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 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月13日(土)15時57分26秒
編集済
  fukuyama様
宮内公文書館の陵墓資料 陵印墓印調書 昭和1年  は私も昨年夏に検索で見つけました。担当の所に電話で確認すると、当該の文書の画像を、専門の業者(?)が写真撮影し、紙またはCDで郵送してくださるとのことです。有料です。CDは700~800円程度だったと思います。また、審査があり、普通1か月程度かかるとのことです。

申し込みを書きましたが、半年以上送付せずまだ動けていません。
貴重な基本資料なのではとの期待もします。早く送って内容を見てみたいです.
資料を見てからとなりますが、昭和元年には陵印・墓印について、何らかの扱い、管理についての決め事や集約がなされたものと想像しています。公文書館の陵印関係の資料では、陵印の扱いについての文書がタイトルを見るだけでも他にもあるように思います。

こまいぬ様

『東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念』について御教示ありがとうございます。私は掛軸と、『神社山陵参拝記』(記者が紅白に分かれての参拝記事の本)の両方を持っておりますが、別々に入手したものでした。そのため掛軸が当企画の付録であるのかの確認ができませんでした。しかしこまいぬ様の情報によりこの掛軸が同企画により作成されたものであることがわかりました。ありがとうございます。
 このことから、現時点ではこまいぬ様の考察通り大正13年1月~2月には、神武陵印と明治陵印については、同企画の付録掛軸に捺印された陵印はあったと結論付けられます。これが現時点で確認できる最も早い使用例であるといえます。
 今まで陵印の変遷を調べていて、大きな区切りに到達できました。ありがとうございます。感謝いたします。また今後も御教示くださいますようお願いいたします。

 陵印についてのコンテンツ、楽しみにしております。
 

『書陵部紀要』第70号

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 4月13日(土)10時29分4秒
  『書陵部紀要』第70号 平成30年度 が 書陵部所蔵資料目録・画像公開システムに
公開されていますね。

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/000/


また 宮内公文書館

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho

陵印で 検索してみると

・陵墓資料(法規目録)御陵参拝人・撮影・陵印等取扱規定集
・陵墓資料(法規目録)陵印 墓印調書 昭和1年

など どんな内容なのか 見てみたいものですが

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

東宮殿下御成婚奉祝参拝 神社山陵印譜

 投稿者:こまいぬ  投稿日:2019年 4月11日(木)07時04分15秒
  皆様、こんにちは。

新元号・令和も国民から好感をもって迎えられ、いよいよ御譲位まで二十日ほどとなりました。
今は御代替わりを記念してサイト内に御陵印に関するコンテンツを作成している最中です。

その作業中に、レプトン様が2015年10月18日の投稿 https://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1533 で紹介されていた「東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念」のことを思い出しました。

この資料は私も所持していまして、大正期の御朱印事情、特に「御朱印」という名称がいつから使われるかを推測するために非常に役立ったものです。

私の所有しているものには包み紙があり、タイトルは「東宮殿下御成婚奉祝参拝 神社山陵印譜」となっており、下に「神社山陵参拝記付録」「朝日新聞社発行」の文字があります。

大正13年1月、東京朝日新聞と大阪朝日新聞は皇太子殿下(昭和天皇)御成婚を記念し、東京・大阪の記者各4名計8名がそれぞれ2人ずつ紅白2班に分かれ、東京は東日本の神社22社、大阪は西日本の神社37社と神武天皇陵・明治天皇陵を各種乗り物を駆使して巡拝し、紅白で早さを競うという企画を立てました。この時新聞に連載された道中記をまとめたのが『神社山陵参拝記』です。

この『神社山陵参拝記』は国会図書館デジタルコレクションで見ることができるのですが、奥付を見ると発行は大正13年3月15日になっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969665

さらに、前書きに「挿入の神社と山陵の印顆は選手が参拝の際、特に『参拝帖』に押捺を受けたもので、好個の記念として永久に珍重されるべきと信ずる」とありますので、大正13年1月ないし2月のものと考えて間違いないと思います。因みに伏見桃山陵への参拝は白班が1月26日、紅班が2月2日、畝傍東北陵への参拝は白班が1月28日、紅班が2月4日となっています。

とりあえずご報告まで。

https://goshuin.net/

 

旧陵印使用時期について

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月 1日(月)10時55分22秒
編集済
   みなさまこんにちは。今年初めてのご挨拶になります。新年あけまして・・・・の所が、新年度明けまして・・・・になってしまい、申し訳ないです。あと1時間足らずで新元号が決定・発表されますね。ドキドキ、ワクワクです。
 3月は仕事で奈良県中を走り回りました。また山の辺の道を天理駅から桜井駅まで、黒塚古墳はじめ沢山の古墳を回りながら歩きました。約20kmを昼食時間を入れて5時間半で踏破しました。早春の山辺の道は、桜こそまだ開化前でしたが、菜の花畑やユキヤナギ、ボケ、コブシ、スイセンの花をはじめ、タンポポ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、などの野花がきれいに咲き誇り、とても風情のある趣に包まれていました。もうレンゲも咲いていました。ハウス内で赤く実っている苺がおいしそうでした。
 古墳では東乗鞍古墳の石室内で石棺を見ようと思っていましたが、管理者により中には入れなくなっていました。15人ほどを案内し、みんなを入れてあげようと思っていたので残念・・・。
 陵墓は衾田陵、崇神陵、景行陵に行きました。どの陵墓も美しく整備されており、気持ちよく参拝できました。早春の光の中で静かに明るく輝いていました。また崇神陵の陪塚のアンド山・南アンド山古墳は芝生状態になっており特にきれいでした。この2つの古墳と黒塚古墳は程よい規模で、前方後円の形がわかりやすく、だ~いスキです。景行陵は南側の神籬の碑のあるあたりから見るのが、その規模、重量感が伝わってくるみたいでいいですね。大市墓は近くにはいかず檜原神社から眺めました。山の辺の道から見る二上山の姿、2つのグロー曲線が重なっているみたいで魅力的です。
 さてこの山の辺の道沿いの4つの陵墓の旧陵印はどれも同じ規格で円形でした。昭和54年3月だったと思いますが、山辺部事務所には、押坂部の陵印も預けられていました。新印の崇神・景行・崇峻・舒明陵印と、崇神・景行・衾田陵・大市墓・崇峻・舒明・糠手姫・吉隠・笠間山陵の旧陵印がありました。山辺部の4陵墓の旧陵印が丸くてかわいかったことが印象に残っています。押坂部の陵印が預けられていたのは、当時押坂部事務所は土午後・日全日休みのため、参拝者や陵印捺印の便を図るためにして下さっていたとの話を宮内庁の方から伺いました。(当時休みなしの事務所と、休みありの事務所がありましたが、労働組合関係で違いがあったようです。)因みにその数年後に、押坂部の陵印は押坂部で管理されるようになりました。また更にその後、山辺部はじめ、他の事務所も日曜日はお休みになりました。

 3月26日は天皇陛下が神武天皇陵に来られ、退位の報告をされました。仕事で橿原市にいたのですが、道路は渋滞していました。1か月以上前から奈良市内でも3月26日は橿原神宮周辺は渋滞予測・自動車を自粛するように道路の案内板に表示されていました。今回は仕事で動いていたので、天皇陛下のお顔を見ることはできませんでした。(奈良にいると何度か沿道や駅で・・・)

 さあ、11:30です。新元号が発表されます。



 宮内庁長官が新元号を天皇にお伝えして、天皇が署名されて正式決定・公布すると法律で決められているとテレビで伝えています。

   新元号は・・・・・令和 (れいわ)      祝!新元号

 おめでとうございます。   発表は平成31年4月1日11時41分でした。

 典拠は万葉集


 万葉集に拠って作られたのですね。万葉集好きです。嬉しいです。



話を戻します。山の辺の道の他にも、聖武陵・元正陵・垂仁陵・安康陵・平城陵なども行きました。

さて本題です。

こまいぬ様へ
 初めまして。私は陵印を収集しています。こまいぬ様のサイトも拝見いたしました。素晴らしいですね。今後も訪問させていただきます。この掲示板でもよろしくお付き合いください。
 私も明らかに大正時代の天皇陵参拝資料といえるものは2点しか持っておりません。1点目は大正9年に多くの陵墓・神社を参拝したものです。すべての項に参拝日が書かれているわけではありませんが、いくつか書かれてある参拝日は大正9年で、普通順番にページを使っていくので、その間の項に書かれてある陵墓に参拝した日も、やはり大正9年と考えられます。この大正9年の資料では陵印は全くありません。全て各陵墓の陵墓守部または陵墓守長が主に墨書で署名し、そこに自分の印鑑(私印)を捺しています。孝明陵・仲恭陵などは個人の私印でなく、『月輪勤番所』の印が捺されています。こまいぬ様の資料の『古市勤番所』と同じように使われています。このことから大正9年の段階では陵印はまだ使われいないと考えられます。
写真は月輪勤番所のものと、陵墓守部の署名捺印の例です。

 続いて2点目の資料は以前紹介したものです。(2018年2月16日・12月6日)
参拝日は大正13年から昭和6年にかけての日付が書かれてあります。資料はカードになっており、所有者名が印刷されています。おそらく所有者が天皇陵参拝のために、カードを印刷に出して作成したものでしょう。各カードには天皇名・在位期間・崩御・京などの情報が所有者により記されています。
 この資料で最も早いの日付は参拝の日付は、大正13年になります。(明治陵はそれ以前を含み何度か参拝日時が書かれている。)大正13年参拝が記されているカードは、三帝陵(後朱雀・後冷泉・後三条)と安徳陵のものです。この資料を見た時、陵印使用時期が大正13年にまで遡る証拠と思い喜びました。

 しかしどうもそうではないようです。三帝陵のカードに捺されていた印は、極初期に用いられていた印(後朱雀皇后を入れた4行書きの物)ではなく、その後使われ、昭和50年代まで長く使われた印(三帝だけで6行書きの物)でした。その印が極初期にも使われていた可能性がないとは言えませんが、今までの資料ではごく初期に捺印された資料にはないので違和感を覚えました。
 また他の資料も見てみると、文字(主に墨書)の上に朱肉が乗っています。墨書と捺印との時間差はわかりませんが、印が後で捺されたことを示しています。旅行期間中程度のタイムラグなら、記されている参拝日に捺印したとも考えられますが、もっと後に印が捺された可能性もあります。
 写真3枚目は、安徳陵の参拝カードです。墨書の文字と印がかぶっています。墨の上に朱肉が乗っています。そして参拝日が2つ書かれてあります。墨書は大正9年の資料と同様、陵墓守部(安徳陵の場合、陵墓守部ではなく、嘱託となっています。今でも部外は嘱託職員の方が多いとかつて聞いたことがあるので、当時もそうだったのでしょう。)の記名があります。その文字にわざわざ重ねて印を押すのは不自然に思います。他のカードでは印と参拝日の文字が重ならないようにしてあるものがたくさんあるからです。2つの参拝日が書かれてあることから、1回目の大正13年にはそれまで通り、陵墓守部の記名による証明のサインを受け、2回目の昭和6年に参拝時に、同じカードを持っていき前回の陵墓守部の墨書の上から捺印したと考えるのが自然かと思います。陵墓守部の墨書の上に陵印を押したカードは他にも何点かあります。


 では、実際に陵印が使われ始めたのはいつごろでしょうか。このカード群には、参拝日と陵印がかぶらないように、参拝日を端に書き、印を中央に捺してあるものも何点もあります。それらは記されている参拝日に捺印された可能性が高いのではないかと感じています。はっきりした証拠はありませんが、普通わざわざ印に参拝日の文字をかぶせるようなことはしないのではないかという、心理による推測です。このようなカードは大正14年に参拝したと記されている物から見られるようになります。大阪府下の陵墓の参拝日は大正15年となっていますが、陵墓守部の墨書はなく、印と参拝日が重ならないようになっています。
 このことから、現段階では陵印を使用し始めた時期は大正14年ではないかという気がします。もちろん確定した結論ではありません。今までの資料から推測すると大正14年が妥当だろうという程度です。
 全天皇陵で同時に陵印が使われ始めたとは考えにくいでしょう。早いところも遅いところもあったと思われます。実際に参拝カードには大正14年も物でも陵墓守部の記名がある物もあります。また、『東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念』の掛軸の神武・明治陵印は大正13年に遡る可能性もあると考えています。ただ陵印設置の時間差はあまり大きくないと思われます。大正14年から多くても2~3年程度で殆どの天皇陵に陵印が揃えられ置かれたと考えられます。もちろん陵印の文字に院がついてあるものがあることや、三条院天皇北山陵の印が後に三条天皇北山陵に作り替えられた事も、こまいぬ様がご指摘のように、重要な考察材料となります。今後この時期の陵墓参拝資料が見つかればさらに絞り込めるのではないかと考えております。もしそのような資料がございましたらどうかご教示くださいますようお願いいたします。


 そもそも陵印は宮内省が作成設置したものではなく、皇陵崇拝会(?)なる民間の団体が参拝の記念に捺印するために作成したものと聞いています。皇陵参拝が盛んになってくれば、陵墓守部の方々は一回一回、参拝帳に記名などしていては仕事にならず大変だったでしょう。そういう背景もあり陵印が作成されたとも思われます。

高遠さくら様
 奈良も先日、桜が満開になったとの発表がありました。私の住んでいる辺りはまだ満開手前ですがとてもきれいです。昨日は奈良公園の桜を見に行ってきました。高遠さくら様が書いておられた、日本一有名な目黒川の桜が、先日の強風で花弁が飛び散り、舞っている様子がテレビで放映されていました。(奈良では同日雹が降り、私の実家ではうっすらと雪が積もりました)東京では中央線に乗ったときに美しい桜を電車の窓外に見たことを覚えております。場所ははっきり覚えていませんが、お茶の水辺り?だったかなあ?東京は数回しか行ったことがないので全く地理もわかりませんが・・・東京も美しい、そして大規模な桜並木がたくさんあるのですね。

ぽん様
 いろいろと大変な時期でしょうが、ゆっくりなさってください。またぽん様にはお世話になる事がたくさんあると思います。



※『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭著
とても分かりやすく読みやすい本でした。
 

ご報告

 投稿者:ぽん@喪中  投稿日:2019年 4月 1日(月)00時36分28秒
編集済
  ☆皆様、大変お久しぶりです。
 この数年、PC不調および破損による蓄積データの大量消滅、あるいは両親の相次ぐ他界等で拙サイト「新撰陵墓志(仮)」の改訂作業が中断しており、大変申し訳なく思います。

 今般のYahoo!ジオシティーズサービス終了に伴い、取り急ぎ、これまでのデータを小生のブログ(https://ameblo.jp/pom-de-koikara/)内に移管しましたが、諸般の事情により、現時点では非公開(アメンバー限定公開のみ)とさせて頂いておりますので、ご了承ください。

 近日中に新たな場での公開ができたらと思いますので、ご不便をおかけしますが何卒ご容赦願います。
 

大山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 3月27日(水)01時42分54秒
編集済
  祝 新元号 令和


全国の同志の皆さま、花見もあと僅かですが、変な宗教に入っていませんか。

年明けから何かと忙しく書き込みができませんでしたが、確定申告も終わり一段落ついたので、先週、別府~湯布院~日田まで温泉を堪能してきました。


大垂水酔鳥さま書き込みの二上山の入山料?は、以前の醍醐山以来の気になる案件でしたが、レプトンさまの確認により現状がはっきりしました。
個人的には、ありかなと。


本日、いまや日本1?の桜の花見スポットとなった目黒川が、拙宅から2キロほどなので天気もよかったので花見に行ってきました。
多少のバラツキはあるものの、だいたい6分咲きほどでしたので、今後の天候にもよりますが、土日あたりが満開のいい時期かと思われます。
特に、中目黒駅と山手通り間は混雑しますので、246と山手通り間の方は、あまりお店が無いこともあり比較的すいています。

★レプトンさま★

東京には、青山などの霊園、川の天井部を埋めた遊歩道沿いなど隠れたサクラの名所が多く、元々、目黒川も隠れた名所でした。
当方も、吉野山へは後醍醐天皇陵の参拝が主ですが10回ぐらい行っていますが、残念ながら春には1度も行ったことがありませんので1度は行ってみたいです。
先月の温泉旅行で久大線に乗りましたが、菜の花がとてもきれいでした。
今後も、いろいろな情報をお知らせください。
 

大正期の御陵印

 投稿者:こまいぬ  投稿日:2019年 3月25日(月)23時15分58秒
  皆様はじめまして。こまいぬと申します。古今御朱印研究室というサイトを運営しています。
御陵印の歴史について調べていて、こちらにたどりつきました。

大正期の御陵印はほとんど見たことがないのですが、大正14年の応神天皇惠我藻伏崗陵の
御陵印に古市勤番所の印が押されていること、鳥羽天皇・近衛天皇あたりの御陵印が
鳥羽院天皇・近衛院天皇となっていることなどから大正14年前後に作成されはじめたと
推測していました。
大正14年の日付がある花山天皇の御陵印を見て、ほぼ推測通りと安心した次第です。

陵墓や御陵印については詳しくないものですから、いろいろ勉強させていただければ
と思います。今後とも宜しくお願い致します。

https://goshuin.net/

 

十念寺

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2019年 3月15日(金)11時28分24秒
  お久しぶりです。いのうえとろろでございます。
このごろお天気も良くスギ花粉も元気に(!?)舞い上がっている今日この頃
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
私は目がかゆく目薬が手放せません…


そんな中、所用で京都へ行き空いた時間で十念寺へ行ってまいりました。
噂には聞いていましたが墓地が広いですね。

高雲院墓は祠?が目印になりすぐにわかりました。のでその傍にあった西洞院長子の墓はすぐにわかりました。
が、そのほかの探していた西洞院家の女官(範子など)や平松好子・虫鹿良子などの墓がまったくわかりませんでした。
秋にまた行くつもりでいますので、ご存知の方もしよろしければ大体の場所を教えていただけたらとおもっております。


 

サイト「新撰陵墓志(仮)」

 投稿者:DADA  投稿日:2019年 2月13日(水)16時32分0秒
編集済
  こんにちは。
遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

いつも「新撰陵墓志(仮)」を興味深く拝見しており、
探訪の際の貴重な情報源となっております。

先日いつものようにサイトを閲覧したところ、
「Yahoo!ジオシティーズサービス終了のお知らせ」
という案内が表示されており、3月31日でサービス終了ということでした。
4月以降はホームページが表示されなくなるようです。

https://info-geocities.yahoo.co.jp/close/index.html

管理人様がすでに手を打っていらっしゃるのであればよいのですが、
今後この貴重なサイトがどうなるのだろうかと、心配の気持ちです。

もし何かお力になれるのでしたら、
サイト維持のためにお手伝いできればとも思っています。

取り越し苦労でしたらすみません。
 

桃山・武蔵野

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月30日(日)21時51分11秒
  こんにちは。

桃山御陵にはちょうど先日訪問したところでした。
(レプトンさまと同じ頃かもしれません)
ご報告いただいている通りで、昭憲皇太后陵の参拝道では大木が倒れたままでした。

別日には、多摩陵と武蔵野陵にも訪問しました。
緊張感のある空間でしたが、
職員の方も警察の方も物腰が柔らかく、気さくな方々でした。
ただし、お一人だけ厳しい口調の方がいらしたのには驚いてしましました。
他の陵墓とは感覚が異なるのか、あるいはこれが本来標準なのか、
いろいろと考えさせられました。

ちなみに、おかげさまで「天皇陵」訪問と御陵印をコンプリートいたしました。

今後は他の治定陵墓と治定外陵墓をぼちぼちと訪問できればと思います。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月30日(日)13時16分32秒
編集済
  レプトン さま

桃山陵墓地の現状報告有り難うございます。
本来ならば地元在住の私がすべきところ、代行して頂いたみたいで恐縮です。
何せ、伏見の平場に住む新市街地の住民にとって、坂の上の近鉄・京阪の線路の更に
上に行くついでって無いもので‥(汗;)
ところで、写真1枚目を拝見すると、意外に早く通路が苔むしてきているようですね。
私個人としては、陵墓の参道や通路は白玉砂利よりも苔むしている方が色気があって
好きです。

京都の台風被害って滅多に無いし、あっても水害系が多いので、今回ばかりは驚きま
した。
ウチの近所は大阪地震の時の家屋の被害は皆無に近い状況でしたが、台風の時はあち
こちで屋根やベランダやシャッターや柵などが損傷しました。今でも屋根にビニール
シートの家が多くあります。
ビルの屋上の巨大看板が転落して隣の倉庫にブサッ!と突き刺さるなど、壮絶な光景
が暫く放置されましたが、大阪が凄かったので京都は報道されませんでしたが‥
というか、京都の台風被害報道って、いつも嵐山のワンパターン。
ウチの近隣も数年前に浸水しましたが、報道されなかったので、伏見の坂の上の旧市
街地の住民は知らなかったみたい。
私の家は古民家のリユースで、屋根が周囲よりも1mくらい低いのですが、それでも
ベランダの屋根の波板がぶっ飛んで、金属の太い枠組が変形しました。
修理不能でベランダごと取替えないといけないので放置しています。(笑)

奈良県は珍しく?被害が軽微だったのですね。
二上山の件、ご教示感謝です。
料金が徴収されたりされなかったりすると、不公平感が出てしまいますね。
 

京都の陵墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月29日(土)17時23分32秒
編集済
   先日から話題となっている京都の陵墓の台風被害を見てきました。桃山陵墓地の明治陵から桓武陵への道は通行できるようになっていましたが、枝がぶら下がった状態の為、上に注意して歩行するようにとの注意喚起の札がありました。(写真1枚目)
 陵墓地内は倒木が多く、柵が曲がるなどして壊れている所もありました。作業車が山道で止まっており、チェンソーで木を切ったり、重機で切った太い幹を挟んで道へ下していました。(写真2枚目)陵墓地内では倒木を短く切った丸太があちらこちらに積まれていました。おそらく通路をふさいでいた倒木を処理したものではないかと思います。通路の倒木はなくなっていましたが、陵墓地内にはまだまだ倒木がたくさんありました。台風の強風で根こそぎ倒れた大木もたくさんありました。写真3枚目は桓武天皇陵の参道(坂道の方)から見える倒木です。根こそぎ倒れているのがわかるかと思います。
 月輪陵墓地でも多くの倒木があり、後堀川陵の下から孝明陵への通路は、通ることはできますがまだ木が倒れていました。こちらでも撤去と清掃をしている音が絶えず響いていました。
 奈良も今年は台風の影響がありましたが、奈良市の陵墓や先日参拝した宣化陵・倭彦墓などはそれほど大きな被害はないように思いましたが、京都府内での被害は甚大です。台風の被害は自然の新陳代謝ではありますが、美しい陵墓の森が荒れてしまうのは悲しい気持ちになります。整備をして下さる宮内庁の方、業者の方ありがとうございます。

