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御陵印の捺印~きれいに頂くために~

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年12月14日(土)16時47分6秒
編集済
  こんにちは。寒くなりましたね。旧陵印のダイジェスト版もまだ書き切っていませんが、ちょっと別の話題で・・・いつも旧陵印の話題ばかりしていますが、現行の御陵印収集についてです。
御陵印はそう何度も捺印するものでもないので、ゆっくりと捺印していました。平成3年の年末に御陵印の軸を購入して掛軸への捺印を始めました。当時、神代3陵は鹿児島に、天皇陵は各部事務所・遠くは香川・淡路・山口などで保管されており、ゆっくりと捺印すればいいと思い、あまり急ぎませんでした。しかし平成から令和に変わる時に、平成の初め頃に始めた掛軸は平成のうちに完成させたいという気持ちになり、平成最後の日に完成しました。(百舌鳥部の3陵と崇徳陵の御陵印を戴き完成しました。以前も書いたように、崇徳陵・後花園陵など参拝してないところもあったのでちょっと反則ですが)
 この掛軸は京都の杉本工芸さんで購入しました。(御陵印収集の方ならおなじみと思います。)令和になり新たに御陵参拝をし、再度一から御陵印を捺印するために再び杉本工芸さんを訪れ、新しく天皇御陵印の掛軸を購入しました。その折、平成の初めに購入した掛軸も持って行き、社長さんに見ていただきました。「きれいに捺していますね。」と褒めていただき嬉しかったです。(写真1枚目が、杉本工芸製の新旧の天皇陵印掛軸です。)また同時に色々とアドバイスもいただきました。
 まず、朱肉の事ですが、練朱肉とスタンプ朱肉がありますが、練朱肉は日光に当たっても変色や退色が少ないが、スタンプ朱肉は時と共に変色・退色があるとのことでした。ネットでも朱肉のHP等で書かれていますが、実際に私がかつてオークションで購入した天皇陵印の額は部屋に掛けていますが、数年程度で朱の色がとても薄くなってしまいました。(写真2枚目)元々薄目ではありましたが、今では悲しいくらい薄くなり見えにくくなってしまっています。
 監区事務所では練朱肉以外にスタンプ朱肉を置いてくださっている所もありますが、私は基本練朱肉で捺していましたが、いくつかはスタンプ朱肉で捺印したところもあります。掛軸では、淳仁陵(万福寺保管時)吾平山上陵(〇〇商店保管時・〇〇は伏せます)はスタンプ朱肉でした。高屋山上陵はどちらの朱肉も置いてくださっていたので、掛軸はスタンプ朱肉の可能性があります。多摩部はスタンプ朱肉だったかな?心配しているのは、今はきれいに見えていても、先述の額の様にだんだん薄くなってしまうのではないかということです。これから御陵印を戴く時は練朱肉だけで捺印しようと思います。
 監区事務所の練朱肉は多くの人が捺印するので凹んでいたり乾いていたりするなど、状態が悪いこともあります。昨年・今年と戴きに行った時も乾いていたりしていました。そんな時は、へらを使い朱肉を中央に寄せたり場合によっては裏返したりするなどして、まず
朱肉の状態を整え、御印で丁寧に優しく朱肉を丸めるようにして朱肉を付けます。印が目詰まりしていたらこれらもティッシュと柔らかい歯ブラシなどでそうじさせてもらいます。(硬いものは厳禁!)仕上げにタオルで側面などについている朱肉をふき取ります。
 せっかく巡拝して御陵印を戴くのですから、美しく捺印したいですよね。特に高価な掛軸に捺印する時は、印や朱肉の状況が悪いのででうまく押せなかったで済ましたくないですよね。これから天皇陵を参拝し、天皇陵印を戴き集めようとお考えの方は、時間はかかっても、御印や朱肉の状態をベストにしてから捺印されることをお勧めします。また、朱肉に印をギュッと押し込む人がおられるようですが、丸く盛ってある朱肉の山に、印面を優しく回すように何度も付けてから、(あるいは朱肉に軽くポンポンと印を接触させるようにして朱肉を付けて)捺印します。(普通の小さなハンコのように、力を入れてギュッと押し込むのはNGです。)朱肉の真ん中が凹んでいると、印の真ん中がうつらなくなります。丸く盛った朱肉がベストです。朱肉が印面に村なくむらなく、むだなく付いていることを確認していざ捺印。朱肉の状態や朱肉の付け方は昭和50年代後半に宮内庁のおじさんに教えてもらいました。
 印面が詰まっていないか、練朱肉の状態が良いか、朱肉の付け方が正しいか、ゴムのスタンプ台を敷いているか、この4点さえきちんと確認してあとはしっかり捺せば、悲しい思いをしないで、美しい御陵印が頂けます。
 多摩部はスポンジ朱肉を貸して下さるとのことですので、練朱肉に拘る場合は自分で準備していく必要があると思います。(練朱肉で捺してよいか部の方に確認する必要もあると思います。)自分で準備した朱肉だと、事前に練朱肉の状態を整えておけるので、御陵印を戴く時に困ることはありませんね。ただ6cm角の御陵印が捺せるほどの量の朱肉は高価ですが・・・
 各陵墓監区ごと(かつては各部ごと)に朱肉の色に多少の違いがあります。私も最初の頃は同じ色の方が良いと思っていました。しかし当時の杉本工芸のパンフレットにも書かれていましたが、朱肉の色の違いが、何とも言えぬ味わいとなります。今では色が揃っていないほうが面白いと感じています。安徳陵の御陵印は赤間神宮の巫女さんが付けてくれたものですが、特に赤色が鮮やかです。高級な朱肉だと杉本工芸の社長さんが言っておられました。宮内庁の朱肉の種類は同じかもしれませんが、当時は各部ごとに、濃淡がありました。おそらく、朱肉を練ってからの時間や、その時の温度により、朱肉の柔らかさが違い濃さが違ったのでしょう。
 同じ色が良いという方は自前の朱肉がいいでしょう。多少違った方が良いという方は、各監区事務所の朱肉をきれいに状態を整えて用いるとよいでしょう。朱肉は温度が高い程柔らかくなるので、冬場より夏場の方が濃くなるかもしれません。(素人なので正しいかどうかわかりません)乾いてしまっている朱肉では薄くしか写りませんので、これは論外です。
私は御陵印を戴く時には、掛軸や集印帳の他に、軍手(2つ、朱肉調整用・捺印用)・タオル(手拭き用)、タオル(印面掃除用)、ティッシュ(1~2箱)、へら(たいてい備え付けて下さっている)、柔らかい歯ブラシ、ゴム製スタンプ台(ゴムが劣化・硬化していないか注意)、掃除のときに出るゴミ用のビニール袋などを持って行き、とても役立ちました。

天皇陵印の掛軸は祝日に出して飾るのが良いとのこと、掛軸はなるべく風通し良くして保管するほうが良いことも教えていただきました。

もし、御陵印を捺しに行き、もたもたしている奴がいましたら私かもしれません。


陵墓マニア様
 御助言ありがとうございます。教えて下さったように、今回はワードで作成し張り付けました。うまくできました。
 

回答

 投稿者:国民総生産  投稿日:2019年12月11日(水)20時43分37秒
編集済
  1~~当時の世相やその時の建設地の土地の切様で適当に建てられます。貢献度で大きくなってるとは限らない場合が有ります。

2~~月の輪陵の奥の陵墓は#民墓参拝以外は立ち入らないで下さい#の駒札は無視でOK。河内男さん(No1426 2005/8/20投稿)が管理事務所に聞いて入れる事を確認されてます。月の輪陵の裏側、灰塚、良純親王墓も参拝できます。陵墓探索でよく看板が有りますがよく見れば入れます


天龍寺内 亀山/後嵯峨天皇 墓参以外立ち入り禁止/竹竿封鎖→天皇陵はOK
龍安寺裏 皇陵墳墓の参拝以外通行禁止→天皇陵はOK

逆に何も札は無いが非公開の青蓮院宮下/上ノ墓地→上ノ墓地は下からは鍵が掛けられておりアクセス出来ませんが上からはトレイル遊歩道がありそこからアクセス可能ですが倒木や伐採した枝が邪魔して普通には入れない様にしてあります。宮下の墓地は後ろからは粟田山荘から見れますが駒札の正面を見るのは正当な手段では無理です。不正当であれば東から徒歩3分で参拝できます。宮上/下は宮内庁の職員で無いと直接連続してのアクセスできません。他にもアクセス方法が有るかも知れませんが先日見渡した限りでは上の墓地は迷路で難航します。鍵を閉めるっておかしくないですか?

3~~表向きは非公開としていますが檀家と観光客を区別できない為普通には入れます。。

4~~ 嵯峨天皇皇后 嘉智子 嵯峨陵は現在落石危険の為に参道前で仮設門で侵入できない様になっています。急斜面の為に落石防止塀で精一杯で安全が確保できないので当分開門はされないと思います。物理的に侵入しようと思えばできますが・・

5~~二尊院の皇族の墓の件は知りません。

6~~過去4代の墓の参拝は皇室典範で決まっている為に参拝しますが法律以外で泉涌寺に来るかは不明です。

7~~1000年も500年も経過しているとカルシュームである骨は溶けて無くなりますし、そもそも陵墓の殆どは後世が近年適当に建てられたもので本当の墓かどうかも分かりません。本当の墓を作ってない可能性もありますし土に埋もれ住宅が建っている可能性が有ります。大阪平野に陵墓が無いのは不思議な話です。住宅建設で遺跡が見つかると発掘費用は地主持ちだし工期が遅れるので闇から闇に隠蔽されてる可能性もあります。今でこそ墓は大事と思いますが中途半端な古さの墓は何の価値も無いので潰されてしまいます。伏見桃山城がその例かな。

 

陵墓を探索してるのですが

 投稿者:京都住民  投稿日:2019年12月 9日(月)13時00分11秒
  いくつか質問が有ります。

1      半畳程の小さな墓も有れば、宇治市に有る天皇でもないのに大きな墓がありますがなぜ天皇でも無い人でも格差があるのでしょうか?

2      京都東山、泉涌寺の月の輪陵墓の裏にも墓が有りますが泉涌寺の拝観料を払えば入って行けるのでしょうか?

3      お寺の檀家さんの墓の中に皇族の墓が有るケースが有りますが、その場合檀家でもないが皇族の墓は見る事ができるのでしょうか。

4    嵯峨天皇 皇后さんの墓はいつ参拝できるのでしょうか。

5    二尊院にも体の一部が収められてるそうですが参拝はできるのでしょうか。

6    先日、泉涌寺に天皇陛下が来ましたが最後の参拝だったのでしょうか。

7     皇族の墓には掘れば骨等出てくるのでしょうか。



よろしくお願いします。




 

長文入力

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年12月 2日(月)00時24分32秒
  レプトン様

長文入力時に動作が不安定になるとのことですが、
ワードなどで作成した文章を貼り付けるのが良いかと思います
 

陵印墓印調書の内容~ダイジェスト版 その2~

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年12月 1日(日)08時35分30秒
編集済
   ダイジェスト版の続きです。投稿の内容が長文にになると、書いている文がいきなり消えたり、操作がうまくいかなくなったりするトラブルの頻度が上がるので新しく投稿させていただきます。最後まで書き終えてから、ダイジェスト版(その1)と合体させます。

 この公文書は〈要審査〉扱いとなっており、個人情報等開示に問題がないかの審査をするため1か月程度、閲覧・撮影まで時間がかかるとのことで、実際入手できたのは申し込んでから3か月半かかりました。しかし、一度審査したからなのか、今は〈全部利用〉になっており、事前の申、し込みは必要ですが、すぐに閲覧できるように思います。
 東京に行き、実際に閲覧して、印の大きさを調べたり、撮影では綴じられた部分が読めないので、その部分も確認したいのですが、東京は、距離的時間的にも、そして経済的にも遠い所です・・・


19の続き
 参考(朱書)として
  現在  陵数(箇所)  一三四
      墓数(箇所)  一九〇
       計      三ニ四

     陵印数(箇所)  一ニ〇
     墓印数(箇所)   一三
       計      一三三

 現在墓印設置ノ箇所
 押坂内墓       聖徳太子墓
 礼子内親王墓
 宇度墓
 阿保親王墓
 開成王墓
 竈山墓
 倭トト日百襲姫命墓
 良助親王墓
 宇治墓
 蜂子皇子墓
 息速別命墓
 懐良親王墓




    この後、1時間分の作文内容が登校前に消えてしまいました。。。
  また、続きは後ほど・・・・
 

陵印墓印調書の内容~ダイジェスト版~

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月26日(火)03時10分40秒
編集済
   『陵印墓印調書』(昭和1年)の内容の複写を依頼したところ、その枚数は230枚以上ありました。(費用もウン万円・片手以上・・・ワイフばれないかヒヤヒヤです)一つ一つ丁寧に紹介すべきですが、量が多いのでその中の内容を簡単にまとめてみようと思います。このダイジェスト版も少しずつ追加していきます。
各時期ごとに内容が変わっていきますので、次の【A】~【E】に分類してまとめます。
【A】(昭和2年4月頃) 各部・各陵墓へ陵印墓印の設置実態調査と印影提出の内容です
【B】(Aの調査後)陵印墓印新調の報告と印影提出
【C】(昭和8年4月)陵印墓印新調・改造(改変)の際は事前に雛形を届け出るようにせよとの通達
【D】(昭和8年4月以降)通達後の届け出と印を新しく作成
【E】(昭和  年頃)陵印墓印の取り扱いについて・参拝者よりの要望の手紙等




既に紹介した内容を含みます。(1~6が既に紹介した内容)
【A】各部・各陵墓へ陵印墓印の設置実態調査と印影提出
1、宇治部の天皇陵印は大正13年4月から、その他の陵墓は大正15年5月から使用開始
2、醍醐天皇陵印と一緒に押されていた延喜聖帝の印も、陵印とセットで捺印されるものであった。(寺院かどこかで別に押したものではないことが明らかになった)
3、御陵墓伝説地でも参拝記念の印を作っている所もあった。
4、陵印は参拝者が増加し、参拝記念として参拝者の切なる希望があり、陵墓職員が私費で調製
5、畝傍山部の報告で昭和2年4月には畝傍山管轄内(奈良・和歌山)44陵中39陵、21墓中3墓に陵印墓印が設置されている。
6、白峯陵の陵印2種類?


7、昭和2年4月時点での使用陵印の印影(後年作り替えられ、資料の少ない印を含む)
8-A、日岡陵印等何点かは「参拝記念」の文字がある。→以前議論したように参拝記念の文字は使用されなくなっていく
8-B 『金原陵参拝章』『大原野西峰上陵参拝』の印が当時の陵印であった。(他の陵印とは形式が違うので、正式に他の陵印と同じ位置づけをしてよいかどうか疑問があったが解決)
9、『平城天皇皇子阿保親王御墓』の印と一緒に捺印されていた、『贈一品』『在原家始祖』の印には鉛筆で×が付けられている。
10、各部・部外各陵墓からの報告で、陵印を設置している所がある一方、陵印はないと回答している所も多くある。近畿は多く、それ以外は少なくなる傾向がある。宮崎県の陵墓参考地からの回答で、近畿では参拝者が印を求める事が多いとの情報を聞いているが同参考地では今まで一人もなく、昨冬に鵜戸参考地の管守とも直接話したが、そのような例はなかったと言ったことを伝えている。
大碓命墓:参拝者希望者少なく印はない  大入杵命墓:参拝者に捺印希望者なし
11、陵印は設置していないので、希望者があったときは、自分の印を用いている(倭姫御陵墓管守)(高屋山陵・使用私印を捺印して提出)
12、陵印はないが、今後作りたいので図案等について指示を願う例もある。あり(真野部・他)
13、陵印を希望するものが多いが、諸陵寮の命なくして猥りに印を作ることはいけないと固く心得ていたので今まで作らなかった。今印影を考え調整し、印影を出しますという回答がある。
14、陵印はないので、参拝者の希望があったときは、単に当御陵の表示事項記載に止めている。なお自分は職印の様なものは持っていない。(可愛山陵)



【B】陵印墓印新調の報告と印影提出
15、昭和6年7月 田村部からの文書
後宇多天皇御髪塔、後鳥羽天皇女禮子内親王墓に関して
 近年御陵墓参拝熱高まる。昨年後宇天皇御髪塔の見張り所を新築してから、印を希望する参拝者が増えたので、今回、印を新調したので印影を提出する。
16、昭和7年四月 押坂部(『陵印墓印調書』)
 従来笠間山陵と(大伴皇女)押坂内墓の印はなかったので公衆の求めに応じ新調した。印影提出
17、16と同文書内
 昭和2年4月に印影を提出した舒明陵印(舒明天皇押坂内陵)は摩滅したので新調した(押坂陵璽)なお、『旧御印ハ焼却仕リ候』・・・・・(ナント、焼却されていた)
18、陵印新調の報告
  昭7.11.26 仁和寺宮墓
  昭8.1.1  中宮章子内親王菩提の樹院陵


【C】陵印墓印新調・改造(改変)の際は事前に雛形を届け出るようにせよとの通達
19、
  昭和8年2月9日立案 4月13日決裁

             伺
  従来陵墓ニ備付クル陵墓職員限リニテ調製シタル陵印及墓印ハ陵墓参拝者ノ請求ニ依リ参拝ノ事実ヲ趣旨ヲ以テ便宜押捺シ與フル習慣ニ有之本寮ニ於テモ非公式ニ之ヲ黙認シ来レルトコロ右ノ内陵印ハ自然大部分ノ陵ニ備付ラレタルニ不拘墓印ハ其数僅少ナリシカ其後此墓印モ亦逐次調製増加ノ傾向ヲ来シツツアル実情ニ之候然ニ近時参拝者ハ益々増加シ之カ為陵墓職員ハ陵印墓印ノ押捺ニモ忙殺セラレ職務上管守ニ〇〇ヲ生スル憂有之尚又是等印形セイビノ必要上調製後届出ツルコトハ適当ナラスト存候間爾(←?)今陵印及墓印ヲ新調又ハ改造セントスル場合ハ陵墓職員ヲシテ予メ伺出シムルコトニ致度依テ左按ノ通通達致シ可然哉

          按
        昭和八年  月  日
             諸陵頭
      陵墓監
      陵墓守長
      陵墓守部
      管守嘱託(陵又ハ墓勤務者ノミ)
      管守(墓勤務者ノミ)




          通達
従来御陵ノ印及御墓ノ印ハ陵墓職員ニ於テ調製ノ上届出相成居候所爾(←?・注以今後という意味)今右印ヲ新調又ハ改造セントスル場合ハ予メ事由ヲ具シ雛形添付伺出相成度

  従来陵印墓印を陵墓職員が調整の上届け出ていたが、今後は陵印を新調・改造する時は、事前に雛形を提出せよ。(検討し使用の可否を通達後作成せよとの意味と思われる)
 前半には本寮は非公式に黙認してきたとの立場が明記されている。


【D】通達後の届け出と印を新しく作成
20、昭8.4.17 能褒野墓では、数年前より、前陵墓守部の父が私財で印を作成したが届け出てるか不明である。印影を提出する
印は『能褒野墓』と『日本武命』の2つ  日本武命の印が能褒野墓の印と一緒に押されていた例があるが、この印も陵印と同じ位置づけであったことが明らかになった。
(能褒野神社での印かもしれないという可能性があったが、陵印であった。)

 (この20、の文書は19、の通達を受けて能褒野墓の陵墓守部が提出したものと思われる。)

21、同文書内
  印影2つを届け出るので、採否の御査定を御詮議くださいと諸陵寮に伝える
22、21に対し、昭和8年4月25日に諸陵寮より、回答がある。
  『能褒野墓』の陵印は参拝者の求めに応じて捺印、他の印(『日本武命』は使わざること)
  それに対し、能褒野墓より4月29日に了解との報告書


23、昭和8年5月3日
 八坂入彦命墓陵墓守部より  次の雛形の印を作りたいとの届け出
 それに対して回答   印の新調は当分見合わせるように(当分の文字が二重線で消されている)

(つまり、諸陵寮の回答は、この印は参拝者に捺印する印としては使ってはいけないという趣旨になる。雛形はやや稚拙かと思われるのがその理由か?)





