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三章 価値尺度 流通手段 の報告

 投稿者:杉本  投稿日:2018年11月 6日(火)19時05分43秒
  通報 返信・引用 編集済
   資本論を読む会 広島の報告を転載させて戴きます。
 杉本は、苦心を転載しています。有難うございます。
 杉本は、二章から三章への記述の理解を進めています
 読みやすくするために、編集しときました。


  <三章 第一節 価値尺度>

http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=9

  「読む会」だより(17年6月用) 文責IZ


(説明) 3章1節、貨幣の価値尺度としての機能の4回目

3月に第3章の1節、貨幣の価値尺度機能に入りましたが、4月、5月と本論とは少しそれてしまいました。貨幣の価値尺度機能について思い出していただくということもあり、まず「たより3月用」の《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か》の補足から始めましょう。

《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か の補足》

「たより」では、《「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現すること<場合>における、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料になる、という貨幣の価値尺度機能……》と説明しました。

一般的等価物として、他の諸商品と無条件に交換可能であるということによって、金は「貨幣」として認められることになります。言いかえれば、これは事実上、その金という身体(自然形態)が対象化された人間労働の一定量としてのみ評価されるということです。だから貨幣・金はその金量において諸商品の価値の大きさを表現できるのであり、この商品の価値の大きさを一律に測るための貨幣・金の役割のことが、「価値尺度機能」と呼ばれるのです。

このことを本来的な労働の関係においてもう少し見ていくと、商品の交換関係のなかでは、金を産出するという特定の労働が、種々の使用価値を生み出す人間の労働全体の“代表”と見なされるということ、否、単に諸労働の“代表”であるばかりではなくて“人間労働そのもの”であると見なされるということです。言いかえれば、ここでは貨幣・金を産出する労働は、その金を産出するという具体的、有用的な側面が無視されて、ただ人間労働であるという抽象的な側面で存在する限りでのみ、諸商品の価値の大きさを表現するという役割を果たすのです。(そして、こんな不可思議なこと──人間の労働全体の一部をなすにすぎない特定の労働が、同時に労働一般すなわち“人間労働そのもの”と見なされる──が、どのようにして可能なのか。これを解明したのが第1章3節「価値形態」の「相対的価値形態の内実」の項でした。)だからこそ、諸商品によって一商品・金が貨幣(一般的等価物)であると認められると(貨幣という形態規定が与えられると)、金は“直接に”その身体の大きさで、諸商品の価値の大きさである労働時間を表現する──という機能を持つ──ことになります。

こうして、諸商品の共同の働きかけによって貨幣が成立すると、諸商品はすべて、その「価値」の大きさ(支出労働量)を金という単一の貨幣商品によって、つまり金という特定の物体の一定量で、共通に表示することができます(これが「価格」です)。すべての商品(貨幣である金を除いた)は、価格という共通な姿をもつことによってはじめて、相互にその価値の大きさを──直接に労働時間としてではなく、対象化された労働時間としての意味をもつ一定の金量としてですが──測り得ることになり、したがってまた一定の比率で同じもの、交換可能なものとして関係できるものになり、名実ともに商品になることができるのです。(これが「価値の価格への転化」と言われるものです。)

ところで、諸商品においては、ある商品はそれに含まれる労働量が等しい他の商品と関係します。しかしながら、貨幣の役割においては、貨幣商品・金は、それに含まれている労働量が等しいということによって他の商品と関係しているのではない、ということに注意が必要です。諸商品は、他の商品と交換されるためには、それに含まれている価値の大きさが他の商品と等しくなければなりません。だからこそ諸商品はその価値の大きさを貨幣で共通に測りあわなければなりません。しかし、貨幣・金は単に諸商品が相互に価値の大きさを表示するための共通の物質的“材料”として物質的尺度として、この関係に持ち込まれているだけなのです。貨幣・金は、諸商品にとって、それに含まれている労働量が諸商品と等しいという役割において価値表現のなかに持ち込まれたのではありません。それは、対象化された人間労働の一定量を表現する“物質的材料”としてとしてのみ、言い換えれば、諸商品に含まれている具体的な諸労働を無差別な「人間労働」に還元する役割のためにのみ、この関係のなかに持ち込まれているにすぎないのです。このことは貨幣の役割を理解するうえで重要です。

貨幣の価値尺度機能について、久留間鮫造は『貨幣論』において分かりやすく触れていますので紹介しておきます。

 「実際に売買される場合の価格の高さが何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、<量ではなくて>形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつかという問題、これをわれわれは、まず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。

 商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、結局、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品に替わるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。

ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、言うまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、その代わりに金が与えられる。

これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲与されるということは、ひっきょう<結局は>、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎ捨てられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味なのです。

このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによってまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに──すなわち貨幣に──されていることを前提するので、それによってはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な労働への転化を意味することになりうるわけです。

ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している“尺度の質”というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(大月版、P180)

3)商品の「価格」が、「観念的な」ものであるということはどういうことか

さて、マルクスは1)の引用に次いで、こう述べます。

 「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらのものそのもののうちに存在する。この価値は、これらのものの金との同等性<等置……レポータ>によって、いわばただこれらのものの頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらのものの価格を外界に伝えるためには、…略…これらのものに紙札をぶら下げるかしなければならないのである。商品価値の金による表現<すなわち価格……レポータ>は観念的なものだから、この機能<すなわち価値尺度機能……レポータ>のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品に価格という形態または想像された金形態を与えても、まだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」(全集版、P126)