 私も家でチェンソーを使うことがありますが、とても自分では切ったり処理できない大木です。(一般の人がボランティアではとてもお手伝いできるようなものではなく、専門的な技術が必要です。)僕の知人が園芸関係の仕事をしており、木の伐採の依頼をしたことがありますが、相場では高さ1mにつき数千円かかるのだそうです。陵墓地の倒木処理でもすごい費用が掛かっているはずです。


大垂水酔鳥様
 二上山へは12月17日に続いて24日にも上りました。24日に10人程度を案内するために17日にも登ったのですが、どちらも通行料はなしでした。情報によると、頂上の神社の敷地を通過する時に、時々神社の関係者が通行料(?)を徴収することがあるとのことです。今回も一応徴収されたときのために人数分の費用は用意していきましたが、あまり徴収されることはないようです。それでも、いつ神社の関係者がおられるかわからないとのことで、雄岳頂上に行ってみるまで分からない状態のようです。(これは少し古い情報です。最近もまだしておられるかは不明で何とも言えません。)二上山は雌岳の南・東側の登山道は大木が倒れていました。
 

来見山御陵墓

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月25日(火)12時30分56秒
編集済
  こんにちは。

連投失礼します。
先日、能勢町の来見山御陵墓を訪問しました。
過去のご投稿で紹介のあった道順で向かいました。
来見山の東麓から登り、陵墓にたどり着きました。
献花され、手入れの行き届いている印象でした。
以前のご投稿にあった「木柱」ですが、
当時の場所にはなく、奥の木に立てかけてありました(写真参照)。
「来見山」と書かれ、献花はありませんでした。

北麓へと下山し、案内板を確認した上で、西麓側から南へと回りこみました。
時期的に雑草が少なかったので、踏み分けて林道から一般墓地へと向かいことができました。

岩崎八幡社も訪問しました。
こちらもきれいに手入れされておりましたが、パンフレットの類はありませんでした。

なお、帰りのバスまで時間がありましたので、野間大原にある「来見社」を訪問しました。
祭神は安徳天皇ということで、由緒ある場所とのことです。(写真参照)

> 大垂水酔鳥さま
大峰山・荒木山ですが、大宮神社から徒歩で往復しました。
山頂付近まで車で行けるような、整備された道だったので、比較的楽でした。
高尾には行きませんでしたので、機会を見て訪れたいです。

ちなみに、先日の台風の被害により、参入できない陵墓として、
後宇多天皇陵(京都府京都市右京区)、大枝陵(同市西京区)
安曇陵墓参考地(滋賀県高島市)
淳和天皇陵(京都府京都市西京区)
が宮内庁のHPに上がっています。
また桃山陵墓地は一部区間で通行止めがあるようです。
★追記★桃山陵墓地の通行止めとされている区間は、現在通行可能です。
★追々記★後宇多天皇陵、大枝陵の参拝も再開できたそうです(2/12現在)。
     安曇陵墓参考地の参拝も再開できたそうです(3/1現在)。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月23日(日)20時36分49秒
編集済
  ★追記★しました

DADA さま

宇治田原町の現況報告有り難うございます。

大峰山・荒木山の山頂にまで行かれたのですね。
いやはや驚きです。
大峰山には伝承に関する遺物遺構は見当たらない、荒木山から岩への接近方法もわからない
とのことで、お蔭さまでスッキリしました。
ところで、山頂へは途中まで車で行かれたのでしょうか。
まさか、大宮神社から徒歩で登山?!
車だと北に大きく迂回する必要がありますね。
私は近所のレンタカーで軽自動車を借りて大宮神社~蝉丸神社~大峰山~高尾と移動する計画
を立ててはみたものの、山道での車の運転に自信がないので断念しました。
高尾は志貴皇子の隠棲伝説がある高地集落とのことで、若干未練があります。


★追記★

来見山の現況報告有り難うございます。

木柱が片隅?に放置されているということは、陵墓に関係するかもしれないという私の
推測はどうやら外れたようですね。

それにしても徒歩で大峰山・荒木山の山頂に行かれたとは驚きです。
改めて感謝多謝です。
山中にある陵墓に車を使わず路線バス+徒歩で行くことを思えば大したことないのかも
しれませんが、何せ遺物・遺構の存在の確証がない伝承地ですからね。

宮内庁HP見ました。
桃山参道通行止区間(9月18日現在)なる地図がリンクされていて、陵墓地全体の簡単な
地形図だったのでこれ幸いとダウンロードしましたが、陵墓参拝の広報としては極めて
不親切なお役所仕事ですね。
参拝者にとってはたった一言、桓武陵と桃山御陵の連絡通路は通行できません、とだけ
書けば良いのです。
知らずに行かれた方、本来300mくらいが1キロくらいの迂回になるので気の毒。
 

春日宮天皇

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月23日(日)16時35分20秒
編集済
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、宇治田原町にある伝承地を訪問しました。

□田原天皇社旧跡
こちらの過去の皆さまのご報告から、とくに変化は見られませんでした。
大宮神社の宝篋印塔も健在でした。
「新撰陵墓誌(仮)」では祠があることになっておりますが、
現地で見る限りそれらしいものはありませんでした。

□荒木山 岩代大明神
よく見える「岩」ですが、たしかにありました(写真参照)。
荒木山の尾根のひとつで、標高は300mあたりでしょうか。
接近できる方法があるか確認したのですが、わからずじまいでした。
時間帯によっては、岩の存在が見えにくいことがありました。
ちなみに、荒木山の山頂にも訪問しましたが、とくに変わった様子はありませんでした。

□大峰山山頂 御陵
荒木山のついでに訪問しました。
こちらは山頂というよりは、丘陵地のように平坦でした。
荒木山も大峰山も、大きな岩が散見されましたが、
人工的なものではなさそうです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月23日(日)14時22分6秒
  レプトン さま

大津皇子墓の近況報告有り難うございます。

私は38年くらい前に二上山~平石峠~富貴寺~磐船神社~河内飛鳥(二子塚古墳・小野妹子墓)
と周遊しました。
当時は愛知県在住だったので、かなりの強行軍です。
今なら体力的に絶対無理!
ところで、二上山は有料化されたと仄聞するのですが、如何でしたか?
有料化はやむなしとして、それなら登山地図とかパンフ等が欲しいところですが。

以下、蛇足です。
当時、雌岳から竹ノ内街道への下りは禿山でどれが正規の道なのか分からない状況で、目標と
していた鹿谷寺跡にはたどり着かないまま竹ノ内街道に出ました。
途中に車の通れるような山道を横切った記憶はないのですが、あったとしてもたぶん無視して、
下へ下へと踏み分け道を急いだのだろうと推測。
地図を見ると、大阪側はかなり上の方まで山道らしき表記がありますね。
二上山万葉の森とあるのでグークールマップで確認したら、ある程度は植林が進んでいるよう
な感じで、鹿谷寺跡付近からの登山道がクッキリ写っていました。
今は林道や登山道や標識とかが完備されているのかな?
ところで、どうでも良いことではあるのだけれど、
グークールマップのurlがgugurumaps.comになっていて笑ってしまった。
それにjapanmaps.netってのもあるみたい。変なの。

他の方の書き込みでも台風被害?が報告されていますが、先日の大阪直撃台風では桃山御陵も被
害甚大だったようです。
私は行っていないので正確な報告が出来ないのですが、デイサービスの送迎車で桃山陵墓地域内
の道路を通行している母の証言によると、樹木が大量に倒れて、域内の道路が3日間閉鎖され、
開通後の数週間、道路脇に大木の輪切りがうず高く積まれていたそうです。
私の家は桃山御陵から2キロの平坦な市街地ですが、倒木やら倒壊やらで、やはり数週間、あち
こちで通行止めが続きました。
大津皇子墓は山頂の割には被害が軽微そうで、私としてはちょっと驚き。
以前、台風で近鉄南大阪線が大被害を受けた後に観心寺に行ったのですが、檜尾塚参考地の参道
が倒木で通行困難な状況でした。
 

大津皇子二上山墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月22日(土)12時41分49秒
   こんにちは。レプトンです。
 先週二上山に登り、大津皇子二上山墓に参拝してきました。当麻町から登山道を1時間半かけて登りました。山頂近くの丘陵上に静かにたたずむ陵墓です。小さくてかわいい感じですが、静謐に包まれている感のある陵墓です。拝所前は落ち葉などもなく掃き清められているようです。
 墳丘内には短く伐採した木が多く積み上げられていました。また写真のように内部のコンクリート柵が一部壊れていました。台風か何かで大きな木が倒壊し、その時にコンクリート柵を壊したのでないかと想像しました。車も来れない山上の陵墓ではすぐに修理もできないでしょうね。
 二上山墓は磯長部の管轄ですが、40年くらい前に磯長部の宮内庁の方に「二上山頂上まで大変ですね。」と聞くと、「葛城山麓(?)の近くまで車で行けて、そこから山道に入れば割と近い。」と仰ってました。岩屋からの道か、馬の瀬西側へ延びる道(地図で見ただけ)がその道だろうと思います。
 二上山頂上(特に雌岳)には人が多くいましたが、大津皇子墓は静かでした。
 

(無題)

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2018年12月19日(水)19時16分40秒
編集済
  師走に入り寒さも一段と厳しくなってまいりましたが、みなさんお元気でしょうか?
おひさしぶりでございます、いのうえとろろです。

浜松市天竜区の秋葉神社へ参拝の途中「上臈塚」へ参拝しました。
浜松からの国道152号線「秋葉街道」ぞいにひっそりとあります。
案内板によれば長慶天皇の第一皇女「綾姫」の墓とされています。
住民の方から信仰されているようで、綺麗に整備されています。

浜松から天竜、信濃に沿って南朝方の遺跡やら伝承地が多いです。(信濃へ行った後、南アルプス沿いに駿河の奥の方へ南下をするようにまた南朝の遺跡が増えます)なかなか興味深い場所です。


11月初旬に恒例の京都旅行へいってまいりました。
今年は大津・坂本へも行き西教寺で生源寺・樹下両家の女官の墓を確認。
京都では浄福寺でも女官の墓を確認しました。
また、金戒光明寺では難波家の墓がまとめられていました。事前に調べたら10基近くあると思ったのですが、まとめてあったのは4基でした。探したのですが残りは見つかりませんでした。
あと、別域にある松平信庸息女の墓の石欄が倒れてロープでくくられていたり、ブルーシートが掛けられていました。台風で壊れてしまったのか、墓を移動させる準備なのか…となりの室の墓は何事もありませんでしたのでなんだか不思議です。
もう一つ、会津墓地近くの鴨脚家の墓がすべてなくなって整地されていました。ちょっとショックです。
 

花山天皇の陵印 大正末期?

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月 2日(日)11時10分47秒
編集済
   写真は花山天皇紙屋上陵の印です。大正14年10月18日参拝と書かれています。
この印が同日に捺印されたという確証はありませんが、参拝時に押された押されたと考えるのは自然かと思います。(2018年2月16日投稿の開化天皇陵印と同じ資料で、印だけ後日に捺された可能性がある物を含む資料です)
 この資料は陵墓守部の署名と印があります。大正時代の参拝資料はまだ2点しか収集できていませんが、どちらも陵墓守部・陵墓守長の署名に私印が押されています。

 今回の花山院天皇陵印は、まだ天皇名に院が付いているので大正末期(院をなくすようになったのは大正15年でしたっけ?)までに作られたものと思われます。


この印の形は他では例のないものです。何か意味があるのか不明です。葉っぱのように思いますが・・・

DADA様
 山口県に行かれたのですね。私は10年以上前に西市陵墓参考地に行ってきました。バス停が天皇様だったのが印象的です。人工湖が堀のようになっていたかな?管理人様は参考地の祭祀の様子を紹介されており、とても興味深いものでした。
 御篭建場のことは知りませんでした。ありがとうございました。




 たまたまですが、DADAさまが行かれた花山法皇の京都の治定陵の古い陵印を紹介しました。(紹介しようと準備していていて、タイミングが偶然会っただけですが・・・)

 用明天皇の伝承地にも行かれたのですね。私は行ったことがありません。活発に良い活動をしておられますね。また御教示ください。用明天皇陵の治定陵の大正末期(?)の陵印も紹介いたします。
 

明治150年

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月 1日(土)13時56分6秒
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、「新撰陵墓志」にもとづき、
山口県の陵墓を訪問しましたのでご報告いたします。

まず宮内庁治定の陵墓を一通り巡りましたが、気づいた点です。

■安徳天皇阿弥陀寺陵
 御陵の裏に「平家一門の墓」がありますが、兆域(?)に含まれているようですね。
 『陵墓地形図集成』を確認して知りました。

■西市陵墓参考地
 バスに揺られて訪問しました。
 地元の方に大切にされているようでした。
 道を挟んで向かいに「御篭建場入口」という石柱があり、
 陵墓の案内版にも説明があったため、訪問を試みました。
 「凡千米」とあり、帰りのバスの時間もあったので、早歩きで沢づたいに歩きました。
 緩やかな山道を歩くと、北に三十米の頂にあるという石柱を発見し、登ってゆくと、
 木々の刈られた丘に辿り着きました。
 そこが「御篭建場」だという案内はなかったのですが、
 一升瓶があったり、何かを燃やした跡があったりしていましたので、
 おそらくここだろうと判断し、下山しました。

また、治定外の陵墓伝承地にも訪問しました。

□長光寺山古墳
 厚狭駅から徒歩で約30分で到着しました。
 途中案内版もあり、迷うことはありませんでした。
 駐車場のようなところに入ると左手に階段があり、後円部へと上がれます。
 石室が開いており、中を覗くことができます。
 説明版と小祠がありました。

□般若寺内 般若寺陵
 柳井駅からタクシーで訪問しました。車道からも見えます。
 用明天皇の髪塚と並んで宝篋印塔がありました。
 説明版には、向かいの観音堂のある小山が本当の墓だ、ということでした。
 実際に古墳かどうかはわかりませんでした・・・。

□大多満根神社内 般若姫ノ塔
 駅から徒歩での訪問を考えていたところ、貨物船衝突の影響で不可能と判明、
 やむなくタクシー移動でした。
 境内に入って右手、石塔とお社がありました。

□南原寺内 花山法皇御陵伝説地
 美祢駅からタクシーで訪問しました。
 御陵の場所がわからず、本堂まで来るとお寺の方がいらしたので尋ねると、
 親切にも案内してくださいました。
 裏手の斜面を上がると、石柱に囲まれた区域があり、その中に複数の積石塚がありました。
 この中のどれが法皇のものか、特定されていないようでした。
 少なくとも昔は聖域とされ、遥拝所からのみ参拝できたようです。
 あわせて、経塚や遥拝所も案内していただきました。
 山には岩がたくさんあり、磐座に関する書籍にも掲載されているそうです。
 説明がとても丁寧で、自力ではわからないことをたくさん教えていただきました。
 もっと教えてくれそうな勢いだったのですが、
 帰りの電車の時間のため、やむなく下山しました。

□赤間神宮小門御旅所、入水処
 下関駅から西へ、海岸沿いに歩くと御旅所に着きます。
 遠くからでも赤い鳥居が見えるのですぐわかります。
 境内には小さな祠がありました。
 またバスで安徳天皇の入水処にも訪問しました。
 こちらは石碑だけで、隣の義経像や長州砲にみなさん注目していました。

□法泉寺跡内 南朝天子墳
 山口県庁から歩いて10分程度で着きます。
 貯水池の手前に案内版があり、場所を特定できます。
 大内政弘墓に向かう途中、右手方向にありました。
 複数の塔がありましたが、1基を除き、崩れていました。
 日陰で薄暗く、苔むしていました。

「伏拝ノ峰」はさすがに無理でしたが、機会をあらためて訪問したいと思います。
 

なぜ大仙古墳の調査?

 投稿者:匿名  投稿日:2018年11月23日(金)13時04分27秒
編集済
  背景に、世界遺産の登録申請問題がある。 なぜ報道しないか?
被葬者の問題はともかく、本格調査されていない遺産が、世界遺産に登録されるはずはない。
あなたはどう考える?
 

佐紀部 新 事務所

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年10月30日(火)03時41分14秒
編集済
   こんばんは。fukuyama様御教示ありがとうございます。昨日、早速行ってきました。高野陵と八幡神社の間という記述ですぐにわかりました。八幡神社の境内の西側の道路を挟んだところです。成務陵・日葉酢姫陵の間の道を南に進み、日葉酢姫陵の拝所を超え、少し行くと右側にあります。
 木造建てで白壁が美しい建物です。今までよりもずっと大きくなっていました。横幅は10m近くもある大きな建物でした。向かって左側は倉庫でしょうか。壁の白と新しい木の色が周囲の風景や、背景の陵墓にマッチしています。昼に見たらもっと美しいと思います。事務所の前には野菜の無人販売があり、真っ赤なトウガラシが目を引きました。
 部事務所は傍丘部が大きく機材庫?がありますが、新事務所は傍丘部ほど大きくはありませんが今までの事務所や他の部事務所よりずっと豪華です。

この事務所の建物、今までにも何度か見ていました。新しい建物、何を建てたんだろうととは思いつつも、まさか佐紀部事務所とは思いもせず、すぐ手前の道を日葉酢姫陵の方にハンドルを切っていました。知っていたら建てられるまでの様子を詳しく見たのに残念です。

現地は元は木が立ち並ぶ林のような感じの所でした。ここが付属地だったことも知りませんでした。
fukuyama様が紹介していただいた書陵部紀要によると埴輪などが出土しているようです。現地は大正10年に付属地として接収され、事務所建設予定地として接収されたとの口伝があったようです。また佐紀部はかつては奈良県北部・京都府と兵庫県の一部を管轄する、『佐紀部陵墓監見廻所』という今でいう管区事務所だったとのことも書かれていました。


写真は今日も夜間にスマホで撮ったものです。昼間に撮影したら差し替えます。




2018年11月3日
 今日はお昼ごろに新しい佐紀部事務所を見てきました。写真も夜に撮影したものから、明るい時に取った写真に差し替えます。新しくてきれいな建物です。建物が大きくなり、広くてゆったりと執務できそうに思います。

 今日は午前中に仕事を終え、佐紀楯列古墳群の西半分を回り見学してきました。平城陵をスタートに、オセ山古墳(マラ塚古墳とも)・塩塚古墳・瓢箪山古墳・丸塚古墳・日葉酢姫陵・成務陵・称徳陵、そして遠くから神功陵を見てきました。今日は晴れの特異日ですが、その統計通りに良い天気に恵まれ気持ちよく陵墓参拝、古墳見学ができました。成務陵には資料を持った十数人の人たちが参拝していました。ハイキング・サイクリングの人たちもいました。成務陵と日葉酢姫陵の間の道で耕運機を押しているおじさんが通ったりして長閑な情景でした。ヒバス姫陵の木が1本倒れて堀にかかっていました。今日行った陵墓はどれも良く整備されており綺麗で清々しい気持ちになります。
宮内庁の方々、ありがとうございます。
 

佐紀部事務所建替

 投稿者:fukuyama  投稿日:2018年10月27日(土)11時59分47秒
  『書陵部紀要』第67号〔陵墓篇〕 平成27年度(平成28年3月刊行)

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo067b019.pdf

によると、佐紀部事務所建替予定箇所の事前調査の報告があります。

事務所の移動候補地として、高野陵と山上八幡神社とに挟まれた附属地の
調査報告があります。
平成29年度に工事が実施される予定とありますので、工事が実施されたのでは
と思われます。


新しい佐紀部事務所の情報あれば お願いします。

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

佐紀部事務所

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年10月24日(水)03時13分32秒
編集済
  こんばんは。今日成務陵と日葉酢媛陵の間の道を通りました。すると佐紀部事務所の建物が無くなっており更地になっていました。近くはよく行っているのですが知りませんでした。いつなくなったのでしょうか。また新しく建てられるのでしょうか?更地の陵墓側に新しい(?)柵がありました。雨の降る夜中にその場で佇んでいました。  

ミステリアスジャパン「聖徳太子の墓」

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年10月 9日(火)06時43分1秒
編集済
  BS7のミステリアスジャパンという番組で久々の皇室ネタです。
今回はズバリ「聖徳太子の墓」。13日(土)朝です。
http://www.bs-tvtokyo.co.jp/mysteriousjapan/lineup/20181013.html
ただ、番組ホームページでは、余計なことがごちゃごちゃ掲載されているので、
本題の「聖徳太子の墓」も、案外数分程度なのかも。
正味20分の番組ですが、聖徳太子の墓だけで20分もたせるのは無理だとは
思うので、さてどんな内容になるのか楽しみです。

追記 個人的な見解ですが、見るに値しない内容でした。
 

山川

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 9月29日(土)04時16分47秒
  強力な台風が日本に接近していますが、変な宗教に入っていませんか?
広島カープが3連覇しましたが、広島出身でもなく親戚がいるわけでもないのに昭和43年から50年間も応援し続けている私としても嬉しい限りです。


今月は宮崎、熊本まで3週間ほど調査に行ってきましたが、連日の30°こえで暑い毎日でした。
おまけに予報は、それほど良くなかったのですが、なぜか1日中雨が降っていたのは僅か1日でしたので、ほぼ予定通りの調査ができました。
宮崎県では西米良村の米良菊池家が、熊本県では宇土の細川家と人吉の相良家が主目的でしたが、人吉へは熊本から「肥薩線のんびり切符」を利用しての連日の日帰り調査でした。

熊本市内の墓地内では、今も多くの転倒墓が見られ藤村紫朗男爵の墓碑も転倒していました。
今調査での一番の感動は、肥後士族の長曾我部家の墓所かな。


さて、最近なかなか供養碑や伝承墓などへ行くことができなかったのですが、今回、ポンさんの「新撰陵墓誌」に記載されている大慈寺まで行くことができました。

寺域内を探していたところ、たまたま墓地で会った方にお聞きすると開山墓所までご案内していただきました。
順徳天皇の皇子である(後鳥羽天皇の皇子とも?)開山御廟は、寺域の右隅に建立されており墓域もそこそこ広大でしたが、震災の影響で四囲の土塀などかなり傷んでいました。
ただ、墓碑の転倒や傾きは見られませんでしたが、あるいは修復されたのかもしれません。

開山の墓形は宝篋印塔で、法号などの刻字はなく無銘で、全高は218センチでした。
基壇の正面には、16葉菊紋が彫刻されており、他に数カ所に同家紋が見られました。

開山墓の後方には、父の順徳天皇と同妃修明門院の供養塔が並建されています。
両墓碑とも同形、同規模の宝篋印塔墓で碑銘は無く、墓碑の全高は、順徳帝墓が178センチ、修明門院墓は175センチでした。
方位は、3基とも南です。

墓域内の右隅に変形墓が1基建立されていますが、入口の案内板にも同墓碑の説明はなく、開山の妃墓かもしれません。
いろいろな他石の墓碑を組み合わせた感じで、碑銘もありませんでした。

開山墓所の後部には、歴代住職の墓所が建立されています。

ご案内いただいた方より柔道家の木村政彦さんの墓もありますよと、墓所まで案内いただきました。
「木村の前に木村なし、木村の後ろに木村なし」と墓誌に記されていました。
同氏によると、西南戦争時に同寺が皇室の寺院であることから戦死者や負傷者は運ばれず、近隣の別寺院に運ばれたそうです。

今回も大変、有意義な調査ができました。
 

指宿

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 8月19日(日)01時57分5秒
編集済
  全国の同志の皆さま、異常すぎる猛暑も少し落ち着きましたが、変な宗教に入っていませんか?

