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     相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月 7日(水)18時03分44秒
返信・引用 編集済
      2018年 1月19日に同名の論文を投稿したが、再度挑戦し、改稿してみました。
    A 初版の第二の形態と再版・英語版との対比をなしてみる。語ることは同じか?
     ① 初版
      Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
     20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶
    または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々
    ・・・・・
     20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化され
    ている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働
    は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定さ
    れたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。
    第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置し
    ている。
     第二の形態はこれとは違っている。
    リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネ
    ル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係し
    ている。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働
    一般の結晶として、示されているのである。
     第二の形態は、第一形態のの等式そのものの合計からな成り立っている。
     (『資本論』初版 原P24~25 江夏訳)

      ②再版ーー英語版(宮崎訳)
   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm
     1. 拡大された相対的価値形式
    (1) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
    によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。
    故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労
    働の凝結物として示す最初の瞬間となる。
    それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。
    労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。
    人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なん
    であろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコ
    シであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。
    リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。
    もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。
    商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を
    意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。


    初版 再版の論旨を、以上から挙げてみよう。
    ①ーーa「いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働
        の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。」
       b「リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置
        され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。」
       c「ここではリンネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の
        結晶として、示されている・・」
       d「第二の形態は、第一形態のの等式そのものの合計から成り立」つ

    ②ーーa「他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
       b「・・労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。」
       c「 リネンは、今、その価値形態に基づき、社会的関係の中に立っている。」
       dリネンは「単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある」

     両者の相違を検討してみる。
    ②に示される再版の事柄で、①との違いを示すのは、他のあらゆる諸商品がリネンの価値形態
    であり、リネンの価値鏡であることだが、①ではそうではないのだろうか?
    なるほど①では、他の諸商品が、商品世界の市民として規定されてはいない。
    しかし、その他の諸商品が、
      「リンネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのあり とあら
      ゆる商品体に関係している」ことで、「リンネルの価値がはじめて真に価値として、」
      示されることでーー第二の形態は、第一形態のの等式の合計から成立、とあります。

      a 「他のすべてのいかなる商品も、・・・リネンの価値鏡」となり、
      b その役立ちによって、あらゆる労働が抽象的人間労働であることを示し、
      c リンネルの価値がはじめて、bの結晶であることで、真に価値としてーー示され
      d このa b c により、他の諸商品が展開された価値形態をこそ形成した
       ーーのですから、初版と再版との区別はできないということなのです。

    このように、リンネルのあらゆる商品での相対的価値表現において、ーー他のあらゆる諸商品
    が、「価値鏡」の役立ちをなすことで、第一の形態の価値形態が多種多様な価値形態をなして
    いる。
    そして、個別的に、リンネルが価値であるとの判断・反省規定を受けたのであり、それが、
    ①ーーbcであり、②ーーbの事柄であり、そして第二の展開された相対的価値形態ですから、
    それこそが、労働生産物が商品となる商品世界が形成されたということではないのか?

      しかし、第二の形態では商品世界の形成を受け取ることで、個別的には各商品の孤立
      性はありながらも、他方で各商品は商品世界の住人であることで価値形態を受け取る、
      一般性があるのです。
      この転身が起こることで、他のあらゆる諸商品が個別的に「価値鏡」の役立ちをなす
      ことで、第一の形態のように、上着は、リンネルからの個別性ではなく、商品世界か
      ら価値であり、価値形態とのーー個別的判断を受け取るのです。
      この「価値鏡」の役立ちは、ここでは個別的であり、特殊的ですが、一般的価値形態
      では普遍的になっています。

      この違いは明白です。

    再度冒頭を掲げます。
     ①「単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
     によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
     ②「リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。」

    このように、リンネルの反省規定が、ここでは商品世界を形成し各商品はこの世界の住人で
    あることで、価値であり、価値形態との個別的な物象の判断を受け取り、規定されているの
    です。
    こうして、展開された価値形態が、交換可能性の形態として左極にて受け取られています。

    第二の形態として、左極にて、このように展開された相対的価値形態が受け取られたのであ
    り、ここでは、上着などはリンネルの価値であり、価値体であり、価値形態となっていた。
    今度は右極で、あらゆる商品が、個別的に特殊的な等価形態になっている。
    ここでマルクスの示していることは、上着などは、リンネルの価値体であることで等価形態
    になっているのではないのです。
    次の文章は、とても判読が難しいことが、ここに認識できるか・どうか?なのです。

    「  (三)特殊的な等価形態
     上着や茶や小麦や鉄等々の商品はどれも、リンネルの価値表現では、等価物として、した
    がって価値体として認められている。これらの商品の特殊的な現物形態が、いまでは、他の
    多くのものと並んで、ひとつの特殊的な等価形態になっている。
    同様に、いろいろな商品体のうちに含まれている、種種雑多な特定の・具体的な、有用な、
    労働種類も、いまでは、ちょうど同数の、単なる人間労働の特殊的な実現形態あるいは現象
    形態として、認められているのである。」(初版付録原P779 江夏訳P777)

    このように第二の形態では、商品世界が示されることで、等価物上着などは、
    「ちょうど同数の、単なる人間労働の特殊的な実現形態あるいは現象形態として、認められ
    ている」ーーことで、その役割を示す特殊的な等価形態になるのです。
    ーーしかし、この付録・再版で示される特殊的等価形態の説明が、人々に理解されないのは
    何故であろうか?それは、次のA Bの区別ができず、一体的に理解するからです。

    「A 上着や茶や小麦や鉄等々の商品はどれも、リンネルの価値表現では、等価物として、
    したがって価値体として認められている。
    B これらの商品の特殊的な現物形態が、いまでは、他の多くのものと並んで、ひとつの特
    殊的な等価形態になっている。」


    このように、<上着等々の商品は、リンネルの相対的価値表現では等価物であり価値体と示
    せたのは、>相対的価値表現として、同じだからです。
       第一の形態の11段落段落にても次の記述があるからです。
       「すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、
       したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこうい
       うものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであ
       り、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリ
       ンネルの反射規定なのである。」(初版 国民文庫版55-6頁)

    「リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている」ー
    ーことで為したのでした。
     だから、マルクスがここに示しているのは、相対的価値表現の形態と等価形態の区別は、
    主体的になす読者自身の判読が要求されるーーということであります。

    こうして、等価物は価値体であるーーにて価値関係の量的側面であることへの批判をこそ示し
    ている第二の形態の方が、既に前提にされている第一の形態の論旨を浮かび上がらせる。
    この道先案内によって、第一の形態の論旨を見出していきます。
    初版での第一の形態での、榎原さんの誤解についての指摘をまた準備したい。






 
 

ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月25日(日)07時58分54秒
返信・引用 編集済
     ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違が何処にあるのか?
   次のように探求してみました。

  a相対的価値形態の内実の第三段落は、英語版では次の訳になります。
  化学式を例示した第三段落にて、ドイツ語版の、ーー
  「この関係のなかでは、上着は価値の実存形態として、価値物として通用する。」
  ーーとの訳ではなく、次の訳なのです。
  <この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現されている
  のは、それがリネンと同じであるため>ーーと。
  英語版・仏語版    すばらしい!!!まずは紹介します。

But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part.
It is only the value of the linen that is expressed.
And how?
   しかし、このように質の同一性が説定された2つの商品は、同じ役割を果たさない。
  表現されるのはリネンの価値だけです。
   では、どうやってーーそのことがなされるのですか。?

By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it.
In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
  それと同等のものとしてそのコートを参照することによって、交換できうるものとして
  であります。この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値であるのは、それ
  がリネンと同じであるためだけです。

On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat.
To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate.
  一方、リネン自身の価値存在は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
  のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換
  可能であるからです。
   化学からイラストを借りると、化学式としては同じでも、酪酸は蟻酸プロピルとは異
  なる物質です。

  <杉本ーーなるほど、酪酸に蟻酸プロピルが等置される関係にて、人間がその両者の
  共通者が他方でのその存在形態である、との判断をしているならば、そのとき・等置さ
  れた酪酸は、その共通者の単にその存在と、現物形態とは異なる規定を受け取ったので
  す。
   ある物と物とをある関係においたとき、人間は反省規定をこそ、この人間のなす思考
  様式の特異性をこそ、マルクスは主張しています。この物的関係での判断の特異性が、
  同等性関係ではなく、価値関係にては物象自身が、判断をなしているの意味です。>

  <その次の 五段落での直訳での提案>
  ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者の
  ものと同じにする。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の
  具体的な労働であることは事実です。
  しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
  に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
   この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り
  込む限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労
  働である。
  それは価値創造労働の特定の性格を見出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の
  表現であり、これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間
  労働の共通の性格への要約の仕方なのです。[18]

  <杉本 この回り道 ーー同じ所を仏語版では、次の訳でなしている。>
  「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネル
  に含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。
  だが、機織りに対する裁断の等式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
  間労働という性格に還元する。このような回り道をして、機織りは、それが価値を織る
  かぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働であ
  るということが、表現されるのである。したがって、この等式は、リンネルの価値を構
  成する労働の独自の性格を表現している。」
     (『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

  ①<事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>
  という訳をここにしているのではなくて、
  ②<事実上、上着をつくる裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という
  性格に還元する> が正訳であることが理解できる。
  もう一度、繰り返します。
  <裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>とは?
  このように、上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる性格を受け取るのは、ここに、
  両者の共通者を見るのではなく、リンネルによる上着への反省規定として、次の二つの
  事がらがあるーーとしている。
   「機織りに対する裁断の等式は①事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
  間労働という性格に還元する。②このような回り道をして、機織りは、それが価値を織
  るかぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働で
  あるということが、表現される」ーーとあるのです。
  上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる労働として、リンネル織りの労働の共通者に
  還元されること、この回り道<反省規定>を経ることで、リンネル織り労働が、価値を
  織るかぎりでは、それは抽象的人間労働であると、物象の諸関係からの判断を受けてい
  るーーのです。
   現行再版のーー価値物上着がリンネルに等置されることで、裁縫労働がリンネル織り
  労働に等置される、この等置は「裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しいものに、
  還元する。この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限りにおい
  ては、・・・すなわち抽象的人間労働であることが語られるのである」ーーの記述では、
  仏語版の理解に辿り着けるものではない!!!ことが理解できる。

  ここでの記述の誤りは、価値上着がリンネルに等置されることで、上着を縫い上げる裁
  縫労働が、使用価値を作ると規定されるのではなく、価値を縫い上げる裁縫労働と規定
  されているーーこの前提条件が無い、消えていることです。そのような条件のもとで、
  リンネル織り労働が、「価値を織り出す限り」と記述されても、反省規定した対象が、
  <価値を縫い上げる労働>とは規定されていないのだから、この規定は反省規定を受け
  取らない、マルクスの提起である物象の判断がここには示されないのです。
  「価値物上着」の提起が、マルクスの真意を排除していることが、ここに理解できます。


  仏語版での正訳でもなかなかそのことは理解し難いので、そのことの説明を補充して、
  マルクスは用心深く、リンネル価値が人間労働の凝固体を獲るためにはーーどうなすこ
  とでなのか?との問を、次の六段落にて提起する。

  ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なもの
  があります。動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、そ
  れ自体価値はない。何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ
  価値になる。リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は
  客観的に存在するものとして表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるも
  のとして、リネンと他のすべての商品に共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

  <リネン価値を表すには、上着との共通者として表されなければならない、のです。>

    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的
  にランク付けされ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   この等式からでは価値だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
  (「上着事態の存在形態が価値の存在形態になる。」仏語版 上P22 )
   <この提起が最も良い意味です。>

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
  そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
  私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、
  コートはその関係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、
  着ていない時よりも多くのことを数えるようにです。

   <①リンネルに上衣が等置されるのは何故でしたか?リンネルは価値であり、同じく
     上着も価値であるからですが、そこで起こることは次のことです。>
   <②ここでの上着は、a価値としてのみの存在になることで、b触診できる身体的な
    形が価値を表すものーーに転回しているのですから、この変化を、仏語版は、上着
    の形態が、ーー価値の存在形態ーーと表すことで、三段落のーーリンネルの価値存
    在ーーの対象的形態が、ここに示されたのです。>
   <③この②で起こる変化をこそ、五段落にて、マルクスは訴えていたのです。>

   八段落
  あまりお付き合いのない、フランス語版が、次の提起をしていたのです。

  「上着の生産では、じっさいに、なにがしかの人間労働力がある特殊な形態のもとで
  支出された。だから、人間労働がその上着のなかに積み重ねられている。この観点から
  すれば、上着は価値の担い手である。もっともこの特性は、上衣がどんなに擦り切れて
  いても、上衣の透いた糸目を通して外に現れるものではないが。しかもリンネルの価値
  関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。上衣の外貌がどんなにあばた面
  で出会っても、リンネルは上衣のうちに、価値に満ちた姉妹魂を認めたのである。これ
  がプラトニックな側面である。
  上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に価値
  が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。
  同じように、私人Aは個人にたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを
  帯びなければ、陛下であることを表しえないのである。陛下が人民の新たな父となるた
  びごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。」
  (仏語版 9段落P22)

  次の(英語版 宮崎訳)での肝心なところの訳は、仏語版と同じであります。

  「このことから、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、
  その事実をちらっとも見せることはない。価値の等式での、リネンの等価物は、ただこ
  の局面でのみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。
  例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、
  Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。」

  <価値を実際表すことができるのは、同時に価値が一着の上衣という姿をとるかぎりで
  のこと>ーーと再度五段落の提起から導き出されるのが、「価値形態」上着との、リン
  ネルの相対的価値表現が必然的に見出す反省規定なのです。

   このように、英語・仏語版に語られているところの、再版での回り道を巡る議論は、
  久留間先生の主張するように、第五段落に終わるものではないのです。商品語が提起さ
  れる九段落は、それまでの論議を終わらせたところーーからなされるのです。

  しかし、久留間先生の議論は、再版ではなく、初版に依拠したものなのです。
  大谷先生と議論するなかで、久留間先生が提起したのは、初版での回り道の議論なので
  す。彼の初版での議論は、本当に理解し難いものです。まずは資料として提起しておき
  ます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   久留間鮫造 著 『貨幣論』
   9)「回り道」とはどういうことか
   ──価値表現の回り道(2)──

   【P113】
 リンネル=上着 という等式のなかにイコールの関係があると同時に、リンネルの価値のみが表現されていること、上着のみが等価物となっていること、を見なければなりません。左辺と右辺とは意味が違うのです。この違いは、右辺の商品は左辺の商品の所有者の欲望の対象である、という点にあるのではない。そのことを度外視したうえでなお残る違いです。
 この等式は、言うまでもなくリンネルが自分の価値を表現している等式です。まず主体として、商品リンネルがあり、それに等置が行なわれる。なにが等置されるのか。この例では上着です。つまりこの等式における等置とは、リンネルに上着が等置されるということであって、その逆ではありえない。上着にリンネルが等置される等式は、 上着=リンネル であるほかない。さらにこの等置を行うのはリンネルか上着か。言うまでもなくリンネルに上着を等置したのはリンネルの所有者ですが、リンネルの価値表現における主体はリンネルです。上着が等置をするのではなくて、リンネルが等置をするのです。

したがって、リンネルに上着が等置される、という等置はリンネルが行なう等置である。これは言い換えれば、リンネルが自分に上着を等置する、ということに他ならない。
「自分に上着を」を逆にして「自分を上着に」としたら、どういうことになるか。リンネルが自分を上着に等置する。これは結局 上着=リンネル という等式をリンネルが、つまり右辺の商品がつくる、ということに帰着します。これはつまり、商品は自分から勝手に等価物になれるということです。
 はたしてそういうことは可

【P114】
能か。言うまでもなく、まったく不可能です。つまり、商品は自分から進んで他商品の等価物であると証してみても、それはその他商品にとって通用しないまったくの独りよがりでしかありません。
直接には使用価値である商品が他商品に対して、いきなり価値体として通用することはできないのです。

だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体としての形態規定を与えることはできる。そしてこの形態規定における上着の身体で自分の価値を表示する、あるいは、この形態規定における上着の身体を自分の価値の形態にすることはできる。

「それは、直接に自分に対してすることができないことを、直接に他の商品に対して、したがってまた回り道をして自分自身に対して、することができる」(『資本論』Ⅰ、初版、20頁)のです。