    今日はここまで。あと少し・・・・ 

http://

 

昭和2年4月集約の陵印より白峰陵印(2種類か?)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月24日(日)12時17分29秒
編集済
   先ほどと同じく昭和2年4月に宮内省が実施した陵印の印影を集約した資料からです。(『陵印墓印調書』)同文書中に白峯陵の旧陵印が2カ所にありました。1つは勿論白峯部の所です。送付の書類には

昭和二年四月十五日
   白峯陵墓守長  〇〇〇(捺印・名字のみの印)
御通牒ニヨリ当部使用陵墓印別紙ニ捺印ノ上御送付候也

とあり、昭和2年4月に陵印が捺印されています。(写真1枚目左)

もう一つは写真2枚目のように、近衛陵と同じページにあり、白河陵・鳥羽陵とも隣のページに来ています。(ここに捺印されている白峯陵印は1枚目右です。)しかし、白河陵・鳥羽陵・近衛陵の陵印は別途深草部より報告されています。(写真3枚目)また写真2枚目の4陵印は捺印した紙を切って張り付けてあります。前後何ページかは、切り取った陵印を貼っています。どのような意図でこれらの陵印を捺印・収集し報告したのか不明です。
 気になる点は、京都の陵墓に、白峯陵印が一緒にされている点です。明治天皇が崇徳天皇の為に建てられた白峯神宮との関わりがあるのでしょうか?
 また同じ陵印が白峯・京都のどちらからも何らかの意図をもって捺印・報告されることはあり得ない事ではないと思うのでが、何より気になる事はこの2つの印が別の物ではないかという疑問です。よくわからないのですが、、1枚目左の白峰部報告の印と、1枚目右の印とが少し違うような気がします。もし違う印なら、当時似たような印影を持つ2つの「崇徳天皇白峯陵」の陵印が白峯部と京都にそれぞれあったことになります。これが事実なら、なぜなのか?ということも研究対象になってきます。2つの印はそっくりですが、微妙に違いがある・・・、朱肉の影響ではなく、印面自体の違いがあるのではないかという違いがあると感じます。

1枚目の2つの印を拡大して比べてみてください。
 1、一番はっきりとした違い陵の最後の部分(冬の点々抜き・久の三画目突き抜けた部分)です。
 ここの最初の画(右上から左下への線)が違うと思いませんか?
 2、次に違うのでは?と思われる部分は、皇の下の王の部分。2本目の横線の長さが、一本目と比べて2つの印では違うと思いませんか?
 3、御の文字の行人偏の二画目の線の向きが違うように思います。


 ほかにも微妙に違うような箇所がありますが、いかがでしょうか。同じ印章でしょうか。それとも違う印章でしょうか?皆様のご意見をお聞かせください。また何かご教示いただけることがありましたらよろしくお願いいたします。

 例によって写真は、写真の写真ですので大きさは実寸大ではないことにご注意ください。



 

旧陵印の新資料(昭和2年届け出の印影より)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月24日(日)10時05分1秒
編集済
   こんにちは。来週は天皇陛下が神武陵・孝明陵に参拝されるようですね。伊勢神宮参拝からいったん東京に戻られて、再び関西にお越しくださいます。

 さて、先日長々と書きました、『陵印墓印調書』(昭和2年4月に宮内省が行った、陵印墓印の調査)で、各部・各陵墓より送られてきた印影の中で、今まで私の収集に係らず、私自身初めて目にする印影をご紹介します。

1、光厳印天皇山国陵 後花園印天皇後山国陵
 2天皇列記の山国陵・後山国陵の印は広く知られていますが、今回の資料の印には天皇名に院が書かれています。大正14年決定の院号廃止直後でまだ残っていたのでしょう。院号のない陵印にいつ切り替えられたのかは未調査ですが、昭和6年には院号のない2天皇列記の旧陵印を確認しています。
 山国陵・後山国陵の陵印は2天皇列記のものと、各天皇の物(光厳陵1種類・後花園陵2つ)を確認していましたが、昭和2年時点ではこの院号ありの2天皇列記の印が用いられていたことがわかります。なお昭和6年ごろには、2天皇列記と光厳陵の両方が同時に山国部にあったこともわかっています。(資料は手元にありません。同資料のオークションで、寝てしまい逃してしまったことが痛恨です)

2、吾平山上陵印
 吾平山上陵印は、2種類確認できていましたが、初めて確認した印影です。

3、大井陵墓参考地 (当時は御陵墓伝説地)
 なんと・・・・陵墓伝説地の陵印!!びっくりです。

当資料にはまだまだ陵印・墓印の草創期の情報が詰まっています。少しずつお伝えしていきます。

注意 今回の資料は写真で入手しているので、印影は写真の写真になります。サイズは実寸とは異なるはずです。そのままのサイズではないことにご注意ください。実際のサイズは未確認です。
 

宇治部旧陵印使用時期 及 旧陵印は宮内省職員私費で調製

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月22日(金)22時27分30秒
編集済
   こんばんは、レプトンです。奈良の陵墓は秋の陽ざしに輝いています。


Ⅰ、さて、宇治部の陵印使用開始時期の解かる直接的な証拠の文書がありましたのでご紹介します。
2019年4月13日に管理人様と私が触れた『陵墓資料(法規目録)陵印 墓印調書 昭和1年』です。実際の文書は昭和1年ではなく昭和2年~昭和8年にわたっています。昭和2年に陵印墓印の実態調査と集約をし、以降、陵印の作り替え・新調に関する伺いと報告、参拝者の捺印に関する規定に関する文書があります。

 宮内省は各陵墓での陵印・墓印の実態を把握するため、昭和2年4月に各部や部外の各陵墓へ陵印・墓印調べをしています。4月8日付で陵印の有無の報告と、使用していれば印影を捺して提出するよう通達を出しています。
 貴官見廻区域内御陵墓ニ於テ参拝者ノ希望ニヨリ参拝記念帳等ニ押捺スヘキ印章ノ印影当寮ヘ提出相成度
 追テ本文印影ハ取纏メ台帳作成執務ノ参考ニ供スル見込ニ有之候


次の内容は宇治部からの回答です。(私には読めない文字があります。また読み間違えている文字もあるかもしれません。氏名部分は〇〇で表示しています。原文は漢字は大きく、送り仮名のカタカナは小さく表示されています。)

宇治発第一七号
 昭和二年四月拾参日
  宇治部 陵墓守長 〇〇〇〇〇(印)
宮内事務官 〇〇〇殿

 御陵墓印影提出ノ件
去四月八日附御通牒ニ係ル当部内御陵墓ノ参拝者ノ希望ニ応シテ押捺スル印章別紙ノ通リニ有之右印影提出候ナリ

追テ天皇陵ノ分ハ大正十三年四月ヨリ其他ノ御陵墓ノ分ハ大正十五年五月ヨリ押捺致居候モノニ有之右申添候

続けて、陵印が捺印され、その印影を届け出ています。
1ページ目 「延喜聖帝」「醍醐天皇後山科陵」
2ページ目 「朱雀帝陵」
3ページ目 「上醍醐陵」
4ページ目 「宇多帝皇后外十六后宇治陵」
5ページ目 「菟道稚郎尊宇治墓」


この文面より、
1、参拝者の求めに応じて押捺する印であること。
2、宇治部の天皇陵印は大正13年4月より使用(醍醐・朱雀)
  その他の陵墓は大正15年5月より使用(宇治陵・上醍醐陵・宇治墓)したことがわかります。
3、醍御陵印には、ずっと以前に問題提起した「延喜聖帝」の印も一緒に押されています。このことから、醍御陵印と延喜聖帝の印は、宇治部で、セットとして捺印されていたことがわかります。

因みに陵印自体は、戦後まで長く使われた印で、一般的に良く知られている旧陵印です。


Ⅱ、旧陵印は宮内省現地職員の私費で作成
続いて、旧陵印が宮内庁職員の私費により作成されたことを示す資料を紹介します。

 先に記した、各部宛ての陵印墓印調査の回答に、陵印が現地の宮内庁職員の私費により作成されたことを示す内容が確認できました。それらを紹介します。(旧漢字は新字体で書いています。□は私が読めない字、または該当する漢字を私が知らないものです)

(例1)畝傍山部 昭和2年4月28日の文書です。

 回答
本月八日雑第三〇〇號御照会ニ係ル印影別紙の通取纏メ及提出候
追ヲ右印影ノ印章ハ従来参拝者ノ切ナル希望ニ応スル為メ陵墓職員ニ於テ私費ヲ以テ見張所内ニ備ヘ付ケ居ルモノニテ未ダ御届ケ致サ?ルモノニ有之固ヨリ図案等ニ関シ更ニ講究訂正ノ余地多々可有之是是等ハ追テ指示ニ依リ夫々処理致度存居候条御了承被成下度候候尚管内四十四陵二十一墓中本文印章ノ備付ケアルハ三十九陵三墓ニ有之為御参考申添候

続いて陵印が黒色で印影が捺されています。(陵印は戦後まで使われたものです。印に書かれている陵名などは途中から省略します。)

1ページ目 畝傍山東北陵
2ページ目 綏靖天皇桃花鳥丘陵
3ページ目 安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵
4ページ目 懿徳陵印
5ページ目 孝元陵印・宣化陵印
6ページ目 欽明陵印・天武持統陵印
7ページ目 文武陵印・岡宮陵印
9ページ目 孝昭陵印
11ページ  孝安陵印
13ページ  斉明陵印
15ページ 後醍醐陵印
16ページ 崇峻陵印(3種類)
17ページ 舒明陵印
18ページ 良助法親王墓
19ページ 紀橡姫吉隠陵
20ページ 崇神陵
21ページ 景行陵
22ページ 衾田陵
23ページ 倭(トト)日百襲姫命墓
24ページ 崇道陵
25ページ 春日宮陵
26ページ 光仁陵
27ページ 聖武陵
28ページ 元明陵
29ページ 元正陵
30ページ 成務陵
31ページ 称徳陵
32ページ 平城陵
33ページ 神功陵
34ページ 垂仁皇后陵
35ページ 仁徳皇后陵
36ページ 垂仁陵
37ページ 安康陵
38ページ 孝霊陵・顕宗陵
39ページ 武烈陵・飯豊陵
40ページ 彦五瀬命墓


※私費で作った旨と畝傍山部内で44陵中39陵、21墓中3墓に印があると記されています。
(天武持統陵を2つと数えれば、きっちり39陵3墓になります。)


(例2)
墓第六号    回答
昭和2年四月二十五日 陵墓守部 〇〇〇丸(捺印 文き字は「陵墓守部之印」
宮内事務官

 〇〇〇殿
夏季登山期(季)節ニハ御墓参拝記念トシテ押印方多数ノ希望者之アルモ当墓所ニハ印ノ備ヘ無之ヨリ其求メニ応ゼザル次第ニ有之候若シ応求スルモ差支ヘナキモニ候□□(ヘバ?)此際私費ヲ以テ右用ニ印ヲ新調致度ニ付他ノ陵墓等に於テ用ヒ来ル印ノ図形ヲ御指示シ被□下□様願度モノニ御座候

※今は印はないが、希望者が多いのでこの際私費にて印を新調したいので、他の陵印の図形を教えて下さいという感じでしょうか。まだ私費で作ってはいませんが、私費で作りたいという意思がはっきりと書かれています。

(例3)昭和8年の文書です。
能褒野墓第八号
昭和八年四月拾七日  陵墓守部 〇 〇(捺印・氏名印)
諸陵頭 〇〇〇殿
   報告書
昭和八年四月拾参日陵発第ニ七四号ヲ以テ御照会相成候處ノ御陵ノ御印及ビ御墓御ニ印ノ儀従前ヨリ参詣者ノ御希望ニ依リ数年以前に於テ御陵墓御印ヲ調整ノ上爾来参詣者御印御希望御方ニノミ押捺致シ居リ候当御印ハ故父〇〇〇陵墓守部当時ニ於テ私財ニテ調製致シタル様聞受居リ候得バ御寮ヘ御届出ハ提出カ不提出カ相分リ不申候為左ノ別紙二御印ヲ捺しシ御届候得バ採否ヲ御査定御詮議相願此段及ビ報告候也


 陵印の作成に関する情報としては、かつて宮内庁のおじさん(当時)から、「陵印は山陵会が作成し、捺印の便宜を図るために、各陵墓の見張り所で預かったもの」という話と、「天智天皇陵の見張り所で、職員が自分で印を彫って作っていたと聞いたことがある。」という2つの話を聞いていました。今回の資料では『現地の職員が、参拝者の希望に応じるため、私費で陵印を設置した』事が明らかになりました。(聞いた話にある、陵印の設置を否定するものではなく、今後その様な例についても明らかにできればと考えています。)



この資料には、陵印のない陵墓では職員の私印を捺して参拝の証明とした(高屋山部)や、印影の作り替えについての資料もあります。追って紹介していきます。
 

造営中の伏見桃山陵の古写真

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2019年11月13日(水)12時18分9秒
  時すでに遅し、ですが‥
京都府立京都学・歴彩館で下記のような企画展が先週まで行われていたそうです。
https://fushimi.keizai.biz/headline/452/
もう一度やってくれないかなあ。
 

(無題)

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2019年10月31日(木)17時54分13秒
  おひさしぶりですいのうえとろろです。

京都へ行ってまいりました。
本当は京博の佐竹本三十六歌仙を見に行こうかと思ったのですが、土日に行ったのでひどい目に合うと思い行きませんでした。


かわりにではありませんが、たぶん誰もいないであろう小谷墓地へ行ってまいりました。

念願?だった魯山人の墓を見つけ、和宮の侍女「岡本初島」明治期の女官「岡本高子」櫻町天皇下臈「覚證院」も発見しました。
あと、偶然小倉家の墓地も発見。「文子」「玉子」さんそして「大典侍」の墓を確認しました。ただ、大典侍の墓の横にあった墓碑も写真におさめたのですがはっきり写っていないので今から解読をがんばります。もっと性能のいいカメラを使えるようになればいいのかなあと悔やみます。



百万遍の知恩寺にも行きました。あちらこちら修復修理中で少しがっかりですが、墓地へ。
なんと、日野家の墓地が半分リニューアル?されていました。
南側の長方形の墓石が集積されていた場所(資枝卿や資時卿の墓があったところです)に、新しい大きな五輪塔と当主を載せた墓碑、家系図を載せた墓碑がありました。
おととし参拝した際には変わりはなかったので、この二年で変わったのでしょう。

知恩寺墓地の西側にあった地下官人の「高階家」も綺麗になっていましたし、物加波家の墓も一基変わっていました。


いそがないと時間が無いのかもしれません…
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年10月26日(土)20時12分21秒
  「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産登録記念 仁徳天皇陵と巨大古墳の謎(水谷千秋)という本が本屋さんに並んでいました。その中に(真ん中あたり)古市監区事務所で捺せる陵印が取り上げてられています。やや縮小されてはいますが、カラー写真で古市監区の陵印が全て紹介されています。ここ2~3年、陵印への関心が高まっているように感じます。  

陵墓研究の道標

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2019年10月 6日(日)01時01分10秒
  もと陵墓調査官の福尾正彦氏が本を出すようです。
いったいどんな内容になるのか楽しみなのですが、お値段の方が‥
https://www.yamakawa.co.jp/product/52029
https://style.nikkei.com/article/DGXBZO18843180V21C10A1000000/
 

開聞

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年10月 1日(火)03時55分51秒
  ついに消費税率が10%になってしまいましたが、変な宗教に入っていませんか。

先月は、本年2回目の2週間におよぶ佐賀調査へ行ってきましたが、5月は連日の肥前鹿島通いでしたが、今回は連日の多久通いでした。
多久では、4ヶ月ぶりに青山霊園から移転改葬された多久男爵家墓と再会。

また、先週は、宇奈月温泉~欅平~富山~白川郷~飛騨高山~下呂温泉~郡上八幡~岐阜~名古屋と温泉旅行に行ってきましたが、白川郷はとても感動しました。


さて、昨年末か本年の初めだったか月刊『歴史研究』誌上に、岩﨑淳子氏寄稿のΓ後鳥羽神社と御陵」という報告が記載されていました。
佐賀に、何と後鳥羽上皇の伝承墓があると知り、当初、5月の佐賀調査の時に行く予定でしたが、蓮池の調査が延びたため行けず、今回、ようやく参拝することができました。

後鳥羽上皇の伝承墓は、安徳帝や長慶帝ほどではありませんが、意外と残されているんですね。
後鳥羽神社の参道からは、高さ10mほどの滝が正面に見え、本殿の左側にも3mほどの2ヶ所の滝があり、とてもいい環境でした。

本殿は、車道から右に30mほど進んだ奥ですが、御陵(塚)は、本殿の参道とは反対側の山を100mほど登った上に建造されており鳥居などはありませんが、方位は東南でした。
目測ですが、横幅5mほど、奥行きは15mほど、高さは1mほどでした。

案内板は、車道のトイレ前、本殿前、御陵前の3ヶ所に設置されていますが、内容が微妙に異なるため下記、要約して報告させていただきます。


善信寺の裏山に後鳥羽上皇のΓ山稜」と称される塚がある。
大正元年12月20日、塚の掃除の際、石棺が発見され、幅6巾(22cm)、長さ1尺1寸(41cm)、高さ9寸(34cm)、蓋石の内部にΓ御白骨2枚、西河左衛門大夫奉拝」の記あり、内部に頭蓋骨の頭頂部と上顎が残されていたと記録が残されている。
その後、石棺は寺の裏山に埋葬され、高さ2~3m、周囲15mの御陵を築くと記録に残されている。

西河左衛門大夫家房は、隠岐の島における警護の士で、ここ絹巻の里(鳥羽院)も隠岐領主家房の領地であった。
家房は、幕府の後難を恐れず、京都御所からの勅命により密かに船をだし、法皇はこの絹巻の里に還幸された。

その後、法皇は、延応元年2月22日、宝算60歳で崩御され教信寺の後方の小高き峰に玉体を
葬り奉る、その後、この塚に移しΓ後鳥羽山稜」と称している。

案内板に記載はありませんが、岩﨑氏の寄稿には、Γ宮内庁と相談の上、遺骨の半分は、大原の後鳥羽上皇陵に御納めと記されています。


行程は、佐賀駅から100mほど西(長崎方面)の国道を、ひたすら北上します。
15kほど走ると高速道路と交差するので、その下を過ぎると、やがて春日山鍋島家墓所への入口ですが、このあたりから道幅はやや狭まりますが、川沿いを走行するので景色は最高でした。
高速道路からほぼ10kほど北上すると、やがて三反野の交差点に着きます。

後鳥羽神社へは、この三反野の交差点を右折しますが、ここからは緩やかな上り坂が延々と続きます。
佐賀から三反野までは、完全な平坦道ですが、ここからはしんどく7kほどで左折しますが、ここからは更に急坂になり、とても変速がないと上れません。
左折し5kほどで、ようやく待望の後鳥羽神社に到着します。
佐賀駅から自転車で、ほぼ2時間30分かかりました。
ただ、帰りは三反野までは、ずーと下りなので、あっという間でした。

その後、春日山鍋島家墓所、倉町鍋島家墓所を参拝し帰路へ。
夕食は、いつものように、ガストとジョイフル、たまにリンガーハットで太麺の皿うどんでした。
 

断夫山古墳が発掘調査

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 9月21日(土)23時13分11秒
編集済
  名古屋市の断夫山古墳が発掘調査されるそうです。日本武尊の妻、宮簀媛の墓との言い伝えがあるようです。全長は約150mで東海地方で最大の前方後円墳です。

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM9L4281M9LOIPE00W.html

 

趣旨とは外れると思われる発言

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 9月17日(火)21時06分6秒
編集済
  新日本海様

当掲示板の、趣旨から外れると思われる発言は遠慮いただきたくお願いいたします。
 

天皇陵の管理人

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 9月17日(火)21時00分4秒
  天皇陵に管理人が居ますがあの人って宮内庁の退職組で年収1000万円貰っている人たちなのでしょうか?

大阪市バスの退職した人が市バスの交通整理で年収1000万円貰っている人が大問題になってますが、あの陵墓のカブに乗った人達は年収1000万円組なのでしょうか?
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 8月31日(土)22時21分13秒
編集済
   こんにちは。夏の終わりで天候が不順ですね。一雨ごとに涼しくなったり、蒸し暑い夏に戻ったりと、前線の南北移動に合わせて夏と秋が交錯しているようです。
 8月下旬に仕事絡みで大阪の堺市に何度か行きました。行った場所のすぐ近くにニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地:候補者・反正天皇)があり、周りを一周してきました。一周のうち8割くらいは公園や遊歩道で見学しやすくなっています。巨大な墳丘と広い周濠は貫禄十分です。とても美しい陵墓で、古墳の魅力を十分に堪能することができます。渡堤の近くの周濠にはガマの穂が生えていました。

 タケちゃん様
 御教示ありがとうございます。称徳陵については、陵墓の辺りの野原を高野といったらしいのですね。その高野と呼ばれていた場所は、西大寺の西方あたりか、今の称徳陵のあたりか、それともその両方を含むより広い範囲を指すのか、それがわかれば称徳陵がどこかの指標となりますが、すでに詳細は失われているのでしょうね。平城天皇陵についてもありがとうございました。近くに楊梅天神があり、その辺り一帯を楊梅と呼んでいたということですね。ありがとうございます。
 それと崇神天皇陵前の工事の日時もありがとうございました。この工事ではかなり大規模な改変が加えられたみたいですね。明治時代の写真では今の山辺部事務所の辺りから、拝所まで続くスロープだったのが、今の状況(事務所から拝所下まではほぼ水平、拝所下から堤を急な傾斜の階段)になっています。かなりの土砂を取り除いたと思われますね。なぜこのような工事をしたのでしょうか。興味は尽きないです。
 陵印保管場所についても御教示ありがとうございます。陵印保管場所が変わるなんて思ってなかったのでノーマークでした。一度資料を整理してみます。各陵墓にあった陵墓印がいつ頃、部事務所でまとめて保管されるようになったのかも知りたいです。タケちゃん様は以前、部の変遷を調べておられましたね。部の変遷は陵印保管場所にも関係するはずですので、以前書きこまれた内容を参考にさせていただきます。
 息長陵印の思い出、ありがとうございます。民家で捺印したという貴重な情報です。高遠さくら様の日岡陵の情報、吾平山上陵の陵印(平成4年頃)、光仁天皇陵の陵印を農家で預かっていたらしい(未確認)、高屋山上陵(宮内庁職員の方が夜間・休日は自宅に持って帰り保管されていた)等、確認できる例はとても少ないです。ありがとうございました。

陵墓マニア様
 陵印保管場所の変更の理由についてありがとうございます。元々各陵墓にあったのが部事務所にまとめられた理由は、人員が減ったことと、参拝者の便宜を図ってと言っておられました。(昭和50年代中頃)平成の陵印保管場所の変更も、やはり人員削減が理由であるように聞きました。(京都の陵墓で陵印をお願いした時、その2か月前に陵印保管場所が変わっており、宮内庁の方が人員減の事を話しておられました。私も公文書での確認はしておりませんが、陵墓マニア様のおっしゃる通りだと思います。ありがとうございました。かつては土日も勤務しておられる部事務所が多かったですが、今では全て土日は閉まっていますね。勤務体系の見直しもあるのでしょうが、人員は少なくなっているのでしょうね。数年前に垂仁陵に休日に行ったときに見張り所が開いていて係りの方がおられましたが、宮内庁の方ではなく、地域の方が委託を受けて来ていると話しておられました。
 今後もよろしくお願いいたします。

 一個人(いっこじん)という雑誌があるのですが、その8月号が『古代史23の謎』という特集です。別冊付録がついており『全国天皇陵集成』(32ぺージ)というタイトルで全98基の御陵の陵印と御陵地形図が載せられています。御陵地形図はおそらく陵墓図集成の物のように思います。すでに本屋にはなくなっていましたが、本屋で取り寄せてもらえました。



 

8月26日月曜日PM8:48

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月26日(月)20時48分30秒
編集済
  本日8月26日月曜日朝から京都陵墓巡り行きました。いつも週末平日に休みを取ってるのですが今週は火曜日~金曜日天候が悪いみたいなので月曜日休みを取りました。

京都伏見区 後宮塚陵墓参考地 (京都一番のラブホテル街の中)
      浄苔堤院塚陵墓参考地(準工業地帯だと思われる)
      72代白河天皇 成苔堤院陵
      74代鳥羽天皇陵安楽寿院陵
      76代近衛天皇陵安楽寿院陵
      中宮塚陵墓参考地(タカラショールーム隣)(準工)

京都市東山区  121代孝明天皇後月輪東山陵(英照皇太后)
        86代後堀川天皇観音寺陵
        鳥戸野陵
        仁明天皇皇太后澤子中尾陵(駒札新調中)(近所のゴミ集積場)
        77代後白河天皇陵
        阿保天皇東山本町陵墓参考地
        85代仲恭天皇
        86代後堀川天皇(職人は見えなかったが森の剪定中)
        朝彦/寂子内/森脩親王
        賀用宮墓地/久二宮墓地
        雲竜院宮墓地(灰塚)
        良純親王
        月輪陵(集合墓地)
        79六条天皇陵
        80高倉天皇陵(これは難しい一般的本に載っているあの写真どうしたら撮れるのだ)
京都右京区嵯峨 有智子内親王墓
        亀山天皇火葬塚(これは探し当てるの大変だった)
        98代長慶天皇陵  嵯峨東陵 (剪定中)
        99代後亀山天皇 嵯峨小倉陵
        52代嵯峨天皇山上陵  (情報では落石停止中??の為断念)
        91代後宇多天皇蓮華峯寺陵
        円山陵墓参考地(こんな隙間の奥の小山が?)
        入道塚陵墓参考地(北嵯峨高校の片隅に)

・仁明天皇皇太后澤子中尾陵・・・・墓横がゴミ集積場とはまさか未来にこんな羽目になってるとは思わないでしょうね。
・後宮塚陵墓参考地・・・・ラブホテル街の真ん中です
・晃親王墓(雲竜院付近)行くの忘れてしまった。残念また次回。
・泉涌寺の奥の庭園(300円)が無料開放だった。
・AM7:30拝礼スタート~~~~~PM16:35終了
・車(泉涌寺と二尊院に駐車)と自転車(車載)で巡回
・朝彦/寂子内/森脩親王、月の輪陵で他の拝礼者 のべ5人居たが他は一切出会わなかった管理人さんは居た所も有った。(121孝明天皇、77後白河天皇、76代近衛天皇陵は管理人さんが居た)


★で陵墓マニアさんに教えて貰った月の輪陵の奥の”民墓以外立ち入り禁止”の話ですが、泉涌寺本坊社務所の人に聞いてみました。3人の人が居たのですが年寄り2人はそんなものが有るのか知らないようでしたが残りの若い人は知っていてくれて ”あそこは非公開です”と教えてくれました。知った上で侵入するのは嫌だったので侵入後、立ち入り禁止の話を聞いてみました。

不思議だったのが泉涌寺の奥にある墓地で日陰の暗い所に管理もされていないような苔の生えた墓石は一体何なのだろうか?泉涌寺の奥にある墓は宮内庁、天皇職員の墓なのか?変な格好の天皇墓特有の形をしていました。頭の丸い独特な墓

>その周りに、そこに特別な感情をもって訪れている人たちがいる、ということを忘れないで行動してください

特別な感情を持った人が居るのは確かでしょうが、そうでも無い人も訪れているという事ですからね~~~それは伏見稲荷、伊勢神宮に参拝する人と一緒だと思います参拝する人はみんな同じ考えの人は居ないと思います。天皇陵って近年天皇の確立させるために無理から確定させたものですからそんなに由緒正しい物でないですから私はそんなに賢ばってません。西武グループの堤社長もドデカイ墓は有名で現地住込管理人が居るとか・・・
       
 

新日本海さま

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月18日(日)23時06分5秒
  >単に傾斜道奥まで行って駄目です看板が有ったら腹が立ちますよね
止められている道は孝明天皇陵の旧参道です
突き当たりが広くなっていて、そこが旧一般用拝所だったようです
拝所で止められて腹を立てる人はいないでしょう

>泉涌寺の敷地を通る訳ですから
あなたの土地を通らなければいけない場所に別の家の墓地があったとします
墓地の所有者の家とは知らない仲ではありません
そこへ見ず知らずの人が、墓へ行きたいので通らせて欲しいと声をかけてきました
あなたは、まずどう考えますか?
私だったら、「墓の持ち主と話はついているのか?」と問いますね

>京都宇治市万福寺周辺の墓
これは宇治陵のことかとおもいます
宇治陵は、四十数カ所に分かれていますが、公道に面しているか、公道から参道が延びているかですので、
しっかりした地図を持っていれば問題ないはずです

>宗教心は無く単なる写真の被写体として
その周りに、そこに特別な感情をもって訪れている人たちがいる、ということを忘れないで行動してください


 

>陵墓マニア様

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月18日(日)07時36分54秒
編集済
  ありがとうございます!(^^)!

