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   資本論再版での「廻り道」を巡っての久留間説への批判(その2)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月15日(金)07時18分29秒
返信・引用 編集済
  http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1556  の改稿であります。
 この「廻り道」の現行版での提起は、初版とは異なるものであり、相対的価値形態の形
成での、リンネルの価値形態上着へと辿っていく第一の出発点であります。
 事態の進行のなかで、上着が価値として等置される第七段落の前に、第三・五段落での
解決事項が存在しており、そこでは、上着は価値の存在形態であり、価値物として規定さ
れており、そして、その反対極での価値を織り出すリンネル労働は、抽象的人間労働と規
定されています。この反対極へと回らず、自極のままであった、裁縫労働は、人間労働と
規定されています。

 このような価値形態論の③・⑤段落をまず記載しておきます。

  「③だが量的.に等置されている二つの商品が同じ役割を演じているのではな
  い。亜麻布の価値だけが表現されるのである。ではどのようにしてか?
   亜麻布が自身の「等価物」である上着に対し関係することによって、または自
  身と「交換可能な物」である上着と関係することによってである。
  この関係において上着は価値の存在形態、価値物として通用する。というのは、
  そのようなものとして上着は亜麻布と同じだからである。
  他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立した
  表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつものであ
  る上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだか
  らである。」

  「⑤例えば価値物としての上着が亜麻布に等置されることによって、上着のなか
  に隠れている労働が亜麻布のなかに隠れている労働と等置される。確かに上着を
  つくる裁縫は亜麻布を作る織布とは違う種類の具体的労働ではある。が、織布と
  の等置は裁縫を事実上両方の労働において作用している同じものに、人間労働と
  いうそれらに共通の性格に還元する。
  そしてこの回り道を通って次のことが示されるのである
  : 織布もそれが価値を織る限りではなんら裁縫と区別する特徴をもつものでは
  ない、つまり抽象的な人間労働である。
  種類の違う諸商品の等価表現こそが価値形成労働の特殊な性格を現象させるので
  ある。なぜならこの性格は種類の違う諸商品のなかに隠れている種類の違う諸労
  働を事実上それらの共通のものに、すなわち人間労働一般に還元するからである
  17a。」
  http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
   私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品からの引用であります。

 ここでのリンネルと上着との抽象のされ方は異なるものですが、そんなことなどどう
でも良かろうーーというのが今日の価値形態論解読の通説になっています。その代表が久
留間説であります。その事柄を紹介してみます。

  「そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の
  秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうこと
  かというと、たとえば 20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というとき、
  20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、
  そういうことが行われうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値
  物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の
  大きさをあらわすことはできないはずである。
  ーーーー略ーーーー
  上衣を作る労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的労働であって、抽象的
  な労働ではない、上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに
  等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労
  働に等置されることになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元されるこ
  とになる。

  と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
  ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
  上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
  じめて自分の価値を表現するのである。」
   (『価値形態論と交換過程論』P7~8)

    (広島「資本論」を読む会)のホームページからお借りしました。
    http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2

 まず第一の反対論を挙げてみよう。
 上着が価値物としてリンネルに等置されることと、上着が価値の定在=価値存在とさ
れることとは、異なったことです。リンネルが価値存在とされるから、上着は価値の存在
形態として規定されます。これが質的側面であり、価値の大きさを表す」というのは全く
の誤りです。量的側面でこの質的側面を前提に、一定量の価値としてリンネルが上着に等
置されることで、その量的側面である交換比率が示され、そして上着の価値体で価値表現
がなされます。

 第二に、またその質的側面では、「価値の存在形態として、価値物として、認められ」
(原P64)た上着がリンネルに等置されることで、価値の存在形態である上着の性格が
回り道を経ることで現出してきます。
この回り道を経過することで上着は人間労働一般として規定されて、リンネルは抽象的人
間労働と規定されています。

 第三に、ここでの久留間さんの誤りは、マルクスのこの回り道を否定していることであ
ります。これまで批判者が何故か触れない誤りです。
  「上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、
  それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置される
  ことになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元される」(久留間)
ここで、「上着がひとつの価値である」(七段落)ことが前提になっていれば、久留間さ
んの見解は正しいのですが、しかし、この五段落では上着は価値物としてリンネルに等置
されることで、裁縫労働は人間労働一般に還元されていたのです。

 第四に、よくよくと考えてみれば、久留間さんの理解するように裁縫労働が抽象的人間
労働に還元されるならば、この「回り道」で提言されたことは全くの不要な事にされてし
まいます。何故ならーーリンネルが抽象的人間労働のの凝固である価値として上着に等置
されるからです。(しかし、価値物上着、それではその時々の商品関係であって、物象の
諸関係としての基礎は形成されません)

 次の六・七段落で何がーー提示されていたのかであります。
 なるほど、久留間さんの述べるようにこの五段落でのリンネル織り労働が価値を織り出
すことが、右辺の裁縫労働においても価値を縫い上げる労働になっているのではないかと
誰しも考えてしまいます。その疑問の解決を目指したのが、この六・七段落であります。

 そこで、次に、上着が価値物ではなく、価値ーーという規定にあることを明示した
⑥・⑦段落の提示であります。

  「⑥にもかかわらず、亜麻布の価値がそこから生じている労働の特殊な性格を表
  現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力または人間労働は価
  値を形成する、が、それは価値ではない。それらは凝固した状態、すなわち対象
  的な形態において価値になるのである。亜麻布を人間労働の凝固物として表現す
  るには、その人間労働が亜麻布自身と物的に異なり、そして同時にその労働が別
  の商品にも共通する一つの「対象的なもの」として表現されなければならない。」

  「⑦亜麻布の価値関係のなかで上着が亜麻布と質的に同じもの、すなわち同じ性
  質を有する物として通用するのは上着が一つの価値だからである。」

 六段落を経た七段落にて、「上着が一つの価値である」と示されていることは、上着が
直接的に価値であるーーのではなく、このような回り道をしての成果なのです。

この六・七段落の考察を経てみると、五段落にて左極でリンネル織りを価値を織り出す抽
象的労働としてのみ規定し、右極については人間労働一般と規定したのは、この反省規定
=物象の判断の特異性・特徴であることを私達が探りだすーー能動的主体的な営みが要求
される、マルクスが「どうしてですか?」との質問を我々にしているからなのです。
私達自身の主体的営みにおいての返辞・回答が要求されているのです。

 そこで左辺の抽象的人間労働として規定されているリンネル織労働が、凝固しているも
のとして認められるのは、個別の物的なものとしてではなく両極の価値関係を構成してい
る商品として、右辺に対する商品との共通性とは何か?との質問を発するーーことで、そ
れは価値である、との回答をしているのです。

 私達は無意識のうちにこの回答を物象の判断に従って成しているのです。
この上着は価値であるとの判断を受けてのみ、この三段落での提起が論証されたのです。

  「他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立し
  た表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつもので
  ある上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだ
  からである。」(三段落)

そして、この論議を経てのみーー五段落での右辺の裁縫労働が人間労働一般の支出であっ
たものが、やっと今度・七段落にて抽象的人間労働の凝固物として、価値として規定され
たのです。そして、やっと、この「亜麻布自身の価値存在が現象している」場面に到着す
ることで、価値物上着の規定を脱する地点に到着したのです。

 このように全く回りくどいことをマルクスが述べているのは、物象の登場・判断の推移
の有り様を人々がたどれるように、彼が我々に質問を発しているからなのです。

「上着がひとつの価値である」(七段落)と、リンネル価値が上着をその凝固したものと
して判断できることで、上着はリンネルとの共通者を、その凝固したものである価値、と
して獲得したのです。
ここで、提示されている「人間労働一般に、還元する」(五段落)ーーでは、物象の社会
関係は成立していないこと、<上着が価値物>の規定がどうやって、価値の規定へと転化
したのかをこそーーここに述べられているのです。

 第五にです。
 さて、その次の八・九段落です。

  「⑧実際に上着の生産では裁縫という形態で人間の労働力が支出される。すなわ
  ち上着に積み上げられているのは人間の労働である。この側面において上着は、
  たとえそれが擦り切れて大きく開いた糸目のあいだからその本質そのものが顔を
  のぞかせているわけでないにしても、「価値の担い手」である。そして亜麻布の
  価値関係のなかで上着は将にこの側面によって、身体を与えられた価値、価値体
  として通用する。上着の無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同じ種族がもつ
  美しい価値魂を上着に認めるのである。だが、同時に亜麻布に対して、価値が上
  着という形態を取ることがなければ、上着が亜麻布と向き合って価値を表現する
  ことはできない。(後略)」

  「⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価
  値形態として通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身
  体で表現される、つまりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるので
  ある。
  使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、価値としての亜麻
  布は「上着と同じもの」であって、したがって一着の上着のように見えるのであ
  る。こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
  亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。それはあたか
  も神の子羊との同一性において現われるキリスト教徒の羊という存在である。」

 さてと、久留間さんは、何故かこの⑧段落に対しては理解を示さず、⑨段落に対しての
み、自らの解釈を述べている。

  「このばあいよくよく注意しなければならないことは、 20エレのリンネル・
  イコール1枚の上衣 という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自
  分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっている
  のではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態
  に─その自然形態がそのまま価値をあらわすものに─しているのだということ、
  そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自
  身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマル
  クスのいわゆる価値表現の回り道なのである。」
  (『価値形態論と交換過程論』P-8)

 ここでの次のような理解が、⑧ではなく、⑨段落に対しての理解を述べたものであるこ
とはすぐ見て取れることであります。

  「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──その自然
  形態がそのまま価値をあらわすものに──している」(久留間)

再版ではーー
「亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。」(同上)
対して向坂訳は、
「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、ちょうどキリスト者
の羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」(向坂訳P97)
ーーと述べられている。

 向坂訳に依拠すれば、この宗教的転倒批判が、<上着は価値としてリンネルに等しい>
との理解に対しても向けられているーーことが次のように理解できる。

「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、」ーーとの表現で、
マルクスは価値形態を「価値魂」批判において受け取る(八段落)事柄が、転倒してしま
い、肝心なことであるーー私達には亜麻布の価値存在の表現ではなく価値表現ーーとの誤
解を必然化していることがらの、注意書きをここにしているのです。

 リンネルの価値形態上着ーーとの規定があって、始めて相対的価値表現が可能であり、
そしてつぎに、(物象として)上着が価値表現の材料としての役立ちを行うことで、相対
的価値形態が成立するのですし、この前提事項である<価値形態上着>での物象の社会関
係の形成による価値関係の<上着は価値としてリンネルに等しい>という、同等性関係へ
の転倒批判をこそ、ここ⑧-⑨段落に述べているのです。

 従って、「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──・・」
(久留間)しているのではなく、「上衣を価値の形態に」ーーすることでの宗教的転倒が、
「上衣は自分に等しいのだということによって、」との現象をもたらしている、と言うの
がマルクスの意図であります。

従って、久留間さんの主張は全くの誤りであり、次のーー
「だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ、上着が亜
麻布と向き合って価値を表現することはできない。」(⑧段落)
ーー事を批判するものであったのです。

 この「価値が上着という形態を取る」ーーこの表現の意味は、その次の⑨段落にて、
「上着形態は価値形態とされる。」、と明快に規定されている。ここには「価値表現」の
前提が述べられている。なるほど物象の登場による転倒した形態においては、リンネルも
上着も価値である同等性関係において、あるいは<上着は価値としてリンネルに等しい>
との、前者と同じ宗教的転倒を、生み出しています。

 価値関係と同等性関係との混同をうみだす宗教的転倒が、この常識的見解を発生させた
のです。

 第六です。
 おっと、最後の久留間さんの記述への意見を忘れるところでした。

 「抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する」
ーー大谷先生が『貨幣論』にて、価値物と価値体の混同と久留間先生の誤りを指摘し、彼
もまたその指摘は正しいとして、訂正を認めたーー事柄でした。

 しかし、この訂正事項は、久留間説の根幹に関わることであって、価値形態論で、ーー
相対的価値形態の内実として価値形態上着があって、他商品リンネルの価値が表現される
ーーことができるのに、リカード経済学のそのままに、上着が価値であり、価値体である
ので、この上着によって価値表現がなされると理解していた、ことが暴露されたのでした。

 彼の誤りの原因は、このリカード経済学の誤りへの批判は理解しているにかかわらず、

  「そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で
  そういうものとしての上衣の身体で、はじめて自分の価値を表現する」(久留間)

ーーことに示されるように、マルクスの次の提起を②の転倒像のなかで、宇野先生と同じ
く理解している。

マルクスは、物象の社会関係の形成が、①正像と②倒立象とを、
「上衣にそういう形態規定性を与えた」ーー次の形態として与えたと表明している。

  「こうして、上着がリンネルの等価物となっている価値関係のなかでは、上着形
  態は価値形態として認められる。それだから商品リンネルの価値が商品上着の身
  体で表され、一商品の価値が他の商品の使用価値で表されるのである。

  使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違ったものであるが、価値として
  は「それは上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。この
  ようにしてリンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。
  リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れることは、キリスト教徒の羊的性
  質が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。」(原P66文庫101)

①正像としては、これは価値関係であるから、上着は価値形態として認められるから、そ
のことで、リンネルの価値が他の商品の使用価値で表現される。
②倒立像としては、
「価値としては「それは上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである」
ーー同等性関係に転倒している。
この同等性関係に転倒した関係について、宇野先生は支持することで、すでに解決済みの
マルクスの問題とした五段落での、価値物上衣を縫い上げる裁縫労働とそれに反省規定さ
れる織布労働の抽象についての自らの理解を久留間さんとは異なって語るとして、この九
段落での抽象を語っている。

 しかし、宇野先生は、その前の八段落にて、
 「リンネルに対して、上着が価値をあらわすということは、リンネルに対して上着
が価値という形態をとることなしにはできないことである。」
(八段落原P66文庫101)ーーと語られたことが、再度この九段落にて語られて、この段
落にては、価値関係について、その正立像と倒立像の対比を述べていることを無視してい
る。
 しかし、この倒立像にしても、<価値としては、リンネルは上着に等しい >ーーに対
して、宇野先生は、まず次の理解をしている。

a)「・・・リンネル所有者は、リンネルの価値をリンネルと交換したいと思う他の
  商品、例えば上衣によって表現せざるをえないのである。その場合上着なる商品
  は彼にとっては、己にリンネルと同じ質のものとなっている。
  「使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違ったものであるが、価値とし
  てはそれは「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見える」(註)ので
  あってリンネルの価値は、上着においてその表現を与えられることによって、そ
  の使用価値とは分離した表現を得るのである。

  それは勿論リンネルを作る労働が、織物労働なる単なる有用労働としてではなく、
  上着を作る労働と等しいものとして

b)少なくとも此の二種の異なった労働に共通なものとしての人間労働に還元される
  ことによるのであるが、

c)それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間労働としてではなく、リンネルの織
  物労働を具体的な上衣の裁縫労働に等しいものにするといふ「回り道」をして行
  われる抽象である。」
  (『価値論』P142~144 『価値形態論と交換過程論』(P60孫引き)
  (註)は、資本論・原P66・八段落)

