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ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月25日(日)07時58分54秒
  通報 返信・引用 編集済
     ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違が何処にあるのか?
   次のように探求してみました。

  a相対的価値形態の内実の第三段落は、英語版では次の訳になります。
  化学式を例示した第三段落にて、ドイツ語版の、ーー
  「この関係のなかでは、上着は価値の実存形態として、価値物として通用する。」
  ーーとの訳ではなく、次の訳なのです。
  <この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現されている
  のは、それがリネンと同じであるため>ーーと。
  英語版・仏語版    すばらしい!!!まずは紹介します。

But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part.
It is only the value of the linen that is expressed.
And how?
   しかし、このように質の同一性が説定された2つの商品は、同じ役割を果たさない。
  表現されるのはリネンの価値だけです。
   では、どうやってーーそのことがなされるのですか。?

By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it.
In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
  それと同等のものとしてそのコートを参照することによって、交換できうるものとして
  であります。この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値であるのは、それ
  がリネンと同じであるためだけです。

On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat.
To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate.
  一方、リネン自身の価値存在は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
  のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換
  可能であるからです。
   化学からイラストを借りると、化学式としては同じでも、酪酸は蟻酸プロピルとは異
  なる物質です。

  <杉本ーーなるほど、酪酸に蟻酸プロピルが等置される関係にて、人間がその両者の
  共通者が他方でのその存在形態である、との判断をしているならば、そのとき・等置さ
  れた酪酸は、その共通者の単にその存在と、現物形態とは異なる規定を受け取ったので
  す。
   ある物と物とをある関係においたとき、人間は反省規定をこそ、この人間のなす思考
  様式の特異性をこそ、マルクスは主張しています。この物的関係での判断の特異性が、
  同等性関係ではなく、価値関係にては物象自身が、判断をなしているの意味です。>

  <その次の 五段落での直訳での提案>
  ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者の
  ものと同じにする。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の
  具体的な労働であることは事実です。
  しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
  に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
   この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り
  込む限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労
  働である。
  それは価値創造労働の特定の性格を見出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の
  表現であり、これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間
  労働の共通の性格への要約の仕方なのです。[18]

  <杉本 この回り道 ーー同じ所を仏語版では、次の訳でなしている。>
  「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネル
  に含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。
  だが、機織りに対する裁断の等式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
  間労働という性格に還元する。このような回り道をして、機織りは、それが価値を織る
  かぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働であ
  るということが、表現されるのである。したがって、この等式は、リンネルの価値を構
  成する労働の独自の性格を表現している。」
     (『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

  ①<事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>
  という訳をここにしているのではなくて、
  ②<事実上、上着をつくる裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という
  性格に還元する> が正訳であることが理解できる。
  もう一度、繰り返します。
  <裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>とは?
  このように、上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる性格を受け取るのは、ここに、
  両者の共通者を見るのではなく、リンネルによる上着への反省規定として、次の二つの
  事がらがあるーーとしている。
   「機織りに対する裁断の等式は①事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
  間労働という性格に還元する。②このような回り道をして、機織りは、それが価値を織
  るかぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働で
  あるということが、表現される」ーーとあるのです。
  上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる労働として、リンネル織りの労働の共通者に
  還元されること、この回り道<反省規定>を経ることで、リンネル織り労働が、価値を
  織るかぎりでは、それは抽象的人間労働であると、物象の諸関係からの判断を受けてい
  るーーのです。
   現行再版のーー価値物上着がリンネルに等置されることで、裁縫労働がリンネル織り
  労働に等置される、この等置は「裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しいものに、
  還元する。この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限りにおい
  ては、・・・すなわち抽象的人間労働であることが語られるのである」ーーの記述では、
  仏語版の理解に辿り着けるものではない!!!ことが理解できる。

  ここでの記述の誤りは、価値上着がリンネルに等置されることで、上着を縫い上げる裁
  縫労働が、使用価値を作ると規定されるのではなく、価値を縫い上げる裁縫労働と規定
  されているーーこの前提条件が無い、消えていることです。そのような条件のもとで、
  リンネル織り労働が、「価値を織り出す限り」と記述されても、反省規定した対象が、
  <価値を縫い上げる労働>とは規定されていないのだから、この規定は反省規定を受け
  取らない、マルクスの提起である物象の判断がここには示されないのです。
  「価値物上着」の提起が、マルクスの真意を排除していることが、ここに理解できます。


