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       久留間理論に傾倒した、崎山先生の初版価値形態論の理解を問う   

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月13日(金)10時22分19秒
  通報 返信・引用 編集済
       崎山論文の紹介 ②  投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月29日
     http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1619
     上記は、崎山先生の下記の論文を紹介したものであり、先生が久留間理論に基づいて、初版
     の第一の価値形態を、どのように紐解き、明らかにしているのか?提示したものである。

     『初版』の価値形態論の検討は、おそろしく困難なものであるが、この一労働者の歳月と時
     間ばかりの掛かった検討を、崎山先生の誤解を批判することで、初版の提示事項が、再版と
     なんら変わるものではない、ことを提起したい。
     http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
     初版は上記を参照願います

     商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(3)
     http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/635/635pdf/inoue.pdf
    ―『資本論』冒頭商品論の構造と内容―     井 上   康     崎 山 政 毅

  <リンネルの語る商品語bを聴き取り、その言わんとするところを解説して言う>とは?
  <杉本 崎山先生の論述は、なかなか判読しにくい。次のところの提示した後が問題です。>

  この点でも第二版の方が論理的に緻密であり(再度述べるが、このこと自体、人間語の世界に固有
  に要求されることだが)、理解を容易にするものとなっていると言える。だが、ここでは敢えて初
  版本文に立ち戻り、自らを商品として示したいリンネルの「ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」振
  る舞いについて詳しく跡付けておこう。
  一労働生産物は一体どのようにして現実的に商品になるのか、またそのためになぜ価値関係・等置
  関係に入らなければならないのかを明確にするためである。
  出発は一労働生産物であるリンネルが、自らを商品として示そうとするところにある。マルクスは
  <リンネルの語る商品語>bを聴き取り、その言わんとするところを解説して言う。
    「価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明に結晶した労働の凝固を
     なしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。・・略・・(P21)・
   <資本論初版>
   ④ 価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をな
     している。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働
     が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけ
     ではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これら
     の労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然
     素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物象的な表現として把握す
     るためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならな
     い。・・・・・
     ところが諸商品は諸物象である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物象的に
     そういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物象的な諸関係のなか
     でそういうものであることを示さなければならない。
     リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、
     こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、
     上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。
   <A 崎山先生のこの論説ーー引用は客観的ではなく主観的であり、歪曲されている。>
   <「商品語」に噛まけての歪曲ーーを見出しておかねば、初版の以降の論理は見えない。>
    B その価値は、上着にたい
     するリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。
     リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては
     上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリン
     ネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態とな
     るのである(18)。
      (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、
      それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。
      このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリ
      ンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。
       (『資本論』初版 国民文庫版46-7頁)
   ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、と
     いう相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
     められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、その
     なかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)
   このようにリンネルは他の異種の商品(ここでは上着)を自分に等置することによってはじめて現
  実的に商品になる。
     ーー杉本 4・5段落の区別なく、彼は連続して引用している。
       Aの部分、Bの前に、彼は、こう続けていたのです。ーー
    「リンネルは単なる「思考産物」=「頭脳織物」であることはできない。純粋に社会的な抽象
     性である価値は、単に思惟のうちにある抽象的観念像のままであるわけにはいかない。それ
     は対象的な形態、物象的な姿をとって現出しなければならない。しかし、リンネル価値が当
     のリンネル物体において反射されるなどということはあり得ない。なぜなら価値は純粋に社
     会的であり、リンネル物体はどこまでいってもリンネル物体でありつずけるしかないからで
     ある。社会性は社会関係においてあるのであり、だから社会関係においてしか現われない。
     かくして労働生産物リンネルは、自らが価値物、すなわち商品であること示すために、自ら
     と異なる何らかの商品を自分に等置することが必要であったのである。
     ここでの例では上着を自分に等置していた。」(P22 冒頭)
  <杉本の意見ーー 崎山先生は、自身の主観をこそ、ここに押し付けているのです。
  ①この歪曲がどこにあるのか?自明です。マルクスは、未だ、初版では「価値物」という用語、を
  使っていません。ましてやーー相対的価値表現する、価値関係にあるリンネルが、価値物であるの
  ですか?リンネルが、価値物と上着から反省規定を受けるなら、それは偶然的に商品となる交換関
  係にある、物・物的存在であり、物象ではないのですから、人間の社会関係を示す価値関係ではな
  いのです。何と、先生は交換関係と価値関係との区べつが、鮮明でなかったのですか?
  ②「ここでの例では上着を自分に等置していた。」ーーとの見解は、初版第二・三段落の提示も、
  何ら見ていないし論じている対象としての、引用された第五段落の提示内容も省いているのです。
  何故か?2段落では、「リンネルは自分の価値量・・・・上着で表現することによって、自分の価
  値存在に自分の直越的存在とは区別される価値形態を与える。」(初版江夏訳P35原P16)ーー
  と示されることで、交換可能性の形態とされ、そして、次に、
  「上着というそのそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態」ーーと、
  示されていました。それが、次の三段落です。
  <杉本 初版の2段落を受けて、次の三段落にはこうのべられていた。>
     ③上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。
     じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であ
     るということである。
     上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、
     他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態を
     もっているのである。
     等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、
     その商品が、その物的な姿において、その使用形態において、他の商品に価値として認め
     られており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、と
     いうことを含んでいる。>  http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
  この3段落をばかり見るのではなく、2段落とのつながりでみると両極の形態にて語るのです。
  次の5段落が、こうであります。再度煩雑ですが、② ③ ⑤段落の系統を示すために挙げます。

     ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
     という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
     められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのな
     かに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。
  ③ <物象の判断>が、示されるも、価値形態の形成から相対的価値形態が形成されるーー
     使用価値上着によるリンネル価値の表現での量的側面は示されていないのです。
     再版の7・8段落にしめされた、初版の<労働膠着物は上着として認められた>ことを、
     <具体化された価値として数えます>ーーと転倒を示すことで、その次に物象の判断が、
     <この上着は価値形態の役をする>ことができと示したのです。
     初版のここでは、価値形態が、② ③ ④ ⑤段落にて示されることで、
     次の課題である、相対的価値形態を、リンネルだけではなく、価値関係にある上着を如何に
     媒介にしてーー受け取るのか?ーーというのが次の7段落・8段落の追求点であります。
   <しかし、彼はこの5段落の続きたる7~8段落の追求点が、次に述べるように無いのです。>

          「かの回り道について言えば、位相の異なる二つの回り道が相互に関係しつつい
  わば同時に辿られるわけである。ただ、論理的に言えば、商品に表わされた抽象的人間労働が価値
  の物的根拠であり、だからこそ、この抽象的人間労働に関する回り道を根拠にして価値としての回
  り道があるのではあるが。ともあれこの構造を人間語によって論理的時間順序に従い叙述するのに
  はそもそも無理がある。
   では次に、以上のマルクスによる商品語の聴き取り・註釈を踏まえて、価値と価値実体の概念が
  まさしくこの価値形態論で確定すること、つまり商品に表わされた抽象的人間労働の社会性が〈自
  然的―社会的〉関係におけるものだけではなく〈私的―社会的〉関係におけるものでもあることが
  どのようにして商品たち自身の関係のうちで実現されるのかについてより詳細に見ていこう。人間
  語の世界ではこういう手続きを経ないと事態を正確に把握できないから。」

     <杉本ーー崎山先生の、全くの錯誤を、以上から見つけることができました。
  「労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態」
  ーーという再版7~8段落での「価値は上着」であることでの転倒、への理解は如何に?です。>

