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三章 価値尺度 流通手段 の報告

 投稿者:杉本  投稿日:2018年11月 6日(火)19時05分43秒
返信・引用 編集済
   資本論を読む会 広島の報告を転載させて戴きます。
 杉本は、苦心を転載しています。有難うございます。
 杉本は、二章から三章への記述の理解を進めています
 読みやすくするために、編集しときました。


  <三章 第一節 価値尺度>
http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=10

  <説明> 第3章 「貨幣または商品流通」の第1回目

0) はじめに
 さて、今回からは第3章「貨幣または商品流通」第1節「価値の尺度」の復習説明に入ります(第2節「流通手段」以降をどのように進めるかは、また相談します)。
第1、2章の商品論では、主役は商品でしたが、第3章の貨幣論では主役が貨幣に移り、人々の関係は貨幣の諸機能として現われることになります。 商品と貨幣について、簡単に振り返って説明しておきましょう。
 商品の「価値」とは、「その実体」は、その質を問わない、単なる労働の支出としての、その意味で抽象的な人間労働であり、またそうしたものとして相互に比較され得る労働の大きさでした。しかしこうした商品価値の実体やその大きさは、「社会的なもの」すなわち労働のもつ社会的な性格に起因するものなのですから、商品(生産物)自身の姿やその使用価値(有用性)において存在するわけではありません。しかしながら、商品は「交換価値」を持つことによって、つまり他の「使用価値」を持った商品との「交換比率」を持つことによって、自らを特定の使用価値であると同時に価値をも持つものとして表現しています。
 商品交換の発展とともに、人々の頭からは交換価値と労働時間との関係の意識は脱落していきますが、それと反比例して商品の価値形態(商品の二重化)が発展し、商品の価値性格ないし労働の社会的な性格は、最終的に「貨幣」という“物”として結晶することになります。商品はその価値(社会的必要労働時間)を共通の価値形態で相対的に表現することによって、商品相互の全面的な交換と、それによって社会生活を成立させるための総労働の分配の方法を獲得することができるのです。(もちろん、多くの矛盾を含みながらですが。)
こうして貨幣が成立すると、人々の商品交換における諸関係は、貨幣の諸機能として意識され、貨幣は人々の経済関係すなわち商品交換における主役として振舞うことになります。

『資本論』の前身である『経済学批判』から、第3章「貨幣または商品流通」の理解のために参考になると思われる部分をいくつか紹介しておきましょう。
  ーーーーー略ーーーーー
 ①「読む会」だより(17年3月用)

1) 貨幣の「価値の尺度機能」とは何か

 現代の資本主義では、貨幣すなわち社会的労働の一般的な表現(対象化された姿での)ないしは一般的等価物としての金(ないし銀)は流通からは追放されており、もっぱら信用貨幣である中央銀行券などで「代理」されています。このため、貨幣の「機能」も見えにくいものになっていますが、マルクスは貨幣には大きく言って三つの機能があると述べています。一つは「価値尺度」としての機能、二つには「流通手段」としての機能、そして三つには「(独立した価値の結晶としての)貨幣」としての機能です。
これらの貨幣の機能のなかで、貨幣をまさしく貨幣とする最も基本的な機能が「価値尺度」機能であるとマルクスは言うのですが、商品の価値自体がその本来の労働時間という姿では現われ得ないということもあり、貨幣の「価値尺度機能」という言葉は分かりにくいものでしょう。マルクス自身はこう述べています。

・「金<貨幣商品として前提されている金>の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」(全集版、125頁)

誰もが知っているように、商品はみな価格を(円、ドル、ユーロ等々の)もっており、価格においては商品はみな「質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わ」されています。しかしこの「価格」とは何であり、また価値の価格としての表現はどのようになされ得るのでしょうか(ちなみに、ブルジョア経済学は価値とは何かを知ることなく、価格と価値を同一視するのですが、これはまさに物神崇拝というべきでしょう)。
ここでマルクスが言っているように、「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現することにおける、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、価値の表現材料としての──すなわちその身体で商品価値を表現するという──貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。
金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料となる、という貨幣の価値尺度機能は、一見簡単なことのようですが、ここには重大な問題が潜んでいます。マルクスは続いてこう述べます。

・「諸商品は、貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。」(同)

貨幣(金)が商品価値の大きさを「尺度」し、それを「価格」(一定の金量)として表現しうるのは、一方で、すべての商品が価値としては、すなわち対象化された人間労働としては同質であり、通約しうるからであり、他方では、金が一般的等価であり、価値の独立した存在であると社会的に認められているからにほかなりません。
価格表現(価格現象)という結果だけにとらわれて、価値を価格として表現するためのこうした方式を見ないならば、価値とは価格のことのように見えるほかありません。

ちなみに、『経済学批判』では価値尺度について次のように触れられていますので、参考までに紹介しておきます。
・「流通の最初の過程は、いわば現実の流通のための理論的準備過程である。使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念のうえで交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。この過程に必要な最初の行為は、我々が知っているように、諸商品が特殊の一商品、たとえば金を、一般的労働時間の直接の体化物、または一般的等価物として除外することである。……
すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とが等しい労働時間を含むような割合でもって計るので、金は価値の尺度となる。」(岩波文庫、P75)

2017年3月25日


http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=9

 ② 「読む会」だより(17年6月用) 文責IZ


(説明) 3章1節、貨幣の価値尺度としての機能の4回目

3月に第3章の1節、貨幣の価値尺度機能に入りましたが、4月、5月と本論とは少しそれてしまいました。貨幣の価値尺度機能について思い出していただくということもあり、まず「たより3月用」の《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か》の補足から始めましょう。

《1)貨幣の「価値の尺度機能」とは何か の補足》

「たより」では、《「価値の尺度」の機能とは、価値(労働時間)を価格(金の量)で表現すること<場合>における、言いかえれば貨幣としての金の大きさで諸商品の価値の大きさを計る(尺度する)場合の、貨幣の役割のことなのです。価格とは金の量で表現された価値の大きさなのですが、諸商品の価値関係のなかでは、貨幣・金は、使用価値としてではなくて、価値として、つまり対象化された一般的労働時間の一定量としての役割を担っているのです。金がその身体によって諸商品が価値を表現するための材料になる、という貨幣の価値尺度機能……》と説明しました。

一般的等価物として、他の諸商品と無条件に交換可能であるということによって、金は「貨幣」として認められることになります。言いかえれば、これは事実上、その金という身体(自然形態)が対象化された人間労働の一定量としてのみ評価されるということです。だから貨幣・金はその金量において諸商品の価値の大きさを表現できるのであり、この商品の価値の大きさを一律に測るための貨幣・金の役割のことが、「価値尺度機能」と呼ばれるのです。

このことを本来的な労働の関係においてもう少し見ていくと、商品の交換関係のなかでは、金を産出するという特定の労働が、種々の使用価値を生み出す人間の労働全体の“代表”と見なされるということ、否、単に諸労働の“代表”であるばかりではなくて“人間労働そのもの”であると見なされるということです。言いかえれば、ここでは貨幣・金を産出する労働は、その金を産出するという具体的、有用的な側面が無視されて、ただ人間労働であるという抽象的な側面で存在する限りでのみ、諸商品の価値の大きさを表現するという役割を果たすのです。(そして、こんな不可思議なこと──人間の労働全体の一部をなすにすぎない特定の労働が、同時に労働一般すなわち“人間労働そのもの”と見なされる──が、どのようにして可能なのか。これを解明したのが第1章3節「価値形態」の「相対的価値形態の内実」の項でした。)だからこそ、諸商品によって一商品・金が貨幣(一般的等価物)であると認められると(貨幣という形態規定が与えられると)、金は“直接に”その身体の大きさで、諸商品の価値の大きさである労働時間を表現する──という機能を持つ──ことになります。

こうして、諸商品の共同の働きかけによって貨幣が成立すると、諸商品はすべて、その「価値」の大きさ(支出労働量)を金という単一の貨幣商品によって、つまり金という特定の物体の一定量で、共通に表示することができます(これが「価格」です)。すべての商品(貨幣である金を除いた)は、価格という共通な姿をもつことによってはじめて、相互にその価値の大きさを──直接に労働時間としてではなく、対象化された労働時間としての意味をもつ一定の金量としてですが──測り得ることになり、したがってまた一定の比率で同じもの、交換可能なものとして関係できるものになり、名実ともに商品になることができるのです。(これが「価値の価格への転化」と言われるものです。)

ところで、諸商品においては、ある商品はそれに含まれる労働量が等しい他の商品と関係します。しかしながら、貨幣の役割においては、貨幣商品・金は、それに含まれている労働量が等しいということによって他の商品と関係しているのではない、ということに注意が必要です。諸商品は、他の商品と交換されるためには、それに含まれている価値の大きさが他の商品と等しくなければなりません。だからこそ諸商品はその価値の大きさを貨幣で共通に測りあわなければなりません。しかし、貨幣・金は単に諸商品が相互に価値の大きさを表示するための共通の物質的“材料”として物質的尺度として、この関係に持ち込まれているだけなのです。貨幣・金は、諸商品にとって、それに含まれている労働量が諸商品と等しいという役割において価値表現のなかに持ち込まれたのではありません。それは、対象化された人間労働の一定量を表現する“物質的材料”としてとしてのみ、言い換えれば、諸商品に含まれている具体的な諸労働を無差別な「人間労働」に還元する役割のためにのみ、この関係のなかに持ち込まれているにすぎないのです。このことは貨幣の役割を理解するうえで重要です。

貨幣の価値尺度機能について、久留間鮫造は『貨幣論』において分かりやすく触れていますので紹介しておきます。

 「実際に売買される場合の価格の高さが何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、<量ではなくて>形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつかという問題、これをわれわれは、まず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。

 商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、結局、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品に替わるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。

ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、言うまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、その代わりに金が与えられる。

これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲与されるということは、ひっきょう<結局は>、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎ捨てられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味なのです。

このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによってまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに──すなわち貨幣に──されていることを前提するので、それによってはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な労働への転化を意味することになりうるわけです。

ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している“尺度の質”というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(大月版、P180)

3)商品の「価格」が、「観念的な」ものであるということはどういうことか

さて、マルクスは1)の引用に次いで、こう述べます。

 「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらのものそのもののうちに存在する。この価値は、これらのものの金との同等性<等置……レポータ>によって、いわばただこれらのものの頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらのものの価格を外界に伝えるためには、…略…これらのものに紙札をぶら下げるかしなければならないのである。商品価値の金による表現<すなわち価格……レポータ>は観念的なものだから、この機能<すなわち価値尺度機能……レポータ>のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品に価格という形態または想像された金形態を与えても、まだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」(全集版、P126)

(1)「観念的」なものと対置されるのは「物質的」なものであって、「実在的」なものではない、という点について

以下、次回です。

2017年7月17日




http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=7

 ③ 「読む会」だより(17年9月用) 文責IZ

(前回の報告)
8月の「読む会」では、(前回の報告)の部分についてはとくに質問や意見は出ませんでした。
(説明)の「(3)なぜに観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのか」の部分では、まず「“堅い”貨幣」というのはどういう意味か、自分は価格は需要等によって変化すると考えているのでその意味がよく分からない、という質問が出されました。
これに対しては、別の参加者の方から、「価格は抽象的なものだが、それが転換する貨幣は具体的で実在的なものだ、という意味で“堅い”と言われているのでないか」という意見が出されました。需要の変化等によって価格が変動するのは事実ですが、そのことと商品の価値はいつでも価格として相対的に表現されねばならないということとは、問題が別のことのように思われます。

また、価格は価値形態の発展した形態である、ということに関連して、チューターは「価値形態」という言葉は、はじめて読む人には難しいと思われる。「価格」を含めて、「価値形態」というのは、商品による価値の相対的な「表現方法」のことだと理解して読んでいただくと分かりやすいのではないかと述べました。
これにたいしては、「価値の形態(姿)」という言い方もある。この場合には「表現方法」と読むのはどうか、という意見が出されました。チューターは、たしかにその場合にはたとえば金が価値そのものを表現するものとされるという意味だ。しかしそうした場合にも、金にそのような役割が与えられるのは、商品相互による一定の表現方法によってそうなるということが重要なので、「表現方法」と基本的に考えてよいのではないか、と答え了解されました。
関連してチューターは、(報告)の引用部分で「価格は、1トンの鉄の価値を1オンスの金<右辺の商品>が鉄<左辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄<左辺の商品>の方が金<右辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのではない」とマルクスが強調していることに注意していただきたいと述べました。

また口頭説明のなかで、商品は価格をもったからと言っても、そのことによってすぐに別の商品との無条件の交換可能性を持つわけではない。マルクスは商品が価格をもつことを「理論的準備段階」という言い方もしているが、無条件の交換可能性を持つためには、いったんその特殊な使用価値の姿を脱ぎ捨てて貨幣・金に置き換わらなければならない。一般的等価物に置き換わってはじめて何とでも交換可能なものになる。と触れた点について、価格をもったからと言って商品は無条件の交換可能性を持ったわけではなく、貨幣になってはじめてそうなるというのは“当たり前”のことではないか、という質問が出されました。
チューターは、貨幣・金が何とでも交換可能だということは“当たり前”のように見えるが、それが商品の交換によって社会生活を全面的に成立させる必然性(価値)と結びついているということ。またそれは無差別な人間労働の対象化と見なされるがゆえにそうしたものであること。あるいは商品交換の一部分(媒介部分)としてもつ役割としてそうしたものになっているということは、なかなか目には見えないのではないか、と述べました。

さらに「マルクスは貨幣経済ではなくて、むしろ直接に物と物とが交換されるような体制のことを考えていたのではないか」という質問が出されました。
チューターは、その昔、バーター貿易といったものが社会主義の一つの目安だなどとされていた時代もあった。しかしマルクスが物々交換のようなものを目指していたなどと言えないことは、第2章で直接的生産物交換について、それは商品交換の未発展なものとされていることからも明らかだろう。社会主義というのは、物と物とが“貨幣抜き”に交換されるというようなことではない。それは、“労働(社会的労働)”が意識的な活動として現れ──つまり、どのような使用価値をどれだけ作るために、総労働時間をどのようにそれぞれに振り向けるのか、ということを人間自身が自覚的に組織するのだから──、支出労働時間が“物(の価値)”という姿をとらないということであり、だからこそ“貨幣”も必要ないということだ、と説明しました。

「4)想像的な価格形態」とはどのようなものか」の部分は、時間が無くなったためにあまり検討する時間がありませんでした。
(報告)のなかで、「商品の価値は、その生産に必要な社会的労働時間に対する“必然的な関係”を表現している」と述べてあるのは、所与の生産力のもとでは、一定の使用価値の生産のためには社会の総労働のうちの規定された幾らかが支出されなければならない、というような意味だということを補足しておきます。

2017年9月10日


  ④「読む会」だより(17年11月用) 文責IZ

(前回の報告)
9月の「読む会」では、まず(前回の報告)の部分で、「“観念的な”価値尺度のうちには“堅い”貨幣が待ち伏せしている」という表現について、やはりよく分からないという意見が再度出されました。この点については、参加者から「以前は金貨や銀貨もあったし、貨幣が硬貨だったからにすぎないのではないか」という意見が出されました。
チューターとしては、それはそうとして、むしろ“待ち伏せしている”という表現に注意してほしい。それは諸商品が貨幣に転換されなければならない“必然性”のことを、もっと言うならば諸商品が「価格」として互いに同質・同等なものとして表現されなければならない“必然性”のことを言っているということに注意してほしいと述べました。

この点は、第2節「流通手段」の理解ともかかわっており、たんなる言葉の問題ではないと思われますので、もう少し説明しておきます。
問題となっているのは、3章第1節の最後のパラグラフ「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」(全集版、P137)という部分です。
商品の価値というのは、諸商品を社会的に同等な必要労働時間の支出の一部分として見るということです──そして、その意味で商品の価値は観念的なものです。諸商品は、社会的に必要な労働支出の一部として見るならば相互に同等であり、だから一定の割合で相互に交換可能でなければなりません。(そうでなければ、商品交換によって社会生活を全面的に成立させることができないのですから。)
しかしながら諸商品は、相互に異質であるからこそ交換されるのであってみれば、そうした同等なものとしての姿をその商品自身の姿で、すなわちその現物形態、使用価値としての姿そのもので表現できません。だからそうした相互に同等な姿を、「交換過程で」「かけまわっている」“一つの”貨幣商品(金ないし銀)との“等価”での表現を通じて、“共通に”表現することしかできません。このように貨幣商品で“相対的に”表現された価値の表示が「価格」です。
(“相対的に”というのは、諸商品が一つの貨幣商品で“共通に”価値を表示すると言っても、それは社会的必要労働時間そのものの表示ではないのだからです。また、本来“共通な”ものは、諸労働の社会的な労働としての同等な性格なのですが、商品交換すなわち社会的に共通な労働としてではなく、相互に独立して営まれる私的労働を基礎にしているかぎり、労働の社会的な性格は生産物である商品の性格として現われるほかないからです。)
こうして諸商品が「価格」をもつということ、つまり商品の“価値”が相互に共通な一つの貨幣商品(の大きさ)として、言いかえれば“自分自身とは異なる物”で表現されるということは、諸商品が価値として、他商品と社会的に同等なものとして現われるためには、いったんそれ自身の姿を捨てて、自分自身とは異なる「貨幣」の姿をとらねばならないということでもあります。
「それゆえ」──直接的生産物交換(物々交換)とは異なって──諸商品があらかじめ「価格形態」をもつということは、一方では、特定の商品である金・銀が「交換過程で貨幣商品としてかけまわって」諸商品と等置され、諸商品に共通な等価物となることで「観念的な価値尺度として機能」するということすなわち貨幣になるということです。そこでは貨幣商品は、その現物の使用価値とは関係のない、他商品の価値の表現物として機能するという社会的機能をもちます。他方そのことは同時に、諸商品が価値として機能し、他の商品と一定の割合で置き換わるためには、“実際に”価値の形態として社会的に認められた一定量の貨幣商品(金ないし銀)にいったん置き換わらなければならない、という必然性が「待ち伏せている」ということでもあるのです。

商品の「価格」は、なにか生産者が勝手に付けることができる“恣意的”なものに見えます。それは「価格」が、たんに一定量の貨幣・金との「等置」を表示するだけであり、その意味で「観念的な」ものだからです。しかし「価格」は、商品の価値、すなわちその商品を生産するのに必要な社会的必要労働時間の“独特な”表示方法であることを理解するならば、それは決して“恣意的”・“主観的”なものではなくて、生産力の状態や特定の労働への労働の偏りなどによって社会的に規定される客観的なものなのです。(だから「誰が価格を付けるのか?」といった疑問は無意味です。)だからこそマルクスは3章第1節のはじめのほうで、「それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには……、これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである」(全集版 P127)と語っているのです。

補足が長くなりましたので、(前回の報告)部分で出た、その他の質問・意見については省略します。
(説明)の部分は、前の部分での議論が長くなり、前半の二つのパラグラフをチューターが読むだけで終わり、検討は次回にということになりました。
なお、(説明)の3パラグラフの引用で<>内でチューターが補足した「彼ら」というのは、当時の経済学者とりわけリカードやベーリが念頭に置かれています。(原注32、36などを参照ください。

 
 

 暴走野放しより真実を

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年10月27日(土)11時02分35秒
返信・引用
   暴走野放しより真実を
 暴走をを隠すために親父を馬鹿のままにし此方の口を塞ぐため完全沈黙のかん口令を敷かれた。関わった人も団体も友達も全部取り上げ、別団体は行かせず社会参加は全部妨害した。
 当時自立支援法が廃止になっていたため相手は障害者一人と法務省はばれなければいいと容認していた。これが見解も打開策も言えなく揉み潰ししか出来ないことになる。
 法務局は遠いから手紙にしていたが20回以上出して返事は知事に暴走目こぼし権なんか無いとかばうだけで後は一つも答えない。全国の社協などにメールしていたのを司法のネズミ捕りにかけて知事に有利にされていた。
 6月にもう諦めたいと初めて法務省にメールしたら諦めるなと言い水沢に行けと言う。行ってみたら掲示板に実名使うと訴えられるぞというだけ。
 これはかん口令を逆手にとって書きたい放題にしたこと。 批判も反論も一つも来ない。来たのは妨害だけ。
 掲示板の一部は外国に流せれていることから辞めさせろと言うのが本根と判る。法務局に疑問が募る。世界一安全とは眉唾でないか。
 親父の仕事の記録は県庁に届けたら突っ返された(8年位前)。北上と奥州には親父を馬鹿と言って名誉市民になっている人がいてそれぞれにも届けると知らん顔で全国の社協にも届け岩手の態度も伝えました。暴走はは丸見えで全国の社協は他県に関われなく批判は口に出来ないと思いますが失笑や後ろ指が飛んだことと思います。町の人にしても誰も親父を馬鹿と言う人はいない。友の会に乗せられた社協理事1人いるだけです。知事はそれでも厚顔で沈黙するでしょう。
 法務省は世界一頼りない結果にするより真実を話すしかないでしょう。
 もう12年でい加減に諦めたらと言う声もありますが此方にすれば友達を一人残らず取り上げられています。普通校の出で健聴者、聾唖者どっち側にも入れなく1人で友達作りは困難で12年の完全孤立です。次期会長だからと聾唖者の猜疑心から出た口利いた事も無い親父を馬鹿とをそのままにして暴走を隠し名誉市民にもなる団体はかばう価値もない。聾唖者の社会は知らなかったと言えは正義になる特権が出ています。


