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宇和那辺参考地(ウワナベ古墳)の調査の様子

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年10月16日(金)23時04分56秒
編集済
   こんばんは。昨日(10月15日)Fukuyama様がご紹介下さったウワナベ古墳の調査の様子を見てきました。
 10月10日に、ウワナベ古墳の東側の国道24号線を走ったときに、周濠の水が減っていたことは既にお伝えしましたが、調査も実施されているだろうと思い、仕事で近くに行った時にウワナベ古墳に回りました。その時の様子をお伝えします。

①西側くびれ部辺りの周濠では、墳丘と接する所から四角形(のように見える)の区画に数本棒がが立てられ、そのエリア内は水がなく、1名の調査員の方が調査をしておられました。
②東側は、水が減っているため、墳丘沿いは数m程度の幅で底が出ていて歩ける状態になっていました。私が見た時には3人の調査員の方がくびれ部から前方部角へ歩いて来られ、更に前方部正面部の方に行かれました。また別の調査員の方もくびれ部辺りにおられました。
更に墳丘部1段目テラス部には水色っぽい制服?を着た1名の方がおられ、前方部角からくびれ部に歩いて行かれ、また前方部角に戻ってこられました。調査員の方とは違う服装で、墳丘テラス部を歩いておられることから、宮内庁の方かもしれません。(写真1枚目)
③後円部北東の周濠には簡易の橋が渡されています。橋は墳丘まではつながらず、手前まで終わっていました。この辺りは板塀などで水を完全にシャットアウトしており、周濠の底に何か敷いて作業しているように見えました。この場所で周濠の底を詳しく調査しているようです。多くの方が作業をしておられました。(写真2枚目)
④後円部北西側では、墳丘部に土砂がむき出しの部分があり、シートが掛けられています。その場所の周濠にも板塀で囲まれた所がありました。墳丘部の調査でしょうか?あるいは雨などで崩れた箇所の修理かもしれません。周濠は北側の水底が、南側より高いようで、水が少なくなっていました。青鷺がエサを探し、水のなくなった泥地を赤い鯉が這いずっていました。(写真3枚目)

濠を渡っての現地説明会はこの場所、北側の周濠になるのかもしれません。さすがに墳丘に一歩でも上るようなことはないでしょう。

現地説明会の申し込みをしました。抽選で当たるといいな・・・


因みにお隣の小那辺参考地の濠の水は満々と湛えられていました。駒形制札が前方部南西角に立てられていました。

 

「京都ぶらり歴史探訪」の予告編なら

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年10月15日(木)21時01分16秒
編集済
  「京都ぶらり歴史探訪」の予告編なら youtubeのBsAsahi公式にあると思います




http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

後水尾天皇髪歯塚にTVが入った!

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年10月15日(木)12時56分49秒
編集済
  ★追記★しました

10月14日のテレビ番組「京都ぶらり歴史探訪」を見ていたら、な、なんと!!
https://www.bs-asahi.co.jp/kyoto_burari/lineup/prg_093/

相国寺の僧侶が番組のメインキャスト中村芝翫ほか1名を引き連れて、後水尾天皇髪歯塚の拝所の前に
やってきて、本来は入れないが宮内庁から特別の許可で‥と言って拝所の鍵を開けて中に入り‥
えっ?マジで!!
CM(演出効果抜群!?)
陵名石標の所まで入って行って髪歯塚の由来について説明をしたのです。
番組のこのシーンはCMを除外して約2分ほど。
陵名石標を撮るだけならズームでも簡単に撮れるし、拝所には駒形制札もあるし、何で中に入る必要が
あったのか、何で宮内庁が許可したのか意味不明。

この番組、放送後一ヶ月以内に再放送するケースが多いので、興味ある方はどうぞ。

★追記★

fukuyamaさま、youtubeで過去の予告編が残っているとは知りませんでした。
最新の予告編は上記リンクの番組公式ホームページで見られます。
興味ある方は上記のリンクからトップページに遷移して再放送の確認をして下さい。
現時点では10月21・28日は当該回の再放送ではないようです。

 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年10月14日(水)02時18分28秒
  fukuyama様
 ウワナベ古墳の情報ありがとうございました。早速申し込みました。
 先日、ウワナベ古墳横を通りました。濠の水が半分ほどになっていました。
 調査の関係で減らしているのかな?と思いました。
 

明日香村

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年10月 4日(日)20時47分33秒
編集済
  防草シートですか、参考地と接する民有地は駐車場なのですが
何かクレームとかの対応なのでしょうか。

陵墓ではないのですが、墳丘にシートがかけられてたのは
明日香村の中尾山古墳、墳丘規模や形態、範囲確認の発掘調査のためでした。


今回は欽明天皇陵飛び地経塚に行くのは断念しました。(藪が酷くて)

写真は
中尾山古墳、畝傍陵墓参考地、宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

(無題)

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2020年10月 4日(日)01時44分6秒
  fukuyamaさま

ご覧になったのは防草シートだと思います
地面にシートを張るだけですので、調査はないでしょうから書陵部紀要にも載らず、
安価なため、入札案件にもならないものと思います
 

陵西陵墓参考地

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年10月 2日(金)20時46分28秒
編集済
  今回傍丘部管轄の陵墓を幾つか参拝したのですが

コロナ禍で現在では オフィス 間仕切りというかデスクとデスクの間にパーテーションを設置している所も多いと思いますが

宮内庁の陵墓事務所も例外ではないようですね
武烈天皇陵傍丘部事務所に


15年ぶりぐらいで陵西陵墓参考地に
東側の前方部に台風被害処理なのか防災の為かわからないのですがシートが一部貼られてましたが

『書陵部紀要』にも公共工事の入札・契約情報でも見た記憶がないのですが

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

ウワナベ古墳範囲確認調査

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年 9月20日(日)14時59分16秒
編集済
  ウワナベ古墳範囲確認調査が行われます。

奈良県・奈良市・宮内庁の三者同時の調査です
行政と宮内庁との合同調査は、百舌鳥陵墓参考地などでも
実施されてきましたが、奈良では初めてのようです
コロナ禍の為 周濠を渡っての現地説明会は事前 申し込みのようです。

申し込みが始まっています ↓

https://event.nara.jp/sp/uwanabekofun

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

こんなのが・・・・

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 9月19日(土)11時55分36秒
編集済
  こんなのが発売されたようです。
「あつめて回ろう『御陵印』」(小学館) 9月10日発売
https://www.shogakukan.co.jp/books/77803622

 じわじわと人気の出てきた御陵印収集、子供向けの集印ガイドブックで人気に火が付くか?
  子供向けというわけではないようですが、陵印収集の敷居が低くなるかもしれませんね。


最近ネット環境のないところでの生活をしております。皆様のご教示にお礼も言えずにすみません。
 

伊予親王巨幡墓の旧経路

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 9月13日(日)13時37分38秒
編集済
  クジラのカツ揚げ さま

玉津団地1号棟からのアクセスですが、飛地への正式な経路ではなく貯水槽への経路に宮内庁が便乗?したもの
だと私は理解していました。
そして老人ホームの方からのアクセスが宮内庁の正式な経路なのか、はたまたそちらも別の用途の経路に宮内庁が
便乗?したものなのかが私の知りたい問題意識です。

伊予親王巨幡墓の旧経路については、過去に二度投稿しておりますのでご参照下さい。

2008年3月3日 該当部分の再掲

伊予親王巨幡墓は、以前は南側の私有地(寮か社宅)の入口の横から畑の畦道?に入る分かり難い場所でしたが、
その後の宅地開発に伴い北側の住宅団地から入れるようになり、現在は拝所のすぐ北側まで民家と道路が来て
おります。ちなみに南側の畦道?は途中でえぐれて行き止まりとなりました。

2008年7月30日は写真付きで解説しているので該当投稿を直接ご参照下さい。

旧経路は写真の←方向の緩やかな上り坂でした。
 

玉津陵墓参考地の件

 投稿者:クジラのカツ揚げ  投稿日:2020年 9月12日(土)21時00分8秒
  つい最近いつて来ました。私は老人ホームの方しか知らないです。団地の方からのアクセスがあつたんですね。老人ホームの方は草がボーボで、しかも老人ホームから丸見えなので道も見えない位草の通路を通る不審者が侵入していると通報されないか不安でした。大きい貯水槽の横を通り先に陪塚です。街中の陵墓は環境が良く無いですね。
伊予親王巨幡墓? 住宅地から普通に入り門の左の陰で育たない植木から侵入ですが、その他アクセス路が有るのでしょうか?
現在は無人管理墓で侵入出来ないのは青蓮院上墓地で下からは南京錠で鍵が閉っていて山側自然歩道からでしかアクセス出来ません。六條天皇陵、嵯峨天皇皇后嵯峨陵、青蓮院下墓地。
 

玉津陵墓参考地飛地ろ号の経路変更について

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 9月11日(金)00時42分37秒
編集済
  私の2010年1月11日投稿で玉津陵墓参考地を取り上げましたが、状況が大きく変化しているらしいので
確認と質問をさせて頂きます。

私の10年前の投稿では、飛地ろ号への経路について、玉津団地1号棟の敷地からの通用路?に門柵があった
ことを写真付きで紹介しましたが、更に9年前にはこの門柵は無かったような気がしていました。
先日たまたま下記サイトを見ると、玉津団地からの経路は「フェンスがあり進入できません」とあり、難易度
高そうな別ルートが紹介されています。
https://ryobo.fromnara.com/kinki/372.html
こちらのサイトの訪問日は私の約2年後なのですが、このような正反対側への経路変更が宮内庁の意図した
ものであるならばは私の知る限り伊予親王巨幡墓くらいです。
門柵無→有→フェンス有という経過で飛地への進入がブロックされたのであれば、難儀な話です。
この間の経過についてご存知の方、ご教示頂けると幸いです。
 

頴娃

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2020年 9月 5日(土)00時44分54秒
編集済
  まだまだ猛暑が続き強力な台風も近づいていますが、変な宗教に入っていませんか。
ツール・ド・フランスも2ヶ月遅れでようやく開催され、いよいよ山岳ステージも始まります。

今年はコロナ禍の影響で、皆さまも不自由な生活をしいられていることと推察いたしますが、わたしも3月の四国への温泉旅行、4月の鹿児島調査、5月の佐賀調査とも、すでに航空券を購入しホテルも予約していましたが泣く泣くキャンセルいたしました。
調査を夏以降に延期し様子を見ていましたが、コロナが全国に拡大し終息の兆しも見えないことから本年の調査を完全に諦めることにいたしましたので、どうやら30年ぶりぐらいに地方調査皆無の1年になりそうです。


おまけに5月の下旬に車との接触事故(車の後方不注意)により転倒し、右骨盤と右手を骨折する「もらい事故」で、全治3ヶ月の診断で50日近くも入院するはめになってしまいました。
おかげさまで事故後100日が経過し、全快に近く95%ほど回復いたしましたが、最初の1ヶ月間は歩けないので毎日リハビリはするものの、日々、右足の筋肉が落ちていくのが怖い。
そんなこんなで、8ヶ月が経過し本年初の書き込みとなってしまいました。

そのような訳で特別な新情報はありませんが、前回の大晦日に書き込みの中で書き忘れがありましたので、ご報告させていただきます。

もう10年ほど前に、青山霊園に建立されていた三笠宮百合子妃の曽祖父である高木守庸(松山)ほか高木家の墓所に、無縁廃棄の警告札が立てられていると廃棄危機の書き込みをいたしましたが、残念ながらすでに廃棄され更地になっていました。
何分、高木家の墓所は、中央の道から外れた場所にあるために、まったく何時、改葬されたのかもわからない状況です。
系譜は、守庸ー正善ー正得ー百合子妃、となります。
このことを東京都に伝えていれば、忖度されたかもです。


まあ、結果的には今年は都内の華族墓の写真の撮り直しに始まり終わる1年ということになりそうです。
3月下旬に染井霊園が一段落ついたので、4月からは谷中霊園の撮り直しを始めたのですが、下旬に染井に行くと、何と宍戸子爵家の広大な墓所が更地になっており、その後、3回行き墓域が10/1ぐらいに縮小されているところまでは確認していますが、その後、入院したため未だ工事の完了を確認していません。
もう少し日にちがズレていれば、改葬の様子も見れたのですが残念です。

また、先週の土曜日に次回報告の写真を撮りに青山霊園へ行くと、何と大鳥圭介男爵家の墓所が更地になっており、慌てて霊園の管理事務所へ行くと、他寺(霊園?)へ改葬しましたといわれました。
改葬先は、非公表とのことでした。
昨年春に、200枚ぐらい写真を撮影しているとはいえ残念でなりません。


さて、私が神代3陵を参拝したのは、今から40年ほど前の昭和53年のことですが、さすがに大垂水酔鳥さまみたいに1日で廻ろうなんて夢にも考えませんでした。
ただ、旅行中に台風がきたために高屋山陵には行くことができませんでした。

可愛山陵の陵墓官は武智さんという方で、拝所前の詰め所で陵印をいただいたことは鮮明に覚えているのですが(その後、川内駅まで車で送っていただいたので)、吾平山陵の記憶がまったくありません。
橋の前にある詰め所か、駐車場先の土産物店?物産店?のどちらかで、多分、土産物屋?だったと思いますが、おばちゃんだったかも?
ここの最大の難所は、鹿屋と御陵間の移動ですが、昨秋は往復を自転車でした。
最初に行った時は、多分、鹿屋で3時間ぐらい待ちバスで御陵まで行きましたが、歩いている途中に、そのバスが折り返してきたので(多分、お昼過ぎごろなのに終バス?)、帰路は仕方なくタクシーでした。

あと、淡路島へ初めて行ったのも昭和51年だったのですが、淳仁天皇陵前の詰め所で御陵印をもらったと記憶しています。

あの時代、今みたいにデジカメがあれば各陵墓で100枚ぐらい写真をとっていたはずですが、何せフイルムカメラ時代の昭和だから、残りの枚数を考えながら撮っているので、どうしても残っている写真が極めてすくないんですよね。
これは、鉄道の写真も同じで少ないんですね。

今年は、以上ような踏んだり蹴ったりの1年になりそうなので、新たな報告は来春以降になりそうです。
 

陵墓に関する回答について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2020年 8月27日(木)21時33分40秒
編集済
  一部 追記しました。

皆さん、こんばんは。
大変暑い日が続きますね。皆様方の投稿内容を楽しく拝見しています。

レプトンさま
吾平山上陵の陵印保管変遷について、宮内庁書陵部発行の「御陵所在地一覧表」で調べて見ると、昭和58年12月発行では当陵保管で火曜午後、水曜は職員不在、平成8年4月発行、平成9年11月1日作成では火、水曜及び休日は職員不在とあります。平成10年4月発行では職員不在時は参道入口町営物産館で保管、平成12年4月1日作成では職員不在時は参道入口宮内商店で保管とあります。レブトン様や大垂水酔鳥様の投稿内容によると平成の初期では、職員不在時は別の場所に陵印が移動され押印出来たことになり、宮内庁の公式書類では記載されていません。私が投稿した深草部事務所から近衛陵への陵印移動も同じことが言えますが、特異対応の事例が他でもあったのではないかと思われ大変興味深い内容だと思います。

先日のお尋ねの件ですが、回答に値するか分かりませんが、私の分かる範囲内で下記のとおりご参考までに回答させていただきます。

・後山階陵の陵号について
後山階陵は、仁明天皇女御尊称皇太后順子の御陵として、明治3年に安祥寺が千年忌遠忌の法要を行ったのを根拠に明治8(1875)年5月に実地検証が行われ明治8年11月に治定されました。
後山階陵の陵号については、「延喜式」記載の陵号から決定されたのですが、「延喜式」では後山科陵となっています。「延喜式」編纂後に崩御された醍醐天皇陵の陵号である後山科陵と同一であり紛らわしいことから、「三代実録」記載の陵号である後山階陵が採用され変更されました。明治初期の京都府保管の陵墓関係書類や陵墓図、宮内省諸陵寮発行の明治13(1880)年4月「陵墓一覧」では、藤原順子御陵となっており陵号は記載されていませんが、明治30(1897)年7月発行以降の「陵墓一覧」や「陵墓要覧」では後山階陵となっています。
色々と古い文献を調査しましたが、明治政府が管理を始めた当初から後山階陵だった可能性もあり詳細は分かりません。

・陵号の変更について
過去の投稿でもご紹介させていただきましたが、天皇陵の治定については、古事記、日本書紀、延喜式その他の古文献の記録や地名、地域伝承等により決定され陵名(陵号)も決められました。江戸末期の文久の修陵の際には、未定陵を除く天皇陵の陵名が上記に基づき一部を除いて決定され明治政府に継承されました。陵名の無かった近衛天皇陵、後亀山天皇陵、泉涌寺内の御陵については、明治12(1879)年3月13日に新たに陵名が決定されました。明治の初期は天皇陵や皇后陵などで陵号が無いものもあり、何天皇御陵や何天皇皇后何御陵と呼ばれていたようです。
文徳天皇御陵の陵号変更については、平安時代の事であり詳細は分かりませんが、「文徳実録」、「三代実録」などから「延喜式」記載の現陵号が決定されました。文久の修陵後における明治期以降の陵号変更については、下記のとおり実施され現在に至っています。
明治2(1869)年
後花園天皇御陵・・・山国陵 → 後山国陵
明治27(1894)年6月
 宇多天皇中宮藤原温子御陵ほか 木幡陵 → 宇治陵
 冷泉天皇皇后昌子内親王御陵 観音寺陵 → 岩倉陵
明治28(1895)年
花山天皇御陵・・・法音寺北陵 → 紙屋上陵
明治39(1906)年3月23日
 後白河天皇御陵・・・法住寺法華堂 → 法住寺陵
 後鳥羽天皇御陵・・・大原法華堂 → 大原陵(順徳陵と同一域)
 後嵯峨天皇御陵・・・嵯峨殿法華堂 → 嵯峨陵
 後深草天皇等十二帝陵・・・深草法華堂 → 深草北陵(仁明陵の北にある位置関係から)
 亀山天皇御陵・・・亀山殿法華堂 → 亀山陵
昭和49(1974)年以降
 崇峻天皇御陵・・・倉梯岡上陵 → 倉梯岡陵
平成元(1989)年
 花山天皇御陵・・・紙屋上陵 → 紙屋川上陵

・制札屋形の表記変更について
 明治以降の陵墓の制札の文言と形状については、「陵墓研究の道標」(福尾正彦著 山川出版社発行)に詳細が紹介されています。同書によると、明治11(1878)年10月5日付宮内省達で制札の文面が変更なされ、何天皇何陵、何天皇皇后・中宮何陵、何天皇御母何墓、何天皇皇子・皇女何墓の四つの分類に統一されたそうです。三禁表示は、漢字とカナ表示を使ったものだったのですが、昭和27(1952)年4月21日、大正天皇陵、貞明皇后陵の制札文言(御方名・陵号・三禁・宮内庁)が宮内庁書陵部長の決裁により定められ、それ以降の新調の制札については基本的には本文事が踏襲され現在に至っているそうです。
皆様方も既にご存知のとおり宮内庁が管理する陵墓の定義は、皇室典範第27条で定められており、宮内庁では戦前の管理から下記のとおり定められています。
御陵・・・天皇、皇后、皇太后、太皇太后、神代三尊、南北朝時代の北朝天皇、追尊天皇、太上天皇、追尊太上天皇、中宮(皇太夫人)、尊称皇后(非配偶皇后)、尊称皇太后、尊称太皇太后、贈皇后、贈皇太后及び贈太皇太后
御墓・・・皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、王、王妃、女王、彦五瀬命及び天皇の後宮で准后・女院となった皇族でない女子
また、后妃・皇子女の記載については、諡号・追号または御名の他に、御配偶の天皇や所出の天皇との続柄が冠されています。
 御母、御養母の表示だと、例えば廬山寺の光格天皇御母の大江磐代墓、東京・護国寺の明治天皇御母の中山慶子墓、東京・祐天寺の大正天皇御母の柳原愛子墓のように女院では無いため、宮内庁の管理では無い御墓もあり、陵墓の定義との違いが判らなくなってしまいます。宮内庁から特別な通牒や通達等は発出されていませんが、制札屋形の板木が風雨や日焼けによる劣化で損傷し更改される際に、順次陵墓の定義に合わせた表示変更がされたようです。
 京都では、昭和60年ぐらいまでは、御母や御養母表示の制札屋形を見かけました。
 過去に御父、御母、御養母(准母)の表示のあったと考えられる陵墓は下記のとおりです。
 廬山寺陵、清浄華院内御墓、般舟院陵、華開院内御墓、鳥辺野陵、中尾陵、泉涌寺御陵、雲龍院内御墓、
 後山階陵、上醍醐陵、花園東陵、今林陵、宇治陵、宇波多陵、大枝陵、吉隠陵、淡路墓

【8/30追記】
制札屋形の御母・御養母表記について
 先日の投稿後、実家に帰った時に机の中にあった中学、高校生の時に調査したノートを確認しました。
調査年月は昭和58年から昭和61年です。御母・御養母表記を蛇足な情報ですが、下記のとおりお知らせします。
・宇治陵制札
  花山天皇御母贈皇太后懐子宇治陵
  一条天皇御母尊稱皇太后詮子宇治陵
  三条天皇御母贈皇太后超子宇治陵
  後冷泉天皇御母贈皇太后嬉子宇治陵
  白河天皇御母贈皇太后茂子宇治陵
  鳥羽天皇御母贈皇太后苡子宇治陵
  准后 藤原生子墓
・鳥辺野陵制札
  一条天皇御母尊稱皇太后詮子火葬塚
  鳥羽天皇御母贈皇太后苡子火葬塚
・般舟院陵制札
  後柏原天皇御母贈皇太后朝子般舟院陵
  後土御門天皇御母喜楽門院藤原信子墓
  後奈良天皇御母豊楽門院藤原藤子墓
・泉涌寺御陵制札
  桜町天皇御母贈皇太后尚子月輪陵
  後桜町天皇御母尊稱皇太后舎子月輪陵
  後桃園天皇御母尊稱皇太后富子月輪陵
  光格天皇御養母尊稱皇太后維子月輪陵
  孝明天皇御養母尊稱皇太后祺子後月輪陵
  後陽成天皇御母晴子墓
  後水尾天皇御母中和門院藤原前子墓
  後光明天皇御母壬生院藤原光子墓
  後西天皇御母逢春門院藤原隆子墓
  霊元天皇御母新広義門院藤原國子墓
  孝明天皇御母新待賢門院藤原雅子墓

  今思うと現在の表記と随分と違いますね。

 追記終わり

 淳仁天皇御母当麻山背淡路墓の表記変更ですが、色々な方々のサイトやブログを拝見させていただくと、日付が分かるもので2015年9月までは「淳仁天皇御母山背淡路墓」(2行表示)、2017年6月以降は「崇道盡敬皇帝妃 大夫人山背 淡路墓」となっており、板木の日焼けが既に見られます。日付は分かりませんが、2016年に撮影された写真では、白木で新調されたものが写っていることから、2016年に更改され表示も変更されたものと考えられます。

だらだらと長くなりましたが、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 8月24日(月)06時11分52秒
  レプトン さま

私は神代三陵を一日で回る強行軍を企画しましたが霧に妨害されて実行できませんでした。(笑)
前日、山口に出張していた私は業務終了と同時に休暇を取り(笑)、夕方、安徳陵へ急行。
居酒屋で時間を潰した後、門司港に移動し、当駅始発の夜行急行かいもん号へ。
翌朝4時半頃だったか川内駅下車。しかし凄い霧で周囲が全く見えない状態。
可愛山陵も拝所の光景すらまともに観察できない状態。
(陵印は数年後、2度目の参拝時に新田神社で押印)
可愛山陵の麓を半周して最寄りの上川内駅に行くはずが、痛恨のミス。
地図に載っていない新興住宅地ができていて霧もあって方向感覚を失い、川内駅方向に戻って
しまっていたのです。
朝の通勤時間帯の接続の良さに依存する移動計画だったので、たった1本の列車の乗り遅れが
その後の接続の悪さで傷口をどんどん広げ、吾平山陵には3時間遅れの2時頃に到着。
ここで前回書いた予期せぬバスに乗れたので、1~2時間分挽回したものの、結局、鹿屋からの
リムジンバスの接続が悪くてご破算。
計画では夕方に高屋山陵に着き、最終便の飛行機で帰宅する予定だったのですが‥
途中、待ち時間はいくらでもあったので、長距離電話かけまくりで仕事の調整をし、休暇を一日
延長! 鹿児島空港のホテルで一泊し、翌朝、高屋山陵に向かいました。
陵印は近くの商店で押印しました。

これに味をしめてか、出張や業務外出のついでに陵墓・伝承地めぐりをするのが私の行動パターン
となりましたが(笑)、これは私が勤務先の創業時からの最古参社員で社長との個人的な信頼関係
がある(けど万年平社員)という特殊な環境によるものだったので、皆さま決して真似をしない
ように。(汗)
まあ、勤務先の創業から数年間はまともな賃金は支払われなかったので、その見返りという側面
もあったのですが、今から思うと、私の出張旅費などをどのように経理処理をしていたのか興味
津々。

いつもの如くうろ覚えで恐縮なのですが‥
淡路墓の制札の件、最近の事情は分かりかねるのですが、昭和の頃は「淳仁天皇御母 淡路墓」
で、御名「山背」が書かれていなかったのではないかと思うのです。
写真を確認したところ不鮮明で判然としないのですが、文字数は少ないようにも思えます。
レプトン さまのご投稿に便乗してばかりで恐縮なのですが、この件についてご存知の方、ご教示
頂けると幸いです。


写真 淡路墓の制札 上は1986年8月、下は2009年1月
 

吾平山上陵印を捺した思い出

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 8月23日(日)10時24分58秒
編集済
  大垂水酔鳥様
 いつもご教示ありがとうございます。吾平山上陵の陵印の保管場所については、私も興味があります。神代三陵の3陵印は高屋部の高屋山上陵印が可愛部に移されても、吾平山上陵印は、吾平部や物産館など、現地で保管され続けました。この違いの理由はわかりません。この例や吾平山上陵印の保管場所についても、高屋部や吾平部の職員の方に聞いてみれば教えていただけるかもしれませんね。
 私が神代三陵に参拝したのは平成4年の1月3日だったと思います。可愛山陵は今までに6回参拝していますが、高屋山上陵・吾平山上陵はこの時1度きりの参拝です。国分駅のベンチで夜を明かし、始発のバスで空港まで行き、そこから歩いて高屋山上陵に朝8時過ぎに到着しました。職員の方より早く着きました。注連飾りがあり、拝所に白布がありお賽銭が置かれているのは近畿の陵墓では見たことがなかったので印象に残っています。(近年田原の2陵でお賽銭?的なものがありましたが・・・)
参拝をし、御陵印を捺印させていただきました。この後、吾平山上陵に行くことを告げると、鹿屋行のリムジンバスが便利である事を教えて下さいました。また同時に、陵印を保管してある所も教えて下さいました。それが吾平町中心部の商店と表記した所です。しかし、詳しい場所は今となってはわかりません。本当に吾平町の中心部かどうかもわかりません。家や商店が多く、タクシーの営業所があるなど、小さな町になっていたので、中心部と表現しましたが、それほど大きな町ではありませんでした。商店名は〇〇商店だったと記憶しています。ネットの地図で調べると、吾平町○○商店でヒットしました。ストリートビューで見ると、雰囲気は似ていますが、私の記憶ではそこだと断定はできません。ネットでは海に近い場所ですが、参拝時には海の近くだという認識はありませんでした。その商店から吾平山上陵への道を聞くと、5kmかそれ以上という事でした。地図ではネットでヒットした〇〇商店からの距離は5kmか6km程度なので、その点は合います。
その商店での捺印については、かつて当掲示板で記載しましたが、再度書きます。スナック菓子や菓子パンなどが売られているその商店に入り、御陵印の捺印をお願いすると、すぐに出してきてくださいました。印の形状が他の旧陵印とも違い、特徴的な印だなと思いました。(今は桃山監区で見られますが。)対応してくださったお店の男性が色々教えて下さいました。このお店は吾平山上陵の職員さんの親戚という事。(おそらくそれで便利なこの商店に印を預けておられたのでしょう。)皇族が来られた時に、親戚という事で自分もその場に招待され、参加させてもらった事、(その時の写真も見せてくださいました。)川を渡った向こう側まで行かせてもらえた事。その折、薄暗い洞窟の中に小さな塚が2つ(?)あることがわかった事等のお話をしてくださいました。
現地まではバスが1日に2便しかない事を調べていたので、バスがないと歩いていくしかないと考えていましたが、その商店から100m程度(?)の所にタクシーの営業所がある事も教えて下さいました。商店に着いたのが15時ごろだったので、タクシーでないと日が暮れてしまい、その日の寝床にも困る所でした。吾平山上陵は人出も多く、初もうでの人がたくさんいました。詰所には3人の方がおられました。事務所には陵印をお願いする旨を数日前に電話で伝えていたので、職員の方に、陵印は既に頂いた事を伝えました。

という事で、どこの商店であったかはわかりませんが、山陵前の商店でない事は間違いありません。タクシーには15分程度乗ったように記憶しています。
大垂水酔鳥様の疑問への回答にはなっていませんが、私が陵印を頂いた時の様子を書きました。

8月24日追記
 ネットで出てきた〇〇商店から吾平山上陵までは約15kmあり、自動車で25分程度とありました。記憶の5km以上という会話とは違いますが、タクシーに乗った時間は記憶の時間と近いと言えます。また調べてみますね。鹿児島に行きたくなってきた・・・・実は鹿児島マニアで、自動車で1回、自転車で1回、船で2回、JRの青春18利用で10回程度・・・。新婚旅行で嫁企画で海外に行った後、帰った次の週に私企画で青春18利用の鹿児島旅行、しかも宿泊の予約なしで現地で探すという破天荒な旅をしました。この時は可愛部に3陵印が揃っていたので、しっかり捺印させていただきました。







ネットで陵墓について検索していて疑問に思った事があります。碩学諸賢の皆様、もしご存知でしたら教えて下さい。基本的な内容もあるかもしれません。また、既に話題となった内容もあるかもしれませんがよろしくお願いいたします。

1、 後山階陵の陵号は、最初醍醐天皇陵と同じ、後山科陵の表記だったとのことですが、いつ変更になったのでしょうか。
2、 文徳天皇田邑陵は当初真岡山陵と呼ばれていたのが、詔勅により田邑山陵に変更されています。なぜ変更されたのでしょうか。また陵号が後に変更された例が他にあれば御教示ください。(大原法花(華)堂陵・深草法華堂陵・木幡陵→宇治陵等がありましたね。)これらもまとめると面白いかもしれませんね。
3、 ネットでの画像・動画を見ていると、淡路墓の制札の表記が、2つあり、投稿時期から判断すると「淳仁天皇御母山背  淡路墓」(2行表示)から「崇道盡敬皇帝妃 大夫人山背 淡路墓」に変わっているように思います。いつ変えられたのでしょうか。また現行の制札は後者でしょうか? あと、政争があったとはいえ、本来なら御墓ではなくて山陵とすべき御方ですよね?
 以前(ずっと前)、御母表示については議論がありましたね。今回の疑問点が既出でしたらごめんなさい。



 

平成初期の吾平山陵印保管場所の変遷を教えてください

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 8月20日(木)10時50分6秒
編集済
  レプトン さま

貴重な資料作成ありがとうございます。

ところで、1枚目をクリックで拡大表示すると、上下反転しているのですが‥
もしかして私だけ??

