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  フランス語版資本論  第四節 商品の物神性とその秘密

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月20日(金)09時27分3秒
返信・引用 編集済
  3a<三段落>
③労働生産物が商品形態を帯びるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はいったいどこから生ずるか?明らかにこの形態そのものからである。

④人間労働の同等性という性格は、労働生産物の価値という形態を獲得する。<①価値形態>
継続時間による個別的労働の測定は、
          労働生産物の価値量という形態を獲得する。<②価値関係の量的側面>
最後に、生産者たちの労働の社会的性格がそのなかで確認されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を獲得する。         <③価値関係の質的側面>

このことが、これらの生産物がなぜ商品に、すなわち、火を見るより明らかでしかもそうではない物、あるいは社会的な物に変換するか、の理由なのである。
      <④生産物が上記①②③での条件を満たしての商品であり、社会的な物に変換>
かくして、視神経にたいするある物体からの光の印象は、この神経そのものの主体的な刺激としてではなく、眼の外部に存在するあるものの感知しうる形態として現われる。付言しなければならないが、視るという行為にあっては、外界のある物体から眼という他の物体にたいして光が実際に投影される。それは、物理的な諸物間の物理的な関係である。

だが、労働生産物の価値形態や価値関係は、その物理的性質とは全くなんの関係もない。
このぼあい人間にとって諸物相互の関係という幻想的な形態をとるものは、たんに、人間相互間の特定の社会的関係であるにすぎない。
      <⑤上記①②③④の事柄を指しているーー諸物相互の関係という幻想的な形態>
この現象に類似したものを見出すためには、それを宗教世界という曇った領域のうちにもとめざるをえない。そこでは人間の頭脳の産物が、それぞれ特殊な体躯を賦与されて人間との交渉やこれら産物相互間の交渉を.行なうところの独立的な存在、という外観を呈する。商品世界における人間の手の生産物についても、同じである。これが、労働生産物が商品として現われるやいなや労働生産物に付着する物神崇拝、すなわち、この生産様式に不可分の物神崇拝、と名づけることのできるものなのだ。
   <⑥宗教世界と同じく、転倒した商品世界での人間の手の生産物 が主体となる転倒>
⑤一般的に言うと、有用物が商品になるのは、それらの有用物が、相互に独立して営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。これら私的労働の総体が、社会的労働を形成する。生産者たちは、彼らの生産物の交換によってはじめて社会的に接触するのであるから、彼らの私的労働の社会的性格が最初に確認されるのも、この交換の限界内に限られる。あるいは、私的労働は実際には、次の関係によってはじめて社会的分業として現われる。すなわち、交換が労働生産物のあいだに、そして間接には生産者たちのあいだにうちたてられるという関係によって。この結果、生産者たちには、自分たちの私的労働の関係が、あるがままのものとして、すなわち、自分たちの労働そのものにおける人と人との直接的な社会的関係としてではなくむしろ物と物との社会的関係として、現われることになる。
       <⑦自分たちの私的労働の関係が、物と物との社会的関係として、現われる>
⑥労働生産物はその交換のなかではじめて、有用物としての多様な物的存在とは区別されるところの、同等で一様な社会的存在を、価値として獲得する。有用物と価値物への労働生産物のこのような分裂が実際にひろがるのは、有用物が交換を目あてに生産されるほどに、交換が充分広範囲かつ大量に行なわれるようになった直後のことであって、このために、これらの有用物の価値性格は、生産そのもののなかですでに考慮されるようになるのである。
    <⑧有用物と価値への労働生産物の分裂が起こるのは有用物が交換を目あてに生産>
生産者たちの私的労働は、この瞬間から、事実上二重の社会的性格を獲得する。
    <⑨私的労働--労働--が二重の社会的性格を獲得>
これらの私的労働は一方では、有用労働でなければならず、社会的な必要をみたさなければならず、このようにして総労働の、すなわち自然発生的に形成される社会的分業体制の、構成部分として確認されなければならない。他方、これらの私的労働は、それぞれの有用な私的労働種類が他のすぺての有用な私的労働種類と交換可能なものであり、すなわち、これらと同等であると見なされるがゆえにはじめて、生産者自身のさまざまな必要をみたすのである。相互に全くちがっている労働の同等性は、それらの労働の現実の非同等性を無視するばあい、すなわち、それらを人間労働力の支出としての、人間労働一般としての共通な性格に還元するぽあいに、はじめて成立しうるのであって、ただ交換だけが、この上なく多様な労働生産物を同等の立場で相互に対面させることによって、こうした還元を行なうのである。

⑦私的労働の二重の社会的性格は、実際の交易つまり生産物の交換が生産者たちに押しつけられる形態でのみ、彼らの頭脳に反映される。生産者たちは彼らの労働生産物を価値として対峙させて関連させるが、それは、彼らがその労働生産物のうちに、同一の人間労働を隠している単なる外被を、看取するからではない。全く逆である。彼らは、自分たちの相異なる生産物を交換において同等と見なすことによって、自分たちの相異なる労働が同等であることを実証する。彼らはそうとは知らずにそうする。(27)
    <⑩労働の二重性の示す、価値に表示される人間労働があることで、交換しうるか?
    --自分たちの相異なる生産物を交換において同等と見なす
    --そのことで、自分たちの相異なる労働が同等であることを実証す
    --上記があって、生産者たちは彼らの労働生産物を価値として対峙
    --有用物の価値への転化-->
だから、価値の額(ヒタイ)の上には、それがなんであるかは書かれていない。価値はむしろ、それぞれの労働生産物を象形文字にする。時が経ってやっと、人間はこの象形文字の意味を解読し、自分が関与して作ったこの社会的生産物の秘密を洞察しようと試みるのであって、有用物の価値への転化は、言語と全く同じに社会の産物なのだ。〉(49頁)

⑧労働生産物は価値としてはその生産に支出された人間労働の純粋にして単純な表現である、という後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時期を画すものであるが、労働の社会的性格を物の性格、生産物自体の性格として出現させる幻影を、少しも一掃するものではない。

この特殊な生産形態、つまり商品生産にとってのみ真実であるもの--すなわち、この上なく多様な諸労働のもつ社会的性格が、人間労働としてのそれらの同等性のうちに成り立っていること、そしてまた、この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていること--、
     <⑪四段落での提示である①②③のことがらが、自然的形態、不問事項になる>
この事実は、商品生産の機構と関係のなかにとらわれている人間にとっては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実であるかのように見えるのであって、このことは、空気の化学元素の発見の前後を問わず相変わらず同じである空気という気体形態のばあいと、全く変わりがない。

⑨交換者が最初に実際上関心をもつことは、自分の生産物と引き換えにどれだけのものを手に入れるか、すなわち、生産物が互いに交換される比率を、知ることである。この比率がある慣習的な固定性を獲得するやいなや、それが交換者にとっては労働生産物の性質自体から生ずるかのように見える。化学物質が固定的な比率で化合しているのと同じように、これら諸物のうちには、一定の比率で交換されるという属性が宿っているかのように見える。
        <⑫交換比率--労働生産物の性質自体から生ずる・自然的形態に見える>
⑩労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定されるばあいにかぎられる。価値量は、生産者たちの意志や予測にかかわりなく不断に変化し、したがって、彼ら自身の社会的運動が彼らの眼には物の運動という形をとる。彼らはこの運動を導きうるどころではなく、運動が彼らをひきずるのである。次のような科学的真理が経験そのものから引き出されるまでには、商品生産が完全に発展していることが必要である。この科学的真理は、相互に独立して営まれる私的労働が、社会的、自然発生的な分業体制の分枝として絡み合っているとはいえ、その社会的な比率尺度に絶えず還元される、ということである。
それでは、なぜか?
       <⑬運動が彼らをひきずる--価値量が社会的必要労働量に規定される>
私的労働の生産物の偶然的な、いつも可変的な交換比率においては、その生産に必要な社会的労働時間が規制的な自然法則として力ずくで勝利を占めるからであり、このことは、象が頭上に崩れ落ちてくれば誰にでも重力の法則が感じられるのと同じである。(28)
したがって、労働時間によって価値量がきまるということは、商品の価値の表面的な運動の背後に隠された秘密である。とはいえ、この秘密の解決は、価値量が外観のように偶然的にきめられるものでないということを示すものの、それによって、価値量が諸物のあいだの、労働生産物自体のあいだの量的関係として表わされるところの形態を、消滅させることはない。
       <⑭価値量が労働生産物それ自体のあいだの量的関係として表わされる
       --このように、①で示された大前提である価値形態は、まったく無視される>

⑪社会生活の諸形態にかんする反省、したがって、それらの科学的分析は、現実の運動とは完全に反対の道に沿って行く。それは後から、すでにすっかり確立された与件とともに、発展の結果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を押し、したがって、商品流通をすでに支配している諸形態が、すでに社会生活の自然形態として固定されるにいたってはじめて、人間は、自分たちにはむしろ不変なものに見えるこれらの形態について、その歴史的性格ではなくその内的意義を理解しようとする。こうして、商品価格の分析からのみ、商品価値の量的規定が導かれたのであり、商品の共通な貨幣表現からのみ、商品の価値性格の固定が導かれたのであった。ところで、商品世界のこうした固定した既定の形態、商品の貨幣形態は、私的労働の社会的性格と生産者たちの社会的関係をあばくのではなしに、これを蔽い隠すだけである。小麦や上衣や長靴は、抽象的な人間労働の一般的な化身としてのリンネルに関連する、と私が言うならば、この表現の虚偽と異常さはたちどころに一目瞭然である。
   <⑮貨幣形態・・長靴は、抽象的な人間労働の一般的な化身としてのリンネルに関連する、
   --一般的価値形態があることで、一般的な相対的価値形態があり、両極の形態が形成さ
   れることが、貨幣形態では隠蔽される、その理由なのです。
   ここでは、一般的価値形態の対極に、私的労働がこの抽象的な人間労働の一般的な実現
   形態になることで、等価形態を示すはずが、右極のみが自立することで、左極の商品世
   界の存在を無視してしまうのです。
   それが、価値形態の謎であり、貨幣形態の謎、なのであります。>
   <それは、商品世界から等価物リンネルが排除されることで、両極の形態の形態が得ら
   れたーーはずが、この貨幣形態では、この価値方程式が、始めの、上着= リンネルの第
   一の公式に、リンネルが貨幣商品になることで、転倒して、一般的価値形態の存立条件
   である無限の価値方程式の羅列である、商品世界を消してしまうからではないか?
   第三の価値方程式での商品世界の無限の表示が、20エレのリンネル=2オンスの金になる
   ことで、この商品世界を形成してきた、第二・第一の形態との関連を、消滅させること
   で、第三の形態から貨幣形態が成長してきたことを、この物神性によって隠すのです。>

ところが、これらの商品の生産者たちが、これらの商品をリソネルあるいは金か銀に、同じことになるが、一般的等価物に関連させるばあい、彼らの私的労働と社会の総労働とのあいだの関係は、彼らにはまさにこういう奇妙な形態のもとで現われるのだ。
   <⑯ 商品世界にて、一般的価値形態があることで、
   商品の生産者たちが、これらの商品をリンネルあるいは金か銀に、関連させた、
   私的労働と社会的労働との関連は、20エレのリンネル=2オンスの金の公式のもと
   では、全て、この物神性によりて、この前提条件が、消滅しているのです。
    <⑫交換比率--労働生産物の性質自体から生ずる・自然的形態に見える>
   だから、抽象的な人間労働の一般的な実現形態としてのはずが、両極の形態を示さ
   ず、単独に、抽象的人間労働の一般的化身になる、奇妙な形態のもとで現われる、
   のです。
   これが、商品の物神性を、解いたら理解できる事柄なのです。>

⑫ブルジョア経済学の諸範疇は、それらが現実の社会的諸関係を反映するかぎり、客観的な真理をもつ悟性形態であるが、これらの諸関係は、商品生産が社会的な生産様式であるような特定の歴史時代にしか属していない。われわれが別の生産形態を考察すれば、現代において労働生産物を蔽い隠しているこの神秘性はまるごと、たちどころに消え失せるであろう。

⑬経済学はロビンソン物語を好むので、まずロビンソソを彼の島に訪れよう。 ・・・・・・

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  14ーー21 段落は略




 
 

    価値形態と弁証法

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月18日(水)14時47分24秒
返信・引用 編集済
  Alternative Systems Study Bulletin

メール版 第26巻第1号 (2018年6月5日)
http://0a2b3c.sakura.ne.jp/assb26-1.pdf

(資料2)『共産主義』21 号掲載論文

29
C 物象化と階級闘争
(一) 価値形態と弁証法
E 君達は、よく、われわれの遺言を執行する、などと言っているが、今日はその手際を
見届けにきたよ。
R そうですか。実は僕らも最近は討論する相手が少ないですから、ありがたいことです。
L では早速はじめたまえ。発言は手短に、分かりやすく。
R 『資本論』初版、価値形態論をどう読むか、ということからはじめたいですね。
E おやおや、君達は僕の恥部の掘り起こしからはじめようというわけかい。仕方ないね。
価値形態の俗流的理解の流布については、僕にも責任があるわけだから。
R 物象化と物化との区別という問題は前提にして、今回は価値形態の弁証法について話
題にしたいですね。
L ほほう、君達は僕が『哲学ノート』で提起しておいた遺言を執行しようとするのかね。
E そういえば、イリイッチ(レーニン)の弁証法の理解では、僕も商品論がわかってい
ない人にはいるのだったね(注1)。
R そうですね。エンゲルスさんの場合、弁証法は主として発展法則という見地から問題
にされていますが、レーニンさんはヘーゲルの論理学に当たってみて、それではまずいと
考えたのでしたね。弁証法の核心が対立物の統一にある、というノートでの提起(注2)
は、矛盾を構造的につかもうとしたのでしょうね。
L こちらでヘーゲルと討論してみたのだが、どうもあの理解では、まだもう一つだった
と反省しているんだ。
R それを聞いて大いに力づきます。実は僕らも、対立物の統一という見地からでは価値
形態の弁証法は解けないのではないかと考えてきたのです。
M 価値形態の弁証法は、いうまでもなく、反照の弁証法さ。

30
(二) 反照の弁証法
E その反照の弁証法というやつは今もよくわからないのだよ。何度かヘーゲルに聞いて
みたんだけどね。
R いま20エレのリンネルが一枚の上着に等しい、という簡単な価値形態を想定します
と、リンネルの価値が上着の使用価値で表されていること、つまり使用価値がその反対物
である価値の現象形態となっていることが知られますが、この事態が反照ということでし
ょう。
M 僕の著作からの文字どおりの引用じゃあ困るね。
R そういわれると難しいのですが、例示を試みることにしましょう。あなたが上着の使
用価値を価値鏡と見ている点がよくわからなかったのです。ついガラスの鏡を思い浮かべ
ますが、それじゃダメなんでしょう。
E 思想史からみれば、人間関係を鏡との比喩で論じるというのは、ヘーゲルの頃流行し
ていたのさ。モール(マルクス)もスミスの『道徳感情論』は読んでいたね。
R ガラスの鏡だと、自分の姿が写し出されますが、価値鏡の場合、上着物質がリンネル
価値の写像だ、ということでしょう。二○エレのリンネルだと一枚の上着があらわれ、四
0エレのリンネルだと二枚の上着があらわれる、というように。
M フムフム。
E モールが言ってたように、価値表現は超感覚的だから、写像も、自分の顔が写るとい
うようにはならないのだね。
R こう考えると、上着が自らの使用価値で、リンネルの価値を照り返している、つまり
使用価値が価値を反射している、ということがよくわかるのです。
M じゃあ価値の方は何を反照しているのかい。
R 使用価値が価値を反照するということはわかったのですが、価値が使用価値を反照す
るという方は、正直いって、もう一つはっきりしないのです。
M 君ね、僕の書いているところをもう一度読んでごらん。
R 初版二○頁でしたね。そこにはこう書いてあります。

「使用価値あるいは商品体は、ここでは一つの新しい役割を演じるのである。それは商品
価値の、つまりそれ自身の反対物の現象形態となる。同様に、使用価値に含まれている具
体的有用労働が、それ自身の反対物に、すなわち、抽象的人間的労働の単なる実現形態と
なる。商品の対立的な二規定は、ここでは、互いに分かれるのではなくて、互いに反照し
あうのである。」

  <註 杉本 この初版7段落には、註20が付されている。マルクスのここでの設問・
  回答が、この註に明らかなように、相対的価値表現の形態内容が--回り道--とし
  て与えられていることで、リンネルの価値形態、があることが提示されている。
  であれば、ここでの課題としていることが、等価形態としての形態規定ではなくて、
  たんに、--それは商品価値の<現象形態>出現形態となる--なのです。
  この誤訳ぶりは、明らかです。相対的価値形態の形成につながる・リンネルの価値
  形態が、この7段落にて提示されているのに、榎原さんは、等価形態の形成とした!
  使用価値が価値を反照したのであれば、
  リンネルの反省規定である上着は、リンネルの価値形態として反照されている。
  これが、人間様ではなく--物象の判断--を示したものです。>

あっそうか。使用価値が価値を反照しているということの裏に、価値が使用価値を反照
するということがあるわけですね。

(三) 鏡の比喩と形態規定
E 反照の弁証法がむつかしいのは、例えば個人Aと個人Bとの間の関係(注3)とか、
ヘーゲルの言う二つの自己意識の関係(注4)とかを想定するとすれば、そこで鏡の役割
を果たす側が、この関係においては新たな形態規定を受け取る、ということなんだね。
M ヘーゲルは事実上形態規定を展開していながらも、自覚的にそうはしていないから、
フレッド(エンゲルス)が反照の弁証法についてヘーゲルに聞いても不可解だと思うよ。
E そういえばヘーゲルは、実体=主体だから、自己意識論においても相互承認がどうし
ても展開できなかったわけだ。モールなら、あそこで一方の自己意識Bの担い手が個人で
ありながら、対立している個人Aの自己意識を写し出す鏡の役割をはたし、この役割にお
いては個人Bの身体そのものが類の単なる実現形態となっている、というのだろうね。
M 『精神の現象学』は、若い頃検討しただけだから、忘れてしまったよ。
R 話を『資本論』にもどしますと、上着が価値鏡となっていること、そこに反照の構造

31
がある、という理解でいいんでしょうね。
L ヘーゲル論理学との関連でいえば、本質論をひっくり返すということだな。
R 『大論理学』の本質論でヘーゲルは反照(反省あるいは反射とも訳される)を詳しく
説いているのですが、あそこは難解ですね。
E ヘーゲル研究者であそこが理解できている人はいないさ。
M ヘーゲルは形態規定に純化してはいないから、形態規定で進んでいって論理が行き詰
まったとき、実体=主体ということ、つまりは内容にもどって論理を組み立てている、と
考えれば、本質論の構造は見透かせるさ。
R そうすると、本質論での反照の弁証法をひっくり返す、という場合、弁証法の運動の
契機を、ヘーゲルが逃げて内容に求めている点を批判して、あくまで形式に求める、とい
うことになるのでしょうか。
L ぼくはいま、古いノートの本質論のところを読み返してみたが、あの時点で反照の弁
証法を把握できていなかった、ということは明白だね。あの時はきっと、ヘーゲル流の非
合理的な反照論に反発を感じていたのだと思う。それはさておき、ぼくは形式に純化する
といったことで、転倒が可能になるとは考えないね。
R じゃあ、価値形態論のなかみに入っていきましょう。
(四) 価値形態の論理
R ぼくらは初版の価値形態論の意義は、簡単な価値形態の分析で、「それはそれ自身の価
値存在を、さしあたりはまず、自分に等しいものとしての他の一つの商品、上着に連関す
ることによって、示すのである」と述べている点にあると考えているのですが。
E ぼくは、あの手紙(注5)のことがあるから、とりあえずは発言をひかえるよ。
R つまり二○エレのリンネル=一枚の上着、という商品の価値形態において、この形態
それ自体の意味する内容が、同じ質のものどうしの関係ということであり、この同じ質と
は抽象的人間労働だ、ということがそこで表現されているということでしょう。
L ぼくも交換の歴史的過程の解明という問題意識で読むことが多かったから、価値形態
の論理それ自体はつめて考えなかったね。
R こういうふうに考えると、等価形態に立たされている一枚の上着という使用価値自体
が、新たな経済的形態規定を受け取っている、ということもよくわかると思うのです。
M 形態規定については宇野弘蔵君も強調していたようだが、君たちもそれに影響された
のかい。
R 彼の場合、あなたとは全然違う意味です。例えば、商品、貨幣、資本を「流通形態」
として規定することが形態規定だ、というほどのことです。そうではなくて、上着の使用
価値が、それとは別の本質の現象形態となっている、ということが、形態規定ということ
の意味でしょう。
E そういえば廣松渉君が、―そうそう、廣松君といえば、ぼくは彼には感謝しなければ
ならないんだが(注6)―彼が最近やっている役割理論の取り込みなんかも形態規定と関
係があるのかい。
R 廣松さんの場合、形態規定を純粋に取り出せなかったから、役割理論に興味を持つよ
うになったのではないでしょうか。
L 西部なんかは論外としても、六○年第一次ブントの指導者だった人たちの最近の言動
にはあきれることが多いね。
E そういう人たちだけでなく、最近の若手の社会科学研究者の書くものも無茶苦茶なの
が多いよ。
M 無知が役に立ったためしはない、ということかい。
L 階級が成熟して資本物神が完成した、という君らの一連の判断についてぼくは保留し
ているが、しかし事態はその証明としての意義を持っているかも知れないね。
R ぼくらは、いわゆるインテリゲンチャの知的生産物が、全く馬鹿馬鹿しいものになっ

32
てきている、というところにも、『資本論』の核心が、大衆的に理解される時代の到来を
感じとっています。
L そういう弁証法はぼくも大好きだ。そうすると君らはモールが書いたあと、百年かか
っても誰も解読できなかった価値形態の論理を、大衆が理解する時代がきた、と見ている
わけだね。
E ぼくの失敗が救済される時代がくるというのかい。
R 話がそれたついでにいいますと、価値形態の論理自体は、例えば言語論や精神医学や
心理学の流行というかたちで外化されているとぼくは考えています。ただしインテリゲン
チャの論説は、物象化にもとづく物象による人格の意志支配との対決をあいまいにしたと
ころで、というより、その事実すら知らずに、たてられていますから、みな的はずれです。
こうした事態は、今日の労働者大衆の運動が、従来のような「戦闘性」を失ってきている
(=階級が成熟している)ことの反映でもあるでしょう。
しかし労働者大衆のなかに目覚めた人たちはいますし、彼らは物象による意志支配と対
決せざるを得ませんから、価値形態の論理が眼に見えていると思うのです。
M 本当のところを言えば、物象による意志支配の様式の暴露が、あの本の核心さ。
(五) 観念論的転倒
R 価値形態の論理に戻りましょう。上着が新たな形態規定を受け取る、というとき、そ
れは使用価値を作る労働が、価値の実体である抽象的人間労働の単なる実現形態となって
いる、ということでした。そしてこのようになることが反照の作用でしたね。
E 商品生産者たちの社会的関係を、労働の反照関係として解読しようと言うわけだね。
R そこででてくる問題が、価値形態の論理における観念論的転倒ですね。
L 諸物を考える場合、一般的なものは抽象の産物であって個物としては存在せず、諸物
の総括としてあるだけなのに、価値形態では、個物としてある、つまり使用価値としてあ
るのは、価値という一般的なものが実在するための仮の姿となっている、という逆転のこ
とだね。
E この転倒は貨幣で説明すると分かりやすい。貨幣にあっては一般的なものが金という
個物として存在しているので、モールは動物なるものが、トラやウサギと同様の個物とし
て生きているようなものだと述べていたけれど(注7)、日本でこの問題に気づいて注意
を促したのは牧野紀之君でしたね(注8)。
R この商品、貨幣の観念論的存在構造が観念論の土台をなしている、ということはわり
あい認められるようになっていますが、ぼくらは物象による意志支配を考慮にいれなけれ
ばならないと考えています。
L そうだね。商品、貨幣の観念論的な存在構造に観念論の土台を見る、というのでは単
なる反映論だ。これは自己批判だが、反映論を克服するにはやはり物象による意志支配を
研究することが必要だね。ロシア語ではディング(物)もザッヘ(物象)も同じ言葉にな
るので、ぼくもはじめの頃は、物象化を物化と受けとめていたが。
R 物象による意志支配の問題はあとでやります。価値形態の論理における観念論的転倒
は、価値表現の理解を難しくしている、ということですが、しかし他方で今日この論理が
社会的意識となって大衆化していて、それがインテリゲンチャによってロゴス中心主義批
判(ポスト構造主義)などの諸説として氾濫させられているわけです。しかし、インテリ
ゲンチャと違って、大衆の場合、論理の転倒は生活そのものに根ざしたものですから、そ
こには価値形態の論理を把握しうる現実性が内在している、とぼくらは考えています。
E そういう話を聞くと、ルカーチの階級意識を思い出してしまうが、その種の実践上の
問題は体系化する必要はない、というのがぼくの忠告だよ。
L 政治的扇動として具体化したまえ。
(六) 価値形態と物象化

33
R ひきつづき価値形態の論理を見ていきます。
価値形態の秘密とは何か、という問題に移りますが、これは通常、使用価値で価値が表
現されること、というように理解され、最善の解釈でも、使用価値上着が価値の単なる実
現形態となっているということを確認することにとどまっているのですが、しかし、この
上着が価値鏡となっているということが、相互に独立した私的諸労働の反照関係にもとづ
くことを理解しなければ、本当にその秘密を暴露したということにはならないと考えます。
E 価値形態の秘密と謎との混同については武田信照君が指摘していたが(注9)、あれは
面白かったよ。あそこを出発点にすれば、宇野・久留間論争の総括も可能となるね。
M 宇野君の場合は論外として、久留間君の場合、ぼくの著作の芸術的一体性ということ
を考慮していないのは問題だよ。
L 第二章交換過程論は、ほとんど変更されてはいないので、初版本文価値形態論との関
連で研究されねばならないのに、宇野君も久留間君も現行版にもとづいて議論するという
間のぬけたことをやらかしたわけだね。
M 先日宇野君と話したが、彼はやっぱり現象学に影響されたといっていたよ。
E 分析によって価値実体をとりだすのは誤りで、現象に則して叙述するべきだ、という
かの発想だな。
R 価値形態の秘密が先に述べたことであるのに比べ、その謎というのは等価形態の謎性
と関係しているとぼくらは考え、前者を物象化の原理、後者を物神性の秘密と理解したの
ですが。
L 物象化と物化の区別という問題は、政治理論の形成にとって重要だと思うね。ぼくは
若い頃に物象化を物化と受け取り、経済過程を意識的行為とは考えなかったが、この点は
『唯物論と経験批判論』を書かねばならなかったとき、哲学上の反映論の限界を突破でき
なかったことの根拠となっていたわけだ。しかしよく考えてみると、社会関係にあっては、
無意識的行為も、実は意識に媒介されている。
E 経済過程は意識から独立しているのではなくて、意志から独立しているのだね。
M 社会関係における無意識的行為の分析は、ぼくが秘かに誇っているものさ。
E 通常、無意識についての理論はフロイトが創始者と見られているけどね。
R ぼくらは『資本論』の物象化論が、実は社会関係における無意識的行為の分析でもあ
ることに最近やっと気づいたのです。
M 貨幣生成のところだね。
(七) 貨幣生成における社会的共同行為
R 初版本文価値形態論には一般的価値形態のあと、第四形態がおかれています。これは
全ての商品所有者が、自分の商品を一般的等価物にしようと考えている場合を念頭におけ
ばよいと思うのですが、この第四形態では貨幣も成立しないし、その結果、商品も成立し
ないのです。
交換過程論では、この第四形態を受けて、商品所有者たちが当惑して考え込むところが
でてきて、そのあと「はじめに行為ありき」ということで、商品所有者たちの本能的な社
会的共同行為による貨幣の生成が説かれています。
M もっと詳しく述べてみないかい。
R 相互に独立した私的諸労働の反照関係に商品所有者たちが順応して労働生産物の商品
形態が生じているとき、この物象の社会的関係としての商品世界を分析することが価値形
態論の課題であったわけですね。
そこでは商品があたかも人格のように意志と意識を持った主体としてあらわれて、諸商
品が社会的に妥当な価値形態を作りだそうと努力するわけです。そして簡単な価値形態か
ら出発して、一般的価値形態に到達し、諸商品が相互に価値としてあらわれることが出来
る形態を見いだしたのですが、しかし、それは第四形態で否定されてしまうのですね。
つまり、物象の世界だけでは貨幣形態形成の必然性は明らかになっても、その現実性は

