますか
   ら、単に、次段落に示された、<非直接的交換可能性の形態ーー直接的交換可能性の形態>の
   対立が、ここに存在しているーーということであります。

  ③a「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自
   分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。」ーー
   ことが、再版にて示された商品世界をもたらす、一般的価値形態の成立として、この初版の七
   段落冒頭にて示されているのです。
   そこで、この初版の四段落から七段落の論旨を、榎原さんは、こう次にまとめている。
   「諸商品の社会的関係が、諸価値としての相互の関係であり、その内実が抽象的人間労働の関
   係であったとすれば、互いに諸価値として認められる形態が商品の社会的関係だ、とういうこ
   とになる。
    マルクスは商品の社会的関係と、価値形態または交換可能性の形態とは一つで同じものであ
   ることを指摘したうえで、一般的等価物になっている商品を、直接的に直接的に社会的な形態
   をもっている商品と規定している。
    諸商品の社会的関係が、抽象的人間労働の関係であり、その社会的形態がそれらが人間の諸
   労働凝固体として認められることを明らかにしても、直接に社会的形態を持った商品が登場し
   ない限り、その内容は感性的な表現をもっていない。さらに商品の社会的関係といっても、社
   会的に妥当なものにはなっていない。」(『価値形態 物象化 物神性』P84 )
   榎原さんは、残念ながらーーマルクスが、
   a一般的価値形態として商品世界が形成される、そのことで、
   b 一般的相対的価値形態もその同じ商品世界を形成することで、
   c等価物リンネルを商品世界から排除する、
   ーーという人間のなすことではなく、諸物象の判断・そのことでの物象の社会関係の形成ーー
   との構図、何度も触れてきたように、商品世界の形成が、まず第一の前提であることを、
   次のように否定しているのです。
   「直接に社会的形態を持った商品が登場しない限り・・」成されないーーと述べているのです。
   <「一般的価値形態」の成立で交換可能性の形態が一般的相対的価値形態として形成される>
   ーーことを否定しているのです。
   よく考えて下さい。第二の形態では、展開された価値形態が成立することで個別的な等価形態
   が成立したのであり、第一の形態のように、等価形態と相対的価値形態の成立の前後を表すも
   ではありません。そして第三の形態では、商品世界の成立があって、その世界から排除される
   一般的等価形態たるリンネルーーという構図は、明快なものです。
   だから榎原さんは、①価値形態 ②展開された価値形態 ③一般的価値形態 の成立の関連で
   あり、順位をを否定しているのです。そして、次の飯田論文も支持しているのです。

  ④ここで、冒頭に示した飯田論文の提示する事への疑問ーーも示しておきます。
   リンネルの価値形態として、価値上着による相対的価値表現で形成される内実は、この価値
   形態があることに示されたのであり、価値関係との物象の社会関係の示す、物象の判断がここ
   に示されている。
   しかし、単に人間労働を表示するにすぎない同等性関係は、上記のように、価値上着にリンネ
      ルは等置されるのではなく、「上着が同じ実体の物、同じ本質の物、としてのリンネルに関係
   させられている」(『初版付録』原P767  P884)ーーとあるのですから、ここには物象
   の判断も成立しないのです。この同等性関係においてのみ、右辺の裁縫労働は抽象的人間労働
   の実現形態であり、左辺のリンネル織りは抽象的人間労働であるという反省規定の手本を見せ
   てくれるのです。 マルクスは、同等性関係と価値関係との相違を明示したのです。
   初版のこの第一の形態を示す六段落が、等価形態であると判断されるのは、次の第七段落にて
   であり、先の同等性関係とは異なって、価値関係においては、<回り道>をすることで、この
   「抽象的人間労働の顕現形態としての他の商品に含まれる具体的労働に自分を関係づけること
   ができる。」( 初版今村訳P291 原P20 )と示されている。
   このように回り道とは何であろうか?相対的価値形態形成のーー回り道ーーを経てであります。
   そこで、次に初版第三の形態の八ー九段落です。

  ⑧だから、一商品が、全ての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に
   社会的形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかな
   く、またそのかぎりにおいてのことでしかない。
  ⑨ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社
   会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。