   (iv)〈自然的規定性の抽象化〉過程に関して
   商品 A(リンネル)が商品 B(上着)を自分に等置することによって、商品 Bに表わされている労
  働が商品 A に表わされている労働に等置される。
  商品 B を作る労働は当然ながら商品Aを作る労働とは異なっている。
  しかし商品 B をつくる具体的労働がそれと質的に異なる商品 A をつくる具体労働と等置される
  ことになるがゆえに、まずB を作る労働の、その具体性有用性・自然的規定性が抽象化されて、双
  方の労働に共通な質である人間労働に還元される(この過程を〈自然的規定性の抽象化〉過程と呼
  ぼう)。論理的に言えばこのことの上で、商品 A をつくる具体的労働もまた人間労働に還元された
  商品B をつくる労働と等しいとされる限りで抽象化され、人間労働に還元される。こう
   P22
  して、商品 B を作る具体的労働がこの抽象化された人間労働として意義をもち、商品Bに表わされ
  た具体的有用労働はそのままで対象化された・凝固としての抽象的人間労働の実現形態になる。
  かくして商品 B は、そのあるがままの姿で、すなわち現物形態のままで、かかる抽象的人間労働
  の対象化された物・凝固物として意義を持つものとして存在していることになり、商品Aと直接に
  交換され得るものたる商品 Bはその現物形態のままで、端的に価値物であることが示されている。
  つまり商品 B は価値の現象形態になる。その上で、商品 A は、商品 B と異なる現物形態にあり
  りながら、端的に価値物として・ただそれだけの意義を持つ存在物である商品 B と等しい物であ
  ることにおいてやはり価値物であること、つまり、その価値を形成する限りで、商品 A を作る労
  働も抽象化された人間労働であり、その凝固物として商品 A が存在することが示されている。
  こうして商品 A は、使用価値(現物形態)としては商品 B と異なるものでありながら、商品 B
  と等しい限りで抽象的人間労働の凝固物であり価値であること、つまり商品であることが示されて
  いる。

    <杉本ーー再版だと、上着は価値から価値は上着に、とへの転倒、であり、
    初版だと、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められていることが
  「労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態」
    として認められることで、上着はリンネルの価値形態ーーと判断されていることが残念にも、
    先生には認識できないのですね。この段落へと付けられたこの註は再版の最終段落にもある。

     (18a)「ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれ
     てくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるの
     でもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と
     同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分
     自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ
     然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。」

  このように、ここでは価値形態論の根幹事項が扱われているのですし、上着が等価物として扱われ
  ることで、物象の社会関係のなかで、「労働膠着物は上着」「等価物上着」と転倒しての事柄が、
  再版7・8段落に示された価値上着への転倒であり、ここ初版での上記の、
  「人間という種属の現象形態として認められる」ーーことが、
  <労働膠着物は上着として認められた形態>であるとの、物象の判断について述べていることを、
  理解できないのです。
  先生の全くの錯誤した認識であり、不明さの「商品語」への責任転嫁ですね。>

   <崎山先生は、次にこう続けている。>
  「だが実は、ここでは〈私的労働の社会的労働への転化〉がどのようになされたかが説明されては
  いない。現実にはいま述べてきた過程のうちにそれは果たされているのであるが、人間語による解
  説としてはこれを一体的に明示的に述べることは不可能である。
  したがってこれについては項を改めて解説する。
  さて、この価値関係の中では、商品 B はそのあるがままの姿で・現物形態で、価値を表わすもの
  価値形態になっている。価値体・人間労働の物質化として現われているこの商品 B と等しいもの
  として、商品 A は自分の価値を自分の使用価値と異なる商品 B の体・使用価値で表す。
  ここまでくれば、この価値関係に量的規定を入れて捉えることも困難ではなくなる。」
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   P23
                       「つまりここでは、商品 B の側の現物形態への反
  射・顕現という形で抽象化が行なわれているのである。ここにもまた、抽象化という概念の適用に
  躊躇させるものがあるが、しかし現実的抽象のこれまた一方のあり方なのである。
  価値関係における現実の抽象化過程、すなわち現実の価値関係における〈自然的規定性の抽象化〉
  過程は、今見てきたものであるが、具体的なものが抽象的なものの実現形態になるということ、し
  かもそれが実際に生起するということは、分析的思惟には非常に捉え難い。
  具体的なものを抽象化していくのが分析的思惟の自然な理路なのだから。もちろんヘーゲルに典型
  的なように、具体的なものを抽象的なものの実現形態であると観念の中で私念することはできる
  が、しかしあくまで現実の過程においてそれを理解することは大変難しい。
  だからマルクスは初版本文において言う。