 

 資本論・単純な価値形式の全体・第二の形態 第三の形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月26日(金)14時26分30秒
返信・引用 編集済
    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_2


  4. The whole of the simple value form
    単純な価値形式の全体

①ー①ある商品の単純な価値形態は、その商品との価値関係に含まれているか、同じ商品と交換されています。
商品Aの価値は、商品Bの商品Aへの即時的代替性によって定性的に表される。
これは、ある量の商品Bと所定の商品数量Aとの互換性によって定量的に表される。

①ー②<75>換言すれば、A商品の価値は、その表現によって「交換価値」として独立して表現される。この章の冒頭で、流行の中でマナーが使われた場合:商品は使用価値と交換価値でありとしたが、これは正確には間違っている。

①ー③商品は、使用価値または商品「価値」です。
それは、その価値が、その自然な形とは異なる、外見の形とは異なる、交換価値のものと異なるとすぐに、それが何であるかの二倍であり、この形態を決して孤立して保有することはありません。第二の、異なる商品との。

①ー④しかし、もしそれが分かっていれば、その話し方は害ではなく、略語として役立ちます。
我々の分析は、商品の価値形態または価値表現が、商品価値の性質から生じるものであり、価値と価値の大きさは、交換価値としての表現から生じるものではないことを証明した。

②ー①しかし、この反対はフェリエやガニャゥなどの重商主義者と現代のむしかえしやの妄想である(22)だけでなく、彼らの対--対象物、近代的な自由貿易のバスティアやそのなかまの妄想でもある。

②ー②重商主義者は、価値の観かたの質的側面を重視している。したがって、 金額にて完成した形をしている商品の同等の形態に重きをおき - 現代の自由貿易商人 は- 商品を何らかの価格で投じなければならず - 相対的なWertformの定量的な側面に重きをおく。

②ー③だから、為替レートによる表記を除いて、商品の価値も価値のサイズも存在しないため、毎日Preiskurantsの伝票にのみ存在します。スコット、マクレッドは、ロンバードストリートの考え方を可能な限り挑発するという役割の中で、迷信のない 重商主義者と啓発された自由貿易商人の間の成功した統合を構成している。

③ー①商品Bの価値関係に含まれる商品Aの価値をより詳細に調べると、商品Aの自然形態は使用価値の形としてのみ適用され、商品Bの自然形態はWertformまたは価値のすがたとみなされる。

③ー②したがって、商品に内包されている使用価値と価値の内在的な反対は、外部の反対派によって表される。価値が表現されている商品を直ちに使用価値とみなし、価値を表現する他の商品を直ちに交換価値とみなす2つの商品の関係により、価値とみなされる。
したがって、商品の単純な価値形態は、それに含まれる使用価値と価値との間の対比の単純な現れである。

 ④労働生産物は、すべての社会的条件において商品であるが、歴史的に決定された発展の唯一の時期のみであって、公益事業の生産に費やされた労働を「客観的」財産として表すものであり、したがって、商品の単純な価値形態は、同時に、作業製品の単純な商品形態であり、すなわち、 その価値として、作業成果物を商品に変換します。そのため、商品形態の発展も価値形態の発展と一致します。

 ⑤最初の一見は、一連の変態によって価格形態にしか成熟しない単純な価値形態であり、このこの胚の形の不十分さを示している。

 ⑥任意の商品Bでの表現は、商品Aの価値をそれ自身の使用価値から区別し、したがって、他のすべての商品との質的同等および量的比例性を表す代わりに、それ自体と異なる特定の商品とのみ交換する。
商品の単純な相対価値形態は、別の商品の単一の同等の形態に対応する。
したがって、キャンバスの相対的な表現では、スカートは、この単一のタイプのキャンバスに対して、直接的に互換性のある形態または形態のみを有する。

⑦ー①その間、単一の価値のフォームは、それ自身のより完全なフォームになります。 これにより、商品Aの価値は、他の種類の商品にしか表現されない。 しかし、この第二の商品は、岩石、鉄、小麦などどのようなものであれ、このことにかなり無関心である。 したがって、それがこの商品または他の商品との価値関係に入るにつれて、同じ商品の価値の異なる単純な表現が生じる。

可能な価値表現の数は、それらの異なる種類の商品の数によってのみ制限されます。 そのような価値の観かたの特異な表現は、さまざまな単純な価値の観かたのうちの延長可能な一連のものに変わります。


  B)合計または展開された価値フォーム

<77> z財A = u財Bまたは= v財Cまたは= w財Dまたは= x財Eまたは=など
(20ヤードのリネン= 1コートまたは= 10ポンドの紅茶または= 40ポンドのコーヒーまたは= 1 1/4の小麦または= 2オンスの金または1/2トンの鉄または=等)

 1.展開された相対価値フォーム
 たとえば、商品の価値、キャンバスは、商品世界の無数の要素で表現されています。 他のすべてのボディは、キャンバスの価値鏡になります。 (23)
 <a mirror of the canvas value.>
したがって、この価値そのものは、まず無差別な人間の労働のゼリーとして現れます。 それを構成する作品については、他のすべての人間労働に無関心な作品として明示的に提示されています。それは、それが常に所有する自然の形態であり、それゆえそれ自体が岩石や小麦、鉄や金などです。 したがって、その価値形態のために、キャンバスは、もはや単一の他の商品との社会関係になく、商品世界へとつながっている。 商品として、彼女はこの世界の市民です。 同時に、彼の表現の無限のシリーズでは、商品価値はそれが現れる特定の形の使用価値に無関心である。

<78>最初の形式:20キュビットキャンバス= 1スカートこれは、これらの2つの商品が一定の量的比率で交換可能であるという偶然の事実かもしれません。
一方、第2の形態では、偶発的な現象と実質的に異なる背景を決定し、それを直ちに決定する。
キャンバスの価値は、さまざまな所有者に属する数え切れないほどの品物で、岩やコーヒー、鉄などにとどまらず同じです。
2人の個々の財産所有者の間の偶然の関係は低下し続けている。 それは、商品の価値を規制する交換ではなく、逆に商品の価値が交換関係を規制していることが明らかになります。

 2.特定の同等の形態
 すべての商品、岩、茶、小麦、鉄などは、キャンバスの価値表現に相当するものであり、したがって価値体であるとみなされます。 これらの商品のそれぞれの特定の自然形態は、他の多くのものの中でも特に同等の形態である。 同じように、さまざまな種類の物品に含まれている具体的で具体的で有用な仕事は、今や人間の労働の一般的な表現や表現と同様にみなされています。

  3.総額または展開された価値フォームの欠陥
 ①第一に、商品の相対価値表現は、その一連の表現が決して完了しないために未完成である。ある価値と観なすことが、他の価値と観なすことに加わる連鎖は、価値の新しい表現の素材を提供するあらゆる新しい種類の商品によって絶え間なく拡大可能である。

第二に、異質で多様な価値の観なしはのカラフルなモザイクです。
最終的にすべての商品の相対価値がこの展開された形態で表現されている場合、各商品の相対価値形式は無限の一連の価値の観なしであり、すべての他の商品の価値の相対的な形態であり - この展開された相対価値フォームの欠点は、対応する同等のフォームに反映されます。

 個々の商品の自然形態はここでは特定の同等の形態であり、無数の他の特定の等価形態と並んでいるため、限定された同等の形態のみが存在し、それぞれは互いに排他的である。

同様に、特定の商品同等物に含まれる具体的で具体的で有用な作業様式は、徹底的ではなく、人間の労働の兆候であるに過ぎない。これは、その特定の症状の全周にわたって完全な、または完全な症状を有する。しかし、それは均一な外観を持っていません。

 ②ただし、展開された相対値形式は、単純な相対値式または最初の形式の式の和のみで構成されます。
20ヤードのキャンバス= 1スカート
20ヤードのリネン= 10ポンドの紅茶など
ただし、これらの方程式のそれぞれには、同じ等式が含まれています。

1 Rock = 20 Ellen Leinwand
10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand usw.

 ③実際に、男性が他の多くの商品と彼のキャンバスを交換し、それゆえに多くの他の商品で彼の価値を表現すれば、他の多くの商品所有者は必ず商品をリネン交換する必要があります。 同じ第3商品へとエクスプレス、キャンバスで。
我々はシリーズに戻りましょう:20ヤードのリネン= 1コート、または= 10ポンド。 茶、または=など、つまり、すでにシリーズに含まれている推論を表現すると、次のようになります。


   C) Allgemeine Wertform  一般的価値形態
      1 Rock = }20 Ellen Leinwand
   10 Pfd. Tee =
  40 Pfd. Kaffee =
  1 Qrtr. Weizen =
  2 Unzen Gold =
 1/2 Tonne Eisen =
    x Ware A =
    usw. Ware =

1. Veränderter Charakter der Wertform
1.価値形式の変更された性格 Changed character of the value form

① Die Waren stellen ihre Werte jetzt 1. einfach dar, weil in einer einzigen Ware und 2. einheitlich, weil in derselben Ware. Ihre Wertform ist einfach und gemeinschaftlich, daher allgemein.

①これで、商品はその値を設定しました1。
単純なので、単一の商品と2.
制服のため、同じ商品の中で。 それらの価値形式は単純で共同体であり、それ故に一般的である。

①The goods now represent their values 1. simply because in a single commodity and 2. uniformly, because in the same commodity. Their value form is simple and communal, therefore general.

②<80> Die Formen I und II kamen beide nur dazu, den Wert einer Ware als etwas von ihrem eigne Gebrauchswert oder ihrem Warenkörper Unterschiedenes auszudrücken.
②フォームIとフォームIIはどちらも、商品の価値をそれ自体の使用価値または--商品本体とは区別して表現したものである。
② Forms I and II both came only to express differences in the value of a commodity as something of its own use-value or commodity-body.

③ Die erste Form ergab Wertgleichungen wie: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand, 10 Pfd. Tee = 1/2 Tonne Eisen usw. Der Rockwert wird als Leinwandgleiches, der Teewert als Eisengleiches usw. ausgedrückt, aber Leinwandgleiches und Eisengleiches, diese Wertausdrücke von Rock und Tee, sind ebenso verschieden wie Leinwand und Eisen. Diese Form kommt offenbar praktisch nur vor in den ersten Anfängen, wo Arbeitsprodukte durch zufälligen und gelegentlichen Austausch in Waren verwandelt werden.
③最初の形式は、1スカート= 20ヤードのキャンバス、10ポンドの茶= 1/2トンの鉄などのような値の式を生じさせた。スカートの値は、スクリーンの等価物、鉄の等価物のティー値 。しかし、同等の鉄と同等の鉄、岩と茶の価値形態は、キャンバスや鉄とまったく同じです。 このフォームは明らかに、作業成果物が偶発的かつ時折の交換を通じて商品に変わる、当初からのみ発生します。
 <where work products 作業成果物・・・
 --「この形態が明瞭に実際に現れるのは、ただ労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。」岩波P120 河出訳P61 国民文庫P124 全て同じ訳><「ただ労働生産物が、・・商品に転化される」--では、マルクスの批判が消えている!>

③  The first form gave equations of value such as: 1 skirt = 20 yards of canvas, 10 pounds of tea = 1/2 ton of iron, etc. The skirt value is expressed as a screen equivalent, the tee value as iron equals, etc., but canvas equals and iron equals, these value expressions of rock and tea are as different as canvas and iron. This form apparently only occurs in the very beginning, where work products are turned into commodities through accidental and occasional exchange.

④ The second form differentiates more completely than the first one the value of a commodity from its own use value, because the value of the skirt e.g. now he is confronting his natural form in all possible forms, as a canvas equal, equal in iron, tea-like, etc., everything else, only not rock-like. On the other hand, here every common expression of value of the goods is directly excluded, because in the expression of value of each commodity now all other goods appear only in the form of equivalents. The developed form of value first appears, in fact, as soon as a working product, cattle, for example, is no longer exchanged on an exceptional basis, but habitually exchanged with various other commodities.

④第2の形態は、第1の形態よりも完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値と、スカートの価値とを区別する。 今では彼はすべての可能な形で彼の自然の形に直面しています。キャンバス相当、鉄、紅茶など、他のすべてに等しい、岩と同じではありません。 一方で、ここでは商品の価値の表現はすべて排除されている。なぜなら、各商品の価値の表現では、他のすべての商品は同等の形でしか現れないからである。 開発された価値形態は、実際には、実際には、例えば、畜産物が例外的に交換されなくなるとすぐに現れるが、他の様々な商品と頻繁に交換される。

④ Die zweite Form unterscheidet vollständiger als die erste den Wert einer Ware von ihrem eignen Gebrauchswert, denn der Wert des Rocks z.B. tritt jetzt seiner Naturalform in allen möglichen Formen gegenüber, als Leinwandgleiches, Eisengleiches, Teegleiches usw., alles andre, nur nicht Rockgleiches. Andrerseits ist hier jeder gemeinsame Wertausdruck der Waren direkt ausgeschlossen, denn im Wertausdruck je einer Ware erscheinen jetzt alle andren Waren nur in der Form von Äquivalenten. Die entfaltete Wertform kommt zuerst tatsächlich vor, sobald ein Arbeitsprodukt, Vieh z.B., nicht mehr ausnahmsweise, sondern schon gewohnheitsmäßig mit verschiednen andren Waren ausgetauscht wird.

⑤ Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wert jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendadurch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese Form bezieht daher wirklich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen.

⑤新たに得られた形態は、商品世界の価値を、それと分離された同じ種類の商品に表現する。 それによってキャンバスとの同等性によってすべての商品の価値を表現することができます。
キャンバスに同等するので現在の価値は、それ自身の使用価値からだけでなく、すべての商品に共通しているため、すべての商品の使用価値から区別されます。
諸商品を価値としてまとめたり、諸商品を交換価値として見せたりするのは、この形式だけです。
⑤  The newly obtained form expresses the values of the commodity world in one and the same kind of commodity separated from it, e.g. in canvas, thus representing the values of all goods through their equality with canvas. As canvas-like, value is now distinguished not only from its own use-value, but from all use-value, and therefore from that which is common to all commodities.
It is this very form that really takes commodities into one another as values or makes them appear to each other as exchange values.

⑥ Die beiden früheren Formen drücken den Wert je einer Ware, sei es in einer einzigen verschiedenartigen Ware, sei es in einer Reihe vieler von ihr verschiednen Waren aus. Beidemal ist es sozusagen das Privatgeschäft der einzelnen Ware, sich eine Wertform zu geben, und sie vollbringt es ohne Zutun der andren Waren. Diese spielen ihr gegenüber die bloß passive Rolle des Äquivalents. Die allgemeine Wertform entsteht dagegen nur als gemeinsames Werk der Warenwelt. Eine Ware gewinnt nur allgemeinen Wertausdruck, weil gleichzeitig alle andren Waren ihren Wert in demselben Äquivalent ausdrücken, und jede neu auftretende Warenart muß das nachmachen. Es kommt damit zum Vorschein, daß die Wertgegenständlichkeit der Waren, weil sie das bloß "gesellschaftliche Dasein" dieser Dinge ist, <81> auch nur durch ihre allseitige gesellschaftliche Beziehung ausgedrückt werden kann, ihre Wertform daher gesellschaftlich gültige Form sein muß.

⑥前の2つの形式は、単一の個別の商品であろうと、多くの異なる商品であろうと、各商品の価値を表しています。 どちらの場合も、それはいわば、個々の商品の私的事業が価値形態を与えることであり、他の商品の介入なしに達成します。 彼らは彼女に対抗するだけの受動的な役割を果たす。

一方、一般的価値形態は、商品世界の共同の仕事としてのみ生じる。
他のすべての商品は、同時に、同じ価値で表現され、新しい商品はすべてそれを模倣しなければならないため、商品は一般的な価値表現のみを取得します。

したがって、諸商品の価値客観性<the value-objectivity><価値対象性--は誤訳>は、これらの物の単なる「社会的存在」< "social existence" >であるため、彼らの普遍的な社会関係によってのみ表現することができ、したがって、その価値形態は社会的に有効な形態でなければならないことは明らかである。

⑥ The two earlier forms express the value of each commodity, whether in a single, distinct commodity, or in a number of many different commodities. In both cases it is, so to speak, the private business of the individual commodity to give itself a value form, and it accomplishes it without the intervention of the other commodities. They play towards her the merely passive role of the equivalent. By contrast, the general value form arises only as a common work of the world of commodities. A commodity acquires only general value-expression, because at the same time all other commodities express their value in the same equivalent, and every new commodity must imitate it. It thus appears that the value-objectivity of commodities, because it is the merely "social existence" of these things, can only be expressed through their universal social relationship, that their value form must therefore be socially valid form.

⑦ In der Form von Leinwandgleichen erscheinen jetzt alle Waren nicht nur als qualitativ Gleiche, Werte überhaupt, sondern zugleich als quantitativ vergleichbare Wertgrößen. Weil sie ihre Wertgrößen in einem und demselben Material, in Leinwand bespiegeln, spiegeln sich diese Wertgrößen wechselseitig wider. Z.B. 10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand, und 40 Pfd. Kaffee = 20 Ellen Leinwand. Also 10 Pfd. Tee = 40 Pfd. Kaffee. Oder in 1 Pfd. Kaffee steckt nur 1/4 soviel Wertsubstanz, Arbeit, als in 1 Pfd. Tee.