先週は、14年ぶりに会津院内山の松平家墓所まで行ってきましたが、とにかく雪国なのに暑すぎる。

先週、青山霊園に行ったところ佐野伯爵家墓域の四囲の木々が伐裁中でしたが、昨日、確認に行くと完全に伐裁され、すっきりしていました。
佐野伯爵家の先々代当主佐野常光の夫人禮子は、竹田宮恒久王の王女で佐野家合祀墓に納骨されています。

墓誌の碑銘は、
「マリア佐野禮子 平成十五年九月三日卒 享年九十」

禮子のご生母は、明治天皇の第六皇女昌子内親王ですので、同家も竹田恒泰氏と同様に明治天皇の後裔になりますね。


昨日、以前より親しくさせていただいている方より昨年、ご恵送いただいた冊子の本年号が届きました。

今回も昨年号で掲載された「〇〇から御所に上った乙女」の続編が、とても興味深いものでした。
内容は、昭和初期に御所に上がった榎本静子と萩原幸世の二人を、静子が綴った日記を元に静子のご子息がまとめたものです。

以下、抜粋すると、「昭和天皇即位の礼・昭和3年10月24日~11月30日」

11月20日  「神宮に拝謁の儀」 伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)

11月21日  「神宮に拝謁の儀」 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)

11月23日  「神武天皇山陵親謁の儀」

11月24日  「仁孝天皇山陵孝明天皇山陵親謁の儀」

11月25日  「明治天皇山陵親謁の儀」

11月29日  「大正天皇山陵親謁の儀」

昭和3年11月に発行された「特 大禮行幸供奉員必携(宮内庁・秘)」(総276頁)では、これらの詳細が記載されているようです。
内容は、随行人名表、東京発着表のほかに宮城(皇居)から東京駅までの行列順序、宮廷列車の編成、乗り組み割り、行在所以外に宿泊する供奉員、部屋割り、服装、食事時間、侍従と女官の配役表などなど。

大禮行幸供奉員人名表には、侍従職・皇后宮職は、其々親勅任官の6人、奏任官20人、判任官58人、雇員43人、傭人43人、全170人の氏名が記載されており、奏任官には、皇后宮女官長竹屋志計子、女官の津軽理喜子、伊地知ミキ、山岡淑子、萬里小路ソデ、油小路蒙子、北村民枝、御用掛に吉見光子、高木多都雄、生源寺政子、皇后宮女嬬に岸復、山口富子、佐藤エイ、松尾永、永田千代、河合ヤヨイ、青江こと、鈴木信、皇后宮職雑仕は雇員として萩原幸世、高木かね、中沢俊子、池田田鶴、榎本静子が記載されています。

興味のある方は、一度、閲覧をお勧めいたします。
 

二月田

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 7月 9日(月)01時13分18秒
  いよいよ今年もツール・ド・フランスが始まり連日の熱いレースが楽しみですが、変な宗教に入っていませんか。

さて、5月に3週間、大分調査に行ってきました。
中津、立石、杵築、日出、大分、豊後森、豊後竹田、臼杵、佐伯などを廻ってきましたが、雨の予備日を4日ももうけたもののギリギリの調査でした。
陵墓や伝承地に関しては、最後の5日間が連日の雨予報であったために、結局、清棲幸保の長女貞子さんの墓所しか行くことができませんでした。

宿は、鉄道のアクセス上、大分市がベストではあるものの別府市にし毎日、温泉にいやされてきました。
最近、なかなか伝承地に足を延ばせなくなっています。
 

伏見宮邦高親王王女玉姫様御墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 6月 6日(水)20時18分38秒
編集済
  こんにちは。先月仕事で高知県四万十市に行ってきました。自転車を借りて玉姫様の墓に参拝してきました。玉姫様は伏美宮第7代邦高親王の王女で土佐一條家の第2代一條為冬に嫁した方だそうです。
玉姫様の墓はきれいに掃除がされており、とても明るい感じです。すぐ隣には『玉姫さくら会館』という集開所のような新しく美しい建物がありました。写真1枚目の後ろの建物がそれです。毎年4月下旬か5月上旬に藤祭りが開催され、土佐公家行列という行事が近年行われています。玉姫様役の女性が公募され選ばれた人が行列に参加するそうです。玉姫は特に注目されるようです。地元では玉姫の会という会があり、紙芝居で玉姫様の事績を伝えるなどの活動もしているようです。また玉姫様の小箱や玉姫様の通行手形(地元でのお買い物がお得になる優待券のようなもの?)などもあり、商店街の振興にも一役買うなど、地元では知らない人はいないのでないかというくらい有名なようです。多くの皇室の中で、これくらい地元の人の生活に息づいている人物は他にはおられないように感じました。
 四万十川流域は自然豊かで、ホタルも楽しむことができました。
 

百舌鳥陵墓参考地

 投稿者:以為  投稿日:2018年 6月 3日(日)19時45分24秒
編集済
  次は百舌鳥陵墓参考地ですが、東百舌鳥陵墓参考地と同日に訪問しました。
こちらも書陵部紀要第69号で駒形制札改築されたとの記述があったので確認に行ってきました。
この参考地は古墳への渡通路はないので古墳自体に柵や扉はないのですが、東百舌鳥陵墓参考地と同様後円部に制札があります。
前回訪問したのは2010年12月で2008年から始まった墳丘裾護岸整備工事が継続されていた頃です。
この時も制札がありますが、制札の裾に石灯籠らしきものが横倒し(置いてあるだけかもしれない)になっております。
ところが昨日訪問した時は、制札に向かって右下に整えて組み上げてありました。
ちょっと見にくいかもしれませんが各々赤い矢印の指し示す部分をご覧ください。

以上ご報告まで。
 

東百舌鳥陵墓参考地

 投稿者:以為  投稿日:2018年 6月 3日(日)00時32分13秒
  ごぶさたしております。

書陵部紀要がネットで公開されるようになり、図書館に行かなくても新しい号であれば内容を確認できるようになってますね。

その中の書陵部紀要第69号の平成28年度陵墓関係調査報告に「東百舌鳥陵墓参考地駒形制札改築工事に伴う立会調査」というのがありましたので、制札の確認を兼ねて昨日10年ぶりに東百舌鳥陵墓参考地を訪問してまいりました。

画像は2008年6月訪問時の後円部渡通路と昨日の渡通路です。

2008年時は黒い扉があり、制札も見当たらなかったのですが、昨日見たところでは黒い扉は撤去され鉄柵だけになっており、駒形制札も確認できました。

渡通路付近から古墳への入り口は以前より明るくなったようです。

以上ご報告まで。
 

(無題)

 投稿者:DADA  投稿日:2018年 5月17日(木)08時19分12秒
  大垂水酔鳥さま

ご返信ありがとうございます。

> 長浜市の後鳥羽神社の付近
はい、神社そのものへの参拝は時間の関係でできなかったのですが、
(今思えば、訪問しておけばよかったな、と思います)
こちらの掲示板の情報を参考に、古墳や事績を回りました。
とくに新たな発見はありませんでしたが・・・。

こちらの諸先輩方のお話を頼りに回っているもので、
目新しいことが何もできず恐縮なのですが、
自ら足を運んで探訪することも大切なのだな、と実感しています。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年 5月15日(火)08時43分21秒
  DADA さま

私の書き込みのフォロ-有難うございます。
なにせ8~9年前のことなので、若宮神社の「境内から南の山頂の方に延びる山道」とか、過去の自分の投稿を確認しても何のことだか皆目わからず、PCに残してある探訪記録や地図などを確認しながら思い出す体たらくでした。
その当時は相当にモヤモヤ感を引きずっていたはずなのですが、やはり時とともに忘れてしまうんですね。
やっぱり、投稿の粗製乱造はダメですね。(汗)
オサキ山古墳の件は覚えていました。
米原市と長浜市に点在する後鳥羽伝説は、時間切れで行けなかった場所が多くあり心残りなので、機会があれば写真を撮りに行くつもりです。
ところで、長浜市の後鳥羽神社の付近は回られましたか?
私の投稿以外の見どころとかあれば、ぜひご教授下さい。

賀集八坂神社が淳仁天皇陵にゆかりのあるとは知りませんでした。
道路から長く続く参道を見て時間の心配から、立ち寄らずに通過した記憶があります。
 

米原・淡路島

 投稿者:DADA  投稿日:2018年 5月13日(日)14時06分53秒
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、いくつか陵墓巡りをいたしましたので、ご報告です。

こちらの掲示板にもありました、米原市、長浜市の陵墓をあちこち回りました。
以前に大垂水酔鳥さまがご訪問されたときと同じような状況でしたが、
気づいた点がありました。

□蛭子神社の七夕石
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1077
今回の訪問では、きれいに整備され、あらたに石碑が設置されていました。

□オサキ山古墳
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1090
今回訪問した際には、周囲が鳥獣除けのフェンスで囲まれていました。
一応中に入ることができ、登り道がなんとなくありましたので、
藪をかき分け登っていきますと、
案内板にたどりつくことができました。
周辺にもいくつか古墳があり、それぞれ案内板がありました。
案内板は古墳の名称のみで、とくに説明はありませんでした。

また、南あわじ市の陵墓も、こちらの掲示板を参考に回ってきました。
過去のご投稿と特に変化はないようでしたが、
若宮神社を訪ねた際、
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/848
以前のご投稿にある
「境内から南の山頂の方に延びる山道」がどうなっているか歩いてみました。
急斜面を数分登ったところ、山の尾根に辿りつきました。
そこにはとくに伝承地の類はなく、南西方向に尾根道が続いていました。
しばらく進みましたが、これ以上は何もないと判断して引き返しました。
おそらく一般の登山道なのかと推察されます。

淳仁天皇陵にゆかりのある賀集八坂神社を参拝しようとしたのですが、
事前調査が杜撰で、まったく違う神社に行ってしまい、
訪問できなかったのが心残りです・・・。

これまで各地をご訪問された皆さまの後を追っているにすぎませんが、
今後も各地の陵墓を回ろうと思いますので、
よろしくご教示お願いいたします。


写真上:七夕石の全景
写真中:新たに設置された石碑(設置の日付はなし)
写真下:オサキ山古墳の碑柱と案内板
 

陵墓参拝の祝詞

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年 5月 7日(月)21時36分40秒
編集済
  「延岡・時空を超えた出会いの聖地~西郷隆盛とニニギノミコト ロマンを巡る」なる番組の見たまま報告です。
http://www.bs-tbs.co.jp/journey/KDT1101900/

北川陵墓参考地の参道入口と拝所などが4分程度放送されましたが、参考地の解説などはありませんでした。
なお、出演者の一人の竹田恒泰氏が参拝に際して30秒ほどの祝詞を唱えました。
頑張って採録して他の祝詞と照合して漢字を当てはめてみました。

これの陵(みささぎ)に鎮め奉(まつ)る、掛けまくも畏(かしこ)きニニギノミコトの御霊(みたま)の御前(みまえ)を、謹み敬い、
天皇(すめらみこと)の家にも身にも禍事(まがごと)あらせず、夜の守り日の守りに幸(さき)はひ〔うつらい〕給ひ、
子孫(うみこ)の末の孫(うまご)に至るまでに栄えしめ給ひて、命長く〔みまつり〕麗しく、仕え奉らしめ給へとの〔いわおす〕ことを、
聞こし食(め)せと、恐み恐み白す。

〔うつらい〕〔みまつり〕〔いわおす〕の部分がうまく聞き取れず心許ないです。

これって、陵墓参拝の祝詞の定型文?なのでしょうか。

ついでに、新刊予定本です。
天皇陵と近代 地域の中の大友皇子伝説
https://books.rakuten.co.jp/rb/15377097/?s-id=bk_pc_item_list_name_n
 

宮ヶ浜

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 4月30日(月)01時56分24秒
編集済
  今年は例年に比べ暖かいものの朝夕は、まだまだ冷え込んでいましたが、ここにきて朝夕も快適に過ごせるいい季節になりましたが、変な宗教に入っていませんか。

今月は、五島福江、佐賀に16日間調査に行ってきましたが、九州でも朝夕は冷え込む気候でした。
五島から佐賀への移動日は、大雨・強風のために予定していたジェットホイールとフェリーが欠航したため、望みをかけ空港に向かいました。
幸い飛んだのはいいのですが、強風のため激しく機体が揺れ、あと5分飛んでいたら、ゲロ、をはいていたことでしょう(涙)

陵墓関連では、佐賀春日山の鍋島直泰侯爵夫人紀久子さんと都紀女加王墓ぐらいしか参拝することができませんでした。
今調査での最大の成果は、久留米梅林寺の有馬家墓域内の5棟の霊廟内を拝顔することができたことでしょうか。
また、2年ぶりに唐津にも行きましたが、唐津は暖かいし魚もおいしいので本当にいいところです。

昨日、龍源寺の近藤さんの墓参後、多磨霊園に建立されている生源寺政子さんの墓所を参拝してきました。
明治天皇関連では、まだまだ不明な女官が多く存在しますが、今後も地道に探していこうと思います。

1 生源寺政子之墓(角石)
裏)昭和十年十二月二十八日


また、無縁廃棄の警告板が立てられていた徳大寺公爵家墓所の入口には、すでに警告板は取り外されているものの、新たに番号が書かれた木柱が立てられています。
完全に保存の形で解決したとは考えられず、東京都の保護下にあるような気がします。
現在、東京都で徳大寺家の墓所を保存するのか、廃棄をするのかを審議中ではないかとも思われます。

ただ、徳大寺実則は宮内大臣ですし、雑司が谷の澤伯爵家墓所も廃棄されずに今のところ現存していることから保存される可能性は高いと思われます。
ただ、近代京都の基礎を築いた槙村正直男爵墓の事例もあるので安心はできません。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年 4月28日(土)13時45分34秒
  明日(4/29)の昼なのですが、BSで「延岡・時空を超えた出会いの聖地~西郷隆盛とニニギノミコト ロマンを巡る」なる番組が放送されるようです。
http://www.bs-tbs.co.jp/journey/KDT1101900/
内容的に北川陵墓参考地と西郷隆盛資料館だと思われますが、陵墓参考地がどの程度の内容で照会されるか個人的に興味津々です。
 

日本尊命陵印

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 3月31日(土)16時42分51秒
編集済
  こんにちは。レプトンです。この春は仕事の移動の時に、奈良県内の多くの陵墓の横を車で通りました。

さて、日本武尊の琴弾原白鳥陵の陵印があったことを確認しました。『大和 琴引原白鳥陵 参拝記念』と書かれています。
 

東西淡海公塚(聖武陵陪塚い号・ろ号)

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 3月21日(水)00時20分19秒
編集済
  こんにちは。奈良・大和路も早春の装いになりました。
先日聖武天皇陵の陪塚である東西の淡海公塚に行ってきました。行きにくい東淡海公塚も南側から容易に行くことができました。2006年3月に話題となり、fukuyama様が写真を掲載してくださっています。あれから10年たち周囲の柵が変わっていたのと、白い標木が建てられていました。ろ号では、宮内省時代の標木だったと思われる木の角柱は一部が腐り、字があった痕跡も全くわからない状態になっていました。写真で比べると周柵と標木の違いが判ります。上が西淡海公塚(い号)、下が東淡海公塚(ろ号)です。2018年3月17日撮影
 

薩摩今和泉

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 3月11日(日)03時08分57秒
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  全国の同志の皆さま、東京も暖かくなってきましたが変な宗教に入っていませんか。

先週、青山霊園に行ったところ何と!! 堀河子爵家の墓所に東京都から「連絡ください」という立て札が立てられていました。
このままの状態が続くと、やがて「1年後に無縁廃棄します」の立て札に変わることになります。

同墓所内には、堀河康隆夫妻、同護麿夫妻、戦死した同康文が合祀された堀河家墓の5基が建立されています。
堀河康隆は、堀河紀子さんの兄で、岩倉具視の弟になります。
堀河康隆の遺歯墓は、紀子さんの本墓とともに真如堂にも建立されています。
まだ、多少の余裕があるものの、こればかりは何時、無縁廃棄されることになるかわからない状況なので、今後も見守っていきたいと思います。

また、昨年の12月には染井の酒井忠積男爵墓の無縁廃棄期限が切れ、今年の正月には新たに青山で片岡利和男爵家の墓所に無縁廃棄警告の立て札が立てられました。
片岡家は、あと1年弱あるものの以前から荒廃していたので酒井家共々もう駄目でしょう。
 

「Let`s Go!若一調査隊!静なる歴史散策!京都での御陵めぐりに迫る」

 投稿者:fukuyama  投稿日:2018年 2月22日(木)18時41分26秒
  「Let`s Go!若一調査隊!静なる歴史散策!京都での御陵めぐりに迫る」

私は帰宅後 知ったので見れなかったのですが

夕方の読売TV 関西情報ネットten の中の 若一調査隊にて

「Let`s Go!若一調査隊!静なる歴史散策!京都での御陵めぐりに迫る」が
放映されていたようです。陵印についても紹介されていたようです。

http://kansai-joshiana.com/blog-entry-5702.html

http://kansai-joshiana.com/blog-entry-5702.html

 

日本武尊陵印2種類

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 2月16日(金)23時20分54秒
編集済
  連投失礼します。日本武尊の陵印です。能褒野墓・琴弾原の物ではなく、大阪の白鳥陵の印です。小さい方は昭和55年頃まで仲哀天皇陵事務所で押せていたものです。捺印されている用紙の裏にはどちらも大阪の白鳥陵の住所が書かれており、参拝日も同じなので共に大阪の白鳥陵の印と思われます。
今回の資料も大正末期から昭和極初期に参拝・集印されたものです。小さい方の印は長らく使われ多くの資料が残されていますが、大きい方の印は私の収集に係る物では初出でほかの資料では見当たりません。ごく短期間に使用されたものと思われます。(先の投稿の開化天皇陵印も同様です。)
捺印日は大正15年となっています。参拝日が大正15年で印だけ後日捺印された可能性がゼロとは言えませんが、この資料に関しては印と文字の配置から同日に参拝・捺印されたと考えるのが自然だと思います。陵印が大正末期から使われた事を示す資料といえるかもしれません。なお大正時代中頃の陵墓参拝の資料を見ると、まだ陵印は捺されてなく、参拝した陵墓の陵墓守部や陵墓守長の名前が墨書されており、個人の印鑑を捺印しているものを確認しています。(陵墓守部・陵墓守長の名前はおそらく陵墓守部・陵墓守長の自署とみられます。)このことから陵印が作られ使われ始めたのは大正時代中頃(大正6年頃)に遡ることはなく、大正末期(大正13~15年)ごろ使い始められたようです。


fukuyama様
 テレビ番組の紹介ありがとうございます。私も見ていませんが、天皇陵にスポットを当てた、天皇陵が主役の内容ですね。以前では天皇陵・天皇といえば右翼思想を連想されるためか、テレビなどでは取り上げられなかったものですが、今回はど真ん中を突いてきた内容でしたね。陵印が紹介されることなどテレビでは初めて見ました。時代は追い風かも・・・・。どうもありがとうございました。
 

開化天皇旧陵印2種類

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 2月16日(金)22時24分42秒
編集済
   みなさまこんにちは。御無沙汰しております。遅ればせながら今年もよろしくお願いいたします。
今日は仕事でヒバス姫陵と成務陵の間の道を車で走ってきました。ハイキングさんや散歩をしている人が多く、いつ行っても気持ちの良い陵墓です。

 さて、開化天皇陵の旧陵印にも2種類あったことがわかりました。昭和4年ごろには使われていた陵印が長く昭和50年頃まで使われていました。(写真上)それ以外に昭和2年に使われたと思われる陵印資料を入手しました。(写真下)印の大きさも意匠・文字とも異なります。

 参拝日の日時に捺印されたと考えるのが普通ですが、昭和2年の開化天皇陵印の資料は、同じコレクション内で、後日捺印された可能性を示唆する陵印があり、捺印時期については断定できません。しかし昭和極初期であることは間違いなさそうです。
 

生見

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年12月28日(木)01時18分19秒
  早いもので今年も残すところ4日になりましたが、変な宗教に入っていませんか?