杉本の意見ーー
a)このように、マルクスはこの九段落での物象の社会関係が正立像で与える価値形態と、
倒立像で与える価値形態との対比をしているのに、宇野先生は、その倒立象の方をこそ支
持し、そして、ここでは価値形態がえられるのに、商品の二重性の他方であるーー価値が
えられるーーと全くの誤解をしているのです。

そして、得られた価値からしてと考えて、宇野先生は次の第二の誤解をしている。

b)「・・・少なくともこの二種の異なった人間労働に共通なものとしての人間労働
  に還元されることによるのであるが・・・」(同上60~61)
  との理解を述べることで、超歴史的な人間労働に価値実体を還元ーーすることに
  連係させているのです。

杉本の意見ーー「リンネルに対して上着が価値をあらわすことは、同時に、リンネルにと
って価値が上着の形態をとることなしにはできないのである。」
(資本論原P66)ーーというこの前の八段落でのマルクスの提示こそが、ここでの回答で
あるのに、全くの誤解をして、価値実体によって、価値表現が可能であるーーという驚い
た回答をしているのです。
これでは、次の例文①のままでの理解であり、価値関係がここでの論じる前提であり、リ
ンネルの価値存在は価値形態上着によって表現され、ーー
「だから、価値形態は、ただ価値一般だけではなく、量的に規定された価値即ち価値量を
も表現しなければならない。」(再版原P67)ーーとのマルクスの注意点を、全く無視し、
価値関係を同等性関係に転倒させた、理解なのです。

 再度、提起すると、価値関係との物象の社会関係があることで、価値形態との物象の判
断があり、リンネル価値の表現が可能なのです。この論理進行こそとても大切なのです。

このように、宇野先生は、明らかに価値関係を同等性関係に転倒させることで、今題材に
て示されている次の商品語の支持者となっているのです。

 ①「労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成すると
  いうことを言うために、リンネルは、上着がリンネルと等しいとされるかぎり、
  つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働から成っている、という
  のである。」

 ②「リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては
  上着にそっくりそのままである、と言うのである。」
  (同上原P67)

このように、「a相対的価値形態の内実」の冒頭第一段落にて語られた「価値形態と価値
の混同」との註17での批判は、この九段落での商品語批判に結びついていたのですし、そ
の批判について何ら回答を示さなかった宇野先生は、リカード経済学の価値実体論そのま
まであったのです。

 もう一度、価値形態である限りにて、上着は価値であり、そのことで価値表現が可能で
あるのに、「価値としてはそれは『上着に等しいもの』であ」ーーることに転倒すること
でも価値形態がえられる物象世界の姿の転倒像である後者を、宇野先生は支持したのです。

以上の宇野先生の「商品語」支持を、久留間先生は次のように提案することで賛成をした。

<価値としてはそれは「上着に等しいもの」>ーーとの転倒による価値形態の形成を、こ
の内実面を省いて、価値表現としては支持する宇野先生の論理を、使用価値上着のリンネ
ルへの等置であれば間違いであるが、
「・・・(リンネルにとっては、上着は価値物としてのみ存在する)しかしそういうふう
にいいかえさえすれば、、まことにその通りであると思う。」(『価値形態論と交換過程
論』P61)ーーというように。

c)「それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間労働としてではなく、リンネルの
  織物労働を具体的な上衣の裁縫労働に等しいものにするといふ「回り道」をして
  行われる抽象である。」(宇野 『価値論』 )

 しかし、久留間先生は、宇野先生がここに問題にしている原文の九段落での論理にだけ
従うのではなく、巧妙に、再版第五段落での議論をも付け加えて、問題をすり替えてるこ
とで、上記)cの宇野先生の説の批判をなしているのです。

それは何故か?宇野先生が使った、「・・・それは決して直ちに両者に共通な抽象的人間
労働としてではなく、リンネルの織物労働を具体的な上着の裁縫労働に等しいものにする
といふ「回り道」をして行われる抽象である。」ーーとの、「回り道」を、久留間先生は、
再版第五段落での『回り道』であり、初版での「回り道」であると、誤解ーーしたためで
す。

しかし、宇野先生の使ったーーここでの「回り道」は、第五段落を意味したのではなく、
また、第九段落への意見としての回り道、なのです。だから、むしろ初版での回り道をこ
そ意味しています。

  何故か?そもそも宇野先生が議論している対象は、
  「リンネルの価値存在が、上着との同等性に現れることは、キリスト教徒の羊
  的性質が神の子羊とのその同等性に現れるようなものである。」
  という転倒した虚像の形態にあるのです。

久留間先生は、<価値物と価値体の混同>において、
宇野先生の誤った「価値形態と価値の混同」の語りをしているーーのです。

 大谷先生によっての、『貨幣論』にて示された久留間さんの<価値物と価値体の混同>
批判は、そのことをこそ指したのです。

 このように、「商品語」への批判において、価値形態論を語らないと、価値形態上着の
役立ちにて、リンネルの相対的価値形態を形成し、その反省規定として、上着が直接的に
価値形態となることで、等価形態を形成するマルクスの立論は、対象外にされ、何ら理解
されないのです。

 上記のことに、やっとやっと(40年もかかって)気づくことで、今まで見逃していたの
だが、商品語批判ができない宇野先生と同じく久留間先生の立論ーー見解は、次のところ
にあったのです。

  <上着に・・・抽象的人間労働の直接的な体化物としての形態規定をあたえ>
とは、転倒した・正像ではない、等価形態の形態規定を受け取るということであり、上着
は直接的に価値体であるかに見えるーー等価形態の謎性ーーにだまされた事をこそしか意
味しないのです。
このことを見抜くためには等価形態のーー「生まれながらに価値形態をもっている」
(註21)独自性ーーが示されて、その対比をなすことにて、
 「上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性と同様に、
  生まれながらにもっているように見える。」(原P72)ーー転倒へのが理解できます。
直接的に価値形態であることは、直接的な交換可能性を示しますが、それは、相対的価値
形態において上着がリンネルの価値形態であることでの、註21に示された反省規定を受け
取る・物象の社会関係でのことなのです。

 このように、「上着は直接的に価値体」であっては、直接的に価値形態とはなれず、そ
して、等価形態の謎性に示される、価値形態ではなくーー使用価値上着が「直接的な交換
可能性」ーーを示す転倒した事柄であり、物象の社会関係の引き起こす、物的関係なので
す。使用価値上着が直接的に交換可能性を示すことができるのは、上着が直接的に価値形
態を受け取ることによっているのであり、「上着は直接的に価値体」であっては、そのこ
とが成し得ないのです。

久留間先生の転倒した見解は、次のところに書かれていましたので、比較のために紹介し
ます。
                      20エルレのリンネル=一枚の上着・・
                      ・・・という価値方程式において、リ
                      ンネルは・・・
                      まずもって上着を自分に等置すること
   と同時に上衣は、こうした抽象的人間  によって上着に価値物としての、すな
   労働の体化物、すなわち価値物を意味  ち抽象的人間労働の直接的な体化物と
   するものになる。そういう形態規定性  しての、形態規定定をあたえ、そうし
   を与えられることになる。       た上ではじめて、この価値物としての
   (上記)               定在における上着の自然形態で、自分
                      の価値を表現しているのだということ
                      である。
                      (同上P56)

 このように、久留間先生は、<価値物上着がリンネルに等置される>ことで語られてく
るーー商品語での語りの転倒性をこそーーマルクスが批判し述べることで、物象の諸関係
である価値関係にて次のことが述べられていたことに気づかないのでした。

①右辺の上着は、直接的に価値形態を受け取るーー判断されると述べていることを久留間
先生は、上着は価値物ではなく抽象的人間労働の直接的体化物と判断されている==形態
規定を受けているーーと判断・理解したのでありますから、相対的価値形態の形成へと、
この価値関係は向かわず、等価形態の転倒した形態の形成へと向かったのであります。

②価値形態上着は価値体と認められることで、上着は価値表現の材料としての役立ちがで
きることが、①の対象となっているのは等価形態なのですから、直接的に上着は価値体と
の判断を受けて、その姿のままに価値表現の材料となる転倒象なのです。彼にとって、等
価形態の三点の独自性は持ちだす必要がないのです。

③このような転倒した理解にあれば、リンネルに対しては上着が価値形態と判断されるこ
とで、相対的価値形態の規定ーー判断を物象がなしている、事を理解する必要が無いし、
またーーできなかったのです。

(以上は、再版での記述に忠実な理解であり、だれでも真剣に取り組むならばたどり着く
見解ーー理解であります。この自明な理解をとどめて、混乱をのみ引き起こしてきたのは、
初版の見解をこの再版に持込み、自明な理解に異を唱え、再版との混同のなかで、
マルクスの説をかたることで、勝手に混乱を引き起こしてきたーー久留間さんの宇野批判
ーーであることが理解できます。しかし、再版 一般的価値形態でのマルクスの論述を検
討してみると、肝心のプルードン批判が、両極の形態からの、①一般的相対的価値形態
②一般的等価形態 の検討であり、①の反省規定として②が語られのですから、逆に、
②の反省規定としてもまた①が語られているのです。だから、②の等価形態を語っていて、
その反省規定として存在する①の一般的価値形態であり、一般的相対的価値形態のことも
そこに語っているのです。
この特異なマルクスの論法は、初版にて更に倍増しているのですから、初版の見解に依拠
して、宇野批判に取り組んだ久留間先生の論述は、多くの同様の人々の支持を集めるも、
価値形態論で宇野説を批判することは実をみのらせなかったのです。)

 
 

(無題)

 投稿者:hirohiro  投稿日:2017年 9月15日(金)06時19分51秒
返信・引用
  コモンズのホームページがリニューアルされていた。ほぼ一年ぶりぐらいの閲覧だったが、FBで知らせを見た。

驚いたのは、掲示板がそこから消えていたこと。掲示板の管理人とホームページの管理人が異なるからだろうか。それとも党派的な対抗心からだろうか。まあ、別々に見ればいいだけだからな。

sさんとsさんの争い?いやいや、二人ともお忙しいからそんなことではないと思うが。
 

前原 芳文様への返辞

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月14日(木)01時00分53秒
返信・引用
  > No.1561[元記事へ]

前原芳文さんへのお返事です。

前原様、ご丁寧な挨拶ありがとう。

>昨年末あたりから、体調不良(低血圧)のため、価値形態論を読む頭の体力がありません。
>回復には数ヶ月か、一年くらいかかるのではないかと思います。申し訳ありません。
>・・・・・・
>2017年9月10日   前原芳文

私は一介の活動家にすぎず、ただ自分の意見を述べたに過ぎないのですから、
回答を願ったものではありません。どう返辞をしたものかと、考え込んでいました。
しかし、前原様の経済学とは違って、私のものは全くの無手勝流であります。
そんな人へなんとか返辞のひとつもしたいーーという厚情に、感激しています。

また、体調も回復しましたら、ご自分のホームページにて、
以下の訳の違いについて、の意見を教えて戴ければとっても嬉しいです。

  <82>「一商品の単純なあるいは個別的な相対的価値形態は一つの他の商品を
  einzelne Äquivalent 個別的な等価物にする。相対的価値の展開された
   形態、全ての他の商品でのこの一商品の価値表現は、それらの商品に様々な
   種類の特殊な等価物の印を付ける。最後に、一つの特殊な種類の商品が一般
   的価値形態を獲得する。なぜなら、全ての他の商品がこの特殊な商品をそれ
   らの統一的な、一般的な価値形態にするからである。」(前原訳 原P82)

   【2】「一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
   個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の
   商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特
   殊的等価物という形態を刻印する。 最後に、ある特別な商品種類が一般的
   等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種
   類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。」
    (国民文庫 岡崎訳 P127)

私などへの返辞など急ぐ必要もないので、十分な治療を受けて戴ければ嬉しく思います。
また、このわけのわからん意見などうるさいですから、削除しておきます。



 

Re: 前原論文での相対的価値形態の内実ーーへの批判

 投稿者:前原芳文  投稿日:2017年 9月10日(日)14時16分53秒
返信・引用
  杉本様、ご無沙汰いたしております。

私の”相対的価値形態の内実”の理解について、丁寧なご批判ありがとうございます。

本来なら、ご批判に対し、私なりに考えるところを申し上げるべきかと存じますが、今はご猶予下さい。

昨年末あたりから、体調不良(低血圧)のため、価値形態論を読む頭の体力がありません。回復には数ヶ月か、一年くらいかかるのではないかと思います。申し訳ありません。

今後とも厳しいご批判をいただけますよう、よろしくお願いいたします。

最後に、ご研究の進捗を祈ります。

                    2017年9月10日   前原芳文



 

 資本論初版・価値形態論の解読に取り組む

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月10日(日)12時08分26秒
返信・引用 編集済
   第七段落の解読のために、第四段落の解読から挑戦します。

 ④ところが諸商品は諸物象である。諸商品がそ
  れであるところのもの、諸商品は物象的にそ
  ういうものでなければならない。
  言い換えれば、諸商品自身の物象的な諸関係  <諸商品自身の物象的な諸関係>
  のなかでそういうものであることを示さなけ  のなかで<諸商品は諸物象>
  ればならない。               ーーであることを示している。
  リンネルの生産においては一定量の人間労働
  力が支出されている。リンネルの価値は、こ  <リンネルの価値は、>
  うして支出されている労働の単に対象的な反  <上着にたいするリンネルの物体にお
  射なのであるが、しかし、その価値は、上着  いて反射されているのではない。>
  にたいするリンネルの物体において反射され
  ているのではない。その価値は、上着にたい  <その価値は、上着にたいするリンネ
  するリンネルの価値関係によって、顕現する  ルの価値関係によって、顕現>し、
  のであり、感覚的な表現を得るのである。   <感覚的な表現を得る>
   リンネルが上着を価値としては自分に等置
  していながら、他方同時に使用価値としては  <リンネルが上着を価値としては
  上着とは区別されているということによって、 自分に等置していながら>他方同時に
  上着は、リンネル-物体に対立するリンネル  <使用価値としては上着とは区別され
  ーー価値の現象形態となり、リンネルの現物  ている>ーーとは?
  形態とは違ったリンネルの価値形態となるの  使用価値・リンネルが使用価値・上着
  である(18)。                に等置されるーーはありえず、
                        価値関係にあっては、リンネルは価値
                        存在であり、上着は価値の存在形態で
                        あるーーとの反省規定を受けている。
                        マルクスの課題・対象は、価値表現で
                        はなく価値存在の表現なのです。この
                        ことを排除すれば、解読は不可能です。
                        だから、<上着は、リンネル-物体に
                        対立するリンネルーー価値の現象形態
                        となり、リンネルの現物形態とは違っ
                        たリンネルの価値形態となる>
                        ここには何も理解困難なことが述べら
                        ているのではない。親子関係において
                        子のための役立ちにおいて親が役立つ
                        からこそ、その関係が成立する。
                        ①価値の存在形態での上着の役立ち
                        ②上着はリンネル価値の現象形態
                        ③「リンネルの価値形態となる」
                        このような判断をなすのだから、対象
                        は物象の社会関係なのです。