⑦キャンバスの形式では、すべての商品が定性的には同じ値であるだけでなく、同時に量的に比較可能な値のサイズと同時に現れます。 キャンバスでは、これらの値が1つの同じマテリアルに反映されるため、これらの値は相互に反映されます。 例えば、茶10ポンド=リネン20キュビット、コーヒー40ポンド=リネン20キュビット。 だから10ポンドの紅茶= 40ポンドのコーヒー。 または1ポンドのコーヒーでは、1ポンドの紅茶の場合と同じくらい、有益な物質、労働力の1/4しかありません。

⑦In the form of canvas equals now all goods appear not only as qualitatively the same, values ??at all, but at the same time as quantitatively comparable value sizes. Because they reflect their values ??in one and the same material, in canvas, these values ??reflect each other reciprocally. Eg 10 pounds of tea = 20 cubits of canvas, and 40 pounds of coffee = 20 cubits of linen. So 10 pounds of tea = 40 pounds of coffee. Or 1 lbs. Of coffee only put 1 / 4 as much substance of value, labor than 1 lbs. Of tea.
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⑧ Die allgemeine relative Wertform der Warenwelt drückt der von ihr ausgeschlossenen Äquivalentware, der Leinwand, den Charakter des allgemeinen Äquivalents auf. Ihre eigne Naturalform ist die gemeinsame Wertgestalt dieser Welt, die Leinwand daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar. Ihre Körperform gilt als die sichtbare Inkarnation, die allgemeine gesellschaftliche Verpuppung aller menschlichen Arbeit. Die Weberei, die Privatarbeit, welche Leinwand produziert, befindet sich zugleich in allgemein gesellschaftlicher Form, der Form der Gleichheit mit allen andren Arbeiten. Die zahllosen Gleichungen, woraus die allgemeine Wertform besteht, setzen der Reihe nach die in der Leinwand verwirklichte Arbeit jeder in andrer Ware enthaltenen Arbeit gleich und machen dadurch die Weberei zur allgemeinen Erscheinungsform menschlicher Arbeit überhaupt. So ist die im Warenwert vergegenständlichte Arbeit nicht nur negativ dargestellt als Arbeit, worin von allen konkreten Formen und nützlichen Eigenschaften der wirklichen Arbeiten abstrahiert wird. Ihre eigne positive Natur tritt ausdrücklich hervor. Sie ist die Reduktion aller wirkliche Arbeiten auf den ihnen gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit, auf die Verausgabung menschlicher Arbeitskraft.
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⑧ The general relative value form of the commodity world expresses the excluded commodity, the canvas, the character of the general equivalent. Its own natural form is the common value-form of this world, the canvas therefore directly interchangeable with all other commodities. Their body form is considered the visible incarnation, the general social pupation of all human work. Weaving, the private work which produces canvas, is at the same time in a general social form, the form of equality with all other works. The innumerable equations, of which the general form of value consists, in turn equate the work done in the canvas with all labor contained in other commodities, and thereby make weaving the general manifestation of human labor in general. Thus the work embodied in commodity value is not only presented negatively as labor, abstracting from all concrete forms and useful qualities of real works. Her own positive nature is explicit. It is the reduction of all real work to the common character of human labor, to the expenditure of human labor.
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⑧ー①商品世界の一般的な相対価値形式は、除外された等価商品、キャンバスに、一般的な等価物の性質を表現する。それ自身の自然形態は、この世界の共通の価値形態<the common value-form >であり、したがってキャンバスは他のすべての商品と直接交換可能です。

⑧ー②彼らの身体形態は、すべての人間労働の一般的な社会的蛹化、可視化された化身と見なされます。
キャンバスを生み出す私的な製織の織物労働は、同時に他のすべての労働と同等な形の一般的な社会的形態であります。

⑧ー③次に、キャンバスで行われた作業と他の商品に含まれるすべての労働とを同一視することで、一般的人間労働の一般的な発現 をそれにより製織しているのです。したがって、商品価値に客観化された労働は、すべての具体的な形や実際の労働の有用な性質から抽象化された労働として否定的に提示されるだけでなく、彼女自身の肯定的な性質は明白です。それは、すべての現実の仕事を人間労働の共通の性格、人間労働力の支出に還元することです。

⑨ Die allgemeine Wertform, welche die Arbeitsprodukte als bloße Gallerten unterschiedsloser menschlicher Arbeit darstellt, zeigt durch ihr eignes Gerüste, daß sie der gesellschaftliche Ausdruck der Warenwelt ist. So offenbart sie, daß innerhalb dieser Welt der allgemein menschliche Charakter der Arbeit ihren spezifisch gesellschaftlichen Charakter bildet.
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⑨ The general form of value, which presents the working products as mere jellies of indiscriminate human labor, shows through its own framework that it is the social expression of the world of commodities. Thus it reveals that within this world the universally human character of labor forms its specifically social character.
⑨<The general form of value,>一般的価値形態は労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現しているし、それが商品世界の社会的表現であるということを、それ自体の枠組みを使って示している。したがって、この世界の中では、一般的人間労働がその社会的特質を形成していることが明らかになった。
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  <一般的価値形態は労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリー・・・
  ・・・これは誤訳では?
  以下、⑧⑨段落の訂正をしてみました。そして、その検討をしてみました。>

⑧商品世界的一般相對價値形式表達被排除的商品,畫布,一般等價物的特徴。
它自己的自然形態是這個世界的共同價値形式,因此畫布可以直接與所有其他商品互換。
  商品世界の一般的な相対価値形式は、この商品世界から除外された商品の、
  キャンバスであり、およびそこに一般的な同等物の特性を表します。
  それ自身の自然な形態は、この世界の一般的価値形態であるので、キャン
  バスは他のすべての商品と直接交換することができます。

他們的身體形態被認為是可見的化身,是所有人類工作的一般社會化身。
  それらの物理的な形態は、肉体の目に見える具体化とすべての人間の仕事
  の一般的な社会的具体化と考えられます。

編織,製作畫布的私人作品,同時是一般的社會形式,與所有其他作品平等的形式。
  キャンバスの私的な作品を作ること、織ることは、他のすべての作品と同
  様に社会の一般的な形態でもあります。

無數的方程式,其中一般形式的價値構成,反過來將畫布中所做的工作等同於其他商品中包含的所有勞動,
從而編織了人類勞動的一般表現。
  一般的な価値の形式を構成する多数の方程式は、キャンバスで行われる作
  業を他の商品に含まれるすべての作業と同等にして、人間作業の一般的な
  現れを織り込みます。

因此,商品價値體現的作品不僅作為勞動呈現出負面影響,而是從實際作品的所有具體形式和有用品質中抽像出來。
  したがって、商品の価値に具体化された作品は、労働に悪影響を与えるだ
  けでなく、実際の作品のすべての特定の形式および有用な資質から引き出
  されます。

她自己的積極本性是明確的。它是將所有實際工作從人類勞動的共同特徴到人類勞動的支出。
  彼女自身の前向きな性質は明らかです。
  それは人間の労働の共通の特徴からの
  人間労働までのすべての実際的な仕事の支出です。

⑨價値的一般形式,將工作産品僅僅作為不分青紅皂白的人類勞動的果凍,
通過自己的框架表明它是商品世界的社會表達。因此,它掲示了在這個世界中,
勞動的普遍人性形成了其特定的社會特徴。
  一般的な価値形態である作業成果物は、単に無差別な人間の労働のゼリー
  にすぎません。独自のフレームワークを通して、それが商品世界の社会的
  表現であることを示しています。それゆえ、それはこの世界において、
  労働の普遍的な人間的性格がその特定の社会的特徴を形成することを明ら
  かにしている。
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  ⑧工作從人類勞動的共同特徴--人間の労働の共通の特徴からの・・・
                 人間労働までのすべての実際的な仕事の支出
  ⑨工作産品        --作業成果物
  ⑨ the working products ーー the working products
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 <一般的価値形態は労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリー>と示す--
 <「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的な価値形態」
  --国民文庫訳P127・長谷部訳、岩波文庫・向坂訳も統一の同訳です。>
 <一般的な価値形態である作業成果物は、単に無差別な人間の労働のゼリー>ー
 ーとは?
      工作産品--作業成果物 のはたらき・介助がありてなのですし、
      この物象のなす商品世界の「共同行為」にて形成される!であります。
 旧訳は、全てこの物象の働きを排除した。だから、全て、物化論なのです。>

   http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm
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 2. Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform und Äquivalentform

① Dem Entwicklungsgrad der relativen Wertform entspricht der Entwicklungsgrad der Äquivalentform. Aber, und dies ist wohl zu merken, die Entwicklung der Äquivalentform ist nur Ausdruck und Resultat der Entwicklung der relativen Wertform.

②<82> Die einfache oder vereinzelte relative Wertform einer Ware macht eine andre Ware zum einzelnen Äquivalent. Die entfaltete Form des relativen Werts, dieser Ausdruck des Werts einer Ware in allen andren Waren, prägt ihnen die Form verschiedenartiger besonderer Äquivalente auf. Endlich erhält eine besondre Warenart die allgemeine Äquivalentform, weil alle andren Waren sie zum Material ihrer einheitlichen, allgemeinen Wertform machen.

③ In demselben Grad aber, worin sich die Wertform überhaupt entwickelt, entwickelt sich auch der Gegensatz zwischen ihren beiden Polen, der relativen Wertform und Äquivalentform.

④ Schon die erste Form - 20 Ellen Leinwand = 1 Rock - enthält diesen Gegensatz, fixiert ihn aber nicht. Je nachdem dieselbe Gleichung vorwärts oder rückwärts gelesen wird, befindet sich jedes der beiden Warenextreme, wie Leinwand und Rock, gleichmäßig bald in der relativen Wertform, bald in der Äquivalentform. Es kostet hier noch Mühe, den polarischen Gegensatz festzuhalten.

⑤ In den Form II kann immer nur je eine Warenart ihren relativen Wert total entfalten oder besitzt sie selbst nur entfaltete relative Wertform, weil und sofern alle andren Waren sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befinden. Hier kann man nicht mehr die zwei Seiten der Wertgleichung - wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 1 Qrtr. Weizen etc. - umsetzen, ohne ihren Gesamtcharakter zu verändern und sie aus der totalen in die allgemeine Wertform zu verwandeln.

⑥ Die letztere Form, Form III, endlich gibt der Warenwelt allgemeingesellschaftliche relative Wertform, weil und sofern, mit einer einzigen Ausnahme, alle ihr angehörigen Waren von der allgemeinen Äquivalentform ausgeschlossen sind. Eine Ware, die Leinwand, befindet sich daher in der Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit allen andren Waren oder in unmittelbar gesellschaftlicher Form, weil und sofern alle andren Waren sich nicht darin befinden.(24)

⑦ <83> Umgekehrt ist die Ware, die als allgemeines Äquivalent figuriert, von der einheitlichen und daher allgemeinen relativen Wertform der Warenwelt ausgeschlossen. Sollte die Leinwand, d.h. irgendeine in allgemeiner Äquivalentform befindliche Ware, auch zugleich an der allgemeinen relativen Wertform teilnehmen, so müßte sie sich selbst zum Äquivalent dienen. Wir erhielten dann: 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand, eine Tautologie, worin weder Wert noch Wertgröße ausgedrückt ist. Um den relativen Wert des allgemeinen Äquivalents auszudrücken, müssen wir vielmehr die Form III umkehren. Es besitzt keine mit den andren Waren gemeinschaftliche relative Wertform, sondern sein Wert drückt sich relativ aus in der endlosen Reihe aller andren Warenkörper. So erscheint jetzt die entfaltete relative Wertform oder Form II als die spezifische relative Wertform der Äquivalentware.


 2.相対的価値形態とそれに相当する形の発生比率

① 相対価値形式の発展の程度は、同等形態の発展の程度に対応する。しかし、これはおそらく注目されるべきであり、同等形態の開発は、相対価値形式の開発の表現と結果に過ぎない。
① The degree of development of the relative value form corresponds to the degree of development of the equivalent form. But, and this is probably to be noted, the development of the equivalent form is only an expression and result of the development of the relative value form.

② <82> The simple or isolated relative value form of a commodity makes another commodity an individual equivalent. The unfolded form of relative value, this expression of the value of a commodity in all other commodities, imposes upon it the form of various special equivalents. Finally, a particular kind of commodity is given the general equivalent form, because all other commodities make it the material of their uniform, general value form.
②商品の単純または孤立した相対価値形式は、別の商品を個別の同等物にします。
相対価値の展開されていない形態は、他のすべての商品の商品価値の表現であり、様々な特別な同等物の形態をそれらに課している。最後に、特定の種類の商品には、他のすべての商品がその統一された一般的な価値形態の素材になっているため、一般的な同等形態が与えられます。

③しかし、価値形態が全く発展するのと同じ程度で、相対価値形式と同等の形の2つの極の対立が展開されます。
③ But in the same degree in which the value-form develops, the antithesis between its two poles, the relative value-form and the equivalent-form, develops.

④ Even the first form - 20 yards of canvas = 1 skirt - contains this contrast, but does not fix it. Each time the same equation is read forwards or backwards, each of the two commodity extremes, such as canvas and rock, is equally present in the relative value form, now in the equivalent form. It still costs effort to capture the polar opposite.
④最初のフォーム(20ヤードのキャンバス= 1スカート)でも、このコントラストは含まれていますが、修正されません。同じ方程式が前進または後ろ向きに読み取られるたびに、キャンバスおよび岩石のような2つの商品極の値それぞれが、同等の形で相対値形式で等しく存在する。それはまだ反対の極性を取り込む努力を要する。

⑤フォームIIでは、他のすべての商品がそれと反対の形をしている限り、ある種の商品のみがその相対価値を完全に発達させることができます。ここでは、20ヤードのリネン= 1コートまたは= 10ポンドの紅茶または1平方メートルなど、価値の式の2つの側面を見ることはできません。小麦など - 全体的な性格を変えずに総額から一般的な価値形態に変えないでください。
⑤ In Form II only one kind of commodity can ever fully develop its relative value, or it possesses itself only an unfolded relative value form, because and insofar as all other commodities are in the equivalent form opposite it. Here you can no longer see the two sides of the equation of value - such as 20 yards of linen = 1 coat or = 10 pounds of tea or = 1 square. Wheat etc. - without changing their overall character and transforming them from the total to the general value form.

⑥後者のフォームIIIは、最終的に商品世界に一般的な相対価値形態を与えている。
なぜなら、1つの例外を除いて、それに属するすべての商品は一般的な等価形態から除外されているからである。
従って、キャンバスである商品は、他のすべての商品との直接的な互換性の形態、または直接的な社会的形態で存在します。 (24)
⑥ The latter form, Form III, finally gives the world of commodities a general, relative value form, because and, with one single exception, all goods belonging to it are excluded from the general equivalent form. A commodity, the canvas, is therefore in the form of immediate interchangeability with all other commodities, or in direct social form, because and unless all other commodities are in it. (24)

⑦ Conversely, the commodity which figures as a general equivalent is excluded from the uniform and therefore general relative value form of the commodity world. Should the screen, i. If any commodity in a general equivalent form participates at the same time in the general relative form of value, then it ought to serve itself as an equivalent. We then received: 20 cubits of linen = 20 cubits of linen, a tautology in which neither value nor value is expressed. To express the relative value of the general equivalent, we must reverse Form III. It has no relative value form common to the other commodities, but its value is relatively expressed in the endless series of all other commodities. Thus, the unfolded relative value form or Form II appears as the specific relative value form of the equivalent commodity.
⑦逆に、一般的に同等と見なされる商品は、商品世界の統一された、したがって一般的な相対価値形態から除外される。
このスクリーンをみると、一般的な同等の形態の商品が一般的な相対的価値形態に同時に参加する場合、それは同等物として役立つべきである。私たちはそれから、リネン20キュビット= 20キュビットのリネンを受け取りました。ここには値段も価値も表現されていないも同音論です。一般的な同等物の相対価値を表現するためには、フォームIIIを逆にする必要があります。
それは他の商品に共通の相対的価値形態を持たないが、その価値は他のすべての商品の無限シリーズで相対的に表現される。したがって、展開された相対価値フォームまたはフォームIIは、同等の商品の特定の相対価値フォームとして表示されます。

  3. Übergang aus der allgemeinen Wertform zur Geldform
  3一般的価値フォームから貨幣フォームへの移行

① Die allgemeine Äquivalentform ist eine Form des Werts überhaupt. Sie kann also jeder Ware zukommen. Andrerseits befindet sich eine Ware nur in allgemeiner Äquivalentform (Form III), weil und sofern sie durch alle andren Waren als Äquivalent ausgeschlossen wird. Und erst vom Augenblick, wo diese Ausschließung sich endgültig auf eine spezifische Warenart beschränkt, hat die einheitliche relative Wertform der Warenwelt objektive Festigkeit und allgemein gesellschaftliche Gültigkeit gewonnen.

① 一般的な同等の形式は、まったく価値形式です。だから、すべての商品に来ることができます。
一方、商品は同等のものとしては--他のすべての商品から除外されているために、それは一般的に同等の形態(形態III)のみである。そして、この除外が、最終的に特定の種類の商品に限定される瞬間からのみ、商品世界の統一された相対価値形態は、客観的な強さと一般的に社会的妥当性を獲得しています。
① The general equivalent form is a form of value at all. So it can come to every commodity. On the other hand, a commodity is only in general equivalent form (Form III), because and if it is excluded by all other goods as the equivalent. And only from the moment when this exclusion finally confines itself to a specific type of commodity has the uniform relative value form of the commodity world acquired objective strength and generally social validity.

② Die spezifische Warenart nun, mit deren Naturalform die Äquivalentform gesellschaftlich verwächst, wird zur Geldware oder funktioniert als Geld. Es wird ihre spezifisch gesellschaftliche Funktion, und daher ihr gesellschaftliches Monopol, innerhalb der Warenwelt die Rolle des allgemeinen Äquivalents zu spielen. Diesen bevorzugten Platz hat unter den <84> Waren, welche in Form II als besondre Äquivalente der Leinwand figurieren und in Form III ihren relativen Wert gemeinsam in Leinwand ausdrücken eine bestimmte Ware historisch erobert, das Gold. Setzen wir daher in Form III die Ware Gold an die Stelle der Ware Leinwand, so erhalten wir:

②その商品の特定の種類は、その自然な形式が社会的に膨らむ形で、お金になり、お金として働く。
それは、その特定の社会的機能、したがってその社会的独占が、商品の世界の中で共通の役割を果たすようになる。この好ましい場所は、形態IIにおいて、キャンバスの特別な等価物であり、形態IIIでは、集合的にキャンバスで表現される相対価値は、特定の商品である金を明示的に征服する。
したがって、フォームIIIでの製品の金を<the product in form III>
製品の金に置き換えると、次のようになります。

② The specific commodity now, with whose natural form the equivalent form socially engulfs, becomes a commodity or works as money. It becomes its specifically social function, and therefore its social monopoly, to play the role of the universal equivalent within the world of commodities. Among the <84> goods, which are figured in form II as special equivalents of the canvas, and in form III their relative value together in canvas, this preferred place has historically conquered a certain commodity, the gold.
If we therefore substitute the product gold for the product in form III, we obtain:


  D) Geldform  貨幣のフォーム
 20 Ellen Leinwand  =}2 Unzen Gold
       1 Rock =
     10 Pfd. Tee =
   40 Pfd. Kaffee =
   1 Qrtr. Weizen =
  1/2 Tonne Eisen =
      x Ware A =

① Es finden wesentliche Veränderungen statt beim Übergang von Form I zu Form II, von Form II zu Form III. Dagegen unterscheidet Form IV sich durch nichts von Form III, außer daß jetzt statt Leinwand Gold die allgemeine Äquivalentform besitzt. Gold bleibt in Form IV, was die Leinwand in Form III war - allgemeines Äquivalent. Der Fortschritt besteht nur darin , daß die Form unmittelbarer allgemeiner Austauschbarkeit oder die allgemeine Äquivalentform jetzt durch gesellschaftliche Gewohnheit endgültig mit der spezifischen Naturalform der Ware Gold verwachsen ist.

 ①重要な変更は、フォームIからフォームIIへの移行、フォームIIからフォームIIIへの移行で行われます。一方、フォームIVは、キャンバスではなく、金が一般的な同等の形態を有することを除いて、フォームIIIから何も区別しない。ゴールドはフォームIVに残っています。これは、フォームIIIのキャンバスで、一般的なものです。進歩は、即時の一般的な互換性の形、または同等の一般的な形式が最終的に社会的習慣によって商品金の特定の自然な形と結束するという事実にのみある。

① Significant changes take place in the transition from Form I to Form II, from Form II to Form III. Form IV, on the other hand, does not distinguish anything from Form III, except that now instead of canvas, gold has the general equivalent form. Gold remains in Form IV, which was the canvas in Form III - the general equivalent. Progress consists only in the fact that the form of immediate general interchangeability, or the general form of equivalence, is now finally united by social custom with the specific natural form of the commodity gold.

② Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in vereinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Warenäquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle im Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereits Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform.

 ②ゴールドは他の商品に対してはお金としてしか向いていません。他のすべての商品と同様に、それは同等のものとして機能し、切り離された交換ファイルの単一の等価物として、または他の商品同等物の特別な等価物としても機能する。徐々に、それは一般的な同等物としてより狭いまたはより広い円で働いた。
それは、商品世界の値式に独占し、この点を征服したら、それは貨幣商品です、とだけでは、すでに一般的な価値形式は、貨幣形態に変換された形態IIIのIVを形成するために異なったので、それは貨幣-商品となった瞬間からです。

② Gold faces the other goods only as money, because it was already before them as a commodity. Like all other goods, it also functioned as an equivalent, be it as a single equivalent in isolated exchange files, or as a special equivalent among other commodity equivalents. Gradually it worked in narrower or wider circles as a general equivalent. Once it has conquered the monopoly of this place in the value expression of the commodity world, it becomes money commodity, and only from the moment, where it already became money commodity differs form IV of form III, or is the general value form transformed into the money form.

③Die einfache relative Wertausdruck einer Ware, z.B. der Leinwand, in der bereits als Geldware funktionierenden Ware, z.B. dem Gold, ist Preisform. Die "Preisform" der Leinwand daher:

 ③商品の単純な相対価値表現。キャンバスは、すでにお金として機能している商品に含まれています。金は、価格の形式です。
したがって、それは次の--キャンバスの「価格形態」であります。
③The simple relative value of a commodity, e.g. the canvas, in the product already functioning as money, e.g. the gold, is price form. The "price form" of the canvas therefore:
    20 Ellen Leinwand = 2 Unzen Gold
oder, wenn 2 Pfd.St. der Münzname von 2 Unzen Gold,
    20 Ellen Leinwand = 2 Pfd.St.

