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関生型労働運動, 反弾圧 労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 のお 知らせ

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月23日(日)15時34分58秒
返信・引用
  http://com21.jp/archives/28989
■ 日時:2018年9月22日(土)18時~
■ 場所:エル大阪5F南館ホール
 大阪市中央区北浜東3-14(地図)

■ 内 容:
 現状報告―空前の組合つぶし、いま何がおこっているのか
 実行委員会参加組合・団体からの発言、訴え!

■ 主 催:9・22集会実行委員会
 連絡先:全港湾関西地本大阪支部
 電話 06-6575-3131 FAX06-6575-3134

http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=7826;id=01#7826
■生コン支部に今朝10数人の大量逮捕弾圧!大阪府警が連帯生コン支部をガサ入れし!
[NEW]  戸田  E-MAILWEB  - 18/9/18(火) 12:26 -

■生コン支部に今朝10数人の大量逮捕弾圧!
本日9/18(火)朝、大阪府警が連帯生コン支部をガサ入れ・大量逮捕!(戸田)

 門真市議の戸田から各方面の方々へ、緊急重大な情報です。(重複ご容赦)

■本日9/18(火)朝、大阪府警が関西地区生コン支部などをガサ入れするとともに、支部で10数人もの大量逮捕を行なった、という情報が飛び込んできた!

 ネットニュースでは9/18早朝の発信で、
 「・・・捜査していることが17日、捜査関係者への取材で分かった。
  府警はすでに大阪市西区の関生支部や関係先の家宅捜索を実施。
  府警は十数人が関与したとみて、近く幹部らから事情を聴く方針。・・」
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180918-00000508-san-soci
と書いてあるが、実際には10数人もの大量逮捕を行なった!

 詳しい事は今のところ、外部からは不明。

■「9/22(土)緊急抗議集会」を目前にしたところでの大量逮捕弾圧を絶対に許さない!
労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 すでにご存知のように滋賀県警組織犯罪対策課による8月9日、8月28日に連帯ユニオン関生支部への連続的弾圧が開始されている。28日には武建一執行委員長のほか支部役員2人が逮捕され、8月9日の1名の役員を含め計4人を不当逮捕したうえ、大阪市内の関西地区生コン支部事務所など多数ヶ所を家宅捜索した。その中には無関係箇所も含まれ、家宅捜索は違法で暴力的なのものであった。さらに大阪府警などの関西の各県警も弾圧拡大に動いている。

 この弾圧は労働組合活動を恐喝未遂容疑とするものであり、さらに他の警察権力は共謀罪などの適用をほのめかしている、労働組合活動の刑事免責を除外した一昔前から比べ、法律も変わらないまま一切の組合活動を刑事罰としようとするものである。これを許すなら憲法28条も必要ないとされ、資本家に有利な社会が作られていくことは明白である。今回の特徴は組織犯罪対策課が中心となり「警察庁の指示」といっていることである。いち労働組合への弾圧としては近年ない規模であり政府主導の新たな労働組合つぶしの開始といえる。

 日本において生コン業界を切り口に本格的産業別職種別の労働運動をめざし幾多の弾圧・妨害を乗り越えてきた連帯ユニオンの関生支部の闘い。これへの全面的破壊攻撃の開始である。断じて許すことは出来ない。滋賀県警は業者に対し「関生と手を切れ」といい、組合員には「組合加入の動機はなにか」と産業別中小企業労働運動破壊を公言している

 今こそ大企業の収奪とたたかい、辺野古新基地建設を許すな、原発再稼働阻止、戦争法・共謀罪廃止、憲法改悪反対を求め、安倍政権とたたかう労働組合つぶしを許すなの声をあげよう。
 そこで、こころある人々の9・22集会への賛同(無料)・参加を強く訴えます。滋賀県警への抗議を訴えます。
 
 

 交換過程

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月22日(土)10時27分26秒
返信・引用 編集済
  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_099.htm

ぐーぐるほんやく
https://translate.google.co.jp/?hl=ja

  <『価値形態論と交換過程論』での前編を読んでいて、なんだか、扱っていること
  が交換過程論ばかりで、価値形態論への言及があまりに少ない事に気づいた。
  しかし、交換過程論は、むしろ久留間先生が否定する価値形態論への言及の拡大で
  あり、追求の徹底なのではないか?と思えるのです。流通手段においても、扱って
  いることは、商品・貨幣の二重の形態であり、商品形態なのです。>

           交換過程 6・7段落に注意してほしい!
    そこでの記述は、交換過程の条件ではなく、その前段なのです。
    1 物象の社会関係が  、
            2<物象の人格化・人格の物象化>を受けとるーーことがあって、
           3その次に交換過程が展開されるのです。
    価値形態論での物象の社会関係の次が、すぐさま、交換過程では
    ないのです。>

   Der Austauschprozeß
   交換プロセス
   The exchange process
 <99>
 ①商品は市場に出ることはできず、自分自身を交換することはできません。だから私たちは彼らの飼い主、商品の所有者を見なくてはなりません。商品はものなので、人間に抵抗することはありません。彼らが喜んでいない場合、彼らは力を使用することができます、つまり、それらを取ることができます。

(37)物品としてこれらの物をお互いに関連させるためには、財産保持者はその物に住む意志のある人物として行動しなければならず、したがって、それぞれが外国の商品彼または彼女自身の財産を売却することによって、どちらか一方または両方の共通の意志によって、したがって、彼らは相互に個人所有者として認識する必要があります。

この法的関係は、その形式が法的であるか否かにかかわらず、経済的関係が反映された意志である。この法律または意志の関係の内容は、経済関係そのものによって与えられる。 (38)

ここには、商品の代表者として、したがって商品所有者としてしか存在しません。

このことは、分析のさらなる進路において、人の経済的性格のマスクは、彼らの提示とは反対の経済的諸関係<諸範疇>の人格化であることが分かるだろう。
 <「物象の人格化と人格の物象化の対立」原P123--と示されたことがらです。>

① The goods can not go to the market themselves and can not exchange themselves. So we have to look after their keepers, the goods owners. The goods are things and therefore without resistance to humans. If they are not willing, they can use force, in other words, take them.

(37) In order to relate these things to one another as goods, the goods keepers must behave as persons whose will lives in those things, so that one only with the will of the other, that is, each one acquires the foreign commodity only by means of one or both common wills, by selling off his own property. They must therefore mutually recognize each other as private owners.

This legal relationship, the form of which is the contract, legal or not, is a volition in which the economic relationship is reflected. The content of this relationship of law or will is given by the economic relation itself. (38)
The persons exist here only <100> for each other as representatives of commodities and therefore as commodity owners. In the further course of development we shall find that the economic character masks of persons are only the personifications of the economic relations which they oppose.

 ②特に商品の所有者を商品と区別することは、他のすべての商品が自分の価値の現れとみなされるという事実である。生まれながらのレベラーと冷笑的な彼女は、常に他のすべての商品とともに、魂だけでなく体を変えるために、Maritorneよりも多くの不便を抱えていても、常に移動中です。商品所有者は、独自の5つ以上の感覚を通じて、商品の具体的な意味の欠如に加えます。

彼の商品は、彼のためにすぐには使用価値がありません。さもなければ、彼は彼女を市場に導かなかった。それは他人のための有用性の価値があります。彼にとって、それはすぐに交換価値のベアラーであるという有用性の価値しか持たず、したがって交換の媒体となる。 (39)

そのため、使用価値のある商品で販売したい。すべての商品は、所有者の非使用アイテム、非所有者のユーティリティ値です。だから、あなたはあらゆる面で手を変えなければなりません。しかし、この手の変化は彼らの交換を形作り、交換はそれらを価値として結びつけ、価値として実現する。
したがって、商品は、使用価値として実現される前に価値として実現されなければなりません。
  <杉本 使用価値として実現ーー価値として実現、の関連
   が示されることで、ここからは、価値論ではなく交換過程論が示されている。>

 ③他方では、価値として実現される前に有用な価値を証明しなければならない。
それに費やされる人間の労働は、それが別の有用な形で費やされている限りにおいてのみ重要である。 彼らが他の人に有益であるかどうかに関わらず、彼らの製品は外国のニーズを満たしますが、彼らの交換を証明することしかできません。

 ④すべての商品所有者は、その使用価値が彼の必要性を満たす他の商品に対してのみ商品を販売したいと考えています。 交換が彼のためのものであれば、個々のプロセスだけです。 一方で、彼は自分の商品が価値あるもの、つまり同じ価値の他のすべての商品で、自分の商品が現在他の商品の所有者にとって有用な価値を持っているかどうかを認識したい。 そうであれば、交換は一般的に彼のための社会的プロセスです。 しかし、同じプロセスは同時に、個人であると同時に、すべての商品所有者にとって一般的に社会的ではありません。

②What differentiates the owner of the goods from the commodity in particular is the fact that every other commodity is regarded as manifestation of its own value. Born Leveller and cynic, she is therefore always on the go, with every other commodity, even the same equipped with more inconvenience than Maritorne, not only the soul, but to change the body. The commodity owner adds to this lack of meaning for the concrete of the commodity through its own five and more senses. His goods have no immediate use value for him. Otherwise he did not lead her to market. It has utility value for others. For him, it immediately has only the utility value of being the bearer of exchange value and thus the medium of exchange. (39) Therefore he wants to sell it for commodities whose use value satisfies them. All goods are non-use items for their owners, utility values for their non-owners. So you have to change hands on all sides. But this change of hands forms their exchange, and their exchange links them as values and realizes them as values. The goods must therefore be realized as values before they can be realized as use values.

③On the other hand, they must prove to be useful values before they can be realized as values. For the human labor expended on them counts only insofar as it is spent in another useful form. Whether they are useful to others, their product therefore satisfies foreign needs, but can only prove their exchange.

④Every commodity owner wants to sell his commodity only against other commodity, whose use-value satisfies his need. If the exchange is for him only an individual process. On the other hand, he wants to realize his commodity as a value, that is, in every other commodity of the same value, whether his own commodity now has utility value for the owner of the other commodity or not. If so, the exchange is generally a social process for him. But the same process can not at the same time be individual and at the same time only generally social for all commodity owners.

 ⑤もっと詳しく見ると、すべての外国の商品は他のすべての商品と同じ商品として扱われ、その商品は他のすべての商品の一般的な商品とみなされます。 しかし、すべての商品所有者は同じことを行うので、商品は一般的な同等物ではないため、商品は一般的な相対的な価値形態を保有しておらず、価値として自己を価値と見なし、 したがって、彼らは商品にまったく反対するのではなく、商品や使用価値としてのみ反対します。
If we take a closer look, every foreign commodity is regarded as every other commodity as the particular equivalent of its commodity, and its commodity as the general equivalent of all other commodities. Since, however, all commodity owners do the same, no commodity is general equivalent, and therefore the commodities do not possess a general relative form of value, in which they equate themselves as values and compare them as values. Therefore, they are not opposed to goods at all, but only as products or use values.

 ⑥彼らの恥ずかしさの中で私たちの商品所有者はファウストのように思う。最初は行為でした。彼らは彼らが思う前に既に行動しています。商品性の法則は、商品所有者の自然本能にあった。彼らは一般的なものとして他の商品に言及するだけで、商品として価値として、したがって商品としてのみ関連付けることができます。この結果、商品の分析が行われました。

しかし、社会的行動だけが、特定の商品を一般的に同等にすることができます。したがって、他のすべての商品の社会的行動は、すべての面で価値を表現している特定の商品を排除します。

したがって、Naturalform商品は社会的に有効な同等の形態になります。
社会的プロセスを通して、普遍的な同等物は、除外された商品の具体的な社会的機能となる。
それは彼女がどのようになりますか?貨幣です。
 ⑥In their embarrassment our commodity owners think like Faust. In the beginning was the act. They have already acted before they thought. The laws of the commodity nature were in the natural instinct of the commodity owners. They can relate their commodities only as values, and therefore only as commodities, by referring them to any other commodity as a general equivalent. This resulted in the analysis of the goods. But only social action can make a certain commodity the general equivalent. The social action of all other commodities therefore excludes a certain commodity in which they express their values ??on all sides. Thus, the Naturalform commodity becomes socially valid equivalent form. Throughout the social process, the universal equivalent becomes the specifically social function of the excluded commodity.
That is how she becomes - money.
"このような問題を解決するための手段は、他に類を見ないものであり、自明ではありません。 <"彼らは意見があり、誰も売買することのできない獣に力と力を与えます。なぜなら彼は動物の名前または彼の名前の数というマークを持っているからです。">(黙示録)

 ⑦マネークリスタルは、多様な作業成果物が実際に互いに釣り合って実際に商品に変わる交換プロセスの必要な製品です。歴史的な拡大と交換の深化は、商品性のユーティリティ価値と価値との間の休止期の対比を生じさせる。

交通のためにこのコントラストを外部的に描く必要性は、商品価値の独立した形態に駆り立てられ、商品を商品と貨幣に倍増させることによって最終的に達成されるまで休まず、休まない。

したがって、労働生産物の商品への変換と同じ程度で、商品の貨幣への変換が行われる。 (40)

 <杉本 注意!既存訳では、いずれも、「交換過程の必然的産物」との訳です。
 <貨幣結晶>は、・・が実際に互いに釣り合って実際に商品に変わる交換プロセスに
 必要な製品・・なのですから、準備段階を示しているのであり、未だ交換過程は登場
 できてていない!
 もう交換過程が登場していると、理解していると、次のつながりを捨象してしまう、
 のです。
 まず①しかし社会的行動だけが、特定の商品を一般的に同等にすることができます。
    他のすべての商品の社会的行動は、すべての面で価値を表現している特定の商
    品を排除します。
 次に②商品の貨幣への転化・貨幣の商品への転化があり、そのことを示して、労働生
    産物の商品への変換と同じ程度で、商品の貨幣への変換が起こるーーとあり、
 次に③貨幣形態の登場と、それが、貴金属に移行する、ことが、8段落から語られる
    のであり、そして
    ④この① ②があって、
    <彼らの恥ずかしさの中で私たちの商品所有者はファウストのように思う。
    最初は行為でした。>ーーとされたことが、
    次にやっと、交換過程が登場できるのです。>

    <なるほど、久留間先生は、前の⑥段落を引用している。P23です。
    しかし、前段であるものを、交換過程での共同行為ーーとのみそのことを断ず
    る・決めつけることでーーこの二つの過程をともに捨象して、物象の人格化を
    先生は据えることが、ここで、出来なかったのです。
   a価値形態論ではー物象の社会関係が論議されたのであり、
   b交換過程への準備では物象の人格化・人格の物象化が、まず問われたのです。

    ところが先生は、彼の著書のP90にて、宇野先生の主観性を批判して述べて
    いる。
   「・・<前者において>商品のほうがもともと主体なのであり、所有者は、商品
    のロボットにすぎないのである。「人格の物化および物の人格化」といわれる
    ゆえんである。」ーーと主張するのです。
    a物象の社会関係がまず形成されるーー価値形態ーーと、
    b物象の人格化として問われる、交換過程論の形成が、
    先生は、区別できず、この二つの過程を混同してしまったのです。
    この混同のもとでは、⑨<課題は、その解決手段と同時に発生します>ーーと
    の段落をふまえて、
   <⑩⑪"今、金と銀は自然にはお金ではなく、お金は自然に金と銀です">と解
    釈の助け舟が出ているのに、先生は、交換過程への入り方が、対象化できな
    かったのです。それは⑧ ⑨段落で、両極の形態が論議されているのに、捨象
    しているからです。>
 ⑦The money crystal is a necessary product of the exchange process, in which diverse work products are actually equated with each other and therefore actually turned into commodities. The historical expansion and deepening of exchange develops the dormant contrast between utility value and value in the commodity nature. The need to externally portray this contrast for traffic drives to an independent form of commodity value and does not rest and rest until it is finally achieved by doubling the commodity into commodity and money. In the same degree, therefore, in which the transformation of labor-products into commodities, the transformation of commodities into money takes place. (40)

 ⑧一方では、製品の即時交換は、価値の単純な表現の形をしており、他方ではまだ存在していない。その形はxコモディティA = yコモディティBであった。直接商品交換の形態は次の通りである。
x量の使用対象A = y量の使用対象B(41)
物AとBは交換前の商品ではなく、同じものである。

