teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


 自立支援法が復活しても変わらない差別

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月17日(木)21時07分11秒
返信・引用
   完全沈黙で抹殺計る岩手の暴走。13年前の自立支援法の廃止を盾に看板団体の暴走を隠し続け、5年程前に支援法は復活したが暴走隠しは強硬でも過去の法律が元となって法務省も厚生労働省も沈黙するだけ。
 12年も抹殺を図られています。

 自立支援法が復活しても変わらない差別
 岩手の盲ろう者友の会やろうあ協会の暴走による社会参加妨害や誰一人関わらせない、どこの団体も行かせないなどの暴走は12年におよび昨年全国大会は全国の友の会も岩手の友の会の知っている人は口封じから誰も逢わせなかった。
 調べたら知事が黒幕で全国の友の会も全国協会も口説き伏せられていた。参加を勧めた全国協会も口説かれて寝返って居た。厚生労働省も法務省も完全沈黙して知事に暴走目こぼし権があるとしか思え無かった。
 昨年秋全国の社協などに暴走目こぼし権について問い合わせついでに岩手の暴走を全国にばらした。これで完全沈黙を破って置いた。 秋から年末に掛けて繰り返しもあって200くらいになる。迷惑か、非難がくるかと思ったら一つも無く反対に丁寧に届きました手と14軒から返事が来た。
 2月になると12年目の差別の疲れから県庁福祉課の課長に親を馬鹿にしていいとして今までの圧力を廃止にして欲しいと和解を求めたが和解は暴走がばれるだけで抹殺しか考えていない。無視された。
 これでは説明抜きのかん口令が役場に来たら完全孤立してしまうとして役場に出向き立場の説明をし、理解を求めました。
 その後も全国の社協など暴走振りを話した。完全沈黙は県内だけになる。2月から現在まで繰り返しもあって150になる。人権がかかっているから必死になります。
 岩手は何故強硬に抹殺だけ考えていないのかその理由は4月になってやっと判りました。
 友の会を辞めたのは12年前。障害者の自立支援法が廃止になったのは13年前。それで暴走しようと看板団体優先で障碍者の一人くらいどうでもいいと暴走目こぼし権そのものの自立支援法廃止に目を付け完全沈黙でガードしたことになる。
 そして自立支援法が6年程前に復活したらはっきり言えば暴走でも前の法律の元で起こったのだから違法にならず厚生労働省も法務省も手が出ないことになる。完全沈黙の理屈はどっちの味方もしないことが公平だと言う意味なのか。それとも障害者一人くらいと無視しているのか。前者だと信じたい。
 法務局には知らせている。そして法務省に伝わる。返事が無いのは好きにしろと言うことになる。意見をよこしたのは暴走目こぼし権なんて無いと言うことと和解の助けは出来ないというだけ。
 つまりこちらは法律の範囲で行動している。岩手の通訳差別に一関社協は字が読めなくてと3年弁解し続けて時効だろうが情報センターの貸し出し拒否は違法でないか。たまに挨拶だけで会報も字幕ビデオもごまかして7ヶ月も貸し
 
 

 自立支援法が復活しても変わらない差別

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月17日(木)19時59分19秒
返信・引用
   完全沈黙で抹殺計る岩手の暴走。13年前の自立支援法の廃止を盾に看板団体の暴走を隠し続け、5年程前に支援法は復活したが暴走隠しは強硬でも過去の法律が元となって法務省も厚生労働省も沈黙するだけ。
 12年も抹殺を図られています。

 自立支援法が復活しても変わらない差別
 岩手の盲ろう者友の会やろうあ協会の暴走による社会参加妨害や誰一人関わらせない、どこの団体も行かせないなどの暴走は12年におよび昨年全国大会は全国の友の会も岩手の友の会の知っている人は口封じから誰も逢わせなかった。
 調べたら知事が黒幕で全国の友の会も全国協会も口説き伏せられていた。参加を勧めた全国協会も口説かれて寝返って居た。厚生労働省も法務省も完全沈黙して知事に暴走目こぼし権があるとしか思え無かった。
 昨年秋全国の社協などに暴走目こぼし権について問い合わせついでに岩手の暴走を全国にばらした。これで完全沈黙を破って置いた。 秋から年末に掛けて繰り返しもあって200くらいになる。迷惑か、非難がくるかと思ったら一つも無く反対に丁寧に届きました手と14軒から返事が来た。
 2月になると12年目の差別の疲れから県庁福祉課の課長に親を馬鹿にしていいとして今までの圧力を廃止にして欲しいと和解を求めたが和解は暴走がばれるだけで抹殺しか考えていない。無視された。
 これでは説明抜きのかん口令が役場に来たら完全孤立してしまうとして役場に出向き立場の説明をし、理解を求めました。
 その後も全国の社協など暴走振りを話した。完全沈黙は県内だけになる。2月から現在まで繰り返しもあって150になる。人権がかかっているから必死になります。
 岩手は何故強硬に抹殺だけ考えていないのかその理由は4月になってやっと判りました。
 友の会を辞めたのは12年前。障害者の自立支援法が廃止になったのは13年前。それで暴走しようと看板団体優先で障碍者の一人くらいどうでもいいと暴走目こぼし権そのものの自立支援法廃止に目を付け完全沈黙でガードしたことになる。
 そして自立支援法が6年程前に復活したらはっきり言えば暴走でも前の法律の元で起こったのだから違法にならず厚生労働省も法務省も手が出ないことになる。完全沈黙の理屈はどっちの味方もしないことが公平だと言う意味なのか。それとも障害者一人くらいと無視しているのか。前者だと信じたい。
 法務局には知らせている。そして法務省に伝わる。返事が無いのは好きにしろと言うことになる。意見をよこしたのは暴走目こぼし権なんて無いと言うことと和解の助けは出来ないというだけ。
 つまりこちらは法律の範囲で行動している。岩手の通訳差別に一関社協は字が読めなくてと3年弁解し続けて時効だろうが情報センターの貸し出し拒否は違法でないか。たまに挨拶だけで会報も字幕ビデオもごまかして7ヶ月も貸し出し拒否のままになった。

 

    資本論再版・第一の価値形態の、原文とは異なる日本語訳の迷妄 その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月14日(月)01時37分31秒
返信・引用 編集済
      原文訳とばかり思っていた、現行第四版資本論の価値形態の記述が、異なり、間違っていた!
    ネット社会のありがたさで、エンゲルス版・第四版の記述とは異なるーー和訳の誤訳を、私達
    は、戦後ずっと提示されてきたのです!

    偶然 英語版資本論のページを駆け巡っていて、ドイツ語版資本論のサイト発見しました。
    第一形態の価値形態の点検をしてみると、やはり価値物の記載は無いのです。
    そして8段落のAが王様であり、Bが臣民であること、以上二点にて、学会であり、左翼
    全ての理解ーー和訳の誤りが、点検できました。

    正しき再版の記述に呼応して、この第一の形態への杉本の理解を、述べてみました。
    ドイツ語のほうは分かりにくいので、削除しての編集としてしてみました。

    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

    3. Die Wertform oder der Tauschwert
    3.価値形態または交換価値
<63>
    A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
      シンプル、シングルまたはランダム価値形式
 x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

 1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
     2. Die relative Wertform        2.相対価値フォーム
    a) Gehalt der relativen Wertform   a)相対価値フォームの内容

 ①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、まず量的側面とは全く無関係に商品を考える必要があります。

ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表記が同じ名前のものであり、したがって相応の量である(17)

 ②20エレのリネン= 1コート、すなわち= 20着の上着、すなわち=リネンの数量が多くても数着の上着であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートは表現が同じ統一の表現であることを意味するです。 リネン=上着は方程式の基礎です。

 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
リネンの値だけが表現されます。ではどのようにしてですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通して。

この関係では、上着は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがリネンと同じであるからです。一方、リネンの独自の価値は、独立した表現をもたらします。これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、上着に関連する価値があるためです。

   <杉本ーーこの3段落の提示は素晴らしいですね!
   上着は価値の存在形態であり、値としてその姿とは異なる「価値」
   であると規定されているのです。
   そして他方、この規定をしたリネンは、このように交換可能性を示
   すことが出来たことで、ここでは潜在していますがその性質を、独
   立した性質を表現しますーー次に述べたいことを語るのです。
   この提示されている事柄は、初版提示の価値存在の表現が如何にし
   てなせるのか?と言うことであります。>
   <ここには、「上着は価値の実存形態として価値物として通用」な
   どの余計な文言はありません。
   ここでは既に上着は価値の存在形態であり、価値と規定されてる>

 例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。
しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。
蟻酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

   <(蟻酸プロピル)はC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2
   からなるーー>とは?
   ここに、上着が--価値物--などとマルクスの筋書きとは異なる異説
   を挿入することで、価値体論へと論理のすり替えを行っているので
   あり、価値実体の論証でもあるかと人々を大混乱させているので
   す。>

 ④商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであると言うので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、それらの自然な形とは異なる価値形態を与えない。 ある商品の価値が別の商品と異なる。その価値観は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。

 ⑤加えて、例えば、 もし上着がリネンの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。今、キャンバスを作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを抽象します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

   <この版にて驚くのがこの訳出です。我々が常識と考える理論的抽
   象--事実上の抽象が否定されているかに思えるからです。しかし、
   ここは、明らかに理論的抽象であることが、次に述べられているよ
   うに、そのことが否定されて、「回り道」をしているのです。
   現行版では、この回り道がこの5段落にて成立しており、6段落にて
   の補強の必要を見なかったのに、ここでは次の6段落にての提示が
   あることで論理の整合性が叶います。しかし、ここには驚きます。>

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥ しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>

 ⑦リネンの価値観において、上着は質であるため同じ性質のものとして質的に等しいとみなされる。 したがって、彼・上着は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

   <価値の存在形態であり、価値であり、抽象的人間労働の凝固物で
   あることにおいて上着は、リネンの価値観がここに示されることで
   対象的形態である上着は、①「彼、上着は価値が出現するもの、
   ②またはその有形の自然な形で価値を表すもの 」ーーと二つの観
   点である価値存在であり、価値・その実体としての抽象的人間労働
   ーーと示されているのです。

しかし、今、上着、rockwareの本体は、単なる使用価値です。
上着は最初の最高のリネンよりも価値はない。
これは、リネンとの価値関係の範囲内だけではなく、ギャロッピングされた<金モールで飾られた>上着の中で人がどれくらい多くのことを意味するのかーーということを証明しています。

   <①「彼、上着は価値が出現するもの、
    ②またはその有形の自然な形で価値を表すもの 」
    と二つの観点である
      a-価値存在であり、
    b-価値・その実体としての抽象的人間労働>
    ーーとリンネルとの価値関係から反省規定を受けている上着は、
    皆さんどんな規定を、受けていたのですかねーーとの質問です。

      著者は、読む人々に3~7段落の論旨の確認を、求めているのです。
   3段落からの、上着は価値の存在形態であることは、人々に見えていないで
   あろう、ーーとして、再度はじめからの事項の反復を求めているのです。>
   <仏語訳
   「リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現」の事柄についての、
   仏訳での提起は、ほんとうに素晴らしい!ここで起こる転倒を次に示す。

   「しかしながら、リンネルの価値を産む労働の独自の性格が表現されるだけ
   では充分ではない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、たし
   かに価値を形成するが、価値ではない。それは、ある物体という形態におい
   てのみ価値になるのである。
   従って、リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、
   自己矛盾しているようにみえる。
   一方では、リンネルの価値を、抽象的人間労働の純粋な凝縮<凝固>として
   表さなければならない。
   商品は価値としては、これ以外の実在を持たなければならないからである。
   同時にこの凝縮<凝固>はリンネル自体とは明らかに違った(異なった)あ
   る物体という形態を帯びなければならず、この形態は、リンネルのものであ
   りながら、リンネルにとっては他の商品と共通なものなのである。」
   (仏語版 P21)