これはけっしてリンネルの「独りよがり」ではありません。これによって、現に上着はリンネルに対する直接的交換可能性を与えられているのです。

このように、リンネルが「自分を上着に等置する」ことと、「自分に上着を等置する」こととのあいだには、決定的な違いがあるのです。

降旗氏がこのようなぼくの区別を理解することができないのは、繰り返して言いますが、商品所有者の欲望を、そしてそもそも商品所有者を、捨象して、はじめて、「一商品の簡単な価値表現が二つの商品の価値関係のなかにどのように潜んでいるかを発見する」ことができる、という事実を認めることができないからでしょう。

大谷 「自分に上着を等置する」という部分の訳し方のことで、ちょっと脇道に入ってしまいました。話を戻して、「回り道」について話を続けていただけませんか。
久留間 必ずしも脇道ではないでしょう。今の問題は、「回り道」を理解するのに大切なところだ

【P115】
と思いますから。
さて、今言ったように、リンネル=上着 という等式が成立するのはリンネル所有者が上着を欲しいと思ったからに違いありませんが、価値形態の分析としては、そういう等式成立の理由は度外視しなければなりません。等式があるからには、同等性の関係があり、その同等性が価値としての同等性であることは言うまでもない。問題は、この等式のなかで、どのようにしてリンネルの価値が表現されているのか、ということです。それに対して、〈他商品上着と関連することによってだ〉、と答えるのは、答えの第一歩でしかない。
 リンネルの上着に対する関係は、「反省関係」だ、ということがよく言われています。それはまったくそうに違いない。他のものに関係することによって、自分自身に関係するのですから。マルクスも、「リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自分自身に連関する。リンネルは、価値としての自分自身に連関することによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。」(『資本論』Ⅰ、初版、16頁)、と言っています。反省関係だというのに、ちっとも異論はない。「回り道」は、そうした反省関係だ、他のものとの関係における媒介的な仕方での価値表現のことだ、と言う人にも、そういう言葉の使い方をしてはいけないとは言わない。しかし、ぼくが「回り道」ということで言いたかったのは、そうした反省関係、価値表現の媒介的な仕方の肝心な内容、マルクスが力をこめて明らかにしようとした「相対的価値形態の内実」の要なのです。それが、リンネルは、自分に上着を価値物として等置することによって、上着に価値体としての、抽象的人間的労働の体化物としての形態規定性を与え、これによって、はじめて自分も価値物であるこ

【P116】
とを表現するのだ、ということなのです。価値表現のメカニズムを問題にするかぎり、「回り道」はこういう回り方をする回り道でしかありえないでしょう。

 しかしこのことは、上着が価値体としての形態規定性を与えられるのは、リンネルが上着で自分の価値を表現するからだ、ということを否定するものではけっしてありません。現にマルクスは、「等価形態」の分析に移ると、ここでは、相対的価値形態のところで明らかにされたことを前提にして、今度は事柄を等価形態の側から見ていく。そして、ある商品が等価物であり、直接的交換可能性をもつのは、その商品を自己に等置しその商品で自己の価値を表現する商品があるからだ、ところが、そのある商品はその自然形態がそのまま価値形態として通用する、つまり価値体となっているので、等価形態の謎的性格が生じるのだ、ということを明らかにしています。

 ここでは、等価物成立が他商品の価値表現を前提するという関係が述べられているとも言えるでしょう。いわば、等価物の「どのようにして」を問題にするということです。しかし、言うまでもないことですが、そういう問題は、価値表現の「どのようにして」の問題の一部をなす問題にすぎず、価値表現の「どのようにして」が解明されれば、それと同時にその問題も根本的には解明されたと言えるわけで、だから「等価形態」のところでは、その形態そのものを説明したあと、ただちにこの形態の特色の説明に入っていくのです。

 ですから、等価形態のところにも、「回り道」の理解に資する個所があるのですが、とくに、第二の特色のところには注目すべき叙述があります。『レキシコン』では現行版からの引用(『資本論』Ⅰ、70頁)しか入れませんでしたが、初版「付録」のなかの、「β 等価形態の第二の特色──具体的労働がその反対物である抽象的人間的労働になる」の部分は重要ですから、ちょっと読ん

【P117】

でみましょう。

  上着はリンネルの価値表現のなかでは価値体として意義をもち、それゆえ上着の物体形態ま
  たは自然形態は価値形態として、すなわち無区別な人間的労働の・人間的労働そのもの
  (schlechthin)の・体化として、意義をもつ。
  しかし、上着という有用物を作りその特定の形態を与える労働は、抽象的人間的労働・人間
  的労働そのもの(schlechthin)・ではなくて、一定の、有用的な、具体的な労働種類、す
  なわち裁縫労働である。
  簡単な相対的価値形態が必要とするのは、一商品、たとえばリンネルの価値がただ一つの他
  の商品種類でだけ表現されるということである。しかし、どれがこの他の商品種類かという
  ことは、簡単な価値形態にとってはまったくどうでもよいことである。リンネル価値は、商
  品種類上着ででなければ商品種類小麦ででも、あるいは、商品種類小麦ででなければ商品種
  類鉄、等々ででも、表現されることができよう。

  しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネ
  ルにとって価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化として意義
  をもつであろう。しかもつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦で
  あろうと鉄であろうと、抽象的人間的労働の体化ではなく、裁縫労働なり農民労働なり鉱山
  労働なり、とにかく一定の、具体的な、有用的な労働種類の体化であり続けるだろう。
  したがって、等価物の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のな
  かでは、つねに必然的に、人間的労働そのもの(schlechthin)の・すなわち抽象的人間的
  労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならないのである。
  たとえば上着が価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化とし
  て、意義をもつこ

【P118】
  とができるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間的労働力が支出されるところの・す
  なわちそれにおいて抽象的人間的労働が実現されるところの・特定の形態として、意義をも
  つかぎりにおいてでしかない。

  価値関係および価値表現の内部では、抽象的一般的なものが具体的なもの、感覚的現実的な
  ものの属性として意義をもつのではなく、感覚的具体的なものが、抽象的一般的なものの単
  なる現象形態または特定の実現形態として意義をもつのである。
  たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、
  人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるとい
  うことが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、た
  だ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのであ
  る。
  この取り違え(quid pro quo)は不可避である。
  なぜなら、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無
  差別な人間的労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が異種の一
  生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてでしかないか
  らである。

  この転倒によって、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として意義をもつ
  にすぎず、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として意義をもつのではないので
  あるが、この転倒こそは価値表現を特徴づける。それは同時に、価値表現の理解を困難にす
  る。

  私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、と言うのならば、これらのことは自明なこ
  とである。これに反して、もし私が、法という抽象物(abstraktum)がローマ法のうちにも、

【P119】
  ドイツ法のうちにも、すなわちこれらの具体的法のうちに実現される、と言えば、その関連
  は神秘的なものになるのである。(『資本論』 Ⅰ、初版、770頁。強調─マルクス)

 ここでマルクスが付けている強調は、どういう点が重要であるかをよく示していますが、とくに、「等価形態の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のなかでは、つねに必然的に、人間的労働そのものの・すなわち抽象的人間的労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならない」という個所、

および、「たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるということが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのである」、という個所に注目してほしい。

裁縫労働は、価値表現のなかでは、人の欲望を満たす有用性をつくりだすものとしてではなく、人間的労働の実現形態としてのみ意義をもつのですが、これはリンネルが自分に上着を等価物として等置することによって、そうしているかぎりにおいて、生じることです。リンネルは自分自身を生産する労働、機織労働をけっしてそうしたものにすることはできません。裁縫労働をそうしたものにする、そしてそのうえで、自分も人間的労働の凝固物、価値であることを表現できるのです。

 ところで、こうしたことは、それを論じることによってなにを明らかにしようとするのかがはっきりしないと、どうでもよい、無用な議論だと思われることになる。もっと一般的にいえば、価値形態の分析を通じてなにを明らかにするのかということをはっきりつかまえないと、何も分からないことにな

【P120】
る。それは基本的には、商品生産が社会的生産の特有な仕組みだということ、直接には私的な労働として行われる労働が社会的労働にならなければならない、ということです。商品生産であろうと共産的な生産であろうと、諸個人の労働は人間的労働として互いに連関させられているのであるが、商品生産のもとではそれが独自な形態で現われなければならない。それが等価形態のところで現われるのです。

旧著でのぼくの叙述に舌足らずなところがなかったとは言わないが、しかし分析というのは、つねに、そこでなにを明らかにしようとしているのかということによって、その仕方も決定され、制約されている。そういうものを読み取ることをせずに、つまり、そこでなにを明らかにしようとしているのかということを読み取ろうとしないで、言葉の使い方のようなことにばかり引っかかっていたとしたら、それはつまらないことです。

大谷 そのつまらないことに、もう少しこだわらせていただきたいのです。というのは、さきほど読みました、「こうした回り道をして」というマルクスの一節について、「こうした回り道をして、それから」、と訳すのは誤訳ではないか、という点です。

この「それから」は dann の訳語ですが、これは英語の then と同じく「その場合」とか「そのさい」とかいう意味がある。いまの個所での dann は「それから」ではなくて「そのさい」と読むべきではないか。こうした意見は、先生の「回り道」を批判し否定する人のあいだにばかりでなく、先生のお考えを積極的に支持する人のなかにもあります。

たとえば、すでに1961年に刊行された『資本論辞典』(青木書店)のなかの「価値形態」という項目で、三宅義男先生が久留間先生の「回り道」の見解に基本的に一致する解説を書かれていますが、そのなかの

【P121】
引用では、「こうした回り道をすることによって、そのさい」とされています。これは私の知るかぎり、“「それから」に対して意識的に”「そのさい」を対置した最初のものですが、最近では、武田信照氏が、「そのさい、こうした回り道をして言われているのは……」、と訳すことを提唱し、それに賛同する人たちもいるようです。武田氏の場合には、先生の「回り道」についての論拠をくずす目的で言われているものです。武田氏のように訳すことによって、先生の「回り道」の論拠がなくなると考えるのは、「回り道」の言葉はあれこれ論じてもその本当の意味を考えようとしないことからくるのだと思いますが、それはともかく、「そのさい」と読むべきだという主張が出てくる一つの理由は、純粋に言葉の問題として、あるいは語感としてそう読むほかはないのではないかということがあるのだろうと思われるのです。

実は私もそのように考えている一人なので、私の感じを言わせていただきますと、

Auf diesem Umweg ist dann gesagt, dass… というこの文の中心は、
dass 以下のことが言われている、というぶぶんであり、
それに auf diesem Umweg と dass という二つの修飾が付いている。

つまり、 dass 以下のことが言われているのが、一つは「回り道をして」なのだ、ということ、ひとつは「それから」または「そのさい」なのだ、ということです。

「回り道をする」ということがあって、これに続くという意味での「それから」が来ている、というふうにはどうも読めない。「それから」と読むにしても、──内容的には同じことになるかもしれませんが──この「それから」は、前文の、「織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間的労働という両方に共通な性格に、還元するのである」、と受けて、「それから」と読むべきであるように思われる。ですから、訳としては武田氏のように、「そのさい、こうした回り道をして」、とするのが自然のように感じるのです。

【P122】
また別の論拠として言われていることに、

フランス語版での訳し方、つまり C’est une maniere detournee d’exprimer que…(武田氏の訳では、「以上のことは、……ということを言い表わす迂回的方法なのである」、

江夏・上杉訳では、「このような回り道として、……ということが表現されるのである」)という訳では、「それから」とはとうてい読めないということがあります。念のために英語版について見ると、こちらは In this roundabout way, then, the fact is expressed, that… というふうに、なっています。

最後に──私はこれには賛成できませんが──内容的にみて、「それから」ではおかしい、ここでは先後関係が言われていると見るべきではなく、媒介関係が言われていると見るべきだ、という見解もあるわけです。これはむしろ、先生の「回り道」理解の批判を前提にするものですね。

久留間 dann を「それから」と読むか「そのとき」と読むかは、語学上の問題はともかく、内容的には結局、 dass 以下に述べられていることを回り道の外部のことと解するか、内部のことと解するかの問題に帰着するように思われるのですが、もしそうだとすると、それをどちらに解するかは、ぼくにとってはどちらでもよいことです。

ぼくが dann を「それから」と読み、そのうえさらに「この『それから』に注意すべきである」とわざわざ書き加えたのは、等価形態に置かれた商品上着は、たんなる使用価値たとえば保温に役立つ物としてではなく、それが等価形態に置かれることによって新たに価値体という形態規定を与えられ、この形態規定においてはじめて相対的価値形態にある商品リンネルの価値の形態になっているのだ、ということを強調したかったからです。このことが理解されないと、

【P123】
たとえば商品リンネルに等置された上着がリンネルに対して直接的交換可能性をもつのは、リンネルの所有者が上着をほしいと思い、上着との交換を望んでいるからだという、俗学的な見解におちいることになる。これでは、両商品の関係は価値関係ではなく、したがってまた、価値表現の関係でもないことになる。このような俗学的見解をしりぞけるためにも、あのさいぼくは、さきに言ったようなことを強調する必要があると思ったのです。

しかしそれはともあれ、さきに言った、上着が等価形態に置かれることによって上着の使用価値は価値体という形態規定を新たに与えられているのだということ、そしてこの形態規定における上着の使用価値の形態で、リンネルはそれ自身の価値を、それの使用価値から区別されたものとして表現しているのだということ、──このことが分かればよいので、右に述べたいろいろの関連のうちのどこまでが回り道の範囲に属するかという点にぼくは重点を置いていたわけではないのです。
なお、商品の価値表現の仕方に関連してマルクスが「回り道」と言っている場合、彼がこの言葉をどのような意味で使っていたか──とりわけ、その「回り道」の要(かなめ)の点がどこにあると考えていたか──を知るためには、次の個所が参考になるでしょう。


  「……商品は、もともと一つの二重物、すなわち使用価値および価値、有用的労働の生産物および
  抽象的な労働凝固体である。それゆえ商品は、自分が商品なのだということを表わすためには、そ
  の形態を二重にしなければならない。使用価値の形態は、商品は生まれながらにもっている。それ
  は商品の自然形態である。価値形態は、商品が他の商品との交わりにおいてはじめて獲得するもの
  である。だが、商品の価値形態は、それ自身がまた対象的な形態でなければならない。諸商品の

【P124】
  唯一の対象的な形態は、その使用姿態、その自然形態である。ところで、一商品、たとえばリンネ
  ルの自然形態はその価値形態の正反対物なのだから、それは、なにか他の自然形態を、他の一商品
  の自然形態を、自分の価値形態にしなければならない。それは、直接に自分自身に対してすること
  ができないことを、直接に他の商品に対して、したがってまた回り道をして自分自身に対して、す
  ることができるのである。それは自分の価値を、それ自身の身体で、言い換えればそれ自身の使用
  価値で表現することはできないが、しかしそれは、直接的な価値定在としての他のある使用価値あ
  るいは価値体に連関することはできる。それは、それ自身のうちに含まれている具体的労働に対し
  ては、抽象的人間労働のたんなる実現形態としてのこの労働に関係するということはできないが、
  しかし、他の商品に含まれている具体的労働に対してはそうすることができる。そうするためには、
  その商品はただ、他商品を自分に対して等価物として等置しさえすればよい。……
  (『資本論』Ⅰ、初版、20頁)〉

大谷 今までのご説明で、『価値形態論と交換過程論』で回り道についてお書きになった意味がよく分かりました。 dann を「そのさい」と読んでも「それから」と読んでも、あのパラグラフから読み取るべきポイントには変わりがないということは、まったくそのとおりだと思います。

久留間 今度の「貨幣Ⅰ」では訳文ではどうなっているのですか。
大谷 先生編の『レキシコン』のなかで、この「回り道」にかかわる重要な部分が先生のご解釈と食い違うのもどうかと思いまして、『価値形態論と交換過程論』にならい、「それから」といたしました。

       http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2
       広島資本論を読む会

 

  初版での一般的価値形態ーー一般的相対的価値形態の形成の理解を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月18日(日)17時42分42秒
返信・引用 編集済
    初版三段落からです。
  Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態
  <初版での3段落の提示>
・・・・・・リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、
この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価
値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。
だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
一般的 実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、
まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべて
の労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、
というかぎりにおいてのことなのである。〉
(原P27~28 江夏訳49頁)