>泉涌寺墓地への立ち入りだけを止めるならば、もっと奥に扉を設置した方が合理的です・・・単に傾斜道奥まで行って駄目です看板が有ったら腹が立ちますよね。。。だからと都合よく解釈したいです(笑)
良純親王墓に行くのは泉涌寺側に聞いてみます。泉涌寺の敷地を通る訳ですから。しかし確かに陵墓めぐりのブログを見ると他人地を通らないとイケナイ様な場所が有り焦ったと言う話がよくあります。住人に聞けば快くOKを出してくれるみたいですが・・・・特に ”い・ろ・は ”パターンです。 また住人の人も知らないケースも多く不審者に思われたと言うケースがよくありますね。京都宇治市万福寺周辺の墓は将来的に行ってみようと思いますが残念になるケースも多いと思います。昔は原野・田んぼの畦道に墓が建てられていたんでしょうが今は可哀想な状態になってますね。

拝観料の話は確かに最初は腹が立つと思ったがそんな事を抗議しても仕方ないしもし無償で通させてくれたとしても、心理的卑屈になるし500円位の事で目くじら立てる必要も無いと思いました。

私は高校時代よく自転車で清水寺を参拝しましたが宗教心は無く単なる写真の被写体として出かけていました。現在も同じ感じなので泉通寺はそんなに魅力を感じる寺ではないし先日拝観した所庭園部が臨時拝観停止になっており、それなら入場する前に言えよ!”と言う感じです。あだし念仏寺は入場する前に竹林は工事中見られません・・30年前にあった仏教会不動産屋VS京都市と揉め事も事前に拝観停止と看板・案内が有ったのに。一期一会になるかも知れない観光客に対して不親切で良い印象は有りません。

兎に角、月の輪陵の件は通路が泉涌寺側の管理する土地なので1番に今度行った時に聞いてみます。



 

新日本海さまへ追伸

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月18日(日)02時10分47秒
  泉涌寺は建物の外観も雰囲気あって良いお寺ですよ
私なら拝観料払って建物の写真も撮りまくりますし
追加料金払って御黒戸とか宝物館とかも拝観しますがね
月輪陵まで参入するのに拝観料が必要なのかについてはお寺に聞くべきでしょうが
良純親王墓が参拝可能なのかは月輪陵墓監区事務所に聞くべきだと思います
 

新日本海さま

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月18日(日)01時49分58秒
  月輪陵横の道の扉には、宮内庁による立ち入り禁止表示もあったはずですよ
そもそもその道は宮内庁の土地ですし、泉涌寺墓地への立ち入りだけを止めるならば、もっと奥に扉を設置した方が合理的です

実際に陵墓の参拝を始めれば理解できますが、陵墓の所在地は必ずしも公有地に面しているとは限りません
つまり、公道から陵墓へいたる間に第三者の土地を通らなければいけないところがたくさんあるのです
そうした場所は、参拝者だけではなく、宮内庁の職員も、他人の土地を通らせてもらっているわけです
宮内庁は管理者としての通行権が認められるでしょうが、参拝者が完全にシャットアウトされても文句は言えません
参拝者の行き過ぎた行為が周辺土地所有者の態度を硬化させる可能性があることと、
そうなった場合、非常に大きな影響が出てしまう可能性が潜んでいることは肝に銘じておいてください

さて、通常は境内に入るのに拝観料を取っている寺院があったとしましょう
その奥に陵墓があったとします
拝観料徴収所で、「俺は陵墓を参りに来たんだ 寺に来たんではない だから金を払う必要はないはずだ」と主張する人が来たらどうでしょうか?
お寺側にしてみれば、陵墓だけをお参りに来ているのか、そのあと境内をうろうろされるのか、本当のところはわかりませんよね?
(大抵の場合は、そうごねるとお寺もトラブルになるのを嫌がるため、通してくれるらしいですが・・・)
ほかのお寺の参拝者からみればどうでしょうか?
自分たちはお金を払って入っているのに、不公平感を覚えるはずです
これはお寺に取っては避けたい事態ですね
宮内庁にとってはどうでしょうか?
お参りいただくのは良しとしても、周辺の土地所有者との間に軋轢を生むような事態は好ましいはずがありません
だいたい陵墓好きならば歴史好きでしょうから、普通にお金払って、お寺を楽しむ方向に動くのが普通だと思うのですが・・・

宮内庁のホームページの文言は、あくまでも陵墓本体に対するものです
それが第三者所有の土地に対する免罪符になるようなものではないということは理解しておいていただきたいところです


 

>陵墓マニアさま

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月17日(土)07時33分34秒
  またまた回答ありがとうございます。でもあの駒札の意味は泉通寺側しか分からないと思います。シノギの檀家の墓を守る為に一見の泉通寺観光客を排除する為で天皇関係の事なんて眼中になく何とも思ってないかも知れません。天皇陵、泉通寺全部含めての客を差すのか泉通寺有料拝観客だけなのか・・・宮内庁のHPでは天皇陵に関しては公開されてると記載されてるがその他附随の天皇関係者の墓に関しては記載が無い。

一般天皇拝礼者にとってはなんで有料施設内に有るんだ!泉通寺なんて特に見る物ないのにお金を払わないと行けないじゃんと腹立つ感じです。平安神宮の有料施設内に置いての天皇家族の拝礼は社務所の承諾を得られればそこまで行けるようですが。その他京都北区のお寺内で全く公開されてない天皇関係墓もあるようだが。良純親王の墓を拝礼する為にはどうしても駒札より前に行かなくてはならない。

ま~私はどっちでも良いが、はっきりさせてもらいたいので今度泉通寺の関係者に聞いてみます。


-----------------------------------------

陵墓参拝のご案内
1.原則,年間を通して参拝できます。
ただし,次に掲げる日は,参拝の取扱いをしていない陵墓がありますので,事前に各陵墓監区事務所までお問い合わせください。
(1) 土曜日及び日曜日
(2) 国民の祝日に関する法律に規定する休日に当たる日
(3) 12月29日から翌年1月3日までの日
(4) 行事の実施,その他やむを得ない理由のため支障のある日

2.留意事項
(1) 参拝時間等
 ア 多摩陵墓監区事務所所管の陵墓
    午前9時から午後4時まで(参入は午後3時30分まで)
 イ 桃山・月輪・畝傍・古市各陵墓監区事務所所管の陵墓
    午前8時30分から午後5時まで
   (一部異なる陵墓がありますので,事前に各陵墓監区事務所までお問い合わせください。)
 ウ 陵墓の規模などにより,拝所までの所要時間が20~30分かかる所もあります。
(2) 参道は,玉砂利敷き・階段状・坂道等の所もあります。
  (車いすでおいでの方は,ご注意願います。)
(3) 車でおいでの方は,駐車場の有無をご確認ください。また,路上への駐車は,交通の支障及び近隣の迷惑になりますのでご遠慮ください。
(4) その他
 ア 喫煙等火災の危険がある行為はしないでください。
 イ 動物(盲導犬,介助犬及び聴導犬を除く。)を連れての参拝は,ご遠慮ください。

3.お知らせ
嵯峨天皇皇后陵においては,参道への落石のおそれがあるため,現在,参拝を停止しております。

  
 

陵印の保管場所について

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月17日(土)01時03分58秒
  度々話題になっている陵印保管場所の変化ですが、これは、対応可能な人員の勤務形態の変更によるものと思います
(公文書等で確認している訳ではありません)
 

新日本海さまへ

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月17日(土)00時51分55秒
  その場所に、扉があったり、竹が渡してあったり、柵が置いてあったりする理由をよくよくお考えください
某サイトのように「カギがかかってないから入っていいんだ」という考えが、社会のほかの場面で通用するのか、という点もです
参拝する側にも守らなければならない節度があります
それを踏みにじっていれば、いずれは、我々のような一般人の参拝そのものが難しくなってしまいます

 

Re 陵墓マニアさま

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月16日(金)21時46分34秒
編集済
  ご回答ありがとうございます。

>「民墓へ参拝以外は立ち入らないで下さい」・・・・これは妬んだヲタクが解釈すれば浮き浮きランラン素人天皇ヲタクが入るな!と読みも出来ますが一方で泉涌寺側が有料施設内で管理してる民墓に危害や荒らさないでくれ民墓に用の無いものは入らないでくれよ!と言う意味かも知れません。もし後者を泉涌寺側が思ってるなら天皇陵墓に参拝は駒札記載内容の対象外者になります。

>孝明天皇後月輪東山陵側からは回り込むことはできません。(その後私も投降後、色々調べてみました)
これは他のサイトで鍵が閉まってると記載されています・・・・でもいつも思うが生存天皇はセキュリティはもの凄く厳しいのに墓に関しては無茶苦茶甘く入ろうと思えば江戸時代以前の天皇陵。皇太后以下、簡単には入れます。(入った所で何も無いが)

今度行った時に聞いてみます。いずれにせよありがとうございます参考になりました。

私は天皇マニアではないので天皇になれない者は穀潰し(特に今の制度では女)だと思っています
 

(無題)

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2019年 8月16日(金)12時33分47秒
編集済
  皆さん、こんにちは。大変ご無沙汰しています。
最近は、正月に明治天皇陵へ5月に泉山御陵へ参拝しましたが、以前に比べ陵墓への参拝は随分と減りました。自宅で過去に調査した文献や書籍のコピー等で細々と研究していますが、齢50歳を過ぎ老眼で小さな文字を見るのが辛くなってきました。
さて、レプトンさまからの投稿内容を拝見し分かる範囲内でお調べしましたので、下記のとおり報告します。

レブトンさま
・天皇陵の陵名について
既にご存知のとおり、天皇陵の治定については、古事記、日本書紀、延喜式その他の古文献の記録や地名、地域伝承等により決定され陵名(陵号)も決められました。江戸末期の文久の修陵の際には、未定陵を除く天皇陵の陵名が上記に基づき一部を除いて決定され明治政府に継承されました。陵名の無かった近衛天皇陵、後亀山天皇陵、泉涌寺内の御陵については、明治12(1879)年3月13日に新たに陵名が決定されました。後白河天皇陵、後鳥羽天皇陵、深草北陵などの法華堂型陵墓については、過去にも投稿しましたが、明治39(1906)年3月23日に改名され現在に至っています。

・称徳天皇陵の陵名について
古代の天皇陵の陵名については、一部を除いて『延喜式』(諸陵寮)記載の陵名が、江戸末期の陵墓治定の際にそのまま陵名になったことは既にご存知のことと思います。
合田安吉編著『歴代御陵めぐり』(昭和11年11月発行)によると、陵地の名に縁りて高野天皇とも称し奉るとあり、陵地からの呼称のようです。
また、宮内庁書陵部所蔵の谷森善臣著『山陵考』(新人物往来社発行「文久山陵図」所収)には、「御陵号の高野といえるハ、この辺より西大寺にかけての野原をよへる名なるにや(以下略)」とあり、地名から陵名が決定(採用)されたものと思われます。

・平城天皇陵の陵名について
 上記、宮内庁書陵部所蔵の谷森善臣著『山陵考』(新人物往来社発行「文久山陵図」所収)によると「平城天皇の御陵なり、大和国添下郡常福寺村にあり、字をねぢ山とよふ、(中略)此ねぢ山より六町許南に楊梅天神とよふあり、是この辺いにしえ押なべて楊梅と呼へりし名の傍の社号に残りたるものなるへし(以下略)」とあり、称徳天皇陵と同じく地名から陵名が決定(採用)されたものと思われます。

・崇神天皇陵拝所前階段等改修時期について
 過去に投稿された崇神天皇陵の拝所前改修時期について、確証が取れなかったため投稿を控えていましたが、奈良県立図書情報館保管資料により判明しました。
 「明治天皇紀」等によると崇神天皇陵は、拝所等の改修工事は明治33(1900)年2月着工し9月に完成しています。

・陵印の思い出
 昭和56年の夏休みに、当時中学生だった私は、交通機関と自転車を利用し米原市村居田にある敏達天皇皇后廣姫息長陵を参拝しました。集落内に入り御陵の場所が分らなかったため、集落内の民家前におられた人に道を聞いたところ、御陵の場所と一軒の民家を教えてくださいました。御陵参拝後、その民家に行き玄関の土間で、小さな陵印をメモ用紙に押印させていただきました。陵印は御陵の前の事務所(見張所)で朱印帳等に貰うものだと思っていたので、不思議な感じがしましたが、今思うとその民家は、陵守の方のお宅だったかもしれません。
 また、過去にも投稿させていただきましたが、手元に昭和58年以降の「御陵所在地一覧表」があります。「御陵所在地一覧表」には、陵印保管場所も記載されています。

 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
 

泉涌寺周辺

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月16日(金)01時25分18秒
  泉涌寺の月輪陵・後月輪陵は、拝所前の道から横へ回れば石塔が見えるらしいですが、宮内庁関係者および奥の墓地の関係者以外は立ち入り禁止です。
添付されている写真は、立ち入り禁止表示を勝手に都合良く解釈して侵入して撮影しているものです。
雲龍院内墓地も同じ道から分かれて上がっていくので、こちらもサイトの写真は無断侵入です。
一般参拝者は近づくことはできません。
また、孝明天皇後月輪東山陵側からは回り込むことはできません。
 

初めて投稿します初心者です

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月15日(木)07時35分33秒
  初めまして初めて投稿します。京都の神社仏閣参拝を回っていたのですが近くに巨大な天智天皇陵がデカく地図に載っているので興味本位で一度足を伸ばして行ってみようと言う事で行ってみましたがとても良い所だと思い他の所も行ってみようと気温が下がる9月から計画してるのですが京都東山泉涌寺の裏に有る天皇陵群でよく分からない事が有ります。ネットで調べると月の輪陵は泉涌寺の拝観料500円払わないと見れない事が分かったのですがその足で月の輪陵の内部(墓石が数十体)も見れるのでしょうか?内部は他の道を探さないとイケナイのでしょうか? また泉涌寺500円払わなくても雲竜院宮墓地、もしくは孝明天皇後月輪東山陵から回り道をすれば月の輪陵にたどり着けるのでしょうか?  https://ryobo.fromnara.com/photo/205-4L.jpg

この泉涌寺裏手は森で囲われており上空写真を見てもはっきりと道が分かりません。また他の人の天皇陵探索個人ブログを見ても天皇陵/親族/参考地は分かり難いにも拘らず(難しいと言っておきながら)それを案内した人がいません。

あと不思議に思ったのは天智天皇は山科で行方不明になり靴が落ちていた・・・それでそこを天皇陵として作った・・・・これって変ですよね? 天智天皇陵の奥に古墳が有る事になっていますが常識的に考えて無理が有りませんか?
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 8月10日(土)18時19分47秒
編集済
   こんにちは。奈良でも毎日暑い日・酷暑日が続いています。暑さに弱い私はバテバテです。
今週はあちこち出かける用事があり、垂仁陵・安康陵・成務陵・称徳陵・平城陵・ヒバス姫陵・舒明陵・大伴皇女墓・後醍醐陵・世泰親王墓・近衛陵・鳥羽陵・白河陵・後宮塚参考地・中宮塚参考地に行ってきました。
 近衛陵・鳥羽陵には『陵墓内で猫にえさを与えないでください。宮内庁』隣接する安楽寿院でも『境内で猫にえさを与えないでください。安楽寿院』の看板がいくつか建てられていました。確かに猫の物らしき糞がいくつかありました。奈良公園近くの陵墓でシカの糞があっても、まあ奈良らしいか・・・で許される気がしますが、(奈良市民の驕り?)猫の糞は困りますね。宮内庁の方も安楽寿院の方も苦労されているようです。鳥羽陵では堀の所に『この堀の生物を取らないでください』の看板もありました。猫の看板も、堀の看板も他の陵墓にはない看板ですね。竹田周辺の陵墓の置かれている状況を表していますね。
 白河陵はこじんまりとしていますが、拝所側だけでなく、裏側(西側)も美しくて印象的です。後宮塚参考地はホテル街の中で窮屈そうにぽつんとありました。とても狭い参考地ですね。

 大伴皇女墓は舒明陵や終末期の陵墓と同様に三方山囲みの南面する作りであると説明板にありました。詳しいことはわからないながらも、舒明天皇と近しい皇族の陵墓の可能性がありそうです。大伴皇女墓は一般配所と特別配所の区別がなく、特別配所で参拝できる感じで嬉しいです。他には、吉備姫王墓が特別配所までは入れたと思いますが、(ここ3年ほど行ってないのですが、今もおなじでしょうか?)昭和50年代に宮内庁の方に伺った話では、4つある猿石を見学する観光客のために特別に開けてくださっているとのことです。

 垂仁陵はいつも広々とした濠が気持ちよい陵墓です。サギのコロニーが昔からありますがどんどんコロニーの範囲が広がっているようです。(かつても書きましたが菖蒲池遊園地にサギのコロニーがありましたが、遊園地閉鎖後垂仁陵に移ってきたのではないかという気がします。今回はカワウもいました。垂仁陵もサギの糞で白くなっていますがこれも自然の物だから仕方ないかな。今回は糞の話題が多くてすみませんでした。

 暑い毎日ですが、皆様お体気を付けてお過ごしください。
 

称徳天皇陵の可能性が指摘されている所

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 6月30日(日)00時58分17秒
編集済
  1か月にわたり何度も編集・追記したので、構成がばらばらで読みにくい文章になってしまっています。お恥ずかしい・・・。支離滅裂になってしまいすみません。

GWに称徳天皇陵の可能性があるといわれている、奈良市西大寺高塚町の鷹塚山不動尊(数m隣に並んで鷹塚山大権現がある)と西大寺竜王町にある竜王神社に行ってきました。

西大寺高塚町の鷹塚山地蔵尊と鷹塚山大権現は小高い丘の上にあります。奈良自動車学校から南西に直線距離で200m程度です。付近一帯は住宅街になっており、同所だけ高まりのあるこんもりとした森になっており、周囲からでもよく目立ちます。小さな丘ですが、頂上には木が茂っています。自動車学校は近鉄奈良線すぐ南側にあるので、鷹塚山地蔵尊の丘も電車から見えるかもしれません。この地の地名が西大寺高塚町というのはこの鷹塚山によるものであると思われます。この辺りはあやめ池撓曲が走っており、周囲は撓曲崖なのか、急な傾斜になっており、東西に尾根とその南北に低くなっている斜面があります。鷹塚山不動尊の丘はその尾根上の高さ数m~10m程度の高まりを持つ丘です。(南側は傾斜になっているので基準が決められず、比較的平坦な西側・北側から見ると数m程度の高さに見えます。)
 西大寺資材流記帳の寺域には西の端の山陵八丁を除くと記されており、西大寺の寺域の西側にあったことがわかります。後世の絵図には「本願天皇御廟」とあり、本願天皇とは、西大寺を勅願で建てた孝謙(称徳)天皇を指します。
 ※西大寺資材流記帳
  正式には西大寺縁起ならびに流記資材帳 宝亀11年(780年)12月にできたもの。現存は  後世の写し(鎌倉時代?)
 西大寺の寺地についての記載
  『居地参拾壱町 在右京一條三四坊 東限佐貫路除東北角喪儀寮 南限一條南路 西限京極路除山陵八町 北限京極地』

  ※奈良県遺跡地図では、平城京条坊復元図が付録でついています。その地図では
  復元した西四坊大路~西三坊大路と北一条大路~南一条大路に囲まれた区域の北半分が『称徳陵兆域?』と記されています。このエリアは鷹塚山大権現・鷹塚山地蔵尊は範囲外ですが、後述する竜王神社は入っています。




 称徳陵は数千人の人間を動員して短期間で作られたことが記録にあります。(6300人・約2週間)西大寺の西端で、今は奈良自動車学校の辺りに、称徳天皇の真陵あったのではないかといわれているようです。鷹塚山地蔵尊の丘はその候補地の一つです。


同所は西大寺寺域の西側で位置的には記録に合います。また小さな丘、信仰が続いているなども留意する点かと思います。地名が高塚町というのも、墳墓を連想させます。また、近くに西大寺宝ケ岡町という所もあり、墳墓の副葬品を連想させます。宝ケ丘町からは奈良時代の古銭(開基勝宝)や金延板・金塊が出土しています。(奈良県遺跡地図に記載)