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解けないのですね。そこで通常は、交換過程での商品交換によってその現実性が解けると
理解されているのですが、そうではないのですね。現実性は商品交換にあるのではなくて、
商品交換に際して、物象たる商品が商品所有者の意志と意識を支配して社会的共同行為を
とらせること(物象の人格化)にあると見るべきでしょう。
M なるほど。その先はどうなるのかい。
R 貨幣は諸商品の交換過程の必然的な産物であるわけですが、貨幣が発生するのは、商
品が交換過程に直面している商品所有者の意志を支配して共同行為をとらせることによっ
てであって、交換行為そのものではないのですね。
このことがわかると、貨幣の発生は、商品所有者の社会的な共同行為を必要とする、と
いっても、この行為は無意識になされる本能的なものですから、当の商品所有者たちにと
っては、貨幣は自然に自立的にあるように見える、ということもはっきりしてきます。
L その物象による意志支配論は面白いね。ぼくは政治の領域では大衆が社会構成体の運
動に順応しているという事実をリアルに評価しておかねばならないと常々考えていて、そ
こで大衆蔑視だといった非難をあびせかけられることも多かったのだが、意志の自由が物
象による意志支配をともなっていることがわかれば、この非難が当たらないことは明白だ
ね。
E その貨幣の生成は、諸商品が相互に価値としてあらわれあうことが出来る、諸商品の
社会的に妥当な形態の成立ということでもあるから、市民社会の成立ということでもある、
ということになるね。そうなるとぼくの国家論、あれは気になっていたのだけれど、見直
すことが可能になるなあ。
R あなたの国家論の総括についてはぜひ機会を改めてお聞きしたいと思います。
先に進みますと、この無意識のうちになされた社会的共同行為によって生成された貨幣
という物象が、今度は貨幣蓄蔵の衝動をもつに到ります。貨幣は私的労働の産物でありな
がら、その私的労働が社会的労働の実現形態となっていて、社会的労働の化身です。
この社会的労働の化身を私物にすることが出来ますから、貨幣蓄蔵によって、より多く
の社会的労働を支配しようという衝動がそこに生まれ、貨幣所有者の意志を支配します。
貨幣がもつこの致富衝動が、貨幣蓄蔵ではなく、資本の生産過程によって実現されるよ
うになると、それは、資本の致富衝動へと発展します。この資本の致富衝動が資本家の意
志と意識を支配して資本が人格化している社会、これが今日の資本主義社会ということで
したね。
M あとの方は大分はしょったようだけど、大筋ではいいと思うね。
(八) 物象化と階級意識
R それで、資本における人格の物象化過程と物象の人格化過程については説明を省きま
して、結論だけを述べましょう。
賃労働者が自らの労働力を可変資本に転化させられ、自らの人格的力を資本へと物象化
させられます。他方、資本は資本家の意志と意識を支配して人格化します。
資本家による労働者に対する支配は、この物象の関係によって媒介されていますから、
その支配は、労働者の労働力が資本に物象化されていることを根拠にして、労働者の意志
を資本家が領有していることとしてあります。これが労働者の経済的服従ということなん
ですね。
M ぼくは労働力の物象化とはいっていない。
R そこは検討を要するとは思いますが、物象化のこのような捉え方からすれば、労働者
階級の階級意識の形成の問題も、自覚の論理や、政治的民主主義の拡大や、自主管理(経
済的民主主義)、といった従来の路線では行き詰まらざるを得ない、ということになると
思います。
E 第二インターナショナルの失敗にぼくは責任をとらなければならないのだが、結局、
モールが書いている、資本主義的生産が発展するにつれ、労働者の資本への経済的服従が

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強まる、ということをわれわれは本当にはわかっていなかったのだろうね。
カウッキーは資本主義が発展すれば危機が生じて社会主義が不可避となる、と考えてい
たし、ベルンシュタインは、この服従の強化過程を社会主義への道だと錯覚していたわけ
だ。もちろん、この服従の強化過程は、同時に労働組合の諸権利の拡大と労働者政党の発
達の過程でもあったから、この錯覚の方は大衆化する余地があり、げんに修正主義の方が
多数派となったわけだが。
L ぼくはコミンテルンの会合で『何をなすべきか』で提起した組織論は西欧では通用し
ない、としばしば述べたが、しかし物象化論をふまえれば、自然発生性と目的意識性につ
いての提起は、むしろ新たに強調されねばならないと思うね。
R ぼくらはいま、最大限綱領の内容で大衆的な諸運動が形成されているし、それらの運
動を発展させねばならないと考えています。
E モールが、『ゴータ綱領批判』に書いたのも、そのことに関連していたね。民主主義的
要求を中心とした最小限綱領でしか大衆運動が組織できない、という発想が伝統化したこ
とにはイリイッチにも責任があるんじゃない。
L 『二つの戦術』は民主主義革命における共産主義者の任務を説いたもので、この理論
は『四月テーゼ』で総括している。ただ後になって民主主義革命から社会主義革命へとい
う二段階路線がコミンテルンで定式化されたのはネップの影響でしょうね。戦時共産主義
の時期の急速な社会主義化の自己批判が、『四月テーゼ』の否定と『二つの戦術』の復権
として、ネップ以降にスターリンらに受け取られたのであろう。
R そういえば、五○年代には『四月テーゼ』は党内では禁書で、共産党の神話を打ち破
ったブントは、『四月テーゼ』の復権だけで急成長したようなところがありました。
E 最大限綱領で大衆運動を組織する、ということはぼくらの念願だった。パリ・コミュ
ーンはすでにそうだった。その敗北は運動主体が最小限綱領しか意識できていなかったと
ころにあったといえよう。
R 最大限綱領、つまり社会革命の要求で大衆運動が起きるなどとは信じられない、大衆
運動の路線は徹底した民主主義の要求以外にはない、と考えている活動家が、いまでも結
構多いのですが。
L そのような人々は、ぼくが徹底した民主主義の要求を、政治権力奪取後の運動の展望
の問題として述べたことを忘れているのさ。社・共、いわゆる既成左翼は最小限綱領でし
か大衆運動を提起しないが、その運動を左へ向けるために徹底した民主主義を対置しよう
というんだろうね。第四インターならともかく、ブントにもそんな発想があったのかい。
R 関西ブントの政治過程論というのがそうでした。しかしぼくらは六○年代末にその克
服を課題としてきました。いまから考えると、社会革命の要求で大衆運動を組織し、その
運動でもって国家権力を打倒し、プロレタリアートの独裁を実現する、という路線の確立
が、この課題への回答になると思います。
L 最大限綱領を要求する大衆運動は当然にも、最小限綱領を要求して闘われてきた従来
の大衆運動とは、その展開も、発展法則も異なるだろうね。
R すでに時代はオルグの時代に入っている、というのがぼくらの認識です。全世界のい
たるところから、一斉に社会革命の要求に基づく大衆運動が展開される前段階にある。
M・E・L われわれを扇動してもしようがないよ。
(九) 社会革命の展望
E せっかくだから、君たちの社会革命の運動の展望を聞こうじゃないか。最大限綱領を
要求して大衆運動を組織しようという意図はわかったが、しかしそれは具体的にはどんな
要求になるのだろうか。
R とりあえず、商品、貨幣、資本、の廃止ということがでてきます。
L そういう事柄では全然政治的扇動にはならないね。
R 階級の廃止ということの具体的内容として述べたつもりなのですが。

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L 階級の廃止、というスローガンも、一般的すぎやしないかい。
R あるスローガンが適切かどうか、という問題を判定するためには、スローガンの方だ
けでなく、運動主体の方をも考慮する必要があるでしょう。
L ウーム。ひょっとして、ぼくはまだ、最小限綱領を要求した旧来の大衆運動における
運動主体を念頭においていたのかも知れない。
E かといって、ぼくにはどうしても、エコロジーとか反原発とか、自然食のための共同
購入だとかが、プロレタリア階級による組織的闘争だとは考えられないのだよ。あれはア
ナーキストの運動さ。モールはどう思う。
M ねえフレッド、ぼくらが一八四八年にプロレタリアートの階級闘争だと述べた当時の
闘争の主要な担い手がプロレタリアートではなかったことを、良知力さんたちが明らかに
したのを知っているだろう。要は闘争の担い手の問題ではなくて、闘争の理念の問題さ。
E アナーキストに批判的なぼくとしては、君らの論議にもアナーキズムのにおいを感じ
るね。
R 社会革命の要求で大衆運動を組織するというと、昔の活動家たちはすぐ、一体政治権
力との闘争はどうなるんだ、といって反発するのですが、ぼくらは政治権力との直接的対
決しか念頭にない人たちの方が、国家の破壊と自由連合を夢みたアナーキストたちの轍を
踏んでいると思います。政治権力を打倒するための闘争に決起するには迂回が必要だ、と
いうことは、あなた方が、ヴィリッヒ・シャッパーたちを批判したときの見解じゃなかっ
たですか。
E 政治権力との闘争を自己目的化したアナーキストも居たが、他方ではコミューン作り
に向かったアナーキストも居たのさ。ぼくは今日の大衆運動は政治運動を否定している、
という意味でアナーキーではないかと見ているさ。
R アナーキストが運動に参加していたり、あるいは思想的なヘゲモニーをとっていたり
することを否定しませんが、しかしそのことと、大衆運動の性格がどうであるかというこ
ととは別問題でしょう『哲学の貧困』には「社会運動は政治運動を拒否する、などと考え
てはならない。同時に社会運動ではない政治運動などというものは、断じて存在しない」
と述べられています。今日の大衆運動は政治的性格をもっていますが、それは旧来の最小
限綱領主義の政治家の眼には政治とは見えない、ということではないでしょうか。
E じゃあ話を転ずるが、社会革命の要求を掲げて大衆運動を展開しようとする場合、ひ
と昔前の構造改革派のやったようなことになるのじゃないのかい。
R 構造改革派が目指したものは実際は民主化の実現でした。彼らにあっては民主主義と
は社会主義への途にほかなりませんでしたから、民主主義的改良が即社会革命の土台とし
て位置づけられていたのです。彼らが掲げていた諸要求は、商品、貨幣、資本、の廃止と
は全く関連していなかったのです。
L 要するに君たちの主張では、商品、貨幣、資本、の廃止といったスローガンを抽象的、
一般的なものとしてではなく、具体的な実践の指針として受けとめるような運動主体が登
場してきている、ということかい。
R そうですね。ぼくらは今日の段階では、手ごたえを感じている、としか言いようがあ
りませんが。
M それで価値形態の弁証法の謎ときが試みられているわけかい。
R ぼくらは今日の大衆運動は社会革命の要求に基づいているけれども、しかし自然発生
的にそうなっているだけだ、と考えています。それは活動家たちが商品の価値を批判でき
ずに使用価値の面からしか批判しないところにあらわれています。ところが使用価値は多
様ですから、使用価値の面からの批判では運動は必然的に分散、対立せざるをえません。
L そうすると、今日の大衆運動の自然発生性と闘うための共産主義者の意識性は、とり
あえずは価値の批判から始まる、というわけだね。
R 実際、今日の大衆運動は使用価値の面からの批判から出発しつつも、労働生産物を商
品とする事によって、それを社会に通用するようにするシステム(商品経済)や、労働力
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を資本へと物象化して、生産物を自らを支配する力として生産し、そうすることによって
生産手段の所有者たる他人(資本家)に自分の意志を領有されるシステム(資本制的生産)
はいやだ、という意識を強めてきています。
L つまりは市民社会批判ということだね。
R 階級の成熟という事態は、労働者階級が市民意識をもつ時代を到来させました。最小
限綱領は、要はより完全な市民社会を要求するものですから、労働者が市民意識をもつに
到った段階では、その種の要求をもとにした大衆運動が魅力を失っていくのは必然的でし
ょう。
E それは説得力があるね。
R ところが市民社会批判を掲げて大衆運動を提起しようという努力は、いままで政党の
側からはなされていなかったのです。にもかかわらず大衆運動の側では市民社会批判が準
備されつつあります。
L 一体どんなものかい。
R 例えば、市民社会の原理ともいうべきものは、個々人はエゴを追求する、社会全体は
エゴが相殺されて均衡する、そこでなお残る問題は国家の行政にゆだねる、といったもの
で、これは社会的生産が資本家の私事として営まれ、競争によって社会的生産におけるバ
ランスを保っているような社会にふさわしい意識形態でした。
ところがこうした市民意識にどっぷりつかったままで生活していってよいのか、という
反省が、大衆運動のエネルギーに転化してきているのです。
M それは大変なことだ。
マルクスが大声で何か言いかけたとき、目がさめた。真夏の夜の夢のなかでの対話はこ
れで終わってしまった。
注1 「ヘーゲルの論理学全体をよく研究せず理解しないではマルクスの資本論、とく
にその第一章を完全に理解することはできない。したがって、マルクス主義者のうちだれ
ひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった」。(『レーニン全集』三八巻、一五
○~一頁)
注2 前掲書、一九一頁。
注3 『資本論』河出書房新社版、五○頁。
注4 『精神の現象学』岩波書店版、一八四頁。
注5 エンゲルス一八六七年六月一六日付手紙。
注6 廣松渉『エンゲルス論』盛田書店。
注7 『資本論』初版、原典二七頁。
注8 さしあたり『初版資本論第一章』鶏鳴出版、一八七頁。
注9 武田信照『価値形態と貨幣』梓出版、一九六頁。
(一九八九年四月)
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商品のフェティシズムの性格とその秘密 の初版 再版 の対比(そのⅡ)

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月 5日(木)15時58分31秒
返信・引用 編集済
           初版                              再版

しかし、これらの方程式のそれぞれは反射的にコート、コーヒー、
紅茶などをユニバーサル等価物として生成し、結果的にコート、
コーヒー、紅茶などで価値表現を生み出します。
すべての他の商品の普遍的な相対価値形式としてです。
商品が普遍的な同等形態に変わるのは、他の商品に対抗する場合の
みである。

しかし、すべての商品は、他のすべての商品とは反対の普遍的な同
等の形に変わります。

すべての商品が、他のすべての商品と、それに対応する自然な形で
普遍的な同等の形に対応している場合、結果として、すべての商品
は社会的に有効な価値量の表示から除外されます。

すべての商品が、他のすべての商品と、それに対応する自然な形で
普遍的な同等の形に対応している場合、結果として、すべての商品
は社会的に有効な価値形態の表示から除外されます。

普遍的な等価形態・それ自身の自然な形態を、ユニバーサル等価形
態としています。

このように、明らかに、商品の分析は、相反するベクトルにおける
価値形態と価値形態そのもののすべての本質的な決定をもたらし、
普遍的な相対価値形式、普遍的な等価形式、そして最後に終わりの
ない単純な相対価値表現 - これは、最初に、値形式の発展におけ
る移行期に最初に形成され、最終的には普遍的な等価物の具体的な
相対価値形式に突然移行するためである。

価値形態と価値形態そのものを矛盾するベクトルで表現すると、普
遍的な相対価値形式が得られ、ユニバーサル等価形態も同じく得ら
れます。

しかし、商品の分析は、これらの形式を一般的な商品形態(これは
また各商品にも適用される)として矛盾する形でもたらした。した
がって、商品Aが矛盾した形態決定の1つにある 商品B、Cなどはそ
れに反対するものを採用する。

しかし、ここで決定的に重要なことは、価値形態が価値概念から生
まれたことを証明するために、概念的に表現された価値形態の内面
的な必要なつながりを証明する<発見する>ことでした。

  <that the value form  価値の形式
  <the value-concept 価値観・価値概念
  <value-substance, and value-amount; i.e.,
  <価値 - 質であり、価値 - 量である。
  <substance,物質、amount 量

                                4.商品のフェティシズムの性格とその秘密
①商品は一目瞭然だと自明で些細なことだ。それの分析は、それが  ①一見すると、商品は自明で些細なものに見えます。彼女
非常に残酷なものであり、形而上学的微妙さと神学的嫌悪に満ちて  の分析によると、彼女は非常にトリッキーなことであり、
いるという洞察をもたらします。単なる使用価値として、その属性  形而上学の精巧さと神学的な紆余曲折がいっぱいです。使
が人間の必要を満足させるという視点から考えるか、人間の労働の  用価値に関する限り、その特性によって人間のニーズを満、
産物としてのみこれらの属性を得るのかどうか、それは卓越したも  たすという観点が、人間の労働力の産物としてこれらの資
のは何もない官能的なものです。人間が彼の活動によって、自分に  質を得るかどうかにかかわらず、神秘的なことは何もあり
                                ありません。
とって有益な方法で自然の物質の形を変えるという事実には、まっ  そして、彼に有用な方法で天然物質の形態を変えるのは完
たくの謎はありません。                     全にはっきりしています。例えば木の形状。あなたがそれ
たとえば、木の形は、テーブルを作ると変更されます。       からテーブルを作るときに変更されます。それにもかかわ
それにもかかわらず、テーブルは木で、普通の、官能的なものです。 らず、テーブルは木であり、普通の官能的なものです。
                                しかし、商品として出現するとすぐに、彼は感覚的に超越
しかし、商品として出現するとすぐに、それは感覚的に超感性的な  的なものに変身します。
ものに変身する。それは地面に足を立てるだけでなく、他のすべて  彼は、足で地面に立っているだけでなく、他のすべてのコ
の商品と対峙し、突然踊り始めるよりは はるかに驚異的な木製の  モディティに逆さまにな立っているだけでなく、他のすべ
頭蓋骨から発達します。                     てのコモディティに逆さまになり、自分の自由意志で踊り
                                始める時よりもはるかに気まぐれな木製の頭からクリケッ
                                トを育てます。(25)

②商品の神秘的な性格は、その使用価値には生じない。それは、   ②商品の神秘的な性格は、その使用価値から湧き出るもの
それ自体で考慮された価値決定から少しだけ生じます。まず第一   ではありません。 価値判断の内容からは発生しません。
に、有用な労働や生産活動が異なっていても、それは他の生物とは  まず第一に、有用な仕事や生産活動がどのように異なって
区別されるような特異的な人体の機能であり、そのすべての機能や  いるかについては、それらが人間の機能であり、その内容
内容、本質的には人間の脳、神経、筋肉、知覚器などの支出であ   や形態が何であれ、本質的に人間の脳の支出であるという
る。                              生理学的な真理である 、神経、筋肉、センスオルガンなど
                                です。
第2に、価値の量の決定に基づいているもの(その支出の時間、ま   第二に価値ーー価値の決定に基づいて、その支出の期間、
たは労働量)、その量は肉眼でも知覚可能な方法で労働の質と区別  または労働の量は、労働の質とは明らかに区別される。
できることは明らかである。すべての条件において、異なるレベル  すべての州で、食糧の生産にかかる作業時間は、開発のさ
の開発で同じレベルではないが、人間にとって懸念される必需品の  まざまな段階で人々が均等には関わらず関心を持たなけれ
生産にかかる労働時間であった。最後に、人々がどんなやり方でも  ばなりません(26)
互いのために働くとすぐに、彼らの労働は社会的形態を獲得する。  最後に、人々が何らかの形でお互いに働くとすぐに、彼ら
                                の仕事は社会的利益シェイプを受け取ります

③彼の島にRobinson Crusoeを連れて行きましょう。それでも、   ③それで、商品の形態を取るとすぐに、作品の謎めいた性
彼は自然のように控えめですが、彼は満足するためのさまざまな   格はどこから来ていますか?明らかに、このフォーム自体
ニーズを持っていますし、さまざまな種類の役に立つ労働をしなけ  から。人間の仕事の平等は、作業成果物の同じ値性の関数
ればならず、道具を作って家具を作り、ラマを飼い、魚や狩りなど  形式を受け取り、その期間によるヒトの労働力の支出の尺
をする必要があります。私たちのロビンソンは彼らからの喜びを引  度は、作業成果物の価値の大きさの形をとり、自分の仕事
き出し、そのような活動をレクリエーションとみなしているからで  の中に、これらの社会的ルールの生産者の最終的な条件・
す。彼の生産的な機能の多様性にもかかわらず、彼は1つの同じロ   作業成果物の社会的関係の形式を受け取ります。
ビンソンの様々な形の活動だけであることを知っているので、人間
の労働の異なるモードです。
必要性そのものは、彼の様々な機能の間で正確に時間を分割するよ
う強要する。彼の活動の全体において、より多くのスペースとより
少ないスペースを必要とするかどうかは、意図された有用な効果の
達成のために克服しなければならない、より大きなまたはより少な
い困難に依存する。                       ④したがって、商品形態の謎は、労働生産物そのものの社会
経験は彼に多くのことを教えてくれます。ロビンソンは時計、日   的性質として、労働生産物そのものの表象的な特徴としての
記、インク、ペンを難破船から救ってくれました。彼の在庫には、  自分の労働の社会的特性を人間に反映させるだけであり、し
彼が所有する使用目的のリスト、その生産に必要な様々な作業、そ  たがって、労働全体に対する生産者の社会的関係を、それら
して最終的にこれらの様々な製品の特定の数量が彼に平均的にかか  の社会的関係としてのオブジェクト<例示>としています。
る労働時間のリストが含まれている。               このクイックプロオーク<取り違え>を通して、作業成果物
ロビンソンと彼の自作の富を形成するものの間のすべての関係は、  は物品、感覚的で、霊的な、または社会的な品物になります。
ここでも氏ヴィルトがいることを非常にシンプルかつ透過的である  したがって、視神経上のものの軽い印象は、視神経そのもの
[6]特定の精神行使せずにそれらを理解することができます。それに  の主観的な刺激としてではなく、目の外のものの客観的な形
もかかわらず、価値のすべての本質的な決定がそこに含まれていま   態として現れる。
す。                              しかし、見ると、光は実際にあるものから、外側のものから、
                                別のもの、目に投げられるようになります。それは物理的な
④ロビンソンの所在地に自由男性組織を置くと、共通の生産手段を  もの間の物理的な関係です。一方、商品形態とそれが提示さ
使って、多くの個々の労働力を意識的に一つの社会的労働力として  れた労働生産物の価値は、その物理的性質と結果的な具体的
費やすならば、ロビンソンの労働の決定はすべて繰り返されます。  関係とはまったく無関係である。

個人的な方法よりも。それにもかかわらず、本質的な違いが出てく  それはここでは物事の関係の想像的な形を仮定しているの
る。すべてのロビンソンの製品は彼の独占的な個人的生産物であ   は、人間自身の明確な社会的関係だけです。
り、それによって彼のためにすぐに使用の対象となりました。    したがって、類推を見つけるためには、宗教界の霧の多い地
組織全体の製品はソーシャルプロダクトです。この製品の一部は、  域に逃げなければなりません。
再び生産の手段として役立ちます。それは社会的なままです。しか  ここでは、人間の頭部の製品は、自分自身と人類の間で、自
し、もう一つの部分は組織のメンバーによって必需品として使われ  分の人生の恵みを受ける独立した形を持っているようです。
ています。この部分はそれらの間で分割されなければなりません。  だから、商品の世界では人間の手の製品がそうですね。
方法この分割は、社会生産生物自体及び生産の発展の歴史的同等レ  これは私がフェチシズムと呼ぶものです。
ベルの特定の方法で変更されます。コモディティ・プロダクション  フェティシズムは、商品として生産されるとすぐに働く製品
と並行してのみ、私たちは、各生産者の生活必需品のシェアは、彼  に執着・固執し、したがって商品の生産とは切り離せません。
の労働時間によって決定されることを前提としています。このよう
な場合、労働時間は二重の役割を果たすだろう。その社会的に計画    ④The mystery of the commodity form is thus
された配分は、さまざまなニーズに応じた様々な労働機能の正しい    simply that it reflects back to humans the
割合を制御します。他方、労働時間は、一般労働における生産者の    social characters of their own labor as
個々のシェアの尺度と同時に、それによって個人が使い切ることが    representational characters of the labor
できる共通製品の部分でも機能する。このような場合には、労働者    products themselves, as the social nature
と労働者の社会的関係は、生産と流通の両面において、透明性を保    of these things, hence the social relation
って単純なままであった。                      of the producers to the total labor as a
                                  social relationship of them objects.
                                  Through this quid pro quo, the work                                   products become goods, sensually psychic or
                                   social things.

     <英語版> の分かりやすさを、見よう。
    ④この世界では、人間の脳の生産物は、人生に恵まれた独立した存在として現れ、お互いと人間の両方に関係しているよ
    うに見えます。だから、人々の手の製品を持つーー商品世界にあるのです。商品はそれゆえに神秘的なもので
    す。なぜなら、その中に人々の労働の社会的性格が、その労働の産物に刻印された客観的な性格として現れるからです。

    生産者と自らの労働の総量との関係は、自分自身の間ではなく、労働生産物の間に存在する社会関係として、彼らに提示
    されるからです。
    これが、労働生産物が商品となり、その性質が感覚によっては知覚されながらも、同時に知覚できない社会的事物となる
    理由である。
    同じように、物体からの光は、視神経の主観的興奮としてではなく、目の外側の何かの客観的な形態として、我々によっ
    て知覚される。

     ーーフェティシズムは、この<英語版>ではこう言い表されています。ーー
    生産者と自らの労働の総量との関係は、自分自身の間ではなく、労働生産物の間に存在する社会関係として、彼らに提
    示されるからです。これが、労働生産物が商品となり、その性質が感覚によっては知覚されながらも、同時に知覚できな
    い社会的事物となる理由である。

    <杉本ーー労働生産物の間に存在する社会関係ーーとは何でしょうか?

    <長谷部訳 資本論 1 の4段落>
    商品形態の神秘性なるものは、たんに次の点にある、ーーというのは、商品形態は、人間じしん労働の社会的性格を労働
    諸生産物そのものの対象的性格として・これらの物の社会的な自然属性として、人間の目に反映させ、したがってまた、
    総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係とし反映させるということ
    これである。
    この交替によって、労働諸生産物は商品ーー感性的で超感性的または社会的な物となる。たとえば、物が視神経に与える
    光の印の印象は、・・・
    これに反して商品形態は、またそれが自らを表示する労動諸生産物の価値関係は、・・・・
    それは、人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬものであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係
    という幻影的形態をとるのである。・・・・・
    <河出書房 世界の大思想18 P66下段ーーP67上段>

    長谷部先生は、価値関係と原文にはない記述を見せています。しかし、諸商品が商品世界に在しているのですから、ネ!
    一般的価値形態を構成する限りで、諸商品は存在し、そのためには、諸商品は、何よりも価値形態であることで、自らの
    そのーー社会的存在の形態を示し、そのことで、自ら価値であリ、使用価値である商品形態を示しています。
    しかし、この理解であれば、物事は、リンネルが一般的価値形態であることで、他のすべての諸商品は価値形態であるこ
    とになり商品世界が形成されていることになるのですが、しかし、マルクスは、この主張を打ち出していず、上の英語版
    にあるように、ーーその性質が感覚によっては知覚されながらも、同時に知覚できない社会的事物となるーーこの理由を
    これから追求します、と述べているのではないか?
    何故なら、諸商品の社会関係が、価値関係であり物と物との関係になっているーーと示したのではなく、物と物との関係
    となっているこの幻影的形態の何故!を、スミス・リカード・ベーリへの批判を、私達生産者に示しているのです。

⑤商品形態をとるとすぐに、それはフォームを仮定する労働生産物  ⑤先の分析がすでに示しているように、商品世界のこの
の困惑を引き起こすのだろうか?                 〈this fetish  character〉神秘的な性格は、商品を生産
                                する労働の独特の社会的性格から生じる。

⑥人々が、同等な人間労働の客観的な外皮とみなす限り、彼らが価  ⑥商品は独立した私的な仕事の産物であるため、これらは
値として互いの製品を関連付けている、この客観的な外見のもとで  最初に商品になります。
は、その様々な労働は同質な人間の労働とのみ見なされます。    これらの私的な作品の複雑さは、社会的な仕事の全体を形
   <その様々な労働は同質な人間の労働とのみ>        成します。
彼らは、彼らの製品を価値として互いに関連づけていることによっ  生産者は作業成果物の交換を通じて社会的接触を得るに過
て、さまざまな労働を人間の労働として互いに関係づけています。  ぎないので、彼らの私的な仕事の特定の社会的性格はこの
個人的な関係は、客観化された形式によって隠されている。     交換の中でのみ現れる。(Or, in fact, )実際には、私的な
だから、価値が何であるかは額に書き込まれません。        作品は、人間関係と生産者との関係によって、社会的活動
彼らの製品を商品として互いに関連付けるために、人々は様々な労  のメンバーとしてのみ機能します。
働を抽象的な人間労働と見なすことを強いられます。        したがって、私的な作品の社会的関係は、後者にとって彼
   <人々は様々な労働を抽象的な人間労働と見なす>      らのものであると思われます。むしろ、人間の直接的な社
                                会関係としてではなく、事実上の人間関係と物事の社会的
                                関係とである。
彼らはそれを知らないが、物質的なものを抽象化し価値に還元する
ことによってそれを行う。これは原始的なものであり、無意識のう  ⑦彼らの交換の中でのみ、作業成果物は、彼らの感覚的に
ちになす本能的な脳の動作であり、必然的に物質的生産の特定の様  異なる功利主義的客観性から分離された、社会的に等しい
式と、この生産がそれらを構成する関係から生長する。       価値 - 客観性を受ける。

                                この作業成果物を<有益な物と価値に分割する>ことは、
まず、彼らの関係は実用的なモードで存在します。しかし、第二   交換所が既に十分な程度と重要性を獲得した時点で実用的
に、彼らの関係は彼らの関係として存在する。           にしか機能しないため、交換のために有用なものが作られ、
                                このように物の〈the value character 〉価値性格は、生
                                産されても考慮されます。

     <有益な物と価値に分割する>ことについて、初版価値形態の冒頭に、既にこう表現されていた。>
     https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
      最初または単純な相対的価値形式
      <初版の第一の相対的価値形態の その第二段落からです。>
    ②リネンは、その使用価値や有用なものの形をして、その地上の姿を現します。それゆえに、その堅いas as linenの
    体質や自然の形は、その価値の形ではなく、その正反対です。それは、それ自体に等しい他の商品(コート)にそれ自体
    を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。 それ自体が価値がないのであれば、独自の
    ものとして(価値として)コートに関係させることはできません。
    それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。 それは、それ自
    体に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。

    コートとのこの関係によって、リネンは1回のストロークで異なるハエを揺るがします。他のコモディティを価値として自
    分自身と同等にすることによって、それ自体を価値として関連ずける。
    自分自身を価値として関連づけることによって、それは同時に自分自身と使用価値として区別されます。
    コートの価値の大きさ(そして価値の大きさは一般的な価値と定量的な価値の両方である)を表現することによって、そ
    の現実の価値とは異なる価値形態を与えます。

       By revealing itself in this manner as a thing which is differentiated within itself, it
       reveals itself for the first time really as acommodity ー a useful thing which is at the
       same time value.
    このように自分自身の内で差別化されているものとして自らを明らかにすることによって、それは本当に商品として初め
    て -それは同時にー価値のある有用なものーであることを明らかにする。

それが彼らのために存在するか、または脳に反映される方法は、
関係の本質から生まれます。後で、彼らは科学の助けを借りて、自
分の社会的製品の謎を後ろから取り除こうとします。今や価値の大  この瞬間から、プロデューサー<生産者>の私的な作品は、
きさに関わる限り、私たちは、互いに独立して(しかし、彼らが原  実際には二重の社会的性格を持っています。
始的な分業のメンバーであるために)プライベートな労働は、あら
ゆる面で常に社会的に縮小されている偶発的かつ絶え間なく変化し  一方では、特定の有用な仕事として、彼らは特定の社会的
ている製品の交換関係において、その生産に社会的に必要な労働時  必要性を満たさなければならず、したがって、労働の社会
間は、例えば、重力の法則がそうであるように、規制自然法則とし  分裂の自然システムの全仕事のメンバーであることを証明
て強制的に適用されるという事実は頭の上に落ちる。        しなければならない。
   <生産に社会的に必要な労働時間は規制的自然法則>     他方、彼らは、すべての有用な私的な仕事は、他の有用な
                                種類の私的な仕事と交換可能であり、従ってそれに無関心
 ⑦したがって、労働時間による価値量の決定は、相対的な商品価  であるという条件で、彼ら自身の生産者の多様なニーズだ
値の動きの中に潜んでいる謎である。               けを満足させる。
生産者自身の社会運動は、生産者がその動きを制御するのではな   人間の労働として所有する共通の性格への縮小において、
く、その制御下にあるオブジェクトの動きの形態を所有している。  実質不平等を抽象化してのみ存在することができる。