私が吾平山陵に行ったのは平成元年8月なのですが、御陵の入口に商店?があってそこで陵印を
押した記憶があります。
本当か、間違いないか、と詰問されると、実は自信がありません。(汗)
鹿屋からバスで吾平に移動し、町の中心部?から延々と歩いて山陵に移動して参拝後、その商店?
で間もなく鹿屋行きのバスの時間だと教えられ、そんなバスがあるんだと狂喜したのですが、教え
られた通りに行ってもバス停がなく狼狽していたところにバスがやってきて、手を振ったら停まっ
てくれました。
バスの記憶が鮮明で、陵印の方があいまいとは情けない‥
ただ、レプトン さまが書かれている、吾平町の中心部に近い商店というのは初耳で、私がそこに
行っていないことだけは確かです。
検索したところ、吾平物産展示館なるものが吾平山陵公園なる場所にあるようです。
検索したところ、吾平山陵公園は吾平山陵と住所が同じです。
http://www.pref.kagoshima.jp/ao01/chiiki/bariafuri-oosumi/airasannryoukouenn.html

サイトの吾平物産展示館はバリアフリーとなっており、私がバスの件を教えられた商店?とは
全然別物です。
たぶん私が商店?と認知したのは観光物産館が閉館した後に入った宮内商店で、後にこの吾平
物産展示館にリフォームされたのではないか。
などと想像していたら、もうひつ物産館があるらしく混沌としてきました。

吾平物産館「つわぶき」
http://www.pref.kagoshima.jp/ao01/chiiki/bariafuri-oosumi/airatuwabukikann.html
こちらは吾平山陵にほど近い大隅広域公園の中にあるようです。

ということで、吾平山陵の陵印保管場所の変遷、私もぜひ知りたいです。
もと陵印保管場所の観光物産館と宮内商店は同じ場所か別の場所か。
現在の吾平物産展示館と同じ場所か吾平山陵の近隣か全く別の場所か。

平成の初期に吾平山陵の陵印を入手された方、よろしくお願いいたします。
 

ありがとうございます。

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 8月18日(火)04時59分39秒
   平成7年4月の御陵所在地一覧表及び年代考察ありがとおうございます。御教示いただいた内容を反映させて、陵印保管場所の変遷表を改訂しました。8月7日投稿分に追記・写真差し替えさせていただいています。私も深草北陵で、陵印移送の場面にいたことがあります。  

陵印に関する思い出について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2020年 8月13日(木)22時45分6秒
編集済
  皆さん、こんにちは。
暑い日が続きますね。先日、今年2度目の泉涌寺の御陵を参拝しました。
コロナ禍の影響もあってか観光客も少なく、広い境内に私を含め参拝者は3名しか居ませんでした。

レプトンさま
お尋ねの平成7年4月宮内庁書陵部作成「御陵所在地一覧表」について、ご参考までに下記のとおり回答させていただきます。
まず、後鳥羽・順徳陵印の保管場所が大原部事務所になっています。宇治部が当部事務所に、六条・高倉陵印は月輪監区事務所になっていることから、平成8年4月ではなくて平成7年4月に変更になったと思われます。大原部保管陵印ですが、平成8年4月「御陵所在地一覧表」では、後二条陵の神楽岡部事務所に変更となっています。
私の所有している平成7年4月「御陵所在地一覧表」ですが、複写したもので歴代天皇陵だけのため全ての状況が分かりません。
また、部事務所から土曜・日曜・祝日に別の場所(垂仁陵や聖徳太子墓など)へ移動される動きですが、平成10年4月以降の「御陵所在地一覧表」では見られないことから、平成10年4月で中止になったものと思われます。

「京都周辺御陵案内」について
桃山監区事務所や月輪監区事務所で平成8年頃まで配布されていた「京都周辺御陵案内」(わら半紙ガリ版刷)ですが、ある程度作成時期を推測することが出来ます。
京都近辺では、交通機関の廃止や開業が下記のように度々行われています。
例えば、京都市電廃止(昭和53年9月30日)、京都市営地下鉄烏丸線の京都~北大路間開業(昭和56年5月29日)、国鉄民営化JR発足(昭和62年4月1日)、地下鉄烏丸線京都~竹田間延伸(昭和63年6月11日)、JR嵯峨野線嵯峨~馬堀間複線化による保津峡駅移設(平成元年3月5日)、JR神足駅が長岡京駅に名称変更(平成7年9月1日)、京阪京津線の京津三条~御陵間廃止、地下鉄東西線の二条~醍醐間開業(平成9年10月12日)などです。
上記を踏まえると、大垂水酔鳥様が2010年6月27日に投稿された「京都周辺御陵案内」が市電表記から昭和53年9月以前に、椿夫人様が2009年10月17日に投稿された「京都周辺御陵案内」が国鉄表記から昭和62年4月以前に、私の所有する「京都周辺御陵案内」は、JR神足駅の表記から平成7年9月以前に作成されたものと思われます。

昭和60年の夏から秋にかけての頃、当時高校生だった私は、自宅近くの深草北陵の部事務所へ陵墓要覧の閲覧と陵墓の詳しい場所を職員の方に教えていただくために自転車で何度も訪れました。何度も訪れるので顔見知りとなり、年配の職員さんにとても親切にしていただきました。ある土曜日だったと思います。部事務所を訪れると丁度外出されるところでした。今から近衛陵に木箱に入った陵印を持って行くと言うことで、カブに乗って出掛けられました。自転車で後を直ぐに追いかけ、近衛陵に到着後、見張所の机の上で夕方まで京都市内の地図を見ながら陵墓の場所を教えてもらったのを懐かしく思い出しました。

皆様方も陵印に関する色々な思い出をお持ちだと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 8月11日(火)03時55分24秒
編集済
  ★追記★しました

レプトン さま

私の紹介したものは青刷りではなくガリ版です。
まあ、どちらにせよ昭和とともに姿を消した印刷法ですね。
貧乏学生の頃が懐かしいです。(笑)
申し訳ありませんが、私の物は古書として購入した陵墓関係本の中に挟まっていた‥、が真相
だと今は思っています。
もし私自身が貰ったものならば、写真のような雑な折り畳みかたや赤ボールペンで丸を付ける
などの行為はしないだろうと思うのです。
回答になっていなくて申し訳ありません。

★追記★

たけちゃん  さま

確かに市電の表記がありますね。いゃあ、全然意識していませんでした。
昭和53年は私が関西の陵墓巡りを始めた年ですが、当時中学生の頃から京都に進学するつもりで
京都の陵墓巡りは後回ししていたのですよ。
京都で陵墓巡りを始めたのは昭和57年頃からで監区事務所に突撃するようになるのは昭和62年
頃からです。
なので、私の所有する「京都周辺御陵案内」が私自身が貰ったものでないことがこれで確実になり
ました。
ご指摘あり難うございます。
 

ありがとうございます。

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 8月 7日(金)18時53分45秒
編集済
  たけちゃん様

私のお願いに対して早速ご教示くださいましてありがとうございます。御教示いただいた資料を活かし、新陵印の保管場所の変遷についてさらに詳しくまとめたいと思います。どうもありがとうございます。

御教示いただいた資料を中心に、保管場所の変遷をまとめてみました。保管場所が変わった日付ははっきりしている例もありますが、分からない事が多いです。その時点でどこに保管されていたのかがを表しているものです。

日時がはっきりしている例  平成10年4月1日 (たけちゃん様御教示の資料で施行という表現から)
              平成18年10月26日(Fukuyama様御教示の宮内庁のお知らせより)

吾平山上陵を預けていた場所は、平成の最初の頃、参拝した時は、吾平町の中心部に近い商店でした。その後陵墓所在地一覧の表示を見ると、「観光物産館」と「宮内商店」という2つの記述があるようです。同じ建物で、商店・物産館と変わったのでしょうか。

たけちゃん様の2010年6月のご投稿に、平成7年4月の御陵墓所在地一覧表があると書かれておられましたが、もし陵印保管場所に変化がありましたらご教示ください。


大垂水酔鳥様・椿夫人様
 こんにちは。いつもありがとうございます。大垂水酔鳥様が2010年6月27日に、椿夫人様が2009年10月17日に投稿された陵墓所在地一覧表・陵印保管場所の青刷りのプリントですが、昭和50年代の前半~中頃でしょうか。私も奈良県内で昭和54年か55年頃に青刷りのプリントをもらいました。残しておけばよかった…。もし発行時期などがわかりましたらご教示ください。(投稿内容で時期がわからないことに触れておられましたがすみません。)青刷りのプリントは今となっては貴重な資料ですね。
【訂正】
3枚目の写真で三島部の陵印の保管場所が三島部→金原亮(!)→桃山監区となっていますが、金原亮(陵)ではなく、高畠陵です。訂正いたします。陵の字まで間違えていて・・・金原亮ってだれやー!?とツッコミがきこえてきます・・・。失礼しました。


御礼  大垂水酔鳥様
 早速お返事いただきありがとうございます。今後も宜しくご教示ください。毎日暑いですね。奈良では昨日の最高気温が38℃だったようです。私は標高の高い田舎の実家にいてまだ涼しいでしたが大変です。京都の夏は暑いことで有名ですが、いかがお過ごしですか。熱中症などにお気を付けください。

 皆様、コロナ禍と暑さで苦しい夏ですが、無理をせず健康に暮らしていきましょう。


8月17日追記
 たけちゃん様、平成7年4月の御陵所在地一覧表の情報どうもありがとうございます。平成7年の保管場所と、大垂水酔鳥様御所有の京都周辺御陵案内、椿夫人様御所有の京都周辺御陵案内の情報を加えて、陵印保管場所の変遷一覧表を改訂しました。写真は差し替えています。
 大原陵の陵印が、すぐに月輪監区に行かずに、後二条陵に一度行ったんですね。ちょうどこの頃の初冬に大原陵に参拝し、御陵印をお願いしたところ、半年くらい前に保管場所が変更になった旨を告げられたことを覚えています。後二条陵に変更されたんですね。月輪監区は部事務所から直接監区事務所に移っている例が多いですが、大原陵印の場合はワンクッションあったんですね。貴重な情報でした。ありがとうございました。
 昭和60年当時の深草北陵の話、興味深く拝見しました。私はやはり昭和60年頃(記録はなく、記憶もはっきりしないので+-1年程度の幅があります)深草北陵に陵印を頂きに行きました。陵印を捺させてくださいとお願いすると、年配で茶目っ気のある職員さんが、「今陵印はない。もう少し待ちなさい。」「もうすぐバイクで陵印が届く。今陵印はバイクにのせられてこちらに向かってきている。あと20分くらいで届くからゆっくり待ちなさい。」とおっしゃった事を思い出します。はじめはわざと強面で、途中からにこにこ笑顔で親しげに話してくださいました。私の場合はちょうどたけちゃん様の場合と反対で、近衛陵から深草北陵に届けられる場面でした。私は土曜に近衛陵から運ばれていたものと思っていましたが、月曜日に近衛陵から運ばれてきた時だったのかもしれません。たけちゃん様が親しくされていた方と、私の記憶にあるおちゃめなおじさんが同じ方であったかもしれませんね。
 昭和50年代には、深草北陵は土曜午後・日曜・祝日が休みで、近衛陵は火曜午後・水曜が休みでした。昭和60年頃には、深草部の陵印が近衛陵に預けられていた事が明らかになりましたが、逆のパターンで近衛陵の3陵印(鳥羽・近衛・白河)が深草部に預けられる事はなかったように思いますがいかがでしょうか。

 陵印保管場所の変遷を見てみると、六条高倉陵印・花園陵印・継体陵印・醍御陵印朱雀陵印の動きが興味深いですね。部の組み換え・変更などがあったのか、それとも単に近さや交通の便などの理由で変更されたのか、その理由は不明です。継体陵印は継体陵から高畠陵に移され、その後高畠陵保管の3陵印(継体・淳和・土御門)のうち、継体陵印だけが桃山監区に移されたのも、他に例のない動きです。高畠陵が不便な場所だからでしょうか。

 今回は皆様の情報をご教示いただき、かなり正確にまとめる事ができました。また今後新資料がありましたらご教示ください。皆様どうもありがとうございました。
 

陵印保管場所の変遷について

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2020年 7月30日(木)11時24分27秒
編集済
  一部追記しました

皆さん、こんにちは。大変ご無沙汰しています。
最近は、コロナ禍の影響で休日は家にいることが多く、過去の皇室関係資料を整理したり読書をしたりして過ごしています。
今年の1月から2月の間、コロナ禍の影響がまだ出ていない頃、「第54回京の冬の旅」非公開文化財特別公開に併せて、皇室関係寺院を参拝しました。霊鑑寺、大聖寺、三時知恩寺、光照院、廬山寺、泉涌寺霊明殿、泉涌寺塔頭新善光寺、泉涌寺塔頭雲龍院を参拝し、近世の宮廷文化に少し触れることが出来ました。陵墓と同様に御念持仏、御葬儀の様子、御厨子内御尊牌(御位牌)御列次などを調べています。
皆さまに誕生を祝していただいた長男も中学3年生となり高校受験勉強の真っ只中で、当分思い切った外出は出来そうもない状況です。

レプトンさま
お尋ねの「御陵所在地一覧表」について、ご参考までに下記のとおり回答させていただきます。
 私の所持している一番古い資料は、昭和58年12月宮内庁書陵部作成 「御陵所在地一覧表」です。そこには、神代陵・天皇陵・歴代外天皇陵及び皇后陵の陵名、所在地、交通機関等、陵印保管場所と備考が記載されており、備考欄には曜日により職員不在や職員不在時の陵印保管場所が記載されています。陵印保管場所は、レプトンさまが投稿された内容と同じで、ほとんどが部事務所(見張所)(佐紀部は垂仁陵、宇治部は深草北陵、継体陵印は高畠陵、弘文陵印は天智陵、後村上陵印は当陵、花園陵印は後二条陵、六条・高倉陵印は天智陵)で保管されています。
古市監区事務所作成(作成年月不明)「部別陵墓案内」ガリ版刷B4縦1枚手書きによると、後村上陵印は磯長部事務所に、藤井寺部保管印は応神陵に変更になっています。交通機関が国鉄表示になっていることから、昭和62年4月までに変更になったと考えられます。

【追記】
畝傍監区事務所作成(作成年月日不明)「畝傍陵墓監区 陵印所在陵墓一覧表」ワープロ文字B4横版1枚によると、佐紀部保管印が垂仁陵から成務陵(土曜、日曜、祝日は垂仁陵)に変更になっています。この一覧表の作成時期ですが、武烈陵見張所の住所が奈良県北葛城郡香芝町今泉となっています。香芝町は、平成3年10月1日に市制施行し香芝市となっていることから、平成3年10月以前に作成されたものと思われます。
追記終わり

平成8年4月、宮内庁書陵部陵墓課作成「御陵所在地一覧表」によると髙屋部保管印が可愛部事務所に、宇治部が当部事務所に、六条・高倉陵印は月輪監区事務所に変更となっています
平成9年11月1日作成「御陵所在地一覧表」では、御花園陵印が常照皇寺に、安徳陵印が赤間神宮に変更となっています
平成10年4月1日施行の陵印保管場所変更については、宮内庁から「陵印保管場所変更表」が配布されています。詳細が記載されていますので、そちらをご参照ください。
平成12年4月1日作成「御陵所在地一覧表」によると、桃山監区の陵印が神代陵を除き全て監区事務所に、欽明陵保管印が畝傍監区事務所に、淳仁陵印が萬福寺に変更となっています。
平成14年8月1日作成「御陵所在地一覧表」では、神代三陵印が全て可愛部事務所に変更、同年12月1日作成「御陵所在地一覧表」では、可愛部事務所から桃山監区事務所に変更となっています。
平成18年10月28日作成「御陵所在地一覧表」では、淳仁陵、崇徳陵印が古市監区事務所に変更となっています。
最後に、以前の投稿後に手に入れた、平成23年4月1日作成「御陵所在地一覧表」は、平成18年10月28日と同じ内容で変更箇所はありません。

今後とも、ご教示よろしくお願いいたします。
 

陵印保管場所の変遷

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 7月25日(土)15時46分10秒
編集済
  こんにちは。お久しぶりです。春以降身内5人の入院・退院・通院・葬儀・施設入所・自宅介護等で日々時間に追われる生活を送っています。本当に心身とも疲弊してしまいますね。来月になれば自宅介護から施設入所に切り替わりそうですが。
4月には天理市内の病院に行くことが多く、待ち時間や届け物の後に山辺部の陵墓等に行く機会もあったのですが、5月以降は状況が苦しくなり全く動けませんでした。今もネット環境のない実家で生活しており、こちらにも御無沙汰しております。

さて、春頃に陵印保管場所についてはっきりしていることをエクセルの表にまとめました。(すぐに投稿したかったのですが)。今ある情報は次の7点です。
A, 昭和18年頃  『歴代天皇陵集印帳』  小宮山伍輔
B, 昭和54年少し前?  『みささぎ巡拝』    西山徳 他
C, 昭和54年春~夏自分の集印帳と記憶  レプトンの集印帳(部ごとに1ページに捺印)
D, 平成1~2年頃   杉本工芸集印帳の案内付録 平成1年第1刷 平成2年第2版
E, 平成3年頃      『歴代天皇陵巡り』   小松正枝
  F, 平成10年4月1日     御陵所在地一覧表 宮内庁
G, 平成14年12月1日  御陵所在地一覧表   宮内庁

A,は昭和18年に集印したものを平成2年に本としてまとめたもので、陵印は各陵墓で保管されているとの記載があります。

陵印保管場所は各陵墓⇒部事務所⇒管区事務所と変更されていきますが、この他にローカルに部分的に変更された例もあります。

まず奈良県内では各陵墓⇒部事務所⇒畝傍監区・欽明陵⇒畝傍監区という流れをたどっています。Fの平成10年4月1日の御陵所在地一覧表では、陵印が各部⇒畝傍監区・欽明陵となり、Gの平成14年12月1日では全て畝傍監区の保管となっています。この時、欽明陵に移されたのは、吉野部(後醍醐)・山辺部(崇神、景行)・押坂部(崇峻、舒明)で、もともとあった6陵印(孝昭・考安・欽明・斉明(皇極)・天武持統・文武)と合わせて11陵印を欽明陵で、残り19陵印を畝傍監区で保管することになりました。

またローカルな動きとしては、平成の初め頃(詳細な時期は不祥)に、垂仁陵で保管されていた5陵印(垂仁・成務・安康・称徳・平城)が成務陵(但し日曜休日第2第4土曜は垂仁陵で保管)に代わっています。

奈良県内では、押坂部の印が山辺部に預けられていたり(昭和54年頃)成務陵の印が土日に垂仁陵に運ばれなくなるなどの動きがありますがまだ詳細を示す資料は見つけられていません。また奈良県では田原部が奈良部に吸収されており、その時に陵印保管場所が変わった可能性があります。

京都の陵印保管場所の変遷も流れは同じですが、醍醐・朱雀陵印が深草北陵→宇治陵、白河・鳥羽・近衛陵印が近衛陵→深草北陵(曜日により近衛陵から運んできた時もあった。)花園陵印が後二条陵→天智陵→月輪監区。六条高倉陵印が天智陵→月輪監区→月輪監区、(集約以前に月輪監区に移される)継体陵印が継体陵→高畠陵などのローカルな動きがあります。

大阪では後村上陵印が後村上陵→用明陵、仲哀・允恭・雄略・仁賢陵印が仲哀陵→古市監区という動きがあります。京都・大阪の陵印の移動がいつの資料で移動が確認できるかの詳細は後日にさせてください。

たけちゃん様
 2010年6月28日ご投稿の内容に、「御陵所在地一覧表」の平成9年11月1日版、12年4月版、18年10月28日版をお持ちだと書いておられます。各監ごとに作製された資料の事も紹介しておられます。もしよろしければ詳細をご教示いただけないでしょうか。特に陵印保管場所のローカルな動きを明らかにしたいと思っております。

では失礼します。
 

後醍醐天皇 皇子 恒性王 正辰祭

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年 7月 2日(木)21時51分48秒
  後醍醐天皇 皇子 恒性王 正辰祭 北日本新聞

Yahoo!でも 記事が紹介されていたので、ご存じの方も居られると思いますが


https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000024429

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

大光明寺陵

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2020年 6月21日(日)23時57分8秒
  あれこれと思いをはせる前に、調査報告や測量図などの基本情報は押さえておくべきかと思います。

清喜 裕二 有馬 伸 横田 真吾「光明天皇ほか 大光明寺陵の外形調査」『書陵部紀要』第69号〔陵墓篇〕
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo069b057.pdf
 

伏見皇族墓地をめぐる憶測妄想+2α′

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 6月21日(日)10時06分59秒
編集済
  このような写真を見つけました。
https://www.daika-net.co.jp/shamenbousai/p_686.html
恐らく分譲地の造成に先立って行われた工事だと思います。
右下の門扉は先日の私の書き込みの門扉と同一のものと思われるので、この場所は
門扉や内柵ギリギリまで崖であったということです。
横長の数坪くらいの平場の藪のように見えたので、墓地の痕跡の可能性を推測して
書き込みをしたのだけれど‥
 

香淳皇后の20年式年祭

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年 6月21日(日)09時01分36秒
編集済
  https://youtu.be/J155z2APX_0

テレ東NEWSにて 完全版が公開されております

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

伏見皇族墓地をめぐる憶測妄想+2α

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 6月13日(土)21時11分49秒
  大光明寺陵の崖下が分譲されていると知り、見に行きました。
何年ぶりかの陵墓外出です。(汗)
現地はちょうど大光明寺陵の東南隅の崖下で、崖がきっちり陵墓地に含まれていることを
確認できました。
特筆すべきは、柵が2重となっているその内柵の東南隅に不自然な門扉があり、外柵に沿って
崖を登る山道があることです。
門扉の向こう側に伏見皇族墓地あるいは般舟院陵旧地の痕跡があれば‥と凝視したので
すが、藪の中で確認不能でした。
山道は途中から西に折れ曲がっているっぽいのですが、暗くて判然としませんでした。
元は光明崇光2陵の拝所?通路?であった治仁王墓の場所に繋がっており、崖上の大光
明寺と崖下の般舟三昧院の連絡通路の痕跡ではないかと推察したいところなのですが‥
陵墓地形図集成を確認すると門扉も山道も図示されていません。
となると、これらの構造物は地形図が作成された昭和2年以後の造作となり、戦国・
江戸初期と結びつけるのは無理ですね。
現地は東側の道路から無舗装の通路を入った奥にあります。
通路の入口には分譲地の宣伝看板が立ててあるのでスグにわかります。
ただ、コロナの関係で土地が造成されたまま放置されているのか、奥の方は膝まで
草茫々でした。雨の中、急いで突撃する必要はなかったようです。(笑)
 

大市墓のミューオン測定 歴代景行天皇陵

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 4月23日(木)14時02分13秒
編集済
  大市墓のミューオン測定装置を見てきました。何カ所かあるはずなのですが、後円部北東側の1カ所しか見つけられませんでした。前方部の拝所前方にもあるはずですが、見当たりませんでした。しかし、装置を置いていたと思われる跡があり、杭の穴が残っていたり地面の色が違ったりしていました。そこに装置が置かれており、つい最近回収・撤去されたものと思われます。
 陵墓はとても美しく整備されています。日陰で成長の悪い生垣の切れ目には竹が渡されていました。ちゃんと手入れ(手当て)されており、いつ行っても気持ちの良い陵墓です。。
 陵墓周辺の何枚かの田はレンゲ畑となっておりとてもきれいです。池の堤にも多くの花が咲いていました。鴨が数羽泳いでしました。大きな羽音がしたと思い水面を見ると、鴨ではなく、日向ぼっこから慌てて水に飛び込む多くの亀の水音でした。自転車で参拝(観光?)されている人がいました。箸墓古墳の池を挟んだ北側に『ひみこの庭』というカフェがあり、勾玉磨き体験もできるようですがコロナウィルス感染防止のため当分閉店とのことでした。墳丘南側には『卑弥呼の家』というのもありました。こちらは詳しくはわかりません。

次のサイトでは測定器具の様子が写真でわかります。
https://www.mbs.jp/mint/news/2020/02/04/074766.shtml




その後、景行天皇陵、崇神天皇陵を参拝し、『御墓山古墳を見学しました。歴代の景行天皇陵(?)、現景行陵・前景行陵・元景行陵を完全参拝!!!』現景行陵は拝所向こうに墳丘の桜、崇神陵(前景行陵)には堤防にキンポウゲが美しく咲いていました。どの陵墓もきれいに整備されとても気持ちよかったです。

 すみません。御墓山には行っていません。今まで櫟本墓山古墳を、御墓山古墳だと思っていました。昨日のせた写真は櫟本墓山古墳でした。間違えています。写真は削除しました。前段落の『   』内の文章は嘘です。ごめんなさい。歴代景行陵の完全見学を近日中に実現させたいと思います。その時にまた投稿します。すみませんでした。
尚、御墓山古墳の写真は2011年6月1日に大垂水酔鳥様が掲載してくださっています。江戸時代の景行陵についても、同投稿で詳しくご紹介くださっています。







写真1枚目  ミューオン測定装置  ミューオン・・・(レプトンです!)
写真2枚目  いつ見ても美しい箸墓古墳 測定装置は↓の所
写真3枚目   大市墓の兆域原標(南側の括れ部付近・民家の西側に接する所)
 

明治時代の陵丁・墓丁・守部の辞令~ヤフーオークション出品中の資料~

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 4月21日(火)20時55分35秒
編集済
  ヤフーのオークションに出展されていた、明治時代の陵丁の辞令。辞令は京都府・京都府知事が出したり、宮内省・宮内省支庁が出したりしているようです。陵丁・墓丁という役職が途中から守部に変わっています。


153 天皇 御陵 陵丁 守部 辞令 7 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f419525371
※明治17年、19年、24年の辞令
※宮内省、宮内省支庁からの辞令
※明治17年5月22日までの辞令は、陵丁・墓丁という役職だが、明治17年12月25日は守部という役職名に変わっている。


164 天皇 御陵 陵丁 辞令 2 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u348217047
※明治19年の辞令 京都府が出している


166 天皇 御陵 陵丁 辞令 4 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s732788099
※明治19年 京都府が出している

167 天皇 御陵 陵丁 辞令 5 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/466691687
※明治16年 京都府の辞令


169 江戸末期 御陵警衛 褒状 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 苗字 帯刀 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/o388485982
※ 読めない・・・・


168 天皇 御陵 陵丁 辞令 6 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c817954856
※明治17年 宮内省の辞令 153のうち一つと同日


170 天皇 御陵 陵丁 辞令 1 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g419327743
※明治7年 京都府知事発令の辞令


165 天皇 御陵 陵丁 辞令 3 (検) 皇室 皇族 勤皇 尊皇 明治維新 志士 下賜 御陵衛士 ボンボニエール
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/l594261981
※明治9年の辞令




こちらもオークションに出品されていたものです。。
神武天皇陵の文久の修陵で、周堀の掘削時に出土した土器
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m406266722

既に終了していますが、まだ内容は見ることができます。見られなくなれば記事も削除します。

先日、佐保山御陵に参拝してきました。きれいに整備され心落ち着く空間です。仁正皇后陵は、正面で参拝できればなと思っています。この陵墓にも宮内庁の古い建物が残されています40年前には2つの建物があり、事務所だけ新しくなり、もう一つは残っています。
タクシーに乗られた方が、タクシーを止め窓から聖武陵正面の写真を撮影しておられました。各陵墓を回っておられるのかなと思いました。

 

伏見皇族墓地をめぐる憶測妄想+α

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 4月20日(月)20時23分58秒
  2月22日投稿の憶測妄想の付け足しです。

数年前の指月(伏見)城跡の発掘調査の見学会資料を見つけたのですが、おやややっ!!!
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000172/172102/shigetu1.pdf

最後の所に「伏見御城郭並武家屋敷取之図」が添付されています。
「泰長老」と書かれた区画の下辺部右側が現在の大光明寺陵ですが、その崖下に並ぶ
武家屋敷のうち一ヶ所だけ通路の奥に屋敷名のない区画が‥
位置的にはちょうど月橋院の墓地のあたりですね。
これって伏見皇族墓地あるいは般舟院陵旧地の臭いがプンプンするのは私だけ??
 