 ※ただし、宝ケ丘という地名は古くからある地名ではなく、宅地化が進んだ昭和期につけられたもののようです。(地名変更時期については調査中)また、古銭・金延板・金塊の出土地は開基勝宝の鋳造所であった可能性が高いようです。開基勝法が発掘されたのが昭和12年12月8日で、宝ケ丘という地名がそれ以降につけられていると思われるので、この発掘成果を受けて町名にした可能性があります。陵墓の副葬品を連想すると書きましたが、安直だったと反省しています。

 ※7月26日に開基勝宝出土地を見ようと歩いてきました。現地は住宅・航空自衛隊官舎が立ち並び、出土地がどこであるかを確かめることはできませんでした。かつての小字名は畑山です。(出土地を奈良県畠山遺跡と書かれていることもあります。)宅地造成のために地山を均していた時に、金板が鍬に引っ掛かり、さらに開基勝宝が26枚、翌日に5枚の軽31枚が出土したとのことです。金塊2個も出土しました。(ここでは金板1、金塊2、開基勝宝31、記録にはない銀貨の破片が出土しています。)開基勝宝は江戸時代に西大寺境内で1枚見つかり、昭和の31枚はこれに次いでの発見であり、昭和に発見された金銭は東京国立博物館にあるそうです。開基勝宝は日本初の金貨であり、発見数はここに記した2か所からの32枚しかありません。(当時流通したかも疑問視されているようです。)開基勝宝は重要文化財に指定されています。
 また、称徳天皇の山荘跡もすぐ隣接しているので歩いてきました。細い道が通っています。この時期は草に覆われていましたが、小さな森と池(湿地)がありました。池(湿地)にはガマが生えており、茶色いガマの穂がたくさんできていました。この池が山荘の庭園の池であったと伏見町史に記されています。夏は草まみれでマムシ注意の看板が2~3枚ありました。見学は冬がよさそうです。周囲がすべて住宅街になっているのに、この場所に森があり、奈良時代の池が残っているのは、この地が西大寺の飛び地になっているからです。現地には「西大寺境内」の石標が建っていました。
 伏見町史(昭和56年発行)には「開基勝宝出土地はすぐ東側が称徳天皇御山荘に比定されているので、これとの関連を考えておく必要があるかもしれない。」と記されています。


 ※
次の報告書には、称徳天皇山荘跡の庭園について調査結果が記載されています。
『伝称徳天皇山荘の庭園の池は南北18m、東西55m程度で、中央西寄りに中島がある。谷の最奥部の湧水を堤でせき止めて作った池、西側と北側に大きな建物跡があり、西側から池を隔てて東の山々を臨む形式になっている』
『日韓の古代庭園シンポジュウム』発表論文 日本 庭 園 学 会 誌11,27-43,2003
 平城京の古代庭園 Remains of Garden in the Ancient Nara Capital
 高瀬 要一 奈良国立文化財研究所
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgarden1993/2003/11/2003_11_27/_pdf/-char/en


鷹塚山については次のサイトに詳しく紹介されています。
奈良の名所・古跡
https://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/602cab00524db5a0e1804b9149d8b861

写真1枚目は鷹塚山地蔵尊と大権現(大権現は右側にあります)
写真2枚目は東側の奈良自動車学校前(南西端)から見た鷹塚山地蔵尊の丘



続いて、西大寺竜王町にある竜王神社です。こちらは奈良自動車学校から南東に直線距離で2~300m程度のところにあります。東西に延びる尾根上南側に位置しています。岡と呼べるかどうかは微妙な感じです。今は竜王神社となっています。阪南大学の来村多加史教授は風水の見地から、ここが称徳陵であるとの説を出しておられるそうです。(次のサイトに詳しく紹介されています。)

倭は国のまほろば・・・残された情景を訪ねて
https://ameblo.jp/benben840105/entry-12057306323.html


来村多加史教授の著書
風水と天皇陵
講談社現代新書
作者
来村多加史
販売会社
講談社/
発売年月日
2004/09/20

写真3枚目が竜王神社


私の知人は竜王神社から200m、鷹塚山から500m程度の場所に立つ中学校の卒業生です。(西大寺宝ケ丘町に道を挟んで隣接している所に立つ学校です。)その学校の校歌の出だしは『高野の原の名は芳しく・・・・』(たかぬのはらの なはかんばしく・・・だそうです。1947年創立の中学校の校歌にうたわれるように、この辺りを『たかぬのはら』と認識していたようです。


このように、称徳天皇陵については、記録から西大寺西側であることはほぼ間違いなく、その候補地として紹介した2か所が挙げられます。この地域がなぜ『たかぬのはら』と認識されていたかは調べられていませんが、地名も高塚・宝ケ丘など陵墓を暗示している可能性があります。しかし当時の山陵造営工事がどれくらいの規模であったのかはっきりしませんし、その後の開発等による地形や地表の変化もあるでしょう。もともと起伏の激しい地形でもあり、安易に結論を出すことはできない状況のようです因みに孝謙・称徳天皇の呼び名はいくつかありますが、続日本紀では『高野天皇』と記載されており、高野姫天皇といわれることもあるようです。陵名を高野陵というのは、この天皇の名前と関係するのでしょうか?この辺りに詳しい方、教えてください。
※高野天皇の高野は、?御陵名から  ?山荘のあった地名が高野だった  などの説があるようです。?ならなぜ陵名が高野陵なのかの疑問が更に続きますが… (天皇の名前が先か、御陵名が先か?まさに卵が先か鶏が先か状態・・・) ?の山荘のあった場所辺りが高野と呼ばれていたかはわかりません。(先述した中学校校歌に歌われているように、そのあたりを高野の岡と呼んでいたらしいことはわかりますが、はっきりしたことはまだ確認できていません。)

(話とは関係ありませんが、平城陵をなぜ楊梅陵というか気になり調べると、近くに楊梅神社というのがある(あった?)ようです。今は東院庭園になっている北側の神社が、かつての一時期、楊梅天神といわれていたようです。ここは平城天皇の楊梅宮跡との説もあるようです。
奈良まち歩き風景紀行 https://narakanko-enjoy.com/?p=19450
ハニーちゃんが行く https://ameblo.jp/tweet-tweeties/entry-12279113310.html
それと楊梅陵の名称にどのような関係があるのか、どなたかご教示ください。最後に住んでいた離宮の名がそのまま陵墓名になったのでしょうか?)


ウィキペディアの記載より
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐紀高塚古墳
 宝亀元年8月4日西京で薨去
 即日、作山陵司などの諸司が任ぜられる
 鈴鹿王旧宅の場所に山陵を作る
 畿内近国の役夫6300人で山陵造営
 8月17日 高野山陵に葬る

 延喜式では遠陵 高野陵 兆域東西5町 南北3町 守戸5姻を毎年充てる

 鎌倉時代の大和国西大寺往古敷地図により、東側である現陵に充てる説が出て、その後江戸時代には五社神古墳(現神功陵)が充てられた。



高遠さくら様
 情報ありがとうございます。ええー!そうなんですか?日岡陵の陵印が民間宅で保管・管理されていたこと初めて知りました。当時は民家に預けてある例もあったとの記載はいくつかの書物にありましたが、具体的な例は少なく不明でした。私自身が民間宅で捺印させていただいたのは吾平山上陵だけです。(宮内庁の方の親戚で、交通の便利な町の中心部に近いところで商店をしておられました。)ほかには、田原東陵の陵印が近くの民家に預けられていたという話を聞いただけです。民家での保管の貴重な例です。ありがとうございました。


平野塚穴古墳発掘調査についての記事

産経新聞の記事
https://www.sankei.com/life/news/190625/lif1906250039-n1.html


江戸時代に顕宗陵に充てられていたこともある平野塚穴古墳の発掘調査の記事が載っています。被葬者は天武天皇縁の人物ではないかと書かれています。茅渟王墓(片岡葦田墓)の声も上がっていますが・・・。
平野塚穴古墳と周辺の古墳(消滅も含めて)については、以前POM様が詳しく紹介・考察をしておられます。(2012年5月18日のご投稿)POM様も同投稿で茅渟王片岡葦田墓の蓋然性が高いと述べられています。
POM様、高野陵等についてまたご教示ください。


※高野陵はかつて(昭和50年代)宮内庁の方に「たかぬのみささぎ」と読むことを教えていただきました。最近ネットでの御陵紹介などでは「たかののみささぎ」と規されていることが多いです。正しくは「たかぬ」でよいのでしょうか?宮内庁のHPでも「たかの」と記載されています。基本的な質問でお恥ずかしいですが…
 

東開聞

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 6月24日(月)02時25分9秒
  早いもので今年もほぼ半年が、また新元号に変わり2ヶ月が経過しようとしていますが、変な宗教に入っていませんか。


5月には佐賀に10日間、島原に7日間滞在し連日の調査でしたが、最終日に鹿児島に寄り鹿児島空港から帰宅いたしました。
それにしても島原は、お城も温泉もあるし暖かいしとてもいいところです。
現在は、のんびりと調査記録の整理分析をしながら報告書の制作をしているところです。

鹿児島では、10年振りぐらいに川内の可愛山陵を参拝してきました。
島原から川内までは近く、島原港から熊本港までは高速フェリーで30分、熊本港からはほとんど1本道で西熊本駅まで自転車で45分、西熊本駅から新八代駅までは普通で30分、新八代駅から川内駅までは新幹線で33分ですが、乗り継ぎが悪く新八代駅で50分待ちとなってしまいました。

その後、姶良市の紹隆寺で島津千百子さんの墓参をしてきました。
千百子さんは、島津齊彬公の異母弟島津久光さんの正室で、島津忠義公爵のご生母になります。
忠義公爵の息女は、久邇俔子さんと山階常子さんですので千百子さんは二人の祖母に、香淳皇后の曽祖母にあたります。

墓碑銘は、西雲院殿慈一貞心大姉
神秀光慈霊姫命
没年の刻字は無く、墓形は宝篋印塔です。

天皇家の先祖でも以前、報告したように鳥居小路信子さんの旧石が廃棄されたりしましたが、千百子さんの墓所は、末永く護持されることでしょう。


実は、今春から青山霊園内の華族墓の写真の撮り直しを始め、ようやくほぼ半分が終了しました。
何回か撮り直しはしていますが、墓所の小さな改修や、天気や逆光などの影響で綺麗に撮れていないものもあるので。
そんな中、先週、何と多久男爵家の墓所が更地になっていました。
多久家は、戦国期に九州を島津家、大友家とともに領した龍造寺家の後裔になります。
警告札は立てられてはいませんでしたが、同家には嗣子無く高齢の未亡人だけなので国許へ改葬されたと思われます。


さて、レプトンさんの陵印の保管所に関する書きこみを見て、ふと昔のことを思いだしました。
昭和50年ごろ日岡御陵へ行くにあたい陵印はあるのだろうかという疑問が生じました。
今みたいにネットですぐに検索できる時代ではなかったのですが、とりあえずムーンライトながらの前身である大垣行きの夜行に乗り翌朝の10時ごろ山科駅に着きました。

天智天皇陵を参拝した後、同所の職員の方にお聞きすると、わざわざ調べていただきましたところ、確か日岡御陵の近くに住む方が保管されているということでした。
その後、山科駅から新快速で加古川駅へ、加古川線で日岡駅で下車し御陵を参拝しましたが、結局、保管者宅はわからずじまいでした。

私は、レプトンさんとは異なりあまり長続きはせず、陵印の収集をしたのは僅か3年ほどでした。
今となっては集印帳を、どこで購入したのかも定かではありません。
多分、京都駅ビルだったかな。
 

安康天皇菅原伏見西陵

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 6月13日(木)04時54分0秒
編集済
   こんにちは。令和時代になりました。以前と変わらずよろしくお願いいたします。
今日、仕事帰りに安康天皇陵に参拝しました。よく整備されていて美しい御陵です。一般拝所も薄くですが砂利に線が引かれていました。最近御陵の松が伐採されることが多くなりましたが(垂仁陵・平城陵など)ここは松が見事です。
 一般拝所の片隅に写真のように小さな木が植えられていました。1枚目は枯れた松の切り株の横に小さな松の苗が2つありました。(
枯れた松は髄の部分が直径20㎝程度残っています。その周囲の部分は腐って無くなっていますが、樹皮の部分が残っており、髄より外側に10cm程度のところにあり、元は直径40㎝強の大きさの松であったことがわかります。他の2か所はアジサイと私の知らない植物(斑入りの葉の植物)の苗でした。枯れた松に代わり、大きく成長して今後何十年もこの御陵で他の松とともに美しい風景を作り出してくれるのでしょう。宮内庁の方はこのようなこともしてくださっているのですね。

 称徳天皇の真陵の可能性があるといわれている鷹塚山地蔵尊(鷹塚山大権現も同所)と竜王神社も見てきました。こちらについても改めて紹介します。
 

仲哀天皇恵我長野西陵

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 6月 4日(火)16時51分41秒
  前月は日本を離れている事が多かったのです。

宮内庁のHPによると6月6日武蔵陵墓地・6月12日明治天皇陵、月輪陵・後月輪陵における参拝の停止の
お知らせが掲載されています。

本日 私は雄略天皇丹比高鷲原陵と仲哀天皇恵我長野西陵に参拝してきたのですが
恵我長野西陵では濠に舟を浮かべ職員の方が作業をされていました。

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

陵印収集

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月30日(火)21時06分33秒
編集済
  こんにちは。レプトンです。いよいよ平成最後の日になりましたね。

個人的な話になってしまいますが・・・・
 平成が終わるといわれてもピンときてなかったのですが、新元号が発表されたら、急に去り行く平成の時代が愛おしく感じられるようになりました。そこで気になったのが、まだ完了していない陵印収集の事でした。平成3年の年末に集印軸を購入し、まず鹿児島から参拝を始めました。ゆっくり集めていたのですが、陵印が5監区に集められるようになってからは行っていませんでした。そのため百舌鳥の3陵と崇徳陵だけ捺していないままでした。百舌鳥の3陵は参拝していますが、崇徳陵は行っていない・・・でも平成中に完了したい…そこでまだ参拝していないけど、平成中に完成させることを優先し、昨日応神天皇陵に行ってきました。集印帳と合わせても8回捺印するだけの事でしたが、軸の方の崇徳陵の陵印を押すのを忘れてしまうという失態を犯してしまいました。昨日夕方に電話をすると朝8時半から対応してくださるとのことで、今日再び捺印しに行ってきました。これでやっと陵印の掛軸が完成しました。平成の終わる2日前に完成させるはずがぎりぎりになってしまいましたが、何とか間に合いました。昨年末にDADA様が天皇陵参拝と陵印をコンプリートされたという報告を聞き、私も平成中には・・・という気持ちを起こさせてくださいました。私はまだ崇徳陵・後花園陵など行けてない所があります。
 ところで、昨日古市陵墓監区事務所の方の話によると、昨日お昼ごろに行った私が昨日の4人目だったそうです。私と同じように「平成中に・・・」と考えておられる方が多いようですねと話しておられました。畝傍監区でも後醍醐陵印だけ集印帳に抜けていたので戴いたのですが、私が入って2~3分で次の方(ご夫婦)が来られ、そのすぐ後にも次の方が待っておられたようでした。代替わりの今、陵印収集が以前より注目され、収集される方が増えているようです。
 陵印の集印帳を作成しておられる京都の杉本工芸さんのHPでは、天皇陵印帳が品切れ・少数作成などの文字が書かれています。詳細は知りませんが、天皇陵印帳を求める人が多くなっていることによるものかもしれません。

 平成時代に購入した掛軸・集印帳での集印は完了したので、新時代・令和でもまた新しく天皇陵巡りと陵印収集をしたいと思っています。


 私の集印した昭和天皇陵はまだ昭和天皇武蔵野陵の物です。その後昭和天皇武蔵野陵香淳皇后武蔵野東陵に切り替わりましたが、これは新陵印の切り替えの唯一の(?)例です。香淳皇后御逝去後のいつぐらいに切り替えられたのでしょうか?ご存知の方がおられましたらご教示ください。

 また、陵印を管理していた場所の移り変わりにも関心を持っています。新印を管理していたのは昭和50年代は部事務所でした。その後監区事務所に集められます。(皆様ご存知のように淳仁陵・崇徳陵が最後まで残っていましたが、その印が古市監区に移されて完了します)
 しかし、部事務所→監区事務所の動きだけではない、印の保管場所の変更があります。私の知っている例を挙げると
 ・押坂部の印が昭和55年頃山辺部に預けられていたが、その後押坂部管理になった。
 ・平成になったころ、佐紀部の印は土曜午後・日祝日は垂仁陵で保管(昭和50年代中頃はずっと垂仁陵保管だったような気がする。不確かな情報)
 ・奈良県内の各部の印が畝傍監区に移される前の一時期、奈良県内の印は畝傍監区と檜隈部の   2カ所に分けられて保管されていた。

 ・深草部の印は平日は竹田の近衛陵、土曜午後日祝日は深草北陵へ移されていた。(バイクで届 くと宮内庁の方が言っておられた)
 ・後村上陵は同所または観心寺にあったが、昭和60年頃には用明陵に移されていた。
 ・吾平山上陵印は個人商店に預けられていた。その後陵前の観光物産館(だったかな?)に移される
 ・平成12年には神代3陵印は可愛山陵に置かれていた。
  ・昭和50年代には藤井寺部の印は仲哀陵にあったが、平成4年頃には古市監区に置かれていた。
 ・高屋山上陵印は同所で。夜間休日は職員の方が自宅で保管。
  その後可愛山陵へ。このころ、神代陵は可愛山陵に2印、吾平陵前物産店(?)に1印となる。

 ・新印ではないが、旧陵印の光仁陵印は近くの民家に預けられていた時もあったらしい。

次の3点は自信がない情報です。間違っているかもしれません。
 ・後花園陵の印は同所にあったが、いつの時か他の部に移されていたように思う(自信ないです)
 ・醍御陵、朱雀陵は宇治陵で保管。その前は天智陵と違ったかな?(自信ない情報です。)
 ・淳仁陵印は同所・不在時は万福寺だったが、平成14年頃には常に万福寺に預けられていた?

 陵印保管場所の変遷も年月日をはっきりさせて記録に残したいのですが…
当時もらった陵印保管場所の資料は、そのころはあまり保管場所の変遷にはあまり興味がなくほとんど残していません。(記録しなくても記憶してるから大丈夫と思っていましたが、記憶もあいまいになり、ちょこちょこ保管場所が変わった頃は陵印に関して空白時期でした。)


2010年6月27日の大垂水酔鳥様投稿の写真は貴重な資料になります。ありがとうございます。このような宮内庁発行のプリントや、集印帳の案内などを集めて、編年・年表を作りたいものです。

 先日旧陵印について御教示くださったこまいぬ様がご自身のHPで天皇陵印についてまとまった記事を書いておられます。卓越した考察を披露しておられます。


昨日応神天皇陵を始め、古市古墳群を見て回りました。応神陵→安閑陵→安閑皇后陵→日本武尊陵→清寧陵→仁賢陵→仲哀陵→仲津姫陵→允恭陵と回りました。土師ノ里駅前の自転車駐輪場がしているレンタサイクルがとても便利でした。陵印捺印も含め2時間で回れました。機動力が凄い!時間は関係なく250円です。安くて便利。古市古墳群巡りにはお勧めです。(崇徳陵印だけの捺印のために今日も利用しました。30分でも250円ですがとっても便利でした。)古市古墳群はあちらこちらでボコボコと古墳があって楽しいですが、建物の陰に隠れて見通しが悪いのと、陵墓の場合参道入口への道がわかりにくいので、自転車だと助かりました。仲哀天皇陵は拝所全面の道がずっと通り抜けになっており、周囲も回りやすく見学しやすいですね。



後2時間余りで平成が終わります。色々ありましたが、幸せないい時代だったと思います。
令和の時代もみんなが幸せであることを祈念しつつ、新時代の幕開けをカウントダウンします。
新時代も皆様よろしくお願いいたします。

 

薩摩川尻

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 4月30日(火)02時23分39秒
  全国の同志の皆さま、平成も残すところ1日を切りましたが、変な宗教に入っていませんか。
しかし、平成が誕生した時も元号ではありませんが51代平城天皇と濁点の有無が異なるだけでしたが、令和も江戸期の明和と感覚が近いと感じています。

さて、昨年末が廃棄期限であった青山霊園の片岡利和男爵家の墓所は1年延期されており、染井霊園の酒井忠積家の墓所は廃棄から連絡くださいに変わっており当面の間、廃棄の危機から脱した感じです。

そのような中、旧皇族墓にも遂に廃棄警告札が東京都から出されてしまいました。
同墓は、染井霊園の徳川圀禎家の墓所で、徳川圀禎は水戸徳川公爵家の分家で同室が北白川宮成久王の第二女子多恵子女王になります。
圀禎には嗣子が無く継室が祭祀を継承していましたが、高齢となり管理費が滞ったことが原因のようです。
期限は、令和元年12月28日になります。

墓誌の銘文は、下記の通りです。

德川圀禎   昭和六十一年四月二十一日 行年七十一才

同妻多惠子  昭和廿九年十一月五日   行年三十四才


さて、令和初の書き込みが何方になるのか気になるところではありますが、管理人の福山さまが新たなスタートに触れられることが一番かと。
 

こんにちは

 投稿者:あき  投稿日:2019年 4月27日(土)22時33分31秒
編集済
  菊姫様の件、詳しく教えて頂いて有難うございました。丁度本でみつけて、詳しく知りたかったので、大変勉強になりました。この方は、近衛のお姫様で、幼くして健康上お気の毒なことがわかり、京都の薄雲御所(皇女、女王や近衛の姫君が御前様と呼ばれる住職につく尼門跡寺院)の御紹介で、こちらの御寺に移られたとのことでした。見事な刺繍?(白黒でしたので…)の美しい着物の遺品が載っておりました。この尼門跡寺院(再興により現存)は記録によると室町時代からあり、近衛家は御存じのとおり大変古くからの名家ですので、いつのことだろうと思っておりました。時代がはっきりかかれていなかったのですが、江戸時代だったのですね。思えば、あの豪華な衣装のデザインは江戸時代らしく感じました。言い伝えというのは興味深く、素晴らしいものに思います。有難うございました。  

西大山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 4月21日(日)04時06分10秒
  全国の同志の皆さま、平成も残すところ数日になりましたが、変な宗教に入っていませんか。

今月は、10日間、萩まで調査に行っておりましたが、気温はそこそこでしたが風が強くとても寒い毎日でした。

初日に15年ぶりに物部神社神職家の金子男爵家墓所を参拝しましたが、何と旧石は残され集積されているものの3基を残し改葬されていました。
前回の島根調査の時に行っていればと後悔です。
また、最終日には、話題の元乃隅稲成神社を参拝しましたが、とにかく便悪過ぎですがとても感動しました。

さて、今調査中に1ヶ所だけですが伝承墓を参拝いたしましたので、報告させていただきます。

仲哀天皇殯葬地

実は、ここも便が悪過ぎで疲れた1日でした。
行程は、山陰線の滝部駅から豊田西市行きのバスなのですが、朝に2本あるものの、その後は昼までありません。
豊田西市からは下関・小月行きのバスに乗り換えて石町で下車した後、8kほど徒歩で華山の山頂をめざすことになります。
ただ、私は滝部駅近くの西楽寺に寄るためこの行程となりましたが、山口県北部からだと長門市駅から下関・小月行きで、南部からだと小月駅から長門市・青海島行きのバスに乗車してください。