最終的には価値形態に関わる限り、私たちは、民間労働者の社会的  私的生産者の脳は、私的な仕事のこの二重の社会的性格を、
関係とその結果として私的労働者の社会的決定を客観的に覆い隠す  実際の交易、製品の交換において - 彼らの私的な作品の社
のはちょうどこの形態に過ぎないことに気付く。          会的に有用な性格 - 現われる形でしか反映しない。

私がコートと言うなら、ブーツなどは抽象的人間労働の普遍的な物  これらの物質的に異なるもの、労働の製品の共通の価値、
質化としてリネンに関係しています。               で仕事の異なる種類の平等の他の社会的な性格にする。

しかし、コート、ブーツなどの生産者がこれらの商品をユニバーサ  物を置くような狂気は目に飛び込ます。
ル相当品としてリネンに関連付けると、彼らの私的労働の社会的関    <向坂・長谷部・新日本新書訳など既存訳は、
連性は、まさにこの狂気のような形で現れます。(原P38~39)           ーー狂気ーーは全て排除、訳出せず>
  <彼らの私的労働の社会的関連性は、まさにこの狂気・・>

                                ⑧だから、人々は、類似の人間の労働の事実上のカバーに
                                過ぎないので、これらのことは価値観として、お互いに価
                                値のある商品を関連付けることはありません。
 ⑧これらの形式はブルジョア経済学のカテゴリーを正確に構成す  逆に、なのです。
る。彼らは歴史的に決定されたこの社会的生産形態の生産の関係の  彼らの多様な製品を価値の交換の対象にするには、彼らの
ために、社会的に妥当な、したがって客観的な考え方である。    異なる作品を人間の労働と見なします。彼らはそれを知ら
                                ないが、彼らはそうする。 (27)
                                したがって、彼は彼のものの額に書かれていません。むし
                                ろ、価値はすべての作業成果物を社会的象形文字に変換し
                                ます。
                                後で人々は、価値としての商品の決定が言語としての社会
 ⑨私的生産者は、プライベートプロダクトを通じて初めて社会的  的産物であるため、自分の社会的製品の秘密を超えて、象
接触に入る。彼らの労働の社会的関係は結果として労働者の社会的  形文字の意味を解読しようとする。
係として即座に現れるのではなく、客観化された人間関係または対  労働生産物が、価値である限り、生産に費やされた人間の
象の社会的関係として現れているように見える。          労働の客観的な表現は、人間の進化の歴史の中で時代を作
しかし、社会的事物としてのオブジェクトの最初の、そして最も普  りますが、決して労働の社会的性格の客観的な類似を避け
遍的な発現は、労働生産物を商品に変身させることである。     ていません。
                                独立した民間企業の具体的な社会的性格が、人間労働とし
                                の同等性にあり、労働生産物の価値形態をとっていること
                                は、この特定の生産形態、商品の生産にのみ有効であり、
                                 <ここでの-労働生産物の価値形態-とは?リカードな
                                 らば、彼の価値法則の規定を延長させるならば、自ず
                                 と、そう理解する--という前提・転倒した理解がある、
                                 ーーとの判断の下での主張なのです。この理解がなけれ
                                 ば「労動生産物の価値性格の形態」(大月P138)との
                                 訳になってしまうのです。
                                 英明な仏語版の訳出の江夏先生は、正しく価値形態とあ
                                 ります。)

                                商品生産の条件におけるこの発見は、空気のその要素への
                                科学的分解が空気の形を物理的な形の身体の形として残す
                                のと同じくらい最終的なものである。

                                ⑨まず第一に、生産者が交換をする際実質的に懸念すべ
                                きことは、彼らが自社のためにどれくらいの他の製品をど
                                れだけを手に入れたのかということです。
                                どのような割合で製品は交換可能ですか?
                                これらの比率は、習慣によってある種の安定性を達成した
                                とき、製品の性質から生じるように見えるので、例えば、
                                1トンの鉄と2オンスの金は自然に1ポンドで示され、異な
                                る物理的および化学的性質にもかかわらず、金と鉄のポン
                                ドの重量が等しいと思われる。価値を持つという性格は、
                                製品に一度感銘を受けたときに、その行動の理由だけで固
                                定性を獲得し、お互いに価値の量として再作用します。
                                これらの量は、生産者の意志、先見性、行動とは無関係に
                                絶え間なく変化する。
                                彼らにとって、彼ら自身の社会的行動は、生産者を支配す
                                るのではなく、生産者を支配する物の行動という形をとっ
                                ている。
                                それは、その前に商品の完全に開発された生産を必要とし、
                                その蓄積された経験だけから、科学的な確信が湧き上がり、
                                民間労働のすべての種類が独立して運営されていること、
 ⑩したがって、商品の神秘主義は、民間生産者の私的労働の社会  そして、お互いに、そして社会的分業の自発的に発達した
的決定が労働生産物の社会的自然的決定と見なされるという事実か  枝として、社会が必要とする量的比率にまで、そこに対象
ら生じる。                           化された労働が、継続的に縮小されつつあるーーことを示
                                している。
事実から、すなわち、人の生産における社会的関係は、物の社会的  なぜ?
関係としてお互いに、そして関係する人に現れるということからで  なぜなら、製品間の偶発的かつ絶え間なく変動する交換関
す。                              係のすべての中で、その生産に社会的に必要な労働時間は、
私的労働の社会的労働の全体に対する関係は、それに反して自分   自然の過乗法のように強制的に主張するからです。
自身を客観化し、その結果、彼らのために物の形で存在する。    したがって、重力の法則は、家が私たちの耳に当たったと
                                きにそれ自体を主張する。[28]
普遍的生産の社会的関係が彼らのように自社製品に向かって行動す  したがって、労働時間による価値の大きさの決定は、商品
ることにあるーー商品の生産者の、社会への商品(故にその値)と  の相対価値の見かけの変動の下に隠された秘密である。
の関連が、その基本に、お互いに自分のプライベートな労働に関連  その発見は、製品の価値の大きさの決定からの単なる事故
する目的としての、フォームである同じ人間労働というのであれば、 のすべての出現を取り除いているにもかかわらず、その決
それはキリスト教であります。                  定が行われる様式を変えるものではない。
特にブルジョワ的開発である、プロテスタンデイズムなどにおいて、
抽象的な人の宗教に最も適切な形態をとっている。

古代のアジア、アンティークなどの生産形態では、製品が商品に変  ⑩彼らの科学的分析を含む人間の生活の様式を反映すると、
身し、コモディティ・プロデューサーとしての人間の存在は従属的  まず第一に、真の発展に反する道を提案する。
な役割を果たすが、コミュニティが衰退の段階に入るほど大きくな  ポストフェスティムを開始し、その結果、開発プロセスの
る。本物の商業人は、Epicurusの神のような古代世界の隙間にのみ  完成した結果が表示されます。
存在するか、またはポーランド社会の孔の中のユダヤ人のように存  人間がこれらの形態の歴史的特徴を説明しようとする前に、
在する。それらの古代の社会的生産生物は、ブルジョア生物よりも  労働生産物を商品に刻印して商品流通にさらされている形
はるかに単純で透明であるが、他の人とのつながりや自然種の臍の  態は、すでに社会生活の自然な形態の堅さを持っている。
欠損のない未成年者、即時のマスタとスレーブの関係に基づいて、   したがって商品価値の分析だけが価値の決定につながり
います。彼らは、人生の憲法の物質的プロセスの中で男性の対応関  ました。商品の共通の金銭的条件であり、価値のキャラク
係が制限され、結果的にお互いに、また自然に、労働力の生産力が  ターの固定につながったのです。
低くなるという条件づけがなされている。この実際の制限は、古代  しかし、民間労働の社会的性格、したがってそれを明らか
の自然や人気のある宗教における理想主義の様式に反映されていま  にしたのではなく、民間労働者の社会的条件を不明瞭にす
す。現実世界の宗教的な反映は、実用的な日常生活の関係が人々に  るのは商品世界のこの完成した形態、つまり貨幣形態です。
とって、日常的に透明で合理的な関係を自然と表現するようになる
とただ消えてしまいます。                    私がその岩やブーツなどを言うとき、抽象的な人間の労働
しかし、関係は自分自身を自分のものとして表現することしかでき  の一般的な実現形態としてキャンバスを参照していて、そ
ません。人生の社会的プロセス(すなわち、生産の物質的プロセ   の表現の狂気は目を引く。
ス)の形態は、意識的で計画された制御下で、自由に社会化された  しかし、ロックやブーツなどの生産者が、これらの商品を
男性の製品として立つと、その霧の神秘的なベールを打ち消すだけ  キャンバス、つまり何も変わらない金や銀を参照すれば、
である。                            同じである、それが、思考形式である。
しかし、それが起こるためには、社会の物質的基盤が要求される   一般的な同等物として、彼らの私的な作品と社会的な仕事
か、あるいは長く痛みを伴う開発の歴史の元の産物である物質的存  の関係は、この狂った形で現れる。
在条件の列が要求される。(原P39~40)             彼らの形式は、社会的に妥当であり、つまりこの歴史的
                                に決定された社会生産方式の生産関係、商品の生産関係に
 ⑪政治経済学は、たとえ不完全であっても、価値と価値の価値を  対する客観的形態なのです。
分析するために、今は確かにあります。
なぜ労働は価値があるのか、時間的持続性による労働の尺度自体が  ⑪商品の世界のすべての神秘主義すなわち商品生産に基づ
価値の量で現れているのかという疑問が提起されたことはありませ  いて労働生産物を包み込んだすべての魔法や憑依は、他の
彼らの額には、生産過程が人を支配するが、人々は生産過程を習得  生産形態に逃げるとすぐに消滅します。
していない社会形成に属していると書かれている。このような形態  ⑪・・・以下 略 ・・・
は、社会的生産のような自明な自然的な必需品としてのブルジョワ  ・
的意識を意味する労働そのものなのです。             ⑭
社会生産的生物のプレブルジョワの形態は、それに応じて政治経済  ⑮
によって扱われており、おおむねプレキリスト教の宗教が教会の父
親によって扱われているのと同じです。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 <次のー-物を置く狂気                       <再版 ⑦段落>
      表現の狂気
  この国民経済学への批判は、スゴイ!>            ・・現われる形でしか反映しない。これらの物質的に異な
                                るもの、労働の製品の共通の価値、で仕事の異なる種類の
                                平等の他の社会的な性格にする。
                                <物を置くような狂気は目に飛びます。>
  <初版⑥                          <再版⑩>
 <ブーツなどは抽象的人間労働の普遍的物質化としての      <私がその岩やブーツなどを言うとき抽象的な人間の労働
  リネンに関係しています。物を置くような狂気は・・・>    の一般的な実現形態としてキャンバスを参照していて、そ
                                の表現の狂気は目を引く。>
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                ⑯一般的な社会的生産関係の示す値、及びその私的労働が
                                抽象的人間のそのカルトと同じ人間労働、キリスト教とし
                                てこの目的の形でお互いをbeziehn<相連結>するように
                                商品として自社製品に振る舞うことで商品の生産、社会の
                                ためにとりわけブルジョワ開発、プロテスタント、デイズ
                                ムなどにおいて最も適切な形態の宗教である。
                                altasiatischenで、アンティークなど生産の商品に製品の転
                                換を果たしているので、人間の存在コモディティプロデュ
                                ーサーのマイナーな役割として、しかし、すべてがより重
                                要である、より彼らの破壊の段階でコミュニティを蹴りま
                                す。
                                実際の貿易国はポーランド社会の細孔内エピクロスの神と
                                して、あるいはユダヤ人のように、唯一のintermundia古
                                代世界に存在します。
                                これらの古い社会的生産生物はブルジョアよりも非常に多
                                くの方が簡単かつより透明ですが、彼らはまだがandrenと
                                自然種関係の臍帯から緩んで壊れていないか、または直接
                                支配と隷属の条件を持っているために、個々の人間の未熟
                                さのいずれかに基づいています。
                                従って、それらはお互いに、自然に、労働の生産力の発展
                                の低水準とそれらの材料生活生成プロセス内の人々の相応
                                にバイアスされた条件によって引き起こされます。

                                <94>これらの実際のバイアスは、理想的に古い自然や民
                                俗宗教に反映反映されています。現実世界の宗教的な反映
                                は、今日の日々の仕事の実用的条件の条件が、お互いに、
                                そして自然と、透明で透明な関係を提供するとすぐに消滅
                                することができます。人生の社会的プロセス、すなわち物
                                質的生産過程の形態は、自由に社会化された人々の生産物
                                を意識して支配するとすぐに、その謎の霧を取り除く。
                                しかし、この目的のためには、社会の物質的基盤が必要で
                                あり、一連の物質的存在条件が必要であり、それ自体が長
                                く痛みを伴った発展の歴史の天然産物である。

                                ⑰政治経済学は実際には不完全だが (31)の値と値のサイ
                                ズは分析して、これらのフォームの内に隠された<95>こと
                                をちょうど発見しました。
                                しかし、なぜこのコンテンツがその形を取るのか尋ねたこ
                                とはありませんでした。なぜ、価値のある仕事とその期間
                                中の労働の尺度は、労働の生産する価値を表すのですか?
                                (32)
                                彼らは生産プロセスはまだ人々が、生産プロセスを習得せ
                                ずしてなす社会秩序に属していることを、彼の額に書かれ
                                ている形態は、自明Naturnot-<自然必然性>としての市
                                民意識を適用する<96>生産的労働として必要自身であり
                                ます。社会的生産物の形態はそれゆえ、このような先キリ
                                スト教以前の宗教によるように、それによって処理されて
                                いるブルジョア的形態なのです。(33)

                                ⑱・・・・・・略・・・・・・
                                ⑲
                                ⑳・・・・・・略・・・・・・


       ぐーぐるほんやく
       https://translate.google.co.jp/?hl=ja
       再版
       http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

       初版ーー英訳
       https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

       『資本論』第一章「商品」のディアレクティーク  丹野, 正
       http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/949/1/AA11349190_9_1.pdf










 

英語版 資本論 4.商品の魅力とその秘密

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 7月 4日(水)09時56分30秒
返信・引用 編集済
  以前の投稿文を、取り替えました。

http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_000.htm
次から、ここをを教えてもらい、見つけたものです。ほんまにありがとう!

英和訳『資本論』
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diijuan-diibu-zi-benno-sheng-chan-guo-cheng


  Karl Marx  Das Kapital. Band I

  4.商品の魅力とその秘密
 ①At first glance, a commodity seems a self-evident, trivial thing.

Her analysis shows that she is a very tricky thing, full of metaphysical sophistry and theological twists. As far as use value is concerned, there is nothing mysterious about it, whether I consider it from the point of view of satisfying human needs by its properties, or of obtaining these qualities as the product of human labor. It is perfectly clear that man, through his activity, alters the forms of natural substances in a manner which is useful to him. The shape of the wood e.g. is changed when you make a table out of it. Nonetheless, the table remains wood, an ordinary sensual thing. But as soon as he appears as a commodity, he transforms himself into a sensually supersensible thing. Not only does he stand on the ground with his feet, but he turns himself upside down to all the other commodities and grows crickets out of his wooden head, much whimsical than when he begins to dance of his own free will.(25)
 ①一見すると、商品は自明で些細なものに見えます。
彼女の分析によると、彼女は非常にトリッキーなことであり、形而上学の精巧さと神学的な紆余曲折がいっぱいです。私は今、彼らは彼らのプロパティを通じて人間のニーズを満たすという点を考慮するかだけ人間の労働の産物としてこれらの性質を受信した場合に限り、彼女はあるとする使用価値は、それについて神秘的なものではありません。人間が彼の活動を通して、彼に有用な方法で天然物質の形態を変えるのは完全にはっきりしています。

例えば木の形状。
あなたがそれからテーブルを作るときに変更されます。それにもかかわらず、テーブルは木であり、普通の官能的なものです。しかし、商品として出現するとすぐに、彼は感覚的に超越的なものに変身します。彼は地面にその足で立ってだけでなく、他のすべてのコモディティに逆さまになり、自分の自由意志で踊り始めるときよりも気まぐれな木製の頭の中からクリケットを成長させます。(25)

②The mystical character of the product does not spring from its use value. It does not arise from the content of value determinations. For, first of all, how different the useful works or productive activities may be, it is a physiological truth that they are functions of the human organism, and that every such function, whatever its content and form, is essentially expenditure of the human brain, nerve, muscle , Sense organ etc. is. Second, on the basis of the determination of value-value, the duration of that expenditure, or the quantity of labor, quantity is even plainly distinguishable from the quality of labor. In all states, working time, which costs the production of food, must interest men, though not evenly, at different stages of development. (26) Finally, as soon as men work for each other in some way, their work also receives social benefits Shape.

 ②商品の神秘的な性格は、その使用価値から湧き出るものではありません。価値判断の内容からは発生しません。

まず第一に、有用な作業や生産活動であるが、どのように異なろうとも、彼らが人間生物の機能であることを生理的事実であるとすると、では何がその内容と形式であるのか、人間の脳の多くの支出、神経、筋肉など、感覚器官の支出です。

第ニに、その支出、または仕事の量の継続時間に基づく価値の大きさなどの量の決定では、仕事の品質と区別も明らかです。 すべての州で、食糧の生産にかかる作業時間は、開発のさまざまな段階で男性が均等には関わらず、関心を持たなければなりません。(26)最後に、人々が何らかの形でお互いに働くと、すぐに人々がお互いのためにどのような方法で作業しても、自分の仕事は、社会フォームを持っています。

 ③So where does the enigmatic character of the work product come from, as soon as it takes on commodity form? Apparently out of this form itself.

The equality of human works preserves the objective form of the same value-objectivity of the products of labor; the measure of the expenditure of human labor through its duration is given the form of the value-magnitude of the products of labor, and finally the relations of the producers, in which those social determinations of their labor are obtained, receive the form of a social relationship of the work products.
 ③それで、商品形態を取るとすぐに、作品の謎めいた性格はどこから来ていますか?
明らかに、このフォーム自体の外からです。
労働の同等性、は労働生産物・価値の客観的価値を客観的に保ちます。
その期間による人間労働力の支出の尺度は、作業成果物の価値の大きさの形をとり、最後に労働者の社会的決定が得られる生産者の関係は、作業成果物の社会的関係の形式を受け取ります。

 ④The mystery of the commodity form is thus simply that it reflects back to humans the social characters of their own labor as representational characters of the labor products themselves, as the social nature of these things,

hence the social relation of the producers to the total labor as a social relationship of them objects.
したがって、商品形態の謎は、労働生産物そのものの表象的な性質として
ーー社会的性質として、労働生産物そのものの自分の労働の社会的性格を、人間に反映させるだけであり、それゆえ生産者の社会的関係としての総労働に対する生産者の社会的関係としてのオブジェクトとして、なすところにあります。

Through this quid pro quo, the work products become goods, sensually psychic or social things. Thus, the light impression of a thing on the optic nerve does not present itself as a subjective stimulus of the optic nerve itself, but as an objective form of a thing outside of the eye. But in seeing, light actually becomes from one thing, the outer object, to another thing, the eye , thrown. It's a physical relationship between physical things.
このクイックプロオーク<取り違え>を通して、作業成果物は物品、感覚的に精神的または社会的なものになります。したがって、視神経上のものの軽い印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外のものの客観的な形態として現れる。しかし、見ると、光は実際にあるものから、外側のものから、別のもの、目に投げられるようになります。それは物理的なものの間の物理的な関係です。

On the other hand, the commodity form and the value of the products of labor in which they are presented have absolutely nothing to do with their physical nature and the consequent tangible relations. It is only the definite social relationship of the human beings themselves which here assumes for them the phantasmagoric form of a relation of things.
一方、商品形態とそれが提示された労働生産物の価値は、その物理的性質と結果的な具体的関係ーーとはまったく無関係である。
それはここでは物事の関係の想像的な形を仮定しているのは、人間自身の明確な社会的関係だけです。

Therefore, to find an analogy, we must flee to the foggy region of the religious world. Here the products of the human head seem to have independent forms endowed with their own lives, among themselves and with human beings. So in the commodity world the products of the human hand.
したがって、類推を見つけるためには、宗教界の霧の多い地域に逃げなければなりません。ここでは、人間の頭部の製品は、自分自身と人類の間で、自分の人生の恵みを受ける独立した形を持っているようです。だから、商品の世界では人間の手の製品がそうみえる。

This is what I call fetishism, which sticks to working products as soon as they are produced as commodities, and which therefore is inseparable from commodity production.
これは私がフェチシズムと呼ぶものです。フェティシズムは、商品として生産されるとすぐに働く製品に固執し、したがって商品の生産とは切り離せません。

 ⑤As the preceding analysis has already shown, this fetish character of the commodity world springs from the peculiar social character of labor, which produces commodities.
 ⑤先の分析がすでに示しているように、商品世界のこの魅力的な性格は、商品を生産する労働の独特の社会的性格から生じる。

 ⑥ Everyday goods only become goods because they are products of independent private work. The complex of these private works forms the total social work. Since the producers only come into social contact through the exchange of their work products, the specific social characters of their private work appear only within this exchange. Or, in fact, private works only function as members of social work through relationships, in which exchange places the products of labor and, by means of them, the producers. The social relations of their private works therefore appear to the latter to be what they are; not as directly social relations of persons in their works themselves, but rather as factual relations of persons and social relations of things.
 ⑥日常品は、独立した私的労働の産物であるため、商品にしかなりません。 これらの私的労働の複雑さは、社会的労働の全体を形成します。 生産者は作業成果物の交換を通じて社会的接触を得るに過ぎないので、彼らの私的労動の特定の社会的性格はこの交換の中でのみ現れる。

あるいは、実際には、私的な諸労働は、人間関係と生産者との関係によって、社会的活動のメンバーとしてのみ機能します。 したがって、私的労動の社会的関係は、後者にとって彼らのものであると思われます。 むしろ、人間の直接的な社会関係としてではなく、事実上の人間関係と物事の社会的関係とである。

 ⑦Only within their exchange do the working products acquire a socially equal value-objectivity, separated from their sensually distinct utilitarian objectivity.
彼らの交換の中でのみ、作業成果物は、彼らの官能的に異なる功利主義的客観性から分離された、社会的に等しい価値 - 客観性を獲得する。

This splitting of the work product into useful thing and value works only practically, as soon as the exchange has already gained sufficient extent and importance, so that useful things are produced for the exchange, the value character of the things thus comes into consideration even with their production. From this moment on, the private works of the producers actually have a double social character.
この作業成果物を有益な物と価値に分割することは、交換所が既に十分な程度と重要性を獲得した時点で実用的にしか機能しないため、有用なものが交換のために生み出されるため、 その生産がなされるようになります。 この瞬間から、プロデューサーの私的な作品は、実際には二重の社会的性格を持っています。

 <有益な物と価値に分割するーー⑦段落>
 <これらの物質的に異なるものを、労働の製品の共通の価値性格
  の形態にすることで、労動の異なる種類を、他の、同等の社会的
  な性格にしている。>
 On the one hand, they must, as certain useful works,
satisfy a particular social need and thus prove themselves to be members of the total work, of the natural system of the social division of labor.
一方で、彼らは、ある有益な作品として、特定の社会的必要性を満たし、したがって、労働の社会分裂の自然システムの全仕事のメンバーであることを証明する。

On the other hand, they satisfy only the manifold needs of their own producers, provided that every useful private work is interchangeable with every other useful kind of private work, and thus is indifferent to it. The equality of completely different works of art can exist only in an abstraction of their real inequality, in the reduction to the common character which they possess as the expenditure of human labor power, abstractly human labor.
他方、彼らは、すべての有用な私的な仕事は、他の有用な種類の私的な仕事と交換可能であり、従ってそれに無関心であるという条件で、彼ら自身の生産者の多様なニーズだけを満足させる。 完全に異なる芸術作品の平等は、人間の労働力の支出、抽象的な人間の労働として所有する共通の性格への縮小において、実質不平等を抽象化してのみ存在することができる。

The brain of private producers reflects this dual social character of their private work only in the forms which appear in practical intercourse, in the exchange of products - the socially useful character of their private works, in the form that the product of labor must be useful to others social character of the equality of the different kinds of work in the form of the common value character of these materially different things, the products of labor.
私的生産者の脳は、私的な仕事のこの二重の社会的性格を、実際の交易、製品の交換において現われる形態でしか反映しない。これらの物質的に異なるものを、労働の製品の共通の価値形態にすることで、使用価値を生産する労動と価値を形成する労動とを区別しています。

the common value character of these materially different things
 <これらの物質的に異なるものの共通の価値性格ーーとは?
  ーー一般的価値形態が諸商品の共同行動である、自らの
  商品世界の形成のために、自らを一般的等価物から排除す
  る、ことで得られたことなのではないのか?
  ーー仕事の異なる種類を、他の、同等の社会的な性格にーー
  することは、等価物リンネル・金・銀などを、この世界か
  ら、排除する、一般的相対的価値形態の形成に依っていた
  のです。この事こそ、ここに述べているのです。>

 ⑧So people do not relate their products of labor to each other as values, because these things are considered to them merely the factual covers of similar human labor.
 ⑧だから、人々は、それらが類似の人間の労働の事実上のカバーに過ぎないので、これらのことをーー価値として、お互いに価値のある商品を関連付けることはありません。
  Vice versa. 逆に。

 <このーー逆に、を考えてみようーー般的価値形態におい
  て、上着が価値としてリンネル価値に関連するのか?
  そんなことはありません!
  第一の形態の、左極では上着は価値形態とされることで、
  リンネル価値を表現でき、
  第三の形態では、上着は他の諸商品と共に、価値形態であ
  ることで、この商品世界からリンネルを排除することで、
  それで・やっとこの一般的相対的価値表現であり、一般的
  相対的価値形態の形成を成すことが出来たのでした。

  そこで、この形態の下では、上着はその自然的形態のまま
  に、この等価物である一般的価値形態である商品リンネル
  に関係することで、既に説明されているーー価値表現ーー
  が出来たのでした。

  商品世界を既に構成していることで、左極の上着・・等々
  は、すでに商品としては価値形態であり、価値であること
  が示されー-前提されているのです。

  商品上着として他商品のそれらに関連していることが、
  以上のように前提されているーーことで、次の註27であり
  ここに示されたことが、価値は、物的ではなく物象的外皮
  のもとにおおい隠された関係ーーなのです。

  物象的外皮ーーとは何か?
  第一では、上着はリンネルの価値形態であり、
  第三では、リンネルは上着等々の一般的価値形態となって
  いることであります。

  そこで、左極の商品世界では、互いの商品が、既に、交換
  可能性の形態とされており、その確認が、本能的無意識
  のうちに、互いを、人間労動とみなすことで、なされてい
  るーーと次に述べられているのです。>

In equating their diverse products as values ??in exchange, they equate their different works as human labor. They do not know that, but they do. (27)
彼らの多様な製品をーー価値の交換の対象にするには、彼らの異なる作品を人間の労働と見なします。彼らはそれを知らないが、彼らはそうする。 (27)

It is therefore not written on the forehead of what it is.
したがって、それはそれが何であるかは額に書かれていません。

Rather, value transforms every work product into a social hieroglyph.
Later, people seek to decipher the meaning of the hieroglyph, to go beyond the secret of their own social product, for the determination of commodities as values ??is their social product as good as language.
むしろ、価値はすべての作業成果物を社会的象形文字に変換します。後で、人々は、価値としての商品の決定が言語としての社会的産物であるため、自分の社会的製品の秘密を超えて、象形文字の意味を解読しようとする。

The late scientific discovery that labor products, insofar as they are values, merely objective expressions of the human labor expended in their production, makes an epoch in the history of human evolution, but in no way shuns the objective semblance of the social character of labor.
労働生産物が、価値である限り、生産に費やされた人間労働の客観的な表現とすることは、人間の進化の歴史の中で時代を作りますが、決して労働の社会的性格の客観的な類似を避けていません。

 <A価値の実体が労動であるーースミス・リカードの古典派経済学への
  批判として、労動の社会的性格の一つが、彼らの主張について
  --人間の進化の歴史の中で時代を作りますーーであることと、マルク
  スは讃えています。
  しかし、労働の社会的性格の客観的な類似になっているー-との批判
  なのです。
  なかなか、ではマルクスが、この価値形態論ー-物神性論にて、どうそ
  のことを、彼らとは異なって主張しているのか?
  そのことを、提示できているのか、・・まとめている人について、私
  は知りません。どう提起しているのか?追求してみます。>

What is valid only for this particular form of production, the production of commodities, that the specifically social character of independent private works consists in their equality as human labor and takes on the form of the value character of the labor products, appears before and after that discovery in the Conditions of commodity production are just as final as that the scientific decomposition of the air into its elements leaves the air-form as a physical form of body.
この特定の生産形態に対してのみ有効なのは、商品生産は、特に社会的な性格が、独立した私的な作品は、人間労働としての同等性にあり、労働生産物の価値形態をとることが、ーー
   ーーと訳出がされてはいない。自身の以前訳も、既存訳は全てですーー
   independent private works consists in their equality as
   human labor and takes on the form of the value character
   of the labor products,
  <国民文庫訳-労働生産物の価値性格の形態をとる-は誤訳です。
  「リンネルの価値存在が上着との同等性に現れることは、・・」
  とすでに、示されており人間労働の同等性は、価値形態をとるーーのは、
  転倒した姿を示しながらも、三節9段落にてリカードの転倒性を、示して
  いることで、明らかです。>
この特定の生産形態、商品生産にのみ有効であるコモディティ・プロダクションの条件における発見は、空気のその要素への科学的分解が空気の形を物理的な形の身体の形として残すのと同じくらい最終的なものである。