可能性に応じて商品が交換価値となる最初の方法は、非使用価値、その所有者の即時の必要性を超える使用価値の量としての存在である。それ自体の物は人間の外にあり、したがって消耗品です。この疎外が互いに排他的であるためには、人々は暗黙のうちに、それらの外来物の私的所有者として、したがって互いに独立した人として自分自身に反対する必要があります。
 <互いに独立した人として自分自身に反対するーー物象の人格化ーーであります。>
しかし、このような相互の奇妙な関係は、原始的なコミュニティの構成員にとっては存在しない。

今や、家父長家族、古代インドの共同体、インカ州などの形をしている。財の交換は、外国人との接触や外国のコミュニティとのつながりの点でのみです。しかし、物事が海外に行くとすぐに、彼らはまた、内部のコミュニティの商品に戻る。

彼らの量的交換は当初は全くランダムであった。交換<103>バー、彼らは彼らの所有者が彼らを相互に販売する意志の行為です。

一方、外国の商品の必要性は徐々に確立されつつある。交換の一定の繰り返しは、それを規則的な社会的プロセスにしている。したがって、時間の経過とともに、少なくとも一部の作業成果物は、交換のために意図的に生産されなければならない。

この瞬間から、一方では、離別は、
   即時の必要性のための物事の有用性と、交換のための有用性との間
にあります。彼らの使用価値は交換価値とは異なります。

他方、彼ら自身が交換する量的比率は、生産自体に依存する。習慣は値の大きさとしてそれらを修正します。
 ⑧On the one hand, the immediate exchange of products has the form of the simple expression of value and on the other hand it does not yet exist. That form was x commodity A = y commodity B. The form of direct product exchange is: x commodity A = y commodity B. (41) Things A and B are not commodities before the exchange, but are only through the same. The first way in which a commodity is, according to possibility, exchange-value, is its existence as a non-use-value, a quantity of use-value exceeding the immediate needs of its owner. Things in and of themselves are outwardly external to man and therefore expendable. For this alienation to be mutually exclusive, people only need tacitly to oppose themselves as private owners of those alien things, and thus as persons independent of each other. Such a relationship of mutual strangeness, however, does not exist for the members of a primitive community, it now has the form of a patriarchal family, an ancient Indian community, an Inca state, etc. The exchange of goods begins where the polities end, at the points of their contact with foreign polities or Linking foreign communities. But as soon as things go abroad, they also turn back into commodities in the inner community. Their quantitative exchange is initially quite random. Exchange <103> bar, they are by the act of will their owners to sell them reciprocally. Meanwhile, the need for foreign commodities is gradually becoming established. The constant repetition of the exchange makes it a regular social process. Over time, therefore, at least some of the work products must be deliberately produced for the purpose of replacement. From this moment, on the one hand, the divorce attaches itself between the usefulness of things for the immediate need and their usefulness for exchange. Their use value is different from their exchange value. On the other hand, the quantitative ratio in which they exchange themselves depends on their production itself. The habit fixes them as value sizes.

 ⑨製品の即時交換では、各製品は所有者の非所有者に相当する直接的な交換手段ですが、その使用価値がある限りです。したがって、バーター<物々交換>商品は、それ自身の使用価値または交換者の個々のニーズとは無関係にいかなる価値形態も受けていない。

この形式--形態の必要性は、交換プロセスに入る品物の数と種類の増加とともに進化しています。課題は、その解決手段と同時に発生します。

商品所有者が異なる商品を異なる商品と交換して比較する取引は、異なる商品が同一の第3の商品との取引で異なる商品所有者によって交換されずには、値として比較されることはない。

このような第3の商品は、他の商品と同等になり、狭い範囲内ではあるが一般的または社会的に同等の形で直接受け取る。

この一般的な同等形態が生まれ、瞬間的な社会的接触が起こり、それが現実になった。彼女は交代して一瞬のうちにこの商品やその他商品が来る。しかし、商品交換の発展に伴い、それは特別な種類の商品に専念するか、貨幣形態に結晶化する。
どの種類の商品がそれらに貼り付いているかは、最初はランダムです。

しかし、全体として、2つの状況が決定します。
貨幣の形態は、国内商品の交換価値の実際の現れである最も重要な外国為替商品、または国内の譲渡不能所有の主要要素を構成する商品に付随する。
牛などですね。

彼らのすべての所有物は移動式のものであり、したがって直接外国人の形態であり、彼らの生活様式が絶えず彼らを外国のコミュニティと接触させ、したがって製品を交換することを目的としているため、ノルマンディン人はまずマネーフォームを開発する。人々はしばしば、奴隷の形態でさえも、元金の材料を作ったが、土地は決して作っていない。

そのような考え方は、既に教育を受けている市民社会においてのみ生じうる。それは17世紀の最後の3分の1から始まり、フランスのブルジョア革命後の1世紀後に全国規模でその執行が試みられました。
 ⑨In the immediate exchange of goods, each product is a direct means of exchange for its owner, equivalent to its non-owner, but only as far as they are use value for him. Thus, the barter article does not receive any value form independent of its own use value or the individual need of the exchangers. The necessity of this form evolves with the growing number and variety of goods entering the exchange process. The task arises simultaneously with the means of its solution. A trade in which commodity owners exchange and compare their own articles with various other articles never takes place without different goods being exchanged by different commodity owners within their trade with one and the same third commodity and compared as values. Such third commodity, becoming equivalent to other commodities, receives directly, though within narrow limits, general or social equivalent form. This general equivalent form arises and passes with the momentary social contact that brought it into being. Alternating and fleeting she comes to this or that commodity. With the development of the exchange of goods, however, it adheres exclusively to special types of goods or crystallizes into money form. Which type of goods sticks to them is initially random. However, on the whole, two circumstances decide. Money form attaches either to the most important foreign exchange items, which are in fact natural manifestations of the exchange value of the domestic products, or to the commodity which constitutes the principal element of the domestic alienable possession, as e.g. Cattle. Nomadic peoples first develop the money form, because all their belongings are in a mobile, hence directly alien form, and because their way of life constantly brings them into contact with foreign communities, and therefore aims to exchange products. People have often made man, even in the form of a slave, the original material of money, but never the land. Such idea could arise only in already educated civil society. It dates from the last third of the 17th century, and its execution, on a national scale, was attempted only a century later in the bourgeois revolution of the French.

 ⑩したがって、商品の交換が唯一の地方の絆を破るのと同じ割合で、商品の価値は一般的に人間労働の重要性にも及んでいますが、貨幣形態は商品に渡されます。貴金属に対する普遍的な同等の社会的機能のあるものです。

 ⑪今、「金と銀は自然にお金ではありませんが、お金は本質的に金と銀です」(42)は、その自然の性質とその機能との合同性を示しています。 (43)

これまでは、商品の価値を提供するための兆候として、あるいは商品の価値が社会的に表現されている素材として、お金の1つの機能しか知りませんでした。

抽象的で同等な人間の労働の価値や材料の適切な表明は、すべての標本が同じ統一的品質を持つ問題でしかない。一方、価値と価値の差は純粋に定量的なものであるため、貨幣商品は純粋に量的な差異、すなわち任意にそれを分割し、その部分から再組み立てすることができなければならない。しかし、金と銀は自然の性質を持っています。

 ⑩In the same proportion, in which the exchange of goods breaks its only local ties, and the value of commodities, therefore, extends to the materiality of human labor in general, the money-form passes over to commodities, which by nature are fit for the social function of a universal equivalent, to the noble metals.

 ⑪Now, "although gold and silver are not naturally money, and money is by nature gold and silver" (42) shows the congruence of their natural properties with their functions. (43) So far we know only the one function of money, as manifestation to serve the value of the commodity or as the material in which the values ??of commodities express themselves socially. Adequate manifestation of the value or material of abstract and therefore equal human labor can only be a matter of which all specimens have the same uniform quality. On the other hand, since the difference of value-values ??is purely quantitative, the money commodity must be capable of purely quantitative differences, that is to divide it arbitrarily and to be able to be reassembled from its parts. But gold and silver have these properties of nature.

 ⑫お金の使用価値は倍増する。 商品としてのそれらの特定の実用価値に加えて、例えば金など。 中空歯、贅沢品の原料などを詰めるために、それはその特定の社会的機能から得られた正式な有用性を受け取る。
 ⑬他のすべての商品はお金の特別な同等物であり、貨幣はそれらの普遍的な同等物であるので、一般商品としての貨幣に、特別な商品として行動する。 (44)

 ⑫The utility value of the money doubles. In addition to their particular utility value as a commodity, such as gold, e.g. for stuffing hollow teeth, raw materials of luxury articles, etc., it receives a formal utility derived from its specific social functions.
 ⑬Since all other commodities are only special equivalents of money, and money their universal equivalent, they behave as special goods to money as the general commodity. (44)

 ⑭貨幣形態は、ある商品に付随する他のすべての商品の関係の反映に過ぎないことが分かっている。その貨幣は商品である(45)ので、後でそれを分析するために、彼の完成した形態から始まる人のなす--唯一の発見です。

交換プロセスは、商品を価値にではなく<貨幣>に変換する商品であるが、その価値の形態を与える。
<①交換過程は、価値形態を与えることで、商品を貨幣に変換する商品の、共同行為>

2つの決定の混乱は、<①貨幣は商品 商品は価値形態 ②商品は価値形態>金と銀の
価値が想像上であると考えるように導いた。 (46)
特定の機能の貨幣は、それ自体の兆候(商標)に取って代わることができるので、もう一つの誤りはそれが単なる兆候(商標)であるということでした。

一方、物事の貨幣形態は、それ自体が外見上のものであり、単に隠された人間の状況の兆候であるという疑いがあった。

この意味で、価値はすべて、それに費やされた人間労働の事実上の<外皮>カバーに過ぎないので、すべての商品は記号になります。 (47)

しかし、社会的特性を考慮すると、特定の生産方式に基づいて得られた社会的決定要因であるもの、または客観的特性が単なる兆候であると同時に、彼らは人々の反射関係の任意の製品なのです。

18世紀のこの普遍的な啓蒙は、少なくとも当分の間は、創造のプロセスがまだ解読できなかった人間の状況の謎めいた人物に対する不思議さを浮き彫りにするためであった。
 ⑭It has been seen that the form of money is only the reflex of the relations of all other goods attached to one commodity. That money is commodity (45) is thus only a discovery for the one who starts from his finished form in order to analyze it afterwards. The exchange process gives the commodity which it transforms into money not its value but its specific value form. The confusion of the two determinations led one to think that the value of gold and silver was imaginary. (46) Because money in certain functions can be replaced by mere signs of itself, the other error was that it was a mere sign. On the other hand, there was the suspicion that the money form of the thing was itself outwardly and merely the manifestation of hidden human circumstances. In this sense, every commodity would be a sign, because value is only a matter-of-fact cover of the human labor spent on it. (47) But if one considers the social charac- ter, which things, or the objective characters, which social determinants of labor Obtained on the basis of a certain mode of production, for mere signs, they are at the same time declared to be arbitrary products of reflection of men. It was this popular enlightenment of the eighteenth century, in order to shed, at least for the time being, the semblance of strangeness on the enigmatic figures of human circumstances whose process of creation one could not yet decipher.

 ⑮商品の同等形態には、その価値の定量的な決定は含まれていないことに留意したばかりです。金が他のすべての商品と直接的に交換可能であることが分かっている場合、どれくらいの金額があるか分かりません。

金10ポンドは価値があります。すべての商品と同様に、お金は他の商品に比べて相対価値があるだけです。その独自の価値は、その生産に必要な労働時間によって決定され、同量の労働時間が凝固している他のすべての商品の数量で表されます。 (48)

この相対価値の決定は、その生産源による直接交換において行われる。
それがお金<貨幣>として流通に入るとすぐに、その価値はすでに与えられています。

17世紀の最後の数十年の早い時期に、貨幣分析の始まりが遠くから離れていて、貨幣が商品であることを知っていれば、それはほんの始まりにすぎません。難しさは、お金が商品であることを理解することにあるのではなく、商品はどのように、なぜ、どう貨幣であるのかということにあります。
   The difficulty lies not
   in understanding that money is commodity,
   but how, why, by which commodity is money.

 ⑮It has just been remarked that the equivalent form of a commodity does not include the quantitative determination of its value.

If it is known that gold is directly exchangeable with all other commodities, then one does not know how much, for example.

10 pounds of gold are worth.
Like every commodity, money can express its own value only relatively in other commodities. Its own value is determined by the labor-time required for its production, and expressed in the quantity of every other commodity in which the same amount of working-time has coagulated. (48) This determination of its relative value takes place in direct exchange by its source of production. As soon as it enters the circulation as money, its value is already given. If, as early as the last decades of the seventeenth century, the beginning of monetary analysis was far from over, knowing that money is commodity, it is only the beginning. The difficulty lies not in understanding that money is commodity, but how, why, by which commodity is money. (49)

 ⑯私たちは、どのようにして価値の最も簡単な表現で見た商品A = yコモディティBは、社会的性質としてこの関係とは無関係に同等の形を保有しているようである。

私たちはこの誤った注釈の添付を追跡しました。

これは、一般的な同等の形態が特定の種類の商品の自然形態とともに成長したり、貨幣形態に結晶化したりするとすぐに完成する。

他の商品はその価値のすべての側面であるため、商品はお金になるとは思われませんが、逆に、貨幣であるため、逆に商品の価値を表すように見えます。

仲介運動は、それ自身の結果で消滅し、背後には痕跡が残らない。

彼らの介入なしに、商品は、商品外の身体として、自分の価値形態を見つけます。地球の腸から出てくる金と銀は、同時にすべての人間労働の即身化につながっています。したがって、お金の魔法です。

彼らの社会的生産過程における人々の単純な原子的行動、したがって彼ら自身の制御と意識的な個人的行動とは無関係な生産関係の事実上の形態は、労働生産物の一般的な商品形態です。

したがって、貨幣の魅力の謎は、目に見えて任命されただけであり、商品のフェティシズムの目を眩まさせるパズルです。
 ⑯We saw that, even in the simplest expression of value, x commodity A = y commodity B, the thing in which the value-size of another thing is represented, seems to possess its equivalent form independently of this relation as a social nature-property. We traced the attachment of this false note. It is completed as soon as the general equivalent form has grown together with the natural form of a particular type of commodity or crystallized into a monetary form. A commodity does not seem to become money first, because the other commodities are all sides of their values ??in it, but conversely, they generally seem to represent their values ??in it, because it is money. The mediating movement disappears in its own result and leaves no trace behind. Without their intervention, the goods find their own value form as an out-of-commodity body. These things, gold and silver, coming out of the bowels of the earth, are at the same time the immediate incarnation of all human labor. Hence the magic of money. The merely atomistic behavior of men in their social production process, and therefore the factual form of their own relations of production, independent of their control and their conscious individual action, appears first in the fact that their products of labor in general assume the form of commodities. The mystery of the money fetish is therefore only the visibly ordained, the eyes dazzling puzzles of commodity fetishism.