皇陵参拝団員の徽章  安康天皇陵 他

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 4月10日(金)00時28分21秒
編集済
   こんにちは。新型コロナの感染防止で全世界が大変なことになっていますね。感染症による被害としては、100年前のスペイン風邪以来かもしれません。私は知りませんが。
管理人様、書陵部紀要の御紹介ありがとうございます。鳥居の立替他、興味ある内容がたくさんありますね。(まだ全てを読み切っていないのですが)

 さて、写真1枚目は『大阪皇陵参拝団員』の徽章です。戦前の皇陵参拝団体の一つで、今も御陵の近くに残る御陵の案内の石標を建てた団体です。そのメンバーが付けていたものだと思われます。直径は約30mm、質量13.2g。材質は不祥ですが、真鍮の様な色をしています。上部の飛び出たリングに紐などを通して付けていたものと考えられます。

 写真2枚目は、安康天皇陵の参道に設置されている車止めです。新しく作られています。手作りのように思います。宮内庁の方が作成されたのでしょうか。また昨年紹介した一般拝所の横に植えられた、松と紫陽花の苗は1年前より大きく育っています。新たに松の幼木も植えられていました。こちらには水をあげた跡がありました。安康陵の一般拝所は、砂利にうっすらとサライの線がついていました。(石庭などの線を付ける巨大なサライの様な、トンボの様なあの器具の名前、ご存知でしたら教えて下さい。)安康陵は仕事の帰りによく通りますが、とても美しく手入れされています。青空と明るい日差しに映える木々の緑が美しい今日の安康陵でした。参道横にはタチツボスミレがいっせいに開いていました。
 安康陵は正面の拝所のほか、西側・北側~北東側までは御陵の横を通る一般道があり、堀や墳丘を見ることができます。周濠の様子を見て回ると、南側と東側は水が溜まっており、西側・北側は水はなく空濠になっています。南西の端には古い建物があり、壊れかけていますが、かつての宮内庁の小屋ではないかと思います。ボロボロですが、古いものなので、なるべく長く残ると嬉しいなと思います。御陵の北側は竹藪になっており、地元のおじさんがタケノコを掘っておられました。北側は竹藪のせいで日陰になり、生垣の生育が悪くなっています。日向の生垣は成長が良く、葉が多くボリュームがあります。

宮内庁書陵部 画像一覧
http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/owners/syuusyuu_list/list_syoryoubuzou.html
 このページには陵墓関係の資料も収録されています。書物を撮影したものです。50音順で多くの資料がありますが、その中から陵墓関係の物を挙げます。※は私が中を見ての説明です。私には文字が難しくて読めないものもありますが、興味深い物が多いと思います。山陵図なども見ていて楽しいです。

・吾平山陵図
・吾平山上陵一説
・淡路廃帝山陵二所考
・安徳帝陵地実録
・和泉河内国所在陵墓位置図
・市辺忍歯別命山陵考
・磐之姫命御陵造営目論見帳並図
・允恭帝陵考別記
・可愛御陵図
・柏原山陵考
・柏原深草陵山陵考
・河内諸陵公書
・河内国御陵並陪塚図
         ※陪塚図は御陵よりも周辺の小墳丘に着目したもの。規模、所在地等の記録有。
          雄略陵は丸山に拝所が書かれている。允恭陵の堀の池や田の記録も
          明治初期の仮検分の報告を教部省にしたもの等
・函底叢書/山陵修復 ※戸田大和守の文久修陵の記録 明治26年に採録(先帝御事績取調班の印あり)
・弘文帝山陵別考  ※上総国の陵地について
・皇陵考      ※元禄12年
・御陵意見書 (谷森善臣申立状)
・御陵戸之儀願書
ア・御陵所調覚書 ※各陵墓の守戸の名簿、取締り・長・長役・長格守戸・守戸などの名簿
        未定の陵にも守戸が書かれている(持統文武火所他)
・山陵絵図
・山陵関係史料
・山陵記
・山陵御修営ニ付上書
・山陵御修補関係書類
・山陵御修補始末稿
・山陵御造営御用旅中
・山陵御用旅中日記
・山陵祭祀寺院祈禱ノ件
・山陵志
・山陵修補綱要
・山陵修補御用私記
・山陵探索
・山陵に付きての往復書翰留
・山陵発掘勘例並准拠例修陵旧記
・修陵雑録諸陵御祭典略鈔
・諸陵周垣成就記
・諸陵説
・諸陵徴
・諸陵寮補任神武御陵考
・神武御陵考
・神武綏靖両天皇御陵図
・神武聖帝荒陵図話
・神武帝御陵考附録
・神武帝山陵使發遣日時定陣儀等一會記
・神武帝山陵奉幣使発遣次第並参向記
・神武帝奉幣使記
・神武帝陵考纂神武天皇御陵考
・神武天皇御陵考
・神武天皇御陵考
・神武天皇御例祭
・神武天皇山陵使發遣陣儀御下行配分帳
・神武天皇陵修復之儀ニ付示談事
・崇光天皇陵御取建一件諸記
・崇徳天皇御陵御普請之勘定目録
・帝陵御調一件控
・帝陵修議
・帝陵発掘一件
・奈保山二陵考
・中津山陵考
・仁賢帝陵考後案
・仁賢天皇御陵申上覚
・仁徳天皇外四天皇御陵御普請御入用金渡帳
・野宮定功山陵取調書
・彦火々出見尊旧蹟
・日向/可愛山陵図書
・日向山陵図書
・日向国陵墓図
・山城国陵田坪付
・大和御陵考遺稿
・大和国諸陵
・陵墓考集
・陵墓再撿図説
・歴代廟陵考
・歴代廟陵考


アの御陵所調覚書は未定となっている陵にも、守戸が置かれていることが興味深いです。もう少し詳しく読んでみます。
 

『書陵部紀要』第71号〔陵墓篇〕

 投稿者:fukuyama  投稿日:2020年 3月29日(日)14時17分22秒
  不要不急の外出自粛ですが

『書陵部紀要』第71号 (令和2年3月刊行)がPDFにて公開されています。

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/000/

・百舌鳥耳原中陵第1堤における遺構・遺物確認のための事前調査
 図版で見る トレンチの写真や空襲による焼夷弾の写真など
・宇治陵第23号地雨水排水整備工事に伴う立会調査
 の中にある宇治陵治定についてなど

これら以外にも内容あるものばかりです。

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

テレビ番組の内容から~陵墓にちょっぴり関係するもの~

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 3月 7日(土)22時13分12秒
編集済
  こんばんは。新型コロナウィルスが猛威を振るっていますね。心配です。予防対策をしっかりしたり、人の多い所はなるべく避けたいと思います。今丁度東大寺二月堂の修二会・お水取りが行われていて、勇壮な松明をよく見に行くのですが、今年は見送ろうと思います。
 そんなわけで、今回は外に行かず自宅でテレビで見た陵墓関係の内容をお伝えします。とはいえ目新しいものは無いのですが…

KCNスポーツ&カルチャー(近鉄ケーブルテレビ)
◎『奈良古墳探訪』という番組で奈良県内の古墳が紹介されています。各市町村ごとに古墳が紹介されます。約1か月間同じ内容が放映されます。先月は宇陀市で、今月は斑鳩町の古墳が紹介されています。その中で時には陵墓古墳も紹介されます。
 今回の斑鳩町の古墳で紹介されたものの中で、この掲示板の対象になる(かどうか微妙)ものをかき出します。

駒塚古墳(前方皇円墳) 4世紀後半 聖徳太子の愛馬「黒駒」を葬ったと伝えられている。
調子塚古墳(円墳) 5世紀中ごろ 黒駒の世話をしてた調子丸の墓と伝えられている。
  聖徳太子の愛馬の古墳との伝承ですが、これは陵墓とは関係ほとんどないか…

藤ノ木古墳(円墳) 6世紀後半 直径50m たかさ9m
この古墳は藤ノ木フィーバーで有名ですね
2名が石棺内に葬られています。骨から被葬者はともに男性、年齢は1名は17~25歳、もう1名は20~40歳(骨はほとんど解けてしまっており推定年齢の幅が大きい)であると推定されています。この古墳については多くの研究があり被葬者についても多くの説が出されています。この番組では多くの豪族(蘇我氏・物部氏・膳臣氏・オオハラ氏)の説も紹介しつつも、年代的に合致する皇族として、聖徳太子のおじさんに当たる「穴穂部皇子」と弟の「宅部皇子」の兄弟説を最も詳しく紹介していました。近く(北東150m)の春日古墳の様子がわかれば藤ノ木古墳の被葬者についての知見が得られるかもしれないというコメントがありました。
    こちらも皇族墓の可能性があるという内容で、陵墓との関係はあるとは言えないか…


春日古墳(円墳) 6世紀後半~7世初頭
 発掘調査に向けて事前調査中。温度湿度雨量のほか前回紹介したミューオンでの調査を行い、長さ6.1m、幅2m、高さ2mの空洞部分があることが分かったそうです。
  全く陵墓と関係ありませんが、1月10日に投稿した、レプトンのミューオン(μ-粒子)調査が出ていたので・・・


富郷陵墓参考地(円墳) 直径30m 5世紀頃
 墳丘からは埴輪が見つかっている。
墳頂部から板石が持ち出され、近くの川の橋として利用されたとの言い伝えがある

以上が斑鳩町の古墳の内容ですが、この掲示板の対象としてはちょっと弱いでしょうか?

◎『偉人たちの健康診断』
続いては3月5日(木)にNHKで放映された『偉人たちの健康診断「古墳はタイムカプセル」』の内容からこの掲示板の対象としてかすりそうなものを紹介します。

藤ノ木古墳
こちらも斑鳩町の藤ノ木古墳から始まりました。出土した骨からわかる内容です。2名のうち、多くの骨が残っていたほうの被葬者についての推定です。
 身長   164cmと推定
 死亡年齢 17~25歳
 性別   男性
 血液型  B型

箸墓古墳
 ミューオン調査の機器が映され、ミューオンによる透視調査のことが説明されていました。テレビの画面で見た調査機器は、数十㎝程度の箱みたいなものが、アルミの様なシートに覆われていました。一度実物を見に行きたいですね。まだ置いてあるかな?
新聞記事では、『縦40センチ、横90センチの装置を2018年12月、古墳周囲の4カ所に設置し、フィルムを交換しながら20年4月まで調査を続け、それから解析する』とあるので、きっとまだあるはず。今ならまだ間に合いそうですね。番組の中でミューオンによる調査の原理を簡単にわかりやすく紹介していました。

阿武山古墳
 ご存じ藤原鎌足の古墳ではないかといわれている古墳です。昭和9年掘削により棺が見つかりました。発掘調査が行われましたが4か月で中止されました。高貴な人物の古墳であるとのことで、もし被葬者が皇族であれば冒涜の恐れがあるということになったとのことです。そこで宮内省立ち合いのもの、慰霊祭が行われ棺は元の墓室へ納め埋まられたとのことです。番組ではこの時に撮影されたレントゲン写真(1980年代に見つかる)からその人物像について話を進めています。その結果藤原鎌足だと否定する要素はない。もちろん肯定する要素もないが・・ということでした。
 当時高貴な人物の古墳が見つかれば皇族の可能性があると考えられ、宮内庁が慰霊祭をし、発掘も中止になったという話が興味深いでした。

今回は陵墓というジャンルにかすっているかどうか微妙な話題でした。的外れなボール球でしたらご容赦ください。管理人のFUKUYAMA様、アウトなら削除しますのでおっしゃってください。
では皆様、健康にお気を付けください。失礼いたします。
 

伏見皇族墓地をめぐる憶測妄想

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 2月22日(土)17時04分47秒
編集済
  レプトン 様

久々の長文で緊張します。
例によって憶測妄想全開モードです。

般舟院陵について私が過去に書き散らかしたものは上野竹次郎「山陵」をベースに、その他
の状況証拠などからの憶測・妄想にすぎません。
今回のご下問にあたり、改めて上野竹次郎「山陵」をもとに確定情報を整理したい所なので
すが、10~5年前に3度の転居を余儀なくされ「山陵」が行方不明となってしまい、困って
おります。
ので、私の記憶の範囲で大雑把に憶測妄想で、ということで、ご容赦下さいませ。

伏見は豊臣秀吉~徳川家康時代の城下町ですが、それ以前から水運の要衝で皇室御領のち伏見
宮御領でした。戦国期の伏見宮家は事実上この地に土着しており伏見殿と呼ばれていました。
大光明寺と般舟三昧院は伏見殿と不可分の関係にありました。但し、伏見殿が寺になったり
その逆だったり、伏見殿と寺が隣接していたり離れたり移転したり‥で、これらの位置関係
の詳細は判然としませんが、どうであれ、大光明寺と般舟三昧院はもともと伏見にあり、伏見
宮の先祖および歴代と皇妃の一部の葬地であったということです。
https://kyotofukoh.jp/report902.html
https://kyotofukoh.jp/report1268.html
で、両寺とも豊臣秀吉の指月(伏見)城築城による立ち退きだか慶長年間の火災だかで洛中に
移転する訳ですが‥
大光明寺は伏見宮家の菩提寺でもあり、現在は相国寺の塔頭なので、伏見宮墓地が相国寺の
隣接地にある訳なのですが、この宮墓地は貞致親王の代からのもので、それ以前は伏見から
の改葬であったことが、2010年4月11日のたけちゃん さまの貴重なご投稿により明らかにさ
れております。
となると、大光明寺の移転と貞致親王の代とでは半世紀の時差があります。ってことは、
寺だけ先に移転して宮墓地は半世紀ほどそのまま伏見に残された?
大光明寺陵はどうなった??
で、本題の般舟院陵です。
現在の般舟院陵域内の全墓塔の被葬者と近代に墓地整理がなかった件については、2009年9月8日
のたけちゃん さまの貴重なご投稿により全て解明されております。
般舟三昧院が豊臣政権下で現在地に移転したとなると、戦国期の皇妃の陵墓は当然伏見から
の改葬ということになりますが‥
般舟院陵域内には戦国期から江戸初期にかけての天皇の分骨塔と江戸中後期の皇子女の墓、
そして後土御門天皇皇子尊伝親王墓もあり、厄介極まりなし‥ですね。
一見して目に付くのは、凹んだ入口の両側に江戸中後期の皇子女の墓が配置されており、
これらは墓地成立後に追葬されたっぽいということ。
で、中央の3基すなわち後陽成天皇・中和門院の供養塔と高仁親王墓が追葬されたとは考え
難いので‥
私の現在の推測としては、まず今の般舟三昧院になぜか高仁親王が埋葬され、祖母の中和門院
がその傍らに葬られることを希望したので後陽成天皇ともども供養塔が建てられ、ひとまず今
の般舟院皇族墓地が完成。
その後、上記の伏見宮墓地の改葬に併せて、伏見に残されていた戦国期の皇妃の陵墓がこちら
に改葬された‥
但し、伏見の般舟三昧院に埋葬されていたのは戦国期の皇妃だけなのか、戦国期から江戸初期
にかけての天皇の分骨塔や尊伝親王墓も含むのか。
もともと今の般舟院陵の場所には戦国期から天皇家の分骨所があり、何故か高仁親王がここに
葬られたと考える方が腑に落ちるのですが、でもそれだとやはり墓塔の配置に違和感がありま
すねぇ。
あくまでも私の妄想なのですが、後花園天皇以後の伏見宮家には天皇家に対して「本家」とし
ての意地があり、伏見の大光明寺・般舟三昧院の境内には皇族墓地が形成されていて、伏見宮
墓地・天皇分骨塔・皇妃子女の陵墓があったのだと愚考しています。
で、改葬に際して分骨塔の記録が散逸した結果として、分骨塔に治定と治定外の格差が生じた
とか‥。
でもこれだと中央の後陽成天皇・中和門院の供養塔が治定外の説明がつかないか‥。

この伏見の皇族墓地の場所が現在の大光明寺陵のある高台であったとすると、まさに指月(伏見)
城の中核部分に該当するので移転・破壊は免れません。となると、洛中に改葬する前に伏見宮
御領の中で皇族墓地が改葬された可能性すらあります。
例えば、深草北陵にある般舟院塚って怪しくないですか?
恐らくは皇族墓地は最初から城の縄張の範囲外にあって無事だったのだと思いますが。
その有力な候補地と私が考えるのが、大光明寺陵の崖下のやや西寄りにある月橋院です。
月橋院には結構な広さの墓地があり、般舟三昧院の跡地との伝承があるようです。
https://kyotofukoh.jp/report357.html
但し、最初に書いたように、伏見殿・大光明寺・般舟三昧院は伏見宮御領の中でも変転してお
り、寺の跡地=皇族墓地跡地と断定できないのが歯がゆいです。

蛇足ですが、昨年、現在の大光明寺陵の西側で指月(伏見)城の発掘調査の見学会が行われたの
ですが、現地の展示では墓に関する物はありませんでした。調査報告に墓地跡などの報告が
出ないか楽しみにしております。
 

庶人塚はどこ?

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 2月20日(木)22時44分49秒
編集済
  DADA様・大垂水酔鳥様
 こんにちは。今年もよろしくお願いいたします。DADA様がおっしゃるように陵墓の改葬はとても興味深いですね。植山古墳と推古陵の関係をはじめ、文献に残る改葬・火葬地と陵墓など、整理すると面白いでしょうね。ぽん様がこのような内容についてお詳しいです。
改葬関連で、大垂水酔鳥様が2010年11月30日の投稿で、“大光明寺陵の下に般舟院陵があり今の般舟院陵に移転・改葬されたかもしれない”という内容の事を書いておられました。般舟院陵も改葬されたのですか?奈良県以外の陵墓・奈良時代より後の陵墓については全く知識がありませんので宜しければご教示ください。

DADA様お尋ねの庶人塚についてです。以前ぽん様が投稿してくださっていたと思うので、過去の投稿で詳しく書かれていたように思います。私は奈良県遺跡地図で調べてみてわかったことをお知らせします。
図書館で読んだ本、おそらく「宇智郡史」(宇智村史?)だったと思いますが、そこに書かれていた内容は次の通りです。
【宇智村大字三在小字古寺俗に西山と称する松林中にあり。塚の周回二百六十尺、高さ五間の圓塚なり。周囲に深さ六尺、水面下一尺くらいの堀をめぐらせり。大和志に『在三在村上方土人云他戸王墓』、大和名所図會に『三在村の上方にあり土人曰他戸王墓』とあるはこれか。】
奈良県遺跡地図で旧宇智村周辺の地名を見ると、五條市三在町という地名があり三在町には古墳が16基(古墳・古墳?・消滅など)あります。円墳・方墳・小型前方後円墳などです。
 そしてこの中に西山古墳という古墳があります。(地図の60番)昔の西山という地名と通ずると思われるので、庶人塚はこの西山古墳の可能性があります。地図では針葉樹林になっています。圓塚と書かれていますが今では方墳と認識されている所が違います。周囲の長さも違いますが、濠がある所は共通しています。
 しかし近くには丸山古墳という径37mの円墳があり、周濠・埴輪があります。円墳であることと周濠が共通するのと、大きさはこちらの方が古記録に近い数値になります。ですから名前だけから西山古墳と決めつけるのは少し危険かもしれません。

ぽん様の過去の投稿をまず確認するのが最も詳しい情報だと思います。

奈良県遺跡地図第3分冊 地図19-B
遺跡番号60  西山古墳 奈良県五條市三在町・住川町
       方墳 一辺54m 葺石・周濠  遺物・・埴輪
       文献・備考   奈良県遺跡調査概報1977年

遺跡番号56  丸山古墳 奈良県五條市三在町
       円墳 径37m  葺石・周濠  遺物・・埴輪
       文献・備考   奈良県遺跡調査概報1977年

現地はJR北宇智駅の南400~500m辺りの所です。現状がどうなっているかはわかりません。地図の60番が西山古墳です。すぐ西側をJR和歌山線の線路が通っています。線路を挟んだ西側の56番が丸山古墳です。中央上やや右が北宇智駅。また同所は治定陵墓からだと5km近く離れたところです。

※北宇智駅といえば、かつてはスイッチバックで駅に列車が出入りする駅でした。線路や駅が改修されもう何年も前にスイッチバックはなくなってしまいました。この地図はまだスイッチバックしていた頃の物で、駅は本線からの引き込み線になっています。それと、第二次世界大戦のときに国鉄の蒸気機関車が米軍戦闘機による機銃掃射を受けたとの資料を読んだ記憶があります。私の記憶は全く宛てになりませんが・・・・

では失礼します。


【追記】
御礼

大垂水酔鳥様
 御教示ありがとうございます。般舟院陵の移転・改葬は詳細は不明ながらも、実際に行われたのですね。知りませんでした。不勉強(元よりばればれですが)を恥じ入ります。御教示ありがとうございました。

DADA様
 西山古墳をグーグルの航空写真で見ると、古墳としてはっきり残っているようです。周濠部分の方形の地形が確認できます。丸山古墳が微妙です。周囲が森のまま残されているようですが、開発された自動車道(県道)に一部・あるいは半分が削られているかもしれない位置関係になっています。


☆こんなイベントがあったのですね。『仁徳天皇陵を気球で上から眺める』
https://mainichi.jp/graphs/20190714/hpj/00m/040/001000g/1
 

(無題)

 投稿者:DADA  投稿日:2020年 2月16日(日)16時47分50秒
  大垂水酔鳥さま

ご指摘いただいている件ですが、「5層の石灯篭」のことです。
誤解を招く表現で失礼いたしました。

辺り一面が果樹園でしたので、季節が良ければさぞきれいだろうと思いました。
それでも、紀ノ川と山々との雄大な雰囲気が印象的でした。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2020年 2月16日(日)15時19分53秒
編集済
  ★追記★しました。

DADA 様

紀の川市の美福門院墓の現況報告ありがとうございます。
ところで、一点、確認させて下さい。
背後にある五重塔の崩落とは下記サイトの写真に写っている卒塔婆と並んで立つ5層の
石灯篭のことでしょうか。
http://www.tree-flower.jp/30/bifukumon-in_1496/bifukumon-in_kusu.html

もし石灯篭とは別の五重塔だとすると、13年前に私が行った際には無かった石塔類が
今はあるということになり、興味津々です。

蛇足ですが、13年前は南側参道は梅か桃の果樹園の中の一本道で、とても美しい風景
でした。

★追記★

ご教示感謝です。

13年前の現地の説明板等では、現存の五輪塔と石灯篭が延宝期のものか否か判然としま
せんでしたが、もしそうだとしたら300年前の物なので凄いです。
サイトが約3年前の日付で、この時までは石灯篭が無事だったということは、一昨年の
大阪直撃大風による被害っぽいですね。
 

美福門院墓など

 投稿者:DADA  投稿日:2020年 2月16日(日)13時22分31秒
  こんにちは。

いつも興味深く拝見しております。
今年最初の投稿です。

先日、和歌山県紀の川市にある美福門院墓を訪問しました。
国道から大きなクスノキが見えますのですぐわかります。
小祠にある五輪塔には、花が供えられていましたので、
きちんと手入れされているように思えました。
その一方で、背後にある五重塔は崩落していました。
落ちた部分は敷地の脇に寄せられているので、放置されているのではないようですが、
少々残念な状態でした。

これに先立ち、昨年12月31日に高遠さくらさまご指摘の、西光庵の園祥子墓も訪問しましたが、
円墳の付近に、顕彰碑がありました。
また同年4月30日ご投稿の徳川多恵子女王の墓も、12月中旬の時点ではまだありました。
念のためご報告いたします。

> レプトンさま
桓武天皇陵の件、ご教示いただきありがとうございます。
崩御された同年に改葬されたということになりますね。
そうなると「柏原山陵」の存在はなかなかわからないかもしれません。
陵墓の「改葬」について関心があるのですが、
それを体系立てて紹介しているものがないな、と思っています。
ちなみに、他戸親王墓とされる「庶人塚」は、今ではどれを指しているのでしょうか・・・。
 

色々な話題で・・・

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 2月 9日(日)20時10分24秒
編集済
  こんにちは。この冬初の寒波が数年に一度の寒波という事で、日本列島が冷え込み震え上がっていますね。私は今日は平城天皇陵に参拝したのち、平城宮跡で凧揚げをしていました。1時間半ほど寒風に身を晒していたため、骨の髄まで凍えるくらいの寒さでした。

DADA様
 古い話ですが、2016年7月4日に投稿されました、桓武天皇の柏原山陵と柏原陵について、私も知らず気になっておりました。場所がどこなのかはよくわかりませんが、先日テレビで放映されていた番組の中で触れられていたので、その部分だけですがお知らせします。
番組名「KCNゼミナール 帝塚山大学市民大学講座」
KCNは近鉄ケーブルネットワークのケーブルテレビです。
番組内で提示されていたパワーポイントの内容の一部です。
 (前略)
 さらに桓武天皇は大同元年10月に柏原山陵から柏原陵に改装される。これは平城天皇による神野親王の廃皇太子計画に対して「祟り」をなしたため、その「祟り」を鎮めるために改葬がなされたと考えられる
 (後略)

帝塚山大学市民大学講座 No.425  2019年12月21日開催
 「怨霊の誕生-古代都城の葬地と〈祟り〉」
  近畿大学文学部教授 網 伸也 氏

(柏原山陵についてここまで。他にもあったかもしれませんが、ワンピースを見る倅とのチャンネル争いに敗れました)


奈良市西部図書館で読んだ書物に書かれてあった内容を紹介します。
◎「今昔 奈良名所」(いまむかしならめいしょ)(著者 森下恵介) 奈良新聞社 2017年1月22日発行
※ごめんなさい  「宇智郡史」だったかもしれません。確認します。

①宇智陵
 大正5年2月12日、宇智郡連合青年団員の手にて大改修に着手し同月20日竣成、現今の境域周囲174間なり。
②他戸親王墓
 大正5年宇智陵と共に大改修を行わる。
③庶人塚
 宇智郡大字三在小字古寺俗に西山と称する松林中にあり。塚の周回260尺、高さ5間の円塚なり。周囲に深さ6尺、水面下1尺位の堀をめぐらせたり。大和志に「在三在村上方土人云他戸王墓」、大和名所図會に「三在村の上方にあり土人曰他戸王墓」とあるはこれか。

◎「奈良で出会う  天皇になった皇女たち」(てんのうになったひめみこたち)
  生駒あさみ 著   上村恭子 イラスト
 養老の滝のある養老公園から2kmの所にある養老神社に菊水霊泉が湧いていて、元正天皇が禊を行ったとされている。(中略)毎年春分の日には「若水とり」という行事が行われ、その時に汲まれた水は、奈良の元正天皇陵にも献水されている。

  どのように献水されているのでしょうか?宮内庁を通じて公式にされているのでしょうか?それとも私的にされているのでしょうか?

