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初版の等価形態の記述の誤りについて 

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月18日(水)14時04分39秒
返信・引用 編集済
    <杉本  現行の初版 第一の価値形態の記述・翻訳は、等価形態しか書かれていないのでは?
  と思うかのように、久留間先生の初版からの引用の記述、転載は、そのようになっている。
  しかし、偶然英訳本を提示してくれている、ホームページから、初版のドイツ語からの英訳が
  転載されているーーページを見つけることが出来ました。

  点検していると、何とこれまでの初版価値形態論の記述が、本当に混乱の産物、我々労働者が、
      普通の学識で、理解できるように、書かれていることにきがつきました。
  久留間先生の理解してきた、初版の記述ではないのですね!!!
  わかりやすい、英訳の初版資本論の、第一の価値形態を提示します。
  まずは、既存訳です。その次に、杉本が、パソコン訳のわかりにくいところ、混乱を訂正した
  ものを紹介します。



 初版6・7段落

 ⑥ リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。だが、リンネルをして上着という使用価値に興味を抱かせるものは、上着がもっている羊毛製の快適さでもなければ、ボタンをかけた上着の恰好でもなければ、上着に使用価値の特徴を与えている他のなんらかの有用な品質でもない。上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。リンネルは、自分の価値をあぎ剤〔あぎは植物名。あぎ剤は駆虫剤、通経剤などのことを言う〕とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現しても、同じ目的を達したであろう。

だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう(19a)。

つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。
(19a)すなわち、靴墨の調整そのものが靴墨作りと俗に呼ばれているかぎりでは。

 ⑦ われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立っている。
商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している労働を、たんに人間労働力の支出として商品価値のなかに計算されているかぎりでのその同じ労働から区別することは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察するぱあいには、それを、他方の形態においては考察しないのであって、逆のばあいには逆になる。これらの抽象的な対立は、おのずから分離するものであり、したがって区別しやすい。

商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価値の・したがってそれ白身の反対物の・現象形態になる。同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、すなわち、抽象的な、入間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。

このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。

商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、有用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。この形態は、商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態である。

ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であるから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができるのである。

この商品は、自分の価値を、自分自身の体躯であるいは自分自身の使用価値で、表現することはできないが、直接的な価値存在としての・一つの別の使用価値あるいは商品体に、関係することができる。

この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もちろん関係することができる。

そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、ということだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。

単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だけを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)。



   再度しつこく挙げておこう。
 次の初版の提示は、等価物上着の役立ちが両極の形態にてなされているのです。

<一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。>



   初版 資本論のドイツ語訳からの英訳本からの、日本語訳であります。
   英訳本を苦闘して和訳している人のサイトから、見つけ出しました。
   我々が手にしている、初版の記述が如何に矛盾した記述であるのか
   理解できます。素晴らしい!

   グーグル英和訳ソフト
   Google 翻訳   https://translate.google.co.jp/?hl=ja?

  https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/commodity.htm

  商品

     <これは、最初のドイツ語版のCapitalの第1章Albert Dragstedtによる英訳です。
     現代版のCapitalは、第2版以降の第1章を持っています。
     出典:Albert Dragstedt、Value:Studies by Karl Marx、New Park Publications、London、
     1976、pp。7-40。 転写される:Steve Palmer。>

 資本主義的生産方式が普及している豊かな社会は、「巨大な商品群」として現れ、単一の商品は基本的な富の形態として現れる。私たちの調査は、商品の分析に応じて開始されます。

    ーーーーーー


What we have investigated is how far change in the relative magnitude of value of a commodity (linen) reflects a change in its own magnitude of value and we have in general investigated relative value only in accordance with its quantitative side. We now turn to its form. If relative value is the form wherein value manifests itself, then the expression for the equivalence of two commodities (e.g., x of commodity A = y of commodity B, or 20 yards of linen = one coat) is the simple form of relative value.

私たちが調査したことは、商品(リネン)の価値の相対的な大きさの変化が、それ自体の価値の大きさの変化を反映しているかどうかであり、その定量的側面のみに基づいて相対価値を調査しました。 今度はその形に変わります。 相対価値が値が現れる形であれば、2つの商品(例えば、商品Bの商品A = y、リネン= 1コートの20ヤード)の等価の表現は、単純な形式の相対価値である。

 ①I. First or simple form of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (x of commodity A = y of commodity B).

This form is rather difficult to analyse, because it is simple. The different specifications which are contained in it are veiled, undeveloped, abstract, and consequently only able to be distinguished and focused upon through the rather intense application of our power of abstraction. But at least this much becomes clear at a glance, that the form remains the same, whether 20 yards of linen = 1 coat, or 20 yards of linen = x coats.

 ①I.最初または単純な相対価値:20ヤードのリネン= 1コート(商品Aのx =商品Bのy)。

このフォームは単純なので、分析するのがむしろ困難です。 それに含まれるさまざまな仕様は、隠されており、抽象的な未開発であり、その結果、抽象化の力をかなり強く適用することによってのみ区別することができます。 しかし少なくともこれは、20ヤードのリネン= 1コート、または20ヤードのリネン= xコートであっても、その形態は同じであることを一見して明らかにする。

 ②Linen makes its earthly appearance in the shape of a use-value or useful thing. Its stiff-as-linen corporeality or natural form is consequently not its form of value, but its direct opposite. It reveals its own reality as value immediately by relating itself to another commodity (the coat) as equal to itself. If it were not itself value, then it could not relate itself to coat (as value) as its own sort of thing. It posits itself as qualitatively equal to the coat, by relating itself to it as objectification of human labour of the same species, i.e., of its own value-substance; and it posits itself as equal to only one coat instead of x coats, because it is not just value in general, but value of a specific magnitude ? and a coat, however, contains precisely just so much labour as 20 yards of linen. By this relationship to the coat, linen swats different flies with one stroke. By equating the other commodity to itself as value, it relates itself to itself as value. By relating itself to itself as value, it distinguishes itself from itself as use-value, at the same time. By expressing its magnitude of value in the coat (and magnitude of value is both things: value in general, and quantitatively measured value), it endows its reality as value with a form of value which differs from its immediate existence. By revealing itself in this manner as a thing which is differentiated within itself, it reveals itself for the first time really as a commodity ? a useful thing which is at the same time value. Insofar as linen is use-value, it is an independent thing. Its value appears, on the other hand only in relationship to another commodity (e.g., the coat), which a coat is, is qualitatively equated to it (the linen), and consequently in some specific quantity counts as equivalent to it, replaces it and is exchangeable for it. Hence, value only acquires an individual form which is different from use-value only through its manifestation as exchange-value.

 ②リネンは、価値あるものや有用なものの形で、その地上の様子を描きます。それゆえに、その堅いas as linenの体質や自然の形は、その価値形態ではなく、その正反対です。それは、それ自体に等しい他の商品(コート)にそれ自体を関連付けることによって、価値(価値存在)としての自分自身の現実を明らかにする。それ自体に価値がないのであれば、同類の独自なものとして(価値として)コートに関係することはできません。

同種の人間の労働の客観化、すなわちそれ自体の価値の物質としてそれ自体をそれに関連づけることによって、それはコートと質的に同等であると自認する。それは一般的に単なる価値ではなく、特定の大きさの価値である - そしてコートは、20ヤードのリネンほどの労力を正確に含んでいるため、xコートの代わりに1コートと同等であると考えます。

コートとのこの関係によって、リネンは1回のストロークで異なる他のハエ打つのです。

他の商品を価値として自分に等置にすることによって、それ自体を価値として関連付ける。

自分自身を価値として関連づけることによって、それは同時に自分自身と使用価値として区別されます。

コートの価値の大きさ(そして価値の大きさは一般的な価値と定量的な価値の両方である)を表現することによって、その現実とは異なる価値形態の価値として現実を与えます。

このように自分自身の内で差別化されているものとして自らを明らかにすることによって、それは本当に商品として初めて - それは同時に価値のある有用なものである、ことを明らかにする。

リネンが使用価値である限り、それは独立したものです。

その価値は、他方では、コートがある別の商品(例えばコート)との関係においてのみ(リネン)と定性的に同等であるため、それに相当するいくつかの特定の数量において現れるそれと交換可能です。

したがって、価値は、交換価値としてのその表現を通じてのみ、使用価値とは異な形態を獲得するだけである。

 ③The expression of the value of linen in the coat impresses a new form upon the coat itself. After all, what is the meaning of the value-form of linen? Evidently that the coat is exchangeable for it. Whatever else may happen to it, in its mundane reality it possesses in its natural form (coat) now the form of immediate exchangeability with another commodity, the form of an exchangeable use-value, or Equivalent. The specification of the Equivalent contains not only the fact that a commodity is value at all, but the fact that it in its corporeal shape (its use-value) counts as value for another commodity and consequently is immediately at hand as exchange-value for the other commodity.

 ③彼はコートのリネンの価値の表現は、コート自体に新しい形を印象づける。 結局、リネンの価値形態の意味は何ですか? コートが交換可能であることは明らかです。 他に何が起こっても、そのものごとの現実では、自然な形態(コート)で、他の商品との直接的交換可能性、交換可能な使用価値の形式、または等価物を保有します。 等価物の規定には、商品が価値であるという事実だけでなく、その体質的な形(その使用価値)が別の商品の価値として数えられ、結果として直ちに交換価値として 他の商品にとって登場するということを。

④As value, linen is composed exclusively of labour, and forms a transparently crystallized precipitate of labour. In reality this crystal is very murky, however. In so far as labour is detectable in it (and not every embodiment of commodity reveals the trace of labour), it is not some undifferentiated human labour, but rather: weaving, spinning, etc. ? which, in addition, are by no means the only components of its substance but of course are leavened with matter derived from nature. In order to retain linen as a merely corporeal expression of human labour one has to abstract from all that which makes it to be really a thing. Any objectivity of human labour which is itself abstract (i.e., without any additional quality and content) is necessarily an abstract objectivity ? a thing of thought. In that fashion, a web of flax turns into a chimera.

But commodities are objects.(しかし、商品は物象です。)
They have to be what they are in an object-like way (物象的なやり方で)or else reveal it in their own object-like relationships(物象的な関係).
In the production of linen, a particular quantum of human labour exists in having been expended.

The linen’s value is the merely objective reflection of the labour so expended, but it is not reflected in the body of the linen.
It reveals itself (i.e., acquires a sensual expression) by its value-relationship to the coat.
By the linen’s equating the coat to itself as value ー while at the same time distinguishing itself from the coat as object of use ー what happens is that the coat becomes the form of appearance of linen-value as opposed to linen-body: its value-form as distinguished from its natural form.

 ④価値として、リネンは労働だけで構成され、透明で結晶化した労働の沈殿物を形成します。
実際には、この結晶は非常に濁っているのです。
労働がそれで検出可能である限り(商品のすべての実施形態が労働の痕跡を明らかにするわけではない)、それは未分化の人間の労働ではなく、むしろ、製織、紡績などである。その物質の唯一の成分ですが、もちろん自然由来の物質で発酵しています。
リネンを人間の労働の単なる肉体的表現として保持するためには、それを本当に物事にするすべてのものから抽象化しなければならない。

抽象的な(すなわち、いかなる追加の品質や内容もなく)人間労働の客観性は、必然的に抽象的な対象性でありーー抽象的な思考のものである。

そのようにして、亜麻の織物はキメラ(まぼろし)に変わります。
   しかし、商品は物象です。
   彼らは、彼らが物象的なやり方であるか、
   そうでなければ自分の物象的な関係でそれを明らかにする必要があります。

リネンの生産では、人間労働の一定の量が消費されています。
リネンの価値は、そのように費やされた労働の単なる客観的な反映ですが、リネンの体には反映されません。それはコートとの価値関係によってその素顔を明らかにする(すなわち感覚的な表現を得る)。

リネンが価値としてコートを等置することで、同時に使用価値としてコートと区別されることで、何が起こるかを示すと、コートがリネンボディとは対照的に - その自然な形態とは区別されるリネンの価値形態になります。

 ⑤In the expression of relative value: 20 yards of linen = 1 coat (or, x linen is worth y of coat), one must admit that the coat counts only as value or coagulation of labour, but it is precisely through that fact that the coagulation of labour counts as coat, and coat as the form into which human labour flows in order to congeal. The use-value coat only becomes the form of appearance of linen-value because linen relates itself to the material of the coat as to an immediate materialization of abstract human labour, and thus to labour which is of the same kind as that which is objectified within the linen itself. The object, coat, counts for it as a sensually palpable objectification of human labour of the same kind, and consequently as value in natural form. Since it is, as value, of the same essence as the coat, the natural form coat thereby becomes the form of appearance of its own value. But the labour represented in the use-value, coat, is not simply human labour, but is rather a particular useful labour: tailoring. Simple human labour (expenditure of human labour-power) is capable of receiving each and every determination, it is true, but is undetermined just in and for itself. It can only realize and objectify itself as soon as human labour-power is expended in a determined form, as determined and specified labour; because it is only determined and specified labour which can be confronted by some natural entity ? an external material in which labour objectifies itself. It is only the ‘concept’ in Hegel’s sense that manages to objectify itself without external material.[1]

 ⑤相対的価値の表現:20ヤードのリネン= 1コート(または、xリネンはコートの価値がある)の場合、コートそれ自体では価値のあるまたは労働の凝固としてしかカウントされないと認めなければならないが、価値関係のなかにあるコートとしては労働の凝固物であり、およびコートは人間労働の凝固した形態として通用している。

使用価値コートはリネン価値の出現形態にしかならない。
なぜなら、リネンは、抽象的な人間の労働を即時に実現するためにコートの材料に関係するため、オブジェクト化されたものと同じ種類の労働に関係するリネン自体の中にある。オブジェクト(コート)は、同じ種類の人間の労働の感覚的に触知可能なオブジェクト化として、それゆえ自然な形で価値としてカウントされます。

コートと同じエッセンスの価値があるので、自然な形のコートは、それによって、自分の価値形態になります。

しかし、使用価値で表現されている労働は、単なる人間の労働ではなく、むしろ特定の有用な労働である。単純な人間の労働(人間の労働力の支出)は、それぞれのすべての決定を受け取ることができますが、それは真実ですが、それ自体のためだけには決定されません。

それは、決定され特定された労働として決定された形で人間の労働力が消費されるとすぐに実現し、客観化することができます。なぜなら、それは、労働がそれ自体を客観化する外的な物質である、何らかの自然の存在によって直面することができる決定され特定された労働であるからです。

ヘーゲルの意味での「概念」は、外的な物質なしでそれ自身を客観化することだけです。[1]

 ⑥Time cannot be related to the coat as value or incarnated human labour, without being related to tailoring-labour as the immediate manifestation-form of human labour.
The aspect of the use value, coat, however, which is of interest to the linen is neither its woollen comfort, nor its buttoned-up essence nor any other useful quality which marks it out as a use-value.
The coat is of service to the linen only in order to represent the linen’s value-objectivity as distinguished from its starchy use-objectivity.

It could have attained the same purpose if it had expressed its value in assa foetida or cosmetics, or shoe polish.

The tailoring labour, too, has value for the linen,consequently, not insofar as it is purposeful productive labour, but only insofar as it exists as determinate labour, form of realization, manner of objectification of human labour in general.

If linen expressed its value in shoe polish rather than in the coat, then polish-making would count for it as the immediate form of realization of abstract human labour instead of tailoring.

So a use-value or commodity-body only becomes a form of appearance of value or an Equivalent by another commodity’s relating itself to the concrete, useful species of labour contained in it, as the immediate form of realization of abstract human labour.

 ⑥時間は、人間の労働の直接的な現れる形としての仕立て労働に関係なく、価値または肉体化された人間の労働として、コートに関連付けることはできません。

しかし、リネンにとって興味のある使用価値コートの有用な面は、そのウールの快適さ、記章、またはそれを使用価値としてマークする他の有用な品質ではない。
コートは、澱粉質の使用 - 客観性とは区別されるように、リネンの価値を表すためにのみ、リネンに対してのみ使用される。それがassa foetidaや化粧品、または靴磨きでその価値を表現したならば、同じ目的を達成することができました。

仕立て労働も、リネンにとって価値があります。結果的には、それが意図的な生産的労働でない限り、一般的な労働の実現の形態であり、客観化の方法として存在している限りです。リネンがコートではなく靴磨きでその価値を表現した場合、磨きはそれを仕立てるのではなく抽象的人間労働の直接的な実現形態として存在することになる。

したがって、価値形態や商品体は、抽象的な人間労働の実現の直接的な形態として、それに含まれる具体的で有用な種の労働に他の商品が関連することによって、価値の出現の形態または等価物にしかならない。

 ⑦We stand here at the jumping-off point of all difficulties which hinder the understanding of value-form. It is relatively easy to distinguish the value of the commodity from its use-value, or the labour which forms the use-value from that same labour insofar as it is merely reckoned as the expenditure of human labour power in the commodity-value. If one considers commodity or labour in the one form, then one fails to consider it in the other, and vice versa. These abstract opposites fall apart on their own, and hence are easy to keep separate. It is different with the value-form which exists only in the relationship of commodity to commodity. The use-value or commodity-body is here playing a new role. It is turning into the form of appearance of the commodity-value, thus of its own opposite. Similarly, the concrete, useful labour contained in the use-value turns into its own opposite, to the mere form of realization of abstract human labour. Instead of falling apart, the opposing determinations of the commodity are reflected against one another. However incomprehensible this seems at first sight, it reveals itself upon further consideration to be necessary. The commodity is right from the start a dual thing, use-value and value, product of useful labour and abstract coagulate of labour. In order to manifest itself as what it is, it must therefore double its form. It possesses right from nature the form of a use-value. That is its natural form. It only earns a value form for itself for the first time in circulation with other commodities. But its value-form has then to be itself an objective form. The only objective forms of commodities are their use forms, their natural forms.

 ⑦私たちはここで、価値形態の理解を妨げているすべての困難な現出点に立っています。商品価値をその使用価値から区別することや、単に商品価値の算入における人間の労働力の支出と見なされる限りなのですから、具体的労働からの価値を形成する労働を区別することは比較的容易である。
ある形態の商品や労働を考慮するときには、別の形態の商品や労働を考慮しないのですから、その逆もあります。これらの抽象的な対立は、それ自身で崩壊し、したがって、分離しておくことは容易である。

  商品と商品との関係にのみ存在する価値形態では異なる。
ここでは、価値形態や商品体である使用価値が新たな役割を果たしています。
これは、商品の価値形態に変わり、したがって、それ自身の反対である。

同様に、使用価値に含まれる具体的で有用な労働は、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態に、それ自体の反対に変わる。

商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。

このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。

商品は、最初から二重のもの、使用価値と価値、有益な労働の産物と抽象的な人間労働の凝固物です。

それが何であるかを明らかにするためには、その二つの形態を発見する必要があります。

それは、自然から使用価値の形での権利を持っています。それはその自然な形です。それは、他の商品とつきあうなかで、初めて、自分自身にとって価値形態を得るだけです。

しかし、その価値形態は、それ自体が対象的な形である。
商品の唯一の客観的形態は、その使用姿態であり、それらの自然的形態である。

 ⑧Now since the natural form of a commodity (e.g., linen) is the exact opposite of its value-form, it has to turn another natural form ーーthe natural form of another commodity ーー into its commodity form.

A thing that it cannot do immediately for itself it can do immediately for another commodity, and therefore by a detour for itself.

It cannot express its value in its own body or in its own use-value, but it can relate itself to another use-value or commodity-body as an immediately existent value.

It can relate itself not to the concrete labour contained in itself, but doubtless to that contained in another species of commodity as a mere form of realization of abstract human labour.

For that, it only needs to equate the other commodity to itself as an Equivalent.

The use-value of a commodity only exists at all for another commodity insofar as it serves in this fashion for the form of appearance of its value.

If one considers only the quantitative relationship in the simple, relative value-expression: x commodity A = y commodity B, then one finds also only the laws developed above concerning the motion of relative value, which all rest upon the fact that the amount of value of commodities is determined by the labour-time required for their production.

But if one considers the value relation of both commodities in their qualitative aspect, then one discovers in that simple expression of value the mystery of value form, and hence, in nuce[2] of money.[3]

 ⑧今や、商品の自然形態(例えばリネン)はその価値形態の正反対であるため、別の自然形態、すなわち他の自然形態をその商品形態に変えなければならない。

それはすぐに別の商品のために、それゆえにそれ自身のための迂回路によってすぐにすることができます。

自らの価値や価値形態を表現することはできませんが、他の価値形態や商品体と即座に関連しています。

それは、それ自体に含まれる具体的な労働ではなく、抽象的な人間の労働の実現の単なる形態として、商品の別の種に含まれるものには関連することができる。

そのためには、それは同等のものとして他の商品を自分自身と同一視するだけでよい。

商品の使用価値は、その価値の出現の形でこのように役立つ限り、他の商品に対してのみ存在します。

単純な相対的価値表現であるxコモディティA = yコモディティB の量的関係のみを考慮すると、相対価値の動きに関して上に開発された法則だけが見つかる。商品の価値は生産に必要な労働時間によって決定されます。ここでは、それらの両方の商品の価値関係を考える場合には質的側面の分析からその秘密を、見つけることが大切です。次いでもう一つは、それゆえ価値フォームの謎を単純な式で検出し、<nuceにおける[2]のお金。[3]>その転倒を見出すのです。

  註<nuceにおける[2]のお金。[3]>
  2.「ナッツ・シェル」。
  2. ‘In a nut-shell’; that is, potentially. ? A.D.
  多分in a nutshellだと思います。よく耳にする表現です。
 「簡単に言うと」「要するに」「手短にいうと」って言う意味ですね。
  何かを説明する時、文頭に"In a nutshell.."で始めたり、
  "OK. I'll put it in a nutshell."「手短に説明するわね」みたいな感じでも使います。

  註3(日本語訳註20)
  3. It is scarcely surprising that economists have overlooked the form-content of the relative value-expression (subjected as they are to the influence of material interests), if professional logicians before Hegel even overlooked the content of form in the paradigms of judgments and conclusions.

  3.ヘーゲル以前の専門的な論理学者が判断と結論のパラダイムで
  形式の内容を見落としていたように、
  経済学者が相対的価値<表現ーー既存訳>形態の形式的内容を見落としている
  ことは驚くことではない(物質的利益の影響を受けている)。

 ⑨Our analysis has revealed that the relative value-expression of a commodity includes two different value forms. The linen expresses its value and its determinate amount of value in the coat. It manifests its value in the value-relation to another commodity, and hence as exchange-value. On the other hand, the other commodity, the coat in which it expresses its value in a relative way, obtains precisely in that way the form of a use-value as an equivalent which is immediately exchangeable with it. Both forms, the relative value-form of the one commodity, equivalent form of the other, are forms of exchange-value. Both are actually only vectors ーdeterminations conditioned reciprocally by each other ー of the same relative value-expression, but divided like poles between the two commodity-extremes which have been set equal.