徒歩区間は、最初の1kほどは平坦ですが、その後は絶えず登り坂なので、まったく距離感がつかめませんが、途中に徳仙の滝があり癒されます。
歩くこと90分ほどの山頂近くで、左折し50mほど下ったところから山道を600m上り下りすると、ようやく殯葬地に到着です。
実際、山道の入口まで舗装道があるため車を利用すれば、1200m歩くだけですみます。
私は、滝部駅から山道の入口まで自転車でしたが、華山の往路は90分も自転車を押して上りましたが、さすがに復路は速く15分で下ってきました。

さて、陵域の雰囲気は、同じ山口県下の防府市の桑山に酷似しています。
四囲を石柵で囲まれ、その入口の正面には鳥居を配し、域内の最奥には神殿造の墓標が建立されています。
入口の石柱には、人皇十四代仲哀天皇御殯葬所、と記載されています。

横の案内板には、仲哀天皇は、熊襲征伐をされる途中、賊の流れ矢で落命されたが、神功皇后は、その喪を隠し征伐を続けた。
その時、天皇のご遺体をこの西の嶽に葬り戦勝を祈願されたと伝えられている。と記されています。
方位は、南です。

これから多くの方々は、大型の連休に突入しますね。
わたしも5月の調査までは今回の調査記録の整理をしなければなりませんが、多少のんびりできそうです。

新たな元号である令和まであと僅かとなりましたが、今後も皆さまの報告を楽しみに拝見させていただきます。
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月13日(土)15時57分26秒
編集済
  fukuyama様
宮内公文書館の陵墓資料 陵印墓印調書 昭和1年  は私も昨年夏に検索で見つけました。担当の所に電話で確認すると、当該の文書の画像を、専門の業者(?)が写真撮影し、紙またはCDで郵送してくださるとのことです。有料です。CDは700~800円程度だったと思います。また、審査があり、普通1か月程度かかるとのことです。

申し込みを書きましたが、半年以上送付せずまだ動けていません。
貴重な基本資料なのではとの期待もします。早く送って内容を見てみたいです.
資料を見てからとなりますが、昭和元年には陵印・墓印について、何らかの扱い、管理についての決め事や集約がなされたものと想像しています。公文書館の陵印関係の資料では、陵印の扱いについての文書がタイトルを見るだけでも他にもあるように思います。

こまいぬ様

『東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念』について御教示ありがとうございます。私は掛軸と、『神社山陵参拝記』(記者が紅白に分かれての参拝記事の本)の両方を持っておりますが、別々に入手したものでした。そのため掛軸が当企画の付録であるのかの確認ができませんでした。しかしこまいぬ様の情報によりこの掛軸が同企画により作成されたものであることがわかりました。ありがとうございます。
 このことから、現時点ではこまいぬ様の考察通り大正13年1月~2月には、神武陵印と明治陵印については、同企画の付録掛軸に捺印された陵印はあったと結論付けられます。これが現時点で確認できる最も早い使用例であるといえます。
 今まで陵印の変遷を調べていて、大きな区切りに到達できました。ありがとうございます。感謝いたします。また今後も御教示くださいますようお願いいたします。

 陵印についてのコンテンツ、楽しみにしております。
 

『書陵部紀要』第70号

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 4月13日(土)10時29分4秒
  『書陵部紀要』第70号 平成30年度 が 書陵部所蔵資料目録・画像公開システムに
公開されていますね。

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/000/


また 宮内公文書館

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho

陵印で 検索してみると

・陵墓資料(法規目録)御陵参拝人・撮影・陵印等取扱規定集
・陵墓資料(法規目録)陵印 墓印調書 昭和1年

など どんな内容なのか 見てみたいものですが

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

東宮殿下御成婚奉祝参拝 神社山陵印譜

 投稿者:こまいぬ  投稿日:2019年 4月11日(木)07時04分15秒
  皆様、こんにちは。

新元号・令和も国民から好感をもって迎えられ、いよいよ御譲位まで二十日ほどとなりました。
今は御代替わりを記念してサイト内に御陵印に関するコンテンツを作成している最中です。

その作業中に、レプトン様が2015年10月18日の投稿 https://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1533 で紹介されていた「東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念」のことを思い出しました。

この資料は私も所持していまして、大正期の御朱印事情、特に「御朱印」という名称がいつから使われるかを推測するために非常に役立ったものです。

私の所有しているものには包み紙があり、タイトルは「東宮殿下御成婚奉祝参拝 神社山陵印譜」となっており、下に「神社山陵参拝記付録」「朝日新聞社発行」の文字があります。

大正13年1月、東京朝日新聞と大阪朝日新聞は皇太子殿下(昭和天皇)御成婚を記念し、東京・大阪の記者各4名計8名がそれぞれ2人ずつ紅白2班に分かれ、東京は東日本の神社22社、大阪は西日本の神社37社と神武天皇陵・明治天皇陵を各種乗り物を駆使して巡拝し、紅白で早さを競うという企画を立てました。この時新聞に連載された道中記をまとめたのが『神社山陵参拝記』です。

この『神社山陵参拝記』は国会図書館デジタルコレクションで見ることができるのですが、奥付を見ると発行は大正13年3月15日になっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969665

さらに、前書きに「挿入の神社と山陵の印顆は選手が参拝の際、特に『参拝帖』に押捺を受けたもので、好個の記念として永久に珍重されるべきと信ずる」とありますので、大正13年1月ないし2月のものと考えて間違いないと思います。因みに伏見桃山陵への参拝は白班が1月26日、紅班が2月2日、畝傍東北陵への参拝は白班が1月28日、紅班が2月4日となっています。

とりあえずご報告まで。

https://goshuin.net/

 

旧陵印使用時期について

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月 1日(月)10時55分22秒
編集済
   みなさまこんにちは。今年初めてのご挨拶になります。新年あけまして・・・・の所が、新年度明けまして・・・・になってしまい、申し訳ないです。あと1時間足らずで新元号が決定・発表されますね。ドキドキ、ワクワクです。
 3月は仕事で奈良県中を走り回りました。また山の辺の道を天理駅から桜井駅まで、黒塚古墳はじめ沢山の古墳を回りながら歩きました。約20kmを昼食時間を入れて5時間半で踏破しました。早春の山辺の道は、桜こそまだ開化前でしたが、菜の花畑やユキヤナギ、ボケ、コブシ、スイセンの花をはじめ、タンポポ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、などの野花がきれいに咲き誇り、とても風情のある趣に包まれていました。もうレンゲも咲いていました。ハウス内で赤く実っている苺がおいしそうでした。
 古墳では東乗鞍古墳の石室内で石棺を見ようと思っていましたが、管理者により中には入れなくなっていました。15人ほどを案内し、みんなを入れてあげようと思っていたので残念・・・。
 陵墓は衾田陵、崇神陵、景行陵に行きました。どの陵墓も美しく整備されており、気持ちよく参拝できました。早春の光の中で静かに明るく輝いていました。また崇神陵の陪塚のアンド山・南アンド山古墳は芝生状態になっており特にきれいでした。この2つの古墳と黒塚古墳は程よい規模で、前方後円の形がわかりやすく、だ~いスキです。景行陵は南側の神籬の碑のあるあたりから見るのが、その規模、重量感が伝わってくるみたいでいいですね。大市墓は近くにはいかず檜原神社から眺めました。山の辺の道から見る二上山の姿、2つのグロー曲線が重なっているみたいで魅力的です。
 さてこの山の辺の道沿いの4つの陵墓の旧陵印はどれも同じ規格で円形でした。昭和54年3月だったと思いますが、山辺部事務所には、押坂部の陵印も預けられていました。新印の崇神・景行・崇峻・舒明陵印と、崇神・景行・衾田陵・大市墓・崇峻・舒明・糠手姫・吉隠・笠間山陵の旧陵印がありました。山辺部の4陵墓の旧陵印が丸くてかわいかったことが印象に残っています。押坂部の陵印が預けられていたのは、当時押坂部事務所は土午後・日全日休みのため、参拝者や陵印捺印の便を図るためにして下さっていたとの話を宮内庁の方から伺いました。(当時休みなしの事務所と、休みありの事務所がありましたが、労働組合関係で違いがあったようです。)因みにその数年後に、押坂部の陵印は押坂部で管理されるようになりました。また更にその後、山辺部はじめ、他の事務所も日曜日はお休みになりました。

 3月26日は天皇陛下が神武天皇陵に来られ、退位の報告をされました。仕事で橿原市にいたのですが、道路は渋滞していました。1か月以上前から奈良市内でも3月26日は橿原神宮周辺は渋滞予測・自動車を自粛するように道路の案内板に表示されていました。今回は仕事で動いていたので、天皇陛下のお顔を見ることはできませんでした。(奈良にいると何度か沿道や駅で・・・)

 さあ、11:30です。新元号が発表されます。



 宮内庁長官が新元号を天皇にお伝えして、天皇が署名されて正式決定・公布すると法律で決められているとテレビで伝えています。

   新元号は・・・・・令和 (れいわ)      祝!新元号

 おめでとうございます。   発表は平成31年4月1日11時41分でした。

 典拠は万葉集


 万葉集に拠って作られたのですね。万葉集好きです。嬉しいです。



話を戻します。山の辺の道の他にも、聖武陵・元正陵・垂仁陵・安康陵・平城陵なども行きました。

さて本題です。

こまいぬ様へ
 初めまして。私は陵印を収集しています。こまいぬ様のサイトも拝見いたしました。素晴らしいですね。今後も訪問させていただきます。この掲示板でもよろしくお付き合いください。
 私も明らかに大正時代の天皇陵参拝資料といえるものは2点しか持っておりません。1点目は大正9年に多くの陵墓・神社を参拝したものです。すべての項に参拝日が書かれているわけではありませんが、いくつか書かれてある参拝日は大正9年で、普通順番にページを使っていくので、その間の項に書かれてある陵墓に参拝した日も、やはり大正9年と考えられます。この大正9年の資料では陵印は全くありません。全て各陵墓の陵墓守部または陵墓守長が主に墨書で署名し、そこに自分の印鑑(私印)を捺しています。孝明陵・仲恭陵などは個人の私印でなく、『月輪勤番所』の印が捺されています。こまいぬ様の資料の『古市勤番所』と同じように使われています。このことから大正9年の段階では陵印はまだ使われいないと考えられます。
写真は月輪勤番所のものと、陵墓守部の署名捺印の例です。

 続いて2点目の資料は以前紹介したものです。(2018年2月16日・12月6日)
参拝日は大正13年から昭和6年にかけての日付が書かれてあります。資料はカードになっており、所有者名が印刷されています。おそらく所有者が天皇陵参拝のために、カードを印刷に出して作成したものでしょう。各カードには天皇名・在位期間・崩御・京などの情報が所有者により記されています。
 この資料で最も早いの日付は参拝の日付は、大正13年になります。(明治陵はそれ以前を含み何度か参拝日時が書かれている。)大正13年参拝が記されているカードは、三帝陵(後朱雀・後冷泉・後三条)と安徳陵のものです。この資料を見た時、陵印使用時期が大正13年にまで遡る証拠と思い喜びました。

 しかしどうもそうではないようです。三帝陵のカードに捺されていた印は、極初期に用いられていた印(後朱雀皇后を入れた4行書きの物)ではなく、その後使われ、昭和50年代まで長く使われた印(三帝だけで6行書きの物)でした。その印が極初期にも使われていた可能性がないとは言えませんが、今までの資料ではごく初期に捺印された資料にはないので違和感を覚えました。
 また他の資料も見てみると、文字(主に墨書)の上に朱肉が乗っています。墨書と捺印との時間差はわかりませんが、印が後で捺されたことを示しています。旅行期間中程度のタイムラグなら、記されている参拝日に捺印したとも考えられますが、もっと後に印が捺された可能性もあります。
 写真3枚目は、安徳陵の参拝カードです。墨書の文字と印がかぶっています。墨の上に朱肉が乗っています。そして参拝日が2つ書かれてあります。墨書は大正9年の資料と同様、陵墓守部(安徳陵の場合、陵墓守部ではなく、嘱託となっています。今でも部外は嘱託職員の方が多いとかつて聞いたことがあるので、当時もそうだったのでしょう。)の記名があります。その文字にわざわざ重ねて印を押すのは不自然に思います。他のカードでは印と参拝日の文字が重ならないようにしてあるものがたくさんあるからです。2つの参拝日が書かれてあることから、1回目の大正13年にはそれまで通り、陵墓守部の記名による証明のサインを受け、2回目の昭和6年に参拝時に、同じカードを持っていき前回の陵墓守部の墨書の上から捺印したと考えるのが自然かと思います。陵墓守部の墨書の上に陵印を押したカードは他にも何点かあります。


 では、実際に陵印が使われ始めたのはいつごろでしょうか。このカード群には、参拝日と陵印がかぶらないように、参拝日を端に書き、印を中央に捺してあるものも何点もあります。それらは記されている参拝日に捺印された可能性が高いのではないかと感じています。はっきりした証拠はありませんが、普通わざわざ印に参拝日の文字をかぶせるようなことはしないのではないかという、心理による推測です。このようなカードは大正14年に参拝したと記されている物から見られるようになります。大阪府下の陵墓の参拝日は大正15年となっていますが、陵墓守部の墨書はなく、印と参拝日が重ならないようになっています。
 このことから、現段階では陵印を使用し始めた時期は大正14年ではないかという気がします。もちろん確定した結論ではありません。今までの資料から推測すると大正14年が妥当だろうという程度です。
 全天皇陵で同時に陵印が使われ始めたとは考えにくいでしょう。早いところも遅いところもあったと思われます。実際に参拝カードには大正14年も物でも陵墓守部の記名がある物もあります。また、『東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念』の掛軸の神武・明治陵印は大正13年に遡る可能性もあると考えています。ただ陵印設置の時間差はあまり大きくないと思われます。大正14年から多くても2~3年程度で殆どの天皇陵に陵印が揃えられ置かれたと考えられます。もちろん陵印の文字に院がついてあるものがあることや、三条院天皇北山陵の印が後に三条天皇北山陵に作り替えられた事も、こまいぬ様がご指摘のように、重要な考察材料となります。今後この時期の陵墓参拝資料が見つかればさらに絞り込めるのではないかと考えております。もしそのような資料がございましたらどうかご教示くださいますようお願いいたします。


 そもそも陵印は宮内省が作成設置したものではなく、皇陵崇拝会(?)なる民間の団体が参拝の記念に捺印するために作成したものと聞いています。皇陵参拝が盛んになってくれば、陵墓守部の方々は一回一回、参拝帳に記名などしていては仕事にならず大変だったでしょう。そういう背景もあり陵印が作成されたとも思われます。

高遠さくら様
 奈良も先日、桜が満開になったとの発表がありました。私の住んでいる辺りはまだ満開手前ですがとてもきれいです。昨日は奈良公園の桜を見に行ってきました。高遠さくら様が書いておられた、日本一有名な目黒川の桜が、先日の強風で花弁が飛び散り、舞っている様子がテレビで放映されていました。(奈良では同日雹が降り、私の実家ではうっすらと雪が積もりました)東京では中央線に乗ったときに美しい桜を電車の窓外に見たことを覚えております。場所ははっきり覚えていませんが、お茶の水辺り?だったかなあ?東京は数回しか行ったことがないので全く地理もわかりませんが・・・東京も美しい、そして大規模な桜並木がたくさんあるのですね。

ぽん様
 いろいろと大変な時期でしょうが、ゆっくりなさってください。またぽん様にはお世話になる事がたくさんあると思います。



※『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭著
とても分かりやすく読みやすい本でした。
 

ご報告

 投稿者:ぽん@喪中  投稿日:2019年 4月 1日(月)00時36分28秒
編集済
  ☆皆様、大変お久しぶりです。
 この数年、PC不調および破損による蓄積データの大量消滅、あるいは両親の相次ぐ他界等で拙サイト「新撰陵墓志(仮)」の改訂作業が中断しており、大変申し訳なく思います。

 今般のYahoo!ジオシティーズサービス終了に伴い、取り急ぎ、これまでのデータを小生のブログ(https://ameblo.jp/pom-de-koikara/)内に移管しましたが、諸般の事情により、現時点では非公開(アメンバー限定公開のみ)とさせて頂いておりますので、ご了承ください。

 近日中に新たな場での公開ができたらと思いますので、ご不便をおかけしますが何卒ご容赦願います。
 

大山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 3月27日(水)01時42分54秒
編集済
  祝 新元号 令和


全国の同志の皆さま、花見もあと僅かですが、変な宗教に入っていませんか。

年明けから何かと忙しく書き込みができませんでしたが、確定申告も終わり一段落ついたので、先週、別府~湯布院~日田まで温泉を堪能してきました。


大垂水酔鳥さま書き込みの二上山の入山料?は、以前の醍醐山以来の気になる案件でしたが、レプトンさまの確認により現状がはっきりしました。
個人的には、ありかなと。


本日、いまや日本1?の桜の花見スポットとなった目黒川が、拙宅から2キロほどなので天気もよかったので花見に行ってきました。
多少のバラツキはあるものの、だいたい6分咲きほどでしたので、今後の天候にもよりますが、土日あたりが満開のいい時期かと思われます。
特に、中目黒駅と山手通り間は混雑しますので、246と山手通り間の方は、あまりお店が無いこともあり比較的すいています。

レプトンさま

東京には、青山などの霊園、川の天井部を埋めた遊歩道沿いなど隠れたサクラの名所が多く、元々、目黒川も隠れた名所でした。
当方も、吉野山へは後醍醐天皇陵の参拝が主ですが10回ぐらい行っていますが、残念ながら春には1度も行ったことがありませんので1度は行ってみたいです。
先月の温泉旅行で久大線に乗りましたが、菜の花がとてもきれいでした。
今後も、いろいろな情報をお知らせください。
 

大正期の御陵印

 投稿者:こまいぬ  投稿日:2019年 3月25日(月)23時15分58秒
  皆様はじめまして。こまいぬと申します。古今御朱印研究室というサイトを運営しています。
御陵印の歴史について調べていて、こちらにたどりつきました。

大正期の御陵印はほとんど見たことがないのですが、大正14年の応神天皇惠我藻伏崗陵の
御陵印に古市勤番所の印が押されていること、鳥羽天皇・近衛天皇あたりの御陵印が
鳥羽院天皇・近衛院天皇となっていることなどから大正14年前後に作成されはじめたと
推測していました。
大正14年の日付がある花山天皇の御陵印を見て、ほぼ推測通りと安心した次第です。

陵墓や御陵印については詳しくないものですから、いろいろ勉強させていただければ
と思います。今後とも宜しくお願い致します。

https://goshuin.net/

 

十念寺

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2019年 3月15日(金)11時28分24秒
  お久しぶりです。いのうえとろろでございます。
このごろお天気も良くスギ花粉も元気に(!?)舞い上がっている今日この頃
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
私は目がかゆく目薬が手放せません…


そんな中、所用で京都へ行き空いた時間で十念寺へ行ってまいりました。
噂には聞いていましたが墓地が広いですね。

高雲院墓は祠?が目印になりすぐにわかりました。のでその傍にあった西洞院長子の墓はすぐにわかりました。
が、そのほかの探していた西洞院家の女官(範子など)や平松好子・虫鹿良子などの墓がまったくわかりませんでした。
秋にまた行くつもりでいますので、ご存知の方もしよろしければ大体の場所を教えていただけたらとおもっております。


 

サイト「新撰陵墓志(仮)」

 投稿者:DADA  投稿日:2019年 2月13日(水)16時32分0秒
編集済
  こんにちは。
遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

いつも「新撰陵墓志(仮)」を興味深く拝見しており、
探訪の際の貴重な情報源となっております。

先日いつものようにサイトを閲覧したところ、
「Yahoo!ジオシティーズサービス終了のお知らせ」
という案内が表示されており、3月31日でサービス終了ということでした。
4月以降はホームページが表示されなくなるようです。

https://info-geocities.yahoo.co.jp/close/index.html

管理人様がすでに手を打っていらっしゃるのであればよいのですが、
今後この貴重なサイトがどうなるのだろうかと、心配の気持ちです。

もし何かお力になれるのでしたら、
サイト維持のためにお手伝いできればとも思っています。

取り越し苦労でしたらすみません。
 

桃山・武蔵野

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月30日(日)21時51分11秒
  こんにちは。

桃山御陵にはちょうど先日訪問したところでした。
(レプトンさまと同じ頃かもしれません)
ご報告いただいている通りで、昭憲皇太后陵の参拝道では大木が倒れたままでした。

別日には、多摩陵と武蔵野陵にも訪問しました。
緊張感のある空間でしたが、
職員の方も警察の方も物腰が柔らかく、気さくな方々でした。
ただし、お一人だけ厳しい口調の方がいらしたのには驚いてしましました。
他の陵墓とは感覚が異なるのか、あるいはこれが本来標準なのか、
いろいろと考えさせられました。

ちなみに、おかげさまで「天皇陵」訪問と御陵印をコンプリートいたしました。

今後は他の治定陵墓と治定外陵墓をぼちぼちと訪問できればと思います。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月30日(日)13時16分32秒
編集済
  レプトン さま

桃山陵墓地の現状報告有り難うございます。
本来ならば地元在住の私がすべきところ、代行して頂いたみたいで恐縮です。
何せ、伏見の平場に住む新市街地の住民にとって、坂の上の近鉄・京阪の線路の更に
上に行くついでって無いもので‥(汗;)
ところで、写真1枚目を拝見すると、意外に早く通路が苔むしてきているようですね。
私個人としては、陵墓の参道や通路は白玉砂利よりも苔むしている方が色気があって
好きです。

京都の台風被害って滅多に無いし、あっても水害系が多いので、今回ばかりは驚きま
した。
ウチの近所は大阪地震の時の家屋の被害は皆無に近い状況でしたが、台風の時はあち
こちで屋根やベランダやシャッターや柵などが損傷しました。今でも屋根にビニール
シートの家が多くあります。
ビルの屋上の巨大看板が転落して隣の倉庫にブサッ!と突き刺さるなど、壮絶な光景
が暫く放置されましたが、大阪が凄かったので京都は報道されませんでしたが‥
というか、京都の台風被害報道って、いつも嵐山のワンパターン。
ウチの近隣も数年前に浸水しましたが、報道されなかったので、伏見の坂の上の旧市
街地の住民は知らなかったみたい。
私の家は古民家のリユースで、屋根が周囲よりも1mくらい低いのですが、それでも
ベランダの屋根の波板がぶっ飛んで、金属の太い枠組が変形しました。
修理不能でベランダごと取替えないといけないので放置しています。(笑)