  <①他の商品はその価値のすべての側面であるため、商品はお金になるとは思われま
  せんが、逆に、お金であるため、逆に商品の価値を表すように見えます。>
  <②彼らの社会的生産過程における人々の単純な原子的行動、したがって、彼ら自身
  の制御と意識的な個人的行動ーーとは無関係な生産関係の事実上の形態は、労働生産
  物の一般的な形態として商品になる、ことを見えないが基礎・土台にしている。>

  <上記は、見落としてしまうが、労働生産物が物的形態のままに、商品形態を受け取
  っているーーと述べているのではない。物象が商品を価値形態と判断するのであり、
  使用価値と価値形態の商品形態を与えることが、省かれて、労働生産物の自然的形態
  のままに受けとる現象形態を、批判している。>


  <交換過程論は、むしろ再版ではなく、初版の物神性論からのつながりの方が、
   理解しやすい。以下は、前段よりも、後段の交換過程に向けての解説ーーと理解
   した方がとても分かりやくすくなり、思わず、膝をうってしまいます。
  <下記は、一般的相対的価値形態において諸商品が、価値形態をとることを、示して
   いるのではなく、物神性論にて示されているように、両極の形態を取らずに、
   再度・等価形態を取らずに、なのです。交換過程においても、両極の形態をとるは
   ずが、どちらの形態でも無く、直接的に次のことが起こるとの批判です。
   労働諸生産物がその姿態のままに、価値形態とされる--転倒象なのです。>

  https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1660
  商品のフェティシズムの性格とその秘密 の初版 再版 の対比(そのⅡ)

   初版物神性論
  ⑦したがって、労働時間による価値量の決定は、相対的な商品価値の動きの中に潜ん
  でいる謎である。
  生産者自身の社会運動は、生産者がその動きを制御するのではなく、その制御下にあ
  るオブジェクトの動きの形態を所有している。
  最終的には価値形態に関わる限り、私たちは、民間労働者の社会的関係とその結果と
  して私的労働者の社会的決定を客観的に覆い隠すのはちょうどこの形態に過ぎないこ
  とに気付く。私がコートと言うなら、ブーツなどは抽象的人間労働の普遍的な物質化
  としてリネンに関係しています。

  しかし、コート、ブーツなどの生産者がこれらの商品をユニバーサル相当品として
  リネンに関連付けると、彼らの私的労働の社会的関連性は、まさにこの狂気のような
  形で現れます。(原P38~39)
  <彼らの私的労働の社会的関連性は、まさにこの狂気・・>


   ーー 交換過程ーー
  <仲介運動は、それ自身の結果で消滅し、背後には痕跡が残らない。
  彼らの介入なしに、商品は、商品外の身体として、自分の価値形態を見つけます。
  地球の腸から出てくる金と銀は、同時にすべての人間労働の即興化につながっています。
                      <人間労働の直接的化身・江夏訳初版P82>
  したがって、貨幣の魔法ですね。>

  <どうか次を参照願います。この交換過程論の解説は、素晴らしく久留間理論の批判ができています。>
   第50回「『資本論』を読む会」の報告 その2
   https://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/914bf64884f692febecd9155fddd63c1


   第45回「『資本論』を読む会」の報告
   http://p.booklog.jp/book/19345/page/2558301


   http://p.booklog.jp/book/19345/read

 

あいつの親父は馬鹿と言って名誉市民

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年 9月22日(土)03時32分23秒
返信・引用
    あいつの親父は馬鹿と言って名誉市民
 知事号令によって看板団体の暴走を隠すために親を馬鹿にしたまま暴走した。親父を馬鹿と言う北上の小笠原利行さんと奥州の小野寺良子さんはそれぞれ名誉市民になっていた。もっとおかしい事は法務省がこれらを容認していた。
 岩手の看板とはとんでもない話です。法務省は20回近く意見送り数日で返事すると言って3ヶ月一つも返事しない。
 法務局への手紙も20回は出している。その数だけ意見になるはずが暴走目こぼし権なんて無いと言う知事をかばうときだけ。
 暴走は容認されていることになる。
 此方は暴走隠しから誰一人と関われず団体も友達も全部取り上げ何処り団体も行かせず社会参加は12年で12回の妨害です。
 とりわけ聾唖者は友達は簡単に作れないもの。それが全部取り上げられて完全孤立が12年になります。
 そして北上と奥州の社協に親父の記録を届けても知らん顔している。しかも法務省も容認している。
 全国の社協にも親父の記録を届けて居ます。岩手県庁と法務省から関わるなとされたのですか。こちらとしては余計な関わりは迷惑だけになるため知らせたという形です。
 人の親を馬鹿と言ってそれぞれ名誉市民だとは。これほどの無責任は通訳資格剥奪追放すべきです。掲示板の中に入って妨害ばかりかお前の親父は馬鹿なのまだとあざ笑いしていた。これが岩手の看板か、恥さらしではないか。北上の社協はそれでも知らん顔している。親父の記録を読み直して馬鹿が名工と呼ばれますか。地元社協でも役場でも町の人にでも聞けばいいです。
 それに最初に親を馬鹿と言い出したのは当時次期ろうあ協会会長でゴマすりから踊らせたことになります。それも読み書きの出来ない聾唖者の猜疑心から来た。しかも親父と口利いたことも無い。更に本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもせず、知らなかったの一声で全てをチャラにした。 無責任でもこれも県の看板です。
 親の不名誉と此方の復権のために暴走を正当化する扱いはもう辞めていただきたい。
 自立支援法が廃止になった後で友の会を辞めた為知事の暴走をとがめないのはばれなければいいことにして障害者の一人りくらいと容認されていた。2年も前から法務局と関わっているのに解決する気も無く見解も来ない。擁護係りから諦めて別団体へ行けと言うだけしか来ない。知事が偉いから正しく障害者個人はどうでも良いとされている。ばれてしまえば知事だけかばう訳に行かない。既に全国に知らせてあります。
 

関生型労働運動, 反弾圧 労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 のお 知らせ

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月21日(金)19時20分7秒
返信・引用
  http://com21.jp/archives/28989
■ 日時:2018年9月22日(土)18時~
■ 場所:エル大阪5F南館ホール
 大阪市中央区北浜東3-14(地図)

■ 内 容:
 現状報告―空前の組合つぶし、いま何がおこっているのか
 実行委員会参加組合・団体からの発言、訴え!

■ 主 催:9・22集会実行委員会
 連絡先:全港湾関西地本大阪支部
 電話 06-6575-3131 FAX06-6575-3134

連帯ユニオン関生支部への大弾圧9・22抗議緊急集会への訴え

労働組合つぶしの大弾圧抗議 9・22緊急集会 すでにご存知のように滋賀県警組織犯罪対策課による8月9日、8月28日に連帯ユニオン関生支部への連続的弾圧が開始されている。28日には武建一執行委員長のほか支部役員2人が逮捕され、8月9日の1名の役員を含め計4人を不当逮捕したうえ、大阪市内の関西地区生コン支部事務所など多数ヶ所を家宅捜索した。その中には無関係箇所も含まれ、家宅捜索は違法で暴力的なのものであった。さらに大阪府警などの関西の各県警も弾圧拡大に動いている。

 この弾圧は労働組合活動を恐喝未遂容疑とするものであり、さらに他の警察権力は共謀罪などの適用をほのめかしている、労働組合活動の刑事免責を除外した一昔前から比べ、法律も変わらないまま一切の組合活動を刑事罰としようとするものである。これを許すなら憲法28条も必要ないとされ、資本家に有利な社会が作られていくことは明白である。今回の特徴は組織犯罪対策課が中心となり「警察庁の指示」といっていることである。いち労働組合への弾圧としては近年ない規模であり政府主導の新たな労働組合つぶしの開始といえる。

 日本において生コン業界を切り口に本格的産業別職種別の労働運動をめざし幾多の弾圧・妨害を乗り越えてきた連帯ユニオンの関生支部の闘い。これへの全面的破壊攻撃の開始である。断じて許すことは出来ない。滋賀県警は業者に対し「関生と手を切れ」といい、組合員には「組合加入の動機はなにか」と産業別中小企業労働運動破壊を公言している

 今こそ大企業の収奪とたたかい、辺野古新基地建設を許すな、原発再稼働阻止、戦争法・共謀罪廃止、憲法改悪反対を求め、安倍政権とたたかう労働組合つぶしを許すなの声をあげよう。
 そこで、こころある人々の9・22集会への賛同(無料)・参加を強く訴えます。滋賀県警への抗議を訴えます。
 

 法務省容認暴走独裁権

 投稿者:岩手県元盲ろう者  投稿日:2018年 9月21日(金)19時18分52秒
返信・引用
  法務省容認暴走独裁権
 今年で12年目になりいい加減にしてほしいと全国にばら撒いた。
 親を馬鹿と言うのが始まりだから馬鹿かどうか親父の記録を全国にばら撒きました。現代の名工として知事表彰も受けていてます。 機械を頼らぬ民芸品です。馬鹿でも出来るのですか。全国から岩手に対して批判、失笑、後ろ指が飛んだことでしょう。
 知事の暴走はばれなければとされたと判る。直接親を馬鹿と言いけしかけ通訳の居る北上の社協にも届けました。県内は何処もかん口令が入っていても外部への完全沈黙の囲みは破れています。
 北上の社協から場所を借りてサークルを開き名誉市民の扱いでしょう。最初に親を馬鹿と認めろと言い出したのは岩手県盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんです。そしてその奥さんは最初の別団体行きを密告から悪口妨害したひとみさんです。しかも抗議したら大本家に脅迫電話した。大本家は歳で法廷には立てなく姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言いました。更に県庁に抗議すると当時の朽木課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 もう一人は地元で大本家に向かって親を馬鹿にする話をしていた奥州市社協で手話サークルの会長をしている小野寺良子さんです。
 1年後輩で地元の松岡の親類の妹。そして松岡の大本家であり恩師に向かい此方の親の悪口を笑い話しにした。その話を何処から聞いたのかと言うと実家は口封じしてかん口令の後ろに隠れた。
 自分が友の会を辞めたのは利行さんから親を馬鹿と認めろと言われて馬鹿らしいとして辞めたのです。そのまま言えないでしょう。 相当な悪口のデマを聞いた事にります。
 小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放を。聾唖者は聞こえないことで友達は作りにくいもの。それが12年も孤立に耐えて来ました。
 小野寺良子さんは大本家に謝罪することを望みます。
 辞めた後はかん口令を広げ関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせず、社会参加は12年で12回も妨害した。 昨年の全国大会は参加したが知っている人は誰も逢わせない。調べたら全国協会も全国の友の会も全部知事があいつに関わるなと口説き伏せていた。全国協会賛助会員も辞めて完全孤立です。
 障害者の自立支援法が廃止になった次の年に辞めたため暴走隠しに悪用された。法律の無かった頃で法務省もばれなければいいと容認している。法務局での話は掲示板に実名使うなと言うだけ。
 掲示板はかん口令を逆手に取ると実名でも批判も反論も12年も一つも来ない。来るのは妨害だけ。法務局での話は記録しないのか。 口約束になって揉み潰しやすくなる。緊急時でもないのに知事に独裁権があるとは。法務局は見解も言えず擁護係りから諦めろと言われた。
 

 法務省容認暴走独裁権

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 9月21日(金)18時18分7秒
返信・引用
   法務省容認暴走独裁権
 今年で12年目になりいい加減にしてほしいと全国にばら撒いた。
 親を馬鹿と言うのが始まりだから馬鹿かどうか親父の記録を全国にばら撒きました。現代の名工として知事表彰も受けていてます。 機械を頼らぬ民芸品です。馬鹿でも出来るのですか。全国から岩手に対して批判、失笑、後ろ指が飛んだことでしょう。
 知事の暴走はばれなければとされたと判る。直接親を馬鹿と言いけしかけ通訳の居る北上の社協にも届けました。県内は何処もかん口令が入っていても外部への完全沈黙の囲みは破れています。
 北上の社協から場所を借りてサークルを開き名誉市民の扱いでしょう。最初に親を馬鹿と認めろと言い出したのは岩手県盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんです。そしてその奥さんは最初の別団体行きを密告から悪口妨害したひとみさんです。しかも抗議したら大本家に脅迫電話した。大本家は歳で法廷には立てなく姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言いました。更に県庁に抗議すると当時の朽木課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 もう一人は地元で大本家に向かって親を馬鹿にする話をしていた奥州市社協で手話サークルの会長をしている小野寺良子さんです。
 1年後輩で地元の松岡の親類の妹。そして松岡の大本家であり恩師に向かい此方の親の悪口を笑い話しにした。その話を何処から聞いたのかと言うと実家は口封じしてかん口令の後ろに隠れた。
 自分が友の会を辞めたのは利行さんから親を馬鹿と認めろと言われて馬鹿らしいとして辞めたのです。そのまま言えないでしょう。 相当な悪口のデマを聞いた事にります。
 小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放を。聾唖者は聞こえないことで友達は作りにくいもの。それが12年も孤立に耐えて来ました。
 小野寺良子さんは大本家に謝罪することを望みます。
 辞めた後はかん口令を広げ関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせず、社会参加は12年で12回も妨害した。 昨年の全国大会は参加したが知っている人は誰も逢わせない。調べたら全国協会も全国の友の会も全部知事があいつに関わるなと口説き伏せていた。全国協会賛助会員も辞めて完全孤立です。
 障害者の自立支援法が廃止になった次の年に辞めたため暴走隠しに悪用された。法律の無かった頃で法務省もばれなければいいと容認している。法務局での話は掲示板に実名使うなと言うだけ。
 掲示板はかん口令を逆手に取ると実名でも批判も反論も12年も一つも来ない。来るのは妨害だけ。法務局での話は記録しないのか。 口約束になって揉み潰しやすくなる。緊急時でもないのに知事に独裁権があるとは。法務局は見解も言えず擁護係りから諦めろと言われた。
 

初版III。 第3に、逆のまたは逆の第2形式の相対価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月16日(日)10時13分8秒
返信・引用 編集済
    III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:
  III。 第3に、逆のまたは逆の第2形式の相対価値形態

   1 coat = 20 yards of linen
  u coffee =   "
    v tea =   "
    x iron =   "
 y wheat etc. =   "

①The relative value-expression returns at this point to its original form:
1 coat = 20 yards of linen.
①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。

Now, however, this simple equation is further developed. Originally it only contained the fact that the value of the coat obtains through its expression in another commodity a form which is different from and independent of the exchange-value coat or even the body of the coat. Now the very same form manifests the coat with respect to all other commodities whatsoever as value.
しかし、今、この単純な方程式がさらに発展する。もともと、それは、コートの価値が、他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの身体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。

Not only the coat, but also coffee, iron, wheat, in a word, all other commodities express their value in the material, linen. In this way, all manifest themselves to one another as the same materialization of human labour. They are henceforward only quantitatively different, which is the reason why one coat, u coffee, x iron, etc. ? i.e., different quanta of these different things ? equal 20 yards of linen (equal to the same quantum of objectified human labour).
コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。このように、すべてが人間の労働の同じ物質化として互いに出現します。彼らはそれ以来、定量的に異なるだけであり、これは、1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

It is through their common value-expression in the material, linen, therefore, that all commodities differ as exchange-values from their own use-values and relate at the same time to one another as amounts of value, equate themselves qualitatively to one another, and compare themselves quantitatively.
それゆえ、すべてのコモディティは、自分の使用価値と交換価値として異なっているが、価値の量としてお互いに関係し、 質的にお互いを同一視し、定量的に比較する、材料リネンでの--共通の価値の観なし方なのです。

Only in this unified relative value-expression do they all appear for the first time as values for one another, and their value consequently obtains for the first time its corresponding form of appearance as exchange-value.
この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得ている。

As opposed to the developed form of relative value (form II) which manifests the value of a commodity in the environment of all other commodities, we call this unified value-expression the universal relative form of value.
他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値の観なし方は、普遍的な相対的価値形態と呼んでいます。

②In form II (20 yards of linen = 1 coat or = u coffee, or v tea or x iron, etc.), the form in which the linen develops its relative value-expression, it relates itself to each individual commodity (coat, coffee, etc.) as a specific Equivalent, and to all of them together as to the environment of its specific forms of the Equivalent.
②リネンが相対的な価値表現を生み出す形態 II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか鉄かなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

No individual species of commodity counts any longer with respect to the linen as simple Equivalent, as in the particular Equivalent, but only as specific Equivalent whereby the one Equivalent excludes the other. In form III (which is the reciprocal second form, and is therefore contained in it), the linen appears on the other hand as the general form of the Equivalent for all other commodities.
商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物としてはもはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。
このフォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他の全ての商品の等価物の一般的な形態として現れる。

It is as if alongside and external to lions, tigers, rabbits, and all other actual animals, which form when grouped together the various kinds, species, subspecies, families etc. of the animal kingdom, there existed also in addition the animal, the individual incarnation of the entire animal kingdom.
それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化したときに形成される他のすべての実際の動物の横および外側にある場合と同様に、動物、動物界全体の個体的化身となっている。

Such a particular which contains within itself all really present species of the same entity is a universal (like animal, god, etc.).
同じエンティティ(主体)の実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)なのです。

Just as linen consequently became an individual Equivalent by the fact that one other commodity related itself to it as form of appearance of value, that is the way linen becomes as the form of appearance of value common to all commodities the universal Equivalent universal value-body, universal materialization of abstract human labour.