 ⑨私たちの分析は、商品の相対的価値表現が2つの異なる価値形態を含むことを明らかにしました。

リネンはその価値とコートの価値の確定量を表しています。 それは、他の商品との価値関係におけるその価値を明示し、したがって交換価値として明示します。

他方で、他の商品、すなわち相対的な方法でその価値を表現しているコートは、それと直ちに交換可能な同等物(等価形態)としての使用価値の形を正確に得る。

両方の形式、すなわち一方の商品の相対価値形態、他方の同等の形態(等価形態)は、交換価値の形式です。 両者は実際には、同じ相対的価値表現のベクトル(お互いに相互に条件付けされたもの)だけですが、同じに設定された2つの商品の両極端の間の極のように分けられます。

 ⑩Quantitative determinacy is not included in the equivalent-form of a commodity. The determinate relationship (e.g., in which coat is the equivalent of linen) does not flow from its equivalent-form, the form of its immediate exchangeability with linen, but from the determination of the amount of value by labour-time. The linen is only able to represent its own value in coats, by relating itself to a determinate coat-quantum as a given quantum of crystallized human labour. If the coat-value changes, then this relationship also changes. But in order that relative value of linen may change, it has to be present, and it can only be formed upon given coat-value. Now, whether the linen represents its own value in 1, 2 or x coats depends (under this presupposition) completely upon the amount of value of a yard of linen and the number of yards whose value is supposed to be manifested in the form of coats. The amount of value of a commodity can only express it in the use-value of another commodity as relative value. A commodity only obtains the form of an immediately exchangeable use-value (which is what is meant by ‘equivalent’) on the other hand, only as the material in which the value of another commodity is expressed.

 ⑩定量的決定は商品の等価形態には含まれない。 (例えば、コートがリネンの同等物である)特定の関係は、リネンとの直接の交換可能性の形態ではなく、労働時間による価値の量の決定だから、その同等の形態(等価形態)からは生じない。
リネンは結晶化した人間の労働の量である特定のコート・クォンタムに関連することによって、コートで独自の価値を表すことができます。コート値が変化すると、この関係も変化する。しかし、リネンの相対的な価値が変化するためには、それが存在しなければならず、それは所与のコート値でのみ形成することができる。さて、リネンが1,2、またはxコートで独自の価値を表しているかどうかは、この前提の下で、リネンのヤードの価値とコートの形で値が示されるはずのヤードの数に完全に依存します。商品の価値の量は、他の商品の使用価値において相対価値としてしか表現することができません。一方の商品は、他方の商品の価値が表現されている素材としてのみ、即座に交換可能な使用価値(これは「同等」によって意味される)の形態を獲得する。

 ⑪This distinction is obscured by a characteristic peculiarity of the relative value-expression in its simple or first form. The equation: 20 yards of linen = 1 coat (or 20 yards of linen are worth a coat) includes, after all, precisely the identical equation: 1 coat = 20 yards of linen (or one coat is worth 20 yards of linen). The relative value-expression of the linen, in which the coat figures as Equivalent, thus contains from the reverse the relative value-expression of the coat, in which the linen figures as Equivalent.

 ⑪この区別は、その単純な形式または第一の形式の相対的な価値表現の特徴的な特質によって覆い隠されている。 方程式:20ヤードのリネン= 1コート(または20ヤードのリネンはコートに値する)は、結局全く同じ式を含む:1コート= 20ヤードのリネン(または1コートは20ヤードのリネンの価値がある)。 コート値が等価であるリネンの相対的な値表記は、リネンが等価である場合のコートの相対的な値表記を逆に含む。

 ⑫Although both determinations of the value form or both modes of manifestation of the commodity-value as exchange-value are only relative, they do not both appear relative to the same degree. In the relative value of the linen (20 yards of linen = 1 coat), the exchange-value of linen is expressly manifested as its relationship to another commodity. As far as the coat is concerned, it is admittedly an Equivalent insofar as linen is related to the coat as form of appearance of its own value, and hence as something immediately exchangeable with itself (the linen). Only within this relationship is the coat an Equivalent. But it conducts itself passively. It seizes no kind of initiative. It finds itself in relationship because things relate themselves to it. The character which is constituted for it out of its relationship with the linen thus does not appear as the result of its own relating, but as present without any additional activity of its own. In addition, the specific mode and manner in which the linen relates to the coat is exactly appropriate to the end of doing it to the coat, however modest it be and however far from being the product of a ‘tailor run mad with pride’. The linen, after all, relates itself to the coat as the sensually existing materialization of human labour in abstracto and hence as present value-body. It is this only because and insofar as the linen relates itself to the coat in this specific manner. Its status as an Equivalent is (so to speak) only a reflection-determination[4]of linen. But the situation seems just the reverse. On the one hand, the coat does not take the trouble to relate itself to anything. On the other hand, the linen relates itself to the coat, not in order to make it into something, but because it is something quite apart from anything the linen might do. The resultant product of the linen’s relating to the coat (its Equivalent-form, its determinacy as an immediately exchangeable use-value) appears to belong to the coat in a corporeal way even outside the relating to the linen, in just the same way as its property of being able to keep people warm (for example). In the first or simple form of relative value (20 yards of linen ? one coat), this false seeming is not yet established, because this form expresses in an immediate way also the opposite, that the coat is an Equivalent of the linen, and that each of the two commodities only possesses this determination because and insofar as the other makes it into its own relative value-expression.[5]

 ⑫商品価値の価値形態またはその両方の表現の決定は、相対価値のみであるが、両者は同じ程度に相対的に現れるわけではない。リネンの相対価値(20ヤードのリネン= 1コート)において、リネンの交換価値は、他の商品との関係として明示的に示されている。コートに関しては、リネンはコート自体の価値の出現の形態として、したがってそれ自体ですぐに交換可能なもの(リネン)として、リネンがコートと関連している限り、同等であることは明らかです。この関係の中でのみコートはリネンと等価です。
しかし、それは受動的に行われます。それは何のイニシアチブも握っていない。
物事はそれ自体に関係しているので、それは関係で自分自身を見つけます。
リネンとの関係のために構成されているキャラクターは、それ自身の関係の結果として出現するのではなく、それ自身の追加の活動なしで存在する。

さらに、リネンがコートに関連する具体的な様式および形式は、コートに対して行うことの終わりに正確に適切であるが、それは控えめであるが、誇りをもって狂ったテーラーの製品ではない。

結局のところ、リネンは、現在の価値体としての抽象的人間労働の現実的な実現形態としてのコートに関連しています。これは、リネンがこの特定のやり方でコートに関連している限り、これだけです。

同等物(等価物)としてのその地位は、(言いたいことですが)麻布の反省規定[4]だけです。

しかし状況はちょうど逆のように見える。
一方では、コートはそれ自体を何かに関連付けるのに苦労しません。
一方、リネンは、それを何かにするのではなく、リネンがするかもしれない何かからかなり離れていることで、コートと関連しています。コートに関連するリネンの等価物(同等の形態、直ちに交換可能な使用価値としてのその決定性)は、まったく同じ方法で、リネンに関係なく外面的な方法でコートに属するように見える。

(例えば)人々を暖かく保つことができるという特性のように。
最初のまたは単純な形式の相対価値(20ヤードのリネン - 1コート)では、このフォームはまだ確立されていません。このフォームは、反対のものも直ちに表現し、コートはリネンと等価であるため、 2つの商品のそれぞれが、この決定を所有しているのは、他方がそれ自身の相対的価値形態にするためであるからである[5]。

 ⑬In the simple form of relative value or the expression of the equivalence of two commodities, the development of the form of value is correspondent for both commodities, although in each case in the opposite direction. The relative value-expression is in addition identical with reference to each of both commodities, for the linen manifests its value in only one commodity (the coat) and vice versa, but this value expression is double for both commodities, different for each of the same. Finally, each of both commodities is only an Equivalent for the single other species of commodity, and thus only a single Equivalent.

 ⑬単純な形式の相対価値や2つの商品の等価性の表現では、いずれの場合も反対の方向であるが、価値形態の発展は両方の商品に対応している。 リネンは一つの商品(コート)のみでその価値を明示し、逆もまた同様であるが、この価値の表現は両方の商品とも2倍であり、 同じ。 最後に、両方の商品のそれぞれは、他の単一の商品種の同等物にすぎず、したがって、同等のものは1つだけです。

 ⑭Such an equation as ‘20 yards of linen = 1 coat’ (or twenty yards of linen are worth one coat) evidently expresses the value of the commodity in only a very limited and one-sided way. If I compare the linen, for example, with other commodities instead of coats, then I also obtain other relative value-expressions, other equations (like 20 yards of linen = u coffee; 20 yards of linen = v tea, etc.). The linen has just as many different relative value-expressions as there exist commodities different from it, and the number of its relative value-expressions constantly increases with the number of kinds of commodities which newly enter into existence.

 ⑭「20ヤードのリネン= 1コート」(または20ヤードのリネンは1コートの価値がある)のような式は、商品の価値を明らかに非常に限られた一方的な方法で表しているだけである。 例えば、リネンをコートの代わりに他の商品と比較すると、他の相対値式、他の式(リネン=コーヒー20ヤード、リネン= vティーなど20ヤードなど)も得られます。 リネンはそれとは異なる商品と同じくらい多くの異なった相対価値表現を持ち、相対的価値表現の数は、新たに生まれた商品の種類の数とともに絶えず増加している。

 ⑮The first form (20 yards of linen = 1 coat) yielded two relative expressions for the value of two commodities. This second form yields the most variegated mosaic of relative expressions for the value of the same commodity. In addition, there seems to be nothing gained either for the expression of the amount of value (for the amount of value of linen ? which obviously remains the same in every expression ? is just as exhaustively expressed in ‘20 yards of linen = 1 coat’ as in ‘20 yards of linen = u coffee, etc.’), the coffee and the etcetera are only single Equivalents, just as the coat was.

 ⑮最初の形式(20ヤードのリネン= 1コート)は、2つの商品の価値について2つの相対的表現をもたらした。 この第2の形式は、同じ商品の価値に対する相対的表現の最も多彩なモザイクをもたらす。 さらに、価値の量の表現(あらゆる表現において明らかに同じままであるリネンの価値のための)の表現は、「リネン= 1コートの20ヤードで完全に表現されている」 '20ヤードのリネン=コーヒーなど'のように)、コーヒーなどは、コートがそうであったように、単一の同等物である。

 ⑯Nevertheless, this second form contains within itself an essential development of form. For latent in it is, after all, not only the fact that linen happens to express its value at one time in coats, and at another in coffee, etc., but the fact that it expresses its value as much in coats as in coffee, etc.: either in this commodity or that or the third, etc. The continuing determination is revealed as soon as this second or developed form of the relative value-expression is manifested in its connection. We obtain then:

 ⑯それにもかかわらず、この第2の形態は、それ自体の中に形態の本質的な発展を含んでいる。 潜在的には、結局のところリネンが一度にコートやコーヒーなどでその価値を表現しているだけでなく、コーヒーのようにコートの価値を表現しているという事実 この商品やその第三者などのいずれかで、継続的な決定が明らかになります。 それから、




 
 

      英語版資本論の価値形態論の解読をとうして、語られること

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月17日(火)13時35分59秒
返信・引用 編集済
   杉本ーー第一の形態での転倒が、7~8段落にて語られている。
  第三の形態でも同じく転倒が語られることで、価値形態・一般的価値形態が成立するのです。
  ところが、既成の翻訳は、この転倒を翻訳せず、この転倒を批判しないことで物象の社会関係こそが、
  価値形態論にて成立することにて、物的関係へと転倒した原因をこそ提示しているーー場所を隠蔽して
  いるのです。既成の翻訳の誤りこそ、商品批判・物象の社会関係の提示をこそなそうとする我々の批判
  を封じているのです。

  https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1
   A.価値の要素的または偶発的形態
   <3節緒部>(緒1段)
    諸商品はこの世界に諸使用価値の姿で、諸品物の姿で、すなわち鉄、亜麻布、穀物、
   などの姿で生まれてくる。これが諸商品の明白で、素朴な、身体上の形態である。
   けれども、それらが諸商品であるのはそれらが二重になっている何かのもの、役に立つ
   諸物体であり、かつ、同時に、価値の供託所であるというあるものだからである。
   それらは自分自身をそれゆえに諸商品として明示する、すなわち諸商品の形態をもつの
   であるが、それはただそれらが2つの形態をもつ限りにおいてのみ、すなわち、一つの
   物理形態または自然形態をもつこと、そして一つの価値形態をもつことの2つの形態を
   もつ限りにおいてのみ、それらは商品として自身を明示するのである。
  A.価値の要素的または偶発的形態
  1.価値表現の二つの極: 相対形態と等価形態
  2. 価値の相対形態 (a.) この形態の性質と意味
  (A2a-1段)
    どのように、ある商品の価値の要素的な表現が二つの商品の価値関係の中に隠されて
   横たわっているのかを見つけ出すために、われわれはまず第一に、後者[二つの商品の
   価値関係]をその量的側面から完全に離れて考察しなければならない。
   この通常の手続きの様式は大体において反対である、そしてこの価値関係においては二
   つの異なる種類の商品のきまった諸量の間に互いに等しいと考えられる割合ということ
   だけしか見られない。
  (A2a-2段)
   20ヤードの亜麻布 = 1着の上着 なのかまたは = 20着の上着 なのか
   または = x着の上着なのか ・・・・・亜麻布 = 上着は等式の基礎である。
  (A2a-3段)
    しかし、その質の同一状態がこのように仮定された二つの商品は、同じ役割を演じるの
   ではない。表現されているのは亜麻布の価値のみである。ではどのようにしてか?亜麻
   布の上着に対する等価物としての関係によって、それと交換され得る何かとしてである。
 a)この関係の中では上着は価値の存在様式である、上着は価値の体現された物である、
   <価値物 新書訳>なぜならただそのような物としてのみ上着は亜麻布と同じなのであ
   るから。
 b)他方で、この亜麻布自身の価値は前面に現れる、独立の表現を受けとる、なぜなら亜麻
   布が同じ価値物として上着と匹敵できるということは、ただ価値であるということだけ
   であるから、すなわち上着と交換できるということだからである。
     <a)b)は杉本注入 次は、その部分の英文提示です。>
  In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
 イ)この関係では、コートは 価値の存在形態であり、価値が体現されているのは、それが
   リネンと同じであるためだけです。
  On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value,or exchangeable with the coat.
 ロ)一方、リネン自身の価値<価値存在>は、独立した表現を受け取ります。それは、価値
   があるものとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコー
   トと交換可能であるからです。>
    注意! ① 等しい価値のものとしてコートに匹敵し、② あるいはコートと交換可能であるから
    ここに、リンネルが、交換可能性の形態を受け取れるのは、との問があり、
   <リネン自身の<価値存在>は、独立した表現を受け取るーー第一の案件が示された。>

     (A2a-5段)
    この上着を亜麻布の等価物<新書訳価値物>とすることで、われわれは上着に体現さ
   れた労働を亜麻布に体現された労働と相等しくする。さて、たしかに上着を作る仕立て
   は亜麻布を作る織布とは違った種類の具体的労働である。
 A)しかし仕立てを織布と相等しくする行為は、仕立てを労働の2種類の中の実際に等しい
   ものに還元する、それらの人間労働の共通な性格に還元する。
 B)この迂遠な[回り道の]方法のなかで、今度は、次の事実が表現される、織布もまた、
   それが価値を織る限りにおいて、それを仕立てから区別しなければならないことは何も
   ない、そして、結果として、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現
   される。
 C)それは違った種類の諸商品の間での、そのことのみが、価値-創造労働の特別な性格を
   目立たせる等しさの表現であって、その上でこのことをそれがおこなう、その異なった
   さまざまな種類の諸商品に体現された労働を、抽象の中で人間労働のそれらの共通な質
   に実際に還元することによってそれ[抽象的人間労働であるという事実の表現]をする。

 A)について 再版訳
   「たとえば、上着が価値物として、リンネルに等置されることによって、
   上着に潜んでいる労働が、リンネルに潜んでいる労働に等置される。」(新書訳P86)
  英訳 パソコン訳
By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
   コートをリネンと同等にすることによって、我々は上着に組み込まれた労働を後者のも
   のと同じにする。
    By making the coat         コート・上着に作り出す
   the equivalent of the linen,   リネンの等価物
   こうして、コート・上着を等価物とするーーことによって、前段の三段落に示された、
   a)とA)はどんな関連となるのか・

   a)この関係の中では上着は価値の存在様式である、
   A)しかし仕立た上着を織布のリンネルの等価物とすることで、裁縫労働をそれらの人
     間労働の共通な性格に還元する。
  ここで、 次のB)とb)の関連は何か?問いかけていることの認識が必要ですね。

Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makesthe linen.
    今や、コートを作る仕立ては、リネンを作る製織とは異なる種類の具体的な労働であ
    ることは事実です。
  But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.
   しかし、それを製織と同じにする行為は、2種類の労働において、人間の労働の共通の性
   格に本当に還元する。
 B)In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish itfrom tailoring, and, consequently, is abstract human labour.
   この回り道のやり方では、事実が表現され、価値を織り込む限り、製織されていてもそれ
   を仕立てと区別することはないため、抽象的な人間の労働である。
    <上記に対しての、次は三段落での事柄です。>
 b)一方、リネン自身の<価値存在>は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
   のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換可
   能であるからです。>
    このように、① aとA
          ② bとB
   この①②の事項を総合的、総括的に検証するならば、リンネルが、<交換可能性の形態を受け取る事
   ができたのは???>とのマルクスの我々への問いかけが、よくわかるのです。この問いかけの下、
   次の事柄がここにーー浮かびます。

  It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]
   それは価値創造労働の特定の性格を救い出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の
   表現であり、これは実際にはさまざまな種類の労働の異なる種類を、抽象的な人間労働の
   一般的な品質へと変化している。[18]

   このように、③商品に表示される労働が抽象的人間労働であるためには?との質問があり、
      まず、①価値の存在形態である上着が、人間労働であることで、この回り道を経て、
      次に、②価値存在を表現するリンネルが、そのことで抽象的人間労働であると語り、
   ーーという物象の、二重の2行程を成す、判断行程を、3~5段落にて示したのです。
   価値関係でのそれを構成する諸物象であることでの、リンネルと上着への判断なのです。
   大切な肝要部です。上記の①②の判断を成すことができるのは、そこに、価値存在の如何にしてか?
   を問うてきた物象の判断が、次のことを示しているのです。
   価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働であると、第一節・二節の事
   項を総括・判断していると、価値実体論と価値形態論との関連を見てくることで、この5段落に、ま
   とめていたのです。
    ところが、既成の久留間理論による理解は、次であります。
   等価形態において<価値物上着がリンネルに等置>されるーーでは、物象の判断は、不成立です。
   もう一度、物象の社会関係の成立ではなく、リンネルと上着との物的関係なのです。
   <物象の判断>をこそ、ここでの記述の①②を、初版にも同じくなされているので、見ておこう。

    <資本論初版>第二段落
    相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
    20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)
  ①この形態は、単純であるがゆえにいくらか分析が困難である。・・・・
  ②リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。だから、それの体躯
   が糊で固められていることは、すなわちそれのもっている現物形態は、価値形態ではなく
   て、価値形態の反対物なのである。リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、
   まず、自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているとい
   うことである。・・・・   (江夏訳 初版P34~35)
    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
     ②の部分の大切な部分を、引用してみると、次のことが述べられている。
   <リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に等しいものと
   しての・他の一商品である上着に、関係させているということである。
   リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を、価値としての・自分に等しい
   ものとしての・上着に、関係させることができないであろう。
   ・・リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値として
   の自分自身に関係させる。リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることに
   よって、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
   リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価値と
   の双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接的な存
   在とは区別される価値形態を与える。>

  このように初版のまずの追求点がa価値存在の表現が如何にしてかであり、次に、
                 bリンネルの相対的価値表現・・の如何にであります。
                 cリンネルは<自分の価値存在に、・価値形態を与える>
    ーーと示され、まずの物象の判断の第一段階が示されているのです。
   このような質問・理解・判断が提示されていることでは、a b c のことでは、
   ・ここでの課題・主題が、リンネルの等価物上着による価値存在の表現であり、
   ・その事柄が反省規定されて上着はリンネルの価値の存在形態、との物象の判断の仕方が
   ・初版、ドイツ語再版、仏語版、英語版、述べられていたのです。
  しかし、価値物の悪訳のためにその共通性は排除されてきたのです。この誤訳を排除して、初版も再版
  も同じであると、理解して次の判読へと向かう。

   (A2a-7段)次の7段落には、何が提示されているのか?
   ①価値関係において等価物の位置を占めている場合、 上着は質的には同じ種類のなんらか
   のものとして亜麻布と等しい地位を占める、なぜならそれは価値であるから。
  ②この位置において、それはあるひとつのものでその中にわれわれは価値のほかにはなにも
   見ない、またはその上着の触ってみられる身体的形態は価値を表現する。
   <新書版ーーここに続いて、付加してこう述べている。
       ーー上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめ
          るその自然形態で価値を表す物として通用する。>
   <仏語版ーーこうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる>
  ③しかもなおその上着そのもの、商品の身体、上着、は、ただの使用価値にすぎない。
   一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、われわれ
   が握っている第一の亜麻布片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。
    <新書版でも同じ訳であります。>
  ④このことは、上着は亜麻布との価値関係に置かれた場合に、
  ⑤その関係の外にあるよりも意味をもつ、
  ⑥ちょうど豪華な制服でもったいぶっている一人の人間が平服を着たときよりも多くの意味
   をもつように。

    ーーまたはその上着の触ってみられる身体的形態は価値を表現する。ーー
  a <だから、上着は、ここでは価値がそれにおいて現れるものとして、または手でつかめ
    その自然形態で価値を表すものとして通用する。>との頓珍漢な訳を提示するのです。
   このように、再版翻訳者には、マルクスのここでの意図が、全く理解できてないのです。
   新書版も、この英語版での訳者も、この③では共通の訳なのですから、両者ともに、原文の意図への
   理解が、全く不明であったのです。
  bーー③一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、わ
    れわれが握っている第一の亜麻布片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。

  しかし、直訳だと、次なのです。
  A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
     ③そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。私たちが取る最初
     のリネンの部分よりも。
  <だから、ここには、次の規定の転倒が示されたのです。上着は価値であると措定されていた
  ことが、価値は上着であるとの再措定を受け取ることで、つまり、平服の軍人が、勲章で飾ら
  れたときのように、という変化であります。>
   ③そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。
    私たちが取る最初のリネンの部分よりも。
   ④This shows that when placed in value-relation to the linen,
    これは、リネンとの価値関係に置かれたときに、
   ⑤the coat signifies more than when out of that relation,
    コートは、その関係から外れたときよりも、
   ⑥just as many a man strutting aboutin a gorgeous uniform
   counts for more than when in mufti.
    豪華な制服で装われた頑丈な男性が、日頃の制服時よりも、より多くを意味することを示
    します。