鏡女王(鏡王女)の墳墓が押坂内陵と大伴皇女墓の間にあります。藤原鎌足の正妻という事ですが。藤原鎌足に嫁す前は天智天皇の奥さんでした。また舒明天皇の皇女・または皇孫女との説もあるとのことです。いろんな説があり、謎の多い人物で、記録に見える鏡王女・鏡女王が同一人物かどうかという点も含め、よくわからないようです。宮内庁の治定墓ではありませんが、この掲示板の対象になるでしょうか?皇族だったか、そうでなかったかも不祥ですが、少なくとも一時は天智天皇の妃になっていたことで、この掲示板で話題としても良いでしょうか?(昨年夏に大伴皇女押坂内墓に参拝に行った時に、スズメバチの巣があったことを報告しましたが、)
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:レプトン  投稿日:2020年 1月10日(金)02時14分22秒
編集済
  箸墓古墳のミューオン調査
NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200109/k10012240231000.html
(この記事が詳しい)

毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20200109/k00/00m/040/179000c

産経新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200110-00000501-san-soci

(新聞記事は時間がたつと削除されます)

何がわかるか、期待です。
ミューオンを用いた調査は、隕石やエジプトのピラミッドでも実施されているようです。産経新聞によると、平成30年に斑鳩町の春日古墳の石室の存在を確認したとあります。


明けましておめでとうございます。管理人様、今年もよろしくお願いいたします。皆さんよろしくお願いいたします。また多くの知見を御教示いただければと思います。

ところで、今回話題にしたミューオン(μ-)はレプトンの一種ですね。私のペンネームは陵墓の分野でのミューオンの活躍を予見し、それに因んでつけたものです・・・・・ウソです・・・・・。


 

入野

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年12月31日(火)04時42分56秒
編集済
  早いもので平成31年というか、令和元年も残すところ20時間ほどになってしまいましたが、変な宗教に入っていませんか。


さて、10月は2週間ほど宮崎調査に行ってきましたが、前半は1年ぶりの西米良へ、後半は3年ぶりに宮崎駅前に宿泊し連日の日南通いでした。
今回の宮崎調査では、ともに15年ぶりに吾平山御陵と鵜戸神宮の鵜戸陵参地へ参拝してきました。

鵜戸神宮は、3年前の調査の時に予定していたのですが、他地の調査にはかどり行けず、吾平山御陵も2年前、帰京日に車で向かうものの、あまりの遠さにこのままだと飛行機に乗り遅れてしまうため、垂水の少し前ぐらいで空港へ引き返さざるえませんでした。

今回、吾平山御陵へは、宮崎駅を9時08分発に乗り、日南駅で乗り換えると志布志駅には11時57分に着きます。
志布志駅には、日に8本しか来ないのに1分前に垂水行きのバスが通るという、まったく利用者の利便性を無視した時間割には腹立つばかりですが、40分待ちで垂水行きのバスに乗り、笠野原東のバス停で下車。

吾平山御陵へは、ここから国道68号線をひたすら12㌔南下する一本道で、車幅は吾平麓周辺はやや狭くなりますが、それ以外は広くとても走りやすい道でした。
ただ坂が多く、往路だと登坂の比率が4対6ほどになります。
往路は写真を撮りながらの、のんびり走行でしたが、復路は上りが多いわりには50分で走破したので、平均時速は15㌔ほどということになります。(勿論・電動じゃないよ)
帰路は、志布志駅を18時55分発に乗り宮崎へと戻りましたが、御陵には2時間ほど滞在できました。


さて以前の書き込みでも記しましたが、春から青山霊園の、夏から多磨霊園の、秋からは都内寺院内の華族墓の写真の撮り直しを始め、青山と多磨は95%ほど終了しました。
しかし、人間の本能なのか目的地を設定しないと、知らず知らず同じ道を通ってしまうようで、今回の悉皆撮影により霊園内の数家の改葬を確認いたしました。
今回、皇族関連の2家を報告させていただきます。

【鹿島伯爵家墓・多磨霊園】

鹿島家は、山階宮家の分家で、初代鹿島萩麿は山階宮菊麿王の第4男子で、昭和3年7月に臣籍降下し鹿島伯爵家を創立しています。
鹿島伯爵家の墓所は、徳大寺公爵家と西園寺公爵家と同区内に建立されていましたが、今回、撮影のため行くと何と更地になっていました。
墓所は、広い道沿いに建立されていましたが、前述のとおり何故か、ほとんど通ることがなかった道であったために、いつ改葬されたのかもまったくわからない状況です。

実際、写真や記録などは採っていますが、最後に見たのが何時だったのか、また、他地へ改葬されたのか、無縁廃棄されたのかも判らない状況です。

鹿島伯爵家は、萩麿の後、島津公爵家より晃久が養子に入り継承しており、私も二回ほど霞会館でお会いしたことがあります。
晃久氏の死後は、後継者がいない状況が続いておりましたので、無縁廃棄された可能性が高いと考えられますが、同じく後継者のいない音羽伯爵家の墓所は現存しています。
ただ、音羽伯爵家の墓所に関しては、宮内庁が管理費を支払っているのではないかと思われます。

実際、霊園や寺院墓地の管理者は当主に限定されているわけではなく、当主の弟や夫人、親類である場合も多いので、離縁した晃久氏の実子の方が後継者となり、他所へ改葬されたとも考えられそうです。


【園伯爵家・西光庵】

1ヶ月ほど前に写真の撮り直しのため西光庵へ行くと、何と園伯爵家の墓所が大きく改修されていました。
元々、園家の墓所は15基ほどの墓碑が建立されており昭和60年ごろに改葬されましたが、再改葬ということになります。
改葬後は、園家合祀墓と新設された明治天皇権典侍園祥子墓の2基となりましたが、今回、その2基と隣接する分家の園周次家の2基とも廃棄され、新たに園家の石円墳墓が新設されていました。
円墳には、建立年月など何も刻字されていないために、いつ改葬されたのかも不明な状況です。
手元の記録を見ると、前回、同寺を訪れたのが昨年の6月で墓所には何の変化もなかったので、それ以降に改葬されたことになります。
今回、新に伯爵家と分家の各墓誌が新設され全合祀者が列記されていますが、せめて園祥子さんの墓碑だけは個人墓として残してほしかったので残念です。

今回の改修は、近年、問題視されている墓終いの影響が考えられ、たとえ名家園家であっても後々、後継者がいなくなれば無縁廃棄される運命であるため、分家も含め一族で末永く墓所を護持しようということだと思われます。
多分、以前より墓所の改葬を考えていたと思われ、丁度、今回の代替わりと新元号にあわせて改修されたのではないかと想像されます。


2週間ほど前、1年前に東京都よりΓ連絡ください」と立札が立てられた青山霊園の堀河子爵家の墓所を確認に行くと、何と新たにΓ1年以内に連絡がないと無縁廃棄します」という最終通告の立札が立てられていました。
つまり期限が来年(令和2年)末ということになります。

最終通告の場合、合祀されている方々の全氏名が表記されますが、今でも同墓所の管理者と思われる堀河華子さんの氏名が無いのでご健在ではとも思われますが、かなりのご高齢です。
堀河家は、堀河紀子さん、岩倉具視さんの実家であり由緒正しき名家であるので、まさか1年後に関係者より何の連絡が無くても廃棄するという暴挙を犯すとは思えませんが、何せ槇村正直男爵の一件があるので安心もしていられません。
そのため1週間前に、長く雑草だらけであった墓所を2時間ほどかけ掃除してきました。


それと1ヶ月ほど前、某男爵家の夫人よりΓ今度、墓終いをすることになりました」と連絡がありました。
墓終いは、後継者がいないことと、移住地と墓所とが遠方であることが2大要素ですが、同家の場合は後者になります。
また、改葬に際し旧石を持つていくことができないため、廃棄し新設するとのことでした。

まあ、いろいろな要因で現存が危うい墓碑は、今後、ますます増えるはずですが、残念ながらこれといった有効な手立てもなく指をこまねいている状況ではありますが、現状では正確な記録を残すことしか対処法が見つかりません。


最後になりますが、今年1年皆様からの諸情報に感謝するとともに、来年も宜しくお願いいたします。

レプトンさま。
長文のご報告、お疲れさまでございます。

 

伏見桃山両陵の陵印の変遷と改刻について

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年12月30日(月)16時29分51秒
編集済
   こんにちは。レプトンです。新時代の幕開けとなった令和元年も、今日を入れて残り2日となりました。皆様、今年もそれぞれに活躍され、多くのご教示をいただきましたことお礼申し上げます。ありがとうございました。また管理人様には当掲示板を開設・管理してくださり、ありがとうございます。管理人様のおかげで意見交流ができます。感謝いたします。しかしご苦労やご負担も多いかと存じます。利用させていただいている私たちは管理人様のご苦労を忘れず、感謝したいと思います。管理人様、そして掲示板の皆様、来年もどうかよろしくお願いいたします。

 先日投稿した「陵印 墓印調書」(昭和2年~昭和9年)のダイジェスト版その2の最後に書いた、伏見桃山両陵の陵印の改刻に関する内容について写真を入れて報告させていただきます。

 まず、昭和2年に宮内省諸陵寮が各陵墓に陵印・墓印の設置状況と、使用陵印を調べました。明治天皇陵・照憲皇后陵には勿論陵印が設置されていました。その時に桃山部より提出された、陵印の印影は写真1枚目です。いつから使われていたかははっきりしませんが、4月11日のこまいぬ様の投稿で、大正13年1月には使用されていたことが明らかにされています。またこの印は陵墓職員により調製されたものであることも明らかになっています。(次の資料中に明記されています。)

 さて、この陵印が作り替えられることになりました。磨滅・破損がその理由です。改刻に際しては、桃山部と諸陵寮の間で何度か文書のやり取りがなされています。新陵印調製までの様子を紹介します。(素人読みですので、誤った読みをしていたり、私には読めない漢字があったりするなど、間違いがあるかもしれません。でも大まかな流れは間違いないと思います。)

(資料1)
桃山発甲第四十八號
 昭和八年四月廿五日
    桃山部兼畝傍山部
      陵墓監 〇〇〇〇印

諸陵頭  〇〇〇殿

     伺
伏見桃山両陵々印ハ先年陵墓職員ニ於
テ調製セシモノ磨滅破損ニ付別紙雛形ノ
通リノモノニ改刻調製致度此段相伺候

写真2枚目を添付(2枚の紙に1つずつ書かれている)

(伏見桃山両陵の陵印は先年陵墓職員が調製したものであるが磨滅破損してきたので別紙雛形の物に改刻したいと思うので、伺います。)
【注・陵墓職員が自ら印を彫刻したという意味ではなく、陵墓職員が費用を出して業者に作らせたという意味であると思われる。他の例でも陵墓職員が私費で調製していることが書かれている。】

この伺いに対して、諸陵寮よりの回答が次の(資料2)です。

(資料2)
立案 昭和八年五月五日
決裁 昭和八年五月五日

     按
   昭和八年五月 日
          事務官
   〇〇陵墓監
    照会
先月廿五日付桃山発甲第四十八號ヲ以テ伏見桃山両陵々印ニ関シ雛形添付伺出相成候處尚陵名ヲ正方形内ニ表シタル雛形モ(為参考・・この3文字墨線で消して訂正)作成御送付相成度

(伏見桃山両寮陵の陵印の雛形を添付してくれたが、正方形の中に陵名を書いた雛形も作成し送りなさい)

これに対し、桃山部は正方形の雛形を業者に作成させ、報告しています。

(資料3)
桃山発甲第七九號
   昭和八年六月拾七日
          桃山部兼畝傍山部
            陵墓監 〇〇〇〇印
宮内事務官〇〇〇〇殿
   陵印雛形送付書
伏見桃山両陵々印改刻ニ就テ去四月廿五日附桃山
甲発第四八號ヲ以テ雛形添付伺出ノ処五月五日附
陵第三大(六?)五號ヲ以テ正方形雛形ノモノヲ更ニ作成方
御照会相受ケ候ニ付直ニ其旨當業者ヘ申付ケ
置候処幸(?)ニ今回ハ甚タ迅速ニ別紙ノ通雛形
作成候ニ付右及送付候条至急何分御指示
相成度候
 追テ本雛形ノ字体及輪郭共梢太キ嫌ヒ有之
 候ニ付注文ニ際シテハ線ノ太サ約三分ノニ見当ノ積
 リニ有之候尚伏見桃山陵ニ就テハ右ノ如ク方形トシ
 伏見桃山東陵ノ分ハ前回提出雛形ノ如ク円形ト
 致度候

 写真3枚目 一番左の雛形を添付

(正方形の雛形も作れとのことだったので業者に伝えると今回は迅速に作成したので送付しますので至急何らかの指示を下さい。 尚線が太いので3分の2位の細さにします。伏見桃山陵は雛形の正方形の印を、伏見桃山東陵は前回提出した円形の印にしたいと思います。)

それに対し諸陵寮から返答が次の資料4です。

(資料4)
立案 昭和八年六月廿六日
決裁 昭和八年七月四日

       按
  昭和八年七月 日
          頭
    桃山部
     〇〇陵墓監
   陵印改刻ニ関スル件
四月二十五日附桃山発甲第四八及六月十七日附同
第七九號ヲ以テ標記ノ件雛形添付伺出ノ處
右ハ左記ノ通承知相成御度
       記
一、伏見桃山陵印ハ六月十七日附伺書添付雛形ニ依リ彫刻差支ナシ但同雛形中ノ「璽」ヲ削除スルコト
一、伏見桃山東陵印ハ四月廿五附伺書添付雛形ニ依リ彫刻差支ナシ
右孰レモ印章完成ノ節ハ其ノ印影ヲ報告スルコト

(伏見桃山陵印は雛形通り作ってよいが、璽の字は削除せよ。伏見桃山東陵は雛形通り作ってよい)

雛形通りで問題なしと言いながら、璽の文字を削除せよと言ってます。雛形通りでOKと言っときながらOKとちがうやん・・・

そして新陵印が完成した事を次の資料で報告しています。


(資料5)
桃山発甲第一八五號
  昭和拾年七月参拾日
          桃山部兼畝傍山部
             陵墓監 ○○○○印
  諸陵寮庶務課長〇〇〇〇殿
     報告
昭和八年七月四日附陵発第五五六號ヲ以テ御通牒ニ係ル伏見桃山陵並ニ伏見桃山東陵陵印改刻ノ件別紙印影ノ通改刻出来ニ付本日ヨリ使用致候ニ付之段及報告候
  写真3枚目の中・右の印影を添付

(新しい陵印ができたので、本日より使用しています)

このようにして、新陵印が決まりました。他の陵墓の陵印の場合、雛形を提出して大抵はそれでOKを出している諸陵寮ですが、伏見桃山両陵の陵印については特に慎重に印影を決定していたことがわかります。また、実際には作成されなかった印影の雛形が存在した事は驚きです。そしてそれが明らかになった事は、この資料の価値を高めていると言えるでしょう。

さて、めでたくやっと完成した新陵印ですが、この話にはまだ続きがあります。次の資料6をご覧ください。

(資料6)
桃山発甲第二〇八號
  昭和拾壱年八月廿壱日
          桃山部兼畝傍山部
             陵墓監 〇〇〇〇印


諸陵寮庶務課長〇〇〇〇殿
     報 告
七月三十日附桃山発甲第一八五號ヲ以テ報告ノ通伏見桃山両陵ノ陵印ハ同日ヨリ新陵印ヲ使用致居候処集印軸物中極メテ少数ナレドモ伏見桃山陵ノ分ヲ最後ニ集印セルモノノ内餘
地狭小トナリ他ノ陵印ニ多少重ナリヲ来タス場合旧陵印ヲ乞フモノ稀ニ有之候間斯カル場合ニ限リ当分ノ内旧陵印使用ノ事ニ可致候ニ付此段御含(?)ミ置被下度候

(新伏見桃山陵の新陵印は大きかったので、最後に伏見桃山陵の陵印を捺す人の場合、それまでに捺した他の陵印と重なってしまう。そのような場合旧陵印を捺したいと希望する者がいる。そのような場合通分の間旧陵印を使用することにしたい。)

 うーん、何とも言えないオチです。気を使って慎重を期して作成した新陵印なのに・・・・参拝集印者の中には、せっかく巡拝集印した掛軸・集印帖の最後に印が重なってしまい残念だった人もおられた事でしょう。
 伏見桃山陵の正方形の陵印は最後が陵の一文字だけでバランスが悪いですね。私も何かしっくりきませんでした。個人的には「璽」の文字を入れておく方がデザイン的にはよかったように思います。
また、実現せず幻の陵印となりましたが、円形の「伏見桃山陵璽」や正方形の「伏見桃山陵璽」の印は実際に作られた印よりセンスがいいように感じます。「押坂陵璽」は璽の文字があるので別に璽の文字を外さなければいけない理由がわかりません。
 また資料2を見ると、正方形の中に陵名を書いているものも作成せよとありますが、普通に読めば伏見桃山東陵についても正方形の雛形を作れとの指示のように思うのですが、以降の進行は伏見桃山陵についてだけ正方形の雛形を作成し、話が進んでいきます。なぜなのか?この辺りのことについては、同資料からは何もわかりません。
 ではみなさま、良い年をお迎えください。失礼します。

 

陵印墓印調書の内容~ダイジェスト版その2~

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年12月29日(日)04時32分6秒
編集済
  〈陵印 墓印調書 (昭和2年〉の内容の概略を記したダイジェスト版です。その1とその2の2回にまとめなおしました。これで完了しました。

この公文書は〈要審査〉扱いとなっており、個人情報等開示に問題がないかの審査をするため1か月程度、閲覧・撮影まで時間がかかるとのことで、実際入手できたのは申し込んでから3か月半かかりました。しかし、一度審査したからなのか、今は〈全部利用〉になっており、事前の申し込みは必要ですが、すぐに閲覧できるように思います。
 東京に行き、実際に閲覧して、印の大きさを調べたり、撮影では綴じられた部分が読めないので、その部分も確認したいのですが、東京は、距離的時間的にも、そして経済的にも遠い所です・・・


19の続き
 参考(朱書)として
  現在  陵数(箇所)  一三四
      墓数(箇所)  一九〇
       計      三ニ四

     陵印数(箇所)  一ニ〇
     墓印数(箇所)   一三
       計      一三三

 現在墓印設置ノ箇所
 押坂内墓       聖徳太子墓
 礼子内親王墓
 宇度墓
 阿保親王墓
 開成王墓
 竈山墓
 倭トト日百襲姫命墓
 良助親王墓
 宇治墓
 蜂子皇子墓
 息速別命墓
 懐良親王墓


24、昭和8年5月
 後鳥羽天皇皇子頼仁親王墓陵墓守部より、【『後鳥羽天皇第五皇子頼仁親王墓』の印の大きさが大きいので、この大きさ(もう少し小さな四角形を示す)に改め調刻中。できれば追って報告します】との報告。ほかに「参拝記念」「備前児島郷内村」の印も捺されている。
 それに対し5月10日に諸陵寮より、【過般の通達通り、改印の場合も雛形を添付し事由を書き、予め伺い出の上、承認を経て調刻すること】との指導の回答
25、昭和8年6月16日
 大入杵命墓陵墓守部より、【小職は4年前に別紙のとおり印を新調した。使用の義御命令を仰ぎたい】と報告。3つの印影を別紙に添付
 6月20日に諸陵寮より【雛形添付で伺い出たうち、『崇神天皇皇子大入杵命墓之印』は参拝者の要求ある時に限り使用し、他の印は使用しない事。ただし適宜保管せよ】と回答・指示。他の印とは『大入杵命墓』(縦一列)と『親王塚印』
※つまり、使用を禁止された2つの印は昭和4年~昭和8年6月までしか使われなかったことがわかる。
26、昭和8年6月18日
 和束墓陵墓守部より【和束墓印新調した。通達の通り伺い出る所であるが、通達以前に当業者に調製させていたが、調製に不備があったため遅延した。何とぞ許可を戴きたい】と報告
 6月22日に諸陵寮より【雛形通りで差しさわりない。尚参拝者の要求ある時に限り使用せよ。】と回答
27、昭和8年6月24日
 嵯峨部より【御陵印改造伺之件  蓮華峯寺陵御印章自然縁ヨリ破損致シ甚ダ見苦敷相成候ニ付別紙雛形之通御印改造致シ度候ニ付此段御伺申候也】(別紙雛形)
 9月29日に諸陵寮より【去ル六月二十四日附第五十一号ヲ以テ表記ノ件ニ関シ伺出ノ処右ハ雛形ノ通改印差支無之候也】と回答
28、昭和9年1月
 大阪の住人より、「天皇陵へ軸2本朱印帳4冊をもって参拝している。皇大神宮・明治神宮・乃木神社・我が母校へ献納したい。軸1本と朱印帳1冊なら陵印をもらえるので近畿方面はニ度三度と行っているが、遠隔地方・山国・西山方面その他につい
ては、時間的経済的に(大変なので)証明書等をお願いしたい」の内容の手紙が諸陵寮に送られる。
 1月23日に諸陵寮は次のように回答。「1度の参拝で同時に2回限りとしているのであなたの意には応じ難い」備考として昭和8年度陵墓監会議決定事項が書かれている。
29、昭和9年1月22日
 押坂部陵墓守長より【吉隠陵印が別紙のとおり破損したので、別紙雛形添付の通り改印したい】(破損の印影は添付されている、改印予定の雛形は見当たらない)
 諸陵寮は2月3日にOKと回答している。
30、昭和9年2月17日 大阪の住人よりの手紙
「青年に思想善導のため皇恩感謝の表現として、青年自転車皇陵参拝団を組織し全皇陵ヲ巡拝したい。91陵中1日行程で参拝できる85陵を参拝したのち遠隔地の左記6陵のみ代・・(代の後続き不明・代理参拝での捺印の許可を求める内容と思われる。)・・・そのあと後花園・淳仁・崇徳・安徳・大正・後醍醐各陵を記載」
 3月8日に諸陵寮は「自ら参拝せずして依頼し来る者には押捺せざる取り扱いなので貴意に応じ難い  (参照として次の内容を追記している。昭和8年陵墓監会議決定事項 四(ロ) 自ら参拝せずして依頼し来たるもの等には捺印せざること 但し参拝団員中公務等の為止むを得ず不参したる者に対する捺印の如きはこの限りに有らず)」
31、昭和9年3月25日
北山部陵墓守長より【御陵印改刻伺  先般御陵御院號御廃止御指令后御陵印ハ其儘使用致居候處永年使用ニ為メ欠損セル處磨滅セル處等有之候ニ付原型ヲ其ママ院號ヲ抜キ別紙ノ通改刻仕度御承認相成度願上候猶従来使用ノ分朱印ヲ以テ捺印御参考ニ供シ候此段及伺候也】(別紙 印號有の印を朱印で、院号なしの印の雛形を黒色で書いている)
 昭和9年3月31日、諸陵寮より「香隆寺陵及び北山陵印改造の件、雛形通り改印問題なし」と回答
※陵印の天皇名の院号を無くした印に作り替えた。

32、昭和9年7月5日
 月輪部陵墓監より「磐坂市辺押磐皇子の陵墓守部より参拝記念印章を別紙のとおり改印したいと申し出があった。何分のお指図を下さい。」と報告 別紙には従来使用印『市辺御墓』(円形)と改正之印『磐坂市辺押磐皇子墓』(正方形)が添付されている。
 昭和9年7月9日に諸陵寮はOKと回答
33、昭和9年7月7日
押坂部陵墓守長より、崇峻陵印が毀損したので改印したいと報告(毀損した印影と、新調する印影雛形を添付)
 7月19日に諸陵寮はOKと回答
34、昭和9年7月1日
 京都の住人より、「母校に寄贈したいので、2本の掛軸に陵印を捺す許可を戴きたい」と手紙で諸陵寮に申し込む。
 7月9日諸陵寮より回答「…(略)…陵印押捺に関し出願の件承認する。尚左記厳守の事  一、参拝の際本届(?)を陵墓職員に提示すること 一、完了の上殿田小学校へ寄贈すること 一、完了の上は本届(?)を返戻すること」  許可証添付
35、昭和9年11月10日
 東京の住人より、「自分と息子と息子の母校寄贈用に3回捺印させてほしい」
 諸陵寮より「…貴意ニ応シ難ク候…」
36、昭和8年4月25日
 桃山部陵墓監より「伏見桃山両陵々印は先年陵墓職員において調整せしもの磨滅破損につき別紙雛形のとおり改刻調製したい」雛形添付(『伏見桃山陵璽』(円形)付記として本印彫刻を命ずるもの(住所・氏名) 『伏見桃山東陵』(円形)※後者は後に使われる物)
 昭和8年5月5日 諸陵寮よりの回答 「陵名を正方形内に表した雛形も作成して送付せよ。」
 昭和8年6月17日 桃山部陵墓監から報告、「正方形の雛形も作れとの照会を受け直ちに当業者に申しつけたところ、今回は迅速に雛形を作ったので送付します。至急指示してください。 雛形の字体輪郭とも太い嫌いがあるので、注文に際しては約3分の2にする。尚、伏見桃山陵については右のように、方形とし、伏見桃山東陵の分は前回提出雛形通り円形とします。」
 昭和8年7月4日 諸陵寮よりの回答
「…略…左記ノ通リ承知相成度   記   一、伏見桃山陵印ハ六月十七日附伺書添付雛形ニ依リ彫刻差支ナシ但同雛形中ノ「璽」ヲ削除スルコト    一、伏見桃山東陵印ハ四月二十五日附伺書添付雛形ニ依リ彫刻差支ナシ   右孰レモ印章完成ノ節ハ印影ヲ報告スルコト」

※このやり取りを見ても、明治天皇陵の陵印に関しては、諸陵寮も特別に留意していたことがうかがえますね。ダイジェスト版はこれで終わりです。次回からは資料の説明に関連する印影なども具体的に提示します。

◎12月25日に二上山に行きました。昨年投稿した大津皇子墓の破損部分はまだ修理されていませんでした。昨年の台風の被害で大阪・京都の陵墓では修理や倒木撤去の為にかなりの経費が掛かっていることでしょう。大津皇子墓の修理にはまだまだ時間がかかるでしょうか。
◎天皇家125代という本が出ており、各天皇の紹介の欄に、各天皇陵の陵印が掲載されています。一辺1㎝程度に縮小されていますが。
 

今年を振り返り

 投稿者:DADA  投稿日:2019年12月27日(金)12時33分39秒
  こんにちは。

いつも興味深く拝見しております。
年の瀬になり、慌しくなっております。

さて、今年一年、「新撰陵墓志(仮)」を参考に、治定墓および治定外の伝承墓を、近畿圏を中心に、
東京都(23区内)、福井県、滋賀県(大津市、高島市、長浜市、東近江市)、
京都府(京都市、八幡市)、大阪府(箕面市、阪和線・南海線沿線)、
奈良県(二上山、五條市、東吉野村、宇陀市)、和歌山県(和歌山市、高野山)、
兵庫県(三田市、篠山市、宝塚市、朝来市、姫路市、高砂市、加古川市)
をそれぞれ回りました。

最近はどこに行っても観光客が多くなりましたが、誰もいない山里や山の中を行くと、
ネットの世界とはまた異なるものを感じさせます。
車ではないので、鉄道、バス、タクシー、レンタサイクルを移動手段として、
予定を組むのも楽しいです。

当面は本州の治定墓をすべて回ることを目標に、付近の伝承墓もおさえようと思っています。
すっかりライフワークのようになってしまいましたが、
皆様の貴重な情報を頼りに、今後も歩き回ろうと思います。

皆様もよいお年をお迎えください。
 

御陵印の捺印~きれいに頂くために~

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年12月14日(土)16時47分6秒
編集済
  こんにちは。寒くなりましたね。旧陵印のダイジェスト版もまだ書き切っていませんが、ちょっと別の話題で・・・いつも旧陵印の話題ばかりしていますが、現行の御陵印収集についてです。
御陵印はそう何度も捺印するものでもないので、ゆっくりと捺印していました。平成3年の年末に御陵印の軸を購入して掛軸への捺印を始めました。当時、神代3陵は鹿児島に、天皇陵は各部事務所・遠くは香川・淡路・山口・東京(近畿から見たら)などで保管されており、ゆっくりと捺印すればいいと思い、あまり急ぎませんでした。しかし平成から令和に変わる時に、平成の初め頃に始めた掛軸は平成のうちに完成させたいという気持ちになり、平成最後の日に完成しました。(百舌鳥部の3陵と崇徳陵の御陵印を戴き完成しました。以前も書いたように、崇徳陵・後花園陵など参拝してないところもあったのでちょっと反則ですが)
 この掛軸は京都の杉本工芸さんで購入しました。(御陵印収集の方ならおなじみと思います。杉本工芸の社長さんの話によると、天皇陵印の朱印収集に関する品を製造しているのは今では杉本工芸さんだけとのことです。)令和になり新たに御陵参拝をし、再度一から御陵印を捺印するために再び杉本工芸さんを訪れ、新しく天皇御陵印の掛軸を購入しました。その折、平成の初めに購入した掛軸も持って行き、社長さんに見ていただきました。「きれいに捺していますね。」と褒めていただき嬉しかったです。(写真1枚目が、杉本工芸製の新旧の天皇陵印掛軸です。)また同時に色々とアドバイスもいただきました。
 まず、朱肉についてです。朱肉には練朱肉とスタンプ朱肉がありますが、練朱肉は日光に当たっても変色や退色が少ない、それに対してスタンプ朱肉は時と共に変色・退色があるとのことでした。ネットでも朱肉のHP等で同様の事が書かれています。実際、私がかつてオークションで購入した天皇陵印の額を部屋に掛けて数年程度で朱の色がとても薄くなってしまいました。(写真2枚目)元々薄目ではありましたが、今では悲しいくらい薄くなり見えにくくなってしまっています。
 監区事務所では練朱肉以外にスタンプ朱肉を置いてくださっている所もありますが、私は基本練朱肉で捺していました。でもいくつかはスタンプ朱肉で捺印したところもあります。写真1枚目の掛軸に捺印した御陵印の中では、淳仁陵(万福寺保管時)はスタンプ朱肉でした。吾平山上陵(〇〇商店保管時・〇〇は伏せます)はスタンプ朱肉だったか練朱肉だったか忘れました。高屋山上陵はどちらの朱肉も置いてくださっていたので、掛軸はスタンプ朱肉の可能性があります。多摩部はスタンプ朱肉だったかな?心配しているのは、今はきれいに見えていても、先述の額の様にだんだん薄くなってしまうのではないかということです。スタンプ朱肉で捺した御陵印だけが薄くなってしまっては悲しすぎますよね。これから御陵印を戴く時は練朱肉だけで捺印しようと思います。
 監区事務所の練朱肉は多くの人が捺印するので凹んでいたり乾いていたりするなど、状態が悪いこともあります。昨年・今年と戴きに行った時も乾いていたりしていました。そんな時は、へらを使い朱肉を中央に寄せたり練ったり、場合によっては裏返したりするなどして、まず朱肉の状態を整え、御印で丁寧に優しく朱肉を丸めるよに周りから捺して山のような形に盛り上げます。そして軽く優しく、且つ何度も朱肉を付け、まんべんなく着くようにします。印が目詰まりしていたらこれらもティッシュと柔らかい歯ブラシなどでそうじさせてもらいます。(硬いものは厳禁!)仕上げにタオルで印面や側面などについている朱肉をふき取ります。もちろん丁寧に柔らかく優しくです。昨年と今年行ったときには、自分が美しく捺せるのは勿論、次の人にも美しく捺せるように良い状態にしておくようにしました。
 せっかく巡拝して御陵印を戴くのですから、美しく捺印したいですよね。特に高価な掛軸に捺印する時は、印や朱肉の状況が悪いのででうまく押せなかったで済ましたくないですよね。これから天皇陵を参拝し、天皇陵印を戴き集めようとお考えの方は、時間はかかっても、御印や朱肉の状態をベストにしてから捺印されることをお勧めします。また、朱肉に印をギュッと押し込む人がおられるようですが、丸く盛ってある朱肉の山に、印面を優しく回すように何度も付けてから、(あるいは朱肉に軽くポンポンと印を接触させるようにして朱肉を付けて)捺印します。(普通の小さなハンコのように、力を入れてギュッと押し込むのはNGです。)朱肉の真ん中が凹んでいると、印の真ん中がうつらなくなります。丸く盛った朱肉がベストです。朱肉が印面にむらなく、むだなく付いていることを確認していざ捺印。朱肉の状態や朱肉の付け方は昭和50年代後半に宮内庁のおじさんに教えてもらいました。私は一度白い紙に試し押しをしてから、集印帖や掛軸に捺印しています。試し押しも失敗したものも捨てず、全て保管しています。写真用のポケットアルバムやはがき用のファイルに歴代順に入れたりしています。それはそれでいいコレクションになります。
 印面が詰まっていないか、練朱肉の状態が良いか、朱肉の付け方が正しいか、ゴムのスタンプ台を敷いているか、この4点さえきちんと確認してあとはしっかり捺せば、悲しい思いをしないで、美しい御陵印が頂けます。円形の印は円の外側、印の四隅の朱肉がついてしまうことがあります。印を捺す時に、印面が凹む分、集印帖の紙の印の周辺部が相対的に持ち上がることが原因です。私は気にせず捺印していましたが、気になる方はその工夫が必要になります。捺印前に印面の円の外側・四隅部分の朱肉をふき取っておくことや、捺印時に印面周囲の紙が持ち上がらないように注意するなどでしょうか。とことん拘るなら、印の円形の外側に使い捨ての当て紙をすることになるでしょうか。私は今まで特に何の対策もせず、四隅の朱肉がついても気にしてませんでしたので経験に裏付けられたアドバイスはできません。
 多摩部はスポンジ朱肉を貸して下さるとのことですので、練朱肉に拘る場合は自分で準備していく必要があると思います。(練朱肉で捺してよいか部の方に確認する必要もあると思います。)自分で準備した朱肉だと、事前に練朱肉の状態を整えておけるので、御陵印を戴く時に困ることはありませんね。ただ6cm角の御陵印が捺せるほどの量の朱肉は高価ですが・・・
 各陵墓監区ごと(かつては各部ごと)に朱肉の色に多少の違いがあります。私も最初の頃は同じ色の方が良いと思っていました。しかし当時の杉本工芸のパンフレットにも書かれていましたが、朱肉の色の違いが、何とも言えぬ味わいとなります。今では色が揃っていないほうが面白いと感じています。安徳陵の御陵印は赤間神宮の巫女さんが付けてくれたものですが、特に赤色が鮮やかです。高級な朱肉だと杉本工芸の社長さんが言っておられました。宮内庁の朱肉の種類は同じかもしれませんが、当時は各部ごとに、濃淡がありました。おそらく、朱肉を練ってからの時間や、その時の温度により、朱肉の柔らかさが違い濃さが違ったのでしょう。
 同じ色が良いという方は自前の朱肉がいいでしょう。多少違った方が良いという方は、各監区事務所の朱肉をきれいに状態を整えて用いるとよいでしょう。朱肉は温度が高い程柔らかくなるので、冬場より夏場の方が濃くなるかもしれません。(素人なので正しいかどうかわかりません)乾いてしまっている朱肉では薄くしか写りませんので、これは論外です。
私は御陵印を戴く時には、掛軸や集印帳の他に、軍手(2つ、朱肉調整用・捺印用)・タオル(手拭き用)、タオル(印面掃除用)、ティッシュ(1~2箱)、へら(たいてい備え付けて下さっている)、柔らかい歯ブラシ、ゴム製スタンプ台(ゴムが劣化・硬化していないか注意)、掃除のときに出るゴミ用のビニール袋などを持って行き、とても役立ちました。

杉本工芸の社長さんには、他にも、天皇陵印の掛軸は祝日に出して飾るのが良いとのこと、掛軸はなるべく風通し良くして保管するほうが良いことも教えていただきました。持ち運び用のビニール製の掛軸入れなどには入れっぱなしにしないほうが良いとのことです。

もし、御陵印を捺しに行き、もたもたしている奴がいましたら私かもしれません。



陵墓マニア様
 御助言ありがとうございます。教えて下さったように、今回はワードで作成し張り付けました。うまくできました。
 

回答

 投稿者:国民総生産  投稿日:2019年12月11日(水)20時43分37秒
編集済
  1~~当時の世相やその時の建設地の土地の切様で適当に建てられます。貢献度で大きくなってるとは限らない場合が有ります。

2~~月の輪陵の奥の陵墓は#民墓参拝以外は立ち入らないで下さい#の駒札は無視でOK。河内男さん(No1426 2005/8/20投稿)が管理事務所に聞いて入れる事を確認されてます。月の輪陵の裏側、灰塚、良純親王墓も参拝できます。陵墓探索でよく看板が有りますがよく見れば入れます


天龍寺内 亀山/後嵯峨天皇 墓参以外立ち入り禁止/竹竿封鎖→天皇陵はOK
龍安寺裏 皇陵墳墓の参拝以外通行禁止→天皇陵はOK

逆に何も札は無いが非公開の青蓮院宮下/上ノ墓地→上ノ墓地は下からは鍵が掛けられておりアクセス出来ませんが上からはトレイル遊歩道がありそこからアクセス可能ですが倒木や伐採した枝が邪魔して普通には入れない様にしてあります。宮下の墓地は後ろからは粟田山荘から見れますが駒札の正面を見るのは正当な手段では無理です。不正当であれば東から徒歩3分で参拝できます。宮上/下は宮内庁の職員で無いと直接連続してのアクセスできません。他にもアクセス方法が有るかも知れませんが先日見渡した限りでは上の墓地は迷路で難航します。鍵を閉めるっておかしくないですか?