  <コモディティ・プロダクションの条件における発見は、ーーとは、
  その限界性が、次の辞典に紹介されている。
  <コモディティ化の進行と新規参入
  古くはテレビ・冷蔵庫・洗濯機などの『三種の神器』とたとえられた
  製品群や、1980年代以降で言えばパーソナルコンピュータやその周辺
  機器は、市場に出始めた時点においては新しく先進的な分野の製品で
  あった。しかし、いずれも販売価格の下落とともに幅広く一般家庭に
  普及し、やがて白物家電として一般化したり、白物家電同然の日常の
  必需品という立場に落ち着いていった。日常生活に必要なさまざまな
  製品や道具において、このような変遷をたどったものは数多い。
  また、それらの多くではモジュール組立方式の導入を用いた製造工程
  の簡略化、低価格化、そしてコモディティ化が起きている。
  ーーウィキペディア フリー百科事典 >

 <89>⑨ What initially interests the product exchangers is the question of how much foreign products they receive for their own product, in which proportions the products exchange.
 ⑨最初に商品交換者が関心を持っているのは、自社製品でどれくらいの外国製品を受け取るのか?という問題です。これらの割合が一定の習慣的な堅さに成熟すると、それらは作業成果物の性質から湧き上がるように見える。

Once these proportions have matured to a certain habitual firmness, they seem to spring from the nature of the work products, so that e.g. a ton of iron and 2 ounces of gold equivalent, as one pound of gold and one pound of iron are equally heavy despite their various physical and chemical properties. In fact, the value character of the work products only attaches to their value as actuators.
ちょうど、1トンの鉄と2オンスの金に相当するもので、金の1ポンドと鉄の1ポンドは、それらの様々な物理的および化学的特性にもかかわらず同等にーー重いーーと同じように見える。実際、作業成果物の価値観は、アクチュエータとしての価値にのみ付いています。

  <アクチュエータは基本的にエネルギーを与えることで運動を発生さ
   せる。何らかの装置に組み込む場合は電気的な信号によって制御で
   きるようにするなどして制御機構に組み込む。
   ウィキペディア フリー百科事典>

The latter change constantly, independently of the will, foreknowledge, and action of the exchanging people. Their own social movement has for them the form of a movement of things they control, not control.
後者は、交換人の意思、予知、行動とは無関係に絶えず変化しています。 彼ら自身の社会運動は、自分たちがコントロールするものではなく、コントロールするものの動きの形を持っています。

It requires a fully developed production of commodities before the scientific insight grows out of experience itself that the private works, which are independent of each other but as natural members of the social division of labor, are continually reduced to their socially proportional measure, because they are found in the accidental and The fluctuating conditions of exchange of their products forcibly enforce the socially necessary working time as a regulating law of nature, such as the law of gravity, when the house collapses over one's head. (28)
それは、相互に独立しているが、社会的分業の自然な構成員である私的な仕事が社会的に比例した尺度に継続的に縮小されるという、科学的洞察が経験自体から成長する前に、商品の完全に開発された生産を必要とする。 偶発的に発見され、その製品の交換条件が変動すると、家が倒壊したときに、重力の法則などの自然の規制法として社会的に必要な労働時間が強制的に強制されます。

The determination of the value by working time is therefore among the appearing Movements of relative commodities hidden secret.
したがって、労働時間による価値の決定は、相対的商品の秘密に隠された動きの中にある。
His discovery removes the semblance of mere accidental determination of the values ??of value to the working products, but by no means their objective form.
彼の発見は、価値ある価値の価値を単なる偶然に決定することのようなものではなく、決して客観的な形ではない。

 ⑩ on the forms of human life, including their scientific analysis, in the first place proposes a path contrary to real development. It starts post festum and therefore with the finished results of the development process. The forms, which stamp products of labor into commodities and are therefore exposed to commodity circulation, already possess the firmness of natural forms of social life, before men seek to give an account of the historical character of these forms; are considered immutable, but about their content. So it was only the analysis of the commodity prices, which led to the determination of the value, only the common monetary term of the goods, which led to the fixation of their value character.
 ⑩彼らの科学的分析を含む人間の生命の形態については、まず第一に、真の発展に反する道を提案する。
  <post festum 祭りの後で・・仮想現実のこと>
ポストフェスタムを開始し、その結果、開発プロセスの完成した結果だけが表示されます。

人間がこれらの形態の歴史的特徴を説明しようとする前に、労働生産物を商品に刻印して商品流通にさらされている形態は、すでに社会生活の自然な形態の堅さを持っている。 不変ではなく、その内容に関するものとみなされます。 したがって、商品価値の分析だけが価値の決定につながりました。商品の共通の金銭的条件であり、価値のキャラクターの固定につながったのです。
 <杉本ーー労動生産物の価値性格が、価値形態の獲得から与えられるの
 ではなく、単に労働の二重性から与えられている事の批判なのです>

But it is precisely this finished form - the money form - of the world of commodities, which obscures the social character of private work and therefore the social conditions of private workers instead of revealing it.
しかし、それだけでなく--私的労働の社会的性格、したがってそれを明らかにするのではなく、私的労働の社会的条件を不明瞭にするのは、商品世界のこの完成した形態、つまり貨幣形態です。

When I say that rock, boots, etc., refer to canvas as the general embodiment of abstract human labor, the craziness of that expression catches the eye.
私がその岩やブーツなどを言うとき、抽象的人間労働の一般的<化身>形態としてーー正確にキャンバスを参照しているが、その表現の狂気は目を引く。
 <杉本・第一・二の形態からの発展としての第三の形態を示さず、
  その第一の形態でのリンネル商品が、一般的等価物の規定であ
  ることで、人々は貨幣形態を示しているので、彼は、そのこと
  を価値形態の連綿とした形態発展の経過を無視したものであり、
  自然的規定としか見えない労働時間による価値の大いさの規定に
  習った、狂気であるとーー非難しているのではなかろうか?
  それが、ーーポストフェスティムPostfestungを開始し、開発
  プロセスの完成した結果だけ、が表示されますと述べたのです>
 <抽象的人間労働の一般的<化身>ーー新日本訳ーーとしてのリン
  ネルに関係するーーとの訳出では、virtual reality 仮想現
  実として転倒して、拡大成長して行く、物神性について、なんら
  その批判取りかかりの発端を、説明できず、捨象している。>

But if the producers of rock, boots, etc., refer to these commodities on canvas - or gold and silver, which does not change anything - as a general equivalent, the relationship of their private works to the overall social work seems to them exactly in this crazy form.
しかし、ロックやブーツなどの生産者が、これらの商品をキャンバス、つまり、一般的な等価物としての、それと何ら変わらない金や銀とを参照すれば、彼らの私的労動と社会的な労動の関係は、 この狂った形態で示されている。

  <A Form of what exactly  in this crazy form.
  この狂った形態であるーーものの形態ーー>

 ⑪Such forms constitute the categories of bourgeois economy. They are socially valid, that is, objective thought-forms for the relations of production of this historically determined social mode of production, the production of commodities. All the mysticism of the world of commodities, all the magic and hauntings that enveloped labor products on the basis of commodity production, therefore vanishes immediately as soon as we flee to other forms of production.
このような形態は、ブルジョワ経済学のカテゴリーを構成する。
彼らの示すものは、それは社会的に妥当であり、つまり、この歴史的に決定された社会生産方式の生産関係、商品の生産関係に対する客観的思考形式である。 商品の世界のすべての神秘主義を示すそれらは、すなわち商品生産に基づいて労働生産物を包み込んだすべての魔法や憑依は、他の生産形態に逃げるとすぐに消滅します。


 ⑫As the political economy loves Robinsonades (29), Robinson first appears on his island. Humble as he is by nature, he has various needs to satisfy and must therefore perform useful work of various kinds, make tools, make furniture, tame lama, fish, hunt, etc. On prayer and the like. We do not speak here because our Robinson finds pleasure in doing so and sees such activity as rest. In spite of the diversity of his productive functions, he knows that they are only different types of activity of the same Robinson, that is, only different ways of human labor.
政治経済がRobinsonadesを愛しているので(29)、ロビンソンは彼の島に最初に現れます。彼は本質的に謙虚であり、満足するためには様々なニーズがあり、様々な有益な仕事をしなければならず、道具を作ったり、家具を作ったり、ラマを飼い、魚や狩りをするなど、祈りなどが必要です。私たちはここでは話しません。なぜなら、私たちのロビンソンはそうすることに喜びを感じ、休息のような活動を見ているからです。彼の生産的な機能の多様性にもかかわらず、彼は彼らが同じロビンソンの異なる種類の活動、すなわち人間の労働の異なる方法だけであることを知っている。

The need itself forces him to divide his time precisely between his various functions. Whether one more, and the other takes up less space in its overall activity, depends on the greater or lesser difficulty to be overcome in order to obtain the intended benefit. Experience teaches him that, and our Robinson, watch, ledger, ink and quill rescued from shipwreck, as a good Englishman, soon begins to keep a record of himself.
ニーズそのものは、彼の様々な機能の間で正確に時間を分割するように強制します。他の人が全体的な活動の中でより少ないスペースを取るかどうかは、意図された利益を得るために克服することが困難または困難であるかどうかにかかっています。経験は彼にそれを教え、ロビンソン、時計、帳簿、インクと羽毛は、難破船から救助され、良い英国人として、すぐに彼自身の記録を維持し始めます。

His inventory contains a list of the commodities which he possesses, the various activities required for their production, and, finally, the labor-time, which on average costs him certain quanta of these various products. All relations between Robinson and the things that make up his self-created wealth are here so simple and transparent that even Herr M. Wirth might understand them without any special mental effort. And yet it contains all the essential provisions of value.
?彼の在庫には、自分が所有する商品のリスト、その生産に必要なさまざまな活動、そして最終的に平均的にこれらの様々な製品の特定の数量を要する労働時間が含まれています。ロビンソンと自己創造財産を構成するものとの間のすべての関係は、シンプルで透明なので、ハーマー・ワートは特別な精神的努力なしにそれらを理解するかもしれません。しかし、それには価値のあるすべての必須規定が含まれています。

⑬Now let us move from Robinson's bright island to the dark European Middle Ages. Instead of the independent man, we find everyone here dependent - personal property and lord, vassals and lenders, laymen and priests.
今度は、ロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に移りましょう。独立した人の代わりに、個人の財産と君主、臣下と貸し手、一般人と司祭たちに依存しているのは、ここにいるすべての人たちです。

Personal dependence characterizes just as much the social relations of material production as the spheres of life built upon them. But precisely because personal relationships of dependence constitute the given social basis, works and products need not assume a fantastic form different from their reality.
個人的依存は、物質生産の社会関係を、それらの上に構築された人生の領域と同じくらい特徴付けます。しかし、個人的な依存関係が社会的基盤を構成しているからといって、作品や製品は現実とは異なる幻想をとる必要はありません。

They enter the social gear as natural services and benefits in kind. The natural form of labor, its peculiarity, and not its generality, as on the basis of commodity production, is its immediate social form here. Labor is as well measured by time as labor-producing labor, but every bodily aptitude knows that it is a certain quantity of his personal labor which he spends in the service of his master. The tithing to be paid to the priest is clearer than the priest's blessing.
彼らは自然のサービスと親切な利益のために社会的要素に入ります。コモディティ生産に基づくように、自然な労働形態、その特質、そしてその一般性ではなく、その社会形態は即座の社会形態である。労働は労働生産労働として時間によっても測定されますが、すべての身体的適性は、それが彼の主人のために費やす彼の個人的労働の一定量であることを知っています。司祭に支払われるべき裁定は、司祭の祝福よりも明らかです。

Just as one may always judge the character masks in which people confront each other here, the social relations of the persons in their works in any case appear as their own personal relations and are not disguised in the social relations of things, the products of labor.
ここで人々がお互いに直面している文字マスクを常に判断するかもしれないように、作品の中の人の社会関係は、自分の個人的関係として現れ、物事の社会的関係、労働の製品の関係としては現れていない。

⑭For the consideration of common, i.
共通の考察のために、i。
We do not need to go back directly to the naturalistic form of this work, which meets us at the threshold of history of all civilized peoples. (30)
私たちは、文明化されたすべての人々の歴史の限界に遭遇するこの作品の自然主義的な形に直接戻る必要はありません。 (30)

A more obvious example is the rural patriarchal industry of a peasant family, for its own needs grain, livestock, yarn, canvas, garments etc. produced.
より明白な例は、穀物、家畜、糸、キャンバス、衣服などが必要とされる農村部の農家主義産業である。

These different things confront the family as distinct products of their family work, but not mutually as goods.
これらの異なることは、家族の仕事の別個の製品として家族に直面するが、商品として相互には直面しない。

The various works which produce these products, agriculture, livestock, spinning, weaving, tailoring, etc., are in their natural form social functions, because functions of the family possessing their own natural division of labor are as good as commodity production. Gender and age differences, such as changing natural conditions of work with the change of season, regulate their distribution among the family and the working time of the individual members of the family.
これらの製品、農業、家畜、紡績、製織、テーラーメントなどを生産するさまざまな作品は、自然な形態の社会的機能を持っています。性別や年齢の違い、例えば季節の変化に伴う自然条件の変化などは、家族間の配分や家族の個々のメンバーの労働時間を調整します。

However, the expenditure of the individual labor force, which is measured by the length of time, appears by its very nature to be the social determination of the work itself, because the individual labor force is inherently only an organ of the collective labor power of the family.
しかし、個々の労働力は時間の長さによって測定され、その性質上、仕事そのものの社会的意思であるように見える。なぜなら、個々の労働力は本質的に家族の集団的労働力の唯一の器官であるため、仕事そのものの社会的決定であることは本質的にそのように見える。

⑮Finally, for a change, let us imagine an association of free men who work with common means of production and self-confidently expend their many individual workers as a social labor force.
最後に、変化のために、一般的な生産手段と協力し、多くの個々の労働者を社会的労働力として自信を持って消費する自由男性の連合を想像してみましょう。

All the rules of Robinson's work are repeated here, only socially rather than individually. All Robinson's products <93> were his exclusively personal product and therefore immediate commodities for him. The overall product of the association is a social product. Part of this product is again used as a means of production. He remains social. But another part is consumed as food by the club members. He must therefore be distributed among them. The nature of this distribution will alternate with the particular type of social production organism itself and the corresponding historical level of development of the producers.

Robinsonの作業のすべてのルールは、ここで繰り返され、個別にではなく社会的にのみ繰り返されます。 Robinsonのすべての製品は、彼の独占的な個人的な製品であり、したがって、彼のための直接の商品でした。協会の全体的な製品は社会的な製品です。この製品の一部は再び生産の手段として使用されます。彼は社会的なままです。しかし、他の部分は、クラブのメンバーによって食物として消費されます。したがって、彼はそれらの中に分散されなければならない。この分布の性質は、特定のタイプの社会生産生物そのものと、それに対応する生産者の発展の歴史的レベルと交互になるだろう。

For the sake of parallel with commodity production, we assume that the share of each producer in food is determined by his working time. Working time would therefore play a dual role.
商品生産と並行して、食品中の各生産者のシェアは労働時間によって決定されると仮定する。したがって、労働時間は二重の役割を果たすであろう。

Their socially planned distribution regulates the correct proportion of the various work functions to the different needs.
彼らの社会的に計画された流通は、様々なニーズに対する様々な仕事関数の正しい割合を規制している。

On the other hand, working time also serves as a measure of the individual share of the producer in the joint work and therefore also of the individually consumable part of the common product. The social relationships of people to their work and their products of work remain transparently simple in production as well as in distribution.
一方、勤務時間は、共同作業における生産者の個人シェアの尺度となり、したがって共通プロダクトの個別に消耗する部分の尺度としても機能する。人々の仕事と仕事の生産物に対する社会的関係は、生産と流通において透過的であり単純なままです。

⑯For a society of commodity producers whose general social relation of production consists in behaving towards their products as commodities, that is, as values, and in their factual form relating their private work to each other as equal human labor, Christianity is with its cult of abstract man especially in its bourgeois development, Protestantism, Deism, etc., the most appropriate form of religion.
生産の社会的関係の一般的な社会的関係が商品としての商品として行動すること、すなわち価値として、そして同類の人間の労働としての私的な仕事を互いに関連づけている事実上の形態の社会にとって、キリスト教は特にブルジョワ開発、プロテスタント、デイズムなどで最も宗教的な形態の抽象的な人物。

In the ancient Asiatic, ancient, etc. modes of production, the transformation of the product into commodity, and therefore the existence of men as commodity producers, plays a subordinate role, which, however, becomes all the more important the more the polities enter the stage of their demise. Genuine trading peoples exist only in the interludes of the old world, like Epicurus gods or Jews in the pores of Polish society.
古代アジア、古代などの生産モードでは、商品の商品への変換、したがって商品生産者としての人々の存在は従属的な役割を果たしますが、政治の進展がますます重要になります彼らの終焉の段階。真の取引民は、ポーランド社会の穴の中のエピキュラスの神やユダヤ人のような古い世界の中間にしか存在しません。

Those old social production organisms are extraordinarily simpler and more transparent than the bourgeois, but they rest either on the immaturity of the individual man, who has not yet broken away from the umbilical cord of the natural species-connexion with others, or on direct relations of domination and bondage. They are conditioned by a low level of development of the productive forces of labor and correspondingly disproportionate relationships of human beings within their material life-generating process, hence to each other and to nature.
これらの古い社会的生産生物はブルジョアよりも非常に簡単で、より透明ですが、彼らはまだ他の人と自然の種としての、かかわりの臍帯から破断していない個々の人間の未熟さに、または直接関係のいずれかで休みます支配と束縛の彼らは、労働力の生産力の低レベルの開発と、物質的な生命発生プロセスの中で人間同士の関係を相応に不均衡にすることによって、お互いに、そして自然に適応しています。

This real self-consciousness is reflected in the old natural and folk religions. The religious reflection of the real world can only disappear as soon as the conditions of the practical life of the daily work of the day provide transparent and transparent relationships with each other and with nature. The shape of the social life process, i. of the material production process, only strips off its mystical haze as soon as it is under the productively conscious control of the product of freely socialized people. For this purpose, however, a material basis of society is required or a series of material conditions of existence, which are themselves the natural product of a long and painful history of development.
この本当の自意識は、古い自然や民俗宗教に反映されています。 現実世界の宗教的な反映は、今日の日々の仕事の実用的条件の条件が、お互いに、そして自然と、透明で透明な関係を提供するとすぐに消滅することができます。 社会生活プロセスの形、すなわち、 自由に社会化された人々の製品を生産的に意識して支配するとすぐに、その神秘的な霧を取り除くだけです。 しかし、この目的のためには、社会の物質的基盤が必要であり、一連の物質的存在条件が必要であり、それ自体が長く痛みを伴った発展の歴史の天然産物である。

⑰<94> The political economy, though imperfect (31), has now analyzed value and value and discovered the hidden in these forms. It has never even asked why this content takes that form, so why does work in value and the amount of labor in its duration represent the value of the product of labor? (32) Forms written on the forehead that they belong to a social formation in which the process of production controls human beings, and man does not yet control the production process, are considered by their bourgeois consciousness to be as self-evident natural necessity as the productive labor itself. Pre-bourgeois forms of the social organism of production are therefore treated by it such as pre-Christian religions from the Fathers of the Church.
政治経済学は、不完全ではあるが(31)、価値と価値を分析し、これらの形で隠れたものを発見した。 なぜこのコンテンツがその形態を取るのか尋ねたことはありませんでした。なぜ価値のある仕事とその期間中の労働の量は労働生産の価値を表していますか? (32)額に書かれている、生産過程が人間を支配し、人間がまだ生産過程を制御していない社会形成に属する形式は、彼らのブルジョワ意識によって、自明な自然の必需品とみなされる 生産労働そのもの。 したがって、生産の社会的生物のプレブルジョアの形態は、教会の父からのキリスト教以前の宗教など、それによって扱われる。

 ⑱<97> Wie sehr ein Teil der Ökonomen von dem der Warenwelt anklebenden Fetischismus oder dem gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Arbeitsbestimmungen getäuscht wird, beweist u.a. der langweilig abgeschmackte Zank über die Rolle der Natur in der Bildung des Tauschwerts. Da Tauschwert eine bestimmte gesellschaftliche Manier ist, die auf ein Ding verwandte Arbeit auszudrücken, kann er nicht mehr Naturstoff enthalten als etwa der Wechselkurs.
 ⑱商品界に付随するフェチシズムや社会的労働条件の客観的外観によって、エコノミストの一部が欺かれていることは、とりわけ証明されます。 交換価値の形成における自然の役割についての退屈で愚かな争い。 交換価値は、物事に関連する仕事を表現する社会的な方法であるため、換算レートよりも多くの天然物質を含むことはできません。

 ⑲Since commodity form is the most general and undeveloped form of bourgeois production, for which reason it appears early, although not in the same dominant, characteristic manner as it does today, its fetish character still seems to be relatively easy to see through. In more concrete forms, even this appearance of simplicity disappears. Where did the illusions of the monetar system come from? It did not look to gold and silver to represent money as a social relation of production, but in the form of things of nature with strange social qualities. And the modern economy, which grins down nobly on the monetar system, does not its fetishism come to fruition as soon as it treats capital? For how long has the physiocratic illusion disappeared that land rent grows out of the earth, not out of society?
 ⑲商品形態はブルジョワ生産の最も一般的かつ未開発の形態であるため、今日と同じ支配的で特徴的な方法ではないが早い時期に出現するため、そのフェティッシュな性格は依然として比較的容易に見える。 より具体的な形では、この単純さの外観さえも消えてしまう。

monetarシステムの幻想はどこから来たのですか? それは、生産の社会的関係として貨幣を表現するのではなく、奇妙な社会的特質を持つ自然のものの形で金と銀を見ていました。 そして、モンテカル・システム<重金主義>をめちゃくちゃ笑っている近代経済学は、そのフェティシズムが資本を扱うとすぐに結実するのではないのですか?
どのくらいの間、土地賃貸が社会からではなく地上から成長するという、フィジカルクラッスの錯覚が消えてしまったのでしたか?

 ⑳Since commodity form is the most general and undeveloped form of bourgeois production, for which reason it appears early, although not in the same dominant, characteristic manner as it does today, its fetish character still seems to be relatively easy to see through. In more concrete forms, even this appearance of simplicity disappears. Where did the illusions of the monetar system come from? It did not look to gold and silver to represent money as a social relation of production, but in the form of things of nature with strange social qualities. And the modern economy, which grins down nobly on the monetar system, does not its fetishism come to fruition as soon as it treats capital? For how long has the physiocratic illusion disappeared that land rent grows out of the earth, not out of society?
 ⑳商品形態はブルジョワ生産の最も一般的かつ未開発の形態であるため、今日と同じ支配的で特徴的な方法ではないが早い時期に出現するため、そのフェティッシュな性格は依然として比較的容易に見える。 より具体的な形では、この単純さの外観さえも消えてしまう。
monetarシステムの幻想はどこから来たのですか? それは、生産の社会的関係としてお金を表現するのではなく、奇妙な社会的特質を持つ自然のものの形態で金と銀を見ていました。 そして、モンテカル・システムをめちゃくちゃ笑っている近代経済学は、そのフェティシズムが資本を扱うとすぐに結実するのではないのですか? どのくらいの間、土地賃貸が社会からではなく地上から成長するという、フィジカルクラスの錯覚が消えてしまったのか?

However, in order not to anticipate, suffice here an example of the commodity form itself. If the goods could speak, they would say that our utility value may interest people. He does not come to us as things. But what we really deserve is our value. Our own traffic as a commodity proves that. We refer only to one another as exchange values. Now listen to how the economist speaks out of the merchant soul:
しかし、予期しないように、ここでは商品形態そのものの例で十分である。 商品が話すことができれば、私たちのユーティリティ価値は人々に関心を持つかもしれないと言います。 彼は私たちに物事として来ません。 しかし、私たちが本当に値するのは、私たちの価値です。 商品としての私たち自身のトラフィックはそれを証明します。 私たちは交換価値としてお互いを参照します。 経済学者が商人の魂からどのように語っているか聞いてみましょう。

 ?"Value" is "property of things, wealth" of "man." Value in this sense necessarily includes exchange, not wealth. "(34)" Wealth "(use-value)" is an attribute of man, Worth an attribute of goods A human or a community is rich, a pearl or a diamond is precious ... A pearl or a diamond has value as pearl or diamond. "(35)
「価値」は「人の財産、財産」です。 この意味での価値は必然的に富ではなく交換を含む。 "(34)"富 "(use-value)"は人間の属性であり、物の属性である人間や地域社会は豊かで、真珠やダイヤモンドは貴重です...真珠やダイヤモンドは、 真珠またはダイヤモンド。 "(35)

<98> ?今のところ、化学者は真珠やダイヤモンドの交換価値を発見していません。
しかし、この化学物質の経済的発見者は、特別な主張を臨界深度まで行うが、物的資質とその価値にかかわらず、物質の使用価値は物としてそれらに属していることを見出している。 彼女がここで確認しているのは、物事の使用価値が交換なしに、すなわち物と人との間の直接的な関係において、逆にその交換の価値のみで実現されるという特別な状況です。 社会的な過程で 誰が夜の警備員シーコアールを教える良いdogberryを覚えていない:

「ハンサムな人間は状況の贈り物だが、読書は自然である」 (36)


       ぐーぐるほんやく
       https://translate.google.co.jp/?hl=ja
       再版
       http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3

       初版ーー英訳
       https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

       『資本論』第一章「商品」のディアレクティーク  丹野, 正
       http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/949/1/AA11349190_9_1.pdf


 

価値形態

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月16日(土)14時39分27秒
返信・引用 編集済
  http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はマダム・クィックリとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   Remember, however,that the goods have only objectivity,
   しかし、物品は客観性だけを持っていること、
   provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
   それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
   are that their value objectivity is therefore purely social,
   したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
   so of course,
   もちろん
   that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
   それは商品と商品との社会関係において,〈that it can only appear 〉唯一明示される
   ということです。、
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の明示〈現れーmanifestationー 明示, 表明;顕示、ー形態はないー〉に戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな使用価値の自然形態とは対照的な貨幣形態です。
Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。
namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、
that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。
The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値の関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。

   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。

  On this detour it is then said that weaving,
  if it weaves value,
  possesses the distinguishing features of tailoring,
  that is, abstractly human labor.

この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を織り成す言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>
   <商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、
   人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、
   社会的にのみ現れるーー価値対象性ー価値の客観性の差とは>

 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。
したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

   〈スカート(上着)は、(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味するーー〉

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」(「価値の保持者」岩波 「・・の担い手」新書版)であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。
  〈キャンバス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/キャンバス?
  キャンバス(英語: canvas)とは、帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて
  描かれる 支持体に使用される。 キャンバスは主に亜麻の繊維から作られるが、…〉

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(亜麻布・リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (= the value taking on the form of a skirt ーー)
  〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることで、彼女はリンネルの価値ある人に、
  なれたのです。
 〈「スカートの形を取る価値」 = AのためのBの体型を仮定し =土地の父親と変えることで
  = 個人Bに陛下として行動するーーと、
  だから、⑦「(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味する」、のです。〉

   この書き方は、フランス語版の次を、改善しているのであります、
「上着が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表すことができるのは、同時に価値が一着の上着の形態をとるかぎりでのことなのだ。」(フランス語版P22)

「同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしに・」(新書版P88)
  「同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなしに・・」(岩波文庫P96)

   “your majesty”  =   陛下<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・」
   --と示された、リンネルの社会的判断・反省規定が、
   <上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をかぶらせられた王に、
   <Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる>ことに、すり変えられ
   ているのです。ところが、手本のフランス語版の筈が、こうつずけたの
   です。
  「・・私人Aは、個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が、直接Aの容貌
   と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのです。」
       (仏語版P22)
   「 Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であ
   ることはできない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わな
   い限り、・・・」 英語版
   ーーこのように二つの訳ともにAが、陛下なのです。
 独
So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずには、個人Bに陛下として行動することはできない。

   このようにーー〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることーー
   との正解への誤解を克服せんとする意志は、明らかです。

     ここに、物象の判断が、〈スカートの形を取る価値〉としてあることで、
     スカートをリネンの価値形態として認め、そして、価値として認めたのです。〉

     しかし、次の英訳もあるのです。

  http://cscs.res.in/dataarchive/textfiles/textfile.2009-12-31.4124091050/file
  Chapter One: Commodities
 ⑧ー2 Human labour is therefore accumulated in it.
In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through.
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value. A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.

   ⑧-2コートの生産において、仕立ての形の人間の労働力が実際に費やされたに違いない。
   それゆえ、人間の労働はそれに蓄積されます。この面ではコートは価値のある
   保管庫ですが、スレッドには付けられていますが、この事実は見えません。
   そして、価値方程式の亜麻の同等物として、それだけでこの側面の下に存在し、
   それゆえ価値ある身体として具現化された価値として数えます。
   たとえば、Bの目の威厳がAの身体的な形をとっていない限り、さらには人の新
   しい父親と一緒に、その特徴、髪型、性格を変えない限り、AはBの「陛下」に
   なることはできません。他にもたくさんのものがあります。
      〈無いものーー
       彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバスは彼の中で
       部族関連の美しい価値魂を認めています。
        the value taking on the form of a skirt
       しかし、同時にスカートの形を取る価値がなければ、
       彼女は価値あるものではありません。〉
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と使用価値、有用な仕事と抽象的人間労
    働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

    ⑭自らの価値や自己の価値を表現することはできませんが、他の価値観や商品
    体系と即座に関連して価値観を提示することができます。それは、それ自体に
    含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態とし
    て、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。そのためには、それは同等の
    ものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。
    ⑮商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品
    に対してのみ存在します。
    単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみ
    を考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法律だけが見つかる。
    商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。
    ⑯しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、その価値の単純な表
    現は価値形態の謎であり[2]、それゆえ金銭的価値があることがわかる。[3]

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

        再版の9 10 11段落
 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。
使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。
値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。

⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。作品は、人間の労働力の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。その崇高な価値客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。ちなみに、その語りの言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品とを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>

⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.

