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初版の7段落以降の解読を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年11月17日(土)11時30分39秒
返信・引用 編集済
    初版の7段落であり、それ以降の段落の記述は、はなはだ理解困難であり、
  相対的価値形態の成立と等価形態の両極が如何にして成立するのかをこそ
  問うものであります。その困難性を追ってみました。

⑦ー① 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
  それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。
  ①We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.

 ②商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
 ②If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.

 ③商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
 ③It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.

 ④同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。
 ④Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.

 ⑤商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。
 ⑤The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.

 ⑥他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。商品の唯一の客観的な形態は、その使用形態、それらの天然形態です。
  <ここは、リンネルの価値形態を獲得することだけではなく、その客観
  的存在として、リンネルの価値形態と規定されるときには、自ずと--
  使用価値とは区別される、左極での行い・物象のはたらき、判断がある
  --ことで、「商品形態」が成立してくる、ことへのつながりをこそこ
  こに述べています。>
 ⑥It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.

 ⑦製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。
 <英明な江夏訳にして 「価値形態」 の誤訳です。廻り道にて上着は商
  品形態を受けとることで、等価物の形態の形成に向かうのではなく、相
  対的価値形態の形成に向かうのです。>
 ⑦Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.
 ⑦独語 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,muss sie eine andere natürliche Form -die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.

 ⑧それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路
 (回り道)によってすぐにすることができます。
  それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、
  他の使用価値<another use-value or commodity-body>や商品体を
  直接価値として参照することができます。
  <今村訳-「価値存在としての使用価値」であり、しかし、江夏訳・
  今村訳の「価値存在」は原文に無し。
  自身のパソコン訳は、他の使用価値の翻訳が、ーー他の価値ーーとなっ
  ていて間違えていました。
  だから、この謎は、上着が右辺であることで直接的に、使用価値のまま
  に、価値形態であり、価値の規定を受け取れるのです。>

  <相対的価値表現において、左極にてリンネルが価値形態を受け、商品
  形態とる--ならばに示されるのは、そこでは二重の形態が示されるの
  で、この使用価値の形態が、どう反省規定をされているのか?この問い
  にて、右極にて、すぐさまこの使用価値の姿態のままに、価値形態の形
  態規定を受け取っており、その使用価値は、何らの媒介を経ずとも直接
  的に価値とされているのです。>

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もうすぐ4年になろうかという議論への回答ーーをここに示すことができました。

「ーーそのような回り道をとおって自己自身に対して行うのである。商品は、自分自身の体あるいは自分自身の使用価値において、価値を表現することはできないが、他の使用価値あるいは商品体を直接的な価値存在〔価値としての存在物―筆者補足〕とするように、自ら関係することはできるのである。」(訳p.41、原s.20)<初版7段落>

またここで言われている「直接的な価値存在」とは価値体を意味することも明らかでしょう。ここでいわれる「直接的な」とはその現物形態のままでという意味です。つまり感性的に把握しうる形態における価値存在だということになります。商品とはそもそも使用価値と価値という対立物の直接的統一という意味での二重物であり、価値関係の前提としてはその価値存在は潜在的=抽象的なものでしかありません。まさに「思考物」でしかないのです。それが交換関係によって他の商品を等価物とすることによって、自らの価値存在に感性的=現実的な形態を与えることによって、商品へと現実的に生成するのです。

  https://8918.teacup.com/rev21/bbs/899
 簡単な価値形態の各版比較研究( 2)  投稿者:hirohiro
 投稿日:2015年 2月22日(日)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ⑧A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.

   <左極にて価値形態を受けとる--とは?次でありました。>
  「・ところが諸商品は物<象>である。諸商品がそれであるところのも
  の、諸商品は物<象>的にそういうものでなければならない。言い換え
  れば、諸商品自身の物<象>的な諸関係のなかでそういうものであるこ
  とを示さなければならない。リンネルの生産においては一定量の人間労
  働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労
  働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、上着にたい
  するリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、
  上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚
  的な表現を得るのである。リンネルが上着を価値としては自分に等置し
  ていながら、他方同時に使用価値としては上着とは区別されているとい
  うことによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値の
  現象<出現>形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価
  値形態となるのである(18)。」(『初版』国民文庫46-7頁 原P17)

  <このように、『初版』では価値関係ーー物象の社会関係であり、上着
  と関係するリンネルへの物象の判断が、リンネルの価値形態であり、そ
  こで、上着は使用価値との判断を受け取ったのです。
  次に、上着はリンネルの価値形態を受け取っているが、それは二輪での
  前輪であリ、表面であるが、等価物の役割をしている
  --後輪である裏面は--どうなっていきますか?との論理の整理を、
  これからやりましょう・・と我々読者に呼びかけています。>

 ⑨それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。
 ⑨but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.

 ⑩商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。
 ⑩The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.

 ⑪But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察
  すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがって
  また、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>

   ところが、英語版からの訳は、次なのです。
 ⑪しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、
  価値形態の謎<the mystery of value form,>を発見し[2]、
  ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>
    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
    「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値表現の形式的内容を見落としていることは驚く
     ことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形
     態」が内実とされることで、価値表現がされるということです。
     既存訳は、正解なのです。>

   <杉本 これまでどうにも著者の意図がつかめないでいたのだが、上記の
    7段落、即ち、この⑦ーー⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫段落と、何度も繰り返し、
    両極の価値形態、相対的価値形態と等価形態の説明をば、筆者は示して
    いるのです。
    この意図をば、私達は、両極の価値形態は<常識としての前提>として、
    これまで、何とも恥ずかしいことに、ここに、見出せず、無視してきた
    のだから、大いに反省し、注目する必要があります。>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  この大切な7段落、その英訳を提示しておこう。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ぐーぐるほんやく
  https://translate.google.co.jp/?hl=ja

The Commodity
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
Marx 1867 (Hauptstadt)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ⑦ー①We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form. It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value. If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa. These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate. It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity. The use-value or commodity-body is here playing a new role. It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite. Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour. Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.

However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.

The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value, product of useful labour and abstract coagulate of labour. In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form. It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form. It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities. But its value-form has then to be itself an objective form. The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.

 ②Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ? the natural form of another commodity ? into its commodity form. A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.

It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value. It can relate itself not to the concrete labour contained in itself, but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract human labour.

For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent. The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.

If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.

But if one considers the value relation of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
   <資本論初版 原P20>
 ⑦ー①私たちは、価値形態の理解を妨げているすべての難点の飛び降り点にここに立っています。
    ・・・・
 <value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]>
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  <ここでの論理は、初版附録での次の論理と、全く同じなのです。>

  §8. Simple relative value-form and singular equivalent-form
  シンプルな相対価値形態と単一の等価形態

The expression of value in the coat gives the linen a value-form by virtue of which it is distinguished simply as value from itself as use-value. This form also puts it only in relation to the coat, i.e. to some single type of commodity different from itself.
コートでの価値表現は、リネンに価値形態を与えます。
それによって、それは単なる価値として、使用価値から区別される価値になります。
したがって、その価値形態は、それを他のすべての商品に対する質的な平等と量的な比例関係の関係に置く形式でなければならない。 または価値が表現される商品は、ここでは単数としてのみ機能します。

But as value it is the same as all other commodities. Its value-form must hence also be a form which puts it into a relation of qualitative equality and quantitative proportionality to all other commodities to the simple relative value-form of a commodity corresponds the singular equivalent-form of another commodity. Or the commodity, in which value is expressed, functions here only as singular equivalent. Thus the coat in the relative expression of value of linen possesses only the equivalent-form or the form of immediate exchangeability with relation to this single type of commodity, linen.
しかし、それは価値<as value it is> として、他のすべての商品と同じです。
したがって、その価値形態は、それを他のすべての商品に対する質的な平等と量的な比例関係の関係に置くのであり、単純な相対的値形態でなければならない。 または価値が表現される商品は、ここでは単数としてのみ機能します。

したがって、リネン価値の相対的な表現のコートは、この単一のタイプの商品であるリネンと同等の形態または即時の交換可能な形態を有する。

 初版 付録
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/appendix.htm

<原P776ー777  江夏訳P896ー897>

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
原P21
⑧ー①私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明
  らかにしました。
  ②リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。
  ③それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値
  として明示します。
  ④他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコート
  は、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
  ⑤両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態
  (等価形態)は、交換価値の形式です。
  ⑥両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル
  (お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品
  極の間の極のように分けられます。
⑧ー①Our analysis has revealed that the relative value-expression of a commodity includes two different value forms.
② The linen expresses its value and its determinate amount of value in the coat.
③It manifests its value in the value-relation to another commodity,and hence as exchange-value.
④ On the other hand, the other commodity, the coat in which it expresses its value in a relative way, obtains precisely in that way the form of a use-value as an equivalent which is immediately exchangeable with it.
⑤Both forms, the relative value-form of the one commodity,equivalent form of the other, are forms of exchange-value.
⑥Both are actually only vectors ? determinations conditioned reciprocally by each other of the same relative value-expression, but divided like poles between the two commodity-extremes which have been set equal.
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  https://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/9ee7c967bc4429b844b8cfde5456efa4?fm=entry_awp
  https://8918.teacup.com/rev21/bbs/491
    <初版 国民文庫訳から 9・10段落>
 《量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。
  <たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きざの規定から生ずるのである。

リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。

いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの一エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。

これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。

 この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式 20エレのリンネル=一着の上着 または 20エレのリンネルは,一着の上着に値する は、明らかに、同じ等式 一着の上着=20エレのリンネル または 一着の上着は二〇エレのリンネルに値する を含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。》(初版国民文庫53-4頁)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

⑨ー①定量的決定は商品の同等<等価>形態には含まれない。
  ②(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態、
  すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による
  価値量の決定から生じる。
  ③リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連す
  ることによって、コートで独自の価値を表すことができます。
  ④この場合コート値の変化では、この関係も変化します。
  ⑤しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければ
  ならず、それは所与のコート<上着価値>のみ形成することができる。
   --注意!!!<上着価値>のみ形成する、のです。--
   --再版、註⑱の事項・⑪段落、上着は価値との規定は相対的価値形態にて。
  ⑥さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、
  (この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、
  その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。
  ⑦商品の価値量は、他の商品の使用価値においてのみ、相対価値として表現す
  ることしかできません。
  ⑧商品はただちに交換可能な使用価値の形態をとるだけです
  (これは「同等物」の意味です)。
  一方、他の商品の価値が表現されている素材としてのみあります。
⑨ー①Quantitative determinacy is not included in the equivalent-form of a commodity.
②The determinate relationship (e.g., in which coat is the equivalent of linen) does not flow from its equivalent-form,
the form of its immediate exchangeability with linen,but from the determination of the amount of value by labour-time.
③The linen is only able to represent its own value in coats,by relating itself to a determinate coat-quantum asa given
quantum of crystallized human labour.
④If the coat-value changes, then this relationship also changes.
⑤ But in order that relative value of linen may change,it has to be present, and it can only be formed upon givencoat-value.
⑥ Now, whether the linen represents its own value in 1, 2 or x coats depends (under this presupposition) completely upon the
amount of value of a yard of linen and the number of yards whose value is supposed to be manifested in the form of coats.
⑦The amount of value of a commodity can only express it in the use-value of another commodity as relative value.
⑧A commodity only obtains the form of an immediately exchangeable use-value (which is what is meant by ‘equivalent’)
on the other hand, only as the material in which the value of another commodity is expressed.

⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質
  によって不明瞭である。
  方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値す
  る)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン
  (または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。
  コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合の
  コートの相対的な価値表現を逆に含む。
⑩This distinction is obscured by a characteristic peculiarity of the relative value-expression in its simple or first form.
The equation: 20 yards of linen = 1 coat(or 20 yards of linen are worth a coat) includes, after all,precisely the identical equation: 1 coat = 20 yards of linen(or one coat is worth 20 yards of linen).
The relative value-expression of the linen, in which the coat figures as Equivalent, thus contains from the reverse the relative value-expression of the coat, in which the linen figures as Equivalent.

⑪ー①商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、
  両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。
  リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネンの交換価値
  は、他の商品との関係として明示的に示されている。

  ②コートに関しては、リネンはコート自体を価値の出現形態として、したがって
  それ自体ですぐ<直接>に(リネンに)交換可能なものとして、
  リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかである。
  この関係の中でのみコートの等価物です。
   <杉本 ここでは、ーー上衣が直接的に価値形態であるーーことの幻影を批判
   している。リネンが、上着を自身の価値の出現形態と反省規定をしているの
   で、上着は、リネンと直接的に交換可能になるーーつまり、上着は自身だけで
   価値形態となり、リネンの等価物になるのではないのです。
   上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定ーーに依っているとい
   うことを、彼は、しつこく何度も繰り返しています。>
⑪ー①①Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity value as exchange-value are only relative,they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat),the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.
②As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).
Only within this relationship is the coat an Equivalent.
  ③しかし、それは受動的に行われます。 それは何のイニシアチブも握っていない。
  物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身を見つけます。
  ④リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果
  として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。
  ⑤さらに、リネンがコートに関連する具体的な特定モードおよび方法は、
  コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、
  「プライドで怒っているテーラーの製品」ではない。
③But it conducts itself passively. It seizes no kind of initiative.It finds itself in relationship because things relatethemselves to it.
④The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
⑤In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.

  ⑥結局のところ、リネンは、したがって現在の価値体としての、
  抽象的人間労働の現実的な現行・顕現<プレゼント>としてのコートに関連してい
  ます。これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限り、これだけ
  です。同等物<等価物>としてのその状態は、リネンの反省規定[4]だけである
  (いわば)。
   <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、リネンの反省
   規定された存在にあることで、同等物の形態を受け取り形態規定される。
   上着は価値の凝固物であるが、それだけでは無くリネンに対して同等物とされ、
   直接的交換可能な形態を、上着は受け取るのです。>
⑥The linen, after all, relates itself to the coat as the sensuallyexisting materialization of human labour in abstracto and hence as
present value-body.It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner.
Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.原P23
⑫ー①しかし状況はちょうど逆のように見える。
  一方では、コートはそれ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。
  一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがするかもしれない何かか
  らかなり離れているでの、コートと関連しています。
①But the situation seems just the reverse.On the one hand, the coat does not take the trouble torelate itself to anything.
On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.

  ②コートに関連するリネンの結果物
  (同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)は、
  リネンに関連する外面においても、肉体的な方法でコートに属するように見える。
  ③最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン - 1コート)では、
  このフォームはまだ確立されていません。
  これは直ちに反対に、コートはリネンと同等であることを表しています。
   2つの商品のそれぞれが、この決定を所有するのは、
  他方がそれ自身の相対的価値形式になるためであるからである[5]。
⑫ー②The resultant product of the linen’s relating to the coat(its Equivalent-form, its determinacy as an immediately
exchangeable use-value) appears to belong to the coatin a corporeal way even outside the relating to the linen,in just the same way as its property of being ableto keep people warm (for example).
⑫ー③In the first or simple form of relative value(20 yards of linen one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate wayalso the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen,and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]

  <続く⑬ ⑭ ⑮ 段落は、次の課題である第二の形態についてなので、、
  紹介するのは、止めておこう。>
 
 

資本論三章その1 ・ 2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年11月 9日(金)09時48分23秒
返信・引用 編集済
    ぐーぐるほんやく
  https://translate.google.co.jp/?hl=ja
  https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
  商品

