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      補足と改討    紹介

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月17日(土)15時46分42秒
返信・引用 編集済
       補足と改討 は、次のものでありました。紹介して訂正しておきます。
        <杉本 この論文は、何年も前に、偶然発見して保管していたものです。
    すっかり、再版原稿が、ここにあったことを忘れていたのだが、紹介しておきます。>


    http://8918.teacup.com/rev21/bbs/953
    http://hirofreak.blog.fc2.com/blog-entry-242.html
    『補足と改訂』訂正稿  投稿者:hirohiro  投稿日:2015年 3月26日(木)18時45分10秒
  前回投稿したマルクスの草稿に一部重大な遺漏がありましたので、前回の投稿を削除し、
    こちらを新たに投稿しなおします。申し訳ありませんでした。


             補足と改討    紹介
         マルクスが価値形態論の初版から第二版書き換えのために作成した文書を以下に紹介し
        ます。引用もとは前回紹介した大黒正夫さんの翻訳です。原典との対照はほとんど行って
    いません。(あまりいい翻訳とは思いませんが、時間がないので直しません。)ページ
    付けは一文ごとに行いました。また、以下はすべてマルクスの文章なので引用符はつけ
    ていません。[ ]はMEGA編集者による補足(マルクスの草稿に対して、編集者がつけ
    たページ付け、同じ内容の書き換え異文を示すアルファベットなど)、< >は訳者補
    足です。

     現行版で「相対的価値形態の内実」と題されている部分に限定して紹介しています。

                     [A]
                 §2.)相対的価値形態
              a)相対的価値形態の内容<Inhalt>
    ある一つの商品、たとえばリンネル、の相対的価値表現――20エレのリンネル=1着の
   上着 すなわち20エレのリンネルは1着の上着に値する――において、人は、たいてい、
   量的な関係だけを、すなわちある商品が他の商品と等しいとされる一定の割合だけを、見
   ようとする。その場合、見落とされているのは、異なった物の大きさは、それらが同じ単
   位に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。それらは、
   同じ単位のもろもろの表現としてのみ、同名の、それゆえ同じ単位で計量されうる大きさ
   なのである。(p.61)

                     [A1]
    実際、20エレのリンネル=1着の上着、という表現において、リンネルは上着に等しい
   大きさとして、上着に関係させられている、すなわち、上着に質的に等置されている。リ
   ンネル=上着 が等式の基礎であり、ある一つの商品の、他の違う種類の商品との等置関
   係が、どのような割合で結ばれていようとも、それはその商品の価値関係である。上着と
   リンネルとは、両者が価値である限りにおいて同じ物である。使用価値あるいは商品体と
   しては、リンネルは上着と区別される、価値としてはリンネルは上着と同じ本質の物であ
   る。(p.61)

                     [A2]
    実際、表現ーー20エレのリンネル=1着の上着ーーにおいては、リンネルと上着とは同
   名の大きさとして意味をもっている。リンネル=上着 がこの等式の基礎である。20エレ
   のリンネル=1着の上着であろうと、2着の上着であろうと、x着の上着であろうと、どの
   割合においても、商品リンネルは、同じ性質の物としての自分と等しい物としての、異な
   る種類の商品・上着と完成させられているのであり、すなわち、リンネルは上着に質的に
   等置されているのである。

                      ◇

    4)何かある商品Aと異なる種類の何かある商品Bとのこの等置は、一商品の他の商品
   との価値関係である。使用対象としての諸商品は、さまざまな種類である、その価値はそ
   れらの単位を、すなわちそれらの共通の実体を、かたちづくる。しかし、商品Aが他の商
   品Bと価値関係にはいることによって、それ自身の価値が現われるのである。もしも、そ
   れ自身価値でないならば、価値としての、すなわち自分と等しい物としての他の商品と関
   係することはできないであろう。したがって、この関連はそれ自身の価値の一表現なので
   ある。(p.62)

   5)さて、ある一つの商品A、例えばリンネルは、どのようにして、自分と等しい価値の
   物すなわち自分の等価物としての、何かある他の商品B、例えば上着と関係するのだろう
   か。
    答えは簡単に商品価値の本性から明らかになる。ある一つの商品は、それが単に、それ
   の生産の支出された人間的労働力の物的表現、物質的外皮である限りにおいて、したがっ
   て、人間的労働そのものの、抽象的人間的労働の、結晶である限りにおいて、それは価値
   なのである。そのことは、石炭が暖房材料としては、それによって吸収された太陽光線の
   物質外皮に他ならない、というのと同じことである。
    したがって、ある一つの商品A、例えばリンネル、は他のある商品B、例えば上着と、
   価値として等置されることができるのは、その他の商品、上着がこの関係のなかで単なる
   価値物として通用する、すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通
   用する、あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物もあらわさない物として通用
   する限りにおいてのみである。(p.62~63)

                    [B]
               [7]2)相対的価値形態
              a)相対的価値形態の内実
   ある一つの商品の簡単な価値表現が2つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいる
   かをみつけ出すためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立
   に、考察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値
   観のうちに、二種類の商品の一定分量どうしが等しいとされる一定の割合だけを見てい
   る。その場合、見落とされているのは、異なった物の大きさは、それらは同じ単位に還元
   <Zurückführung>されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。
   それらは同じ単位のもろもろの表現としてのみ、同名の、それゆえ同じ単位で計量されう
   る大きさなのである。
    20エレのリンネル=1着の上着であろうと、=20着の上着であろうと、=x着の上着で
   あろうと、すなわち、一定分量のリンネルがどれだけ多くの上着に値しようと、どれだけ
   少ない上着に値しようと、このような割合はどれもリンネルと上着とは、価値の大きさと
   しては同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねにふくんでい
   る。リンネル=上着 が等式の基礎である。したがって、異なる種類の商品の質的等置



   が、価値関係の現実的内容である。今や、この内容が現象している形態を考察することが
   重要である。
    商品の分析はわれわれに次のような結論をあきらかにした。すなわち、価値としては全
   ての商品は、その肉体の様々な多様性にもかかわらず、同じ単位のたんなる表現であり、
   すなわち質的に等しい、ということである。しかしながら、商品自身はあいかわらず、そ
   の価値性格のほんの少しの徴候をも自分からは示すことなく、生まれたままの自然形態に
   とどまっている。(p.63)

                    [B1]
    他方、ある一つの商品、たとえばリンネルが、他の商品、たとえば上着と価値関係に入
   るや否や。つまり、この関係はそれ自身の他の商品との関係である。(さきに分析がわれ
   われに語ったことを、いまやリンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけ
   に通じる言葉で、商品語で、その思いを表現する。もちろん、商品語もまたさまざまな放
   言をもっている。たとえば、ロマンス語の動詞valer、valoirはドイツ語のWertseinと比べ
   て、商品Aの価値が表現されている異なった種類の商品Bとの価値同等性関係が、商品A
   自身の関連であることを、より適切に表現している。)使用価値あるいは使用対象として
   はリンネルは、そのごわごわした肉体によってすでに感覚的に使用対象・上着とは区別さ
   れている。しかし、商品としてはリンネルは単に使用対象、商品体であるだけではなく、
   同時に何か全く違った物、見えない物、つまり価値である。リンネルは異なった種類の商
   品・上着と関係することによって、自分と等しい物としての上着と関連することによっ
   て、上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで、自らの価値存在を表わす
   のである。リンネルは上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。
   (p.64)

                   [B2]
    他方、ある一つの商品、たとえばリンネルが、他の商品、たとえば上着と価値関係には
   いるや否や。この関係は、その商品自身の他の商品に対する関係である。使用価値として
   は、リンネルはそのごわごわした肉体によって感覚的に使用価値上着とは区別される。し
   かし、それは商品である。それゆえ物質的に普通の使用物であるばかりではなく、より高
   度な、見ることの出来ない本質――価値、でもあるのである。リンネルはある一つの異な
   った種類の、したがって明かに自分とは違った商品上着と、自分と等しい物として関係
   することによって、上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで、リンネル
   はこの自らの価値存在を表すのである。リンネルはその無愛想な見かけにもかかわらず、
   上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。さきに、リンネル価値の分
   析がわれわれに語ったことを、リンネル商品が上着との関係を通して、いまや自ら語るの
   である。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ち明け
   る。もちろん、商品語も、ヘブライ語以外にもさまざまな、あるいはより的確なあるいは
   それほど的確でない方言を持っている。そこで、たとえば、ドイツ語のWertseinはロマン



   ス語の動詞valere、vaker、valoirと比べて、商品Bとの同等性関係を、商品Aの固有
   の価値関係として表現するにはあまり明示的ではない。
    ≪Pari sa vaut bien une messe≫(p.64~65)

                   ◇

    それゆえ、価値関係ーー他の商品との交わりーーのなかでリンネルの価値は使用対象性
   とは異なった表現を獲得する。しかし、どのようにしてか。リンネルが上着に等しいもの
   として表現されることによってである。それはちょうど、キリスト教徒の羊的性格が神の
   仔羊との同等性において現れるのと同じである。
    しかし、上着、上着商品の身体は一つのたんなる使用価値である。それゆえ、リンネル
   の価値とはそれとは反対のもの、他の何らかの種類の使用価値、それが何でありとにかく
   使用価値で、表現される。しかしながら、使用価値上着が価値を表現していないのは、リ
   ンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは、同じ上着がリ
   ンネルの自分との関係のなかではこの関係の外部におけるよりも、多くの意味をもつ、と
   いうことを示すだけである。ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではそ
   の外でよりも多くの意味をもつように。
    上着の生産においては、裁縫労働の形態のもとに、人間的労働力が実際に支出され、し
   たがって、上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ、この面からすれば、上
   着体は価値の担い手である。もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり
   切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなか
   では、上着はただこの面だけから通用する。リンネルが自分に等しい物としての表現を通
   して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ、あますところなく表現
   された、ということである。
    価値としては、リンネルはただ支出された人間的労働力だけから成り立っており、そし
   てそれゆえ、透明に結晶した労働凝固体を成している。しかし、現実にはこの結晶体は非
   常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しカテゴリーもどの
   商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間的労
   働ではなくて、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体を
   なしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と結びついているのである。それゆ
   え、リンネルをそれの生産に支出された人間的労働力の単なる物的表現として把握するた
   めには、それを現実に物としているものすべてを無視しなければならない。それ自身抽象
   的でありそれ以外の質も内容ももたない人間的労働のそのものの対象性は、必然帝に抽象
   的対象性であり、一つの思考物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。
    リンネル商品は、当然のことながら頭脳をもたないのであるから、その価値を形成して
   いる労働がどの種類のものであるかを表現するために、他の方法でそれをはじめる。自分
   い等しい物としての、価値物としての上着との関係は、上着に潜んでいる労働をリンネル
   にひそんでいる労働に等置する。ところで、確かに、上着をつくる裁縫労働はリンネルを
   つくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。しかし、織布労働との等置は、裁縫



   労働を、両方の労働のなかの現実に等しい物に、人間的労働一般という両方に共通な性格
   に、実際に還元する。この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限
   りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間的
   労働であること、が語られるのである。
    もっとも、リンネルの上着との同等性関係がリンネルに含まれている労働の抽象的人間
   的性格を表現するだけでは充分ではない。人間的労働すなわち流動状態にある人間的労働
   力は価値を形成するが、価値ではない。それは凝固した状態で、対象的形態で、価値にな
   る。
    ところで、リンネル価値の対象的形態とはなんであろうか?上着形態である。リンネル
   の価値関係のなかで上着形態は、すでに見たように、価値体として、その自然形態上着形
   態が価値形態として通用する。使用価値としてはリンネルは上着とは異なっている。価値
   としてはリンネルはそれとは反対である。しかし、上着がリンネルにたいして価値を表わ
   すことは、同時にリンネルにとって価値が上着で表されていることなしには、できないこ
   とである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして陛下にたいする態度をとることは、同時
   にAにとって陛下がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その
   他なお多くのものが、国王の交替のたびにかわることなしには、できないように。
    リンネルの上着にたいする価値観において上着は普通の商品体であると同時に、幽霊体
   であり、抽象的人間労働の蛹化である。したがって、この関連の内部では、上着は、その
   ウールのもつふくよかさも、最新流行のスタイルも通用しないし、聖なる香りを嗅ぐこと
   もないし、その使用価値としての上着を飾る有用な肉体的精神的特徴も、通用しない。ま
   さしく、上着の位置にリンネルとは違う商品体であればどの商品体であっても、鉄であろ
   うと、小麦であろうと、臭い焼肉であろうと、人糞肥料等々であろうと、何の問題もなく
   とって替わることができるのである。
    それゆえ、自分の価値と等しいものとしての、等価物としての上着との関係を通してリ
   ンネルは、自分の自然形態とは切り離された価値形態を獲得する。一面ではこの関係は、
   リンネルの価値を形成している労働の抽象的人間的性格を表現するが、他方、今価値実体
   が対象的形態をもつ。上着と等しいものとして、リンネル価値は、リンネル体とは感覚的
   に全く対照的である。
    したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態、商品種
   類Aの価値鏡となる。(注18、人間について)商品Aが肉体化した価値としての、すなわ
   ち人間的労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは自分と違う商品
   の肉体を自分自身の価値表現の材料にする。そのようにして、ある一つの商品の価値があ
   る異なった種類の商品の使用価値において表現され、相対的価値の形態を受けとる。
   (p.65~67)





 
 

 相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す その3

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月16日(金)23時15分40秒
返信・引用 編集済
          http://8918.teacup.com/rev21/bbs/1598
    2018年 1月19日に同名の論文を投稿したが、再度挑戦し、改稿してみました。

     初版での、第一の形態の論旨を見つけ出し確認する

    ①2段落でのーー同等性関係と価値関係の区別の提示ーー
      <杉本 マルクスの第二段落の前半部a b cは、初版付録での同等性関係の提示と同
      じく同等性関係です。対して次の後半部は、価値関係の説明であります。
      ここに両者の区別を見出さなければ、マルクスの意図がこの区別の対象化による物象の判
      断の特異性を理解することができないのです。>
    前半部
     a「リンネルが自分を質的に上着に等置するのは、リンネルが自分を上着に、同種の人間
      労働の対象化、すなわち自分自身の価値実体のの対象化として、関係させるからであり、
     b そしてまた、リンネルが自分を、x着の上着ではなく一着だけのの上着に等置するの
      は、リンネルが価値一般であるだけでではなく一定量の価値でもあり、
     c しかも、一着の上着が二〇エレのリンネルとちょうど同じだけの労働を含んでいるか
      らでもある。リンネルは、上着にたいするこういった関係によって、ひとたたきでいく
      ひきもの蝿を打つ。」
    後半部
     ①「リンネルは、自分を他の商品に価値として等置することによって、自分を価値としての
      自分自身に関係させる。リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによっ
      て、同時に、自分を使用価値としての自分自身から区別する。
     ②リンネルは自分の価値量を・・上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の
      直接的存在とは区別される価値形態を与える。
     ③リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによって
      現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのである。」

     このように、前後を比較してみれば、明々白々に、マルクスが同等性関係と価値関係との区
    別がどのようになされているのか?をこそ、我々に提示しているのに、多くの人々は、何らこ
    こを論じようとしないのです。
     ここではーーこの①は、② ③の記述の説明と理解しなければ、全く理解不能です。