     <先生は、この回り道に示されているマルクスの提示を何ら理解できず疑問を提示する。>
     <杉本  先生は次の「回り道」の部分の改作をして提示するのです。>
     <杉本ーー判読にあたっての注意を!a・bの部分は、崎山先生の引用は無し。>

  aー⑦<われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立ってい
     る。商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している
     労働を、たんに

     「人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別する
     いうことは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合に
     は、他方の形態においては考察しないのであるし、また逆の場合には逆である。これら
     の抽象的な対立物はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別
     されるものである。
     商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用
     価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現
     象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値の
     なかに含まれている具体的な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単な
     る実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるので
     はなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。」80)

  bー このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的で
     あることが明らかになる。
     商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、有用な労働の生産物にして抽
     象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすため
     には、商品はその形態を二重にしなければならない。
     使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。
     この形態は、商品の現物形態である。
     価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。
     ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。
     諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態
     である。
     ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
     るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
     価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
     いことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、
     行なうことができるのである。
     この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実
     現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれ
     ている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もち
     ろん関係することができる。
     そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、と
     いうことだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在している
     のは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立って
     いる、というかぎりにおいてのことでしかない。
     単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だ
     けを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則
     だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な
     労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、
     両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、
     価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる
     (20)。
    (20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえを
     も見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影
     響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたら
     ない。》(江夏訳37-40頁)

    <杉本ーー先生はaの部分を示すのみで、このbの部分を示さないのですから、ここでは、
    「さて、この価値関係の中では、商品 B はそのあるがままの姿で・現物形態で、価値を表わ
    すもの、価値形態になっている。」ーーと、「商品語」で、転倒した価値形態を、表現し結論
    づけているのです。現物形態が価値形態となることは、「商品語」で示され、この現象のまま
    であり、ここの解析はできない、ーーと言うのが、彼の結論なのです。>

  このようにして商品 B の側、すなわち等価形態においては、具体的なものが抽象的なものの実現
  形態・現象形態になるわけであるが、論理的には、これは明らかに奇妙であり転倒している。抽象
  化された人間労働なるものが、商品 B を作る具体的労働において自らを定立し、人間労働の抽象
  的な凝固態なるものが商品 B に対象化された具体的有用労働において自らを定立するというわけ
  であり、また価値という抽象的なものが、商品 B の現物形態=使用価値において自らを定立する
  というわけであるから。マルクスは初版付録の価値形態論でこれについて次のように述べている。
    ーーー付録引用部は略ーーー

   <杉本ーー先生はこの7段落の最大重要な部面である、bの部分に示されている価値形態の秘密を
   何ら紹介しないのです。今日の常識では、次のように示されます。
    <商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用
     価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現
     象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なる>、ことを指して、
  ーー価値形態の秘密が、使用価値が価値の現象形態になることで直接的に価値形態となる、ーー
   と、自明なこと、自明な理解とされているのです。
   「ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるので
     はなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。」
   ーーこの事の詳細な分析が示されているのが、先生の削除した部分であり、次の論理なのです。

     「商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、
     有用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。」