奈良県は珍しく?被害が軽微だったのですね。
二上山の件、ご教示感謝です。
料金が徴収されたりされなかったりすると、不公平感が出てしまいますね。
 

京都の陵墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月29日(土)17時23分32秒
編集済
   先日から話題となっている京都の陵墓の台風被害を見てきました。桃山陵墓地の明治陵から桓武陵への道は通行できるようになっていましたが、枝がぶら下がった状態の為、上に注意して歩行するようにとの注意喚起の札がありました。(写真1枚目)
 陵墓地内は倒木が多く、柵が曲がるなどして壊れている所もありました。作業車が山道で止まっており、チェンソーで木を切ったり、重機で切った太い幹を挟んで道へ下していました。(写真2枚目)陵墓地内では倒木を短く切った丸太があちらこちらに積まれていました。おそらく通路をふさいでいた倒木を処理したものではないかと思います。通路の倒木はなくなっていましたが、陵墓地内にはまだまだ倒木がたくさんありました。台風の強風で根こそぎ倒れた大木もたくさんありました。写真3枚目は桓武天皇陵の参道(坂道の方)から見える倒木です。根こそぎ倒れているのがわかるかと思います。
 月輪陵墓地でも多くの倒木があり、後堀川陵の下から孝明陵への通路は、通ることはできますがまだ木が倒れていました。こちらでも撤去と清掃をしている音が絶えず響いていました。
 奈良も今年は台風の影響がありましたが、奈良市の陵墓や先日参拝した宣化陵・倭彦墓などはそれほど大きな被害はないように思いましたが、京都府内での被害は甚大です。台風の被害は自然の新陳代謝ではありますが、美しい陵墓の森が荒れてしまうのは悲しい気持ちになります。整備をして下さる宮内庁の方、業者の方ありがとうございます。

 私も家でチェンソーを使うことがありますが、とても自分では切ったり処理できない大木です。(一般の人がボランティアではとてもお手伝いできるようなものではなく、専門的な技術が必要です。)僕の知人が園芸関係の仕事をしており、木の伐採の依頼をしたことがありますが、相場では高さ1mにつき数千円かかるのだそうです。陵墓地の倒木処理でもすごい費用が掛かっているはずです。


大垂水酔鳥様
 二上山へは12月17日に続いて24日にも上りました。24日に10人程度を案内するために17日にも登ったのですが、どちらも通行料はなしでした。情報によると、頂上の神社の敷地を通過する時に、時々神社の関係者が通行料(?)を徴収することがあるとのことです。今回も一応徴収されたときのために人数分の費用は用意していきましたが、あまり徴収されることはないようです。それでも、いつ神社の関係者がおられるかわからないとのことで、雄岳頂上に行ってみるまで分からない状態のようです。(これは少し古い情報です。最近もまだしておられるかは不明で何とも言えません。)二上山は雌岳の南・東側の登山道は大木が倒れていました。
 

来見山御陵墓

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月25日(火)12時30分56秒
編集済
  こんにちは。

連投失礼します。
先日、能勢町の来見山御陵墓を訪問しました。
過去のご投稿で紹介のあった道順で向かいました。
来見山の東麓から登り、陵墓にたどり着きました。
献花され、手入れの行き届いている印象でした。
以前のご投稿にあった「木柱」ですが、
当時の場所にはなく、奥の木に立てかけてありました(写真参照)。
「来見山」と書かれ、献花はありませんでした。

北麓へと下山し、案内板を確認した上で、西麓側から南へと回りこみました。
時期的に雑草が少なかったので、踏み分けて林道から一般墓地へと向かいことができました。

岩崎八幡社も訪問しました。
こちらもきれいに手入れされておりましたが、パンフレットの類はありませんでした。

なお、帰りのバスまで時間がありましたので、野間大原にある「来見社」を訪問しました。
祭神は安徳天皇ということで、由緒ある場所とのことです。(写真参照)

> 大垂水酔鳥さま
大峰山・荒木山ですが、大宮神社から徒歩で往復しました。
山頂付近まで車で行けるような、整備された道だったので、比較的楽でした。
高尾には行きませんでしたので、機会を見て訪れたいです。

ちなみに、先日の台風の被害により、参入できない陵墓として、
後宇多天皇陵(京都府京都市右京区)、大枝陵(同市西京区)
安曇陵墓参考地(滋賀県高島市)
淳和天皇陵(京都府京都市西京区)
が宮内庁のHPに上がっています。
また桃山陵墓地は一部区間で通行止めがあるようです。
★追記★桃山陵墓地の通行止めとされている区間は、現在通行可能です。
★追々記★後宇多天皇陵、大枝陵の参拝も再開できたそうです(2/12現在)。
     安曇陵墓参考地の参拝も再開できたそうです(3/1現在)。
     淳和天皇陵の参拝も再開され、参入できない箇所はなくなりました(4/17現在)。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月23日(日)20時36分49秒
編集済
  ★追記★しました

DADA さま

宇治田原町の現況報告有り難うございます。

大峰山・荒木山の山頂にまで行かれたのですね。
いやはや驚きです。
大峰山には伝承に関する遺物遺構は見当たらない、荒木山から岩への接近方法もわからない
とのことで、お蔭さまでスッキリしました。
ところで、山頂へは途中まで車で行かれたのでしょうか。
まさか、大宮神社から徒歩で登山?!
車だと北に大きく迂回する必要がありますね。
私は近所のレンタカーで軽自動車を借りて大宮神社~蝉丸神社~大峰山~高尾と移動する計画
を立ててはみたものの、山道での車の運転に自信がないので断念しました。
高尾は志貴皇子の隠棲伝説がある高地集落とのことで、若干未練があります。


★追記★

来見山の現況報告有り難うございます。

木柱が片隅?に放置されているということは、陵墓に関係するかもしれないという私の
推測はどうやら外れたようですね。

それにしても徒歩で大峰山・荒木山の山頂に行かれたとは驚きです。
改めて感謝多謝です。
山中にある陵墓に車を使わず路線バス+徒歩で行くことを思えば大したことないのかも
しれませんが、何せ遺物・遺構の存在の確証がない伝承地ですからね。

宮内庁HP見ました。
桃山参道通行止区間(9月18日現在)なる地図がリンクされていて、陵墓地全体の簡単な
地形図だったのでこれ幸いとダウンロードしましたが、陵墓参拝の広報としては極めて
不親切なお役所仕事ですね。
参拝者にとってはたった一言、桓武陵と桃山御陵の連絡通路は通行できません、とだけ
書けば良いのです。
知らずに行かれた方、本来300mくらいが1キロくらいの迂回になるので気の毒。
 

春日宮天皇

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月23日(日)16時35分20秒
編集済
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、宇治田原町にある伝承地を訪問しました。

□田原天皇社旧跡
こちらの過去の皆さまのご報告から、とくに変化は見られませんでした。
大宮神社の宝篋印塔も健在でした。
「新撰陵墓誌(仮)」では祠があることになっておりますが、
現地で見る限りそれらしいものはありませんでした。

□荒木山 岩代大明神
よく見える「岩」ですが、たしかにありました(写真参照)。
荒木山の尾根のひとつで、標高は300mあたりでしょうか。
接近できる方法があるか確認したのですが、わからずじまいでした。
時間帯によっては、岩の存在が見えにくいことがありました。
ちなみに、荒木山の山頂にも訪問しましたが、とくに変わった様子はありませんでした。

□大峰山山頂 御陵
荒木山のついでに訪問しました。
こちらは山頂というよりは、丘陵地のように平坦でした。
荒木山も大峰山も、大きな岩が散見されましたが、
人工的なものではなさそうです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月23日(日)14時22分6秒
  レプトン さま

大津皇子墓の近況報告有り難うございます。

私は38年くらい前に二上山~平石峠~富貴寺~磐船神社~河内飛鳥(二子塚古墳・小野妹子墓)
と周遊しました。
当時は愛知県在住だったので、かなりの強行軍です。
今なら体力的に絶対無理!
ところで、二上山は有料化されたと仄聞するのですが、如何でしたか?
有料化はやむなしとして、それなら登山地図とかパンフ等が欲しいところですが。

以下、蛇足です。
当時、雌岳から竹ノ内街道への下りは禿山でどれが正規の道なのか分からない状況で、目標と
していた鹿谷寺跡にはたどり着かないまま竹ノ内街道に出ました。
途中に車の通れるような山道を横切った記憶はないのですが、あったとしてもたぶん無視して、
下へ下へと踏み分け道を急いだのだろうと推測。
地図を見ると、大阪側はかなり上の方まで山道らしき表記がありますね。
二上山万葉の森とあるのでグークールマップで確認したら、ある程度は植林が進んでいるよう
な感じで、鹿谷寺跡付近からの登山道がクッキリ写っていました。
今は林道や登山道や標識とかが完備されているのかな?
ところで、どうでも良いことではあるのだけれど、
グークールマップのurlがgugurumaps.comになっていて笑ってしまった。
それにjapanmaps.netってのもあるみたい。変なの。

他の方の書き込みでも台風被害?が報告されていますが、先日の大阪直撃台風では桃山御陵も被
害甚大だったようです。
私は行っていないので正確な報告が出来ないのですが、デイサービスの送迎車で桃山陵墓地域内
の道路を通行している母の証言によると、樹木が大量に倒れて、域内の道路が3日間閉鎖され、
開通後の数週間、道路脇に大木の輪切りがうず高く積まれていたそうです。
私の家は桃山御陵から2キロの平坦な市街地ですが、倒木やら倒壊やらで、やはり数週間、あち
こちで通行止めが続きました。
大津皇子墓は山頂の割には被害が軽微そうで、私としてはちょっと驚き。
以前、台風で近鉄南大阪線が大被害を受けた後に観心寺に行ったのですが、檜尾塚参考地の参道
が倒木で通行困難な状況でした。
 

大津皇子二上山墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月22日(土)12時41分49秒
   こんにちは。レプトンです。
 先週二上山に登り、大津皇子二上山墓に参拝してきました。当麻町から登山道を1時間半かけて登りました。山頂近くの丘陵上に静かにたたずむ陵墓です。小さくてかわいい感じですが、静謐に包まれている感のある陵墓です。拝所前は落ち葉などもなく掃き清められているようです。
 墳丘内には短く伐採した木が多く積み上げられていました。また写真のように内部のコンクリート柵が一部壊れていました。台風か何かで大きな木が倒壊し、その時にコンクリート柵を壊したのでないかと想像しました。車も来れない山上の陵墓ではすぐに修理もできないでしょうね。
 二上山墓は磯長部の管轄ですが、40年くらい前に磯長部の宮内庁の方に「二上山頂上まで大変ですね。」と聞くと、「葛城山麓(?)の近くまで車で行けて、そこから山道に入れば割と近い。」と仰ってました。岩屋からの道か、馬の瀬西側へ延びる道(地図で見ただけ)がその道だろうと思います。
 二上山頂上(特に雌岳)には人が多くいましたが、大津皇子墓は静かでした。
 

(無題)

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2018年12月19日(水)19時16分40秒
編集済
  師走に入り寒さも一段と厳しくなってまいりましたが、みなさんお元気でしょうか?
おひさしぶりでございます、いのうえとろろです。

浜松市天竜区の秋葉神社へ参拝の途中「上臈塚」へ参拝しました。
浜松からの国道152号線「秋葉街道」ぞいにひっそりとあります。
案内板によれば長慶天皇の第一皇女「綾姫」の墓とされています。
住民の方から信仰されているようで、綺麗に整備されています。

浜松から天竜、信濃に沿って南朝方の遺跡やら伝承地が多いです。(信濃へ行った後、南アルプス沿いに駿河の奥の方へ南下をするようにまた南朝の遺跡が増えます)なかなか興味深い場所です。


11月初旬に恒例の京都旅行へいってまいりました。
今年は大津・坂本へも行き西教寺で生源寺・樹下両家の女官の墓を確認。
京都では浄福寺でも女官の墓を確認しました。
また、金戒光明寺では難波家の墓がまとめられていました。事前に調べたら10基近くあると思ったのですが、まとめてあったのは4基でした。探したのですが残りは見つかりませんでした。
あと、別域にある松平信庸息女の墓の石欄が倒れてロープでくくられていたり、ブルーシートが掛けられていました。台風で壊れてしまったのか、墓を移動させる準備なのか…となりの室の墓は何事もありませんでしたのでなんだか不思議です。
もう一つ、会津墓地近くの鴨脚家の墓がすべてなくなって整地されていました。ちょっとショックです。
 

花山天皇の陵印 大正末期?

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月 2日(日)11時10分47秒
編集済
   写真は花山天皇紙屋上陵の印です。大正14年10月18日参拝と書かれています。
この印が同日に捺印されたという確証はありませんが、参拝時に押された押されたと考えるのは自然かと思います。(2018年2月16日投稿の開化天皇陵印と同じ資料で、印だけ後日に捺された可能性がある物を含む資料です)
 この資料は陵墓守部の署名と印があります。大正時代の参拝資料はまだ2点しか収集できていませんが、どちらも陵墓守部・陵墓守長の署名に私印が押されています。

 今回の花山院天皇陵印は、まだ天皇名に院が付いているので大正末期(院をなくすようになったのは大正15年でしたっけ?)までに作られたものと思われます。


この印の形は他では例のないものです。何か意味があるのか不明です。葉っぱのように思いますが・・・

DADA様
 山口県に行かれたのですね。私は10年以上前に西市陵墓参考地に行ってきました。バス停が天皇様だったのが印象的です。人工湖が堀のようになっていたかな?管理人様は参考地の祭祀の様子を紹介されており、とても興味深いものでした。
 御篭建場のことは知りませんでした。ありがとうございました。




 たまたまですが、DADAさまが行かれた花山法皇の京都の治定陵の古い陵印を紹介しました。(紹介しようと準備していていて、タイミングが偶然会っただけですが・・・)

 用明天皇の伝承地にも行かれたのですね。私は行ったことがありません。活発に良い活動をしておられますね。また御教示ください。用明天皇陵の治定陵の大正末期(?)の陵印も紹介いたします。
 

明治150年

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月 1日(土)13時56分6秒
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、「新撰陵墓志」にもとづき、
山口県の陵墓を訪問しましたのでご報告いたします。

まず宮内庁治定の陵墓を一通り巡りましたが、気づいた点です。

■安徳天皇阿弥陀寺陵
 御陵の裏に「平家一門の墓」がありますが、兆域(?)に含まれているようですね。
 『陵墓地形図集成』を確認して知りました。

■西市陵墓参考地
 バスに揺られて訪問しました。
 地元の方に大切にされているようでした。
 道を挟んで向かいに「御篭建場入口」という石柱があり、
 陵墓の案内版にも説明があったため、訪問を試みました。
 「凡千米」とあり、帰りのバスの時間もあったので、早歩きで沢づたいに歩きました。
 緩やかな山道を歩くと、北に三十米の頂にあるという石柱を発見し、登ってゆくと、
 木々の刈られた丘に辿り着きました。
 そこが「御篭建場」だという案内はなかったのですが、
 一升瓶があったり、何かを燃やした跡があったりしていましたので、
 おそらくここだろうと判断し、下山しました。

また、治定外の陵墓伝承地にも訪問しました。

□長光寺山古墳
 厚狭駅から徒歩で約30分で到着しました。
 途中案内版もあり、迷うことはありませんでした。
 駐車場のようなところに入ると左手に階段があり、後円部へと上がれます。
 石室が開いており、中を覗くことができます。
 説明版と小祠がありました。

□般若寺内 般若寺陵
 柳井駅からタクシーで訪問しました。車道からも見えます。
 用明天皇の髪塚と並んで宝篋印塔がありました。
 説明版には、向かいの観音堂のある小山が本当の墓だ、ということでした。
 実際に古墳かどうかはわかりませんでした・・・。

□大多満根神社内 般若姫ノ塔
 駅から徒歩での訪問を考えていたところ、貨物船衝突の影響で不可能と判明、
 やむなくタクシー移動でした。
 境内に入って右手、石塔とお社がありました。

□南原寺内 花山法皇御陵伝説地
 美祢駅からタクシーで訪問しました。
 御陵の場所がわからず、本堂まで来るとお寺の方がいらしたので尋ねると、
 親切にも案内してくださいました。
 裏手の斜面を上がると、石柱に囲まれた区域があり、その中に複数の積石塚がありました。
 この中のどれが法皇のものか、特定されていないようでした。
 少なくとも昔は聖域とされ、遥拝所からのみ参拝できたようです。
 あわせて、経塚や遥拝所も案内していただきました。
 山には岩がたくさんあり、磐座に関する書籍にも掲載されているそうです。
 説明がとても丁寧で、自力ではわからないことをたくさん教えていただきました。
 もっと教えてくれそうな勢いだったのですが、
 帰りの電車の時間のため、やむなく下山しました。

□赤間神宮小門御旅所、入水処
 下関駅から西へ、海岸沿いに歩くと御旅所に着きます。
 遠くからでも赤い鳥居が見えるのですぐわかります。
 境内には小さな祠がありました。
 またバスで安徳天皇の入水処にも訪問しました。
 こちらは石碑だけで、隣の義経像や長州砲にみなさん注目していました。

□法泉寺跡内 南朝天子墳
 山口県庁から歩いて10分程度で着きます。
 貯水池の手前に案内版があり、場所を特定できます。
 大内政弘墓に向かう途中、右手方向にありました。
 複数の塔がありましたが、1基を除き、崩れていました。
 日陰で薄暗く、苔むしていました。

「伏拝ノ峰」はさすがに無理でしたが、機会をあらためて訪問したいと思います。
 

なぜ大仙古墳の調査?

 投稿者:匿名  投稿日:2018年11月23日(金)13時04分27秒
編集済
  背景に、世界遺産の登録申請問題がある。 なぜ報道しないか?
被葬者の問題はともかく、本格調査されていない遺産が、世界遺産に登録されるはずはない。
あなたはどう考える?
 

佐紀部 新 事務所

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年10月30日(火)03時41分14秒
編集済
   こんばんは。fukuyama様御教示ありがとうございます。昨日、早速行ってきました。高野陵と八幡神社の間という記述ですぐにわかりました。八幡神社の境内の西側の道路を挟んだところです。成務陵・日葉酢姫陵の間の道を南に進み、日葉酢姫陵の拝所を超え、少し行くと右側にあります。
 木造建てで白壁が美しい建物です。今までよりもずっと大きくなっていました。横幅は10m近くもある大きな建物でした。向かって左側は倉庫でしょうか。壁の白と新しい木の色が周囲の風景や、背景の陵墓にマッチしています。昼に見たらもっと美しいと思います。事務所の前には野菜の無人販売があり、真っ赤なトウガラシが目を引きました。
 部事務所は傍丘部が大きく機材庫?がありますが、新事務所は傍丘部ほど大きくはありませんが今までの事務所や他の部事務所よりずっと豪華です。

この事務所の建物、今までにも何度か見ていました。新しい建物、何を建てたんだろうととは思いつつも、まさか佐紀部事務所とは思いもせず、すぐ手前の道を日葉酢姫陵の方にハンドルを切っていました。知っていたら建てられるまでの様子を詳しく見たのに残念です。

現地は元は木が立ち並ぶ林のような感じの所でした。ここが付属地だったことも知りませんでした。
fukuyama様が紹介していただいた書陵部紀要によると埴輪などが出土しているようです。現地は大正10年に付属地として接収され、事務所建設予定地として接収されたとの口伝があったようです。また佐紀部はかつては奈良県北部・京都府と兵庫県の一部を管轄する、『佐紀部陵墓監見廻所』という今でいう管区事務所だったとのことも書かれていました。


写真は今日も夜間にスマホで撮ったものです。昼間に撮影したら差し替えます。




2018年11月3日
 今日はお昼ごろに新しい佐紀部事務所を見てきました。写真も夜に撮影したものから、明るい時に取った写真に差し替えます。新しくてきれいな建物です。建物が大きくなり、広くてゆったりと執務できそうに思います。

 今日は午前中に仕事を終え、佐紀楯列古墳群の西半分を回り見学してきました。平城陵をスタートに、オセ山古墳(マラ塚古墳とも)・塩塚古墳・瓢箪山古墳・丸塚古墳・日葉酢姫陵・成務陵・称徳陵、そして遠くから神功陵を見てきました。今日は晴れの特異日ですが、その統計通りに良い天気に恵まれ気持ちよく陵墓参拝、古墳見学ができました。成務陵には資料を持った十数人の人たちが参拝していました。ハイキング・サイクリングの人たちもいました。成務陵と日葉酢姫陵の間の道で耕運機を押しているおじさんが通ったりして長閑な情景でした。ヒバス姫陵の木が1本倒れて堀にかかっていました。今日行った陵墓はどれも良く整備されており綺麗で清々しい気持ちになります。
宮内庁の方々、ありがとうございます。
 

佐紀部事務所建替

 投稿者:fukuyama  投稿日:2018年10月27日(土)11時59分47秒
  『書陵部紀要』第67号〔陵墓篇〕 平成27年度(平成28年3月刊行)

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo067b019.pdf

によると、佐紀部事務所建替予定箇所の事前調査の報告があります。

事務所の移動候補地として、高野陵と山上八幡神社とに挟まれた附属地の
調査報告があります。
平成29年度に工事が実施される予定とありますので、工事が実施されたのでは
と思われます。


新しい佐紀部事務所の情報あれば お願いします。

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

佐紀部事務所

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年10月24日(水)03時13分32秒
編集済
  こんばんは。今日成務陵と日葉酢媛陵の間の道を通りました。すると佐紀部事務所の建物が無くなっており更地になっていました。近くはよく行っているのですが知りませんでした。いつなくなったのでしょうか。また新しく建てられるのでしょうか?更地の陵墓側に新しい(?)柵がありました。雨の降る夜中にその場で佇んでいました。  

ミステリアスジャパン「聖徳太子の墓」

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年10月 9日(火)06時43分1秒
編集済
  BS7のミステリアスジャパンという番組で久々の皇室ネタです。
今回はズバリ「聖徳太子の墓」。13日(土)朝です。
http://www.bs-tvtokyo.co.jp/mysteriousjapan/lineup/20181013.html
ただ、番組ホームページでは、余計なことがごちゃごちゃ掲載されているので、
本題の「聖徳太子の墓」も、案外数分程度なのかも。
正味20分の番組ですが、聖徳太子の墓だけで20分もたせるのは無理だとは
思うので、さてどんな内容になるのか楽しみです。

追記 個人的な見解ですが、見るに値しない内容でした。
 

山川

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 9月29日(土)04時16分47秒
  強力な台風が日本に接近していますが、変な宗教に入っていませんか?
広島カープが3連覇しましたが、広島出身でもなく親戚がいるわけでもないのに昭和43年から50年間も応援し続けている私としても嬉しい限りです。


今月は宮崎、熊本まで3週間ほど調査に行ってきましたが、連日の30°こえで暑い毎日でした。
おまけに予報は、それほど良くなかったのですが、なぜか1日中雨が降っていたのは僅か1日でしたので、ほぼ予定通りの調査ができました。
宮崎県では西米良村の米良菊池家が、熊本県では宇土の細川家と人吉の相良家が主目的でしたが、人吉へは熊本から「肥薩線のんびり切符」を利用しての連日の日帰り調査でした。

熊本市内の墓地内では、今も多くの転倒墓が見られ藤村紫朗男爵の墓碑も転倒していました。
今調査での一番の感動は、肥後士族の長曾我部家の墓所かな。


さて、最近なかなか供養碑や伝承墓などへ行くことができなかったのですが、今回、ポンさんの「新撰陵墓誌」に記載されている大慈寺まで行くことができました。

寺域内を探していたところ、たまたま墓地で会った方にお聞きすると開山墓所までご案内していただきました。
順徳天皇の皇子である(後鳥羽天皇の皇子とも?)開山御廟は、寺域の右隅に建立されており墓域もそこそこ広大でしたが、震災の影響で四囲の土塀などかなり傷んでいました。
ただ、墓碑の転倒や傾きは見られませんでしたが、あるいは修復されたのかもしれません。

開山の墓形は宝篋印塔で、法号などの刻字はなく無銘で、全高は218センチでした。
基壇の正面には、16葉菊紋が彫刻されており、他に数カ所に同家紋が見られました。

開山墓の後方には、父の順徳天皇と同妃修明門院の供養塔が並建されています。
両墓碑とも同形、同規模の宝篋印塔墓で碑銘は無く、墓碑の全高は、順徳帝墓が178センチ、修明門院墓は175センチでした。
方位は、3基とも南です。

墓域内の右隅に変形墓が1基建立されていますが、入口の案内板にも同墓碑の説明はなく、開山の妃墓かもしれません。
いろいろな他石の墓碑を組み合わせた感じで、碑銘もありませんでした。

開山墓所の後部には、歴代住職の墓所が建立されています。

ご案内いただいた方より柔道家の木村政彦さんの墓もありますよと、墓所まで案内いただきました。
「木村の前に木村なし、木村の後ろに木村なし」と墓誌に記されていました。
同氏によると、西南戦争時に同寺が皇室の寺院であることから戦死者や負傷者は運ばれず、近隣の別寺院に運ばれたそうです。

今回も大変、有意義な調査ができました。
 

指宿

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 8月19日(日)01時57分5秒
編集済
  全国の同志の皆さま、異常すぎる猛暑も少し落ち着きましたが、変な宗教に入っていませんか?