      ここには、次の説明ができます。
      <a自分を他の商品に価値として等置する b自分を価値としての自分自身に関係さ
      せることで同時に自分を使用価値から区別するーー書かれた字面どうりに、
       <リンネルは自分を価値としての自分自身に関係させることによって、>
      他者上着をリンネルの価値形態と判断することで、使用価値リンネルが、自身の自然的形
      態から分離された対象的形態を得る、ことで、価値形態・使用価値の二つの規定にて商品
      形態を得たのです。>

      前半部a b cは、同等性関係であり、後半部は価値関係であり二つの対照において、
      リンネルの価値形態が、上着形態として成立しているのです。
      <マルクスが、価値形態論冒頭の第二段落で掲げたのは、私が指摘したように、二つの関
      係についての区別であり、この価値関係にあっては、リンネルは自らの価値存在を上着で
      表現し、上着は価値の存在形態となる、二つの物象の役立ちにおいて、上着は価値形態と
      判断されるのです。このように、物象の役立ちと判断によって、使用価値と価値形態の商
      品形態が成立することが、ここに提示されているときに、久留間先生の提示は、同等性関
      係の提示でしか無い<リンネルの上着への等置ヘ批判論>を、榎原さんは提示すること
      で、この肝心の価値形態の物象による判断ーーへの理解が消えているのです。>

        初版付録には、価値関係とは?との質問を発して、こう答えている。
        「価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現する商品の、
        価値または価値存在の表現なのである」

         《初版付録》 〈 b 価値関係。
                   上着がリンネルと同じものであるのは、ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのこ
                   とである。だから、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ、ま
      たは、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置されるという、このことは、上着
      がこの関係において価値として認められている、ということを表現している。
      上着はリンネルに等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにおいてのこ
      とである。だから、同等性関係は価値関係なのであるが、しかし、価値関係は、なにより
      もまず、自分の価値を表現する商品の、価値または価値存在の表現なのである。
      使用価値または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これに反して、リンネ
      ルの価値存在は、上着という別の商品種類がリンネルに等置されるところの、またはリン
       ネルと本質の同じものとして認められるところの、関係において、出現し、自分を表現す
      るのである。〉(国民文庫版134-5頁)
      このように、初版・再版・仏語版・英語版も全て、価値物上着の規定に発するのでは
      なく、リンネルの価値存在の表現とは?との問に出発点があるのです。

    初版3段落
      「じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能
      であるということである。
      上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というそのそれの現物形態において、
      他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をも
      っているのである。」

    ここが要注意!価値が上着である、だけでは、交換可能性の形態を受け取っていないのです。
    等価物の役立ちができていないのです。
       上着は価値形態であることで、両極にて、次のように、役割をしている。
       ①左辺に交換可能性の形態を受け取り、商品形態を示すことで、
       ②その右辺に、上着の現物形態において、
                「他の商品との直接的な交換可能性の形態」、
                交換可能な使用価値であり、等価物の形態を受け取ったのです。

    再度ーー上着が価値であることだけでは、等価物になっていないのです!!何故か?
       ①リンネルの価値形態が上着として規定されることで、
       ②労働生産物は使用価値と価値の二重の規定が表現されているのであり、
                      ③使用価値と価値形態の二重の商品形態が示されることで、
                      ④価値方程式の左辺に、リンネルの上着に対する交換可能性の形態ーーを受け取り、
                      ⑤その右辺に、交換可能な使用価値・等価物の形態を、上着はその自然的形態の
          ままに直接的な交換可能な形態を受けとっているのです。

     このように、両極の形態が、両極での役割が必要なのです。
    こんなにも短い提示にてマルクスは、価値形態論のすべてをここに示しているのです。

    上記の⑤は、④の交換可能性の形態があって、前提にされていてようやく獲ることができた。
    このことは、この①~⑤の流れ・全体性においてのみ理解できることなのです。

          <リンネル=上着の価値方程式にて価値は上着という転倒した規定を受け取るからこ
        そ、リンネルの上着での相対的価値表現である左極にて、上着はリンネルの価値形態
           となるのです。>
           <久留間説は、この上着は価値規定として提示されるのが、右極と思考>

    このように、この① ②こそが前提にされていて、初めて⑤の直接的交換可能性の形態が、
    与えられるのです。等価物上着は、①~②の流れと、⑤の規定にあるのです。>
    <等価物上着は、直接的に価値であることで次の規定を受け取るのではなく、使用価値で
    ありながらも、直接的に価値形態であることで、直接的な交換可能性の形態を示し、
    等価物の形態と規定される転倒を得ているのです。

   ②久留間先生の議論
    今度は再版での議論です。
     a<リンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体
      としての形態規定を与えることはできる>
    これが彼の言うーー回り道ーーであります。この経過にて、
     b<上着は直接的に価値体の形態規定>を受け取ったのです。
   このaは、はじめに検討してきた初版2-3段落でのリンネルの価値形態として受け取られる
    上着形態のことを論議しているのではなく、また、両極で受け取られる価値形態について論議
    しているのではありません。
    「上着に価値体としての形態規定」ーーとは、この初版を題材にするのではなく、再版での、
    記述のなかで、如何にして、次の規定を受け取るのか?と示している。
    ④右極の上着は、リンネルの価値体としてーー等価物の形態を受け取り、
    ⑤この等価物の形態であることで、上着は自然的形態のままに。リンネルの価値形態である-

   ③<ベーゴマはメンコの価値の現象形態>とは何を意味しているのか?
    しかし、久留間先生が誤解したのは、商品の価値関係において、次の『貨幣論』P112での、
    〈たとえば余分のメンコをもっている凹坊が、それをベーゴマに替えたいと思って、メンコ1
    0枚やるから誰かベーゴマ1つくれないか、と言ったとしても、それが商品の価値関係でない
    かぎり、ベーゴマはメンコの価値の現象形態になりはしない。商品の価値関係を特徴づけると
    ころのものは、「対象化された人間労働としての商品の等置の関係」である(同書66頁)〉
    ーーに示されるのは、価値関係ではなく、同等性関係だということです。

    aなぜなら、価値関係であれば、ーー次のような理解になるのです。
    メンコ10枚=ベーゴマ1であるなら、ベーゴマはメンコの価値の現象形態であるーー前に、
    <リンネルの価値存在が示され、上着はその価値の存在形態>と二つの役割が示されること
    があってその次に、ーーベーゴマはメンコの価値の現象形態であるーーことで、リンネルの
    価値形態が上着形態として示されるからです。3・5段落の事項を無視している。
    ここでは、リンネルに表示される労働が、上着に表示される労働として等置されることが、
    現行版9段落に似せられているのだが、しかし、その前の8段落にて、「リンネルの価値関
    係・・・のなかで、・・・上着が一つの価値」と示され、そして、この次の段落にて次のよ
    うに示されている。

    「・・リンネルの価値関係のなかでは、上着はこの面だけ、それゆえ、体化された価値として
    のみ、価値体としてのみ、通用する。・・・リンネルは上着のうちに同族の麗しい価値魂を見
    てとったのである。しかし、上着がリンネルにたいして価値を表すことは、同時にリンネルに
    とって、価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。」
     (原P66 9段落 新日本出版社P88)

    この上着が価値体と示される現行版9段落の提示は、当然にも、その前の3-5段落を前提に
    し、初版で論議したように、<価値は上着>であることで、リンネルの価値の存在形態である
    ことが、自明な前提になっている。
    5段落では、<上着が価値としてリンネルに等置される>(「価値物」は全くの誤読)ことでの
    意味を、ーー織布労働との等置は裁縫労働を両者に共通な人間労働に還元することで、
    この「回り道」をへることで、リンネル織り労働が抽象的人間労働であることが、語られるー
    ーとしている。
    ここには、抽象の仕方と、その事に伴う物象の判断の仕方が例示されている。
    ここに、価値魂であることでの「価値体」とされる上着の規定は、単に人間労働の凝固体とさ
    れるのではなく、5段落 での「回り道」を経る物象の判断の成果と示されることで、
    この9段落にても、同じことが為されているとのーー商品語ではない物象の語りなのです。

    この9段落にて、①「価値魂」批判がなされ、②<価値が上着という形態>を示すことで、
    リンネルの価値形態として、「上着形態が価値形態として通用する」(10段落)ーーと示され
    ている。

    この再版9段落の点検にて、上着が価値体であることは、価値魂と批判され、リンネルが価
    値形態を上着形態として、左極で受け取るために、<価値体>上着では、何らの役立ちもして
    いないことが、明快に説明されたのです。

      <リンネルは上着のうちに同族の麗しい価値魂を見た>この批判点への認識が、
      先生には無いのです。>
    再版では、このように「価値体」上着の規定では、リンネルの価値形態として交換可能性の形
    態を受け取らずーーと示されているのですから、久留間先生は、等価形態の論理へと、誤った
    道を進んだのです。

    再版での、第一の形態での回り道の問題の解決点は、以上であったのです。
    この未だに論争が決着を見ない初版での問題点の解決事項は、この再版五段落の「回り道」に
    照らせば、半分は明らかです。

   ④「上着に価値体としての形態規定を与えることはできる」ーー
     ーーとは、初版での回り道と混同した等価形態の形成の論理ではないのか?

    ここで、<宇野ーー久留間の価値論論争>とは何であったのか?検討してみよう。
    『貨幣論』にて、再び久留間先生が提起しているので、ここに提示します。

      「したがって、リンネルに上着が等置されるという等置はリンネルが行なう等置である。
      これは言い換えれば、リンネルが自分に上着を等置する、ということに他ならない。
      「自分に上着を」を逆にして「自分を上着に」としたら、どういうことになるか。リンネ
      ルが自分を上着に等置する。これは結局上着=リンネル という等式をリンネルが、つま
      り右辺の商品がつくる、ということに帰着します。これはつまり、商品は自分から勝手に
      等価物になれるということです。はたしてそういうことは可

      【P114】
      能か。言うまでもなく、まったく不可能です。つまり、商品は自分から進んで他商品の等
      価物であると称してみても、それはその他商品にとって通用しないまったくの「独りよが
      り」でしかありません。直接には使用価値である商品が他商品に対して、いきなり価値体
      として通用することはできないのです。
      だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上
      着に価値体としての形態規定を与えることはできる。そしてこの形態規定における上着の
      身体で自分の価値を表示する、あるいは、この形態規定における上着の身体を自分の価値
      の形態にすることはできる。
      「それは、直接に自分に対してすることができないことを、直接に他の商品に対して、し
                   たがってまた回り道をして自分自身に対して、することができる」(『資本論』Ⅰ、初版
                   20頁)のです。これはけっしてリンネルの「独りよがり」ではありません。これによっ
                   て、現に上着はリンネルに対する直接的交換可能性を与えられているのです。このように
                   リンネルが「自分を上着に等置する」ことと,「自分に上着を等置する」こととのあいだ
                    には、決定的な違いがあるのです。」(『貨幣論』P113~114)
       http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2 貨幣論 前篇

    久留間先生のこの、誤解に満ちた論理が何を意味しているのか?ーー論じます。
        「だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、
      上着に価値体としての形態規定を与えることはできる。」

    この提起に対しての疑問を出してみよう。
   A なるほどリンネルは自らを価値とは示せないのだから、(上着を価値ではなく)価値上着を
    自らに等置することで、その他者にて自らの価値表現をします。
    そのさい、aリンネルの価値形態が上着形態として形成されることで、
         b交換可能性の形態が形成され、リンネルの価値表現がなされます。
    このように、次の、他方からだけの ①リンネル価値の使用価値上着による価値表現
                     ②使用価値リンネルの価値上着での価値表現ーー
    ではなく、両者の構成する価値関係からの提示であることから、ここに両者の役立ちがあるこ
    とでの左極での、価値形態・交換可能性の形態ーーのこの規定の成立があったのです。
    ここでの<価値上着>の役立ちは、価値関係がもたらす、リンネルの相対的価値表現という構
    成での反省規定なのです。ここでの二つの役立ち、への最大の注意!が必要です。

    <価値上着>とのリンネルの反省規定を受け取ることでの・・上記の等価物上着の役立ちは、
    以上に示されているように、<リンネルの価値形態>との規定を受け取ることであります。
    <その際、価値上着であることで価値形態を受け取る上着は、使用価値であるはずもなく、
    価値体としての素材的内容・単に抽象的人間労働の凝固物との規定にあります。>

    それが第一です。このことは、自ずと次に示した、事項の再確認となります。
        価値方程式の左辺に交換可能性の形態を受け取り、
            その右辺に、交換可能な使用価値・等価物の形態を、上着はその自然的形態の
       ままに直接的に交換可能な形態を受けとっているのです。
    ここに説明されている事柄こそが、「回り道」ー初版での説明であります。

   B 二つの商品の役立ちにて起されたことをここに見出すならば、等価形態については、左極で
    形成されたリンネルの<価値形態である上着>に対しての反省規定として、あります。
    aそこで、右極での価値形態であり、交換可能な使用価値・等価物の形態としてあります。
    bこの右極での価値形態の形成は、価値上着の役立ちとは区別されるものであり、
    c物象からのこのaの反省規定である、「価値形態」に依っている。
    dこのように、上着の姿態が直接的に価値形態であると判断されることで、
    e単に質量的に上着は価値体としての役立ちをなしている>のであり、
    fそのことで、上着は、価値表現の材料の役立ちがなされるのです。

     ここでは<単に質量的に上着は価値体としての役立ちをなしている>
    ーーとのこの意味は、とっても分かりづらい。
    右極で受け取る左極の反省規定としてのーー自然的形態のままに価値形態とされることで、
    等価物の形態を受け取ることの結果として、上着は価値体であり、そのことでまた価値表現の
    材料となる・・とのーーマルクスの提示であるのに、しかし、久留間先生の次の理解なのです。
        <等価物ではなく、等価形態上着がリンネルに等置される>ーーと。
    こうして、やっと、等価形態の形成が、左極でのリンネルの価値形態と形成される反省規定
    として価値形態上着と示されるーー理解困難な記述への理解が示されることで、久留間さんの
    ーー上着に価値体としての形態規定を与えるーーに返答ができます!!!

   C 再版での、第一の形態での回り道の問題の解決点は、どうであったのか?
    この未だに論争が決着を見ない問題点の解決事項は、この再版五段落の「回り道」の検照にて
    次のことが明らかになります。

    <杉本提案 再版五段落での英訳本 直訳での提案>
      コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者のもの
      と同じにする。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の具体的
      な労働であることは事実です。
      しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
      に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
      この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り込む
      限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労働であ
      る。それは価値創造労働の特定の性格を救済するだけのさまざまな種類の商品間の同等性
      の表現であり、これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間
      労働の共通の品質要約の仕方なのです。[18]

    <こういった理解のできるーーことを教えてくれた仏語版でのよりスマートな提起です。>
      「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネルに
      含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。
      だが、機織りに対する裁断の等式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間
      労働という性格に還元する。
      このような回り道をして、機織りは、それが価値を織るかぎりでは衣類の裁断とは区別さ
      れないということが、すなわち、抽象的人間労働であるということが、表現されるのであ
      る。したがって、この等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自の性格を表現してい
      る。」(『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

    このように、両訳ともに、a b cの3行程があることを示しています。
       a裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元するーー回り道
       bリンネルが価値を織り込む・・機織りは、それが価値を織るーー限りで、
        リンネルの価値を構成する労働の独自の性格である抽象的人間労働を表現してる、と
        示されている。
       cだからこの等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自の性格を表現している。
    このようにab の事柄の進行を示すことで、cに示される物象の判断が構成されたのです。
    英訳本ーー仏訳本を検討すると、独訳再版での回り道に対しての、相違は無いのです。

    上記の回り道を進行して、判断してゆくことに対して、初版での回り道との違いをしっかりと
    把握する必要があります。

    初版での回り道は、交換可能性の形態が示されることで、上着がこうしてやっと直接的交換可
    能性の形態を獲得することで、果たされたのです。
    このように、久留間さんは、等価物上着が、a「回り道」をしての、b自然形態が価値形態で
    あることでの、c<使用価値上着が価値表現の材料としての役立ちをなすこと>での、
    d直接的交換可能性の形態を受け取ることを、議論しているマルクスの説をーー誤った完成形
    態から見ることで、この両極の対立を捨象しているのです。

     このa~dの経過上の姿態を、単に自身の主観的提示の<価値体である等価形態>
     ーーと彼は、誤りの認識をすることで、見えないのですが我々に表示しているのです。
     このように久留間説は、等価物ではなく、等価形態上着がリンネルに等置されるのです。

    この事柄が、戦後以来の価値論論争にて宇野理論に対抗して主流派の理論として認められたの
    であり、今日ではマルクスの価値形態論は、久留間理論が自明なものにされている。

   D 久留間先生の等置の考えは、明らかに、①上衣が価値としてリンネルに等置され、
    ②自ずと価値体としても同じく上着はリンネルに等置されるーーということではありません。

     イ<リンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体
      としての形態規定を与えることはできる>
      これが彼の言うーー回り道ーーであります。この経過にて、
     ロ<上着はーー直接的ーーに価値体の形態規定>を受け取ったのです。何故か?