  「リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に
  自分を使用価値としての自分自身から区別する。」(第二段落)
  上記の、
  「リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させる」とは?
  リンネルが、上着を価値上着として反省規定してしまうが、そうではなく、
  「上着は、・・リンネル-価値の現象形態」となることで、
  「リンネルの上着価値」・「リンネルの穀物価値」ーーであることが、
  この諸物象の社会関係にて、物象の判断、として示されているのです。
  「リンネルの上着価値」ーーとの判断を物象がなしているーーことを見出すことで、
  「上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値の現象形態となり、
  リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるのである」(第四段落)
  ーーと示されているのです。

 (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わ
  す場合にはリンネルの上着価値と言い、それ  リンネルの上着による相対的価値表現
  を穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と  では、「リンネルの上着価値と言い」
  言ったりするのである。このような表現は、  ーーとは?の最重要な問題提起
  どれもみな、上着や穀物などという使用価値
  に現われるものはリンネルの価値である、と
  いうことを意味しているのである。》
  (国民文庫版46-7頁)

 再版では自明とされる価値形態の形成が三段落は別として、以上論じられてきた。
そのことが、次の五段落にてまとめられている。
 「上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められる」ーーと。

この「人間労働が凝固しているところの形態」とはーーこの文字どおり「人間労働が凝固」
してしていること・つまり価値であることを、ここでは表現してはいない。

この言いかたには価値形態論での転倒が示されてはいない。
上衣はリンネルの価値形態であることで、価値表現できるし、この質的側面があって、リン
ネル価値の大きさも労働時間での表現もできますし、交換比率も提示できます。
量的側面ではなくこの質的側面では、ー枚の上衣は、価値量を示すのではなく、価値の存在
であるリンネルに対して価値の存在形態として関係していたのだから、その成果としての価
値形態を、「リンネルの上着価値と言い」ーーなすことで受け取ったのです。
  ⑤ーー1
   20エレのリンネル=1着の上着 または
  xエレのリンネルはy着の上着に値するとい
  う相対的な価値表現のなかでは、上着はただ  相対的な価値表現のなかでは
  価値または労働凝固体としてのみ認められて  ①上着はただ価値・労働凝固体
  いるのではあるが、しかし、それだからこそ  ②労働凝固体は上着=価値体上着
  労働凝固体は上着として認められ、上着はそ  ③上着はそのなかに
  のなかに人間労働が凝固しているところの形  人間労働が凝固しているところの形
  態として認められるのである。        態として認められる
                        ④ここでは二段落で規定されている
                        価値形態上着の規定への説明

このように、「相対的な価値表現のなかでは、・・上着はそのなかに人間労働が凝固してい
るところの形態として認められる」ーーとは、上着が価値であり、価値形態である限りに
て、リンネルの相対的価値表現ができる、というリンネルの上着との関連を示すものです。
  ⑤ーー2
   使用価値上着がリンネル価値の現象形態に
  なるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働
  の、つまりリンネル自身のうちに対象化され
  ている労働と同種の労働の、直接的物質化と  抽象的人間労働の直接的物質化
  しての上着物質に関係しているからにほかな  とは?
  らない。上着という対象性は、リンネルに   上衣は価値ではなく、
  とっては、同種の人間労働の感覚的につかま  価値は上着ーーという転倒が
  えられる対象性として、したがってまた現物  ここにはあることなのです。
  形態における価値として、認められているの  その意味が「現物形態における価値」
  である。                  ーーであることでの直接的交換可能性
                        の形態をえるーー転倒なのです。
                        再版(原P72)では、この物象の社会
                        関係としての提示が転倒して、上着の
                        価値関係でのリンネルから直接に受け
                        取る価値形態の規定が、
                        「上着もまた、その等価形態を、その
                        直接的交換可能性というその属性と同
                        様にもっているように見える。」(原
                        P72)ーーことで、物と物との関係に
                        転倒してしまうのです。
 リンネルの相対的価値表現においてですから、上着は媒介的に価値であり価値形態と示さ
れたことがーー今度は、
  上着は「リンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、
  直接的物質化としての上着物質に関係している」ことで、即ち、
  直接的に上着は価値体であることは、そうではなく、
  「使用価値上着がリンネル価値の現象形態になる」ーー
  事での転倒した事柄に依っている、と示されている。
 その事柄が次の二・三段落を踏まえた六段落にてまとめられたのです。
 二段落
  ②それは、それ自身の価値存在を、さしあた  リンネルの価値存在がここに表現さ
  りはまず他商品すなわち上衣(を)に・自分  れますよーーとおしえている。
  を(に)等しいものとして関係することによ  これは、諸物象の反省規定にて、
  って示すのである。             価値表現がされますよ、なのです。
  もし、リンネルがそれ自身価値でないならば、
  それは上衣(を)に価値として、自分に等し
  いものとして関連(させる)することはでき
  ないだろう。
  リンネルは、上衣(を)に同種の人間労働   上記の価値としての質的等置が、
  の、すなわちそれ自体の価値実体の対象化と  上着をそれ自体の価値実体の対象化
  して関連(させる)することによって、上衣  ーーとして反省規定している、こと
  を自分に質的に等置する。          で、リンネルは上着を質的に等置、
  ・・・・・略・・・・            なのです。
  ・・・リンネルは自分の価値存在に自分の直  ①価値存在の表現があって、
  接的な定在とは区別される価値形態を与える。 ②価値表現ができるのです。
                        この経過こそが大事です
 三段落
  ③上着におけるリンネル価値の表現は上着そ  上着におけるリンネル価値の表現は
  のものに新たな形態を刻印する。じっさい、  上着そのものに新たな形態を刻印す
  リンネルの価値形態とはなんのことであろう  リンネルの価値形態とは?両極で、
  か?                    a)上着がリンネルと交換可能
  上着がリンネルと交換可能であるということ  b)上着は他の商品との直接的
  である。                    交換可能性の形態
  そのあるがままの姿を持って、上着という現    直接交換可能な使用価値
  物形態において、今や上着は他の商品との直    等価物の形態を持っている
  接的交換可能性の形態を、直接交換可能な使  ーーと示されたことなのです。
  用価値すなわち等価物の形態を持っているの
  である。
 「リンネルの価値形態とは」とーー上記の第三段落にてまとめられていたことは、
 一 そのことで、上着は交換可能性の形態
 二 上着は直接的交換可能性の形態(=等価物の形態)
を、二つの形態を両極の<反省規定>にてーー獲ているということなのです。
そこで、前者に対しての反省規定にて受け取るーー後者の形態について次のように特徴を
まとめたのです。

  ⑥ リンネルは、人間労働の直接的な実現形
  態としての裁縫労働に関係することなしには、
  価値または肉体化した人間労働としての上着
  に関係することはできない。
  ・・・略・・・
  それゆえ、同様に、裁縫労働がリンネルとっ
  て有効であるのも、それが合目的的に生産的
  な活動であり有用労働であるかぎりにおいて
  のことではなくて、ただ、それが特定の労働
  として人間労働一般の実現形態であり対象化
  様式であるかぎりにおいてのみのことであ
  る。
  もしリンネルがその価値を上着においてでは  「価値を上着において」
  なく靴墨において表現したとすれば、リンネ  価値を「靴墨において表現」
  ルにとってはまたやはり裁縫ではなく靴墨作  ーーこのように、
  りが抽象的人間労働の直接的実現形態として  ④ ⑤段落にて示された
  認められたであろう。            上着は価値であり、上着は価値形態
                        との左極・相対的価値表現ではなく
  つまり、ある使用価値または商品体が価値の  上着は直接的に価値であり、価値体
  現象形態または等価物となるのは、ただ、別  になれるのは、裁縫労働は、
  のある商品が、前記の商品体に含まれている  「抽象的人間労働の直接的実現形態」
  具体的な有用労働種類に、抽象的人間労働の  として認められることに依っている
  直接的実現形態としてのそれに、関係する、  ーーと右極での規定を示した。
  ということによってのみである。」      すなわち、価値上着とは、自然的形態
                        のままに直接的に価値形態であるため
  (国民文庫版48-50頁)           に、この転倒した規定にあることで、
                        直接的に等価物の形態を示す
                        等価形態の謎なのです。
 上記の④と⑥の対比から知れることは、前者の相対的・媒介的な価値表現に対しての、後
者⑥が、直接的に価値上着としてリンネルに等置されるのは、
裁縫労働は「抽象的人間労働の直接的実現形態」として認められているーーということでの
ーー転倒した形態を批判したうえで、等価物の形態をもつということでの出来事なのです。
 以上の展開によって、⑤ーー1  ⑤ーー2  の初版の意味の違いは明らかなのです。
「上着はただ価値」に対して、「直接的に上着は価値体」であることの相違は、次のことで
示されたのです。
 リンネルの価値形態とは?すでに第三段落にて次のように示されていたのです。
 等価物上着は、価値形態であることで、両極で、次の形態にあったのです。
 a)上着がリンネルと交換可能=上着はリンネルの価値存在を表現しており、
 b)上着は他の商品との直接的交換可能性の形態、
     直接交換可能な使用価値・等価物の形態を持っている
ーーというまことに、論理が直線的ではなく、両面からであり、かつ総合的な展開なのです。
 だから、⑤ーー1で示されていることは、この直接的交換可能性の形態の対極に存在する
交換可能性の形態=相対的価値形態にての規定であることを示したのです。

  <価値存在の表現ではなく、価値実体の表現について解読しようとする
  榎原さんの第五から七段落への理解の誤りを、見出す。>

ところが、この⑤ーー1を引用して、榎原さんは次のように自らの理解を述べるのです。
 「というのも、上着においてリンネル価値の実体が反映されるためには、上着自体が価値
実体の直接に物質化されたされたものでなければならないからである。上着にリンネルの価
値を見い出す、ということは、リンネル価値の上着への反射とは、こういうことでなければ
ならなかった。
 ところが上着自体は具体的有用労働の支出の産物であって、それは直接には抽象的人間労
働の産物ではない。だから、リンネル価値の上着への反射とは、上着を労働凝固体にし、抽
象的人間労働の実現形態にするのであるが、このことは、上着を作る裁縫労働をも「人間労
働の直接的な実現形態」(『資本論第一巻初版』P49s19)とすることを意味している。」
(『価値形態・物象化・物神性』P188)
    「リンネル価値の上着への反射とは、上着を労働凝固体にし、
    抽象的人間労働の実現形態にする」(榎原さん)
この⑤ーー1の場所には、私が理解を示した
<上着が価値であり、価値形態である限りにて、リンネルの相対的価値表現ができる、>
と示したが、その⑤ーー1への私の理解とは逆の、榎原さんの理解が述べられている。
ここでは、榎原さんの「上着においてリンネル価値の実体が反映されるためには、」ーーと
の設問が誤っていたのです。
この段落にては、左極・相対的価値表現の如何にしてか?ーーが扱われているのに、彼の示
した「リンネル価値の上着への反射とは、」この⑤ーー1で示されていることとは反対の理
解なのです。
    本文の、ーー
    <労働凝固体は上着として認められ、
    上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められる>
に対しての、榎原さんの「上着を労働凝固体にし」の理解ではーー正反対の理解なのです。
それは第二段落にて、
   ②ーー3リンネルは、上衣(を)に同種の人間労働の、すなわちそれ自体
   の価値実体の対象化として関連(させる)することによって、上衣を自分
   に質的に等置する。
ーーをこそ取り上げての、久留間さんと同じ誤解をしているからです。
上記を引用して、彼はこう続けている。

「・・・と述べられていて、見られるように、上着は、リンネルとの関係のなかでは、そも
そものはじめから、抽象的人間労働の対象化したものとして規定されているからである。」
(同上P106)
しかし、この段落での注意点は、価値表現の前に価値存在の表現があるということなのです。
この最も大切な事を見逃しています。
だから、彼は、
 <上着が価値であり、価値形態である>を示すのではなく、
 <価値が上着である>という転倒ーーこの規定では転倒した右極・等価形態をこそ表して
いくこと、についての批判ができず、認めているのです。
何故か? 相対的価値表現の質的分析では、次の第二段落での規定が、出発点なのです。
<②自分の価値存在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える。>ーーと。

 そのことを彼は見出せず、次の誤解が明らかです。
  価値形態論について取り組んできた人物が、価値存在の表現ではなく、価値実体
  の表現についてマルクスが展開しているかに誤解していたのです。

 以上の事にての⑤への理解にたてば、⑥にて私が示した、
  <価値を「靴墨において表現」ーーこのように、④ ⑤段落にて示された
  上着は価値であり、上着は価値形態、との相対的価値表現ではなく、>
  との事柄ーー表現は、転倒したーー等価形態をこそ示しているのです。

   <価値を「靴墨において表現」>するならば、との表現では、
  <上着は価値>であるという左極でのリンネルの価値関係にて
  上着にあたえる反省規定ではなく、右の反対極でのものなのです。
  だから必然的に、直接的に価値形態を受け取る筈が、そうではなく、
  <価値上着>として、直接的に価値体の規定を受け取る
  ーー転倒した等価形態の謎性をこそ示すーー
  誤った論理になっているのです。これが榎原さんの誤解であります。

 つぎが、最後の第七段落の解読です。
 私自身は、その次の第八段落の冒頭にて述べられていることがらが、この結論が提示され
るために、第七段落がそのための作業をしているとは把握はしていたが、久留間先生・武田
先生が等価形態形成のための「回り道」が書かれているとの提起を批判し得ないでいた。
しかし、この回り道が、次の八段落の結論にいたるのであるーーことは理解できていた。

  ⑧「両方の形態、一方の商品の相対的価値形
  態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の
  諸形態なのである。両方が、じつはただ、同
  じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に
  制約され合っている諸規定でしかないのであ
  るが、それら二つの等置された商品極の上に
  対極的に分けられているのである。」
  (国民文庫版53頁)
 この八段落に対して、その前の七段落はこう表されている。
  ⑦われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っ
  ているのである。
  ーーーーーーーーー略ーーーーーーーーーーーー
  a)ところが商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならな
  い。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態であり、諸商品の現物形態で
  ある。ところで、ある商品の、例えばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の
  正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、
  自分の価値形態にしなければならない。その商品は、自分自身にたいして直接にするこ
  とかできないことを、直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分自
  身にたいして、することかできるのである。
  b)その商品は自分の価値を自分自身の身体においてまたは自分自身の使用価値におい
  て、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価
  値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含ま
  れている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として
  関係することはできないが、しかし、他の商品種類に含まれている具体的な労働にたい
  しては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することかできるのであ
  る。
  c)そうするためにその商品が必要とするのはただ他の商品を自分に等価物として等置
  する、ということだけである。一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕
  方で他の一商品の価値の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のた
  めに存在するのである。
  (前掲50-52頁)a)b)c)は杉本が付加したものです。
 大体の問題の解決点は、示せたと思う。もう少し、検討を重ねて再度挑戦します。