先週は、14年ぶりに会津院内山の松平家墓所まで行ってきましたが、とにかく雪国なのに暑すぎる。

先週、青山霊園に行ったところ佐野伯爵家墓域の四囲の木々が伐裁中でしたが、昨日、確認に行くと完全に伐裁され、すっきりしていました。
佐野伯爵家の先々代当主佐野常光の夫人禮子は、竹田宮恒久王の王女で佐野家合祀墓に納骨されています。

墓誌の碑銘は、
「マリア佐野禮子 平成十五年九月三日卒 享年九十」

禮子のご生母は、明治天皇の第六皇女昌子内親王ですので、同家も竹田恒泰氏と同様に明治天皇の後裔になりますね。


昨日、以前より親しくさせていただいている方より昨年、ご恵送いただいた冊子の本年号が届きました。

今回も昨年号で掲載された「〇〇から御所に上った乙女」の続編が、とても興味深いものでした。
内容は、昭和初期に御所に上がった榎本静子と萩原幸世の二人を、静子が綴った日記を元に静子のご子息がまとめたものです。

以下、抜粋すると、「昭和天皇即位の礼・昭和3年10月24日~11月30日」

11月20日  「神宮に拝謁の儀」 伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)

11月21日  「神宮に拝謁の儀」 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)

11月23日  「神武天皇山陵親謁の儀」

11月24日  「仁孝天皇山陵孝明天皇山陵親謁の儀」

11月25日  「明治天皇山陵親謁の儀」

11月29日  「大正天皇山陵親謁の儀」

昭和3年11月に発行された「特 大禮行幸供奉員必携(宮内庁・秘)」(総276頁)では、これらの詳細が記載されているようです。
内容は、随行人名表、東京発着表のほかに宮城(皇居)から東京駅までの行列順序、宮廷列車の編成、乗り組み割り、行在所以外に宿泊する供奉員、部屋割り、服装、食事時間、侍従と女官の配役表などなど。

大禮行幸供奉員人名表には、侍従職・皇后宮職は、其々親勅任官の6人、奏任官20人、判任官58人、雇員43人、傭人43人、全170人の氏名が記載されており、奏任官には、皇后宮女官長竹屋志計子、女官の津軽理喜子、伊地知ミキ、山岡淑子、萬里小路ソデ、油小路蒙子、北村民枝、御用掛に吉見光子、高木多都雄、生源寺政子、皇后宮女嬬に岸復、山口富子、佐藤エイ、松尾永、永田千代、河合ヤヨイ、青江こと、鈴木信、皇后宮職雑仕は雇員として萩原幸世、高木かね、中沢俊子、池田田鶴、榎本静子が記載されています。

興味のある方は、一度、閲覧をお勧めいたします。
 

二月田

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 7月 9日(月)01時13分18秒
  いよいよ今年もツール・ド・フランスが始まり連日の熱いレースが楽しみですが、変な宗教に入っていませんか。

さて、5月に3週間、大分調査に行ってきました。
中津、立石、杵築、日出、大分、豊後森、豊後竹田、臼杵、佐伯などを廻ってきましたが、雨の予備日を4日ももうけたもののギリギリの調査でした。
陵墓や伝承地に関しては、最後の5日間が連日の雨予報であったために、結局、清棲幸保の長女貞子さんの墓所しか行くことができませんでした。

宿は、鉄道のアクセス上、大分市がベストではあるものの別府市にし毎日、温泉にいやされてきました。
最近、なかなか伝承地に足を延ばせなくなっています。
 

伏見宮邦高親王王女玉姫様御墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 6月 6日(水)20時18分38秒
編集済
  こんにちは。先月仕事で高知県四万十市に行ってきました。自転車を借りて玉姫様の墓に参拝してきました。玉姫様は伏美宮第7代邦高親王の王女で土佐一條家の第2代一條為冬に嫁した方だそうです。
玉姫様の墓はきれいに掃除がされており、とても明るい感じです。すぐ隣には『玉姫さくら会館』という集開所のような新しく美しい建物がありました。写真1枚目の後ろの建物がそれです。毎年4月下旬か5月上旬に藤祭りが開催され、土佐公家行列という行事が近年行われています。玉姫様役の女性が公募され選ばれた人が行列に参加するそうです。玉姫は特に注目されるようです。地元では玉姫の会という会があり、紙芝居で玉姫様の事績を伝えるなどの活動もしているようです。また玉姫様の小箱や玉姫様の通行手形(地元でのお買い物がお得になる優待券のようなもの?)などもあり、商店街の振興にも一役買うなど、地元では知らない人はいないのでないかというくらい有名なようです。多くの皇室の中で、これくらい地元の人の生活に息づいている人物は他にはおられないように感じました。
 四万十川流域は自然豊かで、ホタルも楽しむことができました。
 

百舌鳥陵墓参考地

 投稿者:以為  投稿日:2018年 6月 3日(日)19時45分24秒
編集済
  次は百舌鳥陵墓参考地ですが、東百舌鳥陵墓参考地と同日に訪問しました。
こちらも書陵部紀要第69号で駒形制札改築されたとの記述があったので確認に行ってきました。
この参考地は古墳への渡通路はないので古墳自体に柵や扉はないのですが、東百舌鳥陵墓参考地と同様後円部に制札があります。
前回訪問したのは2010年12月で2008年から始まった墳丘裾護岸整備工事が継続されていた頃です。
この時も制札がありますが、制札の裾に石灯籠らしきものが横倒し(置いてあるだけかもしれない)になっております。
ところが昨日訪問した時は、制札に向かって右下に整えて組み上げてありました。
ちょっと見にくいかもしれませんが各々赤い矢印の指し示す部分をご覧ください。

以上ご報告まで。
 

東百舌鳥陵墓参考地

 投稿者:以為  投稿日:2018年 6月 3日(日)00時32分13秒
  ごぶさたしております。

書陵部紀要がネットで公開されるようになり、図書館に行かなくても新しい号であれば内容を確認できるようになってますね。

その中の書陵部紀要第69号の平成28年度陵墓関係調査報告に「東百舌鳥陵墓参考地駒形制札改築工事に伴う立会調査」というのがありましたので、制札の確認を兼ねて昨日10年ぶりに東百舌鳥陵墓参考地を訪問してまいりました。

画像は2008年6月訪問時の後円部渡通路と昨日の渡通路です。

2008年時は黒い扉があり、制札も見当たらなかったのですが、昨日見たところでは黒い扉は撤去され鉄柵だけになっており、駒形制札も確認できました。

渡通路付近から古墳への入り口は以前より明るくなったようです。

以上ご報告まで。
 

(無題)

 投稿者:DADA  投稿日:2018年 5月17日(木)08時19分12秒
  大垂水酔鳥さま

ご返信ありがとうございます。

> 長浜市の後鳥羽神社の付近
はい、神社そのものへの参拝は時間の関係でできなかったのですが、
(今思えば、訪問しておけばよかったな、と思います)
こちらの掲示板の情報を参考に、古墳や事績を回りました。
とくに新たな発見はありませんでしたが・・・。

こちらの諸先輩方のお話を頼りに回っているもので、
目新しいことが何もできず恐縮なのですが、
自ら足を運んで探訪することも大切なのだな、と実感しています。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年 5月15日(火)08時43分21秒
  DADA さま

私の書き込みのフォロ-有難うございます。
なにせ8~9年前のことなので、若宮神社の「境内から南の山頂の方に延びる山道」とか、過去の自分の投稿を確認しても何のことだか皆目わからず、PCに残してある探訪記録や地図などを確認しながら思い出す体たらくでした。
その当時は相当にモヤモヤ感を引きずっていたはずなのですが、やはり時とともに忘れてしまうんですね。
やっぱり、投稿の粗製乱造はダメですね。(汗)
オサキ山古墳の件は覚えていました。
米原市と長浜市に点在する後鳥羽伝説は、時間切れで行けなかった場所が多くあり心残りなので、機会があれば写真を撮りに行くつもりです。
ところで、長浜市の後鳥羽神社の付近は回られましたか?
私の投稿以外の見どころとかあれば、ぜひご教授下さい。

賀集八坂神社が淳仁天皇陵にゆかりのあるとは知りませんでした。
道路から長く続く参道を見て時間の心配から、立ち寄らずに通過した記憶があります。
 

米原・淡路島

 投稿者:DADA  投稿日:2018年 5月13日(日)14時06分53秒
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、いくつか陵墓巡りをいたしましたので、ご報告です。

こちらの掲示板にもありました、米原市、長浜市の陵墓をあちこち回りました。
以前に大垂水酔鳥さまがご訪問されたときと同じような状況でしたが、
気づいた点がありました。

□蛭子神社の七夕石
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1077
今回の訪問では、きれいに整備され、あらたに石碑が設置されていました。

□オサキ山古墳
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1090
今回訪問した際には、周囲が鳥獣除けのフェンスで囲まれていました。
一応中に入ることができ、登り道がなんとなくありましたので、
藪をかき分け登っていきますと、
案内板にたどりつくことができました。
周辺にもいくつか古墳があり、それぞれ案内板がありました。
案内板は古墳の名称のみで、とくに説明はありませんでした。

また、南あわじ市の陵墓も、こちらの掲示板を参考に回ってきました。
過去のご投稿と特に変化はないようでしたが、
若宮神社を訪ねた際、
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/848
以前のご投稿にある
「境内から南の山頂の方に延びる山道」がどうなっているか歩いてみました。
急斜面を数分登ったところ、山の尾根に辿りつきました。
そこにはとくに伝承地の類はなく、南西方向に尾根道が続いていました。
しばらく進みましたが、これ以上は何もないと判断して引き返しました。
おそらく一般の登山道なのかと推察されます。

淳仁天皇陵にゆかりのある賀集八坂神社を参拝しようとしたのですが、
事前調査が杜撰で、まったく違う神社に行ってしまい、
訪問できなかったのが心残りです・・・。

これまで各地をご訪問された皆さまの後を追っているにすぎませんが、
今後も各地の陵墓を回ろうと思いますので、
よろしくご教示お願いいたします。


写真上:七夕石の全景
写真中:新たに設置された石碑(設置の日付はなし)
写真下:オサキ山古墳の碑柱と案内板
 

陵墓参拝の祝詞

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年 5月 7日(月)21時36分40秒
編集済
  「延岡・時空を超えた出会いの聖地~西郷隆盛とニニギノミコト ロマンを巡る」なる番組の見たまま報告です。
http://www.bs-tbs.co.jp/journey/KDT1101900/

北川陵墓参考地の参道入口と拝所などが4分程度放送されましたが、参考地の解説などはありませんでした。
なお、出演者の一人の竹田恒泰氏が参拝に際して30秒ほどの祝詞を唱えました。
頑張って採録して他の祝詞と照合して漢字を当てはめてみました。

これの陵(みささぎ)に鎮め奉(まつ)る、掛けまくも畏(かしこ)きニニギノミコトの御霊(みたま)の御前(みまえ)を、謹み敬い、
天皇(すめらみこと)の家にも身にも禍事(まがごと)あらせず、夜の守り日の守りに幸(さき)はひ〔うつらい〕給ひ、
子孫(うみこ)の末の孫(うまご)に至るまでに栄えしめ給ひて、命長く〔みまつり〕麗しく、仕え奉らしめ給へとの〔いわおす〕ことを、
聞こし食(め)せと、恐み恐み白す。

〔うつらい〕〔みまつり〕〔いわおす〕の部分がうまく聞き取れず心許ないです。

これって、陵墓参拝の祝詞の定型文?なのでしょうか。

ついでに、新刊予定本です。
天皇陵と近代 地域の中の大友皇子伝説
https://books.rakuten.co.jp/rb/15377097/?s-id=bk_pc_item_list_name_n
 

宮ヶ浜

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 4月30日(月)01時56分24秒
編集済
  今年は例年に比べ暖かいものの朝夕は、まだまだ冷え込んでいましたが、ここにきて朝夕も快適に過ごせるいい季節になりましたが、変な宗教に入っていませんか。

今月は、五島福江、佐賀に16日間調査に行ってきましたが、九州でも朝夕は冷え込む気候でした。
五島から佐賀への移動日は、大雨・強風のために予定していたジェットホイールとフェリーが欠航したため、望みをかけ空港に向かいました。
幸い飛んだのはいいのですが、強風のため激しく機体が揺れ、あと5分飛んでいたら、ゲロ、をはいていたことでしょう(涙)

陵墓関連では、佐賀春日山の鍋島直泰侯爵夫人紀久子さんと都紀女加王墓ぐらいしか参拝することができませんでした。
今調査での最大の成果は、久留米梅林寺の有馬家墓域内の5棟の霊廟内を拝顔することができたことでしょうか。
また、2年ぶりに唐津にも行きましたが、唐津は暖かいし魚もおいしいので本当にいいところです。

昨日、龍源寺の近藤さんの墓参後、多磨霊園に建立されている生源寺政子さんの墓所を参拝してきました。
明治天皇関連では、まだまだ不明な女官が多く存在しますが、今後も地道に探していこうと思います。

1 生源寺政子之墓(角石)
裏)昭和十年十二月二十八日


また、無縁廃棄の警告板が立てられていた徳大寺公爵家墓所の入口には、すでに警告板は取り外されているものの、新たに番号が書かれた木柱が立てられています。
完全に保存の形で解決したとは考えられず、東京都の保護下にあるような気がします。
現在、東京都で徳大寺家の墓所を保存するのか、廃棄をするのかを審議中ではないかとも思われます。

ただ、徳大寺実則は宮内大臣ですし、雑司が谷の澤伯爵家墓所も廃棄されずに今のところ現存していることから保存される可能性は高いと思われます。
ただ、近代京都の基礎を築いた槙村正直男爵墓の事例もあるので安心はできません。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年 4月28日(土)13時45分34秒
  明日(4/29)の昼なのですが、BSで「延岡・時空を超えた出会いの聖地~西郷隆盛とニニギノミコト ロマンを巡る」なる番組が放送されるようです。
http://www.bs-tbs.co.jp/journey/KDT1101900/
内容的に北川陵墓参考地と西郷隆盛資料館だと思われますが、陵墓参考地がどの程度の内容で照会されるか個人的に興味津々です。
 

日本尊命陵印

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 3月31日(土)16時42分51秒
編集済
  こんにちは。レプトンです。この春は仕事の移動の時に、奈良県内の多くの陵墓の横を車で通りました。

さて、日本武尊の琴弾原白鳥陵の陵印があったことを確認しました。『大和 琴引原白鳥陵 参拝記念』と書かれています。
 

東西淡海公塚(聖武陵陪塚い号・ろ号)

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 3月21日(水)00時20分19秒
編集済
  こんにちは。奈良・大和路も早春の装いになりました。
先日聖武天皇陵の陪塚である東西の淡海公塚に行ってきました。行きにくい東淡海公塚も南側から容易に行くことができました。2006年3月に話題となり、fukuyama様が写真を掲載してくださっています。あれから10年たち周囲の柵が変わっていたのと、白い標木が建てられていました。ろ号では、宮内省時代の標木だったと思われる木の角柱は一部が腐り、字があった痕跡も全くわからない状態になっていました。写真で比べると周柵と標木の違いが判ります。上が西淡海公塚(い号)、下が東淡海公塚(ろ号)です。2018年3月17日撮影
 

薩摩今和泉

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2018年 3月11日(日)03時08分57秒
編集済
  全国の同志の皆さま、東京も暖かくなってきましたが変な宗教に入っていませんか。

先週、青山霊園に行ったところ何と!! 堀河子爵家の墓所に東京都から「連絡ください」という立て札が立てられていました。
このままの状態が続くと、やがて「1年後に無縁廃棄します」の立て札に変わることになります。

同墓所内には、堀河康隆夫妻、同護麿夫妻、戦死した同康文が合祀された堀河家墓の5基が建立されています。
堀河康隆は、堀河紀子さんの兄で、岩倉具視の弟になります。
堀河康隆の遺歯墓は、紀子さんの本墓とともに真如堂にも建立されています。
まだ、多少の余裕があるものの、こればかりは何時、無縁廃棄されることになるかわからない状況なので、今後も見守っていきたいと思います。

また、昨年の12月には染井の酒井忠積男爵墓の無縁廃棄期限が切れ、今年の正月には新たに青山で片岡利和男爵家の墓所に無縁廃棄警告の立て札が立てられました。
片岡家は、あと1年弱あるものの以前から荒廃していたので酒井家共々もう駄目でしょう。
 

「Let`s Go!若一調査隊!静なる歴史散策!京都での御陵めぐりに迫る」

 投稿者:fukuyama  投稿日:2018年 2月22日(木)18時41分26秒
  「Let`s Go!若一調査隊!静なる歴史散策!京都での御陵めぐりに迫る」

私は帰宅後 知ったので見れなかったのですが

夕方の読売TV 関西情報ネットten の中の 若一調査隊にて

「Let`s Go!若一調査隊!静なる歴史散策!京都での御陵めぐりに迫る」が
放映されていたようです。陵印についても紹介されていたようです。

http://kansai-joshiana.com/blog-entry-5702.html

http://kansai-joshiana.com/blog-entry-5702.html

 

日本武尊陵印2種類

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 2月16日(金)23時20分54秒
編集済
  連投失礼します。日本武尊の陵印です。能褒野墓・琴弾原の物ではなく、大阪の白鳥陵の印です。小さい方は昭和55年頃まで仲哀天皇陵事務所で押せていたものです。捺印されている用紙の裏にはどちらも大阪の白鳥陵の住所が書かれており、参拝日も同じなので共に大阪の白鳥陵の印と思われます。
今回の資料も大正末期から昭和極初期に参拝・集印されたものです。小さい方の印は長らく使われ多くの資料が残されていますが、大きい方の印は私の収集に係る物では初出でほかの資料では見当たりません。ごく短期間に使用されたものと思われます。(先の投稿の開化天皇陵印も同様です。)
捺印日は大正15年となっています。参拝日が大正15年で印だけ後日捺印された可能性がゼロとは言えませんが、この資料に関しては印と文字の配置から同日に参拝・捺印されたと考えるのが自然だと思います。陵印が大正末期から使われた事を示す資料といえるかもしれません。なお大正時代中頃の陵墓参拝の資料を見ると、まだ陵印は捺されてなく、参拝した陵墓の陵墓守部や陵墓守長の名前が墨書されており、個人の印鑑を捺印しているものを確認しています。(陵墓守部・陵墓守長の名前はおそらく陵墓守部・陵墓守長の自署とみられます。)このことから陵印が作られ使われ始めたのは大正時代中頃(大正6年頃)に遡ることはなく、大正末期(大正13~15年)ごろ使い始められたようです。


fukuyama様
 テレビ番組の紹介ありがとうございます。私も見ていませんが、天皇陵にスポットを当てた、天皇陵が主役の内容ですね。以前では天皇陵・天皇といえば右翼思想を連想されるためか、テレビなどでは取り上げられなかったものですが、今回はど真ん中を突いてきた内容でしたね。陵印が紹介されることなどテレビでは初めて見ました。時代は追い風かも・・・・。どうもありがとうございました。
 

開化天皇旧陵印2種類

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年 2月16日(金)22時24分42秒
編集済
   みなさまこんにちは。御無沙汰しております。遅ればせながら今年もよろしくお願いいたします。
今日は仕事でヒバス姫陵と成務陵の間の道を車で走ってきました。ハイキングさんや散歩をしている人が多く、いつ行っても気持ちの良い陵墓です。

 さて、開化天皇陵の旧陵印にも2種類あったことがわかりました。昭和4年ごろには使われていた陵印が長く昭和50年頃まで使われていました。(写真上)それ以外に昭和2年に使われたと思われる陵印資料を入手しました。(写真下)印の大きさも意匠・文字とも異なります。

 参拝日の日時に捺印されたと考えるのが普通ですが、昭和2年の開化天皇陵印の資料は、同じコレクション内で、後日捺印された可能性を示唆する陵印があり、捺印時期については断定できません。しかし昭和極初期であることは間違いなさそうです。
 

生見

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年12月28日(木)01時18分19秒
  早いもので今年も残すところ4日になりましたが、変な宗教に入っていませんか?