(1)「観念的」なものと対置されるのは「物質的」なものであって、「実在的」なものではない、という点について

以下、次回です。

2017年7月17日

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http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=7

 ①「読む会」だより(17年9月用) 文責IZ

 9月報告 流通手段

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の1回目

 第2章「交換過程」で触れられたように、商品はその使用価値の姿そのままでは価値として他の諸商品と無条件に交換されることができません。そこで第3章1節で触れられたように、商品は自らを商品一般と貨幣商品とに二重化することで、自らの価値(社会的必要労働時間)を価格(金量)として相対的にではあれ一律的に表示しあいます。言うまでもなく、それは社会生活を成立させるために、私的に生産された商品が全面的に交換されねばならないという必然性から来ています。では貨幣を媒介にした商品交換の内容はどのようなものであり、そこで貨幣はどのような役割を果たしているのでしょうか。これが第3章「貨幣または商品流通」の検討課題です。(※マルクス自身の言葉によるこの章の位置づけは、付録のとおりです。)

第2節は「a 商品の変態」、「b 貨幣の流通」、「c 鋳貨 価値章標」の3つの節にに分かれていますが、いずれも現代的な意義を持つ重要な部分です。いずれも、読むのには難しいところはあまりないと思われます。

(1)「まさに見るべきもの」とは何か
──商品の「変態(形態変換)」と貨幣の役割

 第2節の冒頭でマルクスはこう述べています。

 「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態<貨幣の生成……レポータ>をつくりだす。」(全集版、P138)

 ここで言われている矛盾した諸関係というのは、商品は一方では、「使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない」(同、P115)が、他方では「自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない」(同)という矛盾でした。商品はこの矛盾をなくしてしまうことはできませんが、自らを“価格”として表示することによって、譲渡によって使用価値として実現される前に、相互に価値として表現しあい、関係しあうことを可能にしたのです。
矛盾の一般論については、「読む会」では触れないことにします。

 つづいてこう述べられます。

 「交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。ひとたび、使用価値として役立つ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。ここでわれわれが関心をもつのは、前のほうの部面だけである。そこでわれわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。」

 前半は問題ないでしょう。後半で問題なのは、なぜ素材としての使用価値の面を無視して「形態の面」だけを問題としなければならないのか、ということと思われます。社会的な物質代謝が行なわれるということは、すなわち分業が行われるということでもあります。しかしここで問題とすべきなのはその特殊な在り方、すなわち社会的分業なり社会的物質代謝なりが、人間自身の統御によるのではなくて、その生産物である商品の価値関係にもとづいて行なわれる場合の、その独特な方式が問題であるからです。

 a項目のなかで一番重要なのは、その次のパラグラフと思われます。

 「この形態転換の理解がまったく不十分なのは、<彼らにとって……レポータ>価値概念そのものが明らかになっていないことを別にすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換によって行われるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態<すなわち価値姿態……レポータ>としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすことになるのである。」(全集版、P138)

 ここで「まさに見るべきもの」と言われているのは、商品の“価値としての”「形態変換」ということです。ここで言われているとおり、私たちの目の前でも行われているように、商品の交換は直接に行われるのではなくて、貨幣を媒介にして行われます。そこで交換は商品と金(貨幣)という二つの商品の間の出来事のように見えてしまいます。しかしながら、商品交換における金(貨幣)というのはただの商品としての役割で出てくるのではありません。それはある商品がもっていた“価格”、すなわちその商品があらかじめ持っていた価値性格とその大きさ──このことの理解が肝要です──を実現する役割をもつものとして出てきているだけなのです。
言いかえれば、ここでの商品と金との交換は、商品どうしの交換ではありません。この交換は、ある商品のもっている特定の現物形態からその無差別な価値の形態への、“価値”としての「形態変換」にすぎないのです。
しかも、商品と金(貨幣)との交換といっても、それは商品の金への変換(すなわち売りW─G)と、金の商品への変換(すなわち買いG─W)の二つに区別されます。それらは別々に独立した過程なのではなくて、基本的には、ある商品が金への変換を経て別の商品に変換するという、社会的物質代謝の過程(W─G─W’)のなかの、対立した二つの部分にすぎないのです。

 このことを「見落とす」と、商品が貨幣に置き換わるという前半部分(売りW─G)すらも「貨幣で買う」ことのように見えてしまいます。そうではなくて、GはWの商品自身のもっている価値の姿なのであり、売りW─Gというのは、ある商品が観念的には“価格”としてすでに存在していた自分自身の価値の姿に、現実に転化する(別の商品に再度置き換わるために)ということにすぎないのです。売りW─Gも、買いG─Wも、商品W自身の形態転換にほかならないのです。
2017年9月10日
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②・・・・・・・・
今回の(説明)は、前回の(1)の部分を若干手直しするだけでそのまま利用させていただきます。
(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の2回目

(1)「まさに見るべきもの」とは何か
──商品の「変態(形態変換)」と貨幣の役割

 第2節の冒頭でマルクスはこう述べています。

 「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態<貨幣の生成……レポータ>をつくりだす。」(全集版、P138)

 ここで言われている矛盾した諸関係というのは、商品は一方では、「使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない」(同、P115)が、他方では「自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない」(同)という矛盾でした。商品はこの矛盾をなくしてしまうことはできませんが、自らを“価格”として表示することによって、譲渡によって使用価値として実現される前に、相互に価値として表現しあい、関係しあうことを可能にしたのです。
矛盾の一般論については、「読む会」では触れないことにします。