    このイは、はじめに検討してきた初版2-3段落でのリンネルの価値形態として受け取られる
    上着形態のことを論議しているのではなく、また、両極で受け取られる価値形態について論議
    しているのではありません。

    「上着に価値体としての形態規定」ーーとは、等価物上着が、未だに価値形態を受け取ってい
    ないにかかわらず、あるいは左極との間、リンネルが上着との間に形成する価値関係を無視し
    「他商品たとえば上着を自分に等置する」ところの、関係において、右極の上着は、リンネル
    の価値体としてーー等価物の形態を受け取り、この等価物の形態であることで、リンネルの価
    値形態であるーーと彼の自作自演を示しているのです。

    何故、誤りなのか?
    次の示されることで、ロの事柄はすでに、次のようにあきらかです。
    ①上着は直接的に価値形態であることで、
    ②具体的労働が抽象的人間労働の単なる実現形態を示す。
    ③等価形態のこの第二であり第三の独自性は、次の事柄があって、なされているのです。
    上着が価値であることを、即ち、リンネルの価値表現において、裁縫労働がリンネル織り労働
    と同じである労働の凝固体であることを示す、<価値鏡>になることで、<価値体>となって
    いる。
    このように、リンネルの価値表現において、上着は、等価形態の役立ちをなすためには、
    左極で示された価値形態としての<価値鏡>の役立ちを、右極でも行うのです。

    このように、久留間先生の回り道は、論ずる対象を再版5段落としながら、論じていること
    は、価値体としての等価形態の形成なのです。

   E 総括の前に

    半世紀を超えて、久留間説は、次の主張のように、自明なものにされている。
    両極の対立を久留間先生が捨象したことで、初版での回り道をして等価形態を受け取ったこと
    が、消えてしまい、二つの版での回り道の相違も無くなることで、左極での行いであるはずの
    <リンネルの価値を構成する労働の独自の性格である抽象的人間労働を表現してる>との、マ
    ルクスの主張は、右極でのーー価値物上着のリンネルへの等置によりとされることで、まず、
    等価形態の形成が裁縫労働が抽象的人間労働の実現形態とされ、その反省規定により、成され
    ているーーとの全く転倒した説を生み出しているのです。
    これは、久留間理論を継承する 林   氏に代表される政治団体の主張であり、その傘下で
    あった次の堺の「『資本論』を読む会」の主張なのです。

        第16回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
         https://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/d160f0ddaab074d94556e551f75443dd
     < ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。
    リンネルは価値としては抽象的人間労働の凝固ですが、しかしそれはリンネルそのものを見る
    だけでは分かりません。しかしリンネルは、直接には出来ないことを、間接的には、すなわち
    「回り道を通って」なら出来るということです。
    リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいし
    て、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができる》(初版本文39頁)
    のです。
    すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上着をつくる裁縫労働を抽象的人
    間労働の直接的な実現形態にし、そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわち
    それが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見
    える形で表すことが出来るということです。ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なもの
    が、抽象的人間労働という抽象的一般的なものの特定の実現形態として意義をもっているので
    す。>

    <あと、初版4・5・6段落と論じてみたが、あまりに長いので、展示ができず、最後の結論
    である7段落にて以上の議論ーー回り道ーーが総括されています。>

    <上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、そのことによって、自ら
    の価値を形成する労働を、すなわちそれが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現
    形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るということです。>
    ーーこのように、久留間理論に依拠していると、この「直接的」の形容が、この7段落にて、
    外されている、ことが何ら見えないのです。私もこの作業のなかで、気付かされたくちであっ
    たのですが・・・>

   七段落
      ①「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではな
      い。使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。
      それは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。
      同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、
      すなわち、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあってい
      る諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。」

      ②「・商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態の方は商品が生
      まれつきもっているのである。この形態は商品の現物形態である。価値形態の方は商品が
      他の商品との関係において初めて手にいれるのである。」(初版原P20)

    この初版での難解さ極まれリーーとなるのが、この七段落であります。
    しかし、この難しさは次の歩みを振り返れば理解してゆけます。
    第二の段落に何を確認していたのか?点検してみると、次の事柄との関連が浮かび上がる。

    a同等性関係と価値関係との区別であり、価値上着としてリンネルに等置されるのは、上着が
     リンネルに対して直接的に等置されることを示しているのではなく、
     リンネルの相対価値表現においては、と示せば、単なる量的関係にすぎないので、その質的
     側面としての価値関係においては、価値が上着という反省規定を示しているのです。
    b②このように<価値が上着という反省規定を示している>リンネルは、・・・・自分の価値
     存在に、・・価値形態を与えるーーことで、物象の判断・諸物象の社会関係を示した。
    第三段落では、交換可能性の形態であり直接的交換可能性の形態の両極の形態が成立しており
    第四段落で、使用価値と価値形態が示され、
    第五段落で、労働膠着物は上着であり、上着は、そのなかに人間労働が凝結した形態
    第六段落で、具体的労働が抽象的人間労働の直接的実現形態になっているが、これはなにか?
    第七段落での、回答は、このような2~6段落での論議の集約であり、直接的には六段落への
          回答となっています。

    この回答が、次でありました。
    A<リンネルは、自分の価値量ーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自
      分の直接的な存在とは区別される価値形態を与える> ーーと示されていた。
    B<商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
     ーーーそれは、商品価値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。>

     このA Bの二つの論旨が異なることを、次のように、見出さなければこの七段落の理解は
    不能です。

    ①リンネルの価値存在の表現として、リンネル価値の現象形態として価値形態と判断されるこ
     とを導出するーーことに示されている交換可能性の形態であるーーことと
    ②等価物上着の直接的姿態のままに価値形態とされることで使用価値が価値の現象形態となり
     具体的有用労働が抽象的人間労働の実現形態になることで、等価形態とされるーーのとで
     は、すでに、示したように、両極の形態として、相互に排斥しあうのです。

    このように、七段落での提示は、明瞭であります。
    ここで、次のことが、ここに浮かび上がっているーー事に気づかなければなりません!!!

    ここに、上記の②に示された、六段落でのーー具体的労働が抽象的人間労働の直接的実現形態
    との比較にて気付く、六段落での「直接的実現形態」の省かれた等価形態の第二の独自性の提
    示は何か?ということであります。
    上着はリンネルの価値形態として両極での規定を得ることで、等価形態の成立によって、よう
    やくその第二の独自性が、直接的に示さずとも、示すことが出来るーーという規定の変化を受
    けているわけです。
    そのことで、やっと、再版に見られる、<具体的労働が抽象的人間労働の実現形態>になるこ
    とで、上着はリンネルの対極で等価形態ーーを示すことが出来たのです。

    以上であります。初版の4~7段落の追求は、またの課題にします。
 

南北首脳会談開催を歓迎する

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月 8日(木)23時14分0秒
返信・引用
   投稿日:2018年 3月 8日(木)17時15分 まっぺんです。
  <次の掲示板から転載しておきます杉本>
  http://6305.teacup.com/mappen/bbs/12073

  ■平昌オリンピックが南北首脳を平和路線へと向かわせた

 南北首脳会談が突然決まったことについて、日本のマスコミも政治家も朝鮮の政治体制や過去
の行動などを理由に、様々な偏見に満ちた論評をおこなっています。しかし、この会談が平昌オ
リンピックの直後に提起されたこと、またそのオリンピックの内容がどんなものであったのかを
見れば、あのオリンピック平昌大会こそが今回の首脳会談開催に大きく影響を与えたであろう事
は疑いのない事実です。日本の報道陣も、政府やスポーツ関係者も、「日本がとったメダルの数」
にばかり目を向け、このスポーツの祭典がまさに「平和を求めて」開始されたクーベルタンの理
想にも合致する内容であったことに、あまりにも無頓着だったのではないでしょうか。日米によ
る朝鮮への批判と制裁、それに対抗する朝鮮のミサイル発射と核実験という、互いに非難の応酬
と戦争に向かう危険の高まりの中で、日米に同調しながらも同じ朝鮮民族の同胞と隣り合ってい
る韓国は、一時は日米と歩調を合わせて軍事エスカレートにも向かいましたが、このオリンピッ
クを機に、大きく「平和路線」へと舵を切り直したように思われます。

   ■南北民衆の平和と統一を求める気持が両国首脳を動かした

 2月24日に東京文京区民センターで開催された集会で、韓国から来日したハン・チュンモク
氏が以下のように発言していました(以下抜粋)。

>開会式では象徴的なことが起こった。南北合同チームが統一旗をかかげて行進した時、全世界
の人たちが立ち上がり、歓呼の声をあげたのだ。しかしその時、安倍首相とペンス米副大統領は
座ったままであった。
 聖火リレーで聖火を掲げて聖火台への最後の階段を登る時、南北の女子アイスホッケー選手が
肩を並べて登っていく場面を見て、90歳の金永南訪問団長が涙を流した。合同アイスホッケー
チームが「ウーリーヌン、ハナダ(私たちはひとつだ)!」と何度も叫ぶのを観てまた涙した。
また北の芸術団が歌うのを南の観衆が聴きながら涙した。
 私たちは大阪からも東京からもオリンピックに参加した。総連からも170人以上が参加し
た。世界中から来た三千の同胞がいっしょに応援した。女子アイスホッケーの試合は8対0で負
けたが、熱狂的に応援し、抱き合って涙を流しながら喜びあった。(引用ここまで)

ハンさんの前に韓国青年同盟のキムさんが、映像を映しながら、実際に9人で平昌オリンピック
を観てきた報告をおこなっていましたが、何よりも南北の同胞が共に応援したことの素晴らしさ
を興奮ぎみに語っていました。韓国の「キャンドル世代」はいまや、政府権力者の思惑を乗り越
え、「北とともに生きる道」を模索しているのだという確信をもちましょう。その彼らの決意の
前に、パックネ政権は吹き飛び、また文在寅政権も、一時は日米軍事路線に引きずられたけれど
も、再び引き戻されました。こうした状況を見てとった北の指導者たもまた、平和外交へと大き
く方針を転換したのだと思います。南北の民衆の平和を求める気持が、南北の両首脳を首脳会談
実現に向かわせたのだと思います。私たちは、日米の戦争挑発者たちの妨害を乗り超えて、この
平和へ向かう道を共に突き進みましょう!\(^o^)/

  ■世界最大の虐殺者が小国をどこまでいたぶる積もりなのか

「それでも北は信用ならない」という人はいます。「北の核ミサイルは危険だ!」確かに戦争兵
器は危険です。でもミサイルを持っているのは朝鮮だけでしょうか? 軍事力の格差を考える
ならアメリカの方がはるかに巨大な軍事力を持っています。「核兵器の放棄」をなぜ「朝鮮にだ
け」要求するのでしょうか? ハン・チュンモク氏は、次のようにも言っています。
(以下抜粋)

>アメリカは北の核を批判するが、広島・長崎の数十万の民間人を原爆で殺したのは誰か!
 第二次世界大戦後、ベトナムで270万人も殺したのは誰か! カンボジア、アフガニスタン、
リビア、イラクなどで数十万を虐殺したのは誰か!(引用終わり)

南北の平和と統一はアジアの平和と繁栄へ向かう道です。日米の戦争屋共の思惑を許さず、平和
を目ざして進みましょう! 日米韓軍事演習に反対しましょう。南北首脳会談を見守り、その成
果に期待しましょう!
 

     相対的価値形態と等価形態との混同を初版から正す その2

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 3月 7日(水)18時03分44秒
返信・引用 編集済
      2018年 1月19日に同名の論文を投稿したが、再度挑戦し、改稿してみました。
    A 初版の第二の形態と再版・英語版との対比をなしてみる。語ることは同じか?
     ① 初版
      Ⅱ 相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態
     20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶
    または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々
    ・・・・・
     20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化され
    ている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働
    は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定さ
    れたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。
    第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置し
    ている。
     第二の形態はこれとは違っている。
    リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネ
    ル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係し
    ている。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働
    一般の結晶として、示されているのである。
     第二の形態は、第一形態のの等式そのものの合計からな成り立っている。
     (『資本論』初版 原P24~25 江夏訳)

      ②再版ーー英語版(宮崎訳)
   https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter02/index.htm
     1. 拡大された相対的価値形式
    (1) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
    によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。
    故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労
    働の凝結物として示す最初の瞬間となる。
    それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。
    労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。
    人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なん
    であろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコ
    シであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。
    リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。
    もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。
    商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を
    意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。


    初版 再版の論旨を、以上から挙げてみよう。
    ①ーーa「いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働
        の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。」
       b「リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置
        され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。」
       c「ここではリンネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の
        結晶として、示されている・・」
       d「第二の形態は、第一形態のの等式そのものの合計から成り立」つ

    ②ーーa「他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
       b「・・労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。」
       c「 リネンは、今、その価値形態に基づき、社会的関係の中に立っている。」
       dリネンは「単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある」

     両者の相違を検討してみる。
    ②に示される再版の事柄で、①との違いを示すのは、他のあらゆる諸商品がリネンの価値形態
    であり、リネンの価値鏡であることだが、①ではそうではないのだろうか?
    なるほど①では、他の諸商品が、商品世界の市民として規定されてはいない。
    しかし、その他の諸商品が、
      「リンネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのあり とあら
      ゆる商品体に関係している」ことで、「リンネルの価値がはじめて真に価値として、」
      示されることでーー第二の形態は、第一形態のの等式の合計から成立、とあります。

      a 「他のすべてのいかなる商品も、・・・リネンの価値鏡」となり、
      b その役立ちによって、あらゆる労働が抽象的人間労働であることを示し、
      c リンネルの価値がはじめて、bの結晶であることで、真に価値としてーー示され
      d このa b c により、他の諸商品が展開された価値形態をこそ形成した
       ーーのですから、初版と再版との区別はできないということなのです。

    このように、リンネルのあらゆる商品での相対的価値表現において、ーー他のあらゆる諸商品
    が、「価値鏡」の役立ちをなすことで、第一の形態の価値形態が多種多様な価値形態をなして
    いる。
    そして、個別的に、リンネルが価値であるとの判断・反省規定を受けたのであり、それが、
    ①ーーbcであり、②ーーbの事柄であり、そして第二の展開された相対的価値形態ですから、
    それこそが、労働生産物が商品となる商品世界が形成されたということではないのか?