             By means of the value relation, therefore,
    したがって、価値比 により  、
    the value form of the commodity A
    商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、
    the value level of the commodity A.
    または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)
    〈価値鏡 Value mirror Wertspiegel は無い。〉

    商品Aは、価値体としての商品Bを、人間の仕事の素材として、
    自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
    商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなしている。

   (価値体としての商品Bを、自分の価値表現の素材になる使用価値Bにする。)


  (18) In a certain way, man is like the commodity. Since he is born neither with a mirror nor as Fichte's philosopher: I am I, man first reflects himself in another human being. Only through the relationship to man Paul as his equals does Peter refer to himself as a human being. With this Paul also applies his skin and hair, in his Pauline corporeality, as manifestation of the human race.
(18)ある意味では、人は商品のようなものです。 彼はミラーでもフィッテの哲学者でも生まれていないので、私は自分自身を別の人間に最初に反映させます。 ピーターは人間としての彼の同等としてポールとの関係を介してのみ、彼自身を参照する。 このポールはまた、彼のポーランドの体系では、人類の徴候として、彼の肌と髪を適用します。

 〈商品ーーとしてのみリンネルは、上着との関係を介してのみ、彼自身を参照する、のです。
  商品ーーとしてのみリンネルは、使用価値であり、コートは価値形態であります。
  商品ーーこそが主語であります。〉
  〈 商品Aは、価値体としての商品Bを、----自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
  商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなす。
  それは、リンネルの価値形態である コートがあるーーことでなしうるのです。〉
 〈直ちに交換できる価値のかたまり(価値体)として通用するものーとは、ちがいます。〉



http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf
    商品および商品生産    大谷禎之介
 つまりここでは,毛皮も塩も,自分の価値を他の商品で表現しているの
である。この交換関係に含まれている価値表現(商品が行なう自分の価値
の表現)は次のとおりである(第23図)。

 〈第23図単純な交換関係に含まれている価値表現=価値形態〉
 〈図・
 この二つの価値表現は,形態から見ればまったく同一である。どちらの
商品にとっても,相手の商品が自己の価値表現の材料として役立ってい
る。自己の価値を表現する商品は,相手の商品を,自己に価値が等しいも
のとして置いているのであって,自己の価値を表現する商品にとって,こ
の相手の商品は等価物である。等価物は,自己の価値を表現している商品
の価値を見えるようにする鏡(価値鏡)として役立っており,またこの商
品にたいして価値のかたまり(価値体)として通用するもの,つまりそれ
と直ちに交換できるものとなっている。
 このように,ある一つの商品が他の一つの商品で自己の価値を表現して
いる形態を,その商品の単純な価値形態と呼び,また,ここで等価物とし
て役立っているのはただ一つの単独の商品なので,この等価物を単独な等
価物と呼ぶ(第24図)。
    〈P77ー78〉

 

 説得力の無い新自立支援法の中身

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 6月10日(日)18時55分5秒
返信・引用
   説得力の無い新自立支援法の中身
 これまで掲示板に載せたことは知事でも厚生労働省でも法務省でも質問すれはいい。面子にこだわってたかが障害者の一人として12年どこからも説明は来ない。知事は看板団体の暴走を隠すために暴走し、厚生労働省と法務省は法律らしいのが無かった頃の話でも違法とも呼べず面子から犠牲はどうでもと隠すことし早く言えば障害者一人より面子を選んだ。そして法務局には適当にあしらえとされたことは事実のように今は法務局さえ完全沈黙した。
 12年も説明無しの話を誰が信じますか。金がかかるため手紙で3年前から相談していました。来たのは知事に暴走目こぼし権なんて無いと言うのと和解の協力は出来ないと言うだけ。社会参加を全国の社協は完全参加平等と言います。差別、妨害は岩手だけです。掲示板は国内だけでなく外国にも流れ翻訳されるのもあります。世界中から非難や失笑に後ろ指が行きます。
 岩手は完全沈黙で告発は無理の上抹殺しか考えていない。ならば後は責任持てず後は野となれ山となれです。「復権と小笠原夫妻の通訳資格剥奪追放なら別」とし。全国の社協等の掲示板に出しましたが県庁も福祉課も岩手の社協も受信拒否。完全沈黙では効果ない。全国にしても岩手に問い合わせすれば説明抜き相手にするなしか来ないだろう。岩手に問い合わせするくらいなら説明求めればいいでしょう。人権を破壊した状態に説明より関わらせない。12年の圧力のまま厚生労働省は障害者の味方のはず。そんなに面子が大事ですか。
 12年も社会参加もさせず口封じから友達も全部取り上げた。
 それも自立支援法が復活したら差別も妨害もなりふり構わず露骨になった。と言うことは法律らしいのが無かったことを承知で暴走隠しを強行した。それより岩手の団体の暴走を叱りつけるべきでないか。団体優先にして隠した。結局はばれなければいいとろうあ協会会長の知恵遅れまで隠した。被害者が出た事を認めるのは恥ずべき事になり法務省も厚生労働省も認めるより面子から障害者の一人くらいと隠し続けた。全国の社協も疑問に写っている筈。一般もごまかした。誰もボランティアがそんなことするはずは無いと思うから隠しやすいと見た事になる。どう理屈をこねても人権を破壊されたことは事実で変わりは無い。
 情報センターは密告専門らしくビデオ貸し出しも拒否のままここだけ受信拒否しない。更生相談所も障害者の社会参加推進センターも一関の身障協も口封じに入会お断りのまま。法改正を発表しない限り無駄。必死に抵抗しても県庁から看板団体の暴走隠しに此方の社会参加妨害や誰一人関わらせず友達全部取り上げた。
 それが自立支援法が廃止になっていた頃で友の会を辞めたため暴走隠しに初めからの抹殺号令だった。こんな馬鹿なことやるより暴走団体を叱り付けるべきだった。既に障害者の一人くらいとしか見ていない。被害者がいるとなると完全沈黙で逃げるだけで面子優先にした。自立支援法廃止の意味を知っていたからこそ完全沈黙でガードしたことは初めから暴走しようと団体を守るためとして抹殺しか考えていなかったことになる。疎の為にかん口令で固めたのが始まり。復活したら露骨になった。今は復活でも法務省も厚生労働省も面子から動かない。法が変わっても公表出来ない有様で人権は破壊されたままです。
栃木との交流も全国大会も講演会も大阪との賛助会員も全部岩手に妨害され、通訳差別は社協の派遣通訳も要約筆記の会も盲ろう者友の会もいまだに説明しない。暴走目こぼしの特権の理由は無謀備法時代の法律を引きづったせいでとなるか。法の下に何人も平等だと言うのか。団体優先にしての暴走隠しでないか。完全沈黙は和解すより抹殺しか考えていにいことを示しています。

法務局は暴走目こぼし権なんか無いと言って現実は特権として認められていた事になります。法事国家にこんな法律があるとは。
   口封じから通訳さえ貸さないのを当たり前の差別するこんな社会と手を切り別の障害者の団体にばれないように行きます。
   ご迷惑かけました。

 元岩手県盲ろう会員松岡幹夫
 〒029-0303  岩手県一関市東山町松川字町裏の上38
 電話・ファクス 0191-48-2407(但し一人暮らしで電話は無理)
 eメール november@athena.ocn.ne.jp








 これまで掲示板に載せたことは知事でも厚生労働省でも法務省でも質問すれはいい。面子にこだわってたかが障害者の一人として12年どこからも説明は来ない。知事は看板団体の暴走を隠すために暴走し、厚生労働省と法務省は法律らしいのが無かった頃の話でも違法とも呼べず面子から犠牲はどうでもと隠すことし早く言えば障害者一人より面子を選んだ。そして法務局には適当にあしらえとされたことは事実のように今は法務局さえ完全沈黙した。
 12年も説明無しの話を誰が信じますか。金がかかるため手紙で3年前から相談していました。来たのは知事に暴走目こぼし権なんて無いと言うのと和解の協力は出来ないと言うだけ。社会参加を全国の社協は完全参加平等と言います。差別、妨害は岩手だけです。掲示板は国内だけでなく外国にも流れ翻訳されるのもあります。世界中から非難や失笑に後ろ指が行きます。
 岩手は完全沈黙で告発は無理の上抹殺しか考えていない。ならば後は責任持てず後は野となれ山となれです。「復権と小笠原夫妻の通訳資格剥奪追放なら別」とし。全国の社協等の掲示板に出しましたが県庁も福祉課も岩手の社協も受信拒否。完全沈黙では効果ない。全国にしても岩手に問い合わせすれば説明抜き相手にするなしか来ないだろう。岩手に問い合わせするくらいなら説明求めればいいでしょう。人権を破壊した状態に説明より関わらせない。12年の圧力のまま厚生労働省は障害者の味方のはず。そんなに面子が大事ですか。
 12年も社会参加もさせず口封じから友達も全部取り上げた。
 それも自立支援法が復活したら差別も妨害もなりふり構わず露骨になった。と言うことは法律らしいのが無かったことを承知で暴走隠しを強行した。それより岩手の団体の暴走を叱りつけるべきでないか。団体優先にして隠した。結局はばれなければいいとろうあ協会会長の知恵遅れまで隠した。被害者が出た事を認めるのは恥ずべき事になり法務省も厚生労働省も認めるより面子から障害者の一人くらいと隠し続けた。全国の社協も疑問に写っている筈。一般もごまかした。誰もボランティアがそんなことするはずは無いと思うから隠しやすいと見た事になる。どう理屈をこねても人権を破壊されたことは事実で変わりは無い。
 情報センターは密告専門らしくビデオ貸し出しも拒否のままここだけ受信拒否しない。更生相談所も障害者の社会参加推進センターも一関の身障協も口封じに入会お断りのまま。法改正を発表しない限り無駄。必死に抵抗しても県庁から看板団体の暴走隠しに此方の社会参加妨害や誰一人関わらせず友達全部取り上げた。
 それが自立支援法が廃止になっていた頃で友の会を辞めたため暴走隠しに初めからの抹殺号令だった。こんな馬鹿なことやるより暴走団体を叱り付けるべきだった。既に障害者の一人くらいとしか見ていない。被害者がいるとなると完全沈黙で逃げるだけで面子優先にした。自立支援法廃止の意味を知っていたからこそ完全沈黙でガードしたことは初めから暴走しようと団体を守るためとして抹殺しか考えていなかったことになる。疎の為にかん口令で固めたのが始まり。復活したら露骨になった。今は復活でも法務省も厚生労働省も面子から動かない。法が変わっても公表出来ない有様で人権は破壊されたままです。
栃木との交流も全国大会も講演会も大阪との賛助会員も全部岩手に妨害され、通訳差別は社協の派遣通訳も要約筆記の会も盲ろう者友の会もいまだに説明しない。暴走目こぼしの特権の理由は無謀備法時代の法律を引きづったせいでとなるか。法の下に何人も平等だと言うのか。団体優先にしての暴走隠しでないか。完全沈黙は和解すより抹殺しか考えていにいことを示しています。

法務局は暴走目こぼし権なんか無いと言って現実は特権として認められていた事になります。法事国家にこんな法律があるとは。
   口封じから通訳さえ貸さないのを当たり前の差別するこんな社会と手を切り別の障害者の団体にばれないように行きます。
   ご迷惑かけました。




 12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長小笠原利行さんが読み書き出来ない聾唖者の言うあいつの親父は馬鹿なのだ妥協しろと言うのを馬鹿らしいとして退会したのが始まりです。
 後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと宗教と回心を押しつけて行きました。こちらも聾唖者です。
 構わず別の団体に行こうとすると妨害が入りました。
 団体の暴走を叱りつけるべきが県庁は看板団体のためかん口令を敷いた。関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせない。社会参加は全部妨害しました。それが12年続き疲れはて2月和解求めても無視。和解は暴走がばれるだけになる。抹殺しか考えていない。
   最初の別団体は県難連(難病団体連合会)
 初めは更生相談所の相談員に相談しましたが忙しいというので手紙で交渉して内定する頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さん小笠原ひとみさんの悪口妨害が入り取り消しになった。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。大本家は今年96歳で法廷には立てないと言い、山形の姉が呼ばれ親父の墓の前であんな社会と関わるなと。
 県庁に抗議すると課長は親を馬鹿と認めたらと言い出した。
 12年妨害続き。4年前人権相談して盛岡地方法務局水沢支局と相談しています。法務省は法務局に話せとしか言わない。厚生労働省にしても完全沈黙で一言も答えない。たかが障害者の一人位適当にあしらえと法務省は法務局に話したのか今は法務局も完全沈黙しています。それにこちらも疲れもう諦めるしかないかとしての最後の挨拶みたいに全国の社協などに掛け合っているのです。
 知事に暴走特権があるのかと。復興が原因か、自立支援法が廃止になったのは13年前。友の会を辞めたのは12年前。そしとて差別、妨害が激しく露骨になったのは自立し運法が復活した頃からです。暴走が罵詈手市舞うことからなりふり構わなくなったのでないか。
 かん口令は初めから抹殺しか考えていない。誰一人と付き合えない12年の圧力です。
 自立支援法が廃止とになったことを悪用したようです。復活してしまうとあわてたことになります。
 聾唖者は通訳を見習って社会生活や常識を覚えていきます。それが相手が会長のため太鼓餅しておだてまくったことになります。友達になろうとしたが本人約束を守ることも詫びることもせず知らなかったと言えば正義になると言い張っています。
 厚生労働省も法務省も知らん顔で障害者の一人くらいとしか見ていない。自立支援法の廃止で犠牲者がでたことを恥て揉み潰し隠そうとしているのでないか。12年説明はどこからも来ていません。
   社会参加妨害は地元程度は別として口封じから11年で12回の妨害です。
 盲ろうで小脳萎縮の一人暮らし。ボランティアさえも圧力から誰も来ません。

。                                                          松岡幹夫

 

商品に提示された労働の二重性 と 価値形態論

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 9日(土)22時34分57秒
返信・引用 編集済
  ⑩ー10 簡単にするために、どんなタイプの労働もただちに〈労働〉であるとみなされ、還元の努力を節約する。

⑪だから、ロックやキャンバスの値がユーティリティの価値〈使用価値〉の違いから抽象化されているように、これらの値で提示されている作品、その有用な形態の違い、仕立てと製織からもそうです。 ロックとキャンバスの使用価値は、生地と糸との意図的で生産的な活動のつながりであるのと同じように、ロックやキャンバスの価値は単に類似の作業
であるため、これらの価値に含まれる作品は、布と糸、しかし労働力の支出だけの人間労働としてのみを表す。

これらの使用価値のロックとキャンバスの教えることは、非常に異なる性質によって、仕立てと製織--とされています。 スカート値の実体とキャンバスの価値は、それらの特定の品質から抽象化され、同じ品質を有する限り、人間の仕事の質に過ぎない。

これらの値に含まれる人間労働は、布や糸の使用において生産的であるとはみなされず、人間の労働者としての労働力支出としてのみである。

⑫しかし、岩とキャンバスは単なる価値ではなく、特定の大きさの価値であり、私たちの発想によれば、スカートはリネン10キュビットの2倍の価値があります。この違いはどこにあるのですか?したがって、キャンバスにはコートの半分しか含まれていないので、後者の生産のためには、労働力支出は前者の生産の2倍の時間を費やさなければならない。

⑬したがって、商品に含まれる作品が使用価値に関して質的に妥当である場合、それは価値に関して定量的にのみ適用され、既に何らかの品質をもたずに人間の労働に還元されている。そこには、仕事の方法と内容、その周りの時間、その期間が関係します。商品の価値はそれに含まれる作品の量子のみを表すので、ある割合の商品は常に等しい価値でなければならない。

⑭生産力が残っている場合、コートの製造に必要なすべての有用な作業を言うならば、スカートの価値はそれ自身の量と共に増加する。 1つのスカートx、2つのスカートが2 x就業日を表すなど。しかし、スカートを二重に製造するのに必要な作業を半減させるとします。最初のケースでは、スカートは2つのスカートと同じくらいの価値があります。後者の場合、2つのスカートは以前と同じくらいの価値がありますが、どちらの場合もスカートは同じサービスを実行しますが、それはグッドネスが残っている。しかし、その生産に費やされた仕事の量は変わった。

⑮より大きな量の使用価値は、それ自体でより大きな財産を形成し、2つ以上のスカートを形成する。 2つのスカートでは、1人でなく2人を服装することができます。それにもかかわらず、物質的財産の増加は同時に価値の低下に対応できます。

この対照的な動きは、仕事〈人間労働〉の2通り(以上)の解釈を許す性質から生み出されます。

生産力は、もちろん、常に有用で具体的な仕事の生産力であり、実際には一定期間における適切な生産活動の効率のみを決定します。

したがって、有益な仕事は、その生産力の上昇または下降に正比例してより豊かなまたはより貧しい製品供給源になる。 一方、生産力の変化は、<61>値で示された作業に影響を及ぼさない。 もちろん、生産力は具体的な有用な作業形態に属するので、具体的な有用な形から抽象化されるとすぐに作業に影響を及ぼすことはできません。

したがって、生産力がどのように変化しても、同じ労働は常に同じ時間内に同じ大きさの価値を与えます。

しかし、同じ期間に、生産力が増すにつれて、より多くのQuantaの使用価値をもたらします。

労働生産性を向上させる生産力の同じ変化、それによって供給される効用価値の量は、生産に必要な労働時間の合計を短くするならば、この増加した総量の価値を減少させる 。 同様に、逆も同様です。


 ⑯All labor is, on the one hand, the expenditure of human labor in the physiological sense,and in this capacity of equal human or abstract human labor, it constitutes the commodity value.
すべての労働は、一方では、生理学的意味での人間の労働の支出であり、同じ抽象的な人間の労働の性質の上で、それは商品価値を構成する。

  〈「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、
   この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値
   を形成するのである。」岩波文庫〉


All labor, on the other hand, is an expenditure of human labor in a particular form, and in this capacity of concrete useful labor produces usefulness. (16)
一方、すべての労働は、特定の形で人間の労働を支出するものであり、このような具体的な有用な労働は有用性を生む。 (16)


http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm#Kap_1_3


  3. Die Wertform oder der Tauschwert
   A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
 商品は、鉄、キャンバス、小麦などの商品(or commodities)や商品形態で生まれます。
これは自家製の形です。

しかし、商品は二重であり、商品であり、同時に価値のある運送業者でもあるため、商品でしかありません。
したがって、それらは二重形態、自然形態および価値形態を有する場合に限り、商品としてのみ現れ、または商品形態のみを有する。

 商品の客観性はマダム・クィックリとどこが違うかという点で異なる。
 商品の官能的に粗い客観性とはまったく反対に、天然物質の原子はその価値の客観性に入っていない。
 したがって、1つ1つのの商品を好きなようにこねまわすことができます。価値のあるものとしては理解できません。

 しかし、商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、社会的にのみ現れることは言うまでもない、そこに商品と商品の社会関係があります。

Remember, however,
しかし、
that the goods have only objectivity,
物品は客観性だけを持っていること、
provided they are expressions of the same social unity, of human labor,
それらが同じ社会的団結、人間の労働の表現であるならば、
are that their value objectivity is therefore purely social,
したがって、その価値客観性は純粋に社会的であり、
so of course,
もちろん

that it can only appear in the social relationship from commodity to commodity.
 それは商品と商品との社会関係においてのみ現れることができるということです。

In fact, we assumed the value of the exchange or exchange of goods in order to track their hidden value.
実際には、私たちは隠れた価値を追跡するために商品の交換や交換価値を仮定しました。

Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

We must now return to this manifestation of value.
今我々はこの価値の現れに戻る必要があります。

Everybody knows, even if he knows nothing else, that the goods have a common value form, which contrasts sharply with the colorful natural forms of their use-values-the money form.
たとえ彼が何も知らずとも、商品は共通の価値形態を持っていることは誰もが知っています。これは、カラフルな使用価値の自然形態とは対照的な貨幣形態です。

Here, however, it is necessary to do what was not even attempted by the bourgeois economy.
しかし、ここでは、ブルジョア経済学によって試みられたことさえもないーーことをする必要がある。

namely to prove the genesis of this form of money,
すなわち、この貨幣形態の起源を証明するために、

that is, to follow the development of the value expression contained in the value of the goods, from its simplest, most inconspicuous form to the dazzling form of money. At the same time the money puzzle disappears.
つまり、商品の価値に含まれる価値形態の発展を、その最も簡単で最も目立たない形態から目を見張るような形へと進めることです。同時に、お金のパズルは消えます。

The simplest value relation is evidently the value-relationship of a commodity to a single different commodity, no matter which one. The value ratio of two goods therefore provides the simplest value expression for a commodity.
最も単純な価値の関係は、明らかに、商品が1つの異なる商品と価値の関係になっていることです。したがって、2つの商品の価値比は、商品の最も単純な価値表現を提供します。


   1. Die beiden Pole des Wertausdrucks:
     Relative Wertform und Äquivalentform
   2. Die relative Wertform
    a) Gehalt der relativen Wertform
 ①・・・
 ②・・・
 ③しかし、質的に等しい2つの商品は同じ役割を果たすわけではありません。キャンバス(リンネル)の値だけが表現されます。それはどうやってですか?
彼女と彼女の「同等の」または「交換可能な」ものとしての彼女の関係を通してです。

この関係では、岩石(上着)は値としての価値の存在とみなされます。
その理由は、それがキャンバス(リンネル)と同じであるからです。

一方、キャンバス(リンネル)の独自の価値は、独立した表現をもたらします。
これは、同等のものとして、または交換可能なものとして、岩(上着)に関連する価値があるためです。

例えば、酪酸はプロピルとは異なる体である。しかし、同じ組成のC4H8O2である炭素(C)、水素(H)および酸素(O)と同じ化学物質からなる。酪酸は、プロピルホルメートを同一視し、今の場合は、プロピルホルメートは、この関係に適用されることで、C4H8O2の存在形態となり第一、および第二にそこC4H8O2から酪酸と言うでしょう。ギ酸プロピルを酪酸と同等にすることによって、その化学物質はその体の形状とは異なるであろう。

 ④・・・
 ⑤例えば もし岩(上着)がキャンバス(リンネル)の価値と等しいとすれば、その中の作品はその作品と同じです。 今、キャンバス(リンネル)を作る織りの一つであるスカートを作る服飾は、別の具体的な仕事です。

しかし、織り方の方程式は実際にはどちらの仕事でも、人間の労働の共通の性質に本当に同じものに仕立て還元します。 この迂回路では、価値を織り成すならば、織り合わせることは、仕立てという顕著な特徴、すなわち抽象的な人間労働を持たないと言われています。

実際に様々な商品に関わる様々な労働を共通の人間の労働(17a)に還元することによって、異なる商品の同等性の表現だけが価値創造労働の特定の性格を引き出す。

 ⑥しかし、リネンの価値である作品の特定の性格を表現するだけでは不十分です。
液体状態や人間の労働における人間の労働は価値があるが、価値はない。
比喩的な形で凝固した状態で値をとるのです。
リネンの価値を人間労働のゼリーとして表現するためには、それはリネン自体とは違って、他の商品と共通する「客観性」として表現されなければならない。 問題はすでに解決されています。

   <上着が、「リネンの価値」として抽象的人間労働の凝固物として
   のみだけではなく、「他の商品と共通する「客観性」として表現」
   する必要があるのだからと、マルクスは、上着は価値の存在形態と
   表現されるーーための必要条件への、駄目押しーーをしている。
   しかし、新日本版・長谷部訳だと「対象性」なのです。
   5段落での事実上の抽象が、完遂できなかったその理由をこそ、ここ
   に、その「客観性」--と述べているのにです。>
   <商品が価値対象性であることを覚えていれば、同じ社会的団結、
   人間の労働の表現、価値の客観性が純粋に社会的な表現である限り、
   社会的にのみ現れるーー価値対象性ー価値の客観性の差とは>

 ⑦キャンバス(リンネル)の価値関係では、岩(上着)は同じ性質のものとして質的に等しいとみなされます。なぜなら、それは価値であるからです。
したがって、彼(上着)は価値が出現するもの、またはその有形の自然な形で価値を表すものとみなされます。

しかし、今、ロック、rockware(上着)の本体は、単なる使用価値です。
スカート(上着)は最初の最高のキャンバス(リンネル)よりも価値はない。 これは、キャンバス(リンネル)との価値関係の範囲内ではなく、キャンバス(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味することを証明しています。

   〈スカート(上着)は、(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味するーー〉

 ⑧スカートの生産では、実際には、仕立ての形で、人間の労働が費やされてきた。
人間の仕事は彼の中に積み重ねられます。

この側面によれば、スカートは「価値のある人」(「価値の保持者」岩波 「・・の担い手」新書版)であるが、これはその財産そのものの最大の縫い目によって見えない。

また、キャンバス(リンネル)の価値の面では、スカートはこの側面のみに適用されるため、具体化された価値として、価値体としてのみ見なされます。
  〈キャンバス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/キャンバス?
  キャンバス(英語: canvas)とは、帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて
  描かれる 支持体に使用される。 キャンバスは主に亜麻の繊維から作られるが、…〉

彼の可愛い姿にもかかわらず、キャンバス(亜麻布・リンネル)は彼の中で部族関連の美しい価値魂を見ています。
  (beautiful soul of value  価値の美しい魂)
However, the rock can not be of value to her without the value taking on the form of a skirt at the same time.
しかし、同時に〈スカートの形を取る価値〉がなければ、彼女は価値あるものではありません。
  (= the value taking on the form of a skirt ーー)
  〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることで、彼女はリンネルの価値ある人に、
  なれたのです。
 〈「スカートの形を取る価値」 = AのためのBの体型を仮定し =土地の父親と変えることで
  = 個人Bに陛下として行動するーーと、
  だから、⑦「(リンネル)の価値の範囲内でより多くを意味する」、のです。〉

   この書き方は、フランス語版の次を、改善しているのであります、
「上着が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表すことができるのは、同時に価値が一着の上着の形態をとるかぎりでのことなのだ。」(フランス語版P22)

「同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしに・」(新書版P88)
  「同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなしに・・」(岩波文庫P96)

   “your majesty”  =   陛下<新書版>
   「・・個人Aが個人Bにたいして陛下に対して態度をとることは、同時に、
   Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪
   の毛、その他なお多くのものが、国王の交換のたびに替わることなしには、
   できないように。」(新書版P88)

    <この訳は、Aはえい・・と素直にそのまま訳したのではない。>
   この王と臣民の関係の例示の理解は、
   「個人Aは、AのためのBの体型を仮定し・・その土地の父親と変える・」
   --と示された、リンネルの社会的判断・反省規定が、
   <上着の反射規定>として理解され、上着は王冠をかぶらせられた王に、
   <Aにとって陛下がBという肉体的姿態をとる>ことに、すり変えられ
   ているのです。ところが、手本のフランス語版の筈が、こうつずけたの
   です。
  「・・私人Aは、個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が、直接Aの容貌
   と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないのです。」
       (仏語版P22)
   「 Aは、たとえば、B にとっての  “your majesty” 「陛下」であ
   ることはできない、同時に B の目の中の陛下が A の身体の形を装わな
   い限り、・・・」 英語版
   ーーこのように二つの訳ともにAが、陛下なのです。
 独
So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

Thus the individual A can not behave as a majesty to the individual B, without the majesty at the same time assuming the body form of B for A, and thus changing facial features, hair, and many other things with the father of the land.
したがって、個人Aは、AのためのBの体型を仮定し、したがって顔の特徴、髪、および他の多くのものをその土地の父親と変えることなく、威厳を払わずには、個人Bに陛下として行動することはできない。

   このようにーー〈スカートの形を取る価値〉の社会的判断があることーー
   との正解への誤解を克服せんとする意志は、明らかです。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈再版の8段落までの書かれていることは、
    初版だと4ー7段落までのものです。〉

   ④リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、
    そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されるこ
    とで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別される
    リネンの価値形態になります。(⑱)

   ⑤相対的価値表現: 20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコート
    の価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしか
    カウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、
    労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコート
    を扱う。(⑱a)

  ⑦ー①私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。
    ②それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、
    その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別する
    ことは比較的容易です。
    ③商品を見たりある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆も
     ありません。
    ④これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。
    ⑤商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。
    ⑥ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商
    品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。
    ⑦同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の
    単なる形となり、それとは反対のものになる。
    ⑧離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見し
    て、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要
    があります。
    ⑨商品は最初から二重のもので、価値と価値を使用し、有用な仕事と抽象的人
    間労働の凝固産物です。
    ⑩それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にす
    る必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。
    それはその自然な形です。
    ⑪他の商品と一緒に流通して初めて価値形態だけを獲得する。
    しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形態である。
    ⑫商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。
    ⑬今や自然な形の商品(例えばリネン)は価値の形とは正反対であるため、他
    の自然な形を別の商品の形に変換して商品形態にしなければなりません。それ
    はすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
    よってすぐにすることができます。

    ⑭自らの価値や自己の価値を表現することはできませんが、他の価値観や商品
    体系と即座に関連して価値観を提示することができます。それは、それ自体に
    含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態とし
    て、商品の別の種に含まれるものに疑いがない。そのためには、それは同等の
    ものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

    ⑮商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品
    に対してのみ存在します。
    単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティBの量的関係のみ
    を考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法律だけが見つかる。
    商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。

    ⑯しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、その価値の単純な表
    現は価値形態の謎であり[2]、それゆえ金銭的価値があることがわかる。[3]

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   英語版資本論での価値形態論 (その2)
   https://8918.teacup.com/rev21/bbs/1591

   ⑨ Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value.
The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use value of the other.

   ⑨したがって、コートがリネンとの価値等式では、
   コートは価値形態として機能します。
   コットンリネンの価値は、コモディティコートの
   身体的な形で表され、一方の価値は他方の使用価値
   によって表される。

As a use value, the linen is something palpably different from the coat;as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form.

   使用価値として、リネンはコートとはまったく異なるも
   のです。
   価値として、それはコートと同じであり、今やコートの
   外観を有する。したがって、リネンはその物
   理的形態とは異なる価値形態を獲得する。

The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.
   それが価値であるという事実は、キリストの羊の性質が
   神の子羊と似ているように、コートとの等しさによって
   明示されます。


     再版の9 10 11段落

 ⑨価値の面では、岩(スカート・上着)がキャンバス(リンネル)に相当するものであり、岩(上着)の形態は価値形態とみなされます。 したがって、商品キャンバス(リンネル)の価値は、商品岩(上着)の本体、他の商品の使用価値における商品の価値で表されます。 使用価値として、キャンバス(リンネル)はロック(上着)とは異なる官能的なものです。値は「岩のような」ものですが、スカート(上着)のように見えます。 したがって、それはその自然な形とは異なる価値形態を受け取る。 それらの価値は、岩のような形で、キリスト教徒の羊の性質のように、神の子羊と平等に見えます。


⑩私たちにとって予測される商品の価値の分析が、他の商品、スカートと接触するとすぐにキャンバス自体が言うように、すべてがそのことを見ている。彼女は彼女自身の慣れ親しんだ言葉、つまり商品の言葉で彼女の考えを裏切っています。作品は、人間の労働力の抽象的な品質において独自の価値を形成していると言えば、それに無関係であれば、キャンバスと同じ仕事にふさわしいと言われています。その崇高な価値観 - 客観性がその剛体と異なると言うならば、価値は岩のように見え、したがって価値として、卵のように岩に似ていると彼女は言います。ちなみに、その語りの言語は、ヘブライ語以外にも、多かれ少なかれ正しい方言を持っています。ドイツの「価値」は、ロマネスクの時代の言葉であるvaler、valer、valoirよりも、商品Bと商品とを一致させることは、商品Aの適切な価値表現であるとはいえない。パリは公正な取引です! <パリは公正な価値がある!>


⑪By means of the value relation, therefore, the natural form of the commodity B becomes the value form of the commodity A or the body of the commodity B becomes the value level of the commodity A. (18) By the commodity A refers to the commodity B as value body, as material of human work, makes them the utility value B to the material of their own value expression. The value of the commodity A, so expressed in the use value of the commodity B, has the form of the relative value.