私宅の近くに伝承墓ではありませんが、聖徳太子の碑が建立されています。
円泉寺、世田谷区太子堂3ー30ー8
恥ずかしながら今まで何百回と通っているものの、まったく気がつきませんでした。
寺域内というよりも外の道路沿いに建てられた自然石には、「聖徳太子之碑」と刻字されています。
勿論、町名が太子堂であることから所縁の地であることを知ってはいたのですが。

さて、私事ではありますが、今春からフェイスブックを始めました。
と、云っても何か情報を公表しようとか、友人を見つけようとかする気は更々なく、単に日ごろお世話になっている博物館、資料館、寺院に「いいね」をつけるためだけに始めました。
現状、友達は4人だけですが、多分もう増えることもないでしょう。

それと、今年も公卿と新華族の新たな墓碑の発見が無く残念な1年でしたが、来年こそ新たな墓碑が見つかることを願いつつ本年、最後の書き込みとさせていただきます。

同志の皆様の新たなる年の幸福を願いつつ来年もよろしくお願いいたします。
 

富雄丸山古墳・小山田古墳・

 投稿者:レプトン  投稿日:2017年12月18日(月)16時57分41秒
編集済
  富雄丸山古墳が国内最大の円墳であることが確認されました。
この古墳は陵墓ではありませんが、平城天皇皇后帯子河上陵の候補にされることもあります。(富雄村史など)しかし時代が大きく違うことが指摘されており、河上陵に該当はしないようです。富雄丸山古墳と河上陵については2006年12月22日にぽん様の考察が投稿されております。(いつもながら詳細で明快な考察です。)

富雄丸山古墳についての新聞記事を張り付けておきます。(新聞記事はそのうちに削除されます。)
毎日新聞 2017年11月15日
  https://www.mainichi.jp/articles/20171116/k00/00m/040/023000c


2015年1月~3月ごろに話題となった、奈良県明日香村の小山田遺跡は一辺70m程度の方墳であることが分かったようです。石室の羨道跡(石を抜き取った穴・羨門のあと)が発見されています。古墳かどうか未詳でしたが古墳であることは確定したようです。遺跡名も小山田遺跡から小山田古墳と改められています。被葬者については2015年当時と同じく、舒明陵初葬地、あるいは蘇我蝦夷の大陵の2つの説が有力のようです。(2015年3月のぽん様の投稿で考察されているように、伝承されている場所は別の所のようです。)

 毎日新聞 2017年8月25日
https://mainichi.jp/articles/20170825/ddl/k29/040/564000c


明治時代の天皇陵の写真帖が以前ヤフーオークションに出品されていました。その中で驚いたのは崇神天皇陵の写真です。今は拝所の前は急な階段になっていますが、明治時代の写真では、今の山辺部事務所の建物のある辺りから拝所まで長ーい坂道になっていました。今は砂利の引かれている平坦の場所(アンド山古墳と南アンド山古墳の間)がすべて坂道になっているのです。いつ今のように変わったのでしょうか。ご存知の方御教示ください。
 手元不如意のため、その写真集のように貴重な資料があっても手出しできない・・・。


神武天皇畝傍山陵御陵御埋碑銘
http://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/page_thumb5123.html


戦前~昭和30年代に天皇陵の一部見直し、陵墓参考地追加を宮内庁(宮内省)が検討
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2005/05/1030_205a.html

他に読売新聞2008年8月8日



 

大伴皇女押坂墓の印

 投稿者:レプトン  投稿日:2017年12月17日(日)03時58分53秒
編集済
  大伴皇女押坂内墓の印です。一辺は約3.6cmです。
捺印時期・印の使用時期は不明ですが、一緒に捺されている崇峻陵・舒明陵の印は昭和50年代なかば頃まで使われていた印で、まだ新しく欠けたりしている所もない鮮明なものですので、その印の使用初期になります。おそらく昭和10年のちょっと前位でしょうか。(捺印時期の解かる資料が少なくはっきりしたことは言えません。)
 この印が確認できたことで、押坂部の管轄の全ての陵墓に印が存在していたことがわかりました。(舒明天皇押坂内陵2種類・崇峻天皇倉梯岡陵3種類・糠手姫皇女押坂墓1種類・大伴皇女押坂内墓1種類・御村上中宮笠間山陵1種類・春日宮妃紀橡姫吉隠陵2種類)
 しかし大伴皇女押坂内墓の印は極短期間だけ使用されたようで、他の集印帖などには捺されていません。


今日12月17日は、奈良では冬の一大イベント!春日大社のおん祭りがあります。寒い中ですが見に行ってきま~す。
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2017年11月16日(木)18時55分8秒
  こんにちは。レプトンです。御無沙汰しております。
宇和奈辺参考地の前方部の南東端にシートがかけられています。台風などで被害を受けたのでしょうか。
 

駿河塚、再度の危機?

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2017年10月31日(火)03時49分8秒
編集済
  たけちゃん さま2008年9月27日ご投稿の「伝嵯峨天皇皇女純子内親王御墓 駿河塚」の続報です。

母が毎年のように入院する病院のロビーから、この駿河塚が遠望できます。
今回、異変を察知したので報告します。

私の2008年11月26日投稿で、
「北側には民家が建ち、西側も造成地になりつつあり、写真のように樹木が伐採されてまる裸の状態でした。古墳の命運も最早これまで‥という感じです。」
と書いた後で、2009年5月15日日投稿で、
「駿河塚にも寄りましたが無事でした。周囲の宅地開発はストップしたままのようです。」
と書きました。
しかし、その後、宅地開発が再開され、古墳の命運が再び危機に!という感じです。
現時点では、西側の宅地開発はストップしたままのようですが、東側の宅地開発が既に完了し、南側も造成地になりつつあります。
古墳と南側造成地の間は畑が残されておりますが、農道などはなく、既に古墳には接近できない状態ですが、このまま西側・南側の宅地開発が進むと、住宅に取り囲まれて古墳が見えなくなってしまいます。
古墳は黒いビニールシートに覆われたものが破れ始めているようです。

再掲になりますが、goo地図の航空写真
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.56.007N34.56.56.283&ZM=11
と現況(↓写真)を比較すると、付近の宅地開発の進展がよくわかります。

この駿河塚、私が探した限りでは、伝承?の詳細を記した文献は見当たらず、恐らく近世以後に発生した、三代実録の記載からの付会だと思われます。

貞観3年6月17日
詔定仁明天皇深草山陵四履。東西限一町五段。南限純子内親王冢地。北限峯。
貞観8年12月22日
勑。改定深草山陵四至。東至大墓。南至純子内親王冢北垣。西至貞觀寺東垣。北至谷。

この純子内親王「冢地」「冢北垣」のビミョ~な表現が議論の対象となっているようです。
純子内親王の薨去が貞観5年なので、3年に冢(塚)があるはずがないことから、塚ではなく「家」という主張。
でもそれだと、8年になぜ家があるの?空家?北側の垣根だけ残っていた?


写真中央の黒いものが駿河塚
 

前の浜

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年10月13日(金)02時33分35秒
  早いもので10月になりましたが、変な宗教に入っていませんか?
しかし、今年があと3ヶ月弱というよりも平成が残り1年と3ヶ月弱かと思うと、淋しさを感じずにはいられません。


さて、9月には、大村に6日、平戸に10日滞在した長崎調査、月末には広島、鞆の浦、倉敷まで温泉旅行に行ってきました。

ポンさんのサイトを見ると、平戸にも伝承墓が1ヶ所あったので予定していたのですが、残念ながら行くことができませんでした。
だいたい雨予備日ももうけていたので行けるはずだったのですが、何と帰宅の3日前に台風が接近したため紐差の普門寺に2回行くはめに・・・
それがたたり時間が確保できず泣く泣く中止。

十城別王の伝承地は、平戸市宮の浦にあるのですが、宮の浦へは平戸桟橋からバスが1時間に1本でており、その途中に紐差があります。
台風さえ起らなければ行けたのですが、次回、平戸へ行った時にでもと考えています。


また、8月にどうしても確認しなければならないことがあり日帰りで京都まで行ってきました。
残念ながら18切符では、ながらか、新幹線を一部利用しないと行けないため品川~名古屋までは、ぷらっとこだま、8300円、名古屋からは18切符を使用し、1日分2370円、新快速で~米原~京都にお昼前に着。

帰路は、京都発3時30分の新快速で米原~豊橋、以降は普通で~浜松~静岡~熱海~品川~恵比寿着は0時20分で、ぐったりの帰宅でした。
時間に余裕があれば、どこか陵墓でもと考えていたのですが、あまりの暑さに動けず。

よくよく考えると夏に京都へ行ったのは、実に何10年前の高校の時以来でした。
当時、2度と夏の京都、名古屋、広島へは行くまいと自分に誓っていたのですが、トホホな京都調査になってしまいました。


先日、10年近く親しくしている方から同人冊子をご恵贈いただきました。
その中で、他の方が執筆されたものですが、大変、興味をそそられるものがありました。
「榎本家ゆかりの人たち、○○から御所に上がった乙女たち」

これは大正末期に御所に上がった榎本静子と萩原幸世に関し静子のご子息がまとめられたものです。
静子は僅か39歳で死去したため残された静子の日記からの引用になりますが、御所内での日々がつづられています。

ただ、両家とも華族や社家出身者ではないので検索しても出てきませんが、何か名簿のような資料があれば詳細がわかるかもしれません。
「大正天皇のご容態悪化、両陛下聖上陛下お見舞いに葉山へ」などの記述がみられます。


DADAさま

各所のご参拝ご苦労さまでございます。

さて、お尋ねの賀子内親王の墓碑ですが、二尊院の一般拝観の範囲外に建立されております。


先般、徳川慶喜公の玄孫にあたる第六天徳川公爵家4代当主の徳川慶朝氏の訃報が報じられました。
慶朝様には、以前、いろいろとお世話になったので大変に残念に思っております。
形式的には、ご長男が継承されるような形にはなると思うのですが・・・どうなるのでしょうか。


しかし、この「陵墓要覧」も、あと少しで20万アクセスですね。
思えば、前サイト閉鎖の話を聞いた時は、今後どうなることやらと心配いたしましたが、福山さまが引き継いでいただいたおかげで現在に至っています。

初期から携わる1人として感慨深いものがあります。
ポンさまやレプトンさまも同様の気持ちでおられるかと思いますが、改めまして福山さまにお礼申し上げる次第です。

今月の26日は、伊藤博文公爵の命日になります。
昨年は、鹿児島調査のため墓前祭に参列できませんでしたが、今年は参列できそうです。
 

治定外陵墓

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 9月 7日(木)23時27分41秒
  こんにちは。
残暑も和らぎ、過ごしやすい季節になっております。

さて先日、京都の二尊院に参拝し、
2007年5月16日の照山もみじ様のご投稿を参考に、治定外陵墓を見て回りました。

その際、
> 【後水尾天皇皇女賀子内親王・二條光平正室墓】
> 深信解院内親王尊儀      (宝篋印塔)
> 元禄九丙子年八月二日

だけが、どうしても見つけることができませんでした。
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。

また、「新撰陵墓誌」の大阪府の一覧に、
> [清寧天皇殯斂地]
> 柏原市平野字坂門原 平野山観音堂上 坂戸荒陵(詳細不明)

とありますが、この「平野山観音堂」とは、
具体的にどこを指しているのか、
もし詳しい情報がありましたら、あわせて教えていただけるとありがたいです。

質問ばかりですみません。
最近は、こちらの情報を頼りに、
関西地方の治定外陵墓を訪ね歩いております。
なかなか一人で調べるのにも限界がありますので、
新撰陵墓誌の一覧やこちらの掲示板の情報は非常に重宝しております。
 

喜入

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年 7月 2日(日)02時11分21秒
  早いもので今年も半分が経過し7月になってしまいましたが、変な宗教に入っていませんか。

ただ今、ツール・ド・フランスの第1ステージを見ておりますが、いよいよ今年も猛暑の始まりという感じです。


4月は10日間山口に、5月は16日間福岡まで調査に行っておりましたが、残念ながら陵墓や伝承地も色々考えていたのですが、結局は都紀女加王墓ぐらいしか参拝することができませんでした。

最良のニュースは、毎月確認に行っていた多磨霊園の徳大寺公爵家の墓所に先週行くと、何と無縁警告書が剥がされていたので、どうやら廃棄処分は免れた感じで一安心です。
その後、石田寺の土方さんの墓所を廻りつつ70kほどのお散歩ツーリングでした。

昨年かヤフーニュースで京都梅林寺の土御門家墓の維持に関する報告がありましたが、公卿墓所の正確な記録を迅速にすすめないと、いつ廃棄されても不思議ではない墓所が多く待った無しの状況であることを改めて実感しています。
関西在住の方で、特に関心のある方にはお願いしたいところです。


実は、昨秋、30年ほど親しくさせていただいていた織田長功様が死去されました。
織田さまは、右大臣織田信長公の弟有楽斎長益公の5男、織田尚長公を藩祖とする大和柳本藩織田子爵家の17代当主になられます。
また、御母堂様は肥前蓮池藩鍋島子爵家より、御祖母様は久邇宮朝彦親王の王女であることから陛下とは、ハトコの関係になられます。
このような華麗なる家系であるにもかかわらず、とても気さくな方であっただけに残念でなりません。

最後に、以爲様のゴウボ坂陵参地の報告は、大変に参考になりました。
 

檜塚古墳 見学会

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 4月16日(日)07時21分44秒
編集済
  檜塚古墳 見学会もそうですが

百舌鳥耳原南陵飛び地 い号 経堂の様子の変化に おどろきです

1.見学会説明解説
2.い号 現在の様子
3.檜塚古墳 説明板



http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/osaka/013.htm

 

檜塚古墳

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 4月15日(土)14時49分39秒
編集済
  こんにちは。

fukuyama様ご紹介の見学に行ってきました。

先着30名、1回の見学予定でしたが、
受付開始前からすでに希望者が来られていたようで、
12時半からも見学をおこなうことになり、
それぞれ定員が60名に増えました。

私は11時の回で見学しましたが、
クボタの方の先導で工場内に入り、市の職員さんの解説がありました。

周囲はきれいに整備され、
やはり世界遺産を目指すからなのか、と思いました。

工場内にはほかに古墳がないか聞いたのですが、
過去にも現在も「ない」と断言されてしまいました。

途中にわか雨があり、雨宿りついでに工場建物内まで見学させてもらえました。

こちらの皆さんもご参加された方もいらしたかもしれませんね。

追記:以為様、ご教示ありがとうございます。早速、文献を確認しました。
 

古墳見学

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 4月15日(土)10時30分49秒
編集済
  https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1617512324955782&substory_index=0&id=1192422330798119&__tn__=%2As


クボタの感謝DAYの中で 檜塚古墳見学が 有るようです

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1617512324955782&substory_index=0&id=1192422330798119&__tn__=%2As

 

川上村史

 投稿者:以為  投稿日:2017年 3月18日(土)14時16分58秒
編集済
  ごぶさたしております。以為です。

先日大阪市立図書館で興味深い書籍に遭遇しました。

「川上村史」

現在奈良県にある川上村ではなくて、昭和29年3月まで存在した大阪府南河内郡川上村の村史です。
出版年月日が昭和29年3月なので、河内長野市に合併されるのを機にその歴史を残すため編纂されたのでしょうか?

当時の川上村には、皆様ご存知の観心寺というお寺があり、観心寺と聞けば、後村上天皇陵ですね。

更に陵墓参考地も、檜尾塚陵墓参考地、コウボ坂陵墓参考地と2か所あります。

川上村史の中に、この2つの陵墓参考地につき興味深い記事がありましたので、ご紹介致します。

<檜尾塚陵墓参考地>

昭和五年頃書類整理の際発見せられた観心寺過去帳の中に、長慶天皇の御髪塔は観心寺山内にありとあって、その有力な候補地としてここがあげられた。

寺所蔵書に長慶上皇が吉野の幽居を出られてからしばらく観心寺に滞在されたことが記されていること。

観心寺僧賢俊の手控帳に長慶上皇の御製二首あり。

不動院院主の一山目録覚帳に南朝長慶院御念仏不動明王とあり。

以上の伝説と参考文献から御髪を葬られた古墳であると確定せられ、御陵墓参考地として保存せられるようになった。

ということで、川上村史では、昨今云われている新待賢門院藤原廉子を充てておりません。

拝所奥に見える宝篋印塔についても書かれており、「高さ三尺位で底辺の一辺約一尺五寸、連辨の彫刻ある台石の上にある。

形は完全で形式は室町時代前のものである。」とあります。宝篋印塔の絵も挿入されております。

いわゆる陵墓地形図集成に描かれております彊界標一号から十二号は、昭和10年5月16日隣地主立会彊界査定並びに界標建設とあります。

<コウボ坂陵墓参考地>

コウボ坂とは、コウボ阪で、弘法阪といい、弘法大師が観心寺を再興せられた時、度々と往来せられたのでこの名があると考えられていた。(略)昔から観心寺には新待賢門院のご遺体が、火葬にせられて山内にご埋葬申しあけたという寺伝があり、寺主と寺の相談役が研究せられた結果、此処が新待賢門院の御遺骸を葬り奉ったところであることが明らかとなった。

従ってこの墓地への阪道は、元は皇母阪と呼ばれていたが、何時の間にか弘法阪と誤り伝えられた。とあります。

いわゆる陵墓地形図集成に描かれております彊界標一号から七号は、檜尾塚陵墓参考地と同じく、昭和10年5月16日隣地主立会彊界査定並びに界標建設とあります。

川上村史では、「確定せられ」とか「明らかになった」等の断定的表現を用いておりますが、まとめますと、檜尾塚陵墓参考地=長慶天皇髪塔、コウボ坂陵墓参考地=廉子皇母阪陵という見立てであったようです。(陵墓名は私の勝手な推察ですが…)

私自身多少読み込み不足のところもありますので、詳細は「川上村史」をご一読いただければと思います。


***** 柏原山陵について *****

DADA様ご指摘の柏原山陵と柏原陵についての件ですが、大正十四年七月二十日発行の山陵(上野竹次郎著)上巻130頁に改葬の件に触れた部分が少しあります。が、具体的な場所までは示されていないようです。改葬の出処は類聚国史のようですね。
 

(無題)

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 3月11日(土)18時26分56秒
編集済
  こんにちは。

先日、京都市内を訪問しました。
こちらの掲示板の過去ログをもとにして治定外墓を見て回りました。

西王寺で霊元天皇皇女憲子内親王の墓を参拝しましたが、
その際、向かいに後水尾天皇皇女常子内親王の墓、
近くに円台院(泰宮薫子女王)のあるのを確認しました。

ほかにも、以下の陵墓を参拝いたしました。
岩倉の古市胤子墓(周りの雑草などは片づけられ、手入れされておりました)
小町寺の小野皇太后供養塔
茶山の談合之森稲荷神社
華山寺の花山天皇髪塔
 (庭にあった塔だと思われます。直接拝観できませんでしたが、一般墓地から見えました)
三宝寺門跡「御墓惣塔」(以前と変化ないようですが、付近の尾根は少し整備されていたようです)

すでに皆さまご存知かと思いますが、ご報告まで。
 

大入杵命墓 おおいりきのみことのはか

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 2月26日(日)14時22分39秒
  その番組は見ていないのですが

崇神天皇皇子 大入杵命墓 おおいりきのみことのはか

と思われます
 

ちょっと気になったので質問

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月25日(土)18時10分30秒
  テレビ朝日の「人生の楽園」を見ていて最初のワンシーンに御陵らしいのが写ってました。
場所は石川県中能登
誰の御陵でしょうか?
天皇 皇后 皇子の名前は読み辛いのが多いので読み方を解れば教えてください
 

明治天皇伏見桃山陵

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 1月 3日(火)20時42分15秒
  今年 正月三ヶ日特別拝所参拝
明治天皇伏見桃山陵に参拝した時の写真です
 

中名

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年11月28日(月)00時57分36秒
編集済
  早いもので今年も1ヶ月弱となりましたが、変な宗教に入っていませんか?