<85> Die Schwierigkeit im Begriff der Geldform beschränkt sich auf das Begreifen der allgemeinen Äquivalentform, also der allgemeinen Wertform überhaupt, der Form III. Form III löst sich rückbezüglich auf in Form II, die entfaltete Wertform, und ihr konstituierendes Element ist Form I: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder x Ware A = y Ware B. Die einfache Warenform ist daher der Keim der Geldform.

<85>④貨幣形態という概念の難しさは、一般的な等価形態、すなわち一般的な形の一般的価値形態 IIIの理解に限られている。
フォームIIIはフォームIIであり、展開された価値フォームであり、その構成要素はフォームI:20キュビットキャンバス= 1コートまたはxコモディティA = yコモディティBである。したがって、シンプルな商品形態はマネーフォームの胚芽である。

The difficulty in the concept of the form of money is limited to the comprehension of the general equivalent form, that is, the general form of value in general, Form III. Form III dissolves retrospectively into Form II, the unfolded value form, and its constituent element is Form I: 20 cubits canvas = 1 coat or x commodity A = y commodity B. The simple commodity form is therefore the germ of the money form.

4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis


 

金正恩は、インド・ムガル帝国の一族か。

 投稿者:チンギス・ハーン  投稿日:2018年10月20日(土)15時03分49秒
返信・引用
  金正恩は、インド・ムガル帝国の一族か。

http://urx3.nu/MJc5

http://urx3.nu/MJc7

その誕生日は、最高級のめでたさ。
 

    初版 商品  ④

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月19日(金)00時29分50秒
返信・引用 編集済
  https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

 I. First or simple form of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (x of commodity A = y of commodity B).
 ①最初または単純な相対価値:20ヤードのリネン= 1コート(商品Aのx =商品Bのy)。
このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであるという一見で明らかになる。

 ②リネンは、その価値観や有用なものの形で、その世俗的な姿を現します。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形ではなく、その正反対です。それは、それ自体に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自体が価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートすることはできません。
同種の人間の労働の客観化、すなわちそれ自体の価値の物質としてそれ自体をそれに関連づけることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である - そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労力を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると見なされます。

コートとのこの関係によって、リネンは1回のストロークで異なるハエを揺るがします。

他のコモディティを価値として自分自身と同等にすることによって、それ自体を価値として関連付ける。自分自身を価値として関連づけることによって、それは同時に自分自身と使用価値として区別されます。

コートの価値の大きさ(そして価値の大きさは一般的な価値と定量的な価値の両方である)を表現することによって、その現実とは異なる価値形態の価値として現実を与えます。

このように自分自身の内で差別化されているものとしてそれを明らかにすることによって、それは本当に商品として初めて - それは同時に価値のある有用なものであることを明らかにする。

リネンが使用価値である限り、それは独立したものです。その価値は、他方では、コートがある別の商品(例えばコート)との関係においてのみ(リネン)と定性的に同等であるため、それに相当するいくつかの特定の数量において現れるそれと交換可能です。したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形を印象づける。
結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。

他に何が起こっても、その現実の現実では、自然な形態(コート)で、他の商品との即時交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を保有します。等価物の仕様には、商品が価値であるという事実だけでなく、その体質的な形(その使用価値)が別の商品の価値として数えられ、結果として直ちに交換価値として他の商品に対している--ことを示している。

 ④リネンは、労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然由来の物質で発酵しています。リネンを人間の労働の単なる肉体的表現として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。

抽象的な(すなわち、いかなる追加の品質や内容もなく)人間の労働力の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。

しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的関係でそれを明らかにする必要があります。
But commodities are objects.
They have to be what they are in an object-like way or else reveal it in their own object-like relationships.

リネンの生産では、人間の労働の特定の量が消費されている。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち官能的な表現を得る)。リネンが価値あるものとしてコートを同等にすることによって、同時に使用目的としてコートと区別されますが、何が起こるかは、コートがリネンボディとは対照的にリネン価値の出現形態になります。 - その自然な形とは区別される。

 ⑤In the expression of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or, x linen is worth y of coat), one must admit that the coat counts only as value or coagulation of labour, but it is precisely through that fact that the coagulation of labour counts as coat, and coat as the form into which human labour flows in order to congeal.
相対的価値の表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固としてしかカウントされないと認めなければならないが、コートとしての労働数の凝固、および凝固のために人間の労働が流れる形態としてコートする。

The use-value coat only becomes the form of appearance of linen-value because linen relates itself to the material of the coat as to an immediate materialization of abstract human labour, and thus to labour which is of the same kind as that which is objectified within the linen itself.
The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。オブジェクト コートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。

Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形態のコートは、それによって、自分の価値の形態になります。

  オブジェクト(物象コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に
  触知可能なオブジェクト(物象)化として、それゆえ自然な形で価値
  としてカウントされます。
  コートと同じエッセンスの価値があるので、自然的形態のコートは、
  それによって、自分の価値形態になります。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ④ it in their own object-like relationships.
  自分の物象的関係
 ⑤The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour
  of the same kind, and consequently as value in natural form.
  オブジェクト コートは、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、
  それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。」
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ④段落を 物的関係         object-like relationships と訳しているから、
 ⑤段落の 触知可能なオブジェクト化 a sensually palpable objectification を
 「同種の人間労働の<触知可能>感覚的な・手でつかみうる対象性として」--と歪曲した。
  このように大切な肝心の--「物象的関係」の大切な意味--を消していることで、
 こうして、他商品ではなくーー自身で価値形態になるーーことを判読できず、
 上着自身が、媒介を経ずとも価値形態であり、価値の現出形態となる謎であり、
 この<物象の判断>の奇怪!さなのであります。
 再度ーー上着自身が、それ自体として、価値の現出形態であり、
 上着の--価値の現象形態としてのリンネルへの役立ちは、ここではなくて、
 していないのです。
 <江夏ー今村ー牧野訳は、この他商品への物的な役立ちを見たからーー誤訳なのです。>
 その謎性追求での解答は、後で、次の解答をえたのです。
 謎性ーーとは何か? リンネルが、価値形態を受けとリ、次に、
 相対的価値形態を示さずとも、上着が、自身だけで価値形態ーー
 ー等価形態を示すことができる!と判断することです。なんとも誤訳の恐ろしきことよ!
 これだから、「等価形態が前提」と判読する・理解する人々ばかりが発生するのです。

 <⑪段落ーーでの解答が次にありました。
 「上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定」ーーに依っている
 ということを、彼は、しつこく追求しています。
 このリネンの反省規定は、次のように、5段落では示されず、⑪段落にて示さ
 れたのです。
 「コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値
 としてのその規定性)は、リネンに関連する外面においても、肉体的な方法で
 コートに属するように見える。」
  そこで、やっと⑪段落にてーー等価形態との規定を受け取ったのです。>
 <誤記・誤訳!これだから、初版が理解し難い!のは当然です。>

But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is rather a particular useful labour: tailoring.・・・・略
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥ー①時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。

 ⑥-②コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性<価値対象性でなく--伝統化された誤訳、違いは、リネンと上着の価値対象性が、価値客観性>を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。

 ⑥-③それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。テーラリング労働も、リネンにとって価値があります。結果的には、それが意図的な生産的労働でない限り、決定的労働、実現の形態、一般的な労働の客観化の方法として存在している限りです。

 ⑥-④リネンがコートではなく靴磨きでその価値を表明した場合、磨きはそれを仕立てるのではなく抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態とみなすでしょう。
したがって、使用価値または商品本体は、抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的で有用な種の労働に他の商品が関連することによって、価値の出現の形態または等価物にしかならない。

 ⑦ー① 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
 ⑦ー②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。
 ③商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
 ④商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
 ⑤同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。
 ⑥離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

 ⑦商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

 ⑧それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形態です。
 ⑨他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。
 ⑩商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
 ⑪製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。
 <英明な江夏訳にして 「価値形態」 の誤訳です。廻り道にて上着は商品形態をうけとることで、等価物の形態の形成に向かうのではなく、相対的価値形態の形成に向かうのです。>

 ⑫それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によってすぐにすることができます。
 ⑬それは、自らの<its value in its own body>を自分自身の使用価値< in its own use-value,>で表現することはできませんが、他の使用価値や商品<another use-value or commodity-body>を直接価値として参照することができます。

 ⑭それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

 ⑮商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。
 ⑯シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

 ⑰ 既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察す
  ると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってま
  た、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>

  英語版からの訳
 ⑰しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>
    註2.「ナッツ・シェル」。
    2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. A.D.
    多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
    「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
    何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
    "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで形式の
    内容を見落としていたように、
    経済学者が相対的価値表現の形式的内容を見落としていることは驚くことではない(
    物質的利益の影響を受けている)。
    <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態をとることであり、
    相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形
    態」が内実とされることで、価値表現がされるということです。
    既存訳は、正解なのです。>

   <杉本 これまでどうにも著者の意図がつかめないでいたのだが、上記の7段落、即ち、
   この⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫段落と、何度も繰り返し、
   両極の価値形態、相対的価値形態と等価形態の説明をば、筆者はしているのです。
   この意図をば、私達は、両極の価値形態は<常識としての前提>として、これまで、何とも
   恥ずかしいことに、見出せず、無視してきたのだから、大いに反省し、
   注目する必要があります。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪ー①商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

 ②コートに関しては、リネンはコート自体を価値の出現形態として、したがってそれ自体ですぐ<直接>に(リネンに)交換可能なものとして、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかである。この関係の中でのみコートの等価物です。
 <杉本 ここでは、ーー上衣が直接的に価値形態であるーーことの幻影を批判している。リネンが、上着を自身の価値の出現形態としているので、上着は直
 接的にリネンと交換可能になるーーつまり、上着は自身だけで直接的に価値形態となり、リネンの等価物になるのではないのです。
 上着の等価物としての役立ちは、リネンのなす反省規定ーーに依っているということを、彼は、しつこく何度も繰り返しています。>

 ③しかし、それは受動的に行われます。 それは何のイニシアチブも握っていない。 物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身を見つけます。
 ④リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。
 ⑤さらに、リネンがコートに関連する具体的な特定モードおよび方法は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒っているテーラーの製品」ではない。

 ⑥結局のところ、リネンは、したがって現在の価値体としての、抽象的人間労働の現実的な現行・顕現<プレゼント>としてのコートに関連しています。これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限り、これだけです。同等物<等価物>としてのその状態は、リネンの反省規定[4]だけである(いわば)。
  <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、リネンの反
  省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
  形態規定されてはいない。上着は価値の凝固物であるが、それだけでは、
  リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取れない>
 ⑦しかし状況はちょうど逆のように見える。
一方では、コートはそれ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがするかもしれない何かからかなり離れているので、コートと関連しています。

 ⑧コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)は、リネンに関連する外面においても、肉体的な方法でコートに属するように見える。
 ⑨最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン - 1コート)では、このフォームはまだ確立されていません。これは直ちに反対に、コートはリネンと同等であることを表しています。 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有するのは、他方がそれ自身の相対的価値形式になるためであるからである[5]。

 ⑫単純な相対的価値形式や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形式の発展は両方の商品に対応している。リネンは一つの商品(コート)のみでその値を明示し、逆も同様であるが、この価値表現は、両方の商品ともに2倍であるため、相対価値表現は両方の商品についての参照と同じである。同じなのです。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。
 ⑬「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対値式、他の式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。

 ⑭ 最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。さらに、価値の量の表現(あらゆる表現において明らかに同じままであるリネンの価値のための)の表現は、「20ヤードのリネン= 1コート」と同様に徹底的に表現されている'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーなどは、コートがそうであったように、単一の同等物である。
 ⑮それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところリネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実この商品またはその第三者などのいずれかで、継続的な決定が明らかになります。


       II. Second or developed form of relative value
       II。相対価値の第二または発展形態

リネン= 1コートまたは=コーヒーまたは= v紅茶または= x鉄または=小麦などの20ヤードなど
z商品A = u商品Bまたは= v商品Cまたは= w商品D = x商品Eまたは= y商品Fまたは=等
第一の事柄は明らかに第一の形態が第二の基本的要素を構成することである。後者は多くの単純な相対価値表現から成っている。 。

最初のフォーム(20ヤードのリネン= Iコート)では、これらの2つの商品がこの特定の量的関係で交換可能であるという偶然の事実のように見えるかもしれません。しかし、第2の形態では、事実上の外観と本質的に異なる背景が、直ちに輝く。ほとんどの異なる所有者に属する無数の異なる商品のコート、コーヒー、または鉄などで表現されているかどうかにかかわらず、リネンの価値は等しく大きくなります。 2人の個人所有者の間違った関係が崩れ落ちる。それは、商品の価値の量を規制する交換ではなく、交換の関係を規制する商品の価値の量であることが明らかになります。

I「20ヤードのリネン= 1コート」という表現では、リネンで客観化された作品の外観の形態としてカウントされた。このようにして、リネンに含まれる労働は、コートに含まれる労働と同等であり、それによって同等の人間の労働として決定された。しかし、この決定はそれ自体を明示的に明らかにしなかった。即時性のレベルでは、最初の形式はリネンに含まれる労働力をテーラリングの労力と同等にします。それ以外の場合は、2番目の形式。不定期で絶え間なく拡張可能な一連の相対的価値観では、リネンはすべての可能な商品体に、それ自体に含まれる労働の出現の単なる形であると考えられている。したがって、この時点では、リネン値は、価値として、すなわち一般的に人間の労働の水晶として初めて明らかにされたものである。第2の形式は、第1の形式のよく知られた方程式の和からなる。これらの方程式(「20ヤードのリネン= 1コート」など)には、相反する「1コート」も含まれていますか? 20ヤードのリネン "と書かれています。この場合、コートはリネンにその価値を明示し、それによってリネンを同等物として明示します。
さて、これはリネンの無数の相対的価値表現のそれぞれを保持しているので、あります。


 III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:
  III。 第3に、逆のまたは逆の第2形式の相対価値形態

   1 coat = 20 yards of linen
  u coffee =   "
    v tea =   "
    x iron =   "
 y wheat etc. =   "

①The relative value-expression returns at this point to its original form:
1 coat = 20 yards of linen.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。

しかし、今、この単純な方程式がさらに発展する。もともと、それは、コートの価値が、他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの身体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。

コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。このように、すべてが人間の労働の同じ物質化として互いに出現します。彼らはそれ以来、定量的に異なるだけであり、これは、1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

Iそれゆえ、すべてのコモディティは、自分の使用価値と交換価値として異なっているが、価値の量としてお互いに関係し、 質的にお互いを同一視し、定量的に比較する、材料リネンでの--共通の価値の観なし方なのです。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得ている。

他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値の観なし方は、普遍的な相対的価値形態と呼んでいます。

②リネンが相対的な価値表現を生み出す形態 II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか鉄かなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物としてはもはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。
このフォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他の全ての商品の等価物の一般的な形態として現れる。

それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化したときに形成される他のすべての実際の動物の横および外側にある場合と同様に、動物、動物界全体の個体的化身となっている。

同じエンティティ(主体)の実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)なのです。

その結果、リネンは、特定労働であるままに価値の出現形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個々の商品になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現 形式となることで- ユニバーサルな同等価値であり、抽象的な人間労働の普遍的な実体化となっている。だから、そのことで具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働として--人間労働実現の普遍的形態として数えられている。

③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBがどのような特定の型になったかは無関心であった。商品Bの体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の生産物でなければならなかった。

コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の決められた労働へのつながりは完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければならなかったのは、仕立てとは別の種類のものでなければなりませんでした。そうであることで、リネンが普遍的な同等物になる、とすぐにそれが行われます。

他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、それがリネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、それゆえ普遍的同等物となっている。

したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的な労働としての人間労働の実現の普遍的形態として数えられ: リネン製織は、テーラリングだけでなく、コーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働に対立している。

他方では、他のすべての種類の労働は、人間労働の実現の特定の形態としてのみ(相対価値 - リネンの表現:普遍的な等価:形態II)なのである。

④価値として、商品は、抽象的な人間労働の同一団結の表現である。
交換価値の形態では、価値と見なすことでお互いに関係し、価値として互いを関係付ける作業をしています。

彼らはそれによって、同時に共通の社会的実体として、人間労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能であるので、これらの社会的物質の表現として相互に数えあえている。
有用なものととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための貨物ではない。単なる使用目的物を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

商品が人間労働の凝固として価値と数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。
したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然な形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形態をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。
  <このように、諸商品の全てが、互いを「価値と数える形式は」--と示されていることで、
 「商品の自然な形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形
  態」ーーをとりとのマルクスの指摘、物象の判断が、もっとも大切なことがしめされたので
  す。再版で示されているように、物象の共同行為によって、この一般的価値形態が形成される
  のです。>

⑤単純な相対価値フォーム(フォームI)「1コート= 20ヤードのリネン」は、この式が今シリーズのメンバーとなっているという事実だけで、普遍的な相対価値フォーム「1コート= 20ヤードリネン」とは異なります

⑥実際には、リネンが単価から普遍的な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現される商品であり、即時の交換可能性の形態をとる商品(同等の形態:したがって、直ちに社会的形態)であり、これは普遍的な相対価値表現にも同じことが当てはまる。

しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる等式で消極的です。
コートがその値を相対的な方法(つまり、リネン)で「1コート= 20ヤードのリネン」と表現し、それによってリネンが等価フォームを取得する場合、この同じ式は、 20ヤードのリネン1コート 'を意味し、それは同等の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される--のみなのです。

相対価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は、「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にはならず、従って他の商品は、単にリネンと同等のものにすぎません。

コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。したがって、商品の普遍的な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。一方、リネンのような商品は、それが普遍的な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。

リネンの普遍的な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。

しかし、これは、この商品の価値を表現していないのも同義語です。
これは、普遍的形式の等価であり、永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な同等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形、つまりリネンとは異なる価値形態を保有しています。

そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、1枚の上着= 20ヤードのリネンなどであれば、量的に決定される関係における交換可能なものと--交換可能なものとして、また、それは1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまる。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映される。

しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、この迂回路を越える価値の出現の形として相互に相反するものであり、その結果、即座にではありません。

その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。

それは別の方法です。それは、他のすべての商品が、価値の出現の形態としてリネンに関連し、リネンの自然な形態がすべての商品との即時の交換可能性の形態になるという事実を通してである。その結果、その普遍的な社会的形態が直ちに生まれる。

⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない)価値とみなされるその現れにおいて、他のすべての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な等価形態を取得するだけである。

しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形式を持っていなければならない。なぜなら、その自然形態は使用価値の形式に過ぎず、統一された(したがってユニバーサル)相対価値形式を持たなければならないからである。それらのすべては、人間労働の同質な凝固として、互いに価値として関連している。

従って、単一の商品は、他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であり社会的な形態であることが、ここにわかる。

⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではない:磁石の一方の極の陽性が他方の陰性からのものであるため、のようにです 。したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時交換可能性の印を印象付けることができるかと想像してしまう。しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互を前提とし、反復して反発する極である。

⑩麻は労働の直接的な社会的実現であり、直ちに社会的労働を実現する(普遍的な均等物として)ものであるが、リネンに価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない。

⑪実際には、すべての使用価値は商品でしかない。なぜなら、彼らは私的労働からの独立した民間労働の産物であるからなのです。しかし、分裂の基本システムの特定のメンバー(たとえ自己完結しているにもかかわらず)の労働は、このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。他方で、この異なる有用な品質はまだ商品を商品にしていない。
もし、農家がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。

もし、商品が直ちに社会的(すなわち共通)労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

それはすでに商品の分析からそれ自体を産出した。商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。それゆえ、全く異なる労働の同等は、それらの不平等から、人間の労働としての一般的な関係を抽象化するだけである:人間の労働力の支出にです。
実際には動作モードです。それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

現在のところ、これらの私的労働は、その自然形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらい、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。しかし、商品の自然形態(この場合、リネン)は、他のすべての商品が、この自然な形に自分自身の価値の出現形態として関連しているため、リネンを織る--抽象的な人間労働の実現の普遍的な形態に、またはすぐに社会的形態の労働に変わっている。

「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外的概念ではない。

先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、その結果、普遍的な等価形態は、結果的に矛盾した方法でしか発展できないので、商品に潜む私的労働にも同じことが成立する。

彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働者は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形になり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

⑫商品の等価形態が、他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、恒常的に普遍的に等価な展開を強化する。普遍的等価形態は、商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離しているため、価値形態のもう一つの部分は、もはや互いに関連している商品については等しくはならない。単一の商品の関係の製品をより長くする。