3~~表向きは非公開としていますが檀家と観光客を区別できない為普通には入れます。。

4~~ 嵯峨天皇皇后 嘉智子 嵯峨陵は現在落石危険の為に参道前で仮設門で侵入できない様になっています。急斜面の為に落石防止塀で精一杯で安全が確保できないので当分開門はされないと思います。物理的に侵入しようと思えばできますが・・

5~~二尊院の皇族の墓の件は知りません。

6~~過去4代の墓の参拝は皇室典範で決まっている為に参拝しますが法律以外で泉涌寺に来るかは不明です。

7~~1000年も500年も経過しているとカルシュームである骨は溶けて無くなりますし、そもそも陵墓の殆どは後世が近年適当に建てられたもので本当の墓かどうかも分かりません。本当の墓を作ってない可能性もありますし土に埋もれ住宅が建っている可能性が有ります。大阪平野に陵墓が無いのは不思議な話です。住宅建設で遺跡が見つかると発掘費用は地主持ちだし工期が遅れるので闇から闇に隠蔽されてる可能性もあります。今でこそ墓は大事と思いますが中途半端な古さの墓は何の価値も無いので潰されてしまいます。伏見桃山城がその例かな。

 

陵墓を探索してるのですが

 投稿者:京都住民  投稿日:2019年12月 9日(月)13時00分11秒
  いくつか質問が有ります。

1      半畳程の小さな墓も有れば、宇治市に有る天皇でもないのに大きな墓がありますがなぜ天皇でも無い人でも格差があるのでしょうか?

2      京都東山、泉涌寺の月の輪陵墓の裏にも墓が有りますが泉涌寺の拝観料を払えば入って行けるのでしょうか?

3      お寺の檀家さんの墓の中に皇族の墓が有るケースが有りますが、その場合檀家でもないが皇族の墓は見る事ができるのでしょうか。

4    嵯峨天皇 皇后さんの墓はいつ参拝できるのでしょうか。

5    二尊院にも体の一部が収められてるそうですが参拝はできるのでしょうか。

6    先日、泉涌寺に天皇陛下が来ましたが最後の参拝だったのでしょうか。

7     皇族の墓には掘れば骨等出てくるのでしょうか。



よろしくお願いします。




 

長文入力

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年12月 2日(月)00時24分32秒
  レプトン様

長文入力時に動作が不安定になるとのことですが、
ワードなどで作成した文章を貼り付けるのが良いかと思います
 

陵印墓印調書の内容~ダイジェスト版~

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月26日(火)03時10分40秒
編集済
   『陵印墓印調書』(昭和1年)の内容の複写を依頼したところ、その枚数は230枚以上ありました。(費用もウン万円・片手以上・・・ワイフばれないかヒヤヒヤです)一つ一つ丁寧に紹介すべきですが、量が多いのでその中の内容を簡単にまとめてみようと思います。このダイジェスト版も少しずつ追加していきます。
各時期ごとに内容が変わっていきますので、次の【A】~【E】に分類してまとめます。
【A】(昭和2年4月頃) 各部・各陵墓へ陵印墓印の設置実態調査と印影提出の内容です
【B】(Aの調査後)陵印墓印新調の報告と印影提出
【C】(昭和8年4月)陵印墓印新調・改造(改変)の際は事前に雛形を届け出るようにせよとの通達
【D】(昭和8年4月以降)通達後の届け出と印を新しく作成
【E】(昭和  年頃)陵印墓印の取り扱いについて・参拝者よりの要望の手紙等




既に紹介した内容を含みます。(1~6が既に紹介した内容)
【A】各部・各陵墓へ陵印墓印の設置実態調査と印影提出
1、宇治部の天皇陵印は大正13年4月から、その他の陵墓は大正15年5月から使用開始
2、醍醐天皇陵印と一緒に押されていた延喜聖帝の印も、陵印とセットで捺印されるものであった。(寺院かどこかで別に押したものではないことが明らかになった)
3、御陵墓伝説地でも参拝記念の印を作っている所もあった。
4、陵印は参拝者が増加し、参拝記念として参拝者の切なる希望があり、陵墓職員が私費で調製
5、畝傍山部の報告で昭和2年4月には畝傍山管轄内(奈良・和歌山)44陵中39陵、21墓中3墓に陵印墓印が設置されている。
6、白峯陵の陵印2種類?


7、昭和2年4月時点での使用陵印の印影(後年作り替えられ、資料の少ない印を含む)
8-A、日岡陵印等何点かは「参拝記念」の文字がある。→以前議論したように参拝記念の文字は使用されなくなっていく
8-B 『金原陵参拝章』『大原野西峰上陵参拝』の印が当時の陵印であった。(他の陵印とは形式が違うので、正式に他の陵印と同じ位置づけをしてよいかどうか疑問があったが解決)
9、『平城天皇皇子阿保親王御墓』の印と一緒に捺印されていた、『贈一品』『在原家始祖』の印には鉛筆で×が付けられている。
10、各部・部外各陵墓からの報告で、陵印を設置している所がある一方、陵印はないと回答している所も多くある。近畿は多く、それ以外は少なくなる傾向がある。宮崎県の陵墓参考地からの回答で、近畿では参拝者が印を求める事が多いとの情報を聞いているが同参考地では今まで一人もなく、昨冬に鵜戸参考地の管守とも直接話したが、そのような例はなかったと言ったことを伝えている。
大碓命墓:参拝者希望者少なく印はない  大入杵命墓:参拝者に捺印希望者なし
11、陵印は設置していないので、希望者があったときは、自分の印を用いている(倭姫御陵墓管守)(高屋山陵・使用私印を捺印して提出)
12、陵印はないが、今後作りたいので図案等について指示を願う例もある。あり(真野部・他)
13、陵印を希望するものが多いが、諸陵寮の命なくして猥りに印を作ることはいけないと固く心得ていたので今まで作らなかった。今印影を考え調整し、印影を出しますという回答がある。
14、陵印はないので、参拝者の希望があったときは、単に当御陵の表示事項記載に止めている。なお自分は職印の様なものは持っていない。(可愛山陵)



【B】陵印墓印新調の報告と印影提出
15、昭和6年7月 田村部からの文書
後宇多天皇御髪塔、後鳥羽天皇女禮子内親王墓に関して
 近年御陵墓参拝熱高まる。昨年後宇天皇御髪塔の見張り所を新築してから、印を希望する参拝者が増えたので、今回、印を新調したので印影を提出する。
16、昭和7年四月 押坂部(『陵印墓印調書』)
 従来笠間山陵と(大伴皇女)押坂内墓の印はなかったので公衆の求めに応じ新調した。印影提出
17、16と同文書内
 昭和2年4月に印影を提出した舒明陵印(舒明天皇押坂内陵)は摩滅したので新調した(押坂陵璽)なお、『旧御印ハ焼却仕リ候』・・・・・(ナント、焼却されていた)
18、陵印新調の報告
  昭7.11.26 仁和寺宮墓
  昭8.1.1  中宮章子内親王菩提の樹院陵


【C】陵印墓印新調・改造(改変)の際は事前に雛形を届け出るようにせよとの通達
19、
  昭和8年2月9日立案 4月13日決裁

             伺
  従来陵墓ニ備付クル陵墓職員限リニテ調製シタル陵印及墓印ハ陵墓参拝者ノ請求ニ依リ参拝ノ事実ヲ趣旨ヲ以テ便宜押捺シ與フル習慣ニ有之本寮ニ於テモ非公式ニ之ヲ黙認シ来レルトコロ右ノ内陵印ハ自然大部分ノ陵ニ備付ラレタルニ不拘墓印ハ其数僅少ナリシカ其後此墓印モ亦逐次調製増加ノ傾向ヲ来シツツアル実情ニ之候然ニ近時参拝者ハ益々増加シ之カ為陵墓職員ハ陵印墓印ノ押捺ニモ忙殺セラレ職務上管守ニ〇〇ヲ生スル憂有之尚又是等印形セイビノ必要上調製後届出ツルコトハ適当ナラスト存候間爾(←?)今陵印及墓印ヲ新調又ハ改造セントスル場合ハ陵墓職員ヲシテ予メ伺出シムルコトニ致度依テ左按ノ通通達致シ可然哉

          按
        昭和八年  月  日
             諸陵頭
      陵墓監
      陵墓守長
      陵墓守部
      管守嘱託(陵又ハ墓勤務者ノミ)
      管守(墓勤務者ノミ)




          通達
従来御陵ノ印及御墓ノ印ハ陵墓職員ニ於テ調製ノ上届出相成居候所爾(←?・注以今後という意味)今右印ヲ新調又ハ改造セントスル場合ハ予メ事由ヲ具シ雛形添付伺出相成度

  従来陵印墓印を陵墓職員が調整の上届け出ていたが、今後は陵印を新調・改造する時は、事前に雛形を提出せよ。(検討し使用の可否を通達後作成せよとの意味と思われる)
 前半には本寮は非公式に黙認してきたとの立場が明記されている。


【D】通達後の届け出と印を新しく作成
20、昭8.4.17 能褒野墓では、数年前より、前陵墓守部の父が私財で印を作成したが届け出てるか不明である。印影を提出する
印は『能褒野墓』と『日本武命』の2つ  日本武命の印が能褒野墓の印と一緒に押されていた例があるが、この印も陵印と同じ位置づけであったことが明らかになった。
(能褒野神社での印かもしれないという可能性があったが、陵印であった。)

 (この20、の文書は19、の通達を受けて能褒野墓の陵墓守部が提出したものと思われる。)

21、同文書内
  印影2つを届け出るので、採否の御査定を御詮議くださいと諸陵寮に伝える
22、21に対し、昭和8年4月25日に諸陵寮より、回答がある。
  『能褒野墓』の陵印は参拝者の求めに応じて捺印、他の印(『日本武命』は使わざること)
  それに対し、能褒野墓より4月29日に了解との報告書


23、昭和8年5月3日
 八坂入彦命墓陵墓守部より  次の雛形の印を作りたいとの届け出
 それに対して回答   印の新調は当分見合わせるように(当分の文字が二重線で消されている)

(つまり、諸陵寮の回答は、この印は参拝者に捺印する印としては使ってはいけないという趣旨になる。雛形はやや稚拙かと思われるのがその理由か?)





    今日はここまで。あと少し・・・・ 

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昭和2年4月集約の陵印より白峰陵印(2種類か?)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月24日(日)12時17分29秒
編集済
   先ほどと同じく昭和2年4月に宮内省が実施した陵印の印影を集約した資料からです。(『陵印墓印調書』)同文書中に白峯陵の旧陵印が2カ所にありました。1つは勿論白峯部の所です。送付の書類には

昭和二年四月十五日
   白峯陵墓守長  〇〇〇(捺印・名字のみの印)
御通牒ニヨリ当部使用陵墓印別紙ニ捺印ノ上御送付候也

とあり、昭和2年4月に陵印が捺印されています。(写真1枚目左)

もう一つは写真2枚目のように、近衛陵と同じページにあり、白河陵・鳥羽陵とも隣のページに来ています。(ここに捺印されている白峯陵印は1枚目右です。)しかし、白河陵・鳥羽陵・近衛陵の陵印は別途深草部より報告されています。(写真3枚目)また写真2枚目の4陵印は捺印した紙を切って張り付けてあります。前後何ページかは、切り取った陵印を貼っています。どのような意図でこれらの陵印を捺印・収集し報告したのか不明です。
 気になる点は、京都の陵墓に、白峯陵印が一緒にされている点です。明治天皇が崇徳天皇の為に建てられた白峯神宮との関わりがあるのでしょうか?
 また同じ陵印が白峯・京都のどちらからも何らかの意図をもって捺印・報告されることはあり得ない事ではないと思うのでが、何より気になる事はこの2つの印が別の物ではないかという疑問です。よくわからないのですが、、1枚目左の白峰部報告の印と、1枚目右の印とが少し違うような気がします。もし違う印なら、当時似たような印影を持つ2つの「崇徳天皇白峯陵」の陵印が白峯部と京都にそれぞれあったことになります。これが事実なら、なぜなのか?ということも研究対象になってきます。2つの印はそっくりですが、微妙に違いがある・・・、朱肉の影響ではなく、印面自体の違いがあるのではないかという違いがあると感じます。

1枚目の2つの印を拡大して比べてみてください。
 1、一番はっきりとした違い陵の最後の部分(冬の点々抜き・久の三画目突き抜けた部分)です。
 ここの最初の画(右上から左下への線)が違うと思いませんか?
 2、次に違うのでは?と思われる部分は、皇の下の王の部分。2本目の横線の長さが、一本目と比べて2つの印では違うと思いませんか?
 3、御の文字の行人偏の二画目の線の向きが違うように思います。


 ほかにも微妙に違うような箇所がありますが、いかがでしょうか。同じ印章でしょうか。それとも違う印章でしょうか?皆様のご意見をお聞かせください。また何かご教示いただけることがありましたらよろしくお願いいたします。

 例によって写真は、写真の写真ですので大きさは実寸大ではないことにご注意ください。



 

旧陵印の新資料(昭和2年届け出の印影より)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月24日(日)10時05分1秒
編集済
   こんにちは。来週は天皇陛下が神武陵・孝明陵に参拝されるようですね。伊勢神宮参拝からいったん東京に戻られて、再び関西にお越しくださいます。

 さて、先日長々と書きました、『陵印墓印調書』(昭和2年4月に宮内省が行った、陵印墓印の調査)で、各部・各陵墓より送られてきた印影の中で、今まで私の収集に係らず、私自身初めて目にする印影をご紹介します。

1、光厳印天皇山国陵 後花園印天皇後山国陵
 2天皇列記の山国陵・後山国陵の印は広く知られていますが、今回の資料の印には天皇名に院が書かれています。大正14年決定の院号廃止直後でまだ残っていたのでしょう。院号のない陵印にいつ切り替えられたのかは未調査ですが、昭和6年には院号のない2天皇列記の旧陵印を確認しています。
 山国陵・後山国陵の陵印は2天皇列記のものと、各天皇の物(光厳陵1種類・後花園陵2つ)を確認していましたが、昭和2年時点ではこの院号ありの2天皇列記の印が用いられていたことがわかります。なお昭和6年ごろには、2天皇列記と光厳陵の両方が同時に山国部にあったこともわかっています。(資料は手元にありません。同資料のオークションで、寝てしまい逃してしまったことが痛恨です)

2、吾平山上陵印
 吾平山上陵印は、2種類確認できていましたが、初めて確認した印影です。

3、大井陵墓参考地 (当時は御陵墓伝説地)
 なんと・・・・陵墓伝説地の陵印!!びっくりです。

当資料にはまだまだ陵印・墓印の草創期の情報が詰まっています。少しずつお伝えしていきます。

注意 今回の資料は写真で入手しているので、印影は写真の写真になります。サイズは実寸とは異なるはずです。そのままのサイズではないことにご注意ください。実際のサイズは未確認です。
 

宇治部旧陵印使用時期 及 旧陵印は宮内省職員私費で調製

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年11月22日(金)22時27分30秒
編集済
   こんばんは、レプトンです。奈良の陵墓は秋の陽ざしに輝いています。


Ⅰ、さて、宇治部の陵印使用開始時期の解かる直接的な証拠の文書がありましたのでご紹介します。
2019年4月13日に管理人様と私が触れた『陵墓資料(法規目録)陵印 墓印調書 昭和1年』です。実際の文書は昭和1年ではなく昭和2年~昭和8年にわたっています。昭和2年に陵印墓印の実態調査と集約をし、以降、陵印の作り替え・新調に関する伺いと報告、参拝者の捺印に関する規定に関する文書があります。

 宮内省は各陵墓での陵印・墓印の実態を把握するため、昭和2年4月に各部や部外の各陵墓へ陵印・墓印調べをしています。4月8日付で陵印の有無の報告と、使用していれば印影を捺して提出するよう通達を出しています。
 貴官見廻区域内御陵墓ニ於テ参拝者ノ希望ニヨリ参拝記念帳等ニ押捺スヘキ印章ノ印影当寮ヘ提出相成度
 追テ本文印影ハ取纏メ台帳作成執務ノ参考ニ供スル見込ニ有之候


次の内容は宇治部からの回答です。(私には読めない文字があります。また読み間違えている文字もあるかもしれません。氏名部分は〇〇で表示しています。原文は漢字は大きく、送り仮名のカタカナは小さく表示されています。)

宇治発第一七号
 昭和二年四月拾参日
  宇治部 陵墓守長 〇〇〇〇〇(印)
宮内事務官 〇〇〇殿

 御陵墓印影提出ノ件
去四月八日附御通牒ニ係ル当部内御陵墓ノ参拝者ノ希望ニ応シテ押捺スル印章別紙ノ通リニ有之右印影提出候ナリ

追テ天皇陵ノ分ハ大正十三年四月ヨリ其他ノ御陵墓ノ分ハ大正十五年五月ヨリ押捺致居候モノニ有之右申添候

続けて、陵印が捺印され、その印影を届け出ています。
1ページ目 「延喜聖帝」「醍醐天皇後山科陵」
2ページ目 「朱雀帝陵」
3ページ目 「上醍醐陵」
4ページ目 「宇多帝皇后外十六后宇治陵」
5ページ目 「菟道稚郎尊宇治墓」


この文面より、
1、参拝者の求めに応じて押捺する印であること。
2、宇治部の天皇陵印は大正13年4月より使用(醍醐・朱雀)
  その他の陵墓は大正15年5月より使用(宇治陵・上醍醐陵・宇治墓)したことがわかります。
3、醍御陵印には、ずっと以前に問題提起した「延喜聖帝」の印も一緒に押されています。このことから、醍御陵印と延喜聖帝の印は、宇治部で、セットとして捺印されていたことがわかります。

因みに陵印自体は、戦後まで長く使われた印で、一般的に良く知られている旧陵印です。


Ⅱ、旧陵印は宮内省現地職員の私費で作成
続いて、旧陵印が宮内庁職員の私費により作成されたことを示す資料を紹介します。

 先に記した、各部宛ての陵印墓印調査の回答に、陵印が現地の宮内庁職員の私費により作成されたことを示す内容が確認できました。それらを紹介します。(旧漢字は新字体で書いています。□は私が読めない字、または該当する漢字を私が知らないものです)

(例1)畝傍山部 昭和2年4月28日の文書です。

 回答
本月八日雑第三〇〇號御照会ニ係ル印影別紙の通取纏メ及提出候
追ヲ右印影ノ印章ハ従来参拝者ノ切ナル希望ニ応スル為メ陵墓職員ニ於テ私費ヲ以テ見張所内ニ備ヘ付ケ居ルモノニテ未ダ御届ケ致サ?ルモノニ有之固ヨリ図案等ニ関シ更ニ講究訂正ノ余地多々可有之是是等ハ追テ指示ニ依リ夫々処理致度存居候条御了承被成下度候候尚管内四十四陵二十一墓中本文印章ノ備付ケアルハ三十九陵三墓ニ有之為御参考申添候

続いて陵印が黒色で印影が捺されています。(陵印は戦後まで使われたものです。印に書かれている陵名などは途中から省略します。)

1ページ目 畝傍山東北陵
2ページ目 綏靖天皇桃花鳥丘陵
3ページ目 安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵
4ページ目 懿徳陵印
5ページ目 孝元陵印・宣化陵印
6ページ目 欽明陵印・天武持統陵印
7ページ目 文武陵印・岡宮陵印
9ページ目 孝昭陵印
11ページ  孝安陵印
13ページ  斉明陵印
15ページ 後醍醐陵印
16ページ 崇峻陵印(3種類)
17ページ 舒明陵印
18ページ 良助法親王墓
19ページ 紀橡姫吉隠陵
20ページ 崇神陵
21ページ 景行陵
22ページ 衾田陵
23ページ 倭(トト)日百襲姫命墓
24ページ 崇道陵
25ページ 春日宮陵
26ページ 光仁陵
27ページ 聖武陵
28ページ 元明陵
29ページ 元正陵
30ページ 成務陵
31ページ 称徳陵
32ページ 平城陵
33ページ 神功陵
34ページ 垂仁皇后陵
35ページ 仁徳皇后陵
36ページ 垂仁陵
37ページ 安康陵
38ページ 孝霊陵・顕宗陵
39ページ 武烈陵・飯豊陵
40ページ 彦五瀬命墓


※私費で作った旨と畝傍山部内で44陵中39陵、21墓中3墓に印があると記されています。
(天武持統陵を2つと数えれば、きっちり39陵3墓になります。)


(例2)
墓第六号    回答
昭和2年四月二十五日 陵墓守部 〇〇〇丸(捺印 文き字は「陵墓守部之印」
宮内事務官

 〇〇〇殿
夏季登山期(季)節ニハ御墓参拝記念トシテ押印方多数ノ希望者之アルモ当墓所ニハ印ノ備ヘ無之ヨリ其求メニ応ゼザル次第ニ有之候若シ応求スルモ差支ヘナキモニ候□□(ヘバ?)此際私費ヲ以テ右用ニ印ヲ新調致度ニ付他ノ陵墓等に於テ用ヒ来ル印ノ図形ヲ御指示シ被□下□様願度モノニ御座候

※今は印はないが、希望者が多いのでこの際私費にて印を新調したいので、他の陵印の図形を教えて下さいという感じでしょうか。まだ私費で作ってはいませんが、私費で作りたいという意思がはっきりと書かれています。

(例3)昭和8年の文書です。
能褒野墓第八号
昭和八年四月拾七日  陵墓守部 〇 〇(捺印・氏名印)
諸陵頭 〇〇〇殿
   報告書
昭和八年四月拾参日陵発第ニ七四号ヲ以テ御照会相成候處ノ御陵ノ御印及ビ御墓御ニ印ノ儀従前ヨリ参詣者ノ御希望ニ依リ数年以前に於テ御陵墓御印ヲ調整ノ上爾来参詣者御印御希望御方ニノミ押捺致シ居リ候当御印ハ故父〇〇〇陵墓守部当時ニ於テ私財ニテ調製致シタル様聞受居リ候得バ御寮ヘ御届出ハ提出カ不提出カ相分リ不申候為左ノ別紙二御印ヲ捺しシ御届候得バ採否ヲ御査定御詮議相願此段及ビ報告候也


 陵印の作成に関する情報としては、かつて宮内庁のおじさん(当時)から、「陵印は山陵会が作成し、捺印の便宜を図るために、各陵墓の見張り所で預かったもの」という話と、「天智天皇陵の見張り所で、職員が自分で印を彫って作っていたと聞いたことがある。」という2つの話を聞いていました。今回の資料では『現地の職員が、参拝者の希望に応じるため、私費で陵印を設置した』事が明らかになりました。(聞いた話にある、陵印の設置を否定するものではなく、今後その様な例についても明らかにできればと考えています。)



この資料には、陵印のない陵墓では職員の私印を捺して参拝の証明とした(高屋山部)や、印影の作り替えについての資料もあります。追って紹介していきます。
 

造営中の伏見桃山陵の古写真

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2019年11月13日(水)12時18分9秒
  時すでに遅し、ですが‥
京都府立京都学・歴彩館で下記のような企画展が先週まで行われていたそうです。
https://fushimi.keizai.biz/headline/452/
もう一度やってくれないかなあ。
 

(無題)

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2019年10月31日(木)17時54分13秒
  おひさしぶりですいのうえとろろです。

京都へ行ってまいりました。
本当は京博の佐竹本三十六歌仙を見に行こうかと思ったのですが、土日に行ったのでひどい目に合うと思い行きませんでした。


かわりにではありませんが、たぶん誰もいないであろう小谷墓地へ行ってまいりました。

念願?だった魯山人の墓を見つけ、和宮の侍女「岡本初島」明治期の女官「岡本高子」櫻町天皇下臈「覚證院」も発見しました。
あと、偶然小倉家の墓地も発見。「文子」「玉子」さんそして「大典侍」の墓を確認しました。ただ、大典侍の墓の横にあった墓碑も写真におさめたのですがはっきり写っていないので今から解読をがんばります。もっと性能のいいカメラを使えるようになればいいのかなあと悔やみます。



百万遍の知恩寺にも行きました。あちらこちら修復修理中で少しがっかりですが、墓地へ。
なんと、日野家の墓地が半分リニューアル?されていました。
南側の長方形の墓石が集積されていた場所(資枝卿や資時卿の墓があったところです)に、新しい大きな五輪塔と当主を載せた墓碑、家系図を載せた墓碑がありました。
おととし参拝した際には変わりはなかったので、この二年で変わったのでしょう。

知恩寺墓地の西側にあった地下官人の「高階家」も綺麗になっていましたし、物加波家の墓も一基変わっていました。


いそがないと時間が無いのかもしれません…
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年10月26日(土)20時12分21秒
  「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産登録記念 仁徳天皇陵と巨大古墳の謎(水谷千秋)という本が本屋さんに並んでいました。その中に(真ん中あたり)古市監区事務所で捺せる陵印が取り上げてられています。やや縮小されてはいますが、カラー写真で古市監区の陵印が全て紹介されています。ここ2~3年、陵印への関心が高まっているように感じます。  

陵墓研究の道標

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2019年10月 6日(日)01時01分10秒
  もと陵墓調査官の福尾正彦氏が本を出すようです。
いったいどんな内容になるのか楽しみなのですが、お値段の方が‥
https://www.yamakawa.co.jp/product/52029
https://style.nikkei.com/article/DGXBZO18843180V21C10A1000000/
 

開聞

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年10月 1日(火)03時55分51秒
  ついに消費税率が10%になってしまいましたが、変な宗教に入っていませんか。

先月は、本年2回目の2週間におよぶ佐賀調査へ行ってきましたが、5月は連日の肥前鹿島通いでしたが、今回は連日の多久通いでした。
多久では、4ヶ月ぶりに青山霊園から移転改葬された多久男爵家墓と再会。

また、先週は、宇奈月温泉~欅平~富山~白川郷~飛騨高山~下呂温泉~郡上八幡~岐阜~名古屋と温泉旅行に行ってきましたが、白川郷はとても感動しました。


さて、昨年末か本年の初めだったか月刊『歴史研究』誌上に、岩﨑淳子氏寄稿のΓ後鳥羽神社と御陵」という報告が記載されていました。
佐賀に、何と後鳥羽上皇の伝承墓があると知り、当初、5月の佐賀調査の時に行く予定でしたが、蓮池の調査が延びたため行けず、今回、ようやく参拝することができました。

後鳥羽上皇の伝承墓は、安徳帝や長慶帝ほどではありませんが、意外と残されているんですね。
後鳥羽神社の参道からは、高さ10mほどの滝が正面に見え、本殿の左側にも3mほどの2ヶ所の滝があり、とてもいい環境でした。

本殿は、車道から右に30mほど進んだ奥ですが、御陵(塚)は、本殿の参道とは反対側の山を100mほど登った上に建造されており鳥居などはありませんが、方位は東南でした。
目測ですが、横幅5mほど、奥行きは15mほど、高さは1mほどでした。

案内板は、車道のトイレ前、本殿前、御陵前の3ヶ所に設置されていますが、内容が微妙に異なるため下記、要約して報告させていただきます。


善信寺の裏山に後鳥羽上皇のΓ山稜」と称される塚がある。
大正元年12月20日、塚の掃除の際、石棺が発見され、幅6巾(22cm)、長さ1尺1寸(41cm)、高さ9寸(34cm)、蓋石の内部にΓ御白骨2枚、西河左衛門大夫奉拝」の記あり、内部に頭蓋骨の頭頂部と上顎が残されていたと記録が残されている。
その後、石棺は寺の裏山に埋葬され、高さ2~3m、周囲15mの御陵を築くと記録に残されている。

西河左衛門大夫家房は、隠岐の島における警護の士で、ここ絹巻の里(鳥羽院)も隠岐領主家房の領地であった。
家房は、幕府の後難を恐れず、京都御所からの勅命により密かに船をだし、法皇はこの絹巻の里に還幸された。

その後、法皇は、延応元年2月22日、宝算60歳で崩御され教信寺の後方の小高き峰に玉体を
葬り奉る、その後、この塚に移しΓ後鳥羽山稜」と称している。

案内板に記載はありませんが、岩﨑氏の寄稿には、Γ宮内庁と相談の上、遺骨の半分は、大原の後鳥羽上皇陵に御納めと記されています。


行程は、佐賀駅から100mほど西(長崎方面)の国道を、ひたすら北上します。
15kほど走ると高速道路と交差するので、その下を過ぎると、やがて春日山鍋島家墓所への入口ですが、このあたりから道幅はやや狭まりますが、川沿いを走行するので景色は最高でした。
高速道路からほぼ10kほど北上すると、やがて三反野の交差点に着きます。

後鳥羽神社へは、この三反野の交差点を右折しますが、ここからは緩やかな上り坂が延々と続きます。
佐賀から三反野までは、完全な平坦道ですが、ここからはしんどく7kほどで左折しますが、ここからは更に急坂になり、とても変速がないと上れません。
左折し5kほどで、ようやく待望の後鳥羽神社に到着します。
佐賀駅から自転車で、ほぼ2時間30分かかりました。
ただ、帰りは三反野までは、ずーと下りなので、あっという間でした。

その後、春日山鍋島家墓所、倉町鍋島家墓所を参拝し帰路へ。
夕食は、いつものように、ガストとジョイフル、たまにリンガーハットで太麺の皿うどんでした。
 

断夫山古墳が発掘調査

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 9月21日(土)23時13分11秒
編集済
  名古屋市の断夫山古墳が発掘調査されるそうです。日本武尊の妻、宮簀媛の墓との言い伝えがあるようです。全長は約150mで東海地方で最大の前方後円墳です。

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM9L4281M9LOIPE00W.html

 

趣旨とは外れると思われる発言

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 9月17日(火)21時06分6秒
編集済
  新日本海様

当掲示板の、趣旨から外れると思われる発言は遠慮いただきたくお願いいたします。
 

天皇陵の管理人

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 9月17日(火)21時00分4秒
  天皇陵に管理人が居ますがあの人って宮内庁の退職組で年収1000万円貰っている人たちなのでしょうか?