 つづいてこう述べられます。

 「交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。ひとたび、使用価値として役立つ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。ここでわれわれが関心をもつのは、前のほうの部面だけである。そこでわれわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。」

 前半は問題ないでしょう。後半で問題なのは、なぜ素材としての使用価値の面を無視して「形態の面」だけを問題としなければならないのか、ということと思われます。社会的な物質代謝が行なわれるということは、すなわち分業が行われるということでもあります。しかしここで問題とすべきなのはその特殊な在り方、すなわち社会的分業なり社会的物質代謝なりが、人間自身の統御によるのではなくて、その生産物である商品の価値関係にもとづいて行なわれる場合の、その独特な方式が問題であるからです。

 a商品の変態 の項目のなかで一番重要なのは、その次のパラグラフと思われます。

 「この形態転換の理解がまったく不十分なのは、<ベーリをはじめとする経済学者たちにとって……レポータ>価値概念そのものが明らかになっていないことを別にすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換によって行われるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態<すなわち価値姿態……レポータ>としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすことになるのである。」(全集版、P138)

 ここで「まさに見るべきもの」と言われているのは、商品の“価値としての”「形態変換」ということです。ここで言われているとおり、私たちの目の前でも行われているように、商品の交換は直接に行われるのではなくて、貨幣を媒介にして行われます。そこで交換は商品と金(貨幣)という二つの商品の間の出来事のように見えてしまいます。しかしながら、商品交換における金(貨幣)というのはただの商品としての役割で出てくるのではありません。それはある商品がもっていた“価格”、すなわちその商品が“あらかじめ”持っていた価値性格とその大きさを実現する役割をもつものとして出てきているだけなのです。

 注意すべきことは、以前にも触れましたが、商品はその生産時に支出された労働によって“あらかじめ”価値を持っているということです。商品の価値(使用価値ではありません、支出労働時間のことです)は、他の商品との交換において一定の比率として“現われる”のですが、しかしこの比率は交換によって決まるのではないということが決定的に重要です。

言いかえれば、ここでの商品と金との交換は、商品どうしの交換や物々交換ではありません。この交換は、ある商品のもっている特定の現物形態からその無差別な価値の形態への、“価値”としての「形態変換」にすぎないのです。

しかも、商品と金(貨幣)との交換といっても、それは商品の金への変換(すなわち売りW─G)と、金の商品への変換(すなわち買いG─W)の二つに区別されます。それらは別々に独立した過程なのではなくて、基本的には、ある商品が金への変換を経て別の商品に変換するという、社会的物質代謝の過程(W─G─W’)のなかの、対立した二つの部分にすぎないのです。
商品の貨幣への転換がその商品自身の価値としての形態転換にすぎないということを「見落とす」と、商品が貨幣に置き換わるという前半部分(売り・W─G)すらも「貨幣で買う」ことのように見えてしまいます。そうではなくて、GはWの商品自身のもっている価値の姿なのであり、売り・W─Gというのは、ある商品が観念的には“価格”としてすでに存在していた自分自身の価値の姿に、現実に転化する(別の商品に再度置き換わるために)ということにすぎないのです。売りW─Gも、買いG─Wも、商品W自身の形態転換にほかならないのです。
2017年11月19日
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http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=6
 ③「読む会」だより(17年12月用) 文責IZ

 このことは、当日お話してお分かりいただけたかと思いますが、貨幣の機能を理解するためには、大まかに言って二つの事柄の理解が重要かと思われます。
一つは、商品は、使用価値であるばかりではなくて、価値すなわち「労働時間の塊」でもあるということです。
これは、労働の二面性(第1章第2節「商品に表わされる労働の二面性」)と呼ばれます。すべての労働は、一面では具体的な有用労働であり、素材に働きかけ、生産物の使用価値を生み出します(たとえば布を裁縫して服を作るように)。このことは誰にでもよく分かります。

 しかし労働がいつでも一定の社会のなかで行われる以上、すべての労働は、他面では、社会的な性格を持ちます。商品社会にあってはそれは、社会的に同等で区別ない、その意味で抽象的な労働ということになります。しかし商品に含まれる労働が、一面では抽象的労働であるということは、分かりにくいものです。というのも、発展した商品生産社会である資本主義社会にあっては、労働は私的な諸労働に分割されていることが前提されていますし、そのうえに、この労働の社会的な性格は、労働自身の性格としてではなくて、その生産“物”がもつ性格として、すなわち商品の価値として現れるからです。(歴史的な社会構成体における、それぞれに固有な労働の社会的な性格については、第1章4節「商品の呪物的性格とその秘密」を参照ください。)

商品を、抽象的な労働、あるいは社会的に同等な必要労働の結果としてみるならば、商品は「<社会的に必要な……レポータ>労働時間の塊」であり、それ自身価値(社会的必要労働時間の対象化)なのです。そして商品の使用価値とは異なって、商品の価値は、その素材や自然的属性とは全く無縁であって、支出労働時間の表現にすぎません。
商品は──人間個々人の意思とは関わりなく──、自らを価値として表現し、価値として他商品と関係することによって、社会の物質代謝を“商品流通”という姿で行なうのですが、ここで重要な働きをするのが貨幣です。(貨幣の機能を述べることは、すなわち商品流通を述べることになるので、第3章は「貨幣または商品流通」というタイトルになっています。)