10月23日から16日間、鹿児島・宮崎調査に、先週は下関・唐津・柳川まで温泉旅行に行ってきましたが、それにしても本当に九州は暖かい。

鹿児島・宮崎調査では、可愛山陵と中陵ほか、西都原古墳の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳、鵜戸神宮の鵜戸陵参地を予定していましたが、結局、西都原古墳しか行くことができませんでした。

11月4日、佐土原で大光寺の島津家墓所を調査後、西都原古墳へ行くと、男狭穂塚陵参地の制札屋形前で知らないおじさんが「明後日は中に入れるよ」と教えてくれました。

幸い、明後日の6日に高月院の島津家墓所の調査がお昼すぎに終了したので再度、西都原古墳へ行くと、おじさんの言っていた通り男狭穂塚古墳の参道が公開されていました。

当日、11月6日は西都市の古墳祭りのイベントによるようでしたが、参道を30mほど直進し、右折し20mほどまでの参道部分だけの公開でした。

ただ、参道の入口から3~4ヶ所位に市の職員がおり、参道から出て古墳まで行かないよう見張っており、更に入口には写真撮影禁止の看板がありました。

最奥には、宮内庁委託?のおじさんがガイドをしていましたが、写真禁止は宮内庁からのお達しとのことでしたので、今一つ納得のいかない参拝になりました。

男狭穂塚古墳の入口には、陵参地ではあるものの制札屋形があり男狭穂塚と女狭穂塚の記名がありますが、100mほど離れた別域には、単独で女狭穂塚の五角形の制札も立てられています。

僅か50mほどではありますが、通常、立入禁止の陵域内に入ることが(写真禁止ですが)できますので、興味のある方は来年以降の古墳祭りの当日に西都原古墳を訪れてみてはいかがでしょうか。

西都原古墳群には、両陵参地以外にも多くの古墳が林立しているので、古墳好きにはたまらない聖地とも言えるところです。
その他、宮崎神宮から西に5kほどの生目(いきめ)古墳群にも行きましたが、ここにも100m越えの前方後円墳が建造されており、一見の価値があります。



10月の初旬に多磨霊園に行ったところ何と、徳大寺公爵家の墓域入口に東京都からの無縁廃棄の警告板が立てられていました。
徳大寺公爵家の墓所は、以前から荒れ放題で、時々、参拝時に枝切りハサミで雑草の小掃除をしてはいるのですが、何せ巨木が数本あるため日当たりが悪く快晴でも墓域内は薄暗い状態で難渋していました。

勿論、子孫の方はいるのですが放棄したのでしょうか?
小池知事名の警告板には、「無縁墓と思われますので1年以内に対応しなければ廃棄処分する」と明記されています。
徳大寺実則公爵は、宮内大臣で歴史上の著名人であることから万が一、1年が経過し何の進展が見られない場合でも雑司ヶ谷霊園の澤伯爵家墓所のように無縁撤去に待ったがかかると思われますが、雑司ヶ谷の阿野子爵家墓のようにあっさりと廃棄される可能性もあるので楽観してはいられません。

島津宗家の公爵家現当主島津修久氏は、実則の曾孫になりますので、いちよ耳には入れておりますが、はたしてどうなるのでしょうか?
期限は、来年の10月ですが、とりあえずは来春まで経過を見てみるつもりで、危ないようであれば色々と働きかけなければと思っています。
あと、鯖江藩主間部家分家の間部家墓所にも無縁廃棄の警告板が立てられており、あ~頭痛が・・・・



現在、次調査報告書の制作のため調査中ですが、ここ数年、体力の衰えを実感しています。
単に調査するだけであれば問題は無いのですが、採寸のため立ったり座ったり屈んだりを繰り返すと、さすがにしんどいです。

数年前から私の調査研究を引き継いでくれる後継者を、そろそろ探さねばと考えています。
決まれば、私の全調査記録(コピー)を譲渡するつもりでいます。
いちよ、以前から親しくしている方を予定しているのですが・・・・
今後、じっくり考えたいと思っています。
 

崇仁親王墓所一般参拝

 投稿者:fukuyama  投稿日:2016年11月 6日(日)17時24分10秒
編集済
  最近は陵墓参拝の機会が少なくなった私ですが
崇仁親王墓所一般参拝に行ってまいりました。
日曜で天気も良く、多くの方が拝礼されていました。
豊島岡墓地の木々も落葉が始まり、吹く風が少し
気温を下げていましたが私は 11時ごろに拝礼を
いたしました。

また高松宮墓地の東側の樹木が一部伐採されており、目
隠しとなっていた木が無くなった為に住宅が垣間見えておりました。

写真は


明治天皇皇女 稚高依姫尊墓   明治天皇皇子 輝仁親王墓
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 8月29日(月)08時39分51秒
編集済
  10月9日、再々度★追記★しました。

9月4日、BSジャパンのミステリアス・ジャパンという番組で『天皇の皇子が開いた霊山~山形・出羽三山~』が放送されます。
http://www.bs-j.co.jp/mysteriousjapan/lineup/20160904.html

オムニバス形式ではなく、一話読み切りの番組構成なので、正味20分まるごと、出羽三山・蜂子皇子です。
HPでは羽黒山の墓のことは触れられておりませんが、20分もあって完全スルーはないものと多少の期待をしております。
でも、陵墓なので、掲示板で話題になるような濃密な内容は期待できないとも思っております。
★追記★
20秒ほど映像が出ましたが、参道の途中からだったので制札などは見られず。
ナレーションは宮内庁の御墓うんぬん‥だけ。
この書き込みを見て番組を見られた方、期待を裏切る結果となり、ご免なさい。
なぜ羽黒山に蜂子皇子の墓が‥の説明にはなったかな。

再度★追記★

10月9日は「黄泉の世界へ続く道~島根・松江市~」の放送です。
http://www.bs-j.co.jp/mysteriousjapan/lineup/20161009.html

予告編で岩坂陵墓参考地がチラリと写りました。
HPでは陵墓参考地のことは触れられておりませんが、今度も20秒ほど映像が出るのかな?

再々度★追記★

2分ほど参考地が取り上げられました。
映像は正面からの全景と拝所で、ナレーションは神話の説明と各地の伝承地の中から選ばれてここが宮内庁治定された云々のごく短いものでした。

★追記終わり★


今年に入ってから、陵墓関係本が続々と出版されていますね。
 

宗良親王墓

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2016年 8月22日(月)10時55分58秒
  おひさしぶりです。いのうえとろろです。

猛暑がつづいておりますが皆さんお元気でしょうか?
わたしはかなりばて気味です。しかも今年の中日の体たらくがさらに追い打ちをかけて…(以下自粛)


さて、今年の大河ドラマはそろそろ第一の佳境に入ってきていますが、来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台は遠江が中心でしょう。特に浜名湖の北側旧引佐町は躍起になってPRしております。で、そこには井伊家の菩提寺「龍潭寺」がありその横には井伊直憲が創建した「井伊谷宮」その裏には治定墓である「宗良親王墓」があります。

この宗良親王の亡くなった場所の説としてこの「遠州井伊谷」のほかに「信州大河原」「信州浪合」「美濃高山」「越後粟岳山麓」「河内山田」があります。


静岡県の中央部を流れる大井川の上流、南アルプス赤石岳の南側に「井川」という場所があります。行政区域としては「静岡市葵区」ですが、静岡駅から車で2時間ちょっとで豪雪地帯です。その井川地区の中心部からさらに山側へ1時間のところに中部電力が作った畑薙第一ダムがあります。その北部に「伊(居)谷沢」という場所がありそこに「宗良親王墓」があったとされる場所がありました。


親王は生涯全国を転戦していますが、晩年信州大河原から反乱者の手から逃れるため山伝いに井川まで落ち延びてきた際、疲れて「イヤア」で倒れなくなり墓を作ったという話でした。ここの地名「イヤア」も親王が井伊谷に似ているため「イイノヤ」と呼び、それがなまり「イヤア」となったとの伝説もあります。
また、この場所の周辺には「見張平」「狼火平」などの地名もあります。



昭和15年(皇紀2600年)の記念事業でここを発掘し立て札を立てたそうですが、昭和34年の台風直撃の際埋まってしまい、その後のダム建設によって跡形もなくなったそうです。


現地へ行くには上にも書いた通り静岡市中心部から山をいくつも越え車で行くか、大井川の下流島田市から川伝いに行くルートが一般的です。ダムの手前までは車で行けますがそれ以降は登山の準備をしていくのがベターです(登山届も忘れずに)。公共交通機関は夏の場合南アルプス登山者に交じってバスでいくか、しずてつバスで途中まで行き、自主運行バスに乗り換えるくらいです。おすすめしません。



最初に述べた浜松の龍潭寺を参拝した際本堂に「東山天皇」の大きな位牌、そして綏心院や中院中将から賜った遺品などが展示してありました。ただ展示してあるだけで下賜された経緯や「そもそもこの人だれやねん」的なものが一切なかったのが残念でした。(私ひとりはきゃっきゃしてましたが(苦笑))


 

柏原(山)陵

 投稿者:DADA  投稿日:2016年 7月 4日(月)20時43分58秒
  こんにちは。

最近は、「新撰陵墓志(仮)」の一覧を参考に、少しずつ訪問しております。
先日は福井県内の伝承地をいくつか回りました。

さて、標記の件ですが、
桓武天皇陵について調べていましたら、
崩御の後「柏原山陵」に埋葬されたが、すぐに「柏原陵」に改葬された、という記事を拝見しました。

改葬後の所在については諸説ありますが、
改葬前の所在について言及している資料や研究はあるのでしょうか。

あるいは改葬前の「柏原山陵」は短期間であるためわからない、
ということでしょうか。

名称の変更も、桓武天皇陵は「山丘型」だと言われていることと関連して、
気になっているところです。

もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示お願いいたします。
 

瀬々串

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年 6月 4日(土)02時14分54秒
編集済
  全国の同志の皆さま、早くも5ヶ月が経過いたしましたが、変な宗教に入っていませんか?


先月は2年振りに10日間の仙台調査に行ってきましたが、今回は2家のご当主様にお逢いいたしました。
幸い天候にも恵まれ予定通りに調査が終了したため雨予備日に考えていた石巻まで行くことができました。
2年前の仙台調査では時間の関係上行けなかっただけに、実に10年振りの再訪になりました。
特に地震と津波による伝承墓の被害状況が把握できなかっただけに、再訪により現状の確認をすることができました。


【一皇子宮】

最初に再訪したのが一皇子宮ですが、伝承墓が当時と変わらず本殿の左側に隣接し現存しており安堵いたしました。
ただ、被害を受け一部、または多くが改修された可能性を否定できませんが、四囲の石柵は当時のままと思われますが、内部の盛土部分は新設されたかもしれません。
近隣では巨石落下注意の標識が見られ、改めて震災による被害の甚大さを感じることができました。


【多福院】

10年前には時間の関係で寄ることができなかったため今回、初の参拝になりました。
後醍醐天皇碑は、本堂の左側奥に建立されていますが、震災時、どの程度の被害があったのかは不明ですが、現状を見る限りでは被害に遭遇したことを感じさせる雰囲気はありませんでした。

ポンさんのサイトにある石巻市内のもう1寺へも行き墓地内を探し廻りましたが、伝承墓の確認ができませんでした。
しかし、石巻市内を廻ると震災による光と影を随所に見ることができました。
1日も早い完全な復興を願うばかりです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月14日(木)07時26分55秒
  日誌要員 さま

清浄華院の過去帳では、公家とかでは「子」「君」が混在して使用されているのですね。
私は公家の過去帳を見たことがないので、ひとつ知見が増えました。

こちらの掲示板では、寺院墓地にある治定外墓の話題がたまに出てきますが、お寺の方からコメントを頂いたり、過去帳の記述をご紹介頂いたのは恐らく初めてだと思います。
あらためて感謝、感謝です。
 

(無題)

 投稿者:日誌要員メール  投稿日:2016年 4月11日(月)12時20分13秒
編集済
  性源院さんの事に付いてばかりで恐縮ですが、

 同じ過去帳で、皇族の部分だけですと、君の字は性源院だけです。別の過去帳ですと他のお公家さんとかですと結構使っていたりしますが…法則があるのかないのか。あまり気にしていないような気もします。

 性源院さん以外は誰の実君だとか書いていないので、やはりなにか特別扱いのようです。今気付きましたが、性源院さん以外は寂年順に書かれているのに、性源院さんは元禄七年寂の凉照院さんの後に書き足されているようです。(性源院記事以降は別筆追記)
 やっぱり何かかなりの無理をして霊元天皇の子としたようですね。明治期の日記も見てみましたが、比定に関するものは見つかりませんでした。別の一枚ものの史料の中にあるのか…

 いろいろとありがとうございます。

ちなみに輔長朝臣記に出てきた長橋局は東山天皇皇子の凉照院さんの母であるようです。性源院さんと凉照院は戒名がちゃんと付いてる(他は院号のみ)のは、どちらも円照寺と関係があるからかなとも考えました。どうでしょうか。

 
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月10日(日)01時00分41秒
  煌子 さま、更なる悩ましい限り(笑;;)の文書のご紹介、有難うございます。

甘露寺輔長は伝聞で知った。って天皇の傍近くに居たから、職務上知ったんじゃないの?
当時の「伝え聞く」と現代語の「伝聞」ってニュアンスが違うのかなぁ。
それとも、異例のことなので、公家社会でウワサが広まっていた、とか。〔基熈公記〕でも「世人称喝食御所」とありますし。

新大納言局養子、仙洞猶子、仙洞養君、で、ついに「寛文上皇ノ御養子」ですか。まるで性源院の身分引上げオークションですね。

う~ん。でも、これって実態としては「猶子」ですよね。
宮家の王子女の多くが天皇の養子か猶子になっている件にしても、養子と猶子って、実態としてどう違うんでしょうね。
少なくとも、庶民レベルでは、生計あるいは生活を共にした経緯のない者を養子とは言わないと思うので、宮中とか上流階級では家族の概念が違うのかなぁ。

コイツまた養子だの猶子だの実子だの言っている。もうウンザリと言われそうなので、もう黙ります。

私も滅多に外出できない身の上なので、これからは煌子さまを見習って電子図書館で情報収集に励もうと思います。感想だけの書き込みをこのまま続けるだけではダメですしね。

 

性源院について、四度目の追記

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 4月 9日(土)22時22分15秒
編集済
  【追記しました】

強風と雨によって、桜が少し散ってしまいましたが、皆さまのところはいかがでしょうか。

性源院について、大垂水酔鳥さまを始め、皆様多くの情報をありがとうございます。

日誌要員さま、はじめまして。
過去帳での記述の文言、ありがとうございます。
「性源院」という法号は、どなたがつけられたか存じませんが、幼児の法号にしては異質なような気がしますがどうなのでしょう。

ところで、性源院についての記録などはもう無いと諦めていたのですが、昨日の大垂水酔鳥さまの投稿記事を読んだ後に再度検索をかけてみましたところ、次のような記事を見つけました。
こちらの過去ログの記事で「『霊元天皇実録』には記載が無かった」とあり、鵜呑みにして調べていなかったことが悔やまれました。
驚きの内容です。


『霊元天皇実録』 貞享四年正月三十日条

 三十日、前關白鷹司房輔ノ女[性源院]ヲ御養子ト爲シ給フ、

  〔輔長朝臣記〕
   貞享四年正月卅日、傳聞、前關白末女院御養子、[主上御養子、長橋局子分被仰出、南都圓照寺宮被遺云々、]

  〔諸寺院上申〕 圓照寺
     性源院
   貞享四年丁卯、鷹司前關白故房輔公ノ女、
   寛文上皇ノ御養子トシテ當寺御附弟ニ御定リ、時ニ御年二歳、御母儀新大納言ノ局、

※[]内は、小文字。


輔長朝臣は甘露寺輔長のことです。
ちなみに、『霊元天皇実録』には元禄3年7月の記事は1件もありません。

この年、貞享四年の霊元天皇の周囲はというと、
1月23日 皇太子(東山天皇)が元服
3月21日 皇太子に譲位、  という時期でした。
霊元天皇は譲位前で、藤谷氏は勾当内侍だった時で、勾当内侍が養母になるのって珍しいのではないでしょうか。


大垂水酔鳥さま、お母様のことも含めてこれからいろいろとあるとは思いますが、後悔のないように生きたいですね。
新たな論考を拝見出来るように願っております。

以下、ご存知でしたら申し訳ありません。
『皇親御事蹟』(諸寺院上申 明治7年11月etc.)は、東京大学史料編纂所データベースの所蔵史料目録データベースで、『比丘尼御所諡号考』は、国文学研究資料館電子図書館で閲覧出来ます。
『天皇実録』と見比べてみると、差異があります。
また、『普門山円照寺小史』末森雅雄著という本が、奈良県立図書情報館にあるそうです。(国会図書館には無し)

     ----------------------------
【2016.4.12追記】

>日誌要員さま
『天皇実録』ですと、清浄華院に葬送されておられる皇子皇女で院号+戒名が書かれている方々もいらっしゃいます。
逆に、『東山天皇実録』には、「凉照院」とのみで戒名は載っていません。

貞享4年正月30日の時点での長橋局は、藤谷為條女、のちの高松(改称・新大納言)で合っています。
同年3月13日の譲位に備えて霊元天皇は奥の再編成をし、その時より長橋は西洞院時成の女に変わりました。
凉照院や中御門天皇の生母・櫛笥賀子が長橋になるのは、元禄3年5月5日以降になります。


>大垂水酔鳥さま
本当に悩ましい文書ですよね。
その上、これが『霊元天皇実録』に所収されているという歴然とした事実。
治定解除するならば、実録のこの文章も何とかしておいてほしかったです。

子の扱いのことや、周囲の思惑などはこちらの掲示板の範囲外になりますので、弊掲示板のほうに書いてみます。
大垂水酔鳥さまが電子図書館制覇に乗り出したら、それこそ鬼に金棒じゃないですか。
恐ろしいような、頼もしいような。


掲示板のほうに、スレッドを立てましたので推論などあればどうぞお使いください。
http://6238.teacup.com/hoff_nung/bbs/t2/l50?
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月 8日(金)13時05分48秒
  新しい情報などはありませんので、お手隙の際にでも読んで頂ければ幸いです。


私事で恐縮ですが、今日これから母を病院に迎えに行きます。
母が入院中のこのひと月間、グッドタイミングで性源院の話題が持ち上がり、私も久々に碌でもない書き込みを連発しました。私の息抜きとストレス発散に皆様を巻き込んでしまい汗顔の至りです。と書きながら今日も続けておりますが‥

私は今後、老老介護の前哨戦から本戦へと移行しつつありますが、退職したことで、精神・肉体とも疲労については半減し、現時点ではかなり楽になりました。ただし、年金受給までの生活費の不安については、じりじりと真綿で首を絞められる思いです。
安倍さん、いまごろ介護退職0とか言っても遅すぎるよ‥
日本死ね!なとどという言い方に賛同しかねますが、安倍総理も「匿名だから」云々ではなく、「日本死ね!ではなく、せめて安倍死ね!と言って欲しかった」とでも言えば、支持率が上がったかもしれないのに‥

ということで、今後とも時々は顔を出すつもりでおりますので、皆さま、宜しくお願い致します。


日誌要員 さまの過去帳の記述のご紹介を拝見し、以前から判らなくてモヤモヤしていたあれこれに関して書き込みをしたい、誰かに教えて欲しい衝動を抑えることができませんでした(汗;;;)

「宮」ではなく「子」でもなく「君」ですか‥
「皇子」を「彦」と表記した例を何かで見た記憶がありますが、「宮」をわざわざ「君」に変えて表記したのであれば興味深いですね。
清浄華院の過去帳での「君」の用例は、他の公家とかには見受けられないのでしょうか?
性源院だけの用例なら、まさに特別扱いということになりますね。
「母儀」と「母君」が混在する例もどこかの過去帳の記述で見た記憶もあり、これも何か意味があるのかなあ‥

蛇足ですが、摂関家の子女には「○君」という人名が見受けられます。たぶんもとは幼名だと思いますが、実名のように通用されている例もあり、これまた何か理由があるのか、単に実名が伝わっていないだけなのか、よく判りません。
私は書き込みを拝見してとっさに、性源院の葬儀に際には「○君」という幼名も伝わっており、それが「養君」とか「實君」とかの記述に繋がった、と妄想しましたが、正直かなり苦しいですね。

ところで、「實君」が「實子」と同義だとすると、ふたつの解釈の可能性が生じます。
a.血を分けた実の子
b.血を分けてはいない実の子

「養君」「實君」が、単に「養子」に対する「實子」ということなら、aのいわゆる実の子でハイ!オシマイ!なのですが‥

これが「仙洞様御養子 實鷹司前関白殿御子也 」とかなら鷹司前関白の血を分けた実の子でハイ!オシマイ!なのですが‥

私には「鷹司前関白殿實君也」の「實」に何か違和感があるんですね‥‥ この場合、後者bの「実子」と解釈すべきなのではないかと‥
だとすると、性源院の血を分けた実の親は誰なんだということになり、話が振り出しに戻ってしまうんですね‥‥

bの「実子」について、「正確な概念」と「当時の実態(習俗)」を知りたいのですが、お偉い学者先生の方々も避けて通っているのか興味がないのか、明快な解説にお目にかかれていません。どなたかご存知ないですか?
この件は、たけちゃん さま2012年4月2日ご投稿で書籍での記述のご紹介を頂き、その翌日、私がなぜこの問題に拘るのか駄文を縷々書き連ねましたが、あれから4年、何の進展なく、悶々としております。(笑;;;)
私の現在の理解は以下の通り。現在「もらい子」「藁の上からの養子」は違法。でも当時は黙認(合法・違法の概念がない)。現在の「特別養子」は合法だが、血を分けた実の親との関係が厳格に遮断される。しかしbの「実子」の場合、血を分けた実の親との関係の遮断が厳格にされておらず、養子との区別がかなり不明確。

 

性源院に関する過去帳記事

 投稿者:日誌要員メール  投稿日:2016年 4月 7日(木)19時52分44秒
編集済
  こんにちは。清浄華院蔵の古い過去帳を眺めていましたら、性源院さんのことが出てきました。
何か参考になるかと思い、転載します。

(霊元帝)
仙洞様御養君 鷹司前関白殿實君也       藤谷家息女
性源院湛室了光 尊儀 元禄三午天 七月廿日  御母后高松局
    七歳

 過去帳はどうやら元禄七年以降十一年以前に書かれたようです。他の人は「仙洞様姫宮」とか「○○院様若宮」などと記されていますが、「宮」ではなく「君」を使っているところ、やはりちょっと違う扱いを受けていたようです。

 ちょっと気付きましたのでご報告まで。
   
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 4月 3日(日)21時21分39秒
編集済
  DADA さま、情報提供ありがとう御座います。

石棺?石槨?、境内に移されて保管されているとのことで安心しました。
桓武天皇陵の遺物とするには正直無理があると愚考しますが、なんとも気になるものですね。

ところで、古御香宮の方には行かれましたか?
社殿前の石槨の敷石?の方は、少なくとも8年前までは参拝者に踏まれ続けているので心配です。
わたし個人的には、少し横に移動させて注連縄で囲って踏まれないようにして保存して欲しいのですが‥
★追記★
やっぱり、まだ踏まれ続けていましたか。
考古学的な価値が認められない限り、待遇改善は難しそうですね。
私は、「中世に捏造?再建?された桓武天皇陵」説に興味津々ですが、これを学問的に証明するのは無理そうですね。
★追記おわり★

たけちゃん さま

お手数をお掛けし恐縮です。

奈良文化財研究所ですか‥。全然知りませんでした。書面で提出‥‥私のようなシモジモの者でも簡単に閲覧できるようにして欲しいと思うのは贅沢なんですかね。

20年くらい前だったか、京都府立資料館で尼門跡の文書を閲覧した時も書類に調査内容等を書かされ辟易しました。確か所属機関?だったかを書く欄があり、まさか勤務先の運送会社名を書いても意味ないだろうと思い空欄で提出したところ、身分?をあれこれと詮索されました。
そりゃ確かに、聞いたこともない運送屋の従業員に尼門跡の文書の閲覧請求されたら変に思うのも当然なのかもしれないけれど‥
 