    <フランス語版 では次の訳であります。>
  ①実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、上衣はも
   はや自分の価値性格を証明するための旅券を必要としない。こうした役割において、上衣自
   体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商品の体躯は、単なる使用
   価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同じように、価値を表現するもの
   ではない。
  ②このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそとでよりも
   多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。
   それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだ
   らなくなる、のと同じである。」《フランス語版》(江夏訳21-22頁)

   訳の違いに示されていることは、ほんまに異常な再版訳ですね。
  面白いですね!新書版だと、a上着はリンネル価値形態であることで、、価値を表現する二つの等価物
  の役立ちをしてるーーと理解することで、ここでのマルクスの運んでいる論理である第一の役割があっ
  て、第二に相対的価値表現がなされるーーということ、すなわち、
  <リンネルの価値形態として上着形態の役割がなされることで、リンネルの価値表現が左極で
  価値表現され、相対的価値形態が形成されていくという>ーー道筋が、全く見えてこないのですね。
   相対的価値形態の内実の価値形態があって、やっと、リンネル価値が上着で表現される、ーー簡明な
  この論理が、何ら初版・再版の両方の論理では、彼らは提示ーー理解できないのです。

   こうして、7段落ーーここには、上着は価値であることから、価値は上着であることでの、この価値
  方程式での転倒が、「上着は労働膠着物」であることが、「等価物上着」の役立ちのなかで、
  「労動膠着物は上着」へと、物象の判断と役立ちが変更されたのではないかと思えます。
  それを示すのが、初版5段落冒頭の記載なのであり、初版での第二の段階なのです。

    初版5段落
    ⑤20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
    という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
    められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのな
    かに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。

  <労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形
  態として認められている>
   ーーやっと、再版・初版での主張の合一点・合致点が理解出来ました。
  このように、初版5段落のこの提示は、通常のあまねく定式とされ理解とされる、等価形態、直接的交
  換可能性の形態を示しているのではなく、相対的価値表現での、現行版の3・5段落に続く7段落での解
  決事項をこそ、示したのです。
   では、以上の3段階の解決事項を踏まえて、最後に、リンネルの価値形態はどうやって、成立したの
  ですか? マルクスは、読者である労働者に問うているのです。

   <この「交換可能性の形態」が、「人間労働が凝結しているところの形態」と示しているの
  は、次の、初版第三形態です。>

      「だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているとこ
      ろの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態
      と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形
      態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性と
      いう形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉
      (初版 原P28 江夏訳49-50頁)

  <マルクス先生の記述・問題提示ーー解答が捕まえることが、これで出来たはずですが・・>

  (A2a-8段)次が最後の難関8段落です。
     上着の生産の中では、人間労働力は、仕立ての姿態の中では、現実に消費されてしまっ
    たに違いない。人間労働は従ってその[仕立ての]中に蓄積されている。
    この側面においては上着は価値の貯蔵所である、しかし糸が透けて見えるほどすり切れて
    しまっても、それ[上着]はこの事実を透けて見せることをしない。
    そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
    在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。
    <現行版ーー体化された価値としてのみ、 価値体としてのみ通用する。>
    A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の
    陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父
    と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。

  <杉本ー①体現された価値として数える②価値である一つの体として数えるーーとは?>何でしょう。
  ここには、7段落での<価値は上着>と示された転倒をこそが、提示されている、と物象の語りーーを
  こそ見出さなければならない。そうすれば、次のことに気付くのです。

  ①リンネルの等価物上着であることが、<価値存在の表現ーー価値の存在形態>の形成でなされてい
   ることが3・5段落にて語られ、
  ②同時にこの追求のなかで、商品が<価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、
   抽象的人間労働である>ことによる、ことが語られ、
  ③そして、この労働の対象化されたものであることを示す、この<①体現された価値>が、ここに、語
   られたのです。

   そこで、この<①体現された価値>が、<価値は上着>と示された転倒によるものだから、
   ・そこを示して、<B の目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、>と語ることで
   ・<金モールの衣裳をつけた多くの重要人物>を表現できた ーーであり、
   ・<上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態>ーーと認められたのです。
   だからa<そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、
      bそれ[上着]はこの側面のもとでのみ存在する、>ーーことを最大の基礎にして、
      c上着は<①体現された価値>と認識す物象の判断が、リンネルの価値表現の中で、
      d<価値存在の表現ーー価値の存在形態>の判断形式のなかで、示されたのです。
   <以上なされたことを、次の段落にてこう示したのです。仏語版にある、次のことなのです。>
      e「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの
       価値形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現す
       る」ーーと示すことで、リンネルの価値形態上着、との質的側面での判断をなして
       いるのです。そして、次のことが示されたのです。
      f②価値である一つの体として数えるーーで、量的側面での価値表現をなしたのす。

  <英語版のこの① ②に示される物象の判断が、提示されることーーこそが最大の要であります。>
  このように8段落の理解のためには、まず第ニに、久留間理論の錯誤への批判が必要です。
  それは次のことからであります。

  今までの3・5・7段落と説いてきた解決事項が、今日の価値形態論でなんら提示されなかったのは、
  第一に、勿論大谷先生が『貨幣論』で挙げた久留間先生の、価値物上着としてリンネルに等置される上
  着が、リンネルの相対的価値表現での役割であり、リンネルの価値形態として役立つ上着によって、相
  対的価値形態の形成になるものーーであるのに、上着は直接的に価値形態であることで、上着は等価形
  態であると理解する、既成・価値形態論の全くの誤謬であるーーことに示された、この全く逆の理解を
  する錯誤した、相対的価値表現の理解にあるのです。

  その理由を探ってみましょう。価値物上着への批判は終わっているので、その次であります。

  ここで、英訳・仏語訳では、以上のように、Aは、陛下であるのに、現行版では、Bが陛下になってい
  るのです。このことをこそ、我々の常識になっている事への批判と反省がなくては、この8段落の解析
  はできていないのです。

  ① 新日本新書訳
   「上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間的労働力がじっさいに支出さ
   れた。したがって、上着のなかには人間的労働が堆積されている。この面からすれば、上着
   は「価値の担い手」である。<この側面においては上着は価値の貯蔵所であるーー英語版>
   もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見
   えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから、
     <価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
     在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。>
   それゆえ、体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。
   ボタンを掛けた(よそよそしい)上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同
   族のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表す
   ことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないこと
   である。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下に対する態度をとることは、同時にAに
   とって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多
   くのものが、国王の交替のたびに代わることなしには、できないように。」
   (原P86 P88~89)

    「A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の
   陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父と
   一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。」英訳

   「上着が自己の外面的な関係のなかに価値をじっさい表すことができるのは、同時に価値が
   一着の上着という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人Bにたいして、
   Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえない
   のである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪その他多くの物を変えるの
   は、おそらくこのためであろう。」(仏語版P22)

  ② 向坂訳ーーー岩波文庫
   「だが上着は彼女に対して、同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなくしては、
   価値を表すことができないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、Aにとって、
   陛下が同時にBの肉体の姿をとり、・・・」(P96)

  ① ②は既存の訳であり、かっては杉本も同じくその理解をこの八段落に対してなしていた。
   しかし、この英語版とを比較してみると、再版での訳者の提示は、この物象の社会関係のなかでは、
  上着は価値としてリンネルに相対しているのではなく、7段落にて提示されたように、価値は上着とし
  て転倒することで、そこに対象化されている抽象的人間労働がやっと提示されていることの、主体的判
  断が要求されていること、物象の判断の特異性に対して、異をこそ唱えることで、マルクスの判断をこ
  そ問い、自らの主体的判断を築き上げるーーことが無く、ただ客観的判断を提示したのみなのです。
  主体的判断こそが問われているのに、それを提示しない、向坂訳などは、とても残念です。
 

全国に訴えた結果

 投稿者:岩手県元盲ろう者友の会会員松岡幹夫  投稿日:2018年 4月16日(月)14時58分43秒
返信・引用
  全国に訴えた結果

 障害者の団体は暴走を完全沈黙の口封じで隠してしまえば不問になると言う特別法があるらしい。それは法務省は法務局に話せと言い、厚生労働省は知らん顔。全国の社協は沈黙。障害者個人の人権は無視。暴走を暴走で隠す関係者や友達も口封じの差別や社会参加妨害を続け和解より抹殺を図る。ならば完全沈黙を破れば不問の特別法はただの暴走になる。此方が被害者だから。それとも引っ捕らえに来ますか。


  非難が出るかとも思いましたが全国の社協、掲示板、友の会など一気に60以上出しました。手紙は法律関係だけ。法務局と法テラスだけ。法務省は法務局から伝わる。厚生労働省は合法扱いか無視の為 結果のデータを集めて出した方がいいとして。
 殆どは規約を守ってのメールかファクスだけ。
 入って来た話では県庁の暴走隠しだと知って居た。口封じされたように口が重かったがそれが軽くなっていた。
 知事が根を上げたのか下から漏れて来たように伝わった。
 暴走がばれてしまったのだと。完全沈黙で隠した事を全国に知らせると言う形の完全沈黙破りだった。証拠のないままだから知らん顔のほっかむりだけでこの上の妨害は恥の上塗りになる。
 通訳差別は非難しか出なくなる、社会参加としての旅行は多少先にしてもいい事になり息子と行くことになりました。
 障碍者のたかが一匹と言う発想は他県はやるはずがないとしての問い合わせに仕立てのです。
 復興を盾に厚生労働省を黙らせたかごまかしたことになります。 此方としても迷惑掛けた事から結果を知らせることにしました。 返事来たのは7軒。非難の話は来ていませんでした。
 県庁は抹殺しか考えなくて地元の役場にも説明抜きのかん口令が来るのを防ぎました。情報センターと地元一関の社協は強硬に相手にするなという姿勢のまま。
 視聴覚障害者情報センターは字幕ビデオや会報のメール版は半年届かない差別の強行。一関社協にしても通訳差別の説明は4年も来ていない。意地になったままほとぼりが収まると繰り返すだろう。暴走でも関係者が口封じされたら証拠は作れなくなる。
  結果的には障害者の一人くらいどうでもよいとするばれなければいいと言う暴走だと言う事。県の知事に絶対権が行き過ぎている。緊急時の強権発動は辞めてから3年後にも通用するのか合法なのか。どっちにしても説明は12年来ていない。
 聾唖者はかわいそうだからと嘘も方便のままおだてで暴走を招いたこと。親父が馬鹿だと言う理屈にしても証拠はどこにもない。 次期会長だから(現会長)とゴマすりを利かせるよりはっきり教えるべきでないか。こちらも聾唖者です。
 障害者はそのハンディのためにトラブルは出やすい。そのために見なかったことにするなど障害への理解など暗黙の了解とする法律があってもおかしくないが説明不能では理屈にならない。此方の人権は破壊されたことだから。

 

全国に訴えた結果

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 4月16日(月)13時42分7秒
返信・引用
  全国に訴えた結果

 障害者の団体は暴走を完全沈黙の口封じで隠してしまえば不問になると言う特別法があるらしい。それは法務省は法務局に話せと言い、厚生労働省は知らん顔。全国の社協は沈黙。障害者個人の人権は無視。暴走を暴走で隠す関係者や友達も口封じの差別や社会参加妨害を続け和解より抹殺を図る。ならば完全沈黙を破れば不問の特別法はただの暴走になる。此方が被害者だから。それとも引っ捕らえに来ますか。


  非難が出るかとも思いましたが全国の社協、掲示板、友の会など一気に60以上出しました。手紙は法律関係だけ。法務局と法テラスだけ。法務省は法務局から伝わる。厚生労働省は合法扱いか無視の為 結果のデータを集めて出した方がいいとして。
 殆どは規約を守ってのメールかファクスだけ。
 入って来た話では県庁の暴走隠しだと知って居た。口封じされたように口が重かったがそれが軽くなっていた。
 知事が根を上げたのか下から漏れて来たように伝わった。
 暴走がばれてしまったのだと。完全沈黙で隠した事を全国に知らせると言う形の完全沈黙破りだった。証拠のないままだから知らん顔のほっかむりだけでこの上の妨害は恥の上塗りになる。
 通訳差別は非難しか出なくなる、社会参加としての旅行は多少先にしてもいい事になり息子と行くことになりました。
 障碍者のたかが一匹と言う発想は他県はやるはずがないとしての問い合わせに仕立てのです。
 復興を盾に厚生労働省を黙らせたかごまかしたことになります。 此方としても迷惑掛けた事から結果を知らせることにしました。 返事来たのは7軒。非難の話は来ていませんでした。
 県庁は抹殺しか考えなくて地元の役場にも説明抜きのかん口令が来るのを防ぎました。情報センターと地元一関の社協は強硬に相手にするなという姿勢のまま。
 視聴覚障害者情報センターは字幕ビデオや会報のメール版は半年届かない差別の強行。一関社協にしても通訳差別の説明は4年も来ていない。意地になったままほとぼりが収まると繰り返すだろう。暴走でも関係者が口封じされたら証拠は作れなくなる。
  結果的には障害者の一人くらいどうでもよいとするばれなければいいと言う暴走だと言う事。県の知事に絶対権が行き過ぎている。緊急時の強権発動は辞めてから3年後にも通用するのか合法なのか。どっちにしても説明は12年来ていない。
 聾唖者はかわいそうだからと嘘も方便のままおだてで暴走を招いたこと。親父が馬鹿だと言う理屈にしても証拠はどこにもない。 次期会長だから(現会長)とゴマすりを利かせるよりはっきり教えるべきでないか。こちらも聾唖者です。
 障害者はそのハンディのためにトラブルは出やすい。そのために見なかったことにするなど障害への理解など暗黙の了解とする法律があってもおかしくないが説明不能では理屈にならない。此方の人権は破壊されたことだから。




 

       久留間理論に傾倒した、崎山先生の初版価値形態論の理解を問う   

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月13日(金)10時22分19秒
返信・引用 編集済
       崎山論文の紹介 ②  投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月29日
     http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1619
     上記は、崎山先生の下記の論文を紹介したものであり、先生が久留間理論に基づいて、初版
     の第一の価値形態を、どのように紐解き、明らかにしているのか?提示したものである。

     『初版』の価値形態論の検討は、おそろしく困難なものであるが、この一労働者の歳月と時
     間ばかりの掛かった検討を、崎山先生の誤解を批判することで、初版の提示事項が、再版と
     なんら変わるものではない、ことを提起したい。
     http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
     初版は上記を参照願います

     商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(3)
     http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/635/635pdf/inoue.pdf
    ―『資本論』冒頭商品論の構造と内容―     井 上   康     崎 山 政 毅

  <リンネルの語る商品語bを聴き取り、その言わんとするところを解説して言う>とは?
  <杉本 崎山先生の論述は、なかなか判読しにくい。次のところの提示した後が問題です。>

  この点でも第二版の方が論理的に緻密であり(再度述べるが、このこと自体、人間語の世界に固有
  に要求されることだが)、理解を容易にするものとなっていると言える。だが、ここでは敢えて初
  版本文に立ち戻り、自らを商品として示したいリンネルの「ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」振
  る舞いについて詳しく跡付けておこう。
  一労働生産物は一体どのようにして現実的に商品になるのか、またそのためになぜ価値関係・等置
  関係に入らなければならないのかを明確にするためである。
  出発は一労働生産物であるリンネルが、自らを商品として示そうとするところにある。マルクスは
  <リンネルの語る商品語>bを聴き取り、その言わんとするところを解説して言う。
    「価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明に結晶した労働の凝固を
     なしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。・・略・・(P21)・
   <資本論初版>
   ④ 価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をな
     している。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働
     が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけ
     ではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これら
     の労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然
     素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物象的な表現として把握す
     るためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならな
     い。・・・・・
     ところが諸商品は諸物象である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物象的に
     そういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物象的な諸関係のなか
     でそういうものであることを示さなければならない。
     リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、
     こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、
     上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。
   <A 崎山先生のこの論説ーー引用は客観的ではなく主観的であり、歪曲されている。>
   <「商品語」に噛まけての歪曲ーーを見出しておかねば、初版の以降の論理は見えない。>
    B その価値は、上着にたい
     するリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。
     リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては
     上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリン
     ネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態とな
     るのである(18)。
      (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、
      それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。
      このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリ
      ンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。
       (『資本論』初版 国民文庫版46-7頁)
   ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、と
     いう相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
     められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、その
     なかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)
   このようにリンネルは他の異種の商品(ここでは上着)を自分に等置することによってはじめて現
  実的に商品になる。
     ーー杉本 4・5段落の区別なく、彼は連続して引用している。
       Aの部分、Bの前に、彼は、こう続けていたのです。ーー
    「リンネルは単なる「思考産物」=「頭脳織物」であることはできない。純粋に社会的な抽象
     性である価値は、単に思惟のうちにある抽象的観念像のままであるわけにはいかない。それ
     は対象的な形態、物象的な姿をとって現出しなければならない。しかし、リンネル価値が当
     のリンネル物体において反射されるなどということはあり得ない。なぜなら価値は純粋に社
     会的であり、リンネル物体はどこまでいってもリンネル物体でありつずけるしかないからで
     ある。社会性は社会関係においてあるのであり、だから社会関係においてしか現われない。
     かくして労働生産物リンネルは、自らが価値物、すなわち商品であること示すために、自ら
     と異なる何らかの商品を自分に等置することが必要であったのである。
     ここでの例では上着を自分に等置していた。」(P22 冒頭)
  <杉本の意見ーー 崎山先生は、自身の主観をこそ、ここに押し付けているのです。
  ①この歪曲がどこにあるのか?自明です。マルクスは、未だ、初版では「価値物」という用語、を
  使っていません。ましてやーー相対的価値表現する、価値関係にあるリンネルが、価値物であるの
  ですか?リンネルが、価値物と上着から反省規定を受けるなら、それは偶然的に商品となる交換関
  係にある、物・物的存在であり、物象ではないのですから、人間の社会関係を示す価値関係ではな
  いのです。何と、先生は交換関係と価値関係との区べつが、鮮明でなかったのですか?
  ②「ここでの例では上着を自分に等置していた。」ーーとの見解は、初版第二・三段落の提示も、
  何ら見ていないし論じている対象としての、引用された第五段落の提示内容も省いているのです。
  何故か?2段落では、「リンネルは自分の価値量・・・・上着で表現することによって、自分の価
  値存在に自分の直越的存在とは区別される価値形態を与える。」(初版江夏訳P35原P16)ーー
  と示されることで、交換可能性の形態とされ、そして、次に、
  「上着というそのそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態」ーーと、
  示されていました。それが、次の三段落です。
  <杉本 初版の2段落を受けて、次の三段落にはこうのべられていた。>
     ③上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。
     じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であ
     るということである。
     上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、
     他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態を
     もっているのである。
     等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、
     その商品が、その物的な姿において、その使用形態において、他の商品に価値として認め
     られており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、と
     いうことを含んでいる。>  http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
  この3段落をばかり見るのではなく、2段落とのつながりでみると両極の形態にて語るのです。
  次の5段落が、こうであります。再度煩雑ですが、② ③ ⑤段落の系統を示すために挙げます。

     ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
     という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
     められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのな
     かに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。
  ③ <物象の判断>が、示されるも、価値形態の形成から相対的価値形態が形成されるーー
     使用価値上着によるリンネル価値の表現での量的側面は示されていないのです。
     再版の7・8段落にしめされた、初版の<労働膠着物は上着として認められた>ことを、
     <具体化された価値として数えます>ーーと転倒を示すことで、その次に物象の判断が、
     <この上着は価値形態の役をする>ことができと示したのです。
     初版のここでは、価値形態が、② ③ ④ ⑤段落にて示されることで、
     次の課題である、相対的価値形態を、リンネルだけではなく、価値関係にある上着を如何に
     媒介にしてーー受け取るのか?ーーというのが次の7段落・8段落の追求点であります。
   <しかし、彼はこの5段落の続きたる7~8段落の追求点が、次に述べるように無いのです。>

          「かの回り道について言えば、位相の異なる二つの回り道が相互に関係しつつい
  わば同時に辿られるわけである。ただ、論理的に言えば、商品に表わされた抽象的人間労働が価値
  の物的根拠であり、だからこそ、この抽象的人間労働に関する回り道を根拠にして価値としての回
  り道があるのではあるが。ともあれこの構造を人間語によって論理的時間順序に従い叙述するのに
  はそもそも無理がある。
   では次に、以上のマルクスによる商品語の聴き取り・註釈を踏まえて、価値と価値実体の概念が
  まさしくこの価値形態論で確定すること、つまり商品に表わされた抽象的人間労働の社会性が〈自
  然的―社会的〉関係におけるものだけではなく〈私的―社会的〉関係におけるものでもあることが
  どのようにして商品たち自身の関係のうちで実現されるのかについてより詳細に見ていこう。人間
  語の世界ではこういう手続きを経ないと事態を正確に把握できないから。」

     <杉本ーー崎山先生の、全くの錯誤を、以上から見つけることができました。
  「労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態」
  ーーという再版7~8段落での「価値は上着」であることでの転倒、への理解は如何に?です。>

   (iv)〈自然的規定性の抽象化〉過程に関して
   商品 A(リンネル)が商品 B(上着)を自分に等置することによって、商品 Bに表わされている労
  働が商品 A に表わされている労働に等置される。
  商品 B を作る労働は当然ながら商品Aを作る労働とは異なっている。
  しかし商品 B をつくる具体的労働がそれと質的に異なる商品 A をつくる具体労働と等置される
  ことになるがゆえに、まずB を作る労働の、その具体性有用性・自然的規定性が抽象化されて、双
  方の労働に共通な質である人間労働に還元される(この過程を〈自然的規定性の抽象化〉過程と呼
  ぼう)。論理的に言えばこのことの上で、商品 A をつくる具体的労働もまた人間労働に還元された
  商品B をつくる労働と等しいとされる限りで抽象化され、人間労働に還元される。こう
   P22
  して、商品 B を作る具体的労働がこの抽象化された人間労働として意義をもち、商品Bに表わされ
  た具体的有用労働はそのままで対象化された・凝固としての抽象的人間労働の実現形態になる。
  かくして商品 B は、そのあるがままの姿で、すなわち現物形態のままで、かかる抽象的人間労働
  の対象化された物・凝固物として意義を持つものとして存在していることになり、商品Aと直接に
  交換され得るものたる商品 Bはその現物形態のままで、端的に価値物であることが示されている。
  つまり商品 B は価値の現象形態になる。その上で、商品 A は、商品 B と異なる現物形態にあり
  りながら、端的に価値物として・ただそれだけの意義を持つ存在物である商品 B と等しい物であ
  ることにおいてやはり価値物であること、つまり、その価値を形成する限りで、商品 A を作る労
  働も抽象化された人間労働であり、その凝固物として商品 A が存在することが示されている。
  こうして商品 A は、使用価値(現物形態)としては商品 B と異なるものでありながら、商品 B
  と等しい限りで抽象的人間労働の凝固物であり価値であること、つまり商品であることが示されて
  いる。