私宅の近くに伝承墓ではありませんが、聖徳太子の碑が建立されています。
円泉寺、世田谷区太子堂3ー30ー8
恥ずかしながら今まで何百回と通っているものの、まったく気がつきませんでした。
寺域内というよりも外の道路沿いに建てられた自然石には、「聖徳太子之碑」と刻字されています。
勿論、町名が太子堂であることから所縁の地であることを知ってはいたのですが。

さて、私事ではありますが、今春からフェイスブックを始めました。
と、云っても何か情報を公表しようとか、友人を見つけようとかする気は更々なく、単に日ごろお世話になっている博物館、資料館、寺院に「いいね」をつけるためだけに始めました。
現状、友達は4人だけですが、多分もう増えることもないでしょう。

それと、今年も公卿と新華族の新たな墓碑の発見が無く残念な1年でしたが、来年こそ新たな墓碑が見つかることを願いつつ本年、最後の書き込みとさせていただきます。

同志の皆様の新たなる年の幸福を願いつつ来年もよろしくお願いいたします。
 

富雄丸山古墳・小山田古墳・

 投稿者:レプトン  投稿日:2017年12月18日(月)16時57分41秒
編集済
  富雄丸山古墳が国内最大の円墳であることが確認されました。
この古墳は陵墓ではありませんが、平城天皇皇后帯子河上陵の候補にされることもあります。(富雄村史など)しかし時代が大きく違うことが指摘されており、河上陵に該当はしないようです。富雄丸山古墳と河上陵については2006年12月22日にぽん様の考察が投稿されております。(いつもながら詳細で明快な考察です。)

富雄丸山古墳についての新聞記事を張り付けておきます。(新聞記事はそのうちに削除されます。)
毎日新聞 2017年11月15日
  https://www.mainichi.jp/articles/20171116/k00/00m/040/023000c


2015年1月~3月ごろに話題となった、奈良県明日香村の小山田遺跡は一辺70m程度の方墳であることが分かったようです。石室の羨道跡(石を抜き取った穴・羨門のあと)が発見されています。古墳かどうか未詳でしたが古墳であることは確定したようです。遺跡名も小山田遺跡から小山田古墳と改められています。被葬者については2015年当時と同じく、舒明陵初葬地、あるいは蘇我蝦夷の大陵の2つの説が有力のようです。(2015年3月のぽん様の投稿で考察されているように、伝承されている場所は別の所のようです。)

 毎日新聞 2017年8月25日
https://mainichi.jp/articles/20170825/ddl/k29/040/564000c


明治時代の天皇陵の写真帖が以前ヤフーオークションに出品されていました。その中で驚いたのは崇神天皇陵の写真です。今は拝所の前は急な階段になっていますが、明治時代の写真では、今の山辺部事務所の建物のある辺りから拝所まで長ーい坂道になっていました。今は砂利の引かれている平坦の場所(アンド山古墳と南アンド山古墳の間)がすべて坂道になっているのです。いつ今のように変わったのでしょうか。ご存知の方御教示ください。
 手元不如意のため、その写真集のように貴重な資料があっても手出しできない・・・。


神武天皇畝傍山陵御陵御埋碑銘
http://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/page_thumb5123.html


戦前~昭和30年代に天皇陵の一部見直し、陵墓参考地追加を宮内庁(宮内省)が検討
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2005/05/1030_205a.html

他に読売新聞2008年8月8日



 

大伴皇女押坂墓の印

 投稿者:レプトン  投稿日:2017年12月17日(日)03時58分53秒
編集済
  大伴皇女押坂内墓の印です。一辺は約3.6cmです。
捺印時期・印の使用時期は不明ですが、一緒に捺されている崇峻陵・舒明陵の印は昭和50年代なかば頃まで使われていた印で、まだ新しく欠けたりしている所もない鮮明なものですので、その印の使用初期になります。おそらく昭和10年のちょっと前位でしょうか。(捺印時期の解かる資料が少なくはっきりしたことは言えません。)
 この印が確認できたことで、押坂部の管轄の全ての陵墓に印が存在していたことがわかりました。(舒明天皇押坂内陵2種類・崇峻天皇倉梯岡陵3種類・糠手姫皇女押坂墓1種類・大伴皇女押坂内墓1種類・御村上中宮笠間山陵1種類・春日宮妃紀橡姫吉隠陵2種類)
 しかし大伴皇女押坂内墓の印は極短期間だけ使用されたようで、他の集印帖などには捺されていません。


今日12月17日は、奈良では冬の一大イベント!春日大社のおん祭りがあります。寒い中ですが見に行ってきま~す。
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2017年11月16日(木)18時55分8秒
  こんにちは。レプトンです。御無沙汰しております。
宇和奈辺参考地の前方部の南東端にシートがかけられています。台風などで被害を受けたのでしょうか。
 

駿河塚、再度の危機?

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2017年10月31日(火)03時49分8秒
編集済
  たけちゃん さま2008年9月27日ご投稿の「伝嵯峨天皇皇女純子内親王御墓 駿河塚」の続報です。

母が毎年のように入院する病院のロビーから、この駿河塚が遠望できます。
今回、異変を察知したので報告します。

私の2008年11月26日投稿で、
「北側には民家が建ち、西側も造成地になりつつあり、写真のように樹木が伐採されてまる裸の状態でした。古墳の命運も最早これまで‥という感じです。」
と書いた後で、2009年5月15日日投稿で、
「駿河塚にも寄りましたが無事でした。周囲の宅地開発はストップしたままのようです。」
と書きました。
しかし、その後、宅地開発が再開され、古墳の命運が再び危機に!という感じです。
現時点では、西側の宅地開発はストップしたままのようですが、東側の宅地開発が既に完了し、南側も造成地になりつつあります。
古墳と南側造成地の間は畑が残されておりますが、農道などはなく、既に古墳には接近できない状態ですが、このまま西側・南側の宅地開発が進むと、住宅に取り囲まれて古墳が見えなくなってしまいます。
古墳は黒いビニールシートに覆われたものが破れ始めているようです。

再掲になりますが、goo地図の航空写真
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.46.56.007N34.56.56.283&ZM=11
と現況(↓写真)を比較すると、付近の宅地開発の進展がよくわかります。

この駿河塚、私が探した限りでは、伝承?の詳細を記した文献は見当たらず、恐らく近世以後に発生した、三代実録の記載からの付会だと思われます。

貞観3年6月17日
詔定仁明天皇深草山陵四履。東西限一町五段。南限純子内親王冢地。北限峯。
貞観8年12月22日
勑。改定深草山陵四至。東至大墓。南至純子内親王冢北垣。西至貞觀寺東垣。北至谷。

この純子内親王「冢地」「冢北垣」のビミョ~な表現が議論の対象となっているようです。
純子内親王の薨去が貞観5年なので、3年に冢(塚)があるはずがないことから、塚ではなく「家」という主張。
でもそれだと、8年になぜ家があるの?空家?北側の垣根だけ残っていた?


写真中央の黒いものが駿河塚
 

前の浜

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年10月13日(金)02時33分35秒
  早いもので10月になりましたが、変な宗教に入っていませんか?
しかし、今年があと3ヶ月弱というよりも平成が残り1年と3ヶ月弱かと思うと、淋しさを感じずにはいられません。


さて、9月には、大村に6日、平戸に10日滞在した長崎調査、月末には広島、鞆の浦、倉敷まで温泉旅行に行ってきました。

ポンさんのサイトを見ると、平戸にも伝承墓が1ヶ所あったので予定していたのですが、残念ながら行くことができませんでした。
だいたい雨予備日ももうけていたので行けるはずだったのですが、何と帰宅の3日前に台風が接近したため紐差の普門寺に2回行くはめに・・・
それがたたり時間が確保できず泣く泣く中止。

十城別王の伝承地は、平戸市宮の浦にあるのですが、宮の浦へは平戸桟橋からバスが1時間に1本でており、その途中に紐差があります。
台風さえ起らなければ行けたのですが、次回、平戸へ行った時にでもと考えています。


また、8月にどうしても確認しなければならないことがあり日帰りで京都まで行ってきました。
残念ながら18切符では、ながらか、新幹線を一部利用しないと行けないため品川~名古屋までは、ぷらっとこだま、8300円、名古屋からは18切符を使用し、1日分2370円、新快速で~米原~京都にお昼前に着。

帰路は、京都発3時30分の新快速で米原~豊橋、以降は普通で~浜松~静岡~熱海~品川~恵比寿着は0時20分で、ぐったりの帰宅でした。
時間に余裕があれば、どこか陵墓でもと考えていたのですが、あまりの暑さに動けず。

よくよく考えると夏に京都へ行ったのは、実に何10年前の高校の時以来でした。
当時、2度と夏の京都、名古屋、広島へは行くまいと自分に誓っていたのですが、トホホな京都調査になってしまいました。


先日、10年近く親しくしている方から同人冊子をご恵贈いただきました。
その中で、他の方が執筆されたものですが、大変、興味をそそられるものがありました。
「榎本家ゆかりの人たち、○○から御所に上がった乙女たち」

これは大正末期に御所に上がった榎本静子と萩原幸世に関し静子のご子息がまとめられたものです。
静子は僅か39歳で死去したため残された静子の日記からの引用になりますが、御所内での日々がつづられています。

ただ、両家とも華族や社家出身者ではないので検索しても出てきませんが、何か名簿のような資料があれば詳細がわかるかもしれません。
「大正天皇のご容態悪化、両陛下聖上陛下お見舞いに葉山へ」などの記述がみられます。


DADAさま

各所のご参拝ご苦労さまでございます。

さて、お尋ねの賀子内親王の墓碑ですが、二尊院の一般拝観の範囲外に建立されております。


先般、徳川慶喜公の玄孫にあたる第六天徳川公爵家4代当主の徳川慶朝氏の訃報が報じられました。
慶朝様には、以前、いろいろとお世話になったので大変に残念に思っております。
形式的には、ご長男が継承されるような形にはなると思うのですが・・・どうなるのでしょうか。


しかし、この「陵墓要覧」も、あと少しで20万アクセスですね。
思えば、前サイト閉鎖の話を聞いた時は、今後どうなることやらと心配いたしましたが、福山さまが引き継いでいただいたおかげで現在に至っています。

初期から携わる1人として感慨深いものがあります。
ポンさまやレプトンさまも同様の気持ちでおられるかと思いますが、改めまして福山さまにお礼申し上げる次第です。

今月の26日は、伊藤博文公爵の命日になります。
昨年は、鹿児島調査のため墓前祭に参列できませんでしたが、今年は参列できそうです。
 

治定外陵墓

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 9月 7日(木)23時27分41秒
  こんにちは。
残暑も和らぎ、過ごしやすい季節になっております。

さて先日、京都の二尊院に参拝し、
2007年5月16日の照山もみじ様のご投稿を参考に、治定外陵墓を見て回りました。

その際、
> 【後水尾天皇皇女賀子内親王・二條光平正室墓】
> 深信解院内親王尊儀      (宝篋印塔)
> 元禄九丙子年八月二日

だけが、どうしても見つけることができませんでした。
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。

また、「新撰陵墓誌」の大阪府の一覧に、
> [清寧天皇殯斂地]
> 柏原市平野字坂門原 平野山観音堂上 坂戸荒陵(詳細不明)

とありますが、この「平野山観音堂」とは、
具体的にどこを指しているのか、
もし詳しい情報がありましたら、あわせて教えていただけるとありがたいです。

質問ばかりですみません。
最近は、こちらの情報を頼りに、
関西地方の治定外陵墓を訪ね歩いております。
なかなか一人で調べるのにも限界がありますので、
新撰陵墓誌の一覧やこちらの掲示板の情報は非常に重宝しております。
 

喜入

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2017年 7月 2日(日)02時11分21秒
  早いもので今年も半分が経過し7月になってしまいましたが、変な宗教に入っていませんか。

ただ今、ツール・ド・フランスの第1ステージを見ておりますが、いよいよ今年も猛暑の始まりという感じです。


4月は10日間山口に、5月は16日間福岡まで調査に行っておりましたが、残念ながら陵墓や伝承地も色々考えていたのですが、結局は都紀女加王墓ぐらいしか参拝することができませんでした。

最良のニュースは、毎月確認に行っていた多磨霊園の徳大寺公爵家の墓所に先週行くと、何と無縁警告書が剥がされていたので、どうやら廃棄処分は免れた感じで一安心です。
その後、石田寺の土方さんの墓所を廻りつつ70kほどのお散歩ツーリングでした。

昨年かヤフーニュースで京都梅林寺の土御門家墓の維持に関する報告がありましたが、公卿墓所の正確な記録を迅速にすすめないと、いつ廃棄されても不思議ではない墓所が多く待った無しの状況であることを改めて実感しています。
関西在住の方で、特に関心のある方にはお願いしたいところです。


実は、昨秋、30年ほど親しくさせていただいていた織田長功様が死去されました。
織田さまは、右大臣織田信長公の弟有楽斎長益公の5男、織田尚長公を藩祖とする大和柳本藩織田子爵家の17代当主になられます。
また、御母堂様は肥前蓮池藩鍋島子爵家より、御祖母様は久邇宮朝彦親王の王女であることから陛下とは、ハトコの関係になられます。
このような華麗なる家系であるにもかかわらず、とても気さくな方であっただけに残念でなりません。

最後に、以爲様のゴウボ坂陵参地の報告は、大変に参考になりました。
 

檜塚古墳 見学会

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 4月16日(日)07時21分44秒
編集済
  檜塚古墳 見学会もそうですが

百舌鳥耳原南陵飛び地 い号 経堂の様子の変化に おどろきです

1.見学会説明解説
2.い号 現在の様子
3.檜塚古墳 説明板



http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/osaka/013.htm

 

檜塚古墳

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 4月15日(土)14時49分39秒
編集済
  こんにちは。

fukuyama様ご紹介の見学に行ってきました。

先着30名、1回の見学予定でしたが、
受付開始前からすでに希望者が来られていたようで、
12時半からも見学をおこなうことになり、
それぞれ定員が60名に増えました。

私は11時の回で見学しましたが、
クボタの方の先導で工場内に入り、市の職員さんの解説がありました。

周囲はきれいに整備され、
やはり世界遺産を目指すからなのか、と思いました。

工場内にはほかに古墳がないか聞いたのですが、
過去にも現在も「ない」と断言されてしまいました。

途中にわか雨があり、雨宿りついでに工場建物内まで見学させてもらえました。

こちらの皆さんもご参加された方もいらしたかもしれませんね。

追記:以為様、ご教示ありがとうございます。早速、文献を確認しました。
 

古墳見学

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 4月15日(土)10時30分49秒
編集済
  https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1617512324955782&substory_index=0&id=1192422330798119&__tn__=%2As


クボタの感謝DAYの中で 檜塚古墳見学が 有るようです

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1617512324955782&substory_index=0&id=1192422330798119&__tn__=%2As

 

川上村史

 投稿者:以為  投稿日:2017年 3月18日(土)14時16分58秒
編集済
  ごぶさたしております。以為です。

先日大阪市立図書館で興味深い書籍に遭遇しました。

「川上村史」

現在奈良県にある川上村ではなくて、昭和29年3月まで存在した大阪府南河内郡川上村の村史です。
出版年月日が昭和29年3月なので、河内長野市に合併されるのを機にその歴史を残すため編纂されたのでしょうか?

当時の川上村には、皆様ご存知の観心寺というお寺があり、観心寺と聞けば、後村上天皇陵ですね。

更に陵墓参考地も、檜尾塚陵墓参考地、コウボ坂陵墓参考地と2か所あります。

川上村史の中に、この2つの陵墓参考地につき興味深い記事がありましたので、ご紹介致します。

<檜尾塚陵墓参考地>

昭和五年頃書類整理の際発見せられた観心寺過去帳の中に、長慶天皇の御髪塔は観心寺山内にありとあって、その有力な候補地としてここがあげられた。

寺所蔵書に長慶上皇が吉野の幽居を出られてからしばらく観心寺に滞在されたことが記されていること。

観心寺僧賢俊の手控帳に長慶上皇の御製二首あり。

不動院院主の一山目録覚帳に南朝長慶院御念仏不動明王とあり。

以上の伝説と参考文献から御髪を葬られた古墳であると確定せられ、御陵墓参考地として保存せられるようになった。

ということで、川上村史では、昨今云われている新待賢門院藤原廉子を充てておりません。

拝所奥に見える宝篋印塔についても書かれており、「高さ三尺位で底辺の一辺約一尺五寸、連辨の彫刻ある台石の上にある。

形は完全で形式は室町時代前のものである。」とあります。宝篋印塔の絵も挿入されております。

いわゆる陵墓地形図集成に描かれております彊界標一号から十二号は、昭和10年5月16日隣地主立会彊界査定並びに界標建設とあります。

<コウボ坂陵墓参考地>

コウボ坂とは、コウボ阪で、弘法阪といい、弘法大師が観心寺を再興せられた時、度々と往来せられたのでこの名があると考えられていた。(略)昔から観心寺には新待賢門院のご遺体が、火葬にせられて山内にご埋葬申しあけたという寺伝があり、寺主と寺の相談役が研究せられた結果、此処が新待賢門院の御遺骸を葬り奉ったところであることが明らかとなった。

従ってこの墓地への阪道は、元は皇母阪と呼ばれていたが、何時の間にか弘法阪と誤り伝えられた。とあります。

いわゆる陵墓地形図集成に描かれております彊界標一号から七号は、檜尾塚陵墓参考地と同じく、昭和10年5月16日隣地主立会彊界査定並びに界標建設とあります。

川上村史では、「確定せられ」とか「明らかになった」等の断定的表現を用いておりますが、まとめますと、檜尾塚陵墓参考地=長慶天皇髪塔、コウボ坂陵墓参考地=廉子皇母阪陵という見立てであったようです。(陵墓名は私の勝手な推察ですが…)

私自身多少読み込み不足のところもありますので、詳細は「川上村史」をご一読いただければと思います。


***** 柏原山陵について *****

DADA様ご指摘の柏原山陵と柏原陵についての件ですが、大正十四年七月二十日発行の山陵(上野竹次郎著)上巻130頁に改葬の件に触れた部分が少しあります。が、具体的な場所までは示されていないようです。改葬の出処は類聚国史のようですね。
 

(無題)

 投稿者:DADA  投稿日:2017年 3月11日(土)18時26分56秒
編集済
  こんにちは。

先日、京都市内を訪問しました。
こちらの掲示板の過去ログをもとにして治定外墓を見て回りました。

西王寺で霊元天皇皇女憲子内親王の墓を参拝しましたが、
その際、向かいに後水尾天皇皇女常子内親王の墓、
近くに円台院(泰宮薫子女王)のあるのを確認しました。

ほかにも、以下の陵墓を参拝いたしました。
岩倉の古市胤子墓(周りの雑草などは片づけられ、手入れされておりました)
小町寺の小野皇太后供養塔
茶山の談合之森稲荷神社
華山寺の花山天皇髪塔
 (庭にあった塔だと思われます。直接拝観できませんでしたが、一般墓地から見えました)
三宝寺門跡「御墓惣塔」(以前と変化ないようですが、付近の尾根は少し整備されていたようです)

すでに皆さまご存知かと思いますが、ご報告まで。
 

大入杵命墓 おおいりきのみことのはか

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 2月26日(日)14時22分39秒
  その番組は見ていないのですが

崇神天皇皇子 大入杵命墓 おおいりきのみことのはか

と思われます
 

ちょっと気になったので質問

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月25日(土)18時10分30秒
  テレビ朝日の「人生の楽園」を見ていて最初のワンシーンに御陵らしいのが写ってました。
場所は石川県中能登
誰の御陵でしょうか?
天皇 皇后 皇子の名前は読み辛いのが多いので読み方を解れば教えてください
 

明治天皇伏見桃山陵

 投稿者:fukuyama  投稿日:2017年 1月 3日(火)20時42分15秒
  今年 正月三ヶ日特別拝所参拝
明治天皇伏見桃山陵に参拝した時の写真です
 

中名

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2016年11月28日(月)00時57分36秒
編集済
  早いもので今年も1ヶ月弱となりましたが、変な宗教に入っていませんか?


10月23日から16日間、鹿児島・宮崎調査に、先週は下関・唐津・柳川まで温泉旅行に行ってきましたが、それにしても本当に九州は暖かい。

鹿児島・宮崎調査では、可愛山陵と中陵ほか、西都原古墳の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳、鵜戸神宮の鵜戸陵参地を予定していましたが、結局、西都原古墳しか行くことができませんでした。

11月4日、佐土原で大光寺の島津家墓所を調査後、西都原古墳へ行くと、男狭穂塚陵参地の制札屋形前で知らないおじさんが「明後日は中に入れるよ」と教えてくれました。

幸い、明後日の6日に高月院の島津家墓所の調査がお昼すぎに終了したので再度、西都原古墳へ行くと、おじさんの言っていた通り男狭穂塚古墳の参道が公開されていました。

当日、11月6日は西都市の古墳祭りのイベントによるようでしたが、参道を30mほど直進し、右折し20mほどまでの参道部分だけの公開でした。

ただ、参道の入口から3~4ヶ所位に市の職員がおり、参道から出て古墳まで行かないよう見張っており、更に入口には写真撮影禁止の看板がありました。

最奥には、宮内庁委託?のおじさんがガイドをしていましたが、写真禁止は宮内庁からのお達しとのことでしたので、今一つ納得のいかない参拝になりました。

男狭穂塚古墳の入口には、陵参地ではあるものの制札屋形があり男狭穂塚と女狭穂塚の記名がありますが、100mほど離れた別域には、単独で女狭穂塚の五角形の制札も立てられています。

僅か50mほどではありますが、通常、立入禁止の陵域内に入ることが(写真禁止ですが)できますので、興味のある方は来年以降の古墳祭りの当日に西都原古墳を訪れてみてはいかがでしょうか。

西都原古墳群には、両陵参地以外にも多くの古墳が林立しているので、古墳好きにはたまらない聖地とも言えるところです。
その他、宮崎神宮から西に5kほどの生目(いきめ)古墳群にも行きましたが、ここにも100m越えの前方後円墳が建造されており、一見の価値があります。



10月の初旬に多磨霊園に行ったところ何と、徳大寺公爵家の墓域入口に東京都からの無縁廃棄の警告板が立てられていました。
徳大寺公爵家の墓所は、以前から荒れ放題で、時々、参拝時に枝切りハサミで雑草の小掃除をしてはいるのですが、何せ巨木が数本あるため日当たりが悪く快晴でも墓域内は薄暗い状態で難渋していました。

勿論、子孫の方はいるのですが放棄したのでしょうか?
小池知事名の警告板には、「無縁墓と思われますので1年以内に対応しなければ廃棄処分する」と明記されています。
徳大寺実則公爵は、宮内大臣で歴史上の著名人であることから万が一、1年が経過し何の進展が見られない場合でも雑司ヶ谷霊園の澤伯爵家墓所のように無縁撤去に待ったがかかると思われますが、雑司ヶ谷の阿野子爵家墓のようにあっさりと廃棄される可能性もあるので楽観してはいられません。

島津宗家の公爵家現当主島津修久氏は、実則の曾孫になりますので、いちよ耳には入れておりますが、はたしてどうなるのでしょうか?
期限は、来年の10月ですが、とりあえずは来春まで経過を見てみるつもりで、危ないようであれば色々と働きかけなければと思っています。
あと、鯖江藩主間部家分家の間部家墓所にも無縁廃棄の警告板が立てられており、あ~頭痛が・・・・



現在、次調査報告書の制作のため調査中ですが、ここ数年、体力の衰えを実感しています。
単に調査するだけであれば問題は無いのですが、採寸のため立ったり座ったり屈んだりを繰り返すと、さすがにしんどいです。

数年前から私の調査研究を引き継いでくれる後継者を、そろそろ探さねばと考えています。
決まれば、私の全調査記録(コピー)を譲渡するつもりでいます。
いちよ、以前から親しくしている方を予定しているのですが・・・・
今後、じっくり考えたいと思っています。
 

崇仁親王墓所一般参拝

 投稿者:fukuyama  投稿日:2016年11月 6日(日)17時24分10秒
編集済
  最近は陵墓参拝の機会が少なくなった私ですが
崇仁親王墓所一般参拝に行ってまいりました。
日曜で天気も良く、多くの方が拝礼されていました。
豊島岡墓地の木々も落葉が始まり、吹く風が少し
気温を下げていましたが私は 11時ごろに拝礼を
いたしました。

また高松宮墓地の東側の樹木が一部伐採されており、目
隠しとなっていた木が無くなった為に住宅が垣間見えておりました。

写真は


明治天皇皇女 稚高依姫尊墓   明治天皇皇子 輝仁親王墓
 

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