  ここにマルクスの我々への質問、我々が疑問を持って、執拗に探求することへの要求があります。
  物象のこの段階での判断がどう展開するのか?をこそ、ここに見極めようーーと提示しています。
  ①<リンネルが一般的な等価物になるとーこの使用価値は、すべての他商品の一般的な価値形態>
  ②<この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
   一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められている・・・>
   ーーこの事柄の解決が要求されているのです。

  しかし、再版では次の解決がなされていました。そのことを理解し、再度確認します。
  ②一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特
   徴、一般に人間の労働力の支出に還元することである。
  では、この上記の解決が、初版の何処にて、どうなされているのか?探してみます。

  <初版での4・6段落の提示>
 4段落・・・・・・・・・・・・・・・・
たんなる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品としてたがいに関係
させることができ、したがって、社会的関係の中に置くことができるのである。ところが、これこそ
は商品の価値なのである。だから諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められてい
るところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値
形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であ
るならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的
な形態を、もっていることになる。〉(原P28 江夏訳50頁)
   第一の形態五段落
   ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
   という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ
   認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そ
   のなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)
   (初版原P18 江夏訳P37)
   <杉本 註 交換可能性の形態は、第一の形態で規定されていた>
 6段落・・・・・・・・・・・・・・・・
上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態
であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。
だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、
という結果になる。
逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形
態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、
20エレのリンネル=20エレのリンネルであろう。(原P29 江夏訳51~52)

  <杉本  上記の初版4段落の提示は明快であります。>
  ①等価物リンネルが価値であり、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態とな
  ることで、それは、商品の社会的形態・価値形態・交換可能性の形態を、左極にて受け取り、
  ②等価物リンネルが、自然的形態・使用価値の姿のままに、「ある商品の現物形態が同時に価
  値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがっ
  て直接的に社会的な形態を、もっいる」ーーと、今度は右極での規定の提示をした。
   次に今度は、六段落にて、次の明快な規定をうけとったのです。
  ③上記の左極・右極の対立した規定が、上記① ②の併存した・同時依存の規定の第一・二の
  規定として受け取るのか?ーーとの質問をマルクスは我々に発しているのです。一般的価値形
  態の成立は、一般的相対的価値形態の成立をもたらすが、第一・二の形態と同じようには等価
  形態の成立を成し得ないのです。一般的等価形態は、この両極の対立を、第一・二の形態での
  <同時依存>からではなく、等価物リンネルが<一般的な相対的価値形態から排除される>ー
  ーーことで受け取る、との我々へのマルクスの質問への答えが、ここにはあるのです。
  ④しかし、初版本文ではその次に、このように上記の三段落ーー六段落への説明をしています。

  <初版ーー7段落>
 諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物
形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。
そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定され
た割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。
 なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々であ
れば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。
 すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は
互いに価値量として映りあっているのである。
 ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、
こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているの
である。
だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。
つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社
会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。
逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネ
ルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直
接的にリンネルの一般的・社会的形態になるわけである。〉(原P30 江夏訳52頁)

  <杉本 上記に① ② ③との論理進行を見出すならば、ーー「こういった回り道を経ての
  み、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められている」ーーとの驚きに満
  ちた驚愕の説明を理解できる。同じ説明は、初版付録でも同じくなされている。>

   (三)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係
  単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、
この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは
現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取ら
ない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のす
べての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。
こうすることによって(「このような回り道を通って、」今村訳P333)  こののけものにされた
商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。
  (初版付録 原P779~P780 江夏訳901~902頁)

  この回り道で示されている同じことが、まずは第一の形態の七段落でも提起されていたのです。
  「この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、と
  いうかぎりにおいてのことでしかない。」(初版原P20~21 江夏訳P39~40)
  上記に示していることを、<資料2>を示しておきます。

   しかし、この次の第三形態でのマルクスの提示は、
  「逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、
  リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、」
  ーーとは、次のようにしか人々には、理解できていない。
    しかし、「価値の現象形態として認められている」ーーのは、回り道を経てではなく、
  リンネルは等価形態として、直接的に自然的形態のままに価値形態とされていたのであるから、
  との誤った論理がどうしてもたってしまうのです。
  だから、堺の先生は、次のように、再版6段落そして、初版7段落の説明をなすのです。>

   第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/957c3d5b7dfa87f3634e1b621b846af9
  「商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、そ
  の物的存在でしかありません。だから一般に商品はその使用価値のままでは直接には交換でき
  ないのです。だから、それができるようになるためには、それが他の商品と同じものであるこ
  とを示す必要があり、それがすなわちその商品の価値なわけです。
  商品は自らの価値を目に見える形で表現して、その現物形態が価値そのものであるものに転換
  してこそ、他の諸商品と直接に交換可能なもの、直接に社会的に妥当な形態を獲得することが
  できます。そしてそうした現物形態が価値そのものを表すものこそ、すなわち等価形態であ
  り、そうした商品世界から排除された唯一の例外的存在が、すなわち一般的等価形態だという
  ことです。」

   英明な堺の先生にしての初歩的・根本的な誤りは、下記の次のところの認識にあります。
  「商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、そ
  の物的存在でしかありません。」
  しかし、ここで問題にされているのは第一の形態ではなく、第三の形態であり、商品は物象で
  あり、そして価値関係とは?ーー物的関係ではなく物象の社会関係であり、この関係を見出す
  ことができたなら、商品は単に、堺の先生の述べる「商品の価値」と規定されているだけでは
  ありません。

  a 再版では、a相対的価値形態の内実の8段落にて、価値体上着を価値魂と批判することで、
   <上着は価値であり、価値形態と規定される>ことから、次の9段落にて、「・・・価値関係
   のなかでは、上着形態は価値形態として通用する。それゆえ、・・一商品の価値が他の商品
   の使用価値で表現されるのである。」(原P66 新日本新書P88~89)ーーとあります。
   商品との規定であれば、それは<価値であるから使用価値>であり、<使用価値であるなら
   価値形態>との規定を受け取っています。<しかし、初版では、この簡明な説明にはなりま
   せんので触れるのは止めておきます。>このような初歩的な判読で、彼は誤っていたのです。
  b 更に、ここでは初版の<Ⅲ 相対的価値の、第三形態・・>において、次のように論じて
   いるのですから、その次の段階が、ここには主張されています。
   価値形態として商品はーー間接的・媒介的にこの規定を受け取ることで、さらにもうひとつ
   の転回をして、物象から「一般的価値形態」と判断されることで、諸商品は一般的相対的価
   値形態を受け取ったのです。
  c再版での<1価値形態の変化した性格>の6段落で、同じく物象ー商品世界からリンネルは
   一般的価値形態と判断されていることが、同じく、述べられていました。
   「これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。」ーー
   (原P80 新書版113)とあったのです。
  dそして、このもう一つの転回が、起こっていることの表現が、一般的等価物リンネルが、
   この一般的相対的価値形態から排除される・商品世界から排除されるーーところの回り道を
   経ることで、リンネルは一般的等価形態を受け取っているのです。
  e再度<それは、商品の社会的形態・価値形態・交換可能性の形態を、左極にて受け取り>
   との規定のもとに、<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態は、残りの部分か
   ら除外された単一の商品を変換し、それと同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物
   にする。>

   再版8段落での提示は、こうなっています。
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi
<下記英文>
①The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ーhere the linen ーinto the universal equivalent.
  商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を
  変換し、それと同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
②The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
  身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に説定された形態です。
  <「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、」 国民文庫P126>
  それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。
③The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
  物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶ー蛹の状態になります。
  <このように、上記②は、定式とされるドイツ語版ーー下記訳では、一般的等価形態としか、
  この反対にしか理解できない。>
  <「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり」原P81国民文庫P126>
  しかし、宮崎訳 では次のものです。
  https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
    <ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。
    リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。
    だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。>
  <上記の直訳の続きは次のようになっています。>
  リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織は、結果として社会的性格、他のすべての種
  類の労働との平等の性格を獲得する。
  一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての
  商品に組み込まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な
  形に変換する。
  このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益
  な性質から抽象化されるという否定的な側面だけでなく、自分自身を明示的に明らかにするため
  に行われます。
  一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般
  に人間の労働力の支出に還元することである。>

  <つまりは、次のこういう理解をマルクスは、主張したのです。>
  <商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態では、身体のリネンは現在、すべての商品
  の価値によって共通に規定された形態を受け取ることで、一般的価値形態を形成しています。
  だから、この一般的価値形態において、価値が労働を表示するーーことができるのです。>
  学会において、この飯田論文への批判が提示できなかったのは、次のように尼寺先生にして、
  <一般的価値形態において、価値が労働を表示する>ことが、まるで理解出来ていないのです。

     <初版『資本論』「価値形態」の研究(3)  尼  寺  義  弘>高知大学リポジトリ
   7〕一般に商品の直接的な形態は使用価値の形態であり価値の形態ではない。価値の形態は他
   商品との関係においてのみ間接的にあるいは相対的にとりうるものである。したがって価値形
   態は媒介された形態である。諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互
   いに関係しあうためには統一的な,一般的な 相対的価値形態を自分に与えなければならない。
   一商品が一般的等価形態の地位にあるのはすべての他商品がそれらの価値をその商品で一般に
   表現するかぎりである。あるいはその商品すべての他商品の価値の表現材料として役立ってい
   るかぎりである。したがって一商品が一般的な直接的交換可能性の形態あるいは直接に社会的
   な形態にあるのは,すべの他商品が直接に交換されうる社会的な形態をとっていないからであ
   り、形態Ⅲの相対的価値形態と等価形態との種差をここでも述べているのである。

   しかし商品世界が第三の形態にて形成されているのは、次の彼の述べることではありません。
  ①「諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互いに関係しあうためには統
   一的な一般的な相対的価値形態」ーーでは、この一般的相対的価値形態としての成立は
   価値体としての関連を示すものですから、第一、第二の等価形態ですよ。
   この批判としては、下記のa bと示されます。

       <初版ーー7段落>
     a「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、
      自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。
      そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも
      量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。」
      ーーとの説明は、下記再版と同じ説明であります。
       <再版 1価値形態の変化した性格 の6段落>
     b物象ー商品世界からリンネルは一般的価値形態と判断されていることで上記と同じく
      「交換可能性の形態」が、次のように受け取られていること、
      「これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。」
      ーーと説明されているのです。
     cこのように、a b と示されている「一般的価値形態」が、交換可能性の形態・
      一般的相対的価値形態として形成される、ということを、彼は理解していないのです。

  ② 「すべての他商品がそれらの価値をその商品で一般に表現するかぎりである。あるいはその
   商品すべての他商品の価値の表現材料として役立っているかぎりである」ーーでは、①の価値
   体であることでの価値表現の材料としての役立ち、との理解になります。
   だから、尼寺先生が誤解しているのは、
   「諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互いに関係しあう」ーーことが
   あてはまるのは、第一・第二の形態の左極ではなく右極の等価形態においてなのです。
   そこでは等価物リンネルは、a価値体であり、自ずと、b価値表現の材料であり、
   c直接的に価値形態であります。彼は、第二の形態の右極を、イメージしてしまったのです。
     <資料3ーー提示の久留間理論は、第三形態の総括として述べられている労働生産物の
     商品への転化を、第一の形態でも同じと判断する誤り、をしている。>
   しかもここで論議対象にしているのは、第三の形態であり、まずなによりも、一般的価値形態
   の成立による、商品世界の成立、その説明・対象化なのです。
   次に、その反省規定として登場する商品世界から追い出された一般的等価形態としての形態規
   定にあるリンネル商品であり、実物形態としてのリンネル商品ですから、上記のc直接的に価
   値形態との規定にては、何らその用を果たしていないことはわかります。
   a bでの役立ちも、商品世界から排除されることで、お役御免になっているのでありますか
   ら、単に、次段落に示された、<非直接的交換可能性の形態ーー直接的交換可能性の形態>の
   対立が、ここに存在しているーーということであります。

  ③a「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自
   分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。」ーー
   ことが、再版にて示された商品世界をもたらす、一般的価値形態の成立として、この初版の七
   段落冒頭にて示されているのです。
   そこで、この初版の四段落から七段落の論旨を、榎原さんは、こう次にまとめている。
   「諸商品の社会的関係が、諸価値としての相互の関係であり、その内実が抽象的人間労働の関
   係であったとすれば、互いに諸価値として認められる形態が商品の社会的関係だ、とういうこ
   とになる。
    マルクスは商品の社会的関係と、価値形態または交換可能性の形態とは一つで同じものであ
   ることを指摘したうえで、一般的等価物になっている商品を、直接的に直接的に社会的な形態
   をもっている商品と規定している。
    諸商品の社会的関係が、抽象的人間労働の関係であり、その社会的形態がそれらが人間の諸
   労働凝固体として認められることを明らかにしても、直接に社会的形態を持った商品が登場し
   ない限り、その内容は感性的な表現をもっていない。さらに商品の社会的関係といっても、社
   会的に妥当なものにはなっていない。」(『価値形態 物象化 物神性』P84 )
   榎原さんは、残念ながらーーマルクスが、
   a一般的価値形態として商品世界が形成される、そのことで、
   b 一般的相対的価値形態もその同じ商品世界を形成することで、
   c等価物リンネルを商品世界から排除する、
   ーーという人間のなすことではなく、諸物象の判断・そのことでの物象の社会関係の形成ーー
   との構図、何度も触れてきたように、商品世界の形成が、まず第一の前提であることを、
   次のように否定しているのです。
   「直接に社会的形態を持った商品が登場しない限り・・」成されないーーと述べているのです。
   <「一般的価値形態」の成立で交換可能性の形態が一般的相対的価値形態として形成される>
   ーーことを否定しているのです。
   よく考えて下さい。第二の形態では、展開された価値形態が成立することで個別的な等価形態
   が成立したのであり、第一の形態のように、等価形態と相対的価値形態の成立の前後を表すも
   ではありません。そして第三の形態では、商品世界の成立があって、その世界から排除される
   一般的等価形態たるリンネルーーという構図は、明快なものです。
   だから榎原さんは、①価値形態 ②展開された価値形態 ③一般的価値形態 の成立の関連で
   あり、順位をを否定しているのです。そして、次の飯田論文も支持しているのです。

  ④ここで、冒頭に示した飯田論文の提示する事への疑問ーーも示しておきます。
   リンネルの価値形態として、価値上着による相対的価値表現で形成される内実は、この価値
   形態があることに示されたのであり、価値関係との物象の社会関係の示す、物象の判断がここ
   に示されている。
   しかし、単に人間労働を表示するにすぎない同等性関係は、上記のように、価値上着にリンネ
      ルは等置されるのではなく、「上着が同じ実体の物、同じ本質の物、としてのリンネルに関係
   させられている」(『初版付録』原P767  P884)ーーとあるのですから、ここには物象
   の判断も成立しないのです。この同等性関係においてのみ、右辺の裁縫労働は抽象的人間労働
   の実現形態であり、左辺のリンネル織りは抽象的人間労働であるという反省規定の手本を見せ
   てくれるのです。 マルクスは、同等性関係と価値関係との相違を明示したのです。
   初版のこの第一の形態を示す六段落が、等価形態であると判断されるのは、次の第七段落にて
   であり、先の同等性関係とは異なって、価値関係においては、<回り道>をすることで、この
   「抽象的人間労働の顕現形態としての他の商品に含まれる具体的労働に自分を関係づけること
   ができる。」( 初版今村訳P291 原P20 )と示されている。
   このように回り道とは何であろうか?相対的価値形態形成のーー回り道ーーを経てであります。
   そこで、次に初版第三の形態の八ー九段落です。

  ⑧だから、一商品が、全ての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に
   社会的形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかな
   く、またそのかぎりにおいてのことでしかない。
  ⑨ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社
   会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。

   杉本ーーA、初版だと、ーー諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、両極が、こう形成され
        ①非直接的交換可能性の形態・形成の回り道をへることで
        ②直接的交換可能性の形態が形成されたのです。
   同じく、B、再版だと、ーー諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、両極が、次に形成し、
        ①一般的な相対的価値形態・形成の回り道をへて、商品世界が形成され、
        ②一般的等価形態が、商品世界から排除されることで形成されると、ある。