    <杉本ーー再版だと、上着は価値から価値は上着に、とへの転倒、であり、
    初版だと、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められていることが
  「労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態」
    として認められることで、上着はリンネルの価値形態ーーと判断されていることが残念にも、
    先生には認識できないのですね。この段落へと付けられたこの註は再版の最終段落にもある。

     (18a)「ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれ
     てくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるの
     でもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と
     同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分
     自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ
     然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。」

  このように、ここでは価値形態論の根幹事項が扱われているのですし、上着が等価物として扱われ
  ることで、物象の社会関係のなかで、「労働膠着物は上着」「等価物上着」と転倒しての事柄が、
  再版7・8段落に示された価値上着への転倒であり、ここ初版での上記の、
  「人間という種属の現象形態として認められる」ーーことが、
  <労働膠着物は上着として認められた形態>であるとの、物象の判断について述べていることを、
  理解できないのです。
  先生の全くの錯誤した認識であり、不明さの「商品語」への責任転嫁ですね。>

   <崎山先生は、次にこう続けている。>
  「だが実は、ここでは〈私的労働の社会的労働への転化〉がどのようになされたかが説明されては
  いない。現実にはいま述べてきた過程のうちにそれは果たされているのであるが、人間語による解
  説としてはこれを一体的に明示的に述べることは不可能である。
  したがってこれについては項を改めて解説する。
  さて、この価値関係の中では、商品 B はそのあるがままの姿で・現物形態で、価値を表わすもの
  価値形態になっている。価値体・人間労働の物質化として現われているこの商品 B と等しいもの
  として、商品 A は自分の価値を自分の使用価値と異なる商品 B の体・使用価値で表す。
  ここまでくれば、この価値関係に量的規定を入れて捉えることも困難ではなくなる。」
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   P23
                       「つまりここでは、商品 B の側の現物形態への反
  射・顕現という形で抽象化が行なわれているのである。ここにもまた、抽象化という概念の適用に
  躊躇させるものがあるが、しかし現実的抽象のこれまた一方のあり方なのである。
  価値関係における現実の抽象化過程、すなわち現実の価値関係における〈自然的規定性の抽象化〉
  過程は、今見てきたものであるが、具体的なものが抽象的なものの実現形態になるということ、し
  かもそれが実際に生起するということは、分析的思惟には非常に捉え難い。
  具体的なものを抽象化していくのが分析的思惟の自然な理路なのだから。もちろんヘーゲルに典型
  的なように、具体的なものを抽象的なものの実現形態であると観念の中で私念することはできる
  が、しかしあくまで現実の過程においてそれを理解することは大変難しい。
  だからマルクスは初版本文において言う。

     <先生は、この回り道に示されているマルクスの提示を何ら理解できず疑問を提示する。>
     <杉本  先生は次の「回り道」の部分の改作をして提示するのです。>
     <杉本ーー判読にあたっての注意を!a・bの部分は、崎山先生の引用は無し。>

  aー⑦<われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立ってい
     る。商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している
     労働を、たんに

     「人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別する
     いうことは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合に
     は、他方の形態においては考察しないのであるし、また逆の場合には逆である。これら
     の抽象的な対立物はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別
     されるものである。
     商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用
     価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現
     象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値の
     なかに含まれている具体的な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単な
     る実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるので
     はなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。」80)

  bー このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的で
     あることが明らかになる。
     商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、有用な労働の生産物にして抽
     象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすため
     には、商品はその形態を二重にしなければならない。
     使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。
     この形態は、商品の現物形態である。
     価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。
     ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。
     諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態
     である。
     ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
     るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
     価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
     いことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、
     行なうことができるのである。
     この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実
     現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれ
     ている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もち
     ろん関係することができる。
     そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、と
     いうことだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在している
     のは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立って
     いる、というかぎりにおいてのことでしかない。
     単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だ
     けを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則
     だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な
     労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、
     両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、
     価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる
     (20)。
    (20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえを
     も見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影
     響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたら
     ない。》(江夏訳37-40頁)

    <杉本ーー先生はaの部分を示すのみで、このbの部分を示さないのですから、ここでは、
    「さて、この価値関係の中では、商品 B はそのあるがままの姿で・現物形態で、価値を表わ
    すもの、価値形態になっている。」ーーと、「商品語」で、転倒した価値形態を、表現し結論
    づけているのです。現物形態が価値形態となることは、「商品語」で示され、この現象のまま
    であり、ここの解析はできない、ーーと言うのが、彼の結論なのです。>

  このようにして商品 B の側、すなわち等価形態においては、具体的なものが抽象的なものの実現
  形態・現象形態になるわけであるが、論理的には、これは明らかに奇妙であり転倒している。抽象
  化された人間労働なるものが、商品 B を作る具体的労働において自らを定立し、人間労働の抽象
  的な凝固態なるものが商品 B に対象化された具体的有用労働において自らを定立するというわけ
  であり、また価値という抽象的なものが、商品 B の現物形態=使用価値において自らを定立する
  というわけであるから。マルクスは初版付録の価値形態論でこれについて次のように述べている。
    ーーー付録引用部は略ーーー

   <杉本ーー先生はこの7段落の最大重要な部面である、bの部分に示されている価値形態の秘密を
   何ら紹介しないのです。今日の常識では、次のように示されます。
    <商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用
     価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現
     象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なる>、ことを指して、
  ーー価値形態の秘密が、使用価値が価値の現象形態になることで直接的に価値形態となる、ーー
   と、自明なこと、自明な理解とされているのです。
   「ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるので
     はなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。」
   ーーこの事の詳細な分析が示されているのが、先生の削除した部分であり、次の論理なのです。

     「商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、
     有用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。」

  杉本 パソコン上で、この掲示を見続けていると、ーー等価物上着ーーが、
  ①価値の現象形態と媒介的に役立つ時と、
  ②直接的に役立つ時の二つ役立ちがあることが、ーー理解できるのです。
  ③だから、「抽象的な労働膠着物」が、5段落にて次のように示されていたことで、
   「労動膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労動が凝結している形態として
   認められているのである。」(初版江夏訳P37)ーーとすでに答えは示されていて、そのことで
  ④使用価値と<上着は、そのなかに人間労動が凝結している形態>であるーー価値形態を、
   次のように、すでに、ここに受け取っていたことが示されていたのです。それは次です。
     「だから、自分をそのあるがままのものとして表わすため
     には、商品はその形態を二重にしなければならない。
     使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。
     この形態は、商品の現物形態である。
     価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。」
  <杉本 ここまでの論理が、再版での「a相対的価値形態の内実」として語られたことです。>

  ③ ④の上記は、労動生産物が、価値形態を受け取ることで、商品に転化したのであり、そして、
  ① ②に対しては、かの『回り道』の経過を経ることで、次のようにマルクスは回答しています。

      「ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。
     諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態
     である。
     ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
     るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
     価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
     いことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、
     行なうことができるのである。」

  ① ②の示すものは、労動生産物が商品に転化したことで、先生のように、前提ではなく、
     相対的価値形態と等価形態との両極が成立し、再版の提示を示すと、その次の論理的段階で
    ある、「4 簡単な価値形態の全体」(再版)の事柄ーーこそが、ここには、先行して述べら
    れていたと見るべきだと思います。続く8段落は、だから、勿論、再度両極の形態を示してい
    ます。だから、ここでの、「回り道」は、再版で提示された、回り道とは決定的に異なるーー
    ことをこそ、先生は、久留間先生は提示すべきであったのに、今日までのすべての論者は、語
    らないのです。
    この「回り道」をして受け取るものが、この「簡単な価値形態」であるというーー論理をこ
    そ、久留間先生は、ここに商品形態が、両極の形態をとることで、その結果として成立してい
    るとのマルクスの追求の順序・段階を何ら理解できないのです。
    この「常識」を、疑い深く検討することが必要です。
    (ここには、次の事柄を展望し、論理構成されている、全体的視野が要求されています。)

     つぎはーー初版ではなく、再版でのその全体的構成ことがらでの例示が、必要です。
    そこで、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の論究は終わり、
    次の、「B 全体的な、または展開された価値形態」があり、
    最後に、「C 一般的な価値形態」    が、示されているのです。
    ここまでも『初版』も論理は共通であります。久留間理論は、この英明な提示が見えない。
     マルクスは、<ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、
           上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってま
           た、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる・・>
     ーーと示すことで、これからの第二・三の展開された価値形態、一般的価値形態を論ずる論
     理の根底・共通性を示したのです。
    これは、一般的価値形態が形成されることで、一般的等価形態がその姿態を現してくるが、そ
    れは、商品世界からの排除を受けてのみ登場することができる。そのことが、一般的相対的価
    値形態の登場となるのですね。

    「一言で言えば貨幣の秘密」ーーについて、次に追求します。

  初版の一般的価値形態の4段落には、交換可能性の形態として商品世界の住人が存在していること
  が、示され、それがリンネル形態においては、直説的交換可能性の形態としてあることが次に、示
  されている。

    ④「価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現であ
    る。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価
    値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社
    会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、関係している。
       ーーーー略ーーーー
    だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形
    態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値
    形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。
    ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的
    交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。
    (原P28 江夏訳49-50頁)

  <「諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態」
  と註18aですでに第一の形態で示された、交換可能性の形態=価値形態、なのです。
  しかし、今日の価値形態論の常識は、この事柄が等価形態なのですよ、全くの錯誤なのです。>
    ここが理解困難なのであり、難関であります。
    一般的価値形態において、商品世界の住人は、交換可能性の形態を受け取るも、その形態を示
    すリンネルは直接的交換可能性の形態を、受け取っているのです。
    しかし、<リンネルは直接的交換可能性の形態>を、商品世界から受け取っているにしても、
    未だ、一般的な等価形態は受け取っていないのです。上記ではですよ。
    何故か?
    この一般的等価形態を受け取れるのは、次のように、
    ①一般的価値形態を商品世界が受け取るために、リンネルはその世界から排除されるのであり
    ②商品世界が、一般的な相対的価値形態を、受け取るために商品世界からリンネルを排除する
    二つの過程があって成されているのです。

    A商品世界の住人の反省規定である一般的価値形態であることで、交換可能性の形態を示す、
    Bそして、このリンネルは直接的交換可能性の形態をも、左極にて受け取り示す、
    Cそして右極にて、リンネルは商品世界から排除されることで、一般的等価形態を得ている。

    このABCの経過構成があることでリンネルは、左極にて一般的価値形態をえているのです。
    ここは、よーくよく何度も考えてみよう。この交換可能性の形態を、労働生産物がどうやっ
    て受け取ったのですか?
    直接的交換可能性の形態であれば、その自然的形態のままに上着は直接的に価値形態とされ
    たのです。しかし、この上着が直接的に、この等価物が受け取る直接的交換可能性の形態は、
    上着が価値体とされることでの補強を受けて語られていますね。
    この両者の総合・合力の上で等価形態が語られていますね。では後者、上着が価値体である
    こと・この規定のみにては、そもそもが、リンネルの反省規定を受けとるーー上着が価値体
    の姿態ーーには成れない、人間労働の凝固物として価値体であるだけでは、リンネルと上着
    との価値関係は示せない、のです。上着が価値体であることで、等価形態であるなどという
    ことは、自明なこととして、だれも主張しないのです。従って、商品の同等性関係において
    上着は、リンネルの等価形態であるなどとは誰も、述べないのです。

    等価物上着の規定の下にであり、単に自然的形態のままに、右極の商品・この上着は等価形
    態を受け取るのではなく、この姿態・現物形態のままに価値形態とされることで、価値表現
    の材料となるのであり、そして、この規定を上着が右極にて受け取るのは、左極にて、リン
    ネルの価値形態としての役立ちを、上着がなすことで、価値表現の材料となり、相対的価値
    形態であるーーことを示しているのです。

    何を・・ぶつぶつと述べているのか?商品が、第一の形態にて、リンネルの価値形態として
    の上着形態であることで、リンネルの相対的価値表現がなされる、ーーそれは、第三形態に
    ても同じであり、一般的価値形態が示されることで、商品世界は成立し、そして、
    一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態が成立するのです。

    初版での一般的価値形態での例示であるので、英語版でのそれはどうであるのか?提示する。

  (C) 一般的価値形態
     1. 価値形態の変更された性格  The altered character of the form of value
  (C1-1段)
   全ての諸商品はいまやそれらの価値を
    (1) 要素的形態において表現する、なぜなら単一商品においてその価値を表しているから;
    (2) 統一性をもって[表現している]、なぜなら一つのそして同じ商品においてだから。
      価値のこの形態は要素的でありかつ全て同じである、したがって一般的である。
      [要素的]形態 A と [全体的形態]B はただ一つの商品の価値をそれの使用価値すなわち
    素材形態から区別されるあるものとして表現することにだけに適合していた。
   ーーーーー2・3・4段落と省略ーーーーー
  (C1-5段)
    前の二つの形態[A,B]はどちらも各々の商品の価値を違った種類の単一の商品の言葉で表
  現するか、または多くのそのような諸商品の一連のなかで表現する。
  両方の場合において、その商品の価値のある表現を見いだすということは、いわば、それぞ
  れの単一商品の特別の本務である、そしてこのことをそれは他の助けなしに行う。
  これらの他のものは、前のものに関連して諸同等物[諸等価物]という受身的役割を演じる。
  価値の一般的形態Cは、諸商品世界全体の共同の行為から結果として生じる、
  同時にそれでもって、それらの諸価値を同じ同等物[等価物]において表現している、
  そしてただそれだけから結果として生じている。
  一商品はそれの価値のある一般的表現を獲得することができる、同時にそれでもって、同じ
  同等物[等価物]のなかでそれらの価値を表現している;
  そしてどの新しい商品もこの先例に従わなければならない。それはこうしてつぎのことがは
  っきりする。
  価値としての諸商品の存在は純粋に社会的なものであるから、この社会的存在はそれらの社
  会的諸関係だけの全体性によって表現されることができる、そしてその結果としてそれら
  <諸用品>の価値形態は社会的に承認された形態でなければならないことが<現れてくる>。

  (C1-6段)
    いまや亜麻布に相等しくされているすべての諸商品は一般的に諸価値として質的に等しい
  ものとして現れるばかりでなく、また諸価値としてその大きさは比較することができる。
  それらの諸価値の大きさを一つのそして同じ素材、亜麻布、において表現することによって、
  これらの大きさはまた互いに比較される。
  たとえば、10重量ポンドの茶 = 20ヤードの亜麻布、そして40重量ポンドのコーヒー =
  20ヤードの亜麻布。言葉を換えれば、そこには1重量ポンドのコーヒーには1重量ポンドの
  茶に比べてその1/4だけの価値実態 - 労働 - しか含まれていない。

  (C1-7段)
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
  商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形式は、残りの部分から除外された単一の商
  品を変換し、同等の部分(ここではリネン)を<一般的な等価物>にする。

The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
  身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。 それゆえ、
  それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。

The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
  物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶の状態になります。

Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.
  特定の記事、リネンを生産する特定の私的個人の労働である製織は、結果として社会的性格、
  他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得する。

The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of manifestation of undifferentiated human labour.
  一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべ
  ての商品に組み込まれたものと同じにし、従ってリンネル織りを未分化の人間の労働の徴候
  の一般的な形に変換する。

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.
  このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の
  有益な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、

The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
  一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、
  一般に人間の労働力の支出に還元することである。

   <ここには、次のことが、丁寧に・ていねいに あまりに度が過ぎるが、書いている。>
  a<価値の一般的形態Cは、諸商品世界全体の共同の行為から結果として生じる、・・>
  b<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形式は、
  c<物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶の状態
  d<リンネル織り労働を他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得し、
  e<一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リンネル織り労動を、未分化の
    商品世界の商品の表示する価値を縫い上げる余多の労働と同じくする。
   ーー「織布労働を人間労働一般の一般的現象形態にする」(新書訳・向坂訳)ーー
   <この錯誤訳への批判を!この訳の意味では等価形態の規定となる>
  f<一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、一般に人間の労働力の支出に還元
    することである。

  (C1-8段)
    一般的価値形態、これは全ての労働生産物を差別されない人間労働の単なる諸凝結物と
  して代表するは、まさにそれの構造によって、それは諸商品の世界の社会的要約であるこ
  とを示す。
  そうした一般的価値形態は諸商品の世界のなかで人間労働である全ての労働に備えられた
  性格が、労働の特別の社会的性格をつくるということを争う余地のないほど明らかにする。

  <このように、8段落は、異なることの表明ではなく7段落のまとめなのです。
  ここを、一般的等価形態の記述と理解することで、どんなにか混乱をもたらしているのか?>

     <杉本  まとめです。>
    プルードン批判としての、ここの論理を見るならば、単に、ーー左右両極の対立であり、
    交換可能性の形態と直接的交換可能性の形態の対立ーーとは見れないことがわかる。
    相対的価値形態と等価形態との対立との前提のもとに、価値形態論は語れず、むしろこの、
    左極と右極との対立が、如何にして止揚する事ができるのか?の展望のもとに、マルクスは
    我々に、一体どうしましたらこの難問を、解決していけますかね???との質問なのです。
    プルードン派の人々が、パリ・コミューンで活躍したように、第一インターでのアナーキスト
    でありブランキストへの手の結び方が、示されているーーとの理解が必要です。
    そのような、マルクスの質問のもとに、以上の価値形態論の提示を読む・・のです。



http://

 

 障害者の団体は暴走でも団体優先する

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 4月 8日(日)19時16分43秒
返信・引用
   12年前の盲ろう者友の会から親を馬鹿と認めろと言うのを馬鹿らしいと退会し別の団体に行こうとすると相談員の密告から悪口妨害が入り、抗議すれば脅迫電話が来た。これらが県庁容認とは。
 トラブルは相互白紙化と思ったら読み書き出来ない人が県の看板の為親を馬鹿とは正当化したのか。完全沈黙のかん口令を敷き関わった人も団体も友達も全部取り上げた。どこの団体も行かせない。社会参加は全部妨害して11年で12回になる。地元以外の社協もかん口令を敷き地元一関身障協は口封じから入会させない。
 更生相談所も障害者の社会参加推進センターもかん口令が入った。更に市会議員と県議会議員にもかん口令が入った。此方を完全沈黙で囲み抹殺しか考えていない。それも通訳差別が4年前から出て来た。盛岡の講演会も通訳妨害。栃木との交流は県庁同士の密約だった。相手にするなとされていた。大阪の友の会は岩手にばれて辞めてくれとされた。更に全国協会が来て全国大会に参加しろというが通訳差別は露骨なり岩手の通訳団体社協の派遣通訳、要約筆記の会、盲ろう者友の会(通訳チケット1枚も使わせない通訳を貸さない)参加したら誰も合わせるなとされ、調べたら勧めた全国協会事務局長も全国の友の会もあいつの相手するなと口説かれていた。
 完全沈黙で囲まれては証拠も作れない。完全沈黙を破らないと嘘も方便が正当化する。
 全国の社協などに「暴走目こぼし権」の問い合わせついでに岩手の暴走をばらした。法律関係3者(法務局、法テラス、障害者110番の弁護士)だけそんなもの無いと言う。社協は関われなく喋れないらしく。県庁ぐるみの暴走は合法的なのかそれともごまかしたか。障害者の理解者のはずが厚生労働省擁護係り高齢・障害者法律係りも完全沈黙。法務省は法務局に話せだけ。合法なら説明来ていいはずが復興を叫ばれて岩手にごまかされたのか。
 社会参加復権に程遠い間々疲れから親を馬鹿にして構わないとして今までの圧力の廃止を求めた。それでも和解は暴走がばれるだけになり抹殺しか考えていない。
 こうなると地元の町役場に口封じの説明抜きかん口令が入ってしまう。そして町役場に立場の説明して理解を求めた。
  懲りずに今年も社会参加を計る。完全沈黙は破れているから妨害あればすぐ全国に知らせる。無くても盲ろう障害に小脳萎縮の身で専門団体も通訳も頼らず(貸す訳がない)に果たしたらどっちに転んでも全国からいい加減にしろとされ非難、失笑、後ろ指は避けられなくなる。こちらが優位のときは和解求めること3・4回だが県庁は知恵遅れの聾唖者が詫びれば済むものを県の看板とし宗教押し付けて改心求めたりが3・4回で抹殺しか考えて居ない。

  障害者の団体は暴走を完全沈黙の口封じで隠してしまえば不問になると言う特別法があるらしい。それは法務省は法務局に話せと言い、厚生労働省は知らん顔で全国の社協は沈黙。 障害者個人の人権は無視、暴走を暴走で隠す関係者や友達も口封じの差別や社会参加妨害を続け和解より抹殺を計る。
 ならば完全沈黙を破れば不問の特別法はただの暴走になる。  こちらが被害者だから。それともひっ捕らえに来ますか。


 

    英語版資本論の価値形態論の解読をとうして、語られていること

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月 7日(土)11時37分56秒
返信・引用 編集済
     杉本ーー第一の形態での転倒が、7~8段落にて語られている。
  第三の形態でも同じく転倒が語られることで、価値形態・一般的価値形態が成立するのです。
  ところが、既成の翻訳は、この転倒を翻訳せず、この転倒を批判しないことで、物象の社会関係こそが、
  価値形態論にて成立することにて、物的関係へと転倒した原因をこそ提示しているーー場所を隠蔽して
  いるのです。既成の翻訳の誤りこそ、商品批判・物象の社会関係の提示をこそなそうとする我々の批判
  を封じているのです。

   https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1
   A.価値の要素的または偶発的形態
   <3節緒部>(緒1段)
   諸商品はこの世界に諸使用価値の姿で、諸品物の姿で、すなわち鉄、亜麻布、穀物、
   などの姿で生まれてくる。これが諸商品の明白で、素朴な、身体上の形態である。
   けれども、それらが諸商品であるのはそれらが二重になっている何かのもの、役に
   立つ諸物体であり、かつ、同時に、価値の供託所であるというあるものだからであ
   る。それらは自分自身をそれゆえに諸商品として明示する、すなわち諸商品の形態
   をもつのであるが、それはただそれらが2つの形態をもつ限りにおいてのみ、すな
   わち、一つの物理形態または自然形態をもつこと、そして一つの価値形態をもつこ
   との2つの形態をもつ限りにおいてのみ、それらは商品として自身を明示するので
   ある。
  A.価値の要素的または偶発的形態
  1.価値表現の二つの極: 相対形態と等価形態
  2. 価値の相対形態 (a.) この形態の性質と意味
  (A2a-1段)
   どのように、ある商品の価値の要素的な表現が二つの商品の価値関係の中に隠されて
   横たわっているのかを見つけ出すために、われわれはまず第一に、後者[二つの商品
   の価値関係]をその量的側面から完全に離れて考察しなければならない。
   この通常の手続きの様式は大体において反対である、そしてこの価値関係においては二
   つの異なる種類の商品のきまった諸量の間に互いに等しいと考えられる割合ということ
   だけしか見られない。
  (A2a-2段)
   20ヤードの亜麻布 = 1着の上着 なのかまたは = 20着の上着 なのか
   または = x着の上着なのか ・・・・・亜麻布 = 上着は等式の基礎である。
  (A2a-3段)
    しかし、その質の同一状態がこのように仮定された二つの商品は、同じ役割を演じるの
   ではない。表現されているのは亜麻布の価値のみである。ではどのようにしてか?亜麻
   布の上着に対する等価物としての関係によって、それと交換され得る何かとしてである。
 a)この関係の中では上着は価値の存在様式である、上着は価値の体現された物である、
   <価値物 新書訳>なぜならただそのような物としてのみ上着は亜麻布と同じなのであ
   るから。
 b)他方で、この亜麻布自身の価値は前面に現れる、独立の表現を受けとる、なぜなら亜麻
   布が同じ価値物として上着と匹敵できるということは、ただ価値であるということだけ
   であるから、すなわち上着と交換できるということだからである。
     <a)b)は杉本注入 次は、その部分の英文提示です。>
  In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
 イ)この関係では、コートは 価値の存在形態であり、価値が体現されているのは、それが
   リネンと同じであるためだけです。
  On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value,or exchangeable with the coat.
 ロ)一方、リネン自身の価値<価値存在>は、独立した表現を受け取ります。それは、価値
   があるものとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコー
   トと交換可能であるからです。>
    注意! ① 等しい価値のものとしてコートに匹敵し、② あるいはコートと交換可能であるから
    ここに、リンネルが、交換可能性の形態を受け取れるのは、との問があり、
   <リネン自身の<価値存在>は、独立した表現を受け取るーー第一の案件が示された。>