⑬我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。リネンがユニバーサル等価物に変わったのはどうでしたか?
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべての商品は反射的にその価値を相対的な方法で表示した(形態III)。

単純な相対価値表現では、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中でその役割を変えます。それは、ある他の商品にその価値を示すことから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。
それは、すべての商品のためにリネンが保持しているものです。



その多くの、単純な価値表現からしか構成されていない、発展した相対的価値表現(形態II)において、リネンは、普遍的な同等物としては、まだ描かれていない。むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品本体の形態は、それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。

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 やりたい放題で名誉市民でお咎めなし。 

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年10月18日(木)05時07分26秒
返信・引用
   やりたい放題で名誉市民でお咎めなし。
 事の起こりは岩手の盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんが親を馬鹿と認めろと言うのを馬鹿らしいとして辞めた事を隠したこと。知事は看板団体だからと暴走はかん口令で囲み証拠も作らせないようにした。親は馬鹿のままと此方には口封じから誰とも関わらせず友達も全部取り上げた。別団体へ行く事も社会参加もさせない。普通校の卒でよそ者扱いで簡単に切られた上学校違いでどっち側にも入れなく完全孤立に12年も追われました。通訳は振興局だけで後は全部差別しています。 人権を無視して看板団体がそんなに大事ですか。
 現状の石川君も小笠原さんもおとがめ無し。
 ばれたら知事ひとりに責任がいく。知事は県の看板を守ろうとしたが小笠原さんらはやり放題の暴走のまま。
 法務省は法律の無かったからと知事が偉くこちらは単純に読み書き出来ない障害者と見られたことになる。知事自身が暴走を無かったことにしてもいずればれてしまうと県民への裏切りになります。かばう必要なかったこと。
 あんな小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放すべきです。知事の権力では隠し通せても県外や地元の町の人に先に知られます。そして全国に知れたら笑い事ではなくなります。
 小笠原さんらは何も傷つかない。かばうより罰が必要です。 法務局さえ偉いからと知事をかばうことしかしないあまり世界一頼りないイメージししか出なくなる。町の人は数人しか知らない。県民の信用さえ落とす羽目になります。やりたい放題やって反対に名誉市民とは本当に馬鹿らしい話です。
 小笠原夫妻に天罰は必要です。第一聾唖者は通訳を見習って常識を覚えていくのに対しておだてけしかけあおりゴマすりで動かした。嘘も方便と非常識を教えた。石川君は自分で考える力もない。こちらは人権を破壊され親は馬鹿にされたままです。 しかも現代の名工と言うのに馬鹿にして当たり前にするのですか。知事は暴走を隠すより粛清すへせきです。よく考えてください。前例を作らない為にも小笠原夫妻は天罰が必要です。









 

初版第一の形態の5段落の誤訳について <その2>

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月12日(金)09時32分41秒
返信・引用 編集済
     <https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1676  初版 商品  ③  >
   上記の論争点の補足であります。

 改稿してみました。
 対象とされる5段落の正しい訳の全文をまず提示してみました。
 韓国-朝鮮語 中国語 仏語 これで 独語 英語 日本語ーーと6ヶ国語であります。

https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

 ⑤In der Ausdruck des relativen Wertes: 20 Yards Leinen = 1 Mantel (oder x Leinen ist wert des Fells), muss man zugeben, dass das Fell nur als Wert oder Koagulation der Arbeit zählt, aber gerade durch diese Tatsache, dass das Koagulation der Arbeit zählt als Mantel und Mantel als die Form, in die menschliche Arbeit fließt, um zu erstarren.
相対的価値:20ヤードのリネン= 1コート<1Mantel>(またはxリネンはコートの価値がある)の表現では、コートは仕事の価値または凝固としてしかカウントされないが、正確には凝固した 人間労働が凝結するための形態としてのコートであるとしてーーその意味で、コートとしてカウントされます。
 <既存訳今村--「・・の表現・・・形態として通用する。」ーー
 では無く「認められている」--江夏訳--であり、「カウントされる」
 物象の判断が4段落に示されているのだからーーと動作を示す必要あり>
In the expression of the relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or x linen is worth the coat), one must admit that the coat counts only as a value or coagulation of the work, but precisely by this fact that the coagulation of the work counts as a cloak and coat as the form into which human labor flows to freeze.

Die Gebrauchswertschicht wird nur zur Erscheinungsform des Leinenwertes, weil sich das Leinen mit dem Material des Mantels wie mit einer unmittelbaren Materialisierung der abstrakten menschlichen Arbeit und damit mit der Arbeit derselben verhält, die objektiviert ist in der Wäsche selbst.
 <「使用価値としての上着がリネン=価値の現象形態になるのは、
  ただリネンが抽象的人間労働の直接的< Materialisierung>
  受肉としての上着素材<Material>に関係するからであり、
  この労働はリネン自身に対象化された労働と同質の労働である
  からである。」今村訳P288>
使用価値は、リネン価値の表現とすぐなりますが、リネンは、抽象的人間労働の即時的現れーーと同様に、その外装の材料で動作し、リネン自体の中で客観化されているため、リネン価値の表現になります。
The use-value layer only becomes the manifestation of linen value, because the linen behaves with the material of the mantle as with an immediate materialization of abstract human labor, and thus with the work of it, objectified in the linen itself.
  <上記・此処までは、なんと等価物上着などは対象とされず、
  であり、リネンの相対的価値形態の成立を目指した論理です。>

Der Gegenstand, das Fell, gilt als sinnlich greifbare Vergegenständlichung gleicher Arbeit und damit als Wert in natürlicher Form. Da es als Wert derselben Essenz wie der Mantel ist, wird die natürliche Formschicht dadurch zur Erscheinungsform ihres eigenen Wertes.
オブジェクト(コート)は、同等の作業の具体的なオブジェクト化、したがってその自然な形の価値のあるものとみなされます。 マントル<外装されたもの>と同じエッセンスの価値であるため、自然ーー形態はそれ自身の価値の現れとなります。
The object, the coat, is considered to be the tangible objectification of equal work, and thus of value in its natural form. As it is the value of the same essence as the mantle, the natural form layer thereby becomes the manifestation of its own value.

As it is the value of the same essence as the mantle, the natural form layer thereby becomes the manifestation of its own value.
マントル<外装されたもの>と同じエッセンスの価値であるため、自然のフォームはそれ自身の価値顕現となります。
<manifestation 顕現とは?明確に、上着はその自然的形態のままに価値形態とされることです。>
  <上記の訳には、うん十年の年功が重なっています。>
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

 <初版、同じところからですが、韓国語訳を選択したものです>
 ⑤?? ?? ?? : 20 ??? ?? = 1 ?? (?? x ??? ??? ?? ? ?? ),
 <杉本ーー上記のように韓国語での表記がなぜか!!!できません。その和訳のみ提示します。>

相対的価値の表現:20ヤードのリネン=1コート(またはxリネンはコートの価値がある)、コートは価値のあるもの又は労働の凝固として見なされることを認めているが、コートに労働カウントの凝固がみなされ、およびその凝固のために、人間労働が流れる形でコートが判断されている。


使用価値コートはリネン価値の出現形態でのみ使用されます。なぜならリネンは抽象的な人間労働の即時具体化に関しては、コートの物質と関連があり、そのため、客観されたものと同じ種類の労働に関連するからです、リネンそのものの中で。


対象、コートは、同じ種類の人間の労働のsenspestpurpable objectification<センセーショナルな客観化>では、結果的に自然な形で価値があると見なされます。コートのような本質の価値あるものなので、自然な形のコートは、それ自体の価値の出現形態になります。


しかし、使用価値(coat)で表現される労働はただの人間の労働ではなく、むしろ特別な有用労働(tailoring)である。ただの人間の労働(人間労働力の支出)は、すべてのすべての決定を受けることができますが、それは事実だが、それ自体は決定されない。


人間労働力が、決定され具体化された労働に決定された形で消費されるやいなや実現されて客観的することができる。
これは、労働が自らを客観化する外的物質であるいくつかの自然実体によって直面することができる唯一の決定され具体化された労働だからだ。外的物質なしに自分自身を客観化することは、ヘーゲルの意味で「概念」に過ぎない。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 中国語
 ⑤在相對價値的表達中:20碼的亞麻布= 1個外套(或者,x亞麻布的外套價値),人們必須承認外套僅僅作為勞動的價値凝固,但正是通過這一事實,勞動凝結作為外套計算,並作為人工流動的形式塗覆以凝固。使用價値的外套只是亞麻價値的外觀形式,因為亞麻與外套的材料有關,它與抽象的人類勞動的直接具體化有關,因此也與物化的東西相同。在亞麻本身。

對象,外套,它是對同類人類勞動的一種感官上可觸知的客觀化,並因此作為自然形式的價値由於它與塗層具有相同的本質,因此天然形状塗層因此成為其自身價値的外觀形式。

但是,在使用價値外套中所代表的勞動力不僅僅是人工,而是一種特別有用的勞動力:剪裁。簡單的人力勞動(人力勞動力的支出)能?接受毎一個決定,這是事實,但僅僅在其自身中是不確定的。

一旦人類的勞動力以確定的形式,如既定的和明確的勞動力消費,它就只能實現和客觀化; 因為它只是一種自然實體所面臨的決定和指定的勞動 - 一種勞動客觀化的外在材料。只有黑格爾意義上的“概念”才能在沒有外在材料的情況下使自己客觀化。[1]

 ⑤相対値の表現:20ヤードのリネン= 1コート(またはリネンのxコート値)では、コートは労働または固化の価値に過ぎないと認めなければならないが、この事実により労働結露ジャケットとして計算され、凝固するために手動の流れとしてコーティングされる。リネンはコートの材料に関連しているので、コートの価値はリネンの価値の出現でしかなく、抽象的な人間の労働の直接的な実現に関連するため、マテリアライズと同じです。亜麻そのものです。

オブジェクト、コート、それは同じ種類の人間の労働の感覚的で知覚可能なオブジェクト化であり、したがって自然な形の価値です。それはコーティングと同じ性質を有するので、自然の形状のコーティングは、したがって、それ自身の価値の出現の形態になる。

しかし、使用価値という点では、ジャケットに代表される労働者は単なる労働ではなく、特に有用な労働力である。単純な人間の労働(人間の労働の支出)はすべての決定を受け入れることができますが、それは本当ですが、それ自体は不確実です。

人間の労働は、確立された明示的な労働消費のような形態を決定すると、それは実現可能であり、客観化することはできない。材料で。ヘーゲルの "概念"だけが外的な材料なしで自分自身を客観的にすることができます。 [1]

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 仏語
 ⑤Dans l'expression de la valeur relative: 20 mètres de lin = 1 manteau (ou, x le lin vaut la peine d'un manteau), il faut admettre que le manteau ne compte que pour la valeur ou la coagulation du travail, mais c'est précisément par ce fait que la coagulation du travail est considérée comme un manteau et le manteau est la forme dans laquelle le travail humain se glisse pour se figer.

La couche de valeur d'usage ne devient l'aspect d'apparence de la valeur de lin que parce que le lin se rapporte à la matière de la couche comme à une matérialisation immédiate du travail humain abstrait, et donc au travail qui est du même genre que celui qui est objectivé dans le linge lui-même.

L'objet, le manteau, compte pour lui comme une objectivation sensuellement palpable du travail humain du même genre, et par conséquent comme une valeur sous forme naturelle.
Comme il a pour valeur la même essence que le manteau, le manteau à la forme naturelle devient ainsi la forme d’apparence de sa propre valeur.

Mais le travail représenté dans la valeur d'usage, le manteau, n'est pas simplement du travail humain, mais plutôt un travail particulièrement utile: la couture.Le travail humain simple (dépense de force de travail humaine) est capable de recevoir chaque détermination, il est vrai, mais est indéterminé juste pour et pour lui-même.

Il ne peut que se réaliser et s'objectiver dès que la force de travail humaine est dépensée sous une forme déterminée, en tant que travail déterminé et spécifié ; car il ne s'agit que d'un travail déterminé et spécifié auquel peut être confrontée une entité naturelle - un matériau extérieur dans lequel le travail s'objectifne. Seul le "concept" au sens de Hegel parvient à s'objectiver sans matériel extérieur. [1

 ⑤相対値の発現:リネン20メートル= 1つの被覆(又はコート価値のX亜麻)、我々は仕事の値または凝固のためにそのマントルアカウントを認めなければならないが、労働の凝固はマントルと考えられ、マントルは人間の労働が凍結するための形式であるという事実のためである。
使用価値の層は、亜麻が抽象的な人間の仕事の即時マテリアライゼーションとして層の材料に関係しているためにのみ、亜麻の価値の出現の側面になります。したがって、リネン自体で客観化されているものと同じ種類です。

オブジェクト(マントル)は、同じ種類の人間の仕事の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形での価値として数えます。
マントルと同じエッセンスで評価されるので、自然な形のコートは、それ自身の価値の形態になります。

しかし、使用価値で表現されている作品(マントル)は単なる人間の仕事ではなく、むしろ特に有用な仕事である:縫い物単純な人間の仕事(人間の労働力の支出)は、それは真実ですが、自分のためだけに、そして自分にとっては不確定です。

それは、決定され特定された作業として、人間の労働力が明確な形で消費されるとすぐに実現され、客観化されることができる。なぜなら、それは自然な実体に直面することができる特定の特定の仕事だけであるからです。それは、作品が客観化される外部の資料です。ヘーゲルの意味における「概念」のみが、外的な物質なしでそれ自体を客観化することを管理する。 [1

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 hirohiro さんの提示はこうでありました。

<牧野訳>
①<上着という対象は、亜麻布にとっては、人間労働であるという点で種を同じくする労働が、感覚的に、手で掴むことのできるように対象化された姿であり、従って、自然物の姿をとった価値なのである。>

②<亜麻布は、価値としては上着と同じ本質を持っているので、上着という自然物の形式が亜麻布自身の価値の現象形態になるのである。>

<今村訳> これは、牧野訳と同じであります。
②<「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質を持つのだから、実物形態の上着はリネン自身の価値の現象形態になる。」>

<このように、今村訳は、ちゃんと存在してるとして、牧野氏が提示してくれているドイツ訳を次に示したのです。>
杉本は、そこへの意見を書いてみます。

hirohiro さんの提示
ーー杉本パソコン訳ーー
①<Das Thema Fels wird als greifbare konkrete Objektivität ähnlicher menschlicher Arbeit angesehen, daher auch sein Wert in seiner natürlichen Form.>
対象とされる岩石は、同様の人間の労働の具体的な客観性であると考えられ、その自然な形での価値です。
①<The subject of rock is considered to be a tangible concrete objectivity of similar human labor, hence its value in its natural form.>

②<Da es sich um einen Wert der gleichen Art mit dem Rock handelt, ist die natürliche Form Rock somit die Manifestation ihres eigenen Wertes.>
それはスカートと同じ性質の値なので、自然な形態の岩石は、したがって、自分の価値の現れです。
②<Since it is a value of the same nature with the skirt, the natural form rock is thus the manifestation of their own value.>


では杉本はどんな提示をしたのか。
<杉本の提示>
①The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form.
オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。
②Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になる。

 <では杉本の提示はどうなのか?異なるところの二つを比較してみよう>

<牧野提示の英訳>
Since it is a value of the same nature with the skirt,
それはスカートと同じ価値であることで、その自然的性質を示し、
the natural form rock is thus the manifestation of their own value.
自然な形態の岩石は、それゆえに、彼ら自身の価値の現れである。

<杉本提示>
②Since it is, as value, of the same essence as the coat,
②コートと同じエッセンスの価値があるので、
the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value.
天然のフォーム<自然的形態であるままに>コートは、それにより、それ自身の価値の出現の形態<価値形態>になる。

<では自然な形態の岩石は、それゆえに、彼ら自身の価値の現れである>ーーとは何か?
  自然形態の岩石は、ーー
  自然的形態上着は、ーー彼ら自身の価値形態で有るということであります。
  自然的形態であるままにコートは、それ自身の価値形態であるのです。
これが、等価物上着がその自然的形態のままに価値形態とされる、転倒した姿なのです
  牧野訳提示の原文と、杉本提示の文とは少し違いがあるとはいえ、
  意味が異なるものではないと判断します。
再版では、この転倒した姿が、こう描かれています。


 3等価形態の第4・5段落です。現行新書版で言えば、原P70ー71であり、新書版P96ー97です。
④The first peculiarity striking in the consideration of the equivalent form is the following: Utility value becomes the manifestation of its opposite, the value.
④同等の形態を考慮した場合の最初の特異性は次のとおりです。ユーティリティー値は、価値の出現形態となります。

⑤ The natural form of the commodity becomes the value form. But, notabene, this quidproquo occurs for a commodity B (rock or wheat or iron, etc.) only within the value-relationship in which any other commodity A (canvas, etc.) comes to it, only within that relation.
⑤商品の自然形態が価値形態になります。しかし、notabene<注意せよ>、このquidproquo<取り違え>は、他の商品A(キャンバスなど)がその関係の中でのみ生じる価値関係の中でのみ、商品B(岩または小麦または鉄など)に対して生じる。

Since no commodity refers to itself as an equivalent, and therefore can not make its own natural skin the expression of its own value, it must refer to other commodity as an equivalent, or make the natural skin of another commodity its own value form.
コモディティはそれ自体を同等物と呼んでいるわけではないので、
独自の自然な肌を独自の価値で表現することはできないため、
他のコモディティを同等物として参照するか、
別のコモディティの自然な肌を<its own >それ自身の価値形態にする必要があります。


<再版を見ることで、どおうでしょうか?次の今村訳の扱いはどうなりましたか?>
<「価値であるかぎりでのリネンは上着と同じ本質を持つのだから、実物形態の上着はリネン自身の価値の現象形態になる。」>

 それが、再版訳ではこうなのです。初版原文訳を提示しないのです。
①<ユーティリティー値は、価値の出現形態となります。<別のコモディティの自然な肌をそれ自身の価値形態にする必要があります。>
②<自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になる。>
このように、今村訳に示される既存訳は、この上記の訳を、等価形態の第一の独自性を、排除しているのです。

 hirohiro さんの提示は、存在している訳文を無視するな--という注意でありました。
そんな訳文を無視した・次第ということでは、杉本の注意が足りず失敗でした。
その点での注意については、感謝します。

追ーー韓国語での訳出には驚きました。明快です!!!
 