  仏語版での正訳でもなかなかそのことは理解し難いので、そのことの説明を補充して、
  マルクスは用心深く、リンネル価値が人間労働の凝固体を獲るためにはーーどうなすこ
  とでなのか?との問を、次の六段落にて提起する。

  ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なもの
  があります。動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、そ
  れ自体価値はない。何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ
  価値になる。リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は
  客観的に存在するものとして表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるも
  のとして、リネンと他のすべての商品に共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

  <リネン価値を表すには、上着との共通者として表されなければならない、のです。>

    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的
  にランク付けされ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   この等式からでは価値だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
  (「上着事態の存在形態が価値の存在形態になる。」仏語版 上P22 )
   <この提起が最も良い意味です。>

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
  そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
  私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、
  コートはその関係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、
  着ていない時よりも多くのことを数えるようにです。

   <①リンネルに上衣が等置されるのは何故でしたか?リンネルは価値であり、同じく
     上着も価値であるからですが、そこで起こることは次のことです。>
   <②ここでの上着は、a価値としてのみの存在になることで、b触診できる身体的な
    形が価値を表すものーーに転回しているのですから、この変化を、仏語版は、上着
    の形態が、ーー価値の存在形態ーーと表すことで、三段落のーーリンネルの価値存
    在ーーの対象的形態が、ここに示されたのです。>
   <③この②で起こる変化をこそ、五段落にて、マルクスは訴えていたのです。>

   八段落
  あまりお付き合いのない、フランス語版が、次の提起をしていたのです。

  「上着の生産では、じっさいに、なにがしかの人間労働力がある特殊な形態のもとで
  支出された。だから、人間労働がその上着のなかに積み重ねられている。この観点から
  すれば、上着は価値の担い手である。もっともこの特性は、上衣がどんなに擦り切れて
  いても、上衣の透いた糸目を通して外に現れるものではないが。しかもリンネルの価値
  関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。上衣の外貌がどんなにあばた面
  で出会っても、リンネルは上衣のうちに、価値に満ちた姉妹魂を認めたのである。これ
  がプラトニックな側面である。
  上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に価値
  が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。
  同じように、私人Aは個人にたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを
  帯びなければ、陛下であることを表しえないのである。陛下が人民の新たな父となるた
  びごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。」
  (仏語版 9段落P22)

  次の(英語版 宮崎訳)での肝心なところの訳は、仏語版と同じであります。

  「このことから、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、
  その事実をちらっとも見せることはない。価値の等式での、リネンの等価物は、ただこ
  の局面でのみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。
  例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、
  Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。」

  <価値を実際表すことができるのは、同時に価値が一着の上衣という姿をとるかぎりで
  のこと>ーーと再度五段落の提起から導き出されるのが、「価値形態」上着との、リン
  ネルの相対的価値表現が必然的に見出す反省規定なのです。

   このように、英語・仏語版に語られているところの、再版での回り道を巡る議論は、
  久留間先生の主張するように、第五段落に終わるものではないのです。商品語が提起さ
  れる九段落は、それまでの論議を終わらせたところーーからなされるのです。

  しかし、久留間先生の議論は、再版ではなく、初版に依拠したものなのです。
  大谷先生と議論するなかで、久留間先生が提起したのは、初版での回り道の議論なので
  す。彼の初版での議論は、本当に理解し難いものです。まずは資料として提起しておき
  ます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   久留間鮫造 著 『貨幣論』
   9)「回り道」とはどういうことか
   ──価値表現の回り道(2)──

   【P113】
 リンネル=上着 という等式のなかにイコールの関係があると同時に、リンネルの価値のみが表現されていること、上着のみが等価物となっていること、を見なければなりません。左辺と右辺とは意味が違うのです。この違いは、右辺の商品は左辺の商品の所有者の欲望の対象である、という点にあるのではない。そのことを度外視したうえでなお残る違いです。
 この等式は、言うまでもなくリンネルが自分の価値を表現している等式です。まず主体として、商品リンネルがあり、それに等置が行なわれる。なにが等置されるのか。この例では上着です。つまりこの等式における等置とは、リンネルに上着が等置されるということであって、その逆ではありえない。上着にリンネルが等置される等式は、 上着=リンネル であるほかない。さらにこの等置を行うのはリンネルか上着か。言うまでもなくリンネルに上着を等置したのはリンネルの所有者ですが、リンネルの価値表現における主体はリンネルです。上着が等置をするのではなくて、リンネルが等置をするのです。