     (A2a-5段)
   この上着を亜麻布の等価物<新書訳価値物>とすることで、われわれは上着に体現さ
   れた労働を亜麻布に体現された労働と相等しくする。さて、たしかに上着を作る仕立て
   は亜麻布を作る織布とは違った種類の具体的労働である。
 A)しかし仕立てを織布と相等しくする行為は、仕立てを労働の2種類の中の実際に等しい
   ものに還元する、それらの人間労働の共通な性格に還元する。
 B)この迂遠な[回り道の]方法のなかで、今度は、次の事実が表現される、織布もまた、
   それが価値を織る限りにおいて、それを仕立てから区別しなければならないことは何も
   ない、そして、結果として、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現
   される。
 C)それは違った種類の諸商品の間での、そのことのみが、価値-創造労働の特別な性格を
   目立たせる等しさの表現であって、その上でこのことをそれがおこなう、その異なった
   さまざまな種類の諸商品に体現された労働を、抽象の中で人間労働のそれらの共通な質
   に実際に還元することによってそれ[抽象的人間労働であるという事実の表現]をする。[18]
 A)について 再版訳
   「たとえば、上着が価値物として、リンネルに等置されることによって、
   上着に潜んでいる労働が、リンネルに潜んでいる労働に等置される。」(新書訳P86)
  英訳 パソコン訳
By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter.
   コートをリネンと同等にすることによって、我々は上着に組み込まれた労働を後者のも
   のと同じにする。
    By making the coat         コート・上着に作り出す
   the equivalent of the linen,   リネンの等価物
   こうして、コート・上着を等価物とするーーことによって、前段の三段落に示された、
   a)とA)はどんな関連となるのか・

   a)この関係の中では上着は価値の存在様式である、
   A)しかし仕立た上着を織布のリンネルの等価物とすることで、裁縫労働をそれらの人
     間労働の共通な性格に還元する。
  ここで、 次のB)とb)の関連は何か?問いかけていることの認識が必要ですね。

Now, it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makesthe linen.
    今や、コートを作る仕立ては、リネンを作る製織とは異なる種類の具体的な労働であ
    ることは事実です。
  But the act of equating it to the weaving, reduces the tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour.
   しかし、それを製織と同じにする行為は、2種類の労働において、人間の労働の共通の性
   格に本当に還元する。
 B)In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish itfrom tailoring, and, consequently, is abstract human labour.
   この回り道のやり方では、事実が表現され、価値を織り込む限り、製織されていてもそれ
   を仕立てと区別することはないため、抽象的な人間の労働である。
    <上記に対しての、次は三段落での事柄です。>
 b)一方、リネン自身の<価値存在>は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
   のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換可
   能であるからです。>
    このように、① aとA
          ② bとB
   この①②の事項を総合的、総括的に検証するならば、リンネルが、<交換可能性の形態を受け取る事ができたのは???>
   とのマルクスの我々への問いかけが、よくわかるのです。この問いかけの下、次の事柄がここにーー浮かびます。

  It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.[18]
   それは価値創造労働の特定の性格を救い出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の表現であり、これは実際にはさま
   ざまな種類の労働の異なる種類を、抽象的な人間労働の一般的な品質へと変化している。[18]

   このように、③商品に表示される労働が抽象的人間労働であるためには?との質問があり、
      まず、①価値の存在形態である上着が、人間労働であることで、この回り道を経て、
      次に、②価値存在を表現するリンネルが、そのことで抽象的人間労働であると語り、
   ーーという物象の、二重の2行程を成す、判断行程を、3~5段落にて示したのです。
   価値関係でのそれを構成する諸物象であることでの、リンネルと上着への判断なのです。
   大切な肝要部です。上記の① ②の判断を成すことができるのは、そこに、価値存在の如何にしてか?を訪ねてきた物象の
   判断が、次のことを示しているのです。価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働であると、
   第一節・二節の事項を総括・判断していると、価値実体論と価値形態論との関連を見てくることで、この5段落に、まとめ
   ていたのです。
   ところが、既成の久留間理論による理解は、次であります。等価形態において<価値物上着がリンネルに等置>されるーー
   では、物象の判断は、不成立です。もう一度、物象の社会関係の成立ではなく、リンネルと上着との物的関係なのです。
   <物象の判断>をこそ、ここでの記述の①②を、初版にも同じくなされているので、見ておこう。

    <資本論初版>第二段落
    相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
    20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)
  ①この形態は、単純であるがゆえにいくらか分析が困難である。・・・・
  ②リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。だから、それの体躯が
   糊で固められていることは、すなわちそれのもっている現物形態は、価値形態ではなくて、
   価値形態の反対物なのである。リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、
   自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているということ
   である。・・・・   (江夏訳 初版P34~35)
 http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
     ②の部分の大切な部分を、引用してみると、次のことが述べられている。
   <リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に等しいものと
   しての・他の一商品である上着に、関係させているということである。
   リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を、価値としての・自分に等しいも
   のとしての・上着に、関係させることができないであろう。
   ・・・リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値として
   の自分自身に関係させる。リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによっ
   て、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
   リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価値との
   双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接的な存在と
   は区別される価値形態を与える。>

    このように、初版のまずの追求点が、a価値存在の表現が如何にしてかであり、次に、
                     bリンネルの相対的価値表現・・・の如何にであります。
                     cリンネルは、<自分の価値存在に、・・・価値形態を与える>
    ーーと示され、まずの物象の判断の第一段階が示されているのです。
   このような質問・理解・判断が提示されていることでは、a b c のことでは、
   ・ここでの課題・主題が、リンネルの等価物上着による価値存在の表現であり、
   ・その事柄が、反省規定されて、上着はリンネルの価値の存在形態ーーとの物象の判断の仕方が、
   ・初版、英語版、ドイツ語再版、仏語版も述べられていたのです。
    しかし、価値物の悪訳のためにその共通性は排除されてきたのです。この誤訳を排除して、初版も再版も同じであると、
    理解して次の判読へと向かう。

   (A2a-7段)次の7段落には、何が提示されているのか?
   ①価値関係において等価物の位置を占めている場合、 上着は質的には同じ種類のらかの物
   として亜麻布と等しい地位を占める、なぜならそれは価値であるから。
  ②この位置において、それはあるひとつのものでその中にわれわれは価値のほかにはなにも見
   ない、またはその上着の触ってみられる身体的形態は価値を表現する。
    <新書版ーーここに続いて、付加してこう述べている。
        ーー上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめ
          るその自然形態で価値を表す物として通用する。>
    <仏語版ーーこうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる>
  ③しかもなおその上着そのもの、商品の身体、上着、は、ただの使用価値にすぎない。
   一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、われわれが
   握っている第一の亜麻布片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。
    <新書版でも同じ訳であります。>
  ④このことは、上着は亜麻布との価値関係に置かれた場合に、
  ⑤その関係の外にあるよりも意味をもつ、
  ⑥ちょうど豪華な制服でもったいぶっている一人の人間が平服を着たときよりも多くの意味を
   もつように。

    ーーまたはその上着の触ってみられる身体的形態は価値を表現する。ーー
  a <だから、上着は、ここでは価値がそれにおいて現れるものとして、または手でつかめその自然形態で価値を表すもの
     として通用する。>との、頓珍漢な訳を提示するのです。
   このように、再版翻訳者には、マルクスのここでの意図が、全く理解できてないのです。
   新書版も、この英語版での訳者も、この③では共通の訳なのですから、両者ともに、原文の意図への理解が、全く不明で
   あったのです。
  bーー③一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、われわれが握っている第一の亜麻布
     片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。

   しかし、直訳だと、次なのです。
    A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
   ③そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。私たちが取る最初のリネ
    ンの部分よりも。
    <だから、ここには、次の規定の転倒が示されたのです。上着は価値であると措定されていたことが、価値は上着である
    との再措定を受け取ることで、つまり、平服の軍人が、勲章で飾られたときのように、という変化であります。>
   ③そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。
    私たちが取る最初のリネンの部分よりも。
   ④This shows that when placed in value-relation to the linen,
    これは、リネンとの価値関係に置かれたときに、
   ⑤the coat signifies more than when out of that relation,
    コートは、その関係から外れたときよりも、
   ⑥just as many a man strutting aboutin a gorgeous uniform
   counts for more than when in mufti.
    豪華な制服で装われた頑丈な男性が、日頃の制服時よりも、より多くを意味することを示
    します。

    <フランス語版 では次の訳であります。>
  ①実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、上衣はも
   はや自分の価値性格を証明するための旅券を必要としない。こうした役割において、上衣自
   体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商品の体躯は、単なる使用
   価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同じように、価値を表現するもの
   ではない。
  ②このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそとでよりも
   多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。
   それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだ
   らなくなる、のと同じである。」《フランス語版》(江夏訳21-22頁)

   訳の違いに示されていることは、ほんまに異常な再版訳ですね。
   面白いですね!新書版だと、a上着はリンネル価値形態であることで、、価値を表現する二つの等価物の役立ちをして
   るーーと理解することで、ここでのマルクスの運んでいる論理である第一の役割があって、第二に相対的価値表現がなされ
   るーーということ、すなわち、
   <リンネルの価値形態として上着形態の役割がなされることで、リンネルの価値表現が左極で価値表現され、相対的価値形
   態が形成されていくという>ーー道筋が、全く見えてこないのですね。
    相対的価値形態の内実の価値形態があって、やっと、リンネル価値が上着で表現される、ーー簡明なこの論理が、何ら初
   版・再版の両方の論理では、彼らは提示ーー理解できないのです。

    こうして、7段落ーーここには、上着は価値であることから、価値は上着であることでの、この価値方程式での転倒が、
   「上着は労働膠着物」であることが、「等価物上着」の役立ちのなかで、「労動膠着物は上着」へと、物象の判断と役立ち
   が変更されたのではないかと思えます。それを示すのが、初版5段落冒頭の記載なのであり、初版での第二の段階なのです。

    初版5段落
    ⑤20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
    という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認
    められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのな
    かに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。

   <労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められている>
       ーーやっと、再版・初版での主張の合一点・合致点が理解出来ました。
    このように、初版5段落のこの提示は、通常のあまねく定式とされ理解とされる、等価形態、直接的交換可能性の形態を示
    しているのではなく、相対的価値表現での、現行版の3・5段落に続く7段落での解決事項をこそ、示したのです。
     では、以上の3段階の解決事項を踏まえて、最後に、リンネルの価値形態はどうやって、成立したのですか?
    マルクスは、読者である労働者に問うているのです。>

    <この「交換可能性の形態」が、「人間労働が凝結しているところの形態」と示しているのは、初版第三形態です。>
      「だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているとこ
      ろの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態
      と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形
      態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性と
      いう形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉
      (初版 原P28 江夏訳49-50頁)
    <マルクス先生の記述・問題意識が捕まえることが、これで出来たはずですが・・>

  (A2a-8段)次が最後の難関8段落です。
     上着の生産の中では、人間労働力は、仕立ての姿態の中では、現実に消費されてしまっ
    たに違いない。人間労働は従ってその[仕立ての]中に蓄積されている。
    この側面においては上着は価値の貯蔵所である、しかし糸が透けて見えるほどすり切れて
    しまっても、それ[上着]はこの事実を透けて見せることをしない。
    そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
    在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。
    <現行版ーー体化された価値としてのみ、 価値体としてのみ通用する。>
    A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の
    陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父
    と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。

   <杉本ー①体現された価値として数える②価値である一つの体として数えるーーとは?>
   ここには、7段落での<価値は上着>と示された転倒をこそが、提示されている、と物象の語りーーをこそ見出さなければ
   ならない。そうすれば、次のことに気付くのです。
   ①リンネルの等価物上着であることが、<価値存在の表現ーー価値の存在形態>の形成でなされていることが3・5段落に
    て語られ、
   ②同時にこの追求のなかで、商品が<価値関係を構成できたのは、商品に表示される労働が、抽象的人間労働である>こと
    による、ことが語られ、
   ③そして、この労働の対象化されたものであることを示す、この<①体現された価値>が、ここに、語られたのです。
    そこで、この<①体現された価値>が、<価値は上着>と示された転倒によるものだから、
   ・そこを示して、<B の目の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、>と語ることで、
   ・<金モールの衣裳をつけた多くの重要人物>を表現できた ーーであり、
   ・<上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態>ーーと認められたのです。
    だからa<そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、
      bそれ[上着]はこの側面のもとでのみ存在する、>ーーことを最大の基礎にして、
      c上着は<①体現された価値>と認識す物象の判断が、リンネルの価値表現の中で、
      d<価値存在の表現ーー価値の存在形態>の判断形式のなかで、示されたのです。

    以上なされたことを、次の段落にてこう示したのです。仏語版にある、次のことなのです。
      e「したがって、上衣をリンネルの等価物とする価値関係は、上衣形態をリンネルの
       価値形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上の使用価値のなかで表現す
       る」ーーと示すことで、リンネルの価値形態上着、との質的側面での判断をなして
       いるのです。そして、次のことが示されたのです。
      f②価値である一つの体として数えるーーで、量的側面での価値表現をなしたのす。

   <英語版のこの① ②に示される物象の判断が、提示されることが最大の要であります。>
   このように8段落の理解のためには、まず第ニに、久留間理論の錯誤への批判が必要です。それは次のことからであります。

   今までの、3・5・7 段落と説いてきた解決事項が、今日の価値形態論でなんら提示されて来なかったのは、
   第一に、勿論大谷先生が『貨幣論』で挙げた久留間先生の、価値物上着としてリンネルに等置される上着が、リンネルの相
   対的価値表現での役割であり、リンネルの価値形態として役立つ上着によって、相対的価値形態の形成になるものーーであ
   るのに、上着は直接的に価値形態であることで、上着は等価形態であると理解する、既成・価値形態論の全くの誤謬であ
   るーーことに示された、この全く逆の理解をする錯誤した、相対的価値表現の理解にあるのです。
   その理由を探ってみましょう。価値物上着への批判は終わっているので、その次であります。

    ここで、英訳・仏語訳では、以上のように、Aは、陛下であるのに、現行版では、Bが陛下になっているのです。
   このことをこそ、我々の常識になっている事への批判と反省がなくては、この8段落の解析はできていないのです。

  ① 新日本新書訳
   「上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間的労働力がじっさいに支出さ
   れた。したがって、上着のなかには人間的労働が堆積されている。この面からすれば、上着
   は「価値の担い手」である。<この側面においては上着は価値の貯蔵所であるーー英語版>
   もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見
   えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから、
     <価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
     在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。>
   それゆえ、体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。
   ボタンを掛けた(よそよそしい)上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族
   のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表すこ
   とは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことであ
   る。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下に対する態度をとることは、同時にAにとって
   陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのもの
   が、国王の交替のたびに代わることなしには、できないように。」(原P86 P88~89)

   「A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に B の目の中の陛下
   が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のすべての新しい父と一緒に、
   その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に装わない限り。」英訳

   「上着が自己の外面的な関係のなかに価値をじっさい表すことができるのは、同時に価値が一
   着の上着という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人Bにたいして、B
   の眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表しえないので
   ある。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪その他多くの物を変えるのは、お
   そらくこのためであろう。」(仏語版P22)

  ② 向坂訳ーーー岩波文庫
   「だが上着は彼女に対して、同時に価値が彼女のために上着の形態をとることなくしては、価
   値を表すことができないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、Aにとって、陛下
   が同時にBの肉体の姿をとり、・・・」(P96)

  ① ②は既存の訳であり、かっては杉本も同じくその理解をこの八段落に対してなしていた。
   しかし、この英語版とを比較してみると、再版での訳者の提示は、この物象の社会関係のなかでは、上着は価値としてリン
   ネルに相対しているのではなく、7段落にて提示されたように、価値は上着として転倒することで、そこに対象化されている
   抽象的人間労働がやっと提示されていることの、主体的判断が要求されていること、物象の判断の特異性に対して、異をこ
   そ唱えることで、マルクスの判断をこそ問い、自らの主体的判断を築き上げるーーことが無く、ただ客観的判断を提示した
   のみなのです。

    <そこで、初版の5段落に続く、7・8・9・10・11 段落のさらなる検討が必要であり、この最後の11段落
    に付けられた、註21の王と臣下の反省規定についての、さらなる検討こそが、ここに必要であると、やっと・
    やっと了解できました。再度挑戦します。>

  ①初版での転倒が、どう表されているのか?その検討も必要です。初版は、次を参照ねがいます。
    資本論初版 価値形態論の解読を目指して  投稿者:杉本
    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1597
  ②第三形態での転倒についても、私は、次の投稿をして問題提起していました。
   その改稿を、次に提示しておきます。第三形態での一般的価値形態の理解を巡って・・次の誤訳を紹介しておきます

    「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それだから、
    リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。」
    <「世界の共通な価値姿態」ーーを根拠にして、次の理解を彼らはしています。>
    ーーここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっている
    次の、提示は、一般的なその形態が形成されるときには、その片面だけではなく、両面が
    あることが提示されているのです。
    第一の形態でも、上着はリンネルの等価物と、3・5・7・8段落とされましたが、けっし
    て、等価形態にはなっていません。しかし、上記の「価値姿態」であれば、それは等価形
    態で受け取るものですから、堺の方々の理解は当然なのです。
    しかし、英訳・仏語訳ではーー<今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる>ーー
    ことで、この<一般的価値形態>を、次のごとく、受け取っているのです。
    この価値姿態が、一般的価値形態となるのではなく、
    <今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる>ーーことで受け取っているのです。
    次のようにであります。
    Fーー商品世界を包括する一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価物
       商品に、一般的等価物という性格を押しつける。・・・
       この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの
       共通な性格への還元であり、・・・
    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1600

   現行版【8】パラグラフの正しき記述ーー理解を求めて   投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月 3日(土)
    私達は、英明な堺の諸先生にして、次の誤った前提から始めていることをまず批判する。
    <彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。
    ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、>ーーと、第一・第二の
    形態と同じく、第三の形態でも、等価形態は前提ーーという社会的常識を、彼らは批判できなかったのです。

     http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/54b8fb7b4af892ce1c7d80c89a1f849c
    第27回「『資本論』を読む会」の報告
    ◎全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行
   <ところでここでマルクスがリンネルを〈同じ第三の商品〉と述べていることに異論を唱えている人がいます(山内清前掲
    書)。つまり〈リンネルは、第二形態では当事者の一方であるから、「第三の」は疑問〉(前掲99頁)だというのです。
    しかし上記の一文をよく読むと、マルクスは〈彼らのいろいろな商品の価値を〉と述べています。つまりリンネルと交換
    して自分たちの商品の価値を表現する〈他の多くの商品所持者〉にとっては、彼らの商品相互の関係から見ると、リンネ
    ルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。
    ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、こうした表現はそれを示
    唆しているものと考えられ、何ら問題はないと思います。>

   杉本ーー現行版【8】パラグラフの正しき記述ーー理解を求めて、次の比較が出きるな!と思ってやってみた。
    「一般的価値形態をなしている無数の等式は」ーーと示す記述を一般的等価形態と理解する、英明な堺の先生方々の誤解
    はどこからか?
     Aーー「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他
        のすべての商品と直接に交換されうるのである。」
     Bーー「亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態であるそれはしたが
        ってそれらのうちの全てかつどれとも直接交換可能となる。」
     Cーー身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。それゆえ、それ
        らのすべてとすべて直接的に交換可能になる。
     Dーーリネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。だから、それが、
        全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。
     Eーー 商品の全世界を包含する相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離されて、ただ等価
        の役割を演じさせる、ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。
        リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。
        だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。
     Fーー商品世界を包括する一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価物商品に、一般的
        等価物という性格を押しつける。リンネルはいまや他のすぺての商品と直接に交換可能である。
        したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。リンネルを生産する私的労
        働である機織は、これがために、社会的労働という性格、他のすべての労働と同等である形態を
        獲得する。

    ① http://p.booklog.jp/book/19345/read 『資本論』 第1部 第1章・第2章 詳解
    http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/3089c84b59ae181d571acdf7e6ac0095
    第29回「『資本論』を読む会」の報告 ◎等価形態の変化した姿
    初版付録では、ここに〈二 等価形態の変化した姿〉という項目が入ります。
    だからこのパラグラフでは一般的価値形態では等価形態はどのように変化しているかが考
    察されています。
    【8】パラグラフ
   A〈 商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネル
    に、一般的等価物という性格を押しつける。 リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な
    価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるの
    である。
    リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹
    化として認められる。
    織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわ
    ち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。 一般的価値形態をなしている無
    数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働
    に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。
    このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態
    と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。
    この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。 この労働は、いっさいの現実の
    労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたもので
    ある。〉資本論(1)新日本新書P114~115