 ⑧上着の生産では、実際には仕立ての形で、人間の労働が費やされました。 人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。
この側面によれば、上着は「価値の存在形態」<旧訳 価値の担い手>であるが、これはその財産そのものが、最大の縫い目によって見えないのです。

  <またも驚きます!価値実体しか意識にないので翻訳者は「価値の担い手」>

また、上着の価値の面では、この側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体として適用されます。
彼の可愛い姿にもかかわらず、リネンは彼女の中で価値のある血統関連の美しい価値魂を認めています。しかし、同時に<上着の形を取る価値>がなければ、彼女は価値あるものではありません。

  <新日本-ー「上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにと
   って価値が上着という形態をとることなしにはできないことである。」

     この訳の間違えは、後者にあるわけではない。むしろ、その前の
    「上着がリンネルに対して価値を表すことは・・」ではなく、
    「上着がリンネルに対して価値であることは・・」なのです。
    ーーこのように、価値表現を示す、この訳が誤りなのです。
    ここでの論理の運びは、とても難しい! 要注意であります。

   A上着が<価値体>を示す、ことが、<リネンの上着による相対的価値表現>
    には辿り着かないーー「美しい価値魂を認めて」ることでは、できない、と。

   Bここでは、既に--「上着の価値の面では、」とされるーーことでは、その
    先の見解--理解にたどり着かない、とされています。

       C <上着の形を取る価値>への転換によりてー「価値形態」ーその姿が
    <彼女は価値あるもの>として、自らを、示すことができるのです。

    この規定の前提のもとで、「体化された価値であり価値体」(新日本訳)で
    あることがなされているのに、この転換のあることを、訳者・先生は見てい
    ないのです。

    以上に示された反省規定であるーー上着がリンネルの等価物であることでの、
    形態転換をこそ3~8段落で、次のように、その4段階が示されてきたのです。
     ③リンネルの価値存在の表現--価値の存在形態
     ⑤上着は価値として人間労働の凝固物
     ⑦a-価値存在であり、b-価値・その実体としての抽象的人間労働
     ⑧だから、ここでは価値体・上着であることができるのは?、との
      質問を見出さなければ、物象の社会関係は対象外になります。
     aリンネルの等価物上着が<上着の形を取る価値>と判断されることで、
      <価値形態>上着が規定され、次に、やっと
     b<彼女は価値あるもの>であり、<価値は上着>の規定を受け取る--
     cそこで、先に示された、上着が、「体化された価値であり価値体」の成立
      があることで、価値表現がなされ、そのことに依っているのです。

     ここに、相対的価値表現と、価値存在の表現との区別が見出されなければ、
     物象の判断である価値形態上着での価値表現は、理解できないのです。


   この経路に示される反省規定においては、諸物象の判断に依りて、この物象
   の社会関係である価値関係が形成されるーーことでの、価値形態の成立と云
   うことであります。
   ここに、リンネルの価値形態が、次のように<王と臣民の関係>と示された。
   原文・再版
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、・・・その土地の父親と変えるこ
   となければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。」
   <新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、リンネル自身が、この価値関係により
   反省規定することが、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・・」
   --と示されたことが、<上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をか
   ぶらせられた王に、<Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること>に、
   すり替えられたのではなかろうか?

   これが、日本での既存訳の間違いなのです。
   「この側面によれば、上着は「価値の存在形態」である」--のに、
   人間労働の凝固物としての上着は、ーーとの視点では、上のことが見えない。
   「上着は「価値の存在形態」である」のはリンネルの価値存在が表現される
   ーーことに依っている視点であることで、物象の判断が示された。

   だから、相対的価値表現しようとするリンネルが、価値関係の命ずるままに、
   自身の姿を、価値存在であるリンネルの価値形態として表現する、のです。

したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。

 ⑨上着がリネンの等価物となる価値関係では、上着形態は価値形態とみなされます。
したがって、商品リネンの価値は、商品上着の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。
使用価値として、リネンは上着とは異なる官能的なものです。価値としてはリネンは、「上着のような」もので上着に見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。
それらの価値は、この<上着のような形>で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。

   <10 11 段落は略>
グーグル英和訳ソフト
   Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja
英語・独語 何でもありです。

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf

次も是非とも参照願います。 初版での悪訳--誤訳の凄まじさ・・であります。

 初版の理解について ②
http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1633


  杉本への意見があり、しかし、公開はされたくない、という人は、次の
   dt.nifty@gmail.com    ヘどうぞお願いします。

 

3.価値形態または交換価値

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月10日(木)14時38分42秒
返信・引用 編集済
      偶然 英語版資本論のページを駆け巡っていて、ドイツ語版資本論のサイト発見しました。
    第一形態の価値形態の点検をしてみると、やはり価値物の記載は無く、そして8段落のAが王様であり、
    Bが臣民であること、以上二点にて、学会であり、左翼全ての理解ーー和訳の誤りが、点検できました。

    http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

    3. Die Wertform oder der Tauschwert
    3.価値形態または交換価値
<62>
  Waren kommen zur Welt in der Form von Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies ihre hausbackene Naturalform. Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.
 商品は価値観や商品の形で鉄、キャンバス、小麦などの形で世界に現れます。これは自家製のものです。
しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある担い手でもあるため、商品でしかありません。 したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

<63>
    A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
      シンプル、シングルまたはランダム価値形式
 x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

 1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
 2. Die relative Wertform          2.相対価値フォーム
    a) Gehalt der relativen Wertform   a)相対価値フォームの内容

 ①Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten.
①商品の単純な価値が2つの商品の価値にどのようにあるのかを知るためには、まず量的側面とは全く無関係に商品を考える必要があります。

Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten.
ほとんどの場合、反対の方向に行動し、2種類の商品の特定のQuantaが互いに等しい割合のみの値の関係を見ます。

Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)
異なるものの大きさは、最初に同じ統一性に還元された後、定量的に比較可能になることは見落とされている。 同じ単位の表記が同じ名前のものであり、したがって相応の量である(17)

 ②Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
 20エレのリネン= 1コート、すなわち= 20着の上着、すなわち=リネンの数量が多くても数着の上着であっても、そのような割合は常にキャンバスとスカートは表現が同じ統一の表現であることを意味するです。
リネン=上着は方程式の基礎です。

 ③Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares".
しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。
リネンの値だけが表現されます。ではどのようにしてですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通して。

In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich.
この関係では、上着は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがリネンと同じであるからです。一方、リネンの独自の価値は、独立した表現をもたらします。これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、上着に関連する価値があるためです。

So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper.
例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。

Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht.
しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸が蟻酸プロピルと同等である場合、蟻酸プロピルはこの場合単にC4H8O2の存在であり、第2に酪酸もC4H8O2からなると言われる。

Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.
ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern.
商品として、商品は単なる人間の労働のゼリーであると言うので、私たちの分析はそれらを価値の抽象化に還元するが、それらの自然な形とは異なる価値形態を与えない。 ある商品の価値が別の商品と異なる。

 Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.
 その価値観は、他の商品との独自の関係を通じてここに現れます。

 ⑤Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit.
加えて、例えば、 もし上着がリネンの価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。
今、キャンバスを作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist.
しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立てを抽象します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間の労働を持たないと言われています。

Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).
実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥ Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük-<66>  ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.

しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。。 リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

⑦Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt.
 リネンの価値観において、上着は質であるため同じ性質のものとして質的に等しいとみなされる。 したがって、彼・上着は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert.
しかし、今、上着、rockwareの本体は、単なる使用価値です。

Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand.
上着は最初の最高のリネンよりも価値はない。

Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.
 これは、リネンとの価値関係の範囲内だけではなく、ギャロッピングされた<金モールで飾られた>上着の
中で人がどれくらい多くのことを意味するのかーーということを証明しています。

 ⑧In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft.
上着の生産では、実際には仕立ての形で、人間の労働が費やされました。 人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt.
この側面によれば、上着は「価値の存在形態」であるが、これはその財産そのものが、最大の縫い目によって見えないのです。

Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper.
また、上着の価値の面では、この側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体として適用されます。

Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt.
彼の可愛い姿にもかかわらず、リネンは彼女の中で価値のある血統関連の美しい価値魂を認めています。

Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt.
しかし、同時に<上着の形を取る価値>がなければ、彼女は価値あるものではありません。

So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなければ、威厳を装うことで個人Bに王として振る舞うことはできない。

 ⑨Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren.
上着がリネンの等価物となる価値関係では、上着形態は価値形態とみなされます。
したがって、商品リネンの価値は、商品上着の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。

Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform.
使用価値として、リネンは上着とは異なる官能的なものです。価値としてはリネンは、「上着のような」もので上着に見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。

Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.
それらの価値は、この<上着のような形>で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。


 ⑩Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand.
ご覧の通り、私たちの前で商品の価値を分析したことは、他の商品との接触が始まると直ぐにリネン自身が言う、上着です。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。仕事は、人間の労働の抽象的性質で、自分の価値であると言うために、彼女は上着が、ある限り彼はそれに等しいと考えられているようなので、同じ作業<67>から切り出された価値であることを、述べているキャンバスとしてあります。

Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten.
その崇高な価値観 - 客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は上着のように見え、したがって、リネン自身も価値として、卵のように上着に似ていると彼女は言います。
ちなみに、商品の言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。

Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>
ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品Aとを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>

 ⑪Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.
 価値比により、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態になるか、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる。(18)商品Aは、価値体としての商品Bを人間労働の素材として参照し、 それらを価値表現の材料に価値Bを使用します。 商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対的価値形態をしている。




   3. Die Äquivalentform    3.同等の形式

<70>① Man hat gesehn: Indem eine Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware B (dem Rock) ausdrückt, drückt sie letzterer selbst eine eigentümliche Wertform auf, die des Äquivalents.
 ①これまで見てきた:商品A(キャンバス)でBは、様々な商品(ロック)の使用価値が、その値を表し、それ自体の相対的形態を後者に押します。

Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum Vorschein, daß ihr der Rock, ohne Annahme einer von seiner Körperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die Leinwand drückt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch aus, daß der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist. Die Äquivalentform einer Ware ist folglich die Form ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.
このリネンは、上着が、その体型とは異なる価値形態をとることなく、それに無関心であるという事実によって、それ自身の価値存在を明示する。したがって、リネンは、上着がそれと直接交換可能であるという事実によって、それ自身の価値存在を表現する。したがって、等価物の形態の商品は、他の商品との即時の互換性<直接的交換可能性>の形態です。

 ②Wenn eine Warenart, wie Röcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum Äquivalent dient, Röcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die Proportion gegeben, worin Röcke und Leinwand austauschbar sind. Sie hängt, da die Wertgröße der Leinwand gegeben ist, von der Wertgröße der Röcke ab.
 ②例えば、このようなキャンバスのようなスカート、商品のがandrenタイプ、などの商品、の一種、同等に使用される場合、上着は、従って、リンネルと直接的交換可能性の形態であることが特徴的な特性を得られるので、割合は、交換可能に上着とリンネルを設けないようにすることです。それは、リンネルの値の大きさを考慮して、上着の値の大きさに依存します。

Ob der Rock als Äquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand als Äquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedrückt sei, seine Wertgröße bleibt nach wie vor durch die zu seiner Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabhängig von seiner Wertform bestimmt.
等価物として上着、および相対価値またはその逆、等価物としてリンネルと上着のようなキャンバスを相対値として表したかどうか、値をその大きさにかかわらず、値のその形態のため、決定、作業それを製造する必要性であり続けています。

Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des Äquivalents einnimmt, erhält ihre Wertgröße keinen Ausdruck als Wertgröße. Sie figuriert in der Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.
?しかし、商品タイプRockが等式で同等のものを使用した時点で、その値のサイズは値のサイズとして表現されません。むしろ、価値の方程式では、それは事の明確な量としてしか見えません。