  杉本 パソコン上で、この掲示を見続けていると、ーー等価物上着ーーが、
  ①価値の現象形態と媒介的に役立つ時と、
  ②直接的に役立つ時の二つ役立ちがあることが、ーー理解できるのです。
  ③だから、「抽象的な労働膠着物」が、5段落にて次のように示されていたことで、
   「労動膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労動が凝結している形態として
   認められているのである。」(初版江夏訳P37)ーーとすでに答えは示されていて、そのことで
  ④使用価値と<上着は、そのなかに人間労動が凝結している形態>であるーー価値形態を、
   次のように、すでに、ここに受け取っていたことが示されていたのです。それは次です。
     「だから、自分をそのあるがままのものとして表わすため
     には、商品はその形態を二重にしなければならない。
     使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。
     この形態は、商品の現物形態である。
     価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。」
  <杉本 ここまでの論理が、再版での「a相対的価値形態の内実」として語られたことです。>

  ③ ④の上記は、労動生産物が、価値形態を受け取ることで、商品に転化したのであり、そして、
  ① ②に対しては、かの『回り道』の経過を経ることで、次のようにマルクスは回答しています。

      「ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。
     諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態
     である。
     ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
     るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
     価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
     いことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、
     行なうことができるのである。」

  ① ②の示すものは、労動生産物が商品に転化したことで、先生のように、前提ではなく、
     相対的価値形態と等価形態との両極が成立し、再版の提示を示すと、その次の論理的段階で
    ある、「4 簡単な価値形態の全体」(再版)の事柄ーーこそが、ここには、先行して述べら
    れていたと見るべきだと思います。続く8段落は、だから、勿論、再度両極の形態を示してい
    ます。だから、ここでの、「回り道」は、再版で提示された、回り道とは決定的に異なるーー
    ことをこそ、先生は、久留間先生は提示すべきであったのに、今日までのすべての論者は、語
    らないのです。
    この「回り道」をして受け取るものが、この「簡単な価値形態」であるというーー論理をこ
    そ、久留間先生は、ここに商品形態が、両極の形態をとることで、その結果として成立してい
    るとのマルクスの追求の順序・段階を何ら理解できないのです。
    この「常識」を、疑い深く検討することが必要です。
    (ここには、次の事柄を展望し、論理構成されている、全体的視野が要求されています。)

     つぎはーー初版ではなく、再版でのその全体的構成ことがらでの例示が、必要です。
    そこで、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の論究は終わり、
    次の、「B 全体的な、または展開された価値形態」があり、
    最後に、「C 一般的な価値形態」    が、示されているのです。
    ここまでも『初版』も論理は共通であります。久留間理論は、この英明な提示が見えない。
     マルクスは、<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、
           上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってま
           た、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる・・>
     ーーと示すことで、これからの第二・三の展開された価値形態、一般的価値形態を論ずる論
     理の根底・共通性を示したのです。
    これは、一般的価値形態が形成されることで、一般的等価形態がその姿態を現してくるが、そ
    れは、商品世界からの排除を受けてのみ登場することができる。そのことが、一般的相対的価
    値形態の登場となるのですね。

    「一言で言えば貨幣の秘密」ーーについて、次に追求します。

  初版の一般的価値形態の4段落には、交換可能性の形態として商品世界の住人が存在していること
  が、示され、それがリンネル形態においては、直説的交換可能性の形態としてあることが次に、示
  されている。

    ④「価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現であ
    る。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価
    値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社
    会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、関係している。
       ーーーー略ーーーー
    だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形
    態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値
    形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。
    ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的
    交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。
    (原P28 江夏訳49-50頁)

  <「諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態」
  と註18aですでに第一の形態で示された、交換可能性の形態=価値形態、なのです。
  しかし、今日の価値形態論の常識は、この事柄が等価形態なのですよ、全くの錯誤なのです。>
    ここが理解困難なのであり、難関であります。
    一般的価値形態において、商品世界の住人は、交換可能性の形態を受け取るも、その形態を示
    すリンネルは直接的交換可能性の形態を、受け取っているのです。
    しかし、<リンネルは直接的交換可能性の形態>を、商品世界から受け取っているにしても、
    未だ、一般的な等価形態は受け取っていないのです。上記ではですよ。
    何故か?
    この一般的等価形態を受け取れるのは、次のように、
    ①一般的価値形態を商品世界が受け取るために、リンネルはその世界から排除されるのであり
    ②商品世界が、一般的な相対的価値形態を、受け取るために商品世界からリンネルを排除する
    二つの過程があって成されているのです。