<追加>
こうやって、検討していてやっと気付いたのだが、初版第二段落での誤解が、久留間先生、
榎原さんの理解にあることが見えたので、その段落の解説をしてみたい。

  初版二段落
  ①リンネルは、一つの使用価値または有用物の姿で、この世界にでてくる。それゆえそ
  の糊のきいた物体性もしくは自然形態は、その価値形態ではなく、まさにその正反対な
  のである。

  ②それは、それ自身の価値存在を、さしあたりはまず他商品すなわち上衣(を)に・自
  分を(に)等しいものとして関係することによって示すのである。
  もし、リンネルがそれ自身価値でないならば、それは上衣(を)に価値として、自分に
  等しいものとして関連(させる)することはできないだろう。

  ③リンネルは、上衣(を)に同種の人間労働の、すなわちそれ自体の価値実体の対象化
  として関連(させる)することによって、上衣を自分に質的に等置する。
  そしてリンネルは、たんに価値一 般というのではなく、一 定の大きさをもった価値で
  ありしかも一着の上衣が二〇エレのリンネルとまったく同じ大きさの労働を含んでいる
  がゆえに、リンネルは、X着の上衣というのではなくて、ただ一 着の上衣を自分に等置
  するのである。

  ④このような上衣にたいする関連を通して、リンネルはひとたたきでいくつもの蝿を打
  つのである。

  ィ)リンネルは、他の商品を価値として自分に等置することによって、価値としての自
  分自身に関連する。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによっ
  て、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。

  ロ)リンネルは、自分の価値の大きさーーそして価値の大きさは価値一般と量的に量ら
  れた価値との両方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に自分の
  直接的な定在とは区別される価値形態を与える。

  ハ)リンネルは、こうして自分を分化したものとして示すことによって、自分をはじめ
  て現実に商品ーー同時に価値でもある有用なものーーとして示すのである。

  ニ)リンネルが使用価値であるかぎりでは、それは独立なものである。これに反して、
  リンネルの価値は、ただ他の商品、たとえば上着に対する関係においてのみ現れるので
  あって、この関係のなかでは上着という商品種類がリンネルに質的に等置され、したが
  って、一定の量において同等とみなされリンネルの代わりとなり、リンネルと交換可能
  なのである。

 ここでの課題ーー回答の準備建ては、明らかです。
ーー同時に価値でもある有用なものーー価値であり、使用価値である商品は、交換関係では
なく、ロ)<リンネルは、自分の価値の大きさを上着で表現することによって、自分の価値存
在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える。>ところの価値関係によって、即
ち、物象の社会関係によって、リンネルの反省規定する上着が価値形態と判断される物象の判
断にて、形成されるのです。

そのことで、量的な相対的価値表現ができるーーという質的関係と量的関係をも現したのです。

ところがこの冒頭の第二段落の③は、次のように価値実体について表された。
  ③リンネルは、上衣を同種の人間労働の、すなわちそれ自体の価値実体の対象化として関
  連させることによって、上衣を自分に質的に等置する。

③は②を勿論前提にしている。
  ②それ自身の価値存在を、さしあたりはまず他商品すなわち上衣を・自分に等しいものと
  して関係させることによって示す

この②でのリンネル自身の価値存在は、上着を価値の存在形態とすることで表現されている。
この論理が理解されていれば、<リンネルは、上着を価値実体の対象化として関連させる>
ことは、次のようにのみーー理解できることは明らかです。

  ④リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては
  上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネ
  ル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるの
  である(18)。(初版 国民文庫 岡崎訳)

「リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては上着
とは区別されている」(上記)ーーとは両者が反省規定していること、
  a)上着が価値として等置されることで、
  b)その逆に、リンネルは使用価値、と判断されることなのです。

  ロ)ここで再度、このロ)を見出すならば、上記の④の示すことは、
   リンネルは<自分の価値存在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える>
    ーー反省規定をこそ、ここに表したのです。

この初版の第二段落の②--を省いた理解、そして④・四段落の理解において、久留間さんの
『価値形態論と交換過程論』<後編>(P38~39)での理解は、
<この②でのリンネル自身の価値存在は上着を価値の存在形態とすることで表現されている>
ーーことを省いた理解なのです。その点を除けば半ば正しい。
なんと半ば正しい面に、榎原さんが引きつけられたのです。




 

  榎原さんの一般的な価値形態の理解について (その二)

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 9月 2日(土)14時33分10秒
返信・引用 編集済
  (いろいろと再検討し、いろいろと改稿もしたので、(その二)としました。)

まずは師匠の資本論 「c一般的価値形態」の理解を見てみよう。
①「一 価値形態の変化した性格」
②「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」
への彼の理解であります。まずは紹介します。

http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220

『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)

 3.一般的な価値形態
そして次の三番目の一般的な価値形態、これに移っているのですが、
ここでの特徴は等価形態が単一の商品で現わされている。
そうするとどうなるか。ここでは61頁の下段(3行目)にその特徴が書かれています。

   <杉本ーー次は「価値形態の変化した性格」5段落 原P80)

   <「新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一
   つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、全ての商品の価
   値を、その商品とリンネルとの同等性よって表す。ーーーー」
   原P80 国民文庫岡崎訳>上記の「こうして」の前文が削除されて次に引用
   されている。>

「各商品の価値は、いまや、亜麻布と同等なものとして、その商品じしんの使用価値から区別
されているばかりでなく、およそ使用価値なるものから区別されており、また、まさにそうさ
れることによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして、表現されている。だから、
はじめてこの形態が、現実的に、諸商品を相互に価値として連関させるのであり、あるいは、
諸商品を相互に交換価値として現象させるのである。」

ですから単一の商品を等価物として全ての商品が表現されるとすると、相対的に価値形態にあ
る商品同士の同等性ということが、ひと目で明らかになるということです。

結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別の商品と等価形態をとっている
場合に、相対的価値形態にある商品同士の関連ということは、明確ではなく統一的ではないわ
けですが、

   <杉本ーー「結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別
   の商品と等価形態をとっている場合に、」ーーとは問題にされているのはど
   の形態のことなのか?
   勿論、それに相応した展開された相対的価値形態であり、第二の形態であり
   ます。
   この第二の形態ではーー
   「他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値その
   ものが、はじめて、ほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」
   (原P77)ーーことで、
   「それゆえ、今ではリンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対し
   て社会的な関係に立つのである」(同上)ーーとなっており、
   このように、他商品体はどれもリンネルの価値形態と反省規定されることで、
   商品世界を形成したことを明示したのです。
    この規定であるからこそ、リンネル商品が、展開された相対的価値形態の
   規定を、物象の判断として受け取ったーーだけではなく、その対極にて、
   「上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物と
   して、したがってまた価値体として認められている。」(同上P78)ことで、
   それらは「特殊的等価形態」となっているのです。
   このように、リンネルの対極にある上着は、第二の形態の等価形態では、第
   一の形態のように、すぐさま・使用価値の姿のままに価値形態とされ、直接
   的交換可能性を認められているのではなく、価値体として等価物の役立ちを
   する限りにおいて、この「特殊的等価形態」を受け取っています。>

   <右辺の商品が「特殊的等価形態」なのですから、この形態では商品世界と
   いう共通性がないのは明らかです。しかし、このようなことを題材とするこ
   と事態が不可能なことですし、商品世界は、展開された相対的価値形態にお
   いて形成されています。

   さて無限なように、商品世界を構成する展開された相対的価値形態を転倒し
   たに過ぎない一般的相対的価値形態と理解するのは、カウッツキー・スター
   リン経済学の伝統的理解であって、そうではなく個別的に、無限に20エレの
   リンネル=一着の上着・20エレのリンネル=10ポンドの茶を転倒させたの
   が、「価値形態の変化した性格」としての、この第一段落に説明されたのが、
   次のことです。

   「いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、と
   いうのは、ただひとつの商品で表しているからであり、そして(2)統一的
   に表している、というのは同じ商品で表しているからである。
   諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。」
   (同上 国民文庫P123 原P79)
   このように、第一に、一般的相対的価値形態ではなく、一般的価値形態がこ
   こで論じている対象であり、そのことの明示は、5段落よりも6段落にてこう
   述べられていた。

   「・・・諸商品の価値対象性は、・・・ただ諸商品の全面的な社会的関係に
   よってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に
   認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのであ
   る。」(同上P125~126 原P80~81)
   このように、まず展開された相対的価値形態の次に論じられたのが、一般的
   価値形態であって、両極の価値形態ではないのですから、後者の理解を示し
   たのは、カウッツキーの伝統的理解への批判をしなかったからなのです。

単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表現されて、従って相対的価値形態にある商
品同士の社会性がひと目で明らかになる。そういう意味でこの一般的な価値形態は商品世界の
共同事業として成立する、ということを特徴としてマルクスは述べているのです。

   ここではーー未だに、「単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表
   現されて、」その対極に一般的な価値形態の形成があるなどとは表現されて
   いないのです。これは榎原さんの読み違えです。

   ここでの問題にされているのは、第三のこの形態を形成する第一段として、
   一般的価値形態があるので、次のように回答が導かれていました。
   六段落
   「・・・・・・・・・・・・・・・・それに対して一般的価値形態は商品世
   界の共同の仕事として発生する。商品が一般的な価値表現を獲得するのは、
   全ての他の商品が同時にそれらの価値を同じ等価物で表現し、新たに登場す
   る商品種類の各々もそれらの真似をしなければならないからである。
   そのこととともに、商品の価値対象的性はこの物がもつ単なる“社会的定在
   (=現実の存在におけるこの物の社会性?訳者)”であり、<81>その全面的
   な社会的関係を通してだけ表現され得るのであるから、価値対象性の形態も
   社会的に認められるものでなければならないのだ、ということが明らかにな
   る。」
      http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
      私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品

ここで注意すべき問題は、こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう
事かというと、商品世界の共同事業として成立している。言い換えれば他の全ての商品所有者
が、単一の商品で自分の商品の価値を表現する。そういう働きかけの結果一つの商品が等価形
態に置かれる、ということです。

   <ここで、物象の社会関係の形成ーーとの思考がなくては次の事態の意味は
   何一つとして理解できないであろう。
   「それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。」
   ーーとは、この榎原さんの述べるように、
   「こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう事かと
   いうと、商品世界の共同事業として成立している。」(上記)ーーと表され
   ていることなのか?
   榎原さんのここでの一般的価値形態・成立の理解が、一般的等価形態成立の
   なかで語られているーーとの理解は正しいのであろうか?

   なるほど、第一の形態も第二の形態でも等価物上着であり、等価物茶・小麦
   などがリンネルの価値形態となっていた。しかし、この第三の形態では等価
   物リンネルは、商品世界からの排除を受けることで、左辺にある「商品世界
   の価値を表現」しているので、価値形態(一般的価値形態)を受け取るのは、
   右辺ではなく、左辺の「商品世界」の商品群であって、物象の社会関係の第
   三形態への成長転化によって、これらの一大転倒がもたらされ、<商品世界
   ・物象世界>が「一般的価値形態」として、一つの土台を形成したのです。
   このように、一般的相対的価値形態の成立の前に、商品世界の形成がなされ
   ているーーことを以上の展開にて説明されているのです。>

   <榎原さんは一般的等価形態の成立のなかで、一般的価値形態が成立と考え
   たのだが、逆に、一般的相対的価値形態の成立を前提にそのことを語る見解
   を検討してみるーーとここでの問題性がどこにあるのか?はっきりする。>

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/bce544784ff023e39fa7ea4910a2a415
第29回「『資本論』を読む会」の報告

(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるか
らこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸
商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われて
くるのである。〉

   上記をーー英明な堺の資本論を読む会にして、次のように理解している。
 (ト) こうして、諸商品の価値対象性は、これらの商品の純粋に「社会的な定在」であり、だ
からそれら諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるということ、よって諸商品
の価値形態はただ社会的に認められた形態でなければならないとういことが、この一般的相対
的価値形態においては明瞭に現われているのです。
ここで学習会では「社会的な定在」というのがわざわざ鍵括弧に入っているが、そもそも「社
会的な定在」というのは、どういうものなのかが問題になりました。価値形態の最初のところ
でも(第三節の前文)、〈商品の価値対象性は純粋に社会的なものである〉との記述が見られ
ましたが、そもそも「社会的なものである」というのはどういうことでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その意味では、一般的相対的価値形態はこうした価値の社会的性格をもっとも明瞭に現わして
いるものだと言えると思います。

   <「この一般的相対的価値形態においては明瞭に現われている」
   ーーと、自明極まりないことのように、主題が「一般的価値形態」であるの
   に、変更しているのです。何故なのか?
   この6段落に対して、続く8段落を、一般的相対的価値形態の形成であるのに、
   その逆に、一般的等価形態の形成と誤読するためなのです。
   その誤読ーー転倒ぶりは次に照らせば明らかです。
   構成された前提として、両極の形態が前提されており、次の獲得事項を無視
   したためです。
   ①第一の形態での価値形態を内実とすることで、右辺の上着は価値表現の材
   料となる相対的価値形態の形成
   ②右辺の上着が直接的に価値形態になることで、その使用価値の姿のままに
   価値表現の材料となることでの等価形態の形成
   ーーこの手本とすべき論理を無視し、視野外におくためなのです。
   ここでは明瞭に、一般的価値形態の形成が如何にして成され、そのことでど
   のように、一般的相対的価値形態の形成がなされるのか?
   ーーこの論理をこそーーここに見出さなければならないのです。>

   <注意すべきは、この「一 価値形態の変化した性格」では今だに、註24
   に示された、対立的にのみ一般的な相対的価値形態と等価形態が形成される
   ーーとのプルードン批判は提示されていないのです。

   それは次節の
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」にて論じられており、その
   課題を準備するものとしてここに、マルクスは語っているのです。商品世界
   からの一商品リンネルの排除は、まず①一般的価値形態の成立がなされてい
   る事を六段落にて示し、②一般的相対的価値形態の成立をこの八段落にて語
   り、③その結論を、次の最後の九段落にてこう提示しているのです。

   「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリーと
   して表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態が商品世界を社会的
   に表現する物であることを示す。労働の一般的に人間的な性格が、この世界
   では、特殊な社会的性格をかたちづくっていることを一般的価値形態は明ら
   かにしているのである。」(前原訳 原P81)

   したがって、以上から、このまず一般的価値形態が商品世界にて形成された
   経過をこそ、この判読しがたき八段落にて語っているのは明らかです。>

ですから62頁の上段真中あたりから後に書かれている箇所を見ましょう。

「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価商品たる亜麻布に、一
般的な等価という性格をおしつける。」

この一般的な等価物は、例えば金などの特定の商品に社会的習慣によって固定されると次の貨
幣形態になる。普通の一般的な常識としては貨幣に価値があるから他の商品の価値を貨幣で表
現するのだ、と考えがちです。 けれども、一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、
貨幣商品が作り出したわけではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けてい
るのだと言っている点です。これに注目する必要があると思うのです。

   <一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、貨幣商品が作り出したわ
   けではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けている>