核心に迫る馬鹿と言う理屈

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年10月12日(金)02時08分0秒
返信・引用
    核心に迫る馬鹿と言う理屈
 県庁の看板団体の暴走隠しの様々な圧力は12年目にしてもそのままで抹殺しか考えていない。いい加減にして欲しいと言ってみても無視するだけで人権相談から法務省と法務局とも関わり法務省に手紙出すと法務局に行けとだけ。法務局は何度も行けず手紙で意見なり出していたが知事をかばう暴走目こぼし権なんか無いと言うだけで後は答えない。打開策も見解も来ない。
 手紙の数だけ意見になったはず。20回は出していた。
 法務省に6月もう諦めたいと言うと、諦めるな法務局に行けと言う。行ってみると掲示板に実名使うと訴えられるぞというだけ。
 これはかん口令を逆手に取ったことで書きたい放題になり批判も反論も12年で一つも来ない。来たのは妨害だけ。本音は掲示板の一部は外国に流れるから辞めさせろということになる。
 その他に擁護係りが紹介されたが県庁相手は諦めて別団体に行けと法務省の姿勢の代弁していた。厄介払いしたがっていたと判る。
 法務省へはその後メールで意見なり20回も出したが数日で返事すると言って4ヶ月になるのに一つも来ない。
 文書による意見交換は後に残るため口約束の揉み潰しが出来ないからと言うことか。再度法務局と法務省に手紙とメール送ってもどっちも返事しない。
 というのは友の会を辞める前の年に自立支援法は廃止になりその次の年の12年前に友の会を辞めたため知事が悪用したことになりそれを相手はたかが障害者一人とばれなければいいとして法務省も容認していたことになる。それがまともに返事しない理由と思う。 法務省の見解は擁護係りが代返している。揉み潰ししか考えていない。そんな訳で1人でやるしかなく知事より実行犯に的を絞った。読み書き出来ない聾唖者の猜疑心から口利いた事もない親父を馬鹿と言うのが始まりで小笠原利行さん夫妻は北上、手話サークル会長は奥州それぞれ名誉市民になっている。つまり人の親を馬鹿と言う暴走隠して名誉市民になっている。
 それぞれの社協を通して話したが無視するので親父の記録をコピーして届け馬鹿でも真似出来ますかと。尚も無視するので全国の社協にもばら撒き岩手の態度も話した。
 全国の社協は他県に関われないが失笑や後ろ指は避けられない。
 岩手の知事にとっては恥じも外聞もなく一般県民や地元東山にばれなければいいと厚顔を続けて沈黙するだけになると思います。
 地元岩手はかん口令で口封じしても他県の口は防げない。
 それも親を馬鹿と認めないとがで訴えますか。
 法務省と法務局に水沢法務局は遠いため一関の相談室で打開策の話したいと申し込んでも相変わらず返事しない。世界一安全と言うキャッチフレーズの法務省が世界一頼りないと人権の破壊を容認している。

 

商品の魅力とその秘密

 投稿者:杉本  投稿日:2018年10月 7日(日)10時42分4秒
返信・引用 編集済
  4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis
    The fetish character of the goods and its secret
    商品の魅力とその秘密
①一見すると、商品は自明で些細なものに見えます。
彼女の分析によると、彼女は非常にトリッキーなことであり、
形而上学の精巧さと神学的な紆余曲折がいっぱいです。使用価値に関する限り、その特性によって人間のニーズを満たすという観点か、それとも人間労働の産物としてこれらの資質を得るかどうかにかかわらず、神秘的なことは何もありません。

人間が彼の活動を通して、彼に有用な方法で天然物質の形態を変えるのは
完全にはっきりしています。例えば木の形状。あなたがそれからテーブルを作るときに変更されます。
それにもかかわらず、テーブルは木であり、普通の官能的なものです。
しかし、商品として出現するとすぐに、彼は感覚的に超越的なものに変身します。
彼は足で地面に立っているだけでなく、他のすべてのコモディティに逆さまになり、自分の自由意志で踊り始める時よりもはるかに気まぐれな木製の頭からクリケットを育てます。 (25)

②商品の神秘的な性格は、その使用価値から湧き出るものではありません。価値判断の内容からは発生しません。まず第一に、有用な仕事や生産活動がどのように異なっているかについては、それらが人間の機能であり、その内容や形態が何であれ、本質的に人間の脳の支出であるという生理学的な真理である、神経、筋肉、センスオルガンなどです。
第二に、<価値と価値の決定 the determination of value-value, >に基づいて、その支出の期間、または労働の量は、労働の質とは明らかに区別される。すべての州で、食糧の生産にかかる作業時間は、開発のさまざまな段階で男性が均等には関わらず、関心を持たなければなりません。 (26)最後に、男性が何らかの形でお互いに働くとすぐに、彼らの仕事は社会的利益シェイプを受け取ります。

①At first glance, a commodity seems a self-evident, trivial thing. Her analysis shows that she is a very tricky thing, full of metaphysical sophistry and theological twists. As far as use value is concerned, there is nothing mysterious about it, whether I consider it from the point of view of satisfying human needs by its properties, or of obtaining these qualities as the product of human labor. It is perfectly clear that man, through his activity, alters the forms of natural substances in a manner which is useful to him. The shape of the wood e.g. is changed when you make a table out of it. Nonetheless, the table remains wood, an ordinary sensual thing. But as soon as he appears as a commodity, he transforms himself into a sensually supersensible thing. Not only does he stand on the ground with his feet, but he turns himself upside down to all the other commodities and grows crickets out of his wooden head, much more whimsical than when he begins to dance of his own free will. (25)

②The mystical character of the commodity does not spring from its use value. It does not arise from the content of value determinations. For, first of all, how different the useful works or productive activities may be, it is a physiological truth that they are functions of the human organism, and that every such function, whatever its content and form, is essentially expenditure of the human brain, nerve, muscle , Sense organ etc. is. Second, on the basis of the determination of value-value, the duration of that expenditure, or the quantity of labor, quantity is even plainly distinguishable from the quality of labor. In all states, working time, which costs the production of food, must interest men, though not evenly, at different stages of development. (26) Finally, as soon as men work for each other in some way, their work also receives social benefits Shape.

③So where does the enigmatic character of the work product come from, as soon as it takes on commodity form? Apparently out of this form itself. The equality of human works preserves the objective form of the same value-objectivity of the products of labor; the measure of the expenditure of human labor through its duration is given the form of the value-magnitude of the products of labor, and finally the relations of the producers, in which those social determinations of their labor are obtained, receive the form of a social relationship of the work products.

③  <中国語訳からは、次、何とも明快そのものです。>
  <それでは、作業成果物の不思議な特徴が商品の形で現れると、
  それはどこから来たのでしょうか。 明らかに、このフォーム自体から。
  人的労働の平等は、労働生産物と同じ価値の客観的価値、
  労働生産物の価値の量の形でとられる人的労働支出措置の期間、
  および生産者の最終条件、それらを機能させる社会を受け取る 規則は、
  作業用製品に対する社会的関係の形で取得されます。

 <和訳からだとこうなっています。>

それでは、成果物の謎めいた性格は、それが商品の形をとるとすぐにどこから来るのでしょうか。
どうやらこのフォーム自体からです。
人間の作品の平等は、労働生産物の同じ価値観 - 客観性の客観的な形式<the objective form >を保存しています。
その期間を通しての人間の労働の支出の尺度は、労働生産物の価値の大きさの形で与えられ、
そして最後にそれらの労働の社会的決定が得られる生産者の関係は、作業成果物の社会的関係を得られる--事にあります。


④そこで商品形態の謎は、単に労働生産物の表象的な性格としての自らの労働の社会的性格、それゆえに生産者と生産者の社会的関係を、人間に反映させることにあるのですし、オブジェクトの社会的関係として、ここに受け取っています。

この取違えを通して、作業成果物は商品、官能的であり、精神的または社会的なものになります。


④The mystery of the commodity form consists simply in the fact that it reflects back to humans the social characters of their own labor as representational characters of the labor products themselves, as the social nature of these things, hence the social relation of the producers to the total labor as a social relationship of them objects.

Through this quid pro quo, the work products become goods, sensually psychic or social things.

Thus, the light impression of a thing on the optic nerve does not present itself as a subjective stimulus of the optic nerve itself, but as a representational form of a thing outside the eye. But in seeing, light actually becomes from one thing, the external object, to another thing, the eye , thrown.
したがって、視神経上のものの光の印象は、視神経自体の主観的な刺激としてではなく、目の外のものの表現形式としてそれ自体を提示するものではありません。しかし、見てみると、光は実際には投射されたもの、つまり外部の物体から投げ出された別のもの、つまり目になります。

それは物理的なものの間の物理的な関係です。
It's a physical relationship between physical things.

On the other hand, the commodity form and the value of the products of labor in which they are presented have absolutely nothing to do with their physical nature and the consequent tangible relations.
一方、商品形態とそれらが提示される労働生産物の価値は、それらの物理的性質とその結果としての具体的な関係とは全く関係がありません。

それは人々自身の明確な社会的関係だけであり、ここで彼らは物事の関係の幻想的な形を仮定します。
したがって、例えを見出すために、私たちは宗教の世界の霧の領域に逃げなければなりません。
It is only the definite social relation of the people themselves, which here assumes for them the phantasmagoric form of a relation of things. Therefore, to find an analogy, we have to flee to the foggy region of the religious world.

Here the products of the human head seem to have independent forms endowed with their own lives, among themselves and with men.
ここでの人間の頭の製品は、彼ら自身の間で、そして人々の間で、彼ら自身の生活に恵まれた独立した形態を持っているように見えます。

それが、商品世界では人間の手の商品です。
So in the commodity world the products of the human hand.

This  I call the Fetishism
which attaches the products of labor as soon as they are produced as commodities, and which is therefore inseparable from the production of goods.<87>
これをフェティシズムと呼びます
商品として生産されるとすぐに労働生産物を添付するため、商品の生産と切り離すことはできません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  <中国語訳>
  <したがって商品形態の謎は非常に単純です、それは労働自体として、労
  働自体の製品の客観的な特性の社会性を反映しています。これらのものの
  社会的特性、生産者の全体の仕事、そしてそれ故に社会的関係、既存の社
  会的関係は外部にあります。
  この交換条件を通して、作業成果物は商品、感覚心理学または社会的商品
  になります。

  したがって、視神経への光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激とは
  異なりますが、眼球外のものの客観的な形のために、光を見ることの問題
  は確かに、アンドレスが迎え、投げ出す。これが物質的なものの間の物理
  的関係です。

  それとは対照的に、商品形態と労働生産物は、それら自身の価値比率を表
  しており、それらの物理的性質と所有権の関係から生じる、全く無関係で
  す。それは人々の物事の関係についての幻想を仮定しているのであり、そ
  れは、明確な人々の単なる社会的関係です。

  したがって、例えを見出すために、私たちは宗教的世界の霧地帯に逃げな
  ければなりません。ここでは、人間の頭の製品は独立した形をしているよ
  うに見え、彼らと人々との間に、彼ら自身の命を与えます。それが、商品
  世界ではヒューマンプロダクトです。

  これは付属品として製造されている限りどの製品を呼ぶのかということか
  ら、商品を生産するのとは不可分の崇拝です。>

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⑤先の分析が示したように、この商品世界のこの崇高な性格は、商品を生産する独特の社会的労働から生じている。
⑤This fetish character of the commodity world, as the preceding analysis has already shown, springs from the peculiar social character of labor, which produces commodities.

⑥Commodities become commodities in the first place because they are products of independent private work.The complex of these private works forms the total social work.
⑥商品は、自営業の商品であるため、そもそも商品となる。
これらの私的な作品の複合体が総合的なソーシャルワーク<social work. >を形成しています。

生産者は彼らの作業成果物の交換を通して社会的接触をするだけであるので、彼らの個人的な仕事の特定の社会的性格はこの交換の中にだけ現れます。
Since the producers only come into social contact through the exchange of their work products, the specific social characters of their private work appear only within this exchange.

In fact, private works are first active as members of social work through relationships, in which exchange places the products of labor and, by means of them, the producers.
実際、私的な仕事は、関係を通じたソーシャルワークの一員として最初に活動的になります。そこでは、交換が労働の産物を生み出し、それによって生産者が生み出されます。

それゆえ、彼らの私的作品の社会的関係は、彼らにとって、彼らの作品の中の人々の直接的な社会的関係としてではなく、むしろ人の客観的な関係および物事の社会的関係としてである。
The social relations of their private works therefore appear to the latter as what they are, ie not as the direct social relations of the persons in their works themselves, but rather as objective relations of persons and social relations of things.

  <中国語訳>
  ⑥コモディティは最初にコモディティになります。
  なぜなら、それらは独立した民間製品の製品だからです。
  これらの私的作品の複雑さは、ソーシャルワーク全体を形作ります。
  生産者は彼らの作業成果物を交換することによって社会的なつながりを作
  るだけなので、彼らの個人的な仕事の特定の社会的特徴はこの交換に現れ
  る。

  実際、私的作品は、交換が労働生産物と生産者の生産物を結び付ける関係
  を通して、社会の第一にそして最も活発なメンバーとなるのです。
  したがって、彼らの個人的な作品の社会的関係は後者のようなものです。
  つまり、自分の作品である人々の直接的な社会的関係ではなく、人々と物
  との間の社会的関係の客観的関係です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ②英語版
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di4jie-shang-pinno-wu-shen-chong-baitosono-mi-mi
        <英和訳『資本論』1章-第4節 諸商品の物神崇拝*とそれについての秘密>
④ー①A commodity is therefore a mysterious thing, simply because in it the social character of men’s labour appears to them as an objective character stamped upon the product of that labour;because the relation of the producers to the sum total of their own labour is presented to them as a social relation, existing not between themselves, but between the products of their labour.
④ー①それゆえに、商品は、その中に人間労働の社会的性格が、その労働生産物にスタンプされた客観的人物として現れるため、生産者の自己労働の総量に対する生産者の関係が提示されているだけなので、神秘的なものである社会的関係として、それらの間に存在するのではなく、彼らの労働の産物の間に存在する。

④ー②This is the reason why the products of labour become commodities, social things whose qualities are at the same time perceptible and imperceptible by the senses.
④ー②これは、労働の産物が商品となり、その性質が同時に感覚で知覚されながらも、知覚できないところの社会的なものになる理由です。

③In the same way the light from an object is perceived by us not as the subjective excitation of our optic nerve, but as the objective form of something outside the eye itself.
③同じように、物体からの光は、視神経の主観的な興奮ではなく、目の外側の何かの客観的な形態であると認識されます。

④But, in the act of seeing, there is at all events, an actual passage of light from one thing to another, from the external object to the eye. There is a physical relation between physical things.
④しかし、見ることの行為の中には、あるもの事から他の物への光の実際の通過が、外的な目的から目へと実際にある。このように、物理的なものの間には物理的な関係があります。

⑤But it is different with commodities.
There, the existence of the things quâ commodities, and the value relation between the products of labour which stamps them as commodities, have absolutely no connection with their physical properties and with the material relations arising therefrom.
⑤しかし商品では違う。
そこには、商品の存在、商品としての印をつけた労働の製品間の価値関係は、その物理的性質およびそこから生ずる物質的関係とは全く関係していない。

⑥There it is a definite social relation between men, that assumes, in their eyes, the fantastic form of a relation between things.
⑥それは、彼らの目には物事間の幻想的な形態を前提とした、人間との間に明確な社会的関係がある。

⑦In order, therefore, to find an analogy, we must have recourse to the mist-enveloped regions of the religious world.
In that world the productions of the human brain appear as independent beings endowed with life, and entering into relation both with one another and the human race.
⑦したがって、類推を見つけるためには、宗教界の霧に覆われた地域に頼る必要があります。
その世界では、人間の脳の生産物は、人生に恵まれた独立した存在として現れ、お互いと人間の両方に関係しているように見えます。

⑧So it is in the world of commodities with the products of men’s hands. (87)
⑧それは人々の手の製品を持つ商品世界にある。(87)

⑨This I call the Fetishism which attaches itself to the products of labour, so soon as they are produced as commodities, and which is therefore inseparable from the production of commodities.
⑨これは、商品として生産されるとすぐに労働の製品に付随するフェティシズムと呼ばれ、
したがって商品の生産とは切り離せない。


  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑦ Only within their exchange do the working products receive a socially equal value-objectivity, separated from their sensually different utilitarian objectivity. This splitting of the work product into useful thing and value works only practically, as soon as the exchange has already gained sufficient extension and importance, so that useful things are produced for exchange, that is, the value character of the things is already considered in their production itself. From that moment on, the private works of the producers actually have a double social character. On the one hand, as certain useful works they must satisfy a particular social need and thus prove themselves to be members of the total work, of the natural system of the social division of labor.
⑦それらの交換の範囲内でのみ、作業製品はそれらの官能的に異なる功利的客観性から分離された社会的に等しい価値 - 客観性を受け取ります。作業成果物を有用なものと価値に分割することは、交換がすでに十分な拡張性と重要性を得た直後に実用的にしか機能しないので、有用なものは交換のために生み出されます。

彼ら自身の生産はその瞬間から、プロデューサーの私的作品は実際には二重の社会的性格を持っています。

一方では、ある種の有用な仕事として、彼らは特定の社会的ニーズを満たしていなければならず、したがって社会的分業の自然システムの全仕事の一員であることを証明しなければならない。

一方、すべての有用な私的作品が他のあらゆる有用な種類の私的作品と交換可能であり、したがってそれに無関係であるという条件下で、彼らは彼ら自身の生産者の多様な必要性だけを満たす。
On the other hand, they satisfy only the manifold needs of their own producers, provided that every useful private work is interchangeable with every other useful kind of private work, and thus is indifferent to it.

Equality toto coelo <completely> verschiedner work may consist only of an abstraction from their real inequality in the reduction of the common character they possess as expenditure of human labor power, abstract human labor.<88>
平等性と共同性の無くなった仕事は、人間の労働力の支出、すなわち抽象的な人間の労働の支出として彼らが持つ共通の性格の減少における彼らの本当の不平等からの抽象化のみからなるかもしれない。

The brain of private producers reflects this dual social character of their private works only in the forms which appear in practical intercourse,

in the exchange of products - the socially useful character of their private works, in the form that the product of labor must be useful to others social character of the equality of the various kinds of work in the form of the common value character of these materially different things, the products of labor.

私的生産者の頭脳は、製品の交換において、実際的な交易で現れる形でのみ彼らの私的作品のこの二重の社会的性格を反映していますし - 労働の製品が有用でなければならないという形での彼らの私的作品の社会的に有用な性格は、これらの物質的に異なるものであり、共通の労働生産物の価値形態でのさまざまな種類の仕事の平等の他の社会的性格にしています。
  <中国語訳>
  ⑦交換することで、作業成果物は社会的平等で価値と客観性を獲得し、そ
  れぞれの功利主義的客観性から切り離すことができます。
  為替レートが実用的になるのに十分な程度と重要性を獲得したときにのみ、

  この有用なものは仕事の仕事と、仕事の価値を分割するので、
  有益なものはその交換において価値を生み出すものの性質であり、
  生産においても考慮されます。

  その瞬間から、プロデューサーの個人的な仕事は実際には二重の社会性を
  持っています。ある有用な仕事、特別な社会的必要性、そしてそれ故に社
  会システムの分業部門の全体的な仕事のメンバーであることの証明のため
  に、彼らは一方で満足しなければならない。

  他方では、彼らは彼ら自身の生産の多様なニーズを満たすだけであり、そ
  して私的な特別な有用な仕事があり、他のすべての有用な個人的な仕事が
  交換可能であるならば、それは彼女に等しく当てはまる。

  Equal Toto coelo <complete> verschiednerの仕事は、彼らの真
  の不平等の抽象的な公の性格を回復することによってのみ成し遂げられま
  す。

  民間生産者の頭脳は、彼らの個人的な仕事は、それが実際の輸送の形で現
  れるという事実、製品の交換におけるこの二重の社会的役割でしか現れな
  いということを反映しています。

  実際には - 社会の性質の中でのさまざまな種類の仕事の均等な形式、こ
  れらの物質の異なるものであり、労働生産物の共通の価値性格です。<88>


⑧だから、人々は、類似の人間の労働の事実上のエンベロープであるとみなされるので、価値と観なして、労働の製品を互いに関連付けることはありません。逆に、なのです。
彼らの多様な製品を価値の交換の対象にするには、彼らの異なる作品を人間の労働と見なします。
彼らはそれを知らないが、彼らはそうする。 (27)

したがって、それはそれが何であるかの額に書かれていません。むしろ、価値はすべての作業成果物を社会的象形文字に変換します。後で、人々は、価値としての商品の決定が言語としての社会的産物であるため、自分の社会的製品の秘密を超えて、象形文字の意味を解読しようとする。

労働生産物が、価値である限り、生産に費やされた人間労働の客観的な表現は、人間の進化の歴史の中で時代を作りますが、決して労働の社会的性格の客観的な類似<るいじ-判断 the objective semblance>を避けていません。

この特定の生産形態に対してのみ有効なのは、これが人間労働としての平等にあり、
労働生産物の価値形態の性格<the form of the value character >をとっていることは、

この特定の生産形態、商品の生産にのみ有効である--コモディティ・プロダクションの条件における発見は、空気のその要素への科学的分解が空気の形を物理的な形の身体の形として残すのと同じくらい最終的なものである。
  ーー労働生産物の価値形態の性格<the form of the value character >をとっているーー

⑧So people do not relate their products of labor to each other as values, because these things are considered to them to be mere factual envelopes of similar human labor. Vice versa. In equating their diverse products as values in exchange, they equate their different works as human labor.
They do not know that, but they do. (27)

It is therefore not written on the forehead of what it is. Rather, value transforms every work product into a social hieroglyph. Later, people seek to decipher the meaning of the hieroglyph, to go beyond the secret of their own social product, for the determination of commodities as values ??is their social product as good as language.

The late scientific discovery that labor products, insofar as they are values, merely objective expressions of the human labor expended in their production, makes an epoch in the history of human evolution, but in no way shuns the objective semblance of the social character of labor.

What is valid only for this particular form of production, the production of commodities, that the specifically social character of independent private works consists in their equality as human labor and takes on the form of the value character of the labor products, appears before and after that discovery in the Conditions of commodity production are just as final as that the scientific decomposition of the air into its elements leaves the air-form as a physical form of body.