         以上に何が述べられているのか?再度掲げます。
         これで、冒頭の飯田論文への初版での理解への回答が出来ました。
        ①第一の商品形態で、「リンネルは自分の価値量‥・・を上着で表現することによ
         って、自分の価値存在に自分の直接的存在とは区別される価値形態を与える。
         リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかに分化したものとして表すこと
         によって、現実に自分を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして示
         すのである。」(初版原P16 江夏訳P35)ーーと表されています。
        ②この一般的価値形態をとる商品形態において、価値が労働を表示することができ
         るーーのであり、そのことを、「商品の分析はこれらの形態(両極の形態)を商
         品形態一般として明らかにしたのである」(原P34 今村訳P310)、とある。
         だから、一般的価値形態において、使用価値と価値形態の商品形態を受け取るこ
         とで、労働生産物は商品に転化したのであります。
        ③次に再版であれば、両極の形態で示された商品形態が、右極の等価形態に貨幣商
         品を受け取ると、一般的価値形態が貨幣形態に転化することになることを示すこ
         とで、「簡単な商品形態は貨幣形態の萌芽である」(原P85 新書版P121)ー
         ーことを示したのであり、a労働生産物の商品への転化を示した簡単な価値形態
         b展開された価値形態 cー般的価値形態 d貨幣形態が示されることで、それ
         ぞれの価値形態の同じ役立ちを見出すことで、次のことが語られのです。
        ④第四の形態としての貨幣形態は、その前の一般的価値形態と同じなのです。
         ①一般的な相対的価値形態の回り道の第三形態と同じく、この回り道を経て、
         ②貨幣商品として、貨幣の機能を果たす金は、価値表現の材料の役立ちをしてい
         るかに見えてしまうが、そうではなく、すでにその役立ちは第一・二の等価形態
         の成立で終えており、一般的等価形態が形成されるためには左極の反省規定を受
         けて、リンネルの自然的形態のままに直接的交換可能性の形態を受け取っていた
         のだから、その役立ちがリンネルから金へと変化したことーーの明示をしたにす
         ぎないのです。

      ①久留間理論での初版の第四形態成立による第三形態成立の不可能性と、
      ②貨幣形態の成立を交換過程での価値の実現と使用価値の実現の矛盾の解決ーー
      に見る、価値形態論と交換過程論の一体的展開と理解するこの見解は、
      ③交換過程での物象の人格化の提起ーー価値形態論での物象の社会関係の成立との異な
      る見解がここにはあるのに、二つの場面の混同をもたらすことで、価値形態論にも物象
      の人格化を持ち込むことになっている。
      ④杉本は、久留間理論の価値形態論での解説・解読こそが誤りである、と考えている。

      資料3提示のところから、久留間理論の誤りを提示してみます。
    「だから価値形態論で、それの価値の表現が問題であるところの商品──すなわち相対的価
    値形態にある商品──の使用価値が固有の考察の圏外におかれることは、いわば当然のこと
    でなければならぬ。」ーーに対する意見です。

    ここでは第一の形態ですから、左辺のリンネルは価値上着を自らに等置することで、上着を
    価値の現象形態と反省規定することで、上着に価値形態の規定を与えることができたのでし
    た。上着は価値形態の規定を受け取ることで、この両者の価値関係を表わし、そこで次に、
    リンネルは相対的価値形態を、左極に受け取ったのです。
    上着はこの関係において、価値の現象形態の役立ちを、媒介的に果たすことで、価値形態の
    規定を自然的形態のままに右極にて受け取ったのです。
    さてとそこで、①使用価値リンネルは、価値上着による相対的価値表現の役立ちをさせてい
    るのは、価値関係によっての物象の役立ちがあるからです。②次に、価値上着による反省規
    定の役立ちは、リンネルと上着の価値関係のもたらす相対的価値表現に媒介されたものであ
    り、上着はリンネルの価値形態との反省規定を、この関係から受け取るのです。
    第一の形態での物象の社会関係ーー物象の判断は、リンネルの主体的行動・上着の客体的行
    動として、示され、主体的行動は相対的価値形態を形成し、客体的行動を示す方は、等価形
    態と判断されているのです。
    このように価値関係による物象の判断は、上着によるリンネルの価値形態との判断をもたら
    すことで、左極にて相対的価値形態、右極にて等価形態の判断をもたらしたのです。
    だから、久留間先生は、相対的価値表現するリンネルの役立ちを価値関係がもたらすことに
    ついて、何ら考慮できなかったのですから、スターリン経済学のままに、それを物的関係と
    理解するーーことになっているのです。彼の基礎はここにあります。
    彼がそこを物象の社会関係であり、物象の人格化と称するのは、混乱の生み出した産物です。
     ーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーー
    <資料 1>
    https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/1714
    相対的価値形態の内実-初版『資本論』の検討を通して  飯田 和人
    Ⅵ 総 括
    マルクスはいう。「 ただ異種の諸商品の等価表現だけが、異種の諸商品のうちにふく
    まれている異種の諸労働を、事実上、それらに共通なものに、人間的労働一 般に還元
    することによって、価値形成労働の独自的な性格を顕現するのである」 。
    (『再版』a相対的価値形態の内実 五段落)
    すなわち、ここにおいて上衣を生産する裁縫という具体的有用労働が抽象的人間的労
    働の現象形態または実現形態として通用し、この裁縫との等置関係を通して、リンネ
    ル を生産する織布が自分もまた価値形成労働としては裁縫と同じ抽象的人間的労働で
    あるということを表現するということである。
     こうして、初版「 内実」論にみられた論理構成上の難点は、現行版「 内実」論が質
    的価値表現メカニズムを労働連関次元において基礎つける論理を内蔵したということ
    によって克服されている。むろん、こうした現行版内実」論の意義( 前進面)は直接現
    行版を検討することによって、さらに十全な形で確認される必要があるが、それはまた
    稿を改めて論 ずることとしたい。 (P98)

    <資料 2> 初版 Ⅰ 相対的価値の第一形態あるいは単純な形態 二~七段落
    相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
  ② 「リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価
    値との双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接
    的な存在とは区別される価値形態を与える。
    リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによっ
    て、現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのであ
    る。」
  ③ 「上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。
    じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能で
    あるということである。上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というその
    それの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価
    値あるいは等価物の形態をもっているのである。」
  ④ 「リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値として
    は上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリ
    ンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態と
    なるのである(18)。」
  ⑤ 「20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
    という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ
    認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そ
    のなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)」
  ⑥ 「つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、
    このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、
    具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態として
    の--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。」
   七段落
  a 「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
    使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価
    値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。・・・・・・・・・・・・・
    商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに
    反射しあっている。・・・・・・
  b ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
    るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
    価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
    ことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行
    なうことができるのである。・・・・・・
  c そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、と
    いうことだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在している
    のは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立って
    いる、というかぎりにおいてのことでしかない。・・・・
  d ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表
    現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見す
    ることになる(20)」(初版原P20~21 江夏訳P39~40)

    <資料3> 広島資本論を読む会
     http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2
   久留間鮫造   『価値形態論と交換過程論』 P11~14
  交換過程に先立つ部分のうちで、「資本論」の現行版でいうと第1章の第1節「商品の二つ
  の要因──使用価値および価値」および第2節の「商品で表示される労働の二重性格」
  (「経済学批判」)はもとより、「資本論」でも初版では、このような節の区分はなされて
  いないが、内容のからみてそれに当たる部分)で、商品が分析的に考察されていることにつ
  いては、おそらく何ぴとも異議はないであろう。
  だが第3節の価値形態論はどうであろうか。これもはたして分析的といえるかどうか。
  商品の価値表現においては、価値とともに使用価値が不可欠の役割を演じるものと考うべき
  ではないか。こういう疑問がおそらくおきることと思う。だがこれは、わたくしのみるとこ
  ろでは、あきらかに誤解にもとづくのである。何よりもまず明らかなことは、価値形態論で
  問題にされるのは文字どおりに商品の価値の形態だということである。商品の価値形態は、
  使用価値でありかつ価値であるところの商品が、そこではもっぱら価値として、それの使用
  価値としての直接的な存在から区別してあらわれるところの形態である。だから価値形態論
  で、それの価値の表現が問題であるところの商品──すなわち相対的価値形態にある商品─
  ─の使用価値が固有の考察の圏外におかれることは、いわば当然のことでなければならぬ。
  もちろん、商品はそのありのままの姿において、生まれながらに使用価値の形態をもってい
  るから、そのほかにさらに価値の形態を取得すると、それと同時に二重の形態をもつことに
  なり、かくして現実に商品として──単なる使用価値ではなく同時に価値であるものとして
  ──あらわれることになる。
  したがってまた、商品の価値形態は同時に生産物の商品形態であり、商品の価値形態の解明
  は同時に生産物の商品形態の解明である、ということにもなる。
  だがこのことはけっして、価値形態論の分析的・一面的性格を否定するものではない。
  価値形態はあくまで商品の価値の形態──商品がそれの価値を、それの使用価値としての直
  接的な存在から区別してあらわす形態──であり、価値形態論の固有の課題はこの価値の形
  態を解明することにある。
  商品の価値形態が同時に生産物の商品形態であり、価値形態の解明が同時に生産物の商品形
  態の解明を意味することになるのは、使用価値の形態は商品の自然形態のうちにはじめから
  与えられており、したがってまた、価値形態の考察のさいにも、そういうものとして前提さ
  れているからにほかならない。
  マルクスの言葉でいえば、
  「使用価値の形態は、労働生産物が生まれてくるときに、その自然形態のうちにもってくる。
  だから、労働生産物が商品形態をもつためには、……ただその上に価値形態をもてばいい、」
    (「資本論」初版、岩波文庫版164-165頁。)
    (原P776 付録(六)商品の単純な価値形態は、労働生産物の単純な商品形態である)
  ということになるのである。そして価値形態論は、生産物が商品としてあらわれるために、
  その生得の使用価値の形態のほかにもたねばならぬところの、この価値の形態を、如何にし
  て取得するかを解明するものにほかならぬのである。
  それゆえ、使用価値が商品の価値表現において不可欠の役割を演じるとすれば、それは相対
  的価値形態にある商品の使用価値ではなく、等価形態にある商品の使用価値でなければなら
  ぬ。
  なるほど、商品の価値は、その商品に等置される他商品の使用価値で表現される。すなわち
  使用価値が、ここではそのまま価値の形態になる。価値形態論はもちろんこの関係を考慮の
  ほかにおくことはできない。いなそれは、この関係の究明を基本的な課題にさえするのであ
  る。だがこのこともまた、けっして、価値形態論の分析的・一面的性格を否定するものでは
  ない。
  第一に、等価形態にある商品の使用価値は、それの価値の表現が問題になっている商品の使
  用価値ではなく、したがって、それの表現が問題になっている価値とともに同じ商品の対立
  的要因を形成するところの使用価値ではない。われわれのなじみの例でいえば、そこで表現
  されているのは商品リンネルの価値であり、この価値表現において役割を演じているのは商
  品上衣の使用価値である。
  すなわちこのばあい、価値と同時に使用価値が考察されるにしても、それはリンネルの価値
  と上衣の使用価値とであって、同じ商品の対立的要因を形成するものではなく、したがって、
  それによって商品が、使用価値でありかつ価値であるものとして、全体的に考察されること
  になりはしない。
  ここで考察されるのは、単にリンネルの価値が表現されるされかたにすぎないのであって、
  その観点はあくまで価値の観点である。上衣の使用価値は、ここでは、リンネルの価値表現
  の材料として登場するにすぎない。しかも、そういうものとして登場するかぎりでは、この
  上衣の使用価値は、被服の目的に役だつ有用物としての本来の属性においてではなく、もっ
  ぱら抽象的・人間的労働の体化物としての形態規定性において、その役割を演じるのだとい
  うことは、すでに前論(本書後篇の1)において、リンネル所有者の欲望の捨象の問題に関
  連して、くりかえし説明した如くである。
  このように、価値形態論では、商品はもっぱら価値の観点から考察されるのであって、使用
  価値は、本来的な使用価値としては、全く考察の圏外におかれるのであるが、しかし交換過
  程論ではそうはいかない。

http://

 

親を馬鹿と認めなければ抹殺号令とは

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 2月13日(火)04時42分44秒
返信・引用
     3年前前盲ろうの全国協会事務局長庵さんが時自宅に来たら突然手話通訳差別が入った。振興局の相談員はここにいるとなだめるが、完全沈黙では証人も作れず、そのチャンスに法務局は捜査権がない。
 全国大会は妨害対策に挨拶状と個人的手紙も出していたが結果は岩手も全国の友の会も知っている人は誰も現れない(合わせない)。
 大会後は全国に訴えたが誰も返事しない。一度にこれだけ動かせるのは知事しか居ない。しかも勧めた庵さんが簡単に口説かれていた。全国の友の会にしてもあいつに関わるなとされていた。
 知事が黒幕とは。栃木の妨害は知事同士の密約だったのか。
 息子も入れて6人の参加なのに何の効果も無かった。
 知事が相手では諦めるべきか。と言っても妨害の説明は何一つ来ていない。一人で調べることにした。
 暴走目こぼし権があったらと問い合わせした。法律関係だけ答え後の全国の社会福祉協議会は30も全部沈黙した。知らないからで無く喋れないことを示していた。法律関係の返事はそんなもの無いと言うだけ。似たものが他にもあって喋れないらしい。
 それにこれは岩手で暴走があったことを暗示している。非難と失笑、後ろ指が岩手に向けて飛んだことだろう。
 11月末頃一関社協に行って通訳差別の説明を求めたが長すぎて読めないとごまかす為全国への問い合わせを見せたら一関は和解したがって居ると言うが完全沈黙では和解は出来ない。嘘だと判る。
 そのまま帰ったが話は利用することにした。
 12年前の県庁の朽木課長は社会参加妨害の抗議に対して親父を馬鹿だと認めたらと言っていたことから既に亡くなっているし12年の妨害で疲れから好きなだけ馬鹿と言ってもいいですとしてその代わりに今までの圧力の廃止を求めた。期限付き2回の和解要求です。
 やっぱり無視。それで全国40に問い合わせの形で岩手の暴走を話した。そして1週間して福祉課に又話したがまだ無視している。
 完全沈黙では説明も出来ないし証拠は作れない。諸刃の剣みたいな法律です。証拠あるかと言う訳だ。それも障害者の団体の特権らしく厚生労働省が認めている態度で、法の下に何人も平等だと障害者110番の弁護士が言う。法務省も知っているはずでも完全沈黙では証拠は作れず動かない口実になる。一般には公開されないのではないか。理屈はともかく完全沈黙では初めから抹殺しか考えていない。障害者一人くらいどうでもいいとする決断でないか。こちらは社会参加を求め妨害はもう12年で12回になり辞めて欲しい。
 障害者の団体の暴走を隠すために暴走で障害者個人はどうでもいいと知事が決断し厚生労働省も全国の社協も認めているとは。
 復興を叫ばれる岩手だけの特権なのか。

 

法律の矛盾について

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 2月10日(土)04時40分18秒
返信・引用
   暴走を正義と気取る岩手のボランティア達への疑問
  今から12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。その後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心も押し付けて行った。親を馬鹿と言う出所は岩手県聾唖協会現会長だった(当時次期会長)。全通研も県庁も読み書き出来ない聾唖者の勝手な猜疑心から来たと知っていた。親父と口利いたことも無い。
 本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもしないで親を馬鹿にして全てを白紙にした。
 それから別の団体に行こうとして相談員は多忙で手紙で進めた。
 内定した頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さんひとみさんの悪口妨害が入り内定は取り消された。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。そして山形の姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言う。
 更に県庁に抗議したら当時の福祉課朽木課長は親を馬鹿だと認めたらとメールで言い出した。県の看板団体は暴走でも隠すことしかしない。既にあちこちかん口令を敷かれ社会参加はさせずどこの団体も行かせない。関わった人も団体も全て沈黙させた。暴走を暴走で隠し続け暴走で正当化された。密告も脅迫電話もお咎め無し。
それから12年の間に12の社会参加妨害があった。栃木と交流も岩手から関わるなと悪口が入っていた。
 前の年の盛岡での講演会も通訳妨害されていた。
 そして3年前全国協会が家に来て全国大会に参加しろと。ところが全国協会が来ていたことがばれて圧力は激しく通訳差別が出た。 息子も心配して6人で参加したが岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。それどころか勧めた全国協会も全国の友の会も口説き伏せられていた。しかも黒幕は知事だった。
 説明の来ないまま諦めるのか。自分で調べた。
 好き勝手な暴走は合法的か。法律関係だけ暴走目こぼし権なんて無いと。他は社協が全国30も全部沈黙。これは喋れないことを意味して居る。看板団体はばれなければいいとする特権があることを示している。暗黙の了解とする説明不能の法律だろう。聾唖者へのおだてが暴走を招いている。
 12年も圧力に耐えて来た。これ以上はごめん。親は亡くなっているから好きなだけ馬鹿と言えとして、その代わりこれまでの圧力は全部廃止にして頂きたいと和解を求めたが無視している。。
 今まで完全沈黙は抹殺だけ考え証拠も作らせない暴走隠しは続けられる。しかも看板団体だからと合法なのか。
 

