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三章 価値尺度 流通手段 の報告

 投稿者:杉本  投稿日:2018年11月 6日(火)19時05分43秒
  通報 返信・引用 編集済
   資本論を読む会 広島の報告を転載させて戴きます。
 杉本は、苦心を転載しています。有難うございます。
 杉本は、二章から三章への記述の理解を進めています
 読みやすくするために、編集しときました。


  <三章 第一節 価値尺度>
http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=10

  <説明> 第3章 「貨幣または商品流通」の第1回目

0) はじめに
 さて、今回からは第3章「貨幣または商品流通」第1節「価値の尺度」の復習説明に入ります(第2節「流通手段」以降をどのように進めるかは、また相談します)。
第1、2章の商品論では、主役は商品でしたが、第3章の貨幣論では主役が貨幣に移り、人々の関係は貨幣の諸機能として現われることになります。 商品と貨幣について、簡単に振り返って説明しておきましょう。
 商品の「価値」とは、「その実体」は、その質を問わない、単なる労働の支出としての、その意味で抽象的な人間労働であり、またそうしたものとして相互に比較され得る労働の大きさでした。しかしこうした商品価値の実体やその大きさは、「社会的なもの」すなわち労働のもつ社会的な性格に起因するものなのですから、商品(生産物)自身の姿やその使用価値(有用性)において存在するわけではありません。しかしながら、商品は「交換価値」を持つことによって、つまり他の「使用価値」を持った商品との「交換比率」を持つことによって、自らを特定の使用価値であると同時に価値をも持つものとして表現しています。
 商品交換の発展とともに、人々の頭からは交換価値と労働時間との関係の意識は脱落していきますが、それと反比例して商品の価値形態(商品の二重化)が発展し、商品の価値性格ないし労働の社会的な性格は、最終的に「貨幣」という“物”として結晶することになります。商品はその価値(社会的必要労働時間)を共通の価値形態で相対的に表現することによって、商品相互の全面的な交換と、それによって社会生活を成立させるための総労働の分配の方法を獲得することができるのです。(もちろん、多くの矛盾を含みながらですが。)
こうして貨幣が成立すると、人々の商品交換における諸関係は、貨幣の諸機能として意識され、貨幣は人々の経済関係すなわち商品交換における主役として振舞うことになります。

『資本論』の前身である『経済学批判』から、第3章「貨幣または商品流通」の理解のために参考になると思われる部分をいくつか紹介しておきましょう。
  ーーーーー略ーーーーー
 ①「読む会」だより(17年3月用)

1) 貨幣の「価値の尺度機能」とは何か

 現代の資本主義では、貨幣すなわち社会的労働の一般的な表現(対象化された姿での)ないしは一般的等価物としての金(ないし銀)は流通からは追放されており、もっぱら信用貨幣である中央銀行券などで「代理」されています。このため、貨幣の「機能」も見えにくいものになっていますが、マルクスは貨幣には大きく言って三つの機能があると述べています。一つは「価値尺度」としての機能、二つには「流通手段」としての機能、そして三つには「(独立した価値の結晶としての)貨幣」としての機能です。
これらの貨幣の機能のなかで、貨幣をまさしく貨幣とする最も基本的な機能が「価値尺度」機能であるとマルクスは言うのですが、商品の価値自体がその本来の労働時間という姿では現われ得ないということもあり、貨幣の「価値尺度機能」という言葉は分かりにくいものでしょう。マルクス自身はこう述べています。

・「金<貨幣商品として前提されている金>の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」(全集版、125頁)

誰もが知っているように、商品はみな価格を(円、ドル、ユーロ等々の)もっており、価格においては商品はみな「質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わ」されています。しかしこの「価格」とは何であり、また価値の価格としての表現はどのようになされ得るのでしょうか(ちなみに、ブルジョア経済学は価値とは何かを知ることなく、価格と価値を同一視するのですが、これはまさに物神崇拝というべきでしょう)。
ここでマルクスが言っているように、「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現することにおける、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、価値の表現材料としての──すなわちその身体で商品価値を表現するという──貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。
金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料となる、という貨幣の価値尺度機能は、一見簡単なことのようですが、ここには重大な問題が潜んでいます。マルクスは続いてこう述べます。

・「諸商品は、貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。」(同)

貨幣(金)が商品価値の大きさを「尺度」し、それを「価格」(一定の金量)として表現しうるのは、一方で、すべての商品が価値としては、すなわち対象化された人間労働としては同質であり、通約しうるからであり、他方では、金が一般的等価であり、価値の独立した存在であると社会的に認められているからにほかなりません。
価格表現(価格現象)という結果だけにとらわれて、価値を価格として表現するためのこうした方式を見ないならば、価値とは価格のことのように見えるほかありません。