大阪市バスの退職した人が市バスの交通整理で年収1000万円貰っている人が大問題になってますが、あの陵墓のカブに乗った人達は年収1000万円組なのでしょうか?
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 8月31日(土)22時21分13秒
編集済
   こんにちは。夏の終わりで天候が不順ですね。一雨ごとに涼しくなったり、蒸し暑い夏に戻ったりと、前線の南北移動に合わせて夏と秋が交錯しているようです。
 8月下旬に仕事絡みで大阪の堺市に何度か行きました。行った場所のすぐ近くにニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地:候補者・反正天皇)があり、周りを一周してきました。一周のうち8割くらいは公園や遊歩道で見学しやすくなっています。巨大な墳丘と広い周濠は貫禄十分です。とても美しい陵墓で、古墳の魅力を十分に堪能することができます。渡堤の近くの周濠にはガマの穂が生えていました。

 タケちゃん様
 御教示ありがとうございます。称徳陵については、陵墓の辺りの野原を高野といったらしいのですね。その高野と呼ばれていた場所は、西大寺の西方あたりか、今の称徳陵のあたりか、それともその両方を含むより広い範囲を指すのか、それがわかれば称徳陵がどこかの指標となりますが、すでに詳細は失われているのでしょうね。平城天皇陵についてもありがとうございました。近くに楊梅天神があり、その辺り一帯を楊梅と呼んでいたということですね。ありがとうございます。
 それと崇神天皇陵前の工事の日時もありがとうございました。この工事ではかなり大規模な改変が加えられたみたいですね。明治時代の写真では今の山辺部事務所の辺りから、拝所まで続くスロープだったのが、今の状況(事務所から拝所下まではほぼ水平、拝所下から堤を急な傾斜の階段)になっています。かなりの土砂を取り除いたと思われますね。なぜこのような工事をしたのでしょうか。興味は尽きないです。
 陵印保管場所についても御教示ありがとうございます。陵印保管場所が変わるなんて思ってなかったのでノーマークでした。一度資料を整理してみます。各陵墓にあった陵墓印がいつ頃、部事務所でまとめて保管されるようになったのかも知りたいです。タケちゃん様は以前、部の変遷を調べておられましたね。部の変遷は陵印保管場所にも関係するはずですので、以前書きこまれた内容を参考にさせていただきます。
 息長陵印の思い出、ありがとうございます。民家で捺印したという貴重な情報です。高遠さくら様の日岡陵の情報、吾平山上陵の陵印(平成4年頃)、光仁天皇陵の陵印を農家で預かっていたらしい(未確認)、高屋山上陵(宮内庁職員の方が夜間・休日は自宅に持って帰り保管されていた)等、確認できる例はとても少ないです。ありがとうございました。

陵墓マニア様
 陵印保管場所の変更の理由についてありがとうございます。元々各陵墓にあったのが部事務所にまとめられた理由は、人員が減ったことと、参拝者の便宜を図ってと言っておられました。(昭和50年代中頃)平成の陵印保管場所の変更も、やはり人員削減が理由であるように聞きました。(京都の陵墓で陵印をお願いした時、その2か月前に陵印保管場所が変わっており、宮内庁の方が人員減の事を話しておられました。私も公文書での確認はしておりませんが、陵墓マニア様のおっしゃる通りだと思います。ありがとうございました。かつては土日も勤務しておられる部事務所が多かったですが、今では全て土日は閉まっていますね。勤務体系の見直しもあるのでしょうが、人員は少なくなっているのでしょうね。数年前に垂仁陵に休日に行ったときに見張り所が開いていて係りの方がおられましたが、宮内庁の方ではなく、地域の方が委託を受けて来ていると話しておられました。
 今後もよろしくお願いいたします。

 一個人(いっこじん)という雑誌があるのですが、その8月号が『古代史23の謎』という特集です。別冊付録がついており『全国天皇陵集成』(32ぺージ)というタイトルで全98基の御陵の陵印と御陵地形図が載せられています。御陵地形図はおそらく陵墓図集成の物のように思います。すでに本屋にはなくなっていましたが、本屋で取り寄せてもらえました。



 

8月26日月曜日PM8:48

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月26日(月)20時48分30秒
編集済
  本日8月26日月曜日朝から京都陵墓巡り行きました。いつも週末平日に休みを取ってるのですが今週は火曜日~金曜日天候が悪いみたいなので月曜日休みを取りました。

京都伏見区 後宮塚陵墓参考地 (京都一番のラブホテル街の中)
      浄苔堤院塚陵墓参考地(準工業地帯だと思われる)
      72代白河天皇 成苔堤院陵
      74代鳥羽天皇陵安楽寿院陵
      76代近衛天皇陵安楽寿院陵
      中宮塚陵墓参考地(タカラショールーム隣)(準工)

京都市東山区  121代孝明天皇後月輪東山陵(英照皇太后)
        86代後堀川天皇観音寺陵
        鳥戸野陵
        仁明天皇皇太后澤子中尾陵(駒札新調中)(近所のゴミ集積場)
        77代後白河天皇陵
        阿保天皇東山本町陵墓参考地
        85代仲恭天皇
        86代後堀川天皇(職人は見えなかったが森の剪定中)
        朝彦/寂子内/森脩親王
        賀用宮墓地/久二宮墓地
        雲竜院宮墓地(灰塚)
        良純親王
        月輪陵(集合墓地)
        79六条天皇陵
        80高倉天皇陵(これは難しい一般的本に載っているあの写真どうしたら撮れるのだ)
京都右京区嵯峨 有智子内親王墓
        亀山天皇火葬塚(これは探し当てるの大変だった)
        98代長慶天皇陵  嵯峨東陵 (剪定中)
        99代後亀山天皇 嵯峨小倉陵
        52代嵯峨天皇山上陵  (情報では落石停止中??の為断念)
        91代後宇多天皇蓮華峯寺陵
        円山陵墓参考地(こんな隙間の奥の小山が?)
        入道塚陵墓参考地(北嵯峨高校の片隅に)

・仁明天皇皇太后澤子中尾陵・・・・墓横がゴミ集積場とはまさか未来にこんな羽目になってるとは思わないでしょうね。
・後宮塚陵墓参考地・・・・ラブホテル街の真ん中です
・晃親王墓(雲竜院付近)行くの忘れてしまった。残念また次回。
・泉涌寺の奥の庭園(300円)が無料開放だった。
・AM7:30拝礼スタート~~~~~PM16:35終了
・車(泉涌寺と二尊院に駐車)と自転車(車載)で巡回
・朝彦/寂子内/森脩親王、月の輪陵で他の拝礼者 のべ5人居たが他は一切出会わなかった管理人さんは居た所も有った。(121孝明天皇、77後白河天皇、76代近衛天皇陵は管理人さんが居た)


★で陵墓マニアさんに教えて貰った月の輪陵の奥の”民墓以外立ち入り禁止”の話ですが、泉涌寺本坊社務所の人に聞いてみました。3人の人が居たのですが年寄り2人はそんなものが有るのか知らないようでしたが残りの若い人は知っていてくれて ”あそこは非公開です”と教えてくれました。知った上で侵入するのは嫌だったので侵入後、立ち入り禁止の話を聞いてみました。

不思議だったのが泉涌寺の奥にある墓地で日陰の暗い所に管理もされていないような苔の生えた墓石は一体何なのだろうか?泉涌寺の奥にある墓は宮内庁、天皇職員の墓なのか?変な格好の天皇墓特有の形をしていました。頭の丸い独特な墓

>その周りに、そこに特別な感情をもって訪れている人たちがいる、ということを忘れないで行動してください

特別な感情を持った人が居るのは確かでしょうが、そうでも無い人も訪れているという事ですからね~~~それは伏見稲荷、伊勢神宮に参拝する人と一緒だと思います参拝する人はみんな同じ考えの人は居ないと思います。天皇陵って近年天皇の確立させるために無理から確定させたものですからそんなに由緒正しい物でないですから私はそんなに賢ばってません。西武グループの堤社長もドデカイ墓は有名で現地住込管理人が居るとか・・・
       
 

新日本海さま

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月18日(日)23時06分5秒
  >単に傾斜道奥まで行って駄目です看板が有ったら腹が立ちますよね
止められている道は孝明天皇陵の旧参道です
突き当たりが広くなっていて、そこが旧一般用拝所だったようです
拝所で止められて腹を立てる人はいないでしょう

>泉涌寺の敷地を通る訳ですから
あなたの土地を通らなければいけない場所に別の家の墓地があったとします
墓地の所有者の家とは知らない仲ではありません
そこへ見ず知らずの人が、墓へ行きたいので通らせて欲しいと声をかけてきました
あなたは、まずどう考えますか?
私だったら、「墓の持ち主と話はついているのか?」と問いますね

>京都宇治市万福寺周辺の墓
これは宇治陵のことかとおもいます
宇治陵は、四十数カ所に分かれていますが、公道に面しているか、公道から参道が延びているかですので、
しっかりした地図を持っていれば問題ないはずです

>宗教心は無く単なる写真の被写体として
その周りに、そこに特別な感情をもって訪れている人たちがいる、ということを忘れないで行動してください


 

>陵墓マニア様

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月18日(日)07時36分54秒
編集済
  ありがとうございます!(^^)!

>泉涌寺墓地への立ち入りだけを止めるならば、もっと奥に扉を設置した方が合理的です・・・単に傾斜道奥まで行って駄目です看板が有ったら腹が立ちますよね。。。だからと都合よく解釈したいです(笑)
良純親王墓に行くのは泉涌寺側に聞いてみます。泉涌寺の敷地を通る訳ですから。しかし確かに陵墓めぐりのブログを見ると他人地を通らないとイケナイ様な場所が有り焦ったと言う話がよくあります。住人に聞けば快くOKを出してくれるみたいですが・・・・特に ”い・ろ・は ”パターンです。 また住人の人も知らないケースも多く不審者に思われたと言うケースがよくありますね。京都宇治市万福寺周辺の墓は将来的に行ってみようと思いますが残念になるケースも多いと思います。昔は原野・田んぼの畦道に墓が建てられていたんでしょうが今は可哀想な状態になってますね。

拝観料の話は確かに最初は腹が立つと思ったがそんな事を抗議しても仕方ないしもし無償で通させてくれたとしても、心理的卑屈になるし500円位の事で目くじら立てる必要も無いと思いました。

私は高校時代よく自転車で清水寺を参拝しましたが宗教心は無く単なる写真の被写体として出かけていました。現在も同じ感じなので泉通寺はそんなに魅力を感じる寺ではないし先日拝観した所庭園部が臨時拝観停止になっており、それなら入場する前に言えよ!”と言う感じです。あだし念仏寺は入場する前に竹林は工事中見られません・・30年前にあった仏教会不動産屋VS京都市と揉め事も事前に拝観停止と看板・案内が有ったのに。一期一会になるかも知れない観光客に対して不親切で良い印象は有りません。

兎に角、月の輪陵の件は通路が泉涌寺側の管理する土地なので1番に今度行った時に聞いてみます。



 

新日本海さまへ追伸

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月18日(日)02時10分47秒
  泉涌寺は建物の外観も雰囲気あって良いお寺ですよ
私なら拝観料払って建物の写真も撮りまくりますし
追加料金払って御黒戸とか宝物館とかも拝観しますがね
月輪陵まで参入するのに拝観料が必要なのかについてはお寺に聞くべきでしょうが
良純親王墓が参拝可能なのかは月輪陵墓監区事務所に聞くべきだと思います
 

新日本海さま

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月18日(日)01時49分58秒
  月輪陵横の道の扉には、宮内庁による立ち入り禁止表示もあったはずですよ
そもそもその道は宮内庁の土地ですし、泉涌寺墓地への立ち入りだけを止めるならば、もっと奥に扉を設置した方が合理的です

実際に陵墓の参拝を始めれば理解できますが、陵墓の所在地は必ずしも公有地に面しているとは限りません
つまり、公道から陵墓へいたる間に第三者の土地を通らなければいけないところがたくさんあるのです
そうした場所は、参拝者だけではなく、宮内庁の職員も、他人の土地を通らせてもらっているわけです
宮内庁は管理者としての通行権が認められるでしょうが、参拝者が完全にシャットアウトされても文句は言えません
参拝者の行き過ぎた行為が周辺土地所有者の態度を硬化させる可能性があることと、
そうなった場合、非常に大きな影響が出てしまう可能性が潜んでいることは肝に銘じておいてください

さて、通常は境内に入るのに拝観料を取っている寺院があったとしましょう
その奥に陵墓があったとします
拝観料徴収所で、「俺は陵墓を参りに来たんだ 寺に来たんではない だから金を払う必要はないはずだ」と主張する人が来たらどうでしょうか?
お寺側にしてみれば、陵墓だけをお参りに来ているのか、そのあと境内をうろうろされるのか、本当のところはわかりませんよね?
(大抵の場合は、そうごねるとお寺もトラブルになるのを嫌がるため、通してくれるらしいですが・・・)
ほかのお寺の参拝者からみればどうでしょうか?
自分たちはお金を払って入っているのに、不公平感を覚えるはずです
これはお寺に取っては避けたい事態ですね
宮内庁にとってはどうでしょうか?
お参りいただくのは良しとしても、周辺の土地所有者との間に軋轢を生むような事態は好ましいはずがありません
だいたい陵墓好きならば歴史好きでしょうから、普通にお金払って、お寺を楽しむ方向に動くのが普通だと思うのですが・・・

宮内庁のホームページの文言は、あくまでも陵墓本体に対するものです
それが第三者所有の土地に対する免罪符になるようなものではないということは理解しておいていただきたいところです


 

>陵墓マニアさま

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月17日(土)07時33分34秒
  またまた回答ありがとうございます。でもあの駒札の意味は泉通寺側しか分からないと思います。シノギの檀家の墓を守る為に一見の泉通寺観光客を排除する為で天皇関係の事なんて眼中になく何とも思ってないかも知れません。天皇陵、泉通寺全部含めての客を差すのか泉通寺有料拝観客だけなのか・・・宮内庁のHPでは天皇陵に関しては公開されてると記載されてるがその他附随の天皇関係者の墓に関しては記載が無い。

一般天皇拝礼者にとってはなんで有料施設内に有るんだ!泉通寺なんて特に見る物ないのにお金を払わないと行けないじゃんと腹立つ感じです。平安神宮の有料施設内に置いての天皇家族の拝礼は社務所の承諾を得られればそこまで行けるようですが。その他京都北区のお寺内で全く公開されてない天皇関係墓もあるようだが。良純親王の墓を拝礼する為にはどうしても駒札より前に行かなくてはならない。

ま~私はどっちでも良いが、はっきりさせてもらいたいので今度泉通寺の関係者に聞いてみます。


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陵墓参拝のご案内
1.原則,年間を通して参拝できます。
ただし,次に掲げる日は,参拝の取扱いをしていない陵墓がありますので,事前に各陵墓監区事務所までお問い合わせください。
(1) 土曜日及び日曜日
(2) 国民の祝日に関する法律に規定する休日に当たる日
(3) 12月29日から翌年1月3日までの日
(4) 行事の実施,その他やむを得ない理由のため支障のある日

2.留意事項
(1) 参拝時間等
 ア 多摩陵墓監区事務所所管の陵墓
    午前9時から午後4時まで(参入は午後3時30分まで)
 イ 桃山・月輪・畝傍・古市各陵墓監区事務所所管の陵墓
    午前8時30分から午後5時まで
   (一部異なる陵墓がありますので,事前に各陵墓監区事務所までお問い合わせください。)
 ウ 陵墓の規模などにより,拝所までの所要時間が20~30分かかる所もあります。
(2) 参道は,玉砂利敷き・階段状・坂道等の所もあります。
  (車いすでおいでの方は,ご注意願います。)
(3) 車でおいでの方は,駐車場の有無をご確認ください。また,路上への駐車は,交通の支障及び近隣の迷惑になりますのでご遠慮ください。
(4) その他
 ア 喫煙等火災の危険がある行為はしないでください。
 イ 動物(盲導犬,介助犬及び聴導犬を除く。)を連れての参拝は,ご遠慮ください。

3.お知らせ
嵯峨天皇皇后陵においては,参道への落石のおそれがあるため,現在,参拝を停止しております。

  
 

陵印の保管場所について

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月17日(土)01時03分58秒
  度々話題になっている陵印保管場所の変化ですが、これは、対応可能な人員の勤務形態の変更によるものと思います
(公文書等で確認している訳ではありません)
 

新日本海さまへ

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月17日(土)00時51分55秒
  その場所に、扉があったり、竹が渡してあったり、柵が置いてあったりする理由をよくよくお考えください
某サイトのように「カギがかかってないから入っていいんだ」という考えが、社会のほかの場面で通用するのか、という点もです
参拝する側にも守らなければならない節度があります
それを踏みにじっていれば、いずれは、我々のような一般人の参拝そのものが難しくなってしまいます

 

Re 陵墓マニアさま

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月16日(金)21時46分34秒
編集済
  ご回答ありがとうございます。

>「民墓へ参拝以外は立ち入らないで下さい」・・・・これは妬んだヲタクが解釈すれば浮き浮きランラン素人天皇ヲタクが入るな!と読みも出来ますが一方で泉涌寺側が有料施設内で管理してる民墓に危害や荒らさないでくれ民墓に用の無いものは入らないでくれよ!と言う意味かも知れません。もし後者を泉涌寺側が思ってるなら天皇陵墓に参拝は駒札記載内容の対象外者になります。

>孝明天皇後月輪東山陵側からは回り込むことはできません。(その後私も投降後、色々調べてみました)
これは他のサイトで鍵が閉まってると記載されています・・・・でもいつも思うが生存天皇はセキュリティはもの凄く厳しいのに墓に関しては無茶苦茶甘く入ろうと思えば江戸時代以前の天皇陵。皇太后以下、簡単には入れます。(入った所で何も無いが)

今度行った時に聞いてみます。いずれにせよありがとうございます参考になりました。

私は天皇マニアではないので天皇になれない者は穀潰し(特に今の制度では女)だと思っています
 

(無題)

 投稿者:たけちゃん  投稿日:2019年 8月16日(金)12時33分47秒
編集済
  皆さん、こんにちは。大変ご無沙汰しています。
最近は、正月に明治天皇陵へ5月に泉山御陵へ参拝しましたが、以前に比べ陵墓への参拝は随分と減りました。自宅で過去に調査した文献や書籍のコピー等で細々と研究していますが、齢50歳を過ぎ老眼で小さな文字を見るのが辛くなってきました。
さて、レプトンさまからの投稿内容を拝見し分かる範囲内でお調べしましたので、下記のとおり報告します。

レブトンさま
・天皇陵の陵名について
既にご存知のとおり、天皇陵の治定については、古事記、日本書紀、延喜式その他の古文献の記録や地名、地域伝承等により決定され陵名(陵号)も決められました。江戸末期の文久の修陵の際には、未定陵を除く天皇陵の陵名が上記に基づき一部を除いて決定され明治政府に継承されました。陵名の無かった近衛天皇陵、後亀山天皇陵、泉涌寺内の御陵については、明治12(1879)年3月13日に新たに陵名が決定されました。後白河天皇陵、後鳥羽天皇陵、深草北陵などの法華堂型陵墓については、過去にも投稿しましたが、明治39(1906)年3月23日に改名され現在に至っています。

・称徳天皇陵の陵名について
古代の天皇陵の陵名については、一部を除いて『延喜式』(諸陵寮)記載の陵名が、江戸末期の陵墓治定の際にそのまま陵名になったことは既にご存知のことと思います。
合田安吉編著『歴代御陵めぐり』(昭和11年11月発行)によると、陵地の名に縁りて高野天皇とも称し奉るとあり、陵地からの呼称のようです。
また、宮内庁書陵部所蔵の谷森善臣著『山陵考』(新人物往来社発行「文久山陵図」所収)には、「御陵号の高野といえるハ、この辺より西大寺にかけての野原をよへる名なるにや(以下略)」とあり、地名から陵名が決定(採用)されたものと思われます。

・平城天皇陵の陵名について
 上記、宮内庁書陵部所蔵の谷森善臣著『山陵考』(新人物往来社発行「文久山陵図」所収)によると「平城天皇の御陵なり、大和国添下郡常福寺村にあり、字をねぢ山とよふ、(中略)此ねぢ山より六町許南に楊梅天神とよふあり、是この辺いにしえ押なべて楊梅と呼へりし名の傍の社号に残りたるものなるへし(以下略)」とあり、称徳天皇陵と同じく地名から陵名が決定(採用)されたものと思われます。

・崇神天皇陵拝所前階段等改修時期について
 過去に投稿された崇神天皇陵の拝所前改修時期について、確証が取れなかったため投稿を控えていましたが、奈良県立図書情報館保管資料により判明しました。
 「明治天皇紀」等によると崇神天皇陵は、拝所等の改修工事は明治33(1900)年2月着工し9月に完成しています。

・陵印の思い出
 昭和56年の夏休みに、当時中学生だった私は、交通機関と自転車を利用し米原市村居田にある敏達天皇皇后廣姫息長陵を参拝しました。集落内に入り御陵の場所が分らなかったため、集落内の民家前におられた人に道を聞いたところ、御陵の場所と一軒の民家を教えてくださいました。御陵参拝後、その民家に行き玄関の土間で、小さな陵印をメモ用紙に押印させていただきました。陵印は御陵の前の事務所(見張所)で朱印帳等に貰うものだと思っていたので、不思議な感じがしましたが、今思うとその民家は、陵守の方のお宅だったかもしれません。
 また、過去にも投稿させていただきましたが、手元に昭和58年以降の「御陵所在地一覧表」があります。「御陵所在地一覧表」には、陵印保管場所も記載されています。

 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
 

泉涌寺周辺

 投稿者:陵墓マニア  投稿日:2019年 8月16日(金)01時25分18秒
  泉涌寺の月輪陵・後月輪陵は、拝所前の道から横へ回れば石塔が見えるらしいですが、宮内庁関係者および奥の墓地の関係者以外は立ち入り禁止です。
添付されている写真は、立ち入り禁止表示を勝手に都合良く解釈して侵入して撮影しているものです。
雲龍院内墓地も同じ道から分かれて上がっていくので、こちらもサイトの写真は無断侵入です。
一般参拝者は近づくことはできません。
また、孝明天皇後月輪東山陵側からは回り込むことはできません。
 

初めて投稿します初心者です

 投稿者:新日本海  投稿日:2019年 8月15日(木)07時35分33秒
  初めまして初めて投稿します。京都の神社仏閣参拝を回っていたのですが近くに巨大な天智天皇陵がデカく地図に載っているので興味本位で一度足を伸ばして行ってみようと言う事で行ってみましたがとても良い所だと思い他の所も行ってみようと気温が下がる9月から計画してるのですが京都東山泉涌寺の裏に有る天皇陵群でよく分からない事が有ります。ネットで調べると月の輪陵は泉涌寺の拝観料500円払わないと見れない事が分かったのですがその足で月の輪陵の内部(墓石が数十体)も見れるのでしょうか?内部は他の道を探さないとイケナイのでしょうか? また泉涌寺500円払わなくても雲竜院宮墓地、もしくは孝明天皇後月輪東山陵から回り道をすれば月の輪陵にたどり着けるのでしょうか?  https://ryobo.fromnara.com/photo/205-4L.jpg

この泉涌寺裏手は森で囲われており上空写真を見てもはっきりと道が分かりません。また他の人の天皇陵探索個人ブログを見ても天皇陵/親族/参考地は分かり難いにも拘らず(難しいと言っておきながら)それを案内した人がいません。

あと不思議に思ったのは天智天皇は山科で行方不明になり靴が落ちていた・・・それでそこを天皇陵として作った・・・・これって変ですよね? 天智天皇陵の奥に古墳が有る事になっていますが常識的に考えて無理が有りませんか?
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 8月10日(土)18時19分47秒
編集済
   こんにちは。奈良でも毎日暑い日・酷暑日が続いています。暑さに弱い私はバテバテです。
今週はあちこち出かける用事があり、垂仁陵・安康陵・成務陵・称徳陵・平城陵・ヒバス姫陵・舒明陵・大伴皇女墓・後醍醐陵・世泰親王墓・近衛陵・鳥羽陵・白河陵・後宮塚参考地・中宮塚参考地に行ってきました。
 近衛陵・鳥羽陵には『陵墓内で猫にえさを与えないでください。宮内庁』隣接する安楽寿院でも『境内で猫にえさを与えないでください。安楽寿院』の看板がいくつか建てられていました。確かに猫の物らしき糞がいくつかありました。奈良公園近くの陵墓でシカの糞があっても、まあ奈良らしいか・・・で許される気がしますが、(奈良市民の驕り?)猫の糞は困りますね。宮内庁の方も安楽寿院の方も苦労されているようです。鳥羽陵では堀の所に『この堀の生物を取らないでください』の看板もありました。猫の看板も、堀の看板も他の陵墓にはない看板ですね。竹田周辺の陵墓の置かれている状況を表していますね。
 白河陵はこじんまりとしていますが、拝所側だけでなく、裏側(西側)も美しくて印象的です。後宮塚参考地はホテル街の中で窮屈そうにぽつんとありました。とても狭い参考地ですね。

 大伴皇女墓は舒明陵や終末期の陵墓と同様に三方山囲みの南面する作りであると説明板にありました。詳しいことはわからないながらも、舒明天皇と近しい皇族の陵墓の可能性がありそうです。大伴皇女墓は一般配所と特別配所の区別がなく、特別配所で参拝できる感じで嬉しいです。他には、吉備姫王墓が特別配所までは入れたと思いますが、(ここ3年ほど行ってないのですが、今もおなじでしょうか?)昭和50年代に宮内庁の方に伺った話では、4つある猿石を見学する観光客のために特別に開けてくださっているとのことです。

 垂仁陵はいつも広々とした濠が気持ちよい陵墓です。サギのコロニーが昔からありますがどんどんコロニーの範囲が広がっているようです。(かつても書きましたが菖蒲池遊園地にサギのコロニーがありましたが、遊園地閉鎖後垂仁陵に移ってきたのではないかという気がします。今回はカワウもいました。垂仁陵もサギの糞で白くなっていますがこれも自然の物だから仕方ないかな。今回は糞の話題が多くてすみませんでした。