もう一つは、貨幣は、商品自身の二重化によって、すなわち商品相互の価値表現の役割の分化によって生まれたということです。これは言いかえれば、一般的等価物であり価値の独立な形態として認められるという貨幣の性格は、その貨幣商品自身の自然属性(使用価値)に基づくものではなくて、様々な使用価値を持つ商品が相互に共通な社会的支出労働時間(すなわち価値)として関係しあうための社会的な必要性から生まれたということです。
(貨幣もまた商品であるという点からいえば、貨幣の価値もまたその生産に支出された必要労働時間で決まります。だから商品の貨幣との交換・転換は、たんなる等価交換なのであって、それによって商品の価値が決まるというわけではない、ということも明らかでしょう。)

貨幣の価値尺度機能によって、諸商品は、相対的にではありますが──つまり貨幣・金を生産する労働時間との比率としてですが──、共通な社会的必要労働時間として、相互に、全面的に関係しあえることになります。

反面、商品世界から排除されたこの貨幣商品は、欲望の一般的対象となることによって、個人的な欲望の制約から解放され、あるいは同じことですが独立した使用価値としての制約から解放されることになります。こうして商品世界は、貨幣を仲介物とすることによって、商品交換を、人間の個人的な欲望の制約から解放すると同時に、社会的必要労働時間に対応した交換を実現することで、全面的な社会的物質代謝を築き上げているのです。

前回触れたように、ある商品(W)の貨幣(G)への転換、さらにその貨幣(G)から別の商品(W’)への転換ということは、商品と貨幣という“二つの使用価値”の間での別々の行為なのではなくて、貨幣を価値の形態とすることで行われる、当該の“一つ商品の価値”の形態転換(W─G─W’)なのであり、この一連の行為のなかでの二つの項をなしているのです。

このことが理解いただければ、前回お話ししましたように、たとえば商品から貨幣への転換(W─G)ということは、「貨幣で買う」こと、つまり一商品が他の一商品としての金と交換されるということではありません。それは、一商品が「価格」としてすでに観念的に存在していた自分自身の価値の姿に現実に転化することなのであり、この意味で商品自身の「形態転換」にほかならないのです。

また関連した質問として、「商品の価値が価格として現れるとはどういうことか、例えばある農家がコメとイモを作っているとして、コメが高い価格で売れればコメの方により多くの労働時間を割くといったことか」という質問も出されました。
チューターは、個々の農家としてではなくて社会全体としてコメのために支出される労働が多ければ、コメの価値は大きくしたがってその価格が高くなるということは言えるだろう。しかし、コメの価値が価格として現れるということは、そういうことではなくて、コメの必要労働量としての価値が、イモやその他の商品と同じくいくばくかの金量で共通に表示されるということだ、と答えました。大したことではないように思われるかもしれませんが、このことは生産物が個人的な欲望の制約から解放され、商品として全面的に交換されるために必要不可欠な条件なのです。

(説明)部分にはあまり意見や質問は出ませんでしたが、当日急用で参加できなかった方から、「第2節(1)のはじめの引用で『商品の交換過程での矛盾』と言われているが、交換過程での使用価値と価値との矛盾というのがよく分からない」という質問がメールで寄せられました。

商品に含まれる使用価値と価値との矛盾というのは、商品は、孤立的に見た場合、一方でその“現物”としては(それがもつ自然属性としては)独立した使用価値であり、他の商品とそれぞれに質を異にしていなければなりません。他方で商品は、価値としては、つまり社会的に同等な“必要労働の塊”としては、相互に同質──量は異なるとしても──でなければなりません。一方では他の商品と異質でなければならないのに他方では同質でなければならないということ、つまり使用価値であると同時に価値であること、これが「商品の矛盾」です。

しかし商品は他の商品と関係し、交換されあうからこそ商品です。他の商品との関係(交換過程)のなかでは、ある商品と別のある商品とは、ともに使用価値であると同時に価値である商品として関係しなければなりません。そこでこの関係のなかでは、先ほどの「商品の矛盾」は、より具体的な矛盾として現われることになります。

つまり商品はその所有者にとっては非使用価値なのですから、一方では「使用価値として実現されうる前に」すなわち実際に使用価値として他人に譲渡される前に、「価値として実現されなければならない」すなわち交換可能なものでなければなりません。他方では、それが他人に譲渡されうる、つまり価値として実現されうるためには、商品は、他人にとってそれが実際に使用価値であることを証明していなければなりません。つまり「自分を価値として実現しうる前に」、「自分を使用価値として実証しなければならない」ということになります。商品は、一方では交換の結果としてはじめて、それが他人のための使用価値であり社会的必要労働時間の対象化、すなわち価値であったことが実証されるほかないのに、他方では交換される以前からそれが他人のための使用価値であり価値であることが前提されていなければならない、という矛盾(「交換過程の矛盾」)として商品の矛盾は表面化するのです。この矛盾は、ある商品所有者が自分の商品を他の商品と無条件に交換可能な価値として押し通そうとしても、他の商品所有者もまた同じように自分の商品だけを価値として押し通そうとするために、商品交換が一般に行き詰まるという現実的な矛盾として現れるほかありません。