The specific labour materialized in it now thereby counts as universal form of realization of human labour, as universal labour.
その結果、リネンは、特定労働であるままに価値の出現形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個々の商品になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現 形式となることで- ユニバーサルな同等価値であり、抽象的な人間労働の普遍的な実体化となっている。だから、そのことで具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働として--人間労働実現の普遍的形態として数えられている。

③During the process in which the value of commodity A is displayed in commodity B (whereby commodity B becomes a single Equivalent), it was indifferent of what specific type commodity B happened to be. The corporeality of commodity B only had to be of a different species than that of commodity A, and therefore had also to be a product of other useful labour.
③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBがどのような特定の型になったかは無関心であった。商品Bの体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の生産物でなければならなかった。

By the coat’s displaying its value in linen, it related itself to linen as the realized human labour, and precisely thereby related itself to linen-weaving as the realization-form of human labour, but the specific determinacy which distinguishes linen-weaving from other kinds of labour was completely indifferent. It only had to be of another kind than tailoring and in any case had to be a specific kind of labour. It is otherwise as soon as linen becomes a universal Equivalent.
コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の決められた労働へのつながりは完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければならなかったのは、仕立てとは別の種類のものでなければなりませんでした。そうであることで、リネンが普遍的な同等物になる、とすぐにそれが行われます。

in its special determinacy through which it is linen as opposed to all other kinds of commodities (coffee, iron, etc.)  now becomes the universal form of value of all other commodities and hence a universal Equivalent.
他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、それがリネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、それゆえ普遍的同等物となっている。

The particular useful kind of labour manifested in it therefore now counts as universal form of realization of human labour, as universal labour precisely insofar as it is labour of particular determinacy: linen weaving as opposed, not only to tailoring, but to coffee growing, mining, and all other kinds of labour.
したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的な労働としての人間労働の実現の普遍的形態として数えられ: リネン製織は、テーラリングだけでなく、コーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働に対立している。

On the other hand, all other kinds of labour count (in the relative value-expression of linen  the universal Equivalent: form II), henceforth only as particular forms of realization of human labour.
他方では、他のすべての種類の労働は、人間労働の実現の特定の形態としてのみ(相対価値 - リネンの表現:普遍的な等価:形態II)なのである。

④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour.
In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values.
④価値として、商品は、抽象的な人間労働の同一団結の表現である。
交換価値の形態では、価値と見なすことでお互いに関係し、価値として互いを関係付ける作業をしています。

They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another. As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs.
彼らはそれによって、同時に共通の社会的実体として、人間労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互に交換可能であるので、これらの社会的物質の表現として相互に数えあえている。
有用なものととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。

But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities. It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport.But this is just what value is.
しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための貨物ではない。単なる使用目的物を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。しかし、これはただの価値です。

The form in which the commodities count to one another as values  as coagulations of human labour is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.
商品が人間労働の凝固として価値と数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。
したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然な形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形態をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。
  <このように、諸商品の全てが、互いを「価値と数える形式は」--と示されていることで、
 「商品の自然な形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形態」
  ーーをとりとのマルクスの指摘、物象の判断が、もっとも大切なことがしめされたのです。
  再版で示されているように、物象の共同行為によって、この一般的価値形態が形成されるのです。>

⑤The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
⑤単純な相対価値フォーム(フォームI)「1コート= 20ヤードのリネン」は、この式が今シリーズのメンバーとなっているという事実だけで、普遍的な相対価値フォーム「1コート= 20ヤードリネン」とは異なります

⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent.
⑥実際には、リネンが単価から普遍的な等価物への発展を続けているという事実のみが異なる。

Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression.
したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現される商品であり、即時の交換可能性の形態をとる商品(同等の形態:したがって、直ちに社会的形態)であり、これは普遍的な相対価値表現にも同じことが当てはまる。

But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent. If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way.
しかし、単純な相対的な価値表現では、この区別は単なる等式で消極的です。
コートがその値を相対的な方法(つまり、リネン)で「1コート= 20ヤードのリネン」と表現し、それによってリネンが等価フォームを取得する場合、この同じ式は、 20ヤードのリネン1コート 'を意味し、それは同等の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される--のみなのです。

This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen.
相対価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。普遍的な相対価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は、「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にはならず、従って他の商品は、単にリネンと同等のものにすぎません。

The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time. What holds true of the coat, holds true of coffee, etc. It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent. On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent.
コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。そのコートに当てはまることは、コーヒーなどにも当てはまります。したがって、商品の普遍的な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。一方、リネンのような商品は、それが普遍的な等価物を持っているとすぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。

The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’.
リネンの普遍的な相対価値形式は、他の商品と統一され、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。

But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
しかし、これは、この商品の価値を表現していないのも同義語です。
これは、普遍的形式の等価であり、永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な同等物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form  namely, the form: linen.
⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形、つまりリネンとは異なる価値形態を保有しています。

And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc. All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.
そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、1枚の上着= 20ヤードのリネンなどであれば、量的に決定される関係における交換可能なものと--交換可能なものとして、また、それは1つのコート= uコーヒーなどにも当てはまる。価値のある量と同じ商品で自分自身を鏡映することによって、すべての商品は、価値の量として相互に反映される。

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way.
しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形は、この迂回路を越える価値の出現の形として相互に相反するものであり、その結果、即座にではありません。

They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are. Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one.
その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。すなわち、その社会的に有効な形態は、仲介された形態である。

It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities  and consequently its universal social form in an immediate way.
それは別の方法です。それは、他のすべての商品が、価値の出現の形態としてリネンに関連し、リネンの自然な形態がすべての商品との即時の交換可能性の形態になるという事実を通してである。その結果、その普遍的な社会的形態が直ちに生まれる。

⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form.
⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって即時ではない)価値とみなされるその現れにおいて、他のすべての商品に役立つため、かつその限りでは、普遍的な等価形態を取得するだけである。

Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour.
しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形式を持っていなければならない。なぜなら、その自然形態は使用価値の形式に過ぎず、統一された(したがってユニバーサル)相対価値形式を持たなければならないからである。それらのすべては、人間労働の同質な凝固として、互いに価値として関連している。

A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
従って、単一の商品は、他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、一般的に即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形であるという事実のために、即座に交換可能であり社会的な形態であることが、ここにわかる。

⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists. Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
⑨一方的には、実際に普遍的な即時交換可能性という形で、商品の矛盾した形であることが実際に検出されるわけではない:磁石の一方の極の陽性が他方の陰性からのものであるため、のようにです 。したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時交換可能性の印を印象付けることができるかと想像してしまう。しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互を前提とし、反復して反発する極である。

⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
麻は労働の直接的な社会的実現であり、直ちに社会的労働を実現する(普遍的な均等物として)ものであるが、リネンに価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない。

⑪Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
⑪実際には、すべての使用価値は商品でしかない。なぜなら、彼らは私的労働からの独立した民間労働の産物であるからなのです。しかし、分裂の基本システムの特定のメンバー(たとえ自己完結しているにもかかわらず)の労働は、このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

⑫If they did not, then these use-values would not become commodities for one another. On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities.
⑫そうでなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないだろう。他方で、この異なる有用な品質はまだ商品を商品にしていない。

If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities.
もし、農家がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。

If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
もし、商品が直ちに社会的(すなわち共通)労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。

Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another.
それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

It already yielded itself out of the analysis of the commodity. The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence  since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours  whatever their content and their mode of operation  actually are. In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours.
それはすでに商品の分析からそれ自体を産出した。商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。それゆえ、全く異なる労働の同等は、それらの不平等から、人間の労働としての一般的な関係を抽象化するだけである:人間の労働力の支出にです。
実際には動作モードです。それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。

Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value. However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
現在のところ、これらの私的労働は、その自然形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらい、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。しかし、商品の自然形態(この場合、リネン)は、他のすべての商品が、この自然な形に自分自身の価値の出現形態として関連しているため、リネンを織る--抽象的な人間労働の実現の普遍的な形態に、またはすぐに社会的形態の労働に変わっている。

The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production, and not from conceptions which are foreign to it.
「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対する外的概念ではない。

Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities.
先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、その結果、普遍的な等価形態は、結果的に矛盾した方法でしか発展できないので、商品に潜む私的労働にも同じことが成立する。

Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case).
彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。第二に、すべての種類の民間労働者は、唯一の排他的な種類の民間労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
それによって、この後者は抽象的な人間の労働の即時かつ普遍的な形になり、それによって直ちに社会的形態で働く。その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも現れます。

⑬The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
⑬商品の等価形態が、他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自身の体質的性質から生まれたような錯覚:この幻想は、恒常的に普遍的に等価な展開を強化する。普遍的等価形態は、商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離しているため、価値形態のもう一つの部分は、もはや互いに関連している商品については等しくはならない。単一の商品の関係の製品をより長くする。

⑭From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however. What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually?
⑭我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだいかなる形でも化粧されていない。リネンがユニバーサル等価物に変わったのはどうでしたか?

By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I), then in all other commodities in order in a relative way (form II), and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form III).
⑭事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべての商品は反射的にその価値を相対的な方法で表示した(形態III)。

The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development. It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities. What holds for linen holds for every commodity. In its developed relative value-expression (form II)  which only consists of its many, simple value-expressions  the linen does not yet figure as universal Equivalent. Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
単純な相対価値表現では、普遍的な同等の形態のリネンが開発された種であった。それはこの開発の中でその役割を変えます。それは、ある他の商品にその価値を示すことから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。

それは、すべての商品のためにリネンが保持しているものです。

その多くの、単純な価値表現からしか構成されていない、発展した相対的価値表現(形態II)において、リネンは、普遍的な同等物としては、まだ描かれていない。むしろ、この場合リネンの等価物である他のすべての商品本体の形態は、それによって即座に交換可能であり、したがってそれを用いて場所を変更することができる。


 

商品の労働の二重性と商品形態の二重性について

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月 8日(土)04時16分0秒
返信・引用 編集済
  a商品の労働の二重性と商品形態の二重性について、少し整理してみた。
 この前の第二節にて、労働の二重性が次のようにまとめられていた。
  <原文に当たれば分かるように、<の属性>の記述は無い。>
  原P61資本論1章2節 最終段落
「すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、人間または人間の同等な人間労働力のこの能力<の属性>において、それは商品価値を構成する。 一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用労働<の属性>は有用性を生む。」(16)
All labor is, on the one hand, the expenditure of human labor in the physiological sense, and in this capacity of equal human or abstract human labor, it constitutes the commodity value. All labor, on the other hand, is an expenditure of human labor in a particular form, and in this capacity of concrete useful labor produces usefulness. (16)
  初版
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
  32段落 原P13
It follows from the preceding not that there are two differing kinds of labour lurking in the commodity, but rather that the same labour is specified in differing and even contradictory manner in accordance with whether it is related to the use-value of the commodity as labour’s product or related to the commodity-value as its merely objective expression. Just as the commodity must be above all else an object of use in order to be a value, just so does labour have to be before all else useful labour purposeful, productive activity ? in order to count as expenditure of human labour-power and hence as simple human labour.
上述のことから、商品には2種類の異なる労働が潜んでいることにはならないが、むしろ同じ労働が、労働の製品としての商品の使用価値に関連しているのか、それとも単なる客観的な表現としての商品価値に関連しているのかに応じて、相違して矛盾する方法で規定されている。
商品は、価値であるためには、他のすべての目的に使用されなければならないのと同様に、人間の労働力の支出とみなされる--ためには、他のすべての有用な労働意欲的で生産的な活動よりも、その前に、労働がなければならない。 それゆえ単純な人間労働である。
 <b第一の形態では・・どうなのか?少し探求するために、a相対的価値形態の内実を再度まとめてみた。>

 <62> 3. Die Wertform oder der Tauschwert
    <第三節 価値形態または交換価値
英 ① Goods come to the world in the form of use-values or cargoes, as iron, canvas, wheat, etc.
This is their homemade form.
商品は使用価値や貨物の形で鉄、キャンバス、小麦などの形で世界に現れます。これは自家製の形です。
  ②However, they are only goods because they are double, commodities and at the same time value carriers.
しかしながら、彼らは二重であることで、彼らは唯一の商品ですし、商品として、同じくそのときーー価値のキャリアとなる。
  既存訳は、この①・②の対比がなく、全て次の訳です。
 <とはいえ、それは、使用対象であると同時に価値の担い手であるという二重的なもの
  であるがゆえにのみ、商品となる。 長谷部訳 資本論1 P45 下段>
 ーーしかし、この訳では、上記の①の使用価値に対しての次の②が題材とされていることが、捨てられている。
  これでは、この例示では、価値形態が形成されません。
  我々として、①②の対比が消されてしまえば、この条文は、何一つ理解できません。
  以下、わずか4段落をおってみました。
 ①<62> 商品は商品や商品の形で鉄、キャンバス、小麦などで生まれます。これは自家製のものです。
しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のキャリア<媒介物・導体ーー担い手では使用価値の役割になる>でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。
 ①Goods are born in the form of commodities or commodities, as iron, canvas, wheat, etc.
This is their homemade form.
However, they are only goods because they are double, commodities and at the same time value carriers.
They therefore appear only as goods or possess only the form of goods, provided they have double form, natural form and value form.
 ②商品の客観性はウィティッブ・ハーティグとどこが違うかという点で異なる。
商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値客観性に入っていない。
したがって、1つの商品を好きなようにこね回すことができます。価値のあるものとしては理解できません。
しかし、商品が価値対象性を示すーーことを覚えていれば、同じ社会的団結、人間労働の表現であるこの価値客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもないので、そこに両者の商品と商品の関係があることはわかる。
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品交換や交換価値を仮定しました。 今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。
 ②The objectivity of the goods differs from the Wittib Hurtig in that one does not know where to have them. In the exact opposite of the sensually coarse objectivity of commodities, no atom of natural substance enters into its value-objectivity. One may, therefore, turn and turn a single commodity as one likes, it remains incomprehensible as a value thing. If, however, we remember that goods are only objects of value, insofar as they are expressions of the same social unity, of human labor, that their value-objectivity is purely social, then it goes without saying that they appear only in the social relation of commodity to commodity can. In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value. We must now return to this manifestation of value.

  <商品の価値客観性ーーについて次の註をしておこう>
  一般的価値形態 の1価値形態の変化した性格の五段落にて、
  <商品の価値客観性>が、「価値対象性」と誤訳されています。
  独訳
Es zeigt sich also,
dass die Wert-Objektivität der Güter<商品の価値客観性>,
weil sie die bloße "soziale Existenz" dieser Dinge ist, nur durch ihre universelle soziale
Beziehung ausgedrückt werden kann und ihre Wertform daher eine gesellschaftlich gültige Form sein muss.
したがって、商品の価値客観性は、これらの物の単なる「社会的存在」であるため、彼らの普遍的な社会関係によってのみ表現することができ、したがって、その価値形態は社会的に有効な形態でなければならないことは明らかである。
  英訳
It thus becomes
apparent that the value-objectivityof goods,<商品の価値客観性>
because it is the merely "social existence" of these things, can only be expressed through their universal social relationship, and therefore that their value form must be socially valid form.
 ③たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の common value form 価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな自然な形の使用価値とは対照的です。 しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試行することもないこと、すなわち、この貨幣形態の起源を証明すること、すなわち、この価値等式に含まれる価値関係の発展に従うことが必要である。
商品は、その最も単純な最も重要でない形態から目を見張るような貨幣形態へと変化する。 同時に、the money puzzle お金のパズルは消えます。
 ③Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form. Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy, namely, to prove the genesis of this form of money, that is, to follow the development of the value-expression contained in the value-relationship of the commodity from its simplest most insignificant form to the dazzling monetary form. At the same time the money puzzle disappears.
 ④最も単純な価値関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。
したがって、2つの商品のつくる価値等式は、商品の最も単純な価値表現を提供します。
 ④The simplest value relation is evidently The simplest value relation of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.