   杉本ーーA、初版だと、ーー諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、両極が、こう形成され
        ①非直接的交換可能性の形態・形成の回り道をへることで
        ②直接的交換可能性の形態が形成されたのです。
   同じく、B、再版だと、ーー諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、両極が、次に形成し、
        ①一般的な相対的価値形態・形成の回り道をへて、商品世界が形成され、
        ②一般的等価形態が、商品世界から排除されることで形成されると、ある。

         以上に何が述べられているのか?再度掲げます。
         これで、冒頭の飯田論文への初版での理解への回答が出来ました。
        ①第一の商品形態で、「リンネルは自分の価値量‥・・を上着で表現することによ
         って、自分の価値存在に自分の直接的存在とは区別される価値形態を与える。
         リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかに分化したものとして表すこと
         によって、現実に自分を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして示
         すのである。」(初版原P16 江夏訳P35)ーーと表されています。
        ②この一般的価値形態をとる商品形態において、価値が労働を表示することができ
         るーーのであり、そのことを、「商品の分析はこれらの形態(両極の形態)を商
         品形態一般として明らかにしたのである」(原P34 今村訳P310)、とある。
         だから、一般的価値形態において、使用価値と価値形態の商品形態を受け取るこ
         とで、労働生産物は商品に転化したのであります。
        ③次に再版であれば、両極の形態で示された商品形態が、右極の等価形態に貨幣商
         品を受け取ると、一般的価値形態が貨幣形態に転化することになることを示すこ
         とで、「簡単な商品形態は貨幣形態の萌芽である」(原P85 新書版P121)ー
         ーことを示したのであり、a労働生産物の商品への転化を示した簡単な価値形態
         b展開された価値形態 cー般的価値形態 d貨幣形態が示されることで、それ
         ぞれの価値形態の同じ役立ちを見出すことで、次のことが語られのです。
        ④第四の形態としての貨幣形態は、その前の一般的価値形態と同じなのです。
         ①一般的な相対的価値形態の回り道の第三形態と同じく、この回り道を経て、
         ②貨幣商品として、貨幣の機能を果たす金は、価値表現の材料の役立ちをしてい
         るかに見えてしまうが、そうではなく、すでにその役立ちは第一・二の等価形態
         の成立で終えており、一般的等価形態が形成されるためには左極の反省規定を受
         けて、リンネルの自然的形態のままに直接的交換可能性の形態を受け取っていた
         のだから、その役立ちがリンネルから金へと変化したことーーの明示をしたにす
         ぎないのです。

      ①久留間理論での初版の第四形態成立による第三形態成立の不可能性と、
      ②貨幣形態の成立を交換過程での価値の実現と使用価値の実現の矛盾の解決ーー
      に見る、価値形態論と交換過程論の一体的展開と理解するこの見解は、
      ③交換過程での物象の人格化の提起ーー価値形態論での物象の社会関係の成立との異な
      る見解がここにはあるのに、二つの場面の混同をもたらすことで、価値形態論にも物象
      の人格化を持ち込むことになっている。
      ④杉本は、久留間理論の価値形態論での解説・解読こそが誤りである、と考えている。

      資料3提示のところから、久留間理論の誤りを提示してみます。
    「だから価値形態論で、それの価値の表現が問題であるところの商品──すなわち相対的価
    値形態にある商品──の使用価値が固有の考察の圏外におかれることは、いわば当然のこと
    でなければならぬ。」ーーに対する意見です。