法律の矛盾について

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 2月 9日(金)22時15分23秒
返信・引用
   暴走を正義と気取る岩手のボランティア達への疑問
  今から12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。その後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心も押し付けて行った。親を馬鹿と言う出所は岩手県聾唖協会現会長だった(当時次期会長)。全通研も県庁も読み書き出来ない聾唖者の勝手な猜疑心から来たと知っていた。親父と口利いたことも無い。
 本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもしないで親を馬鹿にして全てを白紙にした。
 それから別の団体に行こうとして相談員は多忙で手紙で進めた。
 内定した頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さんひとみさんの悪口妨害が入り内定は取り消された。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。そして山形の姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言う。
 更に県庁に抗議したら当時の福祉課朽木課長は親を馬鹿だと認めたらとメールで言い出した。県の看板団体は暴走でも隠すことしかしない。既にあちこちかん口令を敷かれ社会参加はさせずどこの団体も行かせない。関わった人も団体も全て沈黙させた。暴走を暴走で隠し続け暴走で正当化された。密告も脅迫電話もお咎め無し。
それから12年の間に12の社会参加妨害があった。栃木と交流も岩手から関わるなと悪口が入っていた。
 前の年の盛岡での講演会も通訳妨害されていた。
 そして3年前全国協会が家に来て全国大会に参加しろと。ところが全国協会が来ていたことがばれて圧力は激しく通訳差別が出た。 息子も心配して6人で参加したが岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。それどころか勧めた全国協会も全国の友の会も口説き伏せられていた。しかも黒幕は知事だった。
 説明の来ないまま諦めるのか。自分で調べた。
 好き勝手な暴走は合法的か。法律関係だけ暴走目こぼし権なんて無いと。他は社協が全国30も全部沈黙。これは喋れないことを意味して居る。看板団体はばれなければいいとする特権があることを示している。暗黙の了解とする説明不能の法律だろう。聾唖者へのおだてが暴走を招いている。
 12年も圧力に耐えて来た。これ以上はごめん。親は亡くなっているから好きなだけ馬鹿と言えとして、その代わりこれまでの圧力は全部廃止にして頂きたいと和解を求めたが無視している。。
 今まで完全沈黙は抹殺だけ考え証拠も作らせない暴走隠しは続けられる。しかも看板団体だからと合法なのか。

 

     現行版【8】パラグラフの正しき記述ーー理解を求めて

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月 3日(土)23時46分15秒
返信・引用 編集済
        私達は、英明な堺の諸先生にして、次の誤った前提から始めていることをまず批判する。
      <彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉
      になると述べているのです。
      ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているので
      すから、>ーーと、第一・第二の形態と同じく、第三の形態でも、等価形態は前提ーー
      という社会的常識を、彼らは批判できなかったのです。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/54b8fb7b4af892ce1c7d80c89a1f849c
第27回「『資本論』を読む会」の報告
◎全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行
ところでここでマルクスがリンネルを〈同じ第三の商品〉と述べていることに異論を唱えている人がいます(山内清前掲書)。つまり〈リンネルは、第二形態では当事者の一方であるから、「第三の」は疑問〉(前掲99頁)だというのです。しかし上記の一文をよく読むと、マルクスは〈彼らのいろいろな商品の価値を〉と述べています。つまりリンネルと交換して自分たちの商品の価値を表現する〈他の多くの商品所持者〉にとっては、彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、こうした表現はそれを示唆しているものと考えられ、何ら問題はないと思います。


     現行版【8】パラグラフの正しき記述ーー理解を求めて、次の比較が出きるな!
     と思ってやってみた。「一般的価値形態をなしている無数の等式は」ーーと示す記述を
     一般的等価形態と理解する、英明な堺の先生方々の誤解はどこからか?

     Aーー「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
         それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。」
     Bーー「亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である;
         それはしたがってそれらのうちの全てかつどれとも直接交換可能となる。」
     Cーー身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。
         それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。
     Dーーリネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。
        だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。
     Eーーリンネルはいまや他のすぺての商品と直接に交換可能である。
        したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。
        リンネルを生産する私的労働である機織は、これがために、社会的労働という性格、
        他のすべての労働と同等である形態を獲得する。

 ① http://p.booklog.jp/book/19345/read
   『資本論』 第1部 第1章・第2章 詳解
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/3089c84b59ae181d571acdf7e6ac0095
第29回「『資本論』を読む会」の報告
◎等価形態の変化した姿
 初版付録では、ここに〈二 等価形態の変化した姿〉という項目が入ります。だからこのパラグラフでは一般的価値形態では等価形態はどのように変化しているかが考察されています。

【8】パラグラフ

 〈 商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。 リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。 リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められる。

織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。 一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。

このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。 この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。 この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。〉資本論(1)新日本新書P114~115


   ②英和訳『資本論』
 https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


(C1-7段)
  相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品、その残りから排除されて、そして同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に転換する。
亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である; それはしたがってそれらのうちの全てかつどれとも直接交換可能となる。
その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。

織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働である、が、結果として、一つの社会的性格を獲得する、すべての他の種類の労働と同等なものという性格を[獲得する]。
価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式、が、順繰りに亜麻布のなかに体現された労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そしてそれらがこのようにして織布することを、差別を立てられていない人間労働の明示の一般形態へと転換する。

このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働はその否定的な側面のもとにおいてばかりでなく提示される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白に知らせるようにされている。
この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元であり、人間の労働力の消費であることへの還元である。
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.

Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.
The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of manifestation of undifferentiated human labour.

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.
The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.

   ③<杉本ーー直訳>
①商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態は、商品世界から除外された単一の商品を変換し、同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。 それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。物質のリネンは人間労働の目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な<蛹ー蝶>の状態になります。

②以上の事柄から、リネンを生産する特定の私的個人の労働である製織は、結果として社会的性格、他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得する。
一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働と他のすべての商品に組み込まれた労働とを同一視し、よってリネンの機織りを未分化な人間の労働の一般的な形に変換する。

③このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働力の支出に還元することである。



   ④宮崎訳
https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
(9 ) 商品の全世界を包含する、相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離されて、ただ等価の役割を演じさせる、ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。

物質リネンが、あらゆる種類の人間の労働の、目に見える化身、人間の労働 の社会的結晶状態となる。機織り、特定のもの、リネン、を生産するある私的な個人の労働が、こうしたことから、社会的な性格、他のあらゆる種類の労働と等質の性格を持つことになる。

数えきれない行並びの等式、価値の一般形式は、それぞれ、リネンに込められた労働が、他の全ての商品に込められたものと同等であることを網羅する。そして、さらに、機織りを、区別できない「人間の労働」の表明の、一般形式に変える。 これらのことによって、商品の価値である労働が、様々で具体的な労働形式や有益な現実の仕事等々をはぎ取った労働という、見えにくい面ばかりでなく、それらの目に見える形をその労働自体として表すようにもなるのである。 価値の一般形式は、全ての種類の現実の労働を、人間の労働一般という共通的な性格に、また、人間の労働力の支出に要約する。


   ⑤《フランス語版》8段落

 〈商品世界を包括する一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価物商品に、一般的等価物という性格を押しつける。リンネルはいまや他のすぺての商品と直接に交換可能である。したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。リンネルを生産する私的労働である機織は、これがために、社会的労働という性格、他のすべての労働と同等である形態を獲得する。

一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルのなかに実現されている労働を、このリンネルとかわるがわる比較される各商品のなかに含まれている労働と同一視して、機織を、人間労働がそのなかに現われるところの一般的な形態にする。

このようにして、商品の価値のなかに実現されている労働は、たんに消極的に、すなわち、実在の労働の具体的形態と有用な属性とがそこで消滅するところの抽象として、表わされるだけではない。その積極的な性質がはっきりと確認される。この労働は、すべての実在の労働を、人間労働すなわち同じ人間労働力の支出というそれらの共通な性格に、還元したものである。〉(40-41頁)






 

       相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月19日(金)07時52分24秒
返信・引用 編集済
      初版の第二の形態と再版・英語版との対比をなしてみる。語ることは同じか?
     ① 初版
      Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
     20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶
    または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々
    ・・・・・
     20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化され
    ている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働
    は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定さ
    れたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。
    第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置し
    ている。
    第二の形態はこれとは違っている。
    リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネ
    ル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係し
    ている。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働
    一般の結晶として、示されているのである。(『資本論』初版 原P24~25)

      ②再版ーー英語版(宮崎訳)
   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm

     1. 拡大された相対的価値形式
    (1) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
    によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。
    故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労
    働の凝結物として示す最初の瞬間となる。
    それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。
    労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。
    人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なん
    であろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコ
    シであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。
    リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。
    もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。
    商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を
    意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。


    初版 再版の論旨を、以上から挙げてみよう。
    ①ーーa「いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働の単
        なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。」
       b「リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置さ
        れ、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。」
       c「ここではリンネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶
        として、示されている・・」
    ②ーーa「他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
       b「・・労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。」
       c「 リネンは、今、その価値形態に基づき、社会的関係の中に立っている。」
       dリネンは「単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある」

     両者の相違を検討してみる。
    ②に示される再版の事柄で、①との違いを示すのは、他のあらゆる諸商品がリネンの価値形態
    であり、リネンの価値鏡であることだが、①ではそうではないのだろうか?
    なるほど①では、他の諸商品が、商品世界の市民として規定されてはいない。
    しかし、その他の諸商品が「リンネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態とし
    てのありとあらゆる商品体に関係している」ことで、「リンネルの価値がはじめて真に価値と
    して、」示されるーーと言うのは何のことであろうか?
    このことこそ、他のあらゆる諸商品の役立ちから、第二形態ですから個別的に、リンネルが価
    値であるとの判断・反省規定を受けたのであり、それが、①ーーbであり。②ーーbの事柄で
    あるのだから、それこそ、労働生産物が商品となる商品世界が形成され、他の諸商品が展開さ
    れた価値形態をこそ形成したということではないのか?

    ーーところが、榎原さんは、すでに初版4・5・6段落でこれらの疑問が出され、それへの解
    答である7段落の次の事柄ーー商品形態の成立ーーが成されているのを見落としているのです。

    <初版七段落>
    ①「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
     使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。
     それは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。
     同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、
     すなわち、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている
     諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。」

    ②「・商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態の方は商品が生まれ
    つきもっているのである。・・・価値形態の方は商品が他の商品との関係において初めて手に
    いれるのである。・・別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。」
    (初版原P20)

    上記は、何を示しているのか?物象の判断の仕方として、第四段落で述べられた、
    「諸商品自身の物象的な諸関係のなかで、こういうものであることをしめ」(原P17)して、
    使用価値と価値ではーー使用価値が価値の現象形態になる、
             ーー使用価値と価値形態として商品形態  となるとの判断なのです。
    このように、マルクスは設問への解答を示しているのに、榎原さんは、この設問をだけ次に提
    示する「第二節人格の物象化の現実性 一価値形態の発展」にて、この⑥を提示したのです。

    ⑥「リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価
    値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。
    ーーー略ーーー
    だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産
    活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人
    間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。
    リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わ
    りに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであ
    ろう(19a)。
    つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このこ
    とは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有
    用な、労働種類--抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、
    ということに依拠しているものでしかない。」(原P19)

    彼は、上記⑥の設問をした冒頭部をのみ引用してーーこう語るのです。
    「このリンネルの裁縫労働への特定の仕方での連関に価値形態の秘密の内実があり、使用価値
    と価値とが反射しあう関係を成立させる根拠があったのだが、さらにまたこの連関こそが人格
    を物象化させる原理をなしていたのであった。」(『価値形態 物象化 物神性』P191)

    ここのマルクスの文を読んでの①まずの第一がそこへの自分の主観的な理解であり、
    ②物象の判断について語るマルクスが、価値形態論ではなく交換過程で語る「人格の物象化」
    をもここでなしたとのーー誤解の主張なのです。
    学会ーー久留間先生の理解ではその区別はないのですが。
    私は、自らの薄学ゆえの理解不能とばかり思っていたが、そうではなく、彼のこの文節への理
    解不能であったのです。

    次には、彼の無視している八段落です。

    ⑧ われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値
    形態を包括している、ということである。
    リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。
    リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、
    示すのである。
    他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商
    品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すな
    わち等価物という形態を、受け取るのである。

    両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態な
    のである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っ
    ている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられ
    ているのである。(国民文庫版53頁)

    「一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態」(上記)
    このように、初版の記述は、両極の形態が如何にして成立するのか?勿論諸物象の判断と役立
    ちにて成されたことを、ここに提示したのです。

    次は11段落です。彼は、Aの部分を引用せずBを引用して語るのです。

    ⑪段落ーA「価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、
       単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。
       リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換
       価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。」

       B「すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、
       したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこうい
       うものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであ
       り、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリ
       ンネルの反射規定なのである。」(初版 国民文庫版55-6頁)

    このBの部分をのみ引用して語ったのでは、次のことを無視します。
    この11段落には、①媒介されて価値形態となることで、相対的価値形態が形成される。
            ②直接的に価値形態となることで、等価形態が形成される。
    この① ②こそが価値形態の秘密なのです。
    以上の二つの両極の形態が、5段落の註18aと、19の文章に示されるように、上着が価値の現
    象形態であっても右極の形成につながらず、左極の相対的価値形態の形成になることでの困難
    性を克服したことをこそ示しています。その克服は、この① ②の他方のみの性格ではなく、
    対立性と両極依存性が、このA Bには示されています。

    彼はBの部分を引用してこう語る。
       「肝心なことは、等価物存在を上着の属性と見るのではなく、上着が抽象的人間労働の
       直接的実現形態とされていることに帰着させることである。」(P192)
    そして自らの正しさを立証するために、
       「マルクスは、相対的な価値の第二の、または展開された形態を分析してつぎのように
       結論ずけている。」(同上)
       ーーとして、私が冒頭に上げた第二の形態の第五段落を提示するんです。

     榎原さんは等価形態を論じているのに、その正しさの論証のために、
    展開された相対的価値形態の成立ーーを提示するのです。


 

   資本論初版 価値形態論の解読を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月18日(木)12時44分7秒
返信・引用 編集済
     初版の本文を引用しようとしても、無いので、
   未完成ですが、そのために少し整理してあったものを掲示します。
   おって・・・加えていきます。

   http://p.booklog.jp/book/19345/read
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/b512872ae86ecc2ec6af0da0a6ed7043
   第15回「『資本論』を読む会」の報告 2,012年 8月16日  堺市泉が丘駅

   <資本論初版>

   相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
   20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)
 ①この形態は、単純である ⑯ がゆえにいくらか分析が困難である。この形態のなかに含まれているいろいろの諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であり、したがって、抽象力をいくらか緊張させてのみ、識別されうるし、把握されうるのである。ところが次のことだけは一目瞭然である。すなわち、20エレのリンネル=1着の上着であろうと20エレのリンネル=X着の上着であろうと形態は変わらない、ということ。⑰
 註⑯それはいわば貨幣の細胞形態であり、またはヘーゲルならば言うであろうように、貨幣のアン・ジッヒ(即自態)
 註⑰ S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者はS・ベイリー。》