      しかし、第二の形態では商品世界の形成を受け取ることで、個別的には各商品の孤立
      性はありながらも、他方で各商品は商品世界の住人であることで価値形態を受け取る、
      一般性があるのです。
      この転身が起こることで、他のあらゆる諸商品が個別的に「価値鏡」の役立ちをなす
      ことで、第一の形態のように、上着は、リンネルからの個別性ではなく、商品世界か
      ら価値であり、価値形態とのーー個別的判断を受け取るのです。
      この「価値鏡」の役立ちは、ここでは個別的であり、特殊的ですが、一般的価値形態
      では普遍的になっています。

      この違いは明白です。

    再度冒頭を掲げます。
     ①「単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々
     によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。」
     ②「リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている。」

    このように、リンネルの反省規定が、ここでは商品世界を形成し各商品はこの世界の住人で
    あることで、価値であり、価値形態との個別的な物象の判断を受け取り、規定されているの
    です。
    こうして、展開された価値形態が、交換可能性の形態として左極にて受け取られています。

    第二の形態として、左極にて、このように展開された相対的価値形態が受け取られたのであ
    り、ここでは、上着などはリンネルの価値であり、価値体であり、価値形態となっていた。
    今度は右極で、あらゆる商品が、個別的に特殊的な等価形態になっている。
    ここでマルクスの示していることは、上着などは、リンネルの価値体であることで等価形態
    になっているのではないのです。
    次の文章は、とても判読が難しいことが、ここに認識できるか・どうか?なのです。

    「  (三)特殊的な等価形態
     上着や茶や小麦や鉄等々の商品はどれも、リンネルの価値表現では、等価物として、した
    がって価値体として認められている。これらの商品の特殊的な現物形態が、いまでは、他の
    多くのものと並んで、ひとつの特殊的な等価形態になっている。
    同様に、いろいろな商品体のうちに含まれている、種種雑多な特定の・具体的な、有用な、
    労働種類も、いまでは、ちょうど同数の、単なる人間労働の特殊的な実現形態あるいは現象
    形態として、認められているのである。」(初版付録原P779 江夏訳P777)

    このように第二の形態では、商品世界が示されることで、等価物上着などは、
    「ちょうど同数の、単なる人間労働の特殊的な実現形態あるいは現象形態として、認められ
    ている」ーーことで、その役割を示す特殊的な等価形態になるのです。
    ーーしかし、この付録・再版で示される特殊的等価形態の説明が、人々に理解されないのは
    何故であろうか?それは、次のA Bの区別ができず、一体的に理解するからです。

    「A 上着や茶や小麦や鉄等々の商品はどれも、リンネルの価値表現では、等価物として、
    したがって価値体として認められている。
    B これらの商品の特殊的な現物形態が、いまでは、他の多くのものと並んで、ひとつの特
    殊的な等価形態になっている。」


    このように、<上着等々の商品は、リンネルの相対的価値表現では等価物であり価値体と示
    せたのは、>相対的価値表現として、同じだからです。
       第一の形態の11段落段落にても次の記述があるからです。
       「すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、
       したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこうい
       うものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであ
       り、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリ
       ンネルの反射規定なのである。」(初版 国民文庫版55-6頁)

    「リネンは、今、その価値形式(価値形態)に基づき、社会的関係の中に立っている」ー
    ーことで為したのでした。
     だから、マルクスがここに示しているのは、相対的価値表現の形態と等価形態の区別は、
    主体的になす読者自身の判読が要求されるーーということであります。

    こうして、等価物は価値体であるーーにて価値関係の量的側面であることへの批判をこそ示し
    ている第二の形態の方が、既に前提にされている第一の形態の論旨を浮かび上がらせる。
    この道先案内によって、第一の形態の論旨を見出していきます。
    初版での第一の形態での、榎原さんの誤解についての指摘をまた準備したい。






 

ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月25日(日)07時58分54秒
返信・引用 編集済
     ドイツ語版の再版と英語版・フランス語版との相違が何処にあるのか?
   次のように探求してみました。

  a相対的価値形態の内実の第三段落は、英語版では次の訳になります。
  化学式を例示した第三段落にて、ドイツ語版の、ーー
  「この関係のなかでは、上着は価値の実存形態として、価値物として通用する。」
  ーーとの訳ではなく、次の訳なのです。
  <この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値が体現されている
  のは、それがリネンと同じであるため>ーーと。
  英語版・仏語版    すばらしい!!!まずは紹介します。

But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part.
It is only the value of the linen that is expressed.
And how?
   しかし、このように質の同一性が説定された2つの商品は、同じ役割を果たさない。
  表現されるのはリネンの価値だけです。
   では、どうやってーーそのことがなされるのですか。?

By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it.
In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen.
  それと同等のものとしてそのコートを参照することによって、交換できうるものとして
  であります。この関係では、コートは価値の存在の様式であり、価値であるのは、それ
  がリネンと同じであるためだけです。

On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat.
To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate.
  一方、リネン自身の価値存在は、独立した表現を受け取ります。それは、価値があるも
  のとしてだけであり、等しい価値のものとしてコートに匹敵し、あるいはコートと交換
  可能であるからです。
   化学からイラストを借りると、化学式としては同じでも、酪酸は蟻酸プロピルとは異
  なる物質です。

  <杉本ーーなるほど、酪酸に蟻酸プロピルが等置される関係にて、人間がその両者の
  共通者が他方でのその存在形態である、との判断をしているならば、そのとき・等置さ
  れた酪酸は、その共通者の単にその存在と、現物形態とは異なる規定を受け取ったので
  す。
   ある物と物とをある関係においたとき、人間は反省規定をこそ、この人間のなす思考
  様式の特異性をこそ、マルクスは主張しています。この物的関係での判断の特異性が、
  同等性関係ではなく、価値関係にては物象自身が、判断をなしているの意味です。>

  <その次の 五段落での直訳での提案>
  ⑤コートをリネンと同等にすることによって、我々は前者に組み込まれた労働に後者の
  ものと同じにする。今や、コートを作る裁縫は、リネンを作る機織りとは異なる種類の
  具体的な労働であることは事実です。
  しかし、それを織物と同一視する行為は、2つの種類の労働において本当に均等なもの
  に、裁縫労働を人間の労働の共通の性格へ縮小する。
   この回り道の方法では、その事実が表現され、その織り方もまた、それが価値を織り
  込む限り、それを裁縫労働と区別することは何もないし、その結果、抽象的な人間の労
  働である。
  それは価値創造労働の特定の性格を見出すための、さまざまな種類の商品間の同等性の
  表現であり、これは実際に異なる種類の商品に組み込まれた様々な種類の労働を、人間
  労働の共通の性格への要約の仕方なのです。[18]

  <杉本 この回り道 ーー同じ所を仏語版では、次の訳でなしている。>
  「上着がリンネルの等価物として置かれるならば、上着に含まれている労働はリンネル
  に含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織りとは違う。
  だが、機織りに対する裁断の等式は事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
  間労働という性格に還元する。このような回り道をして、機織りは、それが価値を織る
  かぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働であ
  るということが、表現されるのである。したがって、この等式は、リンネルの価値を構
  成する労働の独自の性格を表現している。」
     (『フランス語版資本論』 上巻P21 第6段落)

  ①<事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>
  という訳をここにしているのではなくて、
  ②<事実上、上着をつくる裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という
  性格に還元する> が正訳であることが理解できる。
  もう一度、繰り返します。
  <裁縫労働を、機織りと現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する>とは?
  このように、上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる性格を受け取るのは、ここに、
  両者の共通者を見るのではなく、リンネルによる上着への反省規定として、次の二つの
  事がらがあるーーとしている。
   「機織りに対する裁断の等式は①事実上、裁断を、機織りを現実に共通なものに、人
  間労働という性格に還元する。②このような回り道をして、機織りは、それが価値を織
  るかぎりでは衣類の裁断とは区別されないということが、すなわち、抽象的人間労働で
  あるということが、表現される」ーーとあるのです。
  上着を縫う裁縫労働が、価値を縫い上げる労働として、リンネル織りの労働の共通者に
  還元されること、この回り道<反省規定>を経ることで、リンネル織り労働が、価値を
  織るかぎりでは、それは抽象的人間労働であると、物象の諸関係からの判断を受けてい
  るーーのです。
   現行再版のーー価値物上着がリンネルに等置されることで、裁縫労働がリンネル織り
  労働に等置される、この等置は「裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しいものに、
  還元する。この回り道を通ったうえで、織布労働も、それが価値を織り出す限りにおい
  ては、・・・すなわち抽象的人間労働であることが語られるのである」ーーの記述では、
  仏語版の理解に辿り着けるものではない!!!ことが理解できる。

  ここでの記述の誤りは、価値上着がリンネルに等置されることで、上着を縫い上げる裁
  縫労働が、使用価値を作ると規定されるのではなく、価値を縫い上げる裁縫労働と規定
  されているーーこの前提条件が無い、消えていることです。そのような条件のもとで、
  リンネル織り労働が、「価値を織り出す限り」と記述されても、反省規定した対象が、
  <価値を縫い上げる労働>とは規定されていないのだから、この規定は反省規定を受け
  取らない、マルクスの提起である物象の判断がここには示されないのです。
  「価値物上着」の提起が、マルクスの真意を排除していることが、ここに理解できます。


  仏語版での正訳でもなかなかそのことは理解し難いので、そのことの説明を補充して、
  マルクスは用心深く、リンネル価値が人間労働の凝固体を獲るためにはーーどうなすこ
  とでなのか?との問を、次の六段落にて提起する。

  ⑥しかし、リネンの価値が成立する労働の特定の性格を表現すること以外に必要なもの
  があります。動いている人間の労働力、すなわち人間の労働は、価値を創造するが、そ
  れ自体価値はない。何らかの目的の形で具体化されるとき、それは凝結した状態でのみ
  価値になる。リネンの価値を人間の労働力の集合体として表現するために、その価値は
  客観的に存在するものとして表現されなければならず、リネン自体とは大きく異なるも
  のとして、リネンと他のすべての商品に共通のものです。
    問題はすでに解決されています。

  <リネン価値を表すには、上着との共通者として表されなければならない、のです。>

    七段落
  When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value.
   ⑦方程式の等価の位置を占めるとき、コートの価値は、リネンと同等であると定理的
  にランク付けされ、同じ種類のものとして価値があるからです。

In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value.
   この等式からでは価値だけを見るか、触診できる身体的な形が価値を表すものです。
  (「上着事態の存在形態が価値の存在形態になる。」仏語版 上P22 )
   <この提起が最も良い意味です。>

Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use value.
   しかし、コートそのもの、商品の本体、コートは単なる使用価値です。

A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of.
This shows that when placed in value-relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.
  そのようにコートは、それが価値であることを私たちに伝えます。
  私たちが取る最初の麻の部分よりも。 これは、リネンとの価値関係に置かれたとき、
  コートはその関係から外れたときよりも多くを意味し、豪華な制服を着た人の多くが、
  着ていない時よりも多くのことを数えるようにです。

   <①リンネルに上衣が等置されるのは何故でしたか?リンネルは価値であり、同じく
     上着も価値であるからですが、そこで起こることは次のことです。>
   <②ここでの上着は、a価値としてのみの存在になることで、b触診できる身体的な
    形が価値を表すものーーに転回しているのですから、この変化を、仏語版は、上着
    の形態が、ーー価値の存在形態ーーと表すことで、三段落のーーリンネルの価値存
    在ーーの対象的形態が、ここに示されたのです。>
   <③この②で起こる変化をこそ、五段落にて、マルクスは訴えていたのです。>

   八段落
  あまりお付き合いのない、フランス語版が、次の提起をしていたのです。

  「上着の生産では、じっさいに、なにがしかの人間労働力がある特殊な形態のもとで
  支出された。だから、人間労働がその上着のなかに積み重ねられている。この観点から
  すれば、上着は価値の担い手である。もっともこの特性は、上衣がどんなに擦り切れて
  いても、上衣の透いた糸目を通して外に現れるものではないが。しかもリンネルの価値
  関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。上衣の外貌がどんなにあばた面
  で出会っても、リンネルは上衣のうちに、価値に満ちた姉妹魂を認めたのである。これ
  がプラトニックな側面である。
  上衣が自己の外面的な関係のなかに、価値を実際表すことができるのは、同時に価値
  が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。
  同じように、私人Aは個人にたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを
  帯びなければ、陛下であることを表しえないのである。陛下が人民の新たな父となるた
  びごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。」
  (仏語版 9段落P22)

  次の(英語版 宮崎訳)での肝心なところの訳は、仏語版と同じであります。

  「このことから、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、
  その事実をちらっとも見せることはない。価値の等式での、リネンの等価物は、ただこ
  の局面でのみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。
  例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、
  Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。」

  <価値を実際表すことができるのは、同時に価値が一着の上衣という姿をとるかぎりで
  のこと>ーーと再度五段落の提起から導き出されるのが、「価値形態」上着との、リン
  ネルの相対的価値表現が必然的に見出す反省規定なのです。

   このように、英語・仏語版に語られているところの、再版での回り道を巡る議論は、
  久留間先生の主張するように、第五段落に終わるものではないのです。商品語が提起さ
  れる九段落は、それまでの論議を終わらせたところーーからなされるのです。

  しかし、久留間先生の議論は、再版ではなく、初版に依拠したものなのです。
  大谷先生と議論するなかで、久留間先生が提起したのは、初版での回り道の議論なので
  す。彼の初版での議論は、本当に理解し難いものです。まずは資料として提起しておき
  ます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   久留間鮫造 著 『貨幣論』
   9)「回り道」とはどういうことか
   ──価値表現の回り道(2)──

   【P113】
 リンネル=上着 という等式のなかにイコールの関係があると同時に、リンネルの価値のみが表現されていること、上着のみが等価物となっていること、を見なければなりません。左辺と右辺とは意味が違うのです。この違いは、右辺の商品は左辺の商品の所有者の欲望の対象である、という点にあるのではない。そのことを度外視したうえでなお残る違いです。
 この等式は、言うまでもなくリンネルが自分の価値を表現している等式です。まず主体として、商品リンネルがあり、それに等置が行なわれる。なにが等置されるのか。この例では上着です。つまりこの等式における等置とは、リンネルに上着が等置されるということであって、その逆ではありえない。上着にリンネルが等置される等式は、 上着=リンネル であるほかない。さらにこの等置を行うのはリンネルか上着か。言うまでもなくリンネルに上着を等置したのはリンネルの所有者ですが、リンネルの価値表現における主体はリンネルです。上着が等置をするのではなくて、リンネルが等置をするのです。

したがって、リンネルに上着が等置される、という等置はリンネルが行なう等置である。これは言い換えれば、リンネルが自分に上着を等置する、ということに他ならない。
「自分に上着を」を逆にして「自分を上着に」としたら、どういうことになるか。リンネルが自分を上着に等置する。これは結局 上着=リンネル という等式をリンネルが、つまり右辺の商品がつくる、ということに帰着します。これはつまり、商品は自分から勝手に等価物になれるということです。
 はたしてそういうことは可