    ここでは第一の形態ですから、左辺のリンネルは価値上着を自らに等置することで、上着を
    価値の現象形態と反省規定することで、上着に価値形態の規定を与えることができたのでし
    た。上着は価値形態の規定を受け取ることで、この両者の価値関係を表わし、そこで次に、
    リンネルは相対的価値形態を、左極に受け取ったのです。
    上着はこの関係において、価値の現象形態の役立ちを、媒介的に果たすことで、価値形態の
    規定を自然的形態のままに右極にて受け取ったのです。
    さてとそこで、①使用価値リンネルは、価値上着による相対的価値表現の役立ちをさせてい
    るのは、価値関係によっての物象の役立ちがあるからです。②次に、価値上着による反省規
    定の役立ちは、リンネルと上着の価値関係のもたらす相対的価値表現に媒介されたものであ
    り、上着はリンネルの価値形態との反省規定を、この関係から受け取るのです。
    第一の形態での物象の社会関係ーー物象の判断は、リンネルの主体的行動・上着の客体的行
    動として、示され、主体的行動は相対的価値形態を形成し、客体的行動を示す方は、等価形
    態と判断されているのです。
    このように価値関係による物象の判断は、上着によるリンネルの価値形態との判断をもたら
    すことで、左極にて相対的価値形態、右極にて等価形態の判断をもたらしたのです。
    だから、久留間先生は、相対的価値表現するリンネルの役立ちを価値関係がもたらすことに
    ついて、何ら考慮できなかったのですから、スターリン経済学のままに、それを物的関係と
    理解するーーことになっているのです。彼の基礎はここにあります。
    彼がそこを物象の社会関係であり、物象の人格化と称するのは、混乱の生み出した産物です。
     ーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーー
    <資料 1>
    https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/1714
    相対的価値形態の内実-初版『資本論』の検討を通して  飯田 和人
    Ⅵ 総 括
    マルクスはいう。「 ただ異種の諸商品の等価表現だけが、異種の諸商品のうちにふく
    まれている異種の諸労働を、事実上、それらに共通なものに、人間的労働一 般に還元
    することによって、価値形成労働の独自的な性格を顕現するのである」 。
    (『再版』a相対的価値形態の内実 五段落)
    すなわち、ここにおいて上衣を生産する裁縫という具体的有用労働が抽象的人間的労
    働の現象形態または実現形態として通用し、この裁縫との等置関係を通して、リンネ
    ル を生産する織布が自分もまた価値形成労働としては裁縫と同じ抽象的人間的労働で
    あるということを表現するということである。
     こうして、初版「 内実」論にみられた論理構成上の難点は、現行版「 内実」論が質
    的価値表現メカニズムを労働連関次元において基礎つける論理を内蔵したということ
    によって克服されている。むろん、こうした現行版内実」論の意義( 前進面)は直接現
    行版を検討することによって、さらに十全な形で確認される必要があるが、それはまた
    稿を改めて論 ずることとしたい。 (P98)

    <資料 2> 初版 Ⅰ 相対的価値の第一形態あるいは単純な形態 二~七段落
    相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
  ② 「リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価
    値との双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接
    的な存在とは区別される価値形態を与える。
    リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによっ
    て、現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのであ
    る。」
  ③ 「上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。
    じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能で
    あるということである。上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というその
    それの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価
    値あるいは等価物の形態をもっているのである。」
  ④ 「リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値として
    は上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリ
    ンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態と
    なるのである(18)。」
  ⑤ 「20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
    という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ
    認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そ
    のなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)」
  ⑥ 「つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、
    このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、
    具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態として
    の--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。」
   七段落
  a 「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
    使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価
    値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。・・・・・・・・・・・・・
    商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに
    反射しあっている。・・・・・・
  b ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
    るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
    価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
    ことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行
    なうことができるのである。・・・・・・
  c そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、と
    いうことだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在している
    のは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立って
    いる、というかぎりにおいてのことでしかない。・・・・
  d ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表
    現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見す
    ることになる(20)」(初版原P20~21 江夏訳P39~40)