   ーーここでの8段落他の全ての商品が貨幣<商品世界から排除された等価商品
   たる亜麻布>にそういう性格を押し付けることで、一般的等価形態が形成され
   たーーのではなく、リンネルに「一般的等価物という性格」を押しつけた、と
   書かれています。「一般的等価形態」の形成が、この第一節で述べられている
   のではなく、それは第二節にて次のように述べられています。

   榎原さんの論じている「一 価値形態の変化した性格」の次の、
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」での六段落にて、その事が主
   張されますが、榎原さんとは逆に、「商品世界に一般的社会的な相対的価値形
   態を与えるのであるが、それは、ただひとつの例外を除いて、商品世界に属す
   る全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりの
   ことである。」(原P82 国民文庫P128)ーー

   このように「一般的等価形態」は、その反対極の反省規定としてのみ成立する
   前の第一・第二の形態とは異なっていることの特異性、をこそがここに述べて
   います。

   話が、前の節の当該8段落だけではなく、6~9段落の流れから、そこの記述
   を検討すると、次の事柄が了解できる。
   ①6段落では「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならな
   いことが明瞭に現れてくるのである。」とあり、その論証を求めて、
   ②7段落では、この第三形態の独自性が、「リンネルに等しいものとの形態」
   で第二形態との相違が語られ、リンネルとの比較だけではなく商品群内での
   比較が語られる転身のなかで、やっと労働時間を価値尺度とすることができる
   ことが述べられ、
   ③8段落では、第一と第二の形態では、相対的価値形態のそれぞれの形態にお
   いて右辺の等価物上着等々は媒介的に、その次には商品世界で個別的に、直接
   的に価値形態を受け取るも、この第三形態では、リンネルは、商品世界の
   「共通な価値姿態」として存在することで、、商品群の一般的価値形態を反省
   規定していると述べています。
   この関係を説明するのが、「織布を人間労働一般の現象形態」にすることで、
   「このようにして、商品価値に対象化されている労働は、・・この労働はいっ
   さいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支
   出に、還元されたものである。」ーーと②を再表明したのです。

   堺の研究会が依拠した初版での当該箇所の次の①引用しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/cbfdd499d51716e18876252e79869820
《初版本文》
①二段落ーー
「 形態 Ⅱ において、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコー
ヒー,または=v量の茶,または=x量の鉄,等々 において、リンネルは自分の相対的価値
表現を発展させているのであるが、この形態 Ⅱ では、リンネルは、一つの特殊的な等価物
としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろも
ろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいし
ては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては
認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方
の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれてい
るところの形態 Ⅲ にあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属
形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種
や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそ
れらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在してい
るかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところ
の、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。だから、
リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の
等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一
般的な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけ
である。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般
的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。」

②三段落ーー
「商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、
この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであっ
た。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別
の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価
値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさ
にそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織
りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうで
もよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかった
し、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。
リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使
用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、

   すべての他商品の一般的な価値形態になり、
   したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間
労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認めら
れているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や
鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に
規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。
逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現
(形態 Ⅱ )にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。」
(江夏訳48-49頁)

   このように、研究会では上記の①が検討されるも、この初版の②三段落の記述は、取
   り上げられてはいない。
   「リンネルが一般的な等価物になると、・」ーー般的等価形態になるではなく
   「すべての他商品の一般的な価値形態になり、」ーーとの記述は無視されている。

   初版と再版の論理は、おなじであり、一般的価値形態が形成されることで、
   等価形態ではなく、一般的相対的価値形態が形成されるーーのです。

   更に初版附録にて、「第二節 等価形態の変貌した姿」について、その次の
   「第三節 相対的価値形態と等価形態の斉一な展開過程」にてこう述べている。

   「最後に、商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し、またその商
   品において全ての他の商品がそれぞれの価値を共同で表現することによって、
   統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与えるのである。
   このような回り道を通って、排除された商品は一般的等価物になる、または等
   価形態は一般的等価形態になる。」 (初版附録 P353 今村訳)

   ーーこのように、

   A「商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し」
   B 一般的価値形態が商品世界として形成されることで、
   C「統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与える」
   D「このような回り道を通って、排除された商品は・一般的等価形態になる」
   Eだから、一般的に直接的交換可能性の形態は、第一、第二とは異なって、
    榎原さんの示すように、直接的に等価形態を受け取るのではなく
    <商品世界からの等価物リンネルの排除>という「回り道」において形成さ
    れたのですから、この「第二節」での「等価形態の変貌した姿」は、残像で
    あり、その次の「第三節」にて再度、新たな規定を受けたたのです。
    リンネルの直接的交換可能性の形態は、この「第二節」で規定されているの
    ではなく、「回り道」を示したこの「第三節」にて規定されたのです。
     ここが再重要です。榎原さんの論法だと、この「第二節」の規定なのです。
   F「第四節」にて、この「第三節」を再度ーー説明して、この「回り道」を、
    第二形態と比較ーー区別して説明している。
    a「形態 Ⅱ 」において「それぞれの商品種類は」「自ら拡大された相対
    的価値形態をもつのだが」ーーそれができるのは、「他の全ての商品がそれ
    にたいして等価形態にたってくれるからであり、・・」とのべている。
    このように、第一と第二の形態ではーー両極の形態は相互依存にて成立して
    いた。
       (商品世界の成立による、その世界からの排除ーー
       という「回り道」の論理は、この上記で述べられて
       いるように、両極の相対的価値形態と等価形態の成立
       の第二形態との対比であり、その次の第三形態での
       ーー排除のなかで述べられている。
       やっと・やっと見つけたのです。
       初版での第一の形態での「回り道」<註20段落>にて
       受け取るーー「他の商品の実物形態を自分の価値形態」
       ーーとは、久留間さんの見解に代表されるように等価形
       態で受け取るのではなく、両極の形態にて受け取ってい
       たのです。
       だからこそ、初版七段落に示されている、
       「相対的価値表現の形態内容」(註20)が、
       「一般に商品の使用価値は、それがこのような仕方で、
       他の商品の価値の現象形態として役立つ限りでのみ、他
       の商品に相まみえる。」(初版 今村訳P291)
       ーーとあり、「価値の現象形態」を示すのが、等価形態
       だけではなく、その前に記述された四段落でのーー
       「リネンは価値としての上着に自分を等置し、同時に使
       用対象としての自己を上着から区別することによって、
       上着は、リネン身体に対立するリネン=価値の現象形態、
       リネンの実物形態と区別されるリネンの価値形態となる。
       <註18 まさにそれゆえにリネンの価値を上着で表現す
       るときには、リネンの上着価値といい、・・>ーー
       と示しており、そのことで次の段落にて、
       「上着は人間労働の凝結する形態として通用する。」
       (同上P288)ーーと上着は価値であり、価値形態と、
       左極での表現をしたのです。
       この「四段落」にて示されている、次の事柄ーー
       「リネンが人間労働のたんなる物的表出」であることを
       「確実に把握するためには、人間労働を現実に物にする
       一切のものを無視しなければならない。」ーー
       ーーとは、リネン価値の表現が、リカードの示すように、
       対象化された人間労働の凝固であり、労働時間にてその
       量が表現されるーー事への批判として、
       物象の社会関係が成立する、リンネルの価値形態が上着
       形態として成立する両極の価値形態を、物象の判断とし
       て成す事を示した第七段落があったのです。
       だからこそ次の八段落にて、
       「われわれの分析が明らかにしたように、商品の相対的
       価値表現は二つの異なる価値形態を含んでいる。・・
       一方の商品の相対的価値形態、他方の商品の等価形態、
       という二つの形態は交換価値の形態である。」
       同上P292ーーとまとめたのです。
       しかし、久留間さんはこの肝心のマルクスのこのいまま
       での設問に対する回答である初版八段落に対して見向き
       もしないのです。
       価値形態論での、マルクスのこのテーマへの久留間先生
       の無視をこそ、私達は注意しなければならないのです。)

    b「形態 Ⅲ 」では、この成立している「商品世界」からの排除という回
    り道=一般的相対的価値形態の成立が、第一・第二の形態とは異なって、両
    極の間での反省規定ではなく、相互依存の関係ではなく、その関係からの離
    脱するリンネルによって成されているーーなのです。

   ④9段落にて、以上6・7・8段落をまとめてーー
   「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、
   それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示してい
   る。」ーーことで、自明なように私達が、商品価値の大きさを労働時間で示す、
   事にて価値を表示・比較できる商品世界=一般的価値形態が形成されている・
   のです。>

 この場合に亜麻布は等価物ですから、等価物は簡単な価値形態の等価形態の所で見た具体的
労働が抽象的人間労働の現実化したものになる、ということはここでもなされる。これが単に
一つの商品、一つの相対的価値形態の商品からなされ、そうして一つの商品の価値を表現する
ということだけではなくて、自分以外のあらゆる商品がその商品で価値を表現する。ですから
この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認められる、ということ
になるのです。

   <杉本ーー
   「この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認め
   られる、」ーーに対して
   <「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形
   態は、>ーーと比較するならば、
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーーことが理解できなか
   った、のです。
   第一の形態でのように、等価物上着がリンネル価値の現象形態として役立つ
   ことが、価値形態上着として成立する左極の反省規定ーーとは異なって、
   商品世界から等価物リンネルが、排除されていることで①一般的価値形態が
   成立し、②一般的相対的価値形態が成立するこの「回り道」をへて、やっと、
   また浮上した商品世界からの等価物リンネルの排除がなされているのです。>

簡単な価値形態、例えば先程でしたら亜麻布と上着という関係で、
上着が抽象的人間労働の体化物とされているということを見ましたが、
今度は亜麻布だけではなくてコーヒーからもそうですし、鉄からもそうですし、
茶からもそうされる。

   <杉本ーー
   そして第一の形態とは、「簡単な価値形態」のことではなく、上着が価値形
   態を受け取り、リンネル価値の価値表現の材料として役立つ、第一の相対的
   価値形態であり、等価物上着を直接的に価値形態とす等価形態なのです。>

   <第三の形態ではーー
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商
   品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。
   亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したが
   って亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。
   ・・・・・略・・・・・
   一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労
   働一般の一般的現象形態とする。商品価値として対象的に表れる労働は、消
   極的に、すなわちあらゆる具体的な諸形態と有用な諸性質が捨象された現実
   の労働として表現されるだけではない。それ自身の積極的なNatur 本質もは
   っきりと現れてくる。商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働と
   いう共通な性格、すなわち人間の労働能力の支出に還元された現実の労働で
   ある。」(前原訳 原P81)

そうすると抽象的人間労働の化身であるということが一般化され、次に社会化される。
そういう意味でこれは一般的な価値形態だと言われているのです。

   杉本
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーー
   この反省規定、をこそ注意すべきと思えます。
   この一般的価値形態を成立させる商品世界の共同行為が、一般的な相対的価
   値形態を成立させる、ことが、通常の訳では、等価形態の成立になっていま
   す。

   <82>「一商品の単純なあるいは個別的な相対的価値形態は一つの他の商品を
  einzelne Äquivalent 個別的な等価物にする。相対的価値の展開された
   形態、全ての他の商品でのこの一商品の価値表現は、それらの商品に様々な
   種類の特殊な等価物の印を付ける。最後に、一つの特殊な種類の商品が一般
   的価値形態を獲得する。なぜなら、全ての他の商品がこの特殊な商品をそれ
   らの統一的な、一般的な価値形態にするからである。」(前原訳 原P82)

   【2】「一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
   個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の
   商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特
   殊的等価物という形態を刻印する。 最後に、ある特別な商品種類が一般的
   等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種
   類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。」
    (国民文庫 岡崎訳 P127)

けれども、こういうように第三の価値形態ですね、一般的な価値形態をそういうように読みま
すと、全ての様々な労働が人間的労働というそれらの共通な性格へ還元されている、というこ
とが分かるという意味です。
ですから様々な労働が亜麻布で価値を表現する、という形だけを見ても別に現実的諸労働への
共通な性格への還元、ということは読み取れない。むしろこれを価値の表現の形式というよう
に見て、価値の表現、要するに抽象的人間労働相互の関係です。
その関係がここにあるという商品語を読み取った上で、こういう全ての現実的諸労働が人間労
働という共通な性格へと還元されている、そういう形がここで現われている、ということが分
かる。
ですからここでも諸商品の価値が抽象的人間労働である、という事が何か明示的にパッと表現
されている、ということではあり得ない。そういう事だと思うのです。
後、この一般的価値形態から貨幣形態への移行という箇所があり、この移行の箇所でも移行の
論理という点に注目して見てみます。この一般的価値形態を取るのはどの商品でも取り得る。
ですから一般的価値形態というものは貨幣形態とは違うわけですけれども、貨幣形態の場合は
等価形態にある商品が単一の商品になり、その他の商品が等価形態になることを排除する、と
いう関係です。それは社会的な習慣によってそうなる、とマルクスは言っています。
そうするとこれは移行の論理としては、一般的価値形態に内属する論理によって貨幣形態へ移
行する、というようには言えないのではないか。つまり金が貨幣にされるということは、社会
的な習慣などの価値形態以外の様々な要素です。そこからの働きかけ、ということを見逃せな
いのではないか。そのような話をしているうちに、価値形態の発展の話に半分くらいは入って
いるわけですけれども、いよいよその問題へと移って行きたいと思うのです。



http://

 

ミサイルへの安倍の批判・対抗姿勢とは何なのか?

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月31日(木)13時33分42秒
返信・引用
  朝鮮民主主義共和国の宇宙空間を経た
ハワイ近くまでのミサイル発射への
安倍の批判・対抗姿勢とは何なのか?