皇族供養塔について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2016年 4月 3日(日)18時47分50秒
編集済
   大垂水酔鳥 さま
 ご投稿内容を確認後、何か良い資料がないか手元の資料を探していたところ、陵墓供養塔に関する事項が少しながら有りましたので、ご紹介させていただきます。
 現在、宮内庁が管理する陵墓のうち、髪歯爪塔及びその他にあたるものは合計68基ありますが、その内訳は髪塔21基、歯塔1基、爪塔1基、髪爪塔23基、髪歯塔4基、天皇皇族塔11基、皇族分骨塔3基、殯斂地2基、白鳥陵2基です。
陵墓管理の基本法規である大正15年10月21日に制定された「皇室陵墓令」(皇室令第12号)で陵墓と準陵墓の適用範囲が定められたことから、制定前に駆け込みで火葬塚や分骨所が決定されたことは既にご存知のことと思います。「皇室陵墓令」や「皇室陵墓令施行規則」(同日宮内省令第8号)には、陵墓参考地や髪歯爪塔その他に関する条文はありませんが、制定前に諸陵寮が管理していた陵墓や陵墓地は陵墓令の適用となりました。そのため、「皇室陵墓令」施行後に制作された「陵墓地形図」には、他の陵墓と共に髪歯爪塔等が記載されています。
「皇室陵墓令」は他の皇室令と共に昭和22年に廃止されましたが、これに代わる法規が無いことから、現在も従前の取扱いが適用されています。
 髪歯爪塔及び塚や天皇皇族塔においては、主に高野山の仙陵や門跡寺院墓地内に存在していますが、昭和44年に制定された「陵籍墓籍規程」(宮内庁訓令第6号)によれば、陵墓地形図、陵墓見取図には、陵墓及びその附属物の形状を表示しなければならないとされていることから、不明な供養塔以外は昭和49年版の「陵墓要覧」から地方別陵墓表に記載されています。
 また今後、仮に寺院敷地内等において陵墓等が判明しても、戦前と違い皇室財産として陵墓地の買上げ等により拡大が望めないことから、現在の管理地以外に陵墓が決定されることは無いと思いますし、現在の陵墓管理地内で御方の判明した供養塔があれば、陵墓数に計上され地方別陵墓表に記載されていくことと思います。

・陵墓要覧について
 陵墓要覧の昭和49年版、平成5年版は、近畿地方でも閲覧出来るところがあります。奈良市の平城宮跡西隣にある奈良文化財研究所です。公立図書館と違い歴史研究の施設であり、受付で来館目的や調査内容等を書面で提出しなくてはなりません。図書室で閲覧することになりますが、書籍は全て書庫にあるため、事前に請求番号等を調べていかなくてはなりません。しかし、近鉄の大和西大寺駅の近くにあるので、東京へ出掛けるよりは便利です。

・高野山仙陵内の供養塔について
 宮内庁書陵部発行『書陵部紀要』第63号における平成22年度陵墓関係調査報告の中で仙陵内の天皇皇族供養塔の写真測量図の作成が報告されているのですが、四十七方供養塔の調査内容が記載されています。
 四十七方供養塔(円丘、宝篋印塔)については、過去に投稿で紹介していますが、安永9年(1780年)に建立された後陽成天皇以来宮方47お方の御宝塔です。当然のことながら、後世に建立された合葬の供養塔のため「陵墓要覧」に記載されていません。

 今後とも、よろしくお願いいたします。
 

石槨

 投稿者:DADA  投稿日:2016年 4月 3日(日)15時27分28秒
編集済
  こんにちは。

先日、伏見区の仏国寺を訪ねました。
以前から石棺があるということで、事前に調べた資料をもとに傍の空地に行きました。

敷地内にはそれらしいものがなく、
木材等の置かれている隣に、枯れ木などの山があり、もしかしてこの中に・・・、と思い、
あきらめてお寺の境内を参拝しました。

すると、鐘楼の南に、写真によくあるあの石槨が、丁重に置かれていました。
きちんと保管していただいているようで、
上部にある「丸穴」も石を置いて雨水などが入らないようにしてありました。

すでに皆様ご存知のことかもしれませんが、ご報告いたします。

> レプトン 様
ご教示いただきありがとうございます。
遺跡地図、大変参考になりました。こういう資料があるのですね。
なかなか行く機会がないのですが、折を見てまた訪問したいと思います。
今日は神武天皇祭ですね。一般人は参拝できないようで、ちょっと残念です。

※追記※
> 大垂水酔鳥 様
仏国寺にあるのは「石槨」とされているようですね。失礼いたしました。
古御香宮にも参拝いたしました。
例の敷石?は、拝殿の前にあり、変わらず踏まれ続けているようです。
たしかに、あれだけのサイズの石が拝殿の前にあるのは違和感がありますし、
神社全体はこぎれいには整備されているようですが、
石の歴史的価値は意義については注目されていないのかもしれません。
 

平川

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年 4月 3日(日)02時34分5秒
  早いもので4月になり東京の桜も満開ですが、変な宗教に入っていませんか?

今回の性源院に関する皆さまの考察、わたしの知らないことばかりで大変、参考になりました。
更なる情報と考察に期待しております。


さて、先週の日曜に谷中霊園の徳川慶喜公爵家と田安徳川家の墓所を参拝してきました。
慶喜公の墓所へは時々、お参りに行ってはいるのですが、墓域内に入るのは5年ぶりぐらいになるでしょうか。
ただ、相変わらず慶喜公の墓所を見学に来た人々に話しかけては、知識をひけらかす変なおやじはいるし・・・

慶喜公嗣子慶久公爵と同室実枝子女王の墓所は、墓域の右隅に位置しているため墓域内に入らないと正面から参拝することができなかったので久々のご参拝になりました。

有栖川宮威仁親王王女・実枝子女王墓の墓標の碑銘は下記の通りです。

正面)德川實枝子之墓
裏面)昭和八年四月二十五日薨


昨日は、各所の桜めぐりツーリングをしてきましたが、何と雑司ヶ谷霊園では無縁撤去札が3年程前から出ていた公卿の阿野子爵家墓所が廃棄され更地になっていました。

こうなると、谷中霊園の墓所も危機?
澤伯爵家の墓所が未だに改葬されないでいたので、やや安心していたのですが、まさか、こんなに早く無縁処理されるなんて(涙)
昨年の10月に現存を確認しているので、その後ということになります。


続いて染井霊園の桜を見学に行き、またまた唖然。
九鬼隆一男爵家の墓所が、更に水戸徳川家の墓所も更地になっていました。

近くにいた石屋さんに聞いてみると、違う石屋さんの仕事だけど、徳川家の墓所は瑞龍山へ改葬したとのことでしたが、九鬼男爵家は知らないとのことで無縁廃棄されたみたいです。
昨年の夏には現存を確認しているので改葬、及び廃棄は、その後ということになります。

また、酒井忠積男爵家墓所の入り口にも無縁札があり、この分だとここも現存するのは、あと数年で無縁廃棄処分は免れないでしょう(涙)

4家とも正確な記録を採っているものの、こう立て続けに華族家の墓所が廃棄されるのは、いたたまれません。

特に水戸徳川家は、有栖川宮との血縁が濃い家だけに今までの様に気軽に参拝できなくなったのは残念なことです。
 

神武天皇二千六百年式年祭

 投稿者:レプトン  投稿日:2016年 3月31日(木)06時26分22秒
編集済
  こんにちは。
4月3日に神武天皇2600年式年祭が行われます。
両陛下と秋篠宮ご夫妻がいらっしゃるそうです。(翌日は高松塚古墳に行かれるそうです。)
神武天皇陵では幕やテントなど、式年祭の準備が進められていました。(幕屋テントなどの設営は)入札で決まった業者が請け負っているようです。また、奥の鳥居が新しくなっていました。

当日の式年祭は一般は見学はできないようです。終了後の12時くらいからは一般も参拝できるようです。
神武陵の前の交差点に制服姿の男性が立っておられましたが、宮内庁関係の方?皇宮警察の方?でしょうか。

ドローン禁止の看板もありました。

隣の橿原神宮でもこの前後の期間、コンサートなどいろいろな行事があるようです。


DADA様
 こんにちは。私もかつて黄金塚陵墓参考地周辺を歩き回りましたがやはりわかりませんでした。
平成10年改定の奈良県遺跡地図には該当する古墳名は載っていません。
地図には黄金塚の東の田中古墳より20m程度東に古墳?と記載されている所があります。
地図では建物があり、その建物のために破壊されているような印象を受けます。これが焼ケ跡塚古墳かもしれません。さらにその東の奈良市と天理市指境界線付近に2基古墳があります。
黄金塚より当方1.5km程度には高樋町舎人という地名があり、そこの尾根上に4基の円墳、同じく高樋町舎人の別の尾根上に横穴式石室6つを含む10数基の円墳があります。
地図の写真76の■が黄金塚、77の●が田中古墳、78の○が古墳?と記載されている所です。建物に重なっています。26の■の方墳がシズカ塚古墳です。(ページのつなぎ目で26が36に見えます。)



森下塚古墳やシズカ塚古墳は奈良県遺跡地図にも載っていますが、他の古墳は同書にはありません。奈良市史や同所の村史なども調べてみてわかればまたお知らせいたします。

神武天皇陵にも行かれたのですね。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月26日(土)12時09分52秒
編集済
  たけちゃん さま

陵墓要覧での了山・遍照2墓等の記載内容その他についてご教示感謝です。
以下は、質問ではなく単なる感想です。(汗;;)

陵墓要覧の昭和49年、平成5年版を入手?されたのは国会図書館ですよね? 何でご当地の近畿の府県立図書館などに配本してくれないんだろう?

私が初めて陵墓要覧を見たのは高校1年の時で愛知県立図書館でした。愛知に古い版が配本されたのなら、京都・大阪・奈良にはきっと最新版が配本されていると考え、陵墓巡りの貴重な時間を削って府県立図書館を訪ねたものの昭和31年までしかなく、いたく失望したことを今でも覚えています。
その後、昭和49年版の転載と思われる「陵墓一覧」が「歴史読本」に掲載され、陵墓地形図集成が出版され、陵墓要覧への関心を失っておりました。
が、しかし、陵墓要覧の記載内容は改訂版が出る度に充実?しているようですね。
陵墓地形図集成を古墳以外を含む全陵墓で出版し、更に縮小版を出す勇気があるのなら、陵墓要覧平成23年版も販売して欲しいと思うのは私だけでしょうか。

了山・遍照2墓とも陵墓に準ずるとして治定解除されず、宮内庁の管理が継続しているとのことで、安心?とともにマスマス興味シンシンです。(笑;)
治定解除されたとかの記述を何度か目にしたものの、その典拠が見当たらず、長年に渡りイライラしておりました。(笑;;)
陵墓に準ずるが陵墓参考地とも違う存在って‥‥、これまた陵墓治定のアキレス腱になりそうですね。

文察女王の墓・塔の治定チェンジの件、初耳です。ご教示感謝です。

大名家や僧侶に複数の墓が存在するというのは珍しくないので、敢えて本墓の治定に拘るというのに私は違和感を感じています。
複数の墓のうち実際に葬儀を行ったのは一か所だけとかなら本墓として歴然としていますが、火葬後分骨し、複数の寺で葬儀・埋葬を行った場合などがあるのであれば、両方とも本墓で良いと個人的に思ったりもします。
宮内庁にとって墓とは唯一の「治定墓」であり、他の墓を「塔」として区別する何か特別な意味があるのか? そして昭和49年版から「塔」が掲載され始めた理由が何なのか興味深いです。

史料の発見とかで「塔」の由来?が判明し「分骨塔」「髪爪塔」などに昇格?するなんてことも、今後はあるんでしょうかね?
一方で、「塔」の墓としての根拠が脆弱なために治定外となっているケースもあるのかな? 遺骨・歯髪爪など身体の一部ではない遺品の埋納ではNGとか、後世に建てられた追悼墓はNGとか。
供養塔ってぶっちゃけ「墓形の記念碑」的なものが多数含まれますよね。どこで線引きしてるんだ、宮内庁!(笑;;;)

 

寺院内陵墓あれこれ

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2016年 3月26日(土)00時50分46秒
編集済
  大垂水酔鳥 さま
 いつも陵墓に関する様々な投稿内容を楽しみに見させていただいています。
 お問い合わせの内容と少し相違するかも知れませんが、過去に調査した内容をご紹介させていただきます。

・性源院墓について
 詳細は分かりませんが、過去に調査した走り書きの中に性源院に関する事項が出てきました。
 京都府立総合資料館所蔵の『府庁文書』の中の「御陵墓明細帳」だと思うのですが、元禄3年7月20日薨 葬儀は浄華院45世天譽和尚が御導師として実施され、御廟有り また、尊牌無御座とあります。資料には同じ天皇なのに霊元帝、仙洞様、法皇様と使い分けてあったのを思い出しました。

・三時知恩寺了山墓について
 明治7年(1871年)8月3日付太政官達「陵墓掌丁の設置、寺院境内ノ御陵墓取調」を受け京都府でも寺院内の実地検査が実施されました。各寺院から由緒書や口上書などの調査内容が同年10月に提出されたことは、過去の投稿内容等でご存知かと思います。
 『幕末・明治期の陵墓』外池昇著によると、明治8年(1872年)1月7日付教部省達「陵墓掌丁置否の区別」では、陵墓の中で法親王を始めとする墓の管理について別に「区別書」が達せられ内容は、法親王並びに法師の皇子御墓、落飾の皇女御墓には墓丁を置き、四親王家の親王並びに降嫁の皇女御墓、四親王家出身の門跡で天皇御猶子御墓、臣籍降下の皇子御墓には墓丁は置かないとあるようです。(上記書籍の頁193に詳細が記載されています。)
 京都府は、寺院からの取調や実地検査を踏まえ教部省に回答伺い、称光天皇皇女の御墓として明治8年11月に決定されました。
 蛇足な情報ですが、光照院宮墓地内にある文察女王塔は、明治8年11月に陵墓として一旦決定されましたが、再調査の結果、御本墓で無いとされ、明治9年(1873年)2月2日に供養塔に変更され陵墓から解除されました。奈良市内の円照寺宮墓地の本墓は、京都の御墓解除を受け明治9年2月8日付で治定されています。一旦解除された供養塔ですが、明治34年(1901年)4月9日付の諸陵寮御髪爪塔主管を受け、宮内省による管理が復帰しました。

・遍照僧正墓について
 上記の『幕末・明治期の陵墓』外池昇著によると、明治13年(1880年)11月「古墳に関する具申、五世以上諸王墳墓取調ノ件」には、五世以上の諸王で祭祀をする子孫が連綿としない場合には、賜姓・親王宣下を問わずに墓に準じて宮内省が管理を行う方針が出され、また沖縄県を除く府県に発出された明治14年(1881年)1月19日付宮内省達乙第1号「子孫ナキ諸王ノ墳墓取調方」には「古来諸王ニテ奉祀ノ子孫ノナイ方々(賜姓又ハ親王宣下ノ有無に拘ラス)墳墓ハ、自今惣テ 皇子御墓ニ準シ取扱候条・・後略」とあり、賜姓の皇子御墓も陵墓に準ずるとして、明治16年(1883年)10月26日付けで北花山にある遍照塚を桓武天皇皇孫の御墓として決定しました。(上記図書の頁209に詳細が記載されています。)

 2墓は、宮内省諸陵寮発行『陵墓一覧』(明治34年4月発行)までは、他の陵墓と一緒に記載されているので、管理は同じようにされていたのだと思います。『陵墓要覧』(大正4年12月発行)から記載方法が変わることから、その間に管理方法が変更されたのだと思います。
 最終的に結論は、了山墓・遍照墓共に陵墓に準ずるとして、陵墓の治定解除は現在までなされず、宮内庁が管理を行っています。ただし、他の陵墓と違い正辰祭などの祭祀は実施されていないようです。

・2墓等の陵墓要覧での記載内容について
 明治期に発行された宮内省諸陵寮発行『陵墓一覧』(明治30年7月発行)、『陵墓一覧』(明治34年4月発行)共に皇孫墓、皇女墓として記載されています。
 『陵墓一覧』(明治30年7月発行)は、歴代順陵墓表のみで地方別陵墓表はありません。陵墓の最後に陵墓伝説地と陵墓参考地が列記されています。『陵墓一覧』(明治34年4月発行)は府県別に記載されて、近畿地方の陵墓は甲・乙・丙・・と5分割されています。

 その後、発行されました『陵墓要覧』での地域別陵墓表の記載内容を補足追加させていただきましたので、よろしくお願いいたします。

了山墓   本文記載なし
 大正 4年 「了山墓地」但し華開院の治定墓に連記されず、「北山部」の末尾に記載
 昭和 9年 ※未掲載
 昭和31年 「了山墓」華開院の治定墓とは別枠で連記
 昭和49年 「了山墓」華開院の治定墓とは別枠で連記
 平成 5年 「了山墓」華開院の治定墓とは別枠で連記

遍照墓   本文記載なし
 大正 4年 「遍照墓地」但し「山科部」の末尾に「御陵墓傳説地」に続いて記載
 昭和 9年 ※未掲載
 昭和31年 「遍照墓」(輪王寺宮墓地・小野陵の間に記載)
 昭和49年 「遍照墓」(天智天皇陵・六条天皇陵の間に記載)
 平成 5年 「遍照墓」(天智天皇陵・小野陵の間に記載、山科部最終行)

陵墓参考地 本文記載なし
 大正 4年 「御陵墓傳説地」 各部の末尾にまとめて記載。陵墓名なし。
  昭和 9年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述
  昭和31年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述
  昭和49年 「○○陵墓参考地」他の陵墓と同列に記述
  平成 5年 「○○陵墓参考地」他の陵墓と同列に記述
 ※要覧付録に陵墓参考地一覧有り

天皇皇族供養塔  昭和31年まで歴代別・地方別とも記載なし
  昭和49年 「○○天皇塔、△△女王塔など」他の陵墓と同列に記述
  平成 5年 「○○天皇塔、△△女王塔など」他の陵墓と同列に記述
 ※要覧付録に髪歯爪塔塚・皇族分骨塔一覧表有り

  ※蛇足な情報ですが、書陵部職員の採用等により平成5年3月改定版の在庫が無くなった ことから、書陵部では、平成の市町村合併による所在地の現行化に併せ第6版として平成23年改定版が800部印刷されています。平成23年版は、国立国会図書館で閲覧可能です。

 今後とも、よろしくお願いいたします。
 

性源院宮墓

 投稿者:日誌要員メール  投稿日:2016年 3月23日(水)11時35分2秒
  ご無沙汰しております。清浄華院の日誌要員でございます。

性源院宮様が話題となっているときいて飛んで来ましたw

結構各所史料に出ているのですね。皆さまのお話しをまとめると、

鷹司房輔と家女房の娘。新大納言局(藤谷為条娘)を母として霊元天皇の養子となり、門跡寺院である円照寺文智女王の弟子となった。元禄3年7月21日5歳で薨去。

 ってな所でいいんでしょうか。当院の記録にある母が「御母高松局、藤谷家也」という記述とも一致します。皇子となっていますが、尼門跡である円照寺へ入っているところを見ると、女性だったのでしょう。
 どういう訳か京都にいて、臨終には文智女王の名代として一乗院宮が上洛した、というところも面白いですね。

 以前性源院さんについて書陵部に問い合わせましたところ、鷹司家と関係があり、同家より返答をもらった上で治定外としたようだ、というような御返事でした。明治十四年治定除外ということもご教授いただきましたので、日鑑の方も見てみたいと思います。

 しかし、つい最近、円照寺門跡に伝わる華道・山村御流の華道教室が当院を会場に行われておりまして・・・何やらご縁を感じた次第です。
 
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月22日(火)11時00分43秒
  たけちゃん  さま、諸資料の記述のご紹介有難うございます。

大塚実忠編「史料紹介 比丘尼御所歴代(四)」には「了山聖智椿性 足利義教女 葬華開院 土葬」との記述があると、私のノートに記述があり(笑;;)、華開院の移転とともに改葬を繰り返してきたということになりますね。

華開院墓地については、治定墓以外にも室町戦国時代の尼門跡の皇女・王女の墓があるはずなので、私も十数年来?詮索していますが、調べても出てきませんね。明治初期に改葬の対象外とされたのか、明治初期の時点で既に墓所不明・被葬者不明となっており治定もれされたのか‥

ところで、蒸し返しで恐縮なのですが、結局のところ、了山・遍照の2墓の扱いって、どうなんでしょうね。治定解除の年月日の記録ってありますか?