 ③Z.B.: 40 Ellen Leinwand sind "wert" - was? 2 Röcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des Äquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegenüber als Wertkörper gilt, genügt auch ein bestimmtes Quantum Röcke, um ein bestimmtes Wertquantum Leinwand auszudrücken.
 ③例えば:40キュビットのリンネルは「価値がある」 - 何にですか? 2枚の上着に。 ここの商品の上着は等価物の役割を果たすので、Wertkörperと反対のキャンバスの使用価値Rockもまた一定の量のスカートがある価値あるキャンバスを表現するのに十分です。

Zwei Röcke können daher die Wertgröße von 40 Ellen Leinwand, aber sie können nie ihre eigne Wertgröße, die Wertgröße von Röcken, ausdrücken. Die oberflächliche Auffassung dieser Tatsache, daß das Äquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorgänger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verhältnis zu sehn. Die Äquivalentform einer Ware enthält vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.
したがって、2枚の上着は40キュビットのリンネルの価値を測定できますが、スカートのサイズという独自の価値を決して表現することはできません。 この方程式の等価物は、常に物事の単なる分量の形をとっているという事実の表面的な見解であり、彼の前任者および後継者の多くのように、Baileyは価値形態を定量的関係とみなしています。 むしろ、等価物の形態の商品は、価値の定量的な決定を含まない。

 ④Die erste Eigentümlichkeit, die bei Betrachtung der Äquivalentform auffällt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils, des Werts.
等価物の形態を考えるときに、際立つ最初の特異性はこれです:使用価値はその反対である価値の現れになります。

<71>⑤ Die Naturalform der Ware wird zur Wertform.
Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich für eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt, nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen.
 ⑤商品の自然形態は価値形態になります。 しかし、notabene、このquidproquoは、他の商品A(キャンバスなど)がその関係の中でのみ生じる価値関係の中でのみ、商品B(岩または小麦または鉄など)に対して生じる。 コモディティはそれ自体を同等物と呼んでいるわけではないので、自らの自然な肌を自身の価値で表現することはできないため、他のコモディティ<商品>を等価物として参照するか、別のコモディティ<商品>の自然な肌を独自の価値形態にする必要があります。

 ⑥Dies veranschauliche uns das Beispiel eines Maßes, welches den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten. Ein Zuckerhut, weil Körper, ist schwer und hat daher Gewicht, aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anfühlen.
 ⑥これは、商品の本体、すなわち商品の本体に属する尺度の例で示されています。
使用価値として体は重くて体重があるので、砂糖塊ではありますが、砂糖は体重を感じることはありません。

Wir nehmen nun verschiedne Stücke Eisen, deren Gewicht vorher bestimmt ist. Die Körperform des Eisens, für sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudrücken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverhältnis zum Eisen.
私たちは現在、体重があらかじめ決められているさまざまな鉄片を取ります。 孤立していると考えられている体の形の鉄は、もはや糖衣錠のそれよりも重さの表れではありません。 それにもかかわらず、サトウキビを重さとして表現するために、我々は鉄との重量比のなかでそれを入れた。

In diesem Verhältnis gilt das Eisen als ein Körper, der nichts darstellt außer Schwere. Eisenquanta dienen daher zum Gewichtsmaß des Zuckers und repräsentieren dem Zuckerkörper gegenüber bloße Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere.
この関係では、鉄は重量だけを表す身体とみなされます。 したがって、鉄の量は、砂糖の重量の尺度として役立ち、単なる重さの形態と比較して砂糖の体を表し、重さを表す。

Diese Rolle spielt das Eisen nur innerhalb dieses Verhältnisses, worin der Zucker oder irgendein anderer Körper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm tritt. Wären beide Dinge nicht schwer, so könnten sie nicht in dieses Verhältnis treten und das eine daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen.
この役割は、この比の中でのみ鉄が果たします。この比では、砂糖または体重が検出される他の身体がそれに入ります。 もし両方でこのことが困難であれば、彼らはこの関係に入ることができず、したがって、他者の重量を表現することはできませんでした。

Werfen wir beide auf die Waagschale, so sehn wir in der Tat, daß sie als Schwere dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind. Wie der Eisenkörper als Gewichtsmaß dem Zuckerhut gegenüber nur Schwere, so vertritt in unsrem Wertausdruck der Rockkörper der Leinwand gegenüber nur Wert.
もし私たちが両方ともバランスの上で体重を測ると、彼らは重さと同じであり、したがって同じ重量の特定の割合であることが実際に分かります。 鉄の体は、体重の尺度として、サトウキビよりも重いのと同じように、私たちの価値の表現では、上着はリンネルにとって価値があるだけです。

 ⑦Hier hört jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des Zuckerhuts eine beiden Körpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre Schwere, während der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine übernatürliche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren Wert, etwas rein Gesellschaftliches.
 ⑦しかし、ここでは類推が止まる。 サトウキビの重量表記では、鉄は両方の身体によって共有される性質、その重さを表し、キャンバス上の価値の表現では、両方のものの超自然的な品質を表します:その価値、純粋に社会的なものです。

 ⑧Indem die relative Wertform einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Körper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdrückt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, daß er
ein gesellschaftliches Verhältnis verbirgt.
 ⑧商品の相対的形状をとることによって、例えば、 リンネルはそのボディとその特性とはまったく異なるものです。 上着と同じように、この表現自体は、彼が社会的関係を隠している。

Umgekehrt mit der Äquivalentform.
Sie besteht ja gerade darin, daß ein Warenkörper, wie der Rock, dies Ding wie es geht und steht, Wert ausdrückt, also von Natur Wertform besitzt.
等価物の形式では 逆である。
それは、商品のボディが、上着のように、それが現れ、立っているように表現し、価値を表現し、本質的に価値のある形を持っている<価値形態>という事実に正確に含まれています。

Zwar gilt dies nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin die Leinwandware auf die Rockware als Äquivalent bezogen ist.(21) Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verhältnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verhältnis nur betätigen, scheint auch der Rock seine Äquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu halten.
確かに、これはリネンがロックウェア<上着>に相当する価値の関係の中でのみ真実である。(21)
しかし、物の性質は他の物との関係からは湧き出るものではなく、そのような関係でしか作用しないので、 重い・または暖かい、その財産と同じくらい<本来の互換性の性質>を持っている。

Daher das Rätselhafte der Äquivalentform, das den bürgerlich rohen Blick des politischen Ökonomen erst schlägt, sobald diese Form ihm fertig gegenübertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber wegzuklären, indem er ihnen minder blendende Waren unterschiebt und mit stets erneutem Vergnügen den Katalog all des Warepöbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Warenäquivalents gespielt hat.
それゆえに、この形がお金の中で彼に直面し終えるとすぐに、政治経済学者のブルジョア性の凝視を打ち負かす等価形態の謎です。
そして、金と銀の神秘的な性格を明らかにするために、あまり目立たない商品を提出し、その時に商品の役割を果たすすべての商品のカタログを放棄することを永遠に楽しんでいるのです   。

 ⑨Er ahnt nicht, daß schon der einfachste Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das Rätsel der Äquivalentform zu lösen gibt.
 ⑨彼は、20キュビットのキャンバス= 1スカートのような最も単純な等式でさえ、等価形態の謎を解決するとは考えていない。

Der Körper der Ware, die zum Äquivalent dient, gilt stets als Verkörperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer bestimmten nützlichen, konkreten Arbeit.
その等価物として機能する商品の本体は、常に抽象的な人間の労働の実現形態であり、常に特定の有用で具体的な仕事の産物である。

Diese konkrete Arbeit wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als bloße Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tatsächlich in ihm verwirklicht, als bloße Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.
この具体的なは、抽象的な人間労働の表現になります。 スカートが例えばの場合 単なる実現として、抽象的な人間労働の実現の単なる形態として、実際に彼の中で実現する仕立て労働を、そうする。

Im Wertausdruck der Leinwand besteht die Nützlichkeit der Schneiderei nicht darin, daß sie Kleider, also auch Leute, sondern daß sie einen Körper macht, dem man es ansieht, daß er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenständlichten Arbeit.
キャンバスの表現上の価値において、服飾の有用性は、衣服を作ることではなく、人を作ることではなく、価値のあるものと見なされる身体を作るということです。 キャンバスの価値が客観化された作品。

Um solch einen Wertspiegel zu machen, muß die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln außer ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.
そのような価値水準を作るために、それ自体を調整することは、人間の労働であるという抽象的な品質を反映する必要はありません。

 ⑩In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen.
 ⑩仕立ての形では、織りのように、人力が費やされます。 したがって、両方とも、人間の労働の一般的特徴を有し、したがって、場合によっては、例えば、 価値観の生産においては、この観点からのみ考慮される。
                                     <73>
All das ist nicht mysteriös. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudrücken, daß das Weben nicht in seiner  konkreten Form als Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das Leinwand-Äquivalent produziert, gegenübergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.
すべてそれは神秘的ではありません。 しかし、商品の価値の中では物事はねじれている。 例えば、 織りは織りのように具体的な形で織りの価値を構成するものではなく、人間の労働として一般的な品質であると表現するために、抽象的な人間の労働の実現の具体的な形態としてそれとは対照的である。

 ⑪Es ist also eine zweite Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt menschlicher Arbeit wird.
 ⑪したがって、具体的労働は、その反対の抽象的な人間の労働の現れになるという同等の形態の第二の特異性です。

 ⑫Indem aber diese konkrete Arbeit, die Schneiderei, als bloßer Ausdruck unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher, obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also eine dritte Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.
 ⑫単なる表現無差別人間の仕事があるとしてではなく、この具体的な作業は、仕立て、それは他の仕事のと平等の形態を有することにより、プラグのキャンバス作品で終わり、そしてそのため、民間の仕事が、他のすべてのように、まだ、仕事を商品生産します直接の社会的形態で働く。それが他の商品と直接交換可能な商品の中に現れる理由です。それゆえに、民間の仕事がその反対の形になり、すぐに社会的な形で働くという同等の形の第三の特異性です。

 ⑬Die beiden zuletzt entwickelten Eigentümlichkeiten der Äquivalentform werden noch faßbarer, wenn wir zu dem großen Forscher zurückgehn, der die Wertform, wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert hat. Es ist dies Aristoteles.
 ⑬我々は非常に多くの思考のフォーム、社会の形状や自然な形態が第1の値の形式を分析するように、持っている偉大な研究者に行く戻ったときと同等の形式の最後の二つの特殊性は、より分かりやすい開発しました。それはアリストテレスです。

 ⑭Zunächst spricht Aristoteles klar aus, daß die Geldform der Ware nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er sagt:
 ⑭第1に、アリストテレスは、商品の金銭的形態は単純な価値形態のより発展した形であることを明確に述べている。それは他の商品の商品価値の表記です。

"5 Polster = 1 Haus"             "5家具= 1ハウス"
Kliuai pente anti oik iaz          清潔に保つために
<Griechisch: Clinai pente anti oicias>

"unterscheidet sich nicht" von:     「違いはありません」

"5 Polster = soundso viel Geld"     "5つの布張り=そんなにお金"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
<Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>

 ⑮Er sieht ferner ein, daß das Wertverhältnis, worin dieser Wertausdruck steckt, seinerseits bedingt, daß das Haus dem Polster qualitativ gleichgesetzt wird und daß diese sinnlich verschiednen Dinge ohne solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Größen aufeinander beziehbar wären. "Der Austausch", sagt er," kann nicht sein ohne die Gleichheit, die <74> Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilität" ("out isothz mh oushz summetria z"). Hier aber stutzt er und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. "Es ist aber in Wahrheit unmöglich (th men oun alhdeia adunaton), daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel", d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur "Notbehelf für das praktische Bedürfnis".
 ⑮彼はまた、順番に値式が感染した値の比は、家が高いと、この官能的なverschiednen事が通約量などの基本的なアイデンティティーなしで互いに得られなかったことをクッションに等しく設定されていることを必要とすることを見ています。 "交換は、" と彼は言う、 "commensurabilityのない平等、平等なし<74>は存在しませんし、できません"( "アウトisothz MH oushz summetria Z")。しかし、ここで彼は調整し、価値形態のさらなる分析をあきらめます。 "しかし、実際には、相変わらず多様なものが相応していることは不可能です"(私は男性オンドアルデディアアドナートン)。質的に同じです。この方程式は、事の本質にとって異質なもの、すなわち「実用的な必要性のための一時的なもの」に過ぎない。
この方程式は、事実の本質にとって異質なもの、すなわち「実用的な必要性のための一時的なもの」に過ぎない。