 http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_109.htm
 第3章 第一節 価値の尺度
原P109①わかりやすくするために、私はこの文書全体をとうしては金<gold>は、貨幣<the money>であることを前提としています。
 ②金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の素材を提供すること、または商品価値を同じ名前の量として表現することであり、質的に同一で、定量的に比較可能であるものとして表現することです。 したがって、それは価値の一般的な尺度として機能し、この機能だけが特定の同等の商品である金を、特定の等価物にし、最初に貨幣を作ります。
 ③貨幣になるためには、商品では適切ではありません。 およびその逆になります。
すべての商品は客観的な価値とみなされており、同じ特定の商品でその価値を一緒に測定することで、それを共通の価値または価値尺度に変換することができます。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然な現れです。 (50)
 (50)「商品と貨幣商品の二重化であり、私的労働が直接的に社会的労働
   として取り扱われないのかという問題に帰着する。」
 <商品世界での共同行為をなす一般的価値形態の形成ーーは、前提にされている。>
 <ところが、既存訳は、この価値形態を排除して、「人間労働」が・・としている。>
 <何故なら、「商品は客観的な価値とみなされており」とは価値形態のことですよ。>
 <「商品と貨幣商品の二重化」は、交換過程の註40に示されているように、
  一般的相対的価値形態ー一般的等価形態が形成される段階を踏まえていることで、
  その生成が前提となっています。>
  この大切な段階を消す--既存訳の歪曲を示すのが次です。
  「すべての商品が価値としては対象化された人間労働であリ、
  それゆえそれ自体が同単位で計量可能であるからこそ、
  すべての商品はその価値を同じ独自な一商品ではかり、
  そうすることによって、この独自な一商品を諸商品の
  共同の価値尺度または貨幣に転化することができるのである。」
  新書P160この歪曲!新日本新書訳・岩波・向坂訳、長谷部訳も同じ>
 ④金貨商品の価値表現は、貨幣形態または価格である。 1トンの鉄= 2オンスの金のような孤立した方程式は、鉄の価値を社会的に有効にするのに十分です。等価商品である金はすでに貨幣の性質を持っているため、等式はもはや他の商品の価値方程式と一致する必要はありません。したがって、商品の一般的相対価値形態は、元の、単純な、または個別の相対的価値形態の形を取るようになりました。一方、展開された相対的価値態または無限列の相対価値式は、貨幣商品の具体的な相対的価値形態となる。しかし、このシリーズはすでに商品価格で社会的に与えられている。
価格ライダーの見積もりを読んで、すべての可能性のある商品の金額を調べる。貨幣は価格がありません。他の商品のこの一様な相対的価値形態に参加するためには、それ自体の相当物としてそれ自体に関連しなければならないであろう。
 ⑤商品の価格や--または貨幣形態は、実際の身体的な形態であり、つまり彼らの価値形態の理想的な形や想像した形とは異なります。
The price or the money-form of commodities, like their value-form at all, is different from their tangibly real body-form, that is, only ideal or imagined form.
The value of iron, canvas, wheat, etc., though invisible, exists in these things themselves; it is presented by its equality with gold, a relationship to gold that haunts only in their heads, so to speak.
鉄、キャンバス、小麦などの価値は、目には見えませんが、これらのもの自体に存在します。それは金との平等によって提示されます。金との関係は、頭の中にだけでしか遭遇しないので、言います。
したがって、商品保管者は、価格を外界に伝えるために、彼の頭に舌を刺したり、紙切れをしなければならない。 (51)
The commodity keeper must therefore stick his tongue in his head or put paper slips in order to communicate his prices to the outside world. (51)
<111>金での商品価値の表現は観念的なので、この操作には虚偽または理想とされる金のみが適用されます。金貨での何百万もの商品を見積もるために金の一片は必要ではない、ということを知っている。したがって、価値尺度の機能では、金は想像された、または観念的な金としてのみ役立ちます。
Since the expression of commodity values in <111> gold is ideal, only imaginary or ideal gold is applicable to this operation.
このような状況は、最も賢明な理論を促してきました。 (52)提示された貨幣だけが価値尺度として機能するが、価格は完全に現実的な貨幣に依存する。
This circumstance has prompted the most brilliant theories. (52) Although only money presented serves as a function of the measure of value, the price depends entirely on real money.
 その価値、すなわち、例えば、鉄の1トンに含まれ、同じ量の人間労働を含んでいて、想像上の貨幣量で表されます。したがって、金、銀または銅が価値の尺度として役立つので、鉄の1トンの価値は全く異なる価格条件を与えられるか、またはかなり異なる量の金、銀または銅で表される。
The value, i. the amount of human labor, e.g. is contained in a ton of iron, is expressed in an imaginary quantum of money, which contains the same amount of work. Thus, as gold, silver or copper serve as a measure of value, the value of the ton of iron is given quite different price terms or is presented in quite different quantities of gold, silver or copper.
 ⑥従って、2つの異なる商品、例えば。 銀と金の価値比が変わらない限り、互いに隣接して静かに走る2つの異なる価格条件、金価格および銀価格を有するように、価値の測定値と同時に、金と銀を使用する。 = 1:15。 この価値の変化は、金価格と商品の銀価格との間の関係を乱し、実際に価値の測定の倍増がその機能と矛盾することを証明している。 (53)
 ⑦<112>価格決定を受けた商品はすべて商品A = x金、b商品B = z金、c商品C = y金などの形式である。ここで、a、b、cは商品種別A、B、 C、x、z、y特定の金塊である。
したがって商品価値は異なるサイズの想像されたGoldquanta<金量>に変換されるので、商品の混乱した混乱にもかかわらず、同じ名前で金のサイズになります。このように、異なるGoldquanta<金量> は、それらの間で比較し、測定し、技術的にそれらを測定単位として固定金の量に言及する必要が生じます。
この測定単位自体は、さらに分割して分注することによってさらにスケールアップされます。金、銀、銅は、それらが製造される前に既にその金属重量にそのようなスケールを有している。 1ポンドは測定単位となり、片方のオンスなどに分けられて百重量単位で加算されます(54)。したがって、すべての金属循環において、重量尺度スケール価格の金額の元の名前を形成する。
 ⑧<113> 価値の尺度と価格の尺度として、貨幣は2つの全く異なる機能を果たしています。
価値尺度としては、人間労働の社会的化身であり、固定金属重量としては価格の尺度である。
価値尺度としては、カラフルに異なる商品の価値を価格に変換する役割を果たします。
価格の尺度としては、この Goldquanta<金量> を測定します。
価値の測定では、商品は価値として測定され、価格のスケールは測定されますが、
しかし、金の量である重量における金の値を、金の量を測定しません。
価格の大きさについては、ある金の重量を測定の単位として固定する必要があります。
ここでは、同じサイズの他のすべての尺度と同様に、比率の強さが決定的なものになります。
したがって、価格のスケールはその機能をよりよく果たし、より不変なものと同じ量の金が測定の単位として役立ちます。
金の価値尺度としての役立ちであるのは、金はそれ自体が労働の産物であり、すなわち可能な限り可変価値であるためにのみ役立つことができます。
 <この⑧は「価値尺度と価格尺度」について、まとめられています
 <①価値の尺度と価格の尺度として、貨幣は2つの全く異なる機能
  ②価値尺度としては、人間労働の社会的化身であり、固定金属重量としては価格の尺度
  ③価値尺度としては、カラフルに異なる商品の価値を価格に変換する役割
  ④価格の尺度としては、このGoldquanta<金量>を測定します。
  ⑤価値の測定では、商品は価値として測定され、価格のスケールは測定されますが、
  ⑥しかし、金の量である重量における金の値を、金の量を測定しません。>
 <そのお手本を、⑨ ⑩ ⑪ ⑫ 段落を介して、⑱ ⑲ ⑳ 段落 --にてまとめています。
       ⑬ ⑭ ⑮ ⑯ ⑰ 段落を介して、⑱ ⑲ ⑳ 段落 --にてまとめています。>
 ⑨まず第一に、金の価値の変化は決して価格の尺度としてのその機能に影響しないことは明らかです。 金の値が変わるのと同じように、Goldquanta<金量>は常に同じ値の関係にあります。 金価格が1,000%下落すると、12オンスの金は依然として1オンスの金よりも12倍の価値があり、価格はGoldquanta<金量>と他の金額の比率に過ぎません。 一方、1オンスの金は、値下がりや金額の上昇によって重量が変化しないので、金額は固定されているため、金は固定された価格の尺度として常に同じサービスを行います、それは価値としてです。
 ⑩金の価値の変化は、価値の尺度としてのその機能を妨げるものではありません。 彼はすべての商品に同時に遭遇し、相対的な相対価値は変わらず、以前よりも高いまたは低い金価格で自分たちを表現している。
 ⑪他の商品の使用価値における商品の価値の表現と同様に、金の商品の見積もりも、所与の時間に特定の金の量子の生産が一定の労力を要することを前提にしているだけである。一般的な商品価格の動きに関しては、以前に開発された単純相対価値式の法則が適用される。
 ⑫商品価値が上昇すれば、商品価格は一般的に上昇し、一定の金銭的価値を持ちます。貨幣価値が下落した場合、商品の一定価値で。逆に。コモディティ価格が下落すれば、コモディティ価格は一般的に、一定の金銭的価値でしか落ちることができない。商品の価値が同じであれば、金銭的価値が上昇する。したがって、金銭的価値の上昇は商品価格の比例的低下と商品価格の上昇に比例した金銭価値の低下を意味するものではない。これは変更されていない商品にのみ適用されます。例えば、その価値が均等に、かつ金銭的価値と同時に増加するそのような商品は、同じ価格を維持する。彼らの価値が金銭的価値よりもゆっくりまたは急速に増加する場合、価格の下落または上昇は、価値の動きと金銭の動きの差などによって決定されます。
 ⑬私たちは--価格の形式の検討に戻りましょう。
  <⑱ ⑲ ⑳ 段落にて、価値尺度と価格の度量標準についてまとめられています。>
 ⑭金属の重量のお金の名前は、歴史的に重要なものを含むさまざまな理由から、
  元々の重量の名前から徐々に分離されています。
1.あまり開発されていない人々への外貨の導入。
 古代ローマでは、銀貨と金貨がまず外国の商品として流通した。
 これらの外国のお金の名前はネイティブの体重の名前とは異なります。
2.富の発展に伴い、より貴な金属は価値の測定の機能から
 貴族に取って代わられます。金による銀、銀による銅は、
 すべての詩的な年表のこの順序に反する可能性があります。(56)
 銀の真のポンドのお金の名前。金が価値の尺度として金を置き換える
 やいなや、金と銀の価値に応じて同じ名前が金の1/15などと関連す
 るかもしれません。お金の名前と金の普通の重量の名前としての
 ポンドは今分かれています。(57)
3.何世紀にもわたり、王侯による偽造が続き、実際には硬貨の元の
 重量の名前だけ残っていた。 (58)
 ⑮これらの歴史的プロセスは、金属重量のお金の名前を通常の重量の名前から人々の慣習に分離させます。一方では、金銭的規模は純粋に従来のものであり、より一般的な妥当性を必要とするため、最終的には法律によって規制されている。貴金属の特定の重量部、例えば、 1オンスの金は、ポンドや泥棒などの法定の洗礼名が付されたアリコートに正式に分けられます。実際の金額の単位としてカウントされるこのようなアリコートは、法定洗礼名で別のアリコート部分に細分され、シリング、ペニーなどにです。(59)
特定の金属重量は、金属のお金の尺度のままです。ディスポジションとネーミングが変更されました。
 ⑯商品の価値が理想的に変換された金額や金額は、今や金の名義や金本位制の合法的な名義で表現されています。だから、クォーター・コムギは1オンスの金に等しいと言っているのではなく、イギリスでは3ポンドと同じです。 101 / 2d。商品は価値あるものと言われて自分のお金で自分自身を言います。物を価値として、したがって金銭的な形で固定する必要があるときはいつでも、お金は計算上のお金として役立ちます。 (60)
 ⑰物の名前は、その本質から完全に外れています。男がヤコブスと呼ばれることを知っているとき、私は何も知らない。同様に、お金の名前ポンド、チョーラー、フランク、デュークタットなどでは、値関係のすべてのトレースが消えます。これらの<Kabbalistic>兆候の秘密についての混乱は、お金の名前が商品の価値を表し、同時に金属の重量の一部分、金銭的なスケールと同じくらい大きいほど大きい。 (61)一方で、価値は異なることが必要である。商品の世界のカラフルなボディから、それらは概念的には客観的であるが、単純な社会的形態に発展する。 (62)
⑱価格は、商品で客観化された労働の貨幣の名前です。
したがって、商品の相対価額は常に2つの商品の等価性の表現であるため、商品と価格の同値はその価格であるが、同値化(63)である。
しかし、商品の価値の大きさの指数としての価格が--交換での関係を貨幣と乖離させるならば、逆に、交換比率の指数での関係は必然的に価値の大きさの指数となる。
同じサイズの社会的に必要な仕事は、小麦の1/4と2 Pfd.Stで起きた。 (約1/2オンスの金)。
四半期小麦の価値サイズ、またはその価格の貨幣での表現です。今、状況を彼が3ポンドに連れて行くことを許すか、1ポンドに注意して1ポンドにする。
Now allow the circumstances to take him to £ 3, or force him to £ 1. to note, so are 1 Pfd.St. and 3 lbs. as an expression of the value size of wheat too small or too large, but they are nevertheless prices of the same, because first they are its value form, money, and secondly exponent of its exchange relationship with money.
ここでは3ポンド。小さすぎるか大きすぎる小麦の価値の大きさの表現として、しかしそれにもかかわらず、彼らはお金との交換関係の第一に彼らの価値形態、貨幣を示し、そして第二に指数であるため、同じ価格です。
生産条件が同じである場合や労働生産力が一定であれば、四分の一小麦の再生には同じ労働時間を費やさなければならない。このような状況は、小麦生産者や他の商品所有者の意向に左右されます。
したがって、商品の価値は、その教育過程に内在する社会的労働時間と必要な関係を表している。
価値の価格への変換では、この必要な関係は、商品の交換比率として、その外に存在する貨幣と表示されます。
 <With the transformation of value into price,ーーとありました。>
しかし、この関係では、商品の価値の大きさは、一定の状況下で販売可能であるだけでなく、それ自体を表現することができます。価格と価値の大きさの間の定量的な不一致の可能性、または価値の価値からの価格の偏差は、価格形態そのものにある。
これはこの形式の欠陥ではないが、逆に、規則が盲目的なものである適切な形態の生産形態となっている。不規則性の平均法が優先できる。
 ⑲しかし、価格設定は、価値の大きさと価格との間の量的不一致の可能性を残すだけでなく、 価値サイズとそれ自身の貨幣表現の間にあるが、質的矛盾を抱くことができるので、貨幣は価値とみなされるが、財産の価値形態に過ぎない。
商品自体にないもの、例: 良心、名誉、等は、彼らの所有者のお金を販売することができ、したがって価格を介して商品の形態を得ることができます。 したがって、物は正式に価値を持たずに価格を持つことができます。 ここでの価格表記は、数学のある程度のように、虚偽になります。 一方で、人間の仕事が客観化されていないため価値がない未耕地の価格などの想像上の価格形態は、真の価値関係やそれに由来する関係を隠している。
 ⑳相対価格形式と同様に、価格は商品の価値を表す。 1トンの鉄、等価な特定の量子数、 1オンスの金を直接鉄と交換することができますが、逆に決して鉄は金と直接交換することはできません。
したがって、交換価値の効果を実際に発揮させるためには、商品はその想像上の金のみを実際の金に変えなければならないが、この変換はヘーゲルの「コンセプト」よりも「酸性」になるかもしれない自由の必要性やロブスターへの必要性の転換、シェルや父親ジェロームの爆破、古いアダムの撤去。 (64)
例えば、鉄の実態に加えて、商品は理想的な価値形態や想像された金色の姿を持っているかもしれませんが、鉄と本当に金を同時に払うことはできません。彼らの価格設定については、彼女に提示された金を見分けることで十分です。
その所有者に共通の同等のサービスを提供するために、それは金に置き換えられるべきである。鉄の所有者、例えば、世俗的な商品の所有者に、金の一種である鉄の値段で彼を呼んで、天国のように世界は答えました。聖ペテロはダンテに言いました。
"Assai bene è trascorsa
D'esta moneta gia la lega e'l peso、
Ma dimmi se tu l'hai nella tua borsa。 "
<"Gar wohl durchgangen
ist jetzo Schrot und Korn schon jener Münze
Doch sprich, ob du sie hast in deiner Börse.">
 21 価格形態には、金銭に対する商品の譲渡性とその販売の必要性が含まれます。
一方、金は価値の理想的な尺度としてしか機能しません。なぜなら、それは既に交換過程で貨幣として流通しているからです。したがって、硬貨は価値の理想的な次元に潜んでいます。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=9
 ② 「読む会」だより(17年6月用)
貨幣の価値尺度機能について、久留間鮫造は『貨幣論』において分かりやすく触れていますので紹介しておきます。
 「実際に売買される場合の価格の高さが何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、<量ではなくて>形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつかという問題、これをわれわれは、まず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。

 商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、結局、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品に替わるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。

ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、言うまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、その代わりに金が与えられる。

これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲与されるということは、ひっきょう<結局は>、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎ捨てられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味なのです。

このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによってまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに──すなわち貨幣に──されていることを前提するので、それによってはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な労働への転化を意味することになりうるわけです。

ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している“尺度の質”というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(大月版、P180)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  <ドイツ語から、一旦英訳--和訳するとうまく行きます。>
     第二節流通手段 A商品の変態   原P118
 ①商品の交換には、矛盾した、相互に排他的な関係が含まれていることが分かった。
商品の開発はこれらの矛盾を解決するものではなく、彼らが動く形を作り出しています。これは真の矛盾が解決される方法です。それは、例えばである。ある身体が常に他の身体に落ちて、それと同じように絶えず絶えず逃げるという矛盾。楕円は、この矛盾が解消され、解消される運動の一形態でもあります。
 ②交換プロセスが、価値を使用する非使用価値を移転する手持ち品から出す限り、彼は社会的代謝である。有用な操作の積は、他の操作の積を置き換える。使用価値となる場所に到着すると、商品は商品交換圏から消費される領域に入ります。後者はここで私たちの興味を引く。だから、フォームの側面、すなわち、社会的な代謝を仲介する商品の形態や変容の変化だけに沿って、プロセス全体を見なければならない。
 ③この形の変化の全く不十分な概念は、価値そのものの概念に関するあいまいさとは別に、商品の形態のあらゆる変化は、共通の商品と共通の商品である2つの商品の交換において生じる。もしこの物質的な瞬間、金との物の交換を速く握っていれば、見えるものを見落とす、つまりその形態に何が起こるのか見落とすでしょう。単なる商品としての金はお金ではなく、他の商品は金の金額を自分の貨幣形態で参照していることが見落とされています。
④ー①商品は最初に裸になり、甘みがなくなり、櫛が成長し、交換の過程で成長します。
  彼は商品の倍増をコモディティ<商品>と貨幣に、そこでは彼らは、
  内在的な価値と使用価値に反対する外的対立を生み出している。
  これとは対照的に、コモディティ<使用>価値としての商品は交換価値としての貨幣
  に直面している。
④-②一方、対立の両側は、商品であり、すなわち、ユーティリティの価値と価値の単位です。
  しかし、この違いの統一性は、2つの極のそれぞれで逆転し、同時にそれらの相互依存性を構成する。
④-③商品は使用価値であり、その価値は価格に理想的にしか現れず、
  これを真の価値形態として反対の金に関連付ける。
④ー④逆に、金の材料はWertermateriatur、お金だけです。
  したがって、実際の交換価値です。その有用性の価値は、理想的には一連の相対的価値の表現にしか現れておらず、
  反対の財を実際の使用形態の周辺と呼んでいる。
  これらの相反する形の商品は、交換プロセスの実際の形態です。
⑤交換プロセスの現場、商品市場に、私たちの有名なリネンウィーバーなどの商品所有者を同行させましょう。
  彼の物品、20キュビットのキャンバスは価格決定される。
  あなたの価格は2 Pfd.Stです。彼は約2時間Pfd.Stのためにそれらを交換します。
  古い穀物と穀物の人は、2つのPfd.Stを交換する。再び同じ価格の家族の聖書に反する。
  彼のためのキャンバスは価値のある金である金を奪われ、
  この形から別の商品に逆戻りして売られていますが、商品として、
  ウィーバーの家に移ることになっていますその啓発的ニーズを満足させます。
このように、商品の交換プロセスは、商品の貨幣への変換と、貨幣から商品への変換という2つの相反した相補的変態で行われる。 (65)
商品変容の瞬間は、商品所有者の貿易と同時に、売却、商品と貨幣の交換、購入、商品との貨幣の交換、両方の行為の統一:買うための販売。
 ⑥リネンウィーバーが今取引の最終結果を見ると、彼はキャンバスの代わりに聖書を持ち、元の商品の代わりに同じ価値を持っていますが、有用性は異なります。同じように彼は人生と生産の他の手段を充当しています。彼の視点から見ると、プロセス全体は、労働生産物と外国人労働生産物、製品交換とのやりとりのみを伝えるものである。
 ⑦したがって、商品の交換プロセスは、以下の形式の変更で行われます。
  グッズ - お金 - 商品。
    W-  G -  W。
 ⑧その物質的な内容によると、運動は商品に対する商品の交換、社会的労働の代謝であり、
  結果としてプロセス自体は消滅する。
⑨ー①W - G. 製品または販売の最初の変態。
  商品の価値から金の身体への商品の価値のスキップは、
  他のところではそれを商品の宙返りと呼んでいます。
  彼が失敗した場合、それは不正行為をした商品ではなく、商品の所有者です。
  社会的分業は、多様なニーズに応える一方的なものとなっています。
  それが彼の製品が交換価値としてのみ役立つ理由です。
  しかし、それは一般的な社会的に有効な相当額の金額を受け取るだけであり、
  その金額は外国のポケットに収められている。
  それを抽出するためには、商品は何よりも貨幣所有者の使用価値でなければならない。
  すなわち、消費された労働は社会的に有用な形で費やされなければならず、
  社会分業の一部であることが証明されなければならない。
  しかし、分業は生産者の後ろに糸が織り込まれ、織り続ける生産の自然な生物です。
  おそらく商品は、新しく生まれた必要性を満足させるふりをしたり、
  自分で必要性を呼び起こしたりする新しい働き方の産物であると考えられます。
  昨日、同じコモディティプロデューサーの多くの機能のうちのもう1つの機能、
  今日のこのコンテキストからArbeitsverrichtungがおそらく涙を流し、
  独立して市場に独立した商品として自分の製品を送ります。
⑨ー②この離婚手続きのために、状況が熟しているか未熟である可能性があります。
  今日の製品は、社会的ニーズを満たしています。
  明日、それは同じタイプの製品によってその場所から完全にまたは部分的に
  置き換えられているかもしれない。
  私たち自身のリネンウィーバーのような仕事が社会的分業の特許メンバーでもある場合、
  20ヤードのリネンの使用価値は決して保証されません。
キャンバスの社会的な必要性、そして他のすべてのような手段がある場合、ライバルのリネン製織業者によってすでに飽和していると、私たちの友人の製品は余分になり、余計になり、無駄になります。人は口に贈り物の馬を見ることはありませんが、市場に出てプレゼントを作ることはありません。しかし、彼の製品の使用価値がそれ自体を証明し、したがって金は商品に引き付けられると仮定しよう。
しかし今、それはどれくらいのお金の問題ですか?
しかし、その答えは、その価値の指数である商品の価格ですでに予想されています。
私たちは商品所有者の純粋に主観的な計算ミスを控え、市場でただちに客観的に修正されます。
彼は社会的に必要な労働時間の平均だけを彼の製品に費やしていたはずです。
したがって、商品の価格は、その中で客観化された社会的労働の量のお金の名前に過ぎない。
しかし、許可なく、リネンウィーバーの背後で、リネンウィービングミルの老舗生産条件が発酵しました。昨日、エル・キャンバスの生産のために社会的に必要な労働時間は間違いないが、今日は貨幣所有者が友人の様々なライバルの価格の見積もりから熱心に実証したように、今日はやめてしまう。
⑨ー③彼の不幸には、世界には多くの織り人がいる。
  最後の分析では、市場に出ているすべてのキャンバスには、
  社会的に必要な作業時間だけが含まれています。それにもかかわらず、
  これらの作品の総額には過度に費やされた労働時間が含まれる可能性があります。
  市場の胃全体の量子画面、2の標準価格のためのsh。 Elleによって、吸収しないことによって、
  これは総社会的労働時間の余りがリネン製織の形で費やされたことを証明する。
  この効果は、すべてのリネンウィーバーが、個々の製品で社会的に必要な作業時間
  以上に費やした場合と同じです。
  ここには意味があります:捕まえられ、吊るされています。
  市場のすべてのキャンバスは貿易品目とみなされ、各部分は小分け部分としてのみ扱われます。
  実際、個々の次元の価値は、実際に類似した人間の労働の社会的に決定された量の物質だけである。
 <1878年11月28日付の手紙で、ロシアの首都ロシア語翻訳者、Danielsonに、
  マルクスは次のように最後の文章を変更します:
   "そして実際、個々のキュビットの価値は、全量子の部分の重要性
 「ソーシャルワーククォンタムを費やしました」と述べています。
  同じ修正は、マルクスの「資本」第1巻の第2版の個人的なコピーにもありま
  すが、彼の手ではありません>
⑩あなたが知っている、商品はお金を愛するが、 "真の愛のコースは決して円滑に動かない"
  <"本当の愛の道は決して平等ではない">。
  質的にも同様に自然かつ偶然的なのは、生産の社会的有機体の定量的組織であり、
  これは分業体系における膜の消滅を表している。
  したがって、私たちの商品所有者は、独立した民間生産者である同じ労働者の分業、
  この過程における社会的生産過程とその関係が、彼らを互いに独立させ、
  人々の独立は普遍的な事実に依存するシステムによって補完されることを発見する。
   <物象的依存体制に依存したーー人々の社会関係ーーなのです。>
 ⑪労働の分業は作業成果物を商品に変え、それによって貨幣への変換を必要とする。
それと同時に、この変容が成功するかどうかは偶然になります。しかし、ここでの現象は純粋に考えられるため、通常のプロセスを前提としています。ちなみに、たとえそれがまったく起こっても、物資は回収不能ではなく、形の変化はいつも起こるが、この物質の価値の大きさの変化に異常には失われたり追加されたりするかもしれない。
 ⑫1人の商品所有者が金を彼の商品で置き換え、もう1人は金で置き換える。
  明らかな現象は、商品や金の手や職業の変化、キャンバス20キュビット、純2ポンドの変化です。
  彼らの交換です。しかし、商品の交換は何ですか?
  独自の一般的な価値形態を持っています。
  金についてはどうですか?そのユーティリティ値の特定の形状を持つ。
  なぜ金は貨幣としてキャンバスに直面するのですか?
  彼らの価格は2Pfd.Stです。または彼女のお金の名前はすでに貨幣として金を指しています。
  元の商品形態の疎外は商品の販売を通じて行われる。
  彼らの使用価値が実際に価格で提示された金を実際に引き付ける瞬間です。
  価格や商品の単なる感傷的 価値フォームの実現は、
  したがって、また、お金の唯一のイデオロギー的な使用価値の実現を逆転し、
  商品への貨幣の同じ時間での変換で、貨幣への商品の転換です。
1つのプロセスは、貨幣所有者の購入の相手から、商品所有者の販売の極からの、両面プロセスです。
または販売は購入、同時にW - G  G - W.(66)
⑬ー①これまでは、商品所有者以外の国民の経済的関係、外国人労働者を自ら疎外
   させることによってしか得られない関係を知ることはできませんでした。
⑬-②したがって、商品所有者は、貨幣所有者として直面することができます。
   なぜなら、彼の仕事の製品は本質的に貨幣形態をしているか、それはお金が、
   金などであるか、または自分の商品が既に皮を剥いて元の使用形態を取り除
   いたからです。
  ③もちろん、貨幣として機能するためには、ある時点で金が商品市場に参入し
   なければなりません。
  ④しかし、その瞬間からは、常に商品の価格を実現しています。 (67)
  ⑤すべての商品所有者の手の金は、その生産源での商品との貨幣の交換以外に、
   湧きおこることがあり、販売された商品であり、販売商品または最初の商品
   の変容の疎外された形態であるW -G(68)であり、すべての商品がその中
   でーー価値尺度して、その実用的な形態である、価値形態にし価値は金にな
   りました。
  ⑥彼らの疎外によって、物資は本当に疎外された、あるいは変形された使用形
   態になり、したがって実際の価値を生み出すため、実際のお金になります。
  ⑦この価値形態で、商品は、その無差別な人的労働の統一された社会的素材と
   混ざり合うために、その自然な価値の使用の痕跡とそれが起源である特別に
   有用な仕事を取り除きます。
したがって、財を吹き飛ばす金を見ることはありません。ある人は彼女のお金のように見えます。
汚れはお金ではありませんが、お金は汚れている可能性があります。私たちのリネンウィーバー
が彼の商品を販売している2つの金のキツネが、小麦の四分の一の変形形態であるとしましょう。
  ⑧キャンバスの売却、W - Gはまた、彼らの購入、G - Wです。しかし、キャ
   ンバスの販売として、このプロセスは、聖書の購入とは反対に終わる動きを
   開始します。キャンバスの購入として、彼は小麦の販売と反対のものから始
   まる動きを終わらせる。
  ⑨ W - G - W(キャンバス - お金 - 聖書)のこの第1段階は、同時に別
   の動きW - G - Wの最後の段階であるG - W(貨幣ーキャンバス)である
   (小麦 - お金 - キャンバス)であります。
  ⑩ 商品の最初の変態、すなわち商品形態から貨幣への変容は、同時に、他
   の商品の第2の反対の変態であり、貨幣形態から商品への転換である。(69)
 ⑭商品の第二または最終的な変態:購入。
  他のすべての商品や一般販売の商品が空になっているため、お金は絶対に外に出てくる商品です。
  それはすべての価格を逆方向に読み取るので、商品化された商品の献身的な素材として
  すべての商品に反映されます。
  同時に、物品が彼に波を送る価格、愛の目は、変容のための彼の容量の障壁、すなわち彼自身の量を示す。
  商品がそのお金を得ることで消えていくので、その所有者の手に入るか、
  それに変換されるときには、そのお金を見ません。
  non olet <何の起源であれ、それは悪臭を感じません>。
  一方では、商品が販売されている場合、他方では購入可能な商品を表す場合。 (70)
 ⑮G - W、購入も販売、W - Gです。
  したがって、商品の最後の変態は、同時に他の商品の最初の変態である。
  私たちのリネンウィーバーのために、彼の商品のカリキュラムは聖書で完成されています。
  そこでは彼は2 Pfd.Stを与えます。元に戻っている、しかし、聖書セールスマンは、
  2 Pfd.Stを置く。穀物ブランデーでですね。
  W - G - W  (キャンバス - お金 - 聖書)の最終段階であるG - Wは、
    W - G - W(Bible - Money - Grade Brandy)の第1段階であるW - Gです。
  商品生産者は片面のみの製品を提供するため、多量に販売することが多いが、多彩なニーズは、
  実現した価格や数多くの購入に費やされた金額を絶えず分解するよう強制する。
  したがって、販売は、様々な商品の多くの購入をもたらす。
  したがって、商品の最終的な変態は、他の商品の最初の変態の合計を構成する。
 ⑯ここで、商品の全変態作用を考慮する。
  キャンバスでは、最初にそれが2つの相反する補完的な動きW-GとG-Wで構成されている
  ことを見てみましょう。
  商品のこの2つの相反する変化は、商品所有者の2つの反対の社会的プロセスで起こり、
  その経済的特徴を示しています。
  販売代理店として、購入バイヤーの代理人として売り手になります。
  しかし、商品のあらゆる変化と同じように、形や形や形の両方が同時に存在し、反対の極でのみ、
  同じ商品所有者が別の購入者に売り手として反対し、別の売り手には買い手として反対する。
  同じ商品が、連続的に2つの逆転した変化を経て商品から貨幣となり、貨幣から商品になると、
  同じ商品の所有者が売り手と買い手の役割を変える。
  したがって、これらは明確な文字ではなく、商品の流通の中で常に変化する文字である。
 ⑰商品の完全な変態は、最も簡単な形で、
  4つの極端な表現と3つの人物のドラマティズム<演技者>を前提としている。
  第一に、商品は、相手側に、
  外国のポケットで事実上厳しい現実を持っている価値形態として、貨幣に直面しています。
First, the goods are confronted with money as their value-form, which, on the other side, possesses factually harsh reality in a foreign pocket.
  したがって、商品所有者は貨幣所有者に直面するのです。
  商品が貨幣に変わるとすぐに、商品は消えた同等の形態であり、
  商品の他の商品に存在する使用価値または内容になります。最初の商品変換の終点として、
  お金・貨幣はまた第二の商品の出発点です。
  したがって、第1行為の売り手は第2行の買い手になり、売り手として商品の第3所有者と対峙する。(71)
 ⑱商品変態の動きの2つの逆の段階は、商品形態ー商品形態の剥奪ー商品形態への復帰のサイクルを形成する。
  しかし、ここでは商品そのものが反対の方向に決定されています。
  開始点では、その所有者のエンドポイント使用価値で、使用されていない値です。
  したがって、貨幣は、まず商品価値が固定された水晶のように現れ、
  その商品はその後にその同等物として分散されるのです。
 ⑲1つの商品のサイクルを構成する2つの変態は、同時に他の2つの商品の逆の部分的変態である。
  同じ布(キャンバス)が一連の独自の変態を開き、別の商品(小麦)の変態を閉じます。
  彼女の最初の変換、販売中に、彼女は自分1人でこれらの2つの役割を果たします。
  一方、それ自身がすべての肉体の道を進む金クリサライドとして、
  それは同時に第3の商品の最初の変態を終了させる。
  の商品の変容の一連が記述するサイクルは、他の商品のサイクルと密接に結びついている。
  全体的なこのプロセスは、商品循環としての役割を果たす。

⑳ー①流通は形式的なものではなく、本質的に商品の交換とは区別されます。
  プロセスのレビューを投げてください。
  リネンウィーバーは必然的にキャンバスを聖書と交換しました。
  しかし、この現象は彼にしか当てはまりません。
 ②リネンウィーバーは小麦が彼のキャンバスなどに交換されたことを知らないので、
  熱く好きな聖書代理店は、キャンバスを聖書に交換するとは考えていませんでした.
  Bの商品はAの商品に取って代わられました。
 ③ Bの交換では--商品を往復しません。実際に、AとBが交互に購入することもありますが、
  このような特定の関係は商品流通の一般的な条件に決して左右されません。
 ④一方では、物品の交換が直接的な製品交換の個々の障壁と地方の障壁をどのように崩壊させ、
  人間の労働の代謝をどのように発展させるかがここで見られます。
 ⑥一方、制御不能な社会的関係の行動主体からは、全体の円が形成されている。
 ⑦ウィーバーキャンバス、蒸留器は水のみを燃やしたので、ウィーバーは小麦、
  ホットスポットの聖書を持っているため、キャンバスを販売することができます。
  もう一方はすでに永遠の命の水などを売っていたからです。

21 この理由から、製品の即時交換のように、循環プロセスは、位置または手の使用価値の
  変化において止まらない。お金は消えません。
  なぜなら、それは最終的に商品の変身のシリーズから脱落するからです。
  それは常に商品によってクリアされた流通地点で命中します。
   たとえば、キャンバスの全変態:キャンバス - お金 - 聖書はまず流通のキャンバスから落ち、
  お金はそれを置き換え、その後聖書は流出し、お金はその場所を取る。
   同時に商品に商品を差し替えることで、第三者がお金を掛けることができます。
  (72)循環は常に汗をかいている。
22ー① キャンバスの売却、W - Gはまた、彼らの購入、G - Wです。
  しかし、キャンバスの販売として、このプロセスは、聖書の購入とは反対に
  終わる動きを開始します。
  キャンバスの購入として、彼は小麦の販売と反対のものから始まる動きを終わらせる。
  この理由から、製品の即時交換のように、循環プロセスは、
  位置または手の使用価値の変化において止まらない。

22ー②お金は消えません。なぜなら、それは最終的に商品の変身のシリーズから脱落するからです。
  それは常に商品によってクリアされた流通地点で命中します。
  たとえば、キャンバスの全変態:
  キャンバス -Money - Bible - お金 - 聖書はまず流通のキャンバスから落ち、
  貨幣はそれを置き換え、その後聖書は流出し、貨幣はその場所を取る。
  同時に商品の商品への差し替えることで、第三者が貨幣を掛けることができます。 (72)
  循環は常に発汗しているーー貨幣。
 ③すべての売却が買物であり、逆もまた同様であるため、
  商品販売に必要な売買と売買のバランスが必要であるというドグマよりも愚かなことはありません。
  これは、実際に完了した売り上げが同じ数の購入と等しいことを意味するので、
  それはフラットトートロジーです。
 ④しかし、それは売り手が自分の買い手を市場に導いていることを証明するはずです。
  セールと購入は、商品所有者と金銭所有者の2つの極端な対立の間の相関関係と同じ行為です。
 ⑤彼らは同じ人の行動として2つの正反対の行動を形成する。
  したがって、販売と購入のアイデンティティは、流通の藻類に投げ込まれたときに、
  それが貨幣として出てこない場合、商品所有者によって販売されない、
  すなわちお金で買われた場合、商品が役に立たなくなることを意味する-貨幣オーナー。
 ⑥そのアイデンティティは、プロセスが成功すれば、
  それが長くなるかまたはより短くなることができる商品の生存期間でもあることを意味します。
  商品の最初の変態は販売と購入の両方であるため、このサブプロセスは同時に独立したプロセスです。
 ⑦バイヤーには商品があり、売り手にはお金があります。
  遅かれ早かれ市場に出現して循環型を保つ製品です。誰も買わないでは売ることもできません。
  しかし誰も自分自身を売ったので直接購入する必要はありません。
  流通は、自分自身の交換と外国の労働生産物の交換との間の即座のアイデンティティーを
  販売と購入のコントラストに分割することによって、商品交換の一時的、
  地域的および個別の障壁を解消する。自己対立するプロセスが内部統一を形成するということは、
  内部統一が外的矛盾で動くことを意味する。
  内向き従属者の外部の自律性が、互いに補完し合ってある程度継続している場合、
  統合は危機によって強制的にアサートされます。
 ⑧使用価値と価値の本質的な反対のことがら、そして、
  私的労働が直接的な社会的労働として表現されなければならず、
  特定の具体的労働が抽象的な一般労働としか考えられないものものである、
   of personification of the thing <物象の人格化>
   and objectification of persons -<人の客観化 >
 <Fungibility ? treating the person as interchangeable with (other) objects
 代替性 - 人を(他の)オブジェクトと交換可能に扱う>
22ー⑨この内在的な矛盾は、商品の変態の反対に、その発展した形の動きを受け取ります。
  したがって、これらの形式には可能性が含まれますが、危機の可能性のみが含まれます。
  この可能性の現実への発展は、単純な商品流通の観点からも存在しない条件の全範囲を必要とする。 (73)
23 商品流通のメディエーターとして、貨幣は、流通手段 の機能を受け持つ。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_109.htm
  3rd money 第3のお金
 したがって価値の尺度として機能し、従って循環的手段として物理的にまたは代表的に機能する商品はお金です。 したがって、金(または銀)はお金です。 一方では、それは金の役割を果たします。一方では、それは黄金(または銀)の物質性、したがって金銭の商品として現われなければなりません。つまり、価値の測度や代表としての理想だけではありません。 循環の媒質中で; 他方では、その機能が、それ自体であろうと代理人であろうと、唯一の価値形態または交換価値の適切な存在として、他のすべての商品に単なるユーティリティ価値としてそれを固定する。

 a) hoarding  a)滞留
①2つの相反する商品の変態の連続的なサイクルまたは販売と購入の液体の売上高は、循環の移動の永続的なものとしての不動の資金循環またはその機能に現れる。 Boisguillebertが言っているように、不動のものから硬貨に変えられて、一連の変態が壊れるとすぐに、売却は後の購入によって補完されません。
②商品流通自体の最初の発展に伴い、最初の変態、商品の変形された形または金の人形を捉える必要性と情熱が発達しています。 (86)商品は、商品を購入するのではなく、商品を販売し、商品を通貨の形態で取り替える。単なる代謝の媒介から、この形の変化はそれ自体で終わる。商品の空になった形は、その絶対的なエイリアン形式、または唯一消失した形の通貨として機能することができません。そのお金は宝物に焼き尽くされ、商品の仕入先は宝物になります。
③商品循環の冒頭においてのみ、使用価値の余剰はお金になる。ゴールドとシルバーは豊かさや富の社会的表現になります。この素朴な形態の保有は、自己消費に適した伝統的な生産方式が必要とされていない人々の間で永続しています。アジア人、特にインディアンと同じように。商品価格が1カ国の金と銀の量によって決定されると考えているVanderlintは、インドの商品がなぜそんなに安価であるのか疑問に思いますか?回答:インド人は金を埋めるので。 1602年から1734年にかけて、彼は1億5000万ポンドの貨物を埋葬したと指摘する。もともとアメリカからヨーロッパに来たシルバー。 (87)1856年から1686年、すなわち10年間で、イングランドはインドと中国に輸出された(中国に輸出された金属は主にインドに戻っている)1億2000万ポンド。以前はオーストラリアのお金と交換されていました。
④より発展した商品の生産では、すべての商品の生産者は、「社会的誓約」という精神的な精神を確保しなければなりません。 (88)彼のニーズは絶えず更新され、絶えず外国の商品の購入を要求しているが、自分の商品の生産と販売には時間がかかり、偶然に左右される。販売することなく購入するには、購入する前に販売していたに違いありません。一般的な規模で行われるこの操作は、それ自体と矛盾しているようです。しかし、その生産源では、貴金属は他の商品と直接交換されます。購入することなく(金と銀の所有者の側で)ここに(商品所有者の側で)販売があります。 (89)そしてその後の購入がない販売は単にすべての商品所有者の間で貴金属の更なる分配を伝えるだけである。したがって、最も多様な範囲の金と銀の宝は交通のあらゆる地点で発生する。商品を為替価値や商品としての交換価値として保持する可能性があることから、金の欲望が目覚めます。商品流通の拡大に伴い、いつまでも準備ができており、絶対的に社会的な形の富が増えています。
⑤「金は素晴らしいものであり、同じものを所有する人は自分が望むすべてのもののマスターであり、金は魂を楽園に持ってくることさえできます」 (コロンブス、ジャマイカからの手紙の中、1503)。
⑥お金はそれに変換されて何を見ていないので、すべての物品かどうかは、お金に変わります。すべてが販売可能となり、購入可能になります。循環はすべてが金の結晶として出てくる大きな社会的レトルトとなります。この錬金術は、神聖な骨とはるかに少ない拒食症、余分なcommercium homophobes、神聖なもの、人間の商業の外でさえも抵抗されません。貨幣のように、物品のすべての質的差異は消滅し、消滅する。それは、過激なレベラーとして、すべての相違点が区別される(91)。しかし、金銭自体は商品であり、物資であり、古代社会は、それを経済的、道徳的秩序の悪行と糾弾している。(92)現代社会は、プルーススを地球の陸棚から早く引き出す乳幼児期(93)、ゴールデンラッシュ時に輝くものに敬意を表し、最も元気な原則を生み出す。
⑦使用価値としての商品は特別な必要性を満たし、物質的富の特別な要素を形成する。しかし、商品の価値は、物質的富の全ての要素、つまりその所有者の社会的富に対するその魅力の程度を測定する。野蛮な単純な商品の所有者、西ヨーロッパの農家でさえ、価値は価値の形から切り離せないので、金と銀の宝の増加は価値の増加につながります。しかし、金銭の価値は、それ自体の価値の変化や商品の価値の変化の結果として変化します。一方で、これは200オンスの金がまだ100以上、300以上が200以上を含むことを妨げません。一方、この金属の自然な形は、すべての商品の一般的な同等の形であり、すべての人間の労働の即時の社会的化身である。滞留の衝動は本質的に過度である。定性的にも形式的にも、お金は無制限です。すべての商品が直接的に実現可能であるため、物質的財産の一般的な代表。しかし、同時に、実際の金額はすべて定量的に制限されているため、限定された効果の販売手段に過ぎません。この量的限界と質的無限の矛盾との間のこの矛盾は、常にホイードガーをシスピェンの蓄積の労働に戻すのである。彼は世界の征服者のようなもので、新しい国が出るたびに一つの新しいフロンティアを征服します。
⑧金を金貨として、そしてそれを預け金の要素として保持するためには、金銭を購入する手段として循環したり、溶解したりするのを防ぐ必要があります。
そのため、ホーダーは肉のために自分の欲望を犠牲にして金のフェチに捧げる。彼は放棄の福音について真剣です。一方、彼は  お金の中だけで循環を逃れることができる、彼はそこに陶器の彼女だった。彼が生産するほど、売ることができます。労働、緊縮、そして貪欲は、彼の政治経済の総額をほとんど買わずに、多くを売って、彼の基本的な美徳を形作っています。 (94)
宝物の即時の形態に加えて、その美的形態、金と銀製品の所有権を実行します。ブルジョア社会の豊かさとともに成長しています。 "お金持ちは富を扶養している。" <金持ちになるか金持ちに見えるか>>(Diderot。)したがって金銭の機能とは無関係に、金銭の潜在的供給源の一部、特に社会的嵐の時。
⑨保留は、金属循環の経済学における様々な機能を果たす。次の機能は、金貨または銀貨の流通状態に由来します。量、価格、およびスピードの点で商品流通の一定の変動に伴い、金の大量流通が不安定に浮き沈みを起こしていることが分かっています。だからそれは収縮と拡大が可能でなければならない。すぐにお金をコインとして引き付ける必要があります、すぐにコインはお金として回収されなければなりません。本当に循環している金額が常に循環圏の飽和度に対応するためには、ある国の金または銀の金額は硬貨の金額よりも大きくなければなりません。この条件は、お金の宝の形態によって実現されます。宝庫はまた、循環するお金の排出チャネルおよび供給チャネルとしても機能し、循環チャネルを溢れさせることはない。 (95)

 b)支払い手段
①これまで考えられてきた商品流通の直接的な形では、同じ価値の観かたの大きさが常に1つの極の商品は、反対の極の商品の2倍であった。従って、商品所有者は、相互に存在する等価物の代表者としてのみ接触した。しかし、商品流通の発展に伴い、商品の販売は価格の実現から切り離されている。これらの条件の中で最も単純なものを示してもかまいません。
1つのタイプの製品は、より長い時間が必要であり、もう1つのタイプは、その生産のための短い時間である。様々な商品の生産は異なる季節に関連している。 1つの商品は市場で生まれ、もう1つは遠くの市場に出なければなりません。
したがって、一方の商品所有者は、他方の購入者の前に売り手として行動することができる。同一人物間での同一取引の継続的な再発により、商品の販売条件は生産条件に従って規制される。
他方では、特定の種類の商品の使用、例えば、一定期間売却された家ではどうか。
予約の満了後にのみ、買い手は本当に商品の使用価値を受け取りました。だから彼は彼女に支払う前に彼女を買う。ある商人は既存の商品を販売し、もう1つは単なるお金の代表者として、または将来のお金の代表者として購入する。
売り手は債権者になり、買い手は債務者になる。商品の変態や価値観の変化がここで変わるので、お金もまた別の機能を受けます。それは支払い手段になります。 (96)