    <資料3> 広島資本論を読む会
     http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2
   久留間鮫造   『価値形態論と交換過程論』 P11~14
  交換過程に先立つ部分のうちで、「資本論」の現行版でいうと第1章の第1節「商品の二つ
  の要因──使用価値および価値」および第2節の「商品で表示される労働の二重性格」
  (「経済学批判」)はもとより、「資本論」でも初版では、このような節の区分はなされて
  いないが、内容のからみてそれに当たる部分)で、商品が分析的に考察されていることにつ
  いては、おそらく何ぴとも異議はないであろう。
  だが第3節の価値形態論はどうであろうか。これもはたして分析的といえるかどうか。
  商品の価値表現においては、価値とともに使用価値が不可欠の役割を演じるものと考うべき
  ではないか。こういう疑問がおそらくおきることと思う。だがこれは、わたくしのみるとこ
  ろでは、あきらかに誤解にもとづくのである。何よりもまず明らかなことは、価値形態論で
  問題にされるのは文字どおりに商品の価値の形態だということである。商品の価値形態は、
  使用価値でありかつ価値であるところの商品が、そこではもっぱら価値として、それの使用
  価値としての直接的な存在から区別してあらわれるところの形態である。だから価値形態論
  で、それの価値の表現が問題であるところの商品──すなわち相対的価値形態にある商品─
  ─の使用価値が固有の考察の圏外におかれることは、いわば当然のことでなければならぬ。
  もちろん、商品はそのありのままの姿において、生まれながらに使用価値の形態をもってい
  るから、そのほかにさらに価値の形態を取得すると、それと同時に二重の形態をもつことに
  なり、かくして現実に商品として──単なる使用価値ではなく同時に価値であるものとして
  ──あらわれることになる。
  したがってまた、商品の価値形態は同時に生産物の商品形態であり、商品の価値形態の解明
  は同時に生産物の商品形態の解明である、ということにもなる。
  だがこのことはけっして、価値形態論の分析的・一面的性格を否定するものではない。
  価値形態はあくまで商品の価値の形態──商品がそれの価値を、それの使用価値としての直
  接的な存在から区別してあらわす形態──であり、価値形態論の固有の課題はこの価値の形
  態を解明することにある。
  商品の価値形態が同時に生産物の商品形態であり、価値形態の解明が同時に生産物の商品形
  態の解明を意味することになるのは、使用価値の形態は商品の自然形態のうちにはじめから
  与えられており、したがってまた、価値形態の考察のさいにも、そういうものとして前提さ
  れているからにほかならない。
  マルクスの言葉でいえば、
  「使用価値の形態は、労働生産物が生まれてくるときに、その自然形態のうちにもってくる。
  だから、労働生産物が商品形態をもつためには、……ただその上に価値形態をもてばいい、」
    (「資本論」初版、岩波文庫版164-165頁。)
    (原P776 付録(六)商品の単純な価値形態は、労働生産物の単純な商品形態である)
  ということになるのである。そして価値形態論は、生産物が商品としてあらわれるために、
  その生得の使用価値の形態のほかにもたねばならぬところの、この価値の形態を、如何にし
  て取得するかを解明するものにほかならぬのである。
  それゆえ、使用価値が商品の価値表現において不可欠の役割を演じるとすれば、それは相対
  的価値形態にある商品の使用価値ではなく、等価形態にある商品の使用価値でなければなら
  ぬ。
  なるほど、商品の価値は、その商品に等置される他商品の使用価値で表現される。すなわち
  使用価値が、ここではそのまま価値の形態になる。価値形態論はもちろんこの関係を考慮の
  ほかにおくことはできない。いなそれは、この関係の究明を基本的な課題にさえするのであ
  る。だがこのこともまた、けっして、価値形態論の分析的・一面的性格を否定するものでは
  ない。
  第一に、等価形態にある商品の使用価値は、それの価値の表現が問題になっている商品の使
  用価値ではなく、したがって、それの表現が問題になっている価値とともに同じ商品の対立
  的要因を形成するところの使用価値ではない。われわれのなじみの例でいえば、そこで表現
  されているのは商品リンネルの価値であり、この価値表現において役割を演じているのは商
  品上衣の使用価値である。
  すなわちこのばあい、価値と同時に使用価値が考察されるにしても、それはリンネルの価値
  と上衣の使用価値とであって、同じ商品の対立的要因を形成するものではなく、したがって、
  それによって商品が、使用価値でありかつ価値であるものとして、全体的に考察されること
  になりはしない。
  ここで考察されるのは、単にリンネルの価値が表現されるされかたにすぎないのであって、
  その観点はあくまで価値の観点である。上衣の使用価値は、ここでは、リンネルの価値表現
  の材料として登場するにすぎない。しかも、そういうものとして登場するかぎりでは、この
  上衣の使用価値は、被服の目的に役だつ有用物としての本来の属性においてではなく、もっ
  ぱら抽象的・人間的労働の体化物としての形態規定性において、その役割を演じるのだとい
  うことは、すでに前論(本書後篇の1)において、リンネル所有者の欲望の捨象の問題に関
  連して、くりかえし説明した如くである。
  このように、価値形態論では、商品はもっぱら価値の観点から考察されるのであって、使用
  価値は、本来的な使用価値としては、全く考察の圏外におかれるのであるが、しかし交換過
  程論ではそうはいかない。

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