 ⑮Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine weitere Analyse scheitert, nämlich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus für den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann "in Wahrheit nicht existieren", sagt Aristoteles. Warum? Das Haus stellt dem Polster gegenüber ein Gleiches vor, soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt. Und das ist - menschliche Arbeit.
 ⑮アリストテレスは、なぜ彼のさらなる分析が失敗するのか、
すなわち価値観の欠如を自分自身で伝えています。
同じものは何ですか?室内装飾品の価値表現において室内装飾品のための家を提示する共同体物質?
そのようなものは、実際には存在しないとーーアリストテレスは言う。
 なぜか?
家は室内装飾品と家の両方に共通なものが現れる限り、室内装飾品に同じものを提示します。
それは人間労働です。

 ⑯ Daß aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedrückt sind, konnte Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen und ihrer Arbeitskräfte zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche Gültigkeit aller Arbeiten, weil und insofern sie menschliche Arbeit überhaupt sind, kann nur entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt. Das ist aber erst möglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des Arbeitsprodukts, also auch das Verhältnis der Menschen zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verhältnis ist. Das Genie des Aristoteles glänzt grade darin, daß er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverhältnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn "in Wahrheit" dies Gleichheitsverhältnis besteht.
 ⑯しかし、商品の価値形態では、同じ人間労働としてのすべての作業、したがって、同様に有効と表現は、ギリシャの社会は奴隷労働に基づいていたので、アリストテレスは、この価値形態から推測することができませんでしたが、それ故に自然な根拠に人々の不平等とその労働力を持っていました。

価値等式、平等とすべての労働の平等と作業の等しい妥当性である価値表現の秘密を、彼らは人間労働が一般的にある限り、人間の平等の概念が、すでに人気の偏見の強さを持っているときにのみ、解読することができるからです。

しかし、これは、商品形態が労働生産物の一般的な形態である社会においてのみ可能であり、したがって、商品所有者としての人々の関係も支配的な社会関係である。

アリストテレスの天才は、商品の価値の表現において平等を発見するという事実に輝いています。彼が住んでいた社会の歴史的障壁だけが、この「平等」の関係が「真実」であることを知ることを妨げている。

   4. Das Ganze der einfache Wertform
    4.単純なの形式の全体



グーグル英和訳ソフト
   Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja
英語・独語 何でもありです。
 

     再版 内実論から、初版での価値形態での主張が見えることがらーーについて

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 8日(火)23時04分27秒
返信・引用 編集済
       <価値形態と価値体の区別がない久留間先生の判断ーー理解について>

     英語版での八段落の記述から知る、久留間理論の位置について
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.

   aそして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ
     価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。

   b<また、価値方程式中のリンネルの等価物として、それは、この様相の下で単独で存在します、
    計算できる値である身体であり、具体化された価値 <体現された価値> として。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   <杉本 ここでの判断している主体は、価値関係をつくる物象であるので、仏語訳が適訳です。
   c「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。」ーーとしめさ
   れたことは、次のことであります。

     <上記a b c 3つの訳について、理解が示されることで、上着の価値形態ではなく、
     リンネルの価値形態としてーー左極で形成されます。このことが何か?を論じてみます。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   ①上着がリンネルの価値を表現するーーことが、リンネルの価値形態が上着形態と形成されること
    ーーで為されるのであり、これが相対的価値形態の内実となることでなのです。
   ②久留間先生の言うことは、上着がリンネルの価値体となることが、価値形態との形態規定ーーを
   受け取る、ということであります。
   ③リンネル=上着の方程式において、上着は価値であり、直接的に価値体の形態規定を両極の形態
   にかかわらず受け取っているーーと言う事ではないでしょうか?これが彼の、誤りなのです。
   ④リンネルの相対的価値表現では、リンネルの価値形態が形成されることでなされ、次に、
   その反対極において、上着が直接的に価値形態と判断されています。
   ⑤この反省規定でなされたことーーに対応して、両極で、「二つの価値形態」を見つけたことで、
   相対的価値形態と等価形態とが判断されます。(初版8段落 註20のふられた後の段落)
   ⑥再版では、まず相対的価値形態の形成になっていますが、それでは、初版が読み取れません。
   ⑦そして、初版の九段落から十二段落まで、この等価形態の論述がつながるのです。

   ⑧ところが、先生の記述では何故か、この7段落での価値形態の形成が如何にしてなのか?の把握
   が、この初版価値形態論の核心であるように再版の理解においてもなっているかに見えるのです。
   しかし、先生のこだわりが、この価値形態にあるかに見えるだけであります。間違い!です。
   先生のこだわりが、あるのは、他商品上着が直接的に価値体になれないので、「回り道」をして、
   <価値体としての形態規定>を受け取るーーということであります。
   先生は言うーー「これによって、(「「回り道」をして、)現に上着はリンネルに対する
          直接的交換可能性を与えられているのです。」(『貨幣論』P114)


       <初版 その7段落左極の部分を英語版から引用しておこう。>
          https://www.excite.co.jp/world/german/
          http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1632

   それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にするする必要があります。
   それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

   それは、他の商品と一緒に流通して初めて、自分自身にとって価値のある形式を得るだけです。
   しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。
   商品の唯一の客観的形態は、その使用形態、それらの自然形態である。

Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.
A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   今や商品の自然形態(例えばリネン)は、その価値形態の正反対であるため、上着の自然な形態
   を他の商品の姿のままに、商品形態<価値形態--江夏訳>に変換しなければならない。
   それはすぐに他の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によってすぐに
   することができます。

   <杉本 先生の論述は、このように詭弁なのです。主語が変化しています。リンネルの価値表現で
   あるだけではなく、リンネルの価値存在の表現<ここが主語>においては、上着はこの「回り道」
   を経過することで、<使用価値と価値形態の形態規定>を受け取ることで、商品形態が規定された
   のですし、この回り道をすることで、商品形態が受取られたのですから、規定されるのは相対的価
   値形態の形成であります。この7段落にて、商品形態を価値形態としたのは、江夏訳の誤訳である
   かと思います。
   左極での価値形態は、すでに、4段落での物象の諸関係の成立のなかで語られており、続くそのこ
   とが、5段落冒頭(註18a)にてまとめられていた。
   だから、7段落にてのこれは、右極と対比されたものであり、これは左極での行いなのです。>

   <しかし、このような「回り道」として語られたことに先生の真意はなく、使用価値上着が価値体
   としての形態規定を受け取るのは、如何にしてか?とのみここで問うているのです。>

   ⑨冒頭の英語版の8段落に、久留間先生の詭弁が暴かれています。
   「aそして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として、体現された価値<価値形態> として数えます。」
    従来の訳は、この価値体と価値形態との区別をしないで訳出していたのです。

   左極①リンネルの価値表現であるならば、上着は価値体であり、
     ②リンネルの価値存在の表現であれば、価値形態は上着なのであります。
     ③そしてつぎにリンネルは、この価値形態を受け取ることで、上着が価値表現の材料となり、
     ④リンネルは、上着との関係において自身の商品形態を受け取り、
     ⑤上着のこの③の二つの媒介的な役立ちにおいて相対的価値形態を受け取ります。

   右極①使用価値上着は価値表現の材料になることで、リンネルの等価物となります。
     ②上着がリンネルの直接的な価値形態になることで等価形態となります。
     ③上着は価値としてリンネルに等しい左極での行いが、右極でも反射して、上着は直接的に
      価値体であることで、等価物の形態を示すーーのです。
     ④しかし、この①の価値表現材料、③直接的価値体であることではその役立ちを成せない。
     ⑤上着は価値の現象形態であることは、その①③に依るものであり、価値形態になれない。
     ⑥等価形態の第二・三の独自性の示すことは、具体的労働が抽象的人間労働の実現形態になる
      例に示される、物象の判断によって、この④⑤の困難の克服が成されていたのです
     ⑦このように、等価形態の第② ③の独自性は物象の判断によっているのです。

     ⑧等価形態のこの第② ③の独自性は物象の判断であるが、そのことができたのは、
      左極での価値形態の形成において、物象の判断が上着がリンネルの価値の存在形態と判断す
      ることで、価値形態と規定されたことがーー転倒して、
      上着が価値表現の材料であり、価値体である物的存在であり、同等性関係なままに、
      価値形態と判断されることで、物象の社会関係ではなく、物的関係であることを示してい
      る、事に依るのです。

   ⑩以上、再版八段落の意味を考え続けてみれば、従来の訳はこの価値形態と価値体の区別をつける
   ことが出来ないので、使用価値と価値形態の商品形態が形成される筋道への批判が出来ないーー思
   想的・実践的基板にあると見なければならないのです。

   ⑪私は、50年代の復帰以前の奄美で、裸足で生活しながら、ハブにも噛み付かれず、野山・川・海
   を走り回った幼年期の経験があります。そこでの米・砂糖きび・黒砂糖の生成は、集団耕作であり
   ますから、集落での集団での協同労働に生活の大半が支えられていたわけです。
   生活の基本線である 水・米・家屋には、集落での協同労働がありますから、そこには労働生産物
   の商品への転化はないのですが、そこを拡大するような思考であり、協同作業は、全島を覆った復
   帰闘争・島じゅうにいた親類縁者はいながらも、大島紬の販路拡大とともに、無償労働の範囲は、
   縮小こそするばかりであったのです。

   ⑫マルクスの提起していることは、価値関係の形成が、左極でのリンネルの価値形態の形成が、
   上着をリンネルの等価物として、価値の存在形態と反省規定することで、リンネルの価値存在の表
   現がなされるーーことがあって、事実上の回り道に示されるーー人間労働の支出ーーが、リンネル
   は抽象的人間労働を示すだけでなく、他商品も価値としては抽象的人間労働の凝固物である、こと
   で、共通者の体化物として上着は価値体になりました。

    しかし、ここで大切なことは、その次のことが生起していることなのです。
   a価値存在を示すリンネルが、抽象的人間労働の凝固物と反省規定されていることで、
   b今度は、この「価値上着」が、リンネルからどう反省規定されているのか?が示されたのです。
    ここでの注意は、<上着は価値>であったものが、等価物の役立ちをなすために、6・7段落
    で、<価値は上着>と示される転倒があるのですし、そのことで等価物上着が、
   c「金モール」を着た上着へと反省規定が変わり、そのことで、等価物上着は、
   d体現された価値として・リンネルにとっての「価値が上着という形態をとること」で、やっと、
   e上着は価値体としてリンネルの価値を表すことができるーーのです。
   fここの困難は、「(上着は)それゆえ体化された価値としてのみ、価値体としてのみ通用する」
    と示される既存共通の等価物を示す日本語訳であれば、次のこととは区別ができず、マルクスの
    批判する同等性を示す物的存在としての価値体であり、価値形態なのであります。
   gここに、久留間先生の示す 価値体であり、価値形態がありました。
    これは、dの諸物象の社会関係の示す判断ではなく、それが、同等性関係への転倒のなかで示さ
    れるものですし、「上着は価値」であることで、価値形態を示すーー転倒像にあると見ました。
    これは、上記のa~fの流れにおいて検証しなければ見えてこないものであります。





 

価値関係=この前提のもとでのリンネルの価値存在の表現  その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 6日(日)11時54分40秒
返信・引用 編集済
    価値関係=この前提のもとでのリンネルの価値存在の表現が、上着を価値の存在形態
   と反省規定する--根幹事項について