②債権者や債務者の性格は、ここで商品の単純な流通から生じる。彼らの形状変化は、売り手とバイヤーにこれらの新しいスタンプを押し付ける。だから、当初は売り手と買い手と同じ代理店が同じように消えて交互に役割を果たしていました。しかし、野党は今や不安定になり、より大きな結晶化が可能になる。 (97)しかし、同じ文字は商品流通から独立していてもよい。古代世界の階級闘争。主に債権者と債務者の間の闘争の形で動き、ローマで終結し、奴隷に取って代わられる平等債務者の没落で終わります。中世では、その闘争は経済的基盤で政治力を失った封建債務者の没落で終わった。しかし、金銭の形式 - と金銭関係の形での債権者と債務者との関係 - は、基本的な経済条件の拮抗を反映しているだけである。

③<151>私たちは商品流通の領域に戻りましょう。
販売プロセスの2つの極で同等の商品とお金が同時に現れるのを止めました。
お金は、まず、販売された商品の価格設定における価値の尺度として機能します。彼らの契約上の固定価格は、買い手の義務を測定する。特定の時刻に支払われた金額。
第二に、それは購入の理想的な手段として働く。それは買い手のお金の約束にのみ存在しますが、それは商品を変更させます。支払期日に限り、支払い手段が??実際に流通します。買い手の手から売り手の手に行きます。第一段階で循環過程が崩壊したか、あるいは商品の変形形態が循環から取り除かれたため、循環手段は宝物になった。支払い手段は流通に入るが、商品が既にそれを去った後である。
お金はもはやそのプロセスを仲介しません。それは、交換価値または一般的な商品の絶対的存在としてそれを独立して結論づける。売り手は、物品を現金で保つためにお金、ホーダー、罪のある買い手が支払う必要性を満たすために物品をお金に変えた。彼が支払っていなければ、彼の所有物の強制的な販売が行われます。
商品の価値形態、金は、流通過程そのものの状況から生まれる社会的必要性によって、販売の目的のためになりました。

④買い手は、商品を貨幣に変えたり、最初の商品変態を完了する前に、商品を元に戻したりします。売り手の商品は循環し、その価格を実現するが、貨幣のためのプライベートタイトルでしかない。それは貨幣に変わる前に実用になります。彼女の最初の変態の完成は、後に続く。 (98)

⑤流通過程の各特定の期間において、支払われる債券は、売却された商品の価格合計を表す。このの実現に必要な貨幣 は、当初は支払い手段の流通速度に依存する。それは、債務者と債務者の関係を連結して、債務者Bから資金を受け取ったAが債権者Cにそれを進めるように、そして様々な支払日の間の時間の長さという2つの状況によって調整されます。
処理連鎖の支払いまたはそれに続く第1の変態は、以前に考えられた変成系列のエンタングルメントとは著しく異なる。循環手段の循環において、売り手と買い手との関係は表現されるだけではない。接続そのものは貨幣の循環の中だけで起こります。
一方、支払い手段の動きは、それ以前にすでに存在していた社会的関係を表している。

⑥販売の同時性と並置は、流通速度によるコイン質量の置き換えを制限する。逆に、彼らは支払い手段の経済学において新しいレバーを形成する。同じ場所での支払いの集中により、自然の制度と調整方法は自然に発展する。
例えば、リヨン中世の祈り。 AからB、BからC、CからAなどの債務請求は、正と負の大きさである程度相殺するだけで対処する必要があります。バランスのとれた債務残高は1つだけです。支払いの集中度が高ければ高いほど、相対的にバランスが小さくなり、したがって支払いの循環手段の量が増えます。

⑦支払い手段としての貨幣の機能には、無秩序な矛盾が含まれています。支払の残高に関しては、計算上の金額や価値尺度としてのみ理想的に機能します。
実際の支払いに関する限り、それは循環の手段として、代謝の消滅し仲介する形態としてではなく、社会的労働の個々の化身として、交換価値、絶対的な商品の独立した存在として現れる。
生産と商業の危機の瞬間にeklatiertこの矛盾は、通貨危機がある。(99)
これは支払いの処理チェーンとその調整の人工的なシステムが完全に開発されている場合のみ発生します。このメカニズムのより一般的な妨害によって、彼らはいつか湧き上がります。
突然かつ突然、計算コストの純粋な理想的な形態から硬貨に突然変わります。
世俗的商品では置き換えられなくなる。商品の使用価値は無価値になり、その価値はそれ自体の価値の形態よりも前に消える。ブルジョアは繁栄の薄い悟りの空の妄想のためのお金を説明しました。商品だけが貨幣です。ところがいまや貨幣だけが商品です!それは今、世界市場のすべてです。

As the deer cries for fresh water, his soul cries for money, the only wealth. (100) In the crisis, the contrast between the commodity and its value form, money, is increased to the point of absolute contradiction.
鹿が淡水を求めて叫ぶのとおなじく、彼の魂は貨幣、唯一の富を求めて叫ぶ。(100)
危機では、商品と価値形態<value form>の対比、貨幣は絶対矛盾の点まで増加する。

The appearance of the money is here therefore also indifferent.
The money starvation remains the same, whether in gold or credit money, banknotes, for example, is to pay. (101)
したがって、お金の出現はここでも無関心です。金や借金のいずれの場合でも、紙幣の払い方は同じです(101)。

⑧一定の期間内に循環している合計金額を考慮すると、それは実現すべき商品価格の合計に支払の払いを差し引いた金額から報酬支払いを差し引いて流通手段の流通レート最終的には、同じコインが循環手段として交互に働く回転数、時には支払い手段としての支払いの機能である。
例えば、農家はトウモロコシを2ポンドで販売し、循環手段として働く。満期の日に、彼はキャンバスを支払って、ウィーバーが彼に届けました。同じ2 Pfd.St.現在はお支払い方法として機能しています。
ウィーバーは現在、現金で聖書を購入しています。彼らは再び循環の手段として働きます。価格、通貨の流通速度、支払いの経済性なども、1日の間に、循環する大量の貨物や流通している商品によって覆われなくなりました。長い間流通が奪われてきた商品を表す貨幣が使われています。貨幣相当額が将来にのみ現れる商品が処理されています。
一方、毎日支払いが収縮し、同じ日の支払額は相当額にはならない。 (102)

⑨だからクレジット・マネーは、支払い手段としてのマネーの機能から直接発生します。
つまり、売却された商品自体の債券は、債権の譲渡のために再び流通します。
一方、クレジットシステムが拡大するにつれて、支払い手段としての貨幣の機能も拡大しています。金や銀貨は、主に小売業の領域に押し戻されますが、そのようなものとして、それは大きな商業取引の領域を占める独自の形態を維持しています。 (103)
商品生産の一定のレベルと程度において、支払い手段としての貨幣の機能は、商品流通の領域を超えて広がっている。契約の一般的な商品になります。 (104)
年金、税金等は、自然配送から貨幣支払いに変わる。この変革が生産プロセスの全体的な形状によってどのくらい調整されているかは、例えばローマ帝国が現金ですべての税金を引き上げようと、2度は試みられなかったことによって示されています。
ルイ14世のもとでのフランスの国民の膨大な不幸は、ボイス・ギルバート、マーシャル・ヴォーバンなどで雄弁に宣言されていましたが、税額だけでなく、自然税の貨幣への転換にも負っていました。 (105)一方で、自然形態基本賃貸料は、同時にアジアでは州税の主要要素であり、自然条件の不変性をもって自分自身を再現する生産関係に基づいて、過去の生産形態を遡及的に支払う。それはトルコ帝国の自己保護の秘密の一つを形成する。日本のヨーロッパで課せられた対外貿易は、自然年金の年金を3未満の年金に転換するのを誘致するか?第4版:Goldrente>それ自体は、彼の典型的な農業に関するものです。彼らの密接な経済状況は解消するでしょう。

⑩各国において、一定の一般支払日は固定されています。それらは、季節の変化に連動した生産の自然条件で、他の循環再生から部分的に沈殿する。彼らはまた、税金、年金などの商品の流通から直接的には生じない支払いを規制している。年の特定の日にこれらの払われた支払いに必要とされる金額は、定期的ではあるが表面的な摂動を支払い手段106)
支払い手段の流通速度に関する法律から、すべての定期的な支払いについては、その源泉が何であれ、支払手段の必要量は<1である。第4版:支払期間の長さに対する比率を逆にする。 (107)

⑪支払手段としての資金の開発は、支払われた金額の満期日のための金の蓄積を必要とする。富裕層の独立した形態としての保有は、ブルジョア社会の進歩に伴って消えていくが、逆にそれは支払手段の予備資金の形でそれと共に成長する。
 c)世界のお金

http://

 

三章 価値尺度 流通手段 の報告

 投稿者:杉本  投稿日:2018年11月 6日(火)19時05分43秒
返信・引用 編集済
   資本論を読む会 広島の報告を転載させて戴きます。
 杉本は、苦心を転載しています。有難うございます。
 杉本は、二章から三章への記述の理解を進めています
 読みやすくするために、編集しときました。


  <三章 第一節 価値尺度>
http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=10

  <説明> 第3章 「貨幣または商品流通」の第1回目

0) はじめに
 さて、今回からは第3章「貨幣または商品流通」第1節「価値の尺度」の復習説明に入ります(第2節「流通手段」以降をどのように進めるかは、また相談します)。
第1、2章の商品論では、主役は商品でしたが、第3章の貨幣論では主役が貨幣に移り、人々の関係は貨幣の諸機能として現われることになります。 商品と貨幣について、簡単に振り返って説明しておきましょう。
 商品の「価値」とは、「その実体」は、その質を問わない、単なる労働の支出としての、その意味で抽象的な人間労働であり、またそうしたものとして相互に比較され得る労働の大きさでした。しかしこうした商品価値の実体やその大きさは、「社会的なもの」すなわち労働のもつ社会的な性格に起因するものなのですから、商品(生産物)自身の姿やその使用価値(有用性)において存在するわけではありません。しかしながら、商品は「交換価値」を持つことによって、つまり他の「使用価値」を持った商品との「交換比率」を持つことによって、自らを特定の使用価値であると同時に価値をも持つものとして表現しています。
 商品交換の発展とともに、人々の頭からは交換価値と労働時間との関係の意識は脱落していきますが、それと反比例して商品の価値形態(商品の二重化)が発展し、商品の価値性格ないし労働の社会的な性格は、最終的に「貨幣」という“物”として結晶することになります。商品はその価値(社会的必要労働時間)を共通の価値形態で相対的に表現することによって、商品相互の全面的な交換と、それによって社会生活を成立させるための総労働の分配の方法を獲得することができるのです。(もちろん、多くの矛盾を含みながらですが。)
こうして貨幣が成立すると、人々の商品交換における諸関係は、貨幣の諸機能として意識され、貨幣は人々の経済関係すなわち商品交換における主役として振舞うことになります。

『資本論』の前身である『経済学批判』から、第3章「貨幣または商品流通」の理解のために参考になると思われる部分をいくつか紹介しておきましょう。
  ーーーーー略ーーーーー
 ①「読む会」だより(17年3月用)

1) 貨幣の「価値の尺度機能」とは何か

 現代の資本主義では、貨幣すなわち社会的労働の一般的な表現(対象化された姿での)ないしは一般的等価物としての金(ないし銀)は流通からは追放されており、もっぱら信用貨幣である中央銀行券などで「代理」されています。このため、貨幣の「機能」も見えにくいものになっていますが、マルクスは貨幣には大きく言って三つの機能があると述べています。一つは「価値尺度」としての機能、二つには「流通手段」としての機能、そして三つには「(独立した価値の結晶としての)貨幣」としての機能です。
これらの貨幣の機能のなかで、貨幣をまさしく貨幣とする最も基本的な機能が「価値尺度」機能であるとマルクスは言うのですが、商品の価値自体がその本来の労働時間という姿では現われ得ないということもあり、貨幣の「価値尺度機能」という言葉は分かりにくいものでしょう。マルクス自身はこう述べています。

・「金<貨幣商品として前提されている金>の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」(全集版、125頁)

誰もが知っているように、商品はみな価格を(円、ドル、ユーロ等々の)もっており、価格においては商品はみな「質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わ」されています。しかしこの「価格」とは何であり、また価値の価格としての表現はどのようになされ得るのでしょうか(ちなみに、ブルジョア経済学は価値とは何かを知ることなく、価格と価値を同一視するのですが、これはまさに物神崇拝というべきでしょう)。
ここでマルクスが言っているように、「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現することにおける、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、価値の表現材料としての──すなわちその身体で商品価値を表現するという──貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。
金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料となる、という貨幣の価値尺度機能は、一見簡単なことのようですが、ここには重大な問題が潜んでいます。マルクスは続いてこう述べます。

・「諸商品は、貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。」(同)

貨幣(金)が商品価値の大きさを「尺度」し、それを「価格」(一定の金量)として表現しうるのは、一方で、すべての商品が価値としては、すなわち対象化された人間労働としては同質であり、通約しうるからであり、他方では、金が一般的等価であり、価値の独立した存在であると社会的に認められているからにほかなりません。
価格表現(価格現象)という結果だけにとらわれて、価値を価格として表現するためのこうした方式を見ないならば、価値とは価格のことのように見えるほかありません。

ちなみに、『経済学批判』では価値尺度について次のように触れられていますので、参考までに紹介しておきます。
・「流通の最初の過程は、いわば現実の流通のための理論的準備過程である。使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念のうえで交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。この過程に必要な最初の行為は、我々が知っているように、諸商品が特殊の一商品、たとえば金を、一般的労働時間の直接の体化物、または一般的等価物として除外することである。……
すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とが等しい労働時間を含むような割合でもって計るので、金は価値の尺度となる。」(岩波文庫、P75)

2017年3月25日


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 ② 「読む会」だより(17年6月用) 文責IZ


(説明) 3章1節、貨幣の価値尺度としての機能の4回目

3月に第3章の1節、貨幣の価値尺度機能に入りましたが、4月、5月と本論とは少しそれてしまいました。貨幣の価値尺度機能について思い出していただくということもあり、まず「たより3月用」の《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か》の補足から始めましょう。

《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か の補足》

「たより」では、《「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現すること<場合>における、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料になる、という貨幣の価値尺度機能……》と説明しました。

一般的等価物として、他の諸商品と無条件に交換可能であるということによって、金は「貨幣」として認められることになります。言いかえれば、これは事実上、その金という身体(自然形態)が対象化された人間労働の一定量としてのみ評価されるということです。だから貨幣・金はその金量において諸商品の価値の大きさを表現できるのであり、この商品の価値の大きさを一律に測るための貨幣・金の役割のことが、「価値尺度機能」と呼ばれるのです。

このことを本来的な労働の関係においてもう少し見ていくと、商品の交換関係のなかでは、金を産出するという特定の労働が、種々の使用価値を生み出す人間の労働全体の“代表”と見なされるということ、否、単に諸労働の“代表”であるばかりではなくて“人間労働そのもの”であると見なされるということです。言いかえれば、ここでは貨幣・金を産出する労働は、その金を産出するという具体的、有用的な側面が無視されて、ただ人間労働であるという抽象的な側面で存在する限りでのみ、諸商品の価値の大きさを表現するという役割を果たすのです。(そして、こんな不可思議なこと──人間の労働全体の一部をなすにすぎない特定の労働が、同時に労働一般すなわち“人間労働そのもの”と見なされる──が、どのようにして可能なのか。これを解明したのが第1章3節「価値形態」の「相対的価値形態の内実」の項でした。)だからこそ、諸商品によって一商品・金が貨幣(一般的等価物)であると認められると(貨幣という形態規定が与えられると)、金は“直接に”その身体の大きさで、諸商品の価値の大きさである労働時間を表現する──という機能を持つ──ことになります。

こうして、諸商品の共同の働きかけによって貨幣が成立すると、諸商品はすべて、その「価値」の大きさ(支出労働量)を金という単一の貨幣商品によって、つまり金という特定の物体の一定量で、共通に表示することができます(これが「価格」です)。すべての商品(貨幣である金を除いた)は、価格という共通な姿をもつことによってはじめて、相互にその価値の大きさを──直接に労働時間としてではなく、対象化された労働時間としての意味をもつ一定の金量としてですが──測り得ることになり、したがってまた一定の比率で同じもの、交換可能なものとして関係できるものになり、名実ともに商品になることができるのです。(これが「価値の価格への転化」と言われるものです。)

ところで、諸商品においては、ある商品はそれに含まれる労働量が等しい他の商品と関係します。しかしながら、貨幣の役割においては、貨幣商品・金は、それに含まれている労働量が等しいということによって他の商品と関係しているのではない、ということに注意が必要です。諸商品は、他の商品と交換されるためには、それに含まれている価値の大きさが他の商品と等しくなければなりません。だからこそ諸商品はその価値の大きさを貨幣で共通に測りあわなければなりません。しかし、貨幣・金は単に諸商品が相互に価値の大きさを表示するための共通の物質的“材料”として物質的尺度として、この関係に持ち込まれているだけなのです。貨幣・金は、諸商品にとって、それに含まれている労働量が諸商品と等しいという役割において価値表現のなかに持ち込まれたのではありません。それは、対象化された人間労働の一定量を表現する“物質的材料”としてとしてのみ、言い換えれば、諸商品に含まれている具体的な諸労働を無差別な「人間労働」に還元する役割のためにのみ、この関係のなかに持ち込まれているにすぎないのです。このことは貨幣の役割を理解するうえで重要です。

貨幣の価値尺度機能について、久留間鮫造は『貨幣論』において分かりやすく触れていますので紹介しておきます。

 「実際に売買される場合の価格の高さが何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、<量ではなくて>形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつかという問題、これをわれわれは、まず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。

 商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、結局、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品に替わるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。

ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、言うまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、その代わりに金が与えられる。

これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲与されるということは、ひっきょう<結局は>、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎ捨てられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味なのです。

このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによってまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに──すなわち貨幣に──されていることを前提するので、それによってはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な労働への転化を意味することになりうるわけです。

ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している“尺度の質”というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(大月版、P180)

3)商品の「価格」が、「観念的な」ものであるということはどういうことか

さて、マルクスは1)の引用に次いで、こう述べます。

 「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらのものそのもののうちに存在する。この価値は、これらのものの金との同等性<等置……レポータ>によって、いわばただこれらのものの頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらのものの価格を外界に伝えるためには、…略…これらのものに紙札をぶら下げるかしなければならないのである。商品価値の金による表現<すなわち価格……レポータ>は観念的なものだから、この機能<すなわち価値尺度機能……レポータ>のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品に価格という形態または想像された金形態を与えても、まだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」(全集版、P126)