  再考するためのーー適訳 ドイツ語版 価値形態
  A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態
  1 価値表現の両極ーー相対的価値形態と等価形態
    英訳三段落
Relative value form and equivalent form are mutually related, mutually dependent, inseparable moments, but at the same time mutually exclusive or opposite extremes, i.
相対価値形式と同等の形式は相互に関連し、相互に依存し、分離不可能な瞬間であるが、同時に相互に排他的であるか反対の極なのである。

Poles of the same value expression; they are always distributed among the different goods that the value expression relates to each other.
I can e.g.
同じ値式のポーランドン。
<同じものの柱--両極ーーを示す等式なのです。>
それらは値の式が互いに関連する異なる商品に常に配分されます。
それが、私にはできます。

do not express the value of the canvas in canvas. 20 cubits of canvas = 20 cubits of canvas is not a value expression. On the contrary, the equation says: Twenty cubits of linen are nothing but twenty cubits of canvas, a definite quantity of the commodity canvas.
しかし、キャンバスの価値をキャンバスに表現しないでください。 20キュビットのキャンバス= 20キュビットのキャンバスは、価値表現ではありません。
それどころかそれでは、方程式に次のように書かれてしまいます:20キュビットのリネンは、商品キャンバスの一定量のキャンバスの20キュビットに過ぎません。

The value of the canvas can therefore only be expressed in relative terms, i. in other goods. The relative value form of the canvas, therefore, implies that any other commodity is in the equivalent form opposite it.
したがって、キャンバスの値は、相対的な表現でしか表現できません。 他の商品でですね。したがって、キャンバスの相対的価値形式は、他の商品がそれとは反対の形態であることを意味<既存訳 前提>します。
  <リンネルの価値表現において、両極の価値形式があるーーことを説明、
  するのであり、そのとき、オートバイが、前輪ではなくウイリーをして
  後輪だけで名人が操っている、ことを指して後輪が前提だ!と称する事
  ができるでしょうか?
  そのことが、両極の価値形態をここで題材にしているときに、
   <キャンバスの値は、相対的な表現でしか表現できません。
   他の商品でですね。>
  ーーとこのことを、両極が前提なのではなく、左極での行為とのみ見る
  歪曲をするならば、それは、等価形態が前提でなければ、リンネルの相
  対的価値表現ができない!事になってしまいます。
  それでは、次段落の等価物の役割が、
  ーー彼女は彼女の価値を表現していません。
    それは他の商品の価値表現にのみ材料を供給する。ーー
  が全く見えなくなってしまいます。
  上着のここでの役立ちが、単に価値表現の材料としての役立ちなのでは
  なく、等価物としての受け身の役立ちーーなのであります。>

On the other hand, this other commodity, which figures as an equivalent, can not be in relative value form at the same time. Not she expresses her value. It supplies the material only to the value expression of other goods.
他方では、これと同等であるこの他の商品は、同時に相対価値形式にすることはできません。 彼女は彼女の価値を表現していません。 それは他の商品の価値表現にのみ材料を供給する。
   <4段落は、略>
  2 相対的価値形態
   a相対的価値形態の内実
 ①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、最初にその商品の量的側面とは無関係に考えなければならない。 ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。 異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表現が同じ名前のものであり、それゆえ相応の量である。 (17)
 ①In order to find out how the simple value of a commodity lies in the value of two commodities, one must first consider the latter quite independently of its quantitative side. In most cases, one behaves in the opposite direction and sees in the value relation only the proportion in which certain Quanta of two kinds of goods are equal to one another. It is overlooked that the magnitudes of different things first become quantitatively comparable after their reduction to the same unity. Only as expressions of the same unit are they of the same name, hence commensurable quantities. (17)

 ②キャンバスが20キュビット= 1コートか= 20スカートかどうか、つまりキャンバスの量が多くても少数であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートが同じ単位の表現であることを意味しますし 、同じ性質のものがあります。 キャンバス=ロックは方程式の基礎です。
 ②Whether 20 cubits of canvas = 1 coat or = 20 or = x skirts, that is, whether a given quantity of canvas is worth many or a few skirts, each such proportion always implies that canvas and skirts as values are expressions of the same unity, things of the same nature are. Canvas = Rock is the basis of the equation.

 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
  キャンバスの値だけが表現されます。 そしてどうやって?
 彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。
  この関係では、岩石は値として価値の存在形態とみなされます。 その理由は、それがキャンバスと同じであるからです。
 一方、キャンバスの独自の価値は、独立した表現をもたらします。
 これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩に関連する価値があるためです。
 ③But the two qualitatively equal goods do not play the same role. Only the value of the canvas is expressed. And how? Through her relationship to rock as her "equivalent" or "interchangeable" with her. In this relationship, rock is regarded as the existence of value, as value, for only as such is it the same as the canvas. On the other hand, the own value of the canvas comes to the fore or receives an independent expression, for only as a value is it related to the rock as equivalent or with it exchangeable.
 例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。 しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。 酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。 ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。
For example, butyric acid is a different body from propyl. Both, however, consist of the same chemical substances - carbon (C), hydrogen (H) and oxygen (O), in the same percentage composition, namely C4H8O2. If the butyric acid were equated with the propyl formate, the propyl formate would in this case be merely an existence of C4H8O2, and secondly it would be said that the butyric acid also consists of C4H8O2. By equating the propyl formate with the butyric acid, its chemical substance would be different from its body shape.

 ④商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであるので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、自然な形とは異なる価値形態を与えないと言います。 ある商品の価値が別の商品とは異なります。 その価値性格<価値キャラクター>は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。
 ④Let us say: as goods the goods are mere jellies of human labor, so our analysis reduces them to the abstraction of value, but gives them no value-form different from their natural forms. Different in the value of one commodity to another. Its value-character emerges here through its own relation to the other commodity.
  <第五段落は。原文のドイツ語文を提示してみました。>
⑤-① 独訳 Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit.
 ①加えて、例えば、 もし岩がキャンバスの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバスを作る織りの一つと同じーーであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。
By e.g. If rock is equated with the value of the canvas, the work in it is equated with the work in it. Now, the dressmaking that makes the skirt, one of the weaving that makes the canvas, is different concrete work.
 ②die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit.
しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを還元します。
the equation with weaving actually reduces the tailoring to what is really the same in both works, to their common character of human labor.
 ③Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることでは、仕立てという顕著な<有用労働の>特徴を持たないので、すなわち抽象的な人間労働と語られています。
On this detour it is then said that weaving, if it weaves value, has no distinguishing features of tailoring, that is, abstract human labor.
 ④Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a)
 実際に、様々な商品に関わる様々な種類の労働を共通の一般的な人間の労働に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造の労働の特定の性格を引き出す。 17a
Only the expression of equivalence of different commodities brings out the specific character of value-creating labor, by actually reducing the various kinds of work involved in the various commodities to their common, human labor in general.17a

 久留間先生は、1~5段落を引用して、こう述べるのです。
 「ここでわれわれが何よりもまず注意をしなければならないことは、20エレのリンネル=1枚の上衣、あるいは20エレのリンネルは一枚の上衣に値する、という価値方程式において、リンネルはいきなり自分を上衣に等置することによって上衣に価値物としての、すなわち抽象的人間労働の直接的な体化物としての、形態規定をあたえ、そうした上ではじめて、この価値物としての定在における上衣の自然形態、自分の価値を表現しているのだということである。
 こういう廻り道をしないでは、商品は価値形態をもつことが出来ないのである。
リンネルは、いきなり自分を上衣に等置することによって、すなわち自分は上衣に等しいのだと自称することによって、自分を価値物にすることはできない。それでは単なる独りよがりになってしまう。
 他面において、リンネルが上衣の自然形態で価値を表わしうるためには、すなわち上衣の自然形態そのものを自らの価値形態にしうるためには、あらかじめ上衣が価値物としての定在を与えられていなければならぬ。
 言葉をかえていえば、上衣の自然形態がそのまま抽象的人間労働の体化物を意味するものとされていなければならぬ。そしてそれは、リンネルが上衣を自らに等置することによって行われるのである。
リンネルは、自分は上衣に等しいのだと自称することによって、自分を価値物にすることは出来ないが、上衣は自分に等しいのだと宣言することによって上衣を価値物(・・・)にすることはできる。
 そこで、リンネルは、かようにして上衣を価値物にしたうえで、自分は価値としては上衣と同じなのだ、ということによって、上衣の形態において、自分自身の価値性格を表現するのである。
すなわち、その使用価値の形態であるところの自然形態からー(略)ー区別された価値形態をもつことになるのである。」(『価値形態論と交換過程論』P56~57)

ーー久留間先生は、この5段落を次のように誤解をしている。ーー
 ①「価値方程式において、」ならば、上着は等価物としてリネンに等置されているーーのですから、上着は価値の規定の下に既にあるのです。
 何故か?
3段落ー「岩石は値としての価値存在形態とみなされます」との規定にあるからです。そのことで、上着は価値とみなされています。
もう一度
 上着は等価物であり、価値として想定された規定の下にあるーーのですから先生の述べることは、この前提を消して、相対的価値表現の第一歩の左極での条件を、排除しています。
 上着は価値としてリネンに等置される、・・この第一歩を、先生は排除して別の条件である、交換関係を、ここに提示しているのです。交換関係であれば、この肝心のリンネルの価値存在の表現があって、上着が価値の存在形態と示され、上着が価値であることを示すーー商品の行う反省規定ーーは捨象されるのです。
 ②上着が価値として、リネンに<直接的に>等置されるならば、そのままに上着は、自身の価値存在を現出させるーーのだから>上衣は直接的にその自然的形態のままに、価値形態と規定される、のは明らかです。
 ここでの「上衣を自分に等置することによって・・・すなわち抽象的人間労働の直接な体化物としての形態規定をあたえ、・・」でも同じくであり、この規定の仕方は、上衣が等価形態となるときに規定される仕方であります。
 媒介的なのですとは?ーー上着が「廻り道」をして媒介的に価値としてリネンに等置されていますが、その意味が何か?であります。
 ③リネンの交換関係においてならば、上着は使用価値として等置される量的関係でしかありません。
 リネンの上着との価値関係においては、リネンが価値であるのは、
aその両者の同等性がーー人間労動と示され、
b上着・裁縫労動はリネンからの反省規定で、<廻り道>をして、媒介的に両者に共通な抽象的人間労働とされるーーことで、上着は価値とされていることで、この反省規定があることで、やっとリネンは価値であるのです。
 ④「上衣を自分に等置することによって上衣に価値物としての、定在における上衣の自然形態」ーーであることで、と示すことで、先生は、媒介されたリネンの価値表現と、直接的に上着が価値形態とされることとを、混同した。ここには、上記に示された、ー-上着が価値としてリネンに等置されるーー上着の等価物としての役立ちが、二つあり、媒介的なのか、直接的なのか、の区別への追求が無いのです。
 ー-上着が価値として役立つ、この媒介性ーーをまず3・5段落で、追求しています。
 ⑤上着に、「抽象的人間労働の直接な体化物としての形態規定をあたえ、」たのであれば、裁縫労動は直接的に抽象的人間労働の実現形態へと転化ーーしており、等価形態の第二の独自性、を示すことになってしまいます。ここではそのことは問題にはなっていません。
 ⑥どうしてーー久留間先生はこんな誤解をしたのか?
 「・・右の方程式の例においてリンネルはまず自分を上着に等置しているのではなくて、上着を自分に等置することによって、上着を価値物にしているのだ、ということにあるのであるがーー」(P57~58)
と誤りをば述べながら、その次のページでは、正しくこう述べるのです。
「・・「上着を価値として自らに等置し」と訳すべきであることは、一見明らかであるとおもう。」(P59)ーーと。

  もう少し、初版のこの4段落を追求しておこう。
 「・リンネルが価値としての上着を自分に等置<「リネンは価値としての上着に自分を等置--江夏・今村訳--と全く逆の訳出>しながら、他方同時に、自分を使用対象としての上着から区別することによって、上着はリンネル物体に対立するリンネル価値の現象<出現>形態となり、リンネルの自然形態とは区別されるリンネルの価値形態となるのである。」(『マルクス経済学レキシコン』No11榎原さんの本からの孫引き)
ーーこのように、続く5段落冒頭、あるいはその前の2段落と同じく、等価形態について論じているのではなく、リンネルの価値形態の形成について語ることで、相対的価値形態の形成につながる事柄を述べています。マルクスは、3段落での二つの筋道・論理があるように、ここでの、2・4段落の事柄で無視される点をこそ、繰り返しています。
  それは、次のことであります。
 2ーー「・・上着で表現することによってリネンは自分の価値存在に、自分の直接的な現世の姿とは区別された価値形態を与える。このようにリネンは自分自身の内部を二分したものとして表現する<使用価値と価値形態ーーとして・杉本註>ことによってはじめて、自分を現実に商品としてーー有用であるとともに価値でもある物としてーー表現する。・・・」
   <これと同じことが、続く4段落に、こう述べられています。>
 4ーー「リンネルが価値としての上着を自分に等置しながら、他方同時に、自分を使用対象としての上着から区別する」ーーとは2段落の言い換えなのです。
従って、ここは、2段落と同じ事柄が、人のなす理解に対しての<物象の判断>としてーー述べられているのだから、リンネル織りが「人間労動の物的表出」<第4版との共通性を示している>を表す、だけではなく、リンネルの価値形態の形成にまで、論究しています。
このように、相対的価値形態の形成の方向性において、リンネルの価値形態が物象の判断として、使用価値ではなく<商品上着>とのかかわりのなかで示されていたのです。
ここで、<上着が価値形態を受けとる>ーーのは、物象世界の転倒象なのです。
 <先生の初版での廻り道の誤解については、次を参照願います>
      https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1647?
   ⑦ー①
   ⑬製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。
  <再版に戻ります。>
 ⑦先生は、後者では、正しく述べながら、それを、論じている条件が、
<a相対的価値形態の内実>での①化学式の3段落に続く、②価値抽象の批判として「その価値性格<価値キャラクター>は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます」
との再版4段落の提起・条件を無視したことで<価値形態>とここを誤読・誤解したのではないか?
「上衣の形態において、自分自身の価値性格を表現するのである。すなわち、その使用価値の形態であるところの自然形態からーー(略)ーー区別された価値形態をもつ」ーーと。全く逆の理解をしたのです。
 すなわち、上着は価値形態であると、全く正反対の理解を示したのです。これでは、上着は自然的形態でありながら価値形態を示すーー等価形態と、先生は、誤解したのであります。
そして次に、③この5段落での、ーー
「織り方が方程式を示すと、実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを還元」ーーを、その価値形態の下での、人間労動の表示が、等価形態の下での表示だから、上衣にーー「抽象的人間労働の直接な体化物としての形態規定をあたえ、」たーーと読んだ、と思います。
 未だ規定されていない、提起されていない「価値形態」を、4段落に見たのが、人々がどうこの事柄を批判すべきなのか?どうにも理解できなかった、ことなのであります。
 ⑧価値関係にて、まずーその価値性格ーが問題にされているのに、先生は、等価形態こそが論じる対象だとして前段に置き、初版の誤訳の廻り道を例証にしています。
 彼の論拠の全ては、初版の回り道ーーの誤解に基づくものなのです。なんとも、自分の正しさの例証としたことが、誤解なのであります。
そして、7段落の廻り道の論証を、戻って、6段落にてもそうだと示し、その延長に、<等価形態を論ずる延長として>4段落を提示することで、そこで論じられているーーマルクスの肝心要の、相対的価値形態の形成の方向での、その内実であるーー物象の社会的関係ーー<註18>
が、ここに示されていることを、正しい長谷部訳をも、誤訳として、排除しているのです。
 ⑨しかし、江夏訳初版の名誉のためにも、この初版第二段落にては、正しくこう記述されています。
「リンネルは、自分の価値量・・・を上着で表現することによって、自分の価値存在に自分の直接的存在とは区別される価値形態を与える。」(『初版』 江夏訳 P35 原P16 )
 これが当然の理路ではないですか?
リンネルが価値存在を表現し、上着は価値の存在形態ーーであれば、リンネルはこの相対的価値形態の形成において、まず、自らの価値形態を、表現するのです。
上着が価値形態を受けとるのであれば、これ、等価形態での出来事なのです。
 ⑩この5段落を巡る久留間先生のこの意見は、労働者のなかに広く普及しており、彼の意見ををよく代弁するのが、次の 資本論を読む会 広島の商品の価値実体への次の理解であるので、紹介します。

http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=15
  「読む会」だより(16年3月用) 2016年3月24日
  3)商品に表わされる労働の二重性について
   ・・・・・・・・・・・・
あるいは有用労働も人間労働力一般の発現として見ればどのように質が違っていても同じものだと言うのです(ちなみにこれが「価値規定」すなわち「価値の質的な規定」ということで、これにもとづいて「価値の量的な規定」も出てきます)。種々の有用労働は、その種々の質のままでは量的に比較されることはできません。だからそれらの労働は同質で大きさだけが異なる労働に還元されることではじめて社会の総労働の一部としての性格を受け取ることができるが、これが価値として表現される場合の労働だと言うのです。
言い換えれば、商品の価値として表現される場合の労働は、同質な人間労働力一般の発現に還元されたものとして見られた労働であり、人々の社会的な関係とその中での労働の社会的な属性を表現するものだと言うのです。(第1項で触れたように諸労働が社会的労働として存在するあり方はそれぞれの社会に固有です。資本主義社会以前には労働そのものの具体的姿において社会的労働であり得たのに対して、発展した商品生産を基礎にしている資本主義社会にあってはそうではありません。後に触れていくように、ここでは労働そのものの具体的姿でではなくて、それが同質な抽象的労働としての姿をもつことではじめて社会的な労働となりえます。そしてこのことがいわば貨幣の必然性をなしているのです。)
  <杉本--再版 c一般的価値形態  1価値形態の変化した性格 の
  9段落には次ように述べられています。
  「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現する一般的
  な価値形態」--であることで、量的な価値等式が通用し、社会的実体が
  「労働」であることが証明されていると、示されています。
  ⑨諸労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現する一般的
  な価値形態は、それが商品世界の社会的表現であるということを、それ自
  体の枠組みを使って示している。したがって、この世界の中では、一般的
  に人間労働がその具体的な社会的性格を形成していることが明らかになっ
  た。原P81
  <このように、一般的価値形態が構成されて、やっと、そのことで、
  「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なるゼリーとして表現する」こと
  が出来るのです。>