この交換過程の矛盾を解決して商品交換を全面的に行うために、商品は、いったんそれ自身の使用価値の姿を脱ぎ捨てて、他の商品と共通な価値の形態=貨幣の姿に置き換わるという過程(媒介・仲介された)を経ることになります。商品が共通な「価格」をもつということは、排除された一商品を、商品世界が価値の形態=貨幣と認め、商品生産社会における社会的物質代謝を全面的に行なうための手順の始まり──観念的等置──なのです。
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http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=6

 ④読む会」だより(18年1月用) 文責IZ
(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の3回目

はじめに、前回落としていました商品の形態転換についてのマルクスのまとめの部分を引用しておきます。(分業の意味について書かれた部分(全集版ではP143)なども重要ですが、ここでは★読むだけにします。)
ある商品Aが他の商品Bと直接に交換されるということは、それぞれが独立した使用価値としての姿をもっているためにすでに触れたような大きな矛盾をもちます。この矛盾を解決するために貨幣が成立し、商品は価格をもつ──その価値を価格として共通に表示する──ことによって他商品と同等な価値としての姿をもちます。このことによって、商品の交換は、販売(Wa─G)と購買(G─Wb)という二つの相対的に自立した過程に分裂して遂行されるようになります。分かりやすく言えば、商品所持者は、自分の商品を直接に自分の欲する他の商品と交換するのではなくて、まず貨幣(★すなわちその商品の価値の形態である)にたいして交換し、この媒介(★すなわち形態転換)を経て、次にこの貨幣を自分の欲する任意の商品と交換することになります。そこで、

・「こうして商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態──商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである。商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引──売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣と商品との交換、そして両行為の統一、すなわち買うために売る、である。
……
こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行われる。
商品─貨幣─商品  W─G─W
その素材的内容から見れば、この運動はW─W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では<貨幣すなわち価値の形態を媒介とした二つの項の統一という……レポータ>過程そのものは消えてしまっている。」(全集版、P140)

(2)売り(W─G)は同時に買い(G─W)であり、また買いは同時に売りである

 商品所持者としての個人的な観点からのみ商品の交換を見ていたのでは、商品流通の全体は見えません。その典型的な例が売りは同時に買いであり、買いは同時に売りであるという点です。

マルクスは、「W─G、商品の第一変態または売り」の説明の中でこう触れています。

 「一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。すぐ目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。●だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的な価値姿態とである。そして、金はなにと? その使用価値の一つの特殊な姿態とである。●なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。その価値姿態にあっては@

●それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。この一つの過程<W⇔G……レポータ>が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W─Gは同時にG─Wである。」(全集版、P144)

・「金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した<岩波文庫訳では「脱皮した」>姿であり、売りの、または第一の商品変態W─Gの、産物である。

金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。

<貨幣という……レポータ>その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って、無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化(ようか)する。それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。その貨幣形態にあっては、<商品は……レポータ>どれもこれもまったく同じに見える。だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが。

@いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た2枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。

●リンネルの売り、W─Gは、同時に、その買い、G─Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。

●リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。

@W─G(リンネル─貨幣)、この、W─G─W(リンネル─貨幣─聖書)の第一の段階は、同時にG─W(貨幣─リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W─G─W(小麦─貨幣─リンネル)の最後の段階である。

●一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。」(全集版、P145)

★2番目の●(「なぜ金は……」)の所では、「2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである」と指摘されています。商品が「価格」をもつということ、あるいは同じことですが貨幣が「価値尺度機能」をもつということは、諸商品が商品世界の一部として価値表現の関係のなかに入っているということを、そしてまたそのなかで貨幣商品・金がその現物(使用価値)のままで、価値の形態(社会的労働時間の代表物)として認められるということを意味しているのです。

商品流通とは、まさにこのような諸商品の変態がからみあった総体なのです。
(参考として、久留間鮫造の『恐慌論研究』(大月)所収の「物価と通貨と需要」の中にある、「商品の変態と貨幣の通流」の図を添付しておきます。)
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「読む会」だより(18年2月用) 文責IZ

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の4回目

(2)売り(W─G)は同時に買い(G─W)であり、また買いは同時に売りである。しかし実際には、この売りと買いとは、ある商品の形態転換(たとえば小麦を売った貨幣でリンネルを買う)の第二変態(G─W)であるリンネルの買いと、別の商品の形態転換(たとえばリンネルを売った貨幣で聖書を買う)の第一変態(W─G)であるリンネルの売りとが同時に現れているにすぎない。商品流通は、単なる商品と貨幣(あるいは商品所有者と貨幣所有者)との交換ではなくて、諸商品の形態転換が相互に絡まった、もっとも単純な姿でも4つの極と3人の商品所持者を前提する複雑な過程である。

商品所持者としての個人的な観点からのみ商品の交換を見ていたのでは、商品流通の全体は見えません。その典型的な例が、流通が商品と貨幣との「交換」のように見えるというという点です。マルクスはこう触れています。

・⑬ー①「いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た2枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。リンネルの売り、W─Gは、同時に、その買い、G─Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。@

 ⑬-③W─G(リンネル─貨幣)、この、W─G─W(リンネル─貨幣─聖書)の第一の段階は、同時にG─W(貨幣─リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W─G─W(小麦─貨幣─リンネル)の最後の段階である。一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。」(全集版、P145)

  <⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳・・・段落は略>

商品流通とは、まさにこのような諸商品の変態がからみあった総体です。それは生産物の引き渡しとそれとひきかえの生産物の受け渡しとが直接的同一性をもっている直接的生産物交換(物々交換)とはまったく異なって、貨幣を媒介とする流通によって両者(生産物の引き渡しと受け取り)が販売(売り)と購買(買い)とに分裂させられていることを特徴としているのです。
マルクスはa項の終わりにこう述べています。

