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 橋本努 書評 『資本と言語 ニューエコノミーのサイクルと危機』

 投稿者: 杉本  投稿日:2022年 4月22日(金)11時07分37秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/632/632PDF/inoue.pdf
 p104からの転載です。


3)マルクスは『資本論』第 1 巻、そして第 2 巻、第 3 巻のための草稿全体を通じて、商品、すなわち〈商品-貨幣-資本〉というトリアーデをなして運動する商品が、資本主義的生産様式が支配する社会の社会・経済過程において、商品〈場〉の位相の転位・高度化に伴いますます主体としての力能を強め深化させていくことを、徹底的に解き明かしている。冒頭商品論以降、商品語という言葉は直接には用いていないが、商品〈場〉の転位・高度化に伴う商品語の〈場〉の在り様もまた転位していくことを示している。これを具体的に説くことは残された課題である。この点で、Marazzi, Christian, Capitale & linguaggio: Ciclo ecrisi della new economy, Soveria Mannelli, Rubbettino Editore, ,2001. という興味深い書名の本がある

(邦訳は、水嶋一憲監修、柱本元彦訳『資本と言語―ニューエコノミーのサイクルと危機』(人文書院、2010 年)、ただし 2002 年以降に再版されたイタリア語ペーパーバック版の一部では、副題が ”Ciclo e crisidella new economy all economia di Guerra”、すなわち「ニューエコノミーから戦争経済への循環と危機」となっている)。

同書は、今日の資本、とりわけ金融経済を中心として資本主義の在り様を言語というこ
とから説明しようとしたものである。だが残念ながら根底的に間違った貨幣論と、それに照応した「貨幣」を「言語」=自然言語に対応させる、よくある皮相な議論をベースにしたものでしかない。しかもマラッツィの議論は、利子生み資本形態をとって運動する厖大な架空資本に基づく今日の資本主義の現状報告にすぎない。

その意味で資本主義に拝跪したものであって、とても批判とはいえないものである。マルクスが『資本論』第三部草稿で駆使した利子生み資本の在り様を表わす monied Capital という概念(エンゲルスによってこの概念は事実上「抹殺」されてしまっていたのだが)を復権させ、〈利子生み資本-架空資本〉概念を用いた今日の資本主義にたいする根底的な批判が必要である。われわれは本稿の作業の上に、〈貨幣-資本〉における商品語の〈場〉、そして更には〈利子生み資本-架空資本〉における商品語の〈場〉を取り上げ、今日の資本主義への根本的批判を目指したいと考えている。
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  書評
  『資本と言語 ニューエコノミーのサイクルと危機』
  橋本努
    https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Book%20Review%20on%20Marazzi.htm

書評
クリスティアン・マラッツィ『資本と言語 ニューエコノミーのサイクルと危機』
柱本元彦訳/水嶋一憲監修、人文書院2010
『図書新聞』2010年10月9日(土)、1面、所収

 橋本努
 革新的な左派思想が、イタリアで相次いで生まれている。アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノ、そして本書『資本と言語』の著者、クリスティアン・マラッツィの三人だ。八〇年代以降のポスト・フォーディズム状況を、いかにして乗り越えるか。もはや企業や国家の管理力(規律訓練権力)がうまく作動しなくなった状況において、新たな社会の可能性をどのように提示するのか。それが左派のあいだで問われている。

 ところが従来の左派の議論は、どうも保守的になりがちだ。マルクスや批判哲学に立脚する論客たちは、グローバルな金融市場の動きが「実体経済からかけ離れた虚構にすぎない」と批判するが、これはつまり、グローバル経済の遠心力を批判して、既存の国民国家やコミュニティに「経済を埋め込むべき」との関心からであろう。この種の議論はしかし、最近になって、国民国家を守るべきとする保守派の思考と区別がつかなくなってしまった。

 かかる傾向に抗して、グローバルな金融市場の営みが、私たちの自由な言語的コミュニケーションによって開放的に生まれている、と指摘するのがマラッツィだ。

マラッツィによれば、労働者たちはポスト・フォーディズム状況のもとで、ますます多弁になっている。サービス業、メディア産業、教育産業、健康産業、等々の分野では、コミュニケーション能力一般が経済利得に結びついている。例えば、情報を分析する、アイディアを授ける、イメージを喚起する、情緒に訴える、顧客とのスキンシップを築く、等々の言語的コミュニケーションが、利潤を生み出すようになっている。

 労働者たちはいまや、マルクスのいう〈一般的知性〉の理想を実現しているのではないか。工場設備などのいわゆる固定資本に代わって、社会的に生産された科学的・文化的知識の蓄積や、人々の自律的な頭脳や言語能力が、資本主義の駆動因となりはじめた。

そして今日の金融市場もまた、私たちの言語的コミュニケーション能力によって動かされている。それは〈一般的知性〉というマルクス的理想の、潜在的な自律性を表現してもいるだろう。

マラッツィに従えば、グローバルな金融市場は、これを既存の国民経済に埋め込むよりも、私たちの言語的コミュニケーションの自律的な活動のなかに位置づけるべきだという。これはなんと自由で解放的な発想であろうか。

 私たちの金融市場はすでに、大衆の言語活動に依存して動いている。例えば七〇年代のアメリカでは、株式市場の大衆化がすすみ、八一年には「401K」と呼ばれる確定拠出年金が創設され、年金の運用もまた株式市場のリスクにさらされた。

こうして現代の資本主義は、労働者の利害を株式市場に結びつけ、階級間の対立を覆い隠すことにもなっている。金融市場もまた、大衆の群集心理と慣習、例えば「模倣行動」や「自己成就的予言」などの法則によって、動いている。

 〇〇年代になってニューエコノミーのバブルが崩壊すると、そこで露呈した現実は、もはや一国の国民国家が、自国の金融市場を制御できないという事態であった。金融の動きは、私たちの言語活動とその身体性に深く結びついている。私たちはその動きを削ぎ落とすのではなく、むしろ新たな言語慣習を産出していくべきではないか。

マリッツォによれば、バブルの崩壊は、じつは大衆にとってのチャンスとなる。経済運営の主権を、ケインズ主義的な仕方で国家に戻すのではなく、むしろ世論を通じた言語的コミュニケーションによって、金融上の慣習を新たに自律的に産出することができるからである。

 ドットコム企業の株価上昇は、一時的なものにすぎないだろう。あるいは、資本移動はつねに短期的な投企に左右されるだろう。

こうした現象を見抜くための金融上の言語慣習を、私たちは自生的かつ自律的に形成していくことができるのではないか。かかる関心が、マリッツォの議論の基調をなしている。

 だが他方で、マリッツォの思考は、破局的(カタストロフ)でもある。

そもそもマルチチュード(有象無象の民)は、国民国家に守られた人民(ピープル)とは違って、何もかもうまくいかなくても、健康であることができる人たちだ。

すべてを失った破局状況から出発して、新しい言語的コミュニケーションを築いていく。かかるマルチチュードの潜在能力こそ、既成の国民国家と資本主義の両方に対抗する力になる、というわけだ。

そんな関心から生まれた本書は、マルクスを受け継ぐ現代左派の重要書。ニューエコノミーと呼ばれる今世紀前半の現象をつぶさに追いながら、さまざまな洞察に満ちた分析と思想を展開する。

本書はまた、著者の前二書の内容をまとめた珠玉の作品であり、読者はそのオリジナルな思考に、何度も啓発されるにちがいない。
 
 
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