ツイッターから拾い出した核心点を洗い出してみました。

https://twitter.com/kazu1961omi
①山口一臣? @kazu1961omi  8月29日
北朝鮮は、1998年8月31日に事前通告なしでテポドン1号を発射して、
日本の上空を通過しています。思い出してください。

   tadanosalesrep @ryupa1967
   事前通告がなかったとあれほど言ってる
   のにあほなんですか?(笑)


②山口一臣? @kazu1961omi  8月29日
事前通告がなかったのはこれが2回目、日本上空を飛び越えたのは5回
目で、いずれも過去にあった事案ですね。

③山口一臣? @kazu1961omi  8月29日
1回目:1998年8月31日  事前通告なし
2回目:2009年4月5日  事前通告あり
3回目:2012年12月12日事前通告あり
4回目:2016年2月7日    事前通告あり

③山口一臣? @kazu1961omi
北朝鮮のミサイル(飛翔体)が日本の国土を飛び越えたのは今回が5回
目で、事前予告がなかったという意味では2回目で、その意味では過去
にもあった事案のひとつです。
新たになんらかの、それ以上の“脅威”が加わったのだとすれば、説明
をして欲しいものです。説明責任は政府にあります。


ーー杉本
  上記からわかるように、ミサイル発射は、今半島南部でなされて
いる米韓合同軍事演習に対する抗議としてなされており、
日帝への批判・攻撃と、いう側面は全く無かったのです。

このような客観的情勢は、全く明らかであり、安倍が抗議をし、北海
道から長野県まで、警戒警報を出したのはーーそんなことではなく、
自らの政治的危機への対抗手段=民衆支配の強化を目的にしたもので
あったのです。

被支配者での安倍支持の破産だけではなく、彼の依拠した支配層で
の、彼への支持からの離脱という側面がここに現れてきたことーー
への対抗でもあったのです。

後者を表すブローグを見つけたので紹介しておきます。


総理批判 保守派の重鎮が裏切り #BLOGOS
http://blogos.com/outline/242739/
「森友・加計問題で逆風が吹き荒れる中、それでも安倍政権の支持率
は30~40%台に踏みとどまっていた。
・・その恐れている事態が現実となりつつある。安倍政権に期待が強
かった分、裏切られたと感じた人たちは強力な反安倍に回る。
・・「単純に安倍首相の人間性に呆れ、失望しただけです」

 

  榎原さんの一般的な価値形態の理解について

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月23日(水)15時34分30秒
返信・引用 編集済
  まずは師匠の資本論 「c一般的価値形態」の理解を見てみよう。
①「一 価値形態の変化した性格」
②「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」
への彼の理解であります。まずは紹介します。


http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=220

『「資本論」の核心』補講全3回(3-2)


3.一般的な価値形態
そして次の三番目の一般的な価値形態、これに移っているのですが、
ここでの特徴は等価形態が単一の商品で現わされている。
そうするとどうなるか。ここでは61頁の下段(3行目)にその特徴が書かれています。

   <杉本ーー次は「価値形態の変化した性格」5段落 原P80)

   <「新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一
   つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、全ての商品の価
   値を、その商品とリンネルとの同等性よって表す。ーーーー」
   原P80 国民文庫岡崎訳>上記の「こうして」の前文が削除されて次に引用
   されている。>

「各商品の価値は、いまや、亜麻布と同等なものとして、その商品じしんの使用価値から区別
されているばかりでなく、およそ使用価値なるものから区別されており、また、まさにそうさ
れることによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして、表現されている。だから、
はじめてこの形態が、現実的に、諸商品を相互に価値として連関させるのであり、あるいは、
諸商品を相互に交換価値として現象させるのである。」

ですから単一の商品を等価物として全ての商品が表現されるとすると、相対的に価値形態にあ
る商品同士の同等性ということが、ひと目で明らかになるということです。

結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別の商品と等価形態をとっている
場合に、相対的価値形態にある商品同士の関連ということは、明確ではなく統一的ではないわ
けですが、

   <杉本ーー「結局ある商品が他の商品を等価形態にとり、他の商品がまた別
   の商品と等価形態をとっている場合に、」ーーとは問題にされているのはど
   の形態のことなのか?
   勿論、それに相応した展開された相対的価値形態であり、第二の形態であり
   ます。

   この第二の形態ではーー
   「他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値その
   ものが、はじめて、ほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」
   (原P77)ーーことで、
   「それゆえ、今ではリンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対し
   て社会的な関係に立つのである」(同上)ーーとなっており、
   このように、他商品体はどれもリンネルの価値形態と反省規定されることで、
   商品世界を形成したことを明示したのです。
    この規定であるからこそ、リンネル商品が、展開された相対的価値形態の
   規定を、物象の判断として受け取ったーーだけではなく、その対極にて、
   「上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物と
   して、したがってまた価値体として認められている。」(同上P78)ことで、
   それらは「特殊的等価形態」となっているのです。
   このように、リンネルの対極にある上着は、第二の形態の等価形態では、第
   一の形態のように、すぐさま・使用価値の姿のままに価値形態とされ、直接
   的交換可能性を認められているのではなく、価値体として等価物の役立ちを
   する限りにおいて、この「特殊的等価形態」を受け取っています。>

   <右辺の商品が「特殊的等価形態」なのですから、この形態では商品世界と
   いう共通性がないのは明らかです。しかし、このようなことを題材とするこ
   と事態が不可能なことですし、商品世界は、展開された相対的価値形態にお
   いて形成されています。

   さて無限なように、商品世界を構成する展開された相対的価値形態を転倒し
   たに過ぎない一般的相対的価値形態と理解するのは、カウッツキー・スター
   リン経済学の伝統的理解であって、そうではなく個別的に、無限に20エレの
   リンネル=一着の上着・20エレのリンネル=10ポンドの茶を転倒させたの
   が、「価値形態の変化した性格」としての、この第一段落に説明されたのが、
   次のことです。

   「いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、と
   いうのは、ただひとつの商品で表しているからであり、そして(2)統一的
   に表している、というのは同じ商品で表しているからである。
   諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。」
   (同上 国民文庫P123 原P79)
   このように、第一に、一般的相対的価値形態ではなく、一般的価値形態がこ
   こで論じている対象であり、そのことの明示は、5段落よりも6段落にてこう
   述べられていた。

   「・・・諸商品の価値対象性は、・・・ただ諸商品の全面的な社会的関係に
   よってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に
   認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのであ
   る。」(同上P125~126 原P80~81)
   このように、まず展開された相対的価値形態の次に論じられたのが、一般的
   価値形態であって、両極の価値形態ではないのですから、後者の理解を示し
   たのは、カウッツキーの伝統的理解への批判をしなかったからなのです。

単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表現されて、従って相対的価値形態にある商
品同士の社会性がひと目で明らかになる。そういう意味でこの一般的な価値形態は商品世界の
共同事業として成立する、ということを特徴としてマルクスは述べているのです。

   ここではーー未だに、「単一の等価形態をとった場合にはそれが統一的に表
   現されて、」その対極に一般的な価値形態の形成があるなどとは表現されて
   いないのです。これは榎原さんの読み違えです。

   ここでの問題にされているのは、第三のこの形態を形成する第一段として、
   一般的価値形態があるので、次のように回答が導かれていました。

   六段落
   「・・・・・・・・・・・・・・・・それに対して一般的価値形態は商品世
   界の共同の仕事として発生する。商品が一般的な価値表現を獲得するのは、
   全ての他の商品が同時にそれらの価値を同じ等価物で表現し、新たに登場す
   る商品種類の各々もそれらの真似をしなければならないからである。
   そのこととともに、商品の価値対象的性はこの物がもつ単なる“社会的定在
   (=現実の存在におけるこの物の社会性?訳者)”であり、<81>その全面的
   な社会的関係を通してだけ表現され得るのであるから、価値対象性の形態も
   社会的に認められるものでなければならないのだ、ということが明らかにな
   る。」
      http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
      私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品


ここで注意すべき問題は、こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう
事かというと、商品世界の共同事業として成立している。言い換えれば他の全ての商品所有者
が、単一の商品で自分の商品の価値を表現する。そういう働きかけの結果一つの商品が等価形
態に置かれる、ということです。

   <ここで、物象の社会関係の形成ーーとの思考がなくては次の事態の意味は
   何一つとして理解できないであろう。

   「それに対して一般的価値形態は商品世界の共同の仕事として発生する。」
   ーーとは、この榎原さんの述べるように、
   「こういう等価形態が単一のものになってしまうと、それはどういう事かと
   いうと、商品世界の共同事業として成立している。」(上記)ーーと表され
   ていることなのか?
   榎原さんのここでの一般的価値形態・成立の理解が、一般的等価形態成立の
   なかで語られているーーとの理解は正しいのであろうか?

   なるほど、第一の形態も第二の形態でも等価物上着であり、等価物茶・小麦
   などがリンネルの価値形態となっていた。しかし、この第三の形態では等価
   物リンネルは、商品世界からの排除を受けることで、左辺にある「商品世界
   の価値を表現」しているので、価値形態(一般的価値形態)を受け取るのは、
   右辺ではなく、左辺の「商品世界」の商品群であって、物象の社会関係の第
   三形態への成長転化によって、これらの一大転倒がもたらされ、<商品世界
   ・物象世界>が「一般的価値形態」として、一つの土台を形成したのです。
   このように、一般的相対的価値形態の成立の前に、商品世界の形成がなされ
   ているーーことを以上の展開にて説明されているのです。>

   <榎原さんは一般的等価形態の成立のなかで、一般的価値形態が成立と考え
   たのだが、逆に、一般的相対的価値形態の成立を前提にそのことを語る見解
   を検討してみるーーとここでの問題性がどこにあるのか?はっきりする。>



http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/bce544784ff023e39fa7ea4910a2a415
第29回「『資本論』を読む会」の報告

(ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるから
こそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商
品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてく
るのである。〉

   上記をーー英明な堺の資本論を読む会にして、次のように理解している。

(ト) こうして、諸商品の価値対象性は、これらの商品の純粋に「社会的な定在」であり、だか
らそれら諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるということ、よって諸商品の
価値形態はただ社会的に認められた形態でなければならないとういことが、この一般的相対的
価値形態においては明瞭に現われているのです。
ここで学習会では「社会的な定在」というのがわざわざ鍵括弧に入っているが、そもそも
「社会的な定在」というのは、どういうものなのかが問題になりました。価値形態の最初のと
ころでも(第三節の前文)、〈商品の価値対象性は純粋に社会的なものである〉との記述が見
られましたが、そもそも「社会的なものである」というのはどういうことでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その意味では、一般的相対的価値形態はこうした価値の社会的性格をもっとも明瞭に現わして
いるものだと言えると思います。

   <「この一般的相対的価値形態においては明瞭に現われている」
   ーーと、自明極まりないことのように、主題が「一般的価値形態」であるの
   に、変更しているのです。何故なのか?
   この6段落に対して、続く8段落を、一般的相対的価値形態の形成であるのに、
   その逆に、一般的等価形態の形成と誤読するためなのです。
   その誤読ーー転倒ぶりは次に照らせば明らかです。
   構成された前提として、両極の形態が前提されており、次の獲得事項を無視
   したためです。
   ①第一の形態での価値形態を内実とすることで、右辺の上着は価値表現の材
   料となる相対的価値形態の形成
   ②右辺の上着が直接的に価値形態になることで、その使用価値の姿のままに
   価値表現の材料となることでの等価形態の形成
   ーーこの手本とすべき論理を無視し、視野外におくためなのです。
   ここでは明瞭に、一般的価値形態の形成が如何にして成され、そのことでど
   のように、一般的相対的価値形態の形成がなされるのか?
   ーーこの論理をこそーーここに見出さなければならないのです。>

   <注意すべきは、この「一 価値形態の変化した性格」では今だに、註24
   に示された、対立的にのみ一般的な相対的価値形態と等価形態が形成される
   ーーとのプルードン批判は提示されていないのです。

   それは次節の
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」にて論じられており、その
   課題を準備するものとしてここに、マルクスは語っているのです。商品世界
   からの一商品リンネルの排除は、まず①一般的価値形態の成立がなされてい
   る事を六段落にて示し、②一般的相対的価値形態の成立をこの八段落にて語
   り、③その結論を、次の最後の九段落にてこう提示しているのです。

   「一般的な価値形態、すなわち諸労働生産物を差異のない人間労働のゼリーと
   して表すこの形態は、独自の諸原因によって、この形態が商品世界を社会的
   に表現する物であることを示す。労働の一般的に人間的な性格が、この世界
   では、特殊な社会的性格をかたちづくっていることを一般的価値形態は明ら
   かにしているのである。」(前原訳 原P81)

   したがって、以上から、このまず一般的価値形態が商品世界にて形成された
   経過をこそ、この判読しがたき八段落にて語っているのは明らかです。>


ですから62頁の上段真中あたりから後に書かれている箇所を見ましょう。

「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価商品たる亜麻布に、一
般的な等価という性格をおしつける。」

この一般的な等価物は、例えば金などの特定の商品に社会的習慣によって固定されると次の貨
幣形態になる。普通の一般的な常識としては貨幣に価値があるから他の商品の価値を貨幣で表
現するのだ、と考えがちです。 けれども、一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、
貨幣商品が作り出したわけではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けてい
るのだと言っている点です。これに注目する必要があると思うのです。


   <一般的な等価という貨幣の置かれている位置は、貨幣商品が作り出したわ
   けではなくて、他の全ての商品が貨幣にそういう性格を押し付けている>

   ーーここでの8段落他の全ての商品が貨幣<商品世界から排除された等価商品
   たる亜麻布>にそういう性格を押し付けることで、一般的等価形態が形成され
   たーーのではなく、リンネルに「一般的等価物という性格」を押しつけた、と
   書かれています。「一般的等価形態」の形成が、この第一節で述べられている
   のではなく、それは第二節にて次のように述べられています。

   榎原さんの論じている「一 価値形態の変化した性格」の次の、
   「二 相対的価値形態と等価形態との発展関係」での六段落にて、その事が主
   張されますが、榎原さんとは逆に、「商品世界に一般的社会的な相対的価値形
   態を与えるのであるが、それは、ただひとつの例外を除いて、商品世界に属す
   る全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりの
   ことである。」(原P82 国民文庫P128)ーー
   このように「一般的等価形態」は、その反対極の反省規定としてのみ成立、す
   ることの特異性、をこそがここに述べています。

   話が、前の節の当該8段落だけではなく、6~9段落の流れから、そこの記述
   を検討すると、次の事柄が了解できる。
   ①6段落では「諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならな
   いことが明瞭に現れてくるのである。」とあり、その論証を求めて、
   ②7段落では、この第三形態の独自性が、「リンネルに等しいものとの形態」
   で第二形態との相違が語られ、リンネルとの比較だけではなく商品群内での
   比較が語られる転身のなかで、やっと労働時間を価値尺度とすることができる
   ことが述べられ、
   ③8段落では、第一と第二の形態では、相対的価値形態のそれぞれの形態にお
   いて右辺の等価物上着等々は媒介的に、その次には商品世界で個別的に、直接
   的に価値形態を受け取るも、この第三形態では、リンネルは、商品世界の
   「共通な価値姿態」として存在することで、、商品群の一般的価値形態を反省
   規定していると述べています。
   この関係を説明するのが、「織布を人間労働一般の現象形態」にすることで、
   「このようにして、商品価値に対象化されている労働は、・・この労働はいっ
   さいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支
   出に、還元されたものである。」ーーと②を再表明したのです。



   堺の研究会が依拠した初版での当該箇所の次の①引用しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/cbfdd499d51716e18876252e79869820
《初版本文》
①二段落ーー
「 形態 Ⅱ において、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコー
ヒー,または=v量の茶,または=x量の鉄,等々 において、リンネルは自分の相対的価値
表現を発展させているのであるが、この形態 Ⅱ では、リンネルは、一つの特殊的な等価物と
しての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろ
の等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいして
は、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認
められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特
殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれてい
るところの形態 Ⅲ にあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形
態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や
科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれら
のほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているか
のようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、
このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。だから、リン
ネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価
物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的
な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけであ
る。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な
実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。」

②三段落ーー
「商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、
この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであっ
た。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別
の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価
値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさ
にそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織
りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうで
もよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかった
し、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。

リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使
用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、

   すべての他商品の一般的な価値形態になり、
   したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間
労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認めら
れているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や
鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に
規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。

逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現
(形態 Ⅱ )にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。」
(江夏訳48-49頁)
   研究会では、上記の①が検討されるも、この初版の②三段落の記述は、取り上
   げられてはいない。
   「リンネルが一般的な等価物になると、・」ーー般的等価形態になるではなく
   「すべての他商品の一般的な価値形態になり、」
   ーーとの記述は無視されている。
   初版と再版の論理は、おなじであり、一般的価値形態が形成されることで、
   等価形態ではなく、一般的相対的価値形態が形成されるーーのです。

   更に初版附録にて、「第二節 等価形態の変貌した姿」について、その次の
   「第三節 相対的価値形態と等価形態の斉一な展開過程」にてこう述べている。
   「最後に、商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し、またその商
   品において全ての他の商品がそれぞれの価値を価値を共同で表現することによ
   って、統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与えるのである。
   このような回り道を通って、排除された商品は一般的等価物になる、または等
   価形態は一般的等価形態になる。」 (初版附録 P353 今村訳)
   ーーこのように、
   A「商品世界はただひとつの商品種類を自分の外に排除し」
   B一般的価値形態が商品世界として形成されることで、
   C「統一的で一般的な相対的価値形態を自分に与える」
   D「このような回り道を通って、排除された商品は、・・・
     一般的等価形態になる」
   Eだから、一般的に直接的交換可能性の形態は、第一、第二とは異なって、
    榎原さんの示すように、直接的にではなく、
    一般的な相対的価値形態を、<商品世界からの等価物リンネルの排除>とい
    う「回り道」において形成されたのですから、この「第二節」での「等価形
    態の変貌した姿」は、残像であります。なんと、初版附録の記述は明快です。

   ④9段落にて、以上6・7・8段落をまとめてーー
   「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、
   それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示してい
   る。」ーーことで、自明なように私達が、商品価値の大きさを労働時間で示す、
   事にて価値を表示・比較できる商品世界=一般的価値形態が形成されている・
   のです。>


 この場合に亜麻布は等価物ですから、等価物は簡単な価値形態の等価形態の所で見た具体的
労働が抽象的人間労働の現実化したものになる、ということはここでもなされる。これが単に
一つの商品、一つの相対的価値形態の商品からなされ、そうして一つの商品の価値を表現する
ということだけではなくて、自分以外のあらゆる商品がその商品で価値を表現する。ですから
この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認められる、ということ
になるのです。

   <杉本ーー
   「この抽象的人間労働の実現形態であるということが一般的、社会的に認め
   られる、」ーーに対して
   <「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形
   態は、>ーーと比較するならば、
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーーことが理解できなか
   った、のです。
   第一の形態でのように、等価物上着がリンネル価値の現象形態として役立つ
   ことが、価値形態上着として成立する左極の反省規定ーーとは異なって、
   商品世界から等価物リンネルが、排除されていることで、一般的価値形態が
   成立し、一般的相対的価値形態が成立するこの「回り道」をへて、やっと、
   また浮上した商品世界からの等価物リンネルの排除がなされているのです。>




簡単な価値形態、例えば先程でしたら亜麻布と上着という関係で、
上着が抽象的人間労働の体化物とされているということを見ましたが、
今度は亜麻布だけではなくてコーヒーからもそうですし、鉄からもそうですし、
茶からもそうされる。

   <杉本ーー
   そして第一の形態とは、「簡単な価値形態」のことではなく、上着が価値形
   態を受け取り、リンネル価値の価値表現の材料として役立つ、第一の相対的
   価値形態であり、等価物上着を直接的に価値形態とす等価形態なのです。>

   <第三の形態ではーー
   「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商
   品、亜麻布に一般的等価物の印を刻み付ける。
   亜麻布独自の自然形態はこの世界共同の価値の像(かたち)になり、したが
   って亜麻布は全ての他の商品と直接に交換可能になる。
   ・・・・・略・・・・・
   一般的価値形態を構成する無数の等式は、亜麻布に実現されている労働を
   次々他の商品に含まれる労働の各々に等置し、そうすることで織布を人間労
   働一般の一般的現象形態とする。商品価値として対象的に表れる労働は、消
   極的に、すなわちあらゆる具体的な諸形態と有用な諸性質が捨象された現実
   の労働として表現されるだけではない。それ自身の積極的なNatur 本質もは
   っきりと現れてくる。商品価値として対象的に表れる諸労働は、人間労働と
   いう共通な性格、すなわち人間の労働能力の支出に還元された現実の労働で
   ある。」(前原訳 原P81)

そうすると抽象的人間労働の化身であるということが一般化され、次に社会化される。
そういう意味でこれは一般的な価値形態だと言われているのです。

   杉本
   <この第三形態では、リンネルは、商品世界の「共通な価値姿態」として存
   在することで、>上記の一般的価値形態を受け取るーー
   この反省規定、をこそ注意すべきと思えます。
   この一般的価値形態を成立させる商品世界の共同行為が、一般的な相対的価
   値形態を成立させる、ことが、通常の訳では、等価形態の成立になっていま
   す。

   <82>「一商品の単純なあるいは個別的な相対的価値形態は一つの他の商品を
  einzelne Äquivalent 個別的な等価物にする。相対的価値の展開された
   形態、全ての他の商品でのこの一商品の価値表現は、それらの商品に様々な
   種類の特殊な等価物の印を付ける。最後に、一つの特殊な種類の商品が一般
   的価値形態を獲得する。なぜなら、全ての他の商品がこの特殊な商品をそれ
   らの統一的な、一般的な価値形態にするからである。」(前原訳 原P82)

   <紹介したーー初版附録の記述は、全くこの意味ですね。
    前原さんの訳の正しさがここに証明されたのです。拍手!!!
    私もこの作業のなかで、やっと・やっと見つけたのです。>

   【2】「一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
   個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の
   商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特
   殊的等価物という形態を刻印する。 最後に、ある特別な商品種類が一般的
   等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種
   類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。」
    (国民文庫 岡崎訳 P127)



けれども、こういうように第三の価値形態ですね、一般的な価値形態をそういうように読みま
すと、全ての様々な労働が人間的労働というそれらの共通な性格へ還元されている、というこ
とが分かるという意味です。

ですから様々な労働が亜麻布で価値を表現する、という形だけを見ても別に現実的諸労働への
共通な性格への還元、ということは読み取れない。むしろこれを価値の表現の形式というよう
に見て、価値の表現、要するに抽象的人間労働相互の関係です。

その関係がここにあるという商品語を読み取った上で、こういう全ての現実的諸労働が人間労
働という共通な性格へと還元されている、そういう形がここで現われている、ということが分
かる。


ですからここでも諸商品の価値が抽象的人間労働である、という事が何か明示的にパッと表現
されている、ということではあり得ない。そういう事だと思うのです。

後、この一般的価値形態から貨幣形態への移行という箇所があり、この移行の箇所でも移行の
論理という点に注目して見てみます。この一般的価値形態を取るのはどの商品でも取り得る。

ですから一般的価値形態というものは貨幣形態とは違うわけですけれども、貨幣形態の場合は
等価形態にある商品が単一の商品になり、その他の商品が等価形態になることを排除する、と
いう関係です。それは社会的な習慣によってそうなる、とマルクスは言っています。

そうするとこれは移行の論理としては、一般的価値形態に内属する論理によって貨幣形態へ移
行する、というようには言えないのではないか。つまり金が貨幣にされるということは、社会
的な習慣などの価値形態以外の様々な要素です。そこからの働きかけ、ということを見逃せな
いのではないか。そのような話をしているうちに、価値形態の発展の話に半分くらいは入って
いるわけですけれども、いよいよその問題へと移って行きたいと思うのです。


 

 資本論再版での「廻り道」を巡っての久留間説への批判

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月21日(月)13時02分30秒
返信・引用 編集済
   この「廻り道」の現行版での提起は、初版とは異なるものであり、相対的価値形態の形
成での、リンネルの価値形態上着へと辿っていく第一の出発点であります。
 事態の進行のなかで、上着が価値として等置される第七段落の前に、第三・五段落での
解決事項が存在しており、そこでは、上着は価値の存在形態であり、価値物として規定さ
れており、そして、その反対極での価値を織り出すリンネル労働は、抽象的人間労働と規
定されています。この反対極へと回らず、自極のままであった、裁縫労働は、人間労働と
規定されています。

 このような価値形態論の③・⑤段落をまず記載しておきます。

  「③だが量的.に等置されている二つの商品が同じ役割を演じているのではな
  い。亜麻布の価値だけが表現されるのである。ではどのようにしてか?
   亜麻布が自身の「等価物」である上着に対し関係することによって、または自
  身と「交換可能な物」である上着と関係することによってである。
  この関係において上着は価値の存在形態、価値物として通用する。というのは、
  そのようなものとして上着は亜麻布と同じだからである。
  他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立した
  表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつものであ
  る上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだか
  らである。」

  「⑤例えば価値物としての上着が亜麻布に等置されることによって、上着のなか
  に隠れている労働が亜麻布のなかに隠れている労働と等置される。確かに上着を
  つくる裁縫は亜麻布を作る織布とは違う種類の具体的労働ではある。が、織布と
  の等置は裁縫を事実上両方の労働において作用している同じものに、人間労働と
  いうそれらに共通の性格に還元する。
  そしてこの回り道を通って次のことが示されるのである
  : 織布もそれが価値を織る限りではなんら裁縫と区別する特徴をもつものでは
  ない、つまり抽象的な人間労働である。
  種類の違う諸商品の等価表現こそが価値形成労働の特殊な性格を現象させるので
  ある。なぜならこの性格は種類の違う諸商品のなかに隠れている種類の違う諸労
  働を事実上それらの共通のものに、すなわち人間労働一般に還元するからである
  17a。」

   http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf
   私家版『資本論』翻訳 第1巻第1篇第1章 商品
   からの引用であります。

 ここでのリンネルと上着との抽象のされ方は異なるものですが、そんなことなどどう
でも良かろうーーというのが今日の価値形態論解読の通説になっています。その代表が久
留間説であります。その事柄を紹介してみます。

  「そこで彼は、この簡単な価値形態を分析することによって、価値表現の根本の
  秘密を形成するいわゆる「回り道」を発見したのであるが、それはどういうこと
  かというと、たとえば 20エレのリンネル・イコール1枚の上衣 というとき、
  20エレのリンネルの価値は1枚の上衣という形で表現されているのであるが、
  そういうことが行われうるためには、上衣そのものが価値の定在に、いわば価値
  物になっていなければならぬ。そうでなければ、物としての上衣の分量が価値の
  大きさをあらわすことはできないはずである。
  ーーーー略ーーーー
  上衣を作る労働、これはもちろん、直接には特殊な具体的労働であって、抽象的
  な労働ではない、上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに
  等置されると、それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労
  働に等置されることになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元されるこ
  とになる。

  と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
  ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
  上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
  じめて自分の価値を表現するのである。」
   (『価値形態論と交換過程論』P7~8)

    (広島「資本論」を読む会)のホームページからお借りしました。
    http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2

 まず第一の反対論を挙げてみよう。
 上着が価値物としてリンネルに等置されることと、上着が価値の定在=価値存在とさ
れることとは、異なったことです。リンネルが価値存在とされるから、上着は価値の存在
形態として規定されます。これが質的側面であり、価値の大きさを表す」というのは全く
の誤りです。量的側面でこの質的側面を前提に、一定量の価値としてリンネルが上着に等
置されることで、その量的側面である交換比率が示され、そして上着の価値体で価値表現
がなされます。

 第二に、またその質的側面では、価値物として上着がリンネルに等置されることで、価
値の存在形態である上着の性格が回り道を経ることで現出してきます。
この回り道を経過することで上着は人間労働一般として規定されて、リンネルは抽象的人
間労働と規定されています。

 第三に、ここでの久留間さんの誤りは、マルクスのこの回り道を否定していることであ
ります。これまで批判者が何故か触れない誤りです。
  「上衣を作るのは裁縫労働なのだが、上衣がたとえばリンネルに等置されると、
  それによって、上衣をつくる裁縫労働はリンネルをつくる織布労働に等置される
  ことになり、両者の間に共通な、抽象的人間労働に還元される」(久留間)
ここで、「上着がひとつの価値である」(七段落)ことが前提になっていれば、久留間さ
んの見解は正しいのですが、しかし、この五段落では上着は価値物としてリンネルに等置
されることで、裁縫労働は人間労働一般に還元されていたのです。

 第四に、よくよくと考えてみれば、久留間さんの理解するように裁縫労働が抽象的人間
労働に還元されるならば、この「回り道」で提言されたことは全くの不要な事にされてし
まいます。何故ならーーリンネルが抽象的人間労働のの凝固である価値として上着に等置
されるからです。(しかし、それでは商品関係は既定済みであり、形成されません)
 次の六・七段落で何がーー提示されていたのかであります。
 なるほど、久留間さんの述べるようにこの五段落でのリンネル織り労働が価値を織り出
すことが、右辺の裁縫労働においても価値を縫い上げる労働になっているのではないかと
誰しも考えてしまいます。その疑問の解決を目指したのが、この六・七段落であります。

 第五 そこで、次に上着が価値物ではなく価値ーーという規定にあることを明示した
⑥・⑦段落の提示であります。

  「⑥にもかかわらず、亜麻布の価値がそこから生じている労働の特殊な性格を表
  現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力または人間労働は価
  値を形成する、が、それは価値ではない。それらは凝固した状態、すなわち対象
  的な形態において価値になるのである。亜麻布を人間労働の凝固物として表現す
  るには、その人間労働が亜麻布自身と物的に異なり、そして同時にその労働が別
  の商品にも共通する一つの「対象的なもの」として表現されなければならない。」

  「⑦亜麻布の価値関係のなかで上着が亜麻布と質的に同じもの、すなわち同じ性
  質を有する物として通用するのは上着が一つの価値だからである。」
六段落を経た七段落にて、「上着が一つの価値である」と示されていることは、上着が
直接的に価値であるーーのではなく、このような回り道をしての成果なのです。
この六・七段落の考察を経てみると、五段落にて左極でリンネル織りを価値を織り出す抽
象的労働としてのみ規定し、右極については人間労働一般と規定したのは、この反省規定
=物象の判断の特異性・特徴であることを私達が探りだすーー能動的主体的な営みが要求
される、マルクスが「どうしてですか?」との質問を我々にしているからなのです。
私達自身の主体的営みにおいての返辞・回答が要求されているのです。

 そこで左辺の抽象的人間労働として規定されているリンネル織労働が、凝固しているも
のとして認められるのは、個別の物的なものとしてではなく両極の価値関係を構成してい
る商品として、右辺に対する商品との共通性とは何か?との質問を発するーーことで、そ
れは価値である、との回答をしているのです。

 私達は無意識のうちにこの回答を物象の判断に従って成しているのです。
この上着は価値であるとの判断を受けてのみ、この三段落での提起が論証されたのです。

  「他方では亜麻布自身の価値存在が現象している、あるいはそれが一つの独立し
  た表現を獲得している。なぜなら価値としてのみ亜麻布は同じ価値をもつもので
  ある上着に、もしくは亜麻布自身と交換可能な物である上着に関係しているのだ
  からである。」(三段落)