 暑い毎日ですが、皆様お体気を付けてお過ごしください。
 

称徳天皇陵の可能性が指摘されている所

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 6月30日(日)00時58分17秒
編集済
  1か月にわたり何度も編集・追記したので、構成がばらばらで読みにくい文章になってしまっています。お恥ずかしい・・・。支離滅裂になってしまいすみません。

GWに称徳天皇陵の可能性があるといわれている、奈良市西大寺高塚町の鷹塚山不動尊(数m隣に並んで鷹塚山大権現がある)と西大寺竜王町にある竜王神社に行ってきました。

西大寺高塚町の鷹塚山地蔵尊と鷹塚山大権現は小高い丘の上にあります。奈良自動車学校から南西に直線距離で200m程度です。付近一帯は住宅街になっており、同所だけ高まりのあるこんもりとした森になっており、周囲からでもよく目立ちます。小さな丘ですが、頂上には木が茂っています。自動車学校は近鉄奈良線すぐ南側にあるので、鷹塚山地蔵尊の丘も電車から見えるかもしれません。この地の地名が西大寺高塚町というのはこの鷹塚山によるものであると思われます。この辺りはあやめ池撓曲が走っており、周囲は撓曲崖なのか、急な傾斜になっており、東西に尾根とその南北に低くなっている斜面があります。鷹塚山不動尊の丘はその尾根上の高さ数m~10m程度の高まりを持つ丘です。(南側は傾斜になっているので基準が決められず、比較的平坦な西側・北側から見ると数m程度の高さに見えます。)
 西大寺資材流記帳の寺域には西の端の山陵八丁を除くと記されており、西大寺の寺域の西側にあったことがわかります。後世の絵図には「本願天皇御廟」とあり、本願天皇とは、西大寺を勅願で建てた孝謙(称徳)天皇を指します。
 ※西大寺資材流記帳
  正式には西大寺縁起ならびに流記資材帳 宝亀11年(780年)12月にできたもの。現存は  後世の写し(鎌倉時代?)
 西大寺の寺地についての記載
  『居地参拾壱町 在右京一條三四坊 東限佐貫路除東北角喪儀寮 南限一條南路 西限京極路除山陵八町 北限京極地』

  ※奈良県遺跡地図では、平城京条坊復元図が付録でついています。その地図では
  復元した西四坊大路~西三坊大路と北一条大路~南一条大路に囲まれた区域の北半分が『称徳陵兆域?』と記されています。このエリアは鷹塚山大権現・鷹塚山地蔵尊は範囲外ですが、後述する竜王神社は入っています。




 称徳陵は数千人の人間を動員して短期間で作られたことが記録にあります。(6300人・約2週間)西大寺の西端で、今は奈良自動車学校の辺りに、称徳天皇の真陵あったのではないかといわれているようです。鷹塚山地蔵尊の丘はその候補地の一つです。


同所は西大寺寺域の西側で位置的には記録に合います。また小さな丘、信仰が続いているなども留意する点かと思います。地名が高塚町というのも、墳墓を連想させます。また、近くに西大寺宝ケ岡町という所もあり、墳墓の副葬品を連想させます。宝ケ丘町からは奈良時代の古銭(開基勝宝)や金延板・金塊が出土しています。(奈良県遺跡地図に記載)

 ※ただし、宝ケ丘という地名は古くからある地名ではなく、宅地化が進んだ昭和期につけられたもののようです。(地名変更時期については調査中)また、古銭・金延板・金塊の出土地は開基勝宝の鋳造所であった可能性が高いようです。開基勝法が発掘されたのが昭和12年12月8日で、宝ケ丘という地名がそれ以降につけられていると思われるので、この発掘成果を受けて町名にした可能性があります。陵墓の副葬品を連想すると書きましたが、安直だったと反省しています。

 ※7月26日に開基勝宝出土地を見ようと歩いてきました。現地は住宅・航空自衛隊官舎が立ち並び、出土地がどこであるかを確かめることはできませんでした。かつての小字名は畑山です。(出土地を奈良県畠山遺跡と書かれていることもあります。)宅地造成のために地山を均していた時に、金板が鍬に引っ掛かり、さらに開基勝宝が26枚、翌日に5枚の軽31枚が出土したとのことです。金塊2個も出土しました。(ここでは金板1、金塊2、開基勝宝31、記録にはない銀貨の破片が出土しています。)開基勝宝は江戸時代に西大寺境内で1枚見つかり、昭和の31枚はこれに次いでの発見であり、昭和に発見された金銭は東京国立博物館にあるそうです。開基勝宝は日本初の金貨であり、発見数はここに記した2か所からの32枚しかありません。(当時流通したかも疑問視されているようです。)開基勝宝は重要文化財に指定されています。
 また、称徳天皇の山荘跡もすぐ隣接しているので歩いてきました。細い道が通っています。この時期は草に覆われていましたが、小さな森と池(湿地)がありました。池(湿地)にはガマが生えており、茶色いガマの穂がたくさんできていました。この池が山荘の庭園の池であったと伏見町史に記されています。夏は草まみれでマムシ注意の看板が2~3枚ありました。見学は冬がよさそうです。周囲がすべて住宅街になっているのに、この場所に森があり、奈良時代の池が残っているのは、この地が西大寺の飛び地になっているからです。現地には「西大寺境内」の石標が建っていました。
 伏見町史(昭和56年発行)には「開基勝宝出土地はすぐ東側が称徳天皇御山荘に比定されているので、これとの関連を考えておく必要があるかもしれない。」と記されています。


 ※
次の報告書には、称徳天皇山荘跡の庭園について調査結果が記載されています。
『伝称徳天皇山荘の庭園の池は南北18m、東西55m程度で、中央西寄りに中島がある。谷の最奥部の湧水を堤でせき止めて作った池、西側と北側に大きな建物跡があり、西側から池を隔てて東の山々を臨む形式になっている』
『日韓の古代庭園シンポジュウム』発表論文 日本 庭 園 学 会 誌11,27-43,2003
 平城京の古代庭園 Remains of Garden in the Ancient Nara Capital
 高瀬 要一 奈良国立文化財研究所
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgarden1993/2003/11/2003_11_27/_pdf/-char/en


鷹塚山については次のサイトに詳しく紹介されています。
奈良の名所・古跡
https://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/602cab00524db5a0e1804b9149d8b861

写真1枚目は鷹塚山地蔵尊と大権現(大権現は右側にあります)
写真2枚目は東側の奈良自動車学校前(南西端)から見た鷹塚山地蔵尊の丘



続いて、西大寺竜王町にある竜王神社です。こちらは奈良自動車学校から南東に直線距離で2~300m程度のところにあります。東西に延びる尾根上南側に位置しています。岡と呼べるかどうかは微妙な感じです。今は竜王神社となっています。阪南大学の来村多加史教授は風水の見地から、ここが称徳陵であるとの説を出しておられるそうです。(次のサイトに詳しく紹介されています。)

倭は国のまほろば・・・残された情景を訪ねて
https://ameblo.jp/benben840105/entry-12057306323.html


来村多加史教授の著書
風水と天皇陵
講談社現代新書
作者
来村多加史
販売会社
講談社/
発売年月日
2004/09/20

写真3枚目が竜王神社


私の知人は竜王神社から200m、鷹塚山から500m程度の場所に立つ中学校の卒業生です。(西大寺宝ケ丘町に道を挟んで隣接している所に立つ学校です。)その学校の校歌の出だしは『高野の原の名は芳しく・・・・』(たかぬのはらの なはかんばしく・・・だそうです。1947年創立の中学校の校歌にうたわれるように、この辺りを『たかぬのはら』と認識していたようです。


このように、称徳天皇陵については、記録から西大寺西側であることはほぼ間違いなく、その候補地として紹介した2か所が挙げられます。この地域がなぜ『たかぬのはら』と認識されていたかは調べられていませんが、地名も高塚・宝ケ丘など陵墓を暗示している可能性があります。しかし当時の山陵造営工事がどれくらいの規模であったのかはっきりしませんし、その後の開発等による地形や地表の変化もあるでしょう。もともと起伏の激しい地形でもあり、安易に結論を出すことはできない状況のようです因みに孝謙・称徳天皇の呼び名はいくつかありますが、続日本紀では『高野天皇』と記載されており、高野姫天皇といわれることもあるようです。陵名を高野陵というのは、この天皇の名前と関係するのでしょうか?この辺りに詳しい方、教えてください。
※高野天皇の高野は、?御陵名から  ?山荘のあった地名が高野だった  などの説があるようです。?ならなぜ陵名が高野陵なのかの疑問が更に続きますが… (天皇の名前が先か、御陵名が先か?まさに卵が先か鶏が先か状態・・・) ?の山荘のあった場所辺りが高野と呼ばれていたかはわかりません。(先述した中学校校歌に歌われているように、そのあたりを高野の岡と呼んでいたらしいことはわかりますが、はっきりしたことはまだ確認できていません。)

(話とは関係ありませんが、平城陵をなぜ楊梅陵というか気になり調べると、近くに楊梅神社というのがある(あった?)ようです。今は東院庭園になっている北側の神社が、かつての一時期、楊梅天神といわれていたようです。ここは平城天皇の楊梅宮跡との説もあるようです。
奈良まち歩き風景紀行 https://narakanko-enjoy.com/?p=19450
ハニーちゃんが行く https://ameblo.jp/tweet-tweeties/entry-12279113310.html
それと楊梅陵の名称にどのような関係があるのか、どなたかご教示ください。最後に住んでいた離宮の名がそのまま陵墓名になったのでしょうか?)


ウィキペディアの記載より
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐紀高塚古墳
 宝亀元年8月4日西京で薨去
 即日、作山陵司などの諸司が任ぜられる
 鈴鹿王旧宅の場所に山陵を作る
 畿内近国の役夫6300人で山陵造営
 8月17日 高野山陵に葬る

 延喜式では遠陵 高野陵 兆域東西5町 南北3町 守戸5姻を毎年充てる

 鎌倉時代の大和国西大寺往古敷地図により、東側である現陵に充てる説が出て、その後江戸時代には五社神古墳(現神功陵)が充てられた。



高遠さくら様
 情報ありがとうございます。ええー!そうなんですか?日岡陵の陵印が民間宅で保管・管理されていたこと初めて知りました。当時は民家に預けてある例もあったとの記載はいくつかの書物にありましたが、具体的な例は少なく不明でした。私自身が民間宅で捺印させていただいたのは吾平山上陵だけです。(宮内庁の方の親戚で、交通の便利な町の中心部に近いところで商店をしておられました。)ほかには、田原東陵の陵印が近くの民家に預けられていたという話を聞いただけです。民家での保管の貴重な例です。ありがとうございました。


平野塚穴古墳発掘調査についての記事

産経新聞の記事
https://www.sankei.com/life/news/190625/lif1906250039-n1.html


江戸時代に顕宗陵に充てられていたこともある平野塚穴古墳の発掘調査の記事が載っています。被葬者は天武天皇縁の人物ではないかと書かれています。茅渟王墓(片岡葦田墓)の声も上がっていますが・・・。
平野塚穴古墳と周辺の古墳(消滅も含めて)については、以前POM様が詳しく紹介・考察をしておられます。(2012年5月18日のご投稿)POM様も同投稿で茅渟王片岡葦田墓の蓋然性が高いと述べられています。
POM様、高野陵等についてまたご教示ください。


※高野陵はかつて(昭和50年代)宮内庁の方に「たかぬのみささぎ」と読むことを教えていただきました。最近ネットでの御陵紹介などでは「たかののみささぎ」と規されていることが多いです。正しくは「たかぬ」でよいのでしょうか?宮内庁のHPでも「たかの」と記載されています。基本的な質問でお恥ずかしいですが…
 

東開聞

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 6月24日(月)02時25分9秒
  早いもので今年もほぼ半年が、また新元号に変わり2ヶ月が経過しようとしていますが、変な宗教に入っていませんか。


5月には佐賀に10日間、島原に7日間滞在し連日の調査でしたが、最終日に鹿児島に寄り鹿児島空港から帰宅いたしました。
それにしても島原は、お城も温泉もあるし暖かいしとてもいいところです。
現在は、のんびりと調査記録の整理分析をしながら報告書の制作をしているところです。

鹿児島では、10年振りぐらいに川内の可愛山陵を参拝してきました。
島原から川内までは近く、島原港から熊本港までは高速フェリーで30分、熊本港からはほとんど1本道で西熊本駅まで自転車で45分、西熊本駅から新八代駅までは普通で30分、新八代駅から川内駅までは新幹線で33分ですが、乗り継ぎが悪く新八代駅で50分待ちとなってしまいました。

その後、姶良市の紹隆寺で島津千百子さんの墓参をしてきました。
千百子さんは、島津齊彬公の異母弟島津久光さんの正室で、島津忠義公爵のご生母になります。
忠義公爵の息女は、久邇俔子さんと山階常子さんですので千百子さんは二人の祖母に、香淳皇后の曽祖母にあたります。

墓碑銘は、西雲院殿慈一貞心大姉
神秀光慈霊姫命
没年の刻字は無く、墓形は宝篋印塔です。

天皇家の先祖でも以前、報告したように鳥居小路信子さんの旧石が廃棄されたりしましたが、千百子さんの墓所は、末永く護持されることでしょう。


実は、今春から青山霊園内の華族墓の写真の撮り直しを始め、ようやくほぼ半分が終了しました。
何回か撮り直しはしていますが、墓所の小さな改修や、天気や逆光などの影響で綺麗に撮れていないものもあるので。
そんな中、先週、何と多久男爵家の墓所が更地になっていました。
多久家は、戦国期に九州を島津家、大友家とともに領した龍造寺家の後裔になります。
警告札は立てられてはいませんでしたが、同家には嗣子無く高齢の未亡人だけなので国許へ改葬されたと思われます。


さて、レプトンさんの陵印の保管所に関する書きこみを見て、ふと昔のことを思いだしました。
昭和50年ごろ日岡御陵へ行くにあたい陵印はあるのだろうかという疑問が生じました。
今みたいにネットですぐに検索できる時代ではなかったのですが、とりあえずムーンライトながらの前身である大垣行きの夜行に乗り翌朝の10時ごろ山科駅に着きました。

天智天皇陵を参拝した後、同所の職員の方にお聞きすると、わざわざ調べていただきましたところ、確か日岡御陵の近くに住む方が保管されているということでした。
その後、山科駅から新快速で加古川駅へ、加古川線で日岡駅で下車し御陵を参拝しましたが、結局、保管者宅はわからずじまいでした。

私は、レプトンさんとは異なりあまり長続きはせず、陵印の収集をしたのは僅か3年ほどでした。
今となっては集印帳を、どこで購入したのかも定かではありません。
多分、京都駅ビルだったかな。
 

安康天皇菅原伏見西陵

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 6月13日(木)04時54分0秒
編集済
   こんにちは。令和時代になりました。以前と変わらずよろしくお願いいたします。
今日、仕事帰りに安康天皇陵に参拝しました。よく整備されていて美しい御陵です。一般拝所も薄くですが砂利に線が引かれていました。最近御陵の松が伐採されることが多くなりましたが(垂仁陵・平城陵など)ここは松が見事です。
 一般拝所の片隅に写真のように小さな木が植えられていました。1枚目は枯れた松の切り株の横に小さな松の苗が2つありました。(
枯れた松は髄の部分が直径20㎝程度残っています。その周囲の部分は腐って無くなっていますが、樹皮の部分が残っており、髄より外側に10cm程度のところにあり、元は直径40㎝強の大きさの松であったことがわかります。他の2か所はアジサイと私の知らない植物(斑入りの葉の植物)の苗でした。枯れた松に代わり、大きく成長して今後何十年もこの御陵で他の松とともに美しい風景を作り出してくれるのでしょう。宮内庁の方はこのようなこともしてくださっているのですね。

 称徳天皇の真陵の可能性があるといわれている鷹塚山地蔵尊(鷹塚山大権現も同所)と竜王神社も見てきました。こちらについても改めて紹介します。
 

仲哀天皇恵我長野西陵

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 6月 4日(火)16時51分41秒
  前月は日本を離れている事が多かったのです。

宮内庁のHPによると6月6日武蔵陵墓地・6月12日明治天皇陵、月輪陵・後月輪陵における参拝の停止の
お知らせが掲載されています。

本日 私は雄略天皇丹比高鷲原陵と仲哀天皇恵我長野西陵に参拝してきたのですが
恵我長野西陵では濠に舟を浮かべ職員の方が作業をされていました。

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

陵印収集

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月30日(火)21時06分33秒
編集済
  こんにちは。レプトンです。いよいよ平成最後の日になりましたね。

個人的な話になってしまいますが・・・・
 平成が終わるといわれてもピンときてなかったのですが、新元号が発表されたら、急に去り行く平成の時代が愛おしく感じられるようになりました。そこで気になったのが、まだ完了していない陵印収集の事でした。平成3年の年末に集印軸を購入し、まず鹿児島から参拝を始めました。ゆっくり集めていたのですが、陵印が5監区に集められるようになってからは行っていませんでした。そのため百舌鳥の3陵と崇徳陵だけ捺していないままでした。百舌鳥の3陵は参拝していますが、崇徳陵は行っていない・・・でも平成中に完了したい…そこでまだ参拝していないけど、平成中に完成させることを優先し、昨日応神天皇陵に行ってきました。集印帳と合わせても8回捺印するだけの事でしたが、軸の方の崇徳陵の陵印を押すのを忘れてしまうという失態を犯してしまいました。昨日夕方に電話をすると朝8時半から対応してくださるとのことで、今日再び捺印しに行ってきました。これでやっと陵印の掛軸が完成しました。平成の終わる2日前に完成させるはずがぎりぎりになってしまいましたが、何とか間に合いました。昨年末にDADA様が天皇陵参拝と陵印をコンプリートされたという報告を聞き、私も平成中には・・・という気持ちを起こさせてくださいました。私はまだ崇徳陵・後花園陵など行けてない所があります。
 ところで、昨日古市陵墓監区事務所の方の話によると、昨日お昼ごろに行った私が昨日の4人目だったそうです。私と同じように「平成中に・・・」と考えておられる方が多いようですねと話しておられました。畝傍監区でも後醍醐陵印だけ集印帳に抜けていたので戴いたのですが、私が入って2~3分で次の方(ご夫婦)が来られ、そのすぐ後にも次の方が待っておられたようでした。代替わりの今、陵印収集が以前より注目され、収集される方が増えているようです。
 陵印の集印帳を作成しておられる京都の杉本工芸さんのHPでは、天皇陵印帳が品切れ・少数作成などの文字が書かれています。詳細は知りませんが、天皇陵印帳を求める人が多くなっていることによるものかもしれません。

 平成時代に購入した掛軸・集印帳での集印は完了したので、新時代・令和でもまた新しく天皇陵巡りと陵印収集をしたいと思っています。


 私の集印した昭和天皇陵はまだ昭和天皇武蔵野陵の物です。その後昭和天皇武蔵野陵香淳皇后武蔵野東陵に切り替わりましたが、これは新陵印の切り替えの唯一の(?)例です。香淳皇后御逝去後のいつぐらいに切り替えられたのでしょうか?ご存知の方がおられましたらご教示ください。

 また、陵印を管理していた場所の移り変わりにも関心を持っています。新印を管理していたのは昭和50年代は部事務所でした。その後監区事務所に集められます。(皆様ご存知のように淳仁陵・崇徳陵が最後まで残っていましたが、その印が古市監区に移されて完了します)
 しかし、部事務所→監区事務所の動きだけではない、印の保管場所の変更があります。私の知っている例を挙げると
 ・押坂部の印が昭和55年頃山辺部に預けられていたが、その後押坂部管理になった。
 ・平成になったころ、佐紀部の印は土曜午後・日祝日は垂仁陵で保管(昭和50年代中頃はずっと垂仁陵保管だったような気がする。不確かな情報)
 ・奈良県内の各部の印が畝傍監区に移される前の一時期、奈良県内の印は畝傍監区と檜隈部の   2カ所に分けられて保管されていた。

 ・深草部の印は平日は竹田の近衛陵、土曜午後日祝日は深草北陵へ移されていた。(バイクで届 くと宮内庁の方が言っておられた)
 ・後村上陵は同所または観心寺にあったが、昭和60年頃には用明陵に移されていた。
 ・吾平山上陵印は個人商店に預けられていた。その後陵前の観光物産館(だったかな?)に移される
 ・平成12年には神代3陵印は可愛山陵に置かれていた。
  ・昭和50年代には藤井寺部の印は仲哀陵にあったが、平成4年頃には古市監区に置かれていた。
 ・高屋山上陵印は同所で。夜間休日は職員の方が自宅で保管。
  その後可愛山陵へ。このころ、神代陵は可愛山陵に2印、吾平陵前物産店(?)に1印となる。

 ・新印ではないが、旧陵印の光仁陵印は近くの民家に預けられていた時もあったらしい。

次の3点は自信がない情報です。間違っているかもしれません。
 ・後花園陵の印は同所にあったが、いつの時か他の部に移されていたように思う(自信ないです)
 ・醍御陵、朱雀陵は宇治陵で保管。その前は天智陵と違ったかな?(自信ない情報です。)
 ・淳仁陵印は同所・不在時は万福寺だったが、平成14年頃には常に万福寺に預けられていた?

 陵印保管場所の変遷も年月日をはっきりさせて記録に残したいのですが…
当時もらった陵印保管場所の資料は、そのころはあまり保管場所の変遷にはあまり興味がなくほとんど残していません。(記録しなくても記憶してるから大丈夫と思っていましたが、記憶もあいまいになり、ちょこちょこ保管場所が変わった頃は陵印に関して空白時期でした。)


2010年6月27日の大垂水酔鳥様投稿の写真は貴重な資料になります。ありがとうございます。このような宮内庁発行のプリントや、集印帳の案内などを集めて、編年・年表を作りたいものです。

 先日旧陵印について御教示くださったこまいぬ様がご自身のHPで天皇陵印についてまとまった記事を書いておられます。卓越した考察を披露しておられます。


昨日応神天皇陵を始め、古市古墳群を見て回りました。応神陵→安閑陵→安閑皇后陵→日本武尊陵→清寧陵→仁賢陵→仲哀陵→仲津姫陵→允恭陵と回りました。土師ノ里駅前の自転車駐輪場がしているレンタサイクルがとても便利でした。陵印捺印も含め2時間で回れました。機動力が凄い!時間は関係なく250円です。安くて便利。古市古墳群巡りにはお勧めです。(崇徳陵印だけの捺印のために今日も利用しました。30分でも250円ですがとっても便利でした。)古市古墳群はあちらこちらでボコボコと古墳があって楽しいですが、建物の陰に隠れて見通しが悪いのと、陵墓の場合参道入口への道がわかりにくいので、自転車だと助かりました。仲哀天皇陵は拝所全面の道がずっと通り抜けになっており、周囲も回りやすく見学しやすいですね。



後2時間余りで平成が終わります。色々ありましたが、幸せないい時代だったと思います。
令和の時代もみんなが幸せであることを祈念しつつ、新時代の幕開けをカウントダウンします。
新時代も皆様よろしくお願いいたします。

 

薩摩川尻

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 4月30日(火)02時23分39秒
  全国の同志の皆さま、平成も残すところ1日を切りましたが、変な宗教に入っていませんか。
しかし、平成が誕生した時も元号ではありませんが51代平城天皇と濁点の有無が異なるだけでしたが、令和も江戸期の明和と感覚が近いと感じています。

さて、昨年末が廃棄期限であった青山霊園の片岡利和男爵家の墓所は1年延期されており、染井霊園の酒井忠積家の墓所は廃棄から連絡くださいに変わっており当面の間、廃棄の危機から脱した感じです。

そのような中、旧皇族墓にも遂に廃棄警告札が東京都から出されてしまいました。
同墓は、染井霊園の徳川圀禎家の墓所で、徳川圀禎は水戸徳川公爵家の分家で同室が北白川宮成久王の第二女子多恵子女王になります。
圀禎には嗣子が無く継室が祭祀を継承していましたが、高齢となり管理費が滞ったことが原因のようです。
期限は、令和元年12月28日になります。

墓誌の銘文は、下記の通りです。

德川圀禎   昭和六十一年四月二十一日 行年七十一才

同妻多惠子  昭和廿九年十一月五日   行年三十四才


さて、令和初の書き込みが何方になるのか気になるところではありますが、管理人の福山さまが新たなスタートに触れられることが一番かと。
 

こんにちは

 投稿者:あき  投稿日:2019年 4月27日(土)22時33分31秒
編集済
  菊姫様の件、詳しく教えて頂いて有難うございました。丁度本でみつけて、詳しく知りたかったので、大変勉強になりました。この方は、近衛のお姫様で、幼くして健康上お気の毒なことがわかり、京都の薄雲御所(皇女、女王や近衛の姫君が御前様と呼ばれる住職につく尼門跡寺院)の御紹介で、こちらの御寺に移られたとのことでした。見事な刺繍?(白黒でしたので…)の美しい着物の遺品が載っておりました。この尼門跡寺院(再興により現存)は記録によると室町時代からあり、近衛家は御存じのとおり大変古くからの名家ですので、いつのことだろうと思っておりました。時代がはっきりかかれていなかったのですが、江戸時代だったのですね。思えば、あの豪華な衣装のデザインは江戸時代らしく感じました。言い伝えというのは興味深く、素晴らしいものに思います。有難うございました。  

西大山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 4月21日(日)04時06分10秒
  全国の同志の皆さま、平成も残すところ数日になりましたが、変な宗教に入っていませんか。

今月は、10日間、萩まで調査に行っておりましたが、気温はそこそこでしたが風が強くとても寒い毎日でした。

初日に15年ぶりに物部神社神職家の金子男爵家墓所を参拝しましたが、何と旧石は残され集積されているものの3基を残し改葬されていました。
前回の島根調査の時に行っていればと後悔です。
また、最終日には、話題の元乃隅稲成神社を参拝しましたが、とにかく便悪過ぎですがとても感動しました。

さて、今調査中に1ヶ所だけですが伝承墓を参拝いたしましたので、報告させていただきます。

仲哀天皇殯葬地

実は、ここも便が悪過ぎで疲れた1日でした。
行程は、山陰線の滝部駅から豊田西市行きのバスなのですが、朝に2本あるものの、その後は昼までありません。
豊田西市からは下関・小月行きのバスに乗り換えて石町で下車した後、8kほど徒歩で華山の山頂をめざすことになります。
ただ、私は滝部駅近くの西楽寺に寄るためこの行程となりましたが、山口県北部からだと長門市駅から下関・小月行きで、南部からだと小月駅から長門市・青海島行きのバスに乗車してください。

徒歩区間は、最初の1kほどは平坦ですが、その後は絶えず登り坂なので、まったく距離感がつかめませんが、途中に徳仙の滝があり癒されます。
歩くこと90分ほどの山頂近くで、左折し50mほど下ったところから山道を600m上り下りすると、ようやく殯葬地に到着です。
実際、山道の入口まで舗装道があるため車を利用すれば、1200m歩くだけですみます。
私は、滝部駅から山道の入口まで自転車でしたが、華山の往路は90分も自転車を押して上りましたが、さすがに復路は速く15分で下ってきました。

さて、陵域の雰囲気は、同じ山口県下の防府市の桑山に酷似しています。
四囲を石柵で囲まれ、その入口の正面には鳥居を配し、域内の最奥には神殿造の墓標が建立されています。
入口の石柱には、人皇十四代仲哀天皇御殯葬所、と記載されています。

横の案内板には、仲哀天皇は、熊襲征伐をされる途中、賊の流れ矢で落命されたが、神功皇后は、その喪を隠し征伐を続けた。
その時、天皇のご遺体をこの西の嶽に葬り戦勝を祈願されたと伝えられている。と記されています。
方位は、南です。

これから多くの方々は、大型の連休に突入しますね。
わたしも5月の調査までは今回の調査記録の整理をしなければなりませんが、多少のんびりできそうです。

新たな元号である令和まであと僅かとなりましたが、今後も皆さまの報告を楽しみに拝見させていただきます。
 

(無題)

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月13日(土)15時57分26秒
編集済
  fukuyama様
宮内公文書館の陵墓資料 陵印墓印調書 昭和1年  は私も昨年夏に検索で見つけました。担当の所に電話で確認すると、当該の文書の画像を、専門の業者(?)が写真撮影し、紙またはCDで郵送してくださるとのことです。有料です。CDは700~800円程度だったと思います。また、審査があり、普通1か月程度かかるとのことです。

申し込みを書きましたが、半年以上送付せずまだ動けていません。
貴重な基本資料なのではとの期待もします。早く送って内容を見てみたいです.
資料を見てからとなりますが、昭和元年には陵印・墓印について、何らかの扱い、管理についての決め事や集約がなされたものと想像しています。公文書館の陵印関係の資料では、陵印の扱いについての文書がタイトルを見るだけでも他にもあるように思います。

こまいぬ様

『東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念』について御教示ありがとうございます。私は掛軸と、『神社山陵参拝記』(記者が紅白に分かれての参拝記事の本)の両方を持っておりますが、別々に入手したものでした。そのため掛軸が当企画の付録であるのかの確認ができませんでした。しかしこまいぬ様の情報によりこの掛軸が同企画により作成されたものであることがわかりました。ありがとうございます。
 このことから、現時点ではこまいぬ様の考察通り大正13年1月~2月には、神武陵印と明治陵印については、同企画の付録掛軸に捺印された陵印はあったと結論付けられます。これが現時点で確認できる最も早い使用例であるといえます。
 今まで陵印の変遷を調べていて、大きな区切りに到達できました。ありがとうございます。感謝いたします。また今後も御教示くださいますようお願いいたします。

 陵印についてのコンテンツ、楽しみにしております。
 

『書陵部紀要』第70号

 投稿者:fukuyama  投稿日:2019年 4月13日(土)10時29分4秒
  『書陵部紀要』第70号 平成30年度 が 書陵部所蔵資料目録・画像公開システムに
公開されていますね。

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/000/


また 宮内公文書館

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho

陵印で 検索してみると

・陵墓資料(法規目録)御陵参拝人・撮影・陵印等取扱規定集
・陵墓資料(法規目録)陵印 墓印調書 昭和1年

など どんな内容なのか 見てみたいものですが

http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/

 