   杉本 掲示板 過去投稿文をくぐって点検していたら、久留間先生の価値形態論--批判が、
  何処で頓挫したのか?   見えるところがあったので掲示しておきます。

  久留間先生への「批判」としての事実上の抽象--判断が、私自身のなかで頓挫したのが、
  6年前の私の見解であり、hirohiro さんの提示であったのです。

  やっとこさと、価値形態論での自身の理解--解釈の誤りが、見えるようになってきました。
  久留間先生の現行5段落の理解は、何ら回り道をしておらず、同じく『経済学教科書』の見
  解においても回り道などしておらず、これではここでの価値存在の表現を問うた第三段落の
  提示の基本線がなされていないのです。
  これでは、マルクスの価値形態論の復活は、成し得ないのです。
  次のA B Cとして、総括点を挙げてみました。

 A再版での化学式に例示された--酪酸に蟻酸プロピルが等置される例にて、
  「第一に蟻酸プロピル」は、化学式の共通者の存在形態であり、酪酸もその共通者の存在
  を表現しているーーとのマルクスの示したことが、何ら相手にされず捨象されてきたのが、
  スターリン経済学であったのです。
  ここでの肝要なことは、価値実体が、人間労働力の一般的支出ではなく社会的実体である
  ので抽象的人間労働である--ことを示す--5段落の提示のためには、価値関係のもと
  でのリンネルの価値存在の表現が、上着を価値の存在形態と反省規定される--前提のも
  とで成されている、ということです。

 B 初版の第4段落も英語版から提示しておきます。

  「リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値
  は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されま
  せん。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表
  現を得る)。
  リネンが価値あるもの<価値の存在形態>としてコートと関係するのであり、そこに同時
  に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボ
  ディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。⑱」
   ( http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1632 英訳 商品)

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   <hirohiro  さんの初版ーー現行訳での提示は次でありました。>
      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/410

  ⑦「リンネルが使用価値としては自己と上着とを区別しながら、価値としては自己に上着
  を等置することによって、上着は、物体としてのリンネルとは対立するリンネル価値の現
  象形態となる。つまり、上着はリンネルの自然形態とは区別された、リンネルの価値形態
  となるのである。」(S.16~17)

  現行版では「課題はすでに解決されている」と述べられている問題が、初版のこの部分で
  解かれています。リンネルは上着との交換関係においていくつも得をするのです。

  ⑧「使用価値としての上着がリンネル価値の現象形態となるのは、ただ、リンネルが抽象
  的な人間労働の直接的な物質化としての上着という素材に関係するからにほかならない。」
  (S.18)

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      <この⑧は、⑤段落であり、同じところの英訳・直訳ではこうなります。>
  ⑤「使用価値コートはリネン価値の現象形態にしかならない。
  なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係す
  るため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。

  対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブ
  ジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッ
  センスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価
  値形態になります。」
   <杉本  江夏訳ーー「上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形
              態になるわけである。」原P18 P37
        ーーと述べられているのは、               >
        「コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それに
        よって、自然的形態のままにに価値形態になります。」
        ーーということをこそ、言わんがためであり、価値の現象形態では無いです。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  ーーー彼の意図は、この4・5段落は、同じことをマルクスはのべているのですーーーと
  述べているのです。新しい初版英語版の訳出で、6年の歳月を経過することで解けました。
  ここでの⑦は、左極での価値形態であり、⑧は右極での価値形態なのです。

  上記の⑦ ⑧そこに区別がありません!と言うのがここでの彼の主張なのです。
  ーーーしかし、何という悪訳・・・対しての独語訳からの英語訳の素晴らしさ!

  初版ーー英語版ではこの量的側面に対しての質的側面の導出--対比は、明らかです。
  この区別に示されるものが何か?この質的側面とはなにか?と、論述してきたのですから
  これが物象の社会関係であるとの判断を--マルクスは註18を示した4段落にて、以上の
  ようになしています。なんと、江夏訳での翻訳では、このことが理解できない。
   「上着はリンネル価値の現象形態になり・・リンネルの価値形態になる」ーーとの訳で
  は、やはり、間違いなのであります。


    <hirohiro  さんの等価形態の謎性について>の項目への意見について
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  5.「価値体」について
  今回の投稿の最後として、初版における「価値体」用語の使用法を検討しましょう。

  ⑪「リンネルは、抽象的な人間労働の感覚的に存在する体化物としての上着に関係するのであり、
   従ってまた目の前にある価値体としての上着に関係するのだが、上着がこのように目の前にある価
   値体であるのは、ただリンネルがこのような仕方で上着に関係するが故であり、またそのかぎりで
   しかない。上着の等価物というあり方はいわばリンネルの反省規定にすぎない。」(S.22)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    杉本は、彼のこの<等価形態の謎性>への意見を出してみます。

   この⑪段落は、どのような意味合いがあったのでしょうか? ⑨段落からの論議があります。
  ⑨「ひとつの商品の価値の大きさは他の商品のの使用価値のなかでのみ、相対価値として自分を表現
   することができる。それとは反対に、ひとつの商品は、他の商品の価値が表現される材料としての
   み、直接に交換可能な使用価値または等価物の形態をまとうことができる。(今村訳)

   使用価値上着は等価物の役立ちを成すためには、価値表現の材料としての役立ちをなすーーから、
   できる、というのは何故か?と問いが立っているのです。
   その答えが、この⑪段落にあるのですから、等価形態が、幻影的形態をもたらしていることは、
   論議されないのですか?この⑪段落の冒頭を示してみます。

⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.

   商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相
   対的に現れるわけではない。 リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネ
   ンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).

   コートが関係している限り、それはリネンがそれ自身の価値の直接的形態<価値形態>
  (価値の現象形態ーーは誤訳)としてコートと関連している限り、それゆえにすぐに
  それ自身のもの(リネン)と交換可能なものとして。

  <Phenomenal form of value (価値の現象形態)の訳出はない>
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  再度、このように<Phenomenal form of value  価値の現象形態>の記述はないのです。
  ここでは、等価物上着が、使用価値の自然的形態のままに、価値表現の材料としての役立ちをなす
  ーーという⑨段落での提示に対して、そのように述べたのでは、ここでの、
  上着が直接的に価値形態との判断を、物象の社会関係たる価値関係から受け取っていますーーとの提
  示を、無視することになります。上着は直接的に価値形態との判断をこの関係から受け取っているが
  ゆえに、等価形態と判断されることで、この価値表現の材料の役立ちを果たせたのです。

    <再版 でも同じことを述べていたのですが、翻訳は、「価値の現象形態」の訳です。>

The first peculiarity that strikes us, in considering the form of the equivalent, is this: use value becomes the form of manifestation, the phenomenal form of its opposite, value.
   等価形態を考える上で、私たちを襲う第一の独自性は、これです
   :使用価値は表現の形式となり、その逆の驚異的な価値を示す形式になります。

   <仏語版ーー
   「等価形態の第一の特色。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。」P27>

The bodily form of the commodity becomes its value form.
   商品の身体的形態はその価値形態になります。

  <その逆の驚異的な価値を示す形式ーーでなければ、その次の価値形態へとは進まない>
   使用価値が、その対立物である価値の表示形態になるーーことで、価値形態となる、見事な仏訳
  <英語版・仏語版ーーの記述は、等価形態の第一の独自性 が、混迷なく示されたのです。>
   独版での日本語訳は、このように誤りであり、この謎性への批判は混迷している。

  <初版では、等価形態の独自性を示すことで、この現象形態のもたらす謎性を、ここに批判した>

  ところが、この①直接的に価値形態の役立ちを等価物上着がなすことが、
         ②上着は使用価値の姿のままに等価物の役立ち・直接的交換可能性を示す、のです。
   これが、この⑪段落に示されているーー「等価形態の謎性」ーーであります。

      <この価値の現象形態の転倒への批判が、榎原さんも無い、紹介>

      だから、榎原さんの提示した価値関係の外でのリンネル価値の現象形態
      が、商品の物神性によって示されるのが、等価形態の謎ではないのです。

      この価値関係の内にあっても、上着がリンネルの価値形態とは示されず、
      上着が価値体にあることで、価値の現象形態との判断を示し、使用価値
      上着がその姿態のままに交換可能性を示すのが、等価形態の謎なのです。
      上着が価値形態を示さないのに、使用価値上着が価値体であることでの
      みリンネル価値の現象形態を示す転倒した論理ーー表現であるとの、こ
      とになるのではと思います。
       http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1629

  このように、上着がこの反省規定を受けとることで、直接的に価値形態となることで、
  その前提のもとにあれば、上着はならば直接的に価値であり、価値体の反照規定を受け取っている
  ーーという言わば二重の行程があります。価値形態と価値体の反省規定があるのですが、ここでの
  区別があることで、今は、物象の社会関係による物的存在への反省規定が示されたーーと思います。

  hirohiro  さんのおかげさまで、久留間先生の言うところの <価値体としての形態規定>
  ーーとしての問題意識の出どころが・・みえるーーように思います。


 Cしかし、再版ではこの3段落にて、簡明に、物象の社会関係であリ、物象の判断がここに
  示されているのです。それはどうやってですか?
  ①註17に示される第一段落の価値関係の質的側面の提示、②続く第二段落の等式が既に示
  されているのですから、既に初版での論述は前提にされており、この準備を見つければ、
  再版・悪訳の(上着は価値の実存形態・・価値物)の提起に、騙されることはないのです。

   ところが、この①②の提示など、何ら考えず、3・5段落をのみ取り上げるものですから、
  ③再版のこの三段落の価値存在の表現--価値存在の現出を見出せず、化学式の記述を価
  値実体の表現と混同させることで、第五段落の記述とも混同させてきた混乱ぶりが、久留
  間先生の理解であったのです。

  今迄、自身の過去の理解を点検できていなかったので、他の先生方の理解と比較しながら
  そのなかでコメントしてみます。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 C榎原さんは、この久留間・スターリン経済学の抽象に対する批判をこう述べていた.

「いいかえれば、久留間にとっては、具体的労働の抽象化は、異種労働の等置による同等な人間労働への還元ということしか考えられておらず、リンネルの価値が上着で表現されること自体がリンネルを生産する労働の抽象的表現としての意義をもっていることに気付いていないので・・・・」(『価値形態・物象化・物神性』P111)

「マルクスはこの課題を、リンネルの価値が上着で表現されていること、いいかえれば、リンネル(価値――杉本追加)をつくる労働が上着に反射して上着という形態で感覚的にあらわれているのだから、そのような労働はリンネルを物しているすべてのものを度外視した抽象的なものとならざるをえない、と分析することによって、解決した。リンネル価値の質を明らかにした上にたって、マルクスは、上着そのものにリンネルによって刻印された形態についての分析を進める.そこではじめて上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっていることが指摘される。」(同上P112)

 D<杉本の理解を示す前に、今日であれば榎原さんの理解に対してどう批判するか書いてみる。>
  <杉本ーー第三段落での問題としてのリンネルの価値存在の表現が、前提されてのものではない、
  久留間説への批判という視点が、榎原さんの提示には無いのです。
  再版3段落は、混乱しており、英語版に基いて正訳に変更する。5段落での共通提示の「価値物」
  などの訳出は無いのです。

  第三段落--リンネルの価値だけが表現される。ではどのようにしてか?
       リンネルが、「その等価物」としての、または
       それと「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関連によって、である。
       この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値として、通用する。
          <価値の実存形態として価値物として通用する  再版・旧訳 誤訳>
       なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだから
       である。他方では、リンネル自身の価値存在が現れてくる。

  大谷先生に批判されるまでの久留間説は「その等価物」は、直接交換可能な使用価値(等価物)
  であり、直接的に価値であるーーことは自明なものとされたのです。しかし、この条文について
  の的確な批判はなされておらずであり、『貨幣論』での大谷先生の指摘--論議はあっても、訂
  正は成されなかった、のです。