    ②英和訳『資本論』
 https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi
   B(C1-7段)
     相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品、その残りから排除さ
    れて、そして同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍
    的同等物[等価物]に転換する。
    亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である; それは
    したがってそれらのうちの全てかつどれとも直接交換可能となる。
    その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。
    織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働である、が、結果
    として、一つの社会的性格を獲得する、すべての他の種類の労働と同等なものという性格
    を[獲得する]。
    価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式、が、順繰りに亜麻布のなか
    に体現された労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そして
    それらがこのようにして織布することを、差別を立てられていない人間労働の明示の一般
    形態へと転換する。
    このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働はその否定的な側面のもとにおいてば
    かりでなく提示される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有
    用な属性からなされた抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白
    に知らせるようにされている。
    この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な
    性格への還元であり、人間の労働力の消費であることへの還元である。

   C ③<杉本ーー下記 直訳>
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
    ①商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態は、商品世界から除外された単一の
    商品を変換し、同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
    身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。 それゆ
    え、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。物質のリネンは人間労働の目に見
    える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な<蛹ー蝶>の状態になります。
 Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.
The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of manifestation of undifferentiated human labour.
    ②以上の事柄から、リネンを生産する特定の私的個人の労働である製織は、結果として社
    会的性格、他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得する。
    一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働と他のす
    べての商品に組み込まれた労働とを同一視し、よってリネンの機織りを未分化な人間の労
    働の一般的な形に変換する。
 In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.
The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.
    ③このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕
    事の有益な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、一般的価値形態
    は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の
    労働力の支出に還元することである。

   D ④宮崎訳ーー 英語版
https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
   (9 ) 商品の全世界を包含する、相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離され
    て、ただ等価の役割を演じさせる、ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等
    価物に変換する。リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なさ
    れる。だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。
    物質リネンが、あらゆる種類の人間の労働の、目に見える化身、人間の労働 の社会的結晶
    状態となる。機織り、特定のもの、リネン、を生産するある私的な個人の労働が、こうし
    たことから、社会的な性格、他のあらゆる種類の労働と等質の性格を持つことになる。
    数えきれない行並びの等式、価値の一般形式は、それぞれ、リネンに込められた労働が、
    他の全ての商品に込められたものと同等であることを網羅する。そして、さらに、機織り
    を、区別できない「人間の労働」の表明の、一般形式に変える。
    これらのことによって、商品の価値である労働が、様々で具体的な労働形式や有益な現実
    の仕事等々をはぎ取った労働という、見えにくい面ばかりでなく、それらの目に見える形
    をその労働自体として表すようにもなるのである。
     価値の一般形式は、全ての種類の現実の労働を、人間の労働一般という共通的な性格に、
    また、人間の労働力の支出に要約する。

   E ⑤《フランス語版》8段落
     商品世界を包括する一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価物商品
    に、一般的等価物という性格を押しつける。リンネルはいまや他のすぺての商品と直接に
    交換可能である。したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。
    リンネルを生産する私的労働である機織は、これがために、社会的労働という性格、他の
    すべての労働と同等である形態を獲得する。
    一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルのなかに実現されている労働を、この
    リンネルとかわるがわる比較される各商品のなかに含まれている労働と同一視して、機織
    を、人間労働がそのなかに現われるところの一般的な形態にする。
    このようにして、商品の価値のなかに実現されている労働は、たんに消極的に、すなわ
    ち、実在の労働の具体的形態と有用な属性とがそこで消滅するところの抽象として、表わ
    されるだけではない。その積極的な性質がはっきりと確認される。
    この労働は、すべての実在の労働を、人間労働すなわち同じ人間労働力の支出というそれ
    らの共通な性格に、還元したものである。〉(40-41頁)

http://

 

        「上着が等価物としてリンネルに等置される」根幹事項について

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 4月 4日(水)07時48分22秒
返信・引用 編集済
         8・9段落を巡る同等性関係と価値関係の混同への批判

    「二つの商品の交換関係に潜んでいる-商品の単純な価値表現」であれば、それは量的関係で
    あって、二商品の交換比率であるのですから、価値存在の表現の示される内実三段落にて示さ
    れた、その「自立的表現」である価値形態はそもそも成立しないのです。
    「a 相対的価値形態の内実」冒頭に「この価値関係を、さしあたりその量的関係からまった
    く独立に、考察しなければならない。」ーーと、冒頭に述べられており、次の2段落に、その
    ことを示して、「リンネル=上着」の等式が示されている。
    議論は、「交換関係」とあれば、それを「価値関係」と替えて行わねばならないのです。
    しかし、9・10段落に示される、商品語の語りでは、価値関係が交換関係での語りに、転倒
    していますから、この転倒批判でしか語れないのです。
    下記をhirohiroさんの主張と比較するために、紹介します。

   A 大谷先生の価値体論である価値形態論の誤解を、以下探ってみました。
     「リンネルが上着を価値物として自分に等置する。これによって,上着に含まれてい
     る労働(裁縫)がリンネルに含まれている労働(織布)に等置される。この等置によ
     って,上着に含まれている労働(裁縫)が,両方の労働に共通なもの,すなわち抽象
     的労働に還元される。この関係のなかでは,上着をつくる労働(裁縫)は抽象的労働
     の実現形態,抽象的労働が取っている姿としての意味しかもたないことになる。そし
     て,これによって,リンネルに含まれている労働(織布)も,価値を形成するもので
     あるかぎりは抽象的労働にほかならない,ということが現われてくるのである。
      (『価値形態』大谷禎之助 P174)
    http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7779/1/61-2otani-2.pdf

    私自身も同じく、大谷先生の誤解と同じ理解であったことを、今ようやく理解出来ました。
    次は、再版 5段落と同じの英和訳です。
          (A2a-5段)英和訳『資本論』
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
       (第3節 価値形態すなわち交換価値)
     「この上着を亜麻布の等価物<再版ーー価値物>とすることで、われわれは上着に体
     現された労働を亜麻布に体現された労働と相等しくする。
     さて、たしかに上着を作る仕立て、は亜麻布を作る織布とは違った種類の具体的労働
     である。しかし仕立てを織布と相等しくする行為は、仕立てを労働の2種類の中の実
     際に等しいものに還元する、それらの人間労働の共通な性格に還元する。
     この迂遠な[回り道の]方法のなかで、今度は、次の事実が表現される、織布もまた、
     それが価値を織る限りにおいて、それを仕立てから区別しなければならないことは何
     もない、そして、結果として、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が
     表現される。」

    ここでは、裁縫労働が人間労働に還元され、この回り道を経て、リンネル織リの織布労働も価
    値を織り出す限りにて、抽象的人間労働であることが語られるーーとありました。
    裁縫労働が、リンネル織り労働に等置されることで、抽象的人間労働である、と語られるなら
    ば、なんら「回り道」は成していないのであり、人間労働力の支出一般が、超歴史的な人間労
    働が、価値を形成するーーとの表明になるのです。
    大谷先生のは、回り道を無視した、超歴史的な人間労働が、価値の実体、との主張なのです。
    ここでは、物象の社会関係としての価値関係においての物象の判断が、「語られる」のであり
    ①この関係において、人間労働との裁縫労働の性格を規定するこの回り道をすることで、
    ②リンネル織り労働が抽象的人間労働との規定を受けることで、
    ③さらに、再度最初に戻って、価値に表示される労働は、抽象的人間労働である、
    ーーとの3行程が述べられ、物象の独自な判断が反省規定にあることを示したのです。
    このように、相対的価値表現の左極・左辺での価値関係にある商品にたいする物象の判断が
    ここに示されリンネルの価値を構成する抽象的人間労働であることが、語られているのです。
    ここが、「第二節 商品に表された労働の二重性」の継続点なのです。
    物象の判断にて、「労働の二重性」の意義の継続点が示されたのです。

     <杉本・現行版5段落は、上記冒頭のように、
    「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネルに含ま
    れている労働と同一であると確認される。」(仏語版6段落回り道項)とある。
    ーー事実上の抽象がなされ、上記の①②③の物象の判断の仕方の経過が示されていたのです。

    先生のこの<回り道>の思想は、久留間理論の根幹であり、次の崎山先生も同じ見解です。
     <このような<回り道>をすることによってはじめて,リンネルは自分自身
     もまた価値物,つまり価値をもった物である,と言うことができるのである。>
     <この関係のなかでは,上着をつくる労働(裁縫)は抽象的労働の実現形態,
     抽象的労働が取っている姿としての意味しかもたないことになる。>
    しかし、この説明ーー判断では、物象の社会関係にて、価値形態は形成されず、
    リンネルの価値表現はなされないのです。

     崎山論文の紹介②  を参照すると、この転倒が、どこからなのか理解できる。
      http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1619
     (iv)〈自然的規定性の抽象化〉過程に関して
    商品 A(リンネル)が商品 B(上着)を自分に等置することによって、商品 B に表わされてい
   る労働が商品 A に表わされている労働に等置される。商品 B を作る労働は当然ながら商品
   Aを作る労働とは異なっている。
   しかし商品 B をつくる具体的労働がそれと質的に異なる商品 A をつくる具体的労働と等置
   されることになるがゆえに、まずB を作る労働の、その具体性有用性・自然的規定性が抽象
   化されて、双方の労働に共通な質である人間労働に還元される
    (この過程を〈自然的規定性の抽象化〉過程と呼ぼう)。

      <次の説明こそ、彼の真骨頂であるので、次の展開へと中断します。
      杉本 先生のもっとも言わんとすることは、この前提にたって、
      「現実的抽象」の独自性を、こう語るのです。>

   以上見てきた〈自然的―社会的〉関係における社会性について考えてみよう。
   人間語による分析、思惟抽象とはまったく位相の違った過程がここにある。
   思惟抽象・論理的抽象と、二商品の価値関係における現実的抽象とはいかに異なっているか。
   先に見たように、マルクスはまず人間語の世界において、二商品の交換関係を表わす等式を
   分析しそれが一体何を表わしているのかを探り、両商品を抽象的人間労働にまで抽象化した。
   その上でマルクスは、そのような抽象的人間労働の凝固物として両商品は価値であると指摘
   した。等式が表わしている内実を分析的に抽象化し剔抉していく過程があったわけである。
   現実の価値関係における抽象化はこれとはまったく違っている。
        商品 Aが商品 Bを自分に等値するというその現実そのものが、
   一挙に自然的規定性の抽象化を成し遂げ、その結実を表現する。商品 Aが商品 B を自分に等
   置するというその事実そのものが、商品 B を生み出す具体的労働の具体的有用性・自然的規
   定性を抽象するのであり、その具体的労働を抽象化された人間労働の実現形態にし、かくし
   てこの等置関係そのものが、商品 B に表わされた具体的有用労働そのものを抽象的人間労働
   の現象形態とし商品Bをその凝固態とする。
        かくして商品 Bを現物形態のままでその抽象化された人間労働の凝固物として意
   義をもつものとし、商品 Bをかかる抽象的人間労働の凝固物として、現物形態(使用価値形態)
   のままで価値体とする。つまり商品 Bは価値の実現形態・現象形態になる。
        要するにここでは商品 Bを
   作る具体的労働、その具体的労働の凝固形態、商品 B の使用価値形態=現物形態という一連
   の具体的形態が抽象的なものの実現形態になるという抽象化が起こるわけである。
        これを抽象化という概
   念で語って良いものかどうか躊躇せざるを得ない。思惟抽象ならば、思惟によって抽象化さ
   れたある観念が抽出されるだけなのであるが、現実的抽象の場合、抽象物が現実に抽象物と
   して存在するわけにはいかないので、抽象物もまた対象的な形態で、すなわち現実の存在物
   として自己を表現しなくてはならない。ここでは、厳として存在しつずける現物形態、つま
   り現実の物質あるいは事柄
     P23
   そのものが、そのままの姿態が、抽象化されたものとして意義を持つのであるから
    (ここで注意! 現物形態の内的属性の一つとして抽象化されたものがあるわけではない)、
   現実のあるがままの存在が、抽象的なものの実現形態にならざるを得ないのである。
   以上が商品 Bの側に起こった抽象化である。・・・・・・・・・・

    <崎山先生の見解は以上です。この主観性こそが、久留間理論の真骨頂なのであります。
    ここで、誤解しないようにしよう。彼は、勿論ブルジョア的労働について語るも、物象
    の判断の③にて語っていないのです。そうであれば、②について振り返らないのです。
    ①の行程で人間労働に還元されたことが、裁縫労働が抽象的人間労働の実現形態と理解
    するのですか?しかし、等価物上着・とあるのは、リンネルの価値表現でのことであり、
    ここでは、この関係での反省規定として、裁縫労働が人間労働に還元される回り道を経
    る・・事に示されるのは、超歴史的な人間労働力一般の支出をこそ批判して、単なる同
    等性では無いことをこそ論じて、次に②のリンネルの価値を織る労働が、抽象的人間労、
    働になるーーと、といたのです。とすると、価値に表示される労働が、単に人間労働力
    の支出であり、回り道を経ずとも、抽象的人間労働の実現形態であると、先生は主張す
    ることになるのですけれど、どうですか?この誤りは、明らかです。>

   <杉本・現行版6段落
    「英訳ーー・・何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ価値
    になる。リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観
    的に存在するものとして表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるものと
    して、リネンと他のすべての商品に共通のものです。」

   ーーこうして並べて比較すると6段落は、5段落のリンネル織り労働の説明であり、それは、
   再度<リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に存在す
   るものとして表現されなければならず・・>とあり、現行7段落は示されないのです。

    上記をhirohiroさんの主張と比較してみよう。hirohiroさんは、次に、こう述べています。
    http://hirofreak.blog.fc2.com/blog-entry-242.html
     freaky style な批判理論を目指して簡単な価値形態について  hirohiro
     第六パラグラフ
    労働次元での還元について述べた第五パラグラフを受けて、今度は対象次元の話に移行
    します。というのは、問題となっているのは、商品の価値性格がどのように現象し、価
    値形態が成立するのか、だからです。
    「もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十分
    ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成するけれ
    ども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値なる。
    リンネル価値を人間的労働の凝個体として表現するためには、リンネル価値は、リンネ
    ルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他商品とに共通なある『対象性』
    として表現されなければならない。この課題はすでに解決されている。」
    (訳p.87~88、原s.65~66)
   このパラグラフほど誤解されているものはないのでは、というぐらい、先行研究は読み誤って
   いますが、具体例は今回は割愛します。ただ論点を二転指摘しておきましょう。
      ーーーーー略ーーーーー
   第二に、課題はどのようにして、すでに解決されているのか、という点です。
   この点をマルクスが第五パラグラフまでで解決している、というのが大方の見方のようです。
   それ自体決定的に誤っているとまでは言えませんが、しかし、解決しているのは諸商品なので
   す。マルクスが理論的に解決したのではありません。リンネルと上着の価値関係自体が解決策
   なのです。この点は以下のパラグラフで解明されています。マルクスによる解決を言うとすれ
   ば、前のパラグラフではなく、後述部分である、というのが正しいのです。

    <杉本・課題はどのようにして、すでに解決されているのか、という点、
       リンネルと上着の価値関係自体が解決策なのです。この点は以下のパラグラフ
       で解明されています、と言うhirohiroさん主張は、次のことへの無視なのでは?>

    「こうして並べて比較すると、6段落は、5段落のリンネル織り労働の説明であり、それは、
    再度<リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は客観的に存
    在するものとして表現されなければならず・・>とあり、」ーーなのだから、今までの論議
    で得てきたことの再確認をしていたのです。
    上記のように、理解していたのだが、7段落とのつながりにおいて論理を見るならば、次の
         訳でなければ問題が解決していかないのです。
     「リンネル価値を人間的労働の凝個体として表現するためには、
     リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時に
     リンネルと他商品とに共通なある『対象性』として表現されなければ
     ならない。この課題はすでに解決されている。」(現行版6段落)
    このように、
    <リンネル価値は「リンネルと他商品とに共通なある『対象性』として表現されなければ>
    ーーと示されたことが、次の<金モール>なのであります。

    次に7段落  仏語版での次の<金モール>は、各版にて同じ訳であります。
    「上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそとでよりも多くのことを意
    味する、ということを証明しているにすぎない。それはちょうど、金モールの衣裳を
    つけた多くの重要人物が、・・・」ーーとの説明は、上着はリンネルとの価値関係に
    おいては、<その自然的形態が価値形態となる>との意味であろうか?

    しかし、次に表される仏語版では、「上衣が等価物」として置かれることで、
    「こうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」と示された。
    ここでの論議している課題が、単にリンネルの上着による価値表現であれば、そんなことは、
    何ら問題にならならない。次のとっても大切なことを消さないようにしよう。
    直前の6段落に「リンネルと他商品とに共通なある『対象性』ーーこそが表現される、とは、
    それが次のーー「上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」、ことなのです。

    「①実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、
    上衣はもはや自分の価値性格を証明するための旅券を必要としない。こうした役割
    において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商
    品の体躯は、単なる使用価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同
    じように、価値を表現するものではない。
    ②このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のそと
    でよりも多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。
    それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全
    くくだらなくなる、のと同じである。」《フランス語版》(江夏訳21-22頁)

    英語版では、②の部分の訳が次であります。
A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
    ①価値の式で等価の位置を占めるとき、コートは価値があるので、同種のものとして
    質的に同じのランクに指定されます。このポジションでは、価値観だけを見るか、触
    診できる身体的な形が価値を表すものです。
    ②しかもなおその上着そのもの、商品の身体、上着、は、ただの使用価値にすぎない。
    一着の上着はそのような物としてそれが価値であるとわれわれに告げないのは、われ
    われが握っている第一の亜麻布片が価値であるとわれわれに告げないのと同じである。
    ③しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。
    そのようなコートはそれが価値であることを私たちに伝えます。
    私たちが取る最初の麻の部分よりも。
    ④This shows that when placed in value-relation to the linen,
    これは、リネンとの価値関係に置かれたときに、
     ⑤the coat signifies more than when out of that relation,
    コートは、その関係から外れたときよりも、
    ⑥just as many a man strutting aboutin a gorgeous uniform
     counts for more than when in mufti.
    豪華な制服で頑丈な男性が、日頃の制服時よりも、より多くを意味することを示して
    います。

    以上のように、
     「上衣が等価物」として置かれることで、
      イ「リンネルと他商品とに共通なある『対象性』ーーこそが表現される、
      ロ「「上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」、と示され、
      ハ「リネンとの価値関係に置かれたとき、コートは、・・」と示されたこと
        が「金モールの衣裳をつけた多くの重要人物・・」と比喩されたのです。
      ニこの価値関係でのリンネルの価値存在の表現が、上着が価値の存在形態に
       なるーー物象の役立ち・判断が有りて成されている、ことを証明している。

        なるほど、hirohiroさんは、6段落からの論理追求において、英明に次の分析していた。
    <リンネルと上着の価値関係自体が解決策なのです。この点は以下のパラグラフ
       で解明されています>と言うhirohiroさん主張は、正しい!素晴らしいのです。
    しかしhirohiroさんは、ここでの新書版7段落の、既存訳を次のように受け入れています。
    残念ですね。
    「実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、・・」
    との前文があって、「こうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる」
    ーーと示されていたのですし、この提示があって、やっと、次、8段落での、陛下に示される
    事柄が理解できてきます。既存訳を批判できなかったので、彼は次の誤解をしたのです。

    hirohiroさん
    <・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 簡単に言うと、リンネルは上着を自らに等
    置することによって、上着は「価値がそれにおいて現われる物として、または手でつかめるそ
    の自然形態で価値を表わす物として、通用する。」(訳p.88、原s.66)>

    リンネルは上着を自らに等置することによって、>ではなく、
    「上衣が等価物として置かれるやいなや、」ーーという事柄は、
    次の③~⑨段落に示されている事柄の流れ、全体の関連で把握・理解する必要があるのです。

    ③「・・リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが、その
     「等価物」としての、またはそれと「交換されうるもの」としての上着にたいしてもつ関連
     によってである。」
    ⑤「たとえば、上着が等価物<価値物 は誤訳〉としてリンネルに等置されることによって」
    ⑦「実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、・・」
     「豪華な制服で頑丈な男性が、日頃の制服時よりも、より多くを意味する」
    ⑧「そして価値等式のなかで亜麻布の等価物として、それ[上着]はこの側面のもとでのみ存
     在する、従って体現された価値として数える、価値である一つの体として数える。」
         ⑨「こうして、上着がリンネルの等価物となる価値関係のなかでは、上着形態は価値形態」
    ーーと示されているのです。

    この、③⑤⑦⑧⑨の再版での価値形態論の根幹事項が、現行版では、削除されているーー
    事に、彼は気づかないのです。存在しているのは、③ ⑨段落のみです。
    私めも、いまこの作業のなかで、やっと、「上着が等価物としてリンネルに等置される」
    ことの意義がやっと理解できたところであります。
    この意義を、何とか見出すために、大谷先生が、このことを何処で見いだせなかったのか?
    検討してみます。

   B  大谷先生の、8段落を巡る同等性関係と価値関係の混同への批判
     「・・・・・・・・・・・・・・だが,上着が価値体として通用するとい
     う状態は,どのようにして成立するのであろうか。それは,リンネルが上
     着を自分に,質的かつ量的に等置するということによって,言い換えれ
     ば,リンネルが上着にたいして,上着は自分と価値が等しいものなのだ,
     つまり等価物なのだ,と認める様態で関わること,連関することによっ
     てである。このことが意味するのは,つまるところ,リンネルは上着にた
     176
     いして,上着をそのようなものとして認めるという様態で関わるというこ
     とである。このことによってはじめて,上着は,価値体という,この連関
     のなかでのみ通用する社会的な質を,さらに厳密に言えば,経済的形態規
     定性を受け取るのである2)。このような<回り道>をすることによっては
     じめて,リンネルは,自分自身もまた価値物,つまり価値をもった物であ
     る,と言うことができるのである。肝心なところは,そもそも商品は,自
     分だけで自分の価値を表現することがけっしてできず,まずもって他商品
     の現物形態を自分の価値鏡にしなければならない,ということである。ま
     さにこの点に価値形態の秘密が,したがってまた貨幣の秘密がある。
     以上が,二つの商品の交換関係に潜んでいる-商品の単純な価値表現の
     〈メカニズム〉である。」(『価値形態』大谷禎之助 P175~176)

    先生が、以上に、何と言ってるのか?ここには次の 、① ② の違いがあります。
    ①「上着は,価値体という,この連関のなかでのみ通用する社会的な質を、さらに厳密に言
     えば,経済的形態規定性を受け取るのである2)。このような<回り道>をする・・」

    回り道は、「上着は,価値体という・・経済的形態規定性を受け取る」ことなのですか?
    次の5段落にて提示されたように<①仕立て・裁縫労働を、亜麻布を織る織布労働に等しい
    とすることで、裁縫労働をそれらの共通な性格へと還元する。②この[回り道の]方法のな
    かで、[織布もまた]抽象的人間労働である、という事実が表現されるーーとあります。