そして、この論議を経てのみ、五段落での右辺のの裁縫労働が人間労働一般の支出であっ
たものが、やっと今度・七段落にて抽象的人間労働の凝固物として、価値として規定され
たのです。そして、やっと、この「亜麻布自身の価値存在が現象している」場面に到着す
ることで、価値物上着の規定を脱する地点に到着したのです。
 このように全く回りくどいことをマルクスが述べているのは、物象の登場・判断の有り
様を人々がたどれるように、彼が我々に質問を発しているからなのです。
この「価値物」、交換されることで商品となる初期の規定であることは、大谷先生が明示。


 第六 さて、その次の八・九段落です。

  「⑧実際に上着の生産では裁縫という形態で人間の労働力が支出される。すなわ
  ち上着に積み上げられているのは人間の労働である。この側面において上着は、
  たとえそれが擦り切れて大きく開いた糸目のあいだからその本質そのものが顔を
  のぞかせているわけでないにしても、「価値の担い手」である。そして亜麻布の
  価値関係のなかで上着は将にこの側面によって、身体を与えられた価値、価値体
  として通用する。上着の無愛想な外見にもかかわらず、亜麻布は同じ種族がもつ
  美しい価値魂を上着に認めるのである。だが、同時に亜麻布に対して、価値が上
  着という形態を取ることがなければ、上着が亜麻布と向き合って価値を表現する
  ことはできない。(後略)」

  「⑨だから上着が亜麻布の等価物を構成する価値関係のなかでは、上着形態が価
  値形態として通用しているのである。すなわち商品亜麻布の価値が商品上着の身
  体で表現される、つまりは一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるので
  ある。
  使用価値としての亜麻布は感覚的には上着と異なる物であり、価値としての亜麻
  布は「上着と同じもの」であって、したがって一着の上着のように見えるのであ
  る。こうして亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲得するのである。
  亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。それはあたか
  も神の子羊との同一性において現われるキリスト教徒の羊という存在である。」

 さてと、久留間さんは、何故かこの⑧段落に対しては理解を示さず、⑨段落に対しての
み、自らの解釈を述べている。

  「このばあいよくよく注意しなければならないことは、 20エレのリンネル・
  イコール1枚の上衣 という価値表現の式においては、リンネルがいきなり、自
  分は上衣に等しいのだということによって、自分自身で価値の形態になっている
  のではなくて、上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態
  に─その自然形態がそのまま価値をあらわすものに─しているのだということ、
  そしてそうした上ではじめて、リンネルの価値が上衣の自然形態で、リンネル自
  身の使用価値から区別されて表示されているのだということである。これがマル
  クスのいわゆる価値表現の回り道なのである。」
  (『価値形態論と交換過程論』P-8)

 ここでの次のような理解が、⑧ではなく、⑨段落に対しての理解を述べたものであるこ
とはすぐ見て取れることであります。
  「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──その自然
  形態がそのまま価値をあらわすものに──している」(久留間)

再版ではーー
「亜麻布の価値存在はそれ自身と上着との同一性において現われる。」(同上)
対して向坂訳は、
「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、ちょうどキリスト者
の羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」(向坂訳P97)
ーーと述べられている。

 向坂訳に依拠すれば、この宗教的転倒批判が、<上着は価値としてリンネルに等しい>
との理解に対しても向けられているーーことが次のように理解できる。

「(亜麻布の)その価値たることが、上着との同一性の現れること、」ーーとの表現で、
マルクスは価値形態を「価値魂」批判において受け取る(⑧段落)事柄が、転倒してしま
い、肝心なことであるーー私達には亜麻布の価値存在の表現ではなく価値表現ーーとの誤
解を必然化していることがらの、注意書きをここにしているのです。

 リンネルの価値形態上着ーーとの規定があって、始めて相対的価値表現が可能であり、
そしてつぎに、(物象として)上着が価値表現の材料としての役立ちを行うことで、相対
的価値形態が成立するのですし、この前提事項である<価値形態上着>での物象の社会関
係の形成による価値関係の<上着は価値としてリンネルに等しい>という、同等性関係へ
の転倒批判をこそ、ここ⑧-⑨段落に述べているのです。

 従って、「上衣は自分に等しいのだということによって、上衣を価値の形態に──・・」
(久留間)しているのではなく、「上衣を価値の形態に」ーーすることでの宗教的転倒が、
「上衣は自分に等しいのだということによって、」との現象をもたらしている、と言うの
がマルクスの意図であります。

従って、久留間さんの主張は全くの誤りであり、次のーー
「だが、同時に亜麻布に対して、価値が上着という形態を取ることがなければ、上着が亜
麻布と向き合って価値を表現することはできない。」(⑧段落)
ーー事を批判するものであったのです。

 第七 この「価値が上着という形態を取る」ーーこの表現の意味は、何か?
その次の⑨段落にて、「上着形態は価値形態とされる。」、と明快に規定されている。
ここには「価値表現」の前提が述べられている。なるほど物象の登場による転倒した形態
においては、リンネルも上着も価値である同等性関係において、
あるいは<上着は価値としてリンネルに等しい>との、前者と同じ宗教的転倒を、生み出
しています。
 価値関係と同等性関係との混同をうみだす宗教的転倒が、この常識的見解を発生させた
のです。


 第八、価値物と価値体との混同
おっと、最後の久留間さんの記述への意見を忘れるところでした。

 「と同時に上衣は、こうした抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する
  ものになる。そういう形態規定性を与えられることになる。そこでリンネルは、
  上衣にそういう形態規定性を与えた上でそういうものとしての上衣の身体で、は
  じめて自分の価値を表現するのである。」(久留間)

 「抽象的人間労働の体化物、すなわち価値物を意味する」
ーー大谷先生が『貨幣論』にて、価値物と価値体の混同と久留間先生の誤りを指摘し、
彼もまたその指摘は正しいとして、訂正を認めたーー事柄でした。

 しかし、この訂正事項は、久留間説の根幹に関わることであって、価値形態論で、ーー
相対的価値形態の内実として価値形態上着があって、他商品リンネルの価値が表現される
ーーことができるのに、リカード経済学のそのままに、上着が価値であり、価値体である
ので、この上着によって価値表現がなされると理解していた、ことが暴露されたのでした。

  しかし、彼の誤りの原因は、
  このリカード経済学の誤りへの批判は理解しているにかかわらず、

  「そこでリンネルは、上衣にそういう形態規定性を与えた上で
  そういうものとしての上衣の身体で、はじめて自分の価値を表現する」

ーーことに示されるように、物象の社会関係の形成が、
「上衣にそういう形態規定性を与えた」ーー転倒した形態として、次を与えたと表明し、

  「リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては
  上着にそっくりそのままである、と言うのである。」(同上原P67)

ーーとの「商品語」で、価値物と価値の混同において、代弁し語っているーーのです。
久留間さんの<価値物と価値体の混同>は、そのことをこそ指したのです。

   このように、「商品語」への批判において、価値形態論を語らないと、
   価値形態上着が相対的価値形態を形成し、その反省規定として、
   上着が直接的に価値形態となることで、等価形態を形成するマルクスの立論は、
   対象外にされ、何ら理解されないのです。


(以上は、再版での記述に忠実な理解であり、だれでも真剣に取り組むならばたどり着く
見解ーー理解であります。この自明な理解をとどめて、混乱をのみ引き起こしてきたのは、
初版の見解をこの再版に持込み、自明な理解に異を唱え、再版との混同のなかで、
マルクスの説をかたることで、勝手に混乱を引き起こしてきたーー久留間さんの宇野批判
ーーであることが理解できます。しかし、再版 一般的価値形態でのマルクスの論述を検
討してみると、肝心のプルードン批判が、両極の形態からの、①一般的相対的価値形態
②一般的等価形態 の検討であり、①の反省規定として②が語られのですから、逆に、
②の反省規定としてもまた①が語られているのです。だから、②の等価形態を語っていて、
その反省規定として存在する①の一般的価値形態であり、一般的相対的価値形態のことも
そこに語っているのです。
この特異なマルクスの論法は、初版にて更に倍増しているのですから、初版の見解に依拠
して、宇野批判に取り組んだ久留間先生の論述は、多くの同様の人々の支持を集めるも、
価値形態論で宇野説を批判することは実をみのらせなかったのです。)
 

   商品語の批判ができなかった戦後の価値形態論争

 投稿者:杉本  投稿日:2017年 8月14日(月)09時17分2秒
返信・引用 編集済
   宇野ーー久留間論争を客観視してみよう。
 A 宇野先生は「価値論」と題した『宇野弘蔵著作集』のⅢ 「第二章 価値の形態」から
「1 商品の価値形態ーー簡単な価値形態」で、久留間さんとの議論を提示している。

  商品語を批判対象にしなかった、宇野先生と久留間先生との議論

 マルクスの初版と再版での価値形態論での大きな違いはなにかであります。
 初版では、物象の社会関係が、物と物との関係として登場することへの批判が登場するの
は、やっと等価形態の主張であり、その謎性の批判として登場することにおいてなのです。
 対して「商品語」批判として登場する物象の社会関係への批判として再版で提起されたの
は、「(a)相対的価値形態の内実」の第九段落での「キリスト教徒の羊的本性が、彼の、神
の子羊(キリスト)との同等性においての登場するのと同様である。」(資本論原P66 9段
落)と主張されたところであり、そしてその次の10段落であります。そこではこう主張され
ていました。

「労働は人間労働というその抽象的な本質において亜麻布自身の価値をなすのだと言う代わ
りに、亜麻布は、上着はそれが彼女と同一のものとして有効である、すなわち(上着も―訳
者)価値である限りでは、亜麻布と同じ労働からできているのだ、と言う。」
(資本論  原P66~67 10段落)

 しかし、この違いはなかなか認識されないので、この九段落を提示しました。

「だから上着が亜麻布の等価物を構成する価  「使用価値としての亜麻布は感覚的には上着
値関係のなかでは、上着形態が価値形態とし  と異なる物であり、価値としての亜麻布は
て通用しているのである。すなわち商品亜麻  「上着と同じもの」であって、したがって一
布の価値が商品上着の身体で表現される、つ  着の上着のように見えるのである。こうして
まりは一商品の価値が他の商品の使用価値で  亜麻布はその自然形態とは違う価値形態を獲
表現されるのである。」(同上 9段落)    得するのである。」(同上9段落 後半部)

 ここでは、「商品語」が、前段落での、商品語での価値形態の語りの転倒ーーに依るもので
あり、物象の関係による転倒した姿態ーー形態であると示しているのです。勿論左側の示した
ものこそ、転倒したものではないのです。この対比をこそマルクスは私達に要求しているので
す。左側の文からは①「価値関係のなかでは、上着形態が価値形態として通用している」ーー
に対して、右の文からは②「価値としての亜麻布は「上着と同じもの」であって、」ーーと示
される、この対比をこそ、この主体的な対比をこそ私達が成しえれば、右側の商品語による価
値形態の成立の理解では、左極の相対的価値形態の成立は不可能なのです。

 ところが宇野先生はこの転倒した価値形態の右側の有り様を次に述べるように、批判せず、
支持するのです。宇野先生は、彼の価値論論争をなしているこの一大論文の冒頭のなかに、彼
の久留間さんとの論争の立ち位置を明確にしており、価値形態論での商品語批判は必要でない
ばかりか、自ら支持していることを次に、明言しているのです。

 「・・・リンネル所有者は、リンネルの価値をリンネルと交換したいと思う他の商品、たと
えば上衣によって表現せざるを得ないのである。その場合上着なる商品はかれにとってはすで
にリンネルと同じ質のものとなっている。
 「使用価値としてはリンネルと上着とは感覚的に異なる二つのものであるが、価値としては
『上着に等しきものでありしたがってまた上着と同様に見える』のであって、リンネルの価値
は、上着においてその表現をあたえられることによって、その使用価値と分離した表現をうる
のである。」(宇野著作集 Ⅲ P291)

 今まで気づかなかった、商品語に賛成する宇野先生の最大の誤った解釈を主張した論文であ
り、両極の価値形態を交換過程論への解消を主張した論文であります。価値形態論への自らの
最大の衣拠点は、マルクスと違ってこの商品語賛成であることを明言したあと、その次に、
「a相対的価値形態の内実」の第三段落での事実上の抽象での「回り道」への批判として展開
されていきます。

 対しての久留間先生の対抗姿勢はどうであったのか?

 しかし、久留間先生の宇野説への批判は、「第一論点について、‥・だから価値形態論で商
品所有者の欲望が演じる役割が捨象されていると考えるのは間違っている、という主張につい
て」(『価値形態論と交換過程論』P49)では、この商品語への誤った主張は取り上げられな
かったのです。久留間先生は、この宇野説の出発点とした商品語賛成説への批判・その事柄へ
の根底的重要性を、見出せなかったのです。
 その根底性とは次のことであります。
 マルクスが価値形態論の冒頭・一段落において・主張しているのは、註17に示されるベイ
リーの「価値形態と価値とを混同」する説への批判であり、リカード経済学の交換割合説への
批判という課題をこそ明示しているのです。このベイリー・リカード説への批判を説諭してき
ても、この論理の最後になって、商品語によって「・・上着は‥・価値であるかぎり、亜麻布
が成り立つのと同じ労働から成り立っている、と」(資本論 原P66~67 10段落)ーーと
囁かれるならば、この転倒した商品語によっての価値形態論が提起されれば、
  <価値関係によって反省規定されることで形成された価値形態>
で商品価値が表現されるのに、同等性関係での価値形態の成立へと、転倒・解消されるので
す。

  だから、マルクスがリカード・ベーリ批判を価値形態論を解くことで成してきた
  「価値の存在形態」「リンネルの価値存在の現出」などは、
  a)リンネルの反省規定での「価値形態」上着などで語られるが、
  b)この肝心な価値形態成立も、この商品語で語られるときには、同等性関係に転
    倒されるのだから、それら全ては不要とされ、
  c)価値関係での反省規定も、相対的価値形態の反対極での等価形態の成立も為し
    得なくなってきます。
このような批判をこそーー久留間先生は、宇野説の
 <価値としては『上着に等しきものでありしたがってまた上着と同様に見える』>ことでの
 <「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れる」>転倒を認めないーーことが、
宗教的転倒と同じことが成されている事を批判できていないーーとして批判すべきであったの
です。
 ところが久留間先生は、この宇野先生の商品語賛成説に対して、
 ①等価形態での、右極での「価値表現のメカニズム」
 ②「このメカニズムに制約された価値表現の発展の必然的過程」(久留間P52)
  での解明による批判ーーを掲げたのです。
 この先生の主張は錯誤していますので、要注意です。
①等価形態でのこの「価値表現のメカニズム」と主張されているのは、相対的価値形態でのリ
ンネルの価値形態が上着と規定され成立するなかでの価値表現ではなく、等価形態での価値表
現だというのです。
(未完です)




 

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