・「どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。@
それの意味するところが、現実に行われた売りの数が現実に行われた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術のるつぼに投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期を、なすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現れるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。@
流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。@
独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる──恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立──この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない一大範囲を必要とするのである。
商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。」(全集版、P149)原P128

2018年2月18日
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「読む会」だより(18年3月用) 文責IZ

(説明)部分の(1)「まさに見るべきもの」とは何か──商品の「変態(形態変換)」と貨幣の役割 への追加部分では、いくつか質問が出ました。
まずは、<⑬-③>W─G─Wと言われるが、Gは時々の需要の変化などによってその量は変化するのではないか、という質問でした。チューターは、たしかに量的な変化はあるとしても、生活必需品などは一定期間の平均をとればある一定の範囲であろう。だがなによりもここでの問題は、商品自身の「形態の変換」の問題であって、一般商品と貨幣商品との「交換」の問題ではないということが重要だろう。すなわち商品が、その使用価値としての自然的な形態を脱ぎ捨てて、金(貨幣)に置き換わるということは、その商品がある別の使用価値を持った金と「交換」されるということではない。

商品は、使用価値であると同時に価値であるという、あるいは具体的有用労働の対象化でもあると同時に抽象的人間労働の対象化であるという二重の存在なのでした。商品は、その特殊な使用価値としての姿を脱ぎ捨てて、価値の定在であると社会的に認められた「価値の形態」としての金に「形態転換」することではじめて、自分はたんなる使用価値ではなくて価値をもった商品であり、つまり社会的必要労働の対象化として他の商品と同質であることを証明できるのです。

言いかえれば商品は、価格によって観念的に表示されていただけの価値(社会的必要労働の対象化)としての存在を、金(貨幣)の姿に現実に置き換わることによって実証していかなくてはならないということが、ここでは重要なことではないかと答えました。

この点については、前回の「たより1月用」の説明(2)で引用しておきました、マルクスの以下の言葉が参考になると思います。
・「一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。

すぐ目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的な価値姿態とである。

そして、金はなにと?
その使用価値の一つの特殊な姿態とである。
なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか?
2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。

もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。@

それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。この一つの過程<W⇔G……レポータ>が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W─Gは同時にG─Wである。」(全集版、P144)

関連して、流通に貨幣がどんどん入ってくるような場合はどうなるのか、商品の価値は変わらなくても価格は変わるのではないか、という質問が出ました。

チューターは、少し後の問題になるが、まず貨幣と通貨(価値標章)の場合では違うということに注意してほしい。金本位で金属貨幣が流通する場合には、必要な通貨(金)の量は基本的に商品の価格総額で決まり、それに過不足があれば流通外から金が流出入することになるので、価格は価値を代表しうる。

他方、現代のように通貨(価値標章)が流通を支配する場合には、通貨が多くなれば(それが代表する価値が相対的に減少するがゆえに)価格が上がるといった、いわゆる貨幣数量説がなりたつような現象が起こる、と説明しました。

このあと説明の(2)には入らずに、第2節の流通手段の部分はマルクスが非常に分かりやすく述べているところなので、チューターがいくつか補足を加えながら、a「商品の変態」のはじめの部分を全集版にそって実際に読んでいきました。今回も、説明(2)のあと、時間があればもう数ページを読んでいきたいと思います。
なお、(2)の内容は以前のものから訂正しました。

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(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の5回目

(3)まとめ──商品流通(商品交換 W─G─W)と直接的生産物交換(物々交換 W─W)とは、その形式が違うばかりではなくて、実質的にも違っている。

生産物の価値としての形態転換(貨幣)を媒介としている商品交換(流通)と、生産物の使用価値としての直接的転換である物々交換とは、前者が生産物が商品としてあらかじめ共通な「価格」をもっているということによって本質的に区別されます。

価値が価格で表示されるということは、“すでに”商品世界が排他的な一商品である金を一般的等価物(貨幣)とすることで、相互に価値として関連しあっているということを、前提しているのです。この場合、商品の価値関係のなかにあっては、一般的等価物(貨幣)は価値の物質的存在として、価値物体すなわち価値そのものとして、諸商品に認められることになります。だから諸商品は、この一般的等価物(貨幣)の物質的大きさによって、その価値(無差別で同質な労働という実体)の大きさを共通に表示するということが可能となるのです。言いかえれば、その大きさ(すなわち価格)の範囲では無差別に転換可能であることを、観念的な一定量の金として相互に表示しあうことができるのです。

前回も触れたように、ある商品が自らの価値姿態である貨幣へといったん形態転換することを、ある商品が別の商品・金と交換されることだと見違えることは、商品交換と物々交換とを同一視することになります。しかし、それでは商品に独自な価格も、商品交換の独自の部面である流通も見失うことになるのです。

 マルクスはa「商品の変態」の項の終わりのほうで、これらの点について次のように指摘しています。

「商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。事態の経過をほんのちょっと振り返ってみよう。リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。冷たいもの<本>よりも熱いもの<酒>をこのむ聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。Bの商品がAの商品に替わるのであるが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではない。実際には、AとBとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うことも起こりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。

@商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。他方では、当事者たちによっては制御されない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。織職がリンネルを売ることができるのは、農民がすでに小麦を売っている<Gに転換している>からこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸留酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水<酒>をすでに売っているからこそである、等々。

それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。貨幣は、<別の商品に置き替えられることで>最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。たとえばリンネルの総変態、リンネル─貨幣─聖書では、まずリンネルが<小麦生産農民がそれを消費するために買うことによって>流通から脱落し、貨幣が<リンネル織職の手の中という>その場所を占め、次には聖書が<リンネルを貨幣に転換したリンネル織職によってそれを消費するために買われることで>流通から脱落し、貨幣がその場所<聖書所持者の手の中>を占める。商品による商品の取り換えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。流通は絶えず貨幣を発汗している。」(全初版、P148)

商品の価格は、その生産者(人)がもっているものでもなければ、その生産者が自分の労働時間や彼の恣意によって勝手に決め得るものでもありません(口をもたない商品に替わって、その生産者が値札をつけるといった手助けをすることはあっても)。価格は、実際に“物”としての商品がもっているものだということが重要でしょう。
価格は、観念のうえで“すでに”商品がもっている金としての大きさ(全商品にとっての価値の物質的存在としての)のことです。というのは、商品の価格として表示されているものは、一般的等価物である金で表示された、その商品に含まれている無差別な人間労働としての労働、すなわち価値だからです。だからこそ、商品の価格は恣意的なものではなくて、その生産のためにすでに支出された社会的必要労働の大きさの表示として現実的なものであり、また商品はそうしたものとしてすでに生まれた時から関連しあっていることを、共通な価格をもっているということで表現しているのです。
他方、商品は、直接には使用価値としての現物形態しかもっていません。だから自らを価格としてまず表現し、その価格が実現され一般的等価物である金に置き換わることで、他の商品と交換可能な形態を得ます。それは、生産物を単なる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。

2018年3月21日


(前回の報告)
2月18日に行われた「読む会」では、新しく二人の方が参加されました。チューターは、はじめて『資本論』を読もうとすると、まずもって二つのことが分かりにくいだろうからと、以下のように触れました。

一つは、価値(経済的な価値)とは、普通に言われるような使用価値(種々な有用性)のことではない、ということです。価値とは、自分は他人のための生産物を作る一方で、すべての人が自分の生活を他人の生産物で成り立たせるという商品生産社会において現われる、労働の無差別な(社会的に同等な)性格なのです。しかしそれは生産物の性格として反映されます。そしてその大きさは生産のために支出された社会的に必要な労働時間で測られます。生産物の使用価値の方は種々に異なるものですが、その価値の方はただ大きさだけが違うということをとっても、価値と使用価値とは全く別のものなのです。
二つ目は、価値は価格として表現されているけれども、価値と(その現象形態としての)価格とは別のものだということです。価値は、社会的に必要なものとして支出された労働時間であり、商品は実際にそうした労働時間の結晶です。

しかし社会的必要労働時間から出発して労働を組織するのではなくて、個々バラバラな私的な生産から出発し、商品の交換を通じて生活を成り立たせる商品生産社会にあっては、すべての商品と交換可能だという一般的等価物(貨幣)の性格として、労働の社会的労働としての同質性が現れるほかないということです。

だから、ある商品の価値は1/10労働時間というように直接に表現されるのではなくて、100円だの1ドルだのという価格として、すなわち一定量の金という共通な“物”の大きさとして相対的に表現されることになります。商品にとってその価格は、金という使用価値(“物”)の大きさであり、その一定量との等価の表現です。しかしこの場合の金は、諸商品にとっては、その金という使用価値の性質や大きさを表示するためのものなのではなくて、自分たちの価値をすなわちそれらの社会的労働の対象化としての同質性やその大きさを共通に表現するための材料(価値の形態)としてのみ取り扱われているのです。

これらのことはすぐには呑み込めないかもしれませんが、何回でも説明しますので、分からないことはどんどん質問なり意見なりを出してもらえるとうれしいです。

(前回の報告)の部分では、まずチューターから、3番目の段落の最後の文章「言いかえれば、商品は、……と答えました」という部分は、あまり正しくないので削除させてほしいという発言がありました。
ここでは「現代は大量生産の時代なのだから、労働量が等置されるというマルクスの考えでは答えられないのではないのか」という質問が出されました。チューターは、例えばかつて万年筆は高価だったが、ボールペンの時代になってとても安価になった。これは大量生産が可能になることによって、筆記具という使用価値においてその社会的必要労働量が減少したからということで説明できるのではないだろうか、と答えました。関連して、「労働価値説というのは、人間の存在の根幹としてはあるのではないか」という意見が出されました。
また「社会的必要労働が貨幣なり価格なりで示されるというのはどういうことか」という質問が出されました。この点については、はじめの部分で補足してまとめさせてもらいました。

さらに「商品の価値は、それが売れて、価格が貨幣に置き換わることで証明されるということか」という質問が出されました。チューターは、自分の説明もよくなかったかもしれないが、なにか“売れる”ということの理解に誤解があるように思う。商品の「価値の実現」、実証ということは、それが社会的必要労働の一部として無差別な労働であるということが実証されるということだから、それは別の“商品”と交換され、置き換わることで実証され実現されるということだろう。