  <中国語訳>
  <したがって、人々は自分たちの労働生産物を価値として互いに関連付け
  ない。なぜなら、これらのことは単に人間の労働に似た事実に囲まれてい
  ると考えられるからである。
  反対です。彼らの多様な商品を交換価値と同じものにするとき、彼らは異
  なる仕事を人間の労働と同じものと見なします。彼らは知らないが、彼ら
  は知っている。 (27)

  そのために、額には書かれていません。
  代わりに、価値は各作業成果物を社会的ピクトグラムに変換します。
  後に、人々はこの象形文字の意味を解読し、彼らのソーシャル製品の秘密
  を発見し、そして彼らのソーシャル製品および言語としての商品の価値を
  判断しようとしました。

  労働生産物の遅い科学的発見は、それらが人間の労働コストの生産におい
  て価値がある限り、人間開発の歴史の画期的な意義を示す事実に過ぎず、
  労働の社会的性質の客観的な性質を恐れてはいない。

  この特定の形態の生産、つまりモノの生産、つまり独立した民間労働の特
  別な社会的役割の存在、そして人間の労働と同等の労働に必要とされる労
  働の価値の性質のためにだけなのです。

  その後、効率的な商品生産のための条件も最終的なものになります。
  それは、空気をその科学で要素に分解することで、空中フォームを物理的
  フォームとして存続させることができるためです。

⑨<89>商品交換者にとって最初に興味を持ったのは、自社製品でどれくらいの外国製品を受け取るのかという問題です。これらの割合が一定の習慣的な堅さに成熟すると、それらは作業成果物の性質から湧き上がるように見える。 1トンの鉄と2オンスの金に相当するもので、金の1ポンドと鉄の1ポンドは、それらの様々な物理的および化学的特性にもかかわらず同等に重いようにです。実際、作業成果物の価値観は、アクチュエータとしての価値にのみ付いています。後者は、交換人の意思、予知、行動とは無関係に絶えず変化しています。彼ら自身の社会運動は、自分たちがコントロールするものではなく、コントロールするものの動きの形を持っています。それは、相互に独立しているが、社会的分業の自然な構成員である私的な仕事が、社会的に比例した尺度に継続的に縮小されるという、科学的洞察が経験自体から成長する前に、商品の完全に開発された生産を必要とする。偶発的に発見され、その製品の交換条件が変動すると、家が倒壊したときに、重力の法則などの自然の規制法として社会的に必要な労働時間が強制的に強制されます。

従って、労働時間による価値の決定は秘密の隠された相対的な商品の出現運動の中にある。
彼の発見は、作業成果物に対する、価値の値の単なる偶然の決定の類似性を取り除きますが、
それらの客観的な形式を決して意味するものではありません。
  <客観的な形式-- their objective form.--物象的形式のことです。>

⑩彼らの科学的分析を含む人間生活の様式を反映すると、まず第一に、真の発展に反する道を提案する。ポストフェスティムを開始し、その結果、開発プロセスの完成した結果が表示されます。

人間がこれらの形態の歴史的特徴を説明しようとする前に、
労働生産物を商品に刻印して商品流通にさらされている形態は、
すでに社会生活の自然な形態の堅さを持っている。
不変ではなく、その内容に関するものとみなされます。

したがって、商品価値の分析だけが価値の決定につながりました。
商品の共通の金銭的条件であり、価値のキャラクターの固定につながったので
す。
しかし、民間労働の社会的性格、したがってそれを明らかにするのではなく、
民間労働者の社会的条件を不明瞭にするのは、
商品の世界のこの完成した形態、つまり貨幣形態です。

私がその岩やブーツなどを言うとき、抽象的な人間の労働の一般的な実施形態
としてのキャンバスを参照しており、その表現の狂気は目を引く。
しかし、ロックやブーツなどの生産者が、これらの商品をキャンバス、
つまり何も変わらない金や銀を参照すれば、一般的な同等物として、
彼らの私的な作品と社会的な仕事の関係は、この狂った形であらわれる。

 <貨幣形態・・長靴は、抽象的な人間労働の一般的な化身としてのリンネル
 に関連する、--一般的価値形態があることで、一般的な相対的価値形態が
 あり、両極の形態が形成されることが、この対立が貨幣形態では隠蔽される、
 <この狂った形>理由なのです。
 ここでは、一般的価値形態の対極に、私的労働がこの抽象的な人間労働の一
 般的な実現形態になることで、等価形態を示すはずが、右極のみが自立する
 ことで、左極の商品世界の存在を無視してしまうのです。
 それが、価値形態の謎であり、貨幣形態の謎、なのであります。>
 <それは、商品世界から等価物リンネルが排除されることで、両極の形態の
 形態が得られたーーはずが、この貨幣形態では、この価値方程式が、始めの、
 上着= リンネルの第一の公式に、リンネルが貨幣商品になることで、転倒し
 て、一般的価値形態の存立条件である無限の価値方程式の羅列である、商品
 世界を消してしまうからではないか?
 第三の価値方程式の商品世界の無限の表示が、20エレのリンネル=2オンス
 の金になることで、この商品世界を形成してきた、第二・第一の形態との関
 連を、消滅させることで第三の形態から貨幣形態の成長ありきを、この物神
 性によって隠すのです。>

 <一般的価値形態があることで、商品世界にて商品たちが、これらの商品を
 リンネルあるいは金か銀に、関連させた、私的労働と社会的労働との関連は、
 20エレのリンネル=2オンスの金の公式のもとでは、全て、この物神性によ
 りて、この前提条件が、消滅しているのです。
 <⑫交換比率--労働生産物の性質自体から生ずる・自然的形態に見えてい
 ます。>
 だから、抽象的な人間労働の一般的な実現形態としてのはずが、両極の形態
 を示さず、単独に、抽象的人間労働の一般的化身になる、奇妙な形態のもと
 で現われる、のです。
 これが、商品の物神性を、解いたら理解できる事柄なのです。>

⑨<89> What initially interests the product exchangers is the question of how much foreign products they receive for their own product, in which proportions the products exchange. Once these proportions have matured to a certain habitual firmness, they seem to spring from the nature of the work products, so that e.g. a ton of iron and 2 ounces of gold equivalent, as one pound of gold and one pound of iron are equally heavy despite their various physical and chemical properties. In fact, the value character of the work products only attaches to their value as actuators. The latter change constantly, independently of the will, foreknowledge, and action of the exchanging people. Their own social movement has for them the form of a movement of things they control, not control. It requires a fully developed production of commodities before the scientific insight grows out of experience itself that the private works, which are independent of each other but as natural members of the social division of labor, are continually reduced to their socially proportional measure, because they are found in the accidental and The fluctuating conditions of exchange of their products forcibly enforce the socially necessary working time as a regulating law of nature, such as the law of gravity, when the house collapses over one's head. (28)

The determination of the value by working time is therefore among the appearing Movements of relative commodities hidden secret. His discovery removes the semblance of mere accidental determination of the values of value to the working products, but by no means their objective form.

⑩ Reflecting on the forms of human life, including their scientific analysis, in the first place proposes a path contrary to real development. It starts post festum and therefore with the finished results of the development process. The forms, which stamp products of labor into commodities and are therefore exposed to commodity circulation, already possess the firmness of natural forms of social life, before men seek to give an account of the historical character of these forms; are considered immutable, but about their content. So it was only the analysis of the commodity prices, which led to the determination of the value, only the common monetary term of the goods, which led to the fixation of their value character. But it is precisely this finished form - the money form - of the world of commodities, which obscures the social character of private work and therefore the social conditions of private workers instead of revealing it. When I say that rock, boots, etc., refer to canvas as the general embodiment of abstract human labor, the craziness of that expression catches the eye. But if the producers of rock, boots, etc., refer to these commodities on canvas - or gold and silver, which does not change anything - as a general equivalent, the relationship of their private works to the overall social work seems to them exactly in this crazy form.

⑪このような形式は、ブルジョワ経済のカテゴリーを構成する。彼らは社会的に妥当であり、つまり、この歴史的に決定された社会生産方式の生産関係、商品の生産関係に対する客観的思考形式である。商品の世界のすべての神秘主義、すなわち商品生産に基づいて労働生産物を包み込んだすべての魔法や憑依は、他の生産形態に逃げるとすぐに消滅します。

⑫政治経済学がRobinsonadesを愛しているので(29)、ロビンソンは彼の島に最初に現れます。彼は本質的に謙虚であり、満足するためには様々なニーズがあり、様々な有益な仕事をしなければならず、道具を作ったり、家具を作ったり、ラマを飼い、魚や狩りをするなど、祈りなどが必要です。私たちはここでは話しません。なぜなら、私たちのロビンソンはそうすることに喜びを感じ、休息のような活動を見ているからです。彼の生産的な機能の多様性にもかかわらず、彼は彼らが同じロビンソンの異なる種類の活動、すなわち人間の労働の異なる方法だけであることを知っている。ニーズそのものは、彼の様々な機能の間で正確に時間を分割するように強制します。他の人が全体的な活動の中でより少ないスペースを取るかどうかは、意図された利益を得るために克服することが困難または困難であるかどうかにかかっています。経験は彼にそれを教え、ロビンソン、時計、帳簿、インクと羽毛は、難破船から救助され、良い英国人として、すぐに彼自身の記録を維持し始めます。彼の在庫には、自分が所有する商品のリスト、その生産に必要なさまざまな活動、そして最終的に平均的にこれらの様々な製品の特定の数量を要する労働時間が含まれています。ロビンソンと自己創造財産を構成するものとの間のすべての関係は、シンプルで透明なので、ハーマー・ワートは特別な精神的努力なしにそれらを理解するかもしれません。しかし、それには価値のあるすべての必須規定が含まれています。

⑪ Such forms constitute the categories of bourgeois economy. They are socially valid, that is, objective thought-forms for the relations of production of this historically determined social mode of production, the production of commodities. All the mysticism of the world of commodities, all the magic and hauntings that enveloped labor products on the basis of commodity production, therefore vanishes immediately as soon as we flee to other forms of production.

⑫As the political economy loves Robinsonades (29), Robinson first appears on his island. Humble as he is by nature, he has various needs to satisfy and must therefore perform useful work of various kinds, make tools, make furniture, tame lama, fish, hunt, etc. On prayer and the like. We do not speak here because our Robinson finds pleasure in doing so and sees such activity as rest. In spite of the diversity of his productive functions, he knows that they are only different types of activity of the same Robinson, that is, only different ways of human labor. The need itself forces him to divide his time precisely between his various functions. Whether one more, and the other takes up less space in its overall activity, depends on the greater or lesser difficulty to be overcome in order to obtain the intended benefit. Experience teaches him that, and our Robinson, watch, ledger, ink and quill rescued from shipwreck, as a good Englishman, soon begins to keep a record of himself. His inventory contains a list of the commodities which he possesses, the various activities required for their production, and, finally, the labor-time, which on average costs him certain quanta of these various products. All relations between Robinson and the things that make up his self-created wealth are here so simple and transparent that even Herr M. Wirth might understand them without any special mental effort. And yet it contains all the essential provisions of value.

⑬Now let us move from Robinson's bright island to the dark European Middle Ages. Instead of the independent man, we find everyone here dependent - personal property and lord, vassals and lenders, laymen and priests. Personal dependence characterizes just as much the social relations of material production as the spheres of life built upon them. But precisely because personal relationships of dependence constitute the given social basis, works and products need not assume a fantastic form different from their reality. They enter the social gear as natural services and benefits in kind. The natural form of labor, its peculiarity, and not its generality, as on the basis of commodity production, is its immediate social form here. Labor is as well measured by time as labor-producing labor, but every bodily aptitude knows that it is a certain quantity of his personal labor which he spends in the service of his master. The tithing to be paid to the priest is clearer than the priest's blessing. Just as one may always judge the character masks in which people confront each other here, the social relations of the persons in their works in any case appear as their own personal relations and are not disguised in the social relations of things, the products of labor.

⑬今度は、ロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に移りましょう。独立した人の代わりに、個人の財産と君主、臣下と貸し手、一般人と司祭たちに依存しているのは、ここにいるすべての人たちです。個人的依存は、物質生産の社会関係を、それらの上に構築された人生の領域と同じくらい特徴付けます。しかし、個人的な依存関係が社会的基盤を構成しているからといって、作品や製品は現実とは異なる幻想をとる必要はありません。彼らは自然のサービスと親切な利益のために社会的要素に入ります。コモディティ生産に基づくように、自然な労働形態、その特質、そしてその一般性ではなく、その社会形態は即座の社会形態である。労働は労働生産労働として時間によっても測定されますが、すべての身体的適性は、それが彼の主人のために費やす彼の個人的労働の一定量であることを知っています。司祭に支払われるべき裁定は、司祭の祝福よりも明らかです。ここで人々がお互いに直面している文字マスクを常に判断するかもしれないように、作品の中の人の社会関係は、自分の個人的関係として現れ、物事の社会的関係、労働の製品です。

⑭共通の考察のために、i。私たちは、文明化されたすべての人々の歴史の限界に遭遇するこの作品の自然主義的な形に直接戻る必要はありません。 (30)もっと明白な例は農家の農家主義産業であり、穀物、家畜、糸、キャンバス、衣類などが必要とされるために農家の家系がある。これらの異なることは、家族の仕事の別個の製品として家族に直面するが、商品として相互には直面しない。これらの製品、農業、家畜、紡績、製織、テーラーメントなどを生産するさまざまな作品は、自然な形態の社会的機能を持っています。性別や年齢の違い、例えば季節の変化に伴う自然条件の変化などは、家族間の配分や家族の個々のメンバーの労働時間を調整します。しかし、個々の労働力は時間の長さによって測定され、その性質上、仕事そのものの社会的意思であるように見える。なぜなら、個々の労働力は本質的に家族のものなのです。

⑭For the consideration of common, i. We do not need to go back directly to the naturalistic form of this work, which meets us at the threshold of history of all civilized peoples. (30) A more obvious example is the rural patriarchal industry of a peasant family, for its own needs grain, livestock, yarn, canvas, garments etc. produced. These different things confront the family as distinct products of their family work, but not mutually as goods. The various works which produce these products, agriculture, livestock, spinning, weaving, tailoring, etc., are in their natural form social functions, because functions of the family possessing their own natural division of labor are as good as commodity production. Gender and age differences, such as changing natural conditions of work with the change of season, regulate their distribution among the family and the working time of the individual members of the family. However, the expenditure of the individual labor force, which is measured by the length of time, appears by its very nature to be the social determination of the work itself, because the individual labor force is inherently only an organ of the collective labor power of the family.

⑮Finally, for a change, let us imagine an association of free men who work with common means of production and self-confidently expend their many individual workers as a social labor force. All the rules of Robinson's work are repeated here, only socially rather than individually. All Robinson's products <93> were his exclusively personal product and therefore immediate commodities for him. The overall product of the association is a social product. Part of this product is again used as a means of production. He remains social. But another part is consumed as food by the club members. He must therefore be distributed among them. The nature of this distribution will alternate with the particular type of social production organism itself and the corresponding historical level of development of the producers. For the sake of parallel with commodity production, we assume that the share of each producer in food is determined by his working time. Working time would therefore play a dual role. Their socially planned distribution regulates the correct proportion of the various work functions to the different needs. On the other hand, working time also serves as a measure of the individual share of the producer in the joint work and therefore also of the individually consumable part of the common product. The social relationships of people to their work and their products of work remain transparently simple in production as well as in distribution.

⑮最後に、変化のために、一般的な生産手段と協力し、多くの個々の労働者を社会的労働力として自信を持って消費する自由男性の連合を想像してみましょう。 Robinsonの作業のすべてのルールは、ここで繰り返され、個別にではなく社会的にのみ繰り返されます。 Robinsonのすべての製品は、彼の独占的な個人的な製品であり、したがって、彼のための直接の商品でした。協会の全体的な製品は社会的な製品です。この製品の一部は再び生産の手段として使用されます。彼は社会的なままです。しかし、他の部分は、クラブのメンバーによって食物として消費されます。したがって、彼はそれらの中に分散されなければならない。この分布の性質は、特定のタイプの社会生産生物そのものと、それに対応する生産者の発展の歴史的レベルと交互になるだろう。商品生産と並行して、食品中の各生産者のシェアは労働時間によって決定されると仮定する。したがって、労働時間は二重の役割を果たすであろう。彼らの社会的に計画された流通は、様々なニーズに対する様々な仕事関数の正しい割合を規制している。一方、勤務時間は、共同作業における生産者の個人シェアの尺度となり、したがって共通プロダクトの個別に消耗する部分の尺度としても機能する。人々の仕事と仕事の生産物に対する社会的関係は、生産と流通において透過的に単純なままです。

⑯生産の社会的関係の一般的な社会的関係が商品としての商品として行動すること、すなわち価値として、そして同類の人間の労働としての私的な仕事を互いに関連づけている事実上の形態の社会にとって、キリスト教は特にブルジョワ開発、プロテスタント、デイズムなどで最も宗教的な形態の抽象的な人物。古代アジア、古代などの生産モードでは、商品の商品への変換、したがって商品生産者としての男性の存在は従属的な役割を果たしますが、政治の進展がますます重要になります彼らの終焉の段階。真の取引民は、ポーランド社会の穴の中のエピキュラスの神やユダヤ人のような古い世界の中間にしか存在しません。これらの古い社会生産生物は、ブルジョアよりも格段に単純で透明であるが、他の人との関係や自然界の臍帯からまだ壊れていない個々人の未熟さ、支配と束縛の彼らは、労働力の生産力の低レベルの開発と、物質的な生命発生プロセスの中で人間同士の関係を相応に不均衡にすることによって、お互いに、そして自然に適応しています。

この本当の自意識は、古い自然や民俗宗教に反映されています。現実世界の宗教的な反映は、今日の日々の仕事の実用的条件の条件が、お互いに、そして自然と、透明で透明な関係を提供するとすぐに消滅することができます。社会生活プロセスの形、すなわち、自由に社会化された人々の製品を生産的に意識して支配するとすぐに、その神秘的な霧を取り除くだけです。しかし、この目的のためには、社会の物質的基盤が必要であり、一連の物質的存在条件が必要であり、それ自体が長く痛みを伴った発展の歴史の天然産物である。

⑯For a society of commodity producers whose general social relation of production consists in behaving towards their products as commodities, that is, as values, and in their factual form relating their private work to each other as equal human labor, Christianity is with its cult of abstract man especially in its bourgeois development, Protestantism, Deism, etc., the most appropriate form of religion. In the ancient Asiatic, ancient, etc. modes of production, the transformation of the product into commodity, and therefore the existence of men as commodity producers, plays a subordinate role, which, however, becomes all the more important the more the polities enter the stage of their demise. Genuine trading peoples exist only in the interludes of the old world, like Epicurus gods or Jews in the pores of Polish society. Those old social production organisms are extraordinarily simpler and more transparent than the bourgeois, but they rest either on the immaturity of the individual man, who has not yet broken away from the umbilical cord of the natural species-connexion with others, or on direct relations of domination and bondage. They are conditioned by a low level of development of the productive forces of labor and correspondingly disproportionate relationships of human beings within their material life-generating process, hence to each other and to nature.

This real self-consciousness is reflected in the old natural and folk religions. The religious reflection of the real world can only disappear as soon as the conditions of the practical life of the daily work of the day provide transparent and transparent relationships with each other and with nature. The shape of the social life process, i. of the material production process, only strips off its mystical haze as soon as it is under the productively conscious control of the product of freely socialized people. For this purpose, however, a material basis of society is required or a series of material conditions of existence, which are themselves the natural product of a long and painful history of development.

⑰The political economy, though imperfect (31), has now analyzed value and value and discovered the hidden in these forms. It has never even asked why this content takes that form, so why does work in value and the amount of labor in its duration represent the value of the product of labor? (32) Forms written on the forehead that they belong to a social formation in which the process of production controls human beings, and man does not yet control the production process, are considered by their bourgeois consciousness to be as self-evident natural necessity as the productive labor itself. Pre-bourgeois forms of the social organism of production are therefore treated by it such as pre-Christian religions from the church fathers. (33)

⑰政治経済学は、不完全ではあるが(31)、価値と価値を分析し、これらの形で隠れたものを発見した。なぜこのコンテンツがその形を取るのか尋ねたことはありませんでした。なぜ価値のある仕事とその期間中の労働の量は労働生産物の価値を表していますか? (32)額に書かれている、生産過程が人間を支配し、人間がまだ生産過程を制御していない社会形成に属する形式は、彼らのブルジョワ意識によって、自明な自然の必需品とみなされる生産労働そのものなのです。したがって、生産の社会的生物のプレブルジョアの形態は、教会の父親からのキリスト教以前の宗教など、それによって扱われる。 (33)

⑱商品世界に付随するフェチシズムや社会的労働条件の事実上の出現によって、エコノミストの一部が欺かれていることは、とりわけ、交換価値の形成における自然の役割についての退屈で愚かな争いです。交換価値は、物事に関連する仕事を表現する社会的な方法であるため、換算レートよりも多くの天然物質を含むことはできません。

⑲商品形態はブルジョア的生産の最も一般的かつ未開発の形態であるため、今日と同じ支配的で特徴的な方法ではないが早期に起こるため、そのフェティッシュな性格はまだ見通しが比較的容易であるように思われる。
しかし、より具体的な形では、この単純さの外観さえも消えてしまう。
monetarシステムの幻想はどこから来たのですか?それは、生産の社会的関係としてお金を表現するのではなく、奇妙な社会的特質を持つ自然のものの形で金と銀を見ていました。そして、モンテカル・システムをめちゃくちゃ笑っている近代経済学は、そのフェティシズムが資本を扱うとすぐに結実するのではないのですか?どのくらいの間、土地賃貸が社会からではなく地上から成長するという、フィジカルクラスの錯覚があり、いつ消えてしまったのでしたか?