【P114】
能か。言うまでもなく、まったく不可能です。つまり、商品は自分から進んで他商品の等価物であると証してみても、それはその他商品にとって通用しないまったくの独りよがりでしかありません。
直接には使用価値である商品が他商品に対して、いきなり価値体として通用することはできないのです。

だが一商品たとえばリンネルは、他商品たとえば上着を自分に等置することによって、上着に価値体としての形態規定を与えることはできる。そしてこの形態規定における上着の身体で自分の価値を表示する、あるいは、この形態規定における上着の身体を自分の価値の形態にすることはできる。

「それは、直接に自分に対してすることができないことを、直接に他の商品に対して、したがってまた回り道をして自分自身に対して、することができる」(『資本論』Ⅰ、初版、20頁)のです。

これはけっしてリンネルの「独りよがり」ではありません。これによって、現に上着はリンネルに対する直接的交換可能性を与えられているのです。

このように、リンネルが「自分を上着に等置する」ことと、「自分に上着を等置する」こととのあいだには、決定的な違いがあるのです。

降旗氏がこのようなぼくの区別を理解することができないのは、繰り返して言いますが、商品所有者の欲望を、そしてそもそも商品所有者を、捨象して、はじめて、「一商品の簡単な価値表現が二つの商品の価値関係のなかにどのように潜んでいるかを発見する」ことができる、という事実を認めることができないからでしょう。

大谷 「自分に上着を等置する」という部分の訳し方のことで、ちょっと脇道に入ってしまいました。話を戻して、「回り道」について話を続けていただけませんか。
久留間 必ずしも脇道ではないでしょう。今の問題は、「回り道」を理解するのに大切なところだ

【P115】
と思いますから。
さて、今言ったように、リンネル=上着 という等式が成立するのはリンネル所有者が上着を欲しいと思ったからに違いありませんが、価値形態の分析としては、そういう等式成立の理由は度外視しなければなりません。等式があるからには、同等性の関係があり、その同等性が価値としての同等性であることは言うまでもない。問題は、この等式のなかで、どのようにしてリンネルの価値が表現されているのか、ということです。それに対して、〈他商品上着と関連することによってだ〉、と答えるのは、答えの第一歩でしかない。
 リンネルの上着に対する関係は、「反省関係」だ、ということがよく言われています。それはまったくそうに違いない。他のものに関係することによって、自分自身に関係するのですから。マルクスも、「リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自分自身に連関する。リンネルは、価値としての自分自身に連関することによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。」(『資本論』Ⅰ、初版、16頁)、と言っています。反省関係だというのに、ちっとも異論はない。「回り道」は、そうした反省関係だ、他のものとの関係における媒介的な仕方での価値表現のことだ、と言う人にも、そういう言葉の使い方をしてはいけないとは言わない。しかし、ぼくが「回り道」ということで言いたかったのは、そうした反省関係、価値表現の媒介的な仕方の肝心な内容、マルクスが力をこめて明らかにしようとした「相対的価値形態の内実」の要なのです。それが、リンネルは、自分に上着を価値物として等置することによって、上着に価値体としての、抽象的人間的労働の体化物としての形態規定性を与え、これによって、はじめて自分も価値物であるこ

【P116】
とを表現するのだ、ということなのです。価値表現のメカニズムを問題にするかぎり、「回り道」はこういう回り方をする回り道でしかありえないでしょう。

 しかしこのことは、上着が価値体としての形態規定性を与えられるのは、リンネルが上着で自分の価値を表現するからだ、ということを否定するものではけっしてありません。現にマルクスは、「等価形態」の分析に移ると、ここでは、相対的価値形態のところで明らかにされたことを前提にして、今度は事柄を等価形態の側から見ていく。そして、ある商品が等価物であり、直接的交換可能性をもつのは、その商品を自己に等置しその商品で自己の価値を表現する商品があるからだ、ところが、そのある商品はその自然形態がそのまま価値形態として通用する、つまり価値体となっているので、等価形態の謎的性格が生じるのだ、ということを明らかにしています。

 ここでは、等価物成立が他商品の価値表現を前提するという関係が述べられているとも言えるでしょう。いわば、等価物の「どのようにして」を問題にするということです。しかし、言うまでもないことですが、そういう問題は、価値表現の「どのようにして」の問題の一部をなす問題にすぎず、価値表現の「どのようにして」が解明されれば、それと同時にその問題も根本的には解明されたと言えるわけで、だから「等価形態」のところでは、その形態そのものを説明したあと、ただちにこの形態の特色の説明に入っていくのです。

 ですから、等価形態のところにも、「回り道」の理解に資する個所があるのですが、とくに、第二の特色のところには注目すべき叙述があります。『レキシコン』では現行版からの引用(『資本論』Ⅰ、70頁)しか入れませんでしたが、初版「付録」のなかの、「β 等価形態の第二の特色──具体的労働がその反対物である抽象的人間的労働になる」の部分は重要ですから、ちょっと読ん

【P117】

でみましょう。

  上着はリンネルの価値表現のなかでは価値体として意義をもち、それゆえ上着の物体形態ま
  たは自然形態は価値形態として、すなわち無区別な人間的労働の・人間的労働そのもの
  (schlechthin)の・体化として、意義をもつ。
  しかし、上着という有用物を作りその特定の形態を与える労働は、抽象的人間的労働・人間
  的労働そのもの(schlechthin)・ではなくて、一定の、有用的な、具体的な労働種類、す
  なわち裁縫労働である。
  簡単な相対的価値形態が必要とするのは、一商品、たとえばリンネルの価値がただ一つの他
  の商品種類でだけ表現されるということである。しかし、どれがこの他の商品種類かという
  ことは、簡単な価値形態にとってはまったくどうでもよいことである。リンネル価値は、商
  品種類上着ででなければ商品種類小麦ででも、あるいは、商品種類小麦ででなければ商品種
  類鉄、等々ででも、表現されることができよう。

  しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネ
  ルにとって価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化として意義
  をもつであろう。しかもつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦で
  あろうと鉄であろうと、抽象的人間的労働の体化ではなく、裁縫労働なり農民労働なり鉱山
  労働なり、とにかく一定の、具体的な、有用的な労働種類の体化であり続けるだろう。
  したがって、等価物の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のな
  かでは、つねに必然的に、人間的労働そのもの(schlechthin)の・すなわち抽象的人間的
  労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならないのである。
  たとえば上着が価値体として、それゆえ人間的労働そのもの(schlechthin)の体化とし
  て、意義をもつこ

【P118】
  とができるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間的労働力が支出されるところの・す
  なわちそれにおいて抽象的人間的労働が実現されるところの・特定の形態として、意義をも
  つかぎりにおいてでしかない。

  価値関係および価値表現の内部では、抽象的一般的なものが具体的なもの、感覚的現実的な
  ものの属性として意義をもつのではなく、感覚的具体的なものが、抽象的一般的なものの単
  なる現象形態または特定の実現形態として意義をもつのである。
  たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、
  人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるとい
  うことが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、た
  だ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのであ
  る。
  この取り違え(quid pro quo)は不可避である。
  なぜなら、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無
  差別な人間的労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が異種の一
  生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてでしかないか
  らである。

  この転倒によって、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として意義をもつ
  にすぎず、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として意義をもつのではないので
  あるが、この転倒こそは価値表現を特徴づける。それは同時に、価値表現の理解を困難にす
  る。

  私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、と言うのならば、これらのことは自明なこ
  とである。これに反して、もし私が、法という抽象物(abstraktum)がローマ法のうちにも、

【P119】
  ドイツ法のうちにも、すなわちこれらの具体的法のうちに実現される、と言えば、その関連
  は神秘的なものになるのである。(『資本論』 Ⅰ、初版、770頁。強調─マルクス)

 ここでマルクスが付けている強調は、どういう点が重要であるかをよく示していますが、とくに、「等価形態の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のなかでは、つねに必然的に、人間的労働そのものの・すなわち抽象的人間的労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならない」という個所、

および、「たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるということが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのである」、という個所に注目してほしい。

裁縫労働は、価値表現のなかでは、人の欲望を満たす有用性をつくりだすものとしてではなく、人間的労働の実現形態としてのみ意義をもつのですが、これはリンネルが自分に上着を等価物として等置することによって、そうしているかぎりにおいて、生じることです。リンネルは自分自身を生産する労働、機織労働をけっしてそうしたものにすることはできません。裁縫労働をそうしたものにする、そしてそのうえで、自分も人間的労働の凝固物、価値であることを表現できるのです。

 ところで、こうしたことは、それを論じることによってなにを明らかにしようとするのかがはっきりしないと、どうでもよい、無用な議論だと思われることになる。もっと一般的にいえば、価値形態の分析を通じてなにを明らかにするのかということをはっきりつかまえないと、何も分からないことにな

【P120】
る。それは基本的には、商品生産が社会的生産の特有な仕組みだということ、直接には私的な労働として行われる労働が社会的労働にならなければならない、ということです。商品生産であろうと共産的な生産であろうと、諸個人の労働は人間的労働として互いに連関させられているのであるが、商品生産のもとではそれが独自な形態で現われなければならない。それが等価形態のところで現われるのです。

旧著でのぼくの叙述に舌足らずなところがなかったとは言わないが、しかし分析というのは、つねに、そこでなにを明らかにしようとしているのかということによって、その仕方も決定され、制約されている。そういうものを読み取ることをせずに、つまり、そこでなにを明らかにしようとしているのかということを読み取ろうとしないで、言葉の使い方のようなことにばかり引っかかっていたとしたら、それはつまらないことです。

大谷 そのつまらないことに、もう少しこだわらせていただきたいのです。というのは、さきほど読みました、「こうした回り道をして」というマルクスの一節について、「こうした回り道をして、それから」、と訳すのは誤訳ではないか、という点です。

この「それから」は dann の訳語ですが、これは英語の then と同じく「その場合」とか「そのさい」とかいう意味がある。いまの個所での dann は「それから」ではなくて「そのさい」と読むべきではないか。こうした意見は、先生の「回り道」を批判し否定する人のあいだにばかりでなく、先生のお考えを積極的に支持する人のなかにもあります。

たとえば、すでに1961年に刊行された『資本論辞典』(青木書店)のなかの「価値形態」という項目で、三宅義男先生が久留間先生の「回り道」の見解に基本的に一致する解説を書かれていますが、そのなかの

【P121】
引用では、「こうした回り道をすることによって、そのさい」とされています。これは私の知るかぎり、“「それから」に対して意識的に”「そのさい」を対置した最初のものですが、最近では、武田信照氏が、「そのさい、こうした回り道をして言われているのは……」、と訳すことを提唱し、それに賛同する人たちもいるようです。武田氏の場合には、先生の「回り道」についての論拠をくずす目的で言われているものです。武田氏のように訳すことによって、先生の「回り道」の論拠がなくなると考えるのは、「回り道」の言葉はあれこれ論じてもその本当の意味を考えようとしないことからくるのだと思いますが、それはともかく、「そのさい」と読むべきだという主張が出てくる一つの理由は、純粋に言葉の問題として、あるいは語感としてそう読むほかはないのではないかということがあるのだろうと思われるのです。

実は私もそのように考えている一人なので、私の感じを言わせていただきますと、

Auf diesem Umweg ist dann gesagt, dass… というこの文の中心は、
dass 以下のことが言われている、というぶぶんであり、
それに auf diesem Umweg と dass という二つの修飾が付いている。

つまり、 dass 以下のことが言われているのが、一つは「回り道をして」なのだ、ということ、ひとつは「それから」または「そのさい」なのだ、ということです。

「回り道をする」ということがあって、これに続くという意味での「それから」が来ている、というふうにはどうも読めない。「それから」と読むにしても、──内容的には同じことになるかもしれませんが──この「それから」は、前文の、「織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間的労働という両方に共通な性格に、還元するのである」、と受けて、「それから」と読むべきであるように思われる。ですから、訳としては武田氏のように、「そのさい、こうした回り道をして」、とするのが自然のように感じるのです。

【P122】
また別の論拠として言われていることに、

フランス語版での訳し方、つまり C’est une maniere detournee d’exprimer que…(武田氏の訳では、「以上のことは、……ということを言い表わす迂回的方法なのである」、

江夏・上杉訳では、「このような回り道として、……ということが表現されるのである」)という訳では、「それから」とはとうてい読めないということがあります。念のために英語版について見ると、こちらは In this roundabout way, then, the fact is expressed, that… というふうに、なっています。

最後に──私はこれには賛成できませんが──内容的にみて、「それから」ではおかしい、ここでは先後関係が言われていると見るべきではなく、媒介関係が言われていると見るべきだ、という見解もあるわけです。これはむしろ、先生の「回り道」理解の批判を前提にするものですね。

久留間 dann を「それから」と読むか「そのとき」と読むかは、語学上の問題はともかく、内容的には結局、 dass 以下に述べられていることを回り道の外部のことと解するか、内部のことと解するかの問題に帰着するように思われるのですが、もしそうだとすると、それをどちらに解するかは、ぼくにとってはどちらでもよいことです。

ぼくが dann を「それから」と読み、そのうえさらに「この『それから』に注意すべきである」とわざわざ書き加えたのは、等価形態に置かれた商品上着は、たんなる使用価値たとえば保温に役立つ物としてではなく、それが等価形態に置かれることによって新たに価値体という形態規定を与えられ、この形態規定においてはじめて相対的価値形態にある商品リンネルの価値の形態になっているのだ、ということを強調したかったからです。このことが理解されないと、

【P123】
たとえば商品リンネルに等置された上着がリンネルに対して直接的交換可能性をもつのは、リンネルの所有者が上着をほしいと思い、上着との交換を望んでいるからだという、俗学的な見解におちいることになる。これでは、両商品の関係は価値関係ではなく、したがってまた、価値表現の関係でもないことになる。このような俗学的見解をしりぞけるためにも、あのさいぼくは、さきに言ったようなことを強調する必要があると思ったのです。

しかしそれはともあれ、さきに言った、上着が等価形態に置かれることによって上着の使用価値は価値体という形態規定を新たに与えられているのだということ、そしてこの形態規定における上着の使用価値の形態で、リンネルはそれ自身の価値を、それの使用価値から区別されたものとして表現しているのだということ、──このことが分かればよいので、右に述べたいろいろの関連のうちのどこまでが回り道の範囲に属するかという点にぼくは重点を置いていたわけではないのです。
なお、商品の価値表現の仕方に関連してマルクスが「回り道」と言っている場合、彼がこの言葉をどのような意味で使っていたか──とりわけ、その「回り道」の要(かなめ)の点がどこにあると考えていたか──を知るためには、次の個所が参考になるでしょう。


  「……商品は、もともと一つの二重物、すなわち使用価値および価値、有用的労働の生産物および
  抽象的な労働凝固体である。それゆえ商品は、自分が商品なのだということを表わすためには、そ
  の形態を二重にしなければならない。使用価値の形態は、商品は生まれながらにもっている。それ
  は商品の自然形態である。価値形態は、商品が他の商品との交わりにおいてはじめて獲得するもの
  である。だが、商品の価値形態は、それ自身がまた対象的な形態でなければならない。諸商品の