    A商品世界の住人の反省規定である一般的価値形態であることで、交換可能性の形態を示す、
    Bそして、このリンネルは直接的交換可能性の形態をも、左極にて受け取り示す、
    Cそして右極にて、リンネルは商品世界から排除されることで、一般的等価形態を得ている。

    このABCの経過構成があることでリンネルは、左極にて一般的価値形態をえているのです。
    ここは、よーくよく何度も考えてみよう。この交換可能性の形態を、労働生産物がどうやっ
    て受け取ったのですか?
    直接的交換可能性の形態であれば、その自然的形態のままに上着は直接的に価値形態とされ
    たのです。しかし、この上着が直接的に、この等価物が受け取る直接的交換可能性の形態は、
    上着が価値体とされることでの補強を受けて語られていますね。
    この両者の総合・合力の上で等価形態が語られていますね。では後者、上着が価値体である
    こと・この規定のみにては、そもそもが、リンネルの反省規定を受けとるーー上着が価値体
    の姿態ーーには成れない、人間労働の凝固物として価値体であるだけでは、リンネルと上着
    との価値関係は示せない、のです。上着が価値体であることで、等価形態であるなどという
    ことは、自明なこととして、だれも主張しないのです。従って、商品の同等性関係において
    上着は、リンネルの等価形態であるなどとは誰も、述べないのです。

    等価物上着の規定の下にであり、単に自然的形態のままに、右極の商品・この上着は等価形
    態を受け取るのではなく、この姿態・現物形態のままに価値形態とされることで、価値表現
    の材料となるのであり、そして、この規定を上着が右極にて受け取るのは、左極にて、リン
    ネルの価値形態としての役立ちを、上着がなすことで、価値表現の材料となり、相対的価値
    形態であるーーことを示しているのです。

    何を・・ぶつぶつと述べているのか?商品が、第一の形態にて、リンネルの価値形態として
    の上着形態であることで、リンネルの相対的価値表現がなされる、ーーそれは、第三形態に
    ても同じであり、一般的価値形態が示されることで、商品世界は成立し、そして、
    一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態が成立するのです。

    初版での一般的価値形態での例示であるので、英語版でのそれはどうであるのか?提示する。

  (C) 一般的価値形態
     1. 価値形態の変更された性格  The altered character of the form of value
  (C1-1段)
   全ての諸商品はいまやそれらの価値を
    (1) 要素的形態において表現する、なぜなら単一商品においてその価値を表しているから;
    (2) 統一性をもって[表現している]、なぜなら一つのそして同じ商品においてだから。
      価値のこの形態は要素的でありかつ全て同じである、したがって一般的である。
      [要素的]形態 A と [全体的形態]B はただ一つの商品の価値をそれの使用価値すなわち
    素材形態から区別されるあるものとして表現することにだけに適合していた。
   ーーーーー2・3・4段落と省略ーーーーー
  (C1-5段)
    前の二つの形態[A,B]はどちらも各々の商品の価値を違った種類の単一の商品の言葉で表
  現するか、または多くのそのような諸商品の一連のなかで表現する。
  両方の場合において、その商品の価値のある表現を見いだすということは、いわば、それぞ
  れの単一商品の特別の本務である、そしてこのことをそれは他の助けなしに行う。
  これらの他のものは、前のものに関連して諸同等物[諸等価物]という受身的役割を演じる。
  価値の一般的形態Cは、諸商品世界全体の共同の行為から結果として生じる、
  同時にそれでもって、それらの諸価値を同じ同等物[等価物]において表現している、
  そしてただそれだけから結果として生じている。
  一商品はそれの価値のある一般的表現を獲得することができる、同時にそれでもって、同じ
  同等物[等価物]のなかでそれらの価値を表現している;
  そしてどの新しい商品もこの先例に従わなければならない。それはこうしてつぎのことがは
  っきりする。
  価値としての諸商品の存在は純粋に社会的なものであるから、この社会的存在はそれらの社
  会的諸関係だけの全体性によって表現されることができる、そしてその結果としてそれら
  <諸用品>の価値形態は社会的に承認された形態でなければならないことが<現れてくる>。