  久留間さんの抽象はつぎでした。再度あげます。
  「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、
  上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽
  象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)
  『貨幣論』のP106でも、その相対的価値表現での『等価物』、上記3段落での『等価物』への久
  留間流理解は--訂正されていない--のです。そこも上げてみます。

  「リンネルは自分の価値を表現すること--は、他商品に価値体としての形態規定性を与えるこ
  とによってはじめてなしとげられるのだということ、これは否定すべからざる事実ではないでし
  ょうか。こういうことを問題にしているときに、上着は価値体になるのには、リンネルが上着で
  自分の価値を表現しなければならないではないか、と言ってみても、なんの役にも立たないでし
  ょう。」(『貨幣論』P106)

  ここでの、久留間先生の論述には次の区別がないのです。
        ①3段落の価値存在の表現を省略し、5段落での「回り道」について語らず、排除
        ②左極での相対的価値表現での等価物である価値形態は、交換可能性の形態
        ③上記ーーそこでの価値体としての上着は、単に量的側面であり、形態規定は無し
        ④上着がその姿のままに直接的に価値形態を受け取ることで、直接的交換可能性の
         形態を受け取るーーことで、左極の反対の右極にて等価形態を受け取る
  以上のように<他商品に価値体としての形態規定性を与えること>は以上の4件においては無い。
  「リンネルは自分の価値を表現すること--は、」自身の価値存在を、上着を価値存在の形態と
  規定することにおいて、つまり、物象の判断において為されているのです。そのことで、物象の
  社会関係のあることを、示しているのです。

  リンネルが相対的価値表現において、他者上着を自身の価値の存在形態と反省規定することにお
  いて自身の価値存在も表現される--のが、リンネルの価値関係と言うのが、マルクスの初版・
  再版で変わらぬ基本線ーーベースであるのに、久留間先生、何と榎原さんもそこの考慮が無いの
  ですから、物象の判断について、なんら提示していない。
  価値関係の質的側面の分析であることが、この3段落に示されることで、その実施としての、第
  5段落の<事実上の抽象>があり物象の判断が示されているその例示ーーとしての「回り道」で
  あるのに、何らここに論究できないのです。

       <3--5段落の関連の関連の示すものは、さらに追求すると次であります。>
   このように、③商品に表示される労働が抽象的人間労働であるためには?との質問があり、
      まず、①価値の存在形態である上着が、人間労働であることで、この回り道を経て、
      次に、②価値存在を表現するリンネルは、そこで抽象的人間労働の凝固物であると語り、
    ーーという物象の、二重の2行程を成す、判断行程を、3~5段落にて示したのです。
  価値関係でのそれを構成する諸物象であることでの、物象のリンネルと上着への判断なのです。
  大切な肝要部です。上記の①②の判断を成すことができるのは、そこに、価値存在の如何にしてか?
  を問うてきた3段落に示される、物象の判断があり、そのことは、次のことをも示しているのです。

  価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働であると、第一節・二節の事
  項を総括・判断していると、価値実体論と価値形態論との関連を見てくることで、この5段落に、ま
  とめていたのです。リンネルの価値存在を表現できたかぎりでの、上着価値なのです。
    <http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1627
  にて、上記を纏めたので、引用しておきました。>
   <価値存在の表現の問題と、価値の実体が抽象的人間労働であるとのーー二つの物象の判断です>

    <次が7段落 8・9段落の記述の関連です。>
  英語版の7段落<再版の訳は混迷>は、3--5段落を経過することで、今まで明示されてこな
  かった等価物上着が事態の進行のなかで、<価値は上着であり、価値の存在形態が上着において
  現出する>ーーことが、<金モールで飾られた上着であり、>8段落・「体化された価値」では
  なく<体現された価値>としてのみ通用す、即ち「価値が上着という形態」となることで、対象
  的形態とするリンネルが、王冠を受け取り・飾られる--その反省規定を、価値形態上着という
  姿態で表現しているのです。


   < 杉本 パソコン直訳  でドイツ訳の「価値体」ではなく「体現された価値」が正訳>
    八段落
  In the production of the coat, human labour power, in the shape of tailoring, must have been actually expended.
Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
    ⑧コートの生産では、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
    それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。
    この面ではコートは「価値の担い手」としてその属性を示すが、この事実は見えません。

And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value.
    そして、価値方程式の亜麻の等価物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆ
    え価値体として、体現された価値 として数えます。
    <「体化された価値としてのみ、価値体としてのみ通用する。」新書訳他も同一>

  <杉本 ここでの判断している主体は、価値関係をつくる物象であるので、仏語訳が適訳>
   「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの価値
   形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現する。」ーーと

A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and,  hair, and many other things besides.
    たとえば、Bの目の威厳はAの身体的な形態を仮定し、その特徴、髪、およびその他の
    多くのものを変えない限り、AはBの "陛下"になることはできません。
    人々の新しい父親は、その特徴、髪、および他の多くのものを変えます。

  ここは独版でなく、英語版の記述でなければこの物象の関係の示す転倒は、何ら見えてこない!
  反省規定であり、物象のなす判断が、価値関係にあるリンネルのなす反省規定・物象の判断が、
  この正像の反対の映像をも示す--次の転倒があるのです。

  「・価値としては、リンネルは『上着に等しいもの』であり、したがって上着のように見える」
  (9段落)転倒象を示すなかで、自身の<リンネルの価値形態>が表現されているのです。

     <このことを、久留間理論とのからみで言うと、次となります。>
     リンネルの価値表現が如何に?--と価値形態論を把握する久留間理論では、
     このーー8段落・「体化された価値」ーー提示するままに、
         9段落・「価値としては、リンネルは『上着に等しいもの』ーーに見えることで、
  ーー久留間先生の言うことは、
  「(リンネルが)上着は自分に等しいのだということによって、上着を価値の形態に・・している」
  (『貨幣論』P94)ーーとの、紛れも無い「リンネルの価値存在が、上着との同等性に・現れる」
  (原P66)宗教的転倒と同じである、物象の社会関係の示す転倒象に、賛成したことなのです。

  これが、物象の社会関係を物的関係へと、単なる商品の現象形態へと転倒させているーー事柄なので
  ありますし、殆どの人々のーー商品世界が、対象的姿態の代表とされている単純な価値形態ーーとは
  受け取らない伝統的思考に賛成している有り様ーーなのです。
  この思考法では、以上のことは自身の対象的世界ではなく、他世界での、物的世界での客観的事態な
  のです。我々には、「体化された価値」との誤訳では「価値形態」は、諸物象の社会関係を示さず、
  物的関係に転倒してしまうのですから、この<体現された価値>との物象的判断が必要なのです。

  このように、久留間先生の論理は主観性であり、自身の思い込みであり、他商品を価値体にすること
  は出来ない、と言いながら、等置されることで、価値体としての形態規定を上着は受け取ることがで
  きる--と主張するのです。

  <杉本  以上が、この時点での久留間理論への批判点・総括点であります。>


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 

  6年前の自分の見解

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 5月 2日(水)21時53分37秒
返信・引用 編集済
    杉本 掲示板--過去投稿文をくぐって点検していたら、久留間先生の価値形態論--批判が、
  何処で頓挫したのか?   見えるところがあったので掲示しておきます。

  久留間先生の事実上の抽象--判断が、私自身のなかで頓挫したのが、6年前の私の見解で
  あり、hirohiro さんの主張ーー提示であったのです。

  やっとこさと、価値形態論での自身の理解--解釈の誤りが、見えるようになってきました。
  久留間先生の現行5段落の理解は、何ら回り道をしておらず、同じく経済学教科書の理解に
  おいても回り道などしておらず、これではここでの価値存在の表現を問うた第三段落の提示
  の基本線がなされていないのです。
  これでは、マルクスの価値形態論の復活は、成し得ないのです。


http://8918.teacup.com/rev21/bbs/404
二つの批判  投稿者:杉本  投稿日:2012年 1月 5日(木)02時01分34秒

 A久留間さんの「価値表現のメカニズム」での抽象
             投稿者:杉本
「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)

 久留間先生は、裁縫労働を織布労働に等置することで、「両者に共通な、抽象的人間労働に還元」される・・・と理解している。
そして、ここを「価値表現のメカニズム」の課題と考えているので、相対的価値表現の形式でのみ理解してしまうのです。

 彼は、左極の価値を織り出す労働が、右極で人間労働一般の実現形態としての裁縫労働と反省規定されるのではなく、具体的な労働の等置による共通性の抽出とよんだのですから、価値物上着が等置される価値関係での分析――であることを除外したのですね。
 価値関係の下では、右極の裁縫労働が人間的労働一般の実現形態に還元されるのは、今は具体的姿態としか判別できない相手の価値を織り出す労働の反省規定なんですね。この価値鏡の役立ちで、左極の織布労働も価値を織り出す限りでは、抽象的人間労働であると、「語る」・・価値鏡があたかも人間のように教えてくれると、物象の社会関係の成立を立証しているのです。

ここの理解は、「頭脳織物」に示される理論的抽象を批判した『初版本文』の註⑱の一節を例解とした方がとても意義があると思います.

 論じていることは、久留間先生のように、二商品の等置に示される同等性関係であるばかりでなく、価値関係でもあることは、次の註⑱aでの「人間は最初はまず他の人間の中に自分を映してみる」・・の例に明らかです.
 そして価値関係のもとでは、上着は、次のように新たな形態規定を受けとるのです。

「使用価値としての上着がリネン=価値の現象形態になるのは、ただリネンが抽象的人間労働の直接的受肉としての上着素材に関係するからであり、この労働はリネン自身に対象化された労働と同質の労働であるからである.」(今村訳資本論初版P288)

 上着が(リネン)価値の現象形態となるーーことに示されるものは何でしょう?
 これは、諸商品が、使用価値と価値の二要因を持つばかりでなく、相対的価値形態と等価形態の二つの異なった役だちをしています・・・との注意の喚起なのです.つまり、自己関係ではなく文字どおり両極の、能動的と受動的の役割での関係なのです.ここに受動的な等価物上着の役立ちを、①使用価値が価値の現象形態となること、②具体的労働が抽象的人間労働の現象形態になること、③私的労働が社会的労働の実現形態になることの三点にて表すことを確認できること。だからこそ上着はそれらの役立ちにて、価値形態・つまり直接交換可能な使用価値の形態・・・いかにも交換価値の規定を、商品が価値関係を結ぶことで、判断され、与えられたのです。


 B『経済学教科書』での抽象 への批判(価値実体は、「頭脳織物」ではなく物象の社会関係で、物象が判断したもの)

 久留間さんの抽象はこうでした.
「上着をつくるのは裁縫労働なのだが、上着がたとえばリンネルに等置されると、それによって、上着をつくる裁縫労働はリンネルをつくる職布労働に等置されることになり、両者に共通な、抽象的人間労働に還元されることになる。」(『価値形態論と交換過程論』P8)

そして、本家の『経済学教科書』での抽象はどうであったのか?比較してみよう.

「商品の価値は、生産過程で労働によってつくりだされる。しかし価値は、交換過程で一商品が他の商品とひとしいものとされることを通じてでなければ、すなわち交換価値を通じてでなければあらわれない.
もっとも単純な価値形態は、一商品の価値を他の商品であらわすことである.

 たとえば、1丁の斧=20キログラムの穀物。この形態をみてみよう。
 ここでは、斧の価値が穀物であらわされている.穀物は、斧の価値を表す手段となっている.斧の価値を穀物の使用価値であらわすことができるのは、斧の生産に労働が支出されているのと同じように、穀物の生産にも労働が支出されているからに他ならない。自分の価値を他の商品であらわす商品(この例では斧)は相対的価値形態にある.その使用価値が他の商品の価値をあらわす手段となっている商品(この例では穀物)は、等価形態にある。」(『経済学教科書』1―1955年2月28日発行)

 ここでは交換過程論と価値形態論が混同されているし、商品生産には、人間的労働力が一般的に支出されているから、「交換過程で一商品が他の商品とひとしいものとされる」――つまり、<商品は価値としては等しいもの>を見出すだけにされている。

「価値は、・・・・・交換価値を通じてでなければあらわれない」
とは、――ー価値は、価値形態を取ることで交換価値としてあらわれることです。つまり、
<価値形態は使用価値と価値の内的対立が交換価値の形態をとることであらわれる>
のであって、ここでの追求の題材が、簡単な価値形態であることが埒外へ追いやられている。
 そして、「斧の生産に労働が支出されているのと同じように、穀物の生産にも労働が支出されているからに他ならない」と述べたのでは、1丁の斧=20キログラムの穀物。のなかに同等な第三者を求めた冒頭の分析と混同している.