【P124】
  唯一の対象的な形態は、その使用姿態、その自然形態である。ところで、一商品、たとえばリンネ
  ルの自然形態はその価値形態の正反対物なのだから、それは、なにか他の自然形態を、他の一商品
  の自然形態を、自分の価値形態にしなければならない。それは、直接に自分自身に対してすること
  ができないことを、直接に他の商品に対して、したがってまた回り道をして自分自身に対して、す
  ることができるのである。それは自分の価値を、それ自身の身体で、言い換えればそれ自身の使用
  価値で表現することはできないが、しかしそれは、直接的な価値定在としての他のある使用価値あ
  るいは価値体に連関することはできる。それは、それ自身のうちに含まれている具体的労働に対し
  ては、抽象的人間労働のたんなる実現形態としてのこの労働に関係するということはできないが、
  しかし、他の商品に含まれている具体的労働に対してはそうすることができる。そうするためには、
  その商品はただ、他商品を自分に対して等価物として等置しさえすればよい。……
  (『資本論』Ⅰ、初版、20頁)〉

大谷 今までのご説明で、『価値形態論と交換過程論』で回り道についてお書きになった意味がよく分かりました。 dann を「そのさい」と読んでも「それから」と読んでも、あのパラグラフから読み取るべきポイントには変わりがないということは、まったくそのとおりだと思います。

久留間 今度の「貨幣Ⅰ」では訳文ではどうなっているのですか。
大谷 先生編の『レキシコン』のなかで、この「回り道」にかかわる重要な部分が先生のご解釈と食い違うのもどうかと思いまして、『価値形態論と交換過程論』にならい、「それから」といたしました。

       http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2
       広島資本論を読む会

 

  初版での一般的価値形態ーー一般的相対的価値形態の形成の理解を目指して

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月18日(日)17時42分42秒
返信・引用 編集済
    初版三段落からです。
  Ⅲ 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態
  <初版での3段落の提示>
・・・・・・リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、
この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他の
すべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価
値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。
だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
一般的 実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、
まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべて
の労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、
というかぎりにおいてのことなのである。〉
(原P27~28 江夏訳49頁)

  ここにマルクスの我々への質問、我々が疑問を持って、執拗に探求することへの要求があります。
  物象のこの段階での判断がどう展開するのか?をこそ、ここに見極めようーーと提示しています。
  ①<リンネルが一般的な等価物になるとーこの使用価値は、すべての他商品の一般的な価値形態>
  ②<この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の
   一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められている・・・>
   ーーこの事柄の解決が要求されているのです。

  しかし、再版では次の解決がなされていました。そのことを理解し、再度確認します。
  ②一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特
   徴、一般に人間の労働力の支出に還元することである。
  では、この上記の解決が、初版の何処にて、どうなされているのか?探してみます。

  <初版での4・6段落の提示>
 4段落・・・・・・・・・・・・・・・・
たんなる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品としてたがいに関係
させることができ、したがって、社会的関係の中に置くことができるのである。ところが、これこそ
は商品の価値なのである。だから諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められてい
るところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値
形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であ
るならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的
な形態を、もっていることになる。〉(原P28 江夏訳50頁)
   第一の形態五段落
   ⑤ 20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
   という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ
   認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そ
   のなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)
   (初版原P18 江夏訳P37)
   <杉本 註 交換可能性の形態は、第一の形態で規定されていた>
 6段落・・・・・・・・・・・・・・・・
上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態
であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。
だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、
という結果になる。
逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形
態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、
20エレのリンネル=20エレのリンネルであろう。(原P29 江夏訳51~52)

  <杉本  上記の初版4段落の提示は明快であります。>
  ①等価物リンネルが価値であり、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態とな
  ることで、それは、商品の社会的形態・価値形態・交換可能性の形態を、左極にて受け取り、
  ②等価物リンネルが、自然的形態・使用価値の姿のままに、「ある商品の現物形態が同時に価
  値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがっ
  て直接的に社会的な形態を、もっいる」ーーと、今度は右極での規定の提示をした。
   次に今度は、六段落にて、次の明快な規定をうけとったのです。
  ③上記の左極・右極の対立した規定が、上記① ②の併存した・同時依存の規定の第一・二の
  規定として受け取るのか?ーーとの質問をマルクスは我々に発しているのです。一般的価値形
  態の成立は、一般的相対的価値形態の成立をもたらすが、第一・二の形態と同じようには等価
  形態の成立を成し得ないのです。一般的等価形態は、この両極の対立を、第一・二の形態での
  <同時依存>からではなく、等価物リンネルが<一般的な相対的価値形態から排除される>ー
  ーーことで受け取る、との我々へのマルクスの質問への答えが、ここにはあるのです。
  ④しかし、初版本文ではその次に、このように上記の三段落ーー六段落への説明をしています。

  <初版ーー7段落>
 諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物
形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。
そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定され
た割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。
 なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々であ
れば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。
 すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は
互いに価値量として映りあっているのである。
 ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、
こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているの
である。
だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。
つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社
会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。
逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネ
ルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直
接的にリンネルの一般的・社会的形態になるわけである。〉(原P30 江夏訳52頁)

  <杉本 上記に① ② ③との論理進行を見出すならば、ーー「こういった回り道を経ての
  み、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められている」ーーとの驚きに満
  ちた驚愕の説明を理解できる。同じ説明は、初版付録でも同じくなされている。>

   (三)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係
  単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、
この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは
現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取ら
ない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のす
べての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。
こうすることによって(「このような回り道を通って、」今村訳P333)  こののけものにされた
商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。
  (初版付録 原P779~P780 江夏訳901~902頁)

  この回り道で示されている同じことが、まずは第一の形態の七段落でも提起されていたのです。
  「この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、と
  いうかぎりにおいてのことでしかない。」(初版原P20~21 江夏訳P39~40)
  上記に示していることを、<資料2>を示しておきます。

   しかし、この次の第三形態でのマルクスの提示は、
  「逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、
  リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、」
  ーーとは、次のようにしか人々には、理解できていない。
    しかし、「価値の現象形態として認められている」ーーのは、回り道を経てではなく、
  リンネルは等価形態として、直接的に自然的形態のままに価値形態とされていたのであるから、
  との誤った論理がどうしてもたってしまうのです。
  だから、堺の先生は、次のように、再版6段落そして、初版7段落の説明をなすのです。>

   第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
   http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/957c3d5b7dfa87f3634e1b621b846af9
  「商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、そ
  の物的存在でしかありません。だから一般に商品はその使用価値のままでは直接には交換でき
  ないのです。だから、それができるようになるためには、それが他の商品と同じものであるこ
  とを示す必要があり、それがすなわちその商品の価値なわけです。
  商品は自らの価値を目に見える形で表現して、その現物形態が価値そのものであるものに転換
  してこそ、他の諸商品と直接に交換可能なもの、直接に社会的に妥当な形態を獲得することが
  できます。そしてそうした現物形態が価値そのものを表すものこそ、すなわち等価形態であ
  り、そうした商品世界から排除された唯一の例外的存在が、すなわち一般的等価形態だという
  ことです。」

   英明な堺の先生にしての初歩的・根本的な誤りは、下記の次のところの認識にあります。
  「商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、そ
  の物的存在でしかありません。」
  しかし、ここで問題にされているのは第一の形態ではなく、第三の形態であり、商品は物象で
  あり、そして価値関係とは?ーー物的関係ではなく物象の社会関係であり、この関係を見出す
  ことができたなら、商品は単に、堺の先生の述べる「商品の価値」と規定されているだけでは
  ありません。

  a 再版では、a相対的価値形態の内実の8段落にて、価値体上着を価値魂と批判することで、
   <上着は価値であり、価値形態と規定される>ことから、次の9段落にて、「・・・価値関係
   のなかでは、上着形態は価値形態として通用する。それゆえ、・・一商品の価値が他の商品
   の使用価値で表現されるのである。」(原P66 新日本新書P88~89)ーーとあります。
   商品との規定であれば、それは<価値であるから使用価値>であり、<使用価値であるなら
   価値形態>との規定を受け取っています。<しかし、初版では、この簡明な説明にはなりま
   せんので触れるのは止めておきます。>このような初歩的な判読で、彼は誤っていたのです。
  b 更に、ここでは初版の<Ⅲ 相対的価値の、第三形態・・>において、次のように論じて
   いるのですから、その次の段階が、ここには主張されています。
   価値形態として商品はーー間接的・媒介的にこの規定を受け取ることで、さらにもうひとつ
   の転回をして、物象から「一般的価値形態」と判断されることで、諸商品は一般的相対的価
   値形態を受け取ったのです。
  c再版での<1価値形態の変化した性格>の6段落で、同じく物象ー商品世界からリンネルは
   一般的価値形態と判断されていることが、同じく、述べられていました。
   「これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。」ーー
   (原P80 新書版113)とあったのです。
  dそして、このもう一つの転回が、起こっていることの表現が、一般的等価物リンネルが、
   この一般的相対的価値形態から排除される・商品世界から排除されるーーところの回り道を
   経ることで、リンネルは一般的等価形態を受け取っているのです。
  e再度<それは、商品の社会的形態・価値形態・交換可能性の形態を、左極にて受け取り>
   との規定のもとに、<商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態は、残りの部分か
   ら除外された単一の商品を変換し、それと同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物
   にする。>

   再版8段落での提示は、こうなっています。
https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi
<下記英文>
①The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ーhere the linen ーinto the universal equivalent.
  商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形は、残りの部分から除外された単一の商品を
  変換し、それと同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
②The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
  身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に説定された形態です。
  <「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、」 国民文庫P126>
  それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。
③The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.
  物質のリネンは目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な蝶ー蛹の状態になります。
  <このように、上記②は、定式とされるドイツ語版ーー下記訳では、一般的等価形態としか、
  この反対にしか理解できない。>
  <「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり」原P81国民文庫P126>
  しかし、宮崎訳 では次のものです。
  https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
    <ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。
    リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。
    だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。>
  <上記の直訳の続きは次のようになっています。>
  リネンを生産する特定の私的個人の労働である機織は、結果として社会的性格、他のすべての種
  類の労働との平等の性格を獲得する。
  一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働を他のすべての
  商品に組み込まれたものと同じにし、したがってリンネル織りを未分化の人間の労働の一般的な
  形に変換する。
  このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益
  な性質から抽象化されるという否定的な側面だけでなく、自分自身を明示的に明らかにするため
  に行われます。
  一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般
  に人間の労働力の支出に還元することである。>

  <つまりは、次のこういう理解をマルクスは、主張したのです。>
  <商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態では、身体のリネンは現在、すべての商品
  の価値によって共通に規定された形態を受け取ることで、一般的価値形態を形成しています。
  だから、この一般的価値形態において、価値が労働を表示するーーことができるのです。>
  学会において、この飯田論文への批判が提示できなかったのは、次のように尼寺先生にして、
  <一般的価値形態において、価値が労働を表示する>ことが、まるで理解出来ていないのです。

     <初版『資本論』「価値形態」の研究(3)  尼  寺  義  弘>高知大学リポジトリ
   7〕一般に商品の直接的な形態は使用価値の形態であり価値の形態ではない。価値の形態は他
   商品との関係においてのみ間接的にあるいは相対的にとりうるものである。したがって価値形
   態は媒介された形態である。諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互
   いに関係しあうためには統一的な,一般的な 相対的価値形態を自分に与えなければならない。
   一商品が一般的等価形態の地位にあるのはすべての他商品がそれらの価値をその商品で一般に
   表現するかぎりである。あるいはその商品すべての他商品の価値の表現材料として役立ってい
   るかぎりである。したがって一商品が一般的な直接的交換可能性の形態あるいは直接に社会的
   な形態にあるのは,すべの他商品が直接に交換されうる社会的な形態をとっていないからであ
   り、形態Ⅲの相対的価値形態と等価形態との種差をここでも述べているのである。

   しかし商品世界が第三の形態にて形成されているのは、次の彼の述べることではありません。
  ①「諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互いに関係しあうためには統
   一的な一般的な相対的価値形態」ーーでは、この一般的相対的価値形態としての成立は
   価値体としての関連を示すものですから、第一、第二の等価形態ですよ。
   この批判としては、下記のa bと示されます。

       <初版ーー7段落>
     a「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、
      自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。
      そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも
      量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。」
      ーーとの説明は、下記再版と同じ説明であります。
       <再版 1価値形態の変化した性格 の6段落>
     b物象ー商品世界からリンネルは一般的価値形態と判断されていることで上記と同じく
      「交換可能性の形態」が、次のように受け取られていること、
      「これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。」
      ーーと説明されているのです。
     cこのように、a b と示されている「一般的価値形態」が、交換可能性の形態・
      一般的相対的価値形態として形成される、ということを、彼は理解していないのです。

  ② 「すべての他商品がそれらの価値をその商品で一般に表現するかぎりである。あるいはその
   商品すべての他商品の価値の表現材料として役立っているかぎりである」ーーでは、①の価値
   体であることでの価値表現の材料としての役立ち、との理解になります。
   だから、尼寺先生が誤解しているのは、
   「諸商品が価値として,人間労働という同じ種類の凝固体として互いに関係しあう」ーーことが
   あてはまるのは、第一・第二の形態の左極ではなく右極の等価形態においてなのです。
   そこでは等価物リンネルは、a価値体であり、自ずと、b価値表現の材料であり、
   c直接的に価値形態であります。彼は、第二の形態の右極を、イメージしてしまったのです。
     <資料3ーー提示の久留間理論は、第三形態の総括として述べられている労働生産物の
     商品への転化を、第一の形態でも同じと判断する誤り、をしている。>
   しかもここで論議対象にしているのは、第三の形態であり、まずなによりも、一般的価値形態
   の成立による、商品世界の成立、その説明・対象化なのです。
   次に、その反省規定として登場する商品世界から追い出された一般的等価形態としての形態規
   定にあるリンネル商品であり、実物形態としてのリンネル商品ですから、上記のc直接的に価
   値形態との規定にては、何らその用を果たしていないことはわかります。
   a bでの役立ちも、商品世界から排除されることで、お役御免になっているのでありますか
   ら、単に、次段落に示された、<非直接的交換可能性の形態ーー直接的交換可能性の形態>の
   対立が、ここに存在しているーーということであります。

  ③a「諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自
   分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。」ーー
   ことが、再版にて示された商品世界をもたらす、一般的価値形態の成立として、この初版の七
   段落冒頭にて示されているのです。
   そこで、この初版の四段落から七段落の論旨を、榎原さんは、こう次にまとめている。
   「諸商品の社会的関係が、諸価値としての相互の関係であり、その内実が抽象的人間労働の関
   係であったとすれば、互いに諸価値として認められる形態が商品の社会的関係だ、とういうこ
   とになる。
    マルクスは商品の社会的関係と、価値形態または交換可能性の形態とは一つで同じものであ
   ることを指摘したうえで、一般的等価物になっている商品を、直接的に直接的に社会的な形態
   をもっている商品と規定している。
    諸商品の社会的関係が、抽象的人間労働の関係であり、その社会的形態がそれらが人間の諸
   労働凝固体として認められることを明らかにしても、直接に社会的形態を持った商品が登場し
   ない限り、その内容は感性的な表現をもっていない。さらに商品の社会的関係といっても、社
   会的に妥当なものにはなっていない。」(『価値形態 物象化 物神性』P84 )
   榎原さんは、残念ながらーーマルクスが、
   a一般的価値形態として商品世界が形成される、そのことで、
   b 一般的相対的価値形態もその同じ商品世界を形成することで、
   c等価物リンネルを商品世界から排除する、
   ーーという人間のなすことではなく、諸物象の判断・そのことでの物象の社会関係の形成ーー
   との構図、何度も触れてきたように、商品世界の形成が、まず第一の前提であることを、
   次のように否定しているのです。
   「直接に社会的形態を持った商品が登場しない限り・・」成されないーーと述べているのです。
   <「一般的価値形態」の成立で交換可能性の形態が一般的相対的価値形態として形成される>
   ーーことを否定しているのです。
   よく考えて下さい。第二の形態では、展開された価値形態が成立することで個別的な等価形態
   が成立したのであり、第一の形態のように、等価形態と相対的価値形態の成立の前後を表すも
   ではありません。そして第三の形態では、商品世界の成立があって、その世界から排除される
   一般的等価形態たるリンネルーーという構図は、明快なものです。
   だから榎原さんは、①価値形態 ②展開された価値形態 ③一般的価値形態 の成立の関連で
   あり、順位をを否定しているのです。そして、次の飯田論文も支持しているのです。