 ②リンネルは、ある使用価値あるいは有用物という姿で生まれてくる。だから、それの体躯が糊で固められていることは、すなわちそれのもっている現物形態は、価値形態ではなくて、価値形態の反対物なのである。
リンネルが自分自身の価値存在を示している根拠は、まず、自分を、自分に等しいものとしての・他の一商品である上着に、関係させているということである。
リンネルがそれ自体価値でなければ、リンネルは、自分を、価値としての・自分に等しいものとしての・上着に、関係させることができないであろう。
リンネルが自分を質的に上着に等置するのは、リンネルが自分を上着に、同種の人間労働の対象化、すなわち自分自身の価値実体のの対象化として、関係させるからであり、
そしてまた、リンネルが自分を、x着の上着ではなく一着だけのの上着に等置するのは、リンネルが価値一般であるだけでではなく一定量の価値でもあり、
しかも、一着の上着が二〇エレのリンネルとちょうど同じだけの労働を含んでいるからでもある。リンネルは、上着にたいするこういった関係によって、ひとたたきでいくひきもの蝿を打つ。
リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。
リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価値との双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接的な存在とは区別される価値形態を与える。
リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによって、現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのである。
リンネルは、それが使用価値であるかぎりでは、ひとつの独立した物である。これに反して、リンネルの価値は他の商品たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ、現れているのであって、この関係のなかでは、上着という商品種類が、リンネルに質的に等置され、したがって一定量において同等とみなされ、リンネルの代わりになり、リンネルと交換可能なのである。
だから、価値が、使用価値とは区別される固有の形態を受け取るには、自分を交換価値として表すほかには手段がない。

 ③上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であるということである。上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をもっているのである。等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、その物的な姿において、その使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということを含んでいる。

 ④ 価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をなしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。

ところが諸商品は諸物である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物的な諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。

リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。

リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるのである(18)。
 (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。(『資本論』初版 国民文庫版46-7頁)

 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。

使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な、人間的な、労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。

上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている。リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。だが、使用価値である上着のうちに表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、裁断労働という特定の有用な労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定できるが、それ自体としては無規定である。それは、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され対象化されうるのである。というのは、特定の労働にたいしてのみ、自然素材が、すなわち労働が対象化されている外界の物質が、相対するからである。ひとりヘーゲルの「概念」だけが、外界の素材なしで自己を客観化することを達成している(19)。

  (18a)ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。

  (19)「概念は、初めは主観的でしかないが、外界の物質あるいは素材を必要とせずに、自己自身の活動に適合しながら自己を客観化することへと前進する。」へーゲル『論理学』、三六七ページ。所収、『エンチクロペディー、第一部、ベルリン、1840年。』

 ⑥ リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。だが、リンネルをして上着という使用価値に興味を抱かせるものは、上着がもっている羊毛製の快適さでもなければ、ボタンをかけた上着の恰好でもなければ、上着に使用価値の特徴を与えている他のなんらかの有用な品質でもない。上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。リンネルは、自分の価値をあぎ剤〔あぎは植物名。あぎ剤は駆虫剤、通経剤などのことを言う〕とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現しても、同じ目的を達したであろう。

だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう(19a)。

つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。
(19a)すなわち、靴墨の調整そのものが靴墨作りと俗に呼ばれているかぎりでは。

 ⑦ われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立っている。
商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している労働を、たんに人間労働力の支出として商品価値のなかに計算されているかぎりでのその同じ労働から区別することは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察するぱあいには、それを、他方の形態においては考察しないのであって、逆のばあいには逆になる。これらの抽象的な対立は、おのずから分離するものであり、したがって区別しやすい。

商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価値の・したがってそれ白身の反対物の・現象形態になる。同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、すなわち、抽象的な、入間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。

このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。

商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、府用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。この形態は、商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態である。

ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であるから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができるのである。

この商品は、自分の価値を、自分自身の体躯であるいは自分自身の使用価値で、表現することはできないが、直接的な価値存在としての・一つの別の使用価値あるいは商品体に、関係することができる。

この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もちろん関係することができる。

そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、ということだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。

単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だけを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)。
(20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえをも見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたらない。》(江夏訳37-40頁)

 ⑧ われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。

両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。
(国民文庫版53頁)

 ⑨ 量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きざの規定から生ずるのである。リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。

いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの一エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。

これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。

 ⑩ この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式 20エレのリンネル=一着の上着 または 20エレのリンネルは,一着の上着に値する は、明らかに、同じ等式 一着の上着=20エレのリンネル または 一着の上着は二〇エレのリンネルに値する を含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。(前掲53-4頁)

 ⑪ 価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。

しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。

すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。

ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などどまったく同じように、リンネルにたいする関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。

相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=1着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。21》
(国民文庫版55-6頁)

 註21 およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。》

 ⑫ 相対的価値の単純な形態、すなわち二つの商品が等価であるという表現にあっては、価値の形態表示は両方のそれぞれに関して同質である。なぜならば、リンネルは自分の価値を一商品である上着でのみ表わし、逆の場合は逆だからである。しかし、この価値表現は両方の商品にとって二重であり、それぞれの商品にとって別々である。最後に、両方の商品のおのおのは、他方の単一な等価物であるにすぎない。

 ⑬ このような等式、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または 20エレのリンネルは1着の上着に値する、というような等式は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しでいるだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー 20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである(22)。

 註22 各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことできるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ぺージ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕) 当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえぽ『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。(同上57頁)

 ⑭ 柑対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類にとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。
(国民文庫版57頁)

⑮ それにもかかわらず、この第二形態は、ある本質的な進展を包蔵している。すなわちこの形態のなかに含まれているのは、リンネルが、自分の価値をあるときはたまたま自分の価値を、上着でもコーヒー等々で表現し、この商品またはあの商品または第三の商品等々で表現する、ということでもある。
この一歩進んだ規定は、相対的価値表現のこの第二規定あるいは発展した形態がそれのつながりで現れるやいなや、明らかになる。その時我々は次の規定を得ることになる。



   Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
 ① 20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々

 ②  z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =y量の商品F または =等々)。

 ③ さしあたりまず明らかに第一の形態は第二の形態の基礎的要素をなしている。なぜならば、後者は20エレのリンネル=1着の上着、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々ま というような多数の簡単な相対的な価値表現から成り立っているからである。〉(60頁)

 ④ 第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 においては、これらの二つの商品がこのような特定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的な事実に見えることがありうる。これに反して、第二の形態においては、この偶然的な現象とは本質的に区別されていてこの現象を規定している背景がすぐさま明らかに見えてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ大きさのままである。二人の個別的な商品所有の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の価値の 大きさが商品の価値のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのである。〉(60頁)

 ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化されている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているのである。〉(60-1頁)


 ⑥ 第二の形態は、第一の形態の諸等式だけの合計から成り立っている。しかし、これらの等式のそれぞれ、たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 は、その逆の関係 1着の上着=20エレのリンネル をも包括しているのであって、ここでは上着が自分の価値をリンネルで示しており、まさにそれゆえにリンネルを等価物として示しているのである。ところで、こういうことはリンネルの無数の相対的な価値表現のどれにもあてはまるのだから、そこでわれわれは次のような形態を得るのである。〉前掲(61頁)



 Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態
  1着の上着     =20エレのリンネル
  u量のコーヒー   =20エレのリンネル
  v量の茶        =20エレのリンネル
  x量の鉄        =20エレのリンネル
  y量の小麦      =20エレのリンネル
  その他        =20エレのリンネル 〉(46-7頁)


 ① 商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である 1着の上着=20エレのリンネル に戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさらに発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるいは上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。

いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの価値を、リンネルという素材で表現している。このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。すべての商品は量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、x量の鉄等々、すなわちこれらのさまざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルにイコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等しい。

こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関係しあい、質的に等置されて量的に比較される。この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、得ることになる。一商品の価値をすべての他商品の広がりのなかで表わすところの、相対的価値の発展した形態(形態II)と区別して、われわれは、この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼう。〉
(資本論初版 原P26  江夏訳47-8頁)



 ② 形態IIにおいて、すなわち20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、等々 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展させているのであるが、この形態IIでは、リンネルは、一つの特殊的な等価物としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいしては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。

これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれているところの形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。

だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物、一般的な価値体、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物に、なるわけである。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。〉(原P26~27 江夏訳48-9頁)


 ③ 商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであった。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうでもよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかったし、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。

リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他のすべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。

だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現(形態II)にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。〉(原P27~28 江夏訳48-49頁)



 ④価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現である。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、関係している。

これらの商品の社会的な関係は、もっぱら、それらが相互に、それらのこういった社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同じであり、したがって互いに置き換えが可能であるし互いに交換が可能である、というような表現--として認められているという点において、成り立っている。

有用物として一商品が社会的な規定を受け取っているのは、その商品がその所持者以外の人々にとって使用価値であり、したがって社会的な必要をみたす、というかぎりにおいてのことである。ところが、この商品の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させているかということにはかかわりなく、このような属性によって、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象になるだけであって、別の諸商品にたいしての商品にはならない。

単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品として互いに関係させることができ、したがって、社会的な関係のなかに置くことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。

だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉(原P28 江夏訳49-50頁)

 ⑤ 〈単純な相対的価値形態(形態 I )である 1着の上着=20エレのリンネルが、一般的な相対的価値形態である 1着の上着=20エレのリンネルから区別されるのは、この等式が今では次の系列の一環を形成しているからにほかならない。

 1着の上着=20エレのリンネル
 u量のコーヒー=20エレのリンネル
 v量の茶=20エレのリンネル
  等々

 ⑥つまり、形態 I は、じっさいには、リンネルが一つの単一の等価物から一般的な等価物に発展しているということによってのみ、区別されている。したがって、単純な相対的価値表現にあっては、自分の価値量を表現する商品ではなく、価値量がそれにおいて表現されるところの商品が、直接的交換可能性の形態、等価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ているとすれば、同じことは、一般的な相対的価値表現についてもあてはまる。だが、単純な相対的価値形態にあっては、この区別はまだ形式的であってぼやけている。1着の上着=20エレのリンネル では、上着が自分の価値を相対的に、すなわちリンネルで、表現しており、そうすることによって、リンネルが等価形態を得ているとしても、この等式は、20エレのリンネル=1着の上着 という逆の関係を直接に含んでいるのであって、この関係では、上着が等価形態を得ており、リンネルの価値が相対的に表現されているのである。相対的価値としての・および等価物としての・両商品の価値形態がもっところの、このように対称的であり相互的である表示は、もう生じていない。1着の上着=20エレのリンネル 一般的な相対的価値形態--この形態ではリンネルが一般的な等価物である--が、20エレのリンネル=1着の上着 に転倒されても、そのことによって、上着は、すべての他商品にとっては一般的等価物になるのではなくて、リンネルの特殊な等価物になるにすぎない。
上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、という結果になる。逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、20エレのリンネル=20エレのリンネル であろう。だが、これは同義反覆であって、この同義反復、一般的な等価形態にありしたがって絶えず交換可能な形態にあるこういった商品の価値量を、表現するものではない。むしろ、20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=等々という発展した相対的価値形態が、いまでは、一般的な等価物の独自な相対的価値表現になるのである。〉(原P29~30 江夏訳50-2頁)


⑦〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的・社会的形態になるわけである。〉(原P30 江夏訳52頁)


⑧〈ある商品が一般的な等価形態を得ているのは、その商品がすべての商品に対して、それらの一般的な、相対的な、したがって直接的ではない価値形態の表示に役立っているからでしか無く、またその限りにおいてのことでしかない。ところが諸商品は、自分たちの現物形態が自分たちの使用価値形態でしかないから、総じて相対的価値形態を受け取らねばならず、そして、これらの諸商品は、自分たち全員が、価値として、人間労働の同種の膠着物として、たがいに関係しあうためには、統一的な、したがって一般的な、相対的価値形態を受け取らなければならない。
だから、一商品が、全ての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に社会的形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかなく、またそのかぎりにおいてのことでしかない。
すなわち、商品は総じて、それの直接的な形態がそれの使用価値という形態であってそれの価値という形態でないために、直接的に交換可能な形態あるいは社会的な形態ではないために、直接的に交換可能な形態あるいは社会的形態では、もともと存在していないからである。〉
 (初版 原P30~31 江夏訳52~53)

⑨〈一般的な直接的交換可能性という形態を見ても、この形態が対立的な商品形態であり、非直接的交換可能性という形態と不可分であるのは、あたかも磁極の一方の陽性が他方の陰性と不可分であるようなものだ、といったことは、じっさいにはけっしてわからない。だから、すべての商品に直接的交換可能性の極印を同時に押すことができると想像しうるのであって、このことは、すべての労働者を資本家にすることができるかのように想像しうるのと、同じでである。ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。(23)〉(同上53頁)

〈(23)商品生産という形態のなかに人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきものの不都合から、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろん、大いに望ましいことであろう。この俗物的なユートピアを描きあげたものが、プルードンの社会主義であって、この社会主義は、私が他の箇所で示しておいたように、けっして独創性という功績をもっているわけではなく、むしろ、彼よりもはるか以前に、ブレーやグレーやその他の人人々の手で、はるかにもっとうまく叙述されていた。このことは、このような知恵が今日フランスでは「科学」という名のもとではびこっているのを、妨げてはいない。プルードン学派ほど、「科学」という言葉を乱用した学派はなかった。なぜならば、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまく間にあうようにやってくるものなんだ。」ゲーテ『ファウスト』岩波文庫版、相良守峯訳、第1部、133頁、より引用〕。〉


⑩労働の直接的に社会的な具象物として、一般的な等価物であるリンネルは、直接的に社会的な労働の具象物であるが、他方、自分たちの価値をリンネルで表している他の商品体は、非直接的に社会的な労働の具象物である。

⑪すべての使用価値がじっさいに商品であるのは、それらの使用価値が互いに独立した私的諸労働の生産物であるからに他ならない。これらの私的労働は私的労働とはいいながら、分業という自然発生的な体制の・独立しているとはいえ特殊な肢体として、素材的に互いに依存しあっている、というような私的労働なのだ。これらの私的労働がこのように社会的に関係しあっているのは、まさに、それらの差異に、それらの特殊な有用性に、依存しているからである。だからこそ、これらの質的に相異なる使用価値を生産している。そうでなければ、これらの使用価値は相互同志の商品にはならないであろう。
他方、有用な品質がこのようにちがうだけでは、生産物はまだ商品にはならない。ある農民家族が自分自身の消費用に上着やリンネルや小麦を生産すれば、これらの物は、その家族には、その家族労働のそれぞれにちがった生産物として相対しているが、これらの者自身が相互に商品として相対しているわけではない。労働が直接的に社会的な労働、すなわち共同の労働であれば、諸生産物は、それらの生産者たちにとっては、共同生産物という直接的に社会的な性格を得るであろうが、相互同志での商品という性格を得ることはないであろう。
とはいえ、われわれは、ここでは、諸商品のなかに含まれていて互いん独立している私的諸労働の社会的な形態がなんであるかをさらに立ち入って探求するには及ばない。この形態はすでに、商品の分析から明らかになっている。これらの私的労働の社会的な形態は、同等な労働としてのそれらの相互関係なのである。つまり千差万別のいろいろな労働の同等性は、それらの不当性の捨象においてのみ存在しうるのであるから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、たといすべての人間労働がそれらの内容や作業様式がどうであろうとじっさいににそうであるところのものとしての、それらの相互関係なのである。

どんな社会的な労働形態にあっても、別々な個人の労働はやはり、人間労働として互いに関係しあうが、ここでは、この関係そのものが、諸労働の独自に社会的な形態として認められている。
だが、これらの私的労働はどれも、それの自然的形態では、抽象的な、人間的な、労働という、独自に社会的な形態をもたないが、このことはちょうど、商品がそれの現物形態では、単なる労働膠着物すなわち価値という社会的形態をもたない、のと同じことである。

しかし、ある商品の現物形態、ここではリンネルの現物形態が、すべての諸商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するがゆえに、一般的な等価形態になる、という事情からして、リンネル織もまた、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な実現形態に、すなわち直接的に社会的な労働に、なるわけである。「社会的であること」の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係から採ってくるべきであって、この声質に無縁な観念から採ってくるべきではない。