ちなみに、『経済学批判』では価値尺度について次のように触れられていますので、参考までに紹介しておきます。
・「流通の最初の過程は、いわば現実の流通のための理論的準備過程である。使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念のうえで交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。この過程に必要な最初の行為は、我々が知っているように、諸商品が特殊の一商品、たとえば金を、一般的労働時間の直接の体化物、または一般的等価物として除外することである。……
すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とが等しい労働時間を含むような割合でもって計るので、金は価値の尺度となる。」(岩波文庫、P75)

2017年3月25日


http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=9

 ② 「読む会」だより(17年6月用) 文責IZ


(説明) 3章1節、貨幣の価値尺度としての機能の4回目

3月に第3章の1節、貨幣の価値尺度機能に入りましたが、4月、5月と本論とは少しそれてしまいました。貨幣の価値尺度機能について思い出していただくということもあり、まず「たより3月用」の《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か》の補足から始めましょう。

《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か の補足》

「たより」では、《「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現すること<場合>における、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料になる、という貨幣の価値尺度機能……》と説明しました。

一般的等価物として、他の諸商品と無条件に交換可能であるということによって、金は「貨幣」として認められることになります。言いかえれば、これは事実上、その金という身体(自然形態)が対象化された人間労働の一定量としてのみ評価されるということです。だから貨幣・金はその金量において諸商品の価値の大きさを表現できるのであり、この商品の価値の大きさを一律に測るための貨幣・金の役割のことが、「価値尺度機能」と呼ばれるのです。

このことを本来的な労働の関係においてもう少し見ていくと、商品の交換関係のなかでは、金を産出するという特定の労働が、種々の使用価値を生み出す人間の労働全体の“代表”と見なされるということ、否、単に諸労働の“代表”であるばかりではなくて“人間労働そのもの”であると見なされるということです。言いかえれば、ここでは貨幣・金を産出する労働は、その金を産出するという具体的、有用的な側面が無視されて、ただ人間労働であるという抽象的な側面で存在する限りでのみ、諸商品の価値の大きさを表現するという役割を果たすのです。(そして、こんな不可思議なこと──人間の労働全体の一部をなすにすぎない特定の労働が、同時に労働一般すなわち“人間労働そのもの”と見なされる──が、どのようにして可能なのか。これを解明したのが第1章3節「価値形態」の「相対的価値形態の内実」の項でした。)だからこそ、諸商品によって一商品・金が貨幣(一般的等価物)であると認められると(貨幣という形態規定が与えられると)、金は“直接に”その身体の大きさで、諸商品の価値の大きさである労働時間を表現する──という機能を持つ──ことになります。

こうして、諸商品の共同の働きかけによって貨幣が成立すると、諸商品はすべて、その「価値」の大きさ(支出労働量)を金という単一の貨幣商品によって、つまり金という特定の物体の一定量で、共通に表示することができます(これが「価格」です)。すべての商品(貨幣である金を除いた)は、価格という共通な姿をもつことによってはじめて、相互にその価値の大きさを──直接に労働時間としてではなく、対象化された労働時間としての意味をもつ一定の金量としてですが──測り得ることになり、したがってまた一定の比率で同じもの、交換可能なものとして関係できるものになり、名実ともに商品になることができるのです。(これが「価値の価格への転化」と言われるものです。)

ところで、諸商品においては、ある商品はそれに含まれる労働量が等しい他の商品と関係します。しかしながら、貨幣の役割においては、貨幣商品・金は、それに含まれている労働量が等しいということによって他の商品と関係しているのではない、ということに注意が必要です。諸商品は、他の商品と交換されるためには、それに含まれている価値の大きさが他の商品と等しくなければなりません。だからこそ諸商品はその価値の大きさを貨幣で共通に測りあわなければなりません。しかし、貨幣・金は単に諸商品が相互に価値の大きさを表示するための共通の物質的“材料”として物質的尺度として、この関係に持ち込まれているだけなのです。貨幣・金は、諸商品にとって、それに含まれている労働量が諸商品と等しいという役割において価値表現のなかに持ち込まれたのではありません。それは、対象化された人間労働の一定量を表現する“物質的材料”としてとしてのみ、言い換えれば、諸商品に含まれている具体的な諸労働を無差別な「人間労働」に還元する役割のためにのみ、この関係のなかに持ち込まれているにすぎないのです。このことは貨幣の役割を理解するうえで重要です。

貨幣の価値尺度機能について、久留間鮫造は『貨幣論』において分かりやすく触れていますので紹介しておきます。

 「実際に売買される場合の価格の高さが何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、<量ではなくて>形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつかという問題、これをわれわれは、まず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。

 商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、結局、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品に替わるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。

ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、言うまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、その代わりに金が与えられる。

これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲与されるということは、ひっきょう<結局は>、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎ捨てられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味なのです。

このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによってまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに──すなわち貨幣に──されていることを前提するので、それによってはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な労働への転化を意味することになりうるわけです。

ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している“尺度の質”というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(大月版、P180)

3)商品の「価格」が、「観念的な」ものであるということはどういうことか

さて、マルクスは1)の引用に次いで、こう述べます。

 「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらのものそのもののうちに存在する。この価値は、これらのものの金との同等性<等置……レポータ>によって、いわばただこれらのものの頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらのものの価格を外界に伝えるためには、…略…これらのものに紙札をぶら下げるかしなければならないのである。商品価値の金による表現<すなわち価格……レポータ>は観念的なものだから、この機能<すなわち価値尺度機能……レポータ>のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品に価格という形態または想像された金形態を与えても、まだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」(全集版、P126)

(1)「観念的」なものと対置されるのは「物質的」なものであって、「実在的」なものではない、という点について

以下、次回です。

2017年7月17日




http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=7

 ③ 「読む会」だより(17年9月用) 文責IZ

(前回の報告)
8月の「読む会」では、(前回の報告)の部分についてはとくに質問や意見は出ませんでした。
(説明)の「(3)なぜに観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのか」の部分では、まず「“堅い”貨幣」というのはどういう意味か、自分は価格は需要等によって変化すると考えているのでその意味がよく分からない、という質問が出されました。
これに対しては、別の参加者の方から、「価格は抽象的なものだが、それが転換する貨幣は具体的で実在的なものだ、という意味で“堅い”と言われているのでないか」という意見が出されました。需要の変化等によって価格が変動するのは事実ですが、そのことと商品の価値はいつでも価格として相対的に表現されねばならないということとは、問題が別のことのように思われます。

また、価格は価値形態の発展した形態である、ということに関連して、チューターは「価値形態」という言葉は、はじめて読む人には難しいと思われる。「価格」を含めて、「価値形態」というのは、商品による価値の相対的な「表現方法」のことだと理解して読んでいただくと分かりやすいのではないかと述べました。
これにたいしては、「価値の形態(姿)」という言い方もある。この場合には「表現方法」と読むのはどうか、という意見が出されました。チューターは、たしかにその場合にはたとえば金が価値そのものを表現するものとされるという意味だ。しかしそうした場合にも、金にそのような役割が与えられるのは、商品相互による一定の表現方法によってそうなるということが重要なので、「表現方法」と基本的に考えてよいのではないか、と答え了解されました。
関連してチューターは、(報告)の引用部分で「価格は、1トンの鉄の価値を1オンスの金<右辺の商品>が鉄<左辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄<左辺の商品>の方が金<右辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのではない」とマルクスが強調していることに注意していただきたいと述べました。

また口頭説明のなかで、商品は価格をもったからと言っても、そのことによってすぐに別の商品との無条件の交換可能性を持つわけではない。マルクスは商品が価格をもつことを「理論的準備段階」という言い方もしているが、無条件の交換可能性を持つためには、いったんその特殊な使用価値の姿を脱ぎ捨てて貨幣・金に置き換わらなければならない。一般的等価物に置き換わってはじめて何とでも交換可能なものになる。と触れた点について、価格をもったからと言って商品は無条件の交換可能性を持ったわけではなく、貨幣になってはじめてそうなるというのは“当たり前”のことではないか、という質問が出されました。
チューターは、貨幣・金が何とでも交換可能だということは“当たり前”のように見えるが、それが商品の交換によって社会生活を全面的に成立させる必然性(価値)と結びついているということ。またそれは無差別な人間労働の対象化と見なされるがゆえにそうしたものであること。あるいは商品交換の一部分(媒介部分)としてもつ役割としてそうしたものになっているということは、なかなか目には見えないのではないか、と述べました。

さらに「マルクスは貨幣経済ではなくて、むしろ直接に物と物とが交換されるような体制のことを考えていたのではないか」という質問が出されました。
チューターは、その昔、バーター貿易といったものが社会主義の一つの目安だなどとされていた時代もあった。しかしマルクスが物々交換のようなものを目指していたなどと言えないことは、第2章で直接的生産物交換について、それは商品交換の未発展なものとされていることからも明らかだろう。社会主義というのは、物と物とが“貨幣抜き”に交換されるというようなことではない。それは、“労働(社会的労働)”が意識的な活動として現れ──つまり、どのような使用価値をどれだけ作るために、総労働時間をどのようにそれぞれに振り向けるのか、ということを人間自身が自覚的に組織するのだから──、支出労働時間が“物(の価値)”という姿をとらないということであり、だからこそ“貨幣”も必要ないということだ、と説明しました。

「4)想像的な価格形態」とはどのようなものか」の部分は、時間が無くなったためにあまり検討する時間がありませんでした。
(報告)のなかで、「商品の価値は、その生産に必要な社会的労働時間に対する“必然的な関係”を表現している」と述べてあるのは、所与の生産力のもとでは、一定の使用価値の生産のためには社会の総労働のうちの規定された幾らかが支出されなければならない、というような意味だということを補足しておきます。