  そして、次に「廻り道」の解説であります
  http://marx-hiroshima.org/?page_id=10&paged=14
  第3項 商品の「価値形態」とは何か の2回目

  <彼らは、上記ーー5段落を引用したあとに、こう解説します。>
「ここでは、価値を表現しようとする側のリンネルではなくて、それに等置される側の上着に含まれる具体的有用労働が事実上人間労働に還元され、したがって上着は特殊な使用価値としてではなくて、価値=人間労働のひとつの実現形態としてのみリンネルに取り扱われるということが、決定的に重要です。
というのも、このことによって、上着によるリンネルの価値の表現は、たしかに右辺の上着を価値として取り扱い、つまりそれがリンネルと“無条件に”交換可能だという性格(直接的交換可能性=貨幣性格)を与えます。
しかしながら左辺のリンネル自身は、その価値の上着での表現によっても自分に含まれる織布労働が人間労働に還元されるわけではないのですから、リンネルという特殊な使用価値から脱皮しているわけではありません。
したがってリンネルはその価値を上着で表現したといっても、それはただ上着を観念的に自分に等置したということであって、そのことによってリンネル自身が上着との直接的交換可能性をもつというわけでは決してないからです。
言い換えれば、ある商品が別の商品との直接的交換可能性をもつのは、すなわち貨幣としての機能をもつのは、それが特殊な使用価値であるからというわけではなくて、ただ他の商品がそれで自分の価値を表現するからにほかなりません。このことは貨幣の理解にとって極めて重要な事柄です。2016年5月22日」

 <杉本の批判--「織り方が方程式を示すと、実際にはどちらの仕事でも、人
 間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを還元しています。」ーー
 と原文に述べています。引用された訳文でも、織布との等置は、
 裁縫を「両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通
 な性格に、還元する」ーーとあります。
 --両方に等しいものに還元する--のですから、等置する側も、される側も
 両方の共通者である、人間労動に還元しています。
 そして次の廻り道が示されていました。

  ③Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることでは、仕立てという顕著な<有用労働の>特徴を持たないので、すなわち抽象的な人間労働と語られています。

 どうして、上着を縫い上げる裁縫労動だけが、人間労動に還元されるとーー
 彼らは理解--誤解をしたのか?
 それは、この人間労働に還元した後の-廻り道-を、次の理解をしたためです。
 リンネルに対して上着は、直接的交換可能性--を示す、上着は等価形態であ
 るのが、相対的価値形態の形成過程においても前提である、ーーとの理解から
 なのです。
 ーーしかし、前節の 1価値表現の両極ーー相対的価値形態と等価形態は、単
 なる見取り図であり等価形態が前提と述べているのではありません。
 この内実論の最終の⑪段落で示されているように、やっと等価形態ではなく、
 相対的価値形態を受けとる、との記述です。
 ではーー見取り図を示さないで論理展開をしている初版ではどうでしたか?
 ーーリンネルが、「廻り道」をすることで、商品形態を受けとれたのだから、
 その経過のなかで、リンネルは価値形態を受けとることで、そのことが出来た、
 と示されています。
 久留間先生の論理は、商品形態が如何にして成立したのか?それは、この廻り
 道を消去することで、相対的価値形態の成立の筋道のなかに依る--ことを不
 問にしたものであり、等価形態の成立ばかりを追求するものであり、労動生産
 物の商品への転化とは?この何故?ーーを不問にするイデオロギーであったの
 です。
 ドイツ語ペラペラの先生としては、この誤訳を知っていたのではないか?
 このこの回り道を経過したーーことでの左極でのリンネルの価値形態の成立に
 ついて、この7段落の後に、明快にマルクスは述べています。けして右極の形
 態や、両極が前提になど、なっていません。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ⑥しかし、キャンバスの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。比喩的な形で凝固した状態で値をとる。
キャンバスの価値を人間の労働のゼリーとして表現するためには、それはキャンバス自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」<「対象性」ではない>として表現されなければならない。タスク<課題>はすでに解決されています。
 ⑥However, it is not enough to express the specific character of the work, which is the value of the canvas. Human labor in the liquid state or human labor makes value, but is not worth. It becomes value in a coagulated state, in figurative form. In order to express the canvas value as a jelly of human labor, it must be expressed as an "objectivity" which is in fact different from the canvas itself and at the same time common to other commodities. The task has already been solved.
   <http://content.csbs.utah.edu/~ehrbar/cap1.pdf
 ⑦リネンの価値関係では、リネンと同質のものとして、コートはリネンと同等のものとしてカウントされます。
したがって、値であるため、価値は明示されるものとしてカウントされます。その有形の手書き形式で、価値を表しています。
しかし、商品そのもののコートは、コートそのものは純粋に使用価値です。コートは、私たちが出会った最初のリネンよりも価値を表現していません。
これは、外側のものよりも金の編組された制服の中でもっと多くの人がカウントするのと同じように、それが外側よりもリネンとの価値関係の内側にあるときにはコートが重要であることを証明しています。
 ⑦In the value relation of the linen, the coat counts as a thing qualitatively equalto the linen, as a thing of the same nature as linen, because it is a value. ist.It counts therefore as a thing in which value manifests itself, or which, in its tangible handgreiflibodily form, represents value.
Yet the coat itself, the body of the commod-ity “coat,” is purely a use-value. A coat does  not express value any more than does the first piece of linen we come across.
This proves only that the coat counts forwhen inside the value relation with the linen than outside it, just as many a human counts for more when inside a gold-braided uniform than outside it.
 ⑧コートの生産では、仕立ての形の人力が実際に費やされた。 その結果、人間労働はコートに蓄積されます。
コートは、「価値のキャリア」ですが、コートはどこにでもあります。
 ⑧In the production of the coat, hu- man labor-power, in the shape of tailoring,was in actual fact expended. Consequently, human labor is accumulated the coat.By virtue of this, the coat is a ‘carrier of ¨value’, although this property does not show through anywhere, even where the coat is at its most threadbare.
そして、リネンの価値関係では、コートはこの側面の下でしかカウントせず、従って価値の化身として具現化された価値として数えます。 そのボタンアップされた外観にもかかわらず、リネンは豪華な - 価値の魂をコートで認識しています。
しかし、コートは、リネンの価値を表すものではなく、後者の場合には同時にコートの形状をとるものでなければならない。
And in the value relation of the linen, the coat counts only under this aspect, counts therefore as embodied value, as incarnation of value. Despite its buttoned-up appearance, the linen recognizes in the coat a splendid - the soul of value.
The coat, however, cannot represent value towards the linen unless value, for the latter, at the same time assumes the shape of a coat.
例えば、個人Aは、他の個人Bにとっては「あなたの威厳」になることはできません.Bの目の中では威厳を失わずに、Aの物理的な形状を仮定し、さらに、ファンションや髪の毛やその他多くのものを変えます新しい--new ‘father of his people--「人々の父」が生まれました。
An individual, A, for instance, cannot be ‘your majesty’ to another individual, B, un- less majesty in B’s eyes assumes the physi- cal shape of A, and, moreover, changes fa-features, hair and many other things,with every new ‘father of his people’.

 ⑨-①したがって、コートがリネンを同等にする値の関係では、コートの身体形状は価値の形態としてカウントされる。
 ⑨-①Hence, in the value relation in which the coat is the linen’s equivalent, the bodily shape of the coat counts as form of value.
 <ここは価値関係との認識では、ーー転倒ーーの意味が全くわからない。
 単に値として上衣がリンネルに等しいー-との転倒した見解を、批判している。>
 <英文の比較をすることで、そのことが理解できる。価値関係との英文では、この批判が消える。>
 ー①したがって、コートがリネンを等価にする値の関係では、
  コートの身体形状は価値形態としてカウントされる
Hence, in the value relation in which the coat is the linen’s equivalent,the bodily shape of the coat counts as form of value.
  対して、
Hence, in a value relationship in which the coat equates to a linen cloth, the coat form is made into a value form in this way.
  したがって、コートが亜麻布の等価をなす価値関係においては、
  このように、コート形態は価値形態とされる。
 -②したがって、コットンリネンの価値は、コモディティコートの物理的な体内で表され、一方の値は他方の値で表される。使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるものです。
価値として、それはコートと同じであり、したがって "コートのように見える。
The value of the commodity linen is therefore expressed in the physical body of the commodity coat, the value of one in the use-value of the other. As a use-value, the linen is something palpably different from the coat; as value, it is equal to the coat and ” therefore looks like a coat.
 -③こうして、リネンはその体の形とは異なる価値形態を得る。
Thus the linen acquires a value form different from its bod- ily form
 -④リネンの価値性格は、キリスト教徒の羊の性質が神の子羊と平等に示されているのと同じように、コートと同等であることが明らかです。
The value-character of linen is manifested in its equality with the coat, just as the sheep-nature of christians is manifested in their equality with the lamb of god.
 <この価値形態は、宗教的形態のなかで、上衣が価値形態との転倒を示すなかで、
  リネンの価値形態ーーとなっている、ことが、最大限追求されています。
  世の理解は、常識的理解は、ここを、上衣が価値形態、と理解して憚らないのです。>

 次は、岩波文庫 向坂先生の訳です。P96~97
 上記訳とは逆の判読であり、異なるのです。これでは意味が理解できません。
 ①「上着が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態
 は価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上着なる商品
 の使用価値で表現されるのである。」
 <「上着が亜麻布の等価をなす価値関係においては、」であれば、このよう
 な転倒は起こらないのです。
 ② 「価値として、それはコートと同じであり、したがって "コートのように見える。」
 ーー 商品語ーー
 「使用価値としては、亜麻布は上着とは感覚的にちがった物である。
 価値としては、それは「上衣に等しいもの」であって、したがって、上衣に
 見えるのである。
 このようにして、亜麻布は、その自然的形態とはちがった価値形態を得る。」
 <商品語がここに示されているのではないか?ここでは、価値関係ではなく、
 同等性関係に転倒しているのです。
 「亜麻布は、その自然的形態とはちがった価値形態を得る」(岩波)
 「・・同等物であるという値の関係において、衣服の身体形状が価値形態として数えられる。」
  この商品語の転倒を経過して、次が起こっているのです。
  -③こうして、リネンはその体の形とは異なる価値形態を得る。(原文)
 <しかし人々は、ほぼ全て、商品語のままに、転倒したままに、上衣が価値形態ーーと理解。
 ここの理解-判読が、とても大切です。
 岩波-向坂先生のここでのこの訳であれば、転倒していないのです。
 上衣が、価値形態を受けとるから--転倒しているのであって、
 リンネルが価値形態を受けとるのであれば、相対的価値形態の形成に向かう
 ことが出来ますが、上衣が価値形態を受け取れば、その道筋は等価形態の形
 成に向かうことと、混同してしまうのです。
 マルクスの意図は、この混同批判にこそあるのだから、それを出来無くして
 しまう既存訳は、、全て誤訳ではなかろうか?>

 その価値たることが、上衣との同一性に現れること、ちょうどキリスト者の
 羊的性質が、その神の子羊との同一性に現れるようなものである。」
 (岩波文庫P96~97)

 ⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。 彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。 作品は、人間労働の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。
 ⑩One sees that everything that the analysis of the value of the commodity predicted for us, says the canvas itself, as soon as it enters into contact with other commodities, the skirt. Only she betrays her thoughts in her own familiar language, the language of the goods. To say that work forms its own value in the abstract quality of human labor, she says that rock, insofar as it is indifferent to it, is therefore worthy of the same work as the canvas.
その崇高な価値客観性<「価値対象性」の訳ではここでの意味が不明となる>がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。 ちなみに、商品の言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。 ドイツの「価値」は、 ロマネスクの時代の言葉であるvalere、valer、valoirよりも、商品Bと商品を同一にすることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいうまでもありません。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>
To say that its sublime value-objectivityis <価値客観性>different from its rigid body, she says that value looks like a rock, and therefore, as value, it resembles rock like an egg to another. By the way, the language of languages, besides Hebrew, has many more or less correct dialects. The German "value" expresses e.g. less striking than the Romanesque time word valere, valer, valoir, that equating the commodity B with the commodity is the proper value-expression of the commodity A. Paris is a fair trade! <Paris is worth a fair!>

 ⑪したがって、価値関係<バリュー比率>により、商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)商品Aとは、 価値体としての商品Bは、人間の仕事の素材として、自分の価値表現の素材に対する使用価値Bにします。 商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対的価値形態をしている。
 ⑪By means of the value relation<value ratio>, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.
 <最終的に「価値関係」によりーーではなく、」「価値比率」に依るーー商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になる」
 ーーと、⑨段落の転倒がまとめられています。8・9段落の主張の違いが、この整理にあるの
 ですから、上着が価値形態と商品語で示しながらも、最後の判断として、
 リンネルの価値形態--とまとめられています。誤訳でありました。>


  3. The equivalent form 3.同等の形式
 ①It has been seen that a commodity A (the canvas) expresses its value in the use-value of a different commodity B (the skirt), the latter itself expresses a peculiar form of value, that of the equivalent. The linen of the linen brings to light its own value by the fact that the skirt, without assuming a value form different from its body form, is indifferent to it. The canvas thus expresses its own value by the fact that the skirt is directly interchangeable with it. The equivalent form of a commodity is therefore the form of its immediate interchangeability with other commodities.
 ①商品A(キャンバス)は、異なる商品B(スカート)の使用価値にその価値を表し、後者はそれ自体が価値のある形、それと同等の価値を表現することが分かっている。リネンのリネンは、スカートが、その体型とは異なる価値形態をとることなく、それに無関心であるという事実によって、それ自身の価値を明るくする。したがって、キャンバスは、スカートがそれと直接交換可能であるという事実によって、それ自身の価値を表現する。したがって、同等の形態の商品は、他の商品との即時の互換性の形態です。

 ②If a kind of commodity, such as skirts, serves as an equivalent to another type of commodity, such as canvas, skirts are therefore given the characteristic property of being in an immediately exchangeable form with canvas, then there is in no way given the proportion in which skirts and canvas are interchangeable are. It depends on the value size of the skirts, given the value size of the canvas. Whether the rock is an equivalent and the canvas a relative value or vice versa the canvas is the equivalent and the rock a relative value, its value remains as determined by the labor time necessary for its production, that is, independent of its value form. But as soon as the commodity type Rock takes the place of the equivalent in the value expression, its value size does not receive an expression as a value size. Rather, in the equation of values, it figures only as a definite quantum of a thing.
 ②スカートのような一種の商品が、キャンバスのような別の商品と同等のものとして機能する場合、スカートはキャンバスとすぐに交換可能な形であるという特徴的な特性が与えられ、スカートとキャンバスは交換可能です。それは、キャンバスの値の大きさを考慮して、スカートの値の大きさに依存します。岩石が同等でキャンバスが相対値であるか逆であるかにかかわらず、キャンバスは同等であり、岩石は相対値であり、その値はその生産に必要な労働時間、すなわちその価値フォームとは無関係に決定される。しかし、商品タイプRockが値式で同等のものを使用した時点で、その値のサイズは値のサイズとして表現されません。むしろ、値の方程式では、それは事の明確な量子としてしか見えません。