先に明らかにしたように、商品は、生来、一般的な交換可能性という直接的な形態を排除しており、したがって、一般的な等価形態を対立的にのみ発展させうるが、同じことは、諸商品のうちに含まれている私的労働にもあてはまる。

これらの私的労働は直接的に社会的な労働ではないから、第一に、社会的な形態は、実在する有用な諸労働の自然形態とはちがった、これらの有用な労働とは無縁な、抽象的な形態であり、第二に、すべての種類の私的労働は、それらすべてが、排他的な一種類の私的労働に、ここではリンネル労働に等置されることによって、対立的にのみ、自分たちの社会的な性格を得るのである。

このことによって、この排他的な私的労働は、抽象的な、人間的な、労働の・直接的で一般的な現象形態になり、したがって、直接的に社会的な形態における労働になる。

だから、この排他的な私的労働はまた、社会的に認められていて一般的に交換可能な生産物のうちに、直接に現れている。(P54~55 原P31~33)

⑫あたかも一商品の等価形態が、他の諸商品との諸関係での単なる反射ではなく、その商品自身の物的な性質から生じているかの仮象は、単一の等価物が一般的な等価物に進歩するにつれて、固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は、第一の等価物が一般的な等価物に進歩するに連れて、固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は、互いに関係しあう諸商品にとっては、もはや一様に発展しないからであり、一般的な等価形態はは、一商品を、すべての他商品とは全く別のあるものとして区別するからであり、最後に、その商品のこういった形態は、じっさいにもはや、何らかの単一な他の一商品との関係の産物ではないからである。
   (P56 原P33)










 

     交換過程 の素直な理解をめざして その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 1月13日(土)00時34分25秒
返信・引用 編集済
       交換過程 英訳本から パソコン直訳で為してみた。
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan
     第一段落
    人はお互いのためだけに、そしてそのために存在します。 商品の所有者として。
     <杉本 商品の所有者として規定される諸個人と諸個人ーーとは物象の社会関係のもとでの
     人々の社会関係であるのだから、それは、人格の物象化なのです。>
    我々の調査の過程では、一般に、経済的段階に現れる登場人物は、それらの間に存在する経済
    的関係の人格化であることがわかる。
     <経済的関係の人格化である ーーとは物象の人格化であるのだから、両者を総合して、
     人々は、物象の人格化ー人格の物象化 の社会関係の下にある、とマルクスは提示したので
     す。
     ①この物象の人格化がいかにして登場しますか?との問をマルクスは私達にしている。
     まず、この問を第二・三・四・五 段落でして、その答えのはじめを第六段落にて、人間様
     がなすーー<貨幣生成の共同行動>ーーと示したのです。
     ②その後、物象の人格化によって、すでに商品世界では
     融合している一般的価値形態と貨幣商品の前提のもとで、後者の貨幣商品がいかに自律的姿
     態であるー貨幣ーという転倒を得るのか? >
     <久留間先生や諸先輩は、残念なことに、この第一段落の提起が見えないのです。>
     交換過程の第二から第五段落にて示されているーー価値の実現と使用価値の実現との対立と
     示されている交換不可能性の事柄は、次のように、第六段落にて止揚の仕方が説明されてい
     る。

     六段落
    彼らの難しさでは、商品の所有者はファウストのように考える:
     "Im Anfang戦争死ぬTat。"
     ["最初は行為だった" - ゲーテ、ファウスト。]
    したがって、彼らは思考する前に行動し、取引しました。
    本質的にそれらは商品の性質によって課せられた法律に従う。
     彼らは、それらの商品を価値として関連づけることはできません。
    それゆえ、それを他の商品と比較することを除いては、共通の同等物として商品として扱うこ
    とはできません。私たちは商品の分析から見ました。
      <共通の同等物として商品としてとはーー使用価値・価値形態ーーのことなのですから、
      ①商品世界が形成され一般的価値形態として商品リンネルが規定されるばかりでなく、
      ②この商品世界が、この世界から一般的等価形態を排除する共同行為をなすーーことで、
       一般的な相対的価値形態を形成させるのです。
      ③この二つの条件があることで、やっと、労働生産物が商品であるーーとの判断を、
       この物象世界から、得ていたのです。>
    しかし、特定の商品は、社会的共同行為がなくては普遍的な同等物になることはできません。
     <④先ほどまでは、商品世界での共同行為でしたが、こんどは、社会的共同行為ですから、
       交換過程でなされる共同行為なのです!人間様のなす社会的過程での判断ーー行為、
       として、貨幣生成の共同行為がなされているーーとマルクス先生の主張です。>
    この共同行為により、この商品の身体的形態は、社会的に認められた普遍的な同等物の形態に
    なる。普遍的な同等物であるためには、この社会的過程により、残りの諸商品によって排除さ
    れる商品の特定の機能になる。したがって、それはお金になります。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     上記には商品世界ではなく、物象化した社会での貨幣生成の共同行為が述べられたのです。
      <この商品の身体的形態は、社会的に認められた普遍的な同等物の形態ーーとは?
     明白に、商品世界から排除された、一般的等価形態であり、貨幣商品のことーーでは無く、
     あらゆる人々のなす・社会的共同行為が無意識のうちに、残りの諸商品によって排除される
     商品に、人々の構成する社会が、選択ではなく、普遍的な等価物・その機能を 一商品に押
     しつけたーーのです。選択ではなく、人間の社会的行動が無意識のうちに一商品を排除して
     いることで付いたのです。>
     「この商品の物体的形が社会的に世界等価と認められるものとなる」 (宮崎訳)
     「万人共通の同等物[等価物]であることは、この社会的過程によって、(英和訳)
        このように残りの商品から排除されたその商品の特別の機能となる」
     この二者のように、マルクスは描き出したのです。これは発見・・・不明でありました。>
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      第七段落(杉本・パソコン訳 原P102)
   「お金は交換の過程で必然的に形成された結晶であり、異なる労働生産物が互いに実質的に同等
    にされ、この実践によって商品に変換される。
    歴史的な進歩と交換の発展は、商品に潜在する使用価値と価値の間のコントラストを発展させ
    る。
    商業的な交換の目的のためにこのコントラストに外部表現を与える必要性は、独立した価値形
    態の確立を促し、そして、商品を商品やお金に変換させる。
      <新書版ーー商品と貨幣への商品の二重化>することが達成されるまで安心しない。
      それゆえに、労働生産物の商品への変換が成され、特別な商品をお金に変換することも同
      じようになされるのです。」
      このように、その困難の克服は、①独立した価値形態の確立が、特別な商品をお金に変換
      する②労働生産物の商品への転化<使用価値と価値形態の二重の姿態を受け取る>ーーと
      明白に、繰り返し示されています。
      この第七段落のここでの以上の提起は、すでに、六段落にて問題が解決されています。
      そして一四段落では、上記の<特別な商品をお金に変換する>こと、それが下記にある、
      <貨幣形態は1つの商品に投げられた、残りのすべての商品との間の価値関係の反射>にて
      なされたことーー左極にてリンネルがあらゆる商品・商品世界から除外されての一般的価
      値形態ーーを受け取った、ことが、こんどは商品世界ではなく、現実的にこの交換過程の
      なかにてもなされ、この「特定の価値形態」を受け取ったこと、「価値ではなく」と、そ
      のことをここに示したのです。
    九段落
    製品の直接的な交換では、各商品はその所有者と他のすべての人との間で直接的に交換手段で
    あるが、同等価値はあるが、価値がある限りである。
    したがって、この段階では、交換された物品は、自分の使用価値や交換価値の個々のニーズに
    依存しない価値形態を獲得しない。
    交換される商品の数と種類が増えるにつれて、価値形態の必要性が高まる。
    問題と解決の手段が同時に発生する。
    商品所有者は、異なる所有者に属する異なる種類の商品が交換可能でなくても、同一の特別商
    品に価値として見なされることなく、自分の商品を他の商品と同一視することは決してありま
    せん。
    ①このように最後の記事は、他の様々な商品と同等になることで狭い範囲内ではあるが、
    問題と解決の手段が同時に発生する
    この一般的な社会的等価物の性格は、それが瞬間的な社会行為と一緒に出てきます。
    順番に、そして一時的に、それはまずこれに、そして次にその商品に付く。
    しかし、交換の発展に伴い、特定の種類の商品にしっかりと独占的に定着し、金型を前提に結
    晶化するようになります。
    ②人は、しばしば、奴隷の形で、自分自身を貨幣の原始的な物質として役立つが、その目的の
    ために土地を使用したことはない。
    このような考え方は、既に十分に発展したブルジョア社会においてのみ生じうる。
    それは17世紀の最後の3分の1から始まり、一世紀後に、フランスのブルジョア革命の間に国家
    規模で実践された。

      杉本ーー再度上記の①を再確認しましょう、何とも我々は、明き盲ですね。
     ①「交換される商品の数と種類が増えるにつれて、価値形態の必要性が高まる」
     ②「問題と解決の手段が同時に発生する」
     ③「この一般的な社会的等価物の性格は、それが瞬間的な社会行為と一緒に出てきます」
     ④「順番に、そして一時的に、それはまずこれに、そして次にその商品に付く」
      それが、社会的過程にて、一般的等価物として価値鏡の役立ちをする価値形態であり、
      単に、金 ゴールド なのであります。商品世界ではなくですよ。
     このことを、何とも英語版の訳者であるご両人は、判読していました。

   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm
      <スーパーマンが、英和訳には、上記と下記にいらして、
              「一般的な社会的等価物の性格」と訳出していました!>
       https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/
       diipian-shang-pinto-huo-bi-1/di2zhang-jiao-huan
         英和訳『資本論』
     「そのような一番最後にあげた品物は、さまざまな他の諸商品の同等物[等価物]となる
      ことによって、直ちに、狭い諸制限の範囲内にもかかわらず、
      一つの一般的な社会的等価物の性格を獲得する。
      この一般的な社会的等価物の性格はそれが生じた一時的な社会的諸行為とともに来たり
      行ったりする。
      かわるがわるそして一時的にそれ[一般的な社会的等価物の性格]自身は最初はこちら
      の商品にそして次にはあちらの商品に取り付く。
      しかし交換の発展と共にそれ[一般的な社会的等価物の性格]自身はしっかりとそして
      独占的に特定の諸商品の種類に固定する、そして貨幣ー形態を装うことで結晶化して具
      現する。」
     「その性格がぴったりとついていく商品の特定種類は最初は偶然の問題である。
      それにもかかわらずそこにはその影響が決定的であるところの二つの事情がある。
      貨幣ー形態それ自身は外から来た交換のもっとも重要な諸品物、および、これら実のところ
      原始的で自然的な諸形態のその中で自地域諸生産物が表現を見いだしている交換ー価値に取
      り付く;
      あるいはそうでなければそれ自身が有用物でそれが、家畜のような、土着の譲渡可能な富
      を成している主要な部分に取り付く。
      遊牧諸民族は貨幣-形態を発展させる最初であるが、なぜなら彼らの全財産は移動可能な諸
      物から成っており、そしてそれゆえ直接に譲渡可能だからである;
      そして彼らの生活様式は、絶えず彼らを外国の諸共同体と接触させることにより、諸生産
      物の交換を請い求めるからである。」
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     大谷論文への批判
      <大谷先生の引用された文の冒頭に、9段落に、すでに解決事項がなされたと、英訳文で
      は明示されている。ここでは、物象の関係を示す価値形態ではなく、物象の人格化を示
      す独立化した価値形態が、如何にして発生し、成長していくかが、示されている。
      ところが、この下記のドイツ訳では、英訳での「一般的等価物」が、「一般的等価形態」
      になっている。この「一般的等価形態」と「貨幣形態」の関連性を問われてしまえば、
      再版では、価値方程式の第三の形態と第四の形態での相違としての商品世界から排除され
      ている貨幣商品のなす映像としての、20エレのリンネル=2ポンドの価格形態をこそイメ
      ージしてしまう。
      このように、商品世界を扱う価値方程式と、物象の人格化を示す交換過程とが混同されて
      いるのです。

         商品および商品生産    大谷禎之介
        【補論4】交換過程と貨幣発生の必然性
        「商品交換の発展につれて,一般的等価(物)形態は排他的に特別な商品
        種類だけに固着する。言い換えれば,貨幣形態に結晶する。それがどんな
        商品種類に引き続いて付着しているかは,はじめは偶然である。
        しかし,だいたいにおいて二つの事情が事柄を決定する。
        貨幣形態は,域内生産物の交換価値の実際上の自然生的な現象形態である
        外来の最も重要な交換財貨に付着するか,または域内の譲渡可能な財産の
        主要要素をなす使用対象,たとえば家畜のようなものに付着する。
        遊牧民族は最初に貨幣形態を発展させるのであるが,それは,彼らの全財
        産が可動的な,したがって直接に譲渡可能な形態にあるからであり,また,
        彼らの生活様式が彼らをたえず他の共同体組織と接触させ,したがって彼
        らに生産物交換を促すからである。
        ……/ 商品交換がその局地的な限界を打ち破り,したがって商品種類が人
        間的労働一般の物質化に発展していくのにつれて,貨幣形態は,生まれな
        がらに一般的等価物という社会的機能に適している諸商品に,貴金属に,
        移っていく。/>

      <杉本ーー上記に示された誤訳問題は、如何にして、交換過程にて、物象が発生し、
      そのことを前提に、物象の人格化ー人格の物象化、との社会関係が形成されるのか?
      そして、そこに止どまらず自らを成長させていくのか?ーーとの批判が要求される。
      この批判的認識が大谷先生には無いーー為にの誤判断なのです。
      その例を、次に引いて、確認しておきます。>

        「このように,交換過程は,商品の使用価値としての実現の過程であると
        同時に,商品の価値の実現の過程でもなければならないが,この両方の実
        現は互いに前提しあいしかも同時に互いに排除しあうのである。このこと
        を次の第51図で説明すれば,-方では,所持者Aが自分の商品を所持者
        Bに譲渡するためには,彼は彼の商品を価値体として通用させて,所持者
        Xから彼の欲する商品を入手していなければならない。
        他方では,彼が自分の商品が価値をもつことを実証するためには,所持者
        Bに自分の商品を譲渡して,それが他人のための使用価値をもつものであ
        ることを実証していなければならない。
        これが,交換過程に現実に存在する矛盾であり,さきの商品に内在する矛
        盾が目に見えるかたちで現われてきたものである。
        ーーーーーー略ーーーーーーー
         じつは,その媒介,打開の道は,われわれがすでに見た価値形態の発展
        のなかにあった。すなわち,商品所持者たちのだれもが,自分の商品を一
        般的等価物としてのなにかある一つの他商品に連関させるならば,自分た
        ちの商品を互いに価値として,したがって商品として連関させることが
        できる。
     杉本
     <この2~5段落にて問われている矛盾の事柄は、久留間先生が最大にこだわったため、
     交換過程での矛盾となり、マルクス経済学の常道になっている。しかし、その困難性は、
     すでに、第六段落にて解決されていた。
     <商品世界ではなく、物象化した社会での貨幣生成の共同行為が述べられた>のでした。
     もう一度、交換過程での行為があったとの、マルクスの明示です。次のように。
     「この商品の物体的形が社会的に世界等価と認められるものとなる」 (宮崎訳)
     「万人共通の同等物[等価物]であることは、この社会的過程によって、(英和訳)

         具体的に言えば,こうである。どの商品所持者も,いきなり,自分が欲
        する特定の使用価値をもつ商品と交換しようとするのではなく,まず,一
        般的等価物と交換しようとする。この過程では,自分のもつ商品にたいす
        る欲求をもつ一般的等価物の所持者を見つけさえすればいい。このような
        所持者に自分の商品を譲渡し,それと引き換えに一般的等価物を受け取る
        ことによって,自分の商品が他人のための使用価値をもっていたことを実
        証することができれば,次には,一般的な直接的交換可能性をもつこの一
        般的等価物と引き換えに,自分が欲する任意の商品を受け取ることができ
        るのである。
        このように,商品世界のなかで一般的等価物が成立すると,どの商品も,
        まず,自己の使用価値を実現することによって使用価値の形態であるそれ
        の現物形態を脱ぎ捨て,すべての商品にたいして価値体として通用する一
        般的等価物になり(これを価値の実現と言う),それから,よう
        になる。こうして,交換過程の矛盾は媒介され,商品の全面的な交換が可
        能となるのである。(同上P131~134)
      http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7778/1/61-2otani-1.pdf


