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     再版 内実論から、初版での価値形態での主張が見えることがらーーについて

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 8日(火)23時04分27秒
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       <価値形態と価値体の区別がない久留間先生の判断ーー理解について>

     英語版での八段落の記述から知る、久留間理論の位置について
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.

   aそして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ
     価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。

   b<また、価値方程式中のリンネルの等価物として、それは、この様相の下で単独で存在します、
    計算できる値である身体であり、具体化された価値 <体現された価値> として。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   <杉本 ここでの判断している主体は、価値関係をつくる物象であるので、仏語訳が適訳です。
   c「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。」ーーとしめさ
   れたことは、次のことであります。

     <上記a b c 3つの訳について、理解が示されることで、上着の価値形態ではなく、
     リンネルの価値形態としてーー左極で形成されます。このことが何か?を論じてみます。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   ①上着がリンネルの価値を表現するーーことが、リンネルの価値形態が上着形態と形成されること
    ーーで為されるのであり、これが相対的価値形態の内実となることでなのです。
   ②久留間先生の言うことは、上着がリンネルの価値体となることが、価値形態との形態規定ーーを
   受け取る、ということであります。
   ③リンネル=上着の方程式において、上着は価値であり、直接的に価値体の形態規定を両極の形態
   にかかわらず受け取っているーーと言う事ではないでしょうか?これが彼の、誤りなのです。
   ④リンネルの相対的価値表現では、リンネルの価値形態が形成されることでなされ、次に、
   その反対極において、上着が直接的に価値形態と判断されています。
   ⑤この反省規定でなされたことーーに対応して、両極で、「二つの価値形態」を見つけたことで、
   相対的価値形態と等価形態とが判断されます。(初版8段落 註20のふられた後の段落)
   ⑥再版では、まず相対的価値形態の形成になっていますが、それでは、初版が読み取れません。
   ⑦そして、初版の九段落から十二段落まで、この等価形態の論述がつながるのです。

   ⑧ところが、先生の記述では何故か、この7段落での価値形態の形成が如何にしてなのか?の把握
   が、この初版価値形態論の核心であるように再版の理解においてもなっているかに見えるのです。
   しかし、先生のこだわりが、この価値形態にあるかに見えるだけであります。間違い!です。
   先生のこだわりが、あるのは、他商品上着が直接的に価値体になれないので、「回り道」をして、
   <価値体としての形態規定>を受け取るーーということであります。
   先生は言うーー「これによって、(「「回り道」をして、)現に上着はリンネルに対する
          直接的交換可能性を与えられているのです。」(『貨幣論』P114)


       <初版 その7段落左極の部分を英語版から引用しておこう。>
          https://www.excite.co.jp/world/german/
          http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1632

   それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にするする必要があります。
   それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

   それは、他の商品と一緒に流通して初めて、自分自身にとって価値のある形式を得るだけです。
   しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。
   商品の唯一の客観的形態は、その使用形態、それらの自然形態である。

Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.
A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   今や商品の自然形態(例えばリネン)は、その価値形態の正反対であるため、上着の自然な形態
   を他の商品の姿のままに、商品形態<価値形態--江夏訳>に変換しなければならない。
   それはすぐに他の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によってすぐに
   することができます。

   <杉本 先生の論述は、このように詭弁なのです。主語が変化しています。リンネルの価値表現で
   あるだけではなく、リンネルの価値存在の表現<ここが主語>においては、上着はこの「回り道」
   を経過することで、<使用価値と価値形態の形態規定>を受け取ることで、商品形態が規定された
   のですし、この回り道をすることで、商品形態が受取られたのですから、規定されるのは相対的価
   値形態の形成であります。この7段落にて、商品形態を価値形態としたのは、江夏訳の誤訳である
   かと思います。
   左極での価値形態は、すでに、4段落での物象の諸関係の成立のなかで語られており、続くそのこ
   とが、5段落冒頭(註18a)にてまとめられていた。
   だから、7段落にてのこれは、右極と対比されたものであり、これは左極での行いなのです。>

   <しかし、このような「回り道」として語られたことに先生の真意はなく、使用価値上着が価値体
   としての形態規定を受け取るのは、如何にしてか?とのみここで問うているのです。>

   ⑨冒頭の英語版の8段落に、久留間先生の詭弁が暴かれています。
   「aそして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。」
    従来の訳は、この価値体と価値形態との区別をしないで訳出していたのです。