私がコピーを取った下記3種の陵墓要覧では、2墓とも歴代別では掲載されず、地方別での扱いにはブレがあります。
大正4年では、2墓は「御陵墓傳説地」とともに本文ではなく付記?のような扱い。
昭和9年では、2墓は表自体から削除※。一方の陵墓参考地は本文と同列に扱われ、付記?は消滅。
昭和31年では、2墓も陵墓参考地と同様に本文と同列の扱い。
このブレは2墓の扱いの変化を反映したものなのか、それとも陵墓要覧の編集方針?に起因するもので2墓の扱い云々とは無関係なのか‥

了山

大正4年 「了山墓地」 但し華開院の治定墓に連記されず、「北山部」の末尾に記載
昭和9年 ※未掲載
昭和31年 「了山墓」  華開院の治定墓とは別枠で連記

遍照

大正4年 「遍照墓地」 但し「山科部」の末尾に「御陵墓傳説地」に続いて記載
昭和9年 ※未掲載
昭和31年 「遍照墓」  (輪王寺宮墓地・小野陵の間に記載)

陵墓参考地

大正4年 「御陵墓傳説地」 各部の末尾にまとめて記載。陵墓名なし。
昭和9年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述
昭和31年 「○○陵墓參考地」他の陵墓と同列に記述

供養塔  昭和31年まで歴代別・地方別とも記載なし

※ 地方別陵墓表とは別の所に掲載されていた記憶があるのですが、何故かそこだけコピーが見当たらず(汗;;)確信が持てません。ご存知の方、ご教示頂けると幸いです。

昭和49年、平成5年の記述をご存じの方、上記に書き足して頂けると幸いです。

陵墓地形図集成では、歴代別・地方別とも未掲載で、遍照については陵墓地形図も掲載されずとても残念です。
一方、華開院墓地については掲載された昭和5年製図の陵墓地形図から興味深い表記があります。

     ○リ      イ 崇賢門院墓
             ロ 通陽門院墓
・・・  ・・・・・・  ハ 尊蓮女王墓
■イ・  ・■■ ■・  ニ 尊英女王墓
■ロ・  ・ヘト チ・  ホ 尊清女王墓
・・・  ・  ・・・  ヘ 尊梁女王墓
  ・・・・  ・    ト 尊杲女王墓
  ・■■ ■□・    チ 尊乗女王墓
  ・ハニ ホヌ・    リ 了山墓
  ・・・・・・・    ヌ 文察女王塔

墓の配置からすれば「ヌ」を「へ」とすべきところですが、これは■墓ではなく□供養塔なので仕方がないとしても、別域の○了山墓の後回しにする必要はないと思うのは私だけでしょうか?
これだと了山墓が文察女王塔よりも格上だと言っているに等しく、昭和5年時点では陵墓参考地に準じる扱いということになりますね。

穿った味方をすれば、宮内庁は2墓を陵墓参考地にしたいけれど、学会や国会から突っ込まれるので、決断できずにいるとか‥
 

寺院内の陵墓について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2016年 3月20日(日)18時23分6秒
   皆さん、こんにちは!大変ご無沙汰しています。
 最近は、陵墓を現地調査する機会は随分と減りましたが、自宅で過去に調査した陵墓資料の整理や皆さま方の当掲示板での投稿内容を楽しみながら細々と陵墓研究を続けています。
 さて先日、久しぶりに妻から時間をもらい京都府立総合資料館へ寺院関係図書を閲覧しに行って来ました。今回は、その調査内容を報告させていただきます。
・清浄華院墓地内の陵墓について
 法然上人800年大遠忌を記念して発行された「法然上人八百年大遠忌記念清浄華院―その歴史と遺宝」(平成23年2月 浄土宗大本山清浄華院発行)には、現存最古の絵図である「本山浄華院惣指図」(元禄境内図、元禄7年(1694年)製作)と「浄華院伽藍図」(幕末境内図)が掲載されています。御墓の様子を見てみると、元禄境内図は伽藍の東側に宮様方御廟所として記載されており、御墓の詳細は分かりませんが、宝永5年(1708年)に幕府から境内の東側御土居敷地を拝領する前の境内の様子が分かります。幕末境内図は、天明の大火(天明8年(1788年))後、再建された伽藍の幕末における境内の様子が記載されています。御墓については、しっかりと詳細が記載されており、宮内庁管理前の様子が分かりました。ちなみに敬法門院藤原宗子墓以下11墓の墓域は現在と同じですが、中が三分割されていて出入口がそれぞれにありました。話は変わりますが、過去に調査した「御陵墓所在書上」における清浄華院が京都府に提出した「皇子様方取調書」明治7年10月には後水尾院皇女秋光院他27御方(近衛家熙公室台岳院墓や性源院墓を含む)が記載されています。当時の清浄華院は無住で常行院住職の藤田宜順が提出したものですが、理由として「先年類焼旧記類焼失市仕不分明 過去帳或ハ残記録等ヲ以テ取調」とあります。清浄華院からの取調べを受けて教部省は、明治8年11月に台岳院墓を除く27御方の御墓を陵墓として治定しました。
明治13年に制作された御陵墓明細帳にも清浄華院 御墓27箇所として記載されています。
最近話題の性源院の御墓についてですが、詳細は分かりませんが、明治14年(1881年)2月24日に治定解除されています。
「法然上人八百年大遠忌記念清浄華院―その歴史と遺宝」によると、清浄華院には焼失したはずの皇室関係の葬送・埋葬関係の古文書がまとまって残っているそうで、しかも整理や調査がされていないようです。今後の調査によっては、新たな発見が期待出来そうです。

・華開院墓地内の陵墓について
 既に皆さま方もご存知のとおり華開院には、通陽門院藤原厳子墓、崇賢門院藤原仲子墓及び了山墓と塀に囲まれた光照院宮墓地が存在します。華開院は建立後何度も移転し、寛文8年(1668年)現在地に落ち着きました。御墓も同じく移転してきたのでしょうか。移設と言えば、般舟院陵や相国寺の伏見宮墓地を思い浮かべますが、同じように実埋不詳の御墓なのでしょうか。華開院を紹介したサイトによれば、明治期以降に光照院や三時知恩寺などの尼門跡から御墓が移設されてきたとあります。また、明治の廃仏毀釈の影響で宝鏡寺と合併した大慈院墓地から上記お二方の女院御墓が移設されてきたとあります。移設してきたのであれば、いつ移設されてきて、どうして華開院に決まったのか疑問は深まるばかりです。いろいろと書籍を閲覧しましたが、詳細は分かりませんでした。
 ちなみに、華開院の御墓は、国立公文書館所蔵の「陵墓録」や宮内庁書陵部所蔵「御陵墓府県分帳」によると女院御墓は、明治7年9月に陵墓治定されており、光照院墓墓地は明治8年11月に治定されています。
 今後とも、よろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月18日(金)12時37分32秒
編集済
  煌子さま、三度目の追記に感謝多謝です。私にとって、ちょっとかなりたいへん大いに驚愕の記録で驚きです。

私は、非皇族が皇族の養子・猶子となっている記述をたまに目にしますが、極めて懐疑的に見ています。特に天皇では。
更に一歩踏み込んで言えば、皇族が非皇族を養子にする場合、将来の家督相続の可能性を考慮して、自ら臣籍降下した上で養子縁組を執り行うなどの不文律があったのではないかと考えています。

なので、性源院が(霊元天皇ではなく)新大納言局の養子という、これまでの内容にシンパシーを感じます。(笑;) 当時の皇室は「喝食御所」たる性源院の扱いに苦慮したんだろうな‥と。

さて、ご紹介の〔基熈公記〕の記述ですが、性源院が霊元天皇の猶子だという厳然たる事実の証拠なのか、俄かには信じがたい気分です。
あるいは近衛基熈が勝手に「天皇の猶子だと認識?勘違い?していた」のか、あるいは「天皇の猶子に準する扱いということにして入寺させたという内々の事情を端折って書いた」だけなのか‥

[○中略]の部分に何か重要なことが書かれていないか、確かめる必要があるのかもしれませんね。

一方で、逆のパターン、つまり非皇族が皇族を養子などにする例がいくらでもある以上、皇族は非皇族を養子や猶子にしないと確信をもって断言できません。
あるいは、男系の異質の血が皇族に混入しない一代限り‥などの暗黙の了解で、皇族が非皇族を養子などにするのを僧侶や女性などに限って認めていたのかなあ???

私の悩みは尽きない‥(笑;;;;)


以下、蛇足です。いつもの憶測・妄想の類です。(汗;;)
皇胤伝承をもつ僧侶の墓は全国にあります。これも遅々として進まない私の「ライフワーク」です。
当初は僧侶自身が皇胤を自称していたと思っていたのですがそうではなく、大半が後代の住職などによる開山・開基・中興の上人の神格化だと考えて間違いなさそうです。
室町戦国時代の天皇が、収入獲得の為に「勅願寺」認定を乱発した。そのことで寺に箔がつき一時的に繁盛?し時の住職は「中興上人」などと呼ばれた。寺が衰退し当時の事情を知る者がいなくなった頃、中興上人と皇室との関係を何やら特殊な神秘的なものと誤解した後代の住職などによって、高僧として天皇が師事したとか天皇の養子になったとか勅願寺に関する付会が行われた。その後更に尾ひれがついて、天皇のご落胤を寺に受け入れる見返りに住職就任に際して勅願寺認定を約束した、ハイ皇胤伝承一丁あがり!(笑;;)

宮内庁は、全国にある皇胤伝承をもつ僧侶の出自の真贋?をどのように判定したのか、治定されたごくごく少数の墓の治定根拠は何か、はたまた治定解除に至る経過は如何、などなどを記録した文書を公開せよ!!(笑;;;;;;)

 

性源院について、三度目の追記

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 3月18日(金)01時41分25秒
  『後水尾天皇実録』、皇子女の部分を読み終わりましたが、性源院について、別の記述を見つけましたので皆さまにお知らせいたします。

皇子眞敬親王の項、元禄3年7月20日の条に「奈良ヨリ上洛シ、參院ス、圓照寺喝食御所ノ病危急ニ依リテナリ、」とありました。

〔无上法院殿御日記〕
元禄三年七月廿日己酉、はるゝ、内府ちらとまいらるゝ、一門御上らくなり、これは御かつじき御わづらいさんざんゆへゑんせう寺殿御名代に何か御きも入、仙洞よりの御用も有べきかとのために也、院參の後こゝもとへもなる、やうとく院殿ついにかくれ給ふ、申刻程也、(略)

〔基熈公記〕
元禄三年七月廿一日庚申戌、天陰微雨、時々見日、未刻之後雨頻下、喝食御所[五歳] 昨夜事切云々、抑此喝食者爲圓照寺宮弟子、[世人称喝食御所] 前関白姫君、爲仙洞御猶子、[○中略] 一乗院宮従南都上洛、有来臨言談、

([]内は小文字です)

无上法院は後水尾天皇皇女品宮常子内親王のことであり、夫は近衛基熈公、この年、元禄三年正月に関白に就任しました。
その上、品宮は霊元天皇の同母姉であり、『御湯殿の上の日記』に名前が頻出しています。
その基熈公が、「前の関白の姫君を霊元上皇が猶子にされた」と書いているんです。
ちなみに前関白とは、近衛基熈公の前が一条冬経公、その前が鷹司房輔公になります。
いかがでしょうか。

皆様、今後ともよろしくお願いいたします。
 

奈良市・橿原市の伝承地

 投稿者:DADA  投稿日:2016年 3月17日(木)13時43分42秒
  少しずつ暖かくなってきました。

ここ数ヶ月、こちらの掲示板の過去ログをひととおり拝見いたしました。
皆様がご提供くださっている情報をもとに、少しずつ参りたいと考えています。

さて先日、奈良市および橿原市の陵墓伝承地を見てきましたので御報告です。

橿原市については、
神武天皇陵を皮切りに、イトクの森古墳(池田神社)、花園神社古墳を訪問しました。
花園神社には、小さな祠がありましたが、古墳らしき痕跡は見つけられませんでした。

また、2006年12月22日ぽん様ご投稿の情報にもとづいて、華厳寺山古墳を訪ねて見ました。
記事にあります中学校に行ったところ、その西隣に竹林の小山がありました。
(たんなる自然丘かもしれず、すでに皆様で古墳の位置は特定されているかもしれませんが・・・。)

神武天皇陵は、神武天皇祭を控えているためか、奥の木扉が真新しくなっていました。

旧洞村にあった生玉神社の痕跡も確認できました。
以前ご指摘いただいたとおり、丸山の東に位置しています。

奈良市内については、黄金塚陵墓参考地とその周辺を訪ねました。
2010年12月1日および2011年3月8日にぽん様がまとめてくださった各伝承地の記事を参考に回りました。
このうち、上記の参考地のほか、

・田中古墳
・シズカ塚古墳
・森下塚古墳
については確認することができましたが、

・焼ケ跡塚古墳
・中ゴウ谷古墳
・寶塚古墳
・鑵子塚(貴人墓)古墳
については、周辺を歩き回りましたが確認できませんでした。
それらしい場所はいくつもあるのですが、もし詳しい位置についてご存知の方いらっしゃいましたら、
ご教示願いますでしょうか。

ちなみに、黄金塚陵墓参考地の周辺は巨大な竹林が広がっていて、少し不気味でした・・・。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2016年 3月 5日(土)18時48分38秒
編集済
  ★追記★しました

煌子 さま、性源院に関する史料のご紹介有難うございます。

鷹司房輔の娘で圓照寺付弟(女性)の性源院と清浄華院墓地に治定外墓がある霊元天皇皇子性源院。同一人物っぽいけど、だとしたら何で圓照寺付弟(女性)が清浄華院に葬られて男になっているんでしょうね。

更に詳しい事情はありませんが、門跡寺院に関しては私のライフワークなので、久しぶりに憶測・妄想を書き連ねます。お手隙の際にご笑覧くださいませ。

江戸時代の尼門跡の歴代を確認すると、圓照寺と同様に全て皇族という例が他にもありますが、皇女・王女と摂関家などの息女が混在する例が多いです。つまり、鷹司房輔の娘の性源院は尼門跡の継承者として申し分のない出自です。ところが‥

圓照寺門跡の場合、初代文智女王から明治初期の6世文秀女王に至るまで、全て皇女・王女によって継承されています。
途中、2度の中絶?無住?の際も、皇女である瑞光女王(慈受院)と永皎女王(大聖寺)の兼帯という形で継承されます。
更に、性源院と同様に文智女王の付弟となるも、門跡を継承する前に薨去した文察女王も文智女王の異母妹すなわち皇女です。

霊鑑寺門跡の場合でも、1・2世が皇女、3~5世が王女なのですが、3人の王女は何故か「天皇の養子」として入寺しています。宮家の王女ですらダメで、皇女による継承という強いコダワリがあり、天皇の養子という形で「皇女という体裁」を整えたと愚考します。

圓照寺門跡の場合、兼帯を含め皇女・王女が混在しますが、全て皇族という事実は、意図せず結果としてそうなったのか、或いは初代文智女王の時代から意図して皇族による継承に拘ったのか判然としませんが、私は「皇族による継承」の強い意志のようなものを感じます。
つまり、文智女王の時代、2世候補者の性源院は「鷹司房輔女子」ではダメで、「皇族という体裁」を整える必要があった。しかし、宮家の王女ですらない性源院を公に「天皇の養子」とすることはできないと考慮され、その代替として「霊元天皇と新大納言局」夫婦の養子ではなく霊元院新大納言局「個人の養子」という形で折り合いを着けた‥

う~ん、ちょっと苦しいかな‥‥
ご紹介の史料も、私は「霊元上皇が新大納言局の養子として付弟にした」「寛文上皇(の女房の)新大納言局の養子」と読みましたが、「霊元天皇・新大納言局(夫妻)の養子」と意訳できない訳でもなさそうだし‥‥


清浄華院の性源院の墓が治定から外れた理由は、いったん治定されたものの文献調査などで、圓照寺付弟(女性)の性源院と同一人物だと判断され、鷹司房輔の娘=「皇族ではない」と認定されたためだと思います。入寺し数年で早世した幼児の付弟の出自をあとあとから蒸し返す者などなく、葬られた清浄華院でも経歴が詮索されないまま江戸時代を通じて皇族としての祭祀が続けられていたものと愚考します。明治初期の陵墓探査でも清浄華院での祭祀そのままでいったん治定されたのでしょう。

治定解除かどうか判然としませんが、華開院墓地の「(三時知恩寺)了山」のケースとある意味似通っていますね。「了山」は称光天皇皇女としていったん治定されましたが、学問的な疑問を踏まえ現在は保留扱い?みたいになっているようです。

皇胤伝承をもつ僧侶の墓は全国にありますが、当時の宮内省はそれらの真贋?をどのように判定したのか、審査経過を記録した文書を是非とも公開してほしいですね。ハイハイ、震災で焼けたんでしたね!!


あと、霊元院新大納言局にはもう一人の養子である道仁法親王がいます。道仁法親王は伏見宮貞致親王の王子で、「霊元天皇と新大納言局」夫婦の養子とされて梶井門跡(三千院)に入寺します。
天皇の養子となった宮家の王子は多数いますが、養母が指定されている例は半分くらいです。養母の指定の有無が何に起因するのかは判然としません。

蛇足ですが、皇子女の生母となれなかった天皇の寵姫が皇族を養子を迎える例も他にもあります。

★追記★

煌子 さま、コメント有難うございます。

門跡寺院に関しては、実のところライフワークというよりは、判らないことがあまりにも多すぎて遅々として進まないというのが私の実態です。

男の方はまだマシなのですが、尼門跡については、室町・戦国期の歴代を確定することすら困難な寺院もありますね。私としては歴代の名簿・経歴をさっさと確定して墓所・供養塔を探す方に専念したいのですが‥
歴代については「史料紹介 比丘尼御所歴代」を底本?として使用しておりますが、全ての尼門跡が網羅されている訳ではないので残念です。

ところで、うっかりしていましたが、性源院が鷹司房輔の娘なら、文智女王の義理の孫ですよね。とすれば‥
文智女王が義理の孫を後継者に指名したが、横槍が入って「皇族という体裁」を整える必要に迫られた。
離縁した夫(鷹司教平)の孫が後継者として指名されたことを文智女王が嫌悪し拒否したので、霊元天皇が「皇族という体裁」を整えてゴリ押しした。
う~ん、妄想はどんどんエスカレートします。

光照院附弟の後西天皇皇女満宮が文智女王の附弟だったというのは私特製の「名簿・経歴データ」(汗;;)にはなく驚きました。記載モレかしらん。ご教示感謝です。
光照院から尊賀(尊慶?のち文察)女王を引っこ抜いた際のトレードにされたとか? 時系列を確認していないので、これまた憶測です。

養母の指定の有無の件ですが、尊統法親王は系譜やものの本によって霊元天皇の養子・猶子と記述が錯綜しています。ただ、猶子と記述された方には養母の記述もないようなので、「御猶子は御母儀はない」という不文律?は確かにあったのかもしれません。
あるいは、系譜を編纂した際に不文律?を事後的に遡って適用したため、養子・猶子の記述の錯綜を招いたのかもしれませんね。

三時知恩寺は本当に厄介です。
寺伝では、了山(称光天皇皇女) 松山椿性(後土御門天皇皇女)
「史料紹介 比丘尼御所歴代」では、了山聖智椿性(足利義教女) 松山聖槃(足利義尚女)と特定?
椿性という号?は誰のもの?
 

「性源院」について

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 3月 3日(木)16時42分35秒
編集済
  【2016.3.12追記】→更に追記しました

皆様、お久し振りでございます。
まだまだ寒い日もありますが、少しずつ春めいてきたように感じます。

私事ではありますが、弊サイトのほう、かたや、南北朝時代の天皇方、かたや、江戸時代に唯一残っている後水尾天皇を、と調べものに精を出しておりますが。
その最中に、2010年秋頃に陵墓陵印掲示板で話題に上がりました「性源院」についての記事を見つけましたのでお知らせいたします。

「性源院」についての過去記事については、2010年9月22日のはにわ様の「治定外墓「霊元天皇皇子性源院墓」が、京都市上京区清浄華院墓地にある」というご報告、それに対しての大垂水酔鳥さまの「鷹司房輔女子」説のご紹介、2011年6月23日の日誌要員さまのブログご紹介により、治定から外れたのはどうしてか等いくつかの謎が宿題となっていました。

今回発見しましたのは、『後水尾天皇実録』皇女文智の項にありました貞享4年の記事です。


是年、霊元上皇、前関白鷹司房輔ノ女ヲ新大納言局ノ養子トシテ附弟ト爲ラル、
 〔普門山年譜〕
  貞享四年丁卯、
  文智公主六十九歳の御時、鷹司前関白房輔公の女寛文上皇新大納言局の御養子として當寺御附弟に定り給ふ、于時二歳御喝食御所と称す、

   〔参考〕
 〔普門山年譜〕
  元禄三年庚午、
  文智公主七十二歳の秋、七月、御附弟の御喝食御所薨去、于時五歳、性源院と称す、


これによりますと、前関白鷹司房輔の女を霊元上皇女房の新大納言局の養子にして、文智女王の御附弟とさせた、ということになります。
文智女王の御附弟になったのが二歳、薨去が五歳の時と書かれていますので、性源院は貞享3年(1686)に誕生したことになります。
これにより、治定から外れた理由も想像がつくと思います。
清浄華院に葬られたのは、得度もしていない幼さからだったのでしょうか。

ところで、『兼輝公記』に「此人雖御寵愛依無子如此」と書かれた「新大納言局」が何故、性源院を養子とすることになったのでしょう。
新大納言局の祖父・藤谷為賢の姉妹(大政院)が鷹司教平の妾妻となり、多くの子を産み、性源院が大政院の孫であった縁ではないかと思われます。

新たに判明したことにより、更に詳しい事情をご存知でしたらどうぞご教示くださいませ。
皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

【追記】
大垂水酔鳥さま、お久し振りでございます。
性源院に関する論証をありがとうございます。
いつもながら興味深く読ませていただきました。

尼門跡寺院については主体が女性なので、私のほうのライフワークでもありますが、治定となった皇女・王女について漏れがあったことが今回判明しましたので、この記事は私にとっても幸いしました。

ところでこの時、鷹司房輔女(性源院)が附弟とならざるを得ない状況(皇女不足?)だったのでしょうか。
また、2世候補は他にも存在していたようですが、一旦は文智女王の附弟と定まった後西天皇皇女の満宮が光照院の附弟に治定変更となった理由も知りたいものです。

養母の指定の有無については、このような文章をみつけました。
『皇室制度史料 皇族一』第三節 皇族と養子 第一章 解説 の、〔勢多章甫筆記〕に、四親王は御猶子で、門跡は御養子、御養子は御母儀を定めて、御猶子は御母儀はない、と書かれています。
でも、常にこの通りにはなってはいませんし、その時の事情次第なのでしょうか。

霊元院新大納言局は、道仁法親王の他に尊統法親王(有栖川宮幸仁親王王子)を養子としています。

今回お話に出ました「了山尼」について、たけちゃん様が2006年5月10日の投稿でこのように書かれています。
「三時知恩寺了山については、称光天皇皇女・後花園天皇皇女等諸説があるようですが、多くの歴史関係図書を調査しても明確な答えが見つからないために、平成8年の秋頃、宮内庁書陵部陵墓課陵墓管理係へ「何故皇族で無い方の御墓の管理を行われているのか」と電話で問い合わせを行いました。係官の回答によると「明治期に、了山は門跡寺院の門主だったことから誤って治定が行われたようです。了山は室町期の天皇の皇女等諸説あるようですが、室町幕府8代将軍足利義政にゆかりのある方(例えば養女など)です。」とありました。」

どういう史料だったのだろうと思っていましたが、『十輪院内府記』(内大臣中院通秀の日記)、文明十四年九月三日の項にこう書かれているのを発見しました。
頭注:三時知恩寺了山聖智尼等の連枝義政を訪ふ
  「三日、入江殿以下御連枝皆被參長谷云々、有便宜、自訴事可被申之由、入江殿被仰、」

この書籍はグーグルブックスで見ることが出来ます。
「入江殿」に「了山聖智尼」とふってある箇所もありますが、同時期に通秀の姉・智周尼が「入江殿西庵」だったそうなので「御連枝」というのもうなずけます。

【2013.3.14追記】
大垂水酔鳥さま、素早いお返事ありがとうございます。

性源院が鷹司教平の孫であることをすっかり忘れておりました。
そして、霊元天皇の中宮も同じように鷹司教平の女でしたね。
文智女王が後年、東福門院と友好な関係を築いていたことからも、後者(拒否)の可能性は薄いと思いますけど・・・・

尼門跡寺院のあれこれについての話題は、陵墓関連の話題から逸れてしまいますので弊サイトに付属する掲示板のほうに書かせていただきます。
それにつきましては、準備期間をいただけますと幸いです。
 

五位野

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年 3月 2日(水)22時50分4秒
  早いもので3月になりましたが、変な宗教に入っていませんか?