    したがって、価値比 により  、
    the value form of the commodity A
    商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になるか、
    the value level of the commodity A.
    または商品Bの本体は商品Aの価値水準となる。(18)
    〈価値鏡 Value mirror Wertspiegel は無い。〉

    商品Aは、価値体としての商品Bを、人間の仕事の素材として、
    自分の価値表現の素材になる使用価値Bにします。
    商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表され、相対価値形態をなしている。

   (価値体としての商品Bを、自分の価値表現の素材になる使用価値Bにする。)


     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(18) In a certain way, man is like the commodity. Since he is born neither with a mirror nor as Fichte's philosopher: I am I, man first reflects himself in another human being. Only through the relationship to man Paul as his equals does Peter refer to himself as a human being. With this Paul also applies his skin and hair, in his Pauline corporeality, as manifestation of the human race.
(18)ある意味では、人は商品のようなものです。 彼はミラーでもフィッテの哲学者でも生まれていないので、私は自分自身を別の人間に最初に反映させます。 ピーターは人間としての彼の同等としてポールとの関係を介してのみ、彼自身を参照する。 このポールはまた、彼のポーランドの体系では、人類の徴候として、彼の肌と髪を適用します。


 〈商品ーーとしてのみリンネルは、上着との関係を介してのみ、彼自身を参照する、のです。
  商品ーーとしてのみリンネルは、使用価値であり、コートは価値形態であります。
  商品ーーこそが主語であります。〉



 

 初版付録の等価形態ー-物神性 その④

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 9日(土)13時30分37秒
返信・引用 編集済
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Economic Manuscripts: The Value-Form by Karl Marx

https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867.../appendix.htm


 ぐーぐるほんやく
       https://translate.google.co.jp/?hl=ja


  §3. The equivalent form 同等の形式
  (a) The form of immediate exchangeability.
  (a)即時交換可能な形式。

As values all commodities are expressions of the same unit, of human labour, which count equally and are replaceable or substitutable for one another. Hence a commodity is only exchangeable with another commodity insofar as it possesses a form in which it appears as value. A body of the commodity is immediately exchangeable with another commodity insofar as its immediate form i.e. its own bodily or natural form, represents (vorstellt) value with regard to another commodity or counts as value-form (Wertgestalt). This property is possessed by the coat in the value-relation of the linen to the coat. The value of the linen would otherwise not be expressible in the thing which is the coat. Therefore that a commodity has equivalent form at all, means just this. Through its place in the value-expression its own natural form counts as the value-form for another commodity or it possesses the form of immediate exchangeability with another commodity. Therefore it does not need to take on (annehmen) a form different from its immediate natural form in order to appear as value for another commodity, to count as value and to act on it as value (auf sie als Wert zu wirken).

価値として、すべてのコモディティは、均等に数えられ、お互いに置き換えられるか、または置き換えられる、同じ単位の、人間の労働の表現です。したがって、商品は、価値として現れる形態を保有している限り、他の商品との交換が可能です。

商品の身体は、即時型、すなわち身体または自然の形態であれば、直ちに他の商品と交換することができ、他の商品に関しては価値があり、価値形態であれば(Wertgestalt)この特性はコートとリネンとの価値関係において所有されている。

さもなければ、リネンの価値はコートであるものでは表現できません。したがって、商品は全く同等の形をしており、まさにこれを意味します。

価値表現におけるその場所を通して、それ自身の自然形態は、別の商品の価値形態としてカウントされるか、または別の商品との即時交換可能性の形態を有する。したがって、他の商品の価値として現れ、価値として数え、価値として行動するためには、直ちに自然な形とは異なる形をとる必要はありません(安心できる)。


(c) The peculiarities (Eigentümlichkeiten) of the equivalent form
  同等の形式の<特殊性>特質

First peculiarity of the equivalent form: use-value becomes the form of appearance of its opposite, of value.
a)同等の形の第一の特異性:use-valueは、値の反対の出現の形になります。

The natural form of the commodity becomes the value-form. But, nota bene, this quid pro quo occurs for a commodity B (coat or wheat or iron, etc.) only within the value-relation to it, into which any other commodity A (linen, etc) enters, and only within this relation. In itself, considered in isolation, the coat, e.g., is only a useful thing, a use-value, just like the linen, and hence its coat-form is only the form of use-value (ist nur Form von Gebrauchswert) or natural form of a definite type of commodity. But since no commodity can relate to itself as equivalent and therefore also cannot make its own natural hide an expression of its own value, it must relate itself to another commodity as equivalent or make the natural hide of the body of another commodity its own value-form.
商品の自然な形が価値形態になります。 しかし、この商品は、他の商品A(リネンなど)が入っている商品との価値関係の中でのみ、商品B(コートまたは小麦または鉄など)に対してのみ発生します。

関係があります。
それ自体では、孤立していると見なされますが、コートは、リネンと同じように、有用なもの、つまり使用価値に過ぎません。そのため、そのコートフォームは使用価値の形式にすぎません(Form von Gebrauchswert) 明確なタイプで商品の自然的形態なのです。 しかし、商品はそれ自体に相当するものではなく、それゆえ自らの自然の秘密を独自の価値形態で隠すことはできないので、他の商品と同等のものとしてそれを関連付けることで、別の商品の身体の自然の隠れ場所を、独自の価値形態にしなければならない。

This may be illustrated by the example of a measure, which is predicable of the bodies of commodities as bodies (den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt) i.e. as use-values. A sugar-loaf, qua body (weil Körper), is heavy and hence has weight, but one cannot tell the weight of a sugar-loaf by looking or feeling (man kann keinen Zuckerhut seine Schwere ansehn oder anfühlen). Now we take different pieces of iron whose weight has been previously determined. The bodily form of the iron considered in itself is just as little the form of appearance of weight as that of the sugar-loaf. However in order to express the sugar-loaf as heaviness or weight, we put it into a weight-relation with iron. In this relation the iron counts as a body, which represents nothing but heaviness or weight. Hence quantities of iron serve as the measure of the weight of sugar and represent, with regard to the body of sugar, merely the form of heaviness (blosse Schweregestalt), form of appearance of heaviness. Iron plays this role only within the relation in which the sugar, or some other body whose weight is to be found, enters. Were both things not heavy they could not enter into this relation and hence the one could not serve as the expression of the weight of the other. If we throw both on the scale pan, we see in fact that they are, as weight, the same and hence in a definite proportion also of the same weight. Just as here the body of the iron represents, with regard to the sugar-loaf, simply heaviness, so in our expression of value the body of the coat represents, with regard to the linen, simply value.

b) Second peculiarity of the equivalent form: concrete labour becomes the form of appearance of its opposite, abstract human labour

The coat counts in the expression of the value of the linen as the value-body, hence its bodily or natural form as value-form, i.e. therefore as embodiment of undifferentiated human labour, human labour as such (schlechthin). But the labour by which the useful thing which is the coat is made and by which it acquires a definite form, is not abstract human labour, human labour as such, but a definite useful, concrete type of labour ? the labour of tailoring. The simple relative value-form requires (erheischt) that the value of a commodity, linen, for example, is expressed only in one single other type of commodity. Which the other type of commodity is, is however, for the simple value-form, completely irrelevant. Instead of the commodity-type ‘coat’ the value of the linen could have been expressed in wheat, or instead of wheat, in iron, etc. But whether in coat, wheat or iron, in every case the equivalent of linen counts as the body of value with regard to the linen, hence as embodiment of human labour as such. And in every case the definite bodily form of the equivalent, whether coat or wheat or iron, remains embodiment not of abstract human labour, but of a definite concrete useful type of labour, be it the labour of tailoring or of farming or of mining. The definite concrete useful labour, which produces the body of the commodity which is the equivalent must therefore, in the expression of value, always necessarily count as a definite form of realisation or form of appearance, i.e. of abstract human labour. The coat, for example, can only count as the body of value, hence as embodiment of human labour as such, in so far as the labour of tailoring counts as a definite form, in which human labour-power is expended or in which abstract human labour is realised.

Within the value-relation and the value expression included in it, the abstractly general counts not as a property of the concrete, sensibly real; but on the contrary the sensibly-concrete counts as the mere form of appearance or definite form of realisation of the abstractly general. The labour of tailoring, which, for example, hides in the equivalent ‘coat’, does not possess, within the value-expression of the linen, the general property of also being human labour. On the contrary. Being human labour counts as its essence (Wesen), being the labour of tailoring counts only as the form of appearance (Erscheinungsform) or definite form of realisation of this its essence. This quid pro quo is unavoidable because the labour represented in the product of labour only goes to create value insofar as it is undifferentiated human labour, so that the labour objectified in the value of the product is in no way distinguished from the labour objectified in the value of a different product.

This inversion (Verkehrung) by which the sensibly-concrete counts only as the form of appearance of the abstractly general and not, on the contrary, the abstractly general as property of the concrete, characterises the expression of value. At the same time, it makes understanding it difficult. If I say: Roman Law and German Law are both laws, that is obvious. But if I say: Law (Das Recht), this abstraction (Abstraktum) realises itself in Roman Law and in German Law, in these concrete laws, the interconnection becoming mystical.

g) Third peculiarity of the equivalent form: private labour becomes the form of its opposite, labour in immediately social form

Products of labour would not become commodities, were they not products of separate private labours carried on independently of one another. The social interconnection of these private labours exists materially, insofar as they are members of a naturally evolved social division of labour and hence, through their products, satisfy wants of different kinds, in the totality (Gesamtheit) of which the similarly naturally evolved system of social wants (naturwüchsiges System der gesellschaftlichen Bedürfnisse) consists. This material social interconnection of private labours carried on independently of one another is however only mediated and hence is realised only through the exchange of their products. The product of private labour hence only has social form insofar as it has value-form and hence the form of exchangeability with other products of labour. It has immediately social form insofar as its own bodily or natural form is at the same time the form of its exchangeability with other commodities or counts as value-form for another commodity (anderer Ware). However, as we have seen, this only takes place for a product of labour when, through the value relation of other commodities to it, it is in equivalent-form or, with respect to other commodities, plays the role of equivalent.

The equivalent has immediately social form insofar as it has the form of immediate exchangeability with another commodity, and it has this form of immediate exchangeability insofar as it counts for another commodity as the body of value, hence as equal (als Gleiches). Therefore the definite useful labour contained in it also counts as labour in immediately social form, i.e. as labour which possesses the form of equality with the labour contained in another commodity. A definite, concrete labour like the labour of tailoring can only possess the form of equality with the labour of a different type contained in a commodity of a different kind, for example the linen, insofar as its definite form counts as the expression of something which really constitutes the equality of labours of different sorts or what is equal in those labours. But they are only equal insofar as they are human labour as such, abstract human labour, i.e. expenditure of human labour-power. Thus, as has already been shown, because the definite concrete labour contained in the equivalent counts as the definite form of realisation or form of appearance of abstract human labour, it possesses the form of equality with other labour, and hence, although it is private labour, like all other labour which produces commodities, it is nevertheless labour in immediately social form. Precisely because of this it is represented in a product that is immediately exchangeable with the other commodities.

The last two peculiarities of the equivalent-form set out in §§ b and g become still more comprehensible when we recur to the great theorist (Forscher) who for the first time analysed the value-form, like so many forms of thought, forms of society and forms of nature, and for the most part more happily than his modern successors, I mean Aristotle.

Aristotle clearly formulates first of all the fact that the money-form of the commodity is only the further developed shape (Gestalt) of the simple value-form, i.e. of the expression of value of a commodity in any other commodity, for he says:

‘5 beds = 1 house’ (clinai pente anti oiciaς)
‘does not differ’ from
‘5 beds = such and such an amount of money’ (clinai pente anti ... oson ai pente clinai)

He sees further that the value-relation, in which this expression of value hides, determines, for its part, the fact that the house is qualitatively equated with the bed and that these sensibly different things would not be able to be related to one another as commensurable magnitudes without such essential equality ‘Exchange’, he says, ‘cannot take place without equality, and equality cannot occur without commensurability.’ (out isothς mh oushς summetriaς).

But at this he pulls up short and ceases the further analysis of the value-form, ‘But it is in truth impossible (th men oun alhqeia adunaton) that things of such different sorts should be commensurable’, i.e. qualitatively equal. This equalisation can only be something which is alien to the true nature of things, and therefore only a ‘makeshift for practical purposes’. [c]

Aristotle thus tells us himself just where his further analysis suffers shipwreck, namely, on the lack of the concept of value. What is that which is equal, i.e. the common substance, which the house represents for the bed in the expression of the value of the bed? Such a thing ‘cannot in truth exist’, says Aristotle. Why? With respect to the bed the house represents something which is equal (stellt ein Gleiches vor) insofar as it represents what in both, the bed and the house, is really equal. And that is ? human labour.

But the fact that in the form of commodity-values all labours are expressed as equal human labour and hence as counting equally (als gleichgeseltend) could not be read out of the value-form of commodities by Aristotle, because Greek society rested on slave labour and hence had the inequality of people and their labours as a natural basis. The secret of the expression of value, the equality of all labours and the fact that all labours count equally because and insofar as they are human labour as such can only be deciphered when the concept of human equality already possesses the fixity of a popular prejudice. But that is only possible in a society in which the commodity-form is the general form of the product of labour and thus also the relation of people to one another as possessors of commodities is the ruling social relation. The genius of Aristotle shines precisely in the fact that he discovers in the expression of value of commodities a relation of equality. Only the historical limit of the society in which he lived prevents him from finding out what, ‘in truth’, this relation of equality consists in.


d) Fourth peculiarity of the equivalent form: the fetishism of the commodity-form is more striking in the equivalent form than in the relative value-form

The fact that the products of labour ? such useful things as coat, linen, wheat, iron, etc. ? are values, definite magnitudes of value and in general commodities, are properties which naturally pertain to them only in our practical interrelations (in unsrem Verkehr) and not by nature like, for example, the property of being heavy or being warming or nourishing. But within our practical interrelations, these things relate to one another as commodities. They are values, they are measurable as magnitudes of value, and their common property of being values puts them into a value-relation to one another. Now the fact that, for example, ‘20 yards of linen = 1 coat’ or ‘20 yards of linen are worth 1 coat’ only expresses the fact that:

1. the different types of labour necessary for the production of these things count equally (gleichgelten) as human labour;
2. the fact that the quantity of labour expended in their production is measured according to definite social laws;
3. that tailors and weavers enter into a definite social relation of production.

It is a definite social relation of the producers in which they equate (gleichsetzen) their different types of labour as human labour. It is not less a definite social relation of producers, in which they measure the magnitude of their labours by the duration of expenditure of human labour-power. But within our practical interrelations these social characters of their own labours appear to them as social properties pertaining to them by nature, as objective determinations (gegenständliche Bestimmungen) of the products of labour themselves, the equality of human labours as a value-property of the products of labour, the measure of the labour by the socially necessary labour-time as the magnitude of value of the products of labour, and finally the social relations of the producers through their labours appear as a value-relation or social relation of these things, the products of labour. Precisely because of this the products of labour appear to them as commodities, sensible-supersensible (sinnlich übersinnliche) or social things. Thus the impression on the optic nerve brought about by the light (Lichteindruck auf den Sehnerv) from something is represented, not as a subjective stimulation of the optic nerve itself, but as the objective form of a thing outside the eye. But in the case of seeing, light from a thing, from the external object, is in fact thrown upon another thing, the eye. It is a physical relation between physical things. As opposed to that the commodity-form and the value-relation of products of labour have absolutely nothing to do with their physical nature and the relations between things which springs from this. It is only the definite social relation of people (der Menschen) itself which here takes on for them the phantasmagoric form of a relation of things. Hence in order to find an analogy for this we must take flight into the cloudy region of the religious world. Here the products of the human head appear as independent figures (Gestalten) endowed with a life of their own and standing in a relation to one another and to people. So it is in the world of commodities with the products of the human hand. This I call the fetishism which clings to the products of labour as soon as they are produced as commodities and which is therefore inseparable from commodity-production.

d)同等形態の第4の特異性:商品形態のフェチシズムは、相対的価値形態よりも同等の形態で顕著である

コート、リネン、小麦、鉄などの有益なものである労働の製品が価値であり、価値の絶対的な大きさであり、一般的な商品であるという事実は、当然のことながら、 Verkehr)のようなものであり、例えば、重く、暖かく、栄養を与えるという性質のようなものではない。しかし、私たちの実践的な相互関係の中で、これらは物として互いに関係しています。彼らは価値であり、価値の大きさとして測定可能であり、価値であるという共通の性質は、それらを互いに価値関係に置く。たとえば、「20ヤードのリネン= 1コート」または「20ヤードのリネンは1コートの価値がある」という事実は、

1.これらのものの生産に必要な異なるタイプの労働は、人間の労働として同等に(グライヒゲルテン)数えられる。
2.生産に費やされる労働の量が明確な社会的法則に従って測定されていること。
3.テイラーとウィーバーが生産の明確な社会関係に入ること。

今、このフェティッシュ・キャラクターは、相対的価値形態よりも同等形態でより顕著に現れます。

商品の相対的価値形態は、すなわち別の商品との関係によって媒介される。
この価値関係を通じて、商品の価値は、自分の賢明な存在とは全く別のものとして表現されます。それと同時に、価値(Wertsein)存在は、物そのものとは異質な関係であり、したがって、他の物との価値関係は、その背後に隠れている社会的関係の出現の形態
<現象形態ーーではない>にしかならないということに固有である。

これとは逆の形。それは、商品の身体的または自然の形態が、他の商品の価値形態として、社会的形態として即座にカウントされるという事実に正確に含まれる。
   <等価物上着の自然的形態が価値形態となることで、感覚的なものとして現象する
   ことでの社会的自然的性質へと転倒することで、価値関係の示す条件の外でも、
   価値形態を示さずとも、価値の存在形態として直接的に示すことができるーーかの
   次の幻影を生み出す。>

したがって、私たちの実践的な相互関係の中では、同等形態を持つことは、物事の社会的な自然的性質(生態学的性質)として現れるのであり、それゆえ、それは感覚のために存在します(したがって、sinnlich da ist 感覚的にそこにいるーーです)。

しかし、商品Aの価値表現の中では、同等形態は本質的に商品Bに関係するので、
 <今村訳ーー等価形態は生まれつき商品Bに属するのだからーーP343 この誤訳。
  商品Aが、同等形態として商品Bに関係する、ーーから、商品Bは、直接的交換可
  能性を示すことができるのです。>
 <江夏訳ーーところが商品Aの価値表現の内部では等価形態が商品Bに天然に備わっ
  ているのであるから、この外部でもまた、天然に備わっているようにみえる。P895>
 <杉本ーー先生あの~と注意・間違いの忠告をしたい!
  等価形態は、相対的価値形態が形成されることで、その反省規定としてあるのであ
  り、リンネルの価値形態が上着形態としてあることで、リンネルの価値表現ができ、
  やっと左極の形成ができ、そのことが大前提となり、次に、等価形態の形成が、上
  着が直接的に価値形態となることで、なされるのに、ーーその形態規定を見ず、無
  視し、使用価値の自然的形態のままに等価形態の形成がなされるかのーーこの謎にー
  ー賛成している、のです!
この関係の外にても、本質的に後者に属しているようにも見える。

したがって、例えば、他の自然の性質、その色、比重、空気中での非酸化性などを除いて、本質的に金の謎(dasRätselhafte)であり、他のすべての商品と即座に交換できる社会的な性質を提供します。


Now this fetish-character emerges more strikingly in the equivalent-form than in the relative value-form. The relative value-form of a commodity is mediated, namely by its relation to another commodity. Through this value-form the value of the commodity is expressed as something completely distinct from its own sensible existence. At the same time it is inherent in this that existence as value (Wertsein) is a relation which is alien to the thing itself and hence that its value-relation to another thing can only be the form of appearance of a social relation hidden behind it. Conversely with the equivalent-form. It consists precisely in the fact that the bodily or natural form of a commodity counts immediately as the social form, as the value-form for another commodity. Therefore, within our practical interrelations, to possess the equivalent-form appears as the social natural property (gesellschaftliche Natureigenschaft) of a thing, as a property pertaining to it by nature, so that hence it appears to be immediately exchangeable with other things just as it exists for the senses (so wie es sinnlich da ist). But because within the value-expression of commodity A the equivalent-form pertains by nature to the commodity B it seems also to belong to the latter by nature outside of this relation. Hence, for example, the riddle (das Rätselhafte) of gold, that seems to possess, by nature, apart from its other natural properties, its colour, its specific weight, its non-oxydisability in air, etc., also the equivalent-form, or the social quality of being immediately exchangeable with all other commodities.


§ 4. As soon as value appears independently it has the form of exchange-value
§4.価値が独立して出現するとすぐに、それは交換価値の形態をもつ

 

   初版 物神性論 ③

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 5日(火)04時11分47秒
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    初版 物神性論

 ①A commodity seems at first glance to be a self-evident, trivial thing.
The analysis of it yields the insight that it is a very vexatious thing, full of metaphysical subtlety and theological perversities. As mere use-value, it is a sensual thing in which there is nothing portentous, whether I happen to consider it from the viewpoint that its attributes satisfy human needs or that it obtains these attributes only as product of human labour. There is absolutely nothing of a riddle in the fact that man changes by his activity the forms of natural matter in a way which is useful to him. The form of wood, for example, is changed if one makes a table out of it. Nevertheless, the table remains wood, an ordinary, sensual thing. But as soon as it steps out as commodity, it metamorphoses itself into a sensually supersensual thing. It does not only stand with its feet on the ground, but it confronts all other commodities on its head, and develops out of its wooden head caprices which are much more wondrous than if it all of a sudden began to dance.
 ①商品は一目瞭然だと自明で些細なことだ。
それの分析は、それが非常に残酷なものであり、形而上学的微妙さと神学的嫌悪に満ちているという洞察をもたらします。単なる使用価値として、その属性が人間の必要を満足させるという視点から考えるか、人間の労働の産物としてのみこれらの属性を得るのかどうか、それは卓越したものは何もない官能的なものです。人間が彼の活動によって、自分にとって有益な方法で自然の物質の形を変えるという事実には、まったくの謎はありません。たとえば、木の形は、テーブルを作ると変更されます。それにもかかわらず、テーブルは木で、普通の、官能的なものです。しかし、商品として脱出するとすぐに、それは感覚的に超感情的なものに変身する。それは地面に足を立てるだけでなく、他のすべての商品と対峙し、突然踊り始めるよりははるかに驚異的な木製の頭蓋骨から発達します。

 ②The mystical character of the commodity thus does not arise in its use-value. It arises just as little out of the value-determinations, considered in themselves. For in the first place, however different the useful labours or productive activities may be, it is a physiological truth that they are functions of a specifically human organism as distinguished from other organisms, and that every such function, whatever its content and its form, is essentially expenditure of human brain, nerve, muscle, organ of perception, etc. In the second place, if we consider that which lies at the basis of the determination of the amount of value (the duration of time of that expenditure, or the quantity of labour), it is clear that the quantity is distinguishable from the quality of labour in a way which is even perceptible with the naked eye. In all conditions, it was the time of labour which the production of necessities costs that had to be of concern to man, although not to the same degree at different levels of development. Finally, as soon as men work for one another in any manner, their labour acquires in addition a social form.
 ②商品の神秘的な性格は、その使用価値には生じない。それは、それ自体で考慮された価値決定から少しだけ生じます。まず第一に、有用な労働や生産活動が異なっていても、それは他の生物とは区別されるような特異的な人体の機能であり、そのすべての機能や内容、本質的には人間の脳、神経、筋肉、知覚器などの支出である。第2に、価値の量の決定に基づいているもの(その支出の時間、または労働量)、その量は肉眼でも知覚可能な方法で労働の質と区別できることは明らかである。すべての条件において、異なるレベルの開発で同じレベルではないが、人間にとって懸念される必需品の生産にかかる労働時間であった。最後に、男性がどんなやり方でも互いのために働くとすぐに、彼らの労働は社会的形態を獲得する。

 ③Let us take Robinson Crusoe on his island. Modest as he naturally is, nevertheless he has various needs to satisfy and must therefore perform useful labours of various sorts, make tools, build furniture, tame llamas, fish, hunt etc. We do not refer at this time to praying and other such activities, since our Robinson derives enjoyment from them and regards such activity as recreation. Despite the variety of his productive functions, he knows that they are only various forms of activity of one and the same Robinson, and thus are only different modes of human labour. Necessity itself compels him to divide his time exactly between his various functions. Whether the one takes more space and the other takes less in the totality of his activity depends upon the greater or lesser difficulty which must be overcome for the attainment of the intended useful effect. Experience teaches him that much, and our Robinson who saved watch, diary, ink and pen from the shipwreck begins to keep a set of books about himself like a good Englishman. His inventory contains a list of the objects of use which he possesses, of the various operations which are required for their production, and finally of the labour-time which particular quanta of these various products cost him on the average. All relationships between Robinson and the things which form his self-made wealth are here so simple and transparent that even Mr. Wirth[6] can understand them without particular mental exertion. And nevertheless all essential determinations of value are contained therein.
 ③Robinson Crusoeを彼の島に連れて行きましょう。それでも、彼は自然のように控えめですが、彼は満足するためのさまざまなニーズを持っていますし、さまざまな種類の役に立つ労働をしなければならず、道具を作って家具を作り、ラマを飼い、魚や狩りなどをする必要があります。私たちのロビンソンは彼らからの喜びを引き出し、そのような活動をレクリエーションとみなしているからです。彼の生産的な機能の多様性にもかかわらず、彼は1つの同じロビンソンの様々な形の活動だけであることを知っているので、人間の労働の異なるモードです。必要性そのものは、彼の様々な機能の間で正確に時間を分割するよう強要する。彼の活動の全体において、より多くのスペースとより少ないスペースを必要とするかどうかは、意図された有用な効果の達成のために克服しなければならない、より大きなまたはより少ない困難に依存する。経験は彼に多くのことを教えてくれます。ロビンソンは時計、日記、インク、ペンを難破船から救ってくれました。彼の在庫には、彼が所有する使用目的のリスト、その生産に必要な様々な作業、そして最終的にこれらの様々な製品の特定の数量が彼に平均的にかかる労働時間のリストが含まれている。ロビンソンと彼自身の富を形作るものとの間のすべての関係は、シンプルで透明なので、ワート氏も特別な精神的な努力なしにそれらを理解することができます。それにもかかわらず、価値のすべての本質的な決定がそこに含まれています。

 ④If we now put an organization of free men in Robinson’s place, who work with common means of production and expend their many individual labour-powers consciously as one social labour-power, all the determinations of Robinson’s labour are repeated: but in a social rather than an individual way. Nevertheless, an essential difference emerges. All Robinson’s products were his exclusively personal pro- duct, and were thereby immediately objects of use for him. The total product of the organization is a social product. One part of this product serves again as means of production. It remains social. But another part is used up by the members of the organization as necessities. This part must be divided up among them. The manner of this division will change with the particular manner of the social production-organism itself and the comparable historical level of development of the producers. Only for the sake of the parallel with commodity-production do we presuppose that each producer’s share of necessities of life is determined by his labour-time. In such a case, the labour-time would play a dual role. Its socially planned distribution controls the correct proportion of the various labour-functions to the various needs. On the other hand, the labour-time serves at the same time as the measure of the individual share of the producer in the common labour, and thereby also in the part of the common product which can be used up by individuals. The social relationships of men to their labour and their products of labour remained transparently simple in this case, in production as well as in distribution.
 ④現在、Robinsonの所在地に自由男性組織を置くと、共通の生産手段で働き、多くの個々の労働力を意識的に1つの社会的労働力として費やすと、Robinsonの労働の決定はすべて繰り返されます。個人的な方法よりも。それにもかかわらず、本質的な違いが出てくる。すべてのロビンソンの製品は彼の独占的な個人的生産物であり、それによって彼のためにすぐに使用の対象となりました。組織全体の製品はソーシャルプロダクトです。この製品の一部は、再び生産の手段として役立ちます。それは社会的なままです。しかし、もう一つの部分は組織のメンバーによって必需品として使われています。この部分はそれらの間で分割されなければなりません。この部門の仕方は、社会生産 - 生物そのものの特定のやり方と、生産者の発展の比較可能な歴史的レベルによって変わるだろう。コモディティ・プロダクションと並行してのみ、私たちは、各生産者の生活必需品のシェアは、彼の労働時間によって決定されることを前提としています。このような場合、労働時間は二重の役割を果たすだろう。その社会的に計画された配分は、さまざまなニーズに応じた様々な労働機能の正しい割合を制御します。他方、労働時間は、一般労働における生産者の個々のシェアの尺度と同時に、それによって個人が使い切ることができる共通製品の部分でも機能する。このような場合には、労働者と労働者の社会的関係は、生産と流通の両面において、透明性を保って単純なままであった。

 ⑤Whence comes the puzzling character of the labour-product as soon as it assumes the form of commodity?
 ⑤それは商品の形をとるとすぐに労働生産物の困惑を引き起こすのだろうか?