   ②「上着は,価値体という・」と示されるのは、この5段落ではなく8段落にての提示です。
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
     (A2a-8段)
     「そして価値等式<再版・リンネルの価値関係>のなかで亜麻布の等価物として、
     それ[上着]はこの側面のもとでのみ存在する、従って、価値である一つの体と
     して数える、従って体現された価値として数える。
       <新書訳「そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけ
       から、それゆえ体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。」
        <この既存訳の悪さ、これでは二つの肝心の判断の違いが分からない。!!!>
       宮崎訳  価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面でのみ、
       価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。>
     A は、たとえば、B にとっての「陛下」であることはできない、同時に Bの目
     の中の陛下が A の身体の形を装わない限り、そして、その上さらに、人々のす
     べての新しい父と一緒に、その顔つき、髪、そして多くのほかのものをその上に
     装わない限り。」

     このように、<リンネル=上着>の価値等式で、等価物上着であることにおいて、この価値
     関係を示し、この左極・左辺において、次を示したのです。
     第一に、<価値である一つの体として数える>のです。
     第二に、<上着は、体現された価値として数える>
         <価値の形としてそこにある。>ーーことができるのです。
     こうして、等価物上着が価値体であるのは、この第二の役立ちを為すためであり、先生の言
     回り道などしていないのです。
     この価値体上着との規定では、第一の役立ちしか見ていないのであり、第二の役立ちがある
     ことを、先生は見ていないのです。それが先生の欠点であります。

   ③もう少し、上記の第二の役立ちをひもといてみよう。
     (次は、パソコン直訳です。)
And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts
therefore as embodied value, as a body that is value.
    そして、価値方程式の亜麻の同等物として、それだけでこの側面の下に存在し、それゆえ価値
    のある身体として具体化された価値として数えます。

    この英訳は素晴らしい!書かれていることは、商品が物象となり擬人化されて、この関係から、
    a価値等式のなかで亜麻布の等価物として、上着は存在しており、
     <等価物上着は、と示されていることが、③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落にて示されているーー
     ことが理解されないと、この物象の判断の存在は、何ら理解されないのです。>
    b従って、ーー①「価値である一つの体として数える」との物象の判断を、まず示したのです。
     そこで、上着は価値体であることで、<価値の現象形態>になるのは、この位置であり、
     この、①の判断をなすその経過においてなのです。
    c次に「体現された価値として」上着を数えると・「具体化された価値として数えます」と、
     そこに、自ずと示された事柄が、次の解答である、9段落なのです。

   ④等価物上着が単に一つの価値体の役立ちだけではないこと、この第二の役立ちとは、何か?
    9段落
    「価値等式においては、その中で上着は亜麻布の等価物である、この上着は
    価値形態の役をする。
    商品 亜麻布 の価値は 商品 上着 の身体的形態によって表現される・・」

    ここでの等価物としてとは、に注意願います。
    上着はリンネルの等価物なのですから、第二のこととして述べられている、次の、
    「具体化された価値として数えます」こと、宮崎訳の「価値の形としてそこにある」こそが、
    この「価値形態」であり、この役立ちにて、次のことを成すことが出来るのです。
    このリンネルの価値形態があることで、上着は、使用価値としてその身体的形態のまま
    に、リンネルの価値表現の材料となるのです。

    ここでの9段落の回答は、6段落でのマルクスの次の質問を考えなければ、まず出てきません。
    α 亜麻布の価値を人間労働の凝固物として表現するために、
    β そして何か亜麻布および他のすべての諸商品と共通なものとして表現されなければ・>

    αの問が、この交換されるではなく、「価値等式」での・等価物上着とは?と物象が、人間
     語にて質問しているのです。自ずと、③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落にての等価物であり、
     この7段落での等価物上着が問題にされているし、そこでの規定の積み重ねがしめされてい
     ます。大谷先生には、その区?が無いから、理解できないのです。その答えが自ずと、
     等価物上着が価値体上着の規定を受けているーーだけではないのです。
    βの問いであるーー関係にある・等価物ーーだけでなく、亜麻布および他のすべての諸商品
     と共通なものとして表現されなければーーとは?との上記のことから示される、マルクス
     の我々へ注意であり、質問なのです。
     そこで、考えられていることが、次のことなのです。

      価値方程式の亜麻の等価物・同等物としての判断のもとで、
    イ 上着は<価値である一つの体として数える>と示され、
    ロ そして、その次に、物象の働きーー判断が、<具体化された価値として数えます>
     ーーとこの過程が、③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落での一過程が示されることで、
     次の第一・第二の回答になっていたのです。

     上記のことで、全体・両者の共通者を示す諸物象の関係がなすところの、物象の第一の
     <反省規定>をこそ<価値体上着>として、受け取るーー価値の現象形態ーーなのです。
     つぎに、第二の<具体化された価値として数えます>とされることで、その事柄を、
     <この上着は価値形態の役をする>ことができと示し、
     この物象の判断ーー役立ちのもとで、価値関係の質的側面を表わすことができたのです。
     (この、第一と第二の区別がないと、同一の大谷先生の「形態規定」は批判できない。)
     以上のように、イ ロの区別があることで、価値体と価値形態とのくべつができたのです。
      (大谷先生には、この削除されている等価物上着に気づかなかったことで、そこを理解で
       きなかったのです。〕
     そしてつぎに、この<上着は亜麻布の等価物である>との判断のもとで、
     その量的側面を示すところの、価値表現の材料となっていると、示しています。

     この上記イロの事柄のくべつが、<簡単な価値形態について hirohiro>での彼の主張には
     無いことでーーここに示されたことへの理解が及ばないのです。

   ⑤ 9段落 後半部です。
     「一つの使用価値として、この亜麻布はこの上着とはなにか目立って異なっている;
     価値として、それは上着と同じである、そして今や上着の外観をもっている。
     このようにしてこの亜麻布はそれの物理的形態とは異なるひとつの価値形態を獲得する。
     それが価値である事実、は上着とのその等しさによって表されている、ちょうど一人のキリ
     スト教徒の羊の性質が神の羊に似ていることのなかで示されるように。」

     <価値として、それは上着と同じである、そして今や上着の外観をもっている。
      このようにしてこの亜麻布はそれの物理的形態とは異なるひとつの価値形態を獲得する>
     ーーリンネル・亜麻布は、上着が価値である限りにて、価値の規定・反省規定を受けとる。
     この物象の反省規定が、日常世界では、商品の受け取る同等性関係としてしか、認識され
     ないことを、マルクスは批判しているのです。
      リンネルが<価値である事実、は上着とのその等しさによって表されている>
     ここには、次の10段落に示される商品語での語りの出発点、我々が誤認識してしまうこと
     がらが、明示されている。

   ⑥以上のーーa価値であり・b価値体・c価値形態の根幹にあるのが、労働の二重性であり、
    この二者闘争的性格との判断こそがこの価値形態であり、商品形態を形成したのです。
    そして、この労働の二重性こそが、労働の二面的作用をもたらし、次の、
    <価値を付加することで、価値を維持する>ことで、不変資本と可変資本とを形成するこ
    とで、貨幣の資本への転化をなしとげていた、のです。

   ⑦上記④をhirohiroさんの主張と比較してみよう。hirohiroさんは、こう述べています。
    第七~十一パラグラフ
     ーーーーー略ーーーーー
    リンネルが上着を等置することにより、上着をつくる裁縫労働は抽象的人間労働に還元されま
    した。そして、この関係の内部では上着は価値としての側面でのみリンネルにとって意味を持
    たないがゆえに、
    上着は抽象的人間労働の対象化された物それ自体=「自然形態で価値を表わす物」=
    「体化された価値」(同上)=「価値体」(同上)となっているのです。
     ーーーーー略ーーーーー
    このように上着が価値体とされることによって、リンネル価値の現象形態となるのです。
    リンネルの価値性格を表わすという課題は、リンネル自身が自らの関係行為により無事解決さ
    れました。めでたし。めでたし。

   ⑧物象の判断の経緯ーー推移が、hirohiroさん、ここに、次のように表されていました。
    ここに次の、上着はリンネルの価値関係において、次を成しているとの物象の判断です。
       a <リンネルの等価物としての上着商品>との判断をしているのであり、
       b そのことで、物象から上着はリンネルの価値体であると、示され、
       c そこで、裁縫労働は、リンネルの価値の現象形態と判断されているのであり、
       d つぎに、上着は<具体化された価値として数えます>とされ、
       e <上着は亜麻布の等価物である>から<この上着は価値形態の役をする>と示し
       f <上着は亜麻布の等価物である>から価値表現の材料となっているーーと判断さ
        れているのです。
    ここには、リンネルの等価物上着は、<抽象的人間労働の凝固物>との反省規定された、
    物象の判断が、あることで、それぞれの継続された役立ちが示されており、
    価値体と価値形態の区別が述べらたーーと思うのですが、hirohiroさん、どうでしょうか?
    <抽象的人間労働の凝固物>である価値体、だけでは、上着の抽象的人間労働の実現形態の
    役立ちーー等価形態の役立ちーーへと転倒した理解になるのでは、ありませんか?

   ⑨大谷先生の価値鏡の役立ちとは、何でありましたか?先生はこう表わしました。
     「このような<回り道>をすることによって」ーー次のことがなされると。
     ーー「肝心なところは,そもそも商品は,自分だけで自分の価値を表現することがけっして
    できず,まずもって他商品の現物形態を自分の価値鏡にしなければならない,ということであ
    る。」ーーと。

    しかし、先生、この 価値鏡 の役立ちでは、等価形態ですよ!
    大谷先生の「価値形態の秘密」は、上記の理解では提示出来てないのです。
    第二形態の「1展開された相対的価値形態」において、次のように提起されている。

    「他の商品体はどれもリンネルの価値鏡となる。」(新書P106 原P77)
    リンネルはその価値形態によって、・・商品世界に対して社会的関係に立っている。」

    このように、上着etcが直接的に価値形態になることで、商品世界を形成するのではな
    く、リンネルの価値形態と個別的に、相対的価値形態を形成することで、成しているのです。
    第一の形態では、「こうして、上着がリンネルの等価物となる価値関係のなかでは、上着形態
    が価値形態として通用する。それゆえ、リンネルの価値が商品上着の身体で表現され・・る」
    (第9段落)とあり<上着の現物形態が価値形態となる>ではなく、<リンネルの価値形態>
    として、第二・第一の形態とも左辺・左極にて、<交換可能性の形態>を受け取るのです。
    しかし、商品語で語られたのは、この価値関係が「リンネルの価値存在が上着との同等性」に
    転倒することで、大切な「価値存在の表現ーー価値の存在形態」が、消失したものであり、
    同等性関係に転倒することで、物象の社会関係の転倒を見せているのです。

    hirohiroさんーーおかげさまで、「上着が等価物としてリンネルに等置される」ことが、
    ③ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨段落に渡って、提起されている新しい気付きを得ることが出来ました。
    有難うございます。次は、初版についての意見を準備していきます。
    以上です。

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完全参加に程遠い岩手の差別

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 3月31日(土)06時06分6秒
返信・引用
  12年に及ぶ社会参加妨害、差別は看板団体の暴走隠しに合法でしょうか。

  情報センターは視聴覚障害者の専門施設。字幕ビデオを借りるなどしていた。それが半年近く会報も来ない。忘れた頃に挨拶だけ寄越す。県庁から相手にするなと言われたのだろう。字幕ビデオもメール版もまだ来ない。県庁からの圧力は12年目になる為2月県庁福祉課に親を馬鹿にしていいからこれまでの圧力に廃止を求めました。それが和解は暴走がばれるだけで抹殺しか考えていないことを確かめて地元にまで説明抜き口封じのかん口令が入ってしまう。役場に此方の立場の説明と理解を求めました。
 その上で今年こそと社会参加を予定しています。完全沈黙では告発も無理ですが妨害あればすぐ全国に知らせます。何しろ完全沈黙破りに全国200に知らせてあります。
 妨害はすぐ全国からの非難、失笑、後ろ指を招く。
 その上厚生労働省にも知らせてある。妨害が無ければ看板団体も通訳も通さず盲ろうの上に小脳萎縮の身で挑むのだから。
 実際通訳に社協の派遣通訳、要約筆記の会も知らん顔のまま。 盲ろう者友の会の通訳は何年も前から受信拒否とファクスにも答えない。おまけに通訳介助チケットは4年前から再開したが一枚も使わせない。つまり通訳は貸さないと言うこと。どこも差別の説明もしない。身障協も入会を認めない。
 昨年の全国大会も知っている人は誰一人合わせない妨害をした。 知事が全国の友の会と全国協会事務局長庵悟さんらをあいつに関わるなと口説きふせていた。推薦したのは庵さんです。これで全国協会に賛助会員としていられず退会しました。庵さんも随分発言力が無い。
 知事に暴走目こぼし権があった訳でなくたかが障害者の一人くらいばれなければいいとする看板団体の暴走隠し。
 暴走を完全沈黙で隠し友達まで全部取り上げて説明もしない。
 東日本大震災の3年前のことをこちらが粘るため緊急時の強権発動の中に入れてごまかしたのでないか。正しいなら何故完全沈黙で囲み説明もしないのか。そして情報センターも差別を容認している。口封じに社会参加妨害は既に12回で12年目です。
  地元は親父が民芸品で現代の名工に選ばれて知事表彰を受けています。あいつの親父は馬鹿なのだとは読み書き出来ない聾唖者が次期岩手県聾唖協会会長(現石川隆会長)の為盲ろう者友の会事務局長の小笠原利行さんがゴマすりに言ったこと。
 障害者支援団体はどこも無気力なのか一つも無視動かない。
  東日本大震災の前に障害者個人の人権は無視して当たり前か。 説明より差別しか来て居ません。


 

崎山論文の紹介 ②

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月29日(木)12時30分20秒
返信・引用 編集済
  (先程の続きです。繰り返しから再度始まります。)
 また、等置関係における量の規定性について、初版本文ではそれを含み込んだままで議論がなさ
れている。商品語についての註釈で、「価値の大きさ― そして価値の大きさは価値一般と量的に計
られた価値との両方である」と述べていたことにこのことがはっきり示されている。商品語の〈場〉
にそくして言えば当然こうならざるを得ない。しかし、人間語の世界では価値形態・価値表現それ
 P20

自体に注目することがきわめて困難で、古典派経済学の学者たちはすべからくこの形態そのものに
着目することなくただちにその量的関係に目を奪われていた。この点を考慮してマルクスは第二版
では先ずは量的規定性を捨象して考えるべきだと言う。

  一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけ
  だすためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からはまったく離れて考察しなけ
  ればならない。人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、
  ただ、二つの商品種類のそれぞれの一定量が互いに等しいとされる割合だけを見ているのであ
  る。人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてからはじめて量的に比較
  されうるようになるということを見落としているのである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、
  これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。76)

この点でも第二版の方が論理的に緻密であり(再度述べるが、このこと自体、人間語の世界に固有に
要求されることだが)、理解を容易にするものとなっていると言える。だが、ここでは敢えて初版本
文に立ち戻り、自らを商品として示したいリンネルの「ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」振る舞
いについて詳しく跡付けておこう。
一労働生産物は一体どのようにして現実的に商品になるのか、またそのためになぜ価値関係・等置
関係に入らなければならないのかを明確にするためである。

 出発は一労働生産物であるリンネルが、自らを商品として示そうとするところにある。マルクス
 はリンネルの語る商品語を聴き取り、その言わんとするところを解説して言う。

 「価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明に結晶した労働の凝固をなして
  いる。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見され
  るかぎりでは〔...〕その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これら
  の労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と
  混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な〔dinglich〕表現として把握するた
  めには、それを現実に物〔Ding〕としているところのすべてのものを無視しなけれは?ならない。
  それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対
  象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。77)

 この「思考産物」=「頭脳織物」なるものは、人間語による分析的抽象の一結果であり、その理
路の結実である。それはあくまで抽象的な観念像て?ある。

 「ところが、諸商品は諸物象〔Sachen〕である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物
  象的に〔sachlich〕そういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物象的な
 〔sachlichen〕諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。リンネルの生
  産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されて
  いる労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値はリンネルの物体において反射
  されているのではない。」78)
 P21

 リンネルは単なる「思考産物」=「頭脳織物」であることはできない。純粋に社会的な抽象性で
ある価値は、単に思惟のうちにある抽象的観念像のままであるわけにはいかない。それは対象的な
形態、物象的な姿をとって現出しなければならない。しかし、リンネル価値が当のリンネル物体に
おいて反射されるなどということはあり得ない。なぜなら価値は純粋に社会的であり、リンネル物
体はどこまでいってもリンネル物体でありつずけるしかないからである。社会性は社会関係におい
てあるのであり、だから社会関係においてしか現われない。
 かくして労働生産物リンネルは、自らが価値物、すなわち商品であること示すために、自らと異
なる何らかの商品を自分に等置することが必要であったのである。
ここでの例では上着を自分に等置していた。

  [リンネルの]価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚
  的な表現を得るのである。リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時
  に使用対象としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル ‐ 物体に
  対立するリンネル ‐価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形
  態となるのである。〔..〕/〔..〕[この価値関係においては]上着はただ価値または労働凝固体
  としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ、労働凝固体は上着として
  認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められているので
  ある。79)

 このようにリンネルは他の異種の商品(ここでは上着)を自分に等置することによってはじめて現
実的に商品になる。かの回り道について言えば、位相の異なる二つの回り道が相互に関係しつつい
わば同時に辿られるわけである。ただ、論理的に言えば、商品に表わされた抽象的人間労働が価値
の物的根拠であり、だからこそ、この抽象的人間労働に関する回り道を根拠にして価値としての回
り道があるのではあるが。ともあれこの構造を人間語によって論理的時間順序に従い叙述するのに
はそもそも無理がある。

 では次に、以上のマルクスによる商品語の聴き取り・註釈を踏まえて、価値と価値実体の概念が
まさしくこの価値形態論で確定すること、つまり商品に表わされた抽象的人間労働の社会性が〈自
然的―社会的〉関係におけるものだけではなく〈私的―社会的〉関係におけるものでもあることが
どのようにして商品たち自身の関係のうちで実現されるのかについてより詳細に見ていこう。人間
語の世界ではこういう手続きを経ないと事態を正確に把握できないから。

 (iv)〈自然的規定性の抽象化〉過程に関して
   商品 A(リンネル)が商品 B(上着)を自分に等置することによって、商品 B に表わされている労
働が商品 A に表わされている労働に等置される。商品 B を作る労働は当然ながら商品Aを作る労働
とは異なっている。しかし商品 B をつくる具体的労働がそれと質的に異なる商品 A をつくる具体的
労働と等置されることになるがゆえに、まずB を作る労働の、その具体性有用性・自然的規定性が
抽象化されて、双方の労働に共通な質である人間労働に還元される(この過程を〈自然的規定性の抽
象化〉過程と呼ぼう)。論理的に言えばこのことの上で、商品 A をつくる具体的労働もまた人間労働
に還元された商品 B をつくる労働と等しいとされる限りで抽象化され、人間労働に還元される。こう
P22

して、商品 B を作る具体的労働がこの抽象化された人間労働として意義をもち、商品 B に表わされ
た具体的有用労働はそのままで対象化された・凝固としての抽象的人間労働の実現形態になる。か
くして商品 B は、そのあるがままの姿で、すなわち現物形態のままで、かかる抽象的人間労働の対
象化された物・凝固物として意義を持つものとして存在していることになり、商品 A と直接に交換
され得るものたる商品 B はその現物形態のままで、端的に価値物であることが示されている。つま
り商品 B は価値の現象形態になる。その上で、商品 A は、商品 B と異なる現物形態にありながら、
端的に価値物として・ただそれだけの意義を持つ存在物である商品 B と等しい物であることにおい
てやはり価値物であること、つまり、その価値を形成する限りで、商品 A を作る労働も抽象化され
た人間労働であり、その凝固物として商品 A が存在することが示されている。こうして商品 A は、
使用価値(現物形態)としては商品 B と異なるものでありながら、商品 B と等しい限りで抽象的人間
労働の凝固物であり価値であること、つまり商品であることが示されている。だが実は、ここでは
〈私的労働の社会的労働への転化〉がどのようになされたかが説明されてはいない。現実にはいま
述べてきた過程のうちにそれは果たされているのであるが、人間語による解説としてはこれを一体
的に明示的に述べることは不可能である。したがってこれについては項を改めて解説する。

さて、この価値関係の中では、商品 B はそのあるがままの姿で・現物形態で、価値を表わすもの・
価値形態になっている。価値体・人間労働の物質化として現われているこの商品 B と等しいものと
して、商品 A は自分の価値を自分の使用価値と異なる商品 B の体・使用価値で表す。ここまでくれ
ば、この価値関係に量的規定を入れて捉えることも困難ではなくなる。

 以上見てきた〈自然的―社会的〉関係における社会性について考えてみよう。
人間語による分析、思惟抽象とはまったく位相の違った過程がここにある。

 思惟抽象・論理的抽象と、二商品の価値関係における現実的抽象とはいかに異なっているか。先
に見たように、マルクスはまず人間語の世界において、二商品の交換関係を表わす等式を分析しそ
れが一体何を表わしているのかを探り、両商品を抽象的人間労働にまで抽象化した。その上でマル
クスは、そのような抽象的人間労働の凝固物として両商品は価値であると指摘した。等式が表わし
ている内実を分析的に抽象化し剔抉していく過程があったわけである。現実の価値関係における抽
象化はこれとはまったく違っている。
        商品 Aが商品 Bを自分に等値するというその現実そのものが、
一挙に自然的規定性の抽象化を成し遂げ、その結実を表現する。商品 Aが商品 B を自分に等置する
というその事実そのものが、商品 B を生み出す具体的労働の具体的有用性・自然的規定性を抽象す
るのであり、その具体的労働を抽象化された人間労働の実現形態にし、かくしてこの等置関係その
ものが、商品 B に表わされた具体的有用労働そのものを抽象的人間労働の現象形態とし商品Bをそ
の凝固態とする。
        かくして商品 Bを現物形態のままでその抽象化された人間労働の凝固物として意
義をもつものとし、商品 Bをかかる抽象的人間労働の凝固物として、現物形態(使用価値形態)のま
まで価値体とする。つまり商品 Bは価値の実現形態・現象形態になる。
        要するにここでは商品 Bを
作る具体的労働、その具体的労働の凝固形態、商品 B の使用価値形態=現物形態という一連の具体
的形態が抽象的なものの実現形態になるという抽象化が起こるわけである。
        これを抽象化という概
念で語って良いものかどうか躊躇せざるを得ない。思惟抽象ならば、思惟によって抽象化されたあ
る観念が抽出されるだけなのであるが、現実的抽象の場合、抽象物が現実に抽象物として存在する
わけにはいかないので、抽象物もまた対象的な形態で、すなわち現実の存在物として自己を表現し
なくてはならない。ここでは、厳として存在しつずける現物形態、つまり現実の物質あるいは事柄
P23

そのものが、そのままの姿態が、抽象化されたものとして意義を持つのであるから(ここで注意! 現
物形態の内的属性の一つとして抽象化されたものがあるわけではない)、現実のあるがままの存在が、
抽象的なものの実現形態にならざるを得ないのである。