        価値形態    大谷禎之助
        http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7779/1/61-2otani-2.pdf
        P232
        第3には,価値形態を発展させて,ついに貨幣形態を成立させるにいた る原動
        力はなにか,という問題である。これが狭い意味での貨幣成立の 必然性の問
        題であって,交換過程論で論じられている。その要は,一方 で,商品の内在的な
        矛盾である使用価値と価値との矛盾が,交換過程では,商品の使用価値として
        の実現と商品の価値としての実現との矛盾とし て現われ(交換過程の矛盾),
        これが,ある一つの商品を商品世界から排 除して一般的等価物にする社会的
        な共同事業を引き起こさないではいない (開展された価値形態から一般的価
        値形態への発展をもたらさないではいない)ということであり
           ーーーーーーーーーーーー
         <杉本ーー上記のように、久留間理論 の誤解の原因は示されている。>
      杉本ーー大谷先生への意見であります。
      上記は次のように示していました。この事への意見を述べてみます。
     <①「商品世界のなかで一般的等価物が成立すると,」
      ②「どの商品も,まず,自己の使用価値を実現することによって
       使用価値の形態であるそれの現物形態を脱ぎ捨て,
      ③「すべての商品にたいして価値体として通用する一般的等価物になり
       (これを価値の実現と言う)
      ④それを価値体として通用させることによって所持者の欲する任意の商品に転化する>

     これは第六段落にて、次のように示されていました。
      a貨幣商品は、商品世界から排除されることで、一般的等価物の役割をしています。
      b労働生産物が商品である<使用価値ー価値形態>との判断を、物象がなし、
      c物象化した人間様がなすことがーー<貨幣生成の共同行動>ーーと示したのです。
       この物象世界ではなく、その次の物象によって意志支配された人間の共同行為で
       あります。
       次の二瓶論文にあるように、今日の常識は、①価値形態論・物神性論
       ②交換過程論    の① ②ともに物象化との認識なのです。


           ーーーーーーーーーーーー

        下記は交換過程の矛盾でパソコン検索してみたら、素晴らしいもので、
        大谷先生の意見を超えるものではあったが、ここでの対象が、商品世界で
        はないのに、そのことでは意見が同一であった。

         日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
         交換過程 こうかんかてい
        Austauschprozessドイツ語

        商品は使用価値と価値との2要因の統一体である。このうち使用価値は他
        人にとっての使用価値であり、その商品所有者にとっては直接的な使用価
        値をもっていない。したがって商品所有者は、その商品を彼が必要とする
        使用価値をもつ商品と引き換えに譲渡しようとしている。

        このようにすべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、
        その非所有者にとっては使用価値であるがゆえに、諸商品は全面的に持ち
        手を変換しあわなければならない。

        この諸商品の全面的な持ち手変換が交換過程である。
        交換過程において商品は使用価値として実現されると同時に価値として実
        現されなければならない。
        商品所有者はだれでも、自分の欲望を満たす使用価値をもつ他の商品と引
        き換えにのみ自分の商品を譲渡しようとするのと同時に、他方で彼は、自
        分の商品を価値として実現しようとする。

        つまり、同じ価値をもつ彼の欲する他の商品のいずれとでも、彼自身の商
        品が他の商品の所有者にとって使用価値をもつと否とにかかわらず、交換
        しようとする。換言すれば、どの商品所有者も他人の商品に自分の商品の
        特殊的等価物の役割を押し付けると同時に、自分の商品を他のすべての商
        品の一般的等価物たらしめようとしている。

        だが、すべての商品所有者が同じことをしようとするのであるから、どの
        商品も一般的等価物たりえず、したがって諸商品は、それらが価値として
        等置されえず、また価値の大きさが比較されえないことになる。

        この矛盾は、ある特定の商品を社会的行為として商品世界から排除して一
        般的等価物たらしめることによって解決される。諸商品はこの商品で価値
        を表現することによって相互に価値として連関されうるのである。一般的
        等価物たることがその商品の独自の社会的機能となったとき、その商品は
        貨幣となる。このように貨幣は交換過程の必然的な産物である。貨幣が発
        生すると、商品所有者はまず自己の商品を販売して貨幣に転化し、その貨
        幣によって自分が欲する商品を購買するようになる。[二瓶 敏]
   https://kotobank.jp/word/%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E9%81%8E%E7%A8%8B-1532229

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       一〇段落
    ①商品交換がその地域的な束縛を破壊することに比例して、
    ②そして諸商品の価値がますます抽象的人間労働の体現物として認められ、
    ③同じ割合で貨幣の性格が、ある商品に付随するのであり、
     それは普遍的な同等の社会的機能を果たすために自然に適合したものである。
    ③これらの諸商品が貴金属類である。

    十一段落
      The truth of the proposition that,
    “although gold and silver are not by Nature money,
    money is by Nature gold and silver,”
    この命題の真実は、
    "金と銀は自然のままにお金ではありませんが、お金は自然の姿のままに金と銀です。 "
    お金の機能のためのこれらの金属の物理的特性の適合性によって示される。

    しかし、この時点までに、私たちはお金の1つの機能、すなわち、
    商品の価値の現れの形をとるために、または価値の大きさが社会的に表現されて
    いる素材として使用することができます。

    価値の適切な形、抽象的な、未分化、したがって同等の人間の労働であることを、、
    その材料で、すべてのサンプルが同じ均一な品質を示すことができます。
    一方、価値の大きさの差は純粋に定量的なものであるため、
    貨幣商品は単に量的な差異の影響を受けやすいものでなければならず、
    したがって、自由意志で分割可能であり、この同等性を再現することが
    できなければならない。
    金と銀は自然によってこれらの特性を持っています。

      <14段落>
    私たちは、貨幣形態は、1つの商品に投げられた、残りのすべての商品との間の価値関係
    の反射であることを見てきました。
    その金は商品であるーーそれを分析すると、完全に発展した形から始まる人々のためだけ
    に新しい発見であるに過ぎない。交換の行為は、貨幣に変換された商品にある規定が与え
    られますが、それは価値ではなく、その特定の価値形態が与えられます。
    これらの2つの異なる事柄を混乱させることによって、金や銀の価値が虚偽(想像的)であ
    ると考える作家もいます。」

     <マルクスは次を示して自分が何を語り、この交換過程の論理進行を確認しています。>

      <15段落>
    17世紀の過去数十年間、すでにお金は商品であることが示されていましたが、この段階は分析
    の幼少期に過ぎません。
    難しさは、お金は商品であることを理解することではなく、
      ③商品がどのように、
      ④なぜ、
      ⑤そしてどういう意味で商品がお金になるか
      を発見することにあります。」

        その確認の上に、結論をこう述べたのです。
       <最終・16段落>

    ① 私たちはすでに、価値の最も基本的な表現から、
      x商品A = y商品B、
    ②他の物体の価値の大きさが表現されている物体は、自然によって与えられた社会的性質
     として、この関係とは独立して同等の形態(等価形態)を持つように見える。
    ③私たちは最終的な設立までこの偽りの姿を追って行きました。これは、普遍的な同等の形態
     が特定の商品の身体的形態で特定され金銭形態に結晶化されるとすぐに完了します。
    ④ある商品は、他の諸商品が自分たちの価値を全面的にこのある商品で表すがゆえにはじめて
     貨幣となる、とは見えないのであって、
    ⑤逆に、この商品が貨幣であるがゆえに他の諸商品が自分たちの価値を全面的にこのある商品
     で表している、というように見える。

      「他の諸商品がその価値を一商品によって全面的に表示するので、その商品ははじめて貨
      幣になるのだとは見えないで、むしろ逆にその商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品は
      その商品で一般的にそれらの価値を表示するように見える。<新日本新書P159>

      しかし、この既成訳文からでは、マルクスが何を批判しているのか?まず理解できない!

      <次の対訳をしてみる>
      起こるように見えるのは、        What appears to happen is,
      金塊はお金になるのではなく、      not that gold becomes money,
      他すべての商品の共通な表現の結果として in consequence of all other
                           commodities expressing
      それらの価値は、            their values in it,
      しかし、反対に、            but,on the contrary,
      他のすべての商品が普遍的に表現している that all other commodities
                          universally express
      彼らの金塊の価値、           their values in gold,
      なぜなら、お金ですから。        because it is money.

      <上記をまとめると>
      ここで、起こることが次のように見えますが、
      その中にその価値を表現している他のすべての商品の共通の結果として、金塊はお金にな
      るのです。
      しかし、反対に、他のすべての商品を普遍的に表現している彼らの金塊の価値、それはお
      金(貨幣形態)ですから。

      もうすこし、次のことーー上記のグーグル訳のおかげさまで、次の対比ができました。
     a 江夏訳ーある商品は、他の諸商品が自分たちの価値を・このある商品で表すがゆえにはじ
      めて貨幣となる、
     b 新日本ー他の諸商品がその価値を一商品によって全面的に表示するので、その商品ははじ
      めて貨幣になる
     c 杉本ーその金がその価値を表現している他のすべての商品の結果(一般的価値形態・商品
      世界)として、not that gold becomes money,金塊はお金になるーーはずなのに、
      そうではなく、逆に、他のすべての商品が普遍的な価値表現している・
      金 their values in gold, であるため、
      お金 because it is money.で商品の価値を表現するーーのです。
     d 英和訳ーわれわれはこの誤った考えに基づく外観をその最終的な設定にまで追い詰めた、
      このことは万人共通な等価形態[同等形態]が一特定商品の身体的形態と一体化するよう
      になるや否や完璧となる、そしてこのようにして貨幣ー形態に結晶化するや否や完璧とな
      る。
      起こっているらしいのは、金が貨幣になるということではなく、すべての他の諸商品がそ
      れらの諸価値をそれ[金]の中に表わす結果、そう[金が貨幣になるということ]ではな
      く、それに反して、すべての他の諸商品が万人共通的にそれらの価値を金の中に表すとい
      うこと、なぜならそれ[その商品である金」は貨幣であるから。
      この過程の中間段階は結局消え失せてその後に何も痕跡を残さない。」<英和訳資本論>

      杉本ーーここで、a bとc d の比較をしてみると次のことが理解できる。
          a b は等価形態の謎を解いたことで、倒立像ではなく正像があることを示したのですが、
      この正像が、一般的価値形態であり、その規定が交換過程での転倒のもたらした倒立像で
      はなく、<商品世界での正像の貨幣形態>を示しているーーことを対象化していないの
      で、現実の転倒した映像をもたらしている<物象化=物象の人格化>を示せていないので
      す。

      先のーー15段落で提示された、次のマルクスの我々への提起である、
      <難しさは、お金は商品であることを理解することではなく、
      ③商品がどのように、④なぜ、⑤そしてどういう意味で商品がお金になるか
      を発見することにあります。>
      に対しての回答を、ここにしていることをーー見出さないと何を言いたいのか分からない
      のです。
      上記と対比しての、ここでの論理構造を示すと次のようになっています。
      ③その価値を表現している他のすべての商品の結果(一般的価値形態・商品世界)が、
      ④金塊をお金にするーーはずなのに、そうではなく、
      ⑤交換過程では、このお金が、他のすべての商品の普遍的な価値表現しているため、お金
      で商品の価値を表現するーー主語の入れ代わった転倒象ーーを示しているのです。

      ⑤ーーには何が述べられたのか?
      商品世界が形成され・一般的価値形態があることで、その反省規定として形成される一般
      的等価形態に有る一商品が、この商品世界から排除されることで得たーー貨幣商品の規定
      がーーこの第四の形態である貨幣形態では、一般的価値形態とこの貨幣商品である等価形
      態とが、対極的に分離することで成立していたのです。これが交換過程の語る前提になっ
      ています。
      ところが、この貨幣商品・金は、価値形態論で規定された、一般的価値形態・そして一般
      的相対的価値形態の反省規定としてのみ、対極的に成立してきた性質を、ところが交換過
      程に入ると、この<等価形態の謎性>、商品世界とは別個に、自律的姿態・形態のままに
      もっている幻像をこそ私達に見せるのです。
      それが、in gold 金にではなく、お金 because it is money.で商品の価値を表現
      するーーのです。
      ここには、一体何が?示されているのか?
      a一般的価値形態を前提にそこから除外されたリンネルが商品世界の価値を表現す、
      b要素形態では、上着が価値形態の規定を受けてのみリンネルの相対的価値表現ができる、
      c商品が価値形態であり、使用価値である限りの姿態を持つかぎりで、第一の形態のみな
       らず、第三の形態でも商品形態をもつーー
      このa b cに示される物象の社会関係にての物象の判断が、適用されてないのです。
      もう一度交換過程ではーーこのように物象の判断が、示されたのが役目不要なのです。
      ①左極でまず示されて、次に、その反省規定として、
      ②まず上着は直接的に価値形態であることで等価形態と示されて、その次に、
      ③物象の社会関係から、交換過程では物象の人格化への転化を見出すーーことを
      マルクスは、我々に要求しているのです。
      ④だから、物象の人格化を示す交換過程にての下では、一商品貨幣は、左極の反省規定を
      受けずともこれまでの、価値形態での過程が、前提される仮象・転倒象を得ていたので
      す。

     だから、ここを、交換過程論としてのみ読んだのでは、マルクスのこの提起の半分も理解で
     きないのです。
    a価値形態論での第四の形態での転倒とーー第三の形態との対比が、まず問われるのです。
     一般的価値形態が貨幣形態に移行したのは、等価形態にあるリンネルが、自然的形態が社会
     的に癒着している貨幣商品・金に最終的に座席を譲ったーー事によるとの提示でした。
    bこの貨幣形態は直ちに、20エルレのリンネル=2オンスの金の「価格形態」を得て、
                20エルレのリンネル=2ポンド の形式に移動していたのです。
    cこの交換過程論にて検討されていることは、上記のことを見出さなければ、
     20エルレのリンネル=2ポンド と示される全くの錯誤・ちんぷんかんぷんの理解ぶりの
     錯誤への批判ができないのです。
    dこのaとcとの対比から理解できることは、商品世界と一般的等価形態の対立として示され
     る価値方程式は除外され、明白に、諸商品が主体・価値表現する主体ではなく、
     ①自立化した等価形態 ②等価物貨幣が、「あらゆる人間労働の直接的化身」として・主体
     となる転倒を発生させたーーことだ!ーーということなのです。

      <そこで、本文次の理解の仕方の正しさです。>
    「プロセスの中間ステップは結果で消滅し、後ろに痕跡は残されません。
    商品は、自らの価値が、企業の既存の商品で、自らのイニシアチブなしに、完全に表現されて
    いることを発見します。
    これらの金と銀は、地球の腸から出てくるのと同じようにすべての人間の労働の直接的な化身
    です。   したがって、お金の魔法。」

     これが、
     ①交換過程での等価形態ーーではなく、自立的な価値形態を持つ等価物の謎であり、
     ②「プロセスの中間ステップは結果で消滅」しているお金の魔法であり、
     ③物象の人格化ー人格の物象化と示す交換過程の冒頭一段落の提示への説明ーー理解です。

     このように交換過程では、「物象の人格化」によって、物象の方が主体となり、人間様のほ
     うは、その主体の命ずるままに作動する客体ーーになっているから、<お金の魔法>のまま
     に動かされる、ことを指して、人格の物象化、なのだと思います。

     <主体ーー客体>の転倒批判をこそ、このように、マルクスは交換過程論にての課題にし、
     追求・提示していたのです。やっと、発見ですね。

     なるほど、主客の転倒批判は、資本ー賃労働関係が、搾取関係ではなく、その関係の再生産
     であり拡大再生産であることは、認識し、そこをこそ私達は依拠することで、宇野経済学の
     労働力商品化論を批判し、労働者階級が、資本家階級に経済的隷属していることを、明示し
     てきた。
     その点の追求が、宇野経批判ーースターリン経済学批判として成してきたことを、その前の
     一章・二章の価値形態論ー交換過程論にてもされていたことを、無念ながら、成し得ていな
     かったのです。
     これは明らかに、歴史的伝統であり、第二インター カウッキィー主義が、その点への批判
     無きがためのものなのです。そしてロシア革命にての社会革命にても、その点への追求が、
     商品批判として、物象化批判として、なんらなし得なかったのです。

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