  (C1-6段)
    いまや亜麻布に相等しくされているすべての諸商品は一般的に諸価値として質的に等しい
  ものとして現れるばかりでなく、また諸価値としてその大きさは比較することができる。
  それらの諸価値の大きさを一つのそして同じ素材、亜麻布、において表現することによって、
  これらの大きさはまた互いに比較される。
  たとえば、10重量ポンドの茶 = 20ヤードの亜麻布、そして40重量ポンドのコーヒー =
  20ヤードの亜麻布。言葉を換えれば、そこには1重量ポンドのコーヒーには1重量ポンドの
  茶に比べてその1/4だけの価値実態 - 労働 - しか含まれていない。

  (C1-7段)
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
  商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形式は、残りの部分から除外された単一の商
  品を変換し、同等の部分(ここではリネン)を<一般的な等価物>にする。

The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
  身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。 それゆえ、
  それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。

The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
  物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶の状態になります。

Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.
  特定の記事、リネンを生産する特定の私的個人の労働である製織は、結果として社会的性格、
  他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得する。

The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of manifestation of undifferentiated human labour.
  一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべ
  ての商品に組み込まれたものと同じにし、従ってリンネル織りを未分化の人間の労働の徴候
  の一般的な形に変換する。

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.
  このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の
  有益な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、

The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
  一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、
  一般に人間の労働力の支出に還元することである。

   <ここには、次のことが、丁寧に・ていねいに あまりに度が過ぎるが、書いている。>
  a<価値の一般的形態Cは、諸商品世界全体の共同の行為から結果として生じる、・・>
  b<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形式は、
  c<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶の状態
  d<リンネル織り労働を他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得し、
  e<一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リンネル織り労動を、未分化の
    商品世界の商品の表示する価値を縫い上げる余多の労働と同じくする。
   ーー「織布労働を人間労働一般の一般的現象形態にする」(新書訳・向坂訳)ーー
   <この錯誤訳への批判を!この訳の意味では等価形態の規定となる>
  f<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、一般に人間の労働力の支出に還元
    することである。

  (C1-8段)
    一般的価値形態、これは全ての労働生産物を差別されない人間労働の単なる諸凝結物と
  して代表するは、まさにそれの構造によって、それは諸商品の世界の社会的要約であるこ
  とを示す。
  そうした一般的価値形態は諸商品の世界のなかで人間労働である全ての労働に備えられた
  性格が、労働の特別の社会的性格をつくるということを争う余地のないほど明らかにする。

  <このように、8段落は、異なることの表明ではなく7段落のまとめなのです。
  ここを、一般的等価形態の記述と理解することで、どんなにか混乱をもたらしているのか?>

     <杉本  まとめです。>
    プルードン批判としての、ここの論理を見るならば、単に、ーー左右両極の対立であり、
    交換可能性の形態と直接的交換可能性の形態の対立ーーとは見れないことがわかる。
    相対的価値形態と等価形態との対立との前提のもとに、価値形態論は語れず、むしろこの、
    左極と右極との対立が、如何にして止揚する事ができるのか?の展望のもとに、マルクスは
    我々に、一体どうしましたらこの難問を、解決していけますかね???との質問なのです。
    プルードン派の人々が、パリ・コミューンで活躍したように、第一インターでのアナーキスト
    でありブランキストへの手の結び方が、示されているーーとの理解が必要です。
    そのような、マルクスの質問のもとに、以上の価値形態論の提示を読む・・のです。



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