他方、商品が「価格をもつ」ということは、この商品の交換(素材転換)が、貨幣という価値形態の媒介を経て売りと買いの二つの過程に分裂し、W─G─Wの形で行われるということである。(ただし、ここでのGは商品・金ではなくて、全商品の価値の物質的存在としての金のこと。)そして、この過程の前半部分のW─Gが売りであり、後半部分のG─Wが買いである。しかし、たとえばリンネル生産者にとってのこの前半の売り・W(リンネル)─G(貨幣)は別の小麦生産者の後半部分の買い・G(貨幣)─W(リンネル)と結びついているからややこしくなる。このWとGの保持者という二つの極から同じ行為を逆方向から見る限りでは、売りは買いであり、買いは売りである。

しかしある商品Wにとっては、売り・W─GはW─G─Wの前半部分であり過程の一部分にすぎず、それは「価格の実現」、すなわち価値形態としての一定量の貨幣への転換にすぎない。だから売り、すなわちある商品の貨幣への転換は、その価値が実証され別の商品に置き換わったということではなくて、ただその前段階としての価格が実現されたということ、他の任意の商品に置き換わり得る形態を得たということにすぎない。なお、“売り”ではなくて、“売れる”という表現には何か貨幣=儲けというイメージがあるが、儲けについては第4章の資本のところで述べられるが、ここでは問題にされてはいない。と答えました。

(説明)の部分では、久留間の図に関連して、「Gは同じ大きさのように書かれているが、そこには流通費があるから同じ大きさではないのではないか」という質問が出されました。チューターは、後に『資本論』でも運送費や倉庫費用などを流通費用として考察する部分が出てくるが、ここは流通の概念図ということなので、省略してよいのではないかと答えました。
マルクスの最後の引用の部分では、①「互いに補いあっているために内的には独立していないもの」というのは、社会的な生産と消費ということだろう、②「物の人化」とは、生産物が自然的には持つことのない社会的性質である価値をもつということだろう、③「人の物化」というのは、人々の社会的労働が商品の価値として現れるということだろう、④「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」というのは、すぐ後に出てくる信用その他のことだろう、とチューターが補足しました。
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「読む会」だより(18年4月用) 文責IZ
(3月の報告)
3月の「読む会」は18日に行われました。(前回の報告)の部分では、まず「W─G─Wの説明はそれなりに分かったが、美術品や工芸品など希少性のあるものはどうなのか」という質問が出ました。チューターは、以前にも触れたが、労働を投入しても生産物の数量が増えないようなものに関しては、需要や競争によって“価格”が決まるというようなことはずっと後のほうで問題にされることになる。しかし、基本的に問題になるのは普通の商品であり、いわゆる生活必需品という範囲でここでは考えていただきたい、と述べました。
また関連して、「仮想通貨や金融商品で巨利を得たというようなことが言われているが、こうした場合のGはWとW’との転換を媒介するといったことではないのではないか」という質問も出されました。チューターは、そうした場合のGは貨幣というよりむしろ商品や資本として取り扱われているだろうし、普通の商品ではないそうした金融商品では正常ではないことが当たり前のように起こってくるということはある。そしてそれらのことの、なにがどう正常でないのかを知るためにも、まずもって商品流通の基本的な姿を理解することが必要だろう。価値増殖については、次の第4章の資本のところ、つまりG─G’のところで基本的な観点やメカニズムが与えられます、と述べました。

また、「価値を実現するということは、商品が貨幣に置き換わった後に別の商品に置き換わることによって、消費の過程に入るということか」という質問が出されました。チューターは、一商品をとってみれば、そういう理解で間違っているということではないだろうが、価値の問題というのは、基本的に社会的な生産と消費の問題だということを押さえておかないとまずいのではないか、と述べました。というのも価値は、労働が社会的に管理されるのではなくて、私的な労働の生産物を商品として交換し、社会的労働が“物”の姿で現れる場合の、労働の特殊な性格であり社会的な生産のメカニズムだからです。

(説明)のところでは、最後のところで「それ(価値の価格としての表現)は、生産物をたんなる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。」と触れた点について、「“必然的な方式”とか言われると、分かってきたつもりであったものが、かえって分からなくなってしまう」という意見が出されました。
チューターとしては、必然性というようなたんなる言葉で説明したつもりになるのではなくて、できるだけその内容を伝えるように努力しているつもりです。ここで「必然的な方式」と使っているのは、価格表現(共通な金による諸商品の価値表現)というのは商品交換を通じて行われる社会的な生産にとって、不可欠で不可避な“仕組み(方法)”だ、という意味です。

なおその前の部分で触れたように、価格は、価値と同じく、商品自身がもっているものであって、生産者つまり諸個人がその頭のなかに意識としてもっているものではないことが、重要に思われます。その生産のために支出された社会的な労働量として、商品の価値は現実的なものですが、それと同様に、商品の価格も貨幣・金の量という物的な姿で表現されていても、価値の表現としては客観的な内容を持つものであって、生産者が恣意的に決め得るようなものではないのです。
誤解されてはならないのは、価格が“観念的なもの”であるのは、それを人間が決め得るからなのではなくて、すべての商品が貨幣・金でその価値(支出労働量)を表現するという関係を“すでに”もっており、そこでは一定量の金がその商品と交換可能だという交換可能性(等価性)で商品がその価値を表現しているからにすぎません。
第1節「価値の尺度」の最後のほうでマルクスは次のように述べています。
・「相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品例えば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物例えば1オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。だから、実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が……もっとつらいことであろうとも。商品は、その実在の姿、たとえば、鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または想像された金姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。」(全集版、P136)

  ・・・・・・・略・・・・・・・・
 
 
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