 ⑥If men relate their products to one another as values insofar as these objects count as merely objectified husks of homogeneous human labour, there lies at the same time in that relationship the reverse, that their various labours only count as homogeneous human labour when under objectified husk. They relate their various labours to one another as human labour by relating their products to one another as values.
 ⑥人々が同等な人間の労働の客観的な外皮とみなす限り、人々は価値として互いの製品を関連付けるが、それと同時に客観的な殻の下では、その関係は逆になります 。 彼らは、彼らの製品を価値として互いに関連づけることによって、さまざまな労働を人間の労働として互いに関係づけています。

The personal relationship is concealed by the objectified form. So just what a value is does not stand written on its forehead. In order to relate their products to one another as commodities, men are compelled to equate their various labours to abstract human labour.
個人的な関係は、客観化された形式によって隠されている。 だから、価値が何であるかは額に書き込まれません。 彼らの製品を商品として互いに関連付けるために、男性は様々な労働を抽象的な人間の労働と見なすことを強いられます。

do not know it, but they do it, by reducing the material thing to the abstraction, value.
それを知らないが、物質的なものを抽象化し、価値に還元することによって、それを行う。

This is a primordial and hence unconsciously instinctive operation of their brain, which necessarily grows out of the particular manner of their material production and the relationships into which this production sets them.
これは原始的なものであり、無意識のうちに本能的な脳の動作であり、必然的に物質的生産の特定の様式と、この生産がそれらを構成する関係から生長する。

First their relationship exists in a practical mode. Second, however, their relationship exists as relationship for them. The way in which it exists for them or is reflected in their brain arises from the very nature of the relationship. Later, they attempt to get behind the mystery of their own social product by the aid of science, for the determination of a thing as value is their product, just as much as speech.
まず第一に、彼らの関係は実用的なモードで存在します。しかし、第二に、彼らの関係は彼らの関係として存在する。それが彼らのために存在するか、または脳に反映される方法は、関係の本質から生まれます。後で、彼らは科学の助けを借りて、自分の社会的製品の謎を後ろから取り除こうとします。

Now as far as concerns the amount of value, we note that the private labours which are plied independently of one another (but because they are members of the primordial division of labour are dependent upon one another) on all sides are constantly reduced to their socially proportional measure by the fact that in the accidental and perpetually shifting exchange relationships of their products the labour-time which is socially necessary for their production forcibly obtrudes itself as a regulating natural-law, just as the law of gravity does, for example, when the house falls down on one’s head.
今や価値の大きさに関わる限り、私たちは、互いに独立して(しかし、彼らが原始的な分業のメンバーであるために)プライベートな労働は、あらゆる面で常に社会的に縮小されている偶発的かつ絶え間なく変化している製品の交換関係において、その生産に社会的に必要な労働時間は、例えば、重力の法則がそうであるように、規制自然法則としてそれ以外のものが強制的に排除されるという事実は頭の上に落ちる。

The determination of the amount of value by the labour-time is consequently the mystery lurking under the apparent motions of the relative commodity-values. The producers’ own social movement possesses for them the form of a motion of objects under the control of which the producers lie instead of controlling the motion.
したがって、労働時間による価値の量の決定は、相対的な商品価値の見かけの動きの中で潜んでいる謎である。 生産者自身の社会運動は、生産者がその動きを制御するのではなく、その制御下にあるオブジェクトの動きの形態を所有している。

As far as concerns the value-form finally, we note that it is just exactly this form which objectively veils the social relationships of private workers and consequently the social determinations of private labours, instead of laying them bare.
最終的には価値形態に関わる限り、私たちは、私的労働の社会的関係とその結果として私的労働の社会的関係を客観的に覆い隠すのはちょうどこの価値形態に過ぎないことに気付く。
 ⑦したがって、労働時間による価値の量の決定は、相対的な商品価値の見かけの動きの中で潜んでいる謎である。生産者自身の社会運動は、生産者がその動きを制御するのではなく、その制御下にあるオブジェクトの動きの形態を所有している。

最終的には価値に関わる限り、私たちは、民間労働者の社会的関係とその結果として私的労働者の社会的決定を客観的に覆い隠すのはちょうどこの形に過ぎないことに気付く。私がコートと言うなら、ブーツなどは抽象的な人間の労働の普遍的な物質化としてリネンに関係しています。

物を置くような狂気は目に飛びます。しかし、コート、ブーツなどの生産者がこれらの商品をユニバーサル相当品としてリネンに関連付けると、彼らの私的労働の社会的関連性は、まさにこの狂気のような形態で現れます。

 ⑧Such forms as these constitute precisely the categories of bourgeois economy. They are the socially valid thus objective  forms of thought, for relationships of production of this particular historically determined social mode of production.
 ⑧これらの形態は、ブルジョア経済学のカテゴリーを正確に構成する。彼らは歴史的に決定されたこの社会的生産形態の生産関係のために、社会的に妥当な、したがって客観的な考え方である。

 ⑨The private producers only enter into social contact for the first time through their private products: objects.
The social relationships of their labours are and appear consequently not as immediately social relationships of persons in their labours, but as objectified relationships of persons, or social relationships of objects.
The first and most universal manifestation of the object as a social thing, however, is the metamorphosis of the product of labour into a commodity.
⑨私的生産者は、プライベート・プロダクトを通じて初めて社会的接触に入る。
彼らの労働の社会的関係は結果として、労働者の社会的関係として即座に現れるのではなく、客観化された人間関係または対象の社会的関係として現れているように見える。
しかし、社会的事物としてのオブジェクトの最初の、そして最も普遍的な発現は、労働生産物を商品に変身させることである。

 ⑩ The mysticism of the commodity arises, therefore, from the fact that the social determinations of the private labours of the private producers appear to them as social natural determinations of products of labour; from the fact, that is, that the social relationships of production of persons appear as social relationships of objects to one another and to the persons involved.
 ⑩したがって、商品の神秘主義は、民間生産者の私的労働の社会的決定が、労働生産物の社会的自然的決定と見なされるという事実から生じる。事実から、すなわち、人の生産の社会的関係は、物の社会的関係としてお互いに、そして関係する人に現れるということから。

The relationships of the private workers to the totality of social labour objectify themselves over against them and exist, consequently, for them in the forms of objects. To a society of commodity producers whose universally social relationship of production consists in their behaving toward their products as commodities (hence as values) and their relating their private labours to one another in this objective form as equal human labour, it is Christianity that is the most appropriate form of religion, with its cult of the abstract man ? especially in its bourgeois development, Protestantism, Deism, etc. In the ancient Asian, antique, etc. modes of production, the metamorphosis of the product into a commodity and accordingly the existence of man as commodity-producer plays a subordinate role, which, however, becomes greater the more the communities enter upon the stage of their decline.
民間労働者の社会的労働の全体に対する関係は、それに反して自分自身を客観化し、その結果、彼らのために物の形で存在する。普遍的な生産関係の社会的関係が商品としての商品への行動(価値としての価値)として成り立っており、彼らの私的労働を互いに平等な人間の労働である客観的な形で関係づけている商品生産者の社会にとって、特にブルジョワ開発、プロテスタント、デイズムなどにおいて、抽象的な人の宗教に最も適切な形態をとっている。古代のアジア、アンティークなどの生産形態では、製品が商品に変身し、コモディティ・プロデューサーとしての人間の存在は従属的な役割を果たすが、コミュニティが衰退の段階に入るほど大きくなる。

Genuine commercial people only exist in the interstices of the ancient world, like the gods of Epicurus or like the Jews in the pores of Polish society.
本物の商業人は、Epicurusの神のような古代世界の隙間にのみ存在するか、またはポーランド社会の孔の中のユダヤ人のように存在する。

Those ancient social organisms of production are extraordinarily much more simple and transparent than the bourgeois organism, but they are based either on the immaturity of the individual man who has not yet torn himself free of the umbilicus of the natural species-connection with other men or are based upon immediate master and slave relationships.
それらの古代の社会的生産生物は、ブルジョア生物よりもはるかに単純で透明であるが、他の人とのつながりや自然種の臍の欠損のない未成年者、 即時のマスタとスレーブの関係に基づいています。

They are conditioned by a low level of development of the productive powers of labour by correspondingly restricted relationships of men within their material process of the constitution of life, and consequently to one another and to nature.
彼らは、人生の憲法の物質的プロセスの中で男性の対応関係が制限され、結果的にお互いに、また自然に、労働力の生産力が低くなるという条件づけがなされている。

This actual restrictedness reflects itself in an idealist mode in the ancient natural and popular religions. The religious reflection of the real world can only disappear as soon as the relationships of practical work-a-day life represent for men daily transparently reasonable relationships to one another and to nature.
この実際の制限は、古代の自然や人気のある宗教における理想主義の様式に反映されています。 現実世界の宗教的な反映は、実用的な日常生活の関係が男性にとって、日常的に透明で合理的な関係を自然と表現するようになるとただ消えてしまいます。

But relationships can only represent themselves as what they are. The form of the social process of life (i.e., of the material process of production) will only cast off its mystic veil of fog once it stands as a product of freely socialized men under their conscious, planned control.
しかし、関係は自分自身を自分のものとして表現することしかできません。 人生の社会的プロセス(すなわち、生産の物質的プロセス)の形態は、意識的で計画された制御下で、自由に社会化された男性の製品として立つと、その霧の神秘的なベールを打ち消すだけである。

For that to happen, however, a material basis of society is demanded or a row of material conditions of existence which are themselves again the primordial product of a long and painful history of development.
しかし、それが起こるためには、社会の物質的基盤が要求されるか、あるいは長く痛みを伴う発展の歴史の元の産物である物質的存在条件の列が要求される。

 ⑪Political economy has by now, to be sure, analysed value and amount of value, even if incompletely.
It has never even so much as posed the question: Why does labour manifest itself in value and the measure of labour by its temporal duration manifest itself in amount of value?
Forms upon whose foreheads it is written that they belong to a social formation wherein the process of production masters men but not yet does man master the process of production ? such forms count for their bourgeois consciousness as just such a self-evident natural necessity as productive labour itself.
 ⑪政治経済学は、不完全であっても、確かに価値と価値の価値を分析している。
しかし、なぜ労働は価値があるのか、時間的持続性による労働の尺度自体が価値の量で表れているのか?という疑問が提起されたことはありません。
彼らの額には、生産過程が人々を支配するが、人々は生産過程を習得していない社会形成に属していると書かれている。
このような形態は、生産的生産のような自明な自然の必需性としてのブルジョワ意識を意味する 労働そのもの。

 ⑫Just how drastically a section of the economists is deceived by the fetishism which sticks to the world of commodities (or by the objective illusion of the social determinations of labour) is proved among other things by the tediously pointless contention about the role of nature in the formation of exchange-value. Since exchange-value is a determinate social style of expressing the labour which has been applied to a thing, it can no more contain natural matter than the rate of exchange, for example.
 ⑫経済界の一部門が、商品の世界にこだわったフェチシズム(または労働の社会的決定の客観的な錯覚)にどれほど騙されているかは、とりわけ、 交換価値の形成。 交換価値は物に適用された労働を表現する決定的な社会的スタイルであるため、例えば交換の割合よりも自然のものを含むことはできません。

 ⑬The commodity form was still relatively easy to see through as the most universal and most undeveloped form of bourgeois production, which for that reason appears even in earlier periods of production, although not in the same prevailing (and hence characteristic) way. But as for more concrete forms like Capital, for example? The fetishism of classical economics here becomes palpable.
 ⑬ 商品形態は、それゆえ同じ理由で(したがって特徴的な)方法ではないが、それゆえに、生産性の最も初期の段階でさえ現れるブルジョワ生産の最も普遍的かつ未開発の形態として見ても比較的容易であった。しかし、例えばキャピタルのようなより具体的なフォームについては、ここの古典的経済学のフェチシズムは触知できるようになる。

 In order not to anticipate, however, let another example concerning the commodity-form itself suffice. It has been observed that in the relationship of commodity to commodity (e.g., of shoe to shoe-shine boy) the use-value of the shoe-shine boy (i.e., the utility of his real, material properties) is completely irrelevant to the shoe. The shoeshine boy is of interest to the commodity, shoe, only as form of appearance of its own value. So if commodities could speak, they would say: ‘Our use-value may be of interest to a man. But it does not inhere in us insofar as we are things. It is our exchange-value that inheres in us as things. Our own circulation as commodity-things proves that. It is only as exchange-values that we relate ourselves to one another.’ Now just listen to how the economists speak forth from the very soul of the commodity: ‘Value (exchange-value) is a property of things, riches (use-value) of man. Value, in this sense, necessarily implies exchanges, riches do not.’ (Anonymous, 1821) ‘Riches (use-value) are the attribute of man; value is the attribute of commodities. A man or a community is rich; a pearl or a diamond is valuable . . . A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond .’ (S. Bailey) Up to now, no chemist has discovered exchange-value in pearl or diamond. Our authors, who lay claim to special critical depth find, nevertheless, that use-value inheres in objects independently of their material properties, but their exchange-value on the other hand inheres in them as objects. The remarkable circumstance that the use-value of things realizes itself for men without exchange (thus, in the immediate relationship between thing and man), but their value on the other hand realizes itself only in exchange (that is, in a social process) is what strengthens them in their belief. Who is not reminded here of that excellent Dogberry who teaches the night-watchman Seacoal, ‘To be a well-favoured man is the gift of Fortune, but to write and read comes by Nature.’ (Much Ado About Nothing, Act III, Scene 3.)
 しかし、予期しないように、商品形態そのものに関するもう一つの例があれば十分です。商品と商品との関係(例えば、靴と靴を履く少年)の靴磨き男の子の使用価値(すなわち、彼の実際の物性の有用性)は、靴です。

靴磨き男の子は、商品、靴に興味があり、それは自分の価値形態としてのみです。だから、商品が話すことができれば、「私たちの使用価値は、人にとって興味深いかもしれません。しかし、私たちが物事である限り、それは私たちの中にはありません。物事として私たちに内在するのは、私たちの交換価値です。

コモディティとしての私たち自身の循環は、それが証明しています。

「価値(交換価値)」は物事の財産であり、富(利用価値が高い)は、商品の魂から経済学者がどのように発言するかを聞くだけです。価値観)。
価値観は、この意味で、必然的に交換を意味し、富は持たない」(匿名、1821) '富は、人の属性である。値は商品の属性です。人や地域社会は豊かです。真珠やダイヤモンドは貴重です。 。 。真珠やダイヤモンドは真珠やダイヤモンドとして価値があります」(S. Bailey)今まで、化学者は真珠やダイヤモンドの交換価値を発見していません。

それにもかかわらず、特別な臨界深度を主張する私たちの著者は、材料特性とは無関係にオブジェクト内に使用価値が存在することを見出しているが、その交換価値は、オブジェクトとしてその中に入っている。交換のない人にとって物の使用価値が実現するという顕著な状況(つまり、物と人の間の直接の関係)が、一方ではその価値は交換(すなわち社会的過程)彼らの信念を強めるものです。
ここでは、「幸運な人になることは運の贈り物だが、書くことと読むことは自然によってもたらされる」という夜警のシーコール教授を教える優れたドッグベリーをここでは思い出させない。シーン3)

 ⑭The commodity is immediate unity of use-value and exchange-value, thus of two opposed entities. Thus it is an immediate contradiction. This contradiction must enter upon a development just as soon as it is no longer considered as hitherto in an analytic manner (at one time from the viewpoint of use-value and at another from the viewpoint of exchange-value) but is really related to other commodities as a totality. The real relating of commodities to one another, however, is their process of exchange.
 ⑭商品は、使用価値と交換価値が直接的に結びついているため、2つの相反する規定が存在します。 したがって、それは直ちに矛盾です。 この矛盾は、分析的なやり方(これまでのところ、使用価値の観点から、また交換価値という観点からは別のものとして)とはもはや考えられなくなったばかりでなく、実際に他の 全商品としての商品。 しかし、商品の実際の関係は、彼らの交換のプロセスです。


1. ‘The concept, which is only subjective at first, marches ahead in accordance with its own proper activity to objectify itself, without needing any external material or stuff for the purpose.’ Hegel, Logik, p. 367, Encyclopaedia I.

2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.

3. It is scarcely surprising that economists have overlooked the form-content of the relative value-expression (subjected as they are to the influence of material interests), if professional logicians before Hegel even overlooked the content of form in the paradigms of judgments and conclusions.

4. Hegelian term, including Identity, Difference, Contradiction. ? A.D.

5. There is something special about such reflection-determinations. This man here is (e.g.) only King, because other men behave towards him like subjects. They believe, however, that they are subjects because he is King.

6. Hack economist of Marx’s day.


 

    初版 商品  ②

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 6月 1日(金)11時19分25秒
返信・引用 編集済
    https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm
   グーグル英和訳ソフト Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja

  商品
これは、最初のドイツ語版のCapitalの第1章Albert Dragstedtによる英訳です。現代版のCapitalは、第2版以降の第1章を持っています。
出典:Albert Dragstedt、Value:Studies by Karl Marx、New Park Publications、London、1976、pp。7-40。
転写される:Steve Palmer。
資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。
   ーーー中略ーーー
32 It follows from the preceding not that there are two differing kinds of labour lurking in the commodity, but rather that the same labour is specified in differing and even contradictory manner ? in accordance with whether it is related to the use-value of the commodity as labour’s product or related to the commodity-value as its merely objective expression. Just as the commodity must be above all else an object of use in order to be a value, just so does labour have to be before all else useful labour ? purposeful, productive activity ? in order to count as expenditure of human labour-power and hence as simple human labour.
 前項から、コモディティには2種類の異なる労働が潜んでいるが、コモディティの使用価値に関連しているかどうかに応じて、同じ労働が異なる、さらには矛盾する方法で規定されている 労働の製品として、あるいは単なる客観的な表現としての商品価値に関連している。
商品が価値あるものであるためには他のすべての目的に使用されなければならないのと同様に、人間の労働力の支出とみなすためには、他のすべての有用な労働意欲的で生産的な活動よりも前に労働がなければならない。 それゆえ単純な人間の労働である。

33 Since up to now it has only been the substance of value and the magnitude of value which have been specified, let us now direct our attention to the analysis of the form of value.
これまでは価値の実体と価値の大きさしか特定されていなかったので、今度は価値の形態の分析に注意を向けましょう。

34 First let us turn back to the first form of appearance of the value of the commodity.
最初に商品価値の出現の最初の形に戻りましょう。

 私たちが調査したことは、商品(リネン)の価値の相対的な大きさの変化が、それ自体の価値の大きさの変化を反映しているかどうかであり、その定量的側面のみに基づいて相対価値を調査しました。今度はその形に変わります。相対値がフォームである場合に値が現れる請求項の等価性のために、次に式2件の商品(例えば、X商品Bの商品Aのが= Y、または麻の20ヤード= 1コート)である相対的価値の単純な形態。

 ① Ⅰ 最初または相対価値の単純な形式:
   麻の20ヤード= 1つのコート(X の 商品A、商品Bの= Y)。
 このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。
それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることは、一見して明らかです。

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値の形態ではなく、その正反対です。
リネンは、それ自身に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値としての自分自身の現実を明らかにする。それ自身に価値がないのであれば、独自のものとして(価値として)コートに自身を対象化することはできません。
リネンは、同種の人間労働の対象化、すなわちそれ自身の価値の対象化されたものとして、それ自体をそれに関連付けることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。
それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である-そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労働を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。
コートとのこの関係によって、リネンはひとたたきで多くの蝿をうちます。

リンネルは、他の商品を価値として自分自身に関係させることによって、自身を価値として関連付ける。
自らに自身を関連付けることによって価値を示し、その区別からリンネル自身を、使用価値として自身から区べつする。

このように発生していることは、その価値の大きさを示すコートは、その付与する値(一般的には値、及び定量的測定値及び値の大きさのものもある)として現実を持つ価値存在として、自身の直接的存在とは異なる価値形態を与えます。自身の中に分化されたものとして、このように自分自身を明らかにすることで、現実に、自分をはじめて商品ーー同時に価値である有用物ー-として表すのである。最初に自分自身を明らかにした時間は本当に-商品として他商品を同じ時間値で示す便利なものーーとは区別される。
 <江夏訳P35 原P16 からお借りした。 同等性関係ではなく価値関係の質的側面、で起こることです。>
リネンは、使用価値である限り、それはある独立したものです。その価値は、表示されるこの関係で他の商品に質的に等置され、コートをリネンに同一視して、いくつかの特定の量に置き換え、それに相当するものとしてカウントし、それと交換可能です。
したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異なる個々の形態を獲得するだけである。

 ③コートでのリネンの価値の表現は、コートそのものに新しい形態を印づけます。結局、リネンの価値形態の意味は何ですか?コートが交換可能であることは明らかです。
他に何が起こっても、そのことがらは、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を示します。
この等価物の規定では、商品があるという事実だけでなく、含まれている値であり、すべてで、それはその中にいるという事実であり、肉体的形状(その使用価値)を、別の商品の価値としてカウントし、その結果、手元にすぐにある交換価値としての用を他の商品に対して果たしています。

 ④価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に暗いです。労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然から得られた物質で発酵しています。
リネンを人間の労働の単なる対象化として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。
抽象的な(すなわち、いかなる追加的な品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な客観性 - 思考のものである。そのようにして、亜麻の網はキメラに変わります。
しかし、商品は物象です。彼らは、彼らが物象のようなやり方であるか、そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。
リネンの生産では、人間の労働の特定の量が存在し費やされてきました。リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってそれ自体を明らかにする(すなわち魅力的な表現を得る)。
リネンが価値あるもの(価値の存在形態)としてコートと関係するのであり、そこに同時に起こることは、自身が使用価値としてのコートと区別されることで、コートがリネンボディとは対照的に- その自然的形態とは区別されるリネンの価値形態になります。(⑱)

 ⑤相対的価値表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートは価値のあるまたは労働の凝固物としてしかカウントされないと認めなければならないが、しかし、価値関係はコートを、労働の凝固物、およびその凝固のために人間労働の凝固形態としてのみコートを扱う。(⑱a)


使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。
対象とされ、例示される(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。コートと同じエッセンスの価値があるので、自然形態のコートは、それによって、自然的形態のままにに価値形態になります。
しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け入れることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけに決定されません。それは、決定され特定された労働として決定された形で人間労働が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。
なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。
ヘーゲルの意味での「コンセプト」は、外的な材料なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥時間は、人間の労働の直接的な現れ形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。
しかし、リネンにとって重要な使用価値コートの面は、ウールの快適さ、ボタンアップされたエッセンス、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。
コートは、その澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値 - 客観性を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表明したならば、同じ目的を達成することができました。
仕立て労働は、あまりにも、それだけあれば、それはのように存在するように、意図的生産労働であり、その結果、しない限り、リネンの値を持つ確定労働、フォーム実現の、客体の方法の一般的に人間の労働。リネンはむしろコートよりも靴墨でその価値を表現した場合、研磨作りはそれとしてカウントされる抽象的人間労働の代わりに、仕立て労働の実現形態となる。
したがって、価値形態や商品形態は、抽象的人間労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的有用労働に他の商品が関連することによって成立してくるのであり、そのことに依拠して価値の出現形態または等価物になるのです。

⑦ー① We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form.
 私たちはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難の出発点にあります。

②It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value.
それは、商品の価値の人間労働の問題としてだけに期待されている限り、その使用価値または同じ作業の使用価値を作る作業から商品の価値を区別することは比較的容易です。

③If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa.
商品を見たり、ある形で仕事をすると、他の形でそれを考慮したり、その逆もありません。

④These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate.
これらの抽象的な対立は、自明であり、したがって分離しやすい。

⑤It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity.
商品と商品との関係にのみ存在する価値形態とは状況が異なります。

⑥The use-value or commodity-body is here playing a new role.
It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite.
ここでは、使用価値または商品本体が新たな役割を果たします。これは、商品の価値の現れ、すなわち、それ自体の反対です。

⑦Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour.
同様に、使用価値に含まれる具体的な有用労働は、抽象的人間労働の実現の単なる形となり、それとは反対のものになる。

⑧Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another.
However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary.
離れて落ちる代わりに、商品の相反する規定が反映されます。これは一見して、この理解ができないか分かりませんが、必要に応じてさらに検討する必要があります。

⑨The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value,product of useful labour and abstract coagulate of labour.
商品は最初から二重のもので、使用価値であり価値、有用な仕事と抽象的人間労働の凝固産物です。

⑩In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form.
It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form.
それが何であるかを明らかにするためには、その形式を一つではなく倍にする必要があります。それは、自然から使用価値の形の権利を持っています。 それはその自然な形です。

⑪It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities.
But its value-form has then to be itself an objective form.
他の商品と一緒に流通して初めて価値のある形態だけを獲得する。しかし、その価値形態は、それ自体が客観的な形である。

⑫The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.
商品の唯一の客観的な形態は、その用途、その自然な形です。

⑬Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

独語 Da nun die natürliche Form einer Ware (z. B. Leinen) das genaue Gegenteil ihrer Wertform ist,
    muss sie eine andere natürliche Form -
   die natürliche Form einer anderen Ware - in ihre Warenform umwandeln.
   製品(例えばリネン)の自然な形はその価値形態の正反対であるため、
   他の自然な形態(別の商品の自然な形)をその商品形態に変えなければなりません。

   <英明な江夏訳にして 「価値形態」 の誤訳です。廻り道にて上着は商品形態をうけとることで、
   等価物の形態の形成に向かうのではなく、相対的価値形態の形成に向かうのです。>

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.
   それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路(回り道)に
   よってすぐにすることができます。

⑭It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.
それは、自らの価値を自分自身の価値で表現することはできませんが、他の価値や商品を直接価値として参照することができます。

⑮but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract it can relate itself not to the concrete labour contained in itself, it human labour.
For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.
それは抽象的人間労働の単なる実現形態として、他商品の別の種に含まれていることに疑いはないが、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、それが人間労働であることに関連している可能性がある。そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

⑯The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.
商品の使用価値は、このように価値の出現形態で役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

⑰If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.
シンプルな、相対価値式の量的関係でのみ見る:商品A = yの商品B、X、我々は相対価値の動きにのみトップに開発法律を見つけ、すべての事実に基づいてその商品の価値の量その生産に必要な労働時間によって決定される。

⑱But if one considers of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]
  既存訳 ーー<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)>
  英語版からの訳
<しかし、両方の商品の価値関係を質的側面で考えると、ここに、価値形態の謎をその価値形態の単純な表現で示される秘密と対比することで発見し[2]、ここに貨幣の謎があることが理解できる。[3]>

    註2.「ナッツ・シェル」。
     2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
     多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
     「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
     何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
     "OK. I'll put it in a nutshell."
    「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。
    註3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が、判断と推論のパラダイムで
     形式の内容を見落としていたように、
     経済学者が相対的価値<表現ーー誤訳>形態の形式的内容を見落
     としていることは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。
     <杉本 既存訳「相対的価値表現の形式内容」であれば、両極の形態
     をとることであり、相対的価値形態の形式内容」であれば、「価値形態」
     が内実とされることで、価値表現がされるということです。>

 ⑧私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。
リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。
他方では、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な等価物としての使用価値の形式を正確に得る。
両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品極の間の極のように分けられます。

 ⑨定量的決定は商品の等価形態には含まれない。(例えば、コートがリネンの同等物である)規定された関係は、同等の形態(等価形態)、すなわち、リネンとの直接的交換可能性の形態からではなく、労働時間による価値量の決定から生じる。リネンは結晶化した人間の労働量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。
この場合コート値の変化では、この関係も変化します。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。
さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、(この前提のもとでは)リネンのヤードの価値に完全に依存し、その値がコートの形で明示されるはずのヤードの数に左右されます。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。
商品は、他方としてのみ(「等価」によって意味されるものである)直ちに交換可能な使用価値の形を求める材料である、別の商品で価値が表現されます。

 ⑩この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって不明瞭である。
方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)であります。コート値が等価であるリネンの相対的な価値表現は、リネンが等価である場合のコートの相対的な価値表現を逆に含む。

 ⑪Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity.
商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。

As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen).Only within this relationship is the coat an Equivalent.
コートに関しては、リネンはコート自体を価値形態として、したがってそれ自体ですぐ<直接>に(リネンに)交換可能なものとして、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかである。この関係の中でのみコートと等価です。

But it conducts itself passively. It seizes no kind of initiative. It finds itself in relationship because things relate themselves to it.
しかし、それは受動的に行われます。 それは何のイニシアチブも握っていない。 物事はそれ自体に関係しているので、それはこの関係で自分自身を見つけます。

The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own.
リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。

In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’.
さらに、リネンがコートに関連する具体的な特定モードおよび方法は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、「プライドで怒っているテーラーの製品」ではない。

The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner. Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen.
結局のところ、リネンは、したがって現在の価値体としての、抽象的人間労働の現実的な現行・顕現<プレゼント>としてのコートに関連しています。これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限り、これだけです。同等物<等価物>としてのその状態は、リネンの反省規定[4]だけである(いわば)。

    <杉本 リネンの同等物=上着は価値として自らに等しいとの、
    リネンの反省規定された存在に過ぎず、等価物の形態ではない!
    形態規定されてはいない。上着は価値の凝固物であるが、それだ
    けでは、リネンに対して直接的交換可能な形態を、上着は受け取
    れない>

But the situation seems just the reverse.
On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything. On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do.
しかし状況はちょうど逆のように見える。
一方では、コートはそれ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがするかもしれない何かからかなり離れているので、コートと関連しています。

The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example).
コートに関連するリネンの結果物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその規定性)は、まったく同じ方法で、リネンに関係なく外面的な方法でコートに属するように見え、人々を暖かく保つことができるという特性(例えば)のようにですね。

In the first or simple form of relative value (20 yards of linen ? one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]
最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン - 1コート)では、このフォームはまだ確立されていません。これは直ちに反対に、コートはリネンと同等であることを表しています。 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有するのは、他方がそれ自身の相対的価値形式になるためであるからである[5]。

 ⑫In the simple form of relative value or the expression of the equivalence of two commodities, the development of the form of value is correspondent for both commodities, although in each case in the opposite direction. The relative value-expression is in addition identical with reference to each of both commodities, for the linen manifests its value in only one commodity (the coat) and vice versa, but this value expression is double for both commodities, different for each of the same. Finally, each of both commodities is only an Equivalent for the single other species of commodity, and thus only a single Equivalent.
単純な相対的価値形式や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形式の発展は両方の商品に対応している。リネンは一つの商品(コート)のみでその値を明示し、逆も同様であるが、この価値表現は、両方の商品ともに2倍であるため、相対価値表現は両方の商品についての参照と同じである。
同じなのです。
最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。