   左極①リンネルの価値表現であるならば、上着は価値体であり、
     ②リンネルの価値存在の表現であれば、価値形態は上着なのであります。
     ③そしてつぎにリンネルは、この価値形態を受け取ることで、上着が価値表現の材料となり、
     ④リンネルは、上着との関係において自身の商品形態を受け取り、
     ⑤上着のこの③の二つの媒介的な役立ちにおいて相対的価値形態を受け取ります。

   右極①使用価値上着は価値表現の材料になることで、リンネルの等価物となります。
     ②上着がリンネルの直接的な価値形態になることで等価形態となります。
     ③上着は価値としてリンネルに等しい左極での行いが、右極でも反射して、上着は直接的に
      価値体であることで、等価物の形態を示すーーのです。
     ④しかし、この①の価値表現材料、③直接的価値体であることではその役立ちを成せない。
     ⑤上着は価値の現象形態であることは、その①③に依るものであり、価値形態になれない。
     ⑥等価形態の第二・三の独自性の示すことは、具体的労働が抽象的人間労働の実現形態になる
      例に示される、物象の判断によって、この④⑤の困難の克服が成されていたのです
     ⑦このように、等価形態の第② ③の独自性は物象の判断によっているのです。

     ⑧等価形態のこの第② ③の独自性は物象の判断であるが、そのことができたのは、
      左極での価値形態の形成において、物象の判断が上着がリンネルの価値の存在形態と判断す
      ることで、価値形態と規定されたことがーー転倒して、
      上着が価値表現の材料であり、価値体である物的存在であり、同等性関係なままに、
      価値形態と判断されることで、物象の社会関係ではなく、物的関係であることを示してい
      る、事に依るのです。

   ⑩以上、再版八段落の意味を考え続けてみれば、従来の訳はこの価値形態と価値体の区別をつける
   ことが出来ないので、使用価値と価値形態の商品形態が形成される筋道への批判が出来ないーー思
   想的・実践的基板にあると見なければならないのです。

   ⑪私は、50年代の復帰以前の奄美で、裸足で生活しながら、ハブにも噛み付かれず、野山・川・海
   を走り回った幼年期の経験があります。そこでの米・砂糖きび・黒砂糖の生成は、集団耕作であり
   ますから、集落での集団での協同労働に生活の大半が支えられていたわけです。
   生活の基本線である 水・米・家屋には、集落での協同労働がありますから、そこには労働生産物
   の商品への転化はないのですが、そこを拡大するような思考であり、協同作業は、全島を覆った復
   帰闘争・島じゅうにいた親類縁者はいながらも、大島紬の販路拡大とともに、無償労働の範囲は、
   縮小こそするばかりであったのです。

   ⑫マルクスの提起していることは、価値関係の形成が、左極でのリンネルの価値形態の形成が、
   上着をリンネルの等価物として、価値の存在形態と反省規定することで、リンネルの価値存在の表
   現がなされるーーことがあって、事実上の回り道に示されるーー人間労働の支出ーーが、リンネル
   は抽象的人間労働を示すだけでなく、他商品も価値としては抽象的人間労働の凝固物である、こと
   で、共通者の体化物として上着は価値体になりました。

    しかし、ここで大切なことは、その次のことが生起していることなのです。
   a価値存在を示すリンネルが、抽象的人間労働の凝固物と反省規定されていることで、
   b今度は、この「価値上着」が、リンネルからどう反省規定されているのか?が示されたのです。
    ここでの注意は、<上着は価値>であったものが、等価物の役立ちをなすために、6・7段落
    で、<価値は上着>と示される転倒があるのですし、そのことで等価物上着が、
   c「金モール」を着た上着へと反省規定が変わり、そのことで、等価物上着は、
   d体現された価値として・リンネルにとっての「価値が上着という形態をとること」で、やっと、
   e上着は価値体としてリンネルの価値を表すことができるーーのです。
   fここの困難は、「(上着は)それゆえ体化された価値としてのみ、価値体としてのみ通用する」
    と示される既存共通の等価物を示す日本語訳であれば、次のこととは区別ができず、マルクスの
    批判する同等性を示す物的存在としての価値体であり、価値形態なのであります。
   gここに、久留間先生の示す 価値体であり、価値形態がありました。
    これは、dの諸物象の社会関係の示す判断ではなく、それが、同等性関係への転倒のなかで示さ
    れるものですし、「上着は価値」であることで、価値形態を示すーー転倒像にあると見ました。
    これは、上記のa~fの流れにおいて検証しなければ見えてこないものであります。





 
 
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