(1)「観念的」なものと対置されるのは「物質的」なものであって、「実在的」なものではない、という点について

以下、次回です。

2017年7月17日




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 ③ 「読む会」だより(17年9月用) 文責IZ

(前回の報告)
8月の「読む会」では、(前回の報告)の部分についてはとくに質問や意見は出ませんでした。
(説明)の「(3)なぜに観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのか」の部分では、まず「“堅い”貨幣」というのはどういう意味か、自分は価格は需要等によって変化すると考えているのでその意味がよく分からない、という質問が出されました。
これに対しては、別の参加者の方から、「価格は抽象的なものだが、それが転換する貨幣は具体的で実在的なものだ、という意味で“堅い”と言われているのでないか」という意見が出されました。需要の変化等によって価格が変動するのは事実ですが、そのことと商品の価値はいつでも価格として相対的に表現されねばならないということとは、問題が別のことのように思われます。

また、価格は価値形態の発展した形態である、ということに関連して、チューターは「価値形態」という言葉は、はじめて読む人には難しいと思われる。「価格」を含めて、「価値形態」というのは、商品による価値の相対的な「表現方法」のことだと理解して読んでいただくと分かりやすいのではないかと述べました。
これにたいしては、「価値の形態(姿)」という言い方もある。この場合には「表現方法」と読むのはどうか、という意見が出されました。チューターは、たしかにその場合にはたとえば金が価値そのものを表現するものとされるという意味だ。しかしそうした場合にも、金にそのような役割が与えられるのは、商品相互による一定の表現方法によってそうなるということが重要なので、「表現方法」と基本的に考えてよいのではないか、と答え了解されました。
関連してチューターは、(報告)の引用部分で「価格は、1トンの鉄の価値を1オンスの金<右辺の商品>が鉄<左辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄<左辺の商品>の方が金<右辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのではない」とマルクスが強調していることに注意していただきたいと述べました。

また口頭説明のなかで、商品は価格をもったからと言っても、そのことによってすぐに別の商品との無条件の交換可能性を持つわけではない。マルクスは商品が価格をもつことを「理論的準備段階」という言い方もしているが、無条件の交換可能性を持つためには、いったんその特殊な使用価値の姿を脱ぎ捨てて貨幣・金に置き換わらなければならない。一般的等価物に置き換わってはじめて何とでも交換可能なものになる。と触れた点について、価格をもったからと言って商品は無条件の交換可能性を持ったわけではなく、貨幣になってはじめてそうなるというのは“当たり前”のことではないか、という質問が出されました。
チューターは、貨幣・金が何とでも交換可能だということは“当たり前”のように見えるが、それが商品の交換によって社会生活を全面的に成立させる必然性(価値)と結びついているということ。またそれは無差別な人間労働の対象化と見なされるがゆえにそうしたものであること。あるいは商品交換の一部分(媒介部分)としてもつ役割としてそうしたものになっているということは、なかなか目には見えないのではないか、と述べました。

さらに「マルクスは貨幣経済ではなくて、むしろ直接に物と物とが交換されるような体制のことを考えていたのではないか」という質問が出されました。
チューターは、その昔、バーター貿易といったものが社会主義の一つの目安だなどとされていた時代もあった。しかしマルクスが物々交換のようなものを目指していたなどと言えないことは、第2章で直接的生産物交換について、それは商品交換の未発展なものとされていることからも明らかだろう。社会主義というのは、物と物とが“貨幣抜き”に交換されるというようなことではない。それは、“労働(社会的労働)”が意識的な活動として現れ──つまり、どのような使用価値をどれだけ作るために、総労働時間をどのようにそれぞれに振り向けるのか、ということを人間自身が自覚的に組織するのだから──、支出労働時間が“物(の価値)”という姿をとらないということであり、だからこそ“貨幣”も必要ないということだ、と説明しました。

「4)想像的な価格形態」とはどのようなものか」の部分は、時間が無くなったためにあまり検討する時間がありませんでした。
(報告)のなかで、「商品の価値は、その生産に必要な社会的労働時間に対する“必然的な関係”を表現している」と述べてあるのは、所与の生産力のもとでは、一定の使用価値の生産のためには社会の総労働のうちの規定された幾らかが支出されなければならない、というような意味だということを補足しておきます。

2017年9月10日


  ④「読む会」だより(17年11月用) 文責IZ

(前回の報告)
9月の「読む会」では、まず(前回の報告)の部分で、「“観念的な”価値尺度のうちには“堅い”貨幣が待ち伏せしている」という表現について、やはりよく分からないという意見が再度出されました。この点については、参加者から「以前は金貨や銀貨もあったし、貨幣が硬貨だったからにすぎないのではないか」という意見が出されました。
チューターとしては、それはそうとして、むしろ“待ち伏せしている”という表現に注意してほしい。それは諸商品が貨幣に転換されなければならない“必然性”のことを、もっと言うならば諸商品が「価格」として互いに同質・同等なものとして表現されなければならない“必然性”のことを言っているということに注意してほしいと述べました。

この点は、第2節「流通手段」の理解ともかかわっており、たんなる言葉の問題ではないと思われますので、もう少し説明しておきます。
問題となっているのは、3章第1節の最後のパラグラフ「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」(全集版、P137)という部分です。
商品の価値というのは、諸商品を社会的に同等な必要労働時間の支出の一部分として見るということです──そして、その意味で商品の価値は観念的なものです。諸商品は、社会的に必要な労働支出の一部として見るならば相互に同等であり、だから一定の割合で相互に交換可能でなければなりません。(そうでなければ、商品交換によって社会生活を全面的に成立させることができないのですから。)
しかしながら諸商品は、相互に異質であるからこそ交換されるのであってみれば、そうした同等なものとしての姿をその商品自身の姿で、すなわちその現物形態、使用価値としての姿そのもので表現できません。だからそうした相互に同等な姿を、「交換過程で」「かけまわっている」“一つの”貨幣商品(金ないし銀)との“等価”での表現を通じて、“共通に”表現することしかできません。このように貨幣商品で“相対的に”表現された価値の表示が「価格」です。
(“相対的に”というのは、諸商品が一つの貨幣商品で“共通に”価値を表示すると言っても、それは社会的必要労働時間そのものの表示ではないのだからです。また、本来“共通な”ものは、諸労働の社会的な労働としての同等な性格なのですが、商品交換すなわち社会的に共通な労働としてではなく、相互に独立して営まれる私的労働を基礎にしているかぎり、労働の社会的な性格は生産物である商品の性格として現われるほかないからです。)
こうして諸商品が「価格」をもつということ、つまり商品の“価値”が相互に共通な一つの貨幣商品(の大きさ)として、言いかえれば“自分自身とは異なる物”で表現されるということは、諸商品が価値として、他商品と社会的に同等なものとして現われるためには、いったんそれ自身の姿を捨てて、自分自身とは異なる「貨幣」の姿をとらねばならないということでもあります。
「それゆえ」──直接的生産物交換(物々交換)とは異なって──諸商品があらかじめ「価格形態」をもつということは、一方では、特定の商品である金・銀が「交換過程で貨幣商品としてかけまわって」諸商品と等置され、諸商品に共通な等価物となることで「観念的な価値尺度として機能」するということすなわち貨幣になるということです。そこでは貨幣商品は、その現物の使用価値とは関係のない、他商品の価値の表現物として機能するという社会的機能をもちます。他方そのことは同時に、諸商品が価値として機能し、他の商品と一定の割合で置き換わるためには、“実際に”価値の形態として社会的に認められた一定量の貨幣商品(金ないし銀)にいったん置き換わらなければならない、という必然性が「待ち伏せている」ということでもあるのです。

商品の「価格」は、なにか生産者が勝手に付けることができる“恣意的”なものに見えます。それは「価格」が、たんに一定量の貨幣・金との「等置」を表示するだけであり、その意味で「観念的な」ものだからです。しかし「価格」は、商品の価値、すなわちその商品を生産するのに必要な社会的必要労働時間の“独特な”表示方法であることを理解するならば、それは決して“恣意的”・“主観的”なものではなくて、生産力の状態や特定の労働への労働の偏りなどによって社会的に規定される客観的なものなのです。(だから「誰が価格を付けるのか?」といった疑問は無意味です。)だからこそマルクスは3章第1節のはじめのほうで、「それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには……、これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである」(全集版 P127)と語っているのです。

補足が長くなりましたので、(前回の報告)部分で出た、その他の質問・意見については省略します。
(説明)の部分は、前の部分での議論が長くなり、前半の二つのパラグラフをチューターが読むだけで終わり、検討は次回にということになりました。
なお、(説明)の3パラグラフの引用で<>内でチューターが補足した「彼ら」というのは、当時の経済学者とりわけリカードやベーリが念頭に置かれています。(原注32、36などを参照ください。

 

 暴走野放しより真実を

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年10月27日(土)11時02分35秒
返信・引用
   暴走野放しより真実を
 暴走をを隠すために親父を馬鹿のままにし此方の口を塞ぐため完全沈黙のかん口令を敷かれた。関わった人も団体も友達も全部取り上げ、別団体は行かせず社会参加は全部妨害した。
 当時自立支援法が廃止になっていたため相手は障害者一人と法務省はばれなければいいと容認していた。これが見解も打開策も言えなく揉み潰ししか出来ないことになる。
 法務局は遠いから手紙にしていたが20回以上出して返事は知事に暴走目こぼし権なんか無いとかばうだけで後は一つも答えない。全国の社協などにメールしていたのを司法のネズミ捕りにかけて知事に有利にされていた。
 6月にもう諦めたいと初めて法務省にメールしたら諦めるなと言い水沢に行けと言う。行ってみたら掲示板に実名使うと訴えられるぞというだけ。
 これはかん口令を逆手にとって書きたい放題にしたこと。 批判も反論も一つも来ない。来たのは妨害だけ。
 掲示板の一部は外国に流せれていることから辞めさせろと言うのが本根と判る。法務局に疑問が募る。世界一安全とは眉唾でないか。
 親父の仕事の記録は県庁に届けたら突っ返された(8年位前)。北上と奥州には親父を馬鹿と言って名誉市民になっている人がいてそれぞれにも届けると知らん顔で全国の社協にも届け岩手の態度も伝えました。暴走はは丸見えで全国の社協は他県に関われなく批判は口に出来ないと思いますが失笑や後ろ指が飛んだことと思います。町の人にしても誰も親父を馬鹿と言う人はいない。友の会に乗せられた社協理事1人いるだけです。知事はそれでも厚顔で沈黙するでしょう。
 法務省は世界一頼りない結果にするより真実を話すしかないでしょう。
 もう12年でい加減に諦めたらと言う声もありますが此方にすれば友達を一人残らず取り上げられています。普通校の出で健聴者、聾唖者どっち側にも入れなく1人で友達作りは困難で12年の完全孤立です。次期会長だからと聾唖者の猜疑心から出た口利いた事も無い親父を馬鹿とをそのままにして暴走を隠し名誉市民にもなる団体はかばう価値もない。聾唖者の社会は知らなかったと言えは正義になる特権が出ています。


 

 資本論・同等の形式・単純な価値形式の全体・第二の形態 第三の形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月26日(金)14時26分30秒
返信・引用 編集済
    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_2

  3. The equivalent form 3.同等の形式

 ①商品A(キャンバス)は、異なる商品B(スカート)の使用価値にその価値を表し、後者はそれ自体が価値形態であり、それ(キャンバス)と同等の価値を表現することが分かっている。

そこでのリネンは、リネンにたいしスカートが、その体型とは異なる価値形態をとることなく、それに無関心であるという事実によって、それ自身の価値を明  るくする

したがって、キャンバスは、スカートがそれと直接交換可能であるという事実によって、それ自身の価値を表現する。したがって、同等の形態の商品は、他の商品との即時の互換性の形態です。

②ここでのスカートのような一種の商品が、キャンバスのような別の商品と同等のものとして機能する場合、スカートは、キャンバスとすぐに交換可能な形であるという特徴的な特性が与えられ、スカートとキャンバスは交換可能です。

それは、キャンバスの値の大きさを考慮して、スカートの値の大きさに依存します。
岩石が同等でキャンバスが相対値であるか逆であるかにかかわらず、キャンバスは同等であり、岩石は相対値であり、その値はその生産に必要な労働時間、すなわちその価値フォームとは無関係に決定される。

しかし、商品タイプRockが値式で同等とされた時点で、その値のサイズは値のサイズとして表現されません。むしろ、価値方程式では、それは事の明確な量子としてしか見えません。

 ③例えば:40キュビットのキャンバスは「価値がある」 - 何にですか?
2つのスカートにです。
ここの商品の岩は同等の役割を果たすので、Wertkörper<価値>と反対のキャンバスの使用価値Rockもまた一定の量のスカートがある価値あるキャンバスを表現するのに十分です。 したがって、2つのスカートは40キュビットのキャンバスの価値を測定できますが、スカートのサイズという独自の価値を決して表現することはできません。 この方程式の等価物は、常に物事の単なる量子量、すなわち使用価値という形をとっているというこの事実の見通しは、前任者や後継者の多くと同様に、 定量的な関係としてのみ発現する。
むしろ、同等の形態の商品は、価値の定量的な決定を含まない。

 ④最初の特異性は、同等の形を考えるときに際立つこれです:使用価値はその反対価値の現れになります。

 ⑤<71>商品の自然な形が価値形態になります。
しかし、notabene、このquidproquoは、他の商品A(キャンバスなど)がその関係の中でのみ生じるのであり、価値関係の中でのみ、商品B(岩または小麦または鉄など)に対して生じるのです。

コモディティはそれ自体を同等物と呼んでいるわけではないので、独自の自然な肌を自ら
の価値で表現することはできないため、他のコモディティを同等物として参照するか、別のコモディティの自然な肌を独自の価値形態にする必要があります。

 ⑥これは、商品の本体、すなわち商品の本体に属する尺度の例で示されています。使用価値として。体は重くて体重があるので、砂糖塊ではありますが、砂糖は体重を感じることはありません。私たちは現在、体重があらかじめ決められているさまざまな鉄片を取ります。

孤立していると考えられている体の形の鉄は、もはや糖衣錠のそれよりも重さの表れではありません。それにもかかわらず、サトウキビを重力として表現するために、我々は鉄との重量比でそれを入れた。この関係では、鉄は重力だけを表す身体とみなされます。したがって、鉄の量は、砂糖の重量の尺度として役立ち、単なる重い形態と比較して砂糖の体を表し、重さを表す。

この役割は、この比の中でのみ鉄が果たします。この比では、砂糖または体重が検出される他の身体がそれに入ります。もし両方のことが困難でなければ、彼らはこの関係に入ることができず、したがって、他者の重さを表現することはできませんでした。もし私たちが両方ともバランスの上で体重を測ると、彼らは重力と同じであり、したがって同じ重量の特定の割合であることが実際に分かります。
鉄の体は、体重の尺度として、サトウキビよりも重いのと同じように、私たちの価値の表現では、岩体はキャンバスにとって価値があるだけです。

 ⑦しかし、ここでは類推が止まる。 サトウキビの体重表記では、鉄は両方の身体によって共有される性質、その重症度を表し、キャンバス上の価値の表現では、両方のものの超自然的な品質を表します:その価値、純粋に社会的なもの。

 ⑧これは、商品の本体、すなわち商品の本体に属する尺度の例で示されています。
使用価値としてですね。
体は重くて体重があるので、砂糖塊ではありますが、砂糖は体重を感じることはありません。私たちは現在、体重があらかじめ決められているさまざまな鉄片を取ります。

孤立していると考えられている体の形の鉄は、もはや糖衣錠のそれよりも重さの表れではありません。それにもかかわらず、サトウキビを重さとして表現するために、我々は鉄との重量比でそれを入れた。この関係では、鉄は重さだけを表す身体とみなされます。

したがって、鉄の量は、砂糖の重量の尺度として役立ち、単なる重さの形態と比較して砂糖の体を表し、重さを表す。

この役割は、この比の中でのみ鉄が果たします。この比では、砂糖または体重が検出される他の身体がそれに入ります。もし両方のことが困難でなければ、彼らはこの関係に入ることができず、したがって、他者の重さを表現することはできませんでした。もし私たちが両方ともバランスの上で体重を測ると、彼らは重力と同じであり、したがって同じ重量の特定の割合であることが実際に分かります。

鉄の体は、体重の尺度として、サトウキビよりも重いのと同じように、私たちの価値の表現では、岩体はキャンバスにとって価値があるだけです。

 ⑨しかし、ここでは類推が止まる。サトウキビの体重表記では、鉄は両方の身体によって共有される性質、その重さを表し、キャンバス上の価値の表現では、両方のものの超自然的な品質を表します:その価値、純粋に社会的なものを示す。
商品の相対的形状をとることによって、例えば、キャンバスはそのボディとその特性とはまったく異なるものです。岩のように、この表現そのものは、それが社会的関係を隠していることを暗示する。


それは、岩のような商品は、それが現れ、立つように表現し、価値を表し、したがって本質的に価値の形態を保有するという事実に正確に含まれます。確かに、これは、リネンがロックウェアに相当する値の関係内でのみ当てはまります。(21)

しかし、物の性質は他のものとの関係からは湧き出るものではなく、そのような関係でのみ作用するので、岩石は、その性質と同じように、即座の互換性の性質を有する同等の形態であるように見える重いまたは暖かい。

それゆえに、この形がお金の中で彼に直面し終えるとすぐに、政治経済学者のブルジョア生の凝視を打ち負かす同等の形態の謎です。そして、金と銀の神秘的な性格を明らかにするために、あまり目立たない商品を提出し、その時に商品の役割を果たすすべての商品のカタログを放棄することを永遠に楽しみました。

彼は、20キュビットのキャンバス= 1スカートのような最も簡単な価値等式でさえ、同等の形態の謎を解決するとは思わない。

⑩ー①その同等物として機能する商品の本体は、常に抽象的な人間の労働の実施形態であり、常に特定の有用で具体的な仕事の産物である。この具体的な作品は、抽象的な人間の仕事の表現になります。スカートが、例えば単なる実現である場合には、実際に彼の中で実現する仕立ては、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態である。

⑩ー②キャンバスの表現上の価値において、服飾の有用性は、衣服を作ることであり、それゆえに人々も作るが、それは価値のあるものと見られる身体を作ることであり、全く意味のないない仕事のゼリーCanvasの価値をオブジェクト化--Canvas value objectified work--した作品とは異なります。そのような価値水準を作るために、それ自体を調整することは、人間の労働であるという抽象的な品質を反映する必要はありません。<注意 等価形態は、物象的関係ではなく、物的関係として現象してくる--と。注意!>


 ⑪仕立ての形態では、織りのように、人力が費やされます。したがって、両方とも、人間の労働の一般的特徴を有し、したがって、場合によっては、例えば、価値の生産においては、この観点からのみ考慮される。すべてそれは神秘的ではありません。

しかし、商品の価値の中では物事はねじれている。例えば、織り方が織り方として、人間労働としての一般的な品質においては、具体的な形で製織されていないことを表現するために、キャンバス相当物を生産する具体的な作業は、現実化の人間の仕事の具体的な形<in its concrete form >とは対照的である。

 ⑫したがって、具体的な労働は、その反対の抽象的な人間の労働の現れになるという同等の形態の第二の特異性です。

 ⑬しかし、この具体的な仕事は、無差別な人間労働を表現するものであり、他の労働と平等な形であり、キャンバスに内在する労働に同じであり、したがって他のすべての産品労働と同様に私的労働であるが、社会的形態となっているのです。
これは、それが他の商品と直接交換可能な商品の中に現れる理由です。
それゆえに、私的な仕事がその反対の形になり、すぐに社会的形態で働くというーー同等形態の第三の特異性です。

 ⑭私たちが最初に価値形態を分析した偉大な研究者に戻ったときに、それほど多くの形の思考、社会的形態、自然な形が戻ってきたとき、同等の形態の最近開発された2つの特異性はさらに理解しやすくなります。 それはアリストテレスです。
第1に、アリストテレスは、商品の金銭的形態は単純な価値形態のより発展した形であることを明確に述べている。 それは他の商品の商品価値の表記です。

"5 upholstery = 1 house"
Kliuai pente anti oik iaz
<Greek: Clinai pente anti oicias>

「違いはありません」:
"does not differ" from:

"5 upholstery = so much money"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
<Greek: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>