したがって、リンネルに上着が等置される、という等置はリンネルが行なう等置である。これは言い換えれば、リンネルが自分に上着を等置する、ということに他ならない。
「自分に上着を」を逆にして「自分を上着に」としたら、どういうことになるか。リンネルが自分を上着に等置する。これは結局 上着=リンネル という等式をリンネルが、つまり右辺の商品がつくる、ということに帰着します。これはつまり、商品は自分から勝手に等価物になれるということです。
 はたしてそういうことは可

【P114】
能か。言うまでもなく、まったく不可能です。つまり、商品は自分から進んで他商品の等価物であると証してみても、それはその他商品にとって通用しないまったくの独りよがりでしかありません。
直接には使用価値である商品が他商品に対して、いきなり価値体として通用することはできないのです。

だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体としての形態規定を与えることはできる。そしてこの形態規定における上着の身体で自分の価値を表示する、あるいは、この形態規定における上着の身体を自分の価値の形態にすることはできる。

「それは、直接に自分に対してすることができないことを、直接に他の商品に対して、したがってまた回り道をして自分自身に対して、することができる」(『資本論』Ⅰ、初版、20頁)のです。

これはけっしてリンネルの「独りよがり」ではありません。これによって、現に上着はリンネルに対する直接的交換可能性を与えられているのです。

このように、リンネルが「自分を上着に等置する」ことと、「自分に上着を等置する」こととのあいだには、決定的な違いがあるのです。

降旗氏がこのようなぼくの区別を理解することができないのは、繰り返して言いますが、商品所有者の欲望を、そしてそもそも商品所有者を、捨象して、はじめて、「一商品の簡単な価値表現が二つの商品の価値関係のなかにどのように潜んでいるかを発見する」ことができる、という事実を認めることができないからでしょう。

大谷 「自分に上着を等置する」という部分の訳し方のことで、ちょっと脇道に入ってしまいました。話を戻して、「回り道」について話を続けていただけませんか。
久留間 必ずしも脇道ではないでしょう。今の問題は、「回り道」を理解するのに大切なところだ

【P115】
と思いますから。
さて、今言ったように、リンネル=上着 という等式が成立するのはリンネル所有者が上着を欲しいと思ったからに違いありませんが、価値形態の分析としては、そういう等式成立の理由は度外視しなければなりません。等式があるからには、同等性の関係があり、その同等性が価値としての同等性であることは言うまでもない。問題は、この等式のなかで、どのようにしてリンネルの価値が表現されているのか、ということです。それに対して、〈他商品上着と関連することによってだ〉、と答えるのは、答えの第一歩でしかない。
 リンネルの上着に対する関係は、「反省関係」だ、ということがよく言われています。それはまったくそうに違いない。他のものに関係することによって、自分自身に関係するのですから。マルクスも、「リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自分自身に連関する。リンネルは、価値としての自分自身に連関することによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。」(『資本論』Ⅰ、初版、16頁)、と言っています。反省関係だというのに、ちっとも異論はない。「回り道」は、そうした反省関係だ、他のものとの関係における媒介的な仕方での価値表現のことだ、と言う人にも、そういう言葉の使い方をしてはいけないとは言わない。しかし、ぼくが「回り道」ということで言いたかったのは、そうした反省関係、価値表現の媒介的な仕方の肝心な内容、マルクスが力をこめて明らかにしようとした「相対的価値形態の内実」の要なのです。それが、リンネルは、自分に上着を価値物として等置することによって、上着に価値体としての、抽象的人間的労働の体化物としての形態規定性を与え、これによって、はじめて自分も価値物であるこ

【P116】
とを表現するのだ、ということなのです。価値表現のメカニズムを問題にするかぎり、「回り道」はこういう回り方をする回り道でしかありえないでしょう。

 しかしこのことは、上着が価値体としての形態規定性を与えられるのは、リンネルが上着で自分の価値を表現するからだ、ということを否定するものではけっしてありません。現にマルクスは、「等価形態」の分析に移ると、ここでは、相対的価値形態のところで明らかにされたことを前提にして、今度は事柄を等価形態の側から見ていく。そして、ある商品が等価物であり、直接的交換可能性をもつのは、その商品を自己に等置しその商品で自己の価値を表現する商品があるからだ、ところが、そのある商品はその自然形態がそのまま価値形態として通用する、つまり価値体となっているので、等価形態の謎的性格が生じるのだ、ということを明らかにしています。