  ④ここで、冒頭に示した飯田論文の提示する事への疑問ーーも示しておきます。
   リンネルの価値形態として、価値上着による相対的価値表現で形成される内実は、この価値
   形態があることに示されたのであり、価値関係との物象の社会関係の示す、物象の判断がここ
   に示されている。
   しかし、単に人間労働を表示するにすぎない同等性関係は、上記のように、価値上着にリンネ
      ルは等置されるのではなく、「上着が同じ実体の物、同じ本質の物、としてのリンネルに関係
   させられている」(『初版付録』原P767  P884)ーーとあるのですから、ここには物象
   の判断も成立しないのです。この同等性関係においてのみ、右辺の裁縫労働は抽象的人間労働
   の実現形態であり、左辺のリンネル織りは抽象的人間労働であるという反省規定の手本を見せ
   てくれるのです。 マルクスは、同等性関係と価値関係との相違を明示したのです。
   初版のこの第一の形態を示す六段落が、等価形態であると判断されるのは、次の第七段落にて
   であり、先の同等性関係とは異なって、価値関係においては、<回り道>をすることで、この
   「抽象的人間労働の顕現形態としての他の商品に含まれる具体的労働に自分を関係づけること
   ができる。」( 初版今村訳P291 原P20 )と示されている。
   このように回り道とは何であろうか?相対的価値形態形成のーー回り道ーーを経てであります。
   そこで、次に初版第三の形態の八ー九段落です。

  ⑧だから、一商品が、全ての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に
   社会的形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかな
   く、またそのかぎりにおいてのことでしかない。
  ⑨ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社
   会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。

   杉本ーーA、初版だと、ーー諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、両極が、こう形成され
        ①非直接的交換可能性の形態・形成の回り道をへることで
        ②直接的交換可能性の形態が形成されたのです。
   同じく、B、再版だと、ーー諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、両極が、次に形成し、
        ①一般的な相対的価値形態・形成の回り道をへて、商品世界が形成され、
        ②一般的等価形態が、商品世界から排除されることで形成されると、ある。

         以上に何が述べられているのか?再度掲げます。
         これで、冒頭の飯田論文への初版での理解への回答が出来ました。
        ①第一の商品形態で、「リンネルは自分の価値量‥・・を上着で表現することによ
         って、自分の価値存在に自分の直接的存在とは区別される価値形態を与える。
         リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかに分化したものとして表すこと
         によって、現実に自分を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして示
         すのである。」(初版原P16 江夏訳P35)ーーと表されています。
        ②この一般的価値形態をとる商品形態において、価値が労働を表示することができ
         るーーのであり、そのことを、「商品の分析はこれらの形態(両極の形態)を商
         品形態一般として明らかにしたのである」(原P34 今村訳P310)、とある。
         だから、一般的価値形態において、使用価値と価値形態の商品形態を受け取るこ
         とで、労働生産物は商品に転化したのであります。
        ③次に再版であれば、両極の形態で示された商品形態が、右極の等価形態に貨幣商
         品を受け取ると、一般的価値形態が貨幣形態に転化することになることを示すこ
         とで、「簡単な商品形態は貨幣形態の萌芽である」(原P85 新書版P121)ー
         ーことを示したのであり、a労働生産物の商品への転化を示した簡単な価値形態
         b展開された価値形態 cー般的価値形態 d貨幣形態が示されることで、それ
         ぞれの価値形態の同じ役立ちを見出すことで、次のことが語られのです。
        ④第四の形態としての貨幣形態は、その前の一般的価値形態と同じなのです。
         ①一般的な相対的価値形態の回り道の第三形態と同じく、この回り道を経て、
         ②貨幣商品として、貨幣の機能を果たす金は、価値表現の材料の役立ちをしてい
         るかに見えてしまうが、そうではなく、すでにその役立ちは第一・二の等価形態
         の成立で終えており、一般的等価形態が形成されるためには左極の反省規定を受
         けて、リンネルの自然的形態のままに直接的交換可能性の形態を受け取っていた
         のだから、その役立ちがリンネルから金へと変化したことーーの明示をしたにす
         ぎないのです。

      ①久留間理論での初版の第四形態成立による第三形態成立の不可能性と、
      ②貨幣形態の成立を交換過程での価値の実現と使用価値の実現の矛盾の解決ーー
      に見る、価値形態論と交換過程論の一体的展開と理解するこの見解は、
      ③交換過程での物象の人格化の提起ーー価値形態論での物象の社会関係の成立との異な
      る見解がここにはあるのに、二つの場面の混同をもたらすことで、価値形態論にも物象
      の人格化を持ち込むことになっている。
      ④杉本は、久留間理論の価値形態論での解説・解読こそが誤りである、と考えている。

      資料3提示のところから、久留間理論の誤りを提示してみます。
    「だから価値形態論で、それの価値の表現が問題であるところの商品──すなわち相対的価
    値形態にある商品──の使用価値が固有の考察の圏外におかれることは、いわば当然のこと
    でなければならぬ。」ーーに対する意見です。

    ここでは第一の形態ですから、左辺のリンネルは価値上着を自らに等置することで、上着を
    価値の現象形態と反省規定することで、上着に価値形態の規定を与えることができたのでし
    た。上着は価値形態の規定を受け取ることで、この両者の価値関係を表わし、そこで次に、
    リンネルは相対的価値形態を、左極に受け取ったのです。
    上着はこの関係において、価値の現象形態の役立ちを、媒介的に果たすことで、価値形態の
    規定を自然的形態のままに右極にて受け取ったのです。
    さてとそこで、①使用価値リンネルは、価値上着による相対的価値表現の役立ちをさせてい
    るのは、価値関係によっての物象の役立ちがあるからです。②次に、価値上着による反省規
    定の役立ちは、リンネルと上着の価値関係のもたらす相対的価値表現に媒介されたものであ
    り、上着はリンネルの価値形態との反省規定を、この関係から受け取るのです。
    第一の形態での物象の社会関係ーー物象の判断は、リンネルの主体的行動・上着の客体的行
    動として、示され、主体的行動は相対的価値形態を形成し、客体的行動を示す方は、等価形
    態と判断されているのです。
    このように価値関係による物象の判断は、上着によるリンネルの価値形態との判断をもたら
    すことで、左極にて相対的価値形態、右極にて等価形態の判断をもたらしたのです。
    だから、久留間先生は、相対的価値表現するリンネルの役立ちを価値関係がもたらすことに
    ついて、何ら考慮できなかったのですから、スターリン経済学のままに、それを物的関係と
    理解するーーことになっているのです。彼の基礎はここにあります。
    彼がそこを物象の社会関係であり、物象の人格化と称するのは、混乱の生み出した産物です。
     ーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーー
    <資料 1>
    https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/1714
    相対的価値形態の内実-初版『資本論』の検討を通して  飯田 和人
    Ⅵ 総 括
    マルクスはいう。「 ただ異種の諸商品の等価表現だけが、異種の諸商品のうちにふく
    まれている異種の諸労働を、事実上、それらに共通なものに、人間的労働一 般に還元
    することによって、価値形成労働の独自的な性格を顕現するのである」 。
    (『再版』a相対的価値形態の内実 五段落)
    すなわち、ここにおいて上衣を生産する裁縫という具体的有用労働が抽象的人間的労
    働の現象形態または実現形態として通用し、この裁縫との等置関係を通して、リンネ
    ル を生産する織布が自分もまた価値形成労働としては裁縫と同じ抽象的人間的労働で
    あるということを表現するということである。
     こうして、初版「 内実」論にみられた論理構成上の難点は、現行版「 内実」論が質
    的価値表現メカニズムを労働連関次元において基礎つける論理を内蔵したということ
    によって克服されている。むろん、こうした現行版内実」論の意義( 前進面)は直接現
    行版を検討することによって、さらに十全な形で確認される必要があるが、それはまた
    稿を改めて論 ずることとしたい。 (P98)

    <資料 2> 初版 Ⅰ 相対的価値の第一形態あるいは単純な形態 二~七段落
    相対的価値の第一の形態 あるいは単純な形態
  ② 「リンネルは、自分の価値量ーーところで、価値量とは、価値一般と量的に測られる価
    値との双方であるーーを上着で表現することによって、自分の価値存在に、自分の直接
    的な存在とは区別される価値形態を与える。
    リンネルはこのように、自分を、自分自身のなかで分化したものとして表すことによっ
    て、現実に自分自身を初めて商品ーー同時に価値でもある有用物ーーとして表すのであ
    る。」
  ③ 「上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を刻印している。
    じっさい、リンネルの価値形態は何を意味しているか? 上着がリンネルと交換可能で
    あるということである。上着はいまや、そのあるがままの姿をもって、上着というその
    それの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価
    値あるいは等価物の形態をもっているのである。」
  ④ 「リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値として
    は上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリ
    ンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態と
    なるのである(18)。」
  ⑤ 「20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、
    という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ
    認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そ
    のなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)」
  ⑥ 「つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、
    このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、
    具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態として
    の--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。」
   七段落
  a 「商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。
    使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価
    値の・したがってそれ自身の反対物の・現象形態になる。・・・・・・・・・・・・・
    商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに
    反射しあっている。・・・・・・
  b ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であ
    るから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の
    価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえな
    ことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行
    なうことができるのである。・・・・・・
  c そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、と
    いうことだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在している
    のは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立って
    いる、というかぎりにおいてのことでしかない。・・・・
  d ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表
    現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見す
    ることになる(20)」(初版原P20~21 江夏訳P39~40)

    <資料3> 広島資本論を読む会
     http://marx-hiroshima.org/?page_id=11&paged=2
   久留間鮫造   『価値形態論と交換過程論』 P11~14
  交換過程に先立つ部分のうちで、「資本論」の現行版でいうと第1章の第1節「商品の二つ
  の要因──使用価値および価値」および第2節の「商品で表示される労働の二重性格」
  (「経済学批判」)はもとより、「資本論」でも初版では、このような節の区分はなされて
  いないが、内容のからみてそれに当たる部分)で、商品が分析的に考察されていることにつ
  いては、おそらく何ぴとも異議はないであろう。
  だが第3節の価値形態論はどうであろうか。これもはたして分析的といえるかどうか。
  商品の価値表現においては、価値とともに使用価値が不可欠の役割を演じるものと考うべき
  ではないか。こういう疑問がおそらくおきることと思う。だがこれは、わたくしのみるとこ
  ろでは、あきらかに誤解にもとづくのである。何よりもまず明らかなことは、価値形態論で
  問題にされるのは文字どおりに商品の価値の形態だということである。商品の価値形態は、
  使用価値でありかつ価値であるところの商品が、そこではもっぱら価値として、それの使用
  価値としての直接的な存在から区別してあらわれるところの形態である。だから価値形態論
  で、それの価値の表現が問題であるところの商品──すなわち相対的価値形態にある商品─
  ─の使用価値が固有の考察の圏外におかれることは、いわば当然のことでなければならぬ。
  もちろん、商品はそのありのままの姿において、生まれながらに使用価値の形態をもってい
  るから、そのほかにさらに価値の形態を取得すると、それと同時に二重の形態をもつことに
  なり、かくして現実に商品として──単なる使用価値ではなく同時に価値であるものとして
  ──あらわれることになる。
  したがってまた、商品の価値形態は同時に生産物の商品形態であり、商品の価値形態の解明
  は同時に生産物の商品形態の解明である、ということにもなる。
  だがこのことはけっして、価値形態論の分析的・一面的性格を否定するものではない。
  価値形態はあくまで商品の価値の形態──商品がそれの価値を、それの使用価値としての直
  接的な存在から区別してあらわす形態──であり、価値形態論の固有の課題はこの価値の形
  態を解明することにある。
  商品の価値形態が同時に生産物の商品形態であり、価値形態の解明が同時に生産物の商品形
  態の解明を意味することになるのは、使用価値の形態は商品の自然形態のうちにはじめから
  与えられており、したがってまた、価値形態の考察のさいにも、そういうものとして前提さ
  れているからにほかならない。
  マルクスの言葉でいえば、
  「使用価値の形態は、労働生産物が生まれてくるときに、その自然形態のうちにもってくる。
  だから、労働生産物が商品形態をもつためには、……ただその上に価値形態をもてばいい、」
    (「資本論」初版、岩波文庫版164-165頁。)
    (原P776 付録(六)商品の単純な価値形態は、労働生産物の単純な商品形態である)
  ということになるのである。そして価値形態論は、生産物が商品としてあらわれるために、
  その生得の使用価値の形態のほかにもたねばならぬところの、この価値の形態を、如何にし
  て取得するかを解明するものにほかならぬのである。
  それゆえ、使用価値が商品の価値表現において不可欠の役割を演じるとすれば、それは相対
  的価値形態にある商品の使用価値ではなく、等価形態にある商品の使用価値でなければなら
  ぬ。
  なるほど、商品の価値は、その商品に等置される他商品の使用価値で表現される。すなわち
  使用価値が、ここではそのまま価値の形態になる。価値形態論はもちろんこの関係を考慮の
  ほかにおくことはできない。いなそれは、この関係の究明を基本的な課題にさえするのであ
  る。だがこのこともまた、けっして、価値形態論の分析的・一面的性格を否定するものでは
  ない。
  第一に、等価形態にある商品の使用価値は、それの価値の表現が問題になっている商品の使
  用価値ではなく、したがって、それの表現が問題になっている価値とともに同じ商品の対立
  的要因を形成するところの使用価値ではない。われわれのなじみの例でいえば、そこで表現
  されているのは商品リンネルの価値であり、この価値表現において役割を演じているのは商
  品上衣の使用価値である。
  すなわちこのばあい、価値と同時に使用価値が考察されるにしても、それはリンネルの価値
  と上衣の使用価値とであって、同じ商品の対立的要因を形成するものではなく、したがって、
  それによって商品が、使用価値でありかつ価値であるものとして、全体的に考察されること
  になりはしない。
  ここで考察されるのは、単にリンネルの価値が表現されるされかたにすぎないのであって、
  その観点はあくまで価値の観点である。上衣の使用価値は、ここでは、リンネルの価値表現
  の材料として登場するにすぎない。しかも、そういうものとして登場するかぎりでは、この
  上衣の使用価値は、被服の目的に役だつ有用物としての本来の属性においてではなく、もっ
  ぱら抽象的・人間的労働の体化物としての形態規定性において、その役割を演じるのだとい
  うことは、すでに前論(本書後篇の1)において、リンネル所有者の欲望の捨象の問題に関
  連して、くりかえし説明した如くである。
  このように、価値形態論では、商品はもっぱら価値の観点から考察されるのであって、使用
  価値は、本来的な使用価値としては、全く考察の圏外におかれるのであるが、しかし交換過
  程論ではそうはいかない。