 ⑮さらに、この価値観は、家が室内装飾品と質的に同じであることを意味し、これらの感覚的に異なるものは、そのような本質的なアイデンティティーなしには、相応の量として相関付けられないことを意味する。 "交換は同等ではないが平等性はない。"( "out isothz mh oushz summetria z")。 しかし、ここで彼は調整し、価値フォームのさらなる分析をあきらめます。 "しかし、実際には、相変わらず多様なものが相応していることは不可能です"。 質的に同じです。 この方程式は、事実の本質にとって異質なもの、すなわち「実用的な必要性のための一時的なもの」に過ぎない。

 ⑯アリストテレスは、なぜ彼のさらなる分析が失敗するのか、すなわち価値概念の欠如を自分自身に伝えています。
同じものは何ですか?
室内装飾品の価値表現において室内装飾品のための家を提示する共同体物質?
そのようなことがらは実際には存在しないとアリストテレスは言う。
どうしてですか?
家は室内装飾品と家の両方に現れる限り、室内装飾品に同じものを提示します。それは人間の仕事です。

 ⑰しかし、商品--価値の形式のなかでは、すべての労働は平等な人間の労働として表現され、
商品形態では、価値がすべての労働は同等な人間の労働として表現されており、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいていたため、アリストテレスは価値形態自体から自分自身を引き出すことができなかった。したがって、人々の労働の不平等は自然な基礎を持っていた。
  <杉本、マルクスは、等価物の示す物的関係から、右極の同等性関係の対極での
  左極の示す物象の社会関係のことをこそ、我々に、示し、発見しょう!と呼びか
  けているのです。この「同等」の関係が「真実」なんであるのか・・との筆者の
  問いかけがあります。>
なぜなら、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいていたからです。彼らの労働は自然な基盤を持っていました。価値表現であり、すべての労働の平等と同等の妥当性は、一般に人間の労働であるため、人間の平等の概念がすでに国家の偏見を抱いている場合にのみ、解読することができます。

しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態である社会においてのみ可能であり、したがって、商品所有者としての人々の関係も支配的な社会関係であるばあいにです。

アリストテレスの天才は、商品の価値の表現において同等性を発見するという事実に輝いています。彼が住んでいた社会の歴史的障壁だけが、この「同等」の関係が「真実」なんであるのかをを知ることを妨げている。

  4. The whole of the simple value form
    単純な価値形式の全体

①ー①ある商品の単純な価値形態は、その商品との価値関係に含まれているか、同じ商品と交換されています。
商品Aの価値は、商品Bの商品Aへの即時的代替性によって定性的に表される。
これは、ある量の商品Bと所定の商品数量Aとの互換性によって定量的に表される。

①ー② 換言すれば、<75>A商品の価値は、その表現によって「交換価値」として独立して表現される。この章の冒頭で、流行の中でマナーが使われた場合:商品は使用価値と交換価値でありとしたが、これは正確には間違っている。

①ー③商品は、使用価値または商品「価値」です。
それは、その価値が、その自然な形とは異なる、外見の形とは異なる、交換価値のものと異なるとすぐに、それが何であるかの二倍であり、この形態を決して孤立して保有することはありません。第二の、異なる商品との。

①ー④しかし、もしそれが分かっていれば、その話し方は害ではなく、略語として役立ちます。
我々の分析は、商品の価値形態または価値表現が、商品価値の性質から生じるものであり、価値と価値の大きさは、交換価値としての表現から生じるものではないことを証明した。

②ー①我々の分析は、商品の価値形態または価値表現が、商品価値の性質から生じるものであり、価値と価値の大きさは、交換価値としての表現から生じるものではないことを証明した。
しかし、この反対はフェリエやガニャゥなどの重商主義者と現代のむしかえしやの妄想である(22)だけでなく、彼らの対--対象物、近代的な自由貿易のバスティアやそのなかまの妄想でもある。

②ー②重商主義者は価値の観かたの質的側面を重視している。したがって、 金額にて完成した形をしている商品の同等の形態に重きをおき - 現代の自由貿易商人 は- 商品を何らかの価格で投じなければならず - 相対的なWertformの定量的な側面に重きをおく。

②ー③だから、為替レートによる表記を除いて、商品の価値も価値のサイズも存在しないため、毎日Preiskurantsの伝票にのみ存在します。スコット、マクレッドは、ロンバードストリートの考え方を可能な限り挑発するという役割の中で、迷信のない 重商主義者と啓発された自由貿易商人の間の成功した統合を構成している。

③ー①商品Bの価値関係に含まれる商品Aの価値をより詳細に調べると、商品Aの自然形態は使用価値の形としてのみ適用され、商品Bの自然形態はWertformまたは価値のすがたとみなされる。

③ー②したがって、商品に内包されている使用価値と価値の内在的な反対は、外部の反対派によって表される。価値が表現されている商品を直ちに使用価値とみなし、価値を表現する他の商品を直ちに交換価値とみなす2つの商品の関係により、価値とみなされる。
したがって、商品の単純な価値形態は、それに含まれる使用価値と価値との間の対比の単純な現れである。

 ④労働生産物は、すべての社会的条件において商品であるが、歴史的に決定された発展の唯一の時期のみであって、公益事業の生産に費やされた労働を「客観的」財産として表すものであり、したがって、商品の単純な価値形態は、同時に、作業製品の単純な商品形態であり、すなわち、 その価値として、作業成果物を商品に変換します。そのため、商品形態の発展も価値形態の発展と一致します。

 ⑤最初の一見は、一連の変態によって価格形態にしか成熟しない単純な価値形態であり、このこの胚の形の不十分さを示している。

 ⑥任意の商品Bでの表現は、商品Aの価値をそれ自身の使用価値から区別し、したがって、他のすべての商品との質的同等および量的比例性を表す代わりに、それ自体と異なる特定の商品とのみ交換する。
商品の単純な相対価値形態は、別の商品の単一の同等の形態に対応する。
したがって、キャンバスの相対的な表現では、スカートは、この単一のタイプのキャンバスに対して、直接的に互換性のある形態または形態のみを有する。

⑦ー①その間、単一の価値のフォームは、それ自身のより完全なフォームになります。 これにより、商品Aの価値は、他の種類の商品にしか表現されない。 しかし、この第二の商品は、岩石、鉄、小麦などどのようなものであれ、このことにかなり無関心である。 したがって、それがこの商品または他の商品との価値関係に入るにつれて、同じ商品の価値の異なる単純な表現が生じる。

可能な価値表現の数は、それらの異なる種類の商品の数によってのみ制限されます。 そのような価値の観かたの特異な表現は、さまざまな単純な価値の観かたのうちの延長可能な一連のものに変わります。


  B)合計または展開された金額フォーム

<77> z財A = u財Bまたは= v財Cまたは= w財Dまたは= x財Eまたは=など
(20ヤードのリネン= 1コートまたは= 10ポンドの紅茶または= 40ポンドのコーヒーまたは= 1 1/4の小麦または= 2オンスの金または1/2トンの鉄または=等)

 1.展開された相対価値フォーム
 たとえば、商品の価値、キャンバスは、商品世界の無数の要素で表現されています。 他のすべてのボディは、キャンバスの価値鏡になります。 (23)
 <a mirror of the canvas value.>
したがって、この価値そのものは、まず無差別な人間の労働のゼリーとして現れます。 それを構成する作品については、他のすべての人間労働に無関心な作品として明示的に提示されています。それは、それが常に所有する自然の形態であり、それゆえそれ自体が岩石や小麦、鉄や金などです。 したがって、その価値形態のために、キャンバスは、もはや単一の他の商品との社会関係になく、商品世界へとつながっている。 商品として、彼女はこの世界の市民です。 同時に、彼の表現の無限のシリーズでは、商品価値はそれが現れる特定の形の使用価値に無関心である。

<78>最初の形式:20キュビットキャンバス= 1スカートこれは、これらの2つの商品が一定の量的比率で交換可能であるという偶然の事実かもしれません。
一方、第2の形態では、偶発的な現象と実質的に異なる背景を決定し、それを直ちに決定する。
キャンバスの価値は、さまざまな所有者に属する数え切れないほどの品物で、岩やコーヒー、鉄などにとどまらず同じです。
2人の個々の財産所有者の間の偶然の関係は低下し続けている。 それは、商品の価値を規制する交換ではなく、逆に商品の価値が交換関係を規制していることが明らかになります。

 2.特定の同等の形態
 すべての商品、岩、茶、小麦、鉄などは、キャンバスの価値表現に相当するものであり、したがって価値体であるとみなされます。 これらの商品のそれぞれの特定の自然形態は、他の多くのものの中でも特に同等の形態である。 同じように、さまざまな種類の物品に含まれている具体的で具体的で有用な仕事は、今や人間の労働の一般的な表現や表現と同様にみなされています。

  3.総額または展開された価値フォームの欠陥
 ①第一に、商品の相対価値表現は、その一連の表現が決して完了しないために未完成である。ある価値と観なすことが、他の価値と観なすことに加わる連鎖は、価値の新しい表現の素材を提供するあらゆる新しい種類の商品によって絶え間なく拡大可能である。

第二に、異質で多様な価値の観なしはのカラフルなモザイクです。
最終的にすべての商品の相対価値がこの展開された形態で表現されている場合、各商品の相対価値形式は無限の一連の価値の観なしであり、すべての他の商品の価値の相対的な形態であり - この展開された相対価値フォームの欠点は、対応する同等のフォームに反映されます。

 個々の商品の自然形態はここでは特定の同等の形態であり、無数の他の特定の等価形態と並んでいるため、限定された同等の形態のみが存在し、それぞれは互いに排他的である。

同様に、特定の商品同等物に含まれる具体的で具体的で有用な作業様式は、徹底的ではなく、人間の労働の兆候であるに過ぎない。これは、その特定の症状の全周にわたって完全な、または完全な症状を有する。しかし、それは均一な外観を持っていません。

 ②ただし、展開された相対値形式は、単純な相対値式または最初の形式の式の和のみで構成されます。
20ヤードのキャンバス= 1スカート
20ヤードのリネン= 10ポンドの紅茶など
ただし、これらの方程式のそれぞれには、同じ等式が含まれています。

1 Rock = 20 Ellen Leinwand
10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand usw.

 ③実際に、男性が他の多くの商品と彼のキャンバスを交換し、それゆえに多くの他の商品で彼の価値を表現すれば、他の多くの商品所有者は必ず商品をリネン交換する必要があります。 同じ第3商品へとエクスプレス、キャンバスで。
我々はシリーズに戻りましょう:20ヤードのリネン= 1コート、または= 10ポンド。 茶、または=など、つまり、すでにシリーズに含まれている推論を表現すると、次のようになります。

   http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm

   C) Allgemeine Wertform  一般的価値形態
      1 Rock = }20 Ellen Leinwand
   10 Pfd. Tee =
  40 Pfd. Kaffee =
  1 Qrtr. Weizen =
  2 Unzen Gold =
 1/2 Tonne Eisen =
    x Ware A =
    usw. Ware =

  1.価値形式の変更された性格  Changed character of the value form
 ①商品は今や1つの商品と2つの商品が同じ商品であるため一律に2.その価値が提示されます。 彼らの価値形態は単純で協力的で一般的です。
 ②フォームIとフォームIIはどちらも、商品の価値をそれ自体の使用価値または--商品本体とは区別して表現したものである。

 ③最初の形式は、1スカート= 20ヤードのキャンバス、10ポンドの茶= 1/2トンの鉄などのような値の式を生じさせた。スカートの値は、スクリーンの等価物、鉄の等価物のティー値 。しかし、同等の鉄と同等の鉄、岩と茶の価値形態は、キャンバスや鉄とまったく同じです。 このフォームは明らかに、作業製品が偶発的かつ時折の交換を通じて商品に変わる、当初からのみ発生します。

 ④第2の形態は、第1の形態よりも完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値と、スカートの価値とを区別する。 今では彼はすべての可能な形で彼の自然の形に直面しています。キャンバス相当、鉄、紅茶など、他のすべてに等しい、岩と同じではありません。 一方で、ここでは商品の価値の表現はすべて排除されている。なぜなら、各商品の価値の表現では、他のすべての商品は同等の形でしか現れないからである。 開発された価値の形態は、実際には、実際には、例えば、畜産物が例外的に交換されなくなるとすぐに現れるが、他の様々な商品と頻繁に交換される。

 ⑤新たに得られた形態は、商品世界の価値を、それと分離された同じ種類の商品に表現する。 それによってキャンバスとの同等性によってすべての商品の価値を表現することができます。
キャンバスに同等するので現在の価値は、それ自身の使用価値からだけでなく、すべての商品に共通しているため、すべての商品の使用価値から区別されます。
諸商品を価値としてまとめたり、諸商品を交換価値として見せたりするのは、この形式だけです。

 ⑥前の2つの形式は、単一の個別の商品であろうと、多くの異なる商品であろうと、各商品の価値を表しています。 どちらの場合も、それはいわば、個々の商品の私的事業が価値形態を与えることであり、他の商品の介入なしに達成します。 彼らは彼女に対抗するだけの受動的な役割を果たす。

一方、一般的価値形態は、商品世界の共同の仕事としてのみ生じる。
他のすべての商品は、同時に、同じ価値で表現され、新しい商品はすべてそれを模倣しなければならないため、商品は一般的な価値表現のみを取得します。

したがって、諸商品の価値客観性<the value-objectivity><価値対象性--は誤訳>は、これらの物の単なる「社会的存在」< "social existence" >であるため、彼らの普遍的な社会関係によってのみ表現することができ、したがって、その価値形態は社会的に有効な形態でなければならないことは明らかである。

 ⑦キャンバスの形式では、すべての商品が定性的には同じ値であるだけでなく、同時に量的に比較可能な値のサイズと同時に現れます。 キャンバスでは、これらの値が1つの同じマテリアルに反映されるため、これらの値は相互に反映されます。 例えば、茶10ポンド=リネン20キュビット、コーヒー40ポンド=リネン20キュビット。 だから10ポンドの紅茶= 40ポンドのコーヒー。 または1ポンドのコーヒーでは、1ポンドの紅茶の場合と同じくらい、有益な物質、労働力の1/4しかありません。

⑧ー①商品世界の一般的な相対価値形式は、除外された等価商品、キャンバスに、一般的な等価物の性質を表現する。それ自身の自然形態は、この世界の共通の価値形態<the common value-form >であり、したがってキャンバスは他のすべての商品と直接交換可能です。

⑧ー②彼らの身体形態は、すべての人間労働の一般的な社会的蛹化、可視化された化身と見なされます。
キャンバスを生み出す私的な製織の織物労働は、同時に他のすべての労働と同等な形の一般的な社会的形態であります。

⑧ー③次に、キャンバスで行われた作業と他の商品に含まれるすべての労働とを同一視することで、一般的人間労働の一般的な発現 をそれにより製織しているのです。したがって、商品価値に客観化された労働は、すべての具体的な形や実際の労働の有用な性質から抽象化された労働として否定的に提示されるだけでなく、彼女自身の肯定的な性質は明白です。それは、すべての現実の仕事を人間労働の共通の性格、人間労働力の支出に還元することです。

 ⑨<The general form of value,>一般的価値形態は労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現しているし、それが商品世界の社会的表現であるということを、それ自体の枠組みを使って示している。したがって、この世界の中では、一般的人間労働がその社会的特質を形成していることが明らかになった。

 2.相対的価値形態とそれに相当する形の発生比率

 ①相対価値形式の発展の程度は、同等形態の発展の程度に対応する。しかし、これはおそらく注目されるべきであり、同等形態の開発は、相対価値形式の開発の表現と結果に過ぎない。

 ②商品の単純または孤立した相対価値形式は、別の商品を個別の同等物にします。
相対価値の展開されていない形態は、他のすべての商品の商品価値の表現であり、様々な特別な同等物の形態をそれらに課している。最後に、特定の種類の商品には、他のすべての商品がその統一された一般的な価値形態の素材になっているため、一般的な同等形態が与えられます。

 ③しかし、価値形態が全く発展するのと同じ程度で、相対価値形式と同等の形の2つの極の対立が展開されます。

 ④最初のフォーム(20ヤードのキャンバス= 1スカート)でも、このコントラストは含まれていますが、修正されません。同じ方程式が前進または後ろ向きに読み取られるたびに、キャンバスおよび岩石のような2つの商品極の値それぞれが、同等の形で相対値形式で等しく存在する。それはまだ反対の極性を取り込む努力を要する。

 ⑤フォームIIでは、他のすべての商品がそれと反対の形をしている限り、ある種の商品のみがその相対価値を完全に発達させることができます。ここでは、20ヤードのリネン= 1コートまたは= 10ポンドの紅茶または1平方メートルなど、価値の式の2つの側面を見ることはできません。小麦など - 全体的な性格を変えずに総額から一般的な価値形態に変えないでください。

 ⑥後者のフォームIIIは、最終的に商品世界に一般的な相対価値形態を与えている。
なぜなら、1つの例外を除いて、それに属するすべての商品は一般的な等価形態から除外されているからである。従って、キャンバスである商品は、他のすべての商品との直接的な互換性の形態、または直接的な社会的形態で存在します。 (24)

 ⑦逆に、一般的に同等と見なされる商品は、商品世界の統一された、したがって一般的な相対価値形態から除外される。
このスクリーンをみると、一般的な同等の形態の商品が一般的な相対的価値形態に同時に参加する場合、それは同等物として役立つべきである。私たちはそれから、リネン20キュビット= 20キュビットのリネンを受け取りました。ここには値段も価値も表現されていないも同音論です。一般的な同等物の相対価値を表現するためには、フォームIIIを逆にする必要があります。
それは他の商品に共通の相対的価値形態を持たないが、その価値は他のすべての商品の無限シリーズで相対的に表現される。したがって、展開された相対価値フォームまたはフォームIIは、同等の商品の特定の相対価値フォームとして表示されます。

  3. Übergang aus der allgemeinen Wertform zur Geldform
  3一般的価値フォームから貨幣フォームへの移行

 ①一般的な同等の形式は、まったく価値のある形式です。だから、すべての商品に来ることができます。一方、商品は同等のものとして他のすべての商品から除外されているため、一般的に同等の形態(形態III)のみである。そして、この除外が最終的に特定の種類の商品に限定される瞬間からのみ、商品世界の統一された相対価値形態は、客観的な強さと一般的に社会的妥当性を獲得しています。

 ②その商品の特定の種類は、その自然な形が社会的に膨らむ形で、お金になり、お金として働く。それは、その特定の社会的機能、したがってその社会的独占が、商品の世界の中で共通の役割を果たすようになる。この好ましい場所は、形態IIにおいて、キャンバスの特別な等価物であり、形態IIIでは、集合的にキャンバスで表現される相対価値は、特定の商品である金を明示的に征服する。したがって、フォームIIIで製品の金を製品の金に置き換えると、次のようになります。

  D) Geldform  貨幣のフォーム
 20 Ellen Leinwand  =}2 Unzen Gold
       1 Rock =
     10 Pfd. Tee =
   40 Pfd. Kaffee =
   1 Qrtr. Weizen =
  1/2 Tonne Eisen =
      x Ware A =

 ①重要な変更は、フォームIからフォームIIへの移行、フォームIIからフォームIIIへの移行で行われます。一方、フォームIVは、キャンバスではなく、金が一般的な同等の形態を有することを除いて、フォームIIIから何も区別しない。ゴールドはフォームIVに残っています。これは、フォームIIIのキャンバスで、一般的なものです。進歩は、即時の一般的な互換性の形、または同等の一般的な形式が最終的に社会的習慣によって商品金の特定の自然な形と結束するという事実にのみある。

 ②ゴールドは他の商品に対してはお金としてしか向いていません。他のすべての商品と同様に、それは同等のものとして機能し、切り離された交換ファイルの単一の等価物として、または他の商品同等物の特別な等価物としても機能する。徐々に、それは一般的な同等物としてより狭いまたはより広い円で働いた。
それは、商品世界の値式に独占し、この点を征服したら、それは貨幣商品です、とだけでは、すでに一般的な価値形式は、貨幣形態に変換された形態IIIのIVを形成するために異なったので、それは貨幣-商品となった瞬間からです。

 ③商品の単純な相対価値表現。キャンバスは、すでにお金として機能している商品に含まれています。金は、価格の形式です。
したがって、それは次の--キャンバスの「価格形態」であります。

20 Ellen Leinwand = 2 Unzen Gold

oder, wenn 2 Pfd.St. der Münzname von 2 Unzen Gold,

20 Ellen Leinwand = 2 Pfd.St.

<85>
 ④貨幣形態という概念の難しさは、一般的な等価形態、すなわち一般的な形の一般的価値形態 IIIの理解に限られている。
フォームIIIはフォームIIであり、展開された価値フォームであり、その構成要素はフォームI:20キュビットキャンバス= 1コートまたはxコモディティA = yコモディティBである。したがって、シンプルな商品形態はマネーフォームの胚芽である。

4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis



 

金正恩は、インド・ムガル帝国の一族か。

 投稿者:チンギス・ハーン  投稿日:2018年10月20日(土)15時03分49秒
返信・引用
  金正恩は、インド・ムガル帝国の一族か。

http://urx3.nu/MJc5

http://urx3.nu/MJc7

その誕生日は、最高級のめでたさ。
 

    初版 商品  ④

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月19日(金)00時29分50秒
返信・引用 編集済
  https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

 I. First or simple form of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (x of commodity A = y of commodity B).
 ①最初または単純な相対価値:20ヤードのリネン= 1コート(商品Aのx =商品Bのy)。
このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであるという一見で明らかになる。

 ②リネンは、その価値観や有用なものの形で、その世俗的な姿を現します。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形ではなく、その正反対です。それは、それ自体に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自体が価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートすることはできません。
同種の人間の労働の客観化、すなわちそれ自体の価値の物質としてそれ自体をそれに関連づけることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である - そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労力を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると見なされます。

コートとのこの関係によって、リネンは1回のストロークで異なるハエを揺るがします。

他のコモディティを価値として自分自身と同等にすることによって、それ自体を価値として関連付ける。自分自身を価値として関連づけることによって、それは同時に自分自身と使用価値として区別されます。

コートの価値の大きさ(そして価値の大きさは一般的な価値と定量的な価値の両方である)を表現することによって、その現実とは異なる価値形態の価値として現実を与えます。

このように自分自身の内で差別化されているものとしてそれを明らかにすることによって、それは本当に商品として初めて - それは同時に価値のある有用なものであることを明らかにする。

リネンが使用価値である限り、それは独立したものです。その価値は、他方では、コートがある別の商品(例えばコート)との関係においてのみ(リネン)と定性的に同等であるため、それに相当するいくつかの特定の数量において現れるそれと交換可能です。したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形を印象づける。
結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。

他に何が起こっても、その現実の現実では、自然な形態(コート)で、他の商品との即時交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を保有します。等価物の仕様には、商品が価値であるという事実だけでなく、その体質的な形(その使用価値)が別の商品の価値として数えられ、結果として直ちに交換価値として他の商品に対している--ことを示している。

 ④リネンは、労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然由来の物質で発酵しています。リネンを人間の労働の単なる肉体的表現として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。

抽象的な(すなわち、いかなる追加の品質や内容もなく)人間の労働力の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。

しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的関係でそれを明らかにする必要があります。
But commodities are objects.
They have to be what they are in an object-like way or else reveal it in their own object-like relationships.