 ここでは、等価物成立が他商品の価値表現を前提するという関係が述べられているとも言えるでしょう。いわば、等価物の「どのようにして」を問題にするということです。しかし、言うまでもないことですが、そういう問題は、価値表現の「どのようにして」の問題の一部をなす問題にすぎず、価値表現の「どのようにして」が解明されれば、それと同時にその問題も根本的には解明されたと言えるわけで、だから「等価形態」のところでは、その形態そのものを説明したあと、ただちにこの形態の特色の説明に入っていくのです。

 ですから、等価形態のところにも、「回り道」の理解に資する個所があるのですが、とくに、第二の特色のところには注目すべき叙述があります。『レキシコン』では現行版からの引用(『資本論』Ⅰ、70頁)しか入れませんでしたが、初版「付録」のなかの、「β 等価形態の第二の特色──具体的労働がその反対物である抽象的人間的労働になる」の部分は重要ですから、ちょっと読ん

【P117】

でみましょう。

  上着はリンネルの価値表現のなかでは価値体として意義をもち、それゆえ上着の物体形態ま
  たは自然形態は価値形態として、すなわち無区別な人間的労働の・人間的労働そのもの
  (schlechthin)の・体化として、意義をもつ。
  しかし、上着という有用物を作りその特定の形態を与える労働は、抽象的人間的労働・人間
  的労働そのもの(schlechthin)・ではなくて、一定の、有用的な、具体的な労働種類、す
  なわち裁縫労働である。
  簡単な相対的価値形態が必要とするのは、一商品、たとえばリンネルの価値がただ一つの他
  の商品種類でだけ表現されるということである。しかし、どれがこの他の商品種類かという
  ことは、簡単な価値形態にとってはまったくどうでもよいことである。リンネル価値は、商
  品種類上着ででなければ商品種類小麦ででも、あるいは、商品種類小麦ででなければ商品種
  類鉄、等々ででも、表現されることができよう。

  しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネ
  ルにとって価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化として意義
  をもつであろう。しかもつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦で
  あろうと鉄であろうと、抽象的人間的労働の体化ではなく、裁縫労働なり農民労働なり鉱山
  労働なり、とにかく一定の、具体的な、有用的な労働種類の体化であり続けるだろう。
  したがって、等価物の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のな
  かでは、つねに必然的に、人間的労働そのもの(schlechthin)の・すなわち抽象的人間的
  労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならないのである。
  たとえば上着が価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化とし
  て、意義をもつこ

【P118】
  とができるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間的労働力が支出されるところの・す
  なわちそれにおいて抽象的人間的労働が実現されるところの・特定の形態として、意義をも
  つかぎりにおいてでしかない。

  価値関係および価値表現の内部では、抽象的一般的なものが具体的なもの、感覚的現実的な
  ものの属性として意義をもつのではなく、感覚的具体的なものが、抽象的一般的なものの単
  なる現象形態または特定の実現形態として意義をもつのである。
  たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、
  人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるとい
  うことが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、た
  だ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのであ
  る。
  この取り違え(quid pro quo)は不可避である。
  なぜなら、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無
  差別な人間的労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が異種の一
  生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてでしかないか
  らである。

  この転倒によって、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として意義をもつ
  にすぎず、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として意義をもつのではないので
  あるが、この転倒こそは価値表現を特徴づける。それは同時に、価値表現の理解を困難にす
  る。

  私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、と言うのならば、これらのことは自明なこ
  とである。これに反して、もし私が、法という抽象物(abstraktum)がローマ法のうちにも、

【P119】
  ドイツ法のうちにも、すなわちこれらの具体的法のうちに実現される、と言えば、その関連
  は神秘的なものになるのである。(『資本論』 Ⅰ、初版、770頁。強調─マルクス)

 ここでマルクスが付けている強調は、どういう点が重要であるかをよく示していますが、とくに、「等価形態の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のなかでは、つねに必然的に、人間的労働そのものの・すなわち抽象的人間的労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならない」という個所、

および、「たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるということが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのである」、という個所に注目してほしい。

裁縫労働は、価値表現のなかでは、人の欲望を満たす有用性をつくりだすものとしてではなく、人間的労働の実現形態としてのみ意義をもつのですが、これはリンネルが自分に上着を等価物として等置することによって、そうしているかぎりにおいて、生じることです。リンネルは自分自身を生産する労働、機織労働をけっしてそうしたものにすることはできません。裁縫労働をそうしたものにする、そしてそのうえで、自分も人間的労働の凝固物、価値であることを表現できるのです。