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親を馬鹿と認めなければ抹殺号令とは

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 2月13日(火)04時42分44秒
返信・引用
     3年前前盲ろうの全国協会事務局長庵さんが時自宅に来たら突然手話通訳差別が入った。振興局の相談員はここにいるとなだめるが、完全沈黙では証人も作れず、そのチャンスに法務局は捜査権がない。
 全国大会は妨害対策に挨拶状と個人的手紙も出していたが結果は岩手も全国の友の会も知っている人は誰も現れない(合わせない)。
 大会後は全国に訴えたが誰も返事しない。一度にこれだけ動かせるのは知事しか居ない。しかも勧めた庵さんが簡単に口説かれていた。全国の友の会にしてもあいつに関わるなとされていた。
 知事が黒幕とは。栃木の妨害は知事同士の密約だったのか。
 息子も入れて6人の参加なのに何の効果も無かった。
 知事が相手では諦めるべきか。と言っても妨害の説明は何一つ来ていない。一人で調べることにした。
 暴走目こぼし権があったらと問い合わせした。法律関係だけ答え後の全国の社会福祉協議会は30も全部沈黙した。知らないからで無く喋れないことを示していた。法律関係の返事はそんなもの無いと言うだけ。似たものが他にもあって喋れないらしい。
 それにこれは岩手で暴走があったことを暗示している。非難と失笑、後ろ指が岩手に向けて飛んだことだろう。
 11月末頃一関社協に行って通訳差別の説明を求めたが長すぎて読めないとごまかす為全国への問い合わせを見せたら一関は和解したがって居ると言うが完全沈黙では和解は出来ない。嘘だと判る。
 そのまま帰ったが話は利用することにした。
 12年前の県庁の朽木課長は社会参加妨害の抗議に対して親父を馬鹿だと認めたらと言っていたことから既に亡くなっているし12年の妨害で疲れから好きなだけ馬鹿と言ってもいいですとしてその代わりに今までの圧力の廃止を求めた。期限付き2回の和解要求です。
 やっぱり無視。それで全国40に問い合わせの形で岩手の暴走を話した。そして1週間して福祉課に又話したがまだ無視している。
 完全沈黙では説明も出来ないし証拠は作れない。諸刃の剣みたいな法律です。証拠あるかと言う訳だ。それも障害者の団体の特権らしく厚生労働省が認めている態度で、法の下に何人も平等だと障害者110番の弁護士が言う。法務省も知っているはずでも完全沈黙では証拠は作れず動かない口実になる。一般には公開されないのではないか。理屈はともかく完全沈黙では初めから抹殺しか考えていない。障害者一人くらいどうでもいいとする決断でないか。こちらは社会参加を求め妨害はもう12年で12回になり辞めて欲しい。
 障害者の団体の暴走を隠すために暴走で障害者個人はどうでもいいと知事が決断し厚生労働省も全国の社協も認めているとは。
 復興を叫ばれる岩手だけの特権なのか。

 

法律の矛盾について

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 2月10日(土)04時40分18秒
返信・引用
   暴走を正義と気取る岩手のボランティア達への疑問
  今から12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。その後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心も押し付けて行った。親を馬鹿と言う出所は岩手県聾唖協会現会長だった(当時次期会長)。全通研も県庁も読み書き出来ない聾唖者の勝手な猜疑心から来たと知っていた。親父と口利いたことも無い。
 本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもしないで親を馬鹿にして全てを白紙にした。
 それから別の団体に行こうとして相談員は多忙で手紙で進めた。
 内定した頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さんひとみさんの悪口妨害が入り内定は取り消された。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。そして山形の姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言う。
 更に県庁に抗議したら当時の福祉課朽木課長は親を馬鹿だと認めたらとメールで言い出した。県の看板団体は暴走でも隠すことしかしない。既にあちこちかん口令を敷かれ社会参加はさせずどこの団体も行かせない。関わった人も団体も全て沈黙させた。暴走を暴走で隠し続け暴走で正当化された。密告も脅迫電話もお咎め無し。
それから12年の間に12の社会参加妨害があった。栃木と交流も岩手から関わるなと悪口が入っていた。
 前の年の盛岡での講演会も通訳妨害されていた。
 そして3年前全国協会が家に来て全国大会に参加しろと。ところが全国協会が来ていたことがばれて圧力は激しく通訳差別が出た。 息子も心配して6人で参加したが岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。それどころか勧めた全国協会も全国の友の会も口説き伏せられていた。しかも黒幕は知事だった。
 説明の来ないまま諦めるのか。自分で調べた。
 好き勝手な暴走は合法的か。法律関係だけ暴走目こぼし権なんて無いと。他は社協が全国30も全部沈黙。これは喋れないことを意味して居る。看板団体はばれなければいいとする特権があることを示している。暗黙の了解とする説明不能の法律だろう。聾唖者へのおだてが暴走を招いている。
 12年も圧力に耐えて来た。これ以上はごめん。親は亡くなっているから好きなだけ馬鹿と言えとして、その代わりこれまでの圧力は全部廃止にして頂きたいと和解を求めたが無視している。。
 今まで完全沈黙は抹殺だけ考え証拠も作らせない暴走隠しは続けられる。しかも看板団体だからと合法なのか。
 

法律の矛盾について

 投稿者: 岩手県元盲ろう者会員松岡幹夫  投稿日:2018年 2月 9日(金)22時15分23秒
返信・引用
   暴走を正義と気取る岩手のボランティア達への疑問
  今から12年前岩手の盲ろう者友の会事務局長からお前の親父は馬鹿なのだ妥協しろと言われ馬鹿らしいと退会した。その後を追って全通研が家に来て聾唖者はかわいそうなんですと言い改心も押し付けて行った。親を馬鹿と言う出所は岩手県聾唖協会現会長だった(当時次期会長)。全通研も県庁も読み書き出来ない聾唖者の勝手な猜疑心から来たと知っていた。親父と口利いたことも無い。
 本人は知らなかったと言えば正義になると言い張り約束守ることも詫びることもしないで親を馬鹿にして全てを白紙にした。
 それから別の団体に行こうとして相談員は多忙で手紙で進めた。
 内定した頃相談員の密告から友の会事務局長の奥さんひとみさんの悪口妨害が入り内定は取り消された。これを怒って抗議したら大本家に脅迫電話された。そして山形の姉が呼ばれ姉は親父の墓の前であんな社会と関わるなと言う。
 更に県庁に抗議したら当時の福祉課朽木課長は親を馬鹿だと認めたらとメールで言い出した。県の看板団体は暴走でも隠すことしかしない。既にあちこちかん口令を敷かれ社会参加はさせずどこの団体も行かせない。関わった人も団体も全て沈黙させた。暴走を暴走で隠し続け暴走で正当化された。密告も脅迫電話もお咎め無し。
それから12年の間に12の社会参加妨害があった。栃木と交流も岩手から関わるなと悪口が入っていた。
 前の年の盛岡での講演会も通訳妨害されていた。
 そして3年前全国協会が家に来て全国大会に参加しろと。ところが全国協会が来ていたことがばれて圧力は激しく通訳差別が出た。 息子も心配して6人で参加したが岩手も全国の友の会も知っている人は誰も合わせない。それどころか勧めた全国協会も全国の友の会も口説き伏せられていた。しかも黒幕は知事だった。
 説明の来ないまま諦めるのか。自分で調べた。
 好き勝手な暴走は合法的か。法律関係だけ暴走目こぼし権なんて無いと。他は社協が全国30も全部沈黙。これは喋れないことを意味して居る。看板団体はばれなければいいとする特権があることを示している。暗黙の了解とする説明不能の法律だろう。聾唖者へのおだてが暴走を招いている。
 12年も圧力に耐えて来た。これ以上はごめん。親は亡くなっているから好きなだけ馬鹿と言えとして、その代わりこれまでの圧力は全部廃止にして頂きたいと和解を求めたが無視している。。
 今まで完全沈黙は抹殺だけ考え証拠も作らせない暴走隠しは続けられる。しかも看板団体だからと合法なのか。

 

     現行版【8】パラグラフの正しき記述ーー理解を求めて

 投稿者:杉本  投稿日:2018年 2月 3日(土)23時46分15秒
返信・引用 編集済
        私達は、英明な堺の諸先生にして、次の誤った前提から始めていることをまず批判する。
      <彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉
      になると述べているのです。
      ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているので
      すから、>ーーと、第一・第二の形態と同じく、第三の形態でも、等価形態は前提ーー
      という社会的常識を、彼らは批判できなかったのです。

http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/54b8fb7b4af892ce1c7d80c89a1f849c
第27回「『資本論』を読む会」の報告
◎全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行
ところでここでマルクスがリンネルを〈同じ第三の商品〉と述べていることに異論を唱えている人がいます(山内清前掲書)。つまり〈リンネルは、第二形態では当事者の一方であるから、「第三の」は疑問〉(前掲99頁)だというのです。しかし上記の一文をよく読むと、マルクスは〈彼らのいろいろな商品の価値を〉と述べています。つまりリンネルと交換して自分たちの商品の価値を表現する〈他の多くの商品所持者〉にとっては、彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、こうした表現はそれを示唆しているものと考えられ、何ら問題はないと思います。


     現行版【8】パラグラフの正しき記述ーー理解を求めて、次の比較が出きるな!
     と思ってやってみた。「一般的価値形態をなしている無数の等式は」ーーと示す記述を
     一般的等価形態と理解する、英明な堺の先生方々の誤解はどこからか?

     Aーー「リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、
         それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。」
     Bーー「亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である;
         それはしたがってそれらのうちの全てかつどれとも直接交換可能となる。」
     Cーー身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。
         それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。
     Dーーリネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。
        だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。
     Eーーリンネルはいまや他のすぺての商品と直接に交換可能である。
        したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。
        リンネルを生産する私的労働である機織は、これがために、社会的労働という性格、
        他のすべての労働と同等である形態を獲得する。

 ① http://p.booklog.jp/book/19345/read
   『資本論』 第1部 第1章・第2章 詳解
http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/3089c84b59ae181d571acdf7e6ac0095
第29回「『資本論』を読む会」の報告
◎等価形態の変化した姿
 初版付録では、ここに〈二 等価形態の変化した姿〉という項目が入ります。だからこのパラグラフでは一般的価値形態では等価形態はどのように変化しているかが考察されています。

【8】パラグラフ

 〈 商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。 リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。 リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められる。

織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。 一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。

このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。 この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。 この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。〉資本論(1)新日本新書P114~115


   ②英和訳『資本論』
 https://sites.google.com/site/heyizibenlun/home/diipian-shang-pinto-huo-bi-1/1zhang-di1jie-yitsuno-shang-pinno-zhongno-ertsuno-yao-yin-shi-yong-si-zhito-si-zhi/1zhang-di3jie-si-zhino-xing-taisunawachi-jiao-huan-si-zhi


(C1-7段)
  相対価値の一般形態は、諸商品の全体世界を抱擁して、単一の商品、その残りから排除されて、そして同等物[等価物]の役を演じるようにされた商品ーここでは亜麻布ーを、普遍的同等物[等価物]に転換する。
亜麻布の身体的形態は今や諸商品の諸価値によって共同して装われた形態である; それはしたがってそれらのうちの全てかつどれとも直接交換可能となる。
その本質亜麻布が可視的化身、あらゆる種類の人間労働の社会的な蛹態となる。

織布、これはある私的な個人たちが特定の品物、亜麻布を生産する労働である、が、結果として、一つの社会的性格を獲得する、すべての他の種類の労働と同等なものという性格を[獲得する]。
価値の一般形態を構成するこれらの数え切れないほどの等式、が、順繰りに亜麻布のなかに体現された労働を、あらゆる他の商品のなかに体現された労働と相等しくする、そしてそれらがこのようにして織布することを、差別を立てられていない人間労働の明示の一般形態へと転換する。

このように諸商品の諸価値のなかに実現された労働はその否定的な側面のもとにおいてばかりでなく提示される、そのもとに抽象がなされているどの具体的形態と実際の仕事の有用な属性からなされた抽象のもとにおいてばかりでなく、それ自身の肯定的な性質を明白に知らせるようにされている。
この一般的価値形態は全ての種類の実際の労働を一般的に人間労働であるそれらの共通な性格への還元であり、人間の労働力の消費であることへの還元である。
  The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent ? here the linen ? into the universal equivalent.
The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the values of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them.
The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour.

Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour.
The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of manifestation of undifferentiated human labour.

In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly.
The general value form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.

   ③<杉本ーー直訳>
①商品の世界全体を包括する相対価値の一般的な形態は、商品世界から除外された単一の商品を変換し、同等の部分(ここではリネン)を普遍的な同等物にする。
身体のリネンは現在、すべての商品の価値によって共通に仮定された形態です。 それゆえ、それらのすべてとすべて直接的に交換可能になる。物質のリネンは人間労働の目に見える化身、あらゆる種類の人間の労働の社会的な<蛹ー蝶>の状態になります。

②以上の事柄から、リネンを生産する特定の私的個人の労働である製織は、結果として社会的性格、他のすべての種類の労働との平等の性格を獲得する。
一般的な価値形態が構成されている無数の方程式は、リネンで具現化された労働と他のすべての商品に組み込まれた労働とを同一視し、よってリネンの機織りを未分化な人間の労働の一般的な形に変換する。

③このようにして、商品価値の中で実現される労働は、あらゆる具体的な形態や実際の仕事の有益な性質から抽象化されているという否定的な側面だけでなく、一般的価値形態は、あらゆる種類の実際の労働を、人間の労働力であるという共通の特徴、一般に人間の労働力の支出に還元することである。



   ④宮崎訳
https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm
(9 ) 商品の全世界を包含する、相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離されて、ただ等価の役割を演じさせる、ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。

物質リネンが、あらゆる種類の人間の労働の、目に見える化身、人間の労働 の社会的結晶状態となる。機織り、特定のもの、リネン、を生産するある私的な個人の労働が、こうしたことから、社会的な性格、他のあらゆる種類の労働と等質の性格を持つことになる。

数えきれない行並びの等式、価値の一般形式は、それぞれ、リネンに込められた労働が、他の全ての商品に込められたものと同等であることを網羅する。そして、さらに、機織りを、区別できない「人間の労働」の表明の、一般形式に変える。 これらのことによって、商品の価値である労働が、様々で具体的な労働形式や有益な現実の仕事等々をはぎ取った労働という、見えにくい面ばかりでなく、それらの目に見える形をその労働自体として表すようにもなるのである。 価値の一般形式は、全ての種類の現実の労働を、人間の労働一般という共通的な性格に、また、人間の労働力の支出に要約する。


   ⑤《フランス語版》8段落

 〈商品世界を包括する一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価物商品に、一般的等価物という性格を押しつける。リンネルはいまや他のすぺての商品と直接に交換可能である。したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。リンネルを生産する私的労働である機織は、これがために、社会的労働という性格、他のすべての労働と同等である形態を獲得する。

一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルのなかに実現されている労働を、このリンネルとかわるがわる比較される各商品のなかに含まれている労働と同一視して、機織を、人間労働がそのなかに現われるところの一般的な形態にする。

このようにして、商品の価値のなかに実現されている労働は、たんに消極的に、すなわち、実在の労働の具体的形態と有用な属性とがそこで消滅するところの抽象として、表わされるだけではない。その積極的な性質がはっきりと確認される。この労働は、すべての実在の労働を、人間労働すなわち同じ人間労働力の支出というそれらの共通な性格に、還元したものである。〉(40-41頁)






 

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