東宮殿下御成婚奉祝参拝 神社山陵印譜

 投稿者:こまいぬ  投稿日:2019年 4月11日(木)07時04分15秒
  皆様、こんにちは。

新元号・令和も国民から好感をもって迎えられ、いよいよ御譲位まで二十日ほどとなりました。
今は御代替わりを記念してサイト内に御陵印に関するコンテンツを作成している最中です。

その作業中に、レプトン様が2015年10月18日の投稿 https://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1533 で紹介されていた「東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念」のことを思い出しました。

この資料は私も所持していまして、大正期の御朱印事情、特に「御朱印」という名称がいつから使われるかを推測するために非常に役立ったものです。

私の所有しているものには包み紙があり、タイトルは「東宮殿下御成婚奉祝参拝 神社山陵印譜」となっており、下に「神社山陵参拝記付録」「朝日新聞社発行」の文字があります。

大正13年1月、東京朝日新聞と大阪朝日新聞は皇太子殿下(昭和天皇)御成婚を記念し、東京・大阪の記者各4名計8名がそれぞれ2人ずつ紅白2班に分かれ、東京は東日本の神社22社、大阪は西日本の神社37社と神武天皇陵・明治天皇陵を各種乗り物を駆使して巡拝し、紅白で早さを競うという企画を立てました。この時新聞に連載された道中記をまとめたのが『神社山陵参拝記』です。

この『神社山陵参拝記』は国会図書館デジタルコレクションで見ることができるのですが、奥付を見ると発行は大正13年3月15日になっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969665

さらに、前書きに「挿入の神社と山陵の印顆は選手が参拝の際、特に『参拝帖』に押捺を受けたもので、好個の記念として永久に珍重されるべきと信ずる」とありますので、大正13年1月ないし2月のものと考えて間違いないと思います。因みに伏見桃山陵への参拝は白班が1月26日、紅班が2月2日、畝傍東北陵への参拝は白班が1月28日、紅班が2月4日となっています。

とりあえずご報告まで。

https://goshuin.net/

 

旧陵印使用時期について

 投稿者:レプトン  投稿日:2019年 4月 1日(月)10時55分22秒
編集済
   みなさまこんにちは。今年初めてのご挨拶になります。新年あけまして・・・・の所が、新年度明けまして・・・・になってしまい、申し訳ないです。あと1時間足らずで新元号が決定・発表されますね。ドキドキ、ワクワクです。
 3月は仕事で奈良県中を走り回りました。また山の辺の道を天理駅から桜井駅まで、黒塚古墳はじめ沢山の古墳を回りながら歩きました。約20kmを昼食時間を入れて5時間半で踏破しました。早春の山辺の道は、桜こそまだ開化前でしたが、菜の花畑やユキヤナギ、ボケ、コブシ、スイセンの花をはじめ、タンポポ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、などの野花がきれいに咲き誇り、とても風情のある趣に包まれていました。もうレンゲも咲いていました。ハウス内で赤く実っている苺がおいしそうでした。
 古墳では東乗鞍古墳の石室内で石棺を見ようと思っていましたが、管理者により中には入れなくなっていました。15人ほどを案内し、みんなを入れてあげようと思っていたので残念・・・。
 陵墓は衾田陵、崇神陵、景行陵に行きました。どの陵墓も美しく整備されており、気持ちよく参拝できました。早春の光の中で静かに明るく輝いていました。また崇神陵の陪塚のアンド山・南アンド山古墳は芝生状態になっており特にきれいでした。この2つの古墳と黒塚古墳は程よい規模で、前方後円の形がわかりやすく、だ~いスキです。景行陵は南側の神籬の碑のあるあたりから見るのが、その規模、重量感が伝わってくるみたいでいいですね。大市墓は近くにはいかず檜原神社から眺めました。山の辺の道から見る二上山の姿、2つのグロー曲線が重なっているみたいで魅力的です。
 さてこの山の辺の道沿いの4つの陵墓の旧陵印はどれも同じ規格で円形でした。昭和54年3月だったと思いますが、山辺部事務所には、押坂部の陵印も預けられていました。新印の崇神・景行・崇峻・舒明陵印と、崇神・景行・衾田陵・大市墓・崇峻・舒明・糠手姫・吉隠・笠間山陵の旧陵印がありました。山辺部の4陵墓の旧陵印が丸くてかわいかったことが印象に残っています。押坂部の陵印が預けられていたのは、当時押坂部事務所は土午後・日全日休みのため、参拝者や陵印捺印の便を図るためにして下さっていたとの話を宮内庁の方から伺いました。(当時休みなしの事務所と、休みありの事務所がありましたが、労働組合関係で違いがあったようです。)因みにその数年後に、押坂部の陵印は押坂部で管理されるようになりました。また更にその後、山辺部はじめ、他の事務所も日曜日はお休みになりました。

 3月26日は天皇陛下が神武天皇陵に来られ、退位の報告をされました。仕事で橿原市にいたのですが、道路は渋滞していました。1か月以上前から奈良市内でも3月26日は橿原神宮周辺は渋滞予測・自動車を自粛するように道路の案内板に表示されていました。今回は仕事で動いていたので、天皇陛下のお顔を見ることはできませんでした。(奈良にいると何度か沿道や駅で・・・)

 さあ、11:30です。新元号が発表されます。



 宮内庁長官が新元号を天皇にお伝えして、天皇が署名されて正式決定・公布すると法律で決められているとテレビで伝えています。

   新元号は・・・・・令和 (れいわ)      祝!新元号

 おめでとうございます。   発表は平成31年4月1日11時41分でした。

 典拠は万葉集


 万葉集に拠って作られたのですね。万葉集好きです。嬉しいです。



話を戻します。山の辺の道の他にも、聖武陵・元正陵・垂仁陵・安康陵・平城陵なども行きました。

さて本題です。

こまいぬ様へ
 初めまして。私は陵印を収集しています。こまいぬ様のサイトも拝見いたしました。素晴らしいですね。今後も訪問させていただきます。この掲示板でもよろしくお付き合いください。
 私も明らかに大正時代の天皇陵参拝資料といえるものは2点しか持っておりません。1点目は大正9年に多くの陵墓・神社を参拝したものです。すべての項に参拝日が書かれているわけではありませんが、いくつか書かれてある参拝日は大正9年で、普通順番にページを使っていくので、その間の項に書かれてある陵墓に参拝した日も、やはり大正9年と考えられます。この大正9年の資料では陵印は全くありません。全て各陵墓の陵墓守部または陵墓守長が主に墨書で署名し、そこに自分の印鑑(私印)を捺しています。孝明陵・仲恭陵などは個人の私印でなく、『月輪勤番所』の印が捺されています。こまいぬ様の資料の『古市勤番所』と同じように使われています。このことから大正9年の段階では陵印はまだ使われいないと考えられます。
写真は月輪勤番所のものと、陵墓守部の署名捺印の例です。

 続いて2点目の資料は以前紹介したものです。(2018年2月16日・12月6日)
参拝日は大正13年から昭和6年にかけての日付が書かれてあります。資料はカードになっており、所有者名が印刷されています。おそらく所有者が天皇陵参拝のために、カードを印刷に出して作成したものでしょう。各カードには天皇名・在位期間・崩御・京などの情報が所有者により記されています。
 この資料で最も早いの日付は参拝の日付は、大正13年になります。(明治陵はそれ以前を含み何度か参拝日時が書かれている。)大正13年参拝が記されているカードは、三帝陵(後朱雀・後冷泉・後三条)と安徳陵のものです。この資料を見た時、陵印使用時期が大正13年にまで遡る証拠と思い喜びました。

 しかしどうもそうではないようです。三帝陵のカードに捺されていた印は、極初期に用いられていた印(後朱雀皇后を入れた4行書きの物)ではなく、その後使われ、昭和50年代まで長く使われた印(三帝だけで6行書きの物)でした。その印が極初期にも使われていた可能性がないとは言えませんが、今までの資料ではごく初期に捺印された資料にはないので違和感を覚えました。
 また他の資料も見てみると、文字(主に墨書)の上に朱肉が乗っています。墨書と捺印との時間差はわかりませんが、印が後で捺されたことを示しています。旅行期間中程度のタイムラグなら、記されている参拝日に捺印したとも考えられますが、もっと後に印が捺された可能性もあります。
 写真3枚目は、安徳陵の参拝カードです。墨書の文字と印がかぶっています。墨の上に朱肉が乗っています。そして参拝日が2つ書かれてあります。墨書は大正9年の資料と同様、陵墓守部(安徳陵の場合、陵墓守部ではなく、嘱託となっています。今でも部外は嘱託職員の方が多いとかつて聞いたことがあるので、当時もそうだったのでしょう。)の記名があります。その文字にわざわざ重ねて印を押すのは不自然に思います。他のカードでは印と参拝日の文字が重ならないようにしてあるものがたくさんあるからです。2つの参拝日が書かれてあることから、1回目の大正13年にはそれまで通り、陵墓守部の記名による証明のサインを受け、2回目の昭和6年に参拝時に、同じカードを持っていき前回の陵墓守部の墨書の上から捺印したと考えるのが自然かと思います。陵墓守部の墨書の上に陵印を押したカードは他にも何点かあります。


 では、実際に陵印が使われ始めたのはいつごろでしょうか。このカード群には、参拝日と陵印がかぶらないように、参拝日を端に書き、印を中央に捺してあるものも何点もあります。それらは記されている参拝日に捺印された可能性が高いのではないかと感じています。はっきりした証拠はありませんが、普通わざわざ印に参拝日の文字をかぶせるようなことはしないのではないかという、心理による推測です。このようなカードは大正14年に参拝したと記されている物から見られるようになります。大阪府下の陵墓の参拝日は大正15年となっていますが、陵墓守部の墨書はなく、印と参拝日が重ならないようになっています。
 このことから、現段階では陵印を使用し始めた時期は大正14年ではないかという気がします。もちろん確定した結論ではありません。今までの資料から推測すると大正14年が妥当だろうという程度です。
 全天皇陵で同時に陵印が使われ始めたとは考えにくいでしょう。早いところも遅いところもあったと思われます。実際に参拝カードには大正14年も物でも陵墓守部の記名がある物もあります。また、『東宮殿下御結婚奉祝神社山陵参拝記念』の掛軸の神武・明治陵印は大正13年に遡る可能性もあると考えています。ただ陵印設置の時間差はあまり大きくないと思われます。大正14年から多くても2~3年程度で殆どの天皇陵に陵印が揃えられ置かれたと考えられます。もちろん陵印の文字に院がついてあるものがあることや、三条院天皇北山陵の印が後に三条天皇北山陵に作り替えられた事も、こまいぬ様がご指摘のように、重要な考察材料となります。今後この時期の陵墓参拝資料が見つかればさらに絞り込めるのではないかと考えております。もしそのような資料がございましたらどうかご教示くださいますようお願いいたします。


 そもそも陵印は宮内省が作成設置したものではなく、皇陵崇拝会(?)なる民間の団体が参拝の記念に捺印するために作成したものと聞いています。皇陵参拝が盛んになってくれば、陵墓守部の方々は一回一回、参拝帳に記名などしていては仕事にならず大変だったでしょう。そういう背景もあり陵印が作成されたとも思われます。

高遠さくら様
 奈良も先日、桜が満開になったとの発表がありました。私の住んでいる辺りはまだ満開手前ですがとてもきれいです。昨日は奈良公園の桜を見に行ってきました。高遠さくら様が書いておられた、日本一有名な目黒川の桜が、先日の強風で花弁が飛び散り、舞っている様子がテレビで放映されていました。(奈良では同日雹が降り、私の実家ではうっすらと雪が積もりました)東京では中央線に乗ったときに美しい桜を電車の窓外に見たことを覚えております。場所ははっきり覚えていませんが、お茶の水辺り?だったかなあ?東京は数回しか行ったことがないので全く地理もわかりませんが・・・東京も美しい、そして大規模な桜並木がたくさんあるのですね。

ぽん様
 いろいろと大変な時期でしょうが、ゆっくりなさってください。またぽん様にはお世話になる事がたくさんあると思います。



※『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭著
とても分かりやすく読みやすい本でした。
 

ご報告

 投稿者:ぽん@喪中  投稿日:2019年 4月 1日(月)00時36分28秒
編集済
  ☆皆様、大変お久しぶりです。
 この数年、PC不調および破損による蓄積データの大量消滅、あるいは両親の相次ぐ他界等で拙サイト「新撰陵墓志(仮)」の改訂作業が中断しており、大変申し訳なく思います。

 今般のYahoo!ジオシティーズサービス終了に伴い、取り急ぎ、これまでのデータを小生のブログ(https://ameblo.jp/pom-de-koikara/)内に移管しましたが、諸般の事情により、現時点では非公開(アメンバー限定公開のみ)とさせて頂いておりますので、ご了承ください。

 近日中に新たな場での公開ができたらと思いますので、ご不便をおかけしますが何卒ご容赦願います。
 

大山

 投稿者:高遠さくら  投稿日:2019年 3月27日(水)01時42分54秒
編集済
  祝 新元号 令和


全国の同志の皆さま、花見もあと僅かですが、変な宗教に入っていませんか。

年明けから何かと忙しく書き込みができませんでしたが、確定申告も終わり一段落ついたので、先週、別府~湯布院~日田まで温泉を堪能してきました。


大垂水酔鳥さま書き込みの二上山の入山料?は、以前の醍醐山以来の気になる案件でしたが、レプトンさまの確認により現状がはっきりしました。
個人的には、ありかなと。


本日、いまや日本1?の桜の花見スポットとなった目黒川が、拙宅から2キロほどなので天気もよかったので花見に行ってきました。
多少のバラツキはあるものの、だいたい6分咲きほどでしたので、今後の天候にもよりますが、土日あたりが満開のいい時期かと思われます。
特に、中目黒駅と山手通り間は混雑しますので、246と山手通り間の方は、あまりお店が無いこともあり比較的すいています。

レプトンさま

東京には、青山などの霊園、川の天井部を埋めた遊歩道沿いなど隠れたサクラの名所が多く、元々、目黒川も隠れた名所でした。
当方も、吉野山へは後醍醐天皇陵の参拝が主ですが10回ぐらい行っていますが、残念ながら春には1度も行ったことがありませんので1度は行ってみたいです。
先月の温泉旅行で久大線に乗りましたが、菜の花がとてもきれいでした。
今後も、いろいろな情報をお知らせください。
 

大正期の御陵印

 投稿者:こまいぬ  投稿日:2019年 3月25日(月)23時15分58秒
  皆様はじめまして。こまいぬと申します。古今御朱印研究室というサイトを運営しています。
御陵印の歴史について調べていて、こちらにたどりつきました。

大正期の御陵印はほとんど見たことがないのですが、大正14年の応神天皇惠我藻伏崗陵の
御陵印に古市勤番所の印が押されていること、鳥羽天皇・近衛天皇あたりの御陵印が
鳥羽院天皇・近衛院天皇となっていることなどから大正14年前後に作成されはじめたと
推測していました。
大正14年の日付がある花山天皇の御陵印を見て、ほぼ推測通りと安心した次第です。

陵墓や御陵印については詳しくないものですから、いろいろ勉強させていただければ
と思います。今後とも宜しくお願い致します。

https://goshuin.net/

 

十念寺

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2019年 3月15日(金)11時28分24秒
  お久しぶりです。いのうえとろろでございます。
このごろお天気も良くスギ花粉も元気に(!?)舞い上がっている今日この頃
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
私は目がかゆく目薬が手放せません…


そんな中、所用で京都へ行き空いた時間で十念寺へ行ってまいりました。
噂には聞いていましたが墓地が広いですね。

高雲院墓は祠?が目印になりすぐにわかりました。のでその傍にあった西洞院長子の墓はすぐにわかりました。
が、そのほかの探していた西洞院家の女官(範子など)や平松好子・虫鹿良子などの墓がまったくわかりませんでした。
秋にまた行くつもりでいますので、ご存知の方もしよろしければ大体の場所を教えていただけたらとおもっております。


 

サイト「新撰陵墓志(仮)」

 投稿者:DADA  投稿日:2019年 2月13日(水)16時32分0秒
編集済
  こんにちは。
遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

いつも「新撰陵墓志(仮)」を興味深く拝見しており、
探訪の際の貴重な情報源となっております。

先日いつものようにサイトを閲覧したところ、
「Yahoo!ジオシティーズサービス終了のお知らせ」
という案内が表示されており、3月31日でサービス終了ということでした。
4月以降はホームページが表示されなくなるようです。

https://info-geocities.yahoo.co.jp/close/index.html

管理人様がすでに手を打っていらっしゃるのであればよいのですが、
今後この貴重なサイトがどうなるのだろうかと、心配の気持ちです。

もし何かお力になれるのでしたら、
サイト維持のためにお手伝いできればとも思っています。

取り越し苦労でしたらすみません。
 

桃山・武蔵野

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月30日(日)21時51分11秒
  こんにちは。

桃山御陵にはちょうど先日訪問したところでした。
(レプトンさまと同じ頃かもしれません)
ご報告いただいている通りで、昭憲皇太后陵の参拝道では大木が倒れたままでした。

別日には、多摩陵と武蔵野陵にも訪問しました。
緊張感のある空間でしたが、
職員の方も警察の方も物腰が柔らかく、気さくな方々でした。
ただし、お一人だけ厳しい口調の方がいらしたのには驚いてしましました。
他の陵墓とは感覚が異なるのか、あるいはこれが本来標準なのか、
いろいろと考えさせられました。

ちなみに、おかげさまで「天皇陵」訪問と御陵印をコンプリートいたしました。

今後は他の治定陵墓と治定外陵墓をぼちぼちと訪問できればと思います。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月30日(日)13時16分32秒
編集済
  レプトン さま

桃山陵墓地の現状報告有り難うございます。
本来ならば地元在住の私がすべきところ、代行して頂いたみたいで恐縮です。
何せ、伏見の平場に住む新市街地の住民にとって、坂の上の近鉄・京阪の線路の更に
上に行くついでって無いもので‥(汗;)
ところで、写真1枚目を拝見すると、意外に早く通路が苔むしてきているようですね。
私個人としては、陵墓の参道や通路は白玉砂利よりも苔むしている方が色気があって
好きです。

京都の台風被害って滅多に無いし、あっても水害系が多いので、今回ばかりは驚きま
した。
ウチの近所は大阪地震の時の家屋の被害は皆無に近い状況でしたが、台風の時はあち
こちで屋根やベランダやシャッターや柵などが損傷しました。今でも屋根にビニール
シートの家が多くあります。
ビルの屋上の巨大看板が転落して隣の倉庫にブサッ!と突き刺さるなど、壮絶な光景
が暫く放置されましたが、大阪が凄かったので京都は報道されませんでしたが‥
というか、京都の台風被害報道って、いつも嵐山のワンパターン。
ウチの近隣も数年前に浸水しましたが、報道されなかったので、伏見の坂の上の旧市
街地の住民は知らなかったみたい。
私の家は古民家のリユースで、屋根が周囲よりも1mくらい低いのですが、それでも
ベランダの屋根の波板がぶっ飛んで、金属の太い枠組が変形しました。
修理不能でベランダごと取替えないといけないので放置しています。(笑)

奈良県は珍しく?被害が軽微だったのですね。
二上山の件、ご教示感謝です。
料金が徴収されたりされなかったりすると、不公平感が出てしまいますね。
 

京都の陵墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月29日(土)17時23分32秒
編集済
   先日から話題となっている京都の陵墓の台風被害を見てきました。桃山陵墓地の明治陵から桓武陵への道は通行できるようになっていましたが、枝がぶら下がった状態の為、上に注意して歩行するようにとの注意喚起の札がありました。(写真1枚目)
 陵墓地内は倒木が多く、柵が曲がるなどして壊れている所もありました。作業車が山道で止まっており、チェンソーで木を切ったり、重機で切った太い幹を挟んで道へ下していました。(写真2枚目)陵墓地内では倒木を短く切った丸太があちらこちらに積まれていました。おそらく通路をふさいでいた倒木を処理したものではないかと思います。通路の倒木はなくなっていましたが、陵墓地内にはまだまだ倒木がたくさんありました。台風の強風で根こそぎ倒れた大木もたくさんありました。写真3枚目は桓武天皇陵の参道(坂道の方)から見える倒木です。根こそぎ倒れているのがわかるかと思います。
 月輪陵墓地でも多くの倒木があり、後堀川陵の下から孝明陵への通路は、通ることはできますがまだ木が倒れていました。こちらでも撤去と清掃をしている音が絶えず響いていました。
 奈良も今年は台風の影響がありましたが、奈良市の陵墓や先日参拝した宣化陵・倭彦墓などはそれほど大きな被害はないように思いましたが、京都府内での被害は甚大です。台風の被害は自然の新陳代謝ではありますが、美しい陵墓の森が荒れてしまうのは悲しい気持ちになります。整備をして下さる宮内庁の方、業者の方ありがとうございます。

 私も家でチェンソーを使うことがありますが、とても自分では切ったり処理できない大木です。(一般の人がボランティアではとてもお手伝いできるようなものではなく、専門的な技術が必要です。)僕の知人が園芸関係の仕事をしており、木の伐採の依頼をしたことがありますが、相場では高さ1mにつき数千円かかるのだそうです。陵墓地の倒木処理でもすごい費用が掛かっているはずです。


大垂水酔鳥様
 二上山へは12月17日に続いて24日にも上りました。24日に10人程度を案内するために17日にも登ったのですが、どちらも通行料はなしでした。情報によると、頂上の神社の敷地を通過する時に、時々神社の関係者が通行料(?)を徴収することがあるとのことです。今回も一応徴収されたときのために人数分の費用は用意していきましたが、あまり徴収されることはないようです。それでも、いつ神社の関係者がおられるかわからないとのことで、雄岳頂上に行ってみるまで分からない状態のようです。(これは少し古い情報です。最近もまだしておられるかは不明で何とも言えません。)二上山は雌岳の南・東側の登山道は大木が倒れていました。
 

来見山御陵墓

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月25日(火)12時30分56秒
編集済
  こんにちは。

連投失礼します。
先日、能勢町の来見山御陵墓を訪問しました。
過去のご投稿で紹介のあった道順で向かいました。
来見山の東麓から登り、陵墓にたどり着きました。
献花され、手入れの行き届いている印象でした。
以前のご投稿にあった「木柱」ですが、
当時の場所にはなく、奥の木に立てかけてありました(写真参照)。
「来見山」と書かれ、献花はありませんでした。

北麓へと下山し、案内板を確認した上で、西麓側から南へと回りこみました。
時期的に雑草が少なかったので、踏み分けて林道から一般墓地へと向かいことができました。

岩崎八幡社も訪問しました。
こちらもきれいに手入れされておりましたが、パンフレットの類はありませんでした。

なお、帰りのバスまで時間がありましたので、野間大原にある「来見社」を訪問しました。
祭神は安徳天皇ということで、由緒ある場所とのことです。(写真参照)

> 大垂水酔鳥さま
大峰山・荒木山ですが、大宮神社から徒歩で往復しました。
山頂付近まで車で行けるような、整備された道だったので、比較的楽でした。
高尾には行きませんでしたので、機会を見て訪れたいです。

ちなみに、先日の台風の被害により、参入できない陵墓として、
後宇多天皇陵(京都府京都市右京区)、大枝陵(同市西京区)
安曇陵墓参考地(滋賀県高島市)
淳和天皇陵(京都府京都市西京区)
が宮内庁のHPに上がっています。
また桃山陵墓地は一部区間で通行止めがあるようです。
★追記★桃山陵墓地の通行止めとされている区間は、現在通行可能です。
★追々記★後宇多天皇陵、大枝陵の参拝も再開できたそうです(2/12現在)。
     安曇陵墓参考地の参拝も再開できたそうです(3/1現在)。
     淳和天皇陵の参拝も再開され、参入できない箇所はなくなりました(4/17現在)。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月23日(日)20時36分49秒
編集済
  ★追記★しました

DADA さま

宇治田原町の現況報告有り難うございます。

大峰山・荒木山の山頂にまで行かれたのですね。
いやはや驚きです。
大峰山には伝承に関する遺物遺構は見当たらない、荒木山から岩への接近方法もわからない
とのことで、お蔭さまでスッキリしました。
ところで、山頂へは途中まで車で行かれたのでしょうか。
まさか、大宮神社から徒歩で登山?!
車だと北に大きく迂回する必要がありますね。
私は近所のレンタカーで軽自動車を借りて大宮神社~蝉丸神社~大峰山~高尾と移動する計画
を立ててはみたものの、山道での車の運転に自信がないので断念しました。
高尾は志貴皇子の隠棲伝説がある高地集落とのことで、若干未練があります。


★追記★

来見山の現況報告有り難うございます。

木柱が片隅?に放置されているということは、陵墓に関係するかもしれないという私の
推測はどうやら外れたようですね。

それにしても徒歩で大峰山・荒木山の山頂に行かれたとは驚きです。
改めて感謝多謝です。
山中にある陵墓に車を使わず路線バス+徒歩で行くことを思えば大したことないのかも
しれませんが、何せ遺物・遺構の存在の確証がない伝承地ですからね。

宮内庁HP見ました。
桃山参道通行止区間(9月18日現在)なる地図がリンクされていて、陵墓地全体の簡単な
地形図だったのでこれ幸いとダウンロードしましたが、陵墓参拝の広報としては極めて
不親切なお役所仕事ですね。
参拝者にとってはたった一言、桓武陵と桃山御陵の連絡通路は通行できません、とだけ
書けば良いのです。
知らずに行かれた方、本来300mくらいが1キロくらいの迂回になるので気の毒。
 

春日宮天皇

 投稿者:DADA  投稿日:2018年12月23日(日)16時35分20秒
編集済
  こんにちは。
いつも興味深く拝見しております。
先日、宇治田原町にある伝承地を訪問しました。

□田原天皇社旧跡
こちらの過去の皆さまのご報告から、とくに変化は見られませんでした。
大宮神社の宝篋印塔も健在でした。
「新撰陵墓誌(仮)」では祠があることになっておりますが、
現地で見る限りそれらしいものはありませんでした。

□荒木山 岩代大明神
よく見える「岩」ですが、たしかにありました(写真参照)。
荒木山の尾根のひとつで、標高は300mあたりでしょうか。
接近できる方法があるか確認したのですが、わからずじまいでした。
時間帯によっては、岩の存在が見えにくいことがありました。
ちなみに、荒木山の山頂にも訪問しましたが、とくに変わった様子はありませんでした。

□大峰山山頂 御陵
荒木山のついでに訪問しました。
こちらは山頂というよりは、丘陵地のように平坦でした。
荒木山も大峰山も、大きな岩が散見されましたが、
人工的なものではなさそうです。
 

(無題)

 投稿者:大垂水酔鳥メール  投稿日:2018年12月23日(日)14時22分6秒
  レプトン さま

大津皇子墓の近況報告有り難うございます。

私は38年くらい前に二上山~平石峠~富貴寺~磐船神社~河内飛鳥(二子塚古墳・小野妹子墓)
と周遊しました。
当時は愛知県在住だったので、かなりの強行軍です。
今なら体力的に絶対無理!
ところで、二上山は有料化されたと仄聞するのですが、如何でしたか?
有料化はやむなしとして、それなら登山地図とかパンフ等が欲しいところですが。

以下、蛇足です。
当時、雌岳から竹ノ内街道への下りは禿山でどれが正規の道なのか分からない状況で、目標と
していた鹿谷寺跡にはたどり着かないまま竹ノ内街道に出ました。
途中に車の通れるような山道を横切った記憶はないのですが、あったとしてもたぶん無視して、
下へ下へと踏み分け道を急いだのだろうと推測。
地図を見ると、大阪側はかなり上の方まで山道らしき表記がありますね。
二上山万葉の森とあるのでグークールマップで確認したら、ある程度は植林が進んでいるよう
な感じで、鹿谷寺跡付近からの登山道がクッキリ写っていました。
今は林道や登山道や標識とかが完備されているのかな?
ところで、どうでも良いことではあるのだけれど、
グークールマップのurlがgugurumaps.comになっていて笑ってしまった。
それにjapanmaps.netってのもあるみたい。変なの。

他の方の書き込みでも台風被害?が報告されていますが、先日の大阪直撃台風では桃山御陵も被
害甚大だったようです。
私は行っていないので正確な報告が出来ないのですが、デイサービスの送迎車で桃山陵墓地域内
の道路を通行している母の証言によると、樹木が大量に倒れて、域内の道路が3日間閉鎖され、
開通後の数週間、道路脇に大木の輪切りがうず高く積まれていたそうです。
私の家は桃山御陵から2キロの平坦な市街地ですが、倒木やら倒壊やらで、やはり数週間、あち
こちで通行止めが続きました。
大津皇子墓は山頂の割には被害が軽微そうで、私としてはちょっと驚き。
以前、台風で近鉄南大阪線が大被害を受けた後に観心寺に行ったのですが、檜尾塚参考地の参道
が倒木で通行困難な状況でした。
 

大津皇子二上山墓

 投稿者:レプトン  投稿日:2018年12月22日(土)12時41分49秒
   こんにちは。レプトンです。
 先週二上山に登り、大津皇子二上山墓に参拝してきました。当麻町から登山道を1時間半かけて登りました。山頂近くの丘陵上に静かにたたずむ陵墓です。小さくてかわいい感じですが、静謐に包まれている感のある陵墓です。拝所前は落ち葉などもなく掃き清められているようです。
 墳丘内には短く伐採した木が多く積み上げられていました。また写真のように内部のコンクリート柵が一部壊れていました。台風か何かで大きな木が倒壊し、その時にコンクリート柵を壊したのでないかと想像しました。車も来れない山上の陵墓ではすぐに修理もできないでしょうね。
 二上山墓は磯長部の管轄ですが、40年くらい前に磯長部の宮内庁の方に「二上山頂上まで大変ですね。」と聞くと、「葛城山麓(?)の近くまで車で行けて、そこから山道に入れば割と近い。」と仰ってました。岩屋からの道か、馬の瀬西側へ延びる道(地図で見ただけ)がその道だろうと思います。
 二上山頂上(特に雌岳)には人が多くいましたが、大津皇子墓は静かでした。
 

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