 以上が商品 Bの側に起こった抽象化である。これに対して商品 Aではどうなるか。
        商品 Aは商品
B と異なる物=異なる使用価値でありながら、商品 B が現物形態のままで抽象的人間労働の体化物・
凝固物であり、かくして価値である、その商品 B と等しいことによって、同じく価値であり、また
自分に対象化されている労働が抽象的人間労働であり、価値を生み出すものである限りで商品 A を
作る労働もまた単なる人間労働であることとなる。
       つまりここでは、商品 B の側の現物形態への反
射・顕現という形で抽象化が行なわれているのである。ここにもまた、抽象化という概念の適用に
躊躇させるものがあるが、しかし現実的抽象のこれまた一方のあり方なのである。
 価値関係における現実の抽象化過程、すなわち現実の価値関係における〈自然的規定性の抽象化〉
過程は、今見てきたものであるが、具体的なものが抽象的なものの実現形態になるということ、し
かもそれが実際に生起するということは、分析的思惟には非常に捉え難い。
       具体的なものを抽象化
していくのが分析的思惟の自然な理路なのだから。もちろんヘーゲルに典型的なように、具体的な
ものを抽象的なものの実現形態であると観念の中で私念することはできるが、しかしあくまで現実
の過程においてそれを理解することは大変難しい。だからマルクスは初版本文において言う。

 「われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているので
 ある。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働
 を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別すする
 いうことは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合には、他方
 の形態においては考察しないのであるし、また逆の場合には逆である。これらの抽象的な対立物
 はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。
 商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用価値また
 は商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したが
 ってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的
 な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商
 品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合って
 いる。」80)

 このようにして商品 B の側、すなわち等価形態においては、具体的なものが抽象的なものの実現
形態・現象形態になるわけであるが、論理的には、これは明らかに奇妙であり転倒している。抽象
化された人間労働なるものが、商品 B を作る具体的労働において自らを定立し、人間労働の抽象的
な凝固態なるものが商品 B に対象化された具体的有用労働において自らを定立するというわけであ
り、また価値という抽象的なものが、商品 B の現物形態=使用価値において自らを定立するという
わけであるから。マルクスは初版付録の価値形態論でこれについて次のように述べている。

 「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なもの
 の、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なもの
 P24

  が抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。た
  とえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間
  労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるという
  ことが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫
  労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。〔...〕/こ
  の転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められる
  だけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないの
  であるが、この転倒こそは価値表現を特徴ずけているのである。それは同時に価値表現の理解
  を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは
  自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイ
  ツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関
  連は不可解になるのである。」81)

 このようなまったく奇妙な論理的転倒が現実に生じているのだ。等価形態の、この不可解さはど
うして生じるのかと言えば、等価形態が形成されるからである。ではなぜ等価形態が形成されるか
と言えば、商品の価値関係があるからである。そして商品の価値関係がなぜあるのかと言えば、商
品生産社会では人間の社会的関係が商品の価値関係としてしかありえない、つまりこの社会では、
類としての人間の社会性が、商品-商品関係に現われる転倒した社会性としてしかないからである。

こうした奇妙なこと・転倒は、自然物としての労働生産物 A や B に生じていることではない。人
間の社会的関係、すなわち商品A と商品B の価値関係において生じていることである。人々の社会
的関係がこうした転倒として存在しているのである。資本制生産社会における転倒性はこのような
までに徹底的である。だが、繰り返しになるが、具体的なものを抽象化していくのが人間の分析的
思惟の自然な理路であるので、普通はこの転倒を人々は理解できない。せいぜい錯視を云々するぐ
らいである。だが、人々は現実の日々の社会的行為においてこの転倒を生きているのである。

 (v)〈私的労働の社会化〉過程に関して
 では次に〈私的―社会的〉関係における社会性(これを〈私的労働の社会化〉過程と呼ぼう)が現実
の価値関係でどのように遂行されるのかを見ておこう。

 〈商品A =商品 B〉(商品リンネル=商品上着)という価値関係においては、商品B は商品A と直接
に交換され得るものとして存在している。つまり商品 B はそのあるがままの姿で直接的交換可能性
(unmittelbare(n)Austauschbarkeit)の形態にある。
                       このように、商品 B があるがままの姿で直接的
交換可能性の形態にあるということは、商品 B がそのあるがままの姿で社会的存在であると認めら
れているということである。こうして、商品 B に対象化された私的労働は私的労働のままで社会的
労働として認められていることになる。このように、まず、等価形態にある商品 B に表わされた私
的労働がそのままで社会的労働として認められる。
                      そしてその上で、つまりここでもまた〈回り道〉
を経た上で、これと等置されている限りで、相対的価値形態にある商品 A に表わされた私的労働も
また社会的労働として認められることになる。人間語による認識と叙述はこのように線形な時間順
序にしたがう以外にはない。だが、商品語の〈場〉で起きていることはこうした人間語の世界を超
え出ている。
     まさしく価値表現そのもののうちに、〈私的労働の社会化〉過程が含みこまれているの
 P25

であり、線形な時空を超えて、いわば一挙的に私的労働の社会化が実現されるのである。ただここ、
すなわち「相対的価値の第一の、または単純な形態」における社会性は、未だ低いレヴェルの社会
性でしかない。
       しかし、ここでも等価形態にある商品に対象化された私的労働である具体的労働が、
そのままで社会的労働として認められているということは厳然として生じているのである。価値表
現を問題にしない限りこのことはわからない。人間語による分析的抽象化を遂行していく世界では
あくまで価値表現を問題にしてはいないので、この過程を捉えることはできなかったわけである。

ところで、〈自然的規定性の抽象化〉過程だけでなく、いま述べた〈私的労働の社会化〉過程をも
踏まえた〈回り道〉の議論に関連して、久留間鮫造が指摘した『資本論』初版の誤訳問題も絡めて
少し触れておく。等価形態にある商品が直接的交換可能性の形態にあるという点を掘り下げて確認
しておく必要があるからである。
              価値関係〈商品 A =商品 B〉について、「商品 A は自分に商品 Bを
等置する」と捉えるべきであるにもかかわらず、「商品 A は自分を商品 B に等置する」と宮川実、
長谷部文雄が誤訳し、宇野弘蔵もまた彼の自著でそのように書いていることを久留間は指摘し、こ
のように捉えるといわゆる回り道が理解できなくなると指摘した(註 68)を参照のこと)。

この久留間の指摘はまったく正しく価値形態の理解の核心に触れている。
                             自分を現実的に商品として示そう
とする商品 A はあくまで自分自身ではその目的を果たすことができず、したがって相対的価値形態
の位置に座し、何らかの異種の商品 B を自分に等置し、それを自分の等価物とする。かくして商品
B は相対的価値形態に対する等価形態になり、商品 A と直接に交換可能なものになる。この等置が
価値関係である以上、つまり等置が価値におけるものである以上この価値関係の内部では、商品 B
をつくる具体的労働がそれ自体で価値形成労働に、そして商品 B に表わされた具体的労働そのも
のが価値実体たる抽象的人間労働の実現形態・現象形態となり、かくして、商品 B はそのあるがま
まの姿=現物形態のままで価値物となる(つまり、価値体として意義をもつ)。こうした迂回路を経た
上で、商品 A は商品 B と等しいとされている限りにおいてそれもまた価値物、すなわち商品である
ことが示される。
        以上のことは既に述べてきたことであるが、この一連の事態は「商品 A は自分を
商品 B に等置する」と捉えることからは決して描き出すことができず、把握できず、かくして価値
関係を理解することができない。
               なぜか。商品 A であれ商品 B であれ、その他どんな商品であれ、
商品はそれ自体では決して商品としての属性すなわち価値という属性を表わすことができず、ただ
価値関係に入ることを通してのみ、価値関係に入った上でだけ、価値という属性をもったものとし
て現実的に現われ得るからである。
               いかなる商品も、自分をあらかじめ価値だとして価値関係に入
るのではない。この点の理解は等価形態にある商品から見ると容易になる。何らかの商品に等置さ
れることによって、つまり等価形態に置かれることによって、その商品は相手の商品と直接に交換
されうるものという性格をもつのであり、それゆえそれは価値とみなされているのであり、それ自
体で価値物としてあるわけである。
                等価物にされるや否や、その商品は相手との直接的交換可能性
をもつものとなり、価値であることが示されているわけである。だからこそ、自らを現実的に商品
として実現しようとする商品は、何らかの異種の商品を自分に等置し、この等置によってその異種
の商品をまず直接的・非媒介的交換可能性の形態にし、つまり価値物とし、その上でそれと等しい
限りで自分もまた価値であること、その異種の商品と交換可能であることを間接的・媒介的に示す
ということになるのであり、それ以外にないのである。これと逆に、商品Aが自分を商品 B に等置
する、ということは、既に自分が相手との直接的な交換可能性をもつものであること、価値である
ことを前提とすることであり、それを前提として商品 B を価値物にすることになってしまうのであ
P26

る。もしそれが可能なら、労働生産物は商品形態をとる必要がないということになる。直接的な生
産物同士の交換、あくまで一定の価値規定を必要とするではあろうが、商品交換ではない直接的な
労働生産物の交換が実現されることになる。これに対して商品交換では、あくまで等置される方が、
等置されるというその受動性によって、相手との直接的・非媒介的な交換可能性をもつ、というこ
との理解がポイントなのである。

 ここで、一言注意しておきたい。この直接的交換可能性に関して、相対的価値形態にある商品(こ
こでは商品A)が等価形態にある商品(ここでは商品 B)に直接的交換可能性を与える、という表現を
している論者がいるが、これは間違った言い方である。商品A が商品 B に直接的交換可能性を与え
るのではなく、等置関係ができるや否や、商品 B は直接的交換可能性をもつ、すなわち、直接的交
換可能性の形態にあるのであって、直接的な交換可能性は、決して与えたり与えられたりするもの
ではないのである。与えうるのであればあらかじめそれをもっていなければならないであろう。商
品Aは決して直接的・非媒介的な交換可能性をもってはいない。商品 B と等しいとされるかぎりで
間接的・媒介的に交換可能性をもつのである。この等置における双方の意義の相違を理解すること
はきわめて重要である。等価物が等価物である限りでもつこの直接的・非媒介的交換可能性という
特質によって、完成された価値形態、すなわち貨幣形態においては、貨幣以外のすべての商品は貨
幣との等置によってはじめて、間接的・媒介的に交換可能性をもつのであり、貨幣は貨幣であるこ
とによってつねに直接的交換可能性をもつことになるのである。ここに貨幣の秘密があり神秘性が
ある。
   だからいま述べたことは単なる表現上の差異の問題に解消できないものなのである。直接的
交換可能性について、それを与えたり、与えられたりするものと考える典型例が岩井克人である。
彼はそのことによって、彼独自の「貨幣形態Z」なる荒唐無稽のものを案出したのである 82)。
岩井は、マルクスが示した直接的・非媒介的な交換可能性の形態とそうではない形態、すなわち間
接的・媒介的な交換可能性の形態との区別をまったく無視し、前者だけで考えているのである。
「直接的」と概念規定を岩井はどのように捉えたのだろうか。岩井がどのように考えたのかは別と
して、マルクスは次のようにはっきり述べている。これは初版本文の形態Ⅲ のところにあり、先
取りになるが引いておく。

 〔一般的価値形態における一般的等価形態にある〕ある一つの商品がすべての他の商品との直接
 的な交換可能性の形態をとっており、したがってまた直接的に社会的な形態をとっているのは、
 ただ、すべての他の商品がそのような形態をとっていないからであり、またそのかぎりにおいて
 のみのことなのである。言い換えれば、商品一般が、その直接的な形態はその使用価値の形態で
 あって、その価値の形態ではないために、もともと、直接に交換されうる、すなわち社会的な、
 形態をとってはいないからなのである。83)

  かくして一般的等価物に表わされた私的諸労働が直接に社会的労働として認められることにな
り、一般的等価物でない、その他すべての商品に表わされた私的諸労働は一般的等価物との等置に
よって間接的・媒介的に社会的労働として認められることになるのである。
 商品は、生来、一般的な交換可能性の直接的な形態を排除しているのであって、したがってまた
一般的な等価形態をただ対立的にのみ発展させることができるのであるが、これと同じこと
 P27

は諸商品のなかに含まれている諸私的労働にも当てはまるのである。これらの私的労働は直接的に
は社会的ではない労働なのだから、第一に、社会的な形態は、現実の有用な諸労働の諸現物形態と
は違った、それらには無縁な、抽象的な形態であり、また第二に、すべての種類の私的労働はその
社会的な性格をただ対立的にのみ、すなわち、それらがすべて一つの除外的な種類の私的労働に、
ここではリンネル織りに、等置されることによって、得るのである。これによってこの除外的な労
働は抽象的な人間労働の直接的で一般的な現象形態となり、したがって直接的に社会的な形態にお
ける労働となるのである。したがってまた、その労働は、やはり直接的に、社会的に認められて一
般的に交換されうる生産物となって現われもするのである 84)。

 (vi)価値の実体と等価形態の謎性
以上二重の社会化の過程、すなわち、〈自然的規定性の抽象化〉過程と〈私的労働の社会化〉過程
Ur- Form を経て商品 A は現実的に商品になる、と同時に、等価形態にある商品 B は貨幣の原
- 形態になる。

 この等価形態については更に次のことを述べておかなくてはならない。
商品 B がとっている形態である等価形態においては、具体的な形態、そのあるがままの姿態が、
抽象的なものの実現形態・現象形態に、また私的なものがそのままで社会的なものを表現する。こ
のことはただ商品の価値関係の内部でだけそうなのであるが、しかし、商品 B にあっては、具体的
なもの・私的なものそのものが、そのままの姿態で抽象的なもの・社会的なものを表現するので、
商品 B がそのあるがままの姿で、そもそも初めから、価値関係に入る前から、抽象性・社会性を内
的属性として持っているかのように人々の眼に映る。このような不可解さ、等価形態に生じる謎的
性格が、貨幣の持つ神秘的性格の基礎にあるのである 85)。

 等価形態にある商品 B(上着)に生じていることは、商品 A が自らが価値であること、すなわち商
品であることを示すために、自分に商品 B を等置したことから生起したことである。商品 A が自分
の価値を表現するために商品 B を自分に等置したのである。だから、この価値関係においては商品
A が主導的に振る舞い、商品 B はあくまで受動的である。つまり、商品 A(リンネル)が自らの価値
を表現すべく、つまり自らを現実に商品として示すために主導的に振る舞っているのだ。

  上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係
   のなかにあるのは、それが関係させられるからである。86)

 この〈主導―受動〉関係は商品語をしゃべるのが相対的価値形態にあるリンネルであるという点
にも現われる。リンネルが一方的にしゃべるのだ。商品語について〈はじめに〉に引用したもの、
その註 1)の中に引用したもの、そして(iii)の冒頭に引いた「リンネルは、ひとたたきでいくつもの
蠅を打つ」というマルクスの註釈にそのことが示されている。では、「関係させられ」ただけの商
品B(上着)は、黙っているだけなのだろうか、頷くぐらいはしているのだろうか。もちろん、人間語
の世界のことをあまり当てはめても仕方がない。ただ、等価形態にある商品のこの寡黙さがクセモ
ノなのだ。価値関係の中での商品 B の被規定性は、主導的な商品 A(リンネル)の反射規定である。
にもかかわらず、それが人々の眼には逆に見える。

 「上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまった
 P28

 く逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方で
 は、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリン
 ネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの
 関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被
 規定性は、たとえば保温するという上着の属性などとまったく同じように、リンネルにたいする
 関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。87)

 社会的であることの、等価形態に生じたこの不可解さ・謎的性質は、相対的価値形態にある商品
に現われる社会性との比較から、よりはっきりする。今度は第二版から引く。

  ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの
 身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するの
 だから、この表現そのものは、それがある社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価
 形態については逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物
 が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさに
 このことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての
 上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。しかし、ある物の諸属性
 は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかでは
 ただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属
 性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見
 える。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形
 態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現われるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な
 目を驚かせるのである。88)

 社会的であるということは、何よりも第一に自然的であるということに対する概念であるのだか
ら、それは人々の社会的関係において現われるのであり、決して自然的属性、すなわち自然物の一
属性のようにあるわけではない。商品A(リンネル)の相対的価値形態は、商品 A の価値存在を、商
品 Aの体・使用価値・現物形態とは異なる商品 B(上着)と等しいというその関係において表わすの
で、そこに社会性が示されている。ところが等価形態ではこれとはまったく別のことが生じている。

 商品 Bではその現物形態そのものが価値を表現し、この限りで価値は商品 B という姿をもって現
われているので、商品 B が自然形態のままで内的属性として価値という属性をもつかのように人々
の眼には映るのである。社会的であることがあたかも自然的属性のように、自然物の内にある属性
のように現われるのだ。ある自然物の自然的属性の場合は、例えば、それの質量、体積、熱容量等
のように、それと他の自然物との関係において顕現し表現されるので(ある何かを基準・単位・もの
さしとして)、このことと同じように価値という純粋に社会的なものさえも、等価形態にある商品 B
の生まれながらにもつ自然的な性質であるかのように人々の眼に映るわけである。こうして商品と
いう社会的な物、社会関係を体現した物象(Sache)は人々の眼には社会性が自然的属性のように捉え
られて単なる物(Ding)に見える。
商品として現われてはいない単なる労働生産物はあくまで物(Ding)である。これが商品になると人
々の社会関係を含みこみ・背負った物象(Sache)になる。だが人々
P29

の眼にはこの社会関係がそれとしては捉えられず、社会性をも自然的属性のように捉えられて商品
という物象(Sache)は自然物・物(Ding)に見えるわけである。これを最初の〈物〉と区別するため
に〈もの〉と書くことにする。ついでに言うと、商品は〈商品 ‐ 貨幣 ‐ 資本〉というトリアーデを
成し、これらのものは諸物象(Sachen)である。だが、先に引用したが、商品は次のように商品語で
語るのであった。

  もし諸商品がものを言うことができるとすれば、彼らはこう言うであろう。われわれの使用価
 値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物〔Dingen〕としてのわれわれにそなわって
 いるものではない。だが、物としての〔dinglich〕われわれにそなわっているものは、われわれ
 の価値である。われわれ自身の商品物としての交わりがそのことを証明している。われわれは
 ただ交換価値として互いに関係し合うだけだ、と。89)

商品は自分の〈体〉を〈忘れてしまう〉、ということであった。この行き着く究極の在り様が、商
品化した資本、すなわち利子生み資本形態をとる資本、種々の架空資本等である。これらの形態で
は物としての使用価値はまったく存在しない。自分の〈体〉を〈忘れてしまう〉どころではなくそ
もそも自分の〈体〉が存在しない。こうしてこれらのものは究極的に抽象的な〈もの〉をさえ通り
越してしまう。まったく〈体〉を欠落させた架空のもの、ただ〈未来〉に抽象的な〈もの〉に転化
することを当て込んだ架空の運動でしかない。こうしたところにまで突き進む端緒が、単純な価値
形態においてもその等価形態にはっきりと現われ出ているわけである。

 ここで、価値実体が文字通り実体としてどのように現実的な形で現われ出てくるのかを確認して
おきたい。商品 B(上着)は、商品 A(リンネル)に等置されることによって、商品 B に表わされた
労働が商品Aに表わされた労働に等置されることとなり、この等置によって商品 B を作る労働が単
なる人間労働に還元され、商品 B に表わされた個別的な・具体的有用な労働が、そのままの形で、
自然的規定性を抽象化された・人間労働の実現形態になり、また、あくまで相互に独立して営まれ
た私的労働の凝固であるそれが、そのままの形で、直接的交換可能性という社会性を表わす労働に
なる。こうして商品B に対象化された私的で具体的労働は、現実的に価値の実体と言うしかないも
のとなる。
     商品Bの使用価値・現物形態そのものが価値物として現われ、商品 B に凝固した私的で
具体的な労働そのものが、純粋に抽象的で社会的なこの価値を量化するものとして、実体なるもの、
しかも社会的な実体なるものを表わすことになるのである。
     人々の社会関係が、日々、膨大な価値
関係においてこのことを現出させているのであり、現出させざるを得ないのである。価値関係のな
かで、商品 Bに対象化された私的で具体的な労働がはじめて、現実的に価値実体を表わすことにな
るのである。単純な価値形態においては、そのことは未だはっきりと固定してはいないが、しかし、
社会的実体としてはっきりとこの現実世界に現われ出ているのである。

 (vii)初版本文価値形態論の形態IIに関して
 単純な価値形態においては、相対的価値形態にある商品(ここの例ではリンネル)は未だただ一つ
の商品(ここの例では上着)と価値関係にあるだけであり、商品リンネルの価値はただ一つの商品上
着で表わされているだけである。それはきわめて不安定な状態にある。出発は商品リンネルが自分
の価値を表現しようとするところにあった。リンネルの価値がより客観的に、より社会的なものと
 P30

して表わされる形態として、形態II、すなわち、展開された価値形態がある。

  20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄
  または = y 量の小麦 または =等々。

 第二の形態においては、〔...〕リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、
 つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ
 大きさのままである。〔..〕交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の
 価値の大きさが商品のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのであ
 る。 /〔...〕第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ
 直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表
 現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働の
 単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリン
 ネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているの
 である。90)

 リンネルに表わされた具体的労働はいまやきわめて多種多様な具体的労働を現象形態とする抽象
的人間労働と等しいものと認められ、かくしてそれは文字通り人間労働一般として認められ、リン
ネル価値はその人間労働一般の凝固体として価値として十全に認められていることになる。しかも
リンネルは他の種々様々の労働生産物たる商品と、間接的・媒介的であるとはいえ交換可能である
という社会性をもっており、リンネルに表わされた私的労働は他の種々様々の労働との同等性=交
換可能性という社会性をもつものとなっている。社会性の水準が飛躍した。

 ところで、形態Iでは相対的価値形態にあるリンネルだけが商品語でしゃべっていた。等価形態
にある上着は沈黙していた。そのことからすれば、この第二の価値形態では、喋っているのはただ
一つの商品リンネルだけであり、他のすべての商品たちは沈黙している。唯独り饒舌な商品リンネ
ルと、ひたすら沈黙している他のすべての商品たち。これはなかなか異様な光景である。だが黙し
ていることが直接的社会性を体現し一般性を表わしていた。相異なる、厖大な数の個々の商品に体
現された直接的な社会性と一般性、それらに対する唯一つの間接的でしかない社会性、という対立
構図は少なくとも人間語の世界では矛盾と言って良いであろう。この形態の不安定性は明らかであ
る。社会性の水準が今一段高められなければならない。

(viii)初版本文価値形態論の形態Ⅲに関して
「相対的な価値の第三の、転倒された、または逆の関係にされた第二の形態」=一般的価値形態に
移ろう。次のようなものである。
ーーーーー後は略ーーーーーー




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