 ③For example: 40 cubits of canvas are "worth" - what? 2 skirts. Because the commodity rock here plays the role of the equivalent, the use value Rock of the canvas opposite as Wertkörper, also a certain quantity of skirts is enough to express a certain quantum of value canvas. Two skirts, therefore, can measure the value of 40 cubits of canvas, but they can never express their own value, the size of skirts. The superficial view of this fact, that the equivalent in the equation of value always has only the form of a simple quantum of a thing, a use-value, has led Bailey, like many of his predecessors and successors, to regard the value-expression only as a quantitative relation. Rather, the equivalent form of a commodity does not contain a quantitative determination of value.
 ③例えば:40キュビットのキャンバスは「価値がある」 - 何ですか? 2つのスカートのですね。
ここの商品の岩は同等の役割を果たすので、Wertkörperと反対のキャンバスの使用価値Rockもまた一定量のスカートがある価値あるキャンバスを表現するのに十分です。
したがって、2つのスカートは40キュビットのキャンバスの価値を測定できますが、スカートのサイズという独自の価値を決して表現することはできません。
この方程式の等価物は、常に物事の単なる量、すなわち使用価値という形をとっているというこの事実の見通しは、前任者や後継者の多くと同様に、定量的な関係としてのみ発現する。
むしろ、同等形態の商品は、価値の定量的な決定を含まない。

 ④The first peculiarity that stands out when considering the equivalent form is this: Use value becomes the manifestation of its opposite, value.
 ④同等形態を考えるときに際立つ最初の特異性はこれです:使用価値はその反対価値の現れになります。

<71>
 ⑤ The natural form of the commodity becomes the value form. But, notabene, this quidproquo occurs for a commodity B (rock or wheat or iron, etc.) only within the value-relationship in which any other commodity A (canvas, etc.) comes to it, only within that relation. Since no commodity refers to itself as an equivalent, and therefore can not make its own natural skin the expression of its own value, it must refer to other commodity as an equivalent, or make the natural skin of another commodity its own value form.
 ⑤商品の自然な形態が価値形態になります。
しかし、notabene<注意すべきなのは>、このquidproquo<取り違え>は、他の商品A(キャンバスなど)がその関係の中でのみ生じるのであり、だから価値関係の中でのみ、商品B(岩または小麦または鉄など)に対してのみ生じるのです。
コモディティはそれ自体を同等物と呼んでいるわけではないので、独自の自然な肌を独自の価値で表現することはできないため、他のコモディティを同等物として参照するか、別のコモディティの自然な肌を独自の価値形態にする必要があります。

 ⑥This is illustrated by the example of a measure which belongs to the bodies of goods, that is, bodies of goods. as use values. A sugar loaf, because the body is heavy and therefore has weight, but you can not see or feel any sugar loaf its weight. We now take different pieces of iron whose weight is predetermined. The body-form of iron, considered in isolation, is no more manifestation of heaviness than that of sugarloaf. Nevertheless, to express the sugarloaf as gravity, we put it in a weight ratio to the iron. In this relationship, iron is considered a body that represents nothing but gravity. Iron quanta, therefore, serve as a measure of the weight of sugar and represent the sugar body in comparison to mere heavy form, manifestation of heaviness. This role is played by iron only within this ratio, in which the sugar or any other body whose weight is to be found enters it. If both things were not difficult, they could not enter into this relationship, and therefore one could not serve to express the severity of the other. If we both weigh ourselves on the balance, we see in fact that they are the same as gravity, and therefore in a certain proportion also of the same weight. Just as the iron body, as a measure of weight, is heavier than the sugar-cane, in our expression of value the rock-body represents only value to the canvas.
 ⑥これは、商品の本体、すなわち商品の本体に属する尺度の例で示されています。
使用価値としてです。体は重くて体重があるので、砂糖塊ではありますが、砂糖は体重を感じることはありません。
私たちは現在、体重があらかじめ決められているさまざまな鉄片を取ります。
孤立していると考えられている体の形の鉄は、もはや糖衣錠のそれよりも重さの表れではありません。

それにもかかわらず、サトウキビを重さとして表現するために、我々は鉄との重量比でそれを入れます。この関係では、鉄は重さだけを表す身体とみなされます。したがって、鉄の量は、砂糖の重量の尺度として役立ち、単なる重さの形態と比較して砂糖の体を表し、重さを表す。この役割は、この比の中でのみ鉄が果たします。この比では、砂糖または体重が検出される他の身体がそれに入ります。もし両方のことが困難でなければ、彼らはこの関係に入ることができず、したがって、他者の重量を表現することはできませんでした。

もし私たちが両方ともバランスの上で体重を測ると、彼らは重さと同じであり、したがって同じ重量の特定の割合であることが実際に分かります。鉄の体は、体重の尺度として、サトウキビよりも重いのと同じように、私たちの価値の表現では、岩体はキャンバスにとって価値があるだけです。

 ⑦Here, however, the analogy stops. In the weight expression of the sugarloaf, iron represents a nature shared by both bodies, their severity, while in the expression of value on canvas, rock represents a supernatural quality of both things: their value, something purely social.
 ⑦しかし、ここでは類推が止まる。サトウキビの体重表記では、鉄は両方の身体によって共有される性質、その重量度を表し、キャンバス上の価値の表現では、両方のものの超自然的な品質を表します:その価値、純粋に社会的なものです。

 ⑧By taking the relative shape of a commodity, e.g. the canvas, its value being something quite different from its body and its characteristics, e.g. as rock-like, this expression itself implies that it hides a social relationship. Conversely, with the equivalent form. It consists precisely in the fact that a commodity, like rock, this thing expresses as it does and stands, expresses value, and thus possesses value form by nature. To be sure, this is true only within the relation of value in which the linen is related to the rockware as an equivalent. (21)
 ⑧商品の相対的形状をとることによって、例えば、キャンバスはそのボディとその特性とはまったく異なるものです。岩のように、この表現そのものは、それが社会的関係を隠していることを暗示する。逆に、同等の形式で。それは、岩のような商品は、それが現れ、立つように表現し、価値を表し、したがって本質的に価値の形態を保有するという事実に正確に含まれます。確かに、これは、リネンがロックウェアに相当する値の関係内でのみ当てはまります。 (21)

But since qualities of a thing do not spring from its relation to other things, but only operate in such a relationship, rock also appears to be its equivalent form to possess its property of immediate interchangeability, just as much by nature as its property to be heavy or warm.

Hence the enigmatic of the equivalent form, which beats the bourgeois raw gaze of the political economist as soon as this form finishes facing him in the money.

Then he seeks to clarify the mystical character of gold and silver, by submitting to them less dazzling merchandise, and with ever renewed enjoyment to abandon the catalog of all the commodities which at that time played the role of the commodity equivalent. He does not suspect that even the simplest value expression, such as 20 cubits of canvas = 1 skirt, will solve the riddle of the equivalent form.
しかし、物の性質は他のものとの関係から湧き出るものではなく、そのような関係でのみ作用するので、岩もまた、ーー財産は重くて暖かいーーその性質と同じように、即座の交換性の性質を有する同等の形態であるように見えます。

それゆえに、この形態がお金の中で彼に直面するとすぐに、政治経済学者のブルジョア生の凝視を打ち負かす同等形態の謎です。

そして、金と銀の神秘的な性格を明らかにするために、あまり目立たない商品を提出し、その時に商品の役割を果たすすべての商品のカタログを放棄することを永遠に楽しみました。
彼は、20キュビットのキャンバス= 1スカートのような最も簡単な価値表現でさえ、同等形態の謎を解決するとは考えていない。

 ⑨The body of the commodity serving as its equivalent is always the embodiment of abstract human labor and is always the product of a certain useful, concrete work. This concrete work becomes the expression of abstract human work. If the skirt is for example as a mere realization, so the tailoring, which actually realizes in him, as a mere form of realization of abstract human labor. In the expressive value of the canvas, the usefulness of dressmaking is not that it makes clothes, and therefore also people, but that it makes a body that is seen to be of value, that is, a jelly of work that is not at all different from that in the Canvas value objectified work. To make such a value-level, tailoring itself need not reflect anything but its abstract quality of being human labor.
 ⑨その同等物として機能する商品の本体は、常に抽象的な人間の労働の実施形態であり、常に特定の有用で具体的な仕事の産物である。この具体的な作品は、抽象的な人間の仕事の表現になります。スカートが、例えば単なる実現である場合には、実際に彼の中で実現する仕立ては、抽象的人間労働実現の単なる形態である。

キャンバスの表現上の価値において、服飾の有用性は、衣服を作ることであり、それゆえに人々も作るが、それは価値のあるものと見られる身体を作ることであり、全くない仕事のゼリーCanvasの価値をオブジェクト化した作品とは異なります。そのような価値水準を作るために、それ自体を調整することは、人間の労働であるという抽象的な品質を反映する必要はありません。

 ⑩In the form of tailoring, as in the form of weaving, manpower is spent. Both therefore have the general characteristic of human labor and may therefore, in certain cases, e.g. in value production, only from this point of view come into consideration. All that is not mysterious. But in the value of the goods the thing is twisted. For example, To express that weaving is not weaving in its concrete form as weaving, but in its general quality as human labor, tailoring, the concrete work which produces the canvas equivalent, is contrasted with it as the tangible form of realization human work.
 ⑩仕立ての形では、織りのように、人力が費やされます。したがって、両方とも、人間の労働の一般的特徴を有し、したがって、場合によっては、例えば、価値の生産においては、この観点からのみ考慮される。すべてそれは神秘的ではありません。

しかし、商品の価値の中では物事はねじれている。例えば、織り方が織り方として具体的な形で製織されていないことを表現するために、人間の労働としての一般的な品質においては、キャンバス相当物を生産する具体的な作業は、現実化の人間の仕事の具体的な形とは対照的である。

 ⑪It is therefore a second peculiarity of the equivalent form that concrete work becomes the manifestation of its opposite, abstract human labor.
したがって、具体的な労働は、その反対の抽象的人間労働の実現形態になるというーー同等の形態の第二の特異性です。

 ⑫But this concrete work, tailoring, as the mere expression of indiscriminate human labor, possesses the form of equality with other labor, the labor inherent in canvas, and therefore, although private labor, like all other goods-producing labor, yet Work in direct social form. That is why it presents itself in a product that is directly interchangeable with other commodities. It is therefore a third peculiarity of the equivalent form that private work becomes the form of its opposite, to work in an immediately social form.
 ⑫しかし、この無差別な人間の労働の表現としての具体的な仕事は、他の労働との平等の形態、キャンバスに内在する労働、したがって他のすべての物産労働と同様に私的労働でもあるが、社会的形態なのです。それが他の商品と直接交換可能な商品の中に現れる理由です。

それゆえに、私的労働がその反対の形になり、すぐに社会的な形で働くという同等の形の第三の特異性です。

 ⑬The two most recently developed peculiarities of the equivalent form become even more comprehensible when we go back to the great researcher who first analyzed the value form, as did so many forms of thought, forms of society, and forms of nature. It is Aristotle.
 ⑬私たちが最初に価値形態を分析した偉大な研究者に戻ったとき、それほど多くの形の思考、社会の形態、自然の形態がそうであったように、同等の形態の最近開発された2つの特異性は、さらに理解しやすくなります。 それはアリストテレスです。

 ⑭First of all, Aristotle clearly states that the money form of the commodity is only the more developed form of the simple value form, ie. The expression of the value of a commodity in any other commodity, for it says:
 ⑭まず第一に、アリストテレスは、商品の貨幣形態は単純な価値形態のより発展した形に過ぎないことを明確に述べている。 それは他の商品の商品価値の表記です:

"5 Polster = 1 Haus"
Kliuai pente anti oik iaz
<Griechisch: Clinai pente anti oicias>
"unterscheidet sich nicht" von:
"5 Polster = soundso viel Geld"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
<Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>

 ⑮He further recognizes that the value-relation in which this expression of value is based in turn implies that the house is qualitatively equated with the upholstery, and that these sensually different things would not be correlated as commensurable quantities without such essential identity.

"The exchange," he says, "can not be without equality, but equality but not without commensurability" ("out isothz mh oushz summetria z"). But here he trims and gives up the further analysis of the value form.

"But in truth it is impossible (the men oun alhdeia adunaton) for so diverse things to be commensurable", i. are qualitatively the same. This equation can only be something foreign to the true nature of things, that is, only a "makeshift for the practical need."
 ⑮さらに、この価値関係は、家が室内装飾品と質的に同じであることを意味し、これらの感覚的に異なるものは、そのような本質的なアイデンティティーなしには、相応の量として相関付けられないことを意味する。
"交換は平等なしではできないが、平等性はない。"。
ここで彼は調整し、価値フォームのさらなる分析をあきらめます。
"しかし、実際には、相変わらず多様なものが相応していることは不可能です"。質的に同じです。
この方程式は、事実の本質にとって異質なもの、すなわち「実用的な必要性のための一時的なもの」に過ぎない。

 ⑯Aristotle thus tells us himself why his further analysis fails, namely the lack of the concept of value. What is the same, i. the communal substance, which presents the house for the upholstery in the value expression of the upholstery? Such a thing can not really exist, says Aristotle. Why? The house presents the same to the upholstery, as far as it presents in both the upholstery and the house, really the same. And that is - human work.
 ⑯アリストテレスは、なぜ彼のさらなる分析が失敗するのか、すなわち価値概念の欠如を自分自身で伝えています。同じものは何ですか?
室内装飾品の価値表現において室内装飾品のための家を提示する共同体物質ですと?そのようなものごとは実際には存在しないとアリストテレスは言う。
どうしてか?家は室内装飾品と家の両方に現れる限り、室内装飾品に同じものを提示します。
And that is - human work.
それは人間労働です。

 ⑰But that in the form of commodity values all labor is expressed as equal human labor and therefore as equal, Aristotle could not extract himself from the value-form itself, because Greek society was based on slave labor, hence the inequality of men and their labor-power had a natural basis. The secret of the expression of value, the equality and equal validity of all labor, because and insofar as they are human labor in general, can only be deciphered as soon as the concept of human equality already possesses the firmness of a national prejudice. But this is only possible in a society in which the commodity form is the general form of the labor product, and thus also the relation of the people to each other as commodity owners the prevailing social relation. The genius of Aristotle shines in the fact that he discovers an equality in the expression of the value of the goods. Only the historical barrier of the society in which he lived prevents him from finding out what "in truth" this relationship of equality consists of.
 ⑰しかし、商品の価値では、すべての労働は平等な人間の労働として表現され、それゆえにアリストテレスは価値形態そのものから、そのことを見出せませんでした。
なぜなら、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいていたからです。彼らの労働は自然な基盤を持っていました。
価値表現の秘密、すべての労働の平等と同等の妥当性は、一般に人間労働であるため、人間の平等の概念がすでに民衆の偏見を抱いている場合にのみ、解読することができます。
しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態である社会においてのみ可能であり、したがって、商品所有者としての人々の関係も支配的な社会関係であるばあいです。
アリストテレスの天才は、商品の価値表現において平等を発見するという事実に輝いています。彼が住んでいた社会の歴史的障壁だけが、この「平等」の関係が「真実」であることを知ることを妨げている。