リネンの生産では、人間の労働の特定の量が消費されている。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち官能的な表現を得る)。リネンが価値あるものとしてコートを同等にすることによって、同時に使用目的としてコートと区別されますが、何が起こるかは、コートがリネンボディとは対照的にリネン価値の出現形態になります。 - その自然な形とは区別される。

 ⑤In the expression of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or, x linen is worth y of coat), one must admit that the coat counts only as value or coagulation of labour, but it is precisely through that fact that the coagulation of labour counts as coat, and coat as the form into which human labour flows in order to congeal.
相対的価値の表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固としてしかカウントされないと認めなければならないが、コートとしての労働数の凝固、および凝固のために人間の労働が流れる形態としてコートする。

The use-value coat only becomes the form of appearance of linen-value because linen relates itself to the material of the coat as to an immediate materialization of abstract human labour, and thus to labour which is of the same kind as that which is objectified within the linen itself.
The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。オブジェクト コートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。

Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形態のコートは、それによって、自分の価値の形態になります。

  オブジェクト(物象コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に
  触知可能なオブジェクト(物象)化として、それゆえ自然な形で価値
  としてカウントされます。
  コートと同じエッセンスの価値があるので、自然的形態のコートは、
  それによって、自分の価値形態になります。

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 ④ it in their own object-like relationships.
  自分の物象的関係
 ⑤The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour
  of the same kind, and consequently as value in natural form.
  オブジェクト コートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、
  それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。」
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ④段落を 物的関係         object-like relationships と訳しているから、
 ⑤段落の 触知可能なオブジェクト化 a sensually palpable objectification を
 「同種の人間労働の<触知可能>感覚的な・手でつかみうる対象性として」--と歪曲した。
  このように大切な肝心の--「物象的関係」の大切な意味--を消していることで、
 こうして、他商品ではなくーー自身で価値形態になるーーことを判読できず、
 上着自身が、媒介を経ずとも価値形態であり、価値の現出形態となる謎であり、
 この<物象の判断>の奇怪!さなのであります。
 再度ーー上着自身が、それ自体として、価値の現出形態であり、
 上着の--価値の現象形態としてのリンネルへの役立ちは、ここではなくて、
 していないのです。
 <江夏ー今村ー牧野訳は、この他商品への物的な役立ちを見たからーー誤訳なのです。>
 その謎性追求での解答は、後で、次の解答をえたのです。
 謎性ーーとは何か? リンネルが、価値形態を受けとリ、次に、
 相対的価値形態を示さずとも、上着が、自身だけで価値形態ーー
 ー等価形態を示すことができる!と判断することです。なんとも誤訳の恐ろしきことよ!
 これだから、「等価形態が前提」と判読する・理解する人々ばかりが発生するのです。

 <⑪段落ーーでの解答が次にありました。
 「上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定」ーーに依っている
 ということを、彼は、しつこく追求しています。
 このリネンの反省規定は、次のように、5段落では示されず、⑪段落にて示さ
 れたのです。
 「コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値
 としてのその規定性)は、リネンに関連する外面においても、肉体的な方法で
 コートに属するように見える。」
  そこで、やっと⑪段落にてーー等価形態との規定を受け取ったのです。>
 <誤記・誤訳!これだから、初版が理解し難い!のは当然です。>

But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is rather a particular useful labour: tailoring.・・・・略
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥ー①時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。

 ⑥-②コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性<価値対象性でなく--伝統化された誤訳、違いは、リネンと上着の価値対象性が、価値客観性>を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。

 ⑥-③それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。テーラリング労働も、リネンにとって価値があります。結果的には、それが意図的な生産的労働でない限り、決定的労働、実現の形態、一般的な労働の客観化の方法として存在している限りです。

 ⑥-④リネンがコートではなく靴磨きでその価値を表明した場合、磨きはそれを仕立てるのではなく抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態とみなすでしょう。
したがって、使用価値または商品本体は、抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的で有用な種の労働に他の商品が関連することによって、価値の出現の形態または等価物にしかならない。

 ⑦ー① 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
 ⑦ー②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。
 ③商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
 ④商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
 ⑤同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。
 ⑥離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

 ⑦商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

 ⑧それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形態です。
 ⑨他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。
 ⑩商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
 ⑪製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。
 <英明な江夏訳にして 「価値形態」 の誤訳です。廻り道にて上着は商品形態をうけとることで、等価物の形態の形成に向かうのではなく、相対的価値形態の形成に向かうのです。>

 ⑫それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によってすぐにすることができます。
 ⑬それは、自らの<its value in its own body>を自分自身の使用価値< in its own use-value,>で表現することはできませんが、他の使用価値や商品<another use-value or commodity-body>を直接価値として参照することができます。

 ⑭それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

 ⑮商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。
 ⑯シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

 ⑰ 既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察す
  ると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってま
  た、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>

  英語版からの訳
 ⑰しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>
    註2.「ナッツ・シェル」。
    2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. A.D.
    多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
    「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
    何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
    "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで形式の
    内容を見落としていたように、
    経済学者が相対的価値表現の形式的内容を見落としていることは驚くことではない(
    物質的利益の影響を受けている)。
    <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態をとることであり、
    相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形
    態」が内実とされることで、価値表現がされるということです。
    既存訳は、正解なのです。>

   <杉本 これまでどうにも著者の意図がつかめないでいたのだが、上記の7段落、即ち、
   この⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫段落と、何度も繰り返し、
   両極の価値形態、相対的価値形態と等価形態の説明をば、筆者はしているのです。
   この意図をば、私達は、両極の価値形態は<常識としての前提>として、これまで、何とも
   恥ずかしいことに、見出せず、無視してきたのだから、大いに反省し、
   注目する必要があります。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪ー①商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

 ②コートに関しては、リネンはコート自体を価値の出現形態として、したがってそれ自体ですぐ<直接>に(リネンに)交換可能なものとして、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかである。この関係の中でのみコートの等価物です。
 <杉本 ここでは、ーー上衣が直接的に価値形態であるーーことの幻影を批判している。リネンが、上着を自身の価値の出現形態としているので、上着は直
 接的にリネンと交換可能になるーーつまり、上着は自身だけで直接的に価値形態となり、リネンの等価物になるのではないのです。
 上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定ーーに依っているということを、彼は、しつこく何度も繰り返しています。>

 ③しかし、それは受動的に行われます。 それは何のイニシアチブも握っていない。 物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身を見つけます。
 ④リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。
 ⑤さらに、リネンがコートに関連する具体的な特定モードおよび方法は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒っているテーラーの製品」ではない。

 ⑥結局のところ、リネンは、したがって現在の価値体としての、抽象的人間労働の現実的な現行・顕現<プレゼント>としてのコートに関連しています。これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限り、これだけです。同等物<等価物>としてのその状態は、リネンの反省規定[4]だけである(いわば)。
  <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、リネンの反
  省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
  形態規定されてはいない。上着は価値の凝固物であるが、それだけでは、
  リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取れない>
 ⑦しかし状況はちょうど逆のように見える。
一方では、コートはそれ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがするかもしれない何かからかなり離れているので、コートと関連しています。

 ⑧コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)は、リネンに関連する外面においても、肉体的な方法でコートに属するように見える。
 ⑨最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン - 1コート)では、このフォームはまだ確立されていません。これは直ちに反対に、コートはリネンと同等であることを表しています。 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有するのは、他方がそれ自身の相対的価値形式になるためであるからである[5]。

 ⑫単純な相対的価値形式や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形式の発展は両方の商品に対応している。リネンは一つの商品(コート)のみでその値を明示し、逆も同様であるが、この価値表現は、両方の商品ともに2倍であるため、相対価値表現は両方の商品についての参照と同じである。同じなのです。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。
 ⑬「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対値式、他の式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。

 ⑭ 最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。さらに、価値の量の表現(あらゆる表現において明らかに同じままであるリネンの価値のための)の表現は、「20ヤードのリネン= 1コート」と同様に徹底的に表現されている'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーなどは、コートがそうであったように、単一の同等物である。
 ⑮それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところリネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実この商品またはその第三者などのいずれかで、継続的な決定が明らかになります。


       II. Second or developed form of relative value
       II。相対価値の第二または発展形態

リネン= 1コートまたは=コーヒーまたは= v紅茶または= x鉄または=小麦などの20ヤードなど
z商品A = u商品Bまたは= v商品Cまたは= w商品D = x商品Eまたは= y商品Fまたは=等
第一の事柄は明らかに第一の形態が第二の基本的要素を構成することである。後者は多くの単純な相対価値表現から成っている。 。

最初のフォーム(20ヤードのリネン= Iコート)では、これらの2つの商品がこの特定の量的関係で交換可能であるという偶然の事実のように見えるかもしれません。しかし、第2の形態では、事実上の外観と本質的に異なる背景が、直ちに輝く。ほとんどの異なる所有者に属する無数の異なる商品のコート、コーヒー、または鉄などで表現されているかどうかにかかわらず、リネンの価値は等しく大きくなります。 2人の個人所有者の間違った関係が崩れ落ちる。それは、商品の価値の量を規制する交換ではなく、交換の関係を規制する商品の価値の量であることが明らかになります。

I「20ヤードのリネン= 1コート」という表現では、リネンで客観化された作品の外観の形態としてカウントされた。このようにして、リネンに含まれる労働は、コートに含まれる労働と同等であり、それによって同等の人間の労働として決定された。しかし、この決定はそれ自体を明示的に明らかにしなかった。即時性のレベルでは、最初の形式はリネンに含まれる労働力をテーラリングの労力と同等にします。それ以外の場合は、2番目の形式。不定期で絶え間なく拡張可能な一連の相対的価値観では、リネンはすべての可能な商品体に、それ自体に含まれる労働の出現の単なる形であると考えられている。したがって、この時点では、リネン値は、価値として、すなわち一般的に人間の労働の水晶として初めて明らかにされたものである。第2の形式は、第1の形式のよく知られた方程式の和からなる。これらの方程式(「20ヤードのリネン= 1コート」など)には、相反する「1コート」も含まれていますか? 20ヤードのリネン "と書かれています。この場合、コートはリネンにその価値を明示し、それによってリネンを同等物として明示します。
さて、これはリネンの無数の相対的価値表現のそれぞれを保持しているので、あります。


 III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:
  III。 第3に、逆のまたは逆の第2形式の相対価値形態

   1 coat = 20 yards of linen
  u coffee =   "
    v tea =   "
    x iron =   "
 y wheat etc. =   "

①The relative value-expression returns at this point to its original form:
1 coat = 20 yards of linen.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。

しかし、今、この単純な方程式がさらに発展する。もともと、それは、コートの価値が、他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの身体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。

コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。このように、すべてが人間の労働の同じ物質化として互いに出現します。彼らはそれ以来、定量的に異なるだけであり、これは、1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

Iそれゆえ、すべてのコモディティは、自分の使用価値と交換価値として異なっているが、価値の量としてお互いに関係し、 質的にお互いを同一視し、定量的に比較する、材料リネンでの--共通の価値の観なし方なのです。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得ている。

他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値の観なし方は、普遍的な相対的価値形態と呼んでいます。

②リネンが相対的な価値表現を生み出す形態 II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか鉄かなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物としてはもはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。
このフォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他の全ての商品の等価物の一般的な形態として現れる。

それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化したときに形成される他のすべての実際の動物の横および外側にある場合と同様に、動物、動物界全体の個体的化身となっている。

同じエンティティ(主体)の実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)なのです。

その結果、リネンは、特定労働であるままに価値の出現形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個々の商品になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現 形式となることで- ユニバーサルな同等価値であり、抽象的な人間労働の普遍的な実体化となっている。だから、そのことで具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働として--人間労働実現の普遍的形態として数えられている。

③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBがどのような特定の型になったかは無関心であった。商品Bの体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の生産物でなければならなかった。

コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の決められた労働へのつながりは完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければならなかったのは、仕立てとは別の種類のものでなければなりませんでした。そうであることで、リネンが普遍的な同等物になる、とすぐにそれが行われます。

他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、それがリネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、それゆえ普遍的同等物となっている。

したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的な労働としての人間労働の実現の普遍的形態として数えられ: リネン製織は、テーラリングだけでなく、コーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働に対立している。

他方では、他のすべての種類の労働は、人間労働の実現の特定の形態としてのみ(相対価値 - リネンの表現:普遍的な等価:形態II)なのである。

④価値として、商品は、抽象的な人間労働の同一団結の表現である。
交換価値の形態では、価値と見なすことでお互いに関係し、価値として互いを関係付ける作業をしています。

彼らはそれによって、同時に共通の社会的実体として、人間労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能であるので、これらの社会的物質の表現として相互に数えあえている。
有用なものととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための貨物ではない。単なる使用目的物を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

商品が人間労働の凝固として価値と数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。
したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然な形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形態をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。
  <このように、諸商品の全てが、互いを「価値と数える形式は」--と示されていることで、
 「商品の自然な形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形
  態」ーーをとりとのマルクスの指摘、物象の判断が、もっとも大切なことがしめされたので
  す。再版で示されているように、物象の共同行為によって、この一般的価値形態が形成される
  のです。>

⑤単純な相対価値フォーム(フォームI)「1コート= 20ヤードのリネン」は、この式が今シリーズのメンバーとなっているという事実だけで、普遍的な相対価値フォーム「1コート= 20ヤードリネン」とは異なります

⑥実際には、リネンが単価から普遍的な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現される商品であり、即時の交換可能性の形態をとる商品(同等の形態:したがって、直ちに社会的形態)であり、これは普遍的な相対価値表現にも同じことが当てはまる。

しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる等式で消極的です。
コートがその値を相対的な方法(つまり、リネン)で「1コート= 20ヤードのリネン」と表現し、それによってリネンが等価フォームを取得する場合、この同じ式は、 20ヤードのリネン1コート 'を意味し、それは同等の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される--のみなのです。

相対価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は、「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にはならず、従って他の商品は、単にリネンと同等のものにすぎません。

コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。したがって、商品の普遍的な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。一方、リネンのような商品は、それが普遍的な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。

リネンの普遍的な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。

しかし、これは、この商品の価値を表現していないのも同義語です。
これは、普遍的形式の等価であり、永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な同等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形、つまりリネンとは異なる価値形態を保有しています。

そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、1枚の上着= 20ヤードのリネンなどであれば、量的に決定される関係における交換可能なものと--交換可能なものとして、また、それは1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまる。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映される。

しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、この迂回路を越える価値の出現の形として相互に相反するものであり、その結果、即座にではありません。

その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。

それは別の方法です。それは、他のすべての商品が、価値の出現の形態としてリネンに関連し、リネンの自然な形態がすべての商品との即時の交換可能性の形態になるという事実を通してである。その結果、その普遍的な社会的形態が直ちに生まれる。

⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない)価値とみなされるその現れにおいて、他のすべての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な等価形態を取得するだけである。

しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形式を持っていなければならない。なぜなら、その自然形態は使用価値の形式に過ぎず、統一された(したがってユニバーサル)相対価値形式を持たなければならないからである。それらのすべては、人間労働の同質な凝固として、互いに価値として関連している。

従って、単一の商品は、他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であり社会的な形態であることが、ここにわかる。

⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではない:磁石の一方の極の陽性が他方の陰性からのものであるため、のようにです 。したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時交換可能性の印を印象付けることができるかと想像してしまう。しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互を前提とし、反復して反発する極である。

⑩麻は労働の直接的な社会的実現であり、直ちに社会的労働を実現する(普遍的な均等物として)ものであるが、リネンに価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない。

⑪実際には、すべての使用価値は商品でしかない。なぜなら、彼らは私的労働からの独立した民間労働の産物であるからなのです。しかし、分裂の基本システムの特定のメンバー(たとえ自己完結しているにもかかわらず)の労働は、このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。他方で、この異なる有用な品質はまだ商品を商品にしていない。
もし、農家がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。

もし、商品が直ちに社会的(すなわち共通)労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

それはすでに商品の分析からそれ自体を産出した。商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。それゆえ、全く異なる労働の同等は、それらの不平等から、人間の労働としての一般的な関係を抽象化するだけである:人間の労働力の支出にです。
実際には動作モードです。それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

現在のところ、これらの私的労働は、その自然形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらい、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。しかし、商品の自然形態(この場合、リネン)は、他のすべての商品が、この自然な形に自分自身の価値の出現形態として関連しているため、リネンを織る--抽象的な人間労働の実現の普遍的な形態に、またはすぐに社会的形態の労働に変わっている。

「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外的概念ではない。

先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、その結果、普遍的な等価形態は、結果的に矛盾した方法でしか発展できないので、商品に潜む私的労働にも同じことが成立する。

彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働者は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形になり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

⑫商品の等価形態が、他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、恒常的に普遍的に等価な展開を強化する。普遍的等価形態は、商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離しているため、価値形態のもう一つの部分は、もはや互いに関連している商品については等しくはならない。単一の商品の関係の製品をより長くする。

⑬我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。リネンがユニバーサル等価物に変わったのはどうでしたか?
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべての商品は反射的にその価値を相対的な方法で表示した(形態III)。

単純な相対価値表現では、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中でその役割を変えます。それは、ある他の商品にその価値を示すことから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。
それは、すべての商品のためにリネンが保持しているものです。



その多くの、単純な価値表現からしか構成されていない、発展した相対的価値表現(形態II)において、リネンは、普遍的な同等物としては、まだ描かれていない。むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品本体の形態は、それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。