⑱<97> Just how much a part of economists is deceived by the fetishism attached to the commodity world or by the factual appearance of the social working conditions proves, among other things. the boring, silly quarrel about the role of nature in the formation of exchange value. Since exchange value is a certain social way of expressing work related to a thing, it can not contain more natural substance than, say, the exchange rate.

⑲Since commodity form is the most general and undeveloped form of bourgeois production, which is why it occurs early, although not in the same dominant, characteristic manner as it does today, its fetish character still seems to be relatively easy to see through. In more concrete forms, even this appearance of simplicity disappears. Where did the illusions of the monetar system come from? It did not look to gold and silver to represent money as a social relation of production, but in the form of things of nature with strange social qualities. And the modern economy, which grins down nobly on the monetar system, does not its fetishism come to fruition as soon as it treats capital? For how long has the physiocratic illusion disappeared that land rent grows out of the earth, not out of society?

⑳However, in order not to anticipate, suffice here an example of the commodity form itself. If the goods could speak, they would say that our utility value may interest people. He does not come to us as things. But what we really deserve is our value. Our own traffic as a commodity proves that. We refer only to one another as exchange values. Now listen to how the economist speaks out of the merchant soul:

⑳しかし、予期しないように、ここでは商品形態そのものの例で十分である。商品が話すことができれば、私たちのユーティリティ価値は人々に関心を持つかもしれないと言います。彼は私たちに物事として来ません。しかし、私たちが本当に値するのは、私たちの価値です。商品としての私たち自身のトラフィックはそれを証明します。私たちは交換価値としてお互いを参照します。経済学者が商人の魂からどのように語っているか聞いてみましょう。

「価値」は「人の財産、財産」です。この意味での価値は必然的に富ではなく交換を含む。 "(34)"富 "(use-value)"は人間の属性であり、物の属性である人間や地域社会は豊かで、真珠やダイヤモンドは貴重です...真珠やダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンド。 "(35)
"Value" is "property of things, wealth" of "man." Value in this sense necessarily includes exchange, not wealth. "(34)" Wealth "(use-value)" is an attribute of man, Worth an attribute of goods A human or a community is rich, a pearl or a diamond is precious ... A pearl or a diamond has value as pearl or diamond. "(35)

<98> So far, no chemist has discovered exchange value in pearl or diamond. The economic discoverers of this chemical substance, who make special claims to critical depth, find, however, that the use-value of things, regardless of their material qualities, and their value to them, belongs to them as things. What she confirms here is the peculiar circumstance that the use-value of things is realized for man without exchange, that is, in the direct relationship between thing and man, conversely, their value only in exchange, i. in a social process. Who does not remember the good dogberry who teaches the night watchman Seacoal:

<98>これまでのところ、化学者は真珠やダイヤモンドの交換価値を発見していません。しかし、この化学物質の経済的発見者は、特別な主張を臨界深度まで行うが、物的資質とその価値にかかわらず、物質の使用価値は物としてそれらに属していることを見出している。彼女がここで確認しているのは、物事の使用価値が交換なしに、すなわち物と人との間の直接的な関係において、逆にその交換価値のみで実現されるという特別な状況です。社会的な過程で誰が夜の警備員シーコアールを教える良いdogberryを覚えていない:
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「ハンサムな人間は状況の贈り物だが、読書は自然である」 (36)
"Being a handsome man is a gift of circumstance, but reading and writing is natural." (36)

(36)ObservationsとS. Baileyの著者は、リカルドが絶対的なものから相対的なものへの交換価値を転換していると非難している。逆に。 彼は、例えばダイアモンドとパールが交換価値として持っている偽の相対性を、外観の背後に隠れている真の関係、人間の労働の単なる表現としての相対性に還元している。 リカルド人がベイリーにおおまかには答えても説得力がないと答えたのは、リカルド自身が、価値と価値の形式や交換価値の内面的なつながりについての情報がないからだ。

(32)古典政治経済の基本的な欠点の一つであり、商品の分析、特に商品の価値、交換価値となる価値の形を見出すことには決して成功しなかった。A. SmithやRicardoのような彼女の最高の代理人では、彼女は価値形態を全く無関係なもの、あるいは商品そのものの性質の外部的なものとして扱います。その理由は、価値の大きさの分析が彼らの注意を完全に吸収するという理由だけではありません。彼は深く嘘をついている。

価値形態の作業成果物は最も抽象的であるが、ブルジョアの生産方式の最も一般的な形でもあり、これは特別な種類の社会生産として特徴づけられ、したがって歴史的に同時に特徴付けられる。

したがって、社会的生産の永遠の自然な形態のためにそれらを提供すれば、価値形態の特定、すなわち商品形態を見落とし、さらに資金形態、資本の形態などにもそれを発展させる。したがって、経済学者は、労働時間を通じて価値の大きさを測定することに同意し、最もカラフルで矛盾した金銭のアイデア、すなわち一般的な同等の完成形に合意する。
  <スミス、リカードは、①労働時間を通じて価値の大きさを測定すること、②一般的な同等の完成形はみとめていた!と>
これは印象的です。銀行の扱いでは、お金の共通の定義ではもはや十分ではありません。これとは対照的に、社会的形態のみを価値に見立てた修復商業システム(Ganilhなど)、あるいはその改善されていない外観のみ。古典的な政治経済の下で、これを実現するためには、ブルジョワの生産関係の内面的なつながりを見いだすW.Pettyが、明らかな文脈の中でしか漂っている下品な経済とは対照的に、すべての経済学を理解する。科学的経済によって供給されてからずっと長い間咀嚼されてきた長い歴史の資料やブルジョワの家庭用必需品を語るための説得力のある理解は、しかし、それは自分自身を最善のブルジョワ生産エージェントの慣れ親しんだ自己満足したアイデアを体系化し、パンタライジングし、永遠の真実として宣言することにそれ自身を限定する。
  <以上です。>
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     初版 物神性論
原P35
 ①商品は一目瞭然で自明で些細なものだと思われる。それの分析は、それが非常に残酷なものであり、形而上学的微妙さと神学的嫌悪に満ちているという洞察をもたらします。単なる使用価値として、その属性が人間の必要を満足させるという視点から考えるか、人間の労働の産物としてのみこれらの属性を得るのかどうか、それは卓越したものは何もない官能的なものです。人間が彼の活動によって、自分にとって有益な方法で自然の物質の形を変えるという事実には、まったくの謎はありません。たとえば、木の形は、テーブルを作ると変更されます。それにもかかわらず、テーブルは木で、普通の、官能的なものです。しかし、商品として脱出するとすぐに、それは感覚的に超感情的なものに変身する。それは地面に足を立てるだけでなく、他のすべての商品と対峙し、突然踊り始めるよりははるかに驚異的な木製の頭蓋骨から発達します。

 ②したがって、商品の神秘的な性格は、その使用価値において生じない。それは、それ自体で考慮された価値決定から少しだけ生じます。まず第一に、有用な労働や生産活動が異なっていても、それは他の生物とは区別されるような特異的な人体の機能であり、そのすべての機能や内容、本質的には人間の脳、神経、筋肉、知覚器などの支出である。第2に、価値の量の決定に基づいているもの(その支出の時間、または労働量)、その量は肉眼でも知覚可能な方法で労働の質と区別できることは明らかである。すべての条件において、異なるレベルの開発で同じレベルではないが、人間にとって懸念される必需品の生産にかかる労働時間であった。最後に、人々がどんなやり方でも互いのために働くとすぐに、彼らの労働は社会的形態を獲得する。

 ③彼の島にRobinson Crusoeを連れて行きましょう。彼は当然であるとしてモデスト、それにもかかわらず、彼は私たちが祈るに、現時点では言及していない満足させるため、様々な種類の有益な労働を行わなければならない、ツールを作る、家具を構築し、飼いならされたラマ、魚、ハントなど、さまざまなニーズを持っており、他のそのような活動を私たちのロビンソンは彼らからの喜びを引き出し、そのような活動をレクリエーションとみなしているからです。彼の生産的な機能の多様性にもかかわらず、彼は1つの同じロビンソンの様々な形の活動だけであることを知っているので、人間の労働の異なるモードです。

必要性そのものは、彼の様々な機能の間で正確に時間を分割するよう強要する。彼の活動の全体において、より多くのスペースとより少ないスペースを必要とするかどうかは、意図された有用な効果の達成のために克服しなければならない、より大きなまたはより少ない困難に依存する。経験は彼に多くのことを教えてくれます。ロビンソンは時計、日記、インク、ペンを難破船から救ってくれました。彼の在庫には、彼が所有する使用目的のリスト、その生産に必要な様々な作業、そして最終的にこれらの様々な製品の特定の数量が彼に平均的にかかる労働時間のリストが含まれている。

ロビンソンと彼自身の富を形作るものとの間のすべての関係は、シンプルで透明なので、ワート氏も特別な精神的な努力なしにそれらを理解することができます。それにもかかわらず、価値のすべての本質的な決定がそこに含まれています。

 ④ロビンソンの所在地に自由男性組織を置くと、共通の生産手段を使って、多くの個々の労働力を意識的に一つの社会的労働力として費やすならば、ロビンソンの労働の決定はすべて繰り返されます。個人的な方法よりも。それにもかかわらず、本質的な違いが出てくる。すべてのロビンソンの製品は彼の独占的な個人的生産物であり、それによって彼のためにすぐに使用の対象となりました。
組織全体の製品はソーシャルプロダクトです。

この製品の一部は、再び生産の手段として役立ちます。それは社会的なままです。しかし、もう一つの部分は組織のメンバーによって必需品として使われています。この部分はそれらの間で分割されなければなりません。この部門の仕方は、社会生産 - 生物そのものの特定のやり方と、生産者の発展の比較可能な歴史的レベルによって変わるだろう。
 ④If we now put an organization of free men in Robinson’s place, who work with common means of production and expend their many individual labour-powers consciously as one social labour-power, all the determinations of Robinson’s labour are repeated: but in a social rather than an individual way. Nevertheless, an essential difference emerges. All Robinson’s products were his exclusively personal pro- duct, and were thereby immediately objects of use for him. The total product of the organization is a social product. One part of this product serves again as means of production. It remains social. But another part is used up by the members of the organization as necessities. This part must be divided up among them. The manner of this division will change with the particular manner of the social production-organism itself and the comparable historical level of development of the producers.

 ⑤コモディティ・プロダクションと並行してのみ、私たちは、各生産者の生活必需品のシェアは、彼の労働時間によって決定されることを前提としています。このような場合、労働時間は二重の役割を果たすだろう。その社会的に計画された配分は、さまざまなニーズに応じた様々な労働機能の正しい割合を制御します。他方、労働時間は、一般労働における生産者の個々のシェアの尺度と同時に、それによって個人が使い切ることができる共通製品の部分でも機能する。このような場合には、労働者と労働者の社会的関係は、生産と流通の両面において、透明性を保って単純なままであった。
 ⑤ Only for the sake of the parallel with commodity-production do we presuppose that each producer’s share of necessities of life is determined by his labour-time. In such a case, the labour-time would play a dual role. Its socially planned distribution controls the correct proportion of the various labour-functions to the various needs. On the other hand, the labour-time serves at the same time as the measure of the individual share of the producer in the common labour, and thereby also in the part of the common product which can be used up by individuals. The social relationships of men to their labour and their products of labour remained transparently simple in this case, in production as well as in distribution.

 ⑥それは商品の形をとるとすぐに労働生産物の困惑を引き起こすのだろうか?
 ⑥Whence comes the puzzling character of the labour-product as soon as it assumes the form of commodity?

 ⑦これらの対象が均質な人間の労働の客観的な殻として数えられる限り、人々が価値と観なして互いの製品を関連付けるならば、それらの様々な労働は客観的な殻の下で均質な人間の労働としてのみ見なすことができる。彼らは、彼らの製品を価値として互いに関連づけることによって、さまざまな労働を人間の労働として互いに関係づけています。個人的な関係は、客観化された形式によって隠されている。
 ⑦If men relate their products to one another as values insofar as these objects count as merely objectified husks of homogeneous human labour, there lies at the same time in that relationship the reverse, that their various labours only count as homogeneous human labour when under objectified husk. They relate their various labours to one another as human labour by relating their products to one another as values. The personal relationship is concealed by the objectified form.

だから、価値が何であるかは額に書き込まれません。彼らの製品を商品として互いに関連付けるために、男性は様々な労働を抽象的な人間の労働と見なすことを強いられます。彼らはそれを知らないが、物質的なものを抽象化、価値に還元することによってそれを行う。
So just what a value is does not stand written on its forehead. In order to relate their products to one another as commodities, men are compelled to equate their various labours to abstract human labour. They do not know it, but they do it, by reducing the material thing to the abstraction, value.

これは原始的なものであり、無意識のうちでの本能的な脳の動作であり、必然的に物質的生産の特定の様式と、この生産がそれらを構成する関係から生長する。
This is a primordial and hence unconsciously instinctive operation of their brain, which necessarily grows out of the particular manner of their material production and the relationships into which this production sets them.

まず、彼らの関係は実用的なモードで存在します。しかし、第二に、彼らの関係は彼らの関係として存在する。
First their relationship exists in a practical mode. Second, however, their relationship exists as relationship for them.

それが彼らのために存在するか、または脳に反映される方法は、関係の本質から生まれます。後で、彼らは科学の助けを借りて、自分の社会的製品の謎を後ろから取り除こうとします。
The way in which it exists for them or is reflected in their brain arises from the very nature of the relationship. Later, they attempt to get behind the mystery of their own social product by the aid of science, for the determination of a thing as value is their product, just as much as speech.

今や価値の大きさに関わる限り、私たちは、互いに独立して(しかし、彼らが原始的な分業のメンバーであるために)プライベートな労働は、あらゆる面で常に社会的に縮小されている偶発的かつ絶え間なく変化している製品の交換関係において、その生産に社会的に必要な労働時間は、例えば、重力の法則がそうであるように、規制自然法として強制的に排除されるという事実から・家は頭の上に落ちるようにです。
Now as far as concerns the amount of value, we note that the private labours which are plied independently of one another (but because they are members of the primordial division of labour are dependent upon one another) on all sides are constantly reduced to their socially proportional measure by the fact that in the accidental and perpetually shifting exchange relationships of their products the labour-time which is socially necessary for their production forcibly obtrudes itself as a regulating natural-law, just as the law of gravity does, for example, when the house falls down on one’s head.

したがって、労働時間による価値の量の決定は、相対的な商品価値の見かけの動きの中で潜んでいる謎である。生産者自身の社会運動は、生産者がその動きを制御するのではなく、その制御下にあるオブジェクトの動きの形態を所有している。
The determination of the amount of value by the labour-time is consequently the mystery lurking under the apparent motions of the relative commodity-values. The producers’ own social movement possesses for them the form of a motion of objects under the control of which the producers lie instead of controlling the motion.

最終的には価値に関わる限り、
私たちは、私的労働の社会 <the relative commodity-values.>
的関係とその結果として私的労働者の社会的決定を客観的に覆い隠すのはちょうどこの<最後の価値形態>に過ぎないことに気付く。
As far as concerns the value-form<価値形態> finally, we note that it is just exactly this form which objectively veils the social relationships of private workers and consequently the social determinations of private labours, instead of laying them bare.

私がコートと言うなら、ブーツなどは抽象的な人間の労働の普遍的な物質化としてリネンに関係しています。物を置くような狂気は目に飛び込みます。しかし、コート、ブーツなどの生産者がこれらの商品をユニバーサル相当品としてリネンに関連付けると、彼らの私的労働の社会的関連性は、まさにこの狂気のような形で現れます。
If I say that coat, boots, etc. relate themselves to linen as universal materialization of abstract human labour, the insanity in such a way of putting things leaps into view. But if the producers of coat, boots, et

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 規制のない知事の暴走目こぼし

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年10月 7日(日)09時46分58秒
返信・引用
   規制のない知事の暴走目こぼし
 12年前盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なの だ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。
 ろうあ協会も友の会も県の看板で辞めたら暴走を隠すために親父は馬鹿のままで辞めた理由はデマを流し口封じにかん口令を敷かれた。関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせない。社会参加は12年で12回妨害された。
 いまでは通訳差別も3年前から続き情報センターさえ貸し出し拒否している。和解より抹殺しか考えていない。
 調べたら友の会を辞めたのは12年前でその前年自立支援法が廃止になっていた。無法状態を悪用されたことになり、法務省はたかが障害者の1人と容認されていた。
 相手にするなという暴走隠しは知事からで法務省もばれなけれはいいと容認されていた。こっちは障害者のためたかが一人くらいとされ諦めることは一生負け犬扱いの差別しか来なくなる。
 これは普通県庁がそんなことするはずがないと言いこっちを馬鹿でないかとしか見なくなる。
 実際3年前文書を持って町の人に呼びかけたが誰も信じない。怒っている人までいた。協力は求められない。県庁もまた同じように障害者の言い分は誰も信じないと思ったのか。
 法務省も知事が偉くこっちは障害者で揉み潰ししか考えていない。看板の面子にこだわる知事より実行犯の北上の小笠原夫妻と奥州の小野寺良子さんに的を変えた。地元では親を馬鹿と言うのは乗せられた元社協理事しかいないが他はこの3人だけになる。それも親を馬鹿と言って名誉市民になっている。それで北上と奥州の社協に親父の記録を届けた。馬鹿でも真似出来ますかと。
 無視するので全国の社協にばら撒き更に岩手の態度も知らせた。
 全国の社協は他県に関われないと思うが失笑や後ろ指は避けられなくそれでも県庁は相手にするなと言うままこれは障害者の言い分は誰も信じないからほっとけとなる。「一般県民にばれなければいいと全国からの失笑も後ろ指も気にするなと恥じも外聞もなんい姿勢らしい」。
 障害者という立場の弱さを逆手に取られこれは法務省も同じ。別の社会へ行けとしか考えていてない。友達一人残らず取られた上に後に残るのは一生負け犬扱いの差別だけになる。それに聾唖者は自分から友達作るのは困難で12年も完全孤立に耐えて来た。
 法務省は掲示板に実名使うと訴えられるぞとしか言わない。
 これはかん口令を逆手にとって書きたい放題にしたことで批判も反論も12年一つも来ない。来たのは妨害だけ。本音は掲示板の一部は外国に流れているから辞めさせろと言うことになる。
 世界一安全というキャッチフレーズの法務省が世界一当てにならないことになるからだ。法務省も法務局も見解一つ言わない。擁護係りを通して諦めろと言い別社会に行けと言う。厄介払いが本音。
 これは自立支援法廃止を逆手にした知事の暴走をばれなければいいと法律が当時無かった為容認したせいになる。
 北上のの小笠原さんと奥州の小野寺良子さんは名誉市民。
 親類の松岡一族の妹が大本家であり恩師である人に親父の悪口話し笑っていたのだから。実家は口封じして本人はかん口令の後ろに隠れた。小笠原夫妻の無責任に通訳資格剥奪追放を求めています。
 法務省への手紙は法務局に行けと言うだけ。6月に初めてメールでもう諦めたいと言うと諦めるなと言い法務局に行けと言う。行ってみると掲示板の話だけ。法務省へのメールは20回以上でも数日で返事すると言って3ヶ月も一つも返事しない。そして法務局への手紙は20回以上出して返事は知事をかばう暴走目こぼし権なんか無いと言うだけ。どうしても容認していることになる。法務省は障害者は馬鹿のうちとしか見ていないのか。
 法務省は本気で打開策を考えないなら世界中に掲示板を流してやると話している




 

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