2017年9月10日


  ④「読む会」だより(17年11月用) 文責IZ

(前回の報告)
9月の「読む会」では、まず(前回の報告)の部分で、「“観念的な”価値尺度のうちには“堅い”貨幣が待ち伏せしている」という表現について、やはりよく分からないという意見が再度出されました。この点については、参加者から「以前は金貨や銀貨もあったし、貨幣が硬貨だったからにすぎないのではないか」という意見が出されました。
チューターとしては、それはそうとして、むしろ“待ち伏せしている”という表現に注意してほしい。それは諸商品が貨幣に転換されなければならない“必然性”のことを、もっと言うならば諸商品が「価格」として互いに同質・同等なものとして表現されなければならない“必然性”のことを言っているということに注意してほしいと述べました。

この点は、第2節「流通手段」の理解ともかかわっており、たんなる言葉の問題ではないと思われますので、もう少し説明しておきます。
問題となっているのは、3章第1節の最後のパラグラフ「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」(全集版、P137)という部分です。
商品の価値というのは、諸商品を社会的に同等な必要労働時間の支出の一部分として見るということです──そして、その意味で商品の価値は観念的なものです。諸商品は、社会的に必要な労働支出の一部として見るならば相互に同等であり、だから一定の割合で相互に交換可能でなければなりません。(そうでなければ、商品交換によって社会生活を全面的に成立させることができないのですから。)
しかしながら諸商品は、相互に異質であるからこそ交換されるのであってみれば、そうした同等なものとしての姿をその商品自身の姿で、すなわちその現物形態、使用価値としての姿そのもので表現できません。だからそうした相互に同等な姿を、「交換過程で」「かけまわっている」“一つの”貨幣商品(金ないし銀)との“等価”での表現を通じて、“共通に”表現することしかできません。このように貨幣商品で“相対的に”表現された価値の表示が「価格」です。
(“相対的に”というのは、諸商品が一つの貨幣商品で“共通に”価値を表示すると言っても、それは社会的必要労働時間そのものの表示ではないのだからです。また、本来“共通な”ものは、諸労働の社会的な労働としての同等な性格なのですが、商品交換すなわち社会的に共通な労働としてではなく、相互に独立して営まれる私的労働を基礎にしているかぎり、労働の社会的な性格は生産物である商品の性格として現われるほかないからです。)
こうして諸商品が「価格」をもつということ、つまり商品の“価値”が相互に共通な一つの貨幣商品(の大きさ)として、言いかえれば“自分自身とは異なる物”で表現されるということは、諸商品が価値として、他商品と社会的に同等なものとして現われるためには、いったんそれ自身の姿を捨てて、自分自身とは異なる「貨幣」の姿をとらねばならないということでもあります。
「それゆえ」──直接的生産物交換(物々交換)とは異なって──諸商品があらかじめ「価格形態」をもつということは、一方では、特定の商品である金・銀が「交換過程で貨幣商品としてかけまわって」諸商品と等置され、諸商品に共通な等価物となることで「観念的な価値尺度として機能」するということすなわち貨幣になるということです。そこでは貨幣商品は、その現物の使用価値とは関係のない、他商品の価値の表現物として機能するという社会的機能をもちます。他方そのことは同時に、諸商品が価値として機能し、他の商品と一定の割合で置き換わるためには、“実際に”価値の形態として社会的に認められた一定量の貨幣商品(金ないし銀)にいったん置き換わらなければならない、という必然性が「待ち伏せている」ということでもあるのです。

商品の「価格」は、なにか生産者が勝手に付けることができる“恣意的”なものに見えます。それは「価格」が、たんに一定量の貨幣・金との「等置」を表示するだけであり、その意味で「観念的な」ものだからです。しかし「価格」は、商品の価値、すなわちその商品を生産するのに必要な社会的必要労働時間の“独特な”表示方法であることを理解するならば、それは決して“恣意的”・“主観的”なものではなくて、生産力の状態や特定の労働への労働の偏りなどによって社会的に規定される客観的なものなのです。(だから「誰が価格を付けるのか?」といった疑問は無意味です。)だからこそマルクスは3章第1節のはじめのほうで、「それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには……、これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである」(全集版 P127)と語っているのです。

補足が長くなりましたので、(前回の報告)部分で出た、その他の質問・意見については省略します。
(説明)の部分は、前の部分での議論が長くなり、前半の二つのパラグラフをチューターが読むだけで終わり、検討は次回にということになりました。
なお、(説明)の3パラグラフの引用で<>内でチューターが補足した「彼ら」というのは、当時の経済学者とりわけリカードやベーリが念頭に置かれています。(原注32、36などを参照ください。

 
 
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