 ところで、こうしたことは、それを論じることによってなにを明らかにしようとするのかがはっきりしないと、どうでもよい、無用な議論だと思われることになる。もっと一般的にいえば、価値形態の分析を通じてなにを明らかにするのかということをはっきりつかまえないと、何も分からないことにな

【P120】
る。それは基本的には、商品生産が社会的生産の特有な仕組みだということ、直接には私的な労働として行われる労働が社会的労働にならなければならない、ということです。商品生産であろうと共産的な生産であろうと、諸個人の労働は人間的労働として互いに連関させられているのであるが、商品生産のもとではそれが独自な形態で現われなければならない。それが等価形態のところで現われるのです。

旧著でのぼくの叙述に舌足らずなところがなかったとは言わないが、しかし分析というのは、つねに、そこでなにを明らかにしようとしているのかということによって、その仕方も決定され、制約されている。そういうものを読み取ることをせずに、つまり、そこでなにを明らかにしようとしているのかということを読み取ろうとしないで、言葉の使い方のようなことにばかり引っかかっていたとしたら、それはつまらないことです。

大谷 そのつまらないことに、もう少しこだわらせていただきたいのです。というのは、さきほど読みました、「こうした回り道をして」というマルクスの一節について、「こうした回り道をして、それから」、と訳すのは誤訳ではないか、という点です。

この「それから」は dann の訳語ですが、これは英語の then と同じく「その場合」とか「そのさい」とかいう意味がある。いまの個所での dann は「それから」ではなくて「そのさい」と読むべきではないか。こうした意見は、先生の「回り道」を批判し否定する人のあいだにばかりでなく、先生のお考えを積極的に支持する人のなかにもあります。

たとえば、すでに1961年に刊行された『資本論辞典』(青木書店)のなかの「価値形態」という項目で、三宅義男先生が久留間先生の「回り道」の見解に基本的に一致する解説を書かれていますが、そのなかの

【P121】
引用では、「こうした回り道をすることによって、そのさい」とされています。これは私の知るかぎり、“「それから」に対して意識的に”「そのさい」を対置した最初のものですが、最近では、武田信照氏が、「そのさい、こうした回り道をして言われているのは……」、と訳すことを提唱し、それに賛同する人たちもいるようです。武田氏の場合には、先生の「回り道」についての論拠をくずす目的で言われているものです。武田氏のように訳すことによって、先生の「回り道」の論拠がなくなると考えるのは、「回り道」の言葉はあれこれ論じてもその本当の意味を考えようとしないことからくるのだと思いますが、それはともかく、「そのさい」と読むべきだという主張が出てくる一つの理由は、純粋に言葉の問題として、あるいは語感としてそう読むほかはないのではないかということがあるのだろうと思われるのです。

実は私もそのように考えている一人なので、私の感じを言わせていただきますと、

Auf diesem Umweg ist dann gesagt, dass… というこの文の中心は、
dass 以下のことが言われている、というぶぶんであり、
それに auf diesem Umweg と dass という二つの修飾が付いている。

つまり、 dass 以下のことが言われているのが、一つは「回り道をして」なのだ、ということ、ひとつは「それから」または「そのさい」なのだ、ということです。

「回り道をする」ということがあって、これに続くという意味での「それから」が来ている、というふうにはどうも読めない。「それから」と読むにしても、──内容的には同じことになるかもしれませんが──この「それから」は、前文の、「織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間的労働という両方に共通な性格に、還元するのである」、と受けて、「それから」と読むべきであるように思われる。ですから、訳としては武田氏のように、「そのさい、こうした回り道をして」、とするのが自然のように感じるのです。

【P122】
また別の論拠として言われていることに、

フランス語版での訳し方、つまり C’est une maniere detournee d’exprimer que…(武田氏の訳では、「以上のことは、……ということを言い表わす迂回的方法なのである」、

江夏・上杉訳では、「このような回り道として、……ということが表現されるのである」)という訳では、「それから」とはとうてい読めないということがあります。念のために英語版について見ると、こちらは In this roundabout way, then, the fact is expressed, that… というふうに、なっています。