先月は、札幌雪祭り、旭山動物園、網走などを旅行してきましたが、最高気温が氷点下で雪が散ついていても風さえ吹いていなければ対して寒さは感じません。


さて、1年ほど前に記しましたが、朝香宮と梨本宮と姻戚関係にあたり青山霊園に埋葬された最後の佐賀藩主鍋島直大侯爵と一族の墓所が本年1月下旬から3週間ほどかけて行われた改葬工事が終了いたしました。

わたしも連日の青山霊園通いでしたが、今後は直正公と同様に春日山の遺髪墓が本墓になることになります。

瓦礫の山とかした鍋島家の墓所を見ると淋しさを感じずにはいられませんが、旧領地で眠れることになりましたのでよかったのかもしれません。

徳川家御内室墓所、高松松平家墓所と次々に改葬されており都内で広大な墓域を維持することの困難さを浮き彫りにした感じですが、今後、護持の在り方を改めて検討する必要が急務と感じました。
 

霊宝舘だより

 投稿者:fukuyama  投稿日:2016年 1月31日(日)06時57分28秒
編集済
  http://www.reihokan.or.jp/magazine/pdf/no-93.pdf
霊宝舘だより 5ページに

嵯峨天皇の供養塔は、 『持明院蔵高野山絵図』 には、 五輪塔で、向かって右に 「嵯峨天王御墓所」、 同左に 「弘安二歳四月朔日」 と記してあったが 明治以降の絵図には行方不明とあります
 

高野山奥の院に存在した嵯峨天皇の墓石 (続)

 投稿者:永山  投稿日:2016年 1月30日(土)22時57分11秒
編集済
  紀伊国名所図会(1811~)巻之四 にも嵯峨天皇の墓石が載っていました。中の橋より奥の院方向で,山(転軸山)側の上のほうに画かれています。 今も存在するのでしょうか?
 

高野山奥の院に存在した嵯峨天皇の墓石

 投稿者:永山  投稿日:2016年 1月 4日(月)01時12分23秒
編集済
  江戸時代と思われる「高野山略図」(復刻版・出版年記載なし)に嵯峨天皇の墓石が載っていました。柴田勝家墓〈中橋付近)の近辺に存在したと思われる。  

坂之上

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年12月31日(木)03時20分42秒
  全国の同志の皆さま、今年も残すところ1日を切りましたが、変な宗教に入っていませんか?

今年も個人的に親しくさせていただいている皆さまより諸情報や諸資料をいただきましたが、最近も静岡のIさんから貴重な情報をいただき感謝申し上げます。
また、当掲示板でも同志の皆さまからの多くの諸情報にも感謝いたします。


私自身、今年も論考の制作で忙しく華族や公卿墓の新発見が皆無に近く残念な1年でしたが、来年は新たな墓碑の発見があればと考えています。

また、伝承墓の調査もできず、来年こそは近隣の伝承墓などを廻りたく考えています。

本年度はあまり陵墓関連の報告ができませんでしたが、当掲示板をご覧いただいている皆さま、来年も宜しくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年12月30日(水)00時33分59秒
  こんにちは。レプトンです。
最近投稿できてないのですが、陵墓参拝はちょこちょこしております。
秋には畝傍山周辺の4御陵と宣化陵・倭彦命墓などに何度か行きました。宣化陵の生垣のお茶の花と、倭彦命墓のカラスウリがきれいで印象的でした。
倭彦命の真ん中を横ぎる「陵墓の中道」はワクワクします。

さて、仁徳陵の記念硬貨が発売されます。
http://www.mint.go.jp/coin/prefecture/prefecture_page43.html

また陵印ネタも投稿したいと思います。皆様ことしも多くの知見をありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
良いお年を…
 

慈眼寺

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年12月11日(金)03時29分8秒
  全国の同志の皆さま、早いもので今年も残すところ3週間ほどになりましたが、変な宗教に入っていませんか?


いろいろ報告をと思いながらも論考の制作が忙しくままならない中、今週は京都・奈良へ、先月末には墓参も兼ね鹿児島の天降川(あもりがわ)温泉まで行ってきました。

温泉を堪能した翌日、霧島神宮、高千穂河原の古宮、関戸の滝を観光してきましたが、特に古宮は神代の陵墓を思わせるような厳粛な感じでとても感動しました。
ちなみに霧島神宮の宮司は、伊勢から慶光院宮司が務めています。


当初、今年の奈良行きは止めるつもりでいたのですが、どうしても妙心寺と黒谷に行かねばならないため1泊だけしてきました。

2日目は、実に15年振りに五条の井上内親王宇智陵と他部親王墓を参拝後、明日香へともどり欽明陵、吉備姫墓、天武・持統陵を参拝、今正月に舒明天皇の初葬地?ではとニュースになった小山田遺跡を思ったのですが、飛鳥養護施設内にあるため西側と東側から内部を覗きましたが、結局、何も見えず断念、その後、菖蒲池古墳、甘樫岡、入鹿の首塚、藤原京跡を廻り日没、毎年寄るお店で夕食を食べ帰宅した次第です。


そのような訳で舒明天皇初葬地?がまったく見れず残念な奈良行きになってしまいました。


その代わりというか以前から二條厚基公爵夫人の墓碑が二尊院に無いため探していたのですが、ようやく東京にあることがわかり先日、参拝してきたのがわたし自身の今年一番のヒットでしょうか。

今回も内容の薄い報告になってしまいました。
 

女二宮

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2015年11月29日(日)16時06分28秒
編集済
  おひさしぶりでございます。いのうえとろろでございます。

古い話で恐縮ではありますが、10年ほど前こちらで有栖川宮好仁親王女、女二宮の墓が元々港区の天徳寺にあったのが昭和初期に豊島岡墓地に移転云々という話が話題になりました。


で『日本歴史』2015年11月号の研究余禄「「初花肩衝」のゆくえ」に一時期女二宮が初花肩衝の所有者であったという話が載っていました。家康から松平忠直、光長、越後騒動ののち姪の女二宮が預かった経緯が述べてありました。



こんなところでめったにお目にかからない女二宮の名が…などと思ったのですが、ふと思っていろいろ検索の旅に出かけました。


宮内庁のHPに書陵部所蔵資料が一部閲覧できるのをみなさんご存知だと思われますが、そこで「高琳院宮墓、廣子墓及び貞子墓豊島岡墓地へ移転の件」という資料を発見しました。

それによれば2005年12月4日照山もみじ様のご推察どおり、復興局の道路拡張工事予定地に引っかかるため高松宮家で費用を負担し移転させるというもので、廣子妃・貞子妃墓も同じ理由でした。同資料には当時の天徳寺・東海寺の墓地図も載せてあります。



ネット上でこういう貴重な史料を見ることができるというのは、なかなか東京へ行けない・書陵部なんて敷居の高いところに行くことができない主婦にはいい時代になりました。




上記の研究余禄を読むと、女二宮が勝手不如意のため預かっていた越前家の家宝を売却したり、質入れをして問題になっています。後西院も姉の明子女王も亡くなった後の事ですから、宮家からのなにがしかの援助もなかったということでしょうか?宮様とはいえ大変なようです。







あと、本当に余談ですがどうも後南朝の例の熊沢家とわたしはどうも薄ーい薄ーい薄ーい親戚のようです。母方の祖母の母の実家がどうも熊沢家(ただし、天皇を名乗ったあの人とはつながっていないような…)らしのです。祖母の形見にあった手書きの家系図に載っていました。
ただし、肝心の祖母は鬼籍ですし、母はそういうことに一切興味のない人なので真相は闇の中です。今後伯父や親戚に聞き取りをしながらゆっくりと調べていこうと思っています。
また、何かわからないことがあったらみなさまご教授ください<(_ _)>
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2015年11月 8日(日)01時33分24秒
編集済
  ★追記★しました

私のせいで高遠さくら さまの書き込みが激減したとあっては、高遠さくらさまの門外不出的希少価値情報を心待ちにしておられる常連の方々に申し訳が立ちません。
とは言え、陵墓研究?の中断を余儀なくされている私には、まともな投稿はできません。
ただ、不思議なもので、調べようと思わなくても、ひょんなことから情報って入ってくるものですね。
ということで、この1年の間に入手した断片的情報を、今回賑やかしに書き込みます。


通りすがり さま2009年3月16日ご投稿の下鴨神社の英照皇太后の胞衣塚の件ですが、その後数年間、下鴨神社関連の本を目にする度にチェックしたものの、全く記述が見当たりませんでした。
しかし最近になって、戦前にその場所に「英照皇太后胞衣塚」とかの駒札が立っていたらしい、との伝聞情報を得ました。

スイマセン。以上です。


京都市がネットで公開している「京都市の所管区域条例に掲げられているが,資料に掲載していない町」という資料を偶然見つけました。それによると、「京都市区の所管区域条例の一部を改正する条例」(平成22年10月12日京都市条例第13号)により、現存しない「深草陵町」という地名が削除されたようです。この地名、仁明天皇「深草陵」を連想してしまいますが全く関係なく、伏見区深草西浦町にかつて存在した小字地名だそうです。
それにしても、この小字「陵」町、何て読むのでしょうか。みささぎ?りょう?おか?
実はこの深草地域はカタカナ地名が多いのです。「ヒランダ」を「平田」町に変更するなどして減ってはいますが、まだまだカタカナ地名が多いです。あくまで推測ですが、「陵」町はもとは「ミササギ」ではないかと‥ だとすると、意味深な地名ですね!

延喜諸陵式には、仁明天皇「深草陵」の他にも「中宮藤原氏後深草陵」、陽成天皇外祖母(藤原乙春)「深草墓」の記述が‥ やっぱり何か関係ありそうな‥
ついでに桓武天皇陵も。更には「大墓」。誰の墓かは諸説ありますが、この「大墓」は仁明天皇「深草陵」の東、「中宮藤原氏後深草陵」の南にあったとか。更には仁明天皇「深草陵」の南にあった「純子内親王冢」、但し塚(冢)ではなく「家」とも‥

恐らく当時は「深草村大字深草字ミササギ」と呼ばれていたこの地は、明治40年頃に買収?接収?され陸軍第16師団用地となり、住所は「陸軍京都練兵場官有地」となりますが、昭和24年7月に伏見区深草西浦町に変更されます。
私はもと地域住民で、足掛け25年住んでおり、陵墓伝承からみの地域史研究をそれなりに行い、その成果とやら(汗;;)をこの掲示板にもシリーズで書きなぐってきましたが、深草西浦町の陵墓伝承はついぞお目にかかってはおりません。

練兵場の造成に際して古墳を壊したとか‥を確認しようと、京都市遺跡地図を見ても、それらしき記載はなし‥

スイマセン。以上です。


煌子 さま、角田文衞氏の著作のご紹介有難うございます。

うろ覚えで恐縮ですが、かつての大雲寺の境内には、岩倉陵以外にも伝承地があったと記憶しますが、岩倉陵については特に記憶がなく、資料がどこに紛れ込んでいるのやら‥という現状です。
見つかって何か特記すべき件があれば報告するつもりです。何年先になるかわかりませんが‥

★追記★

かつての大雲寺の境内にあった岩倉陵以外の伝承地うんぬんを思い出そうとネット検索したところ、新たな情報を得ましたので簡単ですが報告します。

私の2008年1月30日投稿の前半部分で、伏見宮貞常親王王子・道應法親王の墓があった可能性を主張した「岩倉長谷の聖護院門跡廟所」ですが、一昨年に移転・整備されたらしく、その様子が掲載されたホームページを見つけました。

http://www.kyotofukoh.jp/report1105.html

残念ながら、道應法親王の名は記されておりません。
また、旧所在地がどうなったかも記されておらず、新旧ともに見に行きたいところですが、果たして何時になることやら。

 

昌子内親王岩倉陵について

 投稿者:煌子  投稿日:2015年11月 6日(金)18時18分58秒
編集済
  皆様、お久し振りでございます。
いつもご教示ありがとうございます。

過去に掲示板でお約束した角田文衞氏の著作をゆっくりとではありますが読み進めています。
その中に、陵墓に関連したものがありましたのでご紹介いたします。


角田文衞著作集 第四巻  『王朝文化の諸相』の 260頁 「大雲寺と観音院-創建と初期の歴史-」より。
(この論考は昭和43年に出版された『若紫抄』に掲載されたものの再掲です)

大雲寺は、もとは愛宕郡小野郷の石蔵(いわくら)に建立された寺院で、現在は京都市左京区岩倉上蔵(あぐら)町に所在しています。
大雲寺内にあった観音院は早くに廃絶しましたが、紫式部日記にも書かれているように、寛弘年間には非常に格式の高いお寺でした。
角田氏によると、観音院の創建は天元二年頃で、本願は昌子内親王(朱雀天皇皇女、冷泉天皇中宮)です。

「ところで、同じく岩倉上蔵町に所在する門跡寺院・実相院に伝えられている『大雲寺絵図』(註)は、天文焼失以前の写実的な伽藍配置図を江戸時代後半期に忠実に模写したものである。この絵図によると、本堂は現在の大雲寺の本堂の位置にあり、また現在の昌子内親王陵の処には、法華、普賢の二堂が描かれており、現在の実相院の敷地には成金剛院が配されている。いま大雲寺を管理している実相院の口伝によると、昌子内親王の陵は、もとは大雲寺経蔵の西手の、現在、神羅大明神社の鎮座する処にあったが、明治時代に行われた山陵整備の際、現在地に移葬されたものであるという。『小右記』長保元年十二月五日条は、内親王が観音院内に葬られたことを明記している。従って観音院の敷地と大雲寺のそれとが重なることは、まず確実と言ってよかろう。」
(註)島津草子『成尋阿闍梨母集・参天台五臺山記の研究』(東京、昭和三十四年)の巻頭図版に原色で印刷されている

以上は、上記論考より。

     -----------

その『大雲寺絵図』が公開されているHPがありました。

・「日本の塔婆3」
  http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2009to/daiunjiezu.jpg
  ↓こちらは、石座神社・岩倉陵・大雲寺と書かれた絵図
  http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2009to/daiunji02.jpg

・「かげまるくん行状集記」
  http://www.kagemarukun.fromc.jp/page004j.html
  (カラーで公開されているものもありますが、白黒のほうが文字が少し見やすいです)

     -----------

昌子内親王の最初の陵墓は、昭和43年当時新羅大明神社があった場所だったと角田氏は述べています。
では、現在の大雲寺の周辺の様子はどうなのかといいますと、「京都観光旅行のあれこれ」さまのブログによると、昭和60年頃に金銭トラブルの末、以前の大雲寺境内は更地になってしまったそうです。
現在の大雲寺の近くに北山病院があり、その辺りが、かつての大雲寺の境内だったとあり、ブログ「京都観光旅行のあれこれ」には閼伽井(別名・智弁水)や、古びたお堂、不動の滝の写真が載っています。
http://kyotohotelsearch.com/blog/2014/05/23/daiunjikyukedai/

別の「第二京都主義」さまのブログでは、違う方面の話題の中で、大雲寺について詳細に書かれています。
新羅大明神社が現在も存在しているか不明ですが、もとの大雲寺の本堂跡に建っているのが老人保険施設「紫雲苑」とのことです。
『大雲寺絵図』で新羅大明神社を探すと、本堂より左手下に塀で囲ってあるところになりますから昌子内親王の陵墓の初葬地は北山病院のかなり南西に行った辺りではないかと思います。

明治の山陵整備では、このように陵墓を移葬することが多かったのでしょうか。
浅学で申し訳ないのですが、明治の山陵整備について書かれた書籍を2冊読みましたが、天皇以外の陵墓について詳しくは載っていませんでした。
現地を御覧になった方々の目には現在の昌子内親王の陵墓はどう映られましたでしょうか。

これについてはかなり長い間校正を重ねていましたが、時期を逸しそうだったので投稿いたしました。
ですが、的外れな文面がありましたら申し訳ございません。
今後とも、よろしくお願いいたします。

《2015.11.9 追記》
大垂水酔鳥さま
お久し振りでございます。
先ず1冊読みましたが、今回は岩倉陵についてだけでしたので、他の伝承地があったと記憶されている大垂水酔鳥さまの博識には本当に感服いたします。
角田氏の著作で探すべき陵墓は岩倉陵ではなかったので、また何か発見出来るように頑張ります。
 

谷山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2015年11月 4日(水)02時59分33秒
編集済
  全国の同志の皆さま、早いもので今年も残すところ2ヶ月になりましたが、変な宗教に入っていませんか。

今年も何かと忙しく現在、論考の校正作業に追われておりますが、まだまだ時間がかかりそうです。


先月には3年振りに山口まで10日間、調査に行ってまいりましたが、奇跡的に全く雨が降らず萩毛利家、長府毛利家、清末毛利家、厚狭毛利家、阿川毛利家、千束小笠原家などを調査してきましたが、今回の主目的は尼子家の墓碑調査でした。

いつも山口調査では小郡に宿泊していたのですが、周遊券が廃止されたこともあり今回は下関に宿泊しましたが、下関は目の前はすぐ海だし、九州もすぐ近くだし、暖かいし実にいいところです。

安徳天皇陵はホテルからも近く4日も参拝、その他、専念寺、勾金陵墓参考地も参拝しましたが、残念ながら伝承地へはまったく行けませんでした。

そのような訳で特別、報告するような内容ではないのですが、近況報告という感じで書き込みした次第です。

どうも大垂水酔鳥さまの報告が無いと張り合いが無く当方の書き込みも劇減気味ではございますが、今後も宜しくお願いいたします。

★ ★ 大垂水酔鳥様 ★ ★

気長にご報告をお待ちしております。

落ち着いたらメール入れます。
 

神武陵印~東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念

 投稿者:レプトン  投稿日:2015年10月18日(日)16時24分49秒
編集済
   お久しぶりです。レプトンです。

 表題の掛け軸(印刷物)に神武陵印が押されています。昭和期に長く使われたものとは別の印です。(写真上)この印の意匠は5月24日に投稿した弘文天皇陵印と同じです。
 同じ軸に明治陵印も押されています。こちらは昭和の初め頃に捺印された集印軸などで押されているものが何例かあります。(写真下)
 陵印の使用時期は昭和3年には使われていたことは資料で確実ですが、この資料は陵印の使用時期が大正末期に遡れるかもしれないという考えの証拠となりそうです。
 東宮というのは後の昭和天皇のことで、御結婚は大正13年です。この印は大正13年を中心に短期間で捺印され印刷されたものと考えるのが自然と思います。(当時新聞社の企画で結婚を祝い全国の神社を参拝するというのがあったようです。その時に同様の集印軸も作られたようです。今回のものがそれと同じものかどうかは確認できていません。でも同じような性格のものであり、集印し印刷し、販売?頒布?するのに何年もたってからということは考えにくいです。)

話は変わりますが・・・
最近奈良県北部はナラ枯れの被害が大きく、森や林には赤茶色に枯れてしまったナラ・ブナ・クヌギが目立ちます。陵墓のすぐ横でもナラ枯れしている所があります。陵墓内にナラ枯れの被害を受ける種類の樹木がどの程度あるかわかりませんが心配です。緑の陵墓は清々しいです。ナラ枯れの被害が陵墓内に及びませんように・・・またもし陵墓にも被害が出るようならナラ枯れの対策(原因となる虫の防除・侵入を防ぐなど・・・生駒市は実施しています)も必要となるのでしょうか。



DADA様へ
 御陵印がきっかけで陵墓巡りを始められたんですね。私は古墳→陵墓→陵印の順序でしたが、今も陵墓巡り(ほぼ奈良県内限定ですが)をしています。これからもよろしくお願いいたします。


 

勉強させていただきます

 投稿者:DADA  投稿日:2015年10月16日(金)20時03分40秒
  お世話になります。

このところあれこれと質問してすみません。
もともとは御陵印の存在を知って、陵墓めぐりを始めたのですが、
調べると毎回こちらの掲示板にたどり着き、そのつど参照させていただきました。
皆様大変お詳しい方ばかりで、頭が下がる思いです。

目下のところ、
こちらの掲示板をさかのぼって一から拝読させていただいております。
皆様に失礼のないよう、勉強させていただきます。

今後ともよろしくお願い申し上げます。
 

坂門原南陵

 投稿者:DADA  投稿日:2015年 8月16日(日)06時16分6秒
  お世話になります。
連日暑い日が続きます。

さて、貴サイト『新撰陵墓志(仮)』に記載の
> [履中天皇皇孫女飯豊天皇]
> 藤井寺市西浦 坂門原南陵(詳細不明)
について、詳細をご教示いただきたく、投稿いたします。

『扶桑略記』にその記述があることまでは分かったのですが、
現在のどの位置にあることが想定されているのか、
当方でははっきりとわかりませんでした。

上記住所では清寧天皇陵があるのみで、ほかにそれらしい古墳が見当たりません。

このあたりの点について、現在どこまで判明しているのか、
ご存知のことがありましたら、教えていただきたく思います。
 

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