 ⑬Such an equation as ‘20 yards of linen = 1 coat’ (or twenty yards of linen are worth one coat) evidently expresses the value of the commodity in only a very limited and one-sided way. If I compare the linen, for example, with other commodities instead of coats, then I also obtain other relative value-expressions, other equations (like 20 yards of linen = u coffee; 20 yards of linen = v tea, etc.). The linen has just as many different relative value-expressions as there exist commodities different from it, and the number of its relative value-expressions constantly increases with the number of kinds of commodities which newly enter into existence.
「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対値式、他の式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。

 ⑭The first form (20 yards of linen = 1 coat) yielded two relative expressions for the value of two commodities. This second form yields the most variegated mosaic of relative expressions for the value of the same commodity. In addition, there seems to be nothing gained either for the expression of the amount of value (for the amount of value of linen ? which obviously remains the same in every expression ? is just as exhaustively expressed in ‘20 yards of linen = 1 coat’ as in ‘20 yards of linen = u coffee, etc.’), the coffee and the etcetera are only single Equivalents, just as the coat was.
最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2つの相対的表現をもたらした。この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。さらに、価値の量の表現(あらゆる表現において明らかに同じままであるリネンの価値のための)の表現は、「20ヤードのリネン= 1コート」と同様に徹底的に表現されている'20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーなどは、コートがそうであったように、単一の同等物である。

 ⑮Nevertheless, this second form contains within itself an essential development of form. For latent in it is, after all, not only the fact that linen happens to express its value at one time in coats, and at another in coffee, etc., but the fact that it expresses its value as much in coats as in coffee, etc.: either in this commodity or that or the third, etc. The continuing determination is revealed as soon as this second or developed form of the relative value-expression is manifested in its connection. We obtain then:
それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中で形態の本質的な発展を含んでいる。潜在的には、結局のところリネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実この商品またはその第三者などのいずれかで、継続的な決定が明らかになります。それから、



     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  III. Third, reversed or reciprocal second form of relative value:

  1 coat  = 20 yards of linen
  u coffee =   "
  v tea    =   "
  x iron   =   "
  y wheat etc.=   "

 ①The relative value-expression returns at this point to its original form: 1 coat = 20 yards of linen. Now, however, this simple equation is further developed. Originally it only contained the fact that the value of the coat obtains through its expression in another commodity a form which is different from and independent of the exchange-value coat or even the body of the coat. Now the very same form manifests the coat with respect to all other commodities whatsoever as value. Not only the coat, but also coffee, iron, wheat, in a word, all other commodities express their value in the material, linen. In this way, all manifest themselves to one another as the same materialization of human labour.
 ①相対価値表現は、この時点で元の形に戻ります:1コート= 20ヤードのリネン。
しかし、今、この簡単な方程式がさらに開発されています。
もともと、それは、コートの価値が他の商品の表現を通じて、交換価値コートまたはコートの本体とは異なる独立した形態を得るという事実のみを含んでいた。

今ではまったく同じ形が、価値あるものとして他のすべての商品に関するコートを明示しています。 コートだけでなく、コーヒー、鉄、小麦、言い換えれば、他のすべての商品は、素材、リネンの価値を表しています。 このようにして、すべてが人間労働の同じ物質化として互いに出現します。

They are henceforward only quantitatively different, which is the reason why one coat, u coffee, x iron, etc. ? i.e., different quanta of these different things ? equal 20 yards of linen (equal to the same quantum of objectified human labour). It is through their common value-expression in the material, linen, therefore, that all commodities differ as exchange-values from their own use-values and relate at the same time to one another as amounts of value, equate themselves qualitatively to one another, and compare themselves quantitatively. Only in this unified relative value-expression do they all appear for the first time as values for one another, and their value consequently obtains for the first time its corresponding form of appearance as exchange-value. As opposed to the developed form of relative value (form II) which manifests the value of a commodity in the environment of all other commodities, we call this unified value-expression the universal relative form of value.
彼らはそれ以来、定量的に異なっており、これは1つのコート、uコーヒー、x鉄など、すなわちこれらの異なる物の異なる量は、20ヤードのリネン(客観的な人工労働の同じ量子に等しい)に等しい。

それゆえ、すべてのコモディティは、自分たちの使用価値と交換価値として異なっており、同時に価値の量としてお互いに関連し、互いを定性的に見なす 、定量的に比較する。

この統一された相対的な価値表現においてのみ、それらはすべて互いの値として最初に出現し、結果的にその価値は最初に交換価値としての対応する形式を得る。 他のすべての商品の環境における商品の価値を明らかにする発展した相対価値(形式II)の形態とは対照的に、この統一的価値表現を普遍的〈一般的〉な相対的価値形態と呼んでいます。

 ②In form II (20 yards of linen = 1 coat or = u coffee, or v tea or x iron, etc.), the form in which the linen develops its relative value-expression, it relates itself to each individual commodity (coat, coffee, etc.) as a specific Equivalent, and to all of them together as to the environment of its specific forms of the Equivalent. No individual species of commodity counts any longer with respect to the linen as simple Equivalent, as in the particular Equivalent, but only as specific Equivalent whereby the one Equivalent excludes the other.
 ②リネンが相対的価値表現を生み出す形態II(20ヤードのリネン= 1コートか=コーヒーかvティーか×アイアンかなど)では、それは個々の商品(コート、コーヒーなど)を特定の等価物として、またそのすべてを特定の形態の等価物の環境に関して一緒に使用することができます。

商品の個々の種は、リネンに関しては、特定の同等物の場合と同様に単純な同等物として、もはや考慮されないが、特定の等価物としてのみ等価物であるので、等価物はその他を除外する。

In form III (which is the reciprocal second form, and is therefore contained in it), the linen appears on the other hand as the general form of the Equivalent for all other commodities. It is as if alongside and external to lions, tigers, rabbits, and all other actual animals, which form when grouped together the various kinds, species, subspecies, families etc. of the animal kingdom, there existed also in addition the animal, the individual incarnation of the entire animal kingdom.
フォームIII(これは相反する第2の形態であり、したがってそれに含まれる)では、リネンは、他のすべての商品の等価物の一般的な形態として、他方で現れる。それはライオン、トラ、ウサギ、および動物の王国の様々な種類、種、亜種、家族などを一緒にグループ化するときに形成される他のすべての実際の動物の横に並んでいるかのように、動物、動物界全体の個体化です。

Such a particular which contains within itself all really present species of the same entity is a universal (like animal, god, etc.). Just as linen consequently became an individual Equivalent by the fact that one other commodity related itself to it as form of appearance of value, that is the way linen becomes ? as the form of appearance of value common to all commodities ? the universal Equivalent universal value-body, universal materialization of abstract human labour. The specific labour materialized in it now thereby counts as universal form of realization of human labour, as universal labour.
同じエンティティの実際に存在するすべての種をそれ自身の中に含むような特定のものは、普遍的(動物、神などのようなもの)です。その結果、リネンは、価値の出現(現   )形式として、他の商品がそれに関連しているという事実によって、リネンが個人になったのと同じように、リネンは - すべての商品に共通の価値の出現--形態 - ユニバーサルな同等で抽象的人間労働の普遍的な実体化です。
それによって、リネンに具体化された特定の労働は、今や普遍的な労働としての人間の労働の実現の普遍的形態として数えられる。

 ③During the process in which the value of commodity A is displayed in commodity B (whereby commodity B becomes a single Equivalent), it was indifferent of what specific type commodity B happened to be. The corporeality of commodity B only had to be of a different species than that of commodity A, and therefore had also to be a product of other useful labour. By the coat’s displaying its value in linen, it related itself to linen as the realized human labour, and precisely thereby related itself to linen-weaving as the realization-form of human labour, but the specific determinacy which distinguishes linen-weaving from other kinds of labour was completely indifferent. It only had to be of another kind than tailoring and in any case had to be a specific kind of labour. It is otherwise as soon as linen becomes a universal Equivalent.
 ③コモディティAの価値がコモディティBに表示される過程(コモディティBは一つの等価物になる)の過程で、コモディティBが、どのような特定のタイプになったのかには無関心であった。

商品Bの身体は、商品Aと異なる種でなければならず、したがって、他の有用な労働の産物でなければならなかった。コートがリネンでその価値を示すことによって、それは実現された人間の労働としてリネンに関連し、それによって正確には人間の労働の実現形態としてのリネン織りに関連するが、リネン織りを他の種類と区別する特定の定められた労働に完全に無関心だった。どのような場合でも特定の種類の労働でなければなりませんでした。そうでないのは、リネンが普遍的な〈一般的〉等価物になるやいなやです。

This use-value ? in its special determinacy through which it is linen as opposed to all other kinds of commodities (coffee, iron, etc.) now becomes the universal form of value of all other commodities and hence a universal Equivalent. The particular useful kind of labour manifested in it therefore now counts as universal form of realization of human labour, as universal labour precisely insofar as it is labour of particular determinacy: linen weaving as opposed, not only to tailoring, but to coffee growing, mining, and all other kinds of labour. On the other hand, all other kinds of labour count (in the relative value-expression of linen ? the universal Equivalent: form II), henceforth only as particular forms of realization of human labour.
この使用価値は、他のすべての種類の商品(コーヒー、鉄など)とは対照的に、リネンである特別な決定においては、他のすべての商品のユニバーサルな形態となり、ユニバーサルな同等価値となります。したがって、特定の有用な種類の労働は、今や特別な決定の労働である限り、普遍的〈一般的〉な労働としての人間の労働の実現の普遍〈一般的〉的形態として数えられる:リネンは、仕立てだけでなくコーヒー栽培、鉱業、および他のすべての種類の労働。他方では、他のすべての種類の労働が(人間の労働の実現の特定の形態としてのみ、リネンの相対的価値表現 - 普遍的な同等物:形態II)である。


 ④As values the commodities are expressions of the same unity, of abstract human labour. In the form of exchange value they appear to one another as values and relate themselves to one another as values.
 ④価値として、商品は同じ団結の表現であり、抽象的人間労働である。 交換価値の形式では、相互に価値としてみなし、互いを価値として関連づけています。

They thereby relate themselves at the same time to abstract human labour as their common social substance. Their social relationship consists exclusively in counting with respect to one another as expressions of this social substance of theirs which differs only quantitatively, but which is qualitatively equal and hence replaceable and interchangeable with one another.
彼らはそれによって同時に、共通の社会的実体として人間の労働を抽象化するために自分自身を関連付ける。 彼らの社会的関係は、定量的にのみ異なるが、質的には同等であり、したがって交換可能で相互交換可能である、これらの社会的物質の表現として相互に数えている。

As a useful thing, a commodity possesses social determinacy insofar as it is use-value for people other than its possessor, and hence satisfies social needs. But it is indifferent just whose needs the commodity’s useful properties relate it to. The commodity nevertheless can only become through these properties in all cases only an object related to human needs, but not a commodity for other commodities.
有用なこととして、商品は所有者以外の人にとって価値のあるものであれば社会的決定性を保有し、社会的ニーズを満たすものである。 しかし、商品の有用な特性がそのニーズに関係していることは無関心です。 それにもかかわらず、商品は、すべての場合において、人間のニーズに関連する対象物のみをこれらの特性を介して摂取することができるが、他の商品のための貨物ではない。

It is only the kind of thing that can turn mere objects of use into commodities and hence set into social rapport. But this is just what value is. The form in which the commodities count to one another as values as coagulations of human labour ? is consequently their social form. Social form of the commodity and value-form or form of exchangeability are thus one and the same thing. If the natural form of a commodity is at the same time its value-form, then the commodity possesses the form of immediate exchangeability with other commodities and consequently an immediately social form.
単なる使用目的を商品に変えることができ、それゆえに社会的な関係に結びつけることができます。 しかし、これはただの価値です。 商品が価値として(すなわち、人間の労働の凝固として)数える形式は、結果的に彼らの社会的形態です。 したがって、商品の社会的形態と価値形態または交換可能性の形態は、同じことです。
商品の自然形態が同時に価値形態である場合、商品は他の商品との即時の交換可能性の形をとり、その結果即座の社会的形態を保有する。

 ⑤The simple relative value form (form I) ‘One coat = 20 yards of linen’, differs from the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards linen’ only by the fact that this equation now forms a member in the series:
 ⑤単純な相対価値フォーム(フォームI)「ワンコート= 20ヤードのリネン」は、この式が今シリーズのメンバーとなっているという事実だけで、普遍的な相対価値フォーム「ワンコート= 20ヤードのリネン」とは異なります :
 1 coat  = 20 yards of linen
 u coffee =
 v tea  =
 etc    =

 ⑥In actuality, it differs thus only in the fact that the linen has continued its development from a singular to a universal Equivalent. Thus if in the simple relative expression of value it is not that commodity which expresses its amount of value, but rather that commodity in which the amount of value is expressed which is the one that obtains the form of immediate exchangeability (equivalent form: hence, immediately social form), the same thing holds true for the universal relative value expression.
 ⑥実際には、それはリネンが単数から普遍的な同等物へとその発展を続けているという事実においてのみ異なる。したがって、価値の単純な相対的表現では、価値の量を表現する商品ではなく、価値の量が表現されている商品であり、即時の交換可能性の形態をとる商品(同等の形態:したがって、 直ちに社会形態)、普遍的な相対価値の表現にも同じことが当てはまる。

But in the simple relative form of value this distinction is merely formal and evanescent. If the coat expresses its value in a relative way (that is, in linen) in the equation ‘One coat = 20 yards of linen’, and the linen acquires thereby the form of Equivalent, then the very same equation includes immediately the reciprocity ‘20 yards of linen ? one coat’, in which it is the coat that acquires the form of Equivalent and the value of the linen is expressed in a relative way.
しかし、単純な相対的な価値形態では、この区別は単なる正式で消極的です。 コートがその値を相対的な方法(つまり、リネン)で「一コート= 20ヤードのリネン」という表現で表し、リネンが等価の形を取得する場合、非常に同じ式は、 20ヤードのリネン - 1つのコート であり、それは等価物の形態を獲得するコートであり、リネンの価値は相対的な方法で表される。

This constant and correlative development of the value-form of both commodities as relative value and as Equivalent no longer takes place. If the universal relative value-form, ‘One coat = 20 yards of linen’, (where the linen is universal Equivalent) is turned around into ‘20 yards of linen = one coat’, the coat does not thereby become universal Equivalent for all other commodities, but only a particular Equivalent of the linen.
相対価値と同等価値としての両方の商品の価値形態のこの一定かつ相関関係の発達はもはや起こらない。
普遍的な相対的価値形式、「1コート= 20ヤードのリネン」(リネンが普遍的である場合)は「リネン= 1コート」の20ヤードになり、コートはそれによって普遍的にならない。他の商品は、リネンと同等のものにすぎません。

The relative value-form of the coat is only universal because it is the relative value-form of all other commodities at the same time.
 ①コートの相対的価値形態は、それが他のすべての商品の
 相対的価値形態であるためにのみ普遍的である。
What holds true of the coat, holds true of coffee, etc.
It follows, therefore, that the universal relative value-form of commodities excludes these very commodities from the universal form of Equivalent. On the other hand, a commodity like linen is excluded from the universal relative value-form as soon as it possesses the universal form of Equivalent. The universal relative value form of linen, unified with the other commodities, would be ‘20 yards of linen = 20 yards of linen’.
 ②<What holds true of the coat, holds true of coffee, etc.>
 そのコートには、なにが当てはまるのか、コーヒーなどにもそのことは当てはまりますよね。
 ③したがって、商品の普遍的な相対価値形式は、これらの商品をユニバーサル形式の等価物から除外します。
 ④一方、リネンのような商品は、それが普遍的な等価物を持っていると
 すぐに、普遍的な相対価値形式から除外されます。
 ⑤だから、もしリネンの普遍的な相対価値形式であれば、他の商品と統一さ
 れ、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンになります。

But this is a tautology which does not express the amount of value of this commodity, which is situated in a universal form of Equivalent ? and thereby in perpetually exchangeable form. Rather, it is the developed relative value-form (20 yards of linen = one coat or u coffee or = v tea or = etc.) that now becomes the specific relative value-expression of the universal Equivalent.
しかし、これは、この商品の価値を表現していないもの、同義語です。
これは、普遍的な形式の等価 - そして永久に交換可能な形で位置しています。むしろ、普遍的な等価物の具体的な相対価値表現となるのは、開発された相対価値形式(20ヤードのリネン= 1つのコートか、コーヒーか= vのティーか=など)です。

 ⑦Every commodity (coat, coffee, tea, etc.) possesses in the universal relative value-expression of commodities a value-form which is different from its natural form ? namely, the form: linen. And it is precisely in this form that they relate themselves to one another as exchangeables and exchangeables in relationships which are quantitatively determined, since, if one coat = 20 yards of linen, u coffee = 20 yards of linen, etc., then it is also true that one coat = u coffee, etc.
 ⑦すべての商品(コート、コーヒー、紅茶など)は、商品の普遍的な相対価値表現において、その自然な形式、すなわち形態:リネンとは異なる価値形態を有する。 そして、それは、1つのコート= 20ヤードのリネン、20ヤードのリネン= 20ヤードのリネンなどがあれば、量的に決定される関係における交換可能な交換可能物として相互に関係することが正確にこの形態である。 また、1つのコート= uコーヒーなどです。

All commodities by mirroring themselves in one and the same commodity as quantities of value, reflect themselves reciprocally as quantities of value.
すべての商品は、価値のある商品と同じ商品で自分自身を反映し
<すべてのコモディティをミラーリングすることで>、価値の量として相互に反映されます。

But the natural forms which they possess as objects of use count for them reciprocally as forms of appearance of value only over this detour, and consequently not in an immediate way. They are not for that reason immediately exchangeable just because of the way they immediately are.
しかし、彼らが使用する目的として持っている自然の形式は、この迂回路を越えて価値の出現の形式として相互に価値あるものに数えられ、その結果即座にではありません。 その理由から、すぐに交換できるのはその理由だけではありません。

Thus they do not possess the form of immediate exchangeability for one another; i.e., their socially valid form is a mediated one.
したがって、彼らはお互いに即座の交換可能性の形を持っていません。 すなわち、その社会的に有効な形態は、媒介された形態である。

It is the other way around. It is through the fact that all other commodities relate themselves to linen as form of appearance of value, that the natural form of linen becomes the form of its immediate exchangeability with all commodities ? and consequently its universal social form in an immediate way.
それは別の方法です。 他のすべての商品は、価値の出現の形態としてのリネンに関連しており、リネンの自然な形態は、すべての商品との即時の交換可能性の形になり、結果としてその普遍的な社会的形態が直ちに生じる。

 ⑧A commodity only acquires the universal Equivalent-form because and insofar as it serves all other commodities in the manifesting of their universal relative (and hence not immediate) value-form.
 ⑧商品は、その普遍的な相対的な(したがって、即時ではない)価値形態の現れにおいて、他のすべての商品に役立つ限り、また、その限りでは、普遍的な同等の形態を獲得するだけである。

Commodities, however, have to endow themselves with relative value-form in general, because their natural-forms are only their forms of use-value, and they have to endow themselves with unified (and hence universal) relative value-forms in order for all of them to relate to one another as values, as homogeneous coagulations of human labour.
しかし、コモディティは、一般的には相対的価値形式を持っていなければならない。
なぜなら、その自然形式はその使用価値の形式だけであり、統一された(したがって普遍的な)相対価値形式を持たなければならないからである。 それらのすべては、人間労働の均質な凝固として、互いの価値に関連している。

A single commodity, therefore, only finds itself in the form of immediate exchangeability with all other commodities, and therefore in immediately social form, because and insofar as all other commodities do not find themselves therein, or because the commodity by its very nature does not in general find itself in an immediately exchangeable or social form, by virtue of the fact that its immediate form is the form of its use-value, not of its value.
従って、単一の商品は他の商品との即時の交換可能性の形でしか見えないので、他の商品がその商品に含まれていない限り、 一般的な即時型はその価値のものではなく、その使用価値の形式であるという事実のために、即座に交換可能であるか社会的な形態であることがわかる。

 ⑨One does not by any means actually detect in the form of universal immediate exchangeability that it is a contradictory form of commodity: just as inseparable from the form of not immediate exchangeability as the positivity of one pole of a magnet is from the negativity of the other. Consequently, one can imagine that one could impress the mark of immediate exchangeability on all commodities at the same time, just as one can also imagine that one could make all workers into capitalists.
 ⑨一方では、実際に普遍的な即時交換可能性という形で商品の矛盾した形態であることが実際に検出されるわけではない:磁石の一方の極の陽性は他方の陰性からのものであるからです。 したがって、すべての労働者を資本家にすることができると想像できるように、同時にすべての商品に即時交換可能性の印を印象付けることができると想像できてしまうのです。

Actually, however, universal relative value-form and universal Equivalent-form are the contradictory, reciprocally-presupposing and reciprocally repelling poles of the very same social form of commodities.
しかし、実際には、普遍的な相対価値形式と普遍的な等価形式は、全く同じ社会的形態の商品の相反的で、相互に前提を置いて反復的に反発する極である。

 ⑩As immediate social materialization of labour, linen is (as the universal Equivalent) materialization of immediately social labour, while other bodies of commodities, which represent their value in linen, are materializations of not-immediately social labours.
 ⑩リネンは直ちに社会的労働の社会的実現化として(普遍的な同等のものとして)実体化されているが、リネンでその価値を表す他の商品は、直ちに社会的労働ではない現実化である。

 ⑪Actually, all use-values are only commodities because they are products of private labours which are independent of one another private labours which, however, depend materially upon one another as particular members (even though rendered self-sufficient) of the primordial system of division of labour. In this fashion, they hang together socially precisely through their differentiation, their particular usefulness. That is exactly the reason why they produce qualitatively differing use-values.
 ⑪実際には、すべての使用価値は商品であり、民間労働者の製品であるが、分業体制の原始的な体系の特定の構成員(相互に独立しているとはいえ)の労働は、このようにして、彼らは彼らの差別化、特にその有用性によって、社会的に正確に結びついています。 それが、質的に異なる使用価値を生み出す理由です。

 ⑫If they did not, then these use-values would not become commodities for one another. On the other hand, this differing useful quality does not yet make products into commodities.
 ⑫彼らがそうしなければ、これらの使用価値はお互いのための商品にならないでしょう。 他方で、この異なる有用な品質はまだ製品を商品にしていない。

If a peasant family produces coat, linen and wheat for its own consumption, then these things confront the family as differing products of their family labour, but do not confront one another reciprocally as commodities. If the commodity were immediately social (i.e., common) labour, then the products would acquire the immediately social character of a common product for its producers, but not the character of commodities for one another.
農民家族がコート、リネン、小麦を自ら消費する場合、これらは家庭労働の異なる製品として家族に直面するが、商品として相互に対立しない。 商品が直ちに社会的(すなわち共通)の労働であった場合、製品はその生産者にとって共通の製品の直ちに社会的特性を獲得するが、相互の商品の特性は獲得しない。

Nevertheless, we do not have far to seek, in this case, for that in which the social form of the private labours consists, which are contained in the commodities and are independent of one another.
それにもかかわらず、私たちは、この場合、私的労働の社会的形態が成立し、商品に含まれ、互いに独立しているものについては、それほど遠くまで追求する必要はない。

It already yielded itself out of the analysis of the commodity. The commodities’ social form is their relationship to one another as equal labour; hence ? since the equality of toto coelo [utterly] different labours can only consist in an abstraction from their inequality their relationship to one another as human labour in general: expenditures of human labour-power, which is what all human labours ? whatever their content and their mode of operation ? actually are.
それはすでに商品の分析からそれ自体を産出した。
商品の社会的形態は、同等な労働としての互いの関係です。 それゆえ、全く異なる労働の同等性は、その不平等から人間の一般的な関係を抽象化するだけであり、人間の労働力の支出は--すべてが人間労働である。しかし、それらの動作モードは実際には異なります。

In each social form of labour, the labours of different individuals are related to one another as human labours too, but in this case this relating itself counts as the specifically social form of the labours. Now none of these private labours in its natural form possesses this specifically social form of abstract human labour, just as little as the commodity in its natural form possesses the social form of mere coagulation of labour, or value.
それぞれの社会的形態の労働において、異なる個人の労働は人間の労働としても互いに関係しているが、この場合には、それ自体が労働の具体的な社会的形態とみなされる。 現在のところ、これらの私的労働は、その自然な形態の商品が労働や価値の単なる凝固という社会的形態を保有しているのと同じくらい、この抽象的な人間的労働の具体的な社会的形態を保有していません。

However, through the fact that the natural form of a commodity (linen, in this case) becomes a universal Equivalent-form because all other commodities relate themselves to this natural form as the appearance-form of their own value, hence linen-weaving also turns into a universal form of realization of abstract human labour or into labour of immediately social form.
しかし、商品の自然な形態(この場合、リネン)は、他のすべての商品がこの自然な形態に自分自身の価値の出現形態として関連しているため、リネン織りは、 抽象的人間労働の実現の普遍的形態に、またはすぐに社会的な形態の労働に変わる。

 <江夏訳 「しかし、ある商品の現物形態、ここではリンネルの現物形態が、
 すべての他商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するが
 ゆえに、一般的な等価形態になる、という事情からして、リンネル織りもま
 た、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な実現形態に、すなわち直接的に社
 会的形態にある労働に、なるわけである。」<江夏訳P53原P32>

 <杉本ーー江夏訳は、ここで、等価形態という用語が原文に無いーー
 にもかかわらず、表現している。今村訳も同じくであります。
 この誤訳のお陰で、「商品の自然な形態(この場合、リネン)は、他のすべて
 の商品がこの自然な形態に自分自身の価値の出現形態として関連しているた
 め、」--すなわち一般的な相対的価値形態の形成があることで、その反対極で
 「リネン織りは、 抽象的人間労働の実現の普遍的形態に、またはすぐに社会
 的な形態の労働に変わる」・そのことで、<一般的な等価形態>が形成され
 るーーという関連性が、消され、単なる等価形態がまず有りき・・とされてい
 ます。

The standard of ‘socialness’ must be borrowed from the nature of those relationships which are proper to each mode of production,
and not from conceptions which are foreign to it.
「社会性」の基準は、それぞれの生産様式にふさわしい関係の性質から借用されなければならず、それに対して外国のことばである概念からではない。

Just as we demonstrated earlier that the commodity naturally excludes the immediate form of universal exchange-ability and that the universal Equivalent-form consequently can only develop in a contradictory way, so the same thing holds for the private labours lurking in the commodities.
先に実証したように、商品は当然の形で普遍的な交換能力を自然に排除し、普遍的な等価形態は結果的に矛盾した形でしか発展できないので、商品に潜む私的労働にも同じことが当てはまる。

Since they are not-immediately social labour, in the first place the social form is a form which differs from the natural forms of the real, useful labours and is foreign to them and abstract; and in the second place, all kinds of private labour obtain their social character only In a contradictory way, by all being equated to one exclusive kind of private labour (linen-weaving, in this case).
彼らはすぐには社会的労働ではないので、まず社会形態は現実的で有用な労働の自然な形態とは異なる形態であり、それらには異質で抽象的である。
第二に、すべての種類の私的労働は、唯一の排他的な種類の私的労働(この場合、リネン織り)とみなされることによって、相反する方法で彼らの社会的性格を得るだけである。

This latter thereby becomes the immediate and universal form of appearance of abstract human labour and thereby labour in immediately social form. It manifests itself consequently also in a product which is socially valid and universally exchangeable.
それによって、この後者は抽象的人間の労働の即時かつ普遍的な形態になり、それによって直ちに社会的形態で< thereby labour>働く。 その結果、社会的に妥当で普遍的に交換可能な製品にも、その事が--現れます。

 ⑬The illusion as if the equivalent-form of a commodity resulted from its own corporeal nature instead of being a mere reflex of the relationships of other commodities: this illusion strengthens itself with the continuing development of the singular Equivalent to the universal, because the contradictory vectors of the value-form no longer develop equally for the commodities which are related to one another, because the universal Equivalent-form separates a commodity off as something totally secluded from all other commodities, and finally because this (the commodity’s form) is actually no longer the product of the relationship of any singular commodity.
 ⑬他の商品との関係の単なる反射ではなく、それ自体の体質的性質から生まれたかの商品の同等形態のような錯覚:この幻想は、ユニバーサルと同等の発展を続けることで強化される。
普遍的な等価形態は、商品を他のすべての商品から完全に隔離されたものとして分離し、最終的にこれ(商品の形式)が実際には存在しないために、価値の形式のもう一つの部分は、 単一の商品の関係の製品をより長くする。

 ⑭From our present standpoint the universal Equivalent has not yet by any means ossified, however. What was the way in which linen was metamorphosed into the universal Equivalent, actually?
 ⑭我々の現在の立場からは、普遍的な等価物はまだ化石化されていない。 リネンがユニバーサル相当品に変身したのはどうして--でしたか?

By the fact that it displayed its value, first in one single commodity (form I), then in all other commodities in order in a relative way (form II), and thereby all other commodities reflexively displayed their values in it in a relative way (form III).
事実、それはその商品の価値を最初に一つの商品(I形)で表示し、次に他のすべての商品では相対的な形で(II形)、それによって他のすべての商品は反射的に価値を相対的に表示した (形態III)。

The simple relative value-expression was the seed out of which the universal Equivalent-form of linen developed. It changes its role within this development.
単純な相対価値表現は、普遍的な同等形態のリネンが開発された種であった。 それはこの開発の中で役割を変えます。

It begins by displaying its amount of value in one other commodity and ends by serving as material for the value-expression of all other commodities.
それは、ある他の商品にその価値大きさを表示することから始まり、他のすべての商品の価値表現の材料として役立ちます。

What holds for linen holds for every commodity.
In its developed relative value-expression (form II) ? which only consists of its many, simple value-expressions ? the linen does not yet figure as universal Equivalent.
リネンが、何をえたのか--といえば、すべての商品のためにリネンが保持しているものですよ。
開発された相対価値表現(フォームII)では、その多くの単純な価値表現だけで構成されていますが、リネンはまだ普遍的な等価とは見なされていません。

Rather, every other commodity-body forms in this case linen’s Equivalent , is thereby immediately exchangeable with it and is therefore able to change places with it.
むしろ、この場合リネンの等価である他のすべての商品本体は、それによって即座に交換可能で、したがそれを使用して場所を変更することができる。

So we obtain finally:
だから私たちは最終的に得ます:

Form IV:

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