最後に──私はこれには賛成できませんが──内容的にみて、「それから」ではおかしい、ここでは先後関係が言われていると見るべきではなく、媒介関係が言われていると見るべきだ、という見解もあるわけです。これはむしろ、先生の「回り道」理解の批判を前提にするものですね。

久留間 dann を「それから」と読むか「そのとき」と読むかは、語学上の問題はともかく、内容的には結局、 dass 以下に述べられていることを回り道の外部のことと解するか、内部のことと解するかの問題に帰着するように思われるのですが、もしそうだとすると、それをどちらに解するかは、ぼくにとってはどちらでもよいことです。

ぼくが dann を「それから」と読み、そのうえさらに「この『それから』に注意すべきである」とわざわざ書き加えたのは、等価形態に置かれた商品上着は、たんなる使用価値たとえば保温に役立つ物としてではなく、それが等価形態に置かれることによって新たに価値体という形態規定を与えられ、この形態規定においてはじめて相対的価値形態にある商品リンネルの価値の形態になっているのだ、ということを強調したかったからです。このことが理解されないと、

【P123】
たとえば商品リンネルに等置された上着がリンネルに対して直接的交換可能性をもつのは、リンネルの所有者が上着をほしいと思い、上着との交換を望んでいるからだという、俗学的な見解におちいることになる。これでは、両商品の関係は価値関係ではなく、したがってまた、価値表現の関係でもないことになる。このような俗学的見解をしりぞけるためにも、あのさいぼくは、さきに言ったようなことを強調する必要があると思ったのです。

しかしそれはともあれ、さきに言った、上着が等価形態に置かれることによって上着の使用価値は価値体という形態規定を新たに与えられているのだということ、そしてこの形態規定における上着の使用価値の形態で、リンネルはそれ自身の価値を、それの使用価値から区別されたものとして表現しているのだということ、──このことが分かればよいので、右に述べたいろいろの関連のうちのどこまでが回り道の範囲に属するかという点にぼくは重点を置いていたわけではないのです。
なお、商品の価値表現の仕方に関連してマルクスが「回り道」と言っている場合、彼がこの言葉をどのような意味で使っていたか──とりわけ、その「回り道」の要(かなめ)の点がどこにあると考えていたか──を知るためには、次の個所が参考になるでしょう。


  「……商品は、もともと一つの二重物、すなわち使用価値および価値、有用的労働の生産物および
  抽象的な労働凝固体である。それゆえ商品は、自分が商品なのだということを表わすためには、そ
  の形態を二重にしなければならない。使用価値の形態は、商品は生まれながらにもっている。それ
  は商品の自然形態である。価値形態は、商品が他の商品との交わりにおいてはじめて獲得するもの
  である。だが、商品の価値形態は、それ自身がまた対象的な形態でなければならない。諸商品の

【P124】
  唯一の対象的な形態は、その使用姿態、その自然形態である。ところで、一商品、たとえばリンネ
  ルの自然形態はその価値形態の正反対物なのだから、それは、なにか他の自然形態を、他の一商品
  の自然形態を、自分の価値形態にしなければならない。それは、直接に自分自身に対してすること
  ができないことを、直接に他の商品に対して、したがってまた回り道をして自分自身に対して、す
  ることができるのである。それは自分の価値を、それ自身の身体で、言い換えればそれ自身の使用
  価値で表現することはできないが、しかしそれは、直接的な価値定在としての他のある使用価値あ
  るいは価値体に連関することはできる。それは、それ自身のうちに含まれている具体的労働に対し
  ては、抽象的人間労働のたんなる実現形態としてのこの労働に関係するということはできないが、
  しかし、他の商品に含まれている具体的労働に対してはそうすることができる。そうするためには、
  その商品はただ、他商品を自分に対して等価物として等置しさえすればよい。……
  (『資本論』Ⅰ、初版、20頁)〉

大谷 今までのご説明で、『価値形態論と交換過程論』で回り道についてお書きになった意味がよく分かりました。 dann を「そのさい」と読んでも「それから」と読んでも、あのパラグラフから読み取るべきポイントには変わりがないということは、まったくそのとおりだと思います。

久留間 今度の「貨幣Ⅰ」では訳文ではどうなっているのですか。
大谷 先生編の『レキシコン』のなかで、この「回り道」にかかわる重要な部分が先生のご解釈と食い違うのもどうかと思いまして、『価値形態論と交換過程論』にならい、「それから」といたしました。

       http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2
       広島資本論を読む会

 
 
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