  4. Das Ganze der einfache Wertform

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 知事に特権として暴走容認の数々

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 9月 8日(土)00時25分43秒
返信・引用
   知事に特権として暴走容認の数々
 法務局は知事に暴走目こぼし権なんかないと言ってそれ以外は一言も答えなくどうしても暴走容認になる。友の会を辞めた時は自立支援法が廃止になって間もないときに辞めた為それを悪用されたことになる。そして親を馬鹿にしたまま関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体ね行かせない。社会参加は12年で12回の妨害です。
 法務省は10回も意見言って数日で返事どころか2ヶ月も一つも来ない。法務局にしても逢って話すことにこだわっているのは口約束で揉み潰したいからですか。まさしくばれなければいいとする形です。
 司法がメール妨害したのも知事をかばう形です。
 掲示板に実名で書くなと言ってもかん口令を逆手にとって書きたい放題にし、批判も反論も12年一つも来ていない。来たのは妨害だけ。止めたい理由の本音は一部が外国に流れているから世界に非難されるのを防ぎたいからになる。
 手紙で話した分だけ意見があるのに知事をかばう暴走目こぼし権なんか無いと言う以外一つも来ていない。口約束として揉み潰しやすいからでしょう。
 それとも親を馬鹿と認めないからと言う理屈で逮捕するのですか。
 看板団体の暴走隠しだけなら判るとしても差別、妨害のやりたい放題です。 しかも通訳差別も3年前から続けている。情報センターさえ貸出し拒否が10ヶ月続いています。盲ろう者だと言うのに3年前通訳介助チケットを再開しても一枚も使わせな(通訳を貸さない)。今年はまだ発行しない。
 強権と言うより暴拳。人権を守る立場で破壊を容認している。
 擁護係りは法務省から県庁相手の見解を聞いているらしく町で悪口の噂を流している人の悪口を止め、ついでに法務省の見解も話したこと。此方には諦めろと言うだけで他は見解も何も聞いていない。
ってもやり過ぎです。法務省はたかが障害者の一人くらいとしか見ていない。
 それより県の看板を守ろうとする知事はともかく小笠原さんのやることはボランティアのやることでない。ろうあ協会会長石川君は障害者で知恵遅れから来たこと。簡単に許されて余計無責任になんる。
 親を馬鹿と言う片割れ小笠原夫妻のいる北上の社協に宛て知事命令で無視なら再び全国に名誉市民だと知らせます。金はかかっても法務省のネズミ捕りに
は引っかからない。
 そしてクラスメートが産業課の課長だったことから親父の記録をコピーして貰いこれも送ります。7年ほど前は県庁にも届けたが突っ返して来た。今度はどうか。それから下の文は上に追加して水沢のサークル会長のいる奥州市社協に送ったものです。馬鹿でも真似出来ますか。
 最低でも小笠原夫妻は通訳資格剥奪追放を。小野寺良子さんは大本家に謝罪に来ればいいとします。
 それに聾唖者の社会の常識論とは一人で考えたと思えない。オーバーに喋り嘘も方便式にけしかけたとすれば小笠原さんの仕業でないか。それも聾唖者の社会は上辺しか知らない人が常識論をぶち上げていた。嘘も方便の社会です。 聾唖者の大半は通訳を見習って常識を覚えていく。


 

在韓米軍も在日米軍も撤退に向かう

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 9月 2日(日)21時01分0秒
返信・引用
  http://tanakanews.com/180609korea.htm
田中宇の国際ニュース解説

 <このところ価値形態論にばかり取り組んできて、国際情勢への観察のニュースの記載がなかったので、それに取り組んでみた。やはり、沖縄の基地闘争の推移が如何に世界史的転換のなかで、どう動いていくのか?であろう。田中 宇氏の英明な分析は、素晴らしくまた転載させて頂いた。>

在韓米軍も在日米軍も撤退に向かう

2018年6月9日   田中 宇
 米国のトランプ大統領が6月7日、シンガポールで6月12日に行われる米朝首脳会談で、朝鮮戦争を正式に終結させる合意文書に、米朝が署名する可能性がものすごくあると表明した。金正恩を米国に招待することも言及した。トランプは、朝鮮戦争の終結宣言について「これは多分(米朝間の諸問題の中で)簡単に解決できる部分だ。そのあとに、難しい部分が出てくる」とも言っている。トランプは、訪米した安倍首相との会談後の記者会見の中でこれを述べた。安倍はトランプに、北朝鮮と和解しないでほしいと言いに行ったのに、トランプから米朝和解に対するやる気満々を見せつけられて終わった。
(Trump Envisions Signing Pact With Kim to Formally End Korean War) (Donald Trump and Kim Jong-un could sign Korean War peace treaty, says US president)

 私はこの話を読んで、トランプ流の目くらまし作戦が入っていると感じた。トランプは6月7日の発言で、朝鮮戦争の終結宣言について、簡単に実現できる大したことない案件といった感じに、さらりと表明している。だが実のところ、朝鮮戦争の終結宣言は、米軍が韓国に駐留する法的根拠の喪失につながり、覇権放棄を政権の隠れた主目的とするトランプが、米朝会談において、ひそかに最もやりたがっていることだ。「そのあとに出てくる難しい問題」つまり北の核兵器の廃絶は、トランプにとって最重要課題でない。 (Trump, Kim Avoid High-Level Meetings Ahead of Summit) (トランプのイランと北朝鮮への戦略は同根)

 在韓米軍は、国連軍として韓国に駐留している。1950年の朝鮮戦争勃発直後、国連安保理が北朝鮮軍の「南侵」を非難し、国連加盟諸国に韓国軍への支援を呼びかけた(安保理決議83)。この安保理決議83に応えて米国などが「国連軍」として韓国に軍を派兵し、それが53年の停戦以後も在韓米軍として残った。 (United Nations Security Council Resolution 83 - Wikipedia)

 6月12日の米朝首脳会談で朝鮮戦争の正式な終結(53年に合意した停戦状態を、終戦状態に替える)が宣言されると、それを受けて国連安保理は、安保理決議83の状態(かつて韓国を侵略した北朝鮮の軍事脅威を抑えるために、国連加盟諸国が派兵して韓国軍を助ける必要がある状態)の終了を決議するだろう(常任理事国の中で、これに拒否権を発動しそうな国はない。国連での米国の意思決定は、連邦議会など軍産でなく、トランプが握っている)。安保理が決議した瞬間に、米軍が韓国に駐留する国際法上の根拠が失われ、在韓米軍の状態は「駐留中」から「撤退中」に移行する。あとは「在韓米軍はいつ撤退するのか」「できるだけ早く撤退するのか、それとも『撤退中』が長々と続くのか」という話になる。私の予測は「早期撤退」だ。 (Here's How Trump Can Win Big at the North Korea Summit)

 在韓米軍の撤退は、韓国の対米従属を終わらせる。朝鮮半島に対する米国の影響力は大幅に低下する。南北が今後、分断をうまく乗り越えれば、韓国と北朝鮮を合わせた国際的な存在感や経済力が増し、日本と肩を並べるぐらいの存在に近づく。米朝首脳会談後、韓国では、在韓米軍の早期撤退を望む声が強まるだろう。対米従属からの離脱と、南北和解の促進によって、朝鮮民族の国際影響力が増大するのだから、早期撤退要求は自然な流れだ。トランプ自身が覇権放棄屋であることも、在韓米軍の早期撤退につながる。米国が抜ける分、朝鮮半島に対する中国の影響力が増加するが、韓国北朝鮮自身の強化とバランスし、朝鮮半島が諸外国から受ける悪影響は全体として従来より低下する。三一運動から99年、朝鮮の国際自立がようやく実現しうる。 (朝鮮戦争が終わる) (For Lasting Peace, President Moon Must Lead South Korea Out of America’s Orbit)

 このような地政学的な大変動がこれから起きようとしているのに、この在韓米軍の撤退という問題について、韓国、米国、日本、いずれの地域においても、ほとんど議論になっていない。これは不可思議だ。プロパガンダの運営面で、意図的に議論が起こらないように誘導されている感じだ。米国では、トランプが在韓米軍を撤退させたい半面、トランプの仇敵である軍産複合体は在韓米軍の恒久駐留を画策している。米議会の民主党は、米朝和解を妨害するための法案をいろいろ用意し始めている(かつてオバマのイラン核協定を共和党が妨害したように)。トランプは軍産をあざむくため、在韓米軍の撤退話をできるだけしないようにしている。トランプは、マティス国防長官やボルトン安保補佐官らに「在韓米軍はずっと韓国にいる」「撤退はない」と言わせている。 (Senate Dems Threaten Legislation to Undermine North Korea Nuclear Deal) (House Bill Would Demand Detailed Report on North Korea’s Nukes)

 韓国の政界や言論界にも軍産傀儡の対米従属派がたくさんおり、彼らも在韓米軍の恒久駐留を望んでいる。民主主義の理想からすると、米朝首脳会談で朝鮮戦争が正式終結したあとも在韓米軍の駐留を韓国が望むのかどうか、国民的な議論を経て決定するのが良いが、それをやると軍産傘下の韓国マスコミが歪曲報道に精を出し、南北和解が妨害されかねない。そのため、文在寅はトランプと謀議し、在韓米軍の今後について、韓国でも米国でも、できるだけ議論しない策略をとることにしたのだろう。この事情は、文在寅から金正恩にも伝えられ、その結果、金正恩は「在韓米軍が撤退するかどうかは米韓に任せる」とか「米韓軍事演習が行われてもかまわない」などと、本心でないが米韓首脳の策略に合わせた発言を放ったのだろう。在韓米軍の未来について語らない策略で、トランプと文在寅と金正恩はたぶんグルである。 (Trump Will Invite Kim If Singapore Summit Successful: "Maybe We'll Start With The White House")

 在韓米軍の撤退は在日米軍の撤退につながりかねないので、日本の官僚独裁機構などの対米従属派も、在韓米軍の恒久駐留を望んできた。トランプが金正恩と会うことを決めた時点で、米朝和解・朝鮮戦争終結・在韓米軍撤退へのシナリオが日本の対米従属派にも見えたはずだから、本来なら日本でもっと危機感あふれる議論が公的に展開されるのが自然だ。だが現実は正反対で、日本のマスコミが喧伝したがることは、ごく最近まで「トランプが北朝鮮を先制攻撃して核戦争になる」という馬鹿げた予測ばかりだった。年初来「米朝4月開戦説」が喧伝され、3月になってこれが非現実的だとなると「6月開戦説」にすり替わった。

 こんな馬鹿な展開になったのは、おそらく、日本のマスコミ言論界に「見方」を注入する米国勢とその在日傀儡筋が、日本側に対し、意図的に「トランプは必ず北朝鮮を先制攻撃する」「米朝会談は開かれない」「開かれるが失敗して戦争になる」など、断定感あふれる情報を流し続けたからだろう。日本のマスコミ記者は、自分の頭で分析して書くことを禁じられ、権威筋(=軍産、官僚機構)が言った分析しか書けない。その結果、日本では頓珍漢な情報ばかりだ。今後も頓珍漢が続く。

▼在日米軍を存続するなら中国脅威論の扇動が必要なのにやってない。ということは・・・

 在韓米軍の撤退が決まったあと、在日米軍も撤退ないし大幅縮小するのだろうか。日本にとって最重要な問題はそれだ。私の分析では、残念ながら(笑)、在韓米軍だけでなく、在日米軍も全撤退に向かっている。そう考えられる理由の一つは「日本にとっての脅威の喪失」だ。冷戦でソ連がなくなった後、在日米軍にとっての「敵」は、北朝鮮と中国である。今回、このうち北朝鮮の敵性が失われる。残るは中国だけだ。もし米国が今後も日本に米軍を駐留させ続けるなら、米国と日本が一緒になって「中国の脅威の扇動」を加速せねばならない。中国の脅威といっても、南シナ海など日本から遠い場所はダメだ。尖閣諸島から台湾にかけての東シナ海における中国の脅威が扇動されることが必要だ。扇動があるなら「北朝鮮が敵でなくなった後、中国を敵として在日米軍を存続させるつもりなんだな」と考察できる。

 だが実際には、米国も日本も最近、東シナ海における中国の脅威を扇動しなくなっている(南シナ海では扇動されている)。日本と中国は、尖閣諸島など東シナ海での日中の軍事対立を避けるためのホットラインを6月8日に開設した。在日米軍が今後も駐留するシナリオに沿うなら、ホットラインなんか作ってはダメだ。米朝和解後の唯一の在日米軍の存在理由である「中国の脅威」を、まさにこれから好戦的に扇動すべき時に、日本自らが緩和させてしまっている。東京中心部の駅前の右翼(=軍産と官僚機構の手下)の中国嫌悪的な演説も、最近あまり聞こえない。これらはまるで、トランプがすでに在日米軍の撤退を安倍に伝えて(示唆して)おり、安倍は仕方なく中国との敵対を緩和することにした、といった感じだ。この傾向は昨夏からのものだ。 (China-Japan hotline launched to avoid sea, air clashes) (中国と和解して日豪亜を進める安倍の日本)

 もう一つ見るべきところは「台湾」だ。中国は最近、台湾に対する威嚇をこれ見よがしに強めている。中国軍は台湾の周辺に戦闘機や軍艦をどんどん出している。外交的にも中国は、台湾と国交を持っていたドミニカやブルキナファソを、カネや国際政治の力づくで台湾と断交させ、中国側に転向させている。これらの動きに対し、トランプ政権はほとんど対抗していない。米国の軍産系シンクタンクが「トランプは台湾にテコ入れすべきだ」と書いても無視されている。中国は、トランプを試すために台湾を軍事威嚇しているのに、トランプは何もせず、中国のやり放題になっている。 (China Unleashes "Island Encirclement" War Drills Over Taiwan)

 この話を、在日米軍の将来とつなげて考えると「トランプは在日米軍の駐留を継続する気がなさそうだ」という結論になる。北朝鮮の脅威が失せた後、在日米軍が駐留を続けるには「中国の脅威」が必要であり、中国が台湾を威嚇していることは、格好の中国の脅威の象徴になる。トランプと安倍が声をそろえて「中国が台湾に侵攻せぬよう、在日米軍の増強が必要だ」と言い出せば、在日米軍の未来は「安泰」だ。台湾を威嚇する中国は、飛んで火に入る夏の虫だ。だが現実は全く違う。トランプは台湾を見捨てている。 (China demands halt of U.S. arms sales to Taiwan)

 台湾東部で大きな地震があった今年2月、日本政府が台湾の蔡英文大統領(総統)の名前を出して犠牲者にお悔やみを述べる手紙を公開したところ、中国政府が「台湾を国家として認めている」と抗議してきて、日本は蔡英文の名前をネット上に公開した手紙の文書から削除する「譲歩」を行っている(日本政府は「譲歩でない」と言い訳している)。日米政府が在日米軍の駐留を継続する気なら「譲歩」せず、逆に「台湾を国家として扱って何が悪い」と開き直る必要があった。日米ともに、東シナ海における中国の脅威を扇動する気がない。これは、在日米軍の今後の敵が用意されていないことを意味する。敵がいなければ、米軍は日本に駐留し続けられない。在日米軍は撤退していく流れの中にいる。 (Japan denies bowing to China pressure over Taiwan quake condolences message)

 もう一つ、トランプが金正恩との会談のあとに、ロシアのプーチン大統領との会談を画策していることも、トランプが在韓米軍だけでなく在日米軍までも撤退しそうな流れを感じさせる理由だ。米大統領府は最近、米露首脳会談の準備をしていることを認めている。プーチンは、親露派であるオーストリア政府に、ウィーンで米露首脳会談をやりたいのでホスト役をつとめてほしいと要請した。米朝が終わって一段落すると米露首脳会談が行われ、トランプが米国(軍産)のロシア敵視に風穴を開ける可能性が高まっている。 (Putin Asked Austria To Set Up Summit With Trump In Vienna) (White House Planning Summit Between Trump And Putin)

 おまけにトランプはG7サミットの前夜に「G7はロシアを再招待してG8に戻るべきだ」と言い出した。親露政権ができたばかりのイタリアが即座に賛成を表明した。これはトランプの「G7潰し」の策であると同時に、欧州を「ロシア敵視・対米(軍産)従属」から「親ロシア・反米」に押しやろうとする策だ。これらが奏功すると、ロシア敵視・米国覇権の国際組織であるNATOに対する欧州の支持が失われ、NATOと米国覇権の解体につながる。トランプは、G7での米国の主導性を破棄し、米国のロシア敵視戦略を壊し、NATOも解体しようとしている。イラン核協定からの離脱や、アフリカでの米軍特殊部隊の縮小などと合わせ、トランプはユーラシア西部からの米国の撤退、覇権放棄を広範に展開している。 (Trump wants Russia to be reinstated in G-7 talks) (貿易戦争で世界を非米・多極化に押しやるトランプ)

 ユーラシア西部からの撤退を加速するトランプが、ユーラシア東部では部分的な撤退だけで終わらせるだろうか。そんなことはない。西部から本格撤退するなら、東部からも本格撤退する計画のはずだ。ユーラシア東部において、部分撤退とは在韓米軍だけ撤退して在日米軍をそのままにすることであり、本格撤退とは在韓・在日両方の米軍を撤退させていくことだ。米朝首脳会談の成功が宣言された後、次の策として、在日米軍の撤退話が出てくると予測される。トランプと軍産の暗闘で、軍産が今後盛り返すなら、NATOや在日米軍は延命しうるが、今のようにトランプの優勢が続くなら、NATOも在日米軍も、消滅・撤退の方向に押しやられ続ける。

 なお、この記事を書く前の5月末に、似たような記事を途中まで書いたが、トランプが一時的に米朝会談をキャンセルしたためボツになっていた。その記事へのリンクもつけておく。 (米朝会談後、在韓・在日米軍撤退の話に突然なる?)

 

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