 榎原さんは、この久留間・スターリン経済学の抽象に対する批判をこう述べていた.

「いいかえれば、久留間にとっては、具体的労働の抽象化は、異種労働の等置による同等な人間労働への還元ということしか考えられておらず、リンネルの価値が上着で表現されること自体がリンネルを生産する労働の抽象的表現としての意義をもっていることに気付いていないので・・・・」(『価値形態・物象化・物神性』P111)

「マルクスはこの課題を、リンネルの価値が上着で表現されていること、いいかえれば、リンネル(価値――杉本追加)をつくる労働が上着に反射して上着という形態で感覚的にあらわれているのだから、そのような労働はリンネルを物しているすべてのものを度外視した抽象的なものとならざるをえない、と分析することによって、解決した。リンネル価値の質を明らかにした上にたって、マルクスは、上着そのものにリンネルによって刻印された形態についての分析を進める.そこではじめて上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっていることが指摘される。」(同上P112)

 ここでは、右辺の具体的労働が抽象的人間労働の実現形態と規定されているのです.左辺の働きかけで、右辺の裁縫労働が抽象的人間労働の実現形態にされれるのですし、形態規定・すなわち反省規定されたのです.そしてこの規定体は価値鏡として反照の機能を行うのです。
 だから、価値実体は、「頭脳織物」ではなく物象の社会関係で、物象が判断したもの――ということが、このことを説明した、註18の節の意義でしたし、そして、註19aの節で、さらに労働の例が説明されたのでした。

「上着という形態が抽象的人間労働の実現形態となっている」――という抽象について、崎山正毅氏は、次の見事な説明を与えている。

「人間の行う抽象化は、具体的なものの属性としての抽象的なものにたどりつく.それに対して、物象の行う抽象化は、異なった働きをする.それは、人が個々人ちがう存在でありながら、感性的にはとらえられないのに各々を共約してしまう「魂」という「唯一物」の顕れであると説く宗教的な考え方と同様なものだ.つまり、抽象的で一般的なものが具体的なものそれ自体に顕現するのである。あたかも一神教の神のごとく作用する物象、それが人間の思考とは異なる抽象化をもたらしている.」(『資本』P17岩波書店 崎山正毅 )
(崎山氏は、関西生コンの組織する資本論研究会の講師もする人物です.)

   <上記では、杉本は崎山先生の主張に賛成している。>

   しかし、次では批判している。
   http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1624
   久留間理論に傾倒した、崎山先生の初版価値形態論の理解を問う
   :杉本  投稿日:2018年 4月13日

   この転換は何であろうか?  まずは、過去の見解を提示しておき、
   次に、この誤りを点検していく。次の論文も参照願いたい。

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/410
   投稿者:hirohiro  投稿日:2012年 1月29日(日)15時36分18秒
   杉本さんへの返答(1)-初版本文の検討



 

 障害者の自立支援法の復活

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月 2日(水)11時44分15秒
返信・引用
   障害者の自立支援法の復活
 こちらが抱えるトラブルとは12年も前からのことで初めから話しても混乱だけになりかねない。障害者の団体の暴走は何も無かったことにして解決したがる。そのために口封じからどこの団体も行かせず誰とも関わらせず友達は取り上げ、社会参加は地元以外全部妨害した。それが12年です。
 それが看板団体の暴走隠しのばれなければいいとする暴走だと入って来た。これに対して知事に暴走目こぼし権がありますかと全国
に問い合わせたら法律関係3者(法テラス、法務局、障害者110番弁護士)だけそんなもの無いと言う。全国の社協は沈黙。関われないとも喋れないとも言える。法務省は何を聞いても法務局に話せとだけ。厚生労働省は完全沈黙。
  障害者の団体はそのハンディからトラブルは出やすく見なかったことにするとかばれなければいいとする配慮をすることが多い。
  知事に緊急時の強権がうあったとしても東日本大震災は友の会を辞めて5年後のことになる。5年前でも強権のうちに入るのか。
 厚生労働省や法務省を見ると知事に暴走目こぼし権があるように思える。完全沈黙に囲まれては証拠が作れなく抹殺しか考えて居ないとあってはいずれ役場に説明抜きのかん口令が入ってしまう。
 それで役場に出向き立場の説明して理解を求めました。
 妨害されようと社会参加を果たすしかない。
  妨害なら完全沈黙の破れた全国にすぐ知らせ、無くても専門団体も通訳(口実付けて貸さない)も無しで果たすのだからどっちに転んでも岩手は全国からいい加減にしろと言われ非難と失笑、後ろ指を食らうことになる。近日予定しています。

  昨年秋パソコンの回線を変えたことでパスワードが出来なくなって休んで居た掲示板を見つけた。今はパスワードは小文字でも出きると判っていた。
 自分のことが特集してあった。友の会を辞めたのは12年前でその2年前に障害者の自立支援法が廃止になっていた。それが多くの障害者の怒りの声が上がりこの程採決されたと書いてあった。つまり岩手がこれまで当たり前に暴走、妨害したことがこれから違法になる。友達も取り上げどこへも行かせず誰もがそんなはずはと理解もしなく絶望感にも強いられていた。それが全国に同じ思いをした人たちが居たとは勇気付けられる思いだった。
 つまり岩手の暴走目こぼし権は無効になるということ。妨害は正当で無くただの暴走



 

 障害者の自立支援法の復活

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 5月 1日(火)18時40分10秒
返信・引用
   障害者の自立支援法の復活
 こちらが抱えるトラブルとは12年も前からのことで初めから話しても混乱だけになりかねない。障害者の団体の暴走は何も無かったことにして解決したがる。そのために口封じからどこの団体も行かせず誰とも関わらせず友達は取り上げ、社会参加は地元以外全部妨害した。それが12年です。
 それが看板団体の暴走隠しのばれなければいいとする暴走だと入って来た。これに対して知事に暴走目こぼし権がありますかと全国
に問い合わせたら法律関係3者(法テラス、法務局、障害者110番弁護士)だけそんなもの無いと言う。全国の社協は沈黙。関われないとも喋れないとも言える。法務省は何を聞いても法務局に話せとだけ。厚生労働省は完全沈黙。
  障害者の団体はそのハンディからトラブルは出やすく見なかったことにするとかばれなければいいとする配慮をすることが多い。
  知事に緊急時の強権がうあったとしても東日本大震災は友の会を辞めて5年後のことになる。5年前でも強権のうちに入るのか。
 厚生労働省や法務省を見ると知事に暴走目こぼし権があるように思える。完全沈黙に囲まれては証拠が作れなく抹殺しか考えて居ないとあってはいずれ役場に説明抜きのかん口令が入ってしまう。
 それで役場に出向き立場の説明して理解を求めました。
 妨害されようと社会参加を果たすしかない。
  妨害なら完全沈黙の破れた全国にすぐ知らせ、無くても専門団体も通訳(口実付けて貸さない)も無しで果たすのだからどっちに転んでも岩手は全国からいい加減にしろと言われ非難と失笑、後ろ指を食らうことになる。近日予定しています。

  昨年秋パソコンの回線を変えたことでパスワードが出来なくなって休んで居た掲示板を見つけた。今はパスワードは小文字でも出きると判っていた。
 自分のことが特集してあった。友の会を辞めたのは12年前でその2年前に障害者の自立支援法が廃止になっていた。それが多くの障害者の怒りの声が上がりこの程採決されたと書いてあった。つまり岩手がこれまで当たり前に暴走、妨害したことがこれから違法になる。友達も取り上げどこへも行かせず誰もがそんなはずはと理解もしなく絶望感にも強いられていた。それが全国に同じ思いをした人たちが居たとは勇気付けられる思いだった。
 つまり岩手の暴走目こぼし権は無効になるということ。妨害は正当で無くただの暴走


 

      初版の理解について ②

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月28日(土)13時14分41秒
返信・引用 編集済
     初版訳への再度の挑戦をしてみました。

https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/index.htm

   Karl Marx
   Capital
   A Critique of Political Economy

         Volume I
Book One: The Process of Production of Capital

First published: in German in 1867;
Source: First english edition of 1887 (4th German edition changes included as indicated) with some modernisation of spelling;
Publisher: Progress Publishers, Moscow, USSR;
First Published: 1887;


生産の資本主義的な方法が勝つ社会の富は『必需品の巨大なコレクション』として現れます、そして、他に類のない必需品は富の基本の形として現れます。我々の調査は、それに応じて必需品の分析から始めます


①   Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。

 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

② リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。

リネンは、それ自身に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自身に価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに自身を対象化することはできません。

リネンは、同種の人間労働の対象化、すなわちそれ自身の価値の対象化されたものとして、それ自体をそれに関連付けることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。

それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である-そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労働を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。

コートとのこの関係によって、リネンはひとたたきで多くの蝿をうちます。リンネルは、他の商品を価値として自分自身に関係させることによって、自身を価値として関連付ける。自らに自身を関連付けることによって価値を示し、その区別からリンネル自身を、使用価値として自身から区べつする。

このように発生していることは、その価値の大きさを示すコートは、その付与する値(一般的には値、及び定量的測定値及び値の大きさのものもある)として現実を持つ価値として、自身の直接的存在とは異なります。

自身の中に差別化されたものとして、このように自分自身を明らかにすることで、最初に自分自身を明らかにした時間は本当に-商品として他商品を同じ時間値で示す便利なものーーとは区別される。

リネンは、使用価値である限り、それはある独立したものです。その価値は、表示されるこの関係で他の商品に質的に等置され、コートをリネンに同一視して、いくつかの特定の量に置き換え、それに相当するものとしてカウントし、それと交換可能です。

したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形態を印づけます。結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。

他に何が起こっても、そのことがらは、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を示します。

この等価物の規定では、商品があるという事実だけでなく、含まれている値であり、すべてで、それはその中にいるという事実であり、肉体的形状(その使用価値)を、別の商品の価値としてカウントし、その結果、手元にすぐにある交換価値としての用を他の商品に対して果たしています。

④ As value, linen is composed exclusively of labour, and forms a transparently crystallized precipitate of labour. In reality this crystal is very murky, however. In so far as labour is detectable in it (and not every embodiment of commodity reveals the trace of labour), it is not some undifferentiated human labour, but rather: weaving, spinning, etc. ? which, in addition, are by no means the only components of its substance but of course are leavened with matter derived from nature. In order to retain linen as a merely corporeal expression of human labour one has to abstract from all that which makes it to be really a thing. Any objectivity of human labour which is itself abstract (i.e., without any additional quality and content) is necessarily an abstract objectivity  a thing of thought. In that fashion, a web of flax turns into a chimera. But commodities are objects. They have to be what they are in an object-like way or else reveal it in their own object-like relationships. In the production of linen, a particular quantum of human labour exists in having been expended. The linen’s value is the merely objective reflection of the labour so expended, but it is not reflected in the body of the linen. It reveals itself (i.e., acquires a sensual expression) by its value-relationship to the coat. By the linen’s equating the coat to itself as value ? while at the same time distinguishing itself from the coat as object of use ? what happens is that the coat becomes the form of appearance of linen-value as opposed to linen-body: its value-form as distinguished from its natural form.
④価値として、リネンは労働だけから成って、労働の透過的に結晶化する沈殿物を形成します。実際は、しかし、この結晶は、非常に暗いです。
それ(そして、必需品のすべての具体化が労働の跡を現すというわけではありません)の中で労働が見つけられる限り、しかし、むしろ、未分化な人間労働を表明することはいくつかでありません:織物、回転など そしてそれは、そのうえ、決してその物質の唯一の構成要素でなくて、もちろん、自然から物質を取り出して変化を与えられます。