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 やりたい放題で名誉市民でお咎めなし。 

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年10月18日(木)05時07分26秒
返信・引用
   やりたい放題で名誉市民でお咎めなし。
 事の起こりは岩手の盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんが親を馬鹿と認めろと言うのを馬鹿らしいとして辞めた事を隠したこと。知事は看板団体だからと暴走はかん口令で囲み証拠も作らせないようにした。親は馬鹿のままと此方には口封じから誰とも関わらせず友達も全部取り上げた。別団体へ行く事も社会参加もさせない。普通校の卒でよそ者扱いで簡単に切られた上学校違いでどっち側にも入れなく完全孤立に12年も追われました。通訳は振興局だけで後は全部差別しています。 人権を無視して看板団体がそんなに大事ですか。
 現状の石川君も小笠原さんもおとがめ無し。
 ばれたら知事ひとりに責任がいく。知事は県の看板を守ろうとしたが小笠原さんらはやり放題の暴走のまま。
 法務省は法律の無かったからと知事が偉くこちらは単純に読み書き出来ない障害者と見られたことになる。知事自身が暴走を無かったことにしてもいずればれてしまうと県民への裏切りになります。かばう必要なかったこと。
 あんな小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放すべきです。知事の権力では隠し通せても県外や地元の町の人に先に知られます。そして全国に知れたら笑い事ではなくなります。
 小笠原さんらは何も傷つかない。かばうより罰が必要です。 法務局さえ偉いからと知事をかばうことしかしないあまり世界一頼りないイメージししか出なくなる。町の人は数人しか知らない。県民の信用さえ落とす羽目になります。やりたい放題やって反対に名誉市民とは本当に馬鹿らしい話です。
 小笠原夫妻に天罰は必要です。第一聾唖者は通訳を見習って常識を覚えていくのに対しておだてけしかけあおりゴマすりで動かした。嘘も方便と非常識を教えた。石川君は自分で考える力もない。こちらは人権を破壊され親は馬鹿にされたままです。 しかも現代の名工と言うのに馬鹿にして当たり前にするのですか。知事は暴走を隠すより粛清すへせきです。よく考えてください。前例を作らない為にも小笠原夫妻は天罰が必要です。









 

初版第一の形態の5段落の誤訳について <その2>

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月12日(金)09時32分41秒
返信・引用 編集済
     <https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1676  初版 商品  ③  >
   上記の論争点の補足であります。

 改稿してみました。
 対象とされる5段落の正しい訳の全文をまず提示してみました。
 韓国-朝鮮語 中国語 仏語 これで 独語 英語 日本語ーーと6ヶ国語であります。

https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

 ⑤In der Ausdruck des relativen Wertes: 20 Yards Leinen = 1 Mantel (oder x Leinen ist wert des Fells), muss man zugeben, dass das Fell nur als Wert oder Koagulation der Arbeit zählt, aber gerade durch diese Tatsache, dass das Koagulation der Arbeit zählt als Mantel und Mantel als die Form, in die menschliche Arbeit fließt, um zu erstarren.
相対的価値:20ヤードのリネン= 1コート<1Mantel>(またはxリネンはコートの価値がある)の表現では、コートは仕事の価値または凝固としてしかカウントされないが、正確には凝固した 人間労働が凝結するための形態としてのコートであるとしてーーその意味で、コートとしてカウントされます。
 <既存訳今村--「・・の表現・・・形態として通用する。」ーー
 では無く「認められている」--江夏訳--であり、「カウントされる」
 物象の判断が4段落に示されているのだからーーと動作を示す必要あり>
In the expression of the relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or x linen is worth the coat), one must admit that the coat counts only as a value or coagulation of the work, but precisely by this fact that the coagulation of the work counts as a cloak and coat as the form into which human labor flows to freeze.

Die Gebrauchswertschicht wird nur zur Erscheinungsform des Leinenwertes, weil sich das Leinen mit dem Material des Mantels wie mit einer unmittelbaren Materialisierung der abstrakten menschlichen Arbeit und damit mit der Arbeit derselben verhält, die objektiviert ist in der Wäsche selbst.
 <「使用価値としての上着がリネン=価値の現象形態になるのは、
  ただリネンが抽象的人間労働の直接的< Materialisierung>
  受肉としての上着素材<Material>に関係するからであり、
  この労働はリネン自身に対象化された労働と同質の労働である
  からである。」今村訳P288>
使用価値は、リネン価値の表現とすぐなりますが、リネンは、抽象的人間労働の即時的現れーーと同様に、その外装の材料で動作し、リネン自体の中で客観化されているため、リネン価値の表現になります。
The use-value layer only becomes the manifestation of linen value, because the linen behaves with the material of the mantle as with an immediate materialization of abstract human labor, and thus with the work of it, objectified in the linen itself.
  <上記・此処までは、なんと等価物上着などは対象とされず、
  であり、リネンの相対的価値形態の成立を目指した論理です。>

Der Gegenstand, das Fell, gilt als sinnlich greifbare Vergegenständlichung gleicher Arbeit und damit als Wert in natürlicher Form. Da es als Wert derselben Essenz wie der Mantel ist, wird die natürliche Formschicht dadurch zur Erscheinungsform ihres eigenen Wertes.
オブジェクト(コート)は、同等の作業の具体的なオブジェクト化、したがってその自然な形の価値のあるものとみなされます。 マントル<外装されたもの>と同じエッセンスの価値であるため、自然ーー形態はそれ自身の価値の現れとなります。
The object, the coat, is considered to be the tangible objectification of equal work, and thus of value in its natural form. As it is the value of the same essence as the mantle, the natural form layer thereby becomes the manifestation of its own value.

As it is the value of the same essence as the mantle, the natural form layer thereby becomes the manifestation of its own value.
マントル<外装されたもの>と同じエッセンスの価値であるため、自然のフォームはそれ自身の価値顕現となります。
<manifestation 顕現とは?明確に、上着はその自然的形態のままに価値形態とされることです。>
  <上記の訳には、うん十年の年功が重なっています。>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

 <初版、同じところからですが、韓国語訳を選択したものです>
 ⑤?? ?? ?? : 20 ??? ?? = 1 ?? (?? x ??? ??? ?? ? ?? ),
 <杉本ーー上記のように韓国語での表記がなぜか!!!できません。その和訳のみ提示します。>

相対的価値の表現:20ヤードのリネン=1コート(またはxリネンはコートの価値がある)、コートは価値のあるもの又は労働の凝固として見なされることを認めているが、コートに労働カウントの凝固がみなされ、およびその凝固のために、人間労働が流れる形でコートが判断されている。


使用価値コートはリネン価値の出現形態でのみ使用されます。なぜならリネンは抽象的な人間労働の即時具体化に関しては、コートの物質と関連があり、そのため、客観されたものと同じ種類の労働に関連するからです、リネンそのものの中で。


対象、コートは、同じ種類の人間の労働のsenspestpurpable objectification<センセーショナルな客観化>では、結果的に自然な形で価値があると見なされます。コートのような本質の価値あるものなので、自然な形のコートは、それ自体の価値の出現形態になります。


しかし、使用価値(coat)で表現される労働はただの人間の労働ではなく、むしろ特別な有用労働(tailoring)である。ただの人間の労働(人間労働力の支出)は、すべてのすべての決定を受けることができますが、それは事実だが、それ自体は決定されない。


人間労働力が、決定され具体化された労働に決定された形で消費されるやいなや実現されて客観的することができる。
これは、労働が自らを客観化する外的物質であるいくつかの自然実体によって直面することができる唯一の決定され具体化された労働だからだ。外的物質なしに自分自身を客観化することは、ヘーゲルの意味で「概念」に過ぎない。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 中国語
 ⑤在相對價値的表達中:20碼的亞麻布= 1個外套(或者,x亞麻布的外套價値),人們必須承認外套僅僅作為勞動的價値凝固,但正是通過這一事實,勞動凝結作為外套計算,並作為人工流動的形式塗覆以凝固。使用價値的外套只是亞麻價値的外觀形式,因為亞麻與外套的材料有關,它與抽象的人類勞動的直接具體化有關,因此也與物化的東西相同。在亞麻本身。

對象,外套,它是對同類人類勞動的一種感官上可觸知的客觀化,並因此作為自然形式的價値由於它與塗層具有相同的本質,因此天然形状塗層因此成為其自身價値的外觀形式。

但是,在使用價値外套中所代表的勞動力不僅僅是人工,而是一種特別有用的勞動力:剪裁。簡單的人力勞動(人力勞動力的支出)能?接受毎一個決定,這是事實,但僅僅在其自身中是不確定的。

一旦人類的勞動力以確定的形式,如既定的和明確的勞動力消費,它就只能實現和客觀化; 因為它只是一種自然實體所面臨的決定和指定的勞動 - 一種勞動客觀化的外在材料。只有黑格爾意義上的“概念”才能在沒有外在材料的情況下使自己客觀化。[1]

 ⑤相対値の表現:20ヤードのリネン= 1コート(またはリネンのxコート値)では、コートは労働または固化の価値に過ぎないと認めなければならないが、この事実により労働結露ジャケットとして計算され、凝固するために手動の流れとしてコーティングされる。リネンはコートの材料に関連しているので、コートの価値はリネンの価値の出現でしかなく、抽象的な人間の労働の直接的な実現に関連するため、マテリアライズと同じです。亜麻そのものです。

オブジェクト、コート、それは同じ種類の人間の労働の感覚的で知覚可能なオブジェクト化であり、したがって自然な形の価値です。それはコーティングと同じ性質を有するので、自然の形状のコーティングは、したがって、それ自身の価値の出現の形態になる。

しかし、使用価値という点では、ジャケットに代表される労働者は単なる労働ではなく、特に有用な労働力である。単純な人間の労働(人間の労働の支出)はすべての決定を受け入れることができますが、それは本当ですが、それ自体は不確実です。

人間の労働は、確立された明示的な労働消費のような形態を決定すると、それは実現可能であり、客観化することはできない。材料で。ヘーゲルの "概念"だけが外的な材料なしで自分自身を客観的にすることができます。 [1]

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 仏語
 ⑤Dans l'expression de la valeur relative: 20 mètres de lin = 1 manteau (ou, x le lin vaut la peine d'un manteau), il faut admettre que le manteau ne compte que pour la valeur ou la coagulation du travail, mais c'est précisément par ce fait que la coagulation du travail est considérée comme un manteau et le manteau est la forme dans laquelle le travail humain se glisse pour se figer.

La couche de valeur d'usage ne devient l'aspect d'apparence de la valeur de lin que parce que le lin se rapporte à la matière de la couche comme à une matérialisation immédiate du travail humain abstrait, et donc au travail qui est du même genre que celui qui est objectivé dans le linge lui-même.

L'objet, le manteau, compte pour lui comme une objectivation sensuellement palpable du travail humain du même genre, et par conséquent comme une valeur sous forme naturelle.
Comme il a pour valeur la même essence que le manteau, le manteau à la forme naturelle devient ainsi la forme d’apparence de sa propre valeur.

Mais le travail représenté dans la valeur d'usage, le manteau, n'est pas simplement du travail humain, mais plutôt un travail particulièrement utile: la couture.Le travail humain simple (dépense de force de travail humaine) est capable de recevoir chaque détermination, il est vrai, mais est indéterminé juste pour et pour lui-même.

Il ne peut que se réaliser et s'objectiver dès que la force de travail humaine est dépensée sous une forme déterminée, en tant que travail déterminé et spécifié ; car il ne s'agit que d'un travail déterminé et spécifié auquel peut être confrontée une entité naturelle - un matériau extérieur dans lequel le travail s'objectifne. Seul le "concept" au sens de Hegel parvient à s'objectiver sans matériel extérieur. [1

 ⑤相対値の発現:リネン20メートル= 1つの被覆(又はコート価値のX亜麻)、我々は仕事の値または凝固のためにそのマントルアカウントを認めなければならないが、労働の凝固はマントルと考えられ、マントルは人間の労働が凍結するための形式であるという事実のためである。
使用価値の層は、亜麻が抽象的な人間の仕事の即時マテリアライゼーションとして層の材料に関係しているためにのみ、亜麻の価値の出現の側面になります。したがって、リネン自体で客観化されているものと同じ種類です。

オブジェクト(マントル)は、同じ種類の人間の仕事の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形での価値として数えます。
マントルと同じエッセンスで評価されるので、自然な形のコートは、それ自身の価値の形態になります。

しかし、使用価値で表現されている作品(マントル)は単なる人間の仕事ではなく、むしろ特に有用な仕事である:縫い物単純な人間の仕事(人間の労働力の支出)は、それは真実ですが、自分のためだけに、そして自分にとっては不確定です。

それは、決定され特定された作業として、人間の労働力が明確な形で消費されるとすぐに実現され、客観化されることができる。なぜなら、それは自然な実体に直面することができる特定の特定の仕事だけであるからです。それは、作品が客観化される外部の資料です。ヘーゲルの意味における「概念」のみが、外的な物質なしでそれ自体を客観化することを管理する。 [1

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 hirohiro さんの提示はこうでありました。

<牧野訳>
①<上着という対象は、亜麻布にとっては、人間労働であるという点で種を同じくする労働が、感覚的に、手で掴むことのできるように対象化された姿であり、従って、自然物の姿をとった価値なのである。>

②<亜麻布は、価値としては上着と同じ本質を持っているので、上着という自然物の形式が亜麻布自身の価値の現象形態になるのである。>

<今村訳> これは、牧野訳と同じであります。
②<「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質を持つのだから、実物形態の上着はリネン自身の価値の現象形態になる。」>

<このように、今村訳は、ちゃんと存在してるとして、牧野氏が提示してくれているドイツ訳を次に示したのです。>
杉本は、そこへの意見を書いてみます。

hirohiro さんの提示
ーー杉本パソコン訳ーー
①<Das Thema Fels wird als greifbare konkrete Objektivität ähnlicher menschlicher Arbeit angesehen, daher auch sein Wert in seiner natürlichen Form.>
対象とされる岩石は、同様の人間の労働の具体的な客観性であると考えられ、その自然な形での価値です。
①<The subject of rock is considered to be a tangible concrete objectivity of similar human labor, hence its value in its natural form.>

②<Da es sich um einen Wert der gleichen Art mit dem Rock handelt, ist die natürliche Form Rock somit die Manifestation ihres eigenen Wertes.>
それはスカートと同じ性質の値なので、自然な形態の岩石は、したがって、自分の価値の現れです。
②<Since it is a value of the same nature with the skirt, the natural form rock is thus the manifestation of their own value.>


では杉本はどんな提示をしたのか。
<杉本の提示>
①The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。
②Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になる。

 <では杉本の提示はどうなのか?異なるところの二つを比較してみよう>

<牧野提示の英訳>
Since it is a value of the same nature with the skirt,
それはスカートと同じ価値であることで、その自然的性質を示し、
the natural form rock is thus the manifestation of their own value.
自然な形態の岩石は、それゆえに、彼ら自身の価値の現れである。

<杉本提示>
②Since it is, as value, of the same essence as the coat,
②コートと同じエッセンスの価値があるので、
the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
天然のフォーム<自然的形態であるままに>コートは、それにより、それ自身の価値の出現の形態<価値形態>になる。

<では自然な形態の岩石は、それゆえに、彼ら自身の価値の現れである>ーーとは何か?
  自然形態の岩石は、ーー
  自然的形態上着は、ーー彼ら自身の価値形態で有るということであります。
  自然的形態であるままにコートは、それ自身の価値形態であるのです。
これが、等価物上着がその自然的形態のままに価値形態とされる、転倒した姿なのです
  牧野訳提示の原文と、杉本提示の文とは少し違いがあるとはいえ、
  意味が異なるものではないと判断します。
再版では、この転倒した姿が、こう描かれています。


 3等価形態の第4・5段落です。現行新書版で言えば、原P70ー71であり、新書版P96ー97です。
④The first peculiarity striking in the consideration of the equivalent form is the following: Utility value becomes the manifestation of its opposite, the value.
④同等の形態を考慮した場合の最初の特異性は次のとおりです。ユーティリティー値は、価値の出現形態となります。

⑤ The natural form of the commodity becomes the value form. But, notabene, this quidproquo occurs for a commodity B (rock or wheat or iron, etc.) only within the value-relationship in which any other commodity A (canvas, etc.) comes to it, only within that relation.
⑤商品の自然形態が価値形態になります。しかし、notabene<注意せよ>、このquidproquo<取り違え>は、他の商品A(キャンバスなど)がその関係の中でのみ生じる価値関係の中でのみ、商品B(岩または小麦または鉄など)に対して生じる。

Since no commodity refers to itself as an equivalent, and therefore can not make its own natural skin the expression of its own value, it must refer to other commodity as an equivalent, or make the natural skin of another commodity its own value form.
コモディティはそれ自体を同等物と呼んでいるわけではないので、
独自の自然な肌を独自の価値で表現することはできないため、
他のコモディティを同等物として参照するか、
別のコモディティの自然な肌を<its own >それ自身の価値形態にする必要があります。


<再版を見ることで、どおうでしょうか?次の今村訳の扱いはどうなりましたか?>
<「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質を持つのだから、実物形態の上着はリネン自身の価値の現象形態になる。」>

 それが、再版訳ではこうなのです。初版原文訳を提示しないのです。
①<ユーティリティー値は、価値の出現形態となります。<別のコモディティの自然な肌をそれ自身の価値形態にする必要があります。>
②<自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になる。>
このように、今村訳に示される既存訳は、この上記の訳を、等価形態の第一の独自性を、排除しているのです。

 hirohiro さんの提示は、存在している訳文を無視するな--という注意でありました。
そんな訳文を無視した・次第ということでは、杉本の注意が足りず失敗でした。
その点での注意については、感謝します。

追ーー韓国語での訳出には驚きました。明快です!!!
 

核心に迫る馬鹿と言う理屈

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年10月12日(金)02時08分0秒
返信・引用
    核心に迫る馬鹿と言う理屈
 県庁の看板団体の暴走隠しの様々な圧力は12年目にしてもそのままで抹殺しか考えていない。いい加減にして欲しいと言ってみても無視するだけで人権相談から法務省と法務局とも関わり法務省に手紙出すと法務局に行けとだけ。法務局は何度も行けず手紙で意見なり出していたが知事をかばう暴走目こぼし権なんか無いと言うだけで後は答えない。打開策も見解も来ない。
 手紙の数だけ意見になったはず。20回は出していた。
 法務省に6月もう諦めたいと言うと、諦めるな法務局に行けと言う。行ってみると掲示板に実名使うと訴えられるぞというだけ。
 これはかん口令を逆手に取ったことで書きたい放題になり批判も反論も12年で一つも来ない。来たのは妨害だけ。本音は掲示板の一部は外国に流れるから辞めさせろということになる。
 その他に擁護係りが紹介されたが県庁相手は諦めて別団体に行けと法務省の姿勢の代弁していた。厄介払いしたがっていたと判る。
 法務省へはその後メールで意見なり20回も出したが数日で返事すると言って4ヶ月になるのに一つも来ない。
 文書による意見交換は後に残るため口約束の揉み潰しが出来ないからと言うことか。再度法務局と法務省に手紙とメール送ってもどっちも返事しない。
 というのは友の会を辞める前の年に自立支援法は廃止になりその次の年の12年前に友の会を辞めたため知事が悪用したことになりそれを相手はたかが障害者一人とばれなければいいとして法務省も容認していたことになる。それがまともに返事しない理由と思う。 法務省の見解は擁護係りが代返している。揉み潰ししか考えていない。そんな訳で1人でやるしかなく知事より実行犯に的を絞った。読み書き出来ない聾唖者の猜疑心から口利いた事もない親父を馬鹿と言うのが始まりで小笠原利行さん夫妻は北上、手話サークル会長は奥州それぞれ名誉市民になっている。つまり人の親を馬鹿と言う暴走隠して名誉市民になっている。
 それぞれの社協を通して話したが無視するので親父の記録をコピーして届け馬鹿でも真似出来ますかと。尚も無視するので全国の社協にもばら撒き岩手の態度も話した。
 全国の社協は他県に関われないが失笑や後ろ指は避けられない。
 岩手の知事にとっては恥じも外聞もなく一般県民や地元東山にばれなければいいと厚顔を続けて沈黙するだけになると思います。
 地元岩手はかん口令で口封じしても他県の口は防げない。
 それも親を馬鹿と認めないとがで訴えますか。
 法務省と法務局に水沢法務局は遠いため一関の相談室で打開策の話したいと申し込んでも相変わらず返事しない。世界一安全と言うキャッチフレーズの法務省が世界一頼りないと人権の破壊を容認している。

 

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