 人間の労働の単に肉体的表現力だけとして、リネンを保持するために、人は、本当にものであるためにそれを作るそれをすべてから抽出しなければなりません。
それ自体抽象的である(すなわち、どんなさらなる品質と内容なしででも)人間の労働のどんな客観性でも、必然的に抽象的な客観性です 、思案のもの。
そのやり方では、網の目のような亜麻は、妄想に変わります。

しかし、必需品である商品は物象です。
彼らは、物象のような有り方であることでなければならないか、彼ら自身の物象的関係において、それを明らかにしなければなりません。

リネンの生産において、人間の労働の特定の量は、費やされたことの中に存在します。リネンの価値は、こうして費やされる労働の単に客観的な反射だけです。
しかし、それはリネンの体で反映されません。

それは、コートとの価値-関係によって、(すなわち、官能的な表現を得ます)現れます。

リネンが、価値としてコートを自らに等しいすることによって 、コートから使用の対象として区別されると同時に、 起こることは、コートがリンネルの体と対比してのリンネル価値の表示の形態になるということです:
その自然の形を区別されるその価値-の形態であります。

⑤ 相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。

使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係する リネン自体の中にある。

オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます

コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になります。 しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。

単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。

それは、決定され特定された労働として決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。 なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の実体によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。

It is only the ‘concept’ in Hegel’s sense that manages to objectify itself without external material.[1]
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

⑥ 時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。

しかし、使用価値(コート)の面、リネンに興味深いですその羊毛の快適さも、その無口な本質も使用価値としてそれを選び出す他のどの役に立つ品質でもありません。
その澱粉質の使用客観性を区別されるようにリネンの価値-客観性を表すために、コートはリネンだけに役立ちます。

assa foetidaまたは化粧品の価値または靴墨を表したならば、それは同じ目的を遂げることができました。

それが意図的な生産的な労働である限りでなくそれが限定された労働、実現の形、大方の人間の労働の対象化の方法として存在する限りだけ、従って、仕立職労働は、また、リネンのために価値を持ちます。

リネンがコートではなく靴磨きでその価値を表現した場合、磨きはそれを仕立てるのではなく抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態とみなされるでしょう。

したがって、価値や商品体は、抽象的な人間の労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的で有用な種の労働に他の商品が関連することによって、価値形態または等価物にしかならない。

⑦ We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form. It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
⑦私たちはここで、価値形態の理解を妨げているすべての困難の飛び降り点に立っています。
コモディティをその使用価値から区別することや、単にコモディティ価値における人間の労働力の支出と見なされる限り、同じ労働からの価値を形成する労働を区別することは比較的容易である。

If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa. These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
ある形態の商品や労働を考慮すると、他の形態では商品や労働を考慮しない。逆も同様である。これらの抽象的な対立は、それ自身で崩壊し、したがって、分離しておくことは容易である。

It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity. The use-value or commodity-body is here playing a new role. It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態ではそれとは異なる。 ここでは、商品の使用価値や商品体が新たな役割を果たしています。
これは、商品価値の出現の形式<現象形態ーー今村訳>に変わり、したがって、それ自体の反対となる。

Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour. Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
同様に、使用価値に含まれる具体的で有用な労働は、抽象的な人間の労働の実現の単なる形に、それ自体の反対に変わる。崩壊する代わりに、商品の反対の決定は互いに反映される。

However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary. The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value, product of useful labour and abstract coagulate of labour.
In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
しかし、これは一見すると分かりませんが、それはさらに必要性があることを明らかにしています。
商品は、最初から二重のもの、有用価値と価値、有益な労働の産物と労働の抽象的な凝固産物です。
それが何であるかを明らかにするためには、その形を倍増する必要があります。

It possesses right from nature the form of a use-value.
それは、自然から使用価値の形態を持っています。

That is its natural form.
それはその自然な形です。

It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
それは、他の商品と付き合うなかで初めて、自分自身にとって価値形態をえます。

But its value-form has then to be itself an objective form.
しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形で存在しています。

The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的形態は、その使用形態、それらの自然形態である。

Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ? the natural form of another commodity ? into its commodity form.
  今や商品の自然形態(例えばリネン)はその価値形態の正反対なので、
  別の自然形態を変えなければならないのですか? 別の商品の自然な形ですか?
  その商品形態に変換する。

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)によって、すぐにすることができます。

It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自分自身の体で、あるいはそれ自身の使用価値でその価値を表現することはできませんが、他の使用価値や商品体に即座に存在する価値として関連付けることができます。

It can relate itself not to the concrete labour contained in itself, but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract human labour. For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態として、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。 そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value. If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
商品の使用価値は、その価値の出現の形<現象形態ではない、むしろ価値形態>で、このように役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。 単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみを考慮すると、相対価値の動きに関して上に示される価値法則だけが見つかる。 商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。

But if one considers the value relation of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
   既存訳 ドイツ語文からのーー
   <ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、
   上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってま
   た、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>

しかし、人が彼らの質的な面で両方の必需品の価値関係を考慮するならば、人は価値のその単純な表現で価値形態の、そして、それゆえに、money.[3]のnuce[2]のミステリーを発見します

    <nuceにおける[2]のお金。[3]>
   註2.「ナッツ・シェル」。
   2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
   多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
   「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
   何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
    "OK. I'll put it in a nutshell."
   「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。

   註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
   形式の内容を見落としていたように、
   経済学者が相対的価値<表現ーー誤訳>形態の形式的内容を見落
   としていることは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。
   <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
   をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形態」
   が内実とされることで、価値表現がされるということです。>

⑧ 私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。

リネンは、コートの価値のその価値とその限定された量を表します。それは、もう一つの必需品に、そして、それゆえに、交換-価値として価値-関係の価値を明らかにします。

他方、他の必需品(それが相対的な方法の価値を表すコート)は、それですぐに交換できる等価物として、正確にそのように使用価値の形を得ます。
両方の形、1つの必需品(他の等しい形)の相対的な価値-の形態は、交換-価値の形です。

両方とも、実はベクトルだけです 、互いによって相互に条件づけられる決定 、同じ相対的な価値-表現(等しく設定された2つの必需品-両極端の間の棒のように分けられるもの以外の)なのです。

⑨量的規定性は、必需品の等しい形にはーー含まれません。
限定された関係(例えば、どのコートがリネン相当であるか)が、その等価形態(リネンによるその即時の交換できることの形)からでなく、しかし、労働時間までの価値量の測定から現れます。
結晶化する人間の労働の所定の量としてそれ自体を限定されたコート-量と関連づけることによって、リネンはコートのそれ自身の価値を意味することができるだけです。
コート-価値が変わるならば、この関係も変わります。

しかし、リネンの相対的な価値が変わるかもしれないために、それは存在しなければなりません、そして、それは所定のコート-価値につくられることができるだけです。

現在、リネンが1のそれ自身の価値を意味するかどうかにかかわらず、リネンの1ヤードと価値がコートの形で明らかにされると思われるヤードの数の価値の量に、2またはxコートは完全に依存します(この前提中で)。
必需品の価値の量は、相対的な価値としてもう一つの必需品の使用価値で、それを表すことができるだけです。

商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

⑩この区別は、その単純であるか最初の形の相対的な価値-表現の特徴的特色によって不明瞭にされます。

方程式:リネンの20ヤード、= 1着のコート(または、20ヤードのリネンはコートの価値があります)は、結局、正確に同一の等式を含みます:
1つは、= 20ヤードのリネン(または、1着のコートは20ヤードのリネンの価値があります)を蔽います。
リネン(コートはEquivalentとして現れます)の相対的な価値-表現度はリバースからコートの相対的な価値-表現力をこのように含みます。そこにおいて、リネンはEquivalent<等価物>として現れます。

⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity. As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen). Only within this relationship is the coat an Equivalent. But it conducts itself passively. It seizes no kind of initiative. It finds itself in relationship because things relate themselves to it. The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own. In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’. The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner. Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.

But the situation seems just the reverse. On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything. On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do. The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example). In the first or simple form of relative value (20 yards of linen ? one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]

⑪商品の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。

相対的価値ーー麻布(リネンの20ヤード= 1コート)の、交換価値を示すリネンは明白に現れる他の商品との関係である。コートに関しては、リネンはコート自体を価値形態(価値の現象形態)として、したがってそれ自身ですぐに交換可能なもの(リネン)として、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかです。この関係の中でのみコートと等価です。

   <杉本 既存訳は全てが、ここが次の訳なのです。>
  (「上着のほうもまた確かに、リンネルが自分自身の価値の現象形態
   としての上着に、したがって自分と直接的に交換可能なものとして
   の上着に、関係するかぎりでのみ、等価物なのである。この関係で
   のみ上着は等価物となる。」江夏訳P42原P22)

しかし、それは受動的にふるまいます。
それは、種類のイニシアティブをつかみません。
ものが自分自身をそれと関連づけるので、それは関係にいるのに気づきます。
独自のいかなるさらなる活動のないプレゼントとしても以外、このようにリネンとのその関係からそれのために構成される物は、関連があっても独自の結果として現れません。

これに加えて、リネンがコートに関係するものである特定のモードと方法は、コートにそれをすることの終わりまで、正確に適切です、それはどんなに控え目であろうとも、そして、しかし『誇りで気の狂ったような仕立て屋・行動力』の製品であることを、除いても、「上着を夢中にさせる」ように仕組まれている。

だからリネンは、結局、abstractoの人間労働の官能的に既存の具体化として、そして、それゆえに、現在する価値-体として、リネン自体をコートと関連づけます。

そこで、リネンが、この特定の方法でそれ自体をコートと関連づけるというだけで、そして、そうする限り、それ(コート)はこれ(価値体)です。

このようにEquivalent<何かの等価存在>としての、その<上着の価値体としての>地位は、(いわば)リネンの反射規定[4]であるだけです。

  <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、
   リネンの反省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
   形態規定されてはない。上着は価値の凝固物ーであるが、それだ
   けでは、リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取
   れない>

しかし、状況はまさにリバース<逆に見える>のようです。
一方、コートはわざわざそれ自体を何とも関連づけることをしません。
他方、リネンはそれ自体をコートと関連づけます。

そして、何か、しかし、それがまだリネンがするかもしれない何かからも、別々の何かであるからに成功するために適切でない。

人々を暖かくして(たとえば)おくことができることのその財産と同じまさに方法では、コート(そのEquivalent-の形、すぐに交換できる使用価値としてのその規定性)に関するリネンの結果として生じる製作品は、リネンに関するものであることの外でさえ肉体的傾向でコートに属しているように見えます。

  <杉本ーーリネンに関するものであることの外でさえ肉体的傾向でコートに属しているように見えーー
   このように、「外でさえ」とあるから、等価物の物的存在が、もたらす「等価形態の謎的性格」です。
   この価値関係のもたらす 謎てあります。 >

最初または親類の単純な形が評価するIn(20ヤードのリネン= 1コート)、この形が正反対(コートはリネンのEquivalent-等価物ーです)を即座の方向でも表すので、この間違った外見はまだ確立されません、そして、他がそれ自身の相対的な価値-expression.[5]に成功するのでそして、そうする限り、その各々の2つの必需品はこの決心を所有するだけです。


5. There is something special about such reflection-determinations. This man here is (e.g.) only King, because other men behave towards him like subjects. They believe, however, that they are subjects because he is King.

5. 特別な何かが、そのような反射の決定についてあります。
ここにいる(例えば)この男性
他の男性が主題のような彼にふるまうので、キングだけ。
しかし、彼らは、彼がキングであるので、主題であると思っています。


Weblio 翻訳
https://translate.weblio